秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

レーニン

北村稔・第一次国共合作の研究(1998)の一部など。

 一 北村稔(1948~)の書物は、文春新書の<南京事件>に関するものが読んだ最初で、韓国・北朝鮮について詳しい西岡力らとともに、それぞれ中国や韓国(・朝鮮半島)についての専門家だと思っていた。
 しかし、北村稔の中国に関する別の書物を一読して、この人はマルクス主義あるいは共産主義についてもよく理解している人ではないか、と感じた。
 同じことは西岡力についてもいえ、2016年の中西輝政との共著(対談)を読んで、反共産主義のしっかりした人だろうと感じた。*中西輝政=西岡力・なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか(日本実業出版社、2016)。
 中国や韓国に対する<民族的>批判・蔑視を基礎にしたような本もあることから中国・韓国本読みを少しは敬遠していたのだが、北村や西岡の本は、これからもっとじっくりと読む必要があると思っている(この二人のほとんどの公刊書物をおそらく所持はしている)。
 北村稔や西岡力は、おそらくこれまでのかつ現在の日本共産党について、当然に知識をもち、何らかの見解・意見をもっているだろう。にもかかわらずそれがおそらく公言されていない理由の一つは、この人たちが現在なお<(特定の大学の)大学教授>という肩書きをもち、それぞれの専門分野があり、専門分野外に口出すのを避ける、という気持ちがあることにある、とも思われる。西岡の中西輝政との対談本は、大きな例外なのではないか。
 <容共左翼>学者の中には、山口二郎とか中島岳志とか、同志社大学の浜矩子とか、他にも多数、国公立大学在職者も含めて、平気で<政治的・党派的>発言をしているものもいるのに、<保守>派らしき学者・研究者たちは、何と奥ゆかしい ?ことだろう。
 上は、北村稔と西岡力を同列に並べるものではない。同じグループに括ってしまうものではない。
 二 さて、北村稔・第一次国共合作の研究-現代中国を形成した二大勢力の出現-(岩波、1998)。
 その本文の冒頭近くに、ロシア共産党を主語としたつぎの文章がある。p.3。
 「ロシア共産党」は1919年にコミンテルンを作って「世界共産主義運動の中央機関とした」。「ロシア共産党は中国内の親ソ勢力の獲得にも努力し、中国国民党に着目してコミンテルン指揮下の中国共産党との合作を推進し、第一次国共合作を成立に導く」。
 さらに続けていう。p.3-4。
 「第一次国共合作は、…ロシア共産党支配下のコミンテルンおよびソ連政府の極東戦略と、…中国国民党の政治政略の合体であった」。「コミンテルン指揮下の中国共産党員たちは、独自の展開を志向しつつもコミンテルンとソ連政府の極東戦略のもとに行動する」。 
 とくに目新しいことはないが、あらためて、複数の国共合作を経ての中国共産党の勝利、毛沢東の権力奪取、1949年の共産中国成立は、コミンテルン、そしてロシア共産党の存在がなければ生じなかっただろうことを確認したい。
 そして、ロシア共産党(ボルシヴィキ)の勝利とコミンテルン創設は、まさしくレーニンが主導したもので、レーニンが最高指導者の「陰謀家」集団によるロシア「10月革命」の勃発とロシア共産党の権力掌握・維持がなければ発生しなかっただろうことも、歴史的にみて明らかだと思われることも確認したい。
 ロシア「革命」がなければ、中国「革命」・<社会主義>中国もなかったのだ。
 中国共産党も日本共産党も「その祖」は間違いなく、レーニン・ロシア共産党そしてコミンテルンにある。そして、現在もなお、<現実>に、大小の違いはあれ、影響を与えている。理論的には、あくまでもレーニンを経由してマルクスに行き着くのだと思われる(但し、日本共産党・不破哲三は直接のマルクス回帰も試みているようだ)。
 両党は、1998年に、<友党>関係を回復した。
 三 ロシア革命期からレーニンのネップ期までの具体的イメージを作りつつ、日本共産党の<大ウソ>連載を終えてしまいたいのだが、大幅に遅れている。
 ロシア「革命」のあとは中国「革命」のできるだけ詳細な過程を知ろうと思っており、上記の北村稔著も熟読したいのだが、さしあたりは積んでおく、あるいは広大な書庫(冗談だ)の中に紛れないように置いておかねばならない。
 *参照、北村稔・「南京事件」の探求(文春新書、2001)、北村稔・中国は社会主義で幸せになったのか(PHP新書、2005)、北村稔・中国の正体(PHP文庫、2015)。

国家・共産党・コミンテルン04-02/デクレ。

 一 R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)の原書は、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)だ。
 これとは別に、Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)があり、これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著だ。これには、邦訳書がない。
 また、これのコンサイス版が邦訳書のあるA Concice History of the Russian Revolution (1995)のようにも見えるが、訳者の西山克典が「訳者あとがき-解説にかえて」で書いているように、この邦訳書・ロシア革命史(成文社、2000)は、上記のThe Russian Revolution (1990)と、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)とを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」一冊にまとめたものだ(邦訳書p.409)。後者も、本文512頁、あとの注・索引等を含めて計587頁、目次等を含めると計600頁を超える大著だ。これも、邦訳書がない。
 二 R. Pipes, The Russian Revolution (1990)を見ていると、最近に参照していた邦訳書とその原書にはない叙述があることに気づいた。
 Decree(布告)という語に関係するので、以下、当該部分を含む、<11年間の立憲主義を拭い去った>旨の文章までを、三段落ぶんだけ仮訳しておく。p.525。但し、原書にはない改行をこの仮訳では施す。
 第二部「ボルシェヴィキがロシアを征服する」(なお、第一部は「旧体制の苦悩」)内の第12章「一党国家の建設」の一部。p.525のほとんど。
 「ソヴナルコムは、今や理論上、実際にその最初からそうだったもの、執行権と立法権を統合した機関になった。CEC〔ソヴェト・中央執行委員会〕はしばらくの間は、政府の活動を議論する権利を享受した。その権利とは、かりに政策には何の影響をもたらさなくとも、少なくとも批判をするための機会を与えられる、というものだった。
 しかし、非ボルシェヴィキが排除された1918年の6-7月以降は、CECは、ボルシェヴィキ委員がルーティン的にボルシェヴィキ・ソヴナルコムの決定を「裁可した」、共鳴板(Echo)的機構に変わった。代わって、ソヴナルコムは、ボルシェヴィキ・〔ロシア共産党〕中央委員会の決定を履行した。
 民主主義的諸力がこのように突然にかつ完全に崩壊したことおよびその結果として立憲主義的諸力を取り戻すことが不可能になったことは、ロシア君主制に対して立憲主義的な制約を課そうとした1730年の最高Privy会議の失敗を想起させる。今と同じく当時、独裁者からの断固とした「ノー」で充分だった。
 この日からロシアは、布告(Decree)によって支配された。
 レーニンは、1905年10月以前に皇帝が享有した特権を掌握した。彼の意思は、法(law)だった。
 トロツキーはこう言った:『レーニンは、臨時政府が廃されたと宣言された瞬間から、大小のすべての問題に、政府として行動した』。
 ソヴナルコムが発令した『Decrees』という言葉は、革命時のフランスから借用した、ロシアの憲法(constitutional law)には知られていない名を帯びていたけれども、完全に、皇帝の Ukazy に相当するものだった。この Ukazyは〔ソヴナルコム・Decreeと同じように〕、最も根幹的な事案から最も些細な事案まで無分別に取り扱い、独裁者が署名をした瞬間に効力を発した。
 (Isaac Steinbergによれば、『レーニンは、たいてい、自分の署名はいかなる政府の行為にも必要である、という見解だった』。)
 レーニンの総括書記だったボンシュ=ブリュヴィッチ(Bonch-Bruevich)は、こう書いている。Decreesは、人民委員(Commissar〔人民委員会議=ソヴナルコムの一員〕)の一人からの発案により発せられたものであっても、レーニンが署名するだけで、法の力(force of law)を獲得した、と。
 このような実務は、ニコライ一世またはアレキサンドル三世のような人々には、全く理解できないものだっただろう。
 10月のクー(Coup、クーデタ)から二週間のうちにボルシェヴィキが設定したこのような統治の制度(System、システム)は、1905年以前のロシアを支配した専政(独裁)体制への逆戻りだった。ボルシェヴィキは、介在する12年間の立憲主義(constitutionalism)を、そっけなく拭い去った。」
 以上。
 三 上の部分には見当たらないが、記憶に頼ると、上の書物にはDekret という語も出てくる。
 これも含めて考えると、ロシアでの原語(レーニンらが用いた言葉)はDekretであり、これをR・パイプスはDecree という英米語に変えて(訳して)いるのだと思われる。そして、Dekret は、上でも言及されているように、(フランス革命の史実を知っているはずのレーニンらが)フランス語のDecret から借用して作った、ロシアでは新しい言葉だった、と考えられる。かつまた、R・パイプスは、これを、帝制時代の(皇帝が発する)Ukazyと同じようなものだ、と理解して叙述しているわけだ。
 明治憲法下での日本での「勅令」のうち、「令」の部分に該当するだろう。
 戦前はたしか「閣令」と称したようだが、現在の日本でも「政令」というものがある。
 この政令の制定者・制定機関は内閣で、内閣総理大臣でも各省大臣でもない。
 しかし、上の叙述・説明によると、少なくともレーニン政権初期のDecreeは、どうやら、一人民委員(一大臣)の発案によるレーニンの署名で発効したらしい。こんなものは、現在の日本にはない。現在の日本の「政令」に相当するものだとすれば、ソヴナルコム(=内閣とも訳される)の構成員の「合議」によって決定されなければならないからだ(署名、公布等の論点は除く)。
 R・パイプスの書と西山克典訳はまだましだが、他のロシア革命史又はソ連史に関する日本語訳書の中には、簡単に「法律」とか「法令」とかという言葉を使っているものがある(ソヴェト大会の形式的承認があっても、ソヴェトは今日的にいう「議会」ではない)。訳者ではなく、原著者自体に多少の問題があるのではないか、と考えられる。だが、とくに英米系の書物では、(議会制定法がなかったとしても)law という語を全く用いないで<ソ連>史を叙述するのは困難なのかもしれない(現在のロシア法では事情が異なる)。

国家・共産党・コミンテルン04。

 一 関心は多岐にわたるので、一回少し寄り道する。
 日本人の多くは、「法」と「法律」を混用している。
 渡部昇一が現憲法は「占領基本法」にすぎないというとき、やはり、「法」と「法律」の区別をおそらく知らないままで、「基本法」という言葉を用いている。
 このような混用は、国会制定法という意味での「法律」でありながら、名称としては「法」を用いる、つぎのような、日本国憲法と同時に施行された、又は同年の1947年に公布又は施行された「法律」であるが名称には「法」が用いられるものがある、という日本の(厳密には適切とは思えない)「立法」実務も大きな原因になっている。
 ついでながら、現憲法は「無効」でいったんは大日本帝国憲法を復活させなければならないとすれば、以下のような<占領下>の法律も、少なくともそれがGHQの意向によって<実質的に、又は骨格部分を押しつけられた>とすれば(独占禁止法は全体としてそれに近いだろう)、現憲法と同じく「無効」で旧帝国憲法下のそれら(又は対応する法律等)にいったんは戻る必要があるはずだ。
 しかし、そんな主張を渡部昇一らはしておらず、下記の諸法律は<改正>されてきている(すなわち、<有効>であることを前提として内容が改められてきている)。
 また、内閣法・国会法・裁判法・地方自治法・民法改正・国家賠償法等は、実質的に日本国憲法の新条項を実施するための、新憲法を「補完」するものだった(「憲法付属法律」という概念もあるらしい)。
 そして改正されているが(法律によって頻度はかなり違う)、渡部昇一らは本来又は原理的に「無効」のはずだ、という主張をしてきていない。
 こんなところにも、渡部昇一による議論の<幼稚さ>が明らかに示されている。
 参考/同日施行-内閣法、国会法、裁判法、地方自治法、7月-独占禁止法、9月-労働基準法、10月-国家賠償法、刑法改正、12月-児童福祉法、食品衛生法、民法改正(家族法部分)。
 二 「法」と「法律」の区別の分かりにくさは英米にもあるようで、前者はlaw だが、後者は a law とか laws と称するらしい。Act も「法律」を意味することがあるようだ。Rule of Law というときの「法」は前者だ。
 これと違って、フランス、ドイツ、ロシアでは、「法」と「法律」が別の言葉である、とされる。
 フランス語では、法は droite、法律は loi(ドロアとロア)。ドイツ語では、法は Recht、法律は Gesetz(レヒトとゲゼッツ)。ロシア語では前者はpravo、後者は zakon(但し、ロシア文字を使わないで普通のアルファベットで標記した場合)。
 ロシア語については、渋谷謙次郎・法を通してみたロシア国家(ウェッジ、2015)の最初の方を参照した。所在が現時点で不明になったので、頁を特定できない。 
 三 こんなことを書くのも、R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(成文社、2000)を原書も参照しつつ読んでいると、「布告」(又は「布令」 ?)と訳されているのは、原書の英語ではDecreeというものだからだ。
 このDecree に該当する、かつよく似たドイツ語はないと見られる。最も対応するのは、Verordnung だろう。
 これに対して、米語(英米語)のDecree(ディクリー) とどちらが語源的に先なのかは知らないが、フランス語にはまさに Decret (デクレ)という語があり、かつ意味も同じだと見られる。
 正確に確認はしないが、大統領令または首相府令のいずれか又は両者に、その「令」の部分についてDecret という語が現在でも用いられているはずだ(正確には、語頭は小文字)。
 つまり、ロシア「革命」直後のソヴナルコムの「布告」とは、現在的視点でいうと、又はこの当時でも<権力分立>が採用されていた国家についていうと、行政権・行政部又は行政機構・機関による「立法」(行為)を指す。
 ロシアのソヴナルコムの立法的行為をまたはその所産を「法律」と訳すと、誤りだろう。ロシア語で当時に何と呼ばれたかは知らないが、現在は「法律」の意味らしい Zaconではなく、英米語の Decreeに当たるものなのだろう。従って、西山克典の「布告」(又は「布令」)という訳は適切だ。
 四 ロシアにおいて、国民・住民全体(いわゆる有権者に限るが)が代議員・代表者を決めるために選挙を行ったのは、20世紀前半では1917年11月の「憲法制定会議」議員選挙が最後で、以降、ソ連の解体までは、国民・住民全体を代表する代議員から成る「議会」が置かれなかった。
 つまり、実質的にいう立法権も行政権も、当初は実質的に(ソヴェト中央執行委員会=CECではなく)ソヴナルコムに属し、半年ほど後には、さらに実質的には一括してロシア共産党(・レーニン)に移ったのだった。
 ソ連史の分かりにくさは、このあたりにもある。じつはR・パイプスはソヴナルコムの権能について Legislation という言葉を使い、西山訳書は「立法」と訳しているのだが、これらを通常の又は今日的意味での「立法」、つまり議会(・国会)が制定する法規範と理解してはならない。
 なお、<ソヴェト>は農民・企業経営者等を代表しておらず、<議会>ではない。
 そもそも<工場労働者>(プロレタリアート)の存在すら稀少だったとされるので、<労働者・小農>層を代表していた、というのも誤りだとする見解が多いが、別に書くだろう。
 スターリン期以降のソ連については読書不足だが、かりに<全人民代表者大会>(現在の共産中国の<全人代>参照)なるものが開催されていたとかりにしても、全く形骸化しており、<拍手で、又は挙手で>裁可・承認するだけの(いわゆる西側の「議会」を意識した)飾り物的機関だっただろう。
 元に戻ってさらにいうと、この欄でこれまで言及していないが、旧帝制下の「司法・裁判所」制度も「10月革命」後に早々に解体され、<人民法廷>とか<革命裁判所>というものが取って代わる。
 これらの上部機構は司法人民委員部(司法省・法務省)で、当然に司法人民委員(司法大臣)が長。そしてこれは、人民委員会議(ソヴナルコム)の一員。
 要するに、ロシア・ソヴェト国家には<権力分立>などはなかったのだ。R・パイプスが言うように、11年間ほどの辛うじての立憲主義・Constitutionalism は、それすらもレーニン政権誕生とともに消え失せた。
 五 ロシアが先ず資本主義から社会主義への道を切り拓いたとする見解によれば、立憲主義も権力分立も<ブルジョア>的なもので、「革命」とともに廃棄(止揚)された、と言うのだろう。
 いやまさしく、上の時代に、レーニンはそのように言明していた。
最終的には、選挙結果にもとづいていったん招集された憲法制定会議の続行を<実力(=暴力)>でもって中止させ、「解散」させたのは、レーニンの「議会」観によるとされる。
 さらにそれは「立法」と「行政」とを同時に一度は掌握したパリ・コミューンを讃えたマルクスに行きつく、とされる。E・H・カー・ロシア革命第1巻(みすず書房、1967)の該当箇所参照。
 レーニン・ボルシェヴィキにとって<全ての権力をソヴェトへ>こそがその意思であり、決して当時の(むしろ数的には優位の)議会設置擁護の社会主義者たちが主張したような<全ての権力を憲法制定会議へ>ではなかった。後者は、汚れた<資本家たち>のスローガンだとされた。
 「立憲主義」を良きものとする雰囲気が日本の「左翼」には強い。本気で、純粋無垢にそう思っている学者さまたちもいるのだろうが、<共産主義>者にとっては、(本質的に資本主義に対応した)「議会」も「立憲主義」も、それほど「良き」ものではないと扱われたことを、<レーニン主義>およびソ連の歴史は明らかにしている。
 ロシア「革命」は社会・歴史の<進歩>だったのかと、心の奥底では親社会主義の、または「共産主義」幻想をもつ日本の「左翼」の人々は真剣に自問しなければならない。<進歩>か否かという発想自体、本来は秋月の関心事項ではなくなっているのだが。
 上の発問をしても、日本共産党の党員(学者・研究者を含む)は、もう遅いかもしれない。

