秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロシア革命

1941/R・パイプス著・ロシア革命第11章第4節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 ----   
 第4節・ボルシェヴィキの好運(運命の上昇)(rise in Bolshevik fortunes)。
 (1)ケレンスキーが挑発してコルニロフと決裂し、自分の権威を高めようとした、というのがかりに正しいとすると、彼はこれに失敗したのみならず、全く反対のことを成し遂げてしまった。
 コルニロフとの衝突によって、保守派およびリベラル派世界との関係は、彼の社会主義派の基盤が強固になることなく、致命的に危うくなった。
 コルニロフ事件の第一の受益者は、ボルシェヴィキだった。
 8月27日の後、それらの支持にケレンスキーが依拠していたエスエルとメンシェヴィキは、徐々に消失していった。
 臨時政府は今や、そのときまでは有していたとされたかもしれない限定的な意味ですら、その機能を失った。
 9月と10月、ロシアは操縦者がいないままに漂流した。
 舞台は、左翼からの反革命のために用意された。
 かくして、ケレンスキーはのちにこう書いた。「(ボルシェヴィキのクーの)10月27日を可能にしたのは、8月27日だけだった」。
 こう書いたのは正しかったが、しかし、彼が言おうとした意味でではなかった。(84)
 (2)叙述したように、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対して七月蜂起についての厳しい制裁措置を何ら執らなかった。
 ケレンスキーの対抗諜報機関の主任であるニキーチン大佐によれば、ケレンスキーは、7月10-11日に、軍事スタッフからボルシェヴィキを逮捕する権限を剥奪し、ボルシェヴィキの所有物のうちから見つかった武器を没収することを禁じた。(85)
 7月末にはケレンスキーは、ボルシェヴィキがペトログラードで第6回党大会を開いたとき、見て見ぬふりをしていた。
 (3)この消極性は、ボルシェヴィキも参加しているイスパルコムと宥和しておきたいとのケレンスキーの願望に多くは由来していた。
 すでに述べたように、イスパルコムは8月4日、ツェレテリ(Tsereteli)の動議によって、微妙にも「7月3-5日の事件」と呼ばれたものに参加した者のさらなる迫害を止めるよう要求する決議を採択した。
 ソヴェトは8月18日の会合で、「社会主義諸党派の中での極端な潮流」の代表者たちに対してなされた「不法な逮捕と濫用に断固として抗議する」と票決した。(86)
 政府はこれに反応して、次々と著名なボルシェヴィキを釈放し始めた。ときには保釈金を課して、ときには友人の保証にもとづいて。
 最初に自由にになった(そして全ての責任追及を免れた)のは、カーメネフだった。彼は、8月4日に釈放された。
 ルナチャルスキー(Lunacharskii)、アントニオ-オフセーンコ(Antonio-Ovseenko)およびA・コロンタイ(Alexandra Kollontai)はすぐあとで、自由になった。そして、その他の者が続いた。
 (4)その間に、ボルシェヴィキは、政治的勢力として再登場していた。
 ボルシェヴィキは、政治的両極化によって利益をうけた。この政治的両極化は、リベラル派と保守派がコルニロフへと引かれ、急進派は極左へと振れた夏の間に生じていた。
 労働者、兵士、海兵たちは、メンシェヴィキとエスエルの優柔不断さを嫌悪し、これらを諦めて、大挙して唯一の選択肢もボルシェヴィキを支持するに至った。
 しかし、政治的な疲れもあった。
 春には揃って投票所へと行っていたロシア人は、彼らの状態の改善に何らつながらない選挙に徐々に飽きてきた。
 このことはとくに、過激派に対抗する機会がないと感じた保守的な人々について本当のことだった。しかし、リベラル派や穏健な社会主義立憲派についても当てはまった。
 この趨勢は、ペトログラードとモスクワの市議会選挙の結果でもって例証され得る。
 コルニロフ事件の一週間前、8月20日のペトログラード市会(Municipal Council)の投票で、ボルシェヴィキは得票率を1917年5月の20.4パーセントから33.3パーセントへと、さらには過半数へと伸ばした。
 しかしながら、絶対得票数では、投票数の低下によって17パーセントしか伸ばさなかった。 
 春の選挙では有権者の70パーセントが投票所へ行ったのだったが、8月にはそれは50パーセントに落ちた。首都のいくつかの地区では、前には投票した者の半分が棄権していた。(*)(87)
 --------
 (*) Crane Brinton はその<革命の解剖学>(New York, 1938, p.185-6)で、革命的状況下では庶民的市民は政治参加するのに退屈し、極端主義者に広場を譲る、というのはふつうだと観察する。
 後者の影響力は、民衆の幻滅と政治に対する利害の喪失に比例して増大する。
 --------
 モスクワでは、9月の市会選挙での投票参加者の減少は、さらに劇的だった。
 こちらでは、以前の6月の64万票に対して、38万票しか投じられなかった。
 投票票の半分以上はボルシェヴィキで、12万票を掘り起こしていた。一方、社会主義派(エスエル、メンシェヴィキおよびこれらの友好派)は37万5000票を失った。後者のほとんどはおそらくは、自宅にいるのを選んだ。
 ********
 モスクワ市会選挙(議席数の割合)(88)
 党       1917年3月 1917年9月 変化
 エスエル    58.9     14.7    -44.2
 メンシェヴィキ 12.2      4.2    - 8.0
 ボルシェヴィキ 11.7     49.5    +37.8
 カデット    17.2     31.5    +14.3   
 ********
両極化の一つの効果は、ケレンスキーが変わらない権力を求めて計算していた政治基盤の風化だった。
 8月半ばのペトログラードの市会選挙で社会主義諸党が示した貧弱さは、同じその月の遅くでのケレンスキーの行動の、重要な要因だったかもしれない。
 というのは、彼の政治基盤が消失していたとき、「反革命」の勝利者としてよりも左翼の側への自分の人気と影響力を高めるよい方法は、何だったたのか? かりに想像上のものだったとしても。
 (5)コルニロフ事件は、ボルシェヴィキの運命を、予期されなかった高さにまで押し上げた。
 コルニロフの幻想上の蜂起を抑止し、クリモフの兵団がペトログラードを占拠するのを阻止するために、ケレンスキーはイスパルコムの助けを求めた。
 8月27-28日の深夜会議で、あるメンシェヴィキの動議にもとづき、イスパルコムは、「反革命と闘う委員会」の設立を承認した。
 しかし、ボルシェヴィキの軍事組織だけがイスパルコムが用いることのできる実力部隊だったので、この行動は、ボルシェヴィキにソヴェトの部隊という責任を負わせるという効果をもった。(89) こうして、昨日の犯罪者は、今日は戦闘員になった。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキに対して直接に、コルニロフに対抗する自分を、その当時に明らかに大きくなっていたボルシェヴィキの兵士たちに対する影響力を使って助けるよう訴えた。(90)
 ケレンスキーの代理人は、アナキストとボルシェヴィキ共感者としてよく知られた巡洋艦<オーロラ>の海兵たちに、ケレンスキーの住居であり臨時政府の所在地である冬宮の防衛の責任を引き受けるように要請した。(91)
 M・S・ウリツキ(Ulitskii)はのちに、ケレンスキーのこの行動がボルシェヴィキを「名誉回復させた」と述べることになる。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキが労働者たちに4000丁の鉄砲を配って武装することを可能にした。相当の数の武器がボルシェヴィキの手に入ることになつた。
 ボルシェヴィキはこれらの武器を、危機が過ぎ去ったあとも保持し続けた。(92)
 ボルシェヴィキの再生とともにどの程度に事態が進行していたかは、8月30日の政府の決定、すなわち訴訟手続が始まっているごく数名を除いて拘禁されているボルシェヴィキ全員を釈放するとの決定、でもって判断できるかもしれない。(93)
 トロツキーは、この恩赦の受益者の一人だった。トロツキーは3000ルーブルの保釈金でKresty 監獄から9月3日に釈放され、ソヴェト内のボルシェヴィキ党派の責任者となった。
 10月10日までに、27人のボルシェヴィキ以外は全員が釈放され(94)、つぎのクーを準備した。一方で、コルニロフと他の将軍たちは、Bykhov 要塞に惨めに捨てられていた。
 9月12日、イスパルコムは政府に対して、レーニンとジノヴィエフについて、身体の安全の保証と公正な裁判を要請した。(95)
 (6)コルニロフ事件の劣らず重要な帰結は、ケレンスキーと軍部の間の分断だった。
 というのは、将校団は事件に混乱して政府を公然とは拒否するつもりはなく、コルニロフの反乱に参加するのを拒絶したけれども、彼らの司令官に対する措置や多数の優れた将軍たちの逮捕、そして左翼への追従についてケレンスキーを軽蔑したからだ。
 のちの10月遅くにケレンスキーがボルシェヴィキから自分の政府を救うのを助けるよう軍部に呼びかけたとき、ケレンスキーの嘆願は全く聞き入れられないことになる。
 (7)9月1日、ケレンスキーは、ロシアは「共和国」だと宣言した。
 一週間後(9月8日)、彼は政治的対抗諜報機関を廃止した。これは、彼自身からボルシェヴィキの企図に関する主要な情報源を奪うことを意味した。(96)
 (8)堅固な指導力をもつことができる誰かによってケレンスキーが打倒されることになるのは、ただ時間の問題だった。
 そのような人物は、左翼から出現するに違いなかった。
 種々の違いが彼らを分けていたとはいえ、左翼の諸政党は、「反革命」という妖怪と闘うときには隊列を固めた。「反革命」とはその定義上、ロシアに実効的な政府としっかりした軍隊を回復しようとする全ての先導的行為を含む用語だった。
 しかし、国家は〔政府と軍隊の〕いずれをも有しなければならないので、秩序を回復しようとする先導力は、彼らの内部から出現しなければならなかった。
  「反革命」は、「真の」革命を偽装して、やって来ることになる。//
 --------
 (84) ケレンスキー,<Delo>, p.65.
 (85) ミリュコフ,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.15n. <Echo de Paris>, 1920, <Oiechestvo>No.1, と<Poslednie Izvestiia>(Ravel), 1921年4月、を引用している。
 (86) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.299-p.300, p.70.
 (87) <NZh>No.108(1917年8月23日), p.1-2とNo.109(1917年8月24日), p.4.; W. G. Rosenberg, <SS>No.2(1969年)所収, p.160-1.
 (88) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.122.; Rosenberg, 同上.
 (89) Golvin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.53-p.54.
 (90) Sokolnikov,<Revoliutsiia>Ⅳ所収, p.104.
 (91) 同上Ⅴ, p.269.
 (92) S. P. Melgunov,<<略>>(Paris, 1953), p.13.
 (93) <NZh>No.116(1917年8月31日), p.2.
 (94) <NZh>No.149/143(1917年10月10日), p.3.
 (95) <NZh>No.125/119(1917年9月12日), p.3.
 (96) <NZh>No.123/117(1917年9月9日), p.4.
 ----
次節の目次上の表題は、「隠れている間のレーニン」。

1937/R・パイプス著・ロシア革命第11章第3節③。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー/第3節。試訳のつづき。 
 ----
 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂③。
 (25)ケレンスキーがコルニロフを訴追したことは、彼に制御できない激しい怒りをもたらした。彼の最も敏感な神経、つまり彼の愛国心に直接に触るものだったからだ。
 声明文を読んで、彼はもはやケレンスキーをたんなるボルシェヴィキの捕囚だとは考えず、自分とその軍隊を陥れるために仕組んだ、卑しむべき挑発の原作者だと見なした。
 コルニロフの反応は、Zavoiko が起草した抗議声明を全ての前線司令官に送ることだった。(+)//
 --------
 (+) 政治的野心をもつ事業家だったZavoiko はネクラソフの対応相手者で、コルニロフを右翼側へと押した。彼について、Martynov,<コルニロフ>, p.20-p.22.
 --------
 「首相による声明は、<中略>その最初の部分で、完璧なウソだ。
 私は、ドゥーマ代議員Vladimir・ルヴォフを臨時政府へと遣わさなかった。
 -彼は、首相からのメッセージの伝達者としてやって来た。<中略>
 かくして、この祖国の運命を賭けるごとき大きな挑発行為が行われた。
 ロシア人民よ。我々の偉大な母国が死にそうだ。
 死の瞬間は、もうすぐだ。
 公然と明確に語らざるを得ない。私、将軍コルニロフは、ソヴェト多数派ボルシェヴィキの圧力によって、臨時政府は、ドイツの将軍幕僚たちの企図と完全に一致して行動し、切迫しているリガの海岸への敵軍の上陸と同時に軍隊を破壊して、この国を内部から震撼させる<中略>、と宣告する。
 私、将軍コルニロフは、コサック農民の息子は、全ての者に対して、私は偉大なロシアを救うこと以外の何ものをも個人的に望んでいない、と宣告する。
 私は誓う、敵国に対する勝利によって人民を立憲会議(憲法制定会議)まで導く、と。その会議は、我々の運命を決定し、我々の新しい政治体制を選択するだろう。」(70)//
 (26)これは、結局は、反逆だった。コルニロフはのちに、公然たる反乱-すなわち大逆罪-だとして訴追されたがゆえに政府と明確に決裂することに決した、ということを認めた。
 Golvin は、ケレンスキーはその行為によってコルニロフを挑発して反乱を起こさせた、と考える。(71)
 この評価は、コルニロフは反乱したとして訴追されたあとで初めて反乱し始めたという意味で、正しい。//
 (27)ケレンスキーが亀裂を修復するのではなくて傷口を広げることを欲していることは、彼が8月28日に行ったいくつかの記者発表から明瞭になった。
 その一つで彼は、「祖国を裏切った」として訴追したコルニロフによる指令を無視するよう、全軍の司令官に命令した。(72)
 もう一つの中で彼は、コルニロフの軍団がペトログラードへと進んでいる理由に関して、公衆にウソをついた。以下のとおり。//
 「前最高司令官、将軍コルニロフは、臨時政府の権威に反抗して反乱を起こした。その電信通話では愛国心と人民への忠誠を表明しているものの、その行為はその欺瞞性(treachery)を明確に例証した。
 彼は前線から連隊を撤退させ、容赦なき敵であるドイツ軍に対する抵抗を弱め、それら全ての連隊をペトログラードに対して向けさせた。
 彼は祖国を救うと語り、意識的に兄弟殺しの(fratricidal)戦争を煽動した。
 彼は、自由の側に立つと言い、ペトログラード出身分団に対抗して軍団を送った。」(73)//
 ケレンスキーがのちに主張したのだが、彼は、ほんの一週間前には彼自身が第三騎兵軍団が自分の指揮下にあるペトログラードに来るように命令したことを、忘れていたのか?
 このような説明を説得力があると考えるのは、極度にひどい強引な軽はずみの信じ込み(credulity)だろう。//
 (28)その後三日間、コルニロフは、「ペトログラードを支配している欲得ずくのボルシェヴィキの手から祖国を救い出す」ために国民を結集させようとしたが、成功しなかった。(75)
 彼はコサックにとともに常備軍に訴えかけ、クリムロフに対してペトログラードを占拠するよう命じた。
 多数の将軍たちがコルニロフに精神的な支持を与え、最高司令官に対する措置に抗議する電信をケレンスキーに送った。(76)
 しかし、彼らも保守派政治家たちも、コルニロフに加わらなかった。ケレンスキーが広めた虚偽情報で混乱していたのだ。ケレンスキーによって、臆面もなく事態の背景を歪曲し、コルニロフは反逆者で反革命者とする情報が流れていた。
 高位の将軍たちの全員がコルニロフに従うことを拒否したことはむしろ、彼らがコルニロフとの陰謀に加わっていなかったことを示す証拠を追加する。
 (29)8月29日、ケレンスキーはクリモフに対して、つぎのように電信で伝えた。//
 「ペトログラードは完全に平穏だ。
 騒乱(vystupleniia)はありそうにない。
 貴下の軍は必要がない。
 臨時政府は貴下に対して、貴下自身の責任でもって、解任された最高司令官が命じた、ペトログラードへの進軍を停止し、軍をペトログラードではなくNarva の作戦目標値へと向かわせるよう、命令する。」(77)//
 このメッセージは、ケレンスキーはクリモフがボルシェヴィキの騒乱を鎮静化すべくペトログラードに進んでいると考えていたとしてのみ、意味をもつことになる。
 混乱していたけれども、クリモフは従った。
 Ussuri コサック分団は、ペトログラードに近いKrasnoe Selo で止まった。そして、8月30日に、臨時政府に対する忠誠を誓約した。
 明らかにクリモフの命令により、ペトログラード出身分団もまた、前進を停止した。
 ドン・コサック分団の行動は決まっていなかった。
 いずれにせよ、ペトログラードへと進軍しないように説得する、通常はソヴェトにより派遣された活動家が行う役割が格段に誇張された、ということを、利用可能な歴史資料は示している。
 クリモフの軍団がペトログラードを占拠しなかった主要な理由は、言われていたようにはペトログラードはボルシェヴィキの手に落ちておらず、自分たちの仕事は不必要だという、司令将校たちの認識だった。(*)//
 --------
 (*) Zinaida Gippius は、かくして、コルニロフの騎兵軍団とそれを遮断するべくペトログラードから派遣された軍団の遭遇について、こう叙述する。
 「『流血』は、なかった。
 Lugaや別の場所で、コルニロフが派遣した分団と『ペトログラード人』はお互いに偶然にぶつかった。
 彼らは、理解できないままに、互いに向かい合った。
 『コルニロフ者たち』はとくに驚いた。
 彼らは、『臨時政府を守る』ために進み、やはり『臨時政府を守る』ために進んだ『敵』と遭遇した。<中略>
 彼らは立ったままで、思案した。
 事態を理解することができなかった。
 しかし、『敵と親しくすべきだ』との前線の煽動活動家の教示を思い出して、彼らは、熱烈に仲良くなった。」
 <Siniaia kniga>(Belgrade, 1929), p.181.; 1917年8月31日の日記への書き込み。
 --------
 (30)クリモフはケレンスキーに招かれて、かつ身の安全を約束されて、8月31日にペトログラードに着いた。
 彼はその日の遅く、首相と会った。
クリモフは、ケレンスキーとその政府を助けるために軍団をペトログラードへと動かした、と説明した。
 政府と軍司令部との間にあった誤解について知るとすぐに、彼は、部下たちに停止を命じていた。
 クリモフには、反乱の意図はなかった。
 説明の詳細に進む前に、ケレンスキーは握手することすら拒んで、クリモフを解任し、軍事裁判所本部に報告するよう彼に指示した。
 クリモフはそうしないで友人のアパートへ行き、自分の心臓を銃弾で打ち抜いた。(**)
 --------
 (**) ケレンスキー,<Delo Kornilova>, p.75-p.76.; <Revoliutsiia>Ⅳ, p.143.; Martynov,<コルニロフ>, p.149-p.151.
 クリモフは、コルニロフに遺書を残した。それはコルニロフに衝撃と苦しみを与えた。
 Martynov,<コルニロフ>, p.151.
 クリモフは反動的君主制論者ではなく、1916年の反ニコライ二世陰謀に関与していた。
 --------
 (31)コルニロフの職責を引き受けるよう頼んだ二人の将軍-ルコムスキーのあとはV. N. Klembovskii-が拒んだために、ケレンスキーは、公然と大逆罪で訴追した人物の手にあった軍事司令権限を自分に残さなければならないという厄介な状態にあるのに気づいた。
 コルニロフの命令を無視せよと軍司令部に従前に指示していたのだったが、今では逆に、当分の間はコルニロフの命令に従うことを許容した。
 コルニロフは、状況きわめて異常だと考えた。彼はこう書いた-「世界の歴史上に珍しい事件が起きた。大逆罪で訴追された最高司令官が、…他に誰も任命される者がいないために、司令し続けるように命じられている」。(78)//
 (32)ケレンスキーとの亀裂のあと、コルニロフは落胆し切っていた。首相とサヴィンコフが意識的に自分を罠に嵌めた、と確信していた。
 自殺するのを怖れて、彼の妻は、夫に回転式拳銃を引き渡すよう求めた。(79)
 アレクセイエフ(Alekseev)が司令権を引き継ぐため、9月1日にモギレフに到着した。ケレンスキーが彼をこの任務に就かせるまで、3日を要した。
 コルニロフは、この決定に抵抗することなく従った。ただ、政府は堅固な権威を確立し、彼を悪用しないようにだけ求めた。(80)
 コルニロフは、最初はモギレフのホテルに軟禁され、のちにBykhov 大要塞へと移された。そこには、「共謀」に関与したと疑われた30人の将校たちが、ケレンスキーによって幽閉されていた。
 どちらの場所でもコルニロフは、忠実なTekke Turkomans に護衛された。
 彼はBykhov から、ボルシェヴィキ・クーの直後に脱出し、ドンへと向かった。そこで彼は、アレクセイエフとともに、自主〔義勇〕軍を設立することになる。//
 (33)「コルニロフの陰謀」はあったのか?
 ほとんど確実に、なかった。
 利用可能な証拠資料はむしろ、「ケレンスキーの陰謀」を指し示している。それは、空想上のだが広く予期されていた反革命の首謀者だとしてコルニロフを貶めるために仕組まれたものだった。反革命を抑止することは首相を対抗者のいない人気と権力がある地位へと引き上げ、彼が増大しているボルシェヴィキの脅威に対処することを可能にするだろう、として。
 本当のクー・デタの要素は何も露見しなかった、というのは偶然ではあり得ない。共謀者の名簿、組織上の図表、暗号信号、計画といった要素だ。
 ペトログラードの将校たちとの通信や軍事単位への命令のような疑わしい事実は、予期されるボルシェヴィキ蜂起との関係では、全ての場合について完全に解明することができる。
 将校の陰謀が企てられていれば、確実に何人かの将軍は、その反乱に加われとのコルニロフの訴えに従っただろう。
 誰も、そうしなかった。
 ケレンスキーとボルシェヴィキのいずれも、コルニロフと結託していたことを認める、またはそれについて例証することのできる一人の人間も、特定することができなかった。一人による陰謀というのは、明らかに馬鹿げているのだ。
 1917年10月に指名された委員会は、1918年6月に(すなわち、すでにボルシェヴィキによる支配にあったときに)コルニロフ事件に関する調査を完了した。
 それは、コルニロフに向けられた訴追は根拠がない、と結論づけた。すなわち、コルニロフの軍事的動きは臨時政府を打倒するためではなくて、ボルシェヴィキから臨時政府を防衛することを意図していた、と。
 その委員会は、コルニロフの嫌疑を完全に晴らした。そして、「コルニロフ問題にかかる真実を意識的に歪曲したとして、また自分が冒した壮大な誤りについて罪があることを認める勇気が欠如しているとして」、ケレンスキーの責任を追及した。(***)(81)//
 --------
 (***) コルニロフ事件の全体が挑発だったのではないかとの疑念が、ネクラソフが不用意にプレスに対して行った言明で強くなった。
 ネクラソフは、事件後2週間のときに新聞に答えて、ルヴォフをコルニロフの陰謀を暴露したとして褒め讃えた。
 ルヴォフによる通告書をまるで確認したかのごとく感じさせるようにケレンスキーに対するコルニロフの回答を歪曲して、彼はこう付け加えた。
 「V. N. ルヴォフは革命を助けた。彼は二日前に用意された爆発するはずの地雷を破裂させた。
 疑いなく、陰謀はあった。ルヴォフは、ただ早めに発見しただけだ。」<NZh>No.55(1917
年9月13日), p.3.
 このような言葉は、あり得ることとしてはケレンスキーの黙認のもとで、ネクラソフがコルニロフを破滅させるためにルヴォフを利用した、ということを示唆する。
 --------
 (34)コルニロフは特別に複雑な人間ではなく、1917年7月-8月の彼の行動は、陰謀理論に頼ることなくして説明することができる。
 彼の第一で最大の関心は、ロシアと戦争にあった。
 彼は、臨時政府の優柔不断な政策とそのソヴェトへの依存に、警戒心を抱いた。ソヴェトは軍事問題に干渉して、軍事作戦を展開することがほとんど不可能になっていたのだ。
 臨時政府には敵国の工作員が浸透している、と彼が考えた理由はあった。
 しかし、ケレンスキーはその職にふさわしくないと感じていてもなお、コルニロフには彼に対する個人的な敵意はなく、政府にとって不可欠の人物だと彼を見なしていた。
 8月のケレンスキーの行動によってコルニロフは、首相は自分の側の人間なのかという疑問をもつに至った。
 ケレンスキーが望んでいたはずだとコルニロフは知っている軍隊改革を実現することができなかったことは、コルニロフに、ケレンスキーはソヴェトの捕囚であり、ソヴェトの中にいるドイツ工作員の捕囚だという確信を抱かせた。
 サヴィンコフがボルシェヴィキの蜂起が切迫していると彼に伝え、それを鎮圧するための軍事的助力を求めたとき、コルニロフは、政府をソヴェト自体から解放するのを助ける機会がやって来たと考えた。
 ボルシェヴィキ蜂起を鎮静化しあとで「二重権力」状態は解消されるだろう、そして、ロシアは新しくて効率的な体制をもつだろう、と期待するあらゆる理由が、彼にはあった。
 その過程で、彼は役割を果たす一部になりたかった。
 こうした危機的な日々を通してずっと傍らにいた将軍ルコムスキーは、サヴィンコフのモギレフ訪問とケレンスキーとの決裂の間の短い期間の間のコルニロフの思考について、合理的な説明だと思えるものを提示している。つぎのとおりだ。//
 「私は、ペトログラードでボルシェヴィキの行動があり、それを最も仮借なく鎮圧する必要があると確信した将軍コルニロフは、このことが当然に政府の危機、新しい政府、新しい権威の設立へと導くだろうと考えた、と思う。
 彼は、現在の臨時政府の若干の構成員や全面的な支持を信頼できると考える理由のある公的に知られた政治家たちと一緒に、その権威を形成することに関与しようと決意した。
 彼の言葉から私が知るのは、将軍コルニロフは新しい政府の形成に関して議論したが、、A. F. ケレンスキー、サヴィンコフおよびフィロネンコとともに、最高司令官の資格でそれに加わろうとしていた、ということだ。」(82)
 (35)最高司令官が軍隊を再活性化して有効な政府を再興するのを助けようと努力したことを「反逆」だ理解するのは、ほとんど正当化できるものではない。
 述べてきたように、コルニロフは正当な根拠なく裏切り者として訴追された後で初めて反乱を起こした。
 彼はケレンスキーの際限のない野望の犠牲者であり、首相が行った政治的基盤が侵食されていくのを阻止しようとする虚しい追求のために、生け贄として供された。
 事態をすぐそばで観察していた、あるイギリスのジャーナリストは、コルニロフが欲し、そして達成できなかったことを、つぎのように公正に要約している。//
 「彼は、政府を弱めるのではなくて強化したかった。
 彼は、その権威を侵犯したかったのではなく、他者がそうするのを阻止したかった。
 彼は、つねに表明されるが決して現実にならなかったものを実現させたかった-統治権力の唯一で不可変の受託者(depository)。
 彼は、ソヴェトの不当で停滞させる影響からそれを解放したかった。
 結局のところ、その影響がロシアを破壊した。そして、コルニロフの政府に対する果敢な抵抗は、その破壊過程を押し止めようとする最後の絶望的な努力だった。」(83)
 --------
 (70) Chugaev,<<略>>, p.445-6.
 (71) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.37.
 (72) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.109.
 (73) 同上、p.115.
 (74) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.162n; ケレンスキー,<Delo>, p.80.
 (75) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.109.
 (76) ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.245.
 (77) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.125.
 (78) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.71, p.101.
 (79) Khan Khadzhiev,<Velikii boiar>(Belgrade, 1929), p.123-p.130.
 (80) Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.71. 1917年8月30日-9月1日のアレクセイエフ、コルニロフ、ケレンスキーの間の会話のテープは、Denikin Archive, Box24, Bakhmeteff Archive(コロンビア大学)所収。
 (81) <NZh>No.107/322(1918年6月4日), p.3.; <NV>No.96/120(1918年6月19日), p.3.
 (82) Chugaev,<<略>>, p.431.
 (83) E. H. Wilcox,<ロシアの破滅(Ruin)>(New York, 1919), p.276.
 ----
 第3節、終わり。次節は《ボルシェヴィキの好運》。

1936/R・パイプス著・ロシア革命第11章第3節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946。
 第11章・十月のクー/第3節。試訳のつづき。 
 ----
 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂②。
 (15)この簡単な対話は、勘違いのゆえの喜劇だった。しかし、最も悲劇的な結末をもたらした。
 ケレンスキーは、のちにこう主張した-そして人生の最後までこの見方に固執した-。すなわち、コルニロフは、コルニロフの名前で語るルヴォフの権限を肯定したのみならず、ルヴォフが彼の言ったとして伝えた言葉の正確さをも確認した。つまりは、コルニロフは独裁的権力を要求した、というのだ。(52)
 しかし、我々は、ヒューズ(Hughs)装置の一方の端での目撃証人から、コルニロフは会話が終わったときに、安堵のため息をついたことを知る。すなわち、彼にとっては、モギレフに来るというケレンスキーの同意は、首相は新しくて「強い」政府を形成するための作業に一緒に加わる気持ちがある、ということを意味した。
 その夜の遅く、コルニロフはルコムスキー(Lukomskii)と、そのような内閣の構成について議論した。その内閣では、ケレンスキーとサヴィンコフの両人は大臣の職を保持することになるだろう。
 コルニロフはまた、モギレフにいる自分と首相に加わるように指導的政治家たちを招く電報も発した。(53)
 (16)テープの有用性のおかげで、二人の人物は食い違って(cross-purposes)会話していたことを、確定することができる。
 コルニロフについては、彼がルヴォフのふりをしたケレンスキーに確認したことの全ては、実際のところ、ケレンスキーとサヴィンコフをモギレフに招いた、ということだけだ。
 ケレンスキーは、コルニロフが確認したことをもって、-熱にうかされた自分の妄想で生じたということ以外には何の根拠もなく-コルニロフは自分を捕囚にし、彼が独裁者だと宣言する意図をもつ、ということを意味するものと解釈した。
 ケレンスキーの側には、直接にまたは間接的にですら、コルニロフが実際にルヴォフに三点の通告を自分に伝達するように言ったのかに関して調査しなかったという、途方もなく大きい手抜かりがあった。
 コルニロフは、ケレンスキーとの会話で、内閣が職権を放棄し、軍事と民政の全権力がコルニロフの手へと置き換わることに関して、いっさい何も言わなかった。
 コルニロフの言葉-「そのとおり。私は、私が貴方(ここではルヴォフ)にAleksandr Fedorovich が<モギレフに来る>ことを求める私の切迫した要請を伝えることを頼んだ、ということを確認する」-から、ケレンスキーは、ルヴォフにより彼に提示された三項の政治的条件は真正なものだ、と推論する方を選択した。
 フィロネンコ(Filonenko)がテープからの文章を見たとき、ケレンスキーは尋ねていることを述べておらず、コルニロフは何に対して回答しているかを分かっていない、と彼は気づいた。(*)
 --------
 (*) Miliukov, <Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.213.
 ケレンスキーとは違ってコルニロフはのちに、自分は無分別にも、ルヴォフが自分に代わってケレンスキーにルヴォフが伝えた内容をケレンスキーに質問したなかったことを、認めた。A. S. ルコムスキー, <Vospominaniia>Ⅰ(Berlin, 1922), p.240.
 --------
 ケレンスキーはルヴォフに成りすますことによって、理解可能な暗号でもってコルニロフと意思疎通していると考えたのだったが、じつは謎々話を語っていたのだ。
 首相の行動を弁護するために言うことができる最良のことは、彼は過度に緊張していた、ということだ。
 しかし、ケレンスキーは聞きたいと思っていたことをそのままに聞いたつもりだったのではないか、という疑念はくすぶり続ける。
 (17)かかる薄弱な根拠にもとづいて、ケレンスキーは、コルニロフと公然と決裂することに決意した。
 ルヴォフが遅まきに姿を現したとき、ケレンスキーは彼を拘束した。(+)
 --------
 (+) 彼〔ルヴォフ〕はその夜を、首相が使っていたアレクサンダー三世スイートの隣の部屋で過ごした。首相は、大声のオペラ・アリアを鳴り響かせて、覚醒し続けさせた。彼はのちに自宅で軟禁され、精神病の医者によって治療された。<Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.5.
 --------
 重要なことをする前にもう一度コルニロフと通信してサヴィンコフの心の裡にあった曖昧な誤解を明確にすべきだとの彼の請願を無視して、ケレンスキーは、深夜に内閣の会議を招集した。
 ケレンスキーは閣僚たちに、何が明らかになったかを告げ、軍部のクー・デタに対処できるよう「全権限」を-つまり独裁的権力を-自分に与えるよう要請した。
 大臣たちは、「陰謀者・将軍」に立ち向かう必要がある、ケレンスキーは非常事態に対処すべく全権限を持つべきだ、として合意した。
 それに応じて彼らは、辞表を提出した。ネクラソフはこれを、臨時政府は事実上は存在することをやめた、と解釈した。(54)
 ケレンスキーは、この会議によって、名目上の独裁者となった。
 8月27日午前4時、閣議が休会となった以降、正規の閣議は開催されず、10月26日まで、ケレンスキーが単独で、またはネクラソフやテレシェンコ(Tereshchenko)と相談して行動する、との決定が下された。
 午前中早くに、大臣たちの同意があったのかなかったのかいずれにせよ-ほとんどがケレンスキーの個人的権威にもとづいていそうだが-、ケレンスキーは、コルニロフに対して、解任する、ただちにペトログラードへと報告することを命じる、との電報を打った。
 コルニロフの後継者が任命されるまでは、将軍ルコムスキーが最高司令官として仕えることとされた。(**)
 --------
 (**) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.99. サヴィンコフによると、午後9時と10時の間に-すなわち、閣議が開かれる前に-、ケレンスキーは彼に、コルニロフを解任する電報はすでに発せられたのだから、コルニロフの理解を得るには遅すぎる、と言った。<Mercure de France>No.503(1919年6月1日), p.439.
 --------
 コルニロフと決裂したことにより、ケレンスキーは、革命の代表者を気取ることができた。ネクラソフによると、内閣の深夜会議の間にケレンスキーは、「私は彼らに革命を譲り渡すつもりはない」と発言した。-まるで、与えるか守るかの勝負であるごとくに。
 (18)このように事態が推移している間、簡単なやり取りに関するケレンスキーの解釈を知らないままのコルニロフは、想定されるボルシェヴィキ蜂起を政府が鎮圧するのを助ける準備を進めていた。
 午前2時40分、コルニロフはサヴィンコフと電信を繋いだ。//
 「一団が、8月28日夕方にかけて、ペトログラード郊外に集結する。
 ペトログラードが8月29日に戒厳令下に置かれることを要請する。」(56)//
 コルニロフが軍事蜂起にかかわらなかったということの証拠がもっと必要だとかりにしても、この電信記録こそ、その証拠を与えるに違いない。
 なぜなら、コルニロフがかりに第三軍団に対して政府を倒すためにペトログラードへと進むよう命令していたとすれば、彼が電信でもってあらかじめそのことを政府に警告することはしないだろう。
 言われるところのクーを彼は副次的なものと見なしていただろうとは、ますます信じがたい。
 Zinaida Goppius は、発生して数日後にコルニロフ事件の不思議さを想い、明白な疑問を抱いた。すなわち、「どのようにして、コルニロフが静かに最高司令部に座っている間に、彼は自分の兵団を「派遣した」のか?」(57)
 じつに、コルニロフが本当に政府を転覆させて独裁者たる地位を奪取することを計画していたとすれば、彼のような気質と軍人的態度をもつ人物は、本人自身がきっと、軍事行動を指揮しただろう。//
 (19)ケレンスキーがコルニロフを解任する電信通告は、8月27日午前7時、最高司令部に届いた。将軍たちに完璧な混乱が襲った。
 彼ら最初の反応は、電信文が10時間前にあったケレンスキー=コルニロフ会談から見てその内容が無意味であるばかりか、慣例の連続番号に欠け、表題なしで「ケレンスキー」との署名しかないので様式が適切ではないがゆえに、偽造されたものに違いない、というものだった。
 また、法制上は内閣のみが最高司令官を解任する権限をもつので、いかなる法的効力もなかった。
 (司令部はもちろん、前夜に閣僚たちは辞任してケレンスキーが独裁的権力を握ったことを知らなかった。)
 将軍たちはさらに考えて、この連絡はおそらく本当のものだが、ケレンスキーは強迫を受けて、あり得ることとしてはボルシェヴィキに捕らわれている間に送信した、と結論づけた。
 このように考えて、コルニロフは辞職を拒み、ルコムスキーが「状況が十分に明確になるまで」彼の職務を執行することとなった。(58)
 ボルシェヴィキはすでにペトログラードを掌握している、とコルニロフは確信し、ケレンスキーの指示に反してそれを無視し、クリモフ(Krymov)に彼の兵団が前進する速度を早めるよう命令した。(59)//
 (20)モギレフの誰も、ルヴォフを詐欺師だと疑っていなかった。そのルヴォフの質問に対するコルニロフの回答に関係してペトログラードで発生したかもしれない混乱について明確にするため、ルコムスキーは、自分の名前で政府に対して、軍隊の崩壊を阻止するためには強い権威が必要であることを再確認すべく電報を送った。(60) //
 (21)その日の午後、ルヴォフの策謀をまだ知らなかったが何か大きな過ちがあると疑っていたサヴィンコフは、コルニロフに接触した。
 V・マクラコフ(Vasilii Maklaov)は傍らに立っていて、終わりの方で会話に加わった。(61)
 サヴィンコフは、ルコムスキーの最新の電報を話題にして、モギレフを訪れることで自分は政治問題を全く起こさなかったと抗議した。
 コルニロフはこれに反応して、初めてV・ルヴォフに言及し、ルヴォフが自分の前に提示した三つの選択肢に言及した。
 さらに彼は、第三騎兵軍団は、サヴィンコフが伝えた政府の指示に従ってペトログラードに向けて進んでいる、とまで言った。
 コルニロフは完全に忠誠心をもって行動していて、政府の命令を履行していた。
 「(解任)決定は私には全く予期され得なかったもので、労働者兵士代表ソヴェトの圧力によってなされた、と確信していた。<中略>
 私は宣告する、<中略>自分の職から離れるつもりはない。」 
 コルニロフは、「個人的な説明を通じて、誤解はさっぱりとなくなるに違いない」と確信して、首相とサヴィンコフにこの最高司令部で会うのを幸せに思っている、と付け加えた。//
 (22)この時点では、亀裂の修復はまだ可能だった。
 ケレンスキーが一月前にレーニンの事案でとったのと同じ慎重な行動をコルニロフへの責任追及に関する対処で示し、コルニロフの「最終的形態での反逆」を証明する「文書上の証拠」を提示していたならば、これから発生したことの全ては、避けることができていただろう。
 しかし、ケレンスキーはレーニンを抑圧するのを怖れた一方で、将軍と宥和することには何の関心もなかった。
 Miliukovが事態の推移を知らされて調停者としての役割をすると提案したとき、ケレンスキーは、コルニロフとの和解はあり得ない、と回答した。(62)
 ケレンスキーは、連合諸国の大使たちからあった同様の提案も拒絶した。(63)
 この当時にケレンスキーを見た人々は、彼は完全に異常発作(hysteria)の状態にあると考えた。(64)
 (23)臨時政府と将軍たちとの間の完全な分裂を阻止するために必要だったのは、ケレンスキーまたはその代理者が、独裁的権力を要求する資格をルヴォフに対して与えたのかと、<コルニロフに>直接に尋ねることだけだった。
 ケレンスキーがこの明確な一歩を執らなかったことは、つぎのうちの一つでのみ説明することができる。
 第一に、あらゆる判断をすることのできない精神状態にあった。さもなくば第二に、革命の救済者との名誉を握りつづけ、そうして左翼からの挑戦を弱体化させる、ということを目的として、意識的にコルニロフと決裂することを選んだ。
 (24)サヴィンコフは、コルニロフからルヴォフの行動について知って、急いで首相の事務室の方へと走り戻った。
 途中でたまたまネクラソフと遭遇した。ネクラソフはサヴィンコフに、コルニロフとの友好関係を追求するのはもう遅い、反逆罪で最高司令官を訴追するとの首相の声明文をすでに自分が夕刊の新聞に送った、と語った。(66)
 ケレンスキーはサヴィンコフに、コルニロフと通信する機会をもつまではそのような文書を発表しない、と約束していた。しかし、にもかかわらず、それが行われた。(67)
 数時間のち、新聞は号外でもって、ネクラソフが草稿を書いたと言われている、ケレンスキーの署名の付いた衝撃的な声明文を発表した。(68)
 Golvin はこう考えている。サヴィンコフがコルニロフとの会話についての報告をする機会をもつ前に、ネクラソフが意識的に発表した、と。(69)
 その声明文は、つぎのとおり。
 「8月26日、将軍コルニロフは私へと、ドゥーマ代議員のVladimir Nikolaivich ルヴォフを遣わせて、臨時政府は将軍コルニロフに、民政および軍事の全権限を移行させるように、彼自身がその裁量でもってこの国を統治する新しい政府を任命するとの条件付きで、要求した。
 このような要求を行うドゥーマ代議員のルヴォフの権能は、直接の電信会話で将軍コルニロフによって、のちに私に対して確認された。」(69)
 声明文はつづく。「革命の成果に対して有害な政治体制<中略>を構築する」目的でもって困難時を利用しようとする「ロシア社会の特定の分野」による企てからこの国を防衛するために、内閣は、コルニロフを解任しペトログラードに戒厳令を布く権限を首相に与えた。//
 --------
 (52) ケレンスキー,<Delo>, p.91.
 (53) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ,Pt.2, p.200.; ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.241.
 (54) この会合の資料は以下。N. V. Nekrasov, <RS>No.199(1917年8月31日), p.2. およびMartynov,<コルニロフ>, p.101.
 (55) <NZh>No.120/126(1917年9月13日), p.3.
 (56) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.98.
 (57) Gippius, Siniaia kniga, p.180-1.
 (58) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.99.; ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.242.; ケレンスキー,<Delo>, p.113-4.; Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt.2, p.33-p.34.
 (60) ルコムスキー,<Vospominaniia>Ⅰ, p.242-3.
 (61) 全文は、Shugaev,<<略>>, p.448-p.452.
 (62) <NZh>No.114(1917年8月29日), p.3.
 (63) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.111.
 (64) Gippius, Siniaia kniga, p.187.
 (65) ケレンスキー,<Delo>, p.104-5.
 (66) サヴィンコフ, <K Delu>, p.26.; Golovin,<反革命>Ⅰ, Pt.2, p.35.
 (67) B・サヴィンコフ, <Mercure de France>所収、No.503/133(1919年6月1日), p.438.
 (68) Richard Abraham, <アレクサンダー・ケレンスキー: 革命への初恋>(New York, 1987), p.277.
 (69) Shugaev,<<略>>, p.445-6. ; <Revoliutsiia>Ⅳ, p.101-2.
 ----
 ③へとつづく。

1934/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章②/四月テーゼ後。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)。
 第8章の試訳のつづき②、「四月テーゼ後」。p.131-p.136.
 ----
 (16)これらの主張が真実なのかどうかはともかく、ドイツの対ロシア政策の重心がどこにあるのかは、間違えようがなかった。
 あらゆる党派(連合諸国の助けを望んだ親戦争のエスエル「防衛主義者」を除く)の追放社会主義者たちが、ドイツの費用で、ロシアへと送られた。ソヴェトと臨時政府の間の緊張関係を激化させるためだった。
 ウクライナ、フィンランド、ポーランド、エストニア各人の血を引くロシア帝制側の戦争捕虜たちは、独立を煽動させるために故郷に送られた。
 革命的ロシアに流れ込んだ不満分子たち大勢の中で、レーニンはたんなる一人にすぎなかった。
 しかし、その戦争に関する過激な考えとウクライナ分離主義の日和見主義的受容心によって、レーニンは混沌をさらに促進する危険人物であり、ロシアの戦争遂行を挫折させるために送られた一人だけの破壊員だった。
 パルヴゥス自身が3月遅くにコペンハーゲンにいたドイツの大臣に説明したように、臨時政府のもとでロシアの戦闘意欲が復活するのを阻止するためには、「無政府状態を増大させるべく過激な革命運動を支持しなければならないだろう」。
 あるいは、そのときコペンハーゲンを訪れていたドイツ社会民主党の指導者のP・シャイデマン(Philip Scheidemann)にパルヴゥスが説明したように、レーニンは、ロシア社会主義者で中で最も「無謀な狂乱者(raving mad)」だった。//
 (17)ドイツによるレーニンへの投資は、すぐにその配当を生み出した。
 ストックホルムで、レーニンの友人のカール・ラデク(Karl Radek)はペトログラードのレーニンと通信するためのボルシェヴィキ外国特命組織を設立した。そこにレーニンは途中下車したのち、ロシア人一団は列車による旅を続け、1917年4月3日のちょうど午後11時すぎにペトログラードのフィンランド駅に到着した。その列車はのちに、レーニンの英雄的時間を記念すべくガラスで覆われた(今もそこにある)。
 急いでボルシェヴィキ党の本部へ行き、レーニンは、「海賊たちの帝国主義戦争」を非難する2時間にわたる烈しい演説を行い始めた。そこには、戦争を継続している臨時政府を支持する堕落者たちもいた。
 レーニンが提起した基本方針は過激すぎたので、党機関誌<プラウダ>は最初はそれを印刷するのを拒否した。
 その「四月テーゼ」は、「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンで今日でもよく記憶されている。これはしかし、戦争に対するいかなる支持も否認し、ロシア軍の廃絶を主張する点で、外交政策としても同等に過激だった。
 数時間のうちに、レーニンの「極端に過激で平和主義の」方針はペトログラードの話題になった。Frank Golder は、その日記に、ドイツが「彼と彼の党が平和を宣伝して、戦意喪失をもたらす」ために、レーニンをペトログラードに送り込んだ、との風聞があることも記した。 
 ストックホルムのドイツ軍諜報機関は小さな驚きとともに、ドイツ軍最高司令部に、こう報告した。「レーニンのロシア入国はうまくいった。彼は、我々がまさに望んでいるように仕事をしている」と。(16)//
 (18)17年の間ほとんどロシアに足を踏み入れなかった追放者だったので、レーニンは、ロシアの社会主義仲間に対する礼儀その他の実際的な配慮を全く気に懸けることなく、自由に政治方針を考えた。
 彼の戦争に関する展望はかくして、ともに二月革命後にシベリア流刑を恩赦されて解放されていた、L・カーメネフ(Lev Kamenev)やJ・スターリン(Josef Stalin)のような、ロシアにいたボルシェヴィキとは異なるものになった。
 カーメネフは、<プラウダ>の編集長で戦争勃発時にはドゥーマのボルシェヴィキ議員団長だったが、1915年1月に逮捕された。
 スターリンは1913年に4年間の流刑(国内追放)を宣告され、北東シベリアのTurhansk近くにいて戦争を迎えた。-彼にはそのときまで最も離れた土地への追放で、逃亡するのは不可能な場所だった。
 戦争中の苦難によって指導者たる地位を得たと考えているカーメネフは、爆弾のごときレーニンの演説の後で、ボルシェヴィキ中央委員会は党の現在の基本方針を維持して、臨時政府と戦争をしかるべく支持し、「『革命的敗北主義』の士気を喪失させる悪影響や同志レーニンの批判に反対」すべきだと主張した。
 スターリンは<プラウダ>でより大胆に、レーニンの「戦争よくたばれ」のスローガンは「無用」だと非難した。
 ボルシェヴィキ中央委員会は、4月8日、レーニンの四月テーゼを13対2で、正しく徹底的に却下した。(17)//
 (19)しかし、レーニンは、切り札(エース・カード)を持っていた。すなわち、ドイツの金。 〔太字化は、試訳者による。〕
 二月革命後の最初の月の記念号である<プラウダ>3月12日号は、Moika 運河ぞいの政府が保有する印刷工場からは、限られた数しか発行されなかった。
 レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキは25万ルーブル(当時の12万5000ドル、現在のおよそ1250万ドルと同額)で、Suvorovsky 大通りに私有の印刷機を購入した。それは所有者から熟練工を(現在の150万ドルまたは一年で1800万ドルと同額、一カ月あたり3万ルーブル以上の)全額負担して雇う、という約束をしてのちのことだった。
 この最後の約定は、所有者の気乗り薄さを克服するために決定的なものだった。その所有者は、「労働者印刷集団」ふうの様子の影あるグループが手持ちの現金を用意しているのかどうか疑っていたからだ。(18)//
 (20)ボルシェヴィキは今や、事実上は無制限の量の、宣伝物を発行することができた。
 <プラウダ>の発行部数は急速に増えて、8万5000部に達した。
 4月15日、党はペトログラード守備連隊の兵士たちに向けて、新しい大判紙の<兵士のプラウダ>の発行を開始した。
 この新聞はもともと5万部の発行を予定していたが、そのとき7万5000部になった。
 つづいて、前線の兵士たちに宛てたもの(<Okopnaiaプラウダ>)、バルティック艦隊の海兵たち向けのもの(<Golos Pravdy>)も発行された。
 ほどないうちに、前線の兵団に届くボルシェヴィキの日刊紙部数は6桁〔10万以上〕に達した。
 特別の小冊子も、10万の単位で発行された。
 このような目覚ましい出版上の大成功は、ドイツの財政支援によって可能となった。このことを考慮するならば、カーメネフやスターリンによる声高の反対があったにもかかわらず、レーニンが最終的には、反戦争というまだ知られていない基本方針を<プラウダ>で伝搬させることができたのは、何ら驚くべきことではない。(19)//
 (21)ソヴィエト政府がのちに多数の文書の束を廃棄したために、歴史研究者がドイツ政府とペトログラードのボルシェヴィキの間の金の動きの軌跡をたどるのはきわめて困難だ。
 レーニンは、ストックホルムにいるラデクへの若干の暗示的な電報があるのを除いては、自分の手を汚さないままでいた。
 そのうちの一つで、レーニンは、4月21日、2000ルーブルを受領したことを確認していた。
 もう一つの電報では、レーニンは、「もっと資材(materials)を」と要請していた。(20)
 臨時政府で反対諜報活動に従事したB・V・ニキーチン大佐は、いくつかの刑事罰の対象になりうる電報をその回想録で再現した。それによると彼は、E・スメンソン(Evgenia Sumenson)というボルシェヴィキの工作員が尋問を受けて(彼女がドイツ製品輸入業で洗浄して合法化した)金銭をボルシェヴィキ党中央委員会の一員であるM・コズロフスキ(Miecyslaw Kozlovsky)という名のポーランドの弁護士に渡した、ということを自白した。
 ケレンスキーは、1917年にロシアを離れた後で、連合諸国の諜報機関から文書資料に関する報告を受けた。彼が見たと主張したその文書資料の中には、シベリア銀行のスメンソンの口座から75万ルーブルを引き出すための有名なものもあった。
 今日まで、ほとんどの歴史研究者たちは、ロシア側の文書庫から対応する証拠が出ていないために、このような論争の種となる資料は曖昧なままにしておかなければならない、と考えてきた。(21)//
 (22)しかしながら、臨時政府がボルシェヴィキ・ドイツ間の紐帯を明らかにする文書の全てが破壊されてしまったわけではない。
 共産党の文書庫の中にあった新しい証拠からは、つぎのことが明らかだ。すなわち、スメンソンは実際に、ナデジンスカヤ通り36番地にある大きくて家具が全て調えられたペトログラードのマンションから、かりに異様ではあっても本当に、輸入業を営んでいた
 (彼女の活動は、隣人たちの相当の好奇心の対象になった。未婚の、子どものいない女性が4つの寝室をもつ住戸に住み、多数の男性訪問者を迎えているのはどうしてだろう、と。)
 スメンソンは、ドイツ製の温度計、医薬品、長靴下、鉛筆、およびネスレ(Nestlé)の食料品を現金払いで販売していた。
 彼女はシベリア銀行と、さらにはロシア・アジア(Russo-Asiatic)銀行やAzov-Don 銀行に活動口座を有しており、そのいずれにも、裕福なロシア人にドイツの贅沢品を販売して蓄積した、数10万ルーブルの金を預けていた。
 複数の目撃者が、スメンソンが定期的に数千ルーブルを現金で、コズロフスキに個人的に渡していたのを見た。(22)//
 スメンソンはまた、ストックホルムとコペンハーゲンの各銀行から直接に電信を受け取っていた。それはふつうは彼女の従兄弟のヤコブ・フュルステンベルク-ハネッキ(Jakob. Fürstenberg-Hanecki)(革命運動上の別称は「クバ(Kuba)」)からのもので、彼は、レーニンが最も信頼する党同志の一人で、のちにソヴィエトの財務大臣となる人物だった。
 明白な証拠がある電信で、コズロフスキは、クバがストックホルムのNya銀行からペトログラードのスメンソンへ10万ルーブルを送るよう要請した。そして、数日後に、この正確な金額が、滞りなくロシア=アジア銀行の彼女の口座に振り込まれた。
 このような直接の電信による移動やスメンソンの輸入業から生じるルーブル立ての収益の洗浄によって、ドイツ政府は、莫大な金額をペトログラードのレーニンの党へと移すことができた。その額は最終的には5000万ゴールド・マルクに昇った。これは、現在の10億ドル余と同額になる。(23)//
 (23)ロシアの地下世界でその日暮らしの活動をした年月のあと、ボルシェヴィキは今や大勝利を収め、それにふさわしく行動した。
 フィンランド駅へと帰還したあと、レーニンはクシェシンスカヤ邸(Kshesinskaya Mansion)へと移った。これは市内の最大の邸宅の一つで、マチルダ(Mathilde)・クシェシンスカヤのために、1904-1906年にアール・ヌーヴォー様式で建築されていた。-クシェシンスカヤは最も有名なバレリーナで、皇帝ニコライ二世のあとは、二人のロシア大侯爵の愛人だった。
 その邸宅は戦略的に見るとペーター・ポール大要塞とちょうど正反対の場所に位置しており、レーニンの帰還後は、優美なバレリーナの住まいから、補強された軍事的複合施設、ボルシェヴィキの神経中枢へと変えられた。
 (ソヴィエト時代に革命博物館と改称され、今は政治史博物館になっている。)//
 (24)クシェシンスカヤ邸は、諸活動が集中する場所になった。党中央委員会の諸会合、<プラウダ>や<兵士のプラウダ>の編集部、そしてボルシェヴィキ「軍事組織」の最高司令部。ここからは、ロシア軍団を反戦争信条へと転換させるべくコミサールが派遣された。
 階下には会計部署があり、「高価な印刷装備」と並んでいた。のちにニキーチン(Nikitin)の人員が発見したところよると、この印刷施設は、信頼できる活動家や兵士たちのために個人識別カードや自動車運転免許証を大量に作成していた。
 小冊子や宣伝ビラが、通路に散乱していた。
 伝達人(クーリエ)が指令書をもって、あちらこちらへと急いで出て行った。(24)//
 (25)街路の視点から見ると、光景はもっと印象的なものだった。
 クシェシンスカヤ邸はすみやかにペトログラード市内の至る所から来る示威活動家の集会場となった。彼らは、興奮-と抗議の意思表示-を求めていた。
 情報宣伝に関するボルシェヴィキの熟達さは本当のことで、軍隊はレーニンのあからさまな政治方針によって、さらなる一撃を受けていた。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルはしぶしぶ、軍隊の紀律を回復すること(指令第二号によるような)への協力に同意したが、ボルシェヴィキは、単純に、「政府よくたばれ!」と宣言した。
 何人かの目撃者によれば、レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキのポスターには、こう書くものが出現した。すなわち、「ドイツ人は我々の兄弟だ」。(25)//
 (26)ドイツ軍はロシア領域内にいたので、このようなスローガンの力は、かりに叛逆的でなくとも、強烈だった。
 レーニンはドイツの工作員だとの噂が、すでにかけ巡っていた。
 このような状況にあったことを考慮すると、上のようなポスターを掲示しようとする者がいたことは注目に値する。
 この点についてもまた、新しい証拠によって手がかりが得られる。
 E. Shelyakhovskaya という名のロシア赤十字の看護婦は前線からペトログラードに戻ったばかりだったが、この女性によると、クシェシンスカヤ邸の玄関にいた身なりのよい何人かの男たちが(彼女は詳細に彼らの特徴を表現した)1917年4月遅くに反戦争と親ドイツのポスターを配布していた、その際に、そのポスターを貼るつもりのある誰に対しても10ルーブル紙幣を手渡していた。
 これは、今日の500ドルに近い現金だった。
 これらのボルシェヴィキの運び屋たちは、Shelyakhovskaya によると、カバンが空になるまで現金紙幣を渡し終えると、クシェシンスカヤ邸の中に再び入り、カバンに新しい10ルーブル紙幣を詰め込んですぐにまた現れた。
 二人めの目撃者は、このようなShelyakhovskayaによる観察の基本的な部分を、宣誓のもとで確認した。(26)//
 (27)看護婦の話に色どりを加えると、ニキーチン大佐によれば、これらの10ルーブル紙幣はドイツ政府によって作られた偽造のものだったらしくある。ドイツ政府は、戦争前に10ルーブル紙幣の型版を獲得していた。
 これら偽造紙幣には顕著な目印があり、それは、ニキーチンによれば、「通し番号の最後の二桁の下にうっすらと線が引かれていた」ことだった。
 こうした「ドイツ製」紙幣の多くは、のちに、逮捕されたボルシェヴィキ煽動活動家の所有物の中から発見された。(27)//
 (28)レーニンと彼へのドイツの財政支援者は、本気でゲームを続けた。
 臨時政府は、ロシアがかつて革命前に行うと約束していた春季攻勢を行うよう連合諸国から厳しい圧力を受けていた。また、軍隊の制御をめぐって、ソヴェトとの苦い闘いに没頭すらしていた。その臨時政府には今や、想定することのできるもう一つの敵が、出現した。
 ボルシェヴィキが臨時政府に血を浴びせるのに、長くはかからなかっただろう。//
 ----
 以上で、第8章は終わり。

1933/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章/ドイツ縦断のレーニン。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)
 この著は序文とあとがきを除いて大きくは、つぎの三部で成る。
 第一部・ロマノフ家の黄昏、第二部・1917年の崩壊、第三部・権力にあるボルシェヴィキ。これが通し番号での「章」に分けられている。第一部/1-4章、第二部/5-17章、第三部/18-23章、計23章まで。
 この書物の章名では叙述対象の時期や事件がほとんど明らかにはならないのだが、レーニン・ボルシェヴィキとドイツに関係がありそうな箇所(章)を選んで、試訳してみよう。
 まず、第8章・ドイツの先札(Gambit)。p.125-p.136.
 Gambit はよく分からないが、最初の手札、切り出しとかの意味のようで、自信はないが試訳として「先札」としておいた。
 叙述対象の時期は、1917年の二月革命後、レーニンの(「封印列車」による)ロシア帰還の頃だ。
 各章はさらに「節」へと分けられてはおらず、段落の区切りしかない。日付間の/は、原文どおりで、旧暦/新暦。
 この著については、注番号だけ付して、その内容(後注)の紹介は、省略する。
 ----
 第8章・ドイツの先札(Gambit)①。p.125-p.130.
 (1)ロシアでの二月革命の報せは、ニコライ二世の退位のあとですぐに世界中をかけ巡った。多くの詳細は、翻訳されなかったけれども。
 ロンドンとパリでは、反応は高揚感に溢れた。これらの都市には、帝政に反対する意見を生じさせるための政治報告があって、ロシアのリベラル派が要点を記述すべく作成していた。
 <ウェストミンスター新聞(Westminster Gazette)>は「重たい荷物の排除」、「劇的な一撃」だとして帝制の崩壊を祝賀し、専制的ロシアを「仲間的忠誠と経験」へと並ばせるものだとした。
 <ル・マタン(Le Matin)>は、二月革命は「連合国にとっての勝利」だとして祝賀し、「ロシアの解放は我々の敵国の外交計画を破滅させるだろう」と予言した。(1)
 (2)ワシントンほどにこの報せが熱狂的に歓迎された都市はなかった。そこではW・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領が、ドイツとの戦争に備えて議会-とアメリカ国民-を説得する突然に切迫した闘いに直面していた。
 1916年11月、ウィルソンは大部分は「戦争の圏外にとどまり続ける」と豪語したおかげで再選されており、ドイツの一連の非道行為にただ衝撃を受けていた。
 1917年2月1日の無制限の潜水艦製造の再開のあとでアメリカ合衆国の介入があり得ることを考慮して、ヴィルヘルム通り〔ベルリン・ドイツ帝国〕は、すぐに悪名高くなった「ツィンマーマン電報(Zimmermann Telegram)」を-アメリカの外交用電線を経て-メキシコ・シティのドイツ大使館に送り、いっそうの悪辣さを示した。
 この驚くべき文書で、ベルリンは、メキシコがアメリカに宣戦布告をすればメキシコがアメリカの南西部(テキサス、ニュー・メキシコ、およびアリゾナ)の<再征服(reconquista)>を支持すると約束していた。
 アメリカとこの突発情報を注意深く分有していたイギリスの暗号解読者たちが、ツィンマーマン電報を最初に読み解いた。その内容は、1917年2月15日/28日、まさにペトログラードでロシア革命が勃発するときに、プレスに発表された。(2)//
 (3)アメリカ世論に対する二月革命の影響は、電気に打たれたごとくだった。
 ウィルソン政権は2月初めに無制限潜水艦製造再開のあとですでにベルリンと厳しい外交関係に入っていたけれども、そのことはまだ宣戦布告にまでには至らせなかった。
 リベラルで学者風の理想主義者であるウィルソンは、「アメリカ例外主義」の信条を掲げており、国家の在来的な理由ではアメリカ合衆国を戦争へと突入させることを決して快くは考えていなかった。
 ツィンマーマン電報ですら、ウィルソンの「武装中立」の方針を変えさせることはなかった。
 ロシアが「リベラルで民主主義な」陣営に加わった後ではじめて、ウィルソンは刺激を受けて、1917年3月20日/4月2日の議会の合同会議の前で宣戦布告を行った。それは、「世界を民主主義を求めて安全なものにしなければならない」、「平和は政治的自由という吟味済みの基礎の上に築かれなければならない」、と述べた。(3)//
 (4)ウィルソンは、見たかったものを二月革命のうちに見た。
 彼が表明した高貴な理想は、アメリカや(より少ない程度で)イギリスのような、権力に余裕がある国の贅沢だった。これらの国は、ドイツのUボートによる公海上での攻撃を超えて、安全に対する生存にかかわる脅威に直面してはいなかった。
 パリから65マイルだけ離れたノヨン(Noyon)要塞をドイツが有しているフランスでは、生まれつつあるロシア民主主義に関する気分のよさは、ロシアの春季攻勢に対する革命の影響に関する実践的な関心に、大きな影響を受けていた。その攻勢はドイツの軍事力をフランスから逸らせることが期待されていたのだ。
 <ル・マタン>は、ペトログラード・ソヴェトの「過激主義者」について警告を発した。
 曖昧にだが指令第一号-連合諸国の通信員たちにはまだ知らされていなかった驚くべき布令-を示唆して、<ル・マタン>は、「その決定はタウリダ宮の1600人の代議員に行き渡っている。混乱状態にあると言われていることだけが分かる」と不満を漏らした。(4)
 (5)ベルリンでは愛国主義の記者たちは、肯定的な報せを軽視して、ペトログラードの革命が生み出す秩序混乱を強調しがちだった。
 <ベルリンLokal Anzeiger>は、「社会主義が溢れる。そして無政府状態になる」と一面の大見出しを掲げた。
 <ベルリンTagesblatt>は、ロシアにいるドイツの戦争捕虜たちはストックホルム経由で送られている、と肯定的に記した。
 <Tagesblatt>のコペンハーゲン通信員は、「フィンランドへの血なまぐさい革命の広がり」という不快な説明記事を掲載した。
 ドイツの立場からすると、革命がより混乱を増せば増すほど、それだけ良かった。(5)//
 (6)連合国側の観察者がロシアの戦闘能力に対する革命の影響に関して望ましい考え方をしてしまった一方、より暗いドイツの記事は、偏った見方に彩られていてはいたが、努めて真実により近いものを叙述していた。
 反乱がロシアの陸海軍をつうじて広がって<いた>(前線全てに対するのと同等の影響ではなかったけれども)。そして、無政府状態が国土じゅうに伝搬している。
 さらに加えて、ペトログラードの現地に工作員をもち、外国にいるロシアの革命家たちの世界と良好な接触をしてしてきたドイツは、理想的にロシアの混乱を利用できる-そしてそれを拡大することのできる-位置にいた。
 レーニン・カードを切る、そのときがやって来た。〔太字化は試訳者〕//
 (7)ボルシェヴィキ党の指導者は、努力に欠けていたわけではないが、ずっと静かな闘いをしてきた。
 1914年8月の大戦勃発のとき、レーニンは、ロシアの国境に近いオーストリア・ガルシアのクラカウのそばのポロニモ(Poronimo)にいて、地方のウクライナ人の間で煽動活動を行っていた。
 クラカウの警察は敵国外国人として彼を逮捕した。オーストリアの社会主義者の指導者がレーニンはツァーリ体制のスパイではなくロシアの憎い敵だと保証してくれた。
 レーニンの場合は、その住居を探索して本当の(bona fide)マルクス主義活動家に取り憑くかもしれない退屈な経済研究書の類だけしか発見されなかったことが、役立った。
 オーストリアの役人による尋問で、レーニンは公然とウクライナ分離主義を支持する革命的狂信者だと確認された。ウクライナの分離は、中央諸国の中心的な戦争目的だった。
 レーニンは9月初めに、ハプスブルク軍事省の特別の命令によって釈放され、軍事郵便列車で-妻のNadezhda Krupskaya と彼に忠実なボルシェヴィキの副官(aide-de-camp)のG・ジノヴィエフ(Grigory Zinovoev)と一緒に-スイスへと送られた。そこで彼は、ツァーリに対抗する戦争陰謀を練って過ごした。(6)//
 (8)すでにオーストリアの監視のもとにあったレーニンは、二つの別々の経路でドイツ外務当局の注意を引くことになった。
 第一は、我々がすでに言及した、アレクサンダー・「パルヴゥス(Parvus)」・ヘルファンドだった。この人物は1905年に、ペトログラードで面倒なことを起こしていた。
 シベリア追放から脱出したあと、パルヴゥスは、外国のドイツとそのあとトルコで、豊かで興味深い人生を送った。
 大戦が勃発したとき、彼は、ウクライナ分離主義者、アルメニアとジョージアの社会主義者その他の帝制に追放された者たちのためにボスポラスの政治サロンを運営していた。その仕事の中で彼は、1915年1月にオットーマン帝国駐在のドイツ大使であるヴァンゲンハイム(Hans von Wangenheim)男爵に出席を求めた。
 パルヴゥスはヴァンゲンハイムに対して、「ドイツ帝国政府の利益は、ロシアの革命家たちと同一だ」と語った。(7)//
 (9)第二の媒介者のA・ケスキュラ(Alexander Kesküla)も、同様に多彩だった。
 ケスキュラは、パルヴゥスのように1905年革命の被抑圧者だったエストニア人ボルシェヴィキだった。そして、より最近に全面的なエストニア民族主義の考えを抱いた(フィンランド人の友人にエストニアがペトログラードを支配した後でのペトログラードに関する計画を尋ねたところ、その諸宮殿は素晴らしい「採石場」になるだろう、と答えた)。
 のちに彼が想起したように、1914年9月にドイツの諜報機関の仕事に加わったケスキュラの動機は、単純だった。すなわち、「ロシアに対する憎悪」。
 1915年9月、ケスキュラはベルンにいるドイツ領事のGisbert von Romberg に、レーニンの考えやイデオロギー状況を知らせた。
 そのあとロンベルクはケスキュラに1カ月あたり2万マルクを、レーニンその他のボルシェヴィキに配るべく支払った。(8)//
 (10)レーニンの戦争に関する立場から見ると、それは追放社会主義者たちのツィンマーヴァルト(1915年)やキーンタール(1916年)での会議で彼が概述していたものだが、なぜドイツの外務当局がレーニンを養ったかを理解するのは困難ではない。
 これらの集会での多数派は(まだメンシェヴィキの)トロツキーが起草した決議を支持してはいたが、これに対する反対派は、戦争に反対し、労働するのを拒むか古い「ゼネ・スト」原理によって闘うよう訴えていた。
 レーニンは、「革命的敗北主義」という少数派の教理を定式化した。
 彼は、社会主義者は彼らの自国が敗北するように活動しなければならず-彼はこれを文字通りに意味させた-、そして、「帝国主義戦争を内戦に転化しなければならない」、と主張した。
 協議案による抵抗よりもむしろ、社会主義者は労働者に対して、軍隊に加入し、その中で反乱を行って軍隊を「赤」に変えるよう激励しなければならない。
 こうした考え方はツィンマーヴァルトでのマルクス主義多数派によって分裂の起因になると見られていたけれども、レーニンは、ウジェーヌ・ポティエ(Eugène Pottier)の社会主義の歌の精神により近いところまで切り進んでいた。
 その歌、<インターナショナル>は、軍隊での反乱を推奨していた。
 「王公たちが、俺たちに煙を食わせる。
 俺たちは仲良くなって、専制者たちと闘おう。
 軍隊に対して、ストライキをしよう。
 銃砲を空中に放って、隊列をかき乱そう。
 彼ら人喰いたちがなおも抵抗するなら、
俺たちを英雄に仕立てたいのなら、
 すぐに知るだろう、俺たちの銃口は、
 俺たち自身の将軍さまに向けられていることを。」
 〔歌全体の一部。/大島博光訳を参照した。〕
 (11)このようにレーニンの「ツィンマーヴァルト左派」の教理は過激であるので、ロンベルク領事がその旨をベルリンに説明したとき、ドイツ外務当局は、レーニンの基本的な考え方の出版を抑えるべく介入した。オフラナ(Okhrana)〔ロシア帝制秘密警察〕がそれをロシアにいる社会主義者の大量拘束を正当化するために利用しないように。
 (12)二月革命の前の数カ月、レーニンはドイツの監視網からある程度は離れていた。
 パルヴゥスはロシアでの産業労働者を怠業させる自分の努力に集中しており、ケスキュラは、レーニンがエストニア問題に無関心であるためにレーニンに冷たくなっていた(ドイツの返礼は、1916年10月にケスキュラとの関係を絶つことだった)。
 レーニン自身は、ロシアの事情に疎遠になり始めていた。それについては彼は意気消沈していた。
 1917年1月9日/22日にチューリヒのVolkshaus で、集まっている若き社会主義者たちにこう語りかけた。「我々古い世代の者は、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないかもしれない」。(11)//
 (13)レーニンは革命について、1917年3月1日/14日にオーストリアの同志から聞いて初めて知った。
 レーニンは元気になり、ただちにペトログラードへと帰還したかった。西側と東側の前線を避けるためには、スイスからロシアへと最も近くて安全な経路をとることだったが、それにはドイツを縦断することが必要で、ロシア人には本国に戻ることができるのか、疑わしく思えた。
 ベルンのドイツ領事、ロンベルクは、何とか助けたいと思ったが、彼もレーニンも、慎重にことを進める必要があった。
 スイスの社会主義者、F・プラッテン(Fritz Platten)が仲介者として行動し、レーニンとスイスおよびドイツ両政府の間の全ての交渉を処理した。彼は全ての切符を購入し、列車がドイツを縦断する間は公的な「ホスト」と報道官として振る舞い、その結果としてロシア人は誰も、ドイツの役人たちと話す必要がなかった。
 偽装を追加するため、プラッテンはまた、レーニンと19人のボルシェヴィキ仲間-ジノヴィエフ、レーニンの妻のNadazhada、彼の愛人のInessa Armond、および煙草好きのポランド=ユダヤ人のK・ラデク(Karl Radek)ーには、その列車で年配メンシェヴィキ指導者のJ・マルトフ(Jurius Martov)と6人のユダヤ人同盟の非ボルシェヴィキたちが同行している、と明記した。
 プラッテンはさらに、結局は失敗したが、社会革命党(エスエル)の追放者も名簿に入れようとした。これらの愛国的ロシア人の誰も、レーニンと連携するのを望まなかった。
 最も重要な条件は「治外法権」にかかわっていた。プレスの電信で語られた、レーニンの列車は「封印」され、ドイツを縦断中はドアを開けようとしなかった、との物語があった。
 1917年3月23日/4月5日、ドイツ政府は500万ゴールド・マルクをロシアの革命化のために充当した。そしてその4日後に、レーニンは出立した。(12)//
 (14)誰もが封印列車のことを知らせようとしたのかもしれないが、物語はほとんどすぐに漏れ広がった。
 ロシア人はスイスの国境を越えたあとで、列車を交換しなければならなかった。このことは、彼らはドイツの土を、Gottmadingen で「踏んだ」ことを意味する。
 越えたあと、新しいドイツの列車がやって来た。二人のドイツ人将校、団長のvon Planetz と副官のvon Buhring が同行していた。二人とも、ドイツ軍最高司令部で直接に将軍E・ルーデンドルフ(Eeich Ludendorff)に属していた(Buhring は、ロシア語に流暢だったために選ばれた)。
 ドイツ側の記録によれば、我々はつぎのことも知る。第一に、ロシア人の一団は「フランクフルトでの接続を逃し」、そこで長い間、列車の間を、途中下車をしなければならなかった。第二に、ベルリンを通過する間に、四人めのドイツ人の「民間人の服を着た将校」がレーニンが乗る列車を訪れた。第三に、列車はベルリンに20時間停車し、食物と新鮮な牛乳が補給された。第四に、この二回目の遅延によって、ロシア人たちはのちにサスニッツ(Sassnitz)のドイツ・ホテルで、デンマーク行きの次のフェリーを持つ間、完全に一晩を過ごすことを余儀なくされた。
 (15)革命後にドイツから送還されたロシア人捕虜たちの宣誓証言書によると、レーニンの列車がドイツに止まったことが怒りの原因に何らならない、ということはなかった。
 彼らの一人、上級予備士官のF. P. Zinenko は、レーニンがドイツの助けを得たことは、レーニンがウクライナ分離主義を支持したこととともに、捕虜収容所で公然と議論された、と証言した。
 別の証言者、部隊長のE. A. Tishkin は、バルト海岸のStralsund にある収容所では1917年4月に「全員が突然にレーニンについて話し始めた」、サスニッツ近くに向かう途中でレーニンがStralsund を通過することに驚いてではなかった、と報告した。レーニンはサスニッツで、1917年3月29日/4月11日の夜を過ごしていた。
 Tishkin は宣誓して証言した。Stralsund 収容所では、ドイツを縦断している間にレーニンが政治的演説をするために列車を降りていたことは、一般的な知識だった、と。(14)//
 ----
 ②へとつづく。

