秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

レーニン

2196/R・パイプス・ロシア革命第12章第4節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第4節・人民委員会議(ソヴナルコム)。
 (1)最初の三週間、ソヴナルコムは紙上の存在でしかなかった。その命令を実施するスタッフはおらず、自分たちに支払うべき金もなかったからだ。
 役所に行くことを阻止された人民委員たちは、スモルニュイの第67号室で仕事をした。そこに、レーニンの最高司令部があった。
 暗殺の企てをつねに怖れているレーニンは、その部屋に、人民委員たち以外は誰も入らせなかった。
 彼は稀にしかスモルニュイを離れなかった。スモルニュイで、ラトヴィア人に厳重に護衛されながら、生活し、仕事をした。(*)(62)
 彼がソヴナルコムの事務局長として選んだのは、25歳の、N. P. ゴルブノフ(Gorbunov)だった。
 新しい事務局長は行政経験がなかったが、タイプライターとテーブルを自分のものにして、二本指で二つの布令文を打ち始めた。(63)
 V・ボンチ=ブリュエヴィチは、献身的ボルシェヴィキ党員かつ宗教反対者で、レーニンの私的助手に任じられた。
 これら二人は、書記職員を雇った。
 その年〔1917年〕の終わりまでに、ソヴナルコムには、48人の事務被用者がいた。
 つぎの二ヶ月のうちに、さらに17人増えた。
 1918年10月に撮影された集合写真から判断すると、これらのうち最も高い割合を占めるのは、身だしなみの良い、ブルジョア的な若い女性だ。〔試訳者-原書にはその写真が付いている。〕
 (2)1917年11月15日まで、ソヴナルコムは定期的な会議を開かなかった。ゴルブノフによると、11月3日に一度会議が行われたが、その唯一の議事は、モスクワで戦闘しているノギンから報告を聞くことだった。
 この時期には、発布された布令や命令類は、ボルシェヴィキ活動家の仕事だった。この者たちは、しばしばレーニンと相談することなく、自由に振る舞った。
 ラリンによれば、ソヴナルコムが発した最初の15の布令のうち二つだけが、ソヴナルコムで議論された。プレスに関する布令はルナチャャルスキが起草し、立憲会議選挙に関する布令は、彼自身が用意した。
 ゴルブノフが語るには、レーニンは彼が自分で地方に電信指令を発する権限を与えた。そして、およそ10の電報のうち1つだけをレーニンに見せた。(64)
 (3)ソヴナルコムの最初の定例会議は、20項目の議題付きで、11月15日に開催された。
 人民委員たちは可能なかぎり迅速にスモルニュイから退出すること、それぞれに対応する人民委員部を奪い取ること、が合意された。彼らはこれを、武装派遣隊の助けで、数週間のうちに成し遂げた。
 その11月15日以降、ソヴナルコムはほとんど毎日、通常は夕方に、スモルニュイの三階で、会議をした。ときには、深夜にまで及んだ。
 出席者は大して制限されておらず、多数の下級職員や、必要に応じて呼ばれた非ボルシェヴィキの専門技術者も同席した。
 生まれながらの革命家だった人民委員たちは、ぎこちなさを感じていた。
 メンシェヴィキの森林専門家でときどきソヴナルコムに出席したS・リバーマン(Simon Liberman)は、1918年10月の人民委員会議をつぎのように思い出している。//
 「レーニンが議長をするソヴィエト・ロシアの最高の行政部署の会議には、特有の雰囲気があった。
 各会議に厳粛な閣議たる性格を与えようと事務職員は努力していたが、我々は、地下の革命活動家の別の会議(!)に座っているという感覚を禁じ得なかった。
 長い間、我々は、多様な地下組織の一員だった。
 ここでの全てが、ありふれたものに思えた。
 人民委員の多くは、コートや外套を着ていた。ほとんどが、厳しさを感じさせる皮のジャケットを身に付けていた。
 冬季には、フェルトの靴を履き、厚いセーターを着ている者もいた。
 彼らは会議中ずっと、そのような装いのままだった。//
 人民委員の一人のA・ツリゥパ(Alexander Tsuriupa)は、ほとんどいつも病気だった。
 彼は半分横になって会議に出席していた。脚を、ほとんど椅子の上に伸ばしていた。
 レーニンがしきりと助けても、委員たちは会議用テープルの椅子に簡単に座ることができなかただろう。部屋じゅうを慌てふためいて、椅子を目ざして突進していた。
 レーニンだけは変わらず、その場の司会役として、テーブルの同じ椅子に座った。
 彼は、手際よくなく、ほとんど礼儀正しくもなく、そのようにした。
 彼の個人的な秘書のフォティエヴァが、レーニンの隣に座った。」(65)
 (4)同僚たちの時間不遵守と冗長な発言にいらいらしたレーニンは、厳格な規則を編み出した。
 雑談を阻止すべく、議事にきちんと執心することを強く要求した。(*)
 人民委員たちが時間どおりに現れるのを確実にすべく、遅刻に対しては制裁金を課した。30分以下なら5ルーブル、それ以上の遅刻なら10ルーブル。(66)
 (5)リバーマンによると、彼が出席したソヴナルコムの会議では、政策方針は一度も決定されず、たんにその実施だけが議論された。
 「原理的な問題に関する議論を、私は聴かなかった。
 議論はつねに、すでにある規準を実行する可能で最良の方法を見出すという問題をめぐって行われていた。
 原理的な問題は、すでに別の場所で決定されていた。-共産党の政治局で。<中略>
 私が知る二つの政府最高機関-労働と防衛の各人民委員会議-は、すでに党内の神聖な機関-政治局-で決定されていた基準を達成するための、実際的方法を議論していた。」(+)
 (6)議題を過大なものにしてしまう些細な問題からソヴナルコムを解放するために、1917年12月18日に、小ソヴナルコムが設置された。
 (7)レーニンの署名によって、通常は人民委員の一人の連署によって、政府の決定は法(law)になった。そして、公式の<Gazette>に掲載された。これが最初に出版されたのは、〔1917年〕10月28日だった。
 そのときに決定は「布令」(decree, <dekret>)たる地位を獲得した。
 人民委員がそれぞれに提案して発する命令は、通常は「決定」(resolutions, <postanovleniia>)と称された。
 しかしながら、理論が必ずや実践によって遵守されるわけではなかった。
 一定の場合には-それは確実に不人気となる法令についてとくに生じたのだが-、レーニンは、CEC によって発せられ、その議長のスヴェルドロフによつて署名されていることを好んだ。
 こうした手続は、ボルシェヴィキに対する非難をソヴェトに転化するという効果をもった。
 いくかの重要な法令は、制定されなかった。-チェカの設立に関する法令のように。
 他の手段-例えば、人質をとるという実務の導入(1918年9月)-は、内務人民委員の名前で制定された。それは、<イズヴェスチア>に掲載された。だが、ソヴィエトの法令や布令の全部がそれに掲載されたわけではなかった。
 やがて、ボルシェヴィキは、非公開の通達(secret circulars)という手段でもって立法(legislate)するという、ツァーリ時代の実務へと逆戻りした。秘密通達はつねに公にされず、その多くは今日まで出版されていないままだ。
 旧体制のもとでのように、政府は、国家安全保障の問題についてはこの手段を最終的には用いた。//
 (8)ボルシェヴィキによる支配が始まった数カ月の間は、布令は、その実際的な効果を目的とするというよりも、プロパガンダを目的として発せられた。(67)
 法令を実施する手段がなく、また新体制がいつまで生き残れるかが不確かなままだったので、レーニンは法令を、将来の世代が革命のやり方を学ぶことのできるモデルだと見なしていた。
 実施されることが期待されていなかったために、初期の布令は、調子において訓戒的であり、用語法において不注意が目立った。
 レーニンは、権力掌握後三ヶ月のちに、ようやくこの問題を深刻だと受け止めた。
 1918年1月30日、彼は、立法の草案は訓練を受けた法律家のいる法務人民委員部の事前審査を受けるように、命じた。(68)
 1918年春以降に発布された法令は相当に綿密なもので、当時は多数の規模でソヴィエトの職務に就いていた、旧体制からの経験ある官僚層のみによって事前審査されているのではない、ということが明らかだ。//
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 (*) J・キープ(John Keep)教授によると、権力をもった最初の18週間-つまりモスクワに首都を移した1918年3月初めまで-、レーニンは、21回しかスモルニュイを離れなかった。Hebrew University, Jerusalem, 1988年1月のロシア革命に関する会議で提示された報告による。
 (62) Lenin, XXXV, p.7.
 (63) N. Gorbunov, in Prauda, No. 255/3,787(1927年11月6/7), p.9.
 (64) 同上.; Larin in NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (65) S. Liberman, Building Lenin's Russia(Chicago, 1945), p.13.
 (*) BK, No. 1(1934年), p.107. アメリカ共産党の創設者の一人のJ・ラブストーン(Jay Lovestone)は著者に、かつて一度レーニンと話したとき、自分は3×5インチ・カードを用いた、と語った。レーニンはそのカードの目的を知りたがった。ラブストーンがレーニンの時間を節約するために話したいことをカードに書いておいたと説明すると、3×5インチ・カードを使えるようきちんと学ぶとロシアは共産主義になるだろう、とレーニンは言った。
 (66) D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti, Pt. 1(Moscow, 1963), p.140.
 (+) S. Liberman, Building Lenin's Russia(Chicago, 1945), p.13.
 ボルシェヴィキ中央委員会の原決定に次いで、初期のボルシェヴィキの政策に関する最も重要な資料源であるソヴナルコムの詳細な文書は、マルクス=レーニン主義研究所の中央党文書庫(TsPA)に、「Fond 19」という棚の印のもとに、保管されている。
 それを利用できるのは、最も信頼されている共産主義歴史研究者だけだ。
 他の研究者たちは、つぎのようなレーニンの生涯に関する伝記的年代史文献に(きわめて不完全な形で)含まれている、二次的な参考史料に頼らなければならない。
 Institut Marksizma-Leninizma pri TsK KPSS, Vladimir Il'ich Lenin: Biografisheskaia Khronika, 1870-1924, V-XII(Moscow, 1974-82).
 E. B. Genkina, Protokoly Sovnarkoma RSFSR(Moscow, 1982)もさらに見よ。
 (67) L・トロツキー, Moia zhizn', II(Berlin, 1930), p.65.; レーニン, PSS, XXXVIII, p.198. ; Liberman, Building, p.8.
 (68) SUiR, I, No.309, p.296-7.
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 第4節、終わり。次節の目次上の表題は<左翼エスエルとの合致と農民大会の破壊>。

2195/R・パイプス・ロシア革命第12章第3節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第3節・事務就労者たちのストライキ。
 (1)知識人は、全国にわたる<duvan>に参加せず、掏摸たち等が使う「音のする鞄」に注意を逸らされはしない一つのグループだった。
 彼らは、かつてきわめて熱狂的に、二月革命を歓迎した。
 しかし、十月のクーは拒否した。
 何人かの共産主義歴史研究者ですら、学生、教授、作家、芸術家、および反帝制へと誘導したその他の者たちは、ボルシェヴィキによる権力奪取に圧倒的に反対した、と認めるに至っている。
 その研究者の一人は、「ほとんど」の知識人が「妨害行為(sabotage)」をした、と述べる。(47)
 ボルシェヴィキがこの抵抗に打ち勝つには、数カ月にわたる強要と甘言が必要だった。
 知識人たちは、体制が落ち着いて、それを拒否すれば却って事態を悪くするという結論に達した後でようやく、ボルシェヴィキと協力し始めた。
 (2)ロシアの教育を受けた層が十月のクーを拒否していることを最も劇的に表現したのは、事務系(white-collar)の人々による総罷業(ゼネ・スト, general strike, sluzhashchie)だった。
 当時とその後のボルシェヴィキは、この行動は「妨害行為(sabotage)」だとして否定した。しかし、それは実際には、国の公務員や民間企業の就労者が民主主義の破壊に反対する、巨大で非暴力的な抗議運動だった。(48)
 ボルシェヴィキに人気のなさを知らしめ、統治するのを不可能にさせるのを意図したストライキが、自発的に勃発した。
 そのストライキはすぐに、組織的な構造を形成し始めた。まず初めは、各省庁、国有銀行その他の公的組織のストライキ委員会の形態をとり、次いで祖国と革命の救済委員会(Komitet Spaseniia Rodiny i Revoliutsii)と呼ばれる組織となった。
 この委員会は最初は、都市や町の議会(Duma)の職員、ボルシェヴィキが解散させたソヴェト中央執行委員会の委員たち、全ロシア農民ソヴェトの代表者たち、政府職員組合総同盟、および郵便事業就労者を含むいくつかの労務職員組合で構成された。
 徐々に、左翼エスエルを除くロシアの社会主義諸政党の代表者たちも、これに加わっていった。
 委員会は全国民に対して、強奪者(usurpers)に協力しないこと、民主主義の復活のためにともに闘うことを訴えた。(49)
 〔1917年〕10月28日、委員会はボルシェヴィキに対して、権力を手放すことを要求した。(50)
 (3)10月29日、ペトログラードの政府職員組合総同盟は、この(ストを財政支援すると見られる)委員会と協同して、組合員に対して、業務を止めるよう求めた。
 「ペトログラード政府職員組合総同盟執行委員会は、立憲会議招集の一ヶ月前のボルシェヴィキ一派による権力強奪にかかる問題について全ロシア政府職員組合の代議員と討議したうえで、またこの犯罪的行為がロシアと革命の全成果を破壊せんとしていることを考慮し、かつ祖国と革命救済全ロシア委員会と一致して、つぎのとおり決議する。
 1.政府の全行政部署の業務は、ただちに停止されるべきこと。
 2.軍および国民への食糧供給の問題は、公安秩序維持関係組織の活動の問題とともに、組合総同盟執行委員会との協力のもとで、(祖国と革命)救済委員会によって決定されるものとする。
 3.すでにその業務を停止した行政部署のその行為は、是認される。」(51)
 (4)この訴えは、広範囲の注目を受けた。
 すぐに、ペトログラードの全省庁の業務が止まった。
 伝達員や若干の書記職員を除いて、各省庁の職員たちは、仕事に来なくなったか、やって来ても座って何もしなかった。
 新たに任命されていたボルシェヴィキの人民委員たちは、行き場所がなくて、スモルニュイのレーニンの周りにたたずんだ。そして、誰も注意を払わない命令を発した。
 彼らが担当省庁に入ることは阻止された。
 「10月〔のクー〕初めの後、以前の省庁にやって来た人民委員たちは、山のように積まれた書類やファイルのほか、伝達員、清掃人および門衛の姿だけを見た。
 課長や課員から始まりタイピストや複写担当者まで、全ての職員が、人民委員を認めるのを拒み、仕事から離れることが自分たちの義務だと考えていた。」(52)
 トロツキーは、11月9日-任命されたのち二週間後-に外務省を敢えて訪れたとき、バツの悪い体験をした。
 「昨日、新『大臣』のトロツキーが、外務省にやって来た。
 全職員が集合するよう呼びかけた後で、彼は『私が新しい外務大臣、トロツキーだ』と言った。
 彼は、皮肉な笑いで迎えられた。
 そのことにトロツキーは注意を向けず、仕事に戻るよう職員たちに言った。
 職員たちは去った。…、しかし、自分たちの家へだった。トロツキーが省のトップにとどまっているかぎり、役所には帰って来ないつもりだった。」(53)
 労働人民委員のシュリャプニコフは、自分の省の指揮を執ろうとしたとき、似たような受けとめ方をされた。(54)
 ボルシェヴィキ政府はかくして、権限を掌握した数週間あとで、国の公務員が仕事をするように説得することができない、そのような馬鹿げた状況にいることに気づいた。
 したがって、ボルシェヴィキ政府が機能していたとは、ほとんど言い難い。
 (5)ストライキは、非政府系の組織へも広がった。
 民間銀行は11月1日に早くも入口を閉めており、全ロシア郵便通信従業員同盟は、ボルシェヴィキ政府が連立内閣に道を譲らなければ、業務を停止するよう命令する、との声明を発表した。(55)
 すぐに、電信電話従業員たちが、ペトログラード、モスクワ、および若干の地方都市で、業務をやめた。
 11月2日、ペトログラードの薬剤師たちがストライキに加わった。
 11月7日、水輸送業者たちが、学校の教師たちに追随した。
 11月8日、ペトログラードの印刷業者たちが、かりにボルシェヴィキがプレス布令を実施すれば、やはりストライキをする、と発表した。//
 (6)ボルシェヴィキにとって最も痛かったのは、政府の財務部局、つまり国有銀行と国有財産局の業務が停止したことだった。
 ボルシェヴィキは当面の間は、外務省または労働省の職員がいないままでも何とかやって行けた。しかし、金銭は、持たなければならなかった。
 国有銀行と国有財産局は、ボルシェヴィキは正統な政府ではないという理由で、資金を求めるソヴナルコムの要請を拒否した。
 人民委員の署名付きの小切手をもってスモルニュイから伝達員が派遣されたが、彼らは手ぶらのままで戻って来た。
 銀行と財産局の幹部職員たちは前の臨時政府を承認しており、その代表者にだけ支払いをした。
 彼らはまた、正統な公的組織や軍隊からの要請には応じて支払いをした。
 11月4日、彼らの行動が一般国民の困難をもたらしているとするボルシェヴィキの責任追及に答えて、国有銀行は、その前の一週間に国民と軍隊の需要のために6億1000万ループルを支払った、と宣告した。
 その総額のうち4000万ルーブルは、前の臨時政府に渡っていた。(56)//
 (7)10月30日、ソヴナルコムは国有と民間の全ての銀行に対して、翌日には業務を再開するように命令した。
 政府からの小切手や為替手形の支払いを拒めば、専務理事を逮捕することになる、と警告した。(57)
 この脅かしによって、若干の民間銀行は再開したが、ソヴナルコムが発行した小切手を現金化する銀行はなかっただろう。//
 (8)金が絶対的に必要になって、ボルシェヴィキは苛酷な手段を用いた。
 11月7日、新しい財務人民委員のV. R. メンジンスキー(Menzhinskii)が、武装海兵と一軍団を引き連れて国有銀行に現れた。
 彼は、1000万ルーブルを要求した。
 銀行は、断わった。
 メンジンスキーは、さらに多い兵団と一緒に4日後に姿を見せて、最後通告を発した。現金を20分以内に貰えなければ、国有銀行幹部職員は仕事と地位を失うのみならず、兵役年齢にあるとして徴兵されるだろう。
 しかし、国有銀行は、動じなかった。
 ソヴナルコムは銀行幹部の何人かを馘首した。しかし、政府が責任を引き受けたのち2週間以上の間、現金を手にすることができなかった。//
 (9)11月14日、ペトログラードにある諸銀行の書記従業員たちは、つぎに何をするかの会合をもった。
 国有銀行の従業員は、ソヴナルコムの承認を圧倒的に拒否する票決を行い、ストライキを継続した。
 民間銀行の事務職員たちも、同じ結論を下した。
 国有財産局の職員たちは、142対14の票決を行って、政府の基金をボルシェヴィキが用いるのを拒んだ。彼らもまた、2500万ループルの「短期前渡」の要請を拒絶したのだ。(58)
 (10)このような抵抗に遭遇したボルシェヴィキは、実力行使(force)に訴えた。
 11月17日に、メンジンスキーが国有銀行に再び現れた。伝達人と門衛を除いて、銀行には人けがなかった。
 国有銀行の幹部たちは、武装衛兵によって拘引されていた。
 彼らが金を手渡すのを拒んだとき、武装衛兵たちは金庫を開けるように強いて、メンジンスキーは、そこから500万ルーブルを取り出した。
彼はビロード製鞄でそれを運び、勝ち誇ってレーニンの机の上に置いた。(59)
 こうした活動は全体が、銀行強盗に似ていた。//
 (11)ボルシェヴィキはようやく、国有財産局の現金を利用できるに至った。しかし、逮捕をしていったにもかかわらず、国有銀行職員のストライキは、続いた。
 ほとんど全ての銀行が、業務を止めたままだった。
 ボルシェヴィキ兵団が国有銀行を占拠したが、同銀行は活動しなかった、
 レーニンが1917年12月に、彼の秘密警察、すなわちチェカ(Cheka)を設置したのは、もともとはこの財政担当職員らの抵抗を排除するためだった。//
 (12)当時の調査によると、12月半ばには、外務、教育、法務および供給の各省(人民委員部と改称されている)では業務が静止しており、国有銀行は完全に混乱の中にあった。(60)
 地方諸都市でも、事務系就労者のストライキが起きた。
 11月半ばにモスクワ市庁の職員が、ストを始めた。12月3日には、ペトログラード市の彼らの仲間たちがそれに従った。
 彼らが仕事を中止したことには、共通の目的があった。それは、1905年10月のゼネ・ストを模範として、政府が専制的支配をするのを断念させることだった。
 カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、および若干のその他のレーニンの同僚たちを動かしたのは、この力強い示威運動だった。その他の社会主義諸党と権力を分かち合わなければならない、そうでないと政府は機能することができない、と彼らは考えたのだ。//
 (13)しかしながら、レーニンは、自己の基礎を揺るがすことなく、11月半ばに、反対攻撃をすることを指令した。
 ボルシェヴィキは今や次から次へと、ペトログラードの公的組織の全てを物理的に占拠し、厳しい制裁でもって脅かして、被用者たちが自分たちのために仕事をするように強いた。
 当時の新聞が報告するつぎのような事件が、多くの場所で繰り返された。
 「10月28日(旧暦)、ボルシェヴィキは関税(costoms)関係部署を掌握した。
 占拠した関税部署の指揮官として、ファデネフ(Fadenev)という名の官僚が着任した。
 クリスマス祝日の前夜に、その部署の合同会議に従って、彼は、全員が12月28日に仕事に復帰するよう命令した。登庁しない者は仕事を失い、訴追される可能性がある、と脅かしもした。
 12月28日、その部署の建物は、監察官により占拠された。
 ボルシェヴィキは、「人民委員会議」に完全に服従するとの宣明書に署名する、という意向をもつ職員だけが建物に入るのを許した。」(61)
 関税部署の指揮官は、すぐそのあとで解任され、下級の書記的職員に代わった。
 ボルシェヴィキが中央政府機構を言葉の字義どおりに征圧(conquer)するたびに、同じことが繰り返された。その征圧にはしばしば、早く昇進させるという約束を獲得した若い職員が協力していた。
 ボルシェヴィキは、1918年1月になってようやく、事務系就労者たちのストライキを打ち破った。それは、立憲会議を解散させ、ボルシェヴィキが自発的に譲歩するという望み、あるいは権力を分かち合うという望みすら、全ての希望をボルシェヴィキが断ち切った後でのことだった。//
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 (47) S. A. Fesdiukin, Velikii Oktiabr' i intelligenzia(Moscow, 1972); E. Ignatov in PR, No. 4/75(Moscow, 1928),p.34.
 (48) この事件の物語は、きわめて不適切に隠されている。D. Antoshkin, Professonal'noe dvizhenie sluzhashchikh, 1917-1924 gg.(Moscow, 1927), およびZ. A. Miretskii in A. Anskii, ed., Professional'noe dvizhenie v Petrograde g.: Ocherkib i materialy(Leningrad, 1928), p.231-p.241.を見よ。
 (49) DN, Nos. 191 &192(1917年10月28日); NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.3.
 (50) Revoliutsiia, VI, p.14.
 (51) Volia naroda, No.156(1917年10月29日). Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.225.が引用する。
 (52) VS, No.11(1919年), p.5.
 (53) DN, No. 191 (1917年11月10日), p.3. Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.226.が引用する。
 (54) Protokoly II'go Vserossiskogo S"ezda Kommissarov Truda(1918), p.9 & p.17. M. Dewar, Labour Policy in the USSR(London, 1956), p.17-p.18.
 (55) Revoliutsiia, VI, p.50.
 (56) NZh, No. 178/172(1917年11月11/24), p.3; B. M. Morozov, Sozdanie i ukreplenie sovetskogo gosudarstvennogo apparata(Moscow, 1957),p.52.
 (57) Dekrety, I, p.27-p.28.
 (58) NZh, No. 182/176(1917年11月16/29).
 (59) N. Osinskii in EZh, No.1(1918年11月6日), p.2-p.3. A. M. Gindin, Kak bol'sheviki ovladeki Gosundarstvennym Bankom(Moscow, 1961).も見よ。
 (60) NV, No.6(1917年12月6/18), p.3.
 (61) 同上, No.25(1917年12月30日), p.3.
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 第3節、終わり。第4節の目次上の表題は、<人民委員会議>。第5節は<左翼エスエルとの合致と農民大会の破壊>。第6節は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

2193/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節④。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる④。
 (44)このような、またはこれに類似の、とくに経済に関する批判が、ソヴェト大会またはCEC の強い反対派から生じるだろうと予期して、ボルシェヴィキはさらにもう一つの法令を発した。それは、政府とソヴェトの関係の問題に関連していた。
 「法令(laws)の裁可と公布の手続に関して」、その布令は、ソヴナルコムが立法する(legislative)機関として行動する権利を主張した。CEC の権限は、布令(decree)がすでに施行された後で裁可するか廃止するかに、限定される。 
 この布令は、ソヴェト大会がほんの数日前にボルシェヴィキが政府を形成することを権威づけた、その条件を完全に覆すものだった。この布令文書には、レーニンの署名があった。
 しかし、元はメンシェヴィキで9月にレーニン側に移って彼に最も影響を与える経済助言者となったI・ラリンの回想録では、草案を書いてレーニンに知らせることなく自分の権限で発布したのは彼自身だ、と主張されている。また、レーニンは、公式の<官報(Gazette)>で読んで初めて知った、とされている。(36) //
 (45)ラリン=レーニン布令は、立憲会議が招集されるまで効力をもつと主張していた。
 そのときまでは、諸法令は労働者と農民の臨時政府(ソヴナルコム)が立案し、公布される、と宣言されていた。
 ソヴェト中央執行委員会(CEC )は、そのような法令(laws)を遡及して「停止し、変更し、廃止する」権限を維持した。(*)
 ボルシェヴィキは、この布令を根拠として、ボルシェヴィキは、1906年の基本法第87条と同等のものにもとづいて立法(legislate)する権利がある、と主張した。//
 (46)議会という「妨害主義者」から政府を免れされる、この簡素化された手続によって、ゴレムィキン(Goremykin)あるいは旧体制のどの保守的官僚たちも、警戒する気持ちになっただろう。だが、社会主義者たちが「ソヴェト」政権に期待したものでもなかった。
 CEC は、増大する警戒心をもちつつ、このような展開に付いていった。
 ソヴナルコムが行っている、統制がきかない「主人化(bossing)」(<khoziaistvovanie>)による自分の権威への侵害と、その同意がないままでの布令の公布に対して、CEC は異を唱えた。(37)
 (47)この問題は、11月4日の会議の際に頂点に達した。これが、「ソヴェト民主主義」の運命を決めた。
 レーニンとトロツキーは、革命前の帝制時代の大臣たちがそれらの活動の正当性についてドゥーマ〔帝制議会〕からの説明要求に応じていたように、説明するようにCEC に招かれた。
 左翼エスエルは、なぜ政府は第二回ソヴェト大会の意思を何度も侵犯するのかを、知りたかった。その意思によれば、政府は中央執行委員会に対して責任をもつ。
 彼ら左翼エスエルは、布令による統治をやめるよう強く主張した。(38)
 (48)レーニンはこれを、「ブルジョア形式主義」だと見なした。
 彼は長い間、共産主義体制は立法権と執行権をともに結合させなければならない、と考えていた。(39)
 よって、質問がいくらあっても答えることができないし答えようともしなかっただろう。レーニンは、ただちに攻勢に回って、逆襲の空気を醸成した。
 ソヴィエト政府は、「形式的なこと」には拘束され得ない。
 ケレンスキーの怠惰が致命的だったと分かった。
 ケレンスキーの行動に疑問を呈する者は、「議会による妨害主義の弁明者」だった。
 ボルシェヴィキ権力は、「広範な大衆の信頼」に依拠している。(40)
 このいずれも、なぜわずか一週間前に自分が掌握した政府が服すべき条件をレーニンが侵犯しているのか、の説明にはなっていなかった。
 トロツキーは、もう少し実質的な答え方をした。
 ソヴェト議会(ソヴェト大会とその執行委員会の意味)には「ブルジョア」議会とは違って、敵対する階級がない、そのゆえに、「伝統的な議会機構」を必要としない。
 こういう議論が示すのは、階級の差異が存在しなければ見解の違いも存在しない、ということだ。そして、ここから推論することができるのは、見解の違いが意味するのは実際には(ipso facto)「反革命」だ、ということだ。
 トロツキーは続ける。「政府と大衆」は形式的な制度や手続によってではなく、「活力のある、かつ直接的な紐帯」で結びついている。
 ファシストの実務を正当化するために類似の論拠を用いることとなるムッソリーニの先鞭を付けて、彼はこう言った。「我々の布令が穏やかではないのは本当かもしれない。<中略> しかし、活力ある創造性を求める権利は、形式的な完全性よりも優先する」。(41)
 (49)レーニンやトロツキーの見当違いと首尾一貫性のなさにより、CEC の多数派は納得することができなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキですら、動揺しているのを感じた。
 左翼エスエルは、鋭く反応した。V. A. カレーリンはこう述べた。
 「『ブルジョア』という語の濫用には異議がある。
 責任(accountability)と詳細にわたる厳格な秩序は、ブルジョア的政府だけの義務なのではない。
 言葉をもて遊び、過ちを粉飾し、ばらばらの不愉快な言葉に迷い込むのは、やめて貰いたい。
 本質的に人民的であるプロレタリア政権は、自己に対する全ての統制を許容するものでなければならない。
 要するに、ある企業を奪い取った労働者たちも、記帳と会計を廃止するまでには至らない。
 頻繁かつ多数の法的な遺漏があるだけではなくしばしば文法的誤りもある布令を急いでこしらえることは、状況をさらに大きく混乱させる。上から付与されるように法令を受容することに慣れている地方では、とくにそうだ。」(42)
 もう一人の左翼エスエルのP. P. プロシアン(Proshian)は、ボルシェヴィキのプレスに関する布令について、「政治的テロルのシステムを明確かつ決定的に表現するものであり、内戦を誘発するものだ」と、叙述した。(43)//
 (50)ボルシェヴィキは、プレス布令の票決で、簡単に勝利した。
 ラリンが提案したその布令を廃止する動議は、24対34、保留1で敗北した。(*)
 このような是認があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、1918年8月までは、諸新聞を沈黙させることができなかった。その8月に彼らは、全ての自立新聞紙と雑誌を排除したのだ。
 そのときまで、ソヴィエト・ロシアには、驚くべきほど多彩な新聞や雑誌があった。その中には、リベラル志向のものもあり、保守的な方向のものもあった。
 重い罰金が課され、その他の方法のために疲れ切っていたが、何とか生き長らえてきたのだった。
 (51)ソヴナルコムのCEC に対する責任については、まだ重要な問題が残っていた。
 ボルシェヴィキ政府はこの問題については、最初から最後まで、信任投票にかけられた。
 左翼エスエルのV. B. スピロ(Spiro)の動議は、こうだ。
 「人民委員会議長の説明を聞いたが、中央執行委員会は、不満足だと見なす」。
 ボルシェヴィキのM. S. ウリツキ(Uritzkii)は、レーニン政権を信任する反対動議で応えた。
 「説明要求に関して、中央執行委員会は、つぎのとおり決議する。
 1.労働者大衆のソヴェト議会は、その手続につき、ブルジョア議会と何ら共通性をもたない。ブルジョア議会には対立する利害をもつ多様な階級が代表されており、支配階級は規約や指示書を立法による妨害物という武器に変えている。
 2.ソヴェト議会は、人民委員会議が中央執行委員会による先行する議論なくして、全ロシア・ソヴェト大会の一般的な基本方針の枠の範囲内で、緊急の布令を発する権利を有することを、拒むことはできない。
 3.中央執行委員会は、人民委員会議の活動に対して一般的な統制を及ぼし、自由に政府とその構成人員を変更するものとする。<以下略>」(44)
 (52)スピロによる不信任動議は、20対25で敗れた。この少ない投票数は、9人のボルシェヴィキの離脱の結果だった。そのうち何人かは人民委員で、この会合で辞任を発表した(上述)。
 この消極的な勝利は、レーニンには十分でなかった。
 彼は、ウリツキの動議の票決で、自分の政府は立法権をもつことが、公式にかつ議論の余地なく、確認されることを望んだ。
 しかし、ボルシェヴィキ幹部たちが突然に躊躇し始めたために、その見込みは疑わしく見えた。
 事前の票読みでは、ウリツキの動議への賛否は、同数だった(23対23)。
 レーニンとトロツキーは、この事態を避けるべく、投票に自分たちも参加する、と発表した。-大臣が立法府の一員となって、承認を求めて提出した法令に賛成を投票するのと同等の行為だ。
 かりにロシアの「議会政治人」にもっと経験があったならば、この茶番劇に参加するのを拒んだだろう。
 しかし、全員がそのままとどまり、投票が行われた。
 ウリツキの動議は、25対23で採択された。決定的な2票は、レーニンとトロツキーによって投じられた。
 二人のボルシェヴィキ指導者は、この単純な手続でもって、立法権限を盗み取り、代表者であるはずのCEC とソヴェト大会を立法機関からたんなる諮問機関へと変えた。
 これは、ソヴィエトの国制(constitution)史上の、大きな分岐点だった。//
 (53)その日遅く、ソヴナルコムは、法令は公式の官報(<労働者と農民の臨時政府公報>)(<Gazeta Vremennogo Rabochego i Krest'ianskogo Pravitel'stva>)に登載されたときに、発効する、という声明文を発表した。//
 (54)ソヴナルコムは今や、事実上は最初からそうだったものに、つまり執行権と立法権を併せもつ機関に、理論上もなった。
 CEC にはしばらくの間は、政府の活動について議論する権利、現実の政策には何の影響も及ぼさなくとも、少なくとも批判する機会があるという権利が、認められた。
 しかし、全ての非ボルシェヴィキが排除された1918年6月-7月以降、CEC は、共鳴機構(echo chamber)に変えられた。ボルシェヴィキ代議員たちが機械的な作業としてボルシェヴィキ・ソヴナルコムの決定を「裁可」した。かつまた、そのソヴナルコムの決定は、ボルシェヴィキ党中央委員会の決定を実施するものだった。(*)
 (55)この日から、ロシアは、布令(decree)によって統治された。
 レーニンは、1905年以前にツァーリが享有した特権を握ることになった。
 レーニンの意思が、法(law)だった。
 トロツキーの言葉によると、「臨時政府は打倒されたと宣言したそのときから、レーニンは、問題が大であれ小であれ、政府として行動した」。(+)
 ソヴナルコムが発する「布令」は、フランス革命期から借用した名称であってロシアの国法上は従前は知られていないものだったけれども、十分に皇帝の<ukazy>に匹敵するものだった。皇帝のそれは、「布令」と同様に、きわめて瑣末な問題からきわめて重大な問題を扱い、専制君主が署名を付した瞬間に効力をもつに至った。
 (I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、「レーニンはふつうに、自分の署名は政府の全ての行為を十分なものにしなければならない、と考えていた。)(45)
 レーニンの幹部秘書のボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、レーニンが署名するだけで布令は法令たる効力をもった、人民委員の一人が提案して発せられたものであってすら、と書いている。(46)(++)
 このような実務は、ニコライ一世またはアレクサンドル三世にとっては、全く理解可能なものだっただろう。
 ボルシェヴィキが十月のクーから数週間以内に設定した統治のシステムは、1905年以前にロシアを支配した専制体制への逆戻り(reversion)を画するものだった。そしてそれは、間に介在した12年間の立憲主義体制(constitutionalism)を完全に一掃した。 //
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 (36) Iu. Larin, in NKH, No.11(1918年), p.16-p.17.
 (*) Dekrety, I, p.29-p.30. この布令が発布された日付を確定することはできない。ボルシェヴィキの新聞1917年10月1日と11月1日付には掲載されている。
 (37) M. P. Iroshnikov, Sozdanie sovetskoe tsentral'nogo gosudarstvennogo apparata, 2nd. ed.(Leningrad, 1967), p.115. L. H. Keep, ed., The Debate on Soviet Power(Oxford, 1979), p.78-p.79.
 (38) Protokoly zasedanii Vserossiiskogo Tsentral'nogo Ispolnitel'nogo Komitera Rabochikh, Soldatskikh, Krest'ianskikh i KazachHkh Deputatov II Sozyva(Moscow, 1917), p.28.
 (39) レーニン, PSS, XXXIX, p.304-5.
 (40) 同上, XXXV, p.58.
 (41) Protokoly zasedanii, p.31.
 (42) 同上, p.32.
 (43) Revoliutsiia, VI, P.73.
 (*) A. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Leningrad, 1969), p.169-p.170.
 ボルシェヴィキは、5名の信頼できる党員でCEC への反映が増加することに対する事前の対抗措置をとった。
 (44) Protokoly zasedanii, p.31-p.32.
 (*) 1919年12月に、CEC に名目上はまだ残っていた若干の権限は、その議長に移された。議長はそれによって、「国家の長」となった。
 元々は継続的なものと考えられていたCEC の会議は、それ以来ほとんど開催されなかった。1921年には、CEC は3回だけ催されている。
 E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, I (New York, 1951), p.220-p.230.を見よ。 
 (+) "kak pravitel'stvo": L. トロツキー, O Lenin(Moscow, 1924),p.102. 英語翻訳者はこの文章を間違って、レーニンは「政府がすべきように行動した」と読んだ。: L. トロツキー, Lenin(New York, 1971), p.121.
 (45) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.148.
 (46) S. Piontkovskii, in BK, No.1(1934年), p.112.
 (++) 以下で述べるように、これには例外があった。
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 第2節、終わり。第3節の目次上の表題は、<事務系(white collar)労働者のストライキ>。

2191/R・パイプス・ロシア革命第二部第12章第2節③。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる③。 
 (29)ボルシェヴィキが翌日につぎのことを知ったとき、この合意によって得たかもしれない安息の気分は、消え失せた。社会主義諸党の支持を受けた鉄道被用者同盟が、ボルシェヴィキはこぞって政府から退くようにという、強い主張を掲げたのだ。  
 まだレーニンとトロツキーを欠いていたボルシェヴィキ中央委員会は、その日のほとんどをこの要求について討議して過ごした。
 きわめて昂奮した雰囲気だった。アタマン・クラスノフが率いる親ケレンスキー軍が、いつ市内に突入しても不思議ではなかったのだから。
 何がしかの救いを求めて、カーメネフは、妥協を提案した。すなわち、レーニンはエスエル指導者のV・チェルノフ(Victor Chernov)にソヴナルコム議長職を譲って退任し、ボルシェヴィキは、エスエルとメンシェヴィキが支配する連立政権での次席的立場を受け容れる。(26)
 (30)その夜にかりに、クラスノフの軍が敗退したという知らせが入って来なかったとすれば、この譲歩はどうなっていたのか、を語るのは困難だ。
 (31)軍事的脅威を取り除いたレーニンとトロツキーは、今ようやく、党中央委員会の「降伏主義」方針が生んだ災難的政治状況に注意を向けた。
 11月1日夕方に中央委員会が再招集されたとき、レーニンは、統制できないほどの激しい怒りで激高していた。(27)
 レーニンは、こう要求した。「カーメネフの方針は、ただちに止められなければならない」。
 中央委員会は、同盟との交渉は「軍事行動をするための外交的粉飾」だとして、それを実施すべきだっただろう。-つまり、想うに誠実さによってではなく、ただケレンスキー兵団に対抗する助力を確保するためだけにでも。
 レーニンの要求に対して、中央委員会の多数派は動かされなかった。
 ルィコフは、勇気を出して、ボルシェヴィキは権力を維持することができない、という見解を語った。
 票決に付された。10名は連立政府に関する他社会主義諸党との会話を継続することを支持した。わずか3名だけが、レーニンの側についた(トロツキー、ソコルニコフ、そしておそらくジェルジンスキー)。
 スヴェルドロフですら、レーニンに反対した。
 (32)レーニンは、屈辱的な敗北に直面した。すなわち、彼の同志たちは十月の勝利の果実を投げ棄てるつもりであり、「プロレタリア独裁」を樹立するのではなく、小さな協力者として「プチ・ブルジョア」諸政党と権力を分有するだろう。
 そのときレーニンを救ったのは、トロツキーだった。トロツキーは、賢い妥協策でもって介入した。
 彼は、譲歩を激しく非難し始めた。こう言った。
 「我々には建設的な仕事をする能力がない、と言われている。
 しかし、かりにその通りだったとすれば、我々は単純に、正しく我々と闘っている者たちに権力を譲り渡すべきだ。
 しかし実際には、我々はすでに多くのことを達成した。
 銃剣に座るのは不可能だ、と我々は言われている。
 しかし、銃剣なくしては、どちらもすることができない。<中略>
 こちら側とあちら側と今はどちらにも立つことのできない全プチ・ブルジョアの屑どもは、ひとたび我々の権威は強いものだと知るならば、(同盟も含めて)我々の方にやって来るだろう。<中略>
 プチ・ブルジョア大衆は、従うべき力(force)を探し求めているのだ。」(28)
 アレクサンドラがニコニライに想起させたかったように、「ロシアは笞打ちを感じるのを愛する」。 
 (33)トロツキーは、時間稼ぎの方策を提案した。連立内閣に関する交渉は、十月のクーを受容する唯一の党である左翼エスエルとの間で継続すべきだ。一方、もう一度やってみて合意に達しなければ、他の社会主義諸党との交渉はやめるべきだ。
 この提案は、窮地から脱するには合理的でない方策だとは思われず、提案は支持された。
 (34)レーニンは、党幹部たちの敗北主義に終止符を打つと決意して、翌日の論争に加わり、中央委員会は「反対派」を非難せよと要求した。
 多数派の意思に反対していたのはレーニンなのだから、これは奇妙な要求だった。
 これに続いた議論で、レーニンは、その反対者たちを何とか分裂させることに成功した。
 反対派を非難する決議が、10対5で採択された。
 結果として、レーニンに最後まで立ちはだかった5人は、諦めた。その5人は、カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、ミリューティン、およびノギンだ。
 11月4日、<イズヴェスチア>は、彼らがその行動を説明するつぎの書簡を掲載した。
 「11月1日、中央委員会は、社会主義ソヴェト政府の設立を目的とするソヴェト(他の)諸党との合意を拒絶した。<中略>
 我々は、さらなる流血を避けるためには、かかる政府の設立がきわめて重要だと考える。<中略>
 中央委員会の主流グループは、ソヴェト諸党から成る政府の設立を許さず、どんな帰結をもたらそうとも、そしてどれだけ多数の労働者や兵士が犠牲となる必要があろうとも、純粋にボルシェヴィキの政府に固執する、という固い決意を明瞭に示す多くの企てを行ってきた。
 我々は、かかる致命的な中央委員会の政策方針に対して、責任をとることができない。その方針は、プロレタリアートと兵団の大多数の意思に反することを追求するものだ。<中略>
 これらの理由で、我々は、労働者大衆および兵士たちに明らかになる前に、我々の見解を防衛する権利を行使すべく、また、我々のスローガン、『ソヴェト諸政党の政権よ、永遠なれ』に対する支持を彼らに訴えるために、中央委員会から離任する。」(29)
 (35)二日のち、カーメネフはCEC 〔ソヴェト中央執行委員会〕の議長を辞任した。
 つぎの4人民委員(11閣僚中)も、同様に辞任した。ノギン(通商産業)、ルィコフ(内務)、ミリューティン(農業)、およびテオドロヴィチ(供給)だ。
 労働人民委員のシュリャプニコフは、書簡に署名していたが、職にとどまった。
 何人かの下位の人民部員のボルシェヴィキ党員も、同様だった。
 辞任する人民委員たちの書簡は、こう書いている。
 「我々は、全ての社会主義諸党による社会主義政府の設立が必要だ、という立場をとる。
 我々は、かかる政府の設立のみによってのみ、10月-11月の日々における労働者階級と革命的軍隊の英雄的闘争の成果を確固たるものにすることが可能だ、と信じる。
 我々は、排他的ボルシェヴィキ政権を政治的テロルによって持続させることだけが唯一の選択肢になっている、と考える。
 これが、人民委員会議が採用した途だ。
 我々は、この途を進むことはできないし、進みたくもない。
 我々は、この途の行き着く先は、政治生活の運営からの大衆的プロレタリア諸組織の排除、無責任体制の構築、そして革命とこの国の破壊だ、と考える。
 我々は、この政策方針に対する責任を負うことができない。よって、CEC に対して、人民委員職の辞任を申し出る。」(30)//
 (36)レーニンは、このような抗議や辞任を受けて、眠られないということはなかった。迷える羊たちはすぐに囲いの中に戻ってくる、という確信があったからだ。そして、実際に、そうなった。
 彼らは、他のどこに行けただろうか?
 社会主義諸党は彼らを追放する。
 リベラル派は、かりに権力を握ったとすれば、彼らを監獄に送り込むだろう。
 右翼政治家たちは、彼らを絞首刑にする〔=吊す〕だろう。
 彼らが肉体的に生存しつづけること自体が、レーニンの成功にかかっていたのだ。//
 (37)ボルシェヴィキ党中央委員会が採択した決定は、年下の同僚およびボルシェヴィキの決定にめくら判を捺す者という役割に甘んじるつもりのある政党とだけ、権力を共有する、ということを意味した。
 ボルシェヴィキが数人の左翼エスエルが内閣に加わることを許容した4ヶ月間(1917年12月~1918年3月)を除いて、いわゆるソヴィエト政府は、ソヴェトの構成を決して反映しなかった。ソヴェトを外面上だけ偽装した、ボルシェヴィキ政権のままだったのだ。
 (38)レーニンは今や、対抗する社会主義諸党による権力共有の要求を斥けることができた。
 しかし、彼はなお、自分の閣僚たちが責任を負うべきソヴェト議会だ、というCEC の変わりない主張に、対処しなければならなかった。//
 (39)ボルシェヴィキが十月に摘み取ったCEC は、自分たちは社会主義ドゥーマであって、政府の活動を監視し、内閣を任命し、そして立法する権能をもつ、と考えていた。(*)
 CEC は、10月のクーのあとに、規約を作成する作業を進めた。その規約では、総会、議長、多様な種類の委員会等の綿密な構成を定めていた。
 レーニンは、このような議会たる装いを馬鹿げたものだと考えた。
 最初の日から、彼は、政府官僚の任命と布令の発布のいずれについても、CEC を無視した。
 このことは、レーニンがCEC の新しい議長を選定した無頓着なやり方で、よく分かる。
 彼は、スヴェルドロフがカーメネフに替わる最良の人物だと決めた。
 CEC が自分の選択を承認することを疑う理由は、彼にはなかった。
 しかし、簡単に通過するという絶対的な自信はなかったので、スヴェルドロフを呼び出した。
 レーニンは言った。「イャコブ・ミハイロヴィチ、きみにCEC の議長になってもらいたい、どう思う?」
 スヴェルドロフは、明らかに同意した。レーニンが、中央委員会がこの選択に同意した後で、CEC のボルシェヴィキ多数派によって「注意深く」票決されるだろう、と約束したからだ。
 彼はスヴェルドロフに、頭数を計算して、ボルシェヴィキ派全員が確実に投票に向かうようにすることを指示した。
 計画したとおりに、11月8日に、スヴェルドロフは19対14で「選出」された。(*)
 スヴェルドロフが1919年3月に死ぬまで就いたこの地位によって、ボルシェヴィキ党の決定の全てをおざなりの議論の後でCEC が裁可することが、確実になった。//
 (40)レーニンは、内閣から去った人民委員の補充者の選択についても、同様にCEC を無視した。
 彼は新しい人民委員を、同僚たちと適当に相談して、しかしCEC の承認を求めることなく、11月8-11日に選任した。//
 (41)彼がまだ対処しなければならなかったのは、CEC の立法権能とCEC がもつ政府の布令に同意したり拒否したりする権利という重大な問題だった。
 新体制の最初の数週間では、CEC 議長のカーメネフは、突然に招集し、事前に議題を示さないことで、ソヴナルコムをCEC から守った。
 この短い期間、ソヴナルコムはCEC の承認を得るという面倒なことをしないで、立法(legislate)した。
 実際のところ、この当時の政府の手続は杜撰なものだったので、内閣の一員ですらないボルシェヴィキ党員の何人かは、ソヴナルコムに対して知らせることもなく、自分たちが提案して布令を発していた。ソヴェトの執行部に対しては、言うまでもない。
 このような二つの布令が、国制上の危機を発生させた。
 第一のものは、新政府の最初の日である10月27日の、プレスに関する布令だった。
 この布令は、ほとんど確実にレーニンの激励と同意のとでルナチャルスキーが起草したもので、レーニンが署名していた。(+)
 この注目すべき布令文書は、「反革命プレス」は害悪をもたらす。そのゆえに、「一時的かつ緊急的な手段によって、卑猥さと誹謗中傷が撒き散らされないように措置がとられなければならない」と規定した。-ここでの「反革命プレス」という言葉は定義されていないが、明らかに、十月のクーの正統性を承認しない全ての新聞に適用されるものだった。
 新政権に反対して煽る新聞紙は、閉刊されることとされた。
 布令はこう続ける。「新しい秩序が堅く確立されるやただちに、プレスに影響を与える全ての行政上の措置は撤廃され、プレスには完全な自由が保障される」。//
 (42)この国は、1917年2月以降、新聞や印刷工場の暴力的破壊に慣れてきていた。
 第一に、「反動的」プレスが攻撃され、廃刊となった。
 のちの7月に、同じ運命がボルシェヴィキ機関紙に降りかかった。
 ボルシェヴィキは、ひとたび権力を握るや、このような実務を拡張し、かつ公式化した。
 10月26日、〔トロツキー議長のペトログラード〕軍事革命委員会は、反対党派のプレスに対して組織的大暴虐(pogrom)を実行した。
 軍事革命委員会は非妥協的反ボルシェヴィキの<Nashe obschee delo>の刊行を禁止し、その編集長のV・ブルツェフ(Vladimir Burtsev)を逮捕した。
 同じように、メンシェヴィキの<Den'>、カデットの<Rech'>、右翼の<Novoe vremia>、中道右派の<Birzhevye vedomosti>を弾圧した。
 <Den'>と<Rech'>の印刷工場は没収され、ボルシェヴィキの報道者たちに譲り渡された。(32)
 弾圧された日刊紙のほとんどは、すみやかに名前を変えて、再び現れた。
 (43)プレスに関する布令は、さらに進んだ規定をもっていた。
 施行されれば、ロシア全土から、その起源がカトリーヌ二世の時代に遡る独立したプレスが廃絶することになっただろう。
 激しい怒りが、一斉に巻き起こった。
 モスクワでは、ボルシェヴィキが支配する軍事革命委員会が、11月21日に、非常事態は過ぎ去った、プレスは再び表現の完全な自由を享受すると宣告して、抑圧をとりやめるにまで至った。(33)
 CEC では、ボルシェヴィキのI・ラリン(Iurii Larin)が布令を批判し、その撤回を呼びかけた。(34)
 1917年11月26日、文筆家同盟は一度だけの新聞<Gazeta-Protest>を発行し、その中で何人かの指導的な作家たちが、表現の自由を窒息させようとする前例のない企てに対して、怒りを表明した。 
 V・コロレンコ(Vladimir Korolenko)は、レーニンの<ukaz>を読んだとき、恥ずかしさと憤りで顔が血に染まった、と書いた。
 「(ポルタヴァ〔Poltava〕の)共同体の構成員であり読者である私から、いったい誰がいかなる権利でもって、最近の悲劇的時期の間に何が首都で起こっているかを知る機会を奪ったのか?
 またいったい誰が、作家である私が、検閲者の是認を受けないままで、こうした事態に関する私の見解を仲間の市民たちに自由に表現する、そのような機会を妨害しようと考えたのか?」(35)
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 (26) Protokoly TsK, p.271-2. L. Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy〔共産主義専制体制の起源〕, 2ed ed., (Cambridge, Mass., 1977)によると、会合の詳細は中央委員会の発表された記録から削除された。それは、L. トロツキーのStalinskaia shkola fal'sifikatsii (Berlin, 1932), p.116-p.131で見ることができる。Oktiabr'skoe vooruzhennoe vosstanie, II(Leningrad, 1967), p.405-p.410も見よ。
 (27) Protokoly TsK, p.126-7.
 (28) トロツキー, Stalinskaia shkola fal'sifikatsii, p.124.
 (29) Izvestiia, 11月 4/17, 1917. Protokoly TsK, p.135から引用。
 (30) Revoliutsiia, VI, p.423-4.
 (31) V. D. Bonch-Bruevich, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1969), p.143.
 (*) このとき左翼エスエルは、彼に反対投票をした。Revoliutsiia, VI, p.99.
 (+) Dekrety, I, p.24-p.25. ルナチャルスキは、I・ラリンによって、執筆者だと信じられている。NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (32) A. L. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Lenigrad, 1969), p.166-7.
 (33) Revoliutsiia, VI, p.91.
 (34) Fraiman, Forpost, p.169.
 (35) Korolenko, "Protest", in Gazeta-Protest Souiza Russkikh Pisateli, 1917年11月26日.この文書の写しは、フーヴァー研究所で利用できる。
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 第2節④へとつづく。

2185/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる②。 
 (12)1917-18年の冬、かつてのロシア帝国の住民大衆は、物的資財だけを分け合ったのではなかった。  
 彼らは、600年の歴史発展の所産であるロシア国家をも分裂させた。国家主権それ自体が、<duvan>の対象となった。
 1918年の春までに、世界最大の国家は、数え切れないほどの重なり合う団体に分離した。大小はあれ、それぞれが自らの領域を支配する権威をもつことを主張し、制度的な結びつきによっては、さらには共通する運命の意識ですらによっても、他者と連結することがなかった。
 数カ月のうちに、ロシアは政治的には、中世初期に戻った。当時のロシアは自己統治をする公国の集合体だったのだ。//
 (13)最初に分離したのは、国境諸国の非ロシア人たちだった。
 ボルシェヴィキ・クーの後、少数民族が次から次へと、ロシアからの独立を宣言した。一つに民族の熱望に気づいたことによって、二つにボルシェヴィズムと差し迫る内戦から逃れるために。
 彼らは、それを正当化するために、「ロシアの諸民族の権利の宣言」を指し示すことができた。この宣言は、ボルシェヴィキがレーニンとスターリンの署名にもとづいて、1917年11月2日に発したものだった。
 全てのソヴェト制度を前もって承認することなしに公にされたもので、ロシアの人民に対して、「独立国家を分離させ形成する権利を含む、自由な自己決定」を認めていた。
 フィンランドが、独立を宣言する最初の国家となった(1917年12月6日/新暦)。
 それに続いたのは、リトアニア(12月11日)、ラトヴィア(1918年1月12日)、ウクライナ(1月22日)、エストニア(2月24日)、トランス・コーカサス(4月22日)そしてポーランド(11月3日)(日付は全て新暦)だった。
 これらの分離によって、大ロシア人が居住する地域に対する共産主義の支配は減少した。-すなわち、17世紀半ばのロシアに戻った。
 (14)離脱の過程が進んだのは、国境諸国に限られなかった。遠心力的な力は、大ロシア内部でも発生した。
 州(province)は相次いで独自の道を進み、中央権力からの自立を要求した。
 こうした過程は、「全ての権力をソヴェトへ」という公式のスローガンによって促進された。これは、多様なレベルでの地域的なソヴェトが主権を要求するのを許容するものだった。-地域(oblast')、州(guberniia)、地区(uezd)、そしてvolost' や<selo> においてすら。
 その結果は、混沌だった。
 「市ソヴェト、村ソヴェト、selo ソヴェト、そして郊外区ソヴェトがあった。
 これらソヴェトを自分たち以外の誰も承認しなかった。そして、承認したとするならば、自分たちに有利なことがたまたま生じた『地点にまで』達したからだった。
 各ソヴェトは、直接的な周囲の条件が命じるとおりに、そしてそれが行うことができ望むとおりに、活動し、闘争した。
 それらには、全く、または事実上は全く…ソヴェト的官僚機構がなかった。」(16)
  (15)何がしかの秩序を生み出す試みとして、ボルシェヴィキ政府は、1918年春に、<oblasti>と呼ばれる領域的機構を設立した。
 これらは、いくつかの州で構成され、準主権的地位を享有するもので、つぎの6つがあった。(*)
 ①付属の9州をもつモスクワ、②エカテリンブルクを中心とするウラル、③首都ペトログラードを含む7州を包括する「北部労働者コミューン」、④スモレンスクを中心とする北西部、⑤中心にオムスクがある西シベリア、⑥イルクーツクを基地とする中央シベリア。
 各oblasti は自らの行政府をもち、ソヴェト大会を開催した。
 その中には、自分たちの人民委員会議をもつものもあった。
 1918年2月に開催された中央シベリア地域のソヴェト大会は、ソヴィエト政府がドイツとの間に締結しようとしていた講和条約を拒否し、独立性を主張して、自らの外務人民委員を任命した。(17)
 (16)あちこちの<gubernii>は「共和国」だと宣言した。
 そうしたのは、カザン、カルガ、リャザン、ウファ、およびオレンブルクだった。
 バシュキールやヴォルガ・タタールのような、ロシア人の中で生活している非ロシア人たちのいくつかも、民族共和国を設立した。
 ある集計では、消滅したロシア帝国の領域に、少なくとも33の「政府」が存在した。(18)
 中央の政府はしばしば、布令や規則を施行するために、これら短命の機構の助力を求めなければならなかった。
 (17)地域や州は、それに代わって次々と、下位組織へと分解した。その中では、volost' が最も重要だった。
 volost' の活力は、農民たちにはこれが利用地が配分される最大の区域だった、ということにもとづく。
 原則として、一つのvolost' の農民たちは、奪い取った資産を隣のvolosti 〔複数〕と共有するのを拒否しただろう。その結果として、この小さな数百の地域は、事実上は、自治的な領地となった。
 マルトフは、つぎのように観察した。
 「我々はつねにこう指摘してきた。『全ての権力をソヴェトへ』のスローガンが農民たちや労働者階級の後れた階層に人気があるのは、かなりの程度で、付与された領域についての地方労働者や地方農民の優先権という原始的な考えとこのスローガンを結びつけている、ということで説明することができる。
 彼らはほとんど、労働者支配というスローガンを、付与された工場の奪取という考えと同一視しているし、農業革命というスローガンを、付与された土地を既存の村落が排他的に利用するという考えと同一視している。」
 (18)ボルシェヴィキは分離した国境諸国を元に戻すべく軍事攻撃を行ったが、何度かは成功しなかった。
 しかし、全体としてさしあたりは、大ロシア内部での遠心力的趨勢に干渉しなかった。それは、そうすれば直接的な反抗を促進させ、旧来の政治的かつ経済的なシステムを完全に破壊することになったからだ。
 この趨勢はまた、共産党がその権力を確固たるものにする以前に、その共産党に立ち向かう強い国家装置が出現することをも、妨げた。
 (19)1918年3月、政府は、ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国(RSFSR)憲法を承認した。
 レーニンはこの文書の起草を、スヴルドロフを長とする、法的専門家たちの委員会に任せていた。最も熱心な委員たちは左翼エスエルで、彼らは、1871年のフランス・コミューンをモデルにして、中央集権的国家をソヴェトの連邦に変えようと望んでいた。
 レーニンは、彼らの考えは中央指向という自分の目標とは全く逆ではあったが、邪魔しないで放任した。
 彼は、行政に関する詳細なことについて、どの兵士たちがスモルニュイの自分の役所を護衛するかを決定することに至るまで、綿密な注意を払った。しかし、憲法委員会の議論には外部者であり続け、その作業の結果を概読したのみだった。
 ここには、成文憲法に対するレーニンの蔑視が示されていた。彼の目的にとってふさわしいのは、党による統制という秘密の心棒を隠すために、国家構造が緩やかで準アナーキーな外面をもつことだった。(20)
 (20)1918年憲法は、ナポレオンの規準に合致していた。ナポレオンはこう言った。良い憲法は、短くて、紛らわしい、と。
 ロシア憲法の最初の条項は、ロシアは「労働者、兵士および農民代表ソヴェトの共和国」だと宣言した。
 「中央および地方の全ての権力」はソヴェトに帰属する。(21)
 こうした条項の定めは、解答のない疑問を惹起させる。これらに続く条項は、中央と地方の間の、あるいは各ソヴェトの間の権力の分割を明確には規定していないからだ。
 第56条によると、「管轄区域の範囲内で、各ソヴェト(地方、州、地区およびvolost' )の大会は、最高の権威である」。
 しかしながら、各地方はいくつかの州を包含し、各州は多数の地区とvolosti をもつのだから、この原理は、無意味だった。
 さらに複雑にしていることだが、第61条はソヴェト大会が最高の権威だとする原理と矛盾していた。同条は、地方ソヴェトは地方問題にだけ権能を限定し、「ソヴィエト政府の最高機関」の命令を実施することを要求していたからだ。
 (21)1918年憲法の欠陥を異なる領域的段階でのソヴェト当局の権能の問題に特殊化してしまえば、それは、ボルシェヴィキは深刻な禁止の問題として把握していなかったことを強調するにすぎないだろう。
 そうであったとしてすら、ボルシェヴィキは、遠心力的趨勢を憲法上是認することによって、その趨勢を強めたのだ。(*)
 (22)完全な行動の自由を得るために、レーニンはすみやかに〔ソヴェト〕中央執行委員会(CEC)〔イスパルコム〕に対する責任(accountability)から逃れなければならなかった。
 (23)ボルシェヴィキが提案して、第二回ソヴェト大会は、古いイスパルコムを解任し、新しくそれを選出した。そのうちボルシェヴィキは、58パーセントの議席を占めた。
 この編制によって、一団として投票するボルシェヴィキ派がどんな提案に対しても採択したり却下したりすることができることとなった。しかし、ボルシェヴィキは依然として、左翼エスエルおよびメンシェヴィキという騒々しい少数派と競い合う必要があった。
 エスエルとメンシェヴィキは十月のクーの正統性を承認するのを拒否し、ボルシェヴィキが政府を形成する権利を持つことを否定した。
 左翼エスエルは、十月クーを受け容れた。しかし、彼らはあらゆる種類の民主主義的幻想に嵌まっていて、その一つは、ソヴェトに代表される全ての政党から成る連立政権だった。
 (24)ボルシェヴィキが口先でだけ呟いていた原理を、ボルシェヴィキ以外の少数派は真面目に考えていた。それは、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕は内閣の構成やその活動に関して最終的な拒否権をもつ社会主義的立法府だ、という原理的考えだった。
 この権能をCECが有するのは、ソヴェト第二回大会のつぎの決議によっている。それは、レーニン自身が草案を書いたものだった。
 「全ロシア労働者、兵士および農民代議員ソヴェト大会は、こう決議する。
 立憲会議以前の国の行政を行うために、労働者および農民の臨時政府を設立し、それを人民委員会議と称する。<中略>
 人民委員会議の活動を統制(controll)することおよび人民委員会議を交替(replace)させる権利は、全ロシア労働者、兵士および農民代議員大会およびその中央執行委員会に授与される。」(22)
 これほどに明確なものはない。
 それにもかかわらず、レーニンは、この原理をすっかり放擲して、CEC からまたはその他のいかなる外部機関からも独立した内閣を作ると、堅く決めていた。
 彼が国家の長になってから10日以内に、これは達成された。
 (25)ボルシェヴィキとCEC の間に歴史的な対立が起きたのは、後者が他の社会主義諸政党も含めるようにソヴナルコムを広げるべきだとボルシェヴィキに対して強く主張したことによってだった。
 全政党が、ボルシェヴィキが閣僚ポストを全て独占することに反対した。要するに、ソヴェトを代表すべくソヴェト大会で選出されたのであって、自分たちだけの代表ではない。
 この反対論はボルシェヴィキ・クーの3日後には表面化し、危険な様相を帯びた。その日、ロシア最大の労働組合である鉄道被用者同盟が、社会主義政党の連立を要求する最後通告書を提出したのだ。
 1905年10月に記憶を辿らせた者は誰もが、鉄道ストライキがツァーリ体制の崩壊について果たした決定的役割を思い出しただろう。
 (26)全国に数十万の組合員を有する鉄道同盟は、輸送を麻痺させる力を持っていた。
 同盟は、1917年8月にはケレンスキーを支持し、コルニロフに反対した。
 10月には、最初は「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンに賛成した。しかし、幹部たちがボルシェヴィキが利用しているこの語の使い方に気づくや否や、反対に回り、ソヴナルコムは連立内閣に譲れと主張した。(23)
 10月29日、同盟は、政府がすみやかに社会主義諸党を含めるように拡張されなければ、ストライキを命じる、と宣言した。
 これは、ボルシェヴィキにとって重大な脅威だった。ケレンスキーの反攻に備えていたボルシェヴィキには、兵団を前線に送るためには鉄道列車が必要だったのだから。
 (27)ボルシェヴィキは、中央委員会を開いた。
 ケレンスキーに対する防衛を組織化するのに忙しかったレーニンとトロツキーは、出席できなかった。
 二人のいない中央委員会は、一種のパニック状態にあり、同盟の要求に屈服し、「他の社会主義諸党を含めることによって政府の基盤を拡張する」必要性を認めた。
 ボルシェヴィキ中央委員会はまた、ソヴナルコムはCEC が作り出すものであり、CEC に対して責任を負うことを、再確認した。
 その中央委員会は、新しい臨時政府の設立について同盟や他党との交渉をさせるべく、カーメネフとG. Ia. ソコルニコフを代表として派遣した。(24)
 この決定は、本質的には、十月のクーで獲得した権力を譲り渡すことを意味した。//
 (28)その日おそく(10月29日)、カーメネフとソコルニコフは、鉄道被用者同盟が招請していた、8政党と若干の党内組織との会合に出席した。
 ボルシェヴィキ中央委員会決定に従って、彼らは、第二回ソヴェト大会を受容することを条件として、エスエルとメンシェヴィキがソヴナルコムに入ることに同意した。
 その会合は、ソヴナルコムの再構成の時期等を検討する委員会を任命した。
 同盟による最後通告に合致したので、その夜に同盟は、ストライキの中止と警戒しつづけることを各支部に命令した。(25)
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 (16)V. Tikhomirnov in VS, No.27(1918年), p.12.
 (*)Eltsin in VS, No. 6/7(1917年5月), p.9-p.10.
 この著者は、中央委員会と政府の指令にもとづいて作成されたこの文書は「ロシア諸国を集合させる」過程を開始するものだ、と主張する。この言葉は伝統的には近代初期のモスクワに当てはまるものだ。
 (17)Pietsch, Revolution, p.77.
 (18)J. Bunyan & H. H. Fischer, The Bolshevik Revolution, 1917-18: Documents and Materials(Stanford, Calif., 1934), p.277.
 (19)L. Martov in Novyi luch, No. 10/34(1918年1月18日), p.1.
 (20)Pietsch, Revolution, p.80.
 (21)S. Studenikin, ed., Istoria sovetskoi konstitutsii v dekretakh i postanovleniiakh sovetskogo pravitel'stva 1917-1936(Moscow, 1936), p.66.
 (*)こうした趨勢は、政府が地方ソヴェトへの財政援助を拒否したことで弱くなった。
 ペトログラード〔中央政府〕は1918年2月、地方ソヴェトからの財源要請に答えて、富裕階級への「仮借なき」課税によって財源は獲得すべきだ、と伝えた。これにつき、PR, No. 3/38(1925年), p.161-2.
 この指令によって地方政府は、それぞれの地域の「ブルジョアジー」に対して恣意的に「寄付金」を課すこととなった。
 (22)Dekrety, I, p.20.
 (23)A. Taniaev, Ocherki po istorii dvizheniia zheleznodorozhnikov v revoliutsii 1917 goda (Fevral'-Oktiabr')(Moscow-Leningrad, 1925), p.137-9.
 (24)Protokoly Tsentral'nogo Komitera RSDRP(b): August 1917-Fevral'1918(Moscow, 1958), p.272. およびRevoliutsiia, VI, p.21.
 (25)Revoliutsiia, VI, p.22-23. P. Vompe's Dni oktiabrskoi revoliutsii izheleznodorozhniki(Moscow, 1924). これは、鉄道被用者と労働者の会合の詳細を内容としていると言われているが、私には利用できなかった。
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 ③へとつづく。

