秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ロシア

2143/J・グレイの解剖学(2015)⑤-Hobsbawmら04。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳をつづける。この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm 04。
 (13)資本主義のアナーキーな性質に関するマルクスの洞察は、市場ユートピア主義とは対抗して、きわめて適切なものだ。彼の見方は、グローバル化は市場リベラルたちの幻想を鏡に映している、というものだった。
 Hobsbawm の<資本の時代>(1975)と<帝国の時代>(1987)は、思想と権力の間の相互作用に関する深い考察を示した。しかし、不幸にも、その考察は共産主義を対象としては行われなかった。
 彼の新しい本はそれまでの書と同様に、ソヴィエトの経験はほとんど蛇足的にだけしか言及されていない。そしてその際には、最も言い訳がましい言葉が語られる。
 この大著の計16章のうち、一つの章だけが、マルクスの20世紀の意味に焦点をあてる。
 その他の章は、敬虔な聖書に関する解説や長く忘れられている左翼内部の党派的論争にあてられている。-「マルクス博士とヴィクトリア時代的批評者」、「綱要の発見」等々。
 今日の世界に関するマルクス思想の姿勢を扱う数十頁は、誤っているか正しさ半分の、長たらしく退屈なものだ。
 一つだけ、例を挙げよう。
 Hobsbawm はEagleton のように、生態上の危機を資本主義の副産物だと見なす。そして、至るところで中央計画を伴っていた環境破壊には論及しない。
 Hobsbawm はこう述べる。「生物圏に対する我々の経済の影響を逆転させるか少なくとも統制する必要性と、資本主義市場に必須なものとの間の特許争いがある。後者は、利潤追求をして最大限の経済成長を継続させることだ。これは、資本主義のアキレス腱だ」。
 しかし、毛沢東の中国でそうだったが、以前のソヴィエト同盟で厄災的な黄塵地帯と飢饉を生んだのは、産業成長の最大限の追求だった。
 ソヴィエトにあった現実の別の点とともに、Hobsbawm は、この事実を記憶の中に閉じ込めている。//
 (14)Hobsbawm がソヴィエト同盟について語る若干の文章は、最もありふれた種類の言辞だ。
 彼は書く。-「ロシアは後進国だったので、社会主義社会の滑稽画以上のものを生み出せなかった」。
  「リベラルな資本主義ロシアは、ツァーリ体制のもとでは生じなかっただろう」。
  ソヴィエト・システムを「アジア的僭政」の一類型と見なす西側マルクス主義者の長い列に並んで、Hobsbawm は、ロシア社会主義は「赤い中国帝国」にのみなり得るだろうとのプレハノフ(Plekhanov)の言明を肯定的に引用する。
 ソヴィエト全体主義を東方僭政体制の遺物だと書いてしまうことは、植民地の家屋にふさわしい非西洋文化に対する侮蔑を示している。
 かつまた、このような主張を繰り返す者たちは、つぎのことをほとんど問わない。共産主義に関するマルクスの考えの実際上の帰結はなぜ、どこでも同じだったのか。
 結局のところ、包括的な抑圧、環境上の大被害、遍在する腐敗で苦しんだのは、ロシアだけではなかったのだ。
 共産主義の実験が試みられた全ての別の国々で、そうだった。
 ロシアの後進性の結果だというのは、まるで誤っている。ソヴィエト・システムの欠陥は、構造的で固有のものだ。//
 (15)Hobsbawm は、共産党員だった経験には沈黙せざるを得ない。
 彼がそれに向き合うならば、自分は約60年間共産党員だったのは生涯にわたる自己欺瞞の訓練だった、ということを承認しなければならないだろう。-この人物は党が解散してすらも、信条を放棄しなかったようだ。
 この著名なマルクス主義の学者は、1920年代の帝制時代のエミグレたち(émigré)とはほとんど何も似ていない。彼らエミグレたちは、ロシアの古い秩序はいつか回復するという夢を決して捨てなかった。
 むろんHobsbawm は、そのような希望を抱くのを、憤然として拒否するだろう。
 彼はこう記す。-「ソヴィエト類型の社会主義モデルは-これまで社会主義経済を構築しようとする唯一の試みだったが-、もはや存在しない」。
 しかし、何らかの性格の社会主義システムが将来に復活する可能性を彼が否定しないことで、うっかり本音を漏らしている。
 鋭敏な19世紀の歴史家であるHobsbawm は、20世紀について何も学ばなかった。
 それが望まれていたことだ。
 Eagleton にとってと同じく、彼には、マルクス主義は一房の理論以上のものだ。
 マルクス主義者であることは、歴史の正しい側に立っていることの保障なのだ。
 共産主義のプロジェクトを現実のそれでもって判断することは、彼らの人生は意味がなかった、ということを認めてしまうのと同じことなのだ。//
 (16)マルクスの思想は、我々の情況の諸側面について意味をもち続ける。しかしそれは、マルクスの革命的な共産主義プロジェクトと関係する何かのゆえでは全くない。
 啓発的であるのは、資本主義の革命的性格についてのマルクスの洞察だ。
 その他の思想家は、我々がどのようにして資本主義のもとでの生活である永続革命に対処することができるかを、マルクス以上に語ってくれる。
 ポスト・ケインズ主義の経済学者、H・ミンスキー(Hymann Minsky)が金融資本主義の不安定さについて書いたものは、マルクスまたはその支持者たちから拾い集めたものよりも有益だ。
 しかし、偉大な19世紀の思想家は、資本主義の危険性と矛盾に対するその洞察のゆえに、つねに読むに値するだろう。
 後世のマルクス主義者たちは、同様の栄誉を何も要求することができない。
 彼らは、自分たちが(つねに間違っているのではないが)批判する資本主義文化について誤って理解していることを例証している。
 現在を覆うハイパー(hyper-)資本主義は、過去についてはほとんど役立たない。そして、世界の諸問題の困難さを感じて苦しんでいる多くの人々が存在するために、前世紀の幻惑はつねに、その魅力を再び獲得する傾向にある。
 このことこそが、Eagleton やHobsbawm のような著作者が登場するゆえんだ。
 彼らについて我々がどう考えようとも、彼らは、需要を充たす。
 死んでしまったユートピアを売り出すこと(marketing)に-記憶を喪失してしまった文化では儲かる商品(profitable commodity)だ-、最後のマルクス主義者たちは最終的な役割を見出した。
 2011年。
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 第32章、終わり。