1932/R・パイプス著ロシア革命・第11章第3節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 今まで気づいたことがなかったが、1990年版とPaperback版(1996年)とで記載(注のごく一部)が異なっている部分がある。タイトルの一部の「1899-1919」の追記は、1990年版にはない。
 なお、これまでどおり、<>は原文が斜体字(イタリック体)のもの。ほとんどが文献名だが、今回の部分には筆者による<強調>らしき部分があるようだ。 
 ----
 第3節・ケレンスキーとコルニロフの決裂①。
 (1)このとき、首相と最高司令官との間の不一致を明確な分裂へと変える出来事が発生した。
 その触媒になったのは、自称国家「救済者」、V・N・ルヴォフ(Vladimir Nikolaevich Lvov)という名の、怒れる聖ペテロだった。
 ルヴォフは45歳の、裕福な土地所有家庭に生まれた、燃え立つ野心を持つがそれに相応した才幹はない人物で、落ち着かない人生を送ってきた。
 ペトルブルク大学で哲学を学んだのち、モスクワの神学校に入った。そして、とりとめのない研究をつづけ、しばらくの間は、修道僧になることを考えていた。
 彼は最終的には、政治を選んだ。
 オクトブリスト〔十月主義者〕となり、第三と第四のドゥーマでは議員を務めた。
 戦争中は、進歩ブロックに属した。
 幅広い社会関係のおかげで、第一次の臨時政府で、Holy Synod の検察官に任命された。その職に1917年7月まで就き、その月に解任された。
 彼は解任を悪く受け取り、ケレンスキーに怨みを抱いた。
 相当に個人的な魅力があったと言われているが、繊細で「信じがたいほど軽薄だ」と見なされた。George Katkov は、彼の精神状態(sanity)を疑問視している。(40)
 (2)ルヴォフは、8月、迫りつつある崩壊からロシアを救いたいと考えているモスクワの保守派知識人のグループに入った。
 7月初め以降、国には本当の内閣がなかった。ケレンスキーが独裁的権力を握った。
 ルヴォフと彼の友人たちは、コルニロフのように、臨時政府は事業や軍隊の代表者たちによって強化される必要があると感じていた。
 その考えをケレンスキーに伝えたらどうかと、ルヴォフは提案された。
 このような動きの主導者はA. F. Aladin だったように見える。彼は、陰から姿を一切見せることなく大きな影響力を発揮した、(N.V. Nekrasov やV. S. Zavoiko のような)ロシア革命での不思議な人物の一人だった。
 Aladin は、若いときは社会民主党の革命家で、第一ドゥーマでのTrudovik 会派を率いた。
 第一ドゥーマが解散したあと、彼はイギリスに移って1917年2月までとどまった。
 彼は、コルニロフに近かった。
 親しくてグループを形成したのは、赤十字の役人でルヴォフの兄のI. A. Dobrynskii や、著名なドゥーマ議員で、進歩的ブロックの指導的人物のニコラス(Nicholas)だった。//
 (3)ルヴォフの回想録(全体として信頼できないという特徴をもつが)によれば、国家会議のあとの8月17-22日の間に、コルニロフを独裁者にしてルヴォフを内務大臣にしようという陰謀が最高司令部にある、いう風聞を知った。(*)
 --------
  (*) 1917年9日14日に作成されている、ルヴォフが最初に記したものは、Cguganov 編<<略>>, p.425-8.に収載。
 1920年11月と12月に<PN>に掲載されたルヴォフの回想は、A・ケレンスキー=R. Browder編<ロシア臨時政府1917>Ⅲ( Stanford, Califf., 1961), p.1558-68.
 Vladimir Nabokov <père>が彼との会話に関するルヴォフの説明を「ナンセンス」だとして否定する手紙を<Poslednie novosti >に書き送ったあとで、その掲載は終了した。
 ルヴォフは、パリの路上浮浪者として人生を終えたと言われている。
 (〔上の一行の初版の記述〕=ルヴォフは1921年または1922年にロシアに戻り、変節した「生(Living)教会」に加わった。) 
 --------
 ルヴォフは、ケレンスキーに知らせる義務があると感じた、と主張した。
 二人は、8月22日午前中に、会った。
 ケレンスキーがのちに語るには、国の救い手になろうとする多数の訪問客がおり、その客たちにはほとんど気をかけなかった、しかし、ルヴォフの「伝言」は自分の注意を惹く脅威を伴っていた、と。(+)
 --------
  (+) ケレンスキーは1917年10月8日に、コルニロフ事件調査委員会でルヴォフの交替に関する説明をした。のちに、注記をつけて、<Delo Kornilov>, p.83-p.86.を出版した。
 --------
ケレンスキーによれば、ルヴォフは彼に、政府への世論の支持は基礎を浸食されるまでに至っており、軍部と良好な関係を築く公的人物たちを政府に入れることで政府を下支えすることが必要だ、と語った。
 ルヴォフはそれらの人物に代わって語っていると言ったが、それが誰々なのかを明らかにすることは拒んだ。
 ケレンスキーはのちに、自分の名前で交渉する権限をルヴォフに与えたことを否定した。ルヴォフの言葉に対して「意見を明確に述べる」ことができる前に彼の仲間たちの名前を知る必要はなかった、と言って。
 ケレンスキーはとくに、ルヴォフがコルニロフに助言するためにモギレフへと行く可能性について議論した、ということを否定した。(41)
 彼によれば、ルヴォフが役所を去ったあと、彼はルヴォフとの会話に特別の考えを抱かなかった。
 ケレンスキーを疑う理由はない。しかし、意識的か否かは別として、もっと多くのことを知りたいという印象を与えたというのは、本当らしくないでもない。その場合には、正規の代理人でなかったとしても、モギレフでの反政府陰謀という継続している風聞に実体があるのかどうかを知るための情報探索員(intelligence agent)としてルヴォフを使って、ということになる。(++)
 --------
 (++) これはGolovin の<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.25.の見解だ。
 ルヴォフはのちに彼は要請してケレンスキーから、ルヴォフが大きな裁量をもちかつ完全に秘密に行動するという条件で、自分の仲間たちと交渉する権限を受け取ったと主張した。<PN>190号(1920年12月4日)p.2.
 ケレンスキーののちの活動からすれば、このような振る舞いは彼らしくなかったということにはならないだろう。
 ケレンスキーの側近であるNekrasov の黙認があったというのが、もっとあり得そうだ。彼は、二人〔ケレンスキーとコルニロフ〕の対立を誇張する大きな役割を果たした。
 --------
 (4)ルヴォフは、首相との会話について友人たちに報告するためにモスクワへ戻った。会見は成功だった、と彼は友人たちに語った。そして、ケレンスキーは内閣の再組織を議論する用意がある、と。
 ルヴォフの説明を基礎にして、Aladin が、覚え書きを起草した。
 「1. ケレンスキーは最高司令部と交渉する意思がある。
  2. 交渉はルヴォフを通じて行われるものとする。
  3. ケレンスキーは国と軍部全体に信頼される内閣を形成することに同意する。
  4. これらのことを考慮して、特別の諸要求がまとめられなければならない。
  5. 特別の計画が作り出されなければならない。
  6. 交渉は、秘密に行われなければならない。」(*)
 --------
 (*) Martynov, <コルニロフ>, p.84-p.85. この証言では、ルヴォフは、Aladin の覚え書きは「私の立場ではなくAladin の私の言葉から推論した結論」を示している、と言った。Chugaev,<<略>>, p.426.
 --------
 この文書は、ケレンスキーとの会話を報告する際に、ルヴォフは自分の提案に対する首相の関心を誇張した、ということを示唆している。//
 (5)Dobrynskii に付き添われて、ルヴォフはモギレフへと向かった。
 彼は8月24日、ちょうどサヴィンコフが離れたときに到着した。
 コルニロフはケレンスキーの指令を実施するのに忙しすぎたので、ルヴォフはホテルに入った。ルヴォフはそのホテルでコルニロフがケレンスキーを殺害するとの風聞を聞いた、と主張した。
 恐怖にかられて、ルヴォフはケレンスキーに代わって行動するふりをしてケレンスキーを守り、内閣の再構成について交渉しようと決心した。
 彼は詳しく、こう語った。「ケレンスキーは私にコルニロフと交渉をする特別の権限を与えなかったけれども、私は、一般論として、政府の再組織に同意できるかぎりは、ケレンスキーの名前で交渉することができると感じていた。」
 彼はその夜と再び次の日(8月25日)の朝に、コルニロフと会った。
 コルニロフの証言と同席していたLukomoskii の回想録によれば、ルヴォフは自分自身は「重要な使命」に関する首相の代理人だと考えていた。(43)
 無謀にも警戒心を抱かず、コルニロフはルヴォフに信任状の提示を要請しなかったし、ペトログラードに対して首相に代わって語る権限が彼にあることの確認もしなかった。しかるにそうして、コルニロフはルヴォフとともに、ただちに最も微妙で潜在的には犯罪になり得る議論を始めてしまった。
 ルヴォフの任務はロシアの政府をいかにして堅固なものにするかに関するコルニロフの見解を知ることだ、と彼は語った。
 彼自身の意見では、このことは三つの方法のいずれかによって達成することができる。
 (1) ケレンスキーがかりに独裁的権力を掌握する。(2) 名簿がコルニロフを構成員として形成される。(3) コルニロフが独裁者になり、ケレンスキーとサヴィンコフは閣僚職を担当する。(44)
コルニロフはこの情報を額面通りにそのまま受け取った。彼は以前のいつかに、政府は戦争遂行の運営を改善するためのイギリスの小さな戦争内閣を範とする内閣制を検討していると公式に聞いていたからだ。(45)//
 (6)ケレンスキーは独裁的権力を彼に提示しているということを意味させていたルヴォフの言葉を解釈して、コルニロフは第三の選択肢が最もよいと反応した。
 彼は、自分は権力を欲しがりはしないし、国家のあらゆる長の職の者にに従うだろう、と言った。しかし、ルヴォフが提案したように主要な責任を引き受けることを求められたならば、拒否しないかもしれないし、拒否できないだろう、とも語った。(46)
 コルニロフはさらに進んで、ペトログラードで切迫しているボルシェヴィキ・クーの危険を見るならば、首相とサヴィンコフはモギレフに安全を求め、そこで新しい内閣の構成に関する議論にコルニロフとともに参加するのが賢明かもしれない、と言った。//
 (7)会見は終わった。ルヴォフはただちに、ペトログラードに向けて出立した。
 (8)政治的にはもっと明敏なLukomoskii は、ルヴォフの任務に関して疑念を表明した。
 コルニロフはルヴォフに信任状の提示を求めたのか?
 コルニロフは否と答え、ルヴォフは誠実な人物だと知っているから、と理由づけた。
 サヴィンコフはなぜ、内閣変更に関するコルニロフの意見を尋ねなかったのか?
 コルニロフは、この質問を、とるに足らぬものとして無視した。(47)
 (9)8月25日の夕方、コルニロフは電信で、ロジアンコ(Rodzianko)を別の公的指導者たちと一緒に、三日以内にモギレフに来るように、招聘した。
 ルヴォフは同様の伝言を兄に送った。
 会合は、新しい内閣の構成に対応するためだった。(48)
(10)次の日(8月26日)の午前6時、ルヴォフは冬宮でケレンスキーと会った。(*)
 --------
 (*) この会見に関する資料は、ケレンスキー,<Delo Kornilova>, p.132-6. およびMiliukov, <Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.204-5. ミリュコフは、首相との会見の前と後にすぐにルヴォフに話しかけた。
 --------
 コルニロフとの会見の際には首相の代わりだとの姿勢をとっていたのと同じように、今はルヴォフは、最高司令官の代理人(agent)の役割を引き受けていた。
政府の再構築に関する三つの案に関するコルニロフの意見をルヴォフが尋ねた、ということは、ケレンスキーに言わないままだった。その件を彼は友人たちとまとめていたのだったが、首相から求められて提示した。彼は、コルニロフは独裁的権限を要求しているとケレンスキーに言った。
 ケレンスキーは、これを聞いて笑いはじけたことをのちに記憶している。しかし、愉楽はすみやかに警戒へと変わった。
 ケレンスキーはルヴォフに、コルニロフの要求を書き止めておくよう頼んだ。
 ルヴォフは、つぎのようにメモ書きをした。
 「コルニロフ将軍は提案する。
 1: 戒厳令がペトログラードに布かれること。
 2: 全ての軍事および内政当局は最高司令官の手のもとに置かれること。
 3: 首相を排除しない全ての大臣は退任し、最高司令官による内閣の形成までは、臨時の執行権限が副大臣へと移行すること。
     V・ルヴォフ」
 (11)これらの言葉を読んでただちに全てが明白になった、とケレンスキーは語る。(50)
 軍事クーが、行われつつある。
 彼は、コルニロフがなぜすぐに、サヴィンコフではなくHoly Synod の元検察官を選んだのかと自問し得ただろう。また、もう少しはましに、コルニロフかフィロネンコに、最高司令官は本当に自身の代理としてルヴォフに委託したのかと、急いで直近の電信で問い合わせることもなし得ただろう。
 ケレンスキーは、いずれもしなかった。
 コルニロフがまさに権力を奪取しようとしているとの彼の確信は、ケレンスキーとサヴィンコフがその日にモギレフに向けて出立するのを望んでいるとのルヴォフの主張によって、強められた。
 ケレンスキーは、コルニロフは二人を捕囚にしようとしいる、と結論づけた。//
 (12)ルヴォフがコルニロフによって提示されたとした三条件が、発令を強いるためにルヴォフとその友人たちによって捏造されたものであることを、ほとんど疑うことはできない。
 三条件は、コルニロフの回答を反映させていなかった。その回答は、首相がコルニロフに対してした質問だと言われたものに対してのものだった。
 しかし、それらの条件は、まさにケレンスキーがコルニロフと決裂するには必要なものだつた。
 コルニロフの陰謀の明白な証拠を獲得するために、ケレンスキーは、さしあたりは協力することに決めた。
 ケレンスキーは、電信機でコルニロフ将軍と通信するために、ルヴォフを午後8時に軍事大臣室に招いた。//
 (13)Miliukov と合間の時間を過ごしたルヴォフは、遅刻した。
 午後8時半、コルニロフを30分間待たせたままだった後で、ケレンスキーは、電信による会話を始めた。彼は、この会話中に、不在のルヴォフになりすまし続けた。
 ケレンスキーがのちに語るには、彼は、この偽装によって、ルヴォフの最終報告を確認するか、さもなくば「当惑したうえで」否定をするかを知ることを望んでいた。//
 (14)以下は、電信テープに記録されている、この祝福すべきやり取りの全文だ。
 「ケレンスキー: 首相がライン上。将軍コルニロフを待っている。
  コルニロフ: 将軍コルニロフがライン上。
  ケレンスキー: ごきげんよう、将軍。ケレンスキーとV. N. ルヴォフがライン上。
 我々は、Vladimir Nikolaivich 〔=ルヴォフ〕が伝えた情報に従ってケレンスキーは行動することができることを確認するよう、貴方にお願いする。
  コルニロフ: ごきげんよう、Aleksandr Fedorovich 〔=ケレンスキー〕。ごきげんよう、Vladimir Nikolaivich。
 この国と軍隊が置かれていると私が思う情勢の概略をもう一度確認する。その概略は、彼〔ルヴォフ〕が貴方に報告しなければならないという要請によりVladimir Nikolaivich に述べたものだ。さらにもう一度、明確に言わせてほしい、最近数日の事態、すでに差し迫っている事態は、可能なかぎり短時間のうちに完全に明確な決定を行うことを絶対に必要にさせている、と。
  ケレンスキー〔ルヴォフの声色で〕: 私、Vladimir Nikolaivichは、厳格に内密にして<貴方が私にAleksandr Fedorovich に知らせてほしいと頼んだ、行われなければならないこの明確な決定に関して>照会している。
 貴方からの個人的な確認がなくしては、Aleksandr Fedorovich は私を完全に信頼することを躊躇している。
  コルニロフ: そのとおり。私は、私が貴方にAleksandr Fedorovich が<モギレフに来る>ことを求める私の切迫した要請を伝えることを頼んだ、ということを確認する。
  ケレンスキー: 私、Aleksandr Fedorovich は、Vladimir Nikolaivich が私に報告した言葉を貴方が確認する、という回答を得た。
 私がそのことをするのは、今日ここを出発するのは、不可能だ。しかし、明日に出発することを望んでいる。
 サヴィンコフは必要だろうか?
  コルニロフ: 私は切実に、Boris Viktorovich が貴方と一緒に来ることを要請する。
 私がVladimir Nikolaivich に対して語ったことは、Boris Viktorovich に同等に当てはまる。
 私は、貴方がたの出立が明日以降にまで延期されないよう、真剣に乞い願うだろう。<以下略>
  ケレンスキー: 我々は、それに関する風聞が飛び回っている、示威活動(demonrtration)がある場合にかぎって、行くべきなのか、それとも、いかなる場合でもか?
  コルニロフ: いかなる場合でも。
  ケレンスキー: さようなら。我々はすみやかに会うべきだろう。
  コルニロフ: さようなら。」(51)
 --------
 (40) I. G. Tsereteri, <<略>>Ⅰ(Paris, 1963), p.108-9.; <V. D. Navokov, <略>(1976)>; Katkov,<コルニロフ>, p.85.
 (41) ケレンスキー, <Delo>, p.85.
 (42) Chugaev,<<略>>, p.427.
 (43) Katkov,<コルニロフ>, p.179.; Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.238-9.
 (44) Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.238-9.
 (45) サヴィンコフ, <RS>No.207(1917年9月10日)収載, p.3.
 (46) Katkov,<コルニロフ>, p.179-p.180.
 (47) Lukomskii,<<略>>Ⅰ, p.239.
 (48) 同上, p.241.; Chugaev,<<略>>, p.432.
 (49) Chugaev,<<略>>, p.442.
 (50) ケレンスキー, <Delo>, p.88.
 (51) Katkov,<コルニロフ>, p.90-p.91. 強調〔試訳者注<>部分〕は補充した。原文のロシア語全文は、Chugaev,<<略>>, p.443.に収載。
 ----
 ②へとつづく。

1929/ロシア革命史に関する英米語文献②。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 上の新書本のいわゆる「オビ」にこうある。
 「日英米を戦わせて、世界共産革命を起こせ-。
 なぜ、日本が第二次大戦に追い込まれたかを、
 これほど明確に描いた本はない

 中西輝政氏推薦」
 そもそも上の江崎の本は「なぜ日本が第二次大戦に追い込まれたか」を第一主題にしているものではない。しかし、かりにそうだったとしても、「これほど明確に描いた本はない」と評価できるような代物では全くない。悲惨で無惨な、体系性・完結性もない奇書だ。
 「オビ」の文章を書くと、あるいは考案すると、又は推薦者として名前を出すだけで、一件あたりいかほどの「収益」になるのだろう。
 中西輝政は、いくら本の中で「インテリジェンス」研究等について感謝されているとはいえ、中身をまるで読まないで、上のような「推薦」をしているに違いない。
 本の表紙等に自分の名前が出るのは、それほどに心地よいものなのか。
 ときには、きわめて恥ずかしいことになる(またはそう評価される)こともあるはずだ。ああ、恥ずかしい。
 ----
 欧米の書物には日本的な「オビ」は付かないようだが、書物のカバー類に(通常は)肯定的な論評文、つまりは「推薦」になるような著者以外が執筆した文章を印刷していることがある。
 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 前回の①で言及した、2017年刊の「ロシア革命史」本の一つ。
 McMeekinは1974年生まれというから、1923年生まれのR・パイプスより50年以上後の人物で、1941年生まれのS・フィツパトリクよりも一世代ぶんは若い。
 この人の上の著の裏表紙カバーに4つの「論評」文が掲載されている。
 そのうち何と三つが、短い文章の中でロシア革命と「ドイツ」の関係にとくに言及しているのが気を惹いた。
 なお、①ではR・パイプスとO・ファイジズの各著に言及があることも、前回に述べたことを補強するものだ。
 ①フーヴァー研究所主任研究員のNiall Ferguson によるもの(全文/試訳)。
 「Richard Pipes がロシア帝国でのボルシェヴィキによる権力奪取に関する歴史書を刊行してから四半世紀、ソヴィエトの崩壊に続いてのOrland Figes の<人民の悲劇>から20年、これらは決定的(definitive)だと思われた
 しかしここに、Sean McMeekin が、新しい証拠資料を用い、独自の地政学的な見方を提示しつつ、生き生きとした新しい説明を加えて、登場する。
 レーニンがドイツの活動員(operative)だった、その完全で衝撃的な範囲が、ここに明瞭になる。『革命的敗北主義』が蔓延する前にボルシェヴィキを破滅させておかなかつたケレンスキーの過ちの重大さも明瞭になるとともに。
 McMeekin は、力強く歴史を叙述する。
 彼の<The Russian Revolution>は読者の心を<掴む(grip)>。」
 ②『ロマノフ一族』の著者のSimon Sebag Montefiore によるもの(一部/試訳)。
 「ロシア革命に関するSean McMeekin の新しい歴史書は、よく知られた物語を…叙述でもって、しかしそれだけではなく、とりわけドイツによるボルシェヴィキへの財政支援(funding)について、刺激的な〔魅惑的な〕新しい資料を明からにすることを付加して〔飾って〕、叙述している。」
 ③<A Mad Ctastrophe>の著者のGeoffrey Wawro によるもの(一部/試訳)。
 「…。McMeekin のレーニンは、英雄的ではなくて、いかがわしい(seedy)。
 彼によるボルシェヴィキの勝利は、ブルジョア亡命者がペトログラードでレーニンの最初の妨害物になる前にレーニンのポケットに10億ドルを詰め込んだドイツ軍によって設計された、裏切り行為だ。」
 レーニンまたはボルシェヴィキとドイツ(ドイツ帝国)との関係については、Richard Pipes の1990年著も(ソ連解体前の資料によりつつも)相当程度に立ち入って明確な第一次資料を使って記述しており(送金先のペトログラードの個人または商会など)、1917年4月にレーニンがロシア(・ペトログラード)に帰還する途上の某地で某と送金額・送金方法等の「協議」をしただろうとの「推測」まで記している(試訳済み。確認を省略する)。
 先行の研究がないわけではないだろうが、上のような紹介を含む論評からすると、ドイツとレーニン・ボルシェヴィキの関係に関する「新しい」情報を知りたくなる。
 もっとも、冒頭で記した日本での江崎道朗/中西輝政のような「推薦」の例もあるので、英米語圏でのこうした論評・紹介類によって多大な「期待」を抱かない方がよいのかもしれない、とは言える。
 なお、ドイツとの関係は、十月「革命」までのみならず、ブレスト=リトフスク条約、ラパッロ条約から独ソ不可侵協定(・対独「祖国大戦争」)まで、ロシア・ソ連史の重要な対象であるはずだろう。

1928/R・パイプス著ロシア革命・第11章第2節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 ----
 第2節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ蜂起鎮圧への助けをコルニロフに求める。
 (1)8月半ば、ドイツ軍は予期されていたリガに対する攻撃を開始した。
 紀律不十分で政治化していたロシア兵団は後退し、8月20-21日にこの都市を放棄した。
 コルニロフにとって、このことはロシアの戦争行動が切実に再組織されなければならないこと、そうでなければペトログラード自体がやがてリガと同じ運命を味わうだろうことの決定的な証拠だった。
 コルニロフ事件があった雰囲気を理解するには、この軍事的後退を視野の外に置いてはならない。
 現代人は歴史家も、コルニロフとケレンスキーの対立をもっぱら権力闘争として扱ってきたけれども、コルニロフにとってそれはまず第一に、戦争に敗北しないようにロシアを救う、重要であるいは最後かもしれない努力だったからだ。//
 (2)8月半ば、サヴィンコフは信頼できるフランス諜報機関の情報源から、ボルシェヴィキが9月最初に新しい蜂起を計画しているとの情報を受け取った。その情報は8月19日に、日刊紙<Russkoe slovo>に掲載された。(*)
 --------
 (*) 新聞によると(189号、p.3)、これはボルシェヴィキの総力挙げてのものだと政府は考えた。
 --------
 その時期は、最高司令部がドイツの作戦の次の段階が始まり、リガからペトログラードへと前進してくるとと考えた時期と合致していた。(27)
 この情報の源は、知られていない。ボルシェヴィキの資料にはその時期にク-を準備していると示すものは何も存在しないので、誤りだったように見える。
 サヴィンコフは、この情報をケレンスキーに伝えた。
 ケレンスキーは動じなかったように見えた。彼はそのとき、のちと同様に、ボルシェヴィキのクーを自分の対抗者による空想の産物だと考えた。(28)
 しかし、言われるボルシェヴィキ蜂起に関する情報を、コルニロフを弱体化させるための言い分として利用することをすぐに思いついた。
 彼はサヴィンコフに、ただちにモギレフに行ってつぎの任務を果たすように頼んだ。
 1: フィロネンコが報告している、最高司令部での将校による陰謀を消滅させること。
 2: 軍最高司令部の政治部署を廃止すること。
 3: ペトログラードとその近郊をコルニロフの指揮から政府の指揮へと移して、そこに戒厳令を敷くことについて、コルニロフの同意を得ること。および-。
 「4: ペトログラードを戒厳令のもとに置いて臨時政府を全ての攻撃から、とりわけボルシェヴィキによる攻撃から防衛するために、コルニロフ将軍が騎兵軍団を派遣するよう頼むこと。ボルシェヴィキはすでに7月3-5日に反乱を起こし、外国の諜報機関の情報によれば、ドイツ軍の上陸とフィンランドでの蜂起と連結して、もう一度蜂起を準備している。」(29)//
 この第四の任務は、ケレンスキーがのちにはコルニロフが政府を打倒するためにペトログラードに対して騎兵軍団を派遣したと主張し、それは将軍を国家反逆罪によって追及する理由にされることになるので、とくに記憶されつづけるに値する。//
 (3)サヴィンコフのモギレフでの任務の目的は、そこで企てられているとされる反革命陰謀を終わらせ、かつそのようにして、ボルシェヴィキの蜂起に対抗する準備をしているふりをすることだった。
 ケレンスキーはのちに、「最高司令部に対する軍事上の自立性」が欲しかったので、自分の指揮下におく軍事力-すなわち、第三騎兵軍団-を求めた、ということを婉曲的ながら認めた。(30)
 ペトログラード軍事地区をコルニロフの指揮から除外することは、同じ目的に役立つものだった。//
 (4)サヴィンコフは8月22日にモギレフに到着し、24日までそこに滞在した。(31)
 彼はまずコルニロフとの会見から始め、全ての違いを乗り越えて将軍と首相が協力することがきわめて重要だと語った。
 コルニロフは、同意した。ケレンスキーについてその職責からすると弱くて適してもいないと考えてはいたが、彼が必要だった。
 コルニロフは、アレクセイエフ(Alekseev)将軍、プレハノフ(Plekhanov)やA A. アルグノフ(Argunov)のような愛国主義社会主義者を用いて政府の政治的基盤を拡大するようケレンスキーは十分に助言されるされるだろうと付け加えた。
 サヴィンコフはコルニロフの改革提案に話題を転じて、政府はそれに関して行動する用意があると保証し、最終的な改革草案を提示した。
 コルニロフは、軍事委員会やコミサールを残したままだったので、全体としては満足できないものだと考えた。
 これらの改革はすぐに行われるのか?
 サヴィンコフは、ソヴェトからの激しい反応を刺激する怖れがあるので、政府は今のところはまだこれを公にするつもりがない、と反応した。
 彼はコルニロフに、ボルシェヴィキが8月末か9月初めにペトログラードで新しい騒擾を起こすことを計画しているという情報があることを知らせた。軍隊改革の基本方針を早まって発表すると、ボルシェヴィキの即時の蜂起を惹起するだろう、軍隊改革に反対しているソヴェトもまたボルシェヴィキに同調する可能性がある、と言いつつ。//
 (5)サヴィンコフはついで、予期されるボルシェヴィキのクーへの対処方法に関する話題へと移した。
 首相は、ペトログラードとその近郊をペトログラード軍事地区から除外し、直接に自分の指揮のもとに置きたいと考えていた。
 コルニロフはこの要請に不満だった。しかし、従った。
 軍隊改革が提示された場合のソヴェトの反応を誰も予想することはできないので、また、ボルシェヴィキの蜂起が予期されることを考慮してサヴィンコフは、ペトログラードの守備連隊に追加して、信頼できる戦闘軍団を投入するのが望ましい、と続けた。
 彼はコルニロフに、二日以内に第三騎兵軍団をVelikie Luki から、政府の指揮が及ぶことになるペトログラード近接地へと動かすよう要請した。
 このことが行われればすぐに、自分は電報でペトログラードに知らせることになる。
 彼はまた、必要となれば、政府はボルシェヴィキに対する「容赦なき」行為を実行する用意がある、かりにボルシェヴィキに加勢するならばペトログラード・ソヴェトに対しても同様だ、と語った。
 この要請に対して、コルニロフはすぐに同意した。//
 (6)コルニロフはまた、最高司令部の将校たちの同盟に対して、モスクワへと移動するよう要請することに同意した。しかし、政治的部署を廃止することは拒否した。
 彼はさらに、注意を引く最高司令部での全ての反政府陰謀を消滅させることも約束した。
 (7)8月24日朝、ペトログラードへと出発しようとしていたときに、サヴィンコフは、二つの要請を追加した。
 コルニロフがこれらを実行しなかったことをのちにケレンスキーは重視しようとしなかったけれども、サヴィンコフの記録では、ケレンスキー自身がこれらの要請を主導的に行ったことが知られている。(33)
 一つは、第三軍団がペトログラードへと出立する前に、この軍団の司令官を将軍クリモフ(Krymov)が取って代わること。サヴィンコフの意見では、クリモフの評判は「望ましくない事態」を生じさせ得るというものだったが。
 もう一つは、コーカサス出身者にロシアの首都を「解放」させかねないので、土着分団を第三軍団から分離すること。//
 (8)コルニロフはケレンスキーの欺瞞を見抜かなかったのか?
 コルニロフの言葉や行動からは、彼はケレンスキーの指示を額面通りにそのまま理解した、という結論に達するに違いないだろう。ケレンスキーの危惧の本当の対象はボルシェヴィキではなくコルニロフ自身だった、ということに彼は気づかなかった。
 二人が別れを告げていたとき、コルニロフはサヴィンコフに、国家がケレンスキーを必要としているのだからケレンスキーを支えるつもりだ、と保障した。(34)
 欠陥が多々あったとしても、ケレンスキーは真の愛国者であり、そしてコルニロフにとって、愛国的社会主義者は貴重な財産だった。//
 (9)サヴィンコフと別れたのち、コルニロフは、その職責を与える将軍クリモフに対してつぎのような命令を発した。
 「1: 私からまたは現地で直接にボルシェヴィキの蜂起が始まったと連絡を受ければ、遅滞なく軍団をペトログラードへと動かし、ボルシェヴィキの運動に参加するペトログラード守備連隊を武装解除させ、ペトログラードの民衆を武装解除して、ソヴェトを解散させること。
 2: この任務を達成したならば、将軍クリモフは砲弾を装備する一旅団をOranienbaum へと分離すること。そこに到着したあとで、クロンシュタット連隊に対して要塞を武装解除し、中心場所へと移るように命令すること。」(35)
 これら二つの命令は、ケレンスキーの指示を補完するものだった。
 第一のもの-騎兵軍団のペトログラードへの派遣-は、サヴィンコフが口頭でした要請に従っていた。
 第二のもの-クロンシュタットの武装解除-は、8月8日にケレンスキーが発したが履行されなかった命令と、その基本趣旨が一致していた。(36)
 これら二つの任務は、臨時政府をボルシェヴィキから防衛するためのものだとされた。
 コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官の地位をクリモフに与えるのを拒否する姿勢を示した、と言われているかもしれない。これを正当化するために、コルニロフはLukomskii に、クリモフでは反乱に対処するのは苛酷すぎるだろうと政府は怖れた、と説明した。しかし、全てが終わってしまったときには、その方が彼には喜ばしいことだっただろう。(37)
 Lukomskii は、サヴィンコフがもたらした指令は一種の罠ではなかったかと、気をめぐらした。コルニロフは「Lukomskii は邪推をしすぎる」と言って、この疑念を却下した。(38)//
 (10)このとき、コルニロフに将校たちが近づいてきて、ペトログラードにはボルシェヴィキ鎮圧を助けるつもりの2000人の軍員がいる、と言った。
 彼らは、その軍員たちを指揮する100人の将校の派遣をコルニロフに要請した。コルニロフは、その人数を派遣すると約束した。
 コルニロフは、8月26日までには全員が準備できる状態になるはずだ、と語った。その日は、予期されるボルシェヴィキ蜂起の時期の最も早い日で、ボルシェヴィキが立ち上がったときにはクリモフが率いる騎兵軍団が接近していて、義勇兵たちがソヴェトの議場のあるスモルニュイ(Smolnyi)を掌握できるはずだった。(39)//
 (11)サヴィンコフは、8月25日にケレンスキーに報告した。ケレンスキーの指令は全て履行されるだろう、と。//
 --------
 (27) N. N. Golovin,<<略>>(Tallin, 1937), p.15.
 (28) ケレンスキー,<Delo>, p.62.
 (29) サヴィンコフの供述書から。<Revoliutsiia>Ⅳ, p.85. 所収。
 (30) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.158.
 (31) サヴィンコフが書き取った会見要領は、つぎに再録されている。Chugaev,<<略>>, p.421-3. コルニロフと二人の将軍が署名している別の要録書は、つぎにある。Katkov,<コルニロフ>, p.176-8. サヴィンコフの回想録である<K. delu Kornilova>, p.20-p.23.
 (32) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.175.; Chugaev,<<略>>, p.422.
 (33) サヴィンコフ, <RS>No.207(1917年9月10日), p.3.
 (34) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.178.
 (35) Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.202.によるコルニロフの供述書から引用。<Revoliutsiia>Ⅳ, p.91. 参照。
 (36) Martynov,<コルニロフ>, p.94.; Miliukov,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.202.
 (37) Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.238.
 (38) 同上、p.237-8.
 (39) 同上、p.232.
 ----
 第3節へとつづく。

1927/ロシア革命史に関する英米語文献①。

 Anne Applebaum, Gulag- A History (2003).
 =アン・アプルボーム=川上洸訳・グラーグ―ソ連集中収容所の歴史(白水社、2006年)
 2004年度ピューリツァー賞を受けたらしい、この強制収容所(Gulag)に関する書物は、第一部<グラクの起源-1917-1939>の第一章<ボルシェヴィキの始まり>の冒頭で1917年10月のボルシェヴィキの権力掌握あたりまでを。2頁で素描している。
 その際に参照文献として注記しているのは、つぎの二著だけだった。本文p28.、注p.524.
 右端の頁数は、参照要求される当該文献の頁の範囲。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution 1889-1919 (1990). pp.439-505.
 ②Orland Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution (1996). pp.474-551.
 いずれも、邦訳書はない。後者の<人民の悲劇>は、M・メイリア<ソヴィエトの悲劇>(邦訳書あり。草思社・白須英子訳、1997年)と少し紛らわしい。
 以上については、すでにこの欄に、より簡単には書いたことがある。
 ---
 2017年のロシア・十月革命「100周年」の年に、英米語文献としては少なくともつぎの三つの著がロシア革命に関する「通史」的なものとして新しく刊行された。
 右端の頁数は、索引等を含めての総頁数。
 A/S. A. Smith, Russia in Revolution: An Empire in Crisis, 1890 to 1928 (2017). 計455頁。
 B/Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 C/China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution (2017). 計369頁。
 いずれもまだ、邦訳書はないと見られる。
 上の二つは専門の研究者によるものだ。
 最後のものはそうではなさそうだが、しかし、多数の文献を読んで参照していることは分かる。なお、このChina Miéville の本は本文(序などを除き)計10章で、第1章は1917年前史、第10章は「赤い十月」、そして残りの2 章以降はそれぞれ2月、3月、…を扱っていて、表向きはきわめて読みやすそうだ(内容はほとんど見ていない)。
 China Miéville は「さらなる読書」のために、以下の「通史」文献以外に50ほどにのぼる文献(論文・記事類ではない)を挙げる。
 「通史(General Histoties)」として挙げられる9の文献を刊行年の古い順に変えて紹介すると、つぎのとおり。同一の著者の書物が二件以上挙げられている場合もある。
 ①Leon Trotsky, History of the Russian Revolution (1930).
 ②Victor Serge, Year One of the Russian Revolution (1930).
 ③Willam Henry Chamberlin, The Russian Revolution 1917-1921 (1935).
 ④E. H. Carr, The Russian Revolution, 1917-1923, 1-3.vols (1950-53).
 ⑤Tsuyoshi Hasegawa, The February Revolution, Petrograd: 1917 (1981).
 ⑥Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 ⑦Alexander Rabinovich, Prelude to Revolution: The Petrograd Bolsheviks and the July 1917 Uprising (1991),+ The Bolsheviks Come to Power (2004).
 ⑧Orland Figes, A People's Tragedy (1996).
 ⑨Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (2ed edition), (2008).
 以上
 ⑨の第4版(2017)が、この欄で最近まで「試訳」していたもの。2017年だったからこそ、新版にしたのだろう。
 上で興味深いのは、冒頭でも言及した、二つの著、つまりRichard Pipes とOrland Figes の著が⑥と⑧でやはり挙げられていることだ。
 その対象や範囲を考慮すると、邦訳書が早くからある初期のトロツキーやE. H. カーよりは新しいこれらの邦訳書が存在しないことは、いかにも日本らしい気もする。⑨も、邦訳書がない。
 山内昌之がたぶん歴史(世界史?)関係の重要な何冊かを挙げて紹介する新書版の本で、ロシア革命についてはE. H. カーのものを挙げてきたが、トロツキーのものに変更したとか、書いていた(山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007))。
 日本共産党の不破哲三・志位和夫がロシア革命に関連して肯定的に名を挙げるE. H. カーの本は、山内によるとどうも不満があるらしい。今日の英米語圏でもベストとはされていないようで、明確に批判する論者もある。執筆当時に存在した表向きの(これも程度があるが)資料・史料だけ使って「実証的に」叙述しただけでは、結局は「現実を変えた」または「現実になった」者たちや事象を<追認>し、<正当化>するだけに終わる可能性のあることは-日本の「明治維新」についてもそうだが-留意されてよいだろう。
 元に戻ると、上のCは背表紙の下に「VERSO」と横書きで打たれていて「VERSO」なる叢書の一つのようでもあるが、「VERSO」は出版元の「New Left Books(新左翼出版社)」のImprint だとされている(原書の冒頭近く)。
 よくは知らないが、その「新左翼」に引っかかって上の各著に対するChina Miéville のコメントを読むと、明らかに、⑥R・パイプスと⑨S・フィツパトリクのものには批判的な部分がある。例えば-。
 ⑥について-「左翼に対する敵意」、「ボルシェヴィキ恐怖症(-フォビア)」、…。
 ⑨について-<レーニン→スターリン>「不可避主義者」、…。
 これら自体興味深く、この二人の著が少なくとも一部に与える印象も理解できるところがある。
 しかし、それよりもさらに興味深いのは、この二人の著をChina Miéville も、きちんと列挙している、ということだろう。
 R・パイプス、O・ファイジズ、S・フィツパトリクの<ロシア革命本>は、今日の英米語圏では、どのような政治的立場を現在にとるのであれ、ロシア革命に関する、ほとんど<must read>のあるいは「鉄板」の書物になっているのではないか。
 ひるがえって、やはり日本のことを考える。日本の学界や「知的」活動分野について、考える。
 日本でいう「左翼」とは何か、「リベラル」とは何か。<ロシア革命>はとっくに過去の事象で、これらと何の関係もない、今日では関心の対象にならないものなのか?
 日本の国会議員を堂々と有する政党の中に、ほとんど直接に「ロシア革命」と関係がありそうな党はなかっただろうか。はて。

1924/R・パイプス・ロシア革命(1990)第11章第1節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990)
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 なお、著者(R・パイプス)はアメリカで存命だったA・ケレンスキー(1881-1970)に直接に会って、インタビューしている。
 ----
 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される②。
 (10)Boris Savinkov (B・サヴィンコフ)は、軍事省の部長代行で、ケレンスキーとコルニロフの二人の信頼を得ていたため、仲介者としての役割を果たすには理想的にふさわしい人物だった。彼は、8月初めにつぎを求める四項目の案を起草した。すなわち、後方兵団への死刑の拡大、鉄道輸送の軍事化、軍需産業への戒厳令の適用、〔ソヴェトの〕軍事委員会の権限の縮小に対応する将校の紀律権限の回復。(8)
 彼によると、ケレンスキーは文書に署名すると約束したが、それを引き延ばし続け、8月8日に、「いかなる状況にあっても、後方部隊への死刑については署名しない」と彼に言った。(9)
 コルニロフは欺されたと感じて、ケレンスキーに「最後通牒」を突きつけた。これがケレンスキーを憤激させ、コルニロフをほとんど解任しそうになった。(10)
 ケレンスキーが軍隊の再活性化に強い関心を持っているのを知って以降、コルニロフはケレンスキーの不作為によって、首相は自由な人間ではなく社会主義者たちの道具にすぎないという疑念を持たざるをえなかった。社会主義者たちのうちの何人かは、七月蜂起以降、敵と通じていると言われていた。
 (11)コルニロフの執拗な要求は、ケレンスキーを困難な状態に追い込んだ。
 ケレンスキーは5月以降、何とか政府とイスパルコムの間に股がってきた。立法に関するイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の拒否権に譲歩してそれが離反しないようにし、他方では同時に、力強く戦争を遂行して、リベラル派や穏健な保守派すらの支持を得ることによって。
 コルニロフは、ケレンスキーが是非とも避けたいと願っていること-つまり左翼と右翼のいずれかを、国際的社会主義の利益とロシア国家の利益のいずれかを、選択すること-をするように首相に迫った。
 ケレンスキーは幻想のもとにいることはできなかった。すなわち、多くは合理的だと考えていたコルニロフの要求に応じるのは、ソヴェトとの決裂を意味するだろう。
 ソヴェトの会議は8月18日、ボルシェヴィキの動議にもとづき、軍隊へ死刑を復活させる案について議論した。
 この案は事実上の満場一致で、すなわち4人(ツェレテリ、ダン、M. I. Liber、チェハイゼ)の反対に対するおよそ850人の賛成で、前線部隊への死刑の適用を拒否する決議を採択した。それの適用は、「司令幕僚たちに対する奴隷にする目的でもって兵士大衆に恐怖を与えようとする手段だ」として。(11)
 明白なことだが、戦闘地域にいない後方の兵団に対して死刑を拡大することにソヴェトが同意することはあり得なかった。防衛産業や輸送の労働者たちに軍事紀律を課すことについては、言うまでもない。//
 (12)理論的には、ケレンスキーはソヴェトに対抗して、リベラル派と保守派に運命を委ねることも考えられ得ただろう。
 しかし、とくに六月攻勢の失敗と七月蜂起に対する優柔不断な対応の後でこれらの社会勢力が彼に抱いている低い評価を考えると、ケレンスキーがこれを選択する可能性はあらかじめすでに排除されていた。
 8月14日のモスクワの国家会議にケレンスキーが姿を現したとき、彼は左翼側によってのみ強く称賛された。右翼側は石のごとき沈黙でもって迎えた。彼らが拍手喝采を浴びせたのは、コルニロフに対してだった。(12) 
 リベラル派と保守派のプレスは、包み隠さすことのない侮蔑をもってケレンスキーに触れていた。
 したがって彼には、左翼側を選択する以外の余地はなかった。イスパルコムの社会主義知識人たちに従順でありつつ、一方では確信と成功の見込みは減っていても、ロシアの国家利益を推進しようとしながら。//
 (13)ケレンスキーが左翼側と宥和したかったのは、約束した軍隊改革をしなかったことのみならず、ボルシェヴィキに対して断固たる措置をとらなかったことでも明らかだった。
 彼は大量の証拠を手にしてはいたけれども、イスパルコムとソヴェトに遠慮して七月蜂起の指導者たちを訴追しなかった。彼らは、ボルシェヴィキの責任を追及するのは「反革命的」だと考えていた。
 ケレンスキーは、右翼と左翼の両方の戦争遂行「妨害者」に保護されるべきとの軍事省からの提案に反応して、これと類似した先入観をもっていることを示した。
 彼は、右翼側の逮捕されるべき者の名簿を承認した。しかし、別の名簿が届けられたときには躊躇を示した。そして、結局は半分以上の名前を除外したのだった。
 それらの文書が、連署が必要な内務大臣でエスエルのN. D. Avksentiv に届いたとき、彼は最初の名簿を再確認したが、第二の名簿からは2名(トロツキーとコロンタイ)以外の全ての者の名前を削除した。(13) //
 (14)ケレンスキーは、民主主義的ロシアを指導すると運命づけられていると自認する、きわめて野心的な人物だった。
 この野心を実現する唯一の方法は、民主主義的左翼-すなわちメンシェヴィキとエスエル-の主張を管掌することだった。そして、そうするためには、その左翼がもつ「反革命」という強迫観念を分かち持たなければならなかった。
 彼は、コルニロフのうちに全ての反民主主義勢力が集中したものを見たのみならず、そう見る必要があった。
 ボルシェヴィキが4月、6月そして7月の武装「示威行動」で何を意図していたのかをよく知っており、またレーニンやトロツキーが将来に企てていることを容易に理解したけれども、ケレンスキーは、ロシアの民主主義は左翼からの危険ではなく右翼からの危険に直面していると、自らを納得させた。
 知識がなかったわけでも知的精神をもっていなかったわけでもなかったので、彼のこのような馬鹿げた評価は、それが彼には政治的にふさわしかったという前提でのみ、意味があることになる。
 コルニロフにロシアのボナパルトの役を割り当てて、ケレンスキーは無批判に-じつは進んで-、コルニロフの友人や支持者たちが巨大な反革命の陰謀を企てているという風聞に反応した。(14)
 (15)軍隊改革が実行されないままで、貴重な日々が過ぎ去った。
 コルニロフは、ドイツがまもなく軍事攻勢を再開しようとしていると知り、また事態を動かすことを意図して、内閣と会うことの許可を求めた。
 彼は8月3日に、首都に着いた。
 大臣たちに挨拶をして、彼は軍隊の状態の概略を述べ始めた。
 コルニロフは、軍隊の改革に関して議論したかった。しかし、サヴィンコフが軍事省がその問題に取り組んでいると言って、遮った。
 コルニロフはそのあと、前線の状況に話題を変えて、ドイツとオーストリアに対して準備している軍事行動について報告した。
 この時点で、ケレンスキーはコルニロフに寄りかかって囁いて、注意するように求めた。(15) 一瞬のちに、同様の警告がサヴィンコフからもあった。
 この出来事によって、コルニロフと彼の臨時政府に対する態度が、動揺した。
 彼はこのことに何度も言及して、その後の彼の行動を正当化するものだとした。
 彼はケレンスキーとサヴィンコフの警告を正しく解釈していたので、一人のまたは別の大臣は軍事機密を漏洩する疑いがあった。
 モギレフに戻ったときコルニロフは、衝撃を受けた状態のままで、Lukomskii に起きたことを語り、いかなる性格の政府がロシアを動かしていると考えるかと尋ねた。(16)
 彼は、自分が警告された大臣はチェルノフだと結論づけた。チェルノフは、ボルシェヴィキを含むソヴェトの仲間たちに秘密情報を伝えていると信じられていた。(17)
この日以降、コルニロフは臨時政府を国家と国民を率いるに値しない、と見なした。(*)
 --------
 (*) 政府は忠誠心のない者やおそらくは敵の工作員に惑わされているとの彼の確信は、彼がこの時期に政府に提出した秘密のメモ文書がプレスに漏れたことで強められた。
 左翼のプレスは抜粋版を発行し、コルニロフに反対する運動を開始した。悪口のキャンペーンだった。Martynov <コルニロフ>, p.48.
 ---------
(16)この出来事からほどなくして(8月6日又は7日に)、コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官である将軍クリモフ(A. M. Krymov)に、その兵団をルーマニア地域から北方へ動かすよう命令した。そして、別の軍団を投入し、西部ロシアの大雑把にはモスクワとペトログラードと等距離にある都市のVelikie Luki で位置を整えるよう命じた。
 第三軍団は、二つのコサック分団とコーカサスからのいわゆる土着(または粗雑)分団で構成されていた。いずれも人員不足だったが(土着分団には1350人しかいなかった)、頼りになると見なされた。
 こうした命令に当惑して、Lukomskii は、これらの勢力をドイツ戦に用いるのだとするとVelikie Luki は前線から遠すぎる、と指摘した。
 コルニロフは答えて、モスクワかペトログラードのいずれかで発生する可能性が潜在的にあるボルシェヴィキの蜂起を鎮圧するための場所に軍団はいて欲しいと語った。
 彼はLukomskii に対し、臨時政府に対抗するつもりはない、だが必要だと分かれば、クリモフの兵団がソヴェトを解散し、その指導者たちを吊し、ボルシェヴィキを-政府の同意があってもなくても-簡単に片付ける、と付け加えた。(18)
 彼はまたLukomskii に、ロシアは国家とその軍隊を救うことのできる「確固たる権威」を絶望的にだが必要としている、と語った。
 つぎは、コルニロフの文章だ。
 「私は反革命家ではない。<中略>私は旧来の統治体制の形態が嫌いだ。それは私の家族を手酷く扱った。過去に戻ることはない。決して、あり得ない。
 しかし、我々は、本当にロシアを救うことのできる権威を必要としている。その権威は、戦争を栄誉をもって終わらせることを可能にし、立憲会議〔憲法制定会議〕へとロシアを指導するだろう。<中略>
 我々の現在の政府には、しっかりした個人はいるが、事態を、ロシアを、破滅させる者もいる。
 重要なことは、ロシアには権威がなく、そのような政府が設立されなければならないということだ。
 おそらくは私は、そのような圧力を政府に対してかけることになるはずだ。
 かりにペトログラードで騒擾が勃発すれば、それが鎮圧された後で私は政府に入り、新しい、強い権威の形成に参加しなければならないだろう。」(19)//
 (17)ケレンスキーがコルニロフに対して一度ならず自分も「強い権威」に賛成だと言っていたのを聞いていたので、Lukomskii は、コルニロフと首相は困難なく協力するはずだ、と結論した。(20)
 コルニロフはサヴィンコフの要請に応じて8月10日にペトログラードに戻った。しかしこれは、首相の望みには反していた。
 ケレンスキーの生命を狙う試みに関する風聞を聞いて、彼はTekke の護衛団とともに到着し、護衛団はケレンスキーの事務所の外側に機関銃を積み上げた。
 ケレンスキーは内閣全員と会いたいとのコルニロフの要請を拒否した。そしてその代わりに、顧問団であるNekresov とTereshenko が同席して、彼を迎えた。
 将軍の非常時意識は、ドイツが軍事攻勢をリガの近くで開始し、首都の脅威になりそうだ、という知識にもとづいていた。
 彼は改革の問題に話題を転じた。外国勢力のために働くロシア人に対する死刑も含めての、前線および後方での紀律の回復、および防衛産業や輸送の軍事化だった。
 ケレンスキーは、コルニロフが望んだことの多く、とくに防衛産業と輸送に関しては「馬鹿げている」と考えた。しかし、軍隊の紀律を強化することを拒否することはなかった。
 コルニロフは首相に、自分はまさに解任されそうで、軍での騒擾を刺激しそうな行動をしないように「助言されている」ということを分かっている、と言った。(22)
 (18)4日後、コルニロフは国家会議にあっと言わせる登場の仕方をした。その会議はケレンスキーがモスクワに国民の支持を集めるべく招集したものだった。
 まず最初に、ケレンスキーは会議で挨拶するのを許可せよとのコルニロフの要請を拒否した。しかし、軍事問題に限定するという条件つきで、容赦した。
 コルニロフがボリショイ劇場に着いたとき、彼は喝采を受け、群衆によって持ち上げられた。
 右翼の議員たちは、騒がしい歓迎の仕方で迎えた。
 むしろ素っ気ない演説でコルニロフは、政府の政治的な打撃になると解釈され得るものは何も語らなかった。ケレンスキーにとっては、この事態が、分岐点だった。すなわち彼は、将軍に対する共感を示すことはケレンスキーへの個人的な侮蔑だと解釈したのだ。
 ケレンスキーののちの証言によると、「モスクワ会議の後で、つぎの攻撃の試みは右翼から来るだろう、左翼からではない、ということは自分には明瞭だった」。(23)
 このような確信が彼の心の裡にいったん定着してしまうと、それは<固定観念(idée fixe)>になった。
 のちに起こることは全て、それを強化するのに役立つだけになる。
 右翼のクーが進行中だとの彼の確信は、将校たちや一般市民からの電信で強まった。それらは、コルニロフをその職のままにとどめておくことを求めるもので、また幕僚将校たちによる陰謀の軍事的中心部からの内密の警告だった。(24)
 保守派のプレスは、ケレンスキーとその内閣に対する連続的な批判を開始した。
 典型的だったのは右翼<Novoe vremia>の編集部で、ロシアを救う鍵は最高司令官の権威を疑いなく受容することだ、と主張した。(25)
 コルニロフがこの政治的キャンペーンを使嗾したという、いかなる証拠も存在しなかった。しかし、それを受け取る側には、彼は疑念の対象になった。//
 (19)冷静に観察すれば、司令官たる将軍への共感が高まるのは、ケレンスキーへの不満の表現であって、「反革命」の兆候ではなかった。
 国家は、しっかりとした権威の存在を切に必要としていた。
 しかし、社会主義者たちは、この雰囲気を敏感に気づくことはなかった。
 実際の政治ではなく歴史を詩文的に見て、社会主義者たちは保守派(「ボナパルティスト」)の反動は不可避だと堅く信じていた。(*)
 --------
 (*) 著者〔R・パイプス〕との私的な会話でケレンスキーは、彼の1917年の行動はフランス革命の教訓に強く影響されていたことを認めた。
 --------
 8月24-25日、何かがたまたまにでもそれを正当化する前に、社会主義派のプレスが反革命の存在を告げた。8月25日、メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、「陰謀」との見出しのもとに、真っ最中だ、政府が少なくともボルシェヴィキに対して示したのと同じだけの情熱をもってこれと闘うよう希望を表明する、と発表した。(26)
 かくして、筋書き(plot)は書かれた。
 残るのは、主人公を見つけることだった。//
 --------
 (8) Boris Savinkov <K delu Kornilova>(Paris, 1919), p.13-14.
 (9) 同上、p.15. P. N. Miliukov <Istoriia <以下略>>(Sofoia, 1921), p.105.
 (10)ケレンスキー<Delo>p.23. Savinkov <K delu>p.15-16. Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.99.
 (11) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.69-70.
 (12) 同上、p.54.
 (13) Savinkov <K delu>p.15.
 (14) ケレンスキー<Delo>p.56-57. 同<Catastrophe>p.318.
 (15) Savinkov <K delu>p.12-13. Geprge Katkov <コルニロフ事件>(London-New York, 1980), p.54.
 (16) A. S. Lukomskii, <<略>>(Berlin, 1922), p.227.
 (17) Katkov <コルニロフ事件>, p.170.
 (18) Lukomskii, <<略>>, p.228, p.232.
 (19) Chuganov, <<略>>, p.429.
 (20) 同上、p.429-430.
 (21) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.37-38. Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.224-5.
 (22) Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.107-8. Trubetakoi<<略>>No.8(1917年10月4日)所収。Martynov <コルニロフ>p.53が引用。
 (23) ケレンスキー<Delo>p.81. Gippius, <Siniaia kniga>p.164-5.
 (24) ケレンスキー<Delo>p.56-57.
 (25) <DN>No.135(1917年8月24日), p.1 に引用。
 (26) <NZh>No.110(1917年8月25日), p.1.
 ----
 第2節へとつづく。

1923/R・パイプス・ロシア革命第11章<十月クー>第1節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」)前後に関する全般的かつ詳細な、つぎの二つの大著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 いずれについても、邦訳書はない。
 但し、前者の2/3と後者を一つに併せたような簡潔版があり、これには、邦訳書がある。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)。
 上のうちAの一部を二年近く前から「試訳」してこの欄に紹介し始めたのだったが(その後Bの一部へも移動)、このAについて試訳の掲載を済ませているのは、第9章(レーニンとボルシェヴィズムの起源)と第10章(権力を目指すボルシェヴィキ)の二つの章にすぎず、本文だけで計842頁になる全体のうち98頁にすぎない。
 ある程度は黙読しかつCの邦訳書も参考にしているので、すでに多少の知識はある。しかし、きちんと日本語に置き換える作業をしておく必要があるだろう。
 トロツキーを長とするペトログラード・ソヴェトの軍事革命委員会の設立辺りから再開したいところだが(なお、確認しないが、ここでの「革命」はレーニンが考え抱く「社会主義革命」では決してなかっただろう)、R・パイプスのAの書物は急いでくれない。
 <コルニロフ事件>という<右への揺れ>があったからこそつぎに<左への揺れ>でレーニン・ボルシェヴィキに有利になった(偶然なのか必然なのか)ともされるので、じっくりとつぎの第11章(十月のクー)の冒頭から「試訳」作業を続けてみよう。
 各節の見出しは本文中にはなく、目次(内容構成)上のものを用いている。
 注記のうち(*)は本文の下欄(文字どおりの脚注)で数字番号付きの注は全体の後にまとめて掲載されている。ここでは前者は本文中に挿入し、後者は試訳掲載部分ごとに最後に記載する。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に、原著にはない数字番号を付した。注記のうちロシア文字が長くつづくものは記載を省略する。
 ----
 Richard Pipes(R・パイプス)・ロシア革命1899-1919 (1990)。
 第11章・十月のクー。
 「捕食動物がその食する動物よりも賢くなければならないのは、自然の法則だ。」
 -自然史入門(Manual of Natyral History)。
 「我々がその当時に本当の危険に直面したのは、まさにその瞬間からだった。」
 -Alexander Kerensky. (1)
 --------
 (1) A・ケレンスキー <The Catastrophe>(New York-London, 1927), p.318.
 ----
 (はしがき)
 1917年9月、レーニンは隠れており、ボルシェヴィキ勢力の指揮権はトロツキーに渡った。トロツキーは、二ヶ月前に入党していた。
 即時の権力奪取というレーニンからの圧力に抗して、トロツキーはより慎重な戦略を採用した。ボルシェヴィキの企図は権力のソヴェトへの移行への努力だと偽装したのだ。
 ほぼ間違いなくその考案者だと言ってよいが、近代クーデタの技術にきわめて熟達しているトロツキーは、革命を勝利へと導いた。//
 トロツキーは、レーニンを補完する理想的な人物だった。
 より目立ち、より派手な、はるかに上手い演説者かつ著述者として、彼は群衆を魅了することができた。レーニンのカリスマ性は、その支持者たちの間に限られていた。
 しかし、トロツキーは、ボルシェヴィキ党員からは人気がなかった。一つには、ボルシェヴィキを辛辣に攻撃して数年のちに遅く党に加入したからだ。また一つには、耐えられないほどに傲慢だったからだ。
 いずれにせよ、ユダヤ人であるトロツキーは、革命であれ何であれ、ユダヤは外部者だと見なされた国での全国的な指導者になることを、ほとんど見込めなかった。
 革命と内戦の間、彼はレーニンの分身(alter ego)で、腕を組み合う不可欠の同僚だった。しかし、勝利を得たのちには、当惑の種になる。//
 ----
 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される①。
 (1)ボルシェヴィキが七月の敗走から回復することを可能にしたのは、ロシア革命のうちでのもっと奇怪な出来事の一つによる。それは、コルニロフ(Kornilov)事件として知られる。(*)
 --------
 (*) ロシア革命に関する歴史家にこれほどの関心を惹起した主題はほとんどない。したがって、これに関する文献はきわめて多い。
 主要な第一次資料は、D. A. Chugaev, ed., <以下、〔略〕>で公刊されている。
 ケレンスキーに関する資料は、Delo Kornilova所収(英語訳<ボルシェヴィズムへの前奏>、ニューヨーク、1919)、Boris Savinkovに関する資料は、K delu Kornilova所収(Paris, 1919)。二次的文献のうち、とくに教示的なものは以下。E. I. Martynov の党派的だが豊かな資料をもつ<コルニロフ>(Leningrad, 1927)、P. N. Miliukovの<〔略〕>(Sofia, 1922)、およびGeorge Katkov の<コルニロフ事件>(London-New York, 1980)。
 --------
 (2)将軍Larv Kornilov (コルニロフ)は、1870年にシベリア・コサックの家庭に生まれた。
 父親は農民かつ兵士で、母親は家事従事者だった。
 コルニロフの庶民的出自は、ケレンスキーやレーニンの出自とは対照的だった。彼らの父親は公職貴族の上位階層に属していた。
 コルニロフは、カザフ・キルギスの中で幼年時代を過ごし、アジアとアジア人に対する終生の情愛を保持し続けた。
 軍事学校を卒業して、参謀学校に入り、栄誉を得てそこを修了した。
 彼はトルキスタンで活動任務を開始し、アフガニスタンやペルシアへの遠征隊を率いた。
 中央アジア語のトルコ方言を習得していてロシアのアジア地域の専門家になっていたコルニロフは、赤い外衣を身にまとってTekkeトルコ人の護衛兵に囲まれているのを好んだ。彼らとはその母国語で会話し、彼は「Ulu Boiara」あるいは「大ボヤール(Great Boyar)」として知られていた。
 彼は日本との戦争に参加し、その後に軍事随行員として中国に配置された。
 1915年4月、ある分隊を指揮していたときに重傷を負い、オーストリア軍の捕虜となった。だが、脱走して、ロシアに帰還した。
 1917年3月、ドゥーマの臨時委員会はニコライ二世に、コルニロフをペトログラード軍事地区の司令官に任命するよう求めた。
 4月のボルシェヴィキ反乱までこの地位に就いていたが、そのときに離任し、前線へと向かった。//
 (3)まず第一にかつ主としては政治家であるほとんどのロシアの将軍とは違って、コルニロフは戦闘する人間で、伝説的な勇気をもつ野戦の将校だった。
 彼には愚鈍との評判があった。アレクセイエフは、コルニロフは「獅子の心と羊の脳をもっていた」と語ったと伝えられている。しかしこれは、公正な評価ではない。
 コルニロフには、多量の実践的知識と一般常識があった。このタイプの他の兵士たちに似て、政治や政治家を軽蔑していたけれども。
 彼は、「進歩的」見解をもっていた、と言われた。そして、彼かツァーリ体制を嫌っていたことについて、疑う理由はない。(2)//
 (4)軍人としての履歴の最初の頃、コルニロフは不服従の傾向を示し、それは1917年二月以降にさらに強くなった。そのとき彼は、ロシア軍の解体と臨時政府の無能力さを観たのだった。
 彼に対する反対者はのちに、独裁的野心をもっていたと彼を責めるだろう。
 このような追及は、一定の条件をつけてのみ行うことができる。
 コルニロフは愛国者で、とくに戦時中に国内秩序を維持し勝利のために必要な全てのことを行ってロシアの国家利益を前進させる、そういういかなる政府に対しても、奉仕する心づもりがあった。
 1917年の夏遅く、彼は、臨時政府はもはや自由な活動者ではなくて社会主義インターナショナル派の捕囚になっており、敵の工作員がソヴェトの中に収まっている、と結論づけた。
 独裁的権力を掌握するという示唆を彼に受容させたのは、まさにこのような信念だ。//
 (5)ケレンスキーは七月蜂起の後でコルニロフに向き直って、コルニロフが軍隊の紀律を回復し、ドイツの反攻を抑えることを望んだ。
 7月7-8日の夜、ケレンスキーはコルニロフを戦闘の先端にある西南方前線の責任者に任命した。そして三日後に、補佐官のBoris Savinkov の助言にもとづいて、コルニロフに最高司令官の地位を提示した。
 コルニロフは、急いでは受諾しなかった。
 彼は政府がロシアの戦争努力全体を妨げている諸問題と真剣に取り組むまでは、かつそうでなければ、軍事活動の指揮を執る責任を負うのは無意味だと考えていた。
 その諸問題には、二つの性格のものがあった。狭くは軍事的なもの、より広くは、政治的および経済的なものだ。
 他の将軍たちと相談して、コルニロフは軍隊の戦闘能力を回復するには何がなされる必要があるかについて、幅広い合意を見出した。すなわち、指令第一号が権限を与えた軍事委員会は廃止されなければならず、または少なくともその権能が縮小されなければならない、軍事司令官たちは紀律に関する権能を再び取得しなければならない、後方の連隊への秩序を回復するために諸手段が用いられなければならない。
 コルニロフは、後方はもちろんのこと前線での脱走や反抗について有罪である軍隊人員に対して、再び死刑を導入することを要求した。
 しかし、そこに彼はとどまらなかった。
 他の交戦諸国の戦時動員計画について知っており、ロシアについても同様のものを望んだ。
 防衛産業および輸送-戦争努力にとって最も重要な経済部門-を担当する従事者たちが軍事紀律に服すべきことは、コルニロフには不可欠のことだと思えた。
 前任者たちよりも大きな権限を要求した範囲は、1916年12月にドイツの経済に対する事実上の独裁的権力を握った将軍ルーデンドルフと対抗するためだった。すなわち、国家が全面戦争を遂行することができるようにするためだ。
 コルニロフが主任幕僚の将軍A. S. Lukomski と共同で作り上げたこの計画は、彼自身とケレンスキーとの間の対立の主要な源泉になった。この計画は将校団および非社会主義者の意見を反映しており、ケレンスキーはソヴェトの監視のもとで行動しなければならなかったからだ。
 調整できないものがあるために、対立を解消するのは不可能だった。国際社会主義の利益に対して、一方にはロシア国家の利益があった。
 両人をよく知っていたサヴィンコフ(Savinkov)が、つぎのように述べるように。
 コルニロフは「自由を愛した。<中略> しかし、彼にとってロシアが第一で、自由はその次だった。一方、ケレンスキーにとって<中略>、自由と革命が第一で、ロシアはその次だった」。(3)//
 (6)7月19日、コルニロフは司令官を受諾するために用意している条件を、ケレンスキーに対して伝えた。
 1: 良心と国家に対してのみ責任を負う、2: 自分の活動命令と司令官任命のいずれについても何者も干渉しない、3: 政府と議論している紀律確保の手段は、死刑による制裁も含めて、後方の兵団にも適用される。4: 政府は自分の従前の提案を受け入れる。(4)
 ケレンスキーはこれらの要求に対して激しく怒り、コルニロフに対する提示を撤回することを考えたほどだった。しかし、翻って考え直したうえで、これを将軍の政治的な「無邪気さ(naïveté)」を表現したものだとして取り扱うことに決めた。(5)
 実際のところ、軍隊がなければ彼は無力であるため、ケレンスキーはコルニロフの助力に大きく依存していた。
 確かに、コルニロフの四条件のうち第一のものは、ほとんど無作法だった。しかしながら、将軍の望みはソヴェトによる介入を除去することにある、と説明することはできる。ソヴェトは、指令第一号で、軍事命令を取り消す権限を要求していたのだ。
 最高司令部にいるケレンスキーの副官でエスエル〔社会革命党〕のM. Filonenko がコルニロフに、「責任」とは臨時政府に対するものを意味させていないとすれば、この要求は「きわめて深刻な懸念」を呼び起こすだろう、と語った。これに対してコルニロフは、そのことはまさしく考えていることだ、と答えた。(6)
 そして、のちに見られるようにコルニロフがケレンスキーと最終的に決裂するまでは、彼の「不服従」はソヴェトに対して向けられていたのであり、臨時政府に対してではなかった。//
 (7)コルニロフが軍隊の司令権を掌握したいと考える条件は、おそらくはコルニロフの公的関連将校のV. S. Zavoiko によって、プレスへと漏らされた。
 各条件が<Russkoe slovo>7月21号で公にされた結果、大騒動が発生した。コルニロフは非社会主義の集団ではすぐに人気を獲得し、一方でそれに対応するだけの敵愾心を左翼に生じさせた。(7)
 (8)首相と将軍の間の交渉は、ゆっくりと二週間つづいた。
 コルニロフは、自分が提示した条件は充たされるだろうとの保障を得て、ようやく7月24日に新しい任務を引き受けた。
 (9)しかしながら、実際には、ケレンスキーは約束を守ることができなかつたし、その意思もなかった。
 彼は自由な人物ではなくイスパルコム(Ispolkom〔ソヴェト執行委員会〕)の意思の執行者だというのが、できない理由だった。イスパルコムはとくに後方での軍事紀律を回復しようとする全ての手段を「反革命的」だと考えており、それらを拒否していた。
 したがって、ケレンスキーが改革を実行するためには、彼の主要な政治的支持者である社会主義者たちと分裂することを強いられただろう。
 そして彼は、コルニロフは将来の危険な対抗者であることをすぐに理解するに至っただろうから、約束を断固として守ろうとはしなかっただろう。
 歴史研究者が歴史上の個人の心の裡を見通そうとするのは、つねに危険なことだ。しかし、7月と8月のケレンスキーの行動を観察すれば、彼は慎重に、自分の軍事官僚たちの不同意を惹起させ、妥協する機会をもつことを断固として拒否した、という結論以外のものを見出すのは困難だ。
 なぜなら、ケレンスキーは、ロシアの指導者かつ革命の擁護者としての自分の地位を脅かすいかなる者をも、打倒しようと考えていたからだ。(*)//
 --------
 (*)これは、将軍Martynov の見解でもある。彼は、こうした事態をすぐ傍らで観察していて、文書上の証拠を研究した。すなわち、同<コルニロフ>, p.100。N. N. Golovin<<略>>(Tallin, 1937), p.37.参照。
 --------
 (2) A・ケレンスキー <ボルシェヴィズムへの序曲>(New York, 1919),xiii. D. A. Chugaev, ed, <<略>>(Moscow, 1959),p.429.
 (3) Zinaida Gippius, Sinoaia kniga (Belgrade, 1929), p.152.
 (4) E. I. Martynov <コルニロフ>(Leningrad, 1927), p.33-34.
 (5) A・ケレンスキー・Delo Kolnilova (Ekaterinoslav, 1918), p.20-21.
 (6) Martynov <コルニロフ>p.36.
 (7) 同上、p.34.
 ----
 ②へとつづく。 

1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり/第3節・テロル。(P)は大文字のPurge=「大粛清」。(p)=purgeは「粛清」または「浄化」とした。
 気づいていなかったが、最後に、一行の空白後に、この第3節ではなく書物全体を想定しているとみられる「むすび書き」がある。「おわりに」と勝手に名づけて、第3節の本文・注よりも後に紹介した。
 今回で、丸数字記号のある⑳回までを予定していた「試訳」が、予定どうり、いちおう終了する。翻訳が生業ではないこと、一つの言葉や文章の意味に一時間以上拘泥して呻吟したところでこの作業は一円・一銭の個人的利益にもならないのだから、不備・不正確さ等々があるのはむしろ当然のことだろう。
 ----
 第3節・テロル(The Terror)。
 (1)「おお読者よ、我々は言おう。黄金時代はとば口まで押し迫っているが、-裏切り者がいるおかげで-収穫と言えるようなものは何もまだ獲得できていない、と想像してほしい、と。
 どんな勢いと力を使えば裏切り者たちを打倒することができるのか、あのような場合に! <中略>
 人間男女にある気質について言うと、つぎの一つの事実を挙げるだけで十分だろう。すなわち、<<猜疑心(SUSPICION)>>がいかほどまで大きくなったか、という事実だ。
 我々はしばしば、どうやら誇張した言葉遣いだったようだが、それを超自然的(preternatural)だと称した。しかし、目撃者の冷静な証言類に、耳を傾けてほしい。
 一人の音楽憂国者も、屋根の上にやさしく哀しげに座って、自分でフランス・ホルンを使って旋律を吹くことはできない。しかし、感謝心があれば、策略委員会が別の新しいものを作る合図だとそれに気づくだろう。<中略>
 奥深くまで見通すことのできるLouvet は、議員たちの請願によって我々が古い乗馬会館へ復帰するに違いない、そして、無政府主義者たちが歩いている途中の我々のうち22人を殺戮するだろうと、察知している。
 これは、Pitt 〔小ピット・イギリスの当時の首相〕とCobourg の策略だ。Pitt の金銀による策略なのだ。<中略>
 後ろで、周りで、前で、巨大で超自然的な操り人形の舞台劇が演じられている。Pitt が黒幕となって操っているのだ。」(27)
 (2)これは、フランス革命についてのカーライル(Carlyle)の文だ。だが、ソヴィエト同盟の1936-37年の気分を想起させるものとして、これよりも優れているのはほとんどない。
 1936年7月29日、党中央委員会は、全ての地方党組織に対して、「トロツキー=ジノヴィエフ派反革命ブロックに対するテロル活動に関して」という秘密文書を送った。これは、以前の反対派諸グループは、「スパイ」、挑発者、妨害者、白衛軍およびソヴェト権力を憎悪するクラクたちを惹き付ける磁場になっており、レニングラード党指導者であるセルゲイ・キーロフの殺害について責任がある、と言明するものだった。
 警戒心-いかほどに偽装がうまくとも、党の敵を見分ける能力-は、全ての共産党員の不可欠の態度だ。(28)
 この文書は、大粛清のうちの最初の見せ物裁判(show trial)への序曲だった。
 その最初の裁判は8月に行われ、二人の反対派指導者であるL・カーメネフ(Lev Kamenev)とG・ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)はキーロフ(Kirov)殺害の共犯者だとされ、死刑を宣告された。//
 (3)1937年初めに行われた第二回めの見せ物裁判では、工業分野での破壊や罷業に力点が置かれた。
 主要な被告人はYurii Pyatakov で、この人物はかつてトロツキー派、1930年代の当初以降は重工業人民委員部でOrdzhonikidze の右腕だった。
 同じ年の6月、元帥のトゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍事指導者たちが、ドイツのスパイだとして訴追され、秘密の軍事法廷のあとで直ちに処刑された。
 1938年3月に行われた最後の見せ物裁判では、ブハーリンと、以前の右派指導者のルィコフおよび以前は秘密警察の長だったGenrikh Yagoda が、被告人の中にいた。
 古いボルシェヴィキである被告人たちは、多彩で異様な犯罪を公的に自白し、法廷では状況の詳細を長く陳述した。
 彼らのほとんど全員が、死刑を宣告された。(29)//
 (4)キーロフや作家Maxim Gorky の殺害のような派手な犯罪とは別に、体制に対する民衆の不満を煽り体制打倒を促進するための経済的妨害となる多数の行為を、陰謀者たちは自白した。
 それらの中には、多数の労働者が死んだ鉱山や工場での事故の企画実行も含まれていた。そうした事故は賃金支払い遅延の原因となり、品物の配分を停止させた結果として、農村地帯の店には砂糖やタバコがなくなり、都市のパン屋は品切れになった。
 陰謀者たちはまた、習癖として欺瞞を行い、反対派とは縁を切ったふりをし、党の基本方針への貢献を宣言してはいたが、私的にはその間ずっと、同意せず、疑念をもち、批判してきた、と告白した。//
 (5)外国の諜報員たち-ドイツ、日本、イギリス、フランス、ポーランド各国の者たち-が、こうした陰謀の背後にいるとされた。彼らの究極的な目的は、ソヴィエト同盟への軍事攻撃を仕掛け、共産主義体制を打倒し、資本主義を復活させることだった、と。
 しかし、多数の陰謀の核心にいたのは、トロツキーだった。トロツキーは、ゲシュタポ(Gestapo)のみならず、(1926年以降!)外国諸勢力とソヴィエト同盟内部の彼の陰謀網との間を媒介した、イギリス諜報機関の一員だったと主張された。
 (6)大粛清は、ロシア革命でのテロルの、初めての出来事ではなかった。
 「階級敵」に対するテロルは、内戦の一部だった。テロルは、集団化や文化革命の一部でもあった。
 実際にMolotov は1937年に、、Shakhty 裁判や文化革命時の「工業党」裁判から現在の裁判まで、一つの線が繋がって続いている、と述べた。
 -但し、ソヴェト権力破壊の陰謀者たちは、今回は「ブルジョア専門家たち」ではなくて、共産党員たちだという重要な違いはあるのだが。すなわち、共産主義者(共産党員)たち、または少なくとも、「仮面を被って」、党や政府での上層の職へと何とかして這い上がってきた者たちだ、という違いが。
 (7)上級階層者の大量の逮捕は、1936年の後半に始まった。とくに工業の分野で。
 しかし、スターリン、モロトフおよびニコライ・エゾフ(Nikolai Ezhov)(秘密警察が1934年に改称したNKVDの新長官)が魔女狩りを本当に開始する合図を発したのは、1937年、中央委員会の2-3月会合でだった。(31)
 1937年と1938年のまる2年の間、共産党官僚の最上層の者たちが官僚機構の全ての分野で-政府、党、工業、軍事、財政およびさらに警察まで-非難され、「人民の敵」だとして逮捕された。
 ある者たちは、射殺された。別の者たちは、強制収容所へと消えた。
 フルシチョフは第20回党大会への秘密報告で、1934年の「勝利の大会」で選出された中央委員会委員および委員候補の139名のうちほとんど41パーセントが大粛清の犠牲者となつた、と明らかにした。
 指導部の継続性は、ほとんど完全に破壊された。粛清(P)が破壊したのは、古いボルシェヴィキ仲間のうちの残存者のほとんどだけではなく、内戦期および集団化の時期に形成された党の仲間たちの大部分だった。
 1939年の第18回党大会で選出された中央委員会委員のうち24名だけが、5年前に選出された元委員だった。(32)//  
(8)高い地位にいる共産党員たちは、大粛清(P)の唯一の犠牲者ではなかった。
 知識人層(古い「ブルジョア」知識人層と1920年代の共産党員知識人層、とくに文化革命の活動家たち、の両者を含む)は、酷い打撃を受けた。
 以前の「階級敵」-全ての革命的テロルのーに通例の、1937年のように特別には何も企図していなかったときですら、容疑者だ-、およびかつて何らかの理由でブラック・リストに掲載されたことのある他の誰もが、同様だった。
 国外に縁戚関係者をもつ者や外国との関係がある者は、とくに危険だった。
 スターリンは、再犯者、馬泥棒、および拘禁記録のある宗教聖職者たちも含めて、数万人の「旧クラクおよび犯罪者たち」を逮捕させる特別の命令すら発したことがあった。
 そして、射殺するか、または強制収容所へと送り込んだ。
 加えて、現時点で強制収容所で刑に服している1万人の常習犯者は、射殺されるものとされた。(33)
 大粛清(P)の全様相は長年にわたって西側での研究の対象だったが、研究者たちが従前は利用できなかったソヴィエト文書庫を探求するにつれて、より明確になり始めた。
 NKVD文書によれば、強制労働収容所での犠牲者数は、1937年1月初めからの二年間で、50万人に昇り、1939年1月1日に130万人に達した。
 あとの年、1939年に、強制収容所の40パーセントは、「反革命」罪の有罪者で、22パーセントは「社会的に有害又は危険な要素」だと分類されており、残りのほとんどは、通常の犯罪者だった。
 しかし、多数の大粛清(P)犠牲者は監獄(刑務所)で処刑されており、強制収容所まで行きついていない。
 NKVDが記録するところでは、そのような処刑は1937-38年に68万件を超えていた。(34)//
(9)何が大粛清の要点だったのか?
 <国益(raison d'état)>(潜在的な戦争中の第五列(Fifth Column)を根とする語)という意味からの説明は、納得し難い。
 全体主義的な必要性という趣旨からする説明は、何が全体主義的必要性なのかという問題に戻るだけだ。
 革命という文脈の中で大粛清という現象を考察するとすれば、問題は少しは当惑しないものになる。
 敵に関する猜疑心は、Thomas Carlyle がこの節の最初に引用した1794年のジャコバン・テロルに関する文章で生々しく描写する、革命の心性の標準的な特質だ。
 -敵とは、外国勢力の金銭を受け、しばしば仮面を被り、革命を破壊して人民に苦痛を負わせる継続的な陰謀に従事している者たちだ。
 正常な環境にいれば、人々は、一人の有罪の人間を解き放つよりも十人の無実の人間が殺される方が良い、という考え方を拒否する。
 革命という異常な情況のもとでは、人々はしばしば上の考えを受け容れる。
 卓越した性格をもつことは、革命の時期での安全を保障しない。むしろ、逆だ。
 大粛清が革命的指導者を偽装した多数の「敵」を曝け出したということは、フランス革命を学んだ者にとっては驚くべきことではないはずだ。//
 (10)大粛清の革命上の起源を跡づけるのは、困難なことではない。
 すでに記したように、レーニンは革命的テロルに対する良心の呵責を何らもっておらず、党の内部であれ外であれ、反対者たちに寛容ではなかった。
 にもかかわらず、レーニンの時代には、党の外部にいる反対者に対処するために許され得る手段と、党内部の異端者に対して用いることのできる手段との間には、明瞭な区別がなされていた。
 古いボルシェヴィキたちは、党内の意見不一致は秘密警察の射程の外部にある、という基本的考え方を支持していた。なぜなら、ボルシェヴィキは、自分たちの同志に対してテロルを行使するというジャコバンの例に、決して従ってはならなかったからだ。
 この基本的な考えは立派なものだが、しかしながら、ボルシェヴィキ指導者たちがこのことを確認する必要があったという事実は、党内部の政治に関して、何がしかのことを語っている。
 (11)1920年代早く、ボルシェヴィキ党の外部からの組織的な反対が消滅して党内分派が公式に禁止されたとき、党内の反対派集団は事実上は、党外にいた旧来の反対派の位置を継承した。
 そうだとすると、党内反対派たちが同様の措置を被り始めたとしても、何ら驚くべきことではなかった。
 ともかくも、1920年代遅くにスターリンがトロツキー派に対して秘密警察を用い、そして(1922-23年のカデットとメンシェヴィキの指導者に対するレーニンの措置を模範として)トロツキーを国外に追放したとき、共産党内部には大きな抗議の声は何ら起こらなかった。
 文化革命の間、堕落した「ブルジョア専門家たち」と近接して仕事をした共産党員たちには、愚かさ以上の何がしかの悪に対する責任追及がされる危険があるように見えた。
 スターリンは右翼主義者たちを引き戻し、彼らが権威ある地位にとどまるのを許しすらした。
 しかし、これは不本意なものだった。つまり、スターリンが-そして共産党の多数の党員たちが-いったん反対派の者になった党員たちに対して寛容であるのは、明らかに困難なことだった。//
 (12)大粛清の起源を理解するために重要な革命的実務は、1920年代初頭から党が行った党員の定期的な「浄化(cleansing)」(<chistki>、または小文字の "p" の粛清(purges))だった。
 この党員浄化の頻度は1920年代末から増加した。すなわち、1929年、1933-34年、1935年および1936年に行われた。
 党員浄化では、党員の全員が粛清(p)委員会の前に立って、公然と委員たちの批判または告発を経由して秘密裏になされる批判に反駁して、自分の正当化をしなければならなかった。
 粛清〔p=浄化〕が繰り返されたことの結果として、後になって古い攻撃が蒸し返された。そして、これから逃れることは事実上不可能になった。
 望ましくない縁戚関係、革命前の別の政治諸党派との関係、党内反対派への帰属の経歴、過去の醜聞や譴責、そしてかつての官僚機構上の過失や帰属意識の混乱すら。-これら全てが党員たちの首の周りに掛かっていて、年を経るごとに重たくなっていった。
 党は不相応で信頼できない党員たちばかりだとの党指導者たちの猜疑心は、それぞれの連続した浄化〔粛清(p)〕によって沈静化するどころか、激化したように見えた。//
 (13)さらに加えて、各粛清(p)は、体制にとっての潜在的な敵をさらに多くした。
党から放逐することとなる粛清(p)は、社会での地位や上昇の見込みに対する逆風を受ける、という災難を被る蓋然性があったからだ。
 1937年、一人の中央委員会委員が隠れて、現在の党員数よりも多い<かつての>党員たちがたぶんこの国にはいる、と示唆した。これは明らかに、その人物およびその他の者たちはひどく不安に感じている、という考えだった。(35)
 党にはすでに、多数の敵がいたのだ!-その多数の者が隠れているのだ!
 革命の間に特権を失った者、聖職者等々の、かつての敵はいた。
 今では、階級としてのクラクやネップマンの絶滅という近年の政策の犠牲となった<新しい>敵がいた。
 個々のクラクが脱クラク化される前に確信的なソヴィエト権力の敵だったか否かは別として、そのクラクは確かに、その瞬間にはそれになっていた。 
 このことに関して最も悪悪だったのは、多数の収奪されたクラクたちが都市へと逃亡し、新しい生活を始め、彼らの過去を隠し(職を得るためにはこうしなければならなかった)、誠実な労働者のごとく見せかけたことだった。-要するに、革命に対する隠れた敵になったのだ。
 どれだけ多くの明らかに献身的な若いコムソモール団員(Komsomols)が、彼らの父親たちはかつてクラクまたは僧職者だったという事実を隠しているだろうか!
 スターリンが警告したように、個々の階級敵は、敵階級がいったん破壊されてしまったとすれば、<より危険にすら>なるのは、何ら不思議ではない。
 もちろん、破壊の行為は個人的に傷つけるものだったために、彼らはそうなった。
 彼らは、ソヴィエト体制に対する不服をもつ現実的でかつ具体的な基本的教条を与えられていた。//
 (14) 共産党管理機構員がもつ党員を告発する資料書の冊数は、年ごとに増大した。
 地方官僚による「職権濫用」を抑える運動が原因となったのだすれば、これは、通常の市民たちが告発文を書くよう奨励した、スターリン革命の大衆迎合的(populist)的側面の一つだった。
 そして、告発を契機とする調査は、しばしば地方官僚の解任を生じさせた。
 しかし、多数の苦情は、正義のためという誘因と同様程度には、悪意をもって対処する動機を与えることになった。
 一般化していた、特別の攻撃心が惹起したのではない不平不満の感情は、集団農場の経営者や農村地域の官僚の告発の多くを引き起こしたものだった。怒りにみちた集団農場員たちは、1930年代に莫大な数の告発書を書いた。(36)//
 (15)大粛清は、民衆の関与がなくしては実際のようには膨れ上がることはできなかっただろう。
 現実的な不満にもとづく上司たちに対する苦情と同等の役割を、自分本位の告発は果たした。
 スパイ狂が、突如として燃え上がった。過去20年間に頻繁にあったのと同様に。
 例えば、Lena Petrenko という若きピオネールの一人は、ドイツ語が話されるのを聴いて、夏キャンプからの帰路の列車上でスパイを捕まえた。別の注意深い市民は、宗教的托鉢者の顎髭を引っ張って手にそれが落ちたとき、前線から来ていたスパイを発見した。(37)
 役所や党細胞での「自己批判」集会では、恐怖と猜疑心が混じり合って、生け贄が作り出された。病的な(hysterical)追及の仕方であり、弱い者いじめだった。//
 (16)しかしながら、これは民衆によるテロルとは何かが異なっていた。
 フランス革命時のジャコバン・テロルのように、国家によるテロルであり、最もよく目に見える犠牲者は、かつての革命指導者たちだった。
 革命的テロルの先例とは対照的に、自然発生的な民衆によるテロルは、ごく一部だけだつた。
 さらに、テロルの対象は、元来の「階級敵」(貴族、聖職者およびその他の革命へり現実的対抗者)から、革命それ自体の隊列の中での「人民の敵」へと移行した。//
 (17)だが、二つの革命事例でのこのような違いは、類似点と同様に、些細なものだ。
 フランス革命では、革命煽動者ロベスピエール(Robespierre)は、その犠牲者として終末を迎えた。
 これとは対照的に、ロシア革命の大粛清では、主要なテロリストのスターリンは、無傷で生き延びた。
 スターリンは最終的には、忠実な道具だった者たちを殺した(1936年9月から1938年12月までNKVD長官だったエゾフ(Ezohov)は、1938年春に逮捕され、のちに射殺された)。
 しかし、スターリンが事態が制御外へとひどく離れていると感じ、彼自身がかつて危険にさらされていたというMachiavelliの慎重さ以外の何らかの理由によってスターリンはエゾフを排除した、といったことを示すものは存在していない。(38)
 1939年3月の第18回党大会での「大量粛清」との批判や警戒心の「行き過ぎ」の暴露は、静かに行われた。
 スターリンは、自分自身の演説の中で、そうした問題については注意をほとんど払わなかった、と述べた。大粛清(P)はソヴィエト同盟を弱めたという外国の報道についてはそれを論駁するために、わずかな時間を費やしたのだったが。(39)//
 (18)モスクワ見せ物裁判の文書や2-3月中央委員会会合でのスターリンやモロトフの演説原稿を読むと、事態の進行の劇的さのみに衝撃を受けるのではない。衝撃的なのは、それらにある芝居気分、謀りと計略の感覚、同僚者たちが裏切り者だったという報せに対しての、生々しい感情的反応の一切の欠落、だ。
 これは、明確な違いのある、革命的テロルだ。
 映画の原作家でかりにないとしても、その映画の監督の手の存在を、感じる。//
 (19)マルクスは<The 18 Brumaire of Louis Bonaparte(ルィ・ボナパルトのブリュメール十八日)>で、有名な論評を加えた。-偉大な全ての事件は、二度演じられる。一度めは悲劇として、二度めは笑劇(farce)として。
 ロシア革命での大粛清は笑劇ではないけれども、再演されるものの特徴を何がしかもっていた。記憶にある、最初の模範劇で演じられた何かを。
 ロシアのスターリン伝記の作者が示唆するように、ジャコバンのテロルはスターリンにとって一つの模範として役立った、と言うこは可能だ。確かに、スターリンが大粛清に関係するソヴィエトの論議に持ち込んだ「人民の敵」という言葉は、フランス革命での用語に、先立つ例がある。
 その光を当てれば、増大した告発書や民衆の疑心の蔓延というバロック仕立ての設定がなぜ、政治的な敵を殺すという比較的に単純な目的を達成するために必要だったか、を理解することが容易になる。
 実際のところ、さらに進んで、つぎのように記述したくなる。すなわち、古典的な革命の推移によればテルミドールに後続してはならずそれら先立たなければならないテロルを実施するにあたって、スターリンは、自分の支配は「ソヴィエトのテルミドール」になったとするトロツキーによる非難に自分は明確に反駁しているのだ、と感じていたかもしれない、と。(40)
 フランス革命のテロルを小さいものとすら思わせる革命的テロルが現実に行われたあとで、いったい誰が、スターリンはテルミドール的反動家だ、彼は革命に対する裏切り者だ、と言うことができるだろう?//
 --------
 (27)Thomas Carlyle, <フランス革命>(London, 1906), ⅱ, p.362. SUSPITION の全て大文字はFitzpatrickによる。〔=カーライル=高橋五郎訳・佛國革命史/下巻279頁(第三巻第三編第八章)(春秋社松柏館、1942年ーkindle版)を参照した。該当部分に間違いはないと見られるものの、ここで引用される英文とはやや異なることもあり、そのままの書き写しではない。〕
 (28)J. Arch Getty & Oleg V. Naumov<テロルへの途: スターリンとボルシェヴィキの自己破壊, 1932-1939年>(New Heaven, 1999), p.250-p.255.〔=川上洸一・萩原直訳・ソ連極秘資料集/大粛清への道-スターリンとボルシェヴィキの自壊 1932-1939年(大月書店、2001)
 (29)Rovert Conquest<大テロル: 1930年代のスターリンによる粛清>(London, 1968)はこの裁判を生き生きと描写している。新しい版は、同<大テロル: 再評価>(New York, 1990)。
 (30)Molotov, <ボルシェヴィキ>1937, no.8(4月15日)所収、p.21-22.
 (31)会合の資料につき、Getty & Naumov <テロルへの途>p.369-p.411.を見よ。
 (32)<フルシチョフ回想録>, Strobe Talbott訳・編(Boston, 1970), p.572. Grame Gill<スターリン政治体制の起源>(Cambridge, 1990), p.278.
 (33)1937年7月2日の政治局決定「反ソヴィエト要素について」はスターリンによって署名され、7月30日の活動指令は(NKVD長官の)Ezhov により署名されている。Getty & Naumov <テロルへの途>p.470-1.
 (34)これらの数字は、Oleg V. Khlevnyuk<グラクの歴史: 集団化から大テロルへ>(New Heaven, 2004), p.305, p.308, p.310-p.312による。これらの数字は労働強制収容所だけのものであることに注意。この数字は、労働植民区、監獄および行政的追放を含んでいない。
 (35)中央委員会の2-3月会合の議論で、Eikhe。Rossiiskii gosudarstvennyi arkiv sotsial'nopoliticheskoi informatsii(RGASPI), f. p.17, op. 2, d. p.612, l. p.16.
 (36)告発書につき、Fitzpatrick<スターリンの農民>Ch. 9., 同<仮面を剝げ!>Chs. 11-12を見よ。
 (37)<Zvezda>(Dnepropetrovsk)1937年8月1日号, p.3. <Krest'yanskaia pravda>(Leningrad)1937年8月9日号, p.4.
 (38)Ezhov の衰退と没落につき、Marc Jansen & Nikita Petrov<スターリンの忠実な処刑者: 人民委員のNikolai Ezhov, 1895-1940年>(Stanford, 2002), p.139-p.193, p.207-8.を見よ。
 (39)J・スターリン<ソ連共産党(ボ)第18回党大会への中央委員会活動報告書>(Moscow, 1939),p.47-48.
 (40)ヴォルコゴノフ<スターリン>p.260, p.279.
----
 (おわりに)
 (1)ロシア革命が遺したものは何だったのか? 
 1991年の末までは、ソヴィエト体制の存続自体がそれを表現するものだっただろう。
 赤旗や「レーニンは生きている!、レーニンは我々とともにいる!」と書いた横断幕は、まさにその終焉時まで、存在していた。
 支配党たる共産党は、革命の遺産だった。同じように、集団化、五カ年・七カ年計画も、消費用品の定例的な不足も、文化的孤立も、グラク〔強制収容所〕も、世界を「社会主義」陣営と「資本主義」陣営に二分することもそうだった。また、ソヴィエト同盟は「人類の進歩的勢力の指導者だ」との主張も。
 体制と社会はもはや革命的ではなかったけれども、革命は、ソヴィエトの民族的(national)伝統の礎石であり続けた。愛国主義への重点設定、学校で生徒たちが学ぶべき、そしてソヴィエトの民衆芸術によって祝福されるべき主題。//
 (2)ロシア革命はまた、複雑な国際的遺産を残した。
 20世紀の偉大な革命だった。そして、社会主義、反帝国主義およびヨーロッパの古き秩序の拒否のシンボルだった。
 良かれ悪しかれ、20世紀の国際的な社会主義および共産主義の運動はロシア革命の影のもとで活動した。戦後の第三世界解放運動がそうだったように。
 冷戦は、ロシア革命の遺産の一部だった。冷戦が持つ象徴的な力の継続に間接的に寄与したことはもちろんとして。
 ある人々には抑圧からの自由という希望を代表したのは、ロシア革命だった。別の人々には無神論的共産主義の世界的勝利という悪夢を呼び起こしたのは、ロシア革命だった。
 国家権力の奪取によって社会主義の定義を明確にし、経済的かつ社会的変革の道具としてのその用い方を確定したのは、ロシア革命だった。//
 (3)革命には二つの生命がある。
 第一に、現在の一部であると考えられ、現今の政治と不可分だ。
 第二に、現在の一部であることを止め、歴史と民族的伝説の中へと移っていく。
 歴史の一部だということは、フランス革命の例が示すように、政治から全面的に排除されることを意味しはしない。フランス革命は、二世紀後のフランスでの政治的論議でなお、一つの試金石のままだ。
 しかし、懸隔はある。そして歴史研究者に関するかぎりは、解釈するに際しての自由と離反が許されるものに、いっそうなってきている。
 1990年代まではすでに、ロシア革命が現在から抜け出して歴史の中に入っていくのが遅いほどだった。しかし、そう望まれた変化は、遅れたままだった。
 西側では、冷戦という遺物に固執する向きがあったにもかかわらず、政治家ではなくても歴史研究者たちは、ロシア革命はすでに歴史だと多かれ少なかれ判断していた。
 しかしながらソヴィエト同盟では、ロシア革命の解釈は政治的に重要なままであり、ゴルバチョフ時代にまで続く現代政治と連結していた。//
 (4)ソヴィエト同盟の崩壊によって、ロシア革命は徐々に歴史の中へと沈殿していった。
 熱烈な国民的拒絶の意識のうちに-トロツキーの言葉を借りると「歴史のごみ箱へ」の-放擲があった。
 1990年代初めの数年間、ロシア人は革命のみならず、ソヴィエト時代全体を忘れたいと願っているように見えた。
 しかし、過去を忘れるのは困難だ。とりわけ、良かれ悪しかれ外部世界からの注意を惹き付けた過去の一部分については。
 プーティン(Putin)のもとで、レーニン以上に「国家建設者スターリン」を必要とする、ソヴェトの遺産の選択的な再生が、ロシアで始まった。疑いなく、より多くのことがやって来るだろう。//
 (5)かりにフランスが-1989年の200周年記念のときにまだフランス革命の遺産について議論をしていた-何がしかの指針となるのであれば、ロシア革命の意味は、最初の100周年記念日やその後に依然としてロシアで熱く議論されるだろう
 こうしたことは拒絶されている。ロシア革命のみならずソヴィエト時代全体を忘れたいという望みが高くまで達しており、ロシア人の歴史意識の中には不思議な空虚さが残っている。
すぐに、一世紀半前の、ロシアの無名さに関するPeter Chaadayev の嘆きと同様に、ロシアの宿命的な劣等性、後進性および文明からの除外への悲嘆が湧き上がった。
 ロシア人、以前のソヴィエト人にとって、革命の神話の価値が貶められることで喪失したものは、社会主義への信条ではなく、世界でのロシアの重要性についての自信だったように思える。
 革命はロシアに一つの意味を、歴史的運命を与えた。
 革命を通じてずっと、ロシアは先駆者であり、国際的指導者であり、「全世界の進歩的勢力」の模範であり鼓舞者だった。
 今や、夜が明けたかのごとく、全ては過ぎ去っていた。
 党は、もう存在しない。
 74年後に、ロシアは「歴史の前衛」から滑落して、怠惰な後進性をもつ古い姿態のごとく感じられる何物かへと変化した。
 ロシアとロシア革命にとって痛恨のときに、「進歩的な人類の未来」は本当に過去のものだということが判明した。//
 (6)ソヴィエト後のロシアは、2017年が近づいているとき、そのトラウマにまだ藻掻き苦しんでいる。
 プーティン大統領は2014年に、評価は「深く客観的で<職業的>(斜字強調は著者〔Fitzpatrick〕)根拠でもって」なされなければならない、と述べた。明らかに、ロシア革命を現代政治の場に持ち込むことを欲していなかった。
 彼はまた、1917年の事件を「革命」からたんなる「転覆(overthrow)」(<perevorot>)にすぎないものへと分類することを示唆した。
 2017年3月、報道官は、外国の通信記者たちに対して、ロシア革命はロシアでは分裂した見解のある問題なので、100周年を祝賀する公的行事は何も計画されておらず、ロシア革命の解釈に関する公的な指針は何も発せられないだろう、と語った。(41)//
 (7)フランス革命の100周年記念に、フランス人はエッフェル塔を建設し、カルノー大統領〔Marie François Sadi Carnot〕は革命が専政体制を打倒して(彼は注意深く、選出された代議員たちを通じての、と付け加えた)人民主権の原理を確立したことを称賛した
 ロシアでは、2017年の記念物としてのエッフェル塔の類は何も計画されなかった。
 そして、国じゅうが、資本主義と自由市場を習得しようと苦しんでおり、革命がもった、社会主義の中心的な諸原理-とりわけ国家計画と工業化に重点をおくソヴィエト型の社会主義-は、完全に無意味だと考えられてきている。
 しかし、時代は変化する。そしてしばしば、その変化には周期的な要素が加わる。
 22世紀に200周年が近づいているときに、ロシア革命とその社会主義という目標はロシアと世界にどのように見えるのだろうかは、誰にも分からない。
 「全てを忘れるようにしよう」はフランス革命が1989年の基準年を通過するときになされた提案の一つだった。これは、フランスの政治がすでに十分に長く旧来の議論を繰り返してきたという考え(または希望)を反映するものだった。
 しかし、忘れることは容易でもなければ、国民的(national)展望からすると、そう思われるほどには望ましいものでもない。
 好むと好まざると、ロシア革命は20世紀の大きな経験だった。それはロシアにとってだけではなかった。
 そのようなものとして、ロシア革命は歴史書の中にとどまり続けるだろう。//
 --------
 (41)Neil McFarquhar の報告記事「革命?、いかなる革命?、ロシア人は100年後に尋ねる」は、<ニューヨーク・タイムズ>2017年3月10号に出た。
 100周年に関するロシアの当惑についてさらに、Sheila Fitzpatrick 「ロシア革命を祝賀する(または祝賀しない)こと」<現代史雑誌>2017年に近刊、を見よ。
 ----
 以上、シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)、本文p.1-p.174 および注p.175-p.186 の試訳終了。
 **下は、Sheila Fitzpatrick(フィツパトリク、又はフィッツパトリック)。
 sheila04 (2) shela02 (2)

