秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

レーニン=スターリン主義

2161/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節②-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義②。
 (10)数年後の1942年、毛沢東は支持者たちに宛てて「芸術と文学」に関する文章を書き送った。
 その主要な点は、芸術と文学は社会諸階級に奉仕するもので、全ての芸術が階級によって決定されるのであり、革命家たちは革命の惹起と大衆に奉仕する芸術の様式を実践しなければならない、ということ、また、芸術家と文筆家は大衆の闘争を助けるべく自分たちを精神的に改造しなければならない、ということだった。
 芸術は芸術的に善であるだけではなく、政治的に正しくなければならない。
 「人民大衆を危険にさらす全ての暗黒勢力は暴露されなければならず、大衆の革命的闘争は称賛されなければならない。-これは、全ての革命的芸術家と文筆家の根本的任務だ」(Anne Freemantle 編<毛沢東・著作選集>、1962年, p.260-1)。
 文筆家はいわゆる人間愛の道へと迷い込まないよう警告された。敵対する諸階級に分裂する社会に、そのようなものは存在し得ないからだ。-「人間愛」は、所有階級が発案したスローガンだ。//
 (11)以上が、毛沢東の哲学の要点だ。
 看取できるだろうように、レーニン=スターリン主義のマルクス主義がいう若干の常識を幼稚に繰り返したものだ。
 しかしながら、毛の独創性は、レーニンの戦術的訓示を修正したことにある。
 これは、そして中国共産党の農民指向は、毛と中国共産党の勝利の最も重要な理由だった。
 「プロレタリアートの指導的役割」は、イデオロギー的スローガンとして力を持ったままだったが、革命の過程のあいだずっと、そのスローガンは、農民ゲリラを組織する共産党の指導的役割を意味するにすぎなかった。
 毛沢東は、ロシアとは異なって中国では、革命は地方から都市へと到来する、と強調した。彼は貧農は自然の革命的勢力だと考え、そして-マルクスやレーニンとは反対に-、貧困の程度に比例して社会各層は革命的になる、と明確に言明した。
 彼が堅く信じたのは、農民の革命的潜在能力だった。中国のプロレタリアートはきわめて少数であることだけが理由ではなく、その原理こそが理由だった。
 「農村による都市の包囲」というスローガンは、さかのぼる1930年頃の党指導者、李立三(Li Li-san)のそれと反対だった。
 コミンテルンの指令に従順な当時の「正統な」革命家たちは、ロシアに従った戦略を推進した。その戦略は、工業中心大都市の労働者によるストライキと反乱に重点を置くもので、農民の戦いは補助的だと見なしていた。
 しかしながら、有効だと判明したのは毛の戦術で、のちに彼は、中国革命はスターリンの助言に逆らって勝利した、と強調した。
 1930年代と1940年代のソヴィエトの中国共産党に対する物質的援助は、名目的なものにすぎなかったように見える。
 おそらく-何の直接的証拠もない憶測にすぎないが-、スターリンは、かりに共産党が中国で勝利したとしてもソヴィエト同盟に従属させて5億万の民衆を維持することを長期的には望めない、と認識し、そのゆえに全く合理的に、中国が弱く分裂していて、軍閥による騒乱が支配していることの方を選んだのだろう。
 しかしながら、中国共産党は全ての公式声明でソヴィエト同盟への忠誠さを発表し続けた。1949年にスターリンは、新しい共産党の勝利を歓迎して、手強い隣国を衛星国にすべく最大限に努力せざるを得なかった。//
 (12)中国・ソヴィエト間の対立はイデオロギー上の異なる考えによるのでは全くなく、中国共産党の自主性と、想定されるだろうように、中国革命はロシア帝国主義の利益とは矛盾するものだった、ということによる。
 毛沢東は1940年の「新民主主義について」の論考で、中国革命は「本質的に」農民の要求にもとづく農民革命であり、農民に権力を与えるだろう、と書いた。
 同時に彼は、農民、労働者、中低階層や愛国的ブルジョアジーから成る、日本に対する統一戦線の必要性を強調した。
 彼は、新しい民主主義の文化は、プロレタリアートの、つまりは共産党の指導のもとで発展する、と宣言した。
