秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

上島嘉郎

2457/西尾幹二批判038—皇太子妃問題②。

 本来の予定では、西尾幹二個人編集の同全集第17巻・歴史教科書問題のつぎの重要な特徴を書くことにしていた。すなわち、一定時点以降にこの問題または「つくる会」運動(分裂を含む)に関して西尾が自ら書いて公にした文章を(「後記」で少し触れているのを除き)いっさい収載していない、という「異常さ」だ。
 いつでも書けることだが、再度あと回しにして、新しい「資料・史料」に気づいたので、それについて記す。
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  西尾幹二が2008年前後に当時の皇太子妃は「仮病」だとテレビ番組で発言した、ということは高森明勅の今年になってからのブログ記事で知った。
 その番組を見直すことは到底できないと思っていたら、実質的には相当程度に西尾の発言を記録している記事を見つけた。つぎだ。
 「セイコの『朝ナマ』を見た朝は/第76回/激論!これからの“皇室”と日本」月刊正論2008年11月号166-7頁(産経新聞社)。
 ここに、2008年8月末の<朝まで生テレビ>での西尾発言が、残念ながら全てではないが、かなり記録されている。引用符「」付きの部分はおそらく相当に正確な引用だと思われる。
 以下、西尾発言だけを抜き出して、再引用しておく。「」の使用は、原文どおり。
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 雅子妃は「キャリアウーマンとしても能力の非常に低い人低いのははっきりしている」。「実は大したことない女」。
 雅子妃には「手の打ちようがないな」。
 「一年ぐらい以内に妃殿下は病気がケロッと治るんじゃないかと思います。理由はすでに治っておられるからです。病気じゃないからです。」
 「これも言いにくいことですが、私が書いたことで一番喜ばれているのは皇太子殿下、その方です。私は確信を持っています」。「皇太子殿下をお救いしている文章だと信じております」。
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 以上、「仮病」というそのままの言葉はないが、「病気じゃない」という発言があるので、実質的に同じ。上の<セイコ>も、「最後に平田さんも雅子様を仮病と批判」と記して「仮病」という言葉を使い、出席者のうち西尾幹二と平田文昭の二人が「仮病」論者だったとしている。
 <セイコ>の感想はどうだったかというと、「二人とも、やけくそはカッコ悪いよ」と書いているから、西尾・平田に対して批判的だ。
 なお、上の引用文のうち最初の発言に対して、矢崎泰久は「天皇家にと取っ掛かることによって自分の存在価値を高めたいという人」と批判し、出版済みの『〜御忠言』についても「天皇をいじくるな」「あなた、天皇で遊んでいるよ」と批判した、という。
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  あらためて「仮病」発言について論評することはしない。
 だが、想像していたよりも醜い発言ぶりだ。「能力の非常に低い」、「実は大したことない女」とは、凄いではないか。
 これによると西尾幹二は自著を最も喜んでいるのは当時の皇太子殿下だと「確信」し、同殿下を「お救い」していると「信じて」いる、とする。
 別に書くかもしれないが、西尾幹二著によって最も傷つかれたのは、雅子妃殿下に次いで、皇太子殿下だっただろう。さらに、現在の上皇・上皇后陛下もまた。「ご病気」の継続の原因にすらなったのではないか。
 西尾幹二
 この氏名を、皇族の方々は決して忘れることはない、と思われる。もちろん、天皇男子男系論者としてではない。
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 三 1 上を掲載している月刊正論2008年11月号の<編集者へ>の欄には、西尾幹二を擁護して当時の皇太子妃に批判的な投稿が二つあり、逆の立場のものはない。
 同編集部は、<セイコ>記事とのバランスを取ったのか。それとも、<セイコ>の原稿を訂正するわけにもいかず、編集部は西尾幹二の側に立っていたのか(代表は上島嘉郎で、桑原聡よりは数段良い編集者ぶりなのだが)。
