秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

レーニン

1840/M・メイリア・ソヴィエトの悲劇(1994)とL・コワコフスキ。

 マーティン・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997年)。
 =Martin Malia, The Soviet Tragedy – A History of Socialism in Russia, 1917-1991(New York, 1994).
 この本には、数度言及したことがある。但し、書名にも見られるようにロシア革命期またはレーニン時代に対象範囲が限られていないこともあって、つねに座右に置いてきたわけではない。
 だがそもそも、こういう本が草思社によって日本語となって、つまり邦訳書として出版されていること自体が、素晴らしく、価値のあることだ。日本の邦訳書出版業界の全体的状況を考えるならば。
 最近にこの著に関連して、というよりも正確にはレシェク・コワコフスキに対する関心から出発して、この著について二点触れたくなった。
 第一は、私はどういう経緯でL・コワコフスキの、とくに『マルクス主義の主要潮流』の存在を知り、原著を注文するに至ったのだったか、だ。
 この点ははっきりしない。あるいは、福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)による参考文献または注記一覧がきっかけだったかもしれない。この本に挙げられている洋書のうちロシア革命、レーニン・「ネップ」に関連していて入手できそうなものを手当たり次第に?注文していた時期があったように記憶する(日記はないので確言し難いが)。現時点のようにはロシア革命、レーニン・「ネップ」に関する知識自体をもっていなかった頃の話だ。
 マーティン・メイリア=白須英子訳・ソヴィエトの悲劇/上巻(草思社、1997年)によると、「はじめに」の後の第一章、したがって本文では冒頭の章全体の注記(原著者=メイリアによる)のさらに最初に、こうある。
 「数あるマルクス主義的思考の評価のなかで群を抜いて重要なのは、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, 3. Vols., trans. O. S. Falla (Oxford: Clarendon Press, 1978) である。本書も広範囲にわたってこの本から引用している」(訳書446頁。なお、上の原著p.525)。
 この部分にかつて気づかなかったはずはなく、これによってLeszek Kolakowskiの名を知った可能性はある。しかし、もっと多数の後注の、数行にわたってKolakowskiの著と頁数が記載されていた洋書を見たような記憶もある。
 なお、M・メイリアの本は頻繁にL・コワコフスキを「引用」してはいない。しかし、M・メイリアがL・コワコフスキの影響を受けていると感じたことはある。
 それは、―日本共産党とは違って―「ネップ」期の叙述をレーニン時代末期に位置付けるのではなく、むしろスターリン期の冒頭に位置付けていることだ。詳細は他の点も含めて省くが、このあたりの<時期区分>、つまり歴史叙述の体系的区割りが、M・メイリアのそれはL・コワコフスキのそれに似ているか同じだ、と感じたことがある。
 第二に、上記邦訳書/下巻にある長谷川毅「解説」の中に、つぎの文がある。
「この著を理解するうえで最も重要なキーワードは、翻訳不可能な『ソヴィエティズム』という言葉である。『ソヴィエティズム』とは、ポーランドの哲学者クワコフスキーによって用いられた造語であり、…」(訳書・下巻348-9頁)。
 憶えがないのでM・メイリアの本の邦訳書を捲ると、「本書の刊行に寄せて」(原書では、Preface。その後にある「はじめに」(原書ではIntroduction)とは区別される)の第三段落冒頭にこうある。
 「まず最初に、七十四年間にわたってひとつの制度として機能してきたソヴィエティズムの誕生から終焉のまでの経緯を述べる」(訳書9-10頁、原書ix)。
 訳書にはすでに「ソ連共産党方式。詳しくは下巻巻末の解説を参照」という挿入注記が入っているのだが、小なくともこの辺りではまだ、M・メイリアはL・コワコフスキの名前を出してはいない。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の原書の索引(Index)を見てみたが、Sovietism という項・言葉は出ていないようだ。
 むろん、長谷川毅のM・メイリア著やL・コワコフスキの理解を疑っているのではない。それぞれ、そのとおりなのだろう。
 むしろ、今のところ確認はできなかったが、L・コワコフスキの造語である「ソヴィエティズム」をキーワードとしてM・メイリア著は書かれている、またはそれを「最も重要なキーワード」とすればM・メイリア著はよく理解できる、と長谷川が書いていることが興味深い。
 長谷川毅はアメリカ在住のアメリカの学界の中にいる学者・研究者なので、<容共性が異様に高い>日本国内にいる、日本の学界・論壇・出版業界からの「自由」性は(相対的にかなり)高いだろう。そう推測できそうに思える長谷川の言葉なので(なお、長谷川自身の書物や訳書を一瞥したことはある)、信頼性は高い。
 なお、第一に、長谷川かそれとも訳者・白須英子のいずれの発案?か分からないが、「レシェク・コワコフスキ」は、「レシュチェク・クワコフスキ」と表記されている。
 ひょっとすれば、こちらの方が実際の発音には近いのかもしれない。これまでどおり、「レシェク・コワコフスキ」とこの欄では記していくけれども。
 第二に、これまで試訳してきた人物・学者との関連でいうと(少しは言及したことがあるが)、長谷川「解説」にもあるようにM・メイリア(1924~2004)はリチャード・パイプス(1923~2018)とHarvard 大学(大学院)の同窓で、メイリアはカリフォルニア大学バークレー校の、パイプスはハーヴァード大学の、ともにロシア(・ソ連)史専門の教授だった。
 M・メイリアの文章の中に、R・パイプスの主張・議論を意識してあえて違いを述べているような部分もある。
 しかし、日本では<反共・右翼>とすぐにレッテル貼りされてしまいそうなほどに、二人とも<共産主義>・<ソヴィエト体制>に対してはきわめて冷静なまたは厳しい立場を採る。
よくは知らないが、この二人がHarvard と Berkeley の教授だったということ自体で、この二人のような説・考え方がアメリカ合衆国で異端またはごく少数派でなかったことを示すだろう。
 そして、J. E. Haynes と Harvey Klehr の本を原書で一瞥して初めて知ったことだったが、上の長谷川「解説」も言及しているように、大雑把にいって、レーニン、スターリンにある「全体主義」性または一貫した「ロシア・ソ連的共産主義」性を認めるのこそが<正統>で、これに反対するまたは疑問視したのがアメリカ社会科学または歴史学の「修正主義」派だとされるらしい(少なくも有力な理解の仕方では)。
 日本の、または日本に関する「歴史認識」でいう「修正主義」とは方向が反対だ。
 こう見ても、「ソヴィエティズム」、Sovietism の意味はほぼ明らかだろう。
 これはマルクス主義と同じではないことは勿論のこととして、マルクス・レーニン主義でもない(当たり前だがトロツキズムではない)。そして、あえて秋月が造語すれば、<レーニン=スターリン主義(体制)>とでも表現できるものだ、と考えられる。
 長谷川「解説」にはその中身に関する10行以上の説明があるのだが(下巻349頁)、引用は省略する。
 このような言い方が、日本の「政治」組織・運動団体・政党である日本共産党にとって<きわめて危険>なものであることは言うまでもない。

1829/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑭。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第14回
 第4章・ネップと革命の行く末。
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 第4節・一国での社会主義の建設。
 権力をもったボルシェヴィキの目標は、簡潔にいうと「社会主義の建設」だった。
 社会主義に関する考え方がいかに曖昧なものであっても、彼らに明白だつたのは、「社会主義の建設」のために最も重要なのは経済の発展と近代化だ、ということだった。
 社会主義になる前提要件として、ロシアには工場、鉄道、機械類および諸技術がもっと必要だった。
 都市化、田園地帯から都市への人口の移動、およびさらに大きくて永続的な都市的労働者階級が必要だった。
 民衆の識字能力が大きく向上すること、より多くの学校、より熟達した労働者と技術者が必要だった。
 社会主義の建設とは、ロシアを近代工業社会に変えることを意味した。//
 この変化について、ボルシェヴィキは明瞭な像を持っていた。それは基本的には、資本主義が西側の先進諸国で生じさせた変化だったからだ。
 しかし、ボルシェヴィキは「未成熟なままで」権力を奪取していた。-すなわち、ロシアでは、資本主義者の仕事をすることを始めたのだ。
 メンシェヴィキは、これは現実には危険を秘めており、かつ理論上きわめて不明瞭だと考えた。
 ボルシェヴィキたち自身が、どのようにすれば達成できるのかを本当には理解していなかった。
 十月革命後の最初の数年間、彼らは、ロシアが社会主義へと前進するためには産業化した西側ヨーロッパの助力が必要だろうとしばしば示唆していた。
 しかし、ヨーロッパの革命運動は挫折し、ロシアはどう前進すればよいか不確定なままに、しかし何とかして前進する途を自ら決定しなければならないままに、取り残された。
 かつての時期尚早の革命という議論を振り返って、レーニンは1923年に、メンシェヴィキの異論は「きわめて陳腐な文句」だと見なし続けた。(*秋月注)
 革命的情勢のもとでは、ナポレオンが戦争に関して述べたように、<仕事をせよ、そうすればつぎのことが分かる>(on s'engage et puis on voit )(**秋月注)。
 ボルシェヴィキは、危険を冒した。そしてレーニンは、-6年後に-「全体として」成功してきたことに今や疑いはありえない、と結論づけた。(22)//
 これはおそらく、勇敢さを装っている。最も楽観的なボルシェヴィキですら、内戦後に直面していた経済状態に動揺していたからだ。
 全てのボルシェヴィキたちの願望を嘲弄して、まるでロシアが20世紀をたくみに逸らして、全体的な後進性という類似性から逆に進んだかのごとくだった。
 町々は枯渇し、機械類は放棄された工場で錆びついていおり、鉱山は水浸しになり、工業労働者の半分は明らかに農民層へと再び吸収されていた。
 1926年の統計調査が示すことになるように、欧州ロシアは内戦直後の数年間に、1897年に比べて実際には都市化して<いなかった>。
 農民たちは伝統的な実体農業に戻り、農奴制出現以前の昔の黄金時代を再び獲得する意図をもっているように見えた。//
 1921年のネップの導入は、つぎのことの承認だった。すなわち、ボルシェヴィキはたぶん大資本家の仕事をすることができるが、当分の間は小資本家たちの存在なくしては生きていくことができない、ということ。
 都市部では、私的取引と小規模の私的産業の再生が許された。
 田園地帯では、ボルシェヴィキはすでに農民たちに土地を自由にさせていた。そして今ではボルシェヴィキは、都市的工業製品の消費者としてはもちろん、農民たちが都市市場のための信頼できる「小ブルジョア」生産者としての役割を果たしてくれるのかと気に懸けていた。
 農民たちの土地保有を強固にするという(ストリュイピンのもとで始まった)政策は、1920年代にソヴィエト当局によって継続された。<ミール>の権限を正面から攻撃するということはなかったけれども。
 ボルシェヴィキの立場からすれば、小資本家的農民の農業は村落の伝統的な共同体的かつ実体類似の耕作よりも好ましかった。そして、そう奨励することに全力を尽くした。//
 しかし、ネップ期の私的部門に対するボルシェヴィキの態度は、つねに両義的だった。
 内戦後に粉々になっていた経済を復興させるためには、ネップが必要だった。そして、復興に続く経済発展の初期の段階のためにもおそらく必要だろう。
 しかしながら、資本主義の部分的な復活ですら、多くの党員たちには不快でおぞましいものだった。
 製造業や採掘業の「免許」を外国企業に与えたとき、ソヴィエト当局は心配して当惑し、その免許を撤回して外国企業を買収できるほどに事業が安定するときが来るのを待った。
  地方の起業家(「ネップマン」)は、多大の疑念をもって処遇された。そして、彼らの活動に対する制限は1920年代の後半までにはきわめて強くなったので、多くの事業は消滅に至り、残っているネップマンたちには法の限界のところで活動する暴利商人のごとき翳りある様相があった。//
 農民層に対するボルシェヴィキのネップ期の方針は、いっそう矛盾すらしていた。
 集団的および大規模の農業は、ボルシェヴィキの長期的な目標だった。しかし、1920年代半ばの一般的な知識が教えたのは、その目標を達成する見込みは遠い将来のことだ、ということだった。
 その間に農民層を懐柔し、彼らが小ブルジョアの途を自由に進むのを許さなければならなかった。
 かつまた、農民たちが農業の方法を改善して生産を高めるように奨励することは、国家の経済的利益だった。
 これが暗黙にでも示すのは、懸命に働いて個々人の農業経営に成功する農民たちを、体制は許容し、推奨すらした、ということだ。//
 しかしながら、実際には、ボルシェヴィキは隣人たちよりも裕福になっていく農民たちをきわめて疑っていた。
 そのような農民たちは潜在的な搾取者であり村落の資本家だとして、しばしば「クラク〔富農〕」へと分類された。それが意味するのは、選挙権の剥奪を含む多様な形態で差別される、ということだった。
 「中産(middle)」農民(全農民の大多数が入る「裕福」と「貧困」の間にある範疇)との同盟を作出することを多く語りながらも、ボルシェヴィキは、農民層内部の階級分裂の徴候を継続的に見守り続けた。農民層を階級闘争へと投げ込み、裕福な農民に対する貧困な農民の闘いを支援する機会が来るのを心待ちしながら。//
 しかし、ボルシェヴィキが経済発展にとって最も重要と位置づけたのは、村落ではなくて、都市だつた。
 社会主義の建設について語るとき、彼らが心に抱く主要な過程は工業化だった。それは最後には都市経済のみならず村落経済をも変質させるはずのものだった。
 内戦の直接の影響で、1913年の水準にまで工業生産を復活させることだけでも、困難な任務であるように思えていた。レーニンの電力化計画は、事実上は1920年代前半の長期にわたる開発計画に他ならなかった。そして、よく周知されたにもかかわらず、元来の目標は全く控え目のものだった。
 しかし、1924-25年、予期しなかったほどの急速な工業および経済の復活によって、ボルシェヴィキ指導者の間には楽観的見方が急に沸きたち、近い将来での大工業の発展の可能性が再評価され始めた。
 内戦期のチェカの長であり党の最良の組織者の一人である Feliks Dzerzhinsky (ジェルジンスキー)は最高経済会議(Vesenkha)の議長職を継承し、その会議を強力な工業省へと作り替え始めた。彼は、帝政時代の先行者のように、冶金、金属加工および機械製造に焦点を当てた。
 急速な工業発展に関する新しい楽観主義は、1925年末のジェルジンスキーの自信に満ちた言明にも現れている。つぎのようなものだった。//
 『こうした(工業化という)新しい任務は、15年前あるいは20年前でも抽象的な言葉で考察していたようなものでは全くない。その当時に我々は、国家の工業化の行程を進み始めることなくしては社会主義の建設は不可能だ、と言っていた。
 今では我々は、一般的な理論のレベルで問題を設定しているのではなく、我々の全ての経済活動の明確で具体的な目標として設定しているのだ。』(23)//
 急速な工業化が望ましくないことについては、ボルシェヴィキ指導者の間で現実的な異論はなかった。しかし、この問題は不可避的に、1920年代半ばの党派闘争の中で論じられることになった。
 トロツキーは、ネップの初期の暗鬱なときですら国家経済計画を積極的に支持した数少ないボルシェヴィキの一人だった。そして、彼の政敵たちに対抗して工業化という根本的考え方を主唱したのは幸せなことだっただろう。
 しかし、1925年にスターリンは、工業化は今や<自分の>問題であり、自分の最も優先されるべき問題の一つだ、と明瞭に述べた。
 十月革命の八周年記念行事でスターリンは、経済の急速な近代化を推進するという党の最近の決定を、1917年のレーニンの、政治権力を奪取する重要な決定と照らし合わせた(24)。
 これは大胆な比較だった。スターリンが自分のために望んだ名声のみならず、経済近代化の達成に彼が付した重要性をも示唆していた。
 思うに、すでに彼は、レーニンの後継者としての歴史を密かに用意していたのだろう。すなわち、彼は工業化推進者(Industrializer)たるスターリンとなるはずだったのだ。//
 党の新しい方針は、スターリンの「一国での社会主義」というスローガンで表明された。
 これが意味したのは、自分の力だけで、ロシアは工業化し、強大になり、社会主義の前提条件を生み出そうとしている、ということだった。
 世界革命ではなく国家の近代化が、ソヴィエト共産党の第一次的な目標になった。
 ボルシェヴィキは、自分たちのプロレタリア革命を支えてくれるヨーロッパでの革命を必要としなかった。
 ソヴィエト国家を建設するためには、外国人の善意を-革命家のであれ資本家のであれ-必要としなかった。
 自分たちの力は、1917年十月にそうだったように、戦いに勝利するには十分だったのだ。//
 ソヴィエトが世界で孤立しているという否定できない事実やいかなる犠牲を払っても工業化するというスターリンの意図を考慮すれば、「一国での社会主義」は結集させるための有用な叫び声であり、よい政治的戦略だった。
 しかし、それはマルクス主義理論の厳格な教えに熟達した古いボルシェヴィキには、現実に反対する意向を大きくはもたないとしても、しばしば論争したくなるような戦略だった。
 結局のところ、国家的熱狂(愛国主義、chauvinism)という底流を掻き乱すものとして、<理論上の>問題は無視されることになった。まるで、ソヴィエトの政治的に遅れた国民大衆に、党が迎合しているかのごとくだった。
 先ずはジノヴィエフ(1926年までコミンテルン議長)が、次にトロツキーが毒餌に食いつき、「一国での社会主義」に反対の声を挙げた。イデオロギー的には誤っていないが、政治的には災悪だ、と。
 この反対によって、スターリンは反対者たちに汚名をつけることができた。そして同時に、スターリンは国家建設とロシアの国益を主唱しているという、政治的に有利な事実を強調した。(25)//
 ユダヤ人知識人のトロツキーがボルシェヴィキはつねに国際主義者だったと強く指摘したとき、スターリンの支持者たちは、トロツキーはヨーロッパ以上にロシアのことを気に懸けない世界主義者(cosmopolitan)だと描いた。
 トロツキーが自分はスターリンと同じく工業化論者だと適切に主張したとき、スターリンの仲間たちは、トロツキーは1920年に労働徴兵を支持し、従って、スターリンとは違って、おそらくロシアの労働者階級の利益を犠牲にする心づもりのある工業化論者だ、と想起させた。
 だがなお、工業化に要する資金が論争点となった。そして、トロツキーは、ソヴィエト国民が耐えられないほどに搾り取られるべきではないとすれば、外国取引と借款がきわめて重要だ、と主張した。このことは、トロツキーが「国際主義」者であることのもう一つの証拠になっただけだった。-大規模な外国取引と借款を獲得できそうではない情勢にますますなっていたのだから、トロツキーに現実的感覚が欠けていたことは言うまでもないとしても。
 スターリンは、対照的に、愛国的でありかつ同時に現実的な立場をとった。すなわち、ソヴィエト同盟は、資本主義の西側からの恵みを乞う必要はないし、そう望みもしない、と。//
 しかしながら、工業化のための資金融通は重大な問題で、言葉上の盛んな議論だけで終わらせるべきものではなかった。
 ボルシェヴィキは、資本の蓄積がブルジョア産業革命の前提条件だったことを、そして、マルクスはこの過程は民衆の受難を意味すると生々しく叙述していたことを、知っていた。
 ソヴィエト体制もまた、工業化するためには資本を蓄積しなければならない。
 ロシアのかつてのブルジョアジーはすでに収奪されてしまっており、新しいブルジョアジーであるネップマンとクラク(富農)には、多くを蓄積する時間と機会がなかった。
 革命の結果として孤立しているロシアがウィッテ(Witte)の例にもう従えないとすれば、体制は自分たちの資力を、民衆一般の資力を、そしてまだ圧倒的な数の農民から資力を引き出さなければならなかった。
 そうすると、ソヴィエトの工業化とは、「農民の搾取(squeezing)」を意味したのか?
 そうであるならば、体制はそれに続きそうである政治的対決から生き延びることができたのか?//
 1920年代半ば、この問題は、機会主義者であるプレオブラジェンスキーとブハーリン、およびスターリン主義者たちの間の論争の主題だった。
 <共産主義のイロハ>の共著者だった前者二人は、ともによく知られたマルクス主義者で、それぞれに対応して経済理論と政治理論の専門家だつた。
 プレオブラジェンスキーはこの論争で-経済学者として論じて-、工業化に使うために、主としては村落部門に対する取引条件を変えることによって、農民に「貢ぎ物」を要求する必要があるだろうと書いた。
 ブハーリンは政治的観点から、これは受け入れ難いと見なした。農民から反発されるだろうし、レーニンがネップの基礎だとした労働者・農民の同盟関係を破壊する危険を冒す余裕は体制側にはない、と異論を述べたのだ。
 この論争に、結論は出なかった。ブハーリンは工業化する必要、そのために何とかして資本を蓄積する必要を肯定したからであり、一方でプレオブラジェンスキーは、農民層と強制力や暴力をもって対立するのは望ましくないことに同意したからだ。(26)//
 スターリンは、この議論に関与しなかった。そのことで多くの者は、彼は味方であるブハーリンと同じ考えだと想定した。
 しかしながらすでに、スターリンの農民に対する態度はブハーリンのそれよりも優しくない、ということがある程度は示されていた。すなわち、スターリンはクラクの脅威に関して、より強硬な方針を採った。また、1925年には明示的に、農民層が「金持ちになる」ことを体制による祝福でもって奨励するブハーリンの考え方からは離れていた。
 さらに加えて、スターリンは、工業化追求をきわめて強く確言していた。そして、ブハーリン・プレオブラジェンスキー論争から導かれる結論は、ロシアは工業化を遅らせるか、それとも農民層と対立する大きな危険を冒すか、のいずれかだったのだ。
 スターリンは、不人気な政策を事前に発表するような人物ではなかった。しかし、後から見ると、どの結論をスターリンが選択したのかを推測するのはむつかしい。
 彼が1927年に記したように、工業生産高と産業プロレタリア-トの数字をほとんど戦前の水準にまで向上させたネップによる経済回復は、都市側の方へと、都市と田園地帯の間の力の均衡を変えていた。
 スターリンは工業化を目指し、それが田園地帯との政治的対立を意味しているとすれば、「都市」が-つまりは都市的プロレタリア-トとソヴィエト体制が-勝利するだろうと考えた。//
 ネップの導入に際して、レーニンは1921年に、これは戦略的な退却だ、いまはボルシェヴィキが新規に革命的な攻勢を行う前に勢力を結集させるときだ、と述べた。
 10年も経たないうちにスターリンは、ほとんどのネップ政策を放棄し、工業化を追求する第一次五カ年計画と農業の集団化によって、革命的変化の新しい段階を開始した。
 これは真の(true)レーニンの路線だ、レーニンが生きていれば彼自身が採用していただろう途だと彼は語ったし、疑いなくそう信じていた。
 ブハーリンやルィコフを含む他の党指導者たちは、次の章で論述するように、同意しなかった。レーニンは、ネップという穏健で懐柔的な政策は体制が社会主義に向かうさらなる決定的な一歩を踏み出す望みを持てるまで「真剣にかつ長い間」実施されなければならないと述べたのだと、彼らは強く指摘した。//
 歴史研究者たちは、レーニンの政治的遺産に関して、分かれている。
 ある者たちは、善意であれ悪意であれ、スターリンはレーニンの真の(true)後継者だったとする。一方、別の者たちは、スターリンは基本的にはレーニンの革命に対する裏切り者だと見る。
 もちろんトロツキーは後者の見方を採り、自分は匹敵し得る後継者だと考えた。しかし、彼は、スターリンによるネップの放棄と彼の五カ年計画の間の経済的かつ社会的な変化の追求に関して、原理的には何ら本当には反対していなかった。
 1970年代、そしてソヴィエト同盟でのゴルバチョフのペレストロイカの短い時期に、レーニン主義(または「元来のボルシェヴィズム」)とスターリニズムの間に根本的な違いを見た研究者たちを惹きつけたのは、スターリンに対する「ブハーリンという選択肢」だった。
 ブハーリンという選択肢とは、実際には、近い将来までの間のネップの継続だった。そして、それが力を持ったとすれば、ボルシェヴィキは漸進的な方法でその革命的な経済的かつ社会的目標を達成できるという可能性が少なくともあることを、意味していた。//
 レーニンが生きていれば1920年代末にネップを放棄していたのか否かは、誰一人決して明確には回答することができない、「かりに〜ならば、どうなっていたか」(what if)という歴史の問題だ。
 レーニンの晩年の1921-23年、彼は急進的な変化について-当時のボルシェヴィキ指導者たちと同様に-悲観的で、また、放棄したばかりの戦時共産主義政策への執着が党に心遺りとして続いているのを妨げたいと願っていた。
 しかし、彼は異様に気まぐれな思想家であり、政治家だった。彼の気分は-他のボルシェヴィキ指導者たちのように-、予期しなかった1924-25年の急速な経済回復に鋭く反応して変わったかもしれなかった。
 レーニンは、1917年4月に、「この革命の決定的な闘い」が生きている間にやって来るのは結局は不可能だと考えていた。しかし、同じ年の9月頃には、プロレタリア-トの名による権力奪取の絶対的な不可避性を主張した。
一般的にレーニンは、状況の消極的な犠牲者になりたくはなかった。この状況というのは、ネップのもとでの自らの位置をボルシェヴィキがどう理解しているかにとって、基本的に重要だつた。
 レーニンは気質において革命家なのであり、ネップは決して、経済的かつ社会的観点からするその革命的目標を実現するものではなかった。//
 1956年の第20回大会でのフルシチョフによるスターリンの悪に対する批判の後で、古い世代の多数のソヴィエト知識人は、1920年代の青年時代の回想録を執筆した。それらによると、ネップ期はほとんど黄金時代だったように見える。
 そして、西側の学者たちはしばしば、同じような見方を示した。
 しかし、遡って回顧してのネップの美点-社会内部での相対的な緩和と多様性、体制の側での比較的にレッセ・フェール的な態度-は、当時の共産党員たる革命家たちが褒め讃えた性質ではなかった。
 1920年代の共産党員たちは、階級敵を怖れ、文化的多元主義を許容せず、党の指導部の一体性の欠如に不安をもち、方向と目的意識の感覚を喪失していた。
 彼らは、その革命で世界を変えたかった。しかし、いかに多く古い世界が存続したかは、ネップ期に明瞭だった。//
 共産党員たちにとって、ネップは、偉大なフランス革命が堕落した時期であるテルミドールの匂いがした。
 1926-27年、党の指導部と反対派の間の闘争は、新しい次元の苦しみにまで達していた。
 どちらの側も他方を、革命の陰謀とか裏切りとか言って責め立てた。
 フランス革命との類似性が、しばしば引用された。ときには、「テルミドールの退廃」と関連させて。ときには-不気味にも-、ギロチンが持つ有益な効果に言及がなされて。
 (過去にボルシェヴィキ知識人たちは、革命を食い潰し始めたときに革命は瓦解するということを教える革命の歴史を知っていることを誇った。) (28)//
 また、病気の前の不快な感覚は党のエリートたちに限られてはいない徴候もあった。
 多数の一般党員や同調者たちは、とくに若者たちは、幻滅し始め、革命は行き詰まったと考える方向へと傾斜した。
 労働者たち(党員の労働者を含む)は、「ブルジョア専門家」やソヴェトの行政担当者の特権、悪徳な取引をするネップマンの利得、高い失業率、および機会と生活水準の不平等さの永続にひどく腹を立てていた。
 党の煽動者やプロパガンダ者は頻繁に、「我々は何のために闘ったのか?」という怒った疑問に対応しなければならなかった。
 党の空気を占めたのは、若きソヴィエト共和国がやっと静かな港に入ったという満足感の一つではなかった。
 あったのは焦燥感、不満感の空気であり、辛うじて戦闘気分が抑えられていた。そして、とくに若者の党員たちの間には、内戦期のあの英雄的な日々への郷愁が覆っていた。(29)
 共産党-革命と内戦の経験を通じて塑形され、(レーニンの1917年の言葉では)「腕を組む労働者階級」だと自己をまだ意識していた1920年代の若き党-にとって、おそらくは平和があまりにも早くやって来ていた。//
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 (22) レーニン「我々の革命」(N・スハノフの記録について), <全集>第33巻p.480〔=日本語版全集第33巻「わが革命について/1923年1月17日」500頁。下のとくに**を参照。〕
 *(秋月1) レーニン全集日本語版33巻498頁の訳では、「はてしのないほど」の又は「極端に」「紋切り型」。
 **(秋月2)レーニン全集日本語版33巻500頁の訳文は、こうなっている。
 「私の記憶では、ナポレオンは<On s'engage et puis …on voit>と書いた。ロシア語に意訳すれば、こうなる。『まず重大な戦闘にはいるべきで、しかるのちどうなるかわかる。』
 そこで、われわれもまず1917年十月の重大な戦闘……、しかるのち…がわかったのである。
 そして現在、われわれがだいたい勝利をおさめてきたことは、疑う余地がない」。
 (23) Yu. V. Voskresenskii, Perekhod Kommunisticheskoi Partii k osushchesvleniyu SSSR (1925-1927)(Moscow, 1969), p.162. から引用した。
 (24) スターリン「十月、レーニンおよび我々の発展の展望」, <全集>(Moscow, 1954)vii 所収, p.258〔=日本語版スターリン全集(大月書店)第7巻「十月革命、レーニンおよび、われわれの発展の見通し」261頁以下〕
 (25) こうした議論につき、E. H. Carr, <一国社会主義>, ⅱ, p.36-p.51.を見よ。
 (26) この論争の詳細な検証につき、A. Erlich, <ソヴィエト工業化論争-1924-1926年>(Cambridge, MA, 1960)を見よ。
 (27) Stephen F. Cohen「ボルシェヴィズムとスターリニズム」, Tucker ed. <スターリニズム、ブハーリンおよびボルシェヴィキ革命>(New York, 1973)所収、Moshe Lewin, <ソヴィエト経済論争の政治的底流: ブハーリンから現在の改革者まで>(Princeton, NJ, 1974), を見よ。
(28)テルミドールに関する党の議論につき、Deutscher, <武装していない予言者>(London, 1970), p.312-332. およびMichal Reiman, <スターリニズムの誕生>, 訳George Saunders (Bloomington, IN, 1987), p.22-23. を見よ。
 (29) 若者の疎外感に関する懸念につき、Anne E. Gorsuch, <革命ロシアの若者たち>(Bloomington, IN, 2000), p.168-181. を見よ。
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 第4章(ネップと革命の行く末)の第4節が終わり。第4章の全体も終わり。

1828/不破哲三の2017年11月・朝日新聞での妄言①。

 日本共産党前議長・現常任幹部会委員の不破哲三が、朝日新聞2017年11月17日朝刊の紙面に登場して、<ホラ話>を述べている。
 ロシア革命100年ということでこんなインタビュー記事を掲載する堂々とした全国紙があるのだから、日本の<左翼的>状況の程度をよく知らせてくれている。
 聞き手は「三浦俊章、池田伸壹」とされる。編集部の手が入っているだろうが、本人・不破哲三の不服・不満があるかたちで紙面になっているとは考え難い。したがって、不破哲三自身の言葉・表現だと理解して、以下、この<妄言>についてコメントする。
 最初に語られているテーマは、ロシア革命の意味・意義だ。
 最近に岩波書店のロシア革命・講座の「編集代表一同」の「刊行の言葉」に言及したが、そこで書かれていた三点のうち二点は、この朝日新聞での不破哲三発言と同じだ。
 似たようなデマゴギーが溢れている。
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 さて、不破は、つぎの三点を挙げていると読める。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 第二。「ロシア革命が起点となって、民主主義の原則が新たな形で世界に定着した」。
 これのコロラリーのようなかたちで、つぎもある。
 「社会的権利と呼ばれる労働者の権利が、革命後の人民の権利宣言で初めてうたわれた」。
 第三。「革命政権は、〔第一次大戦〕大戦終結の条件として、民族自決権の世界的確立を求めた。…。世界の民主的国際秩序の先駆けとなる原則を打ち立てました」。
 以上の三点全てが<ホラ話>だ。<妄想>だ。つまり現実・事実に反する。あるいは、論証されていない命題にもとづいて何らかのことを「政治的に」主張している。あるいは、「観念・言葉」と「現実」の混同がある。
 たぶん一回ではすまない。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 資本主義からの離脱に初めて成功した、と不破哲三は理解する。
 かりにそうだとして、それが<良かった>、<進歩的だった>のかはもちろん別の問題だ。
 この人は、そしておそらく日本共産党員の全てが、資本主義→社会主義(・共産主義)という道筋を「人類」はたどる「はず」だと想定しているのだろう。そうだとすれば、ロシア革命は歴史上「初めて」の積極的な意義があることになる。ちなみに、何となくそう理解している、あるいはロシアの現実は別として、資本主義→社会主義(・共産主義)という方向自体は少なくとも理念として正しいのではないかと考えている、<容共>者もいるかもしれない。
 しかし、そもそも上の想定・前提は<正しい>、<適切な>ものなのか。
 一定の観念・想念・幻想があってはじめて、「資本主義に代わる新しい社会を目指す」のは良かったことだ、という評価が成り立つ。
 不破によると、「マルクスの理論の中でしかなかった社会主義が現実化し、世界に大きな衝撃を与えた」。
 そのとおりかもしれず、「マルクスの理論」が現在でもなお影響力をもつのは「ロシア革命」が成功したこと、つまりは<理論が現実化>して、<理論の正しさ>が現実で証明された、と少なくとも「受け止められた」ことにあっただろう。
 その意味で、マルクス→レーニンによってこそ、マルクスは現にあるような形で歴史に残っているのだとも言える。
 それは、ルソー(ら)→フランス革命、吉田松陰→明治維新、という関係とも似ている
 しかし、レーニンによる「ロシア革命」は本当に<社会主義(を目指す)革命>だったのか。
 そのようにレーニンらボルシェヴィキ派が<宣伝>した、<言葉・概念で訴えた>だけかもしれず、本当に<マルクスの理論を現実化した>ものかどうかは別途の検討が必要だ。
 かりにレーニンらが「マルクスの理論」を現実化したもの、または現実化しようとしたものであったとしても、1917年~1922年の現実は、かりに「社会主義が現実化」したものだったとすれば、悲惨な現実だったと私には思われる。
 国家・行政の運営の仕方を知らない<しろうと>たちが、マルクスが簡単かつ抽象的に描く「共産主義」をさっそく実施しようとしたがゆえの悲惨な現実だった、と十分に理解することができる。
 不破哲三による<市場経済をつうじて社会主義へ>というレーニンの考えの確立という発見(?)の特徴は、この人はおそらくレーニン全集等で読むことのできるレーニンの<言葉・文章>だけでロシア革命等を、また十月革命直後の歴史を理解しようとしていることだ、と論評することができる。
 この人はいったい、どこまで、1917年~1922年くらい、要するに<レーニン時代>のロシアの現実を知っているのだろうか。
 かりに現実にしたのだったとしても、そこでの「社会主義」とは人間の本性には反した絵空事を描いたものではなかっただろうか。
 さらにもともと、マルクスらのいう封建主義→資本主義→社会主義(・共産主義) という「歴史的法則」自体の<正しさ・適切さ>も、何ら証明されていないものだ。
 <最初に資本主義から離脱した>。これがなぜ積極的意義・意味を持つのか、さっぱり分からない。
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 若い頃からマルクス、レーニン、(1980年くらいまでは)スターリンを読み、かつ日本共産党の幹部だった(である)人物の<思考・意識形態>というのは、ヒト・人間観察としても、すこぶる興味がある。
 続けざるを得ないだろう。

1826/江崎道朗2017年8月著の悲惨⑱。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この本が<レーニンの生い立ち>についてもっぱら、正確には一つだけの邦訳書として、「参考に」しているので、おかげで著書の執筆者、クリストファ・ヒル(Christopher Hill)について、関心をもち、知識も得ることができた。
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 既述のようにヒルは、1945-46年にLenin and the Russian Revolution(1947)を執筆し、1947年に英国で刊行し、これが1955年にクリストファー・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955年)という邦訳書となって日本でも刊行された。これは、彼の43歳の年で、原書を執筆していたのは、33~34歳のとき。
 また、80歳をすぎた1994年1月の英国新聞紙上で、私に言わせればなお<レーニン幻想>をもつことを明らかにし、「スターリンのゆえにレーニンを責めるという罠(trap of blamming Lenin for Stalin)」に陥ってはならない旨を語った。
 なお、「スターリン以降の歴代指導者」が「社会主義の原則」を踏みにじったのであって、レーニンは社会主義に向かう「積極的努力」をした、というのは現在の日本共産党の歴史理解だ。したがって、Ch・ヒルは(も?)日本共産党と似たようなことを言っていることになる。
 但し、<レーニンはまだマシだった>くらいの議論は欧米にも(当然に?日本でも)あるようだが、レーニンは<市場経済を通じて社会主義へ>の路線を確立した、とまで書いている欧米文献は見たことがない
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 さて、とりあえず、ネット上の情報によると、つぎのことは確実だろうと思われる。
 クリストファー・ヒル(Christopher Hill)、1912年2月~2003年2月。満91歳で死去、イギリス人。
 1930年代の前半、イギリス共産党に入党。共産党員となる。
 これはコミンテルンの支部としての、「共産党」と名乗ったイギリスの党だと思われる。一般的な言葉ではなく、私の造語かもしれないが、日本共産党とともに出自は<レーニン主義政党>だ。
 つづき。のち1956年に<ハンガリー事件(動乱)>をきっかけとして、離党した。
 マルクス主義歴史家としてイギリスで著名で、主要研究分野は17世紀のイギリス。
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 以上は英米語と日本語のWiki (ウィキ)でほぼ共通することを書いた(一部は私の文章だが)。
 英米語版Wikipedia は相当に詳しい。以下、それによる。
 ソ連による1956年のハンガリー侵攻の際に「多くの他の知識人たち〔党員〕」は離党したが、Ch・ヒルが離党したのは1957年の春で、「多くの他の知識人たち」と違っていた(unlike)。
 1931年にドイツ・フライブルクにいて、ナツィスの勃興を目撃。
 1934年にUniversity of OxfordのBalliol College を卒業。
 1932~1934年の間に、マルクス主義に馴染み、イギリス共産党に入党。
 1935年、OxfordのAll Souls Collegeの研究員になり、10箇月間のモスクワ旅行。
 1936年、the University College of South Wales and Monmouthshire(at Cardiff )の「助講師」。
 この年、コミンテルン設立の「国際旅団」に参加して「人民戦線」側で戦う(スペイン内戦)ことを応募したが却下された。代わりに、バスク難民救済事業に参加。
 1938年、University of Oxford/Balliol College の「研究員兼講師」(歴史学)。
1946年、<イギリス共産党・歴史家グループ>を結成。
 1949年、新設の Keele University の the chair of History に応募したが、共産党員であること(his Communist Party affiliations)を理由として、拒否される。
 以上が、江崎道朗が「参考」にした本が書かれる頃までの、かつ共産主義・共産党にかかわるCh・ヒルの「経歴」の一部だ。全くのウソではないだろう。
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 ハーヴェイ・J・ケイ(監訳/桜井清)・イギリスのマルクス主義歴史家たち(白桃書房、1989)という邦訳書がある。原書は、以下。
 Harvey J. Kaye, The British Marxist Historians (Polity Press, Cambridge, 1984).
 邦訳書によると、これはアメリカ人によるものだが、上では省略した邦訳書の副題に並べられているように、5人のイギリス・マルクス主義歴史家について叙述する。5人とは、以下。
 ①モーリス・ドップ(Maurice Dopp)、②ロドニー・ヒルトン(Rodony Hilton)、③クリストファ・ヒル(Christopher Hill)、④エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)、⑤トムソン(E. P. Thompson)
 ⑤のE. P. トムソンは、1970年代前半にL・コワコフスキを批判し、逆に後者から辛辣な反論を浴びた学者。L・コワコフスキの文章はこの欄で試訳した。トニー・ジャッㇳ(Tony Judt、1948-2010)による両者の論争?への言及についても紹介した。
 ④のE・ホブズボームについては、マルクス主義・共産主義と「ロマンス」をした、イギリス共産党員たることをやめなかった人物だと Tony Judt が描いていると、この欄で言及したことがある。
 そして、③クリストファ・ヒル(Christopher Hill)。1984年の時点で、元イギリス共産党員。
 上の本の著者自体が、マルクス主義者または明瞭な親・マルクス主義者だ。
 著者のハーヴェイ・J・ケイ(Harvey J. Kaye)はアメリカ人だが、イギリスのマルクス主義歴史学者の確かな流れ・系譜を上記の5人に見ている。
 例えば、序論で、つぎのように書く。
 彼ら(上の5人)は個別研究分野で優れているのは勿論だが「共に理論的伝統を支えてきた」。筆者(ケイ)の「論拠は、これらイギリス・マルクス主義歴史家たちが、共通の理論的問題設定に取り組んでいるという点に基礎」を置く。p.4。 
 その最終章(第7章)は「共通する貢献」と題しており、例えば、つぎのように書いている。
 彼らの研究は「総体的にみて、筆者の言う『階級闘争分析』と『底辺からの歴史』という視点から歴史研究と歴史理論の再構築をはかろうとする理論的伝統に立っている」。「特にマルクス主義との関連で言えば、彼らは、…マルクス主義あるいは史的唯物論を、階級決定論として発展させることに努めている」。p.249。  
 あくまでH. J. ケイによる見方だが、ともあれ、Ch・ヒルとは、1980年代前半の時点で、イギリス・マルクス主義歴史学者の(当時までの)5人の中の一人なのだ。マルクス主義内部の細部の論点には立ち入らない。
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 さて、江崎道朗は冒頭掲記の2017年8月の著で、いったい何ゆえに、<レーニンの生い立ち>に関して、このCh・ヒルが30歳台のとき、第二次大戦後すぐの1947年に刊行して1955年に日本語訳書となった古い本をもしかも岩波書店刊行(岩波新書・岡稔訳)の本を、<ただ一つだけ>「参考に」したのだろうか。
 大笑い、大嗤いだろう。
 <インテリジェンス>うんぬんを語る日本の<保守>派らしき人物が、当時はれっきとしたイギリス共産党員だった者が執筆したレーニン・ロシア革命に関する本を、何の警戒も、何の注意も払うことなく(まさか岩波新書だから古くても信頼が措けると判断したのではあるまい)、ただ一つの「参考」書として使っているのだ。
 この本刊行のあと晩年まで<レーニン幻想>を抱いていた人物であることは、私は突きとめた。
 なぜ、こんな安易な本の参考の仕方を江崎道朗はしているのか。
 要するに「無知」、「幼稚」の一言か二言でもよいのだろう。
 だが少し想像すれば、おそらく、レーニンの「生い立ち」を叙述する必要に迫られて、手頃に、簡単に入手できたCh・ヒル著(岩波新書)を見つけ、60年以上前に刊行された岩波新書であることも無視して、あえて使ったのだろう。
 この本以外に、レーニンの伝記的な部分を含むレーニンに特化しての研究書が邦訳書も含めて多数(しかも詳しいものが)あると想像すらしなかったようであることは、信じられないほどだ。
 江崎道朗の2017年8月著は悲惨であり、無惨だ。
 なぜ、この程度の人物が月刊正論(産経)の毎号執筆者なのか。
 なぜ、この程度の人物が<インテリジェンス>の専門家面しておれるのか。
 このような人を<培養している>のはいったいどういう情報産業界なのか。
 そして、<日本の保守>派とはいったいいかなる人たちで成っているのか。なぜ、これほどに頽廃した人々が<保守>を名乗っておれるのか。
 昨年8月に覚えた絶望的な気分を、再び思い出した。精神衛生によくない。

1824/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑬。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第13回
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 第4章・ネップと革命の行く末。
 第2節・官僚機構の問題(The problem of bureaucracy)。
 革命家として、全てのボルシェヴィキは「官僚制」(bureaucracy)に反対だった。
 自分たちは党の指導者か軍事指令官だと幸せにも思ってきたのだが、彼らは真の革命家が新しい体制の一官僚(bereaucrat)、<chinovnik>になるのを受忍できたのだろうか?
 行政活動について議論したとき、彼らの言葉遣いは豊富な婉曲語法になった。すなわち、共産党員である行政担当者(officials)は「幹部(cadres)」で、 共産党官僚機構は「ソヴェト権力」の「装置」であり「機関」だった。
 「官僚機構」(bureaucracy)という語は、つねに侮蔑的なものだった。「官僚主義的方法」や「官僚主義的解決」は、何としてでも避けられるべきものだった。そして、革命を「官僚主義の頽廃」から守らなければならなかった。//
 しかし、こうしたことによって、ボルシェヴィキが独裁制を確立した意図は社会を支配しかつまた移行させることにあった、という事実を曖昧にすることはできなかった。
 行政機構なくしてこの目的を達成することはできなかった。彼らは最初から、社会は自主的にまたは自発的に変化を遂げることができる、という考え方を拒否していたのだから。
 かくして、疑問が出てくる。どのような行政機構が必要だったのか?
 ボルシェヴィキは、地方での基盤が解体してしまった中央政府の官僚機構(central government bureaucracy)を引き継いだ。
 彼らは、地方政府の機能を1917年に部分的に奪い取ったソヴェトを有してはいた。
 最後に残っていたのは、ボルシェヴィキ党自体だった。-革命を準備して実行するという従前の機能は、十月以降の状況には明らかに適合しなくなっていた組織だ。//
 かつての政府官僚機構は今はソヴェトの支配下にあったが、ツァーリ体制から継承した多数の行政担当者や専門家をなおも使っていた。そしてボルシェヴィキは、革命的諸政策の実施を拒否したり妨害したりする彼らの能力を怖れた。
 レーニンは1922年に、古いロシアの「被征服国民」は共産主義者という「征服者」に価値を認める過程にすでに入っている、とつぎのように書いた。。//
 『4700名の共産党員が責任ある地位に就いているモスクワについては、あの大きい政府官僚機構、あの巨大な堆積物については、「誰が誰を指揮しているのか?」と問わなければならない。
 共産党員はあの堆積物を指揮している、と本音で言われているのか否かを、私はひどく疑っている。
 本当のことを言えば、共産党員は指揮しておらず、指揮されている。<中略>
 その(かつての官僚制の)文化は悲惨でとるに足らないものだが、我々のそれよりもまだ高いレベルにある。
 現にそうであるように惨めで低くても、我々の責任ある共産党員行政担当者よりも高い。共産党員行政担当者には、行政の資質がないからだ。』(11)
 レーニンは、かつての官僚機構が共産主義の価値を破壊する危険を見ていた。しかし、共産党にはそれによって活動する以外の選択肢はないと考えていた。
 共産党員は、かつての官僚制の技術的な専門知識を必要とした。-行政上の専門知識だけではなくて、政府財政、鉄道運営、度量衡あるいは共産党員に可能であるとは思えない地理測量のような分野の特殊な知識をも。
 レーニンの考えでは、新体制が「ブルジョア」専門家を必要とすることを理解しない党員は全て、「共産主義者的傲慢」という罪を犯していた。この罪は、共産主義者は全ての問題を自分で解決できると考える無知で子どもじみた信念のことだ。
 十分な数の共産党員専門家を党が養成するには、だいぶ時間がかかるだろう。
 そのときまで、共産党員はブルジョア専門家とともに仕事をし、同時にしっかりと彼らを支配し続けることを学ばなければならなかった。//
 専門家に関するレーニンの考えは、他の党指導者たちも一般に受け入れていた。しかし、彼らは一般党員にあまり人気がなかった。
 たいていの党員は、政府の高いレベルで必要な専門技術的知識の性質や種類に関してほとんど何も知らなかった。
 しかし彼らは、旧体制からいる小役人がソヴェトで類似の仕事を何とか苦労してしているとき、あるいは主任会計士がたまたま工場施設の地方党員活動家に同意しないとき、あるいは村落の学校教師がコムソモルで面倒を起こしたり学校で教理問答書を教育する宗教信者だったときですら、地方レベルで専門知識がもつ意味を明確に理解していた。
 たいていの党員は、重要な何かをしなければならないときには党を通じてそれをするのが最善だと明白に思っていた。
 もちろん、日常の行政レベルでは、党中央の機構は巨大な政府官僚機構と競い合うことはできなかった。-党の機構は、あまりにも小さすぎたのだ。
 しかし、地方レベルでは、党委員会とソヴェトがともに最初から設立されており、状況は違っていた。
 党委員会は内戦後に主要な地方機関として出現してきており、一方でソヴェトは、かつてのゼムストヴォと似ていなくもない二次的な役割の担当者になっていた。
 党の命令系統を通じて伝達される方針の方が、大量の布令や非協力的でしばしば混乱しているソヴェトに対して中央政府から伝えられる指示文書よりも、実施される可能性が高かった。
 政府にはソヴェトの人員を採用したり解職するしたり権能がなかった。そして、より効果的な、予算による統制も及ぼすことができなかった。
 党委員会は、これと対照的に、党の上級機関からの指示に従うという党紀律に服する党員を揃えていた。
 委員会を率いる党の書記局員は、形式上は地方党機関が選出した者たちだったけれども、実際には、党中央委員会書記局が転任させたり、交替させることができた。//
 しかし、一つの問題があった。
 党組織-中央委員会書記局を頂点とする諸委員会と幹部の階層制-は、どの点から見ても明らかに、官僚機構(bureaucracy)だった。そして、官僚機構とは共産主義者が原理的に嫌うものだったのだ。
 1920年代半ばの継承者争い(後述、p.108-111)のときトロツキーは、党官僚機構を設立して自分の政治目的のために巧みにそれを操っているとして、党総書記のスターリンを非難した。
 しかしながら、この批判は党全体に対してほとんど影響を及ぼさなかったように見えた。
 その一つの理由は、党書記局員の(選出ではなく)任命は、トロツキーが主張するほどにはボルシェヴィキの伝統から離れているものだはなかった、ということだ。すなわち、地下活動をしていた1917年以前の古い時期には、委員会はつねに、ボルシェヴィキ中央から派遣された職業的革命家たちの指導に大きく依拠していた。そして、1917年に地上に出てきたときですら、委員会が自分たちの地方的な指導性を選択する民主主義的権利を主張するのではなく、ふつうは「中央から来た幹部たち」に執拗に要請した。//
 しかしながら、より一般的な観点からすれば、ほとんどの共産党員は党組織を侮蔑的な意味での官僚機構だとは考えていなかったように思える。
 彼らにとって(Max Weber にとってと同じく)、官僚機構は明確に定義された法令と先例群を適用することによって活動するもので、高い程度の専門性と職業的な専門技術や知識への敬意という特徴ももっていた。
 しかし、1920年代の党組織は顕著な程度には専門化されておらず、(治安や軍事問題は別として)職業的専門家を尊重していなかった。
 党組織の職員は「書物を見て仕事をする」ように指導されてはいなかった。すなわち、初期には、依拠することのできる党の諸指令を集めたものは存在せず、のちには、そのときどきの党の基本的政綱の精神に対応するというよりもむしろ、かつての中央委員会の指令を示す文書にすがっている書記局員は全て、「官僚主義の傾向」があると非難されそうだった。
 共産主義者が官僚機構を欲しないと言うとき、意味しているのは、革命家の命令に対応しようとしない又は対応することのできない行政機構を欲しない、ということだった。
 しかし、それと同じ理由で彼らは、革命家の命令に対応<しようとする>行政機構を大いに持ちたかった。-革命の指導者たちからの命令を進んで受け入れて、急進的な社会変革の政策を実施する意欲のある、そういう職員がいる行政機構をだ。
 そのようなことをするのは、党組織(または官僚機構)が遂行することのできる革命的な作用だった。そして、ほとんどの共産党員は本能的に、そのことを是認していた。//
 ほとんどの共産党員はまた、「プロレタリア独裁」をする機関はプロレタリアのものであるべきだと信じていた。これが意味するのは、従前の労働者が責任ある行政の仕事に就くべだ、ということだった。
 これは、マルクスがプロレタリア独裁でもって意味させたそのものではなかったかもしれない。そして、レーニンが意図したそのものでもなかったかもしれない。
 (レーニンは、1923年にこう書いた。
 労働者は、「我々のためにより良き機構を樹立したがっているけれども、その方法を知らない。
 労働者は、それを樹立することができない。
 労働者は、そのために必要な文化をまだ発展させていない。必要なのは、文化だ」。(12))
 にもかかわらず、全ての党内論議で当然の前提にされていたのは、つぎのことだった。すなわち、組織の政治的健全さ、革命的情熱および「官僚主義的頽廃」からの自由は、労働者階級出身の幹部の割合と直接に関係している、ということ。
 階級という標識は、党組織を含む全官僚機構に適用された。
 この標識は、党自体の新規加入者にも適用された。そして、将来におけるソヴィエトの行政エリートの構成に影響を与えることになる。//
 1921年、工業労働者階級は混乱状態にあり、それと体制との関係は危機に瀕していた。
 しかし、1924年までに、経済の再生によっていくぶんかは困難が落ち着き、労働者階級は回復と成長をし始めた。
 党が数十万の労働者を党員として新規に募集する運動であるレーニン募集(Lenin Levy)を発表し、プロレタリア一体性(proletarian identity)の確約を再確認したのは、その年だった。
 この決定で暗黙に示されていたのは、労働者が行政上の仕事に就くのを促進して「プロレタリア独裁」を生み出し続ける、という確約だった。//
 労働者階級出身党員の大募集から三年後の1927年までに、共産党には一般党員および幹部を含めて総じて数百万を超える党員がいた。そのうち39パーセントは職業上は当時の労働者で、56パーセントは入党したときの職業が労働者だった。(13)
 この二つの割合の違いは、行政上のまたはホワイトカラーの仕事へと永久に移行した労働者共産党員のおおよその数を示している。
 ソヴェト権力になってから最初の10年間に入党した労働者がその後に行政的職務へと昇進する可能性は、(1927年より後の昇進を除いても)少なくとも50対50だった。//
 労働者階級の党員にとって、党組織は、政府官僚機構以上に人気のある目的地だった。その理由の一つは、労働者は党という環境の方が安心感を抱いたからであり、また一つは、教育の不足が、まあ言えば政府の財務人民委員部の課長に比べて、地方の党書記局ではさほど問題にならなかったからだ。
 1927年に、党組織で責任ある地位に就く党員の49パーセントは、従前の労働者だった。これに対して、政府やソヴェトの中の党員の対応する数字は、35パーセントだった。
 こうした乖離は、行政階層の最上位のレベルではもっと顕著だった。
 上位の政府の職務に就く党員にはほとんど労働者階級出身の者はおらず、一方で、地域の党書記たち(<oblast'>、<guberniya>や<krai>といった組織の長)のほとんど半分はかつての労働者だった。(14)
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 (11) レーニン<全集>33巻p.288。
 (12) 「より少なく。しかし、より良く」(1923年3月2日), レーニン・<全集>33巻p. 288.
 (13) I. N. Yudin, <Sotsial'naya baza rosta KPSS>(Moscow, 1973), p.128.
  (14) <Kommunisty v sostave apparata gosuchrezdenii i obshchestvennykh organizatsii. Itogi vsesoyuznoi perepisi 1927 goda>(Moscow, 1929), 25;<ボルシェヴィキ>, 1928, no.15, p.20.
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 第3節・指導者争い(The leadership struggle)。
 レーニンが生きていた間、ボルシェヴィキは彼を党指導者だと認めていた。
 にもかかわらず、党は公式には一人の指導者を持たなかった。そして、党は必ず指導者を必要とすると考えるのは、ボルシェヴィキには不快だつた。
 政治的な混乱状態があったとき、党の同志たちがレーニンは個人的な権威でもって取引しすぎると彼を強く批判するのは、聞かれないではなかった。
 そして、レーニンは通常は自分の主張を押し通そうとする一方で、追従や特別の敬意をとくに示すこと要求することはなかった。
ボルシェヴィキは、ムソリーニや彼のイタリア・ファシストについては侮蔑以外の何ももっていなかった。喜劇オペラの制服で着飾り、統領(Il Duce)に忠誠を誓う政治的には原始的な連中だと見なしていたのだ。
 その上、ボルシェヴィキは歴史の教訓を学んでおり、ナポレオン・ボナパルトが皇帝だと自ら宣言したフランス革命のようにはロシア革命を衰退させるつもりはなかった。
 ボナパルティズム-革命戦争指導者の独裁者への変化-は、ボルシェヴィキ党内でしばしば論議された危険だった。その論議では通常は暗黙のうちに、赤軍創設者であり内戦中の若い共産主義者たちの英雄だったトロツキーが示唆されていた。
 想定されたのは、いかなる潜在的なボナパルトも、奮起させる演説力と壮大な展望力をもつ、おそらくは軍服をまとったカリスマ的人物だろう、ということだった。//
 レーニンは、1924年1月に死んだ。
 しかし、彼の健康は1921年半ば以降は深刻に悪化していて、その後は間欠的にしか政治上の活動をしなかった。
 1922年5月の発作によって部分的に麻痺し、1923年3月の二度めの発作で麻痺が増大して、言葉を発する能力を失った。 
 ゆえに、レーニンの政治的な死は漸次的な過程であり、彼自身は最初の結果を観察することができた。
 政府の長としてのレーニンの責務は、三人の代行者が引き継いだ。その中では、1924年にレーニンを継いで人民委員会議の議長になった Aleksei Rykov (ルィコフ)が最も重要だった。
 しかし、明白なのは、権力の主要な中枢は政府にではなく党の政治局にあり、この政治局はレーニンを含む総員七名で成り立っていた、ということだった。
 他の政治局員は、トロツキー(戦争人民委員)、スターリン(党総書記)、ジノヴィエフ(レニングラード党組織の長・コミンテルン議長)、カーメネフ(モスクワ党組織の長)、ルィコフ(人民委員会議初代副議長(副首相))および Mikhail Tomsky (トムスキー、中央労働組合会議議長)だった。//
 レーニンが病気の間-そして実際にはその死後も-政治局は集団指導制によって活動すると公式に確言し、誰かがレーニンと交代できるとか彼と同様の権限ある地位に就きたいとかいうことを、どのメンバーも強く否定した。
 にもかかわらず、1923年には、秘やかなというよりもむしろ激しい継承者争いが進展した。ジノヴィエフ、カーメネフおよびスターリンの三人組(triumvirate)が、トロツキーに対抗したのだ。
 トロツキー-ボルシェヴィキ党への加入の遅さとそれ以降の輝かしい業績の両方の理由で、指導層から外れた風変わりな人物-は、強く否定していたけれども、最上位を目ざす野心をもつ競争者だと受け止められていた。
 1923年遅くに書いた<新しい行路>(the New Course)でトロツキーは、ボルシェヴィキ党の古き前衛たちは革命的精神を喪失し、「保守的で官僚主義的な党派主義」に屈服し、地位を保つのが唯一の関心である小粒の支配エリートのごとくますます振る舞っていると警告することで、意趣返しをした。//
 レーニンは病気のために指導者として活動できなかったが、彼の継承者になる可能性のある者たちの策略(manoeuvring)をまだ観察することができた。そして、政治局に関して同様に偏見に満ちた見方を作り上げており、それを「少数独裁制」だと描写し始めた。
 1922年12月のいわゆる「遺書」で、レーニンは、-傑出していると認めたスターリンとトロツキーの二人を含む-多様な党指導者たちの性格を概述した。そして、わずかに称賛をしつつ事実上は彼ら全員を酷評した。
 スターリンについての論評は、党総書記として巨大な権力を蓄積しているが、その権力をつねに十分な注意を払って行使しているわけではない、というものだった。
 一週間後、スターリンとレーニンの妻のNadezhda Krupskaya (クルプシュカヤ)との間でレーニン病床体制に関する衝突が生じた後で、レーニンは、スターリンは「粗暴すぎる」、総書記の地位から排除すべきだ、と遺書の最後に書き加えた。(15)//
 この時期、多くのボルシェヴィキ党員は、スターリンがトロツキーと対等の政治的評価を得ていることに驚いただろう。
 スターリンは、ボルシェヴィキが傑出した指導者にふつうは連想する資質を一つも持っていなかった。
 スターリンはレーニンやトロツキーのようには、カリスマ性のある人物でも、優れた演説家でも、抜きん出たマルクス主義理論家でもなかった。
 スターリンは英雄ではなく、労働者階級の実直な息子でも、優れた知性の持ち主でもなかった。
 Nikolai Sukhanov (スハーノフ)はスターリンの印象を「よどんだ灰色」とした。-したたかな裏工作政治家で党内活動の専門家だが、個人的な特徴のない人物だと。
 スターリンよりもジノヴィエフの方が政治局三人組の中の第一のメンバーだと、一般に想定されていた。
 しかしながら、レーニンは、たいていの者よりもスターリンの能力をより十分に評価することができた。なぜなら、1920-21年の党内闘争の間、スターリンはレーニンの右腕だったからだ。//
 トロツキーに対する三人組の闘いは、1923-24年の冬に頂点に達した。
 党内分派が公式には禁止されているにもかかわらず、状況は1920-21年のそれに多くの点で似ていた。そしてスターリンは、レーニンが行ったのと同じ戦略に多く従った。
 第13回党大会に先立つ党内議論と代議員の選挙の際に、トロツキー支持者たちは反対派として運動を行った。一方で、党組織は、「中央委員会多数派」、すなわち三人組、を支持するために動員された。
「中央委員会多数派」が勝利した。中央政府官僚機構、大学および赤軍の党細胞に、トロツキーが支持されるという空白部分があったけれども。(16)
 最初の投票のあとで、親トロツキー諸細胞に対する集中的な攻撃があり、それは、その細胞の多くが多数派へと寝返ることを誘発した。
 わずか数ヶ月のち、そのときすでに近づいている党会議に備えて1924年春に代議員が選出されていたが、トロツキーへの支持はほとんど完全に消滅していたように見えた。//
 これは基本的に、党機構のための勝利だった。-すなわち、総書記であるスターリンのための勝利だった。
 総書記は、ある研究者が「権力の循環する流出物」(circular flow)と名付けたものを操作する地位にいた。(17)
 書記局は地方党組織を率いる書記局員を任命し、望ましくない分派的傾向を示せば彼らを解任することもできた。
 地方党組織は、全国的な党の大会や会議のために代議員を選出した。そして、〔地方の党の〕書記局員が地方代議員名簿の上位へと載せられるのが、ますます一般的になっていた。
 その代わりに、党の全国的会議は、党の中央委員会、政治局および組織局-もちろん書記局の-委員を選出した。
 要するに、総書記は、政治的反対者に制裁を加えるのみならず、その職務に在任することを確認する会議をも操作することができた。//
 1923-24年の深刻な闘いによって、スターリンは、その地位を強固にすることを系統的に進行させた。
 1925年、スターリンはジノヴィエフおよびカーメネフと決裂し、この二人が侵略者のごとく見える防御的な反対者の立場へと追い込んだ。
 のちにジノヴィエフとカーメネフは、トロツキーと一緒になって統一した反対派となった。スターリンは、忠実で意思の堅い仲間たち〔チーム〕の助けを借りて、これを簡単に打ち破った。-その仲間の中には、将来の政府および工業の指導者となる Vyacheslav Molotov(モロトフ)や Sergo Ordzhonikidze (オルジョニキーゼ)もいた。彼らはこのとき、スターリンの周りに結集していた。(18)
 多数の反対派支持者たちは、遠方の州の仕事へと自分たちが任命されていることに気づいた。そして、反対派の指導者たちはまだ党の諸会議に参加することができたが、反対派の代議員はほとんどいなかったので、その指導者たちは党との接点を完全に喪失した無責任な<フロンド党員>のように見えた。
 1927年、反対派の指導者と支持者たちの多くは分派主義を禁止する規約を破ったという理由で党から除名された。
 トロツキーとその他の反対派の者たちは、そのとき、遠方の州へと行政的に〔判決によらずして〕追放された。//
 スターリンとトロツキーの間の論争で対立した争点は、とくに、工業化の戦略と農民に対する政策に関してだった。
 しかし、これらの現実的な問題について、スターリンとトロツキーの考えは大きくは離れていなかった(後述p.114-6)。すなわち、二人はいずれも、農民に対する特別の優しさを持たない、工業化論者だった。1920年代半ばのスターリンの公的立場の方がトロツキーのそれよりも穏健だったけれども。
 そして、数年後にスターリンは、急速な工業化のための第一次五カ年計画についてトロツキーの政策を盗んだとして追及されることとなった。
 一般党員たちは、彼らの個人的性格のいくつかほどには、論点に関する競争者の不一致を明確に感知することができなかった。
 トロツキーは、ユダヤの知識人で内戦時に無情さと華麗でカリスマ的な指導性を示した人物だと(必ずしも好ましいものとは限らなかったが)広く知られていた。
 スターリンは、より中庸的で陰の多い人物で、カリスマ性はなく、知的でもユダヤ人でもない、と知られていた。//
 党機構とその挑戦者の間の対立にあった真の争点は、ある意味では、機構そのものだった。
 こうして、支配的な党派と元々一致していない点が何であったにせよ、1920年代の全ての反対派集団は、同じ主要な不満をもって終焉することとなった。すなわち、党は「官僚主義化」した(bereaucratized)。そして、スターリンは、党内民主主義の伝統を死滅させた。(19)
 このような「反対派」の見方は、晩年のレーニンにすら起因していた。(20) そしてそれは、おそらくある程度は正当だった。レーニンもまた、指導者層の内部から閉め出されていたのだから。但し、レーニンの場合は政治的敗北ではなくて病気が原因だったけれども。
 しかし、多くの点でスターリンの政治的師匠だったレーニンは、党機構に反対して党内民主主義という原理的考え方へと本当に変わったのだ、と理解するのは困難だろう。
 レーニンに関心があったのは権力の集中それ自体ではなく、権力が誰の手に集中されているのか、という問題だった。
 同様に、1922年の遺書でレーニンは、党書記局の権力を減少させることを提案しなかった。
 彼はただ、スターリン以外の誰かが総書記に指名されるべきだと書いたのだ。//
 やはりなお、1920年代のレーニンとスターリンの間の継続性の要素が何であろうとも、レーニンの死と継承者争いは政治的な転換点だった。
 権力を追求するスターリンは、反対派たちに対抗してレーニン主義の方法を使った。しかし彼は、-党でのその個人的権威が長く確立していた-レーニンは決して到達し得なかった完璧さと冷酷さをもってそれを使った。
 一たび権力を握ると、スターリンは手始めにレーニンのかつての役割を果たした。まず最初は、政治局でだった。
 しかし、そうしているうちにレーニンは死んで、過ちや非難を超越したほとんど神のごとき性格を与えられた指導者(the Leader)になり、その遺体は防腐処理されて恭しく、民衆を喚起するためにレーニン霊廟に安置された。(21)
 死後に生じたレーニン崇拝(Lenin cult)は、指導者なき党というかつてのボルシェヴィキの神話を打ち砕いた。
 新しい指導者が抜きん出て初代のそれ以上になることを望んだとすれば、彼には構築しておくべき基盤がすでにあった。//
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 (15) 「遺書」のテキストは、Robert V. Daniels, ed., <レーニンからゴルバチョフまでのロシア共産主義に関する資料による歴史>(Lebanon, NH, 1993)に所収、p.117-8.
 (16) Robert V. Daniels, <革命の良心>(Cambridge, MA, 1960), p.225-230.を見よ。
 (17) この語句はDaniels のものだ。明瞭でかつ簡潔な議論につき、Hough & Fainsod, <ソヴィエト同盟はいかにして統治されたか>, p.124-133, p.144.を見よ。
 (18) 1920年代の分派闘争の経緯におけるスターリンのチームの形成につき、S・フィツパトリク・<スターリン・チームについて-ソヴィエト政治における危険な生活の年代>(Princeton, 2015), ch. 1.を見よ。
 (19) これは1920年代の共産党内反対派の研究であるDaniels の<革命の良心>の統一テーマだ。-このタイトルが示すように、Daniels は、党内民主主義という抗弁は反対派の固有の機能ではなくて革命的な理想主義の表現だと見なしている。
 (20) Moshe Lewin, <レーニンの最後の闘い>(New York, 1968)を見よ。
 選択しうる別の解釈につき、Service, <レーニン>, Chs. 26-28.を見よ。
 (21) レーニン崇拝の出現につき、Nina Tumarkin, <レーニンは生きている!>(Cambridge, 1983)を見よ。
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 第4章(ネップと革命の行く末)の第2節と第3節の試訳が終わった。

