秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

レーニン

1556/レーニンの革命戦術②-R・パイプス著10章3節。

 R・パイプス著の試訳のつづき。
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 第3節・レーニンの革命戦術②。
 世界的社会主義革命についてのレーニンの秘密主義は、一つは彼の意図を対抗者に隠しておこうという望みに由来していた。もう一つは、計画したようには事態が進まなかったときに失敗したという汚辱を避けることができるという利益があるからだった。
 そうしておけば、計画が失敗したときいつでもレーニンは、その計画はなかったと開き直ることができた(そして実際にそうした)。
 個人的にボルシェヴィキ勢力を指導していた1917年の春や初夏に、レーニンはいくつかの指令を発した。その諸指令から、レーニンの戦闘計画に関する一般的な見取り図を描くことができる。//
 二月の経験からレーニンは、臨時政府は街頭の大衆示威活動で打倒できると学んだように見える。
 まずは、1915-16年にそうだったように、雰囲気が醸成されなければならない、次いで、民衆からの目から見て臨時政府の評判を落とす力強い宣伝活動がなされなければならない。
 この目的のためには、過った全てについて非難が加えられるべきだった。政治不安、物資不足、物価高騰、軍事的後退。
 ペテログラードを明け渡すドイツ軍との共謀だ、と追及すべきだった。一方ではそれを防御し、裏切りだと非難しつつもコルニロフ(Kornilov)将軍と協力したけれども。
 非難が度はずれになればなるほど、政治的に鍛えられていない労働者や兵士たちは、その非難を信頼しそうだった。信じられない現実には、信じられない原因があるからではないのか ?
 しかし、二月とは異なって、街頭での過激な示威活動は厳しく監視されていたので、自然発生性という見かけを与える高度に計算した努力が必要だと強く考えていたにしても、レーニンは自発的な行動を待ちはしなかった。
 レーニンはナポレオンから学んで、< tiraillerie >、小戦闘の原理を国内戦争に適用した。何人かの軍事史研究者はこの考え方を、戦争へのナポレオンの主要な貢献だと見なしている。
 ナポレオンは、戦闘のためにその戦力を、職業的正規軍と志願兵団の二つに分けた。
 志願兵団を送ってその中に敵の砲火を誘い込むのは、戦闘の初期のナポレオンのやり方だった。これは、敵陣の配置を知ることを意味した。
 重大な時点になると、ナポレオンは、敵の最も弱い地点で敵陣を粉砕すべく正規軍を活動につかせ、戦闘させた。
 レーニンはこの戦術を、都市での戦闘に適用した。
 民衆が、臨時政府を刺激する扇動的なスローガンを掲げて街頭に送り込まれた。これへの反応で、政府側の強さと弱さが判明することになる。
 群衆が政府側の実力を圧倒するのに成功したとすれば、ナポレオンの正規軍に当たるボルシェヴィキが-つまり、ボルシェヴィキ軍事機構が組織する武装労働者と兵士たちが-奪い取ることになる。
 群衆が失敗したとすれば、その地点はそのままにされて、民衆が変えようとするが抵抗してみて政府は『反民主的』だと分かる、ということになる。
 そして、ボルシェヴィキは次の機会を待つ、といこととなる。
 基本的な考え方は、ナポレオンの『< on s'engage et puis on voit >』-『自分でやってみて、そして分かる』ということだった。
 レーニンの三回の蜂起の企てで(1917年の4月、6月および7月)、彼は群衆を街頭に送り込んだが、自身は後方でじっとしており、『人民』を指揮するのではなくてそれに従うふりをした。
 いずれの企ても失敗したあと、レーニンは革命的意図を持っていたことを否認することになるし、ボルシェヴィキ党は軽はずみな大衆を抑え込もうと全力を尽くしたとすら装うことになる。(*)//
 レーニンの革命の技術には、群衆を操作することが必要だった。
 本能的だったのか知識によってだったかを言うのは難しいが、レーニンは、フランスの社会学者のギュスタフ・ル・ボン(Gustav Le Bon)が1895年に< La Psychologie des Foules (群衆の心理学)>で初めて定式化した群衆行動の理論に従った。
 ル・ボンは、人は群衆の一員になると個性を失い、その本能的心理をもつ集団的人格の中へと解体させてしまう、と述べた。
 その心理の重要な特徴は、論理的に推論をする能力が低下し、対応して、『無敵の力』をもつという意識が発生することだ。
 無敵だと感じて群衆は行動に走り、熱望は彼らを操作にさらす。『群衆は何かを期待する精神状態になり、簡単に暗示に従う』。
 群衆は、言葉と観念との連関による暴力への訴えに、とくに反応する。その観念は壮大でかつ曖昧な像(イメージ)を呼び覚まし、『不可思議』の雰囲気を漂わせる。『自由』、『民主主義』そして『社会主義』のごとく。
 群衆は、恒常的に繰り返された暴力のイメージと結びつく狂信者に反応する。
 ル・ボンによると、群衆を動かす力は宗教的な忠誠心だと最終的には分析できるので、『他の全ての前の神を、必要とする』、超自然的性格を授けられた指導者を。
 群衆の宗教的情緒は、つぎのように素朴だ。//
 『優れた者と想定されている者への崇敬、価値づけられる権力への恐怖、その命令への盲目的服従、その教条に関して議論できないこと、その教条を拡散したい欲求、自分たちを受容しない者全てを敵と考える傾向』。(48)//
 群衆の行動に関する最近の観察者は、群衆の活力(dynamism)に注意を向けた。//
 『いったん形成された群衆は、急速に大きくなろうとする。
 群衆が広がる力と意思力を、強調してもすぎることはない。
 大きくなっていると感じるやいなや-例えば、少数だがきわめて激烈な群衆によって始まる革命的な諸国では-、群衆は自分たちが大きくなるのに反対する者を束縛的だと見なす。<中略>
 こうなると群衆は包囲された都市のようなもので、多くの包囲攻撃に見られるように、その壁の前にも内部にも敵がいる。
 戦闘している間に、群衆は、国じゅうから、ますます多数の別働隊(パルチザン)を魅きつける』。(49)//
 レーニンは、きわめて稀な正直なときに、仲間のP・N・レペシンスキーに、大衆の心理に関する原理的なことをよく理解している、と打ち明けた。彼は、つぎのように書く。//
 『(レーニンは)1906年の夏の終わりに、ある私的な会話の中で、相当の確信をもって革命の敗北を予言し、退却(retreat)をする準備が必要だと示唆した。
 このような悲観的な状況にもかかわらずレーニンがプロレタリアートの革命的な力を強化するために活動するとすれば、それは、おそらくは大衆の革命的精神は決して損なわれないという考えからだった。
 勝利への、あるいは半分の勝利へですら、新しい可能性が生じるのだとすれば、そのきわめて多くは、この革命的精神に拠っているだろう』。//
 言い換えると、失敗だったとしてすら、大衆の行動は、群衆を緊張と戦闘準備の高い次元にとどまらせ続ける、価値ある仕掛けなのだ。(**)//
 ロシアに帰国した後三ヶ月の間、レーニンは、臨時政府を群衆行動で打倒しようという無謀で性急なことをした。
 レーニンは、言葉で絶えず攻撃して、臨時政府とそれを支持する社会主義者は革命に対する裏切り者だという批判にさらし、それと同時に、民衆に対して国民的な不服従を呼びかけた-軍には政府命令の無視を、労働者には工場の管理の掌握を、地方共同体の農民には私的土地の確保を、少数民族には民族の権利の要求を。
 彼には予定表はなかったが、小戦闘は対抗者〔臨時政府〕の無能力さとともに優柔不断さを暴露していたので、すぐにでも成功すると確信していた。
 七月蜂起の間の決定的な瞬間にレーニンが狼狽しなかったとすれば、十月にではなくそのときに権力を奪取していたかもしれなかった。//
 逆説的にだが、レーニン(とのちにはトロツキー)の戦術は、武装はしたものの、肉体への暴力をたいして含んではいなかった。
 肉体への暴力は、のちに、権力が確保されたのちに出現することになった。
 虚偽情報宣伝活動と大衆の示威活動、集中砲火的な言葉と街頭騒乱の目的は、公衆一般はもとより対抗者〔臨時政府〕の心のうちに、不可避性の意識を植え込むことだった。変化はやって来る、何も止められはしない。
 レーニンの生徒で模倣者のムッソリーニやヒトラーのように、彼は、まずは進路上に邪魔して立つ者たちの精神を打ち砕き、そして滅亡する運命にあるのだと説き伏せることによって、権力を勝ち取った。
 十月のボルシェヴィキの勝利は、十分の九は、心理的なもので達成された。
 つまり、関与した軍事力はきわめて小さいもので、1億5000万人の国民のうちせいぜい数千人にすぎない。また、ほとんど一発も銃砲が火を噴くことなく勝利が到来した。
 戦争は始まる前にでも、人々の心の中で勝ったり負けたりする、というナポレオンの格言の正しさを、十月の全行程は確認している。//
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 (*) この戦術は、何人かの歴史家をすら困惑させるのに成功してきている。ボルシェヴィキは権力への欲求を公然とは宣言しなかったので、そう望まなかったのだ、という主張がある。しかし、1917年10月には、ボルシェヴィキは、そんな圧力は実際には存在しなかったにもかかわらず、下からの圧力によって行動した、と装うことになるのだ。
 ボルシェヴィキやその模倣者が使ったこの手法の二元性は、クルツィオ・マラパルテ(Curzio Malaparte)が、その著<クー・デタ>で最初に指摘した。
 ムッソリーニによる権力奪取の参加者であるマラパルテは、ほとんどの同時代人や多くの歴史家が見逃したことを知っていた-すなわち、ボルシェヴィキ革命とその継承者たちは、見えるものと隠されたものという二つの異なる次元で作動した、ということをだ。後者の隠されたものこそが、現存した体制の致命的な機関に対して、死への一撃を加えた。
  (48) G. Le Bon, The Crowd (ロンドン, 1952), p.73。
  (49) E. Canetti, Crowd and Power (1973), p.24-25。 
  (**) E. Hoffer, The True Believer (ニューヨーク, 1951) p.117, p.118-9 を参照。
 『行動とは、団結させるものだ。<中略> 全ての大衆運動は、団結する手段として自らの大衆行動の助けになる。大衆運動が探求し喚起する闘いは、敵を倒すためばかりではなく、その支持者たちに本能的な個人性を剥き出しにさせ、集団的な媒体へとより溶解させていくためにも役立つ』。
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 第4節につづく。

1551/レーニンの革命戦術①-R・パイプス著10章3節。


 リチャード・パイプスの近著に、以下がある。
 Richard Pipes, Alexander Yakovlev -The Man whose Ideas delivered Russia from Communism (2015) . <R・パイプス, アレクサンダー・ヤコブレフ-ロシアを共産主義から救い出した人物>。
 これの2015年2月付の序言の一部は、つぎのとおり。
 「2005年に、イタリア・トリノで開かれた会議に、ミハイル・ゴルバチョフから招かれた。その会議は、『世界を変えた20年』と題して、世界政治フォーラムが組織しており、1985年から始まったゴルバチョフの5年間の指導者在職中にソヴィエト同盟で生じた、諸変革を記念するのを目的としていた」。
 さて、Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990), の第二部第10章の試訳。
 前回からのつづき。
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 第3節・レーニンの革命戦術①。
 レーニンは、きわめて秘密主義の人間だった。
 合わせて55巻の全集になるほどに多くを語り、書いたけれども、彼の演説や著作は圧倒的に虚偽宣伝や煽動で、潜在的な支持者を説得することか、または知られた対抗者の考えを暴露するというよりもそれを破壊することかを意図していた。
 心に浮かんだことは、身近な仲間にすらほとんど明らかにしなかった。
 階級間の世界戦争の最高司令官として、計画は個人的なままにした。
 したがって、レーニンの思想を再述するためには、知られている行為から隠された意図へと遡って分析することが必要だ。//
 一般的な諸論点-誰が敵でその敵に対して何がなされるべきか-については、レーニンは包み隠さなかった。
 大まかに把握された目標-『綱領』(プログラム, programm)-を、彼は公にしていた。
 そこからレーニンの意図を見抜くには、かなりの困難がある。
 ムッソリーニについて言うと、彼自身はクー・デタ技術の専門家では全くなかったが、ジョバンニ・ジョリッティ(Giovanni Giolitti)に対して、『国家は革命の綱領に対してではなく、革命の戦術に対して防衛されなければならない』と打ち明けていた。//
 レーニンはメンシェヴィキ・エスエルの二段階革命の原理およびその推論形である dvoevlastie 、つまり二重権力を拒否した。
 彼は臨時政府を可能なかぎり実際にぐらつかせて、権力を奪取することを意図した。
 レーニンの注目すべく鋭い政治的本能-どの成功した将軍も所持する才能-によって、これができると考えた。
 彼は、リベラルなまたは社会主義的知識人がどういう存在なのかを知っていた。クレマンソー(Clemenceau)の言葉を借りれば、『菜食主義の虎』たちは、彼らの革命的な言辞にかかわらず、政治責任を死ぬほど怖れ、かりに手渡されても権力を行使できない。
 この点で彼は、ニコライ二世のようなものだと判断した。
 さらに、国民的な一体性の外観や臨時政府への一般的な支持の奥底には、煽り立てて適切に指揮すれば非効率な民主政体を打倒してレーニンに権力をもたらすような、力強い破壊力が煮え立っていると、気づいていた。都市での物資の不足、農民の社会的動揺、民族的な欲求。
 ボルシェヴィキはその目標を達成するため、現況(status quo)に対する唯一の選択肢として、臨時政府や他の社会主義政党のいずれもからきっぱりと離れなければならなかった。
 ロシアへの帰還後レーニンは、この主張を基本線として、支持者たちに臨時政府への融和的態度を放棄すること、メンシェヴィキとの統合を考えてはならないことを力強く説いた。//
 民主主義的なスローガンがますます民衆性を獲得しているのを見たレーニンは、ボルシェヴィキ党への権力の要求を公然とは主張できなかった。
 ボルシェヴィキ党の党員以外は誰も、そして党員ですらほとんど、権力要求が達成できる見通しを持たなかった。
 この理由で短い幕間(中間休憩期間)として、レーニンは1917年の間は、権力のソヴェトへの移行を主張した。
 1917年の秋までボルシェヴィキはソヴェトの中の少数派だったことを見ると、この戦術は当惑させるもののように思える。そして、表向きは、この綱領を達成するということは、権力のメンシェヴィキとエスエルへの移行を意味するはずだった。
 しかし、ボルシェヴィキは、このような移行は決して生じないと確信していた。
 メンシェヴィキの全指導者の中で対抗派に対する幻想を最ももっていなかったツェレテリ(Tsereteli)は、ボルシェヴィキはソヴェトの多数派から国民的権力を闘い取ることに何ら困らないと思っている、と書いた。
 臨時政府にはいろいろな欠点があったけれども、レーニンの見地からすると、それは大きな軍事力をもちかつ農民層および中産階級からの確実な量の支持を受けているがゆえに、民主主義的社会主義者たちよりもはるかに危険な敵だった。
 民族主義に訴えることで、臨時政府は力強い力を結集することができた。
 名目上であろうと、臨時政府に権力がとどまっているかぎり、国家が右へと舵を切る危険はつねに存在した。
 ソヴェトに権威の中心があったので、政治的雰囲気を急進化させ、『反革命』という妖怪でもって脅迫して優柔不断な社会主義者たちを引っ張り続けるのは、相対的には簡単なことだった。//
 レーニンはその目標-権力の奪取-をめざし、軍事史や軍事学で学んだことにもとづく方法で追求した。
 純粋な政治というのは、権威主義的な方法であっても、権力への競争者と自主的な主導性については抑えた展望をもつ民衆全体の両者との間の、何らかの種類の調整を含んでいる。
 しかし、レーニンには政治とはつねに階級戦争であり、クラウセヴィッツの語法で思考をした。
 軍事戦略としての目的は、対抗者との調整ではなくして、彼らを破壊することだった。
 これは、先ず第一に、二つの意味での対抗者の武装解除を意味した。すなわち、(1) 軍事力の剥奪、(2) その諸機構の破壊。
 しかしこれはまた、戦場と同じく、敵の肉体的な殲滅を意味しえた。
 ヨーロッパの社会主義者はよく『階級戦争』と語ったが、それは主としては、バリケードを築くという頂点があるかもしれないとしても、工場ストライキや投票行動のような、非暴力的な手段によるものを意味した。
 レーニンは、そして彼だけは、『階級戦争』を文字どおりに国内戦争(civil war)の意味で用いた-戦略的破壊を目的とする、必要ならば政治の戦場での再挑戦を不能にするほどの首尾での勝利につながる敵の殲滅を目的とする、使用可能な全ての武器を使っての、戦争だ。
 このような見地での革命とは、別の手段によって遂行される戦争だった。違いは、国家間や民族間ではなくて、社会的階級の間で行われる戦闘だということにあった。
 戦闘のラインは、水平ではなく垂直に〔横ではなく縦に〕走っていた。
 このような政治の軍事化に、レーニンが成功する重要な根源があった。
 成功するためにレーニンはこのように考えていたが、それは、彼の敵が、設定もされず予期もできない地域での戦闘だと政治を取り扱う者がいるなどとは想像できないほどのものだった。//
 レーニンがその人格の内奥から導く政治に関する考え方は、彼の支配への渇望とレーニンが成長したアレクサンダー三世時代のロシアで形づくられた伝来的政治風土とが結びついたものだった。
 だが、この心理的な衝動と文化的伝統とを、理論的に正当化するものがなければならない。レーニンは、これを、マルクスのパリ・コミューン(Paris Commune)に関する論評のうちに見出した。
 この主題に関するマルクスの著作はレーニンに圧倒的な印象を与え、彼の行動の指針になった。
 マルクスはコミューンの生成と崩壊を観察して、全ての革命家はそのときまで、既存の諸制度を破壊するのではなく奪い取ろうとするという重要な過ちを冒していたと結論づけた。
 階級国家の政治的、文化的そして軍事的な諸構造を無傷なままに残して、たんに人員だけを置き換えることでは、反革命の生育地が残されてしまった。
 これからの革命家は、違うやり方で前進しなければならないことになろう。
 『これまでなされたように官僚・軍事機構を一塊としてある者から別の者に移行させるのではなく、それを破壊すべきだ』。(44)
 これらの言葉は、レーニンの心に深く染みこんだ。
 レーニンはあらゆる機会にこれを繰り返し、その重要な政治命題の中心に据えた-<国家と革命>。
 それはレーニンの破壊本能を正当化するのに役立ち、新しい秩序を樹立するというその欲望に合理性を与えた。『全体主義』要求の中に全てを包括する、新しい秩序をだ。//
 レーニンはつねに、革命を世界的な意味で捉えた。
 彼にはロシア革命はたんなる偶然的事件であり、『帝国主義』の最も弱い環を偶発的に切断することだった。
 レーニンはロシアを改革することにでは決してなく、ロシアを征圧して、産業諸国家とその植民地における革命への跳躍台にすることにだけ関心があった。
 ロシアの独裁者となっても、1917年やその後の事態を世界的観点から見ることをやめなかった。
 彼にとっては、『ロシア革命』であってはならず、ロシアで開始された、発生するはずの世界的革命なのだった。
 ロシアへと出立する日の前に渡したスイスの社会主義者たちあての別れの文章の中で、レーニンはこの点を、つぎのように強調している。//
 『一連の諸革命を<開始>したという大きな栄誉は、ロシア人に与えられた。<中略>
 ロシアのプロレタリアートが<独特の、おそらく短期間のみの>全世界の革命的プロレタリアートの前衛になったのは、その特殊な属性にではなく、特殊な歴史的条件に原因がある。
 ロシアは農民国家であって、ヨーロッパの最も遅れた国の一つだ。
 そこで<直接に、現時点で>、社会主義が勝利するのは<不可能>だ。
 しかし、国家の農民的性格は…、ロシアのブルジョア民主主義革命への巨大な一撃を導くことを、そして我々の革命を世界的社会主義革命の<序曲>にすること、それへの<一歩>とすること、を<可能に>する。』(45)
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 (44) レーニン全集に引用される、1871年のクーゲルマン博士への手紙。
 (45) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)25頁「戦術に関する手紙」(1917年4日8-13日に執筆、のち単行小冊子)かと思われる。-注記・試訳者による〕
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 ②へとつづく。

1549/アンジェイ・ワリツキ・マルクス主義と自由(1995)の構成。

 日本の「左翼的」すなわち「容共的」学界・論壇や出版社を含むメディアにとって危険な外国の人物やその著作は、紹介されたり翻訳されたりする傾向がきわめて少ない。
 R・パイプス(アメリカ)についても、F・フュレ(フランス)についても、エルンスト・ノルテ(ドイツ)についても、この人たちは日本で決して全くの無名ではないとしても、そのことを感じている。
 アンジェイ・ワリツキ(Andrzej Walicki)の著書についても、そうだろう。
 その書名は、マルクス主義と自由の王国への跳躍-共産主義ユートピアの成立と崩壊=Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia (1995)。
 この書物につき、この分野の専門的研究者とは見なされていないだろう竹内啓のつぎの論考があり、かなり詳細な紹介とコメントを含む。ネット上で、PDF形式で掲載されている。
 竹内啓・書評/明治学院大学国際学研究2000年3月31日号p.67-p.85。
 
しかし、見事に、この竹内啓PDFファイル以外に、日本では上の著に触れたものはないように見える(氏名の読み方すら分かりにくい。日本語のWikipedia での紹介もないのでないか)。
 以下は、この著の構成(内容)だ。<危険さ>を感じる人がいるだろう。
 しかし、竹内啓も言っているように、マルクス主義と「自由」は、あるいは現代の「自由」とは何かについて、(日本人も)きちんと議論・研究する必要がある。
 マルクス主義・「科学的社会主義」を名乗る政党に「学問の自由」も「出版の自由」も実質的に形骸化されているという、畏るべき実態が日本にはあると思われる。
 そうしてまた、「反共」をいちおうは謳いながら、マルクス主義・共産主義(あるいはレーニン主義・スターリニズム)、あるいは<亜流>マルクス主義者の思想・理論の詳細な分析・研究などにはまるで関心がない、分けが分からなくなっている、日本の<保守>の悲惨な実態もある。有り難さではなくて、その惨状に、涙こぼるる思いがする。
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 アンジェイ・ワリッキ・マルクス主義と自由の王国への跳躍(1995).
 第1章・自由に関する哲学者としてのマルクス。
  第1節・緒言。
  第2節・公民的および政治的自由-自由主義との対立。
  第3節・自己啓発の疎外という物語-概述。
  第4節・パリ<草稿>-喪失し又は獲得した人間の本質。
  第5節・<ドイツ・イデオロギー>-労働の分離と人間の自己同一性の神話。
  第6節・<綱要>-疎外された普遍主義としての世界市場。
  第7節・<資本論>での自己啓発の疎外と幼き楽観主義の放棄。
  第8節・将来の見通し-過渡期と最後の理想。
  第9節・ポスト・マルクス主義社会学伝統における資本主義と自由-マルクス対ジンメルの場合。
 第2章・エンゲルスと『科学的社会主義』。
  第1節・『エンゲルス的マルクス主義』の問題。
  第2節・汎神論から共産主義へ。
  第3節・政治経済学と共産主義ユートピア。
  第4節・諸国民の世界での『歴史的必然性』。
  第5節・『理解される必然性』としての自由。
  第6節・喪失した自由から獲得した ?自由へ。
  第7節・二つの遺産。
 第3章・『必然性』マルクス主義の諸変形。
  第1節・カール・カウツキー-共産主義の『歴史的必然性』から民主政の『歴史的必然性』へ。
  第2節・ゲオルギー・プレハーノフ-夢想家の理想としての『歴史的必然性』。
  第3節・ローザ・ルクセンブルクまたは革命的な運命愛(Amor Fati)。
 第4章・レーニン主義-『科学的社会主義』から全体主義的共産主義へ。
  第1節・レーニンの意思と運命の悲劇。
  第2節・『ブルジョア自由主義』へのレーニンの批判とロシア民衆主義の遺産。
  第3節・労働者の運動と党。
  第4節・『単一政』の破壊と暴力の正当化。
  第5節・文学と哲学におけるパルチザン原理。
  第6節・プロレタリアート独裁と国家。
  第7節・プロレタリアート独裁と法。
  第8節・プロレタリアート独裁と経済的ユートピア。
 第5章・全体主義的共産主義から共産主義的全体主義へ。
  第1節・レーニン主義とスターリン主義-継承性に関する論争。
  第2節・世界の全体観念としてのスターリン主義的マルクス主義。
  第3節・『二元意識』と全体主義の『イデオロギー支配制』。
 第6章・スターリン主義の解体-脱スターリン主義化と脱共産主義化。
  第1節・緒言。
  第2節・マルクス主義的『自由』と共産主義的全体主義。
  第3節・脱スターリン主義化と脱共産主義化の諸段階と諸要素。
  第4節・ゴルバチョフのペレストロイカと共産主義的自由の最終的な拒絶。
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 以上。

1548/B・パステルナークとジバゴ・ラーラの「レーニン時代」②。

 映画・ドクトル・ジバゴ(1965)は、日本では翌1966年に公開されている。その年か翌1967年に私も観た。じつに、50年前。
 その頃に、舟木一夫・内藤洋子主演のその人は昔(松竹)という映画も観た。
 自室以外に本棚らしきものはなく、まして一冊の単行本の新刊書も自宅になく(自分の教科書類以外は)、安い文庫の本をときには中古ですら買い求めていた頃に、よくぞ映画はいくつか観ていたものだ、と思う。
 「その人は昔、海の底の真珠だった。
  その人は昔、山の谷の白百合だった。
  その人は昔、夜空の星の輝きだった。
  その人は昔、僕の心のともしびだった。
  でもその人は、もう今は、いない。」
 舟木一夫・その人は昔(1967年)/歌詞・松山善三(映画監督)。
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 ボリス・パステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』は「レーニン時代」の物語でもあると書いたのだったが、二月革命や「十月」ボルシェヴィキ政変がどのあたりに出てくるのか確かめてみた。
 Boris Pasternak, Doktor Shiwago (独語, 2011)だと、最終の「詩篇」を除く本文は、p.9~p.645。「二月革命」についての叙述は第4章の最後のp.163に初めて少しだけある。
 ちなみに、工藤正廣訳・ドクトル・ジヴァゴ(未知谷、2013)は、最終の「詩篇」を除いて本文は13頁から681頁で、「二月革命」は172頁に出てくる。
 それぞれ8頁と12頁を引いて、独書では、155/638、工藤邦訳書では160/669のところに位置する。これは、おおよそ最初の24%あたりの箇所で、つまりは小説の四分の三は1917年「二月革命」以降のことだ。
 つぎに「十月」ボルシェヴィキ政変については、独書ではp.238に、工藤邦訳書では254頁に初めて出てくる。230/638と242/669で、これはおおよそ最初から36%進んだ箇所で、三分の二近くは「十月」以降の物語だ。
 但し、最後に飛んで1943年頃の、ユリイとラーラの娘・ターニャが出てくる場面はある。しかし、レーニンの死とか指導者の交替といった話題は何も出てこないので、要するに、この小説=ドクトル・ジバゴは少なくとも6割ほどは間違いなく<レーニンの時代>を背景にしている。
 そして、語るのはジバゴだったり、ラーラの夫で共産党幹部になるが嫌疑をかけられて自殺するストレーリニコフ(パーシャ)だったり、あるいは作者自身だったりの違いはあるが、かりにレーニンの名はほとんど出てこなくとも(1箇所だけある)、明らかにロシア「革命」やボルシェヴィキに対する、懐疑・皮肉・揶揄や批判的叙述がある。
 戦後のソヴィエト国家が、その権威の正当性が帰着する原点を衝かれているので、この本の発刊を国内では許さなかったこともあらためてよく分かる(なお、むろんロシア語で書かれたが、出版はイタリア語版が最初だったようだ)。
 以下は、部分的な、試訳だ。
 主要登場人物は首都にもモスクワにもいないときの、「二月革命」-「『大変重大な事件が発生。ペテルブルクで街頭騒擾だ。ペテルブルクの守備隊兵団が蜂起者の側に移った。革命だ』。」
 独書p.163、工藤邦訳書172頁、江川・新潮文庫/上224頁。
 つぎに「十月」、主要登場人物は首都にではなくモスクワにいて、モスクワに関する叙述がまずある。
 独書p.237、工藤邦訳書p.250、江川新潮文庫/上334頁が、それぞれ最初。
 モスクワでの騒乱-「まさにそのとき、通風口から入ってくる風と同じように急いで、ニコライ叔父が部屋に飛び込んできて、ニュースを伝えた。
 『市街戦が始まった。臨時政府を支持している士官学校生とボルシェヴィキの側にいる守備隊兵士たちの間に軍事的衝突が起こっている。/戦闘は一進一退で、蜂起の群衆は数えられないほどだ。』」
 「事態はその間にもさらに進展していた。新しい細かいこともあった。ゴルドンは、激しくなっている銃撃戦や、逸れた弾に当たって死んだ通行人について話した。市の交通は途絶えた」。
 「事態の帰趨は、もう明らかだった。労働者たちが優勢だという風聞が至るところから伝わってきた。士官学校生の小隊がばらばらになってまだ戦っていたが、お互いに孤立し、指導部との連絡がつかなかった。」 
 数日後、首都について-「ある十字路で、『最新ニュース』と叫びながら、新しく印刷された束を腕に抱えて、新聞売りの少年が彼〔ジバゴ〕の傍らを通りすぎた」。
 「片面だけが印刷された号外版の内容は、人民委員のソヴェトが形成されたこと、ロシアにソヴェト権力が設立されたこと、プロレタリアート独裁が導入されたこと、に関する政府のペテルブルクからの発表を伝えることだった。そのあとに新政府の最初の諸布令(Dekrete)と電報や電話で送られてきた種々の情報がつづいていた。」
 この「十月」政変についてのジバゴらの特段の感慨は、すぐには叙述されていない。
 機会があれば、明確な懐疑・批判類を訳出してみたいが、パステルナークは、少しだけあとの新しい節の冒頭部分(第6章・篇「モスクワの露営」第9節)で、その後の雰囲気をこう叙述する。独書p.245~。
 「予言したとおりに、冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
 三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//
 旧い生活と新しい秩序は、まだ一致していなかった。両者の間には、一年後の国内戦争(内戦)の間のようなあからさまな敵対関係はなかったけれども、決して結びついてはいなかった。両者は、対峙し合っている、決して合意しない、相互に離れた党派だった。//
 至るところで、指導部の新しい選挙が行なわれた。住宅組合、諸団体、職場、公共供給事業体のどこででも。/
 構成は変わった。全ての部署に、無制限の権能をもつ政治委員(Kommissare)が任命された。黒皮のジャケットを着て、威嚇措置とナガン銃で武装した、鉄のごとき意思をもつ者たち、めったに鬚を剃らず、もっとたまにしか眠らない者たちだった。//
 この者たちは、綱領(基本方針)が命令する全てのことを手中に握って、企業や団体は、別のボルシェヴィキ的なものへと変えられた。」
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 「やっとまた、同じところにいる、ユーロチュカ。神さまは、私たちが再び会うというご褒美を下さった。でも、何と恐ろしい再会なの!
 さようなら、私の偉大な人、私の愛した人。さようなら、私の誇り。さようなら、私の深くて激しい河。
 まだ憶えてる ? どんなふうに私はあの雪の中で、あなたと別れたのか ?」  
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 これは、ジバゴの遺体にとりすがって語りかけるラーラ。ドイツ語版、p.625。途中省略がある。

1547/レーニン帰国②・四月テーゼ-R・パイプス著第10章。


 前回のつづき。
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 第2節・ドイツの助けでレーニン帰還②。
 そこ〔ストックホルム〕で待っていた人たちの中に、パルヴスがいた。
 彼はレーニンと逢いたいと頼んだが、慎重なボルシェヴィキ指導者は拒んで、ラデックに譲った。ラデックは、オーストリア人だったおかげで裏切りだと追及される危険がなかった。
 ラデックは3月31日/4月13日のかなりの部分を、パルヴスとともに過ごした。
 二人の間に何があったかは、知られていない。
 彼らは別れ、パルヴスは急いでペルリンに向かった。
 4月20日(新暦)に、パルヴスは私的に、ドイツの国務長官(state secretary)のアルトゥール・ツィンマーマン(Arthur Zimmermann)と会った。
 この会見についても、記録は残されていない。
 パルヴスは、ストックホルムに戻った。(32)
 文書上の証拠は不足しているが-高いレベルの秘密活動を含む資料についてよくあることだ-、後で起こったことを見てみると、パルヴスがドイツ政府に代わってラデックと逢い、ロシアでのボルシェヴィキを財政的に支援する条件や手続について取り決めた、ということが、ほとんど確実だと思われる。(*)//
 ストックホルムのロシア領事館は、到着を待って入国査証を用意していた。
 臨時政府は、戦争反対活動家たちの入国を認めるかどうかを躊躇したように見える。
 しかし、方針を変更して、敵国領土を縦貫したことでレーニンが政治的に妥協することを期待した。
 一行はストックホルムを立って3月31日/4月13日にフィンランドに着き、三日後(4月3日/16日)の午後11時30分にペテログラードに到着した。(+)//
 レーニンがペテログラードに着いたのは、全ロシア・ボルシェヴィキ大会の最終日だった。
 地方から出てきている多くのボルシェヴィキ党員は知っていて、指導者レーニンを歓迎する用意をしていた。その歓迎ぶりは、その劇場性において、社会主義諸団体でかつて見た全てをはるかに上回っていた。
 ペテログラード委員会は、フィンランド駅へと労働者たちを呼び集めた。
 委員会は、線路に沿って護衛兵と軍楽隊を配置した。
 レーニンが列車から姿を現わしたとき、軍楽隊は『マルセイエーズ(Marseillaise)』を演奏し始め、護衛兵たちは見ようと跳び上がった。
 チヘイゼ(Chkheidze)がイスポルコム(Ispolkom)を代表して歓迎し、社会主義者は国内の反革命と外国の侵略から『革命的自由』を防衛すべく一致団結するという希望を声を出して語った。
 フィンランド駅の外で、レーニンは装甲車の上に昇り、投光器によって照らされながら、簡単に若干の言葉を発した。そのあとでクシェシンスカヤ(Kshesinskaia)邸に向かい、群衆が後を続いた。//
 スハーノフ(Sukhanov)は、その夜のボルシェヴィキ中央司令部での出来事について、目撃証言書を残した。//
 『かなり大きなホールの下に、多数の人々が集まった。労働者たち、『職業的革命家たち』、そして女性たち。
 椅子は足らず、出席者の半分は心地よくなく立っているか、テーブルの上に体を伸ばしていた。
 誰かが進行役に選ばれ、各地域からの報告という形での挨拶の言葉が述べられた。
 この挨拶は、全体としては単調で、長々と続いた。
 しかし、いまそのときに、ボルシェヴィキの「様式(スタイル)」の奇妙で独特な特徴、ボルシェヴィキ党の仕事の独特の流儀(モード、mode)だとの思いが生じた。
 そして、ボルシェヴィキの全作業が、それなくして党員たちは完全に無力だと思い、同時にそれを誇りに思い、中でも自分が聖杯の騎士のごとくそれの献身的な召使いだと感じている、異質な精神的根源の鉄の枠に捉えられている、ということが絶対的な明白性をもって、明確になった。
 カーメネフも、漠然と何かを喋った。
 最後に、彼らはジノヴィエフを思い出した。ジノヴィエフはあまり熱意のない拍手を受け、何も語らなかった。
 そうして、報告の形での挨拶が最後を迎えた…。//
 そのとき、体制の大主人公〔レーニン ?〕が、『反応的に』起ち上がった。
 私は、あの演説を忘れることができない。異端者的に図らずも熱狂的興奮に投げ込まれた私にだけではなく、本当の信仰者たちにも衝撃を与えて驚愕させた、雷光のごときあの演説を。
 誰もあのようなことを予期していなかった、と断言する。
 まるで全ての原始的な諸力が棲息地から起き上がったように思えた。
 そして、全ての自然界破壊の精神的なものが、邪魔する物なく、懐疑なく、人間的な苦しみも人間的な打算もなく、クシェシンスカヤ邸のホールにいる取り憑かれた信徒たちの頭の上で、響き回った。』(35)//
 90分続いたレーニンの演説の基本趣旨は、『ブルジョア民主主義』革命から『社会主義』革命への移行は数ヶ月の問題として達成されなければならない、というものだった。(**)
 これは、帝制が打倒されたあと僅か4週間後に、死刑を執行するつぎの承継者は自分だとレーニンが公に宣言している、ということを意味した。
 こういう前提命題は、彼の支持者たちの大多数の気分とは違っていて、無責任で『冒険主義的』だと思われた。
 その結果として、その夜に残った者たちは、嵐のごとき議論を交わした。その会合は、午前4時に終わった。//
 その日の後で、レーニンは、ボルシェヴィキ党の一団に対して、そして別にボルシェヴィキとメンシェヴィキの合同の会議に対して、一枚の文書を読み上げた。それは、反対を予想して、レーニンの個人的見解による回答を提示するものだった。
 のちに『四月テーゼ(April Theses)』として知られるこの文書は、狂気でなければ完全に現実感を失っていると聞き手には思える行動綱領を概述したものだった。(36)
 レーニンの提示は、こうだった。進行する戦争への不支援、革命の『第二』段階への即時移行、臨時政府への支持の拒絶、全権力のソヴェトへの移行、人民軍を結成するための現軍隊の廃止、全ての地主所有土地の没収と全国土の国有化、ソヴェトの監督のもとでの全銀行の単一の国有銀行への統合。
 そして、ソヴェトによる生産と配分の統制、新しい社会主義インターナショナルの結成。//
 <プラウダ>編集局は、印刷装置が機械的に故障したという偽りの理由をつけて、レーニンの『テーゼ』を印刷するのを拒否した。
 4月6日のボルシェヴィキ中央委員会総会は、レーニンのテーゼに対する否認決議を採択した。
 カーメネフは、レーニンが現在のロシアとパリ・コミューンとの間の共通性を指摘するのは過っている、と主張した。
 一方、スターリンは、『テーゼ』は『図式的(schematic)』で事実に即していないと考えた。
 しかし、レーニンおよび一時期に<プラウダ>編集局に一緒にいたことのあったジノヴィエフは同編集局に発刊を強いて、『テーゼ』は4月7日に掲載された。
 レーニンの論文には、カーメネフの論評が付けられていて、これは党機関の決定から逸脱している、と書いていた。
 レーニンは、『ブルジョア民主主義革命は達成されたという前提から出発し、その革命の社会主義革命への即時移行を唱える』。
 さらにカーメネフは続ける。しかし、中央委員会の考えは異なっており、ボルシェヴィキ党はその決議に従う。(***)
 ペテログラード委員会は4月8日に会議を開き、レーニンの文書について議論した。
 表決は、やはり圧倒的に否定的だった。賛成2票、反対13票、そして保留が1票。
 地方の諸都市の反応も似ている。例えば、キエフとサラトフのボルシェヴィキ組織は、レーニンの基本方針(program)を却下した。後者は、執筆者〔レーニン〕はロシアの状況に疎い、という理由でだった。//
 指導者の宣言文書に関するボルシェヴィキの見解がどうであろうと、ドイツは愉快だった。
 ストックホルムにいるドイツの工作員は、4月17日に、ベルリンへと電信を打った。
 『レーニンの入国は、成功だった。彼は、我々がまさに望んだように仕事をしている』。(41)//
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  (32) ゼーマン=シャルラウ, 革命の商人・パルヴスの生涯 (1965), p.217-9。
  (*) ラデックはオーストリア人で、臨時政府からは敵国人だと考えられた。ロシアへの入国査証の発行を拒否されたので、彼は1917年10月までストックホルムにとどまり、レーニンのために働いた。
  (+) そのあと、ロシア難民のいくつかの一行がさらにドイツを縦貫してロシアに着いた。
  (35) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, III (1922), p.26-27。
  (**) この演説の音源上の記録はない。しかし、レーニンが用いたノートは、同全集・選集類で刊行されている。〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)10頁「われわれはどうやって帰ってきたか」1917年4月4日執筆、同13頁「四月テーゼ擁護のための論文または演説の腹案」1917年4月4-12日の間に執筆/1933年1月22日<プラウダ>上で初公表-「手稿による印刷」。とくに後者が該当しそうだ-試訳者の注記。〕
  (36) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)3頁「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について/テーゼ」<プラウダ> 26号(1917年4日7日)。-注記・試訳者による〕
  (***) Iu. Kamenev in :<プラウダ> 27号(1917年4日8日)2頁。カーメネフは、3月28日のボルシェヴィキ大会の諸決議を参照要求する。
  (41) ゼーマンら編, ドイツとロシア革命 (1958), p.51。
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 第3節につづく。

