秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

中沢新一

1240/アカデミズムの世界での左翼支配の内幕-東京大学関係者 。

 一 ジャパニズム16号(2013年12月号、青林堂)に、表紙にはタイトルが載ってはいないが、「覆面インダビュー/元関係者が、『アカデミズムの世界における左翼支配』の内幕を明かす」というインタビュー記事がある。「アカデミズムの世界」とは、大学または学界と理解して差し支えないだろう。
 「覆面」の「元関係者」は「W」とイニシャル化されているが、本当であるとの保障はない。但し、「まさに東大で、そうしたことを感じましたね」などの発言があることからすると、この発言者は東京大学の教員・研究者を最近か近年に退職した人物であるようで、関心を惹く。
 何よりも、この元東京大学教員らしき人物の、上記のごとくタイトル化される発言内容は、この欄で私があれこれの文献を通じて指摘または推測してきたことと符合していることが注目される。断片的にしか指摘できなかったことを、この人はけっこう長く語っている。
 その他、「カトリック・キリスト教」や「仏教」界の「左翼」性への言及がある部分はほとんど知らなかったことだ。
 重要な記事だと思うので、今年、2013年の最後に、できるだけ忠実に紹介しておく。
 二 最初の質問に対する答えは、ほとんど全面的に支持または納得できる。全文は以下のとおり。
 「確かに、文系アカデミズムの多くの分野においては、左翼支配の構造が完全に出来上がってしまっていますね。研究者を育てる大学院は、学部までとは異なり、徒弟制のような形態のところが多い、そうなると、師匠である教授が左翼なら、弟子である学生も左翼にならないと生きていけない、教授の性格にもよりますが、左翼的な教授としては自分と同じくする手下を増やしたいわけですから、教授に逆らうような学生は、就職先(アカデミック・ポスト)を紹介してもらい辛い。そうなると、それに耐えられない学生は、脱落していく。結果、左翼学生だけが残り、研究職に就いていく。一般公募の公平な研究職採用試験にしても、採用側の教授に左翼思想の持ち主が多い訳ですから、結局『リベラル』な研究者の方が就職が有利です。文系アカデミズムの世界では、このような構造で、左翼が再生産されていきます、これも教授の性格によりますが、左寄りの教授が多い組織では、保守的な言論は抑圧される事さえありますね。私の印象では、国立大学では概して、歴史学、教育学、法学、社会学の分野で左翼が強いと感じますね」(p.56-57)。
 「歴史学、教育学、法学、社会学の分野で左翼が強い」とは、この欄で私が推測的に書いたことがある(中西輝政の発言によって、「政治学」にも触れたこともある)。なお、「左翼」の意味が厳密には問題だが、上の発言では「リベラル」と換言されていることも注目される。また、「左翼」とはおそらく(日本共産党員である場合はもちろんだが)、共産党シンパの他に、日本共産党またはマルクス主義・コミュニズム(共産主義)を批判・敵視しないという意味での、「容共」者も含んでいると考えられる。
 三 東京大学法学部の「内幕」にも言及があり、また「左翼」的宗教にも言及がある。この人物は同学部に所属したことがあるか、同学部の「内情」をかなり詳しく知りうる立場にあったように思われる(こんな発言をしている<反左翼>心情者であること等からすると前者ではなく、後者と推測できるかもしれない)。以下は要約的紹介で、「」は直接の引用。
