秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

丸山真男

1694/井上達夫-法哲学者の欧米と日本の「現実」。

 井上達夫、1954~。現役の東京大学教授・法哲学
 一度だけ単直に言及して、お叱りもネット上で受けた。
 あほな人は簡単に批判できるが(櫻井よしこ、平川祐弘、倉山満ら)、この人はそうはいかないだろう。
 じっくりと読んで批判的・分析的コメントをしたい。
 まだその時機ではないが、しかし、この無名の欄だからこそ、備忘の「しおり」的に書いておこう。
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 さしあたりの直感的な疑問は、以下。
 正義論でも、「リベラリズム」論でもよい。
 井上達夫は、いったい何を対象にして、いったい誰に向かって発言しているのか?
 つまり、こういうことだ。
 世界か、欧米(とくに米・英)か、日本か、日本の<論壇>か、日本の<法哲学界>か?
 さらには、こういうことだ。
 教壇・講壇で語るに必要な、またそのために研究してきた多様な<法哲学・法思想>上の知識、精神的・観念的・理論的な素養でもって、例えば日本の憲法や政治を論ずることができるのはいったい何故か?
 井上達夫がかりに日本の憲法や政治を論じているのだとすると、その基軸・分析枠組みは、欧米に関するそれと同じなのか、同じでよいのか?
 上の問いは、逆に言うと、こうなる。
 井上達夫がもつ(とくに法哲学・法思想・政治思想等の)欧米学者の議論で欧米を見ることは、ある程度の妥当性をもっては、きっとできるだろう。むろん、種々の法哲学者、社会・歴史・思想学者等々がいるのは、秋月瑛二でも知っている。
 しかし、それは、「日本」を語る場合、いかほどに有効か。この観点・視点を欠かせたままでは、適切で合理的な日本国家・日本社会に関する発言、あるいは日本に関する「法哲学・法思想」的観点からの発言にはならないものと思われる。
 日本と自分が日本人・日本国民である、ということの自覚・意識化がどの程度に、なされているのだろうか。
 <論じることの(実践的な)意味>を、どう自覚的に意識しているのだろうか。
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 上はほとんどは、仮定の、疑問だ。むろん、一読、一瞥しての疑問だ。逆にいうと、一読、一瞥しただけを基礎にする疑問だ。だから、「仮の」と言っている。
 井上達夫・リベラルのことは嫌いでも-(毎日新聞出版、2015)。
 知的関心?は山ほどある秋月瑛二は、これを2015年には入手して、ほんの少しだけ見た。冒頭の2頁めで、さっそくずっこけた。井上達夫は書く。
 丸山真男、川島武宜、大塚久雄-「彼らは左翼ではない」。p.7。
 もともと「左翼」、「リベラル」等を人々は多様に用いているので、用語法は自由ではある。
 しかし、秋月瑛二からすると、再三に書いているように、<容共>=<左翼>だ。
 上のうち少なくとも丸山真男は、日本共産党に批判されても(なお、この遡っての批判はたしか1990年代初頭で、日本共産党が最も「知識人」の動揺を怖れていた頃だ)、<容共産主義>であって、「左翼」だ。日本の<古層>に関心があっても、「左翼」だ。
 そのつぎの頁に、井上は書く(述べる)。
 「マルクス主義が自壊した後、保守の攻撃衝動がリベラルに集中的に向けられた」。 p.8。
 これは日本に関する認識であり、その叙述のようだが、本当か?
 「マルクス主義が自壊」とはいったい、何のことだ。大まかに、かつかりに言っても、欧米限りの話ではないか。
 日本で「マルクス主義が自壊」したとは、いったい何のことだ?
 「日本会議」と全く同じことを、井上達夫も述べている。
 これは<学者の頭の中で自壊した(はずだ)」という、多少は願望も込めた、認識の叙述であるならば、何とか、理解できる。
 端的にいって、井上達夫にとって、日本共産党とは何なのだ。日本にはマルクス主義者・共産主義者あるいはこれらの組織・団体は「自壊」して消失しているのか。
 この人もまた、「日本会議」と同じ幻想を振りまいているのではないか。
 ついで、「保守の攻撃衝動がリベラルに集中的に向けられた」。p.8。
 これもどうやら日本に関する話のようなのだが、ここでの「保守」とは何だ。「リベラル」とは何だ?
 これらを何となく理解するとして、「冷戦の終了」後に、前者が後者を<集中的に攻撃した>とは、いったいいかなる事実・現象を捉えて言っているのだろうか?
 井上達夫による<捏造>・<空想>ではないか。
 「保守の攻撃衝動がリベラルに集中的に向けられた」-日本で生じたいったいどういう現象のことなのか?。
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 非・反日本共産党で非・反「特定保守」ならば、私の<仲間>でもある。
 その憲法論も、私は「理解」できるつもりでいる。私が何とか「理解」できないような議論をしてもらっては困る。
 しかし、えてして、講壇学者さまたちは、上の両派とは異なる意味でだが、<独自の観念世界・観念体系、思想イメージ・理論イメージ>を作り、それを本当は複雑な思想・思潮・論壇等、そして<現実>に適用するという嗜好・志向をもっている
 理論・論理に興味深い点が多々あっても、<現実>から浮いていてはあまり意味がない。
 といった観点から、さらに井上達夫から「勉強」させていただこう。

1267/丸山真男と現憲法九条・「軍事的国防力を持たない国家」論。

 〇 竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)は丸山真男に対して批判的であり、竹内・革新幻想の戦後史(中央公論社、2011)も同様だ。竹内の上の前者によると、1996年8月に丸山真男が逝去したのち朝日新聞はある一面のすべてを「丸山の業績と人をしのぶ」座談会で埋めたが、産経新聞は元慶応大学・中村勝範の「丸山政治学は思想的に日本人を混乱させた元凶でした。過去の分析も戦後の状況判断も完全に誤っていた」とのコメントも掲載した。
 水谷三公・丸山真男-ある時代の肖像(ちくま新書、2004)を、私は丸山真男(の思想)に対する訣別の書として読んだ。だが、長谷川宏・丸山真男をどう読むか(講談社現代新書、2001)のような、丸山真男を称揚する書物は今日でも新たに刊行され続けている。
 戦後「左翼」のなお強固な残存の源流の一つは、丸山真男にあるだろう。
 〇 ジャパニズム21号(青林堂、2014.10)によって気づかされたのだが、丸山真男は、亡くなる一年前以内の雑誌・世界(岩波)の1995年11月号に、「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60年安保」と題する回顧談的文章を載せている。その中に、つぎの文章がある。丸山真男全集第15巻(岩波、1996)から直接に引用する(p.326)。
 平和問題談話会の法政部会で憲法第九条の問題を論じたときは、民法専攻の磯田〔進〕君のような左派は、『軍備のない国家はない。軍備がないというのはおかしい』と批判しました。正統左派ではない大内〔兵衛〕先生も、『国家である以上は、完全非武装というのはありえない』というのが、このときのお考えでした。そこで僕は、こうなったら国家観念自体を変革する以外にない、今日の言葉でいえば、…『普通の国家』論でいえば、軍備のない国家はないんだけれども、憲法第九条というものが契機の一つになって一つの新しい国家概念、つまり軍事的国防力を持たない国家ができた、ということも考え得るんじゃないかといって、磯田君と議論した。(ジャパニズム上掲p.118と引用の部分・仕方が少しだけ異なる)。
 ジャパニズム上掲号の「左翼アカデミズムを研究する会」という実質的には無署名の書き手は、上の文章から、大内兵衛ですら武装肯定の時代にすでに<非武装中立>を信念としていた、というまとめ方をしているが、私には、丸山真男が現憲法九条を「国家観念自体」の「変革」、「新しい国家概念」提示の契機と理解しようとしていた、ということが興味深い。
 いずれにしても、「丸山という知の権威がつくりあげた憲法九条イデオロギーは、さまざまな形で、今日の左翼アカデミズムに大きな影響を及ぼしている」(同上p.118)のはおそらく間違いない。ここにいう「憲法九条イデオロギー」は、たんに<反戦・平和>の気分に支えられているのではなく、「左翼」が夢想したい「新しい国家概念」の展望によっても基礎づけられているかに見える。
 憲法九条2項改正(・削除)論・論者に対する強固で執拗な、あるいは脊髄反射的な反発は、現実的・具体的な議論によって成り立つているというよりも、まさに「イデオロギー」に依拠するものだろうと考えられる。
 そうだとすると、やはり、それを打ち砕いておくために、憲法九条2項の改正(・削除)は日本にとって絶対になすべき課題だ、と感じられる。
 池田信夫はそのブログ2014.12.25付で「憲法改正は『大改革』ではない」と題して、憲法>「第九条を改正しても、自衛隊の名前を『国防軍』と変える以外の変化はほとんどない。大事なのは一院制にするとか衆議院の優越を明確化するなどの国会改革だが、自民党の改正案は参議院にまったく手をつけない。これでは改正する意味がない」等と書いている。
 後段の指摘には賛同したい部分があるが、九条改正による「変化はほとんどない」、したがってその改正に大きな意味はないというかのごとき主張には、賛同し難い。九条2項を「改正(・削除)」しなくとも、すでに自民党中心の政権による憲法解釈によれば合憲とされている自衛隊によって、かなりのことが可能になっていることは確かであり、改憲反対派・憲法九条2項護持派によるデマ宣伝が言うほどには実態は大きくは変わらず、これまでの変化・実態の蓄積の延長線上にあるものにすぎないかもしれない。その意味では「質的」・「革命的」変化を生じさせるものではないかもしれない。
 しかし、「軍その他の戦力」の保持が明確に禁止されているにもかかわらず自衛隊を合憲視するのは相当に苦しい解釈ではあり、その「おとなのウソ」を解消する必要はやはりある、正規に「軍」と認知することによって日本の安全保障に一層寄与する、という点をかりにさしおいても、丸山真男のいう「軍事的国防力を持たない国家」という「新しい国家」観を、そして「憲法九条イデオロギー」を、きちんと打ち砕いておく課題と必要はある、と考えられる。問題は安全保障に関する現実だけではなく、<精神>・<国家観>にもあるのだ。
 〇 なお、丸山真男の、上の1995年の文章は「平和問題談話会から憲法問題研究会へ」という副題をもっている。
 前者の「平和問題談話会」については戦後<進歩的文化人>生成の重要な場であるという関心からそのメンバーの探索・確定や、安倍能成らの「オールド・リベラリスト」の排除による<純化>の過程の叙述を、たぶん竹内洋等々の文献を手がかりに、この欄でメモしていったことがある。そこでも触れたことがあるような経緯・構成員の一端を当事者の一人だった丸山も語っていて興味深い。また、後者についても、宮沢俊義(憲法学者)、我妻榮(民法学者)が政府系の憲法調査会ではなく、「憲法問題研究会」に入会したことは社会的に、また東京大学法学部内部でも大きな話題になった、等が語られていて興味深い。機会(・余裕)があれば、また言及しよう。

1245/「共産主義への憧れ」を語る者が現存するごとく共産主義思想は死んでいない。

 三〇歳前後の男が、「共産主義への憧れはもっていますね」と明確に言うのをじかに聴いたことがある。少しは酒が入ってはいたが、それはこのつぶやきの真実性又は本音ぶりをむしろ増すものだろう。
 ところで、渡辺利夫・国家覚醒-身捨つるほどの祖国はありや(海竜社、2013)のはしがきの中には「冷戦崩壊後」という言葉があり、この渡辺だったか別の人の著書だったか、「共産主義(マルクス主義)の敗北が明らかになった後も…」という文章をごく最近に読んだことがある。
 中西輝政もまた、月刊正論4月号で「冷戦」について、「世界的にはソ連が消滅する一九九一年まで続いた」と語っている(p.56)。
 ソ連崩壊が重要な出来事であり世界史的画期だったことを否定しないが、東アジアでは「冷戦」は終わらなかった、中国や北朝鮮等の残存が証左である、等のことをこれまでこの欄で強調してもきた。さらに追加すれば、共産主義社会を究極的には志向する日本共産党という「共産主義」政党、中国共産党をかつてとは違って<友党>のごとく扱っている政党の存在こそが、日本内部においてすら<冷戦構造>が残っていることを明らかにしているようにみえる。特定の論者にとっては「共産主義(マルクス主義)の敗北が明らかになった」のかもしれないが、日本社会全体、日本人全体にとっては客観的には決してそうではない、と思える。
 自由主義対共産主義という対立は終わっておらず、<反共>か<容共>かが、現下の、石原慎太郎がしばしば引き合いに出す毛沢東の書物にいう、<最大の矛盾>点であり、最大の対立軸である、と考えている。
 日本共産党は当然だが、朝日新聞や岩波書店あるいは諸「左翼」論者がどちらの立場に客観的には立っているかが最重要な問題として意識されなければならない。
 中国や北朝鮮の現実にはいっさい又はほとんど言及せず、ときに<反米>的言辞を織り交ぜながら、安倍晋三内閣を「戦争準備政権」等々と称して、とにもかくにも安倍内閣がしようとしていることに反対し、あるいはいちゃもんをつけている輩は、客観的には中国(中国共産党)や北朝鮮(同労働党)を利する、<容共>の者たちであることをしかと確認しておかなければならない。
 冒頭に登場させた人物のごとく、ひょっとすれば「左翼的な」高校までの教育を受け、大学でさらにその「左翼」性を(主観的にはまるで自然・当然の<正当な>考え方を持っていると意識するようになるまでに)増した結果として、「共産主義への憧れ」を公然と語る日本人が現に存在することを忘れてはいけない。
 日本共産党へ投票する者の中にはさまざまな人がおり、単純に反自民党又は反「保守」気分だけの者もいるかもしれないが、まじめな?日本共産党員も含めて、「共産主義に憧れている」日本人はまだ!少なからず存在しているのだ。
 中西輝政はどこかで社会主義・共産主義あるいはマルクス主義を正面から主張しずらくなった「冷戦崩壊」以降、日本の「左翼」は<反日>を正面に掲げた、というような趣旨を書いていたが、<反日>の背後で社会主義・共産主義あるいはマルクス主義を決して捨てていないこと、あるいは<容共>・<親共>主義にとどまっていること(これはまた中国・同共産党をまったくかほとんど批判しない、という、あるいは中国・同共産党を刺激するような<ナショナリズム>的言動を日本はすべきではないなどと主張する、朝日新聞的「親中」主義でもあること)を看過してはいけない。
 むろん中西輝政はさすがに、上記の月刊正論4月号の中で、「共産主義と冷戦」の責任を対外的にもむ対内的にも追及しなかった「冷戦崩壊」以降の風潮を鋭く批判している。「ロシア革命以来の共産政権を生み出した国々こそ、『平和に対する罪』『人道に対する罪』が適用されるべき『人類史上の大罪を犯した侵略国家』として裁かれるべき」なのだ(p.57)。
 1990年頃以降、日本の政界・論壇等々はいったい何をしてきたのか。日本共産党の<ソ連は社会主義国家ではなかった>などという奇妙な反論?に納得したわけでもあるまいが、日本共産党や日本内部にいる(ソ連崩壊までソ連等の「社会主義」国に米国よりも親近感・期待感をもって議論してきた)「左翼」マスコミ、「左翼」論者等々の<責任>をいかほどきちんと追及したのか?
 1990年代に反自民細川政権、日本社会党首班の自社さ連立政権を成立させるとは、日本人全体又は多くが<狂って>いたとしか思えない。
 何度も書いたが、米国にもポルトガルを除く欧州諸国にもコミュニスト政党は存在しない(ドイツでは結成自体が法的に禁止されている)。日本は特異であり、異様なのだ。これまた、日本人特有の「お人好し」、外来思想をある程度は取り込むことに長けた日本人の特性に由来するのだろうか。困ったことだ。
 中川八洋はルソーを称揚すればマルクスは何度でもよみがえる、と書いていた。ルソーにまで遡らなくとも、日本共産党を批判しかつ同党から批判されながらも、明らかに「反共」ではなく「容共」論者であった丸山真男を称揚する書物は今日でも新たに発行されている。丸山真男を称揚しておけば、「左翼」=<容共>主義は何度でも蘇り、維持されるだろう。怖ろしいことだ。
 

 

1167/佐伯啓思の議論はどのようなもので、どのように評価されるべきか-一部。

 佐伯啓思・日本の宿命(新潮新書)は2013年1月発行で、2012年12月17日付の筆者「あとがき」がある。そのわりには、前日12月16日の衆議院議員選挙の結果にも言及がある(p.3、p.13、p.37等)。

 それはともかく、昨年末総選挙の結果が判明していたと思われる2012年12月17日付で佐伯啓思はこう書いている。
 <自分の大きな関心は「制度論」や「事実論」ではなく「精神のあり方」や「ものの考え方」にある。>(p.222)。

 このように書いてはいるが、佐伯啓思は「構造改革」を中心とする「制度改革」を含む「改革」路線・「改革」ブ-ムを、佐伯のいう「橋下現象」とともに批判視・問題視してきた。また、産経新聞2/15の記事によると「大阪正論懇話会」では<構造改革では米国的な要素を持ち込んで市場競争を強化させてしまったことで、社会的な安定性に関わる部分が崩れてしまった。この過去を整理して、われわれがめざす経済の姿を考えなければならない。国がやるべき仕事は、公共工事や復興支援など安定性の部分をもう一度、立て直すことだ>等々と語った、というのだから、専門分野に包含されるはずの「経済政策」に関する発言も行ってきている。

 したがって、佐伯が「制度論」や「事実論」に関心がないはずはないのであり、あくまで(さらには上の書物でのそれに限られるかもしれないが)「大きな関心」ではない、ということに留意すべきなのだろう。

 ともあれ、佐伯啓思という学者・評論家が「精神のあり方」や「ものの考え方」に大きな関心を持ち、それによって種々の論述をしている、ということは佐伯の著書や文章を評価・分析するための一つのポイントだろう。
 しかして、佐伯自身の「精神のあり方」や「ものの考え方」とはいかなるものか。種々の現象や議論を、それらに潜む「ものの考え方」のレベルで分析し、あるいは批判的に論じることに、むろん意味がないわけではない。
 ただ、もちろんここで簡単に言ってしまうのは不可能だし乱暴でもあるのだが、佐伯自身の「見方」はさほどわかりやすいものではないし、あえて言えば<斜に構えた>視点から、あるいは通常のまたは大勢的な論調とは異なる、ある意味では「意表をついた」視点から、またはそのような論点を提出することによって論述するのが、佐伯啓思の特徴であると言ってよいだろう。少なくとも私は、そのような「印象」を持っている。
 だが、と再び次元の異なる論点を持ち出せば、「精神のあり方」や「ものの考え方」と「事実」や現実の「制度」はそもそもどういう関係に立つのか、という問題もある。
 つまりは、佐伯啓思のいう、または佐伯自身の、「精神のあり方」や「ものの考え方」が、戦後日本の「現実」の中で、それに影響を受けて形成されてきたものではないか、ということだ。
 「現実」の中には-さしあたり佐伯啓思のそれに限れば-佐伯が受けてきた戦後日本の学校教育も、佐伯がその中にいた学界や論壇の風潮も含まれる。そしてまた、東京大学を卒業し京都大学の現役教授であるという佐伯啓思の経歴や所属もまた、佐伯の種々の書物や文章の内容や「書きぶり」と無関係ではないだう。
 佐伯自身も否定はしないだろうように、佐伯自身の「精神のあり方」や「ものの考え方」は佐伯の内部のみから、外部から自由に生成されたものではない、はずだ。
 そして再びやや唐突に書くのだが、佐伯啓思の、<斜に構えた>視点からの、あるいは通常のまたは大勢的な論調とは異なる、ある意味では「意表をついた」論点提出による論述方法は、決して「大衆」が行いうるものではなく、東京大学卒の京都大学教授だからこそなしえているのではないだろうか。書き方を変えれば、無意識にせよ、自らの「位置」についてのそういう自覚を持っているからこそ、佐伯啓思のような諸仕事を佐伯はできているのではないだろうか。それは、あえて単純化はしているのだが、善し悪しは別として、「高踏的」、あるいは場合によっては「第三者的」・「評論家的」になっている。丸山真男ほどではないとしても。

 佐伯啓思が特定の「党派」的、政治実践的な主張を少なくともあからさまにはしていないのは、上のこととと無関係とは思われない。
 この点は、同じ大学・大学院研究科に所属していた中西輝政とは大いに異なる。これは、中西輝政の最近著・賢国への道(致知出版社、2013.01)の「まえがき」等を一瞥するだけでも瞭然としている。
 そして、今日においてわが日本が必要としているのは、佐伯啓思タイプの評論家・論者ではなく、中西輝政タイプのそれではないか、と感じている。
 あれこれと、あるいは「ああでもない、こうでもない」と分析的に論じること、あるいは細かいもしくは「意表をつくような」もしくは「独自の」・「ユニ-ク」な<解釈>をし、あるいは「見方」を提示することは、かりに意義があるとしても、現実的にいかほどの影響力をもつかは疑問だ。
 同じく新潮45(新潮社)の連載をもとにした佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書)は「予想以上に」売れたらしく、結構なことだが、数万部では、また数十万部ですら、新聞の影響力にはかなわないし、ましてやテレビ報道の論調に抗することは客観的には不可能だろう。
 もちろん佐伯啓思の本に限らないが、巨視的には、川の流れに小さなさざ波を立てるだけの書物がほとんどだろう。それでも好ましいさざ波ならよいのだが、悪質なものも少なくはなさそうだ。
 佐伯啓思の著書はすべて好ましいさざ波であるのかは疑問で、少なくとも一部には、日本と日本人のためにはよろしくない、またはほとんど無意味だ、と少なくとも私は感じる部分があることは否定できない。

 以上、佐伯啓思の文章のごく一部から発展させて。

1128/丸山真男の1950年論考と現在の「左翼」・「保守」。

 丸山真男は「自由主義者への手紙」の中で、興味深くかつ重要なことを書いている。これは月刊・世界(岩波)の1950年9月号に発表された。アメリカ、GHQが日本の敗戦後当初と異なり、反共(反ソ)へと政策転換をした後の時期だ。丸山真男全集第4巻(1995)所収、p.313以下。
 丸山がいう「君」とは誰か判然としないが、一定の思想・評論の潮流なのだろう。その「君」は自分=丸山真男に対して次のような不満・批判を吐露・提出している、とまず丸山は述べる。
 「君や僕のようなリベラルな知識人」は「思想を否定する暴力に対して左右いずれを問わず積極的に闘うことが必要」で、そのためには「ファッショに対してと同様、左の全体主義たる共産主義に対しても画然たる一線をひいて」自分の主体的立場を堅持する必要がある。にもかかわらず、「僕みたいな…マルクス主義者ではなく、性格的にはむしろコチコチの『個人主義者』」が「現代の典型的な全体主義たる共産主義に対してもっと決然と闘わない」のは何故か(p.316)。
 同旨の疑問・批判は、より簡単には、次のようにも書かれている。
 「左右いかなる狂熱主義にも本能的に反発する」はずの僕=丸山が、「共産党に対して不当に寛容であるのはおかしい」(p.333)。
 これに対する丸山真男の回答・釈明・反論はこうだ。
 「日本のような社会の、現在の情況において、共産党が社会党と並んで、民主化…に果す役割を認めるから、これを権力で弾圧し、弱体化する方向こそ実質的に全体主義化の危険を包蔵することを強く指摘したい」(p.333)。
 共産党の日本社会の「民主化」への役割を認め、それに<寛容>であることによって、共産党を「弱体化」することによる「全体主義化の危険」を防止したい、と言うのだ。
 同趣旨のことは、「政治的プラグマティズムの立場に立てばこそ」として、次のようにも語られている。
 ①「下からの集団的暴力の危険性」と②「支配層が偽善的自己欺瞞から似非民主主義による実質的抑圧機構を強化する危険性」、および①「大衆の民主的解放が『過剰になって氾濫する』危険性」と②「それが月足らずで流産する危険性」とをそれぞれ比較して、「前者よりも後者を重しとする判断を下す」(p.333)。
 つまり、上の①よりも②の危険性の方を重視して、②の危険性の方を抑止したい(そのためには日本共産党に対して<寛容>であることが必要だ)というわけだ。
 この論考の発表当時、日本共産党は衆議院に35議席を有するなど勢力を拡張していたが、1950年1月にコミンフォルムによるその「平和革命」論批判(のちに分裂につながる)や同年6月のGHQによる共産党員等の公職追放(レッド・パージ)があった。
 のちの主流派による武力闘争まで丸山真男が支持したかどうかは確認しないが、日本共産党勢力が拡大し、かつ抑圧?を受けつつあったときに、この丸山真男論考は書かれている。
 そういう時代的背景はふまえておく必要があるが、興味深いのは、丸山真男のような<進歩的文化人>のかかる<容共>姿勢というのは、少なくとも日本共産党が「平和」路線(「人民的議会主義」路線)を明確に採って以降の、日本の<左翼>に特徴的な考え方または気分だ、ということだ。
 丸山真男は「民主化」に「しかり西欧的意味での民主化」という注記を施しているが、それはともあれ、丸山は「民主主義」(民主化)対「全体主義」という対立軸を設定している。「共産主義」が「左の全体主義」・「現代の典型的な全体主義」であることを否定していないようであることも目を惹くが、これとは区別されたものとして、日本社会の「全体主義化の危険」・「支配層が偽善的自己欺瞞から似非民主主義による実質的抑圧機構を強化する危険性」を語っている。
 「民主主義」対「全体主義」という軸設定は今日ではそのままではあまりなされてはいないかもしれない。しかし、後者に代わって、「(日本)軍国主義」とか「戦前のような日本」ということが言われ(ときには「偏狭な(排他的な)ナショナリズム」)、戦前のような社会を復活させるな、「民主主義」を守り、拡充させよう、という論調はしばしば見られる。
 それが「左翼」の主張であり、「何となく左翼(サヨク)」の気分だ。
 このような主張・気分は、丸山真男の上の文章に明確に示されているように、共産主義・日本共産党に対する「寛容」さを内包している。 
 共産主義・日本共産党に完全に同調しないとしても、それよりも「軍国主義」勢力・「保守反動」勢力の拡大による<戦前のような日本>の復活・「戦争ができる」国家の復活の危険を重視し、そのためには日本共産党と闘うどころか「共闘」することすら容認するのが「左翼」・「何となく左翼」だ。
 「左翼」の中核に日本共産党はいる。その周辺に、自覚的・意識ではないにしても、幅広く厚い<容共>層がいるのが、日本の「左翼」陣営の特徴だ。
 かつて自民党政権時代に、『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズム』(1990)というおそらく唯一の研究書を刊行した上野千鶴子は、マルクス主義者または親マルクス主義の立場の者だから当然だろうが、日本共産党を含む野党の対自民党統一戦線の結成を主張していた。
 上野千鶴子ほど明確にではないにしても、岩波や朝日新聞系の知識人・論壇人の中には、日本共産党よりも<保守>政党(従来だと自民党)を嫌う、共産党の力を借りてでも自民党政権を倒したいと考えていた者が多かった、と思われる。
 むろん、マスコミ従事者や一般国民においても<民主主義対全体主場(=保守反動)>という何となくのイメージを持っている者が多いから(それはかつての戦争の性格を含む歴史認識・それに関する教育に深く関係するがここでは触れない)、<反自民党>気分は一気に2009年の民主党内閣の成立に結びついた。
 日本共産党を批判したこともあり、そのゆえに日本共産党から攻撃されたこともある丸山真男だが、上のように、日本共産党を「民主主義」の側に位置づけ、<全体主義・軍国主義>傾向にむしろ重要な危険性を感じるという意識・気分(論者によってはイデオロギー)は、今日でもなお強く残存している。
 丸山真男とはまさに戦後進歩的知識人の代表者であり、「戦後左翼の祖」の一人と言ってよいだろう。
 上のような対立軸をかりに設定するとしても、共産主義・日本共産党を「民主主義」の側に位置づける、という馬鹿なことをやめ(させ)なければならない。
 むしろ、共産主義・日本共産党の「反民主性」・「反自由主義性」こそを強く、いや最大の対立軸として、主張し続けなければならない。
 そのような<反共>を最大・最重要の旗印として掲げるのが、私の理解する言葉の意味での<保守>だ
 こういう意味で<保守>概念が使われないとすれば、別に言葉ごときに拘泥はせず、「平等」教・「共産」教に対する<自由>主義と表現してもよい。
 ともかく、<容共か反共か>、これが今日の最大・最重要の対立軸だ、と考えられる。この対立軸の設定は、決して時代遅れ、あるいは決着済みのものでは全くない。
 この点が明瞭ではない論者、評論家、月刊雑誌等の論壇類は、「保守」概念をめぐっても含めて、混乱するか(あるいは混乱を持ち込むか)、少なくとも現在の日本と日本国民にとって適切な方向・指針を示すことができないだろう。
 

