秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

九条の会

1288/「進歩的文化人」は死滅したか。

 福田恒存に、「進歩的文化人」と題する小稿がある。50年前の1965年に読売新聞に連載していた随筆ものの一つだ。そこに、こうある。
 「私がいつも疑問に思うことは、他国の事はいざ知らず、日本が共産主義体制になることを好まない人でも、結果としてはそうなる事に、少なくともそうなる可能性を助長する様なことに手を貸している事である。そういう人を『進歩的文化人』と呼ぶと定義しても良いくらいだ。その事を当人は意識しているのかどうか」(新字体等に改めている。福田恒存評論集第十八巻p.123(2010、麗澤大学出版会))。
 これによると、「進歩的文化人」とは、当人が「意識しているのかどうか」は別として、また「日本が共産主義体制になることを好まな」くとも、「結果としては」「日本が共産主義体制になる」「可能性を助長する様なことに手を貸している」人、ということになるだろう。
 福田恒存はこのあともいくつかの文章を挿んでいるが、-むろん「進歩的文化人」なるものに批判的なのだが-分量が少ないこともあって、正確な趣旨は必ずしも掴みがたい。ともあれ、「筋金入りの共産主義者は別」として、「進歩的文化人」の中の「その大部分の良識派」はつねに建前としての真実・正義(偽善?)を語っていて、読者もそれを好み、かくして「洗脳」は無意識に行われる、というようなことを書いている(p.124)。
 この福田恒存の文章は独自に発見したのではなく、竹内洋・革新幻想の戦後史(2011、中央公論新社)の中で言及されていたので原文を探してみたのだった。しかし、よくあることだが、この竹内著のどの箇所で言及されていたのかが今度は分からなくなってしまった。その代わりに、「進歩的文化人」にかかわるあれこれの面白い叙述や文章引用を見つけた。
 竹内の生年からすると1960年代初めだろう、<福田恒存はいいぞ>とか言ったら「この人右翼よ」と言われたとかの実体験(?)の記載があるなど、上記の竹内著は-学問的労作と随筆文の中間あたりの-、戦後史を知る上でも興味深い書物で、この欄でも何度かすでに触れたかもしれない(仔細を逐一確認しないままで、以下書く)。
 「進歩的文化人」の定義としては、古く1954年の雑誌上のものだが、高橋義孝のそれが詳しい(竹内の引用による。p.316)。
 それをさらに少し簡潔にすると、①「大学の教師をして」いる、②「共産党乃至は社会党左派の同調者」、③「新聞雑誌によくものを書」く、④「よく講演旅行」をする、⑤「本当の政党的政治活動をしているような口吻」をときに漏らすが実際は一度か二度「選挙の応援弁士」になった程度、⑥とくに若い人たちの「自分の人気を気にかけ」、いつも「寵をえていたい」と思っている。
 部分的には似たようなことを、「非常に左翼的なことを言って」いながら「党員」になったり「組織に足をいれ」ることなく、生活態度は「ブルジョア的で非現実的な人々が多い」、と言う論者もある(あった)らしい(p.319-320)。
 また、上の高橋義孝の定義の別の一部について、臼井吉見は1955年に、こう述べたらしい。
 「将来の世界は社会主義の方向に進むに違いないとの情勢判断に基づいて、すべての基準を、つねに将来の方向におき、そこから逆に現実を規定し、判断するという、一種独特の思考方式にすがって怪しまぬ」(p.317)。
 また、竹内は「進歩的文化人」と共産党との関係にも論及していて、「共産党神話の崩壊」によって「進歩的文化人」批判は勢いを増したが、一方で<非共産党的(進歩的)文化人>の存在感も大きくした、あるいは共産党「同伴」知識人だったものが、共産主義・共産党という中心のない「市民派」知識人が独自に出てきた(代表は丸山真男)、というようなことも書いている(p.317-320あたり)。
 そして、竹内によると、「進歩的文化人に引導を渡したのは」、保守派ではなく「ノンセクト・ラジカル」だった、ということになるらしい(p.323)。
 面白いが、しかし、「共産党神話の崩壊」とは1955年の共産党六全協での極左冒険主義批判、1956年のソ連でのスターリン批判によるものを意味するのだから、かなり古い。2015年の今日、「共産党神話」は完全になくなっているだろうか。
 また、「ノンセクト・ラジカル」とは1970年代初頭の「全共闘」またはその一部を指しているので、これまたかなり古い。「進歩的文化人」に対する<引導の渡し>は終わっているのだろうか。
 たしかに、「進歩的文化人」という言葉はもはや死滅していると言ってよいのかもしれない。清水幾太郎や丸山真男らが活躍(?)していた頃とは、時代がまったく異なる、と言える。但し、竹内も「悪いやつには怒り可哀想な人には同情する」テレビのキャスター・コメンテイターのうちに「進歩的文化人」の後裔または現代版を見ることを完全には否定していないようだ(p.306-310)。
 テレビのキャスター・コメンテイターにまで広げなくとも、上のように定義され、特徴をもつ「進歩的文化人」は、言葉はほぼ消失していても、今日でもなお存在し続けていると思われる。
 そこでの要素は、①大学の教師でなくてもよいが、一定の「知識人」層と俗世間的には見られているような人、②社会主義・共産主義を嫌悪せず、無意識的であれ<許容・容認>している人、これとほぼ同義だが歴史は一定の「進歩的」方向に進んでいると考える、又はそう進ませなければならないと考える人、③何らかの「声明」に加わることも含めて、見解・主張の発表媒体を持っている人、ということになろうかと思われる。
 最近にこの欄で取り上げた人々を例にとれば、集団的自衛権行使容認閣議決定に対する反対声明を出している憲法学者たち、特定秘密保護法に反対する声明を出していた憲法学者・刑事法学者等たちは、ずばりこれに該当するようだ。
 その場合に日本共産党との関係に興味がもたれてよい。かつては「左翼」には社会党系、共産党系、それ以外の<純粋「市民」派>とがあったと言えるだろうが、日本社会党の消滅とそれに代わる社民党の力不足もあって、相対的には日本共産党系の力が強くなっているように見える。旧社会党系の一部を吸収した非・反共産党の<民主党左派>系「左翼」もあるのだろうが、しかしかつての社会党系が日本共産党に対する独自性をまだ発揮できていたのと比べれば、今日では日本共産党との<共闘>に傾いているように見える。
 そして、上記の憲法学者・刑事法学者たち等は、日本共産党系「左翼」であり、<共産党系進歩的文化人>だと言ってよいだろう。
 日本共産党機関紙・前衛の巻頭あたりにしばしば登場している森英樹も含まれているし、逐一確認しないが、かつて紹介したことのある、日本共産党系法学者たちの集まりである「民主主義科学者協会(民科)法律部会」の会員である者が相当数を占めているものと思われる。ひょっとすれば、ほとんど全員がそうであるかもしれない。もっとも、樋口陽一のように、元来は非共産党的「左翼」知識人・学者ではないかと思われる者も声明に加わっているように、ゆるやかであれ<容共>=「左翼」の者が賛同者ではある。かつては、日本共産党又は同党系と協調・共闘することを潔しとはしない「左翼」も存在したと思うが、叙上のように、その割合は今日では相当に落ちているようだ。
 「九条を考える会」もまた、大江健三郎に見られるように、元来は日本共産党系とは言えない運動の団体だったかもしれないのだが、日本共産党の<積極的に中に入っていく>方針に添って、今日では実質的には日本共産党系の団体・運動になっていると言ってよいだろう。旧社会党系であれ「市民」派であれ、共産党との共闘を厭わなくなってきているのだと思われる(これはかつてと比べれば大きな違いかと思われる。それだけ、「左翼」全体の量が減っているのかもしれない)。
 というわけで、共産主義・社会主義「幻想」と「進歩」幻想を基本的には身につけたままの「進歩的文化人」はまだ死滅しておらず、この人たちとの「闘い」をまだ続けなければならない。
 むろんこのように言うことは、上に挙げたような人々が日本共産党員ではない「進歩的文化人」にとどまっている、ということを言っているのではない。「進歩的文化人」の中核にはしっかりと、かつ量的にも多く、「筋金入りの共産主義者」である日本共産党員が相当数座っている。本当に闘わなければならない対象は、この者たちだ。
 そして、「日本が共産主義体制になることを好まない」人で、かつ客観的には「そうなる可能性を助長する様なことに手を貸している事」に気づいていない「進歩的文化人」がいるとすれば(単純に、<戦争反対・民主主義>のためだと考えている人も中にはいるだろう)、その人たちには、できるだけ早くこのことに「気づいて」いただく必要がある。このあたりは、<民主主義・自由主義・平和主義>と<社会主義(・共産主義)>との関係にかかわってもっと論述する必要があるのだが、すでに何度も触れてきていることでもあり、とりあえず、このくらいにせざるをえない。

 

1262/憲法九条2項改正と北岡伸一による朝日新聞の批判的分析。

 一 自民党の憲法改正案において、現憲法九条の全体が削除または改正されるのではなく、現1項はそのまま残されて新9条の全体になるとともに、新たに九条の二を設けて「国防軍」の設置が明記されることになっている。
 現在の第二次案ではなく「自衛軍」としていた第一次案の時期のものだが、自民党本部の担当者だった者による、田村重信・新憲法はこうなる(2006.11、講談社)p.120-1は現1項の趣旨をイタリア・ドイツ等の憲法(・基本法)も有し、「国権の発動たる戦争」とは1928年パリ不戦条約に由来する表現で<侵略戦争>を意味し、それを放棄・禁止するものであっても「自衛権に基づく戦争」を放棄・禁止するものではない、と明確に説明している。
 上の趣旨を理解していないかに思えた産経新聞社説があったので上の点を(そのときは上の田村著を知らなかったが)この欄で指摘し、かつ<「九条を考える会」という呼称はゴマカシだ、正確に<九条2項を考える(護持する)会>と名乗るべきだ>という旨を書いたことがある(2012.03.15)。
 前回にやや厳しい感想を述べた柳本卓治の文章も、上の点を明確に意識して書かれてはおらず、現九条=日本的「平和主義」について、<左翼>がふりまいているデマ宣伝に部分的には屈している印象がある。
 現九条の2項のみの削除・改正を主張しているにもかかわらず九条全体を削除・改正しようとしていると<すりかえ>をして改憲派を反平和主義者・好戦論者のごとく批判するのは、悪質なデマゴギーに他ならない。
 二 12/23に朝日新聞の<慰安婦報道検証・第三者委員会報告書>が公表された。その一部を成すと思われる各委員の個別意見において、北岡伸一は以下のように、適切に朝日新聞を批判している。日本共産党・「九条の会」のみならず、朝日新聞もまた、上のようなデマ宣伝を展開してきたからだ。
 朝日新聞には「言い抜け、すり替えが少なくない。/たとえば憲法9条について、改正論者の多数は、憲法9条1項の戦争放棄は支持するが、2項の戦力不保持は改正すべきだという人である。朝日新聞は、繰り返し、こうした人々に、『戦争を放棄した9条を改正しようとしている』とレッテルを貼ってきた。9条2項改正論を、9条全体の改正論と誇張してきたのである。要するに、他者の言説を歪曲ないし貶める傾向である」。
 北岡は、読売新聞12/26のインタビュー記事でも、「憲法9条についても、1項の『戦争放棄』は支持するが、2項の『戦力不保持』は改正すべきだという人に対し、戦争放棄を改めようとしているとレッテルを貼って批判する」と述べている。
 このような北岡伸一の朝日新聞批判は適切であり、こうして活字になった九条1項と2項をきちんと分けての議論を初めて読んだような気がする。
 <九条を世界遺産に>という運動があった(ある)ようだが、その運動者・活動家はおそらく九条2項を念頭に置いているのだろう。ちなみに、潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(2007.04、PHP)という書物があるが(読了)、正確な趣旨は、「憲法九条2項は諸悪の根源」なのではないか。憲法学者・百地章もかつては憲法九条改正という言い方をしていたかにも見えるが、近年では正確に九条2項改正と記述していることを、この欄でコメントしたことがある。
 三 ところで、北岡伸一の上記朝日新聞紙上の文章は朝日新聞の問題のある傾向の第6点「論点のすりかえ」の例として書かれている。それ以外は、第一・「粗雑な事実の把握」、第二・「キャンペーン体質の過剰」、第三・「物事をもっぱら政府対人民の図式で考える傾向」、第四・「過剰な正義の追求」、第五・「現実的な解決策の提示の欠如」、である。
 北岡に対しては<保守>派からの批判もあるようだが、朝日新聞批判の著・文章は数多くあると見られるところ、北岡の上のような、決して長くはない文章における体系的・総合的な?整理・分析は、的確で、なかなか優れていると感じられる。以上の諸点はすべて、かつての<進歩的文化人>と同様に社会主義・共産主義への憧憬を残した、目的のためならば歪曲・虚報も許されるという心情の「記者」たちによって構成された<政治団体>だからこそ生じている傾向・問題点であるかもしれないが。