 <「戦後の東大法学部は完全に左翼的言説が支配しています。『左翼の牙城』と言ってよい」。今の状況は知らないが戦後のかつての東大法学部には「キリスト教徒」でないと教授になれないとの「暗黙の了解」があったと聞く。中でも「無教会派のクリスチャン」。「つまり、戦後日本の法学界の言論・思想空間にはその背景に、左翼的なプロテスタント・キリスト教的なるものが存在しています」。「ですから当然、靖国神社に関する政教分離訴訟では、心情的にも『反靖国』の立場を取ります。実際のところ左派系の法学者は、靖国神社も含めて『神道』というものに対して無理解であるのみならず、嫌悪感さえ感じているようです」。戦後に保守系教授が東大教授から追放されたこともあり、「いまだに保守系の法学者は傍流」に追いやられてしまっている。かかる環境の下で育つ学生が法曹になるのだから「日本の文化伝統を無視した判例」が多発するのも当然だ。>
 なお、たしかに、靖国神社の宗教は「神道」で、<保守>派が靖国神社を擁護しているとすると、「左翼」とは<反神道>派でもあり、宗教の中でもキリスト教や仏教の中には「左翼」が浸透しやすい、と言えそうだ。
 四 東京大学の中での駒場と本郷の違いにも言及がある。
 <「本郷と駒場では雰囲気が異なります。本郷…の教授陣はイデオロギー的には幅が広く、左翼の方が数は多いですが、ノンポリの教授や、数は少ないが保守系の教授も」いるのに対して、駒場(教養学部)は「戦後はまさに『左翼の牙城』になって」しまった。「反ヤスクニ」の高橋哲哉も駒場所属だ。>
 以下は再び東京大学全体の話のようだ(但し、駒場が強く意識されているようでもある)。
 <学部学生の「中道化・保守化(脱左翼化)」は進んでいるが、「教授陣は相変わらず左寄り」で、「左翼系の教授たちは、神道に対しては『国家との厳格な分離』を要求しますが、キリスト教には甘いというダブルスタンダードが見受けられ」る。法人化前の純粋国立大学の時代にキリスト教会から譲り受けてのパイプオルガン設置の運動があり、実際に駒場に設置された。また、「左翼」=「反権威主義」ならばまだ辻褄は合うが、東大の「左翼」は「リベラル」を自称しつつも「権威主義的」だ。中沢新一の採用決定の撤回はその例。(中沢は「左側」の人かもしれないが)「権威主義的なプライドが、イデオロギーの親和性よりも優先されたんでょうね」>(p.58-59)。
 五 仏教にも言及がある。<「キリスト教だけでなく、戦後の仏教界も左翼イデオロギーが強い」。「『教団の公式なイデオロギー』としては左翼的(反靖国的)である宗派が多い」。「戦前の反省に立って」のようで、「仏教系大学の学者には、政治的な左翼的発言をする人も多い」。但し、「日本仏教は…日本の伝統文化(皇室)と結びついていますから、当然に保守的な人もいることはいます」。
 さらにキリスト教にも話題は続き、高橋哲哉・姜尚中はクリスチャンだという。
 仏教寺院の中にも「左翼」のものがあることはこの欄に記したことがあり、姜尚中が講座ものの講師を担当していた著名な寺院があることも知っている。これらは、その特定の寺院名を出していずれ書きたいと思っているので、ここでは立ち入らない。
 六 最後に、この世界の「正常化」の可能性についての質問に答えている。
 <「左翼再生産の構造」は出来上がってしまってはおり、「世間一般の流れからは遅れるとは思いますが」、「徐々に変わりつつある」。「保守の土壌はまだまだ脆弱で、左翼の土壌はまだまだ強靱」なので、「保守陣営」は結束し、「ようやく芽生えてきた『保守の灯』を消さない」ことが肝要だ(p.60)。>
 以上。大学・学界では「保守の土壌はまだまだ脆弱で、左翼の土壌はまだまだ強靱」であり、「ようやく芽生えてきた」「保守の灯」と表現されるほどのものであることを国民一般、大学生や将来に大学に進学しようと思っている者の親や家族は知っておいてよいだろう。
 この人が最初に言っていたことは適切な認識だと見られること、および「左翼が強い」分野の一つとして「法学」が上げられていたことも妥当と見られることは、最近に紹介・言及した、憲法学者・刑事法学者・某特定大学法学部の50名以上の教授たちによる特定秘密保護法反対声明・意見においても相当十分に例証されているものと考えられる。

