秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

井沢元彦

2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。

 連綿たる「万世一系」の126代とか言うと、きれいに?きちんと?天皇位が継承されてきたようなイメージもある。しかし、三王朝交替説に立たなくとも、いろいろな、中には血なまぐさい皇位をめぐる闘い等があったことも分かる。
 多彩なことがあった、多様な天皇がいたことの一例は、つぎだ。
 全天皇について、少なくとも薨去・崩御後にすみやかに諡号・追号が付与されたのではない(諡号は美称、追号は御所・山稜名に由来する呼称で、正確には意味が違うようだが、使い分けない)。
 少なくとも、つぎの三天皇は、明治期になって「新しく」名称が決定されている。
 1は、記紀においてすら、天皇だったことが、つまり天皇に即位していたことが、否定されいてた。 
 2・3は天皇に該当する人物だとはされていたが、公式の歴史書を含めて、固有の名称(諡号・追号)が長い間なかった。これは日本史のシロウトには喫驚すべきことだ。数字は現在の皇統譜上のもの。
 1/大友皇子→「弘文」天皇(39代)。
 天智天皇(38代)の子。母は伊賀采女宅子。正妃は天武(40代)の子の十市皇女。葛野王は子で、葛野王の孫の淡海三船は曽孫。「壬申の乱」で天武・持統(41代)側に敗北する。
 2/廃帝・淡路廃帝→「淳仁」天皇(47代)。
 天武(40代)の子の舎人親王の子、つまり天武の孫で大炊王とも。舎人親王の母は新田部皇女で持統ではない。いったん天武の子の、母は持統ではない新田部親王の子の道祖王が孝謙(46代)の皇太子とされたが、これに代わって即位した(758年)。藤原仲麻呂=恵美押勝の乱(764年)終息とともに廃位され淡路に幽閉された。翌765年に脱出先で死亡。孝謙が重祚(=称徳。48代)。
 宇治谷孟・全現代語訳/続日本紀・中(講談社学術文庫、1992)p.191の巻二十一冒頭は「廃帝・淳仁天皇(第47代)」と記しているが、後記のとおり「淳仁」諡号は明治3年のことなので、代数も含めて、明治期の皇統譜に従って記したものと思われる。
 3/九条廃帝・後廃帝→「仲恭」天皇(85代)。
 安徳天皇(81代)と二重に在位していた後鳥羽(82代)が承久の乱を起こし(1221年)、敗北後に隠岐に流刑され(死後は一時期に「顕徳院」と呼ばれたらしい)、その子土御門(83代)と順徳(84代)も、それぞれ土佐・佐渡に流刑となった。
 その順徳の子で1221年に践祚したが、在位のべ4カ月で退位。1234年に満16歳で死亡。母は九条良経の娘・立子。
 上の三天皇についての天皇「諡号」付与は、つぎの明治3年「布告」により一括してなされた。
 明治3年7月24日太政官布告<大友帝廃帝九条廃帝ニ御諡号奉上ニ付御典執行>。 
 「大友帝 弘文天皇
  廢帝  淳仁天皇
  九條廢帝 仲恭天皇
  右 三帝御諡號被爲奉候ニ付明廿三日八字於神祇官御祭典破爲行候事」。
***
 このとおりで、大友皇子以外は「天皇」だったことは認められていながら、淡路廃帝や九条廃帝(または廃帝・後廃帝)はいわば通称で、正式の「固有」名は各々1100年、650年ほどの間も存在しなかった。
 これで済ませておれたというのだから、後裔たる天皇たちや皇室の過去の天皇在位者たちに対する<崇敬>心はいかほどのものだったのかと、疑い得るのではないか。
 ちなみに、第一。3/仲恭天皇(85代)の名は「仲哀」天皇(14代。神功皇后の夫)とともに「仲」の字をもち、気のせいか痛ましい。
 第二。仲恭天皇を継いだのは後堀河天皇(86代)で、後鳥羽(82代)の実兄である守貞親王の子。その子の四条(87代)とともに、皇統は後鳥羽の系統からいったんは逸れる。
 この後堀河天皇の陵は「観音寺陵」といい、その子の四条天皇の陵は「月輪陵」内にある。前者は今熊野観音寺に距離的には近いかもしれないが、参拝道は途中まで孝明天皇の後月輪東山陵と共通しており、直進しないで途中で左に分岐する。この後堀河天皇・観音寺陵も<泉涌寺境内>と記述されることがある。後者の四条天皇陵はは文字通りかつては明瞭に泉涌寺境内にあり、のちの江戸時代の後水尾天皇らと陵の区画を共通にしている。
 この二人の陵墓が泉涌寺境内または付近に造営されたのは、文献で確かめていないが、承久の乱(変)に勝利した幕府(北条義時ら)の意向だろうと推察される。すでに存在はしていた泉涌寺境内・付近への天皇陵設置は、この後堀河・四条から始まるのだ(江戸時代は全天皇の陵がが泉涌寺「境内」の月輪陵・後月輪陵)。
 第三。2/淳仁天皇(47代)の陵は淡路島にあるようだが、現在にも京都市にある白峯神宮の祭神となって祀られている。
 白峯神宮(上京区飛鳥井町)のウェブサイトによると、この神社はもともとは陵(白峯陵という)は香川県坂出市にある崇徳天皇(崇徳院)を祀るためのもので孝明天皇の発願によるが、遺志をひきついで明治天皇が明治元年(1868年)に造営して祭神とした。そして、同6年(1874年)に淳仁天皇も「併祀」した、という。
 同ウェブサイトは「由緒-御祭神と御聖徳崇敬の意義」の中でこう明記する。-崇徳天皇は「~御非運の生涯であ」った、「~御無念の様子を偲んであまりあるものがあ」る。淳仁天皇(淡路廃帝)は「藤原仲麻呂の乱を契機に御廃位となり淡路島に御配流されて、…同島にて崩御」した。
 「当神宮は、かような歴史上御非運に会われた御二方の天皇の御神霊をお祀り申し上げております。
 しかしながら、両天皇の<中略>御聖徳はまことに偉大でありながら、かつ御無念な御生涯であられたことを悲しむものです。
 かかる場合は、後世の人々がその聖徳を偲び、御霊を慰め奉ることが大切です。」
 崇徳天皇とともに、明治になるまで固有名称すらなかった淳仁天皇がどのように意識されているかが分かるだろう。「御霊を慰め」る必要があるのだ。
 なお、①明治天皇が皇位践祚後に白峯山稜に勅使を派遣して崇徳に「謝罪」した翌日に即位式を行ったこと(8/27)、②京都の白峯神宮に「霊」が遷って親拝した翌々日に明治改元をしたこと(9/8。年頭に遡って明治となった)については、以下を参照(著者は<白峯神宮御鎮座120年史>に依拠している)。
 井沢元彦・逆説の日本史02/古代怨霊編(小学館文庫、1998/原著1994)、p.161-4。
 第四。「ちなみ」ついでに、さらに蘊蓄を傾けよう。天皇から話題が逸れていくけれども。
 白峯神宮(京都・今出川通り北)の歩いていける南西方向に晴明神社がある(堀川通り西)。安倍晴明を祭神とする神社だ。参拝者はサッカーとのゆかりもある(旧飛鳥井家宅跡の)白峯神宮とどちらが多いのだろうか。「晴明」由縁で、羽生結弦選手による絵馬か額が(手の届かない上の方に)掲示されているらしい。安倍晴明は近くの「一条戻橋」下に「式神」たちを匿っていたともされる。
 ところで、近くの阿倍王子神社の末社のように思えるが、安倍晴明神社という神社が大阪市阿倍野区にある(独自の社務所がないようだ)。祭神は名前のとおり。この辺りで生まれたとの伝承があるらしい。
 やや北方に、「阿倍野保名郵便局」という名の小さな郵便局がある。「保名」(やすな)という地名はどこにもないと思われるが、これは阿倍晴明の父親の名前だとされている。安倍晴明が生きた(らしい)時代から1000年以上経って、その名を冠する神社があり、父親の名に由来する郵便局がある。気が遠くなるような話の一つだ。
 さらについでに。阿倍王子神社の裏、安倍晴明神社の前を通っているのがかつての「熊野街道」で、現存する僅かな部分の一つらしい。地名としても残る「王子」という名も、後白河上皇等々による<熊野詣で>から由来する。
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 下は、白峯神宮(京都市上京区)、安倍晴明神社(大阪市阿倍野区)。いずれも、ネット上より。

 
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2093/安本美典・神功皇后と広開土王の激闘(2019年)。

 安本美典・神功皇后と広開土王の激闘-蘇る大動乱の五世紀(勉誠出版、2019年)。
 安本美典、1934年2月生まれ。85歳の人の新著だ。しかも、今年になってすでに3冊も刊行している。
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 アマゾン・書籍販売サイトでの最低の評価(星一つ)の文にこうある。
 「安本が神功皇后の三韓征伐伝承の史実性を認めたことは評価するが、皇后にあらぬ疑いをかけたのは許しがたい。たとえ仲哀の死、応神の出生が不自然だとしても、神功皇后と武内宿禰の不義密通の確たる証拠はどこにもない。疑うのは勝手だが、あやふやな状況証拠だけで不倫をしたと決めつけるのは名誉棄損ではないのか。」
 そもそもは、歴史の叙述や考察への評価は「許す」・「許さない」、「許し難い」とかなのだろうか。なお、「確たる証拠」があるとは著者も主張していない。「決めつけ」もしていないだろう。仲哀死後のことだとかりにすると、「不義密通」にもなりそうにない。
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 安本美典は「日本神話」そのまま信仰論者ではなく、かつ<王朝交替>論者でもない。血統断続と王権交替を主張できるとすれば、上の書の<推測>くらいは可能だろうという旨を書いている。この人にとって重要なのは、確率、つまり合理的推測の努力における合理性又は説得性の程度なのだ、と考えられる。とくに古代史については、史資料が乏しいため、そうならざるをえないのではないか。
 また、安本は直接に皇位継承の男系とか女系とかを論じていない。この著を離れて思うのは、つぎのようなことだ。
 神功皇后が実在の人物で応神天皇(これも実在とする)の父親が仲哀天皇でなかったとすれば、日本書記がまるで<天皇>扱いをして一巻をあてている神功皇后を祖として、応神天皇以降の天皇・皇室は女系だった、と言えなくもない。
 しかし、<古事記>によると神功皇后は開化天皇の「5世の孫」とされているらしいので、仲哀ではなく神功皇后だけの血を引いていても、応神天皇は<男系>だとすることは、この語の理解によっては、可能だ。また、応神天皇の実の父親だろうと安本や井沢元彦が強く推測している武内宿禰の祖先も遠くは天皇・皇室にたどりつくようなので、そうすると、まぎれもなく<男系>ではある。
 しかし、のちの継体天皇は、日本書記等によると応神天皇の「5世の孫」とされている。その遠さを一つの理由として、継体以降は応神<王朝>とは別の<新王朝>と推測する説もあるのだとすると、神功皇后は開化天皇の「5世の孫」だとするのも、その信憑性の程度を疑問視することもできる。武内宿禰については尚更だ。
 継体天皇が仁賢天皇の子で武烈天皇の姉の女性(手白香皇女)を妃とした(とされている)のは、自らは<男系>であってもまるで<入り婿>のように当時の直近の天皇・皇室に入って、その<権威>を高めようとした、と考えられなくはない。そのように叙述したのは後世の日本書記等の編纂者だけれども。
 そうすると、神功皇后は自らは遠くは<男系>であっても、現天皇の妃となることによって、その<権威>を高めようとした、と考えられなくはない。
 <権威>を高めようとしたどころか、天皇(仲哀)の妃であり天皇(応神)の実母とすることによって、その権威・神聖性を最高度にしたのは、日本書記の執筆者・編纂者だったかもしれない。
 とすると元に戻るのだが、のちの継体が(現在につづく)<新>王朝の祖だったとかりにすると、神功皇后-応神天皇もその前の<新>王朝の祖だった、と言えなくもない。
 いずれも、天皇・皇室あるいは皇統の<系図>に加えられることによって、地位・権威が高められているのだ。同じことだが、そう記述することによって、日本書記等編纂者は、地位や権威を高めているのだ。
 以上は、素人の<趣味>的な想像なので、真面目に学術的に?主張しているのではない。
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 かつて私が日本史を初めて勉強したとき(小学6年生?)、<任那日本府>の存在が明確に書かれていたように思う。そして、神功皇后の「三韓征伐」とやらも、この言葉ではなかったかもしれないが、史実として語られていたような気がする。しかし、神功皇后も<任那日本府>も、実在性やその意味が今ではかつてとは違って教科書に書かれていないらしい。だからどうだ、といきり立つ気持ちは全くないのだけれども。
 さて、上記の安本美典著。第一章・<奇怪な神功皇后伝承>と「おわりに」はきちんと読んだ。安本の本あるいは安本による神功皇后関連の文章を読むのは初めてではない。
 初めて知ったか、改めて想起させられたのは、仲哀天皇には神功皇后よりも前に妃がいて(大中津比売)、すでに二人の皇子(香坂王・忍熊王)もいた、ということだ(史実としてではなく、後世の書の記載によると、として書いている)。
 にもかかわらず、これらを押しのけて?、あるいは打倒して?、神功皇后の子(応神)が皇位を継承したのは、神功皇后によほどの「力」があったのだろう、とは言える。
 次いで、「神懸かり」=一種の「解離性同一性障害」に関する医学的・精神科学的探究も興味深い。p.8-p.12。たんなる<文学>趣味系の学者・評論家は、こういう作業を思いつかないかもしれない。
 さらに、神功皇后や武内宿禰の「顔」が戦前の紙幣に描かれていたことの叙述も面白い。
 前者の紙幣は1881年・1883年に、後者の紙幣は1889年・1899年に発行されている。
 前者は日清戦争前、後者は日ロ戦争前後ということも、なるほどという気がする。しかしそれよりも、当時の「日本国民のだれもが、その〔紙幣に描かれた〕絵を見た」、二人は福沢諭吉・夏目漱石よりも有名だったかもしれない、という記述が印象に残る。p.42-p.46。
 紙幣もまた、時代(の歴史観)を反映する、ということか。神功皇后とか、武内宿禰とか、今日では一般には、ほとんど無名だろう。
 最後に、この書の「おわりに」で、安本は第一に、その研究上の「立場」を、こう記述している。同趣旨はこれまでにも読んだことがある。
 ・この書は「イデオロギー的な立場にたつ人々の支持をうけにくい」だろう。
 まず、「天皇家の尊厳を保ちたいと考える人々」に。「しかし、『古事記』・『日本書記』はもともと、事実をかなり記しているのであって、諸天皇の尊厳性ばかりを記しているわけではない」。
 次いで、「戦後のいわゆる進歩的文化人や、津田左右吉流の文献批判学の立場にたつ人々」等の学者たちに。これらの人々は「神功皇后や武内の宿禰は架空の人物、…と考える傾向が強いから」だ。
 ・「一定のイデオロギー、先入観、先輩の学説の拳拳服膺によって、見るべき事実も見ない古代史研究があまりにも多すぎる。」
 第二に、安本にしては、これまでに全くなかったわけではないと思うが、やや「感傷的」なまたは「文学的」な文章がある。安本美典もまた人間で、当然に感情・情感をもつ。その意味では、好感をもつべきなのかもしれない。以下、全て引用。
 ・「私は、私の復元した古代史像に、かなりたしかな手ごたえを感じているが、私は、空中に楼閣を描いたのであろうか。」
 ・「西暦400年ごろ以降の春秋でさえ、ふりかえれば、夢のようでもある。長い絵巻物をひもといているようである。」
 ・「琴の音が聞こえる。若い皇后には、神の威厳がそなわっている。…」
 ・「天皇位も、さらにはみずからの命さえ、恋の業火になげいれた皇子がいた。…」
 ・「金色に輝く釈迦像をはじめて見て、小おどりした若い天皇、…がいた。…」
 ・「燃える炎で、海も空も、まっ赤にそまった日もあった。船の崩れ沈む音。異国の海に投げだされ、潮水を飲みながら藻屑となっていく兵士たちの叫びも聞こえる。」
 ・撤退、外国文化の衝撃。「国政を改革し、国力の充実をはかる。そのあいだにも、人は恋する。あるいは、欲望のほしいままにする人がおり、あるいは、高い倫理観で自己を犠牲にする人がいる」。
 ・「数百万、数千万人の生死哀歓も、必死の努力も、歴史は、ただ一片の、春の夜の夢にしてしまう。河に散るただ一ひらの花びらにしてしまう。
 ・「歴史は哀しい。今日も、歴史の河は流れている。
 ・この本の「小舟」が「ふとした縁で、あなたの心の港にもしばらくとどまり、あなたとひととき、よい運命をともにできますように。」 p.294。
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2015/聖徳太子-江崎道朗21の準備。