2105/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、本文p.530までのうち、p.469-p.474。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義⑤。
 (33)1968年8月のソヴィエトによる占領とそれに続いた大量抑圧は、チェコスロヴァキアの知識人たちや文化生活にほとんど完璧に息苦しい影響を与えた。他の同ブロック諸国と比べてすら、さらに気の滅入るがごとき様相だった。
 他方で、厳密にいえばチェコスロヴァキアでの改革運動が解体しておらず軍隊の実力行使によって抑圧されたことが理由なのだが、この国には修正主義の基本的考え方のための、なおも肥沃な土壌があった。
 つぎのように想像され得るかもしれない。すなわち、ソヴィエトの侵攻が起こらなければ、改革運動がドゥプチェク(Alexander Dubček)のもとで始まり、大多数の民衆に支持されて、システムの基盤を揺るがすことなく「人間の顔をした社会主義」に最終的には到達しただろう、と。
 この考えはもちろん考察に値するし、その考察は何を基礎的なものと見なすかにかかっているだろう。
 しかしながら、明確だと思われるのは、かりに改革運動が継続してポーランドのように侵攻によって弾圧されることもなく、侵攻を怖れて解体することもなかったとすれば、必ずやすみやかに多元的政党制度をもたらし、そうして、共産党独裁を破壊し、その教理自体が自己欺瞞的である共産主義を解体させただろう、ということだ。//
 (34)抑圧制度が一般的には他諸国よりも完全だった東ドイツでは、修正主義の広がりは全くなかった。それでもしかし、1956年の事件は東ドイツを揺るがせた。
 哲学者であり文学批評家であるWolfgang Harich は、ドイツ社会主義の民主主義的な綱領を提示した。それによって彼は、数年間、収監された。
 何人かの著名なマルクス主義知識人たちは、国を去った(Ernst Bloch、Hans Mayer、Alfred Kantrowicz)。
 現在もそうであるように、思想の厳格な統制によって、修正主義を主張するのはきわめて困難だった。しかし、ときたま、改革主義者の見解が聞こえてきた。
 哲学の分野では、この文脈で最も重要な人物は、Robert Havemann だった。哲学の問題に関心をもつ物理化学の教授で、他の多くの修正主義者とは異なり、ずっと確信的マルクス主義者のままだった。
 むろん西ドイツで出版された小論集で、彼は、科学と哲学での党の独裁を、そして理論上の諸問題を官僚的な布令でもって決定するという習慣を、鋭く批判した。
 加えて、弁証法的唯物論という教理、および共産主義者の道徳性に関する公式的規範を攻撃した。
 しかしながら、彼は、実証主義の観点からマルクス主義を批判したのではなく、逆に、弁証法がもっと「ヘーゲル主義化した」範型に回帰することを望んだ。
 彼は、レーニン主義的な決定論の範型は道徳的に危険で現代物理学と合致していない、と考えた。
ヘーゲルとエンゲルスに従って、たんなる描写にすぎないのではない、論理関係を含む現実性の見方である弁証法を想定(postulate)した。
 彼はこうしてBloch のように、弁証法的唯物論の術語の範囲内で、目的主義(finalistic)の態度を正当化しようとした。
 スターリン主義者による文化の隷従化を非難し、機械主義論の教理での自由の哲学上の否定を宣言した。機械主義的教理は、マルクス主義からは、共産主義のもとでの文化的自由の破壊と軌を一にすると見られていた。
 彼は、哲学上の範疇であり政治的な価値であるものとして「自発性」の再生を呼び求めた。しかし同時に、弁証法的唯物論と共産主義への忠誠心も強調した。
 Havemann の哲学上の著作は、化学者から期待するほどには厳密ではない。//
 (35)ソヴィエト連邦の哲学には、語り得るほどの修正主義は存在しなかった。しかし、若干の経済学者たちは、経営と分配の合理化を意図する改革を提案した。
 公式のソヴィエト哲学は、脱スターリン主義化の影響をほとんど受けなかった。一方で、非公式の変種的考えはすみやかにマルクス主義との関係を失った。
 公式の哲学で起きた原理的な変化は、弁証法的唯物論の諸公式はもはやスターリンの小冊子に正確に倣って教育することはできない、ということだった。
 1958年に刊行された教科書は、四つではなく三つの弁証法的法則を区別して、エンゲルスに従っていた(否定の否定を含む)。
 唯物論がまず解説され、その次が弁証法だった。これは、スターリンによる順序の逆だ。
 レーニンの<哲学ノート>で挙げられた弁証法の数十ほどの「範疇」は、新たに編成された定式の基礎となった。
 ソヴィエトの哲学者たちは、「形式論理に対する弁証法の関係」という昔ながらの主題について若干の討議を行なった。その多数見解は、主体・物質関係が異なるようには両者は対立しない、というものだった。
 ある者はまた、「矛盾」は現実性そのものの中で発生し得るという理論に挑戦した。
 ヘーゲルは、「フランス革命に対する貴族的反動」の化身だとされなくなった。
 それ以来、ヘーゲルの「限界」と「長所」について語るのが、正しい(correct)ことになった。//
 (36)こうした非本質的で表面的な変化の全ては、レーニン=スターリン主義的「弁証法的唯物論(diamat)」の構造をいささかも侵害しなかった。
 それにもかかわらず、ソヴィエト哲学は、他分野よりも少ない程度にだが、脱スターリニズム化から若干の利益を享けた。
 若い世代が舞台に登場してきて、自然なかたちで、西側の哲学と論理の考察、外国語の学修、そして非マルクス主義的なロシアの伝統の探究すら、を始め出した。-スターリンによる粛清を免れた数少ない残存者を除いて、能力のある教育者がほとんどいなかったのが理由だ。
 スターリンの死後5年間、若い哲学者たちはアングロ=サクソンの実証主義と分析学派にもっとも惹かれた。
 論理への対処法は、より合理的になり、政治的な統制により従属しなくなった。