1913/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑱。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 ----
 第6章・革命の終わり(Ending the Revolution)。
 (はじめに)

 (1)Crane Brinton によれば、革命とは高熱(fever)のようなものだ。患者に取りつき、頂点にまで達し、最終的には平癒し、患者は正常な生活を取り戻す。
 -「おそらくは、経験によって強くなり、少なくともしばらくの間は似たような病気から免れる、といった側面で言えば。しかし確実に、完全に新しい人間に作り替えられるのではない」。(1)
 Brinton の比喩を用いれば、ロシア革命は、いくつかの高熱の発作期を経過した。
 1917年革命と内戦が、最初の発作だった。
 第一次五カ年計画による「スターリンの革命」は、二度めだった。
 そして、大粛清(the Great Purge)が、第三番めだ。
 このような図式では、ネップという幕間は再発の前の快方期だ。あるいは、ある人々は、ネップ期は不幸な患者に新しい病原菌(virus)を注射した、と主張するかもしれない。
 快方期の第二の時代は〔ネップ期を第一のそれとすると〕、1930年代半ばに始まった。トロツキーが「ソヴィエトのテルミドール」とレッテル貼りし、Timasheff が「偉大な退却」と称した、安定化政策による時代だ。
 1937-38年の新たな再発期の後で、高熱は治癒されたように見え、患者は正常な生活を取り戻そうとよろよろと寝台から起き上がった。//
 (2)しかし、その患者は、革命という高熱の発作の前と、本当に同じ人間だったのか?
 確かに、ネップという「快方」は、多くの点で1914年の大戦勃発、1917年の革命という転覆、そして内戦によって遮断された生活様式の回復を意味した。
 しかし、1930年代の「快方」の性格は異なっていた。この時期のために、旧来の生活との間の連環の多くは、破壊されてしまったからだ。
 事態は、旧来の生活の回復というよりも、新しい生活の始まりだった。
 (3)ロシアの日常生活の構造は、初期の1917-20年のの革命的経験は本当のものではなかったふうに、第一次五カ年計画という大動乱によって変わった。
 1924年のネップの幕間、モスクワっ子たちは10年間の不在から戻ってきて、自分の市電話帳(古い意匠と型式は戦前とほとんど変わっていなかったので、すぐに理解できた)とをひっぱり出すことができ、一覧表で自分のかつての医師、弁護士、そして株式仲買人や好みの甘菓子店ですら(電話帳には最も旨い輸入チョコレートの宣伝がまだあった)や、食堂、区の聖職者、むかし時計を修繕してくれ、建設素材や現金登録機を売ってくれた会社を発見する機会がまだあった。
 10年後の1930年代半ばには、これらのほとんど全てが消失することになった。そして、帰還した旅行者は、多数のモスクワの通りや広場が改名され、教会やその他のよく知る目印の建物が破壊されていたので、さらに当惑した。
 その後数年のうちに、電話帳自体がなくなり、半世紀の間、再発行されなかった。
 (4)革命とは人間のエネルギー、理想論および憤激が異常に集中するものなので、その集中力がいずれかの時点で鎮静化するのは、事物の本性的なことだ。
 しかし、革命は、それを否認することなくして、どのようにして終わらせるのか?
 長く権力のうちにいて革命的衝動が衰亡していくのを見る革命家たちにとって、これは厄介な(tricky)問題だ。
 かつての革命家たちはBrinton の比喩にほとんど従うことはできず、いまや革命の高熱から回復したのだ、と発表することもしないだろう。
 しかし、スターリンは、敢えてそうすることができた。
 スターリンによる革命の終わらせ方は、勝利を宣言することだった。//
 (5)勝利という飾り言葉が、1930年代前半の空気を覆った。
 作家のMaxim Gorky が創刊した<我々の偉業>と題する新しい雑誌は、この精神を顕著に例証していた。
 工業化と集団化の闘争に勝利した。ソヴィエトの宣伝者は呼号を上げた。
 階級敵は、絶滅した。
 失業は、なくなった。
 基礎的教育は一般的かつ義務的になり、(主張されたところでは)ソヴィエト同盟の成人の識字能力者は90パーセントまで向上した。(3)
 計画によって、ソヴィエト同盟は世界に対する人間の制御に関して巨大な前進を行った。人間はもはや、統制できない経済的諸力の、よるべなき犠牲者ではなかった。
 「新しいソヴィエト人間」が、社会主義建設の過程で出現していた。
 工場が広い草原に建ち上がりソヴィエトの科学者や技術者が「自然の征服」に精励するにつれて、身体的環境ですら、変化してきていた。//
 (6)革命に勝利したと言うのは、明らかに、革命はすぎ去ったと言うことだった。
 何かがまたは何らかの程度で、緊張に満ちた革命の遂行からの休息が見出され得るとすれば、勝利の果実を享受するときだった。
 1930年代半ば、スターリンは、生活が気楽になったと語り、「我々の街頭での休日」を約束した。
 秩序、中庸、予見可能性および安定といった美徳が、公的な好みへと再び変わってきた。
 経済領域では、第二次五カ年計画(1933-37)は、ひどく野心的だった第一次よりは、率直でかつ現実的だった。重工業基地を建設することを強調するのは変わらなかったけれども。
 田園地帯では、体制側は集団化の枠組みの範囲内で農民層に対して宥和的な提案をもちかけ、集団農場を作動させようとした。
 非マルクス主義論評者のNicholas Timasheff は、生起している事態を革命的な価値と方法からの「偉大な退却」だと肯定的に叙述した。
 トロツキーはこれに同意せず、「ソヴィエトのテルミドール」、革命に対する裏切りだと性格づけた。//
 (7)この最終章では、革命から革命後への移行について、三つの点を私は検証するつもりだ。
 第一節では、1930年代に体制側が主張した革命の勝利の性格を扱う(<達成された革命>)。
 第二節では、同じ時期のテルミドール的政策と傾向を検証する(<裏切られた革命>)。
 第三節の主題の<テロル(the Terror)>とは、1937-38年の大粛清(the Great Purges)のことだ。
 これは、第二節の「正常さへの回帰」に新しい光を当てるもので、正常性は革命と同様にほとんど理解し難いものであり得る、ということを想起させるだろう。
 体制側が行った革命の勝利宣言には空虚さがあるのと全く同様に、民衆が受け入れようと望んだ、生活は正常に戻ったという主張にも、大量の虚偽と作り事があった。
 革命を終わらせるのは、容易なことではない。
 革命という病原菌は体制の中にとどまり、緊張のもとでは再び発症させがちだ。
 これが生じたのが、大粛清だった。すなわち、革命に残されていた多くのもの-理想主義、変革への熱情、革命的用語集、そして最後に革命家たち自身-を燃え上がらせた革命的高熱の最終発作。//
 --------
 (1) Cane Brinton, <革命の解剖学>(rev. edn, New York, 1965), p.17.
 (2) L. Trotsky, <裏切られた革命>(London, 1937)、Nicholas S. Timasheff, <偉大なる退却-ロシアでの共産主義の成長と衰退>(New York, 1946)。
 (3) 識字能力の必要につき、Fitzpatrick <教育と社会的流動性>p.168-176.を見よ。
 被抑圧民族の民衆の1937年調査では、9歳から49歳までの住民の75パーセントは識字能力がある(<略>, 1990)。50歳を超える者を含めると、この数字は明らかに低くなるだろう。
----
 第1節・「達成された革命」(' Revolution accomplished ')。
 (1)1934年初めに開かれた第17回党大会は、「勝利の大会」と呼ばれた。
 彼らの勝利は、第一次五カ年計画の間に起きた経済の移行だった。
 都市経済は、小さな協同組合部門を除いて、完全に国有化された。
 農業は、集団化された。
 こうして、革命は、生産様式を変えるのに成功した。
 そして、マルクス主義者ならば誰でも知るように、生産様式はその上に社会、政治および文化という上部構造の全体が依拠する経済的土台(base)だ。
 ソヴィエト同盟には今や社会主義の土台があるとすれば、それに従って上部構造が適合しないことなどあり得るだろうか?
 共産主義者は、土台を変えることで、社会主義社会を生み出すためになすべき必要なことを全て行った。-そしておそらくは、マルクス主義の趣旨でなされ得る全てのことを。
 残りは、時間の問題だ。
 社会主義経済は、自動的に社会主義体制を生むだろう。資本主義がブルジョア的民主主義政体を生んだのと全く同じように。//
 (2)これは、理論上の定式化だった。
 実際には、ほとんどの共産党員は、革命の任務と勝利とを単純な意味で理解した。
 任務は、第一次五カ年計画が示した、工業化と経済の近代化だった。
 新しい煙突や新しいトラクターは全て、勝利の証拠だった。
 革命がソヴィエト同盟で、外部の敵から身を守ることのできる、力強い近代的な工業社会の基礎を設定するのに成功したとするならば、革命はその使命を達成した。
 このように言うとき、いったい何が達成されたのか?
 (3)誰も、ソヴィエトの工業化追求の可視的な兆候を、見逃すことはできなかった。
 建設中の場所は、いたるところにあつた。
 第一次五カ年計画の間には、急速な都市の成長があった。旧来の産業中心地は巨大に膨れ上がり、静かな地方の町は大きな工場の出現によって変わり、新しい工業や鉱業の開発地がソヴィエト同盟のいたるところで飛躍していた。
 巨大な新しい冶金や機械建設工場群が建設中であるか、またはすでに作動していた。
 トルコ・シベリア鉄道と巨大なDnieper 水力発電ダムが、建設されていた。(4)
 (4)第一次五カ年計画は、4年半後の1932年に、成功裡に達成されたと宣言された。
 公式の諸結果は、国内および国外でソヴィエトによって集中的に連発されたプロパガンダの対象になっていた。これらの信憑性は、きわめて注意深く取り扱われなければならない。
 にもかかわらず、西側の経済学者たちは、本当に経済成長があった、と一般的には受け容れた。そして、Walt Rostow がのちに工業上の「離陸」と呼んだほどになった。
 第一次五カ年計画の結果を要約して、あるイギリスの経済史学者は、つぎのように記す。
 「全体としてのその主張の真偽は明瞭ではないけれども、力強い技術工業が生まれつつあり、工作機械、タービン、トラクター、冶金機器等々の生産高は本当に印象的な割合で上がっていることは、全く疑いがない」。 
 鋼鉄生産はその目標高に比べてはるかに少なかったけれども、(ソヴィエトの数字によれば)ほとんど50パーセントずつ依然として上がっていた。
 計画上の増加はもっと上だったけれども、鉄鉱石の産出は二倍以上になった。そして、無煙炭や銑鉄の生産は、1927/28年から1932年までの間に二倍に近くなった。(5)//
 (5)工業化追求は、容赦なく単直にその速度と生産高を強調するものだった。しかし、上のような結果は、工業化に諸問題があったということを否定するものではない。
 産業上の事故はありふれたことで、資材の膨大な無駄使いがあった。
 品質は低く、欠陥のある産物の割合は高かった。
 ソヴィエトの戦略は財源および人的資源の観点からは高くつくものだった。そして、成長率という点ですら、必ずしも最適なものではなかった。ある西側の経済学者は、基本的にネップの枠組みから出発することがなくしても、1930年代半ばまでには同様の水準の成長をソヴィエト同盟は達成することができていただろう、と計算した。(6)
 「計画を実現する、上回って達成する」と頻繁に語られたことの意味は、理性的な計画を棚上げし、いかなる犠牲を払ってもいくつかの優先順位の高い生産目標に焦点を合わせる、ということだった。
 新しい工場はトラクターやタービンのような魅力的な製品を作っているかもしれなかった。しかし、第一次五カ年計画の間ずっと釘や包装資材が切実に不足していた。また、農民による牽引や荷車運搬の崩壊が集団化の予期せぬ結果として生じ、これが工業のあらゆる部門に影響を与えた。
 Donbass の石炭工業は1932年に危機に瀕し、その他の多数の重要工業部門が建設や生産に関する切迫した問題を抱えていた。//
 (6)こうした諸問題があったにもかかわらず、目立つものを達成する過程にあるとソヴィエトの指導者たちが純粋に信じた分野は、工業だった。
 事実上は全ての共産党員たちが、そのように感じていた。かつて左翼または右翼の反対派に共感を覚えていた者たちですら。
 そして同じような誇りと興奮が、党籍があるか否かに関係なく、若い世代の者たちには、そしてある程度は都市民衆全体にも、明らかにあった。
 以前の多数のトロツキー派の者たちは、第一次五カ年計画への熱狂を理由として反対派から離れた。トロツキー自身ですら、これを基本的には是認していた。
 1928-29年に右派へと傾いた共産党員たちは、公的に撤回し、工業化に完全に携わった。
 以前の懐疑者たちの心の内部では、Magnitogorsk やStalingrad のトラクター工場群およびその他の大きな工業上の計画の価値は、重い抑圧や過度の集団化のようなスターリンの政策方針にある否定的な側面を上回るものだった。//
 (7)集団化は第一次五カ年計画のアキレス腱であり、危機、対立や即席の解決方法のいつもの根源だった。
 肯定的な面では、集団化は、安くて交渉によらない価格で、農民が売りたい量よりも多く国家が穀物を調達する、望ましい仕組みになった。
 消極的な面では、集団化は、農民を憤激させ、働きたい気持ちを喪失させ、家畜の大量殺戮の原因となり、1932-33年の飢饉を引き起こした(経済と行政制度の全体的危機を刺激した)。そして、国家は、「農民層を搾り上げる」元来の戦略とは比べものにならないほどの多額の投資を農業部門に注ぎ込むことを余儀なくさせた。(7)
 理論上は、集団化はもっと多くのことを意味し得たはずだった。
 1930年代のソヴィエト同盟で実施されたように、集団化は国家による経済的収奪の極端な形態であり、理解できることだが、農民層はそれを「第二の農奴制」だと見なしていた。
 このことは農民層にとってのみならず最初に手がけた共産党の幹部たちにとっても、意気を挫くものだった。//
 (8)集団化に関しては、誰もが本当に幸福ではなかった。共産党員たちは集団化の闘争に勝利したと考えたが、多大な対価を払ってのことだった。
 さらに加えて、現実に存在した集団農場は、共産主義者が夢見たものとも、ソヴィエトの宣伝活動が叙述したものとも、異なっていた。
 現実の集団農場は、小さくて、村落を基盤とし、原始的だった。一方、夢見た集団農場は、大規模で、近代的な、機械化された農業の展示場だった。
 現実の集団農場には、地域の機械・トラクター基地へと移されたのでトラクターが不足していたばかりか、集団化の間に馬を殺戮したために、伝統的な牽引動力も切実に不足していた。
 村落での生活水準は集団化によって急速に落ち込み、多くの場所でぎりぎりの生存状態へと沈んでいた。
 電気は、1920年代にそうだったよりも、村落では一般的ですらなかった。「クラク」の粉引き屋が消失してしまったからだ。かつては、彼らのもつ水力発電のタービンが電気を発生させていたのだ。
 村落にいた多数の共産党官僚たちには無念なことに、農民たちには私的な小区画地の耕作が認められていたため、このことが集団化田畑で働くことに嫌気を起こさせたとかりにしても、集団化された農業は十分に社会化されてすらいなかった。
 スターリンが1935年に認めたように、私的区画地は農民家族の生存には不可欠だった。それこそが、農民たちの(そして国家の)ミルク、卵および野菜を提供していたからだ。
 1930年代のうちの長く、集団農場での労働について農民が受け取る唯一の支払いは、穀物収穫分の小さな分け前だった。(8)//
 (9)革命の政治的目標に関しては、1931年、1932年および1933年の不安な時期を体制が何とか生存し続けたこと自体が多くの共産党員にとっては勝利-おそらくは奇跡-だったように見える、と言って誇張ではないだろう。
 さらに、これは公衆が祝うような勝利ではなかった。
 もう少し何かが、必要だった。なるべくならば、社会主義に関する何かが。
 1930年代の初めには、「社会主義の建設」や「社会主義的構築」について語るのが流行していた。
 しかし、これらの語句は、決して厳密には定義されていなかったが、完成させることではなくて、過程を示唆していた。
 スターリンは、1936年に新ソヴィエト憲法を制定するに際して、「建設」段階は基本的には終了した、と述べた。
 これが意味するのは、社会主義は、ソヴィエト同盟で達成された事実だ、ということだった。//
 (10)理論的には、これは全くの飛躍だった。
 「社会主義」が正確に何を意味するかはつねに曖昧で、かりにレーニンの(1917年9月に書かれた)<国家と革命>を指針にするとしても、地方的(「ソヴィエト」)民主主義、階級対立や階級による搾取の消滅および国家の死滅という意味を含んでいた。
 この最後の要件は、躓きの石だった。最も楽観的なソヴィエト・マルクス主義者ですら、ソヴィエト国家が死滅した、あるいは近い将来にそうなるとは、ほとんど主張できなかっただろう。
 解決策として見出されたのは、新しい、または少なくともこれまでは無視されてきた、社会主義と共産主義の間の理論上の区別を導入することだつた。
 <共産主義>のもとでのみ国家は死滅する、ということが知られるに至った。
 社会主義は、革命の最終目的ではないけれども、ソヴィエト同盟が資本主義国に包囲された真ん中に存在する、相互に敵対し合っている国民国家で成る世界では、達成することができる最善のものだ。
 世界革命が起きて初めて、国家は消滅する。
 それまでは、世界で唯一の社会主義社会を敵から防衛するために、力強くあり続けなければならない。//
 (11)ソヴィエト同盟にいま存在している社会主義の特質は、いったい何なのか?
 この疑問に対する回答は、1918年のロシア共和国の革命的憲法以降の最初の、新しいソヴィエト憲法で与えられた。
 これを理解するためには、マルクス=レーニン主義によれば革命と社会主義の間にはプロレタリアート独裁という移行期があるねということを想起しなければならない。
 1917年十月にロシアで始まった段階の特徴は、古い所有者階級がプロレタリア国家による収奪と破壊に抵抗した、激しい階級戦争だった。 
 階級戦争の中止だと、スターリンは新憲法の制定に際して説明した。新憲法は、プロレタリアート独裁から社会主義への移行を画するものだ。//
 (12)新憲法によると、全てのソヴィエト公民は平等の諸権利をもち、社会主義に相応した公民的自由を保障される。
 資本主義ブルジョアジーとクラクは今や排除されたので、階級闘争は消失した。
 ソヴィエト社会にはまだ、階級がある-労働者階級、農民層および知識人層(厳密には階級ではなく層と定義される)。しかし、それらの関係は対立や収奪から自由だ。
 それらは地位について対等で、社会主義とソヴィエト国家に対する貢献についても対等だ。(9)//
 (13)このような主張は、数年にわたって、非ソヴィエトの論評者たちを憤激させた。
 社会主義者たちは、スターリン体制が本当の社会主義だというのを拒否した。
 別の者たちは、自由や平等に関する憲法上の約束は当てにならないと指摘した。
 欺瞞の程度または瞞着する意図の程度に関して議論の余地はあるが(10)、憲法はソヴィエトの現実との関係を曖昧にしか定めていないのだから、こうした反応は理解することができる。
 しかしながら、我々のここでの議論の文脈では、憲法をあまりに真面目に取り扱う必要はない。革命の勝利という主張に関するかぎりは、この憲法は、共産党や社会全体にある感情的な責務とはほとんど関係がない「後知恵」だった。
 たいていの人々は無関心で、ある人々は混乱していた。
 社会主義がすでにソヴィエト同盟に存在しているという報道に痛烈に反応したのは、若い報道記者たち、故郷の村落の原始的で悲惨な生活を知っている、社会主義の未来を本当に信じている者たち、だった。
 <これ>はそもそも、社会主義だったのか?
 「いや違う。このような失望と、このような悲しみを、以前も今後も、私は経験したことがなかった」(11) 。//
 (14)新憲法上の平等諸権利の保障は、ロシア共和国の1918年憲法からの実際的な変化を代表するものだ。
 1918年憲法は明らかに、平等諸権利を保障して<いなかった>。旧来の搾取階級の者たちはソヴィエトの選挙での投票権を剥奪され、都市労働者の投票権は農民のそれに比べて有利に扱われていた。
 これと関連して、階級差別の法令による手の込んだ構造が、労働者に特権的な地位を与え、革命以降にいたブルジョアジーを冷遇するために作られていた。
 1936年憲法の今では、階級に関係なく、全員に投票権がある。
 「公民権のない者たち」(<lishentsy>)という汚名的範疇は、消失した。
 階級差別的な政策と実務は、新憲法の導入以前にすでになくなっていた。
 例えば、大学入学については、労働者に有利な差別的措置は、数年前になくなった。//
 (15)こうして、階級差別からの離反は本当のことだった。決して、憲法が意味させるほどには完全ではなく、旧来のやり方で物事をするのに慣れていた共産党員たちから、相当の抵抗に遭遇したけれども。(12)
 こうした変化の意義は、二つの観点から解釈することができるだろう。
 一方で、階級差別の削除は、社会主義的平等のための必須要件だと見ることができる(「達成された革命」)。
 他方で、それは体制側によるプロレタリアートの放棄だと受け取ることができる(「裏切られた革命」)。
 労働者階級の地位やそれのソヴィエト権力との関係は、新しい秩序のもとで、不明瞭なままだった。
 プロレタリアート独裁の時代は終わったのか、に関して、率直な公式の言明は何らなかった(これは、ソヴィエト同盟がすでに社会主義の時代に入っているとすれば、論理的な推論だけれども)。しかし、言葉遣いは、「プロレタリアの主導性」から「労働者階級の指導的役割」という穏やかな定式へと、変化した。//
 (16)トロツキーのようなマルクス主義者の批判者は、党は、社会的支持の主要な根源である労働者階級に代わって官僚機構を置き換えることを認めることによって、精神的拠り所(mooring)を失った、と主張するかもしれなかった。
 しかし、スターリンは、異なる見方をしていた。
 スターリンの立場からすると、革命が達成した偉大なものの一つは、労働者階級および農民層から募って集めて「新しいソヴィエト知識人層」(本質的には新しい管理および職業上のエリート)を生んだことだった。(13)
 ソヴィエト体制は、もはや、忠誠心はつねに疑わしい、かつてのエリートたちの残滓に依存する必要がなかった。そうではなく、今や育て上げた「指導的幹部や専門家」という自分たちのエリート、彼らの昇進や経歴は革命のおかげであり、完全に体制(とスターリン)に忠誠心をもつと信頼することができる者たち、に依拠することができた。 
 体制側がいったんこの「新しい階級」-命令的地位へと昇進した「昨日」の労働者や農民たち-を社会的基盤としてもつならば、プロレタリアートの全ての問題とそれと体制との特別の関係などは、スターリンの目には重要ではないものにになる。
 結局は、1939年の第18回党大会で行ったスターリンの論評で示唆されていたように、旧来の革命的労働者階級の花は、実際には、新しいソヴィエト知識人層の中へと植え換えられていた。そして、昇進することができないで嫉妬する労働者には、そうしたことの多くはより悪いことだった。
 こうした観点が新しいエリートたちの中の「労働者階級の息子たち」の完全な意味となることはほとんど疑いがない。新しいエリートたち、つまりは、いたるところで上方に向かって移動し、不利な出身背景に誇りをもつとともにそれから離れたことが幸福な者たちのことだ。//
 --------
 (4) トルコ・シベリア鉄道につき、Matthew J. Payne, <スターリンの鉄道-Turksib と社会主義建設>(Pittsburgh, 2001)を見よ。
 Dneprostroi につき、Anne Rassweiler, <電力の世代-Dneprostroi の歴史>(Oxford, 1988)を見よ。
 (5) Alec Nove <ソ連邦の経済史>(new edn; London, 1992),p.195-6.
 (6) Holland Hunter 「野心的すぎる第一次五カ年計画」<Slavic Review>32: 2(1973), p.237-p.257。
 より肯定的な読み方につき、Robert C. Allen, <農場と工場-ソヴィエト工業革命の再解釈>(Princeton, NJ, 2003)を見よ。
 (7) James Miller & Alec Nove 「集団化に関する討議」<共産主義の諸問題>(1976年7-8月号)p.53-55より、James R. Miller 「『標準的物語』のどこが間違いか?」を見よ。
 (8) 1930年代の現実の集団農場に関するより詳細な議論として、Fitzpatrick, <スターリンの農民>Ch. 4-5.を見よ。
 (9) J. Stalin <新ソヴィエト憲法上関するスターリン>(New York, 1936).
 1936年12月5日にソ連邦のソヴィエト第8回臨時大会で採択された憲法の条文につき、<憲法-ソヴィエト社会主義共和国同盟の基礎法典>(Moscow, 1938)を見よ。
 (10) ソヴィエトの選挙を民主化しようとの体制側の純粋な意図は、大粛清に関連する社会的緊張によって挫折した。このことにつき、J. Arch Getty 「スターリンのもとでの国家と社会-1930年代の憲法と選挙」<Slavic Review>50: p.1 (1991年春号).を見よ。
 (11) N. L. Rogalina <集団化: urki proidennogo puti >(Moscow, 1989)p.198.で引用されている。
 (12) Fitzpatrick<仮面を剝げ!>p.40-43, p.46-49.を見よ。
 差別の古いやり方は消失したけれども、新しい形態があったことに注意。
 集団農場員は他の公民との平等な諸権利を享受したのではない。追放されたクラクたちや、その他の行政上の追放者については言うまでもない
 (13) Fitzpatrick「スターリンと新エリートの形成」同<文化戦線>所収p.177-8.を見よ。
 ----
 つぎの第二節の表題は、「<裏切られた革命>」。

1912/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑰。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 これまでどおり、原文の斜め体(イタリック)部分は<>で括っている。
 ----
 第5章・スターリンの革命。
 第3節・集団化(collectivization)。
 (1)ボルシェヴィキたちはつねに、集団化された農業は個人農民の小農業よりも優れていると信じていた。しかし、ネップ期には、農民たちをこの見方へと転換させるには長くて面倒な過程が必要だろうと想定されていた。
 1928年、集団農場(<kolkhozy:コルホージ>)は播種面積全体の1.2パーセントしか占めておらず、国有農場では1.5パーセントだった。そして、残りの97.3パーセントは農民個人が耕作をしていた。(17)
 第一次五カ年計画は、その期間での大規模な集団化された農業への移行を、予定していなかった。
 そして実際に、急速な工業化は膨大な諸問題を抱えていたために、体制側が農業の根本的な再組織を行うことなくつぎの数年間は過ごしてゆくので全く十分だと思われた。//
 (2)しかしながら、スターリンは認識していたように-また、Preobrazhensky もブハーリンも数年前の議論でそうだったように-、工業化をめぐる問題は、農業と密接に結ついていた。
 工業化を達成するためには、国家には信頼できる穀物供給と穀物価格の安さが必要だつた。1927-28年の調達危機が明確にしたのは、農民たち-あるいは市場に出る穀物のほとんどを提供している比較的に裕福な農民たちのうちの少数者たち-は、自由市場が存在し、かつネップ期にそうだったように国定価格は事実上は交渉によって決まるかぎり、「国家を人質にする」ことができる、ということだった。//
 (3)スターリンは1928年1月に早くも、つぎのことを示唆した。すなわち、クラク〔富農〕は調達危機の際の悪人である隠匿者であり、農業の集団化は国家による統制の梃子になる、その梃子によって国家が求める時期と価格で穀物の適切な供給が行われるだろう、と考えている、ということ。
 しかし、1928年と1929年前半の自発的な集団化の奨励は、わずかばかりの成果しか生まなかった。そして、穀物調達の問題は、都市部での食糧不足のゆえだけではなく、外国から工業用品を購入する資金を獲得する手段として穀物輸出があるという関係があるゆえにも、依然として現実的なままだった。
 広く有力になってきたスターリンが支持したのは実力行使によって調達する方法だったので、体制側と農民層の間には対立が大きくなった。
 クラクを貶めて農民層内部での階級的対立の発生を刺激しようとの努力を集中的に行ったにもかかわらず、外部からの圧力はむしろ、村落共同体を内部から破壊するというよりは、その統一を促進したように見えた。//
 (4)1929年夏、穀物の自由市場を大きく削減して、体制側は、供給しないことに対する制裁を伴う調達割合を農民たちに課した。
 その秋には、クラクたちに対する攻撃はさらに烈しくなり、党指導者たちは抵抗できない農民の集団化に向かう運動について語り始めた。
 疑いなくこれは、体制と農民層の対立は後戻りできないほどに進んでいるという意識を反映していた。ほとんど誰も、苦しい闘いを経ずしてその過程は達成され得るという虚偽を信じることができなかったのだから。
 以前のトロツキー派の一人で第一次五カ年計画の熱心な支持者になっていたYurii Pyatakov はつぎのように述べた。//
 『個人的農作という枠の内部では、農業問題の解決はあり得ない。したがって、<我々は農業の集団化について、極端な速さを採用せざるをえない。<中略>
 その仕事では、我々は内戦期の速さを採用しなければならない。
 もちろん私は、内戦期の方法を採用しなければならないと言っているのではない。しかし、我々の誰もが<中略>、階級敵との軍事闘争の時期に行ったのと同じ緊張感をもって仕事することを義務づけられる。
 <我々の社会主義建設にかかる英雄的(heroic)時代>が到来したのだ。』(18)//
 (5)1929-30年の冬は狂乱の時期で、党の終末期的〔黙示録的〕雰囲気とひどく革命的な修辞はじつに、以前の「英雄的時代」-内戦と戦時共産主義の、1920年の絶望的な最悪状態のとき-を想起させた。
 しかし、1930年は、共産党員たちが農村地帯へと送り込んでいた修辞上の革命だけではなかった。内戦期に行ったように、たんに食糧を求めて村落を襲撃して立ち去っていくだけではなかった。
 集団化は、農民生活を再組織化する、そして同時に、村落のレベルまで及ぶ行政的統制を確立する企てだった。
 必要な再組織化の精確な性質は、地方の共産党員たちには不明瞭だった。中央からの指示は激しいものだったが、正確なものではなかった。
 しかし、統制が目標の一つであり、再組織化の方法は戦闘的に対決することであるのは明確だった。//
 (6)実際的な意味では、新しい政策は、クラクとの最終対決をすみやかに行う地方官僚たちを必要とした。
 これが意味したのは、地方の共産党員たちが村落に入り込み、貧しい又は貪欲な農民たちを集め、一握りの「クラク」(通常は最も富裕な農民たちだが、ときには村落ではたんに有名でない農民や何らかの別の理由で地方当局から嫌われていた農民)の家族を威圧し、彼らをその家から追い出して、その財産を収奪する、ということだった。//
 (7)地方官僚たちは同時に、残りの農民たちが自発的に集団を組織するのを奨励すると想定されていた。-1929-30年の中央からの指令の調子から、「自発的な」運動がすばやいかつ目立つ結果を生み出さなければならないことがはっきりしていた。
 これが通常は実際に意味したのは、官僚たちは村落会合を開催し、kolkhozy〔集団農場〕を組織し、十分な数の農民たちが自発的にkolkhozy の一員だとして彼らの名前を署名するのに同意するまで説教し、かつ威嚇する、ということだった。
 これがいったん達成されれば、新しい集団農場(kolkhozy)の設立者たちは村落の動物たち-農民の財産の中での主な移動道具-を奪い取り、それらは集団の財産だと宣言しただろう。
 共産党員(およびとくにコムソモル団員)たる集団化担当者は、適度の範囲内で、教会を世俗化し、聖職者や学校教師のような地方の「階級敵」の侮辱をしたがった。//
 (8)このような行動は、村落地帯にすみやかに憤激と混乱を生み出した。
 多くの農民は、動物たちを渡すのではなく、その場所で殺戮した。または、それらを売却するために最も近い町へと急いで走った。
 ある範囲の収奪されたクラクたちは、町へと逃亡した。だが別の者たちは、日中は森の中に隠れ、夜には村落を威嚇するために帰ってきた。
 悲嘆にくれる農民女性たちは、しばしば聖職者の仲間だったが、集団化追求者たちを侮蔑する罵詈雑言を投げつけた。
 官僚たちはしばしば打ち倒され、石を投げつけられ、あるいは村落に近づいたときやそこから離れるときに、見えない殺人者によって射殺された。
 多数の新しい集団農場の一員たちは、都市にまたは新しい建設計画に仕事を見つけるべく、急いで村落を去った。//
 (9)体制は、こうした明瞭な失態に直面して、二つの方法で反応した。
 第一に、OPGUは、収奪されたクラクやその他の迷惑者を逮捕し始め、ついにはシベリア、ウラルおよび北方への大量流刑を行った。
 第二に、党指導部は、春の種蒔き季節が近づいていたために、農民層との極端な対立からは数歩は引き下がった。
 スターリンは3月に、「成功に目が眩んで」と題する有名な論文を発表し、指示を過大に実行したとして地方当局を非難し、集団化に伴うほとんどの動物たちを(クラクのものを除いて)元の所有者に戻すよう命じた。(19)
 農民たちはそのときを掴まえて急いで、集団農場(kolkhozy)の一覧表から自分たちの名前を取り消した。その結果として、ソ連邦全体で、1930年の3月1日から6月1日の間に、公式に集団化された農地の割合は半分以上から四分の一以下に落ちた。//
 (10)「成功に目が眩んで」に裏切られ、辱められたある程度の共産党集団化担当者は、スターリンの肖像写真を壁に向かわせ〔=ひっくり返し〕、憂鬱な気分に陥った、と報告された。
 にもかかわらず、集団化追求が止まったのは、たんに一時的だった。
 数万の共産党員と都市労働者たち(モスクワ、レニングラードおよびウクライナの大工場群から主として募られた、よく知られる「二万五千人たち」を含めて)が、集団農場の組織者および管理者として田園地帯で働くために急いで動員された。
 村落民たちは徐々に、集団農場へともう一度署名するように説得されるか、強制させられた。このときは、雌牛や鶏を有しつづけた。
 1932年までに、ソヴィエトの公式の数字によると、農民所有地のうち62パーセントは集団化された。
 1937年までには、その数字は93パーセントに達した。//(20)
 (11)集団化は、疑いなく、農村地帯での本当の「上からの革命」だった。
 しかし、当時のソヴィエトの新聞が叙述したような、起きた変化の展望を大きく誇張した類のものでは全くなく、 ある点では現実には、かつての帝制期にStolypin が試みたもの(既述、p.37を見よ)ほどの劇的な農民生活の再組織化ではなかった。
 典型的な集団農場は、かつての村落だった。農民たちは、同じ木製小屋で生活し、以前にそうだったのと同一の村落畑を耕作した。-厳密に言うと、移住や追放の結果としてある程度は以前よりも少なかったし、牽引動物はかなり少なくなったけれども。
 村落で変わった主要なことは、村落の管理と村落による市場での取引過程だった。//
 (12)村落共同体<ミール(mir)>は1930年に廃止され、取って代わった集団農場管理者の長は、任命された議長だった(初期には通常は都市出身の労働者または共産党員)。
 村落/集団農場の内部では農民たちの伝統的な指導者は威嚇され、その一部はクラクの追放によって排除された。
 ロシアの歴史研究者のV. P. Danilov によると、38万1000の農民所有地-少なくとも150万人-が1930-31年に脱クラク化され、追放された。1932年と1933年の初めに同様の運命に陥った者たちを含めて算出してはいない。(21)
 (追放されたクラクの半数以上は工業や建設の仕事に就いた。そして、彼らの多くは数年以内に犯罪者(convict)労働よりは自由に働いたけれども、追放された地域から外へ移住することを禁じられ、故郷の村落に戻ることはできなかった。)//
 (13)集団農場は、設定された量の穀物と穀物製品を国家に供給しなければならなかった。支払い金は、集団農場員に労働の寄与分に応じて配分された。
 区画地での農民の小農業の生産物だけは、まだ個人で市場に出すことができた。そしてこの譲歩は、元来の集団化追求後の数年間後まで、公式には承認されなかった。
 一般的な集団農場生産については、供給率はきわめて高かった-穀物の40パーセントにまで、または農民たちが従前に市場に出していたものの二倍から三倍にまで上った-。そして、価格は低かった。
 農民たちは、あらゆる種類の消極的な抵抗を行い回避策を講じたけれども、体制側は拳銃に頼り、食糧や原種も含めて、発見した全てを取り上げた。
 その結果生じたのは、国家の大穀物生産地帯-ウクライナ、中央ヴォルガ、カザフスタンおよび北部コーカサス-が陥った、1932-33年の冬の飢饉(famine)だった。
 この飢饉によって、莫大な怒りの感情が残った。中央ヴォルガで収集された噂によれば、農民たちは、集団化に抵抗したために体制側が意図的に惹起した制裁だと飢饉を考えた。
 ソヴィエト公文書庫の資料にもとづく最近の計算では、1933年の飢饉による死者数は、300-400万人になる。(22) //
 飢饉の直接的な影響の一つは、1932年12月に体制側が国内旅券制度を再導入し、それは都市住民には自動的に発行されたが、田園地帯の者には発行されなかった、ということだった。危機が続いたために、飢えてゆく農民たちが田園地域から去って都市部に逃亡先と配給食を求めることのないようにする全ての努力がなされた。
 集団化とは二番めの農奴制だという農民たちの考えは、疑いなく強固なものになった。 そして、集団化の目的の一つは農民たちを農場に縛り続けることだとの印象を、西側の観察者たちにも与えた。
 体制側にはそのような意図はなかった(飢饉が生んだ特殊な事情がある場合を除いて)。1930年代の主要目的は急速な工業化であり、それは都市の労働力の急速な増大を意味していたのだから。
 長く真実だと受容されてきたのは、つぎのようなものだった。すなわち、ロシアの田園地帯は人口が多すぎ、ソヴィエトの指導者たちは集団化と機械化によって農業生産を合理化し、そうして農業に必要な労働者の数をさらに減らそうと望んでいた、のだと。
 機能的な観点からは、集団化とソヴィエトの工業化の関係は、一世紀以上前の囲い込み運動とイギリスの産業革命の関係にかなり共通していた。//
 (14)もちろん、これは、ソヴィエト指導者たちが導きたい対比ではなかった。すなわち、マルクスは結局は、囲い込みを原因とする被害とイギリスでの農民の根絶を強調したのだから。同じ過程が「田園生活の怠惰」から農民たちを救い出し、都市プロレタリアートへの転換によって長期間の社会的生存水準の向上をもたらしたのだけれども。
 ソヴィエト共産党は、集団化とこれに付随する農民の移住に関して、ある程度は似たような両義性を感じていたかもしれない。それは、新しく生まれた工業の仕事を求めての自発的な離反、つまり集団農場からの逃亡と、追放による非自発的な離反との両方の、混乱させるごとき混合物だった。
 しかし、集団化と関連性がある災害に関しては、彼らは明らかに防衛的であり、当惑を感じていた。そして、言い抜け、信じ難い主張および偽りの楽観主義でもって、状況の全体を煙幕で隠そうと試みた。
 こうして1931年、200-300万人の農民が都市部に永久に移住した年、スターリンは、つぎのような驚くべき声明を発した。すなわち、集団農場が魅力的なものだと分かったので、農民たちはもはや、伝統的にはあった悲惨な田園生活から逃げようとする切実な気持ちをもはや感じないようになった、と。(23)
 しかし、これは、スターリンがつぎの主眼点を言うのための前口上にすぎなかった。-自発的で予想できない農民の離反から、集団農場から労働力を集める組織的活動へと、転換しなければならない。//
 (15)1928-32年の時期、ソヴィエト同盟の都市人口はほとんど1200万人増加し、少なくとも1000万の人々が農業から離れて賃金労働者になった。(24)
 これは莫大な数字であり、ロシア史上に先行例のない、そしてこれだけ短い期間では他の諸国も経験したことのないと言われている、人口動態の大変化だった。
 移住者の中には、若くて頑健な農民たちが不釣り合いなほどに多かった。そしてこのことは、集団化農業の弱体化や農民層の意気減退の原因になった。
 しかし、その上さらに、移住はロシアの活力ある工業化の一部だった。
 第一次五カ年計画の間に集団農場に加入した農民の3人のうち1人は、村落を離れていずれかの都市で、ブルーまたはホワイト・カラーの賃労働者になった。
 村落からの離反は、集団化それ自体の一部であるのと同じ程度に、田園地帯でのスターリンの革命の一部だった。
 --------
 (17) Alec Nove, <ソ連邦の経済史>(London, 1969), p.150.
 (18) R. W. Davis, <社会主義の攻勢>(Cambridge, MA, 1980), p.148.から引用。
 (19) スターリン全集第12巻、p.195-p.205.
 (20) これらの数字は、Nove, <ソ連邦経済史>, p.197, p.238.から引用。
 二万五千人たちにつき、Lynne Viola, <祖国の最良の息子たち>(New York, 1987)を見よ。
 (21) <Slavic Review> 50: i(1991), p.152.
 (22) 統計上の証拠に関する論述につき、R. W. Davis & Stephen Wheatcroft, <飢餓の年月-ソヴィエト農業、1931-33年>(Basingstoke & New York, 2004), p.412-5.
 (23) スターリン全集第13巻、p.54-55.
 (24) Sheila Fitzparick 「大いなる出立-ソヴィエト同盟での村落・都市間移住、1929-1933年」William R. Rosenberg & Lewis H. Siegelbaum 編<ソヴィエト工業化の社会的諸相>(Bloomington, IN, 1993)所収, p.21-22.
 ----
 第4節・文化革命(Cultural Revolution)。
 (1)
内戦期もそうだったように、階級敵に対する闘争は、第一次五カ年計画の間に共産党が関心をもつ最大の問題だった。
 集団化運動のとき、「階級としてのクラク〔富農〕の廃絶」は、共産党員の活動の焦点だった。
 都市経済の再組織では、私的起業家(ネップマン)は、排除させるべき階級敵だった。
 同じ時期に、国際的共産主義者運動は、「階級に対する階級」という新しい戦闘的政策方針を採択した。
 この方針-ネップ期を支配したより宥和的な接近方法を全て否認すること-の対象となるのは、階級敵とはブルジョア知識人層である、文化および精神の分野だった。
 かつての知識人、ブルジョア的文化価値、エリート主義、特権、および機械的仕事の官僚機構に対する闘争は、この当時は「文化革命」と称された現象だった。(25)
 文化革命の目的は、共産党とプロレタリアートの「主導性」を確立することだった。これは実際には、文化生活に対する党の統制を主張し、新しい若き党員および労働者たちを行政上および職業上のエリートにする時代を始めることを意味した。//
 (2)文化革命は党指導部-またはより正確には指導部内のスターリン派-によって、1928年春に始められた。その頃に、Shakhty 裁判(既述p.123を見よ)が迫っているとの発表とともに行われたのは、村落にいる党員たちを文化領域へと召喚することだった。つまり、ブルジョア専門家たちの役割を再検討し、文化的な優越性や指導性があるとの知識人たちの主張を拒絶するために。
 この宣伝運動は、右派に対するスターリンの闘争と緊密に連結していた。
 右翼主義者はブルジョア知識人の保護者で、非党員専門家の助言に重きをおきすぎている、政府官僚機構内での専門家や以前の帝制官僚の影響について無頓着で、「赤いリベラリズム」やブルジョア的価値によって汚染される傾向がある、と叙述された。
 彼らには、革命的方法よりも官僚主義的方法を愛好し、党よりも政府機構を支持する傾向があった。
 さらに、彼らはたぶん、党のプロレタリアート的隊列の気分を喪失した、ヨーロッパ化された知識人たちだった。//
 (3)しかし、文化革命には、指導層内部での分派的闘争以上のものがあった。
 若い共産党員たちには、ブルジョア的文化支配との闘いは大きな意味があるように見えた。同様に、ネップ期の党指導部によって意気込みが殺がれた多数の戦闘的共産党員組織者にとっても。また、職業人たちの中の確立された指導層と一致していなかった、多様な分野の非共産党員諸集団にとってすら。
 ロシア・プロレタリア作家協会(RAPP)や戦闘的無神論者同盟のような集団は、1920年代にずっと、文化的闘争についてのより攻撃的な政策を求めて煽ってきていた。
 共産主義アカデミーや赤い教授研究所の中の若い研究者たちは、多くは非党員で多数の学術分野をいまだに支配している、保身的な年配研究者たちと闘うことを望んでいた。
 コムソモルの中央委員会とその書記局は、つねに革命的な「アヴァンギャルド主義」を志向し、政策形成に関する役割の拡大を望んでいたのだが、コムソモルとは政策方針が一致しない多数の研究施設は官僚主義的頽廃に陥っているのではないかと疑っていた。
 このような若い急進者たちには、文化革命は自分たちを擁護するものであり、ある観察者が述べたように、解放するものだった。//
 (4)この観点からすると、文化革命は因習打破的で戦闘的な青年たちの運動だった。そしてその活動家たちは、1960年代の中国文化革命の紅衛兵たちのように、党指導部の従順な道具では決してなかった。
 彼らは、強烈に党意識を抱いており、共産党員として他者を指導し、かつ指令する自分たちの権利を主張していた。一方で同時に、ほとんどの既存の権威や制度に本能的な敵愾心をもっていた。官僚主義的で「客観的には反革命的な」傾向がこれらにはあるのではないかと疑っていた。
 彼らは自覚的なプロレタリアートであり(活動家のほとんどは職業と同様に社会的出自もホワイト・カラーだったけれども)、ブルジョアジーに対して侮蔑的で、とりわけ、中年の、立派な「ブルジョアジー的俗物たち(Philistine)」に対してそうだった。
 彼らの意識の基礎にあったのは内戦であり、彼らの修辞文上の想像の多くの源泉も、内戦だった。
 資本主義という敵を罵ったが、にもかかわらず彼らはアメリカに敬意を表する傾向にあった。アメリカ資本主義は近代的で、大規模だとの理由で。
 全ての分野での急激な改革は、彼らにはきわめて魅力的だった。//
 (5)文化革命の名のもとで行われた諸提案の多くは自然発生的なものだったために、それらは予期されなかった結果をいくつか生んだ。
 戦闘的な者たちは彼らの反宗教的宣伝運動を集団化の頂点にある村落に持ち込み、集団農場(kolkhoz)は反キリスト教者が作るものだという農民たちの疑念をますます強いものにさせた。
 コムソモルの「軽騎兵(Light Cavalry)」による不意の攻撃は、政府職員たちの仕事を妨害した。
 コムソモルの「文化軍(Cultural Army)」(最初は無学(illiteracy)との闘いのために設立された)は、地方の教育部局を廃止することにほとんど成功した。その理由はそれが官僚主義的だというものだった。-だがこれは、確実に、党指導部の目的ではなかった。//
 (6)熱狂的な青年党員たちは、口笛を吹きブーイングをして、国立劇場での「ブルジョア」演劇の上演を停止させた。
 文学については、RAPP〔ロシア・プロレタリア作家協会〕は、(厳密にはプロレタリアートではなかったけれども)尊敬されていた作家のMaxim Gorky を攻撃する運動を開始した。それは、スターリンと他の党指導者たちが、イタリアへの逃亡中に帰国するように彼を説得しようとしているのとまさに同じ時期だった。
 政治理論の分野ですら、急進者たちは自分たちの主張を追求した。
 彼らは、内戦期に多数の熱狂共産党員がそうだったように、破滅的な〔黙示録的な〕変化が切迫している、と信じていた。法や学校のような馴染みある制度とともに、国家は消滅するだろう、と。
 1930年の半ば、スターリンは、こうした考えは誤りだ、ときわめて明確に言明した。
 しかし、スターリンのこの公式表明は、一年以上、党指導部が文化革命活動家たちを統制して彼らの「軽率な謀りごと」を終わらせようと深刻に試み始めるまでは、ほとんど無視された。//
 (7)社会科学や哲学のような分野では、若き文化革命家たちは、トロツキーまたはブハーリンが関係している理論の価値を貶め、かつてのメンシェヴィキを攻撃し、あるいは尊敬された「ブルジョア」的文化研究施設を党の統制に服させるのを容易にする、そういうことのために、スターリンや党指導部によって、利用された。
 しかし、このような文化革命の側面と共存していたのは、現実政治や党派的策略の世界からは遠く隔たった、幻影的なユートピア観を一時期に花咲かせることだった。
 夢想家たちは-しばしば自分の本来の仕事の外部者で、その考えは常軌を離れて非現実的だと以前には思われていたのだが-、新しい「社会主義都市」の計画を描くのに忙しかった。その計画とは、共同体的(communal)に生活し、自然の変化を瞑想する案であり、「新しいソヴィエト人間」の想像画だった。
 彼らは、「我々は新しい世界を建設している」との第一次五カ年計画の標語を、真剣にそのままに受けとめていた。そして、1920年代の末と1930年代初めの数年間、彼らの考え方も真剣に受け止められ、広くよく知られるに至り、そして多くの場合、多数の政府機関やその他の公的団体から資金も貰った。//
 (8)文化革命はプロレタリア的だと叙述されるけれども、これは高度の文化や学術の分野では文字通りには理解されるべきではない。
 文学では、例えば、RAPPの若い活動家は「プロレタリア」を「共産主義者」と同義のものとして使った。すなわち、彼らが「プロレタリアの主導権」の確立を語るとき、彼らは、文学の世界を支配し、共産党が唯一信任した文学諸組織の代表だと承認されたいという自分たちの願望を表現していた。
 RAPP活動家たちは、確かに、プロレタリアートという名前に頼ることに完全に冷笑的ではなかった。工場での文化活動を激励したり職業的作家と労働者階級との間の交流の場を設けたりするのに最大限の努力をしたのだから。
 しかし、こうしたことは、1870年代の人民主義者たち(Populists)の「民衆の中へ」という標語の精神にほとんど同じものが多くあった(既述、p.25-26を見よ)。
 プロレタリアートにとって、RAPP知識人たちはむしろ、そのようなものだった。//
 (9)文化革命のプロレタリア的側面が実質的にあったのは、この時期に体制側が熱心に追求した、プロレタリアの「昇進」政策-労働者や農民に有利なソヴィエト的「積極的な優遇政策(affirmative action)」-だった。
 スターリンはShafhy 裁判について折りよく、ブルジョア知識人の裏切りによって、可能なかぎり急いでプロレタリアの後継者を養成することが絶対的に必要になった、と語った。
 共産党員(Reds)と専門家へのかつての二分は、廃止しなければならない。
  ソヴィエト体制は自分たちの知識人層(スターリンの言葉遣いでは行政エリートと専門家エリートのいずれをも含む)を必要とする時代になった。そして、この新しい知識人層は、下位の階級から、とくに都市労働者階級から新しく集められなければならない。(26)//
 (10)労働者を行政上の仕事へと「昇進」させ、若い労働者を高等教育機関へと派遣する政策は、新しいものではなかった。しかし、文化革命の間のほどの緊急性をもって、かつこれほど大規模に実施されたことはなかった。
 莫大な数の労働者たちが、直接に工業管理者へと昇進し、ソヴィエトまたは党の職員になり、または中央政府や労働組合の官僚機構から追放された「階級敵」に代わる後継者として任命された。
 ソヴィエト同盟では1933年の末に、「指導的幹部および専門家」に分類される86万1000人のうち、14万人-6分の1以上-が、わずか5年前にはブルー・カラー労働者だった。
 しかし、これは氷山の先端部にすぎなかった。
 第一次五カ年計画の間にホワイト・カラーの仕事へと移動した労働者の総数は、おそらくは少なくとも150万人だった。//
 (11)スターリンは同時に、若い労働者や共産党員を高等教育の場へと送り込む集中的な運動を開始した。それは、大学や専門技術学校を大きく変革するもので、「ブルジョア」教授たちを大いに憤激させた。また、第一次五カ年計画の継続中には、ホワイト・カラー家庭出身の高校卒業生が高等教育の機会を得ることがきわめて困難になった。
 約15万人の労働者や共産党員が、第一次五カ年計画の間に高等教育機関へと進学した。彼らのほとんどは、今やマルクス主義社会科学よりも専門技術の方が工業化社会では最良の資格となると見られていたために、技術工学を学んだ。
 この者たちの中にはNikita Khurshchev (N・フルシチョフ)、Leonid Brezhnev (L・ブレジネフ)、Aleksei Kosygin (A・コスィギン)および将来の党や政府の指導者たちがおり、1937-38年の大粛清(the Great Purge)の後にスターリン主義政治エリートたちの中核になることになる。//
 (12)優遇された集団-後年になって自称するのを好んだ言葉では「労働者階級の息子たち」-の一員にとって、革命はじつに、プロレタリアートに権力を与え、労働者を国家の主人とするという約束を実現したものだった。
 しかしながら、労働者階級の別の者たちにとっては、スターリンの革命のバランス・シートは有利なものではなかった。
 たいていの労働者の生活水準と現実の賃金は、第一次五カ年計画の間に、急激に落ちた。
 労働組合はTomsky が排除された後では手綱が付けられて、経営者との交渉で労働者の利益をのために圧力を加えるいかなる現実的なの能力を失った。
 新しい農民の募集が(以前のクラクを含む)が工業上の仕事に溢れ込んだので、党指導部の労働者階級に対する特殊な関係意識と特殊な義務感は弱くなった。(27)
 (13)第一次五カ年計画の時期の人口動態上および社会的な大変動は巨大だった。
 数百万の農民たちが村落を去り、集団化と脱クラク化により、または飢饉によって追い出され、あるいは新しい仕事を取得できる可能性によっつて都市に惹き付けられた。
 しかし、これは、個人や家族にとって、定着した生活様式を損なう、多くの種類があった追い立ての一つにすぎなかった。
 都市の妻たちは、一枚の小切手ではもう十分でないために働きに出かけた。
 村落の妻たちは、都市部へと消えた夫から捨てられた。
 両親を見失うか放棄された子どもたちは、家のない若者たちのごろつき団(<besprizornye>)へと漂い込んだ。
 大学進学を予期していた「ブルジョア」高校生たちは、その途を遮断された。一方では、わずか7年の一般教育を受けた若い労働者が、技術工学を勉強すべく招集された。
 収奪されたネップマンとクラクたちは、知らない都市へと逃げ込んで、そこで新しい生活を始めた。
 聖職者の子どもたちは、両親と一緒に非難されるのを避けるために、故郷を離れた。
 列車は、追放者や犯罪者の荷物を、知らない、そして望まれてもいない目的地へと運んだ。
 熟練技術をもつ労働者は管理者へと「昇進」し、またはMagnitogorsk のような遠くの建設地へと「動員」された。
 共産党員たちは、集団農場を稼働させるために田園地帯へと派遣された。
 役所の労働者たちは、政府職員の「浄化(cleansing)」によって解雇された。
 10年ほど前の戦争、革命および内戦による大変動のあとで、定住する時期がほとんどなかった社会は、スターリンの革命によってもう一度、容赦なく振り混ぜられた。//
 (14)生活の水準と対等さの低下によって、ほとんど全ての階級の民衆が、都市であれ地方であれ、影響を受けた。
 集団化の結果として、最も被害を受けたのは、農民たちだった。
 しかし、都市での生活は悲惨だった。食糧の配給、行列、靴や衣服を含む消費用品の恒常的な不足、居宅でのひどい人口密集、私的取引の制限に関連している際限のない不便さ、およびあらゆる種類の都市公共サービスの悪化、によって。
 ソヴィエト同盟の都市人口は急速に増加し、1929年の初めの2900万人から、1933年の初めのほとんど4000万人にまで上がった-4年間で38パーセントの増加。
 モスクワの人口は、1926年末のちょうど200万人余から1933年初めには370万人に飛躍した。
 同じ期間に、ウラルの工業都市であるSverdlovsk (エカテリンブルク)の人口は、346パーセント増大した。(28)//
 (15)政治領域でも、小さくて遅々としたものだったけれども、変化があった。
 スターリンの個人崇拝は、彼の50歳誕生日の祝賀とともに、1929年末に本格的に始まった。 
 党の大会やその他の大きな集会では、大きな拍手喝采でもってスターリンの入場を歓迎するのが、共産党員の習慣になった。
 しかし、スターリンはレーニンの例を心得ていて、そのような熱狂を批判しているように見えた。
 そして、党の総書記という彼の地位は公式には変更されないままだった。//
 (16)左翼反対派に対する容赦のない攻撃は意識にまだ鮮明に残っていたので、「右翼主義」指導者たちは、慎重に歩んだ。
 彼らの敗北のあとの制裁は、比較的穏健だった。
 しかし、これは最後の公然たる(または公然に準じた)党内での党反対派だった。
 1921年以降に理論上は存在していた分派規制は、今や実際に存在した。その結果は、潜在的な分派も自動的に組織的な陰謀になる、ということだった。
 政策方針に関する明瞭な不同意は、今や党の会議では珍しくなっていた。
 党指導部は考えていることについてますます秘密的になり、中央委員会の会合に関する些細な情報は、もはや日常的に伝搬することはなく、党員たちが容易に知り得なかった。 指導者たち-とくに最高指導者-は、神秘さと探索不可能性をもつ神のごとき態度をとり始めた。(29)
 (17)ソヴィエトの新聞も、変化した。活発ではなくなり、192年代にそうだったようには、国内問題についての情報が少なくなった。
 経済的な成果はきわめて大きく報じられた。しばしば現実とは明確に離れて、また統計上の操作によって。
 後退や失敗は、無視された。そして1932-33年の飢饉に関する報道は、新聞からは完全に閉め出されていた。
 生産向上や「妨害者」に対する警戒心を高めることを推奨するのは、毎日の日常的な命令だった。新聞の不誠実さが、疑われた。
 新聞はもはや、最新のMary Pickford の映画についても西側タイプの宣伝広告をせず、交通事故、強姦や強盗などの些細な事件も伝えなんった。//
 (18)西側との接触はますます制限され、第一次五カ年計画の間には危険なものになった。
 外部世界からのソヴィエトの孤立は1917年革命とともに始まってはいた。しかし、かなりの量の交通や通信が1920年代にはあった。
 知識人たちはまだ外国で出版することができたし、外国の雑誌を注文することもできた。
 しかし、外国人に対する懐疑は、文化革命の見せ物裁判での主要な動機であり、これは指導部に増大している外国嫌悪症の反映だった。かつまた、疑いなく、民衆一般についてもそうだった。
 「経済絶対主義」という第一次五カ年計画の目標は、外部世界からの離脱をも意味していた。
 これは、国境が閉鎖され、包囲されているとの心理がある時代のことだった。そして、ソヴィエト同盟の特徴になることになる文化的孤立は、スターリン(およびスターリン後の)時代に確立された。(30)//
 (19)ペーター大帝の時代にように、国家が強く成長するにつれて、民衆は弱くなった。
 スターリンの革命は、都市経済全体に対する国家の直接的統制を拡張し、農民の農業を収奪する国家の権能を増大させた。
 それはまた、国家の警察組織を大きく強化し、グラク(Gulag、強制収容所)、工業化追求と密接に関連することになった労働者収容帝国、を創った(元来は自由な労働ではわずかに供給しかでききない地域での犯罪者労働による供給機関だった)。これは来たる数十年の間に、急速に拡大することになる。
 集団化および文化革命での「階級敵」に対する追及は、苦痛、恐怖および懐疑の、複合意識を遺産として残した。公的非難、迫害および「自己批判」のような実務を促進したことも含めて。
 全ての資源と全ての精神力が、スターリンの革命の行程で動員された。
 ロシアを後進状態から引き出すという目標からいかに隔たりがあるものが達成されたかを叙述することが、まだ残されている。//
 --------
 (25) 以下の論述は、Sheila Fitzpatrick 編<ロシアの文化革命-1928-1931年>(Bloomington, IN, 1978)から引いた。
 (26) 以下の論述は、Sheila Fitzpatrick「スターリンと新エリート層の形成」同・<文化戦線>所収、および同・<教育と社会的移動>p.184-p.205. から引いた。
 同様の政策はウズベクやバシュキールのような「後進」民族のために用いられたことに注意。これについては、Martin,<積極的優遇措置帝国>, とくにCh. 4 を見よ。
 (27) 第一次五カ年計画の間の労働者の状況の変化につき、Hiroaki Kuromiya, <スターリンの産業革命>(Cambridge, 1988)を見よ。
 その後の展開につき、Donald Filtzer, <ソヴィエト労働者とスターリンによる工業化>(New York, 1986)を見よ。
 (28) 〔試訳者-二つのロシア語文献なので、略〕
 (29) この経緯につき、Sheila Fitzpatrick, <スターリンのTeam について>p.91-95. を見よ。
 1930年代には「vozhd」(指導者)という語はスターリンのためのものではなかった、ということに注意。彼の政治局の同僚たちもまた、新聞では「vozhdi」と称されていた。
 (30) ソヴィエトの孤立につき、Jerry F. Hough, <ロシアと西側-ゴルバチョフと改革の政治>(2ed ed. New York, 1990),p.44-p.66.を見よ。
 ----
 以上、第5章終わり。つづく第6章の表題は<革命の終わり>

1903/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑮。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第4章までは済ませている。
 各節の前の見出しのない部分はこれまでどおり「(はじめに)」とここでは題しておく。しかし、正確な言葉ではなく、これまでの章もそうだが、章全体の内容をあらかじめ概述するような意味合いのものであるようにも見える。
 これまでと同様に、一文ごとに改行し、本来の改行部分には//を付す。但し、新規にだが、原文にはない段落番号を( )の中に記すことにした(但し、太字化はしない)。
 ----
 第5章・スターリンの革命。
 (はじめに)
 (1)第一次五カ年計画(1929-1932)による工業化追求とそれに伴う強制的農業集団化は、しばしば「上からの革命」だと叙述されてきた。
 しかし、戦争の比喩的描写と同じようにするのが適切だった。そしてこの当時は、-ソヴィエトの注釈者たちが好んで行ったように「戦闘の真只中」のときには-戦争に関係する暗喩の方が、革命的な語法よりすら一般的だった。
 共産党員(共産主義者)は「戦闘員」だった。ソヴィエトの力は工業化と集団化という「戦線」へと「動員」されなければならなかった。
 ブルジョアジーやクラク〔富農〕という階級敵から「反撃」や「伏兵攻撃」がなされることが、想定され得た。
 ロシアの後進性に対する戦争だった。そして同時に、国の内部と外部にいるプロレタリア-トに対する階級敵との戦争だった。
 実際にこの時期は、ある範囲の歴史研究者ののちの見方によれば、「国民(the nation)」に対するスターリンの戦争の時代だった。(1)//
 (2)戦争で喩えるのは、明らかに、内戦と戦時共産主義の精神に立ち戻ることおよび非英雄的なネップという妥協を非難することを意味していた。
 しかし、スターリンはたんに表象を弄んでいたのではなかった。第一次五カ年計画の時代のソヴィエトは、多くの点で、戦争中の国家に似ていたからだ。
 体制の政策に対する政治的な反対と抵抗は裏切りだと非難され、ほとんど戦争中の厳しさでもって頻繁に罰せられた。
 スパイと破壊工作に対する警戒の必要性は、ソヴィエトの新聞の決まった主題になっていた。
 民衆一般は愛国的連帯意識を強く搔き立てられ、工業化という「戦争遂行」のために多大の犠牲を払わなければならなかった。すなわち、戦争時の条件や配給制をさらに進めたものが(意図せざるものであっても)都市部に再導入された。//
 (3)戦時中のごとき危機的雰囲気は、ときに純粋に工業化や集団化の失墜に対する緊張への反応として認められた。しかし、それはじつに、現実に起きたことに先行していた。
 戦争非常事態という心理状態は、1927年の大戦の恐怖でもって始まった。その頃、党や国家では全体として、資本主義諸国による新しい軍事干渉が近づいていると信じられていた。
 ソヴィエト同盟はその当時、その外交政策およびコミンテルンの政策が連続して拒絶されるという憂き目に遭っていた。-英国は突然にロンドンのソヴィエト通商使節団(ARCOS〔=All Russian Co-operative Society〕)を攻撃し、中国の国民党の蒋介石は、同盟者である中国共産党への攻撃を開始し、ポーランドではソヴィエトの外交幹部団の暗殺があった。
 トロツキーとその他の反対派たちは、このような外交政策の失敗に、とくに中国でのそれについてスターリンを非難した。
 多数のソヴィエトおよびコミンテルンの指導者たちは、こうした拒絶はイギリスが指導している積極的な反ソヴィエト陰謀の証拠だと大っぴらに解釈した。ソヴィエト同盟に対する計画的な軍事攻撃で終わるものと想定される陰謀なのだった。
 国内の緊張が増したのは、GPU(チェカの後継機関)が体制の敵である嫌疑者を探し回り始め、新聞が反ソヴィエトのテロルの事件や反体制の国内陰謀を発見したことを報道したときだった。
 戦争が始まるのを予期して、農民たちは穀物を市場に出すのを拒み始めた。そして、村落と都市の両方の住民はパニックを起こして、基礎的な消費用品を買い漁った。//
 (4)たいていの西側の歴史研究者は、干渉という現実的かつ即時の危険はなかった、と結論づける。これはまた、ソヴィエト外務人民委員部〔=外務省〕の見解であり、そしてほとんど確実に、陰謀の気持ちのないアレクセイ・ルィコフ(Rykov)のような政治局員たちの見解でもあった。
 しかし、党指導部のその他の者たちは、本当にもっと怖れていた。
 その中には、このときはコミンテルン議長だった興奮しやすいブハーリンがいた。コミンテルンには、不安を撒き散らす噂が溢れ、外国の政府の意図に関する真実(hard)の情報はほとんどなかった。//
 (5)スターリンの態度を推測するのは、むつかしい。
 戦争の危険に関する数ヶ月の間の憂慮的議論の間、彼は沈黙を保ったままだった。
 そして、1927年の半ば、スターリンはきわめて巧妙に、反対派たちへと論点を向き変えた。
 戦争が切迫していることを否定したが、にもかかわらず彼は、トロツキーを公然と批判した。第一次大戦の間のクレマンソー(Clemenceau)のようにトロツキーは、敵が資本の傍らにいるときでも国の指導部には積極的に反対すると言明した、として。
 忠実な共産党員やソヴィエト愛国者にとって、これは国家への大逆行為に近いものに受け止められた。そして、この批判は、スターリンが数ヶ月のちに反対派に対する最後の一撃を下すためにおそらくは決定的だった。そのとき、トロツキーと反対派指導者たちは、党から除名(expell)されたのだった。//
 (6)スターリンのトロツキーとの間の1927年の闘いは、政治的雰囲気を悪い方向に高める不吉な背景になった。
 ボルシェヴィキ党でのそれまでの禁忌(タブー)を犯して、指導部は政治的反対者の逮捕、行政的な追放、および反対派に対するGPUによる嫌がらせという制裁を課した。
 (トロツキー自身は、党から除名されたのちアルマ-アタ(Alma-Ata)へと追放された。
 1929年1月には、政治局の命令によってソヴィエト同盟から強制的に国外追放された。)
 1927年末に、反対派によるクーの危険があるとのGPUの報告に反応して、スターリンは政治局に、フランス革命期の悪名高き嫌疑令(Law of Suspects)とのみ対比することが可能な一体の提案を行った。(2)
 承認されたが公表はされなかったその提案は、つぎのようなものだった。//
 (7)『反対する見解を宣伝する者は、ソヴィエト同盟に対する外部および内部の敵の危険な共犯者(accomplices)だと見なされる。
 かかる者は、GPUの行政布令によって「スパイ」として処刑される。
 広くかつ枝分かれした工作員のネットワークが、その最高部まで含めて政府機構内部にいる、および党の最高指導層を含めて党内部にいる、敵対分子を探索する職責をもつものとして、GPUによって組織される。』//
 スターリンの結論は、こうだった。「微小なりとも疑いを掻き立てる者は全て、排除されなければならない」。(3)//
 (8)反対派との最後の対決と戦争への慄えによって一般化した雰囲気は、1928年当初の数カ月の間に、さらに悪化した。この頃に、農民層との大規模な対立が始まり(後述、p.125-7.参照)、忠誠さの欠如の追及が直接に古い「ブルジョア」知識人に対して行われたのだ。
 1928年3月、国家検察庁長官は、鉱業での意図的な罷業と外国勢力との共謀を訴因として、Donbass のShakhty 地方の技術者集団を裁判に処する、と発表した。
 これはブルジョア専門家に対するひと続きの見せ物裁判の最初だった。これらの訴追によって、階級敵による内部的脅威は外国資本主義勢力による干渉の脅威と連結された。(4)
 そして、被告人たちは罪状を自白し、陰謀劇ふうの活動に関する状況的説明を行った。//
 (9)毎日の新聞が決まり文句でその大部分を報道した諸裁判がもたらしたのは、つぎの明白なメッセージだった。すなわち、ブルジョア知識人たちは、ソヴィエト権力に対して忠誠心をもつと主張していても、階級敵のままなのであり、その定義上、信頼するに値しない。
 ブルジョア専門家たちと一緒に仕事をしている党管理者や行政職員にそれほどに明白ではなくとも明瞭に伝わったのは、党の幹部たちもまた、かりにより酷くはなくとも、間違って、専門家たちに欺されるという愚かさ又は軽々しさの罪を冒す、ということだった。(5)//
 (10)新しい政策方針は、ロシアの労働者階級と党員たちに独特の、かつての特権階層出身の知識人に対する懐疑と敵愾の感情を利用していた。
 ある程度はそれはまた、疑いなく、第一次五カ年計画らによって到達すべきものと設定された高い目標に対する、多数の専門家や技術者たちの懐疑心に対する反応だった。
 にもかかわらず、工業化という突貫的な計画に着手しようとする体制にとって、莫大な犠牲を伴う政策方針だったのだ。農業分野での「クラク〔富農〕」という敵に対する1928-29年の運動がそうだったのと全く同様に。
 国にはあらゆる種類の専門家が不足していた。とくに、工業化への途にとって決定的に重要な知識をもつ技術者たちが。(1928年でのロシアの有資格技術者の大多数は、「ブルジョアジー」で、非党員だった)。//
 (11)反専門家運動を始めたスターリンの動機が何だったかは、歴史研究者たちを困らせている。
 共謀や罷業という訴因は容易には信じ難く、被告人たちの自白は強制されたか欺されたものだったために、スターリンとその仲間たちは彼らを信じることができなかっただろうと、しばしば考えられている。
 しかしながら、公文書庫から新しい資料が出てきたために、ますます、(必ずしも政治局の同僚たち全員ではなく)スターリンは共謀の存在を信じていた、そう信じることが同時に政治的利益になると知りつつ、少なくとも半分は信じていた、ように見える。//
 (12)OGPU(GPUの後身)の長官、Vyachevlav Menzhinskii が「工業党」党員だと追及している専門家の尋問調書からする資料をスターリンに送った。この党の指導者はたちはエミグレ資本主義者たちにより支援されるクーを計画し、外国による軍事干渉を企図する計画を抱いて活動しているとされていた。これを送られてスターリンは、面前での自白をいずれも価値があるものとして受領した、切迫する戦争の危険はきわめて深刻だと思う、との趣旨の返答をした。
 スターリンはMenzhinskii に対して、最も興味深い証拠は、予定される軍事干渉の時期にかかわっていると、つぎのように語った。//
 (13)『干渉を1930年に意図していたが、1931年または1932年に延期した、ということが判る。
 これは全くありそうだし、重要なことだ。
 これが第一次な情報源から、つまりRiabinsky、Gukasov、DenisovおよびNobela (革命前のロシアの大きな利益をもつ資本主義者たち)という、ソ連および他国移住者たちの中に現存する全ての集団の中で最も有力な社会経済グループ、資本およびフランスやイギリス両政府との関係という観点からして最も有力なグループを代表しているグループから得られたがゆえに、より重要なものだ。』//
 証拠が手に入ったと考えて、スターリンは、こう結論づけた。
 ソヴィエト体制はこれを国内かつ国外で集中的に公にすることができるだろう、「そうすれば、つぎの一年または二年の間、干渉の企てを全て抑え、阻止することができる。これは、我々には最大限に重要なことだ」。(6)//
 (14)スターリンおよび他の指導者たちが反ソヴィエト陰謀の存在と直接的な軍事的脅威を信じたか否かとは関係なく、あるいはいかほどに信じたかとは関係なく、こうした考え方はソヴィエト同盟に広く行き渡るようになった。
 これは体制側のプロパガンダ活動によるだけではなく、すでにある先入観と恐怖を強めるこのような見方が、ソヴィエトの国民の大部分にとって信じ得るものだったことにもよる。
 1920年代の遅くに始まったことだが、食糧不足、工業、輸送および電力の故障のような経済的諸問題の発生を説明するために、このような内部的および外部的な陰謀は決まって言及された。
 戦争の危険もまた、この時期にソヴィエトの<心性(mentalité)>に深く埋め込まれた。
 政治局および新聞読者たちの注意は絶えず戦争の脅威へと向かい、それは1941年に実際に起きた戦争勃発まで続いた。//
 --------
 (1) Adam B. Ulam, <スターリン>(New York, 1973), Ch. 8.を見よ。
 (2) ジャコバンの大会は、嫌疑令(Law of Suspects、1793年9月17日)によってつぎのことを命じた。その行動、人間関係、著述物または一般的な挙措に照らして革命に対する脅威となる可能性のある全ての人物を即時に逮捕すること。
 スターリンはフランス革命のテロルを称賛していたことにつき、Dimitri Volkogonov, <スターリン-栄光と悲劇>, Harold Shukman 訳(London, 1991), p.279. を見よ。
 (3) Reimann,<スターリニズムの誕生>, p.35-p.36. によるドイツ外務省政治文書庫の中の文書から引用した。
 (4) Shakhty 裁判およびその後の「工業党」裁判につき、Kendall E. Bailes, <レーニンとスターリンのもとでの技術と社会>(Princeton, NJ, 1978), Chs. 3-5.を見よ。
 (5) S・フィツパトリク「スターリンと新エリート層の形成」同・<文化戦線(The Cultural Front)>, p.153-4, p.162-5.を見よ。
 ----
 第一節・スターリン対右派、へとつづく。

