秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

五箇条の御誓文

2060/江崎道朗2017年8月著の無惨と悲惨25。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子が「助けて」いる。江崎道朗本人はもちろん、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
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 江崎道朗が論及する十七条の憲法第10条の一部。
 「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」。
 坂本太郎・聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)による第10条全体の読み下し文。適宜、改行する。
 「十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。/
 人みな心あり。心おのおの執るところあり。/
 彼れ是とするときは我れは非とす。我れ是とするときは彼れは非とす。/
 我れ必ずしも聖にあらず、彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。/
 是非の理、詎<たれ>かよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶<みかがね>の端なきがごとし。/
 ここをもって、彼の人は瞋<いか>ると雖も、還って我が失を恐れよ。/
 我れ独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙<おこな>へ。」
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 上のように江崎は聖徳太子・十七条の憲法の全体またはその第1~第3条のいずれにでもなく、第10条の、かつその一部に着目する。そして、前回に記したように、そこから、五箇条の御誓文以降につながる<保守自由主義>を「感じ取る」。
 江崎は、第10条の全文に何ら言及しない。
 かつまた、多少立ち入って読むと判明する第三は、以下のことだ。
 第10条の上の部分=「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは、自分の判断・考えによってではなく、他人の著にに依拠している。つぎの書物だ。
 江崎は、この小田村寅二郎と山本勝市の二人を、戦前・戦中の<保守自由主義>者として高く評価する。二人に併せて言及する最初は、p.278。なお、江崎著には小田村のこの本からの直接引用や要約的紹介が多い。
 小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)。
 では、「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは小田村のこの著かというと、そうではない。
 小田村がこの著の中で「紹介」する、小田村らが十七条憲法について講義を受けたという、黒上正一郎という人物だ。
 江崎は、小田村の上掲著の一部を、こう引用している。小田村の文章だ。p.346。
 ・黒上の「"聖徳太子研究"の勉学の方法……は、世の仏教家や歴史学者とは違って、聖徳太子御一代の政治・外交についての御事業を、独特の見方でみようとした」ことだ。
 ・「すなわち、聖徳太子が"この世の人はどんな人であろうとも、所詮は"十七条憲法の第10条"に書かれてあるように、『共に其れ凡夫のみ』と把えられたあの痛切極まりない宗教的な御人生論を、とくに凝視なさって、黒上氏ご自身の心魂を傾けつくして太子のお心を偲ばれ、そうした"追体験"の学問の中に自らを徹入されながら、以て太子の御思想を説き明かそうとなさった点である」。
 この引用文に見られるように、小田村は黒上の聖徳太子研究には「世の仏教家や歴史学者とは違」う「独特の見方」がある、と明記したうえで、「共に其れ凡夫のみ」が示す「宗教的な御人生論」に対する共感を述べている。
 この部分について、江崎は、つぎの諸点には注意を向けていないようだ。
 ①黒上正一郎の研究には「独特の見方」があったこと。
 ②小田村は「共に其れ凡夫のみ」を直接には「宗教的人生観」と見ていたこと。
 ③上の「宗教」とは、いかなる、またはいかなる意味での「宗教」なのか。
 ともあれ、江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方なのだ。
 そうすると、江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする
 これは、読者を納得させ得る論理展開なのだろうか。
 ①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていないのだ。
 聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。
 それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?