 1960年代に出版された計5巻の<哲学百科>は、全体としては、スターリン時代の産物よりもましだった。つまり、主要なイデオロギー的論考、とくにマルクス主義に論及する論考は従前と同じ水準にあったが、論理や哲学史に関係する多数の論考が見られた。それらは理知的に執筆されており、国家プロパガンダに添って叙述されたにすぎないのではなかった。
 ヨーロッパやアメリカの思想と新たに接触しようとする若い哲学者たちの努力のおかげで、若干の現代的著作が、西側の言語から翻訳された。
 マルクス主義をおずおずと警戒しながら「現代化」する試みは、しばらくの間、1958年に出版され始めた<哲学(Philosophical Science(Filosofskie Nauki))>に感知することができた。
 しかしながら、公表されたものは、全体としては、発生していた精神的(mental)な変化を反映していなかった。
 スターリン時代に訓練を受けた辺境者たちは、若者たちのいずれが出版や大学での教育を許容されるのかに関する決定を行い続けた。そして、当然ながら、自分たちに合うものを好んだ。
 しかしながら、若い学歴の高い哲学者たちの何人かは、統制がさほど厳格ではない他の分野で自分の見解を表現する方法を見出した。//
 (37)しかし、全体としては、共産主義によって最初に破壊された学問分野である哲学は、再生するのが最も遅い分野でもあり、その成果は極端に乏しかった。
 他の研究分野は、元々は「スターリンによる」ものだった順序とは反対の順序で多かれ少なかれ回復した。
 独裁者の死から数年内に、自然科学は、事実上はイデオロギーによって規整されなくなった。但し、研究主題の選択は、従来どおりに厳格に統制され続けた。
 物理学、化学、および医学や生物学の分野では、国家は物質的な資源を提供し、用いられる目的を決定している。しかし、それらの成果はマルクス主義の観点から正統派(orthodox)のものでなければならないとは、もはや主張していない。
 歴史学は依然として厳格に統制されているが、政治的な微妙さがより少ない領域であるほど、規制に服することが少ない。
 しばらくの年月の間は、理論言語学は比較的に自由で、ロシアの形式主義学派の伝統を復活させた。しかし、この分野にも国家は研究機関を閉鎖することによってときおり介入し、多彩な非正統派の思想のはけ口として利用され続けていることを知らしめてきている。 しかしながら、1955年から1965年までの期間は、全体としては、荒廃した年月の後でのロシア文化を再生させようとする、かなりの程度の、かつしばしば成果のあった努力の時代の一つだった。
このことは、歴史編纂や哲学のほか、文学、絵画、劇作および映像について言える。
 1960年代の後半には、個人や研究機関を疑っての圧力が再び増大した。
 東ヨーロッパの状況とは違って、ソヴィエト同盟でのマルクス主義は、蘇生の兆候をほとんど示さなかった。
 とくにおよそ1965年以降に勢いづいている秘密のまたは内々のイデオロギー的展開の中には、マルクス主義的な動向をほとんど感知することができない。その代わりに見出すこができるのは(多くは「マルクス主義のないボルシェヴィズム」と称し得る形態での)大ロシア民族排外主義(chauvism)、抑圧された非ロシア民衆の民族的要求、宗教(とくに正教、広義のキリスト教、仏教)、および伝統的な民主主義的思想だ。
 マルクス主義またはレーニン主義は一般的反対派の小さな分派を占めるにすぎない。しかし、それは、現存する。その著名なソヴィエトの代弁者は、Roy とZhores のMedvedyev 兄弟だ。
 歴史家であるRoy Medvedyev は、スターリニズムの一般的分析を大々的に行ったことを含めて、いくつかの価値ある著書の執筆者だ。
 この分析書は他の出所からは知ることのできない多くの情報を含んでおり、確かに、スターリニズム体制の恐怖を言い繕う試みだと見なすことはできない。
 にもかかわらず、この著者の他書のように、レーニニズムとスターリニズムの間には大きな亀裂があり、社会主義社会のためのレーニンの企図はスターリン僭政によって完全に歪曲され、変形された、という見方にもとづいている。
 (この書のこれまでの章の叙述から明確だろうように、この書の執筆者は正反対の見方をしている。)//
 (38)最近の20年間、ソヴィエト同盟のイデオロギー状況は、多くの点で他の社会主義諸国で生じたのと同じ変化を経験してきている。
 マルクス主義は、一つの教理としては、実際には死に絶えている。しかし、マルクス主義は、ソヴィエト帝国主義、および抑圧、搾取と特権の国内政策全体を正当化するという、有益な機能を提供している。
 東ヨーロッパでと同様に、支配者たちは、かりに人民と共通する基盤を見出すのを欲するとすれば、共産主義以外のイデオロギー上の価値に頼らなければならない。
 ソヴィエトの民衆たち自身に関するかぎりでは、問題となる価値は、民族排外主義や帝国主義の栄誉だ。一方で、ソヴィエト同盟の全ての民衆は、外国人恐怖症に、とくに反中国民族主義や反ユダヤ主義に、陥りやすい。
 これこそが、言われるところのマルクス主義諸原理にもとづいて構成された世界で最初の国家に残された、マルクス主義の遺産の全てだ。
 この、民族主義的で、ある程度は人種主義的な見地は、ソヴィエト国家の本当の、公言されないイデオロギーだ。それは、暗示や印刷されない文章によって保護されているのではなく、それらによって吹き込まれている。
 そして、これはマルクス主義とは異なり、民衆の感情の中に、現実的な反響を呼び覚ましている。//
 (39)マルクス主義が完全に衰退し、社会主義思想が信頼を失い、そして勝利した社会主義諸国でと同じく嘲弄物(ridicule)に変わった、そのような文化的な世界のかけらは、たぶん存在しない。
 矛盾する怖れをもつことなく、次のように言うことができる。思想の自由がソヴィエト・ブロックで許容されていたとすれば、マルクス主義は、全地域での知的生活のうちの最も魅力がないものだということが判明しただろう、と。
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 第2節、終わり。第3節の表題は、<ユーゴスラヴィア修正主義>。