2182/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる①。
 (1)ボルシェヴィキが決して疑わなかったのは、党はソヴィエト政府を駆動させるエンジンでなければならない、ということだった。
 レーニンが1921年の第10回党大会で「我が党は政権政党であり、党大会が採択した決定は共和国全体にとっての義務となる」と述べたとき(7)、その内容はたんに自明のことにすぎなかった。
 スターリンが数年後にこう述べたとき、党の国制上の優越性をさらに明確に示していた。「わが国では、党による指示なくしては、我々のソヴェトも大衆組織も、重要な政治上および組織上の問題を何一つ決定することができない」。(8)
 (2)だがなお、承認された公然たる権威を持ったにもかかわらず、ボルシェヴィキ党は1917年以降、かつてそうだったもの-すなわち私的団体-のままだった。
 1918年のソヴィエト憲法も1924年のそれも、党には何ら言及しなかった。
 党が国制上の文書で最初に言及されたのは、1936年のいわゆるスターリン憲法でだった。その126条は党をこう定義した。「社会主義秩序の強化および発展を目ざす労働者の闘争の前衛」、「統治上および社会上の、労働者の全組織の指導的中核」。
 法制定に際して最も重要なことに言及しないのは、多くはロシアの伝統だった。ツァーリ絶対主義はその最初でむしろ偶然的な定義をピョートル大帝の「軍事法令」のうちに見出したのだったが、それはこの国の中心的な政治的現実となったあと二世紀のちのことで、基本的な社会的現実である隷従制は、法的な承認を受けることがなかった。
 1936年まで、党は自らのことを、手本を示して鼓舞することで国を指導する超越的な力だと考えていた。
 かくして、1919年に採択された党綱領は、党の役割はプロレタリアートを「組織」し「指導」して、階級闘争の性格をプロレタリアートに「説明」することにあると定義した。その際に、党は他の全てと同じく「プロレタリアート」も支配するということは一度なりとも示唆しなかった。
 ソヴィエト・ロシアについてもっぱらその当時の公式文書で得る知識から理解する人々はみな、国の日常生活に対する党の関与について少しも知らないだろう。それこそが、ソヴィエト同盟を世界の他国の全てと分かつのだけれども。(*)
 (3)こうして、権力掌握後もボルシェヴィキ党は私的な性格を維持し、そのことによっても、やがて国家と社会の完全な支配者になった。
 結果として、党の規約、手続、決定および党員たちは、外部からの監督に服さなかった。
 カーメネフが1920年に行った言明によると、圧倒的に非ボルシェヴィキの人々から成る(9)ロシアを「統治」した60万ないし70万の党員たちは、政党ではなくむしろ軍団(cohort)に類似していた。(+)
 党による統制から他の全てが免れることはできなかった一方で、党もまた自分に対する統制を承認しなかった。党は自ら自己を抑制しかつ自己に責任を負ったのだ。
 このことは、共産主義理論家たちがかつて満足には説明することのできなかった異様な状況を生み出した。
 というのは、ルソーが、「全員の意思」といくぶんかは異なる、各人全ての意思を表現するために言った「一般意思」のごとき形而上学的観念を参照することでのみ、それは可能だろうからだ。
 (4)党の役割は、ボルシェヴィキがロシアを征圧しその代理人を国家諸装置の責任者として配置した3年の間に、急激に大きくなった。
 1917年2月、ボルシェヴィキ党には2万3600人の党員がおり、1919年には25万人、1921年3月には73万人(候補も含む)になった。(10)
 新加入者のほとんどは、ボルシェヴィキが内戦に勝利しそうに見えたときに、ロシアで国家業務に伝統的に結びついている利益を求める資格を得るために、入党した。
 急激に膨張したこの数年間の間、党員は最低限度の住宅、食糧および燃料が保障された。よほど悪辣な犯罪行為を行った場合のほとんどを除いて、政治警察による拘束から免れたことは言うまでもない。
 党員だけは、武器を携帯することが許された。
 レーニンは、もちろん、新加入者のほとんどは出世主義者で、彼らの収賄、窃盗、および民衆に対する苛めは党の評価に有害となるものではない、と分かっていた。
 しかし、全ての権威を獲得しようとしていたので、適切な社会的資格があり、命令を疑問視も躊躇もしないで忠実に履行する気持ちがある者ならば、誰でも入党させる以外に選びようがなかった。
 レーニンは同時に、党と政府の重要な地位を、地下活動時代の老練党員である「古い軍団」のために空けておくことを確実にした。
 1930年には、諸共和国の中央委員会の書記局や地方の(oblast' やKrai の)委員会の69パーセントが、革命以前からの党員だった。(11)
 (5)1919年半ばまで、ボルシェヴィキ党は地下活動時代の非定型的構造を維持した。
 しかし、党員数が増加するにつれて、非民主主義的な実務が制度化された。
 中央委員会は党の権限の中核のままだったが、その委員たちは特別の任務を帯びて急いで全国を周っていたために、実際には、通常はたまたま存在した数人の委員たちによって決定がなされた。
 暗殺を怖れてほとんど旅行しなかったレーニンは、ずっと議長を務めた。
 レーニンは、国家の独裁者として実力による強制やテロルを重んじたけれども、軍団の内部では説得することを選んだ。
 意見か合わないことを理由に党外に排除するということは、決してしなかった。
 いくつかの重要な問題について多数の賛成を獲得することができないときには、彼は辞任すると言って脅かして、自分の意見を通した。
 一度か二度、屈辱的な敗北を喫しそうになったが、その際に彼を救ったのは、ただトロツキーの介入だった。
 数回は、賛成ではない政策を黙認しなければならなかった。
 しかしながら、1918年の末までには、誰もレーニンに反対しない状態にまで、彼の権威は増大した。
 過去にしばしばレーニンと論争したカーメネフは、1918年秋にスハノフ(Sukhanov)にこう語ったとき、多数のボルシェヴィキ党員に対して述べていた。
 「レーニンは決して誤りを冒さないと、ますます確信するに至った。
 最後には、彼はつねに正しい。
 見通しや政治方針について、彼は過ったと思ったときが何度あっただろうか。-しかし、つねに、最後には、彼の見通しや方針は正しかったことが判った。」(12)
 (6)レーニンは、その最も親密な仲間たちの間ですら、論議することにほとんど寛容さがなかった。
 典型的には内閣の会議で、彼は文書束を捲り、議論に再び加わって政策を決定したものだ。
 1917年10月から1919年春まで、彼は不可欠の助け手であるI・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)と協力して、政府はもとより党に関する、多数の決定を下した。
 文書整理箱のような頭をもつスヴェルドロフは、名前、事実その他の必要な情報をレーニンに与えることができた。
 スヴェルドロフが病気になって1919年3月に死んだ後、中央委員会は再構成されなければならなかった。このときに、政策を指導するために政治局、組織運営(adminirtration)を担当する組織局、そして党員の世話をする(manage)書記局が、それぞれ設置された。
 (7)内閣またはソヴナルコムは、二重の権能を行使する党の高官たちで構成された。
 党中央委員会を指揮するレーニンはソヴナルコムの議長でもあり、これは首相(Prime Minister)と同じことだった。
 原則として、重要な決定はまず初めに中央委員会または政治局で行われ、その後で、討議と補足のために内閣の議案とされた。その閣議には、非ボルシェヴィキの専門家も、しばしば出席した。
 (8)もちろん1億人以上の住民がいる国では、もっぱら党員層だけに依拠して、国内の社会的、経済的、政治的秩序を「粉砕」するのは不可能だった。
 「大衆」を統御(harness)する必要があった。しかし、多数の労働者と農民は社会主義やプロレタリアート独裁に関して何も知らなかったために、彼ら多数の最も狭い意味での利害に訴えて、行動するよう彼らを刺激しなければならなかった。
 ペトロニウスの<サテュリコン>、古代ローマの日常生活を描いたあの独特の小説だが、その中には、ボルシェヴィキが権力掌握をした最初の頃に追求した、その政策にきわめて関係が深い文章がある。
 「詐欺師、あるいは掏摸は、群衆の中の犠牲者を引っ掛けるために、音が鳴る鞄を入れた小さな箱を路上に落とさずに、どうやって生き抜けるだろうか?
 物言わぬ動物は、食い物の罠で捕らえられる。人間は、何かにかじり付くということがなければ、捕らえることができない。」
 これは、レーニンが本能的に理解していた原理だった。
 権力を握ったレーニンは、「<Grabi nagrablennoe>」(「略奪し尽くせ」)というスローガンのもとで、ロシア全体の富を全住民に譲り渡した。
 人民が「かじり付く」のに忙しくしている間に、彼は、政治的対抗者を処分した。
 (9)ロシア語には、<duvan>という言葉がある。これはコサック方言を経由したトルコ語から借用したものだ。
 この言葉は、強奪品が分配された物を意味している。南ロシアのコサック団がトルコ人やペルシャ人の居留地を襲った後で用いた分配物のような物のことだ。
 1917-18年の秋から冬にかけて、ロシアの全てはこの<duvan>の対象になった。
 主な生活必需品は農業用土地に分配されるものとされ、10月26日の土地布令は、共同体の農民にそれを与えた。
 各共同体がそれぞれに設定した規準によると、各世帯へのこの配分によって、1918年の春に入るまで農民たちは充分に生活することができた。
 農民たちはこの期間に、かつてそうだったほどには、政治への関心を持たなくなった。//
 (10)同様の過程は、工業や軍隊でも生じた。
 ボルシェヴィキは最初は、工業施設の運営を工場委員会に委ねた。この委員会の労働者や下層事務員たちは、サンディカリガムの影響を受けていた。
 工場委員会は所有者や管理者を排除して、経営権を奪い取った。
 だが、委員会は、工業施設の資産を横領する機会を利用して、原料や装備はむろんのこと、利潤もまた自分たちで分け合った。
 当時の論者によると、「労働者管理」は実際には、「与えられた工業企業の収益を労働者に分配すること」に堕していた。(13)
 戦線の兵士たちは、故郷に向かう前に、兵器庫や倉庫を破って入って、運べるものは何でも奪い去った。残りは、地方の民間人に売りさばいた。
 あるボルシェヴィキの新聞は、このような軍隊<duvan>について報道した。
 その新聞の報告者によると、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門の1918年2月1日(新暦)の議論は、多数の単位の兵団が連隊の兵站部の貯蔵物を要求したことを明らかにしていた。彼ら兵士たちが、このようにして獲得した軍服や武器を故郷に持ち帰るこは、一般的だったのだ。//
 (11)国有または国家の財産という観念は、私的財産という観念とともにかくして消え去った。そして、それは、新しい政府の激励でもって行われた。
 レーニンはまるで、エメリヤン・プガチョフ(Emelian Pugachev)のもとでの1770年代の農民反乱の歴史を勉強していたかのようだった。このときプガチョフは、農民層のアナキズム的および反所有者層的な本能に訴えかけて、東部ロシアの莫大な地域を占拠した。
 プガチョフは、地主たちを皆殺しにして、帝室の土地を含めて地主の土地を奪い取るよう、熱心に説いた。
 彼は農民たちに、税をもう課さず、徴兵もしないと約束し、所有者たちから奪った金銭や収穫物を農民に分配した。
 さらに彼は、政府を廃止してコサック「自由団」に置き換えることを誓約した。-これはつまりは、アナーキー〔無政府状態〕だ。
 プガチョフがカテリーヌの軍に殲滅されていなければ、彼はロシア国家を打倒していたかもしれない。
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 (8)I・スターリン, Voprosy Leninizm, nth ed. (Moscow, 1952), p.126.
 (*)この仕組みは、外国人には驚くほどに成功した。
 1920年代、共産主義ロシアは、外国にいる社会主義者やリベラルたちには、新しい「ソヴェト」タイプの民主主義政府だと受け止められた。
 初期の訪問者の説明文は、ほとんど共産党とその支配的役割に言及していなかった。それだけ効果的に、共産党は隠されていたのだ。
 (9)Deviatyui S"ezd RKP(b): Protokoly(Moscow, 1960), p.307.
 (+)国家社会主義党をボルシェヴィキやファシスト党のモデルに倣って作ったヒトラーは、ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、「『党』という言葉は、自分の組織については本当に間違った名称だ」と語った。
 ヒトラーは、その党は「一つの秩序(order)」だと呼ばれるのが好きだった。
 Rauschning, Hitler Speaks(London, 1939), p.198., p.243. 
 (10)Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1960), p.231; BSE, XI, p.531.
 (11)Merle Fainsod, How Russia Is Ruled(Cambridge, Mass., 1963), p.177.
 (12)Sukhanov, Zapiski, II, p.244.
 (13)B. Avilov in NZh, No.18/232(1918年1月25日/2月7日), p.1.
 (14)Krasnaia gazeta, No.7(1918年2月2日), p.4.
 (15)以下を見よ。Dokumentry stavki E. I. Pugacheva, povstanchevskikh vlastei i uchrezhdenii, p.1773-4(Moscow, 1975), p.48. および、R. V. Ovchinnikov, Manifesty i ukazy E. I. Pugacheva(Moscow, 1980), p.122-p.132.
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 ②へとつづく。

2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。


 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
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 第1節・権力掌握後のレーニンの戦略。
 (1)1917年10月26日、ボルシェヴィキは、達成したとして主張するほどにはロシアに対する権力を掌握してはいなかった。
 その日に非合法に召集して支持者だけを詰め込んだソヴェトの残留派大会で勝利したのだが、限られた、一時的な権威しか持たなかった。
 政府はソヴェト中央執行委員会に責任を負い、立憲会議の招集を待って一カ月以内に退任するものとされていた。
 ボルシェヴィキがこれを実現するのには、三年間の内戦が必要だった。
 不安定な立場にあったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、ほとんど直ちに、歴史に知られていない類型の体制、つまり一党独裁制の基礎を築いた。//
 (2)10月26日、ボルシェヴィキには三つの選択肢があった。
 まず、党が政府だと宣言することができただろう。
 ついで、党を政府へと解消することもできた。
 さらに、党と政府を別々の装置として維持し、外部から国家を指揮するか、または接合させる人員を通じて執行の段階で国家と融合するか(1)、のいずれかを行うことができた。
 以下に述べる理由で、レーニンは上の第一と第二の選択肢を採るのを拒絶した。
 彼は、第三の選択肢のうちの二つの間で、少しばかりは躊躇した。
 もともとは、前者に傾いていた。すなわち、国家の長であるよりも、党の長として統治するのを選んだ。それは全世界のプロレタリアートの、最初の政府だった。
 しかし、見てきたように、彼の同僚たちはレーニンが十月のクーの責任を避けようとしていると考え、多くの者が反対して、レーニンに諦めるように迫った。(2)
 その結果として、クー・デタの数時間以内に発生した政治システムでは、党と国家は別の独立した一体のままで存続し、組織としてではなく人員によって執行の段階で融合する、ということとなった。執行段階で融合したものは、とりわけ内閣だった(人民委員会議ないしソヴナルコム)。この内閣で、党の指導者たちが全ての閣僚ポストを占めた。
 こうした組織編制のもとで、党官僚としてのボルシェヴィキは、政策決定を行い、国家部署の長としてそれを執行した。その目的のために、一般官僚機構や保安警察も利用した。
 (3)このような仕組みは、ヨーロッパやその他の世界の左翼や右翼による一党独裁制形態の多様な後裔を育むこととなる、そのような統治類型の起源だった。そしてそれは、議会制民主主義に対する主要な敵または代替選択肢として出現することとなった。
 それの際立つ特徴は、執行権と立法権の集中だった。もちろん、権力は、立法、執行および司法の各権能の全てが、「支配党」という私的組織の手に委ねられる。
 かりにボルシェヴィキがすみやかに他の全ての政党を非合法にしたとすると、「党」という名称をそれらの組織に用いることはほとんどできない。
 「党(the Party)」-これはラテン語のpars または〔英語の〕一部(part)に由来する-は、部分は全体ではあり得ないがゆえに、その定義上は排他的なものであることができない。
 従って、「一党国家」は、用語上は矛盾している。(3)
 それよりも幾分かは良く適合するのは「二重国家」で、この語は、のちにヒトラーが確立したものと類似した体制を叙述するために、新しく作られた。(4)
 (4)この統治類型には、ただ一つだけ、先行例があった。不完全で部分的に実現されたのみだが、いく分かモデルになったものがある。すなわち、フランス革命期のジャコバン体制だ。
 フランス全体にいた数百人のジャコバン・クラブは、厳密な意味では政党ではなかったが、ジャコバン派が権力に到達する前にすでに、その特徴の多くを身につけていた。
 すなわち、クラブ構成員は厳格に統制され、投票の際はもちろんのこと綱領への忠誠さが要求され、パリのジャコバン・クラブはナショナル・センターとして行動した。
 1793年秋から、1年のちのテルミドール・クーまで、ジャコバン・クラブは、公式には行政部と混合することなしに、全ての執行部署を独占することによって統治の支配権を掌握し、政府の政策に対する拒否権までもつと呼号した。(5)
 ジャコバン派がもう少し長く権力の位置にいたならば、純粋な一党国家を生み出したかもしれない。
 実際に、ジャコバン派は、ロシアの専制的伝統に依りかかりながらボルシェヴィキが完成形を作るための、模範的原型を提供した。//
 (5)ボルシェヴィキは、革命を起こした後に発生すべき国家について、大して多くは思索してこなかった。自分たちの革命は即座に全世界を無視し、ナショナルな政府を一掃することを当然のことと考えていたからだ。
 ボルシェヴィキは、進む過程で一党国家を改良した。そして、それに理論的な基礎を与えてみようとは何ら試みなかったけれども、一党国家制は、彼らが実現した成果のうちで最も長続きのする、影響力が最も大きいものとなった。//
 (6)レーニンは自分が無制限の権力を行使するだろうことを何ら疑わなかったが、彼が「ソヴェト民主主義」の名前のもとで権力を奪取したことを考慮せざるを得なかった。
 ボルシェヴィキは、自分のためにではなくソヴェトのためにクーを実行した。-彼らの党の名は、〔ペトログラード〕軍事革命委員会のどの声明文にも出てこなかった。
 彼らのスローガンは、「全ての権力をソヴェトへ」だった。
 彼らの権威は、条件つきで一時的なものだった。
 虚構がしばらくの間は、維持されなければならなかった。この国はいかなる政党に対してであれ、権力を独占することを許さなかっただろうからだ。//
 (7)ボルシェヴィキが支持者と共感者を詰め込んだ第二回ソヴェト大会の代議員たちですら、ボルシェヴィキに独裁的な大権を与えるつもりはなかった。
 ボルシェヴィキが正統性の根源だと主張してきた大会の代議員たちは、彼らが代表するソヴェトはどのようにして政治的権威を再構築しようと意図しているかについて意見を求められたとき、つぎのように回答した。(6)
  ①全ての権力をソヴェトへ/        505(75%)
  ②全ての権力を民主主義派へ/        86(13%)
  ③全ての権力をカデット以外の民主主義派へ/ 21( 3%)
  ④連立政権/                58(8.6%)
  ⑤無回答/                 3(0.4%) 
 この反応は、多かれ少なかれ、同じことを語っていた。すなわち、親ボルシェヴィキ・ソヴェトがどのような政府を意図しているかを正確に知らないとすると、誰も単一の政党が独占的権力を持つとは予想していなかった、ということだ。
 実際に、レーニン直近の同僚たちの多数も、他の社会主義諸党をソヴェト政府から排除することに反対した。そして、レーニンとその一握りの最も献身的な支持者(トロツキー、スターリン、F・ジェルジンスキー)がそのような方向に固執したとすれば、それを理由として、抗議して辞任しただろう。
 これが、レーニンが直面していた政治的現実だった。
 やむを得ず彼は、一党独裁制を導入しているときですら、「ソヴェト権力」という外装の背後に隠れつづけた。
 民衆の中にある圧倒的に民主主義かつ社会主義の感情は、不確かに分散していたがなおも強く感じられたものだった。レーニンはそれによって、新しい名目上の「主権者」であるソヴェトの外皮を纏う国家構造には手をかけないように強いられた。一方では、権力の全ての網を、自らの手中に収めていっていたのだけれども。//
 (8)しかし、国の雰囲気によってレーニンがこの欺瞞を永続化させるのを強いられなかったとしてすら、彼が国家を通じて統治するのを選んで国家から党を切り離しただろうことには、十分な根拠がある。
 一つの要因は、ボルシェヴィキの人員不足だ。
 普通の状態でロシアを統治するには、公的なおよび私的な、数十万人の働き手が必要だった。
 あらゆる形態の地方自治が消滅して経済が国有化された国家を経営するには、その数の何倍もの人員数が必要だった。
 1917-18年のボルシェヴィキ党は、この仕事をやり抜くにはあまりに小さすぎた。
 いずれにしても、信奉者がきわめて少なく、かつそのほとんどは生涯にわたる職業的革命家だったので、行政についての専門知識がなかった。
 そのゆえに、ボルシェヴィキには、直接に行政をするのではなく、旧来の官僚機構とその他の「ブルジョア専門家」に依存し、行政官僚を統制すること以外には、選択肢がなかった。
 彼らはジャコバン派を模倣して、例外なく、全ての機関と組織にボルシェヴィキの人員を投入した。-その人員たちは国家にではなく党に対して、忠誠し服従する心構えがあった。
 信頼できる党員たちの必要性は切実だったので、党は、指導者たちが望んだ以上に急速に膨張し、出世主義の者たちを、純粋で使いやすいならば、入党させなければならなかった。//
 (9)党を国家とは別のものにした第三の考慮は、国家とは、国内または外国からの批判から党を守る手続のごときものだったことだ。
 ボルシェヴィキには、民衆が圧倒的に自分たちを拒否するときですら、権力を譲り渡す気持ちが全くなかったので、彼らは身代わり(scapegoat)を必要とした。
 これが国家官僚機構となるはずなのであり、党は無謬であるふりをしている間に、この官僚機構が失態について責められるだろう。
 ボルシェヴィキは、外国で破壊工作をしつつも、ロシア共産党という「私的組織」の仕業であってソヴィエト政府は責任を負うことができないと主張して、外国からの抗議をかわすことができることになる。//
 (10)一党国家のロシアでの確立は、建設的なまた破壊的な、多様な手段を必要とした。
 その過程は実質的には、1918年の秋までには完了した(そのときに、ボルシェヴィキが全ての中央ロシアを制圧した)。
 その後でボルシェヴィキは、この仕組みと実務を国境諸国に移植した。//
 (11)まず真っ先に、「ブルジョア」的なものはむろんのこと帝制時代的なものを含めて、全ての旧体制の残滓を根こそぎ廃絶しなければならなかった。地方自治の諸機関、政党とそれらの機関紙、軍隊、司法制度、および私的所有の制度。
 革命のこの純然たる破壊的段階は、奪い取るのではなく旧秩序を「粉砕する」のだとの1871年のマルクスの指示を実行するものだった。そして、諸布令がそれを定式化していた。だがそれは、主としては自然発生的アナキズムによってなし遂げられたもので、そのアナキズムは二月革命によって生まれ、ボルシェヴィキが強く燃え上がったものだった。
 当時の者たちは、こうした破壊的作業は愚かなニヒリズムによるものと見ていた。しかし、新しい支配者にとっては、新しい政治的および社会的秩序が建設されていく道を掃き清めることを意味した。//
 (12)一党国家体制の建設が困難だった一つの理由は、ボルシェヴィキが民衆のアナキズム的本能を抑制して、人々が革命によって永遠に解放されると考えたはずの紀律を再び課す必要があった、ということにあった。
 その必要があって、民衆的「ソヴェト」民主主義が出現する新しい権威(vlast')の構築が呼びかけられたが、実際に復活したのは、新しいイデオロギーと技術を備えたモスクワ絶対主義体制だった。
 ボルシェヴィキ支配者たちは、彼らの名目上の主人であるソヴェトに対する責任から免れることが、最も切迫している課題だと考えた。
 次いで、立憲会議から逃れる必要があった。彼らは自分たちでその招集を行っていたが、その立憲会議は確実に、ボルシェヴィキを権力から排除する可能性があったからだ。
 そして最後に、ソヴェトを党の従順な道具に変形させなければならなかった。//
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 (1)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.140.
 (2)N. Sukhanov, Zapinski o revoliusii, VII(Berlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.266.
 (3)R. M. Maclver, The Web of Government(New York, 1947), p.123.
 (4)E. Frankel, The Dual State(London-New York, 1941).
 (5)C. C. Brinton, The Jacobins(New York, 1961).
 (6)K. G. Kotelnikov, ed., Vtoroi Vserossiiskii S"ezd Sovetev R. iS.D.(Moscow-Leningrad, 1928), p.107.
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 第2節につづく。第2節の目次上の表題は、<レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を逃れる>。
 R・パイプス著1990年の初版。これには、「1899-1919」は付いていない。


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2175/R・パイプス著第11章第14節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 (1)当時のロシア住民の圧倒的大多数は、何が起こっているかを少しも知らなかった。
 二月革命以降は共立執行部として行動してきたソヴェトが、名目上は、完全な権力を掌握した。
 このことは、革命的な事件だとはほとんど思えなかった。すなわち、二月革命の最初に導入された「二重権力」の原理を、論理的に拡張したものだった。
 トロツキーがソヴェトへの権力移行だとボルシェヴィキによる権力奪取を誤認させたことは、素晴らしい成功だった。
 民主主義的社会主義者たちが二月と三月に導入した実務を、ボルシェヴィキの目的のために巧妙に利用したのだ。トロツキーは十月の事態をふり返って、こう自慢した。
 欺瞞がもたらした結末は、事実上何ら気づかれることなく、見かけ上は、新しい政府の危機をたんに「合法的」に解決したにすぎない、ということだった。
 (2)トロツキーは、つぎのように書く。(230)//
 「我々はこの蜂起を『合法的』だと称する。それは、二重権力という『正常な』状態から発展した、という意味でだ。
 宥和主義者たち〔エスエルとメンシェヴィキ〕がペトログラード・ソヴェトを支配していたとき、一度ならずソヴェトは、政府の決定を阻止し、あるいは訂正させた。
 こうした実務が、いわば歴史的には『ケレンスキー主義』として知られる体制の基本的構造の一部のごとくになった。
 ペトログラード・ソヴェトで権力を奪った我々ボルシェヴィキは、この二重権力の方法を拡張させ、深化させたにすぎない。
 我々は、(前線に対する)連隊の派遣に関する命令を抑止する権限をもった。
 我々はこのようにして、二重権力の伝統と実践の背後に、ペトログラー連隊の事実上の反乱を隠蔽した。
 それに加えて、権力の問題に関する我々の煽動を第二回ソヴェト大会のタイミングに合わせることによって、我々は二重権力の確立された伝統を発展させ、深化させたのだ。そして、ボルシェヴィキの蜂起のソヴェトによる『合法化』という枠組みを、全ロシア的規模で用意した。」
 (3)十月クーの社会主義という目標を隠したままにしたのも、欺瞞(deception)だった。
 まだ不確かだと感じられていた新体制が最初の週に発した公式文書は、「社会主義」という語を使わなかった。
 これが考え抜かれたもので見落としではないことは、つぎのことで分かるだろう。すなわち、レーニンは、臨時政府は廃止されたと宣言する10月25日の元々の草案では、「社会主義、万歳〔Long Live〕!」と書いていた。だが、宣言時には考え直して、その部分に線を引いて消した。(231)
 最も早い「社会主義」の語の公式な使用は、レーニンが書いた11月2日の日付のある文書に見られる。その文書は、「中央委員会は、社会主義革命の勝利を完全に確信する」と述べていた。(232)
 (4)こうしたこと全てによって、劇的な事件が起きたという意識が発生するのを抑え、公共の不安を和らげ、そして活発な抵抗を全て阻止する、という効果が生じた。
 十月のクーの意味に関する無知ががいかに広がっていたかは、ペトログラード株式取引所の反応が、よく例証しているだろう。
 当時のプレスによると、体制変化によって株取引は「まったく影響されなかった」。あるいはまた、ロシアに社会主義革命が起きたという、すぐそのあとの発表によってすら同じだった。
 クーの直後の日々には有価証券の取引はほとんどなかったけれども、価格は安定していた。
 神経質さを示したのはただ一つ、ルーブルの価値の急落だった。
 10月23日と11月4日の間に、ルーブルは外国での交換価値の二分の一を失い、アメリカ・ドルに対して、6.2から12~14へと安くなった。(233)
 (5)ほとんど誰も、臨時政府の崩壊を慨嘆しなかった。
 一般民衆はそのことに完全に無関心に反応した、と目撃者は報告している。
 ボルシェヴィキが頑固な抵抗を打ち破らなければならなかったモスクワについてすら、同じことが言えた。
 モスクワでは、政府が消失したことは気づかれなかった、と言われる。
 街頭を歩いている人々は、事態はたぶん少しも悪くはならないだろうと考えたために、誰が政権に就いても違いはない、と感じていたように見える。(234)//
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 (230)L.トロツキー, Sochineniia, III, Pt. 1(Moscow, n.d.), L.
 (231)Dekrety, I, p.2.
 (232)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.68; Lenin, PSS, XXXV, p.46.
 (233)NZh, No. 173/167(1917年11月5日), p.1.
 (234)NZh, No. 171/165(1917年11月3日), p.3. French CounsulのE. Grenard はペトログラードでの同様の反応を報告する。La Revolution Russea (Paris, 1933), p.285. 地方については、Keep in Pipes, Revolutionary Russia, p.211 を見よ。
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 第14節終わり。そして、第11章も終わり。

2172/R・パイプス・ロシア革命第二部第11章第12節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」前後)に関する全般的かつ詳細な、つぎの二著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 この二つを併せたような簡潔版に以下のCがあり、これには邦訳書もある。但し、帝制期(旧体制)に関する叙述はほとんどなく、<三全体主義(①共産主義、②ドイツ・ナツィズム、③イタリア・ファシズム)の共通性と差異>に関する理論的?な叙述等も割愛されている。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)
 上のAは、つぎの二部に分けられている。
 第一部・旧体制の苦悶。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 この欄では、これまで、第一部(いわゆる二月革命を含む)の試訳は行ってきていない。
 かつまた、第二部は計18の章を含むが、全ての試訳を了えているのは第9章(<レーニンとボルシェヴィキの起源>)、第10章(<ボルシェヴィキによる権力追求>だけで、かなりの部分を了えているのは、第11章<十月のクー>だ。
 第11章・十月のクーは、全体の目次欄では、つぎの計14の節からなり、それぞれに見出しがついている。この見出し的言葉は本文中にはなく、14の各節の冒頭の文字が特大化されて、各節の切れ目が示されている。
 第11章・十月のクー。原著、p.439~p.505。
 各節の目次欄上の見出しはつぎのとおり。
 第01節・コルニロフが最高司令官に任命される。
 第02節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ・クーに対抗する助力をコルニロフに求める。
 第03節・ケレンスキーとコルニロフの決裂。
 第04節・ボルシェヴィキの将来の勃興。
 第05節・隠亡中のレーニン。
 第06節・ボルシェヴィキによる自己のためのソヴェト大会計画。
 第07節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り。
 第08節・党中央委員会10月10日の重大な決定。
 第10節・ケレンスキーの反応。
 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言。
 第12節・第2回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 以上のうち、この欄で試訳の掲載を済ませているのは、第01節~第11節だけだ。
 第12節以降へと、試訳掲載を再開する。
 「憲法制定会議」と通常は訳されるConstituent Assembly は、「立憲会議」という訳語を用いている。
 なお、ここで初めて記しておくと、R・パイプスが用いているレーニン全集は、日本で最も一般に流通している(していた)レーニン全集とは巻分けが明らかに異なる。これに対して、レシェク・コワコフスキが<マルクス主義の主要潮流>で参照している(していた)レーニン全集は、日本のそれと巻分けが同じで、彼の参照指示に従って対象演説文等を容易に発見できる(論考類の掲載順もほぼ同じ。頁数は異なる)。L・コワコフスキは日本語版のそれと同じソ連版(同マルクス=レーニン主義研究所編)のレーニン全集のポーランド語版を利用している(していた)と思われる。
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 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
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 第11章・十月のクー。
 第12節・第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 (1)3時間半前、ボルシェヴィキは、これ以上待ちきれなくて、スモルニュイ(Smolnyi)の1917年以前は演劇の上演や舞踏会に使われた柱廊付き大集会室で、第二回大会を開会した。
 彼らは、テオドア・ダン(Theodore Dan)の虚栄心を賢くも利用して、メンシェヴィキのソヴィエト指導者たちも招待した。彼らとともに手続を執り行い、ソヴェトの正統性という香気を与える効果を得るためだった。
 新しい幹部会が、選出された。それは14名のボルシェヴィキ、7名の左翼エスエル、3名のメンシェヴィキで構成されていた。
 カーメネフが議長となった。
 正統なイスパルコム(Ispolkom, ソヴェト中央執行委員会)はこの大会に限られた議題しか設定しなかったけれども(現在の情勢、立憲会議、イスパルコムの再選出)、カーメネフは、全体的に異なるものに変更した。すなわち、政府の権限、戦争と和平、および立憲会議。
 (2)大会の構成は、国全体の政治的支持の状態とほとんど関係がなかった。
 農民諸組織は出席するのを拒否して、大会には権威がないと宣言し、全国のソヴェトにボイコットすることを強く迫った(203)。
 同じ理由で、軍事委員会は、代議員を派遣するのを拒んだ(204)。
 トロツキーは、第二回大会は「世界史上の全ての議会の中で最も民主主義的」と描写すること以上に正確なことを知っていたはずだった(205)。
 実際に、その目的のためにとくに設立された、ボルシェヴィキが支配する都市部の集会や軍事会議があった。
 10月25日に発表された声明文で、イスパルコムはこう宣言した。
 「中央執行委員会〔イスパルコム〕は、第二回大会は行われていないと考え、それをボルシェヴィキ代議員の私的な集会だと見なす。
 この大会の諸決議は、正統性を欠いており、地方ソヴェトや全ての軍事委員会に対する拘束力を有しないと、中央執行委員会によって宣告される。
 中央執行委員会は、ソヴェトと軍事諸組織に対して、革命を防衛するために結集することを呼びかける。
 中央執行委員会は、適切に行うことのできる情勢になればすみやかに、ソヴェトの新しい大会を招集するであろう。」(206)
 (3)この残留派(rump)議会への出席者の正確な数は、確定することができない。
 最も信頼できる評価が示すのは、約650人で、そのうちボルシェヴィキが338名、左翼エスエルが98名だ。
 この二つの連立党は、こうして、議席の3分の2を支配した。-3週間後の立憲会議選挙の結果から判断すると、それらに付与されたよりも2倍以上も多く代表していた。(207)
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを完全には信頼してはいなかったので、偶発的事態の余地を残さないために、自分たちに議席の54パーセントを割り当てた。
 代表の仕方がいかに歪んでいたかを例証する事実は、70年後に利用できるに至った情報によれば、ボルシェヴィキの勢力の強いラトヴィア人(Latvian)は代議員総数の10パーセントで計算されていた、ということだ。(208)//
 (4)最初の数時間は、騒がしい論議で費やされた。
 閣僚たちが逮捕されたという報せを待っている間、ボルシェヴィキは、社会主義対抗派〔左翼エスエルとメンシェヴィキ〕に床を占めさせた。
 喚きや野次が響いている真っ只中で、メンシェヴィキと左翼革命党は、ボルシェヴィキのクーを非難し、臨時政府との交渉を要求する、類似の宣言案を提案した。
 メンシェヴィキの声明案は、こう宣言していた。
 「軍事的陰謀が組織された。ソヴェトを代表する全ての別の党派に明らかにされないまま、ソヴェトの名前でボルシェヴィキ党が実行した。<中略>
 ソヴェト大会の間際でのペトログラード・ソヴェトによる権力奪取は、全ソヴェト組織の解体と崩壊を意味する。」(209)
 トロツキーは、「歴史のごみ屑の堆積」の上にある「惨めな組織」、「破産者」とこの反対者たちを描写した。
 これに応じて、マルトフは、退場することを宣言した。(210)
 (5)これが起こったのは、10月26日の午前1時頃だった。
 午前3時10分、カーメネフは、冬宮が陥落し、閣僚たちは監視下にある、と発表した。
 午前6時、彼は、大会を夕方まで休会にした。
 (6)レーニンはこのとき、大会の裁可を受けるべき最重要の布令案を起草すべく、Bonch-Bruevich のアパートに向かっていた。
 クーに対する兵士と農民の支持を獲得するとレーニンが想定した二つの主要な布令は、平和と土地に関するものだった。そして、その日ののちにボルシェヴィキ代議員の討議に付され、議論なくして是認された。
 (7)大会は、午後10時40分に再開された。
 レーニンは、激しい拍手で迎えられ、和平と土地に関する布令を提示した。
 それら布令は、投票なしの発声票決によって採択された。
 (8)講和に関する布令(211)は、名前が間違っている。なぜなら、立法行為ではなく、全ての民族の「自己決定権」を保障しつつ、併合や賦課なしの「民主主義的」講和に向かう交渉を即時に開始することを、全ての交戦諸国に呼びかけるものだったからだ。
 秘密外交は廃止され、秘密の条約は公表されるものとされた。
 ロシアは、講和交渉が開始されるまで、3カ月の休戦を提案した。
 (9)土地に関する布令(212)は、内容的には社会革命党の政策方針から採用されたものだった。それは、2カ月前に<全ロシア農民代議員大会のイズヴェスチア>(213)に掲載された農民共同体の242の指令によって補充されていた。
 ボルシェヴィキの綱領が要求した全ての土地の国有化-つまり所有権の国家への移転-を命じるのではなく、「社会化」-つまり商取引の禁止と農民共同体による使用への転換-を呼びかけるものだ。
 大土地所有者、国家、教会その他の全ての土地資産は、農業用に供されていないかぎりは、損失補償金なしで没収されるものとされ、立憲議会が最終的な提案を決定するそのときまでは、Volost' 土地委員会に譲り渡された。
 しかし、農民の私的な保有土地は、除外された。
 これは、農民の要求に対する公然たる譲歩だった。ボルシェヴィキの土地政策と全く一致しておらず、立憲会議選挙での農民の支持を獲得するために考案されたものだ。
 (10)代議員たちに提示された第三の最後の布令は、人民委員会議(ソヴナルコム, Sovnarkom)と称される新しい政府を設立した。
 これは翌月に予定されている立憲会議の招集までのみ機能するとされたものだった。従って、その先行機関と同様に、「臨時政府」と名づけられた。(214)
 レーニンは最初はトロツキーに議長職を提示したが、トロツキーは拒んだ。
 レーニンは、内閣に加わろうという熱意を持っていなかった。舞台の背後で仕事をすることを好んだのだ。
 ルナチャルスキーは、こう思い出す。
 「レーニンは最初は政府に入ろうと望まなかった。
 『自分は党の中央委員会で仕事をする』と彼は言った。
 しかし、我々は拒否した。
 我々の誰も、その点には同意しようとしなかった。
 我々は、主要な責任を彼に負わせた。
 誰も、批判者にだけなりたがるものだ。」(215)
 そうして、同時並行的に、名前だけではなくて実際にも、ボルシェヴィキ中央委員会の議長としても仕事をしながら、レーニンはソヴナルコムの議長職を引き受けた。
 新しい内閣は従前のそれと同じ骨格をもち、新しい職を付け足していた。つまり、(人民委員ではない)民族問題の議長職。
 人民委員の全てがボルシェヴィキの党員であり、党の紀律に服従した。
 左翼エスエルは参加を招聘されたが、拒否した。メンシェヴィキと社会革命党を含む、「全ての革命的民主主義勢力」を代表する内閣であるべきだ、と主張したのだ。(216)
 ソヴナルコム〔人民委員会議〕の構成は、つぎのとおり。(*)
  議長/ウラジミール・ユリアノフ(レーニン)。
  内務/A・I・リュコフ。
  農業/V・P・ミリューチン。
  労働/A・G・シュリャプニコフ。
  軍事/V・A・オフセーンコ(アントノフ)、N・V・クリュイレンコ、P・E・デュイベンコ。
  通商産業/V・P・ノギン。
  啓蒙(教育)/ルナチャルスキ。
  財政/I・I・スクヴォルツォフ(ステファノフ)。
  外務/L・D・ブロンスタイン(トロツキー)。
  司法/G・I・オポコフ(ロモフ)。
  逓信/N・P・アヴィロフ(グレボフ)。 
  民族問題議長/I・V・ジュガシュヴィリ(スターリン)。//
 (11)現在のイスパルコム〔ソヴィエト中央執行委員会〕は、新しいそれによって廃され、置き換えられることが宣言された。新しいイスパルコムは101名で構成され、そのうちボルシェヴィキは62名、左翼エスエルは29名だった。
 カーメネフがその議長に就いた。
 レーニンが起草したソヴナルコムを設置する布令では、ソヴナルコムはイスパルコムに対して責任を負うものとされ、従ってイスパルコムは、立法に関する拒否権と内閣の指名の権限をもつ議会のようなものになった。//
 (12)ボルシェヴィキの最高司令部は、この不確実な状態では最高の権力であるとは思われないことをきわめて懸念して、大会で裁可された諸布令は立憲会議による是認、訂正または拒否を条件として暫定的に制定されたものだ、と主張した。
 共産主義に関する歴史研究者の言葉によると、つぎのとおりだ。
 「十月革命の日々に、立憲会議の高い権威は<中略>全ての決議によって否定されてはいない。(第二回ソヴィエト大会は)立憲会議を考慮しており、「その招集までの」基本的な決定を採択したのだ」。(217)
 講和に関する布令は立憲会議に言及していなかったが、レーニンはそれに関して第二回ソヴィエト大会での報告で、こう約束した。「我々は、全ての講和提案を立憲会議の決定に従わせるだろう」。(218)
 土地に関する布令の諸条項も、同様に条件つきだった。「全国立憲会議のみが全ての範囲について土地問題を決定することができる」。(219)
 新しい内閣のソヴナルコムに関しては、レーニンが起草して大会が裁可した決議は、こう述べた。
 「国の行政部を形成するために、立憲会議の招集があるまで、臨時の労働者農民政府は、人民委員会議と呼ばれることとする」。(220)
 このことからして、立憲会議選挙は予定通り11月12日に行われると、新しい政府がその職務に就いた最初の日に(10月27日)確認したのは、論理的なことだった。(221)
 また、ボルシェヴィキ自体が明確にしたことによってすら、立法する機会をもつ前に、その最初の日に会議を解散することでボルシェヴィキが自らの正統性を失うことも、論理的なことだった。//
 (13)ボルシェヴィキは、将来に何が起きるかを確実に判断することができないという理由だけで、その始めの時期に合法性に関する譲歩を行った。
 彼らは、ケレンスキーがいつ何時にでも兵団を引き連れてペトログラードに到着する、その可能性を認めざるを得なかった。その場合には、ボルシェヴィキは全ソヴェトの支持を必要とするだろう。
 ボルシェヴィキは、一週間かそこらののちに、敢えて法的規範を公然と侵害するに至った。そのときには、制裁を課す部隊がやって来るのが現実になるということはない、ということが明白になっていたのだった。//
 (14)親ボルシェヴィキと親臨時政府の両兵団が首都の統制権をめぐって武装衝突をしたのは、10月30日、郊外丘陵地のプルコヴォでの1回だった。
 クラスノフのコサック部隊は支援の少なさに士気を失い、ボルシェヴィキ煽動者たちによって混乱していたが、ツァールスコエ・セロでの貴重な3日間を無駄に費やしたあとで、ようやく進軍するよう説得された。
 彼らはスラヴィンカ河沿いに作戦行動を開始した。そこで600人のコサック兵が、赤衛軍、海兵および兵士たちから成る、少なくとも10倍以上の実力部隊に立ち向かった。(222)
 赤衛軍と兵士たちはすぐに逃げ去ったが、3000名の海兵たちは基地を守り、その日を耐えぬいた。
 コサック兵団は、現地司令官を失って、ガチナ(Gatchina)へと撤退した。
 こうして、臨時政府に味方した軍事介入が行われるという可能性がなくなった。
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 (203)10月24日の全ロシア・ソヴェト農民代議員大会の決定、in: A. V. Shestakov, ed, Sovety krest'ianskikh deputatov i drugie krest'ianskie organizatsii, I, Pt. 1(Moscow, 1929), p.288.
 (204)Revoliutsiia, V, p.182.
 (205)L・トロツキー, Istoriia russkoi revoliusii, II, Pt. 2(Berlin, 1933), p.327.
 (206)Revoliutsiia, V, p.284.
 (207)Oskar Anweiler, The Soviets(New York, 1974), p.260-1.
 (208)G. Rauzens in China(Riga), 1987年11月7日。この参照は、Andrew Ezergailis 教授のおかげだ。
 (209)Kotelnikov, S"ezd Sovetev, p.37-38, p.41-42.
 (210)Sukhanov, Zapinski, VII, p.203.
 (211)Derekty, I, p.12-p.16.
 (212)同上、p.17-20.
 (213)同上、p.17-18.
 (214)同上、p.20-21.
 (215)Sukhanov, Zapinski, VII, p.266. レーニンのトロツキーへの提示につき、Isaac Deutscher, The Prophet Armed: トロツキー・1870-1921(New York & London, 1954), p.325.
 (216)Revoliutsiia, VI, p.1.
 (*)Derekty, I, p.20-21. W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.50. Lenin, PSS, XXXV, p.28-29. トロツキーは、ソヴナルコム内の唯一のユダヤ人だった。ボルシェヴィキは「ユダヤ」党だ、「国際ユダヤ人」の利益の仕える政府を設立している、という非難をボルシェヴィキは怖れているように見えた。
 (217)E. Ignatov in: PR, No.4/75(1928), p.31.
 (218)Lenin, PSS, XXXV, p.20.
 (219)Derekty, I, p.18.
 (220)同上、p.20.
 (221)同上、p.25-26.
 (222)Melgunov, Kak bol'shevili, p.209-210.
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 第12節終わり。第13節<モスクワでのボルシェヴィキ・クー>等へと続く。

2166/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑤。
 (40)調和のとれた共産主義的社会秩序に対する毛沢東の不信は、明らかに、伝統的なマルクス主義ユートピア像と一致していない。
 しかし、毛沢東はさらに、異なる未来像を考察するまでしていた。すなわち、全てが変化して長期的には全てが死滅するので、共産主義は永遠のものではなく、人類自体もそうではない。
 「資本主義は社会主義となり、社会主義は共産主義となる。そして、共産主義社会は、さらに変革されるだろう。共産主義社会にもまた、始まりと終わりがある。
 猿はヒトに変わった。そして人類が発生した。
 最終的には、全人類が消滅するだろう。別の何かに変わるかもしれない。地球それ自体もまた、存在することをやめるだろう」(Schram, p.110)。
 「将来に、動物は発展し続けるだろう。
 人間だけが二つの手をもつ資格がある、とは思わない。
 馬、雌牛、羊は進化することができないのか? <中略>
 水にもまた、歴史がある。
 もっと前には、水素も酸素も存在しなかった」(Schram, p.220-1)。//
 (41)毛は同じように、中国の共産主義の未来が保証されているとは考えなかった。
 ある世代がいつか、資本主義を復活させるときが来る。
 しかし、そうであっても、その後世の者たちがもう一度、資本主義を打倒するだろう。//
 (42)正統マルクス主義から本質的に離反しているもう一つは、農民崇拝(cult)が共産主義の主柱としてあることだ。ヨーロッパ共産主義ではこれに対して、農民は革命闘争の補助勢力にすぎないし、そうでなければ、蔑視された。
 毛沢東は、1969年の第9回党大会で、人民軍が都市を制圧するのは、さもなくば蒋介石が都市部を維持し続けただろうから、「よい事」だった、しかし、そのことで党内の腐敗が生じたので、「悪いこと」だった、と述べた。//
 (43)肉体労働の崇敬を含む農民と田園生活の崇拝によって、毛主義の特質の多くを説明することができる。
 マルクス主義の伝統は身体労働を必要悪と見なし、技術の進歩によってその必要悪から徐々に解放されるだろうと考えた。
 しかし、毛沢東の考えで、身体労働にはそれ自体の崇高さがあり、他のもので代替できない教育的価値がある。
 学生や生徒が時間の半分を肉体労働に捧げるという考えは、経済的必要によるというよりも、それと同じ程度以上に、人格を形成するための影響力によるものだった。
 「労働を通じての教育」は普遍的な価値をもち、毛主義の平等主義の考えと密接に関係している。
 マルクスは、肉体労働と精神労働の差異はいずれは消滅する、もっぱら頭を使って働く一群の人々と筋肉だけを使って働く人々がいるべきではない、と考えた。
 「完全な人間」というマルクスの理想の中国版は、知識人には樹木を伐採させたり溝を掘らせ、大学教授たちはほとんど読み書きのできない労働者の隊列の中から集められなければならない、というものだった。
 なぜなら、毛沢東が明瞭に述べたことだが、無学の農民ですら知識人たちよりも経済問題をよく理解している。//
 (44)しかし、毛沢東理論はさらに進んでいる。
 学者、文筆家、芸術家が農村の労働や特別の施設(つまり強制収容所)での教育的労働へと放逐されなければならないのみならず、知的な作業は容易に道徳的頽廃に変わり得ることや、人民が多数の書物を読みすぎるのを是非とも阻止しなければならないことを、認識しなければならない。
 この考え方は、毛の演説や会話の中で多様なかたちをとって頻繁に出てくる。
 毛沢東は一般に、人民は知れば知るほど悪くなる、と考えていたように見える。
 彼は成都(Chengtu)での1958年3月の党大会で、歴史をとおして見て、ほとんど知識のない若者の方が教養ある者たちよりも良かった、と述べた。
 孔子、イエス、ブッダ、マルクス、孫文(孫逸仙, Sun Yat-sen)は、彼らの思想を形成し始めたときにはまだきわめて若くて、多くのことを知っていなかった。
 ゴールキ(Gorky)は2年間だけ学校に行き、フランクリンは街頭で新聞を売った。
 ペニシリンの発明者は、洗濯屋で働いていた。
 1959年の毛の演説によると、漢の武帝の時代に、首相のChe Fa-chih は、無学だったが詩を作った。しかしながら、彼自身は無学(illiteracy)と闘うのに反対しなかった、と毛は付け加えている。
 1964年2月の別の演説で述べたのはこうだった。明王朝には二人しか良い皇帝はいなかったが、二人ともに無学だった。そして、知識人たちが国を乗っ取ったときに、国は荒廃し、破滅した。
 「書物を多すぎるほど読むのは、有害だ。
 我々は、マルクスの本を読むべきだが、多すぎるほど読んではいけない。
 十冊かそれくらい(a dozen or so)読むので十分だろう。
 あまりに多く読みすぎると、我々の反対物へと向かい、本の虫、教条主義者、そして修正主義者になる可能性がある」(Schram, p.210)。
 「梁王朝の武帝は、初期の時代には相当に良かったが、のちに多数の書物を読んだ。そして、もはや十分には仕事ができなかつた。
 彼は、T'ai Ch'eng で、飢えて死んだ」(同上、p.211)。//
 (45)こうした歴史的考察から得られる道徳は明瞭だ。すなわち。知識人は農村へと労働ををすべく送られなければならず、大学や学校で教育する時間は削減されなければならない(毛沢東はしばしば、知識人は全段階の教育を受けるのが長すぎると述べた)。そして、入学は政治的な規準に従わなければならない。
 最後の点は、党内部で激しい論争があった問題だったし、現在でもそうだ。
 「保守派」は、少なくとも一定の最小限度の学問的規準が入学や学位の授与には適用れさるべきだと主張した。一方、「急進派」は、社会的出自と政治的意識以外のものは何も考慮されるべきではない、と考えた。
 後者は明らかに、毛沢東の考えと一致する方向にある。毛は1958年に、満足感をもって二度、中国人はどんな好む絵でも描くことができる白紙のようなものだ、と述べた。
 //
 (46)知識、専門家主義および特権階級によって創造された文化全体に対する深い不信感は、明らかに、中国共産主義の農民起源性を示している。
 この不信感はどの程度にマルクスの教理、レーニン主義を含むヨーロッパ・マルクス主義の伝統と矛盾しているかを論証する必要はない。ロシア革命の最初には、教育に対する類似の憎悪の兆しがあったのだけれども。
 教育を受けたエリート(élite)と大衆の間の深い溝が以前はロシア以上に深かったように見える中国では、無学の者は当然に学者たちに優先するという考えは、下からの革命がもつ完璧に自然な結果であるように見える。
 しかしながら、ロシアでは、教育や専門家主義に対する敵意は、決して党の基本的政策方針の特徴ではなかった。
 党はもちろん、古い知識人層を一掃し、人文学研究、芸術および文学を、政治的なプロパガンダの道具に変え始めた。
 しかし、同時に党は、専門家尊重を宣言し、高い程度の専門化にもとづく教育制度を発展させた。
 ロシアの技術、軍事および経済の近代化は、かりに国家イデオロギーがそれ自体のために無知を称揚して多数の本を読みすぎないよう警告していたとすれば、全く不可能だっただろう。
 しかしながら、毛沢東は、中国はソヴィエトのやり方では近代化しないし、そうできないだろうことを自明の前提としていたように見える。
 毛はしばしば、他国の「盲目的」模倣に反対して警告した。
 「我々が外国から模倣する全ては、厳格に採用された。だが、それは大敗北に終わった。白軍の領域での党組織はその強さの100パーセントと革命的基盤を失い、赤軍はその強さの90パーセントを失った。そして、革命の勝利は長年の間、遅れた」(Schram, p.87)。
 別の場合について、ソヴィエト範型の模倣は致命的影響を及ぼす、と毛は観察していた。彼自身が3年間、卵と鶏のスープを飲食できなかったが、それは、あるソヴィエトの雑誌がそれらは人の健康に悪いと書いていたからだった。//
 (47)こうして、毛主義はエリート(élite)文化に対する農民の伝統的な憎悪(これは例えば16世紀の改革の歴史によくあった特質だった)を表現するのみならず、中国人の伝統的な外国恐怖症、そして外国や白人出自のもの全てに対する不信をも、示していた。白人たちは一般に、帝国主義的浸食を支持していた。
 中国のソヴィエト同盟との関係は、こうした一般的態度を強化したものにすぎなかった。//
 (48)同一の理由で、中国人は工業化の新しい方法を探し求めた。
 これは「大躍進」の大失敗で終わったのだったが、その背後にあったイデオロギーは放棄されなかった。
 毛沢東とその支持者たちは、社会主義の建設は「上部構造」で、つまり「新しい人間」の創出でもって始まらなければならない、と考えた。
 この考えは、イデオロギーと政治は蓄積率に関するかぎりは最優先されるべきだ、社会主義は技術的進歩や福利の問題ではなく、諸制度と人間諸関係の集団化の問題であり、その集団化から、理想的な共産主義諸制度を技術的に未熟な条件のもとでも生み出すことができる、というものだった。
 しかしながら、これらのためには、旧来の社会的連関や不平等の原因となる条件の廃棄が必要だ。そのゆえに、とくに国有化に抵抗する家族的紐帯を破壊しようとする中国共産党の熱情は、私的な動機づけや物質的誘導(「経済主義」)に反対する運動とともに、強いものだった。
 もちろん、熟練技術や行う仕事の種類を理由として、報酬はある程度は区別されていた。しかし、ソヴィエト同盟と比べれば、その差は少なかったように見える。
 毛沢東が考えていたのは、人民が適切に教育されれば彼らは特別の誘導がなくとも懸命に労働するだろう、「個人主義」と自分自身の満足を目指す願望はブルジョア的心性の有害な残存物であって排除されなければならない、ということだった。
 毛主義は、全体主義ユートピアの典型的な例だ。そこでは、全てが個人の善とは反対の意味での「一般的な善」に隷従しなければならない。「一般的な善」が個人の善を除外してどのように明確になるのかは明瞭ではないけれども。
 毛沢東の哲学は、「個人の善」という観念を用いなかった。「個人の善」はソヴィエト・イデオロギーでは重要な役割を果たし、かつあらゆる形態でのヒューマニズム的用語法を避けもした。
 毛沢東は、「人間の自然的権利」という観念を明示的に非難した(Schram, p.35)。すなわち、社会は敵対的階級によって構成されているのであり、共同体もそれら階級の間の相互理解も存在し得ない。また、階級から独立したいかなる文化形態も存在しない。
 「赤い小語録」は、こう語る(p.15)。「我々は、敵が反対するものは何でも全て支持し、敵が支持するものは何でも全て反対しなければならない」。-これはおそらく、ヨーロッパのマルクス主義者ならば書かなかった文章だろう。
 過去、伝統的文化、そして階級間の溝を埋める可能性のある全てのものと、完璧に決裂しなければならない。//
 (49)毛自身が繰り返した声明によれば、毛主義は、特殊中国的な条件にマルクス主義を「適用したもの」だ。
 すでに行った分析から分かるだろうように、毛主義は、レーニンによる権力奪取の技術の用い方として、より正確に叙述されている。マルクス主義のスローガンは、マルクス主義とは疎遠であるか矛盾するかする思想や目的を偽装するものとして役立った。
 もちろん、「実践の優先」は、マルクス主義に根ざす原理だ。しかし、読書は有害だ、無学の者は教養ある者よりも当然に賢いという推論を、マルクス主義の語彙でもって防御することは、じつに困難だろう。
 最も革命的な階級であるプロレタリアートにとっての農民の補充性という考えは、マルクス主義の伝統全体と、明らかに合致していない。
 同じことは、階級の対立は絶えず発生せざるを得ない、そのゆえに定期的な革命でもって解消されなければならない、という意味での「永続的革命」という考えについても言える。
 精神労働と肉体労働の「対立」を廃棄するという考え方は、マルクス主義的だ。しかし、身体労働を最も高貴な人間の仕事として崇敬することは、マルクスのユートピアの醜怪な解釈だ。
 農民が労働の分割によって腐敗していない「完全な人間」の至高の代表者だという考えは、ときには前世紀のロシアの人民主義者(populists)の間に見ることができる。しかし、これまた、マルクス主義の伝統と全く矛盾するものだ。
 平等という一般的原理は、マルクス主義的だ。しかし、知識人たちを米の田畑に追い払うという政策にこの平等原理が具体化されるとマルクスは考えた、と想定するのは困難だ。
 いくぶんか時代錯誤的に比較するならば、我々はマルクス主義の教理の観点から、毛沢東主義は原始共産制の類型の一つだ、と見なしてよい。その原始共産制は、マルクスが述べたように、私的所有制を克服するものではないのみならず、私的所有制にすら到達していない。//
 (50)一定の限られた意味では、中国共産主義はソヴィエトのそれよりも平等主義的だ。
 しかしながら、それはより全体主義的でないのが理由ではなく、より全体主義的だからだ。
 賃金や給料に差が少ないのは、より平等主義的だ。
 階位を示す軍の徽章のような階層性の表徴は廃止され、体制は一般にはソヴィエト同盟よりも「人民主義」的だ。
 民衆を統制下におき続けるためにより重要な役割を果たしているのは、地域または労働場所ごとに組織された諸制度だ。そして、職業的な警察の役割は、それに応じて小さい。
 普遍的なスパイ活動と相互告発のシステムは、多様な種類の地方委員会をつうじて作動しているように思われるし、市民の義務だと公然と見なされている。
 他方で、ボルシェヴィキがかつて得た以上の民衆の支持を毛沢東が獲得しているのは、本当だ。よって、ボルシェヴィキがそうだつた以上に、毛沢東の力は信頼されている。
 このことは、外部に向かって発言せよと人々に何度も指令した(スターリンも場合によってはこれを採用した)ことよりも、文化革命の間に既存の党機構を打倒すべく若者たちを煽動するというリスクを冒したことに見られる。
 しかし他方で、混沌の全期間をつうじて、彼が権力と実力行使の装置を握りつづけたことは明瞭だ。これら装置によって、助言に従う者たちが過剰になるのを抑制することができた。
 毛は何度も、「民主集中制」という福音を繰り返した。そして、彼のこれに関する解釈がレーニンのそれとどのように違っていたのかは、明瞭でない。
 プロレタリアートは党をつうじて国家を統治し、党の諸活動は紀律にもとづき、少数者は多数者に服従し、そして全党は中央指導層に従う。
 民主集中制は「まず何よりも、<中略>正しい考えの中央集権化だ」(Schram, p.163)と毛沢東が説くとき、そこに疑いなくあるのは、ある考えが正しい(correct)か否かを決定するのは党だ、ということだ。
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 ⑥へとつづく。

