秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

人民委員会議

2196/R・パイプス・ロシア革命第12章第4節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第4節・人民委員会議(ソヴナルコム)。
 (1)最初の三週間、ソヴナルコムは紙上の存在でしかなかった。その命令を実施するスタッフはおらず、自分たちに支払うべき金もなかったからだ。
 役所に行くことを阻止された人民委員たちは、スモルニュイの第67号室で仕事をした。そこに、レーニンの最高司令部があった。
 暗殺の企てをつねに怖れているレーニンは、その部屋に、人民委員たち以外は誰も入らせなかった。
 彼は稀にしかスモルニュイを離れなかった。スモルニュイで、ラトヴィア人に厳重に護衛されながら、生活し、仕事をした。(*)(62)
 彼がソヴナルコムの事務局長として選んだのは、25歳の、N. P. ゴルブノフ(Gorbunov)だった。
 新しい事務局長は行政経験がなかったが、タイプライターとテーブルを自分のものにして、二本指で二つの布令文を打ち始めた。(63)
 V・ボンチ=ブリュエヴィチは、献身的ボルシェヴィキ党員かつ宗教反対者で、レーニンの私的助手に任じられた。
 これら二人は、書記職員を雇った。
 その年〔1917年〕の終わりまでに、ソヴナルコムには、48人の事務被用者がいた。
 つぎの二ヶ月のうちに、さらに17人増えた。
 1918年10月に撮影された集合写真から判断すると、これらのうち最も高い割合を占めるのは、身だしなみの良い、ブルジョア的な若い女性だ。〔試訳者-原書にはその写真が付いている。〕
 (2)1917年11月15日まで、ソヴナルコムは定期的な会議を開かなかった。ゴルブノフによると、11月3日に一度会議が行われたが、その唯一の議事は、モスクワで戦闘しているノギンから報告を聞くことだった。
 この時期には、発布された布令や命令類は、ボルシェヴィキ活動家の仕事だった。この者たちは、しばしばレーニンと相談することなく、自由に振る舞った。
 ラリンによれば、ソヴナルコムが発した最初の15の布令のうち二つだけが、ソヴナルコムで議論された。プレスに関する布令はルナチャャルスキが起草し、立憲会議選挙に関する布令は、彼自身が用意した。
 ゴルブノフが語るには、レーニンは彼が自分で地方に電信指令を発する権限を与えた。そして、およそ10の電報のうち1つだけをレーニンに見せた。(64)
 (3)ソヴナルコムの最初の定例会議は、20項目の議題付きで、11月15日に開催された。
 人民委員たちは可能なかぎり迅速にスモルニュイから退出すること、それぞれに対応する人民委員部を奪い取ること、が合意された。彼らはこれを、武装派遣隊の助けで、数週間のうちに成し遂げた。
 その11月15日以降、ソヴナルコムはほとんど毎日、通常は夕方に、スモルニュイの三階で、会議をした。ときには、深夜にまで及んだ。
 出席者は大して制限されておらず、多数の下級職員や、必要に応じて呼ばれた非ボルシェヴィキの専門技術者も同席した。
 生まれながらの革命家だった人民委員たちは、ぎこちなさを感じていた。
 メンシェヴィキの森林専門家でときどきソヴナルコムに出席したS・リバーマン(Simon Liberman)は、1918年10月の人民委員会議をつぎのように思い出している。//
 「レーニンが議長をするソヴィエト・ロシアの最高の行政部署の会議には、特有の雰囲気があった。
 各会議に厳粛な閣議たる性格を与えようと事務職員は努力していたが、我々は、地下の革命活動家の別の会議(!)に座っているという感覚を禁じ得なかった。
 長い間、我々は、多様な地下組織の一員だった。
 ここでの全てが、ありふれたものに思えた。
 人民委員の多くは、コートや外套を着ていた。ほとんどが、厳しさを感じさせる皮のジャケットを身に付けていた。
 冬季には、フェルトの靴を履き、厚いセーターを着ている者もいた。
 彼らは会議中ずっと、そのような装いのままだった。//
 人民委員の一人のA・ツリゥパ(Alexander Tsuriupa)は、ほとんどいつも病気だった。
 彼は半分横になって会議に出席していた。脚を、ほとんど椅子の上に伸ばしていた。
 レーニンがしきりと助けても、委員たちは会議用テープルの椅子に簡単に座ることができなかっただろう。部屋じゅうを慌てふためいて、椅子を目ざして突進していた。
 レーニンだけは変わらず、その場の司会役として、テーブルの同じ椅子に座った。
 彼は、手際よくなく、ほとんど礼儀正しくもなく、そのようにした。
 彼の個人的な秘書のフォティエヴァが、レーニンの隣に座った。」(65)