0485/佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)におけるフーコーと桜井哲夫・武田徹。

 「昭和の日」はただ何となく過ごしてしまった。平成も20年めになるが、自分はやはり<昭和(戦後生まれ)世代>だとの自覚しかもてないだろう。
 フーコーに関して書いたあと、たまたまp.30余までで読みかけだった佐伯啓思・学問の力(NTT出版、2006)の続きを見ていると、フーコーが出てきたので驚いた。
 佐伯著も参考にして前回書いたことを多少は修正する必要はあるだろうが、それでも基本的には的外れのことを書いていない、と感じた。
 佐伯の上の本は、学問の<専門化>によってその「力」が落ちていること、知識人と「専門家」の違い、後者が前者ぶることの(滑稽さを含む)危険性等を述べたあと、この<専門主義>とともに、今日の(日本の)学問<態度>の特徴は<ポスト・モダン>からも出ている、とする。
 そして<ポスト・モダン>について、初めて知ることの多い知見を得たが、要約的な紹介も避ける。知っている人物名が出てくる箇所を中心に、以下に思い切った要約しておく。
 ・中沢新一は「われわれは芸人だ」と言った(p.38)。<ポスト・モダン>は表面的には「思想」又は「大きな物語」を否定・放棄し、「真理」もないものとし、「知の芸能化」・「知のパフォーマンス」化を進める。そこでの評価基準は「真理」との近さ等ではなく<面白い-つまらない>というものになる。
 ・<ポスト・モダン>も、しかし「隠された思想」をもつが、その自覚がないために「不健全で変則的」な「思想」になっている。彼らが肯定的に評価するのは「解放」・「平等」・「多様性」・「自由」・「個人」批判するのは「規律」・「道徳」・「国家」(p.40)。
 ・<ポスト・モダニスト>は前近代・近代・近代以降と近代を基軸に歴史を捉える、「近代に満足できない近代主義者」。そして、「歴史の進歩」を無条件に信じるのが「左翼」だとすれば、<ポスト・モダン>は「基本的には左翼思想」だ(p.40-41)。
 ・従って、90年代には「わりと平板な左翼へと回帰していった」。柄谷行人しかり、浅田彰しかり。また、デリダ主義者・高橋哲哉は「きわめてオーソドックスな左翼進歩主義」を唱えている(p.41)。
 こうした<ポスト・モダン>との関連で、佐伯はとくにフーコーに言及している。これまた大胆に要約すると、以下のとおり。
 ・ミシェル・フーコーは<ポスト・モダン>の代表とも言われるが、70年代には構造主義者(本質的に「近代」的)として日本に紹介された。その後のフーコーはまず、「構造主義からポスト構造主義、つまりポスト・モダンへと橋渡しをした思想家」になった。だが、彼も「大きな物語」を捨て切れなかった(p.44-47)。
 ・後期のフーコーは「言説作用」もすでに他者を支配したいという「権力」だとした。しかし、これでは言語を用いざるをえない人間は「どこにも抜け道がなくなって」しまう。また、最晩年のフーコーは「古代ギリシャ」に戻り「身体的な動きや技法」に生きる意味を見出そうとした。しかし、これでは「思想としてのポスト・モダンは論理的に行き詰まる」(p.50)。
 ・フーコーの「偉大さ」は、「ポスト・モダンを突き詰めると、そもそも思想的営為は成り立たないということを、身をもって証明したことにある」。「ほとんどの社会学者」はそうは言わず、フーコーによって「何か新しい思想が始まった」と考えている。しかし、「何が始まったのか、よく分からない、むしろ何かが終わった」のだ。
 以上。以下は、私なりのコメント・感想だ。
 ①前回に言及していないが(そして桜井哲夫の本やフーコーの邦訳本で確認しないで書くが)、フーコーの「権力」概念は独特で(佐伯は「言説」作用を採り上げているが)、学校・企業はもちろんあらゆる社会的<しくみ>・<制度>、あらゆる人間「関係」の中にも「権力」関係を見出す。概念は自由に使ってもよいのだが、しかし、「権力」=悪という前提がおかれているとすると、これでは人間は自殺するか、(同性愛でも何でもよいが)刹那的享楽を生きがいにして(表明的にのみ「自由に」)生きるしかなくなるのではないか、との感想めいたものをもった。佐伯啓思は、上記のとおり、これでは「どこにも抜け道がなくなって」しまうと明記して同旨のことを述べてくれている。
 なお、佐伯がフーコーを「偉大」と形容する箇所があるが、これは諧謔・皮肉あるいは反語だろう。文字通りの意味だとしても、佐伯がフーコーを<尊敬>・<尊重>しているわけではないことは明らかだ。
 ②佐伯のいう「ほとんどの社会学者」の一人と思われる桜井哲夫は、フーコーの「分析用具」を「改変」して日本の現実や歴史の「分析」や「書き換え」る「知的努力」の意味を説いているが、上の佐伯による評価からしても、こうした「知的努力」の傾注は徒労に終わり、桜井の人生も無駄になるに違いない。日本の現実や歴史に関する「大きな物語」が構成される筈はなく、せいぜい断片的な、かつ<面白おかしい>指摘ができる程度だろう。
 ③前回に、フーコーは<つねに新しい>というだけでは、そこから生じる可能性が人間・社会・歴史にとって<よい>ものであることを保障しない、と批判したのだったが、<ポスト・モダン>に関する佐伯の説明・分析によると、(些か単純化して書くが)この主義者は、<よい-悪い>という価値観を否定し<面白い-つまらない>という基準を採用するのだから、桜井が<新しい>ものはすべて積極的に肯定されるというニュアンスで書いているのも、なるほど、と思った。彼および彼らにとって、人間・社会・歴史にとって<よい>か否かなどは関心の対象ではない、あるいは、そんな当否はそもそも分からない、のだ。<新奇な>もの(とくに従前の一般的理解・社会通念を否定・破壊するもの)はそれだけで有意味性をもつのだ、と考えられていると思われる。したがって、そもそもの前提が異なる批判の仕方を前回はしたことになりそうだ。
 ④前回も今回も、産経新聞に少なくとも二度、奇妙な内容の論稿を載せていた武田徹を思い出していた(佐伯著には残念ながら今のところ武田徹の名前はないが)。「フーコーの言説を引用できる」として肯定的に評価するかの如き発言を載せる本もあったからだ。だが、こうして異なる二人の本(の一部)を通じてフーコーの概略を知ってみると、(武田がフーコーにのみ影響を受けているわけでは全くないにしても)武田徹もやはり<奇矯な>・「左翼」の、新奇・珍奇な指摘・主張をすることで自己満足するような<ポスト・モダン>のジャーナリストだろう、と納得できる気がした。佐伯は、<ポスト・モダン>は「隠された思想」を公言できないために「技術主義」(IT革命等の情報技術の展開に<ポスト・モダン>の意味を求める)へと逃げ込んでいる旨の指摘も行っているが(p.42)、武田徹には、この「技術主義」の匂いも十分にある。いずれにせよ、変わら(れ)ないとすれば、可哀想なことだ。