1544/ドイツの援助で帰国①-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
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 第2節・ドイツの助けによるレーニンの帰国①。
 ドイツには、ロシアの急進派について自らの計画があった。
 戦争は膠着している。そして、勝利する可能性が残るのは、敵国の協調を分裂させることだ、最もよいのはロシアを戦争から追い出すことだ、と認識するに至った。
 ドイツ皇帝は1916年の秋に、つぎのように書いた。//
 『厳密に軍事的観点から言えば、残りの諸国と全力を挙げて戦闘するために、分離講和をして協商側の交戦国の中の一国又は別の一国を分離することが重要だ。<中略>
 そうすると、ロシアの内部抗争が我々との講和の結論に影響を与えるかぎりでのみ、我々は戦争努力を組織することができる。』//
 ロシアを軍事力で排除することに1915年に失敗したドイツは、こうして、革命ロシア内部にある分裂を利用するという政治的方法に訴えた。
 臨時政府は完全に、協商国側の基本方針を支持していた。二月革命はイギリスが工作した、と思っていたドイツ人もいたほどだ。(18)
 ロシア外務大臣・ミリュコフ(Miliukov)の声明には、中央諸国軍が楽観できる理由はなかった。
 したがって、ロシアを協商国軍から切り離せる唯一の希望は、『帝国主義』戦争に反対してそれを内戦(civil war)に転化しようと主張している急進的過激派を、換言すると、レーニンが疑いなき指導者だったツィンマーヴァルト・キーンタールの左翼を、利用することにあった。
 レーニンがロシアに帰還すれば、階級対立意識を引き起こし、民衆の厭戦気分を利用して、臨時政府に対して尽きない混乱を生じさせることができるだろう、そしてたぶん権力を握ることすら。//
 『レーニン・カード』を使うのを最も強く主張したのは、パルヴス(Parvus)だった。
 パルヴスは1915年にレーニンに接近していた。そのときレーニンは協力するのを拒否したが、状況は今は変わった。
 1917年にパルヴスはコペンハーゲンに住んでいて、諜報活動をする隠れ蓑として、そこで輸入商社を経営していた。
 スパイ行為(espionage)を指揮するために、表向きだけの科学研究所も持っていた。
 ストックホルムにいる彼の商売上の代理人はヤコブ・ガネツキー(Jacob Ganetskii)で、レーニンが信頼する仲間だった。
 パルヴスはロシアの亡命者政策をよく知っていたので、レーニンのような過激主義者には大きな望みをもった。
 彼はデンマークのドイツ大使、V・ブロックドルフ=ランツァウ(Brockdorff-Rantzau)に対して、解放された戦争反対左翼は政治不安を広げ、二、三カ月にはロシアは戦争にとどまることは不可能だと気づくだろう、と請け負った。(20)
 パルヴスはレーニン一人を選び出して、ケレンスキーとチヘイゼ(Chkheidze)のいずれよりも『はるかにすごい狂乱者』だとして特別の注意を向けた。
 不可思議な洞察力をもってパルヴスは、いったんロシアに帰国すればレーニンは臨時政府をぐらつかせ、権力を奪い取り、そして速やかに分離講和を結ぶだろうと、予言していた。(21)
 パルヴスはレーニンの権力への渇望をよく理解しており、自分はドイツ領をスウェーデンへと通過させる仕事ができると考えた。
 パルヴスの影響によって、ブロックドルフ=ランツァウはベルリンに電報を打った。//
 『我々は今無条件に、ロシアに可能な最大の混乱を生み出す方法を探さなければならない。<中略>
 我々は、穏健派と過激派の間の対立を悪化させるため…可能な全てをすべきだ。後者が上回ることが最大の利益になるのだから。
 そうすれば、革命は不可避になり、その革命はロシア国家の安定を破壊する形態をとるだろう。』(22)//
 スイスにいるドイツ公使、G・フォン・ロンベルク(von Romberg)は、ロシア事情に関する当地の専門家から得た情報にもとづいて、同様の進言を行った。
 彼は、『Lehnin〔レーニン, ドイツ語ふう綴り〕』の支持者たちは講和交渉を即時に開始することや臨時政府と他社会主義諸政党のいずれにも協力しないことを主張しており、ペテログラード・ソヴェトを混乱させるという事実に、ベルリンの注意を向けさせた。(23)//
 これらに従って、ドイツ首相のテオバルト・ベートマン=ホルヴェク(Theobald von Bethmann-Hollweg)は、ロシア亡命者たちとスウェーデンへの移動について話を始めるように命令した。
 会談は、3月遅くと4月初頭に(新暦で)、初めはロバート・グリム(Robert Grimm)、あとはフリッツ・プラテン(Fritz Platten)というスイスの社会主義者の助けで、行われた。
 レーニンは、ロシア人たちの代表者として行動した。
 このような危険な政治的冒険をするに際してレーニンについても彼の綱領についても情報を得る面倒なことをしなかったのは、ドイツ人の洞察力の欠如(myopia)の兆候を示すものだ。
 彼らにとって重要なのは、ボルシェヴィキとその他のツィンマーヴァルトの追随者たちの、ロシアに戦争を止めさせたいという立場だけだった。
 ドイツの資料庫を調べたある歴史家は、ボルシェヴィキへの関心を示す文書資料を見つけなかった。レーニンの雑誌、< Sbornik Sotsial-Demokrata >の二号分があり、ベルンの大使館からベルリンへと進呈されていたが、40年の間書庫に眠ったままで、頁は切られていなかった。//
 ドイツ縦断移動に関する交渉の際にレーニンは、亡命者たちが敵国と協調する責任を感じることはないと安心させるのに多大の骨折りをした。
 列車は治外法権の地位をもつと、レーニンは主張した。プラテンの許可なくして誰も立ち入ってはならないし、旅券(passport)の検査もない、と。
 貧乏な難民〔レーニン〕がドイツ政府に条件を提示する地位にあると感じていたという事実は、彼が委ねた職務部門から高い評価を得ていたことを示唆する。//
 ドイツ側では、交渉は、外務省、とくにその長のリヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuehlmann)の積極的な支援を受けて、民間人団体が実行した。
 その〔外務省が大きく関与した〕結果としてレーニンのロシア帰還の背後で促進したのはルーデンドルフ(Ludendorff)だと考えられるようになったけれども、実際には将軍は大した役割を果たしてはおらず、彼は護送車両を手配するのに寄与したにとどまる。//
 プラテンは4月1日(新暦)に、レーニンの条件をドイツ大使館に電送した。
 二日後に、諸条件は受諾できると知らされた。
 この時期にドイツ財務省は、『ロシア工作』のために500万マルクを与えよとの外務省からの要求に同意した。(27)
 ロシアに関してドイツが行なっていたことは、つぎに示されるように、いつものやり方と同じだった。//
 『どの敵国、フランス、イギリス、イタリアおよびロシアについても、ドイツは内部での反逆を計画する工作をしていた。
 その計画は全て、大まかには同じだ。
 第一、極左の政党を使っての混乱。第二、金を払ってかドイツが直接に教唆してかの、敗北主義者の平和主義論文。最後、弱体化した敵国政府から最後には権力を奪取して平和を願う、重要な政治的人物との相互理解を確立すること。』(28)
 ドイツは、イギリスについては、アイルランド人のロジャー・ケイスメント卿(Roger Casement)、フランスについてはジョセフ・カイヨー(Joseph Caillaux)、そしてロシアについてはレーニンを使った。
 ケイスメントは射殺され、カイヨーは投獄された。
 レーニンだけが、金銭を支払ったことを正当化した。//
 3月27日/4月9日に、32人のロシア人亡命者たちがツューリヒを離れてドイツの前線へと向かった。
 乗客の完全な名簿を利用することはできないが-ドイツ人は列車の旅行客を審問しないという取り決めだった-、彼らの中には、6人のブント構成員、3人のトロツキー支持者のほかに、レーニン、クルプスカヤ、ジノヴィエフとその妻子、イネッサ・アーマンドおよびラデックを含む19人のボルシェヴィキ党員がいたことが知られる。(29)
 ゴットマディンゲンで国境を越えたあとで、彼らは二車両で成るドイツの列車に移った。
 一つはロシア人用で、もう一つは、ドイツの護衛兵用だった。
 伝説になっているのとは違って、列車は封印されていなかった。
 シュトゥットガルト、フランクフルトを通過して、3月29日/4月11日の午後早くに、ベルリンに到着した。
 そこで列車は、ドイツの監視兵に囲まれて20時間、留め置かれた。
 3月30日/4月12日、彼らはバルト海の港があるサスニッツ(Sassnitz)へ行き、そこでスウェーデンのトレレボリ(Traelleborg)行きの蒸気船に乗り込んだ。
 上陸すると、ストックホルム市長の歓迎に合った。そして、スウェーデンの首都へと進む。//
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  (18) General M. Hoffmann, Der Krieg der versaeumten Gelegenheiten 〔機会を逃した戦争〕(ミュンヒェン, 1923), p.174。
  (20) Z. A. B. Zeman = W. B. Scharlau, The Merchant of Revolution : The Life of Alexander Helphand (Parvus)〔革命の商人/アレクサンダー・ヘルプハンド(パルヴス)の人生〕(ロンドン, 1965), p.207-8。
  (21) P. Scheidemann, Memoiren eines Sozialdemokraten 〔ある社会民主主義者の回想〕(ドレスデン, 1930), p.427-8。
  (22) Hahlweg, レーニンの帰還, p.47。 
  (23) 同上, 49-50。4月3日/3月21日付電信。これはおそらく、その日の<プラウダ>に掲載されたレーニンの第一の『国外からの手紙』を指している。
  (27) Z. A. B. Zemann 編, Germany and the Revolution in Russia〔ドイツとロシア革命〕, 1915-1918 (ロンドン, 1958), p.24。
  (28) Richard M. Watt, Dare Call It Treason 〔敢えて裏切りと呼ぶ〕(ニューヨーク, 1963), p.138。
  (29) Fritz Platten, Die Reise Lenins durch Deutschland 〔レーニンのドイツ縦貫旅〕(ベルリン, 1924), p.56。
  (31) Hahlweg, レーニンの帰還, p.99-100。 
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 ②へとつづく。

1543/スイスにいたレーニン②-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党②。
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 1917年3月のボルシェヴィキ党は、このような〔レーニンの〕野心的計画を遂行できる状況ではほとんどなかった。
 大戦中に警察に逮捕されて、それは2月26日が最もひどかったのだが、党の最も重要な組織体であるペテログラード委員会の委員が勾留され、党の機構は無力になった。
 指導部の者たちはみな、投獄されるか、追放されていた。
 1916年12月初期のレーニンあて報告で、シュリャプニコフ(Shliapnikov)は、いくつかの工場や要塞守備兵団での前の数ヶ月間の党の活動について、『戦争をやめろ』、『政府を倒せ』とのスローガンだったと叙述した。だが同時に彼は、ボルシェヴィキが警察の情報員にスパイされていて非合法の活動をするのがほとんど不可能になった、と認めた。
 二月革命を呼びかけたとか組織したとすらしたとかのボルシェヴィキによるそのすぐあとの主張は、したがって、全く事実ではない。
 ボルシェヴィキは、自発的な示威行動者たち、そしてまた、メンシェヴィキやそれが支配するソヴェトの後にくっついて、その人たちの上着の裾を握って歩いたようなものだった。
 反乱兵団の中には支持者はほとんどいなかったし、この時期の工場労働者の中でボルシェヴィキを支持する者は、メンシェヴィキやエスエルに対してよりもはるかに少なかった。
 二月の日々の間、ボルシェヴィキがしたことと言えば、訴えや宣言文書類を発行することに限られていた。
 せいぜいのところ、2月25-28日のデモ行進で労働者や兵士たちが運んだ革命の旗を準備するのに手を染めたかもしれない。//
 しかしボルシェヴィキは、数の少なさを組織化の技術で埋め合わせた。
 3月2日、監獄から釈放されたばかりの党ペテログラード委員会は、三人総局(Bureau)を立ち上げた。それは、シュリャプニコフ、V・A・モロトフおよびP・A・ザルツキー(Zalutskii)の三人で構成された。
 この総局は3日後に、モロトフが編集長になって、再生した党の機関誌、<プラウダ>の第一号を発行した。
 3月10日には、N・I・ポドヴォイスキーとV・I・ネフスキー(Nevskii)のもとに軍事委員会(のち軍事機構と改称)を設立して、ペテログラード守備兵団への情報宣伝と煽動を実施することになった。
 ボルシェヴィキは活動の本拠として、若いニコライ二世の愛人だとの風聞のあったバレリーナのM・F・クシェシンスカヤ(Kshesinskaia)の贅沢なアール・ヌーヴォー様式の邸宅を選んだ。
 この邸宅をボルシェヴィキは、所有者の抗議を無視して、友好的兵団の助けで『収用した』。
 1917年7月までここに、ペテログラード委員会と軍事機構はもちろんだが、ボルシェヴィキ党の中央委員会も所在した。//
 1917年3月はずっと、ロシアのボルシェヴィキはその指導者から切り離され、メンシェヴィキやエスエルとほとんど異ならない政治路線を追求した。
 中央委員会のある決定は、口では臨時政府は『大ブルジョア』や『地主』の代理人だと述べていたが、それに対抗するとは主張しなかった。
 最も力があるボルシェヴィキの組織であるペテログラード委員会は、3月3日に、メンシェヴィキ・エスエルの立場を採用して、< postol'ku-poskol'ku >、つまり『民衆』の利益を向上させる『範囲で』政府を支持することを訴えた。
 理論的にも実務的にも、ペテログラードのボルシェヴィキ指導部は、レーニンのそれとは完全に対立する基本方針を採った。
 ペテログラード指導部はしたがって、レーニンから一週間後に届いた3月6日の電報の内容が気に入ったはずはなかった。
 ペテログラード委員会の会議に関する公刊されている議事録は、電報を受け取った後の議論を記載していない。//
 この親メンシェヴィキの方向は、追放されていた三人の中央委員会メンバーがペテログラードに着いて、強化された。三人とはL・B・カーメネフ、スターリンおよびM・K・ムラノフで、年長者優先原理により、この三人が、党の指揮権と<プラウダ>の編集権を握った。 
 これら三人はいずれも、彼らの論考や演説で、レーニンがツィンマーヴァルト(Zimmerwald)やキーンタール(Kiental 〔いずれもスイスの小村、社会主義インターの会合地〕)でとった見地を拒否した。
 彼らは、国家間の戦争を内乱に転化するのではなく、社会主義者が講和交渉の即時開始を強く主張することを望んだ。(11)
 ペテログラード委員会は、3月15-16日に会議を開いた。
 そのときの議事録も決定集も公刊されていないことは、新政府や戦争への態度という重大な論争点について、多くの出席者が反レーニンの立場を選択したことを強く示唆する。
 しかし、知られていることだが、3月18日のペテログラード委員会の閉鎖会議で、カーメネフは、臨時政府は間違いなく『反革命的』で打倒されるべき運命にあるが、その打倒のときはまだ将来だ、『重要なことは権力を掌握することではなく、それを維持し続けることだ』と主張した。
 カーメネフは、同旨のことを3月末の全ロシア・ソヴェト協議会でも語った。
 この当時のボルシェヴィキは、メンシェヴィキとの再統合を真剣に考えていた。
 3月21日にペテログラード委員会は、ツィンマーヴァルトやキーンタールの基本線を受け入れるメンシェヴィキと合同するのは『可能でかつ望ましい』と宣言した。(*)//
 こうした態度を考えると、アレクサンダー・コロンタイ(A. Kollontai)がレーニンの第一と第二の『国外からの手紙』を携えて彼らの前に現れたときに、ペテログラードのボルシェヴィキが衝撃や疑惑の反応を示したことは、理解できない。
 レーニンはこの手紙で、3月6日/19日の電報について詳述していた。つまり、臨時政府の不支持と労働者の武装。
 この基本方針は、ロシアの状況の雰囲気を全く知らない誰かが考え上げた、完全に現実離れしているものだと、彼らは感じた。
 数日間の躊躇の後で、彼らは第一の『国外からの手紙』を<プラウダ>に載せたが、レーニンが臨時政府を攻撃している部分の文章は除外した。
 彼らは、第二の手紙、およびその後のものを掲載するのを拒んだ。//
 3月28日と4月4日の間にペテログラードで開かれた全ロシア・ソヴェト大会で、スターリンが動議を提案して、代議員たちが採択した。それは、臨時政府への『統制』、および『反革命』と闘い革命運動を『拡大する』目的をもつその他の『進歩勢力』との協力を呼びかけるものだった。(+)
 ボルシェヴィキのこのようなもともとの『反ボルシェヴィキ』的態度とレーニンが到着した後の速やかな変化は、彼らの振る舞いが、信奉して適用する原理にもとづいているのではなく、指導者の意思にもとづいている、ということを示す。
 すなわち、ボルシェヴィキは、信じることにではなく信じる人物に、完全に拘束されていた。//
  ------
  (11) カーメネフ, プラウダ, No.9 (1917年3月15日), p.1、スターリン, プラウダ, No.10 (1917年3月16日), p.2。
  (*) シュリャプニコフは、つぎのように書く。ペテログラードのボルシェヴィキは、カーメネフ、スターリンおよびムラトフが強く主張して迫った政策方針を知って狼狽した、しかし、ペテログラードに現れた年長の三人のボルシェヴィキの前で自分たちが従った政策の見地に立ったので、狼狽した別のありそうな原因は、端役を演じなければならなかったことへの憤慨にあったように見える、と。 
  (+) この大会の記録はロシアでは公刊されてこなかったが、レオン・トロツキー, Stalinskaia shkola falsifikatsii (ベルリン, 1932) で見い出せる。上の決定は、p.289-p.290 に出てくる。
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 第2節につづく。

1541/緒言・スイスのレーニン①-R・パイプス著第10章。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990、Vintage)〔リチャード・パイプス・ロシア革命〕の第二部の最初の第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』の試訳は、すでに済ませた(2月下旬以降)。
 この本には1997年に新版が出ていて、①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919、というタイトルになっている(Harvill Press 刊、計950頁余)
 中身は頁数を含めて変わっていない。但しいわば大判から中判への変更で、活字・文字はやや小さくなり、少し読み辛い(もっと小さな活字・文字の小型判の本はある)。
 タイトルに「1899-1919」が付いて分かりやすくなっている。
 そして、この欄で1994年刊の「別著」とも称したものは、次のタイトルになった。
 ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Refime 1919-1924.(計約600頁)
 こう並べてみると、簡潔版(単純な抜粋又は要約でないが)の、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995、Vintage, 1996、計430頁余)=西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)が、①のではなく、時期・内容ともに①と②を併せたものの簡潔版(Concice 版)であることがよく分かる。
 ちなみに、リチャード・パイプスの、注記・参考文献等も詳しい上の①、②ともに(③はあるが)、邦訳書がまだ存在しないことに留意されてよい。試訳している部分でも明らかだが、リチャード・パイプスの記述内容は、日本の<ある勢力>にとって<きわめて危険>だ。アメリカの安全保障会議の「ソ連・東欧問題」補佐官だったが、この人が1989-91年のソ連・東欧の激動期に日本のメディアからインタビューされたり、原稿執筆を依頼された痕跡が全くないのはどうしてだろうか ?
 Leszek Kolakowski(L・コワコフスキ)のMain Currents of Marxism (マルクス主義の主要な潮流)は邦訳書がないかぎりは、レーニン関係部分だけでもこの欄で邦訳してみたい。
 ただ-すでにネップに関連してこの著を参照してレーニン全集(大月書店)の一部を引用しているのだが-、L・コワコフスキはたんなる抽象的・理論的「哲学者」ではなく、モスクワでの留学経験、スターリン体制下でのポーランドでの実経験を踏まえて(マルクス等々だけでなく)レーニンやスターリンの諸文献を熟読しており、(かつこれが重要だが)ロシア・ソ連の歴史の基本的なところはきちんとした知識をもったうえで、叙述している。したがって、L・コワコフスキ著の一部の邦訳を試みるにしても、やはりロシア革命等々の歴史の基本的な理解が必要だ。
 二月革命、十月「革命」あるいは<一党支配の確立>について、すでにリチャード・パイプス著の概読はしている。
 しかし、邦訳を試みたかどうかはやはり<記憶>への定着度がかなり異なるので、あらためて、上の①の第二部・第10章からの試訳を、これから掲載してみよう。
 この著の第二部・第10章の節の区分・タイトルはつぎのとおり(但し、原著の詳細目次の中にタイトル名は出てきて、本文にはない。また、「節」の文字や「数字」もない。「緒言」は詳細目次にすらない)。
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 第二部/第10章・ボルシェヴィキの権力奪取への努力(Bid)。
 (緒言)
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 第2節・ドイツの助力によるレーニンの帰還。
 第3節・レーニンの革命戦術。
 第4節・1917年4月のボルシェヴィキ集団示威行動。
 第5節・臨時政府への社会主義党派の加入。
 第6節・権力闘争へのボルシェヴィキ資産とドイツの援助。
 第7節・6月のボルシェヴィキ街頭行動の中止。
 第8節・ケレンスキーの夏期攻撃。
 第9節・ボルシェヴィキの新たな攻撃の準備。
 第10節・蜂起の準備。
 第11節・7月3-5日の出来事。
 第12節・鎮圧された蜂起-レーニンの逃亡・ケレンスキーの独裁。
 注記は、本文の下部にある(*)や(+) はできるだけ訳し、後注(note)は原則として訳さない。
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 緒言
 1917年のロシアの革命について二つを語る-第一に二月で第二は十月-のが一般的だが、革命の名に値するのは、第一のものだけだ。
 1917年二月に、ロシアはつぎの意味で、本当の革命を経験した。まず、ツァーリスト(帝制)体制を打倒した社会不安は、刺激もされず予期もされずに自然発生的に起こり、つぎに、続いた臨時政府は、すみやかに国民全体に受容された。
 1917年十月は、いずれの点でも本当ではない。
 まず、臨時政府の打倒につながった事象は自然発生的に起こったのではなく、緊密に組織された陰謀集団によって計画され、実施された。
 つぎに、この陰謀家たちが民衆の過半を服従させるためには、三年間の国内戦争(内戦)と無差別のテロルが必要だった。
 十月は、古典的なクー・デタ(coup d'etat)だった。政府の統治権力は、民衆参加の外見でも帯びるという当時の民主主義的な慣行を無視して、民衆の関与なくして、少数集団によって奪取され、行使された。
 政治にではなくて戦争にむしろ適切な手段が、その革命的な行動には用いられた。//
 ボルシェヴィキのクー(権力転覆)は、二つの段階を経た。
 第一は4月から7月までの時期で、レーニンは、武装した実力が支える街頭示威行動によって、ペテログラードの権力を奪おうとした。
 二月の騒擾の態様にしたがって、この示威行動を段階的に拡大するのが、レーニンの意図だった。そうして、最初はソヴェトに、その後即時に彼の党へと権力を移行させる、大規模な暴乱へと持ち込もうとした。
 この戦略は、失敗に終わった。三回めの7月の行動は、ボルシェヴィキ党の破滅をほとんど生じさせた。
 ボルシェヴィキは8月までには、権力への衝動力を十分に回復した。しかしこのとき、彼らは別の戦略を用いた。
 レーニンは、フィンランドにいて警察の目から逃れていた。その間の責任者だったトロツキーは、街頭の集団示威行動を避けた。
 トロツキーはその代わりに、偽りのかつ非合法のソヴェト大会という前景の背後で、政権中枢を奪取する特殊な突撃兵団に依拠した、ボルシェヴィキのクーを準備していた。
 権力掌握は、名目上は、一時的にのみかつソヴェトのために実行された。しかし、実際は、永続的に、かつボルシェヴィキ党の利益のために、だった。//
 <〔原文一行あけ〕>
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党。
 レーニンは、ツューリヒにいて二月革命の勃発を知った。
 戦争の開始以来ずっと故国から切り離されて、レーニンは、スイスの社会主義的政界人たちに身を投じていた。そして、彼らに非寛容と論争好きというよそ者の精神を注入していた。
 レーニンの1916年から1917年の間の冬の日誌によると、熱狂的だが焦点が定まらない活動様式が分かる。小冊子を配ったり、対抗的なスイスの社会民主党に対して策略を試みたり、マルクスとエンゲルスを勉強したりしていた。//
 ロシアからのニュースは、数日遅れてスイスに届いた。
 レーニンはまず、ペテログラードの社会不安について、ほとんど一週間遅れて、3月2日/15日〔ロシア暦/新暦、以下同じ〕の<新ツューリヒ新聞(Neue Zuercher Zeitung)>の報道で知った。
 ベルリン発のその報道は、戦争の舞台からの二つの速報の間に挿入されていて、ロシアの首都で革命が勃発した、ドゥーマ〔もと帝制議会・下院〕は帝制下の大臣を逮捕して権力を握った、と伝えていた。//
 レーニンはすぐに、ロシアに帰らなければならないと決めた。
 1915年にスカンジナヴィアに移動することはまだ可能だったのにその『危険を冒す』ことをしなかったのを、今や激しく悔いた。(*)
 だが、どうやって帰るか ? 明確なただ一つは、スウェーデンを経てロシアに入ることだった。
 スウェーデンに行くには、フランス、イギリスまたはオランダという連合国の領域を通過するか、ドイツを縦断するかのどちらかだつた。
 レーニンはイネッサ・アーマンド(Inessa Armand)にほとんど任せて、英国の査証(visa)を得る機会を探してくれるよう頼んだ。だが彼は、英国は自分の敗北主義の綱領を知っているのでほとんど確実に発行を拒否するだろうと、これを得る見込みはまずないと考えた。
 レーニンはつぎに、偽の旅券(passport)でストックホルムへ旅行するという現実離れした計画を抱いた。
 スイスの彼の工作員、フュルステンベルク・ガネツキー(Fuerstenberg Ganetskii)に、使える旅券をもつ、かつレーニンと肉体的に似ているだけではなくて彼はスウェデン語を知らなかったので聾唖者でもある、スウェーデン人を見つけるよう頼んだ。
 こんな計画のどれも、首尾よくいく現実的な見込みは全くなかった。
 レーニンは結果として、パリにいるマルトフ(Martov)がある社会主義者の難民団体に3月6日/19日に提案した計画を利用した。それによると、ドイツ人とオーストリア人の捕虜と交換に、その領土を通ってスウェーデンへと縦断することをロシア人がドイツ政府にスイスの媒介者を通じて依頼する、ということだった。(5)//
 レーニンは、トロツキーの言葉によれば檻の中の野獣のごとく怒り狂っていたが、ロシアの政治状況の見通しを失ってはいなかった。
 ロシアの支持者たちが自分が舞台に登場するまで適切な政治路線を採用することに、彼の関心はあった。
 とくに懸念したのは、支持者たちがメンシェヴィキの『日和見主義』戦術やエスエル〔社会主義革命党〕の『ブルジョア』議会政府への支持を真似ようとしないかどうかだった。
 レーニンは、3月6日/19日にストックホルム経由でペテログラードにあてて送信した電報で、彼の基本方針をつぎのように概述した。//
 『我々の戦術-新政府の完全な不信任と不支持。
 とくに、ケレンスキーを疑う。
 プロレタリアートの武装だけが唯一の保障だ。
 ペテログラード(市の)ドゥーマ選挙の即時実施。
 <他諸政党との友好関係を持たない。>』//
 レーニンが支持者たちにこの指令を電報で伝えたとき、一週間しか仕事をしていない臨時政府には、政治的な基本的考え方を明らかにする機会はほとんどなかった。
 舞台から遠く離れたところにいて西側報道機関による二次的または三次的な情報に依存していたので、レーニンが新政府の意図や行動について知っているはずは決してなかった。
 『完全な不信任』とか支持しないという彼の主張は、したがって、新政府の政策によるものではありえなかった。
 そうではなく、新政府の権力を奪おうとするア・プリオリな(a priori、先験的な)決定を反映していた。
 ボルシェヴィキは他諸政党と協力しないとのレーニンの主張は、権力の空白をボルシェヴィキ党だけが排他的に奪い占めるという、充ち満ちた決心をしていることを意味した。
 上掲の簡潔な文書は、二月革命を知ってほんの僅か4日後に、レーニンがボルシェヴィキによるクー・デタを考えていたことを意味するだろう。
 また、『プロレタリアートの武装』の指示は、軍事暴動としてのクー(政権転覆)を想定していたことを示唆する。
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  (*) これはおそらく、1915年のレーニンとの会合の際になされたパルヴス(Parvus)の提案に関係している。
  (5) W. Hahlweg, Lenins Rueckkehr nach Russland 1917 (1957)〔レーニンのロシアへの帰還〕, p.15-16。
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 第1節②へとつづく。

1539/B・パステルナークとドクトル・ジバゴの「レーニン時代」。

 「だが、第一に、十月〔1917年〕以来に説かれている全般的な完成化(allgemeine Vervollkommnung)の理念は、ぼくを燃え立たせない。/
 第二に、全てが実現からほど遠いのに、その理念を語るだけでも、これほどたくさんの血の海(Stroemen von Blut)が代償として必要だった。目的は手段を正当化するって、ぼくには分からない。/
 第三に、これが肝心なことだが、人間の改造(Umgestaltung des Lebens)という言葉を聞かされると、ぼくは自分をどうも抑制できなくなって、絶望へと陥ってしまう。//
 人間の改造だって! こんなことは、なるほど多くのことを体験しているが、人間とは何かを実際にはまるで知ってはいない者たちだけが、考えることができる。人間の呼吸=精神(Geist)や人間の搏動=魂(Seele)を感じたことのない者たちだけが。/
 そういう者たちにとって、人間の存在というものは、彼らがまだ触って磨き上げていない、もっと加工が必要な、原材料の塊なのだ。/
 しかしね、人間は決して、かつて一度たりとも、材料や素材ではない。/
 きみが知りたいのなら、人間は永遠に自らを作り直している原理体だ。人間は、絶えず自らを更新しており、永遠に自らを形成し、変化させているのだ。それは、きみやぼくの愚かな考えなどを際限なく超越したところにある。//」
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 ボリス・パステルナークの小説・ドクトル・ジバゴで、パステルナークは、パルチザン(親ボルシェヴィキ=親レーニン政権)の捕虜となって医師として働いている主人公(ユリイ・ジバゴ)に、上のように語らせている。あるパルチザンのリーダーに対して、「人民軍兵士のあの態度」は、「…とほとんど全く同じ」で「ぼくの少年期全体の、あの尊き時代の憧れだった」、と語らせたあとでだ。
 Boris Pasternak, Doktor Shiwago (独語, Thomas Resche 訳, 2011/初版ロシア語1957) p.422.
 江川卓訳・ドクトル・ジバゴ/下巻(新潮文庫, 1989/原版・時事通信社1980)p.113-4も大いに参考にした。第11章(編)の第5節。/は原文には改行はない。//にはある。
 ボリス・パステルナーク(Boris Pasternak)、1890年~1960年。
 ずっと、シベリア・ウラルを含む意味でのロシアで生きて、死んだ。
 小説・ドクトル・ジバゴは第二次大戦後すみやかに書かれ始めたようで(1946年に第1章の「読書会」)、1956年(昭和31年)に完成した。
 1958年(昭和33年)にノーベル文学賞授賞が決定され発表されたが、ソヴィエト政府(フルシチョフ)によって受賞辞退を迫られた。
 この小説は1905年「革命」以前のユリイやラーラの生い立ちから始まっているが、とくに新潮文庫の下巻の時代背景は、大戦勃発、1917年10月政変と、それ以降の「内戦」、飢饉・飢餓だ。つまり、<レーニン時代>の物語だ。
 ただの<小説>にすぎないとはいえ、ソヴィエト政府がこの小説を国内では発表させず、ノーベル文学賞も辞退させて、その後はパステルナークを批判し続けたのは、よほど<ソヴィエト体制>には危険な内容が含まれていたからに他ならないだろう。
 答えは、まさに推測だが、レーニンとロシア10月「革命」を美化してこそ、スターリンを含むその後のソ連指導部の正当性をも肯定する(国民には肯定させる)ことのできる後継政権にとって、パステルナーク(Boris Pasternak)のとくにレーニン時代の「内戦」・飢餓の状況を描き方が(あまりにも真実に近すぎて)きわめて<危険>だったことにあるだろう。
 パステルナーク、1890~1960。レーニン、1870~1924。スターリン、1978-1953。
 ついでに、カール・コルシュ(Karl Korsch)、1886~1961。
 ロシアのとくに知識人、詩人・作家、あるいは経済力があったり国外に近縁者がいる人々だと、①意思による亡命もありえた。②意思によらざる国外追放もありえた。しかし、いずれでもなく、パステルナークは、レーニン・スターリン時代を生き延びた。
 対ドイツ「大祖国戦争」が勝利した際には、喜んだともされる。
 奇妙に ?「政治」の世界に入ってしまうと、粛清(暗殺すら)される危険がある。
 「共産主義」思想とその体制に完全に馴染んでいたわけではないが、パステルナークは、ロシアの大地とロシアの言葉を愛するナショナリストでもあったのだろう。
 この人が、戦後も含めてどのような思いでソヴェト体制下の日々を過ごしていたのだろうと、複雑な感慨が生じる。一人の人間としての宿命や悲しさや美しさを感じる。
 もうたぶん50年も経っているのだ! 映画・ドクトル・ジバゴを観てから。
 この小説は、小説だが、<レーニン時代>がどんなだったかを、詩人・作家が思い出して書いている、<レーニン時代>に関する貴重な史料でもあると思われる。
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 「さようなら。もう終わらなければいけない。
 ああ、ユーラ、ユーラ、私の愛する人、大切な夫、私の子どもの父親、どうしてこんなことになったの ?
 私たち、もう二度と、もう二度と、決して会うことがないのよ。
 あなた、こう書いたことの意味が分かる ? 理解できる ? 理解できる ?」
 ユリイの妻・トーニャの手紙から。 
 Boris Pasternak, Doktor Shiwago, p.521. 江川卓訳・上掲書p.252。
 パステルナークについて、以下を参照した。
 前木祥子・パステルナーク/人と思想(清水書院、1998)。

1536/「左翼」の君へ⑥ -L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 L・コワコフスキ=野村美紀子訳・悪魔との対話(筑摩書房、1986)の「訳者あとがき」に、以下はよる。
 ポーランド語原著は1965年刊行で、上の邦訳書は、1968年のドイツ語版の邦訳書。
 Leszek Kolakowski, Gespraech mit dem Teufel (1968).
 また、この欄で言及したL・コワコフスキ『責任と歴史』(勁草書房、1967)の原著は分からなかったが、同じく野村によると、内容は以下と一致するらしい。
 Leszek Kolakowski, Der Mensch ohne Alternative (1960).
 さらに野村美紀子によると(p.199)、1986年頃時点で、つぎの二つのL・コワコフスキの文章が日本語になっている。
 ①「『現代の共同社会』を築きあげるために」朝日ジャーナル1984年1月13日号。
 ②「全体主義の嘘の効用」『世紀末の診断』(みすず書房、1985)に所収。
 この②は、現在試訳しているものを含む、Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012)にも、(英語版で)収載されている。Totalitarianism and the Virtue of the Lie (1983).
 試訳・前回のつづき。My Correct View on Everything (1974).
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 君の、君(と私)を『マルクス主義の伝統』(制度に対立する、方法や遺産)の忠誠者の一人に範囲づけようという提案は、捉えどころがなくて曖昧のように思える。
 ただ『マルクス主義者』と呼ばれることが重要だと思っていないとすると-君は思っていないと言うだろう-、君がこれにこだわる意味が私にはよく分からない。
 私は『マルクス主義者』であることに少しも関心はないし、そのように呼ばれることにも少しも関心がない。
 確かに、人文科学で仕事をしている者の中には彼らのマルクスに対する負い目(debt)を認めようとしない者はほんの僅かしかいない。
 私は、その一人ではない。
 私は、マルクスがいなければ歴史に関する我々の思考は違っていただろうし、多くの点で今よりも悪くなっていただろうと、簡単に認める。
 こう言うのは、どうだってよいことだ。
 私はさらに、マルクス理論の多くの重要な教義は偽りである(false)か無意味(meaningless)だと考える。そうでなければ、極めて限定された意味でのみ本当(true)だ。
 労働価値説は、何らかの説明する力を全くもたない規範的な道具だ、と考える。
 マルクスの著作にある史的唯物論の有名な一般的定式のいずれも受け入れられず、この理論は、強く限定された意味でのみ有効だ、と考える。
 マルクスの階級意識の理論は偽りで、その予言の多くは誤り(erroneous)(これは私が感じる一般的叙述であることはその通りだが、この結論についてここできちんと議論しているのではない)だったことが証された。
 にもかかわらず私が(哲学的でなく)歴史的問題について、マルクス主義の伝説を部分的に承継している概念を使って思考していることを承認すれば、マルクス主義者の伝統への忠誠者であることを受け入れることになるのか ?
 『マルクス主義者』の代わりに『キリスト教信者』、『懐疑主義者』、『経験主義者』を使っても同じことが言えるだろうという、ただきわめて緩やかな意味でだ。
 いかなる政党やセクトにも、いかなる教会派やいかなる哲学学派にも属さないで、マルクス主義、キリスト教、懐疑主義哲学、経験主義思想に対する負い目があることを私は、否定しはしない。
 また、その他のいくつかの伝統にも負い目がある(もっと明瞭に言えば東ヨーロッパだ。君には関係がない)。
 折衷主義の反対物が(折衷主義とのレッテルを貼って我々を脅かす人の心のうちには通常あるような)哲学的または政治的偏狭さだとすると、『折衷主義』の恐怖も共有できない。
 こうした乏しい意味で、その他たくさんの中でマルクス主義者の伝統に属することを認める。
 しかし君は、もっと多くのことを意味させていそうだ。
 君は、マルクスの精神的後継者だと定義する『マルクス主義者一族(family)』の存在を示唆しているように見える。
 君は、あちこちでマルクス主義者だと自称している全ての者たちが、世界の残りとは区別されるような一族(この半世紀の間お互いに殺し合ってきているし今もそうであることは気にするな)を形成していると思っているのか ?
 また、この一族は君には(そして私にもそうあるべきらしいが)自己同一性の確認の場所だと思っているのか ?
 君が言いたいのがこういうことならば、その一族に加入するのを拒否すると言うことすらできない。そんなものは、この世界に存在しない。
 世界とは、偉大なヨハネ黙示録の天啓が二つの帝国の間の戦争を引き起こされる可能性がきっとあるような、もう一つの帝国とはともに完璧な具現物だと主張しているマルクス主義であるような、そんな世界だ。//
 <(原文、一行空白)>
 君の手紙には、私が持ち出すべきいくつかの問題がまだある。持ち出したいのは、その重要性ではなくて、君の議論の仕方が不愉快にもデマゴギー的だからだ。
 そのうち二つを取り上げよう。
 君は私の論文を引用して、私の考えは陳腐だと書いている。
 被搾取階級は精神的文化の発展に参加するのを許されなかった、とする部分だ。
 君は排除された労働者階級の報道官のごとく現れて、義憤に満ちたふうに私に、労働者階級は連帯感、忠誠心などを形成したと説く。
 言い換えると、私は、被搾取者が教育を受ける機会が与えられなかったことを称揚するのではなく嘆き悲しむべきだ、と言った、とする。そして君は、労働者階級には道徳心がないとの私の主張らしきものに嫌悪感を示す。
 これは誤読ではなく、私が議論するのを不可能にする、一種の、愚かな、こじつけた読み方(Hineinlesen)だ。
 そうして、新しい社会主義の論理または(もう一度言うが、私は自明のこと(trueism)だと思う)科学の観念は蒙昧主義者(obscurantist)だと烙印を捺したとき、君は、重要なのは論理を変えることではなく、マルクスは所有関係を変革したかったのだと説明する。
 マルクスは本当にそうしたかったのか ?
 よし、君は私の目を開いてくれた、という以外に、私は何を言えるか ?
 <新しい論理>や<新しい科学>の問題は<ブルジョアの論理>や<ブルジョアの科学>に対抗する論争点だったのではないと思っているとすれば、君は完全に間違っている(wrong)。
 そういう考え方は行き過ぎなのではなく、マルクス主義者-レーニン主義者-スターリン主義者〔マルキスト-レーニニスト-スターリニスト〕の間での標準的な思考と議論のやり方だ。
 そういう仕方は、多数のレーニンたち、トロツキーたちそしてロベスピエールたちによって、無傷に相続された。君はそれをアメリカやドイツの大学構内で見たはずだ。//
 第二点は、君が引用している、インタビューを受けた際に私が発した一文に対する君の論評だ。
 『宗教的表象(symbols)を通じる以上の十分な自己同一性の確認(self-identification)の方法はない』、『宗教意識は…人間の文化の不可欠の一部だ』と、私は言った。
 これに君は、激怒した。『何の権利があって(と君は言う)、どんな研究をその伝統と感性に関して行って、宗教的表象の魔術に頑迷に抵抗してきた…古いプロテスタントの島の中心部で、こんなことが普遍的だと決めかかってよいのか』。
 たくさん理由をつけて、釈明する。
 第一。私は古いプロテスタントの島の中心部で、ドイツの土地の上でではなく、ドイツの記者からのインタビューを受けた。
 第二。周知のことと過って思っていたためだが、君が明らかに考えたのとは逆に、『宗教的表象』は必ずしも絵画、塑像、ロザリオ等々であるとは限らない、と説明しなかった。
 人々が信じるものは何でも、超自然的なものと理解し合う方法を与えるし、またはそのエネルギーを運んでくるのだ。
 (イェズス・キリスト自身が表象で、十字架だけがそうなのではない。)
 私はこのような言葉遣いを発明したのではないが、インタビューの際に説明しなかったので、君の偶像破壊主義的なイギリスの伝統を不快にさせたわけだ。
 こうした言葉上の説明は、迷信的な超精霊主義者(Uitramontanist、超モンタノス主義者)によって傷ついた君のプロテスタント的良心をいくぶんかは宥めるか ?
 君はまた、このインタビューで宗教的現象の永続性への私の信条を証明しきれていないと非難する-それは全てに響く。
 私がこの主題でかつて書いた、私の考え方を支える本や論文の全てをこのインタビューの際に引用しなかったのは、まさに私の考えの至らなさだった。
 君には、これらのどの本でも読む義務はない(そのうち一つは800頁以上の厚さで、しかも17世紀の諸教派運動に関するものだから、退屈すぎて、君に読み通すのを求めるのは非人間的だろう)。
 少なくとも君には、この主題での私の考え方を批判しようと試みないかぎりでは、十分な根拠がない。
 したがって、君が憤激して『何の権利があって…』というのは、君に返礼するにはより適切な言葉であるようだ。//
 不運にも、君が書いたものには、私の責任に帰したい何らかの考えにもとづいて、主題を転移させ、私が言うべきだったと君が思う何かを私が言ったと君が信じようとする例が、満ち溢れている。
 きっと君は、教条的な共産主義者の思考方法につねに特徴的な独特の思考の論理に従って、無意識にそうしている。その思考方法には、真実として作動する推論とそうではない推論との違いが完全に消失している。
 だがね、AはBを包含するというのが真実(true)でも、誰かがAを信じているからといって、その人はBを信じているという結論にはならないだろう。
 むしろ正真正銘の本能からするようにこのことを意識的に否認するのは、共産主義者の出版物にはいつも許されている。そして、その読者につぎのように大雑把に作られる情報を与えるのだ。
 『米国の大統領は、平和を愛する全人類の抗議に逆らって、ベトナムで大量殺戮の戦争を継続する、と言った』。
 あるいは、『中国の指導者は、彼ら盲目的強行外交論者、反レーニン主義者の政策は、帝国主義を助けするるために社会主義者の陣地を破壊することを企図している、と明言する』。
 こうした不思議の国の論理には、首尾一貫性がある。そして、君の推論の中にそうした論理がこだまとなって鳴り響いているのが、少しは嫌だね。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑦につづく。

1535/「左翼」の君へ⑤-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 L・コワコフスキの名をタイトルに使うドイツ語版の書物に、とりあえずだが、以下の二つがある。
 ①Ossip K. Flechtheim, Von Marx bis Kolakowski -Sozialismus oder Untergang in der Barbarei ? (1978). <マルクスからコワコフスキまで-社会主義かそれとも野蛮な没落か ?>
 ②Bogdan Piwowarczyk, Leszek Kolakowski -Zeuge der Gegenwart (2000). <レシェク・コワコフスキ-現代の証人>
 後者の②によると(p.192)、L・コワコフスキは1978年に、当時の西ドイツの雑誌か新聞だと思われるが(Zeit-Gespraeche)、「マルクス主義は民衆のアヘン(das Opnium des Volkes )だ」と題する論考かインタビュー記事を載せている。これはマルクスの著名な、「宗教はアヘンだ(科学的な社会主義とは違う)」との言明を意識したものに違いない。
 この欄の4/21付・№1511に紹介した下斗米伸夫の言葉はこうだった。再掲。
 1980年代前半の「当時の日本では、少なくとも知的世界の中では、現代ソ連論は学問の対象というよりも、まだ政治的立場の表明のような扱いしか受けておらず、戦後や同時代のソ連について議論をするのはやや勇気の要ることでもあった」。/自分も「1970年代末にある論壇誌でチェコ介入についてのソ連外交論を書いたが、学界の重鎮から、それとなくお叱りを受けた」。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要な潮流』の刊行は1970年代の後半(1976、1978年)。なお、ドイツ語版は1977-79年に三巻に分けて刊行されているようだ。
 L・コワコフスキの1978年頃の言葉や書物と、その当時の日本の政治学界や私も実感していたはずの日本の「雰囲気」との間の、この懸隔の大きさを、2010年代、ロシア革命から100年後に日本で過ごしている秋月は、どう理解すればよいのだろうか。
 マルクス-レーニン-スターリン(-フランクフルト学派・毛沢東等)をきちんと「マルクス主義」の範疇で系統立てる、L・コワコフスキの『マルクス主義の主要な潮流』には、まだ日本語へ翻訳書すら存在していない。
 とりわけ、「レーニンとスターリン」を硬く結びつけていること、レーニンに何らかの「幻想」を全く示していないことが、日本の学者・研究者ないし学界や出版業者・諸メディアには<きわめて危険>なのだろうと推測される。
 試訳・前回のつづき。
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 では労働者については ? 二つの対立する見方がある。
 ある(偽のマルクーゼ派の)者は、こいつらはブルジョアジーから賄賂を受け取っていて、もう何も期待できない、と言う。
 今や学生が最も抑圧されていて、社会の最も革命的な階級だ。
 別の(レーニン主義者の)者は、労働者は虚偽の意識をもち、資本家が与える間違った新聞を読んでいるので彼らの疎外を理解できない、と言う。
 我々革命家たちだけが、頭に正しいプロレタリアートの意識を蓄え込んでいる。
 我々は労働者が考えるべきものを知っており、実際に、知らないままでも考えている。
 したがって、我々は権力を奪取する資格がある。
 (しかしこれは、科学的に証明されているように、まさに人民を欺くためにある馬鹿げた選挙遊びを通じてではない)。//
 革命的な笑談だと、不満を言っているだろう。
 そのとおり、革命的笑談だ。しかし、こう言うだけでは十分じゃない。
 これは社会を転覆できる笑談ではないが、大学を壊すことはできる。
 これは心配するに値する上演劇だ(いくつかのドイツの大学は、すでに政党の学校のように見える)。//
 私信でずっと前に議論した一般論的問題に戻ろう。
 まさしく私が『…だが、ベトナム戦争はあった』と書いて叙述した運動を、君は擁護する。
 じつに、そのとおりで、上品に行っている。だが、疑いなく、多くの違うこともある。
 伝統あるドイツの大学には、いくつかの我慢ならない特徴がある。
 イタリアやフランスの大学には、それらに固有の別の特徴がある。
 どの社会にも、どの大学にも、異議申し立てを正当化できるたくさんの物事がある。
 そして、これが私の言いたい重要な点だ。まともで十分に正当化できる不満が全くない世界には、いかなる政治運動も存在しない。
 権力を目指して相互に非難し合っている政党を見れば、彼らの主張や攻撃には十分に選ばれたかつ根拠のあるものがあることに、君はいつも気づくだろう、だがそれらの全てを理由あるものと受け取りはしない。
 誰も、すっかり間違ってはいない。共産党に加入する者はすっかり間違っている(wrong)のではない、と君が言うのは、もちろん正当(right)だ。
 ワイマール共和国でのナチの宣伝物をもう一度見れば、きわめて多数、十分に正当化できるものがあることに君は気づくだろう。
 ナチの宣伝はこう主張した。ベルサイユ条約は恥だ、そうだった。
 民主主義は腐敗している、そうだった。
 ナチは特権階級を、金権政治を、銀行家の政治を、付随的には、人々の現実の必要には関係がなく、汚いユダヤ人の新聞に役立つとして、偽りの自由を攻撃した。
 しかし、このことは、『よろしい、彼らはとても上品に振る舞ってはおらず、考えのいくつかは愚劣にすぎないけれど、彼らは多くの点で間違ってはいない。だから、条件つきで支持しよう』と言う、十分な根拠にはならない。
 少なくとも、多くの人がそう言うのを拒んだ。
 実際、ナチが既存の体制を攻撃したことに多くの長所がなかったなら、彼らは勝利しなかっただろうし、広げた旗を突撃隊(SA)の上に掲げて行進する<赤い戦線(Rotfront)>の党員たちのごとき現象は存在しなかっただろう。
 このことこそが、つぎのようにはできなかったことの理由だ。
 新左翼の運動は同じ行動様式を真似ており、同じ(例えば、全ての『形式的な』自由や全ての民主主義諸制度にかかわる点や寛容および学問上の価値に関する)イデオロギーの一部を真似ていると、私は思った。そう思ったときに、『だが、ベトナム戦争はあった』と観察することでは強く感銘をうけることはできなかった。//
 我々は彼らが見えるように蒙を啓くのを助けるべきだ、と君は言う。
 この助言を、僅かの限定をつけて、受け入れる。
 全能で全方向を見渡していると思っている人々について君が語る際に、これを適用するのはむつかしい。
 議論をする用意がある人との議論を拒んだことは、私にはない。
 困惑してしまうのは、議論する用意のない人が中にいることで、その理由は全く精確に、私には欠けている、彼らの全能性(omniscience)にあるのだった。
 本当に、私は20歳のときにほとんど完全に知識をもっていたが(omniscient)(まだ完全にではなかった)、君が知るように、みんな年を取るにつれて馬鹿になるものだ。
 28歳のときにはもっと全能ではなかったし、今やますますそうでない。
 完全な確実性や、世界の全ての厄災や惨害に対する即時の全地球的な解決方法を探している、そのような人々に満足してもらうことはできない。
 またさらに、その他の人々に接近して、カルバン派ではなくイェズス会派の体系にできる限りは従うべきだ、と私は考える。
 すなわち、誰も完全にはかつまた絶望的には堕落していない、誰もが、歪んでいようと乏しかろうと、いくつかは長所をもっていていくつかは善良な態度を示している、ということを我々は予め想定しておくべきだ。
 これはまたよく言われる、言うは行うよりも易しということだが、我々二人とも、このソクラテス的弁証法の完璧な理解者だとは私は思っていない。//
 <〔原文、初めての一行の空白〕>
 君の…との提案は…。
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 ⑥につづく。

1533/「左翼」の君へ④-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 レシェク・コワコフスキの書物で邦訳があるのは、すでに挙げた、小森潔=古田耕作訳・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)の他に、以下がある。
 繰り返しになるが、この人を最も有名にしたとされる、1200頁を優に超える大著、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978〔マルクス主義の主要な潮流〕) には邦訳書がない。
 L・コワコフスキ〔野村美紀子訳〕・悪魔との対話(筑摩書房、1986)。
 L・コワコフスキ〔沼野充義=芝田文乃訳〕・ライオニア国物語(国書刊行会、1995)。
 L・コワコフスキ〔藤田祐訳〕・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014)。
 また、レシェク・コラコフスキー「ソ連はどう確立されたか」1991.01(満63歳のとき)、もある。つぎに所収。
 和田春樹・下斗米伸夫・NHK取材班・社会主義の20世紀第4巻/ソ連(日本放送出版協会、1991.01)のp.250-p.266。
 試訳・前回のつづき。
 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything(1974、満47歳の年), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
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 実際のところ、反共産主義とは何だ。君は、表明できないか ?
 確かに、我々はこんなふうに信じる人々を知っている。
 共産主義の危険以外に、西側世界には深刻な問題はない。
 ここで生じている全ての社会的紛議は、共産主義者の陰謀だと説明できる。
 邪悪な共産主義の力さえ介入しなければ、この世は楽園だろうに。
 共産主義運動を弾圧するならば、最もおぞましい軍事独裁でも支持するに値する。
 君は、こんな意味では反共産主義者ではない。そうだろう ?
 私もだ。しかし、君が現実にあるソヴィエト(または中国)の体制は人間の心がかつて生み出した最も完璧な社会だと強く信じないと、あるいは、共産主義の歴史に関する純粋に学者の仕事のたった一つでも虚偽を含めないで書けば〔真実を書けば〕、君は反共産主義者だと称されるだろう。
 そして、これらの間には、きわめて多数の別の可能性がある。
 『反共』という言葉、この左翼の専門用語中のお化けが便利なのは、全てを同じ袋の中にきっちりと詰め込んで、言葉の意味を決して説明しないことだ。
 同じことは、『リベラル』という言葉にもいえる。
 誰が『リベラル』か ? 
 国家は労働者と使用者との間の『自由契約』に介入するのを止めるべきだと主張したおそらく19世紀の自由取引者は、労働組合はこの自由契約原理に反しているとは主張しないのだろうか ?
 君はこの意味では自分を『リベラル』ではないと思うか ?
 それは、君の信用にはとても大きい。
 しかし、書かれていない革命的辞典では、かりに一般論として君が隷従よりも自由が良いと思えば、君は『リベラル』だ。
 (私は社会主義国家で人民が享受している純粋で完全な自由のことを言っているのではなく、ブルジョアジーが労働者大衆を欺すために考案した惨めな形式的自由のことを意味させている)。
 そして、『リベラル』という言葉でもって、あれこれの物事を混合させてしまう仕事が容易にできる。
 そう。リベラルの幻想をきっぱり拒否すると、大きな声で宣言しよう。しかし、それで正確に何を言いたいかは、決して説明しないでおこう。//
 この進歩的な語彙へと進むべきか ?
 強調したい言葉が、もう一つだけあった。
 君は健全な意味では使わない。『ファシスト』または『ファシズム』だ。
 この言葉は、相当に広く適用できる、独創的な発見物だ。
 ときにファシストは私が同意できない人間だが、私の無知のせいで議論することができない。だから、蹴り倒してみたいほどだ。
 経験からすると、ファシストはつぎのような信条を抱くことに気づく(例示だよ)。
 1) 汚れる前に、自分を洗っておく。
 2) アメリカの出版の自由は一支配党による全出版物の所有よりも望ましい。
 3) 人々は共産主義者であれ反共産主義者であれ、見解を理由として投獄されるべきではない。
 4) 白と黒のいずれであれ人種の規準を大学入学に使うのは、奨められない。
 5) 誰に適用するのであれ、拷問は非難されるべきだ。
 (大まかに言えば、『ファシスト』は『リベラル』と同じだ。)
 ファシストは定義上は、たまたま共産主義国家の刑務所に入った人間だ。
 1968年のチェコスロヴァキアからの逃亡者は、ときどきドイツで、『ファシズムは通さない』とのプラカードを持っている、きわめて進歩的でかつ絶対に革命的な左翼と遭遇した。//
 そして君は、新左翼を戯画化して愉快がっていると、私を責める。
 こんな滑稽画はどうなるのだろうかと不思議だ。 
 もっと言うと、君が苛立つのは(でもこれは君のペンが燃え広げさせた数点の一つだ)、理解できる。
 ドイツのラジオ局がインタビューの際の、私の二ないし三の一般的な文章を君は引用する(のちにドイツ語から英訳されて雑誌<邂逅(Encounter)>で出版された)。
 その文章で私はアメリカやドイツで知った新左翼運動への嫌悪感を表明した。しかし、-これが重要だ-私が念頭に置いた運動を明言しなかった。
 私はそうではなく、曖昧に『ある人々』とか言ったのだ。
 私は君が仲間だった時期の1960-63年の<新左翼雑誌>をとくに除外しなかった、あるいは私の発言は暗黙のうちに君を含んでいさえした、ということをこの言葉は意味する。
 ここに君は引っ掛かった。
 私は1960-63年の<新左翼雑誌>をとくに除外することはしなかった。そして、率直に明らかにするが、ドイツの記者に話しているとき、その雑誌のことを心に浮かべることすらしなかった。
 『ある新左翼の者たち』等々と言うのは、例えば、『あるイギリスの学者は飲んだくれだ』と言うようなものだ。
 君はこんな(あまり利口でないのは認める)発言が、多くのイギリスの学者を攻撃することになると思うか ? もしもそうなら、いったいどの人を ?
 私には気楽なことに、新左翼に関してこんなことをたまたま公言しても、私の社会主義者の友人たちはどういうわけか、かりに明示的に除外されていなくとも含められているとは思わない。//
 しかし、もう遅らせることはできない。
 私はここに、1971年のドイツ・ラジオへのインタビー発言で左翼の反啓蒙主義について語っていたとき、エドワード・トムソン氏が関与していた1960-63年の<新左翼雑誌>については何も考えていなかった、と厳粛に宣言する。
 これで全てよろしいか ?//
 エドワード、君は正当だ。我々、東ヨーロッパ出身の者には、民主主義社会が直面する社会問題の重大性を低く見てしまう傾向がある。それを理由に非難されるかもしれない。
 しかし、我々の歴史のいかなる小さな事実をも正確に記憶しておくことができなかったり、粗野な方言で話していても、その代わりに、我々が東でいかにして解放されたのかを教えてくれる人々のことを、我々は真面目に考えている。そうしていないことを理由として非難されるいわれはない。
 我々は、人類の病気に対する厳格に科学的な解消法をもつとする人たちを真面目に受け取ることはできない。この解消法なるものは、この30年間に5月1日の祝祭日で聞いた、または政党の宣伝小冊子で読んだ数語の繰り返しで成り立っている。
 (私は進歩的急進派の態度について語っている。保守の側の東方問題に関する態度は異なっていて、簡単に要約すればこうだ。『これは我々の国にはおぞましいだろう。だが、この部族にはそれで十分だ』。)//
 私がポーランドを1968年末に去ったとき(少なくとも6年間はどの西側諸国にも行かなかった)、過激派学生運動、多様な左翼集団または政党についてはいくぶん曖昧な考えしか持っていなかった。
 見たり読んだりして、ほとんどの(全ての、ではない)場合は、痛ましさと胸がむかつくような感じを覚えた。
 デモ行進により粉々に割れたウィンドウをいくつか見ても、涙を零さなかった。
 あの年寄り、消費者資本主義は、生き延びるだろう。
 若者のむしろ自然な無知も、衝撃ではなかった。
 印象的だったのは、いかなる左翼運動からも以前には感じなかった種類の、精神的な頽廃だ。
 若者たちが大学を『再建』し、畏るべき野蛮な怪物的ファシストの抑圧から自分たちを解放しようとしているのを見た。
 多様な要求一覧表は、世界中の学園できわめて似たようなものだった。
 既得権益層(Establishment)のファシストの豚たちは、我々が革命を起こしている間に試験に合格するのを願っている。試験なしで我々全員にAの成績を与えさせよう。
 とても奇妙なことに、反ファシストの闘士が、ポスターを運んだりビラを配ったりまたは事務室を破壊したりしないで、数学、社会学、法律といった分野で成績表や資格証明書を得ようとしていた。
 ときには、彼らは望んだどおりにかち得た。
 既得権益あるファシストの豚たちは、試験なしで成績を与えた。
 もっとしばしば、重要でないとしていくつかの教育科目を揃って廃止する要求がなされた。例えば、外国語。(ファシストは、我々世界的革命活動家に言語を学習するという無駄な時間を費やさせたいのだ。なぜか ? 我々が世界革命を起こすのを妨害したいからだ。)
 ある所では、進歩的な哲学者たちがストライキに遭った。彼らの参考文献一覧には、チェ・ゲバラやマオ〔毛沢東〕のような重要で偉大な哲学者ではなく、プラトン、デカルトその他のブルジョア的愚劣者が載っていたからだ。
 別の所では、進歩的な数学者が、数学の社会的任務に関する課程を学部は組織すべきだ、そして、(これが重要だ)どの学生も望むときに何回でもこの課程に出席でき、各回のいずれも出席したと信用される、という提案を採用した。
 これが意味しているのは、正確には何もしなくても数学の学位(diploma)を誰でも得ることができる、ということだ。
 さらに別の所では、世界革命の聖なる殉教者が、反動的な学者紛いの者たちによってではなく、彼ら自身が選んだ他の学生によってのみ試験されるべきだ、と要求した。
 教授たちも(もちろん、学生たちによって)その政治観に従って任命されるべきだ、学生たちも同じ規準によって入学が認められるべきだ、とされた。
 合衆国の若干の事例では、被抑圧勤労大衆の前衛が、図書館(偽物の知識をもつ既得権益層には重要ではない)に火を放った。
 書く必要はないだろう。聞いているだろうように、カリフォルニアの大学キャンパス(campus)とナチの強制収容キャンプ(camp)での生活に違いは何もない。
 もちろん、全員がマルクス主義者だ。これが何を意味するかというと、マルクスまたはレーニンが書いた三つか四つの文、とくに『哲学者は様々に世界を解釈した。しかし、重要なのは、それを変革することだ』との文を知っている、ということだ。
 (マルクスがこの文で言いたかったことは、彼らには明白だ。すなわち、学んでも無意味だ。)//
 私はこの表を数頁分しか携帯できないが、十分だろう。
 やり方はつねに、同じ。偉大な社会主義革命は、何よりも、我々の政治的見解に見合った特権、地位および権力を我々に与え、知識や論理的能力といった反動的な学問上の価値を破壊することで成り立つ。
 (しかし、ファシストの豚たちは我々に、金、金、金をくれるべきだ。)// 
 では労働者については ? 二つの対立する見方がある。
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 ⑤につづく。

1524/L・コワコフスキの大著『マルクス主義-』1976年の構成①。

 日本人と日本社会は、マルクス主義・共産主義を「克服」しているだろうか。
 いや、とても。闘っていなければ克服する(勝利する)こともありえない。
 日本人と日本社会は、1917年-1991年のソヴェト・ロシアの勃興と解体から得た「教訓を忘れて」はいないだろうか。
 いや、とてもとても。そもそも学んでいなければ、その「教訓を忘れる」ことなどありえない。
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 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(Main Currents of Marxism)は1976年にパリでポーランド語版で発刊され、1978年にロンドンで英訳版が刊行された。
 これらは三巻本だったが、2008年に一冊にまとめたPaperback版がアメリカのNorton 社によって出版された。以下はこれによる。
 この一巻本は、索引の最終頁がp.1283で、緒言・目次類を加えると確実に1300頁を超える大著だ。
 前回に「反マルクス主義哲学者」と紹介したが、「反マルクス主義」程度では(日本はともかく)欧米では珍しくないだろう。正確には、<マルクス主義に関する研究を(も)した哲学者>で、「反マルクス主義」の立場はその一つの帰結にすぎない。
 L・コラコフスキーはマルクス主義の理論的・哲学的分析を、始まりから「破滅」まで時代的・歴史的に、「主要な」論者を対象にしつつ、かつマルクス主義者そのものとは通常は理解されていないようにも思えるフランス「左翼」からドイツ「フランクフルト学派」等々も含めて、詳しく行っているようだ。
 ポーランドを41歳に離れる(追放される、亡命する)までは「マルクス主義者」をいちおうは自称していたが、この本の時期にはそうではないと見られる。若いときのL・コラコフスキーを知って、たんなる<反スターリニスト>と理解して、期待( ?)してはいけない。
 共産主義者や容共「左翼」にとって<きわめて危険な>書物であることは、内容構成(目次)を概観しても、想像できる。
 二回に分けて紹介する。<レーニン主義>以降は、節名も記す。邦訳はもちろん、仮の訳。「部」は直訳では「巻」。
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第一部・創始者たち。
 第1章・弁証法の起源。
 第2章・ヘーゲル左派。
 第3章・初期段階のマルクス思想。
 第4章・ヘスとフォイエルバッハ。
 第5章・初期マルクスの政治・哲学著作。
 第6章・パリ草稿、疎外労働理論、若きエンゲルス。
 第7章・聖家族。
 第8章・ドイツ・イデオロギー。
 第9章・概括。
 第10章・マルクスの社会主義と比較した19世紀前半の社会主義観念。
 第11章・1847年以後のマルクス・エンゲルスの著作と闘争。
 第12章・非人間的世界としての資本主義、搾取の本質。
 第13章・資本主義の矛盾とその廃棄、分析と実践の統合。
 第14章・歴史発展の主導力。
 第15章・自然弁証法。
 第16章・概括および哲学的論評。
第二部・黄金時代。
 第1章・マルクス主義と第二インターナショナル。
 第2章・ドイツ正統派:カール・カウツキー。
 第3章・ローザ・ルクセンブルクと革命的左派。
 第4章・ベルンシュタインと修正主義。
 第5章・ジャン・ジョレス(Jean Jaures):神学救済論としてのマルクス主義。 
 第6章・ポール・ラファルグ(Paul Lafargue):快楽主義マルクス主義。
 第7章・ジョルジュ・ソレル(Georges Sorel):ヤンセン主義マルクス主義。
 第8章・アントニオ・ラブリオラ(A. Labriola):開かれた正統派の試み。
 第9章・ルートヴィク・クシィヴィツキ(Ludwik Krzywicki):社会学の理論としてのマルクス主義。
 第10章・カジミエシュ・ケレス=クラウス(Kazimierz Kelles-Krauz):ポーランドの正統派。
 第11章・スタニスラフ・ブルジョゾフスキー(Stanislaw Brzozowski):歴史主観主義としてのマルクス主義。
 第12章・オーストリア・マルクス主義、マルクス主義運動のカント主義者、倫理的社会主義。
 第13章・ロシア・マルクス主義の始まり。
 第14章・プレハーノフとマルクス主義文献の編纂。
 第15章・ボルシェヴィキ出現以前のロシア・マルクス主義。
 第16章・レーニン主義の発生。
  第1節・レーニン主義に関する論争。
  第2節・党と労働者運動、意識性と任意性。
  第3節・民族の問題。
  第4節・民主主義革命でのプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永久革命』。
 第17章・ボルシェヴィキ運動における哲学と政治。
  第1節・1905年革命時点での分派闘争。
  第2節・ロシアでの新しい知識人の動向。
  第3節・経験批判主義。
  第4節・ボグダーノフとロシア経験批判主義。
  第5節・プロレタリアートの哲学。
  第6節・『神の建設者』。
  第7節・レーニンの哲学への試み。
  第8節・レーニンと宗教。
  第9節・レーニンの弁証法ノート。
 第18章・レーニン主義の運命、国家の理論から国家のイデオロギーへ。
  第1節・ボルシェヴィキと戦争。
  第2節・1917年の革命。
  第3節・社会主義経済の開始。
  第4節・プロレタリアート独裁と党の独裁。
  第5節・帝国主義と革命の理論。
  第6節・社会主義とプロレタリアート独裁。
  第7節・独裁に関するトロツキー。
  第8節・全体主義イデオロギストとしてのレーニン。
  第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ。
  第10節・論争家としてのレーニン、レーニンの天才性。
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 以上。②につづく。

1520/ネップ期・1921年飢饉④-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・1921年の飢饉④。
 ARA〔アメリカ救済委員会〕は、活動が最も活発だった1922年の夏、一日に1100万の人々に食糧を与えた。
 他の外国の諸団体は、300万人ぶんを加えた。
 総体的にいうと、この期間にソヴィエト政府および外国の救済諸機関が輸入した食糧は、1億1500万~1億2000万pud、あるいは200万トンに達した。(200)
 このような活動の結果として、1922年夏の初めには、『飢餓による現実の死の報告は、事実上なくなった。』(201)
 ARAはまた、800万ドルに値する医薬品も供給した。これは、感染症を食い止めるのに役立った。
 さらに、1922年と1923年に穀物の種子も供給し、続けて二回分の豊かな収穫を可能にした。
 数百人のARAスタッフは、フーヴァーが作成した取り決めにしたがい、数千人のソヴィエト市民に助けられながら、食糧や医薬品の分配を監督した。
 共産党当局は干渉しないと合意していたが、ARAの活動はチェカおよびその後継機関であるゲペウ(GPU)によって近くで監視されていた。
 レーニンはARAには全体にスパイが潜入していると確信していて、モロトフに対して、ARAが雇った外国人に目を光らせ続ける委員会を組織するように命じた。また、『英語に習熟している最大多数の共産党員』を動員して、『フーヴァーの委員会に〔採用するよう〕紹介し、監視と情報収集の別の形態として使う』ことも命じた。(202)
 のちにARAが解散したあとで、諜報活動や誰も欲していない物品のロシアへの荷下ろしを含む行為の、きわめて邪悪な動機はARAの責任だと非難しようとした。(203)
 第二次大戦の後でもなお、おそらくはスターリンがマーシャル・プランによる援助を拒否したことを正当化するために、ARAが雇ったソヴィエト国民の何人かが、諜報活動に従事したという言明書に署名させられた。//
 飢えているソヴィエト市民に対する食糧供給という重要な責任をアメリカや他国の組織が引き受けるやいなや、モスクワはその資源を別の目的へと転用した。
 8月25日-フーヴァーとの協定書に署名があって3日後-に、リトヴィノフはモスクワに対して、つぎのように知らせた。すなわち、自分はイギリス団に2000万金ルーブルの価格で宝石を売却した、また、購入者は2000万ポンド(一億ドル)(204)-この金額はアメリカと欧州を併せての飢餓ロシア人への寄付額を上回る-を支払ってさらに宝石を買う用意がある、と。
 トロツキーは1921年10月早くに、厳格に秘密にしているドイツのソヴィエト工作員、ヴィクトール・コップに、1000万金ルーブル(500万ドル)でライフル銃と機関銃を買い付けるように命令した。(205)
 これらの事実は、この当時は知られていなかった。
 知られるようになり、アメリカの救済団体にきわめて大きな衝撃を与えた。このことは、まさにその当時に、ソヴェト政府は自らの国民への食糧供給を西側の慈善金に頼っていたことを証拠だてている。
 ソヴェト政府は、外国に売るために食糧品を使っていた。(206)
 モスクワは1922年の秋に、数百万トンの穀物類を輸出できるように保有していると発表した。-これは、来たる冬の間に800万のソヴィエト市民がなおも食糧の支援を必要としており、その半分だけを国内の穀物資源で対応できるという時期に、行なわれた。(207)
 ソヴェト当局は質問されて、工業用や農業用の機械類を購入するために金銭が必要なのだと説明した。
 この行為は、アメリカの救済関係職員を激怒させた。
 『ソヴェト政府は、外国の市場で食糧供給物の一部を販売しようと懸命に努力しているが、一方では、輸出物に代替させるために、世界中に食糧の寄付を懇願している。』(208)
 フーヴァーは、抗議した。『生存者の経済条件を改善すべく機械や原料を確保するために、飢えている人々から奪って食糧を輸出する、ソヴェト政府の政策の非人間性』、に対して。(209)
 しかし、飢饉の最悪期が過ぎてしまうと、モスクワは外国の声を聞くのを拒絶することができた。
 穀物類が輸出されていることが報告されるとロシア人救済のための追加資金を集めることは不可能になり、ARAは1923年6月に、ロシアでの活動を停止した。//
 1921年飢饉の死傷者数は、犠牲者たちの痕跡が維持されなかったために、確定するのはむつかしい。
 最大の損失は、サマラとシェラビンスク地方およびゲルマンとバスク(Bashkir)の各自治共和国で発生した。合わせての人口は、20.6%減少した。(210)
 社会的階層について言えば、最大の被害を受けたのは、農村地方の貧困者、とくに、乳牛(cow)を持っていなかった人々だった。それを保有していれば、多くの家族が死から逃れることができた。(211)
 年齢について言うと、最も多く死んだのは、その多くが飢えた両親によって捨てられた、子どもたちだった。
 1922年に、150万人以上の農民の子どもたちが孤児になり、物乞いをし、窃盗をしていた。
 乳幼児・孤児保護施設(besprizornye)での死亡率は、50%に達した。(212)
 ソヴィエト中央統計局は、1920年と1922年の間の人口減少を、510万人だと推算した。(213)
 ロシアの1921年飢饉は、戦争によるものを別にすれば、黒死病以来の、ヨーロッパ史上最大の人的大災害だった。//
 少なくとも900万人の人命を救ったと概算されているフーヴァーの博愛主義の活動がなければ、損失はさらに大きくなっていただろう。(214)
 ゴールキはフーヴァーあての手紙で、人類史上に類例のない活動だったとフーヴァーを称賛した。
 『貴方の助けは、最大級の賞賛に値する、無類の巨大な業績として歴史に残るでしょう。そして、貴方が死から救ってくれた数百万のロシア人の記憶のうちに、長くとどまり続けるでしょう。』(215)
 多くの政治家が、数百万の人々を死に至らしめたとして歴史上に重要な位置を占めている。
 ハーバート・フーヴァーは、大統領としての業績のゆえに悪評はあり、すぐにロシアで忘れられたが、数百万の人々を救った人物として、稀なる栄誉が与えられる。//
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  (200) フィッシャー, 飢饉, p.298n。
  (201) ハチンソン, in : Golder and Hutchinson, 推移, p.18。
  (202) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, ed. khr. 830、1921年8月23日付。
  (203) 例えば、レーニン, Sochineniia, XXVII, p.514 を見よ。
  (204) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, ed. khr. 837。
  (205) トロツキー選集(J. M. Meijer 編) Ⅱ, p,596-599。RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo, p.914。
  (206) フィッシャー, 飢饉, 第14章。
  (207) 同上, p.315, p.321。ニユーヨーク・タイムズ, 1922年10月16日付, p.4。
  (208) フィッシャー, 飢饉, p.321。
  (209) 同上, p.321-2。
  (210) V・E・デン, 経済地理路線〔? 露語〕, p.209。
  (211) EZh (Ekonomicheskaia zhizn'), No. 292 (1922年12月24日), p.5。ファイジズ,農民ロシア, p.271。
  (212) インゲルソル, 歴史的諸例, p.36。ペーター・シャイベルト, 権力にあるレーニン (1984), p.166。
  (213) デン, 上掲, p.210。
  (214) インゲルソル, 歴史的諸例, p.27。
  (215) H・ジョンソン, in : Strana i mir, No. 2-68 (1992), p.21、から引用。
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 第10章、終わり。

1518/ネップ期・1921年飢饉③-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・1921年の飢饉③。
 1921年の5月と6月、レーニンは国外から食糧を購入するように命じた。しかしそれは、彼の主な関心である都市住民に対して食を与えるためで、農民に対してではなかった。(186)
 飢饉はレーニンを当惑させたが、それは反対の政治的結果が生じる恐れが潜在的にせよあるかぎりにおいてだった。
 例えば、レーニンは1921年6月、飢えの結果として生じている『危険な状況』について語った。(187)
 そして彼は、すでに我々が見たように、正教教会に対する攻撃を開始する口実として飢餓を利用した。
 1921年7月に、ジェルジンスキーはチェカに、飢饉の被災地帯での反革命の脅威について警告し、苛酷な予防措置を取るように命じた。(188)
 収穫の減少についていかなる示唆をすることも、新聞には禁止された。7月初めにすら、農村地帯では全てがうまくいっているとの報道が続いた。
 ボルシェヴィキ指導者層は、飢饉とのいかなる明らかな連関に言及することも注意深く避けた。
 クレムリンの農民たち代表者であるカリーニンは、被災地域を訪れた唯一の人間だった。(189)
 飢饉が最悪点に達していた8月2日、レーニンは『世界のプロレタリアート』への訴えを発し、素っ気なく、『ロシアの若干の地方で、明らかに1891年の不運よりも僅かにだけ少ない飢餓が生じている』と記述した。(190)
 この時期にレーニンのが書いたものや語ったもののいずれにも、飢餓で死んでいく数百万人の彼の国民に対する同情の言葉は、何一つ見出すことができない。
 実際に、レーニンにとっては飢饉は、政治的には決して歓迎されざるものではなかった、ということが示唆されてきた。
 なぜならば、飢饉は農民たちを弱体化し、その結果として飢饉は『農民反乱のような類を全て一掃した』、そして食糧徴発の廃止によるよりももっと早くにすら村落を『平穏にした』のだから。(191)//
 クレムリンは7月にようやく、誰もが知っていること、国土が悲惨な飢饉に掴まえられていること、を承認しなければならなかった。
 しかし、クレムリンは直接にそうしたのではなく、したくはない告白をして私的な方途を通じた援助を求める口実にすることを選んだのだった。
 確実にレーニンの同意を得て、ゴールキは7月13日に、食糧と医薬品を求めて『敬愛する全ての人々へ』と題する訴えを発した。
 7月21日に政府は、市民団体指導者の要請にもとづいて飢餓救済のための自発的な民間人組織を形成することに同意した。
 全ロシア飢餓救済公共委員会(Vserossiiskii Obshchestvenny Komitet Pomoshchi Golodaiushchim、略称して Pomgol)と呼ばれたそれは、多様な政治組織に属する73人の委員をもち、その中にはマクシム・ゴールキ、パニナ伯爵夫人、ヴェラ・フィグナー、S・N・プロコポヴィッチとその妻、エカテリーナ・クスコワが、著名な農業学者、医師や作家などとともにいた。(192)
 この委員会は、類似の苦境にあった帝制政府を助けるために1891年に設立された飢饉救済特別委員会を、模したものだった。異なっていたのは、レーニンの指令にもとづいて、12人の有力な共産党員から成る『細胞(cell)』があったことだ。
 カーメネフが長として、アレクセイ・リュイコフが次長として働いた。
 このことは、共産主義ロシアで許可された初めての自立組織が、指定された狭い範囲の機能から逸脱しない、ということを確実にした。//
 7月23日、アメリカ合衆国商務長官のハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover〔共和党、のち1929-33年の大統領〕)が、ゴールキの訴えに反応した。
 フーヴァーは、アメリカ救済委員会(ARA)を設立して〔第一次大戦の〕戦後ヨーロッパに食糧と医薬品を供給する仕事に大成功していた。
 彼は確固たる反共産主義者だったが、政治は別に措いて、飢饉からの救済に精力的に没頭した。
 フーヴァーは、二つの条件を提示した。一つは、救済の指揮管理に責任をもつアメリカの組織には、共産党の人員からの干渉を受けることのない独立した活動が認められること。二つは、ソヴィエトの監獄に拘禁されているアメリカ市民を釈放すること。
 アメリカ人救済担当者は治外法権を享有するとのこの主張は、レーニンを激しく怒らせた。彼は、〔共産党中央委員会〕政治局に書いた。
 『アメリカの基点、フーヴァー、そして国際連盟は、珍しくひどい。
 『フーヴァーを懲らしめなければならない。
 <彼の顔を公衆の面前で引っぱたいて、全世界が>見るようにしなければならない。
 同じことは、国際連盟についても言える。』
 レーニンは私的にはフーヴァーを『生意気で嘘つきだ』と、アメリカ人を『欲得づくの傭兵だ』と描写した。(193)
 しかし、彼には実態としては選択の余地はなく、フーヴァーの条件を呑んだ。//
 ゴールキは7月25日、ソヴィエト政府に代わって、フーヴァーの申し出を受諾した。(194)
 ARAは8月21日にリガで、マクシム・リトヴィノフとともに、アメリカの援助に関する協定書に署名した。
 フーヴァーはまず、アメリカ議会からの1860万ドルを寄付し、それに民間人の寄付やソヴィエト政府が金塊を売って実現させた1130万ドルが追加された。
 その活動を終えるときまでに、ARAはロシアの救済のために6160万ドル(あるいは1億2320万金ルーブル)を使い果たした。(*)//
 協定書が結ばれたときに、レーニンは、ポムゴル(Pombgol〔全ロシア飢餓救済公共委員会〕)に関して小文を書いた。
 彼はこの組織を、敵である『帝国主義者』に助けを乞うたという汚名が生じるのを避けるために、仲介機関として利用した。
 この組織はこの目的に役立ったが、今やレーニンの怒りの矢面に立たなければならなかった。
 レーニンは8月26日、スターリンに対して政治局に以下のことを要求するように頼んだ。すなわち、ポムゴルを即時に解散させること、および『仕事に本気でないこと(unwillingness)』を尤もらしい理由としてポムゴルの幹部たちを投獄するか追放すること。
 彼はさらに、二ヶ月の間、一週間に少なくとも一度、その幹部たちを『百の方法で』、『嘲笑し』かつ『いじめて悩ませる』ように新聞に対して指示するように、命じた。(195)
 レーニンが要請して開催された政治局会議で、トロツキーはこれを支持して、ARAと交渉している間、アメリカ人は一度もこの委員会〔ポムゴル〕に言及しなかった、と指摘した。(196)
 その次の日、先陣のARA一行がロシアに到着し、ポムゴルの委員たちと一緒にカーメネフと会ったとき、ポムゴル全幹部の二人以外はチェカに拘束されて、ルビャンカに投獄された(ゴールキはあらかじめ警告されていたらしく、出席しなかった)。(197)
 彼らはそのあと、あらゆる形態の反革命の咎で新聞によって追及された。
 処刑されると広く予想されていたが、ナンセンが仲裁して、彼らを救った。
 彼らが監獄から釈放されたのち、何人かは国内に流刑となり、別の者は国外に追放された。(198)
 ポムゴルは、解体される前にもう一年の間、政府の一委員会として生き長らえた。(199)//
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  (186) レーニン, PSS, LII, p.184-5, p.290, p.441-2; LIII, p.105。
  (187) 同上, XLIII, p.350。
  (188) G. A. Belov, et al., ed, <略> (1958), p.443-4。
  (189) ペシブリッジ, 一歩後退, p.117。
  (190) レーニン, PSS, XLIV, p.75。
  (191) ペシブリッジ, 一歩後退, p.119。
  (192) イズベスチア, No. 159-1302 (1922年7月22日), p.2。エレ, in : 雑誌・ノート, XX, No. 2 (1979), p.131-172。フィッシャー, 飢饉, p.51。
  (193) レーニン, PSS, LIII, p.110-1, p.115。
  (194) フィッシャー, 飢饉, p.52-53。
  (*) H・H・フィッシャー, ソヴェト・ロシアの飢饉 (1927), p.553。
 ソヴィエトの金売却の収益は、もっぱら都市住民の食糧を購入するために使われたように思われる。
 外国人が飢饉のロシアへの食糧供給を助けたという最も古い事例は、1231-32年のノヴゴルード(Novgorod)であった。そのとき、飢餓のために人口が減っていた地域の人々を救ったのは、ドイツからの船便輸送による食糧だった。Novyi Entsikopedicheskii Slovar', XIV , 40-41。
  (195) レーニン, PSS, LIII (1965), p.141-2 で、初めて公表された。
  (196) B・M・ヴァイスマン, ハーバート・フーヴァーとソヴェト・ロシアの飢饉救済 (1974), p.76。
  (197) ミシェル・エレ, Pomoshch 入門 (1991), p.2。
  (198) ウンシュリフトのレーニンあて報告(1921年11月21日), in : RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1023。
  (199) ミシェル・エレ, in :雑誌・ノート, XX, No. 2 (1979), p.152-3。イズベスチア, No. 206/1645(1922年9月14日), p.4。
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 ④につづく。

1515/ネップ期・1921年飢饉①-R・パイプス別著8章10節。


 つぎの第10節にすすむ。第10節は、p.410~p.419。
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 第10節・1921年の飢饉①。
 ロシアは、その歴史を通して定期的に、厳しい収穫不足を経験してきた。革命のすぐ前の年には、1891~2年、1906年および1911年に、それがあった。
 農村共同体(muzhik)は長い体験を通じて、一年のまたは二回の不作にすら耐え抜けるように、充分な予備を蓄えて自然災害に対処することを学んだ。
 不作はふつうは、飢餓というよりも空腹を意味した。間欠的に飢饉が蔓延することはあったけれども。
 飢饉(famine)は、三年にわたって冷酷にも農作を秩序立って破壊し、ボルシェヴィキは、数百万の人々が死亡する飢饉について熟知することになった。(*)//
 飢饉の前には、1920年に初めて感知された干魃があった。
 ウクライナと北コーカサスはソヴェト支配を逃れていて、何とか予備穀物を大量に集めていた。これらの〔ボルシェヴィキによる〕再征服があったために、災害から一時的に目を逸らすことになった。
 1921年に政府が新しい現物税制度のもとで獲得した食糧の半分は、ウクライナから来ていた。(171)
 しかし、食糧集積機構は1920年にはウクライナとシベリアでまだ完全には設けられていなかったので、徴収の重い負担が依然として、消耗した中央部地方にのしかかった。(172)//
 1921年飢饉を引き起こした天候の要因は、1891-92年のそれに似ていた。
 1920年の降水は、異常に少なかった。
 冬には雪がほとんど降らず、降ってもすぐに融けてしまった。
 1921年春に、ヴォルガ地域の収穫は少なかったが、決定的に悪くはなかった。
 そして、灼熱の暑さと干魃がやってきて、草葉が焼かれ、土地にひび割れが入った。
 巨大な範囲の黒土の一帯は、砂塵の鉢に変わった。(173)
 昆虫〔いなご〕は、残った草木類のほとんどを食べた。//
 しかし、悲劇に対して、自然災害は寄与したにすぎない。それは、原因ではなかった。
 1921年の飢饉は、『< Neurozhai, ot Boga; golod, ot liudiei >、不作は神の思し召し、空腹は人間が原因』という農民たちの諺の正しさを確認した。
 干魃は、大災難を促進した。そしてそれは、遅かれ早かれボルシェヴィキの農業政策の結果として必然的に起こったものだった。
 この主題を研究した一学生は、政治的および経済的要因がなかったとすれば、干魃は大きな意味をもたなかっただろうと述べる。(174)
 ほとんど余剰などではなく、農民たちの生存に不可欠だった穀物の『余剰』を容赦なく収奪したことは、大厄災を確実なものにした。
 供給人民委員〔ほぼ供給大臣〕の言葉によると、1920年までは、農民たちは自分たちが食べ、種子を残すにぎりぎり十分な程度を収穫していた。
 もはや生存のための余裕は残っていなかった。かつては穀物現物の蓄えが、悪天候に対して農民たちを柔らかく守ってくれた。それが、なかった。//
 1921年の干魃は、ほぼ間違いなく、食糧生産地帯の半分を襲った。この地帯のうちの20%は、収穫が全くなかった。
 飢饉を被った地域の人口は1922年3月で、ロシアで2600万人、ウクライナで750万人、併せて3350万人だった。子どもたち700万人以上を含む。
 アメリカの専門家は、被害者のうち1000万人から1500万人は死亡するか、死ぬまで残る後遺症を肉体に受けた、と推算した。(**)
 最も悲惨だったのは、ふつうの年だと穀物類の主要な供給地であるヴォルガの黒い土の地帯だった。
 カザン、ウファ、オレンブルク、サマラの各地域は、1921年の収穫高は一人あたり5.5 Pud より少なかった。-これは、種子用に何も残さないとして、農民たちの生存に必要な量の半分だった。(+)
 ドンの低地一帯や南部ウクライナも、悲惨だった。
 国土の残りの地方のほとんどで、収穫高は5.5~11 pud で、地方の民衆人口が食べるのにぎりぎりだった。(175)
 ヨーロッパおよびアジアのロシアの、飢饉に遭った二十の食糧生産地方での生産高は、革命以前には毎年に穀物類2000万トンだったが、1920年には845万トンに減り、1921年には290万トンに減った。つまり、〔革命前に比べて〕85%も低くなった。(176)
 比較してみると、帝制時代に天候条件によって最悪の不作となった1892年には、収穫高は平年よりも13%低かった。(177)
 この違いは、大部分について、ボルシェヴィキの農業政策に起因しているはずだ。//
 大厄災がどの程度に人為的行為によっているかを、さらに、伝統的に最大の収穫高をもつ地帯で最小のそれになったという数字によっても、強く主張することができる。
 例えば、ヴォルガのゲルマン自治共和国はふつうは繁栄した緑地だが、最悪地域の一つになり、その人口の20%以上を失った。
 ここでは、1920-21年に、全穀物類収穫物の41.9%が、〔国家によって〕徴収された。(178)// 
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  (*) なぜソヴィエトの歴史家がこの主題に注意を向けることができなかったのかは、理解し難い。なぜ西側の学者がこれを無視してしまったのかは、もっとありそうでない。
 例えば、E・H・カーは、その三巻の<ロシア革命の歴史>で、この最も秘儀的な情報に関する叙述部分を残してはいるが、死者の推定数は信頼できないという尤もらしい理由で、大災害を一段落(a single paragraph)でもって簡単に片付けている(<ボルシェヴィキ革命>, Ⅱ, p.285)。
 同様の理由づけは、ネオ・ナチの歴史家により、ホロコーストを無視する根拠として使われてきた。
 これを〔私が〕執筆する時点では、1921年飢饉に関する研究書は一つも存在していない。
  (171) レーニン, PSS, XLIV, p.667.; LIII, p.391。
  (172) 同上, XLIII, p.13-14。
  (173) 革命的ロシア(RevR), No. 14/15 (1921), p.14-15。
  (174) L・ハチンソン, in : F. A. Golder =Lincoln Hutchinson, ロシア飢饉の推移について (1927), p.50。
  (**) イズベスチア, No. 60-1499 (1922年3月15日), p.2。ハチンソン, in : Golder =Hutchinson, 推移について, p.17。少し異なる数字は、次に示されている。Pomgol, Itogi bor'dy s golodom v 1921-22 gg (1922), p.460。子どもたちの数字は、次による。ロジャー・ペシブリッジ, 一歩後退二歩前進 (1990), p.105。
  (+) 地域ごとに数字はいくぶん変わるけれども、農民は毎年、生存維持の穀物として最低でも10 pud (163 kg)を必要とし、種子として残すために追加して2.5~5 pud (40-80 kg)が必要だった。RevR, No. 14/15 (1921), p.13。
 L・カーメネフは、1914年以前のロシアで、一人当たりの平均穀物消費は一年で16.5 pud (種子穀類を含む)だったと見積もっていた。RTsThIDNI, F. 5, op. 2, delo 9, list 2。
  (175) H・H・フィッシャー, ソヴェト・ロシアの飢饉 (1927), p.50。
  (176) ジーン・M・インゲルソル, 生態学的災害の歴史的諸例 (1965), p.20。
  (177) V. I. Pokrovskii, in : <略> (1897), p.202。
  (178) V. E. Den, <略> (1924), 209。ファイジズ, 農民ロシア, p.272。
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 ②へとつづく。