2160/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節①-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。分冊版、p.494~p.499。
 第13章・スターリンの死以降のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義①。
 (1)中国革命は、争う余地なく、20世紀の歴史の最も重要な事件の一つだった。
 毛主義(Maoism)として知られるその教理は、従って、その知的な価値とは無関係に、今日の思想闘争の主要な要素になっている。
 ヨーロッパ標準で測れば、毛主義のイデオロギー文書、とくに毛自身が書いた理論的著作は、実際には原始的で不格好で、ときには子どもじみている。
 これと比べると、スターリンですら、力強い理論家だという印象を与える。
 しかしながら、このような判断は、用心して行う必要がある。
 この書の執筆者のように中国語を知らず、中国の歴史と文化について僅かでかつ表面的な知識だけしか持っていない者は、疑いなく、中国思想に習熟した読者は理解することができる文章の意味、多様な連関と示唆するところを、完全に把握することはできない。
 この点で、我々は専門家の見解に依拠しなければならない。しかしそれでも、つねに同意するのではないけれども。
 この書物の他の箇所以上に、以下の論述は二次的情報にもとづく。
 しかしながら、理論的、哲学的主張をもつにもかかわらず、毛主義は先ずはそして最も多くは実際的な訓示だ、と最初に述べておいてよいだろう。そのことが何らかの態様で、中国の状況にはきわめて有効であることが判明したのだ。//
 (2)今日に毛主義と、あるいは中国で「毛沢東思想」と称されるものは、数十年前に起源のあるイデオロギー大系だ。
 ロシア共産主義に対する意味での中国共産主義の特徴のいくつかは、1920年代遅くにはすでに見えていた。
 しかしながら、とくに毛沢東のユートピア的見方を含むそのイデオロギーが明瞭な様相をとり始めたのは、ようやく1949年の中国共産党の勝利のあとでだった。そして、1950年代遅くまたはその後でのみ、若干のきわめて重要な側面が進展した。//
 毛主義は、その最終形態では急進的な農民ユートピアだ。そこでは、マルクス主義の言葉遣いが顕著に多くあるが、その支配的な価値はマルクス主義とは完全に疎遠だと見られる。 
 このユートピアはヨーロッパの経験と思想にほとんど依拠していないのは、何ら驚くべきことではない。
 毛沢東は、すでに新国家の長になっていたときにモスクワを2度訪問した以外には、中国を離れなかった。
 そのとき彼は自分で、どの外国語もほとんど知らず、マルクスに関する知識もおそらく相当に限られている、と明瞭に語った。
 例えば、正統マルクス主義者だと主張する一方で、彼には、物事には全て善と悪という二つの側面がある、と語る習癖があった。
 マルクスはこのような弁証法形態をプチブル的馬鹿さとして嘲弄したことを知っていたとすれば、彼はおそらく、こう言わなかっただろう。
 また例えば、マルクスが「アジア的生産様式」に言及したのを知っていたならば、彼はおそらく、これを論じただろう。しかるに、彼の著作はこれに何ら論及していない。
 毛沢東の二つの論考-「実践について」と「矛盾について」-が簡明に明らかにしているのは、彼がスターリンとレーニンの著作で何を読んだか、であり、加えて、そのときどきの必要に応じたいくつかの政治的結論だ。
 穏やかに言えば、これらの文章から何らかの理論的に重要なことを感知するには、多大の善意が必要だ。//
 (3)しかしながら、以上は本質的な点ではない。
 中国共産主義の重要性は、その教条の知的な水準によるのではない。
 毛沢東は、きわめて偉大ではなくとも、偉大な人物の一人だ。20世紀の、人間たる多数大衆の操作者だった。そして、彼が目的達成のために用いたイデオロギーは、中国のみならず第三世界の他部分を含めて、その有効性のゆえに意味をもっている。//
 (4)中国の共産主義は、1912年の帝国崩壊とともに始まった革命的事件を継承したものであり、数十年前、とくに1850ー64年の太平天国の乱〔Taiping rebellion 〕(歴史上最も血なまぐさい内戦の一つ)まで遡る展開の結果だ。
 毛沢東は、革命の第二期の主要な構築者であった。その時期には、ロシアと同様に、共産主義の支援のもとではレーニンが「ブルジョア民主主義」と称しただろうもの以外には生まれなかった。すなわち、大規模土地の農民への配分、中国の帝国主義諸国からの解放、そして封建諸制度の廃棄。//
 (5)毛沢東(1893~1976)は、湖南(Hunan)地方の裕福な農民の息子だった。
 村の学校に通い、中国の文字伝統の主要部分を学び、中学校へ進学するだけの性質を得た。
 早くに孫文(Sun Yat-sen, 孫逸仙)の革命共和党、のちの国民党に加入した。
 しばらく共和党軍で戦ったのち、1917年に勉強を再開した。こうした期間、彼は詩も書いた。
 のちに彼は、北京の大学図書館で働いた。このときの彼は、ナショナリストかつ社会主義の知識をもつ民主主義者で、マルクス主義者ではなかった。//
 (6)国民党の目標は、日本、ロシアおよびイギリス帝国主義から中国を解放し、立憲主義共和国を設立し、経済改革によって農民の運命を改善することだった。
 1919年の新たな暴動のあとで、最初の毛沢東グループが北京で結成された。そして、1921年6月、コミンテルン工作員の助けで、毛沢東を含む十数人のメンバーたちは、中国共産党を創設した。
 コミンテルンの指令に従って、党は最初は国民党と緊密に連携し、中国の萌芽的プロレタリアートの支持を獲得しようとした(1926年に、都市労働者は民衆200人当たり1人だった)。
 1927年に蒋介石が共産党員を殺戮したあと、蜂起し、国民党の左派脱退者と<同盟(entente)>しようとして何度も失敗したのちに、共産党は方針を変更し、前指導者の陳独秀(Chen Tu-hsiu)に「右翼日和見主義者」の烙印を捺した。
 殺されながらも、党は、労働者に影響を及ぼす努力を集中し続けた。しかし、毛沢東は、農民へと方向転換して、農民軍を組織することを主張した。
 しかしながら、党内の両グループはともに、反帝国主義と反封建主義を強調した。
 そこには、特段に共産主義的な見解の兆しはほとんどなかった。
 毛沢東は、生まれ故郷の湖南地域で、武装農民運動を組織し始めた。そしてその地域で、農民軍勢力は大土地所有者から没収し、伝統的諸制度を廃絶させ、学校と協同組合を設立した。//
 (7)つづく20年間、毛沢東は、都市部から離れた田園地帯に住んだ。
 やがて彼は、農民ゲリラ行動の傑出した組織者になるのみならず、中国共産党の揺るぎなき指導者になった。世界で唯一の、その地位をモスクワによる認証によらない指導者になったのだ。
 注目すべき勝利と劇的な敗北が多々あった時期である20年の間、彼は、国民党と侵攻者日本に対して、前者が後者と戦っている時期を除き、極端に困難な条件のもとで闘った。
 共産党は占拠した地域に将来の国家の基盤を組織した。だが、自分たちの革命の性格は「ブルジョア民主主義的」だと強調し、また農民や労働者だけではなく中低層や「ナショナル」なブルジョアジー、つまり帝国主義者たちと同盟しない者たちを含む、「人民戦線」を呼びかけつづけた。
 党は、1949年の勝利後の最初の数年間は、この基本線を採用し続けた。//
 (8)1937年、ゲリラ戦闘が継続している間、毛沢東は、延安(Yenan)の党軍事学校で、二つの哲学的講義を行った。それらは現在、中国の民衆が得られる哲学教育のほとんど全体を構成している。
 「実践について」の講義で、彼はこう述べる。人間の知識は生産的実践と社会矛盾から湧き出てくる。階級社会では、全ての思想形態は例外なく階級によって決定される。実践は、真実を測る尺度だ。
 理論は実践にもとづいており、その隷従物だ。
 人間は、感覚で事物を感知し、見ることのできない事物の本質を理解することのできる観念を形成する。
 対象を認識するためには、それに対処する実践的行動を起こさなければならない。すなわち、我々は食べることによって梨の味を知る。また、階級闘争に参加することによってのみ、社会を理解する。
 中国人は、「表面的かつ知覚的知識」にもとづいて帝国主義との闘いを開始した。ようやくのちになって、帝国主義の内部矛盾に関する理性的な知識を得る段階に到達し、かくして有効にそれと闘うことができている。
 「マルクス主義は、理論の重要性を厳格に強調する。それは、理論が行動を誘導することができるからだ」(<哲学に関する四考>、1966年、p.14)。
 マルクス主義者は、自分たちの知識を変化する条件に適合させなければならない。そうでなければ、右翼日和見主義に陥るだろう。
 一方で、発展の段階が思考を上回り、現実についての想像力を間違ってしまえば、エセ左翼の言葉商人の生け贄になるだろう。//
 (9)「矛盾について」の講義は、レーニンとエンゲルスからの引用の助けを借りて、「反対物の統合の法則」を説明しようとするものだ。
 「形而上学」は、「事物を、分離した、静態的で一面的なものだと見る」(同上、p.25)、そして運動または変化を外部から与えられた何かだと見なす。
 しかしながら、マルクス主義は、全ての客体は内部矛盾を内包する、それは機械的な動きも含めた全ての変化の原因だ、と断定する。
 外部的原因は変化の「条件」であるにすぎず、内部的矛盾こそがその「根拠」だ。
 「それぞれのかつ全ての差異はすでに矛盾を内包しており、差異それ自体が矛盾だ」(p.33)。
 異なる現実の領域には、それらに特徴的な矛盾があり、それらは、異なる科学分野の主な事項だ。
 我々はつねに、「全体」を感知するためにも、全ての矛盾にある個別の特質を観察しなければならない。
 ある事物は、その反対物に転化する。例えば、国民党は最初は革命的だったが、やがて反動的になった。
 世界は矛盾に充ちているが、あるものは他のものよりも重要だ。そしていかなる条件のもとでも、我々は主要な矛盾を、それから発生するその他の二次的な矛盾と見分けなければならない。-例えば、資本主義社会では、ブルジョアジーとプロレタリアートの間の矛盾。
 我々は、矛盾を解明して克服する方途を理解しなければならない。
 かくして、「マルクス主義について我々が学習する始まりのときには、マルクス主義に関する我々の無知や学習の希薄さは、マルクス主義に関する知識と矛盾している状態にある。
 しかし、学習に精励すれば、無知を知識へと、希薄な知識を実質的な知識へと転化させることができる」(p.57-p.58)。
 事物は、反対物に転化する。土地所有者は剥奪され、貧者に変わる。一方、土地なき農民は土地所有者になる。
 戦争は平和に道を譲るが、平和は再び戦争に譲る。
 「生がなければ、死もないだろう。死がなければ、生もないだろう。
 『上から』がなければ『下から』はなく、…『上から』もなく、…。
 容易さがなければ、困難さはないだろう。
 困難さがなければ、容易さはないだろう」(p.61)。
 区別は敵対する階級間のような、真反対の矛盾の間に行われなければならない。正しい党方針と間違った党方針のような、真反対ではない矛盾の間にではない。
 後者は、誤りを訂正することで解消することができる。だが、それが行われなければ、真反対の矛盾に転化する可能性がある。//
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 ②へとつづく。

2159/L・コワコフスキ著第三巻第13章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。分冊版、p.491~p.494。
 第13章・スターリンの死以降のマルクス主義の展開。
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 第5節・マルクス主義と「新左翼」②。
 (8)一般的に言って今日の状況は、マルクス主義が、その多くが相互の関わり合いのない広範囲な関心と希望の糧を提供している、ということだ。
 もちろんこのことには、対立する全ての人間の利害と考えがキリスト教の外衣を纏つてその独特の言語を用いた、そういう中世的類型の普遍主義からの、長い道程がある。
 マルクス主義という知的な装いは、一定の思想学派で用いられているにすぎない。しかし、その数はきわめて多い。
 マルクス主義のスローガンは、アフリカやアジアの多様な政治的運動によって、また国家的強制の方法で後進状態から抜け出そうとする諸国によって、頼るべきものとして求められている。
 こうした運動が採用し、または西側のプレスがそれらに適用するマルクス主義というラベルが意味するのは、それらの運動がソヴィエト同盟または中国から軍事物資を受け取っているということにすぎない。そして「社会主義」がしばしば意味するのは、国家が僭政によって支配され、政治的反対派は存立が許されない、ということだ。
 マルクス主義的な語法の断片は、多様なフェミニスト集団や、またいわゆる性的少数者によってすら、用いられている。
 マルクス主義の用語は、民主主義的な自由を守るという文脈ではほとんど適切には用いられていない。これはときどきは用いられているけれども。
 マルクス主義は、高い次元のイデオロギー的兵器たる地位を獲得した。
 世界大国としてのロシアの利益、中国ナショナリズム、フランス労働者の経済的要求、タンザニアの工業化、パレスティナのテロリストたちの活動、アメリカ合衆国での黒人人種主義。-これらは全て、マルクス主義の言葉を使って表現している。
 これらの運動や利益のいずれかに、誰も真面目にはマルクス主義「正統派」を認知することはできない。マルクスの名前はしばしば、マルクス主義は革命を起こして人民の名前で権力を奪取することを意味すると聞いた指導者たちが、頼って依拠するものになっている。こうして、マルクス主義は、彼らの理論的知識の総量になっているのだ。
 (9)疑いなく、マルクス主義イデオロギーの普遍化は、先ずはそして最も多くは、レーニン主義による。レーニン主義は、全ての現存する社会的要求と不満を一つだけの水路に向けて流し込んで、その勢いを共産党の独裁的権力を確保するために使う力がある、ということを示した。
 レーニン主義は、政治的機会主義を、理論の権威にまで高めた。
 ボルシェヴィキは、マルクス主義の「プロレタリア革命」の図式とは何ら関係がない情況で、勝利へとかけ登った。
 ボルシェヴィキは社会に現実にあった要求と願望を梃子として用いたがゆえに、勝利した。その要求や願望は、主としては民族と農民の利益だった。これらは、古典的なマルクス主義の観点からは「反動的」なものだったけれども。
 レーニンは、権力奪取を望む者は、教理上の考察などは考慮することなく、全ての危機と全ての不安の兆候を利用しなければならないことを、示した。
 全てのマルクス主義者の予見にもかかわらず、ナショナリスト感情と願望が最も力強いイデオロギーの活動形態だという情況では、「マルクス主義者たち」が、ナショナリスト運動が既存の権力構造を破壊するに十分な強さをもつときにはいつでも、それを自分たちと一体化させるのは、自然なことだ。//
 (10)しかしながら、マルクス主義の語法を用いる世界のいたるところにある多様な利益は、しばしば相互に対立し、別の観点から見ると、マルクス主義の普遍性は解体へと達する。
 ロシアと中国の両帝国の間の聖なる戦争では、どちらの側も、同等の権利をもってマルクス主義スローガンを掲げることができる。
 この状況では、スターリン死後の時代の国際共産主義運動を引き裂いた、大分裂が発生せざるをえない。
 さらには、多様な分裂はすでに1920年代に萌芽的にあった傾向を表現している。その趨勢は、スターリニズムの圧力のもとで消滅した、あるいはごく辺縁でのみ残存したのだけれども。
 この傾向が包含する諸要素は、のちに毛沢東主義になったもの(サルタン=ガリエフ〔Sultan-Galiyev〕、ロイ〔Roy〕)、共産主義改革派(今日の多様な西側諸党、とくにイタリアとスペインの共産党)、プロレタリアート独裁を行使する労働者評議会という考え、「左翼」共産主義というイデオロギー(Korsch、Pannekoek)だ。
 これらの考え方は、いくぶんは変わってはいるけれども、現在でも再現されてきている。//
 (11)最近のおよそ15年の間のマルクス主義の重要な主張は、産業の自己統治というイデオロギーだ。
 しかしながら、これの起源はマルクス主義ではなく、Proudon やBakunin が代表するアナキストやサンディカリストの伝統だ。
 労働者による工場管理という考えは、19世紀のイギリスのギルド社会主義者たちが論じたもので、マルクス主義からの影響は何もなかった。
 アナキストのような社会主義者は、当時にすでに、産業の国有化は搾取を失くすことができないだろうと気づいていた。他方でまた、個々の会社の完全な経済的自立は、その全ての帰結を伴う資本主義的競争の復活を意味するだろう、ということも。
 ゆえに彼らは、議会制民主主義と代表制産業民主主義の混合システムを提案した。
 ベルンシュタイン(Bernstein)もまた、この問題に関心をもった。そして、十月革命のあとで、ソヴィエト同盟と西側諸国の共産主義左翼反対派がいずれも、産業民主主義を求める声を挙げた。
 スターリンの死後、一つにはユーゴスラヴの実験が理由となって、この問題が復活した。
 フランスで最初に取り上げた一人は元共産党員のSerge Mallet で、<La nouvelle classe ouvrière〔新しい労働者階級〕>(1963年)の著者だ。
 彼は、産業の自立化の社会的帰結を分析して、熟練技術は労働者階級の「前衛」としてますます重要になっていると指摘した。しかし、生産の民主主義的制御の闘いを実行するという新しい意味で、この語を用いた。
 この闘争では、経済と政治の旧式の区別は消失する。
 社会主義の展望は、プロレタリアートの経済的要求によって開始される世界的な政治革命と結びついてはおらず、生産を組織する民主主義的な手段の拡大に関連している。その手段では、熟練技術をもつ賃金獲得者が本質的な役割を果たす。//
 (12)産業民主主義の可能性と展望の問題は、民主主義的社会主義では最も重要な意味をもつに至った。
 それ自体は、Marcuse やWilhelm Reich が喚起した新左翼の黙示録的夢想とは何の共通性もない。そして、歴史的にもイデオロギー的にも、マルクス主義とは別のものだ。//
 (13)スターリン死後のイデオロギー的議論の復活が生んだ副産物は、マルクス主義の歴史と理論への関心が増大したことだった。これは、アカデミズムでの関係文献の多さで示されている。
 1950年代と1960年代には、きわめて広範囲の著者たちによって、有益な著作が書かれた。 
 その中には、つぎの者たちが含まれる。
 鮮明なマルクス主義反対者(Bertram Wollfe、Zbignew Jordan、Gustav Wetter、Jean Calvez、Eugene Kamenka、Inocenty Bochenski、John Plamenatz、Robert Tucker)。
 および、マルクス主義に批判的かつ好意的な者(Iring Fetscher、Shlomo Avieri、M. Rubel、Lucio Colleti、George Lichtheim、David McLellan)。
 そして、あれこれの学派の正統派マルクス主義という少数グループ(Auguste Cornu、Ernst Mandel)。
 多数の研究書は、マルクス主義の起源、とくにその教理の側面でのそれ、を対象にしていた。
 レーニン、レーニン主義、ローザ・ルクセンブルク、トロツキー、そしてスターリンに関する文献が豊富にある。
 Korsch のような初期の世代のマルクス主義者のうちのある程度は、忘我の状態から救われた。ある程度は、再び登場した。
 マルクスのヘーゲルとの関係、マルクス主義のレーニン主義との関係、「自然弁証法」、「マルクス主義倫理」の可能性、歴史的決定論や価値の理論、に関する論争があった。
 マルクスの初期の理論-疎外、物象化、実践-にかかわる主題は、論議の対象であり続けた。
 マルクス主義に直接にまたは間接に関係する著作の多さは、この数年間に、飽き飽きするほどと感じられる程度にまでなっている。//
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 第5節終わり。つぎの最終節、第6節の表題は、<毛沢東の農民マルクス主義>。

2145/L・コワコフスキ著第三巻第13章第4節②-フランス。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。最後の段落の前に一行の空白がある。「むすび」または「小括」のごとくだが、内容的にはこの節に限らず、<修正主義>一般に関するもののように見える。
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 第4節・フランスでの修正主義と正統派②。
 (7)パリの流行が実存主義から構築主義へと変化した1960年代の後半、関心は、マルクス主義の完全に異なる解釈に向けられた。それは、フランスのマルクス主義者、L・Althusser 〔ルイ・アルチュセール〕が提示したものだった。
 構造主義が人気を得た理由の一つは、言語学の方法として始められたからだ。言語学は多少とも正確に「法則」を進化させ得る唯一の人文系学問分野だと見なされた。
 「科学的」地位は別の人文学分野へと移るだろうとの望みは、今では抱かれている。しかし、それ以来、この点の展開は物足りないままだ。
 Lévi-Strauss 〔レヴィ-ストロース〕 は、人文学への構造主義的、非歴史的接近方法の、フランスの最初の主張者だった。そして、個人にはほとんど関心を向けず、原始社会の神話にある符号(signs)システムの分析に集中した。
 そのシステムの「構造」は、誰かによって意識的に考案されたのでも、使用者の心に現れるものでもないが、科学的観察者は発見することができる。
 Althusser は二つの連作著書で-<マルクスのために>(1965年)と<資本論を読む>(1966年、E. Balibar と共著)-、マルクス主義は、人間の主体性と歴史的継続性が意識的に排除される、構造主義的考察方法を提供することができることを、示そうとした。
 彼はその攻撃の矛先を「ヒューマニズム」、「歴史主義」および「経験主義」に向け、マルクスの知的な発展は1845年の<ドイツ・イデオロギー>で明確に中断した、と主張した。
 マルクスはそれ以前はヘーゲルとフォイエルバッハにまだ囚われていて、具体的な人間個人を想定して世界を(疎外のような)「ヒューマニズム」や「歴史主義」の範疇によって叙述した。しかしながら、のちにはこうしたイデオロギー的接近方法を放棄し、厳密に科学的な理論を進展させた。それだけが、純粋なマルクス主義だ(なぜ以前のマルクスよりものつのマルクスの方が純粋なのか、Althusser は説明しない)。
 <資本論>で最も十分に深められ、その方法が<綱要(Grundrisse)>への序文で設定されているこのマルクス主義は、歴史過程は人間主体の行動という観点から叙述することができるという考えを拒否する。
 Althusser によれば、全ての科学的著作と同じく、<資本論>の主題は現実にある実体ではなく、その全要素が全体に依存する、理論上の構築物だ。
 歴史的唯物論で最重要なのは、他者に依存する歴史的現実の諸側面を確かめることではなく、諸側面のいずれもが全体に依存している、ということだ(これは、この論脈でAlthusser は言及していない、ルカチの考えだ)。 
 しかしながら、全ての領域にはそれに固有の変化のリズムがある。全てが均等に発展するのではなく、どの時点をとっても、進展の異なる段階にある。
 Althusser は「イデオロギー」や「科学」について、実証主義者たちが言っただろうような真実の「外部的」標識に科学は拘束されないとたんに述べるだけで、定義することがない。そうではなく、自分の「理論的実践」のうちに自分自身の「科学性」を創造する。
 このようにして科学は何で成り立つかという問題を片付けたうえで、マルクスの資本主義社会の分析は人間主体にではなく生産関係と関連している、と明確に述べる。その生産関係が、それに関与する人々の活動を決定するのだ。
 (看取し得るように、<資本論> は資本の運動が決定する作用をたんに具現化したものとして個人を扱っているというのは本当だが、このことは、資本が実際には個人を富または労働力の単位に変化させるという、マルクスの初期の観察を繰り返したものにすぎない。この変化が共産主義が廃棄を約束する、「非人間化」という効果だ。)
 我々はかくして、普遍的な方法的規準ではなく、交換価値という反人間的な性質に対する批判について、論述しなければならない。//
 (8)さて、考察の対象は、(この本でしばしば用いられるが、どこにも説明がない言葉である)「構造」(structure)であり、個人的な人間の諸要素ではない。
 Althusser は、「ヒューマニズム」という語で、つぎのものを意味させているようだ。歴史的過程を個人の行為に還元する理論、多数の例を通じて複合的になる同一の種たる本性を人間個人のうちに認める理論、あるいは、歴史的変化を絶対的「法則」ではなく個人の必要性の観点から説明する理論。
 「歴史主義」(これもAlthusser は説明しない語だが)はどうやら全ての態様の文化を論じることにあると考えられている。またとくに科学は、歴史的条件の変化と相関的なものとしてグラムシのように理解されているようだ。そして、科学の特別の権威と「客観性」を矮小化している。
 しかしながら、真のマルクス主義では、科学は「上部構造」の一部ではない。
 科学はそれ自体の規準をもち、進展する。科学は、客観的な観念的全体を構成するのであり、階級意識を「表現するもの」ではない。
 こうしてレーニンは正しく、外部から労働者階級の運動に注入されなければならず、階級闘争の要素または産物として発現することはあり得ない、と言った。
 なぜならば、社会生活の異なる諸側面は不均等に発展し(これはAlthusser が毛沢東に見出せると主張する点だ)、全てが同一の<時代精神〔Zeitgeist〕>を同じように表現するわけではない、というのがきわめて重要なことなのだ。
 どの諸側面も相対的には自立しており、革命にまで至る社会的「矛盾」はつねに、この「不均衡性」から生じる対立の産物だ。
 この最後の現象に、Althusser は「超(super-)決定」という名称を与える。そしておそらくはこの語によって、個々の現象は現存する条件の複合体(例、資本主義)からのみならず、当該の生活局面の、発展しているリズムによっても決定される、ということを意味させる。
 こうして例えば、科学の状態は社会状況全体はもとよりそれまでの科学の歴史に依存しており、同じことは絵画等々についても言える。
 上に紹介したようなことは、きわめて無邪気な結論だと思われる。「上部構造の相対的な自立性」に関するエンゲルスの言明を繰り返したものだ。
 Althusser はときおり、再びエンゲルスに従って、「超決定」にもかかわらず状況はつねに「究極的には」生産関係によって支配される、と述べる。しかし、エンゲルスの曖昧な言明をより明確にする何かを付け加えることがない。
 結論は要するにこうだ。個々の文化現象は一般に多様な状況に依存する。その中には、その一部となっている生活諸側面の歴史や社会関係の現在の状態が含まれる。
 このような明確な真実の、いったいどこが「科学的」なのか、何ゆえにマルクス主義の革命的発見なのか、あるいは、将来の予言は勿論のこと、どのようにして個々の特定の事実を説明する助けになるのか、について、何も語ってくれない。
 Althusser はまた、発展段階が同一か否かを示すために、例えば彫刻と政治理論といった二つの異なる分野でどのように比較することができるのかを、説明もしない。
 彫刻の分野のいかなる条件が「生産関係」のある所与の状態に対応しているかを歴史的法則から帰結させることができる、という想定のもとでのみ、これを行うことができる。
 しかし、このような推論をする方法について、Althusser は何ら提示しない。
 (党指導者はこれを行うことができるという想念は、現在の社会的意識が生産関係よりも「遅れている」がゆえにイデオロギー的迫害が正当化されると考えられている共産主義諸国では、決まってきわめて好都合だ。
 これが意味するのは、支配者は、どのような意識が「土台」と合致するためには必要なのかを知っている、ということだ。)
 (9)のちにAlthusser は、こう考えるに至った。ヒューマニズム、歴史主義およびヘーゲル主義の遺憾な痕跡が<資本論>の中にもなお見出し得るので、1845年頃のマルクスの見方の認識論的転回点は、考えていたほどには明瞭に画することができない、と。
 <ゴータ綱領批判>として知られる二つだけのマルクスの文章と政治経済学に関するAdolph Wagner の本の縁にあった若干の記述には、イデオロギー的な歪みが全くなかった。
 我々は、この点で、マルクス主義はマルクスの時代からきちんと存在したのか、あるいはAlthusser が考案する余地がなおあったのか、と不思議に思うことから出発することができる。
 (10)とくに1960年代後半でのAlthusser の見方が著名であるのは、彼の本は何らかの政治的結論に至ってはいないので、政治の問題ではない。
 もっと重要な点は、彼はマルクス主義者たちの間にある、実存主義、現象学論、あるいはキリスト教よりも進もうとする傾向に反対した、ということだ。そうして彼らは、自分たち自身の哲学を薄弱にし、独自性をなくしている、と。
 Althusser は、イデオロギー的「統合主義」を支持し、マルクス主義は自己充足的な教理であって100パーセント科学的で、外部からの助けを何ら必要としない、と保障する立場に立った。
 (科学という「神話」は、マルクス主義者のプロパガンダですさまじい役割をつねに果たしてきた。Althusser は、自分がいかに科学的であるかを、そして他の多数のマルクス主義者も同様であると、と繰り返して宣言する。これは本当の科学者の習癖ではないし、人文学者のそれでもない。)
 いくつかの新語法は別とすれば、Althusser は、理論に対する新しい貢献を何ら行わなかった。
 彼の著作は、たんにイデオロギー的厳格性と教理上の排他性へ立ち戻る試みにすぎなかった。マルクス主義を他の思考方法による汚染から守ることができる、という信念への回帰だ。
 この観点から言えば、古い様式のマルクス主義の偏屈さへの回帰だ。だが同時に、スターリン後の「雪解け」の結果として始まった、全く反対の過程を証言するものでもある。
 第一次大戦前にはちょうど同じように、当時の知的な流行にマルクス主義が「感染」してしまって、ネオ・カント的マルクス主義、アナクロ・マルクス主義、マルクス主義的ダーウィニズム、経験批判的マルクス主義等々、のような現象が生まれた。
 同じように、この20年間のマルクス主義者たちは、絶望的にも長い間の孤立を埋め合わせようとして、既成の、または人気ある哲学に頼った。そして今、ヘーゲル主義を加減したマルクス主義、実存主義、キリスト教、あるいはAlthusser の場合に見られるように、構造主義、がある。
 構造主義が人気のある別の原因は、1950年代遅くの人文科学でそれ自体が感じたことだろうが、離れた学問対象だったことにある。ここではこの点に立ち入ることはしない。
 <一行あけ>
 (0)これまで論述してきた修正主義は、スターリン後にマルクス主義が解体していくいくつかの兆候の一つにすぎない。
 これがもった重要性は、その批判的態度でもって、共産主義諸国でのイデオロギー的忠誠が減退することに、また、公式の共産主義の道徳的貧困さはもとより知的な貧困さをも暴露することに、大きく寄与した、ということにある。
 修正主義は同時に、マルクス主義の伝統にある軽視されてきた側面に注意を惹いた。そして、歴史研究に一定の衝撃を与えた。
 通用力をそれが与えた価値や主張は決して消滅しておらず、共産主義諸国の民主主義的反対派で依然として顕著だ。だが、とくに修正主義の論脈でつねに語られているわけではない。
 言ってみれば、共産主義僭政体制に対する批判は、ますます稀にしか行われず、ますます効果が少なくなっている。その際に用いられる言葉は、「共産主義を悪用から浄化する」、「マルクス主義を改革する」、「根源へと立ち戻る」だ。
 僭政体制と闘うことは、つまるところは、それはマルクスまたはレーニンの思想と反対だと証明することでは必ずしもない(そしてレーニンの場合は、彼との矛盾をすっかり証明するのはとくに困難だ)。
 このような議論は、1950年代の特定の状況のもとでは適切だった。しかし、今ではそう論じる意味が相当になくなった。
 哲学についても同様に、「歴史的法則」または「反射の理論」に対抗しての人間の主体性の擁護は、マルクス主義の権威にもとづく必要はないし、それなくして十分に行うことができる。
 このような意味で、修正主義は、現実的な論争点ではかなりなくなってきた。
 しかし、このことによって、その思想や批判的分析のいくつかがもつ永続的な価値が、何らかの影響を受けるわけでは全くない。//
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 第4節、終わり。つづく第5節の表題は、<マルクス主義と「新左翼」>。

2105/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節⑤。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、本文p.530までのうち、p.469-p.474。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義⑤。
 (33)1968年8月のソヴィエトによる占領とそれに続いた大量抑圧は、チェコスロヴァキアの知識人たちや文化生活にほとんど完璧に息苦しい影響を与えた。他の同ブロック諸国と比べてすら、さらに気の滅入るがごとき様相だった。
 他方で、厳密にいえばチェコスロヴァキアでの改革運動が解体しておらず軍隊の実力行使によって抑圧されたことが理由なのだが、この国には修正主義の基本的考え方のための、なおも肥沃な土壌があった。
 つぎのように想像され得るかもしれない。すなわち、ソヴィエトの侵攻が起こらなければ、改革運動がドゥプチェク(Alexander Dubček)のもとで始まり、大多数の民衆に支持されて、システムの基盤を揺るがすことなく「人間の顔をした社会主義」に最終的には到達しただろう、と。
 この考えはもちろん考察に値するし、その考察は何を基礎的なものと見なすかにかかっているだろう。
 しかしながら、明確だと思われるのは、かりに改革運動が継続してポーランドのように侵攻によって弾圧されることもなく、侵攻を怖れて解体することもなかったとすれば、必ずやすみやかに多元的政党制度をもたらし、そうして、共産党独裁を破壊し、その教理自体が自己欺瞞的である共産主義を解体させただろう、ということだ。//
 (34)抑圧制度が一般的には他諸国よりも完全だった東ドイツでは、修正主義の広がりは全くなかった。それでもしかし、1956年の事件は東ドイツを揺るがせた。
 哲学者であり文学批評家であるWolfgang Harich は、ドイツ社会主義の民主主義的な綱領を提示した。それによって彼は、数年間、収監された。
 何人かの著名なマルクス主義知識人たちは、国を去った(Ernst Bloch、Hans Mayer、Alfred Kantrowicz)。
 現在もそうであるように、思想の厳格な統制によって、修正主義を主張するのはきわめて困難だった。しかし、ときたま、改革主義者の見解が聞こえてきた。
 哲学の分野では、この文脈で最も重要な人物は、Robert Havemann だった。哲学の問題に関心をもつ物理化学の教授で、他の多くの修正主義者とは異なり、ずっと確信的マルクス主義者のままだった。
 むろん西ドイツで出版された小論集で、彼は、科学と哲学での党の独裁を、そして理論上の諸問題を官僚的な布令でもって決定するという習慣を、鋭く批判した。
 加えて、弁証法的唯物論という教理、および共産主義者の道徳性に関する公式的規範を攻撃した。
 しかしながら、彼は、実証主義の観点からマルクス主義を批判したのではなく、逆に、弁証法がもっと「ヘーゲル主義化した」範型に回帰することを望んだ。
 彼は、レーニン主義的な決定論の範型は道徳的に危険で現代物理学と合致していない、と考えた。
ヘーゲルとエンゲルスに従って、たんなる描写にすぎないのではない、論理関係を含む現実性の見方である弁証法を想定(postulate)した。
 彼はこうしてBloch のように、弁証法的唯物論の術語の範囲内で、目的主義(finalistic)の態度を正当化しようとした。
 スターリン主義者による文化の隷従化を非難し、機械主義論の教理での自由の哲学上の否定を宣言した。機械主義的教理は、マルクス主義からは、共産主義のもとでの文化的自由の破壊と軌を一にすると見られていた。
 彼は、哲学上の範疇であり政治的な価値であるものとして「自発性」の再生を呼び求めた。しかし同時に、弁証法的唯物論と共産主義への忠誠心も強調した。
 Havemann の哲学上の著作は、化学者から期待するほどには厳密ではない。//
 (35)ソヴィエト連邦の哲学には、語り得るほどの修正主義は存在しなかった。しかし、若干の経済学者たちは、経営と分配の合理化を意図する改革を提案した。
 公式のソヴィエト哲学は、脱スターリン主義化の影響をほとんど受けなかった。一方で、非公式の変種的考えはすみやかにマルクス主義との関係を失った。
 公式の哲学で起きた原理的な変化は、弁証法的唯物論の諸公式はもはやスターリンの小冊子に正確に倣って教育することはできない、ということだった。
 1958年に刊行された教科書は、四つではなく三つの弁証法的法則を区別して、エンゲルスに従っていた(否定の否定を含む)。
 唯物論がまず解説され、その次が弁証法だった。これは、スターリンによる順序の逆だ。
 レーニンの<哲学ノート>で挙げられた弁証法の数十ほどの「範疇」は、新たに編成された定式の基礎となった。
 ソヴィエトの哲学者たちは、「形式論理に対する弁証法の関係」という昔ながらの主題について若干の討議を行なった。その多数見解は、主体・物質関係が異なるようには両者は対立しない、というものだった。
 ある者はまた、「矛盾」は現実性そのものの中で発生し得るという理論に挑戦した。
 ヘーゲルは、「フランス革命に対する貴族的反動」の化身だとされなくなった。
 それ以来、ヘーゲルの「限界」と「長所」について語るのが、正しい(correct)ことになった。//
 (36)こうした非本質的で表面的な変化の全ては、レーニン=スターリン主義的「弁証法的唯物論(diamat)」の構造をいささかも侵害しなかった。
 それにもかかわらず、ソヴィエト哲学は、他分野よりも少ない程度にだが、脱スターリニズム化から若干の利益を享けた。
 若い世代が舞台に登場してきて、自然なかたちで、西側の哲学と論理の考察、外国語の学修、そして非マルクス主義的なロシアの伝統の探究すら、を始め出した。-スターリンによる粛清を免れた数少ない残存者を除いて、能力のある教育者がほとんどいなかったのが理由だ。
 スターリンの死後5年間、若い哲学者たちはアングロ=サクソンの実証主義と分析学派にもっとも惹かれた。
 論理への対処法は、より合理的になり、政治的な統制により従属しなくなった。
 1960年代に出版された計5巻の<哲学百科>は、全体としては、スターリン時代の産物よりもましだった。つまり、主要なイデオロギー的論考、とくにマルクス主義に論及する論考は従前と同じ水準にあったが、論理や哲学史に関係する多数の論考が見られた。それらは理知的に執筆されており、国家プロパガンダに添って叙述されたにすぎないのではなかった。
 ヨーロッパやアメリカの思想と新たに接触しようとする若い哲学者たちの努力のおかげで、若干の現代的著作が、西側の言語から翻訳された。
 マルクス主義をおずおずと警戒しながら「現代化」する試みは、しばらくの間、1958年に出版され始めた<哲学(Philosophical Science(Filosofskie Nauki))>に感知することができた。
 しかしながら、公表されたものは、全体としては、発生していた精神的(mental)な変化を反映していなかった。
 スターリン時代に訓練を受けた辺境者たちは、若者たちのいずれが出版や大学での教育を許容されるのかに関する決定を行い続けた。そして、当然ながら、自分たちに合うものを好んだ。
 しかしながら、若い学歴の高い哲学者たちの何人かは、統制がさほど厳格ではない他の分野で自分の見解を表現する方法を見出した。//
 (37)しかし、全体としては、共産主義によって最初に破壊された学問分野である哲学は、再生するのが最も遅い分野でもあり、その成果は極端に乏しかった。
 他の研究分野は、元々は「スターリンによる」ものだった順序とは反対の順序で多かれ少なかれ回復した。
 独裁者の死から数年内に、自然科学は、事実上はイデオロギーによって規整されなくなった。但し、研究主題の選択は、従来どおりに厳格に統制され続けた。
 物理学、化学、および医学や生物学の分野では、国家は物質的な資源を提供し、用いられる目的を決定している。しかし、それらの成果はマルクス主義の観点から正統派(orthodox)のものでなければならないとは、もはや主張していない。
 歴史学は依然として厳格に統制されているが、政治的な微妙さがより少ない領域であるほど、規制に服することが少ない。
 しばらくの年月の間は、理論言語学は比較的に自由で、ロシアの形式主義学派の伝統を復活させた。しかし、この分野にも国家は研究機関を閉鎖することによってときおり介入し、多彩な非正統派の思想のはけ口として利用され続けていることを知らしめてきている。 しかしながら、1955年から1965年までの期間は、全体としては、荒廃した年月の後でのロシア文化を再生させようとする、かなりの程度の、かつしばしば成果のあった努力の時代の一つだった。
このことは、歴史編纂や哲学のほか、文学、絵画、劇作および映像について言える。
 1960年代の後半には、個人や研究機関を疑っての圧力が再び増大した。
 東ヨーロッパの状況とは違って、ソヴィエト同盟でのマルクス主義は、蘇生の兆候をほとんど示さなかった。
 とくにおよそ1965年以降に勢いづいている秘密のまたは内々のイデオロギー的展開の中には、マルクス主義的な動向をほとんど感知することができない。その代わりに見出すこができるのは(多くは「マルクス主義のないボルシェヴィズム」と称し得る形態での)大ロシア民族排外主義(chauvism)、抑圧された非ロシア民衆の民族的要求、宗教(とくに正教、広義のキリスト教、仏教)、および伝統的な民主主義的思想だ。
 マルクス主義またはレーニン主義は一般的反対派の小さな分派を占めるにすぎない。しかし、それは、現存する。その著名なソヴィエトの代弁者は、Roy とZhores のMedvedyev 兄弟だ。
 歴史家であるRoy Medvedyev は、スターリニズムの一般的分析を大々的に行ったことを含めて、いくつかの価値ある著書の執筆者だ。
 この分析書は他の出所からは知ることのできない多くの情報を含んでおり、確かに、スターリニズム体制の恐怖を言い繕う試みだと見なすことはできない。
 にもかかわらず、この著者の他書のように、レーニニズムとスターリニズムの間には大きな亀裂があり、社会主義社会のためのレーニンの企図はスターリン僭政によって完全に歪曲され、変形された、という見方にもとづいている。
 (この書のこれまでの章の叙述から明確だろうように、この書の執筆者は正反対の見方をしている。)//
 (38)最近の20年間、ソヴィエト同盟のイデオロギー状況は、多くの点で他の社会主義諸国で生じたのと同じ変化を経験してきている。
 マルクス主義は、一つの教理としては、実際には死に絶えている。しかし、マルクス主義は、ソヴィエト帝国主義、および抑圧、搾取と特権の国内政策全体を正当化するという、有益な機能を提供している。
 東ヨーロッパでと同様に、支配者たちは、かりに人民と共通する基盤を見出すのを欲するとすれば、共産主義以外のイデオロギー上の価値に頼らなければならない。
 ソヴィエトの民衆たち自身に関するかぎりでは、問題となる価値は、民族排外主義や帝国主義の栄誉だ。一方で、ソヴィエト同盟の全ての民衆は、外国人恐怖症に、とくに反中国民族主義や反ユダヤ主義に、陥りやすい。
 これこそが、言われるところのマルクス主義諸原理にもとづいて構成された世界で最初の国家に残された、マルクス主義の遺産の全てだ。
 この、民族主義的で、ある程度は人種主義的な見地は、ソヴィエト国家の本当の、公言されないイデオロギーだ。それは、暗示や印刷されない文章によって保護されているのではなく、それらによって吹き込まれている。
 そして、これはマルクス主義とは異なり、民衆の感情の中に、現実的な反響を呼び覚ましている。//
 (39)マルクス主義が完全に衰退し、社会主義思想が信頼を失い、そして勝利した社会主義諸国でと同じく嘲弄物(ridicule)に変わった、そのような文化的な世界のかけらは、たぶん存在しない。
 矛盾する怖れをもつことなく、次のように言うことができる。思想の自由がソヴィエト・ブロックで許容されていたとすれば、マルクス主義は、全地域での知的生活のうちの最も魅力がないものだということが判明しただろう、と。
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 第2節、終わり。第3節の表題は、<ユーゴスラヴィア修正主義>。

2018/池田信夫のブログ011-identity①。

 池田信夫のブログ検索欄で「アイデンティティ」を探して見ると、数十件も出てきたので驚いた。 
 NHKについて、「公共放送なのか有料放送なのかというアイデンティティをはっきりしないまま…」(2008年8月8日)。
 最も新しいのは、「ユダヤ人というアイデンティティ…」(2019年2月17日)。
 日本語としてのこれに言及してこうある。2019年1月17日付より。
 -「2010年代の政治の特徴はidentity が前面に出てきたことだが、これは日本人にはわかりにくい。
 そもそも日本語には、これに対応する言葉さえない。
 1万年以上前から、地理的にも文化的にも自然なアイデンティティをもつ日本人は『私たちは何者か』と問う必要もないからだ。」
 この指摘にもあるように、identity をどう「訳す」か自体が、日本語を用いる日本人にはむつかしいところがある。
  「1万年以上前から、地理的にも文化的にも自然なアイデンティティをもつ日本人は『私たちは何者か』と問う必要もない」という一文自体もきわめて興味深く、含蓄が多いと思われる。素朴な(そして健全な範囲にある)民族意識、ナショナリズムを日本人はふつうに有している(と思われる)ので、日本会議という政治運動団体のように、これを「皇室を戴く」という点を結合させたうえで狂熱的に煽るのはむしろ異常だと感じる。だが、今回はこの点に触れない。
 identity はこの欄での試訳作業でもよく出てくる。最近も多いが、かつてS・フィツパトリクはその<ロシア革命史>叙述の中で、レーニン時代の人たちの「アイデンティティ」は職業だったか出身階層だったかとかいう問題に関心を示していた(この欄に既出)。
 さらに論理的に遡ると、対応する・該当する言葉自体がない、という意味では、レーニンがボルシェヴィキ党の中で占める地位の名称(中央委員会「委員長」?)や1917年新設のソヴナルコム(人民委員会議)で占める地位の名称(首相?、議長?)がはっきりしない、ということも興味深かった。
 「トップ」であることが当然視されていると、特別の言葉は必要なかったのだろう。
 人民委員会議の構成委員だった最初の外務人民委員のトロツキーには、外務人民委員あるいは「外務大臣」という呼称があった。
 元に戻ると、identity とは一体性、同一性、自己帰属性、自己認識等と種々に訳出することが可能で、identification という名詞もある。。
 一方、identify という動詞は当然に上にかかわる意味も持つが、<見分ける>、<見極める>、と訳出することのできる場合がある。
 (ときには主体自身も含めて)対象物は何であるかを明瞭に認識する、という意味だが、その場合にはその対象物の他者の何かとの同一性あるいは同一視可能性を肯定することによって対象物を明瞭に認識する(見分ける、見極める)という認識の過程?の意味が包含されているので、上のようなidentity の訳と矛盾しているわけではない。
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 さて、我々は、あるいは現在の日本人は、どのようなidentity をもつのだろうか。
 上に出てきた、「日本人」は除く。ヒトとしては最も基礎的なidentity かと思われる<男か女か、オスかメスか>も除く。また、他の生物、すなわち脊椎動物、哺乳類等々と区別されるヒト、というidentity (これもあり得るだろう)も、論外とする。
 前近代と近代を分かつ標語的なものとして、かつて<身分から契約へ>を語った人がいた。
 各人間がしぱしば世襲の<身分(・地位)>に束縛されていた、またはそれによって予め決定されていた時代から、本人自身の「意思」または<契約>、つまり自分の「自由意思」または原理的には対等当事者相互の「自由意思」の合致でもって自分自身の行動を決定することができる時代への大きな変化だ。
 いつから日本は「近代」に入ったのか。こう思弁的に?議論してもたいした意味はない。いわゆる「明治維新」後の時代に一気に「近代」になってしまったのでもなさそうだ。
 「日本」よりも(いやその「日本国民」意識は大いに形成されていったのだが)、薩摩、長州、土佐、会津、等々の「旧藩」ないし新しい地域の<出自>意識は各人において相当にまだ強かったのではないだろうか。
 大正時代になっても、当時の皇太子(昭和天皇)の婚約・婚姻をめぐって旧「薩摩」への対抗意識から「宮中某重大事件」が生じたとの風聞(と強調しておく)があったくらいだから、政権中枢?の中ですら、薩長の対抗意識はたぶんまだあったわけだ。
 それに戦前にはまだ、士族・平民等の区別が公式にあった。
 華族も含めて、まだ「身分」意識はある程度は残っていただろう。
 戦後の日本国憲法施行や改正新民法(但し、民法典のうち<家族法(親族法・相続法)>部分)によって、皇族以外の国民はみな「平等」となり、ほとんど<身分>意識は喪失したように思われる。
 自分はどの<身分>にあるのかは、旧皇族または旧士族の人々には「かつての」ことの記憶・意識としてまだ残ってはいそうだが、政治的・社会的にこれによる差違が生じるわけではない。
 日本国憲法14条は、「社会的身分又は門地によ」る「政治的、経済的又は社会的関係にお」ける「差別」を禁じている。これと符合して、戦後の「家族」法制は存続してきた。
 ところで、いつか書こうと思っていたので脱線するが、日本国憲法「無効」論者の無知・論理的一貫性の欠如は、上のことにも関係する。
 すなわち、昭和天皇はGHQにダマされたのだ(渡部昇一)等々の種々の理由で日本国憲法は「無効」だとする、あるいは<原理的には否定されるべきものだ>とする者たちは、現憲法と同時に、現憲法と一体のものとして制定・改正され施行された多数の法律もまた「無効」(原理的否定)と主張しないと、まったく一貫性がないのだ。
 多くの人が、戦前と戦後の大きな違いは「家族」(・相続)制度にあるという意識を持っているだろう。もはや「戸主」はなく成年男女の婚姻に親の「同意」は不要だ。
 日本国憲法は「無効」だ(少なくともいったん大日本帝国憲法を復活させるべきだ)と喚いていた(いる)人々には、では民法・家族法部分も戦前体制に(いったん)戻すのか?と問い糾さなければならないだろう。
 民法の中の「家族」法制だけではない。
 国会法、内閣法、裁判所法、地方自治法、(学校教育制度の基本である)学校教育法や地方教育行政の組織及び運営に関する法律、等々の多数の諸<法律>が新憲法と同時に施行されて、戦後の日本を形成してきた。
 上に挙げた諸法律だけでも、戦後日本にとってきわめて根幹的なものだ。
 要するに、「憲法」だけを問題にするのは一貫していないし、かつほとんど無意味なのだ。
 <美しい日本の憲法>に憲法改正したいらしい田久保忠衛らは、上に書いた意味が理解できるだろうか?
 元に戻る。では、戦後の日本人は、<身分>ではなく、どのような自らのアイデンティティ感覚を有しているのだろうか。
 つまり、自己認識規準、自己が帰属する集団意識、他者との同一性・類似性を意識する要素、といったものを、無意識にせよ、自覚的にせよ、どう考えているのだろうか。
 この点にもすこぶる「戦後日本」的な、または「日本人」的なものがあるのではないかと思っている。つづける。

1996/池田信夫のブログ008-マルクス。

 池田信夫ブログ2019年6月26日/7月1日「共産党の時代がやって来た」。
 最後に「意外に共産党の時代が来るかもしれない」とは、冗談がきつい。
 池田はマルクス主義の歴史をよく知っているらしい。今回も、こんな文章がある。
 ・「マルクスは国有化を否定したが、その後の社会主義では『生産手段の国有化』が最大のスローガンだった」。
 ・「マルクスが『プロレタリア独裁』を主張したのは戦術論であり、レーニンが暴力革命を起こしたのは、労働者階級の存在しないロシアでは、それ以外に政権をとる手段がなかったからだ」。
 ・マルクスは「未来の共産主義社会では、生産を管理するのは簿記のような機械的な仕事になると考えた」(→人工知能→共産党でも)。
 いくらでも議論ができそうな気がするが、ともあれ、池田信夫はマルクスに「若い頃に影響を受けた」とこの数年以内にどこかで明記していた。
 そして印象としては、マルクスだけは守りたい、または少なくともマルクスだけは全面的には否定したくない、という気分を持っていることが分かる。
 マルクスと資本論に関する著書もあるくらいだから、私などよりはるかにマルクスを読んでいる(読んだ)に違いない。
 しかし、マルクスと解体した「ソ連」またはマルクス・レーニン・スターリンの「関連」を冷静に、かつ多面的に論じるのは困難だし、<現実政治>または日本共産党の存在のもとでの日本での議論・検討がいかほどに学問的に?きちんと行われたかは、はなはだ疑わしい。
 秋月もまた、単純にマルクス=レーニン=スターリンと等号化できないことは当然のこととして理解できる。
 「マルクス=レーニン主義」というのはスターリンによる、その「真」の継承者として自分を正当化するための造語だった。上の三者のうちの最大の断絶はマルクスとレーニン・スターリンの間にあるだろう。日本共産党・不破哲三らが同意するはずはないが、後者は<レーニン・スターリン主義>または<ボルシェヴィズム>または<ロシア共産主義>と一括することができる。
 つい最近に試訳した1975年論考=<スターリニズムのマルクス主義的根源>でも、L・コワコフスキはスターリン時代に定式化された以上にマルクスの思想は「豊かで、繊細で、詳細だ」ということを認めている。
 また、その大著の中には、<レーニン主義はマルクス主義に関する可能な「解釈」の一つ>だと明記されていて、レーニン(・スターリン)の「責任」は全てマルクスに起因する、などとは書かれていない。
 L・コワコフスキほどに慎重で、注意深い、冷静な見方をする人物は稀少だろう。
 そして一方で、彼は、スターリニズムの「根源」はマルクスにある、レーニンもスターリンも決してマルクス主義を「歪曲」し、それから「逸脱」したのではない、決して「反マルクス主義」ではないと熱心に説く。
 彼によると、<真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定>という等式には、「非マルクス主義のものは何もない」。
 あるいは、「マルクス主義の歴史哲学」は、「本質的に歪曲される」ことなくその「解釈」を通じて、スターリニズムに「イデオロギー上の武器」を与えた。
 150年ほど前のマルクス(・エンゲルス)の書いたことと、レーニンの書いたこと・したこと、スターリンの書いたこと・したことの「関連」を、単純に語れるはずがない。単純な原因・結果の関係ではない。
 思想、政治綱領、個別政策方針、さまざまの次元がある。<イデオロギー>が全てを決定したわけではないが、<マルクス主義>が全く無関係だったわけではなく、レーニンもスターリン(のイデオロギーと現実政治)も<その数ある延長線上にあったものの一つ>だと見ることも全く不可能ではない。
 これは、歴史の見方に関連する。ある観念・主張(例えばマルクス主義)があったとして、その後の進展はそれの<必然>か、無関係の<偶然>か。
 これがL・コワコフスキが1975年の小論考で最後に触れていた点だ。
 ***
 そして、<必然>か、無関係の<偶然>かは、社会・歴史のみならず、個々人・ヒトの一生についても語りうる基本要素だ。
 ①遺伝(生物的必然)、②環境(生育中の影響)、③本人の<自由な意思>。
 マルクス主義に魅力があるのは、こうしたことをも考えさせ、適切だったかは別として、人間の、とくに青年期の男女たちに<生き方>に関する観念を与え、若者に特有の(幼くて単純な)<理想>に訴えかけたことにあるだろう。