2064/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。 
 第2節・東ヨーロッパでの修正主義①。
 (1)1950年代の後半以降、共産主義諸国の党当局と公式イデオロギストたちは、党員またはマルクス主義者であり続けつつ多様な共産主義教条を攻撃する者たちを非難するために、「修正主義」という語を用いた。
 この言葉には、厳密に正確な意味はなかった。あるいは実際には、スターリン後の改革に反対する党「保守派」に対して、「教条主義」という語が用いられた。
 しかし、原則としては、「修正主義」という語が示唆していたのは、民主主義的かつ合理主義的な傾向だった。
 従来はこの語はマルクス主義に対するBernstein の批判について用いられてきたので、党活動家たちは新しい「修正主義」をBernstein の考え方と連結させようとした。しかし、これら両者の関係は隔たっていて、そうした関係づけは馬鹿らしいものだった。
 積極的な「修正主義者」のほとんど誰も、Bernstein に関心を持たなかった。
 1900年頃のイデオロギー論議の中心にあったものは、もはや話題にならなかった。
 当時に激しい憤懣を掻き立てたBernstein の考えのいくつかは、今では正統派マルクス主義者たちに受容されていた。社会主義は合法的手段で達成し得る、という原則的考え方のように。-全くの戦術上の変化だけれども、イデオロギー的には重要でなくはない。
 「修正主義」はBernstein の読解に因っていたのではなく、スターリンのもとにあった時代に由来していた。
 しかしながら、党指導者がこの用語をいかに曖昧に用いたとしても、1950年代と1960年代には、本当の、能動的な政治的および知的な運動が存在した。その運動は、当面の間はマルクス主義の範囲内で、あるいは少なくともマルクス主義の語彙を使って活動しはしたれども、共産主義の教理に対してきわめて破壊的な効果を持った。//
 (2)1955-57年に共産主義イデオロギーが解体するにつれて、システムに対する攻撃が広がった。
 この時期の典型的な特質は、現存する条件の批判にとどまらず、きわめて活発で目立っていて、全体としてきわめて有効だった、ということだ。
 このような優勢的な力には、いくつかの理由があった。
 第一に、修正主義者たちは「既得権益層」に帰属していたので、大衆メディアや非公開の情報に接近することが十分に容易だった。
 第二に、事柄の性質上、彼らは他のグループよりも、共産主義イデオロギーとマルクス主義について、また国家と党機構について、多くのことを知っていた。
 第三に、共産主義者たちは全ての問題について指導すべき考え方に慣れ親しんでおり、結局のところは党が、活力と主導性をもつ多数の党員たちを取り込んでいた。
 第四に、そしてこれが主要な理由だが、修正主義者たちは、少なくとも相当の期間、マルクス主義の語彙を用いた。すなわち、彼らは共産主義のイデオロギー的ステレオタイプとマルクス主義の権威に訴えかけ、社会主義の現実と「古典」に見出し得る価値と約束の間の差違について、驚かせるほどの比較を行った。
 このようにして、修正主義者は、民族主義または宗教の観点からシステムに反抗した他の者たちとは違って、党内見解について訴えかけたのみならず、党の周囲に反響を与え、覚醒させた。
 彼らの意見には党機構員も耳を澄まし、そしてこれが政治的変化の主たる条件だったのだが、その結果として党機構のイデオロギー的混乱を招くこととなった。
 彼らは、ある程度は共産主義ステレオタイプをまだ信じているがゆえに、またある程度はそれが有効だと知っているがゆえに、党の用語を用いた。
信仰と慎重な偽装(camouflage)の割合がどうだったかは、現在の時点では査定するのが困難だ。//
 (3)生活の全分野に影響を与え、共産主義の全ての神聖さを徐々に掘り崩した批判論の大波の中で、一定の要求や観点は修正主義に特有のものだったが、片方で、一定のそれらは非共産党または非マルクス主義の体制反対者と共通していた。
 提示された主要な要求は、つぎのようなものだった。//
 (4)第一に、批判論の全ては、公共生活の一般的な非中央化、抑圧と秘密警察の廃止、あるいは少なくとも、法に従い、政治的圧力から自立して行動する司法部に警察が従属すること、を求めた。
 プレスの自由、科学と芸術の自由、事前検閲の廃止も、要求した。
 修正主義者たちは党内民主主義も求め、ある範囲の者たちは党内に「分派」を形成する権利も要求した。 
 これらの点で、彼らの間には最初から違いがあった。
 ある者たちは、一般的要求にまで進めることなく党員のための民主主義を要求した。彼らは、党は非民主主義的社会の中にある孤立した民主主義的な島であり得ると考えているように見えた。
 彼らはそうして、明示的にであれ暗黙にであれ、「プロレタリアートの独裁」原理、すなわち党の独裁の原理を受容し、支配党は内部的な民主主義という贅沢物を提供できると想定していた。
 しかしながら、そのうちに、修正主義者のほとんどは、エリートたちだけのための民主主義は存在することができない、ということを理解するに至った。
 つまり、かりに党内グループが許容されれば、そのグループは、そうでなければ発言を否定される社会的勢力のための発言者となり、党内部の「分派」制度は多元的政党制度の代わりになるだろう、ということをだ。
 したがって、政治的諸党の自由な形成とそれに伴う全ての結果か、それとも党内部での独裁を含む一党による独裁か、を選択する必要があった。//
 (5)民主主義的要求の中でも重要なのは、労働組合と労働者評議会の自立性だった。
 「全ての権力を評議会へ」との叫びすら聞こえてきた。-たしかに声高ではなかったが、賃金や労働条件の問題のみならず産業管理にも重要な役割を果たす、労働者評議会の党からの独立という考えは、ポーランドとハンガリーの両国で頻繁に提示された。のちには、ユーゴスラヴィアの例が引用された。
 労働者の自己統治は、当然に経済計画の非中央化につながるものだった。//
 (6)非政党界隈で望まれた重要な改革は、宗教の自由と教会への迫害の中止だった。
 ほとんどが反宗教的である修正主義者たちは、この問題を傍観していた。
 彼らは教会と国家の分離を信じており、その間に拡大していた、宗教教育の学校への再導入という要求を支援しなかった。//
 (7)一般的に提示された要求の第二の範疇は、国家主権と「社会主義ブロック」諸国の間の平等に関係していた。
 全ての社会主義ブロック諸国で、ソヴィエトの監督は多数の分野できわめて強かった。とくに軍と警察は特別で直接的な統制のもとにあり、全ての問題について長兄〔ソヴィエト同盟〕の例に従う義務は、国家イデオロギーの基盤だった。
 民衆全体が鋭敏に感じていたのは、それぞれの諸国の恥辱、ソヴィエト同盟への従属、それによる隣国に対する不躾な経済的搾取、だった。
 しかしながら、ポーランド民衆は全体としては強く反ロシア的だった一方で、修正主義者たちは一般的には伝統的な社会主義諸原理を主張し、民族主義(nationalism)の語法を用いるのを避けた。
 修正主義者たちや他の人々が頻繁に主張した要求は官僚機構員たちが享受している特権の廃止であり、収入の問題というよりも、日常生活の困難さから彼らを解放している超法規的な取り決め-特殊な店舗や医療機関の利用、居住上の優先、等々-にあった。//
 (8)批判論の第三の主要な領域は、経済の管理だった。
 産業を元のように私人の手へと移すという要求はほとんどなされなかった、ということには注目しておかなければならない。
 ほとんどの人々は、産業が公的に所有されていることに慣れ親しんでいた。
 しかしながら、つぎのことが要求された。
 強制的な農業集団化の停止、極端に負担の多い投資計画の縮小、経済への市場条件の役割の拡大、労働者への利潤分配、合理化された経済計画、非現実的な全包括的計画の廃止、起業を妨害している基準や指令の減少、およびサービスや小規模生産の分野での私的および協同的活動の容認。
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 ②へとつづく。