 2 上の<セイコ>記事を読んで、当時に月刊正論上で西尾と論争していたらしい松原正は、月刊正論同年12月号にこう「追記」している。
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 「西尾幹二という男について真顔で論ずるのは、所詮、愚か者の所行なのかもしれない」。
 なぜ唐突にこう書くかというと、11月号の(セイコの)記事を読み、「呆れ返ったから」だ。
 「西尾が狂っているのではなく、本当の事を喋ってゐるのならば、西尾が…くだくだしく述べてきたことの一切が無意味になってしまう」。
 「かふいう無責任な放言を、それまで熱心に西尾を支持した人々はどういふ顔をして聞くのであらうか」。
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 ほとんど立ち入らない。
 ただ、「西尾が狂っているのではなく、本当の事を喋ってゐるのならば」、という部分は、相当にスゴい副詞文だと感じる。
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  ついでに。
 西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(2008年)は相当に話題になり「売れた」はずの、単一の主題をもつ西尾の単行本だ(主題が分散している単行本もこの人には多い)。
 しかし、同全集には収載されないようであり、そもそもが「天皇・皇室」を主テーマとして函の背に書かれる巻もないようだ。
 個人編集だから、自分の歴史から、自著・自分が紛れもなく書いた文章の範囲から、完全に排除できる、と西尾は考えているのだろうか。全集第17巻にも見られる、自分史の一種の「捏造」・「改竄」なのだが。
 だが、活字となった雑誌や本は半永久的に残り、こういう文章を残す奇特な?者はきっといる。
 ——

1252/朝日新聞を読むとバカになるのではなく「狂う」。

 一 桑原聡ではなく上島嘉郎が編集代表者である別冊正論Extra20(2013.12)は<NHKよ、そんなに日本が憎いのか>と背表紙にも大書する特集を組んでいた。月刊WiLL(ワック)の最新号・9月号の背表紙には<朝日を読むとバカになる>とかかれている。
 こうした、日本国内の「左翼」を批判する特集があるのはよいことだ。月刊正論にせよ、月刊Willにせよ、国内「左翼」批判よりも、中国や韓国を批判する特集を組むことが多かったように見えるからだ。中国や韓国なら安心して?批判できるが、国内「左翼」への批判は反論やクレームがありうるので産経新聞やワック(とくに月刊WiLLの花田紀凱)は中国・韓国批判よりもやや弱腰になっているのではないか、との印象もあるからだ。昔の月刊WiLLを見ていると、2005年11月号の総力特集は<朝日は腐っている!>で、2008年9月号のそれは<朝日新聞の大罪>なので、朝日新聞批判の特集を組んでいないわけではないが、しかし、中国等の特定の<外国>批判よりは取り上げ方が弱いという印象は否定できないように思われる。
 それに、「本丸」と言ってもよい日本共産党については批判的検討の対象とする特集など見たことがないようだ。日本共産党批判は、同党による執拗な反論・反批判や同党員も巻き込んだ<いやがらせ>的抗議を生じさせかねないこともあって、<天下の公党>の一つを取り上げにくいのかもしれない。しかし、中国共産党を問題にするならば、現在の中国共産党と日本共産党の関係はどうなっているのか、日本共産党は北朝鮮(・同労働党)をどう評価しているのかくらいはきちんと報道されてよいのではないか。しかるに、上記の月刊雑誌はもちろん、産経新聞や読売新聞でも十分には取り上げていないはずだ。
 特定の「外国」だけを批判していて、日本国内「左翼」を減少または弱体化できるはずがない。むろん報道機関、一般月刊雑誌の範疇にあるとの意識は日本共産党批判を躊躇させるのかもしれないが、1989年以降のソ連崩壊・解体によって、欧州の各国民には明瞭だった<コミュニズムの敗北>や<社会主義・共産主義の誤り>の現実的例証という指摘が日本ではきわめて少なく、その後も日本共産党がぬくぬくと生き続けているのも、非「左翼」的マスメディアの、明確にコミュニズムを敵視しない「優しい」姿勢と無関係ではないように見える。