 (4)同僚たちの時間不遵守と冗長な発言にいらいらしたレーニンは、厳格な規則を編み出した。
 雑談を阻止すべく、議事にきちんと執心することを強く要求した。(*)
 人民委員たちが時間どおりに現れるのを確実にすべく、遅刻に対しては制裁金を課した。30分以下なら5ルーブル、それ以上の遅刻なら10ルーブル。(66)
 (5)リバーマンによると、彼が出席したソヴナルコムの会議では、政策方針は一度も決定されず、たんにその実施だけが議論された。
 「原理的な問題に関する議論を、私は聴かなかった。
 議論はつねに、すでにある規準を実行する可能で最良の方法を見出すという問題をめぐって行われていた。
 原理的な問題は、すでに別の場所で決定されていた。-共産党の政治局で。<中略>
 私が知る二つの政府最高機関-労働と防衛の各人民委員会議-は、すでに党内の神聖な機関-政治局-で決定されていた基準を達成するための、実際的方法を議論していた。」(+)
 (6)議題を過大なものにしてしまう些細な問題からソヴナルコムを解放するために、1917年12月18日に、小ソヴナルコムが設置された。
 (7)レーニンの署名によって、通常は人民委員の一人の連署によって、政府の決定は法(law)になった。そして、公式の<Gazette>に掲載された。これが最初に出版されたのは、〔1917年〕10月28日だった。
 そのときに決定は「布令」(decree, <dekret>)たる地位を獲得した。
 人民委員がそれぞれに提案して発する命令は、通常は「決定」(resolutions, <postanovleniia>)と称された。
 しかしながら、理論が必ずや実践によって遵守されるわけではなかった。
 一定の場合には-それは確実に不人気となる法令についてとくに生じたのだが-、レーニンは、CEC によって発せられ、その議長のスヴェルドロフによつて署名されていることを好んだ。
 こうした手続は、ボルシェヴィキに対する非難をソヴェトに転化するという効果をもった。
 いくかの重要な法令は、制定されなかった。-チェカの設立に関する法令のように。
 他の手段-例えば、人質をとるという実務の導入(1918年9月)-は、内務人民委員の名前で制定された。それは、<イズヴェスチア>に掲載された。だが、ソヴィエトの法令や布令の全部がそれに掲載されたわけではなかった。
 やがて、ボルシェヴィキは、非公開の通達(secret circulars)という手段でもって立法(legislate)するという、ツァーリ時代の実務へと逆戻りした。秘密通達はつねに公にされず、その多くは今日まで出版されていないままだ。
 旧体制のもとでのように、政府は、国家安全保障の問題についてはこの手段を最終的には用いた。//
 (8)ボルシェヴィキによる支配が始まった数カ月の間は、布令は、その実際的な効果を目的とするというよりも、プロパガンダを目的として発せられた。(67)
 法令を実施する手段がなく、また新体制がいつまで生き残れるかが不確かなままだったので、レーニンは法令を、将来の世代が革命のやり方を学ぶことのできるモデルだと見なしていた。
 実施されることが期待されていなかったために、初期の布令は、調子において訓戒的であり、用語法において不注意が目立った。
 レーニンは、権力掌握後三ヶ月のちに、ようやくこの問題を深刻だと受け止めた。
 1918年1月30日、彼は、立法の草案は訓練を受けた法律家のいる法務人民委員部の事前審査を受けるように、命じた。(68)
 1918年春以降に発布された法令は相当に綿密なもので、当時は多数の規模でソヴィエトの職務に就いていた、旧体制からの経験ある官僚層のみによって事前審査されているのではない、ということが明らかだ。//
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 (*) J・キープ(John Keep)教授によると、権力をもった最初の18週間-つまりモスクワに首都を移した1918年3月初めまで-、レーニンは、21回しかスモルニュイを離れなかった。Hebrew University, Jerusalem, 1988年1月のロシア革命に関する会議で提示された報告による。
 (62) Lenin, XXXV, p.7.
 (63) N. Gorbunov, in Prauda, No. 255/3,787(1927年11月6/7), p.9.
 (64) 同上.; Larin in NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (65) S. Liberman, Building Lenin's Russia(Chicago, 1945), p.13.