1864/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳のつづき。
 前回に作者・文筆家として名が挙げられていたBoris Pasternak (B・パステルナーク)はのちにその小説・ドクトル・ジバゴがノーベル文学賞を授与され(本人は辞退)、その小説は二度にわたつて映像化もされた。1965年(ラーラ役/ジュリー・クリスティ)、2002年(同/キーラ・ナイトリィ)。
 この欄で記したように(2017/05/18=No.1548)、この小説の「10月革命」以降の背景は最後の一瞬を除けばレーニン時代であり、映像化されている伝染病蔓延も戦闘も、ジバゴの友人(ラーラの公式の夫)のボルシェヴィキ(共産党)入党と悲惨な末路も、スターリンではなくて、レーニンの時代のことだ。
 レーニンが<市場経済から社会主義へ>の途を確立したと日本共産党・不破哲三が「美しく」いう1921年にあった飢餓も詳しくないが描写されている。まさにその1921年夏の<人肉喰いも見られた饑饉>の様相は、リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994年)の<ネップ>に関する章の中で、生々しく歴史叙述されている(すでにこの欄で試訳を紹介したー2017/04/24-25、№1515-1516)。
 今回に下に出てくるPashukanis (パシュカーニス・法の一般理論とマルクス主義には邦訳書が古くからあった(第一版/日本評論新社、1958年、第二版/日本評論社、1986年、訳・稲子恒夫)。
 ----
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気②。
合冊版、p.826~p.828。
 (5)新体制は識字能力を高め、教育を促進すべく多大の努力をした。
 学校はすみやかにイデオロギー的教化のために用いられ、教育制度全体がきわめて膨大なものになった。
 大学があちこちに設立されたが、多くは長く続かなかった。そのことは、つぎの数字が示している。
 戦争の前、ロシアには97の高等教育の場があった。1922年には、278になった。しかし、1926年に再びそのほとんど半分(138)に減った。
 同時に、「労働者学校(Workers' Faculties、rabfaki)」が創立され、労働者の高等教育を準備する速成課程を提供した。
 もともとは、ルナチャルスキのもとでのソヴィエトの文化政策は、限定された目的で満足するものだった。
 「ブルジョア」的な全ての研究者や教師を学問的諸団体から一斉に排除するのは、事実上は学習と教育を終焉させることになっただろうので、不可能だった。
 大学は最初から、アカデミーや研究所よりも強い政治的圧力に服しており、その当時でもまだ変わりはなかった。
 当然に、青年の教育に従事する団体に対しては、より緩やかな統制が行われた。
 1920年代に自然科学アカデミーは相当の範囲の自治力を維持していた。一方、大学は、早い時期にそれを失い、大学を管理する団体は教育人民委員部の代表者と労働者学校出身の党活動家で充たされていた。
 教授職は学術上の資格なしで政治的に信頼できる人物に配分され、学生の入学は「ブルジョア」の申請者、すなわち従前のインテリ層または中産階級の子女たちを排除するために、階級という規準(criteria)に従属した。
 公正で可変的なカリキュラムをもつ「リベラルな」大学という古い考え方とは反対の立場にある、「職業教育」に重点が置かれた。
 その目的は、古い意味でのインテリ層を生み出すのを阻止することだった。古い意味でのインテリ層とは、職業について熟練することだけではなくて、視野を広げ、全分野の文化を獲得し、一般的な諸論点に関する自分たち自身の意見を形成することを望む者たちのことだった。
 今日でも有効に維持されているこの原理的考え方は、初期に導入された。しかしながら、政治的圧力の強さは、多様な諸分野ごとに違っていた。
 自然科学の内容に関するかぎりは、最初は実際には強制(coercion)はなかった。
 人文社会科学の分野では、その中のイデオロギー上で敏感な分野で、すなわち、哲学、社会学、法および近現代史について、強制が最も厳しかった。
古代の世界、Byzantium、あるいは旧ロシアの歴史に関する非マルクス主義者の著作は、1920年代にはまだ出版が許されていた。//
 (6)ソヴィエト国家の中の非ロシア人に関しては、彼らの「自己決定権」はすぐに、レーニンが予告したようにたんなる一片の紙切れであることが判明していたが、彼らの母国語を媒介として、大学教育の利益を享受した。そして、ロシア化は、最初は重要な要素ではなかった。
 要するに、教育の一般的レベルは相当に劣悪なものだったけれども、新体制は、一般的に接近することの可能な学校制度を設立することに、ロシアの歴史上で初めて成功した。//
 (7)ソヴィエト権力の最初の10年間、諸大学は古いタイプのアカデミーにきわめて大きな影響を受けることとなった。いくつかの学部ですら-とくに、歴史、哲学および法の学部は、完全に「改良」されるか、閉鎖された。
 新しい教師階層を形成し、正統的な学習の伝搬を促進するため、当局は、党を基礎にした二つの研究施設を設立した。すなわち、大学での古いインテリ層の後継者を養成するための「赤色教授(Red Professors)」研究所(1921年)、そして初期の頃には、モスクワの共産主義アカデミー(Commuist Academy)。
 これら両機関はともに権力にあった時代のブハーリンによって支援され、「左翼」または「右翼」偏向主義という理由でしばしば浄化(purge)された。
これら両機関はやがて、党が学術上の全ての団体を十分に統制し、信頼できるスタッフで充足させる特別の訓練機関はもはや必要がなくなったときに、解体させられた。
 この時期にもう一つ生み出されたのはマルクス・エンゲルス研究所で、これは共産主義の歴史を研究し、マルクスとエンゲルスの諸著作の第一級の厳密な校訂版(M.E.G.A.版)を出版し始めた。
 その所長だった D. B. Ryazanov は、実際上は全ての純粋なマルクス主義知識人と同じく、1930年代にその職を解任された。そして、おそらくは粛清(purge)の犠牲者となった。彼は1938年にSaratov で自然の死を迎えたと、ある範囲の人々は言うけれども。
 (8)1920年代の主要なマルクス主義歴史家は、すぐれた学者でブハーリンの友人のMikhail N. Pokrovsky だった。
 彼は数年間、ルナチャルスキーのもとで教育人民委員代行で、赤色教授研究所の初代所長だった。
マルクス主義を用いて歴史を教え、詳細に分析すればマルクス主義の一般的議論が不可避的に確認されることを示そうとした。技術の決定的な役割と階級闘争、歴史過程での個人の副次的な重要性、全ての国家は根本的には同じ進化の過程を通り抜けるという教理。
 Pokrovsky は、ロシアの歴史を執筆し、レーニンに高く評価された。そして、大粛清の前の1932年に死ぬという好運に恵まれた。
 彼の見解はのちに不正確だとの烙印を押され、例えば歴史は過去に投影された政治にすぎないというしばしば引用された言術に見られるように、歴史科学の「客観性」を否認するものだとして非難された。
 しかしながら、彼は、「科学的な客観性」を主唱する党学者と違って、純粋な歴史家であり、良心的に証拠を分別する人物だった。
 彼とその学派に対する非難は主として、国家イデオロギーでのナショナリズムの影響の増大や、歴史に関する至高の権威としてのスターリン崇拝(cult)に関係していた。
 Pokrovskyには「愛国主義の欠如」があり、その研究はレーニンやスターリンの役割を低く評価した、とされた。
 こうした責任追及は、Pokrovsky がのちの年代には礼式(de rigueur)になったようには帝政ロシアの打倒を称賛せず、ロシア人民の美徳と一般的な優越性を称揚しなかったかぎりでは正しい(true)。//
 (9)党の歴史は当然に、全くの最初から厳格な統制に従属した。
 にもかかわらず、多年にわたって、単一の真正な見方というのはなかった。じつに1938年の<ソ連共産党史〔Short Course〕>までは、なかった。それまでは、分派闘争が継続し、各派は自分たちに最も都合のよい光に照らして党の歴史を語った。
 トロツキーは革命の見方の一つの範型を提示し、ジノヴィエフは別のそれを示した。
 多様な手引書が、出版された。もちろん全てを党の活動家や歴史家が命令のもとで書いていたけれども(例えば、A. S. Bubnov、V. I. Nevsky、N. N. Popov)、それらの内容は厳密には同一ではなかった。
 しばらくの間、最も権威ある見方だとされたのはE. Yaroslavsky のもので、1923年に最初に出版され、指導者間での権力の転移に合致するようにしばしば修正された。
 最後にはそれは、Yaroslavsky が編集者として行った集団的著作に置き換えられた。しかし、彼のそうした努力の全てにもかかわらず、「致命的な誤り」がある、すなわちスターリンを科学的に賛美していない、と非難されることとなった。
 実際、党の歴史は、他のいかなる学習分野にもないほどに、初期にすでに政治的な道具の位置をもつものへと貶められた。すなわち、最初から、党史に関する手引書〔manuals〕は、自己賞賛のそれに他ならなかった。
 それにもかかわらず、1920年代には、主としては回想録や専門雑誌への寄稿文のかたちで、この分野についての価値ある資料も公刊されていた。//
 (10)1920年代の法および国制理論に関する最もよく知られた専門家は、Yevgeny B. Pashukanis (1890-1938)だった。この人物は、多数の者たちと同様に大粛清のときに突然に死んだ。
 彼は、共産主義アカデミーでの法学研究部門の長だった。そして、その<法の一般理論とマルクス主義>(ドイツ語訳書で1929年刊)は、この時期のソヴィエト・イデオロギーの典型的なものだと見なされた。
 彼の議論は、法的規範の個別の変化にのみあるのではなかった。法それ自体の態様は、すなわち全体としての法現象は、物神主義的(fetishistic)な社会関係の産物であり、ゆえに、それの発展形態において、商業生産の時代を歴史的に表現したものだ、とした。
 法は、取引を規律する道具として生み出され、そのあとで他の類型の個人的関係へと拡張された。
 したがって、法は共産主義社会において国家や他の商品物神崇拝の産物と同じように消滅するはずだと考えるのは、マルクス主義と合致している。
 今日に力のあるソヴィエトの法は、まさにその存在自体で、階級がまだ廃棄されておらず資本主義の残存物が当然にまだ現にある、そういう過渡的な時代に我々がいることを示している。
共産主義社会に特有の法の形態のごときものは存在しない。その社会での個人的関係は、法的な範疇によって考察されることはないだろうからだ。//
 ----
 ③へとつづく。

1857/安倍晋三・改憲姿勢とレーニン・ロシア革命。

 安倍晋三首相・自民党総裁は「改憲」に積極的な姿勢をしばしば示しているようだ。
 しかし、彼が自民党単独の賛成で国民投票にかけることができ、本当に「改憲」できると考えているかきわめて疑わしく、<見せかけ>あるいは<そのふり>だと思われる。
 来年の参院選の結果にも左右され、そもそも自民党で文案がまとまるか否かにも不透明さが残っている。
 党の役員人事が<改憲布陣>などと報道され、論評されることもあるが、かりに人物的にそのような印象があったとしても、これまた<見せかけ>あるいは<そのふり>の可能性が高い。
 なぜそのような「ふり」をするのか。
 言うまでもない。<改憲>=<保守>、<護憲>=<左翼・革新>という根深い観念・イメージがあるからだ。
 そして、安倍晋三と同内閣・同自民党の支持者、かつ<堅い>支持者とされる日本会議等々のいわゆる<堅い保守層>からすると、「改憲」と主張しているかぎり、断固として支持しよう、支持しなければならない、と思いたくなるからだ。
 その際、現九条二項を残したままでの「自衛隊」憲法明記がどういう意味をもつのか、それによって「自衛隊」が本当に合憲なものになるのか、それに弊害はないのか、とったことを考えはしない。あるいは、理解できる者たちも、あえて口を閉ざしている。
 現九条二項の削除が本来は望ましいが、とりあえず「自衛隊」の合憲化だけでもよい、という程度のことしか多くの上記支持者たちは考えていない。
 こういう「現実的」?案を案出した者たちの責任はすこぶる重い。
 ---
 <見せかけ>・<そのふり>で想起するのは、1917年4月・ロシア帰還前後のレーニンの主張だ。
 レーニンは、臨時政府打倒を叫び、「全ての権力をソヴィエトへ!」と主張した。
 しかし、この政治的人物は、この時点で臨時政府を打倒し、そり権力を全てソヴィエトに移すことなど不可能だと知っていたはずだ。
 もともと、臨時政府自体が<二重権力>と言われるように実質的には半分はソヴィエトによって支えられていたが、そのソヴィエトの中で、レーニン率いるボルシェヴィキ(翌年3月に正式には共産党に改称)は少数派であって、本当に「全ての権力をソヴィエトへ!」が実現されたとかりにしても、その主導権をレーニンらが掌握することはできなかった。
 レーニンの上の主張は、実現不可能を見越した上での、いわばスローガン、プロパガンダにすぎなかったのだ。何のためか? 他のソヴィエト構成諸党との<違い>を際立たせ、最も先鋭的な層の支持を獲得しておくためだ。
 さて、その後7月事件を経てケレンスキー首相による継戦努力が不首尾だったりして臨時政府・ソヴィエトに対する不信が高まり、レーニンのボルシェヴィキがソヴィエト内での一時的にせよ多数派(相対的な第一会派)を握る、という状態が生じる。
 しかし、このとき、レーニンは<「全ての権力をソヴィエトへ!」とはもう強調しない。
 この辺りは歴史研究者に分かれがあるかもしれないが、トロツキー(首都のソヴィエト執行委員会が設立した軍事委員会の委員長)は、のちのボルシェヴィキ中心政権がソヴィエト・システムの中から生まれたように(少なくとも擬制するために)努力したとされる。
 つまり、ソヴィエト全国総会-同執行委員会-新「革命政権」(1917年10月)という流れで、新政権をソヴィエトも正当化した、という「かたち」を辛うじて取るようにしたらしい。
 しかし、上もすでに「擬制」であって、レーニンは、<全ソヴィエト派>が生み出した権力、あるいは<全ソヴィエト派が権力を分有する>政権を成立させようとは全くしなかった、と推察される(しろうとの秋月だけの解釈ではない)。
 「全ての権力をソヴィエトへ!」ではなく、「全ての権力を自分たち(=レーニン・ボルシェヴィキへ)!」が本音だったわけだ。
 つまり、ソヴィエト内の各派・各党がそれぞれの勢力比に応じて内閣・閣僚を分け合うような政権を作るつもりはなかった。
 そして、じつに際どく、ソヴィエト全国大会が開催中に!新政権が発足したことにし、おそらくは事実上または結果としてソヴィエト大会に「追認」させた、または「事後報告の了解」を獲得した。あるいは、獲得した「ふり」をした。
  レーニンはもはや「全ての権力をソヴィエトへ!」というスローガンを捨てていて、それを守るつもりなどなかった。そして、既成事実の産出こそ、この人物の強い意思だった。
 たしかに「左翼エスエル(社会革命党左派)」も最初は数人だけ閣僚(=人民委員会議委員)の一部になっているが、エスエル本体の主要メンバーは入っておらず、エスエルとともにソヴィエトの有力構成派だったメンシェヴィキも加わっていない。
 この実質的一党独占政権は、半年後には正式に?一党独裁政権へと(まだ1918年夏だ!)へと変化し、形骸化していた「ソヴィエト」はさらに形骸化し、セレモニーの引き立て役になる。
 しかしながら、「ソヴィエト」による正当化という「かたち」はぎりぎり維持したかったのだろう、レーニンたちはロシア以外の諸民族・「国家」を統合した連邦国家に、「ソヴィエト」という地名でも民族でもない、本来はただの普通名詞だった言葉を冠した(強いて訳せば、<ロシア的評議会式の~>だろう)。
 ---
 以上要するに、政治家の発言の逐一を、そのまま本気であると、その内容を本当に実現したがっており、かつ実現できると考えている、などと理解してはいけない。
 政治家は、平気でウソをつく(政治家ばかりではないが)。日本共産党もまた、目的のためならば「何とでも言う」。
 自民党を念頭におくと、政治家は、例えば選挙で当選するためには、大臣にしてもらうためには、あるいは政権を何としてでも維持するためには、平気でウソをつく。
 ウソという言葉が厳しすぎるとすれば、平気で「そのふり」をし、何らかの「見せかけ」の姿勢を示そうとする
 以上は、安倍晋三を批判するために書いたものではない。
 この人は、ずいぶんと現実的になり、政治家として「したたかに」なったものだと感心し、ある意味では敬服している。ただの<口舌の徒>にすぎないマスコミ・ジャーナリストや評論家類に比べて、人間という点ではあるいはその職責上の役割という点でははるかに上かもしれない。
 もちろん、こう書いたからといって、安倍晋三を100%支持して「盲従」しているわけではない。

1828/不破哲三の2017年11月・朝日新聞での妄言①。

 日本共産党前議長・現常任幹部会委員の不破哲三が、朝日新聞2017年11月17日朝刊の紙面に登場して、<ホラ話>を述べている。
 ロシア革命100年ということでこんなインタビュー記事を掲載する堂々とした全国紙があるのだから、日本の<左翼的>状況の程度をよく知らせてくれている。
 聞き手は「三浦俊章、池田伸壹」とされる。編集部の手が入っているだろうが、本人・不破哲三の不服・不満があるかたちで紙面になっているとは考え難い。したがって、不破哲三自身の言葉・表現だと理解して、以下、この<妄言>についてコメントする。
 最初に語られているテーマは、ロシア革命の意味・意義だ。
 最近に岩波書店のロシア革命・講座の「編集代表一同」の「刊行の言葉」に言及したが、そこで書かれていた三点のうち二点は、この朝日新聞での不破哲三発言と同じだ。
 似たようなデマゴギーが溢れている。
 ----
 さて、不破は、つぎの三点を挙げていると読める。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 第二。「ロシア革命が起点となって、民主主義の原則が新たな形で世界に定着した」。
 これのコロラリーのようなかたちで、つぎもある。
 「社会的権利と呼ばれる労働者の権利が、革命後の人民の権利宣言で初めてうたわれた」。
 第三。「革命政権は、〔第一次大戦〕大戦終結の条件として、民族自決権の世界的確立を求めた。…。世界の民主的国際秩序の先駆けとなる原則を打ち立てました」。
 以上の三点全てが<ホラ話>だ。<妄想>だ。つまり現実・事実に反する。あるいは、論証されていない命題にもとづいて何らかのことを「政治的に」主張している。あるいは、「観念・言葉」と「現実」の混同がある。
 たぶん一回ではすまない。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 資本主義からの離脱に初めて成功した、と不破哲三は理解する。
 かりにそうだとして、それが<良かった>、<進歩的だった>のかはもちろん別の問題だ。
 この人は、そしておそらく日本共産党員の全てが、資本主義→社会主義(・共産主義)という道筋を「人類」はたどる「はず」だと想定しているのだろう。そうだとすれば、ロシア革命は歴史上「初めて」の積極的な意義があることになる。ちなみに、何となくそう理解している、あるいはロシアの現実は別として、資本主義→社会主義(・共産主義)という方向自体は少なくとも理念として正しいのではないかと考えている、<容共>者もいるかもしれない。
 しかし、そもそも上の想定・前提は<正しい>、<適切な>ものなのか。
 一定の観念・想念・幻想があってはじめて、「資本主義に代わる新しい社会を目指す」のは良かったことだ、という評価が成り立つ。
 不破によると、「マルクスの理論の中でしかなかった社会主義が現実化し、世界に大きな衝撃を与えた」。
 そのとおりかもしれず、「マルクスの理論」が現在でもなお影響力をもつのは「ロシア革命」が成功したこと、つまりは<理論が現実化>して、<理論の正しさ>が現実で証明された、と少なくとも「受け止められた」ことにあっただろう。
 その意味で、マルクス→レーニンによってこそ、マルクスは現にあるような形で歴史に残っているのだとも言える。
 それは、ルソー(ら)→フランス革命、吉田松陰→明治維新、という関係とも似ている
 しかし、レーニンによる「ロシア革命」は本当に<社会主義(を目指す)革命>だったのか。
 そのようにレーニンらボルシェヴィキ派が<宣伝>した、<言葉・概念で訴えた>だけかもしれず、本当に<マルクスの理論を現実化した>ものかどうかは別途の検討が必要だ。
 かりにレーニンらが「マルクスの理論」を現実化したもの、または現実化しようとしたものであったとしても、1917年~1922年の現実は、かりに「社会主義が現実化」したものだったとすれば、悲惨な現実だったと私には思われる。
 国家・行政の運営の仕方を知らない<しろうと>たちが、マルクスが簡単かつ抽象的に描く「共産主義」をさっそく実施しようとしたがゆえの悲惨な現実だった、と十分に理解することができる。
 不破哲三による<市場経済をつうじて社会主義へ>というレーニンの考えの確立という発見(?)の特徴は、この人はおそらくレーニン全集等で読むことのできるレーニンの<言葉・文章>だけでロシア革命等を、また十月革命直後の歴史を理解しようとしていることだ、と論評することができる。
 この人はいったい、どこまで、1917年~1922年くらい、要するに<レーニン時代>のロシアの現実を知っているのだろうか。
 かりに現実にしたのだったとしても、そこでの「社会主義」とは人間の本性には反した絵空事を描いたものではなかっただろうか。
 さらにもともと、マルクスらのいう封建主義→資本主義→社会主義(・共産主義) という「歴史的法則」自体の<正しさ・適切さ>も、何ら証明されていないものだ。
 <最初に資本主義から離脱した>。これがなぜ積極的意義・意味を持つのか、さっぱり分からない。
 ----
 若い頃からマルクス、レーニン、(1980年くらいまでは)スターリンを読み、かつ日本共産党の幹部だった(である)人物の<思考・意識形態>というのは、ヒト・人間観察としても、すこぶる興味がある。
 続けざるを得ないだろう。

1824/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑬。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第13回
 ----
 第4章・ネップと革命の行く末。
 第2節・官僚機構の問題(The problem of bureaucracy)。
 革命家として、全てのボルシェヴィキは「官僚制」(bureaucracy)に反対だった。
 自分たちは党の指導者か軍事指令官だと幸せにも思ってきたのだが、彼らは真の革命家が新しい体制の一官僚(bereaucrat)、<chinovnik>になるのを受忍できたのだろうか?
 行政活動について議論したとき、彼らの言葉遣いは豊富な婉曲語法になった。すなわち、共産党員である行政担当者(officials)は「幹部(cadres)」で、 共産党官僚機構は「ソヴェト権力」の「装置」であり「機関」だった。
 「官僚機構」(bureaucracy)という語は、つねに侮蔑的なものだった。「官僚主義的方法」や「官僚主義的解決」は、何としてでも避けられるべきものだった。そして、革命を「官僚主義の頽廃」から守らなければならなかった。//
 しかし、こうしたことによって、ボルシェヴィキが独裁制を確立した意図は社会を支配しかつまた移行させることにあった、という事実を曖昧にすることはできなかった。
 行政機構なくしてこの目的を達成することはできなかった。彼らは最初から、社会は自主的にまたは自発的に変化を遂げることができる、という考え方を拒否していたのだから。
 かくして、疑問が出てくる。どのような行政機構が必要だったのか?
 ボルシェヴィキは、地方での基盤が解体してしまった中央政府の官僚機構(central government bureaucracy)を引き継いだ。
 彼らは、地方政府の機能を1917年に部分的に奪い取ったソヴェトを有してはいた。
 最後に残っていたのは、ボルシェヴィキ党自体だった。-革命を準備して実行するという従前の機能は、十月以降の状況には明らかに適合しなくなっていた組織だ。//
 かつての政府官僚機構は今はソヴェトの支配下にあったが、ツァーリ体制から継承した多数の行政担当者や専門家をなおも使っていた。そしてボルシェヴィキは、革命的諸政策の実施を拒否したり妨害したりする彼らの能力を怖れた。
 レーニンは1922年に、古いロシアの「被征服国民」は共産主義者という「征服者」に価値を認める過程にすでに入っている、とつぎのように書いた。。//
 『4700名の共産党員が責任ある地位に就いているモスクワについては、あの大きい政府官僚機構、あの巨大な堆積物については、「誰が誰を指揮しているのか?」と問わなければならない。
 共産党員はあの堆積物を指揮している、と本音で言われているのか否かを、私はひどく疑っている。
 本当のことを言えば、共産党員は指揮しておらず、指揮されている。<中略>
 その(かつての官僚制の)文化は悲惨でとるに足らないものだが、我々のそれよりもまだ高いレベルにある。
 現にそうであるように惨めで低くても、我々の責任ある共産党員行政担当者よりも高い。共産党員行政担当者には、行政の資質がないからだ。』(11)
 レーニンは、かつての官僚機構が共産主義の価値を破壊する危険を見ていた。しかし、共産党にはそれによって活動する以外の選択肢はないと考えていた。
 共産党員は、かつての官僚制の技術的な専門知識を必要とした。-行政上の専門知識だけではなくて、政府財政、鉄道運営、度量衡あるいは共産党員に可能であるとは思えない地理測量のような分野の特殊な知識をも。
 レーニンの考えでは、新体制が「ブルジョア」専門家を必要とすることを理解しない党員は全て、「共産主義者的傲慢」という罪を犯していた。この罪は、共産主義者は全ての問題を自分で解決できると考える無知で子どもじみた信念のことだ。
 十分な数の共産党員専門家を党が養成するには、だいぶ時間がかかるだろう。
 そのときまで、共産党員はブルジョア専門家とともに仕事をし、同時にしっかりと彼らを支配し続けることを学ばなければならなかった。//
 専門家に関するレーニンの考えは、他の党指導者たちも一般に受け入れていた。しかし、彼らは一般党員にあまり人気がなかった。
 たいていの党員は、政府の高いレベルで必要な専門技術的知識の性質や種類に関してほとんど何も知らなかった。
 しかし彼らは、旧体制からいる小役人がソヴェトで類似の仕事を何とか苦労してしているとき、あるいは主任会計士がたまたま工場施設の地方党員活動家に同意しないとき、あるいは村落の学校教師がコムソモルで面倒を起こしたり学校で教理問答書を教育する宗教信者だったときですら、地方レベルで専門知識がもつ意味を明確に理解していた。
 たいていの党員は、重要な何かをしなければならないときには党を通じてそれをするのが最善だと明白に思っていた。
 もちろん、日常の行政レベルでは、党中央の機構は巨大な政府官僚機構と競い合うことはできなかった。-党の機構は、あまりにも小さすぎたのだ。
 しかし、地方レベルでは、党委員会とソヴェトがともに最初から設立されており、状況は違っていた。
 党委員会は内戦後に主要な地方機関として出現してきており、一方でソヴェトは、かつてのゼムストヴォと似ていなくもない二次的な役割の担当者になっていた。
 党の命令系統を通じて伝達される方針の方が、大量の布令や非協力的でしばしば混乱しているソヴェトに対して中央政府から伝えられる指示文書よりも、実施される可能性が高かった。
 政府にはソヴェトの人員を採用したり解職するしたり権能がなかった。そして、より効果的な、予算による統制も及ぼすことができなかった。
 党委員会は、これと対照的に、党の上級機関からの指示に従うという党紀律に服する党員を揃えていた。
 委員会を率いる党の書記局員は、形式上は地方党機関が選出した者たちだったけれども、実際には、党中央委員会書記局が転任させたり、交替させることができた。//
 しかし、一つの問題があった。
 党組織-中央委員会書記局を頂点とする諸委員会と幹部の階層制-は、どの点から見ても明らかに、官僚機構(bureaucracy)だった。そして、官僚機構とは共産主義者が原理的に嫌うものだったのだ。
 1920年代半ばの継承者争い(後述、p.108-111)のときトロツキーは、党官僚機構を設立して自分の政治目的のために巧みにそれを操っているとして、党総書記のスターリンを非難した。
 しかしながら、この批判は党全体に対してほとんど影響を及ぼさなかったように見えた。
 その一つの理由は、党書記局員の(選出ではなく)任命は、トロツキーが主張するほどにはボルシェヴィキの伝統から離れているものだはなかった、ということだ。すなわち、地下活動をしていた1917年以前の古い時期には、委員会はつねに、ボルシェヴィキ中央から派遣された職業的革命家たちの指導に大きく依拠していた。そして、1917年に地上に出てきたときですら、委員会が自分たちの地方的な指導性を選択する民主主義的権利を主張するのではなく、ふつうは「中央から来た幹部たち」に執拗に要請した。//
 しかしながら、より一般的な観点からすれば、ほとんどの共産党員は党組織を侮蔑的な意味での官僚機構だとは考えていなかったように思える。
 彼らにとって(Max Weber にとってと同じく)、官僚機構は明確に定義された法令と先例群を適用することによって活動するもので、高い程度の専門性と職業的な専門技術や知識への敬意という特徴ももっていた。
 しかし、1920年代の党組織は顕著な程度には専門化されておらず、(治安や軍事問題は別として)職業的専門家を尊重していなかった。
 党組織の職員は「書物を見て仕事をする」ように指導されてはいなかった。すなわち、初期には、依拠することのできる党の諸指令を集めたものは存在せず、のちには、そのときどきの党の基本的政綱の精神に対応するというよりもむしろ、かつての中央委員会の指令を示す文書にすがっている書記局員は全て、「官僚主義の傾向」があると非難されそうだった。
 共産主義者が官僚機構を欲しないと言うとき、意味しているのは、革命家の命令に対応しようとしない又は対応することのできない行政機構を欲しない、ということだった。
 しかし、それと同じ理由で彼らは、革命家の命令に対応<しようとする>行政機構を大いに持ちたかった。-革命の指導者たちからの命令を進んで受け入れて、急進的な社会変革の政策を実施する意欲のある、そういう職員がいる行政機構をだ。
 そのようなことをするのは、党組織(または官僚機構)が遂行することのできる革命的な作用だった。そして、ほとんどの共産党員は本能的に、そのことを是認していた。//
 ほとんどの共産党員はまた、「プロレタリア独裁」をする機関はプロレタリアのものであるべきだと信じていた。これが意味するのは、従前の労働者が責任ある行政の仕事に就くべだ、ということだった。
 これは、マルクスがプロレタリア独裁でもって意味させたそのものではなかったかもしれない。そして、レーニンが意図したそのものでもなかったかもしれない。
 (レーニンは、1923年にこう書いた。
 労働者は、「我々のためにより良き機構を樹立したがっているけれども、その方法を知らない。
 労働者は、それを樹立することができない。
 労働者は、そのために必要な文化をまだ発展させていない。必要なのは、文化だ」。(12))
 にもかかわらず、全ての党内論議で当然の前提にされていたのは、つぎのことだった。すなわち、組織の政治的健全さ、革命的情熱および「官僚主義的頽廃」からの自由は、労働者階級出身の幹部の割合と直接に関係している、ということ。
 階級という標識は、党組織を含む全官僚機構に適用された。
 この標識は、党自体の新規加入者にも適用された。そして、将来におけるソヴィエトの行政エリートの構成に影響を与えることになる。//
 1921年、工業労働者階級は混乱状態にあり、それと体制との関係は危機に瀕していた。
 しかし、1924年までに、経済の再生によっていくぶんかは困難が落ち着き、労働者階級は回復と成長をし始めた。
 党が数十万の労働者を党員として新規に募集する運動であるレーニン募集(Lenin Levy)を発表し、プロレタリア一体性(proletarian identity)の確約を再確認したのは、その年だった。
 この決定で暗黙に示されていたのは、労働者が行政上の仕事に就くのを促進して「プロレタリア独裁」を生み出し続ける、という確約だった。//
 労働者階級出身党員の大募集から三年後の1927年までに、共産党には一般党員および幹部を含めて総じて数百万を超える党員がいた。そのうち39パーセントは職業上は当時の労働者で、56パーセントは入党したときの職業が労働者だった。(13)
 この二つの割合の違いは、行政上のまたはホワイトカラーの仕事へと永久に移行した労働者共産党員のおおよその数を示している。
 ソヴェト権力になってから最初の10年間に入党した労働者がその後に行政的職務へと昇進する可能性は、(1927年より後の昇進を除いても)少なくとも50対50だった。//
 労働者階級の党員にとって、党組織は、政府官僚機構以上に人気のある目的地だった。その理由の一つは、労働者は党という環境の方が安心感を抱いたからであり、また一つは、教育の不足が、まあ言えば政府の財務人民委員部の課長に比べて、地方の党書記局ではさほど問題にならなかったからだ。
 1927年に、党組織で責任ある地位に就く党員の49パーセントは、従前の労働者だった。これに対して、政府やソヴェトの中の党員の対応する数字は、35パーセントだった。
 こうした乖離は、行政階層の最上位のレベルではもっと顕著だった。
 上位の政府の職務に就く党員にはほとんど労働者階級出身の者はおらず、一方で、地域の党書記たち(<oblast'>、<guberniya>や<krai>といった組織の長)のほとんど半分はかつての労働者だった。(14)
 --------
 (11) レーニン<全集>33巻p.288。
 (12) 「より少なく。しかし、より良く」(1923年3月2日), レーニン・<全集>33巻p. 288.
 (13) I. N. Yudin, <Sotsial'naya baza rosta KPSS>(Moscow, 1973), p.128.
  (14) <Kommunisty v sostave apparata gosuchrezdenii i obshchestvennykh organizatsii. Itogi vsesoyuznoi perepisi 1927 goda>(Moscow, 1929), 25;<ボルシェヴィキ>, 1928, no.15, p.20.
 ----
 第3節・指導者争い(The leadership struggle)。
 レーニンが生きていた間、ボルシェヴィキは彼を党指導者だと認めていた。
 にもかかわらず、党は公式には一人の指導者を持たなかった。そして、党は必ず指導者を必要とすると考えるのは、ボルシェヴィキには不快だつた。
 政治的な混乱状態があったとき、党の同志たちがレーニンは個人的な権威でもって取引しすぎると彼を強く批判するのは、聞かれないではなかった。
 そして、レーニンは通常は自分の主張を押し通そうとする一方で、追従や特別の敬意をとくに示すこと要求することはなかった。
ボルシェヴィキは、ムソリーニや彼のイタリア・ファシストについては侮蔑以外の何ももっていなかった。喜劇オペラの制服で着飾り、統領(Il Duce)に忠誠を誓う政治的には原始的な連中だと見なしていたのだ。
 その上、ボルシェヴィキは歴史の教訓を学んでおり、ナポレオン・ボナパルトが皇帝だと自ら宣言したフランス革命のようにはロシア革命を衰退させるつもりはなかった。
 ボナパルティズム-革命戦争指導者の独裁者への変化-は、ボルシェヴィキ党内でしばしば論議された危険だった。その論議では通常は暗黙のうちに、赤軍創設者であり内戦中の若い共産主義者たちの英雄だったトロツキーが示唆されていた。
 想定されたのは、いかなる潜在的なボナパルトも、奮起させる演説力と壮大な展望力をもつ、おそらくは軍服をまとったカリスマ的人物だろう、ということだった。//
 レーニンは、1924年1月に死んだ。
 しかし、彼の健康は1921年半ば以降は深刻に悪化していて、その後は間欠的にしか政治上の活動をしなかった。
 1922年5月の発作によって部分的に麻痺し、1923年3月の二度めの発作で麻痺が増大して、言葉を発する能力を失った。 
 ゆえに、レーニンの政治的な死は漸次的な過程であり、彼自身は最初の結果を観察することができた。
 政府の長としてのレーニンの責務は、三人の代行者が引き継いだ。その中では、1924年にレーニンを継いで人民委員会議の議長になった Aleksei Rykov (ルィコフ)が最も重要だった。
 しかし、明白なのは、権力の主要な中枢は政府にではなく党の政治局にあり、この政治局はレーニンを含む総員七名で成り立っていた、ということだった。
 他の政治局員は、トロツキー(戦争人民委員)、スターリン(党総書記)、ジノヴィエフ(レニングラード党組織の長・コミンテルン議長)、カーメネフ(モスクワ党組織の長)、ルィコフ(人民委員会議初代副議長(副首相))および Mikhail Tomsky (トムスキー、中央労働組合会議議長)だった。//
 レーニンが病気の間-そして実際にはその死後も-政治局は集団指導制によって活動すると公式に確言し、誰かがレーニンと交代できるとか彼と同様の権限ある地位に就きたいとかいうことを、どのメンバーも強く否定した。
 にもかかわらず、1923年には、秘やかなというよりもむしろ激しい継承者争いが進展した。ジノヴィエフ、カーメネフおよびスターリンの三人組(triumvirate)が、トロツキーに対抗したのだ。
 トロツキー-ボルシェヴィキ党への加入の遅さとそれ以降の輝かしい業績の両方の理由で、指導層から外れた風変わりな人物-は、強く否定していたけれども、最上位を目ざす野心をもつ競争者だと受け止められていた。
 1923年遅くに書いた<新しい行路>(the New Course)でトロツキーは、ボルシェヴィキ党の古き前衛たちは革命的精神を喪失し、「保守的で官僚主義的な党派主義」に屈服し、地位を保つのが唯一の関心である小粒の支配エリートのごとくますます振る舞っていると警告することで、意趣返しをした。//
 レーニンは病気のために指導者として活動できなかったが、彼の継承者になる可能性のある者たちの策略(manoeuvring)をまだ観察することができた。そして、政治局に関して同様に偏見に満ちた見方を作り上げており、それを「少数独裁制」だと描写し始めた。
 1922年12月のいわゆる「遺書」で、レーニンは、-傑出していると認めたスターリンとトロツキーの二人を含む-多様な党指導者たちの性格を概述した。そして、わずかに称賛をしつつ事実上は彼ら全員を酷評した。
 スターリンについての論評は、党総書記として巨大な権力を蓄積しているが、その権力をつねに十分な注意を払って行使しているわけではない、というものだった。
 一週間後、スターリンとレーニンの妻のNadezhda Krupskaya (クルプシュカヤ)との間でレーニン病床体制に関する衝突が生じた後で、レーニンは、スターリンは「粗暴すぎる」、総書記の地位から排除すべきだ、と遺書の最後に書き加えた。(15)//
 この時期、多くのボルシェヴィキ党員は、スターリンがトロツキーと対等の政治的評価を得ていることに驚いただろう。
 スターリンは、ボルシェヴィキが傑出した指導者にふつうは連想する資質を一つも持っていなかった。
 スターリンはレーニンやトロツキーのようには、カリスマ性のある人物でも、優れた演説家でも、抜きん出たマルクス主義理論家でもなかった。
 スターリンは英雄ではなく、労働者階級の実直な息子でも、優れた知性の持ち主でもなかった。
 Nikolai Sukhanov (スハーノフ)はスターリンの印象を「よどんだ灰色」とした。-したたかな裏工作政治家で党内活動の専門家だが、個人的な特徴のない人物だと。
 スターリンよりもジノヴィエフの方が政治局三人組の中の第一のメンバーだと、一般に想定されていた。
 しかしながら、レーニンは、たいていの者よりもスターリンの能力をより十分に評価することができた。なぜなら、1920-21年の党内闘争の間、スターリンはレーニンの右腕だったからだ。//
 トロツキーに対する三人組の闘いは、1923-24年の冬に頂点に達した。
 党内分派が公式には禁止されているにもかかわらず、状況は1920-21年のそれに多くの点で似ていた。そしてスターリンは、レーニンが行ったのと同じ戦略に多く従った。
 第13回党大会に先立つ党内議論と代議員の選挙の際に、トロツキー支持者たちは反対派として運動を行った。一方で、党組織は、「中央委員会多数派」、すなわち三人組、を支持するために動員された。
「中央委員会多数派」が勝利した。中央政府官僚機構、大学および赤軍の党細胞に、トロツキーが支持されるという空白部分があったけれども。(16)
 最初の投票のあとで、親トロツキー諸細胞に対する集中的な攻撃があり、それは、その細胞の多くが多数派へと寝返ることを誘発した。
 わずか数ヶ月のち、そのときすでに近づいている党会議に備えて1924年春に代議員が選出されていたが、トロツキーへの支持はほとんど完全に消滅していたように見えた。//
 これは基本的に、党機構のための勝利だった。-すなわち、総書記であるスターリンのための勝利だった。
 総書記は、ある研究者が「権力の循環する流出物」(circular flow)と名付けたものを操作する地位にいた。(17)
 書記局は地方党組織を率いる書記局員を任命し、望ましくない分派的傾向を示せば彼らを解任することもできた。
 地方党組織は、全国的な党の大会や会議のために代議員を選出した。そして、〔地方の党の〕書記局員が地方代議員名簿の上位へと載せられるのが、ますます一般的になっていた。
 その代わりに、党の全国的会議は、党の中央委員会、政治局および組織局-もちろん書記局の-委員を選出した。
 要するに、総書記は、政治的反対者に制裁を加えるのみならず、その職務に在任することを確認する会議をも操作することができた。//
 1923-24年の深刻な闘いによって、スターリンは、その地位を強固にすることを系統的に進行させた。
 1925年、スターリンはジノヴィエフおよびカーメネフと決裂し、この二人が侵略者のごとく見える防御的な反対者の立場へと追い込んだ。
 のちにジノヴィエフとカーメネフは、トロツキーと一緒になって統一した反対派となった。スターリンは、忠実で意思の堅い仲間たち〔チーム〕の助けを借りて、これを簡単に打ち破った。-その仲間の中には、将来の政府および工業の指導者となる Vyacheslav Molotov(モロトフ)や Sergo Ordzhonikidze (オルジョニキーゼ)もいた。彼らはこのとき、スターリンの周りに結集していた。(18)
 多数の反対派支持者たちは、遠方の州の仕事へと自分たちが任命されていることに気づいた。そして、反対派の指導者たちはまだ党の諸会議に参加することができたが、反対派の代議員はほとんどいなかったので、その指導者たちは党との接点を完全に喪失した無責任な<フロンド党員>のように見えた。
 1927年、反対派の指導者と支持者たちの多くは分派主義を禁止する規約を破ったという理由で党から除名された。
 トロツキーとその他の反対派の者たちは、そのとき、遠方の州へと行政的に〔判決によらずして〕追放された。//
 スターリンとトロツキーの間の論争で対立した争点は、とくに、工業化の戦略と農民に対する政策に関してだった。
 しかし、これらの現実的な問題について、スターリンとトロツキーの考えは大きくは離れていなかった(後述p.114-6)。すなわち、二人はいずれも、農民に対する特別の優しさを持たない、工業化論者だった。1920年代半ばのスターリンの公的立場の方がトロツキーのそれよりも穏健だったけれども。
 そして、数年後にスターリンは、急速な工業化のための第一次五カ年計画についてトロツキーの政策を盗んだとして追及されることとなった。
 一般党員たちは、彼らの個人的性格のいくつかほどには、論点に関する競争者の不一致を明確に感知することができなかった。
 トロツキーは、ユダヤの知識人で内戦時に無情さと華麗でカリスマ的な指導性を示した人物だと(必ずしも好ましいものとは限らなかったが)広く知られていた。
 スターリンは、より中庸的で陰の多い人物で、カリスマ性はなく、知的でもユダヤ人でもない、と知られていた。//
 党機構とその挑戦者の間の対立にあった真の争点は、ある意味では、機構そのものだった。
 こうして、支配的な党派と元々一致していない点が何であったにせよ、1920年代の全ての反対派集団は、同じ主要な不満をもって終焉することとなった。すなわち、党は「官僚主義化」した(bereaucratized)。そして、スターリンは、党内民主主義の伝統を死滅させた。(19)
 このような「反対派」の見方は、晩年のレーニンにすら起因していた。(20) そしてそれは、おそらくある程度は正当だった。レーニンもまた、指導者層の内部から閉め出されていたのだから。但し、レーニンの場合は政治的敗北ではなくて病気が原因だったけれども。
 しかし、多くの点でスターリンの政治的師匠だったレーニンは、党機構に反対して党内民主主義という原理的考え方へと本当に変わったのだ、と理解するのは困難だろう。
 レーニンに関心があったのは権力の集中それ自体ではなく、権力が誰の手に集中されているのか、という問題だった。
 同様に、1922年の遺書でレーニンは、党書記局の権力を減少させることを提案しなかった。
 彼はただ、スターリン以外の誰かが総書記に指名されるべきだと書いたのだ。//
 やはりなお、1920年代のレーニンとスターリンの間の継続性の要素が何であろうとも、レーニンの死と継承者争いは政治的な転換点だった。
 権力を追求するスターリンは、反対派たちに対抗してレーニン主義の方法を使った。しかし彼は、-党でのその個人的権威が長く確立していた-レーニンは決して到達し得なかった完璧さと冷酷さをもってそれを使った。
 一たび権力を握ると、スターリンは手始めにレーニンのかつての役割を果たした。まず最初は、政治局でだった。
 しかし、そうしているうちにレーニンは死んで、過ちや非難を超越したほとんど神のごとき性格を与えられた指導者(the Leader)になり、その遺体は防腐処理されて恭しく、民衆を喚起するためにレーニン霊廟に安置された。(21)
 死後に生じたレーニン崇拝(Lenin cult)は、指導者なき党というかつてのボルシェヴィキの神話を打ち砕いた。
 新しい指導者が抜きん出て初代のそれ以上になることを望んだとすれば、彼には構築しておくべき基盤がすでにあった。//
 --------
 (15) 「遺書」のテキストは、Robert V. Daniels, ed., <レーニンからゴルバチョフまでのロシア共産主義に関する資料による歴史>(Lebanon, NH, 1993)に所収、p.117-8.
 (16) Robert V. Daniels, <革命の良心>(Cambridge, MA, 1960), p.225-230.を見よ。
 (17) この語句はDaniels のものだ。明瞭でかつ簡潔な議論につき、Hough & Fainsod, <ソヴィエト同盟はいかにして統治されたか>, p.124-133, p.144.を見よ。
 (18) 1920年代の分派闘争の経緯におけるスターリンのチームの形成につき、S・フィツパトリク・<スターリン・チームについて-ソヴィエト政治における危険な生活の年代>(Princeton, 2015), ch. 1.を見よ。
 (19) これは1920年代の共産党内反対派の研究であるDaniels の<革命の良心>の統一テーマだ。-このタイトルが示すように、Daniels は、党内民主主義という抗弁は反対派の固有の機能ではなくて革命的な理想主義の表現だと見なしている。
 (20) Moshe Lewin, <レーニンの最後の闘い>(New York, 1968)を見よ。
 選択しうる別の解釈につき、Service, <レーニン>, Chs. 26-28.を見よ。
 (21) レーニン崇拝の出現につき、Nina Tumarkin, <レーニンは生きている!>(Cambridge, 1983)を見よ。
 ----
 第4章(ネップと革命の行く末)の第2節と第3節の試訳が終わった。

1823/岩波書店のロシア革命・ソ連<講座>(2017-)。

 ロシア革命とソ連の世紀(岩波書店、2017~)という<講座もの>が出版されていることは知っている。その第1巻冒頭にある「編集委員一同」による「刊行にあたって」という二頁ぶんの文書を読んで、昨秋にすでに、個々の論考をまじめに熟読する気持ちが失せている。
 ロシア革命とソ連の世紀/1・世界戦争から革命へ(岩波、2017年6月)。
 おそらく各巻冒頭に掲載されているのだろう。
 「ソ連の『革命』は無意味ではなかった」と<意味>と<無意味>の違いを判別させないままで突如として断定して、つぎのように、<ロシア革命>または<社会主義(的近代化)>には<よい面もあった>と述べている。
 どうやら、三点を列挙しているようだ。以下、できるだけ直接に引用する。
 ①「少なくとも一時的にはソ連と東欧の生活水準を大きく向上させ、先進資本主義諸国の福祉国家化を促した」。〔正確には、「…促した面がある」。〕
 ② 「旧ソ連諸国に深い影響を残し」、「中国など新たに超大国・地域大国を目指す国々には参照材料を提供し続けている」。
 ③「ソヴィエト政権の『民族自決』『民族解放』の訴えとその実現への取り組みは、植民地下にあった諸民族を鼓舞し、…大戦後の旧植民地諸国の独立に大きな影響を及ぼした」。
 こう書いている「編集委員一同」とは、つぎの6人のようだ。
 
松戸清裕、浅岡善治、池田嘉郎、宇山智彦、中嶋毅、松井康浩
 上の三点には、強い疑問をもつ。
 第一に、上の②は果たして肯定的、積極的に評価できるものなのか自体が疑わしい。
 「超大国・地域大国を目指す国々」を肯定的に評価しないかぎりは、こんな文章にならないだろう。
 結局のところ、「編集委員一同」には中国(中華人民共和国、共産中国)は積極的・肯定的に捉えられているとしか思えない。
 そうでなければ、ここにいう「参照材料」の「提供」とは、悪い影響だろう。
 第二に、いずれまたこの点はこの欄で記述してみたいのだが、上の①は<真っ赤なウソ>だろう、と感じている。
「少なくとも一時的には」と書いているが、いつ、いったいどの時期・年代に「ソ連と東欧の生活水準」が「大きく向上」したことがあったのだろうか?
これを歴史的に統計的かつ実証的に明らかにできなければ、歴史学者としては失格だろう。
 上のようなことがしばしば言われてきた(現にこの講座の編集者もそう書いている)ことは承知している。
 しかし、これはソヴィエト体制側による<プロパガンダ>であったのであり、実態・実体・実際とは異なっていただろう、と想定している。
 ソ連の場合、「生活水準」が「大きく向上」したことはあったのだろうか。
 1917年の<十月革命>後にただちに<内戦>が始まり、そして<ネップ期>だ。
 一部の「ネップマン」および正確な意味での「プロレタリア-ト」階層の一部はある程度生活・経済状態が良くなったかもしれないが、国民または民衆全体を見ると決してそうではないだろう。
 では、スターリンによる農業の<強制的集団化>の時期かそれとも<大テロル>の時期かそれとも<第二次世界大戦>の時期か。
 あるいは、「ソ連と東欧の生活水準」が「大きく向上」したのは第二次大戦後だった、スターリン死後の「緩和期」だったとでも言いたいのだろうか。
 北朝鮮でも一般民衆・一般国民の「生活水準」など無関係に核兵器やミサイルの開発や建設をしているのだから、いかにソ連が<宇宙競争>でアメリカに先行した時期がかりにあったとしても、一般国民の「生活水準」とは直接の関係はない、と考えられる。
 それにもともと「生活水準」に関して、ソ連や東欧諸国が対外的に発表していた資料・統計数字等々は全くデタラメだった可能性が高い。
 「労働者・貧農の天国」などは真っ赤なウソ。プロパガンダの最たるものだろう。
 資本主義国に比べて失業がない(なかった)とよく言われる(言われた)が、少なくとも事実上<仕事を割り当てられる>のであれば、つまりそういう<強制労働>体制下では、「失業」など論理的にありえないのは当然だろう。
 また、<高福祉>などとも言われる(言われた)が、そもそも、何度にもわたる飢饉による厄災に体制側の責任はなかったのか。
また例えば、生存にギリギリの生活をしているふつうの庶民に子どもを学校に通わせる潤沢な経済的余裕があるはずはない。
また、幼少期から「共産主義」教育(ひとによれば<洗脳>とも言われる)を行いたい国家・体制側が、親や保護者から教育費用をまき上げるわけにもいかないだろう。
 かりに病気治療等々が「無料」だったとしても、それは現・旧の「社会主義」国の方が「福祉」が進んでいた(進んでいる)時期があったいうことの、何の論証にもなりはしない。まさに<治安>対策としての原始的<福祉>政策だったのではないか。
 上の③もおかしい。
 別にまた書くが、ソヴィエト連邦の解体して、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ジョージア、ウズベキスタン、カザフスタン等々が、ほとんど自然に、大した混乱もなく独立国家になったというのは、つまりは、ソヴィエト連邦時代に、これらの国家を形成する「民族」の自立性が抑制されていたことの明瞭な証拠だろう。
 レーニンらの言った「民族自決権」の意味については、すでにL・コワコフスキ、R・パイプス、S・フィツパトリクも論及している。
 レーニンらソ連の歴代指導者が「民族自決権」一般を承認し、それでもって第二次大戦後に独立国家が増加した、などというのは真っ赤なウソだ。
何とかロシア革命と「社会主義」の夢を守りたいという一心が、この「編集委員一同」の「刊行」の言葉にはあるようだ。
 こんなに簡単に<結論>が提示されている<講座もの>も珍しいのではないか。
 もちろん、編集委員全員が熟考し何度も検討して作成されたものではないだろう。
 日本共産党の党員かもしれない上の6名のうちの誰かが(複数でありうる)、年齢または地位を利用して他の編集代表に事実上「押しつけた」可能性はある。
 また各巻の個々の論考がこのような<所定の結論>とは関係がない、またはそのまま採用することはしていない内容になっていることはありうる。
 しかし、何といっても、岩波書店がロシア革命100周年に当たって発行した<講座>ものだ。さすがに、<岩波書店>的だ。
 あるいはそもそも、日本の<ソヴィエト学>自体が全体として<岩波的容共>だつた(である)可能性も否定できない。
 上で日本共産党という言葉を出したのは、同党はこんなことを言っているようだし、また日本共産党員らしき学者の中には、上の三点と似たようなことを「社会主義」について書いている者もいるからだ。いずれ、この点にも立ち入るつもりだ。

1818/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑪。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第11回。
 第3章・内戦。
 例外的にコメントを付す。すでにS・フィツパトリクは「十月革命」の勝利者は①ソヴェトか②ボルシェヴィキかという問題設定をしていたが、以下の第4節の中で革命後の権力の所在につき、①政府(人民委員会議)、②ソヴェト中央執行委員会、③ボルシェヴィキ党〔1818年3月以降は公式には共産党〕中央委員会(・政治局)の三つを挙げたうえで論述している。この辺りは、とくに①と②の関係は微妙なようで、すでに読んでいる(試訳を掲載していないかも知れない)R・パイプスの理解または「解釈」と、S・フィツパトリクのそれは完全に同一ではないようだ。
 ---- 
 第3章・内戦/第3節・新世界の見通し(Visions of the new world)。
 内戦期のボルシェヴィキの多くの思考の中には、きわめて非現実的で夢想家的な傾向があった。(19)
 疑いなく、勝利した革命家にはこの特質がある。すなわち、革命家はつねに狂熱的で非理性的な希望によって駆動しなければならない。そうでなければ、革命のための危険と損失がありうる利益を上回るなどという常識的な判断をするはずはないだろう。
 ボルシェヴィキは、自分たちの社会主義は科学的であるがゆえに空想主義(夢想、utopianism)から免れていると考えていた。
 しかし、マルクス主義の本来的に科学的な性格に関して彼らが正しかった(right)かはともかくとしても、科学ですら、主観的な判断をして自分の感性とする人間の解釈を必要とする。
 ボルシェヴィキは革命的狂熱者であって、図書館の司書ではなかった。//
 ボルシェヴィキがマルクス主義の社会科学理論を支えとして引用したとしても、1917年のロシアにプロレタリア革命の準備があったというのは、主観的な判断だ。
 世界革命が切迫しているというのは、科学的な予言ではなく、一種の信仰だ(マルクス主義の観点からは結局、ボルシェヴィキは誤謬を冒し、権力を奪取するのが早すぎた、のかもしれなかった)。
 戦時共産主義というのちの経済政策の基礎にある、ロシアは共産主義への明確な移行の寸前にあるという信念には、マルクス主義理論上はいかなる正当化根拠もほとんどない。
 現実の世界についてのボルシェヴィキの感覚は、1920年までに多くの点で、ほとんど滑稽なほどに倒錯したものになった。
 ボルシェヴィキは、赤軍をワルシャワへと前進させた。多くのボルシェヴィキには、ポーランド人がその兵団をロシアの侵略者ではなくてプロレタリアの兄弟だと是認することが明らかであるように思えたからだ。
 母国ロシアは、共産主義のもとでの貨幣の衰退による激しいインフレと通貨下落で混乱していた。
 内戦中に戦争と飢饉によって家なき子どもたちの群れが生じたとき、ある範囲のボルシェヴィキたちは、これをすら、姿を変えた天恵だと見なした。国家が子どもたちに真の(true)集団主義的なしつけをし(孤児院で)、子どもたちは古い家族からのブルジョア的影響にさらされることがないだろう、と考えたからだ。//
 同じ精神は、国家と行政の任務に関するボルシェヴィキの初期の考え方の中にも認めることができた。
 ここでの夢想家的文章は、共産主義のもとでは国家は衰亡するだろうというマルクスとエンゲルスの言明だった。また、レーニンの<国家と革命>にある文章だった。後者でレーニンは、国家行政は最終的には全日を働く職業人の仕事ではなくなり、公民層全体の持ち回りの義務になるだろう、と述べていた。
 しかしながら、実際には、レーニンはつねに、統治に関する堅固な現実主義者であり続けた。すなわち、1917-1920年の行政機構の崩壊を見て、ロシアが共産主義に接近するほどに国家が衰亡していると結論づけるような、ふつうのボルシェヴィキではなかった。//
 しかし、<共産主義のイロハ>の執筆者であるボルシェヴィキのBukharin と Preobrazensky は、はるかに興奮していた。
 この二人は、没個性的で科学的に整序された世界を展望(vision)していた。その世界とは、当時のロシア人作家の Evgenii Zamyatin が<我々(We)>(1920年の著)で風刺し、のちに、George Orwell が<一九八四年>で描写したようなものだった。
 その世界は、過去、現在あるいは未来の全ての現実にあるロシアの正反対物(antithesis)だった。そして、内戦という混沌の中で、とくに魅力的なものになるはずのものだった。
 国家が衰亡した後で中央志向での計画経済をいかに作動させることが可能であるかを説明して、Bukharin と Preobrazensky はつぎのように書いた。
 『主要な指揮は、多様な簿記係または統計部に任されるだろう。
 日常的に、それらのもとで、生産とそれへの全需要に関する資料が保管されるだろう。
 また、それらによって、労働者を派遣しなければならない場所や派遣元、そしていかなる程度の労働が必要であるかが決定されなければならない。
 そして、幼年時代以降に全員が社会的労働に習熟しているかぎり、また、つぎのように理解するがゆえに、全員が統計部の指示に完全に従って働くだろう。その労働が必要であることや予め編成された計画に従って全てがなされる場合に生活は容易に過ごせるということ、そして社会秩序はよく整えられた機械のようなものだということ、を理解するだろうがゆえに。
 警察または監獄、法令について-何についても-、特別の国家の大臣は必要ないだろう。
 管弦楽団で演奏者全員が指揮者の棒を見て、それに従って演奏するのと全く同じように、全ての者が統計報告書に情報を求め、それに従って彼らの仕事をするだろう。』(20)
 これは、Orwell の<一九八四年>のおかげで、我々には不吉な響きをもつかもしれない。しかし、当時の観点からすると、大胆で革命的な思考であって、未来主義芸術のようにきわめて現代的だつた(そして世俗的現実からは離れていた)。
 内戦期は知的および文化的な実験が盛んな時代だった。そして、若い急進的知識人たちの中では、過去に対する因襲破壊的態度がお決まりのこと(de rigueur)だった。
 未来社会の「よく整えられた機械」を含む機械は、芸術家と知識人たちを魅惑した。
 感性、精神性、人間劇および個人の心理への過大な関心は流行ではなくなり、しばしば「小ブルジョア的」だと非難された。
 詩人 Vladimir Mayakovsky や劇場支配人 Vsevolod Meyerhold のような前衛芸術家は、革命的芸術と革命的政治とは、古いブルジョア社会に対する同じ抗議の一面だと考えた。
 彼らは十月革命を受容し、新しいソヴェト政府のための尽力を提供した知識人層の最初の者たちの中にいた。彼らは、キュービストや未来主義様式の宣伝ポスターを作り、以前の宮殿の壁に革命的スローガンを描き、街頭で革命的勝利を大衆的に再現する上演を行い、政治的に重要なメッセージに加えて曲芸を在来の劇場に持ち込み、そして過去の英雄たちの非具象的な像をデザインした。
 かりに前衛芸術家たちが自由に振る舞えば、伝統的なブルジョア芸術は、ブルジョア諸政党よりもはるかに急速に、消失していただろう。
 しかしながら、ボルシェヴィキ指導者たちは、芸術上の未来主義とボルシェヴィズムが分かち難い同盟関係にあるとは、全く考えていなかった。そして、古典的芸術文化について、より慎重な立場をとった。//
 革命による自由化という精神は、女性と家族に関するかぎりは、ボルシェヴィキによって(または少なくともボルシェヴィキの知識人によって)全面的に受け入れられた。
 ボルシェヴィキは、ロシアの1860年代以降の急進的知識人層のたいていの者がそうだったように、女性の解放を支援した。
 F・エンゲルスは、近代家族では夫は「ブルジョアジー」で妻は「プロレタリア」だと書いていた。ボルシェヴィキは彼のように、女性を被搾取集団だと見なした。
 内戦の終わりまでに、離婚を容易にする法令が制定された。それはまた、非合法という汚名を取り除いて妊娠中絶を許し、女性の対等な権利と対等な支払いを要求した。//
 最も急進的なボルシェヴィキ思考家だけが家族の解体について語った一方で、女性と子どもたちが家族内での抑圧の潜在的な被害者で、家族はブルジョア的価値を教え込みがちだと、一般的に想定されていた。
 ボルシェヴィキ党は特別に女性部を設置した(zhenotdely)。女性を組織して教育し、利益を保護し、そして自立した役割を果たすのを助けるためだった。
 若い共産党員たちは、自分たちの独立した組織をもった-青年および若年成人のためのコムソモル(Komsomol)と(数年後に設置された)10歳から14歳までの集団のための少年ピオネール(Young Pioneers)。これらは、その構成員に家庭や学校でのブルジョア的傾向に注意を払うよう指導した。また、古き日々を郷愁をもって振り返ったり、ボルシェヴィキと革命とを嫌ったり、あるいは「宗教的迷信」にすがりつく両親や教師たちを再教育するように努めるよう指導した。
 内戦中に報告されたスローガン、「親の資本主義的専制よ、くたばれ!」は古いボルシェヴィキには少しばかりは元気すぎるものだったとしても、若者の反骨精神は、初期の党では一般的に称賛され、配慮された。//
 しかしながら、性の自由化は、ボルシェヴィキ指導部を悩ませた若い共産党員の主張だった。
 妊娠中絶や離婚に関する党の立場からして、ボルシェヴィキは無分別のセックスを意味する「自由恋愛」を擁護していると広く受け止められた。
 レーニンは確実に、そうではなかった。すなわち、彼の世代はブルジョアジーのペリシテ人的道徳に反対したが、両性間の同志的関係を強調し、乱交は軽薄な性質を示すものだと考えた。 
 性の問題に関して最も多くを執筆し、いくぶんかはフェミニストである Aleksandra Kollontai (コロンタイ)ですら、しばしば彼女に原因があるとされたセックスの「一杯の水」理論ではなくて、愛を信じる者だった。//
 しかし、一杯の水という考え方は、若い共産党員の間では人気があった。とくに、赤軍で共産主義イデオロギーを学び、気まぐれなセックスをほとんど路上での共産主義者の儀式のように見なした、男たちにとっては。
 このような態度は、他のヨーロッパ諸国よりもロシアでより顕著ですらあった、戦時中および戦後における道徳の、一般的な弛緩を反映していた。
 年配の共産党員は、これを我慢しなければならなかった-彼らは性は私的事項だと考えたが、結局は革命家であってブルジョア的ペリシテ人ではなかった-。キユービスト、エスペラントの主張者、裸体主義者(nudist)を、彼らが我慢しなければならなかったように。裸体主義者は、イデオロギー上の確信的行為として、ときにはモスクワの混み合う路面電車の中へと裸で飛び込んだ。
 --------
 (19) Richard Stites, <革命の夢-ロシア革命における夢想家的見通しと実験的生活>(Urbana, IL, 1971), p.32-35 を見よ。
 (20) Bukharin & Preobrazensky, <共産主義のイロハ>, p.118.
 ----
 第4節・権力にあるボルシェヴィキ(The Bolsheviks in power)。
 権力を奪取して、ボルシェヴィキは統治することを学ばなければならなかった。
 ほとんど誰にも、行政の経験がなかった。すなわち、従前の職業でいうと、ほとんどが職業的革命家、労働者またはフリーランスの報道者だった(レーニンは自分の職業について「文筆家」(literator)と載せた)。
 ボルシェヴィキは官僚層を軽侮しており、官僚たちがどう仕事をしているかについてほとんど知らなかった。
 予算についても、何も知らなかった。啓蒙人民委員部の長だったAnatolii Lunacharsky が、彼には最初の財務官についてこう書いたように。
『彼が銀行から我々に金を運んできたとき、彼の顔は大きな驚きの色をつねに見せていた。
 彼にはまだ、革命と新しい権力組織は一種の魔術のように、また、魔術では現金を受け取るのは不可能であるように、思えていた。』(21)
 内戦の間、たいていのボルシェヴィキの組織上の能力は、赤軍、食糧人民部およびチェカへと注ぎ込まれた。
 地方の党委員会やソヴェトからの能力ある組織者は、絶えず、赤軍へと送り込まれるか、または面倒な問題の解決のためにどこかへと派遣された。
 かつての中央政府の各省(このときは人民委員部)は、主として知識人で成るボルシェヴィキ小集団によって動いた。そして、相当に広い範囲で、かつては帝制政府や臨時政府のために働いた役人たちが補佐していた。
 中央の権威は、混乱するほどに、政府(人民委員会議)、ソヴェト中央執行委員会およびボルシェヴィキ党中央委員会に分けられていた。この党中央委員会には事務局(Secretariat)と、組織と政治に関する部局である、組織局(Orgburo)と政治局(Politburo)があった。//
 ボルシェヴィキはその支配を「プロレタリア-ト独裁」と称した。これは、活動上の観点からは、かなり多く、ボルシェヴィキ党の独裁と一致していた。
 他の諸政党の存在余地がほとんど残されないことは、最初から明瞭だった。すなわち、諸政党は白軍を支持したりまたは(左翼エスエルの場合のように)反乱を起こしても非合法化されることはなかったけれども、内戦中は嫌がらせを受け、逮捕によって脅迫され、1920年代には自己消滅を強いられた。
 しかし、統治の形態の観点からして独裁が何を意味するかは、相当に明瞭でなかった。
 ボルシェヴィキは元々は、自分たちの党組織が政府の装置となる潜在性があるとは考えていなかった。
 党組織は政府とは別にあり、行政活動から離れたままだろう、と想定していたように見える。複数政党制のもとでボルシェヴィキが政権党になった場合にそうだっただろうと全く同じように。//
 ボルシェヴィキはまた、その支配を「ソヴェト権力」と称した。
 しかし、これは決して正確な叙述ではなかった。第一に、十月革命は本質的に党のクーであって、ソヴェトのクーではない。第二に、(ボルシェヴィキ中央委員会が選出した)新しい政府はソヴェトとは関係がない。
 新政府は、さまざまの省庁官僚機構を臨時政府から引き継いだ。その官僚機構はまた、ツァーリの閣僚会議から継承されたものだった。
 しかし、旧行政機構が完全に崩壊していた地方レベルでは、ソヴェトが一定の役割を獲得した。
 ソヴェト(あるいは正確にはその執行委員会)は、中央政府の地方機関となった。そして、財務、教育、農業等々に関する自分たちの官僚部局を設立した。
 この行政機能は、ソヴェトの選挙が形式にすぎなくなってしまった後ですら、ソヴェトの利点となった。//
 中央政府(人民委員会議)は、最初は、新しい権力システムの結節部(hub)であるように見えた。
 しかし、内戦の終わり頃までに、ボルシェヴィキ党中央委員会と政治局がその政府の権力を奪い取りつつある兆しがあった。一方で地方レベルでは、党委員会がソヴェトを支配しつつある兆しも。
 国家機関に対する党の優越は、ソヴェト体制の永続的な特質になることとなった。
 しかしながら、レーニン(1921年に重病になり、1924年に死亡)は病気で舞台から退場しなかったならばいかなるこのような傾向にも反対しただろう、そして党ではなく政府が主要な役割を果たすべきだと考えていたのだ、と議論されてきた。(22)
 確かに革命家であり革命的な党の創設者にしては、レーニンには組織に関して奇妙に保守的な傾向があった。
 彼は、即席の幹部会のようなものではなく、真の(real)政府が欲しかった。真の軍隊、真の法制、さらにおそらく、最終的に分析すれば、真のロシア帝国を欲したのと全く同じように。
 しかしながら、この政府の構成員はつねに事実上はボルシェヴィキの中央委員会と政治局によって選ばれた、ということを想起しなければならない。
 レーニンは政府の長だったが、また同時に事実上は中央委員会と政治局の長だった。
 そして、内戦期の重要な軍事政策および外交政策に対処したのは、政府ではなくこれらの党機関だった。
 レーニンの観点からは、このシステムの政府側の大きな利点はおそらく、官僚機構が多数数の技術的専門家(財務、工学、法制、公共の健康等々)をがもっていたということだった。彼らの技術を利用するのがきわめて重要だと考えていたのだ。
 ボルシェヴィキ党はそれ自体の官僚機構を発展させたが、党員ではない外部者を採用することはなかった。
 党には、とくに労働者階級の党員の間には、「ブルジョア専門家」に対する大きな疑念があった。
 このことはすでに、職業的軍人(以前の帝制期の将校たち)を軍が使うことにボルシェヴィキが1918-19年に強く反対したことによって明確に示されていた。//
 ボルシェヴィキによる権力奪取後に出現した政治システムの性格は、組織編成という観点でのみならず、ボルシェヴィキ党の性質という観点からも説明されなければならない。
 ボルシェヴィキは権威主義的性格の党であり、つねに一人の強い指導者をもつ党だつた。-レーニンに対する反対者によれば、独裁的な党ですらあった。
 党の紀律と一体性が、つねに強調されてきた。
 1917年以前は、何らかの重要な論点についてレーニンに同意できないボルシェヴィキたちは、通常は党を去った。
 1917-20年、レーニンは党内部での異論やさらに組織的反対派にすら対処しなければならなかった。しかし、レーニンはこれを不正常で苛立たせる状況だと考えたと見られる。そして、最終的には、これを変える決定的な一歩を進んだ(後述、p.101-3)。
 党外部からの反対または批判については、革命の前も後も、いずれであれ容赦することがなかった。
 レーニンとスターリンの若いときからの仲間であるVyacheslav Molotov(モロトフ)は、のちに敬意をもって、つぎのように論評した。レーニンは1920年代初期に、スターリンすらより強固な心性をもっていた。彼はかりにそれが一つの選択肢だったとしてすら、いかなる反対をも容赦しなかっただろう、と。(23)//
 ボルシェヴィキ党のもう一つの重要な特性は、党は労働者階級だ、ということだった。労働者階級-その自己像において、社会での支持の性質からして、そして党員の大多数という意味で。
 党に関する俗っぽい知識では、労働者階級のボルシェヴィキ党員は「強固」で、知識人層出身の党員は「軟弱」だつた。
 このことにはたぶん、ある程度の真実がある。ともに知識人であるレーニンとトロツキーは、顕著な例外だったけれども。
 党の権威主義的で非リベラルで粗雑な、そして抑圧的な特徴は、1917年と内戦時代に労働者階級と農民の党員が大量に流入したことでさらに強くなったのかもしれない。//
 ボルシェヴィキの政治的思考は、労働者階級を中心に動いた。
 彼らは、社会は対立する階級に分けられ、政治的闘争は社会的闘争の反映であり、都市的労働者階級とその他の以前の被搾取階級の構成員たちは自然な革命的同盟者だ、と考えていた。
 その上さらに、かつての特権的で搾取する階級の構成員たちは当然の敵だと、見なした。(24)
 ボルシェヴィキのプロレタリア-トとの結びつきは彼らの感情形成の重要部分だった一方、彼らの「階級敵」-従前の貴族、資本家の一員、ブルジョアジー、クラク(富農)等-に対する憎悪と疑念は同様に強く、長期的視野で見るとおそらく、より重要だった。
 ボルシェヴィキからすれば、かつての特権階級は、その定義上たんに反革命の者たちというのではない。
 その者たちが存在しているという事実だけで、反革命の陰謀が行われていることになった。
 この国内の陰謀は、理論も内戦時の外国の干渉という現実も示したように国際資本主義勢力が支援しているがゆえに、それだけ一層、脅威だった。//
 ボルシェヴィキの考えによると、ロシアでのプロレタリアの勝利を確実にするためには、階級的搾取の従前の態様を排除するだけではなくて、逆転させることが必要だった。
 この逆転の方法は、「階級的正義」の原理を用いることだった。//
 『かつての法廷では、搾取者という少数者階級が多数者の労働者に対して判決を下した。
 プロレタリア独裁の法廷は、多数者の労働者が搾取少数者階級に対して判決を下す場所だ。
 それは、特別にその目的のために設立される。
 裁判官は、労働者のみによって選抜される。
 裁判官は、労働者の中からのみ選抜される。
 搾取者たちにただ一つ残っている権利は、判決を受けるという権利だ。』(25)//
 こうした原理的考えは、明らかに平等主義的(egalitarian)ではない。
 しかし、ボルシェヴィキは、革命および社会主義への移行の時期に平等主義であるとは一度も主張しなかった。
 ボルシェヴィキの立場からは、ある範囲の者は体制の階級敵であるときに全ての公民が平等(equal)だと考えるのは不可能だった。
 かくして、ロシア共和国の1918年憲法は全ての「勤労者(toilers)」(性や民族と関係なく)に選挙権を認めたが、搾取階級とその他のソヴェト権力に対する識別可能な敵たちを除外した。-識別可能な敵とは、雇用労働者の雇用主、不労所得または賃料で生活している者たち、クラク、聖職者、かつての警察官および一定範囲の帝制期の憲兵や白軍の将校たちだ。//
 「誰が支配しているのか?」という問題は、抽象的には設定されうる。しかし、これは「どの民衆が仕事を得ているのか?」という具体的意味も持っている。
 政治権力は担い手を変えた。そして、(ボルシェヴィキは一時的な応急措置だと考えたが)古い主任者(bosses)に代わる新しい主任者が見出されなければならなかった。
 ボルシェヴィキの気風からして、不可避的に階級こそが選抜の規準だった。
 ある範囲のボルシェヴィキたちは、レーニンを含めて、教育が階級と同じように重要なだと論じたかもしれなかった。他方で、より少ない範囲の者たちは、工場から長いあいだ離れている労働者たちはそのプロレタリアという自己認識を喪失しているのではないか、と気に懸けた。
 しかし、党全体として堅固な合意があったのは、新しい体制が権力を本当に委ねることのできる唯一の民衆は、古い体制のもとでの搾取の犠牲者であるプロレタリアだ、ということだった。(26)
 内戦が終わるまでに、数千人の労働者、兵士および海兵たちが-ボルシェヴィキ党員と最初には1917年にボルシェヴィキとともに戦った者たちで、のちには赤軍や工場委員会で傑出した者たち、若くて比較的に学歴の高い者たち、および世の中で出世しようという野心を示す者たちが-、「幹部」(cadres)、すなわち、責任ある仕事、通常は行政上のそれ、に就く者たちになっていた。
 (そして、多数の非プロレタリア-トの支持者たちもいた。その中には、革命が帝制による制約からの解放と新しい機会を意味したユダヤ人たちも。(27))
 「幹部」たちは、赤軍司令部、チェカ、食糧行政部および党とソヴェトの官僚機構にいた。
 多くの者は、通常は地方の工場委員会または労働組合で働いたあとで、工場の管理者に任命された。
 1920-21年には、この「労働者の昇進」過程が大規模に続くのか否か、あるいはどの程度に続くのかは、党指導者たちに完全に明瞭ではなかった。党の元々の貯蔵層である労働者党員が相当に消耗し、内戦中の工業の崩壊と都市での食糧不足によって、1917年の工業労働者の階級が解体し、麻痺していたからだ。 
 にもかかわらず、ボルシェヴィキは、「プロレタリア-トの独裁」でもって何を意味させたのかを、経験によって見出した。
 それは、工場での仕事にとどまり続けた労働者たちによる、集団的な階級独裁ではなかった。
 「プロレタリア-トの独裁」は、全日勤務する「幹部」または主任たちが作動させる独裁だった。そこでは、新しい主任たちのうち可能な限り多数は、従前のプロレタリアだった。//
 --------
 (21) S・フィツパトリク・<啓蒙人民委員部>(London, 1970), p. 20.から引用した。
 (22) T. H. Rigby, <レーニンの政府-ソヴナルコム・1917-1922年>(Cambridge, 1979)。
 最近の、権力にあるレーニンに関する資料を基礎にした説明として、Robert Sercive, <レーニン-伝記>(London, 2000), Chs. 15-25. を見よ。
 (23) <Sto sorok besed s Molotovym . Iz dnevnikov F. I. Chueva>(Moscow, 1991), p. 184. これは、私の訳だ。
 <モロトフは回想する>の英語版、Albert Resis 訳(Chicago, 1993), p. 107 は不正確だ。
 (24) 個人の階級帰属意識は自明のことだというボルシェヴィキの想定は、すぐに誤っていると分かった。しかし、ボルシェヴィキは10-15年にわたって、実際上かつ観念上の困難さを無視して、社会階層によって民衆を区分する努力をし続けた。
 困難さにつき、S・フィツパトリク・<仮面を剥ぎ取れ!>(Princeton, 2005), Chs. 2-4. および(ドン地方での「階級敵」としてのコサックにつき)Holquist, <戦争を起こす>, とくにp.150-p.197. を見よ。
 (25) Bukharin & Preobrazhensky, <共産主義のイロハ>, p.272.
 (26) S・フィツパトリク・<ソヴィエト同盟における教育と流動性・1921-1934年>(Cambridge, 1979), Ch. 1.を見よ。
 (27) ユダヤと革命につき、Yuri Slezkine, <ユダヤ人の世紀>(Princeton, NJ, 2004), とくにp.173-p.180 とp.220-226 を見よ。
 ----
 第3章の第3節・第4節まで終わり。