1989/宮地健一による稲子恒夫。

 ロシア革命(とくにネップ)や日本共産党の詳細な主張・歴史認識に関心をもったのはとりわけ2016年になって以降だったように思う(むろんそれまで江崎道朗のレベルで全くの無知だったわけではない)。
 早々に入手したのは、古書でも安価ではなかったと思うが、以下だった。
 稲子恒夫編・ロシアの20世紀-年表・資料・分析(東洋書店、2007)。
 本文から事項索引まで、計1069頁。別に、はしがき・目次で計15頁。
 「編」となっているが、稲子以外の執筆者はいない。
 稲子恒夫、1927~2011。名古屋大学法学部教授、同大学名誉教授。
なお、レシェク・コワコフスキ、1927~2009。
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 <宮地健一のHP>の中に、稲子恒夫に関する以下の記述がある。宮地によるものだと思われる。**(1)と**の間は、「」を付けないが、引用。但し、一部に下線を付し、全角数字は半角に改め、一文ごとに改行した。**(1)と**(2) がある/この区分けは秋月による。
 **(1)
 稲子恒夫名古屋大学法学部教授は、著名なソ連法学研究者で学者党員だった。
 ソ連崩壊前、彼は、ソ連体制・レーニン賛美党員で有名だった。
 しかし、ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」などに直接接し、愕然とした。
 彼は、ある時、水田洋名古屋大学名誉教授に会って、『私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた』と告白した。
 その会話内容を私(宮地)は、水田教授からじかに聞いた。
 その後、稲子名誉教授は、脳梗塞の後遺症にもかかわらず、1991年ソ連崩壊後に発掘・公表された大量の極秘資料を収集・分析し、下記『ロシアの20世紀』(東洋書房、2007年4月、1069頁)を、70歳・1998年から80歳・2007年にわたり、10年間掛けて完成させた。
 私(宮地)が別件の大須事件取材で、稲子宅を訪問した時点も、彼は1069頁のすべてを自分でパソコンに入力している最中だと語った。
 彼は、出版後の2011年8月に死去した。
**(2)
 ちなみに、稲子教授に関するエピソードを一つ書く。
 1969年、全国の大学封鎖運動と同時期に、新左翼・革マルが、名古屋大学の文学部・教養部を封鎖し、立てこもった。
 名大の共産党3支部-(1)教職員支部・(2)院生支部・(3)学生支部は、封鎖対策問題でグループ会議を初めて開いた。
 私(宮地)は、共産党愛知県委員会の代表で参加した。
 私は当時、(3)学生党委員会と(2)院生支部も担当していた。
 3支部からトップが2人ずつ参加した。
 (3)学生党委員会は、共産党員400人・民青1000人を抱え、全学部だけでなく、文化部ほとんどにも共産党グループを配置していた。
 (2) 院生支部も全学部にできていた。
 場所は、稲子宅だった。
 稲子教授は、(1)教職員支部のトップだった。
 テーマは、封鎖解除をどうするか、だった。
 稲子教授の提案で、圧倒的多数の共産党・民青組織は、封鎖を包囲し、ビラ・立看板などの宣伝行動をするだけで、武力解除方針を採らないという結論で合意した。
 その時点、広松渉は、名古屋大学文学部教授で、ドイツ語・哲学を教えていた。
 彼は、封鎖学生の理論的指導者として、毎日、自由に封鎖学部を出入りしていた。双方に暴力的出来事もなく、新左翼・革マルはまもなく自ら封鎖を解除した。
 **
 稲子恒夫が日本共産党系くらいの知識は私にもあって、この欄の<マルクス主義法学講座>(日本評論社-編集担当/林克行)の紹介の中でも、稲子が有力な「マルクス主義法学」の研究者だったことが分かる。
 上によると、それ以上に、稲子恒夫は、名古屋大学の同党「教職員支部」のトップだったというのだから、「院生」と「学生」を除き、実質的には日本共産党名古屋大学総支部長だったと見てよいと思われる。
 その稲子恒夫が1991年12月のソ連解体以降に、名古屋大学同僚(・文学部)の水田洋に、こう告白したのだという。
 「私のロシア革命・レーニン認識は根本的に間違っていた」。
 1927年生まれの稲子は、1992年に65歳。
 1961年にはすでに入党していたのだろうから、少なくとも(人生の最も活動的な)30年間を、「根本的に間違っていた」「認識」をもって、ソヴィエト法または社会主義法という科目の教師およびこの分野の研究者として過ごし、かつ日本共産党という政治団体の有力な構成員を務めてきた、ということになる。
 一度きりの人生。哀切感、気の毒という感覚、を覚える。
 彼の現役?活動中に敵対していた勢力の一員だった者からすると、そう単純なものではないかもしれないが。
<宮地健一のHP>には「学者党員」に関するその他の記述もあるが、今回は省略する。
 田口富久治、長谷川正安等々、なぜか名古屋大学の法政・人文関係には日本共産党員教授が多い(多かった)。法学部といっても、公法・政治学分野に限られるかもしれないが。また、水田洋も。
 ところで、上に出てくる名古屋大学文学部教授・広松渉(廣松渉)は、のちに東京大学教養学部教授になった。1933~1994。
 廣松渉・生態史観と唯物史観(講談社学術文庫、1991。原書1986)の「はじめに」の中に、こういう旨の記述がある。「」は引用。
 梅棹忠夫の<生態史観>論文の「論趣には体制側のイデオロ-グを随喜せしめるものがあり」、一方で、「マルクス学徒の神経を逆撫でする言辞に充ちている」。梅棹論文はたしかに「唯物史観を採る者にとって甚だ"癇に障る" 代物である」。
 上の宮地健一の記述によると、広松渉は「封鎖学生の理論的指導者として、毎日、自由に封鎖学部を出入りしていた」。
 広松渉(廣松渉)自身の記述によっても(上に言及の部分以外も含めて)、日本共産党員または同党系の研究者ではなくとも、この人は「マルクス学徒」、「唯物史観を採る者」ではあったわけだ。
 日本の「左翼」の、または<左翼的雰囲気>の層の厚さ・深さを知っておく必要があるだろう。かつまた、ここには日本に独特なものがあると見られることも。

1975/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.212-p.219。合冊版では、p.957-p.962。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第6節・小括(conclusions)。
 (1)今日から見ると、1930年代のトロツキーの文筆による活動や政治的活動は、極端に願望に充ちた思考だの印象を与える。
 実現しない予言、空想じみた幻想(fantasic illusions)、間違った診断、そして根拠のない希望、これらの不幸な混合物だ。
 もちろん、トロツキーが戦争の成り行きを予見できなかったというのは、第一に重要なことではない。この時代に多数の者が予言したが、たいていは事実によって裏切られた。
 しかしながら、重要で特徴的なのは、トロツキーが、深遠な弁証法と大きな歴史発展の理解にもとづく科学的に正確な判断だとして、その論述を弛むことなく提示した、ということだ。
 実際に、彼の予見が基礎にしていた一つは、歴史は彼の正しさを証明するだろうという望みであり、また一つは彼が遅かれ早かれ実現するに違いないと信じて想定した歴史の法則から導いた、教理上の(doctrinaire)結論だった。
 かりにスターリンが戦争の結末を予見し、殺戮しないでトロツキーに復讐していたとすれば、どうなっただろうと人は考えるだろうか。生かしたままにして、トロツキーの希望や予言の全てが崩壊して、ただの一つも実現していないことを見させる、という復讐だ。
 戦争は反ファシスト戦争だった。
 ソヴィエトによる東ヨーロッパの制圧を別として、ヨーロッパまたはアメリカに、プロレタリア革命は一つも発生しなかった。
 スターリンもそうだったように、スターリン主義の官僚機構は一掃されず、測りがたいほどに強くなった。
 民主主義政体は生き残り、西ドイツやイタリアで復活した。
 植民地領域の多くは、プロレタリア革命なくして、独立を達成した。
 そして、第四インターナショナルは、無能力なセクトのままだった。
 かりにトロツキーがこれら全てを見たならば、自分の悲観的な方の仮説が正しいものだったこと、そしてマルクス主義は幻想だったことが証明された、ということを認めただろうか?
 我々はもちろん、これを語ることができない。しかし、トロツキーの心性からするとおそらく、彼はこのような結論を導き出さないだろう。
 彼は疑いなく、歴史の法則の働きが再びいくぶんか遅れた、だが大きな動きは近い将来にあるという信条と歴史の法則は合致していると、たんに述べただろう。//
 (2)本当の教理主義者(doctrinaire)であるトロツキーは、自分の周りで生起している全てのことに無神経だった。
 彼はもちろん、諸事件を身近で追い、それらに論評を加えた。そして、ソヴィエト同盟や世界政治に関する正確な情報を得るために最善を尽くした。
 しかし、教理主義者の本質は、新聞を読まなかったとか、事実を収集しなかった、ということにあるのではない。経験上の情報に鈍感な、あるいはきわめて漠然としているためにどんな事態もそれに適合させるために用いることのできる、そのような解釈の体系に執着する、ということにある。
 トロツキーには、何らかの事態が自分の考えを変える原因になるかもしれないと怖れる必要がなかった。彼の議論はつねに、「一方の形態では、他方…」、あるいは「…が認められるとしても、しかし、にもかかわらず…」なのだった。
かりに共産主義者が世界のどこかで後退するとすれば、スターリン官僚制が(彼がつねに言ったように)運動を破滅に導いているという彼の診断の正しさを確認した。
 かりにスターリンが「右翼主義」へと振れたならば、それはトロツキーの分析の勝利だった。ソヴィエト官僚制は反動へと退廃していくだろうと、彼はいつも予言していたのだから。
 しかし、かりにスターリンが左翼へと振れたならば、これまたトロツキーにとっての勝利だった。つねに、ロシアの革命的前衛は力強いので官僚機構はそれに配慮するに違いない、と明瞭に彼は述べてきたのだ。
 かりにどこかの国のトロツキスト党派がその党員数を増したとすれば、それはもちろん良い兆候だ。最良の党員たちは、真のレーニン主義が正しい政策であることを理解し始めているのだ。
 一方でかりにその集団が規模を小さくしたまたは分裂を経験したとすれば、これもまたマルクス主義の分析の正しさを確認するものだ。すなわち、スターリン主義の官僚機構は大衆の意識を息苦しいものにしており、革命の時期に動揺する党員たちはつねに戦場から逃げ出すのだ。
 かりにソヴィエト・ロシアの統計が経済的な成功を記録するならば、それはトロツキーの主張の正しさを確認する。プロレタリアートの意識によって支えられた社会主義は、官僚機構の存在にもかかわらず、基盤を確立しているのだ。
 かりに経済的な後退または厄災があったとすれば、トロツキーは再び正しい。彼がつねに言ってきたように、官僚機構は無能力で、大衆の支持を受けていないのだ。
このような精神の構造は、入り込む隙がないもので、事実によって矯正されることがない。
 明らかなことだが、社会には多様な勢力と競い合う傾向の組織があって活動している。そして、異なるものが、異なった時期に有力になる。
この常識的な真実が哲学的思考の真ん中に存在しているならば、経験が拒否される危険はない。
 しかしながら、トロツキーは、多数のマルクス主義者と同様に、誤謬なき弁証法の方法に助けられて自分は科学的に観察していると空想していた。//
 (3)トロツキーのソヴィエト国家への態度は、心理的には理解可能だ。すなわち、ソヴィエト国家の大部分は彼が生み出したもので、自分の子どもがとてつもなく退廃したことを認めることができなかったのは、驚くべきことではない。
 ゆえに、彼はつぎの異常な矛盾した言辞を絶えず繰り返し、ついには忠実なトロツキストたちすら理解できないと感じるようになった。
 労働者階級は政治的に収奪(expropriate)され、全ての権利を剥奪され、隷属化して踏みにじられてきた。しかし、ソヴィエト同盟は今もなお労働者階級の独裁のもとにある。土地と工場が国家の所有物になっているのだから。
 時が経るにつれて、トロツキーの支持者たちは、このドグマが原因で、ますます彼から離れた。
 ある者は、ソヴィエト共産主義とナツィズムの間の明確な類似性を看取し、世界じゅうの全体主義体制の不可避性について、悲観的に予感した。
 ドイツのトロツキストのHugo Urbahns は、あれこれの形態での国家資本主義が普遍的になるだろう、と結論した。
 1939年にフランス語で「世界的な官僚主義化」に関する書物を発行したイタリアのトロツキストのBruno Rizzi は、世界は新しい形態での階級社会に向かって動いている、その社会ではファシスト国家やソヴィエト同盟で実際に例証されている官僚制の衣をまとった集産的所有制へと、個人所有制が置き換えられる。
 トロツキーは、このような考えに烈しく反対した。ブルジョアジーの一機関であるファシズムが、政治的官僚機構に有利に自分たちの階級を収奪することができる、と想定するのは馬鹿げている、と。
 同様に、トロツキーは、Burnham やShachtman と決裂した。彼らが、ソヴィエト同盟を「労働者の国家」と呼称するのはもはやいかなる認知可能な意味もない、と結論づけたときに。
 Shachtman は、資本主義のもとでは経済的権力と政治的権力を分離することができるが、この分離はソヴィエト同盟では不可能だ、そこでは財産関係とプロレタリアートの政治的権力への関与は相互に依存し合っている、と指摘した。プロレタリアートは、政治的権力を喪失しながら経済的独裁制を実施し続けることはできない。
 プロレタリアートの政治的な収奪とは、全ての意味でのそれによる支配の終焉を意味する。従って、ロシアはまだ労働者の国家だと主張するのは馬鹿げている。支配している官僚機構は、言葉の真の意味での「階級」なのだ。
 トロツキーは、最後まで断固として、このような結論に反対した。ソヴィエト同盟にある生産装置の全ては国家に帰属している、との彼の唯一の論拠を何度も繰り返すことによって。
 このこと自体は、誰も否定しなかった。
 対立は理論上のものというよりも、心理上のものだった。ロシアは新しい形態の階級社会と収奪を生んでいるということを承認することが意味したのは、トロツキーの生涯にわたる仕事は無意味だった、彼自身が、自分が意図したものとはまさに正反対のものを産出することを助けた、ということを受け入れる、ということだった。
 これは、ほとんど誰も導き出すつもりのない一種の推論だ。
 同じ理由で、トロツキーは必死になって、自分が権力をもっていたときのソヴィエト同盟とコミンテルンは全ての点で非難される余地がなかった、と主張した。真のプロレタリアートの独裁、真のプロレタリア民主主義であって、労働者大衆から純粋な支持を得ていたのだ。
 抑圧、残虐行為、武装侵攻等々の全ては、それらが労働者階級の利益になるのならば、正当化される。しかしこのことは、スターリンがとったのちの諸手段とは関係がない。
 (トロツキーは逃亡中に、ロシアには宗教弾圧はない-正教教会は独占的地位を剥奪されただけで、それは正しくかつ適切だった、と主張した。
 彼はこの点では、スターリン体制を擁護するのを強いられた。スターリンはレーニンの政策から何ら逸脱しなかったのだから。)
 トロツキーは、レーニン時代の新生ソヴィエト国家が実施した武装侵入は間違っていたなどとは決して考えていなかった。
 そうではなく逆に、革命は地理を変更することはできないと、何度も繰り返した。言い換えると、帝制時代の国境線は維持され、または復活されるべきなのであり、ソヴィエト体制はポーランド、リトアニア、アルメニアおよびジョージアやその他の境界諸国を「解放する」あらゆる権利をもつのだった。
 彼は、1939年に赤軍の官僚主義的頽廃がなかったとすれば、フィンランドの労働大衆に解放者として歓迎されていただろう、と主張した。
 しかし、彼は、自分が権力をもち、かつ頽廃していないときに、フィンランド、ポーランドあるいはジョージアの労働大衆は歴史の法則に合致して、なぜ熱狂的に彼らの解放者を歓迎しなかったのか、と自問することがなかった。//
 (4)トロツキーは、哲学上の諸問題には関心がなかった。
 (彼は晩年に、弁証法と形式論理にもとづいて自分の見解を深化させようとした。しかし、明らかなのは、彼が知る論理の全ては高校でおよびプレハノフに関する青年時代の学修から収集した断片で成り立っており、彼はそれらの馬鹿らしさを繰り返した、ということだ。
 Burnham はトロツキーに、彼は現代論理学について何も知らないことを指摘して、議論をやめるように助言した。)
 トロツキーはまた、マルクス主義の基礎に関するいかなる理論的な分析をすることも試みなかった。
 彼にとってすでに十分だったのは、マルクスが、現代世界の決定的な特徴はブルジョアジーとプロレタリアートの間の闘争であり、この闘争はプロレタリアート、世界的社会主義国家の勝利、および階級なき社会でもって終わるよう余儀なくされていると示した、ということだった。
 このような予見がいったい何を根拠にしているのかについては、トロツキーは関心がなかった。
 しかしながら、これらが真実だと確信し、また自分は政治家としてプロレタリアートの利益と歴史の深部を流れる趨勢を具現化していると確信して、彼は、最終的な結末に対する忠誠さを揺らぐことなく維持した。
 (5)ここで、我々は異論に対して答えるべきだろう。
 つぎのように語られるかもしれない。トロツキーの努力や彼のインターナショナルが完全に有効でなかったことは彼の分析内容を無効にしはしない、なぜなら、仲間たちの多くまたは全てが同意しなかったとしてすら、ある人間は正しいということがあり得る、そして、<不可抗力(force majeure)>は論拠にならない、と。
 しかしながら、我々はここで、力が論拠になるか否かは人が何を証明したいかに依存するという、(<社会主義のもとでの人間の魂>での)Oscar Wilde の論評を想起することができる。
 我々はさらに、同様の思考方法で、問題とされている論点がある者が強いかそうでないかであるならば、力は論拠になる、と付け加えることができる。
 科学史上一度ならず起きたように、ある理論が全員またはほとんど全員によって拒否されるということは、その理論が間違いであることを証明しはしない。
 しかし、それは、偉大な歴史的趨勢を(または神の意思を)「表現」したものだという趣旨で、生来の自己解釈力をもつ理論だというのとは異なる問題だ。 
 上でいう趣旨とは、やがて勝利する運命にある階級の真の意識を具現化している、あるいは真実を発現したもので成る、したがって理論上は(または「理論上の意識」によれば)不可避的に必ず全ての者に打ち勝つ、といったものだ。
 かりにこのような性格のある理論が承認されないとするならば、そうされないことは、それ自体の諸前提に反対する一つの論拠だ。
 (他方で、実践における成功は、必ずしもそれに有利となる論拠ではない。
 イスラムの初期の勝利が証明するのはコーランが真実だったことではなく、それが生み出した信仰が、本質的な社会的要求に対応していたがゆえに最も力強い集結地点(rallying-point)だったということだ。)
 同じように、スターリンの諸成功は、彼が理論家として「正しい」者だということを証明するものではなかった。
 このような理由で、トロツキズムの実践での失敗(failure)もまた、科学的な仮説の拒絶とは違って、理論上の失敗だった。すなわち、トロツキーが確信していた理論は、間違っていたことの証拠だ。//
 (6)教条的(dogmatic)特質をもつトロツキーは、マルクス主義の教理のいかなる点についても、理論上の解明への貢献をしなかった。
 彼はしかし、無限の勇気、意思力および忍耐力を備えた、際立つ個性の人物だった。
 スターリンと全ての国々のその子分たちから悪罵を投げつけられ、最強の警察と世界じゅうの宣伝機関によって追及されても、彼は決して怯むことがなかったし、闘いを放棄することもなかった。
 彼の子どもたちは殺された。彼は自国から追い出され、野獣のごとく追跡され、最後には殺戮された。
 あらゆる審判での彼の驚くべき抵抗はその忠誠心の結果であり、決して、-それとは反対に-彼の揺るぎなき教条主義や精神の非融通性と矛盾してはいない。
 不運なことだが、忠誠心の強さや迫害を耐え忍ぼうとする支持者たちの意気は、知的に、または道徳的に正しい(right)、ということを証明しはしない。//
 (7)ドイチャー(Deutscher)はその単著の中で、トロツキーの生涯は「先駆者の悲劇」だった、と語る。
 しかし、こう主張する十分な根拠はなく、トロツキーはいったい何の先駆者だと想定されていたのかも明瞭でない。
 トロツキーはもちろん、スターリン主義者による歴史編纂の捏造ぶりの仮面を剥ぐことや、新しい社会での条件に関するソヴィエトによる宣伝活動の欺瞞を明らかにして論難することに、貢献した。
 しかし、その社会や世界の将来に関する彼の予見は全て、間違っていたことが分かった。
 トロツキーはソヴィエトの僭政体制を批判した点で独自性をもつのではなく、そのような批判を行った最初の人物でもなかった。
 逆に、彼は民主主義的社会主義者たちに対してよりははるかに穏やかに、ソヴィエト体制を批判した。また、僭政体制<だとして(qua)>反対したのではなく、彼がそのイデオロギー上の原理的考え方にもとづいて診断した、究極的目標についてのみ反対した。
 スターリンの死後に共産主義諸国で表明された種々の彼に対する批判論は、事実についても批判者自身の気持ちにおいても、トロツキーの著作や思考と何の関係もなかった。
 これら共産主義諸国での「反対派(dissident)」運動には、彼の考え方はいかなる役割も果たさなかった。共産主義の見地からソヴィエト体制を批判した、次第に少なくなっている一群の者たちの間にすら。
 トロツキーは、共産主義に代わる別の選択肢を提示しなかったし、スターリンと異なる何らかの教理を提示したわけでもなかった。
 「一国での社会主義」に対する攻撃の主要な対象は、スターリンとは何の関係もない理由で非現実的になっていた一定の戦術上の方針を説き続ける試みにすぎなかった。
 トロツキーは「先駆者」ではなく、革命の落とし子(offspring)だった。その彼は、1917-21年に採用された行路との接線部分に投げ込まれたが、のちには内部的かつ外部的な理由で遺棄されなければならなかったのだ。
 彼の生涯は「先駆者」というよりも、「亜流の者」(epigone)の悲劇だったと呼称する方が正確だろう。
 これはしかし、適切な表現ではない。
 ロシア革命は、一定の諸点で行路を変更したが、全ての点で変えたのではなかった。
 トロツキーは絶えず革命的侵略を擁護し、かりに自分がソヴィエト国家とコミンテルンを運営することができれば、全世界は遅滞なく輝かしいものになるだろうと、自分自身や他者を説きつづけた。
 彼がそう信じた根拠は、それこそがマルクスの歴史哲学(historiosophy)が教える歴史の法則だ、ということにあった。
 しかしながら、ソヴィエト国家は、成り行きでその時点までの行路を変更することを余儀なくされた。そしてトロツキーは、そのことを理由としてその指導者たちを叱責するのをやめなかった。
 しかしながら、国内体制に関するかぎりは、スターリニズムは明らかに、レーニンとトロツキーが確立した統治のシステムを継承したものだった。
 トロツキーはこの事実を承認することを拒んだ。また、スターリンの僭政はレーニンとは関係がない、実力による強制、警察による抑圧および文化生活の荒廃化は「官僚機構による」<クー・デタ>だ、これらについて自分はほんの少しの責任もない、と自分に言い聞かせた。
 このような絶望的な自己欺瞞は、心理学的に説明可能なものだ。
 ここで我々に判明するのは、たんなる「亜流の者」(epigone)の悲劇ではなく、自分が作った罠に嵌まった、革命的僭政者の悲劇だ。
 トロツキストの理論というようなものは何もなかった。-絶望的に自分の地位を回復しようとする、退いた指導者だけがいた。
 彼は自分の努力が虚しいことを実感することができなかった。また、奇妙な頽廃だと自分は見なしたが現実にはレーニンやボルシェヴィキ党全員と一緒に社会主義の創設だとして確立した諸原理の直接の帰結に他ならない、そういう諸事態について自分に責任がある、ということを受け入れようとしなかった。//
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 第6節が終わり、第5章・トロツキーも終わり。

1973/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨⑳。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 主として第一章についてこれまで言及してきたので、第二章に移ってみよう。
 無知を自覚していないということが、いかほどの悲惨さと無惨をもたらしているのか、かつて「日本会議専門研究員」だった人物の<知的能力>がいかほどのものなのか、これらを示す実例は、おそらく際限なく(正確には有限だろうが)明らかになるに違いない。
  第一章の末尾に「戦前の日本は、どのような社会であったのか。次章ではそれを見ていくことにしよう」とある。p.96.
 この戦前というのは明治期を含んでいることが次章(第二章)の内容で明らかだ。
 しかし、明治期を含む「戦前の日本」を単純に「どのような社会であったのか」を「見ていく」と大胆にも?書けること自体が異様だ。そのことの異様さを、江崎道朗は自覚していないのだろう。
 明治以降の「戦前」に関して、書くこと、書くべきことは多数あり、実際にも種々の分野、主題について多数の書物が日本人によって執筆・刊行されてきたはずだ。戦前を「生きた」日本人が自らかいた文章・書物も、それこそ無数にあるだろう。
 それにもかかわらず、「戦前の日本は、どのような社会であったのか。次章ではそれを見ていくことにしよう」と、決して長大ではない「新書」版の本で簡単に書けるということ自体が、その神経について、秋月瑛二には理解不能だ。
  日本固有の問題に入ろうと思っていたが、第二章の冒頭でも江崎道朗は、コミンテルンにかかわって奇妙なことを(正確にはウソを)書いている。
 p.98にこうある。
 「1921年の第三回コミンテルン大会では『統一戦線』と『植民地の解放』という方針が打ち出されることになる。
 資本主義諸国では、これまで敵対していた社会民主主義勢力とも"表向き"は協調し、一方で植民地、半植民地支配の下での民族主義運動を支援していこうというのである。」
 この二文は堂々と日本の<新書>版の本(PHP新書)に活字となっていることにまずは注目したい。日本の<新書>はほとんど注記も参照文献一覧の提示もないことが多く、少なくとも<玉石混淆>だ。江崎道朗のものは妄想的な「石」だ。
 さて、ある程度の予備知識があるからこそ指摘できる。
 1921年のコミンテルン第3回大会が少なくとも「社会民主主義勢力」との「統一戦線」などを掲げたはずがない。この年の実質的トップはレーニンだったが、スターリンに代わってからも「社会愛国主義」、「社会排外主義」、「社会ファシスト」としてドイツ社会民主党等の「社会民主主義勢力」を敵視する政策方針は(ロシア・ソ連の共産党でもコミンテルンでも)続いた。
 これの大きな変更があったのは、1935年のコミンテルン第7回大会だ。コミンテルンの書記長だったディミトロフ(ブルガリア人)に代表される、そして当時のスターリンもまた了解していた、<反ファシズム統一戦線>の提起による。
 この結果として、スペイン等での「人民戦線」戦術も生まれた。
 江崎道朗がいう第3回大会の1921年はロシアでクロンシュタット暴乱や<ネップ>を打ち出した共産党大会があった年で、そもそもヒトラーの<ミュンヘン一揆>もまだ起きていない。かりにすでにヒトラーをファシスト、ヒトラー主義をファシズムと称したとしてすら、まだそのようなものは明確になっていない。まだ先のことだ(但し、「イタリアのファシスト」についてはすでに言及がある。後掲資料集第1巻収録決議のp.436参照)。
 それを平然と1921年大会での「統一戦線」方式とか書くのだから、さすがに「社会愛国主義」を社会・国家を「愛する」主義だと理解して叙述していた江崎道朗のことはある。
 江崎道朗は所持すらしていないようだが、第3回コミンテルン大会(1921.6.22-7.12)の諸決議は、以下に収載されている。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻-革命的危機とコミンテルン(大月書店、1978)。  
 この資料集を子細に点検して詳細に引用することはしない。
 二つだけ例示すると、まず、1921年大会採択「戦術に関するテーゼ」p.440-1に、情勢認識として、こうある。
 この一年間に「社会民主諸党と改良主義的労働組合指導部とがいっそう政治的に退廃し、その仮面が剥がれ、その正体が暴露されるのが見られた。しかし、同時にこれは、これらの党や組合が組織的結集を試み、共産主義インターナショナルに対する攻撃に移行した一年であった。」
 また、1921年大会採択「共産党の組織建設、その活動の方法と内容についてのテーゼ」p.461.に、こうある。
 「社会民主党や独立社会党の新聞にたいしては、瑣末な分派的論戦におちいることなしに、たえまない攻撃を加え、階級対立を包みかくすその裏切的な態度を日常生活からとった多くの実例にもとづいて暴露することによって、これを克服しなければならない」。
 江崎道朗が1921年について言う「統一戦線」とはいったい何のことか。
 「戦前の日本」を五箇条のご誓文-大日本帝国憲法-昭和天皇-の「単色」の<保守自由主義>と<左右の全体主義>という枠組みで単純かつ幼稚に描こうとしている江崎のことだから、1921年と1935年の違いなど、大したことではないのかもしれない。
 この人物にとっておそらく、「コミンテルン」というまがまがしい「陰謀」組織のことが単純に頭に入っていればよいのだろう(なお、杉田水脈の昨年夏の「コミンテルン」という語の使用の仕方も単純で、幼稚だ。江崎、杉田は「コミンフォルム」のことを知っているのか?)。
 いずれにせよ、江崎道朗は、恥ずかしくはないのだろうか。
 じつに気の毒だ。後世も長く、ひどい書物を執筆して刊行した人物として、その名前が記録され、記憶されていくのだから。ああ恥ずかしい。ああ、気の毒だ。

1972/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.206-p.212。合冊版では、p.952-p.957。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第5節・ファシズム、民主主義および戦争。
 (1)トロツキーの思考がいかに教条的で非現実的だったかは、近づく戦争に関する1930年代の論評やファシストの脅威に直面しての行動をどう奨励したかによって判断することができるかもしれない。
 (2)彼は、戦争が勃発した数日後に、こう書いた。
 「レーニンの指導のもとで労働者運動の最良の代表者たちが考え出した世界戦争に関する原理的考え方を、些かなりとも変更する理由を認めない。
 どちら側の陣営が勝利しようとも、人類(humanity)は後方に投げ棄てられるだろう。」
 (<著作集, 1939-1940年>, p.85.)
 この文章-ドイツによるポーランド侵攻とイギリス・フランスの宣戦布告のあとで、かつ9月半ばのソヴィエトによる侵略の前に書かれていた-は、ナツィ・ドイツ、ファシスト・イタリア、ポーランド、フランス、イギリスおよびアメリカ合衆国のような資本主義諸国間の戦争という主題に関する、トロツキーの見方の典型だった。
 彼は長年にわたって、疲れを知らないがごとく、つぎのように想定するのは致命的な幻想で、資本主義者の策略だ、と繰り返した。すなわち、ファシズムに対抗する「民主主義」諸国間の戦争はあり、かつあり得る、また、勝利するのがヒトラーかそれとも西側民主主義諸国の連合かは何らかの違いを生み出す、と想定することだ。なぜなら、どちらの側も工場を国有化していないのだから、と。
 交戦諸国のプロレタリアートは、ヒトラーと闘う自国の反動的政府を助けるのではなく、レーニンが第一次大戦の間に強く主張したように、自国政府に反抗しなければならない。
 「国家(national)防衛」という呼びかけは、極度に反動的で、反マルクス主義的だ。
 問題とすべきはプロレタリア革命であって、あるブルジョアジーの別のそれによる敗北ではない。
 (3)トロツキーは、<戦争と第四インターナショナル>と題する1934年7月の小冊子で、こう書いた。
 「国家防衛といういかさまは、可能ならばどこでも、民主主義の防衛という追加的いかさまで覆い隠されている。
 マルクス主義者は帝国主義時代の今でも民主主義とファシズムを区別して、つねに民主主義に対するファシズムの浸食を拒否しようとするのか? そして、プロレタリアートは戦争が起きている場合に、ファシスト政府に対抗して民主主義的政府を支持しなければならないのか?
 芳香に充ちた詭弁だ!
 我々は、プロレタリアートの組織と手段でもって、ファシズムに反対して民主主義を防衛する。
 社会民主党とは反対に、我々はこの防衛をブルジョアジー国家に委ねはしない。<中略>
 このような条件のもとでは、労働者の党が脆弱な民主主義という外殻のために「その」民族的帝国主義を支持することは、自立した政策方針を放棄して、労働者の意気を排外主義でもって喪失させることを意味する。<中略>
 革命的前衛は、自国の「民主主義」政府に反抗し、労働者階級の諸組織との統一戦線を追求するだろう。決して、敵対する国と戦争を行う自国の政府との統合ではない。」
 (<著作集, 1933-1934年>, p.306-p.307.)
 (4)トロツキーは1935年の論文で、つぎのことを強調した。
 第三インターナショナルは、社会愛国主義とばかりではなく、つねに平和主義(pacifism)と闘ってきた。つねに、軍縮、調停、国際連盟等々と闘ってきたのだ。
 しかし今では、これら全てのブルジョアジーの政策を是認している。
 <ユマニテ〔L'Humanité〕>は「フランス文明」の防衛を呼びかけることによって、プロレタリアートを裏切り、民族の立場をとり、労働者がドイツ帝国主義と闘う自国の政府を助けるように誘導する、ということを明らかにした。
 戦争は、資本主義の産物だ。そして、現在の主要な危険はナツィズムから発生している、と主張するのは馬鹿げている。
 「この途はすみやかに、ヒトラー・ドイツに対抗するフランス民主主義の理想化に到達する」(G. Breitman & B Scott 編<レオン・トロツキー著作集, 1934-1935年>(1971年), p.293.)。
 (5)トロツキーは戦争の一年前に、民主主義とファシズムは搾取のために選択可能な二つの装置にすぎない、と宣告した。-残余は全て、欺瞞なのだ。
 「実際のところ、ヒトラーに対抗する帝国主義的民主主義諸国の軍事ブロックとは何を意味するのだろうか?
 ヴェルサイユ(Versailles)の鎖の新版だ。それよりもっと重く、血にまみれ、もっと耐え難いものだ。<中略>
 チェコスロヴァキアの危機はきわめて明瞭に、ファシズムは独立した要因としては存在していないことを暴露した。
 ファシズムは帝国主義の道具の一つにすぎない。
 『民主主義』は、それがもつもう一つの道具だ。
 帝国主義は、これら二つの上に立っている。
 帝国主義はこれらを必要に応じて作動させ、たまには相互に対向的に平衡させ、たまには友好的に宥和させる。
 帝国主義と同盟関係にあるファシズムと闘うことは、ファシズムの爪や角に対抗して悪魔と同盟して闘うのと同じことだ。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.21.)//
 (6)要するに、民主主義対ファシズムの闘いなるものは存在しない。
 国際的条約はこの偽りの対立を考慮していない。イギリスはイタリアと協定するかもしれないし、ポーランドはドイツとそうするかもしれない。
 競い合う当事者がどの国であれ、来たる戦争は国際的なプロレタリアート革命を生み出すだろう。-これこそが、歴史の法則だ。
 人類は数カ月以上は戦争に耐えることができないだろう。
 第四インターナショナルに指導されて、民族的諸政府に対する反乱が至るところで勃発するだろう。
 いずれにせよ戦争は、民主主義の全ての痕跡を一掃し、その結果として、民主主義的価値の防衛を語ることは馬鹿げたものになる。
 パレスチナのトロツキスト・グループは、ファシズムはその当時に抵抗しなければならない主要な脅威だ、そして、ファシズムと闘っている諸国で敗北主義を説くのは間違っている、と提案した。
 トロツキーはこれに答えて、こうした態度は社会愛国主義にすぎない、と書き送った。 全ての真の革命家にとって、主要な敵はつねに自国にある、と。
 彼は、1939年7月の別の手紙で、こう宣告した。
 「ファシズムに対する勝利は重要だが、もっと重要なのは、資本主義の断末魔的苦しみだ。
 ファシズムは新しい戦争を加速させ、そして戦争は、革命運動を著しく促進させるだろう。
 戦争が起きる場合、全ての小規模の革命的中核は、きわめて短期間に決定的な歴史的要素になることが可能だし、そうなるだろう。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.349.)
 第四インターナショナルは、1917年にボルシェヴィキが果たしたのと同じ役割を、来たる戦争で果たすだろう。しかし今度は、資本主義の崩壊が完全で最終的なものになるだろう。
 「そのとおり。新しい世界戦争は絶対的な不可避性をもって、世界革命と資本主義体制の崩壊を惹起させるだろう」(同上、p.232.)。
 (7)戦争が実際に始まったとき、こうした問題に関するトロツキーの見解は変わらなかったばかりか、むしろ強くなった。
 彼は1940年6月に発行された第四インターナショナルの宣言文で、つぎのように語った。
 「『祖国』の防衛のために出兵している社会主義者たちは、封建体制を、自分たち自身の鎖を防衛するために結集した〔フランスの〕ヴァンデ(Vendée)の農民たちと同じ反動的な役割を演じている」(<著作集, 1939-1940年>, p.190.)。
 ファシズムに対抗する民主主義の防衛について語るのは無意味だ。ファシズムはブルジョア民主主義の産物であり、防衛されなければならないのは決して「祖国」ではなく、世界のプロレタリアートの利益なのだ。
 「しかし、戦争で最初に打ち負かされるべきであるのは、完全に腐敗している民主主義体制だ。
 それが決定的に瓦解する際には、その支えとして役立った全ての労働者組織を引き摺り込むだろう。
 改良主義的労働組合に残された余地はないだろう。
 資本主義的反動は、それら労働組合を容赦なく破壊するだろう」。
 (同上、p.213.)
 「しかし、労働者階級は現在の条件では、ドイツ・ファシズムとの闘いで民主主義諸国を助けることを余儀なくさせられるのではないか? 」
 この態様は、広汎な小ブルジョア層によって提起される疑問だ。そうした層にとってプロレタリアートはつねにあれやこれのブルジョアジー諸党派の予備的な道具にすぎない。
 我々はこうした政策を、怒りをもって拒絶しなければならない。
 当然ながら、鉄道列車の多数の車両の間に快適さに違いが存在するように、ブルジョア社会での政治体制の間には違いが存在する。
 「しかし、列車全体が奈落の底へと飛び落ちているとき、衰亡する民主主義と凶悪なファシズムの区別は、資本主義体制全体の崩壊に直面している際には消失する。<中略>
 人類の究極的な運命にとって、イギリスとフランスという帝国主義国の勝利は、ヒトラーやムッソリーニのそれと同様に不愉快なものだろう。
 ブルジョア民主主義体制が救われることはあり得ない。
 労働者は、外国のファシズムに対抗する自国のブルジョアジーを助けることによっては、自分自身の国でのファシズムの勝利を促進することができるだけだ。」
 (同上、p.221.)//
 (8)ここで再び取り上げるが、ヒトラーによる侵攻の当時のノルウェイの労働者たちに対する、トロツキーの助言がある。
 「ノルウェイの労働者は、ファシストに反対して『民主主義』陣営を支援すべきだったのか? <中略>
 これは現実には、最も未熟な失態となっただろう。<中略>
 世界的な観点から、我々は連合側陣営もドイツ陣営も支持しない。
 従って、我々には、ノルウェイ自身が一時的な手段としてどちらか一つを支持することについて、些かなりとも正当化することのできる根拠がない。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.172.)
 (9)こうしたことからすると、ポーランド、フランスあるいはノルウェイの労働者たちがトロツキーの宣言文を読んでそれに従っていたとすれば、彼らはナツィの侵略があった際に自国の政府に対して武器を向けていただろう。ヒトラーに支配されようと自国のブルジョアジーに支配されようと、違いはなかったのだから。
 ファシズムは、ブルジョアジーの一つの装置だ。ファシズムに反対する全ての階級の共同戦線の形成を語るのは馬鹿げている。
 第一次大戦の際にレーニンは同様に、敗北主義を説いた。そのようにして、革命が勃発したのだ。
 トロツキーはつぎのごとく考えていたと見られることは、看取しておく必要がある。すなわち、彼にとって、資本主義諸国は階級利益で結ばれているがゆえに、戦争とは全ての資本主義諸国のソヴィエト同盟に対する闘いだった。
 しかしながら、ソヴィエト同盟が一つの資本主義勢力に対抗している別の資本主義勢力と同盟するとすれば、その戦争はきわめて短期間のものでのみあり得るだろう。なぜなら、1917年のロシアでのように、敗北した資本主義国家でただちにプロレタリア革命が勃発するだろうから。そして、二つの敵対する勢力はそのときには、プロレタリアートの祖国に対抗して同盟するだろう。//
 (10)かくして、トロツキーにとっては、戦争に関する一般的結論は過去の結末だった。
 資本主義は最終的に崩壊し、スターリニズムとスターリンは一掃され、世界革命が勃発し、第四インターナショナルがただちに労働者の精神に対する優越性を獲得して最終的な勝利者として出現するのだ。
 これは、トロツキーがSerge、Souvarine、Thomas の批判に答えて、つぎのように書いたとおりだ。
 「資本主義社会の全政党、その全ての道徳家と全ての追従者たちは、差し迫る大厄災の瓦礫の下で滅びていくだろう。
 ただ一つ生き残るのは、世界的社会主義革命の党だ。たとえそれが、先の大戦中にレーニンやリープクネヒト(Liebknecht)の党が存在しないように見えたのとちょうど同じく、見識のない分別主義者たちには今は存在していないように見えるかもしれないとしても。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>, p.47.)
 追記すれば、トロツキーは、最大限の確信をもって、多数の具体的な予言を行った。
 例えば、スイスが戦争に巻き込まれるのを避けるのは絶対に不可能だ。
 民主主義政体はどの国でも残存することができず、「鉄の法則」により必ずやファシズムへと発展するに違いない。
 かりにイタリアの民主主義が復活するとしても、続くのはせいぜい数カ月で、プロレタリア革命がそれを一掃する。
 ヒトラーの軍隊は労働者と農民で成り立っているので、それは次第に被占領諸国の人民と同盟するに違いない。なぜなら、歴史の法則が、階級による紐帯は他の何よりも強いことを教えているからだ。
 (11)トロツキーは1933年8月に、ファシストの危険性に関する一般的性質に関して、きわめて興味深い分析を提示した。
 「理論上は、ファシズムの勝利が疑いなく証明するのは、民主主義政体は疲弊し切った、ということだ。
 しかし、政治的には、ファシスト体制は民主主義に関する歪んだ見方(prejudices)を維持し、再生させ、若者たちの中にそれを注入し、短い間はそれに最強の力を授けることができすらする。
 正確に見れば、このことの中にこそ、ファシズムの反動的な歴史的役割のうちの最も重要な表現行動の一つがある。」
 (<著作集, 1932-1933年>, p.294.)
 「『ファシスト』独裁体制による隷属的支配のもとで、民主主義の幻想は弱められることはなく、却って強くなった」(同上、p.296.)。
 換言すれば、ファシズムの脅威は、民衆が民主主義を求めて長くそれに従属し、そうして、民主主義に関する歪んだ見方が駆逐されるのではなくて維持される、ということにある。
 ヒトラーは、民主主義を破壊することを困難にするがゆえにこそ、危険なのだ。//
 (12)トロツキーはその死の直前に、戦争の進展に関する自分の予言を再確認し、同時に、修辞文的に、その予言類が実現しなかった場合に何が起きるだろうかという問題を設定した。
 彼は、マルクス主義の破産(bankruptcy)を意味するだろう、とそれに対してこう回答した。
 「我々が固く信じるようにこの戦争がプロレタリア革命を惹起させるならば、それは不可避的にソヴィエト連邦の官僚制度の打倒と、1918年よりもはるかに高い経済的かつ文化的基盤にもとづくソヴィエト民主主義の再生を、到来させるに違いない。<中略>
 しかしながら、現在の戦争が革命ではなくプロレタリアートの衰退を呼び起こすならば、それとは異なる選択肢が可能性として残る。すなわち、独占資本主義のいっそうの衰亡、それの国家との融合、まだ独占資本主義が存続している全てのところで、民主主義政体が全体主義(totalitarian)体制にとって代わられること。
 プロレタリアートが社会を指導する力を自らのものにすることができないならば、こうした条件のもとで現実には、ボナパルト主義者のファシスト官僚制から、新しい搾取階級が生成する可能性がある。
 全てが指し示していることによれば、これは、文明の消滅を意味する、衰亡の体制になるだろう。
 最終的には、つぎのことが証明されるという結果をすることができるかもしれない。すなわち、先進資本主義諸国のプロレタリアートはかりに権力を獲得したとしてもそれを維持する力を持たず、ソヴィエト連邦でのように特権をもつ官僚機構にそれを譲り渡してしまう、ということ。
 我々はそのときに、つぎのことを承認せざるをえないだろう。すなわち、官僚制への逆戻りは、国の後進性に由来するのでも帝国主義諸国という外環に起因するのでもなく、プロレタリアートには支配階級になることができる力がないという、その生来の性質に根ざしている。  そしてまた、その根本的な特性において、ソヴィエト連邦は世界的規模での新しい搾取体制の先駆者だ <中略>、ということが確定するのが、遡って必然的なものになるだろう。
 しかしながら、この第二の展望がいかに煩わしいものだったとしても、かりに世界のプロレタリアートには現実には、歴史の発展方向に設定されたその使命を達成する力がないということが証明されるならば、つぎのことを認めること以外には、いっさい何も残らないないだろう。
 つまり、資本主義社会の内部的矛盾にもとづいた、社会主義者たちの根本方針(programme)は、ユートピア(夢想郷、Utopoia)として結末を迎える。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.8-p.9.)
 (13)これは、トロツキーの著作集の中に見い出すことのできる異様な論述だ。
 彼は当然に、悲観的な第二の選択肢は非現実的なものだと自信をもって述べ、一般的な命題としではなく進行中の戦争の結果として、世界革命は不可避だと考える、と続けている。
 しかし、もう一つの仮説を心に描いたという事実だけでも、彼が別の箇所で表明する絶対的な勝利の確信を述べている上のような文章と比較するならば、一定の歴史研究者の注目を向けさせるものだと思える。
 (14)トロツキーは、資本主義は自らを改良する力をもつという考えを受け入れなかった。
 彼には、ルーズヴェルトの「ニュー・ディール」は、絶望的で反動的な試みで、失敗するように運命づけられている、と思えていた。
 彼はさらに、技術発展の最高の地点にまで達しているアメリカ合衆国はすでに共産主義への条件を成熟させている、と考えた。
 (彼は1935年3月のある論文で、アメリカが共産主義になればその生産費用を80パーセント削減するだろうとアメリカ国民に約束した。また、その死の直前に書いた「戦時中のソヴィエト連邦」で、ソ連は計画経済によってすみやかに毎年200億ドルへと国家収入を高め、全国民のための繁栄を確保するだろう、と宣言した。)
 <裏切られた革命>にこう書かれているのを、我々は読む。
 誰かが資本主義は10年または20年以上長く成長することができると想定するとすれば、その者はさらには、つぎのことを信じなければならないことになる。
 ソヴィエト同盟の社会主義には意味がない(make no sense)、そして、マルクス主義者は自分たちの歴史的運動に関する判断を誤ってきていた(misjudge)。なぜなら、ロシア革命はパリ・コミューンのような偶発的実験にすぎなかった、と位置づけられるだろうからだ。//
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 つぎの第6節の表題は、<小括(conclusions)>。

1970/L・コワコフスキ著第三巻第五章第4節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回は、第三巻分冊版のp.201-p.206。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。 
 第4節・ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判。
  (1)少なくとも理論上は、工業化と将来の農業政策はソヴィエト同盟の左翼反対派にとってきわめて重要な問題だった。そのために、スターリンが反対派の政策方針の全てを採用し、強化した態様で実施することが分かったとき、トロツキーは、ぎこちない立場を示した。
 彼は、スターリンは実際に反対派の政策意図を実行したが、官僚機構でかつ十分な考慮のない方法でそれを行った、と宣告することで、困難な状態を切り抜けた。
「左翼反対派は、ソヴィエト同盟で工業化と農業の集団化のための闘争を始めた。
 この闘いは一定の意味では勝利した。すなわち、1928年に始まり、ソヴィエト政府の全政策が左翼反対派の基本的考え方を官僚主義的に歪曲して適用していることが示されている。」
 (G. Breitman & B. Scott 編<レオン・トロツキー著作集-1933-1934年(1972年)>p.274.)
 官僚機構はこの措置を、政府の論理で自分たちの利益のために実施することを「強いられ」た。そして、プロレタリアートの歴史的任務を歪曲した方法で履行したけれども、変革それ自体は「進歩的」だった。さらには、スターリンがその考えを変えるように強いたのは、左翼からの圧力だ。
 「革命を目指す創造的勢力と官僚機構の間には、深い対立が存在する。
 スターリン主義者の組織が一定の限界に来て立ち止まるならば、そして左翼へと鋭く舵を切るのを強いられているとすら感じるならば、無定型で散在してはいるが今もまだ力強い、革命党の要素による圧力こそが、それを起こしているのだ。」
 (<著作集, 1930-1931年>, p.224.)
集団化に関して言うと、トロツキーは、経済的準備の性急さと欠落を批判し、スターリン主義者たちはコルホーズ(kolkhozes)を社会主義の制度だと見なす過ちを冒している、と強調した。コルホーズは過渡的な形態にすぎない、と。
 もっと言えば、集団化は資本主義復活の方向への一歩だったと判明している、と。
 トロツキーは<裏切られた革命>で、スターリンは土地をコルホーズに与えることで国有化することを止めた、他方では農民に私的区画地の耕作を許すことで「個人主義」の要素を強化した、と書いた。
 かくして、ソヴィエト農業が朽ち果てて数百万の農民が飢えて死んでいたとき、あるいは最後になって彼らが受け取った私的区画地を維持する許可で何とか生きながらえていたとき、トロツキーの主要な関心は、この現象が示している「個人主義」の危険だった。
 彼は、富農(kulaks)との闘いは全く不十分だと主張すらした。スターリンは彼らにコルホーズで組織する機会を与えた、かつまた最初の廃絶運動のあとでは田園地帯での新しい階級分化をもたらすに違いない実質的な譲歩を行うまでした、のだと。
 (これは1935年のトロツキーの基本的主張だった。そのときに彼は、スターリンの外交政策に「右翼への揺れ」を感知し、ゆえにソヴィエトの内政問題にも類似の兆候を探し求めた。)//
 (2)トロツキーは<裏切られた革命>やその他のあちこちで、ソヴィエト工業への出来高払い労働(piece-work)の導入を非難した。
 しかしながら、彼の議論からすると、警察的強制または革命的熱情が生産性向上のための物質的誘導に代わるべきだと考えたかのかどうか、あるいは革命的熱情がどのようにして喚起されるべきなのかと考えていたのか、を語るのは困難だ。//
 (3)スターリンの外交政策に関して言うと、トロツキーは、「一国での社会主義」のために国際的革命は放棄されている、という主題を奏でた。だからこそ、革命は、ドイツ、中国およびスペインで連続して裏切られたのだ。
 (トロツキーによると、スペイン内戦は「本質的には」社会主義を目指すプロレタリアートの闘いだった。)
 彼は、赤軍は1923年にドイツの共産主義者を助けるために派遣されるべきだったかどうか(彼は1920年にそうすべく試みたが成功しなかった)、あるいは、1926年に中国共産党を助けるべくそうすべきだったかどうかを、語らなかった。
 一般的に言ってトロツキーは、発展途上の国々での「民族ブルジョアジー」を支援する政策には反対だった。
 この政策方針はしばしば、資本主義大国を弱体化させるには大いに役立った。
 トロツキーはしかし、「民族ブルジョアジー」の支援は致命的だ、と考えていた。その理由は、他のどこでもそうだが植民地領域では、革命を継続的に社会主義の段階へと高める共産主義者の指導にもとづいて行われてはじめて、「ブルジョア革命」の任務は履行される、というものだった。
 例えば、インドがプロレタリア革命による以外の方法で独立を達成することができると想定するのは馬鹿げている。このようなことは、歴史の法則から絶対的に外れている。
 ロシアの例が示すように、最初からプロレタリアート、すなわち共産党によって指導された「永続革命」こそが唯一可能にする方策だ。
 トロツキーは、ロシアの範型は世界の全ての国々を絶対的に拘束するものだと考えた。そのゆえに彼は、諸々の国々の歴史や特有の条件に関して何がしかのことを知っているかどうかに関係なく、全ての諸問題について決まり切った回答を行った。//
 (4)革命期の共産主義者は完全に情勢を統御することができるまでは過渡的な目標を活用しなければならない、ということに、トロツキーは反対しなかった。
 かくして、トロツキーは中国のトロツキストたちへの1931年の手紙で、国民議会という考えはその基本的政綱から排除されなければならない、と書いた。その理由は、貧農を支援することが説かれるときには、「農民層の不信を掻き起こすために、あるいはブルジョアジーが虚偽宣伝を開始することを可能にするために、プロレタリアートは国民議会をしを招集してはならない」、ということだった。
 (<著作集、1930-1931年>, p.128.)
 他方で我々は、別の箇所で、「プロレタリアートと農民の独裁」という1917年のレーニンのスローガンを繰り返すのは致命的な過ちだろう、という文章を読む。
 ロシア革命の最初から、政権はプロレタリアートと貧農を代表するものだとされてきた。
 この点についてトロツキーは、つぎのように書いた。
 「たしかに後になって我々は、ソヴィエト政権を労働者と農民のものだと呼称した。
 しかし、そのときまでにプロレタリアートの独裁はすでに事実であり、共産党は権力を握っており、その結果として労働者と農民の政府という名前は、何ら曖昧さを残すものでも警戒心を起こさせる理由になるものでもなかった」(同上、p.308.)。
 要するに、いったん共産党が権力を手中にすれば、虚偽的なまたは欺瞞的な名称には何ら害悪は存在し得ないのだった。//
 (5)ドイチャー(Deutscher)のようなトロツキーの支持者や崇拝者は、トロツキーが「社会ファシズム」とのスローガンに反対したことを、その評価を高める事実として強調した。
 たしかにトロツキーは社会民主主義政党内の労働者大衆を共産党から切り離すという理由で、このスローガンを批判した。しかし、社会民主主義者たちに関して何らかの現実的な政策方針を彼は持っていなかったように見える。
 トロツキーは、改良主義ときっぱりと決別しないで社会民主主義の再生を図っている諸組織との永続的な協力関係など語ることはできない、と書いた。
 同じ時期に、ヒトラーの権力継承の前に、彼は、「社会ファシズム」を語って同時に社会民主主義者に屈服していると、スターリン主義者たちを非難した。
 ナツィの勝利の直後の1933年6月には、ヒトラーの従僕であるドイツの社会民主党との統一戦線などを考えつくこともできない、と書いた。
 しかし、トロツキーの憤激は、1934-35年のソヴィエト政策の変更に対して、ひどく真剣に向けられた。
 スターリニズムは、その右翼の様相を最終的に提示した。スターリニストたちは、第二インターナショナルの裏切り者たちと同盟した。さらに悪いことには、彼らは平和と国際的仲裁を語り、さも重要な違いがあるかのごとく、世界を民主主義者とフシストに分けている。
 彼らは、世界戦争の脅威を与えるファシズムについて語っているが、しかし、マルクス主義者として、帝国主義戦争には「経済的基盤」があることを知らなければならない。
 彼らスターリニストたちはジュネーヴで、資本主義諸国の間での戦争も同じように含む概念用法で侵略者(aggressor)を定義することを受諾すらした。
 これは、ブルジョア平和主義に対する屈服だ。マルクス主義者は原理として、全ての戦争に反対してはならない。クエーカー教徒やトルストイ愛好者に向けた種類の偽善的言葉遣いを残すものだ。
 マルクス主義者は、階級の観点から戦争を判断しなければならない。そして、侵略者とその犠牲者の間のブルジョア的区別に関心を持ってはならない。
 マルクス主義者の原理は、侵略的であれ防衛的であれ、プロレタリアートの利益となる戦争は正しい(just)戦争であり、一方で帝国主義国間の戦争は犯罪だ、ということにある。//
 (6)社会民主主義者に対する態度の変化についてのトロツキーの初期の訴えは全て、実際には幻想的な(illusory)もので、かりに彼に権力があったとしても成果を何ら生まなかっただろう。社会民主党<と向かい合った>イデオロギー上の党を維持することは可能だと彼は空想し、一方で同時に、特定の情勢下での彼ら社会民主主義者の助けを懇願してもいたのだ。
 フランスがナツィ・ドイツと折り合うのを阻止するために、スターリンが「人民戦線」と社会主義者との間の反ファシスト同盟の政策を開始したとき、スターリンは、かりに自分の政策が成功するとすれば、いずれにせよ宣伝活動の観点から、大きな代償を払わなければならない、と意識していた。  
 トロツキーは他方で、事あるごとに偽善者、ブルジョアジーの代理人、労働者階級に対する裏切り者、帝国主義者の下僕だ-これらは「社会ファシスト」への軽蔑語にすぎなかった-と非難しつつ、彼ら社会主義者との反ナツィ戦線を形成することは可能だと考えた。
 トロツキーがかりに当時にコミンテルンの責任ある地位に就いていたとしても、彼の政策方針は、スターリンのそれよりも成功する見込みは少なかっただろう。//
 (7)トロツキーはじつに、(戦争と革命の間に何度も繰り返された)国際的な条約、調停、軍縮等々を信頼するのは怠惰な反動的性格をもつ、というレーニンの見解の、真の支持者だった。
どちらが侵略者であるかが問題なのではなく、重要なのは、どの階級が戦争を遂行しているか、なのだ。
 世界のプロレタリアートの利益を代表する社会主義国家は、いったい誰が戦争を開始したかとは関係なく、全ての戦争について「正しい」(right)。そして、帝国主義国の諸政府との条約類に拘束されるなどと、真面目に考えてはならない。
 スターリンの関心事は、世界革命ではなく、ソヴィエト国家の安全保障だつた。ゆえに、あらゆる場合に、平和の擁護者で国際的な法と民主主義の有力な主張者だと自分を見せかけなければならなかった。
 しかしながら、トロツキーは、情勢の主要な要素は1918年に自分が見ていたもの、つまり一方での帝国主義諸国、他方での社会主義国家や革命を行う正しいスローガンを待ち望んでいる世界のプロレタリアートだ、と信じていた。
 現実政治の唱道者であるスターリンは、「革命の上げ潮」を信じなかった。そして、ヨーロッパの共産主義諸党をソヴィエトの政策実現の道具として利用した。
 トロツキーは、「革命戦争」の絶えざる主張者だった。そして、彼の全教理は、事物の当然のこととしてかつ歴史の法則に従って、世界のプロレタリアートは革命を志向しており、スターリン主義官僚制の誤った政策だけがこの本来の趨勢が現実化するのを妨げている、という確信にもとづいていた。//
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 つぎの第5節の表題は、<ファシズム、民主主義および戦争>。

