秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

レーニンの最後の闘い

2369/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 試訳のつづき。p.801-p.804。一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い④。
 (21)レーニンを除外することは、まさにスターリンが必要としたことだった。
 スターリンは、スパイを通じて、第12回党大会に対するレーニンの秘密の手紙を知っていた。
 自分が生き残って仕事を続けるためには、党大会でそれが読み上げられるのを阻止しなければならなかった。
 3月9日、スターリンは書記長としての自分の権限を使って、党大会を3月半ばから4月半ばへと延期させた。
 トロツキーは、党大会でスターリンが転落すれば最も利益を得る立場にあったけれども、遅らせることに進んで同意した。
 彼は、自分は「実質的にレーニンと合意している」が(つまり、ジョージア問題と党改革について)、「現状を維持するのに賛成」で、政治の「急激な変化」がなされるならぱ「スターリンの排除に反対」だと言って、カーメネフを安心させすらした。 
 トロツキーは、「策略ではない誠実な協力関係があるべきだ」という望みをもって、そう決断していた。
 この「腐った妥協」—まさにレーニンがトロツキーにそうしないよう警告していたもの—の結果は、スターリンが党大会で敗北ではなく勝利を獲得した、ということだつた。
 民族問題や党改革に関するレーニンの覚書は、代議員たちに配布された。そして討議されたが、指導部によって却下された。
 いずれにせよ、代議員たちのほとんどは、他の全問題の中でもとくに党の統一が必要なときに、民主主義について論議して時間を費やす必要はない、というスターリンの見解を支持していた。
 トロツキーを沈黙させ、政治局に対する批判を抑え込む切迫した必要が、それ自体、スターリンが権力へと昇りつめる決定的な要因となった。(*43)
 後継者問題に関するレーニンの覚書は、スターリンは解職されるべきだとの要求も含めて、党大会では読み上げられず、1956年まで隠されたままだった。(+)
 (+原書注記)—遺書の内容は、1924年の第13回党大会の代議員に知らされた。スターリンは退任すると申し出たが、ジノヴィエフの「過ぎ去ったことは過ぎ去ったこと」という提案によって却下された。レーニンとの対立はレーニンは病気で精神状態が完全に健全ではないという含みとともに、個人的衝突として黙過された。最後の覚書のどれ一つとして、スターリンが生きている間はロシアで完全には公表されなかった。1920年代の党のプレスで、断片的には伝えられたけれども。しかし、トロツキーとその支持者たちは、彼らの論評を西側に十分に知らせた(Volkogonov, Stalin, ch. 11)。//
 (22)トロツキーの行動を説明するのは困難だ。
 大勝利を獲得し得た、その権力闘争の決定的瞬間に、彼はどういうわけか自分の敗北を画策した。
 党大会で選出された新しい中央委員会の40名の中で、トロツキーはわずか3名の支持者だけを計算することができた。
 おそらくは、とくにレーニンの脳発作のあとでは、孤立が深まっているのを感じて、トロツキーは、三人組との宥和を試みることに希望を見出すことに決意した。
 彼の回想録は、自分は三人の指導者の陰謀に敗れたという確信で充ちている。
 トロツキーが彼らを拒むのを選べば、本当に現実的な危険が、たしかにあった。
 トロツキーは「分派主義」だと追及されていただろう。—1921年以降では、これは政治的な死刑判決だった。
 しかし、トロツキーには闘う勇気がなかったという意見にも、ある程度の真実はある。
 彼の性格には内面的な弱さが、自分の誇りに由来する弱さがあった。
 敗北するという見込みに直面して、トロツキーは闘わないことを選んだ。
 彼の最も古い友人の一人は、ニューヨークでのチェス遊びの話を語る。
 トロツキーは「明らかに自分の方がチェスが上手いと考えて」、彼を試合に誘った。
 だが、自分が弱くて、負けてしまったと判ると、機嫌が悪くなり、もう一度ゲームをするのを拒んだ。(*44)
 この小さな逸話は、トロツキーの特徴をよく示していた。自分を出し抜くことのできる優位の対抗者に遭遇したとき、彼は、不利な条件を克服しようとして面目を失うよりは、退却して名誉ある孤立をする方を選んだ。