1844/L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)は、2004年、77歳の年に、英語版初版は1978年だった『マルクス主義の主要潮流』に、つぎの「新しいエピローグ」を追加した。以下は、その試訳。一文ごとに改行。段落の冒頭に、原文にはない番号を付した。合冊版の1213-14頁。
 2004年合冊版では、「新しい緒言」と、この「新しいエピローグ」だけが、新たに書き加えられている。
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 L・コワコフスキ・2004年全巻合冊版の「新しいエピローグ」。
 New Epilogue(新しいエピローグ・あとがき)。
 (1) エピローグおよび新しい緒言(New Preface)の若干の文章に、このエピローグで付け加えることはほとんどない。
 この数十年間に多数のことが生起したが、(予見できる何かがかりにあるとして)マルクス主義、相互に関連させて理解することのできないその多様な化身のありうる変化を、あるいは共産主義イデオロギーとその制度的組織体-死骸というのがより上手い言葉かもしれないけれども-の将来の運命を、我々は予見することはできない。
 しかしながら、忘れないようにしよう。地球で最も人口の多い国、中国は今や、けばけばしく幻惑させて市場を拡大し、いくつかの重要な点では、その不健康なマルクス主義の過去-スターリニズム後のソヴィエト同盟とは違って公式には一度も否認していない過去-を維持し続けている、ということを。
 毛沢東主義のイデオロギーは中国で死んでいるかもしれないが、国家と党は、人民の思考方法に対する厳格な統制をなおも行っている。
 自立した宗教生活は、政治的反対については勿論そうであるように、迫害され、窒息させられている。
 多数の非政府団体が存在するにもかかわらず、法は、自立した機能をもつものとしては存在していない(適正な意味での法は、市民が国家機関に対して法的措置を執ることができ、勝訴する可能性のある場合にのみ存在する、と言うことができる)。
 中国には、市民的自由はなく、意見表明の自由もない。
 その代わりにあるのは、大規模の奴隷的労働と(奴隷的労働が行われる)強制収容所および少数民族の残虐な弾圧だ。これに関して、ティベット文化の野蛮な破壊は最もよく知られているが、決して唯一の例ではない)。
 これは、いかなる理解可能な意味でも、共産主義国家ではない。しかし、共産主義のシステムから成長した専制体制だ。
 多数の研究者と知識人は、それが最も残虐で、破壊的で、かつ最も愚かなときに、共産主義システムの栄光を称揚した。
 そのような流行は終わったように見える。
 この中国はそもそも西側文明の規範を採用するのだろうか、は不確実だ。
 市場(the market)はこの方向への発展に賛成するだろうが、決して保障することはできない。
 (2) ソヴィエト体制の解体後、ロシア帝国主義は復活するだろうか?
 これは想定し難い。-我々は、失われた帝国への郷愁がある程度にあることを観察することができるけれども-。しかし、かりに復活するならば、その再生に対してマルクス主義は何も寄与しないだろう。
 (3) 資本主義の適正な定義がどのようなものであれ、法の支配や市民的自由と結びついた市場は、耐え得る程度に物質的な福祉と安全を確保するには明らかに優越しているように見える。
 だがなお、この社会的、経済的な利益にもかかわらず、「資本主義」は全ゆる方向から絶えず攻撃されている。
 この攻撃は、首尾一貫したイデオロギー内容をもたない。
 それらはしばしば革命的スローガンを使う。誰もその論脈での革命がいったい何を意味すると想定しているのかを説明することができない。
 この曖昧なイデオロギーと共産主義の伝統の間には何らかの遠い関係がある。しかし、マルクス主義の痕跡を反資本主義の言辞のうちに見出すことができるとすれば、それはグロテスクにマルクス主義を歪曲したものだ。すなわち、マルクスは技術の進歩を擁護しており、彼の姿勢は、発展途上国の諸問題への関心が欠けていることも含めて、ヨーロッパ中心的だった。
 我々が今日に耳にする反資本主義スローカンは、明瞭には語られない、急速に成長する技術に対する怖れを含んでいる。それがもち得る不吉な副作用についての恐怖だ。
 技術発展を原因とする生態的、人口動態的、そして精神的な危険を我々の文明が見通すことができるか否か、あるいは我々の文明はその毒牙にかかって大厄災に至るのか否か、誰も確実なことは言うことができない。
 そうして、現在の「反資本主義」、「反グローバリズム」および関連する反啓蒙主義の運動と観念は静かに消失し、いずれは19世紀初頭の伝説的な反合理主義者(Luddites)のように哀れを誘うものに見えるようになるのか否か、あるいはそれらはその強さを維持して、その塹壕を要塞化するのか否か、我々は答えることができない。 
 (4) しかし、マルクス自身は彼が既にそうである以上にますます大きな人物になるだろうと、我々は安全に予見してよい。すなわち、観念の歴史に関する教科書のある章での、もはやいかなる感情も刺激しない人物、19世紀の「偉大な書物」-ほとんどの者がわざわざ読みはしないがそのタイトルだけは教育を受けた公衆には知られている書物-の一つのたんなる著者として、だ。
 この哲学とその後の分岐した支流を要約し、評価しようと試みた、新たに合冊された私の三巻の書物(マルクス主義者と左翼主義者の憤慨を刺激することが容易に予測できたが、その広がりは私が想定していたよりは少なかった)に関して言えば、この対象になお関心をもつ、次第に数が少なくなっている人々とって、これらの書物はおそらく有益だろう。
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 以上。
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 第一巻(ドイツ語版ハードカバー、1977年)のカバーのL・コワコフスキ。
 Kolakowski

