秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

佐々淳行

1222/錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、「護憲」を主張する。

 10/04に、適菜収が月刊正論2013年8月号で、「反日活動家であることは明白」な橋下徹を「支持する『保守』というのが巷には存在するらしい」のは「不思議なこと」とだと書いていることを紹介し、「適菜収によれば、石原慎太郎、佐々淳行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らは、かつ場合によっては安倍晋三も、『不思議』な『保守』らしい。そのように感じること自体が、自らが歪んでいることの証左だとは自覚できないのだろう、気の毒に」とコメントした。「保守」とされているのが「不思議」だ(「語義矛盾ではないか」)という言い方は、橋下徹を支持する人物の「保守」性を疑っている、ということでもあるだろう。

 それから一週間後の10/11に、明確に安倍晋三の「保守」性を疑問視する適菜収の文章を読んでしまった。週刊文春10/17号p.45だ。適菜収は「連載22/今週のバカ」として何と安倍晋三を取り上げ、「安倍晋三は本当に保守なのか?」をタイトルにしている。その他にも、驚くべきというか、大嗤いするというというか、そのような奇怪な主張を適菜は行っている。

 ①まず、簡略して紹介するが、橋下徹と付き合う安倍晋三を以下のように批判する。

 ・付き合っている相手によって「その人間の正体」が明らかになりうる。橋下徹の「封じ込めを図るのが保守の役割のはず」、日本の文化伝統破壊者に対して「立ち上がるのが保守」であるにもかかわらず、「こうした連中とベタベタの関係を築いてきたのが安倍晋三ではないか」。
 ②また、安倍晋三個人を次のように批判する。

 ・組んでよい相手を判断できない人間は「バカ」。「問題は見識の欠片もないボンボンがわが国の総理大臣になってしまったこと」だ。

 ③ついで、安倍内閣自体をつぎのように批判する。

 ・「耳あたりのいい言葉を並べて『保守層』を騙しながら、時代錯誤の新自由主義を爆走中」。
 ④さらには、次のように自民+維新による憲法改正に反対し、「護憲」を主張する。
 ・「維新の会と組んで改憲するくらいなら未来永劫改憲なんかしなくてよい。真っ当な日本人、まともな保守なら、わけのわからない野合に対しては護憲に回るべきです」。

 ビ-トたけしあたりの「毒舌」または一種の「諧謔」ならはまだよいのだが、適菜収はどうやら上記のことを「本気」で書いている。

 出発点に橋下徹との関係がくるのが適菜の奇怪なところだ。与えられた原稿スペ-スの中にほとんどと言ってよいほど橋下徹批判の部分を加えるのが適菜の文章の特徴だが、この週刊文春の原稿も例外ではない。よく分からないが、適菜は橋下徹に対する「私怨」でも持っているのだろうか。何となく、気持ちが悪い。

 それよりも、第一に、安倍晋三を明確に「バカ」呼ばわりし、第二に、安倍晋三の「保守」性を明確に疑問視し、第三者に、「野合」による憲法改正に反対し、「護憲に回るべき」と説いているのが、適菜収とはほとんど錯乱状態にある人間であることを示しているだろう。

 少し冷静に思考すれば、憲法改正の内容・方向にいっさい触れることなく、「維新の会と組んで改憲するくらいなら」と憲法改正に反対し、「野合」に対して「護憲に回るべき」と主張することが、憲法改正に関するまともな議論でないことはすぐ分かる。

 適菜収は論点に即して適切な文章を書ける論理力・理性を持っているのか?

 適菜といえば「B層」うんぬんだが、そのいうA~D層への四象限への分類も、思想・考え方または人間の、ありうる分類の一つにすぎない。容共・反共、親米・反米(反中・親米)、国家肥大化肯定的・否定的(大きな国家か小さな国家か)、自由か平等か、変革愛好か現状維持的か、等々、四象限への分類はタテ軸・ヨコ軸に何を取り上げるかによってさまざまに語りうる。適菜のそれの特徴は「IQが高い・低い」を重要な要素に高めていることだが、少なくとも、ある程度でも普遍的な分類方法を示しているわけではない。
 さらにまた、適菜のいうA~D層への四象限への分類は、適菜自身が考えたのではないことを適菜自身が語っている。適菜はある程度でも普遍的だとはまったくいえない「B層」・「C層」論等を、「借り物の」基準を前提にして論じているのだ。
 そしてどうやら適菜は自らは規制改革に反対(反竹中平蔵・反堺屋太一)で「IQが高い」という「C層」に属すると考えているようなのだが、この週刊文春の文章を読むと、「D層」ではないかと思えてくる。

 また、自民党・維新の会による憲法改正に反対し、「護憲」を主張しているという点では辻元清美、山口二郎等々々の「左翼」と何ら変わらない(中島岳志とも同じ)、安倍晋三を「バカ」と明言するに至っては、かつて第一次内閣時代の安倍について「キ〇〇〇に刃物」とも称していた、程度の低い「左翼」(またはエセ保守)文筆家(山崎行太郎だったか天木直人だったか)とも類似するところがある。

 この適菜が「橋下徹は保守ではない!」という論考で月刊正論(産経)の表紙をよくぞ飾れたものだ。

 もう一度10/04のこの欄のタイトルを繰り返しておこうか。

 <月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。> 

1218/月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。

 〇何度も書いたことだが、月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡は同2012年5月号の末尾の編集長欄とでもいえる「操舵室から」一頁の中で、「編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う」、「橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ…特集を読み判断していただきたい」、とほとんど理由・論拠を示すこともなく明言した。
 以下はたぶんまだ触れていないと思うので、記録に残しておきたい。

 月刊正論の翌月号、つまり2012年6月号の「編集者へ/編集者から」の欄で内津幹人という人が、前号の「操舵室から」について、「民意」という語が8回、百文字に一回以上出てきた、「こういう書き方もあるのか、と学んだ」と皮肉っぽく記したのち、次のように感想を記した。
 「編集長個人の見解だが--これほど自信を感じさせる書き方はない。”個人”以外何百万人が異議を唱えても、俺は勝つ。/特集を読み判断していただきたい--と結ぶ。/編集長はいいなあ、と思う。よく、
男は一度は野球の監督をやりたい、というが、編集長と較べたら子どもの遊びだ」。

 どう読んでも、この文章は前号の桑原聡編集長の文章に対する<皮肉>であり、かつ隠してはいるがかなり批判的な感想の文章だ。

 これに対して、同号の「編集者から」は、上に引用した部分に言及せず、投書者(内津幹人)の後半の叙述の一部を採用して「新聞が橋下氏を取り上げなければ『大阪のバカ騒ぎは収まる』というご指摘はその通りですね。無視こそが最強の意思表示であることは分かりますが、それではメディアの責任は果たせないと思います。悩ましいところです」と書いている。これが全文で、上に引用した「編集長個人の見解だが」、「編集長はいいなあ、と思う」等を含む文章への反応は全くない。

 編集者は「編集者から」応えやすい部分のみを扱ったようで、<皮肉>まじりの部分には反応を避けているのだ。
 それとも批判的感想を含む「皮肉」であるということが、まったく理解できていないのだろうか。そうだとすれば、月刊正論編集者は日本語文章の意味・含意を理解できない、きわめて低能力の「編集者」だろう。

 〇上記の月刊正論2012年5月号は適菜収「理念なきB層政治家…橋下徹は保守ではない」を大阪維新の会特集の最初に置き、かつ雑誌表紙に最も大きい文字でそのタイトルを表示していたのだが、相変わらず、月刊正論は適菜収を重用しているようだ。
 月刊正論2013年8月号では「正論壁新聞」執筆者4人の1人として登場し(最近の他号でもそうかもしれない)、内容のきわめて空虚な文章で1頁余りを埋めたあとで、橋下徹慰安婦発言に言及したあと、次のように断じる。
 「橋下の……を見れば、反日活動家であることは明白である。/不思議なことに、こうした人間を支持する『保守』というのが巷には存在するらしい。これも…語義矛盾ではないか」(p.47)。

 月刊正論という産経新聞社発行の「保守系」雑誌の冒頭近くに適菜収が出てくること自体が奇妙なのだが、上の文章も不思議だ。
 橋下徹に批判的な佐伯啓思らもいるが、橋下徹を支持しているまたは彼に好意的であることを明らかにしている人物に、佐々敦行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らがいる。また、産経新聞社から個人全集を発行しかつ同新聞紙上に連載欄も持っている石原慎太郎は同じ政党の共同代表だ。

 なお、①中島岳志は憲法改正に反対し、週刊金曜日の編集者の一人でもあるという「左翼」または「かくれ左翼」なので、中島が橋下を「保守ではない」と批判したところで、何の意味もない。

 ②安倍晋三は首相になる前も後も橋下徹と個人的に会話等をしているようだ。政治家どうしだから単純に支持か反対かを分けられないが、安倍晋三は橋下徹を「敵」と見ていないことは間違いないだろう。
 さて、適菜収によれば、石原慎太郎、佐々敦行、加地伸行、西尾幹二、津川雅彦らは、かつ場合によっては安倍晋三も、「不思議」な「保守」らしい。そのように感じること自体が、自らが歪んでいることの証左だとは自覚できないのだろう、気の毒に。