 聖徳太子に関して最も新しく得た知識は、おそらく親鸞(浄土真宗)が聖徳太子を崇敬していた、ということだ。
 <聖徳太子信仰>というレベルの話なので、聖徳太子または厩戸王子の存否(たぶん該当人物はいたのだろう)やかつて行った事跡の真否等とは関係がない。
 京都の東西の本願寺の阿弥陀堂(本堂)には阿弥陀如来像の脇に聖徳太子の像か画が置かれているらしい。
 浄土真宗寺院に限られているわけではない。京都市内の最も中心地にある有名寺院の一つかもしれない頂法寺(六角堂。六角烏丸東入ル)は天台宗系だが聖徳太子開基と伝えられ、聖徳太子に由緒があるとされる如意輪観音を本尊とし、西国観音霊場の札所の一つであるとともに京都に特有の洛陽三十三観音霊場めぐりの第一番札所だ。かつまた、親鸞も参詣したことがあるらしく、それに関連する文章の掲示が六角通りの南側(本堂の向かい)にある。
 関連してさらに進めると、大師堂(だいしどう。多くは弘法大師=空海の仏堂)とは別の太子堂(たいしどう)という聖徳太子を祀る仏教施設がある寺院もある。
 その前で参拝したかは忘れているが、寺院の本堂は参拝したことがある、太子堂をもつものに以下がある。
 六角堂頂法寺(上記)、鶴林寺(加古川市)、瑞泉寺(富山県南砺市)、大聖勝軍寺(大阪府八尾市)。東京・世田谷区の「太子堂」(円泉寺)は訪れたことがない。
 「太子堂」と称さなくとも、聖徳太子を祀る特別の建物をもつ寺院や、その他由縁のある寺院は少なくない。
 広隆寺(京都・太秦)、法隆寺、四天王寺。
 斑鳩寺(兵庫県太子町)、叡福寺(大阪府太子町。直近に陵墓あり)。
 他にもきっとあるだろう。「太子」との地名が今に残るのもスゴい。
 なお、四天王寺(大阪市)の西門付近には「大日本仏法最初四天王寺」と刻む大きな石柱が立っている。この寺は仏教伝来にかかわる対物部氏戦争の勝利の結果として聖徳太子の発願により建立されたとされている。
 学校教科書による知識以外で、聖徳太子に関連して最も早く興味深く感じたのは、つぎの書物によってだったかもしれない。
 梅原猛・隠された十字架-法隆寺論(新潮社、1972。新潮文庫、1981)。
 この著者の一行で済むところを二、三行かけるおどろおどろしい?文章も記憶にあるが、法隆寺・聖徳太子をめぐるいくつかの「謎」のうち、最も印象に残ったのは、法隆寺中門の柱の数が奇数で、真ん中を通れないようになっていることの指摘だった(神社の楼門もそうだが、たいていの門の柱数は偶数で、そうすると柱の間の空間数は奇数となり、必ず真ん中が空く)。
 なるほど不思議なことで、この点だけによるのではなく他に多数の論拠が示されていたが、梅原猛によると、法隆寺は聖徳太子を鎮魂しその「怨霊」を中に「封じ込める」ための施設だとされる。
 なぜ「怨霊」になったか。手元にこの書物を置いていないが、要するに「政治闘争」に敗北し、その子・山背大兄王一族も含めて全員が殺戮されたからだ(自殺・心中の強制を含む)。
 おそらく上のあとで読んだ、井沢元彦の書物も面白かった(関心を惹いた)。これは単行本の段階で新刊で読んでいる。
 井沢元彦・逆説の日本史2/聖徳太子の称号の謎(小学館、1994。小学館文庫、1998)。 聖徳太子の「怨霊」視は梅原と同じだが、「徳」という漢字の諡号の不思議さの指摘は意表をついた。
 聖徳太子は皇位に就かなかったようだが、かつてつぎの諡号をもつ6名の天皇がいた。
 ①孝徳、②称徳、③文徳、④崇徳、⑤安徳、⑥順徳。
 崇徳天皇(・上皇)以降の3名で十分かもしれない。つぎの書のように、崇徳は菅原道真、平将門とともに日本の三大「怨霊」とされることがある。
 山田雄司・怨霊とは何か-菅原道真・平将門・崇徳院(中公新書、2014)。
 安徳天皇は8歳で下関の海に沈んだ。
 順徳天皇は承久の変を起こした後鳥羽天皇の子で、佐渡に流されてそこで死んだ。
 なお、後鳥羽は安徳天皇在位(生存)中に!京都で即位した安徳の異母弟だ。
 そして、いま手元にあるの井沢著(文庫版)を見ていると、後鳥羽は死後4年間は「顕徳(院)」と呼ばれたらしい(!、p.174-5)。
 井沢元彦によると<聖徳>から始まるというのだが、「徳」が付くのは偶然なのか。孝徳、称徳等については省略。
 脱線するが、京都・神泉苑で御霊会が最初に開催された記録の残る9世紀前半に「怨霊信仰」は成立したとの文献実証主義学説もあるようだ。しかし、「怨霊信仰」という言葉・観念の意味の問題ではあるものの、「怨霊」意識とそれを恐れる(だからこそ「怨霊」と称する)意識は、もっと早くからかなり広く成立していたように推察される。
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 上の前半に書いたことは、聖徳太子の、神道ではなく仏教とのつながりの強さだ。
 <太子信仰>とは、日本の宗教の一種で、かつ強いて分ければ、仏教的なものだった。
 (こういうやや曖昧な形の文章にしているのも、かつて神道と仏教の明確な区別はあったのか疑問だからだ。また、むろん明治新政権が採用したはずはないが、幕末までの時点で欧州のキリスト教に該当した日本の宗教は「神道」ではなく「仏教」だったのではないか、との感触がある。)
 さて、江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 この著で江崎道朗は、「聖徳太子」という言葉を数十回も登場させ、多くは「十七条の憲法」という語も用いる。
 江崎は、どのような意味で、またはどのような趣旨・脈絡で「聖徳太子」に言及し、「聖徳太子」を尊敬する趣旨を述べているのか。きちんと確認しておきたい。無惨さ、悲惨さはここにもある。

1962/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史04。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 欧米の概念用法に従う必要はないとしても、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>の政治運動は決して「保守」ではなく、欧米では「右翼」または「極右」と称されると見られる。
 これまた日本独自のことを欧米に比較して単純に比較して言うことはできないとしても、「君主」が存在する国家で、それを<戴き>、その永続を願うことは<保守>派だとは決して言えないと思われる。むろん、別の趣旨・意味または論脈で「保守」(的)という語は用いられている。
  産経新聞社の要職にあるのかもしれない桑原聡は、月刊正論(同)の編集代表時代に、こう書いた。2013年12月号末尾。
 ①「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」。
 ②「自信をもって、…天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」
 この当時は上の①に反発を感じたが、振り返ると、上の②で桑原聡が表現する「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」という考えまたは気分が、この人物が理解する<保守>なのだろう。
 これは、「保守」派または「保守主義」か。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」というのは、いったいいつの時代のことを想定しているのか。「神武」天皇以来、「わが国の在りよう」は同一または同質だとでも理解しているのであるとすると、恐ろしい。
 ひょっとすれば、明治維新以降、明治天皇の代以降のみが、桑原聡にとっての「保守」すべき「日本」なのではないか。明治維新以降の、とりわけ1945年での断裂と連続について議論すべきところは多々あることは別としても。
 櫻井よしこは、「これからの保守に求められること」と題する小文で、つぎのように書いた。月刊正論2017年3月号84-85頁。一文ごとに改行。
 「五箇条の御誓文と十七条の憲法には重なる部分があります。
 この二つは驚く程普遍的な価値観によって支えられています。
 それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本ではないでしょうか。」
 これこそが櫻井よしこの「保守」宣言であり、「保守」理解なのだが、「日本の日本たる基本」を示す「それ」が何か不分明であるものの、それはどうやら「五箇条の御誓文と十七条の憲法」が示す「普遍的な価値観」らしい。
 やれやれ、何の専門家でもない櫻井よしこがこうして上の二つを結びつけて、なるほどと感心するのは、江崎道朗等々の<日本会議>の熱心な会員くらいではないか。
 前天皇(上皇陛下)の譲位問題をめぐって、現憲法等の諸条項の文言すら知らないままで上の問題を論じ、<政教分離>条項も知らないままで<祭祀>の憲法上の位置を高めよとか書いていた、「あほ」の一人である櫻井よしこの「歴史認識」など、誰が信頼できるだろう。
 この人物は安倍晋三戦後70年談話を田久保忠衛と一緒にいったん称賛し、中西輝政らの強い批判があることを知るや、「歴史認識」として問題はあるかもしれないが、「政治的文書」として支持すると(雑誌文をまとめた翌年の書物の追加注記で)、のうのうと言い放った人物だ。
 この櫻井よしこによるとどうやら、聖徳太子の時代(いや、正確にはこの人物らしき者による文章)といちおうの権力交替後に発せられた(<倒幕の密勅>の時点でスローガンとして表現されていない)明治新政権の理念(らしき)文書には、一貫性・連続性あるいは同質性があるらしい。
 日本共産党が種々主張しているのと同じで、<何とでも言える>。
 江崎道朗著のおかげでこの聖徳太子・「十七条の憲法」問題にはずっと関心をもっているので、いずれ何か書くだろう。
 いずれにしても、櫻井よしこにおいても桑原聡と共通しているのは、どうやら<明治期以降の日本>の歴史的伝統こそが(それは神武天皇・聖徳太子以降連続しているのかもしれないが)きわめて高く評価されている、ということだろう。
  菅義偉官房長官は、将来の皇位継承問題について、「古来例外なく」男系男子で継承されてきたことを「重く」受け止めつつ検討したい、とか発言していたようだ。
 ここでいう「古来」とは、いったい、いつ以来のことか。
 秋月瑛二によると奈良時代後半以降、最年長で就位したらしい光仁天皇以降のことで、それ以前は少なくとも、含まれない。
 だが、神武天皇以来、と明言する者もいるようだし、櫻井よしこもまた、2600数十年とか、120数代の、とか明記していた。
 秋月は元号という制度に反対していないし、また「建国記念の日」の設定にも反対しなかった。後者についていうと、「神武」天皇が旧暦1月1日に就位したので新暦ではなどという「話」はウソであるに決まっている。
 それでもあえて「建国」を話題にしたいならば「物語」として、<そういうことにしておく>ということに殊更に反対しようとは思わないだけだ。
 厳密にいえば、現在日本の成立・「独立」はサンフランシスコ講和条約の発効日である4月28日ではないか、とも考えられる。これに立ち入らない。
 すでに記したように、通説的な理解に従うとすると、少なくとも孝謙(・称徳)天皇の存在自体が、男系男子「一系」論と矛盾している。
 しばしば奈良時代等の「女性」天皇は男子・男系につなぐための「つなぎ」・「中つぎ」だと説明されるが(とくに男系男子論者によって)、この主張は少なくとも称徳(・孝謙)天皇には当てはまらない。持統天皇にも当てはまらないだろう。江戸時代の明正天皇(女性、17世紀)には当てはまるとしても。
 元に戻ると、「神武」天皇に当たる現在の皇室の始祖はいたのだろうが、系図的に明確なものではなく、あくまで<日本書紀によると>という条件を付けなければならない。
 神武天皇陵は明治維新以降にいくつかの候補の中から決定され、その近くに「橿原神宮」が明治期に建立された。平安神宮は明治憲法下で平安京遷都1100年を記念して設立された。明治神宮は当然ながら大正時代のもの。
 皇室ゆかりの平安期以前からの、などというものでは全くない。これらは、少し立ち入ってみれば<常識>の範疇だろう。こうした明治期以降のものにだけ日本の「伝統」を感じてしまうのは、性急すぎだし、誤っている。
 余計なことをまた書いたが、欠史八代につき神武天皇から父親-男の子という直系継承の連続を語る日本書紀をそのまま「信じる」ことができるわけがない。この点で、在位(・生存)期間は捏造(作為)だろうが「代数」に限っては正確な記憶があったのではないかとする安本美典説は、この代数論は安本説にとって重要だが、少数説なのだろうか。
 ある意味では、日本書紀(・古事記)をそのまま、または原則として「信じる」、「信じようとする」のが日本会議等の<天皇崇敬派>かもしれない。
 しかし、日本書紀(・古事記)等々の古文献の信憑性の範囲や程度は専門家・研究者に任せるべきで、「右」も「左」もだが、政治的に全肯定または全否定することで歴史を歪曲してはならない。政治目的・運動目的のために、日本の歴史を「利用」すべきではないだろう。
 神武天皇以来のとか、皇統2670年、125-6代とかいうのは、全て「ウソ」だ。たんなる「お話」にすぎない。
 櫻井よしこは平気で代数を明記していたが、その数字自体が明治期になった確定されたもので、疑わしかった大友皇子(天智天皇の子)は一代(=弘文天皇)とされ、神功皇后は天皇ではなかったとされ、また南朝ではなく北朝が<正嫡>の皇統だとされた。
 上の論点のいずれについて争っても、代数は違ってくるのであって、「信じれば正しい」というものではない。
 なお、日本会議等は<天皇崇敬派>だというのは、彼らのいう「観念」としての天皇や天皇の歴史についての「崇敬」であって、現実に前天皇(上皇陛下)や今上陛下(・雅子皇后)についてはとても「崇敬」者たちとは言い難い(少なくともかつてそうだった)ことはまた再び記録しておきたい。
  やれやれという気がしたのは、西尾幹二が、こう書いていたことだ。同・ウェブサイトによる。産経新聞2019年3月1日付「正論」欄。
 つぎはまだマシかもしれない。平安時代後期以降の視野を限るとすれば、という条件をつけてだが。
 「皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から…武士の誇示する政治力や軍事力を自ずと超えていた。」
 まだマシだが、しかし、最近に、鎌倉時代には「東」の武士権力と「西」の天皇・公家権力が土地の領主支配としても並列していた、という文献を読んだ(あるいは、一瞥した)。
 ともあれ、つぎはマズいだろう。
 「125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家の中で類例を見ないものであり、…」。
 明治期の正嫡論争等を知っているはずの西尾幹二は産経新聞「正論」欄に政治的に媚びているのではないだろうか。善解すれば他国と比べてのレトリックかもしれないし、「125代続いたとされる」が編集者にによって「続いた」との断定文に事実上一方的に変えられた、ということも、前例からにするとありうるのではあるが。
 日本は神の国です、と言うのと、日本は神の国と言われています、では、まるで意味が異なる。
 八幡和郎は、つぎの叙述に関するかぎりで、秋月瑛二よりも日本書記等への信頼度が高く、皇室あるいは天皇制度に対する信頼度・崇敬度も、私よりもやはり高いようだ。
 八幡和郎・最終解答/日本古代史(PHP文庫、2015年)。
 「『日本書記』『古事記』は、系図や出来事がそのままでも、神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』すれば外国文献や考古学的成果と矛盾はないのです。」
 この文章は「神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』」をするのでよい、とするが、いちおうは説得力ある、スジをたどれる叙述ならば全て「史実」と理解してしまうという懸念・危険があるように思われる。この人によると、「継体」天皇即位期に「対立」はなかった。
 そもそもは、天武天皇(・持統天皇)とその後継者期に編纂・作成されて何らかの政治的(とくに自分たちを正当化する)目的・意図をもって記述されていることを見逃してしまうおそれがあるのではないか。
 具体的な内容を読んではいない。但し、別の主題だが明治維新や明治時代への八幡の評価は、秋月瑛二よりも高いようだ。そのこともあってたぶん、月刊正論(産経)に文章を書いたりしているのだろう。
  奈良時代の女性天皇について、持統天皇を「祖」とする<女系天皇>といったことを元々は書きたかったのだが、つぎの文献に気づいた(新たに買い求めたのではなく広大な書庫?で見つけた)ので、これらをもう少し読んでからにしよう。
 遠山美都男・古代の皇位継承(吉川弘文館、2007)。
 大塚ひかり・女系図でみる驚きの日本史(新潮新書、2017年)。
 追記/前回に仲哀天皇-応神天皇の継承の否定説として井沢元彦の名を挙げたが、安本美典も、その結論および実際の父親の特定も同じ説のようだ。
 こんなことに、櫻井よしこ、江崎道朗、椛島有三らは興味がないだろう。