1261/月刊正論1月号・柳本卓治論考を読む。

 月刊正論(産経新聞社)2015年1月号に柳本卓治「世界最古の『憲法の国』日本の使命」がある(p.168-)。
 自民党議員で参議院の憲法審査会会長に就任したという人物が書いているもので、共感するところもむろんあるが、大いに気になることもある。
 この論考は大きく五つの柱を立てているが、その二は「国家や国民という歴史と文化・伝統を縦軸に、国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理を横軸に据えた憲法を」だ。「国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理」を基軸の一つにする、と言うのだが、より詳しくは次のように語られている(p.170)。
 「現行の日本国憲法は、占領下の翻訳憲法ではあるが、その根幹には、国民主権、基本的人権、そして平和主義(戦争の放棄)という三大原理が謳われてい」る。「国民主権(主権在民)も基本的人権も、自由と民主主義に立脚する近代国家には、普遍的な原理」だ。「また、戦争放棄と平和主義も、人類国家として実現していかなければならない理想でもあ」る。
 これはいけない。第一。すでにこの欄で述べたことがあるが、まず、現憲法が「国民主権・基本的人権・平和主義」を「三大原理」とするというのは、多くの高校までの教科書には採用されている説明かもしれないが、<左翼>憲法学者たちが説いてる一つの解釈または理解の仕方にすぎない。阪本昌成のように七つの<後日訂正-六つの>原理を挙げる憲法学者もあり、大学レベルでの憲法教科書類が一致して説いているわけでは全くない。少なくとも、権力分立原理と「象徴」天皇制度の維持・採用も、現憲法の重要な原理だろう。前者には、司法権により立憲主義を維持・確保しようとしていること(立法を含む国家行為の憲法適合性の審査)も含めてよい。
 ともあれ、素朴で、幼稚ともいえる「三大原理」の持ち出し方は、適切であるとは思えない。
 つぎに、その「三大原理」を「自由と民主主義に立脚する近代国家」に「普遍的な原理」だと語るのは、まさに<左翼>的な戦後教育の影響を受けすぎており、とても<保守>派の政党・論者が語るものとは思えない。そもそも、日本において、アメリカの独立革命やフランス革命とそれらが生んだ憲法をモデルとして「近代憲法」を語ることの意味が問われなければならないだろう。西欧+アメリカの「近代」原理を日本も現憲法で採用し、それは「普遍的原理」だ、というのは、典型的な<左翼>の主張であり、理解である、と考えられる。
 欧米を「普遍的」原理を提供しているモデルと見るのではなく、日本的な国政あるいは国家統治の原理を創出しなければならず、「自由と民主主義」といっても、それは日本的な「自由と民主主義」でなければならない。
 柳本のような論調だと、欧米的「近代」・「普遍的な原理」によって、「国家や国民という歴史と文化・伝統」は害され、決して両者は調整・調和されないことになるのではないか。
 柳本の教養・素養の基礎は経歴によると経済学にあるようだが、上のようなことを書く人が参議院憲法審査会会長であるというのは、かなり怖ろしい。
 さらにいえば、柳本・参議院憲法審査会会長は、「戦争の放棄」とか「平和主義」をどのような意味で用いているのだろうか。いっさいの「戦争の放棄」をしてはならず、正しい又は正義の戦争=自衛戦争はある、と私は考える。
 また、<左翼>が「平和憲法」などと称して主張する場合の「平和主義」とは、決して戦後および現在の世界諸国において一般的・普遍的なものではなく、「戦力の保持」をしないで他国を信頼して「平和」を確保しようとする、きわめて非常識かつ異常な「平和主義」に他ならない。
 にもかかわらず、柳本は次のように書く-「いま最も大切なことは、この憲法9条の精神を今後も高々と掲げると共に、同時に、…独立国としての自衛権と、自衛のための自衛軍の整備をきちんと明文化すること」だ。
 ここには現9条の1項と2項の規範内容の違いへの言及がまるでないし、「憲法9条の精神を今後も高々と掲げる」という部分は、実質的に日本共産党の別働団体になっている「九条の会」の主張と何ら異ならない。せめて、9条1項の精神、とでも書いてほしいところだ。
 柳本は「憲法9条とは、先の大戦を通して、国民が流し続けた血と涙の池に咲いた、大輪のハスの花である」とまで言い切る。憲法9条は、その2項も含めて全体として、このように美化されるべきものでは全くない、と私は考える。このような言い方も「九条の会」と何ら異ならない。
 繰り返すが、現憲法の文言から素直に読み取れる「平和主義」とは、「軍その他の戦力」の不保持・「交戦権」の否認を前提とする、それを重要な構成要素とする<世界でも稀な、異様な>「平和主義」だ。その点を強調しないままで、現9条は「大輪のハスの花」だとか、「戦争放棄と平和主義」は「人類国家として実現していかなければならない理想」だ、などと自民党かつ参議院の要職者に語られたのでは、げんなりするし、憲法改正・自主憲法制定への熱意も薄れそうだ。
 第二。五つめの柱の「日本人は世界初の『憲法の民』」も、そのまま同感はしかねるし、また議論のために不可欠の論点だとは思われない。
 柳本は、聖徳太子の「十七条の憲法」を持ち出して、「近代国家の憲法とは、一律には比較でき」ないと断りつつも、「日本人は、世界初の『憲法の民』なの」だ、という(p.175)。
 日本と日本人が<世界初>・<世界で一つ>のものを有することを否定はしない。しかし、日本の明治期に欧米の近代「憲法」の原語(Constitution, Verfassung)がなぜ「憲法」と訳されたのかという歴史問題にもかかわるが、柳本も留保を付けているように、日本が世界初の「憲法」を持った、というのはいささか牽強付会の感を否めない。これはむろん「憲法」という概念・用語をどう理解するかによる。今後の憲法改正にあたっては、この点の指摘または強調はほとんど不要だろう。
 憲法改正に向けての多少の戦術的な議論の仕方を一切否定しようとするつもりはないが、柳本の基本的論調はあまりに<左翼>の影響を受けた、あるいは、表現を変えると<左翼>に媚びたものではないか。稲田朋美ならば、このような文章にならないのではないか。
 問題は、現憲法の諸条項を、どのように、どのような順序で改正するか(新設も含む)、そのための勢力を国会両議院内および国民・有権者内でどのように構築していくか、にある。

1068/新潮社(新潮45)・野田正彰・三重博一と2011大阪市長選。

 一地方自治体の首長選挙であるにもかかわらず、月刊・新潮45(新潮社)は、特定の候補(またはその予定者)の批判(・攻撃)を特集として二号続けた。このこと自体がすでにいぶかしげに感じさせるものだが、内容もヒドかった。
 橋下徹が当選したからよかったものの、同候補が僅差ででも敗れて、その原因が新潮45や週刊新潮(新潮社)等(・「バカ文春」)の記事にあった可能性があるという総括または分析が出ていたとすると、今回の新潮社(の一部?)の編集方針は、マスコミ史に残る<大スキャンダル>として記憶され続けることになったのではなかろうか。<出自>を問題にしたマスメディアが選挙結果に与えたことになってしまっていた可能性があるのだ(これはじつに深刻な問題で、マスコミ関係者はもっと議論・総括すべきだ)。
 週刊文春よりは週刊新潮を(そして週刊現代よりは週刊ポストを)しばしば読んできたが、また、佐伯啓思の連載が始まった以降に新潮45にも目を通すようになったが、本来は文芸中心のはずのこの出版社に対する態度・評価は改めなければならないと思っている。
 以下は、断片的な覚え書きの一つ。
 月刊・新潮45の12月号(2011.11)には、野田正彰「前大阪府知事はやっぱり『病気』である」が掲載されている(p.26-)。
 野田正彰によると、橋下徹は「演技性人格障害」という病気に罹患しているらしい。そして、野田は言う。
 「演技性人格障害者だからといって、個人として非難ざれべきだ」とは言わない。だが、「この様な人が大阪府や大阪市の政治をもてあそび、独裁宣言までして破壊しようとしている」。このような人格(障害者)が「政治や司法の場で活動してはならない」。私たちはそれに気づく必要があるから、「あえて書いている」のだ(p.30)。

 野田は「司法」まで持ち出している。橋下徹の弁護士としての活動資格についても疑問視(または否定)しているようだが、この点は、さて措く。
 上の文章で呆れてしまうのは、長々と橋下の「人格」分析をして病名を「発見」したあとで、橋下徹について、「大阪府や大阪市の政治をもてあそび、独裁宣言までして破壊しようとしている」という短い一文だけでまとめてしまっていることだ。
 「…の政治をもてあそび」とは具体的に何を言うのか、もっと具体的かつ詳細な叙述がないと、まるで説得力はない。
 また、「独裁宣言までして」と書いているが、橋下の<独裁>宣言なるものの全文を正確に読んだ(聞いた)上でこう書いているのか、きわめて疑わしい。
 特定の政治的な判断(投票・選挙)がなされる前に、かつそのような政治的行動に関係し、影響を与える可能性のある文章を、いや正確に言えば影響を与えることを意図した文章を、日本全国で販売される月刊誌の一つに執筆することは、相当に「勇気」の要ることだ。
 そのような「勇気」をもって書かれた文章が、要するに人格障害者が「大阪府や大阪市の政治をもてあそび、独裁宣言までして破壊しようとしている」、というだけの内容であるとは情けない。
 上のような政治的意図をもつ上のような程度の文章を月刊雑誌にあえて執筆して、読者の政治的判断を特定方向に誘導しようとしてすることは、専門家ではないから正確な病名は分からないが、まさに精神的・人格的「病気」だ、というにふさわしい。
 上掲雑誌に記載されていないが、ネット情報によると、野田正彰は関西学院大学教授で、国歌(君が代)斉唱にかかわる東京都教員が原告の訴訟で原告側に立って、原告らは「君が代症候群」といえる精神的苦痛を受けていると証言したらしい。
 また、野田正彰は、<念仏者九条の会>(「本願寺九条の会」の改称)の呼びかけ人の一人で、「自衛隊はインド洋やイラクに派兵され、すでに解釈『改憲』によって憲法は死に体に近い状態です。……憲法第九条の改悪に反対の声を上げます」なとという文章を発表している。
 <医療九条の会>や<山形県九条連>などで講演したりもしている。
 一部にすぎないだろうが、野田正彰とは、かくのごとくれっきとした「左翼」(かつ少なくとも親日本共産党)の立場の人物なのだ。
 専門家ぶって人格分析などと<工夫>してはいるが、野田正彰の橋下攻撃の根っこには、<反・反共>主義(という一種の「思想の病気」)があることが透けてみえる。
 このような人物の文章を掲載する新潮45の編集者(編集兼発行者は三重博一)の愚かさについては、また書くことがあるだろう。

