秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

佐高信

1085/橋下徹を単純かつ性急に批判する愚②―佐伯啓思ら。

 〇いよいよ「御大」の西部邁も橋下徹批判の立場を明確にするようで、隔月刊・表現者(ジョルダン)の41号(2012.03)は、ほぼ橋下徹批判一色のようだ(未入手、未読。産経2/20の広告による)。これで<西部邁・佐伯啓思グループ>は一体として橋下徹批判陣営に与することを明らかにしたことになる。
 それにしても不思議で、奇妙なものだ。相も変わらずの言い方になるが、他の「保守」論者を「自称保守」とか呼び、産経新聞も批判したりしている少なくとも<自称>保守主義者たちがそろって、その勝利を深刻な打撃と受けとめている上野千鶴子とともに、民主党のブレインと目されかつ厳しく批判していた山口二郎とともに、そして日本共産党、民主党や両党系公務員労働組合とともに、橋下徹たち(大阪維新の会)を攻撃しているのだ。
 明瞭な「左翼」による橋下徹警戒論・橋下徹批判といったいどこが違うのだろう。違いがあるとすれば、分かりやすく説明してほしいものだ。やや戯れ言を言えば、「左・右両翼」から批判される橋下徹らは大したもので、<中道>のまっとうな路線を歩もうとしているのではないか??
 〇ふと思い出したのだが、竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社、2011)は、戦後の「進歩的知識人」について「知識人の支配欲望」という言葉を使っている(p.104)。
 竹内洋の叙述から離れて言うと、毎日新聞に連載コラム欄をもち、(あの!)佐高信と対談本を出しもしている西部邁は、言論によって現実(世俗)を変えることをほとんど意図しておらず、それよりも関心をもっているのは、あれこれの機会や媒体を使って発言し続けることで、自分の存在が少しでも認められ、自分が少しでも「有名」になることではなかろうか。
 失礼な言い方かもしれないし、誰でも「名誉」願望はあるだろう。だが、知識人あるいは言論人なるものは、現実(世俗)との緊張関係のもとで、現実(世俗)をいささかなりとも「よりよく」したいという意識に支えられつつ発言しつつけなければならないのではなかろうか。
 現時点における橋下徹批判はいったいいかなる機能を現実的には持つのだろうか。
 自称「保守」ならば常識的には、<西部邁・佐伯啓思グループ>は反日本共産党・反民主党だろう。だが、このグループの人たちは自民党支持を明確にしているわけではなく、佐伯啓思がつい最近も産経新聞に書いているように「小泉改革」・「構造改革」等には批判的だ。それでは「立ちあがれ日本」あたりに軸足があるかというとそうでもなさそうで、「立ち日」立党を応援していた石原慎太郎が支援している橋下徹を攻撃している。まさか「反小泉」で国民新党を支持しているわけでもあるまい。
 <西部邁・佐伯啓思グループ>の知識人??たちも、書斎や研究会を離れれば一国民であり、一有権者であるはずなのだが、彼らはいったいどの政党を支持しているのだろうか。支持政党はなく、「政治(政党)ニヒリズム」に陥って参政権は行使していないのだろうか。それはそれでスジが通っているかもしれないが、そのようなグループに一般国民に対して「政治」を論じる資格はないだろう。
 好きなおしゃべりをし、活字に残し、「思想家」らしく振る舞っていたければそれでよいとも言えるのだが、佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書、2011)の最後の章は、民主党政権樹立を煽った「知識人」たちの責任をかなり厳しく批判している。
 佐伯啓思ら自身にも「知識人」としての対社会的<責任>があるはずだ。橋下徹という40歳すぎの、まだ未完成の、発展途上の政治家をせめて<暖かく見守る>くらいの度量を示せないのだろうか。
 将来のいずれかの時点で、2012年初頭に橋下徹を攻撃していたことの「自称保守」
知識人・評論家としての<責任>が問題にされるにちがいない。
 〇佐伯啓思の最近の二つの文章については、さらに回を改める。

1066/橋下徹はなぜ「左翼」に攻撃されたのか。

 橋下徹が大阪市長選で勝利。大阪府知事選でも大阪維新の会の松井一郎が当選。
 感想や書きたいことは多い。
 (日本)共産党は大阪市内で最低でも10万票くらいあると言われていたが、独自候補を降ろして民主党等と「統一戦線」を組んでも、共産党のいう「独裁」者・橋下に勝てなかった。府知事選でも、独自候補・梅田某と民主党・自民党推薦の倉田某の票を合わせても、松井の得る票数を下回るようだ。独自の府知事候補を立てていなければ、という可能性も否定されたことになる。府・市いずれも慶賀すべきことだ。
 なぜ、日本共産党はすでに自民党(大阪府)も推薦している候補を勝手連的に支持してまで橋下徹の「野望を打ち砕く」(敗戦後の梅田某の言葉)ことを企図したのか。
 なぜ、はるばると札幌(北海道)から、山口二郎中島岳志(いずれも北海道大学教授)という「左翼」教授が飛んできて、民主党等の候補・平松某と並んで立って反橋下演説をぶったのか(中島岳志は西部邁グループでもあるので注記が必要だが、省略)。
 なぜ、佐高信香山リカ等の「左翼」知名人は大阪まで行って橋下徹攻撃をしたのか。元社民党・現在民主党の辻元清美が反橋下で演説したのは大阪出身なので当然として、あえて念頭には置かない。
 それは、橋下徹に、明瞭な<反左翼>心情(>「反共」意識)があることに気づいていたからではないか、と思われる。
 そうでないと、日本共産党を含む、執拗とも思える<反橋下>の動きを理解できない。
 橋下徹の人間・言説を十分には知らないが、かつての日弁連執行部(日弁連に「巣くう活動家」)批判らしきものを仄聞していると、おそらく橋下はやはり明確な<反左翼>主義者だろう。
 そして、民間テレビ局出身の典型的な<戦後民主主義者>と見える平松某とは異なり、既存の<戦後体制>らしきものを壊そうと藻掻いているのが橋下徹であるように見える。
 その点を私は肯定的に評価しているのだが、従来の<平和と民主主義>体制の維持(・強化)を意図する「左翼」勢力にとっては、(「自由と民主主義はもうやめよう」と説く佐伯啓思と同じように?)橋下はきわめて<危険な>人物だと判断されたのではないか。
 将来はまだ未知数のところはあるが、現状を大きく逸脱・変化させるだけの意図も力もないことが明らかだと見える平松某に比べるのは平松某に気の毒なほどに、橋下はかなりの可能性を秘めた人物だ。
 石原慎太郎(東京都知事)は最終日に大阪市へ行ったらしいが、「出自に関する暴露的な報道」に「義憤」を感じて、だとも伝えられている(読売新聞11/26ほか。マスコミ・週刊誌の問題は別の機会に書く)。
 と同時に、石原慎太郎は橋下徹について「見所がある」と評価していたとも伝えられている。
 石原慎太郎は、橋下徹のうちに自らが持つのと同じような心性・心情のあることを感じとっていたのではないか。
 自民党幹事長・石原伸晃は愚かにも父親が大阪へ行くのを(少なくとも最終日までは)止めた、という情報もある。
 自民党(とくに大阪)についても別に書く。
 ともあれ、日本共産党が集中攻撃していた「反左翼」橋下徹らの勝利は目出度いことだ。逆の結果であるよりは、はるかに精神衛生によい。
 なお、橋下徹らが表向き「反左翼」であることは、もともとは自民党・公明党の支持を受けて民主党の候補を破って大阪府知事になったのであること、松井一郎はもともとは自民党選出の大阪府会議員だったことでも明らかなことだ。
 だが、長期的な将来や日本全体のことを考えている「左翼」陣営は(佐高信はもちろん、山口二郎や中島岳志を含む)、表向き以上の(思想にまで及ぶ?)<危険性>を橋下徹のうちに見ていたに違いない、と思っている。それで、とりあえず、このような一文になった。

0911/反日声明署名者リストと最高裁の「劣化」?

 〇前々回に掲載した、2010.05.10「韓国併合」100年日韓知識人共同声明/日本側署名者のリストを見ていて、種々の感想がわく(※付きは発起人)。
 大江健三郎鶴見俊輔という、歴史・日韓関係や国際法の専門家でも何でもない者が<日韓併合条約>無効と断じる声明に加わっている。二人は<九条の会>呼びかけ人として共通する。小田実、井上ひさしも、存命であれば加わっていたのだろう。

 東京大学教授・同名誉教授という肩書きが大学教授たちの中では目立つようだ。和田春樹※を始めとして、荒井献(名誉教授・聖書学)、石田雄(名誉教授・政治学)、板垣雄(名誉教授・イスラム学)、姜尚中(教授・政治学)、小森陽一※(教授・日本文学)、坂本義和※(名誉教授・国際政治)、高橋哲哉(教授・哲学)、外村大(准教授・朝鮮史)、宮地正人(名誉教授・日本史)。姜尚中も高橋哲哉もちゃんと(?)いた。大江健三郎等々をはじめ、出身大学を調べれば、東京大学関係者はさらに多いに違いない。

 東京大学所属だから、こういう声明にその<権威>を利用されるのか、それとも、東京大学所属(・出身者)には、他大学に比べて、この声明にも見られるような、一見良心的・「進歩的」な、<左翼・反日>主義者が多いのか?

 新聞・放送関係者で名を出しているのは、さすがに朝日新聞とNHKのみ。今津弘(元朝日新聞論説副主幹)、小田川興※(元朝日新聞編集委員)、山室英男※(元NHK解説委員長)。
 それに、かつて「T・K生」というまるで在韓国の韓国人からの通信文かの如きニセ記事を連載し続けていた岩波書店の「世界」の現役編集長が発起人として堂々と名を出していることも特記されるべきだろう。岡本厚※(雑誌『世界』編集長)。

 その他、佐高信、吉見義明(中央大学教授・日本史)等々の「有名な」者たち。井筒和幸(映画監督)が<左傾>していることは知っていたが、これに名を出すとはエラくなったものだ。

 〇前回に書いたことの、余滴。

 参政権の所在・参政権者の範囲といった国家の基本問題について、司法権の頂点・最高裁判所の憲法「解釈」が誤っていれば、いったいその国家はどうなるのか。現行憲法・法制度上、最も<権威>または<現実的通用力>のある「解釈」を示すことができるのは、最高裁判所だ(日本ではこう呼ばれる。国によっては憲法裁判所)。いくらでも自由に批判し、判例変更を求めることはできるが、現行憲法・法制度上、最高裁の判決には誰も法的には異議申立てができない。否定も含めて変更をできるのは、最高裁判所自ら(但し、大法廷)に限られる(是正するための訴訟・主張方法等をも井上は書いているが省略)。

 井上薫は園部逸夫が関与した平成7年最高裁判決の「第二段落」に対して「裁判史上永遠に残る大失敗」と最大級の批難の言葉を投げつけているが、そのように批判しても、いかに井上らの「禁止説」の方が憲法「解釈」として正当であったとしても、最高裁が採用した「解釈」がいわゆる<有権的>解釈になってしまう。