国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

国家と共産党-ロシア-02。

 一 つづき。 
 ペトログラード・ソヴェトは当初は同市(首都)でのみ活動したが、他都市のソヴィエト・前線部隊(後者は説明が要るが省略)の代表も加えて「全ロシア労兵ソヴェト」となり、その「イスパルコム」(執行委員会)は「全ロシア(All-Russian)中央執行委員会」(CEC=Central Executive Committe)と自らの名前を変更した。
 その構成員72名のうち、メンシェビキ23、エスエル(社会革命党)22、ボルシェヴィキは12名。ソヴェト総会も開かれたが(3月-4回、4月-6回)、CECの提案を「拍手喝采」で承認するだけの力になる。
 イスパルコム=CECの構成員には農民代表者はいない。それと「ブルジョアジー」が除外されているので、「全ロシア・ソヴェト」およびCECは、「全ロシア」住民の「せいぜい10-15%を代表」したにすぎない。
 以上、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.108。
 原書である、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)では、p.94-95。
 二 その後(レーニン「4月テーゼ」・ケレンスキー政府首班の約束等々)および「10月革命」事件でのソヴェト等と「政府」の関係・役割については、以下の一部を除き、別途、<権力奪取>の具体的な様相を語る中で言及することにしよう。相当に興味深い<ドラマ>ふうだ。
 三 ボルシェヴィキは、各および全ロシア・ソヴェトのイスパルコム又はCECの多数を獲得するかこれを強引に屈服させることによって、結果としてソヴェト全体を支配するようになり、ソヴェトのもとに首都防衛名目の「防衛に関する革命委員会」=「軍事革命委員会」を設置することを、メンシェビキの反対を押して、ソヴェト総会で是認させた(1917年10月9日、p.150)。
 1917年10月26日、ソヴェト第2回大会開催中に、「軍事革命委員会」部隊による市内要所占拠、臨時政府閣僚逮捕・拘束、「冬宮」占拠という<ほとんど無血の><実力行使>が完了した(10月「革命」又は政変・クー・デタ)。
 その前の24日に、レーニンはつぎの宣言を起草していた。
 「臨時政府は廃された。政府の権力はペトログラード労兵ソヴェトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会に移った。…。」
 <宣言>なので、実際に「プロレタリアート」なるものの「先頭に立つ」のかどうかは疑問視できる。
 また、パイプスによれば-秋月の言葉を挿むと<法的>または<国制>の観点からは-、「ボルシェヴィキの中央委員会を除き、誰もそうすることを正当と認めていなかった一機関が、ロシアの最高権力を掌握した、と宣言した」。
 以上、p.153-6、原書p.143-6。
 第2回ソヴェト大会が再開され、諸「布告」(Decree)発布が承認され、憲法制定会議招集までの暫定政府になる「はず」の、新しい「臨時政府」閣僚候補者名簿が発表され、承認された。
 この<暫定・臨時>の「はず」の「政府」または「内閣」は「ソヴナルコム」(Sovnarkom)と呼ばれた。パイプス(および訳者・西山)も同様だが「人民委員会議」(Council of People's Comissars)とも訳される。
 議長(首相)はレーニン、内務人民委員(内務大臣)はルイコフ、外務人民委員(外務大臣)はトロツキー。スターリンは、いわば民族問題担当長官。
 新しいソヴェト・イスパルコム(CEC)も形成された。ボルシェヴィキのみによらず、101名のうち、ボルシェヴィキ62名、左派エスエル(左翼社会革命党)29名など。イスパルコム議長は、カーメネフ。
 以上、p.156-7。
 四 1918年3月にボルシェヴィキは「共産党」と名乗る。同月に-民族諸問題の一定の解決を経て-ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国成立・同憲法発布。
 この憲法は実質的には左派エスエルの支持も受けていた。だが、同党はもちろん共産党や政党には触れていない。
 また、「ソヴェト」については明確に語り、「全ての権力をソヴェトに」旨を規定したが、各(村・郡・県・中央)ソヴェトの関係、ソヴェトと「(中央)政府」の関係も曖昧なままで、パイプスによれば、「その憲法が真剣に受けとめられることを意図していなかった」、という(p.161-2)。 
 五 関心を惹くのは、1917.10政変以降、少なくとも「内戦」終了頃までの、国家またはソヴェトと「政府=ソヴナルコム・人民委員会議」の関係およびこれらと共産党(ボルシェヴィキ)の関係だ。このあたりは、ロシア革命等に関する諸文献でも分かりにくい。
 R・パイプスは訳書p.163-165(原書p.154-)で、つぎのように説明している。
 ソヴェトの中央執行委員会であるCEC(イスパルコム)は、ソヴェト大会が創設したソヴナルコム」(人民委員会議=政府・内閣)の「行動と構成に関する監督権」を持った。
 しかし、上はレーニンが自ら提案したものだったが、レーニンもトロツキーも、できるかぎり早く、「人民委員会議」をソヴェト(・中央執行委員会)から解放させたかった。あるいは後者に対する責任をなくし、後者による監督をなくしたがっていた。
 レーニンらが「真に意図」したのは、「人民委員会議」が、共産党の中央委員会に「排他的に責任を負う」ことだった。
 これにより、ソヴィエト・ロシアの歴史で「最初にして唯一の国制上の衝突(constitutional clash)」が生じた。
 なお、人民委員会議(内閣)の議長(首相)はレーニンであり、共産党中央委員会のトップにいたのはレーニンだ。
 共産党の「トップ」と書いたが、「最高指導者」という呼称も見られるものの、正式に何と呼ばれていたかは、諸文献で、じつははっきりしない。
 現在またはレーニン以降の諸共産党ならば、「総書記」、「第一書記」、「書記長」あるいは「(幹部会 ?)委員長」なのだろう。
 存在していると誰もが明確に意識しているもの(・人物)については、言葉を用意する必要がなく、従って言葉・概念が作られることがないことがある、ということを示しているようでもある。あるいはそもそも、国家と政党(共産党)を厳密に分けて考えるという発想自体が、この時期のレーニンらボルシェヴィキ党員にはなかったのかもしれない。それこそ、党(共産党)=国家、なのだ。
 さらに、上記の問題についてのR・パイプスの説明・叙述を追跡する。

国家・共産党・コミンテルン01。

 一 ロシア革命またはレーニン(を首領とするボルシェヴィキ)が生み出した国家のことを<一党制国家>とか<党所有国家> ということがある。
 下斗米伸夫・ソ連=党が所有した国家(講談社メチエ、2002)も参照。
 国家・政府と(一国家の)共産党(政党)の関係、さらにはこれらと1919年設立のコミンテルンの関係・違いに焦点を当てて、以下、紹介したりコメントしたりする。
 渡部昇一が何と言おうと、過去の問題ではない。コミンテルン、コミンフォルムはもうないが、国家・政府と(一国家の)共産党の関係は見事に、現在の共産中国や北朝鮮、そしてベトナムやキューバにまで継承されていると考えられる。
 なお、現在開催されているらしい、中国共産党の<中央委員会第~回総会>という表現の仕方は、現在の日本共産党と同じ。共産党の<党大会>の間は、<中央委員会総会>でつないでいくのだ。
 二 R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)によると、ソヴィエト(ソビエト)・ソヴェート・ソヴェト(Soviet)という言葉が、日常的意味でなく制度的な又は機関を指すものとしてロシアで用いられたのは、1905年の10月、ペテルブルク工科大学で「ストライキ委員会」が招集されたとき、それがすぐのちに「労働者代表ソヴェト」と名乗ったことが最初のようだ(p.58。以下、同じ)。
 英語ではCouncil、独語ではRat と訳されているはずだ。日本語では、「評議会」または「会議」だろう。
 なぜ大学にという疑問には、政治的集会・デモに対する当時の規制が大学構内については緩かったと、パイプスに従って指摘するにとどめる。
 このソヴェトの指導部には、学生も農民も入っておらず、また労働者でも兵士でもなく、それは「社会主義諸政党」が指名した「急進的」「知識人」で構成されていた(p.58)。
 1905年12月に「モスクワ・ソヴェト」は①帝制打倒、②憲法制定会議招集、③「民主共和国」の宣言を要求し、④「武装蜂起」を呼びかけた、という(p.59)。
 この「ソヴェト」はのちに、ボルシェヴィキ・共産党ではなく、国家・政府の系列の機関へと発展 ?していく。
 三 1917年二月革命により「臨時政府」(国会議員臨時委員会)が組織され、ケレンスキーが委員の一人になった。これは、パイプスによれば「私的な性格」のものとされるが、(帝制終焉時の)の国会の議員全体ではないにせよ、国会議員内の「私的な会合」または「指導者たち」が設立を決定したとされるので(p.94)、二月革命による<非連続>的なものではあるが、のちの「10月革命」に比べればまだ、国家機関又は政府としての連続性・「民主性」を少しは保っているかもしれない。
 上の臨時政府の設立と同日(2月28日)、「ペトログラード・ソヴェト」が設立された。主導権はメンシェヴィキにあった。2週間後の代議員3000名のうち、2000名以上が兵士で、二月革命の「初期の局面」は「兵士の反乱」だった(p.95)。
 代議員数千人では会議・実質的な決定ができない。ソヴェトの決定機関が「イスパルコム」という「執行委員会」に移った。この機関は「社会主義諸政党の調整機関」で、兵士に支持者がおらず、労働者の中でも「わずか」の支持者しかいないボルシェヴィキに属する委員の比重が不均衡に高かった。またこれは、ソヴェト総会から自立して活動し、あらかじめ実質的に決定する「社会主義知識人の幹部会」のようなものになった(p.96)。
 このソヴェトは「臨時政府」系列ではなく、社会主義諸政党による「私的」な組織で、臨時「政府」には参加しないと決定する(同上)。同年10月末まで続く、いわゆる<二重権力>の時代だ。
 パイプスによると、表向きは臨時政府が「全ての統治上の責務」を引き受け、「現実には」、ソヴェト「イスパルコム」が「立法と執行」の両機能を果たした(同上)。
 皇帝逮捕(のち一族がボルシェヴィキ=共産党により全員殺害される)ののちソヴェト・「イスパルコム」は5名から成る「連絡委員会」を設置し、政府に、イスパルコムの事前承認を得ることなく重要な決定をすべきでないと主張し、政府はこれに応じた、という(p.108)。
 中途だが、いわゆる「10月革命」事件以前のペトログラード・ソヴェトの状況から、次回につづける。

日本共産党の大ウソ30-志位和夫綱領解説02。

 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のうち、不破哲三の研究に依拠するという<ネップ>に関する叙述、つまりネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」(「」はp.179より引用)ということについての叙述を、要約・部分引用しながら紹介する。
 ・レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。(p.173-4)
 志位(したがって不破)によれば、レーニンが「深い試行錯誤から抜け出し」「国際情勢の変化」を「的確に見定めた」ことは、1920年11月の「ロシア共産党モスクワ県会議」での「わが国の内外情勢と党の任務」と題する演説で示された。レーニン全集31巻415頁に掲載されており、つぎのような文章を含む。
 ・「われわれがロシアの反革命の企てをみな粉砕し、西欧のあらゆる国々と正式の講話締結をかちとった」ことから、「われわれが息つぎを獲得」しただけではなく、資本主義諸国の包囲の中で「われわれの基本的な存立をかちとった新しい一時期を獲得した」ことが明らかだ。
 これを含むレーニン演説を、志位(不破)はつぎのように理解・解釈する。
 ・レーニンは、ロシア革命の勝利のためには「国際的勝利」(=秋月によると「世界革命」、つまり全欧州レベルでの「社会主義革命」の勃発と勝利)が必要と考えていたが、戦争の結果はそれをもたらさなかったけれども、資本主義諸国の包囲の中で「ソビエト・ロシアが存立していく条件」は闘いとった。「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった、という「新しい一時期」になった。
 以上、p.174-5。志位(不破)は、そのあとすぐに続けてこう書く。
 ・「新しい時期」に入ったと「見定めた以上、方針も変えることが求められ」る。レーニンは「やがて」、「多くの分野で」の「路線転換の仕事に取り組むようにな」る。
 志位によると、不破著/レーニン第7巻は、レーニンは上の1920年11月の「転換」を「契機にして」、「レーニンの理論活動が"夜明け"を迎えた」と書いている、らしい(別途確認はする)。
 さて、以下がネップに関する叙述だ。
 ・1921年3月の「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じ、そういうもとで「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられて、レーニンは「経済政策の大転換を始め」る。
 ・1921年3月に開始され5月ぐらいからその政策は「新経済政策(ネップ)」と呼ばれるようになる。まずは、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行。/「現物税」を払っても農民に残る「余剰」部分は「大きくなるはず」だった。
 ・だが、「余剰」部分はどう処理するのかという「大問題」が生じる。レーニンは最初は「市場経済とたたかいながら生産物を交換」するという方式を考えたが「うまくい」かず、余剰の処理・生産物交換は「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・上の「経験をふまえて」レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。以上、p.177-8。
 志位によると、この報告による「新しい現実に直面」してのその転換した新しい「路線」の内容は、つぎのようなもので、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」ものだった、という。
 ・「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」。
 そして、志位は、この会議での「討論」(レーニン全集収載)にも見られるように反対・不満も多かったが、レーニンは「懇切ていねいに説得的に」反論し、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかにし」た、とする。
 以上のあとで、すでに今回の冒頭で記したように、志位は、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」とする。
 以下(次回以降)で、不破哲三文献やレーニン全集そのものに立ち入る。
 また、前回に紹介したのは、クロンシュタットの「反乱」の前に発生していたタブロフ県地方での<農民反乱>中の(それを鎮圧するための、レーニンも許容したとみられる)トゥハチェフスキーらの「命令(指令)」の内容だが(この反乱自体に志位和夫の綱領解説は言及していない)、1920年の秋から約一年間のレーニン・ロシア共産党(ボルシェヴィキ)、そしてロシアに関する情勢あるいは諸事実にも、併せて言及する(なぜなら、不破哲三と志位和夫は具体的にロシアで生起した諸事情・事件等々の「現実」を「認識」したうえで書いているのか、という大きな疑問があるからだ)。
 1920-21年というのは、日本の大正9年-10年。
 不十分だが、年表的なものを掲載する。のちに補充していく。
 1917年8月/ケレンスキー臨時政府、憲法制定会議の選挙・招集予定を発表。
 1917年9月/レーニンがフィンランドから「蜂起」=「権力奪取」を促す手紙。
 1917年10月/ロシア10月「革命」。
 1918年2月/ブレスト・リトフスク条約でドイツと停戦。
 1918年3月/社会民主労働党・ボルシェヴィキ派から「ロシア共産党」へと名称変更。
 同/ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法発布。
 1918年5月/チェコ軍団反乱。成人男子を兵役招集、「赤軍」の始まり。
 1918年8月/ブレスト・リトフスク条約の補足条約締結。
 1918年11月/トイツ降伏により第二次大戦終結。
 1919年3月/コミンテルン(国際共産主義者同盟)結成。
 1919年春~/コルチャーク、デニーキンらの攻撃、「白軍」との戦闘(内戦)。
 1920年1月/ベルサイユ条約発効・国際連盟成立。
 1920年2月/ドイツで「国家社会主義労働者」党(ナツィス党)発足(改称)。
 1920年4月/ロシア・ポーランド戦争始まる。
 1920年8月 ?/タンボフの農民「反乱」始まる。
 1921年2月/クロンシュタットの「反乱」始まる。
 1921年3月/クロンシュタットの「反乱」鎮圧される。。
 同/ロシア共産党(10回党大会 ?)がネップ政策導入を決定。
 同/ロシア・ポーランド間でリガ条約。
 1921年6月 ?/タンボフの農民「反乱」鎮圧される。
 1921年7月/モンゴル「革命」。
 同/中国共産党創立。
 1921年10月/レーニン、<戦時共産主義>につき、「誤り」を認める。
 1921年12月/ワシントン会議による4カ国条約。日英同盟廃棄。
 1922年2月/チェカ廃止。同様の機能の「ゲ・ペ・ウ」発足。
 1922年3月/ロシア共産党第11回党大会。
 1922年7月/日本共産党結成=コミンテルン日本支部。
 1922年12月/ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。

ロバート・W・デイヴィス・現代ロシアの歴史論争(岩波、1998)を一部読む。

 一 ロバート・W・デイヴィス(イギリス人学者)は、同〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(岩波書店、1998/原書1997)で、主として1988年半ば~1996年半ば-すなわちソ連崩壊後の時期を含む-のソ連又は主としてロシアでのソ連史・ロシア史の「見直し」の状況を紹介し、また論じている。
 その「第11章/レーニン、スターリンと新経済政策」は「第10章/レーニンと内戦」に続くものだが、その第11章の最後の段落でまず、こう述べている。邦訳書からの引用。p.266。
 「総じて内戦とネップの初期についての新たな史料は、世界が『人間の顔をした社会主義』に向かう動きを再び始めると考えている私自身のような時代遅れの人間にはほとんど慰めを与えてくれない」。
 彼自身は「人間の顔をした社会主義」への再出発を期待しながらも、そのような希望に、新しい、レーニンやスターリン等に関する、従来は「秘密」だった史料は「ほとんど慰めを与えてくれない」、というわけだ。
 そのあと、「慰め」になるかもしれない「傾向」がいくつか(これら自体興味深いがここでは省略)見出される、としつつ、こう続けて、この章を終える。p.266-7。
 「しかし、ここで見た証拠によれば、こうした傾向は弱いものであり、容易に打倒された。そしてレーニン自身が-〔略〕-他のすべての政治集団を容赦なく抑圧する一党制に傾倒しつづけていたとりわけオ・ゲ・ペ・ウ〔ゲペウの前身、チェカーの後身/国家保安秘密警察〕によって与えられた『証拠』は党指導者たちの政策に影響を与えた。そして秘密警察の政治的役割は絶えず膨張していったのである」。
 日本共産党、または党員学者の文献にはレーニンは多党制を容認・支持していたかのごとく書いているものがあるかもしれないが、事実に反するデマだ。たしかに1917年10月の「革命」時点で共産党(ボルシェヴィキ)だけが実質的な国家最高権力の指導部を構成していたわけでは(辛うじて)ないが、すみやかに共産党=国家になったことは広く(少なくともロシア・ソ連史の日本を含む研究者には一致して)認められている、と思われる。
 この点や、チェカーなどには、別の機会にまた触れるだろう。なお、「革命」時点でロシア<全国>あるいは<農民>を掌握したわけでも全くない。のちに「戦時共産主義」時代ともいわれる「内戦」が長く続き、レーニン指導のボルシェヴィキ対する<農民>の激しい抵抗等もあった。
 二 リチャード・パイプスらの<反共産主義>が明確な学者や論者の叙述を紹介しても、日本共産党員や同党支持者または日本の「左翼」は、<反共>主義者ということでもってその叙述を疑う、または容易には信頼しないかもしれない。
 注意を惹いておきたいのは、上の書物は、ほとんど「左翼」的または「容共」的な、すくなくとも<反共産主義的ではない>本・雑誌ばかりを日本で出版している、岩波書店が出版している、ということだ。
 この欄では-すでにある程度は意識してきたのだが-、<岩波書店(または朝日新聞社等)発行の文献ですら、~と述べている>、という紹介や言及の仕方をすることがある。