 (*) BK, No. 1(1934年), p.107. アメリカ共産党の創設者の一人のJ・ラブストーン(Jay Lovestone)は著者に、かつて一度レーニンと話したとき、自分は3×5インチ・カードを用いた、と語った。レーニンはそのカードの目的を知りたがった。ラブストーンがレーニンの時間を節約するために話したいことをカードに書いておいたと説明すると、3×5インチ・カードを使えるようきちんと学ぶとロシアは共産主義になるだろう、とレーニンは言った。
 (66) D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti, Pt. 1(Moscow, 1963), p.140.
 (+) S. Liberman, Building Lenin's Russia(Chicago, 1945), p.13.
 ボルシェヴィキ中央委員会の原決定に次いで、初期のボルシェヴィキの政策に関する最も重要な資料源であるソヴナルコムの詳細な文書は、マルクス=レーニン主義研究所の中央党文書庫(TsPA)に、「Fond 19」という棚の印のもとに、保管されている。
 それを利用できるのは、最も信頼されている共産主義歴史研究者だけだ。
 他の研究者たちは、つぎのようなレーニンの生涯に関する伝記的年代史文献に(きわめて不完全な形で)含まれている、二次的な参考史料に頼らなければならない。
 Institut Marksizma-Leninizma pri TsK KPSS, Vladimir Il'ich Lenin: Biografisheskaia Khronika, 1870-1924, V-XII(Moscow, 1974-82).
 E. B. Genkina, Protokoly Sovnarkoma RSFSR(Moscow, 1982)もさらに見よ。
 (67) L・トロツキー, Moia zhizn', II(Berlin, 1930), p.65.; レーニン, PSS, XXXVIII, p.198. ; Liberman, Building, p.8.
 (68) SUiR, I, No.309, p.296-7.
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 第4節、終わり。次節の目次上の表題は<左翼エスエルとの合致と農民大会の破壊>。

1818/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑪。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第11回。
 第3章・内戦。
 例外的にコメントを付す。すでにS・フィツパトリクは「十月革命」の勝利者は①ソヴェトか②ボルシェヴィキかという問題設定をしていたが、以下の第4節の中で革命後の権力の所在につき、①政府(人民委員会議)、②ソヴェト中央執行委員会、③ボルシェヴィキ党〔1818年3月以降は公式には共産党〕中央委員会(・政治局)の三つを挙げたうえで論述している。この辺りは、とくに①と②の関係は微妙なようで、すでに読んでいる(試訳を掲載していないかも知れない)R・パイプスの理解または「解釈」と、S・フィツパトリクのそれは完全に同一ではないようだ。
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 第3章・内戦/第3節・新世界の見通し(Visions of the new world)。
 内戦期のボルシェヴィキの多くの思考の中には、きわめて非現実的で夢想家的な傾向があった。(19)
 疑いなく、勝利した革命家にはこの特質がある。すなわち、革命家はつねに狂熱的で非理性的な希望によって駆動しなければならない。そうでなければ、革命のための危険と損失がありうる利益を上回るなどという常識的な判断をするはずはないだろう。
 ボルシェヴィキは、自分たちの社会主義は科学的であるがゆえに空想主義(夢想、utopianism)から免れていると考えていた。
 しかし、マルクス主義の本来的に科学的な性格に関して彼らが正しかった(right)かはともかくとしても、科学ですら、主観的な判断をして自分の感性とする人間の解釈を必要とする。
 ボルシェヴィキは革命的狂熱者であって、図書館の司書ではなかった。//
 ボルシェヴィキがマルクス主義の社会科学理論を支えとして引用したとしても、1917年のロシアにプロレタリア革命の準備があったというのは、主観的な判断だ。