 適菜は、月刊正論誌上でこれから毎号、上記のような人物を批判して「改心」させる文章を書き続けたらどうか。
 〇元に戻ることになるが、上記の月刊正論2012年6月号の「編集者へ」の投稿者(内津幹人)は次のようにも書いていた。

 「執筆者たちは、どんなに偉そうに書くときも、チラッと操舵室が浮かぶだろう。そりゃそうだ。原稿料は生活の糧だ。ボクはどの人を読んでも、操舵室が浮かんだ文字をみつけるのが好きだ。編集長がいなければ、こう書きたいのだろうな、と」。

 この投稿者はかなりの書き手であると見える。この文章は、編集者(・編集長)の顔色をうかがいながら、「生活の糧」である「原稿料」を稼ぐために、編集者(・編集長)の意向に添った文章を書かざるをえない雑誌原稿執筆者の性(さが)または苦労を指摘している。

 適菜収は、週刊新潮上では「保守系」論壇雑誌を批判している文章を書いていることはこの欄でたぶん先月に触れた。適菜は、月刊正論に書かせてもらうときは、編集長・桑原聡の顔色(・意向)をうかがいながら原稿を執筆しているに違いない。
 適菜収は「哲学者」という肩書きしかない。大学や研究所等からの給与はなさそうだ。日本の大学は信頼できないが、まともな研究論文が書けて、ある程度の研究業績があれば、日本の大学の教員の職を見つけることは決して困難ではないだろう。おそらく適菜にはそのような研究業績がなく、当然に博士号すら持っていないのだろうと思われる。

 日本の大学も博士号も決して信頼できるものではなく、アカデミズムの世界以外で大学研究者以上の仕事をした人もあるだろうが(小室直樹ら)、適菜収にはそれだけの実力がないことは、二頁を埋めるだけの内容と密度のある文章が書けていないことでも分かる。

 どのような背景・経歴の人物かよく知らないが、あまり大言壮語は吐かない方がよい。もちろん、そのような人物を重用する月刊正論編集部もおかしい。とても40周年とやらを祝う気になれないし、最新号を購入する気もないのである。

1159/佐伯啓思の産経12/16の文章の低レベル。

 産経新聞12/16の月一回連載「日の蔭りの中で」欄の「民主主義への誤解」と題する佐伯啓思の文章は、総選挙の投票当日にこの程度のことしか書けないのか、と幻滅させるものだ。
 1 公正中立性がある程度は新聞にも要求されるのかもしれないが、この欄のようなエッセイ的部分では、新聞社説よりも、堂々と特定の党派的主張をすることもできたのではないか。
 佐伯啓思は、そのような特定の政党を支持する、または反対するという強い関心を持たない人物なのかもしれない。但し、この文章でも、維新の会・橋下徹の使った「ふわったとした民意」という語に対する皮肉は(やはり)見られるが。
 佐伯啓思においては、近年の政治状況の最大の問題は、「『政治改革』が世論の中心を占めるようにな」ったことにあると理解されているかのごとくだ。
 これはある程度は正しいのかもしれない。だが、第一の、最大の問題は2009年以降の民主党政権の発足・継続にあったのであり、この民主党政権に対する明示的な批判の言葉を一言も吐いていないことは、佐伯啓思の政治的感覚・政治的姿勢を相当に疑わせる。
 佐伯の書きぶりは、12/19の同新聞「正論」欄で佐々淳行が、「鳩山政権は、かつての左翼活動分子、日教組、旧社会党の残党、反国家的市民運動家の権力簒奪による左翼政権だった」と、私が当時に感じたのと同様のことをずばり指摘しているのと、まるで異なっている。
 2 より具体的な、内容についての疑問もある。
 第一。佐伯啓思は「民主主義の捉え方によっては」と条件をつけているが、「議会主義」と「民主主義」とは異なる、ということを強調したいようだ。しかし、佐伯は「われわれが通常考える民主主義とは、主権者が直接に政治に関わることをよしとする。つまり、できるだけ、個別の政策ごとに主権者の意思が反映されるべきだという。たえず『民意』」が反映されるべきなのだ」と、「民主主義」を理解して論述しており、この前提自体の妥当性が問われなければならない。
 佐伯の上にいう「民主主義」は「直接民主主義」のことで、「議会主義」を「間接民主主義」の一形態だと理解することもできる。そうだとすると、「民主主義」と「議会主義」は決して対立するものではない。
 「民主主義」を上のごとく「直接民主主義」と理解する、あるいは「直接民主主義」の方が「間接民主主義」よりも優れた民主主義だと理解する傾向にあるのは、<左翼>論者・学者だ。
 ついでながら、議会主義といっても、各議員が被代表者の意思に強く拘束される「命令的(拘束的)委任」と、選出された議員は選挙区有権者の意向とは別に自由に活動できる「自由委任」とが区別されることもある。現在の日本では後者が採用されている(日本国憲法は国会議員は「全国民を代表」する旨の規定をもつ)とされているのだが、前者の方がより民主主義的との主張がありうるとしても、後者が「民主主義」の要素を含まない、民主主義と矛盾するものだとは憲法学上も(「保守」派憲法学者においても)考えられていないはずだ。
 こんな区別に佐伯啓思は関心がないのかもしれない。ともあれ、佐伯啓思にしてはかなり杜撰な見解が提示されているのではなかろうか。
 第二。佐伯啓思は、「今回の選挙によって、そろそろ安定した議会政治を取り戻せるか否かは、われわれの『人物を見る眼力』にかかっている」、という文章でこの欄を締めくくっている。
 この程度しか書けないのかとは先にも述べたことに含まれるが、この内容自体にも、少なからず疑問がある。
 抽象的な「安定した議会政治を取り戻せるか否か」などよりも、民主党政治の三年余の評価(民主党政権を継続させるか否か)
の方がより重要な具体的争点だっただろう。
 この点は別としても、有権者国民の「人物を見る眼力」が試されている旨の指摘は、いったい何が言いたいのだろう。
 政党・政策ではなく「人物」をよく吟味せよという趣旨であるとすれば、少しは同意するが、しかし、その「人物」の所属政党とその政策を抜きにして、「人物を見る」ことはできないのではないか。
 ここでも佐伯は、具体的政党の評価や具体的政策論に立ち入ることを避けているようだ。あるいは、そもそもそれらに立ち入ることに対する関心が相当に薄い人物なのかもしれない。
 以上、これまでに読んだ佐伯啓思の文章の中では、最低の部類に属する。