 さっぱり分からない。異常であり、異様だ。
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 秋月は聖徳太子や十七条憲法に関する専門的研究者では全くないのだが、上の諸点とともにあるのは、常識的には、つぎの問題だろう。
 そもそも第一に、聖徳太子・十七条の憲法の「思想」・「主義」・「考え方」を、その第10条の一部の句-「共に其れ凡夫のみ」-にのみ着目して理解することが適切なのか。
 江崎道朗は、小田村らを称揚したい気分が嵩じて、何か勘違いをしているのではないか。
 またそもそも第二に、小田村寅二郎の「思想と行動」において、聖徳太子・十七条憲法はいかほどの位置を占めていたのか。
 なお、小田村や黒上が「保守自由主義」という語を使っていたのでは全くなく、これは江崎道朗が2017年の時点で「新発明」した?造語だ。
 最後に記した諸点をさらに検討する。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>。

2059/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨24。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子。江崎道朗本人はもちろんだが、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
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 ①p.13-「聖徳太子以来の政治的伝統」。
 ②p.344-「聖徳太子以来の日本の伝統的政治思想」。
 ③p.352-「聖徳太子以来の五箇条の御誓文、…へと至る『本来の日本』」。
 ④p.404-「聖徳太子の十七条憲法以来のわが国の政治のあり方」。
 このように何度も出てくる聖徳太子以来の日本の政治的伝統が、江崎道朗によると<保守自由主義>だ。
 そして、少し立ち入って読むと分かる第二は、この「聖徳太子」または「十七条憲法」というのは、聖徳太子の「政治思想」全体でも、十七条憲法の全体の「精神」でもなく、後者の十七条憲法の、ある特定の条の一部を意味する、ということだ。
 聖徳太子の「実在」性や日本書記に全文の記載のある<十七条憲法>の作成者・作成時期については周知のように議論があるところだが、江崎道朗はそれらをいっさい無視しているので、<聖徳太子が十七条憲法を執筆した>という前提で、つまりは彼と同じ立場に立って、論評を進める。
 小田村寅次郎らは聖徳太子から学んだ、とかその十七条憲法から学んだ、と何度も叙述されているので、上記のように聖徳太子の考え全体や十七条憲法全体から「保守自由主義」が導かれている、と想定しがちになるが、それは、この著の読み方としては、誤っている。
 十七条の憲法というくらいだから、第17条までの条数があり条文がある。
 最も有名なのは第1条の冒頭の「和を以て貴しとなし…」だが、あくまで通説的にだろうが、第2条は<仏教>、第3条は<天皇>への崇敬を求めるものだとされる。第1条は一口では「和」だが、<日本教>・<日本精神>を示すとか、さらにこの条との関係で<神道>が言及されることもある。
 江崎道朗が言及しているのは、しかし、第1条でも(仏教の第2条を飛ばして)第3条でもない。
 第10条だ。p.346。
 しかも、第10条の全体でもなく、そのごく一部に限られる。p.346-7。以下の部分だけだ。
 「共に其れ凡夫のみ」。
 他書からの引用・依拠も多いが、江崎道朗の理解はつぎのごとくのようだ。p.346-7。
 ・聖徳太子・十七条憲法第10条に書くように、この世の人は「どんな人でも」、所詮は「共に其れ凡夫のみ」だ。つまり「人はみな自分に執着し、過ちを犯す欠点だらけの人間だ」。
 ・全ての人間は「不完全で、自己に執着してしまいがち」という「極めて厳しい『自己』認識」だ。
 ・「国民同胞一人のこらず」(=「共に其れ」)、「欠点だらけの人間」(=「凡夫」)であり、「それ以外の何物でもない」(=「のみ」)、という深い意味が込められている。
 この部分は、江崎道朗によると、<五箇条の御誓文>の第一項の「万機公論に決すべし」に継承されている(以下、立派に活字となって明記されている主張・見解なので紹介を続ける)。江崎は、こう書く。p.348-9。