 二 さて、<朝日を読むとバカになる>だろうが、「バカになる」だけならば、まだよい。あくまで例だが、月刊WiLL9月号の潮匡人論考のタイトルは「集団的自衛権、朝日の狂信的偏向」であり、月刊正論9月号の佐瀬昌盛の「朝日新聞、『自衛権』報道の惨状」と題する論考の中には、朝日新聞の集団的自衛権関係報道について「企画立案段階で本社編集陣そのものが狂っていた」のではないか、との文章もある。すなわち、「バカ」になるだけではなく、本当の狂人には失礼だが、朝日新聞は<狂って>おり、<朝日を読むと狂う>のだと思われる。昨年末の特定秘密保護法をめぐる報道の仕方、春以降の集団的自衛権に関する報道の仕方は、2007年の<消えた年金>報道を思い起こさせる、またはそれ以上の、反安倍晋三、安倍内閣打倒のための<狂い咲き>としか言いようがない。
 むろんいろいろな政治的主張・見解はあってよいのだが、種々指摘されているように、「集団的自衛権」の理解そのものを誤り、国連憲章にもとづく「集団(的)安全保障」の仕組みとの違いも理解していないようでは、不勉強というよりも、安倍内閣打倒のための意識的な「誤解」に他ならないと考えられる。
 一般読者または一般国民の理解が十分ではない、又はそもそも理解困難なテーマであることを利用して、誤ったイメージをバラまくことに朝日新聞は執心してきた。本当は読者・国民をバカにしているとも言えるのだが、集団的自衛権を認めると「戦争になる」?、「戦争に巻き込まれる」?、あるいは「徴兵制が採られる」?。これらこそ、マスコミの、国民をバカにし狂わせる「狂った」報道の仕方に他ならない。
 長谷部恭男が朝日新聞紙上でも述べたらしい、<立憲主義に反する>という批判も、意味がさっぱり分からない。長谷部論考を読んではいないのだが、立憲主義の基礎になる「憲法」規範の意味内容が明確ではないからこそ「解釈」が必要になるのであり、かつその解釈はいったん採用した特定の内容をいっさい変更してはいけない、というものではない。そもそも、1954年に設立された自衛隊を合憲視する政府解釈そのものも、現憲法施行時点の政府解釈とは異なるものだった。「解釈改憲」として批判するなら、月刊正論9月号の中西輝政論考も指摘しているように、多くの「左翼」が理解しているはずの「自衛隊」は違憲という主張を、一貫して展開すべきなのだ。
 安倍首相が一度言っているのをテレビで観たが、行政権は「行政」を実施するために必要な「憲法解釈」をする権利があるし、義務もある(内閣のそれを補助することを任務の一つとするのが内閣法制局だ)、むろん、憲法上、「行政権」の憲法解釈よりも「司法権」の憲法解釈が優先するが、最高裁を頂点とする「司法権」が示す憲法解釈に違反していなければ、あるいはそれが欠如していれば、何らかの憲法解釈をするのは「行政権」の責務であり義務でもあるだろう。
 1981年の政府解釈が「慣行」として通用してきたにもかかわらず、それを変更するのが立憲主義違反だというのだろうか。一般論としては、かつての解釈が誤っていれば、あるいは国際政治状況の変化等があれば、「変更」もありうる。最高裁の長く通用した「判例」もまた永遠に絶対的なものではなく、大法廷による変更はありうるし、実際にもなされている。それにもともと、1981年の政府解釈(国会答弁書)自体がそれまでの政府解釈を変更したものだったにもかかわらず、朝日新聞はこの点におそらくまったく触れていない。
 三 そもそも論をすれば、「戦争になる」、「戦争に巻き込まれる」、「徴兵制が採られる」あるいは安倍内閣に対する「戦争準備内閣」という<煽動>そのものが、じつは奇妙なのだ。日本国民の、先の大戦経験と伝承により生じた素朴な<反戦争>意識・心情を利用した<デマゴギー>に他ならないと思われる。
 なぜなら、一般論として「戦争」=悪とは言えないからだ。<侵略>戦争を起こされて、つまりは日本の国家と国民の「安全」が危殆な瀕しているという場合に、<自衛戦争>をすることは正当なことで、あるいは抽象的には国民に対する国家の義務とても言えることで、決して「悪」ではない。宮崎哲弥がしばしば指摘しているように<正しい戦争>はあるし、樋口陽一も言うように、結局は<正しい戦争>の可能性を承認するかが分岐点になるのだ。むろん現九条⒉項の存在を考えると、自衛「戦争」ではなく、「軍その他の戦力」ではない実力組織としての自衛隊による「自衛」のための実力措置になるのかもしれないが。