 世界革命が切迫しているというのは、科学的な予言ではなく、一種の信仰だ(マルクス主義の観点からは結局、ボルシェヴィキは誤謬を冒し、権力を奪取するのが早すぎた、のかもしれなかった)。
 戦時共産主義というのちの経済政策の基礎にある、ロシアは共産主義への明確な移行の寸前にあるという信念には、マルクス主義理論上はいかなる正当化根拠もほとんどない。
 現実の世界についてのボルシェヴィキの感覚は、1920年までに多くの点で、ほとんど滑稽なほどに倒錯したものになった。
 ボルシェヴィキは、赤軍をワルシャワへと前進させた。多くのボルシェヴィキには、ポーランド人がその兵団をロシアの侵略者ではなくてプロレタリアの兄弟だと是認することが明らかであるように思えたからだ。
 母国ロシアは、共産主義のもとでの貨幣の衰退による激しいインフレと通貨下落で混乱していた。
 内戦中に戦争と飢饉によって家なき子どもたちの群れが生じたとき、ある範囲のボルシェヴィキたちは、これをすら、姿を変えた天恵だと見なした。国家が子どもたちに真の(true)集団主義的なしつけをし(孤児院で)、子どもたちは古い家族からのブルジョア的影響にさらされることがないだろう、と考えたからだ。//
 同じ精神は、国家と行政の任務に関するボルシェヴィキの初期の考え方の中にも認めることができた。
 ここでの夢想家的文章は、共産主義のもとでは国家は衰亡するだろうというマルクスとエンゲルスの言明だった。また、レーニンの<国家と革命>にある文章だった。後者でレーニンは、国家行政は最終的には全日を働く職業人の仕事ではなくなり、公民層全体の持ち回りの義務になるだろう、と述べていた。
 しかしながら、実際には、レーニンはつねに、統治に関する堅固な現実主義者であり続けた。すなわち、1917-1920年の行政機構の崩壊を見て、ロシアが共産主義に接近するほどに国家が衰亡していると結論づけるような、ふつうのボルシェヴィキではなかった。//
 しかし、<共産主義のイロハ>の執筆者であるボルシェヴィキのBukharin と Preobrazensky は、はるかに興奮していた。
 この二人は、没個性的で科学的に整序された世界を展望(vision)していた。その世界とは、当時のロシア人作家の Evgenii Zamyatin が<我々(We)>(1920年の著)で風刺し、のちに、George Orwell が<一九八四年>で描写したようなものだった。
 その世界は、過去、現在あるいは未来の全ての現実にあるロシアの正反対物(antithesis)だった。そして、内戦という混沌の中で、とくに魅力的なものになるはずのものだった。
 国家が衰亡した後で中央志向での計画経済をいかに作動させることが可能であるかを説明して、Bukharin と Preobrazensky はつぎのように書いた。
 『主要な指揮は、多様な簿記係または統計部に任されるだろう。
 日常的に、それらのもとで、生産とそれへの全需要に関する資料が保管されるだろう。
 また、それらによって、労働者を派遣しなければならない場所や派遣元、そしていかなる程度の労働が必要であるかが決定されなければならない。
 そして、幼年時代以降に全員が社会的労働に習熟しているかぎり、また、つぎのように理解するがゆえに、全員が統計部の指示に完全に従って働くだろう。その労働が必要であることや予め編成された計画に従って全てがなされる場合に生活は容易に過ごせるということ、そして社会秩序はよく整えられた機械のようなものだということ、を理解するだろうがゆえに。
 警察または監獄、法令について-何についても-、特別の国家の大臣は必要ないだろう。
 管弦楽団で演奏者全員が指揮者の棒を見て、それに従って演奏するのと全く同じように、全ての者が統計報告書に情報を求め、それに従って彼らの仕事をするだろう。』(20)
 これは、Orwell の<一九八四年>のおかげで、我々には不吉な響きをもつかもしれない。しかし、当時の観点からすると、大胆で革命的な思考であって、未来主義芸術のようにきわめて現代的だつた(そして世俗的現実からは離れていた)。
 内戦期は知的および文化的な実験が盛んな時代だった。そして、若い急進的知識人たちの中では、過去に対する因襲破壊的態度がお決まりのこと(de rigueur)だった。
 未来社会の「よく整えられた機械」を含む機械は、芸術家と知識人たちを魅惑した。
 感性、精神性、人間劇および個人の心理への過大な関心は流行ではなくなり、しばしば「小ブルジョア的」だと非難された。
 詩人 Vladimir Mayakovsky や劇場支配人 Vsevolod Meyerhold のような前衛芸術家は、革命的芸術と革命的政治とは、古いブルジョア社会に対する同じ抗議の一面だと考えた。