1104/「B層」エセ哲学者・適菜収と重用する月刊正論(産経)②。

 〇前回に引用・紹介した丸山真男の文章は、昭和22年(1947年)06月に「東大で行った講演」を母体にしたもので、丸山真男自身の著では、最も古くは、丸山・現代政治の思想と行動/上巻(未来社)の第二論文「日本ファシズムの思想と運動」の一部として、1956年12月に刊行されている(p.25以下、注記はp.190)。
 この講演録の中で、丸山は「まず皆さん方」(東大での聴衆)は「第二の類型」(=「本来のインテリ」)に「入るでしょう」と臆面もなく、言っている(当然に丸山自らもその一員だ)。ここでの「東大」とは、時期からすると、まだ東京帝国大学だったに違いない。
 丸山真男は「インテリ」を「本来の」それと「似非」・「亜」インテリに分けて、後者が「日本ファシズム」の社会的基盤だったするのだが、「日本ファシズム」とともに「インテリ」(インテリゲンチャ)という言葉は昨今ではほとんど使われなくなった。
 適菜収は<A層とB層>あるいは<一流と二・三流>の区別がなくなったことを今日の問題だと捉えているようだ。たしかに、<リーダー>、「ノブレス・オブリージュ」意識のある<エリート>の不存在(または稀少さ)が日本の問題の一つではあろうが、「インテリ」と「一般大衆」の区別の相対化・不明確化は、問題視しても簡単に元に戻るわけがない、客観的な現実だろう。
 同世代の半分もが大学に進学する今日では、少なくとも半分程度は「インテリ」意識を持っているかもしれないし、間違いなく「インテリ」だと自任しているかもしれない者もまた、実際には相当に「大衆」化している。
 そのような時代背景の変化をふまえれば、丸山真男の「似非」・「亜」インテリが「日本ファシズム」の社会的基盤だったとする丸山真男の議論は、「比較的にIQ(知能指数)が低い人たち」=「B層」を問題視し、批判している適菜収の議論と類似性がある。
 適菜収は橋下徹を「ファシスト」とは形容してはいないが、「全体主義」者である旨、民主主義が生む「独裁者」である旨は語っている(月刊正論5月号p.49、p.50)。
 丸山真男については竹内洋水谷三公らによる批判的分析もあり、竹内は丸山「理論」は東京大学の直系の研究者にのみ継承されるだろう、とかどこかで書いていたとか思うが、長谷川宏のように今なお「左翼」知識人・「進歩的文化人」だった丸山真男を称揚する新書を書いている「左翼」もいる(この三人の各文献についてはこの欄で言及している)。
 適菜収はどうやら自らを「保守」派だと、あるいは少なくとも「左翼」ではないと位置づけているようだが、「左翼」・丸山真男の上記のごとき「似非」インテリ論、<相対的にバカな者たち>論の影響を受けているのではなかろうか。丸山真男の議論・「政治思想」論は哲学・思想界にも(少なくともかつては強い)影響力を持っていたのだから。
 〇さて、気は進まないが、行きがかり上、月刊正論5月号の適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」に批判的にコメントする。
 すでに最近、橋下徹関係の(月刊正論上の)4つの論考のうち最も空虚で観念的な言葉が並んでいる、と書いた。
 橋下徹を離れて一般論で言うと、間違いではないだろうことを書いてはいる。
 フランス革命時の「ジャコバン派」と「ナチス」を同類視し、ルソーを「全体主義の理論家」と形容しているのもそれにあたる。ハンナ・アレントの議論に肯定的に言及しているのも、よいだろう。
 ついでながら、ジャコバン派はのちにレーニンも明示的に肯定的に論及しており、ルソー→ジャコバン派(・フランス革命)→マルクス→レーニン(・ロシア革命)という系譜を語ることができるものだ。
 しかし、適菜収がその一般的な議論を橋下徹に適用するとき、あるいは「B層」を巧妙に騙す政治家だと断じるとき、実証性や論理の緻密さなどはまるでない。
 この適菜収によれば、選挙を経て、つまり「民意」によって選ばれた者はすべて「デマゴーグ」であり、「独裁者」であるがごとくだ。そんなことはないだろう。
 「橋下はアナーキストなので、イデオロギーは飾りにすぎません」(p.52)、「橋下は天性のデマゴーグです」(p.52)、橋下は「B層の感情を動かす手法をよく知って」おり、「その底の浅さはB層の『連想の質』を計算した上で演出されています」(p.52-53)といった言葉が並んでいる。だが、悪罵の投げつけだけの印象で、橋下徹批判としての説得力はほとんどない。むしろ、「B層」であれ何であれ、有権者大衆の「感情」を捉えることができるのは、今日の政治家としての優れた資質の一つではないかと、いちゃもんをつけたくもなる。
 適菜収の大言壮語・罵詈雑言はさらに続く。-①「この二〇年にわたる政治の腐敗、あらゆる革命思想、反文明主義、国家解体のイデオロギーを寄せ集めたものが、橋下の大衆運動を支えているのです」(p.55)、②「水道民営化、カジノ誘致、普天間基地の県外移転、資産課税、小中学生の留年、市職員に対する強制アンケート…。これはB層を大衆運動に巻き込むための餌です」(同上)。
 呆れたものだ。こんな文章が並んでいるのが、天下の?産経新聞社発行の論壇?誌・月刊正論の巻頭論文なのだ。
 今気づいたが、適菜収は「大衆運動」という語を使っている。この語は、丸山真男が使っていた「ファシズム運動」に似ている。
 この点はともかく、①のようによくぞ大胆に言えたものだ。橋下徹は、それほどでもないよと、却って恐縮するのではないか? ②について言うと、すでに実現しそうなものもある、橋下徹・維新の会の政策・主張はすべて「餌」か? 橋下徹が主張している<敬老パス>(市営交通の老人無料)の見直しもまた「B層」に対する「餌」なのか?
 論文というよりも場末の?喫茶店での雑談レベルで語られるような指摘を、適菜収は行ってもいる。-橋下徹は首相公選を主張しているが、それは「テレビタレントの橋下を首相にするための制度」だ(p.50-51)。これには笑ってしまった。橋下徹はそのようなことを考えている可能性が全くないではないとは思うが、適菜収はこのように何故、断定できるのだろう。
 また、<アホ丸出し>では藤井聡に<優るとも劣らない>次のような叙述もある。
 「地方分権や道州制は一番わかりやすい国家解体の原理です」(p.51)。
 藤井聡の勉強不足・知識不足を指摘する中ですでに書いたことだが、「地方分権・道州制」=「国家解体」とは、アホ(・バカ)が書く命題だ。
 この議論でいくと、国家内に「邦」・「州」を設けている国(アメリカ、ドイツなど)は解体していないといけないのではないか。連邦制は道州制以上に「分権的」だ。
 また、書かなかったが、戦前の日本においてすら、「地方自治」・「地方分権」制度がなかったわけではない。幕藩体制という相当に分権的な国家から明治日本は中央集権的な国家に変わったのだったが、それでも旧憲法のもとでの「市制」・「町村制」といった法律によって、市町村の「自治」がある程度は認められていた。市町村長は(有権者は限定されていたが)選挙で選ばれ、(現行憲法・法令と同様に)法令の範囲内での「自由な」行政・活動もある程度は認められていた。現在の(現憲法上の)「地方自治」も「法律の範囲内」のものであることに変わりはない。「地方分権」の要素は戦前は法律レベルで、現在は憲法レベルで認められているもので、「原理」的に「国家解体」につながるわけではない。
 橋下徹自身も書いていたと思うが、問題は「分権」の程度・内容、国と地方の「役割・機能」の分担のあり方にある。
 法学部・政経学部の学生のレポートでも書かれていないだろうようなことを、適菜収は、恥ずかしげもなく書いている。そんな部分を含む論考を、月刊正論が巻頭論文とし、大々的に宣伝し、編集部員は「とってもいい論文です」とブログ上で明記する。適菜収も自らを恥ずかしいと感じるべきだと思うが、桑原聡や川瀬弘至もまた、赤面すべきなのではないか。
 楽しくもない作業なので、この程度にしておく。
 まことにイヤな時代だ。川瀬弘至が「真正保守」を自ら名乗り、ひょっとすれば月刊正論や産経新聞全体が自分たちは「真正保守」の雑誌・新聞と考えているのだとすれば、日本の「保守」の将来は惨憺たるものだろう。

1103/「B層」エセ哲学者・適菜収と重用する月刊正論(産経)。

 〇月刊正論5月号の巻頭、適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」は「保守ではない」と言っているだけで橋下徹を全面的に消極的に評価しているわけではないとの印象を持つ人や、そのように釈明する者もいるかもしれない。しかし、この論考は「橋下徹大阪市長は文明社会の敵です。そして橋下流の政治…の根底には国家解体のイデオロギーがある」という文章から始まっているいるように、全面的な、人格面も含む、橋下徹攻撃・非難の論考に他ならない。したがって、問題はたんに「保守」の意味・内容にとどまるものではない。
 月刊正論編集長・桑原聡が明言している、橋下徹は「きわめて危険な政治家」、「橋下氏の目的は日本そのものの解体することにあるように感じられる」、というのと全く似たようなことを、より長く書いているのが適菜収だ。
 編集部員の川瀬弘至もまた、イザ!内のブログで、適菜論考を「とってもいい論文」と評価し、川瀬が「保守」性を疑っている石破茂に読むことを勧めている(4/04エントリー)。
 ちなみに、川瀬弘至は自ら「保守主義者」と称し、さらに「小生、今後は『真正保守』を名乗らせていただきます」とまで明言している。
 そのような「真正保守」の方にはご教示を乞いたいこともあるので、別の回に質問させていただくことにしよう。
 〇さて、適菜収は月刊正論5月号で「B層」という概念を使い、橋下徹を「理念なきB層政治家」(タイトル副題)と称したりして「B層」を何度か用いているが、その意味をきちんと説明しているわけではない。
 ほぼ同じ時期に公表された、雑誌・撃論+(オークラ出版、2012.05)上の適菜収「B層政治家の見抜き方」(p.142~)の方が「B層」なるものについては詳しいだろう。
 これによると、「B層」とは「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」を意味する(p.142)。より簡単には「知能指数の低い者たち」、だ。
 こんな言葉がキーワードとして用いられる論文(?)に、まともなものはない、と思われる。また、自らは「B層」には含まれないことを当然の前提にしているようだが、「知能指数の高い」者ならば、そのこと自体をまずは疑ってみる方がよいように思われる。
 ところで、適菜の「B層」論という<じつに差別的な>議論を気持ち悪く感じながら読んで思いだしたのは、丸山真男の<ファシズムの担い手>論だった。
 この欄でかつて紹介したことがあるが、丸山真男は「日本ファシズム」も「中間層が社会的担い手」だったとし、以下の「層」が(日本ファシズムの)「社会的基盤」だったと断じた。丸山真男はこれを「疑似」又は「亜」インテリと称する。
 「たとえば、小工業者、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校職員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官
 これに対して、丸山真男によると、以下の「本来のインテリ」は、「ファシズムの社会的基盤」でなかったとする(つまり<免責>する)。
 「都市におけるサラリーマン、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層」。
 ここで丸山真男が「学生層」として念頭に置いているのは、彼が「皆さんのような」と呼んだこともある、東京帝国大学の学生(その他、広げても旧制大学の後身大学の大学生)だ。
 丸山真男と適菜収が同一のことを言っているのではなく、適菜の方がはるかに粗くて単純なのだが、丸山真男の上の区別も、何やら<知能指数の程度>による<職業差別>意識を背景にしているように見える。
 丸山真男のこの部分を読んで、アホらしい、まともな学問の結果ではないと思ったものだが、適菜収が書いていることについても、そのまま、あるいはそれ以上にあてはまる。
 適菜は要するに、<バカ>が多いから<バカ政治家>が生まれ、勝利する(=民主主義)、バカは政治家等の甘言にダマされやすい、したがってうまくバカを騙せる政治家等が勝利し、バカの「民意」を背景にして「独裁者」も生まれる、というようなことを、ときどきは外国人や歴史に言及したりしながら、言っているだけのことなのだ。
 じつは、行きがかり上、仕方なくこれを書いているようなところがあって、適菜の文章をまともに取り上げようとすることすら、本当はアホらしい時間潰しだと感じている。
 「大衆民主主義」時代における「大衆」を、私もまた基本的なところでは信頼してはいない。この点では、大衆=有権者は結局のところは適切な判断をするものだ、とかときどき書いている産経新聞の論説委員・コラムニスト等とは少し異なる。
 しかし、騙されやすい「大衆」を「『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」と定義して、思考し叙述する気はまったくない。
 騙しているマスメディア(や政治家)の責任の方がはるかに大きい。また、結果的には読者を騙そうとしている、月刊雑誌等の「論壇」の執筆者=評論家・大学教授たち(・「哲学者」?)の責任も大きいだろう。
 適菜収は、「かつて『B層を騙す側』にいたB層政治家がB層そのものになりつつある」と書いているが(撃論+p.143)、「かつて『B層を騙す側』にいたB層哲学者がB層そのものになりつつある」のではなかろうか。
 適菜収というまだ三〇歳代の自称「哲学者」は、大学・研究機関に所属しているわけでもなく、また、学術研究者(・哲学者)または「評論家」としてのまともな業績は全くかほとんどないようだ。
 こんな人物の「トンデモ」論考を巻頭に持って来て大々的に広告を打つ編集長がおり、また「とってもいい論文」だと評価する編集部員もいる月刊正論という雑誌は、まともな雑誌なのだろうか。
 このような疑問は、当然に産経新聞(社)自体にも向けられうる。

 産経新聞本紙はともあれ、月刊正論には常連の「保守派」の執筆者もいるとは思うが、こんな編集長・編集部員の依頼を受け、唯々諾々と従って文章を提供して金銭をもらって、編集長・編集部員の<考え方>・<質>については何の関心もないのだろうか?? 

1063/日本共産党は「猫なで声と微笑とともに」やってくる-大阪市長選。

 〇産経新聞11/14(大阪版)夕刊は「大阪再生『協調』か『強さ』か」を一面トップの見出しにしている(なお、産経ニュースによると他の対立軸設定の表現も使っている)。これは以下の毎日新聞よりはましだ。
 毎日新聞11/14(大阪版)朝刊一面トップ横書き大見出し-「『反独裁』VS『都構想』」。
 「都構想」は容易には理解できない内容等をもち、大阪府知事候補倉田某(民主・自民支持)が<争点にならない(争点にしない)>旨を発言しているらしいのはむしろ誠実な反応だ。維新の会は2015年までにと主張しているようだが、最短でもその程度は要し、かつ実現可能性が高いとはまだ言えない。大都市制度のあり方に大きな問題提起をしている、という程度に理解するのが妥当で、そのような問題を提起していること自体に意義がある、といったところだろう。
 そのような「都構想」に比べて、「反独裁」は分かり易い。
 このような争点設定では、読者は「反独裁」へと容易に傾斜するだろう。
 毎日新聞は「じっくり風穴VSスピード改革スピード維新」、「橋下流か/じっくり改革、平松流か」というように対立軸を表現していることもあるが、11/15朝刊(大阪版)の見出しは以下。
 「『独裁』是か非か
 「独裁」を支持するか否かと問えば、大多数の人々は支持しない、と回答するのではないか。その意味で、11/14の見出しとともに、<世論誘導的>だ。
 だが、前回記したように、「独裁(的)」 =「強いリーダーシップ」のような意味で橋下徹自身は使用しているので、毎日新聞の見出しのつけ方は、誤った争点設定で、そして誤った世論誘導である可能性が十分にある。
 〇最初の産経新聞に戻ると(11/14夕刊)、橋下徹陣営と平松某陣営の各動向に関する記事で、橋下側の記事の中には「時折、橋下氏への反発の声を上げる人の姿も見られた」との文章がある。
 一方、平松某側の記事の中には、そのような批判的な「声」があった旨の文章はない。平松某らの動きに密着していて本当にそのような「声」を聴かなかったのかもしれないが、しかし、一般論として、市民からの平松某批判が皆無だとはとても思えない。
 産経新聞(大阪)の報道ぶりは、やはり少しは奇妙(=公正ではない)なのではないか。<反橋下>で一貫させたいならば、むしろそれを明瞭にしたらどうか。産経新聞にのみあてはまることではないが、巧妙な誘導ほど、有権者をバカにした、気持ちの悪いものはない
 〇その平松陣営の動向に関する記事は、日本共産党の大阪府知事候補梅田某の、次の発言を紹介している。
 ・橋下徹を「ファシスト」、「ペテン師」などと批判。
 ・「ファシズムは猫なで声でやってくる。…」と批判。
 日本共産党が橋下側を、「ファシズム」、「ファシスト」と論難しているというわけだが、日本共産党にそのようなことを語る資格はあるのだろうか。

 産経新聞はむろん、そんな問題に立ち入っていない。「ファシズム」(「ハシズム」)という批判に対する、橋下徹側の平松某らに対する「大政翼賛会(的)」という反?批判も同時に紹介していればまだ公平ともいえるのだが、後者の言葉はどこにも出てきていない。
 産経新聞はさておくとして、そもそも「ファシズム」とは何なのか。日本共産党(や産経新聞記者)はどのように理解して用いているのだろうか。
 丸山真男らは好んで「日本ファシズム」という語を使い、日本でも「ファシズム」が成立していたことを前提とする論述をしていたようだが、「日本ファシズム」は必ずしも定着した概念になっていない。むしろ、「日本軍国主義」とか「天皇制絶対主義」などが、戦前(の少なくとも一時期)を表現する言葉として用いられてきたように思われる。

 独裁=ヒトラー=ナチス=ドイツ・ファシズムというイメージ連関のもとで、<悪い>イメージの「独裁」と「ファシズム」を結合させているのかもしれない(この場合でも両者は同じではないはずだ)。
 かりに上のような連関が成り立つとしても、しかし、例えば私は、「独裁」といえばフランス革命期の<ジャコバン(・ロベスピエール)独裁>、ロシア革命期のレーニンや<スターリン独裁>、中国の<共産党一党独裁>、北朝鮮の<労働党一党独裁(または金日成・正一独裁)>を(も)連想する。
 「独裁」というのは、「プロレタリア独裁」(-・ディクタトゥーア、労働者の「執権」)を通じて社会主義・共産主義を、という、まさに共産党(・コミュニスト)こそが将来に構想しているものではないか。
 「ファシズム」という概念も曖昧だが、「全体主義」という語もある。そして、「全体主義」は前者を含みつつも、<左翼>のそれ、つまり<左翼全体主義>をも含むとして使われることが少なくないと見られる。
 しかして、コミュニストが究極的に目指すのは<左翼全体主義>に他ならないだろう。ファシズムに近似の体制の樹立を将来的には狙っているのが、コミュニスト=日本共産党だ、と理解しておくべきだ。
 そのような日本共産党の党員が(しかも弁護士資格のあるらしき男が)「ファシズムは猫なで声でやってくる」と批判するとは恐れ入る。
 コミュニスト、日本共産党は「猫なで声と微笑とともに近づいてくる」、とでも言っておこう。

1029/水間政憲・中・高生にもわかる東大教授のバカ言論(2005)と大江健三郎。

 一 水間政憲・世界の金言・日本人の妄言/中・高生にもわかる東大教授のバカ言論(日新報道、2005)によると、まず、「占領下に大量発生した進歩的文化人の第一号」は、宮田繁雄(画家、1945.10.14朝日新聞紙上で藤田嗣治(のちにフランスに帰化)を批判、p.33・p.39)。
 つぎに、「日本弱体化計画を推進した東大三教授」は、横田喜三郎、大内兵衛、丸山真男(p.41~)。
 法学・経済学・政治学のそれぞれ代表者が一人ずつだ。丸山真男は今日の政治学界にもなお影響力をもっているようだ。いつか、元日本共産党員・名古屋大学名誉教授(法学部、のち立命館大学政策学部教授)の田口富久治の本に言及する。
 第三に、「日本弱体化計画に貢献した言論人」として、以下が挙げられる。
 向坂逸郎、大塚久雄、久野収、竹内好、加藤周一、鶴見俊輔、坂本義和、安江良介(岩波「世界」編集長)、浅田彰
 存命の者もいる、「左翼」の代表者たち。浅田彰は読んだことがない、「ニュー・アカ」とやら。
 第四に、「進歩的文化人」を「代表する小説家」として、以下の二名のみがが挙げられる。その「代表」性は著しいようだ。
 大江健三郎、井上ひさし
 二 水間の上の本は、孫引きしても直接の引用にもなるように、出典等を明確にして、「」つきで叙述・発言を紹介してくれている。以下の、大江健三郎の言葉はよく言及されるが、出典等がついた直接引用なので、役立ちそうだ。
 ・大江健三郎・毎日新聞1958.06.25夕刊「女優と防衛大生」
 「ぼくは、防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の一つの弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」。
 ・大江健三郎・週刊朝日1959.01.04号~02.22号
 「皇太子よ、考えていただきたい。若い日本人はつねに微笑しているわけではない。若い日本人は、すべてのものがあなたを支持しているわけではない。そして天皇制という、いくぶんなりとも抽象化された問題についてみれば、多くの日本人がそれに反対の意見をもっているのである」。
 ・大江健三郎・群像1961.03号「わがテレビ体験」〔…は原文ママ〕
 「結婚式をあげて深夜に戻ってきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチを入れる、画像があらわれる。そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまり涙を流していた。それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る……。このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめのないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった」。
 ・大江健三郎・厳粛な綱渡り(文藝春秋、1965)「二十歳の日本人」〔…は原文ママ〕
 「北朝鮮に帰国した青年が金日成首相と握手している写真があった。……それにしてもあの写真は感動的であり、ぼくはそこに希望にみちて自分および自分の民族の未来にかかわった生きかたを始めようとしている青年をはっきり見た」。
 ・大江健三郎・産経新聞1995.04.30「ワシントンでの講演録」〔…は原文ママ〕
 「日本のいまの自衛隊は軍隊であり、憲法に違反しているから、全廃しなければならない。私たち日本人は憲法順守という方向へ向けての新たな国づくりをしま始めなければならず、その過程で自衛隊を完全になくさねばならない……。日本の保守派にはこの憲法が米国から押しつけられたものだから改正する必要があるという意見があるが、米国の民主主義を愛する人たちが作った憲法なのだからあくまで擁護すべきだ」。
 かつて小林よしのりが大江健三郎をこう評したことがあった-「もはや日本人ではないところの何ものかになっている…」。
 