1957/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史03。

  「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 論点をほとんど一つに絞ったような政治的精神運動団体は、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>だとは言えても、「保守」だとは本来は称し難いように思われる。
 「リベラル」も至極あいまいな概念で、この欄ではできるだけ使用を避けている。
 しかし、これまで頻繁に使ってきた「保守」という概念・言葉の意味やそれがもつ射程範囲もまた、この欄でも何度か触れてはきているのだが、基本的な再検討が必要だ。
  曖昧なままで「保守」という語を使っておくと、広い意味での今日の日本の「保守」派を分ける基本的な対立点の一つは、<天皇>制度につき、とりわけ将来または近未来のそれについて、男系に限るべきとするか、少なくとも何らかの時期を想定して<女性かつ女系>天皇も容認すべきだとするか、にあるようだ。
 言うまでもなく日本会議派は前者の立場で、日本会議系または神道政治連盟系を「堅い」読者層とする産経新聞社の主流派および月刊雑誌・正論の基調もまた、前者だと推察される。これらと一線を画してはいるが、この論点に限っては、西尾幹二も前者に入る。
 秋月瑛二もまた、かつて一時期、この立場を支持して、<女系天皇>容認論者を、例えば小林よしのりの議論を批判したこともある。
 その場合の論拠はほとんどもっぱら、日本の<歴史的伝統>であって、「女性」天皇はいても<女系>天皇を日本の歴史は容認したことがない、ということにあった。
 前者の主張の論拠もまた、ここにあったし、またあるものと思われる。
 つまり、せっかくの<歴史的伝統>をあえて崩す必要はないのではないか、という素朴かもしれない発想によっていた。
 もちろん、天照大御神は「女性」だった(ヒミコも女性だった)などということは、<女系>天皇容認論のまともな論拠になるはずはない。、
しかし、もともと日本史の専門家ではないことにもよるのだったが、そもそも日本の歴史には「女性」天皇はいても、<女系>天皇を容認したことはない、かつまた原則的にでも<男系男子>が存在する場合には当該男子が継承してきた、という根本的な論拠については再検討が必要かと思われる。そして、日本会議派等の<男系>限定論者の「歴史認識」は本当に正しいのだろうか、という疑問をもつに至った。
 というのは、基本的な問題として、ある天皇が<男系>か<女系>かは簡単には決定できないのであって、一種の<価値判断>を前提にしている。あるいは、明治維新以降、つまり明治期以降に一般的になった「固定観念」をなお維持している、と考えることのできる根拠があるようだ。
  結論的に言って、<男系>限定と日本の天皇の歴史を認識することができるのは、おそらく光仁天皇以降、つまりはほとんど平安期以降であって、それまでは<男系>に限定されていた、あるいはそういう観念・意識が定着していたとは、全く言えないだろう。
 そもそも、神武天皇以降一貫して<男系>に限られてきた、とするのはたぶん日本書記等による、おそらくは後世になって、平安期以降に造られた「物語」であって、真実はそうではないだろうと思われる。
 こんなことは一部の論者あるいは日本史の専門家から見れば当然のことなのかもしれない。そうだとすると、日本会議派等の<男系>天皇限定論者は、日本の歴史について、<ウソ>をついていることになる。
 そもそも論から言うと、神武天皇以来脈々と「天皇」家の血統は続いてきている、ということ自体、神話・伝承あるいは、櫻井よしこらが好む「物語」にすぎない可能性が十分にある。<万世一系>は歴史認識としては(当然に「万」世ほどに続いていないことは別論として)誤りだろう。
 日本書記の描く古代史とは違う「王朝交替」論があることはよく知られている。そのうちの最初の方の継体天皇について<男系>とするのは、やはり不自然かと思われる。子細には立ち入らない。
 比較的最近につぎの新書を一読していて、須原祥二「第二講・倭の大王と地方豪族」があっさりとつぎのように記述しているが興味深く感じた。
 佐藤信編・古代史講義-邪馬台国から平安時代まで(ちくま新書、2018)。
 「そもそもこの時期までに、盟主の地位が特定一族の男系で継承されていたかどうかわからないが、仮にこの時点で盟主権の移動を想定するなら、例えば『入り婿』のような形での政権中枢内部における権力委譲や権力闘争の問題として、まずは検討した方がいいいだろう」。
のちに言う「継体」天皇が「入り婿」だとすると、むろんそれ以降の天皇の血統は「女系」天皇になる。
 この辺りについてはもっと前にヒミコ・邪馬台国問題にも触れたくなるのだが、割愛する。皇祖神が天照大神であって、神武天皇がその嫡流だとすると、これもまた「天皇」家の歴史と無関係ではない。
 応神天皇(胎中天皇)の母親は神功皇后とされるが、父親が仲哀天皇ではないとすると、<男系>継承は途切れている(井沢元彦説で、「推論」の部類だが、トンデモ説だとは思えない)。
  急いで書いてしまうと、おそらく奈良時代の孝謙天皇(=称徳天皇)の時期までは少なくとも、<男系>での「万世一系」による天皇たる地位の継承という意識・観念は成立していなかった、と考えられる(「天皇」という呼称自体、この時期による)。
 持統、元明、元正という各「女性」天皇の即位の時点で、<男系>皇族の中に男子も存在したはずだ。なぜこれらの「女性」天皇が成立し得たかは、後世の<男系・男子>による継承という原理・原則からはおそらく説明できないだろう。
 天武-草壁皇子-文武-聖武という「男系」の維持との関係でのみこれらの「女性」天皇即位を位置づけるのは、<後づけ>的な、天武-草壁皇子-聖武という<男系>中心史観とでも言うべきではないだろうか。
 また、孝謙(=称徳)天皇の発生と称徳天皇による道鏡への譲位の意向-宇佐神宮の「ご神託」という「話」は、男系か女系かという問題以前に、皇族の中から後継「天皇」を選ぶという原理・原則自体が、完全には定着していなかったことを示しているようにも見える。
 なお、数年前だろう、読売テレビ系の某番組で、竹田恒泰が<女系の例があるなら挙げてみよ>と挑発したのに対して、高森明勅が「元明天皇」と言いかけて口ごもっていた。
 しかし、竹田恒泰に反論するとすれば、かりに<女系>天皇の例がなかったとしても、その反対に<全てが男系だった>とも、厳密には言えないのではなかろうか。つまり、<男系>優先原則を徹底すれば、上記の4名の「女性」天皇もまた成立し得なかったのではないだろうか。
 もう一度換言すると、これら「女性」天皇の即位(重祚を含めると5回)の時点で、なぜ「男性」皇族(の一人)による継承という主張が有力になされなかったのか、という疑問がある(長屋王が好例。草壁皇子との関係では大津皇子も視野に入れるべきだ)。
  ところで、孝謙(・称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后(藤原光明子)の間の娘だとされるが、聖武天皇には別の女性(県犬養広刀自)との間に別の娘もいた、とされる。
 井上内親王といい、この女性が光仁天皇との間にもうけた一人が、他戸親王という男性だ。井上内親王は少なくとも一時期は皇后で、その子他戸親王は、聖武天皇の実孫、光仁天皇の実子にあたる男子皇族。
 だが、この二人は皇后の地位および皇太子の地位を廃され、光仁天皇と高野新笠との間に生まれ、山部親王とのちに称された子どもが皇位を継承する(=桓武天皇)。
 「01」で触れた神泉苑(京都市中京区)での<最初の御霊会>の祭神?ではないようだが(神泉苑の小冊子による)、御霊神社(同上京区、相国寺の北方)のウェブサイトによると、「御霊」とされる「八所御霊」のうち、井上内親王・他戸親王は、のちの桓武天皇の弟の早良親王(=「崇道天皇」)に次ぐ、第二、第三の「怨霊」とされる。
 立ち入らないが、この時期、皇位継承のルールはまだ確固たるものになっておらず、何らかの理屈・理念によってではなく、ときどきの政治諸力や個人的意向によって(光仁、桓武以前は女性も含めて)決定されていた可能性が高いのではないか、という感想が生じる。
 平安初期からするとほぼ1300年。櫻井よしこが簡単に言う「2600」余年にわたって連綿と、というのは<大ウソ>で、半分にすぎない。
 それでも長いとは言える。天皇という地位・制度については別途考察する必要があるが、日本では「(世俗)権力」と「(聖的)権威」が分かれて…、などと簡単または単純に説明することはできないものと思われる。「権力」と「権威」という語・観念のそれぞれの意味を明らかにすることから始めなければならない。
 以上、シロウトの文章だが、日本会議派の櫻井よしこや江崎道朗あたりと違って、まだ冷静に実態に接近するという気持ちだけはあるのではないか。
 なお、江崎道朗はかつて、<日本会議専任研究員>という肩書きで文章を書いていたこともあった。

1859/井沢元彦・逆説の日本史23-廃仏毀釈。

 井沢元彦・逆説の日本史23/琉球処分と廃仏毀釈の謎(小学館、2017)。
 上の本の、とくにp.251以下。
 ***
 日本本土で先の大戦中に空襲を受けて被災した都市では、原子爆弾を投下された広島・長崎ではもちろん、その被災区域にあった神社・寺院はおそらく全てまたはほとんどが、火災・燃焼等によって破壊されたのではないかと思われる。もちろん、住職や神職者が存在しないような小さな祠や地蔵仏も同様だ。
 かつて福山市内の芦田川の堤防上の道を歩いていて、右岸(上流から見て左か右を分ける)のすぐ下に「地神」と大きく彫った石柱がたぶん三つほどほぼ同間隔で連続して並んで立っているのに気づいた。
 「地神」というのは珍しいと思ったのだが、神道系で、かつ戦災にも遭うことなく、かつてのまま立って残っていたのだろう。
 神社や仏閣あるいは上に触れたような小さな鳥居と祠・地蔵仏などで現在に残っていないのは戦争による被害がほとんどで、再建されたのは戦後だろうと考えてきた。もう70年以上経つので、戦前からのものか戦後の再建なのかは(しろうとには)不分明になっているものもあるに違いない。
 ところが、上の井沢元彦の本を読んで、明治期当初の「廃仏毀釈」による仏教寺院の破壊や消滅も相当にあることを(そういえばという感じで)想起することができた。
 井沢によると、いわゆる「廃仏毀釈」による影響は、つぎのとおりだ。
 ①鹿児島県には、国宝等クラスの寺院・仏像が残っていない。p.273。
 ②薩摩藩島津家の菩提寺だった「福昌寺」は「今は跡形も無い」。p.273-4。
 ③安徳天皇を葬って祀った下関阿弥陀寺は廃寺となり、新たに赤間神宮が建立された。p.272。
 ④奈良県天理市にあった「内山永久寺」は比叡山延暦寺・東叡山寛永寺とともに元号を名とする大寺院だったし、近くの石上神宮の神宮寺でもあったが、「今は跡形も無い」。「現在は本体の破片すら残っていない。徹底的に破壊されたに違いない」。幸いというべきか、現在の石上神宮の摂社の一つ建物は、かつてこの永久寺の鎮守社(寺院境内の神社)のものだった。p.277-8。
 ⑤現在の奈良公園のほとんどは興福寺の境内だった。(井沢は明記していないが、いわゆる明治維新期当初に新政府が「接収」または補償金のない「収用・収奪」をして奈良県庁・裁判所・師範学校等にしたものと見える。最近に再興・再建された「中金堂」の区画は、かつては県庁舎の一部の敷地だったようだ。西国観音札所の納経は「南円堂」)。p.279以下。
 他にもあるが、割愛する。
 (上の③については、この欄で櫻井よしこの「無知」を指摘する中で触れたことがある。②に対して、萩藩の毛利氏の菩提寺二つは現在もきちんと残っている。)
 井沢はまた、この政策の背景にある新政府の<宗教政策>およびその前提としての各「宗教」の内容や実態についても説き及んでいるが、逐一の紹介は避ける。
 ともあれ、考えさせられるのは、明治維新(あるいは一般的には「政治変革」)による宗教政策の変化とそれによる「現実の宗教施設・宗教運動」への影響の大きさ、というものだ。
 神道・神社と仏教・寺院および神道政治連盟(<日本会議)と全日本仏教会の違いというのも(後者は首相靖国公式参拝に組織として反対している)、少なくとも明治維新とその「廃仏毀釈」政策にまで遡らないと、理解することが困難であることも判明してくる。
 追記すれば、井沢元彦は、のちに「明治維新」の主役となった者たちの宗教は<神道+朱子学>であって、<神仏混淆>を否定して神道の純粋性を守るために仏教と切り離すことを意図した、とする(正確な引用ではない)。
 池田信夫によると福沢諭吉は「儒学」を捨てて「洋学」に向かった、というのだが、福沢諭吉は「明治維新の元勲たち」ではなく、明治維新より後の時代での彼に関する叙述だから、少なくとも明らかに矛盾しているとはいえないようだ。
 