 ・「人間は不完全だ。不完全なもの同士だから、お互いに支え合い、話し合ってより良き知恵を生み出すことが必要である-この聖徳太子の発想は、まちがいなく明治日本の理想にも引き継がれている」(!!!-これは引用者・秋月)。
 ・「『万機公論に決すべし』の背景にあるのは、…『それぞれが凡夫で力不足なのであるから、お互いに高め合いながら、より高いものをめざすべく努め合うところに日本の国柄がある』という宣明なのである」(!!!-これは引用者・秋月)。
 さらに、五箇条の御誓文の全部・全条が、江崎道朗によると、つぎのことを示している、とされる(以下、立派に活字となって明記されている主張・見解なので紹介を続ける)。江崎は、こう書く。p.350。
 ・日本が目指してきたのは「エリートが世の中のことをすべて取り仕切る全体主義」ではない。「お互いが『自らの足らざるもの』を自覚しつつ、お互いに支えあい、創意工夫をしながら、より高きをめざす『自由な社会』のあり方こそが、日本の本来の姿なのである」。
 このあとに、前回にほとんどを引用した、つぎの文章が続く。p.350。「政治的伝統」ではなく「人生観」になっているのは破綻の一部がすでに見られる、と指摘した。
 ・「日本の『保守主義者』が『保守』すべきものとは、聖徳太子が『共に其れ凡夫のみ』という言葉で示した人生観であり、明治天皇が『五箇条の御誓文』で示した自由主義的な政治思想なのである」。
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 すでに論評と批判的指摘に入っていきたくもなる。「共に其れ凡夫のみ」→「保守自由主義」・五箇条の御誓文。何だこれは?
 だが、もう少し、聖徳太子・十七条憲法に立ち入ってみよう。
 上記のとおり、江崎道朗が注目するのは十七条憲法の第10条の一部の「共に其れ凡夫のみ」という部分だけで、これは原文・漢文だと「共其凡夫耳」の5文字
 第10条というのは(十七条憲法全体だとむろんもっと多いが)この5文字だけで成り立っているのではなく、つぎの文献によって計算すると、計74文字の漢文だ(冒頭の「十日」の2文字を除く)。
 日本思想大系・聖徳太子集(岩波書店、1975)、p.74。
 計74の漢字文のうち5文字だけ取り出して読解することはできないだろう。
 そこで、漢字だけを並べても意味を解し難いので、手元にあったつぎから、読み下し文をその下に掲げる。適宜、改行する。
 坂本太郎・人物叢書/聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)、p.89。
 「十に曰く、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違ふを怒らざれ。/
 人みな心あり。心おのおの執るところあり。/
 彼れ是とするときは我れは非とす。我れ是とするときは彼れは非とす。/
 我れ必ずしも聖にあらず、彼れ必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。/
 是非の理、詎<たれ>かよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶<みかがね>の端なきがごとし。/
 ここをもって、彼の人は瞋<いか>ると雖も、還って我が失を恐れよ。/
 我れ独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙<おこな>へ。」
 さてここで、江崎に対して、つぎの疑問が生じる。
 第一。上の10条全体のうち「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」だけに着目し、<人はみな不完全な物に他ならない>という意味だと理解してよいのか。全体の文章・文意の中で位置づけて解釈する必要があるのではないか。
 第二。そもそもなぜ、<聖徳太子・十七条の憲法>に何度も言及しておいて、第10条の一部にのみ着目するのか。
 異常、異様だと感じざるを得ない。
 もちろん、<人間はみな不完全だ>との意識・認識が<保守自由主義>なるものにどのようにして帰着するのか?、という問題も厳然としてある。
 凡夫=不完全な人間という理解の仕方自体の問題もありそうだ。
 それはかりに別としても、<人間はみな不完全だ>から出発して、いかなる<主義>も取り出せるような気がする。
 あるいはそもそも、聖徳太子・十七条の憲法の一部を読まないと、<人間はみな不完全だ>ということを、江崎道朗は認識できないのか?
