10年近くも経つと、かつて自分が何を書いていたか、自分のことながら分からなくなってくる。
 2007年3月に、「日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか」と題して、つぎのように書いていた。2007/03/23付け。
 現時点で見れば知識不足のところはあるし、当時は日本共産党文献やその他の関係文献を調べてみようという気は起きなかった。但し、最近は、きちんと実証的に正確な「事実」を確認しようと思っている。
 日本共産党が現在およびそれぞれの時期に何と主張していた(いる)かを知ること自体は、「事実」の認識の問題だ。
 問題関心だけは今でも共通するので、過去のものを再掲しておくことにする。
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 日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか。
 腑に落ちない、こと又はもの、は沢山あるが、ソ連崩壊に関係する日本共産党の言い分は最たるものの一つだ。
 同党のブックレット19「『社会主義の20世紀』の真実」(1990、党中央委)は90年04月のNHKスペシャル番組による「社会主義」の総括の仕方を批判したもので、一党独裁や自由の抑圧はスターリン以降のことでレーニンとは無関係だなどと、レーニン擁護に懸命だ。昨日に触れたが、2004年の本で不破哲三氏はスターリンがトップになって以降社会主義から逸脱した「覇権主義」になったと言う。そもそも社会主義国ではなかったので、崩壊したからといって社会主義の失敗・資本主義の勝利を全く意味しない、というわけだ。
 だが、後からなら何とでも言える。後出しジャンケンならいつでも勝てる。関幸夫・史的唯物論とは何か(1988)はソ連崩壊前に党の実質的下部機関と言ってよい新日本出版社から出た新書だが、p.180-1は「革命の灯は、ロシア、…さらに今日では十数カ国で社会主義の成立を見るにいたりました」と堂々と書いてある。「十数カ国」の中にソ連や東欧諸国を含めていることは明らかだ。ソ連は社会主義国(なお、めざしている国・向かっている国も含める)でないと言った3年前に、事実上の日本共産党の文献はソ連を社会主義国の一つに含めていたのだ。判断の誤りでした、スミマセン、で済むのか。
 また、レーニンの死は1924年、スターリンが実質的に権力を握るのは遅くても1928年だ。とすると、日本共産党によると、1928年以降のソ連は、そしてコミンテルン、コミンフォルムは、社会主義者ではなく「覇権主義」者に指導されていたことになる。そしてますます腑に落ちなくなるのだが、では、コミンテルンから日本共産党への32年テーゼはいったい何だったのか。非社会主義者が最終的に承認したインチキ文書だったのか。コミンフォルムの1950年01月の論文はいったい何だったのか。これによる日本共産党の所感派と国際派への分裂、少なくとも片方の地下潜行・武装闘争は非社会主義者・「覇権主義」者により承認された文書による、「革命」とは無関係の混乱だったのか。
 1990年頃以降、東欧ではレーニン像も倒された。しかし、日本共産党はレーニンだけは守り、悪・誤りをすべてスターリンに押しつけたいようだ。志位和夫・科学的社会主義とは何か(1992、新日本新書)p.161以下も参照。
 レーニンをも否定したのでは日本「共産党」の存立基盤が無になるからだろう。だが、虚妄に虚妄を重ねると、どこかに大きな綻びが必ず出るだろう。虚妄に騙される人ばかりではないのだ。
 なお、私的な思い出話を書くと、私はいっとき社会主義・東ドイツ(ドイツ民主共和国が正式名称だったね)に滞在したことがある。ベルリンではない中都市だったが、赤旗(色は付いてなかったがたぶん赤のつもりのはずだ)をもった兵士のやや前に立って、十数名の兵士を率いて前進しているレーニン(たち)の銅像(塑像)が、中央駅前の大通りに接して立っていた。
 数年前に再訪して少し探して見たのだが、レーニン(たち)の銅像が在った場所自体がよく分からなくなっていた。
 レーニンまでは正しくて、スターリンから誤ったなどとのたわけた主張をしているのは日本共産党(とトロツキスト?)だけではないのか。もともとはマルクスからすでに「間違って」いたのだが。
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 以上。
 旧東ドイツを訪れた当時、上に言及のレーニン像のほか、比較的大きい建造物の壁面上部に、<我々を解放してくれた「赤軍」に感謝する!>というような旨の大文字が書かれてあるのを見た記憶もある。50年も前のことではない、かつての「社会主義」国・東ドイツの「現実」だった。