0904/「共産党ではないが左翼」の社会・人文系学者たちの多さ-月刊正論11月号・竹内洋を読む。

 月刊正論(産経新聞社)連載の竹内洋「革新幻想の戦後史」は月刊諸君!(文藝春秋)から「続」となって月刊正論に移ってしばらくはもたもたしている感もあったが、先月号あたりから再び(私には)面白くなった。
 1.月刊正論11月号の竹内洋・同上は丸山真男批判(の一部。竹内には丸山真男に関する新書一冊がすでにある)。その基本的趣旨自体も興味深く、1970年代以降の丸山真男の「衰え」を再確認させる。
 丸山真男については著書・全集の一部をじかに読んだことがあり、この欄でも言及した。
 このブログサイトでの「丸山真男」を検索してみると、なんと最初から13個までが「秋月瑛二」によるこの欄がヒットした!。もう忘れたが、丸山真男を主題としたものを20回は書いただろう。

 そして、丸山真男を積極的・好意的に評価する本が今日でも新たになお出ていることも思い出して、あらゆる戦線(?)での<左翼の執拗さ>をあらためて感じる。
 2.さて、p.282-3のデータ(資料)はきわめて興味深いもので、私の推測ともほとんど合致している。
 p.282の表は、ごく大まかに一言でいうと、1973年時点の支持政党調査では、「日本人平均」では自民党が一位で二位・社会党の1.5倍ほどの支持率があるのに対して、「大学教師」の支持政党の一位は社会党、二位は民社党、三位は自民党で(「特になし」を除く)、社会党支持が自民党支持の二倍以上ある、ということだ。
 竹内の関心に即して言うと、「大学」の世界では、(1980年代前半の丸山真男による叙述とは異なり)「進歩的文化人」は「多数派」だった、ということが明瞭に判る。

 これは1973年の数字だが、現在でも、「大学」教員の世界では(「進歩的文化人」という語は今日的用語としてはあまり使われなくなっていると見られるが)、「左翼」または「何となく左翼」が(とくに社会・人文系では)<圧倒的多数派>を形成しているのではないか。
 p.283の表が示す数字の方がさらに興味深い。
 1983年時点での「保守・中間・革新」意識の調査結果によると(出典の再引用は上ととともに省略)、「中間」を割愛して「保守」対「革新」の数字だけ示せば、「一般国民」が34対24、「財界」が74対10、「官僚」が56対23であるのに対して、「マスコミ」(人)は34対46、「学者・文化人」は31対51、ついでに「市民運動」(家)は14対81、「学生」は42対46だった、という。
 27年前の数字だが、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」における「革新」または<左翼>性向が明瞭に数字化されている。
 そしてまた、今日でも、その傾向は変わらないものと思われる。

 70年代(とくに前半または初頭までの)「革新」ムードは全体としては80年代には消滅または弱体化していたはずだが、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」においては異なることが上の資料からは明らかだ。そしてまた、ソ連が解体し北朝鮮や中国の実態がより明らかになってきている現在でもまた、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」の<政治意識>=<左翼・なんとなく左翼>性は(驚くべきことに、また執拗にも)大して変化していないのではなかろうか。
 ここでの「左翼」とは、いつかも書いたように、<容共>志向、換言すると、<反共>の立場に立たない(立てない)政治的意識・主張・見解のことを意味させている。
 3.そういう「左翼」的雰囲気の「学者・文化人」や「マスコミ」(人)の世界において、日本共産党支持またはコミュニズム支持を少なくとも明確に示しはせず、むしろそれとは距離を置きつつも、「保守(・反動)」、ましてや「右翼」と評されないことが最も<安全で・安心な>態度=処世術なのだろう。
 p.283に引用されている、2009年の某雑誌での伊藤隆(東京大学名誉教授)の次の言葉は、十分に納得がいく。
 竹内洋が使った「共産党員ではないけど、いつも共産党員に気兼ねをしている学者」という表現につなげて、伊藤隆は言う。
 「気兼ね学者は大学の人事を握っていて、リベラルということで良心が満たされる気分になると同時に利益もある…。(一文略-秋月) 学者にとって一番理想なのは、東大教授で、共産党ではないが左翼である。そして、ジャーナリズムにどんどん登場するということでしょう」。

 日本共産党を支持はしないが決して「保守(・反動)」、ましてや「右翼」と呼ばれたくはない、という気分の多数の(とくに社会・人文系)「学者・文化人」さまには、上のような言葉も傾聴していただきたいものだ。
 また、「共産党ではないが左翼」で、「ジャーナリズムにどんどん登場」して(世間的)知名度も獲得したいという「東大教授」は、現に多数存在するのではないか(それを現実化している「東大教授」の名を具体的に何人かは挙げることができる)。
 くり返せば、「共産党ではないが左翼」で、学界内部でも、共産党そのものに<染まっている>わけではないが決して<反共>の立場に立たない(少なくともそれを明言しない=日本共産党に「気兼ね」する)大学教員たち、そして東京大学教授たちは、世間一般の相場に比べれば著しく多い、と想定される。現在の日本の<異常さ>はこんなところにもある。あるいは、こんなところにも起因している。 

0805/日本共産党・宮本賢治による丸山真男批判(1994.01.01、1994.03.27)。

 資料・史料-日本共産党・宮本賢治による丸山真男批判(1994.01.01、1994.03.27)

 1、宮本賢治への『赤旗』新春インタビューでの丸山眞男批判部分…『赤旗』1994年1月1日号、『日曜版』1月16日号
 //学問の世界での日本共産党の働き―「丸山理論」への本格的批判

 それとの関係で、私たちは理論的にどう前進したか、思想や理論の問題ではどうかということも考えてみる必要があります。昨年は、学問の世界でも、日本共産党が、有数の働きをした一年だったと思うんです。
 まずいえるのは、丸山眞男の日本共産党にも戦争責任があるという、近代政治学の立場からの日本共産党否定論にたいする批判、反論です。丸山氏の議論は、たまたま、日本共産党が「50年問題」で混乱している時期に世間を風靡(ふうび)した学説です。これにたいして、日本のインテリゲンチアのなかで若干のしっかりした人は学問的にも「丸山理論」を承服しないで、正論の立場から奮闘し彼を批判したことは十分記憶されなければならないと思います。しかし、当の日本共産党が、ああいう状況だったために、十分に反論しきれなかった。
 私も、1957年の鶴見俊輔氏らとの対談で「共産党の戦争責任」なる主張を正面から批判していますが(『中央公論』対談「日本共産党は何を考えているか」、『宮本顕治対談集』〔新日本出版社、1972年〕所収)、党としてそれにきっちり反論するというような状況にはなかったわけです。その後、党として丸山氏の議論が歴史の階級闘争の弁証法を理解しない誤ったものという批判はおこなってきました。志位和夫同志の「退廃と遊戯の『哲学』」(1986年)でもそれに言及しています。
 そういうなかで、昨年、初めて丸山眞男氏にたいする全面的、本格的な批判が「赤旗」評論特集版(1993年5月31日号)で展開されました。さらに、『前衛』(1993年12月号、「丸山眞男氏の『戦争責任』論の論理とその陥穽」)で批判しました。若い人が一生懸命論文を書いて、しかもただ丸山氏の「共産党戦犯」論の批判だけでなく、彼の学説の背景、彼に影響をあたえたドイツの学者の学説はどういうものかを調べて、丸山氏はドイツでさえいえなかったようなゆがめた共産党批判を行っているということまでをちゃんと書いています。堂々たるものです。
 「赤旗」評論特集版の長久理嗣論文―「社会進歩への不同意と不確信、『葦牙』誌上での久野収氏の議論について」も、集団的労作ですが、「共産党の戦争責任」をうんぬんした丸山眞男氏の議論をはじめて本格的に批判したものです。丸山氏の議論というのは、要するに、日本共産党は侵略戦争をふせぐだけの大きな政治勢力にならなかったのだから負けたのだ、したがって、侵略戦争をふせげなかった責任がある、“負けた軍隊”がなにをいうか、情勢認識その他まちがっていたから負けたんだと、そういう立場なんです。これにたいして長久論文は、世界の歴史の決着はこの問題でどうついたかをはっきりさせました。
 日本共産党の存在意義そのものにかかわることですが、戦後の憲法論争や世界史の結論からみれば、日本共産党の立場こそ先駆的だったのです。けっして日本共産党は負けたのではありません。歴史をつうじて、第二次世界大戦の結末をつうじてあきらかになったことは、日本共産党が先駆的な展望をしめしていたということです。しかも実際の勝ち負けという点から見ても、日本共産党はいわば大きく日本国民を救ったといえる、日本歴史の新しい主権在民の方向と展望を示す、そういう基礎をつくったんだということを書いたのです。
 これは当然の結論ですが、これが丸山氏の議論のいちばんの盲点になっていました。日本共産党は非転向といっても、みんな捕まり、軍旗とともに投獄された、結局、負けたじゃないか、というような誤った議論を論破する仕事を若い人をふくめて集団的におこなってきたのは、戦前史における日本共産党の役割をめぐる日本の学問のゆがみを正すことに貢献したといえます。//

 2、宮本賢治の第11回中央委員会総会冒頭発言での丸山批判部分『赤旗』1994年3月27日号

 //新しい理論的探究――丸山眞男の天皇制史観への反撃
 わが党はいろいろな新しい理論的な探究もいたしましたが、その一つが、丸山眞男の天皇制史観の問題です。この丸山眞男・元東大教授の天皇制史観はなかなかこったもので、それを近代政治学として裏づけているものであります。つまり、天皇制は無責任の体系である、責任がとれない体系であるというものです。それだけならともかく、その天皇制に正面から反対した日本共産党にも、実は天皇制の「無責任さ」が転移しているのだというのが、丸山の天皇制史観の特徴であります。
 これは、1950年代に展開されたもので、党中央が解体状態で統一した力をもたなくて、こういう党攻撃にたいしても十分な反撃ができなかった、いわば日本共産党が戦闘能力を失うという状況のなかで、丸山のような見解が学界を風靡(ふうび)したわけであります。何十年かたちまして、日本の現代論についてみると、党から脱落したりあるいは変節したような連中が、丸山眞男の天皇制論をもってきて、いまだに自分たちの合理化をやっているということがわかりました。革命運動のなかに天皇制的精神構造があるというようなことをいいまして、いろいろな攻撃をくわえてきたわけであります。
 丸山眞男の一番大きな誤りは、歴史を大局的に見ることができないということです。戦時中に日本共産党がかかげていた「天皇制反対」とか「侵略戦争反対」反共攻撃、ただ日本共産党が大衆をどう動員したかということではなくて、ひろく世界の戦争とファシズム反対という、世界の民主主義の潮流と合致していたのです。戦後の日本も世界もその方向に動かざるをえなかった。そこに日本共産党の先駆性があるわけです。
 それを彼は、日本共産党の幹部たちも雄々しくたたかったけれども、結局は、「敗軍の将」であって、「政治的責任」を果たさなかったと攻撃している。「死んでもラッパを離しませんでした」という木口小平の話のような結果ではないかという嘲笑(ちょうしょう)をした。そういう丸山の理論にたいして、50年代当時は十分な反論ができませんでしたが、いまはちがっております。
 何十年かたっておりますが、やはり非常に大事な問題です。しかも学界ではその後、丸山眞男をこえるような天皇制論をだれもやっておりませんから、これが一番の権威になっているのです。したがって、さきほどあげた丸山眞男の一番の盲点を中心とした反撃が大事です。『前衛』では昨年の十二月号に若い党の研究者がしっかりした論文を書きましたが、五月号には丸山の天皇制史観に焦点をあてて学問的にも充実した別の若手研究者の論文が発表されようとしております。//

 (*出所-宮地健一のウェブサイト内)

0737/自由社・日本人の歴史教科書(2009)を一瞥-「市民革命」・「全体主義」。

 藤岡信勝編集代表・日本人の歴史教科書(自由社、2009.05)に収録されている最新版<新しい歴史教科書>(中学校用)の近現代部分を概読して、とりあえず印象に残ったことが二つあった。
 一つは、「市民革命」に関する叙述が、従来のもの、つまり私が学習した頃と何ら異ならないようであることだ。
 上の教科書では、17世紀後半から約100年間に欧州政治に新しい動きが起こったとし、イギリス、アメリカ、フランスについて述べたあとこう書く。「これら国々の政治の動きは、王や貴族の政治独占を認めず、人々が平等な市民(国民)として活動する社会をめざし、近代国家を生み出したので、市民革命とよばれている」(p.130、太字はママ。執筆者不明)。
 ここには「フランス革命」は「革命」ではなく支配層の中での権力の移動だった等々の<修正主義>の影響はない。のちのロシア革命(暴力革命)と共産党独裁につながるような「フランス革命」の一時期の<怖さ>、「フランス革命」の<影>の部分への言及又は示唆もない(のちのロシア革命についてはある)。
 アメリカの独立と合邦との間の理念の違いへの言及もなく、アメリカ「革命」とフランス「革命」が異なる性質のものだったとの言及・示唆もない。
 「市民革命」の「市民」の意味の詳しい説明はない。また、上の三国にのみ「市民革命」は起こったのか(そうだとすれば何故か)、他の国々も「市民革命」はあったのか=普遍的なのか(そうだとすれば、例えばドイツ・イタリア・日本はいつが「市民革命」だったのか)、といった疑問に答えてくれるところはなさそうだ。
 中学生用の簡潔な叙述なので、やむをえない、と言えるのだろうか。少なくとも、イギリス、アメリカ、フランスを例として「市民革命」を語るのは、何ら「新しい」ものではなく、かつ従来のマルクス主義的歴史学による理解・叙述と何ら矛盾していない。
 もう一つは、欧州で生まれた二つの政治思想が1920~30年代に台頭して世界に広まったとし、その二つとして①「共産主義」と②「ファシズム」を挙げて、「どちらも全体主義の一種」だと明記していることだ。その部分の項の見出しは「二つの全体主義」で、左欄には「20世紀の歴史を動かした共産主義とファシズムにはどのような特徴と共通点があったのだろうか」という文章もある(p.192)。
 このように①「共産主義」と②「ファシズム」が同種のものとして明記されていることに、よい意味で驚いた。かかる理解は、必ずしも日本人の「通念」になっているとは思えないからだ。
 かつて民社党は左翼全体主義(=共産主義)・右翼全体主義(=ファシズム)という言い方をしていたと思われる。だが、日本の戦後「思想」界・「歴史学」界等々で、かかる理解は少数派ではなかったかと思われる。
 外国では、ハイエクやハンナ・アレントなど、「共産主義」と「ファシズム(とくにナチズム)」を同列のものと扱う傾向が日本におけるよりも強かっただろう。
 日本では、例えば丸山真男は(あるいは「戦後民主主義」者のほとんど全てが)「民主主義」と「ファシズム(・日本軍国主義)」を対置させたが、その際、「民主主義」の中に、「人民民主主義」という言葉が今でも残るように、「民主主義」の徹底した形態又は発展形態としての「社会主義(・共産主義)」を含めていたように解される。
 そのような日本の戦後<進歩的文化人>にとって、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」が「どちらも全体主義の一種」などという理解は耐えられるものではなく、「全体主義」という語を使うとしても、「ファシズム(・日本軍国主義)」のみを意味させたものと思われる。
 そして、彼らにとっては、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」は両極にあって対立しているものであった。後者の<復活の阻止>こそが最大目標だった(そして「民主主義」の擁護・徹底による日本の「社会主義(・共産主義)」化こそが<隠された>目標だった)のだ。
 丸山真男に対して、「社会主義(・共産主義)」と「ファシズム(・日本軍国主義)」のどちらを選ぶかという<究極の>選択を要求すれば、丸山真男は間違いなく後者ではなく前者を選んだと思われる。丸山には、「社会主義(・共産主義)」も「ファシズム(・日本軍国主義)」も<同じ全体主義>などという考えは、露も浮かばなかったのではないか。
 「民主主義」対「ファシズム(・日本軍国主義)」というあの戦争の把握の仕方はアメリカ・GHQのものであり、丸山真男および戦後<進歩的文化人>は占領期当初のアメリカ・GHQの「歴史認識」あるいは<パラダイム>に少なくとも客観的には<迎合>していたと考えられるが、この点は別の回でもあらためて触れる。
 ともあれ、「二つの全体主義」とかつて学習した記憶はなく、「新し」さを感じさせた。これで教科書検定を合格するのだから、決して悪い方向にばかり動いてはいない、という感もする。
 ところで、上掲書には教科書部分のほか、寛仁親王殿下のほかに、櫻井よしこ・加瀬英明・高山正之・黄文雄・西尾幹二・中西輝政・石平等々の15名の2頁ずつの文章を収載している。
 <新しい教科書をつくる会>分裂騒ぎに関する知識も大きな関心もないが、「自由社」版の他に産経新聞社グループの「扶桑社」の子会社「育鵬社」版の、殆んどか全くか同じの教科書も刊行されているらしい。
 上の15名の名前を見ていると、八木秀次、渡部昇一、岡崎久彦あたりの名前がないことに気づく。西尾幹二と八木秀次の間に確執があるのは知っているので、どうやら八木秀次らが「育鵬社」グループらしい(屋山太郎は?)。
 だが、15名の名前の連なりはなかなか重厚だ。いわゆる<保守派>というのがあるとすれば、八木秀次らのグループはその中の少数派なのではないか。そうだとすると、八木秀次と渡部昇一の二人への信頼度は私には相対的には上の15名の平均よりずっと低いので、悪い印象ではない。些末なことながら。

0706/ルソー・人間不平等起源論(中公クラシックス他)は「亡国の書」・「狂気の哲学」。

 谷沢永一=中川八洋・「名著」の解読-興国の著・亡国の著-(徳間書店、1998)という本がある。
 和洋5冊ずつ計10冊の著書が採り上げられている。もともとは「名著」だけのつもりだったようだが、結果としては副題のように「興国の著」のほかに「亡国の著」が和洋1冊ずつ計2冊、対象とされている。
 「亡国の著」(悪書)は、丸山真男・現代政治の思想と行動(未来社)と、ルソー・人間不平等起源論(中公クラシックスほか)。
 ついでに「興国の著」(良書)とされているあと8冊(和洋四冊ずつ)を紹介しておくと、日本-①林達夫・共産主義的人間、②福田恆存・平和論に対する疑問、③新渡戸稲造・武士道、④三島由紀夫・文化防衛論。外国-①マンドヴィル・蜂の寓話、②ハイエク・隷従への道、③B・フランクリン・自伝、④バーク・フランス革命の省察
 それぞれについて面白い対談がなされているが、丸山真男とルソーの著は、それこそ<ボロクソ>に非難・揶揄されている。ルソーは文字通り<狂人>扱い。
 思想家・哲学者なるものの全てがそれぞれそれなりに<偉く>もなんでもないことは、年を重ねるにつれ、確信にまでなっている。
 異常で<狂気>をもつ<変人>だからこそ、奇矯な(あるいは良くいえばユニークな)、そして読者に「解釈」を求める、つまりは理解し難い著書を数多く執筆し、刊行できた、ということは十分にありうる。
 長い、何やらむつかしそうな文章で詰まった本の著者というだけで<偉い>わけではない。そうした本の中には、明らかに、人間・人類に対して<悪い影響>を与えたものがある。
 人間というのはたまたま言葉と論理を知ったがゆえに、過度に、<新奇(珍奇)な>言説・論理に惑わされ、誘導されてきたのではないだろうか。
 人の本性・自然と自生的「秩序」から離れた<知的空間>には、危険な「思想」がいつの時代でも蔓延してきたし、国家・社会の<主流>になっていることすらある。ルソー「的」・マルクス「的」な「思想」は、日本が戦後、もともとは西欧「思想」の影響下にあったアメリカの影響を受けたために、そして(欧米的)「民主主義」=善、(日本的)「軍国主義」=悪という<刷り込み>をされてしまったために、<主流派>西欧思想がなおも日本人の意識の中では、正確には大学を含む学校教育やマスコミ等の<公的>空間に表れている意識の中では、<主流派>のままだと考えられる(土着的な又は深層レベルでの意識においてはなお「日本」的なそれは残存している筈だが)。
 <主流派>西欧思想としてホッブズ、ロック、ルソーらが挙げられようが、決してこれらは(佐伯啓思の言葉を借用すれば)西欧においてすら<普遍的>ではなかった。
 日本の社会系・人文系学問・学者の世界はおそらく<主流派>西欧思想(戦後はアメリカのそれを含む)が支配している。
 日本国憲法自体が<主流派>西欧思想の系譜に属すると見られるのだから、この拘束・制約は相当に重く、解け難いものと見ておかねばなるまい。
 憲法学者のほとんどが「左翼」(←<主流派>西欧思想)であるのも不思議では全くない。そして、辻村みよ子もまた、その憲法教科書で、当然のごとく、ルソーの「思想」に、善あるいは<進歩的>なものとして少なからず言及している。
 上の本での中川らの評価と辻村みよ子の本によるルソーの参照の仕方を、対比させてみたいものだ。

0664/佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)を読む・その3。

 一 佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)は、丸山真男にも言及する(つづき)。
 p.176以下。1970年前後に全共闘学生の攻撃対象になったのは丸山真男のような「穏健左翼」で、「最高の権威に守られた安全な場所」での「民主主義こそ大事」論は「左翼の偽装」・「欺瞞」だとされた。この時期以降、丸山は東京大学を辞職し「社会的に発言」しなくなる。
 上の点はともかく、丸山真男によると、日本が近代国家でなかった最大の証拠は「天皇が、政治的主権者であると同時に宗教者である」ことにあった。「西洋近代国家」の主権者の「価値に対して中立的」という「最大の要件」を充たしていない。あの戦争の開始も天皇主権(・民主主義の不在)と無関係ではない。「民主主義と天皇主権国家は両立」せず、「戦後日本」が「民主主義に生まれ変わったことはすばらしい」。従って、つねに「八・一五」に立ち返るべきだ。民主主義が成熟すれば日本はもう戦争を起こさないだろう。
 かかる趣旨の丸山真男論文(「超国家主義の論理と心理」)は「戦後民主主義の理論的支柱」となり、「弟子の政治学者」や「大江健三郎」らを含めた「進歩的文化人」を生み出した。
 だが、と佐伯啓思は続けるが、相当に省略する。佐伯は吉田満(・戦艦大和の最期)に言及しつつ、丸山真男は公式的「戦後民主主義、平和主義」の立場からの「悔恨の共同体」論だったのに対して、吉田満が示したのは、戦争の善悪はともあれ、「死んでいった若者たちに、われわれは非常に多くの何かを負っている」という「負い目の共同体」という考え方だ、とも述べる。
 ちなみに、今回の冒頭にいう「穏健左翼」の中には、日本共産党(員)も、丸山真男が支持していたと見られる日本社会党も入っていた。丸山の「悔恨の共同体」論からすると、戦死した若者たちは間違った戦前の<(騙された)無意味な犠牲者>になるのだろう。また、佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)は、もう少し専門的に?より詳しく丸山真男に論及している。いつかの機会に紹介する。
 二 佐伯啓思は「八・一五」(こういう言い方を彼はしないが)前後の歴史にも言及している。そして、言い古されたものもあるが、また議論がなお必要な論点もあるだろうが、佐伯自身の文章で書かれていることに、やはり注目しておきたい。
 ・アメリカはポツダム宣言や初期の対日占領政策文書では「日本国民の自由意思」に日本の最終政治形態は委ねるとしつつ、降伏文書では日本の主権はGHQに属する(subject to)とする。この二重性は日本国憲法にも表れており、形式的には明治憲法の改正手続によりつつ(日本国民の意思によると見せかけつつ)、「実質的には、GHQがつくり上げたものに」 なった(p.198)。
 ・そもそも「根本的に問題」なのは、主権を制限された国家が「いずれの形であれ憲法を持つことができるのか」、だ(p.197)。
 ・東京裁判の法的根拠は「マッカーサーの指令」にあり、「東京裁判そのものが占領政策の一環」だった。
 ・さらに厄介なのは日本が講和条約で「アメリカの歴史観を受け入れたとみなされている」ことだ。同条約11条の「…を受諾し」は、「諸判決」の「履行まで義務づけ」る(=拘禁刑受刑者をただちには解放しない)という意味で、「東京裁判の全体なり、東京裁判を支えている歴史観を受け入れたわけでは、毛頭ない」。にもかかわらず、日本は「アメリカの歴史観」を認めたことに、諸外国がそう見なしただけでなく、「何となく」、「日本自らも…みなしてしまった」(p.202-3)。
 ・上のことが「現在に至るまで、様々な問題を引き起こしている」。主権回復後、憲法改正も再度の裁判も可能だったのに、しなかった。日本人なりに「あの戦争の意味づけや解釈や批判的な検討もすべきだった」のに、しなかった。「占領期という特異な期間をそのまま承認」し、「その特異な産物である憲法もそのまま認めてしまった」。それどころか、「進歩的知識人も、保守系の政治家も」「日本は民主的な平和国家に生まれ変わった」、と言い出した。「自分たちでそうだと思い込んでしまった」、「そのことが現在でもわれわれの上に、非常に重たくのしかかっている」(p.204-5)。
 以上の文章を読んで、あらためて慨嘆する。ほとんど同じ世代の佐伯啓思にも私にも、そして「団塊」世代にも、実質的な<責任>は全くない。やや広く1946~1951年生まれを「団塊世代」というとしても、彼らが(我々が)成人を迎えた=有権者たる20歳になったのは、早くて1966年であり、占領期、同時期内での日本国憲法の制定、同じく東京裁判、サンフランシスコ平和(講和)条約、「戦力」ではない「自衛隊」発足、さらには所謂55年体制の成立、「60年安保」、1965年の日韓基本条約締結等に、実質的には(意見表明・選挙権行使等によって)関与することを全くしていない(なお、田母神俊雄は1948年生まれで狭義でも「団塊」世代)。
 すべてが、じつは明治後半から大正時代生まれの者たちによってなされた(昭和元年生まれの者でも敗戦の年にようやく20歳だ)。日本人先輩はそれぞれに苦労したのだとは思うが、敗戦後60年を経ても残っている課題があり、それらについて現在でも「国論」が分裂しているのは、到底正常な事態だとは思われない。せめて、自主的な憲法制定(・日本軍の正式認知)でも1960年代の前半までにしておいてくれれば、その後の政治の様相は大きく異なったに違いない。そして、だからこそ、日本社会党は過半数の議席を取れなかったが、憲法改正阻止のためには必要な1/3以上の議席を日本社会党(等の「護憲」政党)に与え続ける、その理論的支柱となり又は大衆的雰囲気を提供した<左翼・進歩的知識人>(多くの大学教授を含む)や朝日新聞等の<左翼・進歩的>マスコミの果たした役割は歴史的に見ても<きわめて犯罪的だった>とあらためて思う。
 三 最近関心を持つのは、論者たちが現在の日本に続く近未来の日本をどう予想しているか、だ。佐伯啓思はこの本の本文を、次のように述べて終えている。
 「日本の愛国心」とも言える「近代日本が宿命づけられた悲劇の感覚」を「絶えず想起する」ことはできるし、想起する想像力をもつ必要がある。「それさえあれば」、まだ「日本の愛国心」は「か細くも脈々と受け継がれていくように思われる」(p.224)。
 「それさえあれば」という条件つきの、「か細くも(脈々と)」とは、かなり悲観的な表現ではなかろうか。
 潮匡人・やがて日本は世界で「80番目」の国に堕ちる(PHP、2008.12)の最後の文章はこうだ。なお、日本は戦後の国連に80番目に加盟した。
 「日本は今後『衰退の一途を辿る』。やがて世界で八〇番目の国に堕ちる」。田母神俊雄が「暗黒の時代」の到来を身をもって示した如く、田母神論文の主張の正しさを「日本は身をもって示すに違いない」(p.221)。
 ここで言及されている昨秋の田母神俊雄論文の最後の二文はこうだった。
 「私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである」(田母神俊雄・自らの身は顧みず(ワック、2008)所収p.228)。
 潮匡人が悲観的又は絶望的な一文で終えているコラム的文章を二つほどは読んだような気がするが、上の本の末尾でも、楽観的な部分は全くない。
 他の論者については別途触れることがあるかもしれない。
 ともあれ、このような鬱陶しい時代状況の下で<老後>に入っていくとは想像していなかった。個人的にもひどく鬱陶しい。