1013/竹内洋の「テレビ支配社会」と渡辺えり子・6/23NHKニュース。

 一 月刊正論7月号(産経)の竹内洋「(続)革新幻想の戦後史」は最終回。その最後の前の段落のタイトルは「幻想としての大衆とテレビクラシー」だ。そして、「エリート」・「知識人」は溶解しこれらの対概念の「大衆」も実体を喪失しているが、「想像された」・「幻想」としての大衆が猛威をふるっている、そのような大衆は「テレビカメラ」そのもので(「現代の大衆や知識人は…大衆幻想に媒介されたメディア大衆であり、メディア知識人」で)、「メタ大衆」を表象し代表する「テレビ文化人」によって「大衆的正当化」=「テレビ的正統性」の強化がなされ、「デレビクラシー」(テレビ支配)社会になる、等々と述べている。「滅びへの道」と題する最後の段落の最後の文章は、「幻想としての大衆にひきずられ劣化する大衆社会」によって日本は滅ぼうとしているのではないか、という旨だ。
 二 かつて大宅壮一はテレビによる<一億総白痴化>を予想したが、それを超えて、(日本のテレビ局は総体として日本の)社会と国家を解体しようとしている。
 戦後の悪弊の最大のものは、コマーシャル料で経営する民間放送会社かもしれない。この民放問題は別の機会にまた触れる。
 NHKも含めたテレビの影響力の大きさは、有権者の政治(・投票)行動への誘導力を見ても明らかで、それはほとんどのテレビ局が大手新聞社と(資本的・経営的にも)密接な関係にある、ということによって拡幅されている。
 NHK・全国的民間放送会社・大手全国紙の<政治>関係番組・記事に関与しているのはいったいどのような(政治的)素養・見識をもった者たちなのか。よくも悪くも、日本のこれまでの戦後・現在・将来はこの点にかかっているとすら感じる。
 むろん新聞社と結びついたテレビ局の違いは多少ともある。大まかにいって、テレビ朝日・朝日新聞やTBS・毎日新聞と、フジ・産経、日テレ・読売とでは傾向が同じでないことは、少しは見比べて(読み比べて)いると、分かってしまう。
 出てくる「テレビ文化人」にも違いかある。例えば、TBS系の日曜夜10時頃の報道系番組には、現在でも、渡辺えり子という女優(・劇作家?)が出ている。
 この渡辺えり子は、まだ鳩山由紀夫内閣の頃、<民主党政権は「国民」が作ったのだから、「国民」は暖かく見守り、育てていくようにしなければならないのではないか>とか(正確には記憶していないが)の旨を単純に(浅はかにも?)堂々と語っていた。

 なぜこんな人物を数人しかいないコメンテイター・「テレビ文化人」の一人にしたのかと訝ったものだが、のちに知ったところでは、渡辺えり子とは、吉永小百合等とともに、岩波ブックレット・憲法を変えて…という世の中にしないための18人の発言(岩波、2005)に出ている18人の一人(吉永小百合の他に、姜尚中・井上ひさし・井筒和幸・香山リカ等々)で、「憲法が最後の砦」、「戦争をしないという憲法を守れなかったら、もう世界共倒れです」ということを、浅はかにも?「反戦活動家じゃなくたって誰でも思う普通のこと」と付記しつつ書いているような人物だった(上掲ブックレットp.55)。日本共産党系の<九条の会>呼びかけ賛同者だろう。
 このような<思想(ないし信条)あるいは憲法観>を持っている人物だからこそ、おそらくはTBSの担当者はコメンテイターに起用したのだろう。
 最近はメインが北野たけしに代わったようで、「渡辺」色は強くは出ていないようにも見えるが(毎回観るヒマはない)、上のような人物を平気であえて起用するという<政治傾向>を持っているのがTBSだ、という印象に間違いはないと思われる(いちいち触れないが、土曜6時からの金平茂紀もじつはかなり露骨な(じっくりとニュアンスを感知しないと分かりにくいが)「左翼」信条の持ち主(政治活動家)だ)。
 あらためて述べるのも新鮮味はないが、このように、GHQ史観に基本的に立つ<日本国憲法体制>の擁護者、戦後<平和と民主主義>イデオロギーの信奉者、そして親中国・親「社会主義」・反国家・「反日」心情者が支配する放送局・新聞社が強い力をもって<体制化>し、多数派を形成していると見られることを、深刻かつ悲痛な思いで、<戦後レジーム>解体派=<保守>は認識しておく必要があろう。
 三 こと歴史認識に関するかぎり、あるいは「戦争」に関連するかぎり、NHKもまた、明瞭に「左翼」だ。田母神俊雄論文事件の際に<左翼ファシズム>の形成・存在を感じたが、NHKも、その一角を担っている。
 6/23の夜9時からのNHKニュースもひどかった。
 かつての沖縄での戦争(地上戦)による被害・戦没者問題と、現在の米軍基地の存在とをつなげて、まるで米軍基地の存在が「平和」=善ではなく「戦争」=悪に接近するものだということを前提とするような報道ぶりだった。それは、かつて1945年に姉を失い、戦後は米軍基地によって苦労させられたという話を、特定の同じ一人の人物に長々と語らせていた(または紹介していた)ことでも明瞭だ。NHKがあえて取材対象として一人だけ選択したその人物は、姉を殺した(米軍との)戦争を憎み、引き続いて、沖縄に駐留し続けている米軍をも嫌悪している。NHKはその人に<共感>を寄せて紹介し、そうした姿勢を前提として報道していたのが明らかだ。
 だが、言うまでもなく、現在の沖縄の米軍基地については多様な見方がある。「戦力」不保持の現憲法のもとでは、米軍基地がなかったら、沖縄はすでに中華人民共和国の一部になっていて(沖縄への侵攻を日本政府はオタオタして何もできなかったために)、現在よりも<悲惨な>状況に置かれていた可能性が高い、などということは、NHKのこの番組制作者の頭の中にはないのだろう。
 米軍基地を使ってアメリカが(アメリカのための)戦争をする、あるいは米軍基地の存在のゆえに<日本が戦争に巻き込まれる>というのは「左翼」の主張であり、デマだ。あるいは少なくともそういう批判的な見解・認識は成り立ちうるものだ。米軍基地の存在は沖縄、ひいては日本全体の「平和」のために寄与している、という見方は、少なくとも成り立ちうるものだ。
 NHKは(じつは菅内閣・日本政府の公式的見解でもある)そのような後者の見方をあえて排除し、それとは異なる考え方の持ち主一人だけを、意見表明者として長々と紹介した。NHKはとても、公正・客観的な報道機関ではない。
 原発問題についても、NHKだけを見ていたのでは、あるいは他のテレビ局を見てもそうだが、基本的・本質的なことはまるで分からない。NHKとの間の強制的な受信契約締結義務の規定(放送法)は削除し、民間放送(とくにその収益の方法)のあり方も含めて、抜本的な再検討をしないと、「テレビクラシー」によって本当に日本「国」は滅亡するに違いない。

0933/佐藤幸治の紹介する「戦略的護憲論」と井尻千男の唱える「憲法改正是非国民投票」。

 〇佐藤幸治・憲法とその”物語”性(2003、有斐閣)は、日本国憲法についての改憲論、護憲論にはそれぞれ二種ある旨を述べている。

 前者・改憲論には①根本理念を否定的に評価する「全面的改憲論」と、②全体としては「受け入れ」つつ「九条」の改正を主張する「部分的改憲論」(p.62)。

 記憶に頼るが、櫻井よしこは国民の権利義務の章についても疑問を呈しているので、上の①。八木秀次は人権条項等には間違っていないものもある旨を書いていたことがあるので(この点はこの欄で触れているが、自分の文章ながらも検索しない)、上の②に近いだろうか。

 いわゆる改憲論者は、自分が上のどちらに属するのか、明確な自己確認をしておいてよいだろう。私は理論的には、あるいは望ましい改正の姿からすれば、①の「全面的改憲論」に立つ。

 自民党の改憲案は現行憲法を前提として一部に削除・追加等をするもので、②に近いものと考えられる。

 本来は、自民党案のような<継ぎ接ぎ(つぎはぎ)改正>ではなく、条項名も内容も一新した全面改正が望ましいと考えられる。それによってこそ、日本と日本人は<自立>できるだろう。

 だが、現実的には、九条2項削除(+新設規定)による国防軍(自衛軍)の正式認知が可能ならば、そして法技術的観点等も含めてその方がより容易ならば、<継ぎ接ぎ改正>という<妥協・譲歩>もやむをえない、と考えている。

 元に戻る。佐藤幸治によると、後者・護憲論には、①「全面的擁護論」と、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」いわば「戦略的護憲論」とがある。なお、①も「自由主義」から「社会民主主義」までの「多様な立場を包摂」する、とされる(p.62)。

 興味深いのは、佐藤幸治が、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」いわば「戦略的護憲論」なるものの存在をきちんと認知し、かつどちらかといえば消極的評価のニュンスを匂わせていることだ。

 まさしく、②「別種の理想社会への過渡的措置としてだけ評価する」「戦略的護憲論」はある。日本共産党の護憲論、日本共産党員の護憲論、日本共産党員憲法学者の護憲論はこれにあたる。

 日本共産党のみが現行憲法制定(旧憲法「改正」)時に「反対」投票をしたことはよく知られている。それも、固有の自衛権の行使のための「戦力」保持を禁止する九条2項を当時の日本共産党は問題視したのだ。

 それが近年では<九条の会>運動の担い手になっているのだから、笑わせる。

 吉永小百合もそうだし、その他の空想的・理念的<平和主義>者もそうだが、日本共産党の<戦略>としての護憲論(いやこの党は<憲法改悪阻止>と表現しているかもしれない)に騙されてはいけない。社会主義・共産主義社会という「別種の理想社会」への「過渡的措置を実現」するための<戦略>としての護憲論に騙されて、<ともに闘う仲間だ>などという甘い考えを持ってはいけない。

 〇月刊日本11月号(K&Kプレス)に井尻千男「今こそ憲法改正の好機だ」(インタビュー回答)が掲載されている(p.28-)。尖閣事件を契機とするもので、最近に言及した産経新聞11/03の田久保忠衛「正論」と似たようなものだ。

 しかし、上の中で井尻千男がこう言っているのには目を剥いた。
 <民主党だ自民党だと争っている場合ではない。与野党を超えて一致団結すべきだ。そこから「政界再編」もありうるが、「憲法改正の是非を問う国民投票をまず実施するべきだ」。>(p.31)。

 現時点で憲法改正に向けて「与野党」が一致できるかという現実認識の当否は別としておくが、「憲法改正の是非を問う国民投票をまず実施」すべきだ、とは、この人は何を寝ぼけたことを言っているのだろう。

 憲法改正を論じながら、現憲法上の「改正」手続に関する諸条項の内容すら知識としてもっていないようだ。他にどんなことを言っても、三島由紀夫が1970年に述べた「果たしえていない約束」を果たすべきだ等と言ったところで、上の部分で、ズッコケる。

 「憲法改正の是非を問う国民投票」などが「まず」必要になるのではない(むしろ不要だ)。最近書いたように、そんな思いつき(?)よりも、内閣を変えること、そのために総選挙をして国会議員の構成を変えること、の方がはるかに「憲法改正」に近づける。じつに常識的なことを書いているつもりなのだが。

