前回のつづき。
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 第7節・政治的かつ法的抑圧の増大③。
 1920年代の法実務について論じた共産主義法史学者は、法とは『ソヴェト国家の強化と社会主義経済の発展を助ける統制原理だ』と定義した。(*)
 この定義では、国家当局の判断で国家に有害だ又は新経済秩序を阻害するとされるいかなる個人や集団に対する抑圧も、正当化されてしまう。
 かくして、1928-31年にスターリンが行なった『富農(kulaks)』の絶滅は、つまり数百万の農民が土地を奪われて多くは死の強制収容所へと強制移住させられたのは、レーニン主義法学者の使う専門用語の範囲内で、厳格に実施されたことになった。(134)
 ソヴィエトの最初の民法典第1条の定めでは、国民の私法上の権利は、諸権利が『社会経済の目的と矛盾』しない範囲で法によって保護される(naznachenie)。(135)//
 レーニンは、履行すべき新しい仕事について予め理解しやすくしようと、慣習上の法廷手続をなくした。
 いくつかの工夫が、新たに導入された。
 犯罪か否かは形式的な規準(法を侵犯するか否か)によってではなく、感知できる潜在的な影響力、つまり『実質的』または『社会学的』規準によって決定される。この規準によれば、犯罪とは、『ソヴェト体制の基礎を脅かす、社会にとって危険な全ての作為または不作為』だと定義された。(136)
 したがって、『意図』を立証することによって有罪になりえた。制裁を科す対象は、『主観的な犯罪企図』にあった。(**)
 1923年の刑法典第57条の追加条項は、国家機関が同意しない全ての行為を包含するように広く、『反革命』活動を定義した。
 その条項は、統治機構の破壊や弱体化、あるいは『世界のブルジョアジー』への助力を明確に目的とする行為に追加して、つぎのような行為もまた『反革命』だと性質づけた。
 『目標の達成を直接には意図していないが、にもかかわらず、当該行為の実行人物に関するかぎりでは、プロレタリア国家の根本的な政治的経済的征圧物に対する意識的な攻撃(pokushenie)を再示〔represent〕する行為』。(137)
 このように定義すれば、例えば、儲けようとの願望も、反革命的だと解釈でき、重い制裁に値しうることになる。
 K・V・クリュイレンコは、この第57条の修正について、制裁手段のかかる『柔軟性』は、『隠された形態の反革命活動』、その最も一般的な形態を処理するためには必要だ、と注釈した。(138)
 『類推』という原理によって、直接に定義されていないが類似の性質をもつ犯罪についても国民を訴追することが可能になった(刑法典第10条)。(+)。
 このような規準は、際限なく融通がきくものだった。
 党の法思想をその論理的帰結まで押し上げた共産主義法律家のA・N・トライニンは、1929年、スターリンのテロルが進行する前に、『犯罪が存在しない場合でも刑事上の抑圧が適用される例』はある、と論じた。(139)
 法と法手続の破壊へと、これ以上進むことはほとんどできないところに到達した。//
 このような原理の上で演じられる舞台である裁判の目的は、犯罪の存在または不存在を主張し合うことではなく-これは関係党機関によって予め決定されていた-、政治的煽動や情報宣伝の新しい公共空間を、一般国民の教育のために提供することだった。
 党員である必要のあった弁護人は、被告人の有罪を当然視しておくことが要求され、情状酌量を弁論するだけに限定された。
 レーニンが生きている間は、別の被告人に対する偽証によって生じる気の毒に思う感情は無罪放免を勝ち取らせそうだったし、少なくとも、減刑判決につながった。
 その後は、そのような行動では満足させないことになる。//
 法に関するこのような衝撃的事実の第一の犠牲者は、もちろん、その運命が政治的なかつ情報宣伝の考慮でもって決せられる被告人だった。
 しかし、社会全体も高い対価を支払った。
 ロシアの大衆はつねに司法を低く評価していた。大衆がその態度を克服するように、1864年の裁判所改革は徐々に学ばせてきていた。
 しかし今や、この教訓は一瞬のうちに学ばれていないことになった。
 ボルシェヴィキの実務が確認した司法とは、強者を愉しませるものだった。
 そして、法への敬意は社会の適切な作動にとって基本的なことであるのにもかかわらず、レーニンが定式化した無法性(lawlessness)は、言葉の最も完全な意味において、反社会的なものだった。//
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  (*) Sorek let ソヴィエト法, Ⅰ (1957), p.72。このような考え方は、用語ではなく精神的には帝制時代の伝統を継承している。革命前の主要な憲法学者によれば、ロシアでは法の機能は正義の確保というよりも公的秩序の維持にあった。N・M・コルクニノフ, ソヴィエトの現行法, Ⅰ (1909), p.215-222。
  (134) Sorek let ソヴィエト法, Ⅰ (1957), p.74-75。
  (135) ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦の民法典 (1923)〔露語〕, P.5。ハロルド・ベルマン, ロシアでの正義 (1950), p.27。
  (136) ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦の刑法典, 第2版 (1922)〔露語〕, 第6章, p.3。
  (**) ルドルフ・シュレジンガー, ソヴィエトの法理論 (1945), p.76。ここでも、ロシアの先哲者は継承されている。1649年の(刑事)法典によると、国家反逆罪が問題になっている事件では、意図と行為は明確には区別できない。リチャード・パイプス, 旧体制下のロシア (1974), p.109。
  (137) SUiR, No. 48 (1923年7月25日), 布令第479号p.877。
  (138) A・N・トライニン, 刑法-ロシア社会主義連邦 (1925), p.30n。
  (+) この原理は、つぎのように適用される。『(第57条と第74条は)反革命罪および国家行政制度に対する犯罪を一般的に定義している。この第57条と74条にもとづいて、かりに国家反逆罪の一般的概念に含まれる行為がなされたが<具体的に(specifically)>予知されていないとき、…最も適切な同じ章の条項を適用することは許されうる。』
 A・N・トライニン, 刑法-ロシア社会主義連邦 : Chast' Osobennaia (1925), p.7。
  (139) A・N・トライニン, 刑法: Chast' Osobennaia (1929), p.260-1。
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 第7節・終わり。