1151/自主憲法制定と維新の会・橋下徹、橋下徹をヒトラ-扱いした新保祐司。

 一 日本維新の会は11/29発表の衆院選公約「骨太2013-2016」で「自主憲法の制定」を明記したようだ。
 おそらくは現憲法の改正というかたちをとると思われる「自主憲法の制定」をし、「…軍その他の戦力」を保持しないと明記する現9条2項を削除して正式に「国防軍」または「自衛軍」(前者の方がよいだろうといつぞや書いた)を保持するようにしてこそ、中国・同共産党とより強く対決できるし、アメリカに対する自主性も高めることができる、と考えられる。「自主憲法の制定」は、<戦後レジ-ムからの脱却>の重要な、かつ不可欠の徴表であるに違いない。
 今から10年以内に、ということは2022年末までに、現9条改正を含む「自主憲法の制定」ができないようでは、「日本」はずるずると低迷し、やがて<消滅>してしまう、という懸念をもつ。
 来月の総選挙を除いて3~4回の総選挙があるだろう。2013、2016、2019、2022年には参議院選挙がある。最も遅くて、2022年には改正の発議と国民投票が行われなければならない。
 先立って改正の発議条件を2/3以上から過半数に改正しようとの主張も有力にあるようだが、それをするにしても、国会各議院の議員の2/3以上の賛成が必要だ。
 問題は、したがって、どのようにして憲法改正賛成2/3以上の勢力を国会内に作るか、にある。
 かりに自民党が第一党になり維新の会がかなりの議席を獲得したとしても、来月の総選挙の結果として憲法改正派2/3以上の勢力が衆議院の中にできるとは想定しがたい(この予測が外れれば結構なことだ)。
 従って、何回かの総選挙、参議院選挙を通じて、徐々に各院で2/3以上になるように粘り強く闘っていくしかない。
 改憲案をもつ自民党以外に(必ずしも改憲内容は明確でないが)「自主憲法制定」を目指すとする日本維新の会が誕生していることは貴重なことだ。これに加えて、現在の新党改革やみんなの党の他、現民主党内の松原仁のような「保守」派をも結集して、何とかして2/3以上の勢力確保を達成しなければならない。
 二 かかる時代状況の中で、日本維新の会の要職(代表代行)を占める橋下徹を「きわめて危険な政治家」などと評していたのでは(月刊正論編集長・桑原聡)話にならない。
 ましてや、純然たる「左翼」ならばともかく、橋下徹を「ファシスト」と呼んで攻撃している(自称)保守派がいるのだから、「自主憲法制定」への径は険しいと感じざるを得ないし、そのような感覚を誤った保守派らしき者は、改憲への闘いを混乱させるだけだろう。
 新保祐司は産経新聞「正論」欄に登場するなど<保守派>らしいが、産経新聞社発行・桑原聡編集長の月刊正論の2012年6月号の遠藤浩一との対談の中で、橋下徹の言動を眺めて小林秀雄「ヒットラアと悪魔」を思い出した、「やはりヒトラ-の登場時とよく似ている」、ヒトラ-と同様に「高を括れるような人物じゃない」、「橋下ブ-ムは、構造改革のどん詰まりに咲いた徒花」かもしれない、等と語っている(p.139-140、p.143)。
 欧州ではヒトラ-呼ばわり、ファシストとの形容は最大限の悪罵の言葉で、通常は用いないのが良識的な人間らしいが、新保祐司は、実質的に、橋下徹を「ヒトラ-」呼ばわりしている(なお、最初に読売の渡邊恒雄が橋下徹を「ファシスト」と呼び、遠慮していた者たちも安心してその語を使うようになったとか何かで読んだが、確認できない)。
 それはともかく、そのような新保祐司を、あるいはかつてこの欄で批判的に記したように<旧かなづかひ>を使った憲法改正でないと真の憲法改正とは言えない旨を「正論」欄で述べていた新保祐司の諸写真を、月刊正論の2012年9月号の「私の写真館」でとりあげ、まるでまともな保守派知識人のごとく扱っている月刊正論の編集方針もまた、きわめて奇怪なもので、ある意味では「奇観」ですらある。
 現実に「自主憲法の制定」が叶わなくとも、マスコミ人として、文筆業者として、あるいは国会議員としてすら、それなりに、そこそこに現状が保たれればよい、ささやかな「既得権」が守られればよい、と思っている保守派の者たちもいるのだろう。
 大切なのは言葉や観念ではない。綺麗事の世界ではない。現実に国会内に改憲勢力を作り出していくことだ。それこそ<小異を捨てて大同につく>姿勢で、真に<戦後体制の終焉>を意欲する者たちは結集する必要がある。
 三 なお、面白くもない話題だから書かないできているが、上の対談を読んで、遠藤浩一という大学教授はひどいものだと感じ、それまでのこの人の論調へのかなりの共感も、すっかり消え失せた。遠藤自身はよく憶えているだろう。同時期の別の雑誌上では橋下徹による憲法改正の可能性をいくつかの条件をつけつつ肯定的に叙述しながら(この点はこの欄で記したことがある)、上の対談では橋下徹の登場等による政治状況を「厄介な事態だなぁ」と感じるのが「正直」なところだ(p.136)などと述べつつ、新保祐司に同調する多々の発言をしている。編集者からの依頼内容によって、どのようにでも(ほぼ真反対の内容でも)書き、語るというのが、この拓殖大学教授のしていることなのだ。
 四 というわけで、自主憲法制定への道は紆余曲折せざるをえないと思われる。しかし、日本維新の会代表・石原のほか、佐々淳行など、保守派の中ではどちらかというと政治・行政実務の経験者の中に橋下徹支持者または期待者が多いのは興味深いし、心強いことだ。安倍晋三もこれに含めてよいかもしれない。
 政治・行政の経験者である岡崎久彦も、産経新聞11/28の「『戦後レジーム脱却』に、再び」と題する「正論」欄の中で、「教育基本法の、教育の現場における徹底は安倍内閣の課題であるが、これについては、今や日本維新の会が大阪における実績によって頼もしい友党となっている。これには期待できよう」と述べて、教育行政分野に限ってにせよ、大阪維新の会・橋下徹に好意的な評価を寄せている。
 中島岳志、適菜収らの保守とも「左翼」ともつかない売文業者は勿論だが、桑原聡らの出版業界人や新保祐司らの自称保守論者もいる中で、まともな保守派論客もいることを将来への希望がまだあることを確認するためにも、記しておきたい。
 

1107/橋下徹は佐々淳行・「正論」にツイッターで答えていた。

 一 佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で橋下徹・「維新八策」に論及していることはすでに触れた。
 月刊ボイス5月号(PHP)の中に佐々淳行「日米安保条約改定を『八策』に加えよ」があることを知り、「正論」欄と似たようなことを書いているのかと思ったら、何と、上の佐々淳行「正論」に対して、同じ2/24に橋下徹はトゥイッターでコメントしたらしい。
 佐々淳行の文章によると、産経新聞2/24で「国政を担うには外交、安全保障分野への認識が著しく欠けている、と厳しい論調で批判したのだ。そのうえで、『天皇制の護持』や『憲法九条改正』などが必要だと指摘した。/すると同日午後一時過ぎに、橋下氏はツイッターで私に対するコメントを発表した」。
 1カ月以上前のことであり、また、橋下徹ツイッターのフォロヤーには無意味かもしれないが、以下、橋下徹の対佐々淳行コメントの全文をそのまま掲載(転載)しておく。
 二 「佐々さんのご意見も厳しいご意見ではあるが、役立たずの学者意見とは全く異なり、国家の安全を取り仕切ってこられた実務者の視点で迫力あるご意見です。」(posted at 13:09:54、以下省略)

 「佐々さんのご主張はまさに正論。内容自体に反論はありません。ただし、今の日本が動くようにするためにはどうすべきかの観点から、僕は次のように考えています。まだ維新の案として確定したものではありません。佐々さんの言われるように、日本は国家安全保障が弱い。これは全てに響いてきています。」
 「世界では自らの命を落としてでも難題に立ち向かわなければならない事態が多数ある。しかし、日本では、震災直後にあれだけ「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」「絆」と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています。」
 「この憲法9条について、国民的議論をして結着を付けない限り、国家安全保障についての政策議論をしても何も決まりません。国家の大きな方針が固まっていないのですから。しかし憲法9条議論や国家安全保障議論をしても結局憲法改正は非現実ということで何も動かない。学者議論に終始。」

 「だから僕は仕組みを考えます。決定でき、責任を負う民主主義の観点から。憲法96条の改正はしっかりとやり、憲法9条については国民投票を考えています。2年間の議論期間を設けて国民投票。この2年の間に徹底した国民議論をやる。」
 「これまでの議論は決定が前提となっていないから、役立たず学者議論で終わってしまう。その議論でかれこれ何十年経つのか。決定できる民主主義の議論は決定が前提の議論。そして期限も切る。2年の期間で、最後は国民投票。この仕組みを作って、そして国民的に議論をする。」

 「朝日新聞、毎日新聞、弁護士会や反維新の会の役立たず自称インテリは9条を守る大キャンペーンを張れば良い。産経新聞、読売新聞は9条改正大キャンペーンを張れば良い。2年後の国民投票に向かって。そして国民投票で結果が出れば、国民はその方向で進む。」

 「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。9条問題はいくら議論しても国民全員で一致はあり得ない。だから国民投票で国のあり方を国民が決める。そのために2年間は徹底して議論をし尽くす。意見のある者は徹底して政治活動をする。」
 「その上で国民投票の結果が出たら、国民はそれに従う。そんな流れを僕は考えているのです。佐々さん、そう言うことで、今維新の八策にあえて安全保障については入れていません。憲法9条についての国民の意思が固まっていない以上、ここで安全保障政策について論じても画餅に帰するかなと。」

 「憲法9条について国民意思が確定していない日本において、それを確定するというのが僕の考えです。あくまでもシステム論です。まずはその決定できる仕組みを作る。仕組みができれば、次に実体論に入る。実体論から先に入ると、その賛否によって決定できる仕組みすら作ることができません。」

 「まずは憲法9条について国民意思を固める仕組み作りが先決だと思います。佐々さん、またご意見下さい。」
 翌日の2/25にもある。

 「政治は学者や論説委員の議論と違う。決定しなければならない。実行しなければならない。自民党が憲法改正案を出すらしいが、本当にこのようなやり方で憲法問題が結着すると考えているのであろうか?憲法改正案を選挙の公約に掲げて、仮に自民党が勝ったとしても、選挙が全てでないと言われる。」(posted at 09:35:36、以下、省略)

 「自民党に投票したけど、憲法問題は違うと必ず言われる。政策等であれば、選挙結果に従って欲しいと言えるだろうが、憲法の本質的価値に触れるところまでそれを言えるだろうか?首相公選、参議院の廃止は、分かりやすいので選挙になじむ。しかし憲法9条はどうだろう?これは選挙になじまないと思う。」 
 「政治には自分の価値観を前面に出すことと、国民の価値を束ねることの2つの側面があると思う。これは領域、状況によって使い分けるものであり、その使い分けもまた政治と言える。自称インテリは後者ばかりを言う。それでは現実の課題は解決しない。議論ばかり。」