 (23)これはある意味では、トロツキーがつぎに行ったことだった。
 党の最上級機関でスターリンと闘うよりは、指導部の「警察体制」と闘う党内民主主義の旗手のふりをして、ボルシェヴィキの一般党員たる地位を選んだ。
 これは絶望的な賭けだった。—彼の民主主義的な習性はほとんど知られておらず、恐ろしい「分派主義」に陥る危険があった。しかし、絶望的な苦境に立ってもいた。
 トロツキーは10月8日、党中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の全ての民主主義を抑圧していると非難した。/
 「党組織の実際の編成に一般党員が関与することが、いっそう軽視されてきている。
 独特の書記局員心理がこの数年間に形成されてきており、その主要な特質は、基礎的な事実を知りすらしないで、党書記は全てのどんな問題でも決定する能力があるという信念だ。…
 政府と党機構のいずれにも、広範な階層の活動家党員がいる。その者たちは、党に関する自分たちの見解を、少なくとも公然と表明するかたちでは完全に抑制している。まるで、自分たちは党の見解と政策を形成する書記階層の装置にすぎないと見なしているかのごとくだ。
 意見を表明するのを抑制している広範な活動家階層の下には、多数の一般党員がいる。彼らにとっては、全ての決定は呼び出しか命令のかたちで、上から降りてくるのだ。」/
 いわゆる「46年グループ」は、トロツキーを支持した。—最もよく知られているのは、Antonov-Ovseenko、Piatakov、Preobrazhensky だ。
 彼らが主張するところでは、党にある恐怖の雰囲気は、昔からの同志ですら「お互いに気楽に会話するのを怖れる」ようになった、いうものだった。(*43)//
 (24)予想されたように、党指導部は、党内に非合法の「分派」を作り出すことになる危険な「基盤」形成に着手したと、トロツキーを非難した。
 10月19日、政治局は、トロツキーの批判に応答することなく、トロツキーに対する憎悪に満ちた個人攻撃文書を発表した。
 いわく、トロツキーは傲慢で、党の日々の仕事よりも自分自身を優先し、「全てか無か」(つまり「全てを与えよ、さもなくば何も与えない」)の原理でもって行動している。
 トロツキーは4日後に、党中央委員会幹部会に対して、「分派主義」批判への挑戦的な反論書を送った。
 10月26日、彼は、幹部会それ自体に現れた。//
 (25)最近まで、トロツキーはこの重要な会合に出席しなかった、と考えられていた。
 彼の伝記の二人の主要著作者、Deutscher とBroué はともに、風邪で欠席したとしていた。
 しかし、彼は出席しており、かつ実際に、スターリンの秘書でトロツキーの発言を書き写す責任があつたBazhanov は自分の書類簿にその発言書を封じ込めたと、力強く述べた。
 その書類簿は、1990年に発見された。
 トロツキーの発言は、かつて自分が反対した「ボナパルティズム」(Bonapartism)だという言い分を、情熱的に否定していた。
 彼がユダヤ出自の問題を持ち出したのは、この点でだった。
 野心を持たないことを証するために、彼は、反ユダヤ主義の問題があるためにユダヤ人が高い地位に就くのは賢明ではないという理由で、レーニンによる上級職の提示を固辞した二つの事例に論及した。—一つは、1917年10月(内務人民委員)、もう一つは1922年9月(ソヴナルコム副議長)。
 前者の場合は、レーニンが「些細だ」との理由で却下した。
 だが、後者の場合はレーニンは「私と一致した」。(*46)
 トロツキーの示唆の意味は明らかだった。
 党内での彼に対する反対は、—レーニンもこれを認めていたのだが—部分的には、彼がユダヤ人だということに由来している。
 生涯のこの分岐点で、非難されて党の前に立ちつつ、自分のユダヤ出自の問題に戻らなければならかったというのは、彼には悲劇的な時間だった。
 それは、自分をユダヤ人だと感じてこなかった人間にとって、今はいかにも孤独であることを示していた。//
 (26)トロツキーの感情的な発言は、委員たちにほとんど影響を与えなかった。—委員たちの多くは、スターリンが採用していた。
 102票対2票で、幹部会は、「分派主義」を行ったという理由でトロツキー譴責動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーは党から除名されるべきだと強く主張した。
 だが、つねに中庸者として立ち現れたいスターリンは、それは賢明ではないと考え、その提案を却下した。(*47)