1817/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑩。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第10回。
 第3章・内戦。
 ----
 第2節・戦時共産主義(War Communism)。
 ボルシェヴィキは、崩壊に近い状態で戦争中の経済を引き継いだ。その最初でかつ重大な課題は、経済を作動させることだった。(12)
 これは、内戦時の経済政策という現実的な脈絡の中で、のちに「戦時共産主義」という名称が与えられた。
 しかし、イデオロギー上の意味ももっていた。
 ボルシェヴィキは、長期的観点からは、私有財産と自由市場の廃止および必要に応じての生産物の配分を意図していた。そして、短期的には、これらの理想に近いものを実現させる政策を望んだかもしれなかった。
 戦時共産主義における現実主義とイデオロギーの間の均衡関係は、長いあいだ論争の対象になってきた。(13)
 問題は、国有化と国家による配分といった政策は戦争という非常事態への現実的な対応だとするか、それとも共産主義が指示するイデオロギー上の要求だとするか、これらのいずれによって、もっともらしくし説明することができるのか、だった。
 この論議では、両派の学者たちが、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者の公的文章を引用することができる。ボルシェヴィキたち自身が、確実な回答をすることができないからだ。
 新しい経済政策のために戦時共産主義が頓挫した1921年時点でのボルシェヴィキの見方からは、明らかに現実的な解釈が選好された。すなわち、戦時共産主義がいったん失敗したとするなら、そのイデオロギー上の土台に関してはなるべく語らない方がよかったのだ。
 しかし、初期のボルシェヴィキの見方からは-例えば、Bukharin と Preobrazensky の<共産主義のイロハ>の見方からは-、それの反対が真実(true)だった。
 戦時共産主義が実施されている間、ボルシェヴィキがその政策にイデオロギー上の正当化を与えるのは自然だった。-マルクス主義という科学的イデオロギーで武装した党は、たんに保ち続けるようもがいているのではなく、事態を完全に掌握している、と主張するために。//
 論議の背後にある問題は、ボルシェヴィキはどの程度すみやかに共産主義へと移行できると考えていたのか、だ。
 これに対する答えは、1918年について語るのか、それとも1920年について語るのか、によって異なる。
 ボルシェヴィキの最初の歩みは用心深く、将来に関する公式説明もそうだった。
 しかしながら、1918年半ばでの内戦勃発から、ボルシェヴィキに初期にあった用心深さは消え失せ始めた。
 絶望的な状勢を見渡して、ボルシェヴィキはより急進的な政策へと変化し、徐々に中央政府の支配がおよぶ範囲を、元々は意図していたよりも広くかつ急速に拡張しようとした。
 1920年、ボルシェヴィキが内戦での勝利と経済での崩壊へと向かっていたとき、高揚感と絶望感とが定着した。
 多くのボルシェヴィキには、古い世界が革命と内戦の炎の中へと消え失せるとともに、新しい世界がその燃え滓の中から不死鳥のごとく起ち上がるように思えた。
 この希望はおそらく、マルクス主義というよりも無政府主義的イデオロギーにもとづくものだった。しかし、そうではあっても、マルクス主義の言葉遣いで表現された。すなわち、プロレタリア革命の勝利と共産主義への移行は、おそらく数週間後あるいは数箇月後にまで切迫している、と。//
 経済政策の領域で最重要なものの一つである国有化は、このような帰結を例証するものだ、とされた。
 優秀なマルクス主義者として、ボルシェヴィキは、十月革命後にきわめて速やかに銀行と信用機関を国有化した。
 しかし、工業全体の国有化に、ただちには着手しなかった。すなわち、最初の国有化布令は、プチロフ工業所のような、防衛生産と政府契約を通じて国家に緊密に関与していた個々の大コンツェルンにのみ関係するものだった。//
 しかしながら、情勢は多様で、ボルシェヴィキの元来の短期的意図をはるかに超える範囲で、国有化が行われることになった。
 地方ソヴェトは、その権限にもとづいて工場施設を収奪した。
 ある範囲の工場施設は、所有者または経営者が放棄した。別のいくつかの工場施設は、かつて経営から排除されていたその労働者たちの請願によって、あるいは無秩序の労働者たちからの保護を求める経営者の請願すらによって、国有化された。
 1918年夏、政府は、全ての大規模工業を国有化する布令を発した。そして、1919年秋までに、この布令の対象となった企業の80パーセントが実際に国有化された、と推算された。
 これは、新しい経済最高会議(Supreme Ecconomic Council)の組織能力をはるかに超えるものだった。すなわち、実際には、かりに労働者たち自身が原料の供給や最終製品の配分を調整して工場施設を作動させ続けることができなければ、その工場施設はしばしばすぐに閉鎖された。
 だが、そのようであっても、ボルシェヴィキは、さらに進めなければならないと感じていた。
 1920年11月、政府は少なくとも紙の上では、全ての大規模工業を国有化した。
 もちろん実際には、ボルシェヴィキには、それらを管理することはもとより、新しい獲得物をどう呼び、どう分類するかも困難だった。
 しかし、理論上は、生産の領域全体が今やソヴィエト権力の手中にあり、工芸品店舗や風車ですら、中央が指揮する経済の一部になった。//
 同じような経緯によって、ボルシェヴィキは内戦が終わる頃まで、自由取引のほとんど完全な廃絶と事実上の貨幣なき経済に向かって進んだ。
 町での配給(1916年に導入)、および理論上は農民層がその余剰の全てを渡すことが必要な穀物の国家独占(臨時政府が1917年春に導入)を、先任者たちから継承していた。
 しかし、町にはパンや他の食糧がまだ不足していた。市場で買える工業製品がほとんどなかったので、農民たちが穀物等を売りたくなかったからだ。
 十月革命のすぐ後でボルシェヴィキは、金銭ではなく工業製品を農民たちに代わりに提供して、穀物の配達量を増加させようとした。
 彼らはまた、取引き全体を国有化し、内戦勃発後は、基礎的な食糧および工業製品の自由な小売り販売を禁止し、消費者協同組合を国家の配分組織網の中に編入しようとした。(14)
 これらは、町での食糧危機および軍隊への供給の問題を見ての緊急措置だった。
 しかし、明らかにボルシェヴィキは、これらをイデオロギー上の言葉で正当化できた-また、実際にそうした。//
 町での食糧危機が悪化するにつれて、物々交換が取引の一般的形態になった。そして、貨幣は、その価値を失った。
 1920年までに、労賃と給料は部分的には現物(食糧と製品)で支払われており、貨幣ではなく商品を基礎にした予算を案出する試みすらなされた。
 衰亡していく都市でまだ機能していた範囲でも、公共サービスは個々の利用者が対価を支払う必要がもうなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキは、これをイデオロギー上の勝利だとして褒め讃えた。-この「貨幣に対する見下し」は、社会がすでに共産主義にきわめて接近していることを示すものだったのだ。
 しかしながら、楽観的ではない観察者には、それは悪性のインフレのように見えた。//
 ボルシェヴィキにとっては不運なことに、イデオロギー上の命題と現実上のそれは、つねにそう都合よく一つになるものではなかった。
 それらの分裂は(そのイデオロギーが実際にはどういう具体的な意味をもつのかに関して、ある範囲のボルシェヴィキには曖昧さがあったこととともに)、とりわけ、労働者階級に関する政策について明確だった。
 例えば労賃に関して、ボルシェヴィキには実務での厳格な平等主義的(egalitarian)政策以上の平等主義志向があった。
 生産を最大限にまで高めるために、ボルシェヴィキは、工業での出来高払いを維持しようとした。しかし労働者たちは、そうした支払い制度は本質的に不平等で不公正だと考えた。
 不足分と配給制によっておそらく、内戦期の都市内の不平等さは減らされていった。しかし、そのことがボルシェヴィキによる成果だとは、ほとんど見なされなかった。
 実際に、戦時共産主義のもとでの配給制度は、赤軍の兵士、重要工業の熟練労働者、共産党員の行政公務員およびある範囲の知識人など、一定の範疇の国民の利益になった。//
 工場の組織は、別の厄介な問題だった。
 工場は、中央の計画や調整機関の指導に従って、労働者たち自身によって(「労働者による統制」に対するボルシェヴィキの1917年の是認が示唆すると思われるように)、それとも、国家が任命した経営者によって、運営されることとされたのだろうか?
 ボルシェヴィキは後者を支持した。しかし、戦時共産主義の間の事実上の結果は、妥協的な、かつ場所によってかなりの変動のあるものだった。
 ある工場群は、選出された工場委員会によって稼働されつづけた。
 別の工場群は、しばしば共産党員だがときどきは従前の経営者、主任技師である、任命された管理者によって稼働された。任命される者の中には、工場施設の従前の所有者すらがいた。
 だがまた別の場合には、工場委員会または労働組合出身の一人の労働者や労働者集団が、工場施設の管理者に任命された。そして、このような過渡的な編成が-労働者による統制と任命管理者制度の中間が-しばしば、最もうまくいった。//
 農民層に対処するについて、ボルシェヴィキの最初の問題は、食料を取り上げるという現実的なものだった。
 国家による穀物の収奪は、私的な取引を非合法することや金銭に代わる代償として工業製品を提供すること、これらのいずれかで成し遂げられたのではなかった。すなわち、国家には、提供できる品物がほとんどなかった。そして、農民層は生産物を手渡したくないままだった。
 町々や赤軍に食料を供給する緊急の必要があったので、国家には、説得、狡猾、脅迫または実力行使によって農民たちの生産物を取り上げるしか方法はほとんどなかった。
 ボルシェヴィキは、穀物の徴発(grain requisitioning)という政策を選んだ。これは、-通常は武装した、かつ可能ならば物々交換のできる品物をもった-労働者および兵士の部隊を派遣して、退蔵穀物を農民の食料小屋から取り上げる、というものだった。(15)
 明らかにこれは、ソヴィエト体制と農民層の間に緊張関係を生み出した。
 しかし、占拠している軍隊がかつてずっとそうだったように、白軍も同じことをした。
 ボルシェヴィキが土地に頼って生きていかなければならないことは、おそらく農民たちを驚かせた以上に、自分たちを驚かせた。//
 しかし、明らかに農民層を驚かせて警戒させたボルシェヴィキのこの政策には、別の側面があった。
 第一に、ボルシェヴィキは、村落に対立集団を作って分裂させることで、穀物収奪を容易にしようとした。
 村落での資本主義の発展によって農民たちの間にはすでに明確な階級分化が生じていると信じて、ボルシェヴィキは、貧農や土地なき農民からの本能的な支持と裕福な農民に対する本能的な反感を得ることを期待した。
 そのことからボルシェヴィキは、村落で貧農委員会を組織し始め、富裕農民の食料小屋から穀物を取り出していくソヴェト当局に協力するようにその組織に促した。
 この試みはひどい失敗だったことが分かった。一つの理由は、外部者に対する村落の正常な連帯意識だった。別の理由は、以前の貧農および土地なき農民の多数は、1917-1918年の土地奪取とその配分によって彼らの地位を向上させていた、ということにあった。
 さらに悪いことに、田園地帯での革命に関するボルシェヴィキの理解は自分たちのそれと全く異なるということを、農民たちに示してしまった。//
 人民主義者と論争したかつてのマルクス主義者のようにまだ考えているボルシェヴィキにとっては、<ミール>は衰亡している組織であって、帝制国家によって堕落させられ、出現している村落資本主義によって掘り崩されており、そして社会主義の発展にはいかなる潜在的能力も持たないものだった。
 ボルシェヴィキはさらに、村落地域での「第一の革命」-土地奪取と平等な再配分-は、すでに「第二の革命」、つまり貧農の富農に対する階級戦争へと継承されている、と考えた。この階級戦争は、村落共同体の統一を破壊しており、最終的には<ミール>の権能を破壊するはずのものだった。(16)
 一方で農民は、歴史的には国家によって悪用されたが、最終的には国家の権力を放擲して農民革命を達成していた真の農民組織だと、<ミール>を理解していた。//
 ボルシェヴィキは1917-1918年には農民層に好きなようにさせたけれども、田園地帯に関する長期方針は、ストリュイピンのそれと全く同じく破壊的なものだった。
 ボルシェヴィキは、<ミール>および土地を分割する細片地(strips)の仕組みから家父長制的家族まで、村落の伝統的秩序のほとんど全ての点を是認しなかった。
 (<共産主義のイロハ>は、農民家族が各家庭で夕食を摂るという「野蛮」で贅沢な習慣を放棄し、村落共同体の食事室で隣人に加わるときを、期待すらしていた。(17))
 彼らは、ストリュイピンのように、村落への余計な干渉者だった。
 そして、原理的に彼の小農的プチ・ブルジョアジーへと向かわせたい熱意には共感はできなかったけれども、農民の後進性に対する深く染みこんだ嫌悪感を持っていたので、各世帯の分散した細片地を近代的な小農業に適した四角い画地にして安定させようとするストリュイピンの政策を継続した。(18)
 しかし、ボルシェヴィキの本当の(real)関心は、大規模農業にあった。そして、農民層に対する勝利という政治的命題からだけ、1917-18年に起きた大きな土地の分解は大目に見て許した。
 残っている国有地のいくつかで、ボルシェヴィキは国営農場(<ソホージ(sokhozy)>)を始めた。-これは事実上は、大規模な資本主義農業の社会主義的な同等物で、労賃のために働く農業従事者の作業を監督する、管理者が任命されていた。
 ボルシェヴィキはまた、集団的農場(<コルホージ(kolkhozy)>)は伝統的なまたは個人的な小保有農業よりも優れている、と考えていた。
 そして、内戦期に、通常は動員を解除された兵士や食うに困って町々に逃げ込んだ労働者たちによって、いくつかの集団的農場が設立された。
 集団的農場では、伝統的な農民村落のようには、土地が細片地に分割されるということがなかった。そうではなく、集団的に(collectively)土地で働き、集団的に生産物を市場に出した。
 初期の集団農場の農民には、しばしば、アメリカ合衆国その他での夢想家的な(ユートピアン)農業共同体の創始者のイデオロギーに似たものがあった。そして、資産や所有物のほとんど全てを貯蔵した。
 かつまた彼らは、夢想家たちに似て、ほとんど稀にしか、農業経営に成功したり、平穏な共同体として長く存続したりすることがなかった。
 農民たちは、疑念をもって国家的農場や集団的農場を見ていた。
 それらは、あまりにも少なくてかつ力強くなかったので、伝統的な農民の農業に対する重大な挑戦にならなかった。
 しかし、それらのまさに存在自体が、ボルシェヴィキは奇妙な考えを抱いていて、とても信頼できるものではない、ということを農民たちに思い起こさせた。
 --------
 (12) 経済につき、Silvana Malle, <戦時共産主義の経済組織・1918-1921年>(Cambridge, 1985)を見よ。
 (13) Alec Nove, <ソヴィエト同盟の経済史>(London, 1969), Ch. 3. を見よ。
 (14) 商取引に関する政策につき、Jule Hessler, <ソヴィエト商取引の社会史>(Princeton, NJ, 2004),Ch. 2. を見よ。
 (15) 食料収奪につき、Lars T. Lih, <ロシアにおけるパンと権力・1914-1921年>(Berkley, 1990)を見よ。
 (17) N. Bukharin & Preobrazhensky, <共産主義のイロハ>、E. & C. Paul訳(London, 1969)p.355.
 (18) ストリュイピン改革の時期と1920年代の間の継続性につき、とりわけ田園地帯での土地安定化の作業をした農業専門家の存在を通じての、George L. Yaney, 「ロシアにおけるストリュイピン土地改革から強制的集団化までの農業行政」、James R. Millar, <ソヴィエトの村落共同体>(Urbana, IL, 1971)所収, p.3-p.35.を見よ。
 ---- 
 第3章(内戦)のうち、「はじめに」~第2節(戦時共産主義)までが終わった。

1816/クリストファ・ヒル(英国)のレーニン「幻想」。

 英国の歴史研究者・クリストファー・ヒル(Christopher Hill、1912~2003)は、80歳を過ぎて、英国紙Independent の1994年1月15日号の<文化>面らしきところに、以下の文章を寄せている。同紙のサイトによる。全文を訳してみる。一文ごとに改行して、本来の改行箇所には//を付す。
 ----
 「私は1945-46年に、<レーニンとロシア革命>を執筆した。今日では考え難いけれども、戦争中の英国とソ連との間の友好関係が成長し続けるかのごとく見えた、短い期間の間にだった。//
 外務当局が政府の承認を得て、両国の学生たちを定期的に交換留学させるという大規模な企画を考えるために、学識者の有力な委員会を立ち上げていた。
 冷戦によって、これは終わった。そして、ソ連に関して何か良いことを発言するのは、流行らない、かつある分野ではその人の評判を危うくするものになった。
 冷戦の終焉によって、イギリスとロシアの関係をより良く修復し、レーニンと彼の革命を再評価することが、いずれも可能になった。//
 本を執筆しているとき、私は、17世紀のイギリス革命、1789年のフランス革命および1917年のロシア革命の間にある共通性を抽出することを旨としていた。
 1660年の後のイングランド、1815年の後のフランスには、先立つ革命に対する苛酷な反動があった。
 しかし、イングニンドで1688年、フランスで1830年に、それらは旧体制の復活ではないことが示された。
 イギリスの革命は存続して、18世紀のヨーロッパ啓蒙時代の基礎を形作った。クロムウェルのもとでイングランドがアイルランドに従属するという恐怖があったにもかかわらず。
 テロルがあったにもかかわらず、フランス革命の理念(理想)は世界を覆い尽くした。//
 ロシア革命の元来の理念(理想)-男女の平等、諸民族の平等、働いてそれが生んだ富の配分を公正に分け合うという誰もが有する権利、怠惰な遊休階級は望ましくないこと-、これらの理念(理想)のいくつかは、ソヴィエトの現実では見られなくなった。しかしなお、これらは有効性を保っている。
 スターリニズムの虚偽と歪曲が忘れられるときに、それらの理念(理想)は思い起こされるだろう。-とくに、第三世界では。//
 毛沢東がフランス革命について語ったように、ロシア革命を適切に評価するにはまだ早すぎる。
 しかし、すでに我々には、西側資本主義の最悪の特質を真似ようとする猪突猛進行動はロシアで継続していないことが確実だ。
 失業、急騰する物価、社会保障の欠如、富のひどい不平等、統制されない民族および人種の敵対感、財産と人身に対する犯罪-これらの全てが、多くの者を、ソヴィエト体制がもったより良き展望を郷愁をもって(nostalgically)回顧させている。
 安定が最終的にやって来たときにはじめて、レーニンと彼の革命の公正な評価に至ることが可能だろう。
 スターリンのゆえにレーニンを責めるという罠(trap of blaming Lenin for Stalin)に陥らないようにするのが重要だ。二人の間に、いかなる連環(links)を見ようとも。//」
 ----
 このCh. Hill は1947年(35歳の年)に<レーニンとロシア革命>と題する書物を刊行した。
 もっとも、ロシア・ソ連史が専門ではなく、17世紀イギリス史がそれだとされる。
 しかし、上の<レーニンとロシア革命>は邦訳されて、岩波新書の一つとして1955年に刊行された。
 この岩波新書を、レーニンの「生い立ち」やその青年時代の思考を記述するために使っているのが、つぎの本だ。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 上のように、ロシア革命やレーニンをなお見ているヒルの本を、江崎はどのように<参照>しているだろうか。
 実質的に、江崎著指弾へと続く。

1812/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑨。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第9回。 
 ----
 第三章・内戦(The Civil War)。
 (はじめに)
 十月の権力奪取はボルシェヴィキ革命の終わりではなく、始まりだった。
 ボルシェヴィキはペテログラードを征圧し、一週間の路上戦闘ののち、モスクワでもそうした。
 しかし、たいていの州中心地で起ち上がったソヴェトはまだ、ブルジョアジーの打倒(地方レベルではしばしば、町のしっかりした市民層が設置した「公共安全委員会」の排除を意味した)のために資本家の指導に従わなければならなかった。
 そして、地方ソヴェトが弱くて権力を奪えないとしても、資本家から支援が与えられそうにはなかった。(1)
 各州のボルシェヴィキは、中心地と同様に、当時にメンシェヴィキとエスエルが支配して成功裡にその権限を主張する地方ソヴェトに対する方針を案出しなければならなかった。
 さらに、田園地帯のロシアでは、町が持った権限による拘束が大幅になくなっていた。
 旧帝国内の遠方の非ロシア領域には、複雑に混乱した、さまざまの状況があった。
 いかなる在来の意味でも国家を統治する意図をもってボルシェヴィキが権力を奪取したのであれば、ある程度は長くて困難な、アナーキーで非中央志向の、分離主義的な傾向との闘いが前方に横たわっていたのだ。//
 実際、ロシアの将来の統治形態の問題は、未決定のままだった。
 ペテログラードでの十月革命で判断して、ボルシェヴィキはその「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンを留保した。
 一方で、このスローガンは1917-18年の冬の州の雰囲気には適合しているように見えた。-しかし、これはおそらく、中央政府の権威が一時的に崩壊したことを言い換えたものにすぎない。
 ボルシェヴィキは「プロレタリア-トの独裁」という別のスローガンで正確に何を意味させたかったのか、を見分ける必要がまだあった。
 レーニンがその最近の著述物で強く示唆したように、これが旧所有者階級による反革命運動を粉砕することを意味しているとすれば、新しい独裁制は、帝制期の秘密警察と類似の機能をもつ実力強制機関を設立することになっただろう。
 それがボルシェヴィキ党の独裁を意味しているとすれば、レーニンに対する政治的反対者の多くが疑ったように、その他の政党が継続して存在することは大きな問題を生じさせた。
 だがまだ、新体制は旧ツァーリ専制体制のように抑圧的に行動することができただろうか?、そしてそうしてもなお、民衆の支持を維持しつづけることができただろうか?
 さらに、プロレタリア-ト独裁は、幅広い権力と労働組合や工場委員会を含む全てのプロレタリアの組織の自立を意味しているようにも思われた。
 もしも労働組合や工場委員会が労働者の利益について異なる考え方をもっていれば、何が起こっていたのか?
 もしも工場での「労働者による統制」が労働者による自主管理を意味するとすれば、それは、ボルシェヴィキが社会主義者の根本的な目標だと見なしていた経済発展に関する中央志向の計画と両立したのだろうか?//
 ロシアの革命体制はまた、全世界でのその位置を考慮しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは自分たちは国際的なプロレタリア革命運動の一部だと考えており、ロシアでの勝利はヨーロッパじゅうに同様の革命を誘発するだろうと期待していた。
 彼らはもともとは、新しいソヴェト共和国は他国と在来の外交関係を保たなければならない国家だとは思っていなかった。
 トロツキーが外務人民委員に任命されたとき、彼は若干の革命的宣告を発して、「店終い」をしようと考えていた。
 1918年初めのドイツとのブレスト=リトフスク講和の交渉でのソヴィエト代表者として、彼は(成功しなかったが)過去のドイツの公的代表者たちにドイツ国民、とくに東部戦線のドイツ兵士たちについて語って、外交過程の全体を覆そうとした。
 伝統的な外交には必要な承認が遅れたのは、ボルシェヴィキの指導者たちが強く、ロシア革命はヨーロッパの発展した資本主義諸国での労働者の革命によって支えられないかぎり長くは存続できない、と信じていたからだ。
 革命的ロシアは孤立しているという事実が徐々に明らかになってようやく、ボルシェヴィキは、外部世界に対する彼らの地位を再査定し始めた。そして、その時期までは、革命的な呼びかけを伝統的な国家間の外交と結合させる習癖が、堅く揺るぎないものだった。//
 新しいソヴェト共和国の領土的境界と非ロシア諸民族に対する政策は、別の大きな問題を成していた。
 マルクス主義者にとってナショナリズム(民族主義)は虚偽の意識の一形態だったけれども、レーニンは戦前に、民族の自己決定権の原理を用心深く擁護した。
 ナショナリズムが有する実際上(pragmatic)の意味は、それが脅威にならないかぎりは残ったままだ。
 1923年、のちにソヴィエト同盟の結成が決定されたときに採択された政策は、「民族性の形態を認める」ことによってナショナリズムを解体することだった。民族性を認めるとは、分離した民族共和国、少数民族の保護および民族的言語や文化、民族エリートたちへの支援といったものだ。(2)//
 しかしながら、民族の自決には限界があった。従前のロシア帝国の領土を新しいソヴェト共和国に編入することに関して明確になったように。
 ペテログラードのボルシェヴィキが、ハンガリーについてそうだったように、アゼルバイジャン(Azerbaijan)のソヴェト権力が革命的勝利をするのを望むのは自然だった。以前はペテルブルクを首都とする帝国の臣民だったアゼルバイジャンは、そのことを高く評価するようには思えなかったけれども。
 ボルシェヴィキがウクライナのソヴェトを支持してウクライナの「ブルジョア」的民族主義者に反対したのも、自然だった。そのソヴェトは(ウクライナの労働者階級の人種的構成を反映して)ロシア人、ユダヤ人および民族主義者だけではなくウクライナの農民層にも「外国人」だったポーランド人で支配されている傾向にあったけれども。
 ボルシェヴィキのディレンマは、プロレタリア的国際主義の政策が実際には旧式のロシア帝国主義と、当惑させるほどに類似していた、ということだった。
 このディレンマは、赤軍(the Red Army)が1920年にポーランドに侵入し、ワルシャワの労働者が「ロシアの侵略」に抵抗したときにきわめて劇的に例証された。(3)
 しかし、十月革命後のボルシェヴィキの行動と政策は全くの空白から形成されたのではなく、内戦という要因がほとんどつねにそれらを説明するためにきわめて重要だった。
 内戦は、1918年半ばに勃発した。それは、ロシアとドイツの間のブレスト=リトフスク講和が正式の結論を得て、ロシア軍がヨーロッパ戦争から明確に撤退した、数ヶ月だけ後のことだった。
 内戦は、多くの前線での、多様な白軍(すなわち、反ボルシェヴィキ軍)との戦闘だった。白軍は、ヨーロッパ戦争でのロシアの従前の連盟諸国を含む諸外国の支援を受けていた。
 ボルシェヴィキは内戦を、国内的意味でも国際的意味でも階級戦争だと見なした。すなわち、ロシアのブルジョアジーに対するロシアのプロレタリア-ト、国際的資本主義に対する(ソヴェト共和国が好例である)国際的な革命。
 1920年の赤軍(ボルシェヴィキ)の勝利は、したがってプロレタリアの勝利だった。しかし、この闘いの苦しさは、プロレタリア-トの階級敵がもつ力強さと決意を示していた。
 干渉した資本主義諸国は撤退したけれども、ボルシェヴィキは、その撤退が永続するとは信じなかった。
 彼らは、より適当な時期に国際資本主義勢力が戻ってきて、国際的な労働者の革命を根こそぎ壊滅させようとするだろうと予期した。//
 内戦は疑いなく、ボルシェヴィキと幼きソヴェト共和国に甚大な影響を与えた。
 内戦は社会を分極化し、長くつづく怨念と傷痕を残した。外国の干渉は「資本主義の包囲」に対する永続的なソヴェトの恐怖を作り出した。その恐怖には、被害妄想(paranoia)と外国恐怖症の要素があった。
 内戦は経済を荒廃させ、産業をほとんど静止状態にさせ、町を空っぽにした。
 これは経済的でかつ社会的な意味はもちろん、政治的な意味をもった。工業プロレタリア-ト-ボルシェヴィキがその名前で権力を奪取した階級-の少なくとも一時的な解体と離散を意味したのだから。//
 ボルシェヴィキが初めて支配することを経験した、というのが内戦の経緯にはあった。そして、これは疑いなく、多くの点で党のその後の展開の型を形成した。(4)
 内戦中のある時期には、50万人以上の共産党員が赤軍で働いた(そして、この集団の中の大まかには半分が、ボルシェヴィキに入党する前に赤軍に加わっていた)。
 1927年のボルシェヴィキの全党員のうち、33%が1917-1920年に入党した。一方、わずかに1%だけが、1917年以前からの党員だった。(5)
 こうして、革命前の地下生活-「古参」ボルシェヴィキ指導者たちの揺籃期の体験-は1920年代のほとんどの党員にとっては風聞によってだけ知られていた。 
 内戦中に入党した集団にとって、党とは最も文字どおりの意味で、戦闘する仲間だった。
 赤軍の共産党員たちは、党の政策の用語に軍事専用語彙を持ち込み、軍の制服と靴をほとんど1920年代および1930年代初めの党員の制服にした。-かつてはふつうの職に就いていた者や若すぎて戦争に行けなかった者たちすら身につけた。//
 歴史研究者の判断では、内戦の経験は「ボルシェヴィキ運動の革命的文化を軍事化した」。そして、「強制力に簡単に頼ること、行政的指令による支配(administrirovanie)、中央志向の行政や略式司法」といった遺産を党に残した。(6)
 ソヴィエト(とスターリニズム)の権威主義の起源に関するこのような見方は、党の革命前の遺産やレーニンの中央志向の党組織や厳格な紀律の主張を強調する、西側の伝統的な解釈と比べて、多くの点でより満足できるものだ。
 にもかかわらず、党の権威主義傾向を補強した他の要因もまた、考察しなければならない。
 第一に、少数者による独裁はほとんど必然的に権威主義的になり、その幹部として働く者たちは、レーニンが1917年の後でしばしば批判した上司気分やいやがらせの習癖を極度に大きくしがちだった。
 第二に、ボルシェヴィキ党の1917年の勝利は、ロシアの労働者、兵士と海兵の支持による。そして、これらの者たちは、古いボルシェヴィキ知識人たちよりも、反対者を粉砕し、如才のない説得ではなく実力でもって権威を押しつけることを嫌がる傾向が少なかった。//
 最後に、内戦と権威主義的支配の連環を考察するには、ボルシェヴィキと1918-20年の政治的環境の間には二つの関係があった、ということを想起する必要がある。
 内戦はボルシェヴィキに何ら責任のない、神の予見できない行為だったのではない。
 反対に、ボルシェヴィキは、1917年の二月と十月の間の月日に、武装衝突や暴力と提携した。
 そして、ボルシェヴィキの指導者たちは事態の前に完璧に十分に知っていたように、十月蜂起は多くの者によって、明白に内戦へと挑発するものだと見られていた。
 内戦は確かに、新体制に対して戦火による洗礼を施した。そして、それによって新体制の将来の行く末に影響を与えた。
 しかし、その洗礼の受け方はボルシェヴィキが危険を冒して採用したものであり、彼らが追求したものですらあったかもしれない。(7)
 --------
 (1) 地方での革命のその後に関する資料につき、Peter Holquist, <戦争開始、革命案出-危機のロシア共産主義、1913年-1921年>(Cambridge & London, 2002)(ドン地域について)、およびDonald J. Raleigh, <ロシア内戦の経験-Saratov での政治、社会と革命的文化、1917年-1922年>(Princeton, NJ, 2002)を見よ。
 (2) Terry Martin, <積極的差別解消(Affirmative Action)帝国>(Ithaca, 2001), p.8, p.10.
 (3) この論点に関する議論につき、Ronald G. Suny, 「ロシア革命におけるナショナリズムと階級-比較的討論」、E. Frankel, J. Frankel & B. Knei-Paz, eds, <革命のロシア-1917年に関する再検証>(Cambridge, 1992)所収、を見よ。
 (4) 内戦の影響につき、D. Koenker, W. Rosenberg & R. Suny, eds, <ロシア内戦における党、国家と社会>(Bloomington, IN, 1989)を見よ。
(5) T. H. Rigby, <ソヴィエト同盟の共産党員, 1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), p.242.<Vsesoyuznaya partiinaya perepis' 1927 goda. Osnovnye itogi perepisi>(Moscow, 1927), p.52.
 (6) Robert C. Tucker, 「上からの革命としてのスターリニズム」、Tucker, <スターリニズム>所収p.91-92.
 (7) こうした議論は、Sheila Fitzpatrick「形成期の経験としての内戦」、A. Gleason, P. Kenez & R. Stites, eds, <ボルシェヴィキ文化>(Bloomington, IN, 1985)所収、で詳しく述べた。
 ----
 第1節・内戦、赤軍およびチェカ。
 ボルシェヴィキの十月蜂起の直後、カデットの新聞は革命を救うために武装することを呼びかけ、コルニロフ将軍の愛国者兵団は親ボルシェヴィキ兵や赤衛隊と衝突してペテログラード郊外のプルコヴォ高地どの戦闘に敗れ、モスクワでは大きな戦闘があった。
 この第一次戦闘で、ボルシェヴィキは勝った。
 しかし、ほとんど確実に、彼らはもう一度戦闘をしなければならなかった。
 ドイツおよびオーストリア-ハンガリーと戦争中の南部戦線にいる大ロシア軍には、北西部のそれによりも、ボルシェヴィキは人気がなかった。
 ドイツはロシアと戦争を継続中であり、東部戦線での講和についてはドイツには有利だったにもかかわらず、連盟諸国から得た支援以上のドイツによる酌量を、ロシア新体制はもはや計算することができなかった。
 東部戦線のドイツ軍司令官は、1918年2月早くの日記にこう書いた。そのときは、ブレスト=リトフスクでの講和交渉の決裂後に、ドイツ軍が新規に攻勢をする直前だった。
 『逃げ出すことはできない。さもなくば、この野蛮者たち〔ボルシェヴィキ〕はウクライナ、フィンランドとバルトをなぎ倒し、新しい革命軍と穏やかに一緒になり、ヨーロッパ全体を豚小屋のごとき陋屋に変えるだろう。<中略>
 ロシア全体が、うじ虫の巨大な堆積物だ。-汚らしい、大挙して脅かすゴロツキたちだ。』(8)
 1月〔1918年〕のブレストでの講和交渉の間、トロツキーはドイツ側が提示した条件を拒み、「戦争はなく、平和もない」という戦略をとるのを試みた。これは、ロシアは戦争を継続しないが、受容できない条件での講和に署名しもしない、ということを意味した。
 これは全くの虚勢だった。ロシア軍は前線で融解しつつあり、一方で、ボルシェヴィキは同じ労働者階級の連帯を訴えたにもかかわらず、ドイツ軍はそうではなかったからだ。
 ドイツはトロツキーの虚勢に対して開き直り、その軍は前進し、ウクライナの大部分を占拠した。//
 レーニンは、講和することが不可欠だと考えていた。
 ロシアの戦力とボルシェヴィキが内戦を闘う蓋然性からすると、これはきわめて理性的だった。
 加えて、ボルシェヴィキは十月革命前に、ロシアはヨーロッパの帝国主義戦争から即時に撤退すべきだと言明していた。
 しかしながら、十月でもってボルシェヴィキは「平和政党」(peace party、平和主義の党)だと理解するのは、相当の誤解を招くだろう。
 十月にケレンスキーに対抗してボルシェヴィキのために闘う気持ちのあったペテログラードの労働者たちには、ドイツ軍に対抗してペテログラードのために闘う気持ちもあった。
 この戦闘的な雰囲気は、1918年の最初数ヶ月のボルシェヴィキ党へ強く反映されていた。そしてこれはのちには、内戦を闘う新体制にとって大きな財産になることになった。
 ブレストでの交渉の時点でレーニンには、ドイツとの講和に調印する必要についてボルシェヴィキ中央委員会すらをも説得することが、きわめて困難だった。
 党の「左翼共産主義者」は、侵略者ドイツに抵抗する革命的ゲリラ戦争を主張した。-「左翼共産主義者」とは若きブハーリン(Nikolai Bukharin)らのグループで、のちにブハーリンは、指導層内部でのスターリンの最後の対立者として歴史上の位置を占めた。
 そしてこの当時はボルシェヴィキと連立していた左翼エスエルも、同様の立場を採った。
 レーニンは最後には、退任すると脅かして、ボルシェヴィキ党中央委員会による票決を迫った。それは、じつに苦しい戦いだった。
 ドイツが攻撃に成功してその後で課した条件は、1月に提示したものよりも相当に苛酷なものだった。
 (しかし、ボルシェヴィキは好運だった。ドイツはのちにヨーロッパ戦争に敗れ、その結果として東部の征圧地を失ったのだから。)//
 ブレスト=リトフスクの講和によって、軍事的脅威からの短い息抜きだけが生じた。
 旧ロシア軍の将校たちは南部のドンやクバンのコサック地帯に兵を集結させており、提督コルチャク(Kolchak)は、シベリアに反ボルシェヴィキ政権を樹立していた。
 イギリスは兵団をロシア北部の二つの港、アルハンゲルスク(Arkhangelsk)とムルマンスクに上陸させた。表向きはドイツと戦うためだったが、実際には新しいソヴェト体制に対する地方の反対勢力を支援する意図をも持って。//
 戦争の不思議な成り行きで、非ロシア人の兵団ですら、ロシア領土を通過していた。-およそ3万人のチェコ人軍団で、ヨーロッパ戦争が終わる前に西部前線に達する希望をもっていた。チェコ軍団はそうして、連盟諸国の側に立って旧宗主国のオーストリアと戦い、民族の独立という彼らの主張を実現したかったのだ。
 ロシアの側から戦場を横切ることができなかったので、チェコ軍はシベリア横断鉄道で<東>へとありそうにない旅をしてウラジオストクにまで行き、船でヨーロッパに帰ろうと計画した。
 ボルシェヴィキは、そのような旅を公式に認めなかった。しかし、地方のソヴィエトは武装した外国人の一団が経路途上で鉄道駅に着くのに敵意をもって反応していたが、こうした反応がなくなったのではなかった。
 1918年5月、そのチェコ軍は、ボルシェヴィキが支配していたチェリャビンスク(Chelyabinsk)というウラルの町のソヴィエトと初めて衝突した。
 別のチェコ軍の一団は、ボルシェヴィキに対抗してエスエルが短命のヴォルガ共和国を設立しようと起ち上がったとき、サマラのロシア・エスエルを支援した。
 チェコ軍はロシアの外で多少とも戦いながら進んで、終わりを迎えた。そして、全員がウラジオストクを去って船でヨーロッパに戻ったのは、多くの月を要した後だった。//
 内戦それ自体は-ボルシェヴィキの「赤軍」対反ボルシェヴィキの「白軍」-、1918年夏に始まった。
 この時期にボルシェヴィキは、首都をモスクワに移転させた。ドイツ軍が攻略するという脅威をペテログラードは逃れていたが、将軍ユデニチ(Yudenich)が指揮する白軍の攻撃にさらされたからだ。
 しかし、国家の大部分はモスクワの有効な統制のもとにはなかった(シベリア、南部ロシア、コーカサス、ウクライナおよび地方ソヴェトを間欠的に都市的ソヴェトが支配したウラルやヴォルガの地域の多くをも含む)。そして、白軍は、東部、北西部および南部からソヴェト共和国を脅かした。
 連盟諸国の中で、イギリスとフランスはロシアの新体制にきわめて敵対的で、白軍を支援した。それらの直接的な軍事介入は、かなり小さな規模だったけれども。
 アメリカ合衆国と日本は、シベリアに兵団を派遣した。-日本軍は領域の獲得を望んで、アメリカ軍は混乱しつつ、日本を抑え、シベリア横断鉄道を警護しようとした。またおそらくは、アメリカの民主主義の規準で推測すれば、コルチャクのシベリア政権を支援するために。//
 ボルシェヴィキの状況はじつに1919年に、絶望的に見えた。そのとき、彼らが堅く支配している領土は、大まかには16世紀のモスクワ大公国(Muscovite Russia)と同じだった。
 しかし、対立者〔白軍側〕もまた、格別の問題を抱えていた。
 第一に、白軍はほとんどお互いに独立して活動し、中央の指揮や協力がなかった。
 第二に、白軍が支配する領域的基盤は、ボルシェヴィキのそれ以上に希薄なものだった。
 白軍が地域政府を設立したところでは、行政機構を最初から作り出さなければならず、かつその結果はきわめて不満足なものだった。
 歴史的にモスクワとペテルブルクに高度に集中していたロシアの輸送や通信制度は、周縁部での白軍の活動を容易にはしなかった。
 白軍は赤軍だけではなくて、いわゆる「緑軍」にも悩まされた。-これは農民とコサックの軍団で、いずれの側にも忠誠を与えず、白軍が根拠にしていた遠い辺鄙な地帯で最も行動した。
 白軍は旧帝制軍隊出身の将校たちを多く有していたが、彼らが指揮をする兵士の新規募集や徴用によって兵員数を確保するのは困難だった。//
 ボルシェヴィキの戦力は、1918年春に戦争人民委員となったトロツキーが組織した赤軍だった。
 赤軍は最初から設立されなければならなかった。旧ロシア軍の解体が早く進みすぎて、止められなかったからだ(ボルシェヴィキは権力奪取後すぐに、全軍の動員解除を発表した)。
 1918年最初に形成された赤軍の中心は、工場出身者による赤衛隊および旧軍や艦隊出身のボルシェヴィキの一団で成っていた。
 この赤軍は自発的な募兵によって膨らみ、1918年夏からは、選抜しての徴兵になった。 労働者と共産党員は、初めて徴兵されることになった。そして、内戦の間ずっと、戦闘兵団のうちの高い割合を提供した。
 しかし、内戦の終わりまでに、赤軍は、主としては農民徴兵者の、500万以上の入隊者のいる大量の組織になった。
 これらの約10分の1だけが戦闘兵団で(赤軍と白軍の両派が配置した戦力は、ある特定の前線では10万人をほとんど超えなかった)、残りの者は供給、輸送または管理的な仕事に就いた。
 赤軍はかなりの範囲で、民間人による行政が破壊されて残した空隙を充填しなければならなかった。すなわち、そのような行政機構は、ソヴェト体制が近年に持つ、最大でかつ最もよく機能する官僚制を伴っていた。また、全ての利用可能な資産の中で最初に欲しいものだった。//
 多くのボルシェヴィキは、赤衛隊のようなmilitia(在郷軍、民兵)タイプの一団をイデオロギー的に好んだ。しかし、赤軍は最初から通常の軍隊の方向で組織され、兵士は軍事紀律に服し、将校は選挙されないで任命された。
 訓練をうけた軍事専門家が不足していたので、トロツキーとレーニンは旧帝制軍出身の将校たちを使おうと強く主張した。この政策方針は、ボルシェヴィキ党内でかなり批判され、軍事反対派は連続する二つの大会で反対にしようとしたけれども。
 内戦の終わりまでに、赤軍には5万人以上の以前は帝制軍将校だった者がいた。そのほとんどは徴兵されていて、上級軍事司令官の大多数はこのグループの出身だった。
 旧将校たちが忠実であるのを確保するために、彼らは通常は共産党員である政治委員に付き添われた。政治委員は、全ての命令に副署して、軍事司令官と最終的責任を共有した。//
 この軍事力に加えて、ソヴェト体制はすみやかに治安機構を設立した。-反革命、怠業および投機と闘争するための全ロシア非常時委員会で、チェカ(Cheka)として知られる。 この組織が1917年12月に創立されたとき、その直接の任務は、十月の権力奪取後に続いた、強盗団、略奪および酒類店の襲撃の発生を統制することだった。
 しかし、それはすぐに、保安警察というより幅広い機能を有して、反体制陰謀に対処した。また、ブルジョア的「階級敵」、旧体制や臨時政府の役人たちおよび反対政党の党員などの、忠誠さが疑わしい集団を監視した。
 チェカは、内戦開始後はテロルの機関になり、処刑を含む略式の司法的機能をもち、白軍の指揮下にあるか白軍へと傾いている地域で、大量に逮捕し、手当たり次第に人質に取った。
 1918年および1919年前半での欧州ロシアの20州に関するボルシェヴィキによる統計数によると、少なくとも8389人が審判を受けることなくチェカによって射殺され、8万7000人が拘束された。(9)
 ボルシェヴィキのテロルと同等のものは白軍にあり、ボルシェヴィキ支配下の領域で反ボルシェヴィキ勢力によって行われた。そして、同じような残忍さが、どちらの側にもあった。
 しかしながら、ボルシェヴィキは自分たちがテロルを用いていることについて率直に認めていた(このことは、略式司法だけではなくて、特定の集団または民衆全体を威嚇するための、個々の罪とは関係がない無作為の制裁があったことを示唆する)。
 ボルシェヴィキはまた、暴力行使について精神的に頑強であることを誇りにしていた。ブルジョアジーの口先だけの偽善を嫌がり、プロレタリア-トを含むいかなる階層の支配に対しても、別の階層に対する強制力の行使に関係させることを認めたのだ。
 レーニンとトロツキーは、テロルの必要性を理解できない社会主義者に対する侮蔑を明言した。
 レーニンは、「怠業者や白軍兵士を射殺する意欲がなかったならば、革命とはいったいどんな種類のものなのだ?」と新政府の同僚たちに説諭した。(10) 
 ボルシェヴィキが歴史上にチェカの活動との類似物を探し求めたとき、彼らはふつうに、1794年のフランスの革命的テロルに論及した。
 彼らはいかなる類似性も、帝制下の秘密警察には見出さなかった。西側の歴史研究者はしばしば、それを引き合いに出すけれども。
 チェカは実際に、旧警察よりもはるかに公然とかつ暴力的に活動した。そのやり方は、一つには1917年にその将校に対処したバルト艦隊の海兵たちによる階級的復讐、あるいは二つには1906-7年のストリュイピンによる田園地帯の武力による鎮圧とはるかに共通性があった。
 帝制期の秘密警察との類似性は内戦後について語るのが適切になった。内戦後にチェカはGPU(国家政治保安部)に置き換えられ-テロルの廃止と合法性の拡大への動き-、保安機関はその活動方法についてより日常的で官僚的で、慎重なものになった。 
 長期的観点から見ると、帝制秘密警察とソヴィエトのそれの間には、明らかに継続性の要素が強くあった(明らかに人員上の継続性はなかったけれども)。
 そして、それが明瞭になるにつれて、保安機能に関するソヴィエトの説明は捕捉し難い、偽善的なものになった。//
 赤軍とチェカはともに、内戦でのボルシェヴィキの勝利に重要な貢献をした。
 しかしながら、この勝利を単純に軍事力とテロルの観点から説明するのは適切でないだろう。とりわけ、赤軍と白軍の間の戦力の均衡度を査定する方法を誰も見出していなかったのだから。
 社会による積極的な支援と消極的な受忍が考察されなければならない。そして、これらの要因が、おそらくは最も重要だった。
 赤軍は積極的支持を都市的労働者階級から得て、ボルシェヴィキはその組織上の中核部分を提供した。
 白軍は積極的支持を旧中間および上層階級から得て、その一部は主要な組織活動家として働いた帝制時代の将校団だった。
 しかし、均衡を分けたのは確実に、人口の大多数を占める農民層だった。//
 赤軍も白軍もいずれも、それらが支配する領域で農民を徴兵した。そしていずれの側にも、かなりの割合で脱走があった。
 しかしながら、内戦が進展するにつれて、農民の徴兵が顕著に困難になったのは、赤軍以上に白軍だった。
 農民たちは穀物徴発というボルシェヴィキの政策に憤慨していた(後述、p.82-83を見よ)。しかし、この点では白軍の政策も変わりはなかった。
 農民たちはまた、1917年のロシア軍での体験がたっぷりと証明していたので、誰かの軍で働く大きな熱意がなかった。
 しかしながら、1917年に農民の支持が大きく低下したのは、土地奪取と村落による再配分と密接に関係していた。
 この過程は1918年末までには、ほぼ完了した(このことは軍役に対する農民の反感を減らした)。そして、ボルシェヴィキはこれを是認した。
 一方で白軍は、土地奪取を是認しないで、従前の土地所有者の要求を支持した。
 かくして、土地というきわめて重大な問題について、ボルシェヴィキの方が、より小さい悪だった。(11)//。
 --------
 (8) J. W. Wheeler-Bennett, <ブレスト=リトフスク、忘れられた平和-1918年3月>(New York, 1971), p.243-4. から引用した。
 (9) 数字は、Aleksander I. Solzhenitsyn, <収容所列島、1918年-1956年>、訳・Thomas P. Whitney(New York, 1974),ⅰ-ⅱ, p.300. から引用した。
 ペテログラードでのチェカの活動につき、Mary McAuley, <パンと正義-ペテログラードにおける国家と社会、1917年-1922年>(Oxford, 1991), p.375-393. を見よ。
(10) テロルに関するレーニンの言明の例として、W. Bruce Lincoln, <赤の勝利-ロシア内戦史>(New York, 1989)を見よ。
 トロツキーの考え方につき、彼の<テロルと共産主義: カウツキー同志に対する返答>(1920)を見よ。
 (11) 農民の態度につき、Orland Figes, <農民ロシア、内戦: 革命期のヴォルガ田園地帯・1917年-1921年>(Oxford, 1989)を見よ。
 ----
 第三章・内戦のうち「はじめに」と第1節(内戦・赤軍・チェカ)が終わり。

1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第8回。
 ----
 第4節・夏の政治危機
 6月半ば、今は臨時政府の戦時大臣であるケレンスキーはロシア軍に、ガリシアの前線での大規模な攻撃を命じた。
 それは二月革命以降の最初の、重大な軍事行動だった。ドイツ軍は自分たちがさらに東部へと侵入することなくしてロシア軍隊が解体していくのを見守っているので満足しており、ロシア軍の最高司令部は敗北を怖れ、主導性を発揮せよとの連盟諸国からの圧力に早くに抵抗していたときだったから。
 ロシアのガルシア攻撃は6月と7月初頭に行われ、積算で20万人の死傷者を出して失敗した。
 これは、あらゆる意味での厄災だった。
 軍隊の志気はいっそう低下し、ドイツ軍は反抗に成功し始めて、夏から秋の間じゅう続いた。
 土地略奪の報せに反応して農民兵士になっているロシア軍側の脱走兵は、異常な割合にまで達した。
 臨時政府の信用は地に落ち、政府と軍指導者の間の緊張が高まった。
 7月初め、政府の危機が、カデット(リベラル派)の全閣僚が去り、臨時政府の長のルヴォフ公が辞任したことで急に発生した。//
 この危機のさ中、ペテログラードで再び大衆の集団示威行動、街頭での暴力、そして七月事件(the July Days)として知られる民衆騒擾が突如として起こった。(15) //
 同時代の目撃者は50万人にまで達するとする群衆は、クロンシュタットの海兵の派遣団、兵士、ペテログラード工業施設からの労働者を含んでいた。
 臨時政府には、ボルシェヴィキによる蜂起の試みのようだった。
 ペテログラードに到着して騒擾を開始したクロンシュタットの海兵たちは、その指導者の中にボルシェヴィキがおり、「全ての権力をソヴェトへ」というボルシェヴィキのスローガンを記した旗を持った。そして、最初の目的地は、ボルシェヴィキ党の司令部があるクシェシンスカヤ宮(Kseshinskaya -)だつた。
 だが、示威行進者がクシェシンスカヤ宮に着いたとき、レーニンの挨拶は抑制的なもので、ほとんど無愛想だつた。
 レーニンは、臨時政府または現在のソヴェト指導部に対して暴力的活動をするように勇気づけはしなかった。
 そして、群衆はソヴェト〔の所在地〕へと動いて威嚇しつつ、暴力的活動を行わないで周りをうろつき回った。
 混乱し、指導部と特定の計画を持たず、示威行進者たちは市内を歩き回り、酔っ払って略奪し、そして最後に解散した。//
 七月事件は、ある意味では、4月以降のレーニンの揺るぎない立場を証明するものだった。臨時政府と二重権力に反対する民衆の強い感情、連立する社会主義者に耐えられないこと、そしてクロンシュタット海兵その他の一部にある暴力的対立意識およびおそらくは蜂起への熱意を示したものだったからだ。
 しかし、別の意味では、七月事件はボルシェヴィキにとっての災難だった。
 レーニンとボルシェヴィキ中央委員会は明らかに、動揺していた。
 彼らは蜂起について一般的には語り合ったが、それを企画することはなかった。
 海兵たちの革命的雰囲気に反応したクロンシュタットのボルシェヴィキは、実際にはボルシェヴィキ中央委員会が承認していない主導性を発揮した。
 事件全体は、ボルシェヴィキの志気と革命指導者としてのレーニンの信頼性を損なった。//
 指導者たちの躊躇と不確実な対応があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは七月事件について臨時政府とソヴェトの穏健な社会主義者たちから非難されたため、損失はそれだけ大きかった。
 臨時政府は、二月革命以来全政党の政治家たちが享有してきた「議員免責特権」を撤回して、厳罰に処することを決定した。
 いく人かの著名なボルシェヴィキが逮捕された。その中には、5月にロシアに帰って以降はレーニンに近い極左の立場を採り、8月に正式にボルシェヴィキ党員になる予定のトロツキーもいた。
 レーニンとボルシェヴィキ指導部の中の彼の緊密な仲間であるジノヴィエフの逮捕状が発せられた。
 さらに、七月事件の間に臨時政府は、ある噂の信憑性を支持する証拠があるという示唆を握った。その噂とは、レーニンはドイツの工作員だというものだった。そして、ボルシェヴィキは、新聞の愛国主義的論調による非難にさらされ、一時的に軍隊や工場での人気を落とした。
 ボルシェヴィキ党中央委員会は(そして疑いなくレーニン自身も)、レーニンの身柄の安全を気遣った。
 レーニンは潜伏し、8月早くに作業員に変装して境界を越え、フィンランドに逃亡した。//
 しかしながら、ボルシェヴィキが困難な状況にあったとすれば、それは七月初めから首相になったケレンスキーが率いる臨時政府についてもそうだった。
 リベラル派と社会主義派の連立は恒常的な混乱に陥り、社会主義者はソヴィエトの支援者たちによって左へと動き、リベラルたちは実業家、土地所有者および軍事司令官たちの圧力をうけて右へと動いた。後者の者たちは、権威の崩壊と民衆騒擾でもってますます警戒心を強めていた。
 ロシアを救うという使命を気高く意識していたにもかかわらず、ケレンスキーは本質的には中庸を行く、政治的妥協への交渉者だった。大しては信頼もされず尊敬もされず、諸大政党のいずれにも政治的基盤がなかった。
 彼が悲しくも、こう愚痴をこぼしたように。
 「私は左翼のボルシェヴィキと右翼のボルシェヴィキの両方と闘っている。
 しかし、民衆はそのどちらかに凭り掛かれと要求する。<中略>
 私は真ん中の途を進みたい。しかし、誰も私を助けてくれようとしない」。(16)//
 臨時政府はますます、いずれかの方向に崩壊しそうに見えた。しかし、問題はどの方向にか?、だった。
 左翼からの脅威は、ペテログラードでの民衆蜂起および/またはボルシェヴィキのクーだった。
 このような挑戦は7月に失敗したが、北西前線でのドイツ軍の活動は、最も不吉な徴候としてペテログラードの周りの軍隊に対してきわめて強い緊張を強いていた。そして、憤慨し、武装した、働き場のない脱走兵たちの大量流入が、間違いなく市自体の中での街頭暴力を生じさせる危険を増大させた。
 臨時政府に対するもう一つの脅威は、法と秩序の独裁制を樹立しようとする右翼からのクーの可能性だった。
 夏までに、この方策は軍隊上層部で論議されており、ある範囲の実業家たちから支持を得ていた。
 徴候としては、このような動きに事前にかつ公共的言明によって明らかに反対しなければならなかっただろうカデットですら、少なからず安堵して既成事実を受け入れるかもしれなかった。//
 8月、ついに将軍コルニロフ(Lavr Kornilov)が右翼からのクーを試みた。ケレンスキーは最近に彼を、ロシア軍の秩序と紀律を回復させるという指示のもとで軍最高司令官に任命していた。
 コルニロフの動機は明らかに、個人的野心にではなく、国家の利益に関する意識にあった。
 実際、強力な政府を確立して騒ぎを起こす左翼に対処するために軍が干渉するのをケレンスキーは歓迎するだろうと、コルニロフは考えていたかもしれなかった。ケレンスキーはある程度はコルニロフの意図を知っていて、奇妙に迂回したやり方で彼を処遇したのだから。
 二人の主要な役者の間にあった誤解は事態を混乱させ、コルニロフが動く直前にドイツ軍がリガ(Riga)を掌握したという予期しなかったことも、狼狽に輪をかけた。そして、疑念と絶望の気分がロシアの民間および軍隊の指導者たちに広がっていた。
 8月の最終週、将軍コルニロフは、当惑しつつも決断して、表向きは首都の不安を鎮静化して共和国を救うために、兵団を前線からペテログラードへと派遣した。//
 クーの企図が挫折した理由の大部分は、兵団に信頼がなかったこととペテログラードの労働者の旺盛な行動だった。
 鉄道労働者たちは兵団列車の方向を変えて、妨害した。
 印刷工たちは、コルニロフの動きを支持する新聞の発行を止めた。
 金属労働者たちは近づく兵団を迎えるために外に飛び出し、ペテログラードは平穏で、兵団は将校たちに欺されているのだと説明した。
 このような圧力をうけて兵団の志気は減退し、大きな軍事的成功は何もないまま、ペテログラードの郊外でクーは終わった。そして、コルニロフの指令で行動していた指揮官の将軍クリモフ(Krymov)は臨時政府に降伏し、自殺した。
 コルニロフ自身は軍司令部に逮捕され、抵抗することなく、全責任を甘受した。//
 ペテログラードでは中央と右翼の政治家たちが、ケレンスキーが引き続き率いる臨時政府への忠誠を再確認した。
 しかし、ケレンスキーの立場はそのコルニロフ事件への対応の仕方のためにさらに傷つき、政府は弱体化した。
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会もまた、信頼を低下させた。コルニロフに対する抵抗は、多くは地方の組合や工場レベルのものにすぎなかったからだ。
 そして、これらによって、ボルシェヴィキへの支持は急上昇し、ボルシェヴィキがソヴェト内のメンシェヴィキ・エスエル指導部をすみやかに解任することが可能になった。
 軍司令部は最大の打撃を受けた。最高司令官の逮捕とクーの失敗によって、志気は喪失し、混乱に陥ったのだ。
 将校たちと兵士たちの間の関係は、明瞭に悪化した。そして、これだけでは不十分であるかのごとく、ペテログラードを明らかに目指して、ドイツ軍が前進し続けていた。
 9月半ば、コルニロフの後継者の将軍アレクセイエフが、コルニロフの高潔な動機を称える気持ちを言明して、突然に辞任した。
 アレクセイエフは、紀律が崩壊してしまい「我々の将校たちは殉教者である」軍隊についての責任をもう負うことはできない、と感じていた。//
 『現実に、この戦慄すべき危険があるときに、私は恐怖に脅えて、我々には軍は存在しない(この言葉の際に将軍の声は震え、彼は数滴の涙を零した)、一方でドイツ軍は、いつでも我々に最後のかつ最大の強力な一撃を放つように準備をしている、と言明する。』(17)//
 左翼が、コルニロフ事件によって最も多くを得た。この事件は右翼による反革命の脅威という以前は抽象的だった観念に実体を与え、労働者階級の強さを証明し、同時に多くの労働者たちに、自分たちの武装した警戒だけが革命をその敵から守ることがでるきと確信させた。
 まだ投獄されているか潜伏中の指導者が多くいるボルシェヴィキは、コルニロフに対する実際の抵抗には特別の役割を何ら果たさなかった。
 しかし、民衆の意見の新しい揺れの方向はボルシェヴィキであり、そのことはすでに8月初めには感知されていたが、コルニロフがクーに失敗した後で急速に明らかになった。
 そして、実際的な意味で言うと、コルニロフの脅威に対する反応として始まった労働者の軍団、あるいは「赤衛隊」(the Red Guards)、の設立により、将来の収穫を刈り取るのはボルシェヴィキであることになった。
 ボルシェヴィキの強さは、ブルジョアジーや二月体制との連携へと妥協しなかった唯一の政党だということだった。そしてこの党は、労働者の権力と武装蜂起という考え方と最も緊密に結びついていた。//
 --------
 (15) 七月事件につき、A. Rabinowitch, <革命への序曲-ペテログラード・ボルシェヴィキと1917年7月蜂起>(Bloomington, IN, 1968)を見よ。
 (16) A. Rabinowitch, <ボルシェヴィキが権力に至る>(New York, 1976).p.115. から引用した。
 (17) 将軍アレクセイエフへの新聞インタビュー(Rech', 1917年9月13日付、p.3)、Robert Paul Browder & Alexander Kerensky 編, <1917年のロシア臨時政府: 資料文書>Stanford, 1961), ⅲ, p.1622に収載。
 ----
 第5節・十月革命。
 4月から8月まで、ボルシェヴィキのスローガン「全ての権力をソヴェトへ」は本質的には挑発的なものだった。-ソヴェトを支配した穏健派に向けられた皮肉であって、全ての権力を奪うつもりはなかった。
 しかし、穏健派に支配権がなくなったコルニロフ事件の後では、状況は変わった。
 8月31日、ボルシェヴィキはペテログラード・ソヴェトの多数派を握った。9月5日、モスクワ・ソヴェトでもそうなった。
 かりに10月に予定されていた全国ソヴェト第二回大会で首都でと同じ政治的趨勢が続いていたとすれば、いったい何が意味されただろうか?
 ボルシェヴィキは、臨時政府はもはや支配する権能を持たないとするその大会の決定にもとづいて、法に準じた(quasi-legal)ソヴェトへの権力の移行を望んだだろうか?
 それとも、そのかつてのスローガンは、実際に暴力的蜂起への呼びかけだったのか、あるいはボルシェヴィキは(他とは違って)権力を奪取する勇気があることの宣言だったのか?//
 9月、レーニンはフィンランドの潜伏場所からボルシェヴィキ党に対して、武装蜂起の準備をするように迫る手紙を書き送った。
 革命のときは来た、遅くなる前に、奪取しなければならない、と彼は述べた。
 遅れるのは、致命的だろう。
 ボルシェヴィキは、ソヴェトの第二回〔全国〕大会の会合の<前に>行動を起こして、大会がするかもしれないいかなる決定をも阻止しなければならない、と。//
 レーニンによる即時の武装蜂起の主張は情熱的なものだったが、指導部にいる仲間たちの確信を完全には抱かせはしなかった。
 潮目が明らかに我々に向かっているときに、なぜボルシェヴィキは絶望的な賭けを冒す必要があるのか?
 さらに言えば、レーニン自身が帰ってきておらず、責任を取れなかった。レーニンが本当に真剣であるならば、確実に彼はこれをしたのか?
 夏にレーニン向けられた責任追及によって、疑いなくレーニンは過分に疲れていた。
 可能性としては、彼は七月事件の間の彼と中央委員会の躊躇について思い悩み、権力を奪取する希有の機会を失ったと考えていた。
 いずれにせよ、全ての大指導者たちと同じく、レーニンは気まぐれだった。
 この雰囲気は、過ぎ去るかもしれなかった。//
 この時点でのレーニンの行動は、確かに矛盾していた。
 一方では、ボルシェヴィキによる蜂起を強く主張した。
 他方では、臨時政府が7月に収監されていた左翼政治家を釈放し、今やボルシェヴィキはソヴェトを支配していて、レーニンに対する切迫した危険があった時期は確実に過ぎていたにもかかわらず、彼は数週間もフィンランドにとどまった。
 彼がペテログラードに戻ったとき、おそらくは10月の第一週の末、ボルシェヴィキすらから離れて潜伏し、怒りと激励の一連の手紙によってのみ党中央委員会に連絡通信をした。//
 10月10日、ボルシェヴィキ中央委員会は、蜂起は好ましいということに同意した。
 しかし、ボルシェヴィキたちの明らかに多くは、ソヴェトの自分たちの立場を使って法に準じた、非暴力的に権力を移行させることに傾斜していた。
 あるペテログラード・ボルシェヴィキ委員会の一員の、のちの回想録はつぎのように語る。//
 『ほとんど誰も、ある特定の時期での、統治の全装置を武装奪取することの始まりだとは考えていなかった。<中略>
 我々は、蜂起とはペテログラード・ソヴェトによる権力の掌握のことだと単直に考えていた。
 ソヴェトは、臨時政府の命令に従うことをやめ、ソヴェト自体に権力があると宣言し、これを妨害しようとする者は誰でも排除するだろう、と。』(18)
 監獄から最近に解放されてボルシェヴィキ党に加入していたトロツキーは、今やペテログラード・ソヴェト多数派の指導者の一人だった。
 トロツキーはまた、1905年のソヴェト指導者の一人でもあった。
 公然とはレーニンに反対しなかったけれども(のちには二人の見解は一致していたと主張した)、彼も蜂起を疑問視し、ソヴェトが臨時政府を除去する課題に対処することができるし、そうすべきだ、と考えたというのは、ありうるように思われる。(19)
 ボルシェヴィキが行う蜂起に対する強い反対が、レーニンの古くからのボルシェヴィキの同僚だった二人、ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)とカーメネフ(Lev Kamenev)から挙がった。
 彼らはボルシェヴィキがクーによって権力を奪取するのは無責任であり、その権力を単独で保持できるとするのは非現実的だ、と考えた。
 ジノヴィエフとカーメネフがこうした主張を自分たちの名前を出して非ボルシェヴィキの日刊新聞紙(マクシム・ゴールキの<Novaya zhizn>)に公表したとき、レーニンの怒りと憤激は新しい次元へと高まった。
 これは理解できるものだった。二人の行為は果敢な抵抗だったのみならず、ボルシェヴィキは秘密裡に蜂起を計画しているということを公的に発表するものだったからだ。//
 このような状勢からすると、ボルシェヴィキの十月クーが巧くいったのは驚くべきことのように見える可能性がある。
 しかし、実際には、積極的な公表があったことは、レーニンの基本的考えを妨げたのではなく、むしろ助長した。
 そのことは、ボルシェヴィキたちが事前に逮捕されたり、ペテログラード地域の労働者、兵士・海兵がいかなる革命的行動をも非難するという強い徴候を知らされないかぎり、ボルシェヴィキが行動<しない>のは困難な立場へと、ボルシェヴィキを追い込んだ。
 しかし、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対する果敢な反抗措置を取らなかった。そして、ペテログラード・ソヴェトの革命軍事委員会(Military-Revolutionary Committee)をボルシェヴィキが支配していることは、クーを組織するのを比較的に容易にした。
 革命軍事委員会の基本的な目的は、コルニロフのような反革命に対する労働者の抵抗を組織することだった。そして、ケレンスキーは明らかに、そのことに干渉する立場にはいなかった。
 戦争の情勢もまた、重要な要因だった。すなわち、ドイツ軍は前進しており、ペテログラードは脅かされていた。
 労働者たちはすでに、大工業施設を引き渡して市から避難するようにとの臨時政府の命令を拒否していた。彼らは革命に対する政府の意向を信用しておらず、そのゆえにまた、政府のドイツ軍と戦う意思をも信用していなかった。
 (逆説的にだが、ボルシェヴィキの「平和」スローガンに労働者が賛同していたので、労働者たちもボルシェヴィキも、ドイツの脅威が切迫しかつ現実的になったときに戦闘的に反応した。かつての平和スローガンは、リガの陥落後の1917年の秋と冬にはほとんど聞かれなくなっいた)。
 ドイツ軍が接近してきたときにケレンスキーが労働者を武装解除していたならば、彼はおそらく、裏切り者で降伏主義者だとしてリンチを受けて殺されていただろう。//
 10月24日、第二回ソヴェト大会の会合の直前に、ソヴェトの軍事革命委員会の実力部隊が枢要な政府組織を占拠し始めて、蜂起が始まった。彼らは、電信施設と鉄道駅舎を奪い取り、市の橋梁で路上封鎖を開始し、臨時政府が会合をしている冬宮を取り囲んだ。//
 彼らは、ほとんど実力による抵抗に遭遇しなかった。
 街頭は平穏なままであり、市民は日常の仕事をし続けた。
 10月24-25日の夜、レーニンは潜伏場所から現れて、スモルニュイ(Smolny)研究所で同志たちに合流した。スモルニュイは、かつては若い女性たちの学校で、今はソヴェトの最高司令部があった。
 彼もまた静穏で、神経質な不安の状態から回復しているように見えた。そして、当然のこととして、かつての指導者としての地位を取り戻した。//
 10月25日の午後までに、クーはほとんど成功した。-刺激的なことに、中にいる臨時政府の構成員たちをまだ取り囲んでいる冬宮の制圧を除いては。
 その日の夕方遅く、冬宮は陥落した。徐々に減っていく防衛者の一団に対する、いくぶんは混乱した攻撃によって。
 これは、のちのソヴィエトの資料が示唆するよりも英雄的でない事態だった。ネヴァ川の冬宮の反対側に停泊していた戦艦<オーロラ>は、一発の実弾も撃たなかった。そして占拠した部隊はケレンスキーを脇の出入口から抜け出させ、車でうまく市から逃亡させた。
 政治ドラマの観点からすると、これもいくぶん不満足なものだった。ソヴェト大会-ボルシェヴィキの強い主張にもとづいて数時間も最初の会議を延期していた-は、冬宮の陥落の前についに手続を開始した。こうして、劇的な開会の宣言をしようとのボルシェヴィキの意向は打ち砕かれることとなった。
 だがなお、基本的な事実は残ったままだ。すなわち、二月体制は打倒され、権力は十月の勝利者の手に移った。//
 もちろん、このことも、一つの問題を未解明のまま残した。
 いったい誰が、十月の勝利者<だった>のか?
 ソヴェト大会よりも前の蜂起をボルシェヴィキに迫ることで、レーニンは明らかに、この資格がボルシェヴィキに与えられることを望んでいた。
 しかし、ボルシェヴィキは実際には、ペテログラード・ソヴェトの軍事革命委員会を通じて蜂起を組織した。
 そして、偶々なのか企図してか、軍事革命委員会はソヴェト全国大会の会合の直前まで、遅らせた。
 (トロツキーはのちに、これはボルシェヴィキの権力奪取を合法化するためにソヴェトを用いるという輝かしい-明らかにレーニンのそれではないので推測するに彼自身の-戦術だったと描写した。(20))
 報せが地域の外に伝わったとき、最も共通した見方は、ソヴェトが権力を奪取した、というものだった。//
 この問題は、10月25日にペテログラードで開かれたソヴェト大会で十分には明らかにされなかった。
 分かったとき、大会代議員の明確な多数派は、全ての権力のソヴェトへの移行を支持するよう委任(mandat)を受けて出席していた。 
 しかし、これはもっぱらボルシェヴィキ派だったのではなかった(670人の代議員のうち300人がボルシェヴィキで、最大の位置を占めていたが、多数派ではなかった)。そして、そのような委任は、必ずしもボルシェヴィキによる先立つ行動を是認することを意味しはしなかった。
 そのボルシェビキの行動は最初の会合で、メンシェヴィキとエスエルの大集団によって厳しく批判された。この両派は、そのあと、抗議するために大会に出席しなくなった。
 レーニンの古い友人であるマルトフが率いるメンシェヴィキの宥和的姿勢については疑問が出されている。しかし、トロツキーはこのような批判を、思い出しての文章の中で、「歴史のごみ函」に送ってしまった。//
 ソヴェト大会では、ボルシェヴィキは全国すべてについての権力の労働者、兵士、農民のソヴェトへの移行を呼びかけた。
 中央権力に関するかぎりで、論理的に意味するところは、確かに古い臨時政府の場所がソヴェトの常勤の中央執行委員会に奪われるだろう、ということだった。このソヴェト中央執行委員会はソヴェト大会によって選出され、多数の政党の代表者を含むものだった。
 しかし実際は、こうではなかった。
 多くの代議員が驚いたのだが、中央政府の機能は新しい人民委員会議(Council of People's Commissars)が獲得する、と発表された。ソヴェト大会のボルシェヴィキ派全員は、10月26日の大会でボルシェヴィキ党の報道員が読み上げたことによって知った。
 新政府の長はレーニンで、トロツキーは外務人民委員(大臣)だった。//
 ある歴史研究者たちは、ボルシェヴィキの一党支配は意図してではなく歴史的偶然の結果として出現した、と主張してきた。(21)-すなわち、ボルシェヴィキは自分たちだけで権力を奪うつもりはなかった、と。
 しかし、問題にしている意図がレーニンのものだとすれば、この論拠は怪しいように見える。
 そしてまた、レーニンは、党の他の指導者の反対を無視したのだ。
 9月と10月、レーニンは明らかに、複数政党のソヴェトではなくてボルシェヴィキが権力を奪うことを望んでいたと思われる。
 彼は、ソヴェトをカモフラージュとして用いることすら望まず、明確なボルシェヴィキのクーを演じることを選好していただろう。
 確かに、地方では十月革命の直接の結果はソヴェトが権力を掌握した、ということだった。そして、地方のソヴェトはつねにボルシェヴィキが支配していたわけではなかった。
 ボルシェヴィキの十月後のソヴェトに対する態度については異なる諸解釈に開かれているけれども、原理的には、ソヴェトがボルシェヴィキを信頼しているかぎりで地方レベルでソヴェトが権力を行使するのに反対しなかった、と言うのがおそらく公平だろう。
 しかし、この要件を他の政党と競い合う民主主義的選挙と一致させるのは困難だつた。//
 確かにレーニンは新しい中央政府、人民委員会議での連立問題については、全く頑固だった。
 1917年11月、全員がボルシェヴィキの政府からより広い社会主義者の連立へと移行する可能性についてボルシェヴィキ党中央委員会が討議したとき、レーニンは断固としてそれに反対した。異論を受けて若干のボルシェヴィキですら、政府から離れたのだったけれども。
 のちに数人の「左翼エスエル」〔左翼社会革命党、社会革命党左派〕(十月クーを受容したエスエル党の分裂集団の一員たち)が、人民委員会議に加わった。しかし、彼らは、強い党基盤をもたない政治家だった。
 彼らは1918年半ばに政府から除外された。そのとき左翼エスエルは、その最近にドイツと調印された講和条約に反対する暴動を起こしていた。
 ボルシェヴィキは、他政党と連立政府を形成する努力をもはやしなかった。//
 ボルシェヴィキが単独で支配すべきという民衆からの委任(mandate)を得ていたのか、それとも、ボルシェヴィキはそう信じていたのか?
 立憲会議の選挙で(十月のクー以前の予定だったが、1917年11月に実施された)、ボルシェヴィキは民衆による投票数の25パーセントを獲得した。
 これは投票総数の40パーセントを獲得したエスエル党に次ぐ多さだった(クーの問題ではボルシェヴィキを支持した左翼エスエルは、投票リストでは〔エスエル全体と〕区別されなかった)。
 ボルシェヴィキは、より良い結果を期待していた。そしてこれは、投票結果をもっと詳細に検証するならば、おそらく解明できる。(22)
 ボルシェヴィキはペテログラードとモスクワで、そしておそらく都市的ロシア全体では勝利した。
 500万の票をもつ軍隊では別々に計算され、ボシェヴィキは北部および西部の前線とバルト艦隊で絶対多数を獲得した。-ボルシェヴィキが最もよく知る支持者たちであり、ボルシェヴィキが最もよく知られている場所だった。
 南部戦線と黒海艦隊では、ボルシェヴィキはエスエルとウクライナ諸党に敗北した。
 エスエルの全体的な勝利は、農民層の票を村落で獲得したことの結果だった。
 しかし、これに関して一定の不明瞭さはあった。
 農民たちはおそらく単一争点の投票者であり、エスエルとボルシェヴィキの土地に関する基本政策は、ほとんど同じだった。
 しかしながら、エスエルは農民層にははるかによく知られていて、農民はエスエルの伝統的な支持層だった。
 農民がボルシェヴィキの基本政策を知っていたところでは(ふつうは、ボルシェヴィキがより多くの宣伝活動を行った、町、軍駐屯地または鉄道の近くである結果として)、彼らの票は、ボルシェヴィキとエスエルに割れた。//
 にもかかわらず、民主主義的選挙による政治では、敗北は敗北だ。
 ボルシェヴィキは、立憲会議についての選挙が示す見方を採用しなかった。つまり、選挙で勝利できなかったことを理由として権力を手放しはしなかった(そして、会議が招集されて敵だと分かったとき、ボルシェヴィキはそれを素っ気なく解散させた)。
 しかしながら、支配すべきとの委任(mandate)の観点からは、ボルシェヴィキは、自分たちが代表すると主張しているのは民衆全体ではない、と議論することができたし、そう議論した。
 ボルシェヴィキは、労働者階級の名前で権力を奪取した。
 第二回〔全国〕ソヴェト大会と立憲会議の二つの選挙から導き出すことのできる結論は、ボルシェヴィキは、1917年10月から11月にかけて、労働者階級については他のどの党よりも多くの票を獲得した、ということだった。//
 しかし、のちのある時期に、労働者がその支持を撤回することがあれば、いったいどうなるのか?
 プロレタリア-トの意思を代表するというボルシェヴィキの主張は、事実の観察はもとより信念にもとづいている。すなわち、レーニンの見方からすれば、つぎのことは全くあり得ることだ。将来のある時期に労働者プロレタリア-トの意識はボルシェヴィキ党のそれよりも劣っていると分かってしまうが、支配すべきとの党への委任を変更する必要は必ずしもない、ということ。
 おそらくはボルシェヴィキは、このようなことが起きるとは想定していなかった。
 しかし、1917年のボルシェヴィキに対する反対者の多くは想定し、そしてレーニンの党はかりに労働者階級の支持を失っても、権力を放棄することはないだろう、と考えた。
 エンゲルスは、未成熟のままで権力を奪う社会主義政党は、孤立して、抑圧的な独裁制へ向かうこと強いられる可能性があるという警告を発していた。
 明らかにボルシェヴィキの指導者たちは、とくにレーニンは、そうした危険を冒すのを厭わなかった。//
 --------
 (18) Robert V. Daniel, <赤い十月>(New York, 1967), p.82. から引用した。
 (19) 十月革命に関与した大物ボルシェヴィキの行動と意図は、のちに大量に自己に役立つ修正と政治神話の形成を行う主題になった。-公式のスターリニズム的歴史書でのみならず、トロツキーの古典的な<回顧録つき>歴史書である、<ロシア革命の歴史>でも。
 Daniels, <赤い十月>, Ch. 10. を見よ。
 (20) Leon Trotsky, <ロシア革命の歴史>, Max Eastmanによる訳書(Ann Arbor, MI, 1960), ⅲ, Chs. 4~6. 1976
 (21) 例えば、Roy Medvedev, <歴史に判断させよ: スターリニズムの起源と帰結>(1st ed.; New York, 1976), p.381-4. を見よ。
 (22) 以下の分析は、O. Radkey, <ロシアが投票箱に進む-全ロシア立憲会議・1917年>(Ithaca, NY, 1989)にもとづく。
 ----
 第二章の第4節(夏の政治危機)と第5節(十月革命)の試訳が終わり。
 ***
 この著の表紙/左-第4版、右-第3版。
 fitspatrick000

 

1807/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑦。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第7回。
 ----
 第二章/第2節・ボルシェヴィキ。
 二月革命のとき、事実上全てのボルシェヴィキ指導者は、外国に亡命しているかロシア帝国の遠い地方に追放されていた。ボルシェヴィキがロシアの参戦に反対しただけではなくてロシアの敗北が革命のために利益になると主張したたために、一まとめになって拘束されたのだ。
 スターリンやモロトフを含むシベリアに追放されたボルシェヴィキ指導者は、中では最初に首都に戻った。
 しかし、ヨーロッパに亡命していた指導者たちが帰るのははるかに困難な状況にあった。何しろ、ヨーロッパは戦争中だったからだ。
 バルト地域を経て帰還するのは危険で、連盟諸国の協力を必要とした。一方で、陸上のルートは敵国の領土内を走っていた。
 にもかかわらず、レーニンとエミグレ社会の他の者たちは、切実に戻りたかった。
 そして、仲介者によって行われた交渉の後で、ドイツ政府は彼らに封印列車でドイツを縦断する機会を与えた。
 戦争に反対しているロシアの革命家たちをロシアに帰還させるのは、明らかにドイツの利益だった。しかし、政治的に妥協する危険を冒して帰ってよいのかと革命家たちは慎重に衡量しなければならなかった。
 レーニンは、主としてボルシェヴィキのエミグレの一団とともに、危険を冒すことを決断し、3月末頃に出発した。
 (スイスにいたロシア革命家たちのより多数のグループは、ほとんど全てのメンシェヴィキを含んでいたが、慎重に考えて待つことに決めた。-これは、レーニンの旅が引き起こした論争と責任追及を全て回避できたので、賢明な行動だった。
 このグループは、一ヶ月のちに、ドイツとの同様の取り決めによって、第二の封印列車でつづいた。)//
 4月初めにレーニンがペテログラードに戻る前に、シベリアに追放されていた者たちはすでにボルシェヴィキ組織を再建し、新聞を発行し始めていた。
 この時点で、他の社会主義者グループのようにボルシェヴィキは、ペテログラード・ソヴェトの周囲にある緩やかな連携の中で漂っている徴候を示していた。
 しかし、ソヴェトのメンシェヴィキとエスエルの指導者たちはレーニンが悶着の種だったことを忘れておらず、憂慮しつつレーニンの到着を待った。
 それは正当なことだったと分かることなる。
 4月3日、レーニンがペテログラードのフィンランド駅で列車から降りたとき、彼はソヴェトの歓迎委員会に素っ気なく反応し、群衆に向かって反対者を不快にする耳障りな声で若干の言葉を発した。そして突然に離れて、ボルシェヴィキ党の仲間たちとの私的な祝宴と会合に向かった。
 レーニンは明らかに、かつての党派的な習癖を失っていなかった。
 かつての政治的対立者を革命の勝利という栄光の仲間だと受け容れる、この数ヶ月にはしばしばあった愉快な感情の一つの徴候も、彼は示さなかった。//
 歴史上四月テーゼとして知られる、政治情勢に関するレーニンの評価は、戦闘的で、非妥協的で、明らかにペテログラードのボルシェヴィキたちを不安にさせるものだった。彼らは、躊躇しつつも社会主義の一体性というソヴェトの基本方針を受容し、新政府を批判的に支持する立場にいた。
 二月に達成したことを承認すべく立ち止まることをほとんどしないで、レーニンはすでに、革命の第二の段階、プロレタリア-トによるブルジョアジーの打倒、を目指していた。
 レーニンは、臨時政府を支持してはならない、と述べた。
 団結という社会主義者の幻想や新体制への大衆の「無邪気な信頼」を、破壊しなければならない。
 ブルジョアの影響力に屈服している現在のソヴェト指導部は、使い物にならない(ある演説でレーニンは、ローザ・ルクセンブルクによるドイツ社会民主党の戯画化を借用して、ソヴェト指導部を「腐臭を放つ死体」だと呼んだ)。//
 にもかかわらずレーニンは、ソヴェトは-再活性化した革命的指導部のもとで-ブルジョアジーからプロレタリア-トへの権力の移行にとってきわめて重要な組織になるだろうと予見した。
 レーニンの四月テーゼのスローガンの一つである「全ての権力をソヴェトへ!」は、実際には、階級戦争の呼びかけだった。
 「平和、土地、パン」は四月の別のスローガンだったが、同様に革命的な意味合いがあった。
 レーニンの言う「平和」は、帝国主義戦争から撤退することだけではなくて、その撤退は「資本主義の打倒なくしては…<不可能>だ」と認識することをも意味した。
 「土地」は、土地所有者の資産を没収し、農民が自分たちにそれを再配分することを意味した。-農民の随意による土地取得にきわめて近いものだった。
 「革命的民主主義のど真ん中で内戦の旗を掲げている」というレーニンに対する批判が生じたのは、不思議ではなかった。(10)//
 レーニンの見方と指導性を尊重してきたボルシェヴィキは、彼の四月テーゼに衝撃を受けた。ある者は、レーニンは国外にいる間にロシアの生活の現実に関する感覚を失ったのではないかと考えた。
 しかし、レーニンの訓戒と叱責を受けて数ヶ月のうちに、ボルシェヴィキは社会主義者の連立から離脱するという、より非妥協的な立場へと移行した。
 しかしながら、ボルシェヴィキなくしてもペテログラード・ソヴェトの多数派は形成されていたので、「全ての権力をソヴェトへ!」というレーニンのスローガンはボルシェヴィキに実践的な行動指針を与えはしなかった。
 レーニンの戦略は秀れた政治家のそれだったのか、それとも偏頗な過激主義者-古い社会主義者のプレハノフの左翼側の対応者-のそれだったかは、未解明の問題であるままだ。プレハノフは、戦争問題に関する留保なき愛国主義のために、ロシアの社会主義者政治家の主流から外された。//
 かつての偏狭な不一致を抑えることを誇りとする、ソヴェトに関係するたいていの政治家には、社会主義者の一体性の必要は自明のことだと思われた。 
 6月、ソヴェトの第一回全国大会の際、ある発言者が否定の返答を想定して修辞的に、いずれかの政党に単独で権力の責任を負う用意があるだろうかと問うたとき、レーニンは「その政党はある!」と言って遮った。
 しかし、ほとんどの大会代議員にとって、それは真面目な挑戦ではなく虚勢のように聞こえた。
 しかしながら、、ボルシェヴィキは民衆の支持を得つつあり、連立する社会主義者は失いつつあったので、真面目な挑戦の言葉だった。//
 6月のソヴィエト大会の際にはボルシェヴィキはまだ少数派で、大都市での選挙でさらに勝利しなければならなかった。
 しかし、ボルシェヴィキの強さが大きくなっていることはすでに草の根レベルで-労働者の工場委員会、軍隊内の兵士・海兵委員会および大きな町の地方的地区ソヴェトで-明白だった。
 ボルシェヴィキの党員数も、劇的に増加していた。党は大衆的に入党させる運動をする正式の決定をしておらず、多数の流入にほとんど驚いたように見えたけれども。
 党員の数は、確実なものではなくておそらく実際よりも誇張されてはいるが、その拡大をある程度は示している。すなわち、二月革命のときのボルシェヴィキ党員は2万4000人(この数字は、ペテログラードの党組織は2月には実際には約2000人だと識別しており、モスクワの組織は同じく600人なので、とくに疑わしい)、4月の終わり頃に10万人以上、そして1917年十月には総計で35万人だった。これには、ペテログラードおよびその近郊地方の6万人、モスクワおよびそこに近い中央工業地域での7万人が含まれる。(11)
 --------
 (10) V. I. レーニン, 全集(Moscow, 1964)24巻p.21-26。レーニンが引用する批判者は、Goldenberg。
 (11) 党員の数字に関する注意を払った分析として、T. H. Rigby, <ソヴェト同盟の共産党員-1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), Ch. 1.を見よ。
 ----
 第3節・民衆の革命。
 1917年の初頭に、軍には700万の男たちがおり、200万人の予備兵もいた。
 軍隊は多大な損失を被り、脱走率の増大や前線でのドイツ人との交流への反応から見て戦争疲れのあることは明確だった。
 兵士たちから見て二月革命とは戦争がまもなく終わるという暗黙の約束で、彼らは臨時政府が-主導しなくともペテログラード・ソヴェトの圧力によって-それを実現するのを辛抱強く待った。
 1917年の早春に、選出された委員会という新しい民主主義的構造をもち、不十分な供給という昔からの問題を抱え、そして不安で不確実な雰囲気のあった軍は、せいぜいのところ、有効性の疑わしい戦闘部隊だった。
 前線では、志気が完全に喪失していたというわけではなかった。
 しかし、予備兵団が駐留している、国の周囲の守備軍団の状況は、かなり険悪なものだった。//
 1917年のロシアの兵士と海兵たちは、伝統的に、制服を脱いだ場合の職業を無視して、「プロレタリア-ト」に分類されてきた。
 実際には入隊している者たちのたいていは、農民だった。バルト艦隊や北部および西部の前線の部隊では、彼らが入隊した地域が比較的に工業化されていたために、不均衡に労働者が多かったけれども。
 マルクス主義の概念上は、軍隊の兵士たちは現在の仕事を理由としてプロレタリア-トだということは、議論の余地がある。しかし、より重要なのは、この問題は明らかに、彼らはどのように自分たち自身のことを意識していたのか、だ。
 Wilderman の研究が示すように (12) 、1917年春に前線にいた兵士たちは-革命と新しい行動規範を受け入れる将校たちと協力する心づもりがあったときですら-、将校と臨時政府は一つの階級、「ご主人」の階層に属していると考え、自分たちの利益は労働者やペテログラード・ソヴェトのそれと一体のものだとみなしていた。
 5月までに、最高司令官が警戒して報告したように、将校と兵士たちの間の「階級対立」が軍の愛国的連帯精神の中に深く浸入していた。//
 ペテログラードの労働者は2月に、革命的精神をすでに力強く示した。「ブルジョア」的臨時政府の設立に抵抗するほどに十分に戦闘的で、その心理的な用意があったわけではなかったけれども。
 二月革命後の最初の数ヶ月、ペテログラードその他で表明された不満は経済的なもので、一日八時間労働(戦時という非常時を根拠にして臨時政府はこれを拒否した)、賃金、超過勤務、および失業に対する保護のような日常的問題に焦点を合わせていた。(13)
 しかし、ロシア労働者階級にある政治的戦闘性の伝統からして、この状態がつづいていく保証はなかった。
 戦争が労働者の構成を変えたというのは本当のことだ。労働者の全体数がいくぶんは増大したのはもちろんだが、女性の割合も大きく増えた。
 女性労働者は男性よりも革命的ではないと、通常は考えられてきた。
 だが、国際女性日でのストライキが二月革命のきっかけになったのは、女性労働者だつた。また、前線に夫をもつ女性労働者たちは、戦争の継続に反対する傾向がとくに強かった。
 ペテログラードは、熟練技術をもつ男性労働者が徴兵義務を免除された軍需産業の中心地として、戦前からの男性労働者階級のうちの比較的に大きな割合を、工場に雇用していた。 
 戦争初期のボルシェヴィキの摘発にもかかわらず、また、その後の、工場にいる多数の政治的問題者の逮捕や軍事召集にかかわらず、ペテログラードの大きな冶金や防衛の工業施設は、ボルシェヴィキや他の革命的諸政党に所属する、驚くべきほどに多くの労働者を雇用し続けていた。戦争勃発の後でウクライナやその他の帝国部分から首都にやって来た、ボルシェヴィキの職業的な革命家をもすら。
 他の革命的労働者たちは、二月革命後に工場に戻った。そのことは、さらなる政治不安の潜在的可能性を増大させていた。//
 二月革命は、ロシアの工業中心部全てに、とくにペテログラードとモスクワに、労働者の力強い陣容を生み出した。
 労働者ソヴェトはペテログラード・ソヴェトのような都市レベルだけではなく、より下位の都市的地域でも設立された。後者では、指導部が社会主義的知識人ではなくて、通常は労働者自身で成っており、その雰囲気はしばしばより急進的だった。
 新しい労働組合も、結成された。そして、労働者たちは、工業施設レベルで、経営にかかわるべく工場委員会を設立し始めた(これは労働組合組織の一部ではなく、ときには地方の労働組合支部と共存した)。
 最も草の根に近い工場委員会は、全ての労働者組織の中で最も急進的になる傾向にあった。
 ペテログラードの工場委員会では、ボルシェヴィキが1917年5月までに、支配的地位を獲得した。//
 工場委員会の元来の機能は、資本家による工業施設の経営に対する労働者のための監視者(watchdogs)であることだった。
 この機能を表現するために使われた言葉は「労働者による統制(control)」(rabochii kontrol)で、経営上の意味での統制(支配)ではなくて監視(supervision)を含意させていた。
 しかし、工場委員会は実際には、しばしばさらに進んで、経営上の機能も奪い取り始めた。
 ときには、これは雇用や解雇の統御をめぐる紛争にかかわった。あるいは、いくつかの工業施設で労働者が人気のない作業長や幹部を手押し車に押し込んだり、川に投げ込んだりするに至る一種の階級対立の産物になった。
 別の例で言うと、工場委員会は、所有者または経営者が金がかかるとの理由で工業施設を放棄したり、閉鎖すると脅かしたときに、労働者を失業から守るために事業を引き継いだ。
 このような事例がより一般的になってくるにつれて、「労働者による統制」の意味は、労働者による自己経営のようなものに接近してきた。//
 労働者の政治的雰囲気がより戦闘的になり、ボルシェヴィキが工場委員会での影響力を獲得するにつれて、このような変化が生じた。
 戦闘性とは、ブルジョアジーに対する敵意と労働者の革命における優越性を意味した。変化した「労働者による統制」の意味が、労働者は彼らの工業施設の主人であるべきだというのと全く同じように。こうして、「ソヴェトの権力」とは労働者は地区、都市およびおそらくは国家全体の単一の主人であるへきだということを意味するという考えが、労働者階級に出現してきた。
 これは政治理論としては、ボルシェヴィズムよりもアナキズムやアナクロ・サンディカリズムに近いものだった。そして、ボルシェヴィキの指導者たちが、工場委員会やソヴェトを通じての労働者による直接民主主義は党が指導する「プロレタリア-トの独裁」という彼ら自身の考え方に至るあり得るまたは望ましい選択肢の一つだという見方に、実際に賛同したのではなかった。
 にもかかわらず、ボルシェヴィキは現実主義者だった。そして、1917年夏の政治的現実はその党が工場委員会の強い支持を得ているということであり、彼らはその支持を失うのを欲しはしなかった。
 その結果として、ボルシェヴィキは、何を意味させるのかを厳密には定義しないままで、「労働者による統制」を擁護した。//
 使用者たちは、大きくなる労働者階級の戦闘性に対して警告を発した。多くの工業施設が閉鎖され、ある著名な実業家は用心深く、「飢えて痩せた手」は最後には都市労働者が秩序を回復する手段になるかもしれない、という意見を表明した。
 しかし、田園地域では、土地所有者の農民層に対する警戒と恐怖の方がはるかに強かった。
 二月のときに村落は平穏で、若い農民の多くは、兵役へと徴用されていたためにいなかった。
 しかし、5月までに、明らかに田園地域は、都市革命に反応して1905年にそうだったように、騒乱に陥った。
 1905-6年でのように、地主の邸宅は略奪されて燃やされた。
 加えて、農民たちは私有地や国有地を自分たちが使うために奪取していた。
 夏の間、騒擾が多くなったときに、多数の土地所有者が資産を放棄して田園地域から離散した。//
 ニコライ二世は、1905-6年反乱の後でも、地方の役人や土地所有貴族の意見がどうであれロシアの農民はツァーリを敬愛しているという考えに縋りついていた。しかし、多数の農民は君主制の崩壊と二月革命の報せに、それと全く異なる反応をした。
 農民ロシア全体で、新しい革命は貴族たちのかつての不当な土地に関する権限を破棄したことを意味する-または意味させるべきだ-と想定されていたように見える。
 土地は耕作する者に帰属すべきだと、農民たちは春に、臨時政府に対する夥しい請願書で書いた。(14)
その具体的言葉で農民たちが意図したのは、農奴のごとく貴族のために耕作してきた、そして農奴解放の取り決めによって土地所有貴族が保有している土地を自分たちが取得すべきだ、ということだった。
 (この土地の多くは当時には土地所有者から農民に賃貸されていた。別の事例では、雇用労働者として地方の農民を使って、土地所有者が耕作していた。)//
 農民たちが半世紀以上前の農奴制時代に溯る土地に関する考え方を抱いていたとすれば、ストリュイピンが第一次大戦前に実施した農業改革が農民の意識にほとんど影響を与えなかったというのは、何ら驚くべきことではない。
 まだなお、1917年に、農民の<ミール>が明らかに活力を有していることは、多くの人々には衝撃だった。
 マルクス主義者たちは1880年代以降、<ミール>は基本的には内部的に解体しており、国家がそれを有用な装置だと考えただけの理由で存続している、と主張してきた。
 紙の上では、ストリュイピンの改革の効果によって欧州ロシアの村落の相当程度に高い割合で<ミール>は解体することになっていた。
 だが、それにもかかわらず、<ミール>は明らかに、1917年の農民の土地に関する思考における基本的な要素だった。
 請願書で彼らは、貴族たち、国家および教会が保有している土地の平等な再配分を求めた。-つまり、<ミール>が村落の田畑に関して伝統的に行ってきた村落世帯間での平等な再配置と同じ種類のものを。
 1917年夏に非合法の土地略奪が大規模で始まったとき、その略奪は個々の農民世帯のためではなくて村落共同体のために行われた。そして、一般的な態様は、かつての土地を伝統的に分割してきたように<ミール>がすみやかに村民へと新しい土地を分割する、というものだった。
 さらに加えて、しばしば<ミール>は、かつての構成員に対するその権能を、1917-18年にあらためて主張した。すなわち、戦前に<ミール>に自立小農民として身を立てる力を残したストリュイピンの「分割者」は、多くの場合は彼らの保有物をもう一度、村落の共有地に戻して、それと一体となるように強いられた。//
 土地問題の深刻さや1917年春以降の土地奪取に関する報告にもかかわらず、臨時政府は、土地改革の問題を先送りにした。
 リベラルたちは、原理的には私有地の収奪に反対ではなかった。そして、一般的には農民の要求は正当なものだと考えていたように見える。
 しかし、いかなる急進的な土地改革も、明らかに重大な問題を惹起させただろう。
 第一に、政府は、土地の収奪と譲渡のための複雑な公職機構を設定しなければならなかっただろう。それはほとんど確実に、当時の行政上の能力を超えるものだった。
 第二に、政府は、たいていのリベラルたちが必要だと考えていた土地所有者に対する多額の補償金を何とかしでも支払うことはできなかっただろう。
 臨時政府の結論は、立憲会議が適正に解決するまで、問題を棚上げするのが最善だ、というものだった。
 その間に、政府は農民に対して(ほとんど役に立たなかったけれども)、かりにでも一方的に制裁することはない、と通告した。//
 --------
 (12) Wilderman, <ロシア帝国軍隊の終焉>。1917年2月-4月の軍というその中心主題に加えて、この書物は、二月の権力移行に関する利用可能な最良の分析の一つを提供している。
 (13) Marc Ferro, <1917年2月のロシア革命>, J. L. Richards 訳(London, 1972), p.112-121.
 (14) 多様な民衆の反応について、Mark D. Steinberg, <革命の声-1917年>(New Haven & London, 2001)にある資料文書を見よ。
 ----
 第二章(二月と十月の革命)のうち第2節(ボルシェヴィキ)と第3節(民衆の革命)の試訳が終わり。