 政治性をも帯びた重要な問題につき、最高裁が<道を外せば>、是正には相当の、あるいはきわめて厳しい困難さが残ってしまう。裁判所・裁判官の頂点にいる最高裁判所(・裁判官)の<劣化>をも、心ある国民は懸念し、怖れなければならないのではないか。

0909/資料・史料-「韓国併合」100年日韓知識人共同声明/日本側署名者。

 史料-2010.05.10「韓国併合」100年日韓知識人共同声明/日本側署名者

 

 日本側署名者 ※は発起人

 荒井献(東京大学名誉教授・聖書学)、荒井信一※ (茨城大学名誉教授・日本の戦争責任資料センター共同代表)、井口和起※(京都府立大学名誉教授・日本史)、石坂浩一※ (立教大学准教授・韓国社会論)、石田雄(東京大学名誉教授・政治学)、石山久男(歴史教育者協議会会員)、李順愛(早稲田大学講師・女性学)、出水薫(九州大学教授・韓国政治)、李成市※(早稲田大学教授・朝鮮史)、李鍾元※(立教大学教授・国際政治)、板垣雄(東京大学名誉教授・イスラム学)、井筒和幸(映画監督)、井出孫六(作家)、伊藤成彦(中央大学名誉教授・社会思想)、井上勝生※(北海道大学名誉教授・日本史)、今津弘(元朝日新聞論説副主幹)、上杉聡(大阪市立大学教授)、上田正昭(京都大学名誉教授・日本史)、内田雅敏(弁護士)、内海愛子※(早稲田大学大学院客員教授・日本―アジア関係史)、大江健三郎(作家)、太田修※(同志社大学教授・朝鮮史)、岡本厚※( 雑誌『世界』編集長)、沖浦和光(桃山学院大学名誉教授)、小田川興※(元朝日新聞編集委員)、糟谷憲一※(一橋大学教授・朝鮮史)、鹿野政直※(早稲田大学名誉教授・日本史)、加納実紀代(敬和学園大学教授・女性史)、川村湊(文芸評論家・法政大学教授)、姜尚中(東京大学教授・政治学)、姜徳相(滋賀県立大学名誉教授・朝鮮史)、木田献一(山梨英和学院大学院長・キリスト教学)、木畑洋一(成城大学教授・国際関係史)、君島和彦(ソウル大学教授・日本史)、金石範(作家)、金文子(歴史家)、小谷汪之(首都大学・東京教授・インド史)、小林知子(福岡教育大学准教授・在日朝鮮人史)、小森陽一※(東京大学教授・日本文学)、坂本義和※(東京大学名誉教授・国際政治)、笹川紀勝(明治大学教授・国際法)、佐高信(雑誌『週刊金曜日』発行人)、沢地久枝(ノンフィクション作家)、重藤都(東京日朝女性の集い世話人)、清水澄子(日朝国交正常化連絡会代表委員・元参議院議員)、東海林勤※(日本キリスト教団牧師)、進藤栄一(筑波大学名誉教授・東アジア共同体学会会長)、末本雛子(日朝友好促進京都婦人会議代表)、鈴木道彦(独協大学名誉教授・フランス文学)、鈴木伶子(平和を実現するキリスト者ネット代表)、関田寛雄(青山学院大学名誉教授・日本キリスト教団牧師)、徐京植(作家・東京経済大学教授)、高木健一(弁護士)、高崎宗司※(津田塾大学教授・日本史)、高橋哲哉(東京大学教授・哲学)、田中宏(一橋大学名誉教授・戦後補償問題)、俵義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)、趙景達※(千葉大学教授・朝鮮史)、鶴見俊輔(哲学者)、外村大(東京大学准教授・朝鮮史)、仲尾宏(京都造形芸術大学客員教授)、中塚明※(奈良女子大名誉教授・日朝関係史)、中野聡(一橋大学教授・歴史学研究会事務局長)、中村政則※(一橋大学名誉教授・日本史)、中山弘正(明治学院大学名誉教授・経済学)、永久睦子( I女性会議・大阪会員)、成田龍一(日本女子大学教授・日本史)、朴一(大阪市立大学教授・経済学)、林雄介(明星大学教授・朝鮮史)、原寿雄(ジャーナリスト)、針生一郎(美術評論家)、樋口雄一(高麗博物館館長)、飛田雄一(神戸学生青年センター館長)、平川均(名古屋大学教授・経済学)、深水正勝(カトリック司祭)、藤沢房俊(東京経済大学教授・イタリア近代史)、藤永壮(大阪産業大学教授・朝鮮史)、福山真劫(フォーラム平和・人権・環境代表)、古田武(高麗野遊会実行委員会代表)、布袋敏博(早稲田大学教授・朝鮮文学)、前田憲二(映画監督・NPO法人ハヌルハウス代表理事)、松尾尊兊※(京都大学名誉教授・日本史)、水野直樹※(京都大学人文科学研究所教授・朝鮮史)、三谷太一郎(政治学者)、南塚信吾(法政大学教授・世界史研究所所長)、宮崎勇(経済学者・元経済企画庁長官)、宮嶋博史※(成均館大学教授・朝鮮史)、宮田毬栄(文筆家)、宮地正人(東京大学名誉教授・日本史)、宮田節子※(歴史学者・元朝鮮史研究会会長)、文京洙(立命館大学教授・政治学)、百瀬宏(津田塾大学名誉教授・国際関係学)、山口啓二(歴史研究者・元日朝協会会長)、山崎朋子(女性史研究家)、山田昭次※(立教大学名誉教授・日本史)、山室英男※(元NHK解説委員長)、梁石日(作家)、油井大三郎(東京女子大学教授・アメリカ史)、吉岡達也(ピースボート共同代表)、吉沢文寿(新潟国際情報大学准教授・朝鮮史)、吉野誠(東海大学教授・朝鮮史)、吉松繁 (王子北教会牧師)、吉見義明(中央大学教授・日本史)、李進煕(和光大学名誉教授・朝鮮史)、和田春樹※(東京大学名誉教授)/ 総 105人

0903/TBSよ、ナショナリズムは悪か-尖閣問題を扱った「サンデー・モーニング」。

 何度か「死んだ」はずのTBSはまだしつこく生きていて、<左翼>信条にそった番組作りをしている。
 最近の朝日新聞の尖閣諸島問題に関する二つの社説は「ナショナリズム」という語を使っていないようだ。これに対して、TBSの9/26の「サンデー・モーニング」は正面から「ナショナリズム」を問題にしてきた。
 コメンテイターの発言はそれぞれニュアンスは異なり、単色のイメージで番組を作ろうとしていたわけではない。
 だが、局(この番組担当者)自体が作成したと見られる「ナショナリズム」に関する説明・コメントは、明らかに<左>に傾いている。つまり、断定的ではないにせよ、「ナショナリズム」=悪、というイメージを撒いている。
 コメンテイター以外に登場させた佐高信は<愛郷心ならよいが、ナショナリズムは「国家」と結びつくと「必ず排他的」になる>と発言した。はたしてそうか。こんなに一般化して言えるのか? ともかくも反「国家」心情がここには示されているだろう。
 コメンテイターの一人・岸井某(毎日新聞政治部記者だったか?)は他にまともなコメントもしていたが、<歴史の教訓からして、ジャーナリズムの責任は、ナショナリズムを煽らないことだ>と発言した。朝日新聞・若宮啓文の、<ジャーナリズムはナショナリズムの道具じゃないんだ>との有名な文章を思い出す。ナショナリズムを刺激せず、沈静化するのがジャーナリズム、マスメディアの義務とでも考えているならば、とんでもない誤りであり、思い上がりだと言うべきだろう。そもそもが、ナショナリズムとの関係をさほどに強く意識していることこそが、戦後のジャーナリズム・マスメディアの奇妙なところだとは思わないのだろうか。
 短い時間の番組に期待しても無理なのだろうが、あるいは、だからこそ、「ナショナリズム」に関する単純な理解にもとづくイメージ作りをしてほしくはないものだ。
 具体的な担当者は、世界で残念ながら(?)現実化していないが<グローパリズム=善、ナショナリズム=悪>という意識・観念をもっていて、賢(さか)しらに(?)、意図をもって、番組自体のナショナリズムに関する説明等を準備したのではないのか。
 加えて、番組自体の説明・コメントとコメンテイター類の発言に共通していたのは、具体的な尖閣問題を具体的に論じることなく、一般的レベルの<ナショナリズム>に関するコメントにほとんど終始していたことだ。これも、上記番組の一種の(気のつきにくい)特徴であり、いやらしいところだった。
 日中関係問題一般に遡及することもまだ一般的抽象的すぎるところがあるが、さらに日中(・日韓)問題を念頭においたような<ナショナリズム>の問題に格上げ(?)することも、本質を覆い隠す役割を果たしている。
 尖閣諸島は日本の領土なのかどうか、その領海で中国人(たんなる船長ではない可能性がある)は何をしたのか、中国政府と日本側(政府・外務省、那覇地検)の主張の内容と対立点はどこにあるのか、等々の具体的なことをおさえずして、<ナショナリズム>の是非等をほとんど一般論レベルで語らせることは、反復するが、問題の本質を視聴者が把握することを困難にさせただろう。
 この番組は必ず観てはいないが、ときにたまたま見ていると、司会の関口宏を筆頭に<戦後教育の影響を強く受けた「何となく左翼」(これが現今の日本の多数派だ)臭>を感じて、辟易することがあった。今回も同様にうんざりするところがあったので、書いておいた。
 TBSや毎日新聞は、朝日新聞と同様に、基本的なところでは、日本(人)のナショナリズムを「刺激」したり「煽動」したりしないような「冷静な」、つまりは<中国をできるだけ批判しない>、結果的には<親中>・<媚中>の報道姿勢をとり続けるのだろう。