1821/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑫。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第12回
 第4章。
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 日本共産党2004年綱領「三」〔章〕の「(八)」〔節〕は、次のように述べる。
 ・「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、1917年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。//最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録されたしかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて…」。
 また、不破哲三著にそのまま依拠する志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)は以下の趣旨を記述する。「」は直接の引用。
 ・レーニンは内戦勝利によって、「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった。
 ・「新しい時期」に入って、1921年3月に「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じたりして、「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられ、レーニンは「経済政策の大転換を始め」た。
 ・1921年3月に開始され、のちに「新経済政策(ネップ)」と呼ばれる政策は、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行を図るものだったが、農民に残る「余剰」部分の処理という「大問題」が生じて、それは「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・1921年10月にレーニンは「モスクワ県党会議」での報告で、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」、「本格的な転換」に踏み切った。つまり、「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ。
 ・レーニンはネップ期に「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいは、そういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」
 以上、p.174-8。
 なお、不破哲三らによると、この「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、ロシアに限らない、世界的に普遍的で不可避の<路線>だとされる。
 スターリンに対する日本共産党の悪罵は引用しないが、S・フィツパトリクの2017年版の著の試訳部分のうち、日本共産党の上の記述と最も対応する時期に関する記述は、おそらく今回試訳部分または今後の数回部分だろう。
 現在の日本共産党によるロシア革命とレーニンに関する「歴史認識」と叙述は事実・「真実」に沿っているのか、それともこの党は歴史の単純化と<政治的捏造>を平然と行っているのか。
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 第4章・ネップと革命の行く末(NEP and the Future of the Revolution)。
 (はじめに)
 ボルシェヴィキは内戦で勝利して、行政の混乱と経済の荒廃という国内問題に対処することを迫られた。
 町々は飢えて、半分空っぽだった。
 石炭生産は破滅的に落ちこみ、鉄道は止まり、産業はほとんど静止状態だった。
 農民たちは、食糧徴発(food requisitioning)にきわめて憤激していた。
 収穫のための種蒔きは落ち込み、干魃が二年続いて、ヴォルガ地帯その他の農業地域には飢餓が迫ってきた。
 1921-22年での飢饉と流行病による死者数は、第一次大戦と内戦での死傷者の総合計数を上回った。
 革命と内戦の数年間に、およそ200万の人々が国外へと亡命し、ロシアの教養あるエリートたちの多くがいなくなった。
 積極的な人口配置上の進展は、数十万人のユダヤ人たちの群れの移住だった。彼らの大多数は、首都の区画に定住していた。(1)//
 赤軍には500万人を超える男たちがいた。そして、内戦が終わるとは彼らの多くが除隊されることを意味した。
 この動員解除は、ボルシェヴィキが予想していたよりもはるかに、困難な仕事だった。すなわち、十月革命後に新体制が建設しようとしたものの多くの部分を分解することを意味した。
 赤軍は、内戦と戦時共産主義経済の時期でのボルシェヴィキの行政の脊柱部分だった。
 さらに、赤軍の兵士たちは、国の最大の「プロレタリア」の一団を成していた。
 プロレタリア-トは、ボルシェヴィキが選んだ社会的支持の基盤だった。そして、ボルシェヴィキは、現実的な目的をもってプロレタリア-トを、ロシアの労働者、兵士と海兵および貧農だと定義していた。
 今や兵士と海兵集団の大部分が、消失しようとしていた。
 そして、さらに悪いことに、除隊された兵士たちは-職を失い、飢えて、武装し、交通の遮断によって故郷から遠い場所で立ち往生し-、騒擾を引き起こした。
 1921年の初めの月々までに200万人以上が除隊して、革命のための戦闘員が一夜にして盗賊団に変わるのを、ボルシェヴィキは見た。//
 工場にいる核心的プロレタリア-トの運命もまた、同様に警戒すべきものだつた。
 工業の閉鎖、軍事徴用、行政の業務への昇格、そしてとりわけ、飢餓を理由とする都市からの逃散によって、工業労働者の数は、1917年の360万人から、1920年には150万人に減少した。
 こうした労働者の大部分は、村落へと戻った。そこには、家族がまだいて、彼らは村落共同体の一員として小土地(plots)を受け取った。
 ボルシェヴィキには、村落にいる労働者の数の多さが、あるいは滞在期間の長さが、分からなかった。
 労働者たちはおそらく農民層に吸収されてしまい、都市にはもう帰ってこないだろう。
 しかし、長期的見通しはともあれ、直近の状況は明瞭だつた。すなわち、ロシアの「独裁階級」の半分以上が消え失せたのだ。(2)//
 ボルシェヴィキは元々は、ヨーロッパのプロレタリア-トによるロシア革命に対する支援を計算に入れていた。彼らは第一次大戦の終末期にはまさに革命を起こす準備をしているように見えていたのだ。
 しかし、ヨーロッパでの戦後の革命運動は弱体化し、ソヴィエト体制は、永続的な同盟者だと見なし得るようなヨーロッパでの仲間を全くもたずして、取り残された。
 レーニンは、外国からの支援がない状況ではボルシェヴィキがロシア農民層からの支持を獲得することが致命的に重要だ、と結論づけた。
 だが、食糧徴発と戦時共産主義のもとでの市場の崩壊によって農民たちは離反しており、いくつかの地域では彼らは公然たる反乱を起こした。
 ウクライナでは、Nestor Makhno(マフノ)が率いる農民軍がボルシェヴィキと戦っていた。
 ロシア中心部の重要な農業地域であるタンボフ(Tambov)では、農民の反乱が起こり、5万人の赤軍兵団の派遣によってようやく鎮圧された。(3)//
 新体制に対する最悪の衝撃は、1921年3月にやって来た。その月、ペテログラードで労働者のストライキが勃発した後で、近郊のクロンシュタット(Kronstadt)海軍基地の海兵たちが反乱を起こした。(4)
 クロンシュタット海兵たち(Kronstadters)は、1917年七月事件の英雄で、また十月革命のときのボルシェヴィキの支援者であって、ボルシェヴィキの神話からするとほとんど伝説的な人物群になっていた。
 彼らは今は、ボルシェヴィキの革命を否認し、「人民委員の恣意的な支配」を非難し、労働者と農民の真の(true)ソヴェト共和国の建設を呼びかけた。  
 クロンシュタット蜂起が起きたのは、〔ボルシェヴィキ/共産党〕第10回党大会が開催中のことだった。そしてかなりの数の代議員たちは、蜂起と戦って鎮圧するために突如として赤軍とチェカ兵団の先鋭部隊に加わるべく、退場しなければならなかった。
 この事態はほとんど劇的なものではなかったし、ボルシェヴィキの意識の中にさほど強く刻み込まれたわけではなかった。
 ソヴィエトの新聞は、蜂起はエミグレ(亡命者)たちが引き起こし、見知らぬ白軍将校たちが指導した、と主張した。不愉快な真実を隠そうとする最初の重要な努力だったと思える。
 しかし、第10回党大会で広まった噂は、違うことを告げていた。//
 クロンシュタット蜂起は、労働者階級とボルシェヴィキ党の間の、進む途の象徴的な別離であるように見えた。
 労働者は裏切られたと考えた者たち、党が労働者に裏切られたと感じた者たち、いずれにとっても悲劇だった。
 ソヴィエト体制は初めて、その銃砲を、革命的プロレタリア-トに対して向けた。
 さらに、クロンシュタットの悪夢はほとんど同時に、革命にとってのもう一つの厄災とともに生じていた。
 モスクワのコミンテルン指導者によって励まされたドイツ共産党は、革命の蜂起を試み、惨めな失敗を喫した。
 その敗北は、最も楽観的なボルシェヴィキですらがヨーロッパ革命は接近しているという望みを打ち砕かれることを意味した。
 ロシア革命は、自分だけの支援なき努力でもって、生き延びていかなければならないことになった。//
 クロンシュタットとタンボフの反乱は政治的不満はもちろんのこと経済的なそれによっても火を注がれていて、戦時共産主義政策に代わる新しい経済政策の必要性を痛感させた。
 1921年春に採択された最初の一歩は、農民の生産物の徴発を終わらせ、現物税〔食糧税〕を導入することだった。
 これが実際に意味したのは、国家は農民が手放せる全ての物ではなくて一定の割合で奪う、ということだった(のちに1920年代前半に通貨が再び安定した後ではいっそう、現物税は在来的な金銭税になった)。//
 食糧税は農民に市場に出せるかなりの余剰を生むと想定されたがゆえに、つぎの論理上の歩みは、合法的な私的取引の再復活を許して、繁茂しているブラック市場を閉鎖しようとすることだった。
 レーニンは、1921年春、取引の合法化に強く反対していた。共産主義の原理を否認するものだと考えたからだ。しかし、最終的には私的取引の自然の復活(しばしば地方当局は是認した)がボルシェヴィキ指導部に対する既成事実(fait accompli)となり、指導部も受け容れた。
 こうした歩みが、頭文字をとってNEP(ネップ)として知られる新しい経済政策の始まりだった。(5)
 これは絶望的な経済情況に対する即興的な反応であり、元々は党とその指導部によってほとんど議論されることなく(またほとんど明確な反対もなく)採用された。
 経済に対する影響の良さは、急速でありかつ劇的だった。//
 経済の変化は、さらに続いた。遡及して「戦時共産主義」と称され始めた諸制度が、全般的に放棄されるに至ったのだ。
 産業については、完全な国有化への動きは放棄され、私的部門の再構築が許された。大規模工業と融資業を含む経済の「管制高地」の支配権は国家が維持したけれども。
 外国の投資者が、工業や鉱山企業および開発プロジェクトに関する免許(concessions)を取得するようにと招かれた。
 財務人民委員部と国有銀行は、かつての「ブルジョア」財務専門家の助言に注意を払い始めた。彼らは、通貨の安定と政府および公共部門の支出の制限を求めた。
 中央政府の予算は厳しく削減され、徴税による国家歳入を増大させる努力がなされた。
 以前は無料だった学校教育や医療は、今や個々の利用者が対価を支払うことになった。
 老人の年金や療養給付および失業給付を利用することは、拠出金の基盤にかかわることとして制限された。//
 共産主義者の観点からすれば、ネップは退却(retreat)であり、失敗を部分的に認めることだった。
 多くの共産主義者は、大きな幻滅を感じた。すなわち、革命はほとんど何も変えなかったように見えた。
 1918年以降の首都でありコミンテルン司令部の所在地であるモスクワは、ネップの最初の年月に再び活力に充ちた都市になった。外見的な印象だけではまだ1913年のモスクワだったけれども。農民女性が市場でジャガ芋を売り、教会の鐘や髭を生やした僧侶が信者たちを呼び集め、街頭や駅舎では娼婦、乞食やスリが活動し、ナイトクラブではジプシー歌が流れ、制服姿のドアマンが紳士たちへとその帽子を取り、劇場に行く者は毛皮をまとって絹の靴下を履いていた。
 このモスクワでは、皮ジャケットの共産党員たちは物憂げな外部者のように見え、赤軍退役者は職業安定所の行列に並んでいそうだった。
 クレムリンやホテル・ルクセにばらばらに集まった革命のリーダーたちは、不吉な予感をもって革命の行く末に向かいあっていた。//
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 (1) 1912年と1926年の間に、モスクワとレニングラードのユダヤ人の人口は4倍以上に増大した。そして、同様の規模の増加がウクライナの諸首都、キエフやハルコフ(Kharkov)でもあった。Slezkine, <ユダヤ人の世紀>, p.216-8 を見よ。
 (2) 消失しつつある労働者階級につき、D. Koenker, <ロシア革命と内戦時の都市化と脱都市化>, D. Koenker, W. Rosenberg & R. Sunny, eds, <ロシア内戦時の党、国家および社会>所収、およびS・フィツパトリク「ボルシェヴィズムのディレンマ-党の政治と文化における階級問題」S・フィツパトリク・<文化の前線>(Ithaca, NY, 1992)所収、を見よ。
 (3) Oliver H. Radkey, <ソヴェト・ロシアの知られざる内戦>(Stanford, CA, 1976), P.263.
 (4) Paul A. Avrich, <クロンシュタット>(Princeton, NJ, 1970)およびIsrael Getzler, <クロンシュタット・1917-1921年>(Cambridge, 1983)を見よ。
 (5) ネップにつき、Lewis H. Siegelbaum, <革命の間のソヴェト国家と社会-1918-1929年>(Cambridge, 1992)を見よ。
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 第1節・退却という紀律(The disciplin of retreat)。
 レーニンは、こう語った。ネップという戦略的退却は、絶望的な経済状態と革命がすでに勝ち得ていた勝利を確固たるものにする必要性によって強いられた、と。
 その目的は、疲弊した経済を回復させ、非プロレタリア国民の不安を鎮静化することだった。
 ネップは、農民層、知識人層および都市の小ブルジョアに対する譲歩を意味した。すなわち、経済や社会的、文化的生活に対する統制の緩和、社会全体に対する共産主義者の対処の仕方のうちにあった実力的強制の要素を宥和に代えること。
 しかし、レーニンには完全に明白なのは、この緩和は政治的分野にまで及ぼすべきではない、ということだった。
 共産党の内部では、「紀律に対するきわめて微少な抵触であっても、厳しく、断固として、容赦なく罰せられなければならない」。彼は、以下のように述べた。//
 『軍隊が退却するときには、それが前進しているときの百倍もの紀律が必要だ。前進している間は、誰もが押し合って前にかけて行くからだ。
 誰もが今、急いで後退し始めるならば、災厄の発生はすぐでかつ不可避的になるだろう。<中略>
 本物の軍隊が退却するときは、機関銃を据えつける。そして、秩序立った退却が無秩序な退却になってしまうときには、銃を撃てとの命令がくだされる。そしてそれも、全く正当なことだ。』
 その他の政党に関しては、彼らの見解を公的に発表する自由は、内戦の間以上に厳しくすら制限されなければならない。とくに、ボルシェヴィキの新しい立場は自分たちのものであるように主張しようとするならば。
 『あるメンシェヴィキが「諸君はいま退却している。私はこれまでいつも退却を主張してきた。私は諸君に同意する。私は諸君の仲間だ。一緒に退却しよう」と言うならば、我々は答えてこう言う。
 「メンシェヴィズムを公然と表明する者には、我々の革命裁判所は死刑の判決を下さなければならない。もしそうでなければ、革命裁判所は我々の裁判所ではなく、神が知るようなもの〔訳の分からないもの〕だ」、と。』(6)//
 ネップの導入に伴って、メンシェヴィキ党中央委員会委員の全員を含めて、数千人のメンシェヴィキ党員が逮捕された。
 1922年には、エスエルの右翼派が国家反逆罪で公開の審問にかけられた。
 そのうちのある範囲の者たちには、死刑判決が下された。死刑判決は実施されなかったように思われるけれども。
 1922年と1923年、数百人の著名なカデット党員とメンシェヴィキ党員が、ソヴェト共和国から出国することを強いられた。
 統治する共産党(今でも通常はボルシェヴィキと呼ばれた)以外の全ての政党が、この時点以降、事実上は非合法のものになった。//
 現実的なまたは潜在的な政治的反対派を粉砕しようとのレーニンの意欲は、1922年3月19日の政治局あて秘密書簡でもって、衝撃を受けるほどに明らかにされている。その文書で彼は、飢饉によって提供された正教会の力を破壊する機会を同僚たちが利用することを強く要求した。
 『飢餓にある地域の人民が人肉(human flesh)を食べ、数千でなければ数百の死体が道路上に散乱しているときに、わけわれが著しく苛酷で容赦なき力を注いで教会〔ロシア正教〕財産の剥奪を実行することができる(ゆえに、そうしなれればならない)のは、まさしく今、そして今のみなのだ。』
 飢饉からの救済という助けを借りて教会財産を収奪する〔そして名目上は飢えた人々に分ける〕運動(campaign)によって暴力的示威活動が刺激されて生じたシュヤ(Shuya, Shuia)について、レーニンはこう結論した。『巨大な数の』地方聖職者とブルジョアたちは逮捕されて、裁判にかけられなければならない、そしてその裁判はこう終わる必要がある、と。//
 『シュヤにいる巨大な数の最も影響力があり最も危険な黒の百人組を、銃撃隊が射殺する以外の方法で終わってはならない。
 その都市だけでもモスクワを含む都市やその他のいくつかの聖職者の中心地だけでもなく、…反動的な聖職者や反動的なブルジョアジーの代表者たちをその理由によって処刑することを我々がより多く達成すればするほど、それだけ結構なことだ。
 我々は今すぐ、これらの者たちに教訓を与えて、この数十年間は、いかなる抵抗も敢えてしようとはせず、かつまたそれを思い付くことすらしないようにしなければならない。』(7)//
 同時に、共産党<内部>の紀律の問題が、再検討されていた。
 ボルシェヴィキはもちろん、つねに党の紀律を重視してきていた。それは、レーニンの1902年の冊子<何をなすべきか>にまで溯る。
 ボルシェヴィキたちは全員が、民主集中制の原理を受け入れた。その原理は、党員は政策決定に至るまでは自由に議論することができるが、党大会または中央委員会で一たび最終的な票決がなされればその決定を受容するよう拘束される、というものだった。
 しかし、民主集中制原理それ自体は、内部的な議論に関する党の慣例を明瞭に決定するものではなかった。-どの程度の議論が許容され、どの程度厳しく党指導者たちを批判することができ、その批判は特定の論点に関する「分派」または圧力集団を組織してよいのか、等々。//
 1917年以前では、多くの実際的目的はあったが、党内論争はボルシェヴィキ知識人層の中のエミグレ集団の内部での論争を意味した。
 レーニンが圧倒的な地位を占めたために、ボルシェヴィキのエミグレたちは、メンシェヴィキやエスエルのそれよりもはるかに一体的で均質的だった。これらの者たちには、それぞれの個々の指導者と政治的帰属意識をもつ多数の小集団で群れをなす傾向があった。
 レーニンは、ボルシェヴィキの中でそのようなものが形成されることに強く抵抗した。
 もう一人の有力なボルシェヴィキの人物だった Aleksandr Bogdanov (ボグダノフ)は、1905年後の亡命者たちの中に彼の哲学的および文化的考え方を支持する弟子たちの集団を作り始めたが、そのときレーニンは、ボグダノフと彼の集団がボルシェヴィキ党から離脱するように強いた。その集団は現実には、政治的分派も党内反対派も形成してはいなかったけれども。//
 二月革命後に、状況は急激に変化した。以前よりも多様な党指導者たちの中にエミグレと地下のボルシェヴィキの一団が出現し、全党員たちに大きな影響を与え始めた。
 1917年、ボルシェヴィキは党の紀律よりも革命の波に乗ることを重視した。
 党内の多くの党員とグループは、十月の前でも後でも、重要な政策上の論点についてレーニンに同意しなかった。そして、レーニンの意見がつねに優勢であるのではなかった。
 ある範囲のグループは、半永続的な党内集団を固めていた。それらの基本的主張が、中央委員会または党大会の多数派によって拒否されたあとでもなお。
 少数派集団(多くは旧ボルシェヴィキの知識人で成る)はふつうは、1917年以前ならばしたように党を離れることはなかった。
 彼らの党は今や、事実上の一党国家で権力を有していた。そのゆえに、党を離れることは政治生活をすべて止めてしまうことを意味した。//
 しかしながら、、このような変化にもかかわらず、党の紀律と組織に関するレーニンの理論的な前提命題は、内戦が終わるまでなおもボルシェヴィキのイデオロギーだった。そのことは、モスクワに本拠をおく新しい国際的共産主義者組織であるコミンテルンをボルシェヴィキがどう操縦したか、からも明白だった。
 1920年に第2回コミンテルン大会がコミンテルンへの加入条件を討議したとき、ボルシェヴィキ指導者たちは明らかに1917年以前のロシアのボルシェヴィキ党をモデルにした条件を課すよう強く主張した。このことが大きくて人気があったイタリア社会党を排除し、ヨーロッパでの再生社会主義インターの対抗者としてのコミンテルンを弱くするものであったとしても(イタリア社会党は、その右派および中央派集団を追放しないでコミンテルンに加入するのを望んでいた)。
 コミンテルンが採択した加入のための「21条件」は、事実上、つぎのことを要求するものだった。すなわち、コミンテルンを構成する諸党は高い使命感をもつ革命家のみを党員とする極左の少数派であるべきで、残るその党が「改良主義」の中心部や右派から明瞭に分かれる(1903年でのボルシェヴィキとメンシェヴィキの分裂と同様の)分裂によって形成されることが望ましかった。
 一体性、紀律、非妥協性および革命的職業人主義は、敵対者がいる環境の中で活動する全ての共産党の本質的な性格だった。//
 もちろん、これと同じ考え方がボルシェヴィキ自体にそのまま適用されたわけではなかった。ボルシェヴィキはすでに権力を掌握していたからだ。
 一党国家での支配党は、第一に、大衆政党にならなければならない。第二に、多様な意見に適応し、それらを組織化すらしなければならない。
 これは実際に、1917年以降のボルシェヴィキ党に生じたことだった。
 党内集団が特定の政策的論点に関して党指導層の中で発展し、(民主集中制原理に反して)最終の票決後ですら存在を保ち続けた。
 1920年までに、労働組合の地位に関する当時の論争に関与した党内諸集団は、巧く組織された集団となり、矛盾し合う政策基盤を提示したのみならず、第10回党大会に先立つ議論と代議員選挙の間には地方の党委員会の支持を得るための働きかけ活動(lobby)も行った。
 言い換えると、ボルシェヴィキ党は、それ自身の範型の「議会制」政治を発展させていた。党内集団が、複数政党システムでの政党の役割を果たしていたのだ。//
 西側ののちの歴史研究者-そして、リベラルな民主主義の価値観もつ外部からの観察者の-立場からは、これは明らかに称賛されてよい進展であり、良い方向への変化だった。
 しかし、ボルシェヴィキは、リベラルな民主主義者ではなかった。
 ボルシェヴィキの党員たちの中には、党が分解していて、目的をもつ一体性と方向意識を喪失しているのではないかという相当の懸念があった。
 レーニンは確実に、党内政治の新しい様式を是認しなかった。
 第一に、労働組合論争-内戦後にボルシェヴィキが直面している重大で切迫した問題に比べて全く末梢的な論争-によって、莫大な量の指導者たちの時間とエネルギーが奪われた。
 第二に、党内集団は、明らかに、党におけるレーニンの個人的な指導力に挑戦している。
 労働組合論争での一つの党内集団を率いたのは、トロツキーだった。彼は、比較的に新しい入党だったにもかかわらず、レーニンに次ぐ党内の大物だった。
 別の党内集団である「労働者反対派」は、Aleksandr Shlyapnikov (シュリャプニコフ)に率いられて、労働者階級党員との特別の関係を強く主張した。この主張は、レーニンが率いるエミグレ知識人層から成る指導部の古い中核部分には、潜在的にはきわめて有害なものだった。//
 かくしてレーニンは、党にある党内集団(factions, 分派)と分派主義を破滅させることを開始した。
 これをするためにレーニンが用いた戦術は、分派的(factional)であるのみならず完全に陰謀的なものだった。
 Molotov (モロトフ)とレーニン派の若きアメリカ人党員の Anastas Mikoyan(ミコヤン)はのちに、1921年初めの第10回党大会に際して作戦を開始したレーニンの熱意と思い入れを描写した。その作戦とは、レーニン支持者の秘密会合を開き、反対分派に言質を与えている大きな地方の代議員を分裂させ、中央委員会の選挙で否決されるべき反対派の者たちの名簿を作成する、といったものだった。
 レーニンは、こっそりとビラを撒くために「タイプライターや手動印刷機をもつ、地下にいる古き共産主義者同志」を呼び込もうとすら欲した。-この秘密のビラ配布という考えは、分派主義だと解釈されうるという理由でスターリンが反対した。(8)
 (こうしたことは、レーニンがかつての陰謀的な習癖へと立ち戻った初期のソヴィエト時代だけのことではなかった。
 モロトフが内戦の暗鬱な時期だと思い起こしたのは、レーニンが指導者たちを召集して、ソヴィエト体制の崩壊が近づいていると告げた、ということだった。
 出所が虚偽の文書と秘密の住所録がその指導者たちに用意されていた。その文書には「党は地下に潜るだろう』とあった。(9))//
 レーニンは第10回党大会で、トロツキー派と労働者反対派を打ち負かした。そして、新しい中央委員会でのレーニン派の多数派を確保し、トロツキー派の二人の中央委員会書記局員に代えてレーニン派のモロトフを指名した。
 しかし、これで全てでは、決してなかった。
 党内集団の指導者たちを突然に驚かせた動議をレーニン派集団が提案して、第10回党大会は、「党の一体性(統一)について」という決議を承認した。それは、現存している党内集団に解散を命令し、党内部での全ての分派活動をそれ以上することを禁止するものだった。//
 レーニンは、党内集団(分派)の禁止は一時的なものだと述べた。
 これは正直なものだった、と想像できるかもしれない。しかし、分派の禁止が党で承認されないことが分かった場合の逃げ道を自分のためにたんに用意していたにすぎない、ということの方がありえそうだ。
 実際に生じたように、そのようなことではなかった。すなわち、党全体が、一体性(統一、団結)のために党内集団(分派)を消滅させるつもりであるように見えた。おそらくは、党内分派は一般党員にまで深く根づいておらず、多くの党員にはそれは知識人である<先進党員(frondeurs)>の特権だと考えられていたがゆえに。//
 「党の一体性」決議は、頑固な分派主義者を党が除名し、分派主義という罪を犯したと判断する被選出委員を中央委員会が排除することを認める秘密条項を含んでいた。
 しかし、党政治局はこの条項をかなり疑っていた。そして、レーニンが生存中は、これは形式的には発動されなかった。
 しかしながら、1921年秋、レーニンが主導して、大規模な党の粛清〔purge, =党員再審査〕が行われた。
 これが意味したのは、党員であり続けるために、全党員が粛清委員会の前に出廷して革命家としての適性を正当化し、必要があれば批判から自分を防御しなければならない、ということだった。
 この1921年の党粛清について言われた主要な目的は、「出世主義者」や「階級敵」を見つけ出して排除することだった。つまり、形式上は、敗北した党内集団の支持者だった者に向けられてはいなかった。
 レーニンは、それにもかかわらず、「ほんの僅かでも疑念があり信用を措けない全てのロシア共産党員は、…排除されるべきだ」(すなわち、党から除名(expell)されるべきだ)ということを強調した。
 T. H. Rigby が論評するように、無価値で不用だと判断された全党員のほとんど25パーセントの中に反対集団の者たちはいなかった、と信じるのは困難だ。(10)//
 この粛清で、著名な反対派の者は党から除名されなかった。その一方で、1920-21年の反対派党内集団の一員たちは、全員が制裁を免れたのではなかった。
 この当時にレーニン派の一人が長だった中央委員会書記局には、党組織員の任命と配置の職責があった。
 そして、モスクワから遠方に囲い込む指示書にもとづいて多くの労働者反対派の者たちを派遣するに至り、そうして、指導者層内の政治に積極的に関与するのを事実上排除した。
 指導部の一体性を確保するためのこのような「行政的手法」は、のちにスターリンが、1922年に党の総書記(General Secretary)(すなわち、中央委員会書記局の長)になった後で、大いに発展させた。
 研究者たちはしばしば、これをソヴィエト共産党における党内民主主義の本当の弔鐘(死滅の標し)だと見なしてきた。
 しかし、これはレーニンが創始し、第10回大会での闘争から発生した実務だった。そのとき、レーニンはまだ主人たる戦略家であり、スターリンとモロトフはレーニンの忠実な子分(henchmen)だった。//
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 (6) レーニン「第11回党大会に対する中央委員会の政治報告」(1922年3月), レーニン・<全集>(Moscow, 1966), 33巻p.282。
 (7) Richard Pipes, ed., <知られざるレーニン>, Catherine A. Fitzpatrick訳(New Haven, 1996), p.152-4.
 (8) A. I. Mikoyan, <Mysli i vospominaniya o Lenine>(Moscow, 1970), p.139.
 (9) <モロトフは回顧する>, Resis 訳, p.100.
 (10) Rigby, <共産党の党員>, p.96-100, p.98.
 地方レベルでの1921年党粛清に関する生々しい再現として、F. Gladkov, <セメント>, A. S. Arthur & C. Ashleigh 訳(New York, 1989), Ch. 16.を見よ。
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 *上の注(6)に関する試訳者・秋月の注記。これは日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会/ロシア共産党中央委員会の政治報告/3月27日」p.287に邦訳があり、これを参照しつつ、ある程度は変更した。
 また、これの上の箇所(注番号はない)の原文引用部分は、レーニン・日本語版全集同巻「同」p.286を参照して訳した。但し、ある程度は内容が異なると思えるので、日本語版全集上掲p.286頁の訳をそのまま以下に引用して紹介しておく。
 「攻撃のばあいには、規律がまもられないでも、みなが押し合って、まえにかけて行く。退却のばあいには、規律は自覚的なものになければならず、百倍もの規律が必要である。というのは、全軍が退却するときには、<中略>。このばあいには、わずかの狼狽の声があげられただけで、全員が潰走することさえ、ときどきある。<一文、略>本物の軍隊でこういう退却がおこると、機関銃をすえつける。そして、正常な退却が無秩序な退却になっていくと、『撃て!』との命令がくだされる。そして、これは正当である。」以上。
 **上の注(7)の<秘密書簡>部分は、R・パイプス著の方から逆に接近して、この欄の2017年4月1日付・№1479「レーニンの極秘文書。日本共産党・不破哲三らの大ウソ32」ですでに訳出している。今回は、訳をある程度、変更した。
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 第4章(ネップと革命の行く末)のうち、「はじめに」と第一節(退却という紀律)が終わり。
 なお、「退却」=retreat は後退・譲歩とも訳される。しかし、レーニンらは<軍事用語>に模して使っているので、より軍事・戦闘用語的な「退却」が適切だろう。

1819/江崎道朗2017年8月著の悲惨⑰。

 レーニンに関する記述のうち、その範囲は不明確だが、つぎの書物は、「…を参考に、レーニンの生い立ちを見てみよう」と明記している(p.45)。少なくともレーニンの「生い立ち」について、「参考」文献を一つだけ挙げているわけだ。その文献を、つぎの書物名の下に記す。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 クリストファ・ヒル〔岡稔訳〕・レーニンとロシア革命(岩波新書、1955年)。
 この岩波新書は、先だってその文章をこの欄でとり上げたクリストファ・ヒル(Christopher Hill)の若い頃の書物の邦訳書だ。
 のちに1994年になって、ソ連解体後にこのCh・ヒルがどのような文章を書いていたかは、江崎道朗著による「参考」の仕方と直接の関係はない。ただ、「1945-46年に」執筆して1947年に(英米語で)出版したときの基礎的な考え方をその後50年近くも<珍しくも>維持し続けたようであることは、少しは驚かされる。
 上の点はともあれ、江崎道朗がCh・ヒル著の邦訳書をレーニンの「生い立ち」についてはただ一つ「参考」にしたようであることは、ただちに、つぎの疑問を生じさせる。
 原著は1947年、岩波新書として邦訳されて日本で(日本語となって)出版されたのは1955年。
 なんとまぁ。レーニンの生涯については、「生い立ち」も含めて、おそらくは100冊以上は出版されていて、どんなに少なくとも10冊以上は日本語文献もあるだろう。なぜこの本が利用されているかについて、より具体的には、つぎの疑問が<即時に>出てくるのだ。
 第一。原著1947年、邦訳書1955年、というのはいくら何でも、古すぎるだろう。
 レーニンの党・ボルシェヴィキ(共産党)と「国家」そのものとの関係が問題になおなり得たかもしれない、あるいは「マルクス=レーニン主義」と称してマルクスと同等の地位にまでレーニンを「持ち上げた」スターリン体制のもとでは実質的に「党」=「国家」または「党」>「国家」だったかもしれない、その国家・<ソ連>の創設者だったといえるレーニンについては、とりわけ1991年12月(ソ連解体)以降は、従前とは異なる<レーニン像>が、ロシア・旧ソ連も含めて、種々に語られ、論じられている可能性がある。
 なぜ、江崎道朗は、邦訳書刊行が1955年という、とんでもなく<古い>書物をただ一つ「参考」にしたのか?
 1955年とは、宮本顕治=不破哲三を指導部とする日本共産党はまだ存在していないほどの、60年以上も前の年だ。
 第二。この1955年当時すでに、岩波書店は月刊雑誌・世界等を通じて、例えば「全面」講和か否か等の問題について、明らかに「左翼」(当時は「革新」?、「平和」系?、親ソ派?)の代表的な出版者であり、当時の「左翼」たちにとっての代表的な出版社だったと思われる。
 なぜ、<インテリジェンス>の専門家を少なくとも装っているらしい江崎道朗は、岩波書店の出版物を、こんなに安易に「参考」にするのか
 秋月瑛二もまた岩波新書等の岩波の出版物に言及することがあるが、決して<警戒>を怠ったことはない。どこかに、あるいは、ともすれば、<左翼>臭があるのではないかと、いちおうは用心する。
 この欄にすでに<岩波書店検閲済み>の近年のファシズム関係邦訳書を取り上げたことがある。さすがに岩波書店だと感じたものだ。
 要するに、なぜ江崎道朗は①1955年の②岩波書店出版物を「レーニンの生い立ち」についてのただ一つの「参考」文献にしているのか。
 つぎに、古くてかつ岩波の本であっても、内容に問題がなければ、あるいは公平に見て適正といえる範囲内にあれば、それはそれでよいのかもしれない。
 しかし、江崎道朗の叙述は、戦後・1940年代後半に執筆されたCh・ヒル著の影響を受けているに違いなく、つぎのような記述を江崎道朗の<自分自身の>文章として、つまり直接の「引用」ではなく、行っている。
 以下は、ほぼ上の江崎道朗著p.46-p.47からの「引用」。
 ①「両親ともに開明的な思想の持ち主であり、貧民救済に強い関心を持っていた。レーニンはその影響を受けて育っている」。
 ②レーニンは「極めて頭脳優秀であった」が父親の死と実兄がロシア皇帝暗殺陰謀への「連座」により「処刑」され、「テロリストの弟」とレッテルを貼られて「進路を閉ざされて苦労することになった」。〔この直後にCh・ヒル著からの引用が二文ある。〕
 ③「カザンの田舎大学の法学部にしか入れなかった」〔Ch・ヒル〕が「その大学も、学生騒動に関わって四ヶ月後に放校に」なった。
 ④「ほかの大学からは軒並み入学を断られ」、「校外生」として入ったペテルブルク大学で「成績はここでも極めて優秀だったが、常に警察の監視下にあった」。
 ⑤「出世の道を断たれたレーニンは、社会主義を学び、反帝国主義・反帝制ロシアの活動にのめりこんでいく」。
 ⑥レーニンはのち、第二インター活動家として活動し「帰国しては警察の追及を受け、脱出、亡命を重ねている」。
 ⑦「貧民や労働者の救済のために活動すればするほど、帝政ロシアに弾圧されるという繰り返しだった」。
 このあとの別の書物を「参照」したうえでのレーニンの「主張」内容の紹介も、レーニン側に立っているかのごとく<優しい>。
 上の最後の点はともかくとして(いつか触れるかもしれない)、上のような第二インターでの活動を含む「生い立ち」についての江崎の叙述もまた、まるで(Ch・ヒルと全く同じく?)じつに<穏便>で<優しく>、レーニン、そしてロシア革命、そして「社会主義・共産主義」の擁護者であるがごとき口吻がある。
 事実関係には、おそらく<ほとんど>間違いはないのかもしれない(もちろん、書かれていないことのなかに重要な「事実」が隠されていることはある)。
 しかし、「出世の道を断たれた」という記述は(Ch・ヒルを真似たのだろうが)、おそらく間違っている。
 R・パイプスの同時期のレーニンの記述も読んでいるが(この欄で試訳を昨年中に掲載している)、R・パイプスによると(記憶にさしあたり頼るが)、当時の<司法試験>に合格して<専門法曹>の資格を、レーニンは得ている。
 活動家としてしか「生きて」いけなかった、というごとき叙述は誤りだろうと思われる。
 上の⑦も、正確ではない。帝政ロシアが「弾圧」したのはそこに書いていることではなくて、帝政を敵とする刑罰法令違反行為を行ったり、大戦勃発後はロシアが敗北することを望む運動をしたから、というのがまだ正確だろう。
 つぎに、「レーニンの側」に立ったような、「進路を閉ざされて苦労」した、「成績はここでも極めて優秀だった」とかの一定の価値判断を含むような叙述がある。この二箇所だけではない。
 最後に、A/両親の影響を受けて「貧民救済に強い関心を持っ」た、B/「貧民や労働者の救済のために活動すればするほど…」という叙述の仕方は、江崎による「共産主義」なるものの理解と同様に、レーニンに極めて<優しい>もので、間違いだと考えられる。
 レーニンが目指したのは「貧民救済」あるいは「貧民や労働者の救済」だったのか?
 あるいは別の箇所での江崎によれば、「格差是正」という<平等>だったのか?
 こうした叙述を読んでいると、レーニンの<動機>は、あるいは<掲げた理念・理想>は、間違っていなかった、素晴らしいものだった、という<動機は純粋だった>論のごとくだ。
 たまたま、この欄に最近に試訳を掲載したS・フィツパトリクの本の一部に、ボルシェヴィキは<革命および共産主義(社会主義)への移行期に平等主義だと主張したことは一度もない>という旨の叙述があった。彼らが夢見た究極の(国家も法も階級もない)「共産主義」社会ではともかく、レーニンらが目指したのは決して「貧民や労働者の救済」・「平等」ではない。
 長くは立ち入らないが、これらは<ロシア帝政>打倒のための<一つの方便>だった。 
 革命成功後は<旧搾取階級>・<資本主義の階層>を<逆に>虐げたのであって、その意味では不平等に(差別的に)取り扱ったのだ。
 レーニンのそもそもの<動機>・<気分>は何だったかの解明はなかなかむつかしいだろう。
 50歳すぎるまでのあの<活力>、死後に50巻近くの全集が刊行される(20歳以降だとして1年あたり1巻以上になる)ほどの文章を書きまたは演説をした<活力>の根源をたどるのは専門家でもむつかしいかもしれない。感情、意欲の元の問題だ。
 しかし、「貧民や労働者の救済」・「平等」といった<綺麗事>・<美辞麗句>にあったのではないことは明確だと思われる。
 人間としてのレーニンの「ルサンチマン」を、江崎道朗は理解しようとは何らしていないのだ。
 この機会に私見を少し書いておくと、つぎのようだ。
 否定的または消極的に捉える(欧米の)歴史研究者もいるようだが、やはり実兄が処刑=死刑とされたことは若きレーニンにとって大きかった。
 兄の死に様も、死体そのものも、弟・レーニンは見たのだろう。
 その前のこととして、R・パイプスか誰かの記述の中に、収監されている兄を「見舞う」または「接見」?するためにウラル近辺へと母親が向かおうとしたとき、父親に代わる随行者を母親が近隣で探し、若きレーニンも同行していたが、近隣の人々は「皇帝暗殺グループの一員だった」ことを理由として、無碍に?断った、というのがあった。
 そのときの母親の様子を、レーニンは見ていただろう。自分を含む<みじめさ>を、感受性が高いときに感じただろう。
 兄を「殺し」、自分を<ひどく惨めな>気持ちにさせたロシア帝政に対して、いつか仕返し(復讐)をしてやる-これがレーニンの根本的な「怨念」の少なくとも重要な一つではなかったかと思える。
 以上は全くの、文献上の根拠はない<推測>にすぎない。
 だが、そのための手段として、まずは「人民主義者」または「人民の意思」派に接近し、アナキストからも種々学んだうえで、西方のドイツを含む欧州の<マルクス主義>を知り、これを<イデオロギーとして利用>しようと感覚的に判断したのではなかっただろうか。
 ともあれ、江崎道朗はすでに、「共産主義者」に屈服している。
 この人に、反共産主義のインテリジェンスを語る資格などはない。
 上に言及した邦訳書が岩波書店から刊行された時点で、クリストファ・ヒル(Christopher Hill)は、種々の情報からおそらく確実に、イギリス共産党の党員だった。
 <マルクス主義歴史学者>だったくらいのことは、クリストファ・ヒルに関する人物情報のどこにでも書かれているだろう。だからこそ、すなわちそういう人物が書いた「レーニンとロシア革命」だからこそ、内容的にも問題はないと確認したうえで、岩波は新書としたのだ。
 江崎道朗著は悲惨で、無惨だ。もう少しだけ、Ch・ヒルについては触れる。

1816/クリストファ・ヒル(英国)のレーニン「幻想」。

 英国の歴史研究者・クリストファー・ヒル(Christopher Hill、1912~2003)は、80歳を過ぎて、英国紙Independent の1994年1月15日号の<文化>面らしきところに、以下の文章を寄せている。同紙のサイトによる。全文を訳してみる。一文ごとに改行して、本来の改行箇所には//を付す。
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 「私は1945-46年に、<レーニンとロシア革命>を執筆した。今日では考え難いけれども、戦争中の英国とソ連との間の友好関係が成長し続けるかのごとく見えた、短い期間の間にだった。//
 外務当局が政府の承認を得て、両国の学生たちを定期的に交換留学させるという大規模な企画を考えるために、学識者の有力な委員会を立ち上げていた。
 冷戦によって、これは終わった。そして、ソ連に関して何か良いことを発言するのは、流行らない、かつある分野ではその人の評判を危うくするものになった。
 冷戦の終焉によって、イギリスとロシアの関係をより良く修復し、レーニンと彼の革命を再評価することが、いずれも可能になった。//
 本を執筆しているとき、私は、17世紀のイギリス革命、1789年のフランス革命および1917年のロシア革命の間にある共通性を抽出することを旨としていた。
 1660年の後のイングランド、1815年の後のフランスには、先立つ革命に対する苛酷な反動があった。
 しかし、イングニンドで1688年、フランスで1830年に、それらは旧体制の復活ではないことが示された。
 イギリスの革命は存続して、18世紀のヨーロッパ啓蒙時代の基礎を形作った。クロムウェルのもとでイングランドがアイルランドに従属するという恐怖があったにもかかわらず。
 テロルがあったにもかかわらず、フランス革命の理念(理想)は世界を覆い尽くした。//
 ロシア革命の元来の理念(理想)-男女の平等、諸民族の平等、働いてそれが生んだ富の配分を公正に分け合うという誰もが有する権利、怠惰な遊休階級は望ましくないこと-、これらの理念(理想)のいくつかは、ソヴィエトの現実では見られなくなった。しかしなお、これらは有効性を保っている。
 スターリニズムの虚偽と歪曲が忘れられるときに、それらの理念(理想)は思い起こされるだろう。-とくに、第三世界では。//
 毛沢東がフランス革命について語ったように、ロシア革命を適切に評価するにはまだ早すぎる。
 しかし、すでに我々には、西側資本主義の最悪の特質を真似ようとする猪突猛進行動はロシアで継続していないことが確実だ。
 失業、急騰する物価、社会保障の欠如、富のひどい不平等、統制されない民族および人種の敵対感、財産と人身に対する犯罪-これらの全てが、多くの者を、ソヴィエト体制がもったより良き展望を郷愁をもって(nostalgically)回顧させている。
 安定が最終的にやって来たときにはじめて、レーニンと彼の革命の公正な評価に至ることが可能だろう。
 スターリンのゆえにレーニンを責めるという罠(trap of blaming Lenin for Stalin)に陥らないようにするのが重要だ。二人の間に、いかなる連環(links)を見ようとも。//」
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 このCh. Hill は1947年(35歳の年)に<レーニンとロシア革命>と題する書物を刊行した。
 もっとも、ロシア・ソ連史が専門ではなく、17世紀イギリス史がそれだとされる。
 しかし、上の<レーニンとロシア革命>は邦訳されて、岩波新書の一つとして1955年に刊行された。
 この岩波新書を、レーニンの「生い立ち」やその青年時代の思考を記述するために使っているのが、つぎの本だ。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 上のように、ロシア革命やレーニンをなお見ているヒルの本を、江崎はどのように<参照>しているだろうか。
 実質的に、江崎著指弾へと続く。

1812/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑨。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第9回。 
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 第三章・内戦(The Civil War)。
 (はじめに)
 十月の権力奪取はボルシェヴィキ革命の終わりではなく、始まりだった。
 ボルシェヴィキはペテログラードを征圧し、一週間の路上戦闘ののち、モスクワでもそうした。
 しかし、たいていの州中心地で起ち上がったソヴェトはまだ、ブルジョアジーの打倒(地方レベルではしばしば、町のしっかりした市民層が設置した「公共安全委員会」の排除を意味した)のために資本家の指導に従わなければならなかった。
 そして、地方ソヴェトが弱くて権力を奪えないとしても、資本家から支援が与えられそうにはなかった。(1)
 各州のボルシェヴィキは、中心地と同様に、当時にメンシェヴィキとエスエルが支配して成功裡にその権限を主張する地方ソヴェトに対する方針を案出しなければならなかった。
 さらに、田園地帯のロシアでは、町が持った権限による拘束が大幅になくなっていた。
 旧帝国内の遠方の非ロシア領域には、複雑に混乱した、さまざまの状況があった。
 いかなる在来の意味でも国家を統治する意図をもってボルシェヴィキが権力を奪取したのであれば、ある程度は長くて困難な、アナーキーで非中央志向の、分離主義的な傾向との闘いが前方に横たわっていたのだ。//
 実際、ロシアの将来の統治形態の問題は、未決定のままだった。
 ペテログラードでの十月革命で判断して、ボルシェヴィキはその「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンを留保した。
 一方で、このスローガンは1917-18年の冬の州の雰囲気には適合しているように見えた。-しかし、これはおそらく、中央政府の権威が一時的に崩壊したことを言い換えたものにすぎない。
 ボルシェヴィキは「プロレタリア-トの独裁」という別のスローガンで正確に何を意味させたかったのか、を見分ける必要がまだあった。
 レーニンがその最近の著述物で強く示唆したように、これが旧所有者階級による反革命運動を粉砕することを意味しているとすれば、新しい独裁制は、帝制期の秘密警察と類似の機能をもつ実力強制機関を設立することになっただろう。
 それがボルシェヴィキ党の独裁を意味しているとすれば、レーニンに対する政治的反対者の多くが疑ったように、その他の政党が継続して存在することは大きな問題を生じさせた。
 だがまだ、新体制は旧ツァーリ専制体制のように抑圧的に行動することができただろうか?、そしてそうしてもなお、民衆の支持を維持しつづけることができただろうか?
 さらに、プロレタリア-ト独裁は、幅広い権力と労働組合や工場委員会を含む全てのプロレタリアの組織の自立を意味しているようにも思われた。
 もしも労働組合や工場委員会が労働者の利益について異なる考え方をもっていれば、何が起こっていたのか?
 もしも工場での「労働者による統制」が労働者による自主管理を意味するとすれば、それは、ボルシェヴィキが社会主義者の根本的な目標だと見なしていた経済発展に関する中央志向の計画と両立したのだろうか?//
 ロシアの革命体制はまた、全世界でのその位置を考慮しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは自分たちは国際的なプロレタリア革命運動の一部だと考えており、ロシアでの勝利はヨーロッパじゅうに同様の革命を誘発するだろうと期待していた。
 彼らはもともとは、新しいソヴェト共和国は他国と在来の外交関係を保たなければならない国家だとは思っていなかった。
 トロツキーが外務人民委員に任命されたとき、彼は若干の革命的宣告を発して、「店終い」をしようと考えていた。
 1918年初めのドイツとのブレスト=リトフスク講和の交渉でのソヴィエト代表者として、彼は(成功しなかったが)過去のドイツの公的代表者たちにドイツ国民、とくに東部戦線のドイツ兵士たちについて語って、外交過程の全体を覆そうとした。
 伝統的な外交には必要な承認が遅れたのは、ボルシェヴィキの指導者たちが強く、ロシア革命はヨーロッパの発展した資本主義諸国での労働者の革命によって支えられないかぎり長くは存続できない、と信じていたからだ。
 革命的ロシアは孤立しているという事実が徐々に明らかになってようやく、ボルシェヴィキは、外部世界に対する彼らの地位を再査定し始めた。そして、その時期までは、革命的な呼びかけを伝統的な国家間の外交と結合させる習癖が、堅く揺るぎないものだった。//
 新しいソヴェト共和国の領土的境界と非ロシア諸民族に対する政策は、別の大きな問題を成していた。
 マルクス主義者にとってナショナリズム(民族主義)は虚偽の意識の一形態だったけれども、レーニンは戦前に、民族の自己決定権の原理を用心深く擁護した。
 ナショナリズムが有する実際上(pragmatic)の意味は、それが脅威にならないかぎりは残ったままだ。
 1923年、のちにソヴィエト同盟の結成が決定されたときに採択された政策は、「民族性の形態を認める」ことによってナショナリズムを解体することだった。民族性を認めるとは、分離した民族共和国、少数民族の保護および民族的言語や文化、民族エリートたちへの支援といったものだ。(2)//
 しかしながら、民族の自決には限界があった。従前のロシア帝国の領土を新しいソヴェト共和国に編入することに関して明確になったように。
 ペテログラードのボルシェヴィキが、ハンガリーについてそうだったように、アゼルバイジャン(Azerbaijan)のソヴェト権力が革命的勝利をするのを望むのは自然だった。以前はペテルブルクを首都とする帝国の臣民だったアゼルバイジャンは、そのことを高く評価するようには思えなかったけれども。
 ボルシェヴィキがウクライナのソヴェトを支持してウクライナの「ブルジョア」的民族主義者に反対したのも、自然だった。そのソヴェトは(ウクライナの労働者階級の人種的構成を反映して)ロシア人、ユダヤ人および民族主義者だけではなくウクライナの農民層にも「外国人」だったポーランド人で支配されている傾向にあったけれども。
 ボルシェヴィキのディレンマは、プロレタリア的国際主義の政策が実際には旧式のロシア帝国主義と、当惑させるほどに類似していた、ということだった。
 このディレンマは、赤軍(the Red Army)が1920年にポーランドに侵入し、ワルシャワの労働者が「ロシアの侵略」に抵抗したときにきわめて劇的に例証された。(3)
 しかし、十月革命後のボルシェヴィキの行動と政策は全くの空白から形成されたのではなく、内戦という要因がほとんどつねにそれらを説明するためにきわめて重要だった。
 内戦は、1918年半ばに勃発した。それは、ロシアとドイツの間のブレスト=リトフスク講和が正式の結論を得て、ロシア軍がヨーロッパ戦争から明確に撤退した、数ヶ月だけ後のことだった。
 内戦は、多くの前線での、多様な白軍(すなわち、反ボルシェヴィキ軍)との戦闘だった。白軍は、ヨーロッパ戦争でのロシアの従前の連盟諸国を含む諸外国の支援を受けていた。
 ボルシェヴィキは内戦を、国内的意味でも国際的意味でも階級戦争だと見なした。すなわち、ロシアのブルジョアジーに対するロシアのプロレタリア-ト、国際的資本主義に対する(ソヴェト共和国が好例である)国際的な革命。
 1920年の赤軍(ボルシェヴィキ)の勝利は、したがってプロレタリアの勝利だった。しかし、この闘いの苦しさは、プロレタリア-トの階級敵がもつ力強さと決意を示していた。
 干渉した資本主義諸国は撤退したけれども、ボルシェヴィキは、その撤退が永続するとは信じなかった。
 彼らは、より適当な時期に国際資本主義勢力が戻ってきて、国際的な労働者の革命を根こそぎ壊滅させようとするだろうと予期した。//
 内戦は疑いなく、ボルシェヴィキと幼きソヴェト共和国に甚大な影響を与えた。
 内戦は社会を分極化し、長くつづく怨念と傷痕を残した。外国の干渉は「資本主義の包囲」に対する永続的なソヴェトの恐怖を作り出した。その恐怖には、被害妄想(paranoia)と外国恐怖症の要素があった。
 内戦は経済を荒廃させ、産業をほとんど静止状態にさせ、町を空っぽにした。
 これは経済的でかつ社会的な意味はもちろん、政治的な意味をもった。工業プロレタリア-ト-ボルシェヴィキがその名前で権力を奪取した階級-の少なくとも一時的な解体と離散を意味したのだから。//
 ボルシェヴィキが初めて支配することを経験した、というのが内戦の経緯にはあった。そして、これは疑いなく、多くの点で党のその後の展開の型を形成した。(4)
 内戦中のある時期には、50万人以上の共産党員が赤軍で働いた(そして、この集団の中の大まかには半分が、ボルシェヴィキに入党する前に赤軍に加わっていた)。
 1927年のボルシェヴィキの全党員のうち、33%が1917-1920年に入党した。一方、わずかに1%だけが、1917年以前からの党員だった。(5)
 こうして、革命前の地下生活-「古参」ボルシェヴィキ指導者たちの揺籃期の体験-は1920年代のほとんどの党員にとっては風聞によってだけ知られていた。 
 内戦中に入党した集団にとって、党とは最も文字どおりの意味で、戦闘する仲間だった。
 赤軍の共産党員たちは、党の政策の用語に軍事専用語彙を持ち込み、軍の制服と靴をほとんど1920年代および1930年代初めの党員の制服にした。-かつてはふつうの職に就いていた者や若すぎて戦争に行けなかった者たちすら身につけた。//
 歴史研究者の判断では、内戦の経験は「ボルシェヴィキ運動の革命的文化を軍事化した」。そして、「強制力に簡単に頼ること、行政的指令による支配(administrirovanie)、中央志向の行政や略式司法」といった遺産を党に残した。(6)
 ソヴィエト(とスターリニズム)の権威主義の起源に関するこのような見方は、党の革命前の遺産やレーニンの中央志向の党組織や厳格な紀律の主張を強調する、西側の伝統的な解釈と比べて、多くの点でより満足できるものだ。
 にもかかわらず、党の権威主義傾向を補強した他の要因もまた、考察しなければならない。
 第一に、少数者による独裁はほとんど必然的に権威主義的になり、その幹部として働く者たちは、レーニンが1917年の後でしばしば批判した上司気分やいやがらせの習癖を極度に大きくしがちだった。
 第二に、ボルシェヴィキ党の1917年の勝利は、ロシアの労働者、兵士と海兵の支持による。そして、これらの者たちは、古いボルシェヴィキ知識人たちよりも、反対者を粉砕し、如才のない説得ではなく実力でもって権威を押しつけることを嫌がる傾向が少なかった。//
 最後に、内戦と権威主義的支配の連環を考察するには、ボルシェヴィキと1918-20年の政治的環境の間には二つの関係があった、ということを想起する必要がある。
 内戦はボルシェヴィキに何ら責任のない、神の予見できない行為だったのではない。
 反対に、ボルシェヴィキは、1917年の二月と十月の間の月日に、武装衝突や暴力と提携した。
 そして、ボルシェヴィキの指導者たちは事態の前に完璧に十分に知っていたように、十月蜂起は多くの者によって、明白に内戦へと挑発するものだと見られていた。
 内戦は確かに、新体制に対して戦火による洗礼を施した。そして、それによって新体制の将来の行く末に影響を与えた。
 しかし、その洗礼の受け方はボルシェヴィキが危険を冒して採用したものであり、彼らが追求したものですらあったかもしれない。(7)
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 (1) 地方での革命のその後に関する資料につき、Peter Holquist, <戦争開始、革命案出-危機のロシア共産主義、1913年-1921年>(Cambridge & London, 2002)(ドン地域について)、およびDonald J. Raleigh, <ロシア内戦の経験-Saratov での政治、社会と革命的文化、1917年-1922年>(Princeton, NJ, 2002)を見よ。
 (2) Terry Martin, <積極的差別解消(Affirmative Action)帝国>(Ithaca, 2001), p.8, p.10.
 (3) この論点に関する議論につき、Ronald G. Suny, 「ロシア革命におけるナショナリズムと階級-比較的討論」、E. Frankel, J. Frankel & B. Knei-Paz, eds, <革命のロシア-1917年に関する再検証>(Cambridge, 1992)所収、を見よ。
 (4) 内戦の影響につき、D. Koenker, W. Rosenberg & R. Suny, eds, <ロシア内戦における党、国家と社会>(Bloomington, IN, 1989)を見よ。
(5) T. H. Rigby, <ソヴィエト同盟の共産党員, 1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), p.242.<Vsesoyuznaya partiinaya perepis' 1927 goda. Osnovnye itogi perepisi>(Moscow, 1927), p.52.
 (6) Robert C. Tucker, 「上からの革命としてのスターリニズム」、Tucker, <スターリニズム>所収p.91-92.
 (7) こうした議論は、Sheila Fitzpatrick「形成期の経験としての内戦」、A. Gleason, P. Kenez & R. Stites, eds, <ボルシェヴィキ文化>(Bloomington, IN, 1985)所収、で詳しく述べた。
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 第1節・内戦、赤軍およびチェカ。
 ボルシェヴィキの十月蜂起の直後、カデットの新聞は革命を救うために武装することを呼びかけ、コルニロフ将軍の愛国者兵団は親ボルシェヴィキ兵や赤衛隊と衝突してペテログラード郊外のプルコヴォ高地どの戦闘に敗れ、モスクワでは大きな戦闘があった。
 この第一次戦闘で、ボルシェヴィキは勝った。
 しかし、ほとんど確実に、彼らはもう一度戦闘をしなければならなかった。
 ドイツおよびオーストリア-ハンガリーと戦争中の南部戦線にいる大ロシア軍には、北西部のそれによりも、ボルシェヴィキは人気がなかった。
 ドイツはロシアと戦争を継続中であり、東部戦線での講和についてはドイツには有利だったにもかかわらず、連盟諸国から得た支援以上のドイツによる酌量を、ロシア新体制はもはや計算することができなかった。
 東部戦線のドイツ軍司令官は、1918年2月早くの日記にこう書いた。そのときは、ブレスト=リトフスクでの講和交渉の決裂後に、ドイツ軍が新規に攻勢をする直前だった。
 『逃げ出すことはできない。さもなくば、この野蛮者たち〔ボルシェヴィキ〕はウクライナ、フィンランドとバルトをなぎ倒し、新しい革命軍と穏やかに一緒になり、ヨーロッパ全体を豚小屋のごとき陋屋に変えるだろう。<中略>
 ロシア全体が、うじ虫の巨大な堆積物だ。-汚らしい、大挙して脅かすゴロツキたちだ。』(8)
 1月〔1918年〕のブレストでの講和交渉の間、トロツキーはドイツ側が提示した条件を拒み、「戦争はなく、平和もない」という戦略をとるのを試みた。これは、ロシアは戦争を継続しないが、受容できない条件での講和に署名しもしない、ということを意味した。
 これは全くの虚勢だった。ロシア軍は前線で融解しつつあり、一方で、ボルシェヴィキは同じ労働者階級の連帯を訴えたにもかかわらず、ドイツ軍はそうではなかったからだ。
 ドイツはトロツキーの虚勢に対して開き直り、その軍は前進し、ウクライナの大部分を占拠した。//
 レーニンは、講和することが不可欠だと考えていた。
 ロシアの戦力とボルシェヴィキが内戦を闘う蓋然性からすると、これはきわめて理性的だった。
 加えて、ボルシェヴィキは十月革命前に、ロシアはヨーロッパの帝国主義戦争から即時に撤退すべきだと言明していた。
 しかしながら、十月でもってボルシェヴィキは「平和政党」(peace party、平和主義の党)だと理解するのは、相当の誤解を招くだろう。
 十月にケレンスキーに対抗してボルシェヴィキのために闘う気持ちのあったペテログラードの労働者たちには、ドイツ軍に対抗してペテログラードのために闘う気持ちもあった。
 この戦闘的な雰囲気は、1918年の最初数ヶ月のボルシェヴィキ党へ強く反映されていた。そしてこれはのちには、内戦を闘う新体制にとって大きな財産になることになった。
 ブレストでの交渉の時点でレーニンには、ドイツとの講和に調印する必要についてボルシェヴィキ中央委員会すらをも説得することが、きわめて困難だった。
 党の「左翼共産主義者」は、侵略者ドイツに抵抗する革命的ゲリラ戦争を主張した。-「左翼共産主義者」とは若きブハーリン(Nikolai Bukharin)らのグループで、のちにブハーリンは、指導層内部でのスターリンの最後の対立者として歴史上の位置を占めた。
 そしてこの当時はボルシェヴィキと連立していた左翼エスエルも、同様の立場を採った。
 レーニンは最後には、退任すると脅かして、ボルシェヴィキ党中央委員会による票決を迫った。それは、じつに苦しい戦いだった。
 ドイツが攻撃に成功してその後で課した条件は、1月に提示したものよりも相当に苛酷なものだった。
 (しかし、ボルシェヴィキは好運だった。ドイツはのちにヨーロッパ戦争に敗れ、その結果として東部の征圧地を失ったのだから。)//
 ブレスト=リトフスクの講和によって、軍事的脅威からの短い息抜きだけが生じた。
 旧ロシア軍の将校たちは南部のドンやクバンのコサック地帯に兵を集結させており、提督コルチャク(Kolchak)は、シベリアに反ボルシェヴィキ政権を樹立していた。
 イギリスは兵団をロシア北部の二つの港、アルハンゲルスク(Arkhangelsk)とムルマンスクに上陸させた。表向きはドイツと戦うためだったが、実際には新しいソヴェト体制に対する地方の反対勢力を支援する意図をも持って。//
 戦争の不思議な成り行きで、非ロシア人の兵団ですら、ロシア領土を通過していた。-およそ3万人のチェコ人軍団で、ヨーロッパ戦争が終わる前に西部前線に達する希望をもっていた。チェコ軍団はそうして、連盟諸国の側に立って旧宗主国のオーストリアと戦い、民族の独立という彼らの主張を実現したかったのだ。
 ロシアの側から戦場を横切ることができなかったので、チェコ軍はシベリア横断鉄道で<東>へとありそうにない旅をしてウラジオストクにまで行き、船でヨーロッパに帰ろうと計画した。
 ボルシェヴィキは、そのような旅を公式に認めなかった。しかし、地方のソヴィエトは武装した外国人の一団が経路途上で鉄道駅に着くのに敵意をもって反応していたが、こうした反応がなくなったのではなかった。
 1918年5月、そのチェコ軍は、ボルシェヴィキが支配していたチェリャビンスク(Chelyabinsk)というウラルの町のソヴィエトと初めて衝突した。
 別のチェコ軍の一団は、ボルシェヴィキに対抗してエスエルが短命のヴォルガ共和国を設立しようと起ち上がったとき、サマラのロシア・エスエルを支援した。
 チェコ軍はロシアの外で多少とも戦いながら進んで、終わりを迎えた。そして、全員がウラジオストクを去って船でヨーロッパに戻ったのは、多くの月を要した後だった。//
 内戦それ自体は-ボルシェヴィキの「赤軍」対反ボルシェヴィキの「白軍」-、1918年夏に始まった。
 この時期にボルシェヴィキは、首都をモスクワに移転させた。ドイツ軍が攻略するという脅威をペテログラードは逃れていたが、将軍ユデニチ(Yudenich)が指揮する白軍の攻撃にさらされたからだ。
 しかし、国家の大部分はモスクワの有効な統制のもとにはなかった(シベリア、南部ロシア、コーカサス、ウクライナおよび地方ソヴェトを間欠的に都市的ソヴェトが支配したウラルやヴォルガの地域の多くをも含む)。そして、白軍は、東部、北西部および南部からソヴェト共和国を脅かした。
 連盟諸国の中で、イギリスとフランスはロシアの新体制にきわめて敵対的で、白軍を支援した。それらの直接的な軍事介入は、かなり小さな規模だったけれども。
 アメリカ合衆国と日本は、シベリアに兵団を派遣した。-日本軍は領域の獲得を望んで、アメリカ軍は混乱しつつ、日本を抑え、シベリア横断鉄道を警護しようとした。またおそらくは、アメリカの民主主義の規準で推測すれば、コルチャクのシベリア政権を支援するために。//
 ボルシェヴィキの状況はじつに1919年に、絶望的に見えた。そのとき、彼らが堅く支配している領土は、大まかには16世紀のモスクワ大公国(Muscovite Russia)と同じだった。
 しかし、対立者〔白軍側〕もまた、格別の問題を抱えていた。
 第一に、白軍はほとんどお互いに独立して活動し、中央の指揮や協力がなかった。
 第二に、白軍が支配する領域的基盤は、ボルシェヴィキのそれ以上に希薄なものだった。
 白軍が地域政府を設立したところでは、行政機構を最初から作り出さなければならず、かつその結果はきわめて不満足なものだった。
 歴史的にモスクワとペテルブルクに高度に集中していたロシアの輸送や通信制度は、周縁部での白軍の活動を容易にはしなかった。
 白軍は赤軍だけではなくて、いわゆる「緑軍」にも悩まされた。-これは農民とコサックの軍団で、いずれの側にも忠誠を与えず、白軍が根拠にしていた遠い辺鄙な地帯で最も行動した。
 白軍は旧帝制軍隊出身の将校たちを多く有していたが、彼らが指揮をする兵士の新規募集や徴用によって兵員数を確保するのは困難だった。//
 ボルシェヴィキの戦力は、1918年春に戦争人民委員となったトロツキーが組織した赤軍だった。
 赤軍は最初から設立されなければならなかった。旧ロシア軍の解体が早く進みすぎて、止められなかったからだ(ボルシェヴィキは権力奪取後すぐに、全軍の動員解除を発表した)。
 1918年最初に形成された赤軍の中心は、工場出身者による赤衛隊および旧軍や艦隊出身のボルシェヴィキの一団で成っていた。
 この赤軍は自発的な募兵によって膨らみ、1918年夏からは、選抜しての徴兵になった。 労働者と共産党員は、初めて徴兵されることになった。そして、内戦の間ずっと、戦闘兵団のうちの高い割合を提供した。
 しかし、内戦の終わりまでに、赤軍は、主としては農民徴兵者の、500万以上の入隊者のいる大量の組織になった。
 これらの約10分の1だけが戦闘兵団で(赤軍と白軍の両派が配置した戦力は、ある特定の前線では10万人をほとんど超えなかった)、残りの者は供給、輸送または管理的な仕事に就いた。
 赤軍はかなりの範囲で、民間人による行政が破壊されて残した空隙を充填しなければならなかった。すなわち、そのような行政機構は、ソヴェト体制が近年に持つ、最大でかつ最もよく機能する官僚制を伴っていた。また、全ての利用可能な資産の中で最初に欲しいものだった。//
 多くのボルシェヴィキは、赤衛隊のようなmilitia(在郷軍、民兵)タイプの一団をイデオロギー的に好んだ。しかし、赤軍は最初から通常の軍隊の方向で組織され、兵士は軍事紀律に服し、将校は選挙されないで任命された。
 訓練をうけた軍事専門家が不足していたので、トロツキーとレーニンは旧帝制軍出身の将校たちを使おうと強く主張した。この政策方針は、ボルシェヴィキ党内でかなり批判され、軍事反対派は連続する二つの大会で反対にしようとしたけれども。
 内戦の終わりまでに、赤軍には5万人以上の以前は帝制軍将校だった者がいた。そのほとんどは徴兵されていて、上級軍事司令官の大多数はこのグループの出身だった。
 旧将校たちが忠実であるのを確保するために、彼らは通常は共産党員である政治委員に付き添われた。政治委員は、全ての命令に副署して、軍事司令官と最終的責任を共有した。//
 この軍事力に加えて、ソヴェト体制はすみやかに治安機構を設立した。-反革命、怠業および投機と闘争するための全ロシア非常時委員会で、チェカ(Cheka)として知られる。 この組織が1917年12月に創立されたとき、その直接の任務は、十月の権力奪取後に続いた、強盗団、略奪および酒類店の襲撃の発生を統制することだった。
 しかし、それはすぐに、保安警察というより幅広い機能を有して、反体制陰謀に対処した。また、ブルジョア的「階級敵」、旧体制や臨時政府の役人たちおよび反対政党の党員などの、忠誠さが疑わしい集団を監視した。
 チェカは、内戦開始後はテロルの機関になり、処刑を含む略式の司法的機能をもち、白軍の指揮下にあるか白軍へと傾いている地域で、大量に逮捕し、手当たり次第に人質に取った。
 1918年および1919年前半での欧州ロシアの20州に関するボルシェヴィキによる統計数によると、少なくとも8389人が審判を受けることなくチェカによって射殺され、8万7000人が拘束された。(9)
 ボルシェヴィキのテロルと同等のものは白軍にあり、ボルシェヴィキ支配下の領域で反ボルシェヴィキ勢力によって行われた。そして、同じような残忍さが、どちらの側にもあった。
 しかしながら、ボルシェヴィキは自分たちがテロルを用いていることについて率直に認めていた(このことは、略式司法だけではなくて、特定の集団または民衆全体を威嚇するための、個々の罪とは関係がない無作為の制裁があったことを示唆する)。
 ボルシェヴィキはまた、暴力行使について精神的に頑強であることを誇りにしていた。ブルジョアジーの口先だけの偽善を嫌がり、プロレタリア-トを含むいかなる階層の支配に対しても、別の階層に対する強制力の行使に関係させることを認めたのだ。
 レーニンとトロツキーは、テロルの必要性を理解できない社会主義者に対する侮蔑を明言した。
 レーニンは、「怠業者や白軍兵士を射殺する意欲がなかったならば、革命とはいったいどんな種類のものなのだ?」と新政府の同僚たちに説諭した。(10) 
 ボルシェヴィキが歴史上にチェカの活動との類似物を探し求めたとき、彼らはふつうに、1794年のフランスの革命的テロルに論及した。
 彼らはいかなる類似性も、帝制下の秘密警察には見出さなかった。西側の歴史研究者はしばしば、それを引き合いに出すけれども。
 チェカは実際に、旧警察よりもはるかに公然とかつ暴力的に活動した。そのやり方は、一つには1917年にその将校に対処したバルト艦隊の海兵たちによる階級的復讐、あるいは二つには1906-7年のストリュイピンによる田園地帯の武力による鎮圧とはるかに共通性があった。
 帝制期の秘密警察との類似性は内戦後について語るのが適切になった。内戦後にチェカはGPU(国家政治保安部)に置き換えられ-テロルの廃止と合法性の拡大への動き-、保安機関はその活動方法についてより日常的で官僚的で、慎重なものになった。 
 長期的観点から見ると、帝制秘密警察とソヴィエトのそれの間には、明らかに継続性の要素が強くあった(明らかに人員上の継続性はなかったけれども)。
 そして、それが明瞭になるにつれて、保安機能に関するソヴィエトの説明は捕捉し難い、偽善的なものになった。//
 赤軍とチェカはともに、内戦でのボルシェヴィキの勝利に重要な貢献をした。
 しかしながら、この勝利を単純に軍事力とテロルの観点から説明するのは適切でないだろう。とりわけ、赤軍と白軍の間の戦力の均衡度を査定する方法を誰も見出していなかったのだから。
 社会による積極的な支援と消極的な受忍が考察されなければならない。そして、これらの要因が、おそらくは最も重要だった。
 赤軍は積極的支持を都市的労働者階級から得て、ボルシェヴィキはその組織上の中核部分を提供した。
 白軍は積極的支持を旧中間および上層階級から得て、その一部は主要な組織活動家として働いた帝制時代の将校団だった。
 しかし、均衡を分けたのは確実に、人口の大多数を占める農民層だった。//
 赤軍も白軍もいずれも、それらが支配する領域で農民を徴兵した。そしていずれの側にも、かなりの割合で脱走があった。
 しかしながら、内戦が進展するにつれて、農民の徴兵が顕著に困難になったのは、赤軍以上に白軍だった。
 農民たちは穀物徴発というボルシェヴィキの政策に憤慨していた(後述、p.82-83を見よ)。しかし、この点では白軍の政策も変わりはなかった。
 農民たちはまた、1917年のロシア軍での体験がたっぷりと証明していたので、誰かの軍で働く大きな熱意がなかった。
 しかしながら、1917年に農民の支持が大きく低下したのは、土地奪取と村落による再配分と密接に関係していた。
 この過程は1918年末までには、ほぼ完了した(このことは軍役に対する農民の反感を減らした)。そして、ボルシェヴィキはこれを是認した。
 一方で白軍は、土地奪取を是認しないで、従前の土地所有者の要求を支持した。
 かくして、土地というきわめて重大な問題について、ボルシェヴィキの方が、より小さい悪だった。(11)//。
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 (8) J. W. Wheeler-Bennett, <ブレスト=リトフスク、忘れられた平和-1918年3月>(New York, 1971), p.243-4. から引用した。
 (9) 数字は、Aleksander I. Solzhenitsyn, <収容所列島、1918年-1956年>、訳・Thomas P. Whitney(New York, 1974),ⅰ-ⅱ, p.300. から引用した。
 ペテログラードでのチェカの活動につき、Mary McAuley, <パンと正義-ペテログラードにおける国家と社会、1917年-1922年>(Oxford, 1991), p.375-393. を見よ。
(10) テロルに関するレーニンの言明の例として、W. Bruce Lincoln, <赤の勝利-ロシア内戦史>(New York, 1989)を見よ。
 トロツキーの考え方につき、彼の<テロルと共産主義: カウツキー同志に対する返答>(1920)を見よ。
 (11) 農民の態度につき、Orland Figes, <農民ロシア、内戦: 革命期のヴォルガ田園地帯・1917年-1921年>(Oxford, 1989)を見よ。
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 第三章・内戦のうち「はじめに」と第1節(内戦・赤軍・チェカ)が終わり。