0896/大江健三郎は何を喚くか-朝日新聞6/15。

 朝日新聞6/15大江健三郎の「<これからも沖縄で続くこと>/侮辱への正当な怒りと抵抗」と題する文章(コラム)が掲載されている。朝日新聞は定期的に大江に執筆させているようで、さすがに<九条護持・親中・左翼>新聞だ。
 沖縄に駐留していた日本軍人を平然と「屠殺者」と書けた大江健三郎だから、この人の文章は警戒心を持って読む必要がある。
 相変わらず要領を得ない文章だが、結局、憲法九条の護持の主張のようだ。その前に、自然(水)保護という地球環境論の展開や安藤昌益(ルソー的思想家と肯定的に評価するばか者がいる)への肯定的言及も見られる。井上ひさしや加藤周一という「仲間」への言及もあり、加藤周一は、日本の「米軍基地を段階的に縮小し、安保条約の解消をめざす」べきことを14年前の朝日新聞に書き、それが「九条の会」にもつながっている、らしい。
 文章の最後に大江は、辺野古等の怒りと抵抗が「鎮まるとすれば、この国の根本的な方向転換が実際に見えて来る時です」(下線は実際には傍点部分)と書いているので、より具体的には何を意味するのかと読み直すと、どうやら、「九条の会」運動にもつながる「憲法の平和主義に徹底すること」か、それによって達成される何かであるらしい。
 寝惚けたご老人がまだおり、「作家」らしいその人が書いた文章を大切なものの如く掲載する新聞社がまだあるのだ。
 「平和主義」は言葉としては結構だが、中華人民共和国の軍備拡張等々や北朝鮮の核保有問題等々を抜きにして、それらにいっさい触れないままで、「憲法の平和主義に徹底すること」などとお題目のようによくぞ書けるものだと思う。しかもそれが、「この国の根本的な方向転換」と同一視されているか、そのための手段として書かれているのだから、いったい何を考えているのか、と言いたくなる。
 大江健三郎のような者たちがいなくならないと、日本国家の「根本的な方向転換が実際に見えて来る時」にはならないようだ。

0874/「九条を考える」、「九条実現」運動の欺瞞。

 憲法記念日、読売新聞5/3に、「市民意見広告運動事務局」による、「9条・25条実現」、「基地はいらない」、「核の傘もいらない」等と大書した一面広告が掲載されている。7613の氏名・団体名も小さく載っているらしい。
 その団体名の中には「〇〇9条を考える会」という、実質的には日本共産党系の運動になっている地域グループの名もある。
 「9条を考える」会運動が文字通りの「考える」ではなく「護持する」(憲法改正により削除させない)運動であることは疑いえない。
 上のことを前提にいうと、「九条を考える」、「九条実現」運動には大きな欺瞞がある。
 上に言及の新聞広告には日本国憲法現9条の1項と2項の全文も掲載されているが、いわゆる<改憲>論者のほとんどが主張している9条の改正の対象の中には、9条1項は含まれていない。
 代表的には自民党の憲法改正案があるが、その案では現憲法9条のうちその1項はそのまま維持することとしている。そして、2項を削除し、新たに「9条の2」を挿入して「自衛軍」の設立等を定めることとしている。
 上のことは、現憲法9条1項にいう「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争」等は所謂<侵略>戦争等のことを意味し、9条1項(だけ)では<自衛(防衛)>「戦争」等は「放棄」されていない、という現在の憲法学界の通説および政府解釈でも採用されている理解の仕方を前提としている。
 私もそうだが、9条を改正しようとする主張・運動は、決して9条1項(の少なくとも基本的趣旨)までをも削除・否定しようとはしていないのだ。
 しかるに、「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争」等は所謂<侵略>のためのそれ(のみ)を意味する、という知識をもたず、ごく通俗的に9条1項の文言を読んで、すべての「戦争」がこの条項によって「放棄」・否定されていると理解している国民が多すぎるのではないか。だいぶ以前に触れたが、「左翼」のアイドル(?)吉永小百合もこのような誤解をしたままで、岩波ブックレットに一文を書いている。

 ちなみに、上のことを意識してだろう、西田昌司=佐伯啓思=西部邁・保守誕生(ジョルダン、2010.03)の巻末の西部邁起草「自由民主党への建白書(要項)」(p.197~)の中の「D・憲法改正の要項」には、「第9条第一項」につき、「①『国際紛争を解決する手段として』の戦争とは『侵略戦争のことである』と明記する必要があることに加えて、……」との文章がある(p.229-230)。
 これにも見られるように、西部邁もまた現9条1項の削除を主張しておらず、意味の明確化と追加(「国民の国防義務」等。今回はこれ以上言及しない)を主張しているのであり、要するに、現9条の全体を削除すること=9条の(1項・2項の)全面改正を主張しているのではない。

 だが、なぜか、「九条の会」呼びかけ人の中には憲法学者・奥平康弘もいるにもかかわらず、9条全体ではなく、そのうちの現9条2項の維持か改正(削除を含む)かが決定的に重要な争点であることが曖昧にされている。
 彼らの運動のスローガンは「九条を考える」、「九条実現」ではなく、「九条2項を考える」、「九条2項実現」でなければならない筈なのだ。
 このように明瞭にすることなく、現九条1項(の基本的趣旨)もまた改正・否定されようとしていると理解して(または理解させて)運動をするのは、その名前またはスローガン自体のうちに欺瞞が含まれている。

 <ウソ、ウソ、ウソ>-「左翼」の中に隠れているコミュニスト(日本共産党々員たちが代表)は、目的のためならばいかなる策謀も瞞着も厭わない者たちであることを、肝に銘じておく必要がある。

0228/鶴見俊輔とは何者か-九条の会呼びかけ人。

 かつて司馬遼太郎の幕末・維新の時期の小説を読むようにしてフランス革命の経過を楽しみながら知ることはできないかと思って、マリー・アントワネットに関する小説を買ったりしたが、読むに至らず、結局は世界の歴史21・アメリカとフランスの革命(中央公論社、1998)の後半(フランス革命の部分=福井憲彦執筆)を読もうと思い立った。
 その本には月報の小パンフが入っていて、2名の著者と鶴見俊輔の三名の座談会が載っている。そこでの鶴見俊輔の発言内容がまずは印象に残った。
 鶴見俊輔(1922-)の本など読んだことなく、小田実や日高六郎に近いような、非政党の「市民派的左翼」というイメージしかない。
 ひょっとしたらと思って今確認したら、何と九条の会の呼びかけ人9人の一人だった(そんなに大物なのかね?)。九条の会のサイトには、彼自身の文かどうかは分からないが、「日常性に依拠した柔軟な思想を展開」と紹介してある。
 さて、フランス革命後のナポレオンが世界で初めて国民皆兵制(徴兵制)を導入したらしい。
 たぶんこのことにも関連して、上の座談会中で鶴見は次のように言う。ナポレオンは偉大な個人だったが、「ここで国民国家ができる…。この国民国家の枷がいまもある…。この枷は、ファシズムのときにものすごい力を発揮した。国民国家が打って一丸とするかたちで、均質に兵役を強制してしまう」等。
 ここまでなら何気なく読み飛ばしていたかもしれないが、つづく次の文章には目が止まった。
 「ここに現在の日本の問題がある…・偶然、アメリカの力によって憲法に不戦条項をもっているけれど、これが「普通の国家」になるなんてことになったら、「普通の国家」とは国民国家だから、個人としてこの戦争はまちがっているなどという場所はなくなる」等。
 1998年の座談会だが、こんなふうに「国民国家」概念が使われるのだとは知らなかった。正しい用法かどうかは分からない。
 それはともかく、この鶴見の発言によると、現在の日本は「憲法に不戦条項をもっている」がゆえに、「普通の国家」=「国民国家」ではないのだ。しかも、鶴見の発言には、「国民国家」の(少なくとも重要な側面・要素)を毛嫌う気持ちがこもっている。さらに言うと、けっこう重要だと考えられる問題を、よくも簡単に片付けるものだ、という感想も湧く。
 推測になるが、この人は、近代諸国で成立したとされる「国民国家」に批判的で、それに同質化されたくないという心性のもち主のようだ。
 また、ひょっとすると<国民国家>の国民ではなく<地球市民>でいたいのではないか。九条の会の呼びかけ人の一人に名乗りを上げている心情も、理解できそうな気がする。

0218/映画人九条の会というのもある。山田洋次は呼びかけ人。

 映画人九条の会というのもある。2004年10月20日に発せられた「結成と参加」の呼びかけ人は、次の11人だった(あいうえお順)。
 大澤豊(映画監督)、小山内美江子(脚本家)、黒木和雄(映画監督)、神山征二郎(映画監督)、高畑勲(アニメーション映画監督)、高村倉太郎(日本映画撮影監督協会名誉会長)、羽田澄子(記録映画作家)、降旗康男(映画監督)、掘北昌子(日本映画・テレビスクリプター協会理事長)、山内久(脚本家・日本シナリオ作家協会理事長)、山田和夫(日本映画復興会議代表委員)、山田洋次(映画監督)。
 山田洋次とは言わずと知れた男はつらいよ(寅さん)シリーズの監督だ。一般には知られていないかもしれないが、1970年代から日本共産党の支持者として選挙パンフ等に名前を出していた。党員である可能性もある、と私は思っている。
 妹・さくらの夫の博の本棚に雑誌・世界(岩波)が挟まっていたことを目敏く見つけた知人もいた。
 映画自体は私は嫌いではなく、日本的家族関係や「地方」の風景は残すに値するものがある。
 しかし、監督が日本共産党支持者だということを知って観ると、本当は「寅さん」がまともで、スーツ姿の世俗的にはふつうの筈の人びとが異常だとして嘲笑・冷笑又は皮肉の対象としているかのごとき部分が少なくとも一部にはあるのは間違いなく、その限りではある種の<倒錯>のあることは否定できない、と感じる。
 角川から出ている世界シネマ全集(映画DVD枚つき)のうち12巻・山田洋次監督セルフセレクションだけは購入しなかったのは、同監督に対する不信があるからだ。
 男はつらいよ(寅さん)にしても他の作品にしてもその人気は俳優(役者)の個性によるところが大きいだろう。加えて、「左翼」シンパの人達が大衆的に動員した可能性も否定できない。
 映画人九条の会のサイトには多数の賛同者の氏名も掲載されている(俳優等の映画出演者はたぶんおらず、ここではコピーしない)。
 詳しくは知らないが、もともと、映画人という<表現人>・<文化人>そして自己認識としての<自由人>は、杉村春子・滝沢修らの演劇運動等と同様に、「左翼」的で<反権力的>な体質をもってはいるのだろう。

 