 スターリンは、いずれにせよ、急ぐ必要はなかった。
 トロツキーは、有力な一つの勢力として終わった。そして、党からの彼の追放には、まだ月日があった。—最終的には、1927年にその日がやって来た。
 スターリンを阻止する力のある一人の男が、いまや排除された。//
 ——
 ⑤へとつづく。

2363/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.795-8。一行ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い②。
 (8)レーニンは9月までに回復して、仕事に戻った。
 このときにはスターリンの野心を疑うようになっていて、その権力の増大に対する対抗策として、トロツキーを人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の議長代理(deputy)に任命することを提案した。
 トロツキーの支持者はつねに、このことによって自分たちの英雄がレーニンの後継者になるだろうと論じていた。
 だが、この地位は多くの者には小さいものと見られていた。—権力は政府機構にではなく、党機関に集中していた。そして疑いなく、スターリンはこの理由で、政治局でのレーニンの決定に全く不満でなかった。
 実際、最も抵抗したのはトロツキーで、自分の投票札に「断固として拒否する」と書いた。
 トロツキーは反対する理由として、先だっての5月に導入されたときにその職位を原理的に批判した、と主張した。
 のちに彼は、自分はユダヤ人だからその職位に就かない、そうなれば体制の敵による情報宣伝に油を注ぐだろう、とも主張した(803-4頁を見よ)。
 しかし、彼が拒んだのはおそらく、たんなる「議長代理」でいるのは自分にふさわしくないと考えたからだった。//
 (9)これは、レーニンがソヴナルコムの職務について曖昧な見方をしていた、ということを意味しない。
 また、トロツキーにその職位を提示したのは、レーニンの妹の言葉を借りると「Ilich〔レーニン〕がスターリンの側に立つ」見返りとしての「外交的な素振り」だったと、たんに意味しているのでもない。
 レーニンはつねに、党の仕事以上にソヴナルコムのそれにより高い価値を見ていた。
 ソヴナルコムはレーニンが生んだものであり、それへと彼の全活力を集中させてきた。驚くべきことに、党の活動を知らなくなるまでにすら至っていた。
 彼は1921年10月に、スターリンにこう告白した。
 「知ってのとおり、私は組織局の多大な『割当て』仕事に習熟していない」。
 これは、レーニンの悲劇だった。
 政治家として活動した最後の数ヶ月の間、指導的党組織の権力拡大の問題に取り組んでいたとき、レーニンはいっそう、党と国家の間の権力分離の手段としてソヴナルコムを見ていた。
 だが、レーニンの個人的な権力が所在するソヴナルコムは、彼が病気になり政治から撤退するにつれて、その力を衰退させた。
 彼の代わりにトロツキーが据わるとしても、スターリンの手中にある党組織への権力移行を止めるには、もう遅すぎた。そしてトロツキーは、このことを知っていたに違いない。(*34)//
 (10)レーニンのスターリンに対する疑念は、10月にスターリンがトロツキーを政治局から排除することを提案したときに深まった。それは、トロツキーがソヴナルコムでの地位を傲慢にも拒否したことに対する制裁だ、とされた。
 レーニンは三頭制の活動をよく知るにつれて、それが支配党派のごとく振る舞い、自分を権力から排除するのを意図している、ということが明瞭になった。
 このことが確認されたのは、レーニンは疲労のためにしばしば早めに退席せざるを得なかったのだが、ある政治局の会合から彼が引き上げるとすぐに、三人組が、レーニンは翌日に初めて知ることとなる重要な決定を行なったときだった。
 レーニンは、そのあと(12月8日に)政治局会合は3時間を超えて進行してはならないこと、決定されなかった案件は次回の会合に持ち越されるべきであることを、命令した。
 同時に、またはトロツキーがのちに主張したところでは、レーニンは、「官僚主義に反対する陣営」への参加を提示するためにトロツキーに接近した。これは、スターリンと組織局内の彼の権力基盤に対抗する〔レーニンとトロツキーの〕連合を意味した。
 トロツキーの主張は、信頼できる。
 これがなされたのはしかし、レーニンの遺言の直前だった。そしてこの遺言は主としては、スターリンとその官僚機構の掌握の問題にかかわっていた。