 彼らは十月革命を受容し、新しいソヴェト政府のための尽力を提供した知識人層の最初の者たちの中にいた。彼らは、キュービストや未来主義様式の宣伝ポスターを作り、以前の宮殿の壁に革命的スローガンを描き、街頭で革命的勝利を大衆的に再現する上演を行い、政治的に重要なメッセージに加えて曲芸を在来の劇場に持ち込み、そして過去の英雄たちの非具象的な像をデザインした。
 かりに前衛芸術家たちが自由に振る舞えば、伝統的なブルジョア芸術は、ブルジョア諸政党よりもはるかに急速に、消失していただろう。
 しかしながら、ボルシェヴィキ指導者たちは、芸術上の未来主義とボルシェヴィズムが分かち難い同盟関係にあるとは、全く考えていなかった。そして、古典的芸術文化について、より慎重な立場をとった。//
 革命による自由化という精神は、女性と家族に関するかぎりは、ボルシェヴィキによって(または少なくともボルシェヴィキの知識人によって)全面的に受け入れられた。
 ボルシェヴィキは、ロシアの1860年代以降の急進的知識人層のたいていの者がそうだったように、女性の解放を支援した。
 F・エンゲルスは、近代家族では夫は「ブルジョアジー」で妻は「プロレタリア」だと書いていた。ボルシェヴィキは彼のように、女性を被搾取集団だと見なした。
 内戦の終わりまでに、離婚を容易にする法令が制定された。それはまた、非合法という汚名を取り除いて妊娠中絶を許し、女性の対等な権利と対等な支払いを要求した。//
 最も急進的なボルシェヴィキ思考家だけが家族の解体について語った一方で、女性と子どもたちが家族内での抑圧の潜在的な被害者で、家族はブルジョア的価値を教え込みがちだと、一般的に想定されていた。
 ボルシェヴィキ党は特別に女性部を設置した(zhenotdely)。女性を組織して教育し、利益を保護し、そして自立した役割を果たすのを助けるためだった。
 若い共産党員たちは、自分たちの独立した組織をもった-青年および若年成人のためのコムソモル(Komsomol)と(数年後に設置された)10歳から14歳までの集団のための少年ピオネール(Young Pioneers)。これらは、その構成員に家庭や学校でのブルジョア的傾向に注意を払うよう指導した。また、古き日々を郷愁をもって振り返ったり、ボルシェヴィキと革命とを嫌ったり、あるいは「宗教的迷信」にすがりつく両親や教師たちを再教育するように努めるよう指導した。
 内戦中に報告されたスローガン、「親の資本主義的専制よ、くたばれ!」は古いボルシェヴィキには少しばかりは元気すぎるものだったとしても、若者の反骨精神は、初期の党では一般的に称賛され、配慮された。//
 しかしながら、性の自由化は、ボルシェヴィキ指導部を悩ませた若い共産党員の主張だった。
 妊娠中絶や離婚に関する党の立場からして、ボルシェヴィキは無分別のセックスを意味する「自由恋愛」を擁護していると広く受け止められた。
 レーニンは確実に、そうではなかった。すなわち、彼の世代はブルジョアジーのペリシテ人的道徳に反対したが、両性間の同志的関係を強調し、乱交は軽薄な性質を示すものだと考えた。 
 性の問題に関して最も多くを執筆し、いくぶんかはフェミニストである Aleksandra Kollontai (コロンタイ)ですら、しばしば彼女に原因があるとされたセックスの「一杯の水」理論ではなくて、愛を信じる者だった。//
 しかし、一杯の水という考え方は、若い共産党員の間では人気があった。とくに、赤軍で共産主義イデオロギーを学び、気まぐれなセックスをほとんど路上での共産主義者の儀式のように見なした、男たちにとっては。
 このような態度は、他のヨーロッパ諸国よりもロシアでより顕著ですらあった、戦時中および戦後における道徳の、一般的な弛緩を反映していた。
 年配の共産党員は、これを我慢しなければならなかった-彼らは性は私的事項だと考えたが、結局は革命家であってブルジョア的ペリシテ人ではなかった-。キユービスト、エスペラントの主張者、裸体主義者(nudist)を、彼らが我慢しなければならなかったように。裸体主義者は、イデオロギー上の確信的行為として、ときにはモスクワの混み合う路面電車の中へと裸で飛び込んだ。
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 (19) Richard Stites, <革命の夢-ロシア革命における夢想家的見通しと実験的生活>(Urbana, IL, 1971), p.32-35 を見よ。
 (20) Bukharin & Preobrazensky, <共産主義のイロハ>, p.118.