1633/明治維新③-櫻井よしこと五箇条誓文・「日本会議」。

 「十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです。」2007年5月。
 「十七条の憲法」は、「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」2017年3月。
 以上、いずれも、櫻井よしこ
 ---
 以下、①明治維新にも、②<日本会議>研究にも、③日本の「保守」の「2007年」(明記しないが西尾幹二・中西輝政らを含む)にも、全てかかわる。関心の基盤に、共通するところがあるからだ。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000.05)の「第7章」は「今こそ『十七条憲法』『明治憲法』の精神に学ぶ」と題しながらも、「五箇条誓文」への言及を、「明治憲法」の基礎的理念をすでに記していたとか書いてもよさそうなのに、一切していない、ということは先に記した。
 しかし、2007年前半、この年の末にこの人は国家基本問題研究所なる団体の理事長になるが、こう書いていた。
 櫻井よしこ「日本人の価値観/取り戻せ」/東京新聞2007年5月13日付。
 「私は、国家というのは日本人の価値観の塊だと思います。日本人の価値観が国の形となって現れたものがいくつかあります。十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです」。 
 ここでは、日本国家という「価値観」を示す三つのうち一つとして、「五か条の御誓文」を理解している。
 そして、2017年に月刊正論3月号(産経)で、日本の「保守に求められること」を主題とする文章の中で、上の趣旨と異ならないで、櫻井よしこはこう書いた。
 「日本が自らの価値観を鮮やかに打ち出した十七条の憲法は、…明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」
 その直後にまた、こう続ける。
 「五箇条の御誓文は一人一人の国民への信頼を基本にして成り立っている点で、民主主義そのものです。」
 この後の文の「民主主義」理解は、<ああ恥ずかしい、こんなに簡単に書いてしまって後世に残るのにとても気の毒だ>という感想をもつ、日本の中学生レベルの文章だろう。
 井沢元彦が「十七条の憲法」第一条の「和を以て貴しとなす」にしばしば言及して、日本と日本人の特質に言及するが、ここでいう<和>と<民主主義>は同じ意味ではないと思われる。
 井沢が指摘するのは<話し合い尊重主義>、今日的にいうと<合議主義>あるいはさらに<議会主義>に連なるもので、<民主主義>そのものではない、と私は理解している。
 民主主義とは国家意思の形成の大元を意味するので(デモクラシー、民衆政体)、国家意思の形成の細かな過程までを問題にするのではないと思われる。国民にあるいは<民衆>や<人民>に結論・基本方向が支持されていれば、民主主義と矛盾しない(とされる。北朝鮮の国名、旧東独の国名など参照)。民主主義と議会主義は同義ではない。五箇条誓文は何を言いたかったのか ? 「公論に決すべし」とはいかなる趣旨か?
 こんな議論をしても、櫻井よしことの間に議論が成立するはずはない。
 櫻井よしこは、中学生レベルの感覚で「民主主義」という語を使っているからだ。
 再び、櫻井の月刊正論3月号の文章に戻る。そして、<五箇条誓文>がどういう脈絡で言及されているかを、確認する。
 上に引用部分のつづき。
 五箇条の御誓文は、①「広く世界に心を開くという点で国際主義です。守るべき価値観の基本は日本の国柄の中にあると強調している点で、この上なく立派な日本の国是です。…グローバル化した現代世界に住む私たちにとっての教訓でもある」。p.85。
 同四条〔旧来の陋習を破り天地の公道に基づけ〕は、②「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り、『天地の公道』、つまり、国際社会にあまねく通用する普遍的価値観を取り入れ、その価値観に基づいて日本らしい力を発揮せよという教えです」。
 こう写していて、ああ恥ずかしいと感じてしまう。言葉・観念が、宗教言辞のごとく固まりつつ、どのようなものにも取り憑くことができるように泳いでいる。
 また、明治維新理解も、怪しい。
 上に引用のように五箇条誓文を「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布」したものとするが、厳密にはいつの時点を「明治新政府樹立」と理解しているのかどうか。
 また、ここでは「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り…」というが、「機能しなくなった制度や価値観」とはいったい何のことか。
 もちろん、櫻井よしこ大先生は、旧江戸(徳川)幕府の「旧来の陋習」を維持した「制度や価値観」のことを想定しているのだろう。
 しかし、こう単純には言えないことは、日本の少し真面目にこの時期を学習した日本の高校生でも知っているだろう。「機能しなくなった」単純攘夷主義に凝り固まっていたのが(ある時期・通商条約時からある時期・下関戦争頃までの)吉田松陰系の長州藩士たちだった。
 あるいは、こうも言える。「機能しなくなった」制度をやめて<大政奉還>し、新しい制度・国づくりを図ったのは徳川慶喜だった。
 ③「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄であることは、五箇条の御誓文の…〔一条・二条〕にも明らかです」。p.87-88。
 これは、憲法改正に向けて国民との議論を展開すべしとの主張の中で語られている。
 それにしても、恥ずかしい。「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄」だ、とそう思いたい、思い込みたい、というのはよろしい。しかし、「国民」とか「国家」とかをどういう意味で用い、また日本の歴史にいかほどに習熟したうえで語っているのだろうか。
 ④第五条の言うとおり、「日本だけに閉じこもってはなりません。世界には優れた考えや制度、価値観があります。大いに学びなさい。大いに受け入れなさい。常に柔軟に賢く対処しなさい。そして自身の鍛錬としなさいということでしょう。」p.88。
 まだ続くが、これとほぼ同じ文字数でもって、この第五条を「解釈」し、あるいはこれに基づいて、読者を(?)説教?している。
 このように④まで続けたが、最初の頁(p.84)に、十七条憲法と<五箇条誓文>の二つの「価値観」で支えられていることを認識するのが「保守の基本」だとの根本的テーゼ(?)があることもあらためて追記しておく。
 このような<五箇条誓文>観を、「日本会議」派だとされる伊藤哲夫も抱いていることはすでに記した。
 櫻井よしこも、伊藤哲夫も、明治憲法、そして明治維新(・五箇条誓文)を基本的には(櫻井にとっては全面的に?)素晴らしかった(素晴らしい)ものとして、肯定的に評価している。
 「日本会議」は、その設立文(1997年)で、次のように明確に語る。
 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。
 明治維新以降の日本の「近代国家の建設」は「輝かしい精華」だった、と考えられている。このような基本的歴史観に立つのが、「日本会議」だ。
 (新撰組、土方歳三・沖田総司が、あるいは「偽官軍」=赤報隊等々は気の毒だなあ。中村半次郎や岡田以蔵らの「人斬り」は、いやきっと井伊直弼白昼殺戮等々も、きっと立派なことだったのだなあ。-とカゲ口も。こういう歴史観によると、孝明天皇の位置づけが困難になる、というカゲ口も。薩長史観=西南雄藩中心史観は<天皇制絶対主義>開始というマルクス主義・講座派史観や基本的に<ブルジョア革命>だったとするマルクス主義・労農派史観の裏返しのような気がするなあ、というカゲ口も。)
 上は、こう続けられる。
 「また、有史以来未曾有の敗戦に際会するも、天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく、焦土と虚脱感の中から立ち上がった国民の営々たる努力によって、経済大国といわれるまでに発展した。」
 明治維新からは離れるが、「天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく」、とされていること、そして、その「国柄」のもとで「経済大国といわれるまでに発展した」ことは基本的に肯定的に理解されていること、も確認しておきたい。
 これによると、<戦後レジーム>が全体として消極的・否定的に理解されていることにはならないだろう、ということを確認しておくことが重要かと思われる。
 ---
 この「日本会議」の設立の1997年、いったい何があったか(設立総会は1997年5月)。
 その一年前以内に、「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した(総会は1997年1月)
 なお、この欄のつい前回で言及した、西尾幹二=藤岡信勝の共著は1996年に、「つくる会」発足前に、刊行された。
 要するに、「つくる会」を追いかける?ように「日本会議」が設立された。
 2005年末から「内紛」?が始まった「つくる会」は、2007年のうちに「分裂」が決定的になった。そのことは、近接した、7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中に書かれてある。
 この西尾著の刊行の直前に、椛島有三著が発行された。同じ年の、2007年4月
 そして、2007年12月、<国家基本問題研究所>が発足して、櫻井よしこが理事長になった(確認できないが、椛島有三が事務局長だったかと思われる)。
 この「研究」所とは、西尾幹二も藤岡信勝も関係がない。役員等をしていない。
 ついでに、椛島有三著研究③も少しだけ、以下にしておこう。
 既述のように、この本には末尾に多数の参考文献が、本の長さに比べれば不釣り合いなほどに、掲載されている。その中には、中西輝政・国民の文明史(産経、2003)等も記載されている。
 しかし、西尾幹二・国民の歴史(産経、1999)等を含む西尾幹二、および藤岡信勝の書物は、主題の<大東亜戦争>あるいは広く日本人の<歴史認識>・<歴史観>と関係があるものも多いにもかかわらず、この二人の書物は、いっさい排除されている
 1997年のこと、2007年のこと、そしてこの2007年刊行の椛島有三著の参考文献記載内容。
 これらは、偶然だとは決して思えない。どこかに、何らかの<意図>があった。
 ---より下は、今後に書きたいことの要旨または予告だ。今年は、2017年。

1620/明治維新考①-天皇・神道と櫻井よしこ・井沢元彦。

 明治維新につき、考える。
 古事記は「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる、「神道は紛れもなく日本人の宗教です」。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.85。
 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号
 しかし、井沢元彦のこんな文章もある。
 「ここに、江戸時代を通じて徐々に形成された朱子学(外国思想)プラス神道(国内思想)の合体が生んだ、『天皇教』というべきものの完成形がある」。
 井沢元彦・逆説の日本史20/幕末年代史編Ⅲ(小学館文庫、2017.04)p.350。
 =<単行本>同・同/<西郷隆盛と薩英戦争の謎>(小学館、2013)p.318。
 「ここに」というのは、真木和泉、平野国臣、そして久坂玄瑞に至る考え方で、天皇(この時期は孝明天皇)が実際に・現実に何を考えていようと、天皇の考え=「大御心」は絶対に正しく「絶対の正義」である<はずだ>という考え方だ。実際・現実ではなく、自分たちで作り出すことができ、その「大御心」に従うことこそが正義になる。
 井沢元彦は続ける。
 「長州閥によって作られた帝国陸軍」、「長州の遺伝子を受け継ぐ青年将校たち」の二・二六事件で、彼らは「昭和維新断行、尊皇討奸」を叫び「大御心に沿って君側の奸を排除した」と称した。/彼らは、「あるべき姿の『天皇』に天皇自身が従うべきだ」と考えた。
 明治維新、天皇、神道。櫻井よしこと井沢元彦と、どちらがより適切に理解しているだろうか。いや、どちらが、少なくともよく<思考>しているだろうか。
 こんな文章を書いていて、こんな文章を簡単に書いてしまって、ああ恥ずかしい、ああ気の毒だ、後世に残るというのに、ああ恥ずかしい、気の毒なことに、と感じることが、櫻井よしこの文章について頻繁にある。
 追記。櫻井よしこ、平川祐弘、渡部昇一、八木秀次らは、譲位に関して「あるべき」天皇像を勝手に作り、今上天皇もそれに「従うべきだ」と考えた。特定の狂信にもとづく、「天皇教」だと言えるだろう。


1530/櫻井よしこ・憲法とはなにか(2000)批判のつづき。

 ○ 櫻井よしこは、前回に言及した2000年刊行の本で、日本の「憲法」の最初は聖徳太子の「十七条の憲法」だとし、その二条についてつぎのように述べる。
 原文は「二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。」で、<二に日す、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、法、僧なり。…>という現代語訳になる。
 櫻井いわく。これを仏教だけのことしか書いていないと批判する神道等他宗教の人もいるようだが、長谷川三千子の指摘等によると「仏法」とは「もっと普遍的な価値観」だったのかもしれない。/「太子自身も仏道に励み、斑鳩寺を私寺として建てたことや、天皇をも仏法に導いたことは、恐らく読者の皆さんも高校や中学の歴史で学んだことでしょう」。p.191-2。
 仏法の普遍的意味に立ちいらなくとも、なんと、ここでは櫻井は、聖徳太子と「仏教(仏法)」の密接な関係を認め、「高校や中学の歴史で学んだ」だろう、とまで言う。
 今年2017年に週刊新潮で聖徳太子に言及した場合の、櫻井よしことは大違いだ。
 一貫性のなさ。櫻井よしこはこれで一貫している。また、考え方、理解の仕方が変わったのならば、きちんと説明すべきだろう。
 ○ ところで、井沢元彦の逆説の日本史シリーズ(週刊ポスト連載)の内容は相当に「血肉」のようになっていて、だいぶ前に読んだのと該当巻・頁を特定するのが面倒で却ってこの欄で明記することが少ない。
 聖徳太子等に関する第二巻ではなく、第一巻に、興味深いことが書いてある。
 井沢元彦・逆説の日本史/古代黎明編・封印された「倭」の謎(小学館、1993/のち文庫化)
 <雲太、和二、京三>というのは平安時代にできた言葉(p.144)だ。
 そして、第一位・出雲(出雲大社)、第二位・大和(東大寺)、第三位・京(御所)と、建物の規模の大きいもの順の意味らしい(そのように理解するのが通常らしい)。
 井沢元彦p.149. によると、これはまた、聖徳太子・十七条の憲法の第一・第二・第三という各条の重要性の順序に合致する、という。
 これは、少しは意表を衝くのではないだろうか。(出雲大社がかつて本当に現在の二~三倍ほどの高さを持っていた、との考古学資料も出たことについては割愛)。
 第一・「和の精神」/出雲の平和的な「国譲り」伝説-跡地での出雲大社。
 第二・仏教/東大寺(大仏ではなく、それを包含する建物・大仏殿のとくに高さ)。
 第三・天皇/御所。「承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。」-<天皇の命令を受ければ必ず謹んで従いなさい。君はすなわち天であり、臣はすなわち地である。> 
 そして井沢は、「和」の精神こそ、天皇よりも仏教よりも大切な「日本」の精神だと強調する。その是非はともかく、聖徳太子は「和」のつぎの第二として「仏教・仏法」を挙げていた、ということに注目せざるをえない。
 これは、櫻井の現在の感覚とは相当に異なるだろう。
 ○ 櫻井よしこの本に戻る。
 櫻井は明治憲法制定過程に言及する中で長谷川正安の本を使い(p.197-8)、それに間違いなく従って、「憲法思想」は「政府的立場」と「民間的立場」、憲法論議は「神勅にもとづいた神権国家説」と「天皇もまた法の下の支配者であるという法治国家説」の二つの大きな流れに収斂された、と書く(p.198)。
 憲法制定史を概観し整理しておくには、重要な二分であるような印象がある。しかし、櫻井よしこはこの二つの立場・国家観の対立がその後にどうなったかにいっさい言及しない。
 たぶんこの辺りの文章を書いていたときは長谷川正安の本を手元において見ていたが、そのうちに忘れたか、読みやすい又は理解しやすい別の文献を見つけて、そちらに関心が移ってしまったのだ。
 週刊誌二頁くらいだと分からないが、それをまとめて一冊にしたような場合には(櫻井・憲法とはなにか(小学館)も似たようなものだ)、そういった仕掛け・楽屋裏がバレてしまう。
 さらに、櫻井よしこは何のこだわりもなくいったん引用、言及したようだが、長谷川正安とは、憲法に関して岩波新書をいく冊も出版していた、著名な、日本共産党の党員学者だった(当時/名古屋大学)。
 日本共産党・同党員の本だからいっさい引用・言及してはいけない、とは言っていない。
 しかし、上のような<二分>自体にじつは、単純な<権力・民衆>や<神権・民権>の各対立という共産党学者的な見方がすでに出ている、ということに気づくべきだろう。
 櫻井よしこの「無知」は、たとえばこういった点にも見られる。
 また、いったん言及した根拠文献がいつのまにか消失してしまっている、ということもあるわけだ。
 国家基本問題研究所の役員たちは、こんな櫻井よしこが「所長」でいることを、恥ずかしいとは感じないのだろうか。

1234/朝日新聞はますますおかしくなってきた。

 一 随分と久しぶりに、いつのまにか隔週刊から月刊に変わっていたサピオ2014年1月号を買ったのは、「朝日新聞がますますおかしくなってきた」との特集を読みたかったためだ。
 その特集には慰安婦問題にかかる朝日新聞の責任を衝く西岡力、親中・親北朝鮮の問題性を指摘する井沢元彦の論考がまずあり、他に青山昌史が特定秘密保護法に対する朝日新聞の反対には「とにかく政府が何かを秘密にすることは許せない」という「一種の原理主義のような前提」があるなど等と指摘している。たしかに、朝日新聞は問題を<政府が国民に対する秘密をもつことが是か非か>という、「秘密」=悪というイメ-ジを利用しての、単純で抽象的なレベルに矮小化してしまっていた、ともいえる。但し、それは自民党・安倍内閣批判のためであって、同じ又は類似の内容の法案を民主党が提出してきたのだとしたら、間違いなく朝日新聞の対応は変わっていただろう。
 二 上掲誌には「本誌編集部」作成の「朝日新聞誤報』『虚報』ベスト10」が掲載されている(p.101)。以下のとおりで、より詳細な内容や朝日新聞の事後措置に関するコメントの部分は省略して紹介しておく。
 殿堂①1991.08.11大阪朝刊-「思い出すと今も涙/元朝鮮人慰安婦を韓国団体聞き取り、同②1992.01.11朝刊-「慰安所への軍関与示す資料/防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌」ほか、1位1989.04.20-「サンゴ汚したK・Yってだれだ」、2位1950.09.27朝刊-「宝塚山中に伊藤律氏/不精ヒゲ、鋭い眼光”潜入の目的は言えぬ”」、3位2005.08.21朝刊・同22朝刊-「郵政反対派『第2新党』が浮上」「追跡/政界流動『郵便局守れだけでは』」、4位1959.12~1960.01-北朝鮮帰還事業に関する一連の報道、5位1984.08.05朝刊-「南京虐殺も現場の心情つづる/元従軍兵の日記、宮崎で発見」、6位1984.10.31朝刊-「『これが毒ガス作戦』と元将校/当時の日本軍内写真を公表」、7位1982.06.26朝刊-「教科書さらに『戦前』復権へ/文部省高校社会中心に検定強化『侵略』表現薄める」、8位2002.06.05朝刊-「ヒデ『最後のW杯』チームに献身」、9位1995.03.29栃木版-「地方分権の時代に逆行/石原前官房副長官に首長や県職員が選別」、10位2009.05.26朝刊-「核拡散北朝鮮の影、常に」記事中、「核兵器をめぐる現状」と題した世界地図〔台湾を中国の一部として色塗り〕、番外編①2012.11.21朝刊-「白川総裁、ゼロ回答/安倍構想『やってはいけない最上位』」、番外編②2013.09.08午前4時5分頃-2020年夏季五輪で「東京落選」。
 『誤報』又は『虚報』ではないのかもしれないが、特定の政治的立場に立った一定期間継続するキャンペーン報道についても、きちんと記録・年表に残しておいてほしいものだ。例えば、①2007年参院選前の反安倍内閣報道(消えた年金、政治事務所経費等)、②2009年総選挙前の「政権交代」煽動、③今次の特定秘密補保護法案反対報道・記事作成。
 三 朝日新聞の読者数を、その影響力を相当に落とさないと、安心して憲法改正、とくに現九条二項削除を、国民投票に委ねることはできないと、関係機関、関係者は心しておくべきだろう。