 要するに、毛の当時の基本政策は、「第一段階の」レーニン主義と類似していた。すなわち、共産党が指導する、プロレタリアートと農民の革命的独裁。
 彼は1949年6月の「人民民主主義独裁について」の演説で、同じことを繰り返した。土地が社会化され、階級が消滅し、「普遍的な兄弟愛」が確保される、そのような「次の段階」について、もっと強く述べたけれども。
 (13)共産党が勝利した後の数年間は、波風の立たない中国・ソヴィエトの友好関係の時期だったように見えた。中国の指導者たちは、兄に対して特段の敬意を払った。しかし、のちに明らかになるように、そのまさに最初の国家間交渉に際して、深刻な軋轢がすでに発生していた。
 当時は、明確に区別される毛主義の教理について語るのは困難だった。
 毛沢東自身がいくつかの場合に指摘せざるを得なかったように、中国には経済の組織化の経験がなく、ゆえにソヴィエト・モデルを模倣した。
 ようやくのちに、このモデルは若干の重要な点で、すでに中国革命に潜んではいたが明確なかたちでは表現されていなかったイデオロギーとは矛盾するものであることが、明らかになるに至った。//
 (14)中国は1949年以降に、いくつかの発展段階を高速で通過した。その各段階には伴ったのは、毛主義の結晶化(crystallization)に向かってのさらなる進展だった。
 1950年代、中国はソヴィエトの進化の過程を、より早い速度でもう一度辿っているように見えた。
 大規模保有の土地は、必要な農民のために分割された。
 私企業は数年間の限定の範囲内で許容されたが、1952年に強い統制のもとに置かれ、1956年に完全に国有化された。
 農業は1955年から集団化された。最初は協同組合の手段によってだったが、すみやかに公的所有の「高度に発展した」形態によることになった。但し、農民たちはまだ、私的区画(plot)を保持することが許された。
 このときに中国共産党は、ロシアに従って、重工業の絶対的優先の考えを維持した。
 第一次経済計画(1953-57年)は、厳格に中央志向の計画を導入し、農業地帯の犠牲のうえに工業化に向かう強い刺激を与えることを意図していた。
 これは、ソヴィエト共産主義のいくつかの特質を採用するものだった。すなわち、官僚制の拡張、都市と地方の間の亀裂の深化、およびきわめて抑圧的な労働法制。
 不可避的に、農民による小規模の土地保有の国では厳格な中央計画は不可能なことだ、ということが明瞭になった。
 しかしながら、そのあとの行政手法の変化は計画の多様な形態の脱中央集権化に限定されておらず、新しい共産党のイデオロギーを表現していた。そのイデオロギーでは、生産目標の達成と近代化は二次的なもので、現実のまたは想定される農業地域の生活の美徳を具現化する、そういう「新しいタイプの人間」を養成することが主に強調された。//
 (15)しばらくの間は、この段階ではある程度は文化的専制が緩和されるようにすら見えた。
 こうした幻想と結びついていたのは、1956年5月に-すなわちソヴィエト同盟第20回大会の後で-党が開始して毛自身が称賛した短期間の「百花」(hundred flowers)運動だった。
 芸術家と学者たちは、自分の考えを自由に交換するよう励まされた。
 全ての流派の思想と芸術様式が、お互いに競い合うものとされた。
 自然科学はとくに、「階級性」がないものと宣言され、他の分野での進歩は、拘束をうけない議論の結果だとされた。
 「百花」運動の教理は、東ヨーロッパの知識人たちに、熱狂をもたらした。彼らは自分たちの国で、脱スターリニズム化の興奮の中にいたのだ。
 多くの人々が短い時期の間、社会主義ブロックの最も遅れた国が経済および技術の観点からしてリベラルな文化政策をもつ英雄国になった、と考えた。
 しかしながら、この幻想は、ほとんど数週間しか続かなかった。中国の知識人があからさまな言葉で大胆に体制を批判したとき、党はただちに、抑圧と威嚇という通常の政策へと転換した。
 こうした事態全体の内部史は、明瞭でない。
 中国のプレスの若干の記事や党総書記の鄧小平(Teng Hsiao-ping)による1957年9月の党中央委員会むけ演説からすると、「百花」のスローガンは、「反党分子」を簡単に解体するために彼らを表面におびき出す策略だった。    