1513/ネップ期の「文化」-R・パイプス別著8章9節。

 つぎの第9節にすすむ。
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 第9節・ネップ下の文化生活。〔p.409~p.410.〕
 ネップのもとでのロシアの文化的生活は、表面的には、体制の初期にあった比較的に多様な姿を示し続けた。
 しかし、スターリン時代の愚かしい画一性へと進む途を歩んでいた。
 教理(doctrin)がいったん決定されると、文化(culture)は党に奉仕すべきものとされ、文化の役割は、共産主義社会を創出するのを助けることだとされた。
 また、出版や演劇に対する検閲や国家独占を通じて教理を実施する装置がいったん作り出されると、文化が政治の召使いになるのは時間の問題にすぎなかった。//
 意外なことだが、このような画一性への圧力は下から生じた。
 党の指導部は、むつかしい選択に直面した。
 彼らは文化を自分たちに奉仕させたかったが、同時に、銃砲や農機具の場合とは違って、芸術や文学は命令どおりには決して産出されえない性質のものだと知っていた。
 彼らはしたがって、妥協をした。すなわち、明確に反共産主義的なものは弾圧したが、〔共産主義との〕同伴者(fellow-travelers)的なものは大目に見た。
 トロツキーは、これについてつぎのように述べた。//
 『党が直接的かつ命令的に指導する領域がある。
 統御し、協働する別の領域もある。
 そして最後に、それに関する情報だけを確保し続ける領域がある。
 芸術は、党が命令を要請されない分野だ。…。しかし、党は、政治的な規準を用いて、有害で破壊的な芸術の諸傾向はきっぱりと否認しなければならない。』(161)//
 このような考え方は、実際には、国家機関が芸術や文学に介入はしないで監視し続けることを意味した。
 報道活動(ジャーナリズム)については、国家が介入する。
 高等教育については、国家が命令する。(162)
 そして実際に、製造業や取引での私的な主導性を許容するネップのもとで、体制側は文化に関しては、本来の厳格さをほとんど主張できなかった。(163)
 レーニンやブハーリンも、このような考え方を共有していた。//
 非共産主義文化に対するこのような寛容さは、自己流の『プロレタリア』作家からの烈しい攻撃に遭うことになった。(164)
 その名前すら忘れられている侵襲者たちには、自分たちの読者がなかった。国家出版局の長官によれば、『たった一人のプロレタリア作家への注文も』受けなかった。(165)
 彼らの残存は、国家の後援に、できれば独占的な性質のそれに、完全に依存していた。
 その後援を獲得するために彼らは、共産主義の旗に身を包んで、政治的に中立な文学を反革命的だと攻撃し、全ての文化が党の要求に奉仕すべきだと主張した。(166)
 彼らは、『文化の最前線』を自認する、教育を充分に受けていない党員たちの支持を獲得した。
 彼ら善良な党員たちは、創造的な知識人たちが、かつやつらだけが、党の統制から免れるという議論には我慢できなかった。(167)
 同伴者たちに寛容な有力な指導者だったトロツキーが1924年早くに不名誉なまま脱落したことは、彼らの教条的考え方の助けになった。//
 紛議を通じて、党は一定の見解を明確にしなければならないことになった。
 党は、いくぶん両義的なやり方で、これを行なった。1924年5月の第13回党大会は、つぎのように決議した。すなわち、いずれの文学上の派や『傾向』も、党の名をもって語る権利を有しないが、何らかの『文学上の批判の問題を調整する』ことがなされるべきである、と。(168)//
 これは、非政治的な文学のことが党大会決定の主題になった初めてのことだった。
 また、公式には文学の異なる『傾向、部門、集団』の間での中立を維持した最後のことだった。この中立性は、党の光を文学作品に当てて検査することとほとんど両立できなくなることが、いずれかのうちに分かってきた。(169)
 自然科学ですら、もはやイデオロギーによる検査や非難を免れなかった。
 共産党の出版物は、1922年までには、アインシュタイン(Einstein)や他の『理想主義的な』科学者を攻撃し始めた。(170)//
 
  (161) L・トロツキー, 文学と革命 (1924), p.165。
  (162) ペシブリッジ, 一歩後退, p.223。
  (163) E・H・カー, 一国社会主義, 1924-1926, Ⅱ (1960), p.78。
  (164) この論争について、同上, Ⅱ, p.76-78。
  (165) 1924年5月9日のN. Meshcherriakov, in : 〔略〕, p.120。
  (166) プラウダ, 第40号(1924年2月19日), p.6。
  (167) クリストファ・リード, 革命ロシアの文化と権力 (1990), p.203。
  (168) Trinadtsatyi S" ezd ロシア共産党(ボ) ,〔略〕(1963), p.653-4。
  (169) カー, 一国社会主義, Ⅱ, p.82-83。
  (170) ペシブリッジ, 一歩後退, p.213。
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 第9節、終わり。

1509/ネップ期の「見せしめ」裁判③-R・パイプス別著8章8節。

 前回のつづき。
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 第8節・エスエル「裁判」③。
 モスクワの聖職者たちに対する手続の結論が出て1月後、そして同様の訴訟がペテログラードの聖職者たちに開始される4日前、1922年6月6日に、裁判は開廷された。
 起訴状は、被告人たちを一般には反逆とテロルの行為とともにソヴェト国家に対する武装闘争をしたとして追及した。個別には、1918年8月のファニー・カプランによるレーニン暗殺企図とタンボフ反乱のいずれも組織したというのが起訴理由だった。
 かつてモスクワのクラブ・貴族だった舞踏場で行なわれた裁判を見るためには、ほとんど信頼できる党活動家にのみ発行された入場券が必要だった。
 観衆たちは政治劇が上演されているふうに行動し、訴追に拍手を浴びせ、被告人やその弁護人たちをやじった。
 外国人弁護団は最初に、つぎのような、いくつかの手続の特徴に抗議した。すなわち、裁判官全員が共産党員であること、弁護のための多くの目撃証人が証言を妨害されていること、法廷への入場が数名の被告人の友人以外には認められていないこと。
 裁判官は、あれこれの抗議を、ソヴェト法廷は『ブルジョア』的規則を遵守する義務はないという理由で、却下した。 
 裁判の八日め、死刑判決は下されないだろうというその約言をラデックが撤回したあとで、また、速記者をつける権利を含むその他の要求が却下されたあとで、4人の外国人弁護士が、『司法の下手な模造劇(parody)』への参加をやめると発表した。
 そのうちの一人はあとで、この裁判について『人間の生命をまるで雑貨物であるかのごとく取り扱っている』、と書いた。(152)//
 二週間後、手続はもっと醜悪な変化すら見せた。
 6月20日に、政府機関はモスクワの赤の広場で、大量の示威行進を組織した。
 群衆の真ん中で、主席裁判官が検察官と並んで行進した。群衆は、被告人たちへの死刑判決を要求した。
 ブハーリンは、群衆に熱弁を奮った。
 被告人はバルコニーの上に姿を見せて、罵声を浴びて、大群衆の脅かしに晒されることを強いられた。
 のちに、選ばれた『代表団』は法廷へと招き入れられて、『殺人者に死を!』と叫んだ。
 この嘲笑裁判で卑劣な役を演じたブハーリンは、リンチするかのごとき代表群団を『労働者の声』を明確に表現したものとして誉め称えた。このような嘲笑裁判は、16年のちに、もっと捏造された咎でブハーリン自身を非難して死刑を言い渡した裁判と、ほとんど異ならなかった。
 ソヴィエト映画界の有名人、ジガ・ヴェルトフが指揮したカメラは、このできごとを撮影した。(153)//
 エスエルたちは、公正な聴問に似たものを何も受けられなかったけれども、共産主義体制に関して遠慮なく批判する機会を得た-これが、ソヴィエトの政治裁判で可能だった最後ということになった。
 メンシェヴィキが被告人席に立つ順番になった1931年には、証言は注意深くあらかじめ練習させられ、文章の基本は検察側によってあらかじめ準備された。(154)//
 レーニンが予期されることを広汎に示唆していたので、8月7日に宣告された評決は、驚きではなかった。
 1922年3月の第11回党大会で、エスエルとメンシェヴィキの考え方を馬鹿にし、レーニンは、『これのゆえに、きみたちを壁に押しつけるのを許せ』と語った。(155)
 ウォルター・デュランティ(Walter Duranty)は、7月23日付の<ニューヨーク・タイムズ>で、訴訟は告発が『真実』であることを示した、被告人の大多数に対する非難は『確か』だった、『死刑判決のいくつかは執行されるだろう』、と報告した。(156)
 被告人たちは、刑法典第57条乃至第60条のもとで判決を受けた。
 そのうち14人は、死刑だった。しかし、検察側と協力した3人は、恩赦をうけた。(*)
 国家側の証人に転じた被告人たちもまた、赦免された。
 第一のグループの者たちは、いっさい自認しなかった。彼らは、裁判官が評決を読み始めたときに起立するのを拒否し、そのために(デュランティの言葉によると)『自分たちの告別式場から』追い出された。(157)//
 ベルリンでのラデックの早まった約言は裁判所に法的に有効でないとされ、恩赦を求めて正規に懇請するのをエスエルたちは拒んだけれども、裁判官たちは、処刑執行の延期を発表した。
 この驚くべき温情は、暗殺に対するレーニンの過敏な恐怖によっていた。
 トロツキーは、その回想録の中で、レーニンに対して訴訟手続を死刑へとは進めないようにと警告し、そうしないで妥協すべきだと示唆した、と書いている。
 『審判所による死刑判決は、避けられない!。
 しかし、それを執行してしまうことは、不可避的にテロルという報復へと波及することを意味する。…
 判決を執行するか否かを、この党〔エスエル〕がなおテロル闘争を続けるかどうかによって決するしか、選択の余地はない。
 換言すれば、この党〔エスエル〕の指導者たちを、人質として確保しなければならない。』(158)//
 トロツキーの賢い頭はこうして、新しい法的な機軸を生み出すに至った。
 まず、冒していない犯罪、かつまた嫌疑はかけられても決して法的には犯罪だと言えない行為について、一団の者たちに死刑の判決を下す。
 つぎに、別の者が将来に冒す可能性がある犯罪に対する人質として、彼らの生命を確保する。
 トロツキーによれば、レーニンは提案を『即座に、かつ安心して』受諾した。//
 裁判官たちは、つぎのことがあれば、死刑判決を受けた11名は死刑執行がされないと発表するように命じられていた。すなわち、『ソヴェト政府に対する、全ての地下のかつ陰謀的なテロル、諜報および反逆の行為を、社会主義革命党〔エスエル〕が現実に止める』こと。(159)
 死刑判決は、1924年1月に、五年の有期拘禁刑へと減刑された。
 このことを収監されている者たちは、死刑執行を待ってルビャンカ〔チェカ/ゲペウおよび監獄所在地〕で一年半を過ごしたのちに、初めて知った。//
 彼らはしかし、結局は処刑された。
 1930年代および1940年代、ソヴェト指導部〔スターリンら〕に対するテロルの危険性はもはや残っていなかったときに、エスエルたちは、計画的にすっかり殺害された。
 ただ二人だけの社会主義革命党活動家が、いずれも女性だったが、スターリン体制を生き延びた、と伝えられる。(160) 
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  (152) ヤンセン, 見せ物裁判, p.66。
  (153) ロジャー・ペシブリッジ(Roger Pethybridge), 一歩後退二歩前進 (1990), p.206。
  (154) メンシェヴィキ反革命組織裁判〔?、露語〕(1933)。
  (155) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.90。
  (156) NYT, 1922年7月27日付, p.19。
  (*) ブハーリンは、G・セーメノフに対しては温情判決を要請した。NYT, 1922年8月6日付, p.16。16年後のブハーリンに対する見せ物裁判では、ソヴェト指導層〔スターリンら〕に対するテロル企図でブハーリンを有罪にするために、セーメノフの名前が呼び起こされることになる。マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見せ物裁判 (1982), p.183。
 セーメノフは、ブハーリンとともに、スターリンの粛清によって死んだ。
  (157) 同上(NYT), 1922年8月10日付, p.40。
  (158) L・トロツキー, わが生涯, Ⅱ (1930), p.211-2。L・A・フォティエワ, レーニンの想い出 (1967), p.183-4 を参照。
  (159) NYT〔ニューヨーク・タイムズ〕, 1922年8月10日付, p.4。
  (160) ヤンセン, 見せ物裁判, p.178。 
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 第8節、終わり。

1507/ネップ期の「見せしめ」裁判②-R・パイプス別著8章8節。

 前回のつづき。
 田中充子・プラハを歩く(岩波新書、2001)p.210-2は、「まだレーニンが生きていたから」、ソ連に「いろいろな近代建築が生まれた」、「西欧的な教養を身につけたレーニンが死に」、「スターリンが独裁体制を敷いて自由主義的な風潮にストップをかけ」た、と何の根拠も示さずに書いていた〔2016年9/19、№1387参照〕。
 レーニンと「自由主義的な風潮」という、このような<像>を、田中充子はどこから仕入れたのか?
 田中充子の所属は、京都精華大学。この大学にかつて上野千鶴子も勤めていたことがあるので、わずか二人だけながら、この(おそらく)小規模の大学に好印象を持てなくてもやむをえないような気がする。
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 第8節・エスエル「裁判」②。〔第8節は、p.403-p.409.〕
 『右翼エスエル』と言われる党の指導者たちの裁判について、2月28日に発表があった。ソヴェト政府に反抗する暴力的かつ軍事的な活動を含む反革命行動を理由として、最高革命審判所による裁判にかけられる。(148)
 この発表は、社会主義革命党の多くの友人がいる西側の社会主義諸団体を動揺させた。
 後述するように(p.422)、偶々この頃、モスクワはヨーロッパの社会主義者との『統合前線』に関心をもっていた。
 ラデックは、彼ら社会主義者を宥めるために、1922年4月のベルリンでの社会主義者とコミンテルンとの合同会議で、被疑者は自由に弁護団を選べるし、重い刑罰が適用されることはないだろう、と述べた。
 レーニンはこの譲歩に対して烈しく怒り(『われわれは多く払いすぎた』は、この問題を書いた記事の見出しだった)、死刑にはならないだろうとの約束を破った。
 しかし彼は、その義務を果たすことはできないことを確実にしたうえで、エスエル被告人に外国人弁護団をつけることを許した。//
 登場人物の配役は、慎重に選ばれた。
 34人いた被疑者は、二つのグループに分けられた。
 24人は、真の悪玉だった。その中には、アブラハム・ゴッツやドミトリー・ドンスコイが率いたエスエル中央委員会の12名の委員がいた。
 第二のグループは、小物たちだった。その役割は、検察官に証拠を提出し、告白し、彼らの『犯罪』について後悔することだった。その代わりに、無罪放免というご褒美が与えられることになっていた。
 上演物の目的は、一群のエスエルの党員たちに対して、その党との関係を断ち切るように説得することだった。(149)//
 主任検察官の役は、ニコライ・クリュイレンコが指名された。この人物は、民衆を感銘させる手段として無実の者を処刑するのを好んだと記録されている。(150)
 エスエル裁判は彼に、1930年代のスターリンの見世物裁判で検察官を務めるための経験を与えたことになる。
 クリュイレンコは、ルナチャルスキーおよび歴史家のM・ポクロフスキーに補助された。
 裁判長は、共産党中央委員会の一員であるグリゴリー・ピャタコフだった。
 被告人は三チームの法律家たちによって弁護されたが、そのうち一つは外国から来た4人の社会主義者だった。その代表者、ベルギーのエミール・ヴァンダヴェルデは、第二イナターナショナル〔社会主義インター〕の事務局長で、ベルギーの前司法大臣だった。
 モスクワへの鉄道旅行中、外国人弁護士たちは敵意をもって取り扱われ、たまには集まった群衆の示威行為で脅かされた。
 モスクワでは、『労働者階級に対する裏切り者をやっつけろ!』と叫ぶ組織された大群衆に迎えられた。
 ジェルジンスキーは、爪にマニキュアを施して縁飾りのある靴を履くヴァンダヴェルデの習慣を公表して、彼の評価を落とす定期的な『運動〔キャンペーン〕』を開始するように、チェカの一員に指示した。(151)
 弁護団のもう一つのチームは、上演物の演出家によって任命された。その中には、ブハーリンとミハイル・トムスキーがおり、二人とも〔共産党中央委員会〕政治局のメンバーだった。
 この二人の役割は、味方である被告人の『道徳上の名誉回復』のために弁論することだった。//
 三ヶ月以上続いた予備審問の間に、クリュイレンコは多くの目撃証人を寄せ集めた。
 証人たちは、肉体的苦痛は与えられなかったが、さまざまな方法で協力するように、圧力が加えられた。
 エスエルの中央委員会メンバーたちは、従うのを拒否した。
 彼らの意図は、政府攻撃の公共空間として裁判を利用して、1870年代の政治犯たちを見習うことだった。
 手続の間じゅうずっと、彼らは、印象深い威厳をもって振る舞った。
 エスエルたちはつねに、知恵よりも強い勇気を示した。//
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  (148) レーニン, Sochineniia, XXVII, p. 537-8。
  (149) ヤンセン, 見せ物裁判, p.29。
  (150) リチャード・パイプス, ロシア革命 (1990), p.822〔第二部第17章「『赤色テロル』の公式開始」〕。
  (151) RTsKhIDNI 〔近現代史資料維持研究ロシアセンター(モスクワ)〕, F. 76, op. 3, delo 252。 ---
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 ③につづく。

1506/日本共産党の大ペテン・大ウソ34-<ネップ>期考察01。

○ 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)p.173-4はこう書く。
 レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。
 レーニンが「共産主義」への「直接移行」と観念していたことはそのとおりだろうが、しかし、「勘違いして位置づけ」た、という表現の中に、日本共産党(幹部会)委員長・志位和夫の人間的な感情は、認められない。
 この「勘違い」によって、のちに1921年秋にレーニン自身が「生の現実はわれわれが過っていたこと(mistake, Fehler)を示した」と明言した<失敗>によって、いかほどの人間が犠牲になったのか。
 ○ 志位和夫は<戦時共産主義>という言葉を使い、多くの歴史書もこの概念を使っている。
 おそらくは、スターリン時代におけるソ連・ロシアの公式的歴史叙述によって、レーニン時代をおおよそこの<戦時共産主義>時代と<ネップ=新経済政策>時代に分けるということが定着して、そのまま現在にまで続いているようにも思われる。
 最近にほんの少し触れたように、<戦時共産主義>という語は、志位が「この戦時の非常措置」と書いているように、<戦時>のやむをえない措置だったかのように誤解させる。
 また、<戦時>とはまるで第一次大戦とその後の勝利諸国による対ロシア<干渉戦争>を意味するかのように誤解されうる。
 日本共産党は、そのように理解したい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。
 しかし、ロシアが第一次大戦から離脱したのは1918年3月の「中央諸国(ドイツ等)」との間のブレスト・リトフスク条約によってだ。また、1918年~1919年に戦闘終結とベルサイユ講和条約締結があった。
 そこで、日本共産党によると、英仏らによる<干渉戦争>と闘った、と言いたい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。しかし、大戦終結と英仏らの対ドイツ等との講和まで、およびその後のほんの数年間、英仏らが新生?ロシアと「戦争」をすべき理由がいかほどあっただろうか。
 たしかに、ボルシェヴィキ「赤軍」に対する「白軍」への物的・資金的援助はあったのだろう。だが、今のところの知識によれば、戦争といっても、対ロシアについては、英国軍が北方のムルマンスクまで来たということと、日本がいわゆる<シベリア出兵>をしたといった程度で、いかほどに<干渉戦争>という「戦争」に値する戦闘があったのかは疑わしい。日本軍は地方軍または「独立共和国」軍と戦闘したのだろうが、モスクワ・中央政府とその軍にとっては「極東」の遠いことだったのではないかとの印象がある(それよりも<東部>での農民反乱等の方に緊迫感があったのではないか)。
 誰もが一致しているだろうように、<戦時共産主義>とは、ロシアの「内戦」という「戦時」のことをさしあたりは意味している。「内戦」とは civil war, Buergerkrieg で(直訳すると「市民(・国民)戦争」で)、まさに「戦争」の一種なのだ。ボルシェヴィキの政府と軍は、国民・民衆と戦争をしていた。
 しかしさらに、<内戦>中の「非常措置」(志位和夫)という理解の仕方すら、相当に政治的な色彩を帯びている、と考えられる。
 後掲のL・コワコフスキの1970年代の書物も、<戦時共産主義>という語はmislead する(誤解を招く、誤導する)ものだと述べている。
 ○ 既述のように、秋月の今のところの理解では、10月「革命」後のレーニン・共産党(ボルシェヴィキ)の経済政策は、マルクスの文献に従った、かつレーニンがそれに依って具体的に1917年半ばに『国家と革命』で教条化した<共産主義>そのものだった。当時の「非常措置」だったのではない。
 そうして、レーニン・共産党による<ネップ>導入は、じつはマルクス主義又は共産主義理論自体の「敗北」を示していた、と考えられる。たんなる暫定的な「退却(retreat)」ではない。
 レーニンが病床にあって、大いに苦悩したというのも不思議ではないだろう。
 ○ 文献実証的に( ?)、1919年半ばにレーニンは何と主張していたかを、日本共産党も推奨するに違いないレーニン全集第29巻(大月書店、1958/1990第31刷)から引用する。
 まず、<校外教育第一回ロシア大会-1919.05.6-19>。
 「マルクスを読んだものならだれでも」、「マルクスが、その全生涯と…の大部分を、まさに自由、平等、多数者の意思を嘲笑することに、…ささげたこと」、こうした嘲笑の対象となる「空文句の裏には、商品所有者が勤労大衆を抑圧するためにつかう、商品所有者の自由、資本の自由の利益があるということの証明」に「ささげたことを知っている」。
 「全世界で、あるいはたとえ一国においてでも、…時機に、また資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅するための被抑圧階級の闘争が前面に現れているような歴史的時機に」、「その自由のためにプロレタリアートの独裁に反対する」者は、「そういう人は、まさに搾取者をたすけるものにほかならない」。p.350。
 後掲のL・コワコフスキの著によると、「資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅する」こととは、英文では、<the complete overthrow of capital and the abolition of commodity production >だ。「commodity production 」の、goods ではない「commodity」=「商品」は、「必需物」・「有用物」という含意もある。
 ともあれ、レーニンはこのとき、マルクスによりつつ「資本」の完全打倒と「商品生産」の完全絶滅を正しいものとして、目標に掲げていた。
 つぎに、<工場委員会、労働組合、…での食糧事情と軍事情勢についての演説-1919.7.30>。
 食糧政策・問題について、「真の勤労大衆の代表者、…人々、彼らは、ここでの問題が、どんな妥協をもゆるさない、資本主義との最後の決戦であることを知っている」。
 「われわれは、ほんとうに資本主義とたたかっており、資本主義がわれわれにどのような譲歩を強いようとも、…やはり資本主義と搾取に反対してたたかいつづけるのだ、と言う」。コルチャコフやデニーキン〔ボルシェヴィキと闘う「白軍」等の指導者-秋月〕などの「彼らを元気づけている力、それは資本主義の力であるが、この力は、…、穀物や商品の自由な売買にもとづくものだ」。「穀物が国内で自由に販売されているなら、こうした事態がつまり資本主義を生み出す主要な源泉であって、この源泉がまた…共和国の破滅の原因であったということを、われわれは知っている。いま資本主義と自由な売買にたいする最後の決闘がおこなわれており、われわれにとってはいま資本主義と社会主義とのもっとも主要な戦闘がおこなわれている」。p.538-9。
 ここでレーニンは、明確に、「穀物や商品の自由な売買」に反対することこそ社会主義の資本主義に対する闘いだと、「最後の決闘」とまで表現して、無限定に、つまり例外を設けることなど全くなく一般的に語っている。
 これら二点等について、以下を参照した。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978、〔マルクス主義の主要な動向〕), p.741-3。
 ○ むろん引用し切れないが、上の二つともに、レーニンは長々と、得々と喋り、同僚又は支持者たちに向けて力強く(?)演説している。
 日本共産党・志位和夫が言うように、後になって「…と勘違いして位置づけ」た、で済ませることができるだろうか。
 <ネップ>とはつまり、部分的にせよ、「商品生産」を、「穀物や商品の自由な売買」を正面から認めることとなる政策だったのだ。
 こんなふうに<転換>が語られるとすれば、それまでの農業政策等によって辛苦を舐めた農民たち、犠牲者等はやり切れないだろう(しかも、新政策がすみやかに施行又は「現実化」されたわけでもない)。
 ネップ導入は政策表明上の、つまるところ、レーニンによる「敗北」宣言だった。
 では、ネップという新政策導入時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という基本方針を、レーニンは確立したのかどうか。
 ずいぶんと前この欄でに設定したこの問題については、まだ本格的には立ち入っていない。あせる必要はない。現今の<時局>・<時流>のテーマではない。

1505/ネップ期の「見せしめ」裁判①-R・パイプス別著8章8節。

 同じ章の、つぎの第8節へと進む。
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 第8節・エスエル「裁判」①。
 レーニンは闘いを生きがいとした。戦争が、彼の本当の生業(me'tier)だった。
 それを実践するには、敵が必要だった。
 レーニンは、二度、敗北した。
 一度め、国外に共産主義を伝搬させるのに失敗した。
 二度め、自国で社会主義経済を建設するのに失敗した。
 彼は今や、現実にはいない敵と闘うことに力を向けた。
 レーニンが抑圧対象として選んだのは、何らかの行為または意図による理由でではなく、革命秩序を拒否して存在していることだけが理由となる『有罪者』だった。//
 彼の激怒の主な犠牲者は、聖職者と社会主義者だった。//
 クロンシュタット、タンボフ、および党自体の内部からの民主主義分派の出現(後述、p.448-459〔第9章第3節・『労働者反対派』等〕を見よ)によってレーニンは、エスエル〔社会主義革命党〕とメンシェヴィキが彼の体制を打倒しようと経済危機を利用する工作をしている、と確信した。
 不満には正当な原因がある、ということをレーニンは自分に対してすら認められなかった。帝制時代の典型的な警察官にように、全ての無愛想の背後には敵の煽動の仕業があるのではないかと疑った。
 実際には、エスエルとメンシェヴィキはレーニンの独裁制に適応していて、帝制時代にしていたのと同じことをすることが許されていた。責任を帯びずして、静かに愚痴を述べたり、批判したりすることだ。
 彼らは、数千の単位で共産党の党員になった。
 エスエルの中央委員会は、1920年10月には、ボルシェヴィキに対する全ての武装抵抗を止めた。
 しかし、ボルシェヴィキの独特の推論の世界では、『主観的』に欲することと『客観的』にそうであることとは、完全に別のものだった。
 ジェルジンスキーは、逮捕されたある社会主義革命党員に言った。
 『おまえは、主観的には、われわれがもっと多かれと望んだだろう程度に革命的だ。しかし、客観的には、おまえは、反革命に奉仕している。』(*)
 別のチェキストのピョートルは、社会主義者がソヴェト政府に対して拳を振り上げるか否かは重要ではない、彼らは排除されなければらならない、と語った。(140)//
 エスエルとメンシェヴィキは白軍に対抗するモスクワを助けていたので、内戦が進行している間は、彼らは我慢してもらえた。
 内戦が終わった瞬間に、彼らへの迫害が始まった。
 監視と逮捕が1920年に開始され、1921年に強化された。
 チェカは1920年6月1日に、エスエル、メンシェヴィキ、そしてかなり十分にシオニスト、の扱い方を書いた通達をその機関に配布した。
 チェカ各機関は、『協同的組織と協力している労働組合、とくに印刷工のそれ、で仕事をしているメンシェヴィキの破壊活動に特別の注意を払う』ことを指令され、『メンシェヴィキではなく、ストライキの企図者や煽動者その他だと説明して罪状証拠となる資料を、粉骨砕身して収集する』ものとされた。
 シオニストに関しては、保安機関は支持者だと知られる者を記録し、監視の対象にし、集会を開くことを禁止し、違法な集会は解散させ、郵便物を読み、鉄道旅行をすることを許さない、そして『多様な口実を用いて徐々に、〔シオニストの〕住居区画を占拠し、軍隊やその他の組織の必要性でもってこれを正当化する』こととされた。(141)//
 しかし、社会主義者に対する嫌がらせや逮捕では、彼らの考え方が民衆間の重要な階層に訴える力をもつかぎりは、問題を解消できなかつた。
 レーニンは、社会主義者は反逆者だと示すことでその評価を貶め、同時に、自分の体制を左から批判するのは右からのそれと変わらず、いずれも反革命と同じことだと主張しなければならなかった。
 ジノヴィエフは、『現時点では、党の基本線に対する批判は、いわゆる<左翼>派のものでも、客観的に言えば、メンシェヴィキの批判だ。』と言った。(142)
 レーニンは、この点をよく理解させるために、ソヴェト・ロシアで最初の見世物裁判(show trial)を上演した。//
 犠牲者として選んだのは、メンシェヴィキではなく社会主義革命党〔エスエル〕だった。そのわけは、エスエルが農民層の間でほとんど一般的な支持を受けていたことだ。
 エスエル党員の逮捕はタンボフの反乱の間に始まっていて、1921年の半ばまでには、エスエル中央委員会メンバー全員を含めて数千人が、チェカの牢獄の中に座っていた。//
 そして1922年夏、嘲笑の裁判手続がやってきた。(143)
 エスエルを裁判にかけるという決定は、1921年12月28日に、ジェルジンスキーの勧告にもとづいて行なわれていた。(144)
 だが、チェカに証拠を捏造する時間を与えるために、実施が遅れた。
 元エスエルのテロリストで、チェカの情報提供者に変じたゼーメノフ・ヴァシレフが、1922年2月にベルリンで、一冊の本を出版した。(145) この本が、裁判の中心主題だった。
 あらゆる成功した瞞着がそうであるように、この本は、真実と虚偽とを混ぜ合わせていた。
 セーメノフは、1918年4月のファニー・カプラン(Fannie Kaplan)のレーニン暗殺計画に関与していた。そして、この事件について、興味深い詳細を記述していたが、それはエスエル指導部を誤って巻き込んだ。
 のちにセーメノフは、被告人と検察側のスター証人のいずれもとして、裁判に臨むことになる。//
 エスエル裁判について発表される一週間前の1922年2月20日に、レーニンは、司法人民委員〔司法大臣〕に対して政治犯罪や経済犯罪を処理するには手ぬるいとの不満を告げる怒りの手紙を、書き送った。
 メンシェヴィキやエスエルの弾圧は、革命審判所と人民法廷によって強化されるべきだ、とした。(**)
 レーニンは、『模範〔見せしめ〕となる、騒がしい、<教育的な>裁判』を欲した。そして、つぎのように書いた。//
 『モスクワ、ペテログラード、ハルコフその他の若干の主要都市での(早さと抑圧の活力をもって、法廷と新聞を通じてその意味を大衆に教育する)一連の <模範> 裁判の上演(postanovka)。/
 裁判所の活動を改善し、抑圧を強化するという意味で、党を通じての人民裁判官や革命審判所メンバーに対する圧力。
 -これら全てが、系統的に、執拗に、義務的だと斟酌されつつ、実行されなければならない。』(146)//
 トロツキーはレーニンの提案を支持し、〔党中央委員会〕政治局への手紙で、『磨き上げられた政治的産物(proizvedenie)』となる裁判を要求した。(147)
 聖職者については、裁判所よりも煽動宣伝〔アジプロ〕演劇場にもっと似たものが続いた。
 役者は厳選され、その役割は特定され、証拠は捏造され、有罪判決を正当化すべく暴力的雰囲気がふさわしく醸し出され、判決文はあらかじめ党機関によって決定されていた。そして、『大衆』は、路上の劇場にいるように夢中になった。
 正式手続の最大の要素は脇におかれ、被告人たちは、その行為を犯したとされるときには、かつ拘留されたときには犯罪ではない犯罪について、告訴された。なぜならば、被告人たちが裁判にかけられている根拠の法典は、その裁判のわずか一週間前に公布されていたのだ。//
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  (*) マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見世物裁判 (1982), p.19。この規準でいくと、もちろん1917-18年のレーニンは、『客観的』には、ドイツの工作員〔代理人〕だった。
  (140) M. I. Latsis, <略、露語> (1921), p.16-17。
  (141) 社会主義情報〔SV〕, No. 5 (1921), p.12-14。
  (142) Dvenadtsatyi S" ezd RKP (b) (1968), p.52。
  (143) 以下の資料は、大きく、マルク・ヤンセン, <見せ物裁判(Show Trial)>にもとづく。
  (144) V. I. レーニンとVChK (1987), p.518。
  (145) <略、露語>。
  (**) この文書は、レーニン全集の以前の版では削除されており、1964年に初めて以下で完全に出版された。すなわち、レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.396-400。
 レーニンは、『われわれの戦略を敵に暴露するのは馬鹿げている』という理由で、この内容に関するいかなる言及も禁止した(同上, p.399)。
  (146) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.396-7。
  (147) Jan M. Meijer 編, トロツキー論集, 1917-1922 (二巻もの), Ⅱ, p.708-9。
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 ②へとつづく。

1504/絶望は人を死に至らしめるか-例えば、レーニンの死。

 ○ 昨年2016年5月に一度、次の本の最後にある山内昌之「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」に言及した。
 D・ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(NHK出版、1995)。
 山内の文章をあらためて読むと、レーニンの死、あるいはその死因について、興味深い文章が並んでいる。
 長い引用は、避ける。つまるところ、精神(神経)と肉体の関係が語られている。
 例えば、心臓血管と大動脈の狭窄による「動脈硬化症だったと推定されている」が、「しかし、死を早めたのは」、レーニンがその「猛烈なストレスと過労に対して、身体に適応する準備ができていなかったことであろう」。p.381。
 これは、D・ヴォルコゴーノフの著の影響を受けての叙述なのかもしれない。
 ○ ロバート・サーヴィス(河合秀和訳)・レーニン/下(岩波、2002)はもちろんもっと長く、レーニンの死の問題を扱っている。
 そして、やはり「動脈の硬化」に原因を求める(p.256)。
 但し、レーニンの「名誉」を傷つけることとなるような死因ではないことも、強調している。
 この、岩波書店とR・サーヴィスという組み合わせの本に、他に以下がある。
 R・サーヴィス(中嶋毅訳)・ロシア革命/ヨーロッパ史入門(岩波、2005)
 これら二組の岩波+R・サーヴィスの本は、レーニンに対して「穏和」的、「宥恕」的であることに共通性がある。いずれまた、述べる。
 ○ マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇/上・下(草思社、1997)は、きわめて有益な本だと思われる。白須英子の和訳の上手さにも感心する。
 M・メイリア(Martin Malia)はリチャード・パイプスと同世代・同門で、パイプスとは異なると言いつつも(とくにロシア風土とレーニン・ボルシェヴィキとの関係)、ネップあたりの叙述は、基本的なところで、R・パイプスとよく似ている。
 シェイラ・フィツパトリック(Seila Fitzpatrick)とともに(R・サーヴィスとは違い)、反共産主義の意識が強いように見える。
 そのメイリアの<ネップ>に関する総括的叙述も知的刺激を十分に生じさせるもので、邦訳書が刊行されていなければ、手元にある原著を見ながら日本語に訳出してみたいほどだ。
 Martin Malia, The Soviet Tragedy, A History of Socialism in Russia, 1897-1991 (1994)
 邦訳書だと二巻ものになるが、1991年までを対象としつも、原著はR・パイプスの1930年頃までに関する二著の合計にはるかに及ばない。それでも、大判の一冊で、全てを含めて600頁ほどにはなる。
 すでに得ている知識によっても、レーニンは1921年の半ばあたりから体調不調を訴え始めており(1921年3月が第10回党大会)、翌1922年に最初の発作があって半年ほどモスクから離れてかつ戻ったのちに再度の発作、病床にいて<レーニンの遺書>の「物語」の材料を、または「最後の闘い」(日本共産党・不破哲三ら)の痕跡を残しつつ1924年1月に死ぬ。
 上記・メイリアの邦訳書に戻る。上巻のp.267あたりにこうある。
 「病床のレーニンは…こうした危機に絶えず怒りを感じていた。/
 なぜならば、彼は心のなかで、メンシェヴィキが正しかったのかもしれないと懐疑的になっていたにちがいないからである。/」
 レーニンの「肉体的な衰え」は暗殺未遂事件の際の二発の銃弾や「かんばしくない心臓病の遺伝」でもなく、
 「革命家としての失望が『体細胞に作用した』からだと推論する人がいてもおかしくない
」。
 秋月は医学あるいは精神医学の専門家でもちろんないが、精神(神経)と肉体が厳密なところでは分けられないようであることは知っている。
 レーニンについての「動脈硬化」の原因に種々のストレスがあるとすれば、そのストレスの原因に、つぎのこともあるのではなかろうか。
 すなわち、<内戦>をいちおう乗り切った後のロシアの(とくにその経済、そして農業の)疲弊ぶりに直面し、クロンシュタットの水兵暴乱は何とか「鎮圧」したが農民反乱がなお続き、1921年中には<飢饉>も発生しているという現実を意識しての、1917年10月の「革命」は何だったのか、自分は正しく共産党を指導してきたのか、このままで果たして<社会主義>が実現できるのか、という不安や失望・絶望。
 1921年10月の「革命」4周年演説で、<戦時共産主義>とのちに称される基本政策が失敗だったことを、レーニンは自ら認めていた。(*ちなみに、これは<戦時>のゆえではなく、政権奪取後の<共産主義という観念・教条の機械的適用>に、つまりは私的所有否定・国有財産化といった<共産主義>自体に、現実に対応できない、かつ人間の本性を無視した、理論・観念としての過ちがあった、というのが秋月の今の理解だ。)
 では、これからは、どうすればよいのか。1922-23年の段階で、「ネップマン」に見られるような<私的取引の自由>や<市場経済>の限定された復活はあったが、はたして、社会主義・共産主義へと「正しく」進めるのか? 自分の後継者はどうなるのか?
 レーニンに不安や失望・絶望感が襲っても、やむをえないような状況に「客観的には」あっただろう。
 したがって、「動脈硬化」が死因でよいが、強い失望・絶望もまた、死に至らしめた原因だったように思える。
 ○ 他にも例証は挙げられ得るだろう。例えば、戦地での恐怖と絶望、強制収容所での不安と絶望。これらは場合によっては人を自殺へと追い込むことがあるだろう。しかしまた、人の健康・肉体を精神的に(神経を通じて)確実に傷つけるに違いない。勿論、繰り返せば、失望・絶望は、自殺の直接の原因になりうる。
 もとに戻れば、レーニンという人間一人の死は、原因が何であれ、些細なものであるかもしれない。
 だがしかし、レーニンによって指導された党による権力奪取とその後の一党支配・独裁下で、さらにはそれを継承したスターリン体制のもとで、残虐に殺されていった、とりわけロシア・ソ連の多数の人々はいったいどうなるのだ。
 彼らは何のために人として生まれ、死んでいったのか。
 R・パイプスの著の表紙近くの「献辞」は、<犠牲者たちに捧げる>。
 日本人は、決して<共産主義>という過ちを犯してはいけない。

1503/ネップ期の政治的抑圧③-R・パイプス別著8章7節。

 前回のつづき。
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 第7節・政治的かつ法的抑圧の増大③。
 1920年代の法実務について論じた共産主義法史学者は、法とは『ソヴェト国家の強化と社会主義経済の発展を助ける統制原理だ』と定義した。(*)
 この定義では、国家当局の判断で国家に有害だ又は新経済秩序を阻害するとされるいかなる個人や集団に対する抑圧も、正当化されてしまう。
 かくして、1928-31年にスターリンが行なった『富農(kulaks)』の絶滅は、つまり数百万の農民が土地を奪われて多くは死の強制収容所へと強制移住させられたのは、レーニン主義法学者の使う専門用語の範囲内で、厳格に実施されたことになった。(134)
 ソヴィエトの最初の民法典第1条の定めでは、国民の私法上の権利は、諸権利が『社会経済の目的と矛盾』しない範囲で法によって保護される(naznachenie)。(135)//
 レーニンは、履行すべき新しい仕事について予め理解しやすくしようと、慣習上の法廷手続をなくした。
 いくつかの工夫が、新たに導入された。
 犯罪か否かは形式的な規準(法を侵犯するか否か)によってではなく、感知できる潜在的な影響力、つまり『実質的』または『社会学的』規準によって決定される。この規準によれば、犯罪とは、『ソヴェト体制の基礎を脅かす、社会にとって危険な全ての作為または不作為』だと定義された。(136)
 したがって、『意図』を立証することによって有罪になりえた。制裁を科す対象は、『主観的な犯罪企図』にあった。(**)
 1923年の刑法典第57条の追加条項は、国家機関が同意しない全ての行為を包含するように広く、『反革命』活動を定義した。
 その条項は、統治機構の破壊や弱体化、あるいは『世界のブルジョアジー』への助力を明確に目的とする行為に追加して、つぎのような行為もまた『反革命』だと性質づけた。
 『目標の達成を直接には意図していないが、にもかかわらず、当該行為の実行人物に関するかぎりでは、プロレタリア国家の根本的な政治的経済的征圧物に対する意識的な攻撃(pokushenie)を再示〔represent〕する行為』。(137)
 このように定義すれば、例えば、儲けようとの願望も、反革命的だと解釈でき、重い制裁に値しうることになる。
 K・V・クリュイレンコは、この第57条の修正について、制裁手段のかかる『柔軟性』は、『隠された形態の反革命活動』、その最も一般的な形態を処理するためには必要だ、と注釈した。(138)
 『類推』という原理によって、直接に定義されていないが類似の性質をもつ犯罪についても国民を訴追することが可能になった(刑法典第10条)。(+)。
 このような規準は、際限なく融通がきくものだった。
 党の法思想をその論理的帰結まで押し上げた共産主義法律家のA・N・トライニンは、1929年、スターリンのテロルが進行する前に、『犯罪が存在しない場合でも刑事上の抑圧が適用される例』はある、と論じた。(139)
 法と法手続の破壊へと、これ以上進むことはほとんどできないところに到達した。//
 このような原理の上で演じられる舞台である裁判の目的は、犯罪の存在または不存在を主張し合うことではなく-これは関係党機関によって予め決定されていた-、政治的煽動や情報宣伝の新しい公共空間を、一般国民の教育のために提供することだった。
 党員である必要のあった弁護人は、被告人の有罪を当然視しておくことが要求され、情状酌量を弁論するだけに限定された。
 レーニンが生きている間は、別の被告人に対する偽証によって生じる気の毒に思う感情は無罪放免を勝ち取らせそうだったし、少なくとも、減刑判決につながった。
 その後は、そのような行動では満足させないことになる。//
 法に関するこのような衝撃的事実の第一の犠牲者は、もちろん、その運命が政治的なかつ情報宣伝の考慮でもって決せられる被告人だった。
 しかし、社会全体も高い対価を支払った。
 ロシアの大衆はつねに司法を低く評価していた。大衆がその態度を克服するように、1864年の裁判所改革は徐々に学ばせてきていた。
 しかし今や、この教訓は一瞬のうちに学ばれていないことになった。
 ボルシェヴィキの実務が確認した司法とは、強者を愉しませるものだった。
 そして、法への敬意は社会の適切な作動にとって基本的なことであるのにもかかわらず、レーニンが定式化した無法性(lawlessness)は、言葉の最も完全な意味において、反社会的なものだった。//
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  (*) Sorek let ソヴィエト法, Ⅰ (1957), p.72。このような考え方は、用語ではなく精神的には帝制時代の伝統を継承している。革命前の主要な憲法学者によれば、ロシアでは法の機能は正義の確保というよりも公的秩序の維持にあった。N・M・コルクニノフ, ソヴィエトの現行法, Ⅰ (1909), p.215-222。
  (134) Sorek let ソヴィエト法, Ⅰ (1957), p.74-75。
  (135) ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦の民法典 (1923)〔露語〕, P.5。ハロルド・ベルマン, ロシアでの正義 (1950), p.27。
  (136) ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦の刑法典, 第2版 (1922)〔露語〕, 第6章, p.3。
  (**) ルドルフ・シュレジンガー, ソヴィエトの法理論 (1945), p.76。ここでも、ロシアの先哲者は継承されている。1649年の(刑事)法典によると、国家反逆罪が問題になっている事件では、意図と行為は明確には区別できない。リチャード・パイプス, 旧体制下のロシア (1974), p.109。
  (137) SUiR, No. 48 (1923年7月25日), 布令第479号p.877。
  (138) A・N・トライニン, 刑法-ロシア社会主義連邦 (1925), p.30n。
  (+) この原理は、つぎのように適用される。『(第57条と第74条は)反革命罪および国家行政制度に対する犯罪を一般的に定義している。この第57条と74条にもとづいて、かりに国家反逆罪の一般的概念に含まれる行為がなされたが<具体的に(specifically)>予知されていないとき、…最も適切な同じ章の条項を適用することは許されうる。』
 A・N・トライニン, 刑法-ロシア社会主義連邦 : Chast' Osobennaia (1925), p.7。
  (139) A・N・トライニン, 刑法: Chast' Osobennaia (1929), p.260-1。
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 第7節・終わり。