 朝日新聞やその他の「左翼」論者の顕著な特徴は、「軍国主義」国家に他ならない中国や北朝鮮が近くに存在する、そして日本と日本国民の「安全」が脅かされる現実的可能性があるという「現実」に触れないこと、見ようとしないことだ、それが親コミュニズムによるのだとすれば、コミュニズム(社会主義・共産主義)はやはり、人間を<狂わせる>。
 四 率直に言って、「狂」の者とまともな会話・議論が成り立つはずがない。政府は国民の理解が十分になるよう努力しているかという世論調査をして消極的な回答が多いとの報道をしつつ、じつは国民の正確な理解を助ける報道をしていないのが、朝日新聞等であり、NHKだ。表向きは丁重に扱いつつ、実際には「狂」の者の言い分など徹底的に無視する、内心ではそのくらいの姿勢で、安倍内閣は朝日新聞らに対処すべきだろう。
 朝日新聞が「狂」の集団であることは、今月に入ってからの自らの<従軍慰安婦問題検証>報道でも明らかになっている。

1248/オリンピックを<ナショナリズム発揚>と忌避する「左翼」。

 月刊正論(産経新聞社)は編集長・編集部が変わってかなりマシになってきたようだ。
 部員として安藤慶太・上島嘉郎という、信用の措けそうなベテランが入っていることも大きいのかもしれない。
 そろそろ数ヶ月遅れて中古本を読むのはやめようか、という気にもなってきた。
 月刊正論7月号で目に付くのは、元週刊朝日編集長・川村二郎の朝日への「決別」文だ。だが、読んで見るとほとんど朝日新聞社グループ内のもめ事の程度のようだ。すなわち、川村二郎は、朝日新聞社の「左翼」性あるいは「容共」性を日本国家・日本国民の立場から批判しているのでは全くない。せいぜいのところ、論説委員等の文章力への嘆きとか自分に対する処遇のうらみごと程度では、まったく迫力がない。
 それよりも、朝日新聞を毎日読むという精神衛生に良くない習慣のないところ、朝日新聞の昨年10/13付けの曽我豪(当時、政治部長)のコラムが一部引用されていて。その内容に興味を持った。川村によると、2020年東京五輪について曽我はこう書いた、という。
 「国民の和合の礎となる」よう「昇華していけるのか、国威発揚の道具に偏して無用な対立や混沌を生むのか」、これがこの7年の「日本の政治の課題なのだろう」。
 川村の批判に含まれているかもしれないように、二つの選択肢を挙げて、どちらを主張することもなく、「日本の政治の課題」だと言うのは、日本語文としても厳密には奇妙だ。「無用な対立や混沌」なるものの意味もよく分からない。
 そのことよりも、朝日新聞の政治部長がオリンピックについて「国威発揚の道具に偏して無用な対立や混沌を生む」可能性に言及していることが興味深い。明確に書くことなく(例のごとく?)曖昧にはしているが、オリンピックを「国威発揚の道具」に少なくともなりうるものとして批判的に捉える、という朝日新聞らしい感覚が見てとれる。
 オリンピックは、あるいはサッカー・ワールドカップは、客観的には「国威発揚」の場となり、国民「統合」の方向に働くことは否定できないと思われる。いちいち述べないが、やはりかなりの程度は、オリンピックでの成績(メダル数等)は<国力>に比例していることを否定できないと思われる。スポーツをできる余裕のある国民の数やスポーツに財政的にも援助できる金額等々は、国(国家)によって異なり、<格差>のあることはほとんど歴然としていると思われる。
 だが、そのことをもって「国威発揚の道具」視するのは、何についても平等でなければならず、<競争>の嫌いな、従ってまた<国家間の競争>についても批判的・諧謔的に捉えようとする「左翼」のイデオロギーに毒されている、と感じざるをえない。
 国家間の武力衝突・戦争に比べれば、平和的でルールに則った、可愛い「競争」ではないか。
 だが、「日本」代表とかいうように、個別「国家」を意識させざるをえないことが、朝日新聞的「左翼」には不快であるに違いない。
 先日言及した、<共産主義への憧れをやはり持っている>と吐露した人物は、<国威発揚の場となるようなオリンピックはやらない方がよい>と言い切った。あとで、オリンピック一般ではなく「国威発揚のために使われる」それに反対だと言い直していたのだが、趣旨はほとんど変わらないだろう。上述のように、客観的に見て、オリンピック等の「国家」を背負ったスボーツ大会は「国威発揚の場」にもならざるをえないからだ。