 (鄧小平は、大衆をおじけづかせる例として、雑草が成長するのを待った、と宣告した。
 「百花」知識人たちは根こそぎ引き抜かれて、中国の土壌を肥沃にするために使われたのだろう。)
 しかしながら、共産主義イデオロギーは中国知識人の間に自由な議論を保障することができると、毛沢東は少しの間は本当に考えたのかもしれない。
 かりにそうだったとしても、彼の幻想は、ほとんどただちに、明瞭に払い散らされた。//
 (16)ソヴィエトの範型に倣って工業化するのに中国が失敗したことによっておそらくは、次の段階の政治的およびイデオロギー的変化が惹起される、または予見されることとなった。その変化を、世界の人々は、当惑しつつ観察することになる。
 1958年初頭、毛沢東指導下の党は、5年以内に生産の奇跡を起こすものとする「大躍進」政策を発表した。
 工業生産および農業生産の目標はそれぞれ6倍、2.5倍とされた。これは、スターリンの第一次五カ年計画をすら顔色なからしめるものだった。
 しかしながら、この狂信的目標は、ソヴィエトの方式によってではなく、人民大衆に創造的な熱狂を掻き立てることによって、達成された。それがもとづく原理は、大衆は精神を傾注する何事をも行うことができるのであり、ブルジョアジーが考案した「客観的」障害に妨げられてはならない、というものだった。
 経済の全部門が例外なく劇的な拡張を遂げ、完全な共産主義社会がまさに近づいて来ていた。
 ソヴィエトのコルホーズに倣って組織された農場は、100パーセント集団的基盤をもつ共同体に置き換えられた。
 私的区画は廃止され、可能なところでは共同体的な食事と住居が導入された。
 プレスは、結婚した夫婦が一定の間隔で出席する特別の儀式や、そのあとの当然として次の世代を生むという愛国的義務を履行する特権について、報道した。
 「大躍進」の有名な特質の一つは、小さい村落の多数の溶鉱炉での鉄の精錬だった。//
 (17)少しの間、党指導者たちは統計上の楽園に住んでいた(のちに承認されたように、偽りだった)。しかしやがて、西側の経済学者と中国にいたソヴィエトの助言者が予見したとおりに、プロジェクト全体が大失敗だったことが判明した。
 「大躍進」は、高い蓄積率を原因として、生活水準を厄災的に下落させる結果となった。
 その政策は甚大な浪費をもたらした。そして、余分だと判って自分たちの分野に帰らなければならない、農村部からの労働者で、都市は満ち溢れた。
 1959年から1962年までは、後退と悲惨の時代だった。それは「大躍進」政策の失敗だけではなく、収穫減が災難的だったことやソヴィエト同盟との経済関係の事実上の断絶によってもいた。
 ソヴィエトの技術者たちは突然に帰国し、多数の大プロジェクトは不意に停止状態になった。//
 (18)「大躍進」はつぎのような新しい毛沢東の方針の展開を反映していた。すなわち、農民大衆はイデオロギーの力で何でもすることができる。「個人主義」や「経済主義」(換言すると、生産への物質的な動機づけ)は存在してはならない。熱意は「ブルジョア」の知識や技術に取って換わることができる。
 毛主義イデオロギーはこのときに、より明確なかたちを取り始めた。
 それは、毛沢東の公的声明によって、またより明瞭には、のちに「文化革命」騒ぎの際に暴露された諸発言で、定式化されていた。
 それらのうちある程度の内容は、優れた中国学者のStuart Schram によって英語で公刊された(<生身の毛沢東>、1974年。以下、'Schram' と引用する)。
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 ③へとつづく。

2063/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳。分冊版、p.453~p.456。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
 第1節・「脱スターリニズム化」②。
 (8)ポーランドでは、第20回党大会の時点ですでに社会的批判と「修正主義」(revisionist)の運動は大きく前進してはいたが、その大会とフルシチョフ演説は、党の解体を大きく加速させた。 
 また、体制を公然と攻撃する大胆な批判が可能になった。そして、統治機構を弱めて、長年にわたって蓄積していたが威嚇でもって抑えられていた社会不安が、ますます明白な形をとって表面に出てくるまでに至った。