歴史と感情と科学と-R・パイプス、そして笹倉秀夫。

 一 前回10/12の末尾に、「歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的『感性』を率直に示して、何ら問題がないはずだ」。 これは歴史叙述そのものに「感情」を明示してもよい、という趣旨ではない。
 このように書いたのは、何かを読んでその印象が残っていたからだ。
 R・パイプス・ロシア革命史の「訳者あとがき-解説にかえて」の西山克典の文章だったかもしれないと探してみたが、そうではなかった。別の本を捲ったりしているうちに、上記のR・パイプスの書物(邦訳書)の本文自体のほとんど末尾にある、「16章/ロシア革命への省察」の中の文章であることが分かった。
 ブレジンスキーと同様にR・パイプスは、日本共産党とは違って、レーニンとスターリンとがほとんど真反対のベクトル方向にあるとは見ていない。R・パイプスは、1917秋(10月革命時)と1922年の初めまで(レーニン時代だ)のソ同盟の人口減を1270万人(戦死、餓死=500万人以上、疫病死、海外逃亡等を含む)とし、自然状態では増大していたはずの人口を想定すると、実際の人的損失は「2300万に達する」などを指摘したのち、つぎのように記述する。
 R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(成文社、2000)p.404-5による。〔〕の英語は、原著(A Concise History of the Russian Revolution、p.403-4 )を直接に参照した。
 ・かかる「前例のない惨禍を、感情に動かされずに見ることができるであろうか、また、見るべきであろうか」。
 ・現代において「科学」の威光は強く、「道義的にも感情的にも超然とした科学者」の、全現象を「自然」で「中立的」と見なす気質を身につけてきた。彼らは「歴史」における「人間の自由意志」を考慮することを嫌い、「歴史」の「必然性」を語る。
 ・しかし、「科学の対象と歴史の対象」は「著しく異なる」。医師・会計士・調査技師・諜報局員の調査は「正しい決定に達するのを可能にする」ためで、「感情に絡みとられてはいけない」。
 ・「歴史家にとっては、決定はすでに他人によって為されており、超然と構えることで、認識に付け加えるものは何もない。実際には、それ〔超然と構えること〕は、認識を低下させることになる。というのは、激情のさなかに〔in the heat of passion〕生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに〔dispassionately〕、理解することができるというのであろうか」。
 ・19世紀ドイツの某歴史家は、「歴史は怒りと熱狂をもって書かれなければならない、と私は主張する」、と書いた。
 ・アリストテレスは「あらゆる問題について節度を説いた」が、「『憤りを欠くこと』が受け入れがたい状況がある、『怒るべきことに怒っていない人々は馬鹿と思われるからである』」と述べた。
 ・「関連する事実〔facts〕の収集整理は、確かに感情に動かされることなく、怒りも熱狂もなく行われなければならない。歴史家の技能のこの面は、科学者と何ら異なるものではない。しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない」。
 ・「どれが『関連している〔relevant〕』かの決定は、判断〔judgment〕を求めており、そして、判断は価値〔values〕に基づいているからである。事実は、それ自体としては無意味である。何故なら、それをどう選別し、序列化し、そしてどれを強調するかに関し、事実自体は何ら指針〔guide〕を提供しないからである。過去が『意味をなす〔make sense〕』ためには、歴史家は何らかの原則〔principle〕に従わなければならない」。
 ・「通常、歴史家はまさにそれをもって」おり、「最も『科学的な』歴史家でさえ、意識しようがしまいが、予見〔preconceptions〕から行動しているのである」。
 ・一般的にその予見は「経済的な決定論に根ざしている」。経済・社会のデータは「不遍性という幻想〔illusion of impartiality〕」を生んでいるからである。
 ・「歴史的な出来事への判断を拒むことはまた、道義的な価値観にも基づいている。すなわち、生起したことは、何であれ、自然〔natural〕なことであり、従って正しい〔right〕という暗黙の前提〔silent premice〕であり、それは、勝利を得ることになった人々の弁明〔apology〕に帰すことになる」。
 以上。
 二 歴史は怒り等の感情をもって書かれてよい、というふうの部分が印象に残っていたのだったが、きちんと読むと、それ以上の内容を含んでいる。
 ここでの「歴史」学には、<政治思想史>や<法思想史>、<政治史>や<法制史>などの学問分野も含まれうるものと考えられる。
 こうした分野の文献を、かついわゆる<アカデミズム>内の文献・論文も最近は読むことが多い。そうして、上にパイプスが書いていることも、相当によく分かる。
 基本的なから些細なまで、種々の「事実」があるに違いない。書き手はどうやってそれを<序列化>し<関連づけ>ているのだろう、と感じることもある。また、この人は何らかの<価値判断>に基づいている、あるいはさらには何らかの<政治的立場>に立っている、これで<学問的作業>なのか、と思うこともある。
 また、思い出すに、ソ連崩壊により「東・中欧での社会主義化は挫折」したことは事実として認めつつ、その原因としてマルクス主義自体やレーニン(またはレーニズム)には大きな注意は払わず、「スターリニズム」の「問題点」などをかなり詳しく叙述しつつ、「それらの運動」〔社会主義・共産主義運動 ?〕を「スターリニズムに解消させて、マイナス面だけを」論じて、「社会主義化の実践」の肯定面に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」と強弁(!)する日本の「研究者」の書物があった。
 笹倉秀夫・法思想史講義/下(東京大学出版会、2007)p.315-6。
笹倉は、「社会主義化の実践」が示した「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面での貢献」に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」とし、「例えば」として三点を挙げる。
 その三点にはここでは立ち入らない。しかし、社会主義・共産主義運動(「社会主義化の実践」)が「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面」で「貢献」した、という前提自体が、何ら実証されていない「暗黙の前提」であり、この<科学的と自認しているのかもしれない学者>の「原則、principle」なのだろうと推察される。マイナスだけではなく積極面も見るのが「研究者の公正な姿勢」だという表向きの言い方自体にすでに、(隠された)何らかの(おそらくは政治的な)<価値判断>が含まれているだろう。
 立ち入らないが、ファシズムと共産主義ではなくファシズムとスターリニズムを併せて<全体主義>と称するのは誤りだとの叙述(p.316注)も含めて(全体主義論はファシズムとレーニンを含む共産主義全体を包含するものだが、おそらく意識的にスターリンに限っている)、上のような叙述・説明は今日では日本共産党以外には珍しく、おそらくは、この人は、日本共産党員なのだろうと思われる。
 それは別として、これまでこの欄で「歴史学」なるものについて、坂本多加雄、山内昌之らのその性格や役割に関する議論を紹介したことがある。ひょっとすれば、人文・社会系学問のすべてに当てはまるかもしれないのだが、上のパイプスが述べるところも、充分に読むべきところがある。
 なお、パイプスのロシア革命に関する書物自体は、個別「事実」について相当に密度の濃いもので、<感情>的な文章で成り立っているわけでは全くない。諸事実の<解釈>あるいは<取り上げ方・並べ方>におそらくは、パイプスのロシア革命に対する何らかの(<価値>にもとづく)<判断>が働いているのだろう。
 三 忘れていた。上のパイプスの文章の最後の部分は、とくに意識・自覚される必要がある、と考えられる。
 パイプスによれば、歴史事象への<判断>を峻拒する歴史叙述は、公正で客観的な印象を与えるかもしれないが、じつはその歴史または歴史の結果としての現在の<勝利者>に味方している。生起した歴史事象、その結果としての現実が「自然」で「正しい」と思ってしまえば、それは<現実>(を支持する大勢 ?)を擁護していることになる
 この観点は忘れてはいけない、と思う。
 徳川家康は「正しかった」から長い江戸時代を拓いたわけではないし、明治維新が(薩長両藩等が)「正しかった」から、明治時代があったわけでもない、と思われる。
 「日本に生まれてまぁよかった」という題の本を出している人がいるが(平川祐弘)、この人が安倍戦後70年談話を擁護しているように、彼が生きた戦後日本は彼にとって「まぁよかった」のだろう。そして、この人の今年1月号の論考に明かなように、戦前・戦中の日本は<誤って>いた、と判断されることになる。それでもなお、この人(平川祐弘)は「保守」派論壇人らしいのではあるが。

ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む。

  ズビグニュー・ブレジンスキー(鈴木主悦訳)・アウト・オブ・コントロール(草思社、1994)の「はじめに」と「第一部・組織化された狂気の政治」p.5-p.57。
 第一部は「第一章・大量死(メガデス)の世紀」、「第二章・全体主義のメタ神話」、「第三章・強制的なユートピア」から成り立つ。
 原書は、Zbigniew Brzezinski, Out of Control - Global Turmoil on the Eve of the 21st Century(Charles Scribner's Sons, 1993)
 一 ブレジンスキーにはすでに次の著もあり、「20世紀における共産主義の誕生と終焉」を語っていた。
 Zbigniew Brzezinski, The Grand Failure - The Birth and Death of Communism in the Twentieth Century (Macmillan Publishing, 1989)=ブレジンスキー(伊藤憲一訳)・大いなる失敗-20世紀における共産主義の誕生と終焉(飛鳥新社、1989)
 二 とりあえず上記の部分のみについてだが、すでに考えさせる、または刺激的な叙述に溢れている。
 この人は冒頭(表紙裏)に「ジミー・カーターに捧げる」と書いているようにアメリカの民主党系の学者だ。リチャード・パイプス(1923生)よりも5歳だけ若く(1928年生)、パイプスが共和党系であるのと異なる。但し、この二人ともポーランド生まれの、民族的にはポーランド人だ、と見られる(アメリカに帰化)。
 フーバーとF・ルーズヴェルトの違いを知ると、共産主義についての見方に共和党と民主党には大きな差違があるようにも思える。しかし、ポーランド生まれであることが関係しているのかどうか、ブレジンスキーは(も)<反共産主義>を鮮明にしている。これが、やや驚きでもある第一点だ。
 「はじめに」の最後の段落の文章を、やや長いが引用してみよう。邦訳書p.15-16。
 「20世紀は妄想の政治とおぞましい殺人の世紀でもあった。過去に例をない規模で狂気が制度化され、まるで大量生産を思わせる組織的なやり方で人間が殺された。人類を幸福にするはずの科学の可能性と、実際に歯止めがかけられなくなった政治の邪悪さは、おそろしいほどに対照的である。人類の歴史を振り返っても、殺人がこれほどあちこちで起こり、多くの人命が失われたことはなかった。不合理な目的のために、特定の人間を絶滅させるべく、これほど集中的にかつ持続的な努力が傾けられたこともなかった。/
 たしかに、…。中世には、…。…。しかし、このほかの暴力が激化した例を見ても、それらは基本的には突発事件だった--激しい暴力のために多くの血が流されたが、それは持続しなかったのである。大量虐殺、とりわけ非戦闘員のそれは、…、念入りな計画にもとづく一貫した方針にそって行なわれたわけではなかった。20世紀という時代が政治史に悲惨な足跡を残したとすれば、まさに念入りな計画にもとづく一貫した方針によって大量虐殺が行なわれたことなのである。」
 「20世紀の大量殺人」、「組織化された狂気の時代」の「大量殺戮」によってブレジンスキーは何を意味させているか。彼はその原因を①戦争・局地戦争・内戦、②全体主義>共産主義、③宗教・民族問題に分けて論じているようだが、ほとんどは<共産主義>によるものについてだ。
 ブレジンスキーによれば、①による(「実際の戦闘」による、民間人も含む)死者数は8700万人(広島を含む)。③によるものは、「300-400万人」。そして、②+③の「イデオロギーや宗教上の理由」により「意図的に殺された」人間は「8000万人を超える」(p.28)。
 合計の約1億7000万人は、仏・伊・英の三国の人口数の合計にほぼ等しく、アメリカの人口の3分の2以上(p.28)。
 ブレジンスキーは、20世紀を「大量死(Megadeath)」の時代、と称する(p.17)。Mega とは、10の6乗の数。
 ②の「『強制的なユートピア』をつくろうという全体主義的な試み」によるものについての叙述はかなり詳しい。以下は、抜粋引用的な紹介。
 「道徳的観点からすると、戦争の犠牲者の数さえ見劣りするかもしれないその数字こそ、20世紀を大量死の世紀と正当に位置づける根拠となる」。その数こそが「主義に名を借りた憎悪や感情のせいで、計画的に死に追いやられた無防備な人びとの数」だ(p.20)。
 この「政治的な動機による大量殺人」の原因は、つぎの4人の人間だった。
 すなわち、ヒトラー、レーニン、スターリン、毛沢東。
 「推定」数字だが、「重要なのは規模であって、正確な数字ではない」(p.18))
 ヒトラーによって、約1700万人。レーニンによって、「およそ600万人から800万人」。
 スターリンによって、「控えめに見積もっても、2000万人以上が、おそらくは2500万人が殺された」(p.21)。中国の指導部は「秘密」にしているが、推計では、毛沢東の「文化大革命」により、「100万人から200万人が殺された」(p.26)。
 その他、「東欧、北朝鮮、ヴェトナム、キューバ」で、「少なくとも300万人」。カンボジアでその3分の1、つまり約100万人。
 「共産主義は人類が歴史上最も大きな犠牲を払って失敗した試みだった」(p.27)。
 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある(p.22以下)。
 <以下、続ける。>

日本共産党の大ウソ28-志位和夫綱領解説。

 一 日本共産党2004年綱領について現在の幹部会委員長・志位和夫が三巻本の<綱領教室>を出している。ソ連、とくにレーニンに関する部分は綱領第3章第8節の中にあり(但し節番号は最初からの通し)、その部分についての志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のp.167-188を、以下適宜引用しつつ読む。
 前回にも言及した<戦時共産主義からネップへの移行>について志位は「不破さんの研究に依拠しつつ、…」と明記しているので、当該箇所は不破哲三の<レーニンと資本論>の該当部分も同時に読むことになる。
 二 p.170まではたいした内容がない。「教室」=幹部 ?研修講義のための概述と年表だけ。
 つづく、つぎの文章は、さっそく驚かせる。いずれも、p.171。
 「十月社会主義革命が巨大な世界史的意義をもつ出来事であったことは、政治的・思想的立場の違う人であっても、今日でも揺るがない評価だと思います」。
 「人類最初に社会主義への道に踏み出したロシア革命は、一時のものではなく、それ自体が、世界史に今日も続く持続的な影響を、与え続けている」。//ソ連という国は崩壊したが、「にもかかわらず、十月社会主義革命が、世界史に与えた影響が、過去のものになってしまったわけでは」ない。
 まず気づくのは、「たとえば」として論拠として出す文献が、E・H・カーの本一冊(岩波現代選書)だけだ、ということだ。
 この本は1989-91年以前の本にしてはロシア革命史(ネップ期を含む、1917-1929)を要領よくまとめているとは思うが、日本語版・原書ともに何と1979年、ソ連崩壊前のものだ。とりわけソ連崩壊後の諸資料、諸研究文献を見ているはずがない。
 第二は、「十月社会主義革命」(かつて日本共産党は<社会主義大革命>と「大」を付けていたかもしれない)とか「人類最初に社会主義への道に踏み出したロシア革命」とかいう捉え方自体に問題があるし、疑問視されなければならず、かつ実際にも、疑問視されている。
 「政治的・思想的立場の違う人であっても」認めている、という言い方は不当であり、デマだ。
 例証をいちいち挙げない。「社会主義」革命性自体を、かつまたマルクスの言説またはマルクス主義の正当な(ロシアにおける)帰結だったか、もまた、疑問としなければならないと思われる。少なくとも問題になりうるということは、認めなければならない。
 しかし、日本共産党幹部・志位和夫はこれを認めることができない。なぜなら、日本共産党自体がロシア革命の成功を前提とする(レーニンが最高指導者時代の)第三インター(コミンテルン)の結成によってこそ誕生しているからだ。
 したがって、日本共産党は、1922年創立をその歴史の出発点とするかぎりは、そして、そうした政党として存在するかぎり、絶対にレーニンだけは(ロシア「社会主義」革命とともに)「救う」必要があるのだ。したがってまた、ロシア革命についての歴史観・歴史認識は、大きな<政治的>粉飾にまみれたものになってしまう。
 第三に、なるほど1917年10月にペテルブルクで起きたことは、「世界史に今日も続く持続的な影響を、与え続けている」と言える。また、その「世界史に与えた影響が、過去のものになってしまったわけでは」ない。しかし、これはもちろん、否定的・消極的意味においてであって、志位和夫の言い分とは真反対だ。
 フランスのF・フュレも、ロシア革命がなければドイツ・ファシズムはなく、第二次大戦はなかった、と言った。これらに比べれば低い蓋然性ではあるが(戦後の)<冷戦>もなかった、と言った。
 それだけの影響を与えた、と私も断言したい。
 マルクスが「社会主義」への必然性を言葉の上で唱えていただけならばよかった。レーニンら、ロシア共産党は、「社会主義革命」を現実に行ったと宣言し、<理論(・言葉)の現実化>に成功した、とされた。多くの世界中の人々がそれを「信じて」しまい、逆にマルクス主義の「正しさ」を立証した、ということになってしまった。
 これは、20世紀の初頭の、実に悲痛な現実だった、と思う。
 日本でも<マルクス主義(またはマルクス・レーニン主義)に染まらないとインテリではない>とか言われ、戦前の帝国大学学生を含む知的階層に巨大な影響を与えた。その影響は戦後および今日まで(日本には)残っている。
 北一輝は「純正社会主義」をタイトルにした本を書き、「私有財産」を厳しく制限する<日本改造法案>を著した。これらは、マルクスやレーニンの本を一部は読んでいたこと、後者はロシア革命の報に着目したことを示しているだろう。最近に北一輝の上の本も見たが、マルクスとかレーニンの名が出てくる。
 この北一輝の本が二・二六事件の農民出身兵士たちに「理論的」影響を与えた、というのだから、あくまで一例だが、レーニンとロシア革命は日本史の現実をも変えてしまった、と言える。むろん、不破哲三や志位和夫の人生も大きく変えてしまった(気の毒に)。
 三 上の部分のあとの志位の叙述は、「レーニンが指導した最初の段階」での「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」の話になる。