0663/佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)を読む・その2。

 たぶん2/05か2/06に佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)を全読了。
 1 何となく感じていたこと又は他の人も書いているようなことを、佐伯自身の文章で読むと、新鮮な感がするところがある。
 p.142以下。21世紀は各国の争い・闘いの時代(ジョン・グレイの言う「帝国主義」時代)だ。日本の立場・国力・意思・価値観が問われる。「国力」にとって最も重要なのは「文化・価値の力」だ。
 しかし、「日本特有の事情」により、日本の「価値」は「今のわれわれ」には見失われている。「日本特有の事情」とは、「戦後の日本の、事実上のアメリカへの追従」だ。
 あの戦争でただ負けたのではなく「価値観の上で負けた」、負けたのは「道徳的に間違っていたから」だ、というのが「公式」的理解になった。「左翼進歩派」のみならず「戦後の日本政府」も基本的にはこの理解だった。
 「自主的な」戦後の構築を日本はせず、日本の「戦後政治」は「アメリカの占領政策の基本構造」の受容から始まる。「あの戦争についての、押しつけられた歴史観に抵抗して、自国の立場を主張することなく、…エネルギーを経済に振り向け、…奇跡的な経済成長を遂げた」。日本人の生活のほとんどはなおも「日本的な」習慣によるが、「根本的なところは、アメリカによって『骨抜き』にされてしまっている」。かつての価値が否定され、「精神的な空白」が生じ、「アメリカ的なもの」への「精神的従属」が生まれた。
 2 日本の独自性・「愛国心」 に触れつつ、次のことも明言している。
 p.164以下。「実際、今日の日本は、ある種の崩壊と言ってよいような、すさまじい過程に入っている気がする」。
 「今、日本の政治はまったくの機能不全に陥って」いる。今の日本には「国民の意思」がほとんど確かなものとしては存在しない。
 近年の選挙で示されたのは、「まともな民主主義」とは言えない。民主主義の機能のためには国民に「自国に対する責任」感、広義での「愛国心」が必要だが、今の国民には見あたらない。某調査によると自国に「誇り」もつ国民の割合は日本は74国中71位、戦争への参加は59国中「圧倒的に最下位」で日本は15%(中国90%、韓国75%、アメリカ64%)。
 3 姜尚中のナショナリズム・パトリオティズム概念の曖昧さを指摘したのちの、丸山真男への言及が新書本にしてはやや長い。
 p.175以下。「ナショナリズム、愛国心」対「自由、民主主義、平和」という構図を典型的に表明したのが、丸山真男の戦後の諸論文だった。アカデミズムの「権威」を背景にジャーナリスティックな場でも活動した「左翼系オピニオンリーダー」、「左翼思想におけるカリスマ的な人物」。丸山の民主主義論等は「権威主義」を排除するものの筈だが、「丸山門下や丸山信者は、丸山さんを絶対的な権威にしてしまっているのが、面白い」。
 途中だが、もう一回つづける。

0661/佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎、2008)を半分読む。

 一 昨年11月末に発刊されていたらしいが、迂闊にも気づかないでいた。2月以降で半分強のp.120まで読み終えた。
 佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008。760円+税)。
 第一章 保守に託された最後の希望
 第二章 自由は普遍の価値ではない
 第三章 成熟の果てのニヒリズム(~p.120)
 第四章 漂流する日本的価値
 第五章 日本を愛して生きるということ
 「…正論大賞受賞を記念して、産経新聞社主催で行われた講演会の記録をもとに」執筆されたもの(p.230)。
 二 先だって(1/29付)、自由や民主主義(・個人主義・平等)は「価値」・「中身」を伴わない観念だとかを独り言として書いた。佐伯啓思の影響をたぶんすでに受けていたのではあろう、この本でも佐伯は同旨のことを強調している。例えば、p.72。
 その他、全体として、容易に理解できるし、同感できるところがほとんどだ。
 戦後日本は(佐伯のいう)<進歩主義>が「公式的な価値観」となってきた(p.71)。<保守>の側が「変化」を求めて「戦後レジームからの脱却」(安倍晋三)を主張しなければならない、という<ねじれ>がある。以下は私の言葉だが、<進歩主義>(だが現状維持派)が自民党の政治家の過半を覆うほどに「体制化」していることは、昨年の田母神俊雄論文問題でも明らかになった。
 自由が大切なのではなく自由を活用して何をするかが大事、民主主義自体が大切なのではなく、国民の中の「文化や価値の重要なものが政治の場で表現される」ことが大事だ(p.72)。「文化」や「価値観」を抜きにして「自由も民主主義もうまく」機能しない(p.73)。
 日本的「精神」・日本的「価値」、これを佐伯は戦前の「京都学派」の議論を参考にして、「道義」、「道と義」とも言う(p.112-3)。さらに東洋的な「無」・「空」の思想についても触れる(p.114-5)。
 西洋的価値観に対する「日本的な価値観」とは何かを問題にし、これを追求する以外に進む途はない、という主張を佐伯はしている。そして、かかる問題設定すら、戦後の思想の領域では「丸山真男の影響力があまりに強くて」できなかった、のだという(p.118)。
 自由・民主主義(・個人主義)の行き着く果ての「ニヒリズム」、という考え方又は理解の仕方がこの本ではかなり強調されているようだ。すでに欧州ではニーチェらによって、19世紀末には<警告>されていた。現在の日本社会は、「社会の規範が崩壊し、確かな価値が見失われる」「ニヒリズム」のそれだ(p.28)との指摘もよく分かる。
 この「ニヒリズム」との闘いこそが<保守>の役割だとされる。「価値規範の喪失、放縦ばかりの自由、窮屈なまでの人権主義や平等主義、飽くことなき物質的富の追求、そして刹那的な快楽の追求」、このような「現代文明の崩壊」に「無頓着」でかつ「手を貸している」のが、「左翼進歩主義」なのだ(p.30)。
 再び日本的「精神」・「日本的な価値観」に戻ると、日本は敗戦によって「国土だけでなく、日本的価値も日本的精神も、すべて焼きつくされた感がある」。これれらが「何であるか、戦後の日本人にはわからなくなって」しまった(p.71)。
 そして、佐伯啓思は東洋的「無」との関係の箇所でのみ「天皇」に言及している(p.115)-「天皇という存在も日本文化の中心にある『無』を表している」。
 日本の伝統・歴史・文化という場合、「天皇」制度のほか、密接不可分の<神道>や<(日本化された)仏教>を無視することは絶対にできないだろう。それらは、戦前の「京都学派」(西田幾太郎ら)の思想よりも重要な筈だ。この「学派」が、天皇・神道・仏教を全く無視していたとは思わないが。
 アメリカと欧州の違いの指摘も、相当に納得がいく。「親米保守」は概念矛盾、アメリカは「左翼急進主義」者、といった指摘は、「親米保守」論者にとっては厳しいものだ。
 三 既に同旨を述べたことがあるが、佐伯啓思の叙述でいま一つ納得がいかないのは、中国・北朝鮮への言及やそれらへの警戒の文章が(アメリカ批判に比べて)全くかほとんどないことだ。
 佐伯によると、「冷戦」とは、アメリカ的解釈によると、「ソ連という全体主義国家に対して、西側が自由と民主主義を掲げた戦争」だとされる。そして、ほぼ自分の言葉として、「冷戦が終わり、自由・民主主義・市場経済の敵が消え去った」とも述べている(p.93~p.94)。
 しかし、繰り返しになるが、東アジアでは<冷戦>はまだ続いているのではないか。アメリカとの関係で自立・自存の方向へ向かうべきことも明らかだと思われる(自主憲法制定、自国「軍」の認知はその方向への重要な目標だろう)。日本的「価値」を探る議論もきわめて重要だ。だが、アメリカ的「自由・民主主義」を戦略的にでも利用して、中国(共産党)や北朝鮮と対峙する必要は、中国が軍事力を強化し、北朝鮮がミサイル(テポドン)発射の準備を進めているという状況下では、なおも必要なのではないか。
 もっとも、佐伯啓思は、(かつての?)麻生太郎らの「価値観外交」の中には「自由や民主主義」だけではなく「日本的価値観を織り交ぜる必要がある」(p.118)という書き方もしていて、「外交」上の「自由や民主主義」の標榜を全くは否定していないようだ。とすると、大して変わらないことになるのかもしれない。

0657/日本国憲法制定と宮沢俊義-あらためて・その4。

 前々回のつづき。江藤淳責任編集・憲法制定過程(講談社)の江藤「解説」による。
 ・宮沢俊義のポ宣言十二項(とその受諾)を根拠とする「国民主権主義」への「八月革命」説につき、一年余後の「改造」1947年5月号で河村大介(当時最高裁判事)はポ宣言十二項の「国民の自由に表明する意思」等々は天皇・貴族院の排除を意味しない「政治的」な意味で、ポ宣言・受諾により「直接に即座に」明治憲法73条を変更する法的効果が生じたと解するのは無理だとし、現憲法の成立を「革命という概念」により説明することを疑問視した(p.405)。
 ・以下は江藤の判断が混じる。宮沢が上の河村説は「至極穏当」なものであることを「知らなかったはずはない」。「敢えて知りながら」「八月革命」説を唱えた「不可思議かつ不自然な変貌の秘密」は、既に言及の1946年の「改造」論文(3月)と「世界文化」論文(5月号)の間の「微妙な不整合のなかに隠されている」。
 「微妙な不整合」とはポ宣言に対する態度だ。「改造」論文で宮沢俊義は同宣言第十二項を必ずしも憲法改正の根拠とせず、改正はむしろポ宣言を「逸脱することを辞せず、それを超えた『理念』にもとづ」くべきことを述べたが、それは米国の「初期対日基本方針」の理念を「反映」したものだった。
 だが「世界文化」論文では再びポ宣言に改正の根拠を求める。但し、第十項ではなく第十二項に根拠条項を求め、「いったんポツダム宣言の枠の外に出た」かの如きだった宮沢はその「枠内に戻り」、「枠はなかった」、ポ宣言の「受諾そのものが”革命”だった」と叫んだのだ。
 かかる(ポ宣言からの)「逸脱」と「革命」は、異なるように見えて、しかし、ポ宣言が「本来日本と連合国の双方に課していた拘束を否定し去ろう」とする点では「全く一致している」。「世界文化」5月号論文は、実質的に、米国の「初期対日基本方針」の合理化の試みに他ならない。換言すれば、「八月革命説」は米国「初期対日基本方針」の「意図を隠蔽しつつ、同時にこれを合理化しよう」とする「手品のような学説」だった。(以上、p.406-7)
 ・憲法改正にかかる貴族院での審議に、議員の宮沢は「マッカーサー草案の基本線を積極的に支持する立場」(小林直樹による)で参加した。一方、改正草案が枢密院に諮詢されたとき〔なお、この手続は明治憲法には明記されていない-秋月〕、美濃部達吉は、明治憲法73条〔改正条項〕による改正なのだとすると、勅命により議案が提出され、廃止されようとしている貴族院にも付議され、天皇の裁可により改正成立となるが、一方で草案前文は「国民がみずから憲法を制定」と書いていて、これは「まったく虚偽」だ、等々と批判し枢密院でただ一人「否」票を投じた。佐々木惣一(京都帝国大学)・貴族院議員も「反対討論」をした〔内容省略〕。枢密院議長(公法学者)・清水澄は枢密院可決を「深く痛憤して」1947.09.25に投身自殺をした。
 ・江藤は憲法「改正」にかかる宮沢俊義の「変節」・「転向」を「責める」つもりはないが、「明らかにせずにはいられなかった」、と書いたあと、次のように言う。長々と紹介してきたが、本来はこの部分こそがメモしておきたかった箇所だ。
 「東京帝国大学(のち東京大学)法学部憲法学教授という職務は、きわめて重要な公職である。であるからこそこの公職は、占領軍当局にとっては何を措いても確保すべき戦略拠点だったに相違なく、現職の教授だった宮沢氏に、どれほどの圧力が掛けられたかも想像に難くない」。
 江藤は、東京(帝国)大学法学部憲法担当教授を「占領軍当局」が「確保」するためにとった「圧力」を具体的に示しているわけではない。
 だが、「想像に難くない」のであり、客観的にはいわゆる<工作>と言えるような行為・措置・「圧力」がGHQによって宮沢に対して執られたのではあるまいか。そして、客観的に見て宮沢が「応じた」(厳しくいえば客観的には「屈した」)のだとすれば、そのような対応は、戦時中に<体制>に積極的・消極的に順応・協力した、そして戦後になって批判された人々の行為と全く変わりはないのではないか。
 ・江藤は最後に、①宮沢俊義の「八月革命」説が「後進」の小林直樹・芦部信喜(いずれも元東京大学法学部憲法担当教授)らによって継承され、「定説」となって全国の大学で講じられ、「各級公務員志望者」によって「日夜学習されているという事実」、そして②米国の「初期対日方針」にもとづく米国の政策が「今日、依然として一瞬も止むことなく若い人々の頭脳と心に浸透しつつあるという事実」の喚起・銘記を求めて「解説」を終えている。
 これらにこそ、まさに今日的・現代的な問題点がある。東京大学法学部の<権威>?をもって、日本国憲法に関する<進歩的(左翼的)通説>が、今日・現在の公務員界(官僚たち)・マスメディア等々を実質的に「支配していること」、日本国憲法に関する<進歩的(左翼的)通説>の教育を受けた者たちが今日まで行政官僚・司法官(裁判官)・政治家や朝日新聞等々のマスコミの要職についてきたし、現在も就いているのだ、ということの明瞭な認識が必要だ。
 占領期の米国の政策は、「歴史認識」の実質的<押しつけ>も含めて、すでにほとんど、「若い人々の頭脳と心に浸透」してしまっているのではなかろうか。種々の恐怖・憂慮の<真因>はここにあるように思われる。
 そして、GHQの政策・考え方(・戦争の評価を含む「歴史認識」)等を客観的には支持し、擁護した、丸山真男を含む<進歩的知識人・文化人たち>(大学教授ら大学所属者を当然に含む)の果たした役割はきわめて犯罪的だった、と言わなければならない。
 この項を終える。
 

0652/佐伯啓思・国家についての考察、小熊英二・<民主>と<愛国>、西尾幹二・真贋の洞察等。

 一 全読了している佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)の帯・右側に記載されている「本書目次」は次のとおり。
 序章 なぜ「国家」を論じるのか
 第一章 現代日本の国家意識
 1 「戦後的なもの」の溶解
 2 「世界市民主義」とは何か
 3 逆立ちした国家意識
 第二章 「二重言説」の戦後日本
 1 保守と革新の作り出した構図
 2 「公式の言説」と「非公式の言説」
 3 近代日本の宿命

 第三章 戦後民主主義という擬装
 1 民主的主体という擬装
 2 「戦後」という欺瞞
 第四章 国家をどう理解するか
 1 近代的国家のロジック
 2 継続性の中にあるロジック
 第五章 国家論の構築に向けて
 1 ナショナリズムとは何か
 2 「われわれ」意識のロジック
 3 均衡体としての国家 
 4 誰が国家の「担い手」か
 5 「公」「私」、そして「国家」
 ついで、帯・左側の関心惹起?のための文章は次のとおり。大きな「「国家」への思考停止から、「国家論」の構築へ!」という文字の上に並ぶ。
 「「戦後」の時空間の中で、国家への考察を徹底封鎖し、その結果、主体性・価値観・魂を喪失した日本および日本人に、戦後日本の思想的営為の「歪み」を鋭く指摘しつつ、「国家意識」についての再考、「国家論」の構築を促す、画期的な書き下ろし論考」
 この本のごく一部、朝日新聞社説に批判的に言及して論を進めている部分については、昨年12月に5回に分けて紹介・コメントした。右端は月日。
 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/836830/  1216
 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/835710/ 1215
 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/832422/ 1213
 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/831734/ 1211
 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/830132/ 1210
 
二 上のような書き写しをしたのは、佐伯の書物の中でも、最も基礎的な主題を論じた、最も好ましいものだと感じているからだが、それは別としても、実際よりももっと幅広く読まれてよい本だという印象を強くもつからだ。
 佐伯啓思は昨年に日本の愛国心(NTT出版、2008)という本を出した。
 異論・疑問が全くないわけではないにせよ、非常に優れた、刺激的な(論争誘発的でもある)本だ。
 にもかかわらず、簡単な書評を若干見かけただけで、この本が大きな論争を巻き起こした、ということはなかった。上記の『国家についての考察』もおそらく、世間的にはあるいは少なくとも論壇においてすら、あまり注目されなかったのだろう。
 どこかおかしい。その理由の大きな一つは、朝日新聞や同社的なマスメディア(・雑誌)が、佐伯啓思の本を完全に無視しているからではないか、と思われる。朝日新聞等が大江健三郎・加藤周一(昨年死去)・井上ひさしらの本を取り上げ、コラムを書かせているのとは対照的で、彼らは絶対に言及しない、コラム執筆も依頼しない著者・評論家・学者のリストを作っているものと推察される。
 世情を賑わし、大部が売れたいくつかの本よりも、佐伯の例えば上の二つの本をじっくりと読んだ方が、深く、理論的な思考にはるかに役立つ。
 どこかおかしいのだ。言論統制に近いものは、国家によってではなく、出版社・新聞社が自らによって行っているのが実態だろう。自分たちに気にくわない思想・主張は無視する、封殺する、これが朝日新聞等のやっていることだ、と思う。
 三 朝日新聞社系の雑誌・アエラの最新号で、立ち読みの記憶だから正確ではないかもしれないが、姜尚中が政治(・思想?)関係の書物を30ほど推薦している記事があった。
 佐伯啓思・西尾幹二らの本が挙げられているはずはない。姜尚中の自著いくつかの他、丸山真男(二つ)、フーコー(二つ)、大江健三郎、加藤周一<この二人は九条の会発起人>等々が挙げられていた。さすがに「左翼」新聞社がご愛用の「左翼」学者だと感じたものだ。
 こうしたリストアップを中庸で正統的なものと信頼して購読する真面目な?読者もいるのだろうから怖ろしい。
 姜尚中がリストアップした推薦書の中には、小熊英二・<民主>と<愛国>(新曜社)があった。
 先日1月4日に西尾幹二・真贋の洞察(文藝春秋)に言及して、経済史学者・大塚久雄を皮肉る(批判する)部分等を紹介したが、その部分等は、じつは、小熊英二のこの本を西尾が論評する中で書かれたものだった。
 → 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/859811/
 西尾による小熊英二著批判の表現は数多いが、このような紹介もなされている。
 「名だたる戦後進歩主義者、左翼主義者、マルクス主義経済学者、歴史学者その他の屍のごとき言説を墓石の下から掘り起こして、埃を払い、茣蓙を敷いてその上にずらっと並べて天日に干して、もう一度眺められるようにお化粧直しする」(、そんな本だ)、「若い読者はこれが戦後の思想史のトータルな姿だと思うだろう。たまに保守派の名を出しても、…脇役か刺身のつま、あるいは左翼進歩派の論を補強する引き立て役としてである」(p.87)。
 西尾の同じ論考によると、小熊英二の上の著の索引での言及頁数が多いのは、次の順らしい。多い方から、丸山真男、竹内好、鶴見俊輔、吉本隆明、江藤淳、小田実、石母田正、荒正人、大塚久雄、清水幾太郎(p.85)。この中で保守派といえるのは江藤淳と晩年の清水幾太郎だけだろう。これら以外で頻出する「左翼・進歩派」(といっても一枚岩ではないが)は、小田切秀雄、本多秋五、井上清、網野善彦、中野好夫、久野収、国分一太郎、鶴見和子、中野重治、南原繁、宮本百合子、宗像誠也、大江健三郎(p.88)。
 あくまで西尾の言を通じてではあるが(小熊の上の本の古書は高価で購入していない)、このような内容の小熊の本を姜尚中は推薦しているのだ。
 姜尚中自身の推薦リストですでに明白なことだが、姜尚中もまた「名だたる戦後進歩主義者、左翼主義者、マルクス主義経済学者、歴史学者その他の屍のごとき言説を墓石の下から掘り起こして、…お化粧直し」をしたいに違いない。
 こんな姜尚中が、朝日新聞系の枠にとどまらず、昨年末のNHK紅白歌合戦の「審査員」を務めたらしいのだから、NHKも、日本社会全体も、気づかないままに、発狂・崩壊への道を静かに歩んでいる。
 *追記-前回に追記した日以降のアクセス数が、1/16にさらに10000余増加した。

0647/西尾幹二・真贋の洞察(2008.10)の一部を読む-戦後「左翼」の権威・大塚久雄の欺瞞。

 前回使った言葉とあえて結びつけていえば、西尾幹二・真贋の洞察(文藝春秋、2008.10)p.107には、「講座派マルクス主義」の「お伽話」という語がある。
 西尾幹二の上の本によると、「戦後進歩主義」又は「戦後左翼主義」の代表者は丸山真男大塚久雄だ(p.94)。
 政治学が丸山真男、経済(史)学が大塚久雄だったとすると、歴史学や法学は誰だったのだろう。歴史学は井上清か、それとも羽仁五郎か。日本共産党の要素を加味すると古代史だが石母田正か。法学は、横田喜三郎(国際法)か宮沢俊義(憲法)ではないか。次いで川島武宜戒能通孝あたりか。日本共産党的には平野義太郎の名も挙げうるかもしれないが、社会的影響力は横田喜三郎や宮沢俊義の方が大きかっただろう。
 脱線しかかったが、西尾の上掲書は大塚久雄について面白いことを書いている。少なくとも一部は、知る人ぞ知るの有名な話なのかもしれない。
 ・大塚久雄によると、「絶対王制」と「結びついた」「特権的『商業資本』」が「新しい『産業資本』によって打倒されたかどうか」が、「市民革命」成立の有無の基準になる。
 ・大塚によると、フランスでブルボン王朝と結びついたいくつかの「特権的『商業資本』」が打倒されたことがフランス革命の「市民革命」性の証拠になる。日本(の明治維新)にはこのような例がない。
 ・しかし、-西尾は小林良彰の著書・明治維新とフランス革命(三一書房)を参照して以下を言う-江戸時代に栄えたいくつかの「特権的大商人」は明治維新を境に「廃絶」した。一方、大塚が挙げる具体の「商業資本」は、「フランス革命で廃絶」しておらず、むしろ「二十世紀の代表的企業に発展」した(以上、p.109)。
 ・大塚は「イギリスの農村におけるマニファクチャーの存在」の根拠として英仏二つの著書を挙げていたが(ここでは書名・著者名省略)、1952年に矢口孝次郎(関西大学)、次いで1956年に角山栄(和歌山大学)が、これら二著を大塚久雄が読んでいないことを「突きとめた」。大塚の論文当時に翻訳書はなかったが、角山栄が洋書不足時代に「隅から隅まで」原書を読んでみると、「驚くべきことにマニファクチャーのことなんか」何ら書かれていなかった。
 ・西尾は角山の本を参照して以下を書くが、大塚は学生に「角山の本は読むな」と警告し、「地方大学からの批判に中央のマスコミは関心を示さなかった」(以上、p.110-111)。
 以上を記したのち、西尾幹二はこう書く-「驚くべき事実」だ。「コミンテルンの指令な忠実な東大教授を守るために、中央のマスコミは暗黙の箝口令を敷いたのに相違ない」(p.111)。
 大塚久雄について、このような事実があったとしてみる。すると容易に推測できるのは、大塚に限らず、政治学(政治思想史学)の丸山真男についても、歴史学や法学の上に挙げたような学者たちについても(とくに丸山を含む東京大学(助)教授については)、類似のことがあった可能性がある、ということだ。
 <昭和戦後「進歩的」知識人>の「権威」は、(時期によってやや異なるだろうが)コミンテルン又はGHQの歴史観・「歴史認識」との共通性の有無・程度と「東京大学」等の有力大学教授かどうかによって、一口で言えば<非学問的に>(つまりは<政治的に>)築かれたのではないか。
 さらに言えば、今日の(とくに社会・人文系の)各学界の「権威」者たちは、本当に学問的・「科学的」に立派な学者・研究者なのだろうか、という疑問が生じても不思議ではない。