 1956年6月、Poznań で労働者の蜂起が発生した。
 直接的には経済的困難が誘発したものだったが、ソヴィエト同盟とポーランド政府に対する、労働者階級の鬱積した憎悪が反映されていた。 
反乱は鎮圧されたが、党は士気と方向を失い、分派に攪乱され、「修正主義」が浸食した。
 ハンガリーでは、党が完全に崩壊して、民衆が公然たる反抗を行うまでに達した。そして政府は、ソヴィエト軍事駐留地(ワルシャワ協定)から撤退していると発表した。
 赤軍が反乱を鎮圧すべく介入し、指導者たちは容赦なく処理され、1956年十月の政府一員たちのほとんど全てが殺戮された。
 ポーランドは最後の瞬間で侵攻を免れたが、それの理由の一つは、従前の党指導者のWladyslaw Gomulka (W・ゴムウカ)が暴乱を回避する好運な人物として前面に出てきたことによる。この人物は、スターリンによる粛清の時代に生命を救われていた。政治的に収監されていたという、こうした彼の背景は、民衆からの信頼を獲得するのに役立った。
 当初はきわめて疑い深かったロシアの指導者たちは、最終的には-判明したように全く正当に-、ゴムウカはクレムリンの承認なくして権力を継承したけれども著しく従順でないことはないだろうと、そして〔ポーランドへの〕侵攻は多大な危険を冒すことになるだろうと、判断した。
 「ポーランドの十月」と言われるものは、社会的文化的な革新または「自由化」の時期を誘引するものでは全くなく、そのような試みが徐々に消滅していくのを表象していた。
 1956年のポーランドは、相対的に言って自由な言論と自由な批判の可能な国だった。それは、政府がそのように意図したのが理由ではなく、政府が事態掌握能力を失っていたことによる。
 まだ残っていた自由の余地は、年ごとに少なくなった。
強制的に設立されていた農民の協同組合は、その大部分がすみやかに解体された。
 しかし、1956年十月以降は、党機構が、失っていた地位を少しずつ回復した。
 党機構は統治の混乱を修復し、文化的自由を制限し、経済改革を停止させた。そして、1956年に自発的に形成されていた労働者評議会(councils)には全くの粉飾的な役割しか与えなかった。
 そうしているうちに、ハンガリー侵攻とそれに続く処刑の大波は、 他の「人民民主主義」諸国へもテロルをもち込んだ。
 東ドイツでは、積極的な「修正主義者」のうちの数人が拘禁された。
 脱スターリニズム化は、最後には激しい抑圧をもたらした。しかし、ブロック全体に生じた荒廃状況は、ソヴィエト・システムは以前と全く同じものではあり得ない、ということを示した。//
 (9)「脱スターリニズム化」という言葉は(「スターリニズム」と同様に)諸共産党自身が公式に用いたものではなかった。共産主義諸党は、その代わりに「誤りと歪曲の是正」、「人格崇拝の克服」、「党生活のレーニン主義規範への回帰」といった語を用いた。
 これらの婉曲語は、スターリニズムは無責任な大元帥(Generalissimo)が冒した遺憾な一連の過ちであってシステム自体とは関係がない、かつまた、体制がもつ抜群の民主主義的性格を回復するためにはスターリンを非難するので十分だ、という印象を与えることを意図していた。
 しかし、「脱スターリニズム化」や「スターリニズム」という用語は、共産主義諸国の公式の語彙の中では用いるのが排除されているというのとは異なる別の理由で、誤りに導くものだ。共産党員たちは、つぎの理由でこれらを用いるのを慎重に避けたのだから。すなわち、「スターリニズム」という語は支配の人格の欠陥から生じた偶然の逸脱ではなく、システムに関するものだ、との印象を与えたから。
 他方ではしかし、「スターリニズム」という語はまた、「システム」はスターリンの個性と結びついており、彼を非難することは「民主化」または「自由化」の方向への急激な変化の合図だ、ということも示唆する。
 (10)第20回党大会の背景が何だったかの詳細は知られていないけれども、振り返ってみると、25年間を覆ったシステムの一定の特徴がスターリンと彼が享有した侵し得ない権威なくしては維持することができない体制だった、ということは明らかだ。
 大粛清(great purges)以降にロシアにあった体制のもとでは、党や政府の最も特権をもつ者は全て、党の政治局員ですら、ある日とその翌日の間に、生きているのかそれとも破壊されているのかが僭政者のむら気による誤謬なき指立てによって決定される、という状況にあった。