1042/昭和ヒトケタ世代・「少国民」世代ー再論。

 井沢元彦・日本史再検討(世界文化社、1995)p.110は、こう書いていた。
 「実は、私は日本のある世代に『偏見』を持っている。それは『昭和ヒトケタ』世代である。(昭和一〇年から一二年あたりの生まれの人々もこれに含む)この人たちは戦前の『超国家主義教育』の最大の犠牲者である。『お国のため』『天皇陛下のため』『死ぬのが正義』だと、年端もいかない頃に叩き込まれ、その気持ちが固まった頃に敗戦となり、今までの教育は一切まちがいだったと言われた。……お気の毒だとは思う。/しかし、この人たちのいう『歴史』や『民主主義』には、私はうなづけない点が多い。小さい頃に受けた『心の傷』が、一種の『ゆがみ』になってていて、本物ではない気がするのだ。……」。
 小林よしのりの近年の論調は奇妙なところがあり、日本の歴代の天皇の大多数が男性だったのは、中国(・儒教)の影響を受けた「女性蔑視」思想による、などという叙述には、大いに笑い、かつ悲しい気分にもなった(だいぶ前に読んだので、文献を特定できないが)。いわゆる「男系絶対」論者に対する侮蔑的言葉による罵倒にも従いていけない。本当に「ゴーマン」なところのある人物だとも思う。但し、<英霊の言之葉>を読んで涙した(同編・国民の遺書)という心情には共感できるところがある。
 また、月刊WiLL10月号(ワック、2011.08)のp.186あたりの以下の叙述に限って、同感する。朝日新聞へのある投書を紹介したあと、こう書く。
 「この投書は、まさに『少国民世代』の典型である。ここまで空気がこわばり、直立不動で君が代を歌わされた時代は、小学校が『国民学校』、児童が『少国民』と改称されていた昭和16年から20年までの間にほぼ限られる。日本の歴史上、例外的な現象なのである。……/しかも、自分の異常な体験を普遍化させてしまった『少国民』世代がマスコミや教育を通し、国旗・国歌・天皇は危険なものだとあまりに長きにわたって唱え続けたため、その認識は、正しいか否かに関係なく、『一般常識』として世代を越えて受け継がれてしまっている。……」。
 これらと同趣旨のことはこれまでに何度かこの欄に書いた。
 井沢のいう「昭和ヒトケタ」+昭和12年までは、1925年~1937年生まれで、終戦時に8歳~20歳。 
 小林のいう、昭和16年から20年までの間に小学生(国民学校生=「少国民」)だった者は、国民学校を6年制だとみなして少しだけ複雑な計算をすると、昭和4年(1929)~昭和13年(1938)生まれになる。井沢のいう、「1925年~1937年生まれ」と、大きくは異なっていない。
 むろん例外はあるが、傾向的にはこの世代は、良くなく苦しかった戦時中から戦後は明るく豊かになり、良い時代に変わった、自民党の一部に残る古い・軍国主義的雰囲気の復活を許してはならないと、これは戦後「進歩的文化人」が説いたのとほとんど同じなのだが、漠然と考えていて、そう考えていた者のほとんどは、民主党による(自民党政治から離反した)「新しい」政治を期待して、2009年には、民主党に投票したのではなかろうか。
 自らが特殊な世代だという自己認識はなく、自分たちが新しく戦後に形成した(と思っているがなおも伝統的な部分も基底には残している)「意識・道徳観」を後続の世代も共有しているはずだ、などというとんでもない誤解をしている可能性がある。
 この世代が人数の多い(鳩山由紀夫や菅直人を含む)
いわゆる「団塊」世代の兄貴分的または若い父親的役割を果たして、後者を指導・教育し「煽動」したことを忘れてはならない。

0996/池田信夫・ハイエク-知識社会の自由主義(PHP新書、2008)ほか。

 〇「はじめに」・「はしがき」類だけを読んで読み終わった気になってはいけないのだが、池田信夫・ハイエク-知識社会の自由主義(PHP新書、2008)の「はじめに」にはこうある。

 ハイエクは生涯を通じて、社会主義・新古典派経済学に共通の前提(「合理主義」と「完全な知識」)を攻撃しつづけた。それゆえにハイエクは主流派経済学から「徹底して無視」され、「進歩的知識人」から「反共」・「保守反動」の代名詞として嘲笑されてきた。しかし、死後一五年以上経って、経済学は彼を「再発見」し始めている。……
 ハイエクに関する書物はけっこうたくさん持っていて、全集の一部も所持している。日本の憲法学者のうちでおそらくただ一人「ハイエキアン」と自称する阪本昌成の本を読んだこともある。

 この池田の文章も読んで、あらためてハイエクをしっかりと読んで、その「自由」主義(リベラリズム)・「反共」主義を自らのものにもしたいような気がする。

 池田信夫は、経済学部出身で「文学畑」とは異なる。NHK15年という経歴が玉に傷だが、大学生時代にNHKの本質や現在のヒドさを認識・予想せよというというのも無理で、知識人または評論家としては(つまりは政治的戦略等々に長けた文筆家としてではなく)相対的に信頼が措けそうな気がする。
 〇先日、井沢元彦・逆説の日本史17/江戸成熟編(小学館、2011)を購入、少しは読む。このシリーズは単行本ですべて買い、読んでおり、その他の井沢元彦の本もかなり読んでいる。<隠れ井沢元彦ファン>だ。

 〇だいぶ前に、小田中聡樹・希望としての憲法(花伝社、2004)と同じ著者の裁判員制度批判の本を購入し、少しだけ読む。
 日本共産党員とほぼ見られる刑事法学者(元東北大学)で、「左翼」性のあからさまで単純・幼稚な護憲(九条護持)論と裁判員制度論についてこの欄で論及しようと思っていたが、果たしていない。

0868/産経新聞上での東大寺大仏-渡部裕明とついでに佐伯啓思。

 産経新聞4/17で、論説副委員長・渡部裕明は「『遷都』に学ぶ国家のあり方」とのタイトルのもとで書く。
 奈良の大仏=「東大寺大仏」は当時の「人々の努力の結晶」で、その意義は大きさではなく「人々の喜捨によって造られた点」にある。この大仏は「国民の心を一つにさせた」。

 その他、飛鳥京から平城京への「遷都」の背景・理由等にも言及があるが、論説副委員長が書くにしては、あまりに教科書的・通説的すぎるのではないだろうか。大仏建立の目的等についても、あまりに表面的で、史料実証主義の弊はないだろうか。

 どうもこの論説副委員長は、反マルクス主義を明確にし、旧日本社会党や社民党の<九条(護憲)教>への皮肉等にも満ちている、井沢元彦逆説の日本史(小学館)のシリーズを一冊も読んでいないようだ。文科省の検定済み教科書を範とすることだけが産経新聞の社是ではないだろう。

 井沢元彦の本を手元に置く面倒は避ける。
 以下は、たぶん井沢元彦が書いていたことではなく私の個人的感想にすぎないが、東大寺大仏のような巨大な建造物は、なるほど当時の庶民の努力と技術の結晶でもあるのだろうが、<日本人本来の美意識>からはズレているような気がする。

 上へ上へと(天により近く)伸びるような、教会の高い尖塔が欧州のとくにゴチック建築物に見られる。だが、日本の宗教は、高さや巨大さによる威容を示して、人々を屈従させる(と言って悪ければ、信仰へと導く)ような態度をとってきたのだろうか。

 仏教ではなく神道の場合、典型的には伊勢神宮がそうだが、ご正殿は素朴で決して大きくはない。さらには、寺院では<本尊>にほぼあたると思われるカミの依り代は、正殿(・本殿)の中に隠されていて参拝者の目には触れない。さらには、その正殿と参拝者の間には閉じられた門(と玉垣)があって、正殿すらをも見ないままで、参拝者は柏手を打つのだ。

 伊勢神宮を想定したが、他の神社でも、おおむね拝殿と正殿(・本殿)は別にあって(建築物の構造上、一体化している場合等もある)、本殿の中は見えないか、見えても決して大きくはない丸い鏡などを遠くから望むことができるだけだ。

 神道(神社神道)は、決して威張らず、目立とうともしないカミを中心に置いているのではないか、と素人ながら感じている。

 寺院でも、本尊の形の大きさは必ずしも如来・観音・菩薩等の<偉さ>や<価値>とは無関係だとされているのではないか、と思われる。小さな木彫にすぎないご本尊(の物体化したもの・徴表)が本堂の中央に置かれているのは、しばしば目にすることだ。

 そうした経験および観点からすると、私自身は東大寺大仏の巨大さには違和感を覚える。そして、なぜこんな巨大なものを造ったか(造らせたか)という、当時の為政者側の特有の事情にむしろ関心をもつ。

 したがって、渡部裕明のように単純素朴に書くことはできないし、単純素朴にお説拝聴というわけにはいかない。

 産経新聞4/19佐伯啓思のコラム「平城遷都1300年に思う」も最後に東大寺大仏に言及している。天皇の政治的位置づけの変遷または時代的類似性にコラム全体の主眼があるが、あまり面白くはない。「巨大大仏」と今日の「巨大高層ビル」を対比させるあたりもやや苦しそうだ。

 だが、「大仏はいまでも鎮座しているが、それは巨大な観光資源になってしまっている」、という感覚は、東大寺大仏を見て<国家と国民の関係>を考え直そう(大仏の建設・再建には国民が積極的に?協力した)という趣旨を述べている渡部裕明の感覚よりは、相当にまともだ、と思う。

0719/「朝日新聞」の、中野正志・万世一系のまぼろし(朝日新書、2007)。

 おそらくは今年2月に概読だけをして済ませた、中野正志・万世一系のまぼろし(朝日新書、2007)も、さすがに朝日新聞社の出版物らしい書物だ。
 「まえがき」にあたる「序章」では、①小泉首相私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は「国際経験も豊富でバランス感覚豊かな人たちが多かったから、人選に問題があるとは思わなかった」(p.4-5)、②「現在、女性天皇や女系を認めてよいとみなす世論が多数を占めるまでになっている」(p.6)、等と書いている。
 些細なことだが、①につき、<皇室典範>改正に関する議論に「国際経験」の豊富さはいったいどう役立つ(役立った)のだろう。
 さらに、③旧皇族の皇室復帰により将来の天皇を選ぶとしても「恣意性は逃れえまい」、④その場合、「天皇制について懐疑的な憲法学者は少なくないから、様々な違憲訴訟が起こされ、混乱に見舞われるに違わない」とも書く(p.7)。
 上の③についていうと、皇族の拡大によっても、天皇家との血の近さ、長幼によって、論理的には特定の人物を指名できる(現在も語られているように、継承資格順位を明確にできる)と思われる。
 もっとも、皇族拡大論(旧宮家復活論)の先頭に立っているかもしれない中川八洋の議論には、皇位継承者の順序・特定に関して「恣意性」がまぎれこんでいる、と思われる。そのかぎりで私は中川に批判的な所があるので、別の回に言及する。
 上の④は、脅迫、恫喝だ。皇族の範囲を拡大すると、大変ですよ、という嚇かしだ。「天皇制について懐疑的な憲法学者は少なくない…」という部分は正確だろう。さすがに日本の現在の「憲法学者」の傾向くらいは知っているようだ。
 但し、脅迫・恫喝のつもりなのだろうが、「様々な違憲訴訟が起こされ、混乱…」という部分には、法学(憲法学、訴訟法学)に関する無知が見られる。皇族の範囲拡大(皇室典範=法律によるだろう)を「違憲」と主張する訴訟がどのようにすれば(適法に)成立するかは困難な問題で、ほとんど不可能ではないかと思われる。また中身の問題としても、法律による皇族の範囲拡大がなぜ「違憲」なのかは論理構成が相当に困難でもあるだろう。
 以上のような感想がすでに生じてくるが、この本自体のテーマは書名のとおり「万世一系(の天皇制)」説は「まぼろし」だ、ということにあるようだ。
 という前提で読み進めたが、そもそもよく分からないのは、この中野正志が「万世一系」をどのように理解し定義しているのか、だ。
 天皇が父と子(とりわけ長男)の「一系」ではないことくらい、天皇制度に批判的ではない者たちにとっても、当たり前の知識だろう。しかるに、中野は継体天皇から今上天皇までの皇位継承のうち父と男子間の継承は「44例と半数を切っている」、南北朝の「両統迭立」の時代もあった等と述べたあとで、「いまだになぜ、『万世一系説』が唱えられているのか」、と問題設定する(p.18)。
 これによると、長い<父子継承>こそが<万世一系>の意味だと理解しているように読めるが、そんなことが「まぼろし」であることは、論じるまでもないのではないか。
 つぎに、中野によると、皇位継承についての男系論者は、1.神武天皇を実在として初代としての即位を史実をとする、2.記紀(古事記・日本書紀)を「大筋では間違いないととらえる」のいずれかである、という。
 はたしてそうだろうか。2.の「大筋では間違いない」ということの厳密な意味の問題でもあろうが、皇位継承・男系論者のすべてが必ずしも古事記・日本書紀の記述を「大筋では間違いない」と理解しているかはどうかは怪しいと私は理解している。記紀自体が「神代」という概念を使っているのであり、初期の諸天皇については(現実を何らかのかたちで反映した)「神話」=物語だと理解している皇位継承・男系論者も少なくないのではないか(私は安本美典の影響を受けて、生没年の記載は虚偽(創作)であっても、各天皇(そして天照大神等)にあたる人物は存在したのではないか、それくらいの<記憶>・<伝承>は八世紀まで残ったのではないかとも思っているが、これはこの回の主題ではない)。
 中野の本は、そのあと、上の1.2.が「成立しうるのか」と問うて、途中まで日本の古代史の叙述をしている(p.20-71)。そもそも皇位継承・男系論者のすべて又は多くが必ずしも1か.2.の理解に立っていないとすれば、全く無駄な作業だ。
 また、そもそも、古事記・日本書紀の記述を史実か「大筋では間違いない」と理解するとかりにしても、これらの文献自体が、父から子(とくに長男)への継承という意味での「万世一系」を否定している。弟や配偶者等への皇位継承も記紀はちゃんと記載している。
 中野正志の論旨は、「万世一系」が上のような意味であるとすれば、この点でもとっくに破綻しているのではないか。
 その後は明治憲法・皇室典範等に話題を変えるが、依然として、「万世一系」の定義はない。
 細かな検討は省略するが、なるほど、明治憲法第一条は「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と定めている。だがそもそも、当時においてすら、「万世一系」とは<父子継承>の連続のことだと理解されていたのかどうか。
 中野によると、伊藤博文・憲法義解は「我が日本帝国は一系の皇統と相依て終始し…」と書いているらしいが(p.128)、伊藤が「一系の皇統」と書いたとき、<父子継承>の連続を意味させていたのだろうか。
 ほぼ間違いなく、このようには理解されていなかった。要するに、「万世一系」とは、神話=物語性のある部分を厳密には(学問的には)含むことを暗には容認しつつも、明治時代でいえば2500年以上も、①同一の血統(天皇としては神武天皇が起点だが、それ以前に天照大神、さらにそれ以前の「神」たちもいる)の者が代々の天皇位に就いてきた、かつ②少なくとも「有史」以降のいずれか(遅くとも継体天皇?)以降についてこのことを証明できる文献がきちんと残っていること(天皇家の系図のうちいずれかの古代の天皇以降は真実だと考えられること)を意味した、のではないか、と考えられる。
 今日では<紀元2600何年>ということを<保守派・右翼>でも理解・主張していないだろう。そのかぎりで、明治憲法下の理解とは異なるかもしれない。しかし、かりに「万世一系」という語を用いるとすれば、「古代」のいずれかの時点以降は上の①・②の要素が充たされている、というのが、その意味するところだろう。
 中野は明瞭には自らの「万世一系」の意味の定義を示さないまま、これが明治になって生み出された<イデオロギー>にすぎない、と主張したいようだ。
 だが、天皇と皇室はその「血」のゆえに尊い(あるいは畏怖されるべき存在だ)という意識は、「古代」から江戸時代までも、日本人(少なくとも政治「権力」関与者および各時代の「知識人」)にとって、連綿とつづいたのだろうと思われる。そうでないと、「天皇制度」が今日まで続いているわけがない。(井沢元彦がよく書いていることだが、)天皇家が廃絶されなかったこと、天皇家に代わる一族による「王朝交替」のなかったこと、は日本とその歴史の大きな特徴なのだ。
 中野正志は、どうもそうは理解したくないらしい。あるいは勉強不足で、そもそも知識がないのだろう。
 定義・基礎的概念や論旨の展開の筋が分かりにくいと感じて途中で読むのを止めつつ、「左翼」であることは間違いない、さすがに「朝日新書」で「朝日的」だと思って、奥付を見ると、中野正志(1946-)は2006年まで、朝日新聞社の社員で論説委員の経歴もある。「朝日的」どころか、「朝日新聞」そのものの人物なのだった。<アカデミズム>の世界の人々を一般的により信頼しているわけでは全くないが、元来の研究者・学者とは異なり、新聞記者上がりの人の書く本や文章には(「ジャーナリスティック」でも?)、体系性・論理性・概念定義の厳密さに欠けている、と感じることがしばしばある。この本も、その代表であり、かつ「左翼」丸出しの本だ。
 なお、(確認の労を厭うが、たしか)立花隆が最近(昨年)の月刊現代(講談社)で、誰でも親がいて祖父母もいて…なのだから、誰でも<万世一系>だと書いて、おそらくは<万世一系>論を批判・揶揄していた。
 たしかに、例えば私にも「古代」まで続く「血」のつながりがある筈だ。誰にとってもそうだ。しかし、天皇(家)との決定的な違いは、上に挙げた②だろう。すなわち、天皇(家)については「古代」以降、名・血族関係・(おそらくは)生没年等々が文献にきちんと記録され(例外的に、天武天皇の生年は書かれていない)、<不詳>などということはなく、個別的・具体的に祖先をたどれるのだ。立花隆の祖先は、そうではないのではないか。その意味では、立花隆は<万世一系>の家系の末裔ではない、というべきだ、余計ながら。