0191/夫婦別姓・家族-宮崎哲弥・石坂啓。

 フェミニズムは「家」における男による「女」の搾取を糾弾し子どもの利益よりも母親という「女」個人のそれを優先するもので、女性の立場からの戦後的「個人主義」の一つと見てよいだろう。
 宮崎哲弥・正義の見方(新潮OH文庫)p.25-26等は「父母のどっち側であれ、親の姓が終生つきまとう合理的な根拠とはいったい何か」と問いかけ、福島瑞穂を批判して夫婦別姓ではなく「家」と結びついた「姓氏全廃を叫ぶべき」と説いてる。
 「個人主義」を貫くならば、宮崎の言うとおり、なぜ「姓氏」又は「苗字」が必要なのか、という疑問が生じる筈だ。宮崎はさらに「個人主義の原則に立つ限り、人は、自ら決したただ一つの「名」で生きるべきではないか」とも書くが、この指摘は、とても鋭い。
 私は若かりし頃、親から引き継いだ又は与えられた氏名を18歳くらいで本人が変更する自由又は権利を認めることを「夢想」し、何かに書いたこともあった。「個人の尊厳」(憲法13条)というなら、個人の名前くらいは自分で選び又は決定できるべきだ、親が決めたものを一生名乗るべき合理的理由はない、と考えたからだ。いま再び構想すれば、18歳~20歳と期間を限って姓名の変更を認め、その旨を戸籍や住民基本台帳に反映させることとなる(中学卒業後の就職者は16歳まで下げてもよい)。
 だが、上のような主張は大勢の支持をおそらく得られないだろう。「個人主義」とは別に「家」又は「家族」という観念は-「戸主」を伴う戦前的家族制度と結合していなくとも-やはり残り続けているのだ(欧米でも、いやたぶんほぼ全世界でそうだ)。それは親-子という人間関係がある限り、永続する(すべき)ように思われる。
 話を変えるが、改正教育基本法は「家庭教育」にも言及している。昨年11月の某番組で、週刊金曜日編集者・九条の会賛同者の石坂啓(女性)は教育基本法改正前のタウンミーティング問題に関連して「家庭教育が大事だと思うと女性に言わせてましたね。これね、それもありだよなと一見異を唱える人はいらっしゃらないと思います。家も大事だし親御さんたちにも参加してもらって子供の教育を一生懸命にやりますよと見せかけていますが、私はその場にいると異を唱えると思います。というのは、そのように巧妙に(不明)ますが、結局は国が都合のよいように女性であったりお母さんであったり子供への役割というのをもっと色々と強いてくる法律なんです非常に危険だというか、根本から変わるんです、教育内容が。」とコメントしていた。  こんなことを平然とテレビでのたまうフェミニストがいるからこそ、日本の「教育」はおかしくなったのでないか、と思っている。

0169/朝日新聞「声」欄上での「九条の会」メンバーのやりとりだった。

 前回に「常岡せつ子」の主張内容の「通説」との説明を問題にしたのだが、さすがにネット界?は多様な情報が豊富で、常岡の投稿の背景についての次のような興味深い説明を見つけた。
 「朝日新聞を叩き潰す掲示板」という名のサイトへの投稿者による情報だ。  朝日新聞の5/15の「声」欄に「上田武郎」(医師、鳥取市、50歳)という人が「安倍氏が…首相として改憲を進めようとすることに違憲の疑いはないのか、専門家のご意見を伺いたいと考えます」と書いた。大臣等の憲法尊重擁護義務(憲法99条)との関係での質問(のような疑問の提示)で、論点としては存在しうる。
 これに「専門家」として「常岡せつ子」(大学教授、横浜市泉区、53歳)という人(と妙な表現はしているが、実在の人物だ)が応えたのが、朝日5/20(18?)の「声」欄だったことになる。そして、常岡は、上田氏の質問への回答以上のことを語ってしまった、と言えるだろう。
 ところで、上の掲示板情報によると、上田武郎は「九条の会・医療者の会」の活動家で、常岡せつ子は「九条の会」の呼びかけ「賛同者」の一人。従って、「これら二本の投稿は、共産党系の「9条の会」の身内によるバトンリレーでした」、ということになる。
 私自身もネット上で確認をとってみた。上田武郎との氏名は「九条の会・医療者の会」の「中国・四国」の部分に「医師」として出ている。

 また、アサヒ・コム内には「鳥取市九条の会」の代表の上田務という79歳の医師(鳥取県歯科医師会名誉会長)が登場しているが、この人は上田武郎氏の父親かもしれない。

 一方、常岡せつ子は「九条の会」の呼びかけ「賛同者」の一人であることに間違いはなく、賛同者の中で最も長いのではないかと思われる「メッセージ」を書いている。
 要するに、「九条の会」のメンバーが朝日新聞を利用して、キャッチボールをした、とも言える。朝日新聞はたんに利用されたのではなく、積極的に彼らに意見表明の場を与えたのだと思われる。朝日新聞もまた改憲反対の「(政治的)運動団体」だからだ(上に言及の鳥取市九条の会代表の取り上げ方でも分かる)。
 以上、あるネット情報を再確認してみました、ということのみ。

0158/「マスコミ九条の会」呼びかけ人ー史料として。

 周知のように、九条の会とは、九条を考える会の呼びかけに応えて、各地域・各職場・各業界等々に結成され、6000ほどすでにあるとされ、日本共産党が強力に結成又は参加を呼びかけている組織であり、現憲法九条の護持(改正に反対)を明瞭に主張している団体だ。
 マスコミ九条の会というのも、遅くとも2006年には結成されているようだ。そのサイトによると、呼びかけ人は次のとおり。知らない人もいるが、全員を()もそのままにして、記載しておく。
 「秋山ちえ子(評論家)、新崎盛暉(評論家)、飯部紀昭(道都大学教授)、石川文洋(報道写真家)、石坂啓(漫画家)、池辺晋一郎(作曲家)、井出孫六(作家)、猪田昇(日本ジャーナリスト会議北海道会員)、岩井善昭(日本ジャーナリスト会議北海道運営委員)、内橋克人(経済評論家)、梅田正己(日本ジャーナリスト会議出版部会代表)、大岡信(日本現代詩人会)、大谷昭宏(ジャーナリスト)、大橋巨泉(著述業)、岡本厚(岩波書店「世界」編集長)、小沢昭一(俳優)、恩地日出夫(映画監督)、桂敬一(立正大学文学部教授)、鎌田慧(ジャーナリスト)、川崎泰資(椙山女学園大学教授)、北村肇(「週刊金曜日」編集長)、小中陽太郎(作家)、斎藤貴男(ジャーナリスト)、佐藤博文(弁護士)、佐野洋(作家)、ジェームス三木(脚本家)、柴田鉄治(国際基督教大学客員教授)、須藤春夫(法政大学教授)、隅井孝雄(京都学園大学教授)、関千枝子(女性ニュース)、せんぼんよしこ(演出家)、高嶺朝一(琉球新報社)、谷口源太郎(スポーツジャーナリスト)、田沼武能(写真家)、俵義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)、仲築間卓蔵(日本ジャーナリスト会議放送部会代表)、茶本繁正(ジャーナリスト)、塚本三夫(中央大学法学部教授)、辻井喬(詩人・作家)、坪井主税(札幌学院大学教授)、栃久保程二(日本ジャーナリスト会議北海道代表委員)、鳥越俊太郎(ジャーナリスト)、中村梧郎(フォト・ジャーナリスト)、橋本進(ジャーナリスト)、ばばこういち(放送ジャーナリスト)、原壽雄(ジャーナリスト)、平岡敬(中国・地域づくり交流会)、広河隆一(写真家、デイズジャパン発行・編集人)、前泊博盛(琉球新報社論説委員)、増田れい子(エッセイスト)、箕輪登(元衆議院議員)、宮崎絢子(日本ジャーナリスト会議代表委員)、三善晃(作曲家・芸術院会員)、守屋龍一(日本ジャーナリスト会議事務局長)、門奈直樹(立教大学教授)、山田和夫(映画評論家)、湯川れい子(音楽評論家)、吉田ルイ子(フォト・ジャーナリスト)、吉永春子(ジャーナリスト)、若杉光夫(映画監督・演出家) ※五十音順
 私には著名で、かつ露出度が高そうな人を太字にしておいた。
 石坂啓は女性漫画家で売っているようだが、既述のように、「週刊金曜日」編集人の一人で、本田勝一や佐高信の仲間。鎌田慧の「左翼」ぶりは顕著だが、冷静そうに見せている
内橋克人もれっきとした「左翼」。辻井喬は朝日新聞社から(も)小説を刊行している。佐野洋はすでに70年代に日本共産党の支持者として名を出していた。平岡敬は元広島市長。
 鳥越俊太郎はオーマイニュースをその後どうしたのかの詳細は知らないが、呼びかけ人として名を出すように、九条護持派であることを明らかにしている。市民の「中立的」なニュースサイトを運営できるわけがない。
 他にも呼びかけ人等の氏名が公表されていれば、この欄にも転写又は記載していく。九条改正絶対反対という日本共産党・社民党の姿勢と通底していることを隠して、「一般」人あるいはノンポリふうに装っている人もいるので、注意と警戒が必要だ。

0140/読売2007.05.12の橋本五郎記事による憲法学界の状況に寄せて。

 読売5/12朝刊の橋本五郎・特別編集委員の記事はなかなか面白い。この人は今年の1月に、東京大学の憲法学者の長谷部恭男と読売紙上で対談していた。
 憲法改正手続法成立見込みの時点で、「「抵抗の憲法学」を超えて」という大見出しのもとで、現在の憲法学界の状況を紹介・コメントするもののようだ。
 1.現在岩波書店が出版している講座・憲法全6巻のうちの第一巻の「はしがき」にこう書いてある(直接の引用ではない)のを読んで、「違和感を覚えた」という。
 <「戦後憲法は紙屑だ」と言い放っている人たちが「押し付け憲法」であることを根拠に現憲法を葬り去ろうとしている>。
 こんなふうに書かれれば、改正試案を発表している読売の立場もなかろう。従って、改正試案を世に問うたのは「「押し付け憲法」だからというのではない。「紙屑」だと思ったからでもない」、と橋本は反論?している。
 上の<>を「はしがき」を書いたのは第一巻の編者だと思われ、そうだとすると、東京大学の法哲学の教授の井上達夫、ということになる。
 岩波書店(および日本評論社)が出す憲法の講座ものが<公平>・<客観的>である筈がない雑誌『世界』の出版社らしく当然に<偏向>している、と私は思っているので特別の驚きはなく、やっぱりと感じるのだが、本当に法学部の(しかも東京大学の)教授が上のようなことを書いているのだとすれば、空怖ろしいことだ。まともな神経ではない。まともに現実が見えていない(安い古書になれば購入を考えよう。なお、長谷部恭男もいずれかの巻の編集者の筈だ)。
 2.1966年に故芦部信喜東京大学教授(憲法学、1923-99)は、自衛隊違憲論+改正反対論は「政治に対しても国民に対しても、訴える力が非常に弱くなってきている。学説と国民意思が離れすぎてしまっているのではないか」と書いたらしい。
 東京大学法学部には自衛隊についての<違憲合法論>を示した、旧日本社会党ブレイン(と思われる)小林直樹(1921-)がいて、こちらの方は明確な「左翼」だった。世間的には小林直樹ほどは目立っていなかった芦部信喜も、最近に代表的な憲法概説書ということで彼の本の憲法九条の部分を読んでみると明らかに「左翼」だ(いずれ、彼の議論も俎上に乗せるつもりだ)。
 晩年に書いたもののようだが、芦部信喜氏は、評論家ふうに「訴える力が非常に弱くなってきている。学説と国民意思が離れすぎてしまっている」
などと書ける立場の人物ではなかったのではないか。すなわち、訴求力をなくし、学説と国民意思を乖離させた責任の一半は、東京大学教授だった自らにこそあるのではないか。
 同じ1996年に、よくは知らないが芦部の「弟子」(芦部を指導教授とした)らしい高橋和之(現在、東京大学法学部教授・憲法学、1943-)は、自衛隊違憲論を唱えた「大きな代償」として次の2点を挙げた、と橋本は書いている。
 1.<憲法学者は非現実的すぎるという印象を国民に与え、憲法学者の発言の説得力を低下させた>、2.<現実が憲法規範通りにいかないのが通常のことだという意識を国民の間に蔓延させた>。
 私も橋本とともに、「その通りだと思う」。私は日本の憲法学者の殆どを信用していない。おそらくは殆どの憲法学者がフランス革命を平等・人権等のための「素晴らしき市民革命」と理解しているはずだ(あるいは、そういう「囚われ」から抜け出ていない筈だ)。
 3.「特別編集委員」というのは専門雑誌も読むようだ。ジュリスト最新号(有斐閣)で、佐藤幸治・京都大学名誉教授(1937-)は、<憲法学の役割は「批判」・「抵抗」だけでなく「創る」・「構築」も重要だ>旨書いているらしい。高橋和之も、「制度設計」を議論しないで他人の創った制度を「批判」するだけでは「憲法学として半分しかやっていないような気がする」と、「抵抗の憲法学」からの脱却を述べているらしい。
 これらは誤りではなく、適切だ。しかし、私に言わせれば、今頃にこんなことを言っていたのでは遅すぎる。それに高橋の「…しかやっていないような気がする」とは一体何だろう、「ような気がする」とは。
 ジュリスト最新号を購入して、全体をきちんと読んで、再び触れるかもしれない。
 橋本は読売の改正試案発表の動機のようなものを次のように述べている。
 ア「国民の大多数が認知している自衛隊を憲法学者の多くが違憲…と学生に教え」、「政府は自衛隊を…「実力は持っているが…戦力ではない」などと、綱渡りのような解釈でしのいできたのはおかしいのでないか」。
 イ「国連平和維持活動」等の果たすべき国際的責務を「憲法9条があるからできないというのは本末転倒で」、「憲法上きちんと位置づけるべきではないのか」。
 これらはまことに尤もなことだ。ふつうの人間の「常識」・「良識」に合致するのではないか。
 しかるに、過日と同じことの繰り返しになるが、自衛隊は憲法上の「戦力」ではないとの「大ウソ」をつき続けて、<現実が憲法規範通りにいかないのが通常のことだという意識を国民の間に蔓延させた>ままにしようとしているのが、朝日新聞社(若宮啓文)・九条の会等々の面々に他ならない。憲法学者の多くは、正気に戻って、こうした面々を応援・支持することを即刻止めるべきだ。