日本共産党の大ウソ27-02-不破哲三・平凡社新書02。

 不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)は、「ソ連とはいかなる存在だったか」という節見出しのもとで、レーニンについて、つぎのように書く。日本共産党2004年綱領のレーニン関係部分を説明していることになろう。
 この欄は<反共デマ宣伝>を意図してはいないので、これまでと同様に、客観的に、日本共産党・不破哲三らの文章も引用または紹介する。
 ・日本共産党は「ソ連の歴史を見るとき」、「レーニンが指導した初期の時代と、スターリンの指導に移って以降の時代」とを、「はっきり区別」している。
 ・「レーニンは、…革命のあと、経済的には遅れていたロシアを社会主義への道に導くために、真剣な努力を行いました」。
 ・「初期、とくにイギリス、日本など14の資本主義諸国が軍隊を送り込んだ内戦の時期には、『戦時共産主義』などの誤った模索もあ」った。
 ・だが、「戦争終結のあと、内外の諸政策の抜本的な転換をおこない、内政面では、市場経済を通じて漸進的に社会主義に進む『新経済政策=ネップ』路線を、対外面では資本主義諸国との平和共存および周辺の諸民族の独立の尊重を基本とする外交路線をうちだし、それを基本路線として社会主義の道にふみだし」た。
 ・「しかし、不幸なことに」、「確立した路線にそっての前進を開始したばかり」の1923年にレーニンは「重い病に倒れ、翌24年1月、生涯を閉じ」た。
 以上、p.198。
 ここでは、「戦時共産主義」を「誤った模索」と明記していることのほか、レーニンの積極面として、①内政における「新経済政策=ネップ」、対外面での②「資本主義諸国との平和共存」と③「周辺の諸民族の独立の尊重」を基本路線としたこと、を挙げていることを、確認しておく必要がある。また、1923年には「確立した路線にそっての前進を開始した」とされていることも、関心を惹く。
 以上のあとはスターリンの時期の叙述だが、そのはじめに、「レーニンの最後の時期に」、つぎの点について、スターリンはレーニンと「激しい論争を交わしてた」と書かれていることも確認しておく必要があろう。
 すなわち、「国内の少数民族政策と党の民主的運営の問題について」。同じく、p.198。
 この欄では大きな第二の論点として「ネップ」導入は<市場経済を通じて社会主義へ>の路線の発見・確立だったのかを取り上げるが、その他の不破が上で言及しているような問題・事項についても、余裕があれば断片的にではあれ、論及する。例えば、資本主義諸国との「平和共存」 ?、「周辺諸民族の独立尊重」 ?(「国内の少数民族政策」 ?)。
 なお、このような日本共産党・不破哲三によるソ連またはレーニン・スターリンにかかる歴史の認識について、近年または最近の-いや1994年以降の-産経新聞社発行等のいくつかの<日本共産党研究>本は、きちんと批判的にとりあげているだろうか。反共産主義または「反共・保守」派の論壇は、日本共産党の主張・議論を詳しくかつ個別に反駁しておくことをしてきたのだろうか。相当に怪しく、心もとない。

日本共産党の大ウソ26追-宮地健一による項目別推計数。

 粛清とかテロルという語の正確な意味も問題だが、ソ連におけるとくに第二次大戦のこれらの犠牲者の正確な数も、細かく特定することは永遠にほとんど不可能なのかもしれない。
 第26回で引用した稲子恒夫が示す数字自体は正確だと思われる。しかし、それらは「国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺」とされているように、裁判手続を経ない殺戮もあるし、明らかに政策的な(明かな政策に原因があると見なしうる)飢餓による死者もある。
 いろいろな書物が-とくにソ連崩壊後に明らかになった資料による文献は-「共産主義」による犠牲者の数を推測している。稲子恒夫が示す数字も基礎になりうる。
 白井聡のように犠牲者数が<ナチズムのそれよりも多い>と言いたいだけだと<統計数>を馬鹿にするのは、自らの、多数の犠牲者に対する無感覚、人間的な「感情」のなさを暴露していると思われる。
 多数の知り得た文献による推計数を、一回だけで逐一紹介する余裕はない。
 今回は、宮地健一「『赤色テロル』型社会主義とレーニンが『殺した』自国民の推計」幻想と批評第1号(はる書房、2004)にもとづいて紹介する。
 日本共産党・不破哲三はレーニン期とスターリン以降の時代を明確に区別しなければならないと強調するが(なぜか、ブレジネフ以降とかゴルバチョフ期とかいった区分をしない)、宮地は上の論考で、この区別を意識して ?、レーニン期に<レーニンが殺した>犠牲者数を「推計」することを追究している。
 宮地健一はソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密文書」の大量データを不十分かもしれないが見ているようだ。
 詳細は「宮地健一のHP」を見ていただく方が早い。
 88-89頁の表の引用・紹介も省略して、そのあとの各見出しを少し修正したものだけを、紹介しておく。説明・根拠等は本文内にある。推計数字は「肉体的殺人と政治的殺人」の両者を含んでおり、かついわゆる<白軍>との「内戦」による死者数を含んでいない、とされる。
 時期は、1917年12月の「チェカ」(政治秘密警察-KGB等の前身)創設~1922年12月のレーニンの政治活動の実質的停止、の間。
 ①反乱農民-「数十万人」殺害。
 ②兵役忌避の脱走兵・徴兵逃れ-「十数万人から数十万人」銃殺・殺害・人質。
 ③コサック身分農民-「三〇~五〇万人」殺戮・政策的餓死。
 ④ペトログラードのストライキ労働者-「五〇〇〇人」逮捕・「五〇〇人」即時殺害。
 ⑤クロンシュタットの水兵・住民-「五万五〇〇〇人」殺戮・銃殺・強制収容所送りによる殲滅。
 ⑥聖職者(ロシア正教等)-「数万人」銃殺/信徒-「数万人」殺害。
 ⑦反ソヴェト知識人-「数万人」肉体的排除。
 ⑧カデット・エスエル・左派エスエル・メンシェビキ・アナキスト-カッコ付き「数十万人」。
  *最終的に「スターリンは、粛清により、これら百数十万人の全員を、亡命した者以外、一人残らず殺害した」(p.101)。
 ⑨飢饉死亡者-「五〇〇万人」。
  *「飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人」は定説で、「ランメルは…、意図的政策による餓死者数を250万人としている」(p.101)。
 以上によって、宮地は、レーニンが、「最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない」とする。
 これらの<最高値>は、秋月によると、数百万人になるだろう。
 かりに「最低値」によるとしてすら、レーニン期は5年余なので、単純に5で除して、総計20万人だと毎年平均4万人、総計30万人だと毎年平均6万人、総計50万人だとすると毎年平均10万人を<レーニンは殺した>ことになる(レーニンによる直接指示のほか、、レーニンをトップとする共産党政治局決定による指示を含むはずだ。上記のとおり「内戦」-そして「対外(干渉)戦争」-の戦死者を除く)。
 これは愕然とする数字に違いない。そして、スターリン期にはこれの何倍・何十倍かの規模で<粛清・テロル>が行われた(宮地p.75は論考冒頭で「スターリンは4000万人の大量粛清をした犯罪者だ。しかし、レーニンは偉大な革命家、愛情あふれる、人間味豊かなマルクス主義者で、大量殺人などしていない、と信ずる日本人はまだ大勢いる。ほんとうにそうだったのか」、と書き始めている)。

日本共産党の大ペテン・大ウソ27-不破哲三・マルクス…(平凡社新書)01。

 前回に引用した日本共産党綱領の部分と同じ旨を不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)が述べている(p.196末尾~)ので、それも紹介しておこうと思った。
 だが、この欄で既述の第一の論点に関係するが、不破哲三の上の本は自分たちの過去についてつぎのように不正確なことを述べていることに気がついたので、批判的にコメントしておく。
 不破・上掲p.197は、こう書く。
 「…、日本共産党としても、私個人としても、ソ連への認識は大きく発展し、そのことが1991年のソ連解体のときには、『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明となり、さらに3年後の94年の党大会での、ソ連社会は、覇権主義と専制主義を特質とする、社会主義とは無縁な人民抑圧型の社会であった、とする結論的な評価となって表明されたのでした。」
 日本共産党や不破哲三は、このように自分たちの1989/91~94年の言動をまとめておきたいのかもしれない。
 しかし、つぎの点で正確ではない。つまり、完全な誤りを含んでいる。
 第一。ソ連共産党の解体とソ連邦の解体とを、意図的にか混同させている。あるいは、この違いを、意図的にか、ごまかしている。
 不破は1991年に「『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明」を出したとするが、日本共産党中央委員会常任幹部会が1991年9月1日付で出した声明は正確には「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題するもので、この表題でも明らかなようにソ連共産党の解体(解散)の際のものだ。したがって、上掲のように「1991年のソ連解体のとき」とするのは、大ウソ・大ゴマカシ。
 資料的に再度一部引用すれば、つぎのとおり。-「ソ連共産党の解体」、「長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたこと」は、「これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。
 もちろんこの時点では、ソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。
 第二。1991年12月末のソ連邦の解体(崩壊)の際の、同年12月23日付日本共産党中央委員会常任幹部会声明「ソ連邦の解体にあたって」は、「これを歓迎する」(上掲不破)という言葉をまったく用いていない
 不破哲三の上掲書は、上の二つのことを、おそらくは意図的にゴマカすものだ。つまり、こっそりと「大ウソ」をついて(そして「大ペテン」を仕掛けて)いる。
 なお、この時点でもソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。「ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」と述べるにとどまる。ソ連は社会主義国ではなかったと明言したのは、上に不破も書くように、2年半ほどあとの1994年7月の党大会での綱領改正によってだ。
 第三。つぎの宮本賢治発言の趣旨を不破は無視している。
 すなわち、1991年12月21日のソ連崩壊をほとんど予想できたとみられる、つまり「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」、崩壊直前の12月17日にインタビューを受けた同党中央委員会議長・宮本賢治はつぎのように語っていた。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.182)。
 以上につき、この欄の本年6/11~7/11「日本共産党の大ムペテン・大ウソ」18-21回を参照。
 当時、日本共産党指導部が<混乱>していたと見られることは、すでに書いた。党員たちは動揺していたに違いない。そして、不破哲三自身も含めて、幹部たちが手分けして、ほとんど同党党員が聴衆だったと推察される全国の<講演会>に出ていたのだ。
 ソ連共産党は解体してもソ連邦が崩壊しても、ソ連(・同共産党)の「覇権主義」等に原因があり、それ(当時は「大国主義」ともよく言っていた)と闘ってきた日本共産党は決して誤っていないと、-ソ連自体の「社会主義国家」性には触れることなく-同党の党員たちが党から離反しないように、必死の ?説得と強弁を続けていたのだ。
 不破哲三・上掲書の叙述は、このような過去をまつたく感じさせない。そして、なぜ1994年7月まで<ソ連のスターリン期の途中以降の「社会主義国」性否定>が遅れたのか、という理由にも触れていない。
 日本共産党・不破哲三は平然とウソをつき、語りたくない事実は平然と無視する。

日本共産党の大ウソ26-レーニン時代とは。

 一 「日本共産党の大ペテン・大ウソ」の第02回めに引用したが、あらためて日本共産党2004年綱領から、レーニン・スターリンに関する部分(「三〔章〕、世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中の「(八)」〔節〕)を掲載する。「・」は原文にはない。//は原文では非改行。
 「・資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 ・最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。//
 しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらりが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。
・ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。
 ・ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった。
 ・今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、「市場経済を通じて社会主義へ」という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が一三億を超える大きな地域での発展として、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」
 二 日本共産党は「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された」と歴史認識する。これが、レーニンに関する事実に反する美文にすぎないことは、すでに多少とも触れてきた。
 「市場経済を通じて社会主義へ」以外の論点につき、以下の事実の指摘もある。もっとも、「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」が以下のような事実を指すのだとすれば、それはそれで一貫しているのかもしれない。数字の最後に「人」を追記した。
 「1918年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者5万8762人、勾留5万8762人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)1万4504人、死刑(銃殺)6185人。これらの数字は国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺。」p.135。
 「1919年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万9238人、勾留6万9238人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万2202人、死刑(銃殺)3456人。」p.155。
 「1920年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万5751人、勾留6万5751人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)不明、死刑(銃殺)1万6068人。」p.178。
 「1921年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者9万6584人、勾留9万6584人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万1724人、死刑(銃殺)9701人。」p.196。
 「1922年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万2887人、勾留6万2887人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2656人、死刑(銃殺)1962人。」p.214。
 「1923年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者10万4520人、勾留10万4520人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2336人、死刑(銃殺)414人。」p.230。 
 以上、p.数とともに、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀-年表・資料・分析(東洋書店、2007)。 
 三 すでに上の稲子恒夫編著には触れている。記してはいないが、信頼してよい書物だと判断したうえでのことだ。とくに日本人の書物・文献は、日本共産党への「立場」によって信頼性が微妙でありうるので、何らかの評価をある程度は先行させざるをえないことがある。
 稲子恒夫(1927-)はかつて日本共産党員だったとみられる。名古屋大学法学部/ソ連法・社会主義法担当教授。したがって、ロシア語を読め、かつ1992年以降に「秘密資料」を読んだと思われる。
 しかし、既に引用したが「誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが、…スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基礎に生まれた」(p.1009)等と書いているように、また別に紹介するが、1989-91年やその直後に田口富久治、加藤哲郎らと共著や対談書を出しているように、ソ連崩壊前後の時期に、日本共産党を離れた(党員ではなくなった)と推察される。
 したがって、上記の数字や文章など、日本共産党には都合が悪いはずの、または日本共産党の歴史理解とは異なる記述をすることもできているわけだ。上の編著はこの人の最後の著書になったのだろうか。

R・パイプス・共産主義の歴史-池田信夫著による。

 池田信夫・使える経済書100冊-『資本論』から『ブラック・スワン』まで(NHK出版、2010)は、一冊として、R・パイプスの Communism - A History(2001)を取り上げている。但し、原著ではなく、飯嶋貴子訳の<共産主義が見た夢>というタイトルに化けさせられている ?邦訳書だ(ランダムハウス講談社、2007)。
 わずか2頁余りでの言及で、しかも、紹介と池田自身の論評の部分との境界がはっきりしない。
 冒頭にある以下の二文は、明らかに紹介の部分。
 「本書の共産主義の評価は全面否定だ」。
 「特にロシア革命について、『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか『トロツキーが後継者になっていたら……』という類の議論を一蹴する」。
 この上の文について池田はとくにコメントしていない。だが、日本共産党流の『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか、かつての「新左翼」流の『トロツキーが後継者になっていたら……』とかの議論が日本にあることを知ったうえでの紹介ではないか。
 つぎの文は、明確ではないが、(パイプスの主張の)紹介のようだ。
 「一部の陰謀家によって革命を組織し、その支配を守るために暴力の行使をためらわなかったレーニンの残虐さは、スターリンよりもはるかに上であり、ソ連の運命はレーニンの前衛党路線によって決まったのだ」。
 R・パイプスの上掲著の内容の詳細な記憶はないが、ここにも、日本共産党のレーニンをめぐる歴史理解とは全く異なる理解が示されている。しかも(池田の読み方が混じっているかもしれないが)、レーニンによる前衛党論・共産党組織原理(分派の禁止等)に(も)根源がある、という理解が示されている。
 つい最近、いかなる事情を背景にして「分派禁止」の方針が出された(決してレーニンの頭の中からのみ生じたのではない-したがってソヴィエト・ロシアに特有の事情があったのであり一般化できない)のかをある本で(いま書名を忘れた)読んだばかりだ。立ち入らない。
 つぎの文あたりから、パイプスの主張・理解に刺激をうけての、池田信夫自身の見解・コメントが述べられてくる。
 なぜ共産主義は広い支持を受けたか。「筆者も認めるように、財産や所有欲を恥ずべきとする考え方は、仏教にもキリスト教にもプラトンにも広くみられる」。
 以下は、池田信夫の<世界>に入っている。
 「ハイエク流によると、…〔遺伝子に組み込まれた〕部族感情のせいだろう。つまり人間は個体保有のために利己的に行動する本能をもつ一方、それが集団を破壊しないように過度な利己心を抑制する感情が埋め込まれているのだ」。/マルクスは「人間が利己的に行動するのは、近代市民社会において人類の本質が疎外され、人々が原子的個人として分断されているためであって、その矛盾を止揚して『社会的生産』を実現すれば、個人と社会の分裂は克服され、エゴイズムは消滅すると考えていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルなので、下部構造が変われば人間も変わるはずだった。/しかし現実には、利他的な理想よりも利己的な欲望のほうがはるかに強く、下部構造が変わっても欲望は変わらないことを、社会主義の歴史は実証した」。
 そのあと、人間の利己心中心で利他心が全くないと想定する「新古典派」も実証科学としては検証に耐えない、「市場の効率を支えているのは、実は利他的な部族感情によるソーシャル・キャピタルなのである」、という池田<節(ぶし)>が続く。
 R・パイプスには、Property and Freedom(財産(所有権)と自由)(1999)という本もある。
 関心を持たざるをえないのは、ホッブズやルソーについてもそうなのだが、マルクスやレーニンにおける「人間像」だろう。彼らは「人間」をどのような本性・本質を持つものと見ていたのか。
 財産欲・所有欲を持つのは資本主義社会特有の「人間」で「社会主義」化によって変わる、と考えていた(との観念を抱いていた)のだとすれば、つぎのような連想も出てくる。
 スターリンに顕著な党員の「粛清」も党員・抵抗者に対する「テロル」(大量殺人=肉体的抹殺)も、利他的な「真の」社会主義的「人間」に改造されていない(社会主義・共産主義にとっては邪魔な)人間は殺戮しても構わない、なぜなら、いずれ消失すべきブルジョア資本主義に汚染された「利己的」人間は「真の」人間ではないのだから、という<人間観>によるものではないか。
 数百万人、数千万人の単位で「強制労働収容所」に送り込み、また「処刑」(肉体的抹殺)をできた人間とそれを中心とする共産党組織のもつ<人間観>とは、おそらくは現在の日本人のほとんどの、想像を絶するものに違いないだろう、と思われる。
 日本共産党の真面目な党員ならば、反日本共産党で知られた人物がその党員の者しか知らない状況で死に瀕していることに気づいたとき、誰にも気づかれないと確信すれば、放置してそのまま死なせてしまうのではないか、とかつてこの欄で書いたことがある(だいぶ前だ)。
 「敵」から生命を奪ってもよいと究極的には考えているはずの日本共産党員だから、明確な反共産主義者に対する<不利益扱い>や<いやがらせ>・<いじめ>など、いかほどの疚(やま)しさも伴わないに違いない。ひょっとすれば、不当な(不平等な)不利益扱い、いやがらせ・いじめとすら意識しない可能性もある。