0673/竹田恒泰、西尾幹二、勝谷誠彦、社民党・福島瑞穂。

 〇記していなかったが、二月中に全読了したもの。ひょっとして他にもあるかも。
 ・竹田恒泰・怨霊になった天皇(小学館、2009.02)。2~3日で読み終えた。
 仔細はもう忘れかけているが、長い歴史の中では、天皇も皇族もいろいろ、といった感想。
 井沢元彦によると、明治天皇は、明治改元か即位礼の前日にわざわざ四国・香川県の崇徳天皇陵に参拝されたはずだ。12世紀前半に就位の天皇が、祟らないで国家・新天皇の御代の平穏をとの思いを19世紀にまで持たせ続けていたことになる。一度、崇徳天皇陵には行かねばならない。
 ・西尾幹二・真贋の洞察(文藝春秋、2008.10)。すでに一部触れたことはある。触れたのは、福田恆存にかかわる長い論考(講演録)の一部(p.123-190、計68頁!)。
 金融・経済への関心に感心するとともに、最後にとっておいた「安倍晋三は真正保守の政治家に非ず―二大政党制という妄想―」も頗る面白かった。
 月刊WiLL2007.10号初出で原題は「二大政党制という妄想」。この題のとおり、執筆当時は首相在任中ぎりぎりだったと思われる安倍晋三批判は大して重要なテーマではない。今日の政治状況を鋭く予感していた、との評価もできる。
 「自民党も三分の二くらいは左翼のようなものです」(p.32。加藤紘一、後藤田正純、河野太郎の名を挙げる)。きっとそうなのだろう。
 「私は共産党、社民党、公明党は…政党として認めていない…。…党首討論に…大きな顔をして出演させるべきではない」(p.34)。同感。とくに後者は、従前からそう感じていた。
 二大政党制をよしとしないのは自民党・民主党ともに「寄り合い所帯」で「理念が不透明」だから。なぜ日本政治がこうなったかには「小沢一郎が深く関与している」(p.35)。
 細かく引用しない。その後の、1955年体制の総括的言及・小沢一郎批判にも納得するところがほとんどだ。
 「小沢一郎は日本の政治をねじ曲げた万死に値する男です」(p.40)。
 こうした論評からすると、小沢一郎びいきの「保守」派らしき男、勝谷誠彦とは異様な人物だ。よいことも書き、喋ってもいるのに、小沢一郎(・従って現在の民主党)にはボロボロに甘い。
 これまであえて取り上げてこなかったのだが、勝谷誠彦・偽装国家Ⅱ(扶桑社新書、2007.12)では、安倍晋三を「偽装保守」と称し、「美しい国」と言うのを聞いて「私は椅子から転げ落ちました」とまで侮言しながら(「美しい国」との言葉の悪意をもった解釈もしながら)、また、多数の「偽装」の例を挙げながら、朝日新聞等による大々的で集中的な反安倍・反自民キャンペーンによる2007.07の参院選の結果については、ひとことも<偽装>とは称していない。あの選挙での自民党の後退しすぎは、マスメディアによる国民の意思の<偽装>だ、と思っている(2005の小泉「郵政」総選挙の結果もその面が強い)。私の感覚は、勝谷誠彦とは大きく異なっているようだ。まだ西尾幹二の方に近い。
 〇社民党・福島瑞穂は昨年(2008年)12月に桝添要一厚労相に対して「非正規労働者支援の緊急申し入れ」を行い、その中で「多くの非正規労働者が雇用保険の加入漏れの恐れがあることがわかった。非正規労働者が、資格がありながら雇用保険に加入していない実態を掌握する措置を講ずること」等を求めた。
 一方、福島瑞穂が代表の「福島みずほ事務所」は、「平成18年度までの数年間、雇用する私設秘書2人について労働保険に加入していなかった」。

 以上。産経新聞3/04による。
 これは実態把握については「灯台元暮らし」、措置要求については<天に唾する>、とでも言うのだろう。なかなか面白い記事だった。

0595/井沢元彦・逆説の日本史15-近世改革編(小学館、2008)を読了。

 読書の記録として遅れて書いておく。八月中に、井沢元彦・逆説の日本史15・近世改革編-官僚政治と吉宗の謎(小学館、2008.08)を一気に全読了。
 井沢元彦のこのシリーズものの単行本は、刊行され次第、すみやかに手にして一気に読み終えることにしている。
 例によって、叙述が現代・現在に跳んでいる箇所がある。中国・同共産党を批判するp.119-120、米・薩摩芋に関するp.149-156、「平和憲法」に関するp.313-316。このような指摘はこの書物批判ではない。
 上のことよりも、上の本全体のユニークさは、徳川吉宗の享保の改革よりも徳川(尾張)宗春の施政が、松平定信の寛政の改革よりも田沼意次の施政が「よい」政治・行政だったという、教科書的評価とは異なる評価をしていることだ。
 天保も含めて三つの「改革」を必要な又は「よい」ものだったとする見方は、井沢元彦によると、徳川家側による江戸時代に関する「正史」に依るもので、じつは、幕藩体制の崩壊を早めた「悪政」だった、という。
 田沼意次が収賄・「ワイロ」の政治家だったとのイメージは定着しているようで、余計ながら、映画「闇の狩人」(1979年、監督・五社英雄、出演・仲代達矢ら、田沼意次役は丹波哲郎)も明らかにそうしたイメージをつけた時代を背景にしている。
 小島毅・靖国史観―幕末維新という深淵(ちくま新書、2007)も、東京大学出身・現役東京大学教員の著者が日本史の教養のない下々(しもじも)の者に教えてあげる、という感じで次のように書いている。
 <享保の改革後に社会・文化は爛熟・頽廃の時代を迎え、「おりから悪名高き田沼意次のワイロ政治が長く続いた」。人心は改革を望み、松平定信が登場し寛政の改革を断行した。>(p.30)。
 小島毅は日本史(・近世=江戸時代史)が専門でもないのによくぞ(エラそうに)断定的に書けるものだ、と(井沢元彦の本を読んだ後では)思ってしまう。
 やや脱線したが、一般論として、「改革」=「善」というのは思い込み又は誤解だ。歴史的評価は(田沼意次についても)数百年経っても定まらないことがある。…といったことを感じさせる。
 明治以降あるいは昭和戦前の歴史もまた、とくに後者は(主流としては)<勝者>アメリカ・GHQの史観によって現在まで語られてきているので、数百年後には全く異なる評価がなされている可能性は十分にあるに違いない。
 再び現代に関する叙述に目を移す。井沢元彦は言う。
 ・マスコミは2007参院選での「民意」を強調するが、では、憲法「改悪」阻止を強調した社民党・共産党の「大敗北」はどう捉えるのか。(p.276)
 ・中国の共産主義は「儒教的共産主義」で、典型例が「毛沢東思想」。同思想は文化大革命で「数千万人(2000万人、一説に7000万人とも…)の同胞」を
殺した。「自国民をこれだけ虐殺したのは…共産主義者だけ」。「毛イズム」を輸入したカンボジアではポル・ポトにより「人口八百万人の国で二百万人(一説に400万人)が殺された」。(p.278)
 ・「北朝鮮でも金日成・正日の体制下で二百万人の同胞が死に追いやられたと言われている」。(p.279)
 知る人はとっくに知っていることだが、こんなことが書かれてあったりするので(?)、井沢元彦の「日本史」の本は面白く、タメになる。
 なお、光格天皇につき、宮中祭祀の活発化(・復活)、直系又はそれに近い皇位継承ではなかったこと、以外のことも井沢は書いているが、省略。

0577/憲法学者・樋口陽一のデマ5-神道は多神の「自然信仰」。

 憲法研究者の多くは、日本国憲法上の政教分離原則に関して、津地鎮祭訴訟最高裁判決が示した<目的効果基準>を説明し、その後の諸判決が事案の差違に応じてどのようにこの一般論を厳格にあるいは緩やかに適用しているかを分析したりするのに忙しいようだが、そもそも政教分離関係訴訟で問題になることの多い-それ自体から訴訟の提起の「政治」性も感じるのだが-<神道>なるものについて、いかほどの知見を有しているのだろうか。
 樋口陽一・個人と国家―今なぜ立憲主義か(集英社新書、2000)には、神道に関する次のような叙述がある(p.147)。
 ①明治政府は天皇・皇室を「社会の基軸」にしたかったが、「後ろ楯になる権威」がなかった。「そこでつくられたのが、国家神道」だ。
 ②「神道といっても、日本の従来の神道というのは多神教で、山の神様があったり、川の神様があったり、お稲荷さんがあったり、つまり自然信仰でしょう」。
 ③神道は「そのままでは皇室を支えるイデオロギーになりそうもない」。それで、「従来の自然信仰の神道」を「国家神道として再編成」した。
 神道に関する知識の多さ・深さについて自慢できるほどのものは全く持っていないが、その私でも、とくに上の②には驚愕した。
 神道=「自然信仰」だって?? このことが上の③の前提になっている。
 たしかに「自然」物を祭神とする神社もある(代表例、奈良県の大神神社)。また、基礎的には<太陽>こそが神道の究極の崇敬・祭祀の対象だったと思えなくもないし(素人談義なので許されたい)、その他の自然(・自然現象)に<神>を感じてきたことも事実だろう。それが日本人の<心性>だ。
 だが、絶対に神道=「自然信仰」と=で結ぶことはできないことは、常識的なことで、日本国民のほとんどが知っていることではないか。
 第一に、神道は皇室の祖先をも皇祖神として<神>と見なしている。記紀の<神代>との言葉ですでに示されているかも知れない。代表的には、現在の天皇・皇室の皇祖とされる天照大御神こそが<信仰>等の対象であり、<八幡さん>で知られる応神天皇も、神功皇后も、現在の天皇・皇室の祖先であり、かつかなり多くの神社の祭神とされている(樋口陽一は、知っている神社の祭神を調べて見ればよいだろう)。
 第二に、現在の天皇・皇室の祖先とされているかは明瞭ではないが、記紀に出てくる多数の<神>を祭神とする神社も少なくない。なお、各神社の祭神は、通常は複数だ。
 第三に、皇室関係者以外の<傑出した>人物が祭神とされ、<信仰>等の対象になっている場合がある。
 天満宮(天神さん)は菅原道真を祀る(怨霊信仰と結びついているとも言われる)。日光東照宮は徳川家康を神として祀る(「東照」という語は「天照」を意識しているとも言われる)。豊臣秀吉を祀る豊国神社もある。
 念のためにいうが、以上は、すでに江戸時代以前に存在したことで、「国家神道」化以降のことではない。
 神道における又は日本語としての「神(カミ)」とは<何か優れたものを持つもの>又は<何か特別なことをすることができるもの>とも理解されているらしい(本居宣長の説だっただろうか。何で読んだかの記憶は不明瞭だが、井沢元彦も何かに書いていた)。
 というわけで、さしあたり<神社神道>に限っても、樋口陽一の、神道は、山も川も神様とする多神教の「自然信仰」だ、という理解は明らかに誤っており、完全な<デマ>だ
 神道の理解がこの程度だと、かつての国家神道についても、現在まで続く天皇制度の由来・歴史についても、<宮中祭祀>(神道による)についても、不十分な、かつ誤った知識を持っている可能性が高い。この程度の前提的知識しかなくて、よくも憲法上の政教分離原則について滔々と?語れるものだ。この点に限られないが、ちょっとした知識・知見で大胆なことを断言する樋口陽一の「心臓」には驚くことが多い。