0889/隔月刊誌・表現者(ジョルダン)連載執筆者かつ週刊金曜日編集委員・中島岳志。

 パール判決を問い直す(講談社現代新書)の共著者である中島岳志と西部邁は親しいようで、西部邁と佐伯啓思の二人が「顧問」をしている隔月刊雑誌・表現者(ジョルダン)の29号・30号に、中島岳志は「私の保守思想①・②」を連載している。
 30号で中島は「私が保守思想に傾斜していく大きなかっかけとなったのは…」などと述べて(p.138)、「保守思想に傾斜して」いるとの自己認識を示し、また、先人から学ぶべきことは「デモクラシーが健全に機能するためには、人間の交際の基盤となる『中間団体』が重要であり、歴史的な『伝統』、そして神や仏といった『絶対者』の存在が前提となる」ということではないか、などと、なるほど<保守的>と感じられる叙述もしている(「神や仏」は「絶対者」なのか、いかなる意味においてかは分からないが、さて措く)。
 いずれにせよ、錚々たる(?)<保守>派執筆者たちに混じって、さほどの違和感を感じさせずにいる。隔月刊雑誌・表現者を<保守的>または<保守派の>雑誌と表現して差し支えないだろうことは、顧問二人(西部邁・佐伯啓思)と西田昌司の三名の共著(半分以上は座談会)・保守誕生(ジョルダン、2010.03)のオビに「真正保守主義が救い出す」という語があることにも示されているだろう。
 興味深いことに、あるいは奇妙なことに、同じ人物・中島岳志は<左翼>週刊誌・週刊金曜日の編集委員を<あの>本多勝一や石坂啓らとともに務めている。この週刊誌の発行人は<あの>佐高信。
 この週刊誌が<左翼的>であることは歴然としてしていて、たとえば、その4/30号(797号)は<反天皇制>の立場を前提として「暮らしにひそむ天皇制」という特集を組んでいる。編集長の北村肇は同号の「編集長後記」で、天皇制はただちに廃止すべきとか昭和天皇の戦争責任を許さないとだけ主張するにとどまる限りは「廃止への道は遠い」と書いて、<天皇制廃止>を目標としていることを明らかにしている。
 思い出せば、2006年11月に教育基本法「改悪」等に反対する集会を主催し、天皇陛下や悠仁親王を「パロディーとしたコント」を演じさせたのは、週刊金曜日だった(本多勝一・佐高信らも出席。のちに、佐高信と北村肇の連名でそっけない、本当に反省しているとは思えない「謝罪」文を発表した)。
 また、「左翼」的運動の集会等の案内で埋め尽くされている頁もあり(p.64-65)、「女性国際戦犯法廷から10年目を迎えて」と題する文章の一部を関係団体の機関紙から転載したりもしている(p.54)。
 こんな週刊誌にも中島岳志は本多勝一らとともに執筆していて、「風速計」とのコラムで「『みんなの党』のデタラメ」と題して、「新自由主義を露骨に振りかざすみんなの党」を批判し、「構造改革ーのNOを突き付けた国民」は「みんなの党のデタラメを見抜かなければならない」と結んでいる(p.9)。
 まったく新種の人間が生まれ、育っているのか、中島岳志は、一方で<西部邁と佐伯啓思>を顧問とする<保守的>隔月刊雑誌・表現者(ジョルダン)に「私の保守思想」を書き、一方では、<本多勝一・佐高信>らとともに<左翼的>週刊誌の編集委員になって自ら執筆してもいる。<西部邁・佐伯啓思>と<本多勝一・佐高信>との間を渡り歩いて行けるという感覚あるいは神経は、私にはほとんど理解できない。
 週刊金曜日のウェブサイト内で中島岳志は「保守リベラルの視点から『週刊金曜日』に新しい風を吹き込みたい」とか語っている。
 「保守リベラル」とはいったいいかなる立場だ!? こんな言葉があるのは初めて知った。そして、上の「みんなの党」批判は社民党的な「左から」の批判なのだろうか、富岡幸一郎や東谷暁らが集うような「右から」の批判なのだろうか(月刊正論6月号には宇田川啓介「みんなの党の正体は”第二民主党”だ」も掲載されていた)、と思ったりする。
 そんな<左・右>などに拘泥しないのが自らの立場だと中島は言うのかもしれないが、そう言って簡単に逃げられるものではないだろう。中島岳志には、一度(いや何度でもよいが)、<天皇(制)・皇室>に関する態度表明をしてもらいたい。そして、<反天皇制>主張が明確で、<天皇制廃止>を明確に意図している編集長のもとでの編集委員として、どのような「新しい風を吹き込」むつもりなのか、知りたいものだ。

0750/週刊金曜日を読む愉しさ。

 週刊金曜日(編集人・北村肇、発行人・佐高信)をたまに読むのも精神衛生によいかもしれない。
 一 6/19号によると、現在の編集委員は、雨宮処凜・石坂啓・宇都宮健児・落合恵子・佐高信・田中優子・中島岳志・本多勝一
 このうち宇都宮健児はときにテレビに出る弁護士だったか? 他に知らないのは、田中優子。
 パール判事論争の当事者・中島岳志の名がある。
 中島岳志はこの論争の縁で西部邁=中島岳志・保守問答(講談社、2008)という対談本を出し、戦後保守思想家のビッグ2は福田恆存と西部邁だと述べ、「保守思想の原点に返って…。…保守思想そのものを理論的に考察する」のが必要とか語っていた(p.4)。
 <週刊金曜日>が「左翼」色丸出しの週刊誌?だとしても、西部邁が編集顧問であるらしい<月刊・発言者>は、中島岳志と西部邁を通じて、ひょっとして<週刊金曜日>と<姉妹誌>なのかもしれない(?)。
 二 週刊金曜日のp.43に東京経済大学「教員」との肩書きの本橋哲也による書評。前田朗・非国民がやってきた!(耕文社)を対象にしていて「私たちの日常をむしばんでいる生活保守主義と監視社会の現状を分析し…」と肯定的に紹介。 
 <生活保守主義>は「左翼」の好きな「個人主義」・「個人の尊重」の帰結でもある。
 現在の日本を「監視社会」とは。フーコーかそれともサルトルあたりの影響か。万が一監視されていても好き放題に書け、出版できる日本にいると、言葉・発言自体で逮捕され収容所等に送り込まれる国家のあることを想像もできないのだろう。
 また、<「市民的不服従」の系譜>を「…根津公子…とたどる」とも紹介。
 根津公子といえば、国歌斉唱時不起立・同呼びかけ・国旗下ろし等で懲戒処分等を受けて多数の訴訟を起している東京都下中学校の教員だ(元になったか?)。この根津が<「市民的不服従」の系譜>に位置づけられるのだから、根津が自分は<英雄>だと勘違いするのもわかる。究極的には、マルクス主義の犠牲者の一人がここにもいる、という感じ。
 本橋哲也は自分の言葉として、以下を書く。
 「オリンピックから『テロとの戦争』まで、『コクミン』の雄叫びが巷に渦巻く現在、私たちにとって今しばらくは『非国民の思想』を実践する、それ以外の選択肢はない」。
 「国家」・「国民」憎しがここまできている人が実際に存在するのを知って感激?する。「非国民」とは名誉な称号なのだ。
 ではどうなればこの人は「非国民の思想」の実践を止めるのだろうか。
 民主党中心政権の誕生時?、社民党中心政権の誕生時?、それとも日本共産党中心政権誕生時?、あるいは日本が「社会主義」国になったとき又は中国「社会主義」国の一州になったとき??

0563/大原康男・象徴天皇考(展転社、1989)第一章読了-<象徴侮辱罪>は合憲。

 一 大原康男・象徴天皇考―政治と宗教をめぐって(展転社、1989)は、第一章を数日前に読み終えて、次の章に入っている。
 第一章は「象徴天皇と皇室の伝統」でp.102までと長い。
 ともあれ、<統治権の総覧者から象徴にすぎなくなった>と理解し強調するのと、現憲法上の<象徴>性の意味を積極的に語ろうとするのでは、憲法解釈論にも違いが出てきそうなのは確かだ。多数説および政府解釈も認めている(とされる)「象徴」としての天皇の<公的行為>の中にどのようなものが入ってくるかは、今回は立ち入らないが、祭祀行為の位置づけ、皇室経済法の具体的内容、祭祀関係規定の皇室典範(法律)からの除外等々に関係してくる。あらためて、このあたりのことを今日の憲法(学)教科書・概説書を実際に見て確認又は検討してみたい。
 
二 1 興味を惹いた一つは、日本社会党のブレインだった(自衛隊「違憲合法」論を少なくとも示唆した)と見られる元東京大学の憲法学者・小林直樹ですら、現憲法のもとで、「特殊な天皇制を存置する以上、象徴侮辱罪というようなものを設けても、―立法政策としてはむろん反対だが―憲法違反ではあるまいと考える」と述べているらしい、ということだ(p.34)。
 戦前の<不敬罪>の正確な内容と運用を知らない。だが、一般国民と異なる<天皇>という世襲職を憲法が「象徴」として設けることを明言しているのだから、天皇陛下についての<象徴侮辱罪>というものがあっても、理屈としては不思議ではなく、ただちに憲法違反にはならないだろう。
 日本共産党(員)あたりはすぐに<国民主権制>と矛盾し違憲だと単細胞的反応をするだろうが、<国民主権>を謳い、かつ<平等原則>(法のもとでの平等)を明記する憲法が同時に「世襲」の「天皇」の存在を認めているのだ。憲法は、一部の都合のよい原理・条項だけを持ち出すのではなく、総合的に解釈されなければならない。
 とはいえ現実に<象徴侮辱罪>を新設する(刑法改正又は独自法律の制定)は困難なようだ。人権擁護委員会なる国家行政組織法三条機関が想定されているならば、<皇室擁護委員会>でも設置して、天皇・皇族への<侮辱>的発言・出版をとり上げ、何らかの勧告・指導をできるようにしてもよいだろうが、対象とすべき<侮辱>の内容およびその(公表)方法の具体的判断はむつかしい。人権擁護法案について言われているのと同じ問題が生じそうだ。
 国家行政組織法三条機関に第一次的には委ねるのではなく、警察官・検察官に直接任せること(刑罰の直接適用)も一つの方途だが、これまた具体的判断はむつかしく、<表現の自由>等の侵害可能性等の反対論が一斉に噴き出しそうだ。
 というわけで、合憲であっても現実にはとても法的規制にはなじまないように思うが、しかし、国民がもっておくべき精神論・<心構え>としては、やはり、国家と国民統合の「象徴」である天皇というお方に対する何らかの敬意的なもの、対等に物言いできるお人ではないという気持ち、を持つべきなのではなかろうか。
 誰かの表現にあったが、国家と国民統合の「象徴」たる地位に就くことを国民は<お願い>しているのであり、かつその地位は「世襲」であって、2660年とは言わないまでも少なくとも1500年は血統が続いていることが正式文書等の上でも明瞭な<天皇家>(?)の当主なのだ。
 2 天皇とそれ以外の皇族とを同一視することはできない。しかし、やや大雑把に書いてしまうが、皇太子・皇嗣として次代天皇になられることが予定されているお方、ついで皇位継承順位第二位のお方や皇后陛下・(次代皇后となられることが想定される)皇太子妃殿下についてもまた、何らかの<敬譲>の気持ちはあってしかるべきなのではないだろうか。
 <象徴侮辱罪>が合憲的に成立しうるならば、<皇室(皇族)侮辱罪>も(その立法政策的当否、現実性は別として)法的には合憲的に成立しそうに見える
 国民に対して完全に<開かれた>皇室など存在する筈はなく、皇室・皇族に関するあれこれを全く自由に発言・出版してよいとは(少なくとも道徳的・倫理的には)思えない。
 佐高信らの週刊金曜日主催の集会が、悠仁親王に模した縫いぐるみの人形を投げ遊ぶことを含むパフォーマンスをしたことがあった(確認しないが、たぶん一昨年末)。これは「公」の面前でなされた。
 家庭内で、あるいは喫茶店内で、家族や知人たちと皇太子妃殿下や秋篠宮妃殿下のにことをあれこれと噂しあい、あるいは情報交換しあい、それにもとづいてあれこれの分析や今後の処方箋なり解決策を<世間話>の類として話題にしあるいは提言する程度のことは許されるし、法的な規制が及ぶべきではないだろう。
 但し、現皇太子の天皇不適格論(皇位継承不適格論)又は少なくとも現皇太子の皇位継承疑問視論や、これらを含む可能性が論理的にはある現皇太子妃の<皇后位継承再考論>が、堂々と、三・四流とは一般には評されていないとみられる月刊雑誌上に「公」にされるとなると、はたしていかがなものだろうか。
 それも表現(・出版)の自由かもしれないが、そのような議論を個人名を出して「公」にできる(そして活字化させて将来=未来永劫に残す)とは大した<勇気>だと感じ入っている。少なくとも私にはできない。
 <表現(・出版)の自由>にも元来、<内在的制約>というものがある。天皇・皇室との関係でそれを全く意識していない議論が<保守>の側から(も)出ている。戦後日本の、<表現・出版の自由>が保障されているとの「自由」意識は、このようにして<保守>の(筈の)論者の数人にまで及んでしまった、という感慨を私は今もっている。