 純粋無垢な?高校生が、あるいは何かの新興宗教の教主が書いたような文章を読むのもいいかげんうんざりはする。
 第三に、上のことを江崎道朗は、自分自身の検討等によってではなく他人の本(のしかもまた引用または間接的紹介)に依拠して書いている、ということを次回に記す。

2058/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨23。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子
 江崎道朗本人はもちろんだが、PHP研究所、川上達史、山内智恵子は、恥ずかしく感じなければならない。学者・研究者としての良心があるならば、京都大学「名誉教授」・中西輝政も、同じく京都大学「名誉教授」・竹内洋も。
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 江崎は、上の著は最終文の直前の文でこう書いている。
 p.414(おわりに)-「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文に連なる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 また、最終章の末尾には、こうある。
 p.406(第6章)-「われわれは、憲法改正によって取り戻すべきは『保守自由主義』であって『右翼全体主義』でも『左翼全体主義』でもないと明確に答えることができるようなっておくべきなのだ」。
 さらに、第5章の末尾には、こうある。
 p.354(第5章)-「われわれは、……小田村寅次郎ら『保守自由主義』の系譜を受け継ごうとするものだ」。
 これらでの「われわれ」とは誰なのか明記されていないが、江崎を含む仲間たち、要するに<現在の日本の「保守」派>であり、その仲間たちに呼びかけているのだろう。
 「われわれ」の意味・範囲は瑣末なことだ。
 上のようにこの著にとって重要な基礎概念である<保守自由主義>とは何かが、当然に問題にされなければならない。そして、これが曖昧なままだと、この書物の目的は達成されていないに、ほとんど等しいだろう。
 そして、多少立ち入れば、つぎのことが読み取れる。
 第一、<保守自由主義>とは、聖徳太子・十七条憲法と関係があり、そこに示されるとされる「日本の長い政治的伝統」だとされている。
 例えば、以下のとおり。
 p.13(はじめに)-日本のエリートたちは大正時代以降3つのグループに分かれたが、「第三は、聖徳太子以来の政治的伝統的を独学で学ぶ中で、…皇室のもとで秩序ある自由を守ろうとした『保守自由主義』のグループだ」。
 p.279(5章第4節)-小田村寅次郎らの一高昭信会のリーダーは「聖徳太子の十七条憲法や……を学ぶことを通じて、日本型の保守主義についての勉強を行っていた」。
 p.344(5章第27節)-見出し「聖徳太子以来の日本の伝統的政治思想に学ぶ」。
 同(5章第27節)-小田村らが「聖徳太子の十七条憲法歴代天皇の政治思想を学ぶことを通じて日本型の保守主義についての勉強や活動を行ってきたことはこの章の最初に、すでに述べた」。<なお、立ち入らないが、「歴代天皇の政治思想」を学んだとは章の最初に書かれておらず、「歴代天皇の政治思想」が出てくるのはここだけだ。>
 p.348(5章第28節)-見出し「保守自由主義の立脚点は聖徳太子、五箇条の御誓文、帝国憲法」。
 そして、聖徳太子(・十七条憲法)に関するやや立ち入った言及があった後のつぎの結論的叙述は、最も長い文章であるかもしれない。
 p.350(5章28節)-「日本の『保守主義者』が『保守』すべきものとは、聖徳太子が…で示した人生観であり、明治天皇が『五箇条の御誓文』で示した自由主義的な政治思想なのである。/
 小田村たち、「すなわち『若き保守自由主義者たち』の脚点は、まさに、聖徳太子から五箇条の御誓文、そして帝国憲法へと至る、日本の真の伝統であった」。 
 同様の趣旨は、この後にも現れる。