1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第8回。
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 第4節・夏の政治危機
 6月半ば、今は臨時政府の戦時大臣であるケレンスキーはロシア軍に、ガリシアの前線での大規模な攻撃を命じた。
 それは二月革命以降の最初の、重大な軍事行動だった。ドイツ軍は自分たちがさらに東部へと侵入することなくしてロシア軍隊が解体していくのを見守っているので満足しており、ロシア軍の最高司令部は敗北を怖れ、主導性を発揮せよとの連盟諸国からの圧力に早くに抵抗していたときだったから。
 ロシアのガルシア攻撃は6月と7月初頭に行われ、積算で20万人の死傷者を出して失敗した。
 これは、あらゆる意味での厄災だった。
 軍隊の志気はいっそう低下し、ドイツ軍は反抗に成功し始めて、夏から秋の間じゅう続いた。
 土地略奪の報せに反応して農民兵士になっているロシア軍側の脱走兵は、異常な割合にまで達した。
 臨時政府の信用は地に落ち、政府と軍指導者の間の緊張が高まった。
 7月初め、政府の危機が、カデット(リベラル派)の全閣僚が去り、臨時政府の長のルヴォフ公が辞任したことで急に発生した。//
 この危機のさ中、ペテログラードで再び大衆の集団示威行動、街頭での暴力、そして七月事件(the July Days)として知られる民衆騒擾が突如として起こった。(15) //
 同時代の目撃者は50万人にまで達するとする群衆は、クロンシュタットの海兵の派遣団、兵士、ペテログラード工業施設からの労働者を含んでいた。
 臨時政府には、ボルシェヴィキによる蜂起の試みのようだった。
 ペテログラードに到着して騒擾を開始したクロンシュタットの海兵たちは、その指導者の中にボルシェヴィキがおり、「全ての権力をソヴェトへ」というボルシェヴィキのスローガンを記した旗を持った。そして、最初の目的地は、ボルシェヴィキ党の司令部があるクシェシンスカヤ宮(Kseshinskaya -)だつた。
 だが、示威行進者がクシェシンスカヤ宮に着いたとき、レーニンの挨拶は抑制的なもので、ほとんど無愛想だつた。
 レーニンは、臨時政府または現在のソヴェト指導部に対して暴力的活動をするように勇気づけはしなかった。
 そして、群衆はソヴェト〔の所在地〕へと動いて威嚇しつつ、暴力的活動を行わないで周りをうろつき回った。
 混乱し、指導部と特定の計画を持たず、示威行進者たちは市内を歩き回り、酔っ払って略奪し、そして最後に解散した。//
 七月事件は、ある意味では、4月以降のレーニンの揺るぎない立場を証明するものだった。臨時政府と二重権力に反対する民衆の強い感情、連立する社会主義者に耐えられないこと、そしてクロンシュタット海兵その他の一部にある暴力的対立意識およびおそらくは蜂起への熱意を示したものだったからだ。
 しかし、別の意味では、七月事件はボルシェヴィキにとっての災難だった。
 レーニンとボルシェヴィキ中央委員会は明らかに、動揺していた。
 彼らは蜂起について一般的には語り合ったが、それを企画することはなかった。
 海兵たちの革命的雰囲気に反応したクロンシュタットのボルシェヴィキは、実際にはボルシェヴィキ中央委員会が承認していない主導性を発揮した。
 事件全体は、ボルシェヴィキの志気と革命指導者としてのレーニンの信頼性を損なった。//
 指導者たちの躊躇と不確実な対応があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは七月事件について臨時政府とソヴェトの穏健な社会主義者たちから非難されたため、損失はそれだけ大きかった。
 臨時政府は、二月革命以来全政党の政治家たちが享有してきた「議員免責特権」を撤回して、厳罰に処することを決定した。
 いく人かの著名なボルシェヴィキが逮捕された。その中には、5月にロシアに帰って以降はレーニンに近い極左の立場を採り、8月に正式にボルシェヴィキ党員になる予定のトロツキーもいた。
 レーニンとボルシェヴィキ指導部の中の彼の緊密な仲間であるジノヴィエフの逮捕状が発せられた。
 さらに、七月事件の間に臨時政府は、ある噂の信憑性を支持する証拠があるという示唆を握った。その噂とは、レーニンはドイツの工作員だというものだった。そして、ボルシェヴィキは、新聞の愛国主義的論調による非難にさらされ、一時的に軍隊や工場での人気を落とした。
 ボルシェヴィキ党中央委員会は(そして疑いなくレーニン自身も)、レーニンの身柄の安全を気遣った。
 レーニンは潜伏し、8月早くに作業員に変装して境界を越え、フィンランドに逃亡した。//
 しかしながら、ボルシェヴィキが困難な状況にあったとすれば、それは七月初めから首相になったケレンスキーが率いる臨時政府についてもそうだった。
 リベラル派と社会主義派の連立は恒常的な混乱に陥り、社会主義者はソヴィエトの支援者たちによって左へと動き、リベラルたちは実業家、土地所有者および軍事司令官たちの圧力をうけて右へと動いた。後者の者たちは、権威の崩壊と民衆騒擾でもってますます警戒心を強めていた。
 ロシアを救うという使命を気高く意識していたにもかかわらず、ケレンスキーは本質的には中庸を行く、政治的妥協への交渉者だった。大しては信頼もされず尊敬もされず、諸大政党のいずれにも政治的基盤がなかった。
 彼が悲しくも、こう愚痴をこぼしたように。
 「私は左翼のボルシェヴィキと右翼のボルシェヴィキの両方と闘っている。
 しかし、民衆はそのどちらかに凭り掛かれと要求する。<中略>
 私は真ん中の途を進みたい。しかし、誰も私を助けてくれようとしない」。(16)//
 臨時政府はますます、いずれかの方向に崩壊しそうに見えた。しかし、問題はどの方向にか?、だった。
 左翼からの脅威は、ペテログラードでの民衆蜂起および/またはボルシェヴィキのクーだった。
 このような挑戦は7月に失敗したが、北西前線でのドイツ軍の活動は、最も不吉な徴候としてペテログラードの周りの軍隊に対してきわめて強い緊張を強いていた。そして、憤慨し、武装した、働き場のない脱走兵たちの大量流入が、間違いなく市自体の中での街頭暴力を生じさせる危険を増大させた。
 臨時政府に対するもう一つの脅威は、法と秩序の独裁制を樹立しようとする右翼からのクーの可能性だった。
 夏までに、この方策は軍隊上層部で論議されており、ある範囲の実業家たちから支持を得ていた。
 徴候としては、このような動きに事前にかつ公共的言明によって明らかに反対しなければならなかっただろうカデットですら、少なからず安堵して既成事実を受け入れるかもしれなかった。//
 8月、ついに将軍コルニロフ(Lavr Kornilov)が右翼からのクーを試みた。ケレンスキーは最近に彼を、ロシア軍の秩序と紀律を回復させるという指示のもとで軍最高司令官に任命していた。
 コルニロフの動機は明らかに、個人的野心にではなく、国家の利益に関する意識にあった。
 実際、強力な政府を確立して騒ぎを起こす左翼に対処するために軍が干渉するのをケレンスキーは歓迎するだろうと、コルニロフは考えていたかもしれなかった。ケレンスキーはある程度はコルニロフの意図を知っていて、奇妙に迂回したやり方で彼を処遇したのだから。
 二人の主要な役者の間にあった誤解は事態を混乱させ、コルニロフが動く直前にドイツ軍がリガ(Riga)を掌握したという予期しなかったことも、狼狽に輪をかけた。そして、疑念と絶望の気分がロシアの民間および軍隊の指導者たちに広がっていた。
 8月の最終週、将軍コルニロフは、当惑しつつも決断して、表向きは首都の不安を鎮静化して共和国を救うために、兵団を前線からペテログラードへと派遣した。//
 クーの企図が挫折した理由の大部分は、兵団に信頼がなかったこととペテログラードの労働者の旺盛な行動だった。
 鉄道労働者たちは兵団列車の方向を変えて、妨害した。
 印刷工たちは、コルニロフの動きを支持する新聞の発行を止めた。
 金属労働者たちは近づく兵団を迎えるために外に飛び出し、ペテログラードは平穏で、兵団は将校たちに欺されているのだと説明した。
 このような圧力をうけて兵団の志気は減退し、大きな軍事的成功は何もないまま、ペテログラードの郊外でクーは終わった。そして、コルニロフの指令で行動していた指揮官の将軍クリモフ(Krymov)は臨時政府に降伏し、自殺した。
 コルニロフ自身は軍司令部に逮捕され、抵抗することなく、全責任を甘受した。//
 ペテログラードでは中央と右翼の政治家たちが、ケレンスキーが引き続き率いる臨時政府への忠誠を再確認した。
 しかし、ケレンスキーの立場はそのコルニロフ事件への対応の仕方のためにさらに傷つき、政府は弱体化した。
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会もまた、信頼を低下させた。コルニロフに対する抵抗は、多くは地方の組合や工場レベルのものにすぎなかったからだ。
 そして、これらによって、ボルシェヴィキへの支持は急上昇し、ボルシェヴィキがソヴェト内のメンシェヴィキ・エスエル指導部をすみやかに解任することが可能になった。
 軍司令部は最大の打撃を受けた。最高司令官の逮捕とクーの失敗によって、志気は喪失し、混乱に陥ったのだ。
 将校たちと兵士たちの間の関係は、明瞭に悪化した。そして、これだけでは不十分であるかのごとく、ペテログラードを明らかに目指して、ドイツ軍が前進し続けていた。
 9月半ば、コルニロフの後継者の将軍アレクセイエフが、コルニロフの高潔な動機を称える気持ちを言明して、突然に辞任した。
 アレクセイエフは、紀律が崩壊してしまい「我々の将校たちは殉教者である」軍隊についての責任をもう負うことはできない、と感じていた。//
 『現実に、この戦慄すべき危険があるときに、私は恐怖に脅えて、我々には軍は存在しない(この言葉の際に将軍の声は震え、彼は数滴の涙を零した)、一方でドイツ軍は、いつでも我々に最後のかつ最大の強力な一撃を放つように準備をしている、と言明する。』(17)//
 左翼が、コルニロフ事件によって最も多くを得た。この事件は右翼による反革命の脅威という以前は抽象的だった観念に実体を与え、労働者階級の強さを証明し、同時に多くの労働者たちに、自分たちの武装した警戒だけが革命をその敵から守ることがでるきと確信させた。
 まだ投獄されているか潜伏中の指導者が多くいるボルシェヴィキは、コルニロフに対する実際の抵抗には特別の役割を何ら果たさなかった。
 しかし、民衆の意見の新しい揺れの方向はボルシェヴィキであり、そのことはすでに8月初めには感知されていたが、コルニロフがクーに失敗した後で急速に明らかになった。
 そして、実際的な意味で言うと、コルニロフの脅威に対する反応として始まった労働者の軍団、あるいは「赤衛隊」(the Red Guards)、の設立により、将来の収穫を刈り取るのはボルシェヴィキであることになった。
 ボルシェヴィキの強さは、ブルジョアジーや二月体制との連携へと妥協しなかった唯一の政党だということだった。そしてこの党は、労働者の権力と武装蜂起という考え方と最も緊密に結びついていた。//
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 (15) 七月事件につき、A. Rabinowitch, <革命への序曲-ペテログラード・ボルシェヴィキと1917年7月蜂起>(Bloomington, IN, 1968)を見よ。
 (16) A. Rabinowitch, <ボルシェヴィキが権力に至る>(New York, 1976).p.115. から引用した。
 (17) 将軍アレクセイエフへの新聞インタビュー(Rech', 1917年9月13日付、p.3)、Robert Paul Browder & Alexander Kerensky 編, <1917年のロシア臨時政府: 資料文書>Stanford, 1961), ⅲ, p.1622に収載。
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 第5節・十月革命。
 4月から8月まで、ボルシェヴィキのスローガン「全ての権力をソヴェトへ」は本質的には挑発的なものだった。-ソヴェトを支配した穏健派に向けられた皮肉であって、全ての権力を奪うつもりはなかった。
 しかし、穏健派に支配権がなくなったコルニロフ事件の後では、状況は変わった。
 8月31日、ボルシェヴィキはペテログラード・ソヴェトの多数派を握った。9月5日、モスクワ・ソヴェトでもそうなった。
 かりに10月に予定されていた全国ソヴェト第二回大会で首都でと同じ政治的趨勢が続いていたとすれば、いったい何が意味されただろうか?
 ボルシェヴィキは、臨時政府はもはや支配する権能を持たないとするその大会の決定にもとづいて、法に準じた(quasi-legal)ソヴェトへの権力の移行を望んだだろうか?
 それとも、そのかつてのスローガンは、実際に暴力的蜂起への呼びかけだったのか、あるいはボルシェヴィキは(他とは違って)権力を奪取する勇気があることの宣言だったのか?//
 9月、レーニンはフィンランドの潜伏場所からボルシェヴィキ党に対して、武装蜂起の準備をするように迫る手紙を書き送った。
 革命のときは来た、遅くなる前に、奪取しなければならない、と彼は述べた。
 遅れるのは、致命的だろう。
 ボルシェヴィキは、ソヴェトの第二回〔全国〕大会の会合の<前に>行動を起こして、大会がするかもしれないいかなる決定をも阻止しなければならない、と。//
 レーニンによる即時の武装蜂起の主張は情熱的なものだったが、指導部にいる仲間たちの確信を完全には抱かせはしなかった。
 潮目が明らかに我々に向かっているときに、なぜボルシェヴィキは絶望的な賭けを冒す必要があるのか?
 さらに言えば、レーニン自身が帰ってきておらず、責任を取れなかった。レーニンが本当に真剣であるならば、確実に彼はこれをしたのか?
 夏にレーニン向けられた責任追及によって、疑いなくレーニンは過分に疲れていた。
 可能性としては、彼は七月事件の間の彼と中央委員会の躊躇について思い悩み、権力を奪取する希有の機会を失ったと考えていた。
 いずれにせよ、全ての大指導者たちと同じく、レーニンは気まぐれだった。
 この雰囲気は、過ぎ去るかもしれなかった。//
 この時点でのレーニンの行動は、確かに矛盾していた。
 一方では、ボルシェヴィキによる蜂起を強く主張した。
 他方では、臨時政府が7月に収監されていた左翼政治家を釈放し、今やボルシェヴィキはソヴェトを支配していて、レーニンに対する切迫した危険があった時期は確実に過ぎていたにもかかわらず、彼は数週間もフィンランドにとどまった。
 彼がペテログラードに戻ったとき、おそらくは10月の第一週の末、ボルシェヴィキすらから離れて潜伏し、怒りと激励の一連の手紙によってのみ党中央委員会に連絡通信をした。//
 10月10日、ボルシェヴィキ中央委員会は、蜂起は好ましいということに同意した。
 しかし、ボルシェヴィキたちの明らかに多くは、ソヴェトの自分たちの立場を使って法に準じた、非暴力的に権力を移行させることに傾斜していた。
 あるペテログラード・ボルシェヴィキ委員会の一員の、のちの回想録はつぎのように語る。//
 『ほとんど誰も、ある特定の時期での、統治の全装置を武装奪取することの始まりだとは考えていなかった。<中略>
 我々は、蜂起とはペテログラード・ソヴェトによる権力の掌握のことだと単直に考えていた。
 ソヴェトは、臨時政府の命令に従うことをやめ、ソヴェト自体に権力があると宣言し、これを妨害しようとする者は誰でも排除するだろう、と。』(18)
 監獄から最近に解放されてボルシェヴィキ党に加入していたトロツキーは、今やペテログラード・ソヴェト多数派の指導者の一人だった。
 トロツキーはまた、1905年のソヴェト指導者の一人でもあった。
 公然とはレーニンに反対しなかったけれども(のちには二人の見解は一致していたと主張した)、彼も蜂起を疑問視し、ソヴェトが臨時政府を除去する課題に対処することができるし、そうすべきだ、と考えたというのは、ありうるように思われる。(19)
 ボルシェヴィキが行う蜂起に対する強い反対が、レーニンの古くからのボルシェヴィキの同僚だった二人、ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)とカーメネフ(Lev Kamenev)から挙がった。
 彼らはボルシェヴィキがクーによって権力を奪取するのは無責任であり、その権力を単独で保持できるとするのは非現実的だ、と考えた。
 ジノヴィエフとカーメネフがこうした主張を自分たちの名前を出して非ボルシェヴィキの日刊新聞紙(マクシム・ゴールキの<Novaya zhizn>)に公表したとき、レーニンの怒りと憤激は新しい次元へと高まった。
 これは理解できるものだった。二人の行為は果敢な抵抗だったのみならず、ボルシェヴィキは秘密裡に蜂起を計画しているということを公的に発表するものだったからだ。//
 このような状勢からすると、ボルシェヴィキの十月クーが巧くいったのは驚くべきことのように見える可能性がある。
 しかし、実際には、積極的な公表があったことは、レーニンの基本的考えを妨げたのではなく、むしろ助長した。
 そのことは、ボルシェヴィキたちが事前に逮捕されたり、ペテログラード地域の労働者、兵士・海兵がいかなる革命的行動をも非難するという強い徴候を知らされないかぎり、ボルシェヴィキが行動<しない>のは困難な立場へと、ボルシェヴィキを追い込んだ。
 しかし、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対する果敢な反抗措置を取らなかった。そして、ペテログラード・ソヴェトの革命軍事委員会(Military-Revolutionary Committee)をボルシェヴィキが支配していることは、クーを組織するのを比較的に容易にした。
 革命軍事委員会の基本的な目的は、コルニロフのような反革命に対する労働者の抵抗を組織することだった。そして、ケレンスキーは明らかに、そのことに干渉する立場にはいなかった。
 戦争の情勢もまた、重要な要因だった。すなわち、ドイツ軍は前進しており、ペテログラードは脅かされていた。
 労働者たちはすでに、大工業施設を引き渡して市から避難するようにとの臨時政府の命令を拒否していた。彼らは革命に対する政府の意向を信用しておらず、そのゆえにまた、政府のドイツ軍と戦う意思をも信用していなかった。
 (逆説的にだが、ボルシェヴィキの「平和」スローガンに労働者が賛同していたので、労働者たちもボルシェヴィキも、ドイツの脅威が切迫しかつ現実的になったときに戦闘的に反応した。かつての平和スローガンは、リガの陥落後の1917年の秋と冬にはほとんど聞かれなくなっいた)。
 ドイツ軍が接近してきたときにケレンスキーが労働者を武装解除していたならば、彼はおそらく、裏切り者で降伏主義者だとしてリンチを受けて殺されていただろう。//
 10月24日、第二回ソヴェト大会の会合の直前に、ソヴェトの軍事革命委員会の実力部隊が枢要な政府組織を占拠し始めて、蜂起が始まった。彼らは、電信施設と鉄道駅舎を奪い取り、市の橋梁で路上封鎖を開始し、臨時政府が会合をしている冬宮を取り囲んだ。//
 彼らは、ほとんど実力による抵抗に遭遇しなかった。
 街頭は平穏なままであり、市民は日常の仕事をし続けた。
 10月24-25日の夜、レーニンは潜伏場所から現れて、スモルニュイ(Smolny)研究所で同志たちに合流した。スモルニュイは、かつては若い女性たちの学校で、今はソヴェトの最高司令部があった。
 彼もまた静穏で、神経質な不安の状態から回復しているように見えた。そして、当然のこととして、かつての指導者としての地位を取り戻した。//
 10月25日の午後までに、クーはほとんど成功した。-刺激的なことに、中にいる臨時政府の構成員たちをまだ取り囲んでいる冬宮の制圧を除いては。
 その日の夕方遅く、冬宮は陥落した。徐々に減っていく防衛者の一団に対する、いくぶんは混乱した攻撃によって。
 これは、のちのソヴィエトの資料が示唆するよりも英雄的でない事態だった。ネヴァ川の冬宮の反対側に停泊していた戦艦<オーロラ>は、一発の実弾も撃たなかった。そして占拠した部隊はケレンスキーを脇の出入口から抜け出させ、車でうまく市から逃亡させた。
 政治ドラマの観点からすると、これもいくぶん不満足なものだった。ソヴェト大会-ボルシェヴィキの強い主張にもとづいて数時間も最初の会議を延期していた-は、冬宮の陥落の前についに手続を開始した。こうして、劇的な開会の宣言をしようとのボルシェヴィキの意向は打ち砕かれることとなった。
 だがなお、基本的な事実は残ったままだ。すなわち、二月体制は打倒され、権力は十月の勝利者の手に移った。//
 もちろん、このことも、一つの問題を未解明のまま残した。
 いったい誰が、十月の勝利者<だった>のか?
 ソヴェト大会よりも前の蜂起をボルシェヴィキに迫ることで、レーニンは明らかに、この資格がボルシェヴィキに与えられることを望んでいた。
 しかし、ボルシェヴィキは実際には、ペテログラード・ソヴェトの軍事革命委員会を通じて蜂起を組織した。
 そして、偶々なのか企図してか、軍事革命委員会はソヴェト全国大会の会合の直前まで、遅らせた。
 (トロツキーはのちに、これはボルシェヴィキの権力奪取を合法化するためにソヴェトを用いるという輝かしい-明らかにレーニンのそれではないので推測するに彼自身の-戦術だったと描写した。(20))
 報せが地域の外に伝わったとき、最も共通した見方は、ソヴェトが権力を奪取した、というものだった。//
 この問題は、10月25日にペテログラードで開かれたソヴェト大会で十分には明らかにされなかった。
 分かったとき、大会代議員の明確な多数派は、全ての権力のソヴェトへの移行を支持するよう委任(mandat)を受けて出席していた。 
 しかし、これはもっぱらボルシェヴィキ派だったのではなかった(670人の代議員のうち300人がボルシェヴィキで、最大の位置を占めていたが、多数派ではなかった)。そして、そのような委任は、必ずしもボルシェヴィキによる先立つ行動を是認することを意味しはしなかった。
 そのボルシェビキの行動は最初の会合で、メンシェヴィキとエスエルの大集団によって厳しく批判された。この両派は、そのあと、抗議するために大会に出席しなくなった。
 レーニンの古い友人であるマルトフが率いるメンシェヴィキの宥和的姿勢については疑問が出されている。しかし、トロツキーはこのような批判を、思い出しての文章の中で、「歴史のごみ函」に送ってしまった。//
 ソヴェト大会では、ボルシェヴィキは全国すべてについての権力の労働者、兵士、農民のソヴェトへの移行を呼びかけた。
 中央権力に関するかぎりで、論理的に意味するところは、確かに古い臨時政府の場所がソヴェトの常勤の中央執行委員会に奪われるだろう、ということだった。このソヴェト中央執行委員会はソヴェト大会によって選出され、多数の政党の代表者を含むものだった。
 しかし実際は、こうではなかった。
 多くの代議員が驚いたのだが、中央政府の機能は新しい人民委員会議(Council of People's Commissars)が獲得する、と発表された。ソヴェト大会のボルシェヴィキ派全員は、10月26日の大会でボルシェヴィキ党の報道員が読み上げたことによって知った。
 新政府の長はレーニンで、トロツキーは外務人民委員(大臣)だった。//
 ある歴史研究者たちは、ボルシェヴィキの一党支配は意図してではなく歴史的偶然の結果として出現した、と主張してきた。(21)-すなわち、ボルシェヴィキは自分たちだけで権力を奪うつもりはなかった、と。
 しかし、問題にしている意図がレーニンのものだとすれば、この論拠は怪しいように見える。
 そしてまた、レーニンは、党の他の指導者の反対を無視したのだ。
 9月と10月、レーニンは明らかに、複数政党のソヴェトではなくてボルシェヴィキが権力を奪うことを望んでいたと思われる。
 彼は、ソヴェトをカモフラージュとして用いることすら望まず、明確なボルシェヴィキのクーを演じることを選好していただろう。
 確かに、地方では十月革命の直接の結果はソヴェトが権力を掌握した、ということだった。そして、地方のソヴェトはつねにボルシェヴィキが支配していたわけではなかった。
 ボルシェヴィキの十月後のソヴェトに対する態度については異なる諸解釈に開かれているけれども、原理的には、ソヴェトがボルシェヴィキを信頼しているかぎりで地方レベルでソヴェトが権力を行使するのに反対しなかった、と言うのがおそらく公平だろう。
 しかし、この要件を他の政党と競い合う民主主義的選挙と一致させるのは困難だつた。//
 確かにレーニンは新しい中央政府、人民委員会議での連立問題については、全く頑固だった。
 1917年11月、全員がボルシェヴィキの政府からより広い社会主義者の連立へと移行する可能性についてボルシェヴィキ党中央委員会が討議したとき、レーニンは断固としてそれに反対した。異論を受けて若干のボルシェヴィキですら、政府から離れたのだったけれども。
 のちに数人の「左翼エスエル」〔左翼社会革命党、社会革命党左派〕(十月クーを受容したエスエル党の分裂集団の一員たち)が、人民委員会議に加わった。しかし、彼らは、強い党基盤をもたない政治家だった。
 彼らは1918年半ばに政府から除外された。そのとき左翼エスエルは、その最近にドイツと調印された講和条約に反対する暴動を起こしていた。
 ボルシェヴィキは、他政党と連立政府を形成する努力をもはやしなかった。//
 ボルシェヴィキが単独で支配すべきという民衆からの委任(mandate)を得ていたのか、それとも、ボルシェヴィキはそう信じていたのか?
 立憲会議の選挙で(十月のクー以前の予定だったが、1917年11月に実施された)、ボルシェヴィキは民衆による投票数の25パーセントを獲得した。
 これは投票総数の40パーセントを獲得したエスエル党に次ぐ多さだった(クーの問題ではボルシェヴィキを支持した左翼エスエルは、投票リストでは〔エスエル全体と〕区別されなかった)。
 ボルシェヴィキは、より良い結果を期待していた。そしてこれは、投票結果をもっと詳細に検証するならば、おそらく解明できる。(22)
 ボルシェヴィキはペテログラードとモスクワで、そしておそらく都市的ロシア全体では勝利した。
 500万の票をもつ軍隊では別々に計算され、ボシェヴィキは北部および西部の前線とバルト艦隊で絶対多数を獲得した。-ボルシェヴィキが最もよく知る支持者たちであり、ボルシェヴィキが最もよく知られている場所だった。
 南部戦線と黒海艦隊では、ボルシェヴィキはエスエルとウクライナ諸党に敗北した。
 エスエルの全体的な勝利は、農民層の票を村落で獲得したことの結果だった。
 しかし、これに関して一定の不明瞭さはあった。
 農民たちはおそらく単一争点の投票者であり、エスエルとボルシェヴィキの土地に関する基本政策は、ほとんど同じだった。
 しかしながら、エスエルは農民層にははるかによく知られていて、農民はエスエルの伝統的な支持層だった。
 農民がボルシェヴィキの基本政策を知っていたところでは(ふつうは、ボルシェヴィキがより多くの宣伝活動を行った、町、軍駐屯地または鉄道の近くである結果として)、彼らの票は、ボルシェヴィキとエスエルに割れた。//
 にもかかわらず、民主主義的選挙による政治では、敗北は敗北だ。
 ボルシェヴィキは、立憲会議についての選挙が示す見方を採用しなかった。つまり、選挙で勝利できなかったことを理由として権力を手放しはしなかった(そして、会議が招集されて敵だと分かったとき、ボルシェヴィキはそれを素っ気なく解散させた)。
 しかしながら、支配すべきとの委任(mandate)の観点からは、ボルシェヴィキは、自分たちが代表すると主張しているのは民衆全体ではない、と議論することができたし、そう議論した。
 ボルシェヴィキは、労働者階級の名前で権力を奪取した。
 第二回〔全国〕ソヴェト大会と立憲会議の二つの選挙から導き出すことのできる結論は、ボルシェヴィキは、1917年10月から11月にかけて、労働者階級については他のどの党よりも多くの票を獲得した、ということだった。//
 しかし、のちのある時期に、労働者がその支持を撤回することがあれば、いったいどうなるのか?
 プロレタリア-トの意思を代表するというボルシェヴィキの主張は、事実の観察はもとより信念にもとづいている。すなわち、レーニンの見方からすれば、つぎのことは全くあり得ることだ。将来のある時期に労働者プロレタリア-トの意識はボルシェヴィキ党のそれよりも劣っていると分かってしまうが、支配すべきとの党への委任を変更する必要は必ずしもない、ということ。
 おそらくはボルシェヴィキは、このようなことが起きるとは想定していなかった。
 しかし、1917年のボルシェヴィキに対する反対者の多くは想定し、そしてレーニンの党はかりに労働者階級の支持を失っても、権力を放棄することはないだろう、と考えた。
 エンゲルスは、未成熟のままで権力を奪う社会主義政党は、孤立して、抑圧的な独裁制へ向かうこと強いられる可能性があるという警告を発していた。
 明らかにボルシェヴィキの指導者たちは、とくにレーニンは、そうした危険を冒すのを厭わなかった。//
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 (18) Robert V. Daniel, <赤い十月>(New York, 1967), p.82. から引用した。
 (19) 十月革命に関与した大物ボルシェヴィキの行動と意図は、のちに大量に自己に役立つ修正と政治神話の形成を行う主題になった。-公式のスターリニズム的歴史書でのみならず、トロツキーの古典的な<回顧録つき>歴史書である、<ロシア革命の歴史>でも。
 Daniels, <赤い十月>, Ch. 10. を見よ。
 (20) Leon Trotsky, <ロシア革命の歴史>, Max Eastmanによる訳書(Ann Arbor, MI, 1960), ⅲ, Chs. 4~6. 1976
 (21) 例えば、Roy Medvedev, <歴史に判断させよ: スターリニズムの起源と帰結>(1st ed.; New York, 1976), p.381-4. を見よ。
 (22) 以下の分析は、O. Radkey, <ロシアが投票箱に進む-全ロシア立憲会議・1917年>(Ithaca, NY, 1989)にもとづく。
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 第二章の第4節(夏の政治危機)と第5節(十月革命)の試訳が終わり。
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 この著の表紙/左-第4版、右-第3版。
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1808/江崎道朗2017年8月著の無惨⑭。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)のp.38-39が記す「共産主義」に関する説明なるものは、マルクス(・エンゲルス)が言ったものか、レーニンのそれか、それとも「マルクス=レーニン主義」という語の発案者でその正当な継承者だと主張したいらしいスターリンが説いたものか、あるいは日本共産党・不破哲三らが述べているものに依っているのか、分からない。
 何かを参照しながら、<江崎道朗的>理解をしているのだろう。
 しかし、明確なのは、「共産主義」を説明しながら、「歴史の発展法則」への言及も「搾取」という語の使用も(むろん「剰余価値」も)、「階級」や「階級闘争」への言及も、したがってまた<支配者(抑圧・搾取)階級-被支配(被抑圧・被搾取)階級>を区別する語句の使用も、まるでないことだ。「土台(下部構造)」と「上部構造」の別あるいは「生産力」と「生産関係」の矛盾とかの話になると、江崎には関心すら全くないのかもしれない。
 格差の是正、徹底した平等の実現等々というだけでは、江崎道朗のいう「社会民主主義」と、あるいは辻元清美的?「社会主義」といったいどこが違うのか。
 人類の歴史は「階級闘争の歴史」だとマルクスらは書いた(1848年)。
 この全歴史的な展望?の中で江崎道朗は「共産主義」を位置づけているか? おそらくきっと、そうではないだろう。
 それにまた、1919-20年あたりの「コミンテルン」文書を利用して<共産主義>とはどういうものかを説明しようとしているようだ。これは既述のとおり。
 1917年以前にレーニンが語った「共産主義」もあれば、1930年代以降にスターリンが語った「共産主義」もある。
 「コミンテルン」いう一組織の(この当時はレーニン時代の)1919-20年あたりの文書の内容によって、何ゆえに「共産主義」なるものを説明できるというのだろうか?
 江崎道朗が「コミンテルン」と共産主義(者)・ソヴィエト連邦等をほとんど区別していないことは既に何度か記した。無知というものは、恐ろしい。
 その江崎道朗が「コミンテルンの一次資料(の邦訳)」として利用しているのは、つぎだった。これも既述。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)
=Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 しかも既述のとおり、この本全体ではなく、江崎が利用した「付属資料」の部分は計304頁の原書で見るとそのうち計30頁だ(p.220~p.249)。邦訳書では計33頁(p.295~p.327)。
 かつまた、これも既述だが、江崎道朗が参照して上の書物で用いているのは、収載されている計19の資料件数のうちわずかに4件でしかない。つぎのとおり。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつまた、全19件に共通なのだが、これらの一次資料の(邦訳)全文ですらなく、全て「一部抜粋」にすぎない。
 この部分だけではないが(しかし、上の本の中では比重は高い)、こういう邦訳資料を見て、江崎道朗はこう<豪語>した。
 唖然としたので、再記しておく。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 上のたった四つだけで、1930年代以降の、とりわけ<日本の戦争>との関係での「コミンテルン」の役割・方針を理解できるはずはないだろう。とこう書いたが、この部分は江藤に注文を付けても無意味だろうので、削除してもよい。
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 さて、江崎道朗が参照する上掲英語文献末尾の資料部分の邦訳の冒頭には、訳者・萩原直の理解し易くはない注記が小さく書かれている。
 それを読み解くと、つぎのようになる。「抜粋」資料件数は計19。
 A・萩原直自身が原書(念のために言うが、コミンテルン自体の資料文書ではなく上掲英語書籍)から訳出したもの-資料⑨・⑰・⑱。
 B・別の邦訳資料/ディミトロフ・反ファシズム統一戦線(大月、1967)の村田陽一らによる訳文をそのまま借りたもの-資料⑮。
 C・別の邦訳資料/村田陽一訳編・コミンテルン資料集1-6巻(大月、1978-85)の村田陽一の訳文をそのまま借りたもの-上以外、つまり資料①~⑧、⑩~⑭、⑯・⑲。
 これで明らかなのは、江崎道朗が参照している訳文は原書訳者・萩原直ではなく、村田陽一による訳文だということだ(資料①・③~⑤、江崎道朗に言及した部分の上の①~④)。
 しかも、相当に興味深いことも、すぐ上のB・Cについて萩原直は注記している。つぎのとおり。
 「以上の訳文の出典は、本書の著者が示した英語版の出典とは異なる」。p.293。
 これはどういうことか。
 第一に、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニューの上掲英語書籍が付録として掲載する諸資料の英語版の「出典」。
 第二に、村田陽一(ら)が訳出した際の資料の「出典」。
 これらが同じではない、ということだ。
 マクダーマット=アグニューはいずれかの英語資料から抜粋してその書物に掲載したに違いない。一方、村田陽一訳の少なくともコミンテルン資料集1-6巻は、ロシア語原典に依っているだろう。
 この点だけによるのではないが、掲載・収載の仕方としては、後者の方が信頼性が高いものと思われる。
 (なお、レーニン全集類の邦訳者は特定されていないが、村田陽一(本名かどうかも不明)は翻訳者グループの重要な一人ではなかったかと秋月は推測する。そしておそらく、1960年頃は日本共産党員だっただろう。)
 換言すると、マクダーマット=アグニューの選抜・資料選択の出所は100%は信頼できない、ということだ。
 いや、出典は違っても、内容が同一ならばそれでよいかもしれない(もっとも、レーニン全集掲載の同一又は類似の資料とこの英語書籍の資料の内容とが全く同一ではないことは私も確認している)。
 しかし、上のような注記がとくに訳者によって冒頭に記されている以上、その点もふまえて「付録資料」の邦訳も参照するのが、ふつうの、まともな日本語書籍執筆者の姿勢というべきだろう。
 しかるに、その点は公然と?無視して、再度書くが、江崎道朗は、こう言った。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 では、ケヴィン・マクダーマットとジェレミ・アグニューというのはいったい、どのような人物なのか。
 ようやく、1ヶ月以上も前にここで書いておきたかったことに到達したようだ。

1807/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑦。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第7回。
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 第二章/第2節・ボルシェヴィキ。
 二月革命のとき、事実上全てのボルシェヴィキ指導者は、外国に亡命しているかロシア帝国の遠い地方に追放されていた。ボルシェヴィキがロシアの参戦に反対しただけではなくてロシアの敗北が革命のために利益になると主張したたために、一まとめになって拘束されたのだ。
 スターリンやモロトフを含むシベリアに追放されたボルシェヴィキ指導者は、中では最初に首都に戻った。
 しかし、ヨーロッパに亡命していた指導者たちが帰るのははるかに困難な状況にあった。何しろ、ヨーロッパは戦争中だったからだ。
 バルト地域を経て帰還するのは危険で、連盟諸国の協力を必要とした。一方で、陸上のルートは敵国の領土内を走っていた。
 にもかかわらず、レーニンとエミグレ社会の他の者たちは、切実に戻りたかった。
 そして、仲介者によって行われた交渉の後で、ドイツ政府は彼らに封印列車でドイツを縦断する機会を与えた。
 戦争に反対しているロシアの革命家たちをロシアに帰還させるのは、明らかにドイツの利益だった。しかし、政治的に妥協する危険を冒して帰ってよいのかと革命家たちは慎重に衡量しなければならなかった。
 レーニンは、主としてボルシェヴィキのエミグレの一団とともに、危険を冒すことを決断し、3月末頃に出発した。
 (スイスにいたロシア革命家たちのより多数のグループは、ほとんど全てのメンシェヴィキを含んでいたが、慎重に考えて待つことに決めた。-これは、レーニンの旅が引き起こした論争と責任追及を全て回避できたので、賢明な行動だった。
 このグループは、一ヶ月のちに、ドイツとの同様の取り決めによって、第二の封印列車でつづいた。)//
 4月初めにレーニンがペテログラードに戻る前に、シベリアに追放されていた者たちはすでにボルシェヴィキ組織を再建し、新聞を発行し始めていた。
 この時点で、他の社会主義者グループのようにボルシェヴィキは、ペテログラード・ソヴェトの周囲にある緩やかな連携の中で漂っている徴候を示していた。
 しかし、ソヴェトのメンシェヴィキとエスエルの指導者たちはレーニンが悶着の種だったことを忘れておらず、憂慮しつつレーニンの到着を待った。
 それは正当なことだったと分かることなる。
 4月3日、レーニンがペテログラードのフィンランド駅で列車から降りたとき、彼はソヴェトの歓迎委員会に素っ気なく反応し、群衆に向かって反対者を不快にする耳障りな声で若干の言葉を発した。そして突然に離れて、ボルシェヴィキ党の仲間たちとの私的な祝宴と会合に向かった。
 レーニンは明らかに、かつての党派的な習癖を失っていなかった。
 かつての政治的対立者を革命の勝利という栄光の仲間だと受け容れる、この数ヶ月にはしばしばあった愉快な感情の一つの徴候も、彼は示さなかった。//
 歴史上四月テーゼとして知られる、政治情勢に関するレーニンの評価は、戦闘的で、非妥協的で、明らかにペテログラードのボルシェヴィキたちを不安にさせるものだった。彼らは、躊躇しつつも社会主義の一体性というソヴェトの基本方針を受容し、新政府を批判的に支持する立場にいた。
 二月に達成したことを承認すべく立ち止まることをほとんどしないで、レーニンはすでに、革命の第二の段階、プロレタリア-トによるブルジョアジーの打倒、を目指していた。
 レーニンは、臨時政府を支持してはならない、と述べた。
 団結という社会主義者の幻想や新体制への大衆の「無邪気な信頼」を、破壊しなければならない。
 ブルジョアの影響力に屈服している現在のソヴェト指導部は、使い物にならない(ある演説でレーニンは、ローザ・ルクセンブルクによるドイツ社会民主党の戯画化を借用して、ソヴェト指導部を「腐臭を放つ死体」だと呼んだ)。//
 にもかかわらずレーニンは、ソヴェトは-再活性化した革命的指導部のもとで-ブルジョアジーからプロレタリア-トへの権力の移行にとってきわめて重要な組織になるだろうと予見した。
 レーニンの四月テーゼのスローガンの一つである「全ての権力をソヴェトへ!」は、実際には、階級戦争の呼びかけだった。
 「平和、土地、パン」は四月の別のスローガンだったが、同様に革命的な意味合いがあった。
 レーニンの言う「平和」は、帝国主義戦争から撤退することだけではなくて、その撤退は「資本主義の打倒なくしては…<不可能>だ」と認識することをも意味した。
 「土地」は、土地所有者の資産を没収し、農民が自分たちにそれを再配分することを意味した。-農民の随意による土地取得にきわめて近いものだった。
 「革命的民主主義のど真ん中で内戦の旗を掲げている」というレーニンに対する批判が生じたのは、不思議ではなかった。(10)//
 レーニンの見方と指導性を尊重してきたボルシェヴィキは、彼の四月テーゼに衝撃を受けた。ある者は、レーニンは国外にいる間にロシアの生活の現実に関する感覚を失ったのではないかと考えた。
 しかし、レーニンの訓戒と叱責を受けて数ヶ月のうちに、ボルシェヴィキは社会主義者の連立から離脱するという、より非妥協的な立場へと移行した。
 しかしながら、ボルシェヴィキなくしてもペテログラード・ソヴェトの多数派は形成されていたので、「全ての権力をソヴェトへ!」というレーニンのスローガンはボルシェヴィキに実践的な行動指針を与えはしなかった。
 レーニンの戦略は秀れた政治家のそれだったのか、それとも偏頗な過激主義者-古い社会主義者のプレハノフの左翼側の対応者-のそれだったかは、未解明の問題であるままだ。プレハノフは、戦争問題に関する留保なき愛国主義のために、ロシアの社会主義者政治家の主流から外された。//
 かつての偏狭な不一致を抑えることを誇りとする、ソヴェトに関係するたいていの政治家には、社会主義者の一体性の必要は自明のことだと思われた。 
 6月、ソヴェトの第一回全国大会の際、ある発言者が否定の返答を想定して修辞的に、いずれかの政党に単独で権力の責任を負う用意があるだろうかと問うたとき、レーニンは「その政党はある!」と言って遮った。
 しかし、ほとんどの大会代議員にとって、それは真面目な挑戦ではなく虚勢のように聞こえた。
 しかしながら、、ボルシェヴィキは民衆の支持を得つつあり、連立する社会主義者は失いつつあったので、真面目な挑戦の言葉だった。//
 6月のソヴィエト大会の際にはボルシェヴィキはまだ少数派で、大都市での選挙でさらに勝利しなければならなかった。
 しかし、ボルシェヴィキの強さが大きくなっていることはすでに草の根レベルで-労働者の工場委員会、軍隊内の兵士・海兵委員会および大きな町の地方的地区ソヴェトで-明白だった。
 ボルシェヴィキの党員数も、劇的に増加していた。党は大衆的に入党させる運動をする正式の決定をしておらず、多数の流入にほとんど驚いたように見えたけれども。
 党員の数は、確実なものではなくておそらく実際よりも誇張されてはいるが、その拡大をある程度は示している。すなわち、二月革命のときのボルシェヴィキ党員は2万4000人(この数字は、ペテログラードの党組織は2月には実際には約2000人だと識別しており、モスクワの組織は同じく600人なので、とくに疑わしい)、4月の終わり頃に10万人以上、そして1917年十月には総計で35万人だった。これには、ペテログラードおよびその近郊地方の6万人、モスクワおよびそこに近い中央工業地域での7万人が含まれる。(11)
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 (10) V. I. レーニン, 全集(Moscow, 1964)24巻p.21-26。レーニンが引用する批判者は、Goldenberg。
 (11) 党員の数字に関する注意を払った分析として、T. H. Rigby, <ソヴェト同盟の共産党員-1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), Ch. 1.を見よ。
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 第3節・民衆の革命。
 1917年の初頭に、軍には700万の男たちがおり、200万人の予備兵もいた。
 軍隊は多大な損失を被り、脱走率の増大や前線でのドイツ人との交流への反応から見て戦争疲れのあることは明確だった。
 兵士たちから見て二月革命とは戦争がまもなく終わるという暗黙の約束で、彼らは臨時政府が-主導しなくともペテログラード・ソヴェトの圧力によって-それを実現するのを辛抱強く待った。
 1917年の早春に、選出された委員会という新しい民主主義的構造をもち、不十分な供給という昔からの問題を抱え、そして不安で不確実な雰囲気のあった軍は、せいぜいのところ、有効性の疑わしい戦闘部隊だった。
 前線では、志気が完全に喪失していたというわけではなかった。
 しかし、予備兵団が駐留している、国の周囲の守備軍団の状況は、かなり険悪なものだった。//
 1917年のロシアの兵士と海兵たちは、伝統的に、制服を脱いだ場合の職業を無視して、「プロレタリア-ト」に分類されてきた。
 実際には入隊している者たちのたいていは、農民だった。バルト艦隊や北部および西部の前線の部隊では、彼らが入隊した地域が比較的に工業化されていたために、不均衡に労働者が多かったけれども。
 マルクス主義の概念上は、軍隊の兵士たちは現在の仕事を理由としてプロレタリア-トだということは、議論の余地がある。しかし、より重要なのは、この問題は明らかに、彼らはどのように自分たち自身のことを意識していたのか、だ。
 Wilderman の研究が示すように (12) 、1917年春に前線にいた兵士たちは-革命と新しい行動規範を受け入れる将校たちと協力する心づもりがあったときですら-、将校と臨時政府は一つの階級、「ご主人」の階層に属していると考え、自分たちの利益は労働者やペテログラード・ソヴェトのそれと一体のものだとみなしていた。
 5月までに、最高司令官が警戒して報告したように、将校と兵士たちの間の「階級対立」が軍の愛国的連帯精神の中に深く浸入していた。//
 ペテログラードの労働者は2月に、革命的精神をすでに力強く示した。「ブルジョア」的臨時政府の設立に抵抗するほどに十分に戦闘的で、その心理的な用意があったわけではなかったけれども。
 二月革命後の最初の数ヶ月、ペテログラードその他で表明された不満は経済的なもので、一日八時間労働(戦時という非常時を根拠にして臨時政府はこれを拒否した)、賃金、超過勤務、および失業に対する保護のような日常的問題に焦点を合わせていた。(13)
 しかし、ロシア労働者階級にある政治的戦闘性の伝統からして、この状態がつづいていく保証はなかった。
 戦争が労働者の構成を変えたというのは本当のことだ。労働者の全体数がいくぶんは増大したのはもちろんだが、女性の割合も大きく増えた。
 女性労働者は男性よりも革命的ではないと、通常は考えられてきた。
 だが、国際女性日でのストライキが二月革命のきっかけになったのは、女性労働者だつた。また、前線に夫をもつ女性労働者たちは、戦争の継続に反対する傾向がとくに強かった。
 ペテログラードは、熟練技術をもつ男性労働者が徴兵義務を免除された軍需産業の中心地として、戦前からの男性労働者階級のうちの比較的に大きな割合を、工場に雇用していた。 
 戦争初期のボルシェヴィキの摘発にもかかわらず、また、その後の、工場にいる多数の政治的問題者の逮捕や軍事召集にかかわらず、ペテログラードの大きな冶金や防衛の工業施設は、ボルシェヴィキや他の革命的諸政党に所属する、驚くべきほどに多くの労働者を雇用し続けていた。戦争勃発の後でウクライナやその他の帝国部分から首都にやって来た、ボルシェヴィキの職業的な革命家をもすら。
 他の革命的労働者たちは、二月革命後に工場に戻った。そのことは、さらなる政治不安の潜在的可能性を増大させていた。//
 二月革命は、ロシアの工業中心部全てに、とくにペテログラードとモスクワに、労働者の力強い陣容を生み出した。
 労働者ソヴェトはペテログラード・ソヴェトのような都市レベルだけではなく、より下位の都市的地域でも設立された。後者では、指導部が社会主義的知識人ではなくて、通常は労働者自身で成っており、その雰囲気はしばしばより急進的だった。
 新しい労働組合も、結成された。そして、労働者たちは、工業施設レベルで、経営にかかわるべく工場委員会を設立し始めた(これは労働組合組織の一部ではなく、ときには地方の労働組合支部と共存した)。
 最も草の根に近い工場委員会は、全ての労働者組織の中で最も急進的になる傾向にあった。
 ペテログラードの工場委員会では、ボルシェヴィキが1917年5月までに、支配的地位を獲得した。//
 工場委員会の元来の機能は、資本家による工業施設の経営に対する労働者のための監視者(watchdogs)であることだった。
 この機能を表現するために使われた言葉は「労働者による統制(control)」(rabochii kontrol)で、経営上の意味での統制(支配)ではなくて監視(supervision)を含意させていた。
 しかし、工場委員会は実際には、しばしばさらに進んで、経営上の機能も奪い取り始めた。
 ときには、これは雇用や解雇の統御をめぐる紛争にかかわった。あるいは、いくつかの工業施設で労働者が人気のない作業長や幹部を手押し車に押し込んだり、川に投げ込んだりするに至る一種の階級対立の産物になった。
 別の例で言うと、工場委員会は、所有者または経営者が金がかかるとの理由で工業施設を放棄したり、閉鎖すると脅かしたときに、労働者を失業から守るために事業を引き継いだ。
 このような事例がより一般的になってくるにつれて、「労働者による統制」の意味は、労働者による自己経営のようなものに接近してきた。//
 労働者の政治的雰囲気がより戦闘的になり、ボルシェヴィキが工場委員会での影響力を獲得するにつれて、このような変化が生じた。
 戦闘性とは、ブルジョアジーに対する敵意と労働者の革命における優越性を意味した。変化した「労働者による統制」の意味が、労働者は彼らの工業施設の主人であるべきだというのと全く同じように。こうして、「ソヴェトの権力」とは労働者は地区、都市およびおそらくは国家全体の単一の主人であるへきだということを意味するという考えが、労働者階級に出現してきた。
 これは政治理論としては、ボルシェヴィズムよりもアナキズムやアナクロ・サンディカリズムに近いものだった。そして、ボルシェヴィキの指導者たちが、工場委員会やソヴェトを通じての労働者による直接民主主義は党が指導する「プロレタリア-トの独裁」という彼ら自身の考え方に至るあり得るまたは望ましい選択肢の一つだという見方に、実際に賛同したのではなかった。
 にもかかわらず、ボルシェヴィキは現実主義者だった。そして、1917年夏の政治的現実はその党が工場委員会の強い支持を得ているということであり、彼らはその支持を失うのを欲しはしなかった。
 その結果として、ボルシェヴィキは、何を意味させるのかを厳密には定義しないままで、「労働者による統制」を擁護した。//
 使用者たちは、大きくなる労働者階級の戦闘性に対して警告を発した。多くの工業施設が閉鎖され、ある著名な実業家は用心深く、「飢えて痩せた手」は最後には都市労働者が秩序を回復する手段になるかもしれない、という意見を表明した。
 しかし、田園地域では、土地所有者の農民層に対する警戒と恐怖の方がはるかに強かった。
 二月のときに村落は平穏で、若い農民の多くは、兵役へと徴用されていたためにいなかった。
 しかし、5月までに、明らかに田園地域は、都市革命に反応して1905年にそうだったように、騒乱に陥った。
 1905-6年でのように、地主の邸宅は略奪されて燃やされた。
 加えて、農民たちは私有地や国有地を自分たちが使うために奪取していた。
 夏の間、騒擾が多くなったときに、多数の土地所有者が資産を放棄して田園地域から離散した。//
 ニコライ二世は、1905-6年反乱の後でも、地方の役人や土地所有貴族の意見がどうであれロシアの農民はツァーリを敬愛しているという考えに縋りついていた。しかし、多数の農民は君主制の崩壊と二月革命の報せに、それと全く異なる反応をした。
 農民ロシア全体で、新しい革命は貴族たちのかつての不当な土地に関する権限を破棄したことを意味する-または意味させるべきだ-と想定されていたように見える。
 土地は耕作する者に帰属すべきだと、農民たちは春に、臨時政府に対する夥しい請願書で書いた。(14)
その具体的言葉で農民たちが意図したのは、農奴のごとく貴族のために耕作してきた、そして農奴解放の取り決めによって土地所有貴族が保有している土地を自分たちが取得すべきだ、ということだった。
 (この土地の多くは当時には土地所有者から農民に賃貸されていた。別の事例では、雇用労働者として地方の農民を使って、土地所有者が耕作していた。)//
 農民たちが半世紀以上前の農奴制時代に溯る土地に関する考え方を抱いていたとすれば、ストリュイピンが第一次大戦前に実施した農業改革が農民の意識にほとんど影響を与えなかったというのは、何ら驚くべきことではない。
 まだなお、1917年に、農民の<ミール>が明らかに活力を有していることは、多くの人々には衝撃だった。
 マルクス主義者たちは1880年代以降、<ミール>は基本的には内部的に解体しており、国家がそれを有用な装置だと考えただけの理由で存続している、と主張してきた。
 紙の上では、ストリュイピンの改革の効果によって欧州ロシアの村落の相当程度に高い割合で<ミール>は解体することになっていた。
 だが、それにもかかわらず、<ミール>は明らかに、1917年の農民の土地に関する思考における基本的な要素だった。
 請願書で彼らは、貴族たち、国家および教会が保有している土地の平等な再配分を求めた。-つまり、<ミール>が村落の田畑に関して伝統的に行ってきた村落世帯間での平等な再配置と同じ種類のものを。
 1917年夏に非合法の土地略奪が大規模で始まったとき、その略奪は個々の農民世帯のためではなくて村落共同体のために行われた。そして、一般的な態様は、かつての土地を伝統的に分割してきたように<ミール>がすみやかに村民へと新しい土地を分割する、というものだった。
 さらに加えて、しばしば<ミール>は、かつての構成員に対するその権能を、1917-18年にあらためて主張した。すなわち、戦前に<ミール>に自立小農民として身を立てる力を残したストリュイピンの「分割者」は、多くの場合は彼らの保有物をもう一度、村落の共有地に戻して、それと一体となるように強いられた。//
 土地問題の深刻さや1917年春以降の土地奪取に関する報告にもかかわらず、臨時政府は、土地改革の問題を先送りにした。
 リベラルたちは、原理的には私有地の収奪に反対ではなかった。そして、一般的には農民の要求は正当なものだと考えていたように見える。
 しかし、いかなる急進的な土地改革も、明らかに重大な問題を惹起させただろう。
 第一に、政府は、土地の収奪と譲渡のための複雑な公職機構を設定しなければならなかっただろう。それはほとんど確実に、当時の行政上の能力を超えるものだった。
 第二に、政府は、たいていのリベラルたちが必要だと考えていた土地所有者に対する多額の補償金を何とかしでも支払うことはできなかっただろう。
 臨時政府の結論は、立憲会議が適正に解決するまで、問題を棚上げするのが最善だ、というものだった。
 その間に、政府は農民に対して(ほとんど役に立たなかったけれども)、かりにでも一方的に制裁することはない、と通告した。//
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 (12) Wilderman, <ロシア帝国軍隊の終焉>。1917年2月-4月の軍というその中心主題に加えて、この書物は、二月の権力移行に関する利用可能な最良の分析の一つを提供している。
 (13) Marc Ferro, <1917年2月のロシア革命>, J. L. Richards 訳(London, 1972), p.112-121.
 (14) 多様な民衆の反応について、Mark D. Steinberg, <革命の声-1917年>(New Haven & London, 2001)にある資料文書を見よ。
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 第二章(二月と十月の革命)のうち第2節(ボルシェヴィキ)と第3節(民衆の革命)の試訳が終わり。

1806/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑥。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第6回。
 注記-the (a) Constituent Assembly は「憲法制定会議(-議会)」とするのが<定訳>のようでもあるが、ここでは「立憲会議」という語で訳出する。予定されていた会議(集会)は「憲法」制定を目的にしたものではなく(正確には「国制」の基本的あり方を決定するためのものであり)、ボルシェヴィキを含む各政党・党派が各党独自の「憲法草案」を用意して競った、というものでは全くないからだ。
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 第二章・二月と十月の革命。
 (はじめに)