0532/樋口陽一・岩波ブックレット1990を読む-佐高信・辻元清美レベルの反自民党心性。

 樋口陽一・ほんとうの自由社会とは―憲法にてらして―(岩波ブックレット、1990)という計60頁余の冊子は、1990年7月という微妙な時期に出版されている。
 1989年11月-ベルリンの壁崩壊(8月に東独国民がオーストリアへ集団脱出)、同12月-ルーマニア・チャウシェスク政権崩壊(12/25同大統領夫妻処刑)、その他この年-ハンガリ-やポーランドで「民主化」が進む。
 1990年2月-ソ連・ゴルバチョフ大統領に、同月~3月-バルト三国がソ連から離反・独立、1991年1月-湾岸戦争開始、6月-イェルツィンがロシア大統領に、7月-ワルシャワ機構解体、8月-ソ連のクーデター失敗・ゴルバチョフ辞任、12月-ソ連解体・CIS(独立国家共同体)会議発足。
 このような渦中?で書かれていることに留意しつつ、樋口の上の本に目を通してみよう。
 1 樋口は1989-90年の東欧について<「東」の「憲法革命」>という言葉を使う(p.2)。そしてベルリンの壁除去の「祝祭的な気分」だけで東欧を見てはいけないとし(p.2)、東独を含む東欧に「反コミュニズムと反ユダヤ主義が…また出てきた」という指摘もある、この二つは「ナチス登場の土壌だった」のだから、と書く。
 これはいったい何を言いたいのだろうか。曖昧、趣旨不明とだけ記して次に進む。
 2 樋口は、東欧の変動は「ヨーロッパで、理性と議論と骨格にした社会」という「共通の理念が、あらためて再確認されようとしている」という(p.4)。
 そして、「東欧の大変動」から日本人が「引き出すべき教訓」はつぎの二つだという。一つは、「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」ということ。「ノメンクラトゥーラ」という特権層の支配体制の崩壊から、<企業ぐるみ選挙>とかの政治・企業の癒着、利益配分集票構造といった日本の「体制」はこれでよいのかという「教訓」を引き出す必要がある(p.6)。二つは、「体制選択」を(1990年2月の)総選挙で主張した人々〔=自民党〕は「自由」のよさを強調するが、日本は本当に「自由社会」なのか、その人々は本当の「自由社会」を理解していないのではないか(p.6-8)。
 以上の1、2を併せてみても、趣旨は解りにくい。この冊子を書いた翌年にはソ連が明確に解体し、東欧諸国も<社会主義>を捨てて<自由主義(資本主義)>に向かう(いや、この時点ですでに向かっている)のだが、そうした観点からみると、樋口陽一は<いったい何を寝ぼけたことをいっているのか>、というのが端的な感想になる。
 「東欧の大変動」から得るべき教訓は、上のようなことではなく社会主義(・共産主義)の失敗であり、たんなる「権力の腐敗」や「ノメンクラトゥーラ」による支配崩壊ではなく、共産党一党独裁権力の腐敗と崩壊だろう。
 樋口陽一は何と、「社会主義」(共産主義)・「共産党」という言葉を一度も使っていない。これらの語を使わずして「東欧の大変動」から教訓を引き出しているつもりなのだから、何とも能天気だ。ひょっとして、ソ連という社会主義(・共産主義)・共産党の「総本山」までが崩壊・解体するとは予想していなかったのかもしれない。だとするとやはり<甘い>のではないか。
 それに、「体制選択」という言葉を使いながら、、「社会主義」(共産主義)・「自由主義」(資本主義)という骨格的概念を使うことなく、日本は本当に「自由社会」なのか、日の丸・君が代の掲揚・斉唱の学校行事での強制化は「自由社会」にふさわしいのか(p.7)、というレベルでの議論をしているのだから、まさしく<寝ぼけている>としか言い様がない、と思われる。
 3 「八月一五日」の昭和天皇の「御聖断」に言及しつつ、「八月五日」だったなら…、と書いている(p.12)。他の言葉も併せて読んでも、明言はないが、「八月五日」に「御聖断」があれば広島・長崎への原爆投下はなかった、もっと多くの人が助かっていた、という趣旨であることは間違いない。そのような条件関係(因果関係)にあるかもしれないが、かかる議論は原爆投下を行いたかったアメリカをほとんど免責してしまうものだ。非戦闘住民の大量殺戮というアメリカの罪を覆い隠してしまう議論だ。吉永小百合さまも同旨のことを言っていたが、樋口陽一もそういう発言者であることを忘れないでおきたい。
 4 樋口陽一によると、1989年7/23の参議院選挙は高く評価されるものらしい。この「消費税」が争点となった選挙で日本社会党は前回当選(非改選)22→52と躍進し、自民党は前回当選(非改選)73→38と「敗北」した(ちなみに日本共産党は9→5)。
 樋口は、どの党・候補者が勝った負けたというよりも「自分の考えで投票所へ行って、自分の考えで投票してくるという本来あたりまえのことを、…少なからざる人が経験した」のではないか、「これはたいへんなことだと思います」、と<感動したかの気分で、喜ばしげに>書いている。
 だが、奇妙に思わざるをえないのは、この人は、日本社会党が躍進した場合にのみ国民が「自分の考え」で投票所へ行き投票した、と理解しているのではないか、ということだ。翌年(1990年)2月には(樋口が期待した?)与野党逆転は起こらなかったのだが、この衆議院選挙については「少なからざる人」が「自分の考え」で投票所へ行き投票した、とは樋口は書いていない。
 樋口の論評というのは、この辺りになると憲法学者とか憲法「理論」とかとは無関係の、単純な日本社会党支持者のそれに<落ちてしまっている>。佐高信や辻元清美と同じレベルだ。そして「自分の考え」で投票…というのが樋口のいう正しい「個人主義」の現れの一つだとするならば、樋口のいう「個人主義」とはいいかげんなものだ、とも思う。単純に言って、樋口においては、日本社会党投票者=自立的・自律的「個人」、自民党投票者=「空前の企業選挙」に影響を受けた自立的・自律的ではない「個人」ではないのか。樋口の語る「個人」(主義)というのは、随分と底の浅いもののような気がする。
 なお89年参院選挙で土井たかこ・社会党が<躍進>したのは、<(消費税)増税はイヤだ>との国民大衆の直感的・卑近な皮膚感覚によるところが大きく、まさしく<大衆民主主義>の結果なのであり、樋口が言うほどに「自分の考えで」投票した人々が増えたからだ、とはとても思えない。
 5 樋口は、日本は本当の「自由社会」ではないと縷々述べたあと、日本は「西側の一員」、「軍事費の増強」と「アメリカとの軍事同盟」の強化、を強調する人々は「西側諸国の基本的な価値観、個人の良心の自由、信教の自由、思想表現の自由にたいしてまったく関心がなければいいほうであって、それらに対して系統的に敵意をもっている人びとだ」というパラドックスがあると指摘している(p.36)。全く同旨の文章が、樋口・自由と国家(岩波新書、1989)p.212にもある。
 上で樋口は日本国憲法に規範化されている西欧近代的「価値観」を正しく理解し継承しているのは自分たち(=「左翼」)であり、日本は「西側の一員」と強調したり日米安保を支持・強化している人びとではない、後者の人びとはむしろ諸自由に<敵対している>と言いたいのだろう。
 この点は、西欧近代又は「西側」(とくにアメリカ)の思想・理念は<左翼>だとする佐伯啓思の指摘もあって興味深い論点を含んではいる。
 だが第一に、自分たちこそ<自由と民主主義>の真の担い手であり、自民党・「反動」勢力はつねに<自由と民主主義>を形骸化しようとしている、という<戦後左翼>の教条的な言い分と全く同じことを大?憲法学者・樋口陽一が言っていることを、確認しておく必要があろう。
 第二に<日本は「西側の一員」と強調したり日米安保を支持・強化している人びと>は「西側諸国の基本的な価値観」・諸「自由」に無関心か<系統的な敵意>をもつ、という非難は誤っているか、行き過ぎだろう。具体的な問題に即して議論するしかないのかもしれないが、上のような言い方はあまりに一般化されすぎており、「西側」陣営の一員であることを強調し日米安保条約を支持している者に対する、いわれなき侮辱だ、と感じられる。
 第三に、では西欧的「価値」と「自由」を尊重するらしい樋口は、本当に「自由主義」者なのか(あるいは「人権」尊重主義者、「民主主義」者なのか)、と反問することが可能だ。
 1990年頃にはすでに、北朝鮮による日本人の拉致は明らかになりつつあった((1977.11横田めぐみ拉致、)1980年-産経新聞が記事化、1985年-辛光洙逮捕、1988年1月-金賢姫記者会見、同年3月-国家公安委員長梶山静六は某氏失踪につき「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と国会で答弁)。
 樋口陽一は北朝鮮という国家の日本人に対する<仕打ち>についてこの頃、および金正日が拉致を認めた2002年9月以降、どのような批判的発言を北朝鮮に対して向けて行ったのか? また、中国共産党が支配する中国は国民の「自由」を尊重しているのか。この当時において、樋口は、中国の「人権」状況に関してどのような批判的認識を有していたのだろうか。そして今日、チベット(人)への侵略と弾圧について、樋口はいかなる発言・行動を実際にしているのか
 一般に社会主義(・共産主義)者が<自由・民主主義>を主張し擁護するとき、それは往々にして社会主義(・共産主義)を守るため、少なくともそれに矛盾しない場合になされることが多い
 樋口陽一は真に「西側諸国の基本的な価値観、個人の良心の自由、信教の自由、思想表現の自由」を守り、実現しようとしているのだろうか。「ほんとうの自由社会とは」などと語る資格があるのだろうか。北朝鮮や中国に対する批判的言葉・発言の一つもないとすれば(なお読んで確認したいが)、その「自由」主義・「人権」論は歪んでおり、二重基準(ご都合主義)の「自由」主義・「人権」論なのではなかうか。
 この樋口陽一の冊子の検討(読書メモ)もここでいったん区切る。回をあらためて、もう一度くらい続けよう。