1806/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑥。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第6回。
 注記-the (a) Constituent Assembly は「憲法制定会議(-議会)」とするのが<定訳>のようでもあるが、ここでは「立憲会議」という語で訳出する。予定されていた会議(集会)は「憲法」制定を目的にしたものではなく(正確には「国制」の基本的あり方を決定するためのものであり)、ボルシェヴィキを含む各政党・党派が各党独自の「憲法草案」を用意して競った、というものでは全くないからだ。
 ----
 第二章・二月と十月の革命。
 (はじめに)

 1917年2月、民衆の集団示威行進と体制への支持の撤退を見て、専制体制は崩壊した。
 革命の高揚感からして、政治的解決の方策は簡単であるように見えた。
 ロシアの将来の統治形態は、もちろん民主政的(democratic)だっただろう。
 この曖昧な言葉とロシアの新しい国制(constitution)の性格の正確な意味は、情勢が許すかぎりですみやかにロシア民衆が選出する立憲会議(the Constituent Assembly)が決定するだろう。
 それまでの間は、エリートの革命と民衆の革命とが共存するだろう。1905年の国民の革命的連帯という栄光の日々にそうだったように。-前者の範疇にはリベラル政治家たち、有資産階層と専門家階層、および上級官僚層が入り、後者の範疇には、社会主義政治家たち、都市的労働者階級および兵士や海兵という軍人たちが入る。
 制度の観点から言うと、新しい臨時政府(Provisional Government)はエリート革命を代表し、新たに再生したペテログラード・ソヴェトは民衆の革命を代弁するだろう。
 これら二つの関係は、競争的ではなくて補完し合うものだろう。そして、「二重権力」(dual power)(この語は臨時政府とソヴェトの共存を示すために使われた)は、弱さではなくて強さの淵源になるだろう。
 ロシアのリベラルたちは結局のところ、社会主義者たちを同盟者だと見なす傾向に伝統的にあった。社会主義者たちの社会改革への特別の関心は、政治的民主主義化というリベラルたち自身の特別の関心と類似していて、併存可能だったのだ。
 同じように、ロシアのたいていの社会主義者には、リベラルたちを同盟者だと見なす心づもりがあった。リベラルたちは、ブルジョア的でリベラルな革命が政治課題の第一段階で、社会主義者は専制体制に反対する闘いでそれを支援せざるを得ないという、マルクス主義の考え方を受容していたのだから。//
 だが8ヶ月以内に、二月の希望と期待は、朽ち果てた。
 「二重権力」は、権力の真空を覆い隠す幻想だと分かった。
 民衆革命は、徐々に過激になっていった。一方でエリート革命は、財産、法と秩序を守ろうとする不安気で保守的な立場の方向へと動いた。
 臨時政府は、将軍コルニロフ(Kornilov)による右からのクーの試みを辛うじて生き延び、10月のボルシェヴィキによる左からの成功したク-には屈服した。後者は一般的には、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンを連想させた。
 長く待った立憲会議は召集されたが、1918年1月にボルシェヴィキが無作法に解散させたので、何ごとも達成されなかった。
 ロシアの周縁部では、旧帝制軍の将校たちがボルシェヴィキと闘う勢力を集結させていた。ある範囲の者たちは、1917年に永遠に消失したと思われた君主制の旗のもとにいた。
 革命は、リベラルな民主政体をロシアに生み出さなかった。
 その代わりに、アナーキー〔無政府状態〕と内戦とをもたらした。//
 民主主義の二月から赤い十月への一気の推移は、勝者と敗者のいずれをも驚かせた。
 ロシアのリベラルたちには、衝撃は巨大だった(traumatic)。
 革命がついに起きた-<彼らの>革命は、西側ヨーロッパの歴史が明確に例証し、正当に思考するマルクス主義者すら同意するように正しいはずのものだった。しかしその革命は、彼らの手中から、邪悪で理解し難い勢力が奪い去っていっただけだった。
 メンシェヴィキとその他の非マルクス主義者たちは、同様にひどく憤慨した。すなわち、プロレタリア-トの社会主義革命には、時機がまだ成熟していない。マルクス主義政党がルールを破って権力を奪取するなどとは、釈明することができないことだ。
 ヨーロッパでの戦争の仲間である連盟諸国は、突然の政府崩壊に呆然として新政府の承認を拒絶した。このことは、ロシアを戦争から一方的に閉め出す用意をすることだった。
 外交官たちは、ロシアの新しい支配者の名前すらほとんど知らなかった。しかし、最悪のことの発生を疑い、彼らが2月に歓迎した民主政の希望がすみやかに復活するようにと祈った。
 西側の新聞の読者は、文明化から無神論の共産主義(Communism)という野蛮な深みへとロシアが崩落したことを、恐怖とともに知った。//
 十月革命が残した傷痕は深かった。そしてそのことは、ボルシェヴィキの勝利に続いた内戦の間または直後に国外逃亡した多数の教養あるロシア人によって、外部世界にもより痛ましくかつより理解できるようになった。
 エミグレたちにとって、ボルシェヴィキ革命はギリシャの意味での悲劇だというよりもむしろ、予期していない、不当で、本質的には不公正な災難だった。
 西側の、とくにアメリカの世論にとって、ロシアの民衆はそのために長く高潔に闘ってきたリベラルな民主主義に欺されたように思えた。
 ボルシェヴィキの勝利を説明することのできる陰謀論が、広い範囲で信憑性を獲得した。
 そのうち最も知られているのは、国際的なユダヤ人による陰謀だとの説だった。トロツキー、ジノヴィエフおよび多くの他のボルシェヴィキ指導者はユダヤ人だったのだから。
 だが、Solzhenitsyn の<チューリヒのレーニン>が蘇らせた別の論は、ボルシェヴィキはドイツの人質だったと描き、ドイツは〔ボルシェヴィキを使って〕ロシアを戦争から追い出す策略に成功した、とする。
 もちろん歴史研究者は、陰謀論には懐疑的な傾向にある。
 しかし、このような議論が盛んになることを可能にした感じ方は、この問題に対する西側の学問的接近方法にも影響を与えた。
 ほんの最近まで、ボルシェヴィキ革命に関する歴史的説明は、何らかの方法でその非正統性を強調した。まるで、事件とその結末について、ロシアの民衆をいかなる責任からも免れさせようとしているかのごとく。//
 ボルシェヴィキの勝利とその後のソヴィエト権力の展開に関する西側の古典的解釈によると、<問題解決の神>(deus ex machina)は、党の組織と紀律という、ボルシェヴィキの秘密兵器だった。
 レーニンの小冊子<何をなすべきか>(上述、p.32参照)は非合法の陰謀的政党が成功するための組織に関する必要条件を述べたもので、基本的なテキストとしてつねに引用された。
 そして、<何をなすべきか>が示した考え方は成長期のボルシェヴィキ党の型を形成し、1917年2月の地下からの最終的な出現の後ですらボルシェヴィキの行動を決定し続けた、と主張された。
 ロシアでの二月以降の開かれた民主主義的な多元主義的政治は、それゆえに弱体化し、陰謀組織による十月のクーによるボルシェヴィキの非合法の権力奪取でもって頂点に達したのだ、と。
 中央志向の組織と厳格な党紀律というボルシェヴィキの伝統によって、新しいソヴィエト体制は抑圧的な権威主義の方向へと向かい、のちのスターリンの全体主義的独裁制の基礎を設定した、と。(1)
 だが、ソヴィエト全体主義の起源というこの一般的な考えを1917年の二月と十月の間に展開した特有の歴史的状況へと適用するのは、つねに問題があった。
 第一に、かつての秘密結社的ボルシェヴィキ党には新しい党員が大量に流入した。とくに工場や軍隊からの新規加入は、他の全ての政党を凌駕していた。
 1917年の半ばまでに、ボルシェヴィキ党は開かれた大衆政党になっていて、<何をなすべきか>で叙述された一日中を働く革命家たちの紀律あるエリート組織とはほとんど似ていなかったのではないか?
 第二に、党全体も党指導者も、1917年の最も基本的な政策問題に関して一致していなかった。
 例えば10月に、蜂起が望ましいか否かに関して党指導者内部に大きな不一致があったために、その論点についてボルシェヴィキは、日刊新聞上で公的に議論した。//
 1917年のボルシェヴィキの力強さは厳格な組織と規律にあるのではなく(当時はほとんど存在しなかった)、政治の射程での極左に位置する頑強な急進主義だった、と言えるかもしれない。
 他の社会主義やリベラルのグループは、臨時政府やペテログラード・ソヴィエト内での地位を求めて競い合った。一方でボルシェヴィキは、選任されるのを拒み、連立と妥協の政策を非難した。
 従前は急進的だった他の政治家は節度と責任を、そして政治家らしい指導力を求めた一方で、ボルシェヴィキは、責任がなくかつ戦闘的な革命的群衆とともに街頭に出ていた。
 「二重権力」構造が解体し、臨時政府とペテログラード・ソヴェト指導層に代表される連立諸党派への信頼が失墜したとき、ボルシェヴィキだけが利益を得る立場にあった。
 社会主義諸政党の中で、ボルシェヴィキだけがマルクス主義者としての良心の咎め(scruples)を抑制し、群衆の空気を掴み、プロレタリア革命の名のもとで権力を奪取する気概があることを宣言した。//
 臨時政府とペテログラード・ソヴェトの「二重権力」関係は、階級の観点から、ブルジョアジーとプロレタリア-トの間の同盟だとつねに考えられてきた。
 それの存続は、これら両階級やそれらを代表すると主張する政治家たちの間の継続的な協力関係に依存していた。
 しかし、二月の脆弱な合意は、1917年夏までには深刻なほどに掘り崩されていた。
 都市社会が法・秩序の右派と革命的左派にますます分極化していったとき、民主主義的連立という中間的な基盤は、粉々になり始めた。
 7月、労働者、兵士および海兵はペテログラードの街頭に出現して、ソヴェトが労働者階級の名前で権力を奪取することを主張し、臨時政府の「10人の資本主義大臣」を非難した。
 8月、コルニロフ将軍のクーが失敗した月、指導的な実業家はリベラル派に対して、自分たちの階級利益を守るためにもっと断固であれと、つぎのように迫った。
 『我々は…、現在の革命はブルジョア革命であり、現に存在しているブルジョア秩序は不可避だ、と言うべきだ。そして、不可避であるがゆえに、完璧に論理的な結論を導出しなければならず、国家を支配する者はブルジョア的様式で思考し、ブルジョア的様式で行動しなければならない。』(2)
 「二重権力」は立憲会議が招集されるまでの暫定的な仕組みだと考えられていた。
 しかし、左派と右派からの攻撃を受けてそれが解体し、ロシアの政治がいっそう分極化したことは、1917年半ば頃、現時点に関してはもちろんのこととして将来に関する憂慮すべき問題を生じさせた。
 ロシアの政治的諸問題は民衆により選出される立憲会議と西側モデルによる議会制民主主義の形式的な制度化によって解決することができる、という望みは、まだ合理的だったのか?
 立憲会議による解決は、暫定的な「二重権力」のように、ある程度の政治的な一般的合意と妥協が必要であることについての了解を必要とした。
 合意と妥協に至る、気づかれていた代替選択肢は、独裁制や内戦だった。
 しかしながら、これらの代替案は、政府の手綱を放り捨てた、動揺して鋭く分極化した社会によって選択されそうに見えた。//
 --------
 (1) この議論に関する批判的な歴史編集的考察として、Stephen F. Cohen, <ボルシェヴィズムとスターリニズム>, in: Robert C. Tucker, ed., <スターリニズム>(New York, 1977)を見よ。
 (2) W. Rosenberg, <ロシア革命におけるリベラル派>(Prinston, NJ, 1974)p.209 から引用した。
 ----
 第1節・二月革命と「二重権力」。
 2月の最終週、食糧不足、ストライキ、ロックアウト、そして最後にヴィボルク地区での女性労働者による国際女性日記念の集団示威行進が、群衆をペテログラードの街頭へと送り込んだ。これを当局は、解散させることができなかった。
 会期の最後に達していた第四ドゥーマは皇帝に対して、責任ある内閣の再度の設置と危機存続中の会期延長とを懇願した。
 いずれの要望も、拒否された。
 しかし、カデット党内リベラル派および進歩派が支配していたドゥーマの無権限の委員会は、実際は開会中のままだった。
 皇帝の閣僚たちは最後の、何も決定しない会合を開き、そして逃げ去った。彼らのうちの用心深い者は、即時に首都を離れた。
 ニコライ二世自身は出席しておらず、モギレフ(Mogilev)にある軍最高司令部を訪れていた。
 危機に対する彼の反応は、騒擾はただちに終焉させるべしという、電報でのわずかな言葉による指示だった。
 しかし、警察は解体しつつあり、ペテログラード守備軍から群衆を統制すべく市内に派遣された兵士たちは、群衆に同調し始めた。
 ペテログラードの軍司令官は、革命的群衆が全鉄道駅、全銃砲施設、そして知る限りで市の全体を奪い取った、と報告しなければならなかった。
 彼の指示を受け入れる信頼できる兵団はほとんど残っていなかった。そして、彼の電話ですら作動しなくなっていた。//
 軍の最高司令部には、二つの選択肢があった。一つは新しい兵団を送り込むことだが、彼らは結束するかもしれないけれども、そうしない可能性もあった。もう一つは、ドゥーマの政治家の助けを借りて政治的解決を追求することだった。
 軍最高司令部は、後者を選択した。
 モギレフからの帰路にあったプスコフ(Pskov)で、ニコライの列車に最高司令部とドゥーマからの使者がやって来た。彼らはニコライに恭しく、皇帝位を放棄するように示唆した。
 若干の議論のあとで、ニコライは穏やかに同意した。
 しかし、最初は彼の子息へと譲位するという提案を受け容れたのだったが、皇太子アレクセイの健康をもう一度考えて、自分と子息のために退位するのではなく、弟のミハエル大公に譲位すると決断した。
 つねに家庭的だったニコライは、驚くべき平穏さをもって、また自分の私人としての将来に関する政治的無邪気さをもって残りの旅を過ごした。//
 『〔対ドイツ戦争という〕対立が続いている間は外国へ行こう、そしてロシアに戻り、クリミアに定住して、子息の教育に完全に没頭したい、と彼は言った。
 彼に対する助言者のある者は、彼はそうするのを許されるだろうかと疑った。しかし、ニコライは、子どもの世話をする権利を否定する親はどこにもいない、と答えた。』(3)//
(ニコライは首都に到着したあと、家族と一緒になるためにペテログラードの外に送られた。そのあと、臨時政府と連盟諸国が彼の処遇を決めようとしている間は、軟禁状態で静かにしていた。
 のちに家族全員がシベリアに、ついでウラルに送られた。まだ軟禁状態で、かつ状況はますます困難になっていたが、ニコライは強い精神力でそれに耐えた。
 1918年7月、内戦開始のあとで、ニコライとその家族は、ボルシェヴィキのウラル・ソヴェトの指令にもとづいて処刑された。(4)
 退位からその死のときまで、ニコライは実際に私人として振る舞い、積極的な政治的役割はいっさい果たさなかった。)
 ニコライの退位につづく日々、ペテログラードの政治家たちは、高度に興奮し熱狂的に行動する状態だった。
 彼らの元来の意図は、君主制ではなくてニコライを取り去ることにあった。
 しかし、ニコライのその子息への譲位は、アレクセイが未成年の間の摂政政治の可能性をも奪い取った。
 そして、賢明な人物のミハエル大公は、兄を嗣ぐという誘いに乗り気ではなかった。
 したがって、ロシアは事実上もはや君主制国ではなかった。//
 国家の将来の統治形態はいずれ開催される立憲会議(a Constituent Assembly)で決定される、それまでの間は自己任命の「臨時政府」が従来の帝国閣僚会議の責任を引き継ぐ、と決定された。
 ゼムストヴォ連盟の長で穏健なリベラルのルヴォフ(Georgii Lvov)公が新政府の長になった。
 彼の内閣には、歴史学者でカデット党の理論家のミリュコフ(Pavel Milyukov)が外務大臣として、二人の著名な実業家が財務大臣および通商産業大臣として、社会主義者の法律家であるケレンスキー(Aleksandr Kerensky)が司法大臣として入った。//
 臨時政府には選挙による委任(mandate)がなく、その権威は、今は消滅したドゥーマ、軍最高司令部の同意およびゼムストヴォ連盟や戦時産業委員会のような公共的組織との非公式の合意に由来した。
 旧帝制の官僚機構はその執行的機能を提供したが、先立つドゥーマの解体の結果として、臨時政府にはそれを支える立法機関がなかった。
 脆弱でありかつ形式上の正統性が欠けていても、新政府が権力を掌握することはきわめて容易であると思われた。
 連盟諸国はただちに、それを承認した。
 ロシアで一夜にして君主主義感情が消滅したように見えた。第十軍の全体と二人の将校だけが、臨時政府に忠誠を誓うことを拒否したのだ。
 リベラルのある政治家は、のちにこう振り返った。//
 『多くの個人や組織は、新権力への忠誠を表現した。
 Stavka〔軍司令部〕は全体として、それに続いて全ての司令官たちも、臨時政府を承認した。
 帝制期の大臣たちや副大臣の何人かは、収監された。しかし、その他の官僚たちはそれぞれの職にとどまった。
 各省、役所、銀行、実際にはロシアの政治機構の全体が、作動するのを止めなかった。
 この点では〔二月の〕クー・デタは順調に過ぎ去ったので、その当時ですら、これは終わりではない、こんな危機がこれほど平和裡に過ぎ去ることはありえない、という漠然とした胸騒ぎを覚えたほどだった。』(5)//
 実際、まさに最初から、権力移行の有効性を疑うことのできる理由はあった。
 最も重要なのは、臨時政府には競争相手があった、ということだ。すなわち、二月革命は、全国的な役割を主張する、一つではなく二つの自己形成的権威を生んだ。
 第二のものはペテログラード・ソヴェトで、労働者、兵士および社会主義政治家による1905年のペテルブルク・ソヴェトを範型として形成された。
 3月2日に臨時政府の設立が発表されたとき、ソヴェトはすでにタウリダ宮で会合をしていた。//
 臨時政府とペテログラード・ソヴェトの二重の権力関係は自然に明らかになってきたもので、政府はそう選択するしかなかったためにこれを広く受け容れた。
 最も現実的な面から述べると、自由にできる力を持たない10人ほどの大臣は、むさ苦しい労働者、兵士および海兵たちの群れから王宮(政府とソヴェト両者の最初の会合場所)を無事に通過することがほとんどできなかった。彼らは中をどしどしと歩き回り、外に向かって演説し、食べて、寝て、議論し、宣言文を書いていた。
 断続的にソヴェトの部屋に突入してきて、捕まえた警察官やかつての帝制期大臣を〔ソヴェトの〕代議員のもとに残していく、そのような群衆の雰囲気は、何とか通り過ぎようとの意図を萎えさせたに違いない。
 もっと広い観点からは、戦時大臣だったグチコフ(Guchkov)は3月初めに、軍の最高司令官に対してこう説明していた。//
 『臨時政府は、本当の(real)権力を何も持っていない。
 その公的な命令は、労働者・兵士代表ソヴェトが許す範囲でのみ実施される。ソヴェトは、本当の権力の本質的な要素を全て享有している。兵団、鉄道、郵便および電信、これらは全て、彼らの手中にあるからだ。
 平易に言うと、臨時政府は、ソヴェトが許容しているかぎりでのみ存在している。』(6)//
 最初の数ヶ月、臨時政府は主としてリベラルたちで構成されていた。一方、ソヴェトの執行委員会は社会主義者の知識人によって、党派所属上は主としてメンシェヴィキとエスエルによって占められていた。
 臨時政府の一員でありかつ社会主義者でもあるケレンスキーは、二つの組織を結び合わせるめに活動し、両者の間の連絡者として働いた。
 ソヴェトの社会主義者たちは、ブルジョア革命がその行程を終えるときまで労働者階級の利益を守るために、臨時政府に対する監視者(watchdogs)として行動するつもりだった。
 このようなブルジョアジーに対する敬意は、一つには、社会主義者が良きマルクス主義教育を受けていたからであり、二つには、警戒と不確実さの産物だった。
 ソヴェトのメンシェヴィキ指導者の一人であるスハノフ(Nikolai Sukhanov)が記したように、先には厄介なことが起きそうだった。そしてリベラルたちが責任をもち、必要ならば責めを甘受した方がよかったかもしれない。//
 『ソヴィエトの民主政は、権力を階級敵である有資産要素に託さなければならなかった。その者たちの関与がなければ、解体という絶望的状況で行政の技術を急に修得することはできなかったし、帝制主義者やそれと一体となったブルジョアジーをうまく処理することもできなかっただろう。
 しかし、この移行の<条件>は、近い将来での階級敵に対する完全な勝利という民主政体を確実にするものでなければならない。』(7)
 しかし、ソヴィエトを構成した労働者・兵士・海兵は、さほどに用心深くはなかった。
 臨時政府の公式の樹立またはソヴィエトでの「責任ある指導者層」の出現よりも前の3月1日、悪名高い命令第一号がペテログラード・ソヴェトの名前で発せられた。
 命令第一号は革命的文書で、ソヴィエトの権力を主張するものだった。
 それは、選挙された兵士委員会の設立による軍の民主主義化、将校の懲罰権限の削減、軍隊に関する全ての政策問題に関するソヴィエトの権限の承認を要求した。すなわち、ソヴィエトの副署がないかぎりは、いかなる政府のまたは軍の命令も有効ではない、と述べていた。
 命令第一号は、現実に将校をその地位に確保するための選挙の実施を要求するものではなかった。また、そのような選挙は実際には、より規則に則らない単位で組織されてきていた。
 そしてまた、数百人の海軍将校たちがクロンシュタットとバルティック艦隊の海兵によって二月の時期に拘束されて殺害された、という報告があった。
 ゆえに、命令第一号は、階級戦争を強調する意味をもつもので、階級の協力という展望についての保障を提供することは全くできなかった。
 これは、二重権力という最も機能できない形態を予兆した。つまり、軍隊に入った者たちはペテログラード・ソヴェトの権威だけを承認し、一方で将校団は臨時政府の権威だけを承認する、という状況の予兆だった。//
 ソヴィエトの執行委員会は、命令第一号が意味させていた急進的立場から退却をすべく最大限の努力をした。
 しかし、スハノフは4月に、執行委員会が事実上臨時政府と連立していることが生んだ「大衆からの孤立」について論評した。
 もちろんそれは、部分的な連立だった。
 ソヴィエト執行委員会と臨時政府の間では、労働政策や農民の土地要求の問題について、対立が頻出していた。
 また、ヨーロッパの戦争へのロシアの関与に関して、重要な不一致もあった。
 臨時政府は、戦争努力をしっかりと行い続ける立場だった。そして、外務大臣のミリュコフによる4月18日の覚書は、コンスタンチノープルとその海峡に対するロシアの支配の拡大(ツァーリ政府と連盟諸国とで調印された秘密条約で同意されていた)に利益を持ち続けることすら意味させていた。大衆的な抗議と新しい街頭示威行進によって、ミリュコフは辞任を余儀なくされた。
 ソヴィエト執行委員会は「防衛主義」の立場を採った。ロシアの領土が攻撃されている間は戦争継続に賛成するが、併合主義的戦争意図や秘密条約には反対する、というものだ。
 しかし、ソヴェトの側では-そして街頭、工場、とくに守備軍団では-、戦争に対する態度はより単純でかつ強烈なものになる傾向にあった。すなわち、戦闘をやめよ、戦争から抜け出せ、兵士たちを故郷に。//
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会と臨時政府の間に進展した関係は、1917年の春と夏には熱心で、親密で、そして議論を嫌がることがなかった。
 執行委員会は、その別々の主体性を用心深く守った。しかし、最終的には、二つの組織は緊密に結びついていたために、お互いの運命に無関心ではおれなくなり、あるいは、悪い事態が発生したときに相手から離れることができなくなった。
 連携は5月には強化された。その月に、臨時政府がリベラル派のものであることをやめ、ソヴェト執行委員会で最も重要な影響力をもつ大きな社会主義政党(メンシェヴィキとエスエル)の代表者たちを引き込むことによって、リベラル派と社会主義者との連立政権になったのだ。
 社会主義者たちは、政府に加わることに乗り気ではなかった。しかし、国民的な危機の時期に、ぐらつく体制を強化するのは自分たちの義務だと結論づけた。
 彼らは、ソヴェトは自分たちが政治行動をする、より自然な分野だと見なし続けた。とりわけ、社会主義者である新しい農務大臣と労働大臣がリベラル派の反対によって彼らの政策を実施することができないと明らかになったときには。
 しかしながら、象徴的な選択が行われていた。すなわち、臨時政府とより緊密に連携し合ううちに、「責任のある」社会主義者たちは(そして広く言えばソヴェト執行委員会は)、「責任のない」民衆革命から離れていっていた。//
 「ブルジョアの」臨時政府に対する民衆の反感は、戦争の疲労が増大し、都市の経済状況が悪化していたので、春遅くには高まった。(8) 
 7月に発生した街頭での集団示威行動(七月事件)の間、示威行進者たちは「全ての権力をソヴェトへ」と呼びかける旗を掲げていた。これが実際に意味したのは、臨時政府から権力を奪い取ることだった。
 逆説的にだが-政府に参加する趣旨からすると論理的にだが-、ペテログラード・ソヴェト執行委員会は、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンを拒絶した。
 そして、実際、集団示威行進は、政府に対してと同様に現在のソヴェト指導部に対して向けられた。
 ある行進者は「おまえたち、与えられているときに、権力を奪え!」と社会主義政治家に向かって、拳を振り上げながら叫んだ。(9) 
 しかしこれは、「二重権力」の支持を誓った者たちには返答することができない訴え(あるいはおそらく脅迫?)だった。//
 --------
 (3) George Katkov, <ロシア・1917年-二月革命> (London, 1967), p.444.
 (4) ニコライの最後の日々に関する資料的文書として、Mark D. Steinberg & Vladimir M. Khrustalev,<ロマノフ王朝の最後>(New Haven & London, 1995), p.277-366. を見よ。
 (5) A. Tyrkova-Williams, <自由からブレスト・リトフスクへ>(London, 1919), p.25.
 (6) Allan K. Wildman, <ロシア帝国軍隊の終焉>(Princeton, NJ, 1980), p.260. から引用した。
 (7) Sukhanov, <ロシア革命・1917年、i> p.104-5.
 (8) 地方での展開する状勢に関する生き生きとした説明として、Donald J. Raleigh, <ヴォルガでの革命>(Ithaca & London, 1986)を見よ。
 (9) Leonard Schapiro, <共産主義専制体制の起源>(Cambridge, MA, 1955), p.42, n.20. から引用した。
 ----
 第二章(二月と十月の革命)のうち「はじめに」と第1節(二月革命と「二重権力」)の試訳が終わり。

1802/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)④。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017). 試訳第4回。
 ----
 第一章・初期設定/第2節・革命的伝統
 ロシアの知識人たちが自分たちに課した任務はロシアをより良くすることで、まずはこの国の将来の社会的政治的な青写真を描き出し、ついで可能ならば、現実へとそれを実施する行動を起こすことだった。
 ロシアの将来の目安は、西側ヨーロッパの現在だつた。
 ロシア知識人層は、ヨーロッパで見られた多様な現象を受容することも拒否することも決定し得えただろう。しかし、全てがロシア人の議論の論点であり、ロシアの将来計画に組み入れる可能性があるものだった。
 19世紀の最後の四半世紀、そうした議論の中心的主題の一つは、西側ヨーロッパの工業化とその社会的および政治的帰結だった。//
 一つの見方によれば、資本主義的工業化は西側に、人間の堕落、大衆の貧困化および社会構造の破壊を生んだ。そのゆえに、それはロシアでは是非とも避けられるべきだった。
 この見地に立つ急進的知識人たちは「人民主義(Populists)」という旗印のもとに集まった。この名称は、実際には存在していない組織の論理上の程度を示すにすぎなかったけれども(この言葉はもともとは、ロシアのマルクス主義者たちが彼らに同意しない多様な知識人集団を自分たちと区別するために用いたものだった)。
 人民主義は基本的には、1860年代から1880年代にかけてのロシア急進思想の主流だった。//
 ロシア知識人層は一般的に、最も望ましい社会組織の形態だとして(ヨーロッパのマルクス主義以前の社会主義者、とくにフランスの「空想家」のように)社会主義を受け容れた。このことが政治的変革のイデオロギーとしてのリベラリズムを受容することと矛盾しているとは、考えられていなかったけれども。
 知識人たちはまた、その孤立状態に反応して、自分たちと「人民(民衆)」(ナロード、narod)の間の溝を埋めようという強い熱意をもった。
 知識人たちの考え方の性質から、人民主義とは資本主義的工業化への抵抗とロシア農民層の理想化とが結合したものだと理解された。
 人民主義によれば、資本主義はヨーロッパの伝統的農村共同体に対して破壊的影響を与えた。農民たちを土地から切り離し、土地なき都市に移り住むのを強制し、産業プロレタリア-トを搾取した。
 人民主義者は、資本主義の暴虐からロシア農民の伝統的な村落組織、共同体またはミール(mir)を守ろうとした。ミールはロシアがそれを通じた社会主義への別の途を見出すかもしれない平等な制度-おそらく原始共産制が生き延びているもの-だと考えたからだ。//
 1870年代初め、知識人たちによる農民層の理想化と彼らの状況や政治改革の見込みについての不満によって、自発的な大衆運動が生まれた。これを最もよく示すのが、人民主義の目標-1873-74年の「人民の中へ」だった。
 数千人の学生と知識人たちが都市を離れて村落へ行き、ときには自分たちを農民層に対する啓蒙者だと思い描き、ときにはさもしく民衆に関する単純な知識を得ようとし、ときには革命的な組織とプロパガンダを指揮するという望みをもって。
 この運動には、ほとんどの参加者に関するかぎりは、中心的な目標はなく、明確に定められた政治的意図はなかった。政治的宣伝活動というよりも、宗教的な巡礼行為だった。
 しかし、農民たちにも帝制警察にも、このいずれであるかを把握して区別するのは困難だった。
 当局は大きな警戒心をもち、大量に逮捕した。
 農民たちは疑い、招かれざる客たちを貴族か階級敵の子どもたちだと見なし、彼らをしばしば警察へと突き出した。
 この災難によって、人民主義者のあいだには深い失望感が生まれた。
 民衆を救おうという決意は揺るがなかった。しかし、ある範囲の者たちは、こう結論づけた。外部者として民衆を救うのは自分たちの悲劇的な宿命だ、革命的な無謀行為の英雄性は死後にはじめて賞賛されるだろう、と。
 1870年代遅くに、革命的テロリズムが急に頻発した。部分的には収監されている同志のために報復したいという感情からだった。部分的には、狙いを定めた一撃が専制ロシアの上層構造全体を破壊して、ロシア民衆が自由に自分の運命を見いだせるようにする、という見込みなき希望からだった。
 1881年、人民主義テロリストの中の「人民の意思」集団が皇帝アレクサンダー二世の暗殺に成功した。
 これがもった効果は専制体制の破壊ではなくて、脅かすことによって、恣意性と法の無視が増したより強圧的な政策を、そして近代警察国家に近いものを生み出したことだった。(10)。//
 暗殺への民衆の反応の中には、ウクライナでの反ユダヤ人虐殺があり、また、農民を農奴から解放したがゆえに貴族が皇帝を殺害したのだというロシアの村落での風聞もあった。//
 空想的な理想主義、テロリスト的戦術および従前は革命的運動の特徴だった農民志向を批判して、ロシアの知識人層の中の明確に区別された集団として、マルクス主義者が出現してきた。それは、1880年代、二つの人民主義者の災難の結果としてだった。
 ロシアの不適切な政治風土のために、また自分たちのテロリズム非難のゆえに、マルクス主義者が最初に影響を与えたのは、革命的行動によってではなく、知識人たちの議論に対してだった。
 彼らマルクス主義者は、ロシアでの資本主義的工業化を避けることはできない、農民のミールはすでに内部的解体の途上にあり、国家とそれに拘束された責任者たちによって徴税と償還金納付のためにだけ支えられている、と主張した。
 また、資本主義は唯一の可能な社会主義への途を内包しており、資本主義の発達が生んだ工場プロレタリア-トは真の社会主義革命を起こすことのできる唯一の階級だ、と主張した。
 彼らが主張したこうした命題は、マルクスとエンゲルスが彼らの著作で叙述した歴史発展の客観的法則によって科学的に証明されるはずのものだった。
 倫理的に優れているとの理由でイデオロギーとして社会主義を選択する者たちを、彼らは嘲弄した(この点は、もちろん中心問題ではなかった)。
 社会主義に関する中心論点は、社会主義は資本主義のように、人間社会の発展の予見可能な段階だ、ということだった。//
 ロシア専制体制に対する「人民の意思」の闘いを本能的に称賛したカール・マルクスには、国外移住中のゲオルギー・プレハノフの周囲に集まる初期のロシアのマルクス主義者は、根本教条のために闘って死んでいる者がいるのに、あまりに消極的で衒学的な革命家たちであって革命の不可避性に関する論文を書いて満足しているように見えた。
 しかし、ロシア知識人層に対する影響は異なっていた。その理由は、マルクス主義の科学的予測の一つがすみやかに実現されたからだ。彼らはロシアは工業化し<なければならない>と言ったが、ウィッテの熱心な指揮のもとで、そうなった。
 本当に、工業化は自発的な資本主義の発達の所産であるごとく、国家の財政援助と外国の投資の産物であり、その結果として、ロシアはある意味では西側と異なる途を歩んだ。
 しかし、同時代者たちにとって、ロシアの急速な工業化はマルクス主義の予見が正しい(right)ことを劇的に証明するものだと、またマルクス主義は少なくともロシアの知識人たちの「大きな疑問」に対するある程度の回答だと、思われた。//
 ロシアでのマルクス主義は-中国、インドおよびその他の発展途上国でのように-、西側ヨーロッパの発展諸国とは異なる意味をもった。
 それは革命のイデオロギーであるとともに、近代化のためのイデオロギーだった。
 革命的消極性を責められたことがほとんどないレーニンですら、<ロシアでの資本主義の発達>という有力な論稿でマルクス主義者としての名をなした。その研究は、経済的近代化過程を分析して擁護するものだった。
 そして、ロシアでの彼の世代の指導的マルクス主義者たちは、事実上ほとんど、同じような著作を書いた。
 確かに、マルクス主義者のやり方で弁護された(「私は支持する」のではなく「きみにこう語った」)。そして、レーニンは反資本主義の革命家だとだけ知っている現代の読者は驚くかもしれない。
 しかし、19世紀遅くのロシアはマルクス主義の定義上まだ半封建的な後進社会だったので、マルクス主義者にとって、資本主義は「進歩的な」現象だった。
 イデオロギーの観点からすれば、資本主義は社会主義に到達する途上の必要な段階であるがゆえに、彼らは資本主義を支持した。
 しかし、感情の点からいうと、傾倒度は低くなってくる。
 ロシアのマルクス主義者は近代的で工業化した都市的世界に感嘆し、古い田園的ロシアの後進性に気分を害していた。
 レーニン-歴史を正当な方向へと一押ししようとする積極的革命家-は、かつての人民主義の伝統である革命的自発性をある程度もっている非正統のマルクス主義者だった、としばしば指摘されてきた。 
 これは本当のことだ。しかし、それは主として、1905年および1917年という現実的な革命の時期での彼の行動と関連があるものだ。
 1890年代に彼が人民主義ではなくマルクス主義を選んだのは、近代化の側に立っていたからだ。
 そして、この基本的な選択によって、レーニンと1917年の党による権力奪取以降のロシア革命の行程に関する多くのことを説明することができる。//
 人民主義者との間での資本主義をめぐる初期の論争で、マルクス主義者はもう一つの重要な選択を行った。すなわち、基礎的な支援者および革命のためのロシアの主要な潜在勢力として、都市的労働者階級を選んだのだ。
 これは、マルクス主義を、農民に一方的な恋愛感情をもつ(人民主義者が支持し、のちにその設立から1900年代初めまで社会主義革命党(エスエル)が支持した)ロシアの革命的知識人層の古い伝統と明確に区別するものだった。
 それはまた、(ある範囲は以前のマルクス主義者である)リベラルたちとも、マルクス主義者を区別した。リベラルたちの自由化運動は政治勢力としては、「ブルジョア革命」を望んで新しい専門家階層とリベラルなゼムストヴォ貴族の支持を得たために、1905年の少し以前に出現することとなった。//
 マルクス主義者の選択は、当初は、とくに有望だとは見えなかった。労働者階級は農民層と比較すると小さくて、都市の上層階級と比較すると地位、教育および財政源が欠けていた。
 マルクス主義者の労働者との初期の接触は基本的に教育的なものだった。それは、知識人たちが一般的な教育にマルクス主義の要素を加えて労働者に提供するサークルや学習会集団で成り立っていた。
 このことが革命的労働者運動の発展にいかに寄与したかについて、評価は歴史研究者によって異なる。(12)
 しかし、帝制当局は相当の政治的脅威を感じ取った。
 1901年の警察報告書は、こう記載した。(13)
 『目標を達成しようとして煽動者たちは、不運にも、政府に対して闘う労働者を組織することにある程度は成功した。
 最近の3年か4年、家族と宗教を軽蔑し、法を無視し、構築された権威を拒絶して愚弄するのを余儀なく感じている、半ば識字能力のある知識人の特別の類型へと、暢気なロシアの若者たちは変わってきている。
 幸いにもそのような若者は工場では多数ではない。しかし、このごく少数の一握りの者たちが、労働者の不動の多数派をそれに従うように脅かしている。』
 マルクス主義者たちは明らかに、大衆との接触を探している初期の革命的知識人たちよりも優れていた。
 マルクス主義者は、聴こうとする大衆の部門を発見していた。
 ロシアの労働者は農民層から大して離れていなかったけれども、はるかに識字能力のある集団で、少なくも彼らのある程度は、近代的で都市的な「自分を良くする」可能性という意識をもっていた。
 教育は、革命的知識人層と警察の両者が予見した革命の方向への途であるとともに、社会流動性上の上昇の手段だった。
 初期の人民主義者の農民に対する宣教とは違って、マルクス主義の教師は、警察が学生たちに圧力を加える危険を冒す以上のものをもっていた。//
 労働者教育から、マルクス主義者-1898年以降に非合法でロシア社会民主労働党として組織されていた-は、より直接に政治的な労働者の組織化、ストライキ、そして1905年の革命への関与へと進んだ。
 党の政治的組織と現実の労働者階級の抗議の間の結婚は決して厳格なものではなく、1905年の社会主義諸政党には、労働者階級の革命的運動を維持していくのが大いに困難だった。
 にもかかわらず、1898年と1914年の間に、ロシア社会民主労働党は知識人層の集まりという性格をやめ、文字どおりの意味での労働者運動団体になった。
その指導者は依然として知識人層の出身で、その活動時間のほとんどをヨーロッパの国外逃亡先でロシアから離れて過ごしていた。
 しかしロシアでは、党員と活動家の大多数は労働者だった(または、職業的な革命家の場合は以前の労働者だった)。(14)
 彼らの理論からすると、ロシアのマルクス主義者は革命上大きな不利だと思われることから出立した。すなわち、来たる革命ではなく、その次の革命のために活動しなければならなかった。
 正統なマルクス主義者の予見によると、ロシアが資本主義の段階に入ることは(これは19世紀末にようやく起こったが)、不可避的にブルジョア的リベラルな革命による専制体制の打倒につながる。
 プロレタリア-トはその革命を支援するかもしれないが、補助的な役割を果たす以上のことはしないように思われた。
 資本主義が成熟の地点に到達した後でようやくプロレタリアの社会主義革命のときが熟する、そのときは将来のはるか遠くにある。//
 1905年以前は、この問題が切迫しているとは見えなかった。いかなる革命も進展しておらず、マルクス主義者は労働者階級を組織する若干の成功を収めていたのだから。
 しかしながら、小集団-ペーター・ストルーヴェ(Peter Struve)が率いる「合法マルクス主義者」-は、マルクス主義が設定した項目である最初の(リベラルな)革命という目標との自分たちの一体性を強く主張し、社会主義革命という究極的な目標への関心を失うにいたった。
 ストルーヴェのような専制体制内の近代化志向の構成員が1890年代にマルクス主義者となっていたことは、驚くべきことではない。当時には彼らが参加できるリベラルな運動はなかったのだから。
 また同様に、彼らが世紀の変わり目にマルクス主義を離れてリベラルたちの自由化運動の設立に関与したことも、自然なことだった。
 にもかかわらず、合法的マルクス主義の異端的主張は、ロシア社会民主主義の指導者、とくにレーニンによって完璧に非難された。
 レーニンの「ブルジョア・リベラリズム」に対する激烈な敵意は、マルクス主義の趣旨からはいくぶん非論理的で、彼の仲間たちにある程度の混乱を巻き起こした。
 しかしながら、革命という観点からは、レーニンの態度はきわめて合理的だった。//
 おおよそ同じ時期に、ロシア社会民主主義の指導者は、経済主義(Economism)の主張、つまり労働者運動は政治的目標ではなく経済的目的に重点を置くべきだという考え方、を非難した。
 ロシアには実際には、明瞭な経済主義の運動はほとんどなかった。理由の一つは、ロシアの労働者の異議申立ては賃金のような純粋に経済的問題から急速に政治的問題へと進展する傾向にあったことだ。
 しかし、国外にいる(エミグレの)指導者たちはしばしば、ロシア国内の状況によりもヨーロッパの社会民主主義内部での動向に敏感であり、ドイツの運動の中で発達していた修正主義や改革主義の傾向を怖れた。
 ロシアのマルクス主義者は、経済主義や合法マルクス主義との教理上の闘争で、 自分たちは改良主義者ではなくて革命家だ、そして根本教条は社会主義の労働者の革命であってリベラルなブルジョア革命ではない、との主張を明確に記録した。//
 ロシア社会民主労働党が第二回党大会を開いた1903年、指導者たちは明らかに小さな論点に関する対立へと陥った-党新聞<イスクラ>編集局の構成に関して。(15)//
 現実的で実体のある問題は含まれていなかった。対立がレーニンの周囲で回っている限りで、レーニン自身こそが基礎的な問題であり、またレーニンは支配的地位を求めて攻撃的すぎると彼の同僚は考えた、と言うことができたかもしれないけれども。
 大会でのレーニンのやり方は傲慢だった。そして彼は近年に、多様な理論上の問題点についてきわめて決定的に規準を設定してきていた。とくに、党の組織や役割に関して。
 レーニンと年上のロシア・マルクス主義者であるプレハノフの間に、緊張関係があった。
 また、レーニンと彼の同世代のユリイ・マルトフ(Yulii Martov)の間の友好関係は、破裂にさし掛かっていた。//
 第二回大会の結末は、ロシア社会民主労働党の「ボルシェヴィキ」派と「メンシェヴィキ」派への分裂だった。
 ボルシェヴィキは、レーニンの指導に従う者たちだ。メンシェヴィキ(プレハノフ、マルトフおよびトロツキーを含む)は、大きくてより多い、レーニンは度を外していると考える党員の多様な集団で成り立った。
 この分裂は、ロシア内部のマルクス主義者にはほとんど意味がなかった。そしてこれが発生した当時は、エミグレたちによってすら取り消すことができないものと見なされていた。
 しかしながら、この分裂は永遠のものになるのが分かることになる。
 そして月日が経つにつれて、二つの党派は1903年にそれぞれがもっていた以上に明確に異なる自己一体性(identity)を獲得した。
 のちにレーニンはときおり、「分裂者」だったことの誇りを表現することになる。これが意味するのは、大きい、大雑把に編成された政治組織は小さい組織よりも効果的ではない、紀律ある急進的集団には高い程度の義務とイデオロギー上の一体性が必要だ、とレーニンが考えた、ということだ。
 しかし、ある範囲の人々は、不一致に寛容であることができないこのレーニンの特性に原因があった、とする。不一致への不寛容、これはトロツキーが革命前の論争の際に「ジャコバン派の不寛容性ついての風刺漫画」だと称した「悪意溢れる懐疑心」のことだ。(16)//
 1903年後の数年間、メンシェヴィキはそのマルクス主義についてより正統的なものとして登場した(1917年半ばまでメンシェヴィキ党員だったが、つねに〔党のどの派についても〕無所属者だったトロツキーを考慮しない)。そして、革命に向かって事態の進展を急がせようとあまり思わず、堅く組織されて紀律ある革命党を作るという関心も乏しかった。
 メンシェヴィキは、帝国の非ロシア領域での支持を得ることに、ボルシェヴィキ以上に成功した。一方、ボルシェヴィキは、ロシアの労働者たちの間で優勢だった。
 (しかしながら、いずれの党でも、ユダヤ人その他の非ロシア人が知識人層の支配する指導者層内で圧倒的だった。)
 戦争前の最後の数年、1910-14年に、労働者の空気がより戦闘的になったとき、メンシェヴィキは労働者階級の支持を失ってボルシェヴィキに譲った。
 メンシェヴィキは、ブルジョアジーと近接した関係をもつ「まともな」政党だと認知されていた。一方で、ボルシェヴィキは、より革命的であるとともにより労働者階級的だと見られていた。(17)//
 メンシェヴィキと違ってボルシェヴィキは、単一の指導者をもち、その自己認識は大部分が、レーニンの考えと個性によって形成されていた。
 マルクス主義理論家としてのレーニンの第一の明確な特質は、党組織に重点を置くことだ。
 レーニンは、党はプロレタリア革命の前衛であるのみならず、ある意味ではその創作者でもある、と考えた。プロレタリア-トだけでは労働組合意識を獲得するのみで、革命的意識をもつことはない、と論じたのだ。//
 レーニンは、党員たちの中核は、全日働く職業的な革命家で構成されるべきだと考えた。それは知識人層と労働者階級双方から選抜されるものだが、どの社会集団よりも労働者の政治組織へと集結するものだとされた。
 <何をなすべきか?>(1902年)で彼は、中央集中化、厳格な紀律および党内部でのイデオロギーの一体性の重要性を強調した。
 もちろん、これらは警察国家で密かに活動する政党の論理上の規範だった。
 にもかかわらず、レーニンの同時代者(そしてのちに多くの歴史研究者)には、多様性と自発性をより多く認める緩やかな大衆組織をレーニンが嫌悪するのは、たんに政略的なものではなくて、生まれつきの権威主義的性向(natural authoritarian bent)を反映するもののように思われた。//
 レーニンは、ロシアの他の多くのマルクス主義者とは異なる。プロレタリア革命が究極的には起こるとたんに予言するのではなくて、能動的にプロレタリア革命を望んでいると見える点で。
 これは、きっとレーニンがカール・マルクスに気に入られた特性だっただろう。正統なマルクス主義の何らかの修正が必要だったということはあるけれども。
 リベラルなブルジョアジーがロシア反専制革命の自然の指導者でなければならないという考え方は、レーニンには決して本当に受容し難いものだった。
 レーニンは1905年革命の真只中で書いた<社会民主主義者の二つの任務>で、プロレタリア-トは-ロシアの反抗的な農民と同盟して-支配的な役割を果たすことができるし、果たすべきだ、と強く主張した。
 真剣に革命を意図するロシアのマルクス主義者の誰にとっても、ブルジョアが革命指導者だという教理を迂回する途を見出すことが明らかに必要だった。そして、トロツキーは、同様のかつより成功した努力を行って、「永続革命」論を発表した。
 1905年以降のレーニンの論考では、「独裁(dictatorship)」、「蜂起(insurrection)」および「内戦(civil war)」という言葉が急に頻出するようになる。
 レーニンが将来における権力の革命的移行を心に抱いたのは、これらの、苛酷で暴力的でかつ現実主義的な言葉遣いによってだった。
 --------
 (10) Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (New York, 1974), Ch. 10.を見よ。
 (11) この問題に関する人民主義者の見方につき、Gerschenkron, Economic Backwardness [経済的後進性], p.167-176.を見よ。
 (12) 消極的見解につき、Richard Pipes, <社会民主主義とペテルブルクの労働運動, 1885-1897>(Cambridge, MA, 1963) を見よ。より肯定的な見解は、Allan K. Wildman, <ロシアの社会民主主義, 1891-1903>(Chicago, 1967) を見よ。
 (13) Sidne Harcave, <最初の血-1905年のロシア革命>(New York, 1964), p.23. から引用した。
  (14) 1907年のボルシェヴィキとメンシェヴィキ党員の構成分析につき、David Lane, <ロシア共産主義のルーツ>(Assen, The Nietherlands, 1969), p.22-23, p.26. を見よ。
 (15) 分裂に関する明快な議論について、Jeffry F. Hough and Merle Fainsod, <ソヴィエト同盟はいかに統治されているか>(Cambridge, MA, 1979), p.21-26. を見よ。
 (16) トロツキー, 'Our Political Tasks' (1904), Isaac Deutscher, <武装せる予言者>(London, 1970)所収, p.91-91. から引用した。
 (17) Haimson, 'The Problem of Social Stability', p.624-633.
 ----
 第一章の第2節が終わり。

1801/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)③。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017). 試訳第3回。
 ----
 第一章・初期設定/第1節・社会。
 ロシア帝国の領土は巨大で、西はポーランドから東は太平洋にまで及び、北は北極海に、南は黒海やトルコとアフガニスタンの境界に届いていた。
 帝国の中心部である欧州ロシア(今はウクライナである領域を含む)は1897年に9200万の人口をもち、帝国の総人口はその年の公式調査で1億2600万を記録した。(1)
 しかし、欧州ロシアや比較的に進んでいた帝国の西部ですら、全体としては田園的で、都市化されていなかった。
 一握りの大都市の産業センターがあり、そのうちの多くでは近年に生産が急速に増大していた。
 第一次大戦中にペトログラードと、1924年にレニングラードと改称された帝国の首都のサンクト・ペテルブルク、かつての、そして(1918年以降の)将来の首都のモスクワ。いずれも今はウクライナの、新しいドンバスの採鉱および冶金の中心であるキエフ、ハルコフおよびオデッサ。西部では、ワルシャワ、ロズおよびリガ。南部では、ロストフと石油都市のバク。
 しかし、20世紀初めには、ほとんどの地方の町はまだ眠るがごとく沈滞していた。-小規模の住民用小売店、若干の学校、農民市場およびおそらくは鉄道駅のある、地方行政の中心地。//
 村落には、伝統的な生活様式の多くが残っていた。
 農民はまだ共同体所有(tenure)の土地をもち、村落の土地は細長く区切られ、それは多様な農民家族によって別々に耕作されていた。
 <ミール>(mir、村落会議)はまだ、細長い土地(strips)を各世帯が同等の分け前をもつように定期的に再区分していただろう。
 木鋤は共同使用で、近代的な農耕技術は村落では知られていなかった。そして農業生産は、食べて生きる水準をさして超えていなかった。
 農民の小屋は村落の通りに沿って揃って並んでおり、農民は暖炉で寝て、家屋の中で家畜を飼った。そして、農民家族のかつての家父長制的構造が残存していた。
 農民たちは、農奴状態から離れて一世代以上も経っていなかった。すなわち、世紀の変わり目に60歳だった農民は、1861年の農奴解放のときにはすでに若き成人だった。//
 解放はもちろん、農民の生活を変えた。しかし、解放は、変化を最小限にし、少しずつ広がるように注意深く立案されていた。
 解放の前、農民は村落の細長い土地で働いた。彼らはまた、主人の土地で働くか、自分たちの労働との同等額を金銭で主人に払った。
 解放の後、農民は自分の土地で働き続け、ときどきは以前の主人の土地に雇われて働いた。一方で、即時の代償金として地主に与えられていた一時金を相殺するために、国家に「償還金」(redemption)を支払った。
 償還金の支払いは49年間つづくものと予定され(国家は実際には数年は早く放棄したけれども)、村落共同体には、各構成員の債務に対する集団的な責任があった。
 このことは、個々の農民はまだ村落に縛られていることを意味した。農奴制にではなく、債務とミールの集団責任に拘束されていたのだとしても。
 解放は、農民が都市に大量に流入してくることや公的秩序に対する危険の予兆である土地なきプロレタリア-トが生まれることを抑止するという意図をもっていた。
 また、ミールや古い共同体の土地所有を補強する効果ももっていて、農民がその細地(strips)への力を強固にすることやその保有を拡張したり改良すること、あるいは自立した小農へと移行することはほとんど不可能だった。//
 村落から永遠に離れることは解放後の数十年は困難だったが、一方で、農業、建設または採鉱、あるいは都市で雇われて働くために一時的に離れるのは容易だった。
 このような仕事は実際に、多くの農民家族にとって不可欠だった。納税や償還金支払いのために、現金が必要だったのだ。
 季節労働者(otkhodniki)として働く農民は、村落で土地を耕す家族を残して、しばしば年の多くの月々を離れていた。
 旅をする期間が長ければ-中央ロシアの村落から来てドンバス炭鉱で働く農民にはよくあったが-、<季節労働者>は収穫時とたぶん春の播種の間だけ戻ることもできただろう。
 季節労働をすべく離れるという現実は長く確立されたものだった。とくに、地主が農奴の労働よりも金銭による支払いを求めた、欧州ロシアの肥沃ではない地域では。
 しかし、これは19世紀の遅くや20世紀初めにはますます一般的になっていた。その理由の一つは、都市での仕事を求められやすくなったからだ。
 第一次大戦の直前の数年に、およそ900万の農民が出身である村落の外に出る季節労働のための旅券を毎年もっていて、そのほとんど半分は、農業以外の仕事のためだった。(2)//
 欧州ロシアで家族のどの一人であれ農民二世帯のうち一世帯が出稼ぎで村落を離れていた-そしてこの割合はペテルブルク、中央の工業地域や西部地方ではより高かった-ことからすると、村落には古いロシアがほとんど変わらずに残っていたという印象は、十分に当てにはならなかったかもしれない。
 多くの農民は実際に伝統的な村落内でほとんど生活していて、それ以外の者は、近代的な産業都市という全く異なる世界で生きていた。
 農民が伝統的世界にとどまっている程度は、地理的な位置だけではなく、年齢や性によって異なった。
 若者は仕事をするために離れやすく、加えて、兵役に召集されたときに近代世界と接触した。
 女性と年配者は、村落と農民の生活様式だけを知っている傾向にあった。
 農民の経験についてのこの違いは、1897年の公的調査での識字率の数字が鮮やかに示している。
 若者は老人よりも識字率が高く、男性は女性よりも高い。そして、あまり肥沃ではない欧州ロシア-つまり、季節的な移動がごく普通の領域-の方が、肥沃な黒土(Black Earth)地域よりも高くかった。(3)//
 都市の労働者階級は、まだ農民層ときわめて近かった。
 永続的な工業労働者の数(1914年で300万人をいくぶん超える)は、非農業の季節労働を求めて毎年に村落を離れる農民の数よりも少なかった。そして実際に、永続的な都市居住労働者と一年のほとんどを都市で働く農民とを厳密に区別するのはほとんど不可能だった。
 永続的な労働者ですら、多くの者が村落に土地を保有し、そこで生活する妻や子どもたちを残していた。
 あるいは別の労働者たちは、村落自体に住んで、日毎または週毎の基準で工場へと通勤した。
 サンクト・ペテルブルクだけは、大部分の工場労働者たちが、農村地帯との全ての縁を断ち切っていた。//
 都市的労働者階級と農民層の間にこのような緊密な関係がある主な理由は、急速なロシアの工業化はごく近年の現象だった、ということだ。
 1890年代になってようやく-イギリスよりも半世紀以上遅く-、ロシアは大規模な工業の成長と都市の膨張を体験した。
 そのときですら、1860年代の農奴解放制度は永続的な都市的労働者階級を生み出すのを妨げた。それは、労働者を村落に縛りつづけた。
 第一世代の労働者は農民層出自が圧倒的で、ロシアの労働者階級の大部分を占めた。そして、第二世代労働者や都市住民はほとんどいなかった。
 ソヴェトに関する歴史研究者は、第一次大戦の直前に、工場労働者の50パーセント以上が少なくとも第二世代だった、と主張する。しかし、この計算結果は明らかに、労働者の他に父親が<季節労働者(otkhodniki)>だった<季節労働者>の農民を含めている。//
 発展途上というこの特性にもかかわらず、第一次大戦の頃までにいくつかの点では、ロシアの工業はきわめて発展した。
 近代的な工業部門は小さかったが、地理的にも(とくにペテルブルク、モスクワおよびウクライナのドンバスを中心とする地域に)工業施設の規模の点でも、きわめて高度に集中化していた。
 Gerschenkron が指摘するように、相対的な後進性には利点もある。すなわち、工業化が遅く、外国からの大規模な投資と国家による活発な関与の助けがあって、ロシアは初期段階のいくつかを省略して進むことができた。また、相対的に低い技術のおかげで、すみやかに大規模な近代的生産へと向かった。(4)
 ペテルブルクの有名なプチロフ金属加工および機械建設工場のような企業やドンバスの多くは外国資本の冶金工場は、多数の数千人の労働者を雇用した。//
 マルクス主義の理論によれば、前進した資本主義的生産のもとで高度に集中した産業プロレタリア-トは革命的になりがちちであり、一方、農民層との強い紐帯を保持する前近代的労働者階級は、そうでない。
 そうすると、マルクス主義者がその革命的な潜在力を診断するには、ロシアの労働者階級は矛盾する性格をもっていた。
 しかしなお、1890年代から1914年までの経験からして、農民層と緊密な関係をもつにもかかわらず、ロシアの労働者階級は例外的に攻撃的で革命的だった、ということが明らかだ。
 大規模のストライキがしばしばあり、労働者は経営者や国家当局に対抗して相当に連帯した。そして、労働者の要求は経済的なものであるとともにつねに政治的なものだった。
 1905年の革命のとき、ペテルブルクとモスクワの労働者は自分たちの革命的装置であるソヴェトを組織し、10月のツァーリによる立憲上の譲歩と専制体制に対する中層リベラル派の運動の挫折を目ざして闘い続けた。
 1914年の夏、ペテルブルクその他での労働者のストライキ活動は脅威的な広がりを見せ、何人かの観察者は、政府は戦争に向けての総動員を宣言する危険を冒すまでのことはできないと考えたほどのものだった。//
 ロシアの労働者の革命的感性が強いことは、いくつかの異なる方法で説明できるかもしれない。
 第一に、限定的にせよ雇用者に対して経済的な異議申し立てをすること-レーニンが労働組合主義と称したもの-が、ロシアの条件のもとではきわめて困難だった。
 政府はロシアの自国工業に多額の資本金をもち、外国からの投資を保護していた。そして、私企業に対するストライキが手に負えなくなる徴候を示すと、国家当局はすぐに兵団を派遣したものだった。  
 これが意味したのは、経済的なストライキ(賃金や条件についての抗議)でも政治的なものに変化しがちだ、ということだ。
 また、ロシア労働者が外国の経営者や技術要員に対して広くもった憤懣も、似たような効果をもった。
 労働者階級は自分たちの力では革命意識ではなく「労働組合意識」だけを成長させることができると言ったのは、ロシアのマルクス主義者、レーニンだった。しかし、ロシア自身の経験は(西側ヨーロッパでとは対照的に)、彼を支持しなかった。//
 第二に、ロシアの労働者階級にある農民的要素は、そのもつ革命的性格を弱くではなく、むしろ強くした。
 ロシアの農民は、例えばフランスの農民のような、本来的に保守的な小土地所有者ではなかった。
 1770年代の大プガチェフ(Pugachev)一揆が鮮やかに例証する、地主や役人に対する暴力的で無政府的な反乱というロシア農民の伝統は、1905年とその翌年の農民蜂起でも再び明らかになった。
 1861年の農奴解放令は、農民の反乱精神を永遠に鎮静化させたものではなかった。農民たちはそれを公正なまたは適切な解放だとは思わなかった。そしてますます土地に飢えて、抑えられた土地に対する権利を主張した。
 さらに、都市に移住して労働者になった農民たちはしばしば若く、家族の制約から自由で、かつ工場の紀律にまだ慣れていなかった。そして、憤懣と欲求不満の感情は、転位意識と見知らぬ環境に完全には同化できない意識を伴っていた。(5)
 ある程度は、ロシアの労働者階級はまさにつぎの理由で、革命的だった。
 レーニンが言った「労働組合意識」を取得する時間が、なかった。そして、非革命的方法でその利益を守ったり、近代的都市社会が教育や技術で与える上昇移動をする機会があるのだということを理解したりする力のある、落ち着いた産業プロレタリア-トになる時間が、なかったのだ。//
 しかしながら、都市部や上層の教養ある人々ですら、ロシア社会の「近代」性はまだきわめて不十分だった。
 事業や商業の階層は相対的に弱かった。専門家、諸協会その他の、市民社会が出現してくる兆しを感知することはできたけれども。(6)
 国家官僚制の専門化の増大にもかかわらず、その上層部は伝統的に公職に就く階層である上層者(the nobility)で占められたままだった。
 公職者の特権は、農奴制の廃止の後に地主集団の経済的な衰退があったので、上層者にとってはますます重要になった。上層の地主たちのうち少数者だけが、資本家、市場志向の農業への移行を成功裡に行うことができた。//
 20世紀初めのロシア社会の分裂症気味の性質は、ロシアで最も大きくかつ近代的だったサンクト・ペテルブルクの市電話帳への登録者が提供している自己認識(self-identifications)がきわめて多様であることによって十分に実証される。
 ある範囲の登録者は伝統的な形式を維持して、社会的身分と階層によって自分を分類した(「世襲貴族」、「第一ギルドの商人」、「名誉市民」、「国務委員(State Counsellor)」)。
 別の者たちは明らかに新しい世界に属していて、職業や雇用形態で自分たちを表現した(「株式仲買人」、「機械技師」、「会社経営者」あるいはロシアの女性解放が達成した代表である「女性医師」(woman doctor))。
 第三の集団はどこに帰属しているのかが不確実な人々で、ある年の電話帳には身分で、その翌年には職業で、自分を表現した。あるいは、「貴族、歯科医師」と風変わりに自分のことを載せた登録者のように、二つの自己認識表現を同時に用いて。(7)//
 いくぶん形式的でない文脈でいうと、学歴あるロシア人はしばしば自分を知識人の一員だと考えていただろう。
 社会学的には捉え難い概念だが、「インテリゲンチア」(intelligentsia)という言葉は広い意味では、ロシア社会のそれ以外の者たちとは受けた教育によって、ロシアの専制体制とはそのラディカルなイデオロギーによって区別される、教育ある西欧化したエリートのことだった。
 しかしながら、ロシアの知識人は自分をエリートだとは思っておらず、社会をより良くすることへの道徳的関心によって結ばれた階級のない集団の一員だと考えていた。また、「批判的思考」をすることのできる能力、とくに批判的で体制に対する少し反抗的な態度、によって。
 この言葉は19世紀の半ば頃に一般的に用いられたが、観念の発生史ではこれを18世紀の後半に見い出すことができる。その当時に貴族は義務的な国家への奉仕から解放されたが、教養はあってもそれを十分に活用できない貴族たちの一定範囲の者は、「民衆への奉仕」という代替的な義務の気風を発展させた。(8)
 理念的には(全部が実際ではなかったが)、知識人界と官僚制上の公職は、両立できなかった。
 19世紀後半のロシア革命運動は専制体制と闘って民衆を解放する小規模の共謀組織であることを特徴とし、大部分は知識人界の急進的で政治的な不満の産物だった。//
 高い地位の専門職業の発展がかつて存在したよりも広い範囲の職業選択を可能性を生み出したこの世紀の終わりまでには、<知性的(intelligent)>という個々人の自己定義はしばしば、政治的変革への積極的で革命的な関与というよりも、相対的に受動的でリベラルな態度を意味した。
 ロシアの新しい知識人層はまだ、意識的な革命家たちへの共感と敬意という古い知識人の伝統を十分に継承しており、そして、官僚たちが政治改革を追求したり、革命的テロリストによって暗殺されたときですら、体制側に共感することがなかった。//
 さらに、ある類型の範囲の専門的職業は専制体制への全面的な支援と結び合うことが困難な特有さがあった。
 例えば、法律家という仕事(legal profession)は1860年代の司法改革の結果として流行した。しかし、その改革は長い期間に法の支配をロシア社会と国家行政に広げることにさほど成功さなかった。とくに、1881年に革命的テロリスト集団によって皇帝アレキサンドル二世が暗殺された後の反動の時代には。
 教育を受けて法の支配を信頼するようになった法律家は、恣意的な行政実務や無制限の警察権力に、そして司法改革の作動に影響を与えようとする政府の試みに、反対する傾向にあった。(9)
 同様に継承された体制との対立関係は、ゼムストヴォ(zemstvo)、すなわち制度上は国家官僚制度とは全く別でしばしば後者と対立した、選出される地方統治機構とも関連し合っていた。
 20世紀の初めには、ゼムストヴォはおよそ7万の職業人(医師、教師、農学者等々)を雇用していたが、彼らの急進さへの共感は悪名が高かった。//
 国家または私企業で働く技師その他の技術専門たちは、とくに経済近代化と工業化のために1890年代のセルゲイ・ウィッテ(Sergei Witte)が指揮した財務省やその後の通商産業省による財政支援を受けていて、体制から疎遠になる明白な理由は乏しかった。
 実際にウィッテは、体制やロシアの技術専門家や実業家によるその近代化傾向への支援をかき集めることに尽力した。
 しかし、問題は、ウィッテの経済および技術の発展への熱意が大部分のロシア官僚エリートたちに共有されていないことだった。むろん、それは皇帝ニコライ二世の個人的な好みにも合っていなかった。
 近代化志向の専門家や起業者たちは、原理的には、専制政府の考えに反対しなかったかもしれない(実際には、〔ペテルブルク〕工科大学の学生たちの批判に晒された結果としてそうしたけれども)。
 しかし、彼らがツァーリ専制体制は近代化のための効果的な仲介者だと判断するのはきわめて困難だった。それに関する記録は一貫しておらず、そのイデオロギーはきわめて明瞭に、将来に関する論理的な展望ではなく、過去への郷愁を反映していた。//
 --------
 (1) Frank Lorimer, <ソヴィエト同盟の人口>(Geneva, 1946), p.10, p12.
 (2) A. G. Rashin, Formirovanie rabochego klassa Rossi (Moscow, 1958), p.328.
 (3) Barbara A. Anderson, <19世紀末ロシアの近代化の間の内部移住>(Prinston, NJ, 1980), p.32-38.
 (4) A. Gerschenkron, <歴史の観点からする経済的後進性>(Cambridge, MA, 1962), p.5-p.30.
 (5) 農民の反乱意識と労働者階級の革命につき、Leopold Haimson, 'The Problem of Social Stability in Urban Russia, 1905-17' , 23, no.4 (1964), p.633-7. を見よ。
 (6) Edith W. Clows, Samuel D. Kassow and James L. West, ed., <ツァーリと民衆-ロシア帝国後期の教養社会と公的自己認識の問題>(Princeton, NJ, 1991)を見よ。
 (7) Alfred Rieber は、ロシアの社会的自己認識の新旧両類型の共存を叙述するために、「堆積的(redimentary)」という用語を使った。その論文「堆積的な社会」<ツァーリと民衆の間>所収p.343-366. を見よ。
 (8) Marc Raeff, <ロシア知識人の起源-18世紀の貴族>(New York, 1966)を見よ。
 (9) これは Richard S. Wortman, <ロシアの法意識の発展>(Chicago, 1967) p.286-9とその他随所で論じられている。
 大改革に関するより幅広い問題につき、Ben Eklof, John Bushnell and Larissa Zakharova,ed.,<ロシアの大改革>(Bloomington, IN, 1994)を見よ。
 ----
 第一章の第1節、終わり。