 その下の著者紹介(1977年)も、以下に試訳しておく。
 Leszek Kolakowski、1927年10月23日、ラドム(ポーランド)生まれ。
 戦後、哲学を研究。1953年、ワルシャワ大学講師。
 修正主義思想を理由として公式に批判されたが、西側の大学での在外研究助成金を受ける(オランダとパリ)。
 1958年、ワルシャワ大学哲学史の講座職。
 1966年、見解表明の自由の制限に対する批判を公表したとして、党を除名される。
 1968年、講座職を失い、カナダへ出国。
 1969年、Montreal のMcGill CollegeとBerkely (カリフォルニア)で教育活動。
 1970年以降、Oxford のAll Souls College。
 1975年、Yale の客員教授。
 1977年、ドイツ出版協会(Deutsches Buchhandel)の平和賞。
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1220/資料・史料-2013.09.10「慰安婦の真実」国民へのアピール。

資料・史料-「慰安婦の真実」国民へのアピール

 2013年09月10日

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  「慰安婦の真実」に関する国民へのアピール

 いわゆる「従軍慰安婦」問題をめぐって、日本バッシングの風潮が世界的に広がっています。日本の慰安婦は代価を払わない「性奴隷」であったとか、「20世紀最大の人身売買事件」だったとか、ナチスのユダヤ人虐殺に匹敵するホロコーストだったとか、事実無根の途方もない言説がばらまかれています。アメリカの公共施設に朝鮮人慰安婦の像や碑が建てられ、地方議会の非難決議も行われています。韓国、中国、アメリカにロシアまで加わって日本批判を展開しています。

 アメリカでの慰安婦問題は1990年代初頭から在米中国、韓国人のロビー活動で始まり、2007年にはアメリカ議会下院での日本非難決議がなされ、引き続いてオーストラリア、オランダ、カナダ、フランス、EU、フィリピン、台湾と続き、今や日本はこの問題で、四面楚歌ともいうべき深刻な状況に置かれています。

 このような事態がもたらされた最大の原因は、日本政府が、何一つ証拠がなかったにもかかわらず、慰安婦の「強制連行」を認めたかのように読める「河野談話」を平成5年(1993年)に発表したことにあります。「河野談話」は、慰安婦の強制連行さえ認めれば事は収まるという韓国側の誘いに乗って、事実を曲げて政治的妥協をはかって作成された文書です。しかし、その結果は全く逆に、「河野談話」こそが強制連行の最大の証拠とされ、各国の日本非難決議の根拠となり、韓国人の妄言に見せかけの信憑性を与えることになったのです。

 あるアメリカの有識者は、「古今東西、軍隊と売春婦はつきものであり、それについて謝罪したのは有史以来日本政府だけである」と指摘しました。そして「そのような当たり前の事に謝罪したのは、本当はもっと悪いことをしていて、それを隠すためではないかとさえ勘ぐられている」と言います。日本を貶めようとする外国の謀略に乗せられ、国益を無視して安易に発した「河野談話」が、慰安婦問題で日本を苦境の縁に立たせた元凶なのです。

 日本国民がこのいわれのない侮辱に対して怒らないとしたら、それは日本国家の精神の死を意味します。私たちはどんなことがあってもこの汚名を私たちの子々孫々に負わせることはできません。

 今年7月、この問題を憂慮する個人・団体が集まり、私たちは<「慰安婦の真実」国民運動>を結成しました。今後は日本国内外の多くの同志と広く連携をとり「河野談話」の撤回運動を初めとする、日本の汚名をそそぐための様々な運動を展開していきます。