0642/大石眞・憲法講義Ⅰ(有斐閣、2004)-日本国憲法はなぜ有効か。

 一 激しい議論にはかりになっていなくとも、日本国憲法の制定過程との関連で、①この現憲法は「無効」か有効か、②有効だとして、旧憲法(明治憲法・大日本帝国憲法)との関係で現憲法は「改正」憲法か「新」憲法か、という基本問題がある。
 憲法学者はほとんどこの論点に立ち入らないか、<八月革命説>(→「新」憲法説)を前提として簡単に説明しているだけかと思っていた。
 喜ばしい驚きだが、現在は京都大学(法)教授の大石眞・憲法講義Ⅰ(有斐閣、2004)は、「憲法制定史上の諸問題」という項目を設け(p.42-)、まず、現憲法制定は「占領管理体制の下におけるいわば強いられた『憲法革命』」で、それは(1946.02の)マッカーサー草案提示後の憲法草案起草過程にも議会での審議過程についても言えるとする。そして、「憲法自律性の原則(芦部信喜)」は「むしろ破られたとみるのが正当な見方であろう」と書く(p.42)。
 その上で、現憲法無効論と有効論とがあり、後者にはさらに次の4つがあるという。
 ①(明治憲法改正)「無限界論」-佐々木惣一。
 ②八月革命説(主権転換がすでにあったとする)-宮沢俊義。
 ③段階的主権顕現説(議会での審議過程で国民主権が次第に確立したとする)-佐藤幸治。
 ④法定追認説(主権回復時=平和条約発効日を基準に、現憲法の適用・履行によって完全に効力をもったとする)-長尾龍一。
 大石眞は最後の④説に立つ。
 二 大石は現憲法無効論については、1.(明治憲法改正限界論を前提にして)この限界を超え、無効というが、<瑕疵>あることと<無効>とは異なる(瑕疵があってもただちに無効とはならない(民法にもみられる取り消しうべき瑕疵と無効の瑕疵との区別)、2.今日までの法令・制度を「すべて無にしてしまう」という実際上の難点がある、として採用しない。
 現憲法無効論の論拠は明治憲法改正限界論だけではない(被占領下で改正・新制定できるのかという論点もある)。また、今日までの法令等を「すべて無にしてしまう」という正確な意味での<無効論>ではない<無効論>もある(「無効」という語の誤用としか考えられない)ので、上の実際的批判は、この不正確な<無効論>にはあてはまらない。
 だが、結論自体は、妥当なところだろう。
 つぎの<有効説>の論拠は、私見では、①説でよいのではないか。何と言っても、昭和天皇が議会に諮詢し、天皇の名で「改正」を公布している、という実態は、「改正説」に有利であり、かつ、明治憲法期に憲法改正限界論(例えば「主権」変更はできない)が通説だったとしても1946年ではそのような考え方は学界・政治界そして天皇陛下自身において放棄されていた、と理解できるのではなかろうか。枢密院への諮詢等という明治憲法下での慣行をなおも維持した手続を経て現憲法は作られたのだ。できるかぎり日本人の頭と手で現憲法が作られたという外観・印象を与えたかったGHQの意図に応えてしまうことにはなるが、この説が最も無難だと思える(改正の諮詢自体が、そして議会の審議自体が日本側の自由意思でなかったことは明らかだが…)。
 <八月革命説>を大石は(私も)採らない。
 大石は、この説には、①「ポツダム宣言の文言やバーンズ回答をめぐる問題」、②「国家主権なき『国民主権』論は虚妄ではないか」、③「ラジカルな国際優位一元論は不当」、④「非民主的機関」、つまり「枢密院や貴族院」の関与やこれらによる修正をどう見るか、などの問題がある、という。
 丸山真男も依拠していた宮沢俊義の<八月革命説>は成り立たないのではないか。  そういう否定的見解がきちんと書かれてあるだけでも意味がある。「法定追認説」なるものには分からない点もあるので、長尾龍一の文章を直接に読んで、なおも検討する。

0603/<1947年憲法体制>の立役者・宮沢俊義。

 一 戦後日本は、1947年(憲法施行)、1952年(講和条約発効・占領終了)、1955年(自社体制)、1960年前後、1970年又は70年代前半、1985年頃、1990年頃(バブル・ピークと崩壊、ソ連解体)、1993年頃(細川政権、自社体制崩壊)、2001年頃(「構造改革」・規制緩和開始)等々によって時代を区分できるだろうが、これまでの全体を<日本国憲法体制>又は<47年憲法体制>の時代と、将来には呼ばれる可能性があるようにも思われる(いずれこれが別の新しい時代に変わることを私は想定するが、このままでよい、変えるのは<危険>という感覚の人々も多いのだろう)。

 なお、国際的には主として(1990年頃までは)<冷戦>の時代だったが、これまでの全体はほぼ<パックス・アメリカーナ>の時代だったと言えるかもしれない。

 <日本国憲法体制>又は<47年憲法体制>の時代とは、ほぼ<戦後民主主義>を<時代精神>とする時代だ。それは、「民主主義」・「平和主義」・「個人主義」といった「」付きの「主義」が支配した時代だったとも言えるだろう。
 その<日本国憲法体制>又は<47年憲法体制>の時代を形成するに際して戦後の<進歩的文化人・知識人>の力は大きかったのだが、肝心の日本国憲法について、基本的に現憲法賛美の<進歩的な>憲法学者の影響力もすこぶる大きかったと思われる。<進歩的な>憲法学者の多くは同時に<進歩的文化人・知識人>だった。
 そのような<進歩的な>憲法学者のうち、就中大きな力をもったのは東京大学法学部の憲法学の教授たちだった、と言えよう。

 憲法学(さらにそれを含む諸法学)の研究者(大学教授たち)の養成、国家試験を通じての専門法曹や上級官僚の意識・観念の形成、そしてまた国家試験を経なくとも戦後のマスコミ人の意識・観念の形成にとって、憲法学者は、就中東京大学の教授たちの説くところ・例えば教科書類は、客観的にはじつに大きな影響力をもったのではないか。

 敗戦・占領期、そしてその後の戦後前半の東京大学法学部の憲法の教授の一人は宮澤俊義だった。

 二 「八月革命」説でも知られるこの宮沢俊義についても、関心をもってみよう。

 竹内洋・大学という病(中公文庫、2007。原単行本は2001)は主として戦前を、かつ東京帝国大学経済学部の「騒擾」を対象としており、憲法学や東京大学法学部を対象とする本ではない。
 それでも、索引を手がかりにすると、宮沢俊義について、3箇所(3頁)に言及がある。内容はつぎのとおり。
 ①p.224-東京帝大教授に対する蓑田胸喜らの原理日本社による攻撃・批判の対象に経済学部よりも法学部教授がなっていることが多く、宮沢俊義は4回、「バッシングの対象として登場した」(原理日本という雑誌の記事等による言及の回数だと思われる-秋月)。横田喜三郎(国際法)は3回、牧野英一(刑法)も3回、南原繁(政治思想)は1回。

 ②p.227-原理日本社の東京帝大総長への進言書(1938年)の後半は「帝大教授批判」で、田中耕太郎・横田喜三郎・末広厳太郎(以上、法学部)、河合栄治郎(経済学部)のほか、「人民に憲法決定の権利ありとする宮沢俊義」も名指しされた。

 ③p.274-戦後1962年の朝日ジャーナル誌上で、文部大臣による学長拒否権等を構想した中教審答申批判の座談会が9回連載された。司会は東京大学元法学部長・宮沢俊義。他の出席者は田中耕太郎、末川博、我妻栄、大内兵衛の4名。
 一部だろうが、①・②のような戦前の経験が戦後の宮沢俊義の意識、そして憲法「学説」に影響を与えなかったはずはないだろうと推測される。当然に「反・右翼」になりそうだ。

 なお、すでに何回か触れたことのある丸山真男における戦前の拘留経験もそのようなものの「感覚的」契機になったに違いない。

0568/古田博司・新しい神の国(ちくま新書、2007)より-マルクス主義と戦後「左翼」インテリ。

 古田博司・新しい神の国(ちくま新書、2007.10)の最初の方からの一部引用。
 ①「要は反体制ならばハイカラで格好良いという軽薄さは、今日の左翼インテリまで脈々と繋がっており、ソビエトが解体し、中国が転向し、北朝鮮が没落してもなお、資本主義国家に対抗することこそがインテリの本分だと解している向きが跡を絶たない。/『天皇制』を絶対王政に比すの論はさすがに影を潜めているが、『天皇制打倒』の心性はいまだに引き継がれており、日本の左翼人士は『天皇制』が日本の後進性であり、日本人の主体的な自立を妨げてきたのではないかという議論をずっと続けてきた」(p.35)。
 ②1.2000年以降「マルクス主義に対する信仰」は着実に壊れた。大学の科目から「マルクス経済学」に関するものは次第になくなり「日本のインテリ層が徐々に呪縛から解き放たれていった」。
 2.「しかし何という壮大なる洗脳機構だったのだろうか 。価値・史観・階級の論を柱とし、それらが複雑に絡み合うさまは天上の大神殿を思わせた」。
 3.「今日ではすべて塵と化した大社会科学者たちの生涯の業績は、ひたすらその祭司たらんとする献身の理想に満ちあふれていた。だが、その神殿の柱は今やぶざまにも折れ、廃墟の荒涼を白日の下に曝しているではないか。なぜこのような無駄をし、屑のごとき書物を図書館に積み上げていったのだろうか。日本のインテりは一体何をやっていたのだろうか。結局、慨嘆が残っただけではなかったのか」(p.40)。
 ③韓国人や中国人は日韓基本条約・日中友好条約のときに「日本からの援助が欲しかっただけ」で、当時は「嫉妬も押し隠して笑顔を向けた」が、その「微笑みが本物でないことは、やがて露わになっていった」。/「そして戦後からずっと、『東アジアの人々は良い人ばかりで話し合えばわかる』といい続けたのは、実は共産主義者であり、社会民主主義者であり、進歩的文化人であり、良心的な知識人たちであった。伝統的なことには、右も左もない。日本では『伝統的な善人』や『国際的な正義派』がいつも国を過つのである」(p.45)。
 以上。上の②2.の「祭司」たらんとした者は、歴史学、経済学、法学等々の分野に雲霞のごとく存在した。非日本共産党系研究者でも、大塚久雄、井上清は入るし、丸山真男も立派な「祭司」だった。法学分野では日本共産党系の渡辺洋三、長谷川正安を挙げうる。だが、こうした者たちが築いた「神殿の柱は今やぶざまにも折れ、廃墟の荒涼を白日の下に曝しているではないか。なぜこのような無駄をし、屑のごとき書物を図書館に積み上げていったのだろうか。…結局、慨嘆が残っただけではなかったのか」。
 だがなお、マルクス主義の影響を受けた<左翼>インテリは数多い。例えば、樋口陽一よ、かつては「献身の理想に満ちあふれて」仕事をしていたかもしれないが、フランス革命が「理想」・「範型」ではなくなり、社会主義(・共産主義)社会への展望が見出せなくなった現在、かつての仕事は「廃墟の荒涼を白日の下に曝」している筈なのに、(ソビエト「社会主義」崩壊の理論的影響が出にくい法学界であるがゆえに)巧妙にシラを切って、惰性的に似たようなことを反復しているだけではないのか。そういう者たちを指導者として、さらに若い世代に<左翼>インテリが性懲りもなく再生産されていく。壮大な社会的無駄だし、害悪でもある。個人的に見ても、一度しかない人生なのに、せっかくの相対的には優れた基礎的能力をもちながら、気の毒に…。

0542/樋口陽一-この人が日本の憲法学界を代表している(いた)ならば、悲劇。

 樋口陽一・ほんとうの自由社会とは(岩波ブックレット、1990)について、前回(6/09)のつづきの最終回。
 ①樋口は、「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)は所詮西欧近代のものだという反発はあるが、西欧近代に問題があったとしても(植民地支配等)、「それ自体は普遍的な価値をもつ」ことを「やはりためらうことなく主張すべきだ、というのが私の考え」だ、と明言する(p.57)。
 憲法前文に書いていること自体もなお抽象的なので、じつはこの「普遍的な価値」なるものの理解自体にも具体的には分かれが生じうると考えられるが、この点は措く。
 奇妙だと思うのは、上の主張(考え)を、樋口が、「丸山先生のご指摘のとおりです」と言って、丸山真男の次のような言葉によって正当化しようとしていることだ(p.60-2、樋口の文章自体が丸山のそれのそのままの引用ではない)。
 <西欧本籍で普遍的ではないと主張する者は、思想・価値の「生まれ」・「発生論」の問題と「本質」の問題を混同している。「何よりもいい」例は、西欧社会の中軸にある「キリスト教」は「非西欧世界」から生まれてきた、ということだ。>
 この理屈又は論理は誤っている。いくら「何よりもいい」例があったとしても、ある地域・圏域に「生まれた」ものが世界的に又は「人類」に普遍的なものに必ずなる、という根拠には勿論ならない(しかもそこでの例は「西欧」社会に普遍的になったというだけのことで、「世界」・「人類」に対してではない)。せいぜい、なりうる、なることがある、ということに過ぎない。従って、樋口の主張(考え)は一つのそれであるとしても、むろん<普遍的に>主張でき相手方を説得できるものでは全くない。内容というよりも、丸山真男の名前を持ち出せば少しは説得力が増すかのごとく考えているいるような、<論理>の杜撰さをここでは指摘しておきたい。
 ②樋口は、「べトナム民主共和国」の1945年の独立宣言がフランス人権宣言とアメリカ独立宣言を援用していると指摘して、欧米に「普遍的」なものがアジアでも採用された、と言いたいようだ(p.57)。
 社会主義ベトナムの建国文書がフランスやアメリカの文書に言及していても何の不思議もない。一つは、文書上、言葉上なら、何とでも言えるからだ。樋口陽一はこの国が「ほんとう」に「民主」共和国だったのかに関心を持った方がよかったのではないか。二つは、これまで何度も触れたように、フランス革命と「社会主義」(革命)には密接な関係があるからだ。
 樋口は何気なく書いているだけのようなのだが、じつは、樋口が「べトナム民主共和国」という社会主義国の存在を何ら嫌悪していない、ということも上の文章の辺りは示している。
 「べトナム民主共和国」の人権・自由・民主主義の実際の状況には関心を寄せず、あれこれと知識を披瀝し最高裁判決等の情報も提供しつつ、日本を<自虐的に>批判しているのがこの冊子だ。
 ③樋口は、イランの事例に言及したあとで、「昭和天皇に戦争責任がある」と議会答弁した長崎・本島市長が銃撃された事件等を念頭に、「異論をゆるさない風土という点で似通っているのではないか」、と日本(社会)を批判している。
 なるほど異論を持つ者に対する暴力行使は許されないことだろう(その例として「右から」のそれのみを挙げるのはさすがに樋口らしいところだ)。だが、やはり、<何を寝呆けたことを言っているのか>という感想をもつ。
 樋口がその名で刊行している岩波ブックレットそのものもそうだが、日本ほどに「異論」を表明することができる国家は数少ないのではないか。ドイツ・イギリス・アメリカには共産党自体が存在しない(その系統を引く政党はあるかもしれないが、マルクス=レーニン主義をそのまま謳ってはいない)。日本には日本共産党が存在し、またかつてはマルクス主義派を「左派」とする日本社会党も存在して、西欧・米国では考えられないような「異論」を述べていた。フランス「社会党」もドイツ「社民党」もアメリカとの軍事同盟に賛成しているし、フランス「左翼」は自国の核保有にも賛成している。欧米に見習うべきと強く主張している樋口陽一ならば、そういう欧米の「左翼」にも学ぶべきだろう。ともあれ、日本の「左翼」は欧米の「左翼」ならば主張しないだろうような「異論」を自由に述べてきている。日本の一部に見られる暴力的「自由」侵害の例を持ち出して、日本の「異論をゆるさない風土」を語るとは、何とも錯乱的な認識であり、自虐的な日本観だ。
 「異論」の表明自体によってただちに、国家権力によって生命を剥奪される危険性が充分にある「社会主義」国家が現に存在していることを、樋口陽一は全く知らないのだろうか。「異論」の表明に至らない、「不服従」の態度だけで家族ぐるみで<政治犯収容所>に入れられて餓死の危険と闘わなければならない人びとが現にいる国もあることを、樋口陽一は全く知らないだろうか。
 自分は「自由な」日本にいて、書斎の中で「異論」を書き散らし、あるいは安全な施設の中で「異論」を講演したりしておいて、よくぞまぁ日本は「異論をゆるさない風土」だなどと気易く言えるものだ。呆れる。こんな人が日本の憲法学界の代者の一人だ(だった)とすれば、日本の憲法学界は殆どが<狂って>いるのではないか、というじつに悲しい感想を持ってしまった。

0539/樋口陽一・丸山真男らの「個人」主義と行政改革会議1997年12月答申。

 樋口陽一らの憲法学者が最高の価値であるかに説く「個人主義」又は「個人の(尊厳の)尊重」について疑問があることは、私自身が忘れてしまっていたが、振り返ると何度も述べている。
 この欄の今年(2008年)1/12のエントリーのタイトルは「まだ丸山真男のように『自立した個人の確立』を強調する必要があるのか」で、こんなことを書いていた。以下、一部引用。
 佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)p.197-8によると、「日本社会=集団主義的=無責任的=後進的」、「近代的市民社会=個人主義的=民主的=先進的」という「図式」を生んだ、「『市民社会』をモデルを基準」にした「構図」自体が「あらかじめ、日本社会を批判するように構成され」たもので、かかる「思考方法こそ」が戦後日本(人)の「観念」を規定し、「いわゆる進歩的知識人という知的特権」を生み出す「構造」となった。
 佐伯啓思・現代民主主義の病理(NHKブックス、1997)p.74-75によると、丸山真男らにおいて、「日本の後進性」を克服した「近代化」とは「責任ある自立した主体としての個人の確立、これらの個人によって担われたデモクラシーの確立」という意味だった。
 憲法学者の樋口陽一佐藤幸治も、丸山真男ら<進歩的>文化人・知識人の上記のような<思考枠組み>に、疑いをおそらく何ら抱くことなく、とどまっている。
 文字どおりの意味としての<個人の尊重>・<個人の尊厳>に反対しているのではない。だが、<自立した個人の確立>がまだ不十分としてその必要性をまだ(相も変わらず)説くのは、もはや時代遅れであり、むしろ反対方向を向いた(「アッチ向いてホイ」の「アッチ」を向いた)主張・議論ではなかろうか。少なくとも、この点だけを強調する、又はこの点を最も強調するのは、はたして時代適合的かつ日本(人)に適合的だろうか。
 有数の大学の教授・憲法学者となった彼らは、自分は<自立した個人>として<確立>しているとの自信があり、そういう立場から<高踏的に>一般国民・大衆に向かって、<自立した個人>になれ、と批判をこめつつ叱咤しているのだろう。
 かりにそうだとすれば、丸山真男と同様に、こうした、<西欧市民社会>の<進んだ>思想なるものを自分は身に付けていると思っているのかもしれない学者が、的はずれの、かつ傲慢な主張・指摘をしている可能性があるのではないか。
 憲法学者が戦後説いてきた<個人主義>の強調こそが、それから簡単に派生する<平等主義>・<全国民対等主義>と、あるいは個人的「自由」の強調と併せて、今日の<ふやけた>、<国家・公共欠落の・ミーイズムあるいはマイ・ホーム型思想>を生み出し、<奇妙な>(といえる面が顕著化しているように私には思える)日本社会を生み出した、少なくとも有力な一因だったのではなかろうか。
 以上。すでに1月に書いていたこと。
 同じようなことは繰り返し書いているもので、上に出てくる佐藤幸治にかかわることも含めて、<個人主義>の問題に1年半前の昨年(2007年)1月頃には、別の所で、こんなことを記していた。再構成して紹介すると、つぎのとおり。
 八木秀次・「女性天皇容認論」を排す(清流出版、2004)は皇位継承問題だけの本かと思っていたら、1999-2004年の間の彼の時評論稿を集めたものだった(07.1/06)。この本のp.167-171は、1府12省庁制の基礎になった橋本内閣下の行政改革会議の1997.12.03最終答申に見られる次のような文章を批判している。
 行政改革は「日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へ転換すること」 に結びつく必要がある。「日本の国民がもつ伝統的特性の良き面を想起し、日本国憲法のよって立つ精神によって、それを洗練し、『この国のかたち』を再構築」することが目標だ。戦後の日本は「天皇が統治する国家」から「国民が自らに責任を負う国家」へと転換し、「戦時体制や「家」制度等従来の社会的・経済的拘束から解放され」たが、今や「様々な国家規制や因習で覆われ、…実は新たな国家総動員体制を作りあげたのではなかったか」。
 類似の認識は2003.03.20の中教審答申にもあるらしいが、八木によると行革会議の上の部分の執筆者は、「いわゆる左翼と評される人物ではない」、「近代主義者」の京都大学法学部の憲法学者・佐藤幸治らしい(07.1/12)。
 上のように、1997.12の行革会議最終報告は「自律的個人」を基礎に「統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別」して「国民が統治の主体として自ら責任を負う」国のかたちへ変える必要を説いた。「様々な国家規制や因習で覆われ」た、「新たな国家総動員体制」のもとで、「自律的個人」が創出されていない、という認識を含意していると思われる。また、上の報告書は「個人の尊重」をこう説明している。-「一人ひとりの人間が独立自尊の自由な自立的存在として最大限尊重」されるべきとの趣旨で、国民主権とは「自律的存在たる個人の集合体」たる「われわれ国民」が統治主体として「個人の尊厳と幸福に重きを置く社会を築」くこと等に「自ら責任を負う理を明らか」にしたものだ(八木p.168-9)。
 「自律的個人」の未創出という認識は、日本では<近代的自我>が育っていない、と表現されてもきた。加賀乙彦・悪魔のささやき(2006、集英社新書)は「『個』のない戦後民主主義の危険性」との見出しの下で戦争中も現在も日本人には「流されやすいという危うさ」があり(p.78)、「自分の頭で考えるのが苦手な国民」だ(p.82)等と言う。これは日本人の「自律的個人」性の弱さの指摘でもあろう。
 だが、加賀のように、「人権」も「個人の自由」も闘いとったのではない「ガラスの民主主義のなかで」は「個は育ちません」(加賀p.79-86)と言ってしまうと、日本人は永遠に「自律的個人」、自分の頭で考え自分の意見を言える「個人」にはなれない。日本人の長い歴史の変更は不可能だからだ。
 丸山真男等の「戦後知識人」の多くも日本社会の脆弱性を「個人主義」の弱さに求め、「個人の確立」あるいは「自律的個人」の創出の必要性を説いていたように思う。そのかぎりで行革会議最終報告の文章は必ずしも奇異なものではない。
 しかし、思うのだが、日本人は本当に「自律的個人」性が弱く、かつそれは克服すべき欠点なのだろうか。<特徴>ではあっても、「克服」の対象又は「欠点」として語る必要はないのではないか。行革会議最終報告は、「自律的個人」をどのように創出するかの方法又は仕組みには全く触れていないと思われる。弱さ・欠点の指摘のみでは永遠の敗北宣言をするに等しくないか(07.1/11)。
 八木秀次は、行革会議報告の既引用部分等を、今日でも「様々な国家規制や因習で覆われ」た「新たな国家総動員体制」のもとで「自律的個人」が創出されていない、かかる「個人」を解放すべく「『国のかたち』を変革する」必要がある旨と理解する。そして、これは「有り体に言えば、市民革命待望論」だ、今からでも「市民革命を起こして市民社会に移行せよ、という主張」だと批判し、佐藤幸治氏のような「いわゆる左翼」ではない人物でさえ「結局はマルクスの発展段階説の虜となり、無自覚なマルクス主義者」になってしまうことに注意が必要だとする。
 たしかに、伝統・因習から解放された「個人の自立」や民主主義・国民主権の実質化の主張は、日本共産党の考え方、ひいては戦前の、コミンテルンの日本に関する「32年テーゼ」と通底するところがある。日本は半封建的で欧米よりも遅れており、フランス等のような「市民革命(ブルジョア民主主義革命)」がまだ達成されていないことを前提として、民主主義の成熟化・徹底化(そのための個人の自立・解放)を主張し、「社会主義革命」に急速に転化するだろう「民主主義革命」を当面は目指す、というのは、日本共産党の現在の主張でもある(フランスの18世紀末の状態にも日本は達していないとするのが正確な日本共産党の歴史観の筈だ)。
 佐藤幸治等の審議会関係者が「革命」を意識して自覚的に「自律的個人を基礎に」と記したとは思えない。そして、おそらくは日本共産党というよりもマルクス主義の影響を受けた社会・人文諸科学の「風潮」を前提として政府関係審議会類の文書が出来ていることを、八木は批判したいのだろう(ちなみに、行革会議答申後に内閣府にフェミニスト期待の「男女共同参画局」が設置された)。八木秀次は、所謂「体制」側も所謂「左翼」又はマルクス主義の主張・帰結と同様のものを採用している、との警告をしていることになる(07.1/13)。
 まだ続くが、長くなったので省略。
 この欄でも上の今年1/12の他に、佐伯啓思の他の書物等に言及する中で<個人主義>(「自立的個人」)問題には何度も触れてきた。だが、飽きることなく、樋口陽一らの単純な<西欧的>図式・教条への批判は今後も続ける。