 1917年2月、民衆の集団示威行進と体制への支持の撤退を見て、専制体制は崩壊した。
 革命の高揚感からして、政治的解決の方策は簡単であるように見えた。
 ロシアの将来の統治形態は、もちろん民主政的(democratic)だっただろう。
 この曖昧な言葉とロシアの新しい国制(constitution)の性格の正確な意味は、情勢が許すかぎりですみやかにロシア民衆が選出する立憲会議(the Constituent Assembly)が決定するだろう。
 それまでの間は、エリートの革命と民衆の革命とが共存するだろう。1905年の国民の革命的連帯という栄光の日々にそうだったように。-前者の範疇にはリベラル政治家たち、有資産階層と専門家階層、および上級官僚層が入り、後者の範疇には、社会主義政治家たち、都市的労働者階級および兵士や海兵という軍人たちが入る。
 制度の観点から言うと、新しい臨時政府(Provisional Government)はエリート革命を代表し、新たに再生したペテログラード・ソヴェトは民衆の革命を代弁するだろう。
 これら二つの関係は、競争的ではなくて補完し合うものだろう。そして、「二重権力」(dual power)(この語は臨時政府とソヴェトの共存を示すために使われた)は、弱さではなくて強さの淵源になるだろう。
 ロシアのリベラルたちは結局のところ、社会主義者たちを同盟者だと見なす傾向に伝統的にあった。社会主義者たちの社会改革への特別の関心は、政治的民主主義化というリベラルたち自身の特別の関心と類似していて、併存可能だったのだ。
 同じように、ロシアのたいていの社会主義者には、リベラルたちを同盟者だと見なす心づもりがあった。リベラルたちは、ブルジョア的でリベラルな革命が政治課題の第一段階で、社会主義者は専制体制に反対する闘いでそれを支援せざるを得ないという、マルクス主義の考え方を受容していたのだから。//
 だが8ヶ月以内に、二月の希望と期待は、朽ち果てた。
 「二重権力」は、権力の真空を覆い隠す幻想だと分かった。
 民衆革命は、徐々に過激になっていった。一方でエリート革命は、財産、法と秩序を守ろうとする不安気で保守的な立場の方向へと動いた。
 臨時政府は、将軍コルニロフ(Kornilov)による右からのクーの試みを辛うじて生き延び、10月のボルシェヴィキによる左からの成功したク-には屈服した。後者は一般的には、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンを連想させた。
 長く待った立憲会議は召集されたが、1918年1月にボルシェヴィキが無作法に解散させたので、何ごとも達成されなかった。
 ロシアの周縁部では、旧帝制軍の将校たちがボルシェヴィキと闘う勢力を集結させていた。ある範囲の者たちは、1917年に永遠に消失したと思われた君主制の旗のもとにいた。
 革命は、リベラルな民主政体をロシアに生み出さなかった。
 その代わりに、アナーキー〔無政府状態〕と内戦とをもたらした。//
 民主主義の二月から赤い十月への一気の推移は、勝者と敗者のいずれをも驚かせた。
 ロシアのリベラルたちには、衝撃は巨大だった(traumatic)。
 革命がついに起きた-<彼らの>革命は、西側ヨーロッパの歴史が明確に例証し、正当に思考するマルクス主義者すら同意するように正しいはずのものだった。しかしその革命は、彼らの手中から、邪悪で理解し難い勢力が奪い去っていっただけだった。
 メンシェヴィキとその他の非マルクス主義者たちは、同様にひどく憤慨した。すなわち、プロレタリア-トの社会主義革命には、時機がまだ成熟していない。マルクス主義政党がルールを破って権力を奪取するなどとは、釈明することができないことだ。
 ヨーロッパでの戦争の仲間である連盟諸国は、突然の政府崩壊に呆然として新政府の承認を拒絶した。このことは、ロシアを戦争から一方的に閉め出す用意をすることだった。
 外交官たちは、ロシアの新しい支配者の名前すらほとんど知らなかった。しかし、最悪のことの発生を疑い、彼らが2月に歓迎した民主政の希望がすみやかに復活するようにと祈った。
 西側の新聞の読者は、文明化から無神論の共産主義(Communism)という野蛮な深みへとロシアが崩落したことを、恐怖とともに知った。//
 十月革命が残した傷痕は深かった。そしてそのことは、ボルシェヴィキの勝利に続いた内戦の間または直後に国外逃亡した多数の教養あるロシア人によって、外部世界にもより痛ましくかつより理解できるようになった。
 エミグレたちにとって、ボルシェヴィキ革命はギリシャの意味での悲劇だというよりもむしろ、予期していない、不当で、本質的には不公正な災難だった。
 西側の、とくにアメリカの世論にとって、ロシアの民衆はそのために長く高潔に闘ってきたリベラルな民主主義に欺されたように思えた。
 ボルシェヴィキの勝利を説明することのできる陰謀論が、広い範囲で信憑性を獲得した。
 そのうち最も知られているのは、国際的なユダヤ人による陰謀だとの説だった。トロツキー、ジノヴィエフおよび多くの他のボルシェヴィキ指導者はユダヤ人だったのだから。
 だが、Solzhenitsyn の<チューリヒのレーニン>が蘇らせた別の論は、ボルシェヴィキはドイツの人質だったと描き、ドイツは〔ボルシェヴィキを使って〕ロシアを戦争から追い出す策略に成功した、とする。
 もちろん歴史研究者は、陰謀論には懐疑的な傾向にある。
 しかし、このような議論が盛んになることを可能にした感じ方は、この問題に対する西側の学問的接近方法にも影響を与えた。
 ほんの最近まで、ボルシェヴィキ革命に関する歴史的説明は、何らかの方法でその非正統性を強調した。まるで、事件とその結末について、ロシアの民衆をいかなる責任からも免れさせようとしているかのごとく。//
 ボルシェヴィキの勝利とその後のソヴィエト権力の展開に関する西側の古典的解釈によると、<問題解決の神>(deus ex machina)は、党の組織と紀律という、ボルシェヴィキの秘密兵器だった。
 レーニンの小冊子<何をなすべきか>(上述、p.32参照)は非合法の陰謀的政党が成功するための組織に関する必要条件を述べたもので、基本的なテキストとしてつねに引用された。
 そして、<何をなすべきか>が示した考え方は成長期のボルシェヴィキ党の型を形成し、1917年2月の地下からの最終的な出現の後ですらボルシェヴィキの行動を決定し続けた、と主張された。
 ロシアでの二月以降の開かれた民主主義的な多元主義的政治は、それゆえに弱体化し、陰謀組織による十月のクーによるボルシェヴィキの非合法の権力奪取でもって頂点に達したのだ、と。
 中央志向の組織と厳格な党紀律というボルシェヴィキの伝統によって、新しいソヴィエト体制は抑圧的な権威主義の方向へと向かい、のちのスターリンの全体主義的独裁制の基礎を設定した、と。(1)
 だが、ソヴィエト全体主義の起源というこの一般的な考えを1917年の二月と十月の間に展開した特有の歴史的状況へと適用するのは、つねに問題があった。
 第一に、かつての秘密結社的ボルシェヴィキ党には新しい党員が大量に流入した。とくに工場や軍隊からの新規加入は、他の全ての政党を凌駕していた。
 1917年の半ばまでに、ボルシェヴィキ党は開かれた大衆政党になっていて、<何をなすべきか>で叙述された一日中を働く革命家たちの紀律あるエリート組織とはほとんど似ていなかったのではないか?
 第二に、党全体も党指導者も、1917年の最も基本的な政策問題に関して一致していなかった。
 例えば10月に、蜂起が望ましいか否かに関して党指導者内部に大きな不一致があったために、その論点についてボルシェヴィキは、日刊新聞上で公的に議論した。//
 1917年のボルシェヴィキの力強さは厳格な組織と規律にあるのではなく(当時はほとんど存在しなかった)、政治の射程での極左に位置する頑強な急進主義だった、と言えるかもしれない。
 他の社会主義やリベラルのグループは、臨時政府やペテログラード・ソヴィエト内での地位を求めて競い合った。一方でボルシェヴィキは、選任されるのを拒み、連立と妥協の政策を非難した。
 従前は急進的だった他の政治家は節度と責任を、そして政治家らしい指導力を求めた一方で、ボルシェヴィキは、責任がなくかつ戦闘的な革命的群衆とともに街頭に出ていた。
 「二重権力」構造が解体し、臨時政府とペテログラード・ソヴェト指導層に代表される連立諸党派への信頼が失墜したとき、ボルシェヴィキだけが利益を得る立場にあった。
 社会主義諸政党の中で、ボルシェヴィキだけがマルクス主義者としての良心の咎め(scruples)を抑制し、群衆の空気を掴み、プロレタリア革命の名のもとで権力を奪取する気概があることを宣言した。//
 臨時政府とペテログラード・ソヴェトの「二重権力」関係は、階級の観点から、ブルジョアジーとプロレタリア-トの間の同盟だとつねに考えられてきた。
 それの存続は、これら両階級やそれらを代表すると主張する政治家たちの間の継続的な協力関係に依存していた。
 しかし、二月の脆弱な合意は、1917年夏までには深刻なほどに掘り崩されていた。
 都市社会が法・秩序の右派と革命的左派にますます分極化していったとき、民主主義的連立という中間的な基盤は、粉々になり始めた。
 7月、労働者、兵士および海兵はペテログラードの街頭に出現して、ソヴェトが労働者階級の名前で権力を奪取することを主張し、臨時政府の「10人の資本主義大臣」を非難した。
 8月、コルニロフ将軍のクーが失敗した月、指導的な実業家はリベラル派に対して、自分たちの階級利益を守るためにもっと断固であれと、つぎのように迫った。
 『我々は…、現在の革命はブルジョア革命であり、現に存在しているブルジョア秩序は不可避だ、と言うべきだ。そして、不可避であるがゆえに、完璧に論理的な結論を導出しなければならず、国家を支配する者はブルジョア的様式で思考し、ブルジョア的様式で行動しなければならない。』(2)
 「二重権力」は立憲会議が招集されるまでの暫定的な仕組みだと考えられていた。
 しかし、左派と右派からの攻撃を受けてそれが解体し、ロシアの政治がいっそう分極化したことは、1917年半ば頃、現時点に関してはもちろんのこととして将来に関する憂慮すべき問題を生じさせた。
 ロシアの政治的諸問題は民衆により選出される立憲会議と西側モデルによる議会制民主主義の形式的な制度化によって解決することができる、という望みは、まだ合理的だったのか?
 立憲会議による解決は、暫定的な「二重権力」のように、ある程度の政治的な一般的合意と妥協が必要であることについての了解を必要とした。
 合意と妥協に至る、気づかれていた代替選択肢は、独裁制や内戦だった。
 しかしながら、これらの代替案は、政府の手綱を放り捨てた、動揺して鋭く分極化した社会によって選択されそうに見えた。//
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 (1) この議論に関する批判的な歴史編集的考察として、Stephen F. Cohen, <ボルシェヴィズムとスターリニズム>, in: Robert C. Tucker, ed., <スターリニズム>(New York, 1977)を見よ。
 (2) W. Rosenberg, <ロシア革命におけるリベラル派>(Prinston, NJ, 1974)p.209 から引用した。
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 第1節・二月革命と「二重権力」。
 2月の最終週、食糧不足、ストライキ、ロックアウト、そして最後にヴィボルク地区での女性労働者による国際女性日記念の集団示威行進が、群衆をペテログラードの街頭へと送り込んだ。これを当局は、解散させることができなかった。
 会期の最後に達していた第四ドゥーマは皇帝に対して、責任ある内閣の再度の設置と危機存続中の会期延長とを懇願した。
 いずれの要望も、拒否された。
 しかし、カデット党内リベラル派および進歩派が支配していたドゥーマの無権限の委員会は、実際は開会中のままだった。
 皇帝の閣僚たちは最後の、何も決定しない会合を開き、そして逃げ去った。彼らのうちの用心深い者は、即時に首都を離れた。
 ニコライ二世自身は出席しておらず、モギレフ(Mogilev)にある軍最高司令部を訪れていた。
 危機に対する彼の反応は、騒擾はただちに終焉させるべしという、電報でのわずかな言葉による指示だった。
 しかし、警察は解体しつつあり、ペテログラード守備軍から群衆を統制すべく市内に派遣された兵士たちは、群衆に同調し始めた。
 ペテログラードの軍司令官は、革命的群衆が全鉄道駅、全銃砲施設、そして知る限りで市の全体を奪い取った、と報告しなければならなかった。
 彼の指示を受け入れる信頼できる兵団はほとんど残っていなかった。そして、彼の電話ですら作動しなくなっていた。//
 軍の最高司令部には、二つの選択肢があった。一つは新しい兵団を送り込むことだが、彼らは結束するかもしれないけれども、そうしない可能性もあった。もう一つは、ドゥーマの政治家の助けを借りて政治的解決を追求することだった。
 軍最高司令部は、後者を選択した。
 モギレフからの帰路にあったプスコフ(Pskov)で、ニコライの列車に最高司令部とドゥーマからの使者がやって来た。彼らはニコライに恭しく、皇帝位を放棄するように示唆した。
 若干の議論のあとで、ニコライは穏やかに同意した。
 しかし、最初は彼の子息へと譲位するという提案を受け容れたのだったが、皇太子アレクセイの健康をもう一度考えて、自分と子息のために退位するのではなく、弟のミハエル大公に譲位すると決断した。
 つねに家庭的だったニコライは、驚くべき平穏さをもって、また自分の私人としての将来に関する政治的無邪気さをもって残りの旅を過ごした。//
 『〔対ドイツ戦争という〕対立が続いている間は外国へ行こう、そしてロシアに戻り、クリミアに定住して、子息の教育に完全に没頭したい、と彼は言った。
 彼に対する助言者のある者は、彼はそうするのを許されるだろうかと疑った。しかし、ニコライは、子どもの世話をする権利を否定する親はどこにもいない、と答えた。』(3)//
(ニコライは首都に到着したあと、家族と一緒になるためにペテログラードの外に送られた。そのあと、臨時政府と連盟諸国が彼の処遇を決めようとしている間は、軟禁状態で静かにしていた。
 のちに家族全員がシベリアに、ついでウラルに送られた。まだ軟禁状態で、かつ状況はますます困難になっていたが、ニコライは強い精神力でそれに耐えた。
 1918年7月、内戦開始のあとで、ニコライとその家族は、ボルシェヴィキのウラル・ソヴェトの指令にもとづいて処刑された。(4)
 退位からその死のときまで、ニコライは実際に私人として振る舞い、積極的な政治的役割はいっさい果たさなかった。)
 ニコライの退位につづく日々、ペテログラードの政治家たちは、高度に興奮し熱狂的に行動する状態だった。
 彼らの元来の意図は、君主制ではなくてニコライを取り去ることにあった。
 しかし、ニコライのその子息への譲位は、アレクセイが未成年の間の摂政政治の可能性をも奪い取った。
 そして、賢明な人物のミハエル大公は、兄を嗣ぐという誘いに乗り気ではなかった。
 したがって、ロシアは事実上もはや君主制国ではなかった。//
 国家の将来の統治形態はいずれ開催される立憲会議(a Constituent Assembly)で決定される、それまでの間は自己任命の「臨時政府」が従来の帝国閣僚会議の責任を引き継ぐ、と決定された。
 ゼムストヴォ連盟の長で穏健なリベラルのルヴォフ(Georgii Lvov)公が新政府の長になった。
 彼の内閣には、歴史学者でカデット党の理論家のミリュコフ(Pavel Milyukov)が外務大臣として、二人の著名な実業家が財務大臣および通商産業大臣として、社会主義者の法律家であるケレンスキー(Aleksandr Kerensky)が司法大臣として入った。//
 臨時政府には選挙による委任(mandate)がなく、その権威は、今は消滅したドゥーマ、軍最高司令部の同意およびゼムストヴォ連盟や戦時産業委員会のような公共的組織との非公式の合意に由来した。
 旧帝制の官僚機構はその執行的機能を提供したが、先立つドゥーマの解体の結果として、臨時政府にはそれを支える立法機関がなかった。
 脆弱でありかつ形式上の正統性が欠けていても、新政府が権力を掌握することはきわめて容易であると思われた。
 連盟諸国はただちに、それを承認した。
 ロシアで一夜にして君主主義感情が消滅したように見えた。第十軍の全体と二人の将校だけが、臨時政府に忠誠を誓うことを拒否したのだ。
 リベラルのある政治家は、のちにこう振り返った。//
 『多くの個人や組織は、新権力への忠誠を表現した。
 Stavka〔軍司令部〕は全体として、それに続いて全ての司令官たちも、臨時政府を承認した。
 帝制期の大臣たちや副大臣の何人かは、収監された。しかし、その他の官僚たちはそれぞれの職にとどまった。
 各省、役所、銀行、実際にはロシアの政治機構の全体が、作動するのを止めなかった。
 この点では〔二月の〕クー・デタは順調に過ぎ去ったので、その当時ですら、これは終わりではない、こんな危機がこれほど平和裡に過ぎ去ることはありえない、という漠然とした胸騒ぎを覚えたほどだった。』(5)//
 実際、まさに最初から、権力移行の有効性を疑うことのできる理由はあった。
 最も重要なのは、臨時政府には競争相手があった、ということだ。すなわち、二月革命は、全国的な役割を主張する、一つではなく二つの自己形成的権威を生んだ。
 第二のものはペテログラード・ソヴェトで、労働者、兵士および社会主義政治家による1905年のペテルブルク・ソヴェトを範型として形成された。
 3月2日に臨時政府の設立が発表されたとき、ソヴェトはすでにタウリダ宮で会合をしていた。//
 臨時政府とペテログラード・ソヴェトの二重の権力関係は自然に明らかになってきたもので、政府はそう選択するしかなかったためにこれを広く受け容れた。
 最も現実的な面から述べると、自由にできる力を持たない10人ほどの大臣は、むさ苦しい労働者、兵士および海兵たちの群れから王宮(政府とソヴェト両者の最初の会合場所)を無事に通過することがほとんどできなかった。彼らは中をどしどしと歩き回り、外に向かって演説し、食べて、寝て、議論し、宣言文を書いていた。
 断続的にソヴェトの部屋に突入してきて、捕まえた警察官やかつての帝制期大臣を〔ソヴェトの〕代議員のもとに残していく、そのような群衆の雰囲気は、何とか通り過ぎようとの意図を萎えさせたに違いない。
 もっと広い観点からは、戦時大臣だったグチコフ(Guchkov)は3月初めに、軍の最高司令官に対してこう説明していた。//
 『臨時政府は、本当の(real)権力を何も持っていない。
 その公的な命令は、労働者・兵士代表ソヴェトが許す範囲でのみ実施される。ソヴェトは、本当の権力の本質的な要素を全て享有している。兵団、鉄道、郵便および電信、これらは全て、彼らの手中にあるからだ。
 平易に言うと、臨時政府は、ソヴェトが許容しているかぎりでのみ存在している。』(6)//
 最初の数ヶ月、臨時政府は主としてリベラルたちで構成されていた。一方、ソヴェトの執行委員会は社会主義者の知識人によって、党派所属上は主としてメンシェヴィキとエスエルによって占められていた。
 臨時政府の一員でありかつ社会主義者でもあるケレンスキーは、二つの組織を結び合わせるめに活動し、両者の間の連絡者として働いた。
 ソヴェトの社会主義者たちは、ブルジョア革命がその行程を終えるときまで労働者階級の利益を守るために、臨時政府に対する監視者(watchdogs)として行動するつもりだった。
 このようなブルジョアジーに対する敬意は、一つには、社会主義者が良きマルクス主義教育を受けていたからであり、二つには、警戒と不確実さの産物だった。
 ソヴェトのメンシェヴィキ指導者の一人であるスハノフ(Nikolai Sukhanov)が記したように、先には厄介なことが起きそうだった。そしてリベラルたちが責任をもち、必要ならば責めを甘受した方がよかったかもしれない。//
 『ソヴィエトの民主政は、権力を階級敵である有資産要素に託さなければならなかった。その者たちの関与がなければ、解体という絶望的状況で行政の技術を急に修得することはできなかったし、帝制主義者やそれと一体となったブルジョアジーをうまく処理することもできなかっただろう。
 しかし、この移行の<条件>は、近い将来での階級敵に対する完全な勝利という民主政体を確実にするものでなければならない。』(7)
 しかし、ソヴィエトを構成した労働者・兵士・海兵は、さほどに用心深くはなかった。
 臨時政府の公式の樹立またはソヴィエトでの「責任ある指導者層」の出現よりも前の3月1日、悪名高い命令第一号がペテログラード・ソヴェトの名前で発せられた。
 命令第一号は革命的文書で、ソヴィエトの権力を主張するものだった。
 それは、選挙された兵士委員会の設立による軍の民主主義化、将校の懲罰権限の削減、軍隊に関する全ての政策問題に関するソヴィエトの権限の承認を要求した。すなわち、ソヴィエトの副署がないかぎりは、いかなる政府のまたは軍の命令も有効ではない、と述べていた。
 命令第一号は、現実に将校をその地位に確保するための選挙の実施を要求するものではなかった。また、そのような選挙は実際には、より規則に則らない単位で組織されてきていた。
 そしてまた、数百人の海軍将校たちがクロンシュタットとバルティック艦隊の海兵によって二月の時期に拘束されて殺害された、という報告があった。
 ゆえに、命令第一号は、階級戦争を強調する意味をもつもので、階級の協力という展望についての保障を提供することは全くできなかった。
 これは、二重権力という最も機能できない形態を予兆した。つまり、軍隊に入った者たちはペテログラード・ソヴェトの権威だけを承認し、一方で将校団は臨時政府の権威だけを承認する、という状況の予兆だった。//
 ソヴィエトの執行委員会は、命令第一号が意味させていた急進的立場から退却をすべく最大限の努力をした。
 しかし、スハノフは4月に、執行委員会が事実上臨時政府と連立していることが生んだ「大衆からの孤立」について論評した。
 もちろんそれは、部分的な連立だった。
 ソヴィエト執行委員会と臨時政府の間では、労働政策や農民の土地要求の問題について、対立が頻出していた。
 また、ヨーロッパの戦争へのロシアの関与に関して、重要な不一致もあった。
 臨時政府は、戦争努力をしっかりと行い続ける立場だった。そして、外務大臣のミリュコフによる4月18日の覚書は、コンスタンチノープルとその海峡に対するロシアの支配の拡大(ツァーリ政府と連盟諸国とで調印された秘密条約で同意されていた)に利益を持ち続けることすら意味させていた。大衆的な抗議と新しい街頭示威行進によって、ミリュコフは辞任を余儀なくされた。
 ソヴィエト執行委員会は「防衛主義」の立場を採った。ロシアの領土が攻撃されている間は戦争継続に賛成するが、併合主義的戦争意図や秘密条約には反対する、というものだ。
 しかし、ソヴェトの側では-そして街頭、工場、とくに守備軍団では-、戦争に対する態度はより単純でかつ強烈なものになる傾向にあった。すなわち、戦闘をやめよ、戦争から抜け出せ、兵士たちを故郷に。//
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会と臨時政府の間に進展した関係は、1917年の春と夏には熱心で、親密で、そして議論を嫌がることがなかった。
 執行委員会は、その別々の主体性を用心深く守った。しかし、最終的には、二つの組織は緊密に結びついていたために、お互いの運命に無関心ではおれなくなり、あるいは、悪い事態が発生したときに相手から離れることができなくなった。
 連携は5月には強化された。その月に、臨時政府がリベラル派のものであることをやめ、ソヴェト執行委員会で最も重要な影響力をもつ大きな社会主義政党(メンシェヴィキとエスエル)の代表者たちを引き込むことによって、リベラル派と社会主義者との連立政権になったのだ。
 社会主義者たちは、政府に加わることに乗り気ではなかった。しかし、国民的な危機の時期に、ぐらつく体制を強化するのは自分たちの義務だと結論づけた。
 彼らは、ソヴェトは自分たちが政治行動をする、より自然な分野だと見なし続けた。とりわけ、社会主義者である新しい農務大臣と労働大臣がリベラル派の反対によって彼らの政策を実施することができないと明らかになったときには。
 しかしながら、象徴的な選択が行われていた。すなわち、臨時政府とより緊密に連携し合ううちに、「責任のある」社会主義者たちは(そして広く言えばソヴェト執行委員会は)、「責任のない」民衆革命から離れていっていた。//
 「ブルジョアの」臨時政府に対する民衆の反感は、戦争の疲労が増大し、都市の経済状況が悪化していたので、春遅くには高まった。(8) 
 7月に発生した街頭での集団示威行動(七月事件)の間、示威行進者たちは「全ての権力をソヴェトへ」と呼びかける旗を掲げていた。これが実際に意味したのは、臨時政府から権力を奪い取ることだった。
 逆説的にだが-政府に参加する趣旨からすると論理的にだが-、ペテログラード・ソヴェト執行委員会は、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンを拒絶した。
 そして、実際、集団示威行進は、政府に対してと同様に現在のソヴェト指導部に対して向けられた。
 ある行進者は「おまえたち、与えられているときに、権力を奪え!」と社会主義政治家に向かって、拳を振り上げながら叫んだ。(9) 
 しかしこれは、「二重権力」の支持を誓った者たちには返答することができない訴え(あるいはおそらく脅迫?)だった。//
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 (3) George Katkov, <ロシア・1917年-二月革命> (London, 1967), p.444.
 (4) ニコライの最後の日々に関する資料的文書として、Mark D. Steinberg & Vladimir M. Khrustalev,<ロマノフ王朝の最後>(New Haven & London, 1995), p.277-366. を見よ。
 (5) A. Tyrkova-Williams, <自由からブレスト・リトフスクへ>(London, 1919), p.25.
 (6) Allan K. Wildman, <ロシア帝国軍隊の終焉>(Princeton, NJ, 1980), p.260. から引用した。
 (7) Sukhanov, <ロシア革命・1917年、i> p.104-5.
 (8) 地方での展開する状勢に関する生き生きとした説明として、Donald J. Raleigh, <ヴォルガでの革命>(Ithaca & London, 1986)を見よ。
 (9) Leonard Schapiro, <共産主義専制体制の起源>(Cambridge, MA, 1955), p.42, n.20. から引用した。
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 第二章(二月と十月の革命)のうち「はじめに」と第1節(二月革命と「二重権力」)の試訳が終わり。

1804/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑤。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第5回。
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 第一章・初期設定/第3節・1905年革命とその後/第一次大戦。
 かつてのツァーリ・ロシアは膨大な帝国で、ヨーロッパ諸大国の中で最大の常備軍を持っていた。
 その外部世界に対する強さは誇りの源であり、国内の政治的、社会的諸問題を静めることのできる達成物だった。
 20世紀初めのある内務大臣の言葉によれば、「勝利した小戦争」は国内の不安を抑える最良の治療薬だった。
 しかしながら、歴史的に見ると、これはかなり疑わしい命題だ。
 過去の半世紀の間、ロシアの戦争は成功したものでなければ、政府への社会の信頼を強くする傾向にあるものでもなかった。
 クリミア戦争での軍事的屈辱によって、1860年代の急進的な内政改革が行われた。
 1870年代遅くのバルカン地域への軍事介入の後でロシアは外交上の敗北を喫したが、それは国内の政治危機を生み、アレクサンダー二世暗殺でようやく終わった。
 1900年代の初め、ロシアは極東にまで膨張し、その地域のもう一つの膨張国家である日本と衝突した。
 ニコライ二世の閣僚たちの何人かは警告を発したけれども、宮廷や上層官僚層は、極東で簡単に略奪できる、日本-結局は劣った非ヨーロッパ勢力だ-は恐れるほどの敵ではないだろう、という雰囲気で覆われた。
 日本が始めたが、ほとんど同等にロシアの極東政策が挑発して、1904年1月にロシア-日本戦争が勃発した。//
 ロシアには、この戦争は陸と海での一連の敗北と屈辱だった。
 社会に初期にあった愛国主義的熱狂は急速に静まり、そして、ゼムストヴォのような公的組織が非常時の政府を助けようとしても-1891年飢饉の間にそうだったように-、官僚層との対立や不満だけが生じた。
 このことはリベラルな運動に油を注いだ。無能で不完全だときわめて明白に感じられているときに、官僚層は最も弱いように思えたからだ。
 そして、ゼムストヴォ上層と専門家たちは非合法の自由主義運動の背後に集まり、ペーター・ストルーヴェその他のリベラルな活動家によってヨーロッパから指導された。
 1904年の最後の数ヶ月、戦争はまだ進行中だったが、ロシアのリベラルたちは(1847年にフランス国王ルイ・フィリップに対して用いられたのを摸倣して)祝宴運動を行い、これによって社会的エリートたちは、立憲的改革という考えを支持することを強く表現した。
 同時期に政府は、官僚へのテロリストの攻撃、学生の示威行進および労働者のストライキを含む、その他の種々の圧力を受けていた。
 1905年1月、ペテルブルクの労働者は、彼らの経済的不満にツァーリの注意を向けようと、平和的な示威行動を行った(戦闘的な者や革命的な者にではなく、警察との関係をもつ背教的聖職者の父ガポン(Father Gapon)によって組織された)。
 血の日曜日(1月9日)、軍隊は冬宮の外から示威行進者に対して発砲し、1905年革命が始まった。(18)//
 専制体制に対する国民的連帯意識は、1905年の最初の9ヶ月はきわめて強かった。
 革命運動の指導をリベラル派が行うことについては、真剣な反対がなかった。
 そして、体制側と交渉する彼らの地位は、ゼムストヴォや中層専門家の新しい同盟からの支持のみならず、学生の示威行動、労働者のストライキ、農民の騒擾、軍隊での反逆および帝国の非ロシア領域での動揺に由来する多様な圧力にももとづいていた。
 体制の側は一貫して防御的で、恐慌と混乱に陥り、明らかに秩序を回復することができなかった。
 ウィッテがやっと、1905年8月遅くにきわめて有利な条件で日本との講和条約(ポーツマス条約)の交渉をはじめたときを画期として、体制は生き残る展望をもち得た。
 しかし、体制には数百万人の兵団が満州に残っており、ストライキをしている鉄道従業員たちが再び統制のもとにおかれるまで、彼らはシベリア横断鉄道で故郷に戻ることはできなかった。//
 リベラルな革命の頂点だったのは、ニコライ二世の十月宣言(1905年)だった。ニコライ二世はそれによって、立憲制原理へと譲歩し、全国的に選出される議会であるドゥーマの設置を約束した。
 この宣言書はリベラルたちを分断した。十月主義者たち(Octobrists)はこれを受容したが、立憲民主党(カデッツ)は受容を拒絶して、いっそうの譲歩を望んだ。
 しかしながら、実際には、このときにリベラルたちは革命運動から撤退し、その活動力を新しい十月主義者やカデットを組織いること、および近づいているドゥーマ選挙の準備へと集中させた。//
 一方で、その年の末まで労働者は積極的で革命的なままでいて、以前よりもいっそう知名度を獲得し、ますます戦闘的にになった。
 10月に、ペテルブルクの労働者たちは「ソヴェト」、あるいは工場で選出された労働者代表の評議会、を組織した。
 ペテルブルク・ソヴェトの実践的な役割は、他の諸装置が麻痺してゼネラル・スイライキが行われているときに、市に一種の非常時都市政府を提供することだった。
 しかし、そのソヴェトは革命諸党からの社会主義者の政治的なフォ-ラムになった(そのときメンシェヴィキだったトロツキーは、ソヴェトの指導者の一人になった)。
 数ヶ月の間、帝制当局はソヴェトを慎重に扱い、そして同様の機関がモスクワや他の都市で出現した。
 しかし、12月の初めに警察の作戦が巧くいって、それは解散させられた。
 ペテルブルク・ソヴェトが攻撃されたとの報せを受けて、モスクワ・ソヴェトは武装蜂起を起こした。ボルシェヴィキはこれに対して相当の影響力をもっていた。
 この蜂起は兵団によって弾圧されたが、労働者は闘い直したため、多数の犠牲者が出た。//
 1905年の都市革命は、18世紀遅くのプガチェフ一揆以来の最も深刻な農民蜂起をまき起こした。
 しかし、都市の革命と農村のそれは同時に発生したのではなかった。
 農民の反乱は-大家屋の破壊と燃焼、地主や役人に対する攻撃で成っていた-1905年の夏に始まり、秋遅くに頂点に達し、沈静化し、また1906年に大規模に再開した。
 しかし、1905年遅くですら体制は強大で村毎の静穏化運動に兵団を使い始めることができた。
 1906年の半ばまでに全兵団が極東から戻り、軍隊の紀律は回復した。
 1906-7年の冬、農村ロシアの多くは戒厳令下にあり、略式の司法手続(千を超える処刑を含む)が現地での軍事裁判所によって実施された。//
 ロシアの土地所有上層者は1905-6年の事態から教訓を得た。すなわち、その利害は専制体制とともにあり(それは復讐心に満ちた農民層からおそらく守ってくれる)、リベラルたちとではない。(19)
 しかし、都市では、1905年革命によってこのような階級分極化の意識は生まれなかった。すなわち、多くの社会主義者にとってすら、これは1848年のロシアではなく、リベラル派の裏切り体質とブルジョアジーとプロレタリア-トの間の本質的な敵対意識をあからさまにした。
 リベラル派-資本主義中産階級ではなくて職業人をむしろ代表する-は、十月には傍らに離れて立っていたが、労働者の革命に対する激しい攻撃をする体制側にも加わらなかった。
 彼らの労働者と社会主義運動に対する態度は、多くのヨーロッパ諸国でのリベラル派たちのそれよりもはるかに温和で優しいものだった。
 労働者の側では、リベラル派について、裏切る同盟者ではなくて臆病な同盟者だと気づいたように見える。//
 1905年革命の政治的結果は両義的で、全ての関係者にとっていくぶんは不満足だった。
 1906年の基本的諸法律-閉ざされたロシアが立憲体制へと至る-によってニコライは、ロシアはまだ専制体制だという彼の信念を知らしめた。
 確かに、僭政者は今や選出された議会に諮問するようになり、諸政党が合法になった。
 しかし、ドゥーマの権能は限定されていた。大臣たちは依然として君主に対してのみ責任を負った。そして、最初の二回のドゥーマは命令に従わないことが判明して恣意的に解散された後で、社会主義派を事実上は選出されにくくし、土地所有上層者を過大に反映させる新しい選挙制度が導入された。
 ドゥーマの主要な意味は、おそらく、政治的討論のための公共のフォーラムを提供して、政治家の基礎を訓練することにあった。
 1905-7年の政治改革は、1860年代の司法改革が法曹を生んだのと全く同様に議会政治家を生み育てた。
 そして二つのグループには、専制体制が不変のままでは残ることができない価値と希望を発展させるという内在的な傾向があった。//
 1905年革命が変え<なかった>一つは、1880年代に完成に至っていた警察体制だった。
 法の適正な手続は(野戦軍事裁判所の場合のように)まだ当時のほとんどの民衆にとっては宙に浮いたままだった。
 もちろん、このことについては理解できる根拠があった。
 比較的に平穏だった1908年に1800人の官僚たちが殺戮され、2083人が政治的動機をもつ攻撃によって負傷した (20) ということは、社会がいかほどに騒然としていたのかを、そして体制がいかほどに防御の側に回ったままであったかを、示している。
 しかし、このことは、政治改革が多くの点で表面的なものにすぎなかったことを意味した。
 例えば、労働組合は、原理的に合法化されたが、警察によってしぱしば閉鎖させられた。
 政党は合法になったが、そして革命的社会主義諸政党ですらドゥーマ選挙で争って若干のの議席を得たが、しかし、革命的社会主義政党の党員は以前よりも拘束されやすくなり、党の指導者たち(多くは1905年革命の間に帰還していた)は、収監や流刑を避けるために国外逃亡を再び強いられた。//
 後になって見れば、1905年を体験して1917年にすでに地平上で活躍していたマルクス主義革命家たちは労働者たちの劇的な革命家としてのデビューを祝福し、自信をもって将来へと向かっていたように思えるかもしれない。
 しかし、実際には、彼らの雰囲気は全く違った。
 ボルシェヴィキもメンシェヴィキも、1905年労働者革命では足がかりすらなかった。すなわち、労働者たちは彼らと同じように進むことを拒絶した。これは、深刻に考えるべきことだった。とくに、レーニンには。
 革命はやって来た。しかし、体制は闘いから立ち直って、生き延びた。
 知識人層の間では、革命的夢想と社会の完全性という旧い幻想を放棄しようかとの会話が多くなされた。
 革命家の立場からすれば、法的な政治制度という表向きや尊大でお喋りのリベラルな政治家たち(これに関するレーニンの見方を要約すると、ニコライ二世のそれと大きくは異ならなかった)を新しく育てただけでは、何の収穫もなかった。
 革命的指導者たちにとって慣れてはいるが殺伐としたエミグレ生活に戻ることもまた、深い、かつほとんど耐えがたい失望だった。
 エミグレたちは、1905年と1917年の間ほど、簡単に怒り、かつ論争好きだったことはない。
 実際に、ロシア人が小さな口論をし続けていることは、ヨーロッパの社会民主主義のスキャンダルの一つになった。そして、レーニンは、最悪の反則者の一人だった。//
 戦争前の悪い報せの中にあったのは、体制側が農業改革の大きな綱領の設定に着手した、というものだった。
 1905-7年の農民一揆によって、政府は、<ミール>は農村的安定の最良の保障だとの初期の前提を放棄すべきことを理解した。
 政府の望みは今では、小さい自立した農民階層-ニコライの首相であるペトロ・ストリュイピン(Petr Stolypin)が述べた、「穏健で強い」ものへの保障-を生み出すことにあった。
 農民たちは今や土地保有を確固たるものにして<ミール>から離れることができると勇気をもち、土地委員会がその手続を容易にするために各地方に設置された。
 この前提にあるのは、貧しい者は売り払って都市へ行くだろう、豊かな者は保有地を改良し拡大して保守的な、言ってみればフランスの農民のようなプチ・ブルジョアジーの心性をもつだろう、という考えだった。
 1915年までには、ロシアの農民が何らかの形での個人的な保有権(tenure)を持っていたのは全農民の四分の一と半分の間くらいだった。法的および実際的な手続が複雑で、およそ十分の一だけが手続を完了させ、土地を囲い込んだけれども。(21)
 ストリュイピンの改革はマルクス主義用語では「進歩的」だった。農業の資本主義的発展の基礎を設定するものだったのだから。
 しかし、都市的資本主義の発達とは対照的に、ロシア革命の短期および中期的見通しから見て意味するところは、きわめて憂うつなものだった。
 ロシアの伝統的農民層は、反抗しがちだった。
 ストリュイピンがもしも改革を実行していれば(誰よりもレーニンがそうなりはしないかと恐れたように)、ロシアのプロレタリア-トは革命のための重要な同盟者を失っていただろう。//
 1906年、ロシアの経済は多額の借款(22億5000万フラン)で支えられていた。これについてウィッテは、国際銀行団と交渉したのだった。
 そして自国および外国所有の産業が、戦争前の年月には急速に膨張していた。
 このことはもちろん、工場労働者階級もまた膨張したことを意味した。
  しかし、1905-6年の労働者革命的運動が激しく弾圧された後の数年間は労働者騒擾は大きく落ちこみ、ようやく1910年頃に再び発生し始めた。
 戦争直前の年には大規模なストライキがますます頻発し、1914年夏のペテログラードでの一斉ストライキがその絶頂だった。このゼネ・ストは、何人かの観察者がロシアはその軍を戦争むのために総動員する危険を冒すのではないかと疑うほどに十分に深刻だった。
 労働者の要求は、経済的であるとともに政治的だった。
 彼らの体制に対する不満は、労働者自身に対して強制力を用いることについてはもちろんだが、ロシアの多くの産業部門で外国が支配していることについての責任をも含んでいた。
 ロシアでは、労働者が暴力的で戦闘的になるにつれて、メンシェヴィキはその支持を失っていくのを意識した。一方でボルシェヴィキは、支持を獲得しているのに気づいた。
 しかし、このことは、国外にいるボルシェヴィキ指導者の気持ちを顕著に亢進させはしなかった。なぜなら、ロシアとの連絡通信は不足し、おそらくはそのことを十分には知らなかった。また、彼ら自身の地位が、ヨーロッパでのエミグレ・ロシア人と社会主義者の社会でますます弱くなり、より孤立していたからだ。(22)//
 1914年8月、ヨーロッパで大戦が勃発し、ロシアはフランスとイギリスと同盟してドイツとオーストリアに対抗したとき、政治的エミグレはほとんど完全にロシアから遮断された。一方で、戦時中の異邦人たる生活についての通常の諸問題にも直面した。
 全体としてのヨーロッパ社会主義運動では、以前の大多数の国際主義者が、戦争が布告されるや、一夜にして愛国者になった。
 ロシア人は他国人と比べて完璧な愛国主義者になることは少なかったが、たいていは「防衛主義」(defensists)の立場を採った。それは、戦争がロシアの領土を守っているかぎりで、ロシアの戦争努力を支持する、というものだ。
 しかしながら、レーニンは、自国の大義を全体として非難する「敗北主義」(defeatists)の小集団に属した。すなわち、レーニンから見ると帝国主義戦争であり、最良の展望はロシアが敗北することであって、それは内戦と革命とを刺激して生み出すかもしれない。
 これは社会主義運動内部ですらきわめて論争を巻き起こす立場で、ボルシェヴィキは、きわめて冷たくあしらわれていることを感じた。
 ロシアでは、名のあるボルシェヴィキは全員が-ドゥーマ代議員を含む-、戦争を継続するために拘禁された。//
 1914年に、ロシアの宣戦布告は急速で広い愛国主義の熱狂、勝利を願う旗振り、国内の論争の一時停止を生み出した。また、ふつうの社会分野や非政府組織が政府の戦争努力を助けようとする真面目な取り組みも。
 しかし、また再び、雰囲気はすぐに悪くなった。
 ロシア軍の遂行能力と志気は、今や学者たちが感じていた以上に悪くなっているように見えた。また、軍は破滅的な敗北を喫し、損失を被った(1914-1917年の総計で500万の死傷者)。一方でドイツ軍は、帝国の西方深部に侵攻し、避難民がロシア中央へと混乱して流入するに至った。(23)
 敗北は上層部に裏切り者がいるのではないかとの懐疑心を生んだ。主要な対象の一つは皇妃アレクサンドラで、彼女は生まれはドイツの王女だった。
 醜聞はアレクサンドラのラスプーチン(Rasputin)との関係にも及んだ。この人物はいかがわしいがカリスマ性があり、皇妃はその子息の血友病を統御できる神のごとき者として信頼していた。
 ニコライがロシア軍の最高司令官の任を引き受け、長いあいだ首都から離れているとき、アレクサンドラとラスプーチンは各大臣の任命について大きな影響力を行使し始めた。
 政府と第四ドゥーマの関係が、劇的に悪化した。ドゥーマや全体としての知識人界の雰囲気は、政府の欠陥を批判する演説でカデット〔立憲民主党〕のパヴェル・ミリュコフが何度も口にした語句、「これは愚劣なのか、それとも裏切りか」でうまく表現されていた。
 1916年の遅く、帝室に近い若い貴族たちとドゥーマの右派代議員によって、ラスプーチンは殺害された。彼らの動機は、ロシアとその皇帝体制の名誉を救うことだった。//
 第一次大戦の圧力は-そして疑いなくニコライとその妻の個性や子息の血友病という家族の悲劇は (24)-、ロシア専制体制の無政府的特質には大きな休息になった。そして、ニコライは専制的伝統を期せずして執筆する風刺作家ではなくてその専制的伝統の保持者であるとは見えにくくなった。
 内閣での無能な人気者による「大臣への飛び級」、帝室での無教養な農民の信仰療法者、ラスプーチン殺害を指導した上層貴族の策略、そして毒薬、銃弾や溺水による殺害に強硬に抵抗するラスプーチンの英雄的物語ですら-これら全ては昔にあったことのように思われ、兵団の列車、塹壕での戦闘、大量動員という20世紀の現実に対する奇妙でとるに足らない随伴物であるように見えた。
 ロシアにはこのことに気づく教養ある公民がいたばかりではなく、ドゥーマ、諸政党、ゼムストヴォおよび産業家たちの戦時産業委員会のような組織もあった。これらは、古い体制から新世界への移行を行う潜在的な主導者だった。//
 専制体制の状況は、第一次大戦の前には危なかしいものだった。
 社会は大きく分裂し、政治と官僚機構の構造は脆弱で、無理をしすぎていた。
 体制は急な揺らぎや後退で容易に傷つきやすかったので、かりに戦争がなくともそれが長く生き延びただろうと想像するのは困難だ。情況が違っていれば明らかに、1917年に実際に起こったのよりも暴力的ではなく、かつ過激な帰結を伴わないで変化が起こったかもしれないけれども。//
 第一次大戦は、ロシア旧体制の脆さを暴露し、かつ増大させた。
 民衆は勝利を賞賛したが、敗北を耐え忍ぶつもりはなかった。
 敗北をしたとき、社会は政府を支持して集結することがなかった(これは、とくに敵が故郷に対する侵略者になるならば正常な反応で、1812年およびのちに再び1941-2年にあったロシア社会の反応だ)。しかし、政府に厳しく対抗するのではなくて、侮蔑心と道徳的優越さをもつ調子で、無能さと後進性を批判した。
 これが意味するのは、体制の正統性はきわめて脆弱であり、その存続は目に見える成果か、そうでなければ完璧な幸運に密接に関係している、ということだった。
 相対的には素早くかつ名誉を保って戦争から脱出したがゆえに、敗戦が革命へと突入したかつての1904-6年の場合には、旧体制は好運だった。また、ヨーロッパから多額の戦後借款を得ることができ、そして講和に至った。
 1914-17年には、そのように好運ではなかった。
 戦争は長く続き、ロシアだけではなくてヨーロッパ全体を消耗させた。
 ヨーロッパでの休戦協定より一年以上も前に、ロシアの旧体制は亡んでいた。//
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 (18) 1905年革命につき、Abraham Ascher, <1905年の革命/二巻本>(Stanford, CA, 1988 & 1992)を見よ。
 (19) Roberta Thompson Manning, 'Zemstvo and Revolution: The Onset of the Gentry Reaction, 905-1907' in : Leopold Haimson, ed., <農村ロシアの政治-1905-1914>(Bloomington, IN, 1979)を見よ。
(20) Mary Schaeffer Conroy, <ペトロ・アルカデヴィチ・ストリュイピン-帝制ロシア晩年の政治の実際>(Boulder, CO, 1976), p.98.
 (21) Judith Pallot, <ロシアの土地改革 1906-1917年-ストリュイピンの農村改革への農民層の対応>(Oxford, 1999),p. 8.
 (22) この孤立が心理状態に対してもった意味を小説で生々しく描写したものとして、Alexander Solzhenitsyn, <チューリッヒのレーニン>(New York, 1976)を見よ。
 (23) Peter Gatrell, <全帝国の歩み-第一次大戦の間のロシア難民>(Bloomington, IND, 1999)を見よ。犠牲者の数については、Peter Gatrell, <ロシアの第一次大戦-社会経済史>(Harlow, 2005), p.246 を見よ。軍の戦争中の実績の再評価について、David R. Stone, <大戦でのロシア軍-東部戦線・1914-1917>(Lawrence, KS, 2015)を見よ。
 (24) 家族の悲劇は、同情と理解をもって Robert K. Masse, <ニコライとアレクサンドラ>(New York, 1967)で描かれている。
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 第一章・初期設定の全体が終わり。
 

1803/言葉・概念のトリック②。

 記憶に残る、世界史的にも画期的だったのではないかと思われる新しい言葉・概念に、「社会主義(的)市場経済」というものがある。
 市場経済=market economy というのは「自由(自由主義)経済」と同じで、「計画経済」とは異なる資本主義経済とほとんど同義だとずっと思ってきた。
 ところが、日本共産党ではなくて中国共産党(・鄧小平)が1991年12月のソヴィエト連邦解体の後で「市場経済」の導入を謳い始めて、中国の経済上の「社会主義的市場経済」というものを打ち出した。
 これとソヴィエト連邦の解体<=ソ連との関係での冷戦終焉>は無関係ではなかっただろう。
 ソ連解体後の日本共産党は綱領をかなり重要な点について大きく変え、新綱領採択の1994年の党大会以降、<①ソ連はスターリン以降「社会主義国」ではなかった。②そういうスターリン・ソ連と日本共産党は闘ってきた>とヌケヌケと言い始めた。
 そして、<市場経済を通じて社会主義へ>の路線を歩む、と明言した。
 かつまた、<③レーニンは<ネップ>(1921~)の時期にこの新しい路線を確立して積極的に動いたが、全てをスターリンが台無しにした>、という破天荒な「物語」を作り出した。
 現在の日本共産党によると、中国・ベトナム・キューバの三国は<市場経済を通じて社会主義へ>の途を進んでいる「社会主義国」あるいは少なくとも資本主義からは離脱した国だとされる(北朝鮮については、同党ですらこれを否定する)。
 日本共産党の「大ウソ・大ペテン」には今回は立ち入らない。
 興味深いのは、市場経済=資本主義経済という概念設定を崩して、「市場経済」には資本主義的なそれと社会主義的なそれがある、という新しい二分が生まれたことだ。
 要するに、(中国や日本共産党によるとだが)「市場経済」=資本主義的市場経済+社会主義的市場経済になったのであって、「市場経済」という語・概念の範囲は従来よりも拡張された、と思われる。
 これは、<民主主義>の中に<プロレタリア民主主義>あるいは<人民民主主義>も含めるという、一種の概念のトリックなのではないだろうか。
 むろんこれは、中国や日本共産党が追求する(または現に国家として追求しているはずの)「市場経済」の意味にもかかわる。
 日本共産党のいう資本主義国内での(とりあえずの)「市場経済」路線はともかくとして、国家権力全体を共産党が掌握している中国での「市場経済」政策とはいったい何なのだろうか。
 つまり本当に、資本主義的「市場経済」とともに、それは「市場経済」という上位概念で括れるようなものなのだろうか。
 中国経済はもとより中国自体の専門家でもないから、よく分からない。
 つぎに、「保守」または「保守的」という語・概念は欧米世界でもほぼ一般に存在するようだが(conservative、the Conservatives)、日本でのこの言葉の使い方は、「リベラル」(リベラリズム、あるいは「自由主義」)のそれと同様に、かなり日本に独特なものがある。
 正確には、端的にいって「保守」=「天皇」又は「日本主義」と主張している、またはこれを前提としている、有力かもしれない潮流がある。
 これは用語法の大きな誤りではないか、と感じてきている。
 「尊皇」・「天皇制度肯定」あるいは(「反日」と対決するという)「日本」主義は、ナショナリズムではあっても、私に言わせれば「保守」の不可欠の価値・要素ではないだろう(立ち入らないが、ここでの「尊皇」・「天皇」は彼らの観念上のもので、現憲法上のものではないし、まして今上陛下を意味してはいない)。
 「保守」という語・概念のワナに嵌まって、反日本共産党=一部の者たちにいう「保守」と理解してしまうと、とんでもないことになる。かなり長い間、秋月瑛二は、日本でいう<保守>は(も)、当然に反共産主義・反日本共産党を最大の「要素」とするものだろうと漠然と考えてきた。
 数年前から感じてはいるのだが、これは、完全に誤解であり、言葉・概念のトリックに欺されていたのだった。恥ずかしいものだ。さらに書く。

1802/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)④。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017). 試訳第4回。
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 第一章・初期設定/第2節・革命的伝統
 ロシアの知識人たちが自分たちに課した任務はロシアをより良くすることで、まずはこの国の将来の社会的政治的な青写真を描き出し、ついで可能ならば、現実へとそれを実施する行動を起こすことだった。
 ロシアの将来の目安は、西側ヨーロッパの現在だつた。
 ロシア知識人層は、ヨーロッパで見られた多様な現象を受容することも拒否することも決定し得えただろう。しかし、全てがロシア人の議論の論点であり、ロシアの将来計画に組み入れる可能性があるものだった。
 19世紀の最後の四半世紀、そうした議論の中心的主題の一つは、西側ヨーロッパの工業化とその社会的および政治的帰結だった。//
 一つの見方によれば、資本主義的工業化は西側に、人間の堕落、大衆の貧困化および社会構造の破壊を生んだ。そのゆえに、それはロシアでは是非とも避けられるべきだった。
 この見地に立つ急進的知識人たちは「人民主義(Populists)」という旗印のもとに集まった。この名称は、実際には存在していない組織の論理上の程度を示すにすぎなかったけれども(この言葉はもともとは、ロシアのマルクス主義者たちが彼らに同意しない多様な知識人集団を自分たちと区別するために用いたものだった)。
 人民主義は基本的には、1860年代から1880年代にかけてのロシア急進思想の主流だった。//
 ロシア知識人層は一般的に、最も望ましい社会組織の形態だとして(ヨーロッパのマルクス主義以前の社会主義者、とくにフランスの「空想家」のように)社会主義を受け容れた。このことが政治的変革のイデオロギーとしてのリベラリズムを受容することと矛盾しているとは、考えられていなかったけれども。
 知識人たちはまた、その孤立状態に反応して、自分たちと「人民(民衆)」(ナロード、narod)の間の溝を埋めようという強い熱意をもった。
 知識人たちの考え方の性質から、人民主義とは資本主義的工業化への抵抗とロシア農民層の理想化とが結合したものだと理解された。
 人民主義によれば、資本主義はヨーロッパの伝統的農村共同体に対して破壊的影響を与えた。農民たちを土地から切り離し、土地なき都市に移り住むのを強制し、産業プロレタリア-トを搾取した。
 人民主義者は、資本主義の暴虐からロシア農民の伝統的な村落組織、共同体またはミール(mir)を守ろうとした。ミールはロシアがそれを通じた社会主義への別の途を見出すかもしれない平等な制度-おそらく原始共産制が生き延びているもの-だと考えたからだ。//
 1870年代初め、知識人たちによる農民層の理想化と彼らの状況や政治改革の見込みについての不満によって、自発的な大衆運動が生まれた。これを最もよく示すのが、人民主義の目標-1873-74年の「人民の中へ」だった。
 数千人の学生と知識人たちが都市を離れて村落へ行き、ときには自分たちを農民層に対する啓蒙者だと思い描き、ときにはさもしく民衆に関する単純な知識を得ようとし、ときには革命的な組織とプロパガンダを指揮するという望みをもって。
 この運動には、ほとんどの参加者に関するかぎりは、中心的な目標はなく、明確に定められた政治的意図はなかった。政治的宣伝活動というよりも、宗教的な巡礼行為だった。
 しかし、農民たちにも帝制警察にも、このいずれであるかを把握して区別するのは困難だった。
 当局は大きな警戒心をもち、大量に逮捕した。
 農民たちは疑い、招かれざる客たちを貴族か階級敵の子どもたちだと見なし、彼らをしばしば警察へと突き出した。
 この災難によって、人民主義者のあいだには深い失望感が生まれた。
 民衆を救おうという決意は揺るがなかった。しかし、ある範囲の者たちは、こう結論づけた。外部者として民衆を救うのは自分たちの悲劇的な宿命だ、革命的な無謀行為の英雄性は死後にはじめて賞賛されるだろう、と。
 1870年代遅くに、革命的テロリズムが急に頻発した。部分的には収監されている同志のために報復したいという感情からだった。部分的には、狙いを定めた一撃が専制ロシアの上層構造全体を破壊して、ロシア民衆が自由に自分の運命を見いだせるようにする、という見込みなき希望からだった。
 1881年、人民主義テロリストの中の「人民の意思」集団が皇帝アレクサンダー二世の暗殺に成功した。
 これがもった効果は専制体制の破壊ではなくて、脅かすことによって、恣意性と法の無視が増したより強圧的な政策を、そして近代警察国家に近いものを生み出したことだった。(10)。//
 暗殺への民衆の反応の中には、ウクライナでの反ユダヤ人虐殺があり、また、農民を農奴から解放したがゆえに貴族が皇帝を殺害したのだというロシアの村落での風聞もあった。//
 空想的な理想主義、テロリスト的戦術および従前は革命的運動の特徴だった農民志向を批判して、ロシアの知識人層の中の明確に区別された集団として、マルクス主義者が出現してきた。それは、1880年代、二つの人民主義者の災難の結果としてだった。
 ロシアの不適切な政治風土のために、また自分たちのテロリズム非難のゆえに、マルクス主義者が最初に影響を与えたのは、革命的行動によってではなく、知識人たちの議論に対してだった。
 彼らマルクス主義者は、ロシアでの資本主義的工業化を避けることはできない、農民のミールはすでに内部的解体の途上にあり、国家とそれに拘束された責任者たちによって徴税と償還金納付のためにだけ支えられている、と主張した。
 また、資本主義は唯一の可能な社会主義への途を内包しており、資本主義の発達が生んだ工場プロレタリア-トは真の社会主義革命を起こすことのできる唯一の階級だ、と主張した。
 彼らが主張したこうした命題は、マルクスとエンゲルスが彼らの著作で叙述した歴史発展の客観的法則によって科学的に証明されるはずのものだった。
 倫理的に優れているとの理由でイデオロギーとして社会主義を選択する者たちを、彼らは嘲弄した(この点は、もちろん中心問題ではなかった)。
 社会主義に関する中心論点は、社会主義は資本主義のように、人間社会の発展の予見可能な段階だ、ということだった。//
 ロシア専制体制に対する「人民の意思」の闘いを本能的に称賛したカール・マルクスには、国外移住中のゲオルギー・プレハノフの周囲に集まる初期のロシアのマルクス主義者は、根本教条のために闘って死んでいる者がいるのに、あまりに消極的で衒学的な革命家たちであって革命の不可避性に関する論文を書いて満足しているように見えた。
 しかし、ロシア知識人層に対する影響は異なっていた。その理由は、マルクス主義の科学的予測の一つがすみやかに実現されたからだ。彼らはロシアは工業化し<なければならない>と言ったが、ウィッテの熱心な指揮のもとで、そうなった。
 本当に、工業化は自発的な資本主義の発達の所産であるごとく、国家の財政援助と外国の投資の産物であり、その結果として、ロシアはある意味では西側と異なる途を歩んだ。
 しかし、同時代者たちにとって、ロシアの急速な工業化はマルクス主義の予見が正しい(right)ことを劇的に証明するものだと、またマルクス主義は少なくともロシアの知識人たちの「大きな疑問」に対するある程度の回答だと、思われた。//
 ロシアでのマルクス主義は-中国、インドおよびその他の発展途上国でのように-、西側ヨーロッパの発展諸国とは異なる意味をもった。
 それは革命のイデオロギーであるとともに、近代化のためのイデオロギーだった。
 革命的消極性を責められたことがほとんどないレーニンですら、<ロシアでの資本主義の発達>という有力な論稿でマルクス主義者としての名をなした。その研究は、経済的近代化過程を分析して擁護するものだった。
 そして、ロシアでの彼の世代の指導的マルクス主義者たちは、事実上ほとんど、同じような著作を書いた。
 確かに、マルクス主義者のやり方で弁護された(「私は支持する」のではなく「きみにこう語った」)。そして、レーニンは反資本主義の革命家だとだけ知っている現代の読者は驚くかもしれない。
 しかし、19世紀遅くのロシアはマルクス主義の定義上まだ半封建的な後進社会だったので、マルクス主義者にとって、資本主義は「進歩的な」現象だった。
 イデオロギーの観点からすれば、資本主義は社会主義に到達する途上の必要な段階であるがゆえに、彼らは資本主義を支持した。
 しかし、感情の点からいうと、傾倒度は低くなってくる。
 ロシアのマルクス主義者は近代的で工業化した都市的世界に感嘆し、古い田園的ロシアの後進性に気分を害していた。
 レーニン-歴史を正当な方向へと一押ししようとする積極的革命家-は、かつての人民主義の伝統である革命的自発性をある程度もっている非正統のマルクス主義者だった、としばしば指摘されてきた。 
 これは本当のことだ。しかし、それは主として、1905年および1917年という現実的な革命の時期での彼の行動と関連があるものだ。
 1890年代に彼が人民主義ではなくマルクス主義を選んだのは、近代化の側に立っていたからだ。
 そして、この基本的な選択によって、レーニンと1917年の党による権力奪取以降のロシア革命の行程に関する多くのことを説明することができる。//
 人民主義者との間での資本主義をめぐる初期の論争で、マルクス主義者はもう一つの重要な選択を行った。すなわち、基礎的な支援者および革命のためのロシアの主要な潜在勢力として、都市的労働者階級を選んだのだ。
 これは、マルクス主義を、農民に一方的な恋愛感情をもつ(人民主義者が支持し、のちにその設立から1900年代初めまで社会主義革命党(エスエル)が支持した)ロシアの革命的知識人層の古い伝統と明確に区別するものだった。
 それはまた、(ある範囲は以前のマルクス主義者である)リベラルたちとも、マルクス主義者を区別した。リベラルたちの自由化運動は政治勢力としては、「ブルジョア革命」を望んで新しい専門家階層とリベラルなゼムストヴォ貴族の支持を得たために、1905年の少し以前に出現することとなった。//
 マルクス主義者の選択は、当初は、とくに有望だとは見えなかった。労働者階級は農民層と比較すると小さくて、都市の上層階級と比較すると地位、教育および財政源が欠けていた。
 マルクス主義者の労働者との初期の接触は基本的に教育的なものだった。それは、知識人たちが一般的な教育にマルクス主義の要素を加えて労働者に提供するサークルや学習会集団で成り立っていた。
 このことが革命的労働者運動の発展にいかに寄与したかについて、評価は歴史研究者によって異なる。(12)
 しかし、帝制当局は相当の政治的脅威を感じ取った。
 1901年の警察報告書は、こう記載した。(13)
 『目標を達成しようとして煽動者たちは、不運にも、政府に対して闘う労働者を組織することにある程度は成功した。
 最近の3年か4年、家族と宗教を軽蔑し、法を無視し、構築された権威を拒絶して愚弄するのを余儀なく感じている、半ば識字能力のある知識人の特別の類型へと、暢気なロシアの若者たちは変わってきている。
 幸いにもそのような若者は工場では多数ではない。しかし、このごく少数の一握りの者たちが、労働者の不動の多数派をそれに従うように脅かしている。』
 マルクス主義者たちは明らかに、大衆との接触を探している初期の革命的知識人たちよりも優れていた。
 マルクス主義者は、聴こうとする大衆の部門を発見していた。
 ロシアの労働者は農民層から大して離れていなかったけれども、はるかに識字能力のある集団で、少なくも彼らのある程度は、近代的で都市的な「自分を良くする」可能性という意識をもっていた。
 教育は、革命的知識人層と警察の両者が予見した革命の方向への途であるとともに、社会流動性上の上昇の手段だった。
 初期の人民主義者の農民に対する宣教とは違って、マルクス主義の教師は、警察が学生たちに圧力を加える危険を冒す以上のものをもっていた。//
 労働者教育から、マルクス主義者-1898年以降に非合法でロシア社会民主労働党として組織されていた-は、より直接に政治的な労働者の組織化、ストライキ、そして1905年の革命への関与へと進んだ。
 党の政治的組織と現実の労働者階級の抗議の間の結婚は決して厳格なものではなく、1905年の社会主義諸政党には、労働者階級の革命的運動を維持していくのが大いに困難だった。
 にもかかわらず、1898年と1914年の間に、ロシア社会民主労働党は知識人層の集まりという性格をやめ、文字どおりの意味での労働者運動団体になった。
その指導者は依然として知識人層の出身で、その活動時間のほとんどをヨーロッパの国外逃亡先でロシアから離れて過ごしていた。
 しかしロシアでは、党員と活動家の大多数は労働者だった(または、職業的な革命家の場合は以前の労働者だった)。(14)
 彼らの理論からすると、ロシアのマルクス主義者は革命上大きな不利だと思われることから出立した。すなわち、来たる革命ではなく、その次の革命のために活動しなければならなかった。
 正統なマルクス主義者の予見によると、ロシアが資本主義の段階に入ることは(これは19世紀末にようやく起こったが)、不可避的にブルジョア的リベラルな革命による専制体制の打倒につながる。
 プロレタリア-トはその革命を支援するかもしれないが、補助的な役割を果たす以上のことはしないように思われた。
 資本主義が成熟の地点に到達した後でようやくプロレタリアの社会主義革命のときが熟する、そのときは将来のはるか遠くにある。//
 1905年以前は、この問題が切迫しているとは見えなかった。いかなる革命も進展しておらず、マルクス主義者は労働者階級を組織する若干の成功を収めていたのだから。
 しかしながら、小集団-ペーター・ストルーヴェ(Peter Struve)が率いる「合法マルクス主義者」-は、マルクス主義が設定した項目である最初の(リベラルな)革命という目標との自分たちの一体性を強く主張し、社会主義革命という究極的な目標への関心を失うにいたった。
 ストルーヴェのような専制体制内の近代化志向の構成員が1890年代にマルクス主義者となっていたことは、驚くべきことではない。当時には彼らが参加できるリベラルな運動はなかったのだから。
 また同様に、彼らが世紀の変わり目にマルクス主義を離れてリベラルたちの自由化運動の設立に関与したことも、自然なことだった。
 にもかかわらず、合法的マルクス主義の異端的主張は、ロシア社会民主主義の指導者、とくにレーニンによって完璧に非難された。
 レーニンの「ブルジョア・リベラリズム」に対する激烈な敵意は、マルクス主義の趣旨からはいくぶん非論理的で、彼の仲間たちにある程度の混乱を巻き起こした。
 しかしながら、革命という観点からは、レーニンの態度はきわめて合理的だった。//
 おおよそ同じ時期に、ロシア社会民主主義の指導者は、経済主義(Economism)の主張、つまり労働者運動は政治的目標ではなく経済的目的に重点を置くべきだという考え方、を非難した。
 ロシアには実際には、明瞭な経済主義の運動はほとんどなかった。理由の一つは、ロシアの労働者の異議申立ては賃金のような純粋に経済的問題から急速に政治的問題へと進展する傾向にあったことだ。
 しかし、国外にいる(エミグレの)指導者たちはしばしば、ロシア国内の状況によりもヨーロッパの社会民主主義内部での動向に敏感であり、ドイツの運動の中で発達していた修正主義や改革主義の傾向を怖れた。
 ロシアのマルクス主義者は、経済主義や合法マルクス主義との教理上の闘争で、 自分たちは改良主義者ではなくて革命家だ、そして根本教条は社会主義の労働者の革命であってリベラルなブルジョア革命ではない、との主張を明確に記録した。//
 ロシア社会民主労働党が第二回党大会を開いた1903年、指導者たちは明らかに小さな論点に関する対立へと陥った-党新聞<イスクラ>編集局の構成に関して。(15)//
 現実的で実体のある問題は含まれていなかった。対立がレーニンの周囲で回っている限りで、レーニン自身こそが基礎的な問題であり、またレーニンは支配的地位を求めて攻撃的すぎると彼の同僚は考えた、と言うことができたかもしれないけれども。
 大会でのレーニンのやり方は傲慢だった。そして彼は近年に、多様な理論上の問題点についてきわめて決定的に規準を設定してきていた。とくに、党の組織や役割に関して。
 レーニンと年上のロシア・マルクス主義者であるプレハノフの間に、緊張関係があった。
 また、レーニンと彼の同世代のユリイ・マルトフ(Yulii Martov)の間の友好関係は、破裂にさし掛かっていた。//
 第二回大会の結末は、ロシア社会民主労働党の「ボルシェヴィキ」派と「メンシェヴィキ」派への分裂だった。
 ボルシェヴィキは、レーニンの指導に従う者たちだ。メンシェヴィキ(プレハノフ、マルトフおよびトロツキーを含む)は、大きくてより多い、レーニンは度を外していると考える党員の多様な集団で成り立った。
 この分裂は、ロシア内部のマルクス主義者にはほとんど意味がなかった。そしてこれが発生した当時は、エミグレたちによってすら取り消すことができないものと見なされていた。
 しかしながら、この分裂は永遠のものになるのが分かることになる。
 そして月日が経つにつれて、二つの党派は1903年にそれぞれがもっていた以上に明確に異なる自己一体性(identity)を獲得した。
 のちにレーニンはときおり、「分裂者」だったことの誇りを表現することになる。これが意味するのは、大きい、大雑把に編成された政治組織は小さい組織よりも効果的ではない、紀律ある急進的集団には高い程度の義務とイデオロギー上の一体性が必要だ、とレーニンが考えた、ということだ。
 しかし、ある範囲の人々は、不一致に寛容であることができないこのレーニンの特性に原因があった、とする。不一致への不寛容、これはトロツキーが革命前の論争の際に「ジャコバン派の不寛容性ついての風刺漫画」だと称した「悪意溢れる懐疑心」のことだ。(16)//
 1903年後の数年間、メンシェヴィキはそのマルクス主義についてより正統的なものとして登場した(1917年半ばまでメンシェヴィキ党員だったが、つねに〔党のどの派についても〕無所属者だったトロツキーを考慮しない)。そして、革命に向かって事態の進展を急がせようとあまり思わず、堅く組織されて紀律ある革命党を作るという関心も乏しかった。
 メンシェヴィキは、帝国の非ロシア領域での支持を得ることに、ボルシェヴィキ以上に成功した。一方、ボルシェヴィキは、ロシアの労働者たちの間で優勢だった。
 (しかしながら、いずれの党でも、ユダヤ人その他の非ロシア人が知識人層の支配する指導者層内で圧倒的だった。)
 戦争前の最後の数年、1910-14年に、労働者の空気がより戦闘的になったとき、メンシェヴィキは労働者階級の支持を失ってボルシェヴィキに譲った。
 メンシェヴィキは、ブルジョアジーと近接した関係をもつ「まともな」政党だと認知されていた。一方で、ボルシェヴィキは、より革命的であるとともにより労働者階級的だと見られていた。(17)//
 メンシェヴィキと違ってボルシェヴィキは、単一の指導者をもち、その自己認識は大部分が、レーニンの考えと個性によって形成されていた。
 マルクス主義理論家としてのレーニンの第一の明確な特質は、党組織に重点を置くことだ。
 レーニンは、党はプロレタリア革命の前衛であるのみならず、ある意味ではその創作者でもある、と考えた。プロレタリア-トだけでは労働組合意識を獲得するのみで、革命的意識をもつことはない、と論じたのだ。//
 レーニンは、党員たちの中核は、全日働く職業的な革命家で構成されるべきだと考えた。それは知識人層と労働者階級双方から選抜されるものだが、どの社会集団よりも労働者の政治組織へと集結するものだとされた。
 <何をなすべきか?>(1902年)で彼は、中央集中化、厳格な紀律および党内部でのイデオロギーの一体性の重要性を強調した。
 もちろん、これらは警察国家で密かに活動する政党の論理上の規範だった。
 にもかかわらず、レーニンの同時代者(そしてのちに多くの歴史研究者)には、多様性と自発性をより多く認める緩やかな大衆組織をレーニンが嫌悪するのは、たんに政略的なものではなくて、生まれつきの権威主義的性向(natural authoritarian bent)を反映するもののように思われた。//
 レーニンは、ロシアの他の多くのマルクス主義者とは異なる。プロレタリア革命が究極的には起こるとたんに予言するのではなくて、能動的にプロレタリア革命を望んでいると見える点で。
 これは、きっとレーニンがカール・マルクスに気に入られた特性だっただろう。正統なマルクス主義の何らかの修正が必要だったということはあるけれども。
 リベラルなブルジョアジーがロシア反専制革命の自然の指導者でなければならないという考え方は、レーニンには決して本当に受容し難いものだった。
 レーニンは1905年革命の真只中で書いた<社会民主主義者の二つの任務>で、プロレタリア-トは-ロシアの反抗的な農民と同盟して-支配的な役割を果たすことができるし、果たすべきだ、と強く主張した。
 真剣に革命を意図するロシアのマルクス主義者の誰にとっても、ブルジョアが革命指導者だという教理を迂回する途を見出すことが明らかに必要だった。そして、トロツキーは、同様のかつより成功した努力を行って、「永続革命」論を発表した。
 1905年以降のレーニンの論考では、「独裁(dictatorship)」、「蜂起(insurrection)」および「内戦(civil war)」という言葉が急に頻出するようになる。
 レーニンが将来における権力の革命的移行を心に抱いたのは、これらの、苛酷で暴力的でかつ現実主義的な言葉遣いによってだった。
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 (10) Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (New York, 1974), Ch. 10.を見よ。
 (11) この問題に関する人民主義者の見方につき、Gerschenkron, Economic Backwardness [経済的後進性], p.167-176.を見よ。
 (12) 消極的見解につき、Richard Pipes, <社会民主主義とペテルブルクの労働運動, 1885-1897>(Cambridge, MA, 1963) を見よ。より肯定的な見解は、Allan K. Wildman, <ロシアの社会民主主義, 1891-1903>(Chicago, 1967) を見よ。
 (13) Sidne Harcave, <最初の血-1905年のロシア革命>(New York, 1964), p.23. から引用した。
  (14) 1907年のボルシェヴィキとメンシェヴィキ党員の構成分析につき、David Lane, <ロシア共産主義のルーツ>(Assen, The Nietherlands, 1969), p.22-23, p.26. を見よ。
 (15) 分裂に関する明快な議論について、Jeffry F. Hough and Merle Fainsod, <ソヴィエト同盟はいかに統治されているか>(Cambridge, MA, 1979), p.21-26. を見よ。
 (16) トロツキー, 'Our Political Tasks' (1904), Isaac Deutscher, <武装せる予言者>(London, 1970)所収, p.91-91. から引用した。
 (17) Haimson, 'The Problem of Social Stability', p.624-633.
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 第一章の第2節が終わり。