0509/丸山真男は「反日」=日本「解体」論者の元祖-松本健一の本。

 松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)を数日前に全読了(計247頁)。
 この人の単著を全部読んだのは初めてかもしれない。東京大学経済学部出身。他学部の聴講可能性が拡大された時期に法学部の丸山真男の講義も聴いた。手紙のやりとりをするくらい親しく?、本人は否定しているが丸山の「弟子」と言われたこともある。だが、この本は既述のように、全体として、丸山真男批判の著であり、部分的には告発・糾弾の著でもある(と理解した)。
 全体を紹介する余裕はない(最初の方の詳細はもう忘却している)。まず、一点だけ言及する。
 丸山の「超国家主義の論理と心理」を素材としていると見られる叙述の中で、丸山の論理の中に「戦後の反日イデオロギー」の源泉を見出している(p.147-157)。以下、松本が丸山の論理を辿る文章を要約する。
 丸山にとっては「八・一五革命」により日本は近代国民国家に普遍的な「ナショナリズム」に立ち戻った、換言すれば、「国民主権」思想に立脚できた。ナショナリズムは近代国家の「本質的属性」だが、戦前日本は「質的な相違」のある「真にウルトラ的性格」のそれを帯びた。しかして、西欧近代国家は価値に対して「中立」的な「中性国家」だったが、戦前日本=明治国家は「天皇」という「内容的価値の実体」に根拠をもった。これが「国体イデオロギー」だ。この「イデオロギーは、…日本の国家構造そのものに内在」するもので、かつ重要なことに、明治国家に限られず、「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背負っている」、「皇祖皇宗もろとも一体となった」「内容的価値の絶対的体現」だった。反復すれば、明治国家に限られた「国体イデオロギー」なのではなく、「日本の国家構造そのものに内在」するものだ。となれば、天皇制=「国体イデオロギー」を否定するためには「日本そのものを解体しなければならない」という「戦後の反日イデオロギー」が帰結として派生してくる
 以上の「」は、松本の語と丸山の語の場合の両方がある。上の丸山真男における最後の部分、天皇制=「国体イデオロギー」は「日本の国家構造そのものに内在」する、という文章は、丸山真男・新装版/現代思想の政治と行動(未来社、2006)だと、p.16にある。
 今どき、丸山真男の言説など、無視しておけばよいのかもしれない。だが、上の松本の指摘は面白い(interesting=興味を惹く)。
 丸山真男にとっては、「象徴」天皇制度が残った「国民主権」国家とはきっと中途半端なものだったに違いない。彼の気嫌う非合理的な価値の源泉が残り、それが「再び」巨大化して復活することを恐怖したかもしれない。「超国家主義の論理と心理」は1946年に書かれているが、丸山・現代思想の政治と行動「増補版への後記」の中で、「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」(上掲書p.585)と書いたとき(1964年)、そこには<天皇制度>を否定したい気分が明瞭にまだ残っていたかに見える。
 松本の揚げ足を取るようだが、天皇制=「国体イデオロギー」を否定するためには「日本そのものを解体しなければならない」わけではなく、厳密には又は正確には<天皇制度>の解体・否定で十分ではなかったのだろうか。「天壌無窮の皇運」に担保された「国体イデオロギー」が解体・否定されれば十分だったのではないか。すなわち、新憲法で<天皇制度>を否定し、天皇・皇室も、古事記・日本書紀等の皇室関連「物語」も一切否定して、それこそ(真の「国民主権」制又は「共和制」国家として)「新しく再出発」していれば、丸山真男の鬱屈もなかったのではあるまいか。だが、そのような現実、そのような国家が「日本」と言えるかを、丸山は心底では想定できなかったのかもしれない。松本は丸山は「外在的」に「日本」又は「日本ファシズム」を批判したとか記述しているが(p.234等)、丸山真男も自らが<日本人>であることまでを否定できなかったようにも見えなくはない。
 だが、ともかく、今に続く日本人の「反日」意識、<反「日本」国家>意識の源が戦後直後の(しかも少なくとも知識人にはよく読まれたらしい)丸山真男論文に(も)ある、というのは興味深い。「反日」意識の根源又は中核は、<反・天皇>意識・<反・皇室>感情だろう。そして(日本共産党は当然だが)週刊金曜日の編集人の佐高信・石坂啓・筑紫哲也・本多勝一らを代表とする<進歩的・左翼>の人たちは、スッキリしない・非合理的なものとして<天皇・皇室>制度の解体を本音では望み、主張している筈だ。丸山真男の継承者・追随者は現在でも多数いる。
 長くなったので、別の点は別の回に。

0433/産経3/23書評欄で高杉良が佐高信・田原総一朗への退場勧告を肯定的評価。

 産経新聞3/23の書評欄で高杉良佐高信・田原総一朗への退場勧告(毎日新聞社、2008)をとり上げている。
 田原総一朗の評価について、高杉は佐高信と同じようで、「田原総一朗の見当違いの驕慢は続き、それに踊らされている人たちもいる。この本は、そんな田原へのレッドカード(退場勧告)である。もちろん、それは間違って彼を「ジャーナリスト」と思っている人たちへのイエローカードを含む」と書いている。
 田原の評価は私自身はよく分からない。だが、佐高信から見れば、たいていの者が批判・罵倒の対象になるのではないかと思うくらい、佐高信の立脚点は相当に偏っているので、佐高信による評価も高杉良の同調も、にわかに首肯することはできない。
 それよりも、高杉良が「権力に追従する者はジャーナリストではない。早々に退場すべきだ!」とのこの書の帯の惹句をそのまま肯定的に紹介・引用していることが気になる。
 <ジャーナリストは権力の監視役>とかの、教条的な、あるいはステレオタイプ的な権力観・ジャーナリスト観が、古くさいまま、そのまま提示されていると思えるからだ。
 「権力」をさしあたり「国家」と理解すれば、「国家」はつねに<悪>ではないしつねに<悪>になろうとする傾向があるわけでもない。<必要悪>という見方も間違っている。
 「追従」とは言わなくとも、優れた、又は適切な「国家」活動はジャーナリストも遠慮なく?讃えるべきだ(と私は思う)。
 加えて、現代の大衆民主主義社会においてジャーナリスト・マスメディア人が果たしている役割を見るとき、<有力なマスメディア(という「権力」)の監視>もまた、ジャーナリストの重要な仕事であるべきだ。そのような発想を、佐高信や高杉良は少しは持っているのか。
 少し飛ぶが、政府・与党等(・これらの政治家)に対しては遠慮なく監視し批判するが、<有力なマスメディア(という「権力」)>に対しては舌鋒を鈍らせる、という傾向がジャーナリストの中にはないだろうか。
 国家・官僚・政治家を批判し揶揄するのは<進歩的>で当然なことと考えつつ、一方で、偏った、問題の多い報道ぶり等をしていても、例えば朝日新聞(社)については、当該マスメディアから原稿執筆の依頼が来なくなることを恐れて、正面から批判することを避ける、という心性傾向をもつジャーナリストあるいは文筆家(売文業者)はいないだろうか
 物事は客観的に、公平に論じてもらいたい。佐高信がいう「権力」とはおそらく「国家権力」のことだろう。「国家」以外にも、「国家」に働く人々よりも実質的には「権力」をもつ「私的」組織・団体があることを忘れるな。
 <国民主権>のもとでは「国家」のために直接に働く人々-議員(政治家)・政府関係者(・官僚)等は主権者・国民の<従僕>であるとも言える。そして、「国民」の<気分>や<意見>を反映する、あるいは(場合によってはそれらを<誘導>してでも)創り出すマスメディアの「権力」は、「国家」・政府関係者・議員等よりも大きいとも言える少なくともそのような場合がありうる)のだ。
 本の内容を読まずだが(佐高信の本を読む気はない)、高杉良のあまりに単純な佐高への同調を異様に感じて、書いた。

0400/朝日新聞・本田雅和はまだ「反動的」という語を使う。

 週刊新潮桜井よしこ・高山正之のコラムはほとんどきちんと読む。今はなくなったようだが、野口悠紀夫のそれもかなり読んでいた。福田和也のそれは文体・中身が分かりづらいこともあって、これら三者ほどには読んでいない。渡辺淳一のそれは目を通しているかもしれないが、殆ど記憶に残らない。文学や医療と関係のない、政治・国家・一般社会のこととなると、この人には書く資格がほとんどない(つまり一般読者と同じレベル)と思うのだが、さも立派なことを言っているかの如く書いていたりすることもあって、むしろどちらかというと嫌いなコラム・ページだ。
 コラムではないが、週刊新潮2/21号p.50のある部分が目を惹いた。朝日新聞・本田雅和に関する記事だが、記事の主題(同が「夕張はパレスチナと同じ」と講演)よりも、この記事の括弧つき引用による、本田雅和が「…そういう記事を送っても札幌のデスクが反動的で載せてくれない」と講演(発言)した、という部分だ。
 目を惹いたのは、この人はまだ「反動的」という語を使っているのか、という驚きと呆れによる(「」付き引用なので、週刊新潮関係者が勝手に使ったのではないだろう)。
 かつて1970年代、あるいは1980年代くらいまでは、<保守・反動>とか<日米(米日)反動勢力は…>という表現はかなり耳(と目)にはしたが(それでも一部の世界で、であっただろう)、遅くとも日本社会党消滅時までには、この<反動>という言い方は消えたのではないかと思っていた。
 まだこの言葉が何かしらの意味をもつ有効性ある(つまりは「進歩」・「革新」に対して<時代逆行>を意味する)概念だと思いこんで使っているのは本田雅和のほか、佐高信、上野千鶴子、そして熱心な日本共産党員、社民党員くらいではないか。ズバリ皮肉だが、<なつかしい>。