1799/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)②。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017).
 2017年版の試訳の第二回。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。
 №1794の内容構成(目次)の紹介には欠けているが、序説以外の各章のはじめにも、見出し文字のない「まえがき」部分がある。「(まえがき)」と記しておく。
 ----
 序説/第3節・革命の解釈。
 全ての革命は<自由、平等、友愛>(liberté, égalité, fraternité )その他の高尚なスローガンをその旗に刻んでいる。
 全ての革命家は、熱狂者で狂信者だ。全てが、不公正や腐敗のない、旧世界にある無感情は永遠に除去される新世界を創ろうという夢をもつユートピアンだ。
 全ての革命家は、内輪もめを許すことができず、妥協をすることもできず、大きくて遠い目標に魅せられており、暴力的で、懐疑的で、そして破壊的だ。
 革命家たちは、非現実的で統治に習熟していない。制度や手続は、思いつきで作られる。
 彼らは、民衆の意思を具現化するという幻想に酔っている。民衆の意思は、彼らの想定では一枚岩だ。
 彼らはマニ教徒(Manicheans)で、世界を二つの陣地に分ける。光と闇、革命とその敵。
 彼らは、伝統、在来の知識、聖像(icons)および迷信を嫌う。
 彼らは、社会は革命がそこに書き記そうとする<無色の白板(tabula rasa)>のはずだ、と信じている。//
 幻滅や失望で終わるのは、革命家の本性だ。
 熱狂は、衰える。狂熱は、強いられるものになる。
 狂気 (7)と高揚の時間は、過ぎ去る。
 民衆と革命との関係は、説明し難いものになる。民衆の意思は必ずしも一体のものではないし、よく見通せるものでもない。
 富と地位への誘惑が戻ってくる。人は隣人を自分のごとく愛しはしないし、そう欲してもいないと気づくとともに。
 全ての革命家は事物を破壊し、すぐにその損失を後悔する。
 彼らが創るものは全て、予期したものよりも小さくて、違うものだ。//
 しかしながら、属性的な共通性とは別に、全ての革命には固有の性格がある。
 ロシアの位置は周縁にあり、そこでの教養のある階層は、ヨーロッパと比べての後進性に覆われていた。
 革命家とは、「プロレタリア-ト」を「民衆」にしばしば置き換え、革命は道徳的に強いられるものではなくて歴史の必然だと主張するマルクス主義者だった。
 革命が起きる前のロシアに、革命的政党はあった。戦争の真只中に革命がやって来たとき、その諸政党は、周辺にいる自発的な革命的群衆の献身ではなくて、民衆革命の既成の一団(兵士、海兵、ペテログラードの大工場の労働者)の支援を求めて競い合った。//
 この著では、三つの主題が特別の重要性をもっている。
 第一は、近代化という主題だ。-後進性から脱却するための手段としての革命。
 第二は、階級という主題だ。-プロレタリア-トとその「前衛」であるボルシェヴィキ党の使命としての革命。
 第三は、革命的暴力とテロルという主題だ。-革命はいかにその敵を処理し、それはボルシェヴィキ党とソヴィエト国家にとって何を意味したのか。//
 「近代化」という用語は、後近代(ポストモダン)としばしば表現される時代には通過点だったかのごとく響き始めた。
 しかし、ボルシェヴィキが追求した工業と技術の近代性は今では見込ないほど古くさかったがゆえに、これは我々の主題とするのに適切だ。すなわち、その当時は、汚染を撒き散らす恐竜の一群のように、従前のソヴィエト同盟から東ヨーロッパまでの風景を切り刻む巨大な煙突群は、革命の夢を実現するものだった。
 マルクス主義者たちは革命よりもだいぶ前から、西側の工業化との恋に落ちていた。
 彼らは資本主義(第一義的には資本主義的工業化を意味した)の不可避性を強く主張したが、これは19世紀遅くの人民主義者(the Populists)との議論の対立の核心だった。
 ロシアでは、のちに第三世界でそうだったように、マルクス主義は革命のイデオロギーであるとともに経済発展のイデオロギーだった。//
 ロシアのマルクス主義者にとって、工業化と経済の近代化は理論上は、目的のための手段にすぎなかった。目標は、社会主義になることだった。
 しかし、ボルシェヴィキがこの手段に明白にかつ集中的に焦点を当てれば当てるほど、目標はますます曖昧になって遠ざかり、ますます非現実的になった。
 「社会主義の建設」という用語が1930年代に一般に用いられるに至ったとき、その意味を、まさに進行中だった新しい工場や工業都市の現実の建設と区別するのは困難だった。
 あの世代の共産主義者たちにとっては、大草原に煙を吐き出す新しい工場群は、革命が勝利しつつあることを最もよく誇示するものだった。
 Adam Ulam が述べたように、いかに苦痛を伴いいかに強制的であっても、スターリンが促進した工業化は、「マルクス主義の論理の完成物であって、『裏切られた革命』ではなく『達成された革命』」だった。(8)//
 第二の主題である階級は、それ自体として最重要の当事者だと受け止められたがゆえに、ロシア革命で重要だ。
 マルクス主義の分析的範疇は、ロシアの知識人層に広く受け容れられた。そして、ボルシェヴィキは、より広い社会主義諸党派の中の例外ではなくて代表的なものだった。階級闘争という観点から革命を解釈し、工業労働者に特別の役割を割り当てるならば。
 権力をもったボルシェヴィキは、プロレタリアと貧農は彼らの自然の同盟者だと想定した。
 ボルシェヴィキはまた、「ブルジョアジー」-以前の資本家、以前の貴族的土地所有者、役人たち、小規模小売店主、クラク(富んだ農民)および一定の文脈ではロシアの知識人層を広く含む-の一員たちは彼らの自然の敵対者だと完全に想定していた。
 ボルシェヴィキはこのような者たちに「階級敵(class enemies)」という用語を使った。初期の革命的テロルがまず第一に向かったのは、こうした者たちに対してだった。//
 この時期に関して最も激しく議論される階級問題の一つは、労働者階級を代表するというボルシェヴィキの主張は正当なものだったか否かだ。
 ペテログラードとモスクワの労働者階級が急進化して他のどの諸政党よりも明らかにボルシェヴィキを選好した1917年の夏と秋を一見するならば、これはおそらく、十分に単純な問題だ。
 労働者階級の支持を得てボルシェヴィキが権力を掌握したということは、その支持を永続的に維持し続けた、ということを意味しなかった。-あるいは実際には、権力掌握の前であれ後であれ、その党を工場労働者のたんなる吹き口(mouthpiece)と見なしたのだ。//
 ボルシェヴィキは労働者階級を裏切ったとの非難は最初は1921年のクロンシュタット反乱(the Kronstadt revolt)に関係して国外から行われたもので、生じざるをえない、本当であるように思える非難だった。
 しかし、いかなる裏切りなのか-いつの時点での、誰との、いかなる結果をもつ裏切りなのか?
 労働者階級との婚姻関係は内戦の終わりの時期には解体に近そうに見えたが、ボルシェヴィキは、ネップ期に継ぎ当てをしてそれを守った。
 第一次五カ年計画の間に、実際の賃金と都市の生活水準が落ちこんで、また体制が生産性のさらなる向上を強く要求したために、関係は再び悪化した。
 正式の離婚ではなくとも、労働者階級との事実上の離別は1930年代に生じた。//
 しかし、これで物語の全部が終わったのではない。
 ソヴィエト権力のもとでの労働者それ自体の状況は、一つの問題だ。
 労働者が自分をより良くする(労働者以外の何者かになる)ために利用できる機会は、別の問題だ。
 ボルシェヴィキは十月革命後の15年間、主としては労働者階級から党員を集めることによって、労働者の党だというその主張をきわめて巧く確証した。
 ボルシェヴィキはまた、労働者階級が上方へと移動する広い経路を生み出した。労働者を新たに党員にすることは、共産主義者たちをホワイトカラーの行政や経営の地位へと昇進させることと関連していたのだから。
 1920年代末の文化革命の間、体制は、多数の若い労働者や労働者の子どもたちをより高等な学校へと送り込むことによって、上昇移動への新しい経路を切り拓いた。
 困難度の高い「プロレタリアの昇進」という政策は1930年代初めに弱まったが、その影響は残った。
 スターリン体制にとって重要なのは労働者ではなく、<以前の>労働者だった。-経営および職業上のエリートの中にいる新しく昇進した「プロレタリア-トの中核」だった。
 厳密なマルクス主義の立場からすれば、このような労働者階級の上への流動は、おそらく大した関心の対象ではなかった。
 しかしながら、受益者からすると、彼らの新しいエリートとしての地位は、革命が労働者階級に約束したことを実現したことの紛れもない証拠だと思われがちだった。//
 この著で一貫している最後の主題は、革命的暴力とテロルという主題だ。
 民衆の暴力は、革命に内在的なものだ。
 革命家たちは、後の時期には留保を増やしつつも、革命の初期の段階でそれをきわめて好意的に考える傾向にある。
 テロルとは、一般民衆を脅かし恐怖に陥れる、革命集団または体制による組織的な暴力を意味する。これは、近代諸革命に特徴的なものでもあり、フランス革命がその典型を設定した。
 革命家の目からするとテロルの主要な目的は、革命の敵や変革への障害を破壊することだ。
 しかし、革命家たち自身の純粋性や革命的意識を維持するという、二次的な目的がしばしばある。(9)
 敵と反革命者は、全ての革命できわめて重要だ。
 敵は公然とはもちろん密かにも抵抗する。彼らは、策略や陰謀を企む。彼らはしばしば、革命家の仮面を身につけている。//
 マルクス主義者の理論に従って、ボルシェヴィキは階級という観点から階級の敵という観念を生み出した。
 貴族(noble)、資本家またはクラクであることは、<そのこと自体で(ipso facto)>、反革命同調者の証拠だった。
 たいていの革命家たちと同様に(地下の党組織と策略という戦前の経験があったことを考えるとおそらくたいてい以上に)、ボルシェヴィキは反革命の陰謀に神経質だった。
 しかし、彼らのマルクス主義はこれに、特殊な捻りを加えた。
 かりに革命には本来的に有害な階級があれば、一つの階級全体を敵の共謀者だと見なすことができた。
 その階級の個々の構成員は、「客観的に」反革命共謀者であり得た。主観的には(つまり彼らの心の裡では)共謀に関して何も知らず、自分たちは革命の支持者だと考えているとしてすら。//
 ロシア革命で、ボルシェヴィキは二種のテロルを用いた。すなわち、党の外部にいる敵に対するテロルと、党内部の敵に対するテロル。
 前者は革命の初期の時代に支配的だったが、1920年代に少なくなった。そして再び、集団化と文化革命の10年間の末に急に激しくなった。
 後者は最初は、内戦の終末期に党の分派闘争の間にあった可能性として散見された。だが、1927年までには消失した。その当時、左翼反対派に対する小規模のテロルが行われた。//
 そのとき以降、党内部の敵に対して大規模のテロルを行う誘惑があることが明瞭になった。
 これの一つの理由は、体制は党外部の「階級敵」に対して相当規模のテロルを用いているということだった。
 もう一つの理由は、党員たちに対する党の定期的な粛清(chistki, 字義どおりには洗浄(cleansing))が、痒い部分を引っ掻くのと似た効果を持ったことだ。
 1921年に全国的規模で最初に行われた粛清(purges)は、その忠誠性、能力、出身および社会的関係を判断する公開の場に全ての共産党員を個人的に呼び集めて、再審査するというものだった。そして、望ましくないと判断された者たちは党から除名されるか、党員候補へと引き下げられた。
 1929年に全国的な党の粛清があり、1933-34年にもう一回あった。そしてそのあと-党の粛清がほとんど偏執狂的な活動になった-、1935年と1936年にさらに二回の党員再審査が素早く続いて行われた。
 除名(expulsion)は拘禁または国外追放のような重い制裁を伴う蓋然性はあったけれども、まだ比較的に穏やかだった。この党粛清のたびに、重くなっていったけれども。//
 テロルと党の粛清(purging, 「p 」は小文字)は最終的に、結合して大規模になって、1937-38年の大粛清(the Great Purges)に至った。(10)
 これは、通常の意味での粛清ではない。党員に対する系統的な再審査は含まれていないからだ。
 しかし、これは第一段階では党員に、とくに高い地位の公職にある党員に対して向けられた。そして、拘禁と恐怖が非党員の知識人にすみやかに広がった。より少ない程度でだが、広く一般民衆にも。
 より正確には大テロル(the Great Terror)と称されることになる大粛清では、疑念はほとんど確信と同じであり、犯罪行為の証拠は必要でなかった。そして、反革命罪に対する罰は、死または労働強制収容所送りの宣告だった。
 多数の歴史研究者に、フランス革命のテロルとの類似性が思い起こされた。そして、大粛清の組織者にも同様に、明らかに類推がなされていた。大粛清の間に反革命者だと判断された者に適用される「民衆の敵」という用語は、ジャコバン派のテロリストから借りたものだったのだから。
 この、示唆的な歴史的借用の意義については、〔この著の〕最後の章で検討する。//
 --------
 (7) この語は、Aristide R. Zolberg, '狂気のとき' <政治と社会>2:2 (1972 冬号)p.183-p.207 から借用した。
 (8) Adam B. Ulam, The Historical Role of Marxism. ウラムの <ソヴィエト全体主義の新しい顔>(Cambridge, MA(USA), 1963)所収 p.35。
 (9) このテーマにつき、Igal Halfin の<私の精神におけるテロル-裁判に関する共産主義者の自伝> (Cambridge, MA, 2003)を見よ。
 (10) 「大粛清」とは西側の用語で、ロシアのものではない。
 長年にわたってロシア語で事件に言及する公的な方法は受け入れられなかった。公式にはこれは発生していなかったからだ。
 私的な会話では、決まって遠回しに「1937年」と言及されていた。
 「粛清(p-)」と「大粛清」という名称の間の混乱は、ソヴィエトの婉曲語法に由来する。テロルが1939年の党第18回大会での半ばの拒絶によって終わったとき、表向きで拒否されたのは「大量の粛清」(massovye chistki)だった。実際には、厳密な意味での党の粛清は1936年以降は行われなかったけれども。
 婉曲語法はロシア語では短い間使われたが、それもやがて消えた。一方、英語では、それは永続的に注意を惹き続けた。
 ----
 第4節・第四版に関するノート。
 以前の各版と同様に、この第四版は、ロシア帝国とソヴィエト同盟の一部だった非ロシアの領域でではなく、基本的にロシアで経験されたロシア革命の歴史だ。
 この限定は、今や非ロシア圏域とその民衆に関する活発で価値ある研究が発展しているので、それだけ一層、強調しておかなければならない。
 中心的な主題に関しては、この版では、最近の国際的な学界の成果はもちろん1991年以降に利用できるようになった新しい資料も取り込む。
 この著の議論の仕方や構成に大きな変更はないが、新しい情報と新しい学問上の解釈に対応して、一定の小さな変更がある。
 脚注を利用したのは、英語に翻訳されたロシアの研究書はもちろん、最近の重要な英米語の研究書にも注意を向けるためだ。ロシア語での書物や資料からの引用は、最小限にとどめた。
 選んだ参照文献一覧は、さらに読書するための簡単な案内になるだろう。
 ----
 第一章・初期設定(The Setting)。
 (はじめに)
 20世紀の初め、ロシアはヨーロッパの大国の一つだった。
 しかし、イギリス、ドイツおよびフランスと比較すると後進的だと一般的に見られていた大国だった。
 これは経済的な観点でいうと、封建体制から抜け出してくるのが遅れており(農民層は1860年代にようやく地主または国家による法的な拘束から解放された)、工業化も遅れていた、ということを意味した。
 政治的な観点でいうと、1905年までは合法的な政党も選挙された中央の議会もなく、弱くはない権力をもつ専制体制が残存していた、ということを意味した。
 ロシアの都市は政治的組織や自己統治という伝統を持たず、貴族階層も同様に、君主に対して譲歩を強いるだけの力をもつ一体的な自己意識を発達させることができなかった。
 法的には、ロシアの臣民はまだ「身分(estate)」(都市、農民、聖職者および貴族)の一つだった。身分制度は職業人や都市労働者に関する条項を何ら定めていなかったし、聖職者だけは、自己完結的な階層の特徴に似たものをもっていたけれども。//
 1917年の革命以前の30年間、窮乏化はなく、国富は増大した。
 政府の工業化政策、外国からの投資、銀行や信用構造の近代化および国内の起業活動の緩やかな発展の結果として、ロシアが急速な経済成長を経験したのは、この時代だった。
 革命の時期にロシアの総人口の80パーセントをまだ構成していた農民層は、その経済的地位に関して目立った改善を経験していなかった。
 しかし、当時のいくつかの見解とは対照的に、農民層の経済条件が絶え間なく悪化していくということは、ほとんど確実に、なかった。//
 ロシアの最後の皇帝であるニコライ二世は悲しくも、専制体制は知らぬ間に迫り来る西側からのリベラルな影響と闘っていることに気づいた。
 政治的変化の方向-西側の立憲君主制のようなものに向かう-は明確であるように見えた。教養ある階層の多くの構成員たちは変化の遅さに耐えられず、頑固な障害物は専制体制の側の態度だったけれども。
 1905年の革命の後、ニコライは譲歩して全国的に選出される議会、ドゥーマ(the Duma)を設置し、同時に政党と労働組合を合法化した。
 しかし、古い専制体制の支配の恣意的な習慣と継続した秘密警察の活動は、こうした譲歩を骨抜きにした。//
 1917年の十月革命の後で、多くのロシア人亡命者(エミグレ)は革命前の時代は前進していた黄金の時代だったと、だがこの時代は(こう思われたのだが)第一次大戦または手に負えない暴徒、あるいはボルシェヴィキによって妨害されたのだと、振り返った。
 進展はあったが、それは社会の不安定さと政治的変革の蓋然性に大きく寄与した。すなわち、社会の変化が急速であればあるほど(その変化が進歩的か逆行的かのいずれであれ)、社会はますます安定性を失っていく趨勢にあった。
 もしも我々が革命前のロシアの偉大な文学作品を思い浮かべれば、最も生々しいイメージは、転位感、疎外感および自己の運命を支配できないこと、といったものだ。
 19世紀の作者の Nikolai Gogol にとって、ロシアは見知らぬ目的地へと暗闇の中を疾走している馬車だった。
 ニコライ二世とその閣僚たちを公的に批判したドゥーマの政治家の Aleksander Guchkoiv にとっては、ロシアは狂った運転手が運転して断崖の縁に沿って進んでいる車だった。その車の中で恐怖に怯える乗客は、車輪を抑える危険性について議論している。
 1917年に、危険は冒された。そして、前方向へのロシアの大胆な動きは、革命へと突入することになる。//
 ----
 以上、序説の第3節と第4節、および第一章の「はじめに」が終わり。

1795/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)①。

 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命。
 =Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 これの2017年版によって、訳を試みる。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。<>内は斜字体になっている書物のタイトル。なお、連続して掲載することは予定していない。
 ----
 序説
 (はじめに
 アメリカのニクソン大統領が1972年に中国を訪れていたとき、会話がほとんど二世紀前のフランス革命に移った。
 周恩来首相は革命の影響を論評するように求められて、語るのは早すぎる、と答えた、という伝説がある。
 彼はおそらく質問を誤解し、1968年のパリ事件のことを尋ねられていると考えた、ということが判明した。しかし、どんな場合でもそう語るのは、よい答えだっただろう。
 大きな歴史的事件の影響について語るのは、つねに早すぎる。その影響は静態的でなく、現在の状況や我々自身の過去の変化に関する立脚点に応じて恒常的に変化しているのだから。
 同じことはロシア革命についても言える。これに関する記憶はすでに長い季節の移ろいを通り抜けており、かつ疑いなく将来にもまたもっと多く通り抜けるだろう。
 この著<ロシア革命>の第二版(1994年)は、劇的な事件の荒波-共産主義体制の崩壊と1991年末のソヴィエト同盟の解体-の中で出版された。
 この事件は、ロシア革命に関する歴史学者にとってあらゆる種類の重要な意味をもった。
 これは以前は閉ざされていた書類庫を開き、引き出しの中に隠されていた回想録を持ち出し、あらゆる種類の、とくにスターリン時代とソヴィエトによる抑圧の歴史に関する、洪水のごとき新しい資料を解放した。 
 その結果として、ソヴィエト後を含む歴史学者は1990年代と2000年代はとくに生産的で、また国際的な学術世界と改めて再連結した。
 第三版(2008年)で増加させた文献一覧は、殺到したこの新しい情報を反映している。
 今やこの第四版とともに、ロシア革命後一世紀(100年)に到達した。
 一世紀後というのは、再評価するには分かりやすい時期だ。しかし、奇妙だが、そのような試みをしようという熱意は、ロシアにはほとんどない。
 ソヴィエト後のロシアは、新しい国民の一体性の根拠としての有用な過去を必要としている。
 問題は、どの程度に革命がそれに適しているかを見分けることだ。
 スターリンは、比較的容易に、国家建設者だと、そして、第二次世界大戦で偉大な勝利を収めたロシア(ソヴィエト同盟)の指導者で、戦後の超大国への上昇の監督者だと、説明をつけることができる。
 しかし、現代のロシア人がレーニンとボルシェヴィキについてどう考えるべきかを知るのは、そう簡単ではない。//
 ロシア人とその他の旧ソヴィエトの市民にとって、ソヴィエト同盟の崩壊は革命の意味を根本的に再検討することを意味したはずだ。(1)
 以前はこの革命は、世界の「最初の社会主義国家」を生んだ基底的事件だったと称揚され、今は多くの者によって、74年間も正当な道からロシアを逸脱させた過ちだったと見られている。
 西側の歴史学者は難なく適応したが、彼らの見方は、ソヴィエト同盟の崩壊によるのと同様に冷戦の終わりによって微妙に変わった。
 砂塵はまだなお、精神上の再設定によって静められなければならない。
 しかし、一つのことだけは、明白だ。
 ロシア革命の意義に関するかぎりは、明確に語るのはまだ早すぎる。そして、この革命が現代ヨーロッパと世界の歴史の重大な分岐点だったと真面目に考察され続けているかぎりは、ずっとそうだろう。
 この著書は、ロシア革命の物語を叙述し、当事者によって観察された諸事態を明確にしようとする。
 しかし、ロシア革命の意味は、フランス革命のそれのように、際限なく議論されていくだろう。//
 --------
 (1) 革命と名づけることすら、複雑になった。「ロシア革命」という用語は、ロシアでは決して使われなかった。多くのロシア人が今では避けるソヴィエトの用語法では、それは「十月革命」またはたんに「十月」だった。ソヴィエト後に好まれる用語は「ボルシェヴィキ革命」であるように見える。
 ----
 第一節・革命の時期的範囲。
 革命とは複雑な社会的政治的大変革なので、革命に関して執筆する歴史学者は最も基本的な問題について-原因、革命の目標、社会に対する影響、政治的結果、そして革命の時間的範囲自体についてすら-、異なってこざるをえない。
 ロシア革命の場合は、開始時点を提示することに問題はない。
 ほとんど誰もが、1917年の「二月革命」のときだと考える。これは皇帝ニコライ二世の退位と臨時政府の成立をもたらした。(2)
 しかし、いつロシア革命は終わったのか?
 ボルシェヴィキが権力を掌握した1917年10月に全てが終わったのか?
 あるいは、ボルシェヴィキが内戦に勝利した1920年に革命は終わるに至ったのか?
 スターリンの「上からの革命」はロシア革命の一部だったのか?
 それとも、革命はソヴィエト国家が生存し続けている間ずっと継続していた、と我々は理解すべきなのか?//
 Crane Brinton はその著<革命の解剖学>で、革命は急激な変化を求める情熱と熱狂が増大する段階を経て、強烈さが最頂点に到達し、その後に幻滅という「テルミドール」段階がつづき、革命の活力は減少し、秩序と安定の回復への緩やかな移行となる、という考え方を述べた。(3)
 Brinton の分析の基礎にあるのと同じフランス革命モデルを抱いていたロシアのボルシェヴィキは彼ら自身の革命の「テルミドール」的衰亡を怖れ、内戦の終期にそれが起こったのではないかと半分は懸念した。そのとき彼らは、経済の破綻によって、1921年の「新経済政策」(NEP)の導入が画する「戦術的退却」をすることを強いられた。//
 しかしなお、ロシアは1920年代の終わりに、新しい大変革に突入した-スターリンによる「上からの革命」であり、第一次五カ年計画、農業の集団化、および最初は古い知識人に対して向けられた「文化革命」による産業化への強い志向を伴っていた。
 これの社会への影響は、1917年の二月革命、十月革命や1918-20年の内戦よりすらも大きかった。
 古典的なテルミドールの徴候を明瞭に認識することができたのは、この大変革が1930年代早くに終わってようやくのことだった。すなわち、革命的な情熱と戦闘性は減退した。そして、新しい政策は、秩序と安定の回復、伝統的な価値と文化の再生、新しい政治的社会的構造の強化をしようとした。
 しかしこのテルミドールですら、革命による大変革の終わりを告げるものではまったくなかった。
 最終の内部的激動、初期の革命的テロルの大波よりすらも激しい破壊があり、1937-1938年の大粛清(the Great Purge)が、多数の古いボルシェヴィキ革命家を一掃し、政治上、行政上および軍事上のエリートたち内部での大規模の人的な再編成をもたらし、百万以上の人々を殺し、またはグラクへと投獄した。(4)//
 ロシア革命の時期的範囲を決定するに際しての第一の論点は、1920年代のネップという「戦略的退却」の性質だ。
 これは革命の終わりだったのか、あるいは、そのように考えられていたのか?
 ある範囲の研究者たちは、レーニンは最後の日々に(彼は1924年に死んだ)、社会主義に向かうロシアの更なる前進は、徐々に、民衆の文化レベルを高めることによってのみ達成できると信じるようになった、と考える。
 しかしながら、ロシア社会はネップ期の間、きわめて移ろいやすく不安定であり続けた。
 ボルシェヴィキは反革命を怖れ、国内および国外の「階級敵」による脅威を懸念したままでいて、ネップへの不満足やネップを革命の最終的成果だとする理解への気乗り薄さを恒常的に表明していた。//
 考察すべき第二の論点は、1920代遅くにネップを終わらせたスターリンの「上からの革命」の性質だ。
 ある範囲の研究者たちは、スターリンの革命とレーニンのそれとの間には本当の(real)継続性は何らなかったという考えを拒否する。
 別の研究者たちは、スターリンの「革命」はその名に値しない、と感じる。民衆的蜂起ではなく、急進的な変化を狙う支配政党による社会に対する攻撃のようなものだ、と考えるからだ。
 私はこの著で、レーニンの革命とスターリンのそれの間にある、継続する線をたどる。
 スターリンの「上からの改革」をロシア革命に含めることについて言えば、これは歴史研究者によって異なって当然の問題だ。
 しかし、ここでの論点は、1917年と1929年は似たものか否かではなく、共通する過程の一部なのか否か、だ。
 ナポレオンの革命戦争は、フランス革命に関する我々の一般的観念の中に含めることができる。それを1789年の精神を具現化したものだと見なさないとしても。
 同様の接近方法は、ロシア革命の場合について正当であるように思える。
 常識的な用語法では、革命は、旧体制と新しい体制の確立との間の大変革と不安定の時期という意味とつながる。
 1920年代遅くには、ロシアの永続する外形はまだ明らかになる必要があった。//
 判断すべき最後の論点は、1937年-1938年の大粛清はロシア革命の一部だと考えるべきか否か、だ。
 これは革命的テロルだったのか? それとも、根本的に異なる種類の-おそらくは固く揺るぎない体制の体系的な諸目的に役立つテロルを意味する、全体主義的テロルという種類の-テロルだったのか?
 私の見解では、これら二つの性格づけのいずれも、大粛清を十分には描写していない。
 それは独特の現象であり、まさしく革命と革命後のスターリニズムの境界に位置するものだ。
 それは修辞、攻撃対象および加速していく進展の点で言えば、革命的テロルだ。
 しかし、構造ではなく人身を破壊し、指導者個人そのものを脅かさなかった点では、全体主義的テロルだ。
 スターリンによって始められた国家テロルだということは、ロシア革命の一部であるとすることを妨げはしない。結局のところは、1794年のジャコバンのテロルも同じ観点から描写することができる。(5)
 二つの事件のもう一つの重要な類似性は、どちらの場合も革命家たちが主要な破壊対象の中にいた、ということだ。
 劇的な理由だけでも、ロシア革命の物語は大粛清を必要とした。フランス革命の物語がジャコバンのテロルを必要としたのとちょうど同じように。//
 この著では、ロシア革命の時期的範囲は、二月革命から1937-1938年の大粛清までだとする。
 異なる諸段階-1917年の二月革命と十月革命、内戦、ネップという幕間、スターリンの「上からの革命」、その「テルミドール」的余波、および大粛清-は、20年間の革命の過程での別々の期間として扱われる。
 この20年が終わるまでに、革命のエネルギーは完全に費やされ、社会は疲れ切った。支配する共産党ですら、変革に飽きて、「正常さへの回帰」という一般的な切望を共有した。
 確かに、正常さ(Normalcy)は、まだ回復可能だった。ドイツの侵略とソヴィエトの第二次大戦への参戦開始は、大粛清のようやく数年後にやって来たのだから。
 戦争はさらなる激変を生んだが、少なくともソヴィエト同盟の1939年以前の領域に関するかぎりでは、もはや革命ではなかった。
 それは、ソヴィエトの歴史上の、革命の後の新しい時代の始まりだった。//
 --------
 (2) 1918年に暦が変わる前の日付は旧歴で示す。この旧暦は1917年では、ロシアが1918年に採用した西欧暦よりも13日遅れる〔秋月注=進むのが遅い。=数字は少ない。〕
 (3) Crane Brinton, The Anatomy of Revolution (rev. ed; New York, 1995).
 (4) 後述、p.167 参照。
 (5) 私の国家テロルに関する考え方は、かなりの程度 Colin Lucas の論文、「革命的暴力、民衆とテロル」、in : K. Baker (ed.), The French Revolution and the Creation of Modern Political Culture [フランス革命と近代政治文化の創出], Vol. 4; The Terror [テロル], (Oxford, 1994) に負っている。
 ----
 第二節・革命に関する書物。 
 解釈者にとって、革命ほどイデオロギー上の論争を刺激するものはない。
 1989年のフランス革命200周年に注目を向けさせたのは、例えば、何人かの研究者と評論者が、革命を歴史という塵の堆積物にすべく、解釈の長い対立を終わらせようと果敢に試みたことだった。
 ロシア革命についてはより少ない歴史文献しかないが、しかしそれはおそらくたんに、それに関して書くには一世紀半もまだ経っていないことによる。
 この著の最後にある選抜参照文献一覧で、私は最近の研究作業に注目し、ロシア革命に関するこの10-15年間の西側による研究の進展を反映させた。
 ここで、時代に関する歴史的展望についての最も重要な変化を概述し、ロシア革命とソヴィエトの歴史に関するいくつかの古典的著作の特徴を述べよう。//
 第二次大戦前の西側では、職業的歴史研究者がロシア革命について書くことは多くはなかった。
 多数の目撃者の報告資料や回想録があったが、その中で最も有名なのは、John Reedの<世界を震撼させた10日間>だった。もちろん、W. H. Chamberlin や Louis Fischer のような評論者が書いた、秀れた歴史叙述書はいくつかあった。彼らの<世界情勢の中のソヴィエト>は、一つの古典であるままだ。
 最も長いあいだ影響を与えた解釈に関する著作は、レオン(レフ)・トロツキー(Leon(Lev) Trotsky)の<ロシア革命の歴史>と、同じ著者の<裏切られた革命>だった。
 第一のものはソヴィエト同盟から追放された後だが政治的論争書として書かれておらず、当事者の視点からする1917年の分析を生き生きと描写している。
 第二のものは1936年にスターリンの犯罪を追及すべく書かれたもので、明らかになっていたソヴィエトの官僚主義階層の支持をうけた、かつ本質的にはブルジョア的価値観念を反映する、テルミドール的なものとしてスターリン体制を描写する。//
 戦前にソヴィエト同盟で書かれた著作の中で栄誉ある地位を占めるのは、スターリンの厳密な監視のもとで書かれて1938年に出版された、悪名高き<ソヴィエト共産党の歴史に関する短期講座>だ。
 読者は推測するだろうように、これは学問的著作ではなく、ソヴィエト史の全ての論点に関する正しい「党の基本方針」-すなわち、全党員によって学び取られ、全学校で教育されるべき正統(the Orthodoxy)-を設定することを意図したものだ。その論点の範囲は、ツァーリ体制の階級的性質や内戦で赤軍が勝利した理由から、「ユダヤのトロツキー」が率いて外国の資本主義勢力が支援した、ソヴィエト権力に対する共謀にまで及ぶ。
 ソヴィエト時代には、<短期講座>のような作品の存在は、生産的な学問研究の余地を多くは残さなかった。
 厳格な検閲と自己検閲は、歴史に関するソヴィエト職業人にとって日常のことだった。//
 ソヴィエト同盟で1930年代に確立するようになり、少なくとも1950年代半ばまで権威をもち続けたボルシェヴィキ革命の解釈は、ありきたりの公式的なマルクス主義だ、と叙述してよい。
 鍵となる要点は、十月革命は真のプロレタリア革命で、ボルシェヴィキはプロレタリア-トの前衛として奉仕した、そして革命は未成熟なものでも偶然でもなかった-それが生起したのは歴史法則に支配されている-ということだ。
 歴史法則(zakonomernosti)は、重要だとしてもうまく明瞭にできないが、ソヴィエト史上の全てを決定した。このことは実際上は、大きな政治決定は全て正当(right)だった、ということを意味した。
 現実ではない政治史が書かれた。レーニン、スターリンおよび若くして死んだ数人以外の全ての革命指導者は、革命に対する反逆者だと暴露され、「人に非ざる者」に、すなわち活字で言及することのできない者になったのだから。
 社会史は、事実上はこれらだけが演者であり題目である、労働者階級、農民層および知識人層という階級の用語法で書かれた。//
 ソヴィエトの歴史は西側で、第二次大戦の後にようやく強い関心事になった。主としては、敵を知るためという冷戦の文脈の中でだった。
 基調を設定した二つの書物は小説で、George Owell の<一九八四年>と Arthur Koestler の(1930年代遅くの年配のボルシェヴィキに対する大粛清裁判に関する)<真昼の暗闇>だった。しかし、学問の分野を圧倒したのは、アメリカ政治学だった。
 ナチ・ドイツとスターリンのロシアをいくぶん悪魔化して合成した全体主義モデルは、最も知られた解釈上の枠組みだった。
 これは、全体主義国家の全能性とそれがもつ「支配のための梃子」を強調し、イデオロギーや虚偽宣伝活動にかなりの注意を向けた。そして(消極的で、全体主義国家によって断片化されたと見られた)社会の分野はかなり軽視された。
 西側のたいていの研究者は、ボルシェヴィキ革命は少数党によるクー(coup)だ、いかなる種類の民衆の支持も受けず、正統性もない、ということで一致した。
 革命は、そしてそのためのボルシェヴィキ党の前史は、主としてソヴィエト全体主義の起源を説明するために研究された。//
 1970年代以前には、ロシア革命を含むソヴィエト史を敢えて研究する西側の歴史学者はほとんどいなかった。それは一つは、主題がとても政治的な負荷を帯びているからであり、また一つは、公文書や第一次資料に接近するのがきわめて困難だったからだ。
 イギリスの歴史研究者による二つの先駆的な著作は、記しておくに値する。
 E. H. Carrの<ボルシェヴィキ革命 1917-1923>は彼の複数巻の<ソヴィエト・ロシア史>の最初のもので、1952年に刊行された。そして、Isaac Deutscher のトロツキーに関する古典的人物伝の最初の巻である<武装せる予言者>は、1954年に出版された。//
 ソヴィエト同盟では、1956年の第20回党大会でのフルシチョフによるスターリン弾劾とそれに続く部分的な脱スターリン化によって、歴史再評価の入り口がある程度は開かれ、学問研究の水準が高められた。
 公文書にもとづく1917年や1920年代の研究が出現し始めた。但し、例えば労働者階級の前衛だというボルシェヴィキ党の地位に関して、遵守されるべき制約と教条がまだあったけれども。
 トロツキーやジノヴィエフのような人に非ざる者(non-persons)に論及することも可能になったが、それは侮蔑的な文脈でのみだった。
 フルシチョフの秘密報告が歴史研究者に提供した大きな機会というのは、レーニンとスターリンを分別する、ということだった。
 ソヴィエトの改革志向の歴史研究者たちは1920年代に関する多数の書物と論文を生み出して、様々な分野での「レーニン主義規範」はスターリン時代の実際よりも民主主義的で多様性により寛容で、強制性と恣意性がより少なかった、と論じた。//
 西側の読者にとって、1960年代および1970年代の「レーニン主義」傾向を示す代表例は<歴史に判断させよ>の著者、Roy Medvedev であり、<スターリニズムの起源と帰結>は西側では1971年に発行された。
 しかし、Roy Medvedev の著作はブレジネフ時代の雰囲気のためにスターリンに関して厳しすぎ、明らかに批判的すぎる。そして彼は、ソヴィエト同盟ではこれを出版することができなかった。
 これは、samizdat (原稿のソヴィエト同盟内部での非公式の流通)や tamizdat (外国での書物の非合法出版)が花咲いた時代でのことだった。
 この時期に現れた最も有名な反体制著作者は、Aleksander Solzhenitsyn だ。偉大なノーベル賞作家で歴史論争者の<収容所列島>は、1973年に英語版で出版された。//
 何人かの反体制的学者の仕事が1970年代に西側の読者に届き始めている一方で、ロシア革命に関する西側の学問的研究は「ブルジョア的歪曲」を被っているとなおも見なされ、事実上USSR〔ソヴェト同盟〕から排除された(Robert Conquest の<大テロル>を含むいくつかの著作はSolzhenitsyn の<列島>とともに密かに流通していたけれども)。
 それでもやはり、西側の学者の条件は改善した。
 制限されたかつ厳格に統制された公文書の利用を通じてではあるが、ソヴィエト同盟での調査研究を行うことが今やできるようになった。これに対して、初期の条件は非常に困難だったので多くの西側のソヴィエト学者は二度とソヴィエト同盟を訪れなかったし、別の者たちはスパイだとして追放されるか、多様な種類の嫌がらせを受けた。
 ソヴィエト同盟での公文書や第一次資料の利用が1970年代および1980年代に改善し、ロシア革命とその後に関する研究を選択する若い西側の歴史学者が増加したので、歴史、とくに社会史は、アメリカのソヴィエト学の重要な学問分野として、政治学にとって代わり始めた。
 学問研究の新しい章は、1990年代初頭に始まった。その当時に、ロシアの公文書庫の利用についての制限はほとんど撤廃され、以前に分類されていたソヴィエト文書によって描く最初の書物が出現し始めた。冷戦が過ぎ去るとともに、ソヴィエト史の分野は西側ではより政治的でなくなった。それはとてもよいことだつた。
 ロシアの、そしてソヴィエト後のその他の歴史研究者たちはもはや西側の対応者たちから孤立してはおらず、「ソヴィエト」、「亡命者(エミグレ)」および「西側」の学問研究という昔の区別は大きく消失した。
 ロシアとその外側で大きな影響力のある書物を刊行している学者の中に、モスクワを出身地とする(実際にはウクライナ人として生まれた)、公文書にもとづく党政治局に関する研究の先駆者である Oleg Khlevnyuk がいる。
 モスクワで生まれたかつてのエミグレで1980年代以降はアメリカ合衆国に住んでいる Yuri Slezkine は、<ユダヤ人の世紀>で革命とソヴィエト知識人界でのユダヤ人の位置に関する再解釈を行った。//
 公文書にもとづく新しいレーニンやスターリンの人物伝が現れ、グラクや民衆の抵抗のような、以前は公文書による仕事では達し得なかったテーマは多くの歴史研究者を惹きつけている。
 ソヴィエト同盟の解体と旧同盟共和国諸国を基礎とする独立国家の誕生に反応して、Ronald Suny や Terry Martin のような学者は、歴史学の分野としてソヴィエトの民族や境界諸国の問題を発展させた。
 Stephen Kotkin によるウラルのマグニトゴルスク(Magnitogorsk)に関する<磁場山岳>を含む、地域研究も盛んになった。この書物は、1930年代での異なるソヴィエト文化の出現(「スターリニズム的文明化」)について、明らかに革命の産物だと論じた。
 社会史学者はふつうの市民の当局に対する手紙(苦情、非難、訴え)を豊富に公文書庫で発見し、歴史人間学と多く合致する日常生活に関する研究を急速に発展させた。
 1980年代とは対照的に(そして歴史関係職業人内部での全体的な進展を反映して)、現今の若い世代の歴史研究者は社会史と同様に、ソヴィエトの経験の主観的で個人的な側面を照らし出す日記や自叙伝を用いる文化史や思想史にも惹かれている。//
 ----
 以上、序説の、はじめに、第1節、第2節を済ませた。

1794/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)の構成。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)は1941年生まれのオーストラリアのロシア・ソ連史の専門研究者で、のちイギリスやアメリカに移る(前回にイギリスの、としたのは正確ではない)。
 Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 =シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命。
 これの(本文の)内容構成は、つぎのとおり。()は明記されていない。「第*節」という語もなく、見出しだけがある。「章」という語もないが、こちらには数字はある。
 ----
 序論
  (はじめに)
  第1節・革命の時期的範囲。
  第2節・革命に関する著作物。
  第3節・革命の解釈。
  第4節・第四版への注記。
 第一章・初期設定(The Setting)。
  第1節・社会。
  第2節・革命的伝統。
  第3節・1905年革命とその後、第一次大戦。
 第二章・二月革命と十月革命。
  第1節・二月革命と「二重権力」。
  第2節・ボルシェヴィキ。
  第3節・民衆の革命。
  第4節・夏の政治的危機。
  第5節・十月革命。
 第三章・内戦。
  第1節・内戦、赤軍およびチェカ。
  第2節・戦時共産主義。
  第3節・新世界の見通し。
  第4節・権力にあるボルシェヴィキ。
 第四章・ネップと革命の未来。
  第1節・退却という紀律。
  第2節・官僚制の問題。
  第3節・指導者をめぐる闘い。
  第4節・一国での社会主義建設。
 第五章・スターリンの革命。
  第1節・スターリン対右翼。
  第2節・工業化への衝動。
  第3節・集団化。
  第4節・文化の革命。
 第六章・革命の終焉。
  第1節・「達成された革命」。
  第2節・「裏切られた革命」。
  第3節・テロル
 ----
 以上。試訳なので、正確さを期すためには本文を読んでの再検討が必要な語がありうる。

1793/ロシア革命に関する邦訳書等々。

 ロシア「10月革命」100年が経過した。
 ロシア革命に関する手頃な日本語文献はないものか、と考える。
 昨年につぎの二著が新書版で刊行されたが、異なる意味で、問題がある。
 広瀬隆・ロシア革命史入門(集英社インターナショナル、2017)。
 これはおそらく評論家でも「左翼」によるもので、レーニンらが「反戦平和」のために革命をしたと冒頭に書いているのだから、笑ってしまった。イデオロギーは、あるいは反共産主義=保守反動という「刷り込み」は、恐ろしい。
 池田嘉郎・ロシア革命-破局の8か月(岩波新書、2017)。
 これには一度この欄で触れた。上と違ってアカデミズム界のもので、ロシア革命自体に関する強い「歪み」はないと思われる。しかし、いかんせん、この書が扱っているのは-よく見ると副題が示すように-ほとんど二月革命と十月革命のあいだで、二月革命・臨時政府樹立後の政府要職者等の人生が中心だ。
 ロシア革命といえば先ずは想起するだろうボルシェヴィキによる「10月革命」を-その終期には議論があるだろうが-「内戦」または「戦時共産主義」以前についても概述してくれるものではないようだ。
 詳細と思われる共産主義・ロシア史に関する邦訳書は、-江崎道朗はこれらを一瞥すらしないでコミンテルンや「共産主義」について2017年8月の新書を刊行したようだが-ある。
 私でも、つぎの二著を所持する。それぞれの下掲は、原書。
 アーチー・ブラウン/下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社、2012)。
 =Archie Brown, The Rise and Fall of Communism (2010).
 マーティン・メイリア/白須英子訳・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史-上・下(草思社、1997)。
 =Martin Malia, Soviet Tragedy: A History of Socialism in Russia (1995)。
 後者はリチャード・パイプスと同窓という著者によるもので、ネップ期の叙述も興味深い。
 しかし、これらはタイトルにも見られるように、ソヴィエト共産主義の歴史をソ連の解体まで叙述するもので、広・狭義のいずれであれ、「10月革命」の経緯を概述することを主題にしていない。
 リチャード・パイプスの意味での「ロシア革命」とネップ期を含む「ボルシェヴィキ体制下のロシア」については、同の二著があり、その簡潔版もあって-何度も記したように-その簡潔版の邦訳書はある。
 リチャード・パイプス/西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。
 =Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1995).
 他になくはない。よく読まれているのかも知れない一冊本に、つぎがある。
 ロバート・サーヴィス/中島毅訳・ロシア革命1900-1927(岩波書店、2005)。
 長くはない概説書だ。そして、この書によるロシア革命記述は、日本語版「ウィキペディア」の「ロシア革命」の項の基礎になっている(示される参考文献を見れば分かる)。
 しかし、さすがに岩波書店が邦訳書として発行する本だ。レーニン・ロシア革命・共産主義についてなおも宥和的で甘い、と感じられる。そのようなものでないと、つまりひどくは日本共産党や日本の「左翼」に悪影響をもたらさないようなものでないと、岩波は出版しないのだろうと推察される。
 古くは、つぎがあった。
 菊地昌典・ロシア革命(中公新書、1967)。
 岩波新書でもない中公新書にこんな内容のロシア革命本があったとは、日本に独特の時代性を感じさせる。
 この本は、著者が日本共産党員なのかいわゆるトロツキストなのかという詮索はしないが、いずれにせよ、レーニンの「ロシア革命」を美しく讃えるものだ。その文体の熱情ぶりは、日本にもいずれ(民主主義革命-?)社会主義革命が起きるとの確信に満ちているようだ。そして、自分はその進歩的・積極的な方向に関与しているのだという陶酔感も。
 上のうち優れていると思われるのは、リチャード・パイプスの簡潔版の本だ。
 しかし、これの邦訳書でも二段組で本文408頁まであり、読み通すのは簡単ではない(なお、原書も計ほぼ同頁だ)。私自身も一日では読み終わっていない。
 ロシア・ソ連史学界(アカデミズム)にはむろん多数の論文等があるのだろうが、ふつうの「しろうと」には細かすぎ、専門的すぎて、分かりにくい。
 となると思いつくのが、イギリスの専門学者によるものだが、二月革命から1930年代の「大粛清」(the Great Purge)までの概述書である、つぎだ。第三版の原書で本文だけだと172頁。パイプスのものよりも短い。
 Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(第3版2008,第4版2017)。索引を含めて、p.224まで。
 しかし、2017年の第4版ではなくとも、この書には邦訳書が(なぜか)存在しない。

1784/一国社会主義-L・コワコフスキ著1章4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第4節、 p.21~p.25。
 ----
 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第4節・一国での社会主義。

 1924年の末にかけてトロツキーとその「永続革命」との考えに対抗して定式化された「一国での社会主義」という教理は、長い間、スターリンによるマルクス主義理論への大きな貢献だと考えられてきた。これから推論される帰結は、トロツキズムは一団の反対物たる明確な教条だ-トロツキー自身も明らかに共有するに至る見方-、ということだ。
 しかしながら、現実には、二人の間には、理論上の不一致はもちろん、根本的な政治的対立は存在していなかった。//
 述べてきたように、十月蜂起の指導者たちは、革命の過程はすみやかにヨーロッパの主要諸国に広がるだろう、世界革命の序曲(prelude)でなくしてはロシア革命には永続する希望はない、と信じた。
 初期のボルシェヴィキ指導者の誰も、これとは異なる考え方を抱いたり、表明したりすることはなかった。
 この主題に関してレーニンがいくつか書いたことも紛らわしさが全くないものだったので、スターリンはのちに、それらを著作集から削除した。
 しかしながら、世界革命の望みが少なくなり、共産主義者たちのヨーロッパで蜂起を発生させようとする絶望的な努力は失敗に帰したので、彼らは、その社会がいったい何で構成されるのかを誰も正確には知らなかったけれども、当面の直接の任務は一つの社会主義社会の建設だということにもまた同意した。
 二つの基本的な原理が、受容されつづけた。すなわち、歴史法則によって最終的には世界を包み込む過程を、ロシアは開始した。そして、西側の諸国が自分たちの革命を始めるのを急いでいない間は、自国の社会主義への移行を開始するのはロシア人だ。
 社会主義を実際に一度でもまたは全部について建設することができるのか否かという問題は、真剣には考察されなかった。実際の結論は、答えに訊くしかなかったのだから。
 内戦の後でレーニンが、布令を発することでは、ましてや農民を射殺することでは穀物を成育させることはできないと気づいたとき、そして引き続いてネップを導入したとき、彼は確実に「社会主義の建設」にこだわっており、外国で革命を搔き立てること以上に、国家内部の組織化に関心をもっていた。//
 スターリンが1924年春に「レーニン主義の基礎」という論文を発表したとき-これはレーニンの教理を彼自身に倣って集大成する最初の試みだった-、彼は一般的に受容されていることを繰り返して抽出し、トロツキーを、農民の革命的役割を「誤解」しており、革命はプロレタリア-トによる一階級支配によって開始することができると考えていると、攻撃した。
 彼は、こう論じる。レーニン主義は、帝国主義時代とプロレタリア革命時代のマルクス主義だ。ロシアは、その相対的な後進性とそれが苛んだ多くの形態の抑圧によって革命へと成熟していたがゆえに、レーニン主義が生まれた国になった。レーニンはまた、ブルジョア革命の社会主義革命への移行を予見した。
 しかしながら、スターリンはこう強調した。単一の国のプロレタリア-トだけでは最終的な勝利をもたらすことができない、と。
 トロツキーは同じ年の秋に、1917年以降の自分の著作を集めたものを刊行した。その序言では、自分が唯一のレーニン主義原理に忠実な政治家だとの証明や、指導者たち、とくにジノヴィエフとカーメネフ、は優柔不断でレーニンの蜂起計画に敵対する態度をとったことに対する批判、を意図すると述べた。
 彼はまた、ジノヴィエフがそのときに議長(the chief)だったコミンテルンを、ドイツでの蜂起の敗北や革命的情勢を利用できないことについて攻撃した。
 トロツキーの批判は、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、リュコフおよびクルプシュカヤその他による、集団的な回答を惹き起した。それは、過去の全ての過ちと失敗についてトロツキーを非難し、彼は傲慢であり、レーニンと争論をした、革命に対するレーニンの貢献を貶した、と責めた。//
 スターリンが「トロツキズム」という教理を作りだしたのは、このときだった。
 1917年以前にトロツキーが定式化した「永続革命」という考えは、ロシア革命は継続して社会主義段階へと移るが、その運命はそれが生じさせる世界革命にかかるだろう、と予想するものだった。
 さらに、巨大な層の農民が多数派である国家では、労働者階級は国際的なプロレタリア-トによって支援されなければ政治的に破壊されるだろう、国際プロレタリア-トの勝利だけがロシアの労働者階級の勝利を確固たるものにできる、というものだった。
  「ブルジョア革命の社会主義革命への移行」という問題はその間には対象ではなくなっていたので、スターリンは、トロツキズムは社会主義は明らかに一国では建設され得ないと主張するものだと意味させた。-かくして、スターリンは読者に、トロツキーの本当の意図はロシアに資本主義を復活させることだ、と示唆した。
 1924年の秋、トロツキズムは三つの原理に依拠している、とスターリンは明瞭に述べた。
 第一に、プロレタリア-トの同盟者としての農民という最も貧しい階層のことを分かっていない。
 第二に、革命家と日和見主義者の間の平和的共存を認めている。
 第三に、ボルシェヴィキ指導者たちを誹謗中傷している。
 のちに、トロツキズムの本質的な特徴は、一国での社会主義の建設を開始するのが可能であるにもかかわらずそれを遂行するのは不可能だと主張することにある、と明言された。
 スターリンは<レーニン主義の諸問題について>(1926年)で1924年春の自分自身の見解を批判し、一国での社会主義を最終的に建設する可能性と資本主義者の干渉に対して最終的に自己防衛する可能性とは明確に区別しなければならない、と述べた。
 資本主義が包囲する状況では、干渉に対抗できる絶対的な保障はないが、それにもかかわらず、十分な社会主義社会を建設することができる、と。//
 一国で社会主義を最終的に建設できるのか否かに関する論争の要点は、ドイチャー(Deutscher)がスターリンの生涯について適切に観察したように、党活動家の心理を変えようとするスターリンの意欲にある。
 彼はロシア革命は自己完結的だと強調することで、世界共産主義の失敗が生んだ意気消沈と対抗しているのであつて、理論にかかわっているのではない。
 スターリンは党員たちに、「世界のプロレタリア-ト」の支援の不確実さに困惑する必要はない、我々の成功はそれにかかっているのではないのだから、ということを確かなものにしたかったのだ。
 要するに彼は、もちろんロシア革命は世界全体の革命の序曲だとの神聖な原理を放棄しないで、楽観的な雰囲気を生み出そうとした。//
 トロツキーが1920年代のソヴィエト外交政策とコミンテルンの職責にあったとすれば、スターリンよりも外国の共産主義者の反乱に関心を寄せていただろう、ということはあり得る。しかし、彼の努力が何がしかの成功をもたらしたと考えることのできる根拠はない。
 当然に、トロツキーは、スターリンが革命の根本教条を無視しているためだとして世界の共産主義者の敗北を利用した。
 しかし、欠けているとしてトロツキーが責めた国際主義的な熱情をもってスターリンがかりに活動したとして、彼は何をすることができただろうかは、少しも明確ではない。
 ロシアには、1923年のドイツ共産党や1926年の中国のそれの勝利を確実にする手段がなかった。
 一国社会主義というスターリンの教理のためにコミンテルンは革命の機会を利用できなかった、というトロツキーの後年の責任追及は、完全に実体を欠いている。//
 かくして、社会主義は一国で建設され得ることについての積極的主張と否定という、「本質的的に対立する」二つの理論に関しては疑問はない。
 理論上は誰もが、世界革命を支援する必要性とロシアに社会主義社会を建設する必要性をいずれも、承認していた。
 スターリンとトロツキーは、これの一方または他方の任務に注入すべき活力の割合に関して、ある程度は異なっていた。二人はともに、この違いを想像上の理論的対立へと膨らませたのだ。//
 トロツキーが頻繁に行った党内民主主義は彼らの体制にとって本質的だとの主張は、なおさら信じ難い。
 すでに述べたように、党内部の官僚制的支配に対するトロツキーの攻撃は、彼が事実上党組織への権力を奪われたときに始まった。まだ権力を持っている間は、彼は警察および経済の制度に対する官僚制の、および軍事的または政治的な統制の、最も専制的な先頭指導者の一人だった。
 のちに彼が罵倒した「官僚制化」は、国家の民主主義的仕組みを全て破壊したことの当然のかつ不可避の結果だった。それは熱情をもってトロツキー自身が入り込んだ過程であり、決して後になって否認することはできないものだった。//
 ----
 第4節おわり。第5節「ブハーリンとネップ理論/1920年代の経済論争」へとつづく。

1781/スターリン・権力へ③-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.18~p.21。
 ----
 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇③。
  新しい職〔総書記〕は党の階層の個人的な最高位ではなかったし、そのような職は実際に存在しなかった。
 総書記の職務は党官僚たちの当面の仕事を監督する、官僚機構内での調整を図る、上位者たちを任命する、等々だった。
 洞察すれば、つぎのことを明確に理解することができる。すなわち、全ての他の形態の政治生活が破壊され、党が国家にある唯一の組織された力あるものになれば、その党機構の職責にある個人は、全能になるにちがいない。
 これは、現実に生じたことだ。しかし、この当時は、誰も感知しなかった。
 ソヴィエト国家は歴史上に先例のないものだった。政治の舞台上の演者は、その劇の結末を予見していなかった。
 総書記としてのスターリンは、地方の党の職および最上位を除く中央の職についてすら、自分の味方をそれらの多数派になるよう送り込むことができた。そして、会議や会合を組織する仕事を通じて、その力は高まった。
 もちろん、それはゆっくりとした過程ではあった。
 最初の数年間にはまだ、党内部での論争、対抗集団の形成、異なる基本政策の主張が見られた。
 しかし、時が経つにつれて、それらの頻度は少なくなり、きわめて上位の階層内に限られるようになった。//
 述べてきたように、レーニンが生きている間に党内に反対集団があり、それは専制的で官僚的な統治方法の増大に対して、ある程度の共産党員が不満をもっていることを反映していた。
 最もよく知られる代表者はアレクサンダー・シュリャプニコフ(Alexsandr Shlyapnikov)とアレクサンドラ・コロンタイ(Alexsandra Kollontay)である「労働者反対派(Workers' Opposition)」は、字義どおりの「プロレタリア-トの独裁」、言い換えると、権力は党によってのみならず労働者階級全体によって実際に行使されるべきだということ、を信じた。
 彼らは決して国家民主政への回帰を擁護したのではなく、たわいもなくつぎのように空想した。ソヴィエト体制は、大多数、とくに農民と知識人、に関するかぎりで民主主義的生活様式を廃止したあとで、特権をもつ少数派、つまりプロレタリア-トのそれ(民主主義的生活様式)を維持することができる。
 別の反対派集団は、党の外部ではなく、党内部での民主主義を復活させることを望んだ。官僚機構の力の増大、全ての職の任命システム、および党内議論の減少や空虚な儀式のための選挙に異議を申し立てたのだ。//
 このような夢想家(Utopian)的批判は、ある程度はスターリン死後の共産主義体制の中で感じることとなる「危機的な」傾向を予期させた。すなわち、党の外部にではなく内部に民主主義が覆うべきだとの主張。あるいは、権力は全プロレタリア-トまたは労働者評議会によって、もちろん社会のそれ以外の者たちによってではなく、行使されるべきだとの主張。
 しかしながら、こうした考え方とは別に、初めの数年間に新しい範型の共産主義が出現した。それは、ある意味では、アジア的農民の必要と利益を反映する毛沢東主義(Maoism)の先行型だった。
 この傾向を作りだしたのは、民族的にはバシュキール(Bashkir)、職業は教師の、ミール-サイト・スルタン-ガリエフ(Mir Sayit Sultan-Galiyev)だった。
 この人物は十月革命のすぐ後にボルシェヴィキになっており、ソヴィエト同盟のムスリム(Muslim、イスラム教)圏域内からの数少ない知識人の一人だった。そして早々に、中央アジア民衆に関する専門家だと認められた。
 しかしながら彼は、ソヴェト体制はイスラムの民衆のいかなる問題も解決せず、彼らを別の形態の抑圧に従属させるだけだ、と考えた。
ロシアで独裁的権力を握った都市プロレタリア-トはブルジョアジーに劣らずヨーロッパ人で、やはりムスリム民衆には異邦人だ。
 時代の根本的な対立は発展諸国のプロレタリア-トとブルジョアジーの間にではなく、植民地または半植民地の民衆と産業化した世界全体の間にある。
 ロシアでのソヴィエト権力はこれら民衆を解放するために何もできないばかりか、恒常的な抑圧をし始め、赤旗のもとで帝国主義政策を追求するだろう。
 植民地民衆は、全体としてのヨーロッパの覇権に反対して結束し、自分たちの党とボルシェヴィキのそれから自立したインターナショナルを創設し、そして、ロシア共産主義に対するのと同様に西側の植民地主義者と闘わなければならない。
 彼らはイスラム教の伝統に反植民地イデオロギーを結びつけ、一党システム、および軍事力に支えられた国家組織を創出しなければならない。
 スルタン-ガリエフは、このような基本綱領にもとづいて、ロシアの党とは別にムスリムの党を結成し、そして独立のタタール=バスク国家を設立しようすらした。
  彼のこの運動は、レーニンのイデオロギー、ボルシェヴィキ党およびソヴィエト国家の利益と対立するものだとして、すみやかに抑圧された。
スルタン-ガリエフは1923年に党から除名され、外国の諜報機関の工作員だとして投獄された。これはおそらく、このような理由で責任追及がなされた最初の事例だろう。これはのちにはこのような場合の日常仕事になり、卓越した党員に対して一様になされていった。
 彼は、のちの大粛清(the great purge)の時代の間に処刑された。そして、その考え方は忘れ去られた。
 1923年6月の演説でスターリンは、スルタン-ガリエフは汎イスラムや汎トルコ的考えを理由としてではなく、トゥルキスタン(Turkestan)のバスマチ(Basmach)とともに党への反抗を企てたことを理由として逮捕された、と語った。
 このエピソードは、スルタン-ガリエフの考えとのちの毛沢東の教理または「毛主義的社会主義」範型との間の驚くべき類似性を説明するために記憶しておく価値がある。//
 党またはプロレタリア-トのために民主主義を擁護する反対派集団に関して言うと、これらは急速にかつ一斉に、レーニン、トロツキー、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフを含む党指導者によって粉砕された。
 1921年の党第11回大会は、分派集団形成を禁止すること、それへの加入党員を除名する権限を中央委員会がもつことを宣言した。 
 党の一体性の擁護者が指摘したように、つぎのことはじつに明瞭だった。すなわち、一党制のもとでの党内部の別々の諸集団は、必然的にかつてそれぞれの党派を形成していた全ての社会諸勢力の代弁者になる。ゆえに、かりに「分派(fractions)」が許容されるならば、事実上は多党制になるだろう。
 避けがたい結論は、専制的に支配している党それ自体が専制的に支配されなければならない、ということだ。そして、社会一般の民主主義的諸制度を破壊しておいて、党内部でそれを持ち続けようと考えるのは愚かだ、ということだ。労働者階級全体の利益については尚更だ。//
 にもかかわらず、官僚機構の手中にある受動的な装置へと党が変わっていく過程は、国家の内部で民主主義諸制度が破壊されていくよりも、長くつづいた。そして、1920年代の遅くまではまだ完了していなかった。
 1922-23年には党内での専制(tyranny)の増大に抵抗する強い潮流があった。そして、誰も、それを抑圧するのにスターリンほど長けているとは思っていなかった。
 病気で衰えていたレーニンに伝わる情報を首尾よく統御し、スターリンは、ジノヴィエフとカーメネフの助けを借りて、かつ権力からトロツキーを系統的に排除して、党を支配した。
 トロツキーは、その弁舌の才能と内戦勝利の立役者としての栄光にもかかわらず、早い段階で地位を失った。
 もしすればソヴェト権力の原理と矛盾していたのだろうが、彼は党の外部で見解を発表しようとは敢えてしなかった。このことが、政治生活の唯一の活動源だった党の官僚機構をトロツキーに反対するように動員することを容易にした。
 トロツキーは最後の段階でボルシェヴィキ党に加入し、古い党員たちから信用されていなかった。また、過度の修辞や横柄で傲慢な挙措も嫌われていた。
 スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフは巧みに、あらゆるトロツキーの欠点を衝いた。メンシェヴィキだったという過去、労働者の軍事化(スターリンならば決してこのような専制的言葉遣いをしなかった政策)への渇望、ネップに対する批判、レーニンとの古い論争、およびレーニンはかつて自分を捏造で陥れたとの責任追及。
 トロツキーは、軍事部人民委員および党政治局員として、まだ力があるように思われた。
 しかし、1923年までに彼は、孤立し、無援になっていた。
 彼の昔の心変わりの全てが、自分に向けられてきた。
 自分が置かれている状況に気づくに至ったとき、党の官僚機構化と党内民主主義の抑圧を攻撃した。
 引き降ろされた共産党指導者の全てに似て、トロツキーは権力から排除されるや否や民主主義者(democrat)になった。
 しかしながら、スターリンとジノヴィエフがつぎのように主張するのは、容易なことだった。
 トロツキーの民主主義感情と党官僚制に対する非難は最近のことだ。そればかりか、彼自身が権力をもっていたときは、他の誰よりも極端に専制的だった。さらには、党の「一体性」を守るのを支持してその動きを始めたのだ。-レーニンの政策とは逆に-労働組合を国家の統制のもとに置き、経済全体を警察の強制力に従属させることを望んだ。等々。
 後年になってトロツキーは、かつて支持した「分派」禁止の政策は永久の原理ではなくて例外的な手段と考えてのものだった、と主張した。
 しかし、そうだったとする証拠はない。また、その政策自体に、一時的なものだったと示唆するものは何もない。 
 つぎのことは、記しておいてよいかもしれない。すなわち、ジノヴィエフは、トロツキーを非難することではスターリン以上に激しい熱情を示した-彼を拘禁することに賛成した一つの段階-ということであり、およびそれによって、排除された二人の指導者が遅れて見込みなく、勝利した政敵に対して力をかき集めようとしたときに、スターリンに有用な防御手段を提供した、ということだ。
 ----
 第3節、終わり。第4節「一国社会主義」へとつづく。

1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /3.The Breakdown.
 この本の邦訳書はない。
 試訳を続行する。第1章第2節までは、すでに掲載を済ませている。
 同第3節p.9~p.14。
 ----
 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇①。
 ボルシェヴィキ指導者の大半とは違って、のちの全ロシアの共産党の指導者は、プロレタリアでなかったとしても、いずれにせよ民衆の一人だった。
 ヨゼフ(ヨシフ、Yosif)・ジュガシュヴィリ(Dzhugashvili)は、ジョージアの小さな町であるゴリ(Gori)で1879年12月9日に生まれた。
 父親のヴィッサリオン(Vissarion)は靴作りの大酒飲みで、母親は読み書きができなかった。
 ヴィッサリオンはティフリス(Tiflis)に移り、靴工場で仕事をして、1890年にそこで死んだ。
 彼の息子はゴリの教区学校に5年間通い、1894年にティフリスの神学校への入学を認められた。この学校は実際のところ、コーカサスでは彼のような社会的条件の有能な若者がより上級の教育を受けることのできる唯一の学校だった。
 正教の神学校は同時に、ロシア化するための機関だった。しかし、多くのロシアの学校のように、政治不安の温床でもあった。ジョージア愛国主義はそうした学校で花咲き、ロシア本域からの多くの被追放者によって、社会主義思想が流布された。
 ジュガシュヴィリは社会主義集団に加入し、神学から得ていたかもしれない関心を全て失い、試験に出席しなかったことで1899年の春に追放された。
  神学校を背景とすることの痕跡は、のちの彼の著作に認めることができる。聖書からの引用があり、のちのプロパガンダとうまくつながる教理問答的文体への好みがあった。
 彼は論文や演説で、回答の中で言葉通りに反復する質問を設定する癖をもっていた。
 彼はまた、個々の考え方や叙述にそれぞれ番号を振ることによって、自分の論文が理解されやすいようにした。//
 神学校での生活以降、スターリンはジョージアにある多様で初歩的な社会主義集団とかかわった。
 ロシア社会民主党は、まだ存在していなかった。1898年のミンスク(Minsk)集会で、設立に向けた正式決議がなされていたけれども。
 1899-1900年の数ヶ月の間、彼はティフリスの地理観測所の事務員として働き、その後、合法と非合法の両方の、政治活動かつプロパガンダ活動に完全に専念した。
 彼は1901年から、秘密のジョージア社会主義者新聞である<闘争(Brdzola)>に論考を書き、労働者の間にプロパガンダを広めた。
 その年の終わり近くに、ティフリスでの党の仕事を指揮する委員会の一員になった。
  バトゥーム(Batum)での労働者の集団示威行動を組織したとして1902年4月に逮捕された。
 彼は、シベリアへの追放刑(流刑)を宣告されたが拘置所から(またはそこへ行く途中で)逃亡し、1904年の初めには再びコーカサスにいて、偽った名の新聞をもつ地下組織の構成員として活動した。
 その間に、社会民主党は第二回大会を開き、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの両派に分裂していた。
 スターリンはすみやかにボルシェヴィキを支持することを宣言し、党に関するレーニンの考え方を支援する冊子と論考を書いた。
 ジョージア社会民主党はほとんどがメンシェヴィキで、その指導者は、最もすぐれたコーカサスのマルクス主義者、ノエ・ジョルダニア(Noakh Zhordania)だった。
 1905年の革命の間とその後、スターリンはしばらく、全コーカサス地域を範囲とする職責をもつ党活動家としてバクー(Baku)で働いた。//
 しかしながら数年経って、彼はロシア本域のボルシェヴィキ活動家の一人となった。
 1905年12月のタンメルフォシュ(Tammerfors、フィンランド/タンペレ)での党大会に出席し、1906年には、ストックホルムでの「統一」大会に出席した唯一のボルシェヴィキとなった(そうできる彼の資格をメンシェヴィキは争った)。
 しかしながら、1912年までは、彼の活動の実際の舞台はコーカサスにあった。
 スターリンはタンメルフォシュで初めてレーニンと逢った。彼はレーニンの教理と指導性に、決して真剣に抗うことがなかった。
 しかしながらストックホルムでは、他の全ての問題についてはレーニンの側に立った一方で、党綱領はレーニンが主張する国有化ではなく土地の農民への配分を支持すべきだ、という路線を支持した。//
 この時期のスターリンの著作には、独自のものや記しておくに値するものは何もない。
 当時に生じていた話題に関するレーニンのスローガンを再現する、民衆むけのプロパガンダ的論考だけだ。 
 多くのスペースはメンシェヴィキに対する攻撃にあてられ、もちろん、カデット(立憲民主党)、「召喚主義者」(otzovoists)、「清算主義者」(liquidators)、無政府主義者(アナキスト)等に対する批判もあった。
 いかほどかの長さをもつ唯一の論文、<アナキズムかそれとも社会主義か?>は、1906年にジョージア語で発表された(1905年以降は彼はロシア語でも論考を書いた)。
 これは、社会民主党の世界観とその哲学的諸命題に関する不細工な作文にすぎなかった。//
 スターリンは1906-7年に党財政を充填させるための武装襲撃団である「収奪」の組織者の一人だった、ということが知られている。
 レーニンはこれに味方したが、この活動は1907年のロンドンでの第五回党大会で禁止され、非難された。
 しかし、ボルシェヴィキは、数ヶ月のちに大きなスャンダルを起こすまでは、この活動を実践し続けた。//
 近年に若干の歴史学者が、もともとはジョルダニアが、スターリンの死後は元のソヴィエト諜報機関の高官だったオルロフ(Orlov)が行っている、スターリンは1905年後の数年の間オフラーナ(Okhrana、帝制秘密警察)で仕事をしていた、という申し立てを検証した。
 しかし、この責任追及に有利な証拠は微少なもので、アダム・ウラム(Adam Ulam)やロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)を含むほとんどの歴史家によって却下されている。//
 スターリンは、1908年と二月革命の間、ほとんどの時間を牢獄か追放先で過ごした。最後の期間(1913~1917年)を除いて、彼はそこからいつでも脱出した。
 彼は腕の利く堅固で疲れを知らない革命家だとの評価を獲得して、1907年後のひどい年月の間、党のコーカサス組織を守るために尽力した。
 ロシア内部の多くの他の指導者たちと同じく、彼は移住者(エミグレ、émigré)内部での理論上の議論や口論に強い関心を抱かなかった。
 スターリンはレーニンの<唯物論と経験批判論>について懐疑的な見方をしていた(のちには、哲学思想の最高の偉業だと絶賛した)、そして1910年の暗黒の日々の間にメンシェヴィキとの統一を回復しようと純粋に努力をした、という、ある程度の証拠はある。
 レーニンがメンシェヴィキとの分裂を明確にすべくプラハでの全ボルシェヴィキの大会を招集した1912年1月、スターリンは追放されてヴォログダ(Vologda)にいた。
 その大会は党の中央委員会を選出したが、レーニンの提案によってスターリンはのちにその構成員に選ばれた。かくして、全ロシアの政治舞台にデビューすることとなる。//
 ヴォログダから脱出したのち、スターリンはもう一回逮捕され、追放された。しかし、また逃亡した。
 1912年11月、生涯で初めてロシア国外に旅行をし、オーストリア領ポーランドのクラカウ(Cracow、クラクフ)で数日間をすごした。ここで、レーニンと逢う。
 彼はロシアに戻ったが、12月に再び国外に出た。今度はウィーン(Vienna)に6週間だった-これは外国の土を踏んでいた最長の期間になった。
 ウィーンで彼はレーニンのために「マルクス主義と民族問題」という論文を書き、雑誌<Prosveshchenie(啓蒙)>に1913年に発表された。そして、これは理論家としての名声を求める彼の最も初期の主張をなすもので、また彼の主要な見解の一つだ。
 この論文は、民族問題についてレーニンが語ったことに何も付け加えていない。但し、民族(nation)を単一の言語、領域、文化および経済生活をもつ共同体だと定義したこと以外には。-なお、こうして例えば、スイス(人)やユダヤ(人)は「民族」から除外される。
 この論文は、オーストリア・マルクス主義者、とくにシュプリンガー(Springer、レナー, Renner)とバウアー(Bauer)、およびブント(ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)を攻撃するものとして執筆された。
 スターリンはロシア語とジョージア語だけを読めたので、ウィーンにいたときはたぶん、ブハーリン(Bukharin)がオーストロ・マルクス主義著作者からの引用文を選ぶのを助けていたのだろう。
 オーストロ・マルクス主義者は、民族の文化的自治という考えを個人による自己決定にもとづかせていた。これに対抗してスターリンは、民族の自己決定権と領域的な基礎にもとづく政治的分離を支持して論じた。 
 しかしながら、レーニンのように、彼が強調したのは、社会民主主義者は自分たち自身の国家を形成する全ての人民の権利を承認するけれども、それはあらゆる場合に分離主義を支持することを意味しはしない、ということだった。
 決定的な要因は労働者階級の利益であり、分離主義はしばしばブルジョアジーによる反動的なイデオロギーとして用いられるということを想起しなければならないのだ。
 こうした議論の全体は、もちろん、「ブルジョア革命」という前提のもとで行われた。
 トロツキーとパルヴゥスを除く当時の全ての社会主義者と同じく、スターリンは、ロシアは民主主義革命を経験し、その後の多年にわたりブルジョア共和国の支配が続く、と想定していた。
 しかし、その革命を起こすに際してプロレタリア-トは指導的な役割を果たさなければならず、ブルジョアジーの第二伴奏器であったり、ブルジョアジーの利益のためのたんなる従僕者であったりしてはならなかった。//
 民族問題に関する論文は、二月革命前にスターリンが執筆した最後のものだった。
 ウィーンから戻ったあとすぐの1913年2月に、彼はまたもや逮捕され、4年間の国外追放が宣告された。
 このときは逃亡しようとはせず、シベリアにとどまった。そして、1917年3月に再び、ペテログラードに姿を現した。
 レーニンが到着するまでの数週間、スターリンは事実上、首都の党の責任者だった。
 カーメネフとともに、<プラウダ>の編集部を所管した。 
 臨時政府およびメンシェヴィキに対するスターリンの姿勢は、いずれについても、レーニンのそれよりもはるかにより宥和的だった。そして、レーニンがスイスから送っている論文の調子を弱めたことで、レーニンの非難を受けるはめに陥った。
 しかしながら、レーニンのロシアへの帰還とその「四月テーゼ」の提示のあとは、少しは躊躇しつつ、「社会主義革命」とソヴェトによる政府のために活動する政策を受け入れた。
 対照的なことだが、ペテログラードにいた最初の数週間は、まだなお、「ブルジョア革命」、中央諸大国〔ドイツ帝国等〕との講和、大資産の没収、臨時政府の打倒を試みるのではなくそれに圧力を加える、といった趣旨のことを執筆していた。
 七月危機のあとで初めて、ペテログラードの党組織の会合で、スターリンはプロレタリア-トと貧農への権力の移行を明確に語った。
 このときに「すべての権力をソヴェトへ」とのスローガンは放擲された。ソヴェトは、メンシェヴィキとエスエルたちによって支配されていたのだ。
 十月革命の頃までに、スターリンは疑いなく、レーニン、(1917年7月に入党した)トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スヴェルドロフおよびルナチャルスキーと並んで、党の主要な指導者の中に入っていた。
 我々が知るかぎりで、彼は蜂起をした軍事組織に参加していない。しかし、スターリンは、レーニンの最初のソヴェト政権で、民族問題担当のコミッサール(Commissar、人民委員)に任じられた。
 ブレスト=リトフスク条約をめぐって生じた党の危機の間は、ドイツとの革命戦争を押し進めるべきだとする「左翼のボルシェヴィキ」と対抗するレーニンを支持した。
 しかしながら、レーニンのように彼も、ヨーロッパ革命がいつの日にか勃発するだろう、ドイツとの講和の取決めは一時的な戦術的退却にすぎない、と考えていた。// 
 ----
 ②へとつづく。
 下は、分冊版のLeszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. の第1巻と第3巻。
kola01-03aa

1765/三全体主義の共通性⑤-R・パイプス別著5章5節。

 現在試訳を掲載しているのは、つぎの①の第5章第5節の一部だ。
 ①Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。計976頁。
 リチャード・パイプスには、この①でもときに参照要求している、つぎの②もあり、この欄でもすでに一部は試訳を掲載している。
 ②Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990, paperback; 1997)。計944頁。
 既述のことだが、これら二つの合冊版または簡潔版といえるのがつぎの③で、邦訳書もある。
 ③Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1996)。計431頁。
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。計444頁。
 邦訳書ももちろん同じだが、この③には、現在試訳中の②の『共産主義・ファシズム・国家社会主義』の部分は、全て割愛されている(他にもあるが省略)。歴史書としての通常の歴史記述ではないからだと思われる。
 したがって、この部分の邦訳は存在しないと見られる。
 前回のつづき。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。-第5節/三つの全体主義に共通する特質。
 ----
 Ⅱ・支配党と国家②。
 首相に指名された2カ月のちの1933年3月に、ヒトラーは国会(Reichstag)から「授権法律」(Enabling Act)を引き出した。それによって議会は4年の期間、立法する権能を自ら摘み取った。-のちに分かったように、実際は、永遠にだったが。
 そのときから12年後のその死まで、ヒトラーは、憲法を考慮することなく発せられた「非常時諸法律」(emergency laws)という手段によって、ドイツを支配した。
 彼は、バイエルン、プロイセンその他という歴史的存在の統治機構を解体することによって、ドイツ帝国およびワイマール・ドイツのいずれにおいても連邦国家制を享有していた権力を絶滅させ、そうして、ドイツで最初の単一国家を産み出した。
 1933年の春と夏には、自立した政党を非合法のものにした。
 1933年7月14日、ナツィス党は唯一の合法的な政治組織だと宣言された。そのときヒトラーは、全く不適切なのだが、「党は今や国家になった」と強く述べた。
 現実には、ソヴィエト・ロシアでと同じく、ナツィ・ドイツでは、党と国家は区別された(distinct)ままだった。(89)//
 ムッソリーニもヒトラーも、法令、裁判所および国民の公民的権利を、レーニンがしたようには、一掃することがなかった。法的な伝統は二人の国に、合法的に法なき状態にするには、深く根づいていたのだ。
 その代わりに、西側の二人の独裁者は、司法権の権能を制限し、その管轄範囲から「国家に対する犯罪」を除外して秘密警察に移すことで満足した。//
 ファシスト党は、効果的な司法外のやり方で政治的対抗者を処理するために、二つの警察組織を設立した。
 一つは1926年以降は反ファシズム抑圧自発的事業体(OVRA)として知られるもので、党ではなく国家の監督のもとで活動する点で、ロシアやドイツの対応組織とは異なっていた。
 加えて、ファシスト党は、政敵を審判し幽閉場所を管理する「特別法廷」をもつ、それ自身の秘密警察をもっていた。(90)
 ムッソリーニは暴力を愛好すると頻繁に公言したけれども、ソヴィエトやナツィの体制と比べると、彼の体制は全く穏和的で、決して大量テロルに頼らなかった。すなわち、1926年と1943年の間に、総数で26人を処刑した。(91)
 これは、スターリンやヒトラーのもとで殺戮された数百万の人々とは比べようもなく、レーニンのチェカ〔秘密政治警察〕がたった一日に要求した一片の犠牲者数だ。//
 ナツィスはまた、秘密警察を作り上げるにもロシア・共産主義者を見倣った。
 ナツィスが一つは政府を守り、もう一つは公共の秩序を維持する、という異なる二つの警察組織を創設するという(19世紀初頭のロシアに起源をもつ)実務を採用したのは、共産主義者を摸倣したものだ。
 これらは、それぞれ、「安全警察」(Sicherheitspolizei)および「秩序警察」(Ordnungspolizei)として知られるようになった。これらは、ソヴィエトのチェカやその後継組織(OGPU、 NKVD等々)および保安部隊(the Militia)に対応する。
 安全警察、またはゲシュタポ(Gestapo)は、党を一緒に防衛したエスエス(SS)と同様に、国家の統制には服さず、その信頼ある同僚のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)を通じて、直接に総統のもとで活動した。
 このことはまた、レーニンがチェカについて設定した例に従っていた。
 いずれの組織も、司法の制度と手続によって制約されなかった。チェカやゲベウ(GPU)のように、それらは強制収容所(concentration camp)に市民を隔離することができた。そこでは、市民は全ての公民的権利を剥奪された。
 しかしながら、ロシアでの対応物とは違って、それらにはドイツ公民に対して死刑判決を下す権限はなかった。//
 公共生活の全てを私的な組織である党に従属させるこれらの手段は、西側の政治思想の標準的な範疇にはうまく適合しない、一種の統治機構(政府、government)を生み出した。
 アンジェロ・ロッシ(Angelo Rossi)がファシズムについて語ることは、もっと強い手段でなくとも同等に、共産主義および国家社会主義にあてはまるだろう。//
 『どこであってもファシズムが確立されれば、他のこと全てが依存する、最も重要な結果は、人々があらゆる政治的な活動領域から排除されることだ。
 「国制改革」、議会への抑圧、そして体制の全体主義的性格は、それら自体が評価することはできず、それらの狙いと結果の関係によってのみ評価することができる。
 <ファシズムとは、ある政治体制を別のものに置き換えるにすぎないのではない。
 ファシズムとは、政治生活自体の消滅だ。それは国家の作用と独占体になるのだから。>』(92)//
 このような理由づけにもとづいて、ブーフハイム(Buchheim)は、つぎの興味深い示唆を述べている。全体主義について、国家に過剰な権力を授けるものだと語るのは、適切ではないだろう、と。
 そのとおり、それは国家の否定なのだ。//
 『国家と全体主義的支配の多様な性質を見ると、まだなお一般的になされているように「全体主義国家」に関してこのような言葉遣いで語るのは矛盾している。…
 全体主義の支配を国家権力の過剰と見るのは、危険な過ちだ。
 現実には、政治生活と同様に国家も、適正に理解するならば、我々を全体主義の危険から防衛する、最も重要な前提的必要条件なのだ。』(93)
 --------
 (89) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.251, p.232.
 (90) Friedrich and Brzezinski, Totalitarian Dictatorship, p.145. 
 (91) De Felice in Urban, Euro-communism, p.107.
 (92) Rossi, The Rise, p.347-8. < >は強調を付けた。
 (93) Buchheim, Totaritarian Rule, p.96.
 ----
 ⑥/③へとつづく。

1761/三全体主義の共通性①-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.262-3.
 つぎの節の大部分にはさらに下の見出しが付いているので、原著にはないが、初めの部分にかりに「序説」という表題を付けておく。
 ----
 第5節・三つの全体主義体制に共通する特質①-序説①。
 (序説)
 三つの全体主義体制は、いくつかの点で異なる。この相違については、いずれきちんと論述するだろう。
 しかしながら、それらを結合するのは何かは、それらを分離するものは何かよりもずっと重要だ。
 第一に、最も重要なのは、共通する敵があることだ。すなわち、複数政党システム、法と財産の尊重、平和と安定という理想をもつ、リベラルな民主政体(liberal democracy)。
 レーニン、ムッソリーニおよびヒトラーの「ブルジョア民主主義」と社会民主主義者に対する激しい非難は、完全に相互交換が可能だ。//
 共産主義と「ファシズム」の関係を分析するためには、「革命」とはその本性からして平等主義的(egalitarian)かつ国際主義的で、一方のナショナリストによる変革は本来的に反革命的だとの伝来的な考え方を正さなければなければならない。
 こうした考え方は、ヒトラーのような率直なナショナリストが革命的願望を持っているはずはないと信じて、最初に彼を支持したドイツの保守派が冒した過ちだ。(70)
 「反革命」という語は、1790年代のフランスの君主制主義者が本当にそう考えたように、革命を取り消して以前の状態(status quo ante)に戻そうとする運動についてだけ、適正に用いることができる。
 「革命」を現存する政治体制を、つづいて経済、社会構造および文化を、突然に転覆させることを意味すると定義するならば、この用語は同等に、反平等主義的なおよび外国人差別の大変革にも適用することができる。
  「革命的」という形容詞は、変化の内容ではなく、それが達成される態様-すなわち、突然にかつ暴力的に(violently)-を描写するものだ。
 したがって、左翼による革命を語るのと同様に右翼による革命を語るのは適切だ。
 この二つが共存できない敵として相互に対立しているということは、有権者大衆をめぐって競争することに由来し、方法または目標の不一致に由来するのではない。
  ヒトラーもムッソリーニも、自分を革命家だと思っていた。正しく(rightly)、そう考えた。
 ラウシュニンクは、国家社会主義の目標は、実際には、共産主義とアナキズムのいずれよりも革命的だ、と主張した。(71)//
  しかしおそらく、三つの全体主義運動の間の最も根本的な親近性(affinity)は、心理(psychology)の領域に横たわっている。
 共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、大衆の支持を獲得するために、そして民主主義的に選出される政府ではなく自分たちこそが民衆の本当の意思を表現しているという主張を強化するために、民衆の憤懣(resentments)-階級、人種、民族-を掻き立てて、利用した。
 これら三つは全て、憎悪(hate)という感情に訴えたのだ。//
 フランスのジャコバン派は、階級的憤懣の政治的潜在力を認識した最初のものだ。
 彼らはそれを利用して、貴族制主義者その他の革命の敵による恒常的な陰謀を手玉にとった。ジャコバン派は没落する直前に、間違いなく共産主義的な含意をもつ、私有の富を没収する法令案を作った。(72)
 マルクスが歴史の支配的な特質として階級闘争の理論を定式化したのは、フランス革命とその影響に関する研究からだった。
 彼の理論で、社会的な敵意(antagonism)は初めて道徳上の正当性を授けられた。ユダヤ教を自己破壊的なものと非難し、(怒りの外装をまとう)キリスト教を大罪の一つだと見なす憎悪(hatred)は、美徳に作り替えられた。
 しかし、憎悪は両刃の剣で、犠牲者たちは自己防衛のためにそれを是認した。
 19世紀の終わりにかけて、階級戦争のための社会主義的スローガンとして民族的および人種的憤懣を利用する教理が出現した。
 1902年の予言的書物、<憎悪のドクトリン>で、アナトール・ルロイ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu)は、当時の左翼過激主義者と右翼過激主義者の間の親近性に注意を促し、両者の共謀性を予見した。それは、1917年のあとで現実になることになる。(73) //
 レーニンが富裕層、つまりブルジョア(the burzhui)に対する憤懣を都市の庶民や貧しい農民を結集させるために利用した、ということについて詳しく述べる必要はない。
 ムッソリーニは、階級闘争を「持てる」国家と「持たざる」国家の対立として再定式化した。
 ヒトラーは、階級闘争を人種や民族の間の対立、すなわち「アーリア人」のユダヤ人およびその言うユダヤ人によって支配されている民族との対立だと再解釈することによって、ムッソリーニの技巧に適応した。(*)
 ある初期の親ナツィの理論家は、現代世界の本当の対立は資本とそれに対する労働の間にではなく、世界的ユダヤ「帝国主義」とそれに対する人民(Volk)主権を基礎とする国家の間にある、ユダヤ民族が経済的に生き残る可能性を奪われて絶滅してのみこの対立は解消される、と論じた。(74)
 革命運動は、「右」と「左」のいずれの変種であれ、憎悪の対象を持たなければならない。抽象化を求めるよりも、見える敵に対抗するように大衆を駆り立てるのは、比較にならないほど容易だからだ。
 --------
 (70) Hermann Rauschning, The Revolution of Nihilism (New York, 1939),p.55, p.74-75, p.105.
 (71) 同上、p.19。
 (72) Pierre Gaxotte, The French Revolution (London & New York, 1932), Chapter 12.
 (73) Anatole Leroy-Beaulieu, Les Doctrine de Haine (Paris,(1902)) 。リチャード・パイプス・ロシア革命p.136-7 を参照。
  (*) 階級戦争という考えが人種的な意味で再解釈される可能性は、すでに1924年に、ロシアのユダヤ人移住者、I・M・ビカーマン(Bikerman)が、ボルシェヴィキに親近的な同胞に対する警告として、指摘していた。
 Bikerman, Rossia i Evrei, Sbornik I (Berlin, 1924), p.59-p.60.
 「ペトルラの自由コサックあるいはデニーキンの志願兵はなぜ、全ての歴史を諸階級の闘争ではなく諸人種の闘争へと変える理論に従えなかったのか? なぜ、歴史の罪を正して、悪の根源があるとする人種を絶滅させることができなかったのか?
 略奪し、殺戮し、強姦する、こうした過剰は、伝統的に、同じ一つの旗のもとで、別の旗のもとでと同じように冒されることがあり得る」。
 (74) Gottfried Feder, Der dutsche Staat auf nationaler und sozialer Grundlage, 11th ed. (Muenchen, 1933).
 ----
 段落の途中だが、こここで区切る。②へとつづく。