 国民の皆様には、我々の救国運動に深いご理解をいただき、深甚なるご支援を賜りますよう、心よりお願いいたします。

  平成25年9月10日

  「慰安婦の真実」国民運動   代表 加瀬英明

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1050/岩波書店・丸谷才一とNHK・坂の上の雲。

 〇<三角地帯>のうち論壇とマスコミに深く関係し、ひいては教育にも影響を与えている「左翼」の司令塔・参謀(戦略)塔の重要な一つは、朝日新聞とともに、岩波「書店」という組織だ。
 その岩波が出している宣伝用小冊子(但し、いちおう定価は付いている)に、『図書』というのがある。その『図書』の2011年10月号で、丸谷才一は次のようなことを書いている(連載の一部らしい)。
 ・「明治政府が、東アジアに領土を拡張しようとする方針」からして天皇の神格化・軍事の重視をしたとき、「軟弱な平安時代」よりも「飛鳥時代と奈良時代」に規範を求めた。これが、正岡子規による「万葉集」の礼賛(文学)、岡倉天心による飛鳥・奈良美術の「発見」(美術)へと作用した。
 ・「もともと、病身なのに従軍記者になって戦地におもむくような子規の軍国主義好きが、親友夏目漱石の徴兵忌避と好対照をなす……」(以上、p.32)。
 最終的には正岡子規による(当時までの日本の)歌・和歌の評価は適切ではない、ということを書きたいようだ。この点と上の前段全体の明治政府の文化政策と子規等との関係については、知識もないので、さておく。
 気になるのは、第一に明治政府は「東アジアに領土を拡張しようとする方針」を持っていたとだけサラリと書いて、そのように断定してしまっていることだ。西洋列強・ロシアとの関係や当時の東アジア諸国の状況などはこの人物の頭の中にないのかもしれない。
 第二に、「もともと、病身なのに従軍記者になって戦地におもむくような子規の軍国主義好き」という、正岡子規についての形容だ。
 日清・日露戦争の時代、「軍国主義」とか「軍国主義好き」などという概念は成立していたのだろうか。また、言葉・概念には厳密であってしかるべき文芸評論家が、こんなふうに簡単に子規の人物評価をしてしまってよいのだろうか。さらに、日清・日露戦争の日本の勝利(少なくとも敗戦回避)を、丸谷は「悪」だったと理解しているように読めるが(「軍国主義好き」という言葉の使い方)、それは、講座派マルクス主義または日本共産党の歴史観そのものではないか。
 ちょうどNHKで「坂の上の雲」の第三回め(三年め)の放映も近づいているようで、丸谷才一は、この時期に正岡子規にケチを付けておきたかったのかもしれない。
 正岡子規自体の正確な評価・論評に関心があるのではない。「…子規の軍国主義好き」という丸谷才一の表現に、単純な「軍国主義嫌い」を感じて、素朴な(かつ骨身に染みこんでいるのだろう)「左翼」情緒の吐露を読んだ気がしたのだ。
 丸谷才一について詳しくは知らない(評論家だが小説を書いたらしく、一度店頭で読みかけたが、読み続ける気にならなかった)。だが、
パージまたは(人物・論考等の内容の)事前チェックの厳しい「左翼」司令塔・参謀塔の岩波の冊子に連載しているのだから、歴然たる「左翼」評論家なのだろう。たまたまだろうが、『図書』の上掲号には大江健三郎の文章も載っている。
 数十頁の冊子においてすら、岩波は「左翼」活動をしているのだ。
 ついでに。夏目漱石の「徴兵忌避」を好意的に書いているが、従軍記者どころか軍人そのものだった森鴎外の小説・文学作品は、丸谷才一によると、「軍国主義」的そのものなのだろう。丸谷による子規についての論述の仕方からすると、そのような「文学」評価になるはずだ。そうではないか?
 〇司馬遼太郎や「坂の上の雲」は商売になりやすい(売れる)らしく、朝日新聞社もよくこれらを扱うが、文藝春秋も再び文藝春秋12月臨時増刊号『「坂の上の雲」・日本人の勇気』を出している(2011.10)。
 個々の論考・記事にいちいち言及しない(カラーページに櫻井よしこが姿を登場させ一文を載せている)。以下の叙述を読んで驚いた。
 ロシアの「外交」の学者か学生(博士課程)らしいS・フルツカヤの一文(タイトル省略)の中にこうある。
 「NHKはこのドラマに込めた主要なメッセージをプレスリリースで発表している。『我々は広大無限な人間ドラマを描き、…日本人の特性の本質を表そうとした。しかし同時に私たちは戦争には否定的である点を決して忘れず強調している。反『軍国主義』こそ、このドラマの主要な思想である』」(p.89)。
 NHKのプレスリリースなるものをネット上で現在確認できるのかどうかは知らず、上を事実として以下を述べる。
 このNHKの上掲作品・ドラマ造りの意図は、少なくとも原作者・司馬遼太郎のそれとは合致していない。司馬は左・右双方から批判されているが、「坂の上の雲」を「反・軍国主義」を「主要な思想」として書いたのではないことは明らかだろう。全体として、軍国主義・反軍国主義などという「イデオロギー」(?)とは別の、より高い次元でこの作品は書かれていると思われる。
 NHKは「右」からの批判に対しては無視するか軽視するが、「軍国主義的だ」、「軍国主義称揚だ」などの「左」からの批判には神経質で、気にしているのだろう(なぜか。NHK自体が「左翼」陣営に属している、あるいは「左傾」化しているからだ)。
 司馬遼太郎は「坂の上の雲」のドラマ化・映画化を「軍国主義(肯定)的」と理解されるのを嫌って、それを許さなかったとも言われる。
 しかし、それはむろん、司馬遼太郎が「反・軍国主義」思想をもってこの作品を書いたことの証左になるわけではない。
 NHKは、あるいはNHKのこのドラマ制作者たちは、原作者の意図から離れた、原著作とは異なる「思想」を持ち込もうとしている、としか思えない。
 これまでのドラマを丁寧に見ていないので再述できないが、月刊正論か月刊WiLLあたりで、原作にはない場面を「捏造」した、「反(・非)戦」思想を肯定するような場面があるという指摘を読んだことがある。
 何と「左」に弱いNHKだろうか。「反(・非)戦」的な部分をあえて挿入して「左翼」陣営からの批判を弱めたいのだろうと推察される。むろん、NHK自体の体質が「左傾化」しており、ドラマ制作者もまたその体質の中にいる(同じ体質をもっている)からに他ならないだろう。
 「マスコミ」に対する「左翼」の支配は、単純で見やすい形ではなく、巧妙な方法・過程をとって、わが「公共」放送局にまで及んでいる。
 なお、「反軍国主義」なるものが当然に正しいまたは善であるかのごとき考え方が蔓延しており、NHKの上の文章もその一つかもしれない。しかし、一般的にこのように言ってしまってはいけない。
 <防衛(自衛)戦争>は「悪」・「邪」なのか?? 「反・軍国主義」を是とし、「反戦」、「反戦がどうして悪い」と簡単に言う者は、上の??にまずきちんと答えなければならない。 