0371/水島朝穂(早稲田大学)は学者なら真摯に反応したらどうか。

 1/03頃に、川人博・金正日と日本の知識人(講談社現代新書、2007.06)を読了。
 親北朝鮮の「日本の知識人」を批判した本だが、具体的に固有名詞が挙げられ、批判的論評がされているのは、姜尚中、和田春樹、佐高信、水島朝穂の4名。
 和田春樹佐高信の二人についてもはや言う必要もない。姜尚中については、この本とは別の観点からいつか近い将来に述べたいことがある。
 残る水島朝穂はこのブログでも批判的に取り上げたことのある早稲田大学所属の憲法学者だが、私も所持はしている同著・憲法「私」論(小学館)や他の発言等を対象に、著者の川人(弁護士、特定失踪者問題調査会常務理事)は次のように批判する(p.91~p.99)。
 ・2002年9月以降に(いったん北朝鮮から)帰国した五人について、安倍晋三(当時、官房副長官)は(帰国させないという)「駄々っ子のような方向」を選んだが、返せば(帰国させれば)よかったと主張した。「ここまで人を罵倒する発言をする」なら、「もっときちっと根拠を示しなさい」。
 ・具体的には第一に、五人は日本に滞在したいとの意向だったのに、日本が無理やり北朝鮮に連れて行くべきだ、という主張は、「国際人権法の、あるいは日本国憲法の、どの規定に基づき正当性を有するのか、ぜひ、憲法学者として責任をもって明確にしてもらいたい」。
 ・第二に、北朝鮮に戻った五人とその家族が無事に日本に帰国できるという「具体的根拠を述べていただきたい」。
 ・上記の憲法「私」論の中で、「韓国での米軍犯罪、日本の戦争責任」等には多くを語りながら、「拉致問題」には「わずか一〇行程度触れるだけ」で、「北朝鮮国内の人権侵害に関しては、一言も語っていない」。「中国国内での人権侵害にも一切触れていない」。また、「国境を超えた市民運動」が重要との旨を主張しつつ、「北朝鮮独裁者と対峙して活動しているNGOや民衆」について一切語らず、「北朝鮮独裁体制に親和的なNGOの活動を紹介するのみ」。
 総括的に、こんな批判的な言葉もある。
 「民衆の闘いを忘れ、独裁者の『メンツ』を気にするのが、憲法学者のとるべき態度であろうか」。(p.96)
 「自らの思想や論理を真摯に総括することもなく、『半径平和主義』(狭い『平和主義』のわく)ともいうべき殻の中に閉じ籠もる、それが水島氏の姿」だ。(p.98)
 「真にアジアの民衆の人権と平和を希求している」のなら、「まず、過去の暴言を真摯に反省していただきたい」。(p.98)
 名指しされてこうまで批判されると―姜尚中は週刊誌上で<応戦>したようだが―、ふつうの人ならば、反論(あるいは釈明、可能性は少ないが「真摯な反省」)をしたくなるだろう。ましてや、水島朝穂は、著書の数も多そうな大学教授なのだ。このまま黙っていれば「学者」の名が廃(すた)り、批判を甘受していることになってしまうのではないか。水島氏よ、真摯に対応したら、いかがか(すでにどこかでしているのかもしれないが、私は気づいていない)。
 いや、そもそも水島朝穂は学者・研究者ではなく活動拠点を早稲田大学に置く政治活動家なのかもしれない。とすると、弁護士・川人博についても―かりにこの文を彼が読んだとして秋月瑛二についても-<「保守・反動」が何やら喚(わめ)いている>といったレッテル貼りで内心で反論したつもりになって済ますのかもしれない。
 怖ろしいのは、憶測にはなるが、水島朝穂ほどには目立たなくとも、憲法改正反対・憲法九条擁護の憲法学者には、水島の上記のような対北朝鮮反応、対北朝鮮感情と同様のものを<空気>として抱え込んでいる憲法学者が日本には少なくない、と見られることだ。日本の憲法学者・憲法学界とはかくも<異様な>ものだということは広く大方の共通理解になってよいものと思われる。
 ところで、この本は昨年6月に刊行されているが、新聞・雑誌の書評欄で採り上げられているのを読んだことはなく、その存在自体を昨年末に知った。テーマは単純ではあるが、少なくとも紹介くらいはされる価値のある本だろう(新書で読みやすくもある)。
 だが、かりにだが、どの新聞・雑誌も採り上げなかったとすれば、それは、姜尚中、和田春樹、佐高信、水島朝穂という特定個人(の主張)を批判している書物のためなのかもしれない。
 各「知識人」または新聞・雑誌への各寄稿者(またはその可能性ある特定個人)に遠慮し、その背後にいるグループ・団体・出版界にも遠慮しているのだとすれば、新聞・雑誌の「表現・出版の自由」も疑わしいものだ。この例のみで言うつもりは全くないが、一般論としても、新聞・雑誌の「書評欄」を(参考にしてもいいが)<信頼>してはいけない。
  

0151/小林よしのり・新ゴーマニズム宣言スペシャル/脱正義論(1996)。

 じつは(と大袈裟に言うことでもないが)、小林よしのりゴーマニズム宣言は旧・新を含めて、(古書もあるが)全部所持し、読んでいる(と思う)。内容の記憶はほとんど朧げになっているが、雰囲気・イメージの記憶は残っている。
 そのスペシャル版もたぶん全て所持し、読んでいる。そのうち、新ゴーマニズム宣言スペシャル・脱正義論(幻冬舎、1996)は、小林が1994年に「HIV訴訟を支える会」の代表となり、弁護士等と運動の仕方等について軋轢を生じさせながら活動し、1996年03.29に加害企業と「和解」が成立して、彼の影響も受けて「支える会」会員となった者たちを含む若者(学生)たちに、<さぁ日常に戻ろう>と呼びかけたところ、「支える会」の支部等の「代表も事務局長も会計もすべて左翼系団体の同盟員というところもある。民青が仕切ってたりするところもあるらしい」(p.70)ことを知って愕然として原告患者青年の川田龍平に伝えたところ、彼は「知ってますよ」とニヤリと笑って答えた(p.78)、なんていうことが生々しく描写されていて、とても印象的だ(とても長い一つの文だ)。
 「HIV訴訟を支える会」の実際がどうだったのかの知識はないが、純粋な善意で始まった「市民」運動も、いつの間にか政党等の「色のついた」(多くの場合は「左翼系」の)運動に変質していくことは、十分に考えられる。この本が描くように「支える会」を日本共産党・民青同盟系の者たちが実質支配したのだとかりにすれば、さすがに「大衆団体」を党・民青等近接団体の<下請け>化することに手慣れていて、巧いものだ。また、こうした訴訟の場合、手がける弁護士たち自体がとっくに日本共産党員又は同党シンパであることも十分にありうるだろう。
 「政治」と何らかの関係のある問題についての、多数の「個」の純粋な「連帯」は、小林が正義感をもって当初想定したよりはやはり相当に困難なのが現実だろう。
 その他、書き残しておきたいことが二つある。
 1.「あとがきにかえて」に、「もっと腹が立つのは佐高信ら、『絶対の正義』と薬害エイズが世間に認定された後に近寄ってきて自分の言い分にこれを利用しようとするハイエナみたいな言論人」とある(p.256)。
 なるほど、佐高信は、自分たちの「運動」に利用しようとして小林又は「支える会」にも接近してきたのだ。
 佐高信は、巧妙に隠しているものの「週刊金曜日」共同編集人でテレビ・コメンテイターをしている石坂啓もそうだと思うが、決して<評論家>ではなく、<(社会)運動家>だ。「ハイエナみたい」と表現されているのも、ずばり適切で、よく分かる。
 「週刊金曜日」編集人たちは、選挙に候補者を立てないから政治資金規正法上の「政治団体」ではないだけで、昨秋に反皇室演劇つきの集会を行うなど実態は「政治団体」に他ならず、「週刊金曜日」はその機関誌だと思われる。
 2.川田龍平は7月参院選に東京選挙区から立候補するらしい。日本共産党・民青そのものには加入しなかったようだが、訴訟等の運動の中で「左翼的」活動家に成長したのだろう。
 小林の上の本の中に、「支える会」の若者の間でカール・ヴォルフレンの本がよく読まれているという話が挿入されていたが、彼の日本・権力構造の謎(上・下)(早川書房、2000)は日本の国家・社会を欧米的観点から「異常視」する、偏見に満ちた本で、なるほど(反発がありうる)モロの共産党・民青の本よりは、外国人が書いた(客観的ふうの)日本の「権力構造」批判の本として、読者を「反体制」化・「左翼」化するのに役立ったに違いない。

0096/渡部昇一は日本国憲法改正に反対している!

 渡部昇一(1930-)という人は不思議な人だ。つい前回、2001年の本では、日本国憲法の三大原則を守ってより良くする改正を、と発言していた、と書いた。
 月刊WiLL(ワック)の2007年6月号の彼の戦後史連載講座5回目は日本国憲法を扱っているが、そのタイトルは「新憲法は「占領政策基本法」だ」で、次のように書く(p.239)。
 「日本国憲法は条約憲法で、ふつうの憲法ではない…。正確に言えば、占領政策基本法でしょう」。/「日本政府は独立回復時に日本国憲法を失効とし、…ふつうの憲法の制定か、明治憲法の改正をしなければならなかった。日本国憲法をずるずると崇め、またそれを改正していくということをすべきではないのです」。
 渡部氏は最近、南出喜久治という人との共著・日本国憲法無効論(ビジネス社、2007.04)を刊行している(私は未読)。この南出の影響を受けたのか、上で語られているのは、明らかに日本国憲法改正反対論だ。十分に丁寧には説明していないが、有効な憲法ではなく占領政策基本法にすぎないのだから、それを改正しても憲法改正にはならない、「日本国憲法」が有効な憲法とのウソを更に上塗りすることになる、という趣旨だろう。
 渡部昇一という人は「保守派」の著名な論客だが、対談する、又は一緒に仕事をする人の考え方の影響を受けやすいのだろうか。今頃は改憲の主張を頻繁にしている方がむしろ自然に思えるのに、何と、日本国憲法無効論の影響をうけて(であろう)、2001年の本とは逆に、改憲に反対しているのだ。2001年の本以外にも彼は、現憲法9条2項の改正を主張する等の論稿・発言をこれまで頻繁に公にしてきたのではなかったのか。
 考え方が変わる、ということはありうる。だが、70歳を過ぎて基本的な問題に関する考えを変えるとは珍しい。また、改憲に反対とは、そのかぎりで、渡部昇一という人は大江健三郎や佐高信と同意見であることを意味する。客観的には、大江や佐高、そして朝日新聞等々を喜ばせる主張を、彼は月刊WiLL誌上で行っているのだ。
 西尾幹二等と比べれば、軽い(噛みごたえの少ない)文章を書く人という印象はあったが、渡部はもはや、かなりの程度、信用できない人のグループに入りそうだ。
 ところで、渡部は、「すべての根元はこの〔八月革命説を唱えた〕宮沢俊義東大名誉教授とその門下生です。病的な平和論者に芦部信喜東京大学教授、樋口陽一名誉教授がいます」と書き、「百地章さんや西修さん」は「まっとうな憲法学者」だとする(p.243、p.244)。
 渡部がじっくりと各氏の(論文は勿論)教科書類を読んだとは思えないのだが、とくに前半は、はたして、どなたから得た情報又は知識だろうか(なお、上半分のうち、宮沢、芦部両氏は故人の筈で、肩書きに一貫性がない。これは、潮匡人・憲法九条は諸悪の根源p.252-3を参照したからではないか、と推測する)。

0059/「『平和への結集』をめざす市民の風」の「平和共同候補・共同リスト実現運動」とは?