0519/<ルソー・ジャコバン型>は肯定的に評価されるべきなのか-樋口陽一。

 菅孝行は、「樋口陽一は、…、日本人は一度は強者の個人主義をくぐれ、ルソー・ジャコバン型民衆主義をくぐれと執拗に提唱している」と書いた(同・9・11以後丸山真男をどう読むか(2004)p.88)。菅はこの提唱を意義あるものとしてその後に文章をつなげていっているのだが、樋口がかかる提唱をする本として、樋口陽一・自由と国家同・比較の中の日本国憲法の二つを示している。出版社名・出版年の記載も頁の特定もされていないないが、いずれも岩波新書で、前者は1989年、後者は1979年の刊行だ。
 上の前者は所持していないが、後者を見てみると、<ルソー・ジャコバン型民衆主義をくぐれ>との旨を明記している部分はどうやらなさそうだ。但し、類似の又は同趣旨だろうと思われる記述はある。
 樋口・比較の中の日本国憲法p.8-10は、要約部分も含めるが、次のように言う。
 「西洋近代」を批判する者(日本人)は「社会現象としては西洋近代だけが生み出した」「個人主義のエートス」を自分にも他人にも「きびしく要求」すべきだ。/西欧と日本の「落差」は「型」ではなく「段階」のそれと見るべきだが(加藤周一に同調、p.5)、その見地に立って「西洋近代とは何かという問いを追求した代表的な仕事」は「大塚〔久雄〕=高橋〔幸八郎〕史学」や「丸山〔真男〕政治学」で、「私たちは、こういう仕事の問題意識と問題提起に、あえて何度でも、しつこくたちもどる必要がある」。(〔〕は秋月が補足)
 いつか記したことがあるように樋口陽一は丸山真男集(全集)の「月報」に一文を寄せて丸山真男を「先生」と呼んでいる。上の文章においても、大塚久雄・高橋幸八郎・丸山真男の仕事に
「あえて何度でも、しつこくたちもど」れ、と(1979年に)書いていたわけだ。私(秋月)や私たちの世代には殆ど理解できない<戦後進歩的文化人の(そのままの)継承者>がここにいることに気づく。
 上の岩波新書では<ルソー・ジャコバン型>うんぬんに明示的には言及していないように思えるが、最近にこの欄で言及した、樋口陽一「フランス革命と法/第一節・フランス革命と近代憲法」長谷川正安=渡辺洋三=藤田勇編・講座・革命と法/第一巻・市民革命と法(日本評論社、1989)は明瞭に、「ルソー=ジャコバン型国家像」という概念を「トクヴィル=アメリカ型国家像」と対比される重要なものとして用いている。
 もっとも、「ルソー=ジャコバン型国家像」とは何かは分かりやすく説明されてはいない(丸山真男が「ファシズム」一般の定義をしていないのに似ている?)。
 樋口によると、「ルソー=ジャコバン主義」という語はフランスで用いられることがあるようなのだが、それは、<主権=政治の万能=国家とその法律の優越=一にして不可分の共和国>という脈絡で用いられている。これだけでは理解し難いが、1789年の否定・1793年〔ジャコバン独裁期-秋月〕の「ブルジョア革命」逸脱視を意味するのではなく、フランス近代法の「個人対集権国家の二極構造のシンポル」としてのそれらしい(以上、p.130-1)。要するに、<近代的>「個人」と(中央集権的)国家の対立(二極構造)を基本とするフランス的意味での<近代的>国家観のことなのだろう。
 別の箇所では、「ルソー=ジャコバン型国家像」は、フランス第三共和制(1875~)以来、「一般意思の表明としての法律の志高性」の観念のもとで「徹底した議会中心主義」の形態で実定化それてきた、ともいう(p.132)。
 大統領制との関係・差違は問題になりうるが、結局のところ、「ルソー=ジャコバン型国家像」とは国家と個人の対立構造を前提とした、「一般意思」=「法律」→法律制定「議会」(→議員を選出する者=「個人」(国民?、人民?、民衆?)を尊重又は重要視する、(フランス的)国家理念(像=イメージ)なのだろう。
 それはそれでかりによいとして、だが、かかる国家像をなぜ<ルソー=ジャコバン型>と呼ぶことに樋口陽一は躊躇を示さないのか、ということが気になる。今回の冒頭に示した菅孝行の言葉によっても、樋口は<ルソー=ジャコバン型>を消極的には評価しておらず、むしろ逆に高く評価しているようだ。
 そのような概念用法自体の中に、看過できない問題が内包されているように見える。

0517/菅孝行ブックレットにおける丸山真男と樋口陽一。

 一 反天皇主義者らしい著者による菅孝行・9・11以後丸山真男をどう読むか(河合出版・河合ブックレット、2004)は、丸山真男を分析し部分的には批判的なコメントを付してはいるが、全体としては、丸山真男の問題関心・分析を受けとめ、<右派>の批判から丸山真男を<戦後民主主義>を標榜する代表者として<護る>というスタンスの、<政治的>プロパガンダの本だ。
 1 「多くの丸山非難言説に反対して、擁護の立場に立たなければならない」(p.70)を基本的立場とし、佐伯啓思西部邁の名をとくに出してこの二人をこう論難する。
 「国家主義的視点から丸山の進歩主義や左翼性を非難する…」、「丸山を非難したい、と決めた彼らは自分のアタマの中に、勝手放題な丸山の像を歴史的な文脈も事実関係も無視して描き出し、レッテル貼りをやってのけた…」(p.79-80)。
 佐伯啓思・西部邁の主張・論理(図書新聞と新潮45の紙・誌上のようだ)が簡単にしか紹介されていない(p.48-49)ので論評しようもないが、菅孝行のこういう反批判の仕方は、きっと同様の論法で反論されるだろう。つまり、<丸山を擁護したい、と決めた菅孝行は自分のアタマの中に、勝手放題な丸山の像を…>という具合に。
 2 菅孝行によると、「戦後丸山は、マルクス主義が生み出すであろうと当時予測されていた政治的現実への必然性と正当性を意識しつつ、認識の問題や政治倫理の問題としてはこれに抵抗して独自の立場を保持するという二面作戦をとった」(p.63)。
 これはおそらく適切な指摘だろう。「当時予測されていた政治的現実への必然性と正当性」とは<社会主義への移行>の「必然性と正当性」であり<革命」の「必然性と正当性」だった。丸山真男はこれを肯定しつつ、ファシズム(の再来)かコミュニズム(社会主義・共産主義)か>という選択を前にすれば、当然の如く後者を採った人物だと思われる(=「反・反共主義」)。一方で、組織的・運動的には岩波「世界」等に活動の場を求めることによって、政治的セクト・「党派」性の乏しいイメージの<進歩的文化人>として、日本共産党員たることを公然化していたような<進歩的文化人>よりも、より大きな影響力をもったのだと考えられる。
 二 主題である丸山真男のことよりも関心を惹いたのは、菅孝行がときどき樋口陽一に言及していることだ。しかも共感的・肯定的に。
 1 「普遍的人権論や人間中心主義」への疑念を列挙したうえで、なお樋口は「『近代』を擁護するだろう」、と書いた。樋口は「『虚構』の『近代』の『作為』を有効とみなしている」。「丸山の軌跡の延長に樋口の立場があ」る(以上、p.25-26)。
 2 樋口陽一は「日本人は一度は強者の個人主義をくぐれ、ルソー・ジャコバン型民主主義をくぐれと執拗に提唱している」(p.88)。
 聞き捨てならないのは上の2だ。続けて菅孝行自身はは次のように主張する(「喚く」)>-樋口の「提唱に意味があるのは、丸山の構想した『自由なる主体』が成立してないままに戦後五二年が経過してしまったから…。決着がついていないなら何十年でも何世代でも延長戦をやるしかないではないか」(同上)。
 上の「自由なる主体」は、1946年の丸山真男「超国家主義の論理と心理」に出てくる。-「八・一五の日は…、国体が喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民…」(丸山・新装版/現代政治の思想と行動(未来社、2006)p.28)。
 丸山真男の議論はさしあたりどうでもよい。
 丸山の「自由なる主体」とはおそらく<西欧近代>流の<自立した自由な(主体的)個人>を意味するのだろう。だが、冗論は避けるが、菅孝行は勝手に「何十年でも何世代でも延長戦」をやるがよいが、おそらく確実に、<勝てる>=<西欧近代>的な<自立した自由な(主体的)個人>に日本人がなる日、は永遠に来ないだろう(日本人が西欧人になれる筈がないではないか。別の回に書くが、「永遠の錯覚」)。
 気になるのは、菅孝行などよりも、樋口陽一だ。樋口陽一とは、私が想定していたよりも、遙かに<左翼>又は<親マルクス主義>者のようだ。回を改める。

0513/大原康男・天皇―その論の変遷と皇室制度(展転社、1988)を半分読んだ。

 曽野綾子・沖縄戦・渡嘉敷島-「集団自決」の真実(ワック、2006)は所持している筈で、(小林よしのり・山崎行太郎にかかわって)現物を見て何か追記する必要を感じているのだが、何故か手元周辺に見つからない。
 大原康男・天皇―その論の変遷と皇室制度(展転社、1988)をp.140まで、約半分を読んだ。
 1985年に初出の「戦後天皇論の変遷」(上掲書第一章の4節)によると、戦後占領期の「反天皇論」は大別して二つあった。一つは「講座派」マルクス主義に立ち「封建的絶対君主制の一種」等と捉える、羽仁五郎、井上清、伊豆公夫、戸田慎太郎、神山茂夫ら。もう一つは、「啓蒙主義的傾向の強い一部リベラリスト」によるもので、「本質的に民主主義と両立しない」と断言した横田喜三郎(当時東京大学法学部教授(国際法)、のち最高裁裁判官-秋月)、共和制憲法案を作った高野岩三郎ら。そして、大原によると、丸山真男は「両者をつなぐ思想的接点のような位置」にいた(p.75-76)。
 その後「今日」(=1985年)までの議論状況をみて、大原は次の三派?に分けている。第一は天皇制度「肯定・支持派」で、福田恆存、村尾次郎、清水幾太郎、戸田義雄、黛敏郎、江藤淳、渡部昇一、村松剛、小堀桂一郎、第二の「否定・廃止派」は、いいだもも、野坂昭如、松浦総三、渡辺清、菅孝行、松浦玲、第三の「積極的に肯定」もせず「はっきり否定もしない」「中間派」は、山本七平、佐藤功(憲法学者-秋月)、和歌森太郎、橋川文三、松本健一
(p.84)。
 以上あくまで大原による。山本七平や松本健一は「中間派」なのかという感想も残るが、とりあえず、参考にしておこう。とくに松浦総三、菅孝行
あたりはときにその名を目にすることがあるような気がするので。
 その大原は天皇(制度)に関する本を100冊選んで紹介しているが、その一つに
菅孝行・天皇制ノート(田畑書店、1975)を挙げ、次のように紹介・論評する(p.108)。
 「現在」(=1985年当時)「もっとも熱心に反天皇キャンペーンを実践している」著者の代表著。「反天皇論者」は殆どが「戦前の天皇制に対する怨念を原体験としてもっている」が、「純然たる戦後世代」。「その情熱はどこから出てくるのか」。
 以上のような論者の分布?に関心をもつほかは、大原の主張の内容は殆ど又はおおむね理解できる。天皇の祭祀行為を「私的行為」として皇室経済法上の「内廷費」で負担するのは奇妙だ等とこれまでこの欄で書いてきたが、私ごときが思う(思いつく)又は考える(考えつく)程度のことは、すでに誰かがもっと正確にかつ説得力をもって書いて(主張して)いるものだ、という想いをあらためて持たざるをえない。
 「皇室祭祀こそ象徴天皇制を支える真の基盤である。皇室祭祀が単なる皇室の『私事』に非ざることは、もはや明白であろう」(p.140)。

0510/松本健一による丸山真男「歴史意識の『古層』」批判等。

 大学生の頃、丸山真男はすでに過去の人というイメージで、1970年前後に重要な発言・主張をした、又は論文を発表した、という記憶はない。したがって、1996年の死後再び丸山に注目が集まってきたようでもあることを奇異に感じている。
 また、1970年前後以降はまともな又は大きな仕事をしなかった(と勝手に判断している)ことについて、丸山自身が、かつての自己の言説が<適切な>ものではなかったことを意識(・反省・後悔)するようになったからではないか、との<仮説>を勝手に立てている。
 それはともかく、松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)によると、丸山は1972年に「歴史意識の『古層』」という論文(?)を発表している。丸山真男集第十巻(岩波、1996)の冒頭に収載されているもので、筑摩書房『日本の思想6・歴史思想集』(1972.11)が初出の公表のようだ。
 さて、松本健一の上掲書はこの丸山の論文を論評した1973年の松本の論文をそのまま収載している(p.194~)。そして、松本と丸山の個人的関係?を考慮すると、じつに厳しい、罵倒とでもいうべき、丸山真男批判を展開していることがとても興味深い。
 むろん罵詈雑言が列挙されているわけではなく、丸山「歴史意識の『古層』」が俎上に乗せられ、その内容の限界、かつて丸山真男が書いていたこととの矛盾等が丁寧に指摘されている。
 逐一紹介する余裕はない。内容に立ち入らず批判的言葉だけを最後から逆順に取り出せば、以下のごとし。-①「無数の大衆たちのことは何一つ扱われておらない」、②「歴史意識の『古層』」として「摘出」したのは「知識人たちが己の主体的作為では状況を切り拓けないと悟り、歴史に瞳をこらして、…自己を救済する途を模索した結果辿りついた史観」だ(以上、p.228)、③「歴史意識の『古層』」を探る作業は「この文字の背後にある広大な闇を無視してしか成立しえなかった、…知らなかったのではない。知っていて敢えて無視した」(p.227)、④丸山らが「日本人の意識構造の基底に『なる・なりゆく』史観を視るとき、…日本人からは知識人以外の民衆がほとんど欠け落ちてしまっている」(p.225)、⑤丸山は「つねに『書かれた歴史』『言葉に現れた思想』しか問題にしなかった。そこでは…エートス、……パトスとして噴出せざるをえなかった行動、等々…を掬いあげることは不可能なのではないか」(p.220-1)、⑥丸山は「知識人の辿り着く意識構造を分析し…、わがくにびとの意識構造一般を解析したわけではなかった」(p.219-220)、⑦「近代主義の、…その主導たるべき主体的作為の挫折したところに、なりゆく史観は忍びこんだのだ」(p.217)、⑧「かくして、丸山は己をふくめた日本の知識人たちに、その知性がついに辿りつくべき墓場を指し示した」(p.216)、⑨丸山が記紀が「古代社会(大和朝廷)の正統化」という意味をもつことを「無視」して「古事記から『古層』の基底範疇を導き出し、しかもそれを、歴史に自己救済(自己正当化)を求める知識人たちの証言で重複的に立証しようとしたことは、かれ自身が己の自己救済(自己正当化)を図ろうとしていたことの証しではないか」(p.215-6)、⑩丸山は「己がその日本の情景にふくまれるかどうか、という問いを隠した」(p.211)。
 これくらいにしよう。1914年3月生れの丸山は1972年11月には満58歳、老境に入りかけているが、まだ現役の東京大学教授だった。その丸山の論文に対する、翌年のこのような批判はなかなかスゴい。
 松本健一のこの論評(論文)に関して興味を惹いたことはまだ二つほどある。
 一つは、丸山真男が50歳代後半に記紀、とくに古事記に関心を持って熟読した、と見られることだ。彼の「日本的なるもの」への反発的関心?が記紀に向けられたということは、50歳代後半という年齢と無関係ではなかったのではないか。
 二つは、松本健一が、1970年頃に(松本は年月日を特定していない。別途調査すれば判明する筈だが労を厭う)「全共闘の学生たちが丸山真男の研究室に乱入し、怒号にちかい言葉でかれをつるしあげた」ことを、「学問上の師父」・「戦後民主主義の生みの親」に対する、「己の前身そのその」に対する、<父への憎悪>にもとづく、<父親殺し>と位置づけていることだ(p.196~202)。
 この二点めも面白い。しかし、「全共闘の学生たち」は「戦後民主主義」の嫡出子なのか鬼子なのか、「全共闘」学生(又はじつは卒業生)の中には丸山真男などより遙かにラディカルな(中核、革マルとか呼ばれた)職業的?活動家もいたのであり、単純に「父-子」関係と言えないのではないか、等の疑問が出てきて、にわかに賛同することはできない。そもそも「全共闘の学生たち」の思想・主義とは何だったのだろうか。簡単に一括して論じられはしないだろう。
 というわけで、またまた丸山真男批判の本を読んでしまった。もう丸山にはかかわりたくない気分がする。たまたま東京大学助教授・教授だったために、等身大以上に論評され、評価されている(つまり<虚像>部分を多分に含む)人物(・学者さま)ではないか。
 なお、一年ほど前に丸山真男の1953年のわずか3頁の小文「選挙に感じたこと」を<全集第5巻>の中で読んだことがある。そして、学者・研究者のものとはとても思えない、当時の<左派社会党>を応援する、<政治活動家>又はせいぜい直近にいる<ブレイン>が書いた文章だ、という感想をもった。

0509/丸山真男は「反日」=日本「解体」論者の元祖-松本健一の本。

 松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)を数日前に全読了(計247頁)。
 この人の単著を全部読んだのは初めてかもしれない。東京大学経済学部出身。他学部の聴講可能性が拡大された時期に法学部の丸山真男の講義も聴いた。手紙のやりとりをするくらい親しく?、本人は否定しているが丸山の「弟子」と言われたこともある。だが、この本は既述のように、全体として、丸山真男批判の著であり、部分的には告発・糾弾の著でもある(と理解した)。
 全体を紹介する余裕はない(最初の方の詳細はもう忘却している)。まず、一点だけ言及する。
 丸山の「超国家主義の論理と心理」を素材としていると見られる叙述の中で、丸山の論理の中に「戦後の反日イデオロギー」の源泉を見出している(p.147-157)。以下、松本が丸山の論理を辿る文章を要約する。
 丸山にとっては「八・一五革命」により日本は近代国民国家に普遍的な「ナショナリズム」に立ち戻った、換言すれば、「国民主権」思想に立脚できた。ナショナリズムは近代国家の「本質的属性」だが、戦前日本は「質的な相違」のある「真にウルトラ的性格」のそれを帯びた。しかして、西欧近代国家は価値に対して「中立」的な「中性国家」だったが、戦前日本=明治国家は「天皇」という「内容的価値の実体」に根拠をもった。これが「国体イデオロギー」だ。この「イデオロギーは、…日本の国家構造そのものに内在」するもので、かつ重要なことに、明治国家に限られず、「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背負っている」、「皇祖皇宗もろとも一体となった」「内容的価値の絶対的体現」だった。反復すれば、明治国家に限られた「国体イデオロギー」なのではなく、「日本の国家構造そのものに内在」するものだ。となれば、天皇制=「国体イデオロギー」を否定するためには「日本そのものを解体しなければならない」という「戦後の反日イデオロギー」が帰結として派生してくる
 以上の「」は、松本の語と丸山の語の場合の両方がある。上の丸山真男における最後の部分、天皇制=「国体イデオロギー」は「日本の国家構造そのものに内在」する、という文章は、丸山真男・新装版/現代思想の政治と行動(未来社、2006)だと、p.16にある。
 今どき、丸山真男の言説など、無視しておけばよいのかもしれない。だが、上の松本の指摘は面白い(interesting=興味を惹く)。
 丸山真男にとっては、「象徴」天皇制度が残った「国民主権」国家とはきっと中途半端なものだったに違いない。彼の気嫌う非合理的な価値の源泉が残り、それが「再び」巨大化して復活することを恐怖したかもしれない。「超国家主義の論理と心理」は1946年に書かれているが、丸山・現代思想の政治と行動「増補版への後記」の中で、「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」(上掲書p.585)と書いたとき(1964年)、そこには<天皇制度>を否定したい気分が明瞭にまだ残っていたかに見える。
 松本の揚げ足を取るようだが、天皇制=「国体イデオロギー」を否定するためには「日本そのものを解体しなければならない」わけではなく、厳密には又は正確には<天皇制度>の解体・否定で十分ではなかったのだろうか。「天壌無窮の皇運」に担保された「国体イデオロギー」が解体・否定されれば十分だったのではないか。すなわち、新憲法で<天皇制度>を否定し、天皇・皇室も、古事記・日本書紀等の皇室関連「物語」も一切否定して、それこそ(真の「国民主権」制又は「共和制」国家として)「新しく再出発」していれば、丸山真男の鬱屈もなかったのではあるまいか。だが、そのような現実、そのような国家が「日本」と言えるかを、丸山は心底では想定できなかったのかもしれない。松本は丸山は「外在的」に「日本」又は「日本ファシズム」を批判したとか記述しているが(p.234等)、丸山真男も自らが<日本人>であることまでを否定できなかったようにも見えなくはない。
 だが、ともかく、今に続く日本人の「反日」意識、<反「日本」国家>意識の源が戦後直後の(しかも少なくとも知識人にはよく読まれたらしい)丸山真男論文に(も)ある、というのは興味深い。「反日」意識の根源又は中核は、<反・天皇>意識・<反・皇室>感情だろう。そして(日本共産党は当然だが)週刊金曜日の編集人の佐高信・石坂啓・筑紫哲也・本多勝一らを代表とする<進歩的・左翼>の人たちは、スッキリしない・非合理的なものとして<天皇・皇室>制度の解体を本音では望み、主張している筈だ。丸山真男の継承者・追随者は現在でも多数いる。
 長くなったので、別の点は別の回に。

0508/戦後日本の「保守」主義成立の困難さ-佐伯啓思による。

 佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)p.172-3によると、戦後日本に「保守という思想」がありうるのか、ということから考察する必要がある(それは成立し難いということを(多分に)含意させているようだ)。
 その理由の第一は、佐伯によると以下のことにある。
 「いわゆる保守派」はアメリカの保守思想を手本にしたため、「本当の意味でのヨーロッパの保守主義(とくにイギリスの保守主義)」が日本にうまく「根づかなかった」。
 ヨーロッパ思想も導入されたが、「ほとんどは、いわゆる左翼進歩主義的」なものだった。すなわち、「戦後の思想のスター」は、ルソー、ヘーゲル、マルクス、ウェーバー、ロック、ミル、ハーバーマス、アドルノ、サルトル、「フランス現代思想系の人たち」〔デリダやフーコーらか?-秋月〕だった。一方、エドマンド・バーク、コーク、ブラックストーン、ヒューム、カーライル、バジョット、オークショットらは紹介されなかったか、殆ど無視された。
 前回に続いて、かかるリストアップ、とくに後者の<保守主義>又は<反・左翼>の人名のそれ、をしておきたい気持ちも強くて、紹介した。「イギリスの保守主義」とは、ときに「スコットランド(学派)の保守主義」と称されるものを重要なものとして含んでいるだろう。ともあれ、日本の研究者による外国の思想(家)の紹介や分析が、公平・中立あるいは客観的に行われているわけでは全くない、ということは明らかだ。  日本の思想・政治・文化等の状況に応じて、指導教授や<仲間たち(同業者)>の意向・動向をも気にしつつ、研究者個人がどう「価値」判断するかを直接には契機として、<外国研究>は行われているわけだ。このことは、思想・哲学に限らず、人文・社会系の全ての学問分野にあてはまるものと思われる。
 上に関する理由の第二として、佐伯は丸山真男に次のように論及する。
 「保守」はその国の「歴史や伝統」から出発するが、戦後日本はGHQのもとで「日本の伝統」という「因習的で封建的な」ものを「ほとんど切り捨て」た。東京大学の憲法学者・宮沢俊義も「八月革命説」を唱え、丸山真男は「革命」の起きた八・一五という原点に立ち戻れと繰り返し説いた。となると、「革命」により「生まれ変わった」日本には、「伝統や慣習」を大切になどとの発想がでてくる筈はない。
 以上で要約的紹介の今回分は終わりだが、かかる、丸山真男を典型とする、戦前日本の、そしてまた日本の「歴史や伝統」の(少なくともタテマエとしての)全否定が、「本当の」<保守思想>成立を困難にした、というわけだ。そのような風潮に、所謂<進歩的知識人・文化人>は乗っかり、又はそれを拡大した、ということになる。その影響は今日まで根強く残っているものと思われる。(「外」の力によってであれ)望ましい「革命」があったとするなら、神道や日本化された仏教という<歴史的・伝統的な>ものに関する知識やそれらへの関心が大きく低下したのもしごく当然のことだ。
 「八月革命説」と昭和天皇の現憲法公布文(「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」)はどういう関係に立つのか(立たないのか)、および丸山真男の議論の具体的内容については、いずれまた言及することがあるだろう。