0575/樋口陽一のデマ4-「社会主義」は「必要不可欠の貢献」をした(1989.11)。

 樋口陽一が自らマルクス主義者又は親マルクス主義者であることを明らかにしていなくとも、実質的・客観的にみて少なくとも親マルクス主義者・「容共」主義者であることはすでに言及したことがある。今後も、その例証は少なくないので、紹介していく。今回もその一つだ。
 1989年11月という微妙な時期に刊行されている樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)は、ルソー=ジャコバン型個人主義モデル(=「一七九三年」)(例えば、中間団体の保護なしに国家と裸で=直接に対峙できる「強い」個人)を経由する必要性を強調し、マルクス主義的概念を使ってフランス革命期の社会を説明し、またマルクスの文献の一部を肯定的に言及していた。
 この本の中に、看過できない叙述があることに気づいた。執筆時点ではソ連はまだ解体していないが、東欧諸国の<民主化>は進み、変化の予兆が明確に現れてきていたと思われる。樋口陽一は次のように「社会主義」について書いている(以下、p.191)。
 西欧の資本主義は「社会主義という根本的な異議申立ての思想と運動を自分のなかに抱えることによって、結果として自分自身を強いものにしてきた。/『社会主義とは、資本主義から資本主義に至る、長い道のり…』との警句がある。この言葉は…〔こう言った人の意図を超えた-秋月〕意味をもつだろう。西側の国々で、社会主義は、かつての『資本主義』が、もう一つの『資本主義』に変わってくるのに、必要不可欠な貢献をしたのだから」。
 あまりに明瞭な「社会主義」親近感の吐露に唖然とするばかりだ。樋口陽一において、社会主義とは、西欧資本主義を「強いもの」にするのに役立ち、新しい(もう一つの)資本主義に変化するのに「必要不可欠の貢献」をしたものとして把握されている。
 ソ連の解体、ロシアの資本主義国として再出発のあとではひょっとして異なる書き方になったとも思われるが、それにしても1989年11月の時点で、「社会主義」に対する批判的・消極的な評価が樋口陽一においては何もないのだ。しかもこの本は、ソ連の解体、ロシアの資本主義国として再出発、東西ドイツの統合(資本主義・西ドイツによる社会主義・東ドイツの吸収)のあとでも(つまり欧州での<冷戦>終了後でも)、出版され続けた(私が所持しているのは、14刷、1996年)。
 恥ずかしいとは感じないのだろうか。ソ連圏の人びとに対する1917年から70年以上の間の<人権抑圧>、場合によっては政府による<反体制分子>とのレッテル貼りによる<生命剥奪>は、人類の歴史にとって「必要不可欠」だった、と書いているのと殆ど同じだ(なお、アジアも含めると、既述のとおり、<共産主義>の犠牲者=被殺戮者は1億人程度になる)。
 こういう人が憲法学界の代表者の一人だったことをあらためて確認しておく必要があり、かつまた<怖ろしく>感じる必要がある。

0122/日清戦争又は日ロ戦争に日本が敗北していたらどうなったか。

 歴史のイフを語ってはいけないとの言辞を読んだことがあるが、織田信長が本能寺で死んでいなかったらとか、坂本龍馬が明治維新期に生きていたらとかは、興味あるテーマだ。
 日清戦争に日本が負けていたらどうなっていただろう。日本が勝利したからこそ、(李氏)朝鮮国は中国の服属国ではなく、中国(清)と対等の国家になった。ソウルには今でもこれを記念した「独立門」というのがあるらしい。そして、(李氏)朝鮮国は名も改め、大韓帝国になった筈だ。
 とすると、日本が負けていれば、(李氏)朝鮮国に対する中国(清)の影響力はますます大きくなり、服属の度は強まり、「独立」などはできなかったことになる。そして、当時の清はすでに弱体化していたので、遅かれ早かれ、清とロシアの間で朝鮮半島をめぐる争いが生じていたように思われる。
 次に、日清戦争には日本が勝利したが日露戦争には敗北していたらどうなっていただろう
 手元で確認できないが、司馬遼太郎は「坂の上の雲」に関連して、小説自体の中にではなく別の文章の中で、<朝鮮半島はロシアのものになっていた>と明記していた筈だ。もともとが朝鮮半島をめぐっての戦争だったのだから、朝鮮半島全体がロシアの一部になること、又はロシアの傀儡といってよい政権がロシアの介入のもとで成立したことは十分に考えられる。
 当時は朝鮮半島をめぐって、日本、中国(清)、ロシアが対立していたのであり、日本が二つの戦争に勝利せず、大韓帝国を併合さえしなければ、朝鮮(あるいは大韓帝国)は自主的・自立的に発展を遂げることができた、というのは、とんでもない<妄想>だろう。ましてや、世界一の経済大国になっていただろうなどとの想像は噴飯ものだ(izanamiとかいう人は迂闊にも先日見た際にこう想像していた。他の全てがそうかもしれないが、真面目に書いているとすれば本当に気の毒な人だ。虚偽だと解っていてツッパッて書いているとすれば、これまた本当に気の毒な人だ。ご同情申し上げる)。
 以上のような問いに、原田敬一の日清戦争・日露戦争(岩波新書)が答えてくれている筈はない。この本はそうした問いを発してすらいない。
 だが、当時の東アジアの状況を見れば、日本だけを「悪玉」視して済む筈がない。日本がロシアに負けていれば、日本は朝鮮半島に続くロシアの実質的一部化(社会主義化!)の恐怖に怯えなければならなかった筈だ。
 最後に、言及されているのを読んだことがないテーマがある。すなわち、日露戦争の勝利は、ロシア帝国の弱体化を早め、ロシア革命=社会主義国ロシア→ソ連の成立に寄与したのではないか
 日露戦争にロシアが勝利していてもロシア革命は起こった可能性は無論あるが、その時機を少しは早めたのではないだろうか。日露戦争は祖国防衛戦争だったと司馬と同じように私は理解しているが、それがレーニンらを客観的には助けたのだとかりにすると、身体がむず痒い感触も伴う。

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