1501/ネップ期の政治的抑圧②-R・パイプス別著8章7節。

 前回のつづき。
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 第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大②。
 ゲペウ(GPU)は表面的には、チェカほどの専横的権力をもたなかった。
 しかし、現実は違った。
 レーニンとその同僚は、問題は民衆によって引き起こされるが、その災いを作った者を除去すれば問題は解決できる、と考えた。
 ゲペウを設立して一ヶ月も経たない1922年3月に、レーニンはピョートルにつぎのように助言した。ゲペウは『賄賂と闘うことができるし、しなければならない』、反対者を攻撃するその他の経済犯罪も同じだ。
 これを実施するための命令が、政治局を通じて司法人民委員部に送付するこことされた。(121)
 8月10日の布令は、『反革命活動』で告発された国民を、外国かロシアの指定した地方に、三年間まで行政的手続で追放する権限を、内務人民委員部に認めた。(122)
 11月に発せられたこの布令の付属書は、『集団強盗』を相当と判断する程度に処理すること、そして、法的手続によることなく『銃殺で処刑することまで』をゲペウに許した。これはさらに、強制労働を伴う追放〔流刑〕と結びついて強力になった。(123)
 ゲペウの司法上の特権は、1923年1月にさらに増大した。特定の地域(かつロシア共和国の境界内部)に住んでいる者がその活動、その過去あるいは犯罪者集団とのその関係からして革命秩序の警護という観点から危険だと見える(appear)場合には、その者を追放する権限が与えられた。(124)
 帝制時代のように、被追放者は護送車で監護されて、部分的には徒歩によって、苛酷な条件のもとで目的地に到達した。
 追放刑は、理屈上は、ゲペウの勧告にもとづいて内部人民委員部により科された。しかし実際には、ゲペウの勧告は判決文に等しかった。
 1922年10月16日には、ゲペウは審問をすることなく、武力強奪や集団強盗の嫌疑があって現行犯逮捕された者たちを処刑〔殺害〕する権限まで認められた。(125)
 かくして、『革命的合法性』の機関として設立されてから一年以内に、ゲペウは、全ソヴィエト国民の生活を覆うチェカの専制的権力を再び獲得した。//
 ゲペウ・オゲペウは、複雑な構造を進化させ、厳密には政治警察の範囲内にあるとは言えない、経済犯罪や軍隊での反国家煽動のような事件にも権限をもつ、特殊な部署をもった。
 その人員は1921年12月の14万3000人から1922年5月の10万5000人へと減らされたが (126)、それでもなお、強力な組織であり続けた。
 というのは、民間人協力者に加えて、軍隊の形態でのかなりの軍事力を利用したからだ。その数は、1921年遅くには、5万人の国境警備別団を別として、数十万人(hundreds of thousands)に昇った。(127)
 国じゅうに配備されたこれら兵団は、帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)と似た機能を果たした。
 ゲペウは国外に、国外ロシア移民を監視し分解させる、コミンテルンの人員を監督する、という二つの使命をもつ『工作機関(agencies)』(agentury)を設置した。
 ゲペウはまた、国家秘密保護局(Glavit)が検閲法令を実施するのを助け、監獄のほとんどを管理した。
 ゲペウに関与されていない公的な活動領域は、ほとんどなかった。//
 集中強制収容所は、ネップのもとで膨らんだ。その数は、1920年の84から1923年10月には315になった。(128)
 内部人民委員部がいくつかを、その他はゲペウが運営した。
 これら強制収容所のうち最も悪名高いのは、極北に位置していた(『特別指定北部収容所』、SLON)。そこからの脱走は、事実上不可能だった。
 そこには、通常の犯罪者とともに、捕獲された白軍将兵、タンボフその他の地方からの反乱農民、クロンシュタットの水兵たちが隔離されていた。
 収容者の中で死亡する犠牲者の数は、高かった。
 一年(1925年)だけでSLONは、1万8350人の死を記録した。(129)
 この強制収容所が満杯になった1923年の夏に、当局はソロヴェツク(Solovetsk)島の古来の修道院を集中強制収容所に作り変えた。そこは、イヴァン雷帝の代以降、反国家や反教会の罪を犯した者たちを隔離するために使われてきた。
 ソロヴェツク修道院強制収容所は1923年に、ゲペウが運営する最大の収容所になり、252人の社会主義者を含めて、4000人の収容者がいた。(130)//
 『革命的合法性』原理は、ネップのもとで日常的に侵犯された。従前と同様に、ゲペウがもつ司法を超える大きな権力のゆえだけではなく、レーニンが法を政治の一部門だと、裁判所を政府の一機関だと考えていたからだ。
 法についてレーニンが抱く考え方は、ソヴィエト・ロシアの最初の刑法典の草案作成過程で明確になった。
 レーニンは司法人民委員のD・I・クルスキーが提出した草案に満足せず、政治犯罪にどう対処するかに関する細かい指示を出した。
 彼は政治犯罪を、世界のブルジョアジーを『助ける虚偽宣伝活動(プロパガンダ)や煽動、または組織参加や組織支援』と定義した。
 このような『犯罪』に対しては、死による制裁が、あるいは酌量できる情状によっては収監または国外追放という制裁が科されるものとされた。(131)
 1845年のニコライ一世の刑法典は政治犯罪を同様に曖昧に標識化していたが、レーニンの定義は、それに似ていた。ニコライ一世刑法典は、『国家当局または国家要人や政府に対する無礼を掻き立てる記述物や印刷物を書いたり頒布したりする罪』を犯した者には苛酷な制裁を科すことを命じていた。
 しかし、帝制時代には、このような行為に死刑が科されることはなかった。(132)
 レーニンの指示に従って、法律官僚は第57条と第58条、裁判所に反革命活動をしたとされる有害人物ついて判決する専制的な権力を与える抱合せ条項を作成した。
 これら条項を、のちにスターリンは、合法性の外観をテロルに付与すべく利用することになる。
 レーニンの指示の意味を彼が認識していたことは、クルスキーに与えた助言からも明らかだ。レーニンは、つぎのように書いた。
 『原理的なかつ政治的な正しさ(かつたんに狭い司法のみならず)、…<テロルの本質的意味と正当化>…』を提示することが司法部の任務だ、『裁判所は、テロルを排除すべきではなく…、それを実現させて原理的に合法化すべきだ。』(133)
 法の歴史上初めて、法手続の役割は、正義を実施することではなく、民衆をテロルで支配することだ、と明言された。//
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  (121) レーニン, PSS, LIV, p.196。 
  (122) 同上のp.335。
  (123) SUiR, No. 65 (1922年11月6日), 布令 844号, p.1053。
  (124) 同上, No. 8 (1923年3月10日), 1923年1月3日付決定 No. 108, p.185。ゲルソン, 秘密警察, p.249-250。
  (125) イズベスチア, No. 236-1, 675 (1922年10月19日), p.3。
  (126) ゲルソン, 秘密警察, p.228。
  (127) 次の、p. 383n を見よ。
  (128) Andrzei Kaminskii, 1896年から今日までの集中強制収容所 :分析 (1982), p.87。ゲルソン, 秘密警察, p.256-7 参照。
  (129) セルゲイ・マセイオフ, in :Rul' No.3283 (1931年9月13日), p.5。ゲルソン, 秘密警察, p.314 参照。
  (130) ディヴッド・J・ダリン=ボリス・I・ニコレフスキー, ソヴィエト・ロシアの強制労働 (1947), p.173。SV, No. 9-79 (1924年4月17日), p.14。
  (131) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
  (132) リチャード・パイプス, 旧体制, p.294-5。
  (133) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
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 ③につづく。

1499/ネップ期の政治的抑圧①-R・パイプス別著8章7節。

 次の節に入る。
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 第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大①。〔第7節/p.397~403。〕
 条件つきながらも私企業の出現を認めることになる経済統制の緩和は、ボルシェヴィキにとっては、政治的な危険だった。
 ゆえに彼らは、経済の自由化とともに政治的統制をいっそう強くすることを確認した。
 レーニンは第11回党大会〔1922年3月27日-4月2日〕で、矛盾していると見えるこのような政策の理由を、つぎのように説明した。//
 『栄光の大前進のあとで退却(retreat)するのは、たいへん困難だ。
 今では、諸条件は全く異なる。
 以前は、諸君が党規律を遵守しなくても、全員が自分たち自身で押し合って前へと突進した。
 党規律のことが今や、もっと考慮されなければならない。
 党規律が、百倍以上も必要だ。軍全体が退却しているときに、どこで止まればよいかを知ったり、見たりしないからだ。
 狼狽した声がここでいくつか上がれば、それで総逃亡になってしまう。
 そんな退却が実際の軍隊で起きれば、軍は機関銃部隊を展開する。そして、命じられた退却が壊滅的敗走に変われば、軍は命令する、「撃て(Tire)」。正しくそのとおりだ。』(*)//
 こうして1921年~1928年は、経済の自由化と政治的抑圧の増大とが結びついた時期だった。
 政治的抑圧は、ソヴェト・ロシアにまだ存続している自立組織、すなわち正教教会や対抗する社会主義諸党に対する迫害という形をとった。また、知識層や大学界に対しては、とくに危険だと考えられた知識人の大量の国外追放、検閲の強化、刑事法律の苛酷化によって、抑圧が増大した。
 このようなやり方は、ソヴィエト国家が経済自由化に賛成しているまさにそのときに外国に悪印象を生み出す、と主張して反対する者たちがいた。
 レーニンは、ヨーロッパを歓ばせる必要は全くない、ロシアは<私的関係>や公民の事案に国家が介入するのを強化する方向へ『さらに進む』べきだ、と答えた。(116)//
 このような介入の主たる手段は、闇のテロル機関から全方向に広がる枝葉をもつ官僚機構へとネップのもとで変形した、政治警察だった。
 ある内部的指令文書によると、その新しい任務は、経済状態を近くで監視して、反ソヴェト政党や外国資本による『怠業(sabotage)』を阻止すること、国家へと指定された物品が良質で間に合うように配達されるのを確実にすること、だった。(117)
 保安警察がソヴェトの生活のあらゆる側面を貫き透す程度は、その長、フェリクス・ジェルジンスキー(Felix Dzerzhinskii)が就いた地位が示している。
 彼は、あるとき、また別のとき、内務人民委員、交通人民委員、そして国家経済最高会議議長として仕事をした。//
 チェカは完全に憎まれ、無垢な血を流すことに対する悪評は、金を使って人を意のままにすることよりはまだましだった。
 レーニンは1921年遅くに、帝制時代の秘密警察に添うようにこの組織を改革することを決定した。
 チェカは今や、通常の(国家以外の)犯罪に対する権限を剥奪され、それ以降は、司法人民委員部に管理されるものとされた。
 レーニンは1921年12月に、チェカの実績を称えつつ、ネップのもとでは新しい保安の方法が必要で、現在の秩序は『革命的合法性』だ、と説明した。それは、国家の安定化によって政治警察の機能を『狭くする』ことができる、ということだった。(118)//
 チェカは1922年2月6日に廃止され、すぐに国家政治管理局、またはGPU(ゲペウ、Gosudarstvennoe politicheskoe upravlenie)という無害の名前の国家機関が代わった(ソヴィエト同盟の設立後の1924年に、OGPU(オゲペウ)又は『統合国家政治管理局』へと代わる)。
 その管理は変わらず、長がジェルジンスキー、次官はIa. Kh. ピョートル、他の全ての者で、『ルビャンカ〔チェカ本部〕からかき混ぜられたチェカ人はいなかった』。(119)
 帝制時代の警察部局と同様に、GPUは内務省(内務人民委員部)の一部だった。
 それは、『強盗を含む公然たる反革命行動』を鎮圧し、諜報活動(espionage)と闘い、鉄道線路や給水路を守り、ソヴィエト国境を警護し、そして『革命秩序を防衛するための…特殊任務を遂行する』ものとされた。(120)
 その他の犯罪は、裁判所や革命審判所(Revolutionary Tribunals)の管轄に入った。//
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  (*) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕p. 88-P. 89。レーニンは、以前の第10回党大会で、政治問題を解決する手段として機関銃部隊に言及した。労働者反対派の代弁者が機関銃を反対者に向ける脅威について反対したとき、レーニンは、彼の経歴上独特の例に違いないが、詫びて、二度とそのような表現を使わないと約束した。Desiatyi S' ezd, p. 544。
 レーニンは翌年に再び その表現を使ったので、自分の言明を忘れていたに違いない。
 〔レーニンの本文引用部分は、邦訳文がレーニン全集(大月書店)第33巻p.286、にある。そのままなぞった試訳にしてはいない。-試訳者・秋月〕
  (116) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.412。
  (117) RTsKhIDNi, F. 2, op. 2, delo p.1154、1922年2月27日付のS・ウンシュリフトによる草案。
  (118) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕p. 327-329。
  (119) レナード・G・ゲルソン, レーニンのロシアの秘密警察 (1976), p.222。
  (120) イズベスチア, No. 30/1469 (1922年2月8日), p.3。
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 ②につづく。

1498/あるドイツ人-Wolfgang Ruge(1917-2006)。

 ○ 日本人には全くかほとんど知られていないと思う。
 ヴォルフガング・ルーゲ(Wolfgang Ruge)というドイツ人がいる。
 1917年生~2006年没。
 1917年夏にドイツ・ベルリンで生まれた。ロシアでは二月革命と同年の「10月の政変」のちょうど間。レーニンの7月蜂起があった頃。現在からほぼ100年前のこと。
 そのとき、第一次大戦はまだ終わっておらず、2歳の頃までに、戦争終結、ベルサイユ講和条約締結、そして2019年8月のワイマール憲法制定を、したがってドイツ・ワイマール共和国の成立期を、おそらくは記憶しないままで大きくなった。
 1933年の夏、8月末頃、ベルリンからおそらく「難民」として、ソ連・モスクワへと移った。
 そのとき、ワイマール共和国は、ナチス・第三帝国に変わっていた。ナチス党の選挙勝利を経て1933年の初頭に、ヒトラーが政権・権力を握っていた。
 W・ルーゲは、夏に16歳ちょうどくらい。二歳上の兄とともに、ソ連・モスクワに向った。そこで育ち、成人になる。スターリンがソ連・共産主義体制の最高指導者だった。
 戦後まで生きる。戦後も、生きた。そして1982年、ドイツに「帰国」する。
 彼が、65歳になる年だ。
 しかし、それは、ヒトラー・ドイツでもなければドイツ連邦共和国でもなく、「東ドイツ」、1949年に成立したドイツ民主共和国のベルリンへの「帰国」だった。
 そこで「歴史学」の研究者・教授として過ごす。主な研究対象は、ワイマール期のドイツの政治および政治家たちだったようだ。
 1990年、彼が73歳になる年に、ドイツ民主共和国自体が消失して、統一ドイツ(ドイツ連邦共和国)の一員となる。
 2006年、88歳か89歳で逝去。
 すごい人生もあるものだ。第一次大戦中のドイツ帝国、ワイマール共和国、ヒトラー・ナチス、スターリン・ソ連、第二次大戦、戦後ソ連、社会主義・東ドイツ、そして統一ドイツ(現在のドイツ)。
 1990年以降に、少なくとも以下の二つの大著を書き、遺して亡くなった。
 Wolfgang Ruge, Lenin - Vorgänger Stalins. Eine politische Biografie (2010)。
  〔『レーニン-スターリンの先行者/一つの政治的伝記』〕
 Wolfgang Ruge (Eugen Ruge 編), Gelobtes Land - Meine Jahre in Stalins Sowietunion (2012、4版2015)。
  〔『賞賛された国-スターリンのソ連での私の年月』〕
 ○ 上の後者の著書の最初の方から「レーニン」という語を探すと、興味深い叙述を、すでにいくつか見いだせる。これらが書かれたのは、実際には1981年と1989年の間、つまりソ連時代のようだ(おそらくは子息である編者が記載した第一部の扉による)。
 ・W・ルーゲはベルリンから水路でコペンハーゲン、ストックホルムを経てトゥルク(フィンランド)へ行き、そこからヘルシンキとソ連との国境駅までを鉄道で進んでいる。
 コペンハーゲンからの船旅の途中で(16歳のとき)、この進路は「1917年という革命年にレーニンがロシアへと旅をしたのと同一のルート」だということが頭をよぎる(p.10)。
 このときの記憶として記述しているので、ドイツにいた16歳ほどの青少年にも、レーニンとそのスイスからのドイツ縦断についての知識があったようだ。
 ・W・ルーゲは、ストックホルムより後は、母親の内縁の夫でコミンテルンの秘密連絡員らしきドイツ人の人物とともに兄と三人でソ連に向かう。
 ソ連に入ったときの印象が、こうある。「レーニン」は出てこない。
 フィンランドの最終駅を降りてさらに、「決定的な、20ないし30歩」を進んだ。
 ロシア文字を知らなかったし、理解できなかったが、しかし、「そこには、『万国の労働者よ、団結せよ!』とあるのが分かった。宗教人が処女マリアを一瞬見たときに感じたかもしれないような、打ち負かされるような、表現できない感情が襲った。私は、私の新しい世界へと、入り込んだ」(p.12)。
 ・さかのぼって、ドイツ・ベルリンにいた6歳のときのことを、こう綴っている。
 「レーニンが死んだとき〔1924年1月-秋月〕、6歳だった私は、つぎのことで慰められた。
 レーニンの弟のK・レーニン(カリーニンのこと)がその代わりになり、全く理解できないではない謎かけではなくて、<レーニンは死んだ。しかしレーニン主義はまだ生きている>と分かりやすく表現してくれた。」(p.25)
 このとき彼はすでに、レーニンの名を知っていた。さらに、ソヴィエトの一ダースほどの指導者の名前を知っていた、ともある(同上)。

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1497/食糧徴発廃止からネップへ④-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
 今回の最後の、そして第6節最後に一部が引用されるレーニンの文章は、1921年10日18日付<プラウダ>234号に掲載された、レーニン「十月革命四周年によせて」だ。
 これは、レーニン全集第33巻(大月書店、1978年第26刷)p.37~p.46に収載されている。R・パイプスが以下で引用する部分は、p.44-p.45。
 日本共産党・不破哲三らはこれのすぐ後の1921年10月29-31日の「第七回モスクワ県党会議」報告(同年11月3-4日の<プラウダ>248-9号に連載掲載)を重視していて、「十月革命四周年によせて」という重要性がありそうな題の、こちらの報告・演説文は、いっさい無視しているようだ。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行④〔p.393~p.394〕
十分に展開した新経済政策のもとに包括される結果の総体は、疑いもなく有益(beneficial)だった。不均一にそうだったけれども。
 どの程度有益だったかを正確に決定するのは困難だ。というのは、ソヴェトの経済統計は悪名高いほどに信頼のできないもので、依拠する情報源によって数100%もの違いがあるからだ。(*)
 利益はまず先に、農業に現れた。
 好適な気候はもちろん外国からの種子穀物の寄贈や購入によって、1922年のロシアは大豊作だった。
 耕作面積を増加させようとの新しい税政策に助長された農民たちは、生産を膨らませた。
 作付け面積は1925年に、1913年のそれと同等になった。
 しかし、生産額は革命の前よりも低いままで、収穫高もそれに応じて少なかった。
 集団化の前夜にあたる1928年になっても、それは1913年の数字よりも10%低かった。//
 資本不足や機械の旧式化、迅速な改修を妨げる同種の原因によって、工業生産は、もっとゆっくりと成長した。
 レーニンが爆発的な生産を計算した外国に対する諸権利の付与は、ほとんど何も役立たなかった。外国人は、借款不履行(デフォルト)で資産国有の国に投資するのを躊躇したからだ。
 外国資本に敵対的なソヴェト官僚制は、官僚的形式主義(red tape)やその他の逃げ口上の方法を使って、全力で、権利を与えるのを邪魔した。
 そしてチェカ〔国家秘密政治警察〕、のちのGPU〔ゲペウ、同〕は、ロシアへの外国による経済投資をスパイ活動(espionage)の偽装だと扱うことで、その役割を果たした。
 ネップの最後の年(1928年)には、動いている外国企業はソヴェト同盟の中にわずか31しかなかった。資本でいうと(1925年)、わずか3200万ルーブル(1600万ドル)だった。
 大多数の企業は、工業ではなくロシアの自然資源、とくに森林の利用に従事した。森林は、外国資本が権利を得て投資したうちの85%を占めた。(111)//
 ネップは、ボルシェヴィキが社会主義への不可欠のものだと見なす、総合的な経済計画の策定を妨げた。
 国家経済最高会議は、経済を組織するといういかなる考えも放棄し、できる限りで、ほとんど操業していない〔国有〕工業を『信用』という手段で管理することに集中した。
 この信用は、原材料をの融通はむろん、財政上の援助から受けた。その他の原材料は、公開市場で自由に購入した。
 それら工業が費用を自分で賄ったあとでは、生産全体が政府の手に委ねられた。
 経済計画の策定のために、レーニンは1921年2月に、Gosplan として広く知られる、新しい機関を設立した。その直接の任務は、電化のための壮大な計画を実施することで、それは将来の産業および社会主義の発展の基盤を提供することになるとされた。
 レーニンは、ネップの前の1920年にすら、ロシア電化全国委員会(GOELRO)を創設していた。それは来る10年から15年のうちに、主として水力エネルギーを発展させることで国家の電気供給能力を膨大に増加させることになる、とレーニンは期待した。
 レーニンは、この計画が他の諸解消を拒んでいた問題をこの計画の能力が解決できる、という奇想天外な期待を抱いた。
 レーニンの願望は、世に知られるつぎの彼のスローガンに表現されている。
 『ソヴェト+電化=共産主義』。これの精確な意味は、今日まで理解し難いままだ。(112)
 第12回党大会(1923年)の諸決定で、電化は経済計画の中心焦点で、国家経済の将来の『鍵となる石』だと叙述された。
 レーニンにとっては、これが意味するものは、なおも壮麗だった。
 彼は純粋に、電力の普及によって資本主義者精神がその最後の生存稜堡である農民家族経済で破壊されるだろうと、また宗教信仰も根こそぎ掘り返されるだろうと信じた。
 サイモン・ライバーマン(Simon Liberman)は、レーニンがつぎのように言うのを聞いた。農民にとって、電気は神にとって代わるだろう、そして彼らは電気に対して祈祷するだろう、と。(113)//
 計画の全体は、新しい夢想家(Utopian)の企画に他ならなかった。それは、経費を無視しており、金の欠如のゆえに無駄になるものだった。
 その計画の実現には、10年~15年にわたる毎年10億(1ビリオン)ルーブルの経費が必要だった。
 あるロシアの歴史家は、つぎのように書く。
 『かりに国家産業がほとんど静止状態にあり、かつ外国から必要な機械や技術的設計書を買うための穀物輸出も存在しないとすれば、電化計画は現実には『電気-小説』に似ている。』(114)
 現実の全体から見て、1921年3月のあとに導入された経済的手法は、ロシアに共産主義を持ち込むという一度抱かれた希望からすると、厳しい挫折(setback)だった。
 苛酷な力が問題をどこでも決定できる勝利者だったボルシェヴィキは、現実の経済の不変の法則によって敗北した。
 レーニンは、1921年10月に、そのことをつぎのように認めていた。〔以下、上掲レーニン全集による和訳を参考にする。〕
 『われわれは、小農民的な国で物資の国家的生産と国家的配分とをプロレタリア国家の能力にもとづき共産主義的に組織しようと、あてこんで(count)いた。-いや、と言うよりも、つぎのように言うのが正確かもしれない。われわれは、十分に考慮することなくして、そのように想定(仮定、assume)していたのだ。
 実生活は、われわれが誤っていた(mistake)ことを示した。』 (115) //

  (111) A. A. Kisalev, in :新経済政策(Novaia Ekonomicheskaia Politika), p.113。
  (112) レーニン, PSS, XLII〔第42巻〕, P.159。
  (113) Simon Liberman, レーニン・ロシアの建設 (1945), p.60。 
  (114) N. S. Simonovin, ISSSR, No. 1 (1992), p.52。
  (115) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.151。
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 第8章・第6節終わり。

1495/食糧徴発廃止からネップへ③-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行③ 〔p.393~p.394〕
 1922年と1924年の間に、モスクワは貨幣なき経済という考え方を放棄し、伝統的な会計実務を採用した。
 政府は予算上の欠損を充たす山積みの紙幣を必要としていたので、会計上の責任体制への移行は困難だった。
 ネップ(新経済政策)の最初の三年間、ソビエト同盟では実際には、二種類の通貨が並んで流通していた。
 一つは、denznaki とか sovznaki とか呼ばれる、実際には無価値の『引換券(token)』、もう一つは、chervonets と呼ばれる、金を基礎にした新しいルーブルだ。//
 ルーブル紙幣は、印刷機が作動するかぎりで急いで製造された。
 1921年にその発行数は16トリリオン(trilliom、16兆)だったが、1922年には2クヴァドリリオン(quadrillion=1000 trilliom、2000兆)に昇った。これは、『16桁の数字をもつ量、財務というよりも晴天の空での天文学を連想させる量』だった。(98)
 無価値の紙券が、洪水のように国を覆いつづけた。政府は一方で、新しい安定した通貨を生み出し始めた。
 財政改革は、ニコラス・カトラー(Nicholas Kutler)に託された。この人物は、銀行家、セルゲイ・ウィッテ内閣の大臣で、政府の仕事から引退したあとは、カデット(立憲民主党)の国会下院議員だった。
 カトラーの奨めで1921年10月に作られた国有銀行(Gosbank)の理事会の一員に、彼は指名された。
 政府が新通貨を発行することや国家予算を帝政時代のルーブルで表記することも、彼の助言によっていた。(99)
 (類似の改革は二年後に、ヒャルマール・シャハト(Hjalmar Schacht)のもとでのドイツでなされることになる。)
 国有銀行は1922年11月に、chervontsy 、5種類の銀行券を発行する権限を与えられた。これら銀行券は、25%は金塊と外国預金、残りは農産物や短期の借款で支えられた。
 新しい各ルーブルは純金7.7グラムに相当し、金の価値は帝制時代の10ルーブルと同じだった。(+)
 Chervontsy は法的な弁済よりも国有企業間の大規模の取引や決済に用いられることが想定されたが、古い引換券(token)と一緒に流通した。後者は、天文学的数字にかかわらず、小規模の小売り取引で必要とされた。
 (レーニンは、貨幣政策としては金を伝統的な地位に復活させる必要があると批判されて、共産主義が世界中で勝利するやいなや、ルーブル紙幣の使用は手洗所の建設に限られることになる、と約束した。)(100)
 1924年2月までに、Chervontsy で表記された貨幣量は10分の9になった。(101)
 引換券(token)ルーブルは1924年に流通しなくなり、帝制時代のルーブルの金の内容をもつ『国家財務省券』が取って代わった。
 このとき、農民は、国家への納税義務を一部又は全部、生産物ではなく金銭で履行することが認められた。//
 租税制度もまた、伝統的な方向で改革された。
 金ルーブルで計算される国家予算は、定期的に作成された。
 1922年に総支出の半分以上に達していた欠損は、次第に小さくなった。
 1924年に公布された法令は、欠損を埋めるための手段として銀行券を発行することを禁止した。(102)//
 国有企業の経営者は抵抗したにもかかわらず、小規模の私企業や協同企業を推進する布令が裁可された。これら企業は、法人格を付与され、限られた数の有給労働者を雇用することが許された。
 大企業は依然として国家の手のうちにあり、政府からの助成金で利益を確保し続けた。
 レーニンは、社会主義の国家的基礎を、彼の権力基盤とともに徐々に破壊するという危険(リスク)がネップにある、ということを十分に察知した。そして、経済の『管制高地』の支配権は政府が維持することを確かなものにした。輸送はもとより、銀行、重工業および貿易(=外国との取引)についてだ。(103)
 中規模の企業は、健全な会計実務に従うように命じられ、自立的になった。その会計実務は、Khozrazchet として知られる。
 怠惰な又は非生産的な中規模企業は、賃貸借の対象になる第一次の候補だと指示された。
 4000以上のこのような企業は、その大部分は小麦製粉業だったが、以前の所有者か又は協同企業に賃貸された。(105)
 こうしたことを容認したことは、設定した基本的考え方で、とくに社会主義の実務ではきわめて嫌悪された被雇用労働者を許した点で、主として重要だ。
 生産に対する実際の影響は、限られていた。
 1922年に国有企業は、価額を規準として、全国家産業生産高の92.4%を占めた。(106)//
 Khozrazchet への移行は、自由な業務や商品の綿密な構造を放棄することを強いた。そのために、およそ380万人の国民は、1920年と21年の間の冬に、政府の費用でもってその基本的な必需品を与えられた。(107)
 郵便と輸送は、〔政府から〕支払われるものとされた。
 労働者は金銭で給料を受け取り、公開の市場で必要な物を何でも購入した。
 配給もまた、次第に少なくなった。
 小売取引は、一歩一歩、私営化されていった。
 国民は、都市の不動産を売買すること、印刷業社を所有すること、薬品や農機具を製造すること、を許された。
 1918年に廃棄されていた相続する権利は、部分的に復活した。(108)//
 ネップは、魅力的でないタイプの起業家、古典的な『ブルジョア』とはきわめて異質な者たちを培養した。(109)
 私企業にとってロシアの環境は根本的に非友好的で、かつその将来は不安定だったので、経済自由化を利用した者たちは、得た利益を明日のことなど考えないで費やした。
 政府やそれと似た社会にパリア人のごとく取り扱われて、『ネップマンたち(Nepmen)』は、現物でもって返報した。
 貧窮のど真ん中で、彼らは贅沢にかつ目立って生活し、高価なレストランやナイトクラブに群らがった。毛皮のコートで身を包んだ愛人たちを見せびらかしながら。//
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  (98) Arthur Z. Arnold, ソヴェト・ロシアの銀行、信用、貨幣 (1937), p. 126。
  (99) カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ, p.350-352。
  (+) 帝制時代の『chervonets 』とは、金貨の名前だった。ソヴェトのchervontsy は多くは紙幣で、ある程度は新たに鋳造されたけれども。
  (100) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p. 225。
  (101) N. D. Mets, Nash rubl' (1960), p. 68。
  (102) ソ連の国民経済・1921-23以降〔統計年鑑〕, p.495-6, p. 498。
  (103) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p. 289-290。
  (104) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 34。
  (105) Genkina, Perekhod, p. 232-3。
  (106) カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ, p.302-3。
  (107) リチャード・パイプス, ロシア革命, p. 700〔第二部第15章「戦時共産主義」第8節「市場廃棄の努力と陰の経済の成長」〕。
  (108) Allan M. Ball, ロシアの最後の資本家 (1987), p.21-22。
  (109) 同上の各所。
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 ④につづく。

1493/食糧徴発廃止からネップへ②-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
 なお、不破哲三・レーニンと「資本論」第7巻(新日本出版社、2001)p.118-p.125は、レーニンは1921年10月29日-31日の「第7回モスクワ県党会議」での報告によって、「市場経済を容認し、それと正面から取り組みながら、社会主義への道を探求するというこの方針」に到達したと述べ、かつまた「この報告」は「『新経済政策』の展開の歩みのなかで、その後の歴史にてらしても、もっとも重大な、文字通り画期的な意義をもつものだった」と記す。
 志位和夫・綱領解説第2巻(新日本出版社、2003)p.177-もこれに追随する。志位によると、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のだが(p.179)、つぎのようにも書く。
 レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。新たに転換した路線とは「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ(p.177-8)。
 レーニンの上記報告の全文(邦訳)は、以下。
 レーニン全集第33巻(大月書店、1978年第26刷)p.70~p.98/「第七回モスクワ県党会議」。
 前回部分もそうだが、この日付や会議名にも留意してR・パイプス著を継続して読むと、興趣を少しはそそられるかもしれない。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行② 〔p.391~p.393〕
 新政策を表明する際に、レーニンは、その政治的意義を強調した。
 農民が人口の大多数を構成するロシアでは、農民から支持を受けないで効果的に統治することはできない。
 カーメネフは内部的な連絡文書で、この政策の第一の目標として『農民層への政治的平穏性の導入』を挙げた(次いで、作付け面積の増加の奨励)。(87)
 従来は階級敵と見なされていた農民層は、これ以来、同盟者だと扱われた。
 レーニンは今や、以前は拒否していたこと、西ヨーロッパーの多くの国とは違ってロシアでは、農村住民の多数は被雇用者でも土地賃借耕作者〔小作人〕でもなく、独立した小規模生産者だ、ということを承認した。(88)
 確かに、上の最後の者は、『プチ・ブルジョアジー』だった。そして、彼らに対する譲歩は、レーニンによると、遺憾な退却(retreat)だが、一時的な(temporary)なものだった。
 レーニンは、『経済上の息つぎ(breathing spell)』だと正当化した。
 ブハーリンとD・B・リャザノフは一方、『農民とのブレスト〔-・リトフスク講和条約〕』だと語った。(89)
 この『息つぎ(breathing spell)』がどのくらい長く続くかについては、何も語られなかった。だがレーニンはある箇所で、農民を変えるのには数世代(generations)かかるだろうことを認めている。(90)
 このような又はその他のレーニンのこの問題についての言葉は、レーニンの究極の目標は集団化であるままだが、スターリンがしたように早くにはそれを開始しなかっただろう、ということを示唆している。//
 1921年4月についてすでに触れたように、新しい政策によって農民世帯は、穀物、馬鈴薯、油用種子について規準の税を課された。
 翌年に、他の農産物がリストに加えられた。すなわち、卵、乳製品、毛織物、タバコ、干し草、果物、蜂蜜、獣肉、および生皮。(91)
 穀物税〔現物税〕の大きさは、赤軍、工業労働者および非農業集団の最小限の必需によって決定された。
 村落ソヴェトの裁量に委ねられた割当額の決定は、規模、自由に使用できる耕作適地の広さ、および地域の穀物生産高に応じて決定される、個々の農民世帯の納入能力と相応したものでなければならなかった。
 布令は、農民に生産増加を促すために、税の規準として、実際に耕作されている土地ではなく耕作がなされる可能性のある土地、つまり全耕作適地の広さを用いた。
 国家への義務を果たす『集団責任』(krugovaia otvetstvennost')の原理は、放棄された。(92)//
 最初の現物税は、2400万Pud〔単位、1トン=ほぼ6 Pud?〕が設定された。これは、1921年に徴収されたよりも600万少なく、1921年について従前に設定された< Prodrazverstka >〔余剰食糧徴発制〕の上限のわずか41%だった。
 政府は、物々交換原理のもとで、農民に工業製品を余剰穀物と交換してもらうことで、不足を埋め合わせることを望んだ。
 これによって、追加して1600万Pud がもたらされるはずだった。(93)
 これらの望みは、何一つ叶えられなかった。主要な穀物生産地帯を1921年春に厳しい干魃が襲ったからだ。
 被害を受けた地域はほとんど何も生まなかったので、徴収できた税は、上記の2400万Pud ではなく、1280万Pud にすぎなかった。(94)
 誰も、どの穀物についても、提案された物々交換をしなかった。交換取引をする工業製品がなかったからだ。//
 新しい政策は直ちには改善につながらなかったけれども-実際に最初は徴集した食糧は < Prodrazverstka >よりも少なかった-、長期的にはきわめて大きい利益になるという共産主義者の思考方法に関して、重要な前進点を画した。
 農民層をたんに収奪の対象として扱うかつての実務とは対照的に、現物税、あるいは< prodnalog >は、農民層の利益も考慮に入れた。//
 新しい農業政策の経済上の利益は、直ちには明らかにならなかった。しかし一方で、政治上の報償は、すぐに与えられた。
 食糧徴発制の廃止は、反乱という帆船隊の帆を根こそぎ吹き飛ばした。
 レーニンは、翌年に、以前は農民蜂起が『ロシアの一般的な絵画を決定』したが、その蜂起はほとんど終わった、と誇ることができた。(*)//
 現物税を導入したとき、ボルシェヴィキ〔共産党〕は、それの影響・効果について何も考えていなかった。無傷で国家経済の中央集中管理を維持することを、意図していたからだ。
 商取引と工場制工業に対する国家独占を放棄することは、ボルシェヴィキが最も望んでいないことだった。
 ボルシェヴィキは、物々交換で農民に工業製品を与えて、穀物の余剰分を吸い上げようと十分に期待していた。
 しかしながら、この期待が非現実的で、その結果としてつぎのことをボルシェヴィキに強いるものであることが、すみやかに明らかになった。すなわち、かつてより野心的な改革を少しずつ実行して、社会主義と資本主義の独特な合成物をついには生み出すことを強いられる、ということだ。両者のこの独特な合成物(hybrid)は、新経済政策(NEP, New Economic Policy)として知られる。(この言葉は、1921-22年の間の冬に初めて一般的になった。)(95)
 現物税は必然的に、自由に処分できる余剰生産物の部分で、農民層に商取引をする権利を認めることを意味した。
 (そうでなければ、農民の生産高を増加させる心的動機としてはほとんど何の影響力も持たないので、自由処分可能な余剰を手放すことは、ただ名目上の譲歩にしかならないだろう。)
 このことは反面では、農業生産についての市場の再生、農業と工業を結びつける不可欠の結節点であり貨幣の循環が甦る領域である市場関係の再建、を意味した。(96)
 < prodnalog >〔現物税〕は、かくして不可避的に、まず最初に、穀物とその他の食糧についての私的取引を復活する途へと誘い込んだ。
 これが生じたとき、穀物取引についての国家独占という要塞を放棄して明け渡すくらいなら、全員を殺させる方がよいとレーニンが誓約したのち、ほとんど15週間も経っていなかった。(97)
 さらに、公認の価値という客体に支えられる安定した通貨制度をもつ、伝来的な貨幣実務が回復することも、意味した。
 また加えて、農民は代わりに工業製品を取得できるときにのみ自分の余剰分を引き渡すので、工業に対する国家独占を放棄することをも意味した。
 これが必要としたのは、また反面では、消費者をもつ工業の相当部分の私営化(privatizing)だった。
 このようにして、国土に広がる共産党に対する蜂起を鎮静化させるために企図された緊急措置は、最後の出口には資本主義とその帰結である『ブルジョア民主主義』の復活が待っている、予め地図に描いていなかった水路へと、共産党の者たちを導いた。(**)//
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  (87) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 9。
  (88) レーニン, PSS, XLIII〔第43巻〕, p.57-58。
  (89) 同上, p.69-70。Desiatyi S" ezd, p.224, p.468。
  (90) レーニン, PSS, XLIII〔第43巻〕, p.60-61。
  (91) 1921年4月21日の布令, SUiR, No. 38 (1921年5月11日), p.205-8。E. B. Genkina, 新経済政策のソヴェト政府の布令〔?露語〕1921-22 (1954), p. 123-124。
  (92) SUiR, No. 26 (1921年4月11日), 第147条, p. 153。
  (93) E・H・カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ (1952), P. 283-4。
  (94) Genkina, Perekhod, p. 302。
  (*) レーニン, Sochineniia, XXVII〔第27巻〕, P. 347。この文章の文言は、次とは異なる。最新版の、レーニン選集(PSS, XLV, p. 285)。
  (95) <省略、露語>
  (96) Maurice Dobb, 1917年以降のソヴェト経済の展開 (1948), p. 131。
  (97) レーニン, XXXIX〔第39巻〕, p.407。Iu. Poliakov, <省略>を見よ。
  (**) 『戦時共産主義』は即興的なものだったが、ネップは計画された、とふつうは考えられているけれども、現実は、反対方向にあった。
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 ③につづく。