1800/言葉・概念というもののトリック。

 言葉あるいは概念はふつうは何らかの現実や現象を把握して何らかの意味があるものとして作られ、用いられるものであって、一定の現実や現象そのものを複雑な諸要素・諸側面を全て網羅したものとして意味させているのではない。
 当然のこととして、何らかの捨象と抽象化・単純化が行われているものとして、言葉あるいは概念は理解されるべきものだ。
 そうであるにもかかわらず、言葉・概念が一人歩きする、言葉・概念の正確な意味についての正確な合致がないままに(異なる意味を持たしていることを意識しないままに)議論が行われることもある。
 また、そもそも、重要で議論の多い言葉・概念であるにもかかわらず、その正確なまたは厳密な意味を明らかにしないままで、何らかの論述や評論等を行っている者も多い。
 以上だけでは足りないが、このような言葉・概念の特性を利用して、種々の政治的主張も行われてきている。
 「社会民主主義」という語の由来は知らないが、おそらくは「民主主義」または「民主政体」をいちおうは是とできるものであることを前提として、それに「社会的」または「社会主義的」という限定を付したものだろう。
 レーニンのボルシェヴィズムはのちに「レーニン主義」または「レーニン的マルクス主義」とも言われる。
 しかし、レーニン・ボルシェヴィキもまた一時期は(ロシア)「社会民主労働党」の一員だったのだから、むろんマルクス主義=社会主義ではないとしても、少なくとも広い意味での「社会民主主義」者だったことはあった、と言ってよいだろう。
 「社会民主労働党」から分派して(当時はレーニン自体が積極的な「分派」活動者だった)<ボルシェヴィキ>派と名乗ったのもロシア語での「多数派」・「少数派」にかかわる語感とその利用という興味深い点はある。
 それはともかく、この当時およびそれ以降のレーニンの「民主主義」・「民主政体」という言葉又は観念に対する態度も興味深い。
 資本主義をもたらす革命が「自由・民主主義」の革命だとすれば、そこでの「民主主義」はブルジョア的なものであって、究極的には(あるいは社会主義社会)では否定されるべきものであるかもしれない。
 そのような趣旨で、レーニンは「民主主義」・「民主政体」の欺瞞的なブルジョア性を厳しく批判したとされる。
 しかし一方で、「民主主義」・「民主政体」は良いものだとする広範な空気?をも、おそらく(政略的判断として)意識したのだろう。
 いつ頃か、どの論考からかは確認しないが、レーニンが目ざすのは「真の民主主義」、「プロレタリア-トの民主主義」、「民衆・人民の(people's)民主主義」だとも主張し始めた。
 この点以外にもレーニンの発言・記述には独特の一貫性のなさ、不整合性があるので、レーニン全体をその全集類等を通じて過不足なく理解するのはほとんど困難だろうと、私は感じている。そのつど、そのつどの、現実の情勢に応じた?「適当な」言い回しがあるのだ。
 さて、上により、「民主主義」・「民主政体」には、ブルジョア的・市民的なものと「プロレタリア-ト的」・「人民的」の二種があるとになる。
 これは、言葉・概念の大きな進展と「分化」だ。
 このことによって、かつての「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)、現在の「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)という国名もありうる(ありえた)ことになる。
 日本共産党の現在の立場は、<ブルジョア的・市民的>民主主義・民主的制度を最大限利用して「プロレタリア-トの」・「人民の」民主主義・民主政体へと移行させることだろう。同党が最初の段階として目ざすと綱領上明記するのは、そのような「民主主義革命」だ。つまり、直接の「社会主義革命」を標榜しているのではない。
 つぎに、「議会制」・「代表議会制」・「議会主義」についても似たようなことが言える。
 ロシアの1905年「革命」後に設立された<ドウーマ>(選挙による議員で成る)に対する態度についても、ボルシェヴィキ党内部で対立があった。レーニンは、参加する(ボルシェヴィキの議員を送り込む)こと自体を否定はしなかったはずだ。
 マルクス主義者を自認する者にとって、現存する「議会制」・「代表議会制」にどう対応するかは一つの重要論点だ。ブルジョア(・市民)のための<欺瞞>装置ではないのか。
 1960年代に日本共産党・不破哲三は<人民的議会主義>というのを主張した(論考類をまとめたものだろう、同名の著書がある)。
 これによって、<議会主義>には「人民的議会主義」とそうではない体制的な・ブルジョア的な?「議会主義」があることになった。
 これは言葉・観念の大きな意味をもつ<分化>だった。
 これによって当時以降の、1961年綱領以降の日本共産党は、<議会議員のための選挙>を安心して、かつ熱心に行うようになった。
 個々の日本共産党員に対してこそ、自分たちは「人民的議会主義」に立っているのであって、体制側の「議会主義」とは異質なのだという自信と誇り?をもつことは、あるいは釈明?が与えられていることは、少なくない意味をもっただろう。
 新しい言葉・概念を「作り出す」ということには少なくなく大きな政治的・社会的意味を持つことがある。それを意識して、つまりは意図して、新しい用語を使ったり、大々的に宣伝することもある(「新自由主義」という語にはその、つまり政治的・政略的な側面が少なくとも日本にはあったように思われる。より普遍的な概念ならば今日でももっと使われているだろう)。
 予期していなかった長さになった。
 「左翼」・「右翼」、「保守」・「リベラル」、「全体主義」、あるいは江藤道朗が何気なく使う「保守自由主義」、井上達夫が「リベラル」とは違うという「リベラリズム」、あるいは「真正保守」・「自称保守」、「反米」・「反米ポチ」等々、言葉・概念の意味(内包)・射程範囲(外延)は明確にしておく必要がある、ということ、そして言葉・概念の作成や使用もきわめて実践的で政治的であることがある、ということを書きたかったにすぎない。
 なお、冒頭に言葉・概念は何らかの現実や現象を意味するという趣旨のことを書いたが、言葉・概念そしてそれらが紡ぎ出す「論理」の中で、いわば下底の言葉・概念を基礎にして、言葉・観念の世界の中で、新しい概念や観念が生み出されることもある。これもまた、おそらくとくに思想家・哲学者(哲学学者ではない)・思弁的論述者といわれる者たちにはよくあることだ。冒頭に「ふつうは」と記しているように、このような形而上の?<現象>が<存在>することを否定しているのではない。

1795/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)①。

 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命。
 =Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 これの2017年版によって、訳を試みる。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。<>内は斜字体になっている書物のタイトル。なお、連続して掲載することは予定していない。
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 序説
 (はじめに
 アメリカのニクソン大統領が1972年に中国を訪れていたとき、会話がほとんど二世紀前のフランス革命に移った。
 周恩来首相は革命の影響を論評するように求められて、語るのは早すぎる、と答えた、という伝説がある。
 彼はおそらく質問を誤解し、1968年のパリ事件のことを尋ねられていると考えた、ということが判明した。しかし、どんな場合でもそう語るのは、よい答えだっただろう。
 大きな歴史的事件の影響について語るのは、つねに早すぎる。その影響は静態的でなく、現在の状況や我々自身の過去の変化に関する立脚点に応じて恒常的に変化しているのだから。
 同じことはロシア革命についても言える。これに関する記憶はすでに長い季節の移ろいを通り抜けており、かつ疑いなく将来にもまたもっと多く通り抜けるだろう。
 この著<ロシア革命>の第二版(1994年)は、劇的な事件の荒波-共産主義体制の崩壊と1991年末のソヴィエト同盟の解体-の中で出版された。
 この事件は、ロシア革命に関する歴史学者にとってあらゆる種類の重要な意味をもった。
 これは以前は閉ざされていた書類庫を開き、引き出しの中に隠されていた回想録を持ち出し、あらゆる種類の、とくにスターリン時代とソヴィエトによる抑圧の歴史に関する、洪水のごとき新しい資料を解放した。 
 その結果として、ソヴィエト後を含む歴史学者は1990年代と2000年代はとくに生産的で、また国際的な学術世界と改めて再連結した。
 第三版(2008年)で増加させた文献一覧は、殺到したこの新しい情報を反映している。
 今やこの第四版とともに、ロシア革命後一世紀(100年)に到達した。
 一世紀後というのは、再評価するには分かりやすい時期だ。しかし、奇妙だが、そのような試みをしようという熱意は、ロシアにはほとんどない。
 ソヴィエト後のロシアは、新しい国民の一体性の根拠としての有用な過去を必要としている。
 問題は、どの程度に革命がそれに適しているかを見分けることだ。
 スターリンは、比較的容易に、国家建設者だと、そして、第二次世界大戦で偉大な勝利を収めたロシア(ソヴィエト同盟)の指導者で、戦後の超大国への上昇の監督者だと、説明をつけることができる。
 しかし、現代のロシア人がレーニンとボルシェヴィキについてどう考えるべきかを知るのは、そう簡単ではない。//
 ロシア人とその他の旧ソヴィエトの市民にとって、ソヴィエト同盟の崩壊は革命の意味を根本的に再検討することを意味したはずだ。(1)
 以前はこの革命は、世界の「最初の社会主義国家」を生んだ基底的事件だったと称揚され、今は多くの者によって、74年間も正当な道からロシアを逸脱させた過ちだったと見られている。
 西側の歴史学者は難なく適応したが、彼らの見方は、ソヴィエト同盟の崩壊によるのと同様に冷戦の終わりによって微妙に変わった。
 砂塵はまだなお、精神上の再設定によって静められなければならない。
 しかし、一つのことだけは、明白だ。
 ロシア革命の意義に関するかぎりは、明確に語るのはまだ早すぎる。そして、この革命が現代ヨーロッパと世界の歴史の重大な分岐点だったと真面目に考察され続けているかぎりは、ずっとそうだろう。
 この著書は、ロシア革命の物語を叙述し、当事者によって観察された諸事態を明確にしようとする。
 しかし、ロシア革命の意味は、フランス革命のそれのように、際限なく議論されていくだろう。//
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 (1) 革命と名づけることすら、複雑になった。「ロシア革命」という用語は、ロシアでは決して使われなかった。多くのロシア人が今では避けるソヴィエトの用語法では、それは「十月革命」またはたんに「十月」だった。ソヴィエト後に好まれる用語は「ボルシェヴィキ革命」であるように見える。
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 第一節・革命の時期的範囲。
 革命とは複雑な社会的政治的大変革なので、革命に関して執筆する歴史学者は最も基本的な問題について-原因、革命の目標、社会に対する影響、政治的結果、そして革命の時間的範囲自体についてすら-、異なってこざるをえない。
 ロシア革命の場合は、開始時点を提示することに問題はない。
 ほとんど誰もが、1917年の「二月革命」のときだと考える。これは皇帝ニコライ二世の退位と臨時政府の成立をもたらした。(2)
 しかし、いつロシア革命は終わったのか?
 ボルシェヴィキが権力を掌握した1917年10月に全てが終わったのか?
 あるいは、ボルシェヴィキが内戦に勝利した1920年に革命は終わるに至ったのか?
 スターリンの「上からの革命」はロシア革命の一部だったのか?
 それとも、革命はソヴィエト国家が生存し続けている間ずっと継続していた、と我々は理解すべきなのか?//
 Crane Brinton はその著<革命の解剖学>で、革命は急激な変化を求める情熱と熱狂が増大する段階を経て、強烈さが最頂点に到達し、その後に幻滅という「テルミドール」段階がつづき、革命の活力は減少し、秩序と安定の回復への緩やかな移行となる、という考え方を述べた。(3)
 Brinton の分析の基礎にあるのと同じフランス革命モデルを抱いていたロシアのボルシェヴィキは彼ら自身の革命の「テルミドール」的衰亡を怖れ、内戦の終期にそれが起こったのではないかと半分は懸念した。そのとき彼らは、経済の破綻によって、1921年の「新経済政策」(NEP)の導入が画する「戦術的退却」をすることを強いられた。//
 しかしなお、ロシアは1920年代の終わりに、新しい大変革に突入した-スターリンによる「上からの革命」であり、第一次五カ年計画、農業の集団化、および最初は古い知識人に対して向けられた「文化革命」による産業化への強い志向を伴っていた。
 これの社会への影響は、1917年の二月革命、十月革命や1918-20年の内戦よりすらも大きかった。
 古典的なテルミドールの徴候を明瞭に認識することができたのは、この大変革が1930年代早くに終わってようやくのことだった。すなわち、革命的な情熱と戦闘性は減退した。そして、新しい政策は、秩序と安定の回復、伝統的な価値と文化の再生、新しい政治的社会的構造の強化をしようとした。
 しかしこのテルミドールですら、革命による大変革の終わりを告げるものではまったくなかった。
 最終の内部的激動、初期の革命的テロルの大波よりすらも激しい破壊があり、1937-1938年の大粛清(the Great Purge)が、多数の古いボルシェヴィキ革命家を一掃し、政治上、行政上および軍事上のエリートたち内部での大規模の人的な再編成をもたらし、百万以上の人々を殺し、またはグラクへと投獄した。(4)//
 ロシア革命の時期的範囲を決定するに際しての第一の論点は、1920年代のネップという「戦略的退却」の性質だ。
 これは革命の終わりだったのか、あるいは、そのように考えられていたのか?
 ある範囲の研究者たちは、レーニンは最後の日々に(彼は1924年に死んだ)、社会主義に向かうロシアの更なる前進は、徐々に、民衆の文化レベルを高めることによってのみ達成できると信じるようになった、と考える。
 しかしながら、ロシア社会はネップ期の間、きわめて移ろいやすく不安定であり続けた。
 ボルシェヴィキは反革命を怖れ、国内および国外の「階級敵」による脅威を懸念したままでいて、ネップへの不満足やネップを革命の最終的成果だとする理解への気乗り薄さを恒常的に表明していた。//
 考察すべき第二の論点は、1920代遅くにネップを終わらせたスターリンの「上からの革命」の性質だ。
 ある範囲の研究者たちは、スターリンの革命とレーニンのそれとの間には本当の(real)継続性は何らなかったという考えを拒否する。
 別の研究者たちは、スターリンの「革命」はその名に値しない、と感じる。民衆的蜂起ではなく、急進的な変化を狙う支配政党による社会に対する攻撃のようなものだ、と考えるからだ。
 私はこの著で、レーニンの革命とスターリンのそれの間にある、継続する線をたどる。
 スターリンの「上からの改革」をロシア革命に含めることについて言えば、これは歴史研究者によって異なって当然の問題だ。
 しかし、ここでの論点は、1917年と1929年は似たものか否かではなく、共通する過程の一部なのか否か、だ。
 ナポレオンの革命戦争は、フランス革命に関する我々の一般的観念の中に含めることができる。それを1789年の精神を具現化したものだと見なさないとしても。
 同様の接近方法は、ロシア革命の場合について正当であるように思える。
 常識的な用語法では、革命は、旧体制と新しい体制の確立との間の大変革と不安定の時期という意味とつながる。
 1920年代遅くには、ロシアの永続する外形はまだ明らかになる必要があった。//
 判断すべき最後の論点は、1937年-1938年の大粛清はロシア革命の一部だと考えるべきか否か、だ。
 これは革命的テロルだったのか? それとも、根本的に異なる種類の-おそらくは固く揺るぎない体制の体系的な諸目的に役立つテロルを意味する、全体主義的テロルという種類の-テロルだったのか?
 私の見解では、これら二つの性格づけのいずれも、大粛清を十分には描写していない。
 それは独特の現象であり、まさしく革命と革命後のスターリニズムの境界に位置するものだ。
 それは修辞、攻撃対象および加速していく進展の点で言えば、革命的テロルだ。
 しかし、構造ではなく人身を破壊し、指導者個人そのものを脅かさなかった点では、全体主義的テロルだ。
 スターリンによって始められた国家テロルだということは、ロシア革命の一部であるとすることを妨げはしない。結局のところは、1794年のジャコバンのテロルも同じ観点から描写することができる。(5)
 二つの事件のもう一つの重要な類似性は、どちらの場合も革命家たちが主要な破壊対象の中にいた、ということだ。
 劇的な理由だけでも、ロシア革命の物語は大粛清を必要とした。フランス革命の物語がジャコバンのテロルを必要としたのとちょうど同じように。//
 この著では、ロシア革命の時期的範囲は、二月革命から1937-1938年の大粛清までだとする。
 異なる諸段階-1917年の二月革命と十月革命、内戦、ネップという幕間、スターリンの「上からの革命」、その「テルミドール」的余波、および大粛清-は、20年間の革命の過程での別々の期間として扱われる。
 この20年が終わるまでに、革命のエネルギーは完全に費やされ、社会は疲れ切った。支配する共産党ですら、変革に飽きて、「正常さへの回帰」という一般的な切望を共有した。
 確かに、正常さ(Normalcy)は、まだ回復可能だった。ドイツの侵略とソヴィエトの第二次大戦への参戦開始は、大粛清のようやく数年後にやって来たのだから。
 戦争はさらなる激変を生んだが、少なくともソヴィエト同盟の1939年以前の領域に関するかぎりでは、もはや革命ではなかった。
 それは、ソヴィエトの歴史上の、革命の後の新しい時代の始まりだった。//
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 (2) 1918年に暦が変わる前の日付は旧歴で示す。この旧暦は1917年では、ロシアが1918年に採用した西欧暦よりも13日遅れる〔秋月注=進むのが遅い。=数字は少ない。〕
 (3) Crane Brinton, The Anatomy of Revolution (rev. ed; New York, 1995).
 (4) 後述、p.167 参照。
 (5) 私の国家テロルに関する考え方は、かなりの程度 Colin Lucas の論文、「革命的暴力、民衆とテロル」、in : K. Baker (ed.), The French Revolution and the Creation of Modern Political Culture [フランス革命と近代政治文化の創出], Vol. 4; The Terror [テロル], (Oxford, 1994) に負っている。
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 第二節・革命に関する書物。 
 解釈者にとって、革命ほどイデオロギー上の論争を刺激するものはない。
 1989年のフランス革命200周年に注目を向けさせたのは、例えば、何人かの研究者と評論者が、革命を歴史という塵の堆積物にすべく、解釈の長い対立を終わらせようと果敢に試みたことだった。
 ロシア革命についてはより少ない歴史文献しかないが、しかしそれはおそらくたんに、それに関して書くには一世紀半もまだ経っていないことによる。
 この著の最後にある選抜参照文献一覧で、私は最近の研究作業に注目し、ロシア革命に関するこの10-15年間の西側による研究の進展を反映させた。
 ここで、時代に関する歴史的展望についての最も重要な変化を概述し、ロシア革命とソヴィエトの歴史に関するいくつかの古典的著作の特徴を述べよう。//
 第二次大戦前の西側では、職業的歴史研究者がロシア革命について書くことは多くはなかった。
 多数の目撃者の報告資料や回想録があったが、その中で最も有名なのは、John Reedの<世界を震撼させた10日間>だった。もちろん、W. H. Chamberlin や Louis Fischer のような評論者が書いた、秀れた歴史叙述書はいくつかあった。彼らの<世界情勢の中のソヴィエト>は、一つの古典であるままだ。
 最も長いあいだ影響を与えた解釈に関する著作は、レオン(レフ)・トロツキー(Leon(Lev) Trotsky)の<ロシア革命の歴史>と、同じ著者の<裏切られた革命>だった。
 第一のものはソヴィエト同盟から追放された後だが政治的論争書として書かれておらず、当事者の視点からする1917年の分析を生き生きと描写している。
 第二のものは1936年にスターリンの犯罪を追及すべく書かれたもので、明らかになっていたソヴィエトの官僚主義階層の支持をうけた、かつ本質的にはブルジョア的価値観念を反映する、テルミドール的なものとしてスターリン体制を描写する。//
 戦前にソヴィエト同盟で書かれた著作の中で栄誉ある地位を占めるのは、スターリンの厳密な監視のもとで書かれて1938年に出版された、悪名高き<ソヴィエト共産党の歴史に関する短期講座>だ。
 読者は推測するだろうように、これは学問的著作ではなく、ソヴィエト史の全ての論点に関する正しい「党の基本方針」-すなわち、全党員によって学び取られ、全学校で教育されるべき正統(the Orthodoxy)-を設定することを意図したものだ。その論点の範囲は、ツァーリ体制の階級的性質や内戦で赤軍が勝利した理由から、「ユダヤのトロツキー」が率いて外国の資本主義勢力が支援した、ソヴィエト権力に対する共謀にまで及ぶ。
 ソヴィエト時代には、<短期講座>のような作品の存在は、生産的な学問研究の余地を多くは残さなかった。
 厳格な検閲と自己検閲は、歴史に関するソヴィエト職業人にとって日常のことだった。//
 ソヴィエト同盟で1930年代に確立するようになり、少なくとも1950年代半ばまで権威をもち続けたボルシェヴィキ革命の解釈は、ありきたりの公式的なマルクス主義だ、と叙述してよい。
 鍵となる要点は、十月革命は真のプロレタリア革命で、ボルシェヴィキはプロレタリア-トの前衛として奉仕した、そして革命は未成熟なものでも偶然でもなかった-それが生起したのは歴史法則に支配されている-ということだ。
 歴史法則(zakonomernosti)は、重要だとしてもうまく明瞭にできないが、ソヴィエト史上の全てを決定した。このことは実際上は、大きな政治決定は全て正当(right)だった、ということを意味した。
 現実ではない政治史が書かれた。レーニン、スターリンおよび若くして死んだ数人以外の全ての革命指導者は、革命に対する反逆者だと暴露され、「人に非ざる者」に、すなわち活字で言及することのできない者になったのだから。
 社会史は、事実上はこれらだけが演者であり題目である、労働者階級、農民層および知識人層という階級の用語法で書かれた。//
 ソヴィエトの歴史は西側で、第二次大戦の後にようやく強い関心事になった。主としては、敵を知るためという冷戦の文脈の中でだった。
 基調を設定した二つの書物は小説で、George Owell の<一九八四年>と Arthur Koestler の(1930年代遅くの年配のボルシェヴィキに対する大粛清裁判に関する)<真昼の暗闇>だった。しかし、学問の分野を圧倒したのは、アメリカ政治学だった。
 ナチ・ドイツとスターリンのロシアをいくぶん悪魔化して合成した全体主義モデルは、最も知られた解釈上の枠組みだった。
 これは、全体主義国家の全能性とそれがもつ「支配のための梃子」を強調し、イデオロギーや虚偽宣伝活動にかなりの注意を向けた。そして(消極的で、全体主義国家によって断片化されたと見られた)社会の分野はかなり軽視された。
 西側のたいていの研究者は、ボルシェヴィキ革命は少数党によるクー(coup)だ、いかなる種類の民衆の支持も受けず、正統性もない、ということで一致した。
 革命は、そしてそのためのボルシェヴィキ党の前史は、主としてソヴィエト全体主義の起源を説明するために研究された。//
 1970年代以前には、ロシア革命を含むソヴィエト史を敢えて研究する西側の歴史学者はほとんどいなかった。それは一つは、主題がとても政治的な負荷を帯びているからであり、また一つは、公文書や第一次資料に接近するのがきわめて困難だったからだ。
 イギリスの歴史研究者による二つの先駆的な著作は、記しておくに値する。
 E. H. Carrの<ボルシェヴィキ革命 1917-1923>は彼の複数巻の<ソヴィエト・ロシア史>の最初のもので、1952年に刊行された。そして、Isaac Deutscher のトロツキーに関する古典的人物伝の最初の巻である<武装せる予言者>は、1954年に出版された。//
 ソヴィエト同盟では、1956年の第20回党大会でのフルシチョフによるスターリン弾劾とそれに続く部分的な脱スターリン化によって、歴史再評価の入り口がある程度は開かれ、学問研究の水準が高められた。
 公文書にもとづく1917年や1920年代の研究が出現し始めた。但し、例えば労働者階級の前衛だというボルシェヴィキ党の地位に関して、遵守されるべき制約と教条がまだあったけれども。
 トロツキーやジノヴィエフのような人に非ざる者(non-persons)に論及することも可能になったが、それは侮蔑的な文脈でのみだった。
 フルシチョフの秘密報告が歴史研究者に提供した大きな機会というのは、レーニンとスターリンを分別する、ということだった。
 ソヴィエトの改革志向の歴史研究者たちは1920年代に関する多数の書物と論文を生み出して、様々な分野での「レーニン主義規範」はスターリン時代の実際よりも民主主義的で多様性により寛容で、強制性と恣意性がより少なかった、と論じた。//
 西側の読者にとって、1960年代および1970年代の「レーニン主義」傾向を示す代表例は<歴史に判断させよ>の著者、Roy Medvedev であり、<スターリニズムの起源と帰結>は西側では1971年に発行された。
 しかし、Roy Medvedev の著作はブレジネフ時代の雰囲気のためにスターリンに関して厳しすぎ、明らかに批判的すぎる。そして彼は、ソヴィエト同盟ではこれを出版することができなかった。
 これは、samizdat (原稿のソヴィエト同盟内部での非公式の流通)や tamizdat (外国での書物の非合法出版)が花咲いた時代でのことだった。
 この時期に現れた最も有名な反体制著作者は、Aleksander Solzhenitsyn だ。偉大なノーベル賞作家で歴史論争者の<収容所列島>は、1973年に英語版で出版された。//
 何人かの反体制的学者の仕事が1970年代に西側の読者に届き始めている一方で、ロシア革命に関する西側の学問的研究は「ブルジョア的歪曲」を被っているとなおも見なされ、事実上USSR〔ソヴェト同盟〕から排除された(Robert Conquest の<大テロル>を含むいくつかの著作はSolzhenitsyn の<列島>とともに密かに流通していたけれども)。
 それでもやはり、西側の学者の条件は改善した。
 制限されたかつ厳格に統制された公文書の利用を通じてではあるが、ソヴィエト同盟での調査研究を行うことが今やできるようになった。これに対して、初期の条件は非常に困難だったので多くの西側のソヴィエト学者は二度とソヴィエト同盟を訪れなかったし、別の者たちはスパイだとして追放されるか、多様な種類の嫌がらせを受けた。
 ソヴィエト同盟での公文書や第一次資料の利用が1970年代および1980年代に改善し、ロシア革命とその後に関する研究を選択する若い西側の歴史学者が増加したので、歴史、とくに社会史は、アメリカのソヴィエト学の重要な学問分野として、政治学にとって代わり始めた。
 学問研究の新しい章は、1990年代初頭に始まった。その当時に、ロシアの公文書庫の利用についての制限はほとんど撤廃され、以前に分類されていたソヴィエト文書によって描く最初の書物が出現し始めた。冷戦が過ぎ去るとともに、ソヴィエト史の分野は西側ではより政治的でなくなった。それはとてもよいことだつた。
 ロシアの、そしてソヴィエト後のその他の歴史研究者たちはもはや西側の対応者たちから孤立してはおらず、「ソヴィエト」、「亡命者(エミグレ)」および「西側」の学問研究という昔の区別は大きく消失した。
 ロシアとその外側で大きな影響力のある書物を刊行している学者の中に、モスクワを出身地とする(実際にはウクライナ人として生まれた)、公文書にもとづく党政治局に関する研究の先駆者である Oleg Khlevnyuk がいる。
 モスクワで生まれたかつてのエミグレで1980年代以降はアメリカ合衆国に住んでいる Yuri Slezkine は、<ユダヤ人の世紀>で革命とソヴィエト知識人界でのユダヤ人の位置に関する再解釈を行った。//
 公文書にもとづく新しいレーニンやスターリンの人物伝が現れ、グラクや民衆の抵抗のような、以前は公文書による仕事では達し得なかったテーマは多くの歴史研究者を惹きつけている。
 ソヴィエト同盟の解体と旧同盟共和国諸国を基礎とする独立国家の誕生に反応して、Ronald Suny や Terry Martin のような学者は、歴史学の分野としてソヴィエトの民族や境界諸国の問題を発展させた。
 Stephen Kotkin によるウラルのマグニトゴルスク(Magnitogorsk)に関する<磁場山岳>を含む、地域研究も盛んになった。この書物は、1930年代での異なるソヴィエト文化の出現(「スターリニズム的文明化」)について、明らかに革命の産物だと論じた。
 社会史学者はふつうの市民の当局に対する手紙(苦情、非難、訴え)を豊富に公文書庫で発見し、歴史人間学と多く合致する日常生活に関する研究を急速に発展させた。
 1980年代とは対照的に(そして歴史関係職業人内部での全体的な進展を反映して)、現今の若い世代の歴史研究者は社会史と同様に、ソヴィエトの経験の主観的で個人的な側面を照らし出す日記や自叙伝を用いる文化史や思想史にも惹かれている。//
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 以上、序説の、はじめに、第1節、第2節を済ませた。

1792/ネップと20年代経済⑥-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.41~p.44。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑥完。

 スターリンは、なぜそうしたのか? <この文、前回と重複>
 第一の選択肢が「歴史の法則」によって排除されていたわけではない。また、第二の途を進むべき宿命的な強制が働いたわけでもない。
 そうであるにもかかわらず、現実に選択された方向へと強く作動する論理(logic)が、ソヴィエト体制にあった。
 力をもったイデオロギーは、国家による統制のもとにあってすら、市場条件へと回帰することよりもはるかに、テロルを基礎とする奴隷経済と適合するものだった。
 巨大な民衆が経済的に多少とも国家から自立すれば、またある程度の自立性を自分たちのために国家に守らせたとしてすら、分かち難い独裁という理想(ideal)は、完全には実現され得ない。 
 しかしながら、マルクス=レーニン主義の教理は、完全に中央集権的な政治的および経済的な権力によってのみ社会主義を建設することができる、と教えた。
 生産手段に関する私的所有制の廃止は、人間の至高の任務であり、世界の最も進歩的な体制の主要な義務だ。
 マルクス主義は、プロレタリア-ト独裁を通じての、公民社会と国家の融合または同一化という展望を提示した。
 そしてそのような単一化へと至る唯一の方法は、全ての自発的な形態をとる政治的、経済的および文化的生活を絶滅させ(liquidate)、国家が押しつける形態へと置き換えることだ。
 スターリンはかくして、社会に対する彼の独裁を強固にすることにより、また、国家が課していない全ての社会的紐帯と労働者階級自体を含む全ての階級を破壊することにより、唯一の可能性のあるやり方でマルクス=レーニン主義を実現した。
 もちろんこの過程は、一夜にして終わったのではない。
 まず最初に、労働者階級を政治的に従属させること、次いで党をそうすること、が必要だった。ありうる全ての抵抗の粒を粉砕しなければならず、プロレタリア-トから自己防衛の全ての手段を剥奪しなければならなかった。
 党はこれを、最初に大多数のプロレタリア-トによって支持された権力をもつがゆえに行うことができた。
 政治的意識が高く闘争に習熟した古い労働者階級が内戦で死亡した、戦後の荒廃と窮乏が諦念と疲労を生み出した、とドイチャー(Deutscher)は強調する。しかし、そう単純ではない。
 党の成功はまた、プロレタリア-トの支持を得た時期を二つの方法で利用したことにもよる。
 第一に、党は、最も有能な労働者階級の一員を国家の職務の特権的な地位に昇らせた。そうして彼らを、新しい支配階層に変えた。
 第二に、党は、労働者階級の組織の現存形態全てを、とくに他の社会主義政党や労働組合を、破壊した。そして、そのような組織が生き残る物質的な手段を労働者が届く範囲から閉め出した。
 これらは全て、初期の段階でかつまったく手際よくなされた。
 労働者階級はかくして無力にされ、疲労だけではなく全体主義に進む急速な過程が、ときたま絶望的な試みはあったが、すぐ後に効果的な行動を起こすのを妨げた。
 この意味で、ロシアの労働者階級は、その個々の階級的出自とは無関係に、自らの専制君主を生み出した。
 同じようにして、知識人層も長年の間に、極左からの絶え間ない脅迫に直面して躊躇し、屈服することで、無意識に自分たちを破壊することとなった。//
 かくして、メンシェヴィキの予言は実現された。メンシェヴィキは1920年に、トロツキーによって表明された勇敢な新世界をエジプトの奴隷によるピラミッド建設になぞらえたのだった。
 トロツキーは、多くの理由で、自分のプログラムを達成するには適していなかった。
 スターリンが、トロツキー<を現実にしたもの>(in actu)だった。//
 新しい政策は、ブハーリンとその同盟者の政治的敗北を意味した。
 論争の最初の時点で、右翼はまだしっかりした政治的地位を占め、かなりの支持を党内に広げていた。
 しかし、彼らの全資産は総書記(the Secretary General)の権力とはまったく比べものにならないことがすぐに分かった。
 「右翼主義偏向」は、スターリンとその取り巻きが攻撃する主要な対象になった。
 ブハーリン派(the Bukhrinites)-たんなる個人的権力ではなく統治の原理のために闘った最後の反対集団-は、1929年のうちに、国家の官僚機構で占めていた全ての役職から排除された。
 このことは、左翼反対派が復活したということを決して意味しなかった。
 スターリンは数人には微少な義務を負わせたが、左翼反対派の誰も、元の役職に復帰しなかった。仕事のできるラデクは、数年間、政府の賛辞文作成者に据え置かれた。
 ブハーリン派は、左翼がかつてしたほどには、あえては党外に見解を公表しようとしなかった(彼らのときはそうする可能性がもっとあったけれども)。
 ブハーリン派はまた、「分派」活動を組織しようともしなかった。彼らが分派主義を痛罵し、党の一体性を称賛してトロツキーやジノヴィエフと闘って以降、「分派」活動は結局は短い期間だけのものだった。
 一党支配について言えば、左翼反対派も右翼もそれを疑問視しなかった。
 全ての者が、自分の教理と自分の過去に囚われていた。
 全ての者が、自分たちを破砕する暴力装置を創る意思をもって活動した。
 カーメネフとの連合を形成しようとのブハーリンの見込みなき試みは、彼の経歴の痛々しい終章にすぎなかった。
 1929年11月に、偏向者たちは悔悛を示す公開行動を演じたが、これすら、彼らを救わなかった。
 スターリンの勝利は、完全だった。
 ブハーリン反対派の崩壊は、党と国にある専制体制の勝利を意味した。
 1929年12月、スターリンの50歳誕生日は大きな歴史的行事として祝祭された。この日以降を我々は、「個人カルト」の時代と呼んでよい。
 1903年のトロツキーの予言は、現実のものになった。党の支配は中央委員会の支配になり、これはつぎに、一人の独裁者の個人的専制になった。//
 人口の4分の3を占めるソヴィエト農民の破壊は、世紀全体につづく経済的のみではない道徳的な厄災だった。
 数千万人が半奴隷状態へと落とし込まれ、数百万人以上がその過程を実行する者として雇われた。
 党全体が制裁者と抑圧者の組織になった。誰も無実ではなく、全ての共産党員が社会に強制力を振るう共犯者だった。
 かくして、党は新しい種の道徳上の一体性を獲得し、もはや後戻りできない途を歩み始めた。//
 このときにまた、残っていたソヴィエト文化と知識人界は系統的に破壊された。体制は、最終的な統合の段階に入っていた。//
 1929年から判決にもとづき殺害される1938年までのブハーリンの個人的運命は、ソヴィエト同盟やマルクス主義の歴史にとって重要ではない。
 敗北したあと彼は、最高経済会議のもとで調査主任としてしばらく働き、ときどき論文を発表した。それによって彼は、-ステファン・F・コーエン(Stephen F. Cohen)がその優れた人物伝で指摘するように-押し殺した批判をときおりは発しようとした。
 ブハーリンは中央委員会委員のままであり、公的に自説をさらに撤回した後で1934年に、<イズヴェスチヤ(Izvestiya)> の編集者になった。
 その年の8月の著述家大会で、当時にしては「リベラル」な演説を行い、1935年には、新しいソヴィエト憲法を起草する委員会の事実上の議長だった。この憲法文書は1936年に公布され、1977年まで施行された。この文書は、全部がではなくとも主に、ブハーリンの仕事だった。
 1937年2月に逮捕され、一連の怪物的な見せ物裁判の最後に、死刑が宣告された。
 伝記作者は彼を「最後のボルシェヴィキ」と呼ぶ。
 この叙述が本当なのか誤りなのかは、それに付着させる意味による。
 ボルシェヴィキという言葉で、新しい秩序の全ての原理-一つの政党の無制限の権力、党の「一体性」、他者の全てを排除するイデオロギー、国家の経済的独裁-を受諾する者を意味させるとすれば、本当だ。
 また、この枠の中で寡頭制または一個人による専制を避けること、テロルの使用なくして統治すること、そしてボルシェヴィキは権力を目ざす闘争の間に擁護した諸価値-すなわち、労働民衆またはプロレタリア-トによる統治、自由な文化の展開、芸術、科学および民族的伝統の尊重-を維持することは可能だと信じる者、を意味させているとすれば。
 しかし、かりに「ボルシェヴィキ」がこれら全てを意味するとすれば、その自らの前提から論理的帰結を導き出すことができない人間のことを、たんに意味している。
 他方、もしかりにボルシェヴィキのイデオロギーが一般論の問題にすぎないのではなく、自分の原理からする不可避の結果を受容することを含むとすれば、スターリンは、全てのボルシェヴィキやレーニン主義者と最も合致していた、と自らを正当に誇ることができる。//
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 以上で、第5節は終わり、第1章全体も終わり。叙述は第2章<1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立>へと移っている。

1789/ネップと20年代経済④-L・コワコフスキ著1章5節。

 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.37~p.40。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 今回の部分にスターリン時代の農村地域の飢餓・困窮等に関する叙述があるが、レーニン時代にも、干魃という自然的要因も(ボルシェヴィキによる食糧徴発政策の他に)あったが、類似の状態があったことを想起させる。試訳をこの欄に掲載しているR・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1995)/ネップ期のうちの「1921年の飢饉」にはより生々しく具体的な描写があり、「人肉喰い」があった確実な最少の件数も記している。この欄の、2017年4月、No.1515; 1516; 1518; 1520を参照。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争④。
 経済および財務政策はネップ期の間に実際に変わらないままだったのではなく、農民層に対する圧力を増加させる方向へと動いた。
 ブハーリンは別として、党の最高幹部層の中でのネップの擁護者は、首相としてレーニンを継いだルィコフ(Rykov)と労働組合担当の職責にあったトムスキー(Tomsky)だった。
 この二人はいずれも自分自身の力による秀れたボルシェヴィキで、決してスターリンの操り人形ではなかった。
 しかしながら、初期の時代からスターリンはモロトフ(Molotov)、ヴォロシロフ(Voroshilov)、カーリニン(Kalinin)およびカガノヴィチ(Kaganovich)のような者たちを指導層に送り込んだ。これらは自分では何も表現せず、スターリンに対して無条件に服従した。
 経済政策が不確定で曖昧だったため(ネップ熱烈支持者ですら最後の拠り所としての「田園地帯ての階級闘争」という考えをすっかり放棄することはできなかった)、行き詰まり、満足できる出口がなくなった。
1925年の農民に対する実質のある譲歩によって農業生産は増大したが、1927年までは穀物生産高は1914年以前の高さまでまだ達していなかった。一方では、工業の発展と都市化とともに食糧需要が増した。
 小土地所有者には処分できる穀物かなく、クラクは急いで売ることもしなかった。クラクが受け取る金で買える物が何もなかったのだから。
 このゆえにこそスターリンは1927年に、没収と強制という極端な手段を採用することを決意した。
 ブハーリンは最初からこの政策を承諾し、自分自身の基本的考え(プログラム)を修正して、計画化や重工業への投資の増大、国家による市場への干渉の強化、そして最後にクラクに対する「攻勢(offence)」の方向へと進んだ。
 これは左翼反対派を十分に満足させるものではなかったが、このことは大した意味がない。その間に彼らの地位は破壊されてしまっていたのだから。//
 農民層に対する経済的および行政的な圧力が高まることで、分配の劇的な下落、すでに深刻だった食糧事情のいっそうの悪化が生じた。
 スターリンは何度も繰り返して、クラクの危険性と階級敵の力の成長について語った。しかし、1928年2月にはまだ、ネップの廃止やクラクの粛清という風聞は反革命的なたわ言だと強く主張していた。
 しかしながら、ほんの四ヶ月のちに、集団農場を大量に組織化する「ときが成熟した」と発表した。
 7月の中央委員会会議で、そのときまでは激しく攻撃していたプレオブラジェンスキーの諸主張(テーゼ)の全てを是認した。
 ロシアは国内での蓄積によってのみ工業化を達成することができる。唯一の解決策は、農民が工業製品を求める鼻を通じて支払うことができるような額に価格を固定することだ。
 スターリンは同時に、「中産農民との永遠の同盟」を支持しつづけ、小規模の農業生産はまだ不可欠だと断言した。
 にもかかわらず、ブハーリン、ルィコフおよびトムスキーは、この新しい政策に反抗した。これに対してスターリンは、新しい右翼反対派だとの烙印を捺した。
 スターリンは1929年の初めにこの悲しい展開を政治局に報せ、のちにすみやかに世界全体に知らせた。
 (1928年秋の諸演説で「右翼主義(rightist)の危険」に触れていたが、政治局は全員が一致していると明言していた。)
 説明によれば、右翼偏向は、工業化を遅らせる、不確定の将来へと集団化を延期する、取引の完全な自由を再構築する、クラクに対する「非常手段」の使用-換言すると、徴発、逮捕、警察による圧力-を貶す、といったもので成り立つ。
 「右翼主義者」は国際情勢の見方に関して誤りがある、ということもすぐに示された。すなわち、彼らはまだ世界資本主義の安定化を信じ、社会民主主義的左翼と闘うのを拒否しているのだ、と。//
 スターリンはこの時期に一連の演説も行い(最初は1928年7月)、新しい原理を表明した(これは理論家としての名声に加わった)。
 それは、共産主義が発展し続けるとき、階級闘争と搾取者の抵抗はますます暴力的になる、ということだった。
 つづく25年の間、ここで新たに述べられたことは、ソヴィエト同盟およびその支配に服する諸国家での大規模の抑圧、迫害および虐殺の根拠として役立つことになった。//
 こうしたことが、ソヴィエト農業の大量集団化を始める設定条件だった。-おそらくは、国家が自らの公民に対してかつて行なった最も大規模な、戦争に似た作戦行動だった。
 強制的手段を緩やかに用いる試みが成果をもたらさないことが分かって、スターリンは1929年の終わりに、大量の「階級としてのクラクの粛清」を伴う、完全な集団化をただちに開始することを決定した。
 数ヶ月のちの1930年3月、この政策がすでに厄災的な結果を生じさせたとき-農民たちは大規模に穀物を粉砕して家畜を殺戮した-、スターリンは一時的に落ち着かせて、「成功による目眩み」という論考で、党官僚にある過度の熱狂と焦りや「自発性の原理」違反を非難した。
 これは党と警察機構にためらいを生じさせ、多くの集団農場は自分たちで合意して解散した。
もはや強制力を用いる政策へと転じるほかはなく、それは国をこの世の地獄に変えた。
 数十万の、最終的には数百万の農民たちが、恣意的に「クラク」と張り札をされてシベリアまたは他の離れた地域に追放された。
 村落での絶望的な一揆は軍隊や警察によって血をもって弾圧され、国は混乱、飢餓と困窮に陥った。
 ある場合には、いくつかの村落の住民全員が追放されるか、飢餓によって死んだ。
 大急ぎで編成された大量の護送車の中で、数千人が殺されるか、寒さと窮状に追い込まれた。
 半死の犠牲者たちは救援を求めて田園地帯を放浪した。そして、人肉喰い(cannibalism)行われた場合もあった。
 飢えていく農民が都市へ逃亡するのを防ぐために、国内旅券制度が導入され、許可されていない住居の変更には投獄という制裁が課されることとされた。
 農民には、この旅券が少しも発行されなかった。そしてそのために、封建的農奴制の最悪の時代のように、土地に縛りつけられた。
 このような物事の状態は、1970年代まで変わらなかった。
 集中強制収容所(concentration camp)は、重労働を宣告された新しい囚人の群れで満ちた。
 農民たちの自立を拒絶して彼らを集団農場へと追いたてる目的は、奴隷である民衆を生み出すことだった。その労働の利益は、工業を増加させるだろう。
 直接の効果は、多数の再組織化や改革の手段をとったにもかかわらず、まだ回復していない減退の状態にソヴィエト農業をしたことだった。
 スターリンが死んだとき、大量の農業集団化が始まってからほとんど四半世紀の後に、人口一人当たりの穀物生産高は、1913年のそれよりもまだ低かった。
 この期間のあいだずっと、困窮と飢餓があったにもかかわらず、農場生産のうちの大量部分はソヴィエト工業のために全世界へと輸出された。
 この年月のテロルと抑圧は、実際のとおり桁外れだが、たんに人命の損失数だけで表現することはできない。
 集団化とは何を意味したのかを最も生々しく描いているのは、おそらくヴァシリ-・グロスマン(Vasily Grossman)の、その死後に出版された小説、<永遠に流れる>(Forever Flowing)だ。//
 「新路線」と強制的集団化の政策を採用したのは、スターリンがたんにトロツキー=プレオブラジェンスキーのプログラムを、その執筆者を排除したあとで取り上げたにすぎない、と広く考えられている。
 このことは最初からブハーリンの責任だったとされる。そして、もはや政策の根本的な衝突はないという理由で急いでスターリンに許しを乞うた、以前の反対派の多くも、そう信じた。
 許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑤へとつづく。

1787/ネップと20年代経済②-L・コワコフスキ著1章5節。

 この著には、邦訳書がない。かつての西ドイツでは原ポーランド語からのドイツ語直訳書が1977年~79年に一巻ずつ出版されたようだ。第一巻に限ると、英語版よりも1年早い。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.29~p.33。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争②。
 トロツキーが1920年のしばらくの間は、テロルに他ならないものを基礎とする経済の有効性を疑っていた、そして穀物の徴発を現物税〔食糧税〕に変えるべきだと彼は提案した、というのは本当(true)だ。
 しかし、まもなく彼は考えを変え、ネップ期の間は、「緩やかな」経済に対する、主要な反対者の一人になった。反対したその経済とは、農民層に物質的に譲歩し、自由取引を都市部と村落地域の間の取引の主な態様にするものだった。//
 ブハーリンの考えは一方で、反対の方向へと進展した。
 1920年には、計画経済という考えは幻影(fantasy、お伽ぎ話)の世界に属していた。
 ロシアの産業は破滅していて、輸送はほとんどなく、まさしく苦悩する問題は、共産主義の新世紀をどう始めるかではなくて、迫り来る飢餓から都市をどう救うかだった。
 この悲惨な状況でレーニンがその経済上の教理から退却する号砲を鳴らし、農業生産物の自由な取引、小規模の私的企業の許容によって農民的経済と長期間を共存していこうと決意したとき、ブハーリンも同様にその初期の立場を放棄し、ネップの熱烈な支持者とイデオロギストになった。これはまずはトロツキーに、次いでジノヴィエフ、カーメネフおよびプレオブラジェンスキーに反対するものだった。
 1925年以降、ブハーリンは、反対者に対するスターリンの主要なイデオロギー上の支持者だった。
 彼はレーニンのように、<過渡期の経済学>で説いたプログラム全体が妄想(delusion)だったということを認識するに至った。 そして、指導者たちが逆上(frenzy)した短い間に生命を贖った数百万の犠牲者のことを気にかけなかった。//
 市場経済へと回帰するのを支持するブハーリンの根拠は、-もちろん銀行や主要産業の国有は維持するのだが-主としては経済上のものだが、ある程度はまた政治的なものだった。
 主要な論点は、農業がほとんど全体的に小農民の手にある状況のもとで、経済的手段によって望ましい蓄積のレベルを達成して産業を発展させるために、国家はいかにして商品経済への影響力を行使できるか、だった。
 市場条件のもとで農民から必要な量の食糧を獲得するためには、生産者および消費者の商品と同等の価値のものを村落地域に供給することが必要だ。
 これは、不可能ではなくとも、産業が破滅している国家では困難だ。しかし、そうしなければ、農民たちは産物を売らないだろう。売って収益を得ても買うことのできる商品が何もないのだから。
 付け加えれば、これは、国家経済が農民の慈悲にすがるしかないとすれば、「プロレタリア-ト」、つまりはボルシェヴィキ党、はいかにして支配的な地位を維持できるのか、という問題だった。 
 市場が発展していけば、農民たちの地位はそれだけ強くなるだろう。そうすると、彼らは最後には「プロレタリア独裁」を脅かすかもしれない。//
 プレオブラジェンスキーは、経済問題ではトロツキストだと見なされていて、農民層に譲歩するスターリンとブハーリンの政策に反対した。彼は、つぎのように論じた。
 最初の段階での社会主義国家の主要な任務は、産業の強い基盤を作り出し、蓄積の必要な程度を確保することだ。
 これ以外の全ての経済目的は工業に、とくに産業装置を備えた製造業の発展に従属しなければならない。
 資本主義的蓄積は植民地の強奪によって容易になったが、社会主義国家は植民地を持たず、自分の資源でもって工業化を達成しなければならない。
 しかしながら、国家産業は、それ自体は十分な蓄積の基盤を作り出すことができず、小生産者から、すなわち現実には農民層から資源を吸い取らなければならない。
 私有の耕作地は、国内の植民地化の対象にならなければならない。
 プレオブラジェンスキーは、工業への投資を増大させるために農民の労働から最大限の量の余剰価値を抽出することによる、農民の搾取であることを率直に認めた。
 この「植民地化」の過程は主としては、工業生産物の価格を国家が農業生産物に支払う価格と釣り合う最高限度までに固定することによって、達成するものとされた。
 これは、可能なかぎり短い期間のうちに最大限の援助を奪い取るために、農民層に対する別の形態での経済的圧力によって実施された。
 他方で党指導者たちは、小生産者の側での蓄積を促進し、農民層の福利のために工業を、とくに重工業を軽視する政策を追求した。
さらには、この政策の主要な利得者は、クラク(富農)だった。
 というのは、全てが産業の側からの、これは相対的に強い階級、プロレタリア-トの独裁の側からということになるが、これからの要求を無視して農業の生産性を向上させるためになされていたので、自然のこととして、最大の配当を約束する豊かな農民たちが選択するように貸金や設備が動いたからだ。
 このことは不可避的に、最初は経済的でのちにすみやかに政治的にもなった富農の力を強くした。彼らは、プロレタリア-トの権力を掘り崩し始めるだろう。
 当時の現存の政府のように全ての農民層の経済的要求を充足させて、食糧を売却するよう誘導したい者たちは、交流のある外国との通商政策を押し進め、工業のための生産物の代わりに農民層のために消費用商品を輸入しなければならないだろう。
 このような展開の全趨勢はプロレタリア-ト以外の階級の利益のために歪曲され、その結果は、社会主義国家の存在に対する脅威になるだろう。//
 このような基本的考え方に添って主張して、プレオブラジェンスキーおよび左翼反対派は、農業の集団化に向けて攻め立てた。どのような方法によってそれが達成されるのか、彼らは明瞭には説明しなかったけれども。//
 トロツキーは、これと同じ基本的考え方だった。
 1925年に彼が書いたように、国有工業が農業よりも少ない早さで発展すれば、資本主義の復活は不可避だ。
 農業は国有産業の一部門になるように機械化され、電気化されなければならない。
 こうしてのみ、社会主義は異分子の要素を放逐し、階級対立を解消することができる。
 しかし、このこと全てが、工業が適切に発展するということにかかっていた。
 結局のところは、新しい形態の社会の勝利は、その社会での労働の生産性が果たす。
社会主義は、徐々に資本主義よりも高い生産性を達成する力をもつことを理由として、勝利するだろう。
 こうして、社会主義の勝利は、社会主義的工業化に依存する。
 社会主義とはじつに、その側にあらゆる利点をもつのだ。技術の進歩はすみやかにかつ全般的に応用することができ、私的所有制が生んだ障壁によって遮られることはない。
 経済の中央集中化は、競争に由来する無駄の発生を妨げる。
 産業は消費者の気まぐれに左右されるものではない。そして、国民全体の志気が、高い次元の生産性を保障する。
 中央集中化と標準化は自発的主導性を駄目にするもので、いっそう仕事を単調にすることを意味すると苦情を述べるのは、前工業時代の生産への反動的な憧れに他ならない。
 経済全体が「単純で画一的な自動的機械構造」へと変わらなければならない。そしてそのためには、資本主義的な要素、すなわち小農民生産者に対して絶えざる批判的宣伝運動をしなければならない。この闘いを放棄することは、資本主義への回帰を黙って認めることになる。
 トロツキーは、プレオブラジェンスキーと違って、「社会主義的蓄積の客観的法則」や産業投資のために農民層から最大限に余剰価値を強要する必要性を語りはしなかった。しかし、資本主義に対する経済的な攻勢を呼びかけたので、同じことに帰一した。
 反対者たちがブハーリンを非難したのは、根本的に豊かなクラク(富農)の利益のためのもので、「テルミドールの反動」だ、という理由でだった。
 ブハーリンの政策は社会主義に対する階級的敵対意識を高め、経済における資本主義的要素に特有の危険性を増大させるだろう、と彼らは主張した。
 スターリン、ブハーリンおよびこれらの支持者は答えて、「超(super)工業化」を呼びかけるのは非現実的だ、反対者たちの政策は富農だけではなく巨大な農民中間層を体制の敵に回す、と主張した。
 それは「プロレタリア-トと貧農および中農との同盟」というレーニンの神聖な根本規範に反する。そして、ソヴィエト国家の存在そのものを脅かすだろう、と。
 反対派は継続的に、資本主義的要素を阻止し続けるべきだと要求しているが、-たとえ経済的だけでも-政府からの圧力が強まって農民層の意欲(incentive)が奪われたらどうすべきなのかを語っていないし、国家は警察による強制以外のどんな方法によって食糧の生産と分配を確保できるかについても、何ら語っていない。//
 この当時にスターリンが支持したブハーリンの論拠は、戦時共産主義の時代が十分に証明するように、国家の農民層に対する徹底的な闘いは経済的に非効率で政治的には厄災だ、ということだった。
 国家の経済発展は農民層の最大限の搾取に依存すべきではなく、国家と村落地域の間をを、ゆえに労働者階級と農民層の間を連結する市場を保持することによるべきだ。
 蓄積の程度は流通の効率性と速度にかかっており、このことにこそ尽力は向けられるべ きだ。
 農民が強制または経済的手法によって余剰の全てを剥奪されるならば、自分が食べる以上の食糧を産出しないだろう。
 そのゆえに、農民に強制力を用いることは、国家とプロレタリア-トの瞭然たる利益に反する。
農業生産を増大させる唯一の方法は、物質的な動機づけを与えることだ。
 これは確かに、クラク(富農)に有利になることだろう。しかし、商取引上の協働関係の発展によって、クラクを含む農民全体を、全体としての経済成長を推進する国家統制体制の中に組み込むことが可能になる。//
 工業の発展は、村落の市場にかかっていた。農民層による蓄積は工業製品への需要の増大を意味した。そしてそのゆえに、全ての範疇の農民による蓄積を許容することは、国家全体の利益だった。
 こうしたことから、ブハーリンは1925年に農民に対して「金持ちになれ(Get rich)!」と訴えかけた。-これは、後年にはこの人物の非正統性を紛れもなく示す証拠として、しばしば引用されるスローガンだ。
 ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1785/ネップと1920年代経済➀-L・コワコフスキ著3巻1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.25~p.29。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争①。
 1920年代のソヴィエト経済政策をめぐる論争は、「一国での社会主義」の問題よりもはるかに純粋だ。後者は、何らかの実践的または理論的な問題を解決するというよりも、党派のための外観上の偽装だった。
 しかしながら、工業化をめぐる有名な議論ですら、二つの対立する基本的考え方の衝突だとして述べるに値しない。
 ロシアを工業化しなければならないと、誰もが合意していた。議論の要点は、それを進行させる速度であり、破滅をはらんだ、ソヴィエト農業や農民と政府の関係という関連する問題だった。
 しかしながら、これらの問題は根本的に重要であり、異なる観点からの諸見解は、国家全体に対して大きな意味をもつ異なる政治決定をもたらした。//
 ブハーリン、(1921年に公式に開始された)ネップ〔新経済政策〕の主要なイデオロギストは、党内ではきわめてよく知られ、第一級の理論家だと見なされていた。
 ジノヴィエフとカーメネフの脱落の後、彼はスターリンに次ぐ党の最も重要な人物になった。//
 ニコライ・イワノヴィッチ・ブハーリン(Nikolay Ivanovich Bukharin)は、1905年革命の間又は直後に社会主義運動に入った世代に属する。
 モスクワで生まれて育ち、知的階層の一員で(両親は教師だった)、まだ在学中に社会主義集団に加入した。そして、その政治的経歴の最初からボルシェヴィキ党員だった。
 1906年の末に18歳になったばかりで入党し、モスクワでのプロパガンダ活動に従事した。
 1907年に大学の経済学の学生として登録したが、政治が彼の時間を奪い、その課程を修了しなかった。
 1908年にすでに、モスクワの小さなボルシェヴィキ組織の責任者になった。
 1910年秋に逮捕されて国外追放を宣告されたが、脱走して、つぎの6年間をエミグレの一人としてドイツ、オーストリアおよびスカンジナビア諸国で過ごした。そこで彼は著作を行って、政治経済の分野でのボルシェヴィキ理論家としての名声を獲得した。
 1914年に、<不労所得階級の経済学-オーストリア学派の価値と収益理論>と題する書物を書き終えた。これは、1919年にモスクワで最初に、全文が出版された。
 そしてその英語版である<余暇階層に関する経済理論>は、1927年に刊行された。
 この本はマルクス主義教理を防衛するもので、限界主義者(marginalists)、とくにベーム-バヴェルク(Böhm-Bawerk)を攻撃した。
 タイトルが示唆するように、ブハーリンは、オーストリア学派の経済理論は寄生性的に分けられたブルジョアジーの心性をイデオロギー的に表現したものだ、と主張した。
 マルクスの防衛に関しては、彼の著作はヒルファーデングの以前の批判に何も加えなかった。
 1914年に第一次大戦が勃発したとき、ブハーリンはウィーンからスイスへと追放され、そこで彼は、帝国主義の経済理論に関して研究した。
 彼はこのとき、民族および農民問題をめぐっては「ルクセンブルク主義者」的に過っていると批判するレーニンとの論争にかかわった。
  ブハーリンは、古典的なマルクス主義の図式に照らして、民族問題はますます重要でなくなっており、社会主義の階級政策の純粋さは民族自己決定権によって汚されるべきではない、と考えた。それは、夢想家的でありかつマルクス主義に反している、と。
 同じように彼は、党がその革命の政策で農民層の支持を求めることに同意しなかった。マルクス主義が教えるように、小農民階級はともかくも消失する運命にあり、農民層は歴史的に反動的な階級なのだから、と。
 (しかしながら、のちにはブハーリンは、主としてまさしく反対の「逸脱」の代表者だと記されることになる。)//
 スイスで、その後にはスウェーデンで、ブハーリンは<帝国主義と世界経済>を執筆した。これの全文は1918年にペトログラードで最初に出版された。
 レーニンは草稿を見て、自分の<帝国主義、資本主義の最高次の段階>のために自由に利用した。
 ブハーリン自体はヒルファーデングの分析を利用したが、資本主義が発展するにつれて国家経済の経済上の役割の重要性は大きくなる、そして、国家資本主義という新しい社会形態、つまり中央志向で計画されて国民国家の規模で統制される経済へと向かう、とも強調した。
 このことは、市民社会の広大な分野に対する国家統制の拡大と人間の奴隷化の強化を意味した。
 犠牲を必要とする国家というモレク(the Moloch)は、国内の危機のないままで機能し続けることができるが、私的な生活の諸側面をますます浸食することでのみ、そうできる。
 しかしながら、ブハーリンは、世界経済の中央集権的な組織化によって戦争の必然性は回避できる、そのような「超帝国主義」段階があることを期待するカウツキーやヒルファーデングに同意しなかった。
 彼が考えるに、国家資本主義は世界的な基盤のもとでではなく、一国の規模で作動が可能だ。
 ゆえに、競争、無秩序、そして危機は継続するだろうが、それらはますます国際的な形態をとるだろう。
 それはまた、-ここでブハーリンは少しばかり異なる理由でレーニンに同意する-プロレタリア-ト革命の根本原因は、今や国際的な情勢の文脈の中で予見しなければならない。//
 いく分かのちにレーニンは、プロレタリア-トは革命後には国家を必要としないという「アナキスト類似の」考えだとして若きブハーリンを批判した。-レーニンが1917年の<国家と革命>で詳述したのときわめてよく似た夢想家的考えだった。//
 1916年の終わりにかけてブハーリンはアメリカ合衆国へ行き、そこでトロツキーと議論し、アメリカ左翼に、戦争と平和の問題に関するボルシェヴィキの見方を説得する活動をした。 
 二月革命の後でロシアに帰還すると、すぐに党指導者の中での地位を獲得し、レーニンの「四月テーゼ」を全心から支持した。
 十月革命の前と後の重大な数ヶ月の間、彼は主としてモスクワで組織者かつ宣伝者として活動した。
 革命後に<プラウダ>の編集長になり、その地位に1929年までとどまった。
 ロシア革命の運命は西側に火をつけることができるかにかかっているとの一般的な考えを共有していて、ブハーリンは、レーニンのドイツとの分離講和に断固として反対した。
 1918年の最初の劇的な数ヶ月の間、革命戦争の継続を強く支持する「左翼共産主義者」の指導者の一人だった。レーニンは軍の技術的および道徳的状況を冷静に評価していたけれども。
 しかしながら、いったん講和の結論に至ると、彼は全ての重要な経済および行政の問題について、レーニンの側に立った。
 「ブルジョア」の専門家や工場での熟練者を採用することに、あるいは職業的能力や伝統的紀律にもとづいて軍隊を組織することに抵抗する左翼反対派を、彼は支持しなかった。//〔分冊書-p.27。合冊本-p.810。〕
 「戦時共産主義」(既述のとおり、誤解を招く言葉だ)の時期の間、ブハーリンは、強制、徴発、そして市場と貨幣制度なくして何とか新生国家を管理することができ、近いうちに社会主義的生産を組織するだろうとの希望、を唱道した主要な理論家だった。
 ネップ時期の前の数年間に、ここですぐに検討する<史的唯物論>に加えて、党の経済政策を詳論する二つの著書を刊行した。<移行期の経済学>(1920年)と、E・プレオブラジェンスキー(Preobrazhenski)との共著の<共産主義のイロハ(ABC)>(1919年。英語版、1922年)だ。
 これらは、当時のボルシェヴィキの政策を権威をもって説明する、準公式的な地位をもった。
 レーニンのようにブハーリンは、国家は革命ののちにすぐに消滅するとの夢想家的教理を投げ捨てたのみならず、プロレタリア-トによる政治的独裁はもちろんのこと経済的な独裁の必要性も強く主張した。
 彼もまた、発展諸国での「国家資本主義」の進化に関する見方を繰り返した。
 (レーニンはこの術語を用いて、社会主義ロシアでの私的産業を参照させた。
 ある程度の言葉上の誤解を生じさせたことだ。)
 「均衡」(equilibrium)という観念を、社会過程を理解するための鍵だとして強調した。
 生産に関する資本主義制度が均衡をいったん失えば-これは不可避の破壊的帰結を伴う革命の過程でもって証明されるが-、それは新しい国家の組織化された意思によってのみ復活することができる、と彼は論じた。
 国家装置はゆえに、生産、交換および配分のための社会組織と繋がっている全ての作用を奪い取らなければならない。
 これは実際には、全ての経済活動の「国家化」(statization)、労働の軍事化、および全般的な配給制度を、要するに、経済全般に対して強制力を用いること、を意味する。
  共産主義のもとでは、市場の自発的な活動は問題にならない。価値の法則は働くのを止める。全ての経済法則が人間の意欲とは無関係に働くように。
 全てが国家の計画権力に服従する。そして、従前の意味での政治経済は、存在しなくなる。
 そうして、社会の組織化は本質的に農民に対する(vis-a-vis)強制(強制的徴発)や労働者に対する強制(労働の軍事化)にもとづいてはいるけれども、労働者からの搾取(exploitation)は明らかに存在しない。定義上、その階級が自ら自身を搾取することは不可能なのだから。//
 レーニンのようにブハーリンは、大量テロルに経済生活をもとづかせるシステムを、過渡的な必要物ではなく社会主義的組織化の永遠の原理だと考えた。
 彼は強制のための全ての手法を正当化することを躊躇しなかった。また、同時期のトロツキーのように、新しいシステムを本質的に労働の軍事化だと考えた。-これは言い換えると、国家が宣告するいかなる場所といかなる条件でも全民衆が労働することを強制するために警察力と軍事力を用いる、ということだ。
 実際に、いったん市場が廃止されると、労働力の自由な取引や労働者間の競争はもはや存在しなかった。したがって、警察による強制は、「人的資源」を割りふるための唯一の方法だった。
 雇用労働が廃止されると、強制労働だけが残る。
 言い換えると、社会主義とは-この時期のトロツキーとブハーリンの二人がともに想定していたごとく-、永続する、国家全体に広がる労働強制収容所(labour camp)なのだ。
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 ②へとつづく。

1784/一国社会主義-L・コワコフスキ著1章4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第4節、 p.21~p.25。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第4節・一国での社会主義。