0503/松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社)は丸山真男批判、等。

 〇記していなかったが、たぶん3月から松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)を読んでいて、5/11夜に少し増えてp.125まで、半分強を読了した。この本の帯には「…研究者の軌跡!」とか「丸山真男の軌跡!」とか(売らんがために?)書いているが、この本は、丸山真男批判の書物だ。
 丸山真男を<進歩的文化人>として尊敬している、又は<幻想>を持っている<左翼的>な人々は、この本や、たぶん既述の、竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)、水谷三公・丸山真男―ある時代の肖像(ちくま新書、1999)あたりを読むとよい。
 〇飯田経夫・日本の反省(PHP新書、1996)の第六章「『飽食のハードル』への挑戦」、第七章「真の『豊かさ』とは何か」(と「あとがき」)を5/11に読んだ。第三章と合わせて全体の1/3くらいを読了か。著者の意図はともかく、あまり元気が出てくる、将来展望が湧き出てくる話ではない。1996年の本だが、脈絡を無視して引用すれば、こんな言葉がある。
 ・「要するに人びとは、現状に満足し、『これでいい』と言っているのである。そして、現状を変更したくはないのではないか」(p.170)。
 ・「ある社会がピークに到達し、それを通りすぎた後には、『社会のレベル』の低下が、万人の予想を裏切るほどだという事実が、どうやらある…」(p.176)。
 ・「まさに戦争に敗れたという事実そのものが、日本人から魂を抜き去り、…私たちを腑抜けにしてしまったのかもしれない」(p.185-6)。
 以下は、「個人の解放」(個人の尊重)が<究極の価値>だと明言していた憲法学者・樋口陽一に読んでもらいたい。
 ・「それ〔日本的経営の人間関係〕は、…個人主義ではない。だが、はたして個人ないし『個』が、それほど絶対の存在であろうか。それを絶対と信じるアメリカ人は、はたして『よき社会』をつくることに成功しただろうか。また、はたして個人のひとりひとりが、とくに幸せであろうか」(p.179)。
 樋口陽一に限らず、殆どの憲法学者がいう「個人主義」・「個人的自由」は、戦前の<国家主義>又は「個人的自由」の制限に対する反省又は反発を、過度にかつ時代錯誤的に<引き摺り>すぎている、と思う。
 〇佐伯啓思・学問の力(NTT出版)はたぶん5/10にp.260まで読んで、あとわずか20頁ほどになった。この本についても、感想は多い。
 〇他に、まだ読みかけの本や、月刊雑誌を買ったが読んでいない収載論考があるはずだが、ただちに思い出せない。今、浅羽通明・昭和三十年代主義―もう成長しない日本(幻冬舎、2008)を思い出した。少しは頁数を延ばしている。
 阪本昌成・法の支配-オーストリア学派の自由論と国家論(勁草書房、2006)と佐伯啓思・隠された思考―市場経済のメタフィジックス(筑摩書房、1985)は、途中で止まったきりだ……。

0417/丸山真男全集の一部を読む-欧州「啓蒙主義」追随者・「進歩」主義者の<自認>。

 「保守主義」と「進歩主義」の差違・対比について佐伯啓思が述べている部分を先日に要約した。
 これとの関係で、丸山真男が次のように明確に述べているのは興味深い。丸山真男集・第12巻(1996.08)所収の「『現代政治の思想と行動』英語版への著者序文」にある文章で、これは基本的には1962年に英文で丸山が書いたものを1982年に一部手直しをしつつ日本語化したもののようだ。
 すなわち、「私は自分が十八世紀啓蒙主義の追随者であって、人間の進歩という『陳腐な』観念を依然として固守するものであることをよろこんで自認する」(全集12巻p.48)。
 何ともあっけらかんとしたものだ。これで済ますことができた時代の学者・知識人は<楽>だったに違いない。
 全集のこの巻(1982~1987)には丸山真男とマルクス主義との関連、丸山の思想的背景等を示す文章が収録されていて、資料的価値は高いだろう。
 なお、樋口陽一は、全集第10巻(1996.06)の月報に登場して、丸山真男を「先生」と呼び、丸山のある文章の慧眼ぶりを敬意をもって記す文章を載せている。さすがに<進歩的知識人>の衣鉢を継いだ者というべきだろう。
 ついでに、全集第8巻(1996.02)の月報の執筆者は、日高六郎、三木睦子、筑紫哲也の三名だ。全部を見たわけではないが、岩波が依頼したはずの月報執筆者は、全員がいわゆる「左翼」のオン・パレードではないか。

0416/佐伯啓思のいくつかの本を読んでの付随的感想二つと樋口陽一。

 全て又は殆どではないが、佐伯啓思の本を読んでいて、感じることがある。
 第一は、佐伯の仕事全体からすれば些細なことで欠点とも言えないのだろうが、欧米の「思想(家)」には造詣が深くとも、日本人の政治・社会・経済思想(家)-漱石でも鴎外でもよいが-については言及が少ないことだ。無いものネダりになるのだろうが、この点、「日本」政治思想史を専門としていたらしい丸山真男とは異なる。
 だが、丸山真男よりも劣るという評価をする気は全くない。丸山真男には岩波書店から安江良介を発行者とする「全集」(別巻を含めて計17巻)があり、さらに書簡集まで同書店から出ているようだが、いつかも書いたように、そこまでの内容・質の学者又は思想家だったとは思えない(<進歩的知識人>の、客観的には又は結果的には浅薄で時流に乗った文章の記録にはなる)。
 むしろいずれ将来、佐伯啓思については既刊行の著書も全て再録した「全集」をどこかの出版社が出してほしいものだ。それに値する、現在の「思想家」ではないか。
 第二に、佐伯はしばしば<冷戦の終了(冷戦体制の崩壊)>という旨の表現を簡単に使っている。しかし、<冷戦終了>(フクシマの「歴史の終わり」)もまた欧米的発想の観念で、<冷戦が終了した>と言えるのはソビエト連邦が傍らにあった欧州についてである、そして、アジア、とくに東アジアではまだ<冷戦は続いている>、のではなかろうか。
 欧州を祖地と感じる国民が多いと思われるアメリカにとってはソ連崩壊は自らのことでもあったが、北朝鮮・中国については、どこか<遠い>地域の問題という感覚が(ソ連の場合に比べてより強く)あるのではないか。
 北朝鮮・中国(中華人民共和国)が近隣にある日本はまだ、これらの国との<冷戦>をまだ続けている、と認識すべきだろう。そして、<冷戦>からホットな戦争になる可能性は厳として残っていると考えられる。
 <冷戦終了>=ソ連崩壊・解体(+東欧の「自由化」等)によって<社会主義>・<コミュニズム(共産主義)>あるいは<マルクス主義>というイデオロギーは大きな打撃を被った筈で、このことの影響・インパクトを軽視し、又は巧妙に誤魔化している<親社会主義>の(又は、だった)学者・文化人への批判を、おそらく佐伯もするだろう。ましてや、ソ連は「(真の)社会主義国」でなかったと言い始めた日本共産党に対しては<噴飯もの>と感じているだろうと推測はする。但し、北朝鮮・中国問題への関心が現実的重要性からするとやや少ないように感じられるのは残念ではある(これも無いものネダりかもしれないが)。
 ところで、樋口陽一・「日本国憲法」まっとうに議論するために(みすず書房、2006)は1689(英国・権利章典)、1789(フランス革命)、1889(明治憲法施行)の各年に次ぐ4つめの89年の1989年も重要なことがあった、として次のように述べている。
 「…旧ソ連・東欧諸国での一党支配の解体です」(p.29)。
 ここの部分は多くの論者によるとソ連等の<社会主義国の崩壊(解体)>と表現されるのではないかと思うが、樋口は「一党支配」と言い換えている。だが、「『権力の民主的集中を掲げて対抗してきた旧ソ連・東欧諸国での一党支配の解体」という表現は、本質を、あるいはその重要性を少なからず隠蔽していると感じられる。その意味で、<政治的>に配慮された表現を採用している、と思われるのだが、<深読み>かどうか。

0373/まだ丸山真男のように「自立した個人の確立」を強調する必要があるのか。

 昨年の4/16のエントリーの一部でこう書いた。
 「昨年に読んだ本なので言及したことはなかったが、いずれも1997年刊の佐伯啓思・現代民主主義の病理(NHKブックス)、同・「市民」とは誰か-戦後民主主義を問い直す(PHP新書)は「戦後」・「民主主義」を考えさせてくれる知的刺激に満ちた本だった」。
 これらの具体的内容は紹介していないが、佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)も、ほぼ同時期の「知的刺激に満ちた本」として挙げておく必要がある(他にもあるだろう)。
 この本のある程度詳細な内容紹介をする意図も余裕もなく、メモ程度になる。
 p.181以下が書名と同じ「現代日本のイデオロギー」との論文だが(月刊正論1997.01~06初出)、戦後日本の「進歩」主義、丸山真男・大塚久雄らの「進歩的」文化人・知識人(大江健三郎を筆頭に?その片割れ又は後裔は現今でもまだ跋扈している)の思想・思考の(「トリック」(p.198)を含む)論理構造を分析・剔抉(てっけつ)していて、面白く、有意義なものとして読める。
 もともと佐伯啓思は上掲の現代民主主義の病理の中に「丸山真男とは何だったのか」という節を設けていて(こちらの本のp.74以下)、こちらの方が詳しいかもしれない。
 講談社の本による佐伯の表現によると、「日本社会=集団主義的=無責任的=後進的」、「近代的市民社会=個人主義的=民主的先進的」という「図式」を生んだ、「『市民社会』をモデルを基準」にした「構図」自体が「あらかじめ、日本社会を批判するように構成され」たもので、かかる「思考方法こそ」が戦後日本(人)の「観念」を規定し、「いわゆる進歩的知識人という知的特権」を生み出す「構造」となった(p.197-8)。
 NHKブックスによる佐伯の叙述によれば、丸山真男らにおいて、「日本の後進性」を克服した「近代化」とは「責任ある自立した主体としての個人の確立、これらの個人によって担われたデモクラシーの確立」という意味だった(p.74-75)。
 陳腐な内容の引用になったかもしれないが、書きたいことは以下のことだ。
 私自身が確認したのではないが、この欄でも言及したことがあるように、八木秀次によれば、憲法学者の佐藤幸治は、行政改革会議答申(省庁再編に具体的にはつながった)の中で、<自立した個人の確立>の必要性を強調していた(記憶に頼っているので微細な表現の違いがあるだろうことはご容赦いただきたい。次の段も同じ)。
 また、私自身の記憶のみに頼れば、憲法学者の樋口陽一は日本国憲法上の「個人の尊重」規定を重視し参照、第13条第一文「すべて国民は、個人として尊重される。」)、樋口と対談したことのある井上ひさしは、<個人の尊重>または<個人の尊厳の保障>が最も大切または最も基本的なこととして印象に残った旨を何かの本に記していた。
 書きたいことは容易にわかるものと思われる。憲法学者の佐藤幸治も樋口陽一も、―この二人は学界でも相当に有力な二名のはずだが―丸山真男ら<進歩的>文化人・知識人の上記のような<思考枠組み>に(疑いをおそらく何ら抱くことなく)とどまっている、ということだ。
 文字どおりの意味としての<個人の尊重>・<個人の尊厳>に反対しているのではない。
 すなわち、<自立した個人の確立>がまだ不十分としてその必要性をまだ(相も変わらず)説くのは、もはや時代遅れであり、むしろ反対方向を向いた(「アッチ向いてホイ」の「アッチ」を向いた)主張・議論ではなかろうか。少なくとも、この点だけを強調する、又はこの点を最も強調するのは、はたして時代適合的かつ日本(人)に適合的だろうか。
 佐藤や樋口が明言しているわけではないが、有数の大学の教授・憲法学者となった彼らは、自分は<自立した個人>として<確立>しているとの自信があり、そういう立場から<高踏的に>一般国民・大衆に向かって、<自立した個人>になれ、と批判をこめつつ叱咤しているのだろう。
 かりにそうだとすれば、丸山真男と同様に、こうした、<西欧市民社会>の<進んだ>思想なるものを自分は身に付けていると思っているのかもしれない学者が、的はずれの、かつ傲慢な主張・指摘をしている可能性があるのではないかと思われる。
 縷々論じる能力と余裕はないが、憲法学者が戦後説いてきた<個人主義>の強調こそが、それから簡単に派生する<平等主義>・<全国民対等主義>と、あるいは個人的「自由」の強調と併せて、今日の<ふやけた>、<国家・公共欠落の・ミーイズムあるいはマイ・ホーム型思想>を生み出し、<奇妙な>(といえる面が顕著化しているように私には思える)日本社会を生み出した、少なくとも有力な一因だったのではなかろうか。
 だとすれば(仮定形を続けるが)、<日本的なもの・日本の問題>に大きな関心を向けることなく、高校以下の学校教員を通してであれ国民に一定の<イズム>を<空気>のごとく押しつけてきた戦後憲法学の専門家たち(知識人・文化人)の責任も―一部の人にとっては主観的には善意に行われたとしても、その<行きすぎ>の弊害をもたらした結果に対して―また大きいものと思われる。

0355/水谷三公・丸山真男(ちくま新書)を読了。

 いつから読み始めたのかは記録していないが、一昨日に、水谷三公・丸山真男―ある時代の肖像(ちくま新書、2004.08)を面白く読了した。
 丸山真男(1914~1996)については、竹内洋・丸山真男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム(中公新書、2005.11)もたぶん昨年中に読了していて、今はどの箇所だったか確認できないが(ひょっとして竹内洋の別の本だっただろうか?)、丸山真男の名はいずれ東京大学の当該分野(政治思想史)の専攻者あたりにのみ記憶されるようになるだろう(つまり世間一般・論壇一般には忘れ去られるだろう)という旨の叙述が、そのとおりだろうな、という感覚を伴って、印象に残った。
 竹内の上掲書を再び手に持って中を見てみると、とりあえず、第一に、丸山真男逝去後の記事の数は、朝日8、毎日6、読売4、日経2、産経2だったというのはなかなか興味深いし(p.10-11)、第二に、丸山は大学教授というよりも東大教授という「特権」(または他の大学教授・一般大衆とは違うという)意識を持っていた、との指摘(p.297)も興味深い。
 さて、水谷三公・丸山真男(ちくま新書)は、竹内著に比べれば、丸山真男「理論」又は「思索」を内在的に論じたものだ。これは竹内と違って水谷三公には丸山真男の「謦咳に接した」経験があり、「丸山先生」と書く箇所もあるように、丸山から指導をうける立場にあったことによるところが大きいだろう。
 そして、水谷は「脱線と愚痴のごった煮」(p.61、p.309)と謙遜?し、たびたび「パリサイの徒」(と批判される)かも知れぬが、と挿入してもいる。
 だが、表面的にはともかく、この水谷の本は「丸山も誤った」ことを前提にして、「何について誤ったのか、なぜそうなったのか、いつそれに気づき、どう考えたのか」(p.17)を内在的に丸山真男の著書・対談等を素材に考察したもので、私の見方によれば、丸山真男全面批判の書だ。そして、水谷は大仰には書いてはいないが、丸山真男に対する<勝利宣言>の書だ、凱歌を奏でる書だ、と私は感じた。
 逐一の紹介、丁寧な引用はしないが、水谷には朝鮮戦争に関して北朝鮮に批判的発言をして「反動」扱いされた等の、丸山真男を取り巻く「進歩的」研究者から批判又は蔑視されたような体験があるらしい。
 そのような<原体験>からすると、<正しかったのはどっちだったのだ!>と言いたくなる気分もよく分かる(このように露骨に書いているわけではない)。
 ともあれ、丸山真男は簡単に言えば、戦後も生じるかもしれない日本「ファシズム」よりもコミュニズムを選択(選好)した大学人・知識人だった。<反・反共主義>だ。
 彼は日本共産党からのちに批判されたように(党員グループによる批判書もある-土井洋彦・足立正恒らの共著(新日本出版社))、日本共産党員ではなくマルクス主義者とも言えなかったかもしれないが、しかし、戦後の自民党が代表するような(と彼には見えた)軍国主義・ファシズム的あるいは保守・反動的傾向よりは、まだ社会主義・共産主義の方がマシだ、と考えていた人物だ。
 このコミュニズムに対する「甘さ」。丸山真男に限らないが、これこそ丸山真男の致命的欠点であり、有名ではあっても歴史的には「悪名」としてその名を残すことになるだろうと私は考える原因だ。
 日本共産党員あるいは明瞭なマルクス主義者でなかったことは、却って一般国民あるいは論壇の読者を安心させ、彼が政治的には支持していた(に違いない)日本社会党(統一前は左派)等の「左翼」・「進歩」勢力の増大化のために貢献する、という役割を果たしたと思われる。
 水谷によれば、丸山真男は晩年も「社会主義」選好を捨ててはおらず、ソ連崩壊とマルクス主義敗北を同一視するような日本の世論?に対して憤っていた、という。崩壊後になってソ連は「真の」社会主義国ではなかったとする日本共産党の考え方とまるで同じだ。
 だが、丸山真男は本当に歴史が「社会主義」の方向に「発展」していくことを死ぬまで信じていた、あるいは期待していたのだろうか。
 推測するに、いつかの時点で、あゝ自分が若いときに考えていたこと、「見通し」は誤っていた、と深刻に感じ入ったときがあったのではなかろうか
 理由らしきものをあえて挙げれば、1970年前後の丸山真男の発言の少なさだ。
 この当時(私は大学生だったが)、丸山真男はもはや「過去の人」だった。社会党はどちらかというと全共闘系学生を支持していたように見えたが、丸山は全共闘系を支持する文章を書かなかったはずだし、当時の時代状況のもとでの政治的発言をほとんどしなかったのではないか。なぜだろう。
 70年代には、丸山真男はかつての自分の認識・理解・予想・「見通し」が誤っていたことに気づいていたのではないか。
 丸山真男の全集はかなり揃えたので、彼の時代ごとの政治的論稿を容易に読める。いずれ、この欄でも紹介して、この「戦後民主主義」者の幼稚さ、短絡さ、<思い込み>の例を指摘することにしよう。
 水谷は丸山真男の全集・対談集・書簡集を素材にしているが、これらを出版しているのは岩波書店。さすが、と言うべきか、やはり、と言うべきか。
 こんな人の全集等を出版しておく意味はない、と私には思える。だが、昭和戦後の一時期の<進歩的文化人・知識人>がどんな主張をしていたのかを容易に知る(そして嗤い飛ばせる)ことができる、という意味においては、出版物としてまとめておく歴史的意義があるだろう。 

0349/デモクラシーに再言及すると。

 デモクラシーとは元来は讃えられるべき状態又は理念を意味したのではなく、悪い状態又は忌むべき理念だったことは、長谷川三千子の文春新書にも書いてある。
 長谷川三千子・文春新書だから信用できない、という(朝日新聞・岩波シンパにはいるかもしれない)人は、かの<権威がある、正しいことが書いてあるはずの>岩波新書、福田歓一・近代民主主義とその展望(1977)のp.3にさっそく次のように書かれているのを知るとよいだろう。
 ヨーロッパの場合はどうかというと「実はここでも民主主義という言葉ははなはだいかがわしい言葉であって、それが間違いなく正当な言葉、いい意味をもった言葉として確立したのはこの第一次大戦のときだったのであります」。
 単純・素朴な<民主主義>礼賛者は、マスコミの中にいる人も含めて、こんな単純なことも、おそらくは知らないのだろう。
 もう一点、別のことに触れておくと、第二次世界大戦は<民主主義対ファシズム>の闘いだったという理解の仕方も、戦勝国側の後づけ的な説明によることが多大であることを知っておく必要があると思われる。
 日本はいかなる意味で<ファシズム>国家だったかという基本的な問題がまずあって、丸山真男のそもそもの出発点が誤っている可能性が大だが、その点は別としても、社会主義・ソ連を含めて<民主主義>陣営と一括して理解することに、相当の欺瞞があったと言うべきだろう。
 かかる<民主主義>概念の曖昧さ、「人民民主主義」とか称して社会主義は「民主主義」と矛盾しないと説かれた、その<いかがわしさ>は、1929年のケルゼン・デモクラシーの本質と価値(岩波文庫、1948)の序文の中にも実質的にはすでに論及されている。

0337/60年安保闘争-長部日出雄の何気ない贅言は適切か。

 長部日出雄という作家が、邦画の昭和史(新潮新書、2007.07)p.33-34でいう。
 60年安保闘争については「否定論」が「圧倒的に多いだろう」が、自分は、<あの…未曾有の大衆行動の広がりと高まりが、…憲法改正と本格的な再軍備を…無理だ、という判断を日米双方の政府に固めさせ、…ベトナム戦争にわが国が直接的に介入するのを防ぎ止めた>と考える、と。
 歴史学者・政治学者ではないその意味で非専門的な「文化人」らしき者が簡単にこう書いてしまっているところにも、<戦後(民主主義)思想>の広がりと影響力を感じる。
 1.何をもって、「否定論」と<肯定論>とを分けるのか。安保改定を許したという点では、否定も肯定もなく、60年安保(改定阻止)闘争は<敗北>だったのだ。
 2.敗北でありながら<よく頑張った>というのは立花隆にも共通している。
 そして、60年安保闘争の「広がりと高まり」が自民党・政府に憲法改正を諦めさせ、経済成長・低姿勢路線を歩ませたのだとすれば、それは日本にとって歴史的に大きな厄災だった。60年代に憲法改正、正確には九条改正・自衛軍保持明記がなされていれば、今日になお問題を残すことはなかった。
 60年安保闘争の指導者たち、理論的支援者たちは、その後に日本社会党等の改憲反対勢力が国会で1/3以上の議席を占め続け、自主憲法の制定(占領体制からの基本的脱却)ができなかったことについて、歴史的に大きな責任を負うべきだ。当時の「全学連」の指導者たち(西部邁、唐牛某ら)、煽った知識人たち(清水幾太郎、丸山真男ら)も当然に入ってくる。
 (なお、当時の自由民主党幹部にも大きな責任がある。)
 長部はp.47で<あの頃、学生たちをデモに向かわせたのは、左翼思想だけでなく、戦争反対の強い危機意識だった>とも書く。
 <左翼>イデオロギーにやられている人がここにもいる。60年安保闘争の中核にいたのは、<左翼>=マルクス主義者=ソ連等社会主義国支持者=日本を社会主義国にしたい者たち、だったのだ。
 1934年生の長部もデモに参加したのだろうか。過去の自分の行動を美化・正当化したい気持ちがあるのだろう。だが、上に紹介のような認識は誤っている。左翼的=反戦平和=良きこと、というような「戦後思想」にズブズブに浸っている。

0266/大学の歴史・社会系ではまだ共産主義系が多数派!?

 この1年間で、いや8カ月と区切ってもいいのだが、最も印象的で、最も衝撃的な情報は、月刊諸君!2007年2月号(文藝春秋、2006.12末発売)の伊藤隆・櫻井よしこ・中西輝政・古田博司による「「冷戦」は終わっていない!」との「激論」の中の次のような文章だった。
 伊藤教え子たちがいろいろな大学に就職…聞くのですが、大学の歴史・社会科学系では実はまだまだ共産主義系の勢力が圧倒的多数なんですね
 中西近年、むしろ増えているのではないですか。現在は昭和20年代以上に、広い意味での「大学の赤化」は進んでいると思います
 伊藤「…戦後第一世代と異なるのは、そうした左翼シンパのひとりひとりはほとんど無名の存在だ…。いま大学にいるのは遠山(茂樹)井上(清)の孫弟子の世代なんです。だから誰も彼らが左派系だなんて気づかない。そんな連中が教授会の多数派をしっかりと握っている大学が多い
 中西「…石母田(正)の怨念の籠もり籠もった歴史学…。家永遠山の歴史観にも共通した特徴ですが、彼らの影響を受けた研究者たちが、いま日本の歴史学会の多数を支配している…。大学はなかなか変化しないんです」(p.50-1)。
 伊藤隆は歴史学者であり、歴史学界を主な対象として語られているようだ。だが、中西輝政は政治学・経済学界についても丸山真男大塚久雄の名を出したのち次のように言っている。
 中西研究対象を選ぶ段になると、学会での地位や就職が絡みますからナーバスに…。直接、左派知識人に批判的なことをやると、大学への就職が難しくなるという有形無形のプレッシャーはいまだにものすごく強いですからね」(p.53)
 <大学の自治>の下での<学問の自由>の現状はおそらくこうなのだろう。国家ではなく「左派」によって<学問の自由>が事実上侵害されている。そしてかかる現象は―特段の言及はないが―歴史・政治・経済学以外の法学・社会学等々にもある程度はあるものと思われる。
 「左派」すなわち共産主義・マルクス主義の影響を受けた、又はこれを「容認」する大学研究者(教員)が人文・社会系では「多数」のようだとは、私のある程度は想像する所でもあったが、こう明確に語られると、慄然とする。彼らが執筆した人文・社会系の(日本史・世界史・政治経済・現代社会等の)中学・高校の教科書で学んで、上級官僚や法曹が、そして若い国会議員が育ってきているのだ。
 上の<激論>の中で中西輝政は指導教授の高坂正堯が時々「きみたちには悪いねぇ」(早く就職させられなくて)と大学院学生たちに言っていた、「高坂先生は…七〇年代までは学界で異端視されていて、その門下生と知れると、ほとんどお呼びがかからなくなる。私たち大学院生は…「高坂門下」ということで大いに差別される」等と発言しており(諸君!2月号p.52)、中公クラシックスとなった高坂正堯の本・宰相吉田茂(中央公論新社、2006)の緒言で、中西寛(現京都大学法学部)は高坂正堯の吉田茂を肯定的に評価する論文・著書に関連して、「マルクス主義や進歩派知識人による保守政治批判が大多数だった」「当時においては、学者や知識人にとって保守政治家を批判する方が肯定的に評価するよりもよほど安全だった」と記している。
 「左翼」/マルクス主義者/日本共産党員の強い分野では、事実上の「思想統制」が(国家によってではなく)行われていたし、現在も行われている可能性があるわけだ。
 「思想統制」にはあたらず、その逆だろうが、東京大学出身者でもない樋口陽一はなぜ東北大学から東京大学(法学部)に迎えられたのか、同じく上野千鶴子はなぜ京都の某女子大から東京大学(文学部社会学科)に迎えられたのか。その<思想傾向>は、一般世間以上に、大学の世界では所属大学の変更も含む<人事>にかなりの影響を与えていそうだ。