日本の「左翼」-白井聡/アラン・ブロックの著。

 一 日本共産党綱領(2004)は、つぎの数字を明示的に掲げる。
 日本の「侵略戦争」は「2000万人をこえるアジア諸国民」と「300万人をこえる日本国民」の「生命を奪った」(+「…原爆が投下され、その犠牲者は20数万にのぼり…」)。
 「ファシズムと軍国主義」を糾弾し、同党の「たたかい」を称揚するために、かかる数字を挙げて、いかに多くの人命が犠牲になったか、と言いたいのだろう。
 この数字自体に疑問はないとしても、では共産主義(者・体制)によっていかほどの人命が犠牲になったのかも示さないと、歴史を公正に見ることにはならないだろう、と思われる。
 これに関連して、クルトワ等・共産主義黒書の推測では共産主義の犠牲者数は一億人(10,000万人)を下らない、という数字をこの欄でも書いたことがある(数字を確認しない)。
 二 白井聡は、このような統計的数字を挙げることに、感情的に反発している。
 白井聡・未完のレーニン(講談社、2007)は、そのあとがき(p.229-)で、まさにクルトワ=ヴェルトの共産主義黒書への反発を最初に記したあとで、次のように書く。引用に値する文章だ。
 ・「マルクス主義・共産主義思想を単純に断罪し、…世界で最も憎むべきものとして認知させよう」という「今日声高に主張されている断罪の言説の多くが拠って立つ根拠は、それに関して何人の人が死んだか、その犠牲者はナチズムのそれよりも統計的に多かった、ということ以上のものではない」。
 ・「…反共主義者と全体主義的政治機構の首領は、暴力による人間の死という問題を統計的にしか考えることができない、という点で奇妙にも一致している」。以上、p.230。
 このあと続けて白井は、このような状況は現在の「精神的な頽廃」だろう、とも言っている。
 この白井聡という人物は、いかに<反・共産主義>を嫌悪しているのだとしても、正常な感覚の持ち主だとは、したがって、まともな学者だとは到底思えない。
 反マルクス主義・反共主義の言説の「多くが拠って立つ根拠」は共産主義の「犠牲者はナチズムのそれよりも統計的に多かった、ということ以上のものではない」 ? ?。
 こんな馬鹿なことを秋月瑛二を含む「多く」の者が述べているわけではない。
 そのあとの文章もひどい決めつけ方だ(「全体主義的政治機構の首領」とは何を指すのか不明だ)。人の「死」を「統計的にしか考えない」、というような罵倒でもって、反共産主義者を批判してはならない。
 ついでにいうと、クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書について白井はこうも言う(p.229)。
 マルクス主義・社会主義革命を断罪し、「新自由主義化した資本主義や多くの国々でおよそ健全に機能しているようには見えない議会制民主主義を全面肯定する」ことが「正義であると結論すれば」、歴史の教訓が得られるとは思えない。
 白井聡に「諭して」おくが、マルクス主義・共産主義を厳しく批判することと、現在の、あるいは今日の日本の資本主義や「議会制民主主義」を「全面肯定」することとはまるで異なる次元の問題だ。クルトワとヴェルトの本は、上のような「結論」を示してはいないはずだ。
 2006年にこんな幼稚なことを書いていたことを、恥ずかしくは思わないだろうか。
 かくも明確な<反・反共主義>ぶりをおそらくは最初の刊行物で明らかにした白井聡が、「左傾」した日本の出版界・論壇等で受容されているらしい経緯・理由も、よく分かる。
 なお、白井聡の学生時代の指導教授は、加藤哲郎らしい。この、1990年前後に日本共産党から離れた(党員ではなくなった)加藤の文献は、日本共産党に関連して少なからず所持して(かつ一読はして)いるので、いずれ言及することがある。
 三 つぎの「統計」を述べている書物がある。レーニンを上掲書で扱った白井聡がまるで関心をもっていない、レーニンの時期の数字だ。
 アラン・ブロック・対比列伝/ヒトラーとスターリン(鈴木主悦訳)(草思社、2003)第一巻p.180は「ほとんど信じられないけれども充分な確証のある数字」の、この書が挙げる「最初の例」として、こう書いている。原著は、Alan Bullock, Hitler and Stalin - Parallel Lives (Vintage, 1993)。ロシア・ソ連に関する叙述で、以下の「内戦」とは、ロシアでの主として白軍・赤軍間の「戦い」だ。
 「子供を含む推定1000万人の男女が、1917年から21年にかけての内戦で生命を落とした。第一次大戦で死んだ軍人と民間人を加えれば、1200万人の人命が失われたのである。人口統計学者によれば、1923年のソ連の人口は、それ以前の数値にもとづいて予測される数字を3000万単位で下回っているという」。
 1200-1000で、第一次大戦でのソ連の軍民死者は200万人、ということになるのだろう。
 これら数字の原因があげてレーニンにある、と主張してはいない。だが、少なくとも「内戦」については(むろんこれはロシア革命が起こったがゆえに生じている)、個人名に限るとかりにすれば、レーニンに最も原因がある。

日本の保守-田村重信(自民党)。

 筆坂秀世=田村重信(対談)・日本共産党/本当に変わるのか-国民が知らない真実を暴く(世界日報社、2016)は、筆坂秀世と自民党政務調査会審議役という田村重信の対談本で、田村重信が安保法制等に関する著書も出している、国会議員ではない有力な論者なので、日本共産党について語られていることが関心を惹く。
 しかし、自民党という政権与党の論客であるわりには、日本共産党の理解に、きわめて大きい、致命的とも思われる誤りがある。田村は、p.55-56でこう言う。
 ・ソ連批判が生じると「ソ連を美化していた」のを「今度は独立路線」だと言う。
 ・「最近は」、結局、「マルクス、エンゲルス」だという。「ソ連も北朝鮮も参考にするものがなくなつたから、原点に戻ってマルクスだと言っている」。
 田村重信は自民党きっての理論家らしく思えてもいたが、日本共産党についての理解は相当にひどい。自民党自体については別に扱いたいが、自民党議員や閣僚等の日本共産党に関する認識もまた相当に怪しいのだろうことをうかがわせる。
 第一に、「ソ連を批判されると…」というのがいつの時期を指しているのか厳密には不明だが、日本共産党は、ソ連は現存の又は生成途上の「社会主義」国家だとは見なしつつ、1960年代後半には、ソ連や同共産党との関係では(中国ついても同様)<自主独立>路線をとっていた。ソ連をかつては全体として「美化」していたかのごとく理解しているようで、正確さを欠いている。
 重要な第二は、日本共産党はソ連崩壊後決して、レーニン・スターリンを飛び越して単純に「マルクス、エンゲルス」に戻れ、と主張しているのではない。「原点に戻ってマルクスだ」と主張していると理解するのは正確でない。
 たしかに不破哲三には<マルクスは生きている>という題の新書もあり、日本共産党はかつてのようにはレーニンの議論全体を採用していないところがある(例えば、「社会主義」と「共産主義」の区別)。しかし、今なおレーニンを基本的には肯定的に評価しており、何度もこの欄で紹介しているように、<スターリンとそれ以降>の歴代指導者が「誤った」と理解・主張しているのだ。
 なぜ日本共産党はレーニンを否定できないのか。それはすでに簡単には記述したし、もっと詳しく明確にこの欄でも書いておく必要があるが、レーニンを否定すれば、レーニン期に作られた(第三)コミンテルンの支部として誕生した「日本共産党」自体の出生も否定することになるからだ。この党が、戦前の「日本共産党」とは無関係の新しい共産主義政党だと主張していないかぎりは。
 自民党の有力な論者がこの辺りを理解していないとは、まったく嘆かわしい。
 現在の日本の「保守」の、日本共産党や共産主義についての理解・認識のレベルの決定的な低さを、田村重信の発言は示しているようだ。ため息が出る。

日本の「左翼」-田中充子。

 田中充子・プラハを歩く(岩波新書、2001)という本がある。著者の専攻は「建築史」だとされ、この本は私も多くは知っているプラハの建築物(や広場)に触れているので、懐かしい気分にもさせられる。そもそもが、プラハ旅行の前か後に、本のタイトルを見て購入した可能性が高い。
 ところが、いつか原田敬一著について<この機会に党派信仰も示しておいた>のではないか旨を書いたことがあるが、建築史の専門家にしては、<この機会に党派信仰も示しておいたわよ、安心を>とでも言っているような、あるいはそれ以上に明確な、政治的・党派的な歴史理解を、著者・田中充子は記述している。田中はp.210-212で、以下のように言う。
 ・ムッソリーニ、ヒトラーにつぐ「第三の独裁者であるスターリン」は、二人に倣って、また対抗意識をもって、<スターリン・ゴシック>建築を「新生国家のイデオロギー」として示そうとしたのでないか。
 ・アメリカの摩天楼建築を「キャピタリズム・ゴシック」というなら、それはスターリンの「社会主義ゴシック」とどう違うのか。この両者は「同じ土俵、あるいは同じ体質から生まれたともいえそうだ」。敷地の広狭だけが「違っている」。
 ・ソ連には「1917年の革命以降、…1920代末まで、ロシア構成主義をはじめとするいろいろな近代建築が生まれた。というのもそのころまではまだレーニンが生きていたからだ」。
 ・「しかし、西欧的な教養を身につけたレーニンが死に、その後スターリンが独裁体制を敷いて自由主義的な風潮にストップをかけてから」欧州の知識人はソ連を離れた。「その後に登場したのがスターリン・ゴシックである」。
 さて、事実の認識自体に誤りもある。第一に、レーニンの死は1924年で1923年には政治活動ができなくなっているので、「1920代末まで」のレーニンの影響を見るのは厳密には正しくない。
 第二に、「西欧的な教養を身につけた」レーニンとは、いったいどこで仕入れた知識だろう。こんなに簡単に形容するのは誤りで、レーニンがスイス等に滞在していたことをもって、「西欧的な教養を身につけた」とする根拠にしているとすれば、噴飯ものだ。
 <ヨーロッパとロシア>というのはロシア「革命」やその「社会主義」を理解するうえでの重要な論点だが、むろん立ち入らない。
 政治的または党派的理解を感じるのは、第一に、<スターリン社会主義>と<資本主義>の同質性を語っていることだ(上に引用の第二点)。ここでは単純な<反資本主義>・<反アメリカ>感情が示されている。
 第二に、たんにスターリンを蔑視しているだけならまだましだが、明らかにスターリンと区別して、レーニンが好意的に表現されている。
 上の部分ではムッソリーニ、ヒトラー、アメリカ摩天楼、そしてスターリンへの嫌悪感が示され、積極的または好意的に語られるのはレーニンだけだ。
 これはいったいどこで仕入れた、どこで、何から「学んだ」知識なのだろう。
 田中はほとんど無意識である可能性が全くないとは言わないが、レーニンは基本的に正しく、スターリンから間違った、というのは日本共産党の公式的な歴史理解だ。
 建築史の研究者がいったいなぜ、上のように述べてレーニンを肯定的に描き、一方でスターリンへの嫌悪感を隠していないのか。
 もともと、ロシア革命もレーニン、スターリンも、田中充子の本来の研究分野ではないはずだ。
 にもかかわらず、種々の建築スタイルの存在は「レーニンが生きていたからだ」と断言しつつ、別の部分では「のではないか」とか「ともいえそうだ」の語尾にしながら、よくも上のようなことを公刊著書に書けるものだ、と感心する(内心では、少し感覚が狂っているのではないかと感じる)。岩波の読者を想定して「気を許して」、レーニンだけ誉めておいて構わないと思っていたのだろうか。
 上記のたんなる事実認識の誤りには含めなかったが、レーニンの時代は「自由主義的な風潮」があり、スターリンはそれに「ストップをかけた」とも断定している。
 この人は日本共産党の党員か意識的なシンパ(同調者)で、ソ連解体以降の日本共産党によるレーニン・スターリンの理解・主張を知っているのではないか。この程度の歴史知識の、とくに理工系の党員・シンパ学者はいくらでもいる。
 そうでないと、なかなか上のように自信をもって( ?)叙述することはできないように見える。
 もちろん、レーニンあるいはレーニン時代のロシアが「自由主義的」だったなどとは、到底いえない。
 非専門家が、いかに党派信仰を吐露しておきたくなっても、余計なことは書かない方がよい。ましてや、プラハのホテルのロビーでの「奇妙な感覚」(p.212)などを活字にして残しておくな、と言いたい。
 追記。この人は簡単に「1917年の革命」と書いているが、「革命」性自体を否定する=クー・デタまたは政権の奪取にすぎないとする和洋文献を少なからず所持している。興味があれば、<勉強>してみたらいかがだろうか ?

日本共産党の大ウソ24-ネップと佐藤経明著。

 一 社会主義・共産主義について、あるいはさらに広く国家・社会・人間・政治・文明等々を論じたかつての人々、歴史家・哲学者等々の人文・社会系の多少とも名が残っている人々の文献のうち、1989-91年以降に発行されたもの、正確にはそれ以前に書かれたものは、もはやほとんど「無効」なものではないかと思っている。
 ルソーもカントもマックス・ヴェーバーも-あくまで例示だが-、20世紀にコミュニズムが引き起こした現実、数千万人以上の人間を何の咎なくして殺戮することができる国家・体制と政治家・人間がいた、という事実・現実を知らないままで何らかの「哲学」や「思想」を語った人々は、その無知のゆえだけでも決定的に限界をもった人々だと思われる。「歴史」的遺物としての文献であり、その意味での「古典」なのであり、現在と将来を分析し展望するためには、社会・国家そして人間についての決定的に重要な考察が欠けている書物を残した人々だと思われる。ソ連で起きたこと、カンボジアで起きたこと、中国で起こっていること、等々の現実を知らないで、人間や社会・国家をまともに論じられるはずはない。
 ソ連について、あるいはロシア革命について、ソ連の崩壊、かつて「社会主義(を目指す)国家」として誕生したものが現在は消失している、という事実・現実を知らないままでソ連・ロシア革命あるいは社会主義・共産主義について何かを語った諸文献もまた、ほとんど「無効」だろう。
 E・H・カーやドイッチャー等々が書いたものも、そのようなものとして扱われる必要がある。
 したがって一方ではまた、ソ連の解体(あるいはかつてのソ連の実態・真実)を知ることがないままでコミュニズム(共産主義)の本質、「悪魔」の思想であることを剔抉していた人々はきわめて高く評価されなければならない、ということにもなる。
 二 上のことからして1989-91以前の和洋の文献は、コミュニズム(共産主義)や日本共産党について記述するために原則としては用いない、または限界があるものとして読む、という心づもりでいる。
 唐突だが、佐藤経明・現代の社会主義経済(岩波新書、1975)という本がある。
 上の原則からして1975年の本を敢えて読むつもりはなかったが、広大な書庫で(冗談だ)たまたま手にとって捲ってみたら、目次に「ネップ(新経済政策)」という「柱」があるのを知った。「社会主義」経済の一般的「理論」が主題かと感じていたが、ロシア・ソ連の「経済」がむしろ主対象のようだ。
 1925年生まれの佐藤経明という経済学者の書物を読んだことは(このように所持していても、)ない。
 しかし、岩波書店発行の本ではあるが(言わずもがなかも)、この人、この本がネップについて述べていることは、結論的部分の一つにおいて、秋月瑛二がすでにネップとその時期のレーニンの「考え」について形成している基本的な理解の仕方と同じだ。
 その部分のみを引用する。
  「1921年春のネップへの転換」は、「主として現実政治上の考慮からおこなわれ、十分理論的に基礎づけられはしなかった」(「したがって、転換の理解のしかたもさまざまであった」)(p.57)。
 「戦時共産主義からネップへの転換は、農民層の離反という政局を避ける実際政策上の必要から迫られたものであって、理論上の転換を十分にはともなわなかった。レーニンも例外ではなかった」(p.62)。
 これらの文章に、少なくとも今のところ、完全に同意する。
 不破哲三(やその教条的追随者・志位和夫)のようにレーニンが書いたもの(レーニン全集)から当時のロシアの現実、さらには共産党自体の方針=厳密にはレーニンと同一ではない、を理解しようとするのは決定的に誤っている。
 ましてや、不破によるレーニン文献の読み方・「解釈」が恣意的で(・政治的に偏向した)誤ったものだとすれば、日本共産党は、悲惨な、歴史を無視した「綱領」のもとで存在し、活動していることになる。
 以上の二文の詳細は、今後に、この欄で記述していくことになる。
 三 あらためて日本共産党の綱領によるレーニン/スターリン理解、レーニンの「市場経済から社会主義へ」論を紹介することから再 ?開しようと思っていたが、研究論文を執筆しているわけではないので、すでにそのような記述スタイルを採っているが、以下でもかなり思いつくままの叙述を続けていく。
 追記。1.兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞出版、2005)に論及したが、この本の文庫版(新潮文庫、2008)は単行本の内容そのままだと思っていたところ(「新版」とかがタイトルにないので)、少なくとも言及した最後の方の部分は完全に書き改められていることに気づいた。雑誌「幻想と批評」所載のものやこの半年間に月刊雑誌掲載のもの(最初のものは珍しくなく感心もしなかったが、最後に「カウツキー」に触れているたぶん二本めは面白い)など、元日本共産党員・「共産主義研究家」の兵本達吉はやはり参照に値する。
 2.たぶんまだこの欄では明記していないが、ネップ期前後の時期については、前回にも記したようにかなりの文献に目を通しているので、タンボフ県とかクロンシュタットという地名もすでに馴染みのあるものになっている。だが、今回のテーマではない。
 3.ネップあるいは社会主義ロシア初期の農業・農民政策に関する研究書に、例えばつぎのものがある。
 ・梶川伸一・飢餓の革命-ロシア10月革命と農民(名古屋大学出版会、1997)。
 ・梶川伸一・ボルシェヴィキ権力とロシア農民(ミネルヴァ書房、1998)。
 ・梶川伸一・幻想の革命-十月革命からネップへ(京都大学学術出版会、2004)
 すべてを熟読したわけではないが、不破哲三らのイメージするネップやレーニンとは雲泥の差違のある、ロシアの現実が記述されていると思われる。
 梶川伸一は1949年生まれ、少なくともかつて金沢大学教授。政治的立場を推測すれば反日本共産党の人物だと思われるが、月刊正論、月刊WiLL等の「保守」系雑誌では名前を見たことがない(これらの雑誌は広範な<反・共産主義>の媒体では全くない、ととくに最近は感じる)。
 日本共産党の、とくに「知識人」意識のある党員たちは、現実を正視する姿勢と「良心」があるならば、上の一つでも概読したうえで、自らの党の綱領におけるレーニン像、レーニン時代のロシア像を真摯に再考してみたらどうか。
 なお、秋月瑛二のこの欄の最近の日本共産党批判はネップやロシア史の「研究」を意図してはおらず、日本共産党の「大ウソ」、つまり同党の理解・主張が決して事実に即していないだろうことを不破哲三ら自体の文献およびいくつかの(できれば多くの)文献によって例証すれば足りる。「いくつかの」文献には、今回の佐藤経明のものも含めて、すでに多少は言及している。