1967/L・コワコフスキ著第三巻第五章第二節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.190-p.194。合冊本ではp.939-942。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第2節・スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析。
 (1)トロツキーの全ての分析が基礎にしていた確信は、彼とレーニンの政策方針は間違いなく正しい(right)、永続革命理論は事実によって豊富に裏付けられている、「一国での社会主義」は致命的に誤っている、というものだった。
 彼は「ロシア革命に関する三つのコンセプト」と題する論文(1939年)で、つぎのように主張した。
 人民主義者(Populists)は、ロシアは資本主義段階を完全に迂回できると考えた。一方、メンシェヴィキは、ロシア革命はブルジョア的性格のものでのみありうる、そしてプロレタリアート独裁という段階を語ることはできない、と考えた。
 そしてレーニンは、プロレタリアートと農民の民主主義的プロレタリアート独裁というスローガンを提唱した。この旗のもとで実施される革命は西側での社会主義革命を促進し、急速なロシアでの社会主義ヘの移行を可能にするだろう、と。
 トロツキー自身の見方は、民主主義革命という基本方針はプロレタリアート独裁の形態でのみ達成可能だが、プロレタリアート独裁は革命が西側ヨーロッパに伝搬してのみ維持することができる、というものだった。
 レーニンは1917年に同じ方針に立ち、その結果としてロシアでのプロレタリア革命は成功した。
トロツキーがその<ロシア革命の歴史>で長々と示したのは、ボルシェヴィキの誰も、ロシアのプロレタリアートは西側のプロレタリアートに支持されて初めて勝利することができる、ということを疑っていなかったこと、そして、「一国での社会主義」というきわめて有害な考え方は1924年の末にスターリンが考案するまでは誰の頭の中にも入っていなかった、ということだった。//
 (2)1917年以降はレーニンのものでもあった、トロツキーの疑いなく正しい(correct)政策方針が「寄生的官僚制」による統治を帰結させ、また、トロツキー自身が権力から排除されて裏切り者との烙印を捺されたのは、一体いかにして生じたのか?
 これに対する答えは、ソヴィエト権力の頽廃と「テメミドール主義」に関する分析のうちに見出されることになる。//
 (3)追放されていた最初の数年間、トロツキーがとっていた見方は、スターリンとその仲間たちはロシアの政治的範疇の中の「中央」(centre)を占め、革命に対する主要な危険は-ブハーリンとその支持者たちに代表される-「右翼」および「テルミドール反動」、つまり資本主義の復活、の脅威のある反革命分子から生じる、というものだった。
 トロツキーは、これに従って、スターリンに反革命に対する支援を提示した。
 彼は、スターリンは右翼にあまりに譲歩しすぎていて、その結果、「工業党」やメンシェヴィキの連続裁判に見られるように、罷業者や人民の敵が国家の計画部局の高い地位を占めて工業化を意識的に遅らせている、と考えた。
 (トロツキーは、被告人たちの有罪を暗黙にながら信じていた。そして、この裁判がでっち上げだとの思いは、一瞬なりとも持たなかった。
 彼は数年のちに、自分や仲間たちの悪事が大きな見せ物裁判で強力な証拠でもって同じように立証されていってようやく、驚嘆し始めた。)
 トロツキーは1930年代初めに、スターリン体制は「ボナパルティズム」だとした。
 しかし1935年に、フランス革命では初めにテルミドールが来て、ナポレオンはその後だった、順序はロシアでも同じであるに違いない、そしてすでにボナパルトは登場しているので、テルミドールはやって来てかつ過ぎたに違いない、と観察した。
 彼は「労働者国家、テルミドールおよびボナパルティズム」と題する論文で、その理論をいくぶん修正した。
 テルミドール反動はロシアで1924年(すなわち彼自身が権力から最終的に排除された年)に発生した、と述べた。
 しかしそれは、資本主義者の反革命ではなく、プロレタリアートの前衛を破壊し始めていた官僚機構による権力奪取だった。
 生産手段を国家がまだ所有しているので、プロレタリアート独裁は維持されている。しかし、政治権力は官僚層の手中へと移った。
 しかしながら、ボナパルティズム体制はすみやかに崩壊するに違いない。歴史の法則に反しているのだから。
 ブルジョア反革命はあり得るが、本当のボルシェヴィキ党員たちが適切に組織されるならば、避けることができるだろう。
さらにトロツキーは、こう付け加えた。ソヴィエト国家の労働者階級性に関する自分の見方を決して変更しないが、より精細に歴史的類推による説明を施しただけだ、と。
 フランスでも、テルミドールは<アンシャン・レジーム>への元戻りではなかった。
 ソヴィエト官僚制は社会階級(class)ではない。しかし、プロレタリアートからその政治的権利を剥奪し、残虐な専制制度を導入している階層(caste)だ。
 しかしながら、現在のかたちでのその存在は十月革命の至高の成果である国有財産制に依存しており、その成果を官僚制は守るように強いられるし、それなりの方法で守ってきた。
 ゆえに、スターリン主義の頽廃と闘いつつ、世界革命の根拠地として無条件にソヴィエト同盟を防衛することは、世界のプロレタリアートの義務だ。
 (トロツキーは、この二つの意図が実践的にいかにして結合されるのかについて、詳細には説明しなかった。)
 1936年までには、彼はつぎの結論に到達した。スターリニズムを改革や内部的圧力で打倒することはできない。簒奪者を実力(force)によって排除する革命が起こらなければならない。
 この革命は所有制度を変更するものではなく、ゆえに社会的革命ではなく、政治的革命だ。
 これはプロレタリアートの先進的前衛によって実施され、スターリンが破壊した真の(true)ボルシェヴィズムの伝統を具現化することになるだろう。//
 (4)「一国での社会主義」理論は、ロシアおよび外国での官僚主義的過ちの全てについて、責任がある。
 それは世界革命の希望を、ゆえに世界のプロレタリアートでのロシアの主要な支援という希望を、放棄することを意味する。
 一国での社会主義は不可能だ。換言すれば、開始することはできても完了させることができない。それ自体の内部に閉じられた一国では、社会主義は腐敗せざるを得ない。
 1924年末までは世界革命を発生させるという適切な政策目標を追求したコミンテルンは、スターリンによって、ソヴィエトの政策と陰謀の道具へと変質させられた。そして、世界の共産主義運動は、頽廃と不能の状態に落ち込むことになった。//
 (5)トロツキーは、つぎのことを説明しようと多数の試みをした。プロレタリアートの政治権力が破壊され、官僚機構が支配権を獲得し、(のちに再三にわたり述べたように)統治の全体主義的システムを導入した、と。
 多数の書物や論文でのこの試みは、首尾一貫した議論を形づくるものではなかった。
 彼はしばしば、頽廃の主要な原因は世界革命の勃発が遅れていることにある、と主張した。西側のプロレタリアートはその歴史的な任務を適時に引き受けることをしなかった、と。
 彼は他方で同様にしばしば、ヨーロッパでの革命の敗北はソヴィエト官僚制の過ちだ、と主張した。
 かくして、いずれの現象が原因であり結果であるのかについて、疑問が残った。-のちには彼が指摘したごとく、相互に悪化させ合っていたのだけれども。
 我々は<裏切られた革命>で、官僚主義が成長した社会的基盤はネップ時代のクラク〔富農〕を厚遇した誤った政策だ、と語られる。
 かりにそうであるなら、富農の廃絶と第一次五カ年計画のもとでの工業化の強行によって、官僚機構はかりに破滅しなくとも少なくとも弱体化したことになるだろう。
 実際に正確には、それとは反対のことが起きた。そしてトロツキーは、なぜそうだったかをどこでも説明していない。
 彼はのちに同じ書物で、官僚機構は元々は労働者階級のための機関だったが、のちに物品の配分に関与するようになったときに、「大衆の上」のものになって特権を要求し始めた、と語る。
 しかしこれは、特権のシステムの発生は避けられ得たのか否か、どのようにすれば、を説明していないし、なぜ本当は権限のある労働者階級がそのような事態が起きるのを許したのか、も説明していない。
 トロツキーは同じ書物でさらに、官僚制的統治の主要な原因は、歴史的使命を履行すべき世界のプロレタリアートの緩慢さだ、と語る。
 初期の小冊子<ソヴィエト連邦発展の諸問題>(1931年)では、彼は別の理由を挙げる。すなわち、内戦後のロシアのプロレタリアートの疲弊、革命の時代に育まれた幻想の解体、ドイツ、ブルガリアおよびエストニアでの革命的蜂起の挫折、および中国とイギリスのプロレタリアートの官僚主義的裏切り。
 彼は翌年の論文で、戦争に疲弊した労働者たちが秩序と再建のために権力を官僚機構の手に委ねた、と述べた。
 しかし、なぜそのことが自分が指導する「真のボルシェヴィキ・レーニン主義者」によって実行され得なかったのか、を説明しなかった。 //
 (6)多くの種々の説明から、一つの明瞭な論拠が明らかになる。つまり、トロツキー自身は官僚制的システムの形成に些かなりとも関係しなかった、そして、官僚機構は革命後の初期6年の間の独裁とは何の関係もなかった、ということだ。
 しかし、現実は、これらの反対だった。
 初期6年の間に党組織が絶対的な権力を行使したという事実は、スターリンとその徒党の体制とは関係がない、と主張しているとトロツキーの議論は読める。なぜなら、この時代の党は「プロレタリアートの先進的前衛」であり、一方でスターリンの後続の体制は何物も何者も、いっさい代表しなかったからだ。
 そうであるならば、我々はつぎのように尋ねることができる。
 なぜプロレタリアートは、いかなる社会的背景も欠く簒奪者の徒党たちを一掃することができなかったのか?。
 トロツキーはこれに対する答えも用意している。すなわち、プロレタリアートは、現在の状況では自分たちの革命は資本主義の復活を招くだろうと怖れたので、スターリンの統治に反抗しなかった(しかし、継続的な反抗があった、と我々はいたるところで読める)。//
 (7)トロツキーの議論からは、このような惨憺たる結果が生まれるのを避ける方法は全くなかったのか否か、が明確ではない。
 全体として言えば、なかった、ように思われる。なぜなら、あったならば、トロツキーとその仲間たちは絶えず正しい政策方針と本当のプロレタリアートの利益を「表明」しようとしていたのであって、官僚層による権力奪取を確実に阻止できたはずだろう。
 トロツキーたちが阻止しなかったとすれば、その理由は、そうできなかったからだ。
 かりに官僚機構が可視的な社会的基盤なくして存続しつづけたとすれば、そのことはきっと、歴史の法則によるところに違いない。//
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 つぎの第3節の表題は、<ボルシェヴィズムとスターリニズム。ソヴィエト民主主義という観念>。

1954/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。原書のp.492-p.496.
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 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言②。
 (11)ボルシェヴィキの一連の布令類の中でも最上位の位置を占めるこの文章は、ロシアを支配する至高の権力を、ボルシェヴィキ中央委員会以外の誰もその資格を認めなかった組織が掌握した、と宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、政府を転覆させるためではなく首都を防衛するために、軍事革命委員会を設立した。
 クーを正当化するものとされていた第二回全国ソヴェト大会は、ボルシェヴィキがすでにその名前で行動したとき、開会すらされていなかった。
 しかしながら、こうした手続的推移は、誰の名前でもって権力が奪取されるかには意味がない、とするレーニンの主張と合致していた。
 彼は前の晩に、こう書いていた。「そのことはただちには重要ではない。軍事革命委員会が奪っても、『別の何かの装置』がそうするのであっても。」
 クーが正当化されていないままで静かに実行されたために、ペトログラードの民衆はこの宣言的主張を真剣に受け取るべき理由がなかった。
 目撃証人たちによれば、10月25日にペトログラードには日常生活が戻って、事務所や店舗は再営業を始め、工場労働者たちは仕事へと向かった。そして、娯楽施設は再び群衆で溢れた。
 ひと握りの主だった人物たち以外は誰も、何が起きたかを知らなかった。首都は武装したボルシェヴィキの鉄の拳で握られており、もはや全く同じ事態ではないだろうことも。
 レーニンは、のちにこう語った。世界革命は「羽毛を拾い上げる」ように簡単だった、と。(194)
 (12)その間、ケレンスキーはプスコフ(Pskov)に向かって急いでいた。そこには北部戦線の司令部があった。
 歴史の精巧な捻りだろう、ボルシェヴィキに対してただ一つ動員可能な兵団は、二ヶ月前にはケレンスキーがコルニロフの「大逆」に参加した責任を追及した、同じ第三騎兵軍団のコサック部隊だった。
 彼らはコルニロフを抹殺して自分たちの司令官のクリモフを自殺に追い込んだ人物として、ケレンスキーを侮蔑していた。その結果として、彼らはケレンスキーの求めに応えるのを拒否した。
 ケレンスキーは最終的には、ルガ(Luga)を経由して首都に前進するように彼らのうちのある程度を説得した。
 アタマン(Ataman)の司令官のP. N. Krasnov の指揮のもとで、彼らはボルシェヴィキが送り込んでいた兵団を撒き散らし、ガチナ(Gatchina)を占拠した。
 その日の夕方、ツァールスコエ・セロ(Tsarskoe Selo)に着いた。そこは、首都まで二時間の進軍の位置にあった。
 しかし彼らは、他のどの軍団も加わらないことに失望し、それ以上進むのを拒否した。//
 (13)ペトログラードの状況は、実質的に、喜劇のごとく見えた。
 ボルシェヴィキが大臣たちは解任されたと宣言した後で、彼ら大臣は冬宮のネヴァ河側にあるMarachite〔孔雀石〕室にとどまっていた。ケレンスキーが救援軍を率いて到着するのを待っていたのだ。
 そのために、スモルニュイに集まっていた第二回ソヴェト大会は、一時間、一時間と延期しなければならなかった。
 午後2時、クロンシュタットから5000人の海兵たちが到着した。しかし、この「革命の誇りと美」である海兵たちは、武装していない民間人を手荒く処理するのには慣れていたが、戦闘する意欲はなかった。
 彼らは冬宮を攻撃して反撃の砲弾を受けたとき、襲撃をやめた。
 (14)レーニンは、内閣(推測するにその逃亡が気づかれていないケレンスキーを含む)がボルシェヴィキの手に入るまでは、公衆の前に姿を見せようとはしなかった。
 彼は包帯をし、鬘を被り、眼鏡を着けて、10月25日のほとんどを過ごした。
 ダンとスコベレフが近くを通ってレーニンの変装を見破ったあとで、隠れた行動に終止符を打ち、床で仮眠をとった。トロツキーが行き来して、最新の報せを伝えた。//
 (15)トロツキーは、冬宮がまだ耐えている間はソヴェト大会を開会するつもりはなかったが、しかし代議員たちが去ってしまうのを怖れて、午後2時35分、ペトログラード・ソヴェトの臨時会議を招集した。
 誰々がこの会議での検討に参加していたかを、確定することはできない。エスエルとメンシェヴィキはその日の前にすでにスモルニュイからいなくなっており、建物の中には数百名のボルシェヴィキと諸地方から来ていた親ボルシェヴィキの代議員たちしかいなかったので、事実上は完全にボルシェヴィキと左翼エスエルのものだった、と安全に言うことができる。//
 (16)会議(これにレーニンはまだ出席しなかった)を開いてトロツキーは、つぎのように表明した。「軍事革命委員会の名のもとに、臨時政府は存在しなくなったと宣言する」。
 トロツキーの表明文の一つに反応してある代議員が、「きみたちは全ロシア・ソヴェト大会の意思を宣告するのが早すぎる」とフロアから叫んだとき、トロツキーはつぎのように言い返した。//
 「全ロシア・ソヴェト大会の意思は、昨晩に起きたペトログラードの労働者および兵士たちの蜂起という偉大な功績によって予め決定されている(predetermined, pre-dreshena)。
 いま我々がしなければならないのは、この勝利を拡大することだけだ。」//
 労働者および兵士たちの「蜂起」とは、何のことか? そう十分に疑問視し得ただろう。
 しかし、この言葉の意図は、ボルシェヴィキ中央委員会がその名前で「予め決定していた」決定を受容すること以外の選択はあり得ない、と大会代議員たちに知らせることだった。//
 (17)レーニンが短いあいだ、姿を現した。そして、代議員たちを歓迎し、「世界的社会主義革命」を熱烈に呼びかけた。(197)
 そのあと彼は、再び舞台から消えた。
 トロツキーは、レーニンがこう語ったと想起している。「地下生活とPereverzev 体験(<pereverzevshchina>)からの権力への移行は突然すぎた」。
 そして、トロツキーはぐるぐると歩き回って、ドイツ語でこう付け加えた。「<目が眩む(Es schwindelt)>」(「It's dizzying」)。(198)//
 (18)午後6時30分、軍事革命委員会は臨時政府に対して、降伏するかそれとも巡洋艦<オーロラ>とペーター・パウル要塞からの砲撃に遭うか、という最後通告を発した。
 閣僚たちは今にも救援が来るのではないかと期待して、回答しなかった。この頃、ケレンスキーが忠実な兵団を率いて首都に接近しているとの風聞があったのだ。(199)
 彼らは、物憂げに雑談し、電話で友人と会話し、長椅子の上で休み、身体を伸ばした。//
 (19)午後9時、巡洋艦<オーロラ>が砲撃を始めた。弾薬を込めていなかったので、一度だけの一斉空砲射撃であり、再び静寂になった。-十月に関する伝説のうちに著名な位置を占めるには、これでも十分だった。
 2時間後、ペーター・パウル要塞が爆撃を始めた。これは実弾だったが、その照準が不正確で、30から35発の丸弾のうち二発しか冬宮に当たらず、微少な損害を与えたにとどまった。(200)
 数カ月にわたる工場や連隊での組織工作のあとで分かったのは、ボルシェヴィキは自分たちの信条のために死ぬのを厭わない実力部隊を持っていない、ということだった。
 僅かしか防衛されていなくとも臨時政府の者たちは対抗心を持ったままだった。そして、臨時政府は解体したと宣言した者たちを嘲弄した。
 実弾爆撃の隙間に、赤衛軍の部隊がいくつかある入り口の一つから冬宮に侵入した。しかしながら、武装した<ユンカー>に対抗されて、ただちに降伏した。//
 (20)夜の帳が深くなるにつれて、王宮の防衛者たちは約束された救援がないことに意気消沈し、撤兵し始めた。
 最初に去ったのは、コサック兵だった。それに、武器を装備した<ユンカー>が続いた。
 女性決死部隊は、とどまった。
 深夜まで防衛に加わっていたのは彼女らと、Marachite〔孔雀石〕室を防備していた一握りの十歳代のカデットたち〔立憲民主党員〕だった。
 冬宮から銃砲がもう発せられなくなったとき、赤衛隊と海兵たちが注意深く接近した。
 最初に突入したのは、エルミタージュ側の開いた窓へとよじ登った海兵たちとPavlovskii 連隊の兵士たちだった。(201)
 他の者たちは、閂がかけられていない門を通って入った。
 冬宮は、急襲によって奪取されたのではない。アイゼンスタインの映画<十月の日々>が描くような突入する労働者、兵士・海兵たちの隊列の映像は全くの作り物で、バスティーユ牢獄の陥落のイメージをロシアに与えようと狙っていた。
 実際には、防衛することをやめた王宮は、暴徒となった群衆に荒らされた。
 被害者は死亡者5名、重傷者数名が全てで、そのほとんどは流れ弾が当たったことによるものだった。
 (21)深夜が過ぎ去り、王宮は豪奢な内装品を強奪したり破壊したりする群衆で溢れた。
 女性防衛者のうち何人かは、レイプされたと言われている。
 司法大臣のP. N. Maliantovich は、臨時政府の最後の瞬間について、つぎのような生々しい描写を残した。
 「突然にどこかから、騒音が上がった。それはすぐに強くかつ大きくなって近づいて来た。
 その騒音の中で-別々だったが一つの波に融合していた-、何か特別な、従前の騒音とは違う何かが、何か最後だと感じさせる音が、鳴り響いた。<…>
 最後がすぐにあるのが、瞬時に分かった。<…>//
 横たわっていたか座っていた者たちは跳び上がって、外套に手を伸ばした。<中略>//
 物音が、ますます強く急速になって、大きな波になって、我々に向かって押し寄せてきた。<…>
 毒ガスによる殺戮に遭うがごとき、耐えられない恐怖が我々を貫き、掴んだ。<…>//
 これは全て、数分の間でのことだった。<…>//
 控え室に向かう扉のところで、一群の鋭く興奮した叫び声を、いくつかの別々の射撃音を、床を踏む足音を聞きつづけた。足音のいくつかは激しく踏み叩き、動き、それらが入り混じっていて、段々と大きくなり、混沌としたまとまりとなって響いた。そして、恐怖が極限に達した。//
 明瞭だった。襲撃されている。我々は襲撃で掴まれていた。<…>
 防衛は役立たなかった。被害者は無意味な生け贄になるだろう。<…>//
 扉がサッと開いた。<…> 一人の<ユンカー>が飛び込んできた。
 警戒心を露わにし、かつ敬礼しつつ、彼の顔は緊張していたが、決然たるものがあった。
 『臨時政府は、何を司令しているのか?
 臨時政府が命令するとおりに、我々は行動する。』//
 『そんなものは必要ない! 無用だ!
 もう明らかだ! 血を流すな! 降参だ!』
 我々は、事前の合意もなく、そうしたかった。お互いに見つめ合って、全員の眼の中にある同じ感情を読み取った。//
 Kishkin が、前に進み出た。『彼らがここにいるということは、王宮はすでに奪取されているという意味だ』。(*)//
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 (*) N. M. Kishkin はカデットの臨時政府一閣僚で、ケレンスキーが冬宮を去った後の責任者に就いていた。
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 『そうだ。入り口は全て奪い取られている。
 全員が降伏した。
 この区画だけが、まだ守られている。
 臨時政府は、何を司令しているのか?』//
 Kishkin が言った。『血を流したくない。力(force)に屈服する。降伏する。』//
 扉の傍らで、恐怖が弛まなく上昇してきた。また、血を流すことになる、そうせずに済むにはもう遅すぎる、という不安がよぎり始めた。<…>
 我々は不安になって叫んだ。『急げ! 行って彼らに告げろ! 血はいやだ!。降伏する!』//
 その<ユンカー>は去った。<…>
 全ての出来事は一瞬のうちに起きた、と私は思う。」(202)
 (22)午前2時10分にアントノフ=オフセエンコによって、閣僚たちは拘束された。
 護衛つきでペーター・パウル要塞へと連れていかれた。
 途中で彼らは、リンチで殺されるのを辛うじて免れた。//
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 (194) レーニン, <PSS>XXXVI, p.15-p.16.
 (195) トロツキー, <歴史>Ⅲ, p.305-6.
 (196) K. G. Kotelnikov, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1928), p.164, p.165.
 (197) 同上, p.165-6.
 (198) トロツキー, <レーニン>, p.77.
 (199) <Rech'>No.252(1917年10月26日), <Revoliutsiia>Ⅴ収載, p.182.
 (200) <Revoliutsiia>Ⅴ, p.189.
 (201) Dzenis, <Living Age>No.4049(1922年2月11日)収載, p.331.
 (202) Maliantovich, <Byloe>No.12(1968年)所収, p.129-p.130.
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 つぎの第12節の目次上の見出しは、「第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可し、講和と土地に関する布令を承認する」。

1953/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言①。
 (1)ボルシェヴィキ・クーの最終段階は、10月24日、火曜日の朝に進行していた。それは、軍事幕僚たちが政府によって前夜に命じられた熱の入らない手段を履行したあとだった。
 10月24日の早い時間に、<ユンカー(iunkers)>が戦略的重要地点を護衛する義務を受け持った。
 二または三の部隊が、冬宮の防衛のために派遣された。そこで彼らは、140人の志願者から成るいわゆる女性決死部隊(Women's Death Battalion)、いくつかのコサック、自転車部隊、将校に指揮された義肢の、および若干の銃砲の破片が体内にある、40人の戦争傷病者の兵団と合流した。
 驚くべきことに、一発の銃砲も用いられなかった。
 <ユンカー>は、<Rabochiipof>(<元プラウダ>)と<兵士>の印刷所を閉鎖した。 スモルニュイとの電話線は、切断された。
 親ボルシェヴィキの兵士や労働者が首都中心部に入るのを阻止するため、ネヴァ河(Neva)に架かる橋を上げよとの命令が、発せられた。
政府軍事幕僚は、連隊に対して軍事革命委員会の指示を受けることを禁じた。
 また、実際の効果はなかったが、軍事革命委員会のコミサールを逮捕せよとも命じた。(187)//
 (2)こうした準備によって、危機の雰囲気が生まれた。
 その日、ほとんどの事務所は午後2時半までに閉じられ、人々は家へと急いで帰って、街頭は空になった。
 これは、ボルシェヴィキが待ち望んでいた「反革命」の合図だった。
 ボルシェヴィキはまず、彼らの二つの新聞を復刊させた。午前11時までに、これを達成した。
つぎに、中央電信電話局とロシア電信庁を奪取すべく、軍事革命委員会は武装分団を派遣した。
 スモルニュイからの電話線は再びつながった。
 このように、クーの最も早い目標は、情報と通信線の中心地だった。//
 (3)その日午後に行われた唯一の実力行使(violence)は、軍事革命委員会の部隊がネヴァ河を横切る橋梁を下げさせたことだった。//
 (4)蜂起がこの最後で決定的な段階に至っているとき、軍事革命委員会は10月24日夕方、風聞にもかかわらず、反乱をしているのではなく、たんに「ペトログラード連隊と民主主義」を反革命から防衛する行動をしている、との声明文を発した。(188)//
 (5)考えられ得ることしてはこの虚偽情報の影響を受けて、全く連絡をとっていなかったに違いないレーニンは、同僚たちに実際に行っていることをさせるべく、絶望的な覚え書を書いた。//
 「私はこの文章を(10月)24日夕方に書いている。状況はきわめて深刻だ。
 今や本当に、ますます明らかになっている。蜂起を遅らせるのは、死に等しい。//
 ある限りの最大の力を使って、同志たちに訴えたい。全てがいま、危機一髪の状態だ。どの集会に(ソヴィエト大会であっても)諮っても回答されない問題に直面している。答えられるのは、人民、大衆、武装した大衆の闘いだけだ。//
 コルニロフ主義者のブルジョア的圧力、Verkhovskii の解任は、待つことはできない、ということを示す。
 ともかく何であれ、必要だ。この夕方、この夜に、政府人員を拘束すること、<ユンカー>を武装解除する(抵抗があれば打ち負かす)こと、…<略>。
 誰が、権力を奪うべきなのか?
 これは、今すぐには重要でない。軍事革命委員会に権力を、または「何らかの他の装置」を奪取させよ。…<略>//
 権力掌握こそが、蜂起の任務だ。その政治的目標は、権力を奪取した後で初めて明らかになるだろう。//
 10月25日の不確実な票決を待つのは、地獄か形式主義だ。
 人民には、投票によってではなく実力行使でもってその問題を解決する権利と義務がある。…<略>」(*)//
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 (*) レーニン, <PSS>XXXIV, p.435-6. Verkhovskii は、ロシアは中央諸国と即時講和をすべきだと閣僚会議で主張して、その前日(10月23日)にその職を解任されていた。<SV>No.10, 1921年6月19日, p.8.
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 (6)レーニンは、その夜おそく、スモルニュイにやって来た。
 彼は完全に変装していて、包帯を巻いた顔からして歯医者の患者のように見えた。
 途中で政府の巡視隊にほとんど逮捕されるところだったが、酔っ払っているふりをして免れた。
 スモルニュイでは、背後の部屋の一つにいて、最も親しい仲間たちだけが近づけるようにして、姿を消したままでいた。
 トロツキーは、こう想起する。レーニンは、軍事幕僚との間に進行中の交渉について聞いて懸念を覚えたが、この対話は見せかけ(a feint)だと理解すると、ただちに愉快に微笑んだ。//
 レーニンは「おう、それはよい(goo-oo-d)」と陽気に強い声で言って、緊張して手を擦りながら、部屋の中を行ったり来たりしていた。
 「それは、とても(verr-rr-ry)よい」。
 レーニンは軍事的な策謀を好んだ。敵を欺くこと、敵を馬鹿にすること-何と愉快な仕事だ!(189)//
 レーニンはその夜を床の上でゆっくりと過ごした。その間に、ポドヴォイスキー、アントノフ=オフセエンコ、およびトロツキーの全幅的指揮下にある彼の友人のG. I. Chudnovskii が、作戦行動を司令した。//
 (7)その夜(10月24日-25日)、ボルシェヴィキはピケを張るという単純な方法で、戦略上重要な目標地点の全てを系統的に奪い取った。
 Malaparte が論述したように、これは現代の模範的なクー・デタだった。
 <ユンカー>護衛団は、家に帰れと言われた。そして自発的に撤退するか、または武装解除された。
 こうして、闇夜に紛れて、一つずつ、鉄道駅、郵便局、中心電話局、銀行、そして橋梁が、ボルシェヴィキの支配のもとに置かれた。
 抵抗に遭遇することはなく、一発の銃火も撃たれなかった。
 ボルシェヴィキは、想像し得る最もさりげない方法でエンジニア宮を奪取した。
 「彼らは入ってきて、幕僚たちが立ち上がって去っていった座席を占めた。かくして、幕僚本部は奪取された。」(190)
 (8)ボルシェヴィキは、中央電信電話交換局で冬宮からの電話線を切断した。しかし、登録されていなかった二つの線を見逃した。
 この二つの線を使って、Malachite 室に集まっていた大臣たちは外部との接触を維持した。
 ケレンスキーは、公的な声明では自信を漂わせてはいたものの、ある目撃者によると、「苦悩と抑制した恐怖」を隠して半分閉じた眼で、虚ろを見つめて誰も視ておらず、老けて疲れているように見えた。(191)
 午後9時、T・ダン(Theodore Dan)とAbraham Gots が率いるソヴェト代表が現れて、「革命的」軍事参謀の影響によってボルシェヴィキの脅威を過大評価している、と大臣たちに告げた。
 ケレンスキーは、彼らを閉め出した。(192)
 その夜にケレンスキーはついに、前線の司令官たちに連絡をし、救援を求めた。
 しかし、無駄だった。誰も求めに応じなかった。
 10月25日午前9時、ケレンスキーは、セルビア将校に変装し、アメリカ合衆国大使館から借りた車で冬宮を抜け出した。その車はアメリカの旗を立て、助けを求めて前線へと走った。
 (9)その頃までに、冬宮は、政府の手に残された唯一の建造物だった。
 レーニンが執拗に主張したのは、第二回ソヴェト大会が正式に開会して臨時政府を排斥する前に、大臣たちは拘束されなければならない、ということだった。
 しかし、ボルシェヴィキの軍組織はその任務を果たすのに適切ではなかった。
 彼らボルシェヴィキ部隊は主張はしたけれども、敢えて銃砲を放とうとする者たちがいなかった。
 4万5000人いるとされた赤衛隊(Red Guards)とペトログラード守備連隊内部の数万の支持者たちは、どこにも現れなかった。
 冬宮に対する不本意な攻撃が、明け方に始まった。しかし、最初の射撃の音を聞いて、攻撃者たちは退却した。
 (10)苛立ちを燃え上がらせ、前線の兵団による介入を怖れて、レーニンは、もう待たない、と決断した。
 午前8時から9時までの間に、彼は、ボルシェヴィキの作戦指揮室に入った。
 最初は誰も、彼が何者なのか分からなかった。
 ボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、彼がレーニンだと認識して、嬉しさが爆発した。「ウラジミル・イリイチ、我が父だ。きみだとは気づかなかった」と叫びながら、レーニンを抱擁した。(193)
 レーニンは座って、軍事革命委員会の名前で臨時政府が打倒されたことを宣言する文書を起草した。
 プレスに(10月25日)午前10時に発表された文章は、つぎのとおりだった。
 「ロシアの市民諸君!
 臨時政府は打倒された。
 政府の権能は、ペトログラードのプロレタリアートと守備連隊の頂点に位置する、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェト、軍事革命委員会の手に移った。
 人民が目ざして闘うべき任務-民主主義的講和の即時提案、土地にかかる地主的所有制の廃絶、生産に対する労働者による統制、ソヴェト政権の確立-、これらの任務の遂行は保障された。
 労働者、兵士および農民の革命に栄光あれ!
 ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトの軍事革命委員会。」(*)
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 (*) <Dekrety>I, p.1-2. ケレンスキーの妻は拘束され、この宣言書を破ったとしてつぎの日の48時間留置された。A. L. Fraiman, <<略>>(Leningrad, 1969), p.157.
 --------
 (187) <Revoliutsiia>V, p.164, p.263-4.
 (188) <SD>No.193(1917年10月26日), p.1.
 (189) トロツキー, <レーニン>p.74.
 (190) Maliantovich, <Boyle>No.12(1918年)所収, p.114.
 (191) 同上, p.115.
 (192) Melgunov,<Kak bol'sheviki>p.84-p.85.; A・ケレンスキー,<ロシアと歴史の転換点>(New York, 1965), p.435-6.
 (193) S. Uranov, <PR>No.10/33(1924年), p.277.
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 ②へとつづく。

1949/R・パイプス著・ロシア革命第11章第8節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.482-p.486.
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 第8節・党中央委員会10月10日の重大決定。
 (1)10月16日までに、ボルシェヴィキには自由になる二つの組織があったが、いずれも名目上はソヴェトに帰属していた。第一は軍事革命委員会で、クーを実施する、第二は来たる第二回ソヴェト大会で、クーの実施を正当化する。
 これらはこのときまでに、事実上は、第一に臨時政府の軍事幕僚に、第二にソヴェトのイスパルコムに取って代わった。
 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕とソヴェト大会は、10月10日にきわめて秘密裡に行われたボルシェヴィキの権力掌握の決定を実施すべきものとされた。//
 (2)10月3日と10日の間のいつかに、レーニンはペトログラードにこっそりと戻ってきた。レーニンはこれを隠れて行ったので、共産主義者の歴史研究者は今日まで彼の帰還のときを確定できていない。
 レーニンは10月24日までVyborg 地区に潜伏した。姿を現したのは、ボルシェヴィキ・クーがすでに開始されたあとのことだった。
 //
 (3)10月10日-イスパルコムとソヴェト総会が防衛委員会の設置を票決した後の一日で、この事態との関係が十分にありそうだが-、ボルシェヴィキ中央委員会のうちの12名の委員が集まって、武装蜂起の問題に関して決定した。
 この会合は深夜に、極端な予防措置に囲まれた中で、スハノフのアパートで行われた。
 レーニンは、きれいに髭を剃り、鬘と眼鏡を着けて変装してやって来た。
 このときに何が行われたかについて明らかになってことに関する我々の知識は完全ではない。二つの議事録が作成されたが、そのうち一つだけが出版され、その一つですら手を加えて修正されたものだからだ。(152)
 最も詳細な資料は、トロツキーの回想録に由来する。(153)//
 (4)レーニンは、10月25日の前に絶対にクーが実施されるのを確実にしようと決断するに至っていた。
 トロツキーが「我々が招集しているソヴェト大会では、我々が多数派を握ることがあらかじめ保障されている」として反対したとき、レーニンは、つぎのように答えた。
 「第二回ソヴェト大会の問題には、<中略>彼はいかなる関心もなかった。
 それがどれだけの重要性をもつのか? 開催されすらするのか? そして、権力を切り取る(tear out, vyrazi')ことは必要か?
 ソヴェト大会に束縛されてはならない。敵に対して蜂起の日程を教えてあらかじめ警告するのは愚かで馬鹿げている。
 10月25日はせいぜいのところ、粉飾(camouflage)として役立つかもしれない。しかし、蜂起は、ソヴェト大会よりも早く、それとは独立して、実行されなければならない。
 党は、武器を手にして、権力を掌握しなければならない。そのときには、我々はソヴェト大会について語るだろう。」(154)
 トロツキーは、こう考えた。レーニンは「敵」に大きすぎる意味を認めているのみならず、カバー(cover)としてのソヴェトの価値を過少評価してもいる。
 党は、レーニンが欲するようには、ソヴェトと無関係に権力を掌握することはできない。なぜならば、労働者と兵士たちはボルシェヴィキ党に関することも含めた全てのことをソヴェトのメディアを通じて学んでいるからだ。
 ソヴェト構造の枠外で権力を奪取することは、ただ混乱の種だけを撒くだろう。//
 (5)レーニンとトロツキーの違いは、クーの時機と正当化の問題に集中していた。
 しかし、中央委員会の何人かの委員は、権力奪取を実行するかどうか自体をすら、疑問視していた。
 ウリツキ(Uritskii)は、ボルシェヴィキは技術的に蜂起を準備していない、使用可能な4万丁の銃砲では不十分だ、と主張した。
 最も厳しい反対意見は、カーメネフおよびジノヴィエフから出て来た。彼らはその立場を、内密の手紙を通じて、ボルシェヴィキの諸組織に対して説明した。(155)
 クーの時機は、まだだ。
 「我々が深く確信するところでは、いま蜂起することは我々の党の運命を賭ける冒険であることのみならず、世界革命はもとよりロシア革命を賭けることをも意味する」。
 党は憲法制定会議の選挙で成功(do well)するのを期待することができる。最小でも議席の三分の一を獲得すれば、そのことでソヴェトの権威を補強し、ソヴェト内での影響力をさらに優ったものにすることができる。
 「憲法制定会議にソヴェトを加えたもの-これこそが、我々が追求すべき、連結した統治制度の類型だ」。
 この二人は、ロシアと世界の労働者の多数派はボルシェヴィキを支持している、とのレーニンの主張を拒絶した。
 彼らの悲観的な評価によれば、武装行動ではなくて防衛的な戦略をとることを〔いわば〕医師は患者に勧める、ということになる。//
 (6)レーニンはこの主張に対して、こう反応した。「憲法制定会議を待つのは非常識(senseless)だ。これは我々の側には立たないだろう。なぜなら、これは我々の任務を複雑なものにするだろうから」。
 この点で、レーニンは、多数派の支持を獲得した。//
 (7)討議が終わりに近づくにつけて、中央委員会は三つの派へと分かれた。
 1. レーニンだけの一人党派で、ソヴェト大会や憲法制定会議に関する考慮することなく、即時の権力掌握に賛成する。
 2. ジノヴィエフとカーメネフで、Nogin、Vladimir Miliutin およびアレクセイ・ルィコフによって支持され、当面はクー・デタに反対する。
 3. その他の数では6名の委員で、クーを支持するが、ソヴェト大会との連携がなされるべき、-この二週間は-ソヴェトの正規の支援のもとにあるべき、とのトロツキーにも賛同しない。
 過半数の10名は、「避けることができず、かつ十分に成熟した」ときに武装蜂起に賛成する票を投じた。(156)
 時機は未決定のままに、残された。
 あとに続いた事態から判断すると、一日または数日だけ第二回ソヴェト大会に先行する、というものだった。
 レーニンは、このような妥協をしなければならなかった。そして、ソヴェト大会はたんにクーを裁可することだけが求められる、という彼の主眼点を獲得した。//
 (8)軍事革命委員会の設立と、そのつぎの第二回ソヴェト大会の元となった北部ソヴェト大会の招集は、以前に記述したことだが、10月10日の中央委員会決定を実施するものだった。
 (9)カーメネフには、この決定は受容することができないものだつた。
 彼は、中央委員会の委員を離任し、その一週間後、<Novaia zhizn'>のインタビューで自分の立場を説明した。
 カーメネフは、こう語った。彼とジノヴィエフは党の諸組織に回覧の手紙を送った。それに二人は、「近い将来に武装蜂起を始めることを党が承認することに断固として反対する」と書いた。
 党がそのような決定をしていなかったとしても、とここで彼は虚偽を語ったのだが、彼とジノヴィエフおよび何人かのその他の者は、ソヴェト大会の前夜での、ソヴェトから独立した「武装の実力による権力掌握」は革命にとって致命的な結果をもたらすだろう、と考えた。そして、蜂起を避けることはできないが、時機がよくない、と。(157)
 (10)中央委員会は、クーの前にさらに三回の会合を開いた。10月の20日、21日、そして24日。(158)
 第一回めの議題は、武装蜂起に反対する見解を公にした点で冒したと主張された、カーメネフとジノヴィエフの党規約違反だった。(*)
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 (*) レーニンは間違って、ジノヴィエフはカーメネフとともに<Novaia zhizn'>のインタビュー>に加わっていたと考えていた。<Protokoly TsK>, p.108.
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 レーニンは中央委員会に対して怒りの手紙を書き送り、「スト破り」の除名を要求した。
 「我々は資本主義者たちに真実を語ることはできない。すなわち、我々はストライキへと進む(蜂起をする、と読むべし)こと、そして<時機の選択>を彼らに<隠す>こと、を<決定した>。(159)
 中央委員会は、この要求に従うことをしなかった。
 (11)これらの会合の議事録は、実質的に無意味なものにするために相当に省略されているように思われる。かりに表面どおりに理解するならば、そのときまでにすでに議論が進行中だったクーは議題ですらなかった、と推察してしまうだろう。
 (12)中央委員会の戦術は、臨時政府を挑発して、革命を防衛することを偽装したクーを開始するのを可能にさせる、報復的な手段をとるよう追い込むことだった。
 この戦術は、秘密ではなかった。
 事件の数週間前のエスエル機関誌<Delo naroda>が簡略化して書いているように、臨時政府はコルニロフと一緒に革命を抑圧し、〔ドイツ〕皇帝と一緒にペトログラードを敵に明け渡す陰謀を企てたとして責任が追及されるだろう。ソヴェト大会と憲法制定会議のいずれも解散させる用意をしていた、という責任追及はもちろん。(160)
 トロツキーとスターリンは、そのようなことが党の計画だったと、事件の後で確認した。
 トロツキーは、こう書いた。
 「本質的なことを言えば、戦略は攻撃的なものだった。
 我々は、政府を攻撃する準備をしていたが、我々の煽動活動は、敵がソヴェト大会を解散させようとしている、敵を容赦なく撃退することが必要だ、と主張することにあった。」(161)
  スターリンによると、こうだ。
 「革命(ボルシェヴィキ党と読むべし)は、不確かで躊躇させる要素を軌道の中に引き込むことを容易にするために、その攻撃行動を防衛という煙幕の背後で偽装することだった。」(162)
 (13)Curzio Malaparte は、たまたまファシストが権力奪取をしていたイタリアを訪れていたイギリスの小説家、Izrael Zangwill の困惑を、こう叙述している。
 「バリケード、路上の戦闘、舗道上の軍団」がないことに驚いて、Zangwill は、自分が革命を目撃していると信じるのを拒んだ。(163)
 しかし、Malaparte によれば、現代の革命の特徴的な性質は、まさに無血(bloodless)であることだ。訓練された突撃兵団の小部隊が、戦略的地点をほとんど静穏に掌握するのだ。
 このような厳密な正確さでもって襲撃は実行されるので、民衆一般は何が起きているかを少しも知ることがない。
 (14)この叙述は、ロシアの十月のクーにふさわしい(これをMalaparte は研究して、彼のモデルの一つとして用いた)。
 十月に、ボルシェヴィキは集団的な武装示威行動や路上での衝突をしなかった。これらは、レーニンの主張に従って4月や7月には行ったことだった。なぜ10月にはしなかったかというと、群衆は統制し難く、また反発を却って生むということが分かったからだった。
 ボルシェヴィキは、今度は、小規模の訓練された兵士と労働者の部隊に頼った。その部隊は、軍事革命委員会を装った軍事組織司令部のもとにあり、ペトログラードの主な通信と交通の中心地、利便施設や印刷工場-現代的大都市の中枢(nerve)箇所-を占拠することを任務としていた。
 政府とその軍事幕僚たちとの間の電話線を切断するだけで、ボルシェヴィキは反攻の組織化を不可能にすることができた。
 作戦行動全体が、順調かつ効果的に履行された。そのために、まさにそれが進行中だったときですら、オペラ劇場のほかにカフェやレストラン、あるいは劇場や映画館、は営業のために開いていて、娯楽を求める群衆で混雑していた。//
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 (152) <Protokoly TsK>, p.83-p.86.
 (153) L・トロツキー,<レーニン>(Moscow, 1924), p.70-p.73.
 (154) 同上, p.70-p.71.
 (155) <Protokoly TsK>, p.87-p.92.
 (156) 同上, p.86.; トロツキー,<レーニン>, p.72.
 (157) Iu・カーメネフ. <NZh>No.156/150(1917年10月18日)所収, p.3.
 (158) <Protokoly TsK>, p.106-p.121.の縮められた議事録。
 (159) 同上, p.113.
 (160) <DN>No.154(1917年9月11日), p.3., 同No.169(1917年10月1日), p.1.
 (161) トロツキー,<レーニン>, p.69.
 (162) Mints, <Dokumentry>I, P.3.
 (163) C・Malaparte, <クー・デタ: 革命の技術>(New York, 1932), p.180.
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 第8節は終わり。つぎの第9節の目次上の見出しは、<軍事革命委員会がクー・デタを開始>。

1948/R・パイプス著・ロシア革命第11章第7節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.477-p.482.
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 第7節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り(take over)。
 (1)第二回ソヴェト大会を偽装した、親ボルシェヴィキの集会は、ボルシェヴィキのクーを正当化することとなった。
 しかしながら、レーニンの執拗な主張では、クーは大会が開催される前に、軍事組織の指揮のもとにある突撃兵団によって達成されるべきものだった。
 この突撃兵団は首都の戦略上重要な地点を掌握し、政府は打倒されたことを宣言することとなっていた。これは大会に対して、不可逆的な既成事実を突きつけることになるだろう。
 この行動を、ボルシェヴィキ党の名前で行うことはできなかった。
 ボルシェヴィキがこの目的のために用いた装置は、10月早くの恐慌のときにペトログラード・ソヴェトが設立した軍事革命委員会だった。これの目的は、首都を予想されるドイツの攻撃から防衛することだとされていた。
 (2)ドイツ軍がリガ(Riga)湾で作戦行動をしたことで、事態は早まった。
 ロシア兵団がリガを撤退したあと、ドイツは偵察部隊をRevel(Tallinn)の方向へと派遣した。
 この行動は、300キロしか離れておらず、防衛に信頼を措けないペトログラードを脅かすことを装っていたので、ロシアの将軍幕僚たちは多大の関心を引いた。
 (3)首都へのドイツの脅威は、10月半ばにはますます不気味なものになった。
 9月6日/19日、ドイツの最高司令部はリガ湾にあるMoon、Ösel、およびDagoの各島の占拠を命令した。
 9月28日/10月11日に航行した小型艇隊はすみやかに機雷敷設地域を除去し、予期ししていなかった頑固な抵抗を抑えたあと、10月8日/21日にこれら三島の占領を完遂した。(135)
 敵は今や、ロシア軍の背後の地上に位置していた。
 (4)ロシアの将軍幕僚はこの海上作戦を、ペトログラード攻撃の予備行動だと見た。
 10月3日/16日、Revel からの退避が命じられた。ここは、ドイツ軍と首都の間に位置する、最後の大きい拠り所だった。
 その翌日、ケレンスキーは、危機に対処する方法に関する討議に加わった。
 ペトログラードはもまなく戦闘地帯に入ってしまう可能性があるので、政府と憲法制定会議はモスクワへと移転する、という提案がなされた。
 この考え方は一般に同意されたが、唯一の不一致は移動の時機の問題だった。ケレンスキーは、即座に行うことを望んだが、他の者たちは遅らせるのを支持した。
 政府は、広範な世論の支持を要請する会合として予備議会(Pre-Parliament)を10月7日に開催する予定でいた。この予備議会の同意を確保したあとで撤退することが、決定された。
 つぎの問題は、イスパルコムに関して何をするか、について生じた。
 合意があったのは、イスパルコムは私的な機構なので、その撤退は自分で行うべきだ、ということだった。(*)
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 (*) <Revoliutsiia>V, p.23. ケレンスキーによると、この議論は秘密のはずだったが、彼らはすぐにプレスに漏らした。同上, V, p.81.
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 10月5日、政府の専門家たちが、行政官署のモスクワへの撤退には二週間がかかる、と報告した。
 ペトログラードの諸産業を内陸部へと再配置する計画が、策定された。
 (5)このような予防措置は、軍事的かつ政治的な意味をもった。それは、フランスが1914年9月にドイツ軍がパリに接近したときにしたこと、ボルシェヴィキが1918年3月に同様の状況のもとですることになるだろうこと、だった。
 しかし、社会主義的知識人たちは、これらのうちに、「赤いペトログラード」、「革命的民主主義」の主要な基地を敵に明け渡す「ブルジョアジー」の策略を見た。
 プレスが政府の退避計画を公表する(10月6日)とすぐに、イスパルコム事務局は、自分たちの同意なくしていかなる撤退も行われてはならない、と声明した。
 トロツキーはソヴェトの兵士部門に向けて演説し、「革命の首都」を放棄しようとする政府を非難する決議を採択するよう、説得した。
 彼の決議は、こう言う。ペトログラードを防衛することができないのであれば、講和するか、別の政府に従うか、のいずれかだ。(137)
 臨時政府は、ただちに屈服した。
 同じ日に、臨時政府は、反対意見があることを考慮して撤退を一ヶ月遅らせる、と発表した。
 そのうちに、この退避の考えはすっかり放棄された。(138)
 (6)10月9日、政府は守備連隊の補充部隊に対して、予期されるドイツの攻撃を阻止するのを支援するために前線に向かうよう、命令した。
 過去の経験から予期され得たことだったが、守備連隊は、抵抗した。(139)
 この対立にかかる判断は、審判するためにイスパルコムに委ねられた。
 (7)その日遅くのイスパルコムの会合で、メンシェヴィキ派の労働者のMark Broido が、一つにペトログラード守備連隊に首都防衛に備えること、二つにソヴェトがこの目的の「計画遂行」をするための「革命的防衛の委員会」を設置(またはむしろ再構成)すること、を呼びかける決議を提案した。(140) 
 ボルシェヴィキと左翼エスエルは驚き、臨時政府の力を強くするという理由で、Broidoの決議案に反対した。
 これはしかし、際どい過半数(13対12)で採択された。
 票決のあとで、ボルシェヴィキは、過ちを冒したことに気づいた。
 ボルシェヴィキには、武装蜂起のために育ててきている軍事組織があった。それはボルシェヴィキ中央委員会に従属し、ソヴェトとは関係がなかった。
 このような地位の良さには、複雑な面があった。というのは、その軍事組織はボルシェヴィキ最高司令部の命令を忠誠心をもって遂行することができる一方で、一政党の一機関として、ソヴェトを代表して行動することはできなかった。ボルシェヴィキはその名前を用いて権力掌握を達成しようと意図していたのだったが。
 数年のちに、トロツキーはこう回想することになる。この不利な条件に気づいて、ボルシェヴィキは、1917年9月に、彼が「非党派『ソヴェト』機関」と称したものを蜂起を率いさせるために設立するよう、全ての機会を活用する、と決定していた。(141)
このことは、その軍事組織の一員だったK. A. Mekhonoshin によっても確認されている。この人物は、こう言う。ボルシェヴィキは、「守備連隊の部隊と連結する中枢部を、決定的行動のときにソヴェトの名前で前進することができるように、党の軍事組織からソヴェトへと移行させる必要がある、と感じていた」。(142)
 メンシェヴィキによって提案された組織は、この目的には理想的に相応していた。
 (8)メンシェヴィキの提案がソヴェトの総会での票決に付されたその夕方(10月9日)、ボルシェヴィキ代議員は保留の立場をとった。彼らはそのときには、ソヴェトがドイツからペトログラードを防衛するための組織を設立することに、それが「国内」の敵からも防衛するだろうかぎりで、同意していた。
 この「国内」の敵という後者によってボルシェヴィキが意味させたのは、つぎのことだ。すなわち、あるボルシェヴィキの言葉では、「臨時政府は皇帝に対する革命の主要な基地を陰険にも引き渡そうとしており、そして皇帝は、ボルシェヴィキの理解によれば、ペトログラードへの前進について、同盟する帝国主義者たちに支援されている」。(143)
こうした目的のために、ボルシェヴィキは、「軍事防衛委員会」はロシアの「反革命活動家」からはもちろんドイツ「帝国主義者」からの脅威に対して、首都の安全を確保する全ての責任を負わなければならない、と提案した。
 (9)ボルシェヴィキがBroido の提案を再定式化した内容に驚き、また何故彼らがそうしたのかを知って、メンシェヴィキはその修正に、断固として反対した。
 首都の防衛は、政府とその軍事幕僚たちの責任だった。
 しかし、総会はボルシェヴィキの案を選択し、「革命的防衛委員会」の形成に賛成する票決を行った。
 「労働者を武装させる全ての手段を講じることとともに、その手中にペトログラードとその近郊の防衛に関与する全ての力を結集すること。
 こうすることで、公然と準備されている軍および民間のコルニロフ一派の攻撃に対する、ペトログラードの革命的防衛と民衆の安全確保の二つをいずれも確実にすること」。(144)
 この異常な決議は巧妙に、ドイツ軍がもたらしている現実的な脅威に対応する新しく設立された委員会の責任と、コルニロフへの支持者による空想上の脅威とを、結びつけていた。コルニロフはどこにも、姿を見せていなかったのだが。
 メンシェヴィキとエスエルは、臨時政府は「ブルジョア」的性質をもつという悪宣伝的な強い主張と、反革命に対する強迫観念的な不安という彼らの収穫物を、このとき刈り取った。
 (10)票決の結果は、決定的に重要だった。
 トロツキーはのちに、これは臨時政府の運命を封じた、と述べた。
 彼の言葉では、これは10月25-26日に達成された勝利の10分の9でなくとも4分の3をボルシェヴィキに与えた、「静か」で「素っ気ない(dry)」革命だった。(145)
 (11)しかしながら、事態はまだ完全には終わっていなかった。総会での決定にはイスパルコムとソヴェト全体の同意が必要だったからだ。
 10月12日のイスパルコムの非公開会合で、2人のボルシェヴィキ議員がボルシェヴィキ革命を激しく攻撃した。しかし、彼らは再び敗れ、この二人以外の満場一致で、総会の決定はイスパルコムの支持を得た。
 イスパルコムは、新しい組織の名を「軍事革命委員会」と改めた(Voenno-Revoliutsionnyi Komitet。または略称してMilRevkom 〔ミルレヴコム〕)。また、これに首都の防衛の責務を付与した。(146)
 (12)問題は正式には、10月16日のソヴェトの会合で確定された。
 ボルシェヴィキは、注意を自分たちから逸らすために、ミルレヴコムを設立する決議の案文起草者に、無名の若い衛生兵である左翼エスエルのE. Lazimir を指名した。
 遅まきながらボルシェヴィキの策略(maneuver)の意味に気づいたエスエル(社会革命党)は、おそらくは欠席している同党の議員を集めるために、票決を遅らせようとしたが、失敗した。
 このエスエルの動議は却下され、彼らエスエルは棄権した。
 Broido はもう一度、ミルレヴコムは欺瞞だ、その真の使命はペトログラードを防衛することではなく、権力掌握を実行することだ、と警告した。
 トロツキーは、ロジアンコ(Rozianko)をインタビューした新聞記事を引用することで、ソヴェトの注意を逸らせた。ロジアンコは、かつての(今は政府の何の地位も占めていない)ドゥーマ議長はドイツによるペトログラード占領を歓迎する、と意味していると解釈することのできる語り口だった。(147)
 ボルシェヴィキは、Podvoiskii を副官に付けて、Lazimir をミルレヴコムの議長に指名した(十月のクーの前夜に、Podvoiskii はこの組織の長を正式に引き受けることになる)。(**)
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 (**) Lazmir はのちにボルシェヴィキに入党した。1920年にチフスによって死んだ。
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 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕のその他の委員を確定するのは困難だ。彼らはもっぱら、ボルシェヴィキか左翼エスエルだったと思われる。(+)
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 (+) N. Podvoiskii, <KL>No.18(1923年)所収, p.16-p.17.
 トロツキーは、1922年に、かりに生命が危うくなってもミルレヴコムのでき方を思い出すことはできない、と書いた。
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 しかし、誰がミルレヴコムにいたかは大きな問題ではなかった。それはクーの本当の組織者のための便宜的な旗にすぎなかったからだ。つまりは、ボルシェヴィキの軍事組織だった。//
 (13)トロツキーは今や、心理〔神経〕の戦いを始めた。
 ダン(Dan)がボルシェヴィキに、風聞があるように蜂起を準備しているのか否かをソヴェトで明確に表明するよう要請したとき、トロツキーは意地悪く、ケレンスキーとその対抗諜報機関の利益のためにその情報を欲しがっているのか、と尋ねた。
 「我々は権力掌握のための隊員を組織している、と言われている。
 我々はそのことを秘密にしていない。<略>」(148)
 しかしながら、二日後にトロツキーは、かりに蜂起が発生したとすれば、ペトログラード・ソヴェトは「我々はまだ蜂起を決定していなかった」との決定を下すだろう、と主張した。(149)
 (14)これらの言明には意識的な両義性があるにもかかわらず、ソヴェトは告知されていた。
 社会主義者たちは、トロツキーが何を語ったかを聞かなかったか、またはボルシェヴィキの「冒険」は不可避だと諦めていたかのいずれかだった。
 彼らは、レーニンの支持者たちと一緒に自分たちも一掃するだろう、あり得る右翼からの反応に対するほどには、ボルシェヴィキの行動を怖れなかった。
 ボルシェヴィキのクーの前夜(10月19日)、ペトログラード社会革命党の軍事組織は、予期される蜂起に対して「中立的」立場をとることを決定した。
 守備連隊内の同党員および共感者たちに送られてた回覧書は、示威活動からは離れたままでいること、黒の百人組、虐殺主義者および反革命の者たちからなされることがあり得る攻撃<中略>による容赦なき抑圧に十分に注意していること、を強く迫っていた。(150)
 これは疑う余地なく、エスエルの指導者たちはいったいどこに民主主義に対する主要な脅威を見ていたのか、を示している。//
 (15)トロツキーはペトログラードにずっといて、つねに緊張し、約束、警告、脅迫、甘言、激励をしている状態だった。
 スハノフ(Sukhanov)は、この時期の日々の典型的な情景を、つぎのように叙述する。
 「ホールに充満する3000人を超える聴衆の雰囲気は、明確に興奮のそれだった。
 彼らの一瞬の静けさは、つぎの期待を示していた。
 公衆は、もちろん主としては労働者と兵士だった。男女ともに、少しばかりの典型的なプチ・ブルジョア的様相も呈していなかったが。//
 トロツキーに対する熱烈な喝采は、好奇心と性急さで短く切られたように見えた。彼はつぎに何を語ろうとしているのか?
 トロツキーはただちにその巧みさと才幹でもって、会場の熱気を舞い上がらせ始めた。
 私は、彼が長い時間をかけてかつ異常なる力強さで、前線部隊が体験している…<中略>困難な状態を表現したのを憶えている。
 私の心にひらめいた思考は、その修辞的な言葉全体の諸部分にある、避けられない矛盾だった。
 しかし、トロツキーには、自分が何をしているかが分かっていた。
 根本的なのは、<ムード>〔雰囲気・空気〕だった。
 政治的な結論は、長い間にわたってお馴染みのものだった。<中略>//
 (トロツキーによると、)ソヴェトの権力は前線の戦場での損失で終末を迎えるべく運命つけられているだけではない。
 それは土地を提供し、国内の不安を止めるだろう。
 もう一度、飢餓に対処する昔からの秘訣が大きく持ち出される。どのようにして兵士、海兵および労働若年女性たちは裕福な者からパンを調達し、それを無料で前線に送るのだろう。<中略>。
 しかし、この決定的な「ペトログラード・ソヴェトの日」(10月22日)に、トロツキーはさらに進んだ。
 『ソヴェト政府は、国が貧者と前線の兵士のために有する全てのものを与えるだろう。
 きみ、ブルジョア、所有する二着の外套? 前線の塹壕で震えている兵士に一つをやれ。
 きみには、暖かい半長靴がある? きみの靴は労働者が必要としている。<中略>』//
 私の周りの雰囲気は、恍惚状態に近くなった。
 群衆はいつでも自発的に、求められることなく、突然に一種の宗教的な聖歌の中へと入り込んでいきそうに見えた。
 トロツキーは、『我々は最後の血の一滴まで、労働者と農民の根本教条を守るだろう』というのと似通った、短い一般的な決議を定式化し、あるいはいくつかの一般的な定式を宣告した。 
 誰に賛成か? 数千の群衆は、一人の男のようにその手を挙げた。
 私は、男性、女性、青年、労働者、兵士、農民そして典型的なプチ・ブルジョアの人物たちの挙げた手と燃える眼を見た。
 (彼らは)同意した。(彼らは)誓った。<中略>
 私はこの壮大な奇観を、異様に<重たい>心でもって眺めていた。」(151)//
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 (135) この作戦はM. Schwarte et al, <大戦 1914-1918: ドイツの戦争>(Leipzig, 1925), Pt. 3, p.323-7.で叙述されている。
 (136) <Revoliutsiia>V, p.30-p.31.
 (137) <Izvestiia>No.191(1917年10月7日), p.4; <Revoliutsiia>V, p.37.
 (138) <Revoliutsiia>V, p.38, p.67.
 (139) 同上, p.52.
 (140) 同上, p.52, p.237-8.
 (141) <PR>No.10(1922年), p.53-p.54.
 (142) 同上, p.86.
 (143) I. I. Mints, ed., <<略>>Ⅰ(Moscow, 1938), p.22.
 (144) <Rabochii put'>No.33(1917年). <Revoliutsiia>V, p.238. が引用。
 (145) トロツキー, <歴史>III, p.353.
 (146) <Rabochii put'>No.35(1917年). <Revoliutsiia>V, p.70-p.71. と<Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5. が引用。
 (147) Utro Rossi. Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.34n.が引用。
 (148) <Izvestiia>No.199(1917年10月17日), p.8.; <Revoliutsiia>V, p.101.
 (149) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.5.
 (150) <Revoliutsiia>V, p.132.
 (151) N. Sukhanov, <Zapinski o revoliutsii>VII(nberlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.90-p.92.
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 第7節は終わり。第8節の目次上の見出しは、<10月10日の重大な決定>。