1491/食糧徴発廃止からネップへ①-R・パイプス別著8章6節。

 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)のp.369-の<第8章・ネップ-偽りのテルミドール>は、目次上は、以下の節で構成されている。
 第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
  第1節・テルミドールではないネップ。
  第2節・1920-21年の農民大反乱。
  第3節・アントーノフの登場。
  第4節・クロンシュタットの暴乱。
  第5節・タンボフでのテロル支配。
  第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
  第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
  第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
  第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
  第10節・1921年飢饉。
  第11節・外国共産党への支配の増大。
  第12節・ラパッロ〔-条約〕。
  第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
  第14節・ドイツとソ連邦の軍事協力の開始。
 以上。
 このようにR・パイプスが扱う<ネップ期>の範囲・問題は幅広い。
 以下では、<第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行>だけの邦訳を試みる。
 このあたりを指して、日本の某政党(日本共産党)は、レーニンが「市場経済を通じて社会主義へ」の途を確立した、とか歴史叙述しているからだ。
 <フランス革命>を終焉させた「テルミドール(七月)」との比較から始まった、アントーノフ運動、クロンシュタット反乱、タンボフの悲劇等々の叙述はすでに終わっている。
 原則として一文ごとに改行し、本来の改行(段落の最後)の箇所には「//」を付す。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行 〔p.388~〕
 クロンシュタット暴動の前にもう、レーニンには明らかに農民たちを宥める必要があると分かった。
 このような考えを促進したかもしれないのは、(1921年)2月9日に起きた西シベリアの農民蜂起だった。(79)
 数万にのぼるパルチザンがトボルスクを含む主要都市を占拠し、ロシア中部を東部シベリアと結ぶ鉄道線路を切断した。
 地方軍では立ち向かうことができず、中央は、この圏域に50000人の兵団を動員した。(80)
 烈しい戦闘が続き、正規軍は最終的にはゲリラ部隊を鎮圧することができた。
 しかし、シベリアからの食糧輸送が二週間途絶えたことは、蜂起がまだ進行中であったなかで、ソヴェト指導者に、農業政策全体を再検討することを強いた。(81)//
 ついに水兵の暴動が発生した。赤軍が海軍基地への最終攻撃を始めるべく場所を定めた3月15日に、レーニンは、新しい経済政策の中核になることになる政策を表明した。それは、< Prodrazverstka > 〔余剰食糧徴発(収奪)制度-試訳者・秋月〕として知られる恣意的な食糧剥奪を廃止して現物税(tax in kind)を採用する政策だった。
 < Prodrazverstka > には、最も広く嫌悪された戦時共産主義の特質があった。-生産物を奪われる農民たちは嫌悪し、食糧が配給される都市住民もまた嫌悪した。//
 食糧徴発は、明らかに恣意的に実施されていた。
 供給人民委員部〔人民委員=ほぼ大臣、従ってほぼ<供給省>〕は、要求する食糧の量を決定した。-その量は、生産者が供給できる量とは無関係に、都市や軍隊の消費者〔・需要者〕に食を与えるために必要な量によって、決定した。
 供給人民委員部はこの数字を、不適切でかつしばしば古い情報にもとづいて、各地方、各地区、各村落ごとの担当量へと割り振った。
 この制度は、残酷であったが、また非効率だった。例えば1920年に、モスクワは< Prodrazverstka >を5億8300万puds(950万トン)に設定したが、何とか集めたのはその量の半分だけだった。(82)//
 徴集担当者は、つぎの二つを前提にして行動した。すなわち、供出するように強いられる穀物は余剰ではなく家族用の食糧や種を確保するために不可欠のものだ、と農民たちが言うのはウソだ。また、農民たちは秘蔵食糧を掘り出すことで損失を補填できる。
 農民たちはこの秘蔵を、1918年と1919年にはできたかもしれなかった。
 しかし、彼らは1920年までには、秘蔵所にいくばくかは残っているとしてもほとんど何もなくなった。その結果がどうだったかは、タンボフ県の事例で見ることができる。そこでは、< Prodrazverstka >は不完全にしか徴集されなかったとしても、農民たちにほとんど何も残さなかった。
 もう何もない、これで全てだ。
 熱心な徴集者は、『余剰』と生存に必要な食糧だけでなく、翌年の作付けのために除けていた穀物をも奪い取っていった。共産党高位官僚の一人は、当局が収穫物の100%を収奪したことを認めた。(*)
 この供出を拒むことは、結果として家畜類が奪われ、殴打されることを意味した。
 付け加えると、徴集員や地方役人は、彼らの要求が抵抗に遭うと、抵抗農民に対して『クラーク(kulak、富農)』に唆(そそのか)された、または『反革命的』なとレッテルを貼ることで、力を得た。また、食糧、畜牛、そして個人的使用の衣類をも勝手気侭に収奪できると思っていた。(83)
 農民は、激しく抵抗した。ウクライナだけで、彼らは1700人の徴集官僚たちを殺害したと報告されている。(84)//
 自らをより痛める政策を考え出すのは困難だっただろう。
 この制度は、農民がより多く生産すればそれだけ多く剥奪されるという、不合理な原理にもとづいて作動していた。この帰結は、自分たちの需要を超えれば、それ以上は何も生産しないという、不変の論理だ。
 ある地域が豊かになればなるほど、それだけ多く政府による略奪を甘受することになる、そうすると、それだけ多く生産を削減しがちになった。国の中央部、穀物不足地帯の一つ、での作付け面積は、1916-17年と1920-21年の間に、18%減少した。一方、穀物過多の主要地域では、同じ比較で33%減った。(+)
 肥料や牽引動物が足りないために面積(エーカー)あたりの生産高が減少したので、1913年に8010万トンだった穀物生産高は、1920年には4610万トンに落ちた。(85)
 1918年と1919年に『余剰』を徴発することがまだできていれば、農民たちは1920年までには、教訓を得て、供出する物は何もないと確信していた。
 農民たちにはパンもなく種もなくなることを意味するとしても政府が欲する物を奪い取っていく、という事態は、明らかに生じなかった。//
 経済的と政治的の二つの理由で、< Prodrazverstka >は放棄されなければならなかった。
 飢餓に直面した農民たちから奪い取れる物は、何も残されていなかった。飢餓は、国土上の広汎な反乱に油を注いでいた。
 政治局〔共産党中央委員会の〕はついに、〔1921年〕3月15日に、< Prodrazverstka >を中止することを決定した。(**) 
 新しい政策は、3月23日に公示された。(86)
 これ以降は、農民たちは、ある特定の量の穀物を、政府機関に供出することが要求された。恣意的な『余剰』の収奪は、終止符を打った。//
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  (79) 同上, 265-70。 
  (80) Desiatyi S" ezd, p.430。
  (81) プラウダ, 51号 (1921.03.08), 1; Radkey, 知られざる内戦, p.229。
  (82) Desiatyi S" ezd, p.415, p.418。
  (*) I. I. Skvortsov, in :Desiati S" ezd, p. 69。農民たち自身の消費や種のために必要な穀物すらも剥奪することを命じた、レーニンの諸指令文書が現存している。レーニン, PSS, XLXⅢ〔第48巻〕, P.219。1921年半ばに供給人民委員部は、穀物の種の半分をタンボフ県からサマラへ輸送するように命令した。TP〔トロツキー文書〕Ⅱ, P.550-1。< Prodrazverstka >の濫用について、イズベスチア(Izvestiia), 42-1-185号 (1921.02.05), p.2。
  (83) Radkey, 知られざる内戦, p.31。
  (84) Tsiurupa, in: Desiatyi S" ezd, p.422。
  (+) Frank A. Golder と Lincoln Hutchinson, ロシア飢饉の軌跡 (1927), p.8。リチャード・パイプス, ロシア革命, p.697-8〔第15章・『戦時共産主義』/第5節・「農業生産力の衰退」〕。カ-メネフは国土全体について、1920年に25%減少したと見積もった。プラウダ, 1921年7月2日号, in: M. Heller, Cahiers 〔ノート〕, XX, No. 2 (1979), p.137。作付け面積の削減は、内戦の間に遂行した敵軍からの収奪によって牽引動物が不足したことによっても惹起された。1920年のロシアとウクライナでの牽引牛馬の数は、革命直前の時期と比べて、それぞれ28%、30%減った。Genkina, Perekhod, p.49。
  (**) Desiatyi S" ezd, p.856-7。トロツキーは思い出して、その自伝(Ⅱ, p.198-9)でつぎのように書く。1920年2月に、中央委員会に< Prodrazverstka >を放棄して現物税を採用すべきと提案したが、票決で負けた、と。レフ・トロツキー, Sochineniia, 第17巻, Pt. 2 (1926), p.543-4。この提案は、きわめて先見の明がある。
  (86) イズベスチア, No. 62-1205 (1921年3月23日), 2。
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 ②へとつづく。

1490/レーニンとスターリン-R・パイプス別著終章6節、日本共産党の大ウソ33。

 日本共産党こそ「主敵」だと書き、主として①ソ連解体後にソ連は「社会主義国」ではなかったと後づけで主張し始めた欺瞞性、②レーニンはネップで<市場経済を通じて社会主義へ>の途を切り拓いたがスターリンがそれを打ち砕いて社会主義への途から転落したという歴史叙述の大ウソ、の二つに言及し始めてから、すでに1年が経過しようとしている。
 リチャード・パイプスの著書の日本語への試訳の紹介も予定より遅れているが、上の元来の関心そのものかきわめて近い、ネップやレーニン・スターリンの関係についての、R・パイプスの1994年の著の叙述を、順番を変えて、先に試訳しておこう。原則として全てを改行し、本来の改行(段落の終わり)の箇所には、「//」を付す。
 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の、p.506-8。章名・章番号のない実質的には最終章又は結語「ロシア革命についての省察」の第6節になる。また、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.401-3 と内容がほぼ等しい。
 さらに補記すると、「レーニンとスターリン」という論点を設定する、同趣旨だがスターリンはレーニンの後継者かレーニンの破壊者かという問題について論じる、というのは1990年代には珍しくなかったとしても-簡単にR・パイプスも以下のように論及はするが-、今日でのロシア革命・ソ連史(戦前)研究ではさほど関心を惹く主題にはなっていないように見える。以下のような叙述すら珍しいようだ。
 つまりは、<化石>のごとき<スターリン悪玉論>にしがみついてレーニン(とロシア「革命」)だけは原則的に擁護しようとしているのは、ソ連や欧米を含む世界中で、日本共産党・不破哲三らのみだ、と言えるように思われる。
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 結語〔最終章〕
 第6節・レーニン主義とスターリン主義

 ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題点は、レーニン主義とスターリン主義の関係-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。そう主張して、二人の共産主義指導者の間にいかなる接合関係があることも拒絶する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式的歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑される先行者からスターリン主義後の体制を分離するという目的に役立った。
 面白いことに、レーニンの権力掌握を不可避だったと叙述する全く同じ人々が、スターリンに至ると、その歴史哲学を捨て去る。スターリンは、歴史の逸脱だと表現するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、批判された先行者の路線のあとで歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)34年間の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 スターリンの経歴を一つ例に出しても、レーニンの死後に権力を掌握したのではなく、彼は最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかだ。
 レーニンは、党の諸装置を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠は、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日々の事務を遂行したことや、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて大量の助言を与えたことを示している。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは〔共産党の〕中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 この資格にもとづいてスターリンは、ほぼ全ての党支部や国家行政部門に執行的人員を任命するのを監督した。
 レーニンが組織的な反抗者(『分派主義』)の発生を阻止するために設定していた諸規程のおかげで、スターリンは彼が執事的位置にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上は、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、彼の人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞の99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数十万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI・S・ウンシュリフト(Unshlikht)は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに『容赦なく』処理したかを、またレーニンが資本主義世界の<人道性>をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(18)
 二人にある上記の違いは、『外部者』という概念の差違にもとづいている。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して採用したのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産主義者〔党員〕の殺戮を除き-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量の虐殺〔テロル〕も含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動方式(modus operandi)はレーニンのそれらだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的にはあるいは、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思いつくことができる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして>彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそ重要な指揮命令構造を党に与えることによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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  (18) RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
  (*) 実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたヴィャチェスラフ・モロトフは、スターリンと比べてレーニンの方が『より苛酷(harsher)』だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184。
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 結章6節終わり。

1483/ムッソリーニとレーニン⑤-R・パイプス別著5章2節。

 ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源⑤。
 
前回のつづき。
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 ムッソリーニは、ファシスト政党を設立した1919年には、自分自身を社会主義者だとなおも思っていた。
 イタリアは、多数の退役者が仕事を見つけられず、インフレに苦しみ、深刻な社会不安を抱えていた。巨大な数の労働者が、ストライキに入っていた。
 このような不穏状態は、ムッソリーニを元気づけた。
 1919年1月に彼は、郵便従業員の違法な怠業を煽動し、労働者には工場を確保するように訴えた。
 ある権威者によれば、社会的混乱が頂点に達していた1919年の夏に、ムッソリーニは、工場労働者による暴力活動を訴えて無能の社会党や全国労働者連盟(General Federation of -)に高い値で自分を売り込むことすらした。彼の新聞<イタリア人民>は、<不当利得者は街路灯上の麻薬中毒者だ>と述べていた。(32)
 ファシスト党の中核になった< fasci di combattimento >の1919年6月綱領は、社会党のそれとほとんど異ならなかった。すなわち、憲法制定会議〔立憲議会、Constituent Assembly〕、一日八時間労働制、工場管理への労働者参加、国民予備軍、『資本への重税』による富裕層からの部分的剥奪、および教会財産の没収。
 労働者は、『革命的な戦争』を始めることが奨励された。(33)
 社会党の専門家はムッソリーニを、『<革命的な社会主義者>』だと見なした。(34)//
 戦争に対する立場によって信用を落としはしたが、こうした活動によってかつて社会主義者の指導者だったムッソリーニは、イタリア社会党の役職をもう一度得るのを望んだ。
 しかしながら、社会党は、彼を許そうとしなかった。社会党はファシスト党との選挙連立ブロックの形成を意図していたが、それは、ムッソリーニが排除されるという条件つきだった。(35)
 ムッソリーニは、政治的に孤立し、主に社会主義干渉主義者によって支援され、そして右翼へと振れた。
 二つの大戦間の彼の歩みを見て示唆されるのは、彼が社会党を拒絶したのではなく、社会党が彼を拒絶したこと、彼は旧宅、つまり社会党では達成できなかった政治的野心を満たすための道具として、ファシスト運動を始めた、ということだ。
 ムッソリーニの社会主義との決裂は、言い換えると、イデオロギー上のものではなく、人間的なものだ。//
 1920年遅くに始まったが、武装したファシスト騒団が、不法居住農民を打ち砕くべく農村地帯へと行進した。
 彼らは翌年早くに、北部イタリアの小都市を脅かす『懲罰遠征隊』を組織した。
 彼らは、ボルシェヴィキが実際にしたことを想起させるやり方で、物理的な暴力と脅迫を用いて、社会主義諸党や労働組合を解体させた。
 イタリアの社会主義者たちは、ロシアでの対応者〔ロシア社会民主党〕がそうだったように、このような剛腕による方法に受動的にしか対応せず、支持者たちを混乱させ、意気消沈したままに放置した。。
 ムッソリーニの行動は、工場経営者や土地保有者の支援を獲得した。
 彼はまた、休戦協定に対するイタリア人の憤懣も利用した。イタリアは勝利した連合国側で戦ったが、領土の要求を全く満足させるものではなかったからだ。
 ムッソリーニはイタリアを『プロレタリアの国』と描写して、民衆の怒りをもとに活動した。この戦術によって、不快感をもつ軍退役者の間での支持をかち得た。
 ファシスト党は、1921年11月までに15万2000人の党員を有した。そのうち24%は農業従事者で、15%は工場労働者だった。(36)//
 ムッソリーニは、ファシスト指導者になってすら、共産主義に対する共感と敬意を隠さなかった。レーニンの『残虐な力強さ』を高く評価し、ボルシェヴィキによる人質殺戮に反対しなかった。(37)
 彼は誇らしげに、イタリアの共産主義はまだ子どもだと言った。
 国会下院での1921年6月21日の最初の演説で、つぎのように自慢した。
 『私は、共産主義者をよく知っている。何人かは、私が育てたからだ。
 皮肉に見えるかもしれないが真面目に認めよう、私は、多数のブランキ(Blanqui)が弱体化した小さなベルクソン(Bergson)をイタリアの社会主義に持ち込み、イタリアの民衆を社会主義に感染させた、最初の人間だ。』(38)
 ムッソリーニは1921年2月に、ボルシェヴィズムについてこう言った。
 『あらゆる形態のボルシェヴィズムを拒否する。しかし、かりにどれか一つを選ばなければならないとすれば、モスクワやレーニンのボルシェヴィズムを選ぶだろう。それは、その総体が巨大で、野蛮で、かつ普遍的であるのだけが理由だ。』(39)
 ムッソリーニは1926年11月に、自立した政党、団体、組織を禁止する布令を発した。そのときでも、彼は共産党の存続を許した、ということを見過ごしできないだろう。(40)
 彼は1932年には、ファシズムの共産主義との親近性(affinities)を承認した。
 『全ての消極的な面で、われわれは似ている。
 われわれとロシア人は、リベラルたち〔自由主義者〕に反対で、民主主義者に反対で、議会制度に反対だ。』(41)
 (ヒトラーはのちに、ナチスはボルシェヴィキと分かたれているのではなく結びついている、と語って、これに同意することになる。(42))
 ムッソリーニは1933年に、スターリンに対して、ファシズムのモデルに従うように公然と強く迫った。
 また、ソヴェト独裁者が歴史上最もおぞましい大虐殺を完遂し終わった1938年には、最高級の賞賛をしてスターリンを褒め称えた。
 『スターリンは、レーニン体制の全体的崩壊を前にして、秘密のファシストになった。』
 ロシア人、『すなわち半野蛮な種族』のスターリンは、刑務所の囚人を懲らしめるために、香料油を強いて注ぐというファシストのやり方を見習わなかった、という違いはあるけれども。(43)//
 まずムッソリーニが、次いでヒトラーが自分たちの政治技術を真似る(copy)のを、ロシアの共産主義者は不安げに見守った。
 こんな比較がまだ可能だったのかと思う第12回党大会(1923年)で、ブハーリンは、つぎのように観察していた。//
 『ファシストの方法と闘いの特徴は、他のどの党よりも多く、ロシア革命の経験を採用し、実践へと適用したことだ。
 <形式的>観点から、つまり政治方法の技術の観点から見れば、ファシストたちがボルシェヴィキの戦術を、とくにロシアのボルシェヴィズムの戦術を完全に適用しているのが分かる。それは、権力の速やかな中央集中化、緊密に構成された軍事組織の力強い活動、また、人の力を関与させる独特な制度、Uchraspredy、総動員など、そして、必要で情勢が求めるときはいつでも敵を容赦なく破滅させること、という意味でだ。』(*)//
 歴史の証拠は、以下を示す。
 ムッソリーニのファシズムは、自分の政治的利益を促進するためにこの二つ〔社会主義と共産主義〕を攻撃するのを躊躇しなかったとしても、社会主義または共産主義に対する右翼の反応として出現したのではない。(+)
 もしも機会があれば、ムッソリーニは1920-21年頃には、強い親近性を感じていたイタリア共産党を自分の党派のもとに、喜んで抱え込んでいただろう。
 その親近性は、確実に、民主主義的社会主義者、リベラルたち〔自由主義者〕および保守主義者に対するものよりも強かった。
 ファシズムは、総括的に言うが、イタリア社会主義の『ボルシェヴィキ』派から生まれたのであり、保守的なイデオロギーまたは活動から生まれたのでは決してない。
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  (32) ロッシ, 成立, p.19。
  (33) ディ・フェリーチェ, ムッソリーニ, p.742-745。   (34) 同上、p. 730。
  (35) ロッシ, 成立, p.39。   (36) 同上、p. 163。
  (37) ノルテ, 理論, p.231。
  (38) ロッシ, 成立, p.134-5。  (39) 同上、p.138。
  (40) Eevin von Beckerath, ファシスト国家の本質と生成 (1927), p.109-110。
  (41) Yvon de Begnac, ヴェネツィアの宮殿 :ある体制の歴史 (1950), p.361。
  (42) ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning), ヒトラー語る (1939), p.134。
  (43) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, XXIX (1959), P.63-64。Gregor, ファシスト信条, p.184-5 参照。
  (*) ロシア共産党(ボ)編集のXIIS" :Stenograficheskii otchet (1968), p.273-4。
 < Uchraspredy >とは、党活動家の任命に責任をもつ[共産党の]中央委員会の機関だ。
  第12回大会の議事原案の編集者は、ブハーリンが『馬鹿げた』、『根拠なき』、『非科学的』といった比喩を用いている部分を削除した。同上、p.865。
 さらに、Leonid Luks, 共産主義的ファシズム理論の生成 (1984), p.47 を見よ。
  (+) Renzo de Felice は、運動としてのファシズムと体制としてのファシズムを明確に区別し、前者は革命的なままだったと主張する。Michael Ladeen, in :国際的ファシズム, p.126-7。
 同じことは、権力を掌握するやその権力を維持するために保守的(conservative)になったボルシェヴィズムについても言えるかもしれない。
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第2節、終わり。

1480/ムッソリーニとレーニン④-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。[第5章第2節は、p.245-p.253。]
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源④。
 ムッソリーニが社会党から除名される原因になったこの転回について、さまざまな説明が提示されてきた。
 最も好意的でない見方によると、ムッソリーニは賄賂で動かされた。-彼は、その新聞< Il Popolo d'Italia >〔イタリア人民〕を発行するための資金を提供してくれたフランスの社会主義者から強い圧力をかけられていた。
 これが示唆するのは、実際に、ムッソリーニは破産状態にあったことだ。
 しかしながら、ムッソリーニの動機は政治的なものだったというのが、もっとありえそうだ。
 ほとんど全てのヨーロッパの社会主義政党が平和主義の公約を破って政府の参戦を支援したのちに、ムッソリーニは、ナショナリズムは社会主義よりも力強いと結論したように見える。
 1914年12月に、彼はつぎのように書いた。
 『国家は消失しなかった。われわれは、国家は絶滅すると思ってきた。
 そうではなく、われわれは目の前で、国家が立ち、生き、躍動しているのを見た。
 当たり前だが、そうなのだ。
 新しい現実は、真実を抑え込みはしない。すなわち、階級は国家を破壊できない。
 階級は利益の集合体であるが、国家は、情緒、伝統、言語、血統の歴史だ。
 国家の中に階級を挿入することはできるが、それらが互いに破壊し合うことはない。』(29)
 このことの帰結は、社会党はプロレタリアートだけではなくネイション全体(the entire nation)を指導しなければならない、ということだ。すなわち、『<ナショナルな社会主義(un socialismo nazionale)>』を生み出さなければならない。
 たしかに、世界的(インターナショナルな)社会主義から国家の(ナショナルな)社会主義への移行は、野心ある西側ヨーロッパのデマゴーグについてよく理解させる。(30)
 ムッソリーニは、一つのエリート政党が指導する暴力革命という考え方に忠実なままだった。しかし彼はこれ以降は、ナショナルな革命を目指すことになった。//
 ムッソリーニの転回はまた、戦略的な思考だったと説明することもできる。すなわち、革命には国際的な〔international=国家間の〕戦争が必要だとする確信からだ。
 こういう見解はイタリアの社会党創設者たちの間では共通していた。それは、極左のセルジオ・パヌンシオ(のちファシズムの主要な理論家)が戦争開始の二ヶ月後に新聞<前へ!>で書いた、つぎの考察文にも見られる。
 『<私は、現在の戦争だけが-かつより激しくて長引く戦争が-ヨーロッパ社会主義を革命的行動へと解き放つだろうと確信する。>(中略)
 国外での戦争には、国内での戦争が続かなければならない。前者は後者を準備しなければならない。そして、その二つが一緒になって、社会主義の偉大で輝かしい日を用意しなければなならない。(中略)
 われわれ全てが、社会主義の実現は<求められ>なければならないと確信している。
 今が、<求めて> そして<獲得する>ときだ。
 社会主義が緩慢でかつ…<中立的>であれば、明日には、歴史的状況は現在の状態と類似の情勢を再確認するだけにとどまるかもしれない。しかし、客観的には、社会主義からはより離れた、しかしかつ逆の意味での転換点でありうる。(中略)
 われわれは、われわれの全てが、<全ての>諸国家が-<いかなる程度>にブルジョア国家であろうと-勝者と敗者のいずれであろうと、戦争の<あと>では、粉砕された骨とともに衰弱して横たわっているだろう、と確信する。(中略)
 資本主義は深い損傷を受けるので、最後の一撃(< coup de grace >)には十分だろう。(中略)
 平和の教条を支持する者は、無意識に、資本主義を維持する教条を支持しているのだ。』(*)//
 戦争へのこのような肯定的態度は、ロシアの社会主義者たちに、とくに極左の立場の者たちに、もう少しは率直さを抑えて語られたが、知られていなかったわけではない。
 レーニンが第一次大戦の勃発を歓迎し、それが長く続いて、破滅的になることを望んだ、という証拠資料がある。
 世界の『ブルジョアジー』を大量殺戮者と攻撃する一方で、レーニンは個人的には、その自己破壊を称賛していた。
 バルカン危機の間の1913年1月に、レーニンはゴールキにあてて、つぎのように書いた。
 『オーストリアとロシアの戦争は、(東ヨーロッパ全体の)革命にとってきわめて有用だ。しかし、フランツ・ヨゼフとニコラシュカ(ニコライ二世)は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(31)
 レーニンは、大戦中ずっと、ロシアおよびインターの社会主義運動で、平和主義に関するいかなる宣明をすることも拒否した。社会主義者の使命は戦争を止めることではなく、戦争を内乱へと、つまり革命へと転化することだと主張しつつ。//
 ゆえに、つぎの旨のドメニーコ・セッテンブリーニ(Domenico Settenbrini)の叙述には賛同しなければならない。すなわち、ムッソリーニとレーニンの戦争への態度には、一方は自国の参戦に賛成し、他方はともかくも表向きは反対しているとしても、強い類似性がある。彼はこう書く。//
 『(レーニンとムッソリーニの二人は)以下のことを悟っていた。党は大衆を革命化し、その反応を形成するための道具ではありうる。しかし、党はそれ自身によっては、革命の根本的な前提条件-資本主義的社会秩序の崩壊-を生み出すことはできない。
 プロレタリアートの自己啓発によって自動的に出現する革命精神、その結果として弱体化する市場に資本主義者が商品を売れなくなること、についてマルクスがいったい何を語っていようが、プロレタリアートはますます貧窮化し、革命精神は欠如していることが判り、資本主義秩序は破滅に向かうどころか拡張している、というのが事実だ。
 したがって、マルクスによって自動的に起動すると想定されたメカニズムには、それを補完するものがなければならない。補完するものとは、-戦争だ。』(**)
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  (29) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ, Ⅶ (1951), p.101。また、Gregor, ファシスト信条, p.171 も見よ。
  (30) ムッソリーニ, 同上。Gregor, ファシスト信条, p.168-171。
  (*) フェリーチェ, ムッソリーニ, p.245-6 から引用。この論考の正確な著者はムッソリーニ自身である可能性が指摘されてきた。
 1919年にムッソリーニは、イタリアの参戦に関して、『革命とその始まりの最初のエピソードだ。革命は戦争の名のもとで40ヶ月続いた』と語った。これは、A. Rossi, イタリアファシズムの成立, 1918-1922 (1938), Ⅱ に引用されている。
  (31) レーニン, PSS, 第48巻, P.155。
  (**) G. R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.151。
 セッテンブリーニ(Settenbrini)は、つぎの興味深い疑問を提出している。
 『かりに1914年のイタリア政府のようにロシア帝制(ツァーリ)が中立のままにとどまっていたとすれば、レーニンはいったい何をしただろうか。レーニンが熱心な干渉主義者(Interventioist)にならなかったとは、確実に言えるのではないか?』
 Settenbrini, in : George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.107。
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 ⑤につづく。

1479/レーニンの極秘文書。日本共産党・不破哲三らの大ウソ32。

 ○ R・パイプスの本を読んで訳を試みているのも、とくに二つの大著について邦訳書がないことにもよるが、単純な知的関心によるのではない。
 日本共産党、不破哲三ら、そして「左翼」学界人等々が抱いているかに見える<レーニン観(・イメージ)>を壊しておく必要があると感じているからだ。
 繰り返すが、レーニンがいなければロシアでの1917年10月「政変」はなく、ロシア共産党もなく、1919年の共産主義インターナショナル(コミンテルン)の設立もなく、したがって、1922年のその支部としての日本共産党の設立もなかった(なお、この設立の事情は不明確なところがある。月日・場所等について、在モスクワの共産主義日本人が異なる情報を寄せた可能性がある)。
 したがって、宮本顕治の日本共産党入党も在獄もなく、宮本を指導者とする1961年綱領もなく、宮本・不破哲三体制もなく、不破哲三・志位和夫体制もなかった。
 これは、たんなる時代の前後関係というのではなく、原因・結果の因果関係だと思われる。
 その日本共産党が現在もなお、ロシア革命を美化し、レーニンを原則的には擁護し、スターリンから過った、という<歴史叙述>を公然と行っている。
 つまりは、レーニン像を(そして日本共産党の「ロシア革命」観を)壊すことは現実的な意味がある。その観点からR・パイプス等々の本を捲っている。
 したがって、<実践的>または<政治的>意図・意識を持っていることを、隠そうとは思わない。
 しかし、たんなる、彼らのいう<反共デマ宣伝>をするつもりは全くなく、可能なかぎり<文献実証的に>、かつ自分自身の頭で理解して、事実を確認したいと考えている。
 ○ R・パイプスは、レーニン「陰謀家」ぶりを強調しているようだ。この人の叙述を100%信頼しているわけではなく、ロシア史、ロシア革命についての欧米の研究者にも、いくつかの傾向があることを-この欄に記してはいないが-知っている。
 だが、以下に一部紹介するレーニン自身の1922年3月の「秘密書簡」の原文(但し、英訳)を読むと、さすがにこの「ソヴェトの指導者のMentality(心性・気質)」にある「非人間的な残虐性」、「きわめて異常(exrraordinary)」さを感じざるをえない。以下以外にも多々あるが、「陰謀家」・「策謀家」あるいは「捏造家」・「煽動者」等々と評するのは、誇張では全くないだろうと思われる。
 少し上の「」内は、以下から利用した。
 ① Richard Pipes, ボルシェヴィキ体制下のロシア (1994), p.350, p.352 (「第7章・宗教に対する攻撃」)。
 これの全文は、② Richard Pipes 編, 知られざるレーニン-秘密資料から〔The Unknown Lenin, -〕(1996), p.152以下にある。
 また、① Richard Pipes, ボルシェヴィキ体制下のロシア (1994)も、ほぼ全文を1頁半にわたって引用している。但し、英訳が同じでないのは、ロシア語文の翻訳だとはいえ、興味深い。
 さらに、③ Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, The New Edition (2008), p.97- は、Richard Pipes の上掲著 (1994) を参照要求しつつ、一部を原文どおりに引用している。
 ○ もちろん、背景事情をある程度は知らないと、ほとんど理解不可能なのかもしれない。しかし、「異様さ」だけは伝わってくる。
 歴史的背景については、梶川伸一の<宮地健一のホームページ>にある、以下が詳しい(むろん、上掲の①②③も、精粗はあれ触れている)。但し、原文の邦訳文はないと見られる。
 <宮地健一のホームページ/6.二〇世紀社会主義を問う/第7部・ネップ後での革命勢力弾圧継続強化/農民問題と飢餓・飢饉の関連ファイル/梶川伸一・レーニン体制の評価について/5.秘密裡の宗教弾圧
 ○ Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, Tthe New Edition (2008), p.97-の一部原文引用部分だけでも、邦訳しておこう。残余も、邦訳しておく意味があると思われるので、機会があれば、試みるかもしれない。
 原文全体には、いわば前記と後記を除くと13の段落がある(1996年のR・パイプス編著による)。
 フィッツパトリックが原文引用しているのは、その中の、第4の段落の、さらにその一部だ(1994年のR・パイプス著によると思われる)。以下、その部分だけの試訳。
 『飢餓にある地方の人民が人肉(human flesh)を食べ、数千でなければ数百の死体が道路上に散乱しているときに、わけわれが著しく苛酷で容赦なき力を注いで教会〔ロシア正教〕財産の剥奪を実行することができる(ゆえに、そうしなれればならない)のは、まさしく今、そして今のみなのだ。』
 以下、Sheila Fitzpatrick の要約的説明が少し入る-「飢饉からの救済という助けを借りて教会財産を奪い取る[そして名目上は飢えた人々に分ける]運動(campaign)が暴力的示威活動を刺激して生じさせたシュヤ(Shuya, Shuia)について、レーニンは結論した。『巨大な数の』地方聖職者とブルジョアたちは逮捕されて、裁判にかけられなければならない、そしてその裁判はこう終わる必要がある、と」。再び、原文引用。
 その裁判は、『シュヤにいる巨大な数の最も影響力があり最も危険な黒い百を、銃撃隊が射殺する以外の方法で終わってはならない
 そしてモスクワを含む都市やその他のいくつかの聖職者の中心地だけではなく、…大きければ大きいほど、数多くの反動的な聖職者や反動的なブルジョアジーの代表者たちの処刑を、その理由でもって、より十分に達成することができる。
 われわれは今すぐ、これらの者たちに教訓を与えて、この数十年間は、いかなる抵抗も敢えてしようとはせず、かつまたそれを思い付くことすらしないようにしなければならない。』
 1922年3月19日、〔共産党〕政治局各メンバーに代わって同志マルトフあて。
 前記-『極秘いかなる理由でもコピーをとるな。だが、(同志カリーニンはもちろん)各政治局員は、この文書に関する何らかの意見を記せ。/レーニン』。
 これは、ちょうど一年前の党大会で<ネップ>政策導入がすでに決定され、日本共産党、不破哲三や志位和夫によれば、1921年10月のモスクワ県党会議における<確立>を経て、レーニンが問題を抱えつつも<市場経済を通じて社会主義へ>の途を「正しく」歩もうとしていた時期の文書だ。
 以上。 
 

1478/ムッソリーニとレーニン③-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源③。
 労働者階級は生まれながらに改良主義者だ(『経済組織(労働組合)は経済の現実が改良主義的だから改良主義者だ』)と、そして全ての政治制度のもとで、支配しているのは少数者だといったん決定するや、ムッソリーニは、かりに労働者が革命化しなければ、労働者を指導する知性と意思をもつ特権階層が必要になる、と結論づけた。(21)
 彼は1904年には、このような考え方を信奉した。(22)//
 このような前提のもとで、彼は、イタリア社会党の再建へと進んだ。
 ムッソリーニが設立した< La Lotta di Classe > (階級闘争)〔新聞〕で、レーニンがメンシェヴィキに対してしたのと同じように彼は、改良主義多数派を放逐した。誹謗中傷はレーニンほどではなかったけれども。
 レーニンは、この新聞の創刊号の中のムッソリーニの論説に、自分の名前を署名するのを躊躇しなかっただろう。ムッソリーニは、こう書いていた。//
 『社会主義は到来しつつある。そして、社会主義を実現する手段は、政治的征服によってではなく-社会党に頻繁にみられる幻惑的な理屈だ-、将来の共産主義組織の中核をすでに今日に形成している労働者協同体の数、力および意識によって、現存する市民社会の胸中に与えられている。
 カール・マルクスが<哲学の貧困>で述べるように、労働者階級は、その発展の推移のうちに、古い市民社会を、階級とその間の矛盾を廃棄する協同体(association)に取って替えるだろう。(中略)
 このように予期するならば、プロレタリアートとブルジョアジーの間の闘争は、<階級の階級に対する戦い>、最高度に表現すれば、全体的(total)な革命となる戦いだ。(中略)
 ブルジョアジーの収奪は、この闘争の最終結果だろう。そして、労働者階級が共産主義を基盤にして生産を始めるのに困難はないだろう。この戦いと征圧のための武器、制度、人間を、彼らの労働組合の中に、今日すでに用意しているのだから。(中略)
 社会主義労働者は、前衛的で果断のないかつ戦闘的な組織を形成しなければならない。その組織は、刺激し鼓舞することで、理想的目標への展望を大衆に決して忘れさせないだろう。(中略)
 社会主義は商売人の戯れ事ではないし、政治家の遊びでもなく、恋愛小説家の夢でもない。ましてスポーツではない。
 社会主義とは、個人としても集団としても精神と物質の高揚へと努力することであり、そしておそらく、人間集団の感情を掻き乱す最強のドラマだ。また、確実に苦しみ無為に過ごさないで生きたい数百万の人々の、最も大切な希望だ。』(23)//
 ムッソリーニは、党員たちの挫折した過激主義を利用して、1912年の社会党大会で穏健派を指導層から排除することに成功した。
 『ムッソリーニ派』として知られる彼の支持者の中には、のちの著名なイタリア共産主義者の何人かがいた。とりわけ、アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)がいた。(24)
 ムッソリーニは党の執行委員会へと指名され、<前へ!(Avanti !)>の編集長職を託された。
 レーニンは<プラウダ>紙上で、ムッソリーニ党派の勝利を歓迎した。
 『分裂は、困難で苦痛の出来事だ。
 しかし、ときには必要だ。その状況では、弱さや感傷の全ては…犯罪だ。(中略)
 イタリアの社会主義プロレタリアートの党は、その真ん中からサンディカリストと右派改良主義者を放逐して、正しい途を進んだ。』(25)//
 1912年、30歳に1年足らないムッソリーニは、イタリアの革命的社会主義者の、または『非妥協者』たちの、指導者になることが運命づけられているように見えた。
 しかし、それは現実とはならなかった。イタリアの参戦問題に関する彼の考えの転回が理由だった。//
 レーニンのように、ムッソリーニは1914年の前に、政府が宣戦すれば社会主義者は内乱的暴力でもって答えるだろうと脅かした。
 1911年に政府がトリポリ(リビヤ)へ兵団を派遣したあとで、ムッソリーニは、社会主義者は『諸国間の戦争を階級間の戦争に』変える用意があると警告した。(26)
 この目的を達する手段は、一般的ストライキ〔ゼネ・スト〕だった。
 ムッソリーニは、第一次大戦の直前に、この警告を繰り返した。かりにイタリアが中立を放棄して連合国に抗する中央勢力に加わるならば、プロレタリアの蜂起に直面するだろう、と。(27)
 ファシズム歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は、何らかの理由でレーニンを無視して、ムッソリーニは戦争になれば反乱だと政府を威かしたヨーロッパのただ一人の重要な社会主義者だ、と主張している。(28)//
 戦闘が勃発して、全く予期しなかったことだが、ヨーロッパの社会主義者たちが進んで軍事借款に賛成票を投じたことは、ムッソリーニの自信を激しく動揺させた。
 彼の同僚が驚いたことに、ムッソリーニは1914年11月に、イタリアの連合国側への参戦に賛成することを明らかにした。
 この言葉と行動を合わせるために、彼は軍に歩兵として加入し、1917年2月まで戦闘に加わった。そのとき彼は、重傷を負って後方に送られた。//
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  (21) De Felice, ムッソリーニ, p.122-3。
  (22) Gregor, ファシスト信条, p.145。
  (23) 1910年1月9日付の論説, in : ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅲ, p.5-7。
  (24) Gregor, 若きムッソリーニ, p.135。
  (25) レーニン, PSS, 21巻, P.409。
  (26) < La Lotta di Classe >(階級闘争〔新聞〕)1911年8月5日号。De Felice, ムッソリーニ, p.104. に引用されている。
  (27) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅳ (1953), p.311。
  (28) エルンスト・ノルテ, ファシズムの三つの顔 (1965), p.168。
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 ④につづく。

1477/ムッソリーニとレーニン②-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源②。
 ムッソリーニは、レーニンのように、政治の特性は闘いだと考えた。
 『階級闘争』は彼にとっては、言葉の字義のとおりの意味で、戦争だった。どの支配階級もかつてその富や力を平和的に放棄したことはないのだから、それは暴力的な形態をとるはずだった。
 彼はマルクスを尊敬し、経済学や社会学のゆえではなく、『労働者暴力に関する大哲学者』であるために、『父親であり教師』だと称した。(17)
 ムッソリーニは、議会制という策謀でもって教条を進化させているつもりの『法廷社会主義者』を軽蔑した。
 また、労働組合主義も信用しなかった。それは労働者を階級闘争から逸脱させるものだと考えていた。
 1912年に彼は、レーニンのペンで書かれているかのような、つぎの文章を書いた。
 『たんに組織されているだけの労働者は、利益という暴力にのみ服従するプチ・ブルジョアに変わる。
 理想を訴えても、何も聴かれないままだ。』(18)
 社会主義を放棄したあとですらこのような見方に忠実であり続けた。1921年にファシスト指導者として、彼は、労働者を『生まれながらに、…信心深くて根本的に平和主義的だ』と描写した。(19)
 こうして、レーニンから独立して、社会主義者とファシストの両方の精神性を具現化したものになって、ムッソリーニは、ロシア過激派のいう『随意性』を拒絶した。自分が考えたことだが、労働者は革命を起こさず、資本主義者と取り引きをする。これは、レーニンの社会理論の神髄だったのだが。(*)//
 このように考えて、ムッソリーニはレーニンが直面したのと同じ問題に向かい合った。生まれながらに反革命的だと言われる階級と一緒に、どうやって革命を起こすのか。
 ムッソリーニは、レーニンがしたように解決した。労働者の中に革命的暴力の精神を注入する、エリート党の結成を主張することによって。
 レーニンの前衛政党という考えは人民の意思の経験にもとづいていたが、ムッソリーニのそれは、ガエターノ・モスカとヴィルフレド・パレートの書物によって塑形された。この二人は、1890年代と1900年代の初めに、エリート集団の間の権力闘争という政治観を広めていた。
 モスカとパレートは、同時代の哲学理論、とくにアンリ・ベルクソン(Henri Bergson)のそれの影響を受けていた。ベルクソンは、主意主義を主張して『客観的』要因が社会行動にとって決定的だとの実証主義哲学者の考えを拒否した。
 しかし、このエリート理論を主に起動させたのは、民主制は作動していないという19世紀末に向かう民主制の実際の姿を観察したことだ。
 大陸〔ヨーロッパ〕の民主制が次々に起こる議会制の危機と醜聞に悩まされたというだけではない-イタリアでは1890年代の10年間に6回も内閣の交代があった-。そうではなく、集まる証拠資料によれば、民主主義的諸制度は、寡頭的少数者の隠された支配のための外被(facade)として役立っていた。
 このように観察して、モスカとパレートは、第一次大戦後のヨーロッパ政治に深い影響を与えた理論を定式化した。
 政治における『エリート主義』との観念は、平凡だと思われるほどに十分に西側の思想界に吸収された。カール・フリートリヒによれば、エリート理論は『西側思想史の最近三世代にわたる重要な主題になった。』(20)
 しかし、世紀の変わり目には、ひどく新奇な考えだった。<支配階級>の中でモスカは、少数者が多数者を支配することを認めるのは、多数者が少数者を支配するのを認めることよりもむつかしいことを受容していた。//
 『組織された少数者の組織されない多数者に対する支配は、ただ一つの衝動に従うことにより、避けることができない。
 いかなる少数者の権力も、組織された少数者の全体(totality)の前に独りで立つ多数派の個々人にとっては諍い難いものだ。
 同時に、まさに少数派であるというその理由で、少数者は組織される。
 共通の理解のもとで均一にかつ一致して行動する100人の人間は、協力しない、ゆえに一人一人が取り引きされうる1000人に対して勝利するだろう。』(**)//
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  (17) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ Ⅱ(1951), p.31, Ⅳ(1952), p.153。
  (18) 同上、Ⅳ, p.156。
  (19) A. Rossi, イタリアのファシズムの成立 1918-1922 (1938), p.134。
  (*) イタリアの社会主義者世界では、階級意識は階級上の地位の自然の産物ではないという考え方は、1900年とそれ以降の多様な社会主義理論家によって拒否されていた。
 とりわけ、Antonio Labriola, A. O. Olivetti, Sergio Panunzio 。A. James Gregor, ファシストの政治信条 (1974), p.107。
  (20) カール・J・フリートリヒ, 常識人の新しい姿 (1950), p.246。
  (**) ガエターノ・モスカ(Gaetano Mosca), 支配階級 (1939), p.53。
 この理論は、全体主義体制が対抗政党だけでなく例外なく全ての組織を破壊して奪い取ることを強く主張した理由を説明している。社会の原子化は、少数者が多数者をはるかに効率的に支配することを許してしまう。
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 ③につづく。

1475/ムッソリーニとレーニン①-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源①。
 第一次大戦前の著名な社会主義者の中で、ムッソリーニほどレーニンに似ている人物はいない。
 レーニンのように、ムッソリーニは、自国の社会主義政党の反修正主義派を率いた。
 レーニンのように彼は、労働者は生まれながらに革命的なのではなく、知識人エリートによって革命的行動へと突つかれなければならない、と考えた。
 しかし、ムッソリーニの考えにはより適した環境の中で仕事をした間、添え木となる党を形成する必要が彼にはなかった。
 少数党派の指導者だったレーニンは分離しなければならなかったが、一方のムッソリーニは、イタリア社会党(PSI)の多数派を獲得して、改良主義者を排除した。
 1914年にムッソリーニの戦争に関する考え方の転回が起こらなかったならば、彼は十分に、イタリアのレーニンになっているかもしれなかった。彼は、連合国側へのイタリアの参戦に賛成することを明らかにして、イタリア社会党から除名されたのだった。
 社会主義歴史家は、ムッソリーニの初期の伝記にあるこのような事実を恥ずかしく感じて、それらを抑えて公表しなかったか、社会主義との一時的な戯れとして叙述した。その戯れをした人物の知性の師は、マルクスではなく、ニーチェとソレルだとされた。(*)
 しかしながら、このような主張は、つぎの事実と一致させることが困難だ。すなわち、イタリアの社会主義者たちは、十分に将来のファシズム指導者について考慮して、1912年に党機関である新聞 <前へ!(Avanti !)>の編集長に指名した、ということだ。(14)
 社会主義との一時的なロマンスとは全く違って、ムッソリーニは熱烈に社会主義に傾倒していた。
 1914年の10月まで、いくつかの点では初期の1920年まで、労働者階級の性質、党の構造と活動、社会主義革命の戦略に関する彼の考え方は、レーニンのそれに著しく似ていた。//
 ムッソリーニは、無政府主義的サンディカリストとマルクス主義者の信条をもつ、貧しい伝統工芸家の息子として、イタリアの最も過激な地方であるロマーニャ地方で生まれた。
 父親は彼に、人間は二つの階級に、被搾取者と搾取者とに分けられる、と教えた。(これは社会主義指導者としてムッソリーニが用いた定式だった。『世界には二つの祖国がある。被搾取者の国と搾取者の国だ』。-sfruttatiと sfruttatori。)(15)
 ムッソリーニはボルシェヴィズムの創設者と比べれば低層の出自で、その過激主義はより多くプロレタリアの性質を帯びていた。
 彼は理論家ではなく、戦術家だった。暴力の重要視とともに無政府主義とマルクス主義の混合物である彼の知識人エリート主義は、ロシアの社会主義革命党のイデオロギーと似ていた。
 19歳のときの1902年に、ムッソリーニはスイスに移り、一時雇い労働者として働き、余暇には勉強して、きわめて貧乏な二年間をすごした。(*)
 彼はこの期間に、過激派知識人と交際した。
 確実ではないけれども、ムッソリーニがレーニンと会った、ということはありうる。(++)
 この期間に頻繁にムッソリーニを見たアンジェリカ・バラバノッフによれば、彼は虚栄心をもち自己中心的で、異様な興奮をしがちだった。また、その過激主義は、貧困と金持ちへの憎悪に根ざしていた。(16)
 この時期にムッソリーニは、長く続く改良主義者や進化論的社会主義に対する敵意を形成していった。
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  (+) ソレル(Sorel)はムッソリーニに対して大きな影響を与えたというのは、反ファシスト文献上の長く続く神話だ。彼の影響は小さく一時的なものであることを、証拠資料は示す。以下を見よ。Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938), p.228. ;エルンスト・ノルテ(Ernst Nolte), ファシズムとその時代 (1963), p.203。
 ムッソリーニの暴力カルトは、ソレルではなくて、マルクスに由来する。ソレルはたまたま、1919年9月に、レーニンへの賛辞を書いた(「レーニンのために」in :暴力に関する考察, 10版, (1946), p.437-54.〔仏語〕)。
 ソレルはそこで、「マルクス以後の社会主義の偉大な理論家であるとともにその天才ぶりはピエール大帝のそれを想起させる」ムッソリーニの知的発展に自分が寄与した、というのが、噂になっているように本当であれば、きわめて誇らしい、と書いた。
  (14) ムッソリーニの初期の社会主義やレーニンのボルシェヴィズムへの親近感についてきちんと取り扱った書物の中に、以下がある。Renzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965) ;Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938)。A. James Gregor のつぎの二つ, 若きムッソリーニとファシズムの知的淵源 (1979), ファシストの政治信念 (1974)。および、Domenico Settenbrini の二つの論文, 「ムッソリーニとレーニン」in :George R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.146-178, 「ムッソリーニと革命的社会主義の遺産」in :George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.91-123。
  (15) ベニート・ムッソリーニ, オペラ・オムニア (1952), p.137。   
  (*) この移動は、徴兵を避けたい気持ちからだったと、ふつうは説明されている。しかし、James Gregor は、ムッソリーニは1904年にイタリアに戻ってきて翌二年間を軍役ですごしたので、原因とはなりえなかった、と指摘した。James Gregor, 若きムッソリーニとファシズムの知的起源 (1979), p.37。
  (++) Benzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965), p.35n は、この遭遇はあった、と考えている。
 ムッソリーニはレーニン(「ロシア移民は絶えず名前を変えていた」)と会ったか否かの質問に決して明確には答えなかったが、一度、謎めかしてつぎのように語った。『私が彼〔レーニン〕を知っているのより遙かに多く、彼は私について知っていた』、と。
 彼はいずれにせよ、この期間に、翻訳されたレーニンの著作物のいくつかを読んだ。そして、『レーニンに捕まった』と言った。Palazzo Venezia, ある体制の歴史 (1950), p.360。
  (16) アンジェリカ・バラバノッフ(Angelica Balabanoff), 反逆者としてのわが人生 (1938), p.44-52。
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 ②につづく。