試訳/共産主義とファシズム-「敵対的近接」02。

 Francoir Furet=Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismud im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)、F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡の「試訳」の2回目。p.11~16.
 大きな段落の区切り後の表題は「(一つの)長い注釈」で、これは、書簡の交換の契機となったフュレの大著・Le passe d'une illusion. Essai sur l'idee communiste au XXe siecle (1995)の第6章に付せられた、もっぱらノルテに言及している長い注釈のことだ。
 この著には邦訳書・楠瀬正浩訳/幻想の過去-20世紀の全体主義(バジリコ、2007)があり、上の注釈部分も訳出されている(p.253-4)。したがって、この邦訳書の一部を読めば、この注釈の内容も分かるので、これを参照すれば足りる。フランス語原文にもとづく翻訳書は、いわば「正訳」書のようなものだろう。
 但し、フランス語文からドイツ語に訳された冒頭掲記の本に少し立ち入り、上記邦訳書と少しばかり対照させてみて、私なりの(ドイツ語文からの)訳も掲載しておこうと考えた。楠瀬正浩訳は一部にせよ間違っている、という理由では全くない。ドイツ人訳者の判断又は思い入れらしきものもあるのだろうか、同じ趣旨だとしても(それは当然だろう)、選択された言葉のニュアンスや意味の理解に、微妙な違いがあるように感じられたからだ。また、文章の構造自体が違っている場合があることも歴然としている。
 なお、英語訳書である、The Passing of an Illsion, The Idea of Communism in the Twentieth Century(Univ. Chicago、1999)ものちに入手したが、これまたかりに直訳すれば同じような感想を抱きそうだったので、これの参照は、ほとんどしていない。
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 <(一つの)長い注釈>
 この20年、とくに1987年にドイツの歴史家が議論した国家社会主義(ナツィス)の解釈に関する論争(歴史家論争〔注12/秋月注、フュレの原本の数字〕)以来、エルンスト・ノルテの見解はドイツおよび全西欧で異口同音に批判されたので、特別の注釈を施しておく価値があると思われる。
 エルンスト・ノルテの功績は、とりわけ、きわめて早い時期にコミュニズムとファシズムを比較してはいけないという禁止を打ち破ったことにある。この禁止は西欧では多かれ少なかれ一般的であり、理解しうるまだきわめて生々しい理由でとくにイタリアとフランスで、またドイツでは特別に厳しく遵守された。
 エルンスト・ノルテはすでに1963年にその著「ファシズムとその時代(Der Faschismus in einer Epoche 〔秋月注-in seiner が正しいと見られる〕)で、新ヘーゲル派とともにハイデガー(Heidegger)の影響を受けた、彼の歴史哲学的な20世紀の解釈を、概述した。
 自由主義の制度(liberales System)はそれがもつ矛盾性と将来に対する開放性によって、コミュニズムとファシズムという二つの大イデオロギーを生んだ。マルクスが道を拓いたコミュニズムは、近代社会の「超越性」を極端にまで狩り立てた。著者はそれを、人間の思考と行動から本性と伝統の領域を奪い去る、民主政的な普遍性の抽象化と理解する。
 ファシズムは、これに対して、予め決定されていない自由な存在に対する不安を除去して安心を与えようと意図した。それは遠くは、ニーチェおよび「生」と「文化」を「超越性」から守ろうとする彼の「意思」に着想を得ていた。
 こうして導き出される帰結は、二つのイデオロギーを別々に切り離して考察することはできない、ということだ。これらは、一緒になって、ラディカルな方法で自由主義の矛盾を明らかにする。そして、我々の世紀全体が、これらの相互補完性・対立性の影響のもとにあった。
 年代史的な時系列でもって、それらを整序することもできる。レーニンの勝利はムッソリーニのそれに先行し、言うまでもなくヒトラーのそれに先行した。
 ノルテの見解によれば、最初のものが後続の二つの誘発原因になった。そしてノルテは後続の諸著作で、このような関係を強調している(1966年「ファシズム運動」、1974年「ドイツと冷戦」、中でも1987年「欧州の内戦 1917-1945」)。
 イデオロギーの面から見れば、ボルシェヴィズムという普遍主義的な過激主義は、ナツィズムにおける特殊性の増大を誘発した。実際の面から見ると、レーニンによって行われた階級なき社会という抽象化を掲げてのブルジョア階層の抹殺は、ヨーロッパはコミュニズムの脅威に対して最も弱いので、忽ちのうちにパニックをもたらした。これは、ヒトラーの、およびナショナリストによる逆テロルの勝利を導いた。
 ヒトラーですら彼の敵に対して、最初から敗北するはずの闘争を遂行した。彼も「技術」の普遍的な魅力に惹かれ、同じ方法を彼の敵対者に対しても適用した。スターリンと全く同様に彼は工業化を好み、社会的「超越性」をもつ、ユダヤ・ボルシェヴィキという双頭体の怪物と闘う、と彼は称した。だが実は、ゲルマン種族の支配のもとに人類を一つにするつもりだった。このようにして準備された戦争には、勝利できる根拠は何もなかった。
 ナツィズムは、その発展とともにその元来の論理に忠実ではなくなる。この観点からノルテは、彼の最近の著書(1992年「ハイデガー-人生と思索における政治と歴史」)で、ナツィズムに味方したハイデガーの短い活動家時代を擁護しかつ釈明している。
 ノルテによれば、のちに彼の師となった哲学者には、国家社会主義に対して初めに熱狂しのちに速やかに幻滅するだけの理由があった。
 以上のように見ると、贖罪意識に囚われている者であれ、ファシズムを理解しようとすることでそれへの嫌悪感を弱めるのではないかと怖れる者であれ、あるいはたんに時代の空気に順応しているにすぎない者であれ、戦後世代の人々にとって、ノルテの著作がきわめて衝撃的だったことが十分に理解できる。
 上の前の二つのような振る舞い方は少なくとも高貴な動機によるもので、歴史家はそれを尊重できるし、しなければならない。だが、そのような態度を歴史家がとるならば、ソヴィエトのテロルは1920年代と1930年代にファシズムとナツィズムが大衆性を獲得した重要な要因であることを考察することができなくなってしまうだろう。また、ヒトラーの権力奪取が、先行するボルシェヴィズムの勝利に、およびレーニンが統治のシステムにまで高めた裸の暴力という悪い実例に、いかに条件づけられていたかを、さらには、コミンテルンが共産主義革命をドイツへと拡張しようとしているとの強い印象づけよっていかに条件づけられていたかも、無視してしまうに違いない。
 実際のところ、このような出発点から考察することの禁止は、ファシズムの歴史の徹底的な研究を妨げている。歴史の世界でのこの禁止は、政治の世界でソヴィエトの影響を受けた反ファシズムが発揮しているのと同じ効果を持った。
 反ファシズムに対する批判を禁止することによって、この種の歴史資料編纂的な反ファシズムは、ファシズムを理解することも妨げる。
 ノルテの功績は、何よりも、このタブーを打ち破ったことにある。
 残念なことにノルテは、 ナツィズムに関するドイツの歴史家論争の過程で、彼のテーゼを強調しすぎて、彼の立場の解釈を弱めている。すなわち、彼はユダヤ人について、ヒトラーの組織化された対抗者で、敵と結びついた、と説明しようとした。
 ノルテを「アウシュヴィッツ否認者」[秋月ー邦訳書および英訳書では「ネガ・シオニスト」]と称することはできない。彼は、繰り返しナツィスによるユダヤ人虐殺への嫌悪感を強く表明しているし、一つの人種のかつてない工業的な抹殺だとして、ユダヤ人ジェノサイドの異常性も承認する。
 彼が維持する考え方は、だが、ボルシェヴィキによるブルジョア階級の廃絶がそうしたものへの道を開いた、強制収容所(Gulag)はアウシュヴィッツよりも前にすでに存在した、というものだ。
 しかし、ノルテの眼からすればユダヤ人ジェノサイドは時代風潮を構成する要素だったとしても、勝利のためのたんなる手段だと見なされてはいない。彼は恐るべき特異性を認める。その特異性とは、目標それ自体が目標で、さらに優位する目標が「最終的解決」という勝利の産物だ、というものだ。
 さらにノルテは、彼の最近の文書が示すように、ヒトラーの反ユダヤ主義というパラノイアを考察しようとするに際して、ハイム・ヴァイツマン(Chaim Weizmann)が世界ユダヤ人会議の名前で1939年9月に世界中のユダヤ人に対してイギリス人の側に立って闘うことを呼びかけた宣言に、一種の「理性的な」根拠を見い出したようだ。
 このような議論は、衝撃的であると同時に、誤りだ。
 疑いなく、ノルテは、潜在意識下にある辱められたドイツ・ナショナリズムと関係している。それについて、ノルテの論敵はこの二十年の間、彼を非難してきた。また、それは、彼の諸著作の主要なモティーフだ。
 しかし、ある観点からはこのような批判が適切だとしてすら、彼の全業績と解釈の価値を失わせることはできない。それは、最近の50年間において最も洞察力に富むものの一つだ。
 参照、〔以下、ノルテに関するフランス人の二つの論考が挙げられており、邦訳書にもあるが、省略〕。 
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共産主義に関する討論のテーマ-R・パイプスによる。

 Richard Pipes, Communism - A History (Random House, 2003) の巻末に、共産主義に関する討論テーマ (Discussion Guide) が掲載されている。読者が大学生や高校生であることを想定してのことだろうか。
 興味深いので、16個の質問事項(討論テーマ)をそのまま訳しておきたい。
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 01 共産主義の基礎にある古代の理想は何か ?
 02 マルクスは社会主義思想にいかなる寄与をしたか ? その理論は本当に、彼が主張するように「科学的」か ? 彼の予言は実現されたか ?
 03 社会主義「修正主義」とは何か ?
 04 レーニンはマルクスの正しい後継者だったか、それとも、レーニンはマルクス理論を修正したのか、かりにそうならば、どのようにして ?
 05 1917年10月にペトログラードで起きたのは、革命か、それともクー・デタか ? なぜ、権力掌握後に共産主義体制はあれほど早く独裁的に(autocratic)になったのか ? スターリンは、レーニンの門弟だと正しく主張していたのか ?
 06 なぜ、レーニンは革命を世界に広げることを主張したのか ? 彼とその後継者たちはどの程度成功したか ? コミンテルンのプログラムはいかなるものだったか ? なぜ、そしてどのように、ドイツの共産主義者は1932年にヒトラーの政権奪取に寄与したのか ?
 07 「ノーメンクラトゥーラ」とは何か、そしてそれはどのようにして共産主義体制の安定性と最後の失敗の両方に寄与したのか ?
 08 スターリンの大テロルの原因と過程を討論しなさい。トロツキーが共産主義国家では「服従しない者は食うべからず」と書いたとき、彼は何を言いたかったのか ?
 09 とくに1930年代に西側諸国で支持者を獲得した共産主義の成功を、あなたはどう説明するか ?
 10 冷戦の原因は何だったか ? それは不可避だったか ?
 11 なぜ、ソ連は解体したか ? 少数派のナショナリズムはその解体にいかなる役割を果たしたか ? 
 12 第三世界での共産主義運動に共通しているのは何か ? なぜ、モスクワは、西側の旧植民地だった国で勝利することが重要だと考えたのか ?
 13 中国・ソヴィエトの分裂の原因は何だったか ? どのようにして、マルクス主義者は毛沢東共産主義者だったか ? 
 14 なぜ、チリのアジェンデ共産主義体制は転覆させられたのか ?
 15 カンボジアやメンギストゥ〔秋月注-エチオピア〕のような体制がマルクスやエンゲルスの理論と同一視されうるとすれば、それは、もしあるならば、いかなる意味でか ?
 16 「社会主義者は勝利するかもしれないが、社会主義は決してしない」との言明は、何を意味するのか ? なぜ、本の著者の見解によれば、共産主義はつねにかつどこでも失敗する運命にあるのか ?     
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 上のRichard Pipes の書物(ハードカバー版は2001年刊)は、 リチャード・パイプス(飯嶋貴子訳)・共産主義が見た夢(ランダムハウス講談社、2007)として邦訳されている。
 但し、訳者(1967~)の責任ではないだろうが、巻末の上記の Discussion Guide は訳されておらず、役に立つと思われる<さらなる読書のための助言>という、著者による関連諸文献の紹介と簡単な説明(p.166-9)も訳されていない。注も索引も邦訳書では割愛されている。
 また、この種の邦訳書にはよく見られる、訳者または別の専門家による<著者(リチャード・パイプス)の紹介>や<解題・解説>もまったく存在しない。
 200頁に充たないコンサイスな書物だが、あるいはそうだからこそ、<共産主義の歴史>を概観するうえで(「共産主義が見た夢」という邦題は直接的でない)、日本人にとっても-日本共産党を理解するためにも-十分に参考になると思われるのに(上の討論テーマはすべて本文で言及されているようだ)、残念なことだ。

兵本達吉・メドヴェージェフ・レーニン03-日本共産党の大ウソ24予。

 一 メドヴェージェフが引用する次のレーニンの文はメドヴェージェフ著(1917年のロシア革命)p.136-7に掲載されている。
 「われわれは、社会主義にたいするわれわれの見地全体が根本的に変化したことを、みとめないわけにはいかない」。
 このレーニンの文章は、既述のとおり、メドヴェージェフが注記するとおりレーニン全集第33巻p.494にある。また、既述のように、この文章はレーニンの「協同組合について」というタイトルのプラウダ発表論稿の中にある(執筆1923.01、発表1923.05)。
 レーニン等共産主義(社会主義)者の文章を読む際には、例えばスターリン等にあてての「秘密文書」か、国民一般に呼びかけるような文章なのか等に気を配っておく必要があるが(現在の日本共産党もそうだが、「使い分け」があることに留意する必要がある)、発表媒体からして、これはロシア共産党の党員むけの文章のようだ。
 さて、上の(ここでの)いわゆるレーニン引用文の意味については、上の言葉はどういう文脈の中で書かれているのかを多少とも吟味する必要がある。
 「協同組合について」全体を抜粋的にでも紹介しようと思ったが、不破哲三が同・レーニンと『資本論』7巻-最後の三年間(新日本出版社、2001)の中で不破のレーニン理解に有利な方向でこの文献を用いていることに気づいた(だが、決定的または最重要のレーニン文献だとは見なされていないと解される)。
 したがって、これに立ちいることは、「あまり生産的・建設的な問題ではなさそう」と前回に書いてしまったが、日本共産党の大ウソ・大ペテン、そして不破哲三のレーニン文献の読み方の<こじつけ・強弁>ぶりに直接に関係してしまう。
 そこでここでは、兵本達吉が前提とするような読み方はできないだろうこと、あるいは一方では、レーニンが「統制(計画)経済を断念して、市場社会主義とも言うべきものに社会主義の構想を改めた」証左にすることもできないことを示しておくにとどめることにする。
 レーニンはこの論稿で「協同組合」の社会主義国建設にとっての重要性から説き初め、一般的なそれでなく、農民が(社会主義の方向を支持しつつ)能動的に参加する「協同組合」が必要であり、その能動的参加のためには農民の<文化・教育>程度の向上を図らなくてはならないと強調する。
 上のいわゆるレーニン引用文を直前の文と直後の文とともに引用すれば、つぎのとおり。
 「いまではわれわれは、協同組合のいかなる成長も(さきにあげた「小さな例外」はあるが)、われわれにとっては社会主義の成長と同じである、と言ってさしつかえない。われわれは、社会主義にたいするわれわれの見地全体が根本的に変化したことを、みとめないわけにはいかない。この根本的変化は、以前はわれわれが重心を政治闘争、革命、権力の獲得などにおいていたし、おかないわけにはいかなかったが、いまではこの重心が平和な組織的・『文化的』活動にうつされるまでにかわってきている、ということである」。
 もともとネップ期に農民問題に関して書かれた文章だという特性があるとともに(したがって、社会主義国建設論一般を述べるものでは全くない)、直後の文章から明白であるように、「われわれの見地全体が根本的に変化した」というのは、レーニンや共産党の闘争の「重心」が「政治闘争、革命、権力の獲得など」から「平和な組織的・『文化的』活動」に移った、ということを意味していると考えられる。
 数行のちにレーニンは、「国内の経済関係にかぎれば、いまではわが国の活動の重心は、実際に文化活動にうつっているのである」とも書いている(p.494)。
 こうした文章を、レーニンが「統制(計画)経済を断念して、市場社会主義とも言うべきものに社会主義の構想を改めた」ことを示すものとして取り上げることはできないが、しかしまた、ネップはあくまで「一時的な後退」にすぎない等と、あえて反駁する手がかりにする必要もない、と言うべきだろう。
 以上で、「気になること」の解消は終わり。
 二 メドヴェージェフ・1917年のロシア革命(現代思潮社、1998)p.138も、レーニンの上とは別の文献を引用して、レーニンが「一定の文化水準」・「文明」が(当時のロシアには)必要である旨を語っていたことを述べている。
 レーニンがこの時期に「文化」問題に論及していたと叙述するのは、詳細な叙述ではないが、以下のオクスフォードの英国人学者・共産主義史研究者のつぎの文献も同様だ。
 David Priestland, The Red Flag - A History of Communism (Grobe Press / NY、2009)。
 =ドイツ語版/David Priestland, Weltgeschichte des Kommunismus - Von Franzoesischen Revolution bis Heute (Anaconda/Koeln、2014)。
 和訳すれば、①前者(本来のタイトル)は「赤旗-共産主義の歴史」、②後者のドイツ語に訳された本は「共産主義の世界史-フランス革命から今日まで」になる。
 この本にはこの回以降も言及するので、すでに言及したい箇所はいくつかあるが省略。
 「文化」問題への言及のある数行は、仮訳すれば、つぎのとおりだ(英文とドイツ語文の双方を見たが、予期に反して、文法構造も単語のニュアンスも同じではないので困る)、①p.101、②p.140。
 「1921年の3月にこの企ては挫折した。レーニンは、ネップというセミ資本主義は長期間続くだろうことを受容せざるをえなかった。彼は今や述べた、労働者階級が『文化革命』を経過してはじめて、社会主義を実現することができる、と。その際に彼は、教育と労働倫理の習得を想定していた」。
 他にもコミュニズム(共産主義)やロシア革命の歴史に関する、ソ連崩壊後に出版された、欧米の研究者による英語・ドイツ語文献をいくつか所持していて、少しは目を通しているが、上のDavid Priestlandのものも含めて、ほとんどすべてが、邦訳されていない、と見られる。
 日本共産党批判につながる可能性がある外国のコミュニズム関係文献を和訳して出版したくはない、あるいはそれを躊躇する、という日本の出版界、あるいはそれを含む知的環境・風土の異常さを感じてしまうのだが(この旨は前にも書いた)、少しは考えすぎだろうか。