1947/R・パイプス著・ロシア革命第11章第6節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.473-p.477.
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 第6節・ボルシェヴィキのためのソヴェト大会の企て。
 (1)レーニンの切迫した意識は、かなりの程度は、憲法制定会議によって先手を打たれるのではないか、という怖れで大きくなっていた。
 8月9日、臨時政府はようやく最終的に、憲法制定会議の日程を発表した。
 選挙は、11月12日。最初の会合は、11月28日。
 ボルシェヴィキは数日間はこの会議で議席の多数派を獲得できるだろうと幻想していたが、心の裡では、かりに農民たちが確実にエスエルに投票するならばその機会はない、と分かっていた。
 ボルシェヴィキは都市と軍隊で強く、単独でソヴェト組織を握っていた。そしてボルシェヴィキの望みはただ、ソヴェトを通じて全国的な信任を勝ち得ることだった。
 さもなければ、全ては終わってしまう。
 民主主義的な選挙を通じて国家がいったんその意思を明らかにすれば、ボルシェヴィキが「民衆(people)」を代表しており、新しい政府は「資本主義者」だ、とはもはや主張できないだろう。
 したがって、ボルシェヴィキが権力を奪取するとすれば、それは憲法制定会議の前に行わなければならなかった。
 ボルシェヴィキが制御している場合にのみ、選挙での反対の結果を帳消しにすることができる。ボルシェヴィキのある出版物が、憲法制定会議の構成は「誰がそれを招集するかに大きくかかっている」と述べたように。(113)
 レーニンも同意見だった。憲法制定会議の「成功」は、クーの<あと>でのみ最もよく確保されるだろう。(114)
 事態が示すことになるように、このことは、ボルシェヴィキが選挙結果に不正に手を加えるか、そうでなければ会議を解散させるだろう、ということを意味した。
 レーニンが辞任宣告で脅かしてまで同僚たちを急がせた主要な理由は、このことにあった。//
 (2)ボルシェヴィキには、憲法制定会議を操作して自分たちに権力を譲らせるという望みはなかった。しかし、考えられ得ることとしては、彼らはこの目的をもってソヴェトを、定期的にではなく選挙され、農民たちの代表者のいない、ゆるやかな構造をもつこの装置を、利用することができた。
 このことを意識しつつ、ボルシェヴィキは、第二回ソヴェト大会の迅速な招集のための煽動活動を行い始めた。
 彼らには、事情があった。
 6月の第一回会議以降、ロシアの情勢は変化し、都市ソヴェトの構成員も変化していた。
 エスエルとメンシェヴィキは次の大会には全く熱心ではなかった。その理由の一つは、ボルシェヴィキの割合が大きくなるのを怖れたことだ。別の理由は、憲法制定会議の邪魔をすることになるだろうことだった。
 地方ソヴェトと軍隊もまた、否定的だった。
 9月の末、イスパルコムは169のソヴェトと軍委員会に対してアンケートを実施し、第二回ソヴェト大会を開催することの賛否を問うた。
 そのうち63のソヴェトが回答したが、賛成したのは8ソヴェトだけだった。(115)
 兵士たちの間の感情は、さらに消極的なものだった。
 10月1日、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門は、ソヴェトの全国大会に反対する票決を行い、10月半ばにイスパルコムに報告書を提出した。それは、軍委員会の代議員たちは満場一致でそのような大会は「時期尚早(premature)」で、憲法制定会議の基礎を破滅させるだろう、と述べていた。(116)//
 (3)しかし、ペトログラード・ソヴェトで優勢であるボルシェヴィキは、圧力をかけ続けた。そして9月26日、イスパルコム事務局は、10月20日に第二回ソヴェト大会を招集することに同意した。(117)
 この会議の議事対象は、憲法制定会議に提出する立法草案を起草することに限定されるものとされた。
 ソヴェトの都市協議部署に対して、地方ソヴェトに代議員を派遣して招聘するよう、指令が発せられた。//
 (4)ボルシェヴィキはかくして勝利したが、ほんの第一歩にすぎなかった。
 国全体のソヴェトでのボルシェヴィキの立場は、6月よりははるかに強くなっていた。しかし、第二回ソヴェト大会で彼らが絶対多数を獲得しそうにはなかった。(118)
 第二回ソヴェト大会を自分たちの手で招集し、たいていは中央や北部ロシアにあるソヴェトかまたは多数派を占めている軍委員会のソヴェトのみをその大会に招くことによってのみ、彼らは絶対多数の獲得を確保することができる。
 今やボルシェヴィキは、このように進むこととなった。//
 (5)9月10日、ヘルシンキで、第三回フィンランド労働者・兵士ソヴェトの地方大会が開かれた。
 ここではボルシェヴィキは、堅い多数派を形成していた。
 この大会は地方委員会を設立し、この委員会は、フィンランドの民間人および軍人に対して、同委員会が同意した臨時政府の法令にのみ従うよう指令した。(120)
 このような動きが意図したのは、ボルシェヴィキが動かす似而非政府的中心機関を媒介として臨時政府の正統性を奪う(delegitimate)ことだった。
 (6)フィンランドでの成功によって、ボルシェヴィキは、全ロシア・ソヴェト大会を従順なものにして開催する同じような装置を使うことができる、と納得した。
 9月29日にボルシェヴィキ中央委員会は議論し、10月5日、ペトログラードで北部地方ソヴェト大会を開催することを決定した。(121)
 招聘状は、フィンランド陸海軍および労働者の地方委員会と自称する、ボルシェヴィキのその日限りのフロント組織の名前で発送された。
 イスパルコム事務局は、この会合は正式ではない方法で招集されている、と抗議した。(122)
 地方委員会はこれを無視し、代議員を派遣する多数派をボルシェヴィキが握っているおよそ30のソヴェトを招聘する手続を進めた。
 それらの中にはとくに、モスクワ地方の各ソヴェトがあった。北部地方の中に入ってはいなかったのだけれども。(123)
 何人かのボルシェヴィキ指導者たち、とくにレーニンは、この地方ソヴェト大会に権力のソヴェトへの移行を宣言させることを考えた、と有力に示唆するものが存在する。(124) しかし、この計画は断念された。//
 (7)北部地方ソヴェト大会は、10月11日にペトログラードで開かれた。
 この大会は、ボルシェヴィキとその同盟者である、社会革命党を跳び出た集団の左翼エスエルが、完全に支配した。
 この奇抜な「大会」では、あらゆる種類の扇動的な演説が行われた。その中には、「言葉のための時間」は過ぎたと明瞭に語った、トロツキーのものもあった。(125)
 (8)もちろんボルシェヴィキには、他の党派と同じく、全国的であれ地方的であれ、ソヴェト大会を開催する権限はない。そしてイスパルコムは、この会合は公式の立場を有しない、個々のソヴェトの「私的な集会」だと宣言した。(126)
 ボルシェヴィキは、この宣言を無視した。
 彼らは、この大会を、10月20日に集まることが決定されている第二回ソヴェト大会を直接に先駆けするものだと見なしていた。-トロツキーによると、可能ならば合法的な手段で、それが可能でないならば「革命的」方法で。(127)
 この地方ソヴェト大会の最も重要な結果は、「北部地方委員会」の設立だった。これは、11名のボルシェヴィキと6名の左翼エスエルで構成され、その任務は第二回全ロシア・ソヴェト大会の開催を「確実なものにする」こととされた。(128)
 10月16日、北部地方委員会は、連隊、分団および軍団レベルの軍委員会へとともに、各ソヴェトに対して電報を発した。それは、第二回大会がペトログラードで10月20日に開催されることを告げ、代議員を派遣するよう要請するものだった。
 大会では、休戦と農民たちへの土地の配分が達成され、かつ憲法制定会議が予定どおりに開かれることが確実にされるべきだ。
 電報は、第二回大会の招集に反対している全ソヴェトと軍委員会-これらはイスパルコムの調査から知られるように大多数だったが-に対して、ただちに「再選挙」を行うよう指示していた。「再選挙」とは、ボルシェヴィキの暗号符では、「解散」のことだった。(129)//
 (9)このボルシェヴィキの動きは、紛れもなく、ソヴェトの全国組織に対するクー・デタだった。そして、権力掌握の開幕を告げるものだった。
 このような方法でもって、ボルシェヴィキ中央委員会は、第一回ソヴェト大会がイスパルコムに付与した権限を不法に自分たちのものにした。
 これはまた、臨時政府の権能を奪うものだった。なぜなら、ボルシェヴィキがいわゆる第二回大会に設定した議事予定は、憲法制定会議が開催されるまでの政府の活動の中枢に関係していたからだ。(130)
 (10)ボルシェヴィキがしようとしていることを十分に知って、メンシェヴィキとエスエルは、第二回大会の正統性を承認するのを拒否した。
 10月19日、<イズヴェスチア>は、イスパルコム事務局のみがソヴェトの全国大会を招集する権限をもつとのイスパルコムの声明文を掲載した。
 「このような大会を開催する主導権を奪う権限や権利は、別のどの委員会にも存在しない。北部地方委員会は地方ソヴェトに関して定められた全ての規約を侵犯する、恣意的にかつでたらめに(at random)選出されたソヴェトを代表する、ということを一緒にまとめて行っているのであるから、この権利がこの北部地方大会に帰属することは、なおさらあり得ない。」
 イスパルコム事務局はさらに進んで、ボルシェヴィキによる連隊、分団および軍団の各委員会に対する招集は、代議員は軍集会で、これを開催できない場合には2万5000人ごとに1名を基礎にした軍委員会で選出された者を代議員とすると定める軍代表制に関する所定の手続を侵犯する、と述べた。(131)
 ボルシェヴィキの組織者たちは明らかに、第二回大会に反対していることを知って、軍委員会を無視していた。(132)
 三日のちに<イズヴェスチア>は、つぎのように明確に指摘した。ボルシェヴィキは不法な大会を招集しているのみならず、受容された代表制に関する規約を明らかに侵犯している。2万5000人以下の者を代表するソヴェトは全ロシア大会に代議員を送ることができず、2万5000人から5万人までの場合は2名を派遣すると定める選挙規程があるにもかかわらず、ボルシェヴィキは、500人のいるソヴェトに2名の代議員を招聘し、別の1500人のいるソヴェトには5名の派遣を求めている。これは、キエフ(Kiev)に割り当てられている数よりも多い。(133)
 (11)これらの指摘は全て、正しいことだった。
 しかし、エスエルとメンシェヴィキは、来たる第二回大会は正規に代表されていないことはむろんのこと、不法だ、と宣言したにもかかわらずなお、手続が進行するのを許した。
 10月17日、イスパルコム事務局は、二つの条件を付けて第二回大会の開催を承認した。
 第一に、第二回大会は、地方の代議員にペトログラードに到着できる時間を与えるべく、5日間、10月25日まで、延期されるべきこと。
 第二に、その議題は、憲法制定会議を準備すべく国内状況と、イスパルコムの再選出に限定されるべきこと。(134) 
 これは、驚くべき、そしてじつに不可解な屈服だった。
 ボルシェヴィキが心の裡にもつことを知っていたにもかかわらず、イスパルコムは彼らが欲するものを与えた。
 支持者とその同盟者たちで充たされた、お手盛りの(handpicked)組織〔大会〕。これが確実に、ボルシェヴィキによる権力掌握を正当化することになるだろう。
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 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDRP(b)>(Moscow, 1958), p.74.
 (113) <SD>No.169(1917年9月28日), p.1.
 (114) レーニン, <PSS>XXXIV, p.403, p.405.
 (115) <Izvestiia>No.186(1917年10月1日), p.8.
 (116) <Revoliutsiia>V, p.53.; <Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5.
 (117) <NZh>No.138(1917年9月27日), p.3.
 (118) Leonard Schapiro, <ソヴィエト同盟共産党>(London, 1960), p.164.
 (119) <Revoliutsiia>IV, p.197, P.214.
 (120) 同上, p.256.
 (121) <Protokoly TsK>, p.73, p.76.
 (122) <Revoliutsiia>V, p.65.
 (123) <Protokoly TsK>, p.264.; <Revoliutsiia>V, p.63.
 (124) Alexander Rabinowitch, <ボルシェヴィキの権力奪取>(New York, 1976), p.209-p.211.
 (125) <Revoliutsiia>V, p.71-p.72.
 (126) 同上, p.70-p.71.
 (127) <NZh>No.138/132(1917年9月27日), p.3.
 (128) <Revoliutsiia>V, p.78.
 (129) 同上, p.246, p.254.
 (130) 9月25-27日の政府声明を見よ。<Revoliutsiia>IV所収, p.403-6.
 (131) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.7.
 (132) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (133) 同上, No.203(1917年10月21日), p.5.
 (134) <Revoliutsiia>V, p.109.; <NZh>No.156/150(1917年10月18日), p.3.
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 第6節は終わり。次節・第7節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の奪取>。

1946/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.161-p.166.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題②。
 (8-2)異端の考え方のゆえに訴追され投獄されたソヴィエトの歴史研究者のAndrey Amalrik は、<ソヴィエト同盟は1984年まで残存するだろうか?>の中で、ロシアでのマルクス主義の機能をローマ帝国でのキリスト教のそれと比較した。
 キリスト教の受容は帝国のシステムを強化し、その生命を長引かせたが、最終的な破滅から救い出すことはできなかった。これとちょうど同じく、マルクス主義イデオロギーの吸収(assimilation)によってロシア帝国は当分の間は存在し続けているが、それは帝国の不可避の解体を防ぐことはできない。
 帝国の形成は最初からマルクス主義の立脚点だった、またはロシアの革命家たちの意識的な目的だった、ということを意味させていないとすれば、Amalrik の考え方は受容されるかもしれない。
 諸事情が異様な結びつき方をして、ロシアの権力はマルクス主義の教理を信仰表明(profess)する党によって掌握された。
 権力にとどまるために、初期の指導者たちの口から真摯に語られたことが明瞭なそのイデオロギーのうちに含まれる全ての約束を、党は首尾よく取り消さざるをえなかった。
 その結果は、国家権力を独占し、その性質上ロシアの帝国主義の伝統に貢献する、新しい官僚機構階層の形成だった。
 マルクス主義はこの階層の特権となり、帝国主義的政策の継続のための有効な道具となった。//
 (9)これに関係して、多くの著述者たちは、「新しい階級」に関する疑問、つまり「階級」はソヴィエト連邦共和国やその他の社会主義諸国家の統治階層を適切に呼称したものかどうか、を議論してきた。
 要点は、とくにMilovan Djilas の<新しい階級>の1957年での出版以降、適切に叙述されてきた。
 しかし、議論にはより長い歴史があるが、ある程度はこれまでの章で言及してきた。
 例えば、アナキスト、とくにバクーニンのマルクスに対する批判は、その考えを基礎とする社会を組織する試みは必ず新しい特権階級を生む、と主張した。
 現存している支配者に置き換わるべきプロレタリアは自分の階級に対する裏切り者に転化し、彼らの先輩たちがしたように、嫉妬をもって守ろうとする特権のシステムを生み出すだろう。
バクーニンは、マルクス主義は国家の存在が継続することを想定するがゆえに、このことは不可避だ、と主張した。
 主にロシア語で執筆したポーランドのアナキストであるWaclaw Machajski は、この考え方を修正してさらに、はるかに隔たる結論を導き出した。
 彼は、こう主張した。マルクスの社会主義思想は、知識人たちがすでに所有する知識という社会的な相続特権を手段として政治的特権をもつ地位を得ようと望む知識人たちの利益を、とくに表現したものだ。
 知識人界の者たちが彼らの子どもたちに知識を得る有利な機会を与えることができるかぎりで、社会主義の本質である平等に関する問題は存在し得ないだろう。
 知識人たちに頼っている現在の労働者階級は、知識人たちの主要な資産、すなわち教育を剥奪することでのみ目的を達成することができる。
 いくぶんはSorel のサンディカリズムを想起させるこうした主張は、つぎのような相当に明確な事実にもとづいていた。すなわち、所得の不平等と、教育・社会的地位の間の強い連関関係のいずれもがある社会ではどこでも、教育を受けた階級の子どもたちは他の者たちよりも、社会階層を上昇する多くの機会をもつ。
 相続の形態が不平等であることは、文化の継続を破壊し、完全に均一の教育を行うべく子どもたちを両親から切り離してのみ、除去することができる。その結果として、Machajski のユートピアは、平等という聖壇に捧げるために文化と家族の両方を犠牲にすることになるだろう。
 教育は特権の根源だとしてやはり嫌悪するアナキストたちは、ロシアにもいた。
 Machajski はロシアに支持者をもったので、十月革命後の数年間は、彼の考え方に反対することは、党のプロパガンダの周期的な主題だった。彼らは、全く理由がないわけではなく、サンディカリズム的逸脱や「労働者反対派」の活動家たちと関連性(link)があった。//
 (10)しかしながら、社会主義のもとでの新しい階級の発展という問題は、別の観点からも提示された。
 プレハノフのようなある範囲の者たちは、経済的条件が成熟する前に社会主義を建設しようとする試みは新しい形態の僭政(despotism)を生むに違いない、と主張した。
 Edward Abramowski のような別の者たちは、社会の道徳的な変化が先行する必要性を語った。
 この者たちは、かりに共産主義が道徳的に改良されず、古い秩序が植え付けてきた要求と野心とまだ染みこんだままの社会を継承するならば、国有財産制のシステムのもとでは、多様な性質の特権を目指す闘いが繰り返されざるを得ないと、主張した。
 Abramowski が1897年に書いたように、共産主義は、このような条件下では、つぎのような新しい階級構造の社会のみを生み出すことができるだろう。すなわち、古い分立が社会と特権的官僚機構の間の対立に置き換えられ、僭政と警察による支配という極端な形態によってのみ維持される社会。//
 (11)十月革命の危機は、最初から、特権、不平等、僭政の新しいシステムがロシアで芽生えていることを明瞭に指摘していた。「新しい階級」とは、カウツキーが1919年にすでに用いた概念だった。
 トロツキーが国外追放中にスターリニスト体制批判を展開していたとき、彼は、彼に倣った正統派トロツキストたちの全てがしたのと同様に、「新しい」階級に関する問題ではなく、寄生的官僚制度の問題だと強く主張した。
 トロツキーは、革命なくしては体制は打倒できないという結論に到達したあとでも、この区別をきわめて重要視した。
 彼は、社会主義の経済的基盤、つまり生産手段の公的所有は、官僚機構の退廃には影響を受けない、従って、すでに起こった社会主義革命を行う余地はない、そうではなく、現存する政府機構を排除する政治装置こそが必要なのだ、と論じた。//
 (12)トロツキー、その正統派支持者およびスターリニズムに対する批判的共産主義者は、ソヴィエト官僚制の特権は自動的に別の世代へと継承されるものではない、官僚機構は生産手段を自分たち自身では持たが生産手段に対して集団的な統制を及ぼすにすぎない、という理由で、「新しい階級」の存在を否定した。
 しかしながら、このことは、議論を言葉の問題に変えた。
 その各員が、相続によって継承できる、一定の生産的な社会的資源に対する法的権能を有しているときにのみ、支配し、搾取する階級の存在を語ることができる、というようにかりに「階級」を定義するとすれば、ソヴィエト官僚機構はもちろん、階級ではない。
 しかし、なぜこの用語がこのような制限的な意味で用いられなければならないのか、は明瞭でない。
 階級は、マルクスによってそのようには限定されていない。
 ソヴィエト官僚制は、国家の全ての生産的資源を集団的に自由に処理する権能をもった。このことはいかなる法的文書にも明確には書かれていないが、単直に、システムの基本的な帰結だった。
 生産手段の支配は、かりに集団的所有者たちを現存システムのもとでは排除することができず、いかなる対抗者たちもそれに挑戦することが法的に不可能であれば、本質的には所有制と異なるものではない。
 所有者は集団的であるために個人的な相続はなく、政治的な階層内での個々の地位を子どもたちに遺すことは誰もできない。
 実際には、しかし、しばしば叙述されてきたように、特権はソヴィエト国家では、系統的に継承されてきた。
 支配層の者たちの子どもたちは明らかに、人生での、また限定された物品や多様な利益への近さでの有利な機会の多さという観点からすると、特権をもっていた。そして、支配層の者たち自身が、このような優越的地位にあることを知っていた。
 政治的な独占的地位と生産手段の排他的な統制力はお互いに支え合い、分離しては存在することができかった。 
支配階層者の高い収入は搾取的な役割の当然の結果だったが、搾取それ自体と同一のものではなかった。搾取(exploitation)は、民衆によって何ら制御されることなく、民衆が生み出す余剰価値の全量を自由に処分することのできる権能で成り立つ。
 民衆は、いかにして又はいかなる割合で投資と消費が分割されるべきかに関して、または生産された物品がいかに処理されるのかに関して、何も言う権利がない。
 こうした観点からすると、ソヴィエトの階級分化は、所有にかかる資本主義システムにおけるよりもはるかに厳格なもので、かつ社会的圧力に対して敏感ではないものだ。なぜなら、ロシアには、社会の異なる部門が行政組織や立法機構を通じて自分たちの利益に関して意見を表明したり圧力を加える、そういう方法は何もないからだ。
 確かに、階層内での個人の地位は、上位者の意思あるいは気まぐれに、あるいは、スターリニズムが意気盛んな時代には単一の僭政者の愉楽に、依存している。
 この点を考えると、彼らの地位は完全に安全なものではない。その状態は、高位にいる者たちはみな僭政主の情けにすがり、ある日または翌日に解任されたり処刑されたりした、東洋の僭政体制にもっと似ている。
 しかし、このような事情のある国家について観察者が何ゆえに「階級」という語を使ってはならないのかどうかは明瞭でない。トロツキーの支持者が主張するように、それを「社会主義」と「ブルジョア民主主義」に対する社会主義のはるかな優越性を典型的に証明するものだと何故考えてはならないのかどうか、については一層そうだ。
 Djilas はその著書で、社会主義国家の支配階級が享有する、権力の独占を基礎にしていてその結果ではない、特権の多様性に注目した。//
 (13)上に詳しく述べたように、社会主義官僚機構を何故「搾取階級」という用語で表現してはならないのかの理由は存在しない。
 実際に、この表現は次第に多く使われていたように見える。そして、トロツキーによる〔試訳者-「新しい」階級と寄生的官僚機構の間の〕区別は、ますます不自然なものになっていた、と理解することができる。//
 (14)James Burnham はトロツキーと決裂したあと、1940年に<管理(managerial)社会主義>という有名な著書を刊行した。そこで彼は、ロシアでの新しい階級の成立は、全ての産業社会で発生しかつ発展し続ける普遍的な過程の特有の一例だ、と論じた。
 彼は、こう考えた。資本主義も、同じ過程を進んでいる。正式の所有権はますます小さくなり、権力は生産を現実に統制している者たち、すなわち「管理する階級」の手へと徐々に移っている。
 このことは、現代社会の性格による不可避の結果だ。新しいエリートたち(élite)は、社会の諸階級への分化の今日的な形態に他ならない。階級分化、特権および不平等は、社会生活の自然な現象だ。
 過去の歴史を通じてずっと、大衆は異なる多様なイデオロギーの旗の下で、その時代の特権階級を打倒するために使われてきた。しかし、その結果は、ただちに社会の残余者を、先行者たちが行ったのと同様に効率的に、抑圧し始める新しい主人たちと置き代えるだけのことだった。
 ロシアでの新しい階級による僭政は、例外ではなく、こうした普遍的な法則を例証する一つだ。//
 (15)社会生活は何がしかの形態での僭政を含むというBurnham の言い分が正しいか否かは別として、彼の論述は、ソヴィエトの現実に関する適切な叙述だとはとうてい言えなかった。
 革命後のロシアの支配者たちは産業管理者ではなかったし、政治的な官僚機構だった。かつ現に、産業管理者ではなく政治的官僚機構だ。
 もちろん前者の産業管理者は社会の重要な部門ではある。そして、それに帰属する者たちは、とくにそれぞれの分野に関する上層の権威者による決定に、十分に影響を与えるほどに強いかもしれない。
 しかし、産業上の投資、輸入そして輸出に関するものも含めて、重要な決定は政治的なものであり、政治的寡頭制がそれを行っている。
 十月革命は技術と労働の組織化の過程の結果としての、管理者への権力の移行の特有な事例だ、というのはきわめて信じ難い。//
 (16)ソヴィエトの搾取階級は、何らかの形態で東方の僭政制度に似ている新しい社会的形成物だ。別の形態としては封建的な豪族階級、あるいはさらに別の形態としては後進諸国の資本主義植民者に似ているかもしれない。
 搾取階級の地位は、政治的、経済的かつ軍事的な権力が、ヨーロッパでは以前に決して見られなかったほどの程度にまで絶対的に集中したものによって、そしてその権力を正統化するイデオロギーのへの需要によって、決定される。
 構成員たちが消費の分野で享受する特権は、社会生活で彼らが果たす役割の当然の結果だった。
 マルクス主義は、彼らの支配を正当化するために授けられる、カリスマ的な霊気(オーラ)だった。//
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 第12節終わり。次節の表題は、<スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義>。

1943/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.470-p.473.
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 第5節・隠亡中のレーニン②(Lenin in hiding)。
 (13)多くのボルシェヴィキ党員には、新しい戦術と親ソヴェト・スローガンの放棄は幸せなことでなかった。
 その月の別の機会にスターリンは、党は疑いなく我々が多数派を占めるソヴェトを支持していると保障して、彼らを安心させようと努めた。
 しかし、ソヴェトへの関心の一般的な冷却に気づいて、ボルシェヴィキたちがもう一度気持ちを切り替えるのに、たいした時間はかからなかった。というのは、無関心が増大したために、ソヴェトを自分たちの目的でもって貫いて操作する機会ができた、と考えたからだ。
 党の公式誌<イズヴェスチア>は、9月の最初に、つぎのように書いた。
 「最近はソヴェトで仕事することへの無関心が見られる。<中略>
 実際に、(ペトログラード・ソヴェトの)1000人以上の代議員のうち、400から500人程度しか会議に出席していない。そして、出てくることをしない者たちは正確には、今まではソヴェトの多数派を形成していた諸党の代議員たちだ。」(106)-すなわち、メンシェヴィキとエスエル。
 <イズヴェスチア>の「ソヴェト組織の危機」と題された一ヶ月後の論説でも、同じような不満を読むことができた。
 「ソヴェトの人気が最高だったとき、イスパルコムの都市間協議(interurban, inogorodnyi)の部署は、国じゅうに800のソヴェトを表にして列挙していた、と執筆者は思い出す。」
 10月までに、これらのソヴェトの多くはもはや存在しないか、紙の上だけの存在になった。
 地方からの報告書は、ソヴェトはその威厳と影響力を失いつつある、というものだった。
 編集部はまた、労働者・兵士代表者ソヴェトが農民組織とともに進むことのできないことに不服を告げた。そのことは、農民層がソヴェト構造の「全く外側」にとどまることに帰結するからだ。
 しかし、ペトログラードやモスクワのようにソヴェトが機能している区域ですら、ソヴェトは、多数の知識人や労働者が離反したために、もはや全ての「民主主義派」を代表していなかった。
 「ソヴェトは、旧体制と闘う素晴らしい組織だった。しかし、それは新しい体制の形成を引き受ける能力が全くなかった。<中略>
 専制体制が官僚制秩序と一緒に崩壊したとき、我々は全ての民主主義派を守るための一時的な兵営として代表者ソヴェトを設立したのだった。」
 <イズヴェスツィア>は今はこう結論づけた。ソヴェトは、より代表制的な選挙制度で選ばれた市会(Municipal Councils)のような永続的な「石の構造」のために放棄されてきている。(107)
 ソヴェトへの幻想からの覚醒が拡大し、社会主義派の対抗者が長く不在であることによって、ボルシェヴィキは、国民的支持からは全く不釣り合いの影響力を獲得することができた。 
 ボルシェヴィキのソヴェト内での役割が大きくなるにつれて、ボルシェヴィキは古いスローガンに戻った。-「全ての権力をソヴェトへ」。
 (14)ボルシェヴィキは、ペトログラード・ソヴェトの多数派となった9月25日に、権力に向かって進む重要な一歩を通過した。
 (9月19日に、モスクワで同様に多数派になっていた。)
 ペトログラード・ソヴェトの議長たる地位に就いたトロツキーはただちに、そのソヴェトを国のその他の都市ソヴェトを制御するための組織へと変え始めた。
 <イズヴェスツィア>の言葉によれば、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門でボルシェヴィキが多数を獲得するやいなや、ボルシェヴィキは「それを彼らの党組織へと変えた。そして、それに依拠して、国全体の全てのソヴェトを把握するパルチザン的闘いを行うようになった。(108)
 ボルシェヴィキは、全ロシア大会で選出された、エスエルとメンシェヴィキが支配するままのイスパルコムを大幅に無視し、自分たちが多数を握るソヴェトのみを代表する、彼ら自身の全国的似而非ソヴェト組織を生み出そうと取りかかった。
 (15)コルニロフによって生じた有利な政治環境とソヴェトでの勝利によって、ボルシェヴィキは、クー・デタの問題を生き返らせた。
 意見は、分かれた。
 七月の大失敗はまだ記憶に鮮明で、カーメネフとジノヴィエフは、さらなる「冒険主義」に反対した。
 二人は論じた。ソヴェト内での力が増加したにもかかわらず、ボルシェヴィキは少数派政党のままであり、かりに何とかして権力を奪取しても、「ブルジョア反革命」と農民層の結合した勢力に面してすぐにそれを失うだろう。
 もう片方の極端な立場のレーニンは、即時のかつ断固たる行動を求める主要な発議者だった。
 彼はコルニロフ事件によって、クーの成功の可能性がかつてよりも大きく、かつ二度とやって来ない、と確信していた。
9月12日と14日、レーニンは、フィンランドから二通の手紙を、中央委員会に書き送った。それぞれ、「ボルシェヴィキは権力を奪取しなければならない」、「マルクス主義と反乱」と呼ばれる。(109)
 彼は前者で書いた。「二つの重要な都市で労働者・兵士代表者ソヴェトでの多数派となり、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるし、そう<しなければならない>。」
 カーメネフやジノヴィエフの主張とは反対に、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるのみならず、保持し続けることもできる。すなわち、即時の講和を提案し、農民に土地を与えることによって、「ボルシェヴィキは、<誰も>打倒しようと<しない>政府を設立することができる。
 しかし、臨時政府がペトログラードをドイツ軍に明け渡すか戦争を終わらせる何か別のことをするかもしれないので、迅速に行動することこそがきわめて重要だ。
 その日の命令は、「ペトログラードとモスクワ(プラスここれら地域)での武装暴動、権力の制圧、政府の打倒だ。
 我々は、活字にして明確に表明することなく、<いかにして>このために煽動すべきかを考えなければならない。」
 ペトログラードとモスクワではすでに権力を奪取しているので、問題は解決されているだろう。
 レーニンは、多数派を獲得するを望んで第二回ソヴェト大会の招集を待つべきだとのカーメネフとジノヴィエフの見解を「ナイーヴな」ものとして却下した。「革命は<それ>を待っていない。」
 (16)第二の手紙でレーニンは、武力による権力奪取は「マルクス主義」ではなくて「ブランキ主義」だという非難について議論し、また、七月との類似性の問題に片をつけた。すなわち、「9月の『客観的』情勢は、全く異なっている。」
 彼は(考えられるのはドイツとの接触で得られた情報から)、ベルリンがボルシェヴィキ政府に休戦を提案するだろうことは確実だと思っていた。
 「そして、休戦を確保することは、世界<全体>を制圧することを意味する。」(110)
 (17)中央委員会は9月15日に、レーニンの手紙を議題として取り上げた。
 短い、ほとんど確実に厳密に検閲されたこの会議の議事要領書(*) が示しているのは、レーニンの同僚たちは(カーメネフが迫ったように)公式に彼の助言を拒否するのを躊躇しているが、従う心づもりもない、ということだ。
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 (*) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.55-62.
 これは、現在で唯一利用可能な、1917年8月4日から1918年2月24日までのボルシェヴィキ中央委員会の会議の記録書で、1929年に最初に出た。
 この記録書は、トロツキー、カーメネフおよびジノヴィエフという、スターリンが党の支配のために打倒した者たちの評価を落とすことが意図されていた。そして、この理由のゆえに、きわめて慎重に用いられなければならなかった。
 第二版の編集者によれば、こうだ。「議事録の文章は、省略なくして完全に公刊される。但し」、何を意味するものであれ、「第一版では議事録の文章上のこれらの疑問に関する適切ではない説明を理由としてそうなされたように、対立する事項(konfliktnye dela)を除く」(p. vii)。
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 トロツキーによれば、 即時の暴乱は望ましくないとして、9月には誰もレーニンに同意しなかった。(111)
 スターリンの動議により、レーニンの手紙は党の主要な地方組織に回覧されることになった。これは、即時の行動を回避する方法でもあった。
 ここで、問題が残っている。その後の6回の会議については何も、レーニンの提案が言及されていないのだ。(+)
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 (+) もちろん、レーニンの考えは却下され、その事実は議事録が出版されるときの版では削除された、ということは排除され得ない。
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  (18)レーニンはこのような消極性に烈しく怒った。暴乱を起こすのに都合のよいときが過ぎ去ってしまうのを、彼は懼れていた。
 9月24日か25日、彼はヘルシンキから、行動舞台により近いヴィボルク(Vyborg)(まだフィンランドの領土)へと移動した。
 彼はそこから、9月29日、第三の手紙を中央委員会に発送した。その表題は「危機は成熟した」。
 レーニンの主要な活動方針は、この手紙の第六部に含まれていた。1925年に最初に公にされた。
 レーニンはこう書いた。ある範囲の党員たちが次のソヴェト大会まで権力掌握を延期したいと考えていることは率直に認めなければならない。
 彼は全体として、このような考え方を拒否した。
 「この瞬間を逃してソヴェト大会を『待つ』のは、完璧に愚かで、完璧な裏切り行為だ」。
 「ボルシェヴィキは今や、蜂起の成功を保障されている。
 1.我々は(ソヴェト大会を『待つ』ことをしなくても)突然に三箇所から急襲することができる。すなわち、ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊。 <中略>。
 5.我々はモスクワで権力を奪取する技術的能力を持っている(これは、突然さによって敵を弱体化させるために始めることすらできる)。
 6.我々は<数千人>の武装した労働者と兵士を持っており、彼らは<ただちに>冬宮、将軍幕僚、電話局、および全ての大きな印刷工場を掌握することができる。<中略>
 我々がただちに、かつ突然に三箇所から-ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊から-急襲するならば、成功の見込みは99パーセントであり、七月の3-5日に被ったよりも少ない損失で勝利するだろう。<兵団は、講和する政府に反対して動くことはしないだろう。>(**)
 --------
 (**) レーニン,<PSS>XXXIV, p.281-2. レーニンはここで不用意に、七月3-5日にボルシェヴィキは実際に権力掌握を試みたことを認めている。
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 中央委員会が要請に回答せず、自分の論文を削除すらしたことを見て、レーニンは、辞職願いを提出した。
 もちろんこれは、はったり(ブラフ)だった。
 中央委員会は、意見の違いに関して議論するため、レーニンにペトログラードに戻るよう要請した。(112)
  (19)レーニンの同僚たちは一致して、よりゆるやかで安全な方針を好んで、即時の武装蜂起への彼の要求を拒絶した。
 彼らの戦術は、レーニンの提案は「性急だ」と考えたトロツキーによって、定式化された。
 トロツキーは、全ロシア・ソヴェト大会による権力の掌握を装った、武装蜂起をしたかった。-しかし、確実に拒否するだろう、適式に開催された大会による権力掌握をではない。そうではなく、ボルシェヴィキが定められた手続に従わないで自分たちが主導して開催し、支持者たちを詰め込める会議による権力掌握を装ってだ。つまりは、全国的大会だと偽装(カモフラージュ)しての、親ボルシェヴィキのソヴェト大会。
 振り返って見ると、これが進むべき疑いなく適切な行路だった。なぜなら、レーニンが主張したような単一の政党による権力の公然たる掌握には、国は寛容であることができなかっただろうから。
 最初の日々を越えて成功していくためには、クーには、かりに表面的なものだったとしても、何らかの性質の「ソヴェト」の正統性が与えられなければならなかった。//
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 (105) Leningradskii Istpart, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1927), p.77.
 (106) <イズヴェスツィア>No.164(1917年9 月5日).
 (107) <イズヴェスツィア>No.195(1917年10月12日), p.1.
 (108) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (109) レーニン,<PSS>XXXIV, p.239-p.241.
 (110) 同上, p.245.
 (111) L・トロツキー,<ロシア革命史>III(New York, 1937), p.355.
 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.74.
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 第5節は終わり。第6節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキ自身のソヴェト大会の計画>。

1942/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節①。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.467-p.470.
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 第5節・隠亡中のレーニン①(Lenin in hiding)。
 (1)その間、レーニンは田舎に隠れていて、世界の再設計に没頭していた。//
 (2)ジノヴィエフとN. A. Emelianov という名前の労働者に付き添われて、レーニンは、別荘地域の鉄道接続駅Razliv に、7月9日に着いた。
 レーニンは髭を剃り落として、農業従事者のごとく変装していた。二人のボルシェヴィキは導かれて近くの、翌月の彼らの住まいとなる畑小屋に入った。//
 (3)備忘録を書くのが嫌いなレーニンは、その人生のうちのこの時期に関する回想録を残していない。しかし、ジノヴィエフの簡単な文書資料がある。(97)
 (4)彼らは潜伏したままで生活したが、伝達人を通じて首都との接触を維持していた。
 レーニンは彼と党への攻撃に立腹して、しばらくは新聞を読むのを拒んだ。
 7月4日の事態は、彼の心を苦しめていた。しばしば、ボルシェヴィキは権力を奪取できていたかどうかを思いめぐらしたが、いつも消極的な結論に達した。
 夏遅くに雨による洪水が彼らの小屋を浸したので、移動するときだった。
 ジノヴィエフはペトログラードに戻り、レーニンは、ヘルシンキへと進んだ。
 フィンランドを縦断するために、レーニンは労働者だとする偽造の書類を用いた。その旅券の、きれいに髭を剃って鬘をつけた写真で判断すると、颯爽とした外見を偽装していた。//
 (5)党を日常的に指揮することから離れ、おそらくは権力奪取の新しい機会はもうないだろうと諦念して、レーニンは、共産主義運動の長期目標に関心を向けた。
 彼は、マルクスと国家に関する論文を再び執筆し始めた。その論考を翌年に、<国家と革命>との表題で出版することになる。
 これは、将来世代への彼の遺産、資本主義秩序が打倒された後の革命戦略の青写真となるべきものだった。//
 (6)<国家と革命>は急進的虚無主義の著作であり、革命は全ての「ブルジョア」的制度を完膚なきまで破壊しなければならない、と論じる。
 レーニンは、国家は、どこでも、いつでも、搾取階級の利益を代表し、階級対立を反映する、という趣旨のエンゲルスの文章の引用で始める。
 彼はこれを証明済みのこととして受容し、もっぱらマルクスとエンゲルスのみを参照して、政治制度や政治実務の歴史にはいずれもいっさい参照することなく、さらに詳論する。//
 (7)この論考の中心的メッセージは、マルクスがパリ・コミューンから抽出し、<ルイ・ナポレオンのブリュメール十八日>で定式化した教訓から来ている。
 「議会制的共和国は、革命に対する闘いで、抑圧の手段や国家権力の集中化の手段を全て併せて、自らを強くすることを強いられた。
 全ての革命は、国家機構を粉砕するのではなくて完全なものにしてきた。」(*)//
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 (*) レーニン,<PSS>XXXIII, p.28.から引用。レーニンは最後の文章に下線を引いて強調した。
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 マルクスは、この議論をある友人への手紙で表現し直した。
 「私の<ブリュメール十八日>の最終章を見入れば、私がフランス革命のつぎの試みを宣言しているのが分かるでしょう。すなわち、今まで行われてきたように、手にあるひと組の全体を別の官僚制的軍事機構に移行させるのではなく、粉砕(smash)すること。」(98)
 マルクスが革命の戦略や戦術について書いたことのうちこれ以上に、レーニンの心に深く刻み込まれたものはなかった。
 レーニンはしばしば、この文章部分を引用した。彼の、権力奪取後の行動指針だった。
 彼がロシアの国家と社会およびこれらの全装置に向けた破壊的な怒りは、このマルクスの言明によって理論的に正当化された。
 マルクスはレーニンに、現在の革命家たちが直面している最も困難な問題の解決策を与えた。成功している革命を、いかにして、反革命の反動が生じないようにして守るか。
 解決策は、旧体制の「官僚制的軍事機構」を廃絶させることだった。反革命からそれを育んだ土壌を剥奪するために。//
 何が、古い秩序に置き代わるのか?
 パリ・コミューンに関してマルクスが書いたことを再び参照して、レーニンは、反動的な公務員や将校の安息所にならないコミューンや人民軍のような大衆参加組織を指し示した。
 これとの関係で、彼は職業的官僚機構が最終的には消滅することを予言した。
 「社会主義のもとでは、我々の<全て>が順番に統治して、すぐに誰も統治していない状態に慣れるだろう。」(99)
 のちに共産党の官僚機構が前例のない割合で大きくまっていたとき、この文章部分は レーニンの顔に投げ込まれることになるだろう。
 彼は、ソヴィエト・ロシアに巨大な官僚機構が出現したことに驚いて不愉快になり、かつ大いに困惑することになる。おそらくは彼の主要な関心は、人生の最終の日々にあった。
 しかし彼は、官僚機構は「資本主義」の崩壊とともに消失するだろうとの幻想は決して抱かなかった。
 レーニンは、革命の後の長期間にわたって、「プロレタリア独裁」が国家の形をとる必要がある、と認識していた。しかも、このように示唆した。
 「資本主義から共産主義への移行に際して、抑圧は<まだ>必要だ。
 しかし、その抑圧はすでに、多数者たる被搾取者による少数者たる搾取者に対するものだ。
 特別の装置、特別の抑圧機構、「国家」は<まだ>必要だ。」(100)
(8)レーニンは<国家と革命>を執筆している間に、将来の共産主義体制の経済政策にも取り組んだ。
 コルニロフ事件のあとの9月に、これを二つの論考でまとめた。そのときは、ボルシェヴィキの見通しは予期しなかったほどに良くなっていた。(101)
これらの論考のテーゼは、レーニンの政治的著述物とは大きく異なっていた。
 古い国家とその軍隊を「粉砕」すると決意する一方で、「資本主義」経済を維持し、革命国家に奉仕するように利用することに賛同した。
 この主題は、「戦時共産主義」の章で扱われるはずだ。
 ここではこう叙述しておくので十分だ。すなわち、レーニンの経済に関する考え方は、当時の一定のドイツの著作を読んだことから来ている。ドイツの著作者とはとくにルドルフ・ヒルファーディング(Rudolf Hilferding)で、この学者は、先進的または「金融」資本主義は、銀行や企業連合の国有化という単純な方法で相対的には社会主義へと続きやすい集中のレベルを達成している、と考えていた。
 (9)かくして、古い「資本主義」体制の政治的および軍事的装置を根絶することを意図する一方で、レーニンはその経済的装置を維持すねることを望んだ。
 最終的には、彼は三つの全てを破壊することになるだろう。
 (10)しかし、これは先のことだ。
 直近の問題は革命の戦術で、この点でレーニンは彼の仲間たちと一致していなかった。
 (11)ソヴェトの社会主義派は七月蜂起を許しかつ忘れようとしていたにもかかわらず、また政府による嫌がらせからボルシェヴィキを防衛しようと彼らはしていたにもかかわらず、レーニンは、ソヴェトのもとでの権力追求という仮面を剥ぎ取るときがやって来ている、と決意した。
 すなわち、ボルシェヴィキはこれからは、武装暴動という手段によって、権力を直接にかつ公然と獲得すべく奮闘しなければならない。
7月10日、田舎へと隠れるようになった一日後に書いた<政治情勢>で、レーニンはこう論じた。
 「ロシア革命の平和的な進展への望みは全て、跡形もなく消え失せた。
 客観的な状況は、軍事独裁の究極的な勝利か、それとも<労働者の決定的な闘争><中略>のいずれかだ。
 全ての権力のソヴェトへの移行というスローガンは、ロシア革命の平和的進展のスローガンだった。それは、4月、5月、6月、そして7月5-9日まではあり得た。-すなわち、現実の権力が軍事独裁制の手へと渡るまでは。
 このスローガンは今では、正しくない。(権力の)完全な移行を考慮に入れておらず、じつにエスエルとメンシェヴィキによる革命に対する完全な裏切りを考慮していないからだ。」(102)
 レーニンは原稿の最初の版では「武装蜂起」という語を使って書いていたが、のちに「労働者の決定的な闘い」に変更した。(103)
 こうした論述の新しさは、権力は実力でもって奪取されなければならない、ということにあるのではない。-ボルシェヴィキ化していた労働者、兵士および海兵たちは4月や7月に街頭でほとんど歌や踊りの祭り騒ぎをしなかった。そうではなく、ボルシェヴィキは今や、ソヴェトのために行動するふりをしないで、自分たちのために闘わなければならない、ということにある。
 (12)7月末に開催されたボルシェヴィキ第6回党大会は、この基本方針を承認した。
 その決議はこう述べた。ロシアは今や「反革命帝国主義ブルジョアジー」によって支配されている。そこでは「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンは有効性を失ってしまった。
 新しいスローガンは、ケレンスキーの「独裁制」の「廃絶」を呼びかけた。これはボルシェヴィキの任務であって、その背後には、プロレタリアートに率いられ、貧しい農民たちに支持された全ての反革命グループが集結している。(104)
 冷静に分析すると、この決議の前提は馬鹿げており、その結論は欺瞞的だ。しかし、実際上の意味は、間違えようがない。すなわち、ボルシェヴィキはこれから、臨時政府とはもちろん、ソヴェトとも闘うだろう、ということだ。//
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 (97) <PR>No.8-9/67-68(1927), p.67-p.72.
 (98) レーニン,<PSS>XXXIII, P.37. から引用。
 (99) 同上, p.116
 (100) 同上, p.90.
 (101) レーニン「迫る危機。それといかに闘うか」同上, XXXIV, p.151-p.199, 「ボルシェヴィキは国家権力を掴みつづけるか?」同上, p.287-p.339.
 (102) 同上、p.2-p.5. 強調を施した。
 (103) レーニン,<Sochineniia>XXI, p.512, n18.
 (104) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.383-4.
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 ②へとつづく。

1941/R・パイプス著・ロシア革命第11章第4節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第4節・ボルシェヴィキの好運(運命の上昇)(rise in Bolshevik fortunes)。
 (1)ケレンスキーが挑発してコルニロフと決裂し、自分の権威を高めようとした、というのがかりに正しいとすると、彼はこれに失敗したのみならず、全く反対のことを成し遂げてしまった。
 コルニロフとの衝突によって、保守派およびリベラル派世界との関係は、彼の社会主義派の基盤が強固になることなく、致命的に危うくなった。
 コルニロフ事件の第一の受益者は、ボルシェヴィキだった。
 8月27日の後、それらの支持にケレンスキーが依拠していたエスエルとメンシェヴィキは、徐々に消失していった。
 臨時政府は今や、そのときまでは有していたとされたかもしれない限定的な意味ですら、その機能を失った。
 9月と10月、ロシアは操縦者がいないままに漂流した。
 舞台は、左翼からの反革命のために用意された。
 かくして、ケレンスキーはのちにこう書いた。「(ボルシェヴィキのクーの)10月27日を可能にしたのは、8月27日だけだった」。
 こう書いたのは正しかったが、しかし、彼が言おうとした意味でではなかった。(84)
 (2)叙述したように、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対して七月蜂起についての厳しい制裁措置を何ら執らなかった。
 ケレンスキーの対抗諜報機関の主任であるニキーチン大佐によれば、ケレンスキーは、7月10-11日に、軍事スタッフからボルシェヴィキを逮捕する権限を剥奪し、ボルシェヴィキの所有物のうちから見つかった武器を没収することを禁じた。(85)
 7月末にはケレンスキーは、ボルシェヴィキがペトログラードで第6回党大会を開いたとき、見て見ぬふりをしていた。
 (3)この消極性は、ボルシェヴィキも参加しているイスパルコムと宥和しておきたいとのケレンスキーの願望に多くは由来していた。
 すでに述べたように、イスパルコムは8月4日、ツェレテリ(Tsereteli)の動議によって、微妙にも「7月3-5日の事件」と呼ばれたものに参加した者のさらなる迫害を止めるよう要求する決議を採択した。
 ソヴェトは8月18日の会合で、「社会主義諸党派の中での極端な潮流」の代表者たちに対してなされた「不法な逮捕と濫用に断固として抗議する」と票決した。(86)
 政府はこれに反応して、次々と著名なボルシェヴィキを釈放し始めた。ときには保釈金を課して、ときには友人の保証にもとづいて。
 最初に自由にになった(そして全ての責任追及を免れた)のは、カーメネフだった。彼は、8月4日に釈放された。
 ルナチャルスキー(Lunacharskii)、アントニオ-オフセーンコ(Antonio-Ovseenko)およびA・コロンタイ(Alexandra Kollontai)はすぐあとで、自由になった。そして、その他の者が続いた。
 (4)その間に、ボルシェヴィキは、政治的勢力として再登場していた。
 ボルシェヴィキは、政治的両極化によって利益をうけた。この政治的両極化は、リベラル派と保守派がコルニロフへと引かれ、急進派は極左へと振れた夏の間に生じていた。
 労働者、兵士、海兵たちは、メンシェヴィキとエスエルの優柔不断さを嫌悪し、これらを諦めて、大挙して唯一の選択肢もボルシェヴィキを支持するに至った。
 しかし、政治的な疲れもあった。
 春には揃って投票所へと行っていたロシア人は、彼らの状態の改善に何らつながらない選挙に徐々に飽きてきた。
 このことはとくに、過激派に対抗する機会がないと感じた保守的な人々について本当のことだった。しかし、リベラル派や穏健な社会主義立憲派についても当てはまった。
 この趨勢は、ペトログラードとモスクワの市議会選挙の結果でもって例証され得る。
 コルニロフ事件の一週間前、8月20日のペトログラード市会(Municipal Council)の投票で、ボルシェヴィキは得票率を1917年5月の20.4パーセントから33.3パーセントへと、さらには過半数へと伸ばした。
 しかしながら、絶対得票数では、投票数の低下によって17パーセントしか伸ばさなかった。 
 春の選挙では有権者の70パーセントが投票所へ行ったのだったが、8月にはそれは50パーセントに落ちた。首都のいくつかの地区では、前には投票した者の半分が棄権していた。(*)(87)
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 (*) Crane Brinton はその<革命の解剖学>(New York, 1938, p.185-6)で、革命的状況下では庶民的市民は政治参加するのに退屈し、極端主義者に広場を譲る、というのはふつうだと観察する。
 後者の影響力は、民衆の幻滅と政治に対する利害の喪失に比例して増大する。
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 モスクワでは、9月の市会選挙での投票参加者の減少は、さらに劇的だった。
 こちらでは、以前の6月の64万票に対して、38万票しか投じられなかった。
 投票票の半分以上はボルシェヴィキで、12万票を掘り起こしていた。一方、社会主義派(エスエル、メンシェヴィキおよびこれらの友好派)は37万5000票を失った。後者のほとんどはおそらくは、自宅にいるのを選んだ。
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 モスクワ市会選挙(議席数の割合)(88)
 党       1917年3月 1917年9月 変化
 エスエル    58.9     14.7    -44.2
 メンシェヴィキ 12.2      4.2    - 8.0
 ボルシェヴィキ 11.7     49.5    +37.8
 カデット    17.2     31.5    +14.3   
 ********
両極化の一つの効果は、ケレンスキーが変わらない権力を求めて計算していた政治基盤の風化だった。
 8月半ばのペトログラードの市会選挙で社会主義諸党が示した貧弱さは、同じその月の遅くでのケレンスキーの行動の、重要な要因だったかもしれない。
 というのは、彼の政治基盤が消失していたとき、「反革命」の勝利者としてよりも左翼の側への自分の人気と影響力を高めるよい方法は、何だったたのか? かりに想像上のものだったとしても。
 (5)コルニロフ事件は、ボルシェヴィキの運命を、予期されなかった高さにまで押し上げた。
 コルニロフの幻想上の蜂起を抑止し、クリモフの兵団がペトログラードを占拠するのを阻止するために、ケレンスキーはイスパルコムの助けを求めた。
 8月27-28日の深夜会議で、あるメンシェヴィキの動議にもとづき、イスパルコムは、「反革命と闘う委員会」の設立を承認した。
 しかし、ボルシェヴィキの軍事組織だけがイスパルコムが用いることのできる実力部隊だったので、この行動は、ボルシェヴィキにソヴェトの部隊という責任を負わせるという効果をもった。(89) こうして、昨日の犯罪者は、今日は戦闘員になった。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキに対して直接に、コルニロフに対抗する自分を、その当時に明らかに大きくなっていたボルシェヴィキの兵士たちに対する影響力を使って助けるよう訴えた。(90)
 ケレンスキーの代理人は、アナキストとボルシェヴィキ共感者としてよく知られた巡洋艦<オーロラ>の海兵たちに、ケレンスキーの住居であり臨時政府の所在地である冬宮の防衛の責任を引き受けるように要請した。(91)
 M・S・ウリツキ(Ulitskii)はのちに、ケレンスキーのこの行動がボルシェヴィキを「名誉回復させた」と述べることになる。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキが労働者たちに4000丁の鉄砲を配って武装することを可能にした。相当の数の武器がボルシェヴィキの手に入ることになつた。
 ボルシェヴィキはこれらの武器を、危機が過ぎ去ったあとも保持し続けた。(92)
 ボルシェヴィキの再生とともにどの程度に事態が進行していたかは、8月30日の政府の決定、すなわち訴訟手続が始まっているごく数名を除いて拘禁されているボルシェヴィキ全員を釈放するとの決定、でもって判断できるかもしれない。(93)
 トロツキーは、この恩赦の受益者の一人だった。トロツキーは3000ルーブルの保釈金でKresty 監獄から9月3日に釈放され、ソヴェト内のボルシェヴィキ党派の責任者となった。
 10月10日までに、27人のボルシェヴィキ以外は全員が釈放され(94)、つぎのクーを準備した。一方で、コルニロフと他の将軍たちは、Bykhov 要塞に惨めに捨てられていた。
 9月12日、イスパルコムは政府に対して、レーニンとジノヴィエフについて、身体の安全の保証と公正な裁判を要請した。(95)
 (6)コルニロフ事件の劣らず重要な帰結は、ケレンスキーと軍部の間の分断だった。
 というのは、将校団は事件に混乱して政府を公然とは拒否するつもりはなく、コルニロフの反乱に参加するのを拒絶したけれども、彼らの司令官に対する措置や多数の優れた将軍たちの逮捕、そして左翼への追従についてケレンスキーを軽蔑したからだ。
 のちの10月遅くにケレンスキーがボルシェヴィキから自分の政府を救うのを助けるよう軍部に呼びかけたとき、ケレンスキーの嘆願は全く聞き入れられないことになる。
 (7)9月1日、ケレンスキーは、ロシアは「共和国」だと宣言した。
 一週間後(9月8日)、彼は政治的対抗諜報機関を廃止した。これは、彼自身からボルシェヴィキの企図に関する主要な情報源を奪うことを意味した。(96)
 (8)堅固な指導力をもつことができる誰かによってケレンスキーが打倒されることになるのは、ただ時間の問題だった。
 そのような人物は、左翼から出現するに違いなかった。
 種々の違いが彼らを分けていたとはいえ、左翼の諸政党は、「反革命」という妖怪と闘うときには隊列を固めた。「反革命」とはその定義上、ロシアに実効的な政府としっかりした軍隊を回復しようとする全ての先導的行為を含む用語だった。
 しかし、国家は〔政府と軍隊の〕いずれをも有しなければならないので、秩序を回復しようとする先導力は、彼らの内部から出現しなければならなかった。
  「反革命」は、「真の」革命を偽装して、やって来ることになる。//
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 (84) ケレンスキー,<Delo>, p.65.
 (85) ミリュコフ,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.15n. <Echo de Paris>, 1920, <Oiechestvo>No.1, と<Poslednie Izvestiia>(Ravel), 1921年4月、を引用している。
 (86) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.299-p.300, p.70.
 (87) <NZh>No.108(1917年8月23日), p.1-2とNo.109(1917年8月24日), p.4.; W. G. Rosenberg, <SS>No.2(1969年)所収, p.160-1.
 (88) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.122.; Rosenberg, 同上.
 (89) Golvin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.53-p.54.
 (90) Sokolnikov,<Revoliutsiia>Ⅳ所収, p.104.
 (91) 同上Ⅴ, p.269.
 (92) S. P. Melgunov,<<略>>(Paris, 1953), p.13.
 (93) <NZh>No.116(1917年8月31日), p.2.
 (94) <NZh>No.149/143(1917年10月10日), p.3.
 (95) <NZh>No.125/119(1917年9月12日), p.3.
 (96) <NZh>No.123/117(1917年9月9日), p.4.
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次節の目次上の表題は、「隠れている間のレーニン」。

1939/L・コワコフスキ著第三巻第四章第11節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
 ①のとくに後半について、以下の独語訳書(1979年、新改版1989)も参照した。
 Leszek Kolakowski, Die Hauptstroemungen des Marxismus.(1979年、新改版1989年)、Der dritter Band, Zerfall.
 原文の 'diamat'と'histmat'は途中から〔弁証法的唯物論〕や〔歴史的唯物論〕へと変えた。
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 第11節・弁証法的唯物論の認識論上の地位①。p.151-.
 (1)通称で言われた'diamat'〔弁証法的唯物論〕や'histmat'〔歴史的唯物論〕の、そしてソヴィエトのマルクス=レーニン主義一般の社会的機能は、それ自体を賛美し、帝国主義的膨張を含めたその諸政策を正当化するために、統治する官僚機構が用いたイデオロギーだ、ということにある。
 マルクス=レーニン主義を構成している全ての哲学的および歴史的原理は、わずかな単純な前提命題によって、その最高点と最終的な意味へと到達する。
 生産手段の国有制と定義される社会主義は歴史的には社会秩序の最高の形態であり、全ての労働人民の利益を代表する。
 ソヴィエト体制はゆえに進歩を具現化したものであり、そのようなものとして、いかなる異論に対しても当然に正しい(right)ものだ。
 公式の哲学と社会理論はたんに、特権をもつソヴィエト支配階級の自己賛美の修辞文に他ならない。
 (2)しかしながら、いったん社会的側面は考慮外として、宇宙〔世界〕に関する言明の集積である、スターリニズムの形態での弁証法的唯物論に関して考察しよう。
 マルクス、エンゲルスおよびレーニンの考え方との関係ですでに述べてきた多数の批判的論評は脇に置き、「弁証法的唯物論」にかかる主要な論点に集中するならば、以下のような考察をすることができる。//
 (3)弁証法的唯物論は、異なる性質の主張で成り立つ。
 ある部分は、マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truism)だ。
 つぎの別の部分は、科学的手段では証明することのできない哲学上のドグマだ。
 さらに第三にあるのは、全くのたわ言(nonsense, Unsinn)だ。
 最後の第四の範疇は異なる態様で解釈することのできる前提命題で成り立っており、その解釈次第で、上記の三分類のいずれかに含まれる。//
 (4)自明のことの中ではとくに、宇宙の全てのものは何らかの形で関係している、あるいは、全てのものは変化している、という言明のごとき「弁証法の法則」だ。
 誰一人として、これらの命題を否定しない。しかし、これらは認識論的または科学的な価値を全くほとんど有しない。
 第一の言明は、そのとおりだが、例えばライプニッツやスピノザの、形而上学という別の論脈では、確かな哲学上の意味をもつ。しかし、マルクス=レーニン主義ではそれは、認識上または実践上の重要性のある、いかなる帰結をも導かない。
 誰もが、現象は相互に関連すると知っている。しかし、世界を科学的に分析するという現存の問題は、我々には究極的には不可能なので、宇宙的相互関係をいかに考慮するか、にあるのではない。
 そうではなく、どのような関係が重要なもので、どの関係を無視することができるかを、いかにして決定するかが問題だ。
 マルクス=レーニン主義がこの点で我々に教えることができるのはただ、鎖でつながった現象にはつねに、把握されるべき「主要な連環」(main link, Hauptglied)がある、ということだ。
 これはたんに、実際には、追求している目的から見て一定の現象が重要であり、その他の現象は重要でないか無視できるものだ、ということを意味するにすぎない。
 しかし、これは認識上の価値のない、陳腐なこと(commonplace, triviale Alltagswahrheit)だ。我々は、いかなる規準でもってしても、全ての特定の場合について、重要性の程度の階層を確定することはできないのだから。
 「全てのものは変化している」という命題に関しても、同じことが言える。
 個々の変化、その本性、速さ等々に関する経験的な叙述にのみ、認識論上の価値がある。
 ヘラクレイトス(Heraklitus)の格言には、彼の時代の哲学的な意味があった。しかし、それはすみやかに誰でも知る一般常識、日常生活の知恵の範疇へと埋もれ込んだ。//
 (5)マルクス=レーニン主義者による、「科学」はマルクス主義を確証している、の信奉は、これらのような自明のことがマルクス主義による重大な発見だと叙述されたことにまさに依拠している。
 経験科学や歴史科学の真実というものは、一般論として言って、何かが変化しているとか、その変化が何か別のものと関係しているとか、を語るものであるので、全ての新しい科学的発見は、そのように理解される「マルクス主義」を確認することになるのだろう、と我々は認めることができる。//
 (6)証明することのできないドグマという第二の範疇に、話題を移す。これには、とりわけ唯物論それ自体の主要なテーゼが含まれる。
 マルクス主義の分析の低い水準によって、このテーゼはほとんど明瞭には定式化されておらず、その一般的に意味するところは十分に単純だ。
 すでに指摘したように、「世界はその性質において物質的だ」との言明は、レーニンの様態に倣ってたんに物理的固有性から抽出された「客観物」だと、あるいはレーニンが述べたように「意識から独立した存在」だと物質が定義されるのだとすれば、あらゆる意味を失う。
 意識という概念がまさにその物質という観念の中に含まれているということは別論として、「世界は物質的だ」との言明はたんに、世界は意識から独立したものだ、ということだけを意味することが分かる。
 しかし、これを全てに当てはめるならば、マルクス=レーニン主義自体が認めるように、一定範囲の現象は意識に依存しているのだから、明白に間違っている、というだけではない。それだけではなくて、唯物論にかかわる問題を解決することもしない。宗教的な人々の考えによれば、神、天使および悪魔もまた同様に、人間の意識から独立したものだ。
 他方で、物質は物理的固有性-外延範囲や貫通不可能性等々-だと定義されるとすれば、「物であると証明されない微小物体にはその規準-固有性の一定範囲-を当てはめることはできない、と論駁され得る。
 唯物論は、その初期の範型では、存在する全物体は日常生活のそれと同じ固有性をもつ、と考えた。
 しかしながら、基本的には、この命題は一定の消極的なものだ。すなわち、我々が直接に感知するものと本質的に異なる現実体は存在しない。また、世界は理性的存在によって生み出されたものではない。
 ちなみにこれは、エンゲルスが自ら定式化したことだった。すなわち、唯物論での問題の要点は、神は世界を創造したのか否か、だった。
 明らかに、神が存在した、または存在しなかったことの経験上の証拠は存在し得ないし、科学上の論議によって神が存在するか否かを決定することもできない。
 合理主義は、思考経済という(レーニンが否定した)考え方にもとづいて、経験上の情報の有力さにもとづいてではなく、神の存在を拒絶する。
 この考え方が前提とするのは、経験が我々に強いているとすれば、我々にはただ何かが存在することを受け容れる権利だけがある、ということだ。
 しかし、このような条件の明確化はそれ自体が論議を呼ぶもので、明瞭さからはほど遠い前提に依拠している。
 ここではこの問題に立ち入らないで、我々は、つぎのように確言することができる。すなわち、我々がこのように再定式化した唯物論のテーゼは、科学的な主張ではなく、ドグマ的な言明(dogmatic statement)〔信仰告白(Glaubensbekenntnis)〕だ。
 同じことは、「精神的な実体」や「人間の意識の非物質性」についても当てはまる。
 人間の意識はつねに肉体的な過程によって影響される、と人々は古い昔から気づいてきた。
 例えば、頭を棍棒で打って人を気絶させることができる、ということに気づくのに、長期の科学的な観察は必要でなかっただろう。
 だが、このことは、意識の過程が異なる肉体的条件に依存することに関してその後に研究しても、本質的なことを何も付け加えることはない。
 意識の非物質的な根底があると考える者たちは、意識と身体の間に連環はない、とはむろん主張しない。(かりにそうするとすれば、彼らは、デカルト、ライプニッツやマールブランシュ(Malebranche)のように、経験上の事実を考慮する複雑で技巧的な方策を考案しなければならない。)
 彼らはただ、身体上の過程は人間精神の働きを停止させることができるとしても、破壊することはできない、と主張する。-身体は、意識がそれを通じて作用するいわば媒体物だ。しかし、その意識の作用のための不可欠の条件ではない。
 こういう主張の正しさは、経験上は証明することができないが、反証することもできない。
 たんに、進化論は非物質的な精神を支持する議論に反駁したと、いかにしてマルクス主義の支持者たちは主張するのかも、一致していない。
 かりに人間という有機体が突然変異によって生命の下層から発生したのであれば、そのことから論理的には、精神の否定につながるわけではない。
 そうであるとすれば、現代的な進化論と意識の非物質的根底、または世界の目的論的見方すら、の間を同時に結びつける矛盾なき理論を生み出すのは、不可能だろう。
 しかし、そのような若干の理論が、ベルクソンを通じてフロシュアマー(Froschammer)からテイヤール・ド・シャルダン(Teilhard de Chardin)まで、存在した。そして、それらには何らかの矛盾がある、ということは、全く明瞭ではなかった。
 キリスト教哲学者もまた、教義に進化論の効果からの免疫をつけるための様々な可能性をすでに見出した。そして、この哲学は異論に対して開かれていたかもしれないが、自己矛盾があった、と言うこともできない、
 科学的作業に応用できる有効性という規準で判断すれば、唯物論のテーゼは、その反対理論と同じ程度には恣意的なものだった。//
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 ②へとつづく。