 何年かに一度、「日本」代表選手又は選手団の勝敗や成績に関心をもち、応援して一喜一憂する国民が多くいることは悪いことではないと思う。
 「地球」や「世界」ではなく個別の「国家」を意識させざるをえないオリンピック等に朝日新聞的「左翼」はもともと警戒的なのだ。彼ら「左翼」は、むろん日本国民の中にもいる「左翼」は、サッカー・ワールドカップのパプリック・ビューイングとやらに何万人、何千人もの人々が集まることに批判的、警戒的であるかもしれず、あるいは<ナショナリズムを煽られた>現象だと理解するのかもしれない。
 だが、そのように感じる意識こそが、どこか<倒錯>しているのだ。「国家」を意識したくなく、(本来のコミュニストはそうだが)「国家」を否定したい、というのは<異常な>感覚なのだ。「日本」代表を応援するのが<ナショナリズム>だとすれば、それは何ら批判されるものではないし、批判的に見る<反・ナショナリズム>の方がフツーではない。しかし、一部にはそういう者もいて、<大衆は…>などと批判していそうなのだから、異様で、怖ろしい。

1141/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか③。

 月刊正論9月号(産経)の「編集者から」(p.327)の文章で驚いたのはつぎの言葉だ。
 一読者が「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民の落着点を求め」る姿勢が大切ではないかと(前回に紹介にしたことを書いて)「編集者へ」述べたことに答えて、それが「必要な場合もあるでしょうが…」と述べているのは一般論としては誤っていないだろうが、問題は、それに続くつぎの文章だ。
 「それ〔異なる意見〕が日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には、我々は異見を潰しにかかります」。
 月刊正論編集部は「日本と日本人を間違った方向に導くと判断し時には」「潰しにかかる」、そういう編集方針を明らかにしたわけだ。
 善意に解釈して、その気分ないし意気込み?は理解できなくもないが、ただちに、次のような疑問が生じる。
 第一。「日本と日本人を間違った方向に導く」意見かどうかを判断するのは、明らかに月刊正論編集部(「我々」)だとされている。
 しかして、そもそも月刊正論編集部に、諸意見・考え方等々のいずれが「日本と日本人を間違った方向に導く」か否かを適切に判断する資格または能力があるのだろうか。
 主観的に、そのような気概?を持って何らかの「判断」をするのは結構だし、妨げることもできないだろうが、そもそもその「判断」が正しいまたは適切か否かの客観性は何ら保障されていない。
 奥付?によると月刊正論「編集部」には、「編集人」の桑原聡のほかに「小島新一・永井優子・川瀬弘至・上島嘉郎」の4名しかいない。政治・社会系の研究者・学者としても、政治・社会系評論家としても何らその地位を確立しているとは思えない、長の桑原を含めてこれら5名に、「日本と日本人を間違った方向に導く」か否かの判断を、読者は委ねることができるだろうか。一般論として、とても不可能だ、と考えられる。
 「我々」が「日本と日本人を間違った方向に導くと判断した時には」、という書き方は、まるで「我々」がその判断を客観的ないし的確に行うことができるということを前提にしているごとくで、誤っている可能性がきわめて高く、ひどく<傲慢>だ。
 読者は、「日本と日本人を間違った方向に導く」意見・考え方か否かの判断を、上の5名が客観的にかつ適切になしうるとは考えていないし、期待もしていないだろう。
 そもそも月間
発行部数2万程度の雑誌の、たった5名の「編集者」にそのようなことができるわけがない、と考える方が常識的だ。
 百歩譲って、編集者としての気分・気概を宣明しただけだ、と理解するとしても、そのような気分・気概は、ある意味では、すべての政治・社会系雑誌の編集者が持っていても不思議ではないもので、わざわざ文章にし、活字にしておくような類のものではない。
 あえて上のようなことを活字にしていること自体が、やはりどこかおかしい、と感じざるをえない。