 「しかし憲法9条問題こそは、国民の価値を束ねて行くことが政治の役割だと思う。自らの価値を前面に出すのではなく、国民に潜在化している価値を顕在化していく作業。単なる議論で終わるのではなく一定の結論を出す。そういう意味では、憲法9条問題は選挙で決するのではなく、国民投票にかけるべきだ。」

 「選挙の争点には、憲法9条の中身・実体面・改正案を掲げるのではなく、憲法9条問題に結着を付けるプロセス、仕組み、手法、手続きを掲げるべきだと思う。この点は、今後維新の会で議論していきます。」

 「簡単に言えば、憲法9条は色々な政治公約の一つとして選挙で決めるのではなく、憲法9条だけを取り上げる国民投票で決めましょうということです。この問題はある種の白紙委任で政治家に委ねるわけにはいかないと思う。」 

 「一定期間を定めて国民的大議論。そして国民投票の結果には皆で従う。反対の結果が出た国民も国民投票の結果に従う。だからこそ自分の主義主張がある人は一定期間内に徹底して国民に訴えかける。その上で結果が出たなら潔くその結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。」

 「憲法9条については国民的大議論を巻き起こす裏方役が政治家の役割だ。政治家が憲法9条について自分の価値観を前面に出せば出すほど、憲法9条問題は決着しない。政治家は学者と違う。自分の考えを控えることが決定のための必要条件なら自分の考えを押し殺す。決定こそ政治だ。」

 「佐々さん、幕末の世は民主主義ではありませんでした。ですから坂本竜馬は船中八策で国家安全保障のことを一人で決しました。しかし、今の世は国民主権です。国家安全保障を決するのも国民です。憲法9条問題は、国民全員が坂本竜馬です。その裏方を引き受けるのが政治だと思います。」

 以上。
 三 ・内容は、憲法9条改正問題が中心になっている。この問題についての橋下徹の考えについて、私はこの欄で「世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように…推察している」と書いたことがある(4/11エントリー)が、少し異なるようだ。別の機会にコメントしたい。
 ・佐々淳行は、この橋下徹コメントを読んだうえで、「私は彼を『百年に一度の政治家』とみている。強い正義感と信念をもち、現代においてこれほど政策提言に命を懸ける人物はいないと思うからである」(ボイス5月号p.76)、「この戦闘機」=橋下氏の「敵・味方識別装置」は「有効に機能している」(p.82)等と、高く評価している。
 橋下徹は憲法9条改正に賛成と明言しているわけではなく、厳密には憲法9条改正問題について国民投票で決着をつけたいと考えている、と読めるが、この点も含めて、別にコメントする。
 ・しかしともあれ、一日平均11通(?)というツイッターで発信された橋下徹の文章を眺めていて、大阪市長という公職や維新の会代表を務めながら、よくもこれだけ書けるものだと本当に(それだけでも)、橋下徹に感心する。若い、まだ頭脳明晰、文章作成能力旺盛、むろん政策・行政に対する熱意十分、の証左だ。
 ・ボイス5月号の橋下徹特集(大阪府知事・松井一郎のものを除いて計4本、1つが佐々淳行のもの)のほか、中央公論5月号(中央公論新社)の橋下徹特集(計5本)も、すべて今日(4/16)読んだ。必要に応じて、別の機会に言及したい。
 四 PHP研究所と中央公論新社の上の二つと比べて、産経新聞社の月刊正論5月号の橋下徹特集の「貧弱さ」が目立つ
 上の二特集の計9本の論考(座談も含む)はいずれも面白く読める。観念的で現実感覚に欠けた論考がないからだ(中央公論5月号の北岡伸一論考には少し感じるが)。これらと比べて、月刊正論5月号の適菜収論考は「最低」・「最悪」だ、と言ってよい。すでに言及した、別の雑誌での中島岳志藤井聡の<反橋下>論考と優るとも劣らない「劣悪」さだ。
 中島岳志や藤井聡の論考は各雑誌のメインと位置づけられてはいなかったが、月刊正論5月号は適菜収論考のタイトルを表紙最右翼に大きく印字し、巻頭にもってくる、「売り」の論考と位置づけていたのだから、機能的には最もヒドく、「最悪」だ。
 あまつさえ、月刊正論の編集長自体が、自分自身は何ら詳論することもなく、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、「目的は日本そのものを解体することにある」と明記したのだから、始末に負えない。バランスを取るために山田宏の(インタビュー)記事を載せたのだろうが、橋下徹を「デマゴーグ」等と断じる適菜収論考をメインにする編集・広告方針のうえでのものであり、かつまた編集長個人が山田宏とは異なる見解を明示するとは、山田宏に対して非礼でもあろう。
 上記の月刊ボイスや中央公論には、編集長(個人)の特定の考え方などはどこにも書かれていない。産経新聞社の月刊正論が、最も異様なのだ。産経新聞社の人々は、恥ずかしい、あるいは情けないと思わないのだろうか。

1102/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言④。

 何度めになるのだろう、産経新聞4/06の「正論」欄で田久保忠衛が憲法改正の必要を語っている。そのことに反対はしないが、憲法改正(九条2項の削除、国防軍保持の明記を含む)の必要性をとっくに理解している者にとっては、そんな主張よりも、いかにして<改憲勢力>を国会内に作るかの戦略・戦術、そういう方向での運動の仕方等を語ってもらわないと、「心に響かない」。
 両議院の2/3以上の賛成がないと憲法改正を国民に発議できないのだから(現憲法上そのように定められているのだから)、いくら憲法改正の必要性を説いても、国会内での2/3多数派形成の展望を語ってもらわないと、厳しい言い方をすれば、ほとんど空論になるのではないか。
 現在のところ、憲法改正の具体的案文を持っているのは自民党で、さらに新しいものを検討中らしい。憲法改正にも現憲法第一章の削除を含む、かつての日本共産党の<日本人民共和国憲法案>のようなものもありうるが、自民党のそれは、九条改正・自衛軍設置明記等を含むもので、「左翼的」な改正ではない。
 自分が書いていながらすっかり忘れていたが、1年余り前に(も)、月刊正論編集長・桑原聡を、「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは」と題して、批判したことがあった。
 月刊正論の昨年2011年の4月号の末尾に、自民党を「賞味期限の過ぎたこの政党」と簡単に断じていたからだ。桑原聡は同時に、「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、<賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」とも明言していた。
 自民党については種々の意見があるだろうが、「はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか」、という観点から批判的にコメントしたのだった。背景には、編集長が替わってからの月刊正論は編集・テーマ設定等が少しヘンになった、と感じていたことがあったように思う。
 一年前のこの言葉の考え方を桑原聡がまったく捨てているとは思えないので、彼にとっては、自民党は基本的には、「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党のままなのだろう。
 しかし、産経新聞(社)は「国民の憲法」起草委員会まで設けたのだが、現在のところ、産経新聞社の見解に最も近い憲法改正を構想しているのは、自民党なのではないか。
 将来における<政界再編>によってどのようになるかは分からないが、憲法改正に向けての動きが進んでいくとすれば、現在自民党に所属している国会議員等が担い手になることは、ほとんど間違いはないものと思われる。
 しかるに、桑原聡のように、自民党を「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党と断じてしまってよいのか
 桑原聡はこのように自民党を貶し、かつまた橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」と明言する。この人物は、いったいどのような政党や政治家ならば(相対的にではあれ)肯定的・好意的に評価するのだろうか。ただの国民でも雑誌・新聞の記者でもない、<月刊正論>の編集長である桑原聡が、だ。
 読売新聞4/08安倍晋三が登場していて、橋下徹は憲法改正に向けての大きな発信力になるので期待しているといった旨を書いて(答えて?)いた(手元になく、ネット上で発見できないので厳密に正確ではない)。

 憲法改正の内容を橋下徹・大阪維新の会は具体的・明確にはまだ明らかにしていないが、国会議員連盟もあるらしい、憲法改正のための国会発議の要件を2/3超から1/2超に改正することには橋下徹は賛成している。憲法改正の必要性自体は、彼は十分に認識していると思われる。
 桑原聡は憲法改正には反対なのだろうか。大江健三郎、香山リカ、佐高信、立花隆らと同じく<護憲派>なのだろうか。
 そうではないとしたら、橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」となぜ簡単に断じてしまえるのか。不思議だ。<異常な>感覚の持ち主の人物だとしか思えない。
 なお、佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で、「橋下徹大阪市長に申す。国家安全保障問題、国家危機管理の問題こそが国民の龍馬ブームの源であり、物事を勇気を以て改めてくれる強い指導力を貴方に期待している国民の声なのだ。国政を担わないのなら、今の八策でもいいが、命をかけて、先送りされ続けた国家安全保障の諸問題を、貴方の『船中八策』に加え、国策の大変更を含めて平成の日本の国家像を示してほしい」、と書いている。
 この文章の途中で、「船中八策」には「一番肝心の安全保障・防衛・外交がそっくり抜け落ちて」いると批判もしている。
 このような佐々淳行の批判もよく理解できる(九条については、橋下徹は世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように私は推察している)。