 1924年の末にかけてトロツキーとその「永続革命」との考えに対抗して定式化された「一国での社会主義」という教理は、長い間、スターリンによるマルクス主義理論への大きな貢献だと考えられてきた。これから推論される帰結は、トロツキズムは一団の反対物たる明確な教条だ-トロツキー自身も明らかに共有するに至る見方-、ということだ。
 しかしながら、現実には、二人の間には、理論上の不一致はもちろん、根本的な政治的対立は存在していなかった。//
 述べてきたように、十月蜂起の指導者たちは、革命の過程はすみやかにヨーロッパの主要諸国に広がるだろう、世界革命の序曲(prelude)でなくしてはロシア革命には永続する希望はない、と信じた。
 初期のボルシェヴィキ指導者の誰も、これとは異なる考え方を抱いたり、表明したりすることはなかった。
 この主題に関してレーニンがいくつか書いたことも紛らわしさが全くないものだったので、スターリンはのちに、それらを著作集から削除した。
 しかしながら、世界革命の望みが少なくなり、共産主義者たちのヨーロッパで蜂起を発生させようとする絶望的な努力は失敗に帰したので、彼らは、その社会がいったい何で構成されるのかを誰も正確には知らなかったけれども、当面の直接の任務は一つの社会主義社会の建設だということにもまた同意した。
 二つの基本的な原理が、受容されつづけた。すなわち、歴史法則によって最終的には世界を包み込む過程を、ロシアは開始した。そして、西側の諸国が自分たちの革命を始めるのを急いでいない間は、自国の社会主義への移行を開始するのはロシア人だ。
 社会主義を実際に一度でもまたは全部について建設することができるのか否かという問題は、真剣には考察されなかった。実際の結論は、答えに訊くしかなかったのだから。
 内戦の後でレーニンが、布令を発することでは、ましてや農民を射殺することでは穀物を成育させることはできないと気づいたとき、そして引き続いてネップを導入したとき、彼は確実に「社会主義の建設」にこだわっており、外国で革命を搔き立てること以上に、国家内部の組織化に関心をもっていた。//
 スターリンが1924年春に「レーニン主義の基礎」という論文を発表したとき-これはレーニンの教理を彼自身に倣って集大成する最初の試みだった-、彼は一般的に受容されていることを繰り返して抽出し、トロツキーを、農民の革命的役割を「誤解」しており、革命はプロレタリア-トによる一階級支配によって開始することができると考えていると、攻撃した。
 彼は、こう論じる。レーニン主義は、帝国主義時代とプロレタリア革命時代のマルクス主義だ。ロシアは、その相対的な後進性とそれが苛んだ多くの形態の抑圧によって革命へと成熟していたがゆえに、レーニン主義が生まれた国になった。レーニンはまた、ブルジョア革命の社会主義革命への移行を予見した。
 しかしながら、スターリンはこう強調した。単一の国のプロレタリア-トだけでは最終的な勝利をもたらすことができない、と。
 トロツキーは同じ年の秋に、1917年以降の自分の著作を集めたものを刊行した。その序言では、自分が唯一のレーニン主義原理に忠実な政治家だとの証明や、指導者たち、とくにジノヴィエフとカーメネフ、は優柔不断でレーニンの蜂起計画に敵対する態度をとったことに対する批判、を意図すると述べた。
 彼はまた、ジノヴィエフがそのときに議長(the chief)だったコミンテルンを、ドイツでの蜂起の敗北や革命的情勢を利用できないことについて攻撃した。
 トロツキーの批判は、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、リュコフおよびクルプシュカヤその他による、集団的な回答を惹き起した。それは、過去の全ての過ちと失敗についてトロツキーを非難し、彼は傲慢であり、レーニンと争論をした、革命に対するレーニンの貢献を貶した、と責めた。//
 スターリンが「トロツキズム」という教理を作りだしたのは、このときだった。
 1917年以前にトロツキーが定式化した「永続革命」という考えは、ロシア革命は継続して社会主義段階へと移るが、その運命はそれが生じさせる世界革命にかかるだろう、と予想するものだった。
 さらに、巨大な層の農民が多数派である国家では、労働者階級は国際的なプロレタリア-トによって支援されなければ政治的に破壊されるだろう、国際プロレタリア-トの勝利だけがロシアの労働者階級の勝利を確固たるものにできる、というものだった。
  「ブルジョア革命の社会主義革命への移行」という問題はその間には対象ではなくなっていたので、スターリンは、トロツキズムは社会主義は明らかに一国では建設され得ないと主張するものだと意味させた。-かくして、スターリンは読者に、トロツキーの本当の意図はロシアに資本主義を復活させることだ、と示唆した。
 1924年の秋、トロツキズムは三つの原理に依拠している、とスターリンは明瞭に述べた。
 第一に、プロレタリア-トの同盟者としての農民という最も貧しい階層のことを分かっていない。
 第二に、革命家と日和見主義者の間の平和的共存を認めている。
 第三に、ボルシェヴィキ指導者たちを誹謗中傷している。
 のちに、トロツキズムの本質的な特徴は、一国での社会主義の建設を開始するのが可能であるにもかかわらずそれを遂行するのは不可能だと主張することにある、と明言された。
 スターリンは<レーニン主義の諸問題について>(1926年)で1924年春の自分自身の見解を批判し、一国での社会主義を最終的に建設する可能性と資本主義者の干渉に対して最終的に自己防衛する可能性とは明確に区別しなければならない、と述べた。
 資本主義が包囲する状況では、干渉に対抗できる絶対的な保障はないが、それにもかかわらず、十分な社会主義社会を建設することができる、と。//
 一国で社会主義を最終的に建設できるのか否かに関する論争の要点は、ドイチャー(Deutscher)がスターリンの生涯について適切に観察したように、党活動家の心理を変えようとするスターリンの意欲にある。
 彼はロシア革命は自己完結的だと強調することで、世界共産主義の失敗が生んだ意気消沈と対抗しているのであつて、理論にかかわっているのではない。
 スターリンは党員たちに、「世界のプロレタリア-ト」の支援の不確実さに困惑する必要はない、我々の成功はそれにかかっているのではないのだから、ということを確かなものにしたかったのだ。
 要するに彼は、もちろんロシア革命は世界全体の革命の序曲だとの神聖な原理を放棄しないで、楽観的な雰囲気を生み出そうとした。//
 トロツキーが1920年代のソヴィエト外交政策とコミンテルンの職責にあったとすれば、スターリンよりも外国の共産主義者の反乱に関心を寄せていただろう、ということはあり得る。しかし、彼の努力が何がしかの成功をもたらしたと考えることのできる根拠はない。
 当然に、トロツキーは、スターリンが革命の根本教条を無視しているためだとして世界の共産主義者の敗北を利用した。
 しかし、欠けているとしてトロツキーが責めた国際主義的な熱情をもってスターリンがかりに活動したとして、彼は何をすることができただろうかは、少しも明確ではない。
 ロシアには、1923年のドイツ共産党や1926年の中国のそれの勝利を確実にする手段がなかった。
 一国社会主義というスターリンの教理のためにコミンテルンは革命の機会を利用できなかった、というトロツキーの後年の責任追及は、完全に実体を欠いている。//
 かくして、社会主義は一国で建設され得ることについての積極的主張と否定という、「本質的的に対立する」二つの理論に関しては疑問はない。
 理論上は誰もが、世界革命を支援する必要性とロシアに社会主義社会を建設する必要性をいずれも、承認していた。
 スターリンとトロツキーは、これの一方または他方の任務に注入すべき活力の割合に関して、ある程度は異なっていた。二人はともに、この違いを想像上の理論的対立へと膨らませたのだ。//
 トロツキーが頻繁に行った党内民主主義は彼らの体制にとって本質的だとの主張は、なおさら信じ難い。
 すでに述べたように、党内部の官僚制的支配に対するトロツキーの攻撃は、彼が事実上党組織への権力を奪われたときに始まった。まだ権力を持っている間は、彼は警察および経済の制度に対する官僚制の、および軍事的または政治的な統制の、最も専制的な先頭指導者の一人だった。
 のちに彼が罵倒した「官僚制化」は、国家の民主主義的仕組みを全て破壊したことの当然のかつ不可避の結果だった。それは熱情をもってトロツキー自身が入り込んだ過程であり、決して後になって否認することはできないものだった。//
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 第4節おわり。第5節「ブハーリンとネップ理論/1920年代の経済論争」へとつづく。

1781/スターリン・権力へ③-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.18~p.21。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇③。
  新しい職〔総書記〕は党の階層の個人的な最高位ではなかったし、そのような職は実際に存在しなかった。
 総書記の職務は党官僚たちの当面の仕事を監督する、官僚機構内での調整を図る、上位者たちを任命する、等々だった。
 洞察すれば、つぎのことを明確に理解することができる。すなわち、全ての他の形態の政治生活が破壊され、党が国家にある唯一の組織された力あるものになれば、その党機構の職責にある個人は、全能になるにちがいない。
 これは、現実に生じたことだ。しかし、この当時は、誰も感知しなかった。
 ソヴィエト国家は歴史上に先例のないものだった。政治の舞台上の演者は、その劇の結末を予見していなかった。
 総書記としてのスターリンは、地方の党の職および最上位を除く中央の職についてすら、自分の味方をそれらの多数派になるよう送り込むことができた。そして、会議や会合を組織する仕事を通じて、その力は高まった。
 もちろん、それはゆっくりとした過程ではあった。
 最初の数年間にはまだ、党内部での論争、対抗集団の形成、異なる基本政策の主張が見られた。
 しかし、時が経つにつれて、それらの頻度は少なくなり、きわめて上位の階層内に限られるようになった。//
 述べてきたように、レーニンが生きている間に党内に反対集団があり、それは専制的で官僚的な統治方法の増大に対して、ある程度の共産党員が不満をもっていることを反映していた。
 最もよく知られる代表者はアレクサンダー・シュリャプニコフ(Alexsandr Shlyapnikov)とアレクサンドラ・コロンタイ(Alexsandra Kollontay)である「労働者反対派(Workers' Opposition)」は、字義どおりの「プロレタリア-トの独裁」、言い換えると、権力は党によってのみならず労働者階級全体によって実際に行使されるべきだということ、を信じた。
 彼らは決して国家民主政への回帰を擁護したのではなく、たわいもなくつぎのように空想した。ソヴィエト体制は、大多数、とくに農民と知識人、に関するかぎりで民主主義的生活様式を廃止したあとで、特権をもつ少数派、つまりプロレタリア-トのそれ(民主主義的生活様式)を維持することができる。
 別の反対派集団は、党の外部ではなく、党内部での民主主義を復活させることを望んだ。官僚機構の力の増大、全ての職の任命システム、および党内議論の減少や空虚な儀式のための選挙に異議を申し立てたのだ。//
 このような夢想家(Utopian)的批判は、ある程度はスターリン死後の共産主義体制の中で感じることとなる「危機的な」傾向を予期させた。すなわち、党の外部にではなく内部に民主主義が覆うべきだとの主張。あるいは、権力は全プロレタリア-トまたは労働者評議会によって、もちろん社会のそれ以外の者たちによってではなく、行使されるべきだとの主張。
 しかしながら、こうした考え方とは別に、初めの数年間に新しい範型の共産主義が出現した。それは、ある意味では、アジア的農民の必要と利益を反映する毛沢東主義(Maoism)の先行型だった。
 この傾向を作りだしたのは、民族的にはバシュキール(Bashkir)、職業は教師の、ミール-サイト・スルタン-ガリエフ(Mir Sayit Sultan-Galiyev)だった。
 この人物は十月革命のすぐ後にボルシェヴィキになっており、ソヴィエト同盟のムスリム(Muslim、イスラム教)圏域内からの数少ない知識人の一人だった。そして早々に、中央アジア民衆に関する専門家だと認められた。
 しかしながら彼は、ソヴェト体制はイスラムの民衆のいかなる問題も解決せず、彼らを別の形態の抑圧に従属させるだけだ、と考えた。
ロシアで独裁的権力を握った都市プロレタリア-トはブルジョアジーに劣らずヨーロッパ人で、やはりムスリム民衆には異邦人だ。
 時代の根本的な対立は発展諸国のプロレタリア-トとブルジョアジーの間にではなく、植民地または半植民地の民衆と産業化した世界全体の間にある。
 ロシアでのソヴィエト権力はこれら民衆を解放するために何もできないばかりか、恒常的な抑圧をし始め、赤旗のもとで帝国主義政策を追求するだろう。
 植民地民衆は、全体としてのヨーロッパの覇権に反対して結束し、自分たちの党とボルシェヴィキのそれから自立したインターナショナルを創設し、そして、ロシア共産主義に対するのと同様に西側の植民地主義者と闘わなければならない。
 彼らはイスラム教の伝統に反植民地イデオロギーを結びつけ、一党システム、および軍事力に支えられた国家組織を創出しなければならない。
 スルタン-ガリエフは、このような基本綱領にもとづいて、ロシアの党とは別にムスリムの党を結成し、そして独立のタタール=バスク国家を設立しようすらした。
  彼のこの運動は、レーニンのイデオロギー、ボルシェヴィキ党およびソヴィエト国家の利益と対立するものだとして、すみやかに抑圧された。
スルタン-ガリエフは1923年に党から除名され、外国の諜報機関の工作員だとして投獄された。これはおそらく、このような理由で責任追及がなされた最初の事例だろう。これはのちにはこのような場合の日常仕事になり、卓越した党員に対して一様になされていった。
 彼は、のちの大粛清(the great purge)の時代の間に処刑された。そして、その考え方は忘れ去られた。
 1923年6月の演説でスターリンは、スルタン-ガリエフは汎イスラムや汎トルコ的考えを理由としてではなく、トゥルキスタン(Turkestan)のバスマチ(Basmach)とともに党への反抗を企てたことを理由として逮捕された、と語った。
 このエピソードは、スルタン-ガリエフの考えとのちの毛沢東の教理または「毛主義的社会主義」範型との間の驚くべき類似性を説明するために記憶しておく価値がある。//
 党またはプロレタリア-トのために民主主義を擁護する反対派集団に関して言うと、これらは急速にかつ一斉に、レーニン、トロツキー、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフを含む党指導者によって粉砕された。
 1921年の党第11回大会は、分派集団形成を禁止すること、それへの加入党員を除名する権限を中央委員会がもつことを宣言した。 
 党の一体性の擁護者が指摘したように、つぎのことはじつに明瞭だった。すなわち、一党制のもとでの党内部の別々の諸集団は、必然的にかつてそれぞれの党派を形成していた全ての社会諸勢力の代弁者になる。ゆえに、かりに「分派(fractions)」が許容されるならば、事実上は多党制になるだろう。
 避けがたい結論は、専制的に支配している党それ自体が専制的に支配されなければならない、ということだ。そして、社会一般の民主主義的諸制度を破壊しておいて、党内部でそれを持ち続けようと考えるのは愚かだ、ということだ。労働者階級全体の利益については尚更だ。//
 にもかかわらず、官僚機構の手中にある受動的な装置へと党が変わっていく過程は、国家の内部で民主主義諸制度が破壊されていくよりも、長くつづいた。そして、1920年代の遅くまではまだ完了していなかった。
 1922-23年には党内での専制(tyranny)の増大に抵抗する強い潮流があった。そして、誰も、それを抑圧するのにスターリンほど長けているとは思っていなかった。
 病気で衰えていたレーニンに伝わる情報を首尾よく統御し、スターリンは、ジノヴィエフとカーメネフの助けを借りて、かつ権力からトロツキーを系統的に排除して、党を支配した。
 トロツキーは、その弁舌の才能と内戦勝利の立役者としての栄光にもかかわらず、早い段階で地位を失った。
 もしすればソヴェト権力の原理と矛盾していたのだろうが、彼は党の外部で見解を発表しようとは敢えてしなかった。このことが、政治生活の唯一の活動源だった党の官僚機構をトロツキーに反対するように動員することを容易にした。
 トロツキーは最後の段階でボルシェヴィキ党に加入し、古い党員たちから信用されていなかった。また、過度の修辞や横柄で傲慢な挙措も嫌われていた。
 スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフは巧みに、あらゆるトロツキーの欠点を衝いた。メンシェヴィキだったという過去、労働者の軍事化(スターリンならば決してこのような専制的言葉遣いをしなかった政策)への渇望、ネップに対する批判、レーニンとの古い論争、およびレーニンはかつて自分を捏造で陥れたとの責任追及。
 トロツキーは、軍事部人民委員および党政治局員として、まだ力があるように思われた。
 しかし、1923年までに彼は、孤立し、無援になっていた。
 彼の昔の心変わりの全てが、自分に向けられてきた。
 自分が置かれている状況に気づくに至ったとき、党の官僚機構化と党内民主主義の抑圧を攻撃した。
 引き降ろされた共産党指導者の全てに似て、トロツキーは権力から排除されるや否や民主主義者(democrat)になった。
 しかしながら、スターリンとジノヴィエフがつぎのように主張するのは、容易なことだった。
 トロツキーの民主主義感情と党官僚制に対する非難は最近のことだ。そればかりか、彼自身が権力をもっていたときは、他の誰よりも極端に専制的だった。さらには、党の「一体性」を守るのを支持してその動きを始めたのだ。-レーニンの政策とは逆に-労働組合を国家の統制のもとに置き、経済全体を警察の強制力に従属させることを望んだ。等々。
 後年になってトロツキーは、かつて支持した「分派」禁止の政策は永久の原理ではなくて例外的な手段と考えてのものだった、と主張した。
 しかし、そうだったとする証拠はない。また、その政策自体に、一時的なものだったと示唆するものは何もない。 
 つぎのことは、記しておいてよいかもしれない。すなわち、ジノヴィエフは、トロツキーを非難することではスターリン以上に激しい熱情を示した-彼を拘禁することに賛成した一つの段階-ということであり、およびそれによって、排除された二人の指導者が遅れて見込みなく、勝利した政敵に対して力をかき集めようとしたときに、スターリンに有用な防御手段を提供した、ということだ。
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 第3節、終わり。第4節「一国社会主義」へとつづく。

1780/スターリン・権力へ②-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.14~p.18。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇②。
 この時期にスターリンは民族問題に関する専門家として、自己決定は「弁証法的に」理解されなければならない(換言すると、それ以外ではなく党のスローガンに適応したものとして用いられなければならない)という旨を演説した。
 1918年初頭のソヴェトの第三回大会で彼は、適正に言えば自己決定とは「大衆」のためのもので「ブルジョアジー」のためのものではない、それは社会主義を目ざす闘いに従属しなければならない、と説明した。
 その年に公表した論文では、ポーランドとバルト諸国の分離は、これらの国々は革命ロシアと革命的西欧との間の障壁を形成するだろうから、反革命の動きであって帝国主義者の手中に嵌まる、と強調した。
 他方で、エジプト、モロッコまたはインドの独立を目ざす闘争は、帝国主義を弱体化することを意図しているので進歩的な現象だ、と。
 これら全ては完全に、レーニンの教理および党のイデオロギーと合致していた。
 分離主義運動は、ブルジョア政権に対して向かっていれば進歩的だ。しかし、ひとたび「プロレタリア-ト」が権力を手中にすれば、民族的な(national)分離主義は自動的にかつ弁証法的に、そのもつ意味を変化させる。それはプロレタリア国家、社会主義、そして世界革命に対する脅威なのだから。
 その定義からして社会主義は、民族的抑圧を行うはずがない。そうして、侵攻だと見えるものは、実際には解放のための行為なのだ。-例えば、スターリンの命令によって赤軍がジョージアの中へと進軍したときのように。ジョージアにはその当時(1921年)、代表制民主政体にもとづくメンシェヴィキ政府が存在していたのだが。
 こうしたことにもかかわらず、決して取り消されなかった民族自決権(自己決定権)というスローガンは、内戦でのボルシェヴィキの勝利に大きく貢献した。白軍の司令官たちは包み隠さず、自分たちの目的について、革命前の領土を少しも失うことなく一つで不可分のロシアを復活させることだ、と述べていたのだ。//
 スターリンがしたことはトロツキーのそれで覆い隠されているけれども、彼は内戦で重要な役割を果たした。
 この二人が対立する起源は、疑いなくこの時期にさかのぼる。この時期に、個人的な嫉妬と非難のし合い-誰が最もツァリツィン(Tsaritsyn)での勝利に貢献したのか、ワルシャワの前の敗北は誰の過ちによるのか、等々-があった。//
 スターリンは1919年に、労農監察部(the Workers' & the Peasants' Inspectorate)の人民委員になった。
 すでに述べたように、官僚制の侵入からソヴェト体制を守ろうとするレーニンの絶望的で見込みなき企てを、この組織は代表した。
 「純粋な」労働者と農民から成る監察部は、国家行政の他部門全てに対して監督する無制限の権限をもった。
 状況を改善するどころか、事態をさらに悪くした。この監察部には民主主義的な仕組みが欠けていたので、これはたんに大官僚組織に一列を付け加えたにすぎなかった。
 しかしながらスターリンは、これを利用して諸組織に対する自分の力を強化した。そして疑いなく、人民委員の地位にあったことは、彼が最高権力者へと昇りつめるのを助けることになった。//
 この段階で、独自性はなくとも重要な考察をしておくべきだろう。
 のちに党の歴史全体がスターリンの命令によって彼自身を称揚するために書き直されたとき、彼は若いときからレーニンの「副司令官」だったと叙述された。あるいはむしろ、自分をそう示そうとした。
 全ての活動分野で、スターリンは指導者、第一の組織者、同志の鼓舞者、等々だった。
 (党の質問で、彼は革命活動を行ったことが理由で放校になったと主張した。しかし、疑いなく彼はそこにいた間の禁じられた主題を議論してしまった。実際には、試験に出席することができなかったために追放された。)
 この狂熱的な考え方によると、彼はレーニンの最も親密な腹心で、党が創立されたまさにその瞬間からの助手だった。彼の輝かしい指導のもとで、コーカサスの幼なかった社会主義運動は成長した。そしてのちには、全党が疑問の余地なくスターリンをレーニンの正当で自然な後継者だと考えた、等々。
 彼は、革命のための頭脳、内戦の勝利の設計者、ソヴィエト国家の組織者だった。
 ベリア(Beriya)が創作した偉人伝では、1912年はロシアの党史上の、ゆえにまた人類史上の転換点として選び出された。スターリンが中央委員会委員になったのはまさにその年だったのだから。//
 他方で、トロツキーやスターリンを厭う理由をもつ他の多くの共産党員は、ボルシェヴィキの歴史でのスターリンの役割を何とか貶め、狡猾さと好運とが混じり合って階段の頂上へと昇りつめた二級の<党官僚(apparatchik)>と描写しようとした。その階段から踏み外させるのは不可能だと分かっていたのだった。//
 このような見方もまた、真実だと受け止めることはできない。
 確かなことは、スターリンは1905年以前には目立たない地方活動家で、より高く評価されて、より重要な役割を果たした者は彼の出身地域に多数いた、ということだ。
 にもかかわらず、1912年までには、6人または7人の著名なボルシェヴィキ指導者の一人になっていた。そして-トロツキー、ジノヴィエフあるいはカーメネフに比べると知られてはいなかったし、誰もレーニンの「当然の」後継者だとは考えていなかったけれども-、レーニンの晩年には、党を支配する小集団の中にいた。
 そしてレーニンが死んだとき、彼は理論上ではなく実務上だが、その国の誰がもつよりも大きな権力を保持していた。//
 我々には現在用いることのできる資料から、スターリンの同志たちは革命の前からすら、のちに病的な圧制者となった彼の性格に気づいていた、ということが分かっている。
 いくつかは、レーニンの「遺言」で記述された。
 スターリンは粗暴(brutal)で、不誠実で、我が儘で、野心家で、嫉妬深く、反対者に非寛容で、部下たちにとっては専制君主だった。
 彼がボルシェヴィキの「古い保護者」を全て一掃してしまうまでは、誰も真面目に哲学者だとか理論家だとかは思っていなかった。この点から見ると、トロツキーやブハーリンだけではなくて、党の主なイデオロギストたちの方が、スターリンよりも勝れていた。
 彼の論文、小冊子や演説には何も独自性がなく、それらの意図をきちんと伝えていない、ということを誰もが知っていた。マルクス主義理論家ではなく、数百人も他にいる党宣伝者(propagandist)の一人だったのだ。
 もちろんのちに、「人格カルト〔個人崇拝〕」の興奮状態の中で、彼が執筆した一片の紙切れも、マルクス=レーニン主義の財産に不朽の貢献をしたものになった。
 しかし、理論家としての全ての名声は命じられた儀礼の一部にすぎず、それは彼の死後たちまちに忘れ去られた、ということは完璧に明らかだ。
 スターリンのイデオロギー的著作が政治的に名声を求めることのない人物によって書かれたものであったとすれば、マルクス主義の歴史で言及するにほとんど値しなかっただろう。
 しかし、彼が権力を握っている間は、それ以外にマルクス主義の焼き印(ブランド)の付いたものは稀にしかなかった。また、この当時のマルクス主義は、彼の権威との関連でしかほとんど明らかにすることはできない。したがって、四半世紀にわたってスターリンが偉大なマルクス主義理論家だったと言うのは、本当のことであるばかりか、実際には、同義反復(トートロジー)だ。//
 いずれにせよ、スターリンは党に有用な多くの性質をもった。頂点にまで達して対抗者を排除したのは、偶然にのみよるのではなかった。
 彼は疲れ知らずの、目聡い、そして有能な活動家だった。
 実際上の諸問題に関して、教理的な考察を軽視し、論点の相対的な重要性の程度を明確に見分ける方法を知っていた。
  彼は(ヒトラーが侵攻してきた最初の数日を除いて)パニックに陥らなかったし、達成することしか頭にはなかった。
 また、見せかけの権力と実際の権力を区別することも巧かった。
 演説は下手で文章は退屈だったが、平易に喋ることができたので、ふつうの党員たちの心を掴んだ。そして、繰り返しや要点の番号振りをする衒学的な習癖は、提示した言葉(exposé)は力強くて明瞭だとの印象を与えた。
  彼は部下たちに威張りちらしたが、うまく彼らを使うことができた。
 党員、外国の新聞記者あるいは西側の政治家のいずれであれ、違う対話者に応じて異なるやり方で適応する術を知っており、プロレタリア-トの根本教条のために立ち向かう果敢な闘争者の役割を、あるいは国家にとって無意味ではない「親分」の役割を演じることができた。
  彼は、全ての成功を自分の栄誉として受け取り、全ての失敗を他者の責任として追及することのできる、類い稀な才能をもっていた。
 スターリンが確立するのを助けた体制によって、自分は僭政者になることができた。
 しかし、彼はその所期の成果を収めるべく長く懸命に仕事をした、ということは言っておかなければならない。//
 スターリンの有能さと組織する力を、レーニンは疑いなく評価していた。
 ときにはレーニンに同意しなかったが、危機にあるときにはつねにレーニンを守った。
 幹部級のボルシェヴィキの多くとは違って、「知識人的な」学習をしておらず、それについてレーニンは平気ではおれなかった。
 スターリンは淡々とした性格で、困難で下品な仕事をするのを気に懸けなかった。
 そして、遅れて見方を変えて、レーニンは自分が権力の頂部へと昇らせてい人物が危険だと気づいたけれども、スターリンがその敵対者に対して応答した言葉にはいく分かの真実がある。
 彼の敵対者たちが最後になってレーニンの「遺言」を書類庫から引っ張り出し、スターリンに反対する証文として使ったとき、スターリンはこう言った。
 そのとおり、レーニンはかつて私は粗暴だと責めた。そして、革命に関するかぎりは、私は粗暴<である>。-しかし、レーニンは一度でも、私の政策は過っていると言ったか?
 これには、反対者は答えることができなかった。//
 1922年4月にスターリンが党の総書記(the Secretary-General)になったのはレーニンの個人的な選抜だった、ということを疑う根拠はない。そして、他の指導者たちの誰かがこの指名に反対した、という証拠資料はない。
 トロツキーがのちにつぎのように明確に述べたのは、全く本当のことだ。
 この職を創設してスターリンをその地位に就かせることが彼がレーニンの継承者になることを意味するとは、誰も考えなかった。総書記の地位にある者は実際にはソヴェトの党と国家の最高支配者になるだろう、とも。
 全ての重要な決定は、まだ中央委員会政治局によって行われており、その諸決定は人民委員会議という媒介物を経て、国家を動かしていた。  
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1779/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑫。

 <マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、第四に、明確な<間違い>もある。
 その原因になっているのは、要するに、この人の「無知」だろう。
 この著とは、つぎで、<マクダーマット・アグニュー本>とはその下。
  江崎・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 (1)「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の同一視!
 江崎道朗はp.78で加入条件テーゼ12条がコミンテルン構成の各共産党は「民主的中央集権制」という組織原理にもとづくべきことを定めているのを引用しつつ、「第12条は党中央が全権を握る、プロレタリア独裁の宣言である」と書く。
 ああ恥ずかしい。プロレタリア-ト(プロレタリア)独裁とは共産党の内部で「プロレタリア」が「独裁」することなのか?
 江崎には、共産主義・共産党に関する基礎的知識もない。この部分では、レーニンの共産党・組織原理とマルクスにもあった「プロレタリアートの独裁」の区別がついていない。
 なお、江崎はp.71で「第1条」の中に「プロレタリア-トの執権」という語をそのまま引用して紹介しているが、間違いなくこの人は「プロレタリア独裁」と「~執権」が元来は同じ言葉であることに気づいていないだろう。
 (2)「社会愛国主義」は「愛国心」持つことだとする!
 江崎道朗はp.75で同6条が「露骨な社会愛国主義」を厳しく批判しているのを引用紹介しつつ、この意味は「自分の国を守ろうという愛国心」を「絶対に認めない」ということだ、とする。
 ああ恥ずかしい。この人は、「社会愛国主義」(または社会排外主義)とはレーニンらボルシェヴィキ・ロシア共産党側が自国の第一次大戦への参戦を支持したとくにドイツの「社会民主主義」者を批判するために作った言葉であることを知らない(「社会主義的愛国主義」と訳されてもよく、「社会主義」者なるものが称する(ニセの)愛国主義」と理解されてもよいものだ)。
 「社会」が付いているにもかかわらず、「愛国主義」の一種だと文学的に?解釈して、堂々と?コメントしているのだ。
 (3)軍隊内への浸透は「武力による暴力革命」を大前提?
 江崎道朗はp.75で同6条が「軍隊内」での「ねばりづよい、系統的な宣伝」を要求しているのを引用紹介しつつ、共産党が?「何より『武力による暴力革命』を大前提とする政党であることが、この条文からも明らかである」と書く。
 これも恥ずかしいだろう。<共産党=暴力革命>という図式をこの人は宣伝したいようで、そのためには何でも利用する(?)。
 「軍隊」に着目しているのは「暴力」装置だからだろうか。しかしそのことと、『武力による暴力革命』を大前提とするということとは論理的関係はない。「軍隊」を使っての「暴力革命」を想定しているのだ、という趣旨か?
 いずれにせよ、この条文から「明らかである」とするのは間違い。
 なお、江崎道朗も含めて、日本の「保守」派が(否定的・消極的に)しばしば用いる「暴力革命」なるタームの正確・厳密な意味について、検討が必要だ。ここでは立ち入らない。
 (4)「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と同一視!
 江崎道朗はp.79で同14条がコミンテルン加入希望党は「反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争」を支持する必要を定めているのを引用紹介しつつ、「ソ連への忠誠を求める規定である」と明記する。
 また、「ソヴィエト連邦に対する絶対の忠誠心を持たなければならない」とも重ねて説明し、かつまた、日本の共産主義者が「ソ連や中国共産党」を支持したのは「この方針から」だとする。
 ああ恥ずかしい。悲惨だ。
 ロシア革命によって「ソ連」が誕生したとこの著の冒頭で書いていた江崎道朗は、ひょっとすれば「ソヴェト」と「ソヴェト(ソヴィエト)連邦」=「ソ連」の区別がついていないのではないか、と危惧していたが、どうやら当たっていたようだ。
 このテーゼが発表・採択されたのは1920年夏で、まだ「ソヴィエト連邦」は結成されていない。また、「中国共産党」も生まれていない(日本共産党も)。
 まだ存在していないものに対する「忠誠心」や「支持」を江崎は語ることができると考えているらしい。相当の空想力だ。
 正確には確認しないが、ここでの「各ソヴェト共和国」とは、1917年「十月革命」てできた(またはそれを翌年に改称した)ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国を構成する、「各ソヴェト共和国」だと見られる。
 このロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国がさらにいくつかのソヴェト社会主義連邦共和国(ベラルーシ、ウクライナ等)とさらに「連邦」して、1922年に、「ロシア」等の地域名を持たない、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が設立された。
 こういう経緯があるからこそ、もともとのロシア(本域)からすれば、<シベリア行き>は「国外追放」処分であり「流刑」なのだ。ロシアからすれば、シベリア、ウラル、今の中央アジア地域は完全に「外国」だったのだ。
 江崎は「各ソヴェト共和国」という言葉を見て、「各」を無視して、「ソヴェト連邦」と類推したようだ。そのあとでたぶん「各」に気づいて、「中国共産党」も加えたのだろう。
 上で言及しなかったが、江崎は上の説明につづけてこう書く。p.79。
 「コミンテルンに所属するということは、ソ連や中国など外国に忠誠を誓うことなのだ」。
 ああ恥ずかしい。コミンテルンは1919年に設立され、上のテーゼが論じられた第二回大会は1920年。繰り返すが「ソ連」はまだない。それに、この時点で忠誠の対象だという「中国」とはいったい何のことなのだ? 新生・中華民国のことか?
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 第五に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、あるいはその近辺には、矛盾した説明・論述等がいくつもある(明確な間違いに含めてもよいものもある)。以下は、その例。
 (1)p.72で「加入条件」テーゼは「コミンテルンに加入した場合、何をしなければならないのか、具体的に示した」ものだとする。一方、p.80は、「加入するための条件」だとする。両者は意味が異なり、後者が正しい。
 (2)p.67で「民族問題」テーゼ第四項を引用紹介しているが、p.91以下では別の本を直接引用して、この項の「解説」をさせている。
 離れていると読者は忘れると思っているのか、相互の参照を要求していない。
 別の本とはクルトワら・共産主義黒書/アジア篇だ。江崎道朗は、p.67の辺りでは<マクダーマット・アグニュー本>を「下敷き」にし、p.91辺りではこの<クルトワら本>を「下敷き」にしているのだと思われる。
 「下敷き」にしている本の違いによって、共産主義・共産党・コミンテルンに対する論調がやや変わるのも、江崎らしいところだ。
 (3)p.53で、「プロレタリア独裁によらないかぎり平和にならない」、「平和とは」「共産党による独裁政権を樹立」することを「意味する」、と一気に書く。
 この両者は、方法と結果がほとんど反対だ。なぜこんな日本語文章を平気で書けるのか、本当に信じ難い。
 (4)他にも類似表現はあるが、p.80で「これらがコミンテルンに各国の共産党が加入するための条件である」と書く。
 「加入するための条件」だとするのは上に記したように誤っていない。しかし、「各国の共産党」の存在を前提にしているようであって、この点は<間違い>。
 この点は、そもそもコミンテルンとは何か、どのような経緯でこれは設立されたのか、レーニンらが「加入条件」を定める必要がある具体的環境・状勢はどうだったか、が理解できていないと、したがって、江崎道朗には、理解が困難なのだろう。
 あらためて前回に第三として論及した「加入条件」について触れたいとは思っている。
 江崎道朗が完全にスルーしているのは、コミンテルン加入の条件のきわめて重要な一つは各国の「コミンテルンに所属することを希望する全ての党」は「共産党」と名乗ることが義務づけられる、ということだ(加入条件第17項)。1922年の設立という「日本共産党」の名称も、これによる(同時に「コミンテルン~支部」となることも定められている)。
 「社会民主党」・「社会主義党」・「労働党」という名称(のまま)ではコミンテルンの一員にはなれない。
 この点は、評価は分かれるのかもしれないが、ロシア以外の<社会主義党派>または<社会主義運動>に分裂を持ち込んだ(ロシアでのボルシェヴィキとメンシェヴィキの古い対立のように)とも言われる。あるいは、<純粋で正しい>党を抽出することになった、のかもしれない。
 いずれにせよ、江崎は分かっていない。
 すでにこの欄に書いたように、江崎道朗にとって、共産主義、共産党、コミンテルン等々は全部同じであって、区別する必要を感じていないのだ。
 これで江崎道朗には、現在にまで流れているという「共産主義」に対する「インテリジェンス」を語る資格があるのだろうか。
 今回の諸指摘を、きちんと理解してもらえるとよいのだが。/つづく。

1778/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑪。

 江崎道朗のつぎの本について「悲惨と無惨」と形容するのは、決して誇張した表現ではない。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)からの直接引用部分に限って、その引用の仕方とその引用内容に対する江崎自身のコメントを詳しく見てみよう。以下、<マクダーマット・アグニュー本>とでも略記する。
 まず、前回に江崎はこの本の「付属資料」部分のみから引用していると理解して記述したのは誤りだった。数や全頁数は少ないが、何と執筆者二人によるコミンテルン又はレーニンの政策方針に対する評価・論評をそのまま引用して叙述している箇所がある。
 ①p.50-レーニンの「社会民主主義」批判。
 ②p.58-ロシア革命の当時の民衆にとっての意味。
 ③p.58-9-レーニンの「社会民主主義」批判。
 これらは、江崎自身が理解・了解でき、(意味を)納得できたからこそ、直接引用しているのだろう。
 しかし、マクダーマット=アグニューのように簡単にコメントできるのか自体が問題だ。和洋合わせて必ず数百冊以上は関係文献が存在しているレーニン等の考え方について、<マクダーマット・アグニュー本>というたった一冊のコメントでもって叙述してしまうというのは、恐ろしく信じ難い。
 その内容が客観的に見てレーニン側に立ったもの、ソ連解体以前の公式的論評の仕方に似ていること、したがってかつて日本共産党党が述べた又は強調した点と酷似することについては、直接引用部分の内容に関係するので、さらに別に言及する。
 少し先走って書けば、これらはマクダーマット・アグニューの二人が共産主義・コミンテルンについてまだなお「宥和的」であることによるだろう。
 別に言及するのは、<レーニンの生い立ち>に関する叙述等も含めて、江崎は「左翼的」または共産主義になお「宥和的」な書物(外国の共産党員とみられる者によるものを含む)を、吟味することなく<下敷き>として使っているので、これらは併せてコメントした方がよい、との判断による。
 さて、上以外の18箇所は「付属資料」からの直接引用だが、これらの引用部分は、邦訳書で計31頁、原書で計30頁('Documents')あるうちのごく一部にすぎない。江崎のp61-p.80 は18箇所で引用するが、引用元の資料はつぎの4つ。①~⑱は箇所の順番。
 A<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>-計2箇所で引用。①、②。
 B<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>-計3箇所で引用。③~⑤。
 C<コミンテルン「規約」>-計2箇所で引用。⑥、⑦
 D<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>-計11箇所で引用。⑧~⑱。
 既述のように<マクダーマット・アグニュー本>は計19件の「資料」を、しかも全てそれぞれの「抜粋」を収載しているが(「規約」すら全文ではなくごく一部だ)、江崎道朗が「利用」(引用)しているのは計4資料でしかない。
 かつまた、興味深いことに、邦訳書・原書の「付属資料」番号でいうと、№1、№3、№4、№5であって、最初の部分に集中している。
 今回も上に書いたように「資料」部分は邦訳書・計31頁、原書・計30頁だが、江崎が利用しているのは、そのうちの8頁の範囲の部分だけだ。
 改めて書くと、江崎道朗がたった一冊の本が掲載する「資料」のうち「利用」(引用)しているのは、計19資料のうち4資料、計30-31頁のうち約8頁にすぎない
 これでもって、江崎道朗はこう「豪語」するのだ。再掲する。
本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 唖然とするほかはない。この人の「神経」は私とはまるで異なる。
 つぎに、「しっかり読み込んで理解」しているのかどうかを、検討してみよう。丸数字は、私が付した上に記載の引用箇所番号。以下で言及する文章は、「引用」との明記がない部分は、江崎道朗自身による。
 第一に、つぎのように簡単に書くこと自体が、レーニンら「共産主義者」の術中に嵌まっていることにならないか。
 ①p.61-62のあと。第一次大戦後の「多くの」「…途方にくれていた」人々にとって、「レーニンの言葉は、大いなる説得力をもった」。
 ③p.67のあと。「残念なことに、欧米列強の支配に苦しんでいたアジア・アフリカの独立運動の指導者たちは、このコミンテルンの呼びかけに積極的に呼応していった」。
 第二に、「民族・植民地問題についてのテーゼ」からの引用とコメントの趣旨に疑問がある。なお、前回に記したように、これの全文、およびレーニンのテーゼではないコミンテルン第二回大会での関係演説全文はレーニン全集に収載されているはずだ。江崎が利用(引用)するために見ているのは、そのごく一部だ。
 ④p.68の引用-「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家や民族…」
 ⑤p.69の引用-「後進国における…」、「植民地…」。
 なぜ、江崎道朗はこれらを引用するのか。これは、興味深い論点にかかわる。というのは、江崎は日本と関係していると考える又は判断するからこそこれらを引用しているはずだ。そして、そうなのだとすると、江崎は1920年代の日本を「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家」または「後進国」・「植民地」と見ていることになる。「植民地」は度外視するとしても、こうした日本についての見方はいわゆる<講座派マルクス主義>史観に立つもので、このこと自体について検討・論証が必要だ。
 まさか、コミンテルンをタイトルの一部とする著書を書く江崎道朗が、日本マルクス主義内での<講座派>と<労農派>の対立を知らないままで、執筆しているはずはないだろう。
 第三に、読解または解釈に無理がある、又は強引すぎる部分がある。こう単純化してはいけないだろう。
 ⑤p.69のあと。「…共産党員にすべきであって、仮に共産党員にならないのであれば、容赦なく粛清、つまり殺してしまえと言外に示唆している」。
 ⑨p.73のあと。「排除して置き換える-すなわち場合によっては殺せという意味だ。…コミンテルンに従わない人間はすべて根こそぎにせよという」。
 ⑯p.78のあと。「コミンテルンに入るなら」、「定期的粛清」をせよ。「共産主義が一億人近い人々を殺害した背景には、こうした一方的な粛清を正当化する方針がある」。
 ⑱p.80の前後。「最後の第21条で、再び粛清を義務づけている」。「コミンテルンに従わぬ者は粛清されなければならない-排除、粛清、殺戮が『義務』として課されている」。
 江崎道朗のために少し教示しておこう。
 共産主義・共産党が<思想・意見が異なることを理由として人間を殺してもよい>とする思想であり組織であることは認めよう。
 しかし、「排除」または「粛清」=<殺害>ではない、と理解しておくべきだ。一部に(=ある程度は)含むとしても、等号ではつなげないだろう。
 <テロル>という語もなお多義的で、<粛清>も同じだ。「排除」だと、または「粛清」ですら、除名・党外への追放もまた十分に含みうる。
 The Great Terror (大テロル)ではなくThe Great Purge (大粛清?)という語を同じ意味・内容としておそらく使っている外国語文献を最近に見た。Purge は「パージ」で、(公職からの)「追放」の意味でも日本ではかつて使われた。パージ=粛清=殺害ではない。
 また、purgeよりも、liquidate(liquidation)の方が「粛清」という語感に近いようだが、しかしこれとて、殺戮以外の「排除」・「一掃」という意味ももちうる。
 要するに、「排除」、「粛清」という訳語が使われているからといって、そこに<殺害>の意味をただちに持たせようとするのは、早計だろう。こう強引に「解釈」してしまえるのは、文学部出身の評論家らしい。
 念のため、原書収載の「テーゼ」上の英語はどうなっているかを確認してみる。
 上の⑤(民族11e)-cannot merge with- . 「言外に示唆」しているのかは確言できないが、これは要するに「…とは融合できない」と述べているだけ。邦訳書も同旨。
 上の⑨(規約2条)-remove, replace. これらに明示的または直接の「殺戮」の意味はない。邦訳書では「排除」、「おきかえる」。
 上の⑯(規約13条)- from time to time carry out purges (re-registrations). ()内の語には「殺戮」の意味はないだろう。引用のとおりに邦訳書では「定期的粛清(再登録)」。
 上の⑱(規約21条)- expell. これは「追放」・「除名」の意味であって、明示的または直接には「殺戮」の意味はない。邦訳書も「追放」と訳出している(邦訳書p.304.)
 以上のとおりで、江崎道朗は、無理やり「排除」、「追放」等を<殺戮>の意味だと<言外>以上に明示的に説明?している。
 このような江崎の読解の仕方を知って、この本を信頼できるだろうか。
 すでに上記の中にも含まれているが、第四に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎の説明・コメントには、明確な<間違い>もある。
 悲惨・無惨だ。ひどく中途半端だが、回を改める。/つづく。

1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /3.The Breakdown.
 この本の邦訳書はない。
 試訳を続行する。第1章第2節までは、すでに掲載を済ませている。
 同第3節p.9~p.14。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇①。
 ボルシェヴィキ指導者の大半とは違って、のちの全ロシアの共産党の指導者は、プロレタリアでなかったとしても、いずれにせよ民衆の一人だった。
 ヨゼフ(ヨシフ、Yosif)・ジュガシュヴィリ(Dzhugashvili)は、ジョージアの小さな町であるゴリ(Gori)で1879年12月9日に生まれた。
 父親のヴィッサリオン(Vissarion)は靴作りの大酒飲みで、母親は読み書きができなかった。
 ヴィッサリオンはティフリス(Tiflis)に移り、靴工場で仕事をして、1890年にそこで死んだ。
 彼の息子はゴリの教区学校に5年間通い、1894年にティフリスの神学校への入学を認められた。この学校は実際のところ、コーカサスでは彼のような社会的条件の有能な若者がより上級の教育を受けることのできる唯一の学校だった。
 正教の神学校は同時に、ロシア化するための機関だった。しかし、多くのロシアの学校のように、政治不安の温床でもあった。ジョージア愛国主義はそうした学校で花咲き、ロシア本域からの多くの被追放者によって、社会主義思想が流布された。
 ジュガシュヴィリは社会主義集団に加入し、神学から得ていたかもしれない関心を全て失い、試験に出席しなかったことで1899年の春に追放された。
  神学校を背景とすることの痕跡は、のちの彼の著作に認めることができる。聖書からの引用があり、のちのプロパガンダとうまくつながる教理問答的文体への好みがあった。
 彼は論文や演説で、回答の中で言葉通りに反復する質問を設定する癖をもっていた。
 彼はまた、個々の考え方や叙述にそれぞれ番号を振ることによって、自分の論文が理解されやすいようにした。//
 神学校での生活以降、スターリンはジョージアにある多様で初歩的な社会主義集団とかかわった。
 ロシア社会民主党は、まだ存在していなかった。1898年のミンスク(Minsk)集会で、設立に向けた正式決議がなされていたけれども。
 1899-1900年の数ヶ月の間、彼はティフリスの地理観測所の事務員として働き、その後、合法と非合法の両方の、政治活動かつプロパガンダ活動に完全に専念した。
 彼は1901年から、秘密のジョージア社会主義者新聞である<闘争(Brdzola)>に論考を書き、労働者の間にプロパガンダを広めた。
 その年の終わり近くに、ティフリスでの党の仕事を指揮する委員会の一員になった。
  バトゥーム(Batum)での労働者の集団示威行動を組織したとして1902年4月に逮捕された。
 彼は、シベリアへの追放刑(流刑)を宣告されたが拘置所から(またはそこへ行く途中で)逃亡し、1904年の初めには再びコーカサスにいて、偽った名の新聞をもつ地下組織の構成員として活動した。
 その間に、社会民主党は第二回大会を開き、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの両派に分裂していた。
 スターリンはすみやかにボルシェヴィキを支持することを宣言し、党に関するレーニンの考え方を支援する冊子と論考を書いた。
 ジョージア社会民主党はほとんどがメンシェヴィキで、その指導者は、最もすぐれたコーカサスのマルクス主義者、ノエ・ジョルダニア(Noakh Zhordania)だった。
 1905年の革命の間とその後、スターリンはしばらく、全コーカサス地域を範囲とする職責をもつ党活動家としてバクー(Baku)で働いた。//
 しかしながら数年経って、彼はロシア本域のボルシェヴィキ活動家の一人となった。
 1905年12月のタンメルフォシュ(Tammerfors、フィンランド/タンペレ)での党大会に出席し、1906年には、ストックホルムでの「統一」大会に出席した唯一のボルシェヴィキとなった(そうできる彼の資格をメンシェヴィキは争った)。
 しかしながら、1912年までは、彼の活動の実際の舞台はコーカサスにあった。
 スターリンはタンメルフォシュで初めてレーニンと逢った。彼はレーニンの教理と指導性に、決して真剣に抗うことがなかった。
 しかしながらストックホルムでは、他の全ての問題についてはレーニンの側に立った一方で、党綱領はレーニンが主張する国有化ではなく土地の農民への配分を支持すべきだ、という路線を支持した。//
 この時期のスターリンの著作には、独自のものや記しておくに値するものは何もない。
 当時に生じていた話題に関するレーニンのスローガンを再現する、民衆むけのプロパガンダ的論考だけだ。 
 多くのスペースはメンシェヴィキに対する攻撃にあてられ、もちろん、カデット(立憲民主党)、「召喚主義者」(otzovoists)、「清算主義者」(liquidators)、無政府主義者(アナキスト)等に対する批判もあった。
 いかほどかの長さをもつ唯一の論文、<アナキズムかそれとも社会主義か?>は、1906年にジョージア語で発表された(1905年以降は彼はロシア語でも論考を書いた)。
 これは、社会民主党の世界観とその哲学的諸命題に関する不細工な作文にすぎなかった。//
 スターリンは1906-7年に党財政を充填させるための武装襲撃団である「収奪」の組織者の一人だった、ということが知られている。
 レーニンはこれに味方したが、この活動は1907年のロンドンでの第五回党大会で禁止され、非難された。
 しかし、ボルシェヴィキは、数ヶ月のちに大きなスャンダルを起こすまでは、この活動を実践し続けた。//
 近年に若干の歴史学者が、もともとはジョルダニアが、スターリンの死後は元のソヴィエト諜報機関の高官だったオルロフ(Orlov)が行っている、スターリンは1905年後の数年の間オフラーナ(Okhrana、帝制秘密警察)で仕事をしていた、という申し立てを検証した。
 しかし、この責任追及に有利な証拠は微少なもので、アダム・ウラム(Adam Ulam)やロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)を含むほとんどの歴史家によって却下されている。//
 スターリンは、1908年と二月革命の間、ほとんどの時間を牢獄か追放先で過ごした。最後の期間(1913~1917年)を除いて、彼はそこからいつでも脱出した。
 彼は腕の利く堅固で疲れを知らない革命家だとの評価を獲得して、1907年後のひどい年月の間、党のコーカサス組織を守るために尽力した。
 ロシア内部の多くの他の指導者たちと同じく、彼は移住者(エミグレ、émigré)内部での理論上の議論や口論に強い関心を抱かなかった。
 スターリンはレーニンの<唯物論と経験批判論>について懐疑的な見方をしていた(のちには、哲学思想の最高の偉業だと絶賛した)、そして1910年の暗黒の日々の間にメンシェヴィキとの統一を回復しようと純粋に努力をした、という、ある程度の証拠はある。
 レーニンがメンシェヴィキとの分裂を明確にすべくプラハでの全ボルシェヴィキの大会を招集した1912年1月、スターリンは追放されてヴォログダ(Vologda)にいた。
 その大会は党の中央委員会を選出したが、レーニンの提案によってスターリンはのちにその構成員に選ばれた。かくして、全ロシアの政治舞台にデビューすることとなる。//
 ヴォログダから脱出したのち、スターリンはもう一回逮捕され、追放された。しかし、また逃亡した。
 1912年11月、生涯で初めてロシア国外に旅行をし、オーストリア領ポーランドのクラカウ(Cracow、クラクフ)で数日間をすごした。ここで、レーニンと逢う。
 彼はロシアに戻ったが、12月に再び国外に出た。今度はウィーン(Vienna)に6週間だった-これは外国の土を踏んでいた最長の期間になった。
 ウィーンで彼はレーニンのために「マルクス主義と民族問題」という論文を書き、雑誌<Prosveshchenie(啓蒙)>に1913年に発表された。そして、これは理論家としての名声を求める彼の最も初期の主張をなすもので、また彼の主要な見解の一つだ。
 この論文は、民族問題についてレーニンが語ったことに何も付け加えていない。但し、民族(nation)を単一の言語、領域、文化および経済生活をもつ共同体だと定義したこと以外には。-なお、こうして例えば、スイス(人)やユダヤ(人)は「民族」から除外される。
 この論文は、オーストリア・マルクス主義者、とくにシュプリンガー(Springer、レナー, Renner)とバウアー(Bauer)、およびブント(ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)を攻撃するものとして執筆された。
 スターリンはロシア語とジョージア語だけを読めたので、ウィーンにいたときはたぶん、ブハーリン(Bukharin)がオーストロ・マルクス主義著作者からの引用文を選ぶのを助けていたのだろう。
 オーストロ・マルクス主義者は、民族の文化的自治という考えを個人による自己決定にもとづかせていた。これに対抗してスターリンは、民族の自己決定権と領域的な基礎にもとづく政治的分離を支持して論じた。 
 しかしながら、レーニンのように、彼が強調したのは、社会民主主義者は自分たち自身の国家を形成する全ての人民の権利を承認するけれども、それはあらゆる場合に分離主義を支持することを意味しはしない、ということだった。
 決定的な要因は労働者階級の利益であり、分離主義はしばしばブルジョアジーによる反動的なイデオロギーとして用いられるということを想起しなければならないのだ。
 こうした議論の全体は、もちろん、「ブルジョア革命」という前提のもとで行われた。
 トロツキーとパルヴゥスを除く当時の全ての社会主義者と同じく、スターリンは、ロシアは民主主義革命を経験し、その後の多年にわたりブルジョア共和国の支配が続く、と想定していた。
 しかし、その革命を起こすに際してプロレタリア-トは指導的な役割を果たさなければならず、ブルジョアジーの第二伴奏器であったり、ブルジョアジーの利益のためのたんなる従僕者であったりしてはならなかった。//
 民族問題に関する論文は、二月革命前にスターリンが執筆した最後のものだった。
 ウィーンから戻ったあとすぐの1913年2月に、彼はまたもや逮捕され、4年間の国外追放が宣告された。
 このときは逃亡しようとはせず、シベリアにとどまった。そして、1917年3月に再び、ペテログラードに姿を現した。
 レーニンが到着するまでの数週間、スターリンは事実上、首都の党の責任者だった。
 カーメネフとともに、<プラウダ>の編集部を所管した。 
 臨時政府およびメンシェヴィキに対するスターリンの姿勢は、いずれについても、レーニンのそれよりもはるかにより宥和的だった。そして、レーニンがスイスから送っている論文の調子を弱めたことで、レーニンの非難を受けるはめに陥った。
 しかしながら、レーニンのロシアへの帰還とその「四月テーゼ」の提示のあとは、少しは躊躇しつつ、「社会主義革命」とソヴェトによる政府のために活動する政策を受け入れた。
 対照的なことだが、ペテログラードにいた最初の数週間は、まだなお、「ブルジョア革命」、中央諸大国〔ドイツ帝国等〕との講和、大資産の没収、臨時政府の打倒を試みるのではなくそれに圧力を加える、といった趣旨のことを執筆していた。
 七月危機のあとで初めて、ペテログラードの党組織の会合で、スターリンはプロレタリア-トと貧農への権力の移行を明確に語った。
 このときに「すべての権力をソヴェトへ」とのスローガンは放擲された。ソヴェトは、メンシェヴィキとエスエルたちによって支配されていたのだ。
 十月革命の頃までに、スターリンは疑いなく、レーニン、(1917年7月に入党した)トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スヴェルドロフおよびルナチャルスキーと並んで、党の主要な指導者の中に入っていた。
 我々が知るかぎりで、彼は蜂起をした軍事組織に参加していない。しかし、スターリンは、レーニンの最初のソヴェト政権で、民族問題担当のコミッサール(Commissar、人民委員)に任じられた。
 ブレスト=リトフスク条約をめぐって生じた党の危機の間は、ドイツとの革命戦争を押し進めるべきだとする「左翼のボルシェヴィキ」と対抗するレーニンを支持した。
 しかしながら、レーニンのように彼も、ヨーロッパ革命がいつの日にか勃発するだろう、ドイツとの講和の取決めは一時的な戦術的退却にすぎない、と考えていた。// 
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 ②へとつづく。
 下は、分冊版のLeszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. の第1巻と第3巻。
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1776/諸全体主義の相違②完-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)
 試訳のつづき。第5章第6節。p.280-1。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違②。
 要するに、ロシアは社会構造が同質で民族的構造が異質だったので、熱望をもつ独裁者は階級間の敵意に訴えることが想定されえたのだが、状況が反対の西側では、訴えかけは民族主義(ナショナリズム)になったのだろう。//
 とは言え、今きちんと、つぎのことを記しておかなければならない。
 階級にもとづく全体主義と民族にもとづく(nation-based)全体主義は、一つに収斂しがちだ。
  スターリンはその政治的経歴の最初から、大ロシア民族主義と反ユダヤ主義を用心深く奨めていた。
 第二次大戦の間と後で彼は、おおっぴらに、明瞭な熱狂的愛国主義の言葉を使った。
  ヒトラーの側について言うと、彼はドイツ民族主義は制限的すぎると考えていた。
 彼は「私は世界革命を通じてのみ、自分の目的を達成することができる」とラウシュニンクに語り、ドイツ民族主義をより広い「アーリア人主義」へ解消するだろうと予言した。
 『民族(nation)という観念は無意味になってきた。…
 我々はこの偽りの観念から抜け出して、人種(race)の観念へと代えなければならない。…
 歴史的過去を帯びる人々の民族的区別の言葉遣いで新しい秩序を構想することはできない。だが、この区別を超える人種にかかる言葉遣いによってならそうすることができる。…
 科学的意味では人種というものは存在しないと、私は素晴らしく賢い知識人たちと全く同様に、完璧によく知っている。
 しかし、農民で牧畜者であるきみは、人種という観念なくしてはきみの生育の仕事をうまくは成し遂げられない。
 政治家である私は、今まで歴史の基盤の上に存在した秩序を廃棄して全般的で新しい反歴史的な秩序を実施し、そしてそれに知的な根拠を与える、そういうことを可能とする観念を必要としている。…
 そして、人種という観念は、私のこの目的のために役立つ。…
  フランス革命は、国民(民族、nation)という観念を国境を超えて伝播させた。
 国家社会主義は、人種という観念でもって広く革命をもたらし、世界を作り直すだろう。…
 民族主義(ナショナリズム)という常套句には多くのものは残らないだろう。我々ドイツ人には、ほとんど何も。
 その代わりに、善良な一つの支配する人種についての多様な言葉遣いが、理解されるようになるだろう。』(120)//
 共産主義と「ファシズム」は、異なる知的起源をもつ。一方は啓蒙哲学に、他方はロマン派時代の反啓蒙的文化に、根ざしている。
 理論については、共産主義は理性的、構築的で、「ファシズム」は非理性的、破壊的だ。このことは、共産主義がつねに知識人たちに対してきわめて大きい魅力を与えた理由だ。
 しかしながら、実際には、こうした区別もまた、不明瞭になっている。
 じつにここでは「存在」が「意識」を決定するのであり、全体主義諸制度はイデオロギーを従属させ、それを意のままに再形成するのだ。
 記したように、両者の運動は思想(ideas)を、際限のない融通性をもつ道具だと見なす。それは、服従を強制して一体性の見せかけを生み出すために、臣民たちに押しつけられる。
 結局のところ、レーニン主義-スターリン主義の全体主義とヒトラー体制は、いかに知的な起源が異なっていても、同じように虚無主義的(nihilistic)で、同じように破壊的なのだ。//
 おそらく最も語っておくべきなのは、全体主義独裁者たちがお互いに感じていた、称賛の気持ちだ。
 述べてきたように、ムッソリーニはレーニンに大きな敬意を払っていたし、「隠れたファシスト」に変わったことについてスターリンを惜しみなく賞賛した。
 ヒトラーはごく親しい仲間に、スターリンの「天才性」に対して尊敬の念を抱いていることを認めた。
 第二次大戦のただ中でヒトラーの兵団が赤軍との激しい戦いで阻止されていたとき、彼は両軍が一緒になって西側の民主主義諸国を攻撃し、破滅させることを瞑想した。
 このような両軍の協働に対する一つの重大な障害は、ソヴィエト政府の中のユダヤ人の存在だった。これは、ヒトラーの外務大臣のヨアヒム・リッベントロップ(Joachim Ribbentrop)にソヴィエト指導者が与えた、非ユダヤ系の適切な幹部の地位に就けば指導的部署から全てのユダヤ人を排除するとの保証、を考慮すれば解消できるように見えた。(121)
 そしてその代わりに、最も過激な共産主義者の毛沢東は、ヒトラーとその方法を称賛した。
 きわめて多くの同志の生命を犠牲にした文化革命のさ中に非難が加えられたとき、毛沢東は、「第二次大戦を、ヒトラーの残虐さを見よ。残虐さが強ければ強いほど、革命への熱狂はそれだけ大きくなる」、と答えた。(122)//
 根本のところで、左と右の様式がある全体主義体制は、類似した政治哲学と実践によってのみならず、それらの創設者の共通する心理によって結び合わされている。
 すなわち、搔き立てる動機は憎悪であり、それを表現したのが暴力だ。
 彼らの中で最も率直だったムッソリーニは、暴力は「道徳的な治癒療法」だ、人々を明白な関与に追い込むのだから、と述べた。(123)
 この点に、そして自分は疎外されていると感じている現存の世界を、どんな犠牲を払ってでも全ての手段を用いて徹底的に破壊しようとの彼らの決意のうちに、彼らの親近性(kinship)があった。//
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 (120) Rauschning, Hitler Speaks, p.113, p.229-230.
 (121) Henry Picker, ed., Hitlers Tischgespräche im Führerhauptquartier, 1941-1942 (Bonn, 1951), p.133. 
 (122) NYT(=New York Times), 1990年8月31日号, A2.
 (123) Gregor, Fascist Persuasion, p.148-9. 
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 第5章第6節、そして第5章全体が、これで終わり。

1775/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑩。

 江崎道朗の下掲の本で、コミンテルンに関する資料・関係文献として最もよく使っているのは、つぎだ。原書も同時に示す。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 この原書は、全体で計304頁(索引等を含む)。うち、邦訳書で江崎が用いていた「付属資料」の部分は計30頁だ(p.220~p.249)。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
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 この邦訳書もある原書の執筆者等に言及するのは後回しにして、前回記したこの邦訳書以外の二つも含めて三邦訳書以外に、コミンテルンに関する資料等になる邦語文献(とくに翻訳書)は存在しないのか、を問題にしてみよう。
 江崎道朗が参照している上の邦訳書の「付属資料」の冒頭に訳者/萩原直が付している注記からすでに、つぎのものがあることが分かる。
 ①村田陽一編訳・コミンテルン資料集(大月書店、1978-1985年)。/6巻までと別巻で計7冊。
 前回での②を一部とするつぎも資料の邦訳書なので、記しておく。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)、同Ⅱ-1923~1928(現代思潮社、1996)。/少なくとも計2冊。
 その他、以下のものがあるようだ。コミンテルンの第一次資料の邦訳を中心としていると見られるものに限る。秋月が一部でも所持しているものはあるし、所在が行方不明のものもあり、明確に入手していないものもある。なお、現時点での入手の容易さとはさしあたり無関係に記していく。
 ③村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本(大月書店、1986-1988)。/1巻~。少なくとも3巻まで、計3冊。
 ④ソ連共産党付属マルクス・レーニン主義研究所編/村田陽一訳・コミンテルンの歴史-上・下(大月書店、1973)/計2冊。…①・③との異同は秋月には不明。
 ⑤和田春樹=G. M. アジベーコフ監修/富田武・和田春樹編訳・資料集/コミンテルンと日本共産党(岩波書店、2014)
 ⑥トリアッティ/石堂清倫・藤沢道郎訳・コミンテルン史論(青木文庫、1961)
 ⑦B・ラジッチ=M.M.ドラコヴィチ/菊池昌典監訳・コミンテルンの歴史(三一書房、1977)
以上、
 さらに、レーニン全集(大月書店)にはコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会等で報告・演説等をしたものが含まれているので、1919年3月以降のものの<表題>(一部は内容でも確認)に全て目を通して、以下に掲載する。内容としてコミンテルン(第三インター)に触れているものは他にもあるだろうが、逐一は確認できない。
 ①1919.04.15「第三インタナショナルとその歴史上の地位」第29巻p.303-p.311。
 ②1919.07.14「第三インタナショナルの任務について」第29巻p.502-p.524。
 ③1920.01.03「同志ロリオと第三インタナショナルに加入したすべてのフランスの友人へ」第30巻p.76-p.77。
 ④1920.03.06「第三インタナショナル創立一周年記念のモスクワ・ソヴェトの祝賀会議での演説」第30巻p.432-p441.」
 ⑤1920.06-「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.135-p.142.
 ⑥1920.06初「農業問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.143-p.155.
 ⑦1920.06.12『共産主義』=「東南欧州諸国のための共産主義インタナショナルの雑誌」第31巻p156-p.158.
 ⑧1920.07.04「共産主義インタナショナル第二回大会の基本的任務についてのテーゼ」第31巻p.178-p.193.
 ⑨1920.07.08「イギリス共産党結成のための暫定合同委員会の手紙にたいする回答」第31巻p.194-p.195.
 ⑩1920.07-「共産主義インタナショナルへの加入条件」第31巻p.199-p.205.
 ⑪………「共産主義インタナショナル加入条件の第20条」第31巻p.206.
 ⑫1920.07.19「共産主義インタナショナル第二回大会/一・国際情勢と共産主義インタナショナルの基本的任務についての報告」第31巻p.207~.
 ・1920.07.23「同/二・共産党の役割についての演説」第31巻p.228~.
 ・1920.07.26「同/三・民族・植民地問題小委員会の報告」第31巻p.233~.
 ・1920.07.30「同/四・共産主義インタナショナルへの加入条件についての演説」第31巻p.239~.
 ・1920.08.02「同/五・議会主義についての演説」第31巻p.246~.
 ・1920.08.06「同/六・イギリス労働党への加入についての演説」第31巻p.251-p.257.
 ⑬1920.08.15「オーストリアの共産主義者への手紙」第31巻p.261-p.264.
 ⑭1920.08-09「共産主義インタナショナル第二回大会」第31巻p.265-p.267.
 ⑮1920.09.24「ドイツとフランスの労働者への手紙-共産主義インタナショナル第二回大会についての討論にかんして」第31巻p.276-p.278.
 ⑯1920.12.11「イタリア社会党の党内闘争について」第31巻p.379-p.397.
 ⑰1921.06.13「共産主義インタナショナル第三回大会/一・共産主義インタナショナル第三回大会でのロシア共産党の戦術についての報告要綱(原案)」第32巻p.481~.
 ・1921.06.28「同/二・イタリア問題についての演説」第32巻p.491~.
 ・1921.07.01「同/三・共産主義インタナショナルの戦術を擁護する演説」第32巻p.498~.
 ・1921.07.05「同/四・ロシア共産党の戦術についての報告」第32巻p.510-p.530.
 ⑱1922.11.04「共産主義インタナショナル第四回大会/一・コミンテルン第四回世界大会とペテログラード労働者・赤軍代表ソヴェトへ」第33巻p.432~.
 ・1922.11.13「同/二・ロシア革命の五カ年と世界革命の展望」第33巻p.434-p.449.
 ⑲1922.12.02「国際労働者救援会書記へ」第35巻p.617-p.618.
 ⑳1922.11.13前「コミンテルン第四回大会での演説のプラン」第36巻p.691-p.696.
 以上。<⑳は、レーニン死後の1926.01.21に初公表だとされる-上記第36巻。>
  さて、前回に引用紹介したように、江崎道朗は上掲書でつぎのように「豪語」した。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎は、レーニン全集関係のその上に記した文献①の所在を知っていたはずだが、無視している(計7冊は面倒と思ったのか?)。
「しろうと」の秋月でも文献③~⑦くらいの所在には気づくことができるが、江崎は無視している。
 <資料>としては、とくに日本との関係に着目すれば、例えば文献③の方が詳細で正確なようだが、江崎は無視している。下のものは、第一巻だ。
 村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本① 1919-1928(大月書店、1986)
 この書物は<資料>だけで計510頁まであり、コミンテルン自体のものを多く含む資料が計153件、日本人(片山潜や佐野学ら)・外国人共産主義者の論文が計18篇、<付録>として戦前の日本共産党等の組織の文書計12件を収載している。
 江崎道朗は、コミンテルン・共産主義(者)と日本の関係を(タイトル上の)主題とする本を出版しているのだが、上の書をおそらく一瞥すらしていない。
 また、江崎・上掲書を一瞥してすぐに感じたのは、「コミンテルン」を扱いながら、なぜ、レーニン全集収載論考類を参照文献として挙げていないのだろう、ということだった。とっくの昔に日本語になって「公開されている」、コミンテルンの創設者と言ってよい人物が自ら記した文献資料であるにもかかわらず。
 結論は、要するに、この人=江崎は、レーニン全集を捲ってみる、という作業をおそらくは絶対に行っていない、ということだ。
 レーニンによる、「コミンテルン」=「共産主義インタナショナル」に直接に関係のある文献資料は、上掲のとおり、少なくとも20件はある。第31巻にかなり集中している。むろんこれらだけで、今回の冒頭に記載の邦訳書「資料」部分よりも、はるかに、比較しようもなく、長い。
 (なお、レーニンはコミンテルン組織の執行委員等でなかったとしても、ロシア共産党の代表者として他国の共産主義者・共産党員の前で発言・報告・演説したり、ロシア共産党の代表者として別国の共産党等に「手紙」類を送ることができた。「人民委員会議の議長として」というレーニンの挨拶文等が同全集に収載されてもいるが、これは党とは<別の>国家・行政の長としての立場でのものだ。)
 もう一度、江崎道朗の「豪語」を引用しよう。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎道朗は、コミンテルンに関する「公開されている情報」の「すべて」または多くを「読み込んで理解」しているだろうか。確実に、否、だ。
 ということは、既述のとおり、「インテリジェンスの第一歩」を終えていない、ということを意味する。
 そしてまた、このような文章執筆姿勢、書物出版意識は、確実に、戦前の日本に関する叙述の仕方にも現れている、と見られる。この点はまだ先のこととして、コミンテルン関係の江崎の叙述について、さらにつづける。