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 第4節・権力にあるボルシェヴィキ(The Bolsheviks in power)。
 権力を奪取して、ボルシェヴィキは統治することを学ばなければならなかった。
 ほとんど誰にも、行政の経験がなかった。すなわち、従前の職業でいうと、ほとんどが職業的革命家、労働者またはフリーランスの報道者だった(レーニンは自分の職業について「文筆家」(literator)と載せた)。
 ボルシェヴィキは官僚層を軽侮しており、官僚たちがどう仕事をしているかについてほとんど知らなかった。
 予算についても、何も知らなかった。啓蒙人民委員部の長だったAnatolii Lunacharsky が、彼には最初の財務官についてこう書いたように。
『彼が銀行から我々に金を運んできたとき、彼の顔は大きな驚きの色をつねに見せていた。
 彼にはまだ、革命と新しい権力組織は一種の魔術のように、また、魔術では現金を受け取るのは不可能であるように、思えていた。』(21)
 内戦の間、たいていのボルシェヴィキの組織上の能力は、赤軍、食糧人民部およびチェカへと注ぎ込まれた。
 地方の党委員会やソヴェトからの能力ある組織者は、絶えず、赤軍へと送り込まれるか、または面倒な問題の解決のためにどこかへと派遣された。
 かつての中央政府の各省(このときは人民委員部)は、主として知識人で成るボルシェヴィキ小集団によって動いた。そして、相当に広い範囲で、かつては帝制政府や臨時政府のために働いた役人たちが補佐していた。
 中央の権威は、混乱するほどに、政府(人民委員会議)、ソヴェト中央執行委員会およびボルシェヴィキ党中央委員会に分けられていた。この党中央委員会には事務局(Secretariat)と、組織と政治に関する部局である、組織局(Orgburo)と政治局(Politburo)があった。//
 ボルシェヴィキはその支配を「プロレタリア-ト独裁」と称した。これは、活動上の観点からは、かなり多く、ボルシェヴィキ党の独裁と一致していた。
 他の諸政党の存在余地がほとんど残されないことは、最初から明瞭だった。すなわち、諸政党は白軍を支持したりまたは(左翼エスエルの場合のように)反乱を起こしても非合法化されることはなかったけれども、内戦中は嫌がらせを受け、逮捕によって脅迫され、1920年代には自己消滅を強いられた。
 しかし、統治の形態の観点からして独裁が何を意味するかは、相当に明瞭でなかった。
 ボルシェヴィキは元々は、自分たちの党組織が政府の装置となる潜在性があるとは考えていなかった。
 党組織は政府とは別にあり、行政活動から離れたままだろう、と想定していたように見える。複数政党制のもとでボルシェヴィキが政権党になった場合にそうだっただろうと全く同じように。//
 ボルシェヴィキはまた、その支配を「ソヴェト権力」と称した。
 しかし、これは決して正確な叙述ではなかった。第一に、十月革命は本質的に党のクーであって、ソヴェトのクーではない。第二に、(ボルシェヴィキ中央委員会が選出した)新しい政府はソヴェトとは関係がない。
 新政府は、さまざまの省庁官僚機構を臨時政府から引き継いだ。その官僚機構はまた、ツァーリの閣僚会議から継承されたものだった。
 しかし、旧行政機構が完全に崩壊していた地方レベルでは、ソヴェトが一定の役割を獲得した。
 ソヴェト(あるいは正確にはその執行委員会)は、中央政府の地方機関となった。そして、財務、教育、農業等々に関する自分たちの官僚部局を設立した。
 この行政機能は、ソヴェトの選挙が形式にすぎなくなってしまった後ですら、ソヴェトの利点となった。//
 中央政府(人民委員会議)は、最初は、新しい権力システムの結節部(hub)であるように見えた。
 しかし、内戦の終わり頃までに、ボルシェヴィキ党中央委員会と政治局がその政府の権力を奪い取りつつある兆しがあった。一方で地方レベルでは、党委員会がソヴェトを支配しつつある兆しも。
 国家機関に対する党の優越は、ソヴェト体制の永続的な特質になることとなった。
 しかしながら、レーニン(1921年に重病になり、1924年に死亡)は病気で舞台から退場しなかったならばいかなるこのような傾向にも反対しただろう、そして党ではなく政府が主要な役割を果たすべきだと考えていたのだ、と議論されてきた。(22)
 確かに革命家であり革命的な党の創設者にしては、レーニンには組織に関して奇妙に保守的な傾向があった。
 彼は、即席の幹部会のようなものではなく、真の(real)政府が欲しかった。真の軍隊、真の法制、さらにおそらく、最終的に分析すれば、真のロシア帝国を欲したのと全く同じように。
 しかしながら、この政府の構成員はつねに事実上はボルシェヴィキの中央委員会と政治局によって選ばれた、ということを想起しなければならない。
 レーニンは政府の長だったが、また同時に事実上は中央委員会と政治局の長だった。
 そして、内戦期の重要な軍事政策および外交政策に対処したのは、政府ではなくこれらの党機関だった。