 第二。「日本と日本人を間違った方向に導く」意見・考え方を「我々」は「潰しにかか」る、という。
 その前提的判断の客観性・適切性に疑問がありうることは上に記したが、そのような前提的判断に立っての、上のような「異見」は「潰しにかかります」、という表現は尋常ではない。
 具体的には、そのような「異見」は掲載せず(執筆を依頼せず)、それを批判・攻撃する論考のみを掲載していく、という編集方針を宣言していることになるのだろう。
 一般論として、何らかの編集方針を持つことはありえ、それに基づいて具体的な雑誌編集を行うことはむろんあるだろう。どの雑誌もそうしている、とも言える。
 だが、上のような「異見」は「潰しにかかります」、という表現は、穏やかではない。
 客観的にまたは結果的にそのような機能を持つことがあっても、あるいは持つことを意図していたとしても、ふつうは、上のように「潰しにかかります」とまでは、文章化しない、活字にはしない、のではないか。
 この点でも、現在の月刊正論編集部は、やはり、どこかおかしい。
 それにまず、自分(たち)の気にくわない意見は「潰しにかかる」という姿勢・態度を明らかにすることは、多分に気味が悪いものだ。月刊正論編集部は、政治・社会問題にかんする諸意見についての<思想警察>のつもりなのだろうか。そういう立場に立つつもりなのだろうか。右向きか左向きか知らないが、どこか<ファシスト>的匂いを感じる表現であることに、実際の書き手は注意した方がよいと思われる。
 つぎに、そもそも、月刊正論という雑誌の力で、「日本と日本人を間違った方向に導く」意見を同誌編集部が「潰しにかかる」ことができると本当に考えているのだろうか。
 そうだとすれば、尋常ではないし、やはりひどく<傲慢>だ。
 月間発行部数2万程度の雑誌に、朝日新聞の数分の1しか読者のない産経新聞のさらに100分の1程度の読者数の雑誌に、その雑誌編集部の「判断」と異なる意見を<潰す>ことができるとはとても思えない。<潰せる>と考えているとすれば、その自信過剰さは、尋常な感覚ではないだろう。
 実際問題として、月刊正論(編集部)が「日本と日本人を間違った方向に導く」意見だと判断するかもしれない諸意見は種々の、別の雑誌に溢れているし、今日ではブログやツイッター等の表現手段もある。
 月間発行部数2万程度の雑誌の「編集者」が、気にくわない「異見」を「潰しにかかります」などと、かりに内部でそう考えていたとしても、正規に、雑誌上に文章とし、活字にするようなことはしない方がよいだろう。
 ごく常識的な感想を書いたつもりだ。内容的にも疑問があり、「潰しにかかる」という言葉には<思想警察>的な気味悪さを感じる。と同時に、そのような文章を平気で活字にし、正規に残しておく、という姿勢・態度・感覚に、尋常ではない、戦慄すべき<怖ろしさ>を感じる。
 余計ながら、ひょっとして具体的には皇位継承問題(女系天皇の是非)を念頭に置いて「編集者」の上の文章は書かれたのかもしれない。しかし、そのような特定・限定はなく、一般的な宣明のかたちで、上の文章は書かれている。
 さらに余計ながら、「日本と日本人を間違った方向に導く」、日本国内のマルクス主義者・親マルクス主義者あるいは「左翼」の諸意見・考え方を「潰しにかかる」という編集方針を、月刊正論編集部は採っているのだろうか?、かりに採っているとしても、それは十分なものだろうか?、という疑問がある。
 「保守」派内の「内ゲバ」に主要な関心を向けたり、その一方に加担することに熱心な月刊雑誌は、少なくとも「保守」派一般の、またはその代表的な雑誌になることすらできないだろう。ましてや、憲法改正に必要な国民・有権者の過半数に支持される、あるいは関心をもたれる雑誌に成長することは決してないだろうと思われる。
 月刊正論の親会社の発行する産経新聞8/14加地伸行と竹内洋の対談中に、こんな部分があった。
 「加地 今の保守系は論壇というよりも、悪口を言うことで終わってしまっている。……
  竹内 それと内ゲバ。左翼…が、保守論壇も。仲間内でやるのが一番見苦しい」。
 この秋月の文章も一種の「内ゲバ」かもしれないが、秋月瑛二のブログにそのようなものの一方当事者となる資格(・読者数)はないものと自覚している。

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