1774/諸全体主義の相違①-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。第5章第6節。p.278~p.230。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違①。

 共産主義者、ファシストおよび国家社会主義者の諸体制を分かつ、相違の問題に移る。
 これらが作動しなければならなかった社会的、経済的および文化的条件を対比させることで、我々はこれを説明することができる。
 換言すると、相違は、異なる哲学から生じたのではなく、同じ統治の哲学を地域的な情勢に戦術的に適応させたことから生じた帰結だ。//
 一方での共産主義、他方でのファシズムと国家社会主義の間の際立つ相違は、民族主義(ナショナリズム)に対するそれぞれの姿勢にある。
 すなわち、共産主義は国際的運動だが、ムッソリーニの言葉によると、ファシズムは「輸出」するためのものではなかった。
 1921年の国会下院での演説でムッソリーニは、共産党員たちにこう呼びかけた。
 『我々と共産党との間には政治的親近性はないが、知的な一体性はある。
 我々はきみたちのように、全ての者に鉄の紀律を課す中央志向の単一性国家が必要だと考える。違うのは、きみたちは階級という観念を通じてこの結果に到達するのに対して、我々は民族(nation)という観念を通じてだ、ということだ。』(116)
 のちにヒトラーの宣伝相になるヨゼフ・ゲッベルスは同様に、共産主義者をナツィスと区別する一つのものは前者の国際主義だ、と考えた。(117) //
 この相違は、いかほどに根本的なものなのか?
 厳密に検討すれば、この違いは大きくは三国の特殊に社会的かつ民族的な条件によって説明することができる。//
 1933年のドイツでは、成人人口の29パーセントが農地で、41パーセントが工場や手工業で、そして30パーセントがサービス部門で働いていた。(118)
 イタリアでのようにドイツでは、都市と農村の人口、賃金労働者と自営業者や使用者、そして財産所有者と所有しない者のそれぞれの割合は、ロシアでのよりもはるかによく均衡がとれていた。ロシアはこの点では、ヨーロッパよりもアジアに似ていた。
 かりに社会構成が複雑で、「プロレタリア-ト」にも「ブルジョアジー」にも属さない集団の意味が大きければ、一つの階級が別のそれと闘争するのは西側ヨーロッパではまったく非現実的なものだっただろう。
 熱望をもつ独裁者は、西側では、自分の政治的基盤を損なうことを真面目に考えないかぎり、自分を単一の階級と同一視することなどできなかっただろう。
 このような想定が正しいことは、社会革命を掻き立てようとする共産主義者たちが西側では何度も失敗したことで、実証された。
 共産主義者たちが反乱に巻き込むことに成功した知識人や労働者階級の一部は、-ハンガリー、ドイツ、イタリアの-どの場合でも、連合した別の社会集団によって粉砕された。
 第一次大戦のあと、最大数の支持者がいた国々、イタリアとフランス、ですら、共産主義者たちは、単一の階級にのみ依存したために、その孤独な状態を打破することができなかった。//
 熱望をもつ西側の独裁者は、階級ではなくて民族的な憎悪を利用しなければならなった。
 ムッソリーニと彼のファシスト理論家は、イタリアでは「階級闘争」は市民階級が別の者と闘うのではなくて「プロレタリア国民」全体が「資本主義」世界と闘うのだ、と主張して、二つのことを巧妙に融合させた。(119)
 ヒトラーは、「国際ユダヤ人」を「人種的」のみならずドイツ人の階級的な敵だとも称した。
 外部者-カール・シュミットの言う「敵」-に対する憤激に焦点を当てて、ヒトラーは、どちらかに明らかには偏することなく、中産階級と農民の利益の均衡を維持した。
 ムッソリーニとヒトラーの民族主義は、彼らの社会構造が外側へと憤激を逸らすのを必要としていたこと、および権力に到達する途は外国の者に対抗する多様な階級の協力を通じて存在しているということ、への譲歩だった。(*)
 多くの場合で-とくにドイツとハンガリーで-、共産主義者もまた、排外主義的感情で訴えるのを躊躇しなかった。//
 東側では、状況は大きく異なっていた。
 1917年のロシアは、圧倒的に一つの階級、つまり農民の国家だった。
 ロシアの産業労働者は比較的に小さく、かつたいていは、まだ村落を出身地にしていた。
 大ロシア諸地方では全体の90パーセントを占める相当に均質な労働者(toiler)である民衆は、社会経済的にのみならず文化的にも、残りの10パーセントとは明瞭に区別された。
 彼らは、幅広く西側化されている地主、公務員、専門職業人、事業者および知識人とは民族的一体性の意識を感じていなかった。
 ロシアの農民と労働者にとって、彼らは十分にまったくの外国人だった。
 革命的ロシアでの階級敵、burzhui (ブルジョア)は、少なくとも語り方、振舞い方や外観でもってその経済的地位によるのと同様に見分けられた。
 ゆえに、ロシアでの権力に到達する途は、農民大衆や労働者と西欧化されたエリートたちの間の内戦を通じて存在していた。//
 しかし、かりにロシアがイタリアやドイツよりも社会的に複雑でなかったとしても、ロシアは民族的構成の点では相当にこれらよりも複雑だった。
 イタリアやドイツは民族的には同質的だったが、ロシアは、最大の集団は人口の2分の1以下だと記録される、多民族帝国だった。
 公然とロシア民族主義に訴える政治家には、非ロシア人である半分を遠ざけてしまうリスクがあった。
 これは、大ロシア民族主義と明白に同一化するのを避けて、その代わりに民族的に中立的な「皇帝」という考えに依拠した、ツァーリ政府によって認識されていたことだ。
 この理由でもっても、レーニンは、ムッソリーニやヒトラーとは異なる路線を進み、民族的な色合いのないイデオロギーを促進しなければならなった。//
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 (116) Mussolini, Opera Omnie, XVII (Florence, 1955), p.295.
 (117) Kele, Nazis and Workers, p.92.
 (118) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.3.
 (119) Gregor, Fascist Persuation, p.176-7.
(*) コミンテルンの知識ある構成員は、このことを認識していた。
 1923年6月のコミンテルンの会議(Plenum)で、ラデックとジノヴィエフは、ドイツ共産党は、孤立状態を打破するには民族主義的な心性要素と繋がり合う必要があると強調した。
 ドイツにその一つがある「被抑圧」民族の民族主義的イデオロギーは革命的な性格を帯びる、ということでこのことは正当化された。 
ラデックはこの場合について言った。『国家に対する重い負荷は、革命的行為だ』、と。
 Luks, Entstehumg der kommunistischen Faschismustheorie, p. 62. 〔共産主義的ファシズム理論の生成〕
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 ②へとつづく。

1773/三全体主義の共通性⑨-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.276~p.278。
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 Ⅲ・党と社会③
 ムッソリーニは、ヒトラーが従った様式を基礎にした。
 彼は、「自然の」、ゆえに不可侵の権利だと承認することはしないで、私有財産はファシスト国家で存在する余地があると感じていた。つまり、彼にとっては財産所有権は条件つきの権利であって、国家の利益に従属する。国家はそれに介入し、生産手段に関するかぎりは国有化によって廃止する権限をもつ。(104)
 ファシスト政府はしきりに、経営が下手なため、労働関係が悪いためあるいはその他の理由の何であれ、政府の期待に添って活動しない私企業に介入した。
 政府当局はしばしば、労働組合を対等な協力者と見なさなければならなったことに怒りをもつ企業経営者たちと激論した。
 また、利益を「調整」し、経営者を交替させることで、生産や配分の過程にも介入した。
 このような実務に言及して、当時のある人は、ファシズムのもとでは私企業は労働者と同様に統制されるのだから、それを「成功した資本主義」と見なすのは適切でない、と観察した。(105)//
 ナツィスもまた、私企業を廃止する根拠はないと考えた。私企業は協力的で、ヒトラーが主要な経済目標として設定していた再軍備を助けようとしていたから。
 私的事業を許すのは一時的対応措置で、信念の問題ではなかった。
 ファシスト党のように、ナツィス党は私有財産の原理を承認したが、人的資源のごとく生産手段は「共同体」の利益に奉仕しなければならないという理由で、その神聖性を否定した。
 あるナツィの理論家の言葉によれば、「財産権は…もはや私的事柄ではなく、一種の国家による特権であって、『適切な』用法で使われるべき条件次第で制限される」。(106)
 もちろん、「私的事柄」ではない「財産権」は、もはや私的財産ではない。
 国民精神を体現化する総統は、「『共同体の任務』と合致する場合には、意のままに財産権の制限または収奪を行う」権利を有する。(107)
 ドイツ国家社会主義労働党が唯一の合法政党だと宣言した1933年7月14日に、ある法律が党と国家の「利益」に反する全ての財産を没収する権限を与えた。(108)
 共産主義者の実務から直接に借用して同じ目的、つまり急速な再軍備、を意図するナツィの四カ年計画は、国家が経済活動に介入する権能を大きく高めた。//
 『マルクス主義やネオ・マルクス主義の神話をもつ世代の者は、やはりおそらくは、1933年と1939年の間のドイツ経済のような非資本主義的な、または反資本主義的な方向にすら向かう、表向きは資本主義経済なるものを、平和時には決して知らなかった。…
 第三帝国での企業の地位はよくても、屈服することが成功の条件である、不平等な相手同士の社会上の契約の産物だった。』(109)
 土地を処分する農民の権利は、農民を家族の中に守るという考えから、厳格に規制された。
 事業に対する干渉は恒常的にあり、株主配当金として支払うことのできる収益の高さを制限するまでになった。
 ラウシュニンクは、西側の妥協者に対して1939年に、「ナツィスによるユダヤ人財産の収奪は第一歩にすぎず、ドイツの資本家と以前の支配階層の経済的地位を全体的にかつ不可逆的に破壊することの始まりだ」と警告した。(111)//
 ナチズムを「ブルジョア」的性格のものだとするのは、いずれも歴史上の証拠がないと反証される二つの論拠に依拠している。
 ヒトラーが権力への途上にあるときに、彼は産業界や銀行界から経済的な支援を受けた、と広く信じられてきた。
 しかしながら、文書記録上の証拠が示すのは、大企業はヒトラーにわずかの金額しか与えておらず、社会主義的スローガンに疑念をもったために、ヒトラーに対抗する保守諸政党へのそれよりもはるかに少なかった、ということだ。//
 『まったくの事実の歪曲のゆえにのみ、大企業者は(ワイマール)共和国の崩壊について深刻な、あるいは重大ですらある役割を果たしうることになった。…
 共和国解体についての大企業の役割が誇張されてきたとすれば、そのことはヒトラーの権力掌握についてのその役割について、もっと本当のことですらある。…
 国家社会主義労働党の初期の成長は、大規模な企業界からのいかなる大きな援助にもよることなく、生起した。』(112)
 第二に、ナツィ体制の期間のいつのときでも大企業は政策をナツィに押しつけるのは別としてナツィの政策に抵抗できた、ということを示すことはできない。
 あるドイツのマルクス主義歴史家は、ヒトラーのもとでの資本家階層の地位を、つぎのように叙述する。
 『ファシズムの自己認識からすると、ファシストの統治制度の特徴は政治の優越性にある。
 政治の優越がきちんと守られるかぎり、どの集団がその体制から利益を得ているかは関心のない事柄だった。
 ファシストの世界観によれば、経済秩序は二次的な重要性しかもたず、したがって彼らは現存する資本主義秩序も受け入れた。』(*)
 別の学者はこう書く。
 『国家社会主義運動は最初から、政治決定に対して現実的な影響を与えない地位に満足しているかぎりでのみ実業家や特権階層を許容する、そういう新しくて革命的なエリートたちによる統治を目指した。』(113)
 そして彼らは、余裕のある国家秩序やそれが与える収益に満足した。//
 これとの関係では、レーニンはドイツ帝国政府からはもちろんロシアの富裕層から金銭を貰ことに何の呵責も感じなかった、ということを忘れるべきではない。(114)
 権力へと向かっているとき彼は、資本家たち諸団体が新体制と協調関係をもって活動できるように交渉を開始して、喜んでロシアの大企業と協力した。
 その計画は、共産主義を進行させようと強く主張する左翼共産主義者たちの反対によって無意味になった。(115)
 しかし、意図はそこにあった。そして、かりにレーニンが新経済政策を始めた1921年にロシアの大規模な資本主義工業や商業のうちの何かが生き延びていたとするならば、彼はほとんど確実に、それと交渉を始めていただろう。//
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 (104) A. James Gregor, Ideology of Fascism (New York, 1969), p.304-6.
 (105) Beckrath, Wesen und Werden, p.143-4.
 (106) Theodor Maunz, in: Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.146-7.
 Feder, Der deutsche Staat, p.22 も見よ。
(107) Schoenbaum, 引用同上, p.147.
 (108) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.247.
 (109) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.114, p.116.
 (110) Neumann, Permanent Revolution, p.160-p.170.
(111) Rauschning, Revolution of Nihilism, p.56.
 (112) Henry A. Turner, Jr., German Big Business and the Rise of Hitler (New York, 1985), p.340-1.
 (*) Axel Kuhn, Das faschistishe Herrschaftssystem (Hamburg, 1973), p.83.
 この著者は、「ファシスト」をナツィの意味で用いている。
 ワイマール共和国では産業界は「…統治形態に対する驚くべき無関心さを示した」、ということが指摘されてきた。Henry A. Turner , in: AHR(=American Historical Review), Vol. 75, No. 1 (1969), p.57.  
 (113) Neumann, Permanent Revolution, p.170.
 (114) リチャード・パイプス・ロシア革命, p.193, p.369-372, p.410-2。
 (115) 同上、p.676-9。
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 第5節「三つの全体主義体制に共通する特質」終わり。第6節「…相違」へとつづく。

1772/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑨。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 この本での、江崎道朗の大言壮語、つまり「大ほら」は、例えば以下。
 ①p.7「本書で詳しく描いたが、日本もまた、ソ連・コミンテルンの『秘密工作』によって大きな影響を受けてきた」。
 ②p.7-8「コミンテルンや社会主義、共産主義といった問題を避けては、なぜ…、その全体像を理解するのは困難なのだ。本書は、その『全体像』を明らかにする試みである」。
 ③p.15「ソ連・コミンテルンによる『謀略』を正面から扱った本書が、…ならば、これほど嬉しいことはない」。
 ④p.95「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 秋月瑛二のコメント。番号は上に対応。
 ①-「本書で詳しく描いた」というのは本当か?
 ②-「全体像を明らかに」する<試み>をするのはよいが、どの程度達成したと考えているのか。
 ③-「謀略」を「正面から扱った」? いったいどこで?
 ④-なるほど「本書で使っている」資料は全て公開されているのだろう。しかし、コミンテルンに関する「公開」資料のうち、いかほどの部分を江崎は「使って」、「しっかり読み込んで理解」しているのか。江崎のコミンテルンに関する資料・史料の使い方・読み方は、後記のとおり、かなり偏頗だ。
 「公開」資料の全てまたはほとんどを「しっかり読み込んで理解」しているとは思われないので、江崎道朗は「インテリジェンスの第一歩」も踏み出していないことになるだろう。
 この部分はまるで、江崎が「公開」コミンテルン資料を全て又はほとんど読んでいるかの印象も与えるが、これは<大ウソ>。
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 1919年に設立された共産主義インターナショナル(コミュニスト・インター)=コミンテルンについて、「しろうと」にすぎない秋月瑛二ですら、次のようなことは指摘できそうだ。
 第一。共産党-国家(社会主義ロシア・ソ連)-コミンテルンという関係・連関の中で理解する必要がある。
 コミンテルンは共産党や国家(1922年以降のソ連)の対外・外交・戦争政策と深い関係がある。したがって、コミンテルンのみに関して著述がされていなくても、レーニン、スターリンあるいはロシア・ソ連共産党あるいはソヴィエト共産主義に関する(主として歴史)叙述の中で併せてコミンテルンにも言及される、ということがしばしばある。
 江崎道朗は「コミンテルン」をタイトルにする書物だけを検索し参照したとすれば、根本的に間違っている、と言うべきだろう。
 上のことは、共産党やロシア国家の基本的政策・方針が変われば、あるいは揺れれば、コミンテルンのそれも容易に変動するという関係にある、ということでもある。コミンテルンだけを独自の「変数」として取り扱うのは危険だ。
 しかし、共産党=(1922年以降の)ソ連=コミンテルン、と単純に理解することもできない。
 平井友義・三〇年代ソビエト外交の研究(有斐閣、1993)というソ連史アカデミズム内とみられる書物がある。
 目次から安易に引用すると、まず、「第一章/ナチス政権の出現とソ連の対応」の第一節は「ソ連、コミンテルンおよびナチズム」という見出しだ(p.17)。
 当然のようだが、「ソ連、コミンテルン」と<別に>語っていて、両者を一括していないことを確認しておきたい。(江崎道朗とは違って)研究者・学者では常識的なことなのだろう。
 つづくのは、「第二章/コミンテルンにおけるソ連ファクター」だ(p.68-)。そしてここでは、コミンテルンの戦術・方針が「ソ連ファクター」内部での論争によって揺れ動いていることが叙述・分析されているように見える。
 ともあれ、江崎道朗が叙述するのとはまるで異なる次元の、研究・分析の世界があることを、江崎は知らなければならない。
 第二。コミンテルンもまた、歴史的に変遷している可能性がむろんあるのであって、単色で一貫させることはできない。
 「しろうと」的には、少なくとも、①レーニン時代、②スターリン時代の1935年頃まで、③スターリン時代の、1935年のコミンテルンの大きな方針転換(議長はディミトロフ)-「人民戦線」・「反ファシズム統一戦線」への転換-以降。
 すでに書いてしまうと、上の本での江崎のコミンテルンに関する叙述は、ほとんどが上の①、部分的には②あたりにまで焦点を当てすぎているようだ。
 そして、江崎が下記の資料・史料を用いるのはこのあたりの時期のコミンテルンについてであって、重要な上の③については、論及はあるが(江崎p.231以下)、本格的には、あるいはきちんとは叙述していない、と考えられる。
 大雑把には、1920年代、1935年まで、1935年以降と三期に分ける必要があるかもしれない。だが、江崎の上の本のコミンテルンの叙述の仕方には、こうした注意深さはない。
 さらについでに書いてしまうと、前回触れたようにコミンテルンの現在まで続く「流れ」に触れながら、おそらくどこにも、これの後継組織に近いと常識的には理解できる<コミンフォルム>への言及がないようだ。
 戦後の日本共産党史にとって、つまりは1950年頃に同党に対して重要な影響を与えた<コミンフォルム>への言及がおそらく全くないとは、いかに戦前の歴史に対象を限っているとしても、不思議なことだ。
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 江崎道朗が上の本で参照している、または「下敷き」にしている、コミンテルンに関する史料・資料となる書物は、おそらく以下に限られている。しかも、多くは①によっている
 ①ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)
 ③ステファヌ・クルトワら・共産主義黒書-犯罪・テロル・抑圧-<コミンテルン・アジア篇>/高橋武智訳(恵雅堂出版、2006)
 上記のとおり、江崎道朗は「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」と豪語?しているが、何のことはない、この人が読んで(見て)いるのは、これらだけだと思われる。しかも、繰り返せば、ほとんどは、上の①だ。
 江崎道朗による①への依拠ぶりを、<マクダーマットら/萩原直訳・コミンテルン史(大月)>からの直接引用らしき行数をメモしておこう。
 p.50-10行、p.58-2行、p.58-59-4行、p.61-62-3行、p.65-66-9行、p.67-5行、p.68-8行、p.69-70-8行、p.71-72-計16行、p.73-74-計8行、p.75-76-計11行、p.77-5行、p.78-79-計10行、p.80-2行。
 コミンテルンの大会決定・規約等々のそのままの引用だが、これらを単純に合計すると、合計で102行になる。1頁が15行分なので、合計するとほとんど7頁が、つまりは30頁ほどの範囲の約4分の1がこの本からの直接引用で占めているようだ。
 もちろん、この前後に、この本を参照した、または<下敷き>にした、江崎道朗自身の文章が挿入されている。これを合わせると、大雑把にはやはり30頁ほど以上はこの本の影響を受けている。
 たしかに-以下のソースの問題はあるが-引用部分は重要かもしれない。しかし、既述のように、初期の(レーニン時代の)、かつ表向きだけのコミンテルンの公式文書だけを見て、コミンテルンを理解することはできない、と考えられる。
 それにもともと、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)とは、いかなる、いかほどに信頼できる書物なのだろう。
 史料・資料自体は、引用部分に限っては、正確なのかもしれない。
 しかし、この邦訳書を見ると、江崎が引用する典拠としている<付属資料>部分は33頁しかない(p.295~p.327。本文等も含めて、この著の邦訳書自体は計380頁足らず)。
 また、コミンテルンの19の文書だけが資料として添付、掲載され、かついずれも「抜粋」でしかない。
 要するに外国人(イギリス人)著者の二人が選抜した決定等文書19のうちの、かつ彼らが行った「抜粋」なのだ、と思われる(日本人訳者の介在・関与の程度・部分は必ずしも明瞭でない、p.295を参照)。
 その選別や「抜粋」に江崎道朗の判断、選択が加わっているはずはないだろう。
 そういう<狭い>範囲の中から、さらにその一部を江崎は<引用>し、おそらくは自分の説明や叙述の<下敷き>にしている。
 では、この二人は何者なのか(なぜ、大月書店が萩原直訳で出版したのか)、かつまた、コミンテルンに関する「公開」の、つまり日本語で読める翻訳資料・史料は、これ以外になかったのか。要するに、いかほどに江崎道朗は、コミンテルンに関する(日本語のものに限っても)資料・史料の探求を試み、「読み込んで」、「理解」しているのか。
 「政治」評論家・江崎道朗の<安直さ>が-見方によれば、悲惨さと無惨さが-この部分についても、明らかになるだろう。/つづく。

1771/三全体主義の共通性⑧-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.274~p.276。
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 Ⅲ・党と社会②。
 ヒトラーは、教師、法律家、医師および航空士を含む全ての専門家や職業集団を受け容れるナツィが統御する団体の網を、ドイツに張り巡らせた。(97)
 社会民主党の影響が強かったために労働組合は解散させられ(1933年5月)、「労働フロント(戦線)」(Labor Front)に置き換えられた。これは、ムッソリーニの例に倣って、労働者や補助事務職員のみならず雇用主も含むもので、これら三集団はナツィ党の監督のもとで対立を調整することが期待された。(98)
 フロントに加入することは義務だったので、この組織は飛躍的に拡大し、結果として全国民の二分の一を登録することになった。
 労働フロントは、制度的には国家社会主義党の一支部だった。
 やがて、スターリンのロシアでのように、ドイツの労働者は業務に就かないことを禁止され、管理者は当局の許可なくしては労働者を解雇できなくなった。
 1935年6月にヒトラーは、ボルシェヴィキを摸倣して、強制的労働奉仕を導入した。(99)
 こうした政策の帰結は、ソヴィエト・ロシアでのように、国の組織化された生活を党が完全に支配することの受容だった。
 ヒトラーは1938年に、こう誇った。
 『共同体の組織は、巨大で独特なものだ。
 国家社会主義共同体の組織のいずれかに所属して働いていないドイツ人は、現時点でほとんどいない。
 それは全ての家、全ての職場、全ての工場に、そして全ての町と村に達している。』(100)//
 ファシスト党とナツィ党は、レーニンのロシアでのように、情報を政府に独占させた。
 ロシアでは全ての独立系新聞と定期刊行物が、1918年8月までに廃刊させられた。
 1922年の中央検閲機構、グラヴリト(Glavlit)、の設立によって、印刷される言葉に対する共産党の支配は完全になった。
 同じような統制が劇場、映画館その他の全ての表現形態で確立され、それはサーカスをもすら含んでいた。(*)//
 ムッソリーニは権力掌握後一年以内に、非友好的な新聞の編集部署や印刷工場を嵐のごとく暴力的に襲って、自立したプレスを攻撃した。
 マテオッティ(Matteotti)の殺害の後は、「ウソの」報道をする新聞に対して重い罰金が科された。
 ついに1925年、プレスの自由は公式に廃絶され、政府は報道内容や社説の画一性を要求した。
 そうであっても、出版物の所有権は私人にあり、外国の出版物は入ることが許され、教会は、決してファシストの政綱と接触しなかったその日刊紙、<Osservatore Romano(オッセルヴァトーレ・ロマーノ)>を刊行することができた。//
 ドイツではヒトラーが政権を獲得して数日以内に、緊急時諸立法によって、プレスの自由は制限された。
 1934年1月に、プレスが党の指令に従うのを確実にすべくライヒ(国家)「プレス指導官」が任命された。これは、非協力的な編集者や執筆者を馘首する権限をもった。//
 法に関するナツィの考え方は、ボルシェヴィキやファシストと同じだった。すなわち、法は正義を具体化したものではなく、支配のための道具にすぎない。
 超越的な倫理基準なるものの存在は否定された。道徳は主観的なもので、政治的な規準によって決定されるものだとされた。
 レーニンに同意しなかっただけの社会主義者を「裏切り者」だと誹謗したことをアンジェリカ・バラバノフ(Angelica Balabanoff)に咎められたとき、レーニンはこう語った。
 『プロレタリアの利益のために行われたことは全て、誠実な(honest)ものだ。』(101)
 ナツィスはこの偽りの道徳観を、アーリア人種の利益に役立つものが道徳だとする人種的語法へと、翻訳した。(**)
 一方は階級にもとづく、他方は人種にもとづく、倫理の定義でのこうした転化は、法と正義に関する類似の考え方を帰結させる。
 ナツィの理論家はいずれをも、功利主義の方法でもって取り扱った。
 「法とは、人民に利益となるものだ。」
 ここで「人民」とは、1934年7月に自分を「至高の裁判官」に任命した総統の人格と同一体だ。(+)
 ヒトラーはいずれは司法制度全体を廃棄する必要があるとしばしば語ったが、当分の間はそれを内部から破壊することを選んだ。
 ナツィス党はそれが定義する「人民に対する犯罪」を裁くために、ボルシェヴィキを摸倣して、二つの類型の裁判所を導入した。すなわち、レーニンの革命審判所の対応物である「特別裁判所」(Special Court, Sondergericht)と、ソヴェト・ロシアと同じ名の類似物である「人民裁判所」(People's Courts, Volksgerichtshofe)。
 前者では通常の法手続は、党による簡潔な評決によって除外された。
 ナツィの時代の間ずっと、犯罪が政治的性質があると宣告されるときはつねに、法的証拠の必要は免除された。(102)
 「健全な<人民>(Volk)の感覚」が、有罪か無罪かを決定する主要な手段になった。//
 そのような表面のもとで、一方での共産主義の実際と他方でのファシズムおよび国家社会主義のそれとの間には大きな相違が、私的財産に対するそれぞれの態度に存在した。
 多くの歴史家がムッソリーニとヒトラーの体制を「ブルジョア的」かつ「資本主義的」だと分類する理由になっているのは、この点の考察のゆえだ。
 しかし、これらの体制が私的財産を扱う態様をより正確に見るならば、これらは所有権を不可侵の権利ではなく、条件つきの特権だと考えていることが明瞭になる。//
 ソヴェト・ロシアではレーニンの死の頃までに、全ての資本と生産財は国有財産だった。
 農民たちから自分の生産物を処分する権利を剥奪した1920年代後半の農業の集団化によって、私有財産の廃絶は完成した。
 ソヴィエトの統計資料によれば、国家は1938年に、全国の国民所得の99.3パーセントを所有していた。(103)//
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 (97) Unger, Totaltarian Party, p.71-p.79. 
 (98) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.82-p.85.
 (99) 同上、p.79。
 (100) Unger, Totaltarian Party, p.78.
 (*) 以下の〔本書〕第6章を見よ。  
 (101) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (Ann Arbor, Mich., 1964), p.7.
 (**) ヒトラーは正義を「支配の一手段」と定義した。彼は、「良心とはユダヤ人の発明物だ、それは割礼のごとく汚辱だ」と言った。Rauschning, Hitler Speaks, p.201, p.220.
 (+) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.235, p.394.
 法に関するナツィの観念と実際に関する詳しい議論のために、以下を見よ。
 Ernst Fraenkel, The Dual State (New York, 1969), p.107, p.149.
 道徳とはその人民の利益となるもの全てだという考え方は、「ユダヤ人の利益となる全てのものは、道徳的で神聖だ」と述べようとした、<シオン賢者の議定書(プロトコル)>から導かれたと言われる。Hannah Arendt, Origins, p.358.
 (102) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.395.
 (103) Strany mira: Ezhegodnyi Spravochik (Moscow, 1946), p.129.
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 党と社会③へとつづく。

1770/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑧。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08)
 この本のp.95にこうある。コミンテルンの「流れは、現在に至るまで脈々と続いている」。
 そしてつづけて、「国際共産主義運動による様々な工作」を防ぐ必要のあることを、現在の日本の問題として叙述している。
 これはよし、と言ってよい。<現在の日本と共産主義>という問題意識が全くないか、きわめて薄い<保守>なる人物が、日本にはきわめて多数いるのだから。
 しかし、次のように記す江崎道朗はいかほどに共産主義・コミンテルン等々の「理論」を「理解」できているのか。
 「国際共産主義運動による様々な工作を防ぐ必要があると思うのなら、彼らがこのような理論に基づいて戦っていることを理解する必要がある」-p.95。 
 本格的に上掲著に論及し始めた最初に、たしか、この人は国家・党・コミンテルンの区別ができていない、と指摘した。
 今思うに、江崎道朗にとっては、高次すぎる問題だったような気がする。
 はたして江崎は、中国共産党の党大会と中国(国家)の全人代の区別ができているのだろろうかと、はなはだ疑問に思っている。
 さしあたりここでの結論的指摘を書いておくと、この人、つまり江崎道朗は、「コミンテルン」という語を単色の符号のようなものとして用いていて、ソ連や同共産党等といちおうは区別しなければならない、という意識がない、と想定される。
 「ソ連」と「コミンテルン」を混用していることはすでに例・頁数を示して指摘した。
 こんな例もある。
 p.33-「近衛政権の中枢にソ連のスパイがいた…」。
 同-「ゾルゲは…、実際には、ソ連の赤軍情報部(GRU)のスパイであり、尾崎らをメンバーとするスパイ組織を率いていた」。
 いずれも、「コミンテルン」のスパイではないことを自ら書いているに等しいが、おそらく江崎には、何ら気にならないのだろう。 
 要するに、ソ連も共産党も「コミンテルン」も全てが、彼には「コミンテルン」という語で一括できるものなのだ。
 そしてまた、タイトルに「コミンテルンの謀略」と掲げながら、積極的な「工作」がなくとも自ら進んでソ連等のためになるような行動を客観的にはすることもまた江崎は「謀略」活動の一環としてかなり強調して叙述しているので、「コミンテルンの謀略」とは、江崎道朗にとっては、要するにロシア・ソ連以外の日本やアメリカにもいる(ある)「共産主義(者)」の親共産主義的活動のことなのだ。
 とすると、タイトルは正確には、<共産主義と(日本の)戦争>という意味であることになる。
 こうなると、江崎の本自体が(ようやく?)後半になって参照文献として登場させている、三田村武夫・戦争と共産主義(1950年。改題、1987年。呉PASS出版・復刻2015年)と主題は同一で、江崎の本は60年以上前の本の指摘・叙述をいかほどに上回っているのか、という問題も出てくるだろう。
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 ロシア・ソ連、共産党(ボルシェヴィキが1918年に改称)、コミンテルンの関係は微妙で、むろん江崎道朗のように一括して単純化することができなくはない。
 しかし、最近に試訳したアメリカのロシア史学者(但し、R・レーガン政権で対ソ連政策補佐官)のR・パイプスの本が「党」=ボルシェヴィキ又は共産党のことを明確に「私的組織」と記述しつつ、近代以降の欧米政治思想の「標準的範疇・概念」にうまくフィットしない旨をと述べているように、また問題がなくはないが<一党国家>(one-party state)という語もあるように、<共産党>はたんなる一政党ではなく、しかし国家そのものでもないという、独特な位置を占める。
 そもそもは江崎道朗が何ら知らないと見られる、つぎのことに由来するかもしれない。
 10月「革命」直後にソヴィエト執行委員会のもとにソヴナルコム(人民委員会議)が形成されて、レーニンは「人民委員会議の議長」(実質的に「首相」とも言われる。外務大臣=外務人民委員はトロツキー、民族問題長官はスターリン)だった。これは、(ソヴェトとは何だったかが本当は疑問になるが)いちおうは<国家>の機構だ(但し、実質的に「布令」・「布告」という立法権も有したので単純に今日の日本の「内閣」と理解すると間違い)。
 一方、レーニンはボルシェヴィキ党(1918年に共産党に改称。ゆえに「共産党(ボ)」という表記がのちのちにまで続く)の中央委員会の長(「委員長」という語は文献上は出てこないようだ)であり続けた。
 国家・「内閣」の長であり、党の長でもある。しかし、両者は形式的にはずっと「別」のものではあった。中国の習近平は中国の国家主席かつ中国共産党のトップだ。
 余計なことも書いたが、要するに、江崎道朗は、こうしたことにまるで関心がないと思われる。<国家と党>の関係に立ち入ることなくして、今日の「国際共産主義運動」を語れるのだろうか(なお、北朝鮮における国家・党(北朝鮮と労働党)の関係も興味深い)。
 また、ロシア「革命」と「ソ連」設立の時期、ロシア・ソ連国家内部の機構の関係にまるで関心がないか無知な江崎の本だからこそ、つぎのような叙述もできる。
 p.61はつぎのように明記する。コミンテルンが「1919年3月にモスクワで結成される」、と。
 ところで、「ソ連」設立は1922年で、コミンテルン(第三インター)創設よりも後。
 事実はそうなのだが、つぎの文章はどういう意味だろう。
 p.81-チェカは「ボルシェヴィキ(ソ連共産党)が権力を掌握してから6週間足らずのうちに設立」された。
 p.83-チェカは「ソ連共産党(ボルシェヴィキ)が奪取した権力を維持する上で不可欠の装置だった」。
 江崎はボルシェヴィキ=ソ連共産党だと「思い込んで」いる。
 ソ連設立前に「ソ連共産党」がある筈はない。
 時期を確かめないが、ロシア社会民主(労働)党がメンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に決定的に分裂したときが「ボルシェヴィキ」党創立だとすると、1917年よりもとっくの前から、レーニンが指揮するボルシェヴィキ党は存在している。上に触れたが、1918年春に「共産党」と改称したが、むろんそのときは「ロシア共産党」。
 江崎道朗の関心のなさまたは無知は、チェカと赤軍(情報部)に関する叙述にも見られる。
 チェカと赤軍(情報部)はもともと別の目的を持つ機関のはずだが、江崎の本のp. 84は「国外からの反革命に対しても、当初はチェカーが対応していた」と記して何とかつないでいるようだ。
 但し、外国やその組織の「策略」・「使嗾」による<国内での>反革命運動・人物ならば当然にチェカの監視等の権限の範囲になる。
 それはともかくとしても、p.81-p.82のチェカやジェルジンスキーに関する叙述はいったい何なのだろう。
 「コミンテルン」なるものの中に、江崎は当然にロシア・ソ連国内の「政治秘密警察」部門も含めることになる。全てが<ごちゃごちゃ>だ。
 また、ジェルジンスキーが強く関与することになったと江崎が書く「赤軍・情報部」とはどういう組織なのか。
 江崎道朗はトロツキーの主張として叙述する中で、p.84に「赤軍(ソ連共産党軍)参謀本部に情報部門を設置すべきだ」と彼は主張した、旨を記している。
 トロツキーが赤軍=「ソ連共産党軍」と理解しているはずはない。
 江崎に尋ねたいものだ。ソ連共産党には「軍」があり、ロシア革命後の国家であるロシア・社会主義共和国連邦やソ連には「軍隊」はなかったのか?
 いや,江崎道朗には、どうでもよいことなのだろう。
 社会主義ロシアもソ連もボルシェヴィキ・共産党もどうだってよいのだ、この人には。さらに、これらと「コミンテルン」の区別もまた、この人にはどうだってよいのだ。
 今回の冒頭に記したように、共産主義(者)=「コミンテルン」なのだ、江崎道朗にとっては。ああ、恥ずかしい。/つづく。

1765/三全体主義の共通性⑤-R・パイプス別著5章5節。

 現在試訳を掲載しているのは、つぎの①の第5章第5節の一部だ。
 ①Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。計976頁。
 リチャード・パイプスには、この①でもときに参照要求している、つぎの②もあり、この欄でもすでに一部は試訳を掲載している。
 ②Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990, paperback; 1997)。計944頁。
 既述のことだが、これら二つの合冊版または簡潔版といえるのがつぎの③で、邦訳書もある。
 ③Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1996)。計431頁。
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。計444頁。
 邦訳書ももちろん同じだが、この③には、現在試訳中の②の『共産主義・ファシズム・国家社会主義』の部分は、全て割愛されている(他にもあるが省略)。歴史書としての通常の歴史記述ではないからだと思われる。
 したがって、この部分の邦訳は存在しないと見られる。
 前回のつづき。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。-第5節/三つの全体主義に共通する特質。
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 Ⅱ・支配党と国家②。
 首相に指名された2カ月のちの1933年3月に、ヒトラーは国会(Reichstag)から「授権法律」(Enabling Act)を引き出した。それによって議会は4年の期間、立法する権能を自ら摘み取った。-のちに分かったように、実際は、永遠にだったが。
 そのときから12年後のその死まで、ヒトラーは、憲法を考慮することなく発せられた「非常時諸法律」(emergency laws)という手段によって、ドイツを支配した。
 彼は、バイエルン、プロイセンその他という歴史的存在の統治機構を解体することによって、ドイツ帝国およびワイマール・ドイツのいずれにおいても連邦国家制を享有していた権力を絶滅させ、そうして、ドイツで最初の単一国家を産み出した。
 1933年の春と夏には、自立した政党を非合法のものにした。
 1933年7月14日、ナツィス党は唯一の合法的な政治組織だと宣言された。そのときヒトラーは、全く不適切なのだが、「党は今や国家になった」と強く述べた。
 現実には、ソヴィエト・ロシアでと同じく、ナツィ・ドイツでは、党と国家は区別された(distinct)ままだった。(89)//
 ムッソリーニもヒトラーも、法令、裁判所および国民の公民的権利を、レーニンがしたようには、一掃することがなかった。法的な伝統は二人の国に、合法的に法なき状態にするには、深く根づいていたのだ。
 その代わりに、西側の二人の独裁者は、司法権の権能を制限し、その管轄範囲から「国家に対する犯罪」を除外して秘密警察に移すことで満足した。//
 ファシスト党は、効果的な司法外のやり方で政治的対抗者を処理するために、二つの警察組織を設立した。
 一つは1926年以降は反ファシズム抑圧自発的事業体(OVRA)として知られるもので、党ではなく国家の監督のもとで活動する点で、ロシアやドイツの対応組織とは異なっていた。
 加えて、ファシスト党は、政敵を審判し幽閉場所を管理する「特別法廷」をもつ、それ自身の秘密警察をもっていた。(90)
 ムッソリーニは暴力を愛好すると頻繁に公言したけれども、ソヴィエトやナツィの体制と比べると、彼の体制は全く穏和的で、決して大量テロルに頼らなかった。すなわち、1926年と1943年の間に、総数で26人を処刑した。(91)
 これは、スターリンやヒトラーのもとで殺戮された数百万の人々とは比べようもなく、レーニンのチェカ〔秘密政治警察〕がたった一日に要求した一片の犠牲者数だ。//
 ナツィスはまた、秘密警察を作り上げるにもロシア・共産主義者を見倣った。
 ナツィスが一つは政府を守り、もう一つは公共の秩序を維持する、という異なる二つの警察組織を創設するという(19世紀初頭のロシアに起源をもつ)実務を採用したのは、共産主義者を摸倣したものだ。
 これらは、それぞれ、「安全警察」(Sicherheitspolizei)および「秩序警察」(Ordnungspolizei)として知られるようになった。これらは、ソヴィエトのチェカやその後継組織(OGPU、 NKVD等々)および保安部隊(the Militia)に対応する。
 安全警察、またはゲシュタポ(Gestapo)は、党を一緒に防衛したエスエス(SS)と同様に、国家の統制には服さず、その信頼ある同僚のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)を通じて、直接に総統のもとで活動した。
 このことはまた、レーニンがチェカについて設定した例に従っていた。
 いずれの組織も、司法の制度と手続によって制約されなかった。チェカやゲベウ(GPU)のように、それらは強制収容所(concentration camp)に市民を隔離することができた。そこでは、市民は全ての公民的権利を剥奪された。
 しかしながら、ロシアでの対応物とは違って、それらにはドイツ公民に対して死刑判決を下す権限はなかった。//
 公共生活の全てを私的な組織である党に従属させるこれらの手段は、西側の政治思想の標準的な範疇にはうまく適合しない、一種の統治機構(政府、government)を生み出した。
 アンジェロ・ロッシ(Angelo Rossi)がファシズムについて語ることは、もっと強い手段でなくとも同等に、共産主義および国家社会主義にあてはまるだろう。//
 『どこであってもファシズムが確立されれば、他のこと全てが依存する、最も重要な結果は、人々があらゆる政治的な活動領域から排除されることだ。
 「国制改革」、議会への抑圧、そして体制の全体主義的性格は、それら自体が評価することはできず、それらの狙いと結果の関係によってのみ評価することができる。
 <ファシズムとは、ある政治体制を別のものに置き換えるにすぎないのではない。
 ファシズムとは、政治生活自体の消滅だ。それは国家の作用と独占体になるのだから。>』(92)//
 このような理由づけにもとづいて、ブーフハイム(Buchheim)は、つぎの興味深い示唆を述べている。全体主義について、国家に過剰な権力を授けるものだと語るのは、適切ではないだろう、と。
 そのとおり、それは国家の否定なのだ。//
 『国家と全体主義的支配の多様な性質を見ると、まだなお一般的になされているように「全体主義国家」に関してこのような言葉遣いで語るのは矛盾している。…
 全体主義の支配を国家権力の過剰と見るのは、危険な過ちだ。
 現実には、政治生活と同様に国家も、適正に理解するならば、我々を全体主義の危険から防衛する、最も重要な前提的必要条件なのだ。』(93)
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 (89) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.251, p.232.
 (90) Friedrich and Brzezinski, Totalitarian Dictatorship, p.145. 
 (91) De Felice in Urban, Euro-communism, p.107.
 (92) Rossi, The Rise, p.347-8. < >は強調を付けた。
 (93) Buchheim, Totaritarian Rule, p.96.
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 ⑥/③へとつづく。

1764/三全体主義の共通性④-R・パイプス別著5章5節。

 つぎの本の第5章第5節の試訳のつづき。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、p.266-7。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第5節/三つの全体主義に共通する特質。

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 Ⅱ〔第二款〕・支配党と国家①。
 レーニンのように、ヒトラーとムッソリーニは、国家を奪い取るために彼らの組織を用いた。
 三つの国全てにおいて、支配党は私的な組織として機能した。
 イタリアでは、ファシスト党はたんに「国家の司令に服する公民と志願者の兵団」だという虚構が維持された。見かけ上のこととして、かりに政府の官僚(長官たち)が形式上はファシスト党の職員たちよりも優越していたとしても、真実(truth)は真逆だったけれども。(85)//
 ボルシェヴィキ、ファシストおよびナツィの各党が各国での統治を行っていく態様は、全ての実際的目的について、全く同一だった。すなわち、ひとたびレーニンの原理を取り込んでしまうと、その実行は比較的に容易な態様になった。
 いずれの場合も、党は、無制限の権力を求める途上にある諸制度を吸収するか骨抜きにするかのいずれかをした。
 第一に、国家の執行機構と立法機構、第二に、地方自治機関。
 これらの国家諸装置は、党の指令に直接に従うように設けられてはいなかった。
 国家は独立して行動しているとの印象を与えるために、注意深い方策が採られた。
 党は中心的な執行機構上の地位に党員を配置することによって、行政を動かした。
 このような欺瞞についての説明は、全体主義「運動」は、その名が示すようにダイナミックで流動的たが、行政は静態的なので固い構造と確かな規範を必要とする、ということだった。
 ナツィ・ドイツに関するつぎの観察は、同様に共産主義ロシアにもファシスト・イタリアにも当てはまる。//
 『運動それ自体は政治的決定を行い、機械的な実施は国家に委ねる。
 第三帝国の間に叙述されたように、運動は民衆の指導(Menschenfuehruug)を行い、対象物の管理(専門行政、Sachverwaltung)は国家に委ねる。
 (いかなる規範によっても指揮されない)政治的な基準と(技術的な理由で不可避である)規範との間の公然たる衝突を可能なかぎり回避するために、ナツィ体制は、表向きは、できるだけ合法的形態に近くなるようにその行動を取り繕った。
 しかしながら、この合法性は、決定的な意味を持たなかった。
 それは、二つの相容れない支配形式の溝に橋渡しをすることだけに役立った。』(86)//
 ある初期のファシズムの研究者が「近代史で知られる最も異常な国家の征服」だと見なした(87)「諸装置の征服」は、もちろん、ソヴィエト・ロシアで1917年10月の後で起きた同じ過程のたんなる模写物(copy)だ。//
 ボルシェヴィキは10週間の事態の中で、ロシア中央の執行機構と立法機構を服従させた。(88)
 彼らの任務は、1917年早くにツァーリ体制がその官僚制とともに消失していたことによって容易になっていた。臨時政府が充填することのできなかった権力の空白が残っていたのだ。
 ムッソリーニやヒトラーとは違って、レーニンは、作動している国家制度ではなく、アナーキー(無政府状態)と対向した。//
 ムッソリーニは、はるかに余裕をもった早さで、ことを進めた。
 彼は、ローマを占領したのち5年以上経って、1927-28年にだけ、事実上かつ法的に(de fact, de jure)、イタリアの独裁者だった。
 対照的にヒトラーは、ほとんどレーニンの早さで行動し、6カ月の間に国家の支配権を獲得した。//
 ムッソリーニは1922年11月16日に、下院(代議会、the Chamber of Deputies)に対して、「国民の名前で」彼が権力を掌握したということを知らせた。
 下院には、この事実を是認するか解体に直面するかの選択があった。そして、是認した。
 しかし、ムッソリーニはしばらくの間は立憲的に統治するふうを装い、ゆっくりと、熟慮しつつ一党体制を導入した。
 彼は、最初の一年半の間、いくつかの独立した政党の議員を、ファシスト党が支配する内閣の中に含み入れた。
 彼はこのような見せかけを、ジアコモ・マテオッティ(Giacomo Matteotti)の殺害に対する強い攻撃が始まったあとの1924年になってようやく、終わらせた。マテオッティは、ファシスト党の違法な行為を暴露していた社会党の代議員だった。 
 そうであってすら、彼は対抗政党の組織が作動するのを、しばらくの間は、許した。
 ファシスト党は、1928年12月に、唯一の合法的な政治団体だと明示された。このときに、イタリアでの一党国家の形成過程は完了したと言われている。
 諸州に対する統制は、ボルシェヴィキから借りた手段によって、つまり地方のファシスト党活動家に地方長官を監督させ、統領の指示を彼らに渡すことによって、確保された。//
 ナツィ・ドイツでは、政府と私的団体に対する党の支配の確立は、<画一化(Gleichschaltung)>あるいは<同期化(Synchronization)>(*)という名でもって行われた。
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 (85) M. Manoilescu, Die Einzige Partei (Berlin, (1941)), p.93.
 (86) Buchheim, Totalitarian Rule, p.93.
 対象となっているのは、フレンケル(Fraenkel)の<二重国家>(Dual State)だ。
 (87) Beckerath, Wesen und Werden, p.141.
 (88) リチャード・パイプス・ロシア革命、第12章。
 (*) この言葉は元々は、ドイツの連邦国家性を中央集権的国民国家へと統合することのために用いられた。しかしやがて、より広い意味を持つに至り、従前の全ての独立した組織がナツィ党に従属することだと定義された。以上、Hans Buchheim, Totarian Rule (Middletown, Conn., 1968), p.11.
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 段落の途中だが、区切る。⑤/②へとつづく。

1763/三全体主義の共通性③-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章第5節の試訳のつづき。p.264-6
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 Ⅰ〔第一款〕・支配党。
 ボルシェヴィキ独裁までは、国家は統治者と統治される者(臣民または市民)から成っていた。
 ボルシェヴィズムは、つぎの第三の要素を導入した。統治機構(政府)と社会の両者を支配し、一方で自らを両者のいずれの統制も及ばない位置に置く、単一政(monopoistic)の党。すなわち、実際には党ではなく、政府ではないままで統治し、民衆をその同意なくして民衆の名前で支配する党。
 「一党国家(One-party state)」とは、間違った言葉だ。なぜなら、第一に、全体主義国家を作動させる実体は、受容されている言葉の意味での政党では、実際にはない。第二に、党は国家から離れて存在する。
 党は、全体主義体制の、本当に際立つ特性だ。その真髄的な属性が。
 党は、レーニンが創ったものだった。
 ファシスト党とナツィスは、このモデルを忠実に写し取った。//
 A・エリート結社(Order)としての党。
 党員数を拡大しようとする本当の政党とは異なり、共産党、ファシストおよびナツィスの組織は、本来的に、排他的だった。
 入党は、社会的出自、人種または年齢といった規準によって厳密に審査され、党員たちの隊列からは、望ましくない者が定期的に洗い出され、追放(purge)された。
 この理由から、党員組織は、仲間うちで選ばれて永続する、エリートの「兄弟結社」または「指導的友愛組合」に似ていた。
 ヒトラーはラウシュニンクに、「党」はナツィス党(NSDAS)にあてはめるのは実際のところ間違った名称だ、「結社(Order, 独語=Orden)」と呼んだ方がよい、と語った。(78)
 あるファシスト理論家はムッソリーニの党のことを、「教会、すなわち、忠誠の宗派組織、至高で無比の目的に忠実な意思と意図をもつ一体」だと論及した。(79)//
 三つの全体主義組織は、在来の支配集団ではない外部者によって指揮された。つまり、ロシアでのように後者を破滅させたり、または別の並行する特権をもつ国家を確立してやがてはそれを自らに従属させる、孤立した者たちによって。
 この性質はさらに、通常の独裁制から全体主義的独裁制を区別するものだ。通常の独裁制は、自分たち自身の政治機構を創り出すことなく、官僚制、教会や軍隊のような、支配のための伝統的な制度に依存する。//
 イタリアのファシスト党は入党に関する最も厳格な基準を設け、1920年代には党員総数を百万人以下に制限した。 
 若者が、優先された。彼らは、共産主義ピオネールやコムソモルを真似たバリラ(Ballila)や前衛(Avanguardia)といった青年組織での役職を経たうえで、入党した。
 つぎの10年間に党員数は拡大し、第二次世界大戦でのイタリアの敗北の直前に、ファシスト党の党員数は400万以上に昇った。
 ナツィスには、入党に関する最も緩い基準があった。1933年に「日和見主義者」を除外するのを試みたのちに緩和して、体制が崩壊するときまでには、ドイツ人成人男性のほとんど4人に1人(23パーセント)が党員だった。(80)
 ロシア共産党の政策は、これら二つの間のどこかにあった。あるときは行政上および軍事上の必要に応じて党員数を拡大し、あるときは大量の、ときには流血を伴う追放をして党員数を減少させた。
 しかしながら、三つの場合の全てで、党に所属するのは特権だと考えられており、入党は招聘によってなされた。//
 B・指導者。
 彼らは客観的な規範がその権力を制限することを拒否したので、全体主義体制は、その意思が法にとって代わる一人の指導者を必要とした。
 かりに所与の階級または民族(または人種)の利益に奉仕することだけが「真」や「善」であるならば、たまたまのいつのときにでもこの利益が何かを決定するvozhd' (指導者)、Duce(統領)、または Fuerhrer (総統)という人物による最終裁決者が存在しなければならない。
 レーニンは実際には(ともかくも1918年以降は)自らで決定したけれども、自分が無謬であるとは主張しなかった。
 ムッソリーニとヒトラーはいずれも、そう主張した。
 「Il Duce a sempre ragione」(統領はつねに正しい(right))は、1930年代にイタリアじゅうに貼られたポスターのスローガンだった。
 1932年7月に発布されたナツィ党規約の最初の命令文は、「ヒトラーの決定は、最終のもの(final)だ」と宣告した。(81)
 別の指導者が奪い取らないかぎり、成熟した全体主義体制はその指導者の死を乗り越えて生き残るかもしれないが(レーニンとスターリンの死後にソヴィエト同盟でそうだったように)、一方では、やがては全体主義的特質を失って少数者独裁へと変わる集団的独裁制になる。
 ロシアでは、その党に対するレーニンの個人的な独裁は、「民主集中制」(democratic centralism)のような定式および非個性的な歴史の力を持ち出して個人の役割を強調しない習慣、によって粉飾(カモフラージュ)された。
 にもかかわらず、権力掌握後の一年以内にレーニンが共産党の疑いなき親分(boss)になった、そして彼の周りには紛れもない個人カルトが出現した、というのは本当のことだ。
 レーニンは、自分自身の考え方とは異なるそれを、ときにそれが多数派だったとしても、決して許容しなかった。
 1920年までに、「分派」(factions)を形成するのは党規約に対する侵犯であり、除名でもって罰せられるべきものだった。「分派」とは、最初はレーニンについでスターリンに反対して協力行動をする全ての集団のことだ。レーニンとスターリンだけは、「分派主義」という責任追及から免れていた。(82)//
 ムッソリーニとヒトラーは、共産主義者のこのモデルを見習った。
 ファシスト党は、集団的に作動しているという印象を与えるべく設計した、念入りの組織の外観を作っていた。しかし、党の誰にも、「Gran Consiglio」、党の全国大会にすら、実際上の権威はなかった。(83)
 党官僚たちは、彼ら全員がその採用について統領(Duce)か自分を指名した人物かに負っていたのだが、その人物への忠誠を誓約した。
 ヒトラーは、自分の国家社会主義党に対する絶対的な支配権について、このような粉飾という面倒なことすらしなかった。
 ヒトラーはドイツの独裁者になるずっと前に、レーニンのように厳格な紀律(つまり自分の意思への服従)を強く主張することによって、また再びレーニンのように彼の権威を弱体化させるだろうような他の政治団体との連立を拒否することによって、党に対する完全な支配を確立していた。(84)
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 (78) リチャード・パイプス・ロシア革命、p.510n。
 (79) Sergio Panunzio。以下から引用-Neumann, Permanent Revolution, p.130.
 (80) Aryeh L. Unger, The Totalitarian Party (Cambridge, 1974), p.85n. 〔アンガー・全体主義政党〕
 (81) Giselher Schmidt, Falscher Propheten Wahn (Mainz, 1970), p.111.
 (82) 以下〔この著〕、 p.455 を見よ。
 (83) Beckerath, Wesen und Werden, p.112-4. 
 (84) 共産党とナツィ党は、アンガー(Unger)の<全体主義政党>の中で比較されている。
 1933年以前のヒトラーによるナツィ党(NSDAS)の支配については、Bracher, Die deutsche Diktatur, p.108, p.143 を見よ。
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 ④-Ⅱ「支配党と国家」へとつづく。

1761/三全体主義の共通性①-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.262-3.
 つぎの節の大部分にはさらに下の見出しが付いているので、原著にはないが、初めの部分にかりに「序説」という表題を付けておく。
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 第5節・三つの全体主義体制に共通する特質①-序説①。
 (序説)
 三つの全体主義体制は、いくつかの点で異なる。この相違については、いずれきちんと論述するだろう。
 しかしながら、それらを結合するのは何かは、それらを分離するものは何かよりもずっと重要だ。
 第一に、最も重要なのは、共通する敵があることだ。すなわち、複数政党システム、法と財産の尊重、平和と安定という理想をもつ、リベラルな民主政体(liberal democracy)。
 レーニン、ムッソリーニおよびヒトラーの「ブルジョア民主主義」と社会民主主義者に対する激しい非難は、完全に相互交換が可能だ。//
 共産主義と「ファシズム」の関係を分析するためには、「革命」とはその本性からして平等主義的(egalitarian)かつ国際主義的で、一方のナショナリストによる変革は本来的に反革命的だとの伝来的な考え方を正さなければなければならない。
 こうした考え方は、ヒトラーのような率直なナショナリストが革命的願望を持っているはずはないと信じて、最初に彼を支持したドイツの保守派が冒した過ちだ。(70)
 「反革命」という語は、1790年代のフランスの君主制主義者が本当にそう考えたように、革命を取り消して以前の状態(status quo ante)に戻そうとする運動についてだけ、適正に用いることができる。
 「革命」を現存する政治体制を、つづいて経済、社会構造および文化を、突然に転覆させることを意味すると定義するならば、この用語は同等に、反平等主義的なおよび外国人差別の大変革にも適用することができる。
  「革命的」という形容詞は、変化の内容ではなく、それが達成される態様-すなわち、突然にかつ暴力的に(violently)-を描写するものだ。
 したがって、左翼による革命を語るのと同様に右翼による革命を語るのは適切だ。
 この二つが共存できない敵として相互に対立しているということは、有権者大衆をめぐって競争することに由来し、方法または目標の不一致に由来するのではない。
  ヒトラーもムッソリーニも、自分を革命家だと思っていた。正しく(rightly)、そう考えた。
 ラウシュニンクは、国家社会主義の目標は、実際には、共産主義とアナキズムのいずれよりも革命的だ、と主張した。(71)//
  しかしおそらく、三つの全体主義運動の間の最も根本的な親近性(affinity)は、心理(psychology)の領域に横たわっている。
 共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、大衆の支持を獲得するために、そして民主主義的に選出される政府ではなく自分たちこそが民衆の本当の意思を表現しているという主張を強化するために、民衆の憤懣(resentments)-階級、人種、民族-を掻き立てて、利用した。
 これら三つは全て、憎悪(hate)という感情に訴えたのだ。//
 フランスのジャコバン派は、階級的憤懣の政治的潜在力を認識した最初のものだ。
 彼らはそれを利用して、貴族制主義者その他の革命の敵による恒常的な陰謀を手玉にとった。ジャコバン派は没落する直前に、間違いなく共産主義的な含意をもつ、私有の富を没収する法令案を作った。(72)
 マルクスが歴史の支配的な特質として階級闘争の理論を定式化したのは、フランス革命とその影響に関する研究からだった。
 彼の理論で、社会的な敵意(antagonism)は初めて道徳上の正当性を授けられた。ユダヤ教を自己破壊的なものと非難し、(怒りの外装をまとう)キリスト教を大罪の一つだと見なす憎悪(hatred)は、美徳に作り替えられた。
 しかし、憎悪は両刃の剣で、犠牲者たちは自己防衛のためにそれを是認した。
 19世紀の終わりにかけて、階級戦争のための社会主義的スローガンとして民族的および人種的憤懣を利用する教理が出現した。
 1902年の予言的書物、<憎悪のドクトリン>で、アナトール・ルロイ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu)は、当時の左翼過激主義者と右翼過激主義者の間の親近性に注意を促し、両者の共謀性を予見した。それは、1917年のあとで現実になることになる。(73) //
 レーニンが富裕層、つまりブルジョア(the burzhui)に対する憤懣を都市の庶民や貧しい農民を結集させるために利用した、ということについて詳しく述べる必要はない。
 ムッソリーニは、階級闘争を「持てる」国家と「持たざる」国家の対立として再定式化した。
 ヒトラーは、階級闘争を人種や民族の間の対立、すなわち「アーリア人」のユダヤ人およびその言うユダヤ人によって支配されている民族との対立だと再解釈することによって、ムッソリーニの技巧に適応した。(*)
 ある初期の親ナツィの理論家は、現代世界の本当の対立は資本とそれに対する労働の間にではなく、世界的ユダヤ「帝国主義」とそれに対する人民(Volk)主権を基礎とする国家の間にある、ユダヤ民族が経済的に生き残る可能性を奪われて絶滅してのみこの対立は解消される、と論じた。(74)
 革命運動は、「右」と「左」のいずれの変種であれ、憎悪の対象を持たなければならない。抽象化を求めるよりも、見える敵に対抗するように大衆を駆り立てるのは、比較にならないほど容易だからだ。
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 (70) Hermann Rauschning, The Revolution of Nihilism (New York, 1939),p.55, p.74-75, p.105.
 (71) 同上、p.19。
 (72) Pierre Gaxotte, The French Revolution (London & New York, 1932), Chapter 12.
 (73) Anatole Leroy-Beaulieu, Les Doctrine de Haine (Paris,(1902)) 。リチャード・パイプス・ロシア革命p.136-7 を参照。
  (*) 階級戦争という考えが人種的な意味で再解釈される可能性は、すでに1924年に、ロシアのユダヤ人移住者、I・M・ビカーマン(Bikerman)が、ボルシェヴィキに親近的な同胞に対する警告として、指摘していた。
 Bikerman, Rossia i Evrei, Sbornik I (Berlin, 1924), p.59-p.60.
 「ペトルラの自由コサックあるいはデニーキンの志願兵はなぜ、全ての歴史を諸階級の闘争ではなく諸人種の闘争へと変える理論に従えなかったのか? なぜ、歴史の罪を正して、悪の根源があるとする人種を絶滅させることができなかったのか?
 略奪し、殺戮し、強姦する、こうした過剰は、伝統的に、同じ一つの旗のもとで、別の旗のもとでと同じように冒されることがあり得る」。
 (74) Gottfried Feder, Der dutsche Staat auf nationaler und sozialer Grundlage, 11th ed. (Muenchen, 1933).
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 段落の途中だが、こここで区切る。②へとつづく。

1760/ヒトラーと社会主義②-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.260-1。
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 第4節・ヒトラーと社会主義②。
 (冒頭の一部が前回と重複)
 この党は1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗り、政綱に反ユダヤ主義を追加し、退役軍人、個人店主、職業人を組織へと呼びよせた。
 (党名にある「労働」という言葉は「全ての働く者」を意味し、産業労働者のみではない。(61))
 ヒトラーが1919年に奪い取ったのは、この組織だった。
 ブラヒャー(Bracher)によると、こうだ。
 初期の党のイデオロギーは、『非理性的で暴力志向の政治イデオロギーの内部に、完全に革命的な中核部分を含んでいた。
 たんに反動的な体質を表現したものでは全くなかった。すなわち、労働者と労働組合主義者の世界が本源にあった。』(62)
 ナツィスは、労働者は共同体の柱石だと、そしてブルジョアジーは-伝統的貴族階級とともに-滅亡する階級だ、と宣言して、ドイツ労働者の社会主義的な伝統に訴えた。(63)
 同僚に自分は「社会主義者」だと語った(64)ヒトラーは、党に赤旗を採用させ、政権を取れば5月1日を国民の祝日にすると宣告した。
 ナツィ党の党員たちは、お互いに「同志」(Genossen)と呼び合うように命じられた。
 ヒトラーの党に関する考えは、レーニンのごとく、軍事組織、戦闘団(Kampfbund、「Combat League」)のそれだった。
 (「運動を支持する者は、運動の目標に合意することを宣言する者だ。
 党員は、その目標のために闘う者だけだ」。(65))   
 ヒトラーの究極の目的は、伝統的諸階層が廃止され、地位は個人的な英雄的資質(heroism)によって獲得されるような社会だった。(66)
 典型的に過激な流儀でもって、彼は、人間は彼自身を再生するものだと心に描いた。ラウシュニンクに、こう語った。
 「人は、神になりつつある。人は、作られつつある神だ」。(67)//
 ナツィスは当初は労働者を惹きつけるのにほとんど成功せず、党員たちの大多数は「プチ・ブル」〔小ブルジョアジー〕の出身だった。
 しかし、1920年代の終わり頃、その社会主義的な訴えが功を奏し始めた。
 1929-1930年に失業が発生したとき、労働者たちがひと塊になって(en masse、大量に)入党した。
 ナツィ党の記録文書によれば、1930年に、党員の28パーセントは産業労働者で成っていた。
 1934年に、その割合は32パーセントに達した。
 いずれの年にも、彼らはナツィ党の中で最大多数を占めるグループだった。(*)
 ナツィ党の党員たちがロシア共産党におけるそれと同じ責任を負うのではないとしても、誠実な(bona fide)労働者(全日勤務の党員となった元労働者は別)の割合は、ナツィ党(NSDAP)ではソヴィエト同盟の共産党におけるよりも、なんと予想に反して、高かった、と言える。//
 ヒトラーの全体主義政党のモデルは共産主義ロシアから借りたという証拠は、状況的な(circumstantial)ものだ。というのは、全く積極的に「マルクス主義者」への負い目を承認している一方で、彼は、共産主義ロシアから何ものかを借用したことを承認するのを完全に避けたからだ。
 一党国家という考えは、ヒトラーの心の中に、1920年代半ばには明らかに生じていた。1920年のカップ一揆(Kapp putsch)の失敗を省察し、戦術を変更して合法的に権力を掴もうと決心したときに。
 ヒトラー自身は、紀律ある階層的に組織された政党という考えは軍事組織から示唆された、と主張した。
 彼はまた、ムッソリーニから学んだことは積極的に認めることとなる。(68)
 しかし、その活動がドイツのプレスで広く知られていた共産党がヒトラーにも影響を与えなかった、というのはきわめて異様だ。明白な理由から、彼はその事実を認めるのは不可能だと分かっていたけれども。
 ヒトラーは、私的な会話では、つぎのことを認めることを厭わなかった。「レーニンとトロツキーおよび他のマルクス主義者の著作から革命の技巧を勉強(study)した」ということを。(+)
 彼によると、社会主義者から離脱して、「新しい」ものを始めた。社会主義者たちは-大胆な行動をすることのできない-「小者」だからとの理由で。
 これは、レーニンが社会民主党と決別してボルシェヴィキ党を設立した理由とは、大きく異なっている。//
 ローゼンベルクの支持者とゲッベルスやシュトラサーの支持者とが論争したとき、ヒトラーは最終的には前者の側に立った。
 ヒトラーにはドイツの投票者を怯えさせるユダヤ共産主義の脅威という妖怪が必要だったので、ソヴィエト・ロシアとの同盟はあるべくもなかった。
 しかし、このことは、彼自身の目的のために共産主義ロシアの中央志向の制度と実務を採用することを妨げはしなかった。//
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 (61) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.17.
 (62) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.59. 〔ドイツの独裁〕
 (63) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.48.
 (64) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.157.
 (65) The Impact of the Russian Revolution, 1917-1967 (London, 1967), p.340.
 (66) Rauschning, Hitler Speaks, p.48-p.49.
 (67) 同上、p.242.
 (*) Karl Bracher, Die deutsche Diktatur, 2ed. ed. (Cologne-Berlin〔ケルン・ベルリン〕, 1969), p.256.
 David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.28、p.36 は、少しばかり異なる様相を伝える。
 あるマルクス主義者の歴史家たちは、ナツィ党に加入したり投票したりする労働者を労働者階級の隊列から除外することによって、この厄介な事実を捨て去る。労働者たる地位は職業によってではなく「支配階級に対する闘争」によって決定される、との理由で。Timothy W. Mason, Sozialpolitik im Dritten Reich (Opladen, 1977), p.9. 〔第三帝国の社会政策〕
 (68) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, xiv.
 (+) Rauschning, Hitler Speaks (London, 1939), p.236.
 ヒトラーは1930年に、トロツキーが近年に出版した<わが人生>を読み、多くのことを学んだ、この著を「輝かしい(brilliant)」と称した、と驚く同僚に語った、と言われている。Konrad Heiden, Der Fuehrer (New York, 1944)、p.308。  
 しかしながら、ハイデン(Heiden)はこの情報の出所を記していない。
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 つぎの第5節の表題は、「三つの全体主義体制に共通する特質」。