-0058/中沢新一は憲法の素人-憲法九条1項-と建築規制行政。

 憲法九条を世界遺産に(集英社新書、2006)を入手して中沢進一のあとがき的部分を見た。
 この中沢新一も、吉永小百合と同じく九条条1項を日本文としてしか読んでおらず、誤った理解に基づく間違った叙述をしている。
 異説もなくはないが、同項の「国際紛争を解決する手段として」の戦争とは国際法上の用語法の歴史的沿革から見て「侵略」戦争を意味する、と政府や学界多数説は解釈してきていることは間違いないのだ。
 1項で自衛権が放棄されていないことを前提として、2項による「戦力」不保持・「交戦権」否認のために「自衛戦力」は持てず「自衛戦争」もできない、しかし「自衛のための必要最小限度の実力」の保持まで禁止されてはおらず、現在の自衛隊はその範囲を超えていないため違憲ではない、というのが(最後の部分などは相当に苦しいが)政府の憲法解釈なのだ。
 この程度の基礎的知識もない二人の対談は、どのように新鮮・珍奇な表現・論法が言葉の上だけで用いられているとしても、建設的なものではありえず、当分読むつもりはないが、たんなる情緒・気分の発露にすぎないだろう。このような本がベストセラーになるとは、まともな国民的議論のためにはマイナスだ。
 イーホームズの藤田東吾社長の言動が話題になっている。
 建築規制行政において建築業界と自治体や国(国土交通省)の「癒着」あるいは前者の不正の「隠蔽」があれば当然に問題で(そのような可能性を私は否定しない)、また安全性を欠いたままのマンション住戸(「…大師駅前」)が販売されているとすれば由々しきことは無論で、マスコミは少なくとも同氏によって「告発」されている川崎市・国交省建築指導課等々を取材すべきだ。
 私は彼が積極的に嘘をついているとは感じないが、告発文等が「推測」の部分を含んでいることは否定できないのではないか。また彼の意図と離れて、アパ・グループが「安晋会」会員であることからこの問題を安倍や自民党と強引に?結びつけようとするのは「政治的」すぎるだろう。
 もう少し一般的にいうと、建築規制部署のみならず旧建設省でいうと旧建設経済局にあたる部署の業界との限度を超えた「癒着」も十分に考えられる。
 同様のことは都道府県の建設業法や宅建業法所管部局についてもいえる。
 適正な規制・監督を効果的にしないことにより、業界を「甘やかして」はいないか。
 マスコミ記者等は専門的知識が乏しい。したがって、彼らに任せるのはまことに心もとないが。
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