 宮地健一氏のHPの中の彼の叙述等から、憲法改悪阻止の運動の現状の一端を紹介しておこう。
 宮地は「憲法改悪阻止」の勢力を参院・衆院にどうやって当選させるかが重要な「運動段階」の一つだとし、次のように書く。
 「9条の会」と「平和共同候補・共同リスト実現運動」という「2つの市民団体が活動し始めて」おり、「両者は、共同して活動できる路線・政策レベルにある」。しかし、今年になっても「共産党は、(1)「9条の会」の側のみを支持し、それを草の根運動と高く評価した。下部の全国自治体で結成され、活動している「9条の会」に共産党支部・党員が大量に参加するよう指令を出している。しかも、…共産党批判者・除名者を、呼びかけ人から排除しようと策動している。一方、(2)「平和共同候補・共同リスト実現運動」にたいし、詭弁を使って、敵対してきた」。
 そして、「このような憲法改悪阻止運動における分裂路線は正しいのか」、と批判的・懐疑的だ。
 「憲法改悪阻止運動」を私は応援したくないので、宮地とは異なり、「平和共同候補・共同リスト実現運動」なるものは何かにむしろ関心が向く。
 同HPによると、次のようだ。
 この運動の主体は「「平和への結集」をめざす市民の風」という名称の会らしい。そして、「平和憲法が極めて深刻な危機に瀕している今、憲法の平和主義を守り活かす“活憲”のために、国や地方の政治における「平和への結集」が必要だと私たちは考えます。「①平和・環境、②社会的公正、③選挙制度の抜本的改革」の実現を基本的な目的として共有し、市民の手により「平和共同候補や平和共同リスト」などを実現する大運動を提案」している。
 「共同代表」三名は、「岡本三夫(広島修道大学名誉教授)、きくちゆみ(グローバル・ピース・キャンペ-ン)、小林正弥(千葉大学、地球平和公共ネットワーク)」。
 「代表呼びかけ人」は以下。「愛敬浩二(名古屋大学大学院法学研究科教授、憲法学専攻)、五十嵐仁(法政大学教授)、池住義憲、池邊幸惠、稲垣久和(東京基督教大学教授)、色平哲郎、浮田久子、内山田康)、岡村孝子(戦争非協力・無防備地域条例をめざす藤沢の会)、岡本厚「世界」編集長)、岡本三夫(広島修道大学名誉教授)、嘉指信雄、加藤哲郎(一橋大学教員)、神谷扶左子、河内謙策(弁護士)、きくちゆみ、北村実(早稲田大学名誉教授)、君島東彦(立命館大学教授、非暴力平和隊国際理事)、金城睦(弁護士、沖縄平和市民連絡会共同代表)、小林正弥(千葉大学、地球平和公共ネットワーク)、佐々木寛(新潟国際情報大学助教授)、瑞慶山茂(弁護士、軍縮市民の会・軍縮研究室事務局長)、竹村英明、中山武敏(弁護士)、長谷川きよし(歌手)、平山基生、星川淳(作家・翻訳家、グリーンピース・ジャパン事務局長)、武者小路公秀(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター所長)、毛利子来(小児科医)、山下けいき (2006年3月17日現在)」(()書きを全部又は一部省略した場合がある)。
 さらに、「呼びかけ人」は以下。「相澤恭行、青英権、青柳行信、浅野禎信、朝日健太郎、天木直人(元外交官)、荒川純太郎、有馬克子、飯田哲也、井奥まさき、石田吉夫(弁護士)、市川守弘(弁護士)、伊藤成彦(中央大学名誉教授)、今泉光司、上原公子(国立市長)、上村雄彦、内田雅敏(弁護士)、内山隆、江尻美穂子、太田隆徳(弁護士)、大築準、大野拓夫、大橋巨泉(著述業)、岡田政和(弁護士)、小川真吾、奥平康弘(東京大学名誉教授、憲法学)、尾花清(大東文化大学文学部教授、日韓教育フォーラム編集長、日韓平和教育研究会事務局長)、おんちはじめ、笠松健一(弁護士)、樫聡、桂敬一(立正大学講師)、桂睦子、加藤節(成蹊大学教授)、鎌田東二、鎌田信子、川口創(弁護士、イラク派兵差止訴訟弁護団事務局長)、川崎けい子、川崎直美、川田悦子(元薬害エイズ原告団副代表)、川田龍平、川本隆史(東京大学大学院教育学研究科・教員)、北川隆吉(名古屋大学名誉教授、東京自治問題研究所)、北野弘久(日本大学名誉教授)、木村朗(鹿児島大学教員、平和学)、木村公一、久保田弘信、熊谷伸一郎、倉澤七生、小出昭一郎(元山梨大学学長)、こうちあきお、後藤道夫(都留文科大学教員)、小西誠(社会批評社代表、軍事批評家)、紺野茂樹、金野奉晴、阪本公一、笹田参三(自由法曹団)、佐高信(評論家)、佐藤昭夫(早稲田大学名誉教授)、佐藤修、佐藤和夫(千葉大学教育学部教授)、佐藤真紀、佐藤研(立教大学教員)、さとうももよ、椎名誠(作家)、重松壮一郎、柴山健太郎、嶋﨑英治、島田広(弁護士)、志水紀代子(追手門学院大学教員)、秀海、新海寛(信州大学名誉教授)、杉浦英世、鈴木敦士(弁護士)、高木吉朗(弁護士)、高橋道郎、高村耕一郎、高柳美知子、田口富久治(名古屋大学名誉教授)、田口房雄、田島隆、辰巳玲子、田場暁生(弁護士)、千葉眞(国際基督教大学教員)、千早、堤江実、堤未果、鶴田満彦(中央大学名誉教授)、デジャーデンゆかり、土井香苗(弁護士)、督永忠子、豊島耕一(佐賀大学教授)、戸田清(長崎大学助教授)、富崎正人(弁護士)、冨田哲秀、豊田義信、豊永恵三郎、仲佐秀雄、中野たかし(彫刻家)、中村和雄(弁護士)、中村俊一、中村政則(現代史研究者)、永山利和(日本大学教授)、なだいなだ、ななおさかき、西岡由香、西尾漠、西田清志、新田穂高、萩尾健太(弁護士)、林真由美(弁護士)、樋口健二、久松重光、平野慶次(日本ホリスティック教育協会常任運営委員)、平本憲孝、平山知子(弁護士)、廣瀬方人、廣瀬理夫(弁護士)、福澤定岳、福島理可、藤田秀雄(立正大学名誉教授)、藤田英典(国際基督教大学教授)、布施哲也、舟越耿一(長崎大学教授)、外間喜明、星野ゆか、細井明美、堀内良樹、堀越由美子、本多誠朗、前田哲男、松井英介、松元保昭、南研子、南定四郎(日本同性愛学会会長)、宮尾耕二(弁護士)、宗藤尚三、森川明(弁護士)、森口貢、森田茂(弁護士)、矢澤修次郎(一橋大学教員)、柳瀬宏秀、山口長志、山口孝(明治大学名誉教授)、山口直哉、山口幸夫、山崎久隆、山田秀樹(弁護士)、山本俊正、山脇直司(東京大学教員)、湯浅一郎、吉田収(東洋大学教授)、吉村誠司、若井和子、渡辺一枝」。」(()書きを全部又は一部省略した場合がある)。
 さらになお、「賛同人」なるものも列挙されている。以下のとおり。「相澤一行、青木護(弁護士)、青崎百合雄、青山治城(神田外語大学教員)、阿久津孝志、浅田眞理子、浅野誠、安倍徹郎(放送作家)、阿部愛奈美、鮎川ゆりか(WWFジャパン)、荒井潤・リン、生田あい、池側恵美子、池田恵美子、池宮城紀夫(弁護士)、石岡イツ(いせ九条の会事務局員、自衛隊イラク差止訴訟原告)、石垣敏夫、石坂俊雄(弁護士)、石橋行受、泉澤章(弁護士)、市川達人(獨協大学講師)、市川利美、いちじゅ(ひきこもり九条の会)、一ノ瀬佳也、伊東幸子、伊藤純子(葉山町議員)、伊藤洋典(熊本大学)、伊藤幹郎(弁護士)、岩佐しのぶ、伊和佐晴香(作家)、岩田信介、岩田泰大、岩間一雄(岡山大学名誉教授)、上野恵子、碓井敏正(京都橘大学教授)、内海愛子(恵泉女学園大学教授)、内畠いおり、内村博信(千葉大学教員)、生方卓(明治大学教員)、榎本信行(弁護士)、遠藤富美夫、及川信夫(弁護士)、大窪一志、大久保雅充、大坂健(國學院大学教授)、大島正裕、太田啓子(弁護士)、太田光征、大塚要治、大富亮、大野まさき(武蔵野市議)、大畑豊(非暴力平和隊・日本(NPJ))、大山美智子(弁護士)、荻野晶子、奥地圭子、奥村知亜子、奥本京子(大阪女学院大学、トランセンド研究会)、小倉英敬(八王子憲法9条の会会員、国際基督教大学講師)、小関眞(弁護士)、OTO、小野洋、小野弘忠、海渡雄一(弁護士)、鹿島さゆり、片岡平和、加藤協子、加藤千代、鹿沼博史、金子なおか、金子由美子、上遠岳彦(国際基督教大学教員)、榊山惇、河合良房(弁護士)、川上徹(同時代社)、川口雅子、川崎哲、川嶋京子、川西玲子、神田香織、北西允(広島大学名誉教授、政治学)、木下達雄、木村英亮(横浜国立大学名誉教授)、金鳳珍(北九州市立大学外国語学部国際関係学科)、久保田穣(大学教員)、鞍田東、黒澤計男(弁護士)、黒澤利時、小池拓也(弁護士)、神野志隆光(東京大学大学院教授)、郡山総一郎、古今亭菊千代、児島一裕、古長谷稔、小中陽太郎(作家、日本ペンクラブ)、小貫大輔(東海大学教養学部国際学科助教授(2006年4月より))、小林善樹、小林保毅、近藤ゆり子(「9条の会・おおがき」世話人の一人)、齋田求(弁護士)、齋藤純一(早稲田大学教授)、斉藤日出治(大阪産業大学)、佐伯昭夫、坂井興一(弁護士)、坂元洋太郎(弁護士)、崎山比早子、笹本潤(弁護士)、貞兼綾子、さとうしゅういち(広島瀬戸内新聞経済部長)、座波次信、塩田直司(弁護士)、シキタ純、篠原常一郎、篠原敏武、柴垣和夫(東京大学・武蔵大学名誉教授)、島村輝(大学教員)、しみずさつき、清水正博、下山房雄(九州大学名誉教授)、末次圭介、杉田明宏(大東文化大学教員)、杉山百合子、菅野昭夫(弁護士)、鈴木かずえ、鈴木和子、鈴木規夫(愛知大学教授)、鈴木秀幸(弁護士)、鈴木怜子、瀬川文子、攝津正、芹沢寿良(高知短期大学名誉教授)、平志朗、タカシ/agian blue、高橋君江、高橋秀典、高橋祐吉(専修大学教員)、高細玄一、瀧口道生、瀧波雅彦、竹内久顕(東京女子大学教員)、竹林伸幸、田崎透、伊達純、田中優、田中良明(大学教員)、田辺伸、塚本奈緒、辻信一、対馬労(東京平和委員会理事)、寺尾光身(元理系教員)、寺山秀行、田悟恒雄)、田一、土井桂子(「第九条の会ヒロシマ」世話人、ヌチドゥタカラ、藤堂正基、東本高志、徳田均、戸塚秀夫、栃本和雄、渡植貞一郎、富山洋子、友田良子、友光健七(弁護士)、戸谷茂樹(弁護士)、豊川慎(東京基督教大学教員)、中川一郎、中里英章、中嶌哲演、永瀬友貴、仲宗根香子、中野芳彦、中原照代、仲松正人(弁護士)、中村俊、中森俊久(弁護士)、南雲和夫(法政大学社会学部兼任講師)、奈良勝行、成澤宗男(「週刊金曜日」編集員)、成見暁子(弁護士)、新倉修(青山学院大学教授)、西川房之介、西口徹、西嶋佳弘、西田照見(立正大学名誉教授、社会思想史)、西脇尚人、沼尻明子、根本博愛(四国学院大学教授)、野上恭道(弁護士)、野崎敬子、野田隆三郎(岡山大学名誉教授)、野間美喜子(弁護士)、野村修身、萩倉良、長谷川順一(新宿平和委員会会長)、ハベレイコ、早川弥生、林博史(関東学院大学教授)、原和美、原義弘、春田紀子、伴英幸、日隅一雄(弁護士)、秀村冠一(京都女子大学教員)、平子友長(一橋大学教授)、平山正和(弁護士)、ビル・トッテン((株)アシスト代表取締役)、福島理可、福山和人(弁護士)、藤井治夫(軍事評論家)、藤井未佳、二瓶敏(専修大学名誉教授)、二見孝一、堀尾輝久(東京大学名誉教授)、前田朗(東京造形大学教授)、前田惠子、正木高志、益岡賢、桝田伸次、松浦望、松枝佳宏、松岡康毅(弁護士)、松澤敏彦、松田健、松田敏、松田直美、松田博(立命館大学教員)、松宮光興、松宮玲子、松本篤周(弁護士)、松本英揮、間彦博之、三浦聡雄、三上昭彦(明治大学教授)、水谷敏彦(弁護士)、水鳥方義、宮内康浩(弁護士)、宮崎さゆり、宮本修一、milky@金沢、向井雪子、宗邦洋、毛利亮子、森史朗、森瀧春子、森田ゆり、森貘郎、諸橋泰樹(フェリス女学院大学文学部)、門永三枝子、八重樫好、安田節子、保田行雄(弁護士)、柳田真、山川亜希子、山口定(大阪市立大学名誉教授・立命館大学名誉教授、政治学)、山崎耕一郎、やまだちえ、山田安太郎(弁護士)、山本茂、山本武明、山本満登香(大学教員)、湯川れい子(音楽評論家・作詞家)、吉田敦彦(大阪府立大学)、吉田淳一、吉水公一、米倉勉(弁護士)、若松英成(弁護士)、渡辺葉子」。」(()書きを全部又は一部省略した場合がある)。
 大学所属者と弁護士はすべて()を残したが、これらの職種の他、反戦・反核・環境問題等のNPO関係者も僧侶・牧師等の宗教関係者も目につく(天木直人という不思議な人もいる。知っている名は太字にしたが他にも著名人はいるかもしれない)。そして、佐高信、「なだいなだ」、小中陽太郎のように非共産党系「左翼」人ではないかと見られるが人がいるのは確かだ。だが、確証はないものの共産党系学者・知識人と思われる人もおり、「九条の会」関係者でこちらの呼びかけ人・賛同者になっている者もいる。例えば、奥平康弘は九条を考える会呼びかけ人9人の1人だ。
 従って、少なくともこのリスト作成時点では日本共産党員又は同党支持者も含まれていると推察される(そして、最初に紹介されるような同党の方針が明らかになると、こちらを「脱退」した人もいるだろう)。田口富久治は著名な政治学者でかつて一時期は党員だったと推察されるが、現在は、親共産党、非共産党、反共産党、いずれの立場なのかはよく判らない(最近の彼の文章を読むと解るかもしれない)。
 いずれにせよ、頭書の情報ソースによるかぎりは、こうした非共産党系の人々を含む「憲法改悪阻止」団体との<共闘>を日本共産党は拒んだわけだ。川上徹とは、1970年代に「新日和見主義者」とされ「査問」を受け現在は離党している人だと思うが、そのような元党員たちをこの団体はかなり含むのかもしれない。そして、政治的に真っ白で「無垢」な、将来に日本共産党に接近して党員になる可能性がある者たちよりも、マルクス主義や共産党のことをある程度詳細に知っているが共産党を離れた者をはるかに「敬遠し」、「毛嫌い」するのが、日本共産党という組織だ。そのような者が過半数を占めておらず、かりに数%であっても、日本共産党は「共闘」を拒むと思われる。そのような例はこれまでも、事情は同一ではないが、反核運動等々の「大衆」運動についてよく見られた。
 いったん日本共産党に接近しながら(とりわけ入党しながら)離れた者を同党は絶対に許さない(と想像している)。かかる体質・神経はいったいどこから来るのだろう。よくわからないが、組織の「純粋性」を維持したいのか、それとも(同じことだが)同党の「内部」をある程度知って「秘密」を覗いてしまったがのちに離れた者とは、「汚らわしく」感じて、もう関係をもちたくないのか。いくつかの氏名を見ながら、不思議で、傲慢な政党だと、つくづく考える。