兵本達吉・メドヴェージェフ・レーニン02-日本共産党の大ウソ24予。

 一 兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞社、2005)のp.443-4の論旨は、レーニンはネップ導入期に「社会主義に対する…見地全体が根本的に変化した」ことを認めており、これをまるで「社会主義の構想」自体を改めたかの如く理解する者もいるが、メドヴェージェフも述べるようにそのようなレーニン解釈は誤りだ、ということだ。メドヴェージェフはレーニンが「ネップにロシア革命の救いを求めようとした」との「馬鹿げた議論にクギをさし」た、というわけだ。
 しかし、兵本が言及するメドヴェージェフの、同・1917年のロシア革命(現代思潮社、1998)p.136-の叙述をそのように読むのは、相当に無理があるようだ。
 ・兵本がメドヴェージェフに言及する直前のメドヴェージェフの文章は、前回にも紹介のとおり「正統派マルクス主義の枠内でのネップの立案と、その根拠付け」はレーニンの「最も重要な理論的業績」だった、というものであり、つまりネップという経済政策を重要な理論的業績」と評価(?)するものだ。したがって、レーニンを(いかなる立場からであれ)擁護したい者・党派にとっては、その次のいわゆるレーニン引用文と併せて、スターリンとの違いを示す論述として、援用されてよい可能性があるだろう。
 ・兵本がメドヴェージェフから引用する「ネップへの移行はいうまでもなく、逸脱であった。しかし、ロシア共産党とソヴィエト・ロシアを破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱であった」という部分は、つぎのようにも解釈できる。すなわち、「ネップへの移行」は「逸脱」ではあったが、「…破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱」であって、<誤りからの逸脱>、つまり正しい(=適切な)選択だった、と。
 ・兵本がつぎに引用する、「ネップへの移行は1917年から1922年のロシア革命の終焉である」という部分は、つぎのようにも解釈できる。すなわち、たんに「ネップへの移行」期以降は、「1917年から1922年」までの時代とは区別されるべきである、という意味だと。換言すれば、「ネップ」期はレーニンらの権力掌握(憲法制定評議会選挙の無視も含む)と「戦時共産主義」の時期とは異なる新しい時期だ、という意味だと。
 「ロシア革命の終焉」とは社会主義(路線)の終焉を全く意味しておらず、「1917年から1922年のロシア革命」の時期が「終焉」したことを意味し、要するにロシア<社会主義>の歴史上の「1917年から1922年」が終わった(新しい時代に入った)ということを意味している、と十分に読める。
 ・兵本が引用していない、その直後のメドヴェージェフの文章は、「国家と党はまだきわめい慎重に、あまり自信なく改革の新しい道に足を踏み入れつつあった」(p.137)というものだ。ここでは、ネップについて「改革の新しい道」が語られている。
 以上のことからすると、メドヴェージェフの叙述を、ネップに「ロシア革命の救いを求め」る議論に「グギをさし」たものと理解・解釈するのはかなり無理があると思われる。
 もちろん、メドヴェージェフはレーニンはネップ導入によって「市場社会主義」とか「市場経済」とかの従来とは質的に全く異なる路線を選択した、などとは書いていない。
 だが、メドヴェージェフは、ロシア「社会主義」の歴史を淡々と叙述したもので、ソ連崩壊後に来日したという彼が日本共産党のネップ理解や主張を知っていたのかどうかは知らないが、日本共産党のような議論を意識して、ネップやレーニンに論及しているわけではないように読める。
 二 メドヴェージェフは、兵本引用部分のあとで、つぎのようにも叙述している。
 レーニン/ネップを、どのような立場からであれ、全面的に擁護しているわけでも、全面的に非難しているわけでもないことは明らかだろう。
 兵本達吉から離れるが、彼なりに、レーニン/ネップの意味を理解・総括しようしているのだと思われる。
 ・レーニンは「社会主義について、社会的関心と個人的関心を、また大規模産業と小規模産業とを調和させる社会として述べ」はじめた。彼にとって、「あらゆる種類や形態の協同組合の発展は資本主義の発達ではなく、社会主義の発達」だった(p.137-8)。
 ・レーニンは「ロシアを社会主義的に発展させる新しい戦略的計画」を「より綿密に練り上げる」ことができなかった。レーニンが書いたのは「草案」で、独仏の社会民主主義者が自国について示した道よりも「はるかに複雑なものになる」ことが予想できた。
 ・ネップは「相対的後進国」でかつ「資本主義に包囲された条件の下で資本主義と社会主義を同時に発展させようとする計画」だったので、「最大限の慎重さ、用意周到さを必要」とした。しかし、それが「現実的計画」だった。この計画は「1927年まで基本的に遂行され。明確にされた」。
 ・「1920年代の現実的条件の下では、ネップこそがソヴィエト・ロシアにとって容易ではないが最良の繁栄への道を開くもの」だった。
「1920年代末」にスターリンはこれを放棄した(以上、p.139)。
 抜粋引用の紹介終わり。
 メドヴェージェフは旧ソ連国家内部での「反体制知識人」だったらしい。かつて「反体制」的だったとしても実際のソ連共産党支配に反発していただけのことで、社会主義・共産主義(理論)一般を批判・否定していたと即断することはできない。
 また、監訳者の一人・沼野充義によると、ソ連崩壊の前後を通じてメドヴェージェフの「理想主義と批判精神」は変わっていないという(p.214-217)。
 沼野充義自身の「立場」・考え方に言及するのは避けるが、こうしたことも併せて考えると、メドヴェージェフが上のようにレーニン/ネップについて語っていることは、レーニン/ネップを肯定的に評価しすぎている、あまりにも「美化」しすぎている、と感じられる。だが、そのことは、ここでのテーマではまだない。
 三 では、いわゆるレーニン引用文はいかなる意味のものだったのか。あまり生産的・建設的な問題ではなさそうだが、行きがかり上、次の回で扱う。

兵本達吉・メドヴェージェフ・レーニン01-日本共産党の大ウソ24予。

 一 2016年6/08の「日本共産党の大ペテン・大ウソ17」で、「気になること」をつぎのように記した。
 「兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞出版、2005)も関係文献で「28項」の「ロシア革命は何であったか?」はネップにも分かりやすく言及している。
 しかし、p.443には、レーニンは「1922年秋頃」になるとトーンに「明らかな変化」を見せ、「我々は、社会主義に対する我々の根本的見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない」と書いた、としている。この発言または文章は、不破哲三の上掲書にも(進んで紹介しそうなものだが)引用・紹介されていない。レーニンのいつの、(全集掲載ならば)レーニン全集各巻のどこに載っているのだろうか」。
 兵本はメドヴェージェフの名を挙げているが、この当時はメドヴェージェフのどの文献であるかが分からなかったし、兵本の引用するレーニンの文章がメドヴェージェフからの再引用であることも知らなかった。
 日本共産党の「大ペテン・大ウソ」と直接の関係はまだないので、その予備編として、上の「気になること」を解消しておく。
 二 ロイ・A・メドヴェージェフ(1925~)には、所持しているものに限ると、次の三冊の邦訳著がある。最初の二つはタイトルも似ている。
 ①1917年のロシア革命〔石井規衛=沼野充美監訳、北川和美=横山陽子訳〕(現代思潮社、1998〔原著1997〕)。
 ②10月革命〔石井規衛訳〕(未来社、1989〔原英訳著1979〕)。
 ③スターリンと日本〔海野幸男訳、対談・訳注佐々木洋〕(現代思想新社、2007)。
 兵本達吉・上掲書が言及している書物は上の①で、かつ兵本が引用しているのと同じレーニンの文章が上の①のp.136-7にある。
 すなわち、「正統派マルクス主義の枠内でのネップの立案と、その根拠付け」はレーニンの「最も重要な理論的業績」だった。これについては「レーニン自身が『…われわれは、社会主義にたいするわれわれの見地全体が根本的に変化したことを、みとめないわけにはいかない』と記している」。
 また、このレーニンの言葉がレーニン全集第33巻のp.494に載っていることも、メドヴェージェフは(邦訳書のp.185の)注で記している。
 三 さっそく(といってもこの投稿文執筆からはだいぶ以前に)、レーニン全集の該当頁も読んでみた。兵本は引用の直前に「1922年秋頃」という時期を記しているのでこの頃のレーニンの文章かと誤解していたが、1923年1月に書かれた「協同組合について」と題するものの一部で、1923年5月に新聞「プラウダ」に掲載されている。1921年3月に「ネップ」導入が決定されており、翌年1924年1月にレーニンは死ぬ。
 このような時期の記述等も全く無駄ではないと思うが、困ってしまうのは、兵本達吉、メドヴェージェフにおいて、レーニンの文章の「解釈」あるいは理解の仕方が同じではないと見られることだ。また、私はロシア語版ではなく日本語版のレーニン全集33巻で読むしかないが、、ロシア語原文を見たのであろうメドヴェージェフの「解釈」が果たして全くの誤りがないのかも、そもそもは問題になりうる。
 これら三者の、日本語(または日本語に訳された)のテクストを見ても、日本語文の「解釈」あるいは「読み方」という問題が伏在することを感じざるえない。「言葉」を媒介とする意味理解とは、なかなか厄介なことだ。
 まずは、同じ日本語の書き手であるはずの兵本達吉が上のレーニンの文を引用しつつ述べていることの「趣旨」に私なりに論及してみよう。
 最後にはレーニンにたどりつく予定で、レーニンの「市場経済」の捉え方という、元来のテーマの検討に役立つかもしれない。
 四 兵本達吉(・日本共産党の戦後秘史のp.443-4)の文章を順次抜粋すれば、つぎのようなものになる。
 ①「1921年」には、レーニンはネップを「農民への一時的譲歩、一時的後退」だと考えていた。
 ②「1922年秋頃」になるとレーニンのトーンは「明らかな変化」を見せた。今度は「問題は、戦術ではなく戦略」で、「一時的譲歩」ではなく「本腰を入れた、長期にわたる」政策の問題であり、「革命的方法から『改革的方法』への移行」だった。
 ③「そしてレーニンは、『我々は、社会主義に対する我々の根本的見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない』と書いている」〔これがここでのいわゆるレーニンの引用文〕。
 ④今日、「レーニンのこの一言に社会主義最後の救いを求めようとする人たちが殺到している。日本にも大勢いる」。/「レーニンは、『戦後共産主義』に見られる統制(計画)経済を断念して、市場社会主義とも言うべきものに社会主義の構想を改めた、というわけである」。
 ⑤メドヴェージェフは以下のように書いた。「ネップへの移行はいうまでもなく、逸脱であった。しかし、ロシア共産党とソヴィエト・ロシアを破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱であった」、「ネップへの移行は1917年から1922年のロシア革命の終焉である」
。〔秋月注記-メドヴェージェフの上記①のp.137。兵本の引用と微細な差異があるが、無視してよい程度だろう。〕
 ⑥こう書いてメドヴェージェフは、「レーニンがネップにロシア革命の救いを求めようとしたなどという馬鹿げた議論にクギをさしている」。
 ⑦レーニンは、「資本主義復活に対する警戒心」と「ネップがあくまでも一時的で。戦術的な後退であること」を隠さなかった。
 ⑧1921年党大会でレーニンは、「経済的ネップは、決して政治的ネップを意味するものではない」と語り、一方で党内分派禁止等の「民主集中制」を組織原則とする「一枚岩的党」の建設の基礎を築いた。/ネップは「市場経済への一歩後退」を意味したが、「政治的には」レーニン・スターリン移行期に、党は「軍隊的規律を持った強固な組織」に変わった。
 以上。ここですでに、日本共産党によるレーニンの経済政策や社会主義建設論の理解の仕方に触れたくはなる。兵本達吉は明らかに、日本共産党の考え方(<レーニンは正しく、スターリンが覆した>)を意識して、上のことを述べていると間違いなく推測できるからだ。
 だが、既述のように、日本共産党、正確にはおそらく不破哲三やその追随者・志位和夫らがレーニンが<市場経済を通じて社会主義へ>の道を明らかにしたとして論及する文献は、レーニン全集の上記部分ではない。
 ともあれ、兵本がレーニンにとってネップは<市場経済を通じて社会主義へ>の道を採用したものでは全くなく、「一時的な後退」にすぎない、というレーニン解釈を採っていることは明らかだ。
 この当否にはここでは触れない(むしろ結論は同じだとも言える)。
 但し、このレーニンの引用文を、およびこれへの論及を含むメドヴェージェフの文章を、兵本達吉の理解の仕方を基礎づけるものとして援用する、あるいはそのように「解釈」するのは、多少は無理があるようにも感じられる。
 <この部分、さらに続ける。>

日本共産党の大ペテン・大ウソ23。

 一 ようやく二つのうちの第一の論点を終える。
 1991年のソ連崩壊前後の日本共産党の文献を通じて(もちろん全てではないが)、①1994年第20回党大会による綱領改定に際して、(とっくに、1930年代に)ソ連は社会主義国ではなくなっていた、という同党の歴史理解を明らかにした、ということが分かり、②日本共産党は、ソ連崩壊後の一時期はソ連(・ソ連共産党)の「覇権主義」等を厳しく批判しながらも、ソ連が社会主義国だったのか、つまりは社会主義国をめざす国家や共産党に対していわば<(国際共産主義運動の)仲間うち>の問題として「覇権主義」等の誤りをしてきたのか、社会主義国ではもはやないソ連に対して「覇権主義」等を批判してきたのかを曖昧にしてきたことも分かった。そして、③上の②の答えは1991年以前は明らかに前者、つまり<(国際共産主義運動の)仲間うち>の問題としての指摘だったにもかかわらず、ソ連崩壊以後は何と、<30年にわたってソ連を批判し続けてきた>ということを、日本共産党は「正しい」(1994年7月以降は、崩壊したのは社会主義ではない)と言い張る根拠にする、という大ペテンを仕掛けたのだった。
 1994年に至って、このようなソ連の性格に関する見地の根本的な変更、従来とは全く反対の理解をすることについて、不破哲三は、1994年の党大会で日本共産党中央委員会幹部会委員長として、「旧ソ連社会にたいする私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもので、今日から見れば明確さを欠いていた」とだけ、反省(?)の言葉を述べたのだった(2016.05.23秋月「…の大ペテン・大ウソ09」参照)。
 二 第二の論点は、すでに少し立ちいっているのだが、ソ連の歴史について日本共産党がいう、スターリン以降に「誤った」(レーニンは「正し」かった)という旨の1994年以降の日本共産党による<歴史の評価>は適切なのか、だ。
 「…大ペテン・大ウソ」の第01回めでは、「日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。/このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=「社会主義」、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか」、と書いた。
 この問題は第一の論点と異なり、関係文献をきちんと読んで分析すれば(客観的に把握すればよい)というものでは必ずしもない。なぜなら、レーニンとスターリンの異同そのものの問題として言えば、共通性もあれば異質性もあったということになるはずなのであり、問題は<社会主義>の方向に向かっているか(「正し」かったか)、逆(又はそうでない)方向に向かっている(「誤って」いたか)という、<評価・論評>の世界に入ってしまうからだ。
 しかし、<社会主義>にとっていずれが「正しい」(正しかった)かどうかは秋月の関心ではないし、そもそもが<社会主義(・共産主義)の方向>とは何かを論じるつもりも資格もない。
 厳密に論理的にいえば、かりにマルクスが理解し主張したのが<正しい>社会主義だったとすれば、第一に、レーニンもすでに「誤って」いた(=突き詰めれば、ロシアの1917年10月にあったのは「社会主義革命」ではなかった)、したがって「誤って」いた点ではレーニンもスターリンも同じだ、という理解・論評も成り立つだろう。
 一方、第二に、かりにマルクスが理解し主張したのが<正しい>社会主義だっとして、レーニンもスターリンもともに「正しく」社会主義の道を歩んだ、ソ連の崩壊(とソ連存続中に生じた事象)は、マルクス主義自体が含む歴史的な必然の表れだった、という理解・論評も成り立つはずだ。
 上の二つ捉え方は、マルクス・レーニン・スターリンの三者の基本的な異同に着目すれば、次のように図示できる。
 A 〇-×-×。 B 〇-〇-〇。
 これらと対比すれば、日本共産党の理解・評価の仕方は、次のようになる。
 C 〇-〇-×。
 また、実際に主張者があるどうかは知らないが、ロシアに「社会主義革命」が起こったにもかかわらず、レーニンはとくに「ネップ(新経済政策)」の導入によって市場経済・「資本主義」への方向へと道を切り換えて社会主義への道を踏み外した、これをスターリンが本来の社会主義への道へと戻した、という理解・論評もありうる、と考えられる。かりにマルクスの理解・主張は「正しい」ものだという前提に立てば、この理解・論評は次のように図式化できるはずだ。
 D 〇-×-〇。
 すでに論及し始めているここでの論点は、上のC(日本共産党の評価)の適否だ
 マルクスとの間の対応関係を捨象してしまえば、より正確には、あるいは厳密には、レーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という道を、ロシアに特有のかつ一時的戦略としてではなく、社会主義到達方法論の一つとして<理論的に>選び、少しは<現実に>も実施したのか(そして、スターリンはそれを覆したのか)、ということになる。
 はたして「市場経済を通じて社会主義へ」という道が(とりわけマルクスから見て)一部にせよ、あるいは一般論としても、ありうるのかどうか、という問題は関心対象ではない(<社会主義>社会を夢みている人々は真摯に議論していただきたい)。
 要するに、日本共産党の理解・主張の適否は、レーニンはロシアに特有のかつ一時的戦略としてではなく、社会主義建設方法論の一つとして「市場経済を通じて社会主義へ」という道を主張しかつ実践した、と評してよいのかを、とりわけレーニン関係文献を通じて検討することによって明らかになるはずだ、と言えるだろう。
 以下、あらためてこの作業を続けていく。
 <つづく>

香西秀信・レトリックと詭弁(ちくま文庫)より。

 先日6/21に言及した福井義高の論考の中に香西秀信の著の一部の引用・紹介があったので、確認すべく捲っているとやはりなかなか面白いので、ここでもう少し詳しく引用・紹介しておく。本来の文脈=レトリック関連は無視する。
 香西秀信・レトリックと詭弁(ちくま文庫、2010/原著2002)p.105。
 以下、引用。「私」とは、著者・香西秀信。
 私も…、大学教師が「『進歩的』と思われる」ことの利益など何もなかったと思っています。その理由は、少なくとも社会主義諸国崩壊の前までは、社会科学や人文科学系の大学教師にとっては、「進歩的」ポーズをとることなどほとんど常態だったからです。皆がそうなのですから、「『進歩的』と思われる」ことに利益など生じるはずもありません。/ …。何よりも、社会科学や人文科学の分野では、「進歩的」でないと見なされたら、(国立)大学に職を得ることすら困難でした。誰もが「進歩的」であるように見せかけていた時代に「『進歩的』と思われる」ことなど何も利益はない…。…「進歩的」でないと思われることと比較して、初めて隠された「御利益」が見えてくるのです。
 以上、引用終わり。つぎは同上著p.106。直接の引用はしづらいので、筆者(秋月)がほんの少しは修正を加える。「私」は香西秀信。
 ①戦時中に「少年期にあった人たち」が戦後になって、戦時中に「鬼畜英米」・「一億火の玉」とか言っていた大人たちが突然に「民主的」になり「こんな馬鹿な戦争がうまくいくはずがないと思っていた」と「したり顔」で解説するのを聞いて、「その後の彼らの人生観、ものの見方」に大きな影響を受けた、という話を私はしばしば聞いた。
 ②私にも「似たような経験」がある。「ソ連、東欧の社会主義諸国が崩壊した」とき、かつては「社会主義を賛美していた、少なくともシンパシーを感じていたはずの人たち」が、「ショックで発狂すると思いきや」、「あんな体制が長生きするはずはない」と涼しい顔で傍観していた。その人たちは、かつて戦後すぐの大人たちの変節に大きな影響を受けたと話してくれたのと、同じ人たちだった。
 ③その人たちは、1960年代には「反革命」と評価していた同じものを、社会主義諸国崩壊直前の1990年頃には「民主化」と言い始めた。「『その後の彼らの人生観、ものの見方』に大きな影響を受けた」のは間違いないだろう。かつて軽蔑した大人たちと同じ年頃になって、まったく同様の振る舞いをし始めたのだから。
 以上。上の「民主化」とは、旧ソ連のペレストロイカ等を指しているのだろう。
 上のような、<非・コミュニスト的な左翼>は、現在の日本人、とくに60-65歳以上の者たちの中に、かなり多くいそうだ。なるほど。
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 いちいちメモをしてきていないのだが、6/23には、以下を(も)、たぶん15分くらいで読了。
 梶川伸一「レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか-十月革命後の現実を通して」上島武=村岡到編・レーニン/革命ロシアの光と影(社会評論社、2005)p.14-32。