1755/R・パイプス別著(ボルシェヴィキ体制下のロシア)第5章第3節。

 リチャード・パイプス『ボルシェヴィキ体制下のロシア』。計587頁。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (Vintage/USA, 1995).
 この本のうち、すでに試訳の掲載を済ませているのは、以下だ。
 ①p.240-p.253。第5章:共産主義・ファシズム・国家社会主義ー第1節・全体主義という概念。/第2節・ムッソリーニの「レーニン主義者」という出自。
 ②p.388-p.419。第8章:ネップ・偽りのテルミドールー第6節・強制的食糧徴発の廃止とネップへの移行。/第7節・政治的かつ法的な抑圧の強化。/第8節・エスエル「裁判」。/第9節・ネップのもとでの文化生活。/第10節・1921年の飢饉。
 ③p.506-p.507。終章:ロシア革命に関する考察ー第6節・レーニン主義とスターリニズム。
 上の①のつづきの部分(ヒトラーと社会主義との関係等)について、試訳を続行する。
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 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第3節・ナツィの反ユダヤ主義①。
p.253~。
 ボルシェヴィキとファシズムの出自は、社会主義だった。
 国家社会主義(National Socialism)は、異なる種子から成長した。
 レーニンの出身が位置の高いロシアの官僚階層の出身で、ムッソリーニのそれは疲弊した工芸職人階層であるとすると、ヒトラーは小ブルジョアの背景をもち、社会主義への敵意とユダヤ人への憎悪で充満した雰囲気の中で、青年時代をすごした。
 当時の政治的、社会的な理論に通じた熱心な読者だったムッソリーニやレーニンとは違って、ヒトラーは無知で、観察やときたまの読書や会話から知ったものを拾い上げた。
 ヒトラーには理論的な基礎がなく、意見と偏見だけはあった。
 そうだったとしてすら、最初にドイツの自由を排除し、つぎにヨーロッパじゅうに死と破壊を植え込んだ、そのような致命的な効果を与えて彼が用いることとなる政治的イデオロギーは、消極的にも積極的にも、ロシア革命によって奥深く影響されていた。
 消極的には、ロシアでのボルシェヴィズムの勝利とヨーロッパを革命化する企ては、ヒトラーの本能的な反ユダヤ主義と、ドイツ人を恐れさせる「ユダヤ共産主義」の陰謀という妖怪とを正当化した。
 積極的には、ロシア革命は、大衆操作の技術をヒトラーに教え、一党制の全体主義国家のモデルを提供することによって、ヒトラーが独裁的権力を追求するのを助けた。//
 反ユダヤ主義は、国家社会主義のイデオロギーと心理において、中心的で逸れることのない目標として独特の位置を占める。
 ユダヤ人恐怖症の起源は古典的太古にさかのぼるけれども、ヒトラーのもとで不健全で破壊的な形態を帯びたそれは、歴史上かつて見ないものだった。
 このことを理解するには、ロシアおよびドイツの民族主義運動に対するロシア革命の影響について記しておくことが必要だ。//
 伝統的な、20世紀以前の反ユダヤ主義は、もともとは宗教上の敵意によって強くなった。つまり、キリスト殺害者で、キリスト教の福音を頑強に拒む邪悪な人々だというユダヤ人に対する先入観。
 カトリック教会や一部のプロテスタント教派のプロパガンダのもとで、この敵意は、経済的な争いや金貸しで狡猾な商人としてのユダヤ人への嫌悪によって補強された。
 伝統的な反ユダヤ主義者にとって、ユダヤ人は「人種」でも民族を超える共同体でもなく、誤った宗教の支持者であり、人類への教訓として、故郷を持たないで(homelss)苦しみ、漂流するように運命づけられていた。
 ユダヤ人は国際的な脅威だとの考えが確立されるためには、国際的な共同社会が存在するに至っていなければならなかった。
 これはもちろん、世界的な商業と世界的な通信の出現とともに19世紀の過程で発生した。
 これらの発展は、地域と国家の障壁を超えて、近代までは相当に保護された自己完結的な存在だった共同体や国家での生活に対して、直接に影響を与えた。
 人々は、突然にかつ訳が分からないままに、自分たちの生活を支配することができなくなる感覚を抱き始めた。
 ロシアでの収穫が合衆国の農民の生活状態に影響を与え、あるいはカリフォルニアでの金の発見がヨーロッパでの価額に影響を与え、国際的な社会主義のような政治運動が全ての既存体制の打倒を目標として設定したとき、誰も、安全だと感じることはできなかった。
 そして、国際的な出来事が持ち込む不安は、全く自然なこととして、国際的な陰謀という考えを発生させた。
 ユダヤ人以上に誰がその役割をより十分に果たすのか?。最も可視的な国際的集団であるのみならず、世界的な金融とメディアで傑出した位置を占めている集団は誰か?。//
 ユダヤ人を、見えざる上位者の一団が統轄する、紀律のとれた超国家的共同社会とする見方は、最初はフランス革命の騒ぎの中で登場した。
 フランス革命への役割は何もなかったけれども、反革命のイデオロギストたちはユダヤを容疑者だと見なした。一つは、公民的平等を与えた革命諸法律によって彼らは利益を得たとの理由で、また一つは、フランスの君主主義者が1789年の革命についての責任があると追及したフリーメイソン(Masonic)運動と彼らは広くつながっているとの理由で。
 ドイツの急進派は、1870年代までに、全てのユダヤ人はどこに公民権籍があろうと秘密の国際組織によって支配されている、と主張した。この組織はふつうは、実際の仕事は慈善事業だった、パリに本拠がある国際イスラエル連合(the Alliance Israelite Universelle)と同一視された。
 このような考えはフランスで、ドレフュス(Dreyfus)事件と結びついて1890年代に一般的になった。
 ロシア革命に先立って、反ユダヤ主義は、ヨーロッパで広汎に受容されていた。それは主としては、パリア・カスト〔最下層貧民〕として彼らを扱うことに慣れていた社会で対等なものとしてユダヤ人が出現してきたことへの反作用だった。また、解放された後にすら同化することを拒むことへの失望によっていた。
 ユダヤ人は、その同族中心主義や秘密主義、いわゆる「寄生的」な(parasitic)な経済活動や「レバント」的(Levantine)挙措だと受け止められたことで、嫌悪(dislike)された。
 しかし、ユダヤ人に対する恐怖(fear)は、ロシア革命とともに生じた。そして、その最も厄災的な遺産であることが判明することになる。//
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 (秋月)今回の部分には注記はない。
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 ②へとつづく。

1750/スターリニズムの諸段階①-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.5-p.8。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階①。
 全ての時代を諸段階に分かつのは、ソヴィエト歴史学者の一つの熱狂心(マニア、mania)だ。
 しかし、とくに境界の画定がイデオロギー上の根拠にもとづいている場合には、その手続をとるのは正当なことだ。//
 スターリニズムはたんにソヴィエトのではなく世界的な現象だったので、その多様な姿は、ロシアの国内政治や党派的対立の観点からだけではなく、コミンテルンおよび国際的ボルシェヴィズムの観点からも考察しなければならない。
 しかしながら、各時期を相互に関連づけること、したがってまた、その術語方法には、困難がつきまとう。
 トロツキストや元共産党員は、ソヴィエト史を「左翼」段階と「右翼」段階に区別する習癖がある。
 1917年直後の、内戦と世界革命の希望で占められた時期は「左翼主義」だとされ、世界全体での「資本主義の一時的な安定」を党が承認したネップ(N.E.P)という「右翼主義」の時期が続くとされる。
 そして、1928-29年の「左翼への揺れ(swing)」が到来し、党はこの安定は終わったと宣言する。
 「革命の潮目」がもう一度始まり、社会民主主義は「社会ファシズム」だとして非難され、闘争相手になる。そして、ロシアは、民衆の集団化と強制的産業化を視ることになった。
 この段階は、ファシズムに対する人民戦線のスローガンのもとで「右翼主義」政策が採用された1935年に終わった、と考えられている。
 これらの連続した変化は、ロシアの指導者層の間の党派的かつ個人的な内部闘争と関連していた。
 スターリン、ジノヴェフおよびカーメネフによる支配は、トロツキーの政治的排除へと至った。
 ついで、ジノヴェフとカーメネフは、ブハーリン、リュコフおよびトムスキーのために追放された。
 そして1929年にブハーリンが追い出され、ボルシェヴィキ党の中での有効な意見不一致は終わりを迎えた。//
 しかしながら、このような年代史的叙述は、「左翼」と「右翼」という語の曖昧でかつ恣意的な用い方を別に措くとしてすら、困難さに満ちている。
 概念用法に関しては、「社会ファシズム」のスローガンはなぜ「左翼」で、蒋介石(Chiang Kai-shek)との妥協の試みはなぜ「右翼」なのかは明確でない。
 あるいは、大規模の農民迫害がなぜ「左翼」で、政治目的のための経済的手段はなぜ「右翼」なのか。 
 もちろん、政治がテロルをより多く含んでいればいるだけ「左翼」的だということが前提にある、と言うことはできる。-この原理的考え方は今日でも頻繁に用いられており、しかも共産主義者の公刊物においてのみではない。そして、「左翼主義」という伝統的な観念によって何を意味させているのかを理解するのは困難だ。
 この点はさておき、コミンテルンの政策の変化とソヴィエト国内の政治やイデオロギーの異なる局面との間にいかなる相互連関があったのかは、明瞭でない。
 ヨーロッパの社会民主主義はファシズムの一部門だとのいわゆる「左翼主義者」の主張は、ジノヴィエフによって案出され、遅くともすでに1924年には通用していた。
 社会民主主義に対するコミンテルンの闘いは、ロシア農業の強制的集団化が考案されるよりもかなり前、1927年に強化された。
社会民主主義に対する反対運動を中止してそれとの同盟を繕い直す不細工な努力がなされた1935年には、ソヴィエト同盟ではすでに民衆の政治的抑圧の波が存在しており、新しい、より怖ろしい抑圧がまさに始まろうとしていた。//
 要するに、「左翼」や「右翼」という技巧的標識である用語によってソヴィエト同盟の歴史を提示するのは、意味のないことだ。それは、ある場合には、馬鹿げた諸結論を導く。
 政治局(Politboro)の変化を歴史的転換点だと解釈するのも、適切ではない。
 レーニンの死後の時期に、一定の政治的およびイデオロギー的特質が、着実により顕著になった。他のものは、状勢次第での重要なことに揺れ動いている間に。
 体制の全体主義的性格-すなわち、市民社会の破壊の進行、社会生活の全態様の国家による統合-は、1924年から1953年までの間、ほとんど遮られることなく増大した。そして、確実に、私的所有と取引への譲歩にかかわらず、ネップよって縮小することはなかった。
 我々が見たように、ネップ(N.E.P)は、軍隊と警察という手段によって経済全体を作動させるという政策からの退却であり、経済の破滅が切迫しているとの見込みによって余儀なくされたものだ。
 しかし、政治的対抗者に対するテロルの使用、党内部での厳正さや脅迫の増大、哲学、文筆、芸術そして科学に対する自立性の抑圧と強制の増大-これらは全て、ネップの全期間を通じて深刻化し続けた。
 こうした観点からは、1930年代は、レーニンが生きている間に彼の指令のもとで始まった過程を強化し、高めたものにすぎなかった。
 無数の犠牲者を出した農業の集団化は、まさしく、転換点だった。
 しかしこのことは、体制の性格の変化、あるいは「左翼への揺れ」をもたらしたがゆえにではない。そうではなく、それ〔農業の集団化〕が決定的な重要性のある一つの部門で、根本的な政治的かつ経済的な全体主義の原理を強要したのが理由だ。
 農業集団化は、ロシアのきわめて多数の社会階層から財産を完全に剥奪し、農業への国家統制をひとたび全てのために確立し、何らかの程度で国家から自立していた共同体(community)の最後の部門を絶滅させ、無制限の権力をもつ東方の総督カルト(oriental cult of the satrap)の基礎を築いた。そして、飢饉、民衆の虐殺、数百万の死という手段によって、民衆の精神(spirit)を破壊し、抵抗の最後の痕跡を消去した。
 これは、疑いなく、ソヴィエト同盟の歴史上の画期的なこと(milestone)だった。しかし、それは、その根本的な原理、すなわち国家が課したり規制したりしていない全ての形態の政治的、経済的および文化的生活の廃絶、を継続するもの、あるいは拡張するものだつた。//
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 ②へとつづく。

1749/スターリニズムとは何か②-L・コワコフスキ著3巻1章1節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 試訳の前回のつづき。分冊版第3巻、p.3-p.5。
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第1節・スターリニズムとは何か②。
 スターリニズムの歴史は、詳細な諸点に関しては議論があるにもかかわらず、広く知られていて、多くの書物で適切に叙述されている。
 この著のこれまでの二つの巻でのように、この著の主要な対象は、教理(doctrine)の歴史だ。
 政治の歴史は、その中でイデオロギーの生命が進展した大枠を示すに必要なかぎりで、簡単に叙述されるだろう。
 しかしながらスターリン時代では、教理の歴史と政治的事件の間の連環は、以前よりも密接だ。我々が研究しなければならない現象は権力の装置としてのマルクス主義を絶対的に制度化したもの(institutionalization)だからだ。
 まさに、この過程は早くから始まった。
 それは、マルクス主義は「党の世界観」でなければならない、言い換えれば、マルクス主義の内容は個々の局面での権力闘争の必要に応じて決定されなければならない、とするレーニンの考え方にまでさかのぼる。
にもかかわらず、レーニンの政治的な日和見主義は、一定範囲で教理上の考慮によって制限された。
しかし他方でスターリンの時代には、1930年代の早くから、ソヴィエト政権およびそれが行う全てのことを正当化し賛美する目的のために、教理は絶対的に従属した。
 スターリンのもとでのマルクス主義は、言明、考え、あるいは概念をいくら収集しても定義することができない。
 何がマルクス主義であり何がそうでないかを全ての時点で宣告することのできる、全権の権威が存在した、ということ以外には、前提命題に関する疑問はなかった。
 「マルクス主義」とは、多かれ少なかれ、問題についての権威、すなわちスターリンの現在の見解以外の何ものをも意味しはしなかった。
 例えば、1950年6月までは、マルクス主義者だということは、とりわけ、N・Y・マッル(Marr)の哲学理論を受け容れることを意味した。そして、その日以降は、その理論を完全に拒否することを意味した。
 何か特別の思想-マルクス、レーニン、あるいはスターリンのでも-が正しい(true)と考えるがゆえにマルクス主義者だったのではなく、至高の権威者がきょう、明日あるいは一年のあるときに宣告するだろうものを何であっても受け容れる心づもりがあるがゆえに、マルクス主義者だったのだ。
 こうした制度化と教条化の程度は以前は全く見られなかったもので、1930年代にその頂点に達した。しかし、明らかにその根源への痕跡は、レーニンの教理へとたどることができる。  
マルクス主義はプロレタリア政党の世界観であり道具であるので、「外部から」どんな異論が挟まれても、それを無視して、何がマルクス主義であり何がそうではないかを決定するのは党だ。
 党が国家および権力装置と同一視され、それは一人の人物の僭政のかたちをとって完全な一体性を達成するならば、教理は国家の問題になり、僭政体制は不可謬だと宣せられる。
 じつに、マルクス主義の内容に関するかぎり、スターリンは実際に不可謬<である>のだ。
 党はプロレタリア-トが発言する口としての権能をもって主張し、ひとたび一体化を達成した党は、独裁者たる人物に具現化される指導性を通じてその意思と教理を表現するのだから。
 このようにして、プロレタリア-トは歴史的に他の全階級とは対照的な指導階級であり、客観的な真実の所持者であるという教理は、「スターリンはつねに正しい(right)」という原理へと変形された。
 このことは実際、党を労働者運動の前衛だとするレーニンの考えと結びつけられたマルクスの認識論を歪曲するものでは全くない。 
 真理(truth)=プロレタリアの世界観=マルクス主義=党の世界観=党の指導者たちの声明=最高指導者の声明、という等号化は、レーニンのマルクス主義に関する理解の仕方と完全に合致していた。
 我々は、スターリンがマルクス=レーニン主義と名付けて洗礼を施したソヴィエト・イデオロギーの最終的表現が見出されるこの等式化の過程を、追跡するよう努めるだろう。
 スターリンは、二つの別々の教理があると意味させていただろうマルクス主義<および>レーニン主義ではなく、このマルクス=レーニン主義という語を選択した、ということは重要だ。
 この複合表現は、レーニン主義は-マルクス主義のレーニン主義ではない別の形態があるかのごとく-マルクス主義内部での独自の傾向ではなく、傑出した(par excellence)マルクス主義であり、マルクス主義を新しい歴史の時代に展開し適合させた唯一の教理だ、ということを意味させた。  
 現実に、マルクス=レーニン主義は、スターリン自身の教理にマルクス、レーニンおよびエンゲルスの著作から彼が選んで引用したものを加えたものだった。
 マルクス、レーニンあるいはスターリン自身のですら、これらから随意に引用する自由が、スターリン時代に誰にもあった、などと想定してはならない。
 マルクス=レーニン主義とは、独裁者がいま権威を与えている引用句でのみ成り立つもので、その教理に合致するようにスターリンは発表していたのだ。//
 スターリニズムはレーニン主義の本当の(true)発展形だと主張するが、私は、それでスターリンの歴史的重要性を過小評価するつもりはない。
 レーニンの後、そしてヒトラーの傍らに並んで、スターリンは確実に、第一次大戦以降のどの人物よりも、いま現にある世界を形成する多くのことをした。
 にもかかわらず、党と国家の単一の支配者になったのは他のいずれのボルシェヴィキ指導者でもなくスターリンだったということを、ソヴィエト体制の本質によって説明することができる。
 スターリンの個人的な性格は対抗者たちに勝利するのに大きな役割を果たしたが、それ自体はソヴィエト社会の基本路線を決定したのではない、との見解がある。この見解を支持するのは、スターリンはその初期の経歴の間ずっと、ボルシェヴィキ党の中の急進派に属していなかった、ということだ。
 また一方では、スターリンは穏健派的人物で、彼は党内部の論争においてしばしば、良識や慎重さの側に立った。
 要するに、僭政君主としてのスターリンは、その創設者以上にはるかに、党が創出したものだった。スターリンは、抗しがたく個人化されていく体制を人格化したものだった。//
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 第1節、終わり。次節の表題は「スターリニズムの諸段階」。

1746/スターリニズムとは何か①-L・コワコフスキ著3巻1章。

 もともとロシア革命等の歴史をもっと詳しく知っておこうと考えたのは、日本共産党(・不破哲三)が1994年党大会以降、レーニンは「ネップ」路線を通じて<市場経済を通じて社会主義への途>を確立したが、彼の死後にスターリンによってソ連は「社会主義を目指す国家」ではなくなった、レーニンは「正しく」、スターリンから「誤った」という歴史叙述をしていることの信憑性に疑いを持ち、「ネップ(新経済政策)」期を知っておこう、そのためにはロシア「10月革命」についても、レーニンについても知っておこうという関心を持ったことに由来する。元来の目的は、日本共産党の「大ウソ・大ペテン」を暴露しようという、まさに<実践的な>ものだった。
 不破哲三(・日本共産党)によるレーニン・「ネップ」理解の誤り(=捏造)にはとっくに気づいているが、最終の数回の記述はまだ行っていない。
 もともとはスターリン時代(この時代のコミンテルンを含む)に立ち入る気持ちはなかった。それは、日本共産党もまたスターリンを厳しく批判しているからだ。但し、以下のL・コワコフスキ著の第三巻の冒頭以降は、スターリンに関する叙述の中でレーニンとスターリンとの関係や「ネップ」に論及しているので、しばらくは、第三巻の最初からの試訳をつづけてみる。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第一章から第三章までの表題と第一章の中の各節の表題は、つぎのとおり。
 第一章/ソヴィエト・マルクス主義の第一段階/スターリニズムの開始。
  第1節・スターリニズムとは何か。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・一国での社会主義。
  第4節・ブハーリンとネップ・イデオロギー、1920年代の経済論争。
 第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義における理論上の論争。
 第三章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 p.1~の第一章から。Stalinism は「スターリン主義」ではなく「スターリニズム」として訳す。なお、Leninism は「レーニニズム」ではなく「レーニン主義」と訳してきた(これからも同じ)。
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 第1節・スターリニズムとは何か①。
 「スターリニズム」という語が何を意味するかに関する一般的な合意はない。
 ソヴィエト国家の公式なイデオロギストたちはこの語を使ったことがなかった。一つの自己完結的な社会体制の存在を示唆するように見えるからだろう。
 フルシチョフ(Khrushchev)の時代以降、スターリン時代は何を目指していたかに関する受容された定式は、「人格(personality)のカルト」だった。そして、この常套句は、必ず二つの想定と関連づけられていた。
 第一は、ソヴィエト同盟が存在している間ずっと、党の政治は「原理的に」正しく(right)、健康的(salutary)だったが、ときたま過ち(errors)が冒され、その中で最も深刻だったのは「集団指導制」の無視だった、つまり、スターリンの手への無限の力の集中だつた、というものだ。
 第二の想定は、「過ちと歪曲」の主要な原因はスターリン自身の性格的な欠陥、すなわちスターリンの権力への渇望や専制的傾向等々にあった、というものだ。
 スターリンの死後、これら全ての逸脱はすみやかに治癒され、党はもう一度適切な民主主義的原理に適応した。そして、事態は過ぎ去った、ということになる。
 要するに、スターリンの支配は偶然の以外の奇怪な現象だった。そこには「スターリニズム」とか「スターリン主義体制」というものは全くなく、いずれにせよ、「人格のカルト」の「消極的な発現体」はソヴィエト体制の栄光ある成果とは関係なく消え去ったのだ。//
 こうした事態に関する見方は疑いなく執筆者やその他の誰かによって真面目には考察されなかったけれども、今日的用法上の「スターリニズム」という語の意味と射程に関しては、今なお論争が広く行われている。それは、ソヴィエト同盟の外に共産主義者の間にすらある。
 しかしながら、その考え方が批判的であれ正統派的であれ、上の後者〔外部の共産主義者〕は、スターリニズムの意味を、1930年代初期から1953年の死までのスターリンの個人的僭政の時期に限定する。
 そして、彼らがその時代の「過ち」の原因として非難するのはスターリン自身の悪辣さというよりも、遺憾だが変えることのできない歴史的環境だ。すなわち、1917年の前および後のロシアの産業や文化の後進性、ヨーロッパ革命を期待したという失敗、ソヴィエト国家に対する外部からの脅威、内戦後の政治的な消耗。
 (偶然だが、同じ理由づけは、ロシアの革命後の統治の堕落を説明するために、トロツキストたちによって決まって提出される。)//
 一方、ソヴィエト体制、レーニン主義あるいはマルクス主義的な歴史の図式を擁護するつもりのない者たちは、総じて、スターリニズムを多少とも統一した政治的、経済的およびイデオロギー的体制だと考える。それはそれ自体の目的を追求するために作動し、それ自体の見地からは「過ち」をほとんど犯さない体制だ。
 しかしながら、この見地に立ってすら、スターリニズムはいかなる範囲でかついかなる意味で「歴史的に不可避」だったのか、が議論されてよい。
 換言すると、ソヴィエト体制の政治的、経済的およびイデオロギー的様相は、スターリンが権力に到達する前にすでに決定されており、その結果としてスターリニズムだけがレーニン主義の完全な発展形だったのか?
 いかなる範囲でかついかなる意味で、ソヴィエト国家の全ての特質は今日に至るまで存続しているのか、という疑問もやはり、まだ残る。//
 用語法の観点からは、「スターリニズム」の意味を独裁者が生きた最後の25年間に限定するか、それとも現在でも支配する政治体制をも含むように広げるかは、特別の重要性はない。
 しかし、スターリンのもとで形成された体制の基本的な特質は最近の20年で変わったのかは、純粋に言葉の問題以上のものだ。そしてまた、その本質的な特徴は何だったのかに関する議論を行う余地も残っている。//
 この著者〔L・コワコフスキ〕も含めて、多くの観察者は、スターリンのもとで発展したソヴィエト体制はレーニン主義を継承したものだと、そしてレーニンの政治的およびイデオロギー上の原理にもとづいて創設された国家はスターリニズムの形態でのみ存続することができた、と考えた。
 さらに加えて、論評者は、狭い意味での「スターリニズム」、つまり1953年まで支配した体制は、スターリン後の時代の変化によっても本質的には決して影響をうけなかった、とする。
 これらの論点の第一は、これまでの各章で、ある程度は確証された。そこでは、レーニンは全体主義的教理および萌芽にある(in embryo)全体主義国家の創設者だ、と示された。
 もちろん、スターリン時代の多くの事件の原因は偶然だったり、スターリン自身の奇矯さだったりし得る。出世主義、権力欲求、執念、嫉妬、および被害妄想的猜疑心。
 1936~1939年の共産党員の大量殺戮を「歴史的必然」と呼ぶことはできない。
 そして我々は、スターリン自身以外の僭政者のもとではそれは生起しなかっただろうと想定してよい。
 しかし、典型的な共産主義者の見方にあるように、かりに大殺戮をスターリニズムの本当の「消極的」意味だと見なすとすれば、スターリニズムの全体が嘆かわしい偶発事だということに帰結する。-これが示唆するのは、傑出した共産党員たちが殺害され始めるまでは、共産主義者による支配のもとでは全てがつねに最善のためにある、ということだ。
 歴史家がこれを受容するのは困難だ。それは歴史家が党の指導者または党員ですらない数百万人の運命に関心があるということによるのみならず、特定の期間にソヴィエト同盟で発生した巨大な規模の血に染まるテロルは、全体主義的僭政体制の永遠の、または本質的な特質ではない、ということも理由としている。  
僭政体制は、個々の一年での公式の殺害者が数百万人と計算されるか、数万人とされるかに関係なく、また、拷問が日常の事として用いられていたのか、たんにときたまにだつたのかに関係なく、さらに、犠牲者は労働者、農民、知識人だけだったのか、あるいは党の官僚たちも同様だったのかに関係なく、力を持ったままで残っている。//
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 ②へとつづく。

1744/論駁者・レーニンの天才性②-L・コワコフスキ著第二巻の最終部分。

 以下の著の第二巻(部)および分冊版・第二巻の最終部分の試訳。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 三巻合冊版p.775-778、分冊版・第2巻p.524-527。
 第16章『レーニン主義の成立』(三巻合冊版p.661~、分冊版p.381~)から試訳を開始したので、三巻合冊版の総1283頁(参照文献等を含む)のうち118頁分、分冊版の総542頁(同上)のうち147頁分をいちおう訳出したことになる。
 しかし、重要な例外があって、「10月革命」以前の理論・哲学論争に関係する前者の約19頁分(ほぼ696~714頁)、後者の約24頁分(ほぼ424~447頁)は省略している。したがって、前者では99頁分/8%、後者では122頁分/23%だけしか、試訳ではあっても完了していない。
 L・コワコフスキはこの著をマルクス主義に関する「ハンドブック」つまり<手引き書>のごときものとして執筆したようで、詳細とはいえ、レーニンに関しても、メモ書き、要点列記という観の部分もある。
 それでもなお、全体(三巻合冊本)の1割も、試訳しながらの読書をしていないのだから、全三巻(全三部)にわたるマルクス主義の「主要潮流」に関するコワコフスキの叙述の幅広さ、論評・叙述の対象としている人物・「思想」群の多さ、そしていずれにせよ<凄まじさ>を感じざるを得ない。いずれかの機会に、対象としている人物数、読破しているとみられる全文献数を探ってみたいと感じている。とはいえ、各巻末尾の参照文献の列挙も<選択的(selective)…>と題されているので、上に関する正確な数はきっと誰にも、いつかにでも、判明しないのだろう。
 なお、この著は1970年代の後半に、つまりソ連解体の15年前には執筆・公刊され、英米語版も刊行されていたことを、あらためて追記しておく。
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 第18節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性②。
 (つづき)
 ストルーヴェは1913年に、<経済価格> と題する本を公刊した。その中で彼は、マルクスの意味での価値(value)は、価格(price)とは独立(independent)に、形而上の非経験的な範疇であって、不適切だ(superfluous)、と論じた。
 (これは新しい考えではなく、コンラッド・シュミット以降から多くの批判がなされていた。)
 レーニンは、つぎのような言葉で論評した。
 『どのようにすれば人は、この最も「過激な」方法をきわめて薄っぺらいと呼ばずにおれるだろうか?
 数千年もの間、人類は、交換の現象における客観的法則の働きに気づいてきた。それを理解して最大限度に精細に表現しようと試みてきた。経済生活についての数百万、数億の数の日々の観察による説明によって、それを吟味してきた。
 しかるに突然に、時流にのった職業-引用文を収集するそれ(私はほとんど郵便切手の収集と言ってしまった)-の時流にのった一人の代表者が出現して、「これら全てを捨て去る」。「価値は、幻影(phantom)だ」と言う。』
 (<再び粉砕される社会主義>、1914年3月。全集20巻200頁〔=日本語版全集20巻206頁〕。)
 レーニンは、説明をこうつづける。
 『価格は、価値の法則を宣言したものだ。
 価値は、価格の法則だ。換言すると、価格の現象の一般化された表現だ。
 ここで「独立性」を語るのは、科学を嘲弄するもの(mockery)だ。』
 (同上、201頁〔=日本語版全集同上207頁〕。)
 そして、こう締めくくる。『科学から法則を排除することは、実のところは、宗教の法則をこっそり持ち込むことだ。』
 結論はこうだ。『ストルーヴェ氏は、このような粗雑な方法によって、読者を欺き、自分の反啓蒙主義を隠蔽することができると、本当に考えているのか?』
 (同上、202頁・204頁〔=日本語版全集同上209頁・211頁〕。)
 これは、レーニンによる反対者の取り扱いの、典型的な例だ。
 ストルーヴェは、価値は価格とは独立には計算することができない、と言った。レーニンは、独立性を語るのは科学の嘲弄だと言う。
 本当の議論にするという試みはなく、冗漫な言葉と誤用の大波の中へと溺れている。//
 しかしながら、レーニンは人々や事件に対する純粋に技術的で道具的な姿勢から自分自身を除外しなかった、ということは繰り返しておくべきだ。
 彼は、個人的な利益のことを考えなかった。
 例えばトロツキーとは異なり、彼は決して<気取り屋(poseur)>ではなく、劇場的な振舞いに熱を上げることはなかった。
 レーニンは、革命の道具だと自分のことを見なし、自分は正しい(in the right)と揺るぎなく確信していた-そう確信していたので、政治上の対抗者たちに一人で又はほとんど一人で立ち向かうことを怖れなかった。
 彼は、神は、あるいはむしろ歴史は、自分の唇を通じて語ると固く信じていたことにおいて、ルター(Luther)に似ていた。
 彼は、例えばツィンマーヴァルト(Zimmerwald)でレデブール(Ledebour)がした、レーニンは自らを外国で安全にしたままでロシアの労働者に血を流すことを呼びかけている、という非難を、侮蔑心をもって却下した。
 レーニンの観点からは、このような批判は馬鹿げていた。彼が外国から指揮を執るのは、革命にとって利点だったのだから。
 ロシアの状勢のもとでは、国外逃亡者がいなければ、革命は起こり得なかっただろう。
 いかなる場合についても、誰も、レーニンの個人的な臆病さを責めることはできないだろう。
 彼は、最も重い責任を請け負うことができた。そしてつねに、どんな論争についても明確な態度を採った。
 レーニンは、たしかに正当(right)に、権力を奪取することを怖れていた他の全ての社会主義者集団の指導者たちを非難した。
 他の指導者たちは、歴史の法則を信頼することがより安全だと考えた。
 しかし、怖れなかったレーニンは、最大の賭けを行い、そして勝利した。//
 なぜ、レーニンは勝利したのか?
 確実なのは、彼が適正に(correctly)事態の推移を予見したのが理由ではない、ということだ。
 彼の予言や推測はしばしば間違っていて、ときどきはそれが明白だった。
 1905年の敗北の後、彼は長い間、もう一度の蜂起が切迫している、と信じた。
 しかしながら、革命の潮目が引き、反動的状勢下で長い年月にわたる活動をしなければならないことが分かったとき、彼は情勢からただちに、全ての推論を導いた。
 1912年にウィルソンが合衆国の大統領に選出されたとき、レーニンは、アメリカの二党制度は社会主義運動に<直面して(vis-a-vis)>破産している、と宣告した。
 1913年に彼は、アイルランド民族主義は労働者階級では死に絶えていると、断定的に述べた。
 1917年の後、彼はいつの日かのヨーロッパ革命を期待し、かつテロルを手段としてロシアの経済を作動させることができると考えた。
 しかし、彼の誤った判断の全ては、革命運動への期待を強くし、現実にそうだったよりも早く革命を宣言する方向へと導いた。
 レーニンの観点からは、それらは、好運な過ちだった。彼が1917年10月に武装蜂起を決意したのは、誤った評価のみにもとづいていたのだから。 
自分の過ち(mistakes)によって、彼は革命の可能性を完璧に利用することができた。そして、それが彼の勝利の原因だった。
 レーニンの天才性(genius)とは、予見の天才性ではなく、権力を奪取するために用いることのできる全ての社会的エネルギーを所与の瞬間に集中させる、そして彼と彼の党の力の全てをその一つの目的のために従属させる天才性だ。
 目的に関するレーニンの堅固さなくして、ボルシェヴィキが成功したとは考え難い。
 彼がいなければ、ボルシェヴィキは、ドゥーマをボイコットする政策を重大な時限以上に延長させていただろう。
 ボルシェヴィキだけで権力を確保する武装蜂起という冒険を、冒さなかっただろう。
 ブレスト=リトフスク条約に署名することはなかっただろう。
 そして、最後の時点では、新経済政策(the New Ecconomic Policy)を採択しなかったかもしれなかった。
 重大な諸状況では、レーニンは、党に対して暴力(violence)を用いた。そしてその結果として、彼の根本教条が党を覆い尽くした。
 我々が今日に知る世界の共産主義は、真に(truely)、彼の作品(work)だ。//
 レーニンもボルシェヴィキも、革命を「作った(made)」のではない。
 世紀が変わって以降、「歴史の法則」はその崩壊の態様を定めてはいなかったけれども、専制体制が不安定な状態にあったことは明らかになっていた。
 二月革命は、多数の要素が同時に発生したこと(coincidence)によるものだった。すなわち、戦争、農民の困窮、1905年の記憶、リベラルたちの策略、協商国からの支援、労働者階級の過激化。
 革命の過程が進展したとき、スローガンはソヴェト権力のそれで、十月革命を支持した者たちはボルシェヴィキ党のための権力ではなく、ソヴェトのための権力を要求した。
 しかし、「ソヴェトの権力」はアナキスト的夢想であり、大衆である民衆、無知で無学の人々のほとんどが永続する大量の隊列でもって全ての経済的、社会的、軍事的および行政的諸問題を決定するという社会を夢見たものだった。
 ソヴェト権力は打倒されていたとすら、ほとんど言うことができない。
 「共産主義者のいないソヴェト権力」というスローガンは、民衆の反ボルシェヴィキ一揆でしばしば用いられた。しかし、それは実際には、何ものをも意味せず、ボルシェヴィキはそのことを知っていた。
 ボルシェヴィキは、<ソヴェト政府>としての自分たちへの支持を取りつけることができ、単一の腕だけで統治する用意のある唯一の党だったときに革命のエネルギーを傾注することができた。//
 にもかかわらず、現実の革命の過程はソヴェトというよりはるかに、ボルシェヴィキ特有のものだった。そして、数年の間は、新しい社会の文化、雰囲気および習性は、ボルシェヴィキが最もよく組織された力(force)だが決して社会の多数派ではなかったことを反映した。
 革命は、ボルシェヴィキの<クー・デタ>ではなかった。そうではなく、労働者と農民のための本当(true)の革命だった。
 ボルシェヴィキだけが、彼ら自身の目的のために革命の手綱を握ることができた。
 彼らの栄光は、ただちに、革命にとっての敗北であり、ボルシェヴィキ的範型のですら、共産主義の理想にとっての敗北だった。
 レーニンは1922年3月の第11回(彼が最後に出席した)党大会で、尊敬すべき明瞭性をもって、前方にある危険を描写した。
 ツァーリ体制(帝制)時代から継承した文化に<直面する>共産主義者の弱さに関して、彼はこう語った。
 『かりに征服する民族が征服される民族よりも文化的であれば、前者は後者に対してその文化を押しつける。
 しかし、かりにその反対の場合には〔前者が後者よりも文化的でないならば〕、征服された民族が征服者に対してその文化を押しつける。
 ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国の首都で、これに似たことが発生しなかったか?
 4700人の共産主義者(ほとんど軍の一個師団全体で、彼らはみな最も優秀だ)が、外部者(alien)の文化の影響のもとに置かれなかったのか?
 なるほど、被征服者は高度の文化をもつ、という印象があるかもしれない。
 しかし、決してそうではない。
 彼らの文化はみすぼらしく(miserable)、とるに足らない。しかし、それでもまだ、我々の文化よりも高い次元のものだ。』(+)(*秋月注)
 (全集33巻288頁〔=日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会」のうち「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治報告/3月27日」294頁〕。)//
 これは、レーニンの、彼が生み出した国家に関する、最も透徹した観察の一つだ。
 「ブルジョアジーから学べ」というスローガンは、悲劇的でかつグロテスクな両方の方法で実践に移された。
 ボルシェヴィキは、多大な努力と部分的でしかない成功を伴いつつ、今でもまだしているように、資本主義世界の技術的な達成物を吸収することを始めた。
 苦労を少しも伴わないで、ボルシェヴィキは、急速にかつ完全に、ツァーリスト体制(帝制)の官僚制(chinovniks)の統治と行政の方法を採用した。
 革命の夢は、その体制の全体主義的帝国主義(totalitarian imperalism)を粉飾する、用語法上の残滓のかたちをとってのみ、生き延びた。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注) このL・コワコフスキが引用する1922年3月のこの文の直後につづく文章のいくつかを、日本語版全集33巻294頁から引用する。一部はひらがなを漢字に変えた。
 「それは、どんなに惨めで、みすぼらしかろうと、わが責任ある共産主義活動家の文化よりは、ましである。なぜなら、これらの活動家には、統治する能力が不足しているからである。機関の主長になっている共産主義者は、-<中略>-しばしばよい嬲り者にされている。こういうことを認めるのは、ひじょうに不愉快である。少なくともあまり愉快ではない。だが、いまはこれが問題の眼目であるから、このことを認めなければならない、と思う。」
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 以上で、第18章は終わり。第二巻(第二部)も終わり。  
 この本には、邦訳書がない。このことは、昨2017年の、私には最も衝撃的なことだった。
 なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。

1743/論駁者・レーニンの天才性①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 
第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.772-775、分冊版・第2巻p.520-524。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第10節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性①。
 
大量のレーニンの刊行著作は、攻撃と論争(論駁、polemics)で成り立っている。
 読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性(agrressiveness)に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない(unparalleled)。
 彼の論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている(実際、彼にはユーモアのセンスが少しもなかった)。
 レーニンが攻撃しているのが「経済主義者」、メンシェヴィキ、カデット(立憲民主党)、カウツキー、トロツキーあるいは「労働者」対立派のいずれであれ、違いはない。
 彼の対抗者がブルジョアジーや土地所有者の追従者でないとすれば、その人物は、娼婦、道化師、嘘つき、屁理屈を言う詐欺師、そうしたもの、だ。 
 こうした論争のスタイルは、その日の話題に関するソヴィエトの著作物での義務的なものになることになった。ステレオタイプ化し、個人的な情熱を欠く官僚的な形式だったが。
 かりにレーニンの対抗者がたまたまレーニンが同意する何かを言ったとすれば、その人物は、それが何であれ、「認めることを強いられた」。
 論争が敵の陣地内で勃発すれば、その構成員の一人は他者に関する真実を「うっかり口にした」。
 書物または論考の著者がかりに、レーニンは言及すべきだったと考える何かに言及しなかったとすれば、その人物は「もみ消し」をした。
 社会主義者のそのときどきのレーニン敵対者は、「マルクス主義のイロハを理解していない」。
 しかしかりにレーニンが係争の問題点に関する考えを変えれば、「マルクス主義のイロハを理解していない」その人物は、レーニンがその日以前に主張していたものを主張している。
 誰もがつねに、最悪の意図を持っているのではないかと疑われている。
 きわめて些末な問題についてレーニンとは異なる意見をもつ者は誰でも、欺瞞者であり、またはせいぜいのところ、馬鹿な子どもだ。//
 このような技巧の目的は個人的な嫌悪を満足させることではなく、ましてや真実に到達することではなく、実践的な目標を達成することだった。
 レーニン自身が、1907年にある場合にこのことを確認した(他の誰かに関して言うだろうように、「思わず口を滑らせた」)。
 メンシェヴィキとの再統合の直前に、メンシェヴィキに対して「許し難い」攻撃をしたとして、中央委員会は党の審問所にレーニンを送った。
 レーニンは中でもとくに、『ペトルブルクのメンシェヴィキは、労働者の票をカデットに売り渡す目的でカデットとの交渉に入った』、そして『カデットの助けで労働者たちの中の人物をドゥーマ〔帝制下院〕にこっそりと送り込む取引をした』と、彼の小冊子で書いた。
 レーニンは審問の場で、自分の行動をつぎにように説明した。
 『この言葉遣い(つまり上に引用したばかりのもの)は、このような行為をする者たちに対する読者の憎悪、反感や軽蔑を誘発するために計算したものだ。
 この言葉遣いは、説得するためにではなく、対抗者の隊列を破壊してしまうために計算したものだ。
 論敵の過ちを是正するためではなく、彼らを破壊し、その組織を地上から一掃するためのものだ。
 この言葉遣いは、じつに、論敵に関する最悪の考え、最悪の疑念を呼び起こすような性質のもので、またじつに、説得したり是正したりする言葉遣いとは対照的な性質のものだ。それは、プロレタリア-トの隊列に混乱を持ち込むのだ。』(+)
 (全集12巻424-5頁〔=日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第五回大会にたいする報告」のうち「党裁判におけるレーニンの弁論(または中央委員会のメンシェヴィキ部分にたいする告訴演説」)433頁〕。)
 しかしながらレーニンは、これについて悔い改める気持ちを表明していない。
 彼の見解によれば、論拠に訴えるのではなく憎悪を駆り立てることは、反対者が同じ党の構成員でなければ、正当なこと(right)だった。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、分裂のために二つの別々の政党だった。
 レーニンは、中央委員会をこう非難した。
 『冊子を書いた時点で、(形式的にではなく本質的に)その冊子が起点とし、その目的に奉仕する単一の党は存在していなかった、という事実に関して、沈黙したままでいる。<中略>
 労働大衆の間に、異なる意見を抱く者たちに対する憎悪、反感や軽蔑等を体系的に広げる言葉遣いで党員同志に関して書くのは、間違っている(wrong)。
 しかし、脱落した組織に関してはそのような調子で<書くことができるし、そう書かなければならない>。
 何故、そうしなければならないのか?
 分裂が生じたときには、脱落した分派から指導権を<奪い返す>こと(to wrest)が義務だからだ。』(+)
 (同上、425頁〔=日本語版全集同上434頁〕。)
 『分裂に由来する、許容される闘争に、何らかの限度があるのか?
 そのような闘争には、党のいかなる基準も設定されていないし、存在し得ない。なぜなら、分裂とは、党が存在しなくなることを意味するからだ。』(+)
 (428頁〔=日本語版全集同上437頁〕。)
 我々は、レーニンを刺激してこう白状させたことについて、メンシェヴィキに感謝してよい。レーニンの言明は、彼の全生涯の活動で確認される。
 いかなる制約によっても、遮られない。重要なのは、目的を達成することなのだ。//
 レーニンは、スターリンとは違って、個人的な復讐心を動機として行動することはなかった。
 レーニンは、人々を-強調されるべきだが、彼自身も含めて-もっぱら政治的な器具として、かつ歴史的過程の道具として、操作(treat)した。
 このことは、彼の最も顕著な特質の一つだ。
 かりに政治的な計算で必要ならば、彼はある日にある人物に泥を投げつけ、翌日にはその人物と握手することができた。
 レーニンは1905年の後で、プレハノフを誹謗中傷した。しかし、プレハノフが清算主義者および経験批判論者に反対していることを知って、そして彼の名前の威信によって貴重な盟友だと知ってただちに、そうすることをやめた。
 1917年になるまでは、レーニンはトロツキーに対して呪詛を投げつけた。しかし、トロツキーがボルシェヴィキ党員になり、きわめて才能のある指導者であり組織者であることが分かるや、その全てが忘れられた。
 レーニンは、10月の武装蜂起計画に公然と反対したことについて、ジノヴィエフとカーメネフの裏切りを非難した。しかしのちには、彼らが党やコミンテルンの要職に就くのを許した。
 誰かを攻撃しなければならなかったときには、個人的な考慮は無視された。
 レーニンは、基本的な問題について同意することができると考えれば、論争を棚上げすることのできる能力があった。-例えば、党が第三ドゥーマ〔帝制下院〕に議員を出すこに関してボグダノフがレーニンに反対するまでは、彼は、ボグダノフの哲学上の誤りを看過した。
 しかし、レーニンがある時点で重要だと考える何かに論争が関係していれば、容赦なく反対意見を提示した。
 彼は、政治的な抗論において、個人的な忠誠に関する疑問を嘲弄した。
 メンシェヴィキがボルシェヴィキ指導者の一人だったマリノフスキーをオフラーナ(Okhrana)の工作員だと責め立てたとき、レーニンはこの「根本的な誹謗」にきわめて激烈に反駁した。
 二月革命の後で、メンシェヴィキの言い分は本当(true)だったことが明らかになった。それに対してレーニンは、ドゥーマ議長のロジヤンコ(Rodzyanko)を攻撃した。
 ロジヤンコはマリノフスキーの任務を知っていたが、彼の議員辞職をもたらし、(この当時に悪意をもってロジヤンコの政党を報じていた)ボルシェヴィキに言わなかった。それは、彼が内務大臣から〔マリノフスキーに関する〕情報を受けとったときに決して口外しないと「名誉」に賭けた約束をした、という、いかにもありそうな理由にもとづいてだ、と。
 レーニンは、ボルシェヴィキの敵たちが「名誉」という口実でもってボルシェヴィキを助けなかったことに、きわめて強い、偽りの道徳的(pseudo-moral)憤慨を感じた。//
 もう一つのレーニンの特徴は、彼の論敵たちはつねに悪党で裏切り者だったと示すために、敵意をしばしば過去へと投影させる、ということだ。
 1906年にレーニンは、ストルーヴェ(Struve)はすでに1894年に反革命者だった、と書いた。
 (「カデットの勝利と労働者党の任務」、全集10巻265頁〔=日本語版全集10巻253-4頁〕。)(*秋月注1)
 しかし誰も、1895年のストルーヴェに関するレーニンの議論からこのことを想定することはできなかった、その当時、二人はまだ協力関係にあったのだから。
 レーニンは数年にわたって、カウツキーを最も高い権威のある理論家だと見なしていた。しかし、カウツキーが戦争の間に「中央主義」の立場を採った後では、1902年の冊子で彼を「日和見主義者」だと非難した。
 (<国家と革命>、全集25巻479頁〔=日本語版全集25巻「国家と革命」のうち「第6章・日和見主義者によるマルクス主義の卑俗化」以降、516頁以降を参照〕。)
 また、カウツキーは1909年以降はマルクス主義者として執筆していなかった、と主張した。
 (1915年12月、ブハーリンによる冊子への序言。全集22巻106頁〔=日本語版全集22巻「エヌ・ブハーリンの小冊子『世界経済と帝国主義』の序文」115頁参照〕。)(*秋月注2)
 「社会排外主義者」に対する、1914年~1918年の攻撃の中でレーニンは、帝国主義戦争とは何の関係もない諸政党に呼びかけた第二インターナショナルのバーゼル宣言を援用した。
 しかし、第二インターナショナルと最終的に断絶した後では、その宣言は「変節者」による欺瞞文書だった。
 (1922年、「Publicist に関する覚え書」。全集33巻206頁〔=日本語版全集33巻「政論家の覚え書」203-4頁〕。)(*秋月注3)
 長年にわたってレーニンは、自分は社会主義運動内部のいかなる分離的傾向も支持せず、自分とボルシェヴィキはヨーロッパの社会民主主義者、とくにドイツ社会民主党と同じ原理を抱いてきた、と主張した。
 しかし、1920年に<左翼共産主義-小児病>で、政治思想の一種としてのボルシェヴィズムは、まさにその通りなのだが、1903年以来存在していたことが、明らかにされた。
 歴史に関するレーニンの遡及的な見方は、むろん、スターリン時代の体系的な捏造(falsification)とは比べものにならなかった。スターリン時代には、個々人と政治的諸運動に関するその当時の評価は全ての過去の年代について同じく有効だということが、何としてでも示されなければならなかったのだ。
 この点では、レーニンは、まだきわめて穏和な始まりを画したにすぎなかった。そして彼は、思想に関する合理的な流儀(mode)にしばしば執着した。例えば、プレハノフはマルクス主義の一般化に多大の貢献をした、プレハノフの理論上の著作は再版されるべきだと、プレハノフはそのときには完全に「社会排外主義者」の側に立っていたにもかかわらず、最後まで主張した。//
 レーニンは彼の著作の政治的な効果についてのみ関心があったがゆえに、彼の著作は反復で満ちている。
 彼は、同じ考えを何度も何度も(again and again)繰り返すことを怖れなかった。彼は、文体上の野心を持たず、党や労働者に対する影響にのみ関心があった。
 レーニンの文体はその党派的な論争の際や党の活動家に向かって表現しているときに最も粗暴だが、労働者に対してはかなり易しい言葉で語る、ということは記しておくに値する。
 労働者に対して向けられた彼の著作は、プロパガンダの傑作だ。ときどきの主要な諸問題に関する各政党の立場を簡潔かつ明快に説明している、<ロシアの諸政党とプロレタリア-トの任務>という小冊子(1917年5月)のように。//
 理論的な論争についても同様に、レーニンは論拠を詳細に分析することよりも、言葉と悪罵によって反対者を打ち負かすことに関心があった。
 <唯物論と経験批判論>はその際立った例だが、他にも多数の例がある。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注1) 日本語版全集10巻253-4頁から一部をつぎに引用する。「諸君の友人であるストルーヴェ氏を、反革命におしやったのはだれであったか、それはまたいつだったか?/ストルーヴェ氏は、彼の『〔ロシア革命の経済的発展の問題にたいする〕批判的覚え書』で、マルクス主義にブレンターノ主義的な但し書をつけた1894年には、反革命家であった」。
 (*秋月注2) 日本語版全集22巻115頁からつぎに引用する。「…。というのは、彼はこことを、すでに1909年に特別の著述-彼がマルクス主義者としてまとまりのある結論をもって執筆した最後のもの-のなかでみとめていたのである」。
 (*秋月注3) 日本語版全集33巻203-4頁からつぎに引用する。「20世紀の人々は、変節者、第二および第二半インターナショナルの英雄たちが1912年と1914~1918年に自分や労働者を愚弄するのにつかったあの『バーゼル宣言』の焼きなおしでは、そうやすやすと満足しはしないであろう」。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1742/マルトフとボルシェヴィキ②-L・コワコフスキ著18章9節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.770-、分冊版・第2巻p.519-520。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ②。
 レーニンとマルトフの間の論争は、このようにして、それが始まった1903年の時点で終わった。
 マルトフが労働者階級の支配について語ったとき、彼は言ったことそのままを意味させた。一方、レーニンの見解では、放置された労働者階級はブルジョアのイデオロギーを産出することができるだけで、労働者階級に現実の力を与えることは、資本主義の復古に結局はなるだろう。
 レーニンが全く正当に(rightly)、1921年8月にこう書いたごとくだ。
 『「労働者階級の力にもっと信頼を!」とのスローガンは、今や実際には、1921年春のクロンシュタッタトによってまざまざと証明され、実演されたように、メンシェヴィキやアナキストの影響力を増大させるために使われている。』(+)
 (「新時代と新しい装いの古い過ち」、全集33巻27頁〔=日本語版全集33巻「新しい時代、新しい形をとった古い誤り」9頁〕)。
 マルトフは、国家が過去の全ての民主主義的諸制度を奪い取り、その視野を拡張することを望んだ。 
 レーニンの国家は、共産主義者がその国家の権力を独占するかぎりでのみ、共産主義的だった。
 マルトフは、文化的継続性があることを信じた。
 レーニンにとっては、ブルジョアジーから奪い取るべき「文化」はただ、技術力と行政の技巧だけだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキはその観念体系のうちに物質的利益を求める堕落した大衆の飢餓を表現していると責め立てたとき、マルトフは誤った。
 このような見方は、革命の第一の局面を画した、大衆の略奪を原因としていた。
 しかし、レーニンも他のどのボルシェヴィキ指導者も、略奪は共産主義の原理の表現だとは見なしていなかった。
 反対に、レーニンは、労働生産力の増大が社会主義の優越性の証明印だ、と主張した。そして、全体的にではなくても主としては、社会主義をもたらす技術の進歩を信頼した。
 例えば、レーニンは、数十の地域的電力基地が建設されれば-しかしこれには、少なくとも十年はかかる-、ロシアの最も後進的部分ですら、妨害の段階なくしてまっすぐに社会主義へと進むだろう、と書いた。
 (<現物税(食糧税)>、1921年5月。全集32巻350頁〔=日本語版全集32巻「食糧税について」378頁〕。)
 実際、世界的な生産指標は社会主義の成功を根本的に証明するものだ、という考えを確立していたのは、ボルシェヴィキだった。
 むろん多くの言葉を用いてではなかったけれども、ボルシェヴィキは、生産者すなわち労働者共同体全体のために生活をより良くするかどうかに関係なく、生産の原理をそれ自体のために神聖視した。
 このことは、唯一のものではないけれども、至高の価値をもつものとしての国家権力のカルト(cult、狂熱集団)の重要な側面だった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第9節は終わり。つづく第10節の表題は、「論駁家としてのレーニン。レーニンの天才性。」。

1741/江崎道朗と加藤哲郎・白井聡。

 L・コワコフスキはその大著の第二巻第10節の最初の第二文と第三文でこう書く。-そのうちに試訳全体はこの欄に掲載する予定だ。
 第二/レーニンの大量の著作の「読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない。」
 第三/「レーニンによる論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている。」
 コワコフスキの著に接しながら、またレーニン全集の文章の一部を読みながら、上とほとんど全く同じ感想をもつ。そして想う、こんな文章ばかりを何年も読んでいると、どういう人格・個性・心性の人間になってしまうのだろう、気の毒なことだ、と。
 そして同時に連想するのは、この欄で一度だけ取り上げた、そしてなおも掲載できる素材のある、白井聡という人物だ。つぎの本について、この欄ですでに触れた。
 白井聡・未完のレーニン(講談社選書メチエ、2007)。
 白井聡は、一橋大学の大学院の学生時代、ロシア原語で(極端にいうとだが)レーニンばかりを読んでいたように見える。その時代の論文が上の本の基礎だったはずだ。
 まだ若いはずだが、学界・アカデミズムの中ではともかく、「左翼」系の、又はある程度売れれば何でもよいと考える出版社・編集者の間ではある程度の「地歩」をすでに築いているように見える。
 将来に変わる見込みはなさそうでもあるので、この人にはいずれまた、論及したい。
 これも断定はし難いとは言え、おそらく間違いなく、一橋大学大学院での白井聡の指導教授だったのは、加藤哲郎だ。
 加藤哲郎は、この欄で本格的には言及した記憶はないが、1990年頃、つまり東欧・ソ連の「社会主義」激動期までずっと(いつからかは知らない)日本共産党員で、その頃に離脱したようだ(一昨年秋以降に収集した日本共産党関係の書物の年表がこの人物を含む数名を批判した旨のことを記載していた)。
 いうまでもなく、日本共産党員ではなくとも、あるいは「反」・「非」日本共産党であっても、共産主義者であることはあるし、「左翼」にとどまっていることもある(有田芳生はその好例だ)。そして、加藤哲郎は依然として、少なくとも「左翼」=容共ではあるだろう。
 加藤には、こんな本もある。
 加藤哲郎・ゾルゲ事件-隠された神話(平凡社新書、2014)。
 この加藤の本をつぎのように肯定的に評価し、二箇所の直接の引用で計13行を用い、二頁にわたる記述の基礎にしている書物がある。
 加藤の上の著は「ソ連崩壊後に公開された一次史料を使って、ゾルゲ事件についてこれまで知られていなかった新事実を紹介している」。
 そのとおりかもしれない。だが、加藤哲郎はいかなる関心からゾルゲ事件に関する探索をしたのだろうか。
 そのような検討や執筆者の政治的立場を全く考慮していないと見られる上の書物とはつぎで、該当頁もつぎのとおりだ。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.07)、p.387-9。 
 江崎道朗は自らを「保守」派だと、しかも「保守自由主義」者だと考えているようだ。但し、外国の「左翼」または共産主義者・当該国の共産党員による書物を一部でかつ何箇所も下敷きにして上の本を2017年夏に刊行していたとしても、驚く必要はない。

1740/マルトフとボルシェヴィキ①。

 前回のつづき。コワコフスキの大著・三巻合冊本、p.770-。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ①。
 カウツキーやローザ・ルクセンブルクとともにマルトフは、ボルシェヴィキの観念体系(ideology)と革命後すぐの数年間の戦術に対する第三の傑出した批判者だった。
 彼の<世界ボルシェヴィズム>(1923年、ロシア語)、1918-19年に彼が書いた論考の集成は、メンシェヴィキの立場から、つまりはカウツキーのそれと似て社会民主主義を代表して、レーニン主義を批判する、おそらくは最も重要な試みだ。
 マルトフは、ロシアでの権力の前提はマルクス主義者により伝統的に理解されるプロレタリア革命とはほとんど共通性がない、と主張した。
 ボルシェヴィズムの成功は労働者階級の成熟によるのではなく、その解体と戦争に対する厭気〔=厭戦気分〕による。
 諸党派によって何年も、何十年も社会主義で教育された戦前の労働者階級は、大量殺戮によって悪質になり、田園的要素の流入によって性質を変えた。それは、全ての交戦国家で発生した過程だった。
 諸観念についての従前の権威は消滅し、粗野で単純な公理が日常の秩序だった。
 行動は、直接の物質的必要と全ての社会問題は軍隊の実力(force)によって解決されるとの信念によって指示された。
 社会主義左派は、ツィンマーヴァルトでの、プロレタリア運動に残っているものを救済する試みに敗北していた。
 マルクス主義は戦争の間に一方で「社会的愛国主義」、他方でボルシェヴィキのアナクロ・ジャコバン主義へと分解した、ということは、意識は社会条件に依存するというマルクス主義の理論を裏付けるだけだった。
 支配諸階級は、彼らの軍隊という手段によって、大衆の破壊、略奪、強制労働等々を準備していた。
 ボルシェヴィズムは、この逆行の真っ最中に、社会主義運動の廃墟の上に起き上がった。
 レーニンの<国家と革命>による革命後の現実に関する約束とは対照的に、やはりマルトフは、ボルシェヴィズムの本当の意味は民主主義の制限にあるのではない、という見解だった。
 革命は一定期間はブルジョアジーから選挙権を剥奪すべきだとのプレハノフの古い考えは、制度上の民主主義の別の形態が存在していたとすれば、適用され得ただろう。
 ボルシェヴィズムの観念体系は、科学的社会主義は真実(true)であり、そのゆえにブルジョアジーによって瞞着されて自分たち自身の利益を理解することのできない大衆に押しつけられなければならない、という原理にもとづく。
 この目的のためには、議会、自由なプレス、および全ての代表制的な制度を破壊することが必要だ。
 マルトフは言う。この教理は、空想的(ユートピア的)社会主義の伝統にある一定の歪み(strain)、すなわち、バブーフ主義者、ヴァイトリンク(Weitling)、カベー(Cabet)、あるいはブランキ主義者の諸綱領に描かれた手段、と合致している。
 労働者階級はそれが生きる社会に精神的に依存しているという原理から、空想家(夢想家たち)は、社会は、労働者大衆は受動的な対象の役割を演じつつ、一握りの陰謀家または啓蒙されたエリートによって変形されなければならない、という推論を導いた。
 しかし、例えばマルクスの第三<フォイエルバッハに関するテーゼ>に明言されているように、弁証法の見方は、人間の意識と物質的条件の間には恒常的な相互作用があり、労働者階級がその条件を変えようと闘うにつれて、自らを変え、精神的な解放を達成する、というものだ。
 少数者による独裁は、社会と独裁者たち自身のいずれも教育することができない。
 プロレタリア-トは、一階級としての主導性をとることができるようになるときにのみ、ブルジョア社会の成果を奪い取ることができる。そして、僭政体制、官僚制およびテロルの条件のもとでは、そうすることができない。//
 マルトフは、つづける。ボルシェヴィキは、プロレタリア-ト独裁や従前の国家機構の破壊に関するマルクスの定式に訴える資格を持っていない。
 マルクスは、普通選挙権と人民主権の名のもとに選挙法制攻撃したのであり、単一の政党の僭政の名のもとにおいてではなかった。
 マルクスは、民主主義国家の反民主主義的制度-警察、常置軍、中央志向の官僚制-の廃棄を呼びかけたのであり、民主主義の廃棄それ自体をではなかった。すなわち、彼には、プロレタリア-ト独裁とは統治の形式ではなく、特定の性格の社会だった。
 他方で、レーニン主義は、国家機構を粉砕するというアナキスト(無政府主義者)のスローガンを称揚し、同時に、考えられる最も専制的な形態でそれを再建しようと追求している。//
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 ②へとつづく。

1739/全体主義者・レーニン③ーL・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.769-、分冊版・第2巻p.515-7。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン③。
 コムソモル(青年共産同盟)大会での、しばしば引用される1920年10月2日のレーニンの演説は、同様の考え方で倫理の問題を扱う。
 『我々は、道徳(morality)は全体としてプロレタリア-トの階級闘争の利益に従属する、と言う。<中略>
 道徳は、搾取する旧い社会を破壊し、新しい共産主義社会を樹立しているプロレタリア-トの周りの全ての労働大衆を統一することに、奉仕するものだ。<中略>
 共産主義者にとって、全ての道徳は、この団結した紀律と搾取者に対する意識的な大衆闘争のうちにある。
 我々は、永遠の道徳の存在を信じず、道徳に関する全ての寓話の過ちを暴露する。』
 (全集31巻291-4頁〔=日本語版全集31巻「青年同盟の任務(ロシア青年共産同盟第三回全ロシア大会での演説)」288-292頁〕。)
 党の意図に奉仕するかまたは邪魔となるかの全てのことは、それぞれに対応して道徳的に善であるか悪であるかだ、そして何も道徳的に善であったり悪であったりしない、という以外のいかなる意味にも、このような文章を解釈するのは困難だろう。
 権力掌握の後、ソヴェトによる支配の維持と強化は、全ての文化的価値のためと同じく道徳のための唯一の規準になる。
 いかなる規準も、権力の維持を導くようにみえる可能性のあるいかなる行為にも反対することはなく、そして他のいかなる根拠についても価値があることを承認することはできない。
 かくして、全ての文化問題は技術的問題になり、一つの不変の基準によって判断されなければならない。すなわち、『社会の善』は完全に個々の構成員の善から分け隔てられるようになる。
 例えば、ソヴェトの権力を維持するのに役立つことを示すことができても、先制攻撃(aggression)や併合を非難するのは、ブルジョア的な感傷(sentimentalism)だ。
 定義上は『労働大衆の解放』のために奉仕する権力の目標達成に役立つならば、拷問を非難することは、非論理的であり、偽善だ。
 功利主義的道徳や社会的文化的現象に関する功利主義的諸判断は、社会主義の本来の基盤をその反対物へと変形させる。
 ブルジョア社会で生じるならば道徳的な憤慨を呼び起こす全ての現象は、新しい権力の利益に奉仕するならば、マイダスの接触(the Midas touch)によるかのごとく、金へと変わる。
 外国への武力侵攻は解放であり、攻撃は防衛であり、拷問は人民の搾取者に対する高貴な憤激を表現する。
 レーニン主義の原理のもとでは、スターリン主義の最悪の年月の最悪の過剰で正当化され得ないものは、ソヴェトの権力がそれによって増大したということが示され得るとするだけでも、絶対に何一つない。
 『レーニン時代』と『スターリン時代』の間の本質的な相違は、レーニンのもとでは党と社会に自由があったがスターリンのもとではそれは粉砕された、ということではなく、ソヴィエト同盟の人民の全ての精神的な生活が普遍的な虚偽(mendacuity)の洪水によって覆い隠されたのはスターリンの日々においてだった、ということだ。
 しかしながら、これはスターリンの個性(personality)にのみよるのではなく、こう述べ得るとすれば、状況の『自然の』発展でもあった。   
レーニンがテロル、官僚制、あるいは農民による反ボルシェヴィキ蜂起について語ったとき、彼はこれらの事物をそれぞれの名前で呼んだ。
 スターリン主義独裁が開始されるや、党は(敵によって攻撃されていたが)その威信を汚すことになるような過ちを冒さなかった。ソヴィエト国家は無謬であり、政府に対する人民の敬愛は無限だ。
 政府に対する制度的統制のいかなる痕跡も消滅してしまった国家では、予め定められている原理の問題として、政府を唯一正当化するのはそれが労働人民の利益であり希望である、という意味において、この変化は、自然だった。
 このことは、世襲の君主制にあるカリスマ性や適正に選挙される体制とは異なる、正統性の一つのイデオロギー的形態と呼ばれてよいかもしれない。
 ウソ(the Lie)の全能性は、スターリンの邪悪さによるのではなく、レーニン主義の諸原理にもとづく体制を正当化する、唯一の方法だった。
 スターリンの独裁期につねに見られたスローガン、『スターリンは、我々の時代のレーニンだ』は、かくして、総体的に正確だった。// 
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第8節は終わり。つづく第9節の表題は、「ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ」。なお、スターリンに関する叙述が以上で終わっているのではなく、彼にかかわる叙述は本格的には第三巻(第三部)の最初から始まる。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
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  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
  • 0775/総選挙と「左翼全体主義」、小林よしのり編・日本を貶めた10人の売国政治家(幻冬舎新書)。
  • 0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
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  • 0768/小池百合子と山崎拓の対立、NHK6/22の「反日捏造番組」。
  • 0761/阪本昌成におけるフランス革命-1。
  • 0759/山室信一・憲法九条の思想水脈(朝日新聞社、2007)の欺瞞-なぜ「司馬遼太郎賞」。
  • 0757/NHK「売国反日プロデューサー」列伝-長井暁・濱崎憲一ら。
  • 0751/全体主義者・高嶋伸欣-週刊金曜日6/19号、NHK番組に関して。
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