 p.352(5章29節)-「右翼全体主義者」は「聖徳太子以来の五箇条の御誓文、帝国憲法へと至る『本来の日本』などまったく顧慮せず、……帝国憲法体制を破壊すべく邁進していったのだ」。
 p.404(第6章15節)-彼らは「聖徳太子の十七条憲法以来のわが国の政治のあり方も、大日本帝国憲法に込められた叡慮も、…もきちんと学ばずに、…レーニンの帝国主義論など、最新の学問潮流に幻惑されていった」。
 この程度にするが、このように、何度も「聖徳太子」・「十七条憲法」や「五箇条の御誓文」を登場させている。
 しかしながら、決定的に不十分なのは、<これらがなぜ「保守自由主義」を示すものなのか>だ。
 江崎道朗は、これに全く言及していないわけではない。
 だが、おそるべきほどの杜撰さで、これらを叙述し、理解しようとしている。
 そこには決定的に不備・誤りがあるだろうが、上に引用した中では、聖徳太子以来の「政治的伝統」であるはずなのに、「聖徳太子が…で示した人生観」(p.350)なるものに遡ろうとする叙述にも<破綻>の一端が見られる。
 そして、江崎道朗は、十七条憲法にせよ、五箇条の御誓文にせよ(大日本帝国憲法は別に措くとして)、<保守自由主義>だということを示す何ら詳細で具体的な「研究」ないし「論証」も展開していない。
 皮を剥いていくと何もなかった、というのにほぼ等しい。言葉としては、聖徳太子・十七条憲法等が出てくる。しかし、これらに多少とも立ち入った叙述はない。そのような観のある叙述部分も、江崎自身の見解ではなく、他者の見解を紹介・引用することで済ませている。
 何と無惨だろうか。こんな叙述で、読者は納得するとでも考えていたのだろうか。
 怖ろしいことだ。こんな書物が日本では堂々と出版されている。<惨憺たる>出版物だ。
 次回には、聖徳太子の十七条憲法のどの部分が、江崎のいう<保守自由主義>なのか、という、奇妙な叙述を紹介し、論評する。

1849/池田信夫のブログ、例えば9/21から。

 池田信夫のブログは、その日のうちにたいてい読んでいる。
 圧倒する印象は、頻度、投稿の回数の多さだ。
 そのうち、第一に、原子力、経済政策、放送・通信あたりの議論は、こちらに専門知識がないか乏しくて、お説拝聴という場合が多い(原発再稼働問題は除く)。
 第二に、ときに、間違い、簡単すぎる、と感じることもある。
 典型は、もう古くなったが、自然災害-水害対策としての土地利用規制計画の見直し、<危険地帯に住まない>方向への誘導を説いていた、7/23だ。
 土地利用規制計画の見直しは一般論としてはそのとおりだが、特定の地域への居住を禁止して転居?に補助金を、とかの政策の実施は、おそらく「私的財産権」の利用制限(または剥奪)とそれに対する補償の必要の関係で、実現不可能であるか、相当の立ち入った計算・見込みがないとほとんど無理だろう。
 その中には、災害発生の「確率」(リスクあるいはハザード)の問題、日本における「私的財産権」絶対意識の強さも視野に入れなければならない。
 第三に、最も多いのは、適度に想念や思考を刺激してくれるものだ。
 池田が何らかの文献・書物を紹介しながら書いている文章は、アマゾンとの関係でいくらの収益をもたらしているのか知らないが、そして池田自身の言葉かそれとも当該書物の内容に沿ってたんに紹介しているのかが不分明であるときがあるのがタマにキズ?だが、思考を適度に刺激してくれる。
 とりわけ、広く歴史や「学問」にかかわるものだ。
 トルーマンによる日本への原爆投下に関する、8/15、9/17もそうだ。
 いちいち書き出すとキリがない。
 ***
 江戸時代から戦前日本までの欧米との対比は池田の関心でもあるようで、9/21の「実学」関係も、「科学・学問」にもかかわって興味を惹く。
歴史上ほとんどの学問は既存の価値体系にもとづいて新しい事実を解釈する技術であり、大事なのは体系の整合性だけなので、それを脅かす異端を排除すれば、学問の権威は守れる」。
 この文章は含蓄、含意が多い。これをすっと書いたのだとすると、相当のものだ。