0482/長部日出雄の「神道」論(諸君!5月号)と石原慎太郎「伊勢の永遠性」。

 昨年10月に、長部日出雄・邦画の昭和史(新潮新書、2007.07)p.33-34が、60年安保闘争については「否定論」が「圧倒的に多いだろう」が、自分は、<あの…未曾有の大衆行動の広がりと高まりが、…憲法改正と本格的な再軍備を…無理だ、という判断を日米双方の政府に固めさせ、…ベトナム戦争にわが国が直接的に介入するのを防ぎ止めた>と考える、と書いていることを紹介して、批判的にコメントした。
 したがって、長部日出雄という人は単純素朴で政治をあまり判っていないと感じたのだが、60年安保闘争絡みではなく、神道・「カミ」に関しては、諸君!5月号(文藝春秋)の「作家が読む『古事記』/最終回」で共感できることを書いている。
 長部は本居宣長の叙述を肯定的に引用している。別の誰かの本(井沢元彦?)でも読んだ気がするが、宣長によると、日本の「迦微(カミ)」とは「天地のもろもろの神をはじめ…尋常でないすぐれた徳があって、可畏き(かしこき)ものの総称」だ。そして、宣長は「小さな人智で測り知れ」ない「迦微(カミ)」はただ「可畏きを畏(カシコ)みてぞあるべき」と書いた、という(p.226-7)。
 そして、長部は、「物のあわれを知らない」「心なき人」が増えたことと、上のような「天地自然に対する原初的な畏敬と畏怖の念を失ってしまった」ことが、「いまの日本がおかしくなっている」原因だ旨を記している(p.227)。
 他にも共感できる叙述はあるが省略。「天地自然に対する原初的な畏敬と畏怖の念」を年少者に教育するのはどうすればよいのかと考えるとハタと困るが、<宗教>教育的あるいは<道徳>・<情操>教育的なものが公教育でも何らかの形で必要だろう。長部が自らの経験を語るような<集落の神社の森や境内>に接する機会が多くの子どもたちにあるとよいのだが(私には幸いまだあった)。
 なお、長部のこの論稿は、GHQの1945.12.15<神道指令>の正式名称と七項目の(おそらく)全文を掲載している(p.229-230)。そして長部は言う。-<寛容・融通無碍な信仰心の日本人は「神道指令」を「宗教弾圧」だとは「まるで考えもしなかった」。「神道指令」は「日本人の草の根の信仰心」を「根こそぎにした」。>
 石原慎太郎「伊勢の永遠性」日本の古社・伊勢神宮(淡交社、2003)は、「悠遠」を感じ体現しようとするのは人間だけで「伊勢」神宮はその象徴だ、旨から始めて、途中では、「人間はどのように強い意思や独善の発想を抱こうとも、結局、絶対に自然を超えることはできないし、そう知るが故にも…自然を畏敬することが出来る」等と書いている。
 こういう、神道あるいは(伊勢)神宮に関する文章を読むのは精神衛生にもなかなかよいものだ。狂信的に<保守>・<反左翼>を叫ぶのではなく、じっくりと構える他はない-それが<保守主義>であって<保守革命>などの語は概念矛盾だろう-というような想いもまた湧いてくる。

0470/天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき3。

 1.昨日4/19未明に書いたように1945年10月28日に宗教団体法が廃止され、同日に<宗教法人令>が公布・施行されたが、この法令では宗教法人は「届出」制で、かつ宗教法人であれば「所得税・法人税」(おそらく今の固定資産税にあたるものも)も免除されることになるため、宗教団体が「乱立」した。そこで翌1946年・昭和21年の4/03に<宗教法人法>が制定され、「宗教法人」の設立は「所轄庁」(都道府県知事か?)の「認証」によることになった。
 一方、上の<宗教法人令>は「神社神道」(<教派神道>と区別するためにこの語があるようだ)を対象にしておらず、同令の1946年(昭和21年)2/02改正により対象とされた。その結果、「神社神道」団体も他の宗教団体と同様に「届出」すれば宗教法人になれたが、届出期間は「6ケ月以内」と限定され、届出しない場合は「解散」したものと見做すこととされていた。
 神社はこの届出をして「宗教法人」となるか民法34条により「祭祀法人」(「公益法人」の一種)になるかの選択を迫られた。だが、所管の文部大臣が民法34条の適用(「主務官庁」の「許可」が必要)を認めない方針だったため、<宗教法人令>による届出をして「宗教法人」になる以外に「生き残りの道」はなかった。
 以上、()内部分を除いて、神社本庁研修所編・わかりやすい神道の歴史(神社新報社、2005)p.246-7による(新田均執筆部分)。
 2.かくして伊勢の神宮等の神社は1946年(昭和21年)2月以降6ケ月以内に、国の一機構(営造物)ではない「宗教法人」として新たに出発したことになる。
 そして、占領下では実質的には憲法と同等かそれ以上の力をもったGHQの指令=<神道指令>によって、さらにはGHQが草案を作成した新憲法20条(政教分離原則)の定めの影響もあって、神社と国(・天皇)と関係は大きく変容することとなった。
 この政教分離(一般論ではなくわが国で現実に採用された実態)について、神社本庁の上掲書(新田均執筆)p.249は、三点に分けて、問題点を指摘している。
 そのうち最初の二つは、殆ど容易に理解・首肯できるものだ。要点は次のとおり(①・②はこの欄の筆者)。
 第一。「日本人の倫理感の根底をなす天皇・国民・国土に対する神聖感」を「軍国主義・超国家主義」と同一視して「全面的に否定したこと」。これに伴い、「神社神道の国家性」が否定され、「バラバラ」の「地域的性質」が「神社本来のもの」との見方が強調された。
 この冒頭の「日本人の倫理感の根底をなす天皇・国民・国土に対する神聖感」なるものについては、今日ではこの存在を否定・消極視する人もいるだろう。上野千鶴子佐高信辻元清美日本共産党なら、「天皇…に対する神聖感」など、とんでもない、と言うかもしれない。だが、多くの国民は天皇(・皇室)への「神聖」感を少なくともある程度は有しているのではないか。また、だからこそ、かつての敗戦直後において、GHQも<天皇>制度そのものの廃棄へと踏み切れなかったのではないか。
 上の論点よりも、GHQはこうした「神聖感」を「軍国主義・超国家主義」と同一視して(不当にも)「全面的に否定した」、という批判は的確だと考えられる。万が一「軍国主義・超国家主義」というものがかつてあり、かつそれは<悪い>ものであったとしても、そのことと<国家神道>とは、そして神社・神道(伊勢の神宮等)とは論理的には関係がない。「軍国主義・超国家主義」が神社・神道を<利用した>と言える面がかりにあるとしても、神社・神道そのものに非難が向けられるべきものではあるまい。なお、井沢元彦は、<国家神道>は本来の神道とは異なる、ということを強調している(同・仏教・神道・儒教集中講座(徳間書店、2005)p.118)。
 また、上に「神社神道の国家性」と語があり、それの否定を批判しているが、ここでの「神社神道の国家性」とは、<国家神道>を意味しているのではない、と理解されるべきものだろう。すなわち、神道が日本という「国」の成り立ち(肇まり)に深く関わっている、いやむしろ、神道なるものと成立とのちに「日本」と称されるようになった日本列島の重要部分を占める「国」の成立とは殆ど同じ時期のことであり、殆ど同じことを意味する、ということが「神社神道の国家性」という語で表現されているのではないかと思われる。
 第二。①「発生史的に見て国家とは本来無関係な宗教」であるキリスト教と国家との関係についての「信仰の自由・政教分離」という原則を、不可分の密接な関係のある日本「国家」と神道との関係に「強引に当て嵌めた」こと。これは「一つの肉体を切り分け、一つの人格を分裂させるに等しい暴挙」だった。
 ②キリスト教が「唯一の伝統宗教」である地域では「各宗派に共通の基督教的要素は政教分離の対象とはされ」ていない。また、そのことによって「国家」の「無限」の「世俗化」を抑制している。しかるに、日本では「複数の伝統宗教が存在」し、各様に国家との関係を結んできたので、キリスト教に見られる「共通の要素」は見出し難い。にもかかわらず、「単純に政教分離の原則を適用すれば、宗教間の相互摘発によって、国家は無限に世俗化してゆく可能性」がある
 この①・②のような旨は別の論者による何かで読んだ記憶があるが、いずれも鋭い指摘だと思われる。
 GHQは、あるいは当時日本に滞在したアメリカ人は、神道をキリスト教の如きものと理解したに違いない。その上で<政教分離>も構想したに違いない。かの国での<政教分離>は基本的にはキリスト教の中での諸派のうち特定の宗派を優遇しないことを意味すると簡単には理解しているが(大統領就任の宣誓の際に<聖書>の上に手を置くことはしばしばこの脈絡で語られている)、そのような理解にもとづく<政教分離>原則がそのまま日本(・神道)に適用できるわけはないだろう。
 日本での厳格な、あるいは形式的な<政教分離>原則の適用によって<国家・政治>が際限なく「世俗化」していく(又はその可能性がある)という上の指摘はなかなか新鮮だ。
 <無宗教>的な国民が多数生まれ、戦後社会が形成されてきたため、日本の<国家・政治>は倫理的・道徳的・宗教的な<歯止め>を失い、「無限に世俗化して」いっている(又はすでにそうなってしまった)のではないか。キリスト教国においてすら、<大衆民主主義>の時代となり、その問題性・危険性が指摘されている。<無宗教>国・日本ではなおさらそうなのではないか。これは興味深い論点だ。
 以上と重なる所はあるが、そもそも神道は「宗教」の一つなのか、という問題があることも強く意識せざるをえない。国家と神道の分離は「一つの肉体を切り分け、一つの人格を分裂させるに等しい」という上にも紹介した表現からは、神社関係者(神社本庁、新田均)の強い不満と抗議の感情が伝わってきそうだ。神道は少なくとも、<ふつうの宗教>ではないのではないか。
 以下と同旨のことはすでに書いたことがあるが、鎌田東二編・神道用語の基礎知識(角川選書、1999)p.12-13は、ラフカディオ・ハーンの文章を引用したりしたあと、「神道は教祖をもたない、教義がない、教典はない、教団という明確な組織をもたない、ないないづくしの宗教であ」る、と書く。
 むろん「宗教」概念の理解の仕方いかんによることだが、反復すれば、神道は少なくとも、<ふつうの宗教>ではないのではないか。そのような神道と国家(日本)との関係を欧米的に理解された<政教分離>原則によって律してよいのだろうか
 さらに言えば、国家と神道の形式的な分離によって、日本と日本人は「一つの肉体を切り分け」られ、「一つの人格を分裂させ」られたがゆえに、アイデンティテイを喪失し(又は少なくとも喪失感をもち)、日本「国家」を気嫌う<無国籍>者的な日本人も多くなったのではあるまいか(先日某書店内で、佐高信・国畜(出版社不確認)という本を見た。「国畜」とは家畜、森村誠一の造語の「社畜」から連想した造語だろう。佐高信は<無国籍>者の代表の一人だ。「左畜」とでも呼んでやろうか)。
 とりあえず今回はこのくらいにして、あと何回かは神道・皇室・政教分離にかかわるテーマで書いてみよう。

0463/「神道」とはそもそも何なのだろうか。

 神道に関心をもつのは、一つは、日本の伝統・歴史という場合、あるいは日本(人)の「愛国」心を考える場合に、神道(・神社)を避けて通るわけにはいかない、という潜在的な直感があるからだ。
 「直感」からすでに結論めいたことを紹介するのは<飛躍>してはいるが、すでに一部は読んだ形跡のあった井沢元彦・仏教・神道・儒教集中講座(徳間書店、2005)には、こんな文章がある。
 ・「神道」とは「日本古来の神様を、日本人のやり方で祀っていく宗教」だ(p.121)。
 ・キリスト教が欧州キリスト教国の政治行動の理由になったように、「日本人独自の信仰である神道も、日本人独自の政治制度や文化、あるいは歴史に大きな影響を与えて」いる(p.143)。
 ・「神道がわかれば日本史の謎が解ける」(p.162-一節の見出し)。
 ・「神道」は「やはり我々日本人の考え方の根本にあるもので」、「日本人の生き方にさまざまな影響を与えている」(p.163)。
 ・「理性や理屈では必ずしもそうだと言い切れないものをそうだと信じること」が「信仰」だと思うが、「その国の人間の信仰を知らなければ、その国の歴史はわからないはず」だ。日本は「自分たちの信仰をないがしろにしてき」たため、「アイデンティティがわからなくなってしまっている」(p.164)。
 ・「日本人のアイデンティティ」は、しかし、「明らかに存在」しており、それは「神道」だ(p.164)。
 ・「我々日本人は、実は神道の信徒」なのだ(p.165)。
 ・日本人が本当に「無宗教」だったら、何かの宗教(例、キリスト教)にたちまちに染まっても不思議ではないが、そうなっていないということは、「日本には実はキリスト教に対抗し得る強力な原理があった」ことを意味する。「神道こそがその原理だった」(p.165-6)。
 引用はこの程度にしておく。日本人に特有の思考方法・感受性等についての具体的言及は省略するが、たぶん井沢の言うとおりだろうという気がしている。イザヤ・ベンダサン(山本七平)はたしか「日本教」という概念を使って日本人独特の心理・考え方等を論じていたかに記憶するが、「日本教」とは「神道」に相当に類似したものの表現ではないだろうか。
 現在の神社本庁は神道それ自体についてどう説明しているか。神社本庁教学研究所監修・神道いろは(神社新報社、2004)によると、こうだ(p.14-15)。
 ・「神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念」だ。
 ・「開祖」はいないし、聖書のような「教典」もない。但し、古事記・日本書紀・風土記等から「神道の在り方や神々のこと」は窺える。
 (なお、途中で挿むが、井沢・上掲書p.137は「神道の教典と考えてもいいのではないか、というもの」は「古事記」だ、と述べている。)
 ・仏教の伝来以降に「それまでの我が国独自の慣習や信仰が…『かむながらの道(神道)』として意識される」ようになった。
 ・特色の一つは「外来の他宗教に対する寛容さ」。(この点は、井沢・上掲書も指摘している。)
 ・神道は「自然との調和」を大切にする。「多くの神が森厳なる神社の境内の中にお鎮まりに」なっている。
 ・神道は「神々を敬い祖先を大切にする(敬神崇祖)」。
 (祖先崇拝を「儒教」と結びつける説明も別の論者又は文献によってなされていることがあるが、それは神道とも矛盾せず、むしろ神道の特色の一つなのだろう。もっともアジアの宗教(あるいは古来の東アジア人の精神)に共通する心性の可能性もある。)
 要約すると、以上の程度のことしか書かれていない(これは必ずしも批判ではない。単純素朴さ、簡明さは仏教とも異なる神道の特徴だと感じている)。
 一方また、「神社本庁」に関する次の説明も、神道の理解にとって参考になる(上掲の神道いろはp.44-45)。
 ・神社を国から分離するGHQの「神道指令」後、1946年2月3日に、「全国の神社と神社関係者を統合するための宗教法人神社本庁」が設立された。
 ・設立に際して、「教義が明確化された組織(神社教)の形態」を採らず、「各神社の独立性を尊重し全国の神社が独立の組織として連盟を結成する(神社連盟)を結成する」という考え方が基本とされた。
 ・従って、「他宗教にある統一的な教義といったもの」はない
 ・しかし、次の三項目を掲げる「敬神生活の綱領」を定めてはいる。①「神の恵みと祖先の恩に感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと」、②「世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと」、③「大御心(おおみこころ)をいだきてむつぎ和らぎ、国の隆盛と世界の共存共栄を祈ること」。
 以上。なるほどという感じもし、新鮮な感じもする。また、この程度の「綱領」を掲げる程度では、いく度か「神」が出てくるとしても、そして形式的には各神社や神社本庁は「宗教法人」だとしても、そもそも「宗教」といえるのだろうか、という基本的な疑問も湧いてくる
 さらに、いちおう神道も<宗教>だとして進めると、戦後は<無宗教>教育だったからこそ、「明き清きまこと」・「むつぎ和らぎ」といった心持ち、「世のため人のために奉仕し」といった公共心・他者愛心が教育されなかったのではないか、という気がしてくる(「国の隆盛世界の共存共栄(…を祈る)」のうちとくに前者(「愛国心」に直接につながる)は、公教育において殆ど無視されてきただろう)。
 よく指摘されている道徳観念・規範意識の欠如の増大傾向も<宗教教育>の欠如と無関係だとは思われない。ここでの<宗教教育>はやや大袈裟な表現で、<道徳教育>、さらには単純に<情操教育>と言い換えてもよいかもしれないが。
 今回の冒頭に「一つは」と記したが、もっと関心を持って書きたかったのは別の「一つ」にかかわる。回を改める。