 だが、佐々淳行は最終的には<期待>を込めた文章で結んでいるのであり(最末尾の文章は「…など橋下市長の勇気ある決断を祈っている」だ)、きわめて穏当だと感じられる。
 大人の、まっとうな<保守>派に少なくとも求められるのは、橋下徹に対する、このような感覚・姿勢ではないだろうか。
 逆を走っているのが、月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡だ。
 こんな人物が産経新聞発行の政治関係月刊誌の編集長であってよいのか。
 川瀬弘至という編集部員が、イザ!で月刊正論編集部の「公式ブログ」を書いているのに気づいた。この川瀬の文章の内容の奇妙さにも、今後は言及していくつもりだ。

1043/屋山太郎は「恥を知れ」と指弾されるべき。

 民主党「たらい回し」野田政権成立にかかわって書きたいことも多いが、とりあえず書きやすいテーマでごぶさたを埋めておこう。
 産経新聞9/02の「正論」欄で岡崎久彦は「官僚を使えなかった教訓学ぶ」という見出しを立てて、こう書いている。
 「官僚の使い方を知らなかったことに気付いたということも大きい。〔中略〕/日本人は誰も任務をサボろうなどとはしない。そんな時に上から、思い付きで、チョロチョロ小知恵を出すのが一番いけない。政治家の決断は必要であるが、決断の必要は、緊急事態ほど、応接に遑ないほど後から後から、下から上がって来る。その都度、果断な決断を下し、その責任を取るのが上に立つ人の任務である。/事件が起きてから有識者の意見を求めるなどは本末転倒である。意見は普段からよく聞き、有事には決断しなければならない。忙しい時に有識者会議など人選して招集するなどは、部下に余計な事務の負担を強いることになる。/その点、今や全て反省されている。民主党政権ができて以来、現在までに国民が被った損害、負担は少なからぬものがあるが、それで教訓を得たというならば、将来の二大政党体制にとってはプラスとなったといえよう」。
 同じく産経新聞8/24に但木敬一(元検事総長)はこう書いていた。
 「わが国の危機を深めたのは、政治主導という無意味なスローガンによって官僚機能を破壊してしまったことである。憲法上も法律上も、行政権は内閣に属しており、各省の権限は大臣に集中している。政治主導はわが国の基本的システムであり、これをことさらに提唱することは、自らの統治能力のなさを独白するに等しい。/それによって何が起こっているか。大臣が壁となった省庁間の情報の切断と省庁を超えた官僚による解決策の模索の放棄である。極端な大臣は、省の重要な政策決定の場から官僚を排除し、副大臣、政務官とだけ協議するという手法を用いた。そこで決断できないときは、いわゆる有識者の意見で政策を決定することになった。官僚たちは、官僚の出すぎと叱責されることを嫌い、以前にも増してリスクをとることを避け、自主的に判断することを躊躇し、待ちに徹することになる。行政の意思決定は明らかに遅くなり、外交・内政を問わず、頓珍漢な大臣コメントが出され、朝令暮改されるケースも珍しくなくなった」。
 岡崎久彦のように将来のための良い教訓になったと楽観的に?見てよいかは疑問なしとしないが、民主党政権のもとで、<政治主導>(=官僚支配の打破)のかけ声の下で生じたことを、上の二人は、適確に述べていると思われる。外務・検察官僚OBで、より一般的な官僚OBではないが、さすがに事態を適切に把握している。
 一言でいえば、民主党内閣は、行政公務員を(行政官僚を)うまく使いこなすことができなかったのだ。それは自らの行政(・関係行政法令)に関する知識の足りなさを自覚することなく、議員出身というだけで行政官僚よりも<すぐれた>知見を持っている、というとんでもない「思い上がり」によるところが大きかっただろう。そんな、行政官僚に実質的には軽視・侮蔑される副大臣や政務官が何人いたところで、適切に行政(多くは法令の執行)がなされるはずはない。
 ところで、再述になるが、「政治主導の確立と官僚主導の排除」の問題を「公務員制度改革」の問題へと次元を小さくし、さらに<天下り禁止>の問題に矮小化しているのが、屋山太郎と櫻井よしこだ。
 最近に書いたように、屋山太郎の意見を紹介しつつ、櫻井は、菅政権のもとで<以前よりも官僚が強くなった(以前よりも「勝手を許」した)>のが問題だ、という事態の把握をしている。
 屋山太郎は産経新聞8/16の「正論」欄でこう書いていた。
 2009総選挙の際に(民主党が)「最も人心を捕らえたのは『天下り根絶』の公約だっただろう。〔中略〕/民主党は『天下り根絶』と『わたり禁止』を標榜(ひょうぼう)した。天下りをなくすということは肩たたきという役所の慣行を変えることである」。
 これが実践されなかったと嘆いた?のち屋山は、「『天下り根絶』の旗降ろすな」という見出しを立てて、こう続ける。
 「代表選に当たって、民主党はあくまで、『天下り根絶』の意思があるかどうかを争点にすべきだ。/公務員制度を改革し、政治主導の司令塔としての国家戦略局、独法潰しのための行政刷新会議を設置(立法化)できるかどうかで、民主党の真価が決まるだろう」。
 この屋山太郎という人物によると、現今の政治課題で最重要なのは、行政官僚の<天下り禁止>を実現するか否か、にあるようだ。
 同じようなことを月刊WiLL等々でも書いている。
 どこかズレているか、同じことだが焦点の合わせ方が違っているか、政治課題全体を広く捉えることができていないことは明らかだ。
 この人物によると<天下り禁止>さえできれば世の中はバラ色になるが如きだ。
 <政治主導>〔官僚支配の打破)なるかけ声の問題性は、上の二人が述べているように、<天下り禁止>の問題に矮小化されるようなものではない。
 やや離れるが、上の産経新聞「正論」で屋山太郎は「蠢く『小鳩』よ、恥を知れ」という見出しで小沢一郎らを批判している。しかし、屋山太郎こそ「恥を知れ」と言われなければならないだろう。
 2009年総選挙の結果について<大衆は賢明な選択をした>と明言し、自民党を批判しつつ民主党に期待したのは他ならぬ屋山太郎だったことを忘れてはならない(この点は当時に正確に引用したことがある)。
 そのような民主党への期待が幻想にすぎなかったことはほぼ明確になっているが、二年前の自らの期待・評価・判断が誤っていたということに一言も触れず、読者等を民主党支持に煽った責任があることについて一言も詫びの言葉を述べていないのが、屋山太郎だ。
 屋山は自らを恥ずかしいと思っていないのか? 無責任だと思わないのか? こんな人物が「保守」派面をして産経新聞等々の「保守」派らしき新聞・雑誌に登場しているのだから、日本の「保守」派もレベルは低いと言わざるをえない。
 政府の審議会の委員を何年か務めたくらいで、政治・行政、政権・行政官僚関係をわかったような気がしているとすれば大間違いだろう。冒頭の二人のように(佐々淳行もそうだが)、実務経験の長かった行政官僚OBの方が、はるかに、政治と行政公務員の関係をよく理解し、適切に問題把握している、と見て間違いはない。