 スターリンの死後に彼の継承者は誰もその地位につくはずがない、と彼らが懸念したのは、何ら驚くべきことではない。
 「誤りと歪曲」を非難することは、党の指導者たちの間での相互安全確保のための、不文の手段だった。
 そして、それ以降、他の社会主義諸国でと同様にソヴィエト同盟では、党内対立は廃された寡頭制の指導者たちによって生命を失うことなく解決された。
 周期的に行われた大虐殺には、政治的安定の確保という観点からは、たしかに一定の長所があった。分派を形成するのを不可能にし、権力装置の統一を確保してきたわけだ。
 しかし、この統一のために払った対価は、ワン・マン僭政制だった。また、全ての組織員が隷属状態に貶められることだった。彼らには、生命の持続自体が不確実だったのだ。彼らは、もっと悲惨な条件のもとにある他の奴隷たちの管理人たる地位をまだ享受していたけれども。
 脱スターリニズム化の第一の影響は、大量テロルが選択的テロルに代わったことだった。テロルはまだかなりの範囲で行われていたが、スターリンのもとでと比べれば、全く恣意的なものではなくなつた。
 ソヴィエト市民たちは、これ以来、多かれ少なかれ、監獄または強制収容所に入れられるのを回避する方法を知った。従前は、これに関する規準が完全になかったのだ。
 フルシチョフ時代の最も重要な出来事の一つは、強制収容所から数百万の人々が解放されたことだった。//
 (11)変化のもう一つの影響は、非中央化に向けた多様な動向が見られたことだった。そして、対立する政治グループを秘密に形成することが、より容易になった。
 経済改革の試みも行われ、一定の程度で、経済の効率性が改善された。
 しかしながら、重工業の優先というドグマは保持されたままで(Malenkov のもとでの短い中間期間を除く)、市場機構を解放することによって大衆の需要にもっと対応するように生産を変える歩みは、何らなされなかった。
 また、農業分野での実質的な改良も、何らなされなかった。頻繁に「再組織化」がなされたけれども、農業は集団化によって貶められた従来の惨めな状態のままだった。//
 (12)しかしながら、あらゆる変化も、「民主化」には到達せず、共産主義僭政体制を無傷なままに残した。
 大量テロルの放棄は人間の安全確保にとって重要なことだったが、個人に対する国家の絶対的権力を変えるものではなかった。
 個人には制度上の権利を何ら付与するものではなかった。また、全ての生活領域での主導性と統制力についての国家と党の独占を何ら侵害しなかった。
 全体主義的統治の原理は保持されたままだった。他方で、人間は国家の所有物のままで、人間の全ての目標と行動は国家の目的と必要に適合しなければならなかった。
 多くの生活分野で〔全体主義への〕吸収に対する抵抗があったけれども、現在もそうであるように、体制の全体が、可能な最大の限度で国家の統制を保障すべく作動した。
 大規模の無差別テロルは、必要で永続的な全体主義の条件ではない。
 抑圧手段の性格と強度は、多様な状況に応じて可変的だったかもしれない。
 しかし、共産主義のもとでは、法の支配のような原理は存在しなかった。その原理のもとでは、法は市民と国家の間の媒介者として機能し、個人<と向かい合う>国家の絶対的権力を剥奪する。
 ソヴィエト同盟および他の共産主義諸国の現在の抑圧体制は、たんなる「スターリニズムの残存」、またはシステムの根本的な変化なくしていずれは修復され得る遺憾な欠陥にすぎないのではない。
 (13)世界にある共産主義体制だけが、レーニン=スターリン主義の様式(pattern)だ。
 スターリンの死とともに、ソヴィエト同盟のシステムは、個人的僭政から寡頭制的僭政へと変化した。
 国家の万能性という観点からすれば、少しは効率の悪いシステムだ。
 しかしながら、それは、脱スターリニズムに至っているのではなく、スターリニズムの病原を継承しているシステムにすぎない。//
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 つぎの第2節の表題は、<東ヨーロッパでの修正主義>。
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