1759/ヒトラーと社会主義①-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)の試訳のつづき。p.258~p.260.
 ----
 第4節・ヒトラーと社会主義①。
 政治現象として言えば、ナチズムとはつぎの二つのことだった。政治過程に民衆が参加するという装いを与える大衆操作の技巧、ドイツ国家社会主義労働党が権力を独占して国家制度をその道具に変える統治のシステム。
 これら二つのいずれについても、その始源的およびボルシェヴィキ的な両者の意味でのマルクス主義の影響は明白だ。//
 青年ヒトラーが社会民主党はいかにして群衆を操縦しているかを綿密に研究した、ということが知られている。
 『ヒトラーは、社会民主党から大衆政党と大衆プロパガンダ〔虚偽宣伝〕に関する考え方を引き出した。
 彼は<我が闘争>に、ウィーンの労働者の大衆示威活動での行進で四列の絶えることのない隊列を凝視したときの印象を叙述している。
 「私はほとんど二時間、私の前にまっすぐにゆっくり進んでくるその巨大な龍のごとき人々を眺めながら、物を言えないまま立ちつくした」。』(*)
 ヒトラーは、このような観察から大衆の心理に関する彼の理論を発展させた。のちにそれを使用して、彼は目を見張る成功を遂げた。
 彼は、ラウシュニンクとの会話で、社会主義に対する自分の負い目(debt)をつぎのように認めている。
 『私は、認めるのを躊躇しないほど、多数のことをマルクス主義から学んだ。
 その退屈する社会理論や歴史の唯物論的理解を意味させているのではない。あるいはその馬鹿げた「限界効用」論(!)等々でもない。
 しかし、彼らの方法を学んだ。
 彼らと私自身との違いは、陳腐な商品売り(peddlers)や退屈な簿記係(penpushers)がおずおずと開始したことを、私は現実に実践した、ということだ。
 国家社会主義の全体は、それから始まった。
 労働者の体育クラブ、工場内の細胞、大衆デモ、大衆に理解しやすく書いた宣伝パンフレットを見ろ。
 政治闘争のためのこれらの新しい方法は全て、本質的にはマルクス主義に根源がある。
 私がしなければならなかったのは、これらの方法を奪い取って我々の目的に適合させることだ。
 私はただ、民主政体の枠の中で進展を実現しようとしたために社会民主主義が何度も失敗したことを、論理的に発展させなければならなかった。
 国家社会主義とは、民主主義秩序との馬鹿げたかつ人工的な絆を断ち切ることができていればマルクス主義がなっていたかもしれないものだ。』(58)
 この最後には、ボルシェヴィズムがしたもの、そしてボルシェヴィキがそうなったもの、と追記されてよい。(+)
 共産主義のモデルをナツィス運動へと送り込む一つの交信手段は、「民族的(national)ボルシェヴィキ」として知られる(++)、ヒトラーに跪いている左翼との間の右翼知識人のそれだった。
 彼らの主要な理論家、ヨゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)とオットー・シュトラサー(Otto Strasser)は、ロシアでのボルシェヴィキの成功に大きな感銘を受けた。そして、ソヴェト・ロシアがその経済を建設するのをドイツが助けて、その見返りにフランスとイギリスに対抗する政治的支援を得ることを望んだ。
 彼らは、モスクワは国際的なユダヤ人の陰謀の司令塔だとの、ヒトラーが採用したローゼンベルクの論調に、共産主義は隠されたロシアの伝統的民族主義の表むきの顔(facade)だ、と反応した。
 『彼らは、世界革命と語り、ロシアのことを意味させている』。(**)
 しかし、「民族的ボルシェヴィキ」は、共産主義ロシアとの協働以上のことを願った。すなわち、政治的権力を集中し、対抗する政党を絶滅させ、自由市場を規制することによって、ロシアの統治システムをドイツが採用することを望んだ。
 ゲッベルスとシュトラサーは、1925年にナツィの日刊紙である Voelkischer Beobachter に、「社会主義独裁(socialist dictatorship)」の導入だけが混沌からドイツを救い出すことができる、と主張した。
 ゲッベルスはこう書いた。-『レーニンは、マルクスを犠牲にした。その代わりに、ロシアに自由を与えた』。(59)
 彼自身のナツィ党についてゲッベルスは、1929年に、「革命的社会主義者」の党だ、と書いた。(60)//
 ヒトラーは、こうしたイデオロギーを拒んだ。しかし、ドイツの労働者を社会民主党から離脱させるために社会主義的スローガンを用いるという範囲では利用した。
 ナツィ党の名にある「社会主義」および「労働」という形容句は、たんに人気のある言葉を詐欺的に使用したものではない。
 この党は、この世紀の初めの年代にチェコ人出稼ぎ労働者と競争するためにボヘミアで形成されたドイツ人労働者の団体から、成長した。
 ドイツ労働党(Deutsche Arbeiter Partei)、この組織はもともとはこう称していたのだが、この党の綱領は、社会主義、反資本主義および反聖職者主義をドイツ民族主義(nationalism)と結びつけたものだった。
 ドイツ労働党は、1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗った。
 --------
 (*) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.44.
 1919-20年の冬に社会民主党の演説を聴く群衆の中のヒトラーを撮した写真が、Joachim Fest, Hitler (New York, 1974) の144~145頁の間に再掲されている。
 (58) Rauschning, Hitler Speaks, p.185.
 (+) ヒトラーは1941年月の演説で、率直にこう述べた-「根本的には(basically)、国家社会主義はマルクス主義と同一のものだ(the same)」。
 The Bulletin of International News (London), XVIII, No.5 (1941年3月8日)、p.269.
 (++) この用語は、1919年にラデックによって、侮蔑的な意味で作られた。
 この傍流的であっても興味深い運動に関する最良の研究書は、Otto-Ernst Schueddekopf, Linke Leute von Rechts (Stuttgart, 1960) 〔右からの左の者たち〕だ。
 (**) Schueddekopf, Linke Leute, p.87.
 共産主義は本当はロシアの民族的利益を表現するものだとの考えは、N. Ustrianov および1920年代初頭のロシア移住者のいわゆる「Smena Vekh」運動の理論家から始まる。同上、p.139 を見よ。
  (59) 以下からの引用。Max H. Kele, Nazis and Workers (Chapel Hill, N.C., 1972)、p.93.
 (60) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.25.
 ----
 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1757/ナチスの反ユダヤ主義②-R.パイプス別著5章3節。

 前回の試訳のつづき。p.255~p.257。
 なお、見出しに「別著」と記しているのは、R・パイプスの1990年の著、Richard Pipes, The Russian Revolution (ニューヨーク・ロンドン)とは「別著」であるR・パイプスの1995年の著、Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク)、という本の訳だという意味だ。
 ---
 第3節・ナツィの反ユダヤ主義②。
 このような展開について最大の責任があったのは、いわゆる<シオン賢者の議定書(Protocols of the Elders of Zion)>、これに関する歴史家であるノーマン・コーン(Norman Cohn)の言葉によるとヒトラーのジェノサイドのために『保証書』を与えた偽書、だった。(44)
 この偽造書の執筆者の名は、特定されていない。しかし、ドレフュス事件の間に1890年代のフランスで、反ユダヤの冊子から収集されて編まれたもののように見える。この冊子の刊行は、1897年にバーゼルで開催された、第一回国際シオニスト大会に刺激を受けたものだった。
 ロシアの秘密警察である帝制オフラーナ(Okhrana)のパリ支部は、これに手を染めていたと思われる。
 この本〔上記議定書(プロトコル)〕は、ある出席者から得られたとされる、特定できない時期と場所でユダヤ人の国際的指導層によつて開かれた会合の秘密決定、キリスト教国家を従属させユダヤ人の世界支配を樹立する戦略を定式化する決定、を暴露するものだと主張する。
 想定されたこの目標への手段は、キリスト教者たちの間に反目を助長することだった。ときには労働者の騒擾を喚起し、ときには軍事競争と戦争を誘発し、そしてつねに、道徳的腐敗を高めることによって。
 ひとたびこの目的を達成するや出現するだろうユダヤ人国家は、いたる所にある警察の助けで維持される、僭政体制(despotism)になるだろう。それは、穏和なものにする、十分な雇用を含む社会的利益がないばかりか、自由が剥奪された社会だ。//
 このいわゆる『議定書』は、最初は1902年に、ペテルブルクの雑誌に公刊された。
 そして、三年後、1905年の革命の間に、セルゲイ・ニルス(Sergei Nilus)が編集した、<矮小なる者の中の偉大なる者と反キリスト>というタイトルの書物の形態をとって登場した。
 別のロシア語版が続いたが、外国語への翻訳書はまだなかった。
 ロシアですら、ほとんど注目を惹かなかったように見える。
 きわめて熱心な宣伝者(propagator)だったニルスは、誰もこの本を真面目に受け取ってくれないと愚痴をこぼした。(45)//
 <議定書>をその瞠目すべき履歴に乗せたのは、ロシア革命だった。
 第一次世界大戦はヨーロッパの人々を完全な混乱に追い込み、彼らは、大量殺戮の責任を負うべき罪人を見つけ出したかった。
 左翼にとって、第一次大戦に責任がある陰謀者は『資本家』であり、とくに兵器製造業者だった。すなわち、資本主義は不可避的に戦争に至るとの主張は、共産主義の多くの支持者の考えを捉えた。
 このような現象は、陰謀理論の一つの変種だった。//
 別の、保守派の間で一般的だった考えは、ユダヤ人に向けられた。
 第一次大戦に対して他の誰よりも大きい責任のある皇帝・ヴィルヘルム二世は、戦闘がまだ続いている間にもユダヤ人を非難した。(46)
 エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorf)将軍は、ユダヤ人はドイツが屈服すべくイギリスとフランスを助けたのみならず、「おそらく両者を指示した」と、つぎのように主張した。
 『ユダヤの指導層は、<中略>来たる戦争はその政治的、経済的目的、つまりユダヤのためにパレスチナに国家領土と一つの民族国家としての承認を獲ち取り、ヨーロッパとアメリカで超国家かつ超資本主義の覇権を確保すること、を実現する手段だと考えた。
 この目標に到達する途上で、ドイツのユダヤ人は、すでに屈服させていた諸国〔イギリスとフランス〕でと同じ地位を占めるべく奮闘した。
 この目的を達するためには、ユダヤの人々にとって、ドイツの敗北が必要だった。』(47)//
 このような「説明」は、<議定書>の内容を反復しており、そして疑いなく、その書の影響を受けていた。//
 ボルシェヴィキの、ユダヤ人が高度に可視的な体制による世界革命への激情と公然たる要求は、西側の世論が贖罪者を探し求めていたときに、発生した。
 戦後には、とくに中産階級や職業人の間では、共産主義をユダヤ人による世界的陰謀と同一視し、共産主義を<議定書>が提示したプログラムを実現するものと解釈するのが、一般的(common)になった。
 一般的な感覚〔常識的理解〕は、ユダヤ人は「超資本主義」とその敵である共産主義の二つについて責任があるという前提命題は拒んだかもしれないが、一方で、<議定書>の論法は、この矛盾を十分に調整することができるほどに融通性があった。
 ユダヤ人の究極の目的はキリスト教世界を弱体化することだと語られたので、情勢とは無関係に、彼らは今は資本主義者として行動でき、別のときは共産主義者として行動できるだろう、とされた。
 実際に、<議定書>の著者によれば、ユダヤ人は、自分たちの「弱い兄弟たち」を戦上に立たせるために、反ユダヤ主義と集団虐殺(pogrom)に助けを求めることすらする。(*)//
 ボルシェヴィキが権力を掌握して彼らのテロルによる支配を開始したのち、<議定書>は、予言書としての地位を獲得した。
 傑出したボルシェヴィキの中にはスラブ的通称の背後に隠れたユダヤ人がいる、という知識がいったん一般的になると、物事の全体が明白になるように見えた。すなわち、十月革命と共産主義体制は、世界支配を企むユダヤ人にとって、決定的な前進だった。
 スパルタクス団の蜂起やハンガリーおよびバイエルンでの共産主義「共和国」には多くのユダヤ人が関与していて、根拠地ロシアの外部でユダヤ人の権力を拡大するものだと理解された。
 <議定書>の予言が実現するのを阻止するためには、キリスト教者(「アーリア人」)は危険を認識し、彼らの共通の敵に対して団結しなければならなかった。//
 <議定書>は、1918-1919年のテロルの間に、ロシアでの人気を獲得した。その読者の中に、ニコライ二世がいた。(**)
 この書物の読者層は皇帝一族の殺害の後で拡大し、ユダヤ人は広く非難された。
 1919-1920年の冬に敗北した数千人の白軍の将官たちが西ヨーロッパでの庇護を探り求めたとき、ある程度の者たちは、この偽書を携帯していた。
 そのことは、この書物を有名にして、総体的にヨーロッパ人の運命と無関係では全くなく、共産主義はロシアの問題ではなくてヨーロッパ人もまたユダヤ人の手に落ちるだろう世界の共産主義革命の第一段階だと、ヨーロッパ人に警告するという彼らの関心に役立った。//
 --------
 (44) Norman Cohn, Warrant for Genocide (London, 1967).
 (45) 同上、p.90-98。
 (46) R・パイプス・ロシア革命(1990年)、p.586。
 (47) Erich Ludendorf, Kriegsfuerung und Politik 〔E・ルーデンドルフ・戦争遂行と政治〕 (ベルリン、1922年)、p.51。
 (*) Luch Sveta Ⅰの<議定書>、第三部 (1920年5月)。 このような霊感的発想をするならば、ヒトラーが気乗りしていない兄弟たちをパレスチナに送るためにホロコーストを組織するのをユダヤ人が助けた、というテーゼをソヴィエト当局が許し、またそのことによってそのテーゼの信用性を高めた、というのはほとんど確実だ。 L.A.Korneev, Klassovaia sushchnost' Sionizma (キエフ、1982年) 。
 (**) アレクサンドラ皇妃は、1918年4月7日(旧暦)付の日記に、こう記した。
 『ニコライは、私たちにフリーメイソンの議定書を読み聞かせた。』(Chicago Daily News, 1920年6月23日、p.2。)
 この書物は、エカテリンブルクでのアレクサンドラの身の回り品の中から発見された。N.Sokolov, Ubiistvo tsarskoi sem'i (パリ、1925年)、p.281。
 前に述べたように、これはまた、コルチャク(Kolchak)のお気に入りの読み物だった。
 ----
 ③へとつづく。

1755/R・パイプス別著(ボルシェヴィキ体制下のロシア)第5章第3節。

 リチャード・パイプス『ボルシェヴィキ体制下のロシア』。計587頁。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (Vintage/USA, 1995).
 この本のうち、すでに試訳の掲載を済ませているのは、以下だ。
 ①p.240-p.253。第5章:共産主義・ファシズム・国家社会主義ー第1節・全体主義という概念。/第2節・ムッソリーニの「レーニン主義者」という出自。
 ②p.388-p.419。第8章:ネップ・偽りのテルミドールー第6節・強制的食糧徴発の廃止とネップへの移行。/第7節・政治的かつ法的な抑圧の強化。/第8節・エスエル「裁判」。/第9節・ネップのもとでの文化生活。/第10節・1921年の飢饉。
 ③p.506-p.507。終章:ロシア革命に関する考察ー第6節・レーニン主義とスターリニズム。
 上の①のつづきの部分(ヒトラーと社会主義との関係等)について、試訳を続行する。
 ----
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第3節・ナツィの反ユダヤ主義①。
p.253~。
 ボルシェヴィキとファシズムの出自は、社会主義だった。
 国家社会主義(National Socialism)は、異なる種子から成長した。
 レーニンの出身が位置の高いロシアの官僚階層の出身で、ムッソリーニのそれは疲弊した工芸職人階層であるとすると、ヒトラーは小ブルジョアの背景をもち、社会主義への敵意とユダヤ人への憎悪で充満した雰囲気の中で、青年時代をすごした。
 当時の政治的、社会的な理論に通じた熱心な読者だったムッソリーニやレーニンとは違って、ヒトラーは無知で、観察やときたまの読書や会話から知ったものを拾い上げた。
 ヒトラーには理論的な基礎がなく、意見と偏見だけはあった。
 そうだったとしてすら、最初にドイツの自由を排除し、つぎにヨーロッパじゅうに死と破壊を植え込んだ、そのような致命的な効果を与えて彼が用いることとなる政治的イデオロギーは、消極的にも積極的にも、ロシア革命によって奥深く影響されていた。
 消極的には、ロシアでのボルシェヴィズムの勝利とヨーロッパを革命化する企ては、ヒトラーの本能的な反ユダヤ主義と、ドイツ人を恐れさせる「ユダヤ共産主義」の陰謀という妖怪とを正当化した。
 積極的には、ロシア革命は、大衆操作の技術をヒトラーに教え、一党制の全体主義国家のモデルを提供することによって、ヒトラーが独裁的権力を追求するのを助けた。//
 反ユダヤ主義は、国家社会主義のイデオロギーと心理において、中心的で逸れることのない目標として独特の位置を占める。
 ユダヤ人恐怖症の起源は古典的太古にさかのぼるけれども、ヒトラーのもとで不健全で破壊的な形態を帯びたそれは、歴史上かつて見ないものだった。
 このことを理解するには、ロシアおよびドイツの民族主義運動に対するロシア革命の影響について記しておくことが必要だ。//
 伝統的な、20世紀以前の反ユダヤ主義は、もともとは宗教上の敵意によって強くなった。つまり、キリスト殺害者で、キリスト教の福音を頑強に拒む邪悪な人々だというユダヤ人に対する先入観。
 カトリック教会や一部のプロテスタント教派のプロパガンダのもとで、この敵意は、経済的な争いや金貸しで狡猾な商人としてのユダヤ人への嫌悪によって補強された。
 伝統的な反ユダヤ主義者にとって、ユダヤ人は「人種」でも民族を超える共同体でもなく、誤った宗教の支持者であり、人類への教訓として、故郷を持たないで(homelss)苦しみ、漂流するように運命づけられていた。
 ユダヤ人は国際的な脅威だとの考えが確立されるためには、国際的な共同社会が存在するに至っていなければならなかった。
 これはもちろん、世界的な商業と世界的な通信の出現とともに19世紀の過程で発生した。
 これらの発展は、地域と国家の障壁を超えて、近代までは相当に保護された自己完結的な存在だった共同体や国家での生活に対して、直接に影響を与えた。
 人々は、突然にかつ訳が分からないままに、自分たちの生活を支配することができなくなる感覚を抱き始めた。
 ロシアでの収穫が合衆国の農民の生活状態に影響を与え、あるいはカリフォルニアでの金の発見がヨーロッパでの価額に影響を与え、国際的な社会主義のような政治運動が全ての既存体制の打倒を目標として設定したとき、誰も、安全だと感じることはできなかった。
 そして、国際的な出来事が持ち込む不安は、全く自然なこととして、国際的な陰謀という考えを発生させた。
 ユダヤ人以上に誰がその役割をより十分に果たすのか?。最も可視的な国際的集団であるのみならず、世界的な金融とメディアで傑出した位置を占めている集団は誰か?。//
 ユダヤ人を、見えざる上位者の一団が統轄する、紀律のとれた超国家的共同社会とする見方は、最初はフランス革命の騒ぎの中で登場した。
 フランス革命への役割は何もなかったけれども、反革命のイデオロギストたちはユダヤを容疑者だと見なした。一つは、公民的平等を与えた革命諸法律によって彼らは利益を得たとの理由で、また一つは、フランスの君主主義者が1789年の革命についての責任があると追及したフリーメイソン(Masonic)運動と彼らは広くつながっているとの理由で。
 ドイツの急進派は、1870年代までに、全てのユダヤ人はどこに公民権籍があろうと秘密の国際組織によって支配されている、と主張した。この組織はふつうは、実際の仕事は慈善事業だった、パリに本拠がある国際イスラエル連合(the Alliance Israelite Universelle)と同一視された。
 このような考えはフランスで、ドレフュス(Dreyfus)事件と結びついて1890年代に一般的になった。
 ロシア革命に先立って、反ユダヤ主義は、ヨーロッパで広汎に受容されていた。それは主としては、パリア・カスト〔最下層貧民〕として彼らを扱うことに慣れていた社会で対等なものとしてユダヤ人が出現してきたことへの反作用だった。また、解放された後にすら同化することを拒むことへの失望によっていた。
 ユダヤ人は、その同族中心主義や秘密主義、いわゆる「寄生的」な(parasitic)な経済活動や「レバント」的(Levantine)挙措だと受け止められたことで、嫌悪(dislike)された。
 しかし、ユダヤ人に対する恐怖(fear)は、ロシア革命とともに生じた。そして、その最も厄災的な遺産であることが判明することになる。//
 --------
 (秋月)今回の部分には注記はない。
 ----
 ②へとつづく。

1738/全体主義者・レーニン②-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.768、分冊版・第2巻p.514-5。
 <>はイタリック体=斜体字。
 ----
 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン②。
 レーニンは、哲学を含むあらゆる領域について、不偏または中立の可能性を決して信じなかった。
 党に加入しようと望まず、自分を中立的だと宣する者はみな、隠れた敵だった。
 革命のすぐ後の1917年12月1日に、レーニンはソヴェト農民代表者大会で、鉄道労働組合を攻撃して、こう語った。
 『毎分が時を刻み、異論や中立は敵に言葉を発することを許し、敵が確実に聴かれようと欲し、その聖なる権利のための闘争をする人民を急いで助けることがなされていない、そのような革命的闘争のときには、このような立場を中立と呼ぶことはできない。
 それは、中立ではない。
 革命的な者は、それを教唆(incitement)と呼ぶだろう。』(+)
 (全集26巻329-330頁〔=日本語版全集26巻「農民代表ソヴェト臨時全ロシア大会」のうち「ヴィクジュリ代表の声明についての演説/11月18日(12月1日)」333-4頁〕。)//
 政治、あるいは他のどこにでも、いかなる「中立者たち」も存在しない。
 レーニンが関係したいつのいかなる問題についても全て、彼に関心があるのは、それは革命のために、又はのちにはソヴェト政権のために、良いのか、悪いのか、のいずれなのか、だった。
 トルストイの死後の1910-1911年に書かれた、レーニンの四つの彼に関する小論は、その典型的な例だ。
 レーニンの中心的な主題は、トルストイ作品の「二つの側面」の存在だ。
 第一は、反動的で、夢想家(utopian)(道徳的完全さ、全ての者への慈悲、悪への無抵抗)。
 第二は、「進歩的」で、批判的(抑圧、農民への憐れみ、上層階級および教会の偽善等に関する描写)。
 トルストイの基本的考えの「反動的」側面は、反動者たちによって誇張されたが、「進歩的」側面は大衆を喚起させる目的のために「有用な素材」を提供するかもしれない。政治的闘争は、トルストイによる批判の視野よりもすでにかなり広くなっているけれども。
 レーニンの1905年の論考、『党組織と党出版物』は、ロシアでの書かれる言葉の奴隷化をイデオロギー的に正当化するために十年間使われたし、いまなおも使われている。
 政治文学についてだけそれは関係すると言われてきたが、しかし、そうではない。それは、全ての種類の著作に関係している。
 上の論考は、以下のような文章を含む。
 『非パルチザン〔無党派〕の作家は、くたばれ!
 文学上の超人は、くたばれ!
 文筆は、プロレタリア-トの共通の根本教条(cause)の一部にならなければならない。
 単一の偉大な社会民主党の機構の「歯車とネジ」は、労働者階級全体の全体として゜政治的意識をもつ前衛によって、作動し始める。』
 (全集10巻45頁〔=日本語版全集10巻「党組織と党出版物」31頁〕。) 
 このような官僚制的態度を嘆いているらしき「神経質な知識人」の利益のために、レーニンは、著述活動の分野では、機械的な同等化はありえない、と説明する。
 個人的な主導性、想像力等の余地は残されていなければならない。
 それでもやはり、文筆の仕事は党の仕事の一部でなければならず、党によって統制されなければならない。(*秋月注)
 もちろんこのことは、ロシアは当然の行程として言論の自由を享受する、しかし党の著述家の構成員はその著作で党の心性(mindedness)を示さなければならない、という前提のもとで、『ブルジョア民主主義』を目指す闘いの間に書かれた。
 他の場合と同様に、党が国家の強制装置を支配したときには、こうした義務は一般的になった。//
 --------
 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (秋月注)この部分の趣旨の原文は、日本語版全集10巻32頁を参照。「新聞は種々な党組織の機関とならなければならない。文筆家はかならず党組織に入らなければならない」、という文もある。
 ----
 ③へとつづく。

1728/邦訳書がない方が多い-総500頁以上の欧米文献。

 T・ジャットはL・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』について、「コワコフスキのテーゼは1200ページにわたって示されているが、率直であり曖昧なところはない」とも書いている。
 トニー・ジャット・河野真太郎ほか訳・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011)p.182〔担当訳者・伊澤高志〕。
 この記述によって総頁数にあらためて関心をもった。T・ジャットが論及する三巻合冊本の「New Epilogue」の最後の頁数は1214、その後の索引・Index まで含めると、1283という数字が印刷されている。これらの頁数には本文(本来の「序文」を含む)の前にある目次や諸新聞等書評欄の「賛辞」文の一部の紹介等は含まれていないので、それらを含むと、確実に1300頁を超える、文字通りの「大著」だ。
 ----
 ロシア革命・レーニン・ソ連等々に関係する外国語文献(といっても「洋書」で欧米のもの)を一昨年秋あたりから収集していて、入手するたびに発行年の順に所持本のリストを作っていた。いずれ、全てをこの欄に発表して残しておくつもりだった。しかし、昨年前半のいつ頃からだったかその習慣を失ったので、今から全てを公表するのは、ほとんど不可能だ。
 そこで、所持している洋書(といっても数冊の仏語ものを除くと英米語と独語のみ)のうち総頁数が500頁以上のもののみのリストを、やや手間を要したが、作ってみた。
 頁数は本の大きさ・判型や文字の細かさ等々によって変わるので、総頁数によって単純に範囲の「長さ」を比較することはできないが、実質的には…とか考え出すと一律な基準は出てこない。従って、もっと小型の本で活字も大きければ500頁を確実に超えているだろうと推測できても、除外するしかない。
 また、このような形式的基準によると450-499頁のものもある。490頁台のものもあって「惜しい」が、例外を認めると下限が少しずつ変わってくるので、容赦なく機械的に区切るしかない。
 ----
 以下にリスト化し、総頁数も記す。長ければ「質」も高いという論理関係はもちろんないが、所持しているものの中では、レシェク・コワコフスキの上記の本が、群を抜いて一番総頁数が大きい。次は Alan Bullock のものだろうか(1089頁。但し、これは中判でコワコフスキのものは大判 )。
 また、邦訳書(日本語訳書)がある場合はそれも記す。その場合の頁数も。但し、邦訳書のほとんどは「索引」(や「後注」)の頁は通し数字を使っていない。その部分を数える手間は省いて、通し頁数の記載のある最終頁の数字を見て記している。
 邦訳書がないものの方が多いことは、以下でも明らかだ。この点には別にさらに言及する必要があるが、欧米文献(とくに英米語のもの)が広く読まれていると考えられる<欧米>と日本では、ロシア革命・レーニン等についても、「知的環境」あるいは「情報環境」自体がかなり異なっている、ということを意識しておく必要があるだろう。
 ----
 *発行年(原則として、初出・初版による)の順。同年の場合は、著者(の姓)のアルファベット順。タイトル名等の直後に総頁数を記し、そのあとに秋月によるタイトルの「仮訳」を示している。所持するものに限る(+印を除く)。
 いちいちコメントはしないが、最初に出てくる Bertram D. Wolfe(バートラム・ウルフ、ベルトラム・ヴォルフ)は、アメリカ共産党創設者の一人、いずれかの時期まで同党員、共産主義活動家でのち離脱、共産主義・ソ連等の研究者となった。 
 ----
・1948年
 Bertram D. Wolfe, Three Who made a Revolution -A Biographical History, Lenin, Trotsky and Stalin (1964, Cooper Paperback, 1984, 2001).計659頁。〔革命を作った三人・伝記-レーニン、トロツキーとスターリン〕
 =菅原崇光訳・レーニン トロツキー スターリン/20世紀の大政治家1(紀伊國屋書店、1969年)。計685頁/索引含めて計716頁。
・1951年 Hannah Arendt, The Origins of Totalitarianism.計527頁。〔全体主義の起源〕
 =Hannah Arendt, Element und Urspruenge totaler Herrscaft (独、Taschenbuch, 1.Aufl. 1986, 18.Aufl. 2015). 計1015頁。〔全体的支配の要素と根源〕
 =大島通義・大島かおり訳・第2巻/帝国主義(みすず書房, 新装版1981)。
 =大久保和郎・大島かおり訳・第3巻/全体主義(みすず書房, 新装版1981)。
・1960年
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union. 計631頁。〔ソ連共産党〕
・1963年
 Ernste Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche (Piper, 1966. Tsaschenbuch, 1984. 6. Aufl. 2008). 計633頁。〔ファシズムとその時代〕
・1965年
 Adam B. Ulam, The Bolsheviks -The Intellectual and Political History of the Triumph of Communism in Russia (Harvard, paperback, 1998). 計598頁。〔ボルシェヴィキ-ロシアにおける共産主義の勝利の知的および政治的な歴史〕
・1972年
 Branko Lazitch = Milorad M. Drachkovitch, Lenin and the Commintern -Volume 1 (Hoover Institute Press). 計683頁。〔レーニンとコミンテルン/第一巻〕
・1973年
 Stephen F. Cohen, Bukharin and the Bolshevik Revolution - A Political Biography, 1888-1938. 計560頁。ブハーリンとボルシェビキ革命ー政治的伝記・1888-1938年。
=塩川伸明訳・ブハーリンとボリシェヴィキ革命ー政治的伝記:1888-1936(未来社、1979。第二刷,1988)。計505頁。
・1976年
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (Paris, 1976. London, 1978. USA- Norton, 2008 ). 計1283頁。
 -Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume II - The Golden Age (Oxford, 1978. Paperback, 1981, 1988). 計542頁。
 -Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume III - The Breakdown (Oxford, 1978). 計548頁。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume III - The Breakdown (Oxford, 1981). 計548頁。
<The Breakdown (Oxford, 1987). 計548頁。
・1981年
 Bertram Wolfe, A Life in Two Centuries (Stein and Day /USA). 計728頁。〔二世紀にわたる人生〕
・1982年
 Michel Heller & Aleksandr Nekrich, Utopia in Power -A History of the USSR from 1917 to the Present (Paris, 1982. Hutchinson, 1986). 計877頁。〔権力にあるユートピア-ソヴィエト連邦の1917年から現在の歴史〕
・1984年
 Harvey Klehr, The Heyday of American Communism - The Depression Decade. 計511頁。〔アメリカ共産主義の全盛時-不況期の10年〕
・1985年
 Ernst Nolte, Deutschland und der Kalte Krieg (Piper, 2. Aufl., Klett-Cotta, 1985). 計748頁。〔ドイツと冷戦〕
・1988年
 François Furet, Revolutionary France 1770-1880 (英訳- Blackwell, 1992). 計630頁。〔革命的フランス-1770年~1880年〕
・1990年
 Richard Pipes, The Russian Revolution. 計944頁。〔ロシア革命〕
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (paperback,1997). 計944頁。
・1991年
 Christopher Andrew = Oleg Golodievski, KGB -The Insde Story. 計776頁。〔KGB-その内幕〕
 =福島正光訳・KGBの内幕/上・下(文藝春秋、1993)-上巻計524頁・下巻計398頁。
 Alan Bullock, Hitler and Stalin - Parallel Lives. 計1089頁。〔ヒトラーとスターリン-生涯の対比〕
 =鈴木主税訳・対比列伝/ヒトラーとスターリン-第1~第3巻(草思社、2003)-第1巻計573頁、第2巻計575頁、第3巻計554頁。
・1993年
 David Remnick, Lenins' Tomb : The Last Days of the Soviet Empire. 計588頁。〔レーニンの墓-ソヴィエト帝国の最後の日々〕
 =三浦元博訳・レーニンの墓-ソ連帝国最期の日々(白水社、2011).
 Heinrich August Winkler, Weimar 1918-1933 - Die Geschichte der ersten deutschen Demokratie (Beck) . 計709頁。ワイマール1918-1933ー最初のドイツ民主制の歴史。
・1994年
 Erick Hobsbawm, The Age of Extremes -A History of the World, 1914-1991 (Vintage, 1996).計627頁。〔極端な時代-1914-1991年の世界の歴史〕
 =河合秀和訳・20世紀の歴史-極端な時代/上・下(三省堂, 1996).-上巻計454頁、下巻計426頁)。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime. 計587頁。〔ボルシェヴィキ体制下でのロシア〕
 Dmitri Volkogonow, Lenin - Life and Legady (Paperback 1995). 計529頁。〔レーニン-生涯と遺産〕
 =Dmitri Volkogonow, Lenin - Utopie und Terror (独語、Berug, 2017). 計521頁。〔レーニン-ユートピアとテロル〕
・1995年
 François Furet, Le Passe d'une illsion (Paris).+
 =Das Ende der Illusion -Der Kommunismus im 20. Jahrhundert (1996).計724頁。〔幻想の終わり-20世紀の共産主義〕
 =The Passing of an Illusion -The Idea of Communism in the Twentieth Century (Chicago, 1999).計596頁。〔幻想の終わり-20世紀の共産主義思想〕
 =楠瀬正浩訳・幻想の過去-20世紀の全体主義 (バジリコ, 2007.09). 計721頁。
 Martin Malia, Soviet Tragedy - A History of Socialism in Russia 1917-1991. 計592頁。ソヴィエトの悲劇ーロシアにおける社会主義の歴史・1917年-1991年。
 =白須英子訳・ソヴィエトの悲劇ーロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997)。上巻計450頁・下巻計395頁。
 Stanley G. Payne, A History of Fascism 1914-1945(Wisconsin Uni.). 計613頁。〔ファシズムの歴史-1914年~1945年〕
 Andrzej Walick, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia. 計641頁。〔マルクス主義と自由の王国への跳躍ー共産主義ユートピアの成立と崩壊〕
・1996年
 Orland Figes, A People's tragedy - The Russian Revolution 1891-1924(Penguin, 1998).計923頁。民衆の悲劇ーロシア革命1891-1924年。
 =Orland Figes, -(100th Anniversary Edition, 2017. New Introduction 付き). 計923頁。
 Donald Sassoon, One Hundred Years of Socialism -The West European Left in the Twentieth Century (paperback, 2014). 計965頁。社会主義の百年ー20世紀の西欧左翼。
・1997年
 Sam Tannenhaus, Wittaker Chambers - A Biography. 計638頁。ウィテカー・チェインバーズー伝記。
・1998年
 Helene Carrere d'Encausse, Lenin.<仏語>計527頁。〔レーニン〕
 =Helene Carrere d'Encausse, Lenin (New York, London, 2001).計371頁。〔レーニン〕
 =石崎晴己・東松秀雄訳・レーニンとは何だったか(藤原書店, 2006).計686頁。
 Dmitri Volkogonov, Autopsy for an Empire - The Seven Leaders who built the Soveit Regime. 計572頁。〔帝国についての批判的分析-ソヴィエト体制を造った七人の指導者たち〕
 Dmitri Volkogonov, The Rise and Fall of the Soviet Empire (Harper paerback, 1999).計572頁。ソビエト帝国の成立と崩壊。
 *参考:生田真司訳・七人の首領-レーニンからゴルバチョフまで/上・下(朝日新聞社、1997。原ロシア語、1995)
・1999年
 Martin Malia, Russia under Western Eye - From the Bronze Horseman to the Lenin Mausoleum. 計514頁。〔西欧から見るロシア-青銅馬上像の男からレーニンの霊廟まで〕
・2000年
 Arno J. Mayer, The Furies - Violence and Terror in the French ans Russian Revolutions. 計716頁。〔激情-フランス革命とロシア革命における暴力とテロル〕
・2002年
 Gerd Koenen, Das Rote Jahrzent -Unsere Kleine Deutche Kulturrevolution 1967-1977 (独,5.aufl., 2011).計554頁。〔赤い十年-我々の小さなドイツ文化革命 1967-1977年〕
・2003年
 Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin).計610頁。〔グラク〔強制収容所〕-歴史〕
 =川上洸訳・グラーグ-ソ連強制収容所の歴史(白水社、2006)。計651頁。
・2005年
 Tony Judt, Postwar -A History of Europe since 1945. 計933頁。〔戦後-1945年以降のヨーロッパ史〕
・2007年
 M. Stanton Evans, Blacklisted by History - The Untold History of Senator Joe McCarthy and His Fight against America's Enemies. 計663頁。〔歴史による告発-ジョウ・マッカーシー上院議員の語られざる歴史と彼のアメリカの敵たちとの闘い〕
 Orlando Figes, The Whisperers - Private Life in Stalin's Russia. 計740頁〔囁く者たち-スターリン・ロシアの私的生活〕
 =染谷徹訳・囁きと密告/上・下(白水社、2011)-上巻・計506頁、下巻・計540頁(ともに索引等は別)。
 Robert Service, Comrades - Communism: A World History. 計571頁。〔同志たち-共産主義・一つの世界史〕
・2008年
 Robert Gellately, Lenin, Stalin and Hitler -Age of Social Catastrophe.計696頁。〔レーニン、スターリンとヒトラー-社会的惨害の時代〕
・2009年
 Archie Brown, The Rise and Fall of Communism.計720頁。〔共産主義の勃興と崩壊〕
 =Aufstieg und Fall des Kommunismus (Ullstein独, 2009 ).計938頁。
 =下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社, 2012).計797頁。
 Michael Geyer and Sheila Patrick (ed.), Beyond Totalitarianism - Stalinism and Nazism Compared (Cambridge). 計536頁。〔全体主義を超えて-スターリニズムとナチズムの比較〕
 John Earl Hayns, Harvey Klehr and Alexander Vassiliev, Spies -The Rise and Fall of the KGB in America (Yale). 計650頁。〔スパイたち-アメリカにおけるKGBの成立と崩壊〕
 David Priestland, The Red Flag -A History of Communism (Penguin, 2010). 計676頁。〔赤旗-共産主義の歴史〕
 =David Priestland, Welt-Geschchte des Kommunismus -Von der Franzaesischen Revolution bis Heute <独語訳>.〔共産主義の世界史-フランス革命から今日まで〕
・2010年
 Timothy Snyder, Bloodlands -Europa zwischen Hitler und Stalin (Vintage, and独語版, 2011). 計523頁。〔血塗られた国々-ヒトラーとスターリンの間のヨーロッパ〕
 =布施由紀子訳・ブラッドランド-ヒトラーとスターリン・大虐殺の真実(筑摩書房、2015)/上・下。-上巻計346頁、下巻計297頁(+4頁+95頁)。
・2011年
 Herbert Hoover, Freedom Betrayed - Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath. 計957頁。〔裏切られた自由ーハーバート・フーバーの第二次大戦とその余波に関する秘密の歴史〕
 =渡辺惣樹訳・裏切られた自由-フーバー大統領が語る第二次大戦の隠された歴史とその後遺症/上・下(草思社、2017)-上巻702頁・下巻591頁。
・2015年
 Thomas Krausz, Reconstructing Lenin - An Intellectual Biography. 計552頁。〔レーニンを再構成する-知的伝記〕
 Herfried Muenkler, Der Grosse Krieg -Die Welt 1914-1918. 計923頁。〔大戦-1914-1918年の世界〕
 --
 1981年の項に、B.Wolfe の一冊を追記した(邦訳書はない)。/2018.03.27

1726/江崎道朗・コミンテルン…(2017.08)③。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 一 きちんと本文を読み終えてからと思っていたが、今のうちに書いておこう。
 先に「昨2017年の八月半ば以降に大幅にこの欄への文章を書くのを止めたのは、半分程度は、上の本の(消極的な)衝撃による」と書いた内容は、そのとおりだ。
 この本の衝撃というのは、しかし、ロシア革命・レーニン・コミンテルン等に関する正確な又は厳密な知識の欠如によるものではない。そのようなことは、中西輝政(や西尾幹二)にもあるだろう。
 すでに昨年に触れてはいるが、江崎の上の本の「おわりに」にこうある。
 「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文に連なる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 「…戦前のエリートたちの多くは、日本の政治的伝統、つまり聖徳太子から五箇条の御誓文、大日本帝国憲法に至る『保守自由主義』に対する確信を見失っていた」。
 何と呆けたことを書いているのだろう。
 月刊正論執筆者の中でも、反共産主義意識が強く、何とか<冷戦史観>とか言って東アジア・日本の現在での<冷戦>を指摘していたはずの江崎道朗ですら、上のようなことを書いているのだ。
 ほとんど腐っている。どうしようもないところまで来ている。
 上に書いているようなことは、私の読書範囲内に限っても、櫻井よしこと伊藤哲夫と全くかほとんど同じ。要するに、<日本会議派の史観>なのだ。
 江崎は、可能ならば、別途きちんと論じるべきだろう。
 五箇条の御誓文のいったいどこが、「保守」で「自由主義」なのか。 
 聖徳太子(の例えば「十七条の憲法」)のいったいどこが、「保守」で「自由主義」なのか。
 現実にあった「明治維新」の当初の理念宣明書とされる五箇条の御誓文は、「保守」ではなく幕府政治を解体するための(革命といわずとも、「維新」という)<大変革>に向けての宣言書だ(原案は、吉田松陰の死体を見た数少ない者の一人、木戸孝允が書いた)。「王政復古」=「保守」なのでは断じてない。
 また、五箇条の御誓文のいったいどこが「自由主義」なのか。
 近現代一般の議論として単純に共産主義対「自由主義」というシェーマを採用しているならばよいが、明治維新・五箇条の御誓文についてこれを語るのは飛躍しすぎだし、江崎における「自由主義」なるものの意味を、五箇条の御誓文の内容に即して説明してもらわないといけない。
 二 「情報産業」就労者としての著述者の一人である江崎道朗は、月刊正論(産経)の毎号執筆者としての地位(職・対価)を確保したいのかもしれない。
 食って生きていくためには、仕方のないことなのかもしれない。
 月刊正論、そして産経新聞の「固い」読者層である<日本会議>とそれに連なる諸々の人々の支持を受け、<味方>にしておくのは、<生業>にかかわる本能なのかもしれない。
 原田敬一の岩波新書等について、一種の信仰告白が必要なのではないか、それを実行しているのではないかとこの欄で記したことがある。
 江崎道朗も、それをしているのかもしれない。
そのような、事実上は強いられた、偽装をある程度は含む「保守自由主義」の美化ならばまだよい(この概念自体には何ら反対しない。しかし、聖徳太子や五箇条の御誓文と結びつけては、絶対にダメだ)。
 しかし、どうやら江崎道朗は、「日本の政治的伝統、つまり聖徳太子から五箇条の御誓文、大日本帝国憲法に至る『保守自由主義』…」と本当に考えているようだ。
 三部作か四部作の一つかどうか正確には知らないが、これでは、致命的だ。
 身震いがするほど、怖ろしい。なぜ<反共>が、櫻井よしこが明記する<明治の元勲たち>の称揚、と同じような歴史観と結びつくのか。
 「時宜にかなった幻想」は強力だ(T・ジャット)ということを、思い知らされているのかもしれない。

1725/江崎道朗・コミンテルン…(2017)②-2017年秋。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)
 昨2017年の八月半ば以降に大幅にこの欄への文章を書くのを止めたのは、半分程度は、上の本の(消極的な)衝撃による。
 秋月瑛二のいう<反・共産主義>の意味での「保守」-それと同義で「自由主義」/元来の・伝統的な「リベラリズム」という語を使ってもよい-の立場で種々書いてはきているが、江崎の上の本を一瞥して、即座に感じた。
 どうしようもないところにまで来ている。ほとんど総崩れだ。
 身震いするほど、怖ろしい。
 日本の「保守」派らしき人々は、ほとんど信頼できない。「保守」と自称しないで、むしろそれと自らを区別しているらしき、池田信夫や八幡和郎等の方が、「反・共産主義」という点ではしっかりしているのではないか。
 そののちに、上の江崎道朗著の推薦文をオビに書いている中西輝政のいかがわしさにも気づいた(何回か昨秋頃にこの欄に記した)。
 ----
 江崎道朗の上の本(新書)の「はじめに」は、二行め、本の第二文から間違っている
 「1917年に起きたロシア革命によってソ連という共産主義の国家が登場した」。
 1917年「二月革命」ではなく10月(または新暦で11月)と特定していないことは、まぁよい。
 しかし、1917年10月の「ロシア革命」によって登場したのは、「ソ連」ではない
 ソ連=ソヴィエト連邦=ソヴィエト・社会主義共和国連邦という国家(連邦国家)が成立したのは「戦時共産主義」よりも「ネップ政策導入決定」よりも後、1922年だ。
 上のロシア革命によって成立したとされたのは、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国で「大ロシア人」地域を領域としており、地理的にも、のちのソ連と異なる。
 江崎道朗は、こんなことにすら無頓着で、「ソ連」はロシア革命によって生まれた、と単純に理解したまま、大切な本の二行めに書いてしまっているのだ。
 ついでに書いておこう(秋月瑛二は専門家でも何もないが,江崎道朗に教えてあげよう)。
 ソヴィエト・ソビエト・ソヴェトとは地名その他の固有名詞ではなく、多くの人が知っているだろうように(江崎がどうなのかは知らない)「会議」とか「評議会」とか訳せる普通名詞だ(council, Rat)。
 そうした名詞が国家名に使われ、チャイナとか朝鮮とかの固有名詞(王朝・氏族名を含む)が使われていないのは、おそらく希有のこと(だった)だろう。
 以下の方が重要だ。
 ロシアで最初の「ソヴェト」の設立・結成に、レーニンらボルシェヴィキは関与していない。
 また、ペテログラード・ソヴェト等のソヴェトの主導権を、ほとんどの間、レーニンらボルシェヴィキ(のちロシア共産党に改称、ソ連共産党へと発展)は握っていなかった。
 1917年のほんの一時期にレーニン・トロツキーらがソヴェトの多数派となり、実力行使も担当し、「10月革命」とのちに呼ばれるものが起きた(ことになっている)。
 しかし、のち、ソヴェト系列の国家機構を形骸化し、ボルシェヴィキ=ロシア共産党(江崎のために記すがまだソ連共産党ではない)が実質的な権力を掌握する。
 その後ずっと、ソヴェトというのは、実体・実質・実権が全くかほとんどないまま、1991年まで、ソ連という国家名の一部として、堂々と使われ続けた。
 ソヴェト・ソヴィエトという言葉に関する「詐欺」とすら言える。国名についてまで、ロシア・ソ連「社会主義・共産主義」国家は、異様・異形だったのだ。
 元に戻る。江崎道朗が「コミンテルン」を表題の重要な一部として使う本をかきながら、ソ連・ロシア革命・コミンテルンについて正確な知識を持たないことは、上の点のほか、つぎのことでも分かる。すでに「はじめに」の中に見られる。
 すなわち、とくにアメリカや日本に対する「工作」・「秘密工作」をする主体・主語として書かれているのは、「旧ソ連・コミンテルン」p.3、「ソ連」p.3、「コミンテルン」p.4、「ソ連・コミンテルン」p.5、「ソ連・コミンテルン」p.7、「コミンテルン」p.7、「ソ連・コミンテルン」p.8、「ソ連・コミンテルン」p.9、「ソ連・コミンテルン」p.12、「コミンテルン」p.12、p.13、「ソ連・コミンテルン」p.13、と一様でない。
 江崎道朗に教えてあげるが、「ソ連」と「コミンテルン」は同じものではない。
 同種のものとして扱うためには、その旨の注記が必要だ。
 また、同種のものと扱うのは、きちんとした書物であるかぎりは、間違っている。
 すなわちソ連(またはその前の社会主義ロシア)、ソ連共産党(またはロシア共産党)およびコミンテルンの三つは、きちんと区別すべきだ
 そうでないと、例えばスパイ・ゾルゲはいったいどの組織の「スパイ」・「工作員」だったのか、「スパイ」・「工作員」の相互連絡はどうしてなされたのか、等の解明ができなくなる。
 一昨年の秋にこの欄で、こうした関心から、尻切れになったかもしれないが、「国家・党・コミンテルン」とか題する(正確に確認しない)文章を書いたことがある。
 レーニンは、あるいはスターリンは、ロシアまたはソ連「共産党」と「コミンテルン」を巧く使い分けていたと見られる。かつ、非難されないように、決して「ソ連」とかの国家そのものとは厳密には区別していたように思われる。また、ソ連国家といっても、外交部署、治安・保安担当部署と「軍」の区別くらいは、少なくとも必要だろう。
 どうでもよいではないか、ということにはならない。
 そのように感じるのは、「保守自由主義」者らしき江崎道朗のかなり粗雑な、特定の読者層を意識した頭脳だけだろう。
 他にも、この著には、相当の疑問点・問題点がある。
 よい本が出たと、「日本会議」系の論壇者や活動員たちのように喜んでおれるわけがない。

1713/西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」…(2017)。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。
 対談や座談会の内容を文字にした、安易に造られる書物が多すぎる、とは断定しないでおこう。
 何しろ、相対的にはきわめてマシな、優れていると感じている「保守」派論客の対談本なのだから(司会は柏原竜一)。
 まえがきを2017年3月に西尾幹二が書き、あとがきを10月に中西輝政が書き、同11月付で出版されている。この時期に、西尾と中西の二人は何を語るのか。
 目次全体を眺め、一章まで読了した(~p.70)。
 西尾幹二によると、日本国民の「歴史認識を永いあいだ分裂させ、歪めてきた当のもの」である<世界史に日本がなく、日本史に世界がない>という「変則状態」の「欠を埋め、ここで自覚を新たにしたいというおもい」で起ち上がり作成された書物だ、という。p.4。
 司会者・柏原竜一は「問題提起-『西洋近代』のいかがわしさ」と題する第一章の冒頭で(しかし、本書全体の意図のごとく)、こう言う。
 「昭和における日本人の精神性の覚醒を正しく位置づける」ためにも、「大局から、『近代』というもの、『西洋近代』というものを見直す必要がある」との問題意識で、(二人に)「対談をお願いする」ことになった。
 ----
 まだ70頁までしか読んでいないが、大きな期待は持てそうにない、と直感的に思った。
 目次から、章名および節(に当たるもの)の名・タイトルにどのような言葉・概念が並んでいるかを見てみる。
 日本-14。最多のようだが、これは当然かもしれない。
 アメリカ-11、近代・西洋近代・西洋文明・欧米・ヨーロッパ-計8、中国-1。
 ロシア(・ロシア革命)・ソ連-ゼロ。共産主義・コミュニズム・マルクス主義・社会主義-ゼロ。
 あくまで目次上のタイトルで使用されている言葉・概念だ。
 しかし、この書のおおよその内容を掴む手がかりにはなるだろう。
 今年はロシア革命100年。だが、この書に関するかぎりでは、西尾幹二も中西輝政も、ロシア革命や「共産主義」の「世界史的」意義・意味、その今日に至るまでの日本に対する「日本史的」意義・意味には、とんと関心がないように見える。正確に再述しておく-「…かぎりでは」、「…ように見える」。
 中西輝政は、いつぞや「ネオ共産主義」という言葉を使って、まるで現在に現実としてある「共産主義」国家・「共産主義」体制は、<元来の・本来の>共産主義とは異なるとでも理解しているかのような文章を書いていた。この人にとって<真の>または<本来の・元来の>「共産主義」とはどういうものなのか。したがってまた、西尾との対談でもこれを(たぶんほとんど)話題にしないのは当然かもしれない。
 中西は、とっくに「マルクス主義の過ちは証明されている」ので、これ(マルクス主義・共産主義等)に拘泥するのは、遅れている、旧い発想だ、と考えているようにも思えた。
 このような発想は、じつは「日本会議」と同じだ。
 ----
 「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判をテーマとする書物は、すでに多数ある。
 かつて私もよく読んだが、佐伯啓思がしてきた仕事のほとんどは、これだ。あるいはこれの繰り返し、しつこいまでの反復、だ。
 そして、大切なこととして指摘しておきたい。「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判は、マルクス主義者・共産主義者もまた、共有する。
 彼らは、「市民革命」思想らしきものを都合よく利用しつつ、<自由と民主主義>をブルジョアジーが被支配者を「欺瞞」するための道具だとも考えた(考えている)。
 <西洋近代>の嫡出か鬼胎かはともかく、<近代>は共産主義もまた生み出したし、一方で共産主義は<近代>を克服しようとした(とする)考え方・運動だ。
 ----
 多くの<西洋近代>懐疑・批判書と違って、二人のこの本は、アメリカを主対象とし、アメリカ批判を主とするもののようでもある(しかし、トランプ等々、アメリカの現代政治を扱っているのでもなさそうだ)。
 オビに、こうある。
 「戦後日本を縛りつけているものは何か?/いまも世界を支配する歴史の亡霊。その体現者・アメリカの正体を暴く!」。
 この対談書によるかぎりで、西尾幹二と中西輝政にとって、現時点で「大局的には」、中国共産党体制よりも北朝鮮よりも、アメリカの方が<歴史的に?>大切な、重大な関心事なのだろう。
 しかし、素朴につぎのように考えてしまう。
 二人が語るアメリカ(の歴史等)とロシア(・ソ連)や中国等との関係はいったいいかなる<世界史的>関係にあるのか。日本史を語る際にも、少なくとも幕末以降の日本・ロシア関係、そして何よりも第一次大戦中のロシア革命(1917年)や終戦後のコミンテルン(1919年)との関係は重要な関心事でなければならないだろう。いやすでに北一輝にも見られるように、ロシア革命以前から、マルクス主義(・思想)の影響は日本に強くあったのだ。
 また、つぎのようにも思う。
 反アメリカ、あるいは「アメリカの正体を暴く」というだけでは、基本的には佐伯啓思ら多数の者がしてきた仕事の、新味のあるらしき、焼き直しにすぎないだろう。
 また、日本共産党もまた<反アメリカ>のナショナリスト政党だということを、あらためて強く指摘しておかなければならない。アメリカを批判的に考察し、「アメリカの正体を暴く」、というのは、決して日本共産党が嫌がることではない。
 この政党は十分に、民族主義的・対米自立の「自主・独立」、そして「愛国」政党でもある。
 さらに、北朝鮮がいまだに「アメリカ帝国主義」と称しているのも、中国が決してアメリカと全面的には同調しないのも、根源的には、その「共産主義」性、あるいはマルクス主義(・思想)がある。反資本主義・反「帝国主義」の心性を、彼らは失っていない。
 日本共産党についても同じ。アメリカを歴史的に批判することは、少なくとも一面では、あるいは一部は、日本共産党等の日本の共産主義者および「左翼」もまた喜びとするものであることを、強く意識しておく必要があるだろう(この点は、佐伯啓思の<左翼との通底性>にもかかわる)。
 ----
 さて、第一章。
 <「近代」とは何か>はでたらめのタイトルのごとくで、キリスト教に関する話が多すぎる。
 国家と宗教の分離、そこでの宗教について話題にするな、とは言わない。しかし、とりわけ、中西輝政の、「ピューリタニズム」に関する話が長すぎる。
 この機会にと、中西は最近に勉強?(研究?)したことを披瀝したかったのかもしれない。新しい知識も(いかほどに確かなのかは分からないが)、得られる。
 しかし、大発見のごとく勇んで強調するほどのことなのか。それで?、とも尋ねたくなる。
 中西輝政が上についてきちんと発言したいのならば、<欧米・ピューリタニズムと日本>とでも題する本格的な、300-500頁から成る専門的研究書を執筆・刊行して、世に問うていただきたい。
 もう一つ、中西輝政の発言には、気になる部分がある。別の日に。

 

1707/社会主義と独裁④-L・コワコフスキ著18章6節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。
 ---
 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁④。 
 理論上の観点からは、レーニンの有名な小冊子『<左翼共産主義-小児病>』(1920)で事態は明らかにされた。それによると、少しも問題はないように見える。//
 『問題のたんなる設定-「党の独裁か、それとも階級の独裁か。指導者の独裁(党)か、それとも大衆の独裁(党)か?」-だけでも、ほとんど信頼できない、救いようもなく錯乱した思考をしていることが分かる。<中略>
 誰もが知るように、大衆は諸階級に、<中略>通常は多くの階級に分化している-少なくとも今日の文明諸国では-、そして、諸階級は政党によって指導されている。
 また、まったく通常のこととして、政党は、最も責任ある地位を占めて指導者と称される、最も権威と影響力と経験のある構成員から成る、多少とも安定した集団によって動いている。
 このことこそが、基本だ。
 このことこそが、明白で単純なことだ。
 これをなぜ、煩わしいことを言って、何かの新しいヴォラピュク語(Volapuek)でもって、言い換えようとするのか?』(+)//
 『ロシアのボルシェヴィキは、<中略>このことに関する「上からか」<それとも>「下からか」とか、指導者の独裁か<それとも>大衆の独裁かとか等々の議論を、こっけいな、子どもじみたたわ言だと見なさざるを得ない。その左脚と右腕のいずれが人間にとってより重要なのかを議論しているようなものだ。』(+)
(全集31巻、p.41, p.49〔=日本語版全集31巻26-27頁、35頁〕。)//
 レーニンはこのように問題を度外視し、階級と党の間に関して、あるいは党とその指導者の間に関して何の問題もないことを示唆し、また、一握りの寡頭的指導者による統治は、階級が彼らを代表者としたいのか否かを判別する制度上の方法は何らなかったけれども、彼らが代表すると主張する階級による統治だと適切に称し得ることを意味させた。
 レーニンの論拠は粗雑なので、真面目にそう考えていたと信じるのは困難なほどだ(上掲の文章では、ローザ・ルクセンブルクに似た基本的考えにもとづいてレーニンを批判したドイツのスパルタクス団に対して回答している)。
 しかし、彼のここでの論拠はその思考の一般的スタイルと十分によく合致している。
 階級の利益以外には『真に(really)』存在するものは何もないがゆえに、統治集団または統治組織の独立した利益に関して設定される問題はすべて、いつわりの(false)問題だった。
 組織(apparatus)は階級を『代表する』。このことが『基本的』であって、他の全ては『子どもじみたたわ言』なのだ。//
 レーニンは、この点については全く一貫していた。
 <国家と革命>〔1917年〕によると、無学者または狡猾なブルジョアだけが、労働者は産業を、そして国家と行政を直接にかつ集団的に管理することができないと思うことができた。
二年後には、無学者または狡猾なブルジョアだけが、労働者は産業を、そして国家と行政を直接にかつ集団的に管理することができると思うことができるのだと判明した。
 産業は明白に単一の経営者を必要とした。そして、『共同参加』を語るのは馬鹿げていた。
 『協同経営〔合議制〕に関する論議は、全くの無知と専門家に反対するという心性にあまりに強く埋め込まれすぎている。<中略>
 我々は(労働組合が)悪名たかい民主主義の残存物に反対して闘争する精神に立ってこの任務を体得するようにしなければならない。
任命制度に反対する大騒ぎの全て、多様な決定と会話に向かっているこの全ての古くて危険なほどに下らないものは、一掃されなければならない。』(+)
 (ロシア共産党(ボ)第9回大会での演説、1920年3月29日。全集30巻、p.458-9〔=日本語版全集30巻474-6頁〕。)
 『どの労働者も国家を運営する仕方を知っているだろうか?
 実務領域で働いている者たちは、そうではない、と知っている。<中略>
 我々は、農民たちと結びついた労働者が非プロレタリアのスローガンに欺されがちであることを知っている。
 どれだけの数の労働者が、政府の仕事に従事してきたか?
 ロシア全土で数千人で、それ以上ではない。
 候補者を立てて〔=当選させて〕統治するのは党ではなく労働組合だと我々が言うならば、それはきわめて民主主義的に聞こえるかもしれない。そして若干の票を掴み取るのに役立つかもしれないだろう。しかし、長くは続かない。
 それは、プロレタリア-トの独裁にとって致命的(fatal)だろう。』(+)
 (鉱山労働者大会での演説、1921年1月23日。全集32巻、p.61-62〔=日本語版全集32巻52-53頁〕。)
 『しかし、その階級の全体を包み込む組織を通じてでは、プロレタリア-トの独裁は、行使され得ない。<中略>
 行使することができるのは、この階級の革命的活力を吸収してきた前衛だけだ。』(+)
 (『労働組合、現況とトロツキーの過ち』、1921年12月30日。同上、p.21〔=日本語版全集32巻「労働組合について、現在の情勢について、トロツキーの誤りについて」5頁〕。)//
 独特の論法のおかげで、かくして、プロレタリア政府はプロレタリア-トの独裁の廃墟になるだろうということが分かる。-これは、完璧に妥当だと思われる結論だ、レーニンによる後者の言葉の解釈に従えば。
 また、『本当(true)の』民主主義とはそれまで民主主義的だと見なされてきた全ての制度の廃棄を意味することも分かる。 
 この最後の点に関して、レーニンの言葉遣いは全く一貫しているわけではない。
 すなわち、彼はときには、ソヴェト権力は民主主義の最高の形態だと褒め讃える。人民による支配を意味するからだ。
 だが別のときには、民主主義をブルジョアの道具だと非難する。
このことは、興味をそそる矛盾を生じさせた。1918年1月25日の第3回ソヴェト大会での、つぎの演説に示されるように。
 『民主主義は、純粋な社会主義に対する全ての裏切り者によって制覇されたブルジョア国家の一形態だ。彼らは公認された社会主義の先頭に位置して、民主主義はプロレタリア-ト独裁の反対物だと主張している。
 革命がブルジョア体制の枠を超越するに至るまでは、我々は民主主義に賛成してきた。
 しかし、革命の進展のうちに社会主義の最初の兆候を見るや否や、我々はプロレタリア-トの独裁を支持する強硬なかつ断固たる立場をとった。』(+)
 (全集26巻、p.473〔=日本語版全集26巻「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第三回全ロシア大会483頁〕。)
 換言すれば、社会主義に対する裏切り者は民主主義は独裁の反対物だと主張するが、我々は、その反対物である独裁のために民主主義を放棄した。
このような間抜けさ(awkwardness)は、レーニンが民主主義的制度がほとんど何も残っていない浸食状態に気づいているが、ときどきは民主主義という美徳の印象のある名前を引き合いに出したかった、ということを示す。//
 革命のすぐ後に、ボルシェヴィキが権力に到達するまでは執拗に要求した伝統的な民主主義的自由は、ブルジョアジーの武器だったと判ることになった。
 レーニンの著作は、報道(出版)の自由に関して、このことを繰り返して確認している。
 ------
 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 ---
 段落の途中だが、ここで区切る。⑤へとつづく。

1705/江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(2017年08月)①。

 この出版物を、慶賀とともに、悲痛な想いで一瞥した。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017年08月)。
 要点をできるだけ絞る。
 第一。「第一章/ロシア革命とコミンテルンの謀略」、p.29-96、について。
  1.日本への影響を叙述する、日本の書物の中では詳しいのだろう。
 しかし、決定的な弱点は日本語訳書に限っても、10冊も使っていないことだ。従って、説得力や実証性が十分ではない。
 参考にしている、または依拠している文献は、おそらく以下だけ。狭い意味でロシア革命とレーニン以外のものも含めて、欧米(+ロシア・ソ連)の文献そのものはないようだ。1950年代の古すぎる本は除外。出版社・翻訳者、刊行年は省略。
 ①クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書/ソ連篇。
 ②アンヌ・モレリ・戦争プロパガンダ/10の法則。
 ③マグダーマット=アグニュー・コミンテルン史。
 ④ミルトン・レーニン対イギリス情報部。
(⑤春日井邦夫・情報と謀略。)
 江崎道朗のこの本の出版を喜ぶとともに、日本の現況を考えて、寒心に堪えない。身震いがする。怖ろしい。
 2017年の夏に、この程度の詳しさでも、日本人の執筆者が書いた、おそらくは先進的な叙述になるのだろう
 江崎が最も依拠しているのは上の③のようで、コミンテルン自体の文書やレーニンの文章は、この③の資料部から採用・引用しているようだ。
 2.江崎道朗に是非とも助言しておきたい。以下を読んで、参考にしてもらいたい。
 一部の試訳・邦訳をこの欄で試みている、①リチャード・パイプスのロシア革命本二冊、②レシェク・コワコフスキの本(マルクス主義の主要潮流)でも、ロシア革命とレーニンは詳しく扱われている(後者では、著者は「ハンドブックを意図する」と第一巻で書いているが、全3巻の中で、レーニンについてはマルクスに次いで詳しく叙述する)。 
 前者のリチャード・パイプスの二冊については一冊の簡潔版があって、これには邦訳書がすでにある。
 この邦訳書だけでもすでに、昔ふうの?レーニンの像とは異なるものが明確だ。
 リチャード・パイプスの本には「革命の輸出」という章もあって、当然ながらコミンテルンへの論及も、その背景・目的も含めてある(世界革命か一国革命かにも関わる)
 レシェク・コワコフスキの本は、今まで訳した中では(以下の重要な指摘を除いて)、レーニンの「戦争」観にも(当然ながら)論及がある。
 日本人の中では、学者もしていなことを先進的に?研究した,などと自信を持ってはいけない。
 3.一瞥して、私、秋月瑛二の方が<より詳しい。より多くロシア革命とレーニンについては知っている。>と感じた。
 例えば、江崎道朗は、つぎの重要なことに言及していない。しかし、秋月は気づいている。
 試訳では、L・コワコフスキの文章をこう訳した。この部分はかなり意味読解に苦労して、無理矢理訳したところもある(翻訳が生業ではないのだから、やむをえないと思っている)。8/5=№.1693。
 「1920年12月6日の演説で、レーニンは、アメリカ合衆国と日本の間でやがて戦争が勃発せざるをえない、ソヴィエト国家はいずれか一方に反対して他方を『支持する』ことはできないが、その他方に対する『決勝戦』を闘わせて、自国の利益のためにその戦争を利用すべきだ、と明言した。/ (全集31巻p.443〔=日本語版全集31巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」449-450頁〕参照。)」//
 私は、レーニン全集の該当巻の該当するらしきところだけ探し出しているだけではない。自然に、前後も読んでしまうときがある。
 そして、レーニンがこのとき何を考えていたかの一部を理解した。レーニン全集日本語版31巻の上掲「演説」を参照。
 すなわち、第一に、日米間で戦争が(「帝国主義」国間の戦争が)起きるだろうと予測し、かつ期待した。
 第二に、日本がアメリカと闘わずにロシア・ソ連を攻める(いわばのちに言う「北進」だ)のを恐れた。
 明言はないが、<帝国主義国>相互を闘わせて、消耗させよう、と思っている。これは、ロシア・新ソ連の利益になる。また、日本がアメリカではなくて、ロシア・ソ連に向かうのをひどく恐れている。ロシア・新ソ連の<権力>を守るためだ。
 すでに、1920年のこと。日米戦争への明確な論及がある(江崎道朗はたぶん知らない)。
 スターリンは、このレーニンの「演説」も、じかに聞いたか、のちにじっくりと読んだに違いない。
 スターリン・ソ連が、日本が北と南のどちらに向かうかをきわめて気にしていたこと、それに関する情報を切実に知りたかったこと(ゾルゲ事件参照)は、その根っこは、遅くともすでに1920年のレーニンの文章・演説に見られる
 4.江崎は中西輝政を尊敬して、この分野(コミンテルンと日本)の第一人者だと思っているようだが、秋月瑛二のこの一年間の読書によると、中西輝政にも相当の限界がある。あくまで日本の学界内部では優れている、というだけではないだろうか。
 何しろ、中西がW・チャーチルを「保守」政治家として肯定的に評価しているようであるのは、スターリン時代にまで遡ると、きわめておかしい。
 戦後にようやく?<反共>政治家になったのかもしれないが、江崎道朗もしきりに言及しているようであるF・ルーズヴェルトとともに、<容共>の、かつ戦後世界に対する<責任>がある、と私には思われる。
 また、アメリカ等に対するコミュニズムの影響力を<ヴェノナ>文書でのみ理解するのでは、決定的に不十分だ。
 上の邦訳書づくりへの寄与をむろん肯定的に評価しはする。
 しかし、アメリカについては(おそらくイギリスについても)ロシア革命後の<アメリカ共産党>の創立とその運動についても、知らなければならないだろう。
 この欄でいずれ触れる。
 英語文献を知っている人ならば、英米の共産党(レーニン主義政党)の少なくともかつての存在に気づくはずだ。英米語が読めれば、何とか私でもある程度のことは分かる。2000年以降でも、アメリカ共産党や同党員だった者に関する書物は出版されている。
 リチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキだけが特殊ではない。
 日本の「共産主義者」や日本共産党にとって<危険な>欧米文献は全くかほとんど邦訳されていない、ということを知らなければならない。
 5.中西輝政あたりが、最高の、あるいは最も先進的な、<共産主義・コミンテルンの情報活動と日本>というテーマの学者・研究者だし思われているようであること。
 これは、日本の現況の悲痛なことだ。
 月刊正論執筆者の中では<反共産主義>が明瞭だと思われる江崎道朗ですら、リチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキの名すら知らず、ましてや原書を一部ですら読んでいないようであること。
 これまた、悲痛な日本の<反共産主義>陣営の実体だ。
 「日本会議」は日本共産党や共産主義と闘おうとしていない。この人たちにとってマルクス主義の過ちは、<余すところなく>すでに証明されているのだ。
 繰り返すが、リチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキだけではない。
 欧米文献を多少とも目にして分かることは、欧米にある<しっかりとした反・共産主義>の伝統だ。
 自らを<社会民主主義者>と称しているようであるトニー・ジャッドですら、<反・共産主義>の態度は決定的に明確だ。
 アメリカ的「社会的民主主義者」ないしは<自由主義者>であるらしきトニー・ジャッドがフランスのフランソワ・フュレのフランス革命観と「反共産主義」姿勢に同感していることは、アメリカでは決して珍しいことではないと思われる。
 日本では「社会民主」主義者は<容共>かもしれないが、少なくともアメリカのトニー・ジャッドにおいてはそうではない。
 このような脈絡でも、井上達夫の主張・議論・「思想」には興味がある。
 第二。「おわりに」より。p.414。
 この回を、急ごう。
 江崎道朗もまた、「明治維新」を分かっていない。理解が単純すぎると思われる。
 江崎は、反共産主義者でありかつ「保守自由主義」者のようだ。私もおそらく全く同じ。
 しかし、つぎの文章の内容は、絶対にダメだ。p.414。
 「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文につながる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 ここに日本の「保守」派に多く見られる、明治は素晴らしかった、という、「日本会議」史観の影響があるようだ。この点に限れば、司馬遼太郎史観もそうかもしれない。
 「聖徳太子の十七条の憲法」と「五箇条の御誓文」をふり返るべき日本の「(保守的?)精神」だと単純に考えているようでは、先は昏い。絶望を感じるほどに、暗然としている。
 ---
 江崎道朗の新書出版は、ある程度は慶賀すべきことなのだろう。
 しかし、途方もなく涙が零れそうになるほどに、日本の本来の「保守」=反・共産主義派の弱さ・薄さ(ほぼ=共産主義がとっくに「体制内化」していること)を感じて、やるせない。
 1991年の<米ソの冷戦>終焉から、四半世紀。日本人は、いったい何をしてきたのか。

1704/谷沢永一・正体見たり社会主義(1998)③など。

 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998/原1994)。
 メモ書きをつづける。マルクスについて要領のよいと思われる批判が並ぶ。
 「国家なき社会の運営のプラン」はマルクスになく、レーニンにも「何もなかった」。p.164。
 「レーニンは、プロレタリア-トの独裁によって過渡的な形でできる国家は、勝利獲得後、ただちに死滅しはじめると考えた」。
 レーニンは「マルクス主義とアナーキズムには類似性があると認めるところまでいっていた」。「国家の代わり」の「実務のみの社会」は「人間の善意のみで運営」される村役場あるいはバザールで、「極端な復古主義」だ。p.166-7。
 レーニンは当初は「プロレタリア-トの党については、考えていなかった。革命さえ起こせば、すべてが解決する」はずだった。<国家と革命>には「党のことはほとんど触れられていなかった。これは歴然たる事実なのである」。p.168-9。
 上の最後はほとんど同趣旨が、L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1974、英訳1976)の中にある。他の部分も、L・コワコフスキが叙述していることと似たようなことを書いている。
 谷沢はL・コワコフスキ著をある程度知っていたかとも思わせるが、党については、革命直前の<国家と革命>研究書・論評書は多かったりするので、常識的なことなのかもしれない。
 但し、革命前の運動期の<何をなすべきか>では独自の、職業家から成る意識的・純粋な党の像を語り、メンシェヴィキと対立した。革命後の党の役割、国家と党の関係等には熟考のないまま、「革命」=権力剥奪に進み切った(好機があれば逃さなかった)のだろう。権力奪取の後の政治・行政の<付け焼き刃>。
 何が根拠なのか、レーニンに「甘い」部分もある。
 「レーニンが考えた党の独裁とは、合議制による運営」で、「レーニン個人による独裁」でなかった。スターリンがこれを踏みにじった。p.192。
 「独裁」の意味にもよるが、ソヴェトの内部での一党支配、ソヴェト自体からの自立、を経ての国家=一党支配体制におけるレーニンの位置は、<立法・行政>権ともに持ちかつ<司法権>を下部に置く「人民委員会議の議長(首相とも紹介される)」かつ党中央委員会委員長だ。その人民委員会議や中央委員会が「合議制」というのは全くの建前で、レーニンの意思・意向に反することは決められていない。
 但し、スターリンは党内部の政敵・意見対立者を「殺した」が、レーニンはそこまではしなかった(反面では、党「外部」者、例えば左翼エスエル指導者、対しては行なった)。
 スターリンによる<大テロル>(1935-38年又はより短くは1936-38年)は、今日では日本共産党すらが大々的に批判している。
 谷沢p.203によると、1935-38年の4年間に、10月「革命」時の名のある指導者たちの「ほとんど全部が、トロツキストの汚名のもとに逮捕投獄された」。しかも「その多くが」「処刑されていった」。1934年党大会で選出された中央委員・同候補のうち「7割の98人」、同大会代議員の「過半数」が「処刑ないし追放された」。p.203。
 逮捕・拘束-「自白(強要)」-刑法典等による「処刑」もあれば、陰に陽にの「暗殺」=不意打ちの突然の殺戮もあった。スターリンの「意」をうけた殺戮者グループがいた。
 ---
 ところで、この本については、10年以上前に、この欄の前のサイトで言及していた。
 2006年9月下旬にすでに。ぼんやりとある程度読んだ記憶があるだけで、書き込んだことまではすっかり失念していた。こんなことは他にもしばしばあるので、イヤになる。 №--0044・2006年09/23付でこうある。谷沢関係部分の全文。
 「谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)を2/3ほど読んだ。
 平易な語と文章で解りやすい。この本は同・『嘘ばっかり』で七十年(講談社、1994)の文庫化で、題名どおり日本共産党批判の書だ。
 今でいうと「…八十年」になるだろう。もっとも終戦前10数年は壊滅状態だったので、1945年か、実質的に現綱領・体制になった1961年を起点にするのが適切で、そうすると『嘘ばっかり』の年数は少なくなる。
 それにしても谷沢は日本近代文学専攻なのに社会主義や共産党問題をよく知っている。戦前か50年頃に党員かシンパだったと読んだ記憶があるが、『実体験』こそがかかる書物執筆の動機・エネルギ-ではなかろうか。」
 ---
 谷沢永一の没後、昨年に、二巻選集が刊行された。
 浦安和彦編・谷沢永一・二巻選集/上・精撰文学論(言視舎、2016.01)。
 鷲田小弥太編・谷沢永一・二巻選集/下・精撰人間通(言視舎、2016.09)。
 とくに後者を一瞥したが、鷲田小弥太の解説・解読も読む価値がある。また、谷沢のすさまじい知識ぶりにも感心する。
 もっとも、誤っていると思われる事実認識や論評も散見される。
 こうした「知識人」が存在したことについて、種々、感じることもある。
 ①戦後日本の「大学」というもの、「大学教授」というものの存在。谷沢永一の生活を支え、こうした「自由」な言論ができたのも、「大学(教授)」という制度が存在したからだ。
 ②関西と東京(または首都圏)。中西輝政ですら、京都・関西と東京(首都圏)の言論人・論壇人(?)との<距離>について、何かで語っていた。
 東京集中のメディアと出版業界も関係する。京都よりさらに東京から「遠い」大阪にいたことも、<谷沢永一>を生んだに違いない。
 司馬遼太郎についてもまた、この観点を無視できないだろうと思われる。
 ③上に関係があるのかどうか、谷沢永一は<新しい歴史教科書をつくる会>の教科書を批判した。まだ生ぬるい、あるいは<左翼的・自虐的>だ、というのがおおよその理由だったかと思う。
 日本の<保守>論者、<保守>的言論の歴史も複雑だ。
 ④上の「下」に収載の<日本通史>(別に単行本になっていて、所持している可能性が高い)は、一人でここまで書ける<文学評論家>がいたのかと驚かせる。
 だが、反・非マルクス主義的であるものの、<天皇・皇室>を肯定的な意味で重視したり(なお、「天皇制」という語をマルクス主義概念だとして拒否する)、昭和天皇を称えたりと、ある意味では、1990年代までの(今もつづく?)「左翼・自虐史観」に反対するがゆえだと思われる、明治維新以降に関する歴史叙述があるのも印象的だ。
 この「知識人」もまた、時代の制約から全く「自由」ではなかった、と思われる。
 全く「自由」だった人、全く「自由」な人、はいるのか、と問われると、皆無と答えるしかないのかもしれない。
 個々の人間が、時代環境、所属する国家、思考するために使う言語、成長過程も含めて学校教育あるいは文献読書で入手した知識・情報から「自由」でないはずはない、ということだろう。
 上の③や④は別に触れるかもしれない。

1679/共産党独裁③-L・コワコフスキ著18章4節。

 日本語版レーニン全集36巻(大月書店、1960/14刷・1972)の手元の所在がなぜか分からないので、今回部分の日本語版の参照はできない。後日、追記するかもしれない。<8/01に追記。>
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
 ---  
 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁③。
 レーニンは、非能率な者をどこにでも投獄することを要求した。そして、なぜ彼らは自分で決定するのを怖れ、可能ならばいつでも上官に問い合わせるのだろうと不思議に思った。
 彼は慎重な監督と徹底的に記録することを要求し、『書記仕事(pen-pushing)』の莫大な多さに驚愕した。
 (『社会主義=ソヴェト権力+電化』という彼の言明は、しばしば引用される。
 革命直後に言った、『社会主義が意味するのはとくに、あらゆることを文書化する(keeping account)ことだ』は、さほど多くは引用されない(中央執行委員会会議、1917年11月17日。全集26巻p.288〔=日本語版全集26巻「全ロシア中央執行委員会の会議/エスエル左派の質問にたいする回答」293頁)。)(+)(*)
 彼は、地方の党や警察機関内部ではいかなる批判も反革命だと見なされ、その批判文執筆者は投獄か死刑の危険に晒される、ということに依拠する制度を作り出し、同時に、労働者人民には、怖れないで国家機関を批判するように求めた。
 官僚主義という癌に関する彼の分析結果は、単純だった。すなわち、教育、『文化』および行政能力、の欠如による。
 二つの処方箋があり、これまた単純だった。すなわち、非能率者を投獄〔=収監〕すること、および実直な官僚から成る新しい監督機関を設置すること。
 レーニンは、スターリンが率いる労働者・農民査察官(Inspectorate)(ラブクリン、Rabkrin)に重要な意味を与えた。これは、全ての行政部署およびその他の監視機関を監督する権限があるものとして任命されていた。そして、彼の考えによれば、官僚主義に対する闘いの成功は、最終的には、この機構の誠実さに依っていた。
 この機構はテロルに関する負担を引き受けたり、あらゆる方向への役立たない指令を発したりしたが、それに加えて、1922年に党の総書記になったスターリンによって、反対者を叩き出す杖として、および党内部の闘争に使う武器として利用された。  
 もちろん、このことを、レーニンは予見しなかった。
 彼は『最後の治療薬』を処方したが、それは、-彼が十分に知っていた-国に離れがたく締め込まれている官僚主義の連鎖へと繋がる形をとる、官僚主義に対する治療薬だった。
 党組織(ヒエラルキー)は、徐々に肥大していった。
 それは、全ての公民を覆う生と死に関する権力を持った。
 最初は真面目な共産主義者によって指導されたが、それは、時の推移のうちに大量の立身出世主義者(careerists)、寄生者(parasites)、追従者(sycophants)を吸い込んだ。そして、数年の間に、彼らが自分たちで描く、統治スタイルの範型になった。//
 レーニンが生きた最後の二年間、動脈硬化と連続する心臓発作という病気が影を投げていた。彼は最後まで、それと闘わなければならなかった。
 1922年12月と1923年1月に党大会の用意として書かれた文章から成る有名な『遺書』は、続く34年の間、ソヴィエトの一般公衆に隠された。
 この文章は、国家の困難さと党組織内部で接近している権力闘争に関する絶望的な感情を表している。
 レーニンは、スターリンを批判する。過度に権力を手中にすることに集中しており、高慢(粗雑、high-handrd)で、気まぐれで、不誠実だ、ゆえに総書記局にとどまるのはふさわしくない、と。
 レーニンはまた、トロツキー、ピャタコフ(Pyatakov)、ジノヴィエフおよびカーメネフの欠点も列挙し、ブハーリンを非マルクス主義者の考えだと批判する。
 彼は、オルジョニキーゼ(Ordzhonikidze)、スターリンおよびジェルジンスキーを、大ロシア民族主義者だ、ジョージア侵攻で使われた手段が残虐だった、と非難する。
 レーニンは、『ロシア人の弱い者いじめに対抗する本当の防御策を非ロシア人に与える』必要性については語らない。そして、つぎのように予言する。
 『我々がツァーリ体制から奪い取ってソヴェトの油脂を少しばかり塗った…国家機構』つまりは同盟〔ソヴィエト同盟〕から離脱できるという約束した自由は、『たんなる紙屑になるだろう。そして、本当のロシア人たちの襲撃から非ロシア人を守ることはできないだろう。そのロシア人の大ロシア熱狂的愛国主義(chauvinist)は、本質において卑劣で暴圧的で、典型的なロシア官僚主義はこうだと言えるようなものだ。』 (+)
 (全集36巻p.605-6〔=日本語版全集36巻「覚え書のつづき-1921年12月30日/少数民族の問題または『自治共和国化』の問題によせて」716頁〕。)//
 こうした訴え、警告および非難には、実際上の重要性がほとんどなかった。
 レーニンは、民主主義的に選出されたメンシェヴィキ政府をもつジョージアを自分の承認を得て赤軍が侵攻したすぐ後に、少数民族の保護や民族自決権について喚起した。
 彼は、中央委員会を拡大することで分派的対立を防止することを望んだ。あたかも、彼自身が実際上は党内民主主義を終わらしめたときと比べて、その大きさが何らかの違いを生じさせ得るかのごとくに。
 レーニンは、主要な党指導者全員を批判し、スターリンの交替を呼びかけた。
 しかし、彼はいったい誰が、新しい総書記になるべきだと考えていたのか?
 -トロツキーは『自信がありすぎる』、ブハーリンはマルクス主義者ではない、ジノヴィエフやカーメネフが『1917年10月の裏切り者』だったのは『偶然ではない』、ピャタコフは、重要な政治問題について信用が措けない。
 レーニンの政治的な意図が何だっただろうとしても、『遺書』は今日では、絶望の叫びのように(like a cry of despair)読める。//
 レーニンは、1924年1月21日に死んだ。
 (スターリンが毒を盛ったという、トロツキーがのちに示唆したことを支持する証拠はない。)
 新しい国家は、レーニンが教え込んだ根本路線に沿って進まなければならなかった。
 防腐(embalm)の措置を施されたその遺体は、今日までもモスクワの霊廟に展示されている。このことは、彼が約束した新しい秩序がすみやかに全人類を抱きしめる(embrace)だろうことを、適切に象徴している。//
 ------
 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*) 上記日本語版全集によると、このように続く。-「社会主義は、上からの命令によって作り出されるものではない。社会主義の精神は、お役所的=官僚主義的な機械的行為とは縁もゆかりもない」。
 ---
 第4節、終わり。第5節の表題は、<帝国主義の理論と革命の理論>。 
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー