多くはないが、正気の、正視している文章を読むと、わずかながらも、安心する。
 月刊Hanada12月号(飛鳥新社)p.200以下の青山繁晴の連載もの。
 昨年末の慰安婦問題日韓合意最終決着なるものについて、p.209。
 「日韓合意はすでに成された。世界に誤解をどんどん、たった今も広めつつある」。
 p.206の以下の文章は、じつに鋭い。最終決着合意なるものについて、こういう。
 「日韓合意のような嘘を嘘と知りつつ認める……のではなくて嘘と知りつつ嘘とは知らない振りをして、嘘をついている相手に反論はしないという、人間のモラルに反する外交合意」。
 青山繁晴は自民党や安倍政権の現状にも、あからさまではないが、相当に不満をもっているようだ。そのような筆致だ。
 できるだけ長く政権(権力)を維持したい、ずっと与党のままでいたい、総選挙等々で当選したい、という心情それら自体を批判するつもりはないが、それらが自己目的、最大限に優先されるべき関心事項になってしまうと、<勝つ>ためならば何でもする、何とでも言う、という、(1917-18年のレーニン・ボルシェヴィキもそうだったが)「理念」も「理想」も忘れた、かつ日本国家や日本人の「名誉」に対して鈍感な政治家や政党になってしまうだろう。
 今年のいくつかの選挙で見られるように、自民党もまた<選挙用・議員等当選用>の政党で、国会議員レベルですらいかほどに<歴史認識>や<外交姿勢>あるいは<反共産主義意識>が一致しているのか、はなはだ疑わしい。
 二 月刊正論2016年3月号(産経)の対談中の阿比留瑠比発言(p.100)、「今回の合意」は「河野談話」よりマシだ旨は、全体の読解を誤っている。産経新聞主流派の政治的立ち位置をも推察させるものだ。
 三 すでに書いたことだが、昨年末の日韓最終合意なるものを支持することを明言し、「国家の名誉」という国益より優先されてよいものがあると述べたのが渡部昇一だった。
 同じ花田紀凱編集長による、月刊WiLL4月号(ワック)p.32以下。
 この渡部昇一の文章は、他にも奇妙なことを述べていた。
渡部昇一によると、かつての「対立軸」は<共産主義か反共産主義か>だったが、1991年のソ連解体により対立軸が「鮮明ではなくなり」、中国も「改革開放」によって「共産主義の理想」体現者でなくなり、「共産主義の夢は瓦解した」。
 このように書かれて喜ぶのは、日本共産党(そして中国共産党と共産チャイナ)だ。ソ連解体や中国の「改革開放」政策への変化により<共産主義はこわくなくなった。警戒しなくてよい> と言ってくれているようなものだからだ。
 長々とは書かない。基本的な歴史観、日本をめぐる国際状況の認識それ自体が、この人においては錯乱している。一方には<100年冷戦史観>を説いて、現在もなお十分に「共産主義」を意識していると見られる論者もいるのだが(西岡力、江崎道朗ら。なお、<100年冷戦史観>は<100年以上も継続する冷戦>史観の方が正確だろう)。
 また、渡部昇一が<共産主義か反共産主義か>に代わる対立軸だと主張しているのが、「東京裁判史観を認めるか否か」だ(p.37)。
 これはしかし、根幹的な「対立軸」にはならない、と秋月瑛二は考える。
 「東京裁判史観」問題が重要なのはたしかだ。根幹的な対立の現われだろう。しかし、「歴史認識」いかんは、最大の政治的な「対立軸」にはならない。
 日本の有権者のいかほどが「東京裁判」を意識して投票行動をしているのか。「歴史認識」は、最大の政治的争点にはならない。議員・候補者にとって「歴史」だけでは<票にならない>。
 ついでにいえば、重要ではあるが、「保守」論壇が好む憲法改正問題も天皇・皇室問題も、最大の又は根幹的な「対立軸」ではない、と考えられる。いずれまた書く。
 渡部昇一に戻ると、上記のように、渡部は「東京裁判史観を認めるか否か」が今や鮮明になってきた対立軸だとする。
 しかし、そもそも渡部昇一は、昨年の安倍戦後70年談話を「100点満点」と高く評価することによって、つまり「東京裁判史観」を基本的に継承している安倍談話を支持することによって、「東京裁判史観」への屈服をすでに表明していた者ではないか。
 上の月刊WiLL4月号の文章の最後にこうある。
 「特に保守派は日韓合意などにうろたえることはない」。「東京裁判史観の払拭」という「より大きな課題に」取り組む必要がある。「戦う相手を間違えてはならない」。
  ? ? ーほとんど意味不明だ。渡部昇一は、戦うべきとき、批判すべきときに、「戦う相手を間違えて」安倍70年談話を肯定してしまった。その同じ人物が、「東京裁判史観の払拭」という「より大きな課題に」取り組もう、などとよくぞ言えるものだ。ほとんど発狂している。
 四 天皇譲位問題でも、憲法改正問題でも、渡部昇一の錯乱は継続中だ。
 後者についていうと、月刊正論2016年4月号(産経)上の「識者58人に聞く」というまず改正すべき条項等のアンケート調査に、ただ一人、現憲法無効宣言・いったん明治憲法に戻すとのユニークな回答を寄せていたのが、渡部昇一だった(この回答集は興味深く、例えば、三浦瑠麗が「たたき台」を自民党2012年改憲案ではなく同2005年改憲案に戻すべきと主張していることも、「保守」派の憲法又は改憲通 ?の人ならば知っておくべきだろう。2005年案の原案作成機関の長だったのは桝添要一。桝添の関連する新書も秋月は読んだ)。
 探し出せなかったのでつい最近のものについてはあまり立ち入れないが、つい最近も渡部昇一は、たしか①改正案を準備しておく、②首相が現憲法の「無効宣言」をする、③改正案を明治憲法の改正手続によって成立させ、新憲法とする(②と③は同日中に行う)、というようなことを書いていた。同じようなことをこの人物は何度も書いており、この欄で何度も批判したことがある。
 また書いておこう。①誰が、どうやって「改正案」を作成・確定するのか、②今の首相に(国会でも同じだが)、現在の憲法の「無効」宣言をする権限・権能はあるのか。
 渡部昇一や倉山満など、「憲法改正」ではなく(一時的であれ)<大日本帝国憲法(明治憲法)の復活>を主張するものは、現実を正視できない、保守・「観念」論者だ。真剣であること・根性があることと<幻想>を抱くこととはまるで異なる。
 この人たちが、日本の「保守」を劣化させ、概念や論理の正確さ・緻密さを重んじないのが「保守」だという印象を与えてきている。