0072/大江健三郎とは何者か。-反天皇・反皇室心情から日本の勲章拒否しつつ中国には「土下座」旅行。

 大江健三郎に関する本に、谷沢永一・こんな日本に誰がした(クレスト社、1995)がある。表紙にもある「戦後民主主義の代表者大江健三郎への告発状」との副題はスゴい。この本は20万部売れたらしい。大江は谷沢永一・悪魔の思想-「進歩的文化人」という名の国賊 12人(クレスト社、1996)の対象の一人でもあるが、「悪魔の思想」とはこれまた勇気凛々の タイトルだ。
 皇太子・秋篠宮両殿下の次の世代の悠仁親王ご誕生への慶賀と安堵の声を伝える放送を見ていたとき、大江健三郎は誕生と一般市民の反応の二つをどう感じているのだろう、とふと思った。その理由は、つぎのことにある。
 谷沢永一の上の第一の本の引用によれば、大江は1959年に「皇太子よ、…若い日本人は、すべてのものがあなたを支持しているわけではない。…天皇制という…問題についてみば、多くの日本人がそれに反対の意見をもっているのである」と書き(ここでの皇太子は現天皇)、1971年には天皇制という中心への志向を特性とするのが日本の近代の「歪み、ひずみ」だとした。また、岩波新書・あいまいな日本の私(1995)の中にも反天皇的気分の文章はある(例えばp.151-2)。
 朝日新聞が悠仁親王に関する大江のコメントを求めたら面白かった(というのは皇室に失礼な表現かもしれないが)と思う。大江は民主主義の徹底を「あいまい」にしたものとして天皇・皇室の存続に反対であり、可能ならば天皇関係条項を憲法から削除したいが、「情勢」を見て自説を積極的に唱えてはいない、と推察できる。9条を考える会の呼びかけ人の1人になっているのは、天皇条項廃止とは異なり9条改正阻止は可能性があると「政治的」に判断しているからだろう。
 大江については、鷲田小彌太他二名・大江健三郎とは誰か(三一新書、1995)という本もある。但し、鷲田以外は文学系の人のためか目次にある天皇制・戦後民主主義との関係等は内容が貧弱だ。同じ年刊行の上の谷沢氏の本の方が大江を広く読んでいて、論評として勝れている。
 もっとも、鷲田の大江への厭味は十分に伝わり、大江が天皇制に批判的であることも明記してある(p.259)。それにしても鷲田によれば-私自身の経験と印象ともほぼ合致するが-大江の小説は「ある時期から特定の文学評論家や研究者以外には、読まれなくなった…。特殊のマニア以外には、買われなくなった…。難解なのか、つまらないのか。私にいわせれば、その両方である」。ノーベル賞で重版が続いたらしいから「売れない、というのは当たっていないだろう。しかし、売れたが、読まれなかった、読もうとしたが、冒頭…で断念した、という人がほとんどだった、といってよい」(p.261)。これらが事実だとしたら(そのように思えるが)、そもそも大江にノーベル文学賞の資格はあったのか、「文学」とは何かという疑問も生じる。ふつうの自国々民に愛読者が少なくて、何が世界の文学賞様だ、とも思える。司馬遼太郎や松本清張等々の方がふつうの日本国民にはるかに多く読まれ、かつ意識に大きな影響を与えたことに異論はないだろう。この二人については、生前から「全集」が刊行されていた。三島由紀夫にもある。大江作品・エッセイの全てを網羅した個人全集はまだないのではないか。大江は実質的には将来に影響を与えない、名前だけ形式的に記憶される作家になる可能性があるように思うのだが。
 大江について雑談風に書けば、彼は東京大学文学部入学・卒業を「誇り」にしていただろうが、いわゆる現役ではなく一浪後の合格だったことにコンプレックスを持っていたようだ。というのは、手元に元文献はないが間違いない記憶によれば、一年めに英語か数学ができなくて途中で放棄して不合格だったがその年は例年よりもその英語か数学がむつかしくそのまま最後まで受験していたら合格した可能性が十分にあった旨をクドクドと書いてあるのを何かで読み、何故こんなにこだわっているのか、何故長々と釈明するのか、自分の「弱味」意識が強く内心の翳にある、と感じたことがあるからだ。大江はきっと、平均人以上に、「世間」を強く意識している自意識過剰の人物なのだろうと思われる。
 元に戻って、再び大江の天皇・皇室観の問題に触れれば、大江健三郎が明確に語っていないとしても、かつての自衛隊や防衛大学校生に関する発言から見て、彼が反天皇・皇族心情のもち主であることは疑いえない。
 大江は、ノーベル文学賞を受けた1994年に文化勲章受賞・文化功労者表彰を、「戦後民主主義」者にはふさわしくない、「国がらみ」の賞は受けたくない、という理由で拒んだ。だが、何と釈明しようと、大江は要するに、天皇の正面に向かい合って立ち、天皇から受け取る勇気がなかったか、彼なりにそれを潔しとはしなかったからではないか。明確に語らずとも、怨念とも言うべき反天皇・反皇室心情をもって小説・随筆類を書いてきたからだ。
 表向きの理由についても、「戦後民主主義」者うんぬんは馬鹿げている。大江にとって天皇条項がある「民主主義」憲法はきっと我慢ならない「曖昧さ」を残したもので、観念上は天皇条項を無視したいのだろうが、「戦後民主主義」にもかかわらず天皇と皇室は、憲法上予定されている存在なのだ。敗戦時に10歳(憲法施行時に12歳)で占領下の純粋な?「民主主義」教育を受けた感受性の強く賢い彼にとって天皇条項の残存は不思議だったのかもしれないが、憲法というのは(法律もそうだが)矛盾・衝突しそうな条項をもつもので、単純な原理的理解はできないのだ。
 「国がらみ」うんぬんも奇妙だ。彼が愛媛県内子町(現在)に生れ、町立小中学校、県立高校で教育を受け、国立東京大学で学んだということは、彼は「国」の教育制度のおかげでこそ、(間接的な)「国」の金銭的な支援によってこそ成長できたのだ。「国がらみ」を否定するとは自らを否定するに等しいのではないか。
 大江は一方では、スエーデン王立アカデミーが選定し同国王が授与する賞、かつ殺人の有力手段となったダイナマイト発明者の基金による賞は受けた(なお、スエーデン王室は17世紀以降の歴史しかない)。さらに、2002年には皇帝ナポレオン1世が創設したフランスの某勲章を受けた、という。こうした外国の褒章を受けるにもかかわらず、天皇が選定の判断に加わっているはずもない日本の文化勲章のみをなぜ拒否するのか。その心情は、まことに異常で「反日」的というしかない。
 その彼は月刊WiLL2006年12月号によると-石平・私は「毛主席の小戦士」だった(飛鳥新社、2006)の著者が執筆-同年9月に「中国土下座の旅」をし、中国当局が望むとおりの「謝罪」の言葉を述べ回った、という。「九条を考える会」の代表格の一人がこうなのだから、この会の性格・歴史観もよくわかるというものだ。
 大江の中国旅行についてもう少し書くと、大江と相思相愛の朝日新聞の2006年10/17付には大江の中国訪問記が掲載されたらしい。石平の引用によると、1.南京「大虐殺」の証言者老女に会って、彼は日本の「国家規模の歴史認識スリカエ」への抵抗を感じたらしい。どのように感じようと勝手だが、「従軍慰安婦」も南京「大虐殺」も(後者に含められることがある「百人斬り競争」も)、さらに所謂日華事変の発生原因、対日政策にかかる中国共産党とコミンテルンの関係、国民党内への共産党の「侵入」の実態等々もユン・チアン等のマオ(講談社、2005)の作業も含めて、「歴史」は見直されている。それらはアメリカや崩壊後の旧ソ連の資料を使って内外の研究者によってなされているようなのだが、「国家規模の歴史認識スリカエ」とは、大江はよく書いたものだ。約70年前の諸事件の「真実」がとっくに明らかになり確定していると考える方がおかしい。ましてや中国共産党の戦前の資料等はまだ公開されていないのだ。
 2.大江は南京師範大学の研究者の講義には「政治主義、ナショナリズムから学問を切り離そうとする態度」が明らかだったと述べたとか。中国共産党支配国の「学問」がそうだったとは全く信じられない。元朝日新聞の某氏の如く彼らの言うことを「純粋」に信じているのか、「政治的に」嘘を書いているのか。
 というような感想をもちつつ旅をした大江は石平によると、中国共産党政治局常務委員で宣伝・思想教育担当の李長春との人物と「接見」した。大江は純粋な作家ではなく中国に都合のよい「政治的」発言者として遇された、と言ってよい。また、大江は謝罪をし「歴史認識」・「靖国」等を各地で多用したが、「戦後民主主義者」のはずなのに「民主主義」や「人権」という語は一度も使わなかった。また、中国の某サイトは、一昨年10月に小泉首相の靖国参拝があったとき大江は中国人作家関係者への弔電の中にとくに「日本の政治家は常に中国人民の熱意を裏切っている。日本の政治家の…卑劣な行為に私は恥ずかしく思っている」と述べていたことを明らかにした、という。
 作家が政治的行動をしてもよい。三島由紀夫、石原慎太郎しかり。だが、大江を何となく「良心的」な作家と誤解して、その完全に「媚中」・「屈中」的な、かつ反天皇・反皇室的な、完璧に「政治的」行動者たる性格を知らない人がまだ日本国民の一部には残っているのではないか、と怖れる。