1035/国民保護法の適用は可能か?-佐々淳行著(幻冬舎)を1/3読む②等。

 〇「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるとき」は免責する旨を定原子力損害賠償法〔原子力損害の賠償に関する法律〕3条第一項但書に関する政府の解釈もマスメディアの議論も不明瞭なままではないか旨を先日8/02に記した。
 産経新聞の「主張」=社説をさかのぼって見ていると、「原子力賠償法案/『国の責任』はっきり示せ」と題する7/29付のそれで、次のように論及されていた。他紙は調べていない。
 「損害賠償をめぐる議論には、最初からボタンの掛け違いがあった。原子力事故の際の補償を定めた原子力損害賠償法では、異常に巨大な『天災地変』の場合、電力会社は賠償を免責され、国が責任を負うと定めている。/しかし、菅直人政権は初めから、この条項の適用の可否を議論することなく、東電の『無限責任』を前提にしてきた。そこにそもそもの根本問題がある」。
 菅内閣はやはり上の法律の解釈問題にほとんど立ち入らず、事業者の「無限責任」を前提にしているようだ。ここにも法律または法令の順守=誠実な執行ではなく「政治」・「政策」=国民の人気取りの方を優先しようとする菅直人内閣(・民主党内閣)の本質の一端が見られるように思われる。
 〇さて、佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎、2011)への言及をつづける。
 一 第二章「危機管理の検証」の既読の最初あたりまでは、佐々は、安全保障会議設置法と国民保護法の適用を主張し、それをしなかった菅内閣を難詰している。
 国民保護法の問題は別に扱うが、前者による安全保障会議の招集・開催については(その要件も充足しており)それをすべきだっただろう旨は私もこの欄で既に書いた。
 興味深く、かつなるほどと思わせるのは、佐々淳行が推測する、菅直人が上の諸法律を適用しなかった理由だ。
 佐々は次のように言っている。
 ・自衛隊・警察という「力のあるもの」には「生理的に体質的に拒否反応」があり、できるだけ「平和的に、事勿れの楽観論」をとるという「左翼特有の基本姿勢」があったからではないか(p.77)。
 ・「市民運動家の感覚で生理的に…実力部隊の国家的掌握を嫌い」、「地方分権、非権力主義的権力分散の発想」で今回の大震災に取り組んだ。都道府県・市町村を中心主体とする災害対策基本法を使い、「なるべく自衛隊や警察機動隊を使わないですまそうとしたにちがいない」(p.78)。
 ・上の二つの法律の適用を拒否したのは、これらの法制の淵源が「有事法制の研究」にあり、菅直人は昔から「有事法制」に反対だったからだ(p.82)。
 安全保障会議についてこの指摘があたっているとすると、震災・原発事故後の政府の対応(不作為を含む)は人災・<政治災害>であり、「菅災」である可能性が高い。「左翼」政権であったがために、適切な対応ができなかったのだ。何という悲劇か。
 二 一方、国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)の適用可能性を前提とする、佐々淳行の主張については、にわかには賛成しかねる。
 佐々は、次のように言う。-緊急的な「国民の保護のための措置」は「武力攻撃事態等」になされうるのであり、「災害」を含むとは明記されていなくとも、「武力攻撃事態等」の「等」に中に含めることができる(実質的にも東北被災地は武力攻撃を受けたに等しい惨状だ)。「列挙」には「限定列挙」と「例示列挙」があるが、国民保護法は「例示列挙」で、「必要に応じて同種同類のものは高度の政治行政の有権解釈で拡大解釈や準用が許される」(p.85-86)。
 「列挙」に関する説明は一般論としてはその通りだろう。問題は、国民保護法についてそれがあてはまるかだ。
 佐々淳行は立ち入っていないが、法律の名称にいう「武力攻撃事態等」とは何を意味するかを、当該法律自体がどう定義しているか等を明らかにすることを試みる(そのために条文を調べてみる)ことがまず必要かと思われる。
 国民保護法(上記のとおりで略称)2条第一項は次のように規定する。
 「この法律において『武力攻撃事態等』、『武力攻撃』、『武力攻撃事態』、『指定行政機関』、『指定地方行政機関』、『指定公共機関』、『対処基本方針』、『対策本部』及び『対策本部長』の意義は、それぞれ事態対処法第一条、第二条第一号から第六号まで(第三号を除く。)、第九条第一項、第十条第一項及び第十一条第一項に規定する当該用語の意義による。 」
 ここにいう「事態対処法」という略称は、国民保護法1条の中で明記されてように
、「武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」を意味する(平15法律79)。この事態対処法(略称)で「武力攻撃事態等」等の意味は定められている、というわけだ。
 従って、事態対処法(略称)をつぎに見てみる。
 この法律の1条の冒頭にまずこうある-「
この法律は、武力攻撃事態等(武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態をいう。以下同じ。)への対処について、基本理念、国、地方公共団体等の責務、国民の協力その他の基本となる事項を定めることにより、……」。
 「武力攻撃事態」とは「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」のことをいうのであり、それは国民保護法(略称)についても同じなのだ。これらの中に地震・津波災害や原発災害は含まれるのか?
 事態対処法(略称)2条は、「武力攻撃」・「武力攻撃事態」・「武力攻撃予測事態」を、さらに、次のように定義している。

   武力攻撃 我が国に対する外部からの武力攻撃をいう。
   武力攻撃事態 武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態をいう。
   武力攻撃予測事態 武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態をいう」。  

 いかに大規模で深刻なものであっても、地震・津波災害や原発災害は「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」の中には含まれないとするのがおそらくは適切な法解釈だろう。
 なお、「武力攻撃事態等」=「武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態」なので、前者の「等」は、「武力攻撃予測事態」を意味することになるが、これは佐々の用語にいう「限定列挙」にあたる。「武力攻撃予測事態『等』」ではない。
 というわけで、すでに<有事立法>に簡単に触れる中で自然災害・原発災害は含まない旨を記したことがあるが、それは正しく、いわゆる国民保護法を今時の大震災・原発災害に適用することは、いかに高度の政治的判断をもってしても、「法的には」無理ではないか、と思われる。
 佐々淳行の本は最後まで読み続ける価値があると思っているが、全く瑕瑾のない書物だとは、残念ながら言えそうにないように見える。

1034/佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎)を1/3読む①。

 佐々淳行・ほんとに彼らが日本を滅ぼす(幻冬舎、2011.07)を一気に1/3ほどまで読む(計245のところp.86まで)。以下、まずは順を追ってメモしておく。
 ・佐々によると、「菅氏は冥府魔界から人間界に這い出してきた魑魅魍魎の地底人の妖怪の類だ。ウソをいい、人を裏切り、人を欺し、自己愛と総理の椅子に一日でも長くしがみつくこと自体が(略)目的のエゴイストで、国家観も社会正義観もない。日本人の道徳律〔略〕のすべてを欠く。その人格は論評のしようもない程低劣、妖怪としかいいようのない恥知らずである」(序章p.11)。
 こうまで罵倒される首相も珍しいだろう。8/10にようやく明確な近日中の辞任を表明した。かかる人物を首相にならしめた契機になった2009総選挙に際しての、民主党への投票者は、どの程度反省し、後悔しているだろうか。数千万分の一票にすぎず、何の反省も後悔もないのかもしれない。むろん第一の主犯は、そのような投票行動を誘発した朝日新聞等の「左翼」マスメディアにあると思われるが。
 ・日々の新聞・テレビ報道等は断片的で非本質的なものを多く含むため、佐々のこの著によるこの間の経緯の叙述は、資料的にも、わずか5カ月のことだが歴史回顧的にも、大いに役立つ。 
 例えば、原子力対策特別措置法にもとづく「原子力緊急事態宣言」は3/11の午後7時3分に発令された、とされる(p.27)。
 政府(・枝野内閣官房長官)が当初、直接の危険はないが「万全を期すため」と称して規制・指導を行ったこと、最初の塔屋爆発後の政府・東電の混乱や情報提供の不備等々も、具体的に叙述されている。
 ・3/25の福島第一原発付近住民への<自主的な避難の要請>が、原子力災害対策特別措置法による正規の避難「指示」・「勧告」だと「放射性物質による汚染拡大を正式に認定することになり、周辺住民の不安に拍車をかけかねない」(下記新聞)という理由での、中途半端かつ人任せの無責任な措置だったことも、毎日新聞3/26記事を引用しながら指摘している(p.52-53)。
 ・他にも、「菅直人という人間の宿痾ともいうべき『責任逃れ』」、「専門家への丸投げ」、会議・本部の「二〇以上の組織」の乱造、「惨憺たる」東電・原子力安全保安院等の「広報体制」等が言及されている。
 ・佐々によると、原子力安全委員会委員長・斑目春樹は、3/12の首相現地視察に同行して(塔屋爆発前に)「原発は大丈夫です。構造上爆発しません」と進言したらしい(p.59)。
 ・ 4/04に東電は第一原発の汚染水の海中放出を始めた。これは原子炉等規制法64条による(緊急)措置らしい。このように、法学部出身警察・危機管理官僚だった人物らしく、根拠法令(・条項)やその有無にも配慮された叙述がなされているのが、一般新聞・テレビ報道などとは異なる。
 もっとも、この緊急措置の実施は、関係自治体や諸外国への事前連絡・根回しがなかったために混乱や批判も生じた(p.63-64)。
 ・佐々は、5/06の、菅直人首相による浜岡電発運転停止要請に対しても批判的だ。
 理由をあえて整理すれば一つは「法的根拠」のないこと、二つは「人気取り」の側面が大きく、「電力需要への責任など、菅総理は毛頭感じていない」のだろうということ、両者に関連して「政府での検討過程も明らかにされていない」こと、が挙げられている。
 かつてこの欄で、法的根拠がなくとも行政指導ならばできるだろう旨を書いたことがある。厳密な法的理屈はそのとおりだと今でも思うが、重要な政策決定についてはいかに「要請」ではあっても、少なくとも「閣議決定(了解)」くらいは得ておくべきだ、内閣総理大臣かぎりでの行政指導・「要請」権限は濫用されてはならない、ということは今の時点で追記しておきたい。

 ・東電が第一原発一号機は津波襲来から16時間後に「メルトダウン」していたことを認めたのは、5/12だった(p.72)。確認まで二ヶ月以上も要する(p.72)ものなのか、東電は隠してはいなかったのか、疑問は残るだろう。
 
・「言った、言わない」の「水掛け論は、菅内閣の特徴にして看過できない悪弊」だとして具体例も挙げられている(p.73-74)。佐々は第一原発所長・吉田昌郎の継続注入の判断を「称賛に値する」としているが、海水注入延期問題も斑目春樹の「言った、言わない」水掛け論的だった(p.72-73参照)。
 ・第一章は、「菅内閣は危機管理以前に、組織としての体を成していない。/…この人は組織というものがわかっていない」、「保身に走り、言い訳を繰り返す姿は醜い」等と、まとめられている(p.74)。
 本来書きたかったことは、次の国民保護法に関する叙述についてだ。次回以降にする。

1000/菅直人内閣は「ある程度、落ち着いたところで」総辞職せよ。

 ・この欄1/27に紹介したが、今年1月中に執筆したとみられる屋山太郎月刊WiLL3月号(ワック、2011)の連載で屋山はこう書いていた。
  「…総選挙をやって、自民党が政権を取れば、ましな政府ができるのか。…自民党は国民から見離されて大敗し、野党に転落したのである。一年四ヶ月の間に、大いに反省して生まれ変わったという証拠もない。/一方、『解散しろ』という建前論に従って、民主党が大敗必至の総選挙に打って出るわけがない。…」(p.22)。
 屋山太郎は、しかし、2カ月ほどのちの 産経新聞3/15付「正論」欄でこう書く。
 「民主党の命脈は6月までと考えていた。…失政で政局は行き詰まり、菅直人首相は総選挙を打つ構えだった」。
 解散・総選挙をすべきではないし、するはずもないという趣旨の1月(菅直人改造内閣発足後)から3月半ばまでの間に、屋山の認識・見解を変えさせるような何があったのか?