共産主義の罪悪とナチス-2。

 クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書<ソ連篇>〔外川継男訳〕(恵雅堂出版、2001)の「序・共産主義の犯罪」の中のp.25-26に、以下の文章がある。
 「ナチスの犯罪の研究」は多いのに(また『夜と霧』・『ソフィーの選択』・『シンドラーのリスト』等の映画も成功したのに)、「共産主義の犯罪については、このような〔秋月-「ユダヤ人の殺害方法の詳細」についてのラウル・ヒルバークの著のような〕タイプの研究は存在しない。//
 ヒムラーやアイヒマンの名前は現代の蛮行の象徴として世界中に知られているのに、ジェルジンスキーやヤゴーダやエジョフ〔三人はいずれもソ連秘密警察の長官〕の名は大部分の人にとって未知である。レーニン、毛沢東、ホー・チ・ミン、そしてスターリンさえ、驚くべきことに依然として尊敬の念をもって語られている。〔/改行〕
 ヒトラーの犯罪に対して向けられた並はずれた注目は、完全に正当な裏付けのあるものだった。〔中略〕それなのに、共産主義の犯罪についての世論や証言の反響が、こんなに弱々しいのは、いったいなぜなのだろうか? とりわけ、八〇年にわたって人類の約三分の一を四大陸において襲った共産主義の大惨事に関して、なぜ『学会』はこのように沈黙しているのだろうか?
 このあと、一文を省略して、つぎのように続く。「我々がこれらの問題を理解することが、どうしてもできないというのだろうか? それよりも、むしろ絶対に知りたくない、理解するのが恐ろしいからではないだろうか?」
 上の「学会」は「学界」の方が適訳かもしれない。
 さて、アウシュビッツ/ホロコーストはよく知られているだろうが、一方で、カティン(の森)事件やポル・ポト派(カンボジア/クメール・ルージュ)の大量殺戮の実態等は、いかほどに日本人の教養的?知識になっているのだろう。日本<軍国主義>の悪行を頻りにいい募る者たちがいるが、その者たちはいったい何故、旧ソ連による強制連行と労働強制を日本国民に対する犯罪として指弾しないのだろうか?(「シベリア抑留」!)
 カティンの森事件について、①ザスラフスキー〔根岸隆夫訳〕・カチンの森-ポーランド指導階級の抹殺(みすず書房、2010)、②ザヴォドニー〔中野五郎=朝倉和子訳〕・消えた将校たち-カチンの森虐殺事件(みすず書房、2012)などがある。
 この事件は、どこかの高校教科書に名前だけでも記載されているのだろうか。上のいずれも読了していないが、互い違いに(頭の方向を逆に)積み重ねられた何段・何列もの発掘された死体群の写真が付いたりしているので、愉しく読み続けられるものではなく、ナチスの場合と同様に、人間はこんなことまでできるのかと戦慄させられる。
 なお、前回紹介したヘインズとクレアの本の一部の文章を訳出した部分以外も含めて多少読むと、コミュニズム・コミュニストはほとんどか全く消滅して<反共>一本槍だろうという単純な印象を持っていたアメリカにおいて、コミュニズムの影響はまだ(とくに知識人層に)あり、アメリカ共産党の評価に対立があることも分かる。ヘインズ=クレアは反共「伝統主義者」だが、ローゼンバーグ夫妻やH.D.ホワイトらの旧ソ連協力者(コミュニスト)を理想主義者として擁護する反・反共「修正主義者」も学界では有力であるらしい。仔細はむろん知らないが、このような雰囲気がアメリカのとくに民主党員たちに影響を与えていないはずはないとも思われる(バーニー・サンダースは「民主社会主義者」とか自称しているらしい)。
 とくにアメリカ共産党やコミンテルン諜報者に関するアメリカの歴史学界の動向については、月刊正論(産経)昨年・2015年9-10月号に、福井義高の連載論稿がある(それぞれ、p.228-「リベラルの欺瞞・上」、p.258-「同・下/元KGB工作員が持ち出した…の衝撃」)。 

日本共産党の大ペテン・大ウソ20

 1991年12月(ソ連邦解体)直後から1994年7月(第20回党大会)直前まで、日本共産党は曖昧ながらなおソ連を「社会主義」国と見ていたか、または明確な立場を示せず<混乱していた>、と思われることは既に何度か書いた。
 一 1991年12月21日のソ連邦解体の直前の12月17日にインタビュー・質問に対する回答であり、のちに前衛1992年3月号に掲載された宮本顕治の発言内容も、興味深いところがある。以下、日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.172-による。
 「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」(p.182)時期のもので、宮本もソ連邦の崩壊(解体)を覚悟?しているようだ。そして、次のように言う。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、私たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(p.182)。
 <悲しむべきことでも、喜ぶべきことでもない>、と言う。しかし、宮本顕治自身が、この発言のちょうど1年前には、「われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思う」と明言していたことからすれば、見地を修正した、と確言してよいだろう。
 1990年末には、ソ連の存続・回復について一縷の望みがあり、可能性もあると思っていたところ、党が解体し、ソ連邦解体も必至になった、という現実=<情勢の変化>が、この<修正>をもたらした、に違いない。
 興味深く、かつ同感できるのは、こうした回答の前提にある、個人名は明らかではないが、「朝日新聞外報部」によるつぎのような質問だ。朝日新聞を基本的には信頼しないが、当時でも適確な、今日でもなお意味のある問いかけだ、と考えられる。
 日本共産党は「赤旗」等でソ連共産党とは「同根」ではないと繰り返し主張しているが、「もし、よってたつ基盤がもともとまったく違う相手ならば、ソ連共産党にたいして『逸脱』だとか『誤り』だと批判するのはおかしい。社会主義の仲間と考えるからこそ、正常化のために理論闘争をつづけたのではないか」(p.185)。
 このあと「日本共産党の対応はいまのソ連の事態から噴き出てくる火の粉を振り払うというご都合主義ではないのか」、「この点についていかがでしょうか」と続いている。
 朝日新聞の記者が<ご都合主義>との批判を宮本顕治・日本共産党に対して向けていることも面白いが、上に引用の部分自体は、すこぶるまっとうなものだ。
 <30年にわたってソ連(の覇権主義等)とたたかってきた>というのは<大ペテン>だと何度も書いてきたが、まさにこのペテンぶりを暴露する問いかけに他ならない。
 再言すれば、かりにソ連邦がアメリカ等と同様の自由主義・資本主義国であるならば、その政権党が日本共産党に対してどのような「干渉」等を行なおうと、大仰に<大国主義、覇権主義>だとかといって闘うことを日本共産党はしなかっただろう。「社会主義の仲間と考え」てきたからこそ、日本共産党は1960年代からソ連共産党やそれを政権党とするソ連邦と闘ってきたのではないか? それを、ソ連邦解体が明白になってから、ソ連邦・同共産党の「誤り」に早くから気づき、指摘して「たたかって」きた、とヌケヌケと主張するのは、欺瞞であり、卑劣な<ペテン>に他ならない、と思われる。
 つぎに、上の問いに対する宮本顕治の回答も、興味深い。
 「同根などというのはまったくの見当違いの攻撃だ」(p.186)と反応して、宮本顕治は「同根」論を全面否定している。
  その理由としてまず「たとえば民族自決の問題です」と語られ始めていることも、宮本がレーニン期とスターリン以降期の違いとしてこの時点で何を考ええていたかを示すものとして、面白い。そして、宮本の趣旨は、スターリン以降のソ連と<同質>ではない、ということなのかもしれない。
 しかし、そもそもスターリン→ブレジネフ等々のソ連邦と日本共産党は、マルクスやレーニンの「血」をひいたもので、その意味で「同根」ではないのだろうか。
 なるほど、日本共産党が1994年7月の党大会で採択したソ連観からすれば、同じソ連邦といってもレーニン期とスターリン以降期とではまったく(質的に)異なる国家または体制であって、スターリン以降はレーニンと「同じ根」を持っていない(これに対して、日本共産党はレーニンの正嫡子?であり、レーニンの「根」から育っている)、と日本共産党は言うのだろう。
 問題は、そのような詭弁?が通用するかどうかだ。さらにまた、上のような主張(詭弁?)を日本共産党はいつから公式に語るようになったのか、だ。
 したがって、上に一部引用の1991年末の時点での宮本顕治発言は、分かりやすいものではないし、歯切れがよいとも感じられない。 
 二 再度引用になるが、1991年12.23の日本共産党常任幹部会「ソ連邦の解体にあたって」はつぎのように述べていた(上掲書p.204)。
 「大局的にいって、ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、事態はいかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」(p.204)。
 ここでは、「科学的社会主義」という言葉が使われている。そして、1994年7月までの間、日本共産党は曖昧ながらソ連は「(現存)社会主義国」だったとの理解も示しているとともに、<「科学的社会主義」から逸脱していた>との理解も(上のように)示していることになる。
 あくまで推測になるが、この時期、日本共産党の幹部たちは、①スターリン以降すでにソ連邦は「社会主義」国ではなくなっていた、②スターリン以降のソ連邦もなおいちおうは「社会主義」国だったが、「科学的社会主義」からはすでに逸脱していた、の二つのいずれと理解するか、あるいは党員や国民向けにいずれと説明するかに、迷っていたのではなかろうか。あるいは、同じことだが、いずれと理解するかを明確にできなかった、のではないだろうか。
 上の②は、偽りのまたはふつうの「革新」ではない「真の革新」政党が日本共産党だというのと同じ言い方であり、ソ連は誤った「社会主義」国で、「真の社会主義」国ではなかった=「科学的社会主義」の国ではなかった、という言い方だ。
 だが、1994年7月に、日本共産党は上の②の論法を採用しないことに決めた。
 1930年代半ばにすでにソ連は「社会主義」への道から踏み外れていた=「社会主義」国ではなくなっていた、という歴史理解を採用することにしたのだ。これはこれで明確ではあるが、1991年以前に日本共産党が語ってきたこと、前提としてきたことと全く異なる歴史理解・ソ連理解ではある。その<変説>に対して批判が生じるのは、当たり前だろう。
 日本共産党は、状況に応じて、きわめて重要な、基本的な歴史「認識」すら、修正・変更する。むろん、今後もありうるだろう。
 <つづく>

日本共産党の大ペテン・大ウソ19

 一 前回(18)での叙述には、ソ連共産党の解体を1991年8月ではなく1990年8月と、日本共産党常任幹部会の<ソ連共産党解体歓迎>声明を1991年9月ではなく1990年9月と理解していた誤りがあった。したがって、これらと宮本顕治の1991年元旦の発言との関係を問題にする叙述は、すべて取り消す。<すでに6/15に必要な修正・削除をおこなった。>
 但し、宮本顕治(中央委員会議長)が1991年元旦に「赤旗」上で「われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思う」と公言していたことは、事実だ。
 したがってまた、その時点で宮本顕治はソ連共産党の解体もソ連邦の解体も見通せていなかったのであり、前回の元来の指摘と同じ程度ではないが、「日本共産党の指導者の、科学的な?予見・予測能力の完璧な欠如」も示すものだった、旨の指摘は基本的には当たっているだろう。
 つぎに、前回(18)、「しかし、『ソ連解体にさいして』日本共産党常任幹部会等が、上の宮本発言の論理的帰結であるような〔=残念だ旨の〕声明は出していないはずだし、また、逆に<(歴史的巨悪の?)ソ連邦の解体を歓迎する>という声明を出した痕跡もない」と書いた。
ソ連共産党解体とは別にソ連邦解体について、残念と感じるか歓迎するかのいずれの明確な反応もなかったようだ、との趣旨であり、誤っているわけではない。
 但し、日本共産党による反応が全くなかったわけではない。
 日本共産党の七十年/下(新日本出版社、1994)p.422-3にも言及されているように、1991年12月23日付(翌日「赤旗」掲載)で、日本共産党中央委員会常任幹部会「ソ連邦の解体にあたって」が発せられている。以下、日本共産党国際関係重要論文集24(同党中央委員会出版局、1993)による(p.203-5)。趣旨の理解について上記党史/七十年をも参考にすれば、次のように言う。
 ・ソ連共産党と国家としてのソ連邦の解体とは「次元を異にする問題」だが、「『歴史的巨悪』としての覇権主義」が「決定的要因となったことでは、共通の歴史的な状況がある」。(p.203)
 ・ソ連邦の解体の「最大の根源は、スターリンいらいの覇権主義および、その害悪に対するゴルバチョフ指導部の無自覚と無反省にあった」。(p.204)
 ・「大局的にいって、ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」。(p.204)
 ・「世界平和にとって重要な問題は、ソ連がもっていた核兵器がどうなるか」だ。「ソ連邦の解体とともに生まれた新しい情勢を、核兵器廃絶にすすむ積極的な転機とするために、あらゆる努力をかたむけることを、よびかける」。(p.205)
 以上、引用終わり。
 以上について特徴的なのは、<残念と感じるか歓迎するか>は明瞭ではないが、党の解体と同様に<スターリン以降の覇権主義>に原因があった、と淡々と分析?していることだろう。その意味では、前回紹介の宮本顕治発言よりも、<ソ連共産党解体歓迎>声明に近いかもしれない。
 ともあれ、ソ連共産党解体のときのような、<歓迎>声明そのままではない。したがって、ソ連共産党の場合と同様にソ連邦解体の場合も対応したとその後のまたは現在の日本共産党(・の幹部たち)が説明・主張しているとすれば、それは必ずしも正確な日本共産党の歴史ではない、と見られる。
 また、この時期には、ソ連共産党やソ連邦の解体の最大の原因を、日本共産党は<(大国主義・)覇権主義>に求めていた、ということを確認しておくべきだろう。レーニンの<市場経済から社会主義へ>の道をスターリン以降が覆したことに原因がある、あるいはこの道に対する態度がレーニンとスターリンの大きな違いだ、などという分析・説明は全くなされていない、ということだ。
 二 宮本顕治が、概念や論理の一貫性をもって思考している人物ではまったくないことは、上に言及の1991年元旦発言と、ソ連邦解体等のあとの翌年の1992年元旦付の「赤旗」上の発言を比べても分かる。前回と同様に宮本顕治・日本共産党の立場5(新日本文庫、1997)p.53-によるが、日本共産党国際問題重要論文集24(1993)にも収載されている。宮本は語る。
 ・「ソ連の崩壊は社会主義の崩壊ではなくて、社会帝国主義、覇権主義の破たんです。ソ連がスターリン・ブレジネフ型の、官僚主義・命令主義の体制となった結果、第二次大戦後の米ソ関係、東西関係は、資本主義体制対社会主義体制という対立から、一定の時期を経て、事実上は帝国主義と社会帝国主義の対立に転化した面があります」。(p.54)
 ・「ソ連、東欧の体制は崩壊したが、自分の誤りによって自壊したのであって、体制としての資本主義が社会主義にたいして最終的な勝利をおさめたわけではありません」。(p.55)
 以上は一部だが、誤っているとはいえなお<社会主義>国の一つと見ていたかのごとき1年前とは違って、解体したソ連等を突き放した、評論家ふう?の叙述になっている。自らと日本共産党に火の粉が降りかかるのを懸命に避けているようだ。
 また、上の発言の基本は1994年の日本共産党綱領改定にも継承されているようで、この時期の日本共産党の指導者たちの考え方が示されているだろう。
 しかし、宮本顕治が好んだかもしれない「社会帝国主義」というソ連に対する論難の仕方は、1994年およびその後の日本共産党の見解または語法としては採用されなかった、と見られる。
 また、資本主義が「最終的な勝利をおさめた」わけではない、という言い方をしているのは、<中間的には>資本主義が勝利していることを認めているようでもあり、興味深い。
 ところで、宮本顕治の発言等を追っていくと、この時期の日本共産党の最長老の現存の「教祖」らしい、<未来への確信をもって頑張れ>との宗教家的煽動の言葉が目につくが、ソ連について、つぎのようにも述べたようだ。1994年5月、すなわち同年7月の第20回党大会直前の中央委員会総会での一文だ。第19回党大会/日本共産党中央委員会総会決定集/下(同党中央委員会出版局、1994.08)による。
 「総会では、最後に宮本議長が閉会のあいさつ」を述べ、「…われわれの闘争いかんにかかっているのであり、甘い期待をもつのではなく、心をひきしめてたたかうべきことを指摘。//
 ソ連崩壊によって覇権主義の害悪とたたかう苦労から解放されたことはすばらしいことで、最後には真理は勝利することをしめしている、…、…とのべた」(p.463)。
 //は原文では改行でない。
 宮本顕治は1961年に正式に日本共産党の最高幹部になったとき、(すでにスターリンは死亡し、スターリン批判もあったが)ソ連邦をどのように理解していたのだろうか。解体してみれば、「ソ連崩壊によって覇権主義の害悪とたたかう苦労から解放されたことはすばらしい」と言ってのける神経の太さは並大抵ではない。
 なお、ここでは立ちいらないが、この時期の宮本顕治は<スターリン(指導下のソ連)にも良い面があった>、すべてを<精算主義>的に理解してはならない旨も強調している。そしてそれは、1994年改定綱領にも採用されたと見られる。第二次大戦時でのソ連邦のはたした役割等についてだ。
 しかし、2004年の綱領全面改定によって、スターリン(指導下のソ連)の<よい面>に関する記述は削除された。不破哲三体制の誕生を示していたのかどうか、この点にはいずれまた触れるだろう。
 <つづく>
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