0135/「平和問題談話会」メンバー等の全面講和・中立・米軍駐留反対論。

 西尾幹二・わたしの昭和史2(新潮社、1998)によれば、実証的根拠・資料は定かでないものの、1949-50年頃「北朝鮮や中国の共産体制を自国のモデルと看做し、讃美してやまない人が知識人の8、9割を占め、国民の過半数に近かった」(p.139)。
 かかる雰囲気の中で、1948年12月に全面講和・中立・軍事基地反対等を主張・提唱する「知識人」たちの「平和問題談話会」も結成された(結成年月は、林健太郎・昭和史と私(文春文庫、2002)p.208による)。
 歴史的に見て当時のこれらの論が誤っており、実際に採られた「単独講和・米国との同盟」論等が適切だったことは明らかだ。全面講和論等の流れは60年安保改定をめぐる国論の分裂の一方を形成することにもなった。全員が本当に親共産主義だったかは別として、「平和問題談話会」の主張の錯誤は明白で、これに参加した「知識人」の責任は「60年安保闘争」への影響も含めてきわめて大きい。
 但し、メンバーの正式な氏名がはっきりしない。西尾・上掲書によれば、35人のうちまずは、安倍能成有沢広巳大内兵衛川島武宜久野収武田清子田中耕太郎都留重人鶴見和子中野好夫羽仁五郎丸山眞男宮原誠一蝋山政道和辻哲郎の15人が判る(p.184-5)。
 さらに同書には、鵜飼信成桑原武夫南博宮城音弥杉捷夫清水幾太郎辻清明奈良本辰也野田又夫松田道雄矢内原忠雄、の11人が記されている(p.253)。
 大学の仕事が忙しくてこの会には参加しなかったようだが、立花隆が尊敬する、だが吉田茂は当時「曲学阿世」と批判した南原繁も、全面講和・中立・反基地論者だった。
 こうした「知識人」は、しかし、なぜ当時全面講和論などを主張したのか。これは十分に研究の対象・課題になりうる。
 西尾幹二少年は新制中学3年だった1950年8月1日の日記にこう書いた―「わが国としては一日も早く講和を結び、独立国になったうえで、はっきりした態度をとるべきだ。それなのになお、全面講和説を唱えているものがある。これは講和はいつまでもしなくてよいと言っている様なものだ」(p.233-4)。
 上記談話会発足後の1950年07月に朝鮮戦争が勃発したのだが、直後に発行の文藝春秋8月号で加瀬俊一はこう書いていたという。
 共産勢力を阻止できるのは実力のみで自由主義諸国の結束以外に平和維持の方法はなく英国労働党も中立政策を危険視している、この期に及んで全面講和を論議するのは「時間の浪費に過ぎない。…南朝鮮が共産軍の侵入によって動乱の巷と化している…この危機に当って、なお空論に拘泥する余裕はない」、全面講和論は「放火によって大火災が起こりつつある時、全市の消防車が集まるまでは消火してはならぬというようなもの」だ(p.225)。
 この朝鮮戦争開始までに1946.03にチャーチルの「鉄のカーテン」演説、1948.06にスターリンによる「ベルリン封鎖」、1949.04にNATO調印、1949.05と同年10月に西独・東独の成立、1949.10に中華人民共和国成立、50.02に中ソ友好同盟条約調等、すでに東西「冷戦」は始まっていた。
 国連軍(米軍)が参戦しても50.08.18には韓国政府は釜山まで後退したが、日本国民は、とりわけ上記の如き「知識人」たちは、日本も共産主義勢力(北朝鮮軍)によって占拠・占領される危険を全く感じなかったのだろうか。上の加瀬の指摘は完璧に適切だ。
 海を隔てた隣国で東西の「代理」戦争=殺戮し合い・国土の破壊し合いが継続していたときに「全面講和・中立」等と主張するのは、15歳の西尾幹二少年が感じていたように、永遠に講和条約を締結しない、つまりは独立=主権回復をしないという主張に等しく、また客観的には東側(ソ連・中国・北朝鮮等)を利するものだったことは明瞭のように見える。
 「知識人の8、9割」の中には本気で韓国・米軍の敗北=北朝鮮・中国軍の勝利と日本の社会主義国化を望んだ者もいたかもしれない(当時の共産党員やそのシンパならこの可能性は高い)。また、どの程度「本気」だったかは別として、多くの「知識人」が漠然とした「社会主義幻想」に支配されていたようにも思える。そしてまた、朝鮮戦争の現実や日本が攻撃・侵略される現実的危険を直視せず、又は直視できず、かつ北朝鮮・中国等を「平和主義」の国と錯覚しつつ、すでに施行されていた新憲法の「平和主義」の理念・理想に依って口先だけで唱えた者もいたかもしれない。いずれにせよ、当時の多くの「知識人」たちの感受性・思考方法は理解が困難だ。
 毛沢東や金日成の政権奪取の経緯もスターリンの「粛清」も知らず、フルシチョフによるスターリン批判や「ハンガリー動乱」は後年のことだったとすれば、ある程度はやむをえなかったのかもしれない。
 しかし、それにしても「一級の知識人」のはずの者たちが、少なくとも今から見れば空想的・観念的と断言しうる主張をしていたのは不思議だ。
 一口でいうと「社会主義幻想」ということになるかもしれないが、その根源・背景を更に突き詰めると、一つは、戦前からの日本共産党等のマルクス主義理論影響だろう。
 いま一つは、皮肉にも日本占領期の<当初に>GHQがとった、読売用語にいう「昭和戦争」中の日本(政治家・軍)は全面的に悪かった・誤っていたという日本人の「洗脳」教育政策と社会主義・共産主義的傾向を危険視しなかった政策だろう、と思われる。
 1949-51年頃、客観的には日本は危険な状況にあった。「大袈裟にいえば歴史の命運がかかっていた」(西尾・前掲書p.252)。単独(正確には「多数」)講和の選択は適切であり、新憲法により「戦力」保持が禁止されていたとあっては米軍の駐留(安保条約)もやむを得なかった。逆の主張をした「知識人」たちは、南原繁も含めて、本当は「知性」が全く欠けていた、と思われる。
 林健太郎・昭和史と私(文春文庫、2002)によって、「平和問題談話会」のメンバーとしてさらに、高木八尺田中美知太郎、の2名が判る(p.208)。
 また、この「談話会」の全員が単独(多数)講和に反対したわけではなく、最初の参加者のうち和辻哲郎蝋山政道田中美知太郎は賛成した、という(p.220)。
 それにしてもこの会への参加者を中心とする「知識人」たちの影響力は大きく、社会党や総評の活動を理論的にも支えたようだが、林によればこの会の発足と「全面講和」等の政治運動への傾斜には清水幾太郎が中心的に働き、かつ安倍能成都留重人という専門・個性の異なる2人が協力したことが大きかった、という(p.215、p.218-9)。
 上で「知識人」の多くが全面講和・中立・反基地論を支持した背景らしきものを2点記したが、林の上の本を読むと、第三に、社会主義国、とりわけソ連による日本人に対する積極的な「反米」・「親ソ連(親社会主義)」工作があったことも挙げてよいようだ。
 かりに日本に「革命」が起こらなくとも、「反米」・「親ソ連」勢力が有力に存在することはソ連の安全・安泰にもつながることだった。1950.01のコミンフォルムによる野坂参三批判等によってスターリンのソ連共産党と日本共産党の関係は良好でなく、むしろ社会党員や同党関係知識人の中にはソ連による何らかの「工作」(と客観的にはいえるもの)を受けた者もいるのではないか。別の本で、後に委員長となった某社会党有力国会議員は「エージェント」だった旨を読んだ(信憑性不確実なのでここではその名は書かないが)。
 全面講和・中立・反基地論の背景の第四としてあえて挙げることはしないでおくが、林健太郎の上の本p.222は「アメリカが日本弱体化のために課した憲法が独特の観念的平和主義を生」んだことにも言及している。そして、安倍能成は「共産党嫌い」だったが「日本がいったん非武装を宣した以上それを破るのは罪悪だという観念論の頑固な信奉者でもあった」とも書く(p.218-9)。
 東欧や中国の行方が明確でないままソ連も含めて「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するとの1947年施行の日本国憲法前文の「理想」は、すでに日本人の精神の中にかなり浸透していたのだ。
 また、林は、日本共産党とは異なる労農派マルクス主義(・日本社会党左派)も存在したため、反政府運動は容易に反米=親ソ運動となり、日本の与野党対立を「容易にイデオロギー闘争に転化させる独特の政治風土」を作り出した、という。
 この指摘は、その後長年にわたる自・社対決が(後年の社会党がどの程度本気で社会主義国化を目指したかは疑わしく、個人的には「労働貴族」・国会議員になることを最終の「出世」と考える如き姿勢に近かったとも思えるが、タテマエとしては)不毛なイデオロギー対立となって与野党の現実的・建設的な議論・対立にならなかった原因に関するものとして首肯できる。
 日本政治の不幸は、英国やドイツと違い(社・共のいずれであれ)マルクス主義・共産主義の影響を受けた勢力が強力に残存したことだった。だからこそ、与党=自民党が西欧なら社会民主主義政党が主張するような政策をも実施したのだ、と考えられる。
 清水幾太郎の名が出てきたとあっては、同・わが人生の断片・下(文春文庫、1985、初出1975)の講和条約あたりに目に通さざるをえない。
 同書によれば、「平和問題談話会」の母体となったのは1948.07のユネスコ本部による8名の社会科学者の声明の影響をうけてできた「ユネスコの会」で、この会のメンバーのおそらく全員の名が記載されている(p.87-88)。が、その数は50人で、「談話会」の35人より多い。
 既述の他に渡辺慧が明確に後者のメンバーだったことが判るが(p.101。これで計29人)、尾高朝男阿部知二のほか(p.108参照)、1950年の09.16夜に「丸山眞男、鵜飼信成の両君と…京都へ出発」し翌09.17に「恒藤恭、末川博の両長老に会って…依頼し」とあることからすると(p.113)、恒藤恭末川博も加えてよいだろう。とすると、これで計33名になる(もっとも、既述のとおり、メンバーの中には「単独講和」に賛成した者もいた)。
 要を得ない文章だが、こうした今でも結構著名な人々がかつて全面講和・中立論を説いた(そして多くが60年安保改定に反対したと見られる)。この人たちの「教え」を受けた弟子・孫弟子たちが現在も多数、諸「学界」にいることを忘れてはなるまい。

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0079/桑原武夫・河野健二は、陸奥宗光と違い、「戦後」を覆った親マルクス主義者。

 岡崎久彦・教養のすすめ(青春出版社、2005) を捲っていたら、陸奥宗光(1844-97)が1878~93の獄中で書いた資治性理談という著書の中で「コムミュニズム」という訳語を用いて既に共産主義批判をしたとの記述が目に入った。
 陸奥は「コムミュニズム」を財産公有・職業共営・私有権力排除の派と理解し、「この学徒は…妄想を起すに至った。この徒は…欧州文明の中にあって…迷妄を免れず、一笑にも値しないものである。…これ(公平・平等)を強制して、かえって人類の幸福を損ない、快楽を制限するようならば、本来の効果を期待できない」と書いた、という。
 こんな本を読んでいる岡崎もすごいが、前々世紀末に共産主義を批判していた陸奥宗光も「偉い」人だ。陸奥は荻生徂徠やベンサムを読み、のちにはウィーンでフォン・シュタインに学んで明治日本の立憲体制を樹立した一人となった。
 何かに役立つだろうと桑原武夫編・日本の名著(中公新書、1962)を古書で買っていたのだが、丸山真男まで50人の著書を挙げ、「なぜこの50の本を読まねばならぬか」との脅迫文的なまえがきを桑原が付している。明治時代の「知の巨人」として岡崎の上掲書が挙げていた5人のうち、桑原編書と共通するのは陸奥宗光と福沢諭吉の2人。岡崎は西郷、勝、安岡正篤を挙げ、桑原編書は田口卯吉、中江兆民らを挙げる。
 単純に比較したいのではない。桑原編の上の本には、何と、50人の中に、アナーキスト・幸徳秋水大杉栄、マルキスト・河上肇野呂栄太郎山田盛太郎羽仁五郎中野重治らを含めている。丸山真男大塚久雄ら親マルクス主義者まで含めると15人程にはなるだろう。「選定はあたうかぎり幅広く、多様性をもたせたいと願った」と桑原の脅迫文は書いているが、日本の国家、社会、国民にとって「危険」な、「破壊」と「破滅」へと導く思想家等は不要で、ゼロでも構わなかった。一方、例えば、林達夫・共産主義的人間は1951年刊だが、選択されていない。
 1962年という時期にはマルクス主義者に敬意を払っておかないと学界・出版界では「処世」できなかったのかもしれず、また桑原自身がマルキストであったのかもしれないが、戦後の親マルクス主義の雰囲気が分かる。また、河野健二は、上に挙げたうち秋水、河上、野呂、山田、羽仁、大塚の項を担当して紹介の記述をしているが、彼らへの批判的言辞を(精読したわけでないので、おそらく、と言っておくが)一切、述べていない。
 桑原武夫、河野健二という二人は党派臭のない知識人というイメージもあったが、上で述べたことから少なくとも二つのことを感じる。
 一つは、戦後のマルクス主義の影響の大きさだ。彼らがそれに影響を受けたとともに、上の中公新書に見られるように、彼ら自体がマルクス主義の宣伝者だった。かりに「党派臭」がなくとも、客観的には日本社会党、日本共産党を利していた学者だった。京都大学人文研に集った「京都学派」などというという呼び方は実質を隠蔽するものだ。
 二つは、彼らはいずれもフランス革命の研究者だった。桑原は中公の世界の名著の、ミシュレ・フランス革命史の訳者でもある。そして、いずれもフランス革命を<近代>を切り拓いた「市民革命」の典型又は模範として肯定的に評価し、論述した。彼らに代表される<フランス革命観>の適切さは、中川八洋氏の本によるまでもなく、大きく疑問視されてされてよい。
 <戦後体制からの脱却>とは桑原・河野によるマルクス主義把握のイメージ、彼らの示したフランス革命のイメージからの脱却でもあるのでないか。

0051/丸山真男と彼を全面批判する日本共産党の異常さ。

 丸山眞男について続けるが、彼は1956年に「戦争責任論の盲点」との小論を雑誌・思想に掲載し、のちに同・戦中と戦後の間(みすず、1976)に収録している。
 この論文は戦争責任とくに政治的責任論が、天皇と日本共産党については省略されてきたことを問題視し、後者につき「前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任」がある旨を述べている。曰く、共産党は被害者でもなくまして傍観者でもなく「最も能動的な政治的敵手」だったが、ファシズムとの戦いに負けた。敗軍の将はいくら敵が強く味方陣営中に裏切りがあっても「指揮官としての責任をのがれることができない」。「抵抗を自賛する前に」ファシズムに負け「侵略戦争の防止に失敗した」ことにつき「党としての責任を認め」、理由に「科学的検討を加えてその結果を公表」すべきだ(p.599-602)。
 「ファシズム」や「侵略戦争」という概念は気になるが、前回紹介の議論に比較すれば至極妥当な内容のように見える。
 興味深いのは、56年から37年後の1993年になって日本共産党は丸山の上の主張を「反共攻撃」とし、丸山を批判し始めたことだ。宮地健一氏のHP「共産党問題、社会主義問題を考える」に文献内容も含めて依拠するが、93年05月から赤旗・同評論特集版で数回の批判、93.12に雑誌・前衛で批判、翌94.01には宮本顕治による批判を赤旗日曜版に掲載し、同年05月発行の「日本共産党の70年」でもとり上げ、同年07月の党20回大会の2報告・1決議等でも丸山を批判した。
 上の94.01の宮本顕治発言いわく、赤旗評論特集版論文等が示すように、「けっして日本共産党は負けたのではありません。…あきらかになったことは、日本共産党が先駆的な展望をしめしていたということです。しかも実際の勝ち負けという点から見ても、日本共産党はいわば大きく日本国民を救ったといえる、日本歴史の新しい主権在民の方向と展望を示す、そういう基礎をつくったんだ」、「みんな捕まり、…投獄された、結局、負けたじゃないか」というような誤った議論は論破されている。また、日本共産党の70年でも仰々しくも10の段落をもつ長文を使い、「戦前の党の活動は、治安維持法による野蛮な弾圧にもかかわらず、数十万の検挙者にしめされる革命的潮流を形成し、それが敗戦とともによみがえって、戦後の歴史に大きな影響をあたえた」、「主権在民と侵略戦争反対の基本路線とそのための命をかけた日本共産党の戦前のたたかいの積極的役割はだれも否定できない」などと記す。
 丸山対共産党の論争などに元来は興味はない。ただ、共産党等の「革新」陣営にいた筈の丸山に対してすら党批判を許さず、40年近く後でも全面批判・全面攻撃をする執念にはただものではない怖ろしさがある。
 日本共産党の70年(1994)による丸山批判は「本格的」で、第一に歴史の観念的把握、第二に「大戦の結果全体を見ていないこと」、第三に「歴史の傍観者の論理」にすぎないこと、とたたみかけて来る。1956年の共産党分裂中に僅か数十行程度の文で同党の「戦争責任」に触れたことが、38年後に数倍もの文章になって、かかる反応をもたらすとは、当時80歳になっていた丸山には想像もできなかっただろう。
 日本共産党の反応は異常だ。「歴史の傍観者」だとした後、丸山は「歴史の流れをみることができず、結局、侵略戦争を推進する反動勢力の企図にたいして、成功のみこみがないかぎり「敗北」するから、はじめからたたかわない方がよい、傍観者がいちばん利口だとする近視眼的な実利主義の立場にほかならない」と批判する。これは、丸山の原文を読んだ後では、発狂したかの如き「いいがかり」に見える。
 また、丸山は「「シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」式に抵抗を自賛する前に」と書いたのだが、共産党の上の本は「軍国主義教育に利用された木口小平の挿話をひいて日本共産党を嘲笑」する、「軍国主義の挿話を、戦前の日本共産党の命をかけたたたかいと同列にみなすことは、論者の民主主義的感覚の喪失、学者的良心の退廃をしめすものにほかならない」と批判する。ここまで大袈裟に言う必要があるのだろうかと、滑稽さすら覚えるのだが。
 以上のことより、「けっして日本共産党は負けたのではありません」との反論は正しいのか、という問題の方が重要かもしれない。
 私の理解はこうだ。殲滅され、10年間は党を名乗る活動はできなかった。「闘い」があったとすれば、「スパイM」を含む日本政府側に「負けた」という評価は当然のこと、当たり前のことだろう。
 再録するが、「治安維持法による野蛮な弾圧にもかかわらず、数十万の検挙者にしめされる革命的潮流を形成し、それが敗戦とともによみがえって、戦後の歴史に大きな影響をあたえた」、「主権在民と侵略戦争反対の基本路線とそのための命をかけた日本共産党の戦前のたたかいの積極的役割はだれも否定できない」-これらは笑って、いや嗤って読める。「革命的潮流」などは全くなかった、多少とも「よみがえ」ったとすれば、自力でなくGHQのおかげだった。「主権在民と侵略戦争反対の基本路線とそのための命をかけた日本共産党の戦前のたたかい」なるものは大ウソ、だ。戦後に日本共産党の幹部になった者たちは獄中か海外にいた。獄内か外国で、せいぜい「日本の侵略戦争反対」と口ずさんで「闘って」いたのだ。
 歴史を偽ってはいけない。

0050/丸山真男は職業差別者、まともな政治学者ではない。

 田原総一朗・日本の戦後上-私たちは間違っていたか(講談社、2003)の中で、田原は、60年頃、昔風にいうと「革新」勢力を支持した反政府・反自民の知識人として、「向坂逸郎、丸山真男、清水幾太郎、末川博、田畑忍」の5名を挙げている。そして、これらを含む500人以上の学者・文化人が1957.03には「安保条約再検討声明書」を発表して不平等条約改正等と主張していたのに、この5名は「後に反安保の理論的中軸」になった、という(p.243-4)。田畑忍は土井たか子の「師匠」だ。
 以上の5名の中では丸山真男が最も若そうだが、70年頃はすでに昔の人で、私は彼の本を1冊も20代には読んだことがなかった。
 丸山の指導教授は南原繁らしい。南原-丸山ラインだ。諸君!2007年2月号の「激論」によると、中国社会科学院近代史研究所々長が「若き日の大江(健三郎)氏は丸山真男氏や、その師の南原繁氏の戦争に関する反省の意に大きな影響を受けた、と告白…。このような戦後日本の知識人たちの考え方を、私は評価し尊敬します」といったらしいが(p.42)、彼らの考え方を日本人が「評価し尊敬」できるかは別問題だ。
 丸山真男については、再評価・再検討の本も出ているようだ。竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)は、確かな記憶はないが、決して丸山を賛美しておらず、皮肉っぽい見方をしていたのではなかっただろうか。また、そもそも、遅れて読んだ丸山の、「日本ファシズム」の「担い手」はこれこれの職業の人々だったという議論などは、これでも社会科学・政治学・政治思想史なのかと思った。きっと反発する関係者がいるだろうが、適当な「思いつき」を難しい言葉と論理で、さも「高尚ふう」に書いた人にすぎないのでないか。それでも社会的影響力を持ったのは、東京大学(助)教授という肩書、岩波「世界」等の発表媒体によるのだろう。
 もともと昭和戦前の日本を「ファシズム」と規定してよいのか、その意味の問題はある。
 かつて中学・高校の授業で又は歴史の教科書で、第二次大戦は民主主義対ファシズムの闘いだったと習った気がする。だが、「民主主義対ファシズムの闘い」という規定(・理解)の仕方は正しいのだろうか。まず、ソ連が「民主主義」陣営に含められていて、この国の本質を曖昧にし、又は美化すらしているのでないか。次に、日独伊は「ファシズム」というが、そして日本には「天皇制ファシズム」との表現も与えられたが、そのように単純に「ファシズム」と一括りできるのか。後者は無論、「ファシズム」とは何か、日独伊に共通する要素・要因はあったのか、あったとすれば何々か、という疑問に直ちにつながるわけだ。そして、上のような理解は占領期(少なくとも東京裁判「審理」中を含む初期)の米国によるもので、そうした「歴史観」が日本人の頭の中に注入されたように思える。
 こんな難しい問題がそもそもあるのだが、丸山の、「日本ファシズム」の「担い手」論をより正確に書くとこうだ。
 丸山真男の増補版・現代政治の思想と行動(1964)という有名な(らしい)本は所持しているのだが室内での行方不明で別の本から引用するが、この本の中には1947.06の講演をもとにした「日本ファシズムの思想と運動」も収められている。この中で、丸山は日本の「ファシズム運動も…中間層が社会的担い手になっている」と断じ、かつ中間層・「小市民階級」を二つの類型・範疇に分け、前者こそが「ファシズムの社会的基盤」だったと断じた。
 その前者とは、「たとえば、小工業者、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校職員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官」で、「疑似インテリゲンチャ」又は「亜インテリゲンチャ」とも称する。
 一方、「ファシズムの社会的基盤」でなかったとされる後者は「都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層」で、「本来のインテリゲンチャ」とも称する。
 一瞬だけは真面目に言っているようにも感じるが、ふつうに読めば、上の如き職業・階層の二分と前者のみの悪玉視は、端的に言って<職業差別>ではないか。むろん自分の職業・自由知識職業者は除外だ。これは学問ではない。酒飲みの雑談、しかも質の悪いレベルのものだ。何故こんな男が多少は尊敬されてきたのか、馬鹿馬鹿しい思いがする。

-0052/「学界」外の者の発言でも正しいものはある-井沢元彦・安本美典ら。

 ○ 大学で「哲学」を講じている人の殆どは西欧の誰かの「哲学」の研究者(学者)で、「哲学学」者であっても「哲学者」ではなく自らの「哲学」を語ってはいないという印象があったが、少なくとも鷲田小彌太という人は違うようだ。
 鷲田小彌太・学者の値打ちをさらに80頁読み進む。
 西田(幾太郎)哲学は複数の異なる外国哲学の何でもありの受容(「借用」・「受け売り」)だ旨の指摘(p.23)にド胆を抜かれたが、その他、色々と考えさせられて刺激的だ。
 彼によれば、彼は25歳半ばからマルクス研究を始め40歳台でマルクス主義を「克服した」らしく、丸山真男政治学は「マルクス主義政治学の亜種」で、彼の弟子たちが学会から消えるに従い丸山の「名声」は弱まる(p.108)、等々。
 大学教授は「知識人」ではなく特定分野の「専門家」にすぎない、と思ったことがあった。
 ここでは「知識人」は社会のほとんどの諸問題に広い「教養と知識」を背景にしてマスメディアに発言する能力のある人とのイメージだった。
 これに関連して鷲田の上の本p.180は「大学教授の大半は、知識人とさえいえない」、「競争原理」が全く働かず、その「知識や技術」の「水準は問われない」からだ、と言う。つまりは私のいう「専門家」かどうかも「大半」は疑わしいというわけで、厳しい。
 アカデミズムとジャーナリズムの関係等の話も面白い(但し、立花隆の肯定的評価は承服できない。鷲田も立花・滅びゆく国家を読めば評価を変えるはず)。
 「かつてアカデミズムの権威が有効な時代があった。大新聞の論説が世論形成に与った時代があった。しかし、パソコンを媒介にしたこの社会では、個人発であるか、大学発であるか、大新聞発であるかで、情報価値に根本的差違はない」との指摘は全くそのとおり。
 知識・情報を大学・マスコミが独占しているはずがない。
 ○ しかし、妙なアカデミズムは残っているように見える。
 鷲田の本から離れるが、例えば、井沢元彦の研究・諸指摘(学界の「方法」的欠点も含む)を日本史学界はたぶん完全無視だろう。
 また、安本美典の古代史論、邪馬台国論は説得的な部分があると思うが、安本が日本史(古代史)プロパーではない(もともとは言語学、次いで心理学も)ことを理由に古代史学界はこれまた完全無視でないか。
 出自が何であれ、誰が述べようとも、正しいものは正しい。誰の問題提起でも適切ならば、適切なはずなのだ。鷲田によって「学界」の傲慢さも思い起こした。
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