 「天動説は…『反証』されたが、それによって否定されなかった」。
 「キリスト教とアリストテレスを組み合わせた神学大系」でたいていは説明できたが、「植民地支配」の結果として、「実証主義」等の新しい<理論>が必要となり、生まれた。
 以上は、池田からの引用か、その要旨。
 キリスト教的ヨーロッパによる<異文化>との接触こそが新しい<理論>動向を生んだ。
 マクロにはそうなのかもしれない。その大きな潮流の中に、マルクスもおり、マルクス主義もあったに違いない。
 福沢諭吉はかつての観念大系=「実学」そのもの、「身分制度」正当化、の儒学を捨てて「洋学」に向かった、と池田は記す。
 儒教・儒学・朱子学あたりは「明治維新」を生んだイデオロギーだとされもするので、このあたりはなかなか複雑だ。「天皇」と明治維新。
 池田によると、丸山真男に依拠しているのか、福沢が「下級」武士出身だったからこそ、上のようにできた。
 もっとも、そこで「明治維新の元勲と同じく、」と書かれてしまうと、「明治維新の元勲」たちのもった「イデオロギー」は何だったかに関して、疑問が出なくもない。
 五箇条の御誓文の最終案をまとめたのは木戸孝允(桂小五郎)だとされ、この人物も「明治の元勲」の一人だろう、たぶん。
 しかし、木戸は決して「下級」武士ではなかったと思われる。
 萩(山口県)に木戸の旧宅も残っているが、藩医(典医)だった父親のその邸宅はとても「下級」武士のものだったとは感じられない。
 もっとも、木戸孝允は、明治6年政変(「征韓論政変」)頃にはすでに、精彩を欠いている。
 木戸(桂)の当初の「夢」に対して、維新の「現実」はどうだったたのだろうか、という関心も持つのだが、池田信夫を契機とする今回の駄文はここまで。

1554/北一輝における「明治維新」等と櫻井よしこらの悲惨。

 「櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか」、などと、前回最後の方で恥ずかしい問いかけをしてしまった。
 1906年、明治39年、この年に北一輝は23歳。夏目漱石(1867-1916)は39歳。正岡子規は同年生まれだが、死んでいた(1867-1902)。
 北一輝・国体論及び純正社会主義は、1906年5月に、北一輝が満23歳になつた翌月に自費出版された。
 北一輝著作集第一巻(みすず書房、1959)に収載されている上掲書からただちに引用しよう。
 我々が今日にいう明治維新のことを、この本は「維新革命」と言っている。旧漢字は現在のものに改める。
 「日本今日の政体が民主的政体なることは後の歴史解釈に於て維新革命の本義が平等主義の発展なるを論じたる所を見よ」。p.233。
 「維新革命は…貴族階級のみに独占せられたる政権を否認し、政権に対する覚醒を更に大多数に拡張せしめため者にして、『万機公論に由る』と云う民主主義に到達し、茲に第三期の進化に入れるなり」。p.245。
 冒頭に北一輝と櫻井よしこを比較しようとしたのは間違いだったと書いたが、両者は比較できるレベルにないという趣旨であって、前回に北一輝について(手元に文献を置かずして)走り書きしてしまったことの内容に誤りはない。
 『万機公論に由る』とは、五箇条の御誓文の言葉だろう。そして、櫻井よしこが述べたことがあるように、北一輝もまた(!)「維新革命」に、そしてこの文書のこの部分に「民主主義」を見ている(この文書のこの部分だけ、というわけでもない)。
 上の二つめの文章を<現代語>化し、さらにその続きの部分も掲載してみよう(現代語化の責任はこの欄の執筆者にある)。
 「維新革命は、無数の百姓一揆と下級武士のいわゆる順逆論によって、貴族階級のみに独占された政権を否認し、政権に対する覚醒をさらに大多数に拡張させたものであって、『万機公論に由る』という民主主義に到達し、ここに第三期の進化に入ったのである。/
 しかして、国家対国家の競争によって覚醒する国家の人格が、攘夷論の野蛮な形式のもとでの長い間の統治の客体たる地位を脱して、『大日本帝国』と云い、『国家の為めに』として国家に目的が存在することを掲げ、国家が利益の帰属すべき権利の主体であることを表白するに至ったのである。/