 レーニンの観点からは、このシステムの政府側の大きな利点はおそらく、官僚機構が多数数の技術的専門家(財務、工学、法制、公共の健康等々)をがもっていたということだった。彼らの技術を利用するのがきわめて重要だと考えていたのだ。
 ボルシェヴィキ党はそれ自体の官僚機構を発展させたが、党員ではない外部者を採用することはなかった。
 党には、とくに労働者階級の党員の間には、「ブルジョア専門家」に対する大きな疑念があった。
 このことはすでに、職業的軍人(以前の帝制期の将校たち)を軍が使うことにボルシェヴィキが1918-19年に強く反対したことによって明確に示されていた。//
 ボルシェヴィキによる権力奪取後に出現した政治システムの性格は、組織編成という観点でのみならず、ボルシェヴィキ党の性質という観点からも説明されなければならない。
 ボルシェヴィキは権威主義的性格の党であり、つねに一人の強い指導者をもつ党だつた。-レーニンに対する反対者によれば、独裁的な党ですらあった。
 党の紀律と一体性が、つねに強調されてきた。
 1917年以前は、何らかの重要な論点についてレーニンに同意できないボルシェヴィキたちは、通常は党を去った。
 1917-20年、レーニンは党内部での異論やさらに組織的反対派にすら対処しなければならなかった。しかし、レーニンはこれを不正常で苛立たせる状況だと考えたと見られる。そして、最終的には、これを変える決定的な一歩を進んだ(後述、p.101-3)。
 党外部からの反対または批判については、革命の前も後も、いずれであれ容赦することがなかった。
 レーニンとスターリンの若いときからの仲間であるVyacheslav Molotov(モロトフ)は、のちに敬意をもって、つぎのように論評した。レーニンは1920年代初期に、スターリンすらより強固な心性をもっていた。彼はかりにそれが一つの選択肢だったとしてすら、いかなる反対をも容赦しなかっただろう、と。(23)//
 ボルシェヴィキ党のもう一つの重要な特性は、党は労働者階級だ、ということだった。労働者階級-その自己像において、社会での支持の性質からして、そして党員の大多数という意味で。
 党に関する俗っぽい知識では、労働者階級のボルシェヴィキ党員は「強固」で、知識人層出身の党員は「軟弱」だつた。
 このことにはたぶん、ある程度の真実がある。ともに知識人であるレーニンとトロツキーは、顕著な例外だったけれども。
 党の権威主義的で非リベラルで粗雑な、そして抑圧的な特徴は、1917年と内戦時代に労働者階級と農民の党員が大量に流入したことでさらに強くなったのかもしれない。//
 ボルシェヴィキの政治的思考は、労働者階級を中心に動いた。
 彼らは、社会は対立する階級に分けられ、政治的闘争は社会的闘争の反映であり、都市的労働者階級とその他の以前の被搾取階級の構成員たちは自然な革命的同盟者だ、と考えていた。
 その上さらに、かつての特権的で搾取する階級の構成員たちは当然の敵だと、見なした。(24)
 ボルシェヴィキのプロレタリア-トとの結びつきは彼らの感情形成の重要部分だった一方、彼らの「階級敵」-従前の貴族、資本家の一員、ブルジョアジー、クラク(富農)等-に対する憎悪と疑念は同様に強く、長期的視野で見るとおそらく、より重要だった。
 ボルシェヴィキからすれば、かつての特権階級は、その定義上たんに反革命の者たちというのではない。
 その者たちが存在しているという事実だけで、反革命の陰謀が行われていることになった。
 この国内の陰謀は、理論も内戦時の外国の干渉という現実も示したように国際資本主義勢力が支援しているがゆえに、それだけ一層、脅威だった。//
 ボルシェヴィキの考えによると、ロシアでのプロレタリアの勝利を確実にするためには、階級的搾取の従前の態様を排除するだけではなくて、逆転させることが必要だった。
 この逆転の方法は、「階級的正義」の原理を用いることだった。//
 『かつての法廷では、搾取者という少数者階級が多数者の労働者に対して判決を下した。
 プロレタリア独裁の法廷は、多数者の労働者が搾取少数者階級に対して判決を下す場所だ。
 それは、特別にその目的のために設立される。
 裁判官は、労働者のみによって選抜される。
 裁判官は、労働者の中からのみ選抜される。
 搾取者たちにただ一つ残っている権利は、判決を受けるという権利だ。』(25)//
 こうした原理的考えは、明らかに平等主義的(egalitarian)ではない。
 しかし、ボルシェヴィキは、革命および社会主義への移行の時期に平等主義であるとは一度も主張しなかった。
 ボルシェヴィキの立場からは、ある範囲の者は体制の階級敵であるときに全ての公民が平等(equal)だと考えるのは不可能だった。
 かくして、ロシア共和国の1918年憲法は全ての「勤労者(toilers)」(性や民族と関係なく)に選挙権を認めたが、搾取階級とその他のソヴェト権力に対する識別可能な敵たちを除外した。-識別可能な敵とは、雇用労働者の雇用主、不労所得または賃料で生活している者たち、クラク、聖職者、かつての警察官および一定範囲の帝制期の憲兵や白軍の将校たちだ。//