1474/全体主義の概念②-R・パイプス別著5章1節。

 前回のつづき。
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 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・『全体主義』の観念②。
 ココミンテルンが定式化した、左翼には優勢の見方によれば、『ファシズム』は共産主義の正反対物で、この二つを『全体主義』という傘の下に置く試みは、冷戦の産物だとして却下される。
 この見方によれば、『ファシズム』は、最終的な消滅へと進む資本主義における帝国主義段階の一様相だ。
 包囲されかつ驚いて、『独占資本主義』は、労働者階級の支配を維持しようと絶望的な努力をして、『ファシスト独裁制』に頼っているのだ。
 共産主義インターナショナル〔コミンテルン〕執行委員会は1933年に、ファシズムを『金融資本主義の、最も反動的で狂信愛国主義的なかつ帝国主義的な要素をもつ、公然たるテロリスト独裁制』と定義した。(9)
 傾倒したマルクス主義者にとっては、議会制民主主義と『ファシズム』の間に何の違いもない。ただ、ブルジョアジーが労働者大衆の要求に対抗して自らを守る方法が違うだけだ。
 『ファシズム』は、財産関係を維持し続けるがゆえに保守的だ。『社会主義社会への自然の発展を妨げようとする点において、革命的ではなく、反動的であり、または反革命的ですらある。』(10)
 ムッソリーニやヒトラーの体制にある革命的な要素は、現代人には驚くべきことに、欺瞞的な策略(deceptive maneuvers)だと叙述される。//
 『全体主義』観念やボルシェヴィズムは『ファシズム』に影響を与えたという示唆に反対する論拠には、二つの範型がある。
 低い議論の次元では、人身攻撃(ad hominem)の方法が用いられる。
 『全体主義』の観念(concept、コンセプト)は、冷戦を闘うための武器として考案されたと言われる。共産主義をナツィズムと接合させることは、世論が反ソヴェト同盟へと向かうのを助ける、というのだ。
 この観念は実際には、冷戦の優に20年前には存在していた。
 『全体的(total)』政治権力や『全体主義』の観念は、1923年に、ムッソリーニの反対者だった(のちにファシストに殺害された)ジョヴァンニ・アメンドーラによって定式化された。彼はムッソリーニによる国家制度の体系的な破壊を観察して、ムッソリーニ体制は伝統的に言う独裁制とは根本的に異なっている、と結論した。
 ムッソリーニは1925年に、『全体主義』という用語を採用し、肯定的な意味を与えた。
 彼は、『精神的なものも人間的なものも』全てを、『国家の外にある全てではなく、国家に反抗する全てではなく、国家の内部にある全てのもの』を政治化する、という意味で『全体的な』ものだと、ファシズムを定義した。(*)
 ヒトラーの勃興とそれと同時に起こったスターリンのテロルがあった1930年代に、この用語は、学者世界で受容されていた。
 これら全ては、冷戦のとっくに前に生じていたのだ。//
 『全体主義』との語を拒絶する、より真剣な理論家は、その論拠をつぎのように述べる。
 第一に、いかなる体制も完全な政治化や国家統制を実施することができなかった。第二に、いわゆる『全体的』体制に帰属する特質は、それに独特なものではない。
 『言葉の厳格な意味で全体的という呼称を使える制度は存在しない』。
 さらに論述は続く、『なぜなら、どこにでも多かれ少なかれ多元主義的な屑滓は残っているのだから。』、と。
 換言すると、明確に特徴的だとされる『単一体』を実現することなどできない。(11)
 これに対しては、つぎのように答えることができる。
 『厳格な』意味づけという標識でもってつねに判定されるならば、社会科学の学術用語は、全てが考査に合格しないだろう。
 何人も、『資本主義』について語ることはできないだろう。なぜならば、レッセ・フェール(laissez-faire)経済の全盛期においてすら、政府は規制していたし、そうでなくとも市場の活動に介入していたのだから。
 また、このような規準によるならば、何人も『共産主義経済』を語ることができないだろう。なぜならば、ソヴェト同盟では理論上は99%が国有で国家管理のもとにあったとしてすら、つねに『第二の』自由経済部門(sector)の存在を黙認しなければならなかったからだ。
 民主主義は、民衆による統治を意味する。しかし、政策に影響を与える特定の利益集団がどの最も民主主義的な国家でも存在していることを、政治理論は何の困難もなく承認している。
 このような諸概念は、所与の体制が欲するものは何か、得るものは何かを伝達するがゆえに、有用なのだ。-自然科学ではなされるような、辞書上の用語の意味での『厳格に』語ってではなく、人間世界で最大限に一致していることを大まかに語って伝えるのだ。
 実際に、全ての政治的、経済的および社会的な制度は『混合』したもので、どれ一つ純粋なものではない。
 学者の仕事は、総体として所与の制度を際立たせて他者と分離させる、その総体を識別することだ。
 より厳格な規準を『全体主義』概念に適用する、いかなる合理的で知的な根拠も存在しない。
 じつに、全体的な熱望はきわめて高いので、ハンス・ブーフハイムによれば、まさにその本性のゆえにそれを認識することができない。ブーフハイムは、つぎのように述べる。//
 『全体的支配は不可能なことを-人の人格と運命を完全に統御することを-追求するので、部分的にしか認識され得ない。
 目標は決して到達できないもので現実になることもなく、力への一つの勢い、一つの<要求>にとどまり続けなければならない、というのが、全体主義の本質だ。
 全体的支配は単一的に推論できる装置ではなく、各部分が同等に働いている。
 これは望ましい状態で、ある分野では現実にも理想に接近しているのかもしれない。しかし、全体(whole)として見ると、力への全体的な要求は、変転する強さ、異なる時間、多様な生活領域が伴う、拡散した方法でのみ、認識される。-そして、全体的な特質はつねに、非全体的なものとの混合物なのだ。
 しかし、力への全体的要求の結果は危険で暴虐的だというのは、まさにこの理由からだ。この要求は不明瞭で予見不能で、存在を証明するのが困難だ。(中略)
 全体的な総体に関するほとんどどの考察にも、ある事項については誇張し、別の事項については過小に評価するという、致命的な特徴がある。
 この逆説は、認識できない統御への要求から生じている。それは全体的な統治のもとでの生活に特徴的なものであり、全ての外部者が把握することをきわめて困難なものにしている。』(12)//
 全体主義の(イデオロギーへの傾倒、大衆への訴え、カリスマ的指導者のような)属性はどの政治体制にも存在している、という主張に対しても、同様の答えをすることができる。
 『いかなる構成物にも歴史上の独特さがあるという論拠は、「全体として(wholly)」独特だということを意味してはいない。そんなものは何一つないからだ。
 全ての歴史事象は、…分析対象を幅広く分類したもののうちのいずれかに属している。
 歴史はまずは、人間であれ物であれ、また事件であれ、個別的なものにかかわる。そして、歴史上の独特さは、特徴的な要素を十分に多様な図柄にしたもので成り立っているのだ。』(13) //
 イタリアのファシズムとドイツの国家社会主義について研究するためには、ロシア革命を理解することがきわめて重要だ。その少なくとも三つの理由は、つぎのとおりだ。
 第一に、ムッソリーニとヒトラーは、民衆を脅かして独裁権力に屈服させるために、共産主義という妖怪を利用した。
 第二に、二人とも、個人的に彼らに忠実な政党を造り上げ、権力を奪取して一党独裁体制を樹立する技術について、きわめて多くのことをボルシェヴィキから学んだ。
 これら二つの点で、共産主義は、社会主義や労働者運動に対してよりも大きい影響を、『ファシズム』に対して与えた。
 そして第三に、ファシズムや国家社会主義に関する研究文献は共産主義に関するそれよりも、多くかつより精細だ。それらに慣れ親しむことは、ロシア革命が出現させた体制に対して、多くの光をあてる。//
 影響は大きいので、歴史家は危うい地形に嵌まるかもしれない。なぜならば、前後関係のゆえに因果関係あり(post foc ergo propter hoc)という、その後で生じたからそれが原因だとの謬論に陥る危険性があるからだ。
 共産主義はファシズムと国家社会主義の『原因』になった、と言うことはできない。これらの源泉は生まれた地にあったのだから。
 しかし、つぎのことは言うことができる。すなわち、大戦後のイタリアとドイツでひとたび反民主主義的勢力が十分な強さを獲得したとき、その指導者たちの手には、従うことができるモデルが用意されていた。
 全体主義の全ての属性の先行形は、レーニン・ロシアのうちにあった。つまり、公式の包括的なイデオロギー、『指導者』を長として国家を支配する単一のエリート政党、警察のテロル、通信手段と軍隊に対する支配党の統制、経済への中央からの指令。(**)
 これらの制度と過程は、ムッソリーニがその政府をヒトラーがその党を設立した1920年代早くに、他のいかなる国でも見出せなかったが、すでにソヴェト同盟にはあった。
 したがって、『ファシズム』と共産主義の間には何の連結関係もないということの立証責任は、そのような見解の持ち主の側にある。//
  (*) 1950年代と1960年代のガーナの独裁者で、ソヴェトとの同盟者だったクワメ・クルマーは、自分の碑につぎの言葉を彫りこんだ。『まずは政治王国を探求せよ。そうすれば全ての他事は君の上に加わるはずだ。』
  (9) レオニード・ルークス, 共産主義者のファシズム理論の生成 (1984) p.177。
  (10) アクセル・クーン, ファシストの支配体制と現代社会 (1973) p.22。
  (11) ザイデル=イェンカー, 途 p.26。同じ反論は以下からも述べられている。クーン in, ファシスト的支配体制, p.87。
  (12) ブーフハイム, 全体的支配, p.38-39。
  (13) フリートリヒ, 全体主義, p.49。
  (**) これらの標識は、カール・J・フリートリヒとズビグニュー・K・ブレジンスキーによって、彼らの<全体的独裁と専制>(1964) p.9-10 で確立された。
 経済計画は1927年のロシアで最初に実現されるが、その基礎作業は、レーニンのもとで、1917年遅くの国家経済最高会議(VSNKh)の設立によって行なわれていた。R・パイプス『ロシア革命』第15章を見よ。
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 第2節へつづく。 

1472/R・パイプス著『ボルシェヴィキ体制下のロシア』の内容・構成。

 既述のように、①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>とは別の、リチャード・パイプスの著に、② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)<原著・大判で約600頁>がある。これら二つを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。
 上の①の構成・目次とそこに掲げられている年表はすでに紹介し、第9章にかぎって試訳を行った。上の②の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)〔パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア〕の目次・構成は、つぎのように成っている。章番号については「章」という語はなく数字だけだが、「章」を加えた。
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 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)
 第1章/内戦-最初の戦闘(1918)
 第2章/内戦-頂点(1919-20)
 第3章/赤色帝国
 第4章/革命の輸出
 第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 第6章/プロパガンダとしての文化
 第7章/宗教に対する攻撃
 第8章/ネップ・偽りのテルミドール
 第9章/新体制の危機
 〔数字なし〕/ロシア革命に関する省察
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 以上のうち、第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、目次上では数字番号と「節」にあたる文字はないままに、つぎの節に分かたれている。但し、本文には見出し文章はなく、各節の間の区別は、一行の空白を挿入することによってなされている。
 National Socialism は、「国民社会主義」が定訳なのかもしれないが、「国家社会主義」と訳しておいた。
 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・「全体主義」の観念。
  第2節・「レーニン主義者」を源とするムッソリーニ。
  第3節・ナツィの反ユダヤ主義。
  第4節・ヒトラーと社会主義。
  第5節・全体主義三体制の共通性。
   1・支配政党。
   2・支配党と国家。
   大衆操作とイデオロギーの役割。
   3・党と社会。
  第6節・全体主義諸体制の差違。
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 以上。[注記、翌3/29に第5章内の節区分けの表示を改めた。]
  

1470/第一次大戦と敵国スパイ④-R・パイプス著9章10節

 前回のつづき。かつ、とりあえずの(第9章の試訳の)最終回。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵国スパイ。

 1916年4月に、ツィンマーヴァルト会議の続きが、ベルン高原地方のキーンタールで開かれた。
 この会合は社会主義インター委員会により招集され、三年目に入ろうとしている戦争について議論をした。
 インターナショナルの平和派を代表する参加者は、ツィンマーヴァルト左派に従うことを再び拒否した。しかし、前年よりさらに左派に対して柔軟になった。
 会議は『平和問題へのプロレタリアートの態度』という決議で、資本主義の基盤での戦争を非難し、『ブルジョア的であれ社会主義的であれ、平和主義は』人類が直面している悲劇を解消することができない、と強く主張した。//
 『資本主義社会が永続する平和の条件を提示できないならば、その条件は社会主義によって提示されるだろう…。
 <永続平和を目指す闘いは、ゆえに、社会主義の実現を目指す闘いでのみありうる。> 』(133)
 これの実際的な帰結は、『プロレタリアートは即時休戦と講和交渉の開始を求めて呼びかけるべきだ』ということだった。
 再び言おう。反乱を起こすことや銃砲をブルジョアジーに対して向けることの呼びかけではない。しかし、このような行為は決議の前提から排除されてはおらず、多くのことはその中に暗に含まれていたと言うことができるかもしれない。
 ツィンマーヴァルトでしたように、レーニンは、つぎのようなプロレタリアートへの訴えで締め括る、左派のための少数派報告書を書いた。
 『武器を置け。その武器を、共通の敵(foe)-資本主義政府に向けよ。』(*)
 レーニンの声明文の下の(44人の参加者のうちの)12の署名者の中には、ラトヴィアを代表するジノヴィエフ、オランダのそれのカール・ラデックがあった。
 ジノヴィエフの草案にもとづく『社会主義インターナショナル事務局(Bureau)』に関するキーンタールの鍵となる決議は、左派の要求をほとんど満たすもので、この組織がいわゆる<祖国防衛と公民の平和>政策の共犯者に変わることを非難し、また、つぎのように論じた。//
 『インターナショナルは、<プロレタリアートが全ての帝国主義者と狂信愛国主義者の影響から自らを解放し、階級闘争と大衆行動への途を進むことができる>まで、その明確な政治力を有するに至ってのみ、解体を免れることができる。』(134)//
 インターナショナルの分裂を求めるレーニンの主張は再び敗北したけれども、会議が終わったあとで、右派のメンバーの一人、S・グルムバッハは、なおもつぎのように述べた。
 『レーニンとその仲間たちは、ツィンマーヴァルトで重要な役割を果たした。キーンタールでは<決定的な>役割を果たした。』(135)
 じつに、キーンタールの決議は、レーニンが創設した第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕の基礎作業だった。//
 1915-16年におけるツィンマーヴァルトとキーンタールでのレーニンの成功は、社会主義者たちを言葉上だけで信頼させたこと、彼らが美辞麗句(rhetoric)に酔うことを求めたことによっていた。
 これによってレーニンは、外国の社会主義団体の間で小さいがしかし熱烈な支持を獲得した。
 より重要なことは、こうした立場によってレーニンが社会主義運動上の道徳的な高位を掴んだために、彼の反対者たちは弱体化し、彼と闘うことが妨げられたことだ。
 インターの指導者たちは、レーニンの陰謀好きや誹謗中傷を軽蔑した。しかし、自分たち自身と縁を切ることなくして、レーニンと絶縁することはできなかった。
 レーニンはその戦術によって、社会主義インターの運動を徐々に左傾させ、ついには自分の党派から分裂させた。ちょうどロシア社会民主党について行なったように。// 
 これを言ったがまた、レーニンとクルプスカヤには戦時中の数年間は、苛酷な時期、貧困とロシアからの孤立の時代だったことも注記しておかなければならない。
 彼らはスラム街に接した区画に住み、犯罪者や売春婦たちと一緒に食事をして、かつての多数の友人から捨てられたと感じていた。
 以前の何人かの支持者ですら今や、レーニンは変人で、『政治的イエズス会士〔策謀家〕』で、廃人だと見なすようになった。(136)
 かつてレーニンの最も親密な仲間の一人だった、そして今は軍需産業に勤める官僚として快適な生活をしているクラージンがレーニンへの寄付を求められて接近されたとき、彼は二枚の5ルーブル紙幣を差し出して、つぎのように言った。
 『レーニンは、支援に値しない人物だ。
 危険なタイプだ。そのタタール頭に芽生えている狂気がいかなるものかを知ってはならぬ。
 レーニンよ、くたばれ!』(137)//
 レーニンが逃亡している間の唯一の光のひと筋は、イネッサ・アルマンドとの情事だった。彼女は、音楽ホールの芸術家二人の娘で、金持ちのロシア人の妻だった。
 チェルニュインスキーの影響を受けたイネッサは、夫と離婚し、ボルシェヴィキ党に加入した。
 彼女は1910年にパリで、レーニンとその妻に会った。
 まもなく忠実な支持者になるとともに、クルプスカヤの暗黙の了解を得て、レーニンの愛人になった。
 ベルトラム・ヴォルフェはイネッサについて『献身的で情熱的なヒロイン』のように語るけれども、しばしば彼女に逢ったアンジェリカ・バラバノッフは、つぎのように描写する。すなわち、『完全な-ほとんど受動的な-レーニンの指示の実行者』、『厳格にかつ無条件に服従する完璧なボルシェヴィキ党員の原型(prototype)』。(138)
 イネッサ・アルマンドは、レーニンがかつて緊密な人間関係を築いた、唯一の人間(human being)だったように思われる。//
 レーニンは、ヨーロッパ革命がいずれ勃発するという信念を失わなかった。しかし、その見込みは遠いように思えた。
 帝国政府は十分に、1916年に大攻撃を行なうべく1915年の軍事的かつ政治的な危機を見通していた。
 ペテログラードにいる工作員、アレクサンダー・シュリャプニコフが送ってくる散発的な通信によって、レーニンは、悪化するロシアの経済状況や都市住民の不満について知った。(139) しかし、彼はこの情報を無視して、帝国政府にはこのような困難を克服する能力があると明らかに信じていた。
 1917年1月9日/22日にツューリヒの青年社会主義者の集会で講演した際、レーニンは、つぎのように予言した。
 ヨーロッパでの革命は、不可避だ。一方でしかし、『われわれ古い世代の者はおそらく、来たりくる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(140)
 この言葉は、帝国の崩壊の8週間前に、発せられていた。//
  (*) レーニンはこのとき、こう書いた。〔以下、文献を省略〕
 『客観的に見て、平和というスローガンは、いったい誰の利益になるのだ。確実に、プロレタリアートではない。これは資本主義の崩壊を速めるために用いる考え方ではない。』
 これを引用して、アダム・ウラムは、こうコメントする。
 『レーニンは、数百万の人間の生命にとっても「平和というスローガン」が「利益」になりえた、という事実を看過した。』
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 リチャード・パイプス著『ロシア革命』第9章の試訳を、とりあえず、終える。

 

1468/第一次大戦と敵国スパイ③-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。③
 パルヴゥスの申し出を拒否はしたが、レーニンは、あるエストニア人、アレクサンダー・ケスキュラを通してドイツ政府との政治的かつ金銭的な関係を維持した。(*1)
 ケスキュラは1905-7年に、エストニアのボルシェヴィキの指導者だった。 
 彼はのちに、エストニアの熱心な愛国者となり、母国の独立を目指そうと決心していた。
 帝制ロシアの打倒はドイツ軍によってのみ達成されるとパルヴゥスのように考えて、ケスキュラは大戦の勃発の際に、ドイツ政府にその身を委ね、その諜報機関に加わった。
 ドイツの援助を受けて、彼はスイスやスゥェーデンの外からロシア移民からロシア内部の状況に関する情報を確保したり、ボルシェヴィキの戦争反対文献をそれらの国へとこっそり輸入したりする活動をした。
 1914年10月にケスキュラはレーニンと逢った。ケスキュラは、帝制体制の敵およびエストニアの潜在的な解放者として彼〔レーニン〕に関心をもっていた。
 かなりの年月を経てケスキュラは、自分はボルシェヴィキを直接には財政支援しなかった、そうではなく間接的にその金庫に寄付をして、出版物の刊行を援助したのだ、と主張した。
 これらはいつでも、困窮化しているボルシェヴィキ党を支援する重要な財源だった。しかし、ケスキュラは、レーニンに直接に援助したかもしれない。
 明らかにケスキュラの要請に応えて、レーニンは1915年9月に、彼に奇妙な七点の綱領的な文書を与えた。それは、革命的ロシアがドイツとの講和を準備する条件を概述するものだった。
 この文書は第二次大戦のあとで、ドイツ外務省の建物の文書庫で発見された。(++)
 この存在は、レーニンがケスキュラをたんなるエストニアの愛国者ではなくてドイツ政府の工作員(agent、代理人)だと見ていたことを示している。
 ロシアの内部事情に関係がある点(共和制の宣言、大財産の没収、八時間労働の導入、少数民族の自治)は別として、レーニンは、ドイツがすべての併合と援助を放棄した場合に分離講和の可能性があると確言した。
 レーニンはさらに、ロシア軍のトルコ領域からの撤退とインドへの攻撃を提案した。
 ドイツは確実にこれらの提案を心に留め、一年半後に、レーニンがその領土を縦断してロシアへと帰るのを許した。//
 ベルリン〔ドイツ政府〕から渡された資金を使って、ケスキュラは、レーニンとブハーリンの著作物をスウェーデンで発行すべく手配した。ボルシェヴィキ党員たちは、これらの本をロシアへとこっそり持ち込もうとした。
 このような援助金の一つを、あるボルシェヴィキ工作員が盗んだ。(129)
 レーニンは返礼として、ロシアにいる彼の工作員から送られたロシアの内部状況に関する報告書をケスキュラに進呈した。ドイツは、明白な理由で、この報告書に鋭敏な関心を寄せた。
 1916年5月8日付の配達便で、ドイツ軍参謀部の官僚は、東方面の破壊活動に責任をもつ外務省部局の職員に、以下のように報告した。
 『最近数ヶ月に、ケスキュラはロシアとの多くの関係を新しく開設した…。
 彼はきわめて有用なレーニンとの関係も維持しており、ロシアにいるレーニンの秘密工作員から送られた状勢報告の内容をわれわれに伝えた。
 ゆえにケスキュラには、引き続いて今後の必要な生活手段が与えられなければならない
 異常に不利な交換条件を考慮すれば、一月あたり2万マルクでちょうど十分だろう。』(*2)
 レーニンは、パルヴゥスの場合と同じく、ケスキュラとの関係について、生涯の沈黙を守った。そしてそれは、理解できる。その関係は、ほとんど大逆罪(high treason)に該当するからだ。//
 1915年9月に、スイスのベルン近くの村、ツィンマーヴァルトで、イタリアの社会主義者が発案した、インターナショナルの秘密会合が開かれた。
 ロシア人は、出席した二つの党派の社会民主党とエスエル党により、強い代表者を持った。
 集団は、すぐに二派に分裂した。より穏健派は、戦争を支持する社会主義者との連携を維持することを求めた。左翼派は、きつぱりと離別することを主張した。
 38代議員のうちの8名から成る後者を率いるのは、レーニンだった。
 多数派は、『帝国主義者(imperialist)』の戦争を内乱(civil war)に転化せよとのレーニンが提起した草案を拒絶した。危険であるとともに実現不能だ、という理由で。
 代議員の一人が指摘したように、そのような宣言に署名することは、母国に帰ったときに彼らを死に直面させることになるだろう。その間、レーニンはスイスでの安全を享受するとしても。
 レーニンの、国を愛する社会主義者が支配するインターナショナル委員会からの分裂要求も、却下された。
 そうであっても、レーニンはツィンマーヴァルトで敗北はしなかった (130) 。というのは、会議の公式な宣言文書はいくらかの言葉上の譲歩をレーニンにしており、各政府の継戦努力を支援する社会主義者を非難し、全諸国の労働者たちに『階級闘争』に加わるよう呼びかけていたからだ。(131)
 ツィンマーヴァルトの左派は、自分たちの声明文を発表した。それはより激しかったが、レーニンが欲したように、ヨーロッパの大衆に反乱へと立ち上がることを呼びかけるまでには至らなかった。(132)
 両派間の不一致の基礎にあるのは、愛国主義(patriotism)に対する異なる態度だった。ヨーロッパの多くの社会主義者は強烈にその感情をもっていたが、ロシアの多くの社会主義者は、そうでなかった。//
  (*1) ケスキュラについて、Michael Futrell in St. Antony's Papers, Nr.12, ソヴェト事情, 3号 (1962) , p.23-52。著者はこのエストニア人にインタビューする貴重な機会を得た。しかし、不運にも、いくぶん無批判に彼の証言を受け止めた。
  (+) Futrell, ソヴェト事情, p.47は、これはボルシェヴィキ指導者との唯一の出会いだと述べる。しかしそれは、ほとんどありえそうにないと思われる。
  (++) 1915年9月30日付、ベルンのドイツ大臣からベルリンの首相あて電信で再現されている[人名省略]。Werner Hahlweg, レーニンのロシア帰還 1917〔独語〕(1957) p. 40-43 (英訳、Zeman, ドイツ, p.6-7。)
  (130) 以下で主張されているように。J. Braunthal, 第二インターの歴史 (1967) , p.47。
  (*2) ドイツ参謀・政治局の Hans Steinwachs から外務部の Diego von Bergen 大臣あて。Zeman 編, ドイツ, p.17。スウェーデンに浸透していたレーニン組織の報告書から得たことを〔ケスキュラが〕仄めかしたとき、ケスキュラは Futrell に誤った情報を伝えた、ということをこの文書の言葉遣いは示している。Futrell, ソヴェト事情, p.24。
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 ④につづく。

1467/第一次大戦と敵国スパイ②-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。
 戦争が勃発するや、連合国〔仏、英ら〕および中央諸国〔ドイツ、オーストリアら〕のいずれの社会主義議会人も、公約に背いた。
 1914年夏に、彼らは情熱的に平和について語り、戦争継続に抗議して集団示威行進をする大衆を街路へと送り込んだ。
 しかし、交戦が始まったとき、彼らは列に並んで戦争予算に対して賛成票を投じた。
 とくに痛ましかったのは、ヨーロッパで最強の党組織を持ち、第二インターの背骨になっていたドイツ社会民主党の裏切りだった。
 戦争借款に対して彼らの議員団の全員が一致して賛成したのは驚くべきことで、かつ、分かったことだが、社会主義インターナショナルに対するほとんど致命的な一撃だった。//
 ロシアの社会主義者は、西側にいる同志たちよりも、インターの公約を真面目に考えていた。一つは、母国での社会主義の源が浅く、母国を愛する誇りがほとんどなかったこと、もう一つは、シュトゥットガルトの決定が想定した『戦争によって生じる経済的かつ政治的な危機』を利用すること以外に権力へと到達する機会はないことを知っていたこと、による。
 プレハーノフやL・G・ダイヒのごとき社会民主主義運動の長老者および軍事衝突で愛国的感情に目覚めた多くの社会主義革命党員(ザヴィンコ、ブルツェフ)から離れて、ロシア社会主義の著名人の多くは、インターナショナルの戦争反対決定に忠実なままだった。
 第四ドゥーマの社会民主党および Trudovik(エスエル)議員団は、全員一致して戦争借款に反対票を投じて、このことを証明した。-これは、セルビアの社会民主党を除けば、ヨーロッパでただ一つの議会人の行動だった。//
 スイスに到着したレーニンは、『ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義者の任務』と呼ばれる綱領的声明を起草した。(124)
 ドイツ、フランスおよびベルギーの指導者を裏切りだと非難したあとで、レーニンは、非妥協的にラディカルな立場を概述した。
 『任務』の第6条には、つぎの提案が含まれていた。//
 『労働者階級および全ロシア人民の被搾取大衆の視座から見ると、最も害悪ではないことは、ポーランド、ウクライナ、および多数のロシア人民…を抑圧している皇帝君主制とその軍の敗北である。』(*1)
 その他のいかなる主要なヨーロッパの社会主義者も、自分の国が戦争で敗北することに賛成だとは公言しなかった。
 ロシアの敗北を支持するレーニンの驚くべき主張は不可避的に、彼はドイツ政府の工作員だという非難をもたらした。(+) 
 戦争に関するレーニンの言明の実際上の結論は、このテーゼの第7条と最後の条で述べられていた。その内容は、『全ての国家の反動的でブルジョア的な政府と政党』に対する内戦を解き放つために、戦争をしている諸国の民間人や軍人の間で精力的な扇動と組織的な宣伝活動を行う、というものだった。
 この文書の模写物はこっそりとロシアに持ち込まれ、帝国政府が<プラウダ>を廃刊させ、ドゥーマのボルシェヴィキ議員たちを逮捕する根拠になった。 
 この事件でボルシェヴィキを弁護した法律家の一人は、アレクサンダー・ケレンスキーだった。 
 生命を落とす可能性がある大逆(treason)という罪で審問され、ボルシェヴィキたちは判決により追放された。これは、二月革命まで、党をほとんど舞台の外に追い出した。//
 レーニンの綱領の重点は、社会主義者は戦争を終わらせるためにではなく、自分たち自身の目的で戦争を利用するために奮闘すべきだ、ということにあった。レーニンは1914年10月に、つぎのように書いた。
 『「平和」というスローガンは、この瞬間では、誤っている。
 このスローガンは、ペリシテ人と聖職者のスローガンだ。 
 プロレタリアートのスローガンは、こうでなければならない。内戦(civil war、内乱)、だ。』//
 レーニンは、戦争の間ずっと、この定式に忠実であろうとした。
 もちろん中立国スイスでは、戦闘中のロシアにいる彼の支持者たちに比べれば、レーニンの身はかなり安全に守られた。//
 レーニンの戦争に関する綱領を知ると、ドイツは熱心に彼を自らのために利用しようとした。ロシア帝国軍の敗北を主張することは、結局のところ、ドイツの勝利を支持するのと全く同じことだ。
 ドイツの主要な媒介者は、パルヴゥスだった。このパルヴゥスは、1905年のペテルスブルク・ソヴェトの指導者の一人で、『連続革命』理論の創始者だったが、最近はウクライナ解放同盟の協力者だった。
 パルヴゥスは、きわめて腐敗した個性をもつとともに、ロシアの革命運動上、最も大きな知性をもつ知識人の一人だった。
 1905年の革命が失敗したあとで彼は、ロシアでの革命の成功はドイツ軍の助けを必要とする、という結論に達した。ドイツ軍だけが、帝制を打倒することができる。(*2) 
 パルヴゥスは、その政治的関係を使って相当の財産を蓄え、ドイツ政府に身を任せた。
 戦争勃発の際、彼はコンスタンチノープルに住んでいた。 
 パルヴゥスは、その地のドイツ大使と接触し、ドイツの利益を促進するためにロシアの革命家を利用するときだと、概述した。
 その論拠は、ロシアの過激派は、帝制が倒れてロシア帝国が破滅する場合にのみその目的を達成することができる、ということだった。この目的は偶然にだが、ドイツにとっても都合がよい。『ドイツ政府の利益は、ロシアの革命家たちのそれと一致している』。
 パルヴゥスは、金を求め、かつ左派のロシア移民と連絡をとることの承認を求めた。(126)
 ベルリン〔ドイツ政府〕に奨められて、彼は1915年5月に、ツューリヒにいるレーニンと接触した。パルヴゥスは、ロシア移民の政界に通暁していたので、レーニンが左翼の鍵となる人間であることを知り、もしも自分がレーニンを獲得すればロシアの残りの戦争反対左翼は一線に並ぶだろうことが分かった。(127)
 この企図は、さしあたりは、失敗した。
 レーニンがドイツと取引きすることに反対したというのでも、ドイツから金をもらうことが不安だったわけでもない。-この失敗は、レーニンが、社会主義の教条に対する裏切り者、変節者、『社会主義狂信愛国者(socialist chauvinist)』と交渉しようと思わなかったことによるだけだ。
 パルヴゥスの伝記作者は、その個人的な嫌悪感に加えて、レーニンはつぎのように考えたのではないかと示唆している。すなわち、レーニンは、もしもパルヴゥスと交渉すれば彼〔パルヴゥス〕が『そのうちにロシアの社会主義組織の支配権を獲得し、その財産資源と知的能力を使って他の全ての政党指導者を打ち負かしてしまう』ことを恐れた、と。(128) 
 レーニンは、このパルヴゥスとの出会いについて、公にはいっさい言及しなかった。//
  (*1) レーニンはロシアのウクライナに対する『抑圧』と強調して当惑させているが、それは少なくとも部分的には、レーニンのオーストリア政府との金銭上の協定によって説明されるものでなければならない。レーニンは、ウクライナもオーストリアの支配から解放されるべきだと要求しはしなかった。
  (+) この点についての告発は、警察官僚について日常的によく知っているスピリドヴィッチ将軍によってなされた。彼は、証拠を提出しないでつぎのように主張する。
 1914年の6月と7月にレーニンは二度ベルリンへと旅行したが、ドイツ人とともにロシア軍背後での反ロシア的活動計画を作るためで、その対価として7000万マルクがレーニンに支払われることになっていた、と。
 Spiridovich, ボルシェヴィズムの歴史, p.263-5。
  (*2) パルヴゥスは事態を見て自分の正しさが分かったと感じた。彼は1918年に、1917年の革命に言及して、以下のように書いた。
 『プロシア〔ドイツ〕の銃砲は、ボルシェヴィキのビラよりも大きな役割を果たした。とりわけ思うのは、もしもドイツ軍がヴィステュラ(Vistula〔ポーランドの河〕)に達していなかったら、ロシアの移民たちはまだ放浪し、自分で苦しんでいただろう、ということだ。』
  (126) Zeman 編, ドイツとロシアでの革命, 1915-18 (1958), 1915年1月の配達便, p.1-2。
  (127) パルヴゥスのレーニンとの出会いについて、Zeman and Scharlau, 商人, p.157-9。
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 ③につづく。

1466/第一次大戦と敵国スパイ①-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。/の左右の日付は、左がロシア暦、右が欧州暦。 
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との関係。

 第一次世界大戦の勃発前の二年間を、レーニンは、クラカウ(cracow、クラクフ)で過ごした。彼はそこから、ロシアの支持者との接触を維持することができた。
 開戦のすぐ前および直後に、レーニンはオーストリアの政府機関、そしてウクライナ解放同盟と関係を結んだ。後者は、ウクライナ人の民族的願望をレーニンが支援する代わりに資金を出し、その革命活動を助けた。(116) 
 その同盟は、ウィーンとベルリンから資金を受け取り、オーストリア外務省の監督のもとで活動していた。
 この活動に加わっていた者たちの一人がパルヴゥスで、彼は1917年には、レーニンがドイツを通って革命ロシアまで確実に通過するのに重要な役割を果たすことになる。 
 ウィーン発、1914年12月16日付で同盟が提示した声明文には、以下の冒頭部分があった。//
 『同盟は、ロシア社会民主党の多数派党派を金銭のかたちで支援し、ロシアとの通信網の構築を援助する。
 その党派指導者、レーニンは、<ウクライナ情報〔新聞〕>で報告されている彼の講演が示すように、ウクライナ人の要求に敵対的ではない。』(117)
 レーニンとグリゴーリ・ジノヴィエフが敵国人でありスパイの嫌疑があるとしてオーストリア警察に逮捕されたとき(1914年7月26日/8月8日)、この団体と関係していることがきわめて役立った。
 オーストリアとポーランドの社会主義運動に影響力のある人物、とくにヤコブ・ガネツキー(ハニエッキ。フュルステンベルクとしても知られる)が、すなわちパルヴゥスが雇っている、レーニンの親密な仲間が、彼らのために穏便にことを済ませてくれた。 
 五日のちに、ルボフ(Lwow〔レンベルク〕)のガリシア総督は、『ロシア帝国の敵』と見なされているレーニンを確保しておくのは好ましくないと助言する電信文を受け取った。(118)
 クラクフの軍事長官は8月6日/19日に、レーニンが収監されていた地域裁判所に電報を打って、即時釈放を命じた。(119)
 レーニン、クルプスカヤ、彼女の母親は8月18日/9月1日に、オーストリア警察の旅券をもって、オーストリア軍事郵便鉄道でウィーンを離れ、スイスに向かった-ふつうの敵国外国人が利用できそうにない輸送手段だった。(120)
 ジノヴィエフとその妻は、二週間後に続いた。
 オーストリアの拘置所からレーニンとジノヴィエフが解放された事情は、ウィーン〔オーストリア政府〕は二人を価値ある資産だと見なしていることを示唆する。// 
 スイスでレーニンはすぐに、戦争反対の基盤に敬意を表して、社会主義インターナショナルの失敗を処理し始めた。// 
 労働者階級の利益は国境を超越し、『プロレタリアート』はいかなる条件のもとでも、市場獲得を目指す資本主義国間の闘争で血を流さない、というのが、国際社会主義運動の根本的な金言だった。
 国際的危機の真っ只中の1907年8月に開催された社会主義インターのシュトゥットガルト大会は、軍事主義と戦争の脅威に多くの注意を向けた。
 二つの傾向があったが、ベーベルによって指導されたその一つは、戦争反対を支持し、かりに戦争が勃発すれば、『早期の終戦』のために闘う、というものだった。
 もう一つの傾向は、三人のロシア代議員-レーニン、マルトフおよびローザ・ルクセンブルク-によって表明されたもので、ロシアの1905年革命の体験に教訓を得て、社会主義者たちが国際的内戦を引き起こすために戦闘を利用することを望んだ。(121)
 後者が強く主張され、大会は、国家の敵対が発生した場合には、以下のことが労働者階級と議会内の労働者議員たちの義務だと決定した。// 
 『終結を速めるために介入すること、戦争により生じた経済的かつ政治的危機を人民を覚醒させるために利用すべく全力を出すこと、そして資本主義階級の支配の廃棄を促進すること』。(122) //
 この条項は、二つの傾向の違いを覆い隠すための左翼少数派に対する右派多数派の修辞的な譲歩だつた。
 しかし、このような妥協にも、レーニンは満足しなかった。
 ロシアの社会民主主義運動で用いたのと同じ軋轢生成的な戦術をとって、レーニンは、社会主義インターの穏健な多数派からの離脱を始めた。革命目的のために将来の戦争を利用する、非妥協的な左翼にとどまることによって。
 レーニンは、平和政策に反対した。その平和政策は、諸国の対立を止めることを意図しており、ヨーロッパの社会主義者に多くに是認されていた。レーニンは実際、戦争を望んだ。悪辣なことに、その理由は、戦争は革命を起こすためのすばらしい機会を提供する、というものだった。
 このような立場は社会主義者にとって一般的ではなくまた受容できないものだったので、レーニンはこの見解を公に表明するのを控えた。
 しかし、あるとき、新しい国際的な危機が生じていた期間の1913年1月に、マクシム・ゴールキへの手紙の中で一度、レーニンは書いた。
 『オーストリアとロシアの間の戦争は、(東ヨーロッパの全てでの)革命にとって最も役立つものだ。しかし、フランツ・ヨーゼフ〔墺〕とニッキー〔ニコライ、露〕は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(123)//
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 ②につづく。