 屋山の論述は、こうつづく。
 「菅氏のこれまでの政治には全く不満だが、当分この人物に大仕事を任せるしかない」。「非常時だから解散は求めない。その代わり…間違った路線の転換も同時並行的に進めなければならない」。
 「間違った路線」とは、屋山にとってはまずは公務員制度改革の懈怠にあるのだろうから、この点でもじつは「お笑い」(重点・優先順序の判断の誤り)だ。だが、それよりも、屋山太郎は「菅氏のこれまでの政治には全く不満」だと言いつつも、「国民から見離されて大敗」した「自民党が政権を取」るよりは<マシ>だと考えていたのだろう。その旨が、この3/15付文章では伝わってこない。

 また、「非常時だから解散は求めない」と書くが、それでは、「非常時」ではなかったら、屋山太郎は「解散」を求めたのか? 1月には「『解散しろ』という建前論に従って、民主党が大敗必至の総選挙に打って出るわけがない」と書いていたにもかかわらず、3/15付では「民主党の命脈は6月までと考えていた。…」と書いている。

 この人の頭の中には、どこかに誤魔化し、自己撞着があるかに見える。結局のところ、「非常時だから解散は求めない」というあたりで後づけ的に自己の見解の矛盾を隠蔽しているかに見える。

 このような感覚は、つぎの東京大学教授・御厨貴のそれと大きくは異なっていないようだ。御厨はむろん<保守派>ではない、<親民主党>のイデオローグ(デマゴーグ)だ。

 ・朝日新聞3/17付で御厨貴はこう発言している。

 「あの日、大きな揺れに立ちつくしながら思ったのは、『これで菅直人政権は続く』だった。政治休戦は当然だ。…野党が与党の足を引っ張ることは許されない」。
 とりわけ今回の大震災の被災者には、とくに上の太字部分の、東京大学現役教授の言葉をしかと憶えておいていただきたい。

 ・しかし、こんな見解もある。産経新聞3/16付「正論」欄で、佐々淳行はこう書く。
 「野党の良識ある『政治休戦』で、土肥隆一…の…も、菅首相の…献金問題も吹き飛んだ感があり、『これで菅政権の寿命が延びた』との声もあるが、とんでもない話だ。菅氏は、ある程度、落ち着いたところで、東日本大震災の危機管理の失敗の責任を取って、総辞職すべきである」。

 「『これで菅政権の寿命が延びた』との声」の中には、屋山太郎や御厨貴の<便乗的>な声も実質的・結果的には含まれているのではないか。

 「東日本大震災の危機管理」の実態についてはなおも検証が必要かもしれない。しかし、大震災以前の政治的問題が消えてしまったと考えるのは、むろん誤りだ。
 どのような時点で「ある程度、落ち着いた」と言えるかはむつかしいかもしれない。しかし、佐々淳行の言っていることはまさに「正論」だろう。

 ・それにしても、村山富市社会党委員長が首相になった翌年に1995年の阪神淡路大震災は起きた。自民党所属の経験のない、かつ与党に自民党がいない初めての首相である菅直人政権発足の翌年に今回の大震災は起きた。

 理性的・合理的ではないことはよく分かっているつもりだが、これははたして偶然なのか?

 被災者から見れば不適切な発言なのだろうが、石原慎太郎東京都知事が言ったという<日本に対する天罰>というのは、当たっているような気もする。日本人の「我欲」(戦後「個人主義」→エゴイストの大群の発生)が原因であるとともに、<左翼化>する日本に対する大自然の<警告>なのではないか。

 週刊新潮3/24号の連載記事を、高山正之はこう締め括っている。
 「二昔前の村山富市政権…。/今回の菅政権…。/単なる偶然とも思えない。罪深い政権はもうこれきりにしろという暗示か」(p.154)。

 上の「正論」中で、佐々淳行は、より合理的に、湾岸戦争(海部俊樹首相)、サリン事件(村山富市首相)も含めてこう書いている。心して記憶しておいてよいものと思われる。

 「…のように、弱い首相の時に、大事件が起きるという危機管理ジンクスがまたまた当たってしまった」。

0930/仙石由人・枝野幸男の卑劣な詭弁-「刑事事件」にしたくなかった筈なのに。

 一 11/01に<尖閣ビデオ>を「視聴」対象を短くし、かつ一部の国会議員にのみ「視聴」させたことにつき、社民党・福島みずほや民主党政府に対して<ふざけるなと言いたい>と書いた。

 11/06の深夜現在も、政府側は全面<公開>の方向性を示していない。

 二 いわゆる流出後の11/05に仙石由人健忘(・官房)長官は、「捜査記録」であるために<公開>できない旨を、あるいは「捜査の観点から言っても」流出が問題視される旨を言ったらしい。

 また、枝野幸男・民主党副幹事長は、「刑事訴訟法」の観点からも全面<公開>できない旨を(少なくともその観点を含めて公開の是非は考えるべき旨を)述べたようだ。

 何を言っているのか、この二人は。この議論に何となく同意したい民主党(または民主党政権)支持者もいそうだから、あらためて書いておく。<ふざけるな>。

 三 なるほど、情報公開法5条六号によると(前回は言及しなかったが)「公にすることにより、次に掲げるおそれその他当該事務又は事業の性質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれ」があるときは開示(公開)しないことができる旨を定め、その事務・事業の例として「争訟に係る事務」を明記している(六号ロ)。

 なお、海上保安庁自体の事務・事業すなわちその任務・所掌事務の遂行一般のいずれかに「支障を及ぼす」おそれがある、という主張もありえそうだが、仙石、枝野はそうは主張していないようだ。

 また、そもそも「流出者」として海上保安庁職員も疑われているようであることからも示されるように、ビデオが公開されても海上保安庁の<仕事>に悪い影響は与えないのではないか。むしろ、その仕事の苛酷さ等が国民によく判り、同庁職員の「士気」も上がって、「支障を及ぼす」おそれがあるのではなく、逆に<利益を及ぼす>ものと常識的には考えられる。

 さて、仙石・枝野の主張は情報公開法にあてはめると、上記のとおり、主としては、「争訟」に関する情報性を根拠とするかに見える。

 だがこれはふざけている。詭弁だ。

 たしかに、<処分保留>で釈放したのだから、いかなる(刑事)処分をするかはまだ決定されていない、刑事訴訟法の手続に入る可能性はある、その意味で訴訟で証拠資料として使われる可能性がある「捜査記録」にはなるのだろう。

 しかし、上はあくまで論理的にはまたは抽象的には想定できる<可能性>にすぎない。

 そしてそもそも、その可能性が現実になるように仙石等の現内閣や枝野らの民主党幹部は努力しているのか。すなわち、釈放した中国人(「船長」)の身柄拘束と日本への移送を、仙石や民主党は中国政府(・共産党)に求めているのか??