 この国家を主権体とする公民国家の国体と民主的政体とは維新後23年までの間を国民の法律的信念と天皇の政治道徳とにおいて維持し、その後、帝国憲法において明白に成文法として書かれるに至って、ここに維新革命は一段落を画し、もって現今の国体と今日の政体とが法律上の認識を得たのである」。
 秋月私注/①「貴族階級」は徳川幕府・徳川家を含む。②第三期とは、古代、中世の後の「維新革命」以降のこと。③天皇「等」(!)が国家を所有した時代は終わり、天皇も国民も国家の一員になった(そのかぎりで上記にいう「平等主義」)、国家の一機関・一制度として天皇はある、というのが北一輝の考え方。
 先に今回の結論めいたことを書くと、北一輝には、国家・「国体」・天皇論等がきちんとある。
 一方、天皇の最優先の仕事は「祭祀」、ご存在だけで有り難いという櫻井よしこらには、きちんとした国家論・天皇論はない。この人たちにはいったい何があるのか。単純な観念と情緒だけか。
 僅か23歳の若者が110年余も前に自費出版して世に問うた考え・議論・論理の方が、例えば櫻井よしこが大手新聞会社が発行する月刊雑誌(月刊正論・今年3月号)にあたかも「保守」を代表するかのごとく書いた文章におけるそれらよりも、はるかに興味深いし、はるかに示唆に富む。そういった意味で、はるかに優れている。
 悲惨だ。
 上のつづきのやや離れた部分以降を、さらに紹介しておこう。//はもともとの改行。原書には/に改行はない。
 「以上の概括は、つぎのとおりである。/
 今日の国体は国家が君主の所有物としてその利益のためにあった時代の国体ではなく、国家がその実在の人格を法律上の人格として認識された公民国家という国体である。/
 天皇は、土地人民の二要素を国家として所有した時代の天皇ではなく、美濃部博士が広義の国民の中に包含するように国家の一分子として他の分子たる国民と等しく国家の機関であることにおいて大なる特権を有するという意味においての天皇である。/
 臣民とは天皇の所有権のもとに『大御宝〔おおみたから〕』として存在した経済物ではなく、国家の分子として国家に対する権利義務を有するという意味での国家の臣民である。/
 政体は特権ある一国民の政治という意味の君主政体ではなく、また平等の国民を統治者とする純然たる共和政体ではない。/
 すなわち、最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによって組織される世俗のいわゆる君民共治の政体である。/
 ゆえに、君主のみが統治者ではなく、国民のみが統治者ではなく、統治者として国家の利益のために国家の統治権を運用する者は最高機関である。/
 これは法律が示す現今の国体でありまた現今の政体である。/
 すなわち、国家に主権ありと云うをもって社会主義であり、国民(広義の)に政権ありと云うをもって民主主義である。//
 以上によって観るに、社会主義は革命主義であると云うをもって国体に抵触するという非難は理由がない。/
 その革命主義と名乗る所以は、経済的方面における家長君主国〔北のいう第二期〕を根底より打破して、国家生命の源泉である経済的資料を、国家の生存進化の目的のために、国家の権利において、国家に帰属すべき利益とするためである」。p.247。<後略>
 北一輝のいう「社会主義」、当時および二・二六事件頃までのマルクス主義文献の影響、<「右」と「左」の判別し難さ>などについて、また言及する機会があるだろう。
 タイトルに「櫻井よしこら」としたのは、櫻井よしこだけではなく、月刊正論編集部(菅原慎太郎)や月刊WiLL・月刊Hanadaの編集長を含む<取り巻き>を含める趣旨だ。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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