1464/レーニンと警察の二重工作員②-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)②〔つづき〕。  
 ボルシェヴィキ議員団の長が突然に、説明もされずにドゥーマから消え失せた。これによりマリノフスキーの経歴は終わったはずだった。しかし、レーニンは彼の側に立って、『清算人』と中傷して非難しつつ、メンシェヴィキの追及者たちからマリノフスキーを守った。
 この場合には、重要な仲間に対するレーニンの個人的な信頼がその合理的判断を妨げた、と言うのは可能だ。しかし、そうではないように見える。 
 マリノフスキーは、1918年の裁判で、レーニンは自分の前科について知っていたと語った。このような記録があればロシアではドゥーマ選挙に立候補することができないので、内務省がこの情報を使ってマリノフスキーが議会に入るのを阻止しなかったという事実からだけでも、レーニンはマリノフスキーの警察との関係を察知したに違いないだろう。
 ロシアの警察挑発問題に関する重要な専門家だったプルツェフは1918年に、マリノフスキーの裁判で証言した帝制時代の警察官との会話を通じて、つぎのように結論した。
 すなわち、『マリノフスキーによれば、彼の過去には通常の犯罪ではなく自分が警察の手のうちにあった-つまり挑発者だった-ことも隠されているということを、レーニンは理解していたし、理解せざるをえなかった』、と。(110)
 なぜレーニンは自分の組織に警察工作員を維持しようとしたのかについて、帝制時代の上級治安官僚だったアレクサンダー・スピリドヴィッチ将軍が、つぎのように示唆している。
 『ロシアの革命運動の歴史には、革命的組織の指導者がその構成員のうち何人かに政治警察との関係に入ることを認める、いくつかの大きな事例があった。彼ら構成員は、秘密情報員として、警察に瑣末な情報を与える代わりに、その革命的党派にとってもっと重要な情報を警察から引き出そうという狙いをもっていた。』(111)
 レーニンが1917年6月〔いわゆる二月革命のあと、ボルシェヴィキ「七月蜂起」の前-試訳者〕に臨時政府の委員会の前で証言した際、彼は実際にこのような方法でマリノフスキーを使ったのかもしれないことを仄めかした。
 『この事件については、また次の理由にもとづいて、私は挑発者の存在を信じない。かりにマリノフスキーが挑発者であるのならば、わが党が<プラウダ>やその他の合法的な組織全体から得るよりも多くの成果を、オフランカ(Ohkranka〔帝制時代の秘密警察部門〕)は得ていないだろう。 
 ドゥーマに挑発者を送り込み、また彼のためにボルシェヴィキの対抗者〔メンシェヴィキ〕を追い出すなどをしたが、オフランカは、ボルシェヴィキの粗野なイメージに支配されているのだ。-漫画本の滑稽な絵だと言おう。ボルシェヴィキは、武装蜂起を組織するつもりはない。
 オフランカの立場からすれば、あらゆる糸を手繰り寄せるために、マリノフスキーをドゥーマに、そしてボルシェヴィキの中央委員会に入り込ませることは、何らかの価値がある。
 しかし、オフランカがこの二つの目的を達成したときにようやく、マリノフスキーはわれわれの非合法の基地と<プラウダ>とを繋ぐ、長く固い鎖の連結物の一人であることが判明したのだ。』(*)
 レーニンはマリノフスキーの警察との関係を知っていたことを否認したけれども、上のような理由づけは、党の目的を推進させるために警察工作員を使ったことについての、もっともらしい釈明のように感じられる。-つまり、他にとりうる手段がないときに、大衆の支持を獲得するために最大限に合法活動の機会を利用するため、だったのだ。(+)
 マリノフスキーが1918年に裁判での審尋に進んだとき、ボルシェヴィキの訴追者は実際に、マリノフスキーはボルシェヴィキに対してよりも帝制当局に対してよりひどい害悪をなしたと証言するように警察側の証人に圧力をかけた。(112)
 マリノフスキーが自分の自由意思で1918年11月という赤色テロルが高潮しているときにソヴェト・ロシアに帰ってきたこと、そしてレーニンと逢うことを強く求めたことは、マリノフスキーは無罪放免になることを期待していたことを強く示唆している。 
 しかし、レーニンには、もはや彼の使い道がなかった。彼は裁判に出席はしたが、証言しなかった。
 マリノフスキーは、処刑された。//
 マリノフスキーは実際、レーニンのために多くの価値ある仕事をした。
 彼が<プラウダ>および「nashput」の創刊を助けたことは、すでに述べた。
 加えるに、ドゥーマで彼が演説をする際には、レーニン、ジノヴィエフその他のボルシェヴィキ指導者が書いた文章を読んだ。演説の前に彼はそれらの原稿を警察部門の副局長であるセルゲイ・ヴィッサーリオノフに提出し、校訂を受けた。 
 このように方法によって、ボルシェヴィキの宣伝文章は国じゅうに広がった。
 特筆しておきたいのは、マリノフスキーは注意深くかつ忍耐強く、ロシアのレーニンの支持者とメンシェヴィキとが再統合することを妨害したことだ。
 第四ドゥーマが開催されたとき、7人のメンシェヴィキ議員と6人のボルシェヴィキ議員は、レーニンまたは警察が望んだ以上に、協力的精神でもって行動した。実際、レーニンが不一致の種を植え付けるために個人的に出席していない場合には通常のことだったが、彼らは一つの社会民主党の議員団のごとく振る舞った。
 二つの党派を離れさせ、そうしてそれらを弱体化させることは、警察が設定した最優先の使命だった。ベレツキーによれば、『マリノフスキーは、両党派間の溝を深めることのできるいかなる事でもするように命令されていた。』(114)
 それ〔二党派間の溝の深まり〕は、レーニンの利益と警察の利益とが合致している、ということだ。(++)//
 レーニンの独裁的な手法とその完全に欠如した道徳感情は、彼の熱心な支持者をある程度は遠ざけた。陰謀と瑣末な争論に飽き、覆いかかる精神主義(spritualism)の風潮に囚われて、何人かの最も賢いボルシェヴィキは、宗教と観念哲学のうちに慰めを追求し始めた。1909年に、ボルシェヴィキ幹部たちの支配的な傾向は、『神の建設』(Bogostroitel'stvo)として知られるようになった。  
 のちの『プロレタリアの文化』の長のボグダノフやのちの啓蒙人民委員〔大臣〕のA・V・ルナチャルスキーに教え導かれた運動は、非ラジカル知識人の間で有名な『神の探求』(Bogoiskatel'stvo)に対する社会主義者の反応だった。 
 <宗教と社会主義>という書物の中でルナチャルスキーは、社会主義を一種の宗教的体験、『労働者の宗教』だと表現した。
 このイデオロギーの提唱者たちは1909年に、カプリに学校を設置した。 
 こうした展開全体を全く不愉快に感じていたレーニンは、反対の二つの学校を組織した。一つは、ボローニャで、もう一つは、パリ近くのローンジュモで。
 1911年に設立された後者は一種の労働者大学で、ロシアから送られた労働者が、社会科学と政治についての体系的な教条教育(indoctrinnation 〔洗脳〕)を受けていた。教師陣の中には、レーニンや彼の最も忠実な支持者であるジノヴィエフとカーメネフもいた。
 今度は学生に偽装した警察情報者が不可避的に潜入していて、ローンジュモでの教育について報告した。
 『授業の断片を生徒が丸暗記することで成り立っている。なされる授業は疑ってはいけないドグマの性格を帯びており、決して批判的な分析や合理的で意識的な学習を奨励するものではない。』(115) //
  1912年までに、マルトフがレーニンの無節操な財政取引や支配力を得るために多くは不法に獲得した金の使い方を公に明らかにしたあとだったが、二つの党派は一つの党だと装うことを止めた。
 メンシェヴィキは、ボルシェヴィキの行動は社会民主党運動を汚辱するものだと考えた。
 1912年の国際社会主義者事務局の会合で、プレハーノフは公然と、レーニンを窃盗者だと責め立てた。
 メンシェヴィキは、レーニンが犯罪や誹謗中傷に頼ったことや労働者を意識的に誤導したことに唖然としたと表明したにもかかわらず、また、レーニンを『政治的ペテン師』(マルトフ)と呼んで非難したにもかかわらず、レーニンを除名することをしなかった。一方、その咎はエデュアルド・ベルンシュタインの『修正主義』に共感したことだけのストルーヴェは、すみやかに追放された。
 レーニンがこれらを深刻に受け止めなかったしても、何ら不思議ではない。//
 二党派の最終的な分裂は、レーニンのプラハ大会で、1912年1月に起きた。それ以降は、彼らは共同の会合を開かなかった。
 レーニンは『中央委員会』という名前を『私物化』して、もっぱら強硬なボルシェヴィキたちで構成されるように委員を指名した。
 頂部に断絶があるのはもはや完璧なことだったが、ロシア内部でのメンシェヴィキおよびボルシェヴィキの幹部や一般党員は、しばしばお互いを同志と見なし続けて一緒に活動した。//
  (*) レーニンのマリノフスキーに関する証言は、委員会の記録にかかる数巻の出版物にも(Padenie)、レーニンの<選集>にも掲載されていない。
  (+) タチアナ・アレクジンスキーは、中央委員会に警察情報員が加入している可能性についての疑問が生じたとき、ジノヴィエフがゴーゴルの<将軍検査官>から『良い一家は、がらくたすらも利用する』を引用したことを憶えている。〔文献省略〕  
  (++) レーニンがマリノフスキーの警察との関係を知っていた蓋然性(likelihood)は、認められている。ブルツェフに加えて、ステファン・ポッソニー(1964, p.142-43.)によって。
 マリノフスキーの自伝は、ボルシェヴィキは警察がマリノフスキーによってボルシェヴィキに関して知ったよりも少ない情報しか、マリノフスキーから警察に関する情報を得ていないという理由で、この仮説を拒否している(Elwood, マリノフスキー, p.65-66.)。
 しかし、マリノフスキーが彼の二重工作員性に関してレーニンの陳述およびスピリドヴィッチの言明を無視していることは、上に引用した。
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 第10節につづく。

1463/レーニンと警察の二重工作員①-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)

 1908年に、社会民主党の運動は衰退に入った。その理由の一つは、知識人の革命への熱望が冷めたこと、二つは警察の潜入によって地下活動がほとんど不可能になったことだ。
 治安維持機関は、上から下まで、社会民主党の組織の中に入り込んだ。党員たちは逃げる前に日に晒され、逮捕された。
 メンシェヴィキはこの状況に、合法活動をすることを強調する新しい戦略でもって対応した。すなわち、出版物発行、労働組合の組織化、ドウーマでの活動。 
 いくらかのメンシェヴィキは、社会民主党を労働者党に置き換えることを望んだ。
 彼らは非合法活動をいっさい放棄するつもりではなかった。しかし、綱領問題の大勢は、党が労働者に奉仕するほど多くは労働者を指導しない、民主主義的な労働組合主義へと進んだ。
 レーニンには、これは呪詛の対象だった。彼はこのような戦略を支持するメンシェヴィキに、『清算人(liquidators)』とのラベルを貼った。彼らの狙いは党を清算し、革命を放棄することだからだ。
 レーニンの用語である『清算人』は、反革命主義者と同じ意味になった。//
 にもかかわらずレーニンも、警察による弾圧によって生じた困難な条件に適応しなければならなかった。
 彼は、対応するために、自分の組織に潜入した警察工作員を自分の目的で利用した。
 以下について確実なことは何もありえないけれども、そうでなくとも幻惑的な、工作員挑発者(agent provocateur)・マリノフスキーの事件は、最も納得できる説明になっているように見える。マリノフスキーは、しばらくの間(1912-14年)、ロシアのレーニン党派の代議員で、ドゥーマ・ボルシェヴィキ議員団の代表者だった。 
 それは、ウラジミール・ブルツェフの見解では、もっと有名なエヴノ・アゼフ事件を超えすらする重要性をもつ、警察による挑発の事件だった。(106)//
 レーニンは、支持者たちに第一回ドゥーマの選挙をボイコットするように命令した。その一方、メンシェヴィキは問題をその地方組織に委ね、ジョージア支部を除く多くの地方組織はボイコットを採択した。
 そのあとでレーニンは気持ちを変え、1907年に仲間たちのほとんどの意向を無視して、動く〔立候補する〕ようにボルシェヴィキに命じた。
 彼はドゥーマを、自分のメッセージを広げる公共広場として利用することを意図した。
 マリノフスキーが計り難い価値をもつことが判るのは、まさにドゥーマにおいてだった。//
 民族的にはポーランド人で、職業上は金属労働者、そして副業は窃盗というマリノフスキーは、窃盗と家宅侵入窃盗の罪で三つの収監判決を受けていた。
 彼自身の証言によれば、刑事記録〔前科〕のために満足させられない政治的野心に駆られて、またつねに金が必要だったために、マリノフスキーは、奉仕しようと警察当局に申し出た。 
 警察の指示により、彼はメンシェヴィキから向きを変えて、1912年1月にボルシェヴィキのプラハ大会に出席した。
 レーニンはきわめて好ましい印象を彼に持ち、『優秀な仲間』、『傑出した労働者指導者』だとマリノフスキーを褒めた。(107)
 レーニンはこの新規加入者を、裁量でもって党員を加える権限のある、ボルシェヴィキ中央委員会のロシア事務局員に任命した。 
 マリノフスキーはロシアに帰って、スターリン支持者を広げるためにこの権限を利用した。(108)
 内務大臣の命令にもとづき、マリノフスキーの刑事記録〔前科〕は抹消され、ドゥーマへと立候補することが許された。
 警察の助けで選出され、彼は、議員の免責特権を用いて、『ブルジョアジー』や社会主義『日和見主義者』を攻撃する燃えるがごとき演説を行った。それらの多くは治安機関によって準備され、全ては了解されていた。
 社会主義サークル内には彼の忠誠さについて疑問の声があつたにもかかわらず、レーニンは無条件でマリノフスキーを支持した。
 マリノフスキーがレーニンのためにした最大の仕事の一つは、-警察の許可を得てかつありそうなことだが警察の財政支援もおそらく受けて-ボルシェヴィキの日刊紙『プラウダ(pravda)』の創刊を助けたことだった。
 マリノフスキーは新聞の財産管理者として働いた。編集権は、警察の別の工作員、M・E・チェルノマゾフに渡った。 
 警察によって保護された党機関は、ボルシェヴィキの考えをメンシェヴィキ以上に広くロシア内部に伝搬させることができた。
 発行するために、警察当局は時たま<プラウダ>を繊細にさせたが、新聞は、発行され続けて、マリノフスキーや他のボルシェヴィキがドゥーマで行った演説の文章やボルシェヴィキの書きものを印刷し続けた。レーニンは一人で1912年と1914年の間に、265の論文をこの新聞に掲載した。
 警察は、マリノフスキーの助けによって、モスクワのボルシェヴィキ日刊紙「Nashput」をも創刊した。(109)
 このような仕事に就いている一方で、マリノフスキーは、定期的に党の秘密を警察に渡すという裏切り行為をしていた。
 われわれがのちに知るはずだが、レーニンは、この取引で得たものの方が、失ったものよりも大きいと信じた。//
 二重工作員としてのマリノフスキーの経歴は、内務省の新しい副大臣〔政務次官〕、V・F・ジュンコフスキーによって突然に終焉を告げられた。
 反諜報活動の経験のない職業軍人であるジュンコフスキーは、固く決心して、警察官たちの一団を『浄化』し、その政治活動を止めさせようとした。彼は、いかなる形態での警察の挑発についても、妥協をしない反対者だった。(*1) 
 任務を履行しているうちに、マリノフスキーは警察の工作員で、警察がドゥーマに浸透していることを知ったジュンコフスキーは、警察の大スキャンダルになることを恐れて、ドゥーマ議長のラジアンコに、その事実を内密に通知した。(*2)  
 マリノフスキーは退任を余儀なくされ、彼の年収分の6000ルーブルが与えられ、そして国外に追放された。//
  (*1) Badenie, Ⅴ, p.69, Ⅰ, p.315。ジュンコフスキーは、軍隊や第二次学校の中の警察細胞を廃止した。その理由は、軍人や学生の中で連絡し合うのは適切でない、ということだった。
 警察庁長官で、マリノフスキーの直接の監督者だったS・P・ベレツキーは、このような手段〔警察細胞の廃止〕は、政治的な反諜報活動の組織を混乱させるものだと考えた。Badenie, Ⅴ, p.70-71, p. 75。
 ベレツキーは、チェカ〔のちにボルシェヴィキ政府=レーニン政権が設立した政治秘密警察〕によって1918年9月に射殺された。これは、赤色テロルの波の最初のものだった。
  (*2) ドゥーマでのマリノフスキーの扇動的な演説は、ロシアが新しい産業ストライキの波に掴まれていた当時に労働者たちに対してもつ影響が大きかった、そのように警戒して、ジュンコフスキーはマリノフスキーを馘首した、という可能性は指摘されてきた。
 Ralph Carter Elwood, ロマン・マリノフスキー (1977), p.41-43。
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 ②へとつづく。

1461/強盗と遺産狙いの党財政②-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
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 レーニンが彼の組織のために金を獲得しようと進んだ途の行き着く先は、いわゆるシュミット事件によって例証される。(102)
 モロゾフと縁戚のある金持ちの家具製造業者であるN・P・シュミットは、1906年に逝去した。それは明らかに自殺で、12月のモスクワ蜂起に使われた武器の購入に財政援助したという責任を問われる裁判を待っている間のことだった。
 彼は遺書を残していなかった。しかし、ゴールキと他の友人は、シュミットはおよそ50万ルーブルに達する財産が社会民主党のものになることを欲していた、と語った。
 このような措置は、非合法の政党は遺産相続の利益を受けられないので、法の観点からは有効ではなかった。
 したがって、その金銭はシュミットの最も近い縁戚の、幼い弟に渡った。
 シュミットの財産が相続人によって濫費されたり、社会民主党の金庫に移されることを断固として阻止しようと、ボルシェヴィキは、レーニンを議長とする会合で、とりうる全ての手段を用いてそれを奪い取ることを決定した。
 十代の弟は、その二人の妹のために相続分を放棄するようにすぐに説き伏せられた。
 そして、二人のボルシェヴィキ党員が出廷して妹たち相続人と結婚する、という取り決めがなされた。
 下の方の幼い少女は、ヴィクトール・タラトゥータという名のボルシェヴィキの荒くれ男と結婚することになつた。しかし、警察の目をごまかすために、表向きは、堅実な男と二度目の結婚をすることとされた。
 彼女が結果として受け取った19万ルーブルは、パリにあるボルシェヴィキの金庫へと移された。(103) //
 シュミットの財産の第二部分は彼の姉が所有していたが、ボルシェヴィキに傾斜した社会民主党の党員でもある、その夫の手にあった。
 その夫は、しかし、金を守りたかった。
 論争は調停のために社会主義者の裁きの場に上程され、ボルシェヴィキに相続財産の半分または三分の一だけが与えられた。
 身体への暴力という脅迫によって、ついには夫は、妻の相続財産をレーニンに渡すように説得された。
 最終的にはレーニンは、シュミットの財産から、23万5000と31万5000の間のルーブルを獲得した。//
 このような醜悪な金銭事件やそれに類したものは、マルトフが暴露したときに、ロシアおよび国外でボルシェヴィキを大きく辱めた。そして、社会民主党の資金をドイツの社会民主主義者に預けることに同意するのを、レーニンは強いられた。
 金をめぐる争論は、1917年革命に先行する10年間に二つの党派が行った闘争の主要な柱の一つだった。
 レーニンの秘書として働いていたクルプスカヤは、見えないインキ、暗号、その他の警察を暗闇にいるままにする道具を使って、ロシアにいるボルシェヴィキの工作員との安定した連絡網を維持した。
 クルプスカヤの仕事を助けたタチアナ・アレクジンスキーによれば、レーニンからきた手紙のほとんどには、金の要求が含まれていた。(*)(105)
  (*) このように援助金が重要であることは、1904年12月の潜在的な寄付者に対する手紙においてもレーニンによって強調されている。
 『少なくとも半年の間に莫大な資金の助けで何とか耐えないと、われわれの仕事は破産に直面してしまいます。そして、削減することなく持ちこたえるためには、最小限度、毎月2000ルーブルが必要なのです。』 Lenin, 〔文献省略〕。

1460/強盗と遺産狙いの党財政①-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第8節・ボルシェヴィキ党の財政事情。 
〔p.369-p.372.〕
 1917年革命以前のボルシェヴィキの歴史上最も秘密で今なお深刻な側面の一つは、党の財政にかかわる。
 全ての政治組織は、金を必要とする。しかし、ボルシェヴィキは党員全てに党のために一日中働くことを要求していたので、彼らにはきわめて重い財政上の負担があった。自立・自援のメンシェヴィキと違って、ボルシェヴィキの党員たちは、党の金庫からの手当てに頼っていたからだ。
 レーニンもまた、いつも多数の支援者がいたメンシェヴィキという好敵を策略的に打ち負かすために、金を必要とした。 
 ボルシェヴィキたちは、さまざまな方法で、ある者は伝来的方法で、別の者は高度に非伝来的な方法で、金を確保した。//
 一つの源は、奇矯な金持ちの産業家であるザッヴァ・モロゾフのような、裕福な共調者(シンパ)たちだった。モロゾフは、一月あたり2000ルーブルをボルシェヴィキの金庫に寄付した。
 モロゾフがフランスのリヴィエラ地方で自殺したあとで、彼の生命保険方策の被信託人として仕えていたマクシム・ゴールキの妻によって、彼の遺産から別の6万ルーブルが、ボルシェヴィキへと移された。(92)
 他にも寄贈者はいた。中でも、ゴールキ、A・I・エラマゾフという名の土地管理専門家、ウーファ地方の土地不動産を管理するアレクサンダー・ツィウルーパ(この人物は1918年にレーニン政権の供給大臣になる)、元貴族院議員の妻でストルーヴェの親友だったアレクサンドラ・カルミュイコワ、女優のV・F・コミッサールゼフスカヤ、その他、今日まで名前が分からないままの者たち。(93)
 紳士淑女気取りからするこれらの後援者(パトロン)たちは、根本的には彼らの利益を害するはずの教条のために援助した。レーニンの近い仲間だったレオニード・クラージンはこの当時に、つぎのように書く。
 『革命的党派に金銭を寄付することは、多かれ少なかれ過激なまたはリベラルなサークルでは、育ちの良さ(bon ton)の徴しだと見なされた。5から25ルーブルを定期的に納める寄付者の中には、有名な弁護士、技術者および医師のみならず、銀行の重役や政府組織の官僚もいた。』(94) 
 社会民主党のそれとは別に独立して作動していたボルシェヴィキの金庫の管理は、三人のボルシェヴィキ『中央』の手にあった。これは1905年に形成され、レーニン、クラージンおよびA・A・ボグダーノフから成っていた。 
 まさにこれの存在自体が、ボルシェヴィキの幹部および一般党員からはずっと秘密にされていた。//
 悔い改めたふうの『ブルジョア』たちからの献金ではしかし、不十分であることが判り、1906年早くにボルシェヴィキは、心地よくない手段、人民の意思やエスエル過激主義者が編み出したと思われる考え、に頼った。 
 多額のボルシェヴィキの財源は、それ以来、犯罪活動、とくに婉曲的表現では『収用』として知られる拳銃強盗から来ていた。
 彼らは大胆に急襲して、郵便局、鉄道駅、列車、銀行から強奪した。
 悪名高きティフリスの国有銀行強盗(1907年6月)では、25万ルーブルを強奪した。そのかなりの部分は、連続番号が登録された500ルーブル紙幣の束だった。
 このような略奪の成果品は、ボルシェヴィキの金庫へと移された。
 上の結果として、盗んだ500ルーブル紙幣をヨーロッパで両替えしようとした何人かの人間が逮捕された-その全員が(その中にはのちのソヴェト外務大臣、マクシム・リトヴィノフがいた)、ボルシェヴィキ党員であることが判明した。(95)
 この活動を監督していたスターリンおよび他の関係者は、社会民主党から除名された。(96)
 このような活動を非難する1907年党大会の正式決定を無視して、ボルシェヴィキは、ときにはエスエル党と協力しながら、強盗犯罪を行ない続けた。
 このような方法で、彼らは多額の金を獲得した。これは、相変わらず金欠症のメンシェヴィキに対して、ボルシェヴィキをかなり有利な立場にするものだった。(97)
 マルトフによると、犯罪の成果物のおかげで、ボルシェヴィキはペテルスブルクやモスクワの自分の組織に、それぞれ毎月1000から500ルーブルを送ることができた。この当時、合法的な社会民主党の金庫には、一月で100ルーブルを超えない党員費からの収入が入っていたのだが。
 1910年に、被信託人として仕事する三人のドイツ社会民主党の党員に金を差し出さなければならなくなって、この財源の流れが干上がってしまうや否や、ボルシェヴィキのロシア『委員会』は、薄い大気の中へと消滅した。(98) //
 このような秘密活動の全般的な指揮権は、レーニンの手のうちにあった。しかし、この分野の最高司令官は、いわゆる技術者集団(Technical Group)を率いるクラージンだった。(99)
 職業上は技術者であるクラージンは、二重生活をおくっていた。外面上は、善良なビジネスマンだが(モロゾフのために働くとともに、AEGやジーメンス・シュッケルトというドイツの商社にも勤めていた)、自由時間にはボルシェヴィキの地下活動へと走った。(*)
 クラージンは、爆弾を集めるために秘密の研究室を利用していて、その爆弾の一つはティフリスの強盗で使われた。(100) 
 ベルリンで彼は、3ルーブル紙幣の偽造紙幣作りも行なった。
 クラージンは、鉄砲火薬の密輸入にも従事した。-ときには純粋に商業的理由だったが、ボルシェヴィキの金庫の金を生み出すために。
 技術者集団は、場合によっては、ふつうの犯罪者たちとも取引した。-例えば、ウラル地方で活動する悪名高きルボフ団(ギャング)で、この団体には数十万ドルの価値がある武器を売った。(101) 
 このような活動は不可避的に、ボルシェヴィキ党員たちの中に、『教条』が犯罪生活の口実に使われるという、翳りのある要素を持ち込んだ。//
  (*) この電気製品商社がクラージンを雇ったのは、偶然ではなかったかもしれない。 
 1917年のロシアの反諜報活動(counterintelligence)の長によれば、ジーメンスはスパイ目的で工作員を使っており、ロシア南部のその支店が閉鎖されるに至った。[文献、省略]
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 ②へとつづく。

1459/レーニンと農民・民族-R・パイプス著9章7節。

 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 
第7節・レーニンの農民・民族問題に関する綱領。
 1905年と1914年の隙間の期間、レーニンは、その他の社会民主主義者によって採択されたのとはつぎの二つの点で異なる、革命の綱領を発展させた。すなわち、農民の問題と、少数民族の問題。
 党派間の差違は、メンシェヴィキは解決について考えたが、レーニンの関心はもっぱら戦術にあった、ということに由来した。つまり、レーニンは、革命を促進する目的で、不安の源泉を自らのものとして活用することを望んだ。
 すでに記したように、彼は1905年以前に、つぎのように結論していた。社会民主主義者は、産業労働者の数がロシアでは大きな意味をもたないことを見れば、『反革命的』と見なす『ブルジョアジー』を除いて、専制体制に反抗する全てのグループを闘いへと惹き付けて指導しなければならない。闘いに勝利したあとでは、一時的な同盟関係を解消するときがあるだろう。//
 マルクスとエンゲルスのそれによれば、農民に関する社会民主党の伝統的な見方は、つぎのようなものだ。土地を持たないプロレタリアートというありうる例外を除いて、農民は反動的な(『プチ・ブルジョアの』)階級だ。(85)  
 しかし、1902年の農業騒乱の間のロシア農民の行動を観察して、またロシア農民の地主財産に対する攻撃がもつ帝制崩壊への寄与の程度に着目して、レーニンは、つぎのように結論づけた。小作農民(muzhik)は、一時的だとしても、産業労働者の自然の同盟者だ、と。
 レーニンに都合のよいことには、党は、いわゆる otrezki 、1861年の解放令が責任を逃れるか必要とする分け前の一部になるかという選択肢を与えた土地、を補填するということのみを農民に約束する公式の綱領をさらに超えて進まねばならなかった。
 彼は、血の日曜日の後でヨーロッパへに逃亡していたガポンときわめて長く会話して、ロシア農民の気質(mentality)について多くのことを学んだ。クルプスカヤによれば、ガポンは農民の要求に習熟していて、レーニンは、彼を社会主義に転向させることを試みたほどに親しくなった。(86)
 レーニンは、このような観察と会話から、『プチ・ブルの』、『反革命的な』素質をもつ者たちを支援することを意味するとしてすら、社会民主党は農民に地主財産の全てを約束しなければならないという、オーソドクスでない見解を抱くようになった。社会民主党は、事実上、エスエル(社会主義革命党)の農業問題綱領を採用しなければならなかった。
 レーニンの綱領では、農民は今や『プロレタリアート』の主要な同盟者として、リベラルな『ブルジョアジー』に取って代わる。(87)
 彼の支持者たちの『第三回大会』で、レーニンは、地主財産を農民が獲得することを支持する条項を提案し、裁可させた。
 詳細を仕上げたあとでは、ボルシェヴィキの綱領は、私有または共同体所有の全ての土地の国有化、およびそれらの農民による耕作、ということになった。
 レーニンは、土地国有化は農民が土地は国家財産だと考えるようになったロシア歴史の『中国的な』伝統を促進するというプレハーノフの反対に直面しても、この綱領に執着した。 
 しかしながら、農民に関する綱領の出発点は、1917年遅くかつ1918年早くに、権力への闘争の深刻な局面の期間に、農民を宥和するためにボルシェヴィキにとって大きな価値をもつものだった、ということが証されることになる。//
 レーニンの農業問題綱領は、自立した保守的な農民階級を生み出すと約束した(あるいは別の視点からすれば脅迫した)ストリュイピンの改革によって危うくなった。 
 まさに現実主義者(リアリスト)のレーニンは、1908年4月につぎのように書く。ストリュイピンの農業改革が成功すれば、ボルシェヴィキはその農業に関する基盤を放棄する必要があったかもしれない、と。//
 『こんな政策は「不可能だ」と言うのは、空虚で馬鹿げた、民主主義的言葉商人的だ。可能だ!…。 
 大衆の闘いにもかかわらず、ストリュイピンの改革が『プロシア』モデルを勝利させるほどに長く続いたら、いったいどうなるのだ。
 ロシアの農業秩序は完全にブルジョア的なものに変わり、より強くなった農民たちは共同体の土地から分け前の全てを奪い、農業は資本主義のものになり、そうして<資本主義>のもとでは-過激かどうかはどちらでも-農業問題のいかなる解決もありえないだろう。』(88)
 この言明には、奇妙な矛盾がある。マルクスによれば資本主義は自らを破壊する種子をうちに胚胎していると想定されたので、大群の土地なきプロレタリアートが増大するロシア農業の資本主義化は、革命家が『農業問題』を『解決』するのを不可能にというより容易にするはずのものだった。
 しかし、われわれが知るように、レーニンの恐れはいずれにせよ根拠がないものだと判る。というのは、ストリュイピンの改革はロシアの土地所有の性格をほとんど変更せず、内心では反資本主義のままの muzhik〔小作農民〕の気質を全く変えなかったのだから。//
 レーニンは、民族問題についても、破滅的な接近方法をとった。 
 社会民主主義の仲間うちでは、ナショナリズムは労働者を階級闘争から引き剥がして大国家の破壊を促進する反動的なイデオロギーだ、ということが真正なものだった。
 しかしレーニンは、帝国ロシアの人口の半分が非ロシア人であり、そのある程度は強い民族意識を持っていて、ほとんど全てがより強い領土的かつ文化的な自主的政府を望んでいることにも、気づいていた。
 1903年の公式の綱領は、農民問題についてと同様にこの論点についても、きわめて微少なことしか述べていなかった。少数民族に対して、公民的平等、母国語での教育、地方の自治を提示していた。そのあとで、『全ての民族の自己決定権』という曖昧な定式が、具体的なことは何もなくして、述べられていた。(89)//
 レーニンは1912-13年に、これでは十分でない、と結論した。たしかにナショナリズムは階級矛盾が増大する時代には反動的な力でありおそらくは時代錯誤的なものだが、それが一時的に現れてくるのをまだ認めなければならない。 
 したがって、社会民主党は、農民が私的土地を要求する場合と全く同様に、それ〔ナショナリズム〕を条件つきのかつ一時的なという前提で利用する用意をしなければならない。//
 『ナショナリズムは、<現にある>敵に反抗する同盟者を支えるものだ。社会民主党は、共通する敵を崩壊させるのを速めるために、この支えについて定めなければならない。しかし、この一時的な同盟に<何も>期待しないし、いっさい譲歩しない。』(90)
 綱領による定式化を吟味して、レーニンは、東ヨーロッパの社会主義者には周知の二つの解決方法を拒絶した。すなわち、連邦主義と文化的自治を。前者は大国家の解体を促進するという理由で、後者は民族の差違を制度化するという理由で。
 レーニンは長い逡巡ののちに1913年に、最終的に、民族問題に関するボルシェヴィキ綱領を定式化した。
 それは、社会民主党の綱領上の『民族の自己決定権』の公式を独特に解釈して、一つの意味、そしてそれだけの意味をもたせる、という考えに依拠していた。主権ある国家から脱退する、かつそのような国家を形成する、全ての民族集団の権利。
 この定式は独立主義を助長すると彼の支持者たちが抗議したとき、レーニンは彼らを安心させた。 
 第一に、ロシア帝国の多様な地域をますます一つの経済全体へと融合させている資本主義の発展の勢いは、分離主義を抑止し、究極的にはそれを不可能にさせる。
 第二に、自己決定という『プロレタリアート』の権利は、民族の権利につねに優越する。このことは、想定とは逆に、非ロシア人が分離するならば、力でもって再統合されることを意味する。
 少数民族に全か無かの選択肢を提示することによって、レーニンは、(ポーランド人とフィンランド人を除く)ほとんど全ての彼らがその選択肢の間を望んでいる、という事実を無視していた。 
 彼は、少数民族が分離することなくロシア人と同化することを、完全に期待した。(91)
 レーニンは、デマゴギー的なこの定式を利用して、1917年によい結果を残した。//
  (87) John L. H. Keep, ロシアにおける社会民主主義の成立 (1963), p.194-5。
  (89) リチャード・パイプス, ソヴェト同盟の形成-共産主義とナショナリズム, 1917-23 (1954), p.31-p.33。
 
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 第8節につづく。

1458/メンシェヴィキと決裂③-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 二つの分派の民族構成について述べると、ボルシェヴィキは、主として大ロシア人だ。一方、メンシェヴィキは、ほとんど非ロシア人で、とくにジョージア人とユダヤ人を惹き付けた。
 社会民主党の第2回大会の際、レーニンを支持したのは主として中央部-つまり大ロシア人の-地域から選出された代議員たちだった。
 第5回大会の際(1907年)、ボルシェヴィキのほとんど5分の4(78.3%)は大ロシア人で、一方、メンシェヴィキのその比率は、3分の1(34%)だった。
 ボルシェヴィキのほぼ10%が、ユダヤ人だった。メンシェヴィキ党員の中での彼らの割合は、これの二倍多い。(77)(*) //
 初期のボルシェヴィキ党は、かくして、つぎのように特徴づけられる。(1) 構成において相当に農村的 (rural)で、党員たちは、『かなりの程度、田園地帯に生まれるかそれとの関係をまだ残したままの者たち』に引き摺られていた、(2) 『圧倒的に大ロシア人的』で、大ロシア人が生活する地域を基盤としていた。(78)
 言い換えると、ボルシェヴィキの社会的および文化的な根源(ルーツ)は、農奴制時代の最も古い伝統をもつ集団および圏域にあった。// 
 しかし、二つの党派には共通する特質もあった。そのうち最も重要なのは、代表すると謳う社会集団である、産業労働者との関係の希薄さだ。
 1880年代のロシアでの社会民主主義の出現以来、労働者は社会主義知識人を、相反する気持ちで見ていた。
 未熟および半熟練労働者は、知識人とは皇帝に私的な仕返しをすべく彼らを使用する紳士たち(『白い手』)だと考えて、完全に社会民主主義を避けた。
 彼らは、社会民主党の影響に感染しないままだつた。
 より教養があり、より熟達した、政治的意識のある労働者は、社会民主党をしばしば、それに指導される用意はないままで、仲間であり支援者であると見なした。彼らは通常は、政党政治よりも労働組合主義を選んだ。(79)
 以上の結果として、社会民主党組織における労働者の数は、微少でありつづけた。
 マルトフは、革命がすでに十分に進行していた1905年の前半に、ペテログラードのメンシェヴィキには1200から1500人の、ボルシェヴィキには『数百人』の積極的な労働者支持者があると、見積もっている。-これは、20万人以上の産業労働者のいる帝国の最も産業化した都市でのことだ。(80)
 1905年の末のペテログラードで、、二つの党派には合わせて3000人の党員がいた。(81) したがって、事実上は、メンシェヴィキもボルシェヴィキも、知識人の組織だった。 
 1914年に発行された書物でのこの点に関するマルトフの観察によれば、二月革命の後に出現すると予想される状況は、つぎのとおりだった。//
 『1905年の推移から広い範囲で積極的に活動することを現実に可能ならしめたペテログラードのような都市で、…党の組織には、中央集中の組織的活動を実行する『職業人』労働者および自己啓発のために党活動に入った若者労働者だけが残っている。
 政治的により成熟した労働者は、組織の外にいるままであるか、組織やその中央と大衆との間の関係に最も有害な影響を与えるものの一部だとだけ計算されている。 
 同時に、知識人が大量に党に流入することは、組織形態を知識人の生活条件(休暇、「陰謀」に時間をさく可能性、監視を避けるのに適した都市の中心区画の住居)に最もよく適合させたとしても、高い部分の(社会民主党の)組織の全てに知識人が充満することに帰結するだろう。これは、つまるところ、組織が大衆運動から心理的に離別するということだ。
 したがって、「中央と外縁」の間での果てしない衝突や軋轢、および労働者と知識人との間の嫌悪感の増大は、…。』(82) 
 実際に、メンシェヴィキは労働者運動と自らを同一視するのを好んだとしても、二つの党派は、労働者による干渉のない運動を行うことを選んだ。ボルシェヴィキは原理として、メンシェヴィキは生活実態への反応として。(83)
 マルトフは正しく、このような現象に注目していた。しかし、ロシアでは民主主義的な社会主義運動は、労働者のためのみならず労働者によっても行われなければ成功しない、という明白な結論を導き出さなかった。//
 これと似たようなことがあったとしても、メンシェヴィキとボルシェヴィキがともに力を合わせることが期待されえたかもしれない。 
 しかし、それは起こらなかった。友人感情はあったにもかかわらず、二つの党派は、同じ信仰の宗派としての全情熱をかけてお互いに闘い、分離していった。
 レーニンは、社会主義の教条と労働者階級の利益に対する裏切り者だとメンシェヴィキを非難することにより、メンシェヴィキから離別する機会を逃さなかった。
 苦い嫌悪感は、イデオロギーに由来するというよりも、人間的な理由からだった。//
 革命の崩壊から目覚めた1906年までに、メンシェヴィキは中央指向の、厳格な規律ある、陰謀的な政党を呼びかけるレーニンの綱領の採択に同意した。
 二党派の戦術観ですら、一致していなくはなかった。 
 例えば、両党派は、1905年12月の失敗したモスクワ蜂起を支援した。
 1906年に彼らは、アクセルロッドが提唱した労働者大会の考えを、党の規律違反だと一致して非難した。(84)
 些細な、しばしば学者的な違いが二つの党派の間にあったとしても、再統合を妨げたのは、権力を志向した、レーニンの尊大な欲望だった。それは、服従者以外のいかなる役割においても、彼とともに活動することを不可能にしたのだ。//  
  (*) スターリンは、このような実態から逃れられなかった。スターリンが出席した第5回大会に言及して、彼はつぎのように書いた。
 『統計は、メンシェヴィキ派の最大多数はユダヤ人から成っている…ことを示している。他方、ボルシェヴィキ派の圧倒的多数は、ロシア人から成っている…。これに関係して、あるボルシェヴィキは冗談で(これはアレクジンスキー同志のように思える)、メンシェヴィキはユダヤ人党派で、ボルシェヴィキは純粋なロシア人党派だ、ゆえに、われわれボルシェヴィキが党の綱領を組織化するという考えは悪くないだろう、と語った。』
 スターリン, …〔省略〕参照。
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 第7節につづく。

1457/歴史叙述とは。櫻井よしこら「観念保守」の悲惨と悪害。

 ○ 歴史、歴史認識、歴史叙述とは何か、ということを考える。西尾幹二、高坂正堯、山内昌之等々のかなり多くの歴史関係文献を通じて、考えてもきた。
 歴史(学)の専門家・研究者は誰でもきっと、程度の差はあれ、これを思考したに違いない。だが、歴史叙述も人間の知的営為の一つなので、素人である秋月瑛二が人間の一人として、これについて何かを語っても許されるだろう。
 いや、自らの言葉と文章で語るのはやはりむづかしい。すでに坂本多加雄らのこの問題についての記述に言及したような気もするが、あらためて、歴史家・歴史研究者である他人の言葉・文章のいくつかを手がかりにしてみよう。
 ○ 一つはすでに紹介、言及した(昨2016年10月16日、№1408)。
 西山克典の訳書を手がかりにすると、リチャード・パイプスはこんなことを書いていた。ロシア革命に関する叙述を念頭に置いているとみられる。パイプス・ロシア革命史 = A Concice History of the Russian Revolution (試訳している書物とは別の、簡潔版のもの)による。
 「激情のさなかに生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに理解することができるというのであろうか」。
 「歴史的な出来事への判断を拒むことはまた、道義的な価値観にも基づいている。すなわち、生起したことは、何であれ、自然なことであり、従って正しいという暗黙の前提であり、それは、勝利を得ることになった人々の弁明に帰すことになる」。
 櫻井よしこの歴史記述は「政治的」だという批判は、厳密にはあたらない、とも言える。
 つまり、R・パイプスも言うように、歴史は「感情」をもってこそ叙述できるとも言える。何らかの「思い込み」があってのみ歴史叙述は可能であるのかもしれない。おそらく究極的には、そうだろう。
 だが一方で、「生起したこと」は「正しい」という前提で歴史叙述をするのは、「勝利を得ることになった人々の弁明に帰す」る、というのも鋭い指摘だろう。
 つまり、「明治天皇を中心とし」た明治時代はよかった、という前提で歴史叙述をするのは、勝利者である「西南雄藩」、とくに「薩長」両藩のために<弁明>しているのであり、典型的な<勝利者史観>に嵌まっているのだ。
 「観念保守」の<隠されたイデオロギー>はここにある、ということに(ようやく ?)最近は気づいてきた。
 もちろん一方で、日本共産党ら共産主義者の歴史認識と歴史叙述が、<公然たるイデアロギー>にもとづく、きわめて政治的で、思い込みの激しい、観念的なものであることは、すでに明らかになている、ごく常識的なことだ。
 ○S・A・スミス(Smith)というイギリスの若い学者による、The Russian Revolution: A Very Short Introduction (2002)は簡単な紹介のような本だが、内容的には面白いものがあった。
 スターリンだけを貶めレーニンは救う、という日本共産党的なロシア革命史観に立たず、スターリンをレーニンの後にきちんとつなげているのは、ごく普通だ。、
 一方で、マルクス又はマルクス主義にソ連社会主義崩壊の根源を見つつ、いったいマルクス主義の又はマルクスの諸原理の具体的にはどこに、欠陥又は「誤り」があったのかと問う姿勢が興味深く、その部分だけでも邦訳しようかとも思った。
 だが、これを読んだ時点では、この人にロシア革命に関する本格的な書物はなかった。他のテーマが専門の研究者かとも思った。
 そのS・A・スミスが、S. A. Smith, RUSSIA in Revolution, -An Empire in Crisis- 1890-1928 (2017) という書物を刊行する(した)ようで、すでに Kindle を通じて読める。
 その序文(まえがき)に、じつに興味深い記述がある。フランスのF・フュレの名も出てくる。以下のとおり。
 「フュレは正しく、特有の熱情(passion)をよび起こす歴史的事件や歴史的人物がたしかにある。そのような場合には、歴史の記述(writing)は、独特に政治的な企て(enterprise)だ、と述べる。」
 これも、上のパイプスの言葉に似ている。そのあとにスミスは続ける。
 「ロシア革命は、100年経っても、なおそのような事件だ。/
 そのゆえにこそ、私はこの本でできるかぎり感情を抑えて(=非熱情的に)、皇帝専制体制の危機、1917年の議会制民主主義の失敗、ボルシェヴィキの権力への上昇に関して書くようにした。/
 私は、教訓を引き出すこと(道徳化すること=moralizing)を避けること、嫌悪や反駁を感じる者たちについて共感をもって記述すること、積極的に好感をもつ者たちに対して批判的に記述すること、をしようとした」。
 これに続く文章も、ある意味で刺激的なので、分けて引用する。以下のとおり。
 「しかし、私に最初にレッテルを貼りたい読者に対しては-読者にはたしかに著者の立場を知る権利がある-、その読者は、結論を出してから始めている、と言おう」。
 他にも興味深い文章はあるが、長くなるので、このくらいにする。
 ○ 秋月瑛二についても、どのような、どのグループの「保守」かと、あるいは櫻井よしこ・八木秀次らを批判するとは「左翼」ではないかとすぐに分類や「レッテル貼り」をしようとし、それが判ったつもりになれば簡単に立ち去っていく人々もいるかもしれない。(なお、このような発想法は容易に、「真正保守」は何で誰か、安倍内閣の味方か敵かといった関心、分類思考・二項対立思考につながるだろう。)
 いや、問題は「観念保守」の人々の歴史叙述の方法または<歴史観>だ。
 究極的には「政治的企て」なのかもしれないが(それは<実践>の一つだということでもある)、上のようなパイプスやスミスのような歴史記述についての思索あるいは煩悩 ?をきちんと経たうえで、つまりできるだけ非熱情的に、冷静に歴史を見たうえで、最後のところでギリギリの価値判断を結果として行う、という作業を彼らはしているのかどうか。
 最初から特定の価値観・特定の歴史評価にもとづいているとすれば、その歴史記述は信用できないし、悲惨なものになるだろう。
 もちろん、マルクス主義者、あるいは日本共産党の歴史叙述も、最初から特定の価値観・政治観・特定の歴史評価にもとづいているので、悲惨なものだ。
 <自虐史観>に反対し、これを批判するのはよいが、その<裏返し>の歴史記述をするのは、「左翼」のそれと同じ「観念」論による歴史叙述だ、ということを知らなければならない。
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