0054/「きっこの日記」のきっこ氏?は、石原慎太郎氏に詫びなさい。

 東京都知事に石原氏再選、とりあえずは慶賀すべきだ。
 途中で諦念の想いだったかもしれないが、上野千鶴子や佐高信の顔が見たい。上野氏は、早く東京都民でなくなった方がよろしいだろう。
 選挙の勝敗は厳密には正と邪、正しい・誤りの区別ではない。多数と少数の区別にすぎない。この点は喜んでいる側も自認しておいてよいだろう。
 ところで、週刊新潮4/12号によると、「さるさる日記」という日記サイトの中の「きっこの日記」は、石原氏について、「東京の恥であり、ニポンの恥であり、地球の恥であり、人類すべての恥である大ウツケ者の石原慎太郎が…」と書いていたようだ。
 本日の現時点の「きっこの日記」は、「東京都知事選の結果について、ものすごい勢いでメールが届いているので、ある程度したら何通か紹介しようと思うのですが、残念なことに、フリーメールアドレスやケータイのアドレスのもの、それから、デタラメなメールアドレスのものなどが多いようで、それらはすべて選別ソフトによってゴミ箱に直行しています。」、「「きっこの音楽日記」を更新しました!/イライラしてる人は、ぜひご覧ください。/きっとスッキリしますよん♪」ということしか書いていない。
 半分近くの人が石原氏以外の人に投票したのだが、その人々のすべてが、石原慎太郎氏を「東京の恥であり、ニポンの恥であり、地球の恥であり、人類すべての恥である大ウツケ者」とまで罵倒する気持ちまでは持っていなかっただろう。
 「きっこ」?氏の心性は恐らく上野千鶴子や佐高信(、筑紫哲也、吉田康彦ら)と同質で、5~20%の「少数」派に属すると思われる。この人は決して「ふつうの」市民あるいは庶民ではない。毎日6-7万人というアクセスは自然発生的なものとは思われず、何らかの「組織」的動きを推定させるものだ。
 こうした、「ふつう」の市民・庶民を装った者のサイトに対する警戒も怠ってはならない、と思う。
 追記-朝日新聞は東京都知事選で石原氏の再選阻止・その他地方選で自民党退潮と民主党躍進→参院選で自民党敗北→安倍首相退陣というシナリオを描き、東京都知事選については、具体的に「菅直人」の名前を特定してまで、さあ立候補して石原と闘え、と煽っていた。報道機関ではなく「政治運動団体」の一つであることを自ら証明していたが、そうした朝日新聞の「深謀」が最初で明確に挫折したことは、「きっこ」?氏の現在の心境がどうかよりも、はるかに重要で、まことに慶賀の至りだ。

0012/石原慎太郎候補の圧勝を願う。

 東京都民ではないが、石原氏が再選してもらわないと困る。
 年齢を考えると、適当な別の候補を育てていれば、と感じなくもないが、今となってはそんなこと言っておれない。それに、健康面での問題はなさそうだ。
 浅野史郎には、思想も哲学もない。あるのは、情報公開制度の利用のさせ方も含む「行政技術」だけだ。
 それに何より、上野千鶴子、吉田康彦ら、有象無象の反体制派・所謂「左翼」が日本共産党の吉田某よりは当選可能性があるというだけで支持、応援している候補を都知事にしていいわけがない。
 確認はしていないが、佐高信・筑紫哲也・石坂啓ら週刊金曜日関係者・同読者は(都民であれば)浅野に投票するだろう。
 上野千鶴子、佐高信、筑紫哲也、石坂啓らが喜ぶ顔を想像するとぞっとする。
 千葉県知事・堂本暁子が浅野候補を応援したいというのは、同知事・堂本暁子がれっきとしたフェミニストなのだから当然だろう。
 東京都の有権者の方々は、都庁をフェミニズム、アナーキズム、残存マルクス主義、似非「市民主義」、親北朝鮮等々の牙城にしないように、断固として賢明な結果を示していただきたい。

0010/佐高信が何故読売新聞紙上で城山三郎氏の追悼文を書くのか?

 城山三郎が79歳で逝去(1927-2007)。広田弘毅に関するもの等二、三の小説を読んだことがあり、悪い印象はない。だが、読売の朝刊は、なぜ佐高信などにけっこうな字数を使った追悼文を書かせたのか、奇妙だ。佐高信といえば週刊金曜日の代表編集人で、昨秋11/19には皇室をパロディーにした集会も主催した。最近の同誌は警察による朝鮮総連関係団体への捜索を「朝鮮戦争前夜」を思わせる「異常さ」と書き(同誌取材班名義)、朝鮮総連の「弾圧糾弾」との主張と歩調を合わせていた。
 読売がなぜこんな人物を使うのかが解らない。読売はときどき奇妙な記事を載せ、主張をすることがある。
 佐高信は最後の方で、城山は叙勲を固辞した、「その意味するものをくみとってほしいと願う」と書いて佐高自身の「左翼」ぶりを存在証明している。城山氏のその態度が何を意味するのか私はよくわからないが、反天皇、反権力、反国家を意味するのだとすれば、そのような作家を読売は大きくとり上げて死亡・追悼の記事を載せるべきではなかろう。それに城山の小説に関する私の記憶では、反天皇、反権力、反国家の姿勢は感じられなかった。
 佐高の文の中で注目してよいのは、広田弘毅、石田礼助、井上準之助という城山の小説のモデルとなった人たちを「あるいは少数派かもしれないが、誇るべき日本の財産である」と明記していることだ。この中の広田弘毅は言うまでもなく所謂東京裁判の所謂A級戦犯として、たしか軍人以外では唯一人、死刑(絞首刑)になった人だ。佐高信がこれまで及び今後、広田弘毅を含めた所謂A級戦犯を批判し、貶めるような文章を書いていないか(書かないか)、監視しておく必要がある。
 内館牧子・女はなぜ土俵にあがれないのか(幻冬舎新書、2006)の最初57頁と最後の33頁を読了。主張はごく自然で納得できるし、最後に示してある改革案にも賛成だ。それにしても、第一に、この大相撲の土俵に関する「女性差別」問題らしきものも、議論を煽り、「女性」を応援したのは、この本で読むかぎりは、やはり?朝日新聞であることが分かる。朝日は混乱・錯乱を好み、表向きは「差別」反対なのだ。第二に、大阪府の太田房江という女性知事は大した人物ではないことも分かる。戦後教育の優等生、東京大学卒、元上級通産官僚では、日本の歴史・伝統・「国技」に関する特別の知識も教養も身につけていないのだろう。法律にもとづく男女共同参画行政もしている筈で、よく分からないが、フェミニズムに抵抗感がない可能性もある。これらは東京都知事候補・浅野史郎と同じだ…。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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