0440/サピオ4/09号(小学館)の一部を読む。

 サピオ4/09号(小学館)。小林よしのりは依然として東京裁判・パール意見書に関して吠えている。知らなかったが、彼によると、太平洋戦争研究会編・東京裁判「パル判決書」の真実(PHP、2006.12)はとんでもない本で、編者と区別されている執筆者・森山康平(1942-)は南京大虐殺30万人説、「三光作戦」実在説を採る別の本を出している「まるでシーラカンス」(p.57)の人物のようだ。PHP研究所の出版物の中に、なぜそんな「左翼」又は「自虐」丸出しの者の書いたものが混じるのだろう。
 小林はいろいろとよく読んでいる。というのは、「中島〔岳志〕のような保守オタクも、森山〔康平〕のようなシーラカンスも、保阪正康や半藤一利あたりの連中も、みんな同じ穴の狢である」と書いている(p.60)。半藤一利は昭和史の専門家の如く振る舞っているが、その著の昭和史・戦後篇は骨格のないつまらない本だし、九条の会への賛同者の一人で九条護持論者だ。保阪正康と半藤一利を並べて位置づけてくれるとは、小林と私は(そのかぎりでは)同じ感覚で、親しみ?を覚える。
 あまり言及したことはないが、井沢元彦の多数の著書の愛読者でもある。
 井沢もサピオにしばしば登場するが、上掲号には「いまからでも遅くはない/北京五輪をボイコットせよ」を書いている。
 その中で、井沢は中国は「帝国主義思想にとらわれた『19世紀の国家』なのである」と断言する(p.95)。当然の見方だと思うが(その説明もある)、こう明瞭に書かれると却って新鮮だ。そして、「中国というのは巨大な泥舟」で、「どんなに大きなエンジンを積もうが、いずれ沈むことは間違いない」と締め括る(p.97)。
 一部に「市場経済」を取り込んでいても、社会主義・共産主義を標榜する、共産党=国家権力の国が永続せず、いずれソ連や東欧諸国のように<崩壊>するのは、マルクス主義者の言葉を借用すれば、<歴史の必然>だろう(北朝鮮も同様)。
 日本共産党もいずれ「沈む(=消滅する)ことは間違いない」。同党は1970年前半に「70年代の遅くない時期」に<民主連合政府(の樹立)を>とか言っていたが、現在では「21世紀の遅くない時期に」へと変えているようだ。「21世紀の遅くない時期に」とは、2050年までなのか、それとも-残り1/3が「遅い時期」だと考えて-2065年くらいまでなのか。そのどちらにせよ、日本共産党自体が「21世紀の遅くない時期に」存在しなくなっている(消滅・解体している)と予想される。その瞬間を何とか生きて体験したいものだが、はたして。

0190/朝日新聞は日本の「障害」だ、「はき違えてもらっては困る」。

 朝日新聞については、稲垣武・朝日新聞血風録(文藝春秋、1991)、井沢元彦・虚報の構造・オオカミ少年の系譜-朝日ジャーナリズムに異議あり-(小学館文庫、2003。初出1993-95)、小林よしのり=井沢元彦・朝日新聞の正義(小学館文庫、1999)、古森義久=井沢元彦=稲垣武・朝日新聞の大研究(扶桑社、2002)等の批判的分析を読んだ。
 月刊WiLL、諸君!等には毎号、朝日新聞の報道ぶりを批判するコラム等が掲載されている。
 また、稲垣武・「悪魔祓い」の戦後史(文藝春秋、1994。文春文庫版1997)、同・「悪魔祓い」の現在史(文藝春秋、1997)等々が批判の矛先の重要な一部としている。これら稲垣の二著の副題はそれぞれ、「進歩的文化人の言論と責任」、「マスメディアの歪みと呪縛」だ。
 横田滋が「親の代から」とっていた朝日新聞を「8月末で解約」したと抗議文で書く原因となった有名な1999年8/31社説「「テポドン」1年の教訓」の一部はこうだった(読売論説委編・社説対決北朝鮮問題(中公新書ラクレ、2002)p.154~に全文あり)。
 「日朝の国交正常化交渉には、日本人拉致問題をはじめ、障害がいくつもある。/しかし、植民地支配の清算をすませる意味でも、朝鮮半島の平和が日本の利益に直結するという意味でも、正常化交渉を急ぎ、緊張緩和に寄与することは、日本の国際的責務といってもいい」。
 
当時家族会事務局長だった蓮池透によれば、読んで「頭にきて」すぐに朝日新聞社に電話をしたら、論説委員は出せない、返答が欲しければ返信用封筒に切手を貼って同封せよと対応された、「障害」とは「邪魔」の意味かの質問に、拉致に関する北朝鮮の態度が正常化交渉再開の「障害」になっている旨が本意であり誤解されれば残念だ、と文書回答してきたが、2002年12/27の北朝鮮報道検証の特集企画の中では、「障害」とは「乗り越えなければならない、つまり解決されなければならない課題という意味」をこめて用いた、と「障害」の意味を一転させた、という(諸君 !2003年01月号p.38-39)。
 石原慎太郎東京都知事が「不法入国した多くの三国人、外国人」との表現を使ったとき、朝日新聞2000年4/13社説は「不法入国した…」との限定があったことを無視し、かつ「三国人」という語の歴史に無知なままで、差別語の「三国人」を使うのは「恐ろしいほどの無神経さ」だと罵倒し、「都知事というポストは、気ままな政治信条の表現の場ではない。…はき違えてもらっては困る」とまで書いた(読売論説委編・社説対決50年(2001)p.276-)。
 何度も書いてきたようなことだが、朝日新聞はいったい何様なのか。「恐ろしいほどの無神経さ」に驚く。そして、「はき違えてもらっては困る」と言いたい。

0111/朝日新聞は拉致問題を慰安婦問題でチャラにする。

 朝日新聞3/28付夕刊の「ニッポン人脈記」連載・安倍政権の空気16の大きな見出しの一つは「少女に甘言「拉致と同じ」」だ。
 本文では、吉見義明(中央大学教授)が、<拉致被害者も…「甘言」にだまされ、連れ去られた例がある。朝鮮人の少女が業者から…と戦地の軍慰安所に送られたのもまた、「甘言」による「拉致」ではないか>、「安倍さんが拉致問題に熱心に取り組むのは正当だけれど、従軍慰安婦にも同じ態度で臨まないと国際的に理解されないんじゃないか」、と述べている。むろん、朝日新聞の見解とも共通するものと考えられ、この記事の全体は早野透が書いている。
 以上のような考え方が、北朝鮮当局の主張をサポートするものであり、拉致被害家族会の人びとの神経を逆なでするものであることは、論を俟たない。
 なぜこの問題をとり上げたかというと、サピオ5/09号(小学館)で井沢元彦がこの記事を紹介しつつ批判・反論し(上の叙述は主としてこれによる、p.35以下)、月刊WiLL6月号(ワック)でも山際澄夫が「朝日新聞こそ「従軍慰安婦」捏造を批判せよ」の中でやはりこの記事を取り上げて批判・反論しているからだ(p.80以下)。
 二つの雑誌(他の雑誌にもあったかもしれない)で二人の論客が共通に同様の批判を加えているのだから、よほど目立った「朝日らしい」ヒドい記事だった、と言える。
 批判・反論の詳細を繰り返さないが、国家によるテロと言える現在も続いている拉致と、上の文章でも「業者」の「甘言」によるとされている過去の慰安婦「連行」とを<同じ犯罪だ>とし、そして最後には安倍首相批判につなげる手口は、さすがに朝日新聞だ。2007年3/28(夕刊)は、朝日の「恥辱と愚劣の歴史」に項目を一つ加えることになったに違いない。
 なお、 金正日が拉致の事実を認めたあとの、社民党・辻元清美の言葉はこうだった。
 「9人や10人の拉致がナンボのもんじゃい。日本は北朝鮮に仰山迷惑かけた。それを謝罪も補償もようせんと、返せ返せというのはフェアじない」(月刊WiLL4月号で堤堯氏が「」付きで紹介していた)。

0030/サピオ4/11号の井沢元彦コラムはさすがに鋭い。本田雅和記者の暗躍を阻止せよ。

 サピオ4/11号(小学館)で井沢元彦が慰安婦問題に関して朝日新聞を批判している。「朝日新聞の大誤報が米国の「慰安婦決議」のもとになったのをご存じですか」とのタイトルだが、さすがに井沢は、経緯も論点もきちんと判っていて、言いたいことを書いてくれている。2点、関心を惹いたことがある。
 一つは、朝日の早野透が「朝日新聞コラムニスト」という肩書で日刊スポーツ3/11付に書いた内容と、それへの井沢による批判だ。日刊スポーツの当該コラムは知らなかったが、朝日本紙と同様に卑劣この上ない。安倍首相を「安倍」と呼び捨てにしつつ、「安倍は河野談話を継承するというなら、「強制性はなかった」などと四の五の言うべきでない。日本政府の二枚舌になってしまう。一国も早く発言を撤回すべきだろう」などとよくも言えたものだ(発言とは、狭義の強制性否定と決議採択あっても謝罪しないの2つを指すようだ)。
 朝日本紙の星浩のコラムと同様に、まさしく「朝日新聞の大誤報が米国の「慰安婦決議」のもとになった」ことに一切触れず、頬被りしてダンマリを決めこんで、安倍首相を批判できる材料を探し出して、口先だけ恰好よいことを喋っているのだ。何度も言うが、朝日新聞は日本で最も卑劣・愚劣な新聞だ。
 二つは、では日本政府はどうすればよいかに関して、「河野談話は一新聞社をリーダーとする異常なキャンペーンで醸成された空気によって拙速に出されたもので、…極めてお気の毒に思うが、日本が強制連行したという事実は今のところ確認できないので修正する」とでも政府は言うへきだ、と提案している。
 河野談話は国会決議ではなく、内閣又は内閣総理大臣の判断で修正も取消しもできる。同じ日本政府のかつてとった措置の拙劣さを自認することにはなり、河野洋平らの抵抗はあるだろうが、現実性がどの程度あるかは分からないものの、こうした内容を基本とする明確でかつ丁寧な説明をする新しい談話を出すべきだろう。
 むろん混乱が予想される。朝日新聞は狂ったように騒ぐだろう。だが、現状のままで推移するよりははるかに良い。朝日新聞の虚報をきっかけにした歴史の改竄によって日本国家が国際的に名誉を侵害されることを断固として回避すべきだ。
 それにしても、井沢も指摘するように、2005年01月の本田雅和らによる「政治家(安倍晋三現首相と中川昭一現自民党政調会長)のNHKへの圧力があった」との虚報・捏造を訂正もせず謝罪もしない神経は並大抵のものではない。
 また、井沢の舌鋒も論理もなかなかのものだ。2005年01月政治家圧力虚報問題と関係記者の責任を曖昧に(=うやむやに)したまま、つまり自分自身の問題は批判的に点検することなく、「政府批判や官僚批判を堂々と書けるのか?」
 なお、このコラムによると、本田雅和はアスパラガスから抜け出して北海道夕張勤務の記者に復活する、そしてこの人事は「ほとぼりがさめて」の栄転なのだとか。彼はいつかまた何かで、「左巻き」の事件を起こすだろう。

-0052/「学界」外の者の発言でも正しいものはある-井沢元彦・安本美典ら。

 ○ 大学で「哲学」を講じている人の殆どは西欧の誰かの「哲学」の研究者(学者)で、「哲学学」者であっても「哲学者」ではなく自らの「哲学」を語ってはいないという印象があったが、少なくとも鷲田小彌太という人は違うようだ。
 鷲田小彌太・学者の値打ちをさらに80頁読み進む。
 西田(幾太郎)哲学は複数の異なる外国哲学の何でもありの受容(「借用」・「受け売り」)だ旨の指摘(p.23)にド胆を抜かれたが、その他、色々と考えさせられて刺激的だ。
 彼によれば、彼は25歳半ばからマルクス研究を始め40歳台でマルクス主義を「克服した」らしく、丸山真男政治学は「マルクス主義政治学の亜種」で、彼の弟子たちが学会から消えるに従い丸山の「名声」は弱まる(p.108)、等々。
 大学教授は「知識人」ではなく特定分野の「専門家」にすぎない、と思ったことがあった。
 ここでは「知識人」は社会のほとんどの諸問題に広い「教養と知識」を背景にしてマスメディアに発言する能力のある人とのイメージだった。
 これに関連して鷲田の上の本p.180は「大学教授の大半は、知識人とさえいえない」、「競争原理」が全く働かず、その「知識や技術」の「水準は問われない」からだ、と言う。つまりは私のいう「専門家」かどうかも「大半」は疑わしいというわけで、厳しい。
 アカデミズムとジャーナリズムの関係等の話も面白い(但し、立花隆の肯定的評価は承服できない。鷲田も立花・滅びゆく国家を読めば評価を変えるはず)。
 「かつてアカデミズムの権威が有効な時代があった。大新聞の論説が世論形成に与った時代があった。しかし、パソコンを媒介にしたこの社会では、個人発であるか、大学発であるか、大新聞発であるかで、情報価値に根本的差違はない」との指摘は全くそのとおり。
 知識・情報を大学・マスコミが独占しているはずがない。
 ○ しかし、妙なアカデミズムは残っているように見える。
 鷲田の本から離れるが、例えば、井沢元彦の研究・諸指摘(学界の「方法」的欠点も含む)を日本史学界はたぶん完全無視だろう。
 また、安本美典の古代史論、邪馬台国論は説得的な部分があると思うが、安本が日本史(古代史)プロパーではない(もともとは言語学、次いで心理学も)ことを理由に古代史学界はこれまた完全無視でないか。
 出自が何であれ、誰が述べようとも、正しいものは正しい。誰の問題提起でも適切ならば、適切なはずなのだ。鷲田によって「学界」の傲慢さも思い起こした。

-0015/藤代孝七船橋市長は同市職員・土橋悦子を懲戒免職に。

 さっき夜とはいえ屋外の温風の中で憔悴した。
 温風といえば、船橋市役所の同市職員・土橋悦子に対する措置は「温風」すぎる。迂闊にも今年になって知ったのだが、船橋市職員(司書)で市立西図書館に勤務していた土橋悦子という女性が、(冊数が多い順に)西部邁、渡部昇一、福田和也、西尾幹二、長谷川慶太郎、小室直樹、谷沢永一、岡崎久彦、日下公人、坂本多加雄、井沢元彦、藤岡信勝、高橋史朗、福田恒存、一団体の、同図書館所蔵の著書計107冊を除籍・廃棄した(リストから外して捨てた)。うち個人8名等が慰藉料請求訴訟を提起し、第一審・控訴審ともに請求棄却だったが(但し、例えば1審判決は土橋は「原告…に対して否定的評価を抱いていた」、「他の職員に対して原告らの著書を書棚から抜いてくるよう指示して手元に集めた…」、「本件除籍等は、原告つくる会らを嫌悪していた被告A(土橋)が単独で行った」と認定し、市との関係では土橋の行為は「違法」と明言していた)、最高裁は昨年7月14日判決で「公立図書館の図書館職員が閲覧に供されている図書を著作者の思想や信条を理由とするなど不公正な取扱いによって廃棄することは、当該著作者が著作物によってその思想、意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なう」、「公立図書館において、その著作物が閲覧に供されている著作者が有する上記利益は、法的保護に値する人格的利益である」として国家賠償法上も違法となるとし損害賠償請求が認容されるべきものとして破棄差戻した。これを受けて東京高裁は昨年11月24日に原告一人3000円+法定利息という少額ながら市への請求を認容した。
 土橋悦子は公務員である。が、人の「思想」・「主張」によって不利に「差別」的に取扱った。「嫌いな」主張者に市の施設(水道も公園も)の利用を拒み、極論すれば市立病院で意図的に不利に扱って死なせることに等しい。公務員に対する根本規範(職務の公正・中立性)を侵害することの明白な極めて重大で「深刻」な非違行為だ。船橋市長は懲戒減給処分しか土橋にしていないようだが、懲戒免職処分に値する。被害者が「特定」の方向の人々らしいから言うのではない。逆の方向?の人々でも問題の本質は同じ。右か左かの問題ではない。不正義か正義か、悪か善か、「歪んで」いるか「真っ当」かの問題だ。

ギャラリー
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