0043/世代論/1930~35年(昭和一桁後半)生れ世代は「独特」。

 産経・阿比留瑠比氏の永田町取材日記・阿比留のブログ(産経、2007.02)のp.231に、次の文がある。
 「私が永田町界隈で実感しているのは、「政治家は60代とそれ以下では考え方がかなり違う」「60代半ばの人はGHQの影響(戦後民主主義教育など)が強すぎる」ということです」。
 前回の私のblog-entryで「団塊」世代に限らずその上のいわば「60年安保」世代阿比留氏の上の文のあとでは「全共闘世代」と区別される「安保世代」とのみ表現されている)の相当部分もすでに「病」に汚染されていた旨を書いたが、上の阿比留氏の叙述は、私の「直感」とほとんど同じものだ。かりに現在65歳の政治家がいるとすると、その人は1941~42年生まれで、1948~49年に学齢期に入ったときはまだGHQによる占領下だったのだ。
 占領下教育を受けているか否かは考え方の形成にもなにがしかの影響の違いをもたらした、と考えるのは自然だろう。
 前回の私のblog-entryではまた、1952年頃~1928-29年生まれは「革新」傾向が強い旨を書いたのだが、下限はともかく、上限の「1928-29年生まれ」には首を傾げる方も多いかもしれない。現在70歳代後半の人々(ご老人)は、「保守的」ではないか、と。
 私も統計資料的にはそのような結果が出るのではないかとも思うのだが、上のように書いたのは、1930~1935年生まれ、つまり昭和一桁後半(昭和5年-10年)生まれの世代は、「独特な世代」で、全体からすると少数かもしれないが「左翼」系の人が今も目立つ、と感じているからだ。このことから少し幅をもたせて1930年で区切らず「1928-29年」にしたのだった。このあたりを、もう少し敷衍しよう。
 西尾幹二・わたしの昭和史2(新潮選書、1998)p.32-33によると、GHQ・米国そして欧米流の民主主義と歴史観・戦争観に貫かれた文部省の教科書「民主主義」上・下が1948年10月・1949年8月に刊行され、1953年まで中学・高校で使われた。この本を13歳~18歳の間に1948-53年に読んだ人々は、1948年に13-18歳の者が最初、1953年に13-18歳の者が最後で、少し煩瑣な計算を要するが、1930-40年生れの者たちになる。
 また、上の本を基準にしないで単純におおむね1946-1951年の「占領」下の戦後教育を受けたか否を基準にして言うと、まず、1946-1951年に学齢期の7歳になるのは、1939年~1944年生れの人たちだ。立花隆氏らで、ほぼ「60年安保」世代だといえる。なお、中西輝政氏や長谷川三千子氏は1945年以降生まれで、むしろ「団塊」世代そのものか、それに近くなる。
 つぎに、1946年に7歳の子よりも影響を受けやすいと思われる11歳になるのは、1935年生れの人だ。10歳とすると1934年生れの人になる。「占領」は約6年半続いたが、1946年に10~11歳だった人たちは1951年には15~16歳になり、「独立」=主権回復した1952年には16~17歳となり、その後も(新制高校に進学していれば)教育を受けた。
 上の段落で書いたことを別の観点から見ると、1934-35年生れの人は7歳~9-10歳は戦前の教育を、10-11歳~15-16歳は「占領」下教育を、16-17歳以降は「ふつうの」戦後教育を受けた、ということが判る。この3つの時期のうち、人格の形成にとって重要なのは、あえていえば10-11歳~15-16歳の時期ではなかろうか。そのような時期に1934-35年生れの人はGHQによる「占領」下の教育を受けている。
 以上は、1946年に10-11歳になる人を想定したが、1946年に15-16歳になった1930-31年生れまで下げれば、1930~35年生れの世代が「占領」下教育を体験したことになる。この世代の人は戦前の教育をも受けており、所謂「教科書墨塗り」も経験している筈だ。
 というわけで、私は1930~35年生れの世代は「独特の世代」だと見なしている。そして、この世代に属して、現在もなお活躍中の人が目立つ。具体的に例示しよう(以下には故人も含む)。
 (1929年-奥平康弘)
 1930年-不破哲三、降旗節雄、国弘正雄、芝田進午、澤地久枝、半藤一利、野坂昭如、佐々淳行、岡崎久彦
 1931年-本多勝一(32年・33年説もある)、高橋和巳、鹿野政直、吉川勇一、山田洋次、本岡昭次、篠田正浩、曽野綾子、岡田英弘
 1932年-小田実、青島幸男、大島渚、内橋克人、早乙女勝元、五木寛、石原慎太郎、小室直樹、江藤淳
 1933年-永六輔、天野祐吉、廣松渉、森村誠一、矢崎泰久、吉田喜重、小田晋、柿沢弘治、篠沢秀夫、西部邁、小堀桂一郎
 1934年-井上ひさし、松井やより、樋口陽一、大橋巨泉、田原総一朗、黒川紀章、山崎正和、稲垣武、高坂正堯
 1935年-大江健三郎、筑紫哲也、中村政則、倉橋由美子、柴田翔、羽田孜、宮内義彦、西尾幹二。
 なかなか錚錚たる人物群だ。奥平康弘、井上ひさし、大江健三郎、小田実、澤地久枝は「九条の会」の9人の呼びかけ人のうちの5人だが、どちらかというと(上に挙げたのも明瞭な基準があるわけではないが)他の世代に比べて「左翼」の有力者が目立つ、とは言えないだろうか。「保守派」のリーダーたちもいるが。
 こういう氏名を見ていて、第一に、「団塊」世代の者たちの著名度はまだまだ低い、そして第二に、「1930-35年生れ」世代は、上述のような人間形成過程・<生まれ育った時代>と無関係とはいえない「独特な世代」だ、と感じてしまうのだ。

0028/潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(2007.04)のごく一部を読む。

 昨夜、潮匡人の呉智英批判に触れているうちに潮の近著に言及し、さらにその中で吉永小百合様に関する記述があるらしいことからの連想で、吉永小百合様うんぬん、の別の文章を書いてしまった。
 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007.04)を購入して、さっそく一部を読んだ。
 まず、吉永小百合様の一文を含む井筒和幸ほか・憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の提言(岩波、2005.08)という冊子につき、別の本を引用しつつ、次の旨を言う。(この冊子は私も無論持っていて計64頁、定価500円なのだが、)この薄い本(冊子)のために岩波は、2005年8/04に朝日、毎日、読売、東京、翌8/05に日経、産経に、いずれも一面全体を使った広告、いや広告というよりも「九条を守ろう」との意見広告、を出した。一面全面広告には「億単位の広告料がかかるら。…護憲派は潤沢な資金源に恵まれているようだ」。
 引用されているのは私も所持している自民党政務調査会主席専門員の田村重信・新憲法はこうなる(講談社、2006.11)で、該当頁のp.164-5にはたしかに上の前半の事実が書かれている。その上で田村は言っている-18人は「左派系の学者や文化人」で、「背後には、2004年6月に発足した「九条の会」の存在があり、それを陰で操っているのは共産党です」。
 九条の会の呼びかけ人自体は井上ひさし・奥平康弘を除いて必ずしも日本共産党直系とは言えないが、各地域・各職域等に今や5000あるらしい「九条の会」の実権を握っているのは日本共産党のようだと諸情報から判断していたが、上の田村は、あっさりとそのことを「操っている」という言葉を使って認めている。私の推測は誤っていないだろう。
 つぎに、吉永小百合様批判の部分のみを紹介しておく。彼女は「もう一人の女優、渡辺えり子さん」とともに「女優の虚言や戯言はともかく…」とまともに扱われていないふうなのだが、潮は具体的には次の如く反論又は説明している(p.165以下)。-1.吉永は憲法九条は「コスタリカを始めとして、多くの国の人たちから賞賛されています」と書くが、コスタリカ以外のどの国が賞賛しているのか。外国の人は憲法九条の存在すら知らず、かりに知れば最新鋭の戦闘機やイージス艦を(「自衛隊」が)保有しているのを疑問に感じるだろう。また、「コスタリカ憲法は常備軍を廃止しただけで、有事には徴兵し軍隊を編成できる」し、「武装した国家警備隊」も持ち、米国との間に「集団自衛権行使」を含む軍事同盟関係にある。さらに、反共産主義を貫いていて中国と国交を結んでいない。
 コスタリカは護憲論者がよく引き合いに出す国だが、このような状況だとは知らなかった。
 2.吉永は「人間は、『言葉』という素晴らしい道具を持っています」と書き、「武器ではなく、憲法九条こそが、私たちを守ってくれます」とも書くが、後者は「いくら何でも言い過ぎではないか」、「あまりに低レベルな反論だが、相手の土俵に乗ろう。彼女は、自宅の門に憲法九条を掲げ、鍵も掛けずに眠るのであろう」。
 この潮匡人の本は「護憲派」の主張・言い分にも触れつつ多様な論点を扱っている。いずれまた、憲法九条論や憲法改正論に関連して言及したい。

0026/吉永小百合様、美しい「言葉」の力で金正日と「粘り強く話し合い」して下さい。

 「団塊」世代のマドンナと称されているかもしれない、あの吉永小百合様が岩波ブックレット・憲法を変えて戦争に行こうという世の中にしないための18人の発言(2005.08)の中で、次のように書いておられる。-「人間は『言葉』という素晴らしい道具を持っています。その道具で粘り強く話し合い、根っこの部分の相違点を解決していく――報復ではなく、半歩でも一歩でも歩み寄ることが「言葉」を持つ私たちの使命だと思います」(p.18)。
 「言葉」という「道具で粘り強く話し合い、根っこの部分の相違点を解決していく」ことができれば、それに越したことはない。「粘り強く話し合」っても何ら誠意をもって対応せず、言葉と矛盾する行動を平気で行う人や国家が存在するからこそ問題なのであり、経済的・軍事的「圧力」も必要になるのだ。吉永小百合には是非、朝鮮半島の北半分にいる将軍様(ウンサンニム)に「『言葉』という素晴らしい道具」で話しかけ、「粘り強く話し合」っていただきたいものだ。
 美しい心の小百合様には、国民を餓死させ、開発凍結と言っておいて平気で核実験実施をする国家の存在を想像すらできないのだろう。
 彼女はまた、「命を大切にすることは、憲法9条を大切にすること。国際紛争を解決する手段として、武力行使は永久にしないと定めた憲法は、人間の命を尊ぶ、素晴らしいものです」と憲法九条を讃える。
 だが、残念ながら小百合様には憲法に関する基礎的素養がなさそうだ。9条1項が規定している「国際紛争を解決する手段」としての武力行使の禁止は、少なくとも憲法学説上の多数見解および政府見解によれば、「侵略」戦争の放棄の意味だ。9条1項は「防衛」又は「自衛」戦争をも放棄(禁止)してはいない。そしてこのことは日本国憲法に限らず、今日の世界においては当然のことなのだ。
 憲法改正に際しての焦点は、「戦力」不保持、「交戦権」否認の9条2項をどうするかにある。1項によって「自衛」戦争が禁止されていないとしても、2項で「戦力」保持・「交戦権」が否定されているために、結果として「自衛」のための「戦争」もできなくなる、というのが多数見解による9条の条文の読み方なのだ。ここで「戦争」や「戦力」・「交戦権」の厳密な意味が問題になるが、そこに立ち入らないとしても、「戦力」不保持・「交戦権」否認の憲法9条2項があるがゆえにこそ外国からの攻撃によって日本国民の生命が奪われることを有効に防止できないとすれば、「憲法9条を大切にすること」は日本国民の「命を大切に」しないこと、を意味することになる。
 かくの如く、小百合様の文章は美しいが、<戦争反対という情緒>(これ自体を悪いとか誤っているとかは言わない)が書かせたものにすぎない。
 朝日新聞社が<私たちは「言葉」の力を信じます>とかのコピーで宣伝していたが、小百合様の上の文章にヒントを得たのではなかろうか。それはともかく、朝日は、事実を否定し又は存在しない事実を作り出す(「捏造」)ために「言葉」を用いた、あるいは「言葉」の力によって虚報をさも真実のごとく装ったことがある。当然ながら「言葉」の力は良い方向にも逆の方向にも働きうる。それが明確でないコピーは「言葉」の力でウソを真実に変えますと言っているようで、じつに気持ちが悪い。
 続けて記せば、吉永小百合様は、昨年の毎日か日経のインタビュー記事中で、広島・長崎に原爆を投下されたのは、当時の日本政府の<ポツダム宣言受諾が遅れたためだ>ということのみを語り、あたかも責任はすべて日本政府にあったかの如き旨を語っていた。表現・記述不足ということも考えられるが、当時の国際法上も違法だった可能性が高い非戦闘員・一般市民の大量殺戮を行った米国に対する批判的視点が全くないとすれば、由々しき「歴史認識」をお持ちだ。小百合様にとっては、広島・平和公園内の「過ちは繰り返しませんから」との碑の主語は、おそらく間違いなく日本、あるいは日本政府・日本軍なのだろう。ということは、彼女が生まれる直前の東京大空襲による非戦闘員・一般市民の大量殺戮も、決して米国に責任はなく、そのような反撃を招くような戦争に至らしめた日本政府・日本軍に責任があると考えておられる可能性もある。そのような「歴史認識」でおよろしいのかどうか。
 「九条を考える会」のアピールに賛同しておられる(賛同人名簿に載っている)吉永小百合様の個人的な「歴史認識」はもうお変わりにならないかもしれない。だが、実質的には日本共産党が実働部隊となり主導権を握って運動していく可能性が高い「九条の会」に政治的に利用なされることないよう願っている。