 仙石らは隠蔽・糊塗しているつもりかもしれないが、もともと<刑事事件>にしたくなかったからこそ、那覇地検は勾留決定まで得ていたにもかかわらず(そして実際に勾留していたにもかかわらず)、換言すれば那覇地検は<刑事事件>にするつもりだったにもかかわらず、それをなしくずしにし、(ここではもう経緯は省略するが)<釈放>して(させて)しまったのだ。

 仙石も菅直人も、正規の<刑事事件>にしたくなかったのだ。

 それを今になって、あるいは<釈放>後ずっと、<刑事事件>(となる可能性のある)関係情報(>ビデオ)だから国民一般に<公開>することはできない、と理屈づけるとは、何と言う卑劣な詭弁だろう。

 自ら「捜査」の継続を諦めさせておいて、「刑事訴訟」手続になることをさせないでおいて、「捜査記録」だからとか、「刑事訴訟法」上の問題があるとか、よくも言えたものだ

 呆れてものが言えない。<ふざけるな>という他ない。

 「赤い」健忘(・官房)長官・仙石由人は現役「左翼」活動家としていくらでも平気で詭弁を弄するだろうことは理解できるが、枝野幸男まで、仙石みたいなことを言う人物だとは知らなかった。

 これまで国民の「知る権利」という言葉を使っていないが、社民党や民主党「左翼」こそが、この概念を使って自民党中心内閣の政治・行政の「公開」あるいは「透明性」を要求してきたと思われる。

 仙石も枝野も、この概念・言葉は忘れてしまったのだろう。

 四 ついでに。傾向的には「左翼」こそが、捜査・尋問・調書作成過程の<透明性>・<可視化>を要求している。

 今回のビデオは日本国民のいかなる「プライバシー」を侵害するものではないし、海上保安庁の今後の活動を阻害しないことはもちろん、地検の捜査・起訴活動に何の不利益も与えないと考えられる。

 このことは、元警察官僚トップの佐々淳行が「今回の映像は初動段階で公開すべきもので、国家機密でも何でもない。それを菅内閣が勝手に機密化した」とコメントしたようであることからも、明らかだろう。

 被疑者との尋問過程にはるかに及ばない今回のようなビデオの「公開」・<可視>化を怖れて、いったい何をもって捜査・尋問・調書作成過程の<透明性>・<可視化>を要求できるのか??
 「左翼」・仙石よ、民主党よ、<ふざけるな。>

0405/佐伯啓思ら「正論大賞」贈呈式と「日本人の精神」。

 産経2/22は「正論大賞」贈呈式について報道し、大賞受賞者・佐伯啓思につき、「保守思想に立脚して『戦後民主主義』の欺瞞を突き、米国中心のグローパリズムに警鐘を鳴らすなど、日本の精神の精神的自立を説いた…」と紹介している。
 反対しない(し、その資格もたぶんない)が、上のように簡潔にまとめたのは可成りの能力のある執筆者に違いない。
 同日の別の面の記事では、佐々淳行の受賞者「3人とも日本人の精神、心を取り戻そうと呼びかけたのが共通している」との発言を紹介している。
 これまた反対しない(し、その資格もたぶんない)が、しかし、佐伯に関する紹介でも触れられていた「日本人の精神、心」とはいったい何か、ということが近年気になるところだ。<日本(人)の歴史・伝統>とは何か、と言ってもよい。
 戦後60余年。「日本人の精神、心」は、かつてとは<少なくとも>部分的にはかなり変化してしまったのではないか。<保守し、継承すべき>「日本人の精神」とは、具体的にはいったい何だろう。情緒的・感覚的ならばともかく、「保守主義」者たちにおいても、正確な一致があるとは思えないのだが…。

0113/諸君!6月号と正論6月号の一部を読む。

 1月前の東京都知事選の浅野史郎敗北の原因につき、諸君!6月号(文藝春秋)の伊藤惇夫「小沢一郎は「化学反応」を起こせるか」は、浅野の「周辺には常に「市民運動家」や「市民グループ」が寄り添っていた」が、「彼らの中には左翼活動家崩れや”プロの市民”が多数紛れ込んでおり、大半が普通の市民でないこと」を「「普通の都民」も敏感に感じとっていた」ことを挙げている(p.105)。
 正論6月号(産経)の佐々淳行「「反石原」勢力の実態は「全共闘」だった」の中身にはこの題に即した部分がないのだが、タイトルが敗因を示唆している。むしろ、同誌同号の遠藤浩一「「保守系」圧勝が示した民意とは」が、浅野の「知名度が上がるにしたがって、左翼リベラル臭も漂うようになった」とし、統一地方選前半を「左翼リベラル」の敗北と総括している(p.127)。
 「左翼リベラル」という語の厳密な意味は問題になりうるが、雰囲気?としては、それぞれに異論はない。何しろ、上野千鶴子が明瞭に支持し、五十嵐敬喜らと集会を開いて立候補を唆したのが浅野史郎だったのだ。
 有田芳生は浅野を批判していたので、彼は、投票したとすれば、(石原慎太郎氏に投票するような御方ではないので)たぶん日本共産党の吉田某に対してだっただろう(ずいぶんとお節介な推測で申し訳ない)。
 ところで、伊藤惇夫、遠藤浩一の各論稿は7月参院選、民主党や「無党派」に言及しているが、必ずしも一致しているわけではない(当然だ)。
 紹介はやめて、私のコメントを付すが、「無党派」なる層が大量に存在していることは日本の政党政治の未熟さ、政党に魅力がないことの現れだし、自民党、民主党ともに(とくに民主党が)その基本的考え方が明瞭ではなく、いずれも(とくに民主党だが)反・非主流派的集団を抱えていることの影響もある、と思われる。
 そして、小沢一郎と旧社会党左派・横路某等が「手を組んでいる」らしい民主党の基本的理念は甚だ解りにくく、自民党と安倍内閣にとっては幸いにも、「無党派」層の支持が参院選でも民主党に集中しそうにはないようだ。
 民主党代表が小沢一郎であることは自民党と安倍内閣にとっては幸いで、清新で自民党よりやや「進歩的」イメージの者が代表であれば、7月参院選では自民党・安倍内閣は完璧に「危険」だったような気がする。
 「無党派」層の大量の存在(と投票率の低さ)の原因は、政治や政治家に関する一般マスコミ・メディアの報道の仕方も大きい、と考えている。細々としたことも含めての政治家の粗探しや、党争的又は政略的な政治家の発言・行動に注目した報道を続けていれば、実際以上に、政治家(と政党)のイメージは悪くなるに決まっている。
 朝日新聞がその先頭にいるだろうが、日本のマスメディアは、<政治不信>をバラマき、社会を安定させず、好んで攪乱の方向に導いているとの印象をもっている。ジャーナリズムとやらを、少し吐き違えているところがあるのではなかろうか。
 突飛だが、社会を安定させず、攪乱させるのは(又はそういうイメージを醸成するのは)、共産主義者の戦略でもあろう。彼らにとって、資本主義社会が落ち着いた、安定した社会であってはならないのだ。良好な秩序がなく、混乱している筈なのだ。新聞・テレビニュースばかりを見ていると、ある程度はそんなイメージも持ってしまう。日本の多くのマスメディアは、客観的には「共産主義者たち」に奉仕している

0060/都知事選は「世代間のリーダ-争い」ではなかったが、将来を「団塊」世代がリードできるかは心配。

 東京都知事に石原慎太郎氏三選に関連して、毎日新聞(少なくともWeb上)は、一種の「世代論」を展開、少なくともそれに言及しているようだ。
 木村健二署名記事のリード-「8日に投開票された東京都知事選は、昭和1ケタ生まれで「太陽族」との流行語を生み出した石原慎太郎氏(74)に対し、戦後生まれの「団塊の世代」に当たる浅野史郎氏(59)や吉田万三氏(59)が挑む世代間のリーダー争いでもあった。結果は石原氏が大差で3選を果たし、首都の世代交代は進まなかった。今年度から大量定年が始まった団塊の世代だが、政治の世界でトップに立つまでの壁は厚いのか。
 本文-石原氏は「浅野氏を念頭に「全共闘が支持しているような手合いが東京を牛耳ると、取り返しのつかないことになる」と敵意をむき出しにしていた。
 「石原氏の選対本部長を務めたのは、元内閣安全保障室長の佐々淳行さん(76)。…団塊の世代には「自己犠牲の精神がなく『みんなで渡れば怖くない』の共同連帯無責任だ」と手厳しく「いつまでたっても、おれたち昭和1ケタがやらなきゃいけない」と話す。
 「団塊の世代は47~49年生まれを指し、約675万人に上る。国政を眺めると、衆院議員が61人、参院議員が41人で、国会議員全体の14・2%を占める。しかし、首相は小泉純一郎氏(65)から団塊の世代を通り越して安倍晋三氏(52)まで若返った。首都決戦でも敗れ去り、団塊の世代からは首相、都知事という2大リーダーを輩出できていない。
 発言の事実等の報道だから、ほとんどコメントのしようもないが、今回の都知事選が「世代間のリーダー争いでも」あった、というのは、いかに「も」が付いているとしても、この点を重視しすぎだろう。
 佐々淳行氏の言葉は、「全共闘」とは無関係だった者も含めて「団塊」世代には耳が痛いことかもしれない。浅野氏ではない、きちんとした石原氏の後継者が「団塊」世代から出てもよかったのだ。
 それに、じつは私は密かに怖れている。いつぞや、1930-35年生まれ世代は「独特の世代」と書き、その中に、石原氏も佐々氏も含まれるのだが、この世代が全て(又は殆ど)いなくなって「団塊」世代が70歳台前半になっているような時期に、日本はどうなっているだろう、「団塊」世代は、今の1930-35年生まれ世代がしているような政治・言論界等での活躍ぶりを(保守・「左翼」を問わず)発揮することができているのだろうかと。同じことだが、全て(又は殆ど)の国民が戦争を知らず、「戦後(平和・民主主義)教育」を受けた者ばかりになって、はたして日本の国家と社会をうまく運営していけるのか、と。やや情けないことだが。

ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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