1934/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章②/四月テーゼ後。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)。
 第8章の試訳のつづき②、「四月テーゼ後」。p.131-p.136.
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 (16)これらの主張が真実なのかどうかはともかく、ドイツの対ロシア政策の重心がどこにあるのかは、間違えようがなかった。
 あらゆる党派(連合諸国の助けを望んだ親戦争のエスエル「防衛主義者」を除く)の追放社会主義者たちが、ドイツの費用で、ロシアへと送られた。ソヴェトと臨時政府の間の緊張関係を激化させるためだった。
 ウクライナ、フィンランド、ポーランド、エストニア各人の血を引くロシア帝制側の戦争捕虜たちは、独立を煽動させるために故郷に送られた。
 革命的ロシアに流れ込んだ不満分子たち大勢の中で、レーニンはたんなる一人にすぎなかった。
 しかし、その戦争に関する過激な考えとウクライナ分離主義の日和見主義的受容心によって、レーニンは混沌をさらに促進する危険人物であり、ロシアの戦争遂行を挫折させるために送られた一人だけの破壊員だった。
 パルヴゥス自身が3月遅くにコペンハーゲンにいたドイツの大臣に説明したように、臨時政府のもとでロシアの戦闘意欲が復活するのを阻止するためには、「無政府状態を増大させるべく過激な革命運動を支持しなければならないだろう」。
 あるいは、そのときコペンハーゲンを訪れていたドイツ社会民主党の指導者のP・シャイデマン(Philip Scheidemann)にパルヴゥスが説明したように、レーニンは、ロシア社会主義者で中で最も「無謀な狂乱者(raving mad)」だった。//
 (17)ドイツによるレーニンへの投資は、すぐにその配当を生み出した。
 ストックホルムで、レーニンの友人のカール・ラデク(Karl Radek)はペトログラードのレーニンと通信するためのボルシェヴィキ外国特命組織を設立した。そこにレーニンは途中下車したのち、ロシア人一団は列車による旅を続け、1917年4月3日のちょうど午後11時すぎにペトログラードのフィンランド駅に到着した。その列車はのちに、レーニンの英雄的時間を記念すべくガラスで覆われた(今もそこにある)。
 急いでボルシェヴィキ党の本部へ行き、レーニンは、「海賊たちの帝国主義戦争」を非難する2時間にわたる烈しい演説を行い始めた。そこには、戦争を継続している臨時政府を支持する堕落者たちもいた。
 レーニンが提起した基本方針は過激すぎたので、党機関誌<プラウダ>は最初はそれを印刷するのを拒否した。
 その「四月テーゼ」は、「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンで今日でもよく記憶されている。これはしかし、戦争に対するいかなる支持も否認し、ロシア軍の廃絶を主張する点で、外交政策としても同等に過激だった。
 数時間のうちに、レーニンの「極端に過激で平和主義の」方針はペトログラードの話題になった。Frank Golder は、その日記に、ドイツが「彼と彼の党が平和を宣伝して、戦意喪失をもたらす」ために、レーニンをペトログラードに送り込んだ、との風聞があることも記した。 
 ストックホルムのドイツ軍諜報機関は小さな驚きとともに、ドイツ軍最高司令部に、こう報告した。「レーニンのロシア入国はうまくいった。彼は、我々がまさに望んでいるように仕事をしている」と。(16)//
 (18)17年の間ほとんどロシアに足を踏み入れなかった追放者だったので、レーニンは、ロシアの社会主義仲間に対する礼儀その他の実際的な配慮を全く気に懸けることなく、自由に政治方針を考えた。
 彼の戦争に関する展望はかくして、ともに二月革命後にシベリア流刑を恩赦されて解放されていた、L・カーメネフ(Lev Kamenev)やJ・スターリン(Josef Stalin)のような、ロシアにいたボルシェヴィキとは異なるものになった。
 カーメネフは、<プラウダ>の編集長で戦争勃発時にはドゥーマのボルシェヴィキ議員団長だったが、1915年1月に逮捕された。
 スターリンは1913年に4年間の流刑(国内追放)を宣告され、北東シベリアのTurhansk近くにいて戦争を迎えた。-彼にはそのときまで最も離れた土地への追放で、逃亡するのは不可能な場所だった。
 戦争中の苦難によって指導者たる地位を得たと考えているカーメネフは、爆弾のごときレーニンの演説の後で、ボルシェヴィキ中央委員会は党の現在の基本方針を維持して、臨時政府と戦争をしかるべく支持し、「『革命的敗北主義』の士気を喪失させる悪影響や同志レーニンの批判に反対」すべきだと主張した。
 スターリンは<プラウダ>でより大胆に、レーニンの「戦争よくたばれ」のスローガンは「無用」だと非難した。
 ボルシェヴィキ中央委員会は、4月8日、レーニンの四月テーゼを13対2で、正しく徹底的に却下した。(17)//
 (19)しかし、レーニンは、切り札(エース・カード)を持っていた。すなわち、ドイツの金。 〔太字化は、試訳者による。〕
 二月革命後の最初の月の記念号である<プラウダ>3月12日号は、Moika 運河ぞいの政府が保有する印刷工場からは、限られた数しか発行されなかった。
 レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキは25万ルーブル(当時の12万5000ドル、現在のおよそ1250万ドルと同額)で、Suvorovsky 大通りに私有の印刷機を購入した。それは所有者から熟練工を(現在の150万ドルまたは一年で1800万ドルと同額、一カ月あたり3万ルーブル以上の)全額負担して雇う、という約束をしてのちのことだった。
 この最後の約定は、所有者の気乗り薄さを克服するために決定的なものだった。その所有者は、「労働者印刷集団」ふうの様子の影あるグループが手持ちの現金を用意しているのかどうか疑っていたからだ。(18)//
 (20)ボルシェヴィキは今や、事実上は無制限の量の、宣伝物を発行することができた。
 <プラウダ>の発行部数は急速に増えて、8万5000部に達した。
 4月15日、党はペトログラード守備連隊の兵士たちに向けて、新しい大判紙の<兵士のプラウダ>の発行を開始した。
 この新聞はもともと5万部の発行を予定していたが、そのとき7万5000部になった。
 つづいて、前線の兵士たちに宛てたもの(<Okopnaiaプラウダ>)、バルティック艦隊の海兵たち向けのもの(<Golos Pravdy>)も発行された。
 ほどないうちに、前線の兵団に届くボルシェヴィキの日刊紙部数は6桁〔10万以上〕に達した。
 特別の小冊子も、10万の単位で発行された。
 このような目覚ましい出版上の大成功は、ドイツの財政支援によって可能となった。このことを考慮するならば、カーメネフやスターリンによる声高の反対があったにもかかわらず、レーニンが最終的には、反戦争というまだ知られていない基本方針を<プラウダ>で伝搬させることができたのは、何ら驚くべきことではない。(19)//
 (21)ソヴィエト政府がのちに多数の文書の束を廃棄したために、歴史研究者がドイツ政府とペトログラードのボルシェヴィキの間の金の動きの軌跡をたどるのはきわめて困難だ。
 レーニンは、ストックホルムにいるラデクへの若干の暗示的な電報があるのを除いては、自分の手を汚さないままでいた。
 そのうちの一つで、レーニンは、4月21日、2000ルーブルを受領したことを確認していた。
 もう一つの電報では、レーニンは、「もっと資材(materials)を」と要請していた。(20)
 臨時政府で反対諜報活動に従事したB・V・ニキーチン大佐は、いくつかの刑事罰の対象になりうる電報をその回想録で再現した。それによると彼は、E・スメンソン(Evgenia Sumenson)というボルシェヴィキの工作員が尋問を受けて(彼女がドイツ製品輸入業で洗浄して合法化した)金銭をボルシェヴィキ党中央委員会の一員であるM・コズロフスキ(Miecyslaw Kozlovsky)という名のポーランドの弁護士に渡した、ということを自白した。
 ケレンスキーは、1917年にロシアを離れた後で、連合諸国の諜報機関から文書資料に関する報告を受けた。彼が見たと主張したその文書資料の中には、シベリア銀行のスメンソンの口座から75万ルーブルを引き出すための有名なものもあった。
 今日まで、ほとんどの歴史研究者たちは、ロシア側の文書庫から対応する証拠が出ていないために、このような論争の種となる資料は曖昧なままにしておかなければならない、と考えてきた。(21)//
 (22)しかしながら、臨時政府がボルシェヴィキ・ドイツ間の紐帯を明らかにする文書の全てが破壊されてしまったわけではない。
 共産党の文書庫の中にあった新しい証拠からは、つぎのことが明らかだ。すなわち、スメンソンは実際に、ナデジンスカヤ通り36番地にある大きくて家具が全て調えられたペトログラードのマンションから、かりに異様ではあっても本当に、輸入業を営んでいた
 (彼女の活動は、隣人たちの相当の好奇心の対象になった。未婚の、子どものいない女性が4つの寝室をもつ住戸に住み、多数の男性訪問者を迎えているのはどうしてだろう、と。)
 スメンソンは、ドイツ製の温度計、医薬品、長靴下、鉛筆、およびネスレ(Nestlé)の食料品を現金払いで販売していた。
 彼女はシベリア銀行と、さらにはロシア・アジア(Russo-Asiatic)銀行やAzov-Don 銀行に活動口座を有しており、そのいずれにも、裕福なロシア人にドイツの贅沢品を販売して蓄積した、数10万ルーブルの金を預けていた。
 複数の目撃者が、スメンソンが定期的に数千ルーブルを現金で、コズロフスキに個人的に渡していたのを見た。(22)//
 スメンソンはまた、ストックホルムとコペンハーゲンの各銀行から直接に電信を受け取っていた。それはふつうは彼女の従兄弟のヤコブ・フュルステンベルク-ハネッキ(Jakob. Fürstenberg-Hanecki)(革命運動上の別称は「クバ(Kuba)」)からのもので、彼は、レーニンが最も信頼する党同志の一人で、のちにソヴィエトの財務大臣となる人物だった。
 明白な証拠がある電信で、コズロフスキは、クバがストックホルムのNya銀行からペトログラードのスメンソンへ10万ルーブルを送るよう要請した。そして、数日後に、この正確な金額が、滞りなくロシア=アジア銀行の彼女の口座に振り込まれた。
 このような直接の電信による移動やスメンソンの輸入業から生じるルーブル立ての収益の洗浄によって、ドイツ政府は、莫大な金額をペトログラードのレーニンの党へと移すことができた。その額は最終的には5000万ゴールド・マルクに昇った。これは、現在の10億ドル余と同額になる。(23)//
 (23)ロシアの地下世界でその日暮らしの活動をした年月のあと、ボルシェヴィキは今や大勝利を収め、それにふさわしく行動した。
 フィンランド駅へと帰還したあと、レーニンはクシェシンスカヤ邸(Kshesinskaya Mansion)へと移った。これは市内の最大の邸宅の一つで、マチルダ(Mathilde)・クシェシンスカヤのために、1904-1906年にアール・ヌーヴォー様式で建築されていた。-クシェシンスカヤは最も有名なバレリーナで、皇帝ニコライ二世のあとは、二人のロシア大侯爵の愛人だった。
 その邸宅は戦略的に見るとペーター・ポール大要塞とちょうど正反対の場所に位置しており、レーニンの帰還後は、優美なバレリーナの住まいから、補強された軍事的複合施設、ボルシェヴィキの神経中枢へと変えられた。
 (ソヴィエト時代に革命博物館と改称され、今は政治史博物館になっている。)//
 (24)クシェシンスカヤ邸は、諸活動が集中する場所になった。党中央委員会の諸会合、<プラウダ>や<兵士のプラウダ>の編集部、そしてボルシェヴィキ「軍事組織」の最高司令部。ここからは、ロシア軍団を反戦争信条へと転換させるべくコミサールが派遣された。
 階下には会計部署があり、「高価な印刷装備」と並んでいた。のちにニキーチン(Nikitin)の人員が発見したところよると、この印刷施設は、信頼できる活動家や兵士たちのために個人識別カードや自動車運転免許証を大量に作成していた。
 小冊子や宣伝ビラが、通路に散乱していた。
 伝達人(クーリエ)が指令書をもって、あちらこちらへと急いで出て行った。(24)//
 (25)街路の視点から見ると、光景はもっと印象的なものだった。
 クシェシンスカヤ邸はすみやかにペトログラード市内の至る所から来る示威活動家の集会場となった。彼らは、興奮-と抗議の意思表示-を求めていた。
 情報宣伝に関するボルシェヴィキの熟達さは本当のことで、軍隊はレーニンのあからさまな政治方針によって、さらなる一撃を受けていた。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルはしぶしぶ、軍隊の紀律を回復すること(指令第二号によるような)への協力に同意したが、ボルシェヴィキは、単純に、「政府よくたばれ!」と宣言した。
 何人かの目撃者によれば、レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキのポスターには、こう書くものが出現した。すなわち、「ドイツ人は我々の兄弟だ」。(25)//
 (26)ドイツ軍はロシア領域内にいたので、このようなスローガンの力は、かりに叛逆的でなくとも、強烈だった。
 レーニンはドイツの工作員だとの噂が、すでにかけ巡っていた。
 このような状況にあったことを考慮すると、上のようなポスターを掲示しようとする者がいたことは注目に値する。
 この点についてもまた、新しい証拠によって手がかりが得られる。
 E. Shelyakhovskaya という名のロシア赤十字の看護婦は前線からペトログラードに戻ったばかりだったが、この女性によると、クシェシンスカヤ邸の玄関にいた身なりのよい何人かの男たちが(彼女は詳細に彼らの特徴を表現した)1917年4月遅くに反戦争と親ドイツのポスターを配布していた、その際に、そのポスターを貼るつもりのある誰に対しても10ルーブル紙幣を手渡していた。
 これは、今日の500ドルに近い現金だった。
 これらのボルシェヴィキの運び屋たちは、Shelyakhovskaya によると、カバンが空になるまで現金紙幣を渡し終えると、クシェシンスカヤ邸の中に再び入り、カバンに新しい10ルーブル紙幣を詰め込んですぐにまた現れた。
 二人めの目撃者は、このようなShelyakhovskayaによる観察の基本的な部分を、宣誓のもとで確認した。(26)//
 (27)看護婦の話に色どりを加えると、ニキーチン大佐によれば、これらの10ルーブル紙幣はドイツ政府によって作られた偽造のものだったらしくある。ドイツ政府は、戦争前に10ルーブル紙幣の型版を獲得していた。
 これら偽造紙幣には顕著な目印があり、それは、ニキーチンによれば、「通し番号の最後の二桁の下にうっすらと線が引かれていた」ことだった。
 こうした「ドイツ製」紙幣の多くは、のちに、逮捕されたボルシェヴィキ煽動活動家の所有物の中から発見された。(27)//
 (28)レーニンと彼へのドイツの財政支援者は、本気でゲームを続けた。
 臨時政府は、ロシアがかつて革命前に行うと約束していた春季攻勢を行うよう連合諸国から厳しい圧力を受けていた。また、軍隊の制御をめぐって、ソヴェトとの苦い闘いに没頭すらしていた。その臨時政府には今や、想定することのできるもう一つの敵が、出現した。
 ボルシェヴィキが臨時政府に血を浴びせるのに、長くはかからなかっただろう。//
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 以上で、第8章は終わり。

1933/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章/ドイツ縦断のレーニン。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)
 この著は序文とあとがきを除いて大きくは、つぎの三部で成る。
 第一部・ロマノフ家の黄昏、第二部・1917年の崩壊、第三部・権力にあるボルシェヴィキ。これが通し番号での「章」に分けられている。第一部/1-4章、第二部/5-17章、第三部/18-23章、計23章まで。
 この書物の章名では叙述対象の時期や事件がほとんど明らかにはならないのだが、レーニン・ボルシェヴィキとドイツに関係がありそうな箇所(章)を選んで、試訳してみよう。
 まず、第8章・ドイツの先札(Gambit)。p.125-p.136.
 Gambit はよく分からないが、最初の手札、切り出しとかの意味のようで、自信はないが試訳として「先札」としておいた。
 叙述対象の時期は、1917年の二月革命後、レーニンの(「封印列車」による)ロシア帰還の頃だ。
 各章はさらに「節」へと分けられてはおらず、段落の区切りしかない。日付間の/は、原文どおりで、旧暦/新暦。
 この著については、注番号だけ付して、その内容(後注)の紹介は、省略する。
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 第8章・ドイツの先札(Gambit)①。p.125-p.130.
 (1)ロシアでの二月革命の報せは、ニコライ二世の退位のあとですぐに世界中をかけ巡った。多くの詳細は、翻訳されなかったけれども。
 ロンドンとパリでは、反応は高揚感に溢れた。これらの都市には、帝政に反対する意見を生じさせるための政治報告があって、ロシアのリベラル派が要点を記述すべく作成していた。
 <ウェストミンスター新聞(Westminster Gazette)>は「重たい荷物の排除」、「劇的な一撃」だとして帝制の崩壊を祝賀し、専制的ロシアを「仲間的忠誠と経験」へと並ばせるものだとした。
 <ル・マタン(Le Matin)>は、二月革命は「連合国にとっての勝利」だとして祝賀し、「ロシアの解放は我々の敵国の外交計画を破滅させるだろう」と予言した。(1)
 (2)ワシントンほどにこの報せが熱狂的に歓迎された都市はなかった。そこではW・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領が、ドイツとの戦争に備えて議会-とアメリカ国民-を説得する突然に切迫した闘いに直面していた。
 1916年11月、ウィルソンは大部分は「戦争の圏外にとどまり続ける」と豪語したおかげで再選されており、ドイツの一連の非道行為にただ衝撃を受けていた。
 1917年2月1日の無制限の潜水艦製造の再開のあとでアメリカ合衆国の介入があり得ることを考慮して、ヴィルヘルム通り〔ベルリン・ドイツ帝国〕は、すぐに悪名高くなった「ツィンマーマン電報(Zimmermann Telegram)」を-アメリカの外交用電線を経て-メキシコ・シティのドイツ大使館に送り、いっそうの悪辣さを示した。
 この驚くべき文書で、ベルリンは、メキシコがアメリカに宣戦布告をすればメキシコがアメリカの南西部(テキサス、ニュー・メキシコ、およびアリゾナ)の<再征服(reconquista)>を支持すると約束していた。
 アメリカとこの突発情報を注意深く分有していたイギリスの暗号解読者たちが、ツィンマーマン電報を最初に読み解いた。その内容は、1917年2月15日/28日、まさにペトログラードでロシア革命が勃発するときに、プレスに発表された。(2)//
 (3)アメリカ世論に対する二月革命の影響は、電気に打たれたごとくだった。
 ウィルソン政権は2月初めに無制限潜水艦製造再開のあとですでにベルリンと厳しい外交関係に入っていたけれども、そのことはまだ宣戦布告にまでには至らせなかった。
 リベラルで学者風の理想主義者であるウィルソンは、「アメリカ例外主義」の信条を掲げており、国家の在来的な理由ではアメリカ合衆国を戦争へと突入させることを決して快くは考えていなかった。
 ツィンマーマン電報ですら、ウィルソンの「武装中立」の方針を変えさせることはなかった。
 ロシアが「リベラルで民主主義な」陣営に加わった後ではじめて、ウィルソンは刺激を受けて、1917年3月20日/4月2日の議会の合同会議の前で宣戦布告を行った。それは、「世界を民主主義を求めて安全なものにしなければならない」、「平和は政治的自由という吟味済みの基礎の上に築かれなければならない」、と述べた。(3)//
 (4)ウィルソンは、見たかったものを二月革命のうちに見た。
 彼が表明した高貴な理想は、アメリカや(より少ない程度で)イギリスのような、権力に余裕がある国の贅沢だった。これらの国は、ドイツのUボートによる公海上での攻撃を超えて、安全に対する生存にかかわる脅威に直面してはいなかった。
 パリから65マイルだけ離れたノヨン(Noyon)要塞をドイツが有しているフランスでは、生まれつつあるロシア民主主義に関する気分のよさは、ロシアの春季攻勢に対する革命の影響に関する実践的な関心に、大きな影響を受けていた。その攻勢はドイツの軍事力をフランスから逸らせることが期待されていたのだ。
 <ル・マタン>は、ペトログラード・ソヴェトの「過激主義者」について警告を発した。
 曖昧にだが指令第一号-連合諸国の通信員たちにはまだ知らされていなかった驚くべき布令-を示唆して、<ル・マタン>は、「その決定はタウリダ宮の1600人の代議員に行き渡っている。混乱状態にあると言われていることだけが分かる」と不満を漏らした。(4)
 (5)ベルリンでは愛国主義の記者たちは、肯定的な報せを軽視して、ペトログラードの革命が生み出す秩序混乱を強調しがちだった。
 <ベルリンLokal Anzeiger>は、「社会主義が溢れる。そして無政府状態になる」と一面の大見出しを掲げた。
 <ベルリンTagesblatt>は、ロシアにいるドイツの戦争捕虜たちはストックホルム経由で送られている、と肯定的に記した。
 <Tagesblatt>のコペンハーゲン通信員は、「フィンランドへの血なまぐさい革命の広がり」という不快な説明記事を掲載した。
 ドイツの立場からすると、革命がより混乱を増せば増すほど、それだけ良かった。(5)//
 (6)連合国側の観察者がロシアの戦闘能力に対する革命の影響に関して望ましい考え方をしてしまった一方、より暗いドイツの記事は、偏った見方に彩られていてはいたが、努めて真実により近いものを叙述していた。
 反乱がロシアの陸海軍をつうじて広がって<いた>(前線全てに対するのと同等の影響ではなかったけれども)。そして、無政府状態が国土じゅうに伝搬している。
 さらに加えて、ペトログラードの現地に工作員をもち、外国にいるロシアの革命家たちの世界と良好な接触をしてしてきたドイツは、理想的にロシアの混乱を利用できる-そしてそれを拡大することのできる-位置にいた。
 レーニン・カードを切る、そのときがやって来た。〔太字化は試訳者〕//
 (7)ボルシェヴィキ党の指導者は、努力に欠けていたわけではないが、ずっと静かな闘いをしてきた。
 1914年8月の大戦勃発のとき、レーニンは、ロシアの国境に近いオーストリア・ガルシアのクラカウのそばのポロニモ(Poronimo)にいて、地方のウクライナ人の間で煽動活動を行っていた。
 クラカウの警察は敵国外国人として彼を逮捕した。オーストリアの社会主義者の指導者がレーニンはツァーリ体制のスパイではなくロシアの憎い敵だと保証してくれた。
 レーニンの場合は、その住居を探索して本当の(bona fide)マルクス主義活動家に取り憑くかもしれない退屈な経済研究書の類だけしか発見されなかったことが、役立った。
 オーストリアの役人による尋問で、レーニンは公然とウクライナ分離主義を支持する革命的狂信者だと確認された。ウクライナの分離は、中央諸国の中心的な戦争目的だった。
 レーニンは9月初めに、ハプスブルク軍事省の特別の命令によって釈放され、軍事郵便列車で-妻のNadezhda Krupskaya と彼に忠実なボルシェヴィキの副官(aide-de-camp)のG・ジノヴィエフ(Grigory Zinovoev)と一緒に-スイスへと送られた。そこで彼は、ツァーリに対抗する戦争陰謀を練って過ごした。(6)//
 (8)すでにオーストリアの監視のもとにあったレーニンは、二つの別々の経路でドイツ外務当局の注意を引くことになった。
 第一は、我々がすでに言及した、アレクサンダー・「パルヴゥス(Parvus)」・ヘルファンドだった。この人物は1905年に、ペトログラードで面倒なことを起こしていた。
 シベリア追放から脱出したあと、パルヴゥスは、外国のドイツとそのあとトルコで、豊かで興味深い人生を送った。
 大戦が勃発したとき、彼は、ウクライナ分離主義者、アルメニアとジョージアの社会主義者その他の帝制に追放された者たちのためにボスポラスの政治サロンを運営していた。その仕事の中で彼は、1915年1月にオットーマン帝国駐在のドイツ大使であるヴァンゲンハイム(Hans von Wangenheim)男爵に出席を求めた。
 パルヴゥスはヴァンゲンハイムに対して、「ドイツ帝国政府の利益は、ロシアの革命家たちと同一だ」と語った。(7)//
 (9)第二の媒介者のA・ケスキュラ(Alexander Kesküla)も、同様に多彩だった。
 ケスキュラは、パルヴゥスのように1905年革命の被抑圧者だったエストニア人ボルシェヴィキだった。そして、より最近に全面的なエストニア民族主義の考えを抱いた(フィンランド人の友人にエストニアがペトログラードを支配した後でのペトログラードに関する計画を尋ねたところ、その諸宮殿は素晴らしい「採石場」になるだろう、と答えた)。
 のちに彼が想起したように、1914年9月にドイツの諜報機関の仕事に加わったケスキュラの動機は、単純だった。すなわち、「ロシアに対する憎悪」。
 1915年9月、ケスキュラはベルンにいるドイツ領事のGisbert von Romberg に、レーニンの考えやイデオロギー状況を知らせた。
 そのあとロンベルクはケスキュラに1カ月あたり2万マルクを、レーニンその他のボルシェヴィキに配るべく支払った。(8)//
 (10)レーニンの戦争に関する立場から見ると、それは追放社会主義者たちのツィンマーヴァルト(1915年)やキーンタール(1916年)での会議で彼が概述していたものだが、なぜドイツの外務当局がレーニンを養ったかを理解するのは困難ではない。
 これらの集会での多数派は(まだメンシェヴィキの)トロツキーが起草した決議を支持してはいたが、これに対する反対派は、戦争に反対し、労働するのを拒むか古い「ゼネ・スト」原理によって闘うよう訴えていた。
 レーニンは、「革命的敗北主義」という少数派の教理を定式化した。
 彼は、社会主義者は彼らの自国が敗北するように活動しなければならず-彼はこれを文字通りに意味させた-、そして、「帝国主義戦争を内戦に転化しなければならない」、と主張した。
 協議案による抵抗よりもむしろ、社会主義者は労働者に対して、軍隊に加入し、その中で反乱を行って軍隊を「赤」に変えるよう激励しなければならない。
 こうした考え方はツィンマーヴァルトでのマルクス主義多数派によって分裂の起因になると見られていたけれども、レーニンは、ウジェーヌ・ポティエ(Eugène Pottier)の社会主義の歌の精神により近いところまで切り進んでいた。
 その歌、<インターナショナル>は、軍隊での反乱を推奨していた。
 「王公たちが、俺たちに煙を食わせる。
 俺たちは仲良くなって、専制者たちと闘おう。
 軍隊に対して、ストライキをしよう。
 銃砲を空中に放って、隊列をかき乱そう。
 彼ら人喰いたちがなおも抵抗するなら、
俺たちを英雄に仕立てたいのなら、
 すぐに知るだろう、俺たちの銃口は、
 俺たち自身の将軍さまに向けられていることを。」
 〔歌全体の一部。/大島博光訳を参照した。〕
 (11)このようにレーニンの「ツィンマーヴァルト左派」の教理は過激であるので、ロンベルク領事がその旨をベルリンに説明したとき、ドイツ外務当局は、レーニンの基本的な考え方の出版を抑えるべく介入した。オフラナ(Okhrana)〔ロシア帝制秘密警察〕がそれをロシアにいる社会主義者の大量拘束を正当化するために利用しないように。
 (12)二月革命の前の数カ月、レーニンはドイツの監視網からある程度は離れていた。
 パルヴゥスはロシアでの産業労働者を怠業させる自分の努力に集中しており、ケスキュラは、レーニンがエストニア問題に無関心であるためにレーニンに冷たくなっていた(ドイツの返礼は、1916年10月にケスキュラとの関係を絶つことだった)。
 レーニン自身は、ロシアの事情に疎遠になり始めていた。それについては彼は意気消沈していた。
 1917年1月9日/22日にチューリヒのVolkshaus で、集まっている若き社会主義者たちにこう語りかけた。「我々古い世代の者は、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないかもしれない」。(11)//
 (13)レーニンは革命について、1917年3月1日/14日にオーストリアの同志から聞いて初めて知った。
 レーニンは元気になり、ただちにペトログラードへと帰還したかった。西側と東側の前線を避けるためには、スイスからロシアへと最も近くて安全な経路をとることだったが、それにはドイツを縦断することが必要で、ロシア人には本国に戻ることができるのか、疑わしく思えた。
 ベルンのドイツ領事、ロンベルクは、何とか助けたいと思ったが、彼もレーニンも、慎重にことを進める必要があった。
 スイスの社会主義者、F・プラッテン(Fritz Platten)が仲介者として行動し、レーニンとスイスおよびドイツ両政府の間の全ての交渉を処理した。彼は全ての切符を購入し、列車がドイツを縦断する間は公的な「ホスト」と報道官として振る舞い、その結果としてロシア人は誰も、ドイツの役人たちと話す必要がなかった。
 偽装を追加するため、プラッテンはまた、レーニンと19人のボルシェヴィキ仲間-ジノヴィエフ、レーニンの妻のNadazhada、彼の愛人のInessa Armond、および煙草好きのポランド=ユダヤ人のK・ラデク(Karl Radek)ーには、その列車で年配メンシェヴィキ指導者のJ・マルトフ(Jurius Martov)と6人のユダヤ人同盟の非ボルシェヴィキたちが同行している、と明記した。
 プラッテンはさらに、結局は失敗したが、社会革命党(エスエル)の追放者も名簿に入れようとした。これらの愛国的ロシア人の誰も、レーニンと連携するのを望まなかった。
 最も重要な条件は「治外法権」にかかわっていた。プレスの電信で語られた、レーニンの列車は「封印」され、ドイツを縦断中はドアを開けようとしなかった、との物語があった。
 1917年3月23日/4月5日、ドイツ政府は500万ゴールド・マルクをロシアの革命化のために充当した。そしてその4日後に、レーニンは出立した。(12)//
 (14)誰もが封印列車のことを知らせようとしたのかもしれないが、物語はほとんどすぐに漏れ広がった。
 ロシア人はスイスの国境を越えたあとで、列車を交換しなければならなかった。このことは、彼らはドイツの土を、Gottmadingen で「踏んだ」ことを意味する。
 越えたあと、新しいドイツの列車がやって来た。二人のドイツ人将校、団長のvon Planetz と副官のvon Buhring が同行していた。二人とも、ドイツ軍最高司令部で直接に将軍E・ルーデンドルフ(Eeich Ludendorff)に属していた(Buhring は、ロシア語に流暢だったために選ばれた)。
 ドイツ側の記録によれば、我々はつぎのことも知る。第一に、ロシア人の一団は「フランクフルトでの接続を逃し」、そこで長い間、列車の間を、途中下車をしなければならなかった。第二に、ベルリンを通過する間に、四人めのドイツ人の「民間人の服を着た将校」がレーニンが乗る列車を訪れた。第三に、列車はベルリンに20時間停車し、食物と新鮮な牛乳が補給された。第四に、この二回目の遅延によって、ロシア人たちはのちにサスニッツ(Sassnitz)のドイツ・ホテルで、デンマーク行きの次のフェリーを持つ間、完全に一晩を過ごすことを余儀なくされた。
 (15)革命後にドイツから送還されたロシア人捕虜たちの宣誓証言書によると、レーニンの列車がドイツに止まったことが怒りの原因に何らならない、ということはなかった。
 彼らの一人、上級予備士官のF. P. Zinenko は、レーニンがドイツの助けを得たことは、レーニンがウクライナ分離主義を支持したこととともに、捕虜収容所で公然と議論された、と証言した。
 別の証言者、部隊長のE. A. Tishkin は、バルト海岸のStralsund にある収容所では1917年4月に「全員が突然にレーニンについて話し始めた」、サスニッツ近くに向かう途中でレーニンがStralsund を通過することに驚いてではなかった、と報告した。レーニンはサスニッツで、1917年3月29日/4月11日の夜を過ごしていた。
 Tishkin は宣誓して証言した。Stralsund 収容所では、ドイツを縦断している間にレーニンが政治的演説をするために列車を降りていたことは、一般的な知識だった、と。(14)//
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 ②へとつづく。

1929/ロシア革命史に関する英米語文献②。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 上の新書本のいわゆる「オビ」にこうある。
 「日英米を戦わせて、世界共産革命を起こせ-。
 なぜ、日本が第二次大戦に追い込まれたかを、
 これほど明確に描いた本はない

 中西輝政氏推薦」
 そもそも上の江崎の本は「なぜ日本が第二次大戦に追い込まれたか」を第一主題にしているものではない。しかし、かりにそうだったとしても、「これほど明確に描いた本はない」と評価できるような代物では全くない。悲惨で無惨な、体系性・完結性もない奇書だ。
 「オビ」の文章を書くと、あるいは考案すると、又は推薦者として名前を出すだけで、一件あたりいかほどの「収益」になるのだろう。
 中西輝政は、いくら本の中で「インテリジェンス」研究等について感謝されているとはいえ、中身をまるで読まないで、上のような「推薦」をしているに違いない。
 本の表紙等に自分の名前が出るのは、それほどに心地よいものなのか。
 ときには、きわめて恥ずかしいことになる(またはそう評価される)こともあるはずだ。ああ、恥ずかしい。
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 欧米の書物には日本的な「オビ」は付かないようだが、書物のカバー類に(通常は)肯定的な論評文、つまりは「推薦」になるような著者以外が執筆した文章を印刷していることがある。
 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 前回の①で言及した、2017年刊の「ロシア革命史」本の一つ。
 McMeekinは1974年生まれというから、1923年生まれのR・パイプスより50年以上後の人物で、1941年生まれのS・フィツパトリクよりも一世代ぶんは若い。
 この人の上の著の裏表紙カバーに4つの「論評」文が掲載されている。
 そのうち何と三つが、短い文章の中でロシア革命と「ドイツ」の関係にとくに言及しているのが気を惹いた。
 なお、①ではR・パイプスとO・ファイジズの各著に言及があることも、前回に述べたことを補強するものだ。
 ①フーヴァー研究所主任研究員のNiall Ferguson によるもの(全文/試訳)。
 「Richard Pipes がロシア帝国でのボルシェヴィキによる権力奪取に関する歴史書を刊行してから四半世紀、ソヴィエトの崩壊に続いてのOrland Figes の<人民の悲劇>から20年、これらは決定的(definitive)だと思われた
 しかしここに、Sean McMeekin が、新しい証拠資料を用い、独自の地政学的な見方を提示しつつ、生き生きとした新しい説明を加えて、登場する。
 レーニンがドイツの活動員(operative)だった、その完全で衝撃的な範囲が、ここに明瞭になる。『革命的敗北主義』が蔓延する前にボルシェヴィキを破滅させておかなかつたケレンスキーの過ちの重大さも明瞭になるとともに。
 McMeekin は、力強く歴史を叙述する。
 彼の<The Russian Revolution>は読者の心を<掴む(grip)>。」
 ②『ロマノフ一族』の著者のSimon Sebag Montefiore によるもの(一部/試訳)。
 「ロシア革命に関するSean McMeekin の新しい歴史書は、よく知られた物語を…叙述でもって、しかしそれだけではなく、とりわけドイツによるボルシェヴィキへの財政支援(funding)について、刺激的な〔魅惑的な〕新しい資料を明からにすることを付加して〔飾って〕、叙述している。」
 ③<A Mad Ctastrophe>の著者のGeoffrey Wawro によるもの(一部/試訳)。
 「…。McMeekin のレーニンは、英雄的ではなくて、いかがわしい(seedy)。
 彼によるボルシェヴィキの勝利は、ブルジョア亡命者がペトログラードでレーニンの最初の妨害物になる前にレーニンのポケットに10億ドルを詰め込んだドイツ軍によって設計された、裏切り行為だ。」
 レーニンまたはボルシェヴィキとドイツ(ドイツ帝国)との関係については、Richard Pipes の1990年著も(ソ連解体前の資料によりつつも)相当程度に立ち入って明確な第一次資料を使って記述しており(送金先のペトログラードの個人または商会など)、1917年4月にレーニンがロシア(・ペトログラード)に帰還する途上の某地で某と送金額・送金方法等の「協議」をしただろうとの「推測」まで記している(試訳済み。確認を省略する)。
 先行の研究がないわけではないだろうが、上のような紹介を含む論評からすると、ドイツとレーニン・ボルシェヴィキの関係に関する「新しい」情報を知りたくなる。
 もっとも、冒頭で記した日本での江崎道朗/中西輝政のような「推薦」の例もあるので、英米語圏でのこうした論評・紹介類によって多大な「期待」を抱かない方がよいのかもしれない、とは言える。
 なお、ドイツとの関係は、十月「革命」までのみならず、ブレスト=リトフスク条約、ラパッロ条約から独ソ不可侵協定(・対独「祖国大戦争」)まで、ロシア・ソ連史の重要な対象であるはずだろう。

1927/ロシア革命史に関する英米語文献①。

 Anne Applebaum, Gulag- A History (2003).
 =アン・アプルボーム=川上洸訳・グラーグ―ソ連集中収容所の歴史(白水社、2006年)
 2004年度ピューリツァー賞を受けたらしい、この強制収容所(Gulag)に関する書物は、第一部<グラクの起源-1917-1939>の第一章<ボルシェヴィキの始まり>の冒頭で1917年10月のボルシェヴィキの権力掌握あたりまでを。2頁で素描している。
 その際に参照文献として注記しているのは、つぎの二著だけだった。本文p28.、注p.524.
 右端の頁数は、参照要求される当該文献の頁の範囲。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution 1889-1919 (1990). pp.439-505.
 ②Orland Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution (1996). pp.474-551.
 いずれも、邦訳書はない。後者の<人民の悲劇>は、M・メイリア<ソヴィエトの悲劇>(邦訳書あり。草思社・白須英子訳、1997年)と少し紛らわしい。
 以上については、すでにこの欄に、より簡単には書いたことがある。
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 2017年のロシア・十月革命「100周年」の年に、英米語文献としては少なくともつぎの三つの著がロシア革命に関する「通史」的なものとして新しく刊行された。
 右端の頁数は、索引等を含めての総頁数。
 A/S. A. Smith, Russia in Revolution: An Empire in Crisis, 1890 to 1928 (2017). 計455頁。
 B/Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 C/China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution (2017). 計369頁。
 いずれもまだ、邦訳書はないと見られる。
 上の二つは専門の研究者によるものだ。
 最後のものはそうではなさそうだが、しかし、多数の文献を読んで参照していることは分かる。なお、このChina Miéville の本は本文(序などを除き)計10章で、第1章は1917年前史、第10章は「赤い十月」、そして残りの2 章以降はそれぞれ2月、3月、…を扱っていて、表向きはきわめて読みやすそうだ(内容はほとんど見ていない)。
 China Miéville は「さらなる読書」のために、以下の「通史」文献以外に50ほどにのぼる文献(論文・記事類ではない)を挙げる。
 「通史(General Histoties)」として挙げられる9の文献を刊行年の古い順に変えて紹介すると、つぎのとおり。同一の著者の書物が二件以上挙げられている場合もある。
 ①Leon Trotsky, History of the Russian Revolution (1930).
 ②Victor Serge, Year One of the Russian Revolution (1930).
 ③Willam Henry Chamberlin, The Russian Revolution 1917-1921 (1935).
 ④E. H. Carr, The Russian Revolution, 1917-1923, 1-3.vols (1950-53).
 ⑤Tsuyoshi Hasegawa, The February Revolution, Petrograd: 1917 (1981).
 ⑥Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 ⑦Alexander Rabinovich, Prelude to Revolution: The Petrograd Bolsheviks and the July 1917 Uprising (1991),+ The Bolsheviks Come to Power (2004).
 ⑧Orland Figes, A People's Tragedy (1996).
 ⑨Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (2ed edition), (2008).
 以上
 ⑨の第4版(2017)が、この欄で最近まで「試訳」していたもの。2017年だったからこそ、新版にしたのだろう。
 上で興味深いのは、冒頭でも言及した、二つの著、つまりRichard Pipes とOrland Figes の著が⑥と⑧でやはり挙げられていることだ。
 その対象や範囲を考慮すると、邦訳書が早くからある初期のトロツキーやE. H. カーよりは新しいこれらの邦訳書が存在しないことは、いかにも日本らしい気もする。⑨も、邦訳書がない。
 山内昌之がたぶん歴史(世界史?)関係の重要な何冊かを挙げて紹介する新書版の本で、ロシア革命についてはE. H. カーのものを挙げてきたが、トロツキーのものに変更したとか、書いていた(山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007))。
 日本共産党の不破哲三・志位和夫がロシア革命に関連して肯定的に名を挙げるE. H. カーの本は、山内によるとどうも不満があるらしい。今日の英米語圏でもベストとはされていないようで、明確に批判する論者もある。執筆当時に存在した表向きの(これも程度があるが)資料・史料だけ使って「実証的に」叙述しただけでは、結局は「現実を変えた」または「現実になった」者たちや事象を<追認>し、<正当化>するだけに終わる可能性のあることは-日本の「明治維新」についてもそうだが-留意されてよいだろう。
 元に戻ると、上のCは背表紙の下に「VERSO」と横書きで打たれていて「VERSO」なる叢書の一つのようでもあるが、「VERSO」は出版元の「New Left Books(新左翼出版社)」のImprint だとされている(原書の冒頭近く)。
 よくは知らないが、その「新左翼」に引っかかって上の各著に対するChina Miéville のコメントを読むと、明らかに、⑥R・パイプスと⑨S・フィツパトリクのものには批判的な部分がある。例えば-。
 ⑥について-「左翼に対する敵意」、「ボルシェヴィキ恐怖症(-フォビア)」、…。
 ⑨について-<レーニン→スターリン>「不可避主義者」、…。
 これら自体興味深く、この二人の著が少なくとも一部に与える印象も理解できるところがある。
 しかし、それよりもさらに興味深いのは、この二人の著をChina Miéville も、きちんと列挙している、ということだろう。
 R・パイプス、O・ファイジズ、S・フィツパトリクの<ロシア革命本>は、今日の英米語圏では、どのような政治的立場を現在にとるのであれ、ロシア革命に関する、ほとんど<must read>のあるいは「鉄板」の書物になっているのではないか。
 ひるがえって、やはり日本のことを考える。日本の学界や「知的」活動分野について、考える。
 日本でいう「左翼」とは何か、「リベラル」とは何か。<ロシア革命>はとっくに過去の事象で、これらと何の関係もない、今日では関心の対象にならないものなのか?
 日本の国会議員を堂々と有する政党の中に、ほとんど直接に「ロシア革命」と関係がありそうな党はなかっただろうか。はて。

1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版、p.131-136。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第5節・マルクス=レーニン主義と物理学・宇宙論。
(1)スターリニズムによる攻撃のとくに露骨な例は、自然科学へのイデオロギー的侵攻だった。
 無傷のままだった数学は別として、マルクス主義による統制運動は、全ての科学分野にある程度は影響を与えた。理論物理学、宇宙論、化学、遺伝学、医学、心理学、およびサイバネティクス〔人工頭脳学〕は全て、介入によって荒らされ、その頂点は1948-1953年だった。//
 (2)ソヴィエト物理学は、たいていの部分では、哲学上の議論にかかわってくる懸念はなかった。しかし、ある領域では、関係することが避けられなかった。
 量子理論も相対性理論も、一定の認識論上の前提を明らかにすることなくしては、十分に深化させることができなかった。
 決定主義の問題、観察される客体に対する観察行為の効果の問題、は明らかに哲学的な様相を帯びており、そのことは、世界じゅうの論議で承認されていた。//
 (3)ソヴィエト・ロシアとナツィ・ドイツは、相対性理論が攻撃され、公式イデオロギーと矛盾するとして禁止された、二つの国だった。
 既に述べたように、ソヴィエト同盟では、その攻撃運動は第二次大戦以前から始まっていたが、戦後の数年間に強化された。
 ドイツでは、相対性理論に反対する明白な論拠は、アインシュタイン(Einstein)はユダヤ人だ、ということだった。
 ロシアではこの点は挙げられず、批判が根拠にしていたのは、時間、空間および運動は客観的なもので、宇宙は無限だ、とするマルクス=レーニン主義の教義に反するものだ、ということだった。
 ジダノフは1947年に哲学者たちに対する挨拶の中で、宇宙は有限だと明言したアインシュタインの弟子たちを痛烈に非難した。
 哲学的批判は、つぎのようにも論じた。時間は客観的であるがゆえに同時発生性(simultaneity)との関連は絶対的なもので、特殊相対性理論が主張するような相関の枠組みに依存しているのではない。
 同じように、運動は物質の客観的な属性であり、そのゆえに動体の経路は同格者(co-ordinate)の制度によって部分的に決定されるということはあり得ない(これはむろんアインシュタインと同じくガリレオに対しても当てはまる論拠だ)。
 一般論として、アインシュタインは時間的関係と運動を「観察者」に依存させるので、換言すれば人間という主体に依存させるので、彼は主観主義者であり、そして観念論者だ。
 この論議に参加した哲学者たち(A. A. Maksimov、G. I. Naan、M. E. Omelyanovskyその他)は、批判対象をアインシュタインに限定しないで「ブルジョア科学」の全体を攻撃した。すなわち、彼らの好みの攻撃対象は、Eddington、Jeans、Heisenberg、Schrödinger および名のある全ての物理学方法論者たちだった。
 さらに、アインシュタインがかりに相対性理論の最初のアイディアをマッハ(Mach)から得たことを認めていれば、どうだっただろう? レーニンは、マッハの反啓蒙主義(obscurantist)哲学を罵倒したのだったが。
 (4)しかしながら、(古くさいやり方で一般相対性理論や空間の同質性の問題にも触れていた)論議の本質的な論点は、アインシュタインの理論の内容とマルクス=レーニン主義の間の矛盾にあるのでは全くなかった。
 時間、空間および運動に関するマルクス主義の教理は、何らかの特別の論理的な困難さがなければアインシュタイン物理学と調和することができない、というほどに厳密なものではなかった。
 相対性理論は弁証法的唯物論を確認するものだと主張することすら、可能だった。このような擁護の主張は著名な理論物理学者のV. A. Fock がとくに行った。この人物は同時に、アインシュタインの理論は限定された有効性をもつ、という見方を支持する科学的な論拠を提示した。
 アインシュタインに-そしてじつに現代科学のほとんどの成果に-反対する運動には、しかしながら、二つの基本的な動機があった。
 第一に、「ブルジョア対社会主義」とは実際には「西側対ソヴィエト」と同じことを意味した。
 スターリニズムという国家教理はソヴィエト排外主義を含むもので、「ブルジョア文化」の重要な成果の全てを、系統的に拒否することを要求した。ブルジョア文化の中でもとりわけ、世界で唯一の国だけが進歩の根源となり一方では資本主義が衰退と崩壊の状態にある1917年以降に生じたものを。
 ソヴィエト排外主義に加えて、第二の動機があった。
 マルクス=レーニン主義の単純な教理は、多くの点で、教育を受けていない人々の一般常識的な日常的観念と符号している。例えば、レーニンが経験批判論に対する攻撃で訴えかけたのは、そのような諸観念だった。
 他方で相対性理論は、疑いなく、ある範囲において一般常識を攻撃するものだ。
 同時発生性、範囲と運動の絶対性および空間の画一性は、我々が当然のこととして受容している日常生活の前提だ。そしてアインシュタインの理論は、地球が太陽の周りを回転しているとのガリレオの逆説的主張と全く同じように、この前提を侵害する。
 かくして、アインシュタインを批判するのは、ソヴィエト排外主義のためだけではなくて、我々の感覚にある平易な証拠とは合致しない理論を拒否するという、ふつうの保守主義のゆえでもあった。//
 (5)「物理学における観念論」に対する闘いは、同様の動機で、量子(quantum)理論にも向けられた。
 コペンハーゲン学派が受容した量子力学の認識論的解釈は、ある範囲のソヴィエト物理学者の支持を得た。
 論議の引き金となったのは、すでに言及した1947年のマルコフ(M. A. Markov)の論文だつた。
 マルコフは二つの基本的な点でBohr とHeisenberrg に従っており、それらはマルクス=レーニン主義哲学者の反発を引き起こした。
 第一に、位置と微粒子(microparticle)の運動量とを同時に測定するのは不可能であるがゆえに、粒子が明確な位置と明確な運動量を<持つ>とか、観察技術に欠陥があるためにのみ両者を同時に測定することができないとか主張するのは、無意味だ。
 こういう考え方は、多数の物理学者の一般的な経験的見方と合致していた。すなわち、客体の唯一の現実的属性は、経験的に感知できるということだ。客体が一定の属性をもつがそれを確認する可能性はないと言うのは、自己矛盾しているか、無意味であるかのいずれかだ。
 したがって、粒子は明確な位置と運動量とを同時には有しておらず、測定する過程ではこれらのいずれかが粒子に帰属する、ということを承認しなければならない。
 同意されなかった第二の点は、微小物体(micro-object)の行動を文字で記述する可能性に関係していた。これは、大物体とは異なる属性をもち、ゆえに大物体を叙述するために進化してきた言語で性格づけることができない、とされた。
 マルコフによると、ミクロ物理現象を叙述する理論は不可避的にマクロ物理学の用語へと翻訳したものだ。したがって、我々が知って意味をもつものとして語ることのできる微小物理的実体は、部分的には測定の過程とそれを叙述するために用いる言語で構成されている。
 したがってまた、物理学理論は観察される宇宙の模写物を用意したものとして語ることはできず、マルコフは明確には述べなかったけれども、現実に関する全概念は、少なくとも微視物理学に関するかぎりは、認識するという活動の観点から逃れようもなく相対化される。-これは、明らかに、レーニンの反射(reflection)理論に反する。
 そのために、マルコフは、観念論者、不可知論者、そしてレーニンが批判したプレハノフの「象形文字」理論の支持者だとして、<哲学雑誌>の新しい編集者によって非難された。//
 (6)相対性理論とは違って、量子力学をマルクス=レーニン主義の意味での唯物論および決定論と調和させるのは困難だ、ということは強調しておかなければならない。
 粒子が一定の感知できない、その地位を明確にする物理的媒介変数をもつと言うことが無意味だとすれば、決定論という教理は根拠薄弱であるように見える。
 一定の物理的属性のまさにその存在が、それを感知するために用いる測定装置の存在を前提にしているのだとすると、物理学が観察する「客観的」世界という概念を意味あるものとして適用することは不可能になる。
 こうした諸問題は、決して想像上のものではない。その諸問題は、マルクス=レーニン主義とは全く無関係に、物理学で議論されてきたし、現に議論されている。
 ソヴィエト同盟では、とりわけD. I. Blokhintsev やV. A. Fock が理性的な議論をした。そして議論は、スターリン以後の時代へと継続してきている。
 1960年代、党のイデオロギストたちが科学理論の「適正さ」を決定すると言わなくなったときに、ほとんどのソヴィエト物理学者たちは決定論的見方を採用していことが明白になった。従前には潜在的な媒介変数の存在を執拗に要求したBlokhintsevも、そうだった。//
 (7)一般的に言って、物理学や他科学の哲学的側面に関するスターリン時代のいわゆる論争は、破壊的で、反科学的だった。それは非現実的な問題を扱ったからではない。学者たちと党イデオロギストたちの間の-よくあったことだが-対立では、国家とその警察機構の支持のある後者が勝利を得ることが保障されていたからだ。
 提示されている理論がマルクス=レーニン主義と合致していない、または合致していない疑いがある、という責任追及は、ときどきは刑法典のもとでの制裁へと転化し得たし、実際にそうなった。
 イデオロギストたちの大多数は、問題になっている争点について無知で、レーニンまたはスターリンの言葉に変化をつけた言明を見つけ出す技巧に長けていた。
 レーニンは物理学やその他の科学全てについての偉大な権威だと信じていない科学者たちは、党、国家およびロシア人民の敵だとして民衆むけプレスで「仮面を剥がされる」ことになった。
 「論議」はしばしば、政治的な魔女狩りへと退化した。
 警察が舞台に登場し、結論的な論難は理性的な議論と何の関係もなかった。
 現代的知的生活のほとんど全ての分野で、このような対応が進行し、党当局は決まって、学者や科学者たちに対する騒々しい無学者たちを後援した。
 「反動的」という語が何がしかの意味をもつとすれば、スターリン時代のマルクス=レーニン主義ほどに反動的な現象を考えつくのは困難だ。この時代は、科学やその他の文明の諸態様にある全ての新しくて創造的なものを、力ずくで抑圧した。//
 (8)化学も、別扱いではなかった。
 1949-1952年には、哲学雑誌や<プラウダ>で、構造化学と共鳴(resonance)理論が攻撃された。
 これは1930年代にPauling とWheland が提起してある範囲のソヴィエト化学者に受容されていたが、今や観念論、マッハ主義、機械主義、反動的等々と非難された。//
 (9)さらに微妙なイデオロギー上の主題は、宇宙論や宇宙発生学の現代的諸理論の哲学的側面に関する論議に関係していた。そこから明らかになるのは、基本的諸問題に対する現存する回答の全ては、マルクス=レーニン主義にとっては好ましくない、ということだった。
 膨張する宇宙に関する多様な理論を受容するのは困難だった。それは不可避的に、「宇宙はいかにして始まったのか?」という問題を惹起し、我々が知る宇宙は有限であって時間上の始まりがあると、いうことを示唆するからだった。
 このことは次いで創造主義(creationism、多数の西側の執筆者が受容した推論)を支持し、マルクス=レーニン主義の観点からはより悪いことは何も想像され得なかった。
 宇宙は膨張し続けるが新しい粒子が発生し続けるので物質の運命は同じであるままだ、という補足的な理論は、かくして、「自然の弁証法」と矛盾した。
 このゆえにそののちは、これら二つの仮説のいずれかを支持して主張する西側の物理学者や天文学者は、自動的にすぐに宗教の擁護者だと記述された。
 宇宙は膨張か収縮かの二者択一的段階を経由するという、脈動する宇宙に関する選択肢理論は、時間の始まりに関する面倒な議論から自由だった。しかしこれは、物質の単一方向的進化というマルクス=レーニン主義の教理と矛盾していた。
 「弁証法の第二法則」が要求するように、脈動する宇宙は「循環的」なもので、「発展」とか「進歩」とかと言うことはできないものだった。
 ディレンマを抜け出すのは困難だった。単一方向の原理は創造という観念を含んでいるように見える。一方では、反対の理論は「無限の発展」という原理と対立していた。
 宇宙論に関する討議に参加した者たちの一方には、天文学者や天文物理学者(V. A. Ambartsumian、O. Y. Schmidt)がおり、彼らは科学的な方法で結論に到達しており、そして弁証法的唯物論と調和していることを示そうと努力した。
 他方には、イデオロギー上の正統派の観点から問題を判断する、哲学者たちがいた。
 宇宙は時間も空間も無限だということ、そしてそれは永遠に「発展する」に違いないということは、マルクス=レーニン主義がそこから離れることのできない、哲学上のドグマだった。
 こうして、党という盾に守られたソヴィエトの哲学者たちは、教養ある人々をあらゆる分野で圧迫し、ソヴィエト科学の基本教条に対して莫大な害悪を与えた。//
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 第6節の表題は「マルクス=レーニン主義の遺伝学」、第7章のそれは「ソヴィエト科学に対する一般的影響」。
 下は、Leszek Kolakowskiが1960年代に離国前までワルシャワで住んだアパートメント。ネット上より。
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1919/L・コワコフスキ著第三巻第四章第4節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 分冊版p.130-1. 短い節で、段落の区切りはない。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第4節・経済論議。
 ジダノフが哲学者たちに対処していたのと同じ時期に、経済学もまた、イデオロギー的迫害(purge)を受けた。
 この分野では、第二次大戦が資本主義経済に与えた影響に関して1946年に出版されたVarga の書物が事例となった。
 イェネ・ヴァルガ(Jenő Varga, 1879-1964)はハンガリー出自の著名な経済学者で、短命のベラ・クーン(Béla Kun)共産主義共和国の崩壊以降はソヴィエト同盟で生活し、経済動向を観察して資本主義体制の危機を予測することを目的とする、世界経済研究所の所長だった。
 この書物で彼は、戦争が資本主義経済にもたらした永続的変化を検証しようとした。
 戦争がブルジョア国家に強いたのは、ある程度の経済計画を導入し、国家の機能を格段に肥大化させることだった。とくに、イギリスとアメリカ合衆国で。
 生産に対する販路の問題は決定的ではなくなり、市場を求めての闘いは国際問題の基本的な要因ではもうなくなった。
 しかしながら、資本の輸出が、いっそう重要性をもつようになった。
 予想され得るのは、アメリカ合衆国での過剰生産と西側ヨーロッパの戦時中の破壊が結びついて、資本主義がアメリカ資本をヨーロッパへと大規模に輸出することで救いを見出そうとする、そのような危機を生じさせるだろう、ということだった。
 ヴァルガの理論は1947年に、また再び1948年10月に、論議の対象となった。
 批判者、とくにスターリン時代の主要経済学者のK. V. Ostrovityznovは、ヴァルガを責め立てた。計画は資本主義のもとでも可能だと考えており、経済を政治と分離させており、そして階級闘争を無視している、と。
 ヴァルガは資本主義の一般的危機を看取することができていない。そして、ブルジョア国家に対する資本の力を強調するのではなく、国家は資本による制御のもとにあると想定するという過ちを冒した、とされた。
 加えて、ヴァルガは世界主義者で、西側の科学、改良主義、客観主義に屈服しており、かつレーニンを過少評価している、と追及された。
 こうした批判の拠り所は在来的なものだった。しかし、ヴァルガの書物の要点は、じつに、スターリニスト・イデオロギーと合致していない、ということにあった。
 資本主義は危機的状況を乗り越える方法をますます開発してきているとのヴァルガの結論的主張は、資本主義の矛盾は毎日のごとくますます激しくなってきており、資本主義の全般的危機はいっそう深刻になっている、というレーニンの教えおよび過去30年間の党の基本的考え方とは明らかに真反対のものだった。
 ヴァルガは最初の論議の後では自己批判を行わなかったが、1949年についに屈した。
 彼はその主要な役職を解任され、彼が編集していた雑誌は閉刊となった。
 しかしながら、ヴァルガは、スターリンの死後に名誉回復した。そして、その考え方を1964年に出版した書物で反復しかつ発展させた。その本で彼は、以前に考えられていた図式と矛盾する事実を認識しようとしないスターリンおよびスターリン・イデオロギストたちの教条的な無能力さを批判した。
 ロシアで刊行されなかったが彼の死後に西側に伝わった草稿では、ヴァルガはさらに進んで、こう主張していた。ロシアで社会主義を建設するというレーニンの企図は誤りだと分かった、ソヴィエト体制の官僚化の原因は部分的にはレーニンの誤った前提にある、と。//
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 つぎの第5節の表題は、「物理学と宇宙論でのマルクス=レーニン主義」。