0023/「日本国憲法2.0開発部」は単純・素朴・幼稚かつ狂気の教条的平和主義。

 安倍首相は憲法改正を目指しており、自民党は憲法改正案を既に発表しているが、ほぼ60年も前に施行された憲法を「自分たちの手」で書き直す、「改正」するのは当然のことだ。
 その際、全くの白紙ではなく現憲法から出発するとしても、9条2項以外にも議論の必要がある条項がある。
 しかし、九条2項をどうするかが最大の争点になることは間違いないだろう。
 すでに日本共産党は「九条の会」に結集する、又は職場・地域等で「九条の会」を新設する旨の指示を出し、将来の憲法改正にかかわる「決戦」(具体的には国民投票の場になるだろう)に準備を進めているようだ。
 ネット上には改憲・護憲と種々のサイト又は意見が溢れているが、むろん現在以上に日本の軍事力(軍事的防衛力)を減殺する方向での改正案もありうるし、「市民」の立場からの憲法改正案も発表されている。
 後者の代表は、ネット上ではなくきちんとした本になっている、江橋崇・市民主権の憲法理論(生活社、2005.11)だろう。
 前者の例が、
http://blog.goo.ne.jp/nihonkoku_kempou/e/6a8833880d11ebd1fae76eabea76e725
 このサイトは「改憲か護憲か?」 を一番大きなサイト名の一部にし、トップページの中に「護憲派」の人も「改憲派」の人も「ぜひご検討下さい」などと書いて、さも、又は一見中立的に装っているが、トップページの上の方にはちゃんと「今の憲法第9条を守っていた方がいいよね」と書いてあるように、9条2項については紛れもなく「護憲派」=変えないという意味では「保守派」のサイトだ。
 もっとも全く変えないのではなく、現在よりも日本の軍事力を弱める、又は一切無にする方向での改正条文を作っている。そして、その条文は、戦争一般、軍備一般を「悪」と見る単純・素朴・幼稚な観念にもとづくもので、結果としては狂気に満ちたものになっている。
 目にするのもイヤな方々も多いと思うが(私もそうだが)、その狂気ぶりを示すために、こんな連中もいることを知っておくために、引用しておこう。
----------------
「第8章 戦争の防止
 第62条【軍隊、軍備の禁止】
 日本は軍拡競争に参加せず、自ら体験した悲惨な戦争の再発を厳重に防止するため、また、国際的緊張を緩和するため、人、機械、ロボットもしくはヒト以外の生物からなる軍隊、自衛隊またはこれらに類する武力保持部隊を持ってはならない
 (2)(イ)国民の徴兵(ちょうへい)制度および一時入隊制度、(ロ)民間または外国民による軍事力の保持、および、(ハ)民間、外国民または無国籍者への軍事の委託、は、あってはならない。
 (3)国連により決議され構成された国連軍を除き、外国の軍隊、軍事設備および武器弾薬の、領海、領空を含む日本国内への移動および設置は、禁止する。これに反する同盟および条約を廃止および禁止する
 (4)日本は国際社会に、軍事力以外しか提供することはできない。これに反する同盟および条約を廃止および禁止する
 (5)日本は国際社会に対して、日本が締結(ていけつ)した条約および確立された国際法規にしたがって、たとえば、次の各号を特色とした貢献を率先して行う。
  1 国家間の対話および和平交渉の提案と仲介 2 軍縮の呼びかけと推進 3 本憲法のような平和憲法の研究と推奨 4 暴力によらない紛争解決の呼びかけ 5 災害救助、開発、生活環境改善、教育、疾病予防、疾病治療、リハビリテーション、地雷除去・汚染除去等戦争後始末、戦後復興、被災復興、防災、防犯、武装解除および戦争防止を支援するための人材、資金、物資および技術の提供 6 寄付金および寄付物品の募集、管理、運搬および配布 7 人権擁護と世界の協調を進めるための平和的国際機関活動および諸国との連帯(れんたい) 8 人権活動 9 平和のための教育、報道および情報発信
 第63条【戦争禁止】
 日本は戦争の生んだ悲劇をふまえて、暴力の不毛(ふもう)さと非暴力による平和の重要性を世界の人々そして次世代の子供達に常に訴え、世界の国々と人々の良識を信じて、暴力によらない紛争解決を率先垂範(そっせんすいはん)しなければならない。
(2)日本は、戦争およびテロを、理由と形態にかかわらず行ってはならない
(3)日本は、たとえ、自衛、集団自衛、共同防衛、先制攻撃、先制防御、外国への協力、外国からの協力要請、外国の治安維持、多国籍軍(たこくせきぐん)、国連平和維持活動(PKO、Peacekeeping Operations)、国連平和維持軍(PKF、Peacekeeping Forces)、抑止、報復、対抗、懲罰(ちょうばつ)、局所的(きょくしょてき)事態、緊急事態または人道(じんどう)支援等という名分をもっても、次の各号を直接または間接に行ってはならない。
  1 戦争またはテロとしての武力行使 2 武力による威嚇(いかく) 3 戦争のための役務(えきむ)、物資、武器、資材、弾薬、燃料、食料、飲料、日用品または医薬品の提供、補給または運搬
  4 戦争のための情報処理および通信
  5 その他戦争の後方支援に属する活動
そして、国際紛争解決のための手段として、日本は次の各号の行為を直接または間接に行ってはならない。
  1 殺傷(さっしょう)  2 逮捕監禁(たいほかんきん) 3 爆撃 4 自爆 5 抑留および拘禁 6 拷問 7 虚偽の宣伝 8 虚偽に基づく提訴 9 精神的暴力 10 マインドコントロール 11 その他暴力
 (4)国が国民の平和的生存権を犯す行為を行うとき、国民は、裁判所にその行為の差し止めを求めることができる
 第64条【警察の軍隊化の禁止】
 警察は、日本の内外の脅威(きょうい)から国民を守り安全を維持する。警察を、憲法の禁止している軍隊にしてはならない。警察には、国際法上も軍隊の条件を備えさせない
 (2)警察は、消防と協力して、国内外の災害救助、事故救助を行う。国外に派遣される警察は、護身(ごしん)を超えた殺傷(さっしょう)能力のある重火器(じゅうかき)等の武器または武器を内蔵する機器を持ち出さない。
 (3)外国からの武力攻撃またはテロが生じたとき、国民を守る専管(せんかん)機構は、警察である。警察は、領空、領海を含む国内でのみ、犯罪者または攻撃勢力を鎮圧することができる。国民が外国において犯罪、テロまたは戦争により危険な状態になった場合の救助は、警察が、本憲法、日本の国内法規、確立した国際的な法規および批准した条約に基づき、当事国または国連と協力して、行う。
 (4)警察が、外国軍隊、外国警察または国際機関の要員の保護または外国軍隊、外国警察または国際機関の要員への攻撃への報復のために、護身用武器を使用することは禁止する
(5)<略>
第65条【武器所持、使用】<略>
第66条【核、生物、化学兵器の禁止】<略>
第67条【有事例外の禁止】
 本憲法を破る国家権力の行き過ぎの行使から国民の人権を守るため、たとえ国に武力攻撃、重大テロ、重大事故、重大災害、その他非常事態または非常事態につながる懸念のある事態が生じたとしても、本憲法にも本憲法下の法にも基づくことなく、本憲法および本憲法下の全部または一部の法の、(イ)効力停止、(ロ)廃止、(ハ)読み替え、または、(ニ)恣意的(しいてき)な解釈変更、をすることを、厳重に禁止し、それらは無効とする
----------
 真面目に考えているようにも見えるが、この人たちは狂っている。最小限度、莫迦、と言っておこう(立法技術上の欠点も見受けられる)。憲法改正および9条2項関係の問題については、いずれもっと詳しく論じる予定だ。

0001/上野千鶴子は4/08後に福井県に転居するか。

 「アサノ〔浅野史郎〕と勝とう!女性勝手連」の3/18現在の呼びかけ人名簿を見た。
 上野千鶴子、木村民子(全国フェミニスト議員連盟元共同代表)、澤地久枝、白石冬美、辛淑玉、中山千夏、山崎朋子、樋口恵子、三井マリ子、新谷のり子、落合恵子、三木睦子等々。フェミフェミしているし、九条の会関係で名が出ていた人もいる。石原慎太郎でない有力候補なら、きっと誰でもよいのだろう。上野千鶴子は石原知事が居座るんだったら都民をやめる、と言っているらしい。他県へ転居するのをいずれ知りたいものだ。訴訟を起こしている福井県は如何?
 週刊新潮3/22号「「従軍慰安婦」問題のガン「河野談話」はこうして作られた」は1993年河野談話の当時の政権内部の動き・韓国の意向等をきちんとまとめており、櫻井よしこ連載コラムは、アメリカよこんな理不尽な決議をしてよいのかと(タイトルは「同盟国ゆえ、敢えて米国に問う」)最後にこれだけは言っておく、との感じ。やはり、週刊新潮はBestだ。と思うが、版元の新潮社は不破哲三の本や決して作家を追いかけないFocusを出すなど、儲ければ何でも手広く、との印象がある。出版社としては、新潮新書と文春新書を比較しても、文藝春秋の方が好きだが。
 大月隆寛という人の本は読んだことはないが、この人が産経3/14に「福島サンは弁護士ですよね?との小文(コラム)を書いて、慰安婦問題で「証言者がいるんだから事実なんですぅ」とのみ言っているのを皮肉っている。裁判ならば公開で(傍聴者がいて)、裁判官の前で、証言者は反対尋問を受ける。反対尋問(その際に裁判官も質問できる)に晒されていない証言は「証拠」にはならないのは当然のことだ。この当然のことを当面の日韓関係を優先して無視したのは河野洋平であり、政治的に無視しているのは福島瑞穂であるわけだ。
 上の週刊新潮の記事の最後-「しかし、今日の有様を見れば、むしろ日韓関係を悪化させる種を蒔いたばかりか、日本の国際的立場を貶めたと言わざるをえない。安倍首相は、河野談話を見直すべきである」」。
ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。
アクセスカウンター