 「誰が支配しているのか?」という問題は、抽象的には設定されうる。しかし、これは「どの民衆が仕事を得ているのか?」という具体的意味も持っている。
 政治権力は担い手を変えた。そして、(ボルシェヴィキは一時的な応急措置だと考えたが)古い主任者(bosses)に代わる新しい主任者が見出されなければならなかった。
 ボルシェヴィキの気風からして、不可避的に階級こそが選抜の規準だった。
 ある範囲のボルシェヴィキたちは、レーニンを含めて、教育が階級と同じように重要なだと論じたかもしれなかった。他方で、より少ない範囲の者たちは、工場から長いあいだ離れている労働者たちはそのプロレタリアという自己認識を喪失しているのではないか、と気に懸けた。
 しかし、党全体として堅固な合意があったのは、新しい体制が権力を本当に委ねることのできる唯一の民衆は、古い体制のもとでの搾取の犠牲者であるプロレタリアだ、ということだった。(26)
 内戦が終わるまでに、数千人の労働者、兵士および海兵たちが-ボルシェヴィキ党員と最初には1917年にボルシェヴィキとともに戦った者たちで、のちには赤軍や工場委員会で傑出した者たち、若くて比較的に学歴の高い者たち、および世の中で出世しようという野心を示す者たちが-、「幹部」(cadres)、すなわち、責任ある仕事、通常は行政上のそれ、に就く者たちになっていた。
 (そして、多数の非プロレタリア-トの支持者たちもいた。その中には、革命が帝制による制約からの解放と新しい機会を意味したユダヤ人たちも。(27))
 「幹部」たちは、赤軍司令部、チェカ、食糧行政部および党とソヴェトの官僚機構にいた。
 多くの者は、通常は地方の工場委員会または労働組合で働いたあとで、工場の管理者に任命された。
 1920-21年には、この「労働者の昇進」過程が大規模に続くのか否か、あるいはどの程度に続くのかは、党指導者たちに完全に明瞭ではなかった。党の元々の貯蔵層である労働者党員が相当に消耗し、内戦中の工業の崩壊と都市での食糧不足によって、1917年の工業労働者の階級が解体し、麻痺していたからだ。 
 にもかかわらず、ボルシェヴィキは、「プロレタリア-トの独裁」でもって何を意味させたのかを、経験によって見出した。
 それは、工場での仕事にとどまり続けた労働者たちによる、集団的な階級独裁ではなかった。
 「プロレタリア-トの独裁」は、全日勤務する「幹部」または主任たちが作動させる独裁だった。そこでは、新しい主任たちのうち可能な限り多数は、従前のプロレタリアだった。//
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 (21) S・フィツパトリク・<啓蒙人民委員部>(London, 1970), p. 20.から引用した。
 (22) T. H. Rigby, <レーニンの政府-ソヴナルコム・1917-1922年>(Cambridge, 1979)。
 最近の、権力にあるレーニンに関する資料を基礎にした説明として、Robert Sercive, <レーニン-伝記>(London, 2000), Chs. 15-25. を見よ。
 (23) <Sto sorok besed s Molotovym . Iz dnevnikov F. I. Chueva>(Moscow, 1991), p. 184. これは、私の訳だ。
 <モロトフは回想する>の英語版、Albert Resis 訳(Chicago, 1993), p. 107 は不正確だ。
 (24) 個人の階級帰属意識は自明のことだというボルシェヴィキの想定は、すぐに誤っていると分かった。しかし、ボルシェヴィキは10-15年にわたって、実際上かつ観念上の困難さを無視して、社会階層によって民衆を区分する努力をし続けた。
 困難さにつき、S・フィツパトリク・<仮面を剥ぎ取れ!>(Princeton, 2005), Chs. 2-4. および(ドン地方での「階級敵」としてのコサックにつき)Holquist, <戦争を起こす>, とくにp.150-p.197. を見よ。
 (25) Bukharin & Preobrazhensky, <共産主義のイロハ>, p.272.
 (26) S・フィツパトリク・<ソヴィエト同盟における教育と流動性・1921-1934年>(Cambridge, 1979), Ch. 1.を見よ。
 (27) ユダヤと革命につき、Yuri Slezkine, <ユダヤ人の世紀>(Princeton, NJ, 2004), とくにp.173-p.180 とp.220-226 を見よ。
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 第3章の第3節・第4節まで終わり。
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