 トロツキーは、すでに党官僚機構、とくにRabkrin と組織局を批判していた。
 そして我々は、外国通商およびジョージア問題の両者について、レーニンはスターリンに反対するトロツキーと立場を共通にしていたことを、知っている。
 要するに、12月半ばにかけて、レーニンとトロツキーは、ともにスターリンに反対していた。
 そのとき突然に、12月15日の夜、レーニンは二回目の大きな脳発作を起こした。(*35)//
 (11)スターリンはすぐにレーニンの医師たちの管理を担当し、 回復を早めるという口実で、中央委員会から自分への命令を与えさせた。その命令は、訪問者や文書のやり取りを制限することで、レーニンを「政治から隔離」し続ける権限をスターリンに付与するものだった。
 12月24日の政治局のつぎの指令には、「友人も周囲の者も、Vladimir Ilich に政治ニュースを語ることはいっさい許されない。彼を反応させ、昂奮させる原因になり得るからだ」とある。
 レーニンは車椅子に閉じ込められ、「一日に5分ないし10分」だけの口述が認められ、スターリンの囚われ人となった。
 レーニンの二人の主な秘書、Nadezhda Alliiuyeva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンの言ったことを全てスターリンに報告した。
 のちの事態が示すことになるように、レーニンは明らかにこのことを知らなかった。
 スターリンは一方で、薬物に関する専門家を自認して、発送するよう教科書を注文した。
 スターリンは、レーニンはまもなく死ぬだろう、そして自分に対する公然たる侮蔑心をいっそう示すだろう、と確信した。
 スターリンは同僚に12月中に、「レーニンはだめだ(kaput)」と言った。
 スターリンの言葉は、Maria Ul'ianova を通じて、レーニンの耳に届いた。
 兄は妹に伝えた。「私はまだ死んでいない。だが彼らが、スターリンの指導で、私をもう埋めてしまった」。
 スターリンは、その評価の基盤をレーニンとの特別の関係に置いていたけれども、レーニンに対する本当の感情は、1924年に暴露された。レーニンが衰亡し、死ぬまでまる1年を待たなければならなかったとき、つぎのようにつぶやくのが聞かれたのだ。
 「<本当の>指導者らしく死ぬこともできないのか!」。
 実際に、レーニンはもっと早く死んでいたかもしれなかった。
 12月末にかけて彼は、自殺できるように毒を懇願した。
 Fotieva によると、スターリンは毒を与えるのを拒否した。
 しかし、彼は疑いなくそれを後悔することとなった。
 作業をするのが認められた短い間に、レーニンは、来たる党大会のための一連の文書を口述していたからだ。その中でレーニンは、スターリンの権力増大をを非難し、その解任を要求した。(*36)//
 (12)のちにレーニンの遺書として知られるようになったこれらの断片的な覚書は、12月23日と1月4日の間に短い文章で口述筆記された。—そのうちいくつかは、イアフォンを両耳にはめて隣室に座っている速記者に電話で伝られた。
 レーニンは、厳格に秘密にするように命じ、自分かKrupskaya だけが開封できるように、封筒を密閉した。
 しかし、彼の年配の秘書たちはスターリンのためのスパイでもあり、彼らはその覚書をスターリンに見せた。(*37)
 この最後に書いた文書全体に、革命が明らかにした現実に対する圧倒的な絶望意識が溢れている。
 レーニンの乱れた文体、誇張した執拗な反復は、麻痺によって悪化してはいないがやはり苦悩している彼の心裡(mind)を露わにしていた。—おそらくは、過去40年間ずっと設定してきた単一の目標が、今や奇怪なほどに大きな(monstrous)間違いだったと判明したことに気づいたがゆえの、苦悩だった。
 この最後の文書全体を通じて、レーニンは、ロシアの文化的後進性に苦しめられている。
 まるで彼は、そしてたぶん自分に対してだけ、メンシェヴィキは正しかったこと、ブルジョアジーに取って代われるだけの教育がロシア民衆にはないためにロシアはまだ社会主義へと進む段階ではないこと、そして、国家による介入によってこの過程の進展を速める試みは結局は必然的に専制体制を生んでしまうこと、を認めているがごとくだった。
 これは、ボルシェヴィキはまだ「統治の仕方を学ぶ」必要があると自身が警告したとき、レーニンが意図したことだったのか?//
 ——
 ③へとつづく。
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