1917/L・コワコフスキ著第三巻第四章第2節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊(瓦解、The Break Down)の、つぎの三つの章全体と四つめの章の第一節まではこれまでに、「試訳」をこの欄に掲載している。
 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の第一段階-スターリニズムの開始。
 第2章・ソヴィエト・マルクス主義の1920年代の理論闘争。
 第3章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 および、
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
  第1節・戦時中という幕間。<№1893、2018/12/16>
 このあとに続く、第2節から再続行する。段落の冒頭に原書にはない数字番号を付す。なお、第5章の標題は「トロツキー」(分冊版でp.183-p.219)。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第2節・新しいイデオロギー攻勢。
 (1)戦争が終わったとき、ソヴェト・ロシアには莫大な人的損失があり、経済は破滅の状態にあった。
 だが、世界でのその地位は、したがってスターリンの個人的威厳は、きわめて高くなった。
 スターリンは、戦争の混乱の中から、偉大な政治家、優れた戦略家、そしてファシズムの破壊者として登場してきた。
 戦争が過ぎ去りヨーロッパでのソヴィエト征服地が確保されたため、独裁者は、戦時中の「リベラリズム」による有害な影響から転換させて、その権力を和らげる意図を政府は持たないとロシア民衆に教え込み、戦争によって世界のプロレタリアートの祖国以外の諸国を知った者たちにできる限り早くその光景を忘れることを強いるために、新しいイデオロギー攻勢を開始した。
 (この政策のとくに劇的な例は、解放されて西側連合により引き渡されたソヴィエトの戦争捕虜たちの全員を、強制収容所(concentration camp)へと追放したことだった。)
 テロルと戦争の「真正さ」は、これらで一緒になってマルクス主義のイデオロギー規準の緩和をもたらした。また、詩、映画その他の作品もそうだが、例えばV. P. Nekrasov やA. A. Bek の傑出した小説の登場でも示される、一定の文化的再生を生じさせた。//
 (2)1946年以降に始まった仮借なきイデオロギー運動は、かつてアレクサンダー二世が法王となるときに用いた「恍惚点!(- de rêveries)」との格言で要約されるかもしれなかった。
 目的はイデオロギーの純粋さを回復することだけではなく、新しい高さへとそれを挙げることだった。同時に、ソヴィエト文化を世界の外部との接触から離れさせることだった。
 全ての形態の知的生活は、これによって影響をうけた。文学、哲学、音楽、歴史学、経済学、自然科学、絵画および建築。
 それぞれの場合に、主題は同一だった。すなわち、西側に頭を下げるのをやめること、思想および芸術にある自立性の痕跡を全て破壊すること、スターリン、党そしてソヴィエト国家の称賛へと全ての形態の文化を集中すること。//
 (3)この政策の1946-48年の主任担当者は、ジダノフ(A. A. Zhdanov)だった。中央委員会書記の一人で、文化的自立性に対する闘争に熟達していた。
 1934年8月の全国作家同盟大会で党を代表して、ソヴィエト文学は世界で最も偉大であるのみならず唯一の創造的で発展する文学だ、一方で全てのブルジョア文化は衰亡と腐敗の状態にある、と述べたのは、この人物だった。
 ブルジョアの小説は、悲観主義に充ちていて、著者たちは資本主義に身を売っており、彼らの主人公はたいていは泥棒、売春婦、スパイ、不良少年だ。
 「ソヴィエト作家の大きな一団は今やソヴィエトの権力と党と一体となり、党の指導を受け、中央委員会の配慮と日常的な協力、および同志スターリンの絶えざる支援を得ている。」
 ソヴィエト文学は楽観的でなければならず、「前を向いて」いなければならず、労働者と集団的農民の根本教条に奉仕しなければならない。//
 (4)ジダノフ(Zhdanov)の戦後最初の重要な行動は、二つのレニングラードの雑誌、<Zvezda(星)>と<レニングラード>を攻撃することだった。
 これらの雑誌を非難する決議が、1946年8月の中央委員会によって採択された。
 主要な犠牲者は、著名な女性詩人のAnna Akhmatova(アフマトワ) とユーモア作家のMikhail Zoshchenko だった。
 ジダノフはレニングラードで演説を行い、この二人を激しく攻撃した。
 Zoshchenko は、ソヴィエト人民を悪意をもって中傷している。彼はレニングラードで自由に生活するよりも動物園の檻の中でいた方がよいと決める猿に関する物語を書いた。これは明らかに、Zoshchenko が人間を猿の水準に落とすのを欲していることを意味している。
 1920年代にすら、党の精神の欠如した非政治的な作品を作り出していた。そして、社会主義建設に関係しようとは何も欲しなかった。彼は「文字通りの不潔なネズミで、原則がなく、自覚もない」。
 Akhmatova について言うと、「カトリーヌの良き古き時代」を色狂って神秘的に懐かしんでいる。<中略>「修道女と堕落した女のいずれかと言うのは困難だ。おそらく、そのどちらでもあるという方がよい。欲望と祈りとが捻れ合っている」。
 レニングラードの雑誌がこうした者たちの作品を掲載したことは、文学が悪い方向にあることを示している。
 多数の作家たちは腐敗したブルジョア文学を真似ており、別の作家は今日的主題から逃れるために歴史を利用している。そして、ある者は、プーシキンを風刺すらした。
 文学の仕事は、青年たちに愛国心と革命的熱情とを喚起させることだ。
 レーニンが断定したように、文学は政治的で、かつ党の精神で染められたものでなければならない。ブルジョア文化の腐敗を暴き、ソヴィエト人民の偉大さを示さなければならない。今日にそうだとしてのみならず、将来にもそのようなものとして。//
 (5)ジダノフの明瞭な指令は、ソヴィエト文学のその後数年間の進路を設定した。
 イデオロギー的に無色の作家たちは、より悪くはならなかったとしても、沈黙を強いられた。
 Fadeyev のような正統派のほとんどは、新しい仕様書に合うように彼らの作品を修正した。
 「前向きの」文学でなければならないということは、実際には、ソヴィエト体制をそのままににではなく、イデオロギーがそうだと要求しているように表現する、ということだった。
 この結果として生じたのは、党を賛美しソヴィエトの生活の美しさを称揚する、奇妙に甘酸っぱい(saccharine)文学作品の洪水だった。
 印刷される言葉は、ほとんど完全に、ご都合主義者と阿諛追従者へと身を落とした。//
 (6)音楽が別のものとされたのではなかった。
 1948年7月、ジダノフは作曲家、指揮者、批評家の会議で演説を行い、ブルジョア音楽の腐敗を攻撃し、より多くの愛国的ソヴィエトがもつ多様性を呼びかけた。
 すぐに反応したのは、ジョージアの作曲家のMuradeli のオペラ<偉大な友情>だった。
 この作品は、最大限の意図としては、革命の直後にはロシアと闘ったがすみやかにソヴィエト体制に順応したコーカサスの民衆-ジョージア人、Lezgian 人およびOssetes 人-を表現していた。 
 ジダノフは、そのようなものでは全くない、と言った。すなわち、民衆たちは最初からソヴィエト権力のために闘ったのであり、ロシア人と協力してきたのだ、と。
 チェチェン人やIngush ではなかった唯一の者たちは-ジダノフはこのことに言及しなかったけれども誰もと同じくよく知っていた-、ナツィ=ソヴィエト戦争の間に<一塊で>追放された。そして、彼らの自治共和国は、地図から抹消された。
この例に満足しないでジダノフは、グリンカ、チャイコフスキーおよびムソルグスキーのごときロシアの偉大な伝統を継承することをしないで西側の新奇なものに霊感を求めている作曲家に対する一般的な攻撃を開始した。
 ソヴィエト音楽は、イデオロギーの他の様式よりも「立ち後れている」。作曲家たちは、「音楽の真実」や「社会主義リアリズム」から離れて「形式主義」に屈服している。
 ブルジョア音楽は反人民的であり、形式主義か自然主義かのいずれかで、どちらにせよ「観念論的」だ。
 ソヴィエト音楽は人民に奉仕しなければならない。すなわち、オペラ、歌、合唱曲には必要なものがあるにもかかわらず、形式主義に汚染された作曲家たちは些細なものだとしてそれを見下している。
 そのような作曲家は標題音楽(programme music)を横目で見ているが、ロシアの古典音楽のたいていは、その種から生まれている。
 党は絵画について、反動的で形式主義的な傾向をすでに克服し、VereshchaginやRepin の健康な伝統を再確立した。だが、音楽はまだ、後進的だ。
 ロシアの古典遺産は卓絶したものだ。そして、作曲家は、音楽劇の作者はもちろん、繊細な「政治的な耳」を持たなければならない。//
 (7)こうした説諭の結果は、遅滞なく表れた。
 ジダノフの演説の前に作曲されていたハチャトリアン(Khachaturian)のピアノ協奏曲をそのバイオリン協奏曲と比較すれば、そのことが分かる。
諸作品の中でも第九交響曲が批判されていたショスタコヴィチ(Shostakovich)は、スターリンの林業計画を称賛する一頌(ode)を作って修正を加えた。そして、多数のその他の音楽家が、彼らのイデオロギー上の障壁を修繕した。この当時に最も好まれた作曲様式は、党、国家そしてスターリンを賛美するオラトリオ(聖譚曲)だつた。//
 (8)文学や音楽に対しての運動は、この時期のスターリンの諸政策の全体的基本方針を反映していた。それは、戦争がかりに生起する場合に備えてのイデオロギー上の威嚇であり、物理的および精神的な再武装だった。
 この基本方針の基礎にあったのは、人間界を二つの陣営に分かつことだった。一つは、腐敗して、衰微している帝国主義の世界で、自己矛盾の重みでもってまもなく崩壊する運命にある。もう一つは「社会主義という平和の陣営」、進歩の城砦だ。
 ブルジョア文化はその定義上反動的で退廃的だ。そして、それに肯定的な価値を見る者は全て、大逆罪を犯しており、階級敵の利益に奉仕している。//
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 つぎの第3節の標題は、「1947年の哲学論争」。

1914/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑲。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり。
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 第2節・裏切られた革命(' Revolution betrayed ')。
 (1)<自由・平等・友愛>を掲げるのは、ほとんど全ての革命がすることだ。しかし、勝利した革命家たちがほとんど不可避的に汚すこととなる主張だ。
 ボルシェヴィキたちは、マルクスを読んでいたので、予めこのことを知っていた。
 彼らは、十月の高揚時ですら、ユートピア夢想家ではなく、実際的で科学的な革命家たろうと最善を尽くした。
 彼らは、階級戦争やプロレタリアート独裁に関連して<自由・平等・友愛>の約束を限定しようとした。
 しかし、古典的な革命のスローガンを拒絶するのは、熱狂なくして革命の成功はあり得ないだろうと同様に、困難だった。
 感情的には、古いボルシェヴィキ指導者たちはいくぶんは平等主義的で自由主義的であらざるを得なかった。
 そして、彼らのマルクス主義理論にもかかわらず、いくぶんは夢想家的だった。
 1917年と内戦の新しいボルシェヴィキ生成時には、知的な抑制のない、同様の感情的反応があった。
 ボルシェヴィキたちは、厳密に平等、自由主義および夢想家的な革命を始めたのではなかった。しかし、革命はボルシェヴィキを少なくとも間欠的には、平等主義的、自由主義的かつ夢想家的にした。//
 (2)十月後のボルシェヴィズムにあった極端に革命的な緊張は、第一次五カ年計画や文化革命の間にも支配的だった。それは行き過ぎたほどで、多少とも実験的な社会的および文化的政策への変化が後に続いた。
 これは、「偉大な退却」と呼称された。この言葉は1930年代のいくつかの重要な「革命的」特質を曖昧にしてしまう。つまり、農業はすでに集団化され、都市での私的取引は非合法となり、新しいテロルの波が文化革命からわずか5年後に発生しようとしていた。
 しかしながら、この言葉は、1930年代半ばに生じた移行期の何がしかを表現している。
 もちろん、多くは見方次第だ。
 外に出てMagnitogorsk やKomsomolsk-na-Amure で社会主義を建設する意気のあった若い熱狂者たちは、変化に大きな意味を認めず、また革命的「退却」の時代を生きているとも考えていなかったように見える。(14)
 他方では、古いボルシェヴィキたちは、とくにかつてのボルシェヴィキ知識人たちは、変化のうちの多くは神経に障るものだと感じていた。とくに、階層制の強調の増大、エリートの特権の承認、体制が初期にしたプロレタリアートとの一体視からの離反、について。
 このような人々は革命に対する裏切りが生じているとのトロツキーの批判に同意しなかったかもしれない。しかし、トロツキーが意味させたことを知っていただろう。//
 (3)「偉大な退却」が最も驚くほどに可視的だったのは、行儀作法(manners)の分野だった。トロツキーのような批判者はブルジョア化と称し、一方で支持者たちは「文化的」になったと叙述するような変化だ。
 1920年代、プロレタリアートの行儀作法はボルシェヴィキ知識人によってすら、洗練されたものになった。スターリンが自分のことを「粗暴な」人間だと党の聴衆に語ったとき、自虐というよりは自己宣伝の響きがあった。
 しかし、1930年代、スターリンは、ソヴィエトの共産党員や外国の質問者に対して、レーニンのような文化的な人間だと自分のことを提示し始めた。
 党の指導部の彼の同僚たちの中では、新しく昇進してきたフルシチョフ(Khrushchev )派は、数の上ではブハーリン派を上回り始めた。彼らは、プロレタリアートの出自に自信をもちつつ、農民のような挙措振る舞いをするのを怖れていた。
 一方でブハーリン派は、文化性について自信をもちつつ、ブルジョア知識人のように挙措振る舞いするのを怖れていた。
 官僚制の下位の層では、共産党員たちは上品な振る舞いの仕方を学び、軍靴や布帽子を捨てようとしていた。上昇志向のないプロレタリアートの一員だと間違われることを望んで、ではなかった。//
 (4)経済の分野では、第二次五カ年計画は冷静な計画への移行を画するもので、労働のための合い言葉は、生産性の向上と技術の獲得だった。
 物質的に誘導をする基本的考え方はしっかりと確立されていた。すなわち、技術に応じた労働者の賃金区別の増大、ノルマ以上の生産に対する報償。
 専門家たちの給料は上がり、1932年に設計者や技術者の平均給料は、ソヴィエト時代の前後を通じていつの時期でも、労働者の平均よりも高かった。
 Stakhanovite 運動(ドンバスの記録破りの炭鉱採掘者〔スタハノフ〕に由来する名前)は、集団的に出費するものだったが、個々の労働者に栄誉を与えた。
 Stakhanovite はノルマ破りで、その成果について惜しげなく報償され、メディアによって賛美された。しかし、現実の世界では、ほとんど不可避的に、仲間の労働者たちの怒りを招き、避けられた。
 彼らは、新しく考案する者および生産の合理化を図る者でもあった。また、専門家の保守的な知識に挑戦する意気があり、ノルマを上げろとの上からの恒常的な圧力に抵抗するために、工場管理者、技術者および労働組合の間の不文の取り決めを暴露した。(15)
(5)教育では、1920年代の穏健で進歩的な傾向とともに、文化革命の広く実験的な展開も、1930年代に突然に転換した。
 宿題、教科書および正式の教室での教育と躾けが、復活した。
 1930年代の遅く、学校の制服が再び出現し、ソヴィエトの高校生は帝制時代の高校(gymnasia)にいた先輩たちにとてもよく似て見えた。
 大学や技術学校では、入学資格は再び政治的かつ社会的な規準ではなくて学業成績にもとづくようになった。
 教授たちは、権威を回復した。そして、試験、単位、学位が復活した。(16)
 (6)現在の生活には意味がない、かつて愛国主義の喚起と支配階級のイデオロギーのために利用されていたという理由で革命後になくなっていた科目の歴史は、学校や大学の教育課程表の中に再び現れた。
 古いマルクス主義歴史研究者のMikhail Pokrovsky が関係していたマルクス主義の歴史は、1920年代には支配的だった。しかし、名前、日付、英雄または感情を掻き立てるものがない、階級闘争の抽象的な記録文書に歴史を貶めているとの理由で、その名声が失われた。
 スターリンは、新しい歴史教科書の作成を命じた。その多くは、Pokrovsky のかつての敵、つまりマルクス主義に口先だけの奉仕をする伝統的な「ブルジョア」歴史研究者が執筆したものだった。
 英雄たち-イワン雷帝やペーター大帝のような過去の帝政時代のロシアの指導者たち-が、歴史に戻ってきた。(17) //
 (7)性の解放については留保があったけれども、ボルシェヴィキは革命後すぐに堕胎と離婚を合法化し、女性の労働する権利を強く支持した。
 これらは一般に、家族や伝統的な道徳価値の敵だと見なされていた。
 母性と家族生活の美徳は、1930年代に復活した。これは反動的な動き、または世論への譲歩あるい同時にいずれも、だと理解されるかもしれない。
 金の結婚指輪が店頭に再び並び、自由な結婚は法的地位を失い、離婚をするのは困難になった。そして、家族に関する責任を少ししか取らない人間は、厳しく批判された(「ひどい夫や父親は、善良な市民になることはできない」)。
 堕胎は、公共的な討論の後で非合法化された。この討論は、親堕胎と反堕胎の両観点からのいずれの支持もあることを示した。(18)
 男性の同性愛は、一般的な注目を受けることなく、犯罪化された。
 初期の頃の開放的な雰囲気に慣れていた共産党員たちにとって、これらは全て小ブルジョアジーの恐るべき俗物根性にきわめて近いものだった。とくに、母性や家族がいま議論された雰囲気にはお涙頂戴的で偽善的なものがあったために。//
 (8)1929年と1935年の間に、ほとんど400万人の女性が、初めて賃金獲得者になった。(19)これが意味するのは、女性解放という元来の基本的な政綱が、無理矢理に実現された、ということだった。
 同時に、家族の価値をあらためて強調することは、かつての解放のメッセージとは矛盾しているように見えた。
 1920年代には想像すらできなかった運動により、ソヴィエトのエリート構成員たちの妻は、自発的にコミュニティ活動をするように示唆された。それは、ロシアの社会主義者たちおよびリベラルなフェミニストですらつねに軽蔑してきた、上流階級の慈善事業ときわめてよく似ていた。
 1936年、上級の産業管理者および技術者の妻たちは、クレムリンで自分たちの全国大会を開いた。そこにはスターリンおよび他の政治局員が出席して、夫たちの工場群で自発的な文化的かつ社会的な組織者として行ってきた彼女たちの栄誉を称えた。(20)//
 これらの妻たちおよびそれぞれの夫たちは、事実上のエリートたちだった。民衆の残余者に対する彼らの特権的な地位は、ソヴィエトの労働者たちの中に不満を、ある程度は党内部に当惑を、増加させるものだった。
 1930年代に、特権と高い生活水準はエリートたる地位には通常の、ほとんど義務的な付随物になった。このような状態は、1920年代とは対照的だった。その頃には、理論上は少なくとも熟練労働者の平均賃金よりも党員の給料は高くならないようにしていた「党の最大限度」によって、共産党員の収入は制限されていた。
 エリート-共産党員官僚たちとともに(党員または非党員の)専門家を含む-は、高い給料だけではなく役務や商品を利用できる特権をもったり多様な物質的かつ名誉上の報償を得ることで、一般民衆とは離れた別のところにいた。
 エリート構成員は、一般民衆には開かれていない店を使い、他の消費者は利用できない商品を買い、休日には特別の保養地や設備のよい別荘で休日を過ごす、そういうことができた。
 彼らは、しばしば特別のマンション地区に住み、お抱え運転手の車で仕事に出かけた。 このような状況の多くは、第一次五カ年計画の間に物不足が切迫したことの反応として発展した閉鎖的な配分制度から生じてきたものだったのだが、風土の永続的な特徴になったままだった。(22)
 (9)党指導者たちは、エリートの諸特権の問題にまだいくぶんは神経質だった。
 明瞭な見栄や貪欲さに対しては、叱責があり得た。あるいは、大粛清の間には生命を賭すものですらあった。
 ともかくも、一定の地点までは、エリートたちの諸特権は秘匿された。
 多数の古いボルシェヴィキたちは、禁欲的生活を好み、奢侈に屈服した者を批判した。 <裏切られた革命>でのこの問題についてのトロツキーの厳しい批判は、正統派スターリニストであるMolotov が私的に行ったものと大きくは異なるものではなかった。(23)
 そして、明瞭な消費や取得願望は権限濫用であり、不名誉な共産党員エリートたちは大粛清の時期にいつもの様に批判された。
 言う必要はないことだが、特権的な官僚階級、「新しい階級」(ユーゴスラヴィアのマルクス主義者のMilovan Djilas が一般化した言葉を使うと)または「新しいサービス上層者」(Robert Tucker の言葉)の出現に関しては、マルクス主義にとっては概念上の問題があった。
 この問題に関するスターリンの対処方法は、新しい特権階級を「知識人界」と称することで、こうして、社会経済的優先性から文化的優先性へと焦点を転換させることだったた。
 スターリンによる説明では、この知識人界(新しいエリート)は、政治に関する共産党のそれに対応する、前衛たる役割を与えられる。
 知識人界(新しいエリート)は文化的前衛として、当面は民衆のその他の者たちが利用できる以上に、広い範囲の文化的価値を不可避的に利用できる。(25)//
 (10)文化生活は、体制側の新しい方向づけに大きく影響される。
 第一に、文化的関心と文化的振る舞い方(<kul'turnost>)は、共産主義者が示すことが期待されているエリートたる地位の見える印の一つだった。
 第二に、非共産党員専門家-つまり、かつての「ブルジョア知識人」-は新しいエリートの一部であり、社会的には共産党員官僚たちと混合され、同じ諸特権を分け合っていた。
 このことは、党にある、文化革命を可能にした古い反専門家的偏見にもとづく拒絶を生じさせた。
 (スターリンは1931年の「六条件」演説で、ブルジョア知識人層よにる「破壊」の問題について方針を転換し、大胆にも、古い技術的知識人層はソヴィエト経済を妨害する試みを放棄したと語り、制裁は重すぎる、工業化の成功はすでに確保された、と分かっていると述べた。)(26)
 古い知識人層への好意が戻るとともに、文化革命時の活動家だった共産党員知識人の多くは、党指導部からは好まれなくなった。
 文化革命の基本的な想定の一つは、革命的時代はプーシキン(Pushkin)や<白鳥の湖>とは異なる文化を必要とする、ということだった。
 しかし、スターリン時代には、古いブルジョア知識人層は文化的遺産を忠実に守ろうとし、新しい中間階層の聴衆は理解できる接近可能な文化を探し求めていたが、プーシキンと<白鳥の湖>は勝利者だと分かった。//
 (11)しかしながら、正常さが本当に戻ってきたと語るのは、まだ早かった。
 外部的な緊張があり、それは1930年代にずっと着実に増えていた。
 1934年の「勝利の大会」では、討論の話題の一つは、ヒトラーが近年にドイツの権力へと到達しようとしていることだった。-従前に生じはじめたばかりの、西側資本主義諸国による軍事干渉の怖れに、具体的な意味を与える事態。
 多くの種類の国内的緊張があった。
 家族の価値について語ることは全てがうまくいった。しかし、都市と駅舎はもう一度、内戦期のように、遺棄されたまたは孤児の子どもたちで溢れた。
 ブルジョア化は、都市居住者のごく一部の少数者のみが利用することができた。
 残りの者たちは、「共同アパート」へと詰め込まれた。かつては一家族の住まいだった邸宅で、数家族がそれぞれ一つの部屋を占用し、台所と浴室を共用した。また、全ての基礎的商品の配給制度は、今なお機能していた。
 スターリンは、集団農場の者たちに、「同志たちよ、生活は良くなってきている」と語ったかもしれなかった。しかし、当時に-1935年に-、わずか二回の収穫期だけが、1932-33年の飢饉とは別に存在した。//
 (12)革命後の「正常さ」の中身が未決定なままであることは、1934-35年の冬に例証された。
 パンの配給は1935年1月1日から行われることになっていた。そして、体制側は、「生活は良くなっている」をテーマとする電撃的な情報宣伝活動をすることを計画した。
 新聞紙は、近いうちに(疑いなく、数店の高価な商業店舗でのみ)利用できる商品の豊富さについて祝賀し、モスクワっ子が新年を迎える仮装舞踏会の陽気さと優雅さを叙述した
 2月、集団農場の大会が、新しい集団農場憲章を祝福するために開かれた。この憲章は、私的区画地を保障し、農民たちに対するその他の譲歩を行っていた。
 これら全ては、滞りなく1935年の最初の数カ月には行われた。-しかし、緊張と予感の雰囲気があり、また12月の、レニングラード党組織の長、Sergei Kirov の暗殺によって暗鬱な空気が広がった。
 党と党指導部は、この事件によって痙攣状態に投げ込まれた。
 大量の逮捕が、レニングラードで続いた。
 革命後の「正常さへの回帰」の予兆や象徴はあったにもかかわらず、正常さは、まだはるか遠くにあった。//
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 (14) 1930年代に若者だった人々の日記や回想録は、「偉大な退却」という認識をほとんど示していない。例えば、Jochen Hellbeck, <記憶の中の革命>(Cambridge, MA, 2006)を見よ。
 (15) Lewis H. Siegelbaum, <Stakhanovismとソ連邦での生産性に関する政策, 1935-1941>(Cambridge, 1988).
 (16) Fitzpatrick,<教育と社会的流動性>p.212-p.233.; Timasheff, <偉大な退却>p.211-225.
 (17) David Brandenberger, <民族的ボルシェヴィズム: スターリニズム大衆文化と現代ロシアの国民的Identity の形成, 1931-1936>(Cambridge, MA, 2002), p.43-62.を見よ。
 (18) 堕胎論争につき、Sheila Fitzpatrick, <スターリニズム下の毎日>(New York, 1999), p.152-6.を見よ。
 (19) Wendy Z. Goldman, <門にいる女性たち: スターリン下のロシアの性と工業>(Cambridge, MA, 2002), Ⅰ。
 (20) 妻たちの運動につき、Fizpatrick,<スターリニズム下の毎日>P.156-163.を見よ。
 夫による抑圧に対する抵抗を含む、かつての解放メッセージは、「遅れた」女性たち(農民、少数民族)との関係で依然として称揚されていること、女性の仕事は重要な価値をもったままで、一定のエリート女性たちですら代わりに自発的(volunteerの)役割の方を選択しうることに注意。
 (21) Sarah Davies, <スターリン下のロシアでの世論>(Cambridge, 1997), p.138-144.を見よ。
 (22) エリートの諸特権につき、Fitzpatrick, <スターリニズム下の毎日>p.99-109.を見よ。
 (23) トロツキー<裏切られた革命>p.102-5.; <モロトフは記憶する>p.272-3.
 (24) Milovan Djilas, <新しい階級: 共産主義体制の一分析>(London, 1966); Robert C. Tucker, <権力にあるスターリン>(New York, 1990).
 (25) この点に関する一つの考察として、Sheila Fitzpatrick「文化的になること-社会主義的リアリズムと特権や趣味の表現」同<文化戦線>所収p.216-237.を見よ。
 (26) 「新しい諸条件-経済建設の新しい任務」(1931年6月23日)スターリン全集第13巻p.53-82.所収、を見よ。〔=日本語版スターリン全集第13巻「新しい情勢-経済建設の新しい任務」72-99頁。〕
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 第3節(最終節)の表題は、「テロル」。

1905/ソヴィエト体制下の「洗脳」とドクトル・ジバゴ。

  ノーベル文学賞が与えられたことになっている(本人は辞退)『ドクトル・ジバゴ』(1957年。映画化1965年)の作者であるB・パステルナーク(Boris Pasternak)について、無責任にも?<なぜこの人は亡命しなかったのだろうと思うときがある。よく分からない>とこの欄にかつて書いたことがある。1910年頃に留学していたドイツ・マールブルク(Marburg)について記したときだった。
 今でもよく分からないが、L・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』第三巻第二章第一節の<文化等の一般的状況>(この欄№1863/1918.11.02)の中で久しぶりにBoris Pasternak の名を見つけた。1920年代~1930年代の<作家・文筆家>の様子がある程度は分かる。
 L・コワコフスキによると、1930年代、作家(文筆家・詩人)たちは、こう分かれる。
 ①殺戮される-Babel、Pylnyak、Vesyoly。
 ②自殺する-Mayakovski、Yesenin。
 ③強制収容所で死ぬ-Mandelshtam。
 ④国外に逃亡(亡命)する-Zamyatin。
 ⑤スターリンを称賛する「物書き」になる-Fadeyev、Sholokhov、Olesha, Gorky。
 B・パステルナークはどこに入るのか。まだ、つぎがある。
 ⑥何とか「迫害と悲嘆の時代」を生き残る-Akhmatova、Pasternak。
 B・パステルナークは殺されもせず、亡命(国外移住)もせず、ロシア国内で「生き延びた」のだ。
 どのようにして? その詳細は分からない。何らかの「食って、生きる」ための仕事をし、詩作や文章書きを<隠れて>行っていた、という程度にしか分からない(もちろん、日本語本にあるこの人の評伝には正確なことが書かれているだろう)。
 それにしても、Pasternak と並んでいるAkhmatova (女性)は、第三者、とくに体制関係者に分からないように、<自分の脳内に詩作を記憶させ、蘇生させ反芻しながら、脳内で詩作を続けていた>と何かで読んだのだから、凄まじい<表現の自由>の否認状況だろう。脳内にしか、発表し、保存する媒体はないのだ。
 Boris Pasternak もまた、似たような状況にいたと思われる。
 "Doktor Zhivago" がふつうの小説ではなく、私が一読しても登場人物にかかるストーリーの現実性や連続性には疑問があり、長いものもある「詩」が何度か挿入されているのも、その作成や構成に要した時間と、取り囲んでいた「(とくに政治)環境」によるものと思われる。
  レーニン時代にせよ、スターリン時代にせよ、種々の政治的事件や制度等の歴史も重要だし(指導者、党、国政あるいは中央と地方、ロシアと他民族、外国との関係等々)、また、いかほどの数の人間が粛清やら大粛清あるいはテロルによって死んだのかも、もちろん重要な関心事だ。
 しかし、どうしても今日的には理解し把握し難い、あるいは実感し難い重要なものがあるということを意識しておかなければならないように思われる。
 それは、<イデオロギー>というものの役割、あるいはいささかどぎつい言葉を選べば「洗脳」というものはいかなるものか、だ。
 これは現在の日本人には、またほとんどの欧米人には、ほぼ理解不能なのではないか。
 そんなことを感じたのは、やはりL・コワコフスキの叙述による。
 うまく訳しきれていないが、L・コワコフスキによると(№1886/2018.12.08)、こんな状態があった。長くなるが、叙述の順序に従って、ほとんど再引用する。要約している部分もかなりある。
 ①人物や事件の評価が「修正」されたとき、人々はその「修正」の簡単な方法・経緯を知っていたが、それを公言すれば制裁を受けるので<何も語らなかった>。
 ②知っていても決して言及しない「公然の秘密」がある。
 ③人々は強制収容所についてしっかりと知っていたが、それはしかし(引用すると)、「そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつ、その事実に気づいていることを政府が望んでいた」からだ
 ④人々には「二重(dual)の意識」が作り出された。それは体制側の意図だった。
 ⑤人々はあちこちで「醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ」、かつ同時に、「十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた」。
 ⑥人々は、「党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって、ウソだと知りつつ発言することで、ウソについて党と国家の共犯者になった」。
 ⑦体制側の意図は、馬鹿馬鹿しい虚偽を「そのまま信じる」ことではなかった。
 ⑧「完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になる」。
 ⑨「党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。
 すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する
 一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている
 市民はかくして、『信じることなくして信じる』(believe without believing)ことをしなければならなかった」。
 ⑩上の「心理(mind)状態」こそが、、党が人々の中に「作り出して維持しようとしている」ものだった。
 ⑪人々は「政府のウソを繰り返して言った」。そして考え難いことだが、その人々は「自分たちが言っていることを半分は信じていた」。
 ⑫人々は何と言うのが「正しい」のか、つまり「何と言うことが彼らに要求されているか(=正しいか)」を知っていた。そして奇妙なことだが、彼らは「真実と正しさ」とを混同していた
 この辺りのL・コワコフスキの最後の文章はつぎのとおり。
 ○「このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった」。
 ソヴィエト体制下で生じたのは、たんなるテロル・大粛清や貧困・飢餓等だけではない。
 注目しておくべきなのは、人間の<自由で、誠実な精神>というものの破壊だっただろう。
 上の⑤⑥、⑧⑨あたりは、きわめて理解し難い「心理・精神」の状態だ。
 L・コワコフスキは二重(dual)意識と呼ぶが、G・オーウェル『1984年』には二重(double)意識という語が出てくるらしい。
 ともあれ、ソヴィエト体制下でのイデオロギー操作というのは、<ウソが真理だと信じ込ませる>ことでは全くない、と今日のわれわれも知っておくべきだろう。単純な?「洗脳」ではない。
 私にもまだ判然としないが、こういう心理・精神状態をどう理解すればよいのだろう。
 **ウソをつきつつそれが本当のことだと信じている<ふりをする>、かつまた、ウソであることを本当は知っていることも<匂わせる>。**
 何と複雑な、欺瞞に満ちた心理・精神状態だろうか。
 多くの人々が、こういう心理・精神状態の中で生きていたのではないか。
 「しろうと」ながら、ヒトラー・ナツィズム体制は、もっと大らかで率直で正直だったような気がする。唖然とする、悪辣なことを平然とかつ公然と語っていたような気がする。
 コミュニズム(共産主義)とナツィズムの違いだ。
  B・パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』はレーニン時代を歴史的背景とする作品だ。
 1917年秋・冬から三回の冬のことを、この作品はこう叙述している(私の訳-№1548/2017/05/18)。
 「冬がやってきた。この冬はそれに続いた二つの冬ほどにはまだ悲惨ではなかったけれども、だがすでに似たようなもので、陰鬱さ、飢え、寒さ、そして全ての日常的なものの激変を、特徴としていた。存在の全ての基礎の新たな形成や、滑り去る生活に取りすがろうとする完全に非人間的な努力をだ。//
 三回の恐ろしい冬が、つぎつぎに連続した。今17年から18年の冬に起きたと記憶していることの全ても、本当はこの当時ではなく、ことによると、もっと後に起きたのだったかもしれない。この三つの冬は、一つに重なっていて、一つ一つを区別するのはむつかしい。//」
 さらに、すでに新体制=ソヴィエト・ボルシェヴィキ体制の「人間」観を疑問視するこんな発言も、主人公の友人(ラーラの正式・形式上の夫でボルシェヴィキに入党したが、最後は自殺)にこう語らせている(私の訳-№1539/2017/05/13)。
 「だが、第一に、十月〔1917年〕以来に説かれている全般的な完成化(allgemeine Vervollkommnung)の理念は、ぼくを燃え立たせない。/
 第二に、全てが実現からほど遠いのに、その理念を語るだけでも、これほどたくさんの血の海(Stroemen von Blut)が代償として必要だった。目的は手段を正当化するって、ぼくには分からない。/
 第三に、これが肝心なことだが、人間の改造(Umgestaltung des Lebens)という言葉を聞かされると、ぼくは自分をどうも抑制できなくなって、絶望へと陥ってしまう。//
 人間の改造だって! こんなことは、なるほど多くのことを体験しているが、人間とは何かを実際にはまるで知ってはいない者たちだけが、考えることができる。人間の呼吸=精神(Geist)や人間の搏動=魂(Seele)を感じたことのない者たちだけが。/
 そういう者たちにとって、人間の存在というものは、彼らがまだ触って磨き上げていない、もっと加工が必要な、原材料の塊なのだ。/
 しかしね、人間は決して、かつて一度たりとも、材料や素材ではない。/
 きみが知りたいのなら、人間は永遠に自らを作り直している原理体だ。人間は、絶えず自らを更新しており、永遠に自らを形成し、変化させているのだ。それは、きみやぼくの愚かな考えなどを際限なく超越したところにある。//」
 あくまで小説上のものだが、これはスターリン下の言葉ではない。明らかにレーニン時代のものとして語らせている。
 ***
 最後に、この時代に、ロシア(・ソ連)の将来を悲観して、あるいはブルジョアジーとか「知識人」とかの<逆差別>を受けて(レーニン政権が追求したのは決して「平等」なのではない。「階級敵」の平等視があるはずもない)、国外に脱する直前のユリイの正式の妻・トーニャの手紙の一部を再度引用しておきたい。
 あくまで、作品上のものだ。しかし、他国へ行く当時の人々によってこういう文章は実際に書かれたのではないか(私の訳。同上)。
 「さようなら。もう終わらなければいけない。
 ああ、ユーラ、ユーラ、私の愛する人、大切な夫、私の子どもの父親、どうしてこんなことになったの ?
 私たち、もう二度と、もう二度と、決して会うことがないのよ。
 あなた、こう書いたことの意味が分かる ? 理解できる ? 理解できる ?」
 ユリイの妻・トーニャの手紙から。Boris Pasternak, Doktor Shiwago〔独語版〕, p.521.

1898/Wikipedia によるL・コワコフスキ③。

 Wikipedia 英米語版での 'Main Currents of Marxism' の項の試訳のつづき。
 2018年12月22日-23日の記載内容なので、今後の変更・追加等はありうるだろう。
 前回に記さなかったが、この本の総頁数は、つぎのように書かれている。
 英語版第一巻-434頁、同第二巻-542頁、同第三巻-548頁。秋月の単純計算で、総計1524頁になる。
 英語版全巻合冊書-1284頁
 さて、以下の書評類は興味深い。何とも直訳ふうだが、英語そのままよりはまだ理解しやすいのではないか。
 書評者等の国籍・居住地、掲載紙誌の発行元の所在地等は分からない。多くは、イギリスかアメリカなのだろう。
 こうした書評上での議論があるのは、なかなか愉快で、コワコフスキ著の内容の一端も教えてくれる。
 それにしても、わが日本では、コワコフスキの名も全くかほとんど知られず、この著の存在自体についても同様だろう。2017年の最大の驚きは、この著の邦訳書が40年も経っても存在しないことだった。
 マルクス主義・共産主義に関する<情報>に限ってもよいが、わが日本の「知的」環境は、果たしていかなるものなのか。
 なお、praise=讃える、credit=高く評価する、describe=叙述する、accuse=追及する、consider=考える、等にほぼ機械的に統一した(つもりだ)。criticize はむろん=批判する。これら以外に、論じる、主張する、等と訳した言葉がある。
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 3/反応(reception)。
 1.主流(main stream)メディア。
 (1) <マルクス主義の主要潮流>はLibray Journal で、二つの肯定的論評を受けた。
 一つは最初の英語版を書評した Robert C. O'Brien からのもので、二つはこの著作の2005年合冊版を書評した Francisca Goldsmith からのものだった。
 この著作はまた、The New Republic で政治科学者 Michael Harrington によって書評され、The New York Review of Books では歴史家の Tony Judt によって書評された。
 (2) O'Brien は、この著作を「マルクス主義教理の発展に関する包括的で詳細な概観」で、「注目すべき(remarkable)著作だ」と叙述した。
 彼はコワコフスキを、「マルクスの思想が<資本>に到達するまでの発展の基本的な継続性」を提示したと讃え、Lukács、Bloch、Marcuse、フランクフルト学派および毛沢東に関する章が特別の価値があると考えた。
 Goldsmith は、コワコフスキには「明瞭性」と「包括性」はもちろんとして「完全性と明晰性」があると讃えた。
 哲学者のJohn Gray は、<マルクス主義の主要潮流>を「権威がある(magisterial)」と呼んで讃えた。//
 2.学界雑誌。
 (1)<マルクス主義の主要潮流>は、Economica で経済学者のMark Blaug から、The American Historical Review で歴史研究者の Martin Jay から、The American Scholarで哲学者のSidney Hook から、the Journal of Economic Issues で John E. Elliott から肯定的な書評を受けた。
 入り混じった書評を、社会学者のCraig CalhounからSocial Forces で、David Joravsky からTheory & Society で、Franklin Hugh Adler からThe Antioch Review で、否定的な書評を社会学者の Barry Hindess からThe Sociological Reviewで、社会学者 Ralph Miliband からPolitical Studies で受けた。
 この本の書評はほかに、William P. Collins が The Journal of Politics に、Ken Plummeが Sociology に、哲学者のMarx W. Wartofsky がPraxis International に、それぞれ書いている。
 (2) 経済学者Mark Blaug は、この本を「輝かしい(brilliant)」かつ社会科学にとって重要なものだと考えた。
 マルクス主義の強さと弱さを概括したことを高く評価し、歴史的唯物論、エンゲルスの自然弁証法、Kautsky、Plekhanov、レーニン主義、Trotsky、トロツキー主義、Lukács、Marcuse およびAlthusser に関する論述を讃えた。 
 しかし、哲学者としての背景からしてマルクス主義を主に哲学的および政治的な観点から扱っており、それによってマルクス主義のうちの中核的な経済理論をコワコフスキは曲解している、と考えた。
 彼はまた、Paul Sweezy によるThe Theory of Capitalist Development (1942)での Ladislaus von Bortkiewicz の著作の再生のようなマルクス主義経済学の重要な要素を、コワコフスキは無視していると批判した。
 彼はまた、「1920年代のソヴィエトでの経済政策論争」を含めて、コワコフスキがより注意を払うことができただろういくつかの他の主題がある、と考えた、
 彼はコワコフスキの文献処理を優れている(excellent)と判断したけれども、 哲学者H. B. Acton のThe Illusion of the Epoch や哲学者 Karl Popper のThe Open Society and Its Enemies が外されていることに驚いた。
 彼は、コワコフスキの著述の質を、その翻訳とともに、讃えた。
 (3) 歴史研究者Martin Jay は、この本を「きわめて価値がある(extraordinarily valuable)」、「力強く書かれている」、「統合的学問と批判的分析の、畏怖すべき(awesome)達成物〔業績〕」、「専門的学問の記念碑」だと叙述する。
 彼は、コワコフスキによる「弁証法の起源」の説明、マルクス主義理論の哲学的側面の論述を、相対的に独自性はないとするけれども、讃える。
 彼はまた、マルクス主義の経済的基礎の論述や労働価値理論に対する批判を高く評価する。
 彼は、歴史的唯物論が原因となる力を「究極的には」経済に求めることの誤謬をコワコフスキが暴露したことを高く評価する。
 しかし、Lukács、Korsch、Gramsci、フランクフルト学派、GoldmannおよびBloch の扱い方を批判し、「痛烈で非寛容的で」、公平さに欠けるとする。こうした問題のあることをコワコフスキは知っていると認めるけれども。
 彼はまた、コワコフスキの著作はときに事実に関する誤りや不明瞭な解釈を含んでいるとする一方で、この本の長さを考慮すれば驚くべきほどに数少ない、と書いた。
 (4) 哲学者Sidney Hook は、この本は「マルクス主義批判の新しい時代」を開き、「マルクスとマルクス主義伝統にある思想家たちに関する最も包括的な論述」を提示した、と書いた。
 彼は、ポーランドのマルクス主義者、Gramsci、Lukács、フランクフルト学派、Bernstein、歴史的唯物論、マルクス主義へのHess の影響、「マルクスの社会的理想」での個人性の承認、「資本」の第一巻と第三巻の間の矛盾を解消しようとする試みの失敗, マルクスの「搾取」概念、およびJaurès やLafargue に関するコワコフスキの論述を讃える。
 彼は、トロツキーの考え方は本質的諸点でスターリンのそれと違いはない、スターリニズムはレーニン主義諸原理によって正当化され得る、ということについてコワコフスキに同意する。
 しかし、ある範囲のマルクス主義者の扱い方、 社会学者の Lewis Samuel Feuer の「研究がアメリカのマルクスに関するユートピア社会主義の植民地に与えた影響」を無視していること、を批判した。
 彼は、マルクスとエンゲルスの間、マルクスとレーニンの間、に関するコワコフスキの論述に納得しておらず、マルクスの Lukács による読み方を讃えていることを批判した。
 彼は、マルクスは一貫して「Feuerbach の人間という種の性質に関する見解」を支持していたとのコワコフスキの見方を拒否し、思想家としてのマルクスの発展に関するコワコフスキの見方を疑問視し、マルクスの歴史的唯物論は技術的決定論の形態にまで達したとのコワコフスキの見方を、知識(knowledge)に関するマルクスの理論の解釈とともに、拒否した。
 (5) Elliott は、この本は「包括的」で、マルクス主義を真摯に研究する全ての学生の必須文献だと叙述する。
 彼は、<資本>のようなマルクスの後半の著作は1843年以降の初期の著作と一貫しており、同じ諸原理を継続させ仕上げている、とするコワコフスキの議論に納得した。
 彼は、マルクスは倫理的または規範的な観点を決して採用しなかったという見方、マルクスの「実践」観念や「理論と実践の編み込み」に関する説明、マルクスの資本主義批判は「貧困によってではなく非人間化によって」始まるとの説明のゆえに、「制度的伝統」にある経済学者にとって第一巻は価値があると考えた。
 彼は、第二巻を<tour de force>だとし、三巻のうちで何らかの意味で最良のものだと考えた。
 彼は、第二インターナショナルの間の多様なマルクス主義諸派がいかに相互に、そしてマルクスと、異なっていたか、に関するコワコフスキの論述を推奨した。
 彼はまた、レーニンとソヴィエト・マルクス主義に関するコワコフスキの論述は教示的(informative)だとする一方で、ソヴィエト体制に対するコワコフスキの立場を知ったうえで読む必要があるとも付け加えた。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を批判するよりも叙述するのに長けていると考え、マルクスの価値理論に対する Böhm von Bawerk による批判に依拠しすぎていると批判した。
 しかし彼は、コワコフスキの著作はこれらの欠点を埋め合わす以上の長所をもつ、と結論づけた。
 (6) 社会学者Calhoun は、この本はコワコフスキのマルクス主義放棄を理由の一部として左翼著述者たちからの批判を引き出した、しかし、マルクス主義に関する「手引き書」として左翼に対してすら影響を与えた、と書いた。
 彼は、コワコフスキがマルクス主義への共感を欠いていることを批判した。また、哲学者または逸脱したマルクス主義者と考え得る場合にかぎってのみマルクス主義の著述者に焦点を当て、マルクス主義の経済学者、歴史家および社会科学者たちに十分な注意を払っていない、と主張した。
 彼は、この本は明晰に書かれているが、「不適切な参考書」だと考えた。
 彼は、第一巻はマルクスに関するよい(good)論述だが、「洞察が少なすぎて、もっと読みやすい様式で書かれなかった」と述べた。
 彼はまた、第二巻のロシア・マルクス主義に関する論述はしばしば不公平で、かつ長すぎる、とした。
 また、スターリニズムはレーニンの仕事(works)の論理的な帰結だとのコワコフスキの議論に彼は納得しておらず、ソヴィエト同盟がもった他諸国のマルクス主義に対する影響に関するコワコフスキの論じ方は不適切(inadequate)だ、とも考えた。
 彼は、全てではないが、コワコフスキのフランクフルト学派批判にある程度は同意した。
 <マルクス主義の主要潮流>は一つの知的な企てとしてマルクス主義の感覚〔sense=意義・意味〕を十分に与えるものではない、と彼は結論づけた。
 (7) Joravsky は、この本はコワコフスキが以前にポーランド共産党員だった間に行った共産主義に関する議論を継続したものだと見た。
 マルクス主義の歴史的な推移に関するコワコフスキの否定的な描写は、<マルクス主義の主要潮流>がもつ「事実の豊富さと複雑さ」と奇妙に矛盾している、と彼は書いた。
 彼は、マルクス主義者たちの間の論争から超然としていると自らを提示し、一方でなお Lukács のマルクス解釈を支持するのは一貫していない、とコワコフスキを批判した。また、マルクスを全体主義者だと非難するのは不公正だ、とも。
 彼は<マルクス主義の主要潮流>の多くを冴えない(dull)ものだとし、哲学史上ののマルクスの位置に関するコワコフスキの説明は偏向している(tendentious)、と考えた。
 彼は、社会科学に投げかけたマルクスの諸問題を無視し、諸信条の社会的文脈を考察したごとき常識人としてのみマルクスを評価しているとして、コワコフスキを批判した。また、マルクス主義の運動や体制に関係があった著述者のみを扱っている、とも。
 彼は、オーストリア・マルクス主義、ポーランドのマルクス主義と Habermas に関する論述にはより好ましい評価を与えたが、全体としての共産主義運動の取り扱い方には不満で、コワコフスキはロシアに偏見を持っており、他の諸国を無視している、と追及した。
 (8) Adler は、この本を先行例のない、「きわめて卓絶した(unsurpassed)」マルクス主義の批判的研究だと叙述する。
 コワコフスキの個人的な歴史がマルクス主義に対するその立場の大部分を説明すると彼は結論づけたが、<マルクス主義の主要潮流>は一般的には知的に誠実だ(honest)、とした。
 しかし、彼は、コワコフスキの東欧マルクス主義批判は強いものだとしつつ、その強さが西欧マルクス主義と新左翼に関する侮蔑的な扱いをすっかり失望させるものにしている、と考えた。
 新左翼に対するコワコフスキの見方は1960年代のthe Berkeley の反体制文化との接触によって形成されたのかもしれない、としつつ、彼は、新左翼を生んだ民主主義社会の価値への信頼の危機を何が招いたのかをコワコフスキは理解しようとしていない、と述べた。
 彼は、Gramsci と Lukács に関する論述を讃えた。しかし、「東側マルクス主義批判へとそれを一面的に適用しており、彼らの主導権や物象化に関する批判は先進資本主義諸国の特有の条件に決して適用できるものではない」、と書いた。また、フランクフルト学派とMarcuse の扱いは苛酷すぎ、不公平だ、とも。
 彼はまた、この本の合冊版は大きくて重くて、扱いにくく身体的にも使いにくい、とも記した。
 (9) 社会学者Hindess は、この本はマルクス主義、レーニンおよびボルシェヴィキに対して「重々しく論争的(polemic)」だ、と叙述した。
 彼は、コワコフスキは公平さに欠けていると考え、マルクス思想は<ドイツ・イデオロギー>の頃までに基本的特質が設定された哲学的人類学だというコワコフスキの見方に代わる選択肢のあることを考慮していない、と批判した。また、「政治分析の道具概念としては無価値」の「全体主義という観念」に依拠している、とも。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を哲学と見ているために、「政治的計算の手段としてのマルクス主義の用い方、あるいは具体的分析を試みる多数のマルクス主義者に設定されている政治的および経済的な実体的な諸問題」への注意が不十分だ、と主張した。
 彼はまた、Kautsky のようなマルクス主義著述者、レーニンの諸政策、スターリニズムの進展に関して誤解を与える論述をしている、と追及した。
 彼は、コワコフスキによるマルクス主義の説明は「グロテスクで侮辱的な滑稽画」であり、現代世界に対するマルクス主義の影響力を説明していない、と叙述した。
 (10) 社会学者Miliband は、コワコフスキはマルクス主義の包括的な概述を提供した、と書いた。
 しかし、マルクス主義に関するコワコフスキの論述の多くを讃えつつも、そのマルクス主義に対する敵意が強すぎて、「手引き書」としての著作だという叙述にしては、精細すぎると考えた。
 彼はまた、マルクス主義とその歴史への接近方法は「根本的に見当違い(misconceived)」だと主張した。
 彼は、マルクス主義とレーニン主義やスターリニズムとの関係についてのコワコフスキの見方は間違っている(mistaken)、マルクスの初期の著作と後期のそれとの間の重要な違いを無視している、コワコフスキは第一次的には「経済と社会の理論家」だというよりも「変わらない哲学的幻想家」だとマルクスを誤って描いている、と主張した。
 マルクス主義は全ての人間の願望が実現され、全ての諸価値が調整される、完璧な共同体たる社会」を目指した、とのコワコフスキの見方は、「馬鹿げた誇張しすぎ」(absurdly overdrawn)だ、と彼は述べた。また、コワコフスキの別の著述のいくつかとの一貫性がない、とも。
 彼はまた、コワコフスキの結論を支える十分な論拠が提示されていない、と主張した。
 彼は、コワコフスキはマルクスを誤って表現しており、マルクス主義の魅力を説明することができていない、と追及した。また、歴史的唯物論に関する論述を非難し、 Luxemburg に対する「誹謗中傷〔人格攻撃〕」だとコワコフスキを追及した。
 彼は、改革派社会主義とレーニン主義はマルクス主義者にとってのただ二つの選択肢だった、とのコワコフスキの見方を拒否した。
 彼は結論的に、<マルクス主義の主要潮流>は著者の能力とその主題のゆえに無価値(unworthy)だ、と述べた。
 コワコフスキはMiliband の見方に対して返答し、<マルクス主義の主要潮流>で表現した自分の見解を再確認するとともに、Miliband は自分の見解を誤って表現していると追及した。
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 以上。つぎの、<3/反応の3.書物での評価>は割愛する。

1894/不破哲三「現代トロツキズム批判」(1959年)。

 こういう類を探し出せば、キリがないだろう。
 不破哲三は1959年、「ソ連」についてどう書いていたか、どういうイメージを持っていたか。
 不破哲三「現代トロツキズム批判」上田耕一郎=不破哲三・マルクス主義と現代イデオロギー/上(大月書店、1963年)のp.214。
 最初の掲載は1959年6月号の『前衛』。不破、29歳の年。
 **
 「トロツキーの『世界革命』理論の土台石を形づく」るのは、経済後進国ロシアで「完全な社会主義社会を建設することは不可能」だとする「理論」だ。
 「この一国社会主義批判は、もしそれが誤りだとなったなら、…トロツキズムの全体が一挙に崩壊してしまうほどの比重をしめていた。/
 だが、…十月革命以来四〇年の世界の発展は、トロツキズムのこの最大の支柱を、打ち破りがたい歴史的事実の力でうちくだいた。/
 すなわち、世界革命の不均衡な発展が主要な先進資本主義国をまだ資本主義体制にとどめているあいだに、ソ連は社会主義社会の建設を完了し、社会主義は資本主義的包囲を打ち破って世界体制となり、…共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始しているのである」。
 フルシチョフが述べたように、「一国における社会主義の建設と、その完全かつ最終的な勝利にかんする問題は、社会発展の世界史的行程によって解決された」。
 **
 スターリン死亡が1953年、スターリン批判秘密報告は1956年で、このときソ連はフルシチョフの時代だった。日本共産党は1961年党大会の前。
 上で不破哲三は、「ソ連は社会主義社会の建設を完了し」、「共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始している」と書いた。
 この歴史的事実によって、「一国社会主義」論の正しさとトロツキーの「世界革命」論の誤りが実証された、と言っているわけだ。
 第一に、このような「一国」か「世界」という対立・対比はスターリンがトロツキーらに政治的に勝利するために意図的に捏造した論争点で、この論点を極大化するのは政治的だ。理論・政策について、スターリンはトロツキーのそれらを多分に「利用」・「継承」している。
 このようなスターリンとトロツキーの見事な「相対化」は、L・コワコフスキにもS・フィツパトリクにも見られて、興味深い。
 不破哲三は、スターリンと同じ立場に立って、ソヴィエト・マルクス主義の経緯を理解したつもりでいたわけだ。この人は戦後の若い頃に、<スターリン・ソ連共産党史/小教程>を一生懸命読んで「憶えた」にちがいない。
 第二に、ソ連は社会主義国ではなかった、レーニンによって正しく歩み始めたのをスターリンがなし崩しにした、と言うどころか、1959年にはソ連での「社会主義建設は完了」したと(スターリンと同じく)明言していた。
 何とでも言えるものだ。1994年党大会で綱領改正の報告をしたとき、不破哲三は、かつて自分が書いたことなど(他にも多数あって?)忘れていたに違いない。いや、かすかに記憶に残っていたとしても、過去は過去、今は今で、どうでもよいことなのだ。
 とりあえず今を前進し、とりあえず今を切り抜け、自分が日本共産党の頂点にい続けることが可能であるならば。
 ソ連の「社会主義国」性につき、1994年の時点で不破哲三が反省らしき言辞を吐いたのは、秋月瑛二の知るかぎりでは、我々にも<ソ連の見方につき不十分さがあった>、というひとことだけだ。
 <何とでも言う>ことができる。
 かつてレーニンを擁護しつつスターリニズムを批判していた「トロツキスト」を批判していた日本共産党だが、今や(1994年党大会以降)「スターリニスト」も罵倒するに至った。かと言って、トロツキー批判は間違っていたと自己批判するわけでは、勿論ない。
 基本的・根本的なところで、日本共産党は「自己欺瞞」を今後も、し続ける。

1892/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.113-p.116、2004年合冊版p.874-p.880。
 最後から二つ目の文につき、ドイツ語訳書3巻p.132も参照した。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容③。
 (19)世界共産主義に対するスターリン独裁の一つの効果は、マルクス主義の研究を徐々に衰退させたことだった。。
 「ボルシェヴィキ化」の過程にあった1920年代は、多様な分派的で個人的な争論で溢れていた。それらは通常は、レーニンが遺した政治的文献の正しい解釈に関する論争というかたちをとった。しかしこれらは、ソヴィエト様式(Soviet-type)の正統派が徐々に成文化されたことを別とすれば、教理に対する永続的な影響を持たなかった。
 にもかかわらず、1920年代初期の革命的雰囲気は、若干の理論的な文献を生んだ。そこでは、第二インターナショナルの正統派指導者たちが伝えたマルクス主義教理が完全に修正されていた。
 それらのうち最も重要なのは、ルカチ(Lukács)とコルシュ(Korsch)の著作だった。この二人はいずれも、コミンテルンによって「極左」だと汚名を着せられて非難された。
 彼らは異なる方法で、「理論と実践の統一」という観念に新しい生命を注入し、正統派と新カント派のいずれにも広まっている科学的見方と闘うことによって、マルクス主義哲学を最初から再構築しようとした。。
 多くの諸国では、逞しい従前の世代がなおも、共産主義運動の外側で非教条的なマルクス主義の伝統を維持していた。すなわち、オートスリアのAdler やBauer 、ポーランドのKrzywicki 、ドイツのKautsky やHilferding。
 しかしながら、この時代の彼らの活動は教理の発展に対して大きな影響力を持たなかった。彼らのうちいく人かはすでに作られていた諸観念や主題を反復することで満足しており、別の者たちは次第にマルクス主義の伝統から離反した。
 そうしているうちに、社会民主主義との闘いに社会主義運動を一元化するコミンテルンの政策によって、理論的作業は行われなくなった。
 社会民主主義はマルクス主義から大きく離れたものになっており、単一の拘束的イデオロギーを求める必要性を失った。
 マルクス主義はソヴィエトのイデオロギストたちを実際に独占し、過ぎゆく年ごとに味気ないものになった。//
 (20)ドイツにだけは、共産主義と一体化しない重要なセンターがあつた。1923年にフランクフルトに創立された社会研究所(the Institute fuer Sozialforschung)だ。
 このメンバーたちは最初はマルクス主義の伝統から強く影響を受けていた。しかし、それとの連環は次第に弱くなりつ、のちにますます明確になった一定の様式が形成された。
 一方で、マルクス主義は制度化された党イデオロギーとして硬直化し、政治的には有効だつたが全ての哲学上の価値を失った。
 他方で、マルクス主義は全く異なる伝統と、明瞭な外郭線を示すことをやめるに至るまで結びついた。そして、知的歴史に寄与する多数のものの一つにすぎなくなった。//
 (21)しかしながら、1930年代半ば頃のフランスで、マルクス主義運動がある程度生き返った。
 その指導者の中には科学者、社会学者および哲学者がいたが、全てが共産主義者ではなかった。Henri Wallon 、Paul Langevin 、Frédéric Joliot-Curie 、Marcel Prenant 、Armant CuvillerおよびGeorges Friedman だ。
 これらは戦後のフランスの知的生活で重要な役割を果たした。政治的に共産主義に関与する学者と(但し、必ずしもマルクス主義理論家ではなかった)、または伝統的マルクス主義理論の、システムを形成しないでばらばらな様式で知的生活を一貫させた一定の側面の継続者とのいずれかとして。
 戦争間でのフランスで最もよく知られた正統派は、Georges Politzer だった。この人物は、占領期に殺された。
 彼はBergson を激しく批判する書物やレーニン主義の弁証法的唯物論に関する一般向け手引き書を書いた。
 イギリスでは、著名な生物学者で地球上の生命の起源に関する書物の執筆者だったJ. B. S. Haldane が、マルクス主義と現代科学との親和性を証明しようと努力した。
 もう一人のマルクス主義者は、アメリカの遺伝学者のH. J. Muller だった。
 しかしながら、この二人の場合、マルクス主義はとくにマルクス主義とは言えない様相で示された。生物学では、主としては生気論や最終主義に対する一般的な反論という形で表れたように見える。
イギリスのMaurice Dobb も、とくに景気循環との関係で、マルクス主義経済理論を擁護した。//
 (22)イギリスの労働党の左翼では、Harold J. Rasky がマルクス主義的用語法で国家の理論、権威の性質および政治思想の歴史を詳しく解説した。
 1930年代の後半、彼は、「究極的には」ある階級が別の階級を強制することに役立つ装置としての国家に関するマルクス主義理論を採用した。
 彼は当時のリベラリズムを主要な目的は被搾取者の意見が聴かれないままにするイデオロギーだと攻撃し、財産所有階級の致命的利益が脅威に直面すれば彼らは統治のリベラルな形態を拒絶し、生の暴力に頼るだろう、と主張した。
 ヨーロッパでのファシズムの成長は、ブルジョア国家の発展の自然な結果だ。ブルジョア民主主義は衰退の状態にあり、ファシズムに対する唯一の代替選択肢は、社会主義だ。
 にもかかわらず、Rasky は、伝統的な民主主義的自由に愛着があり、プロレタリア革命は民主主義的自由を損なわないままにするだろうと信じた。
 彼は、社会発展への鍵は中産階級の態度にある、と明確に論じた。
 この当時に共産党員だった(のちに社会民主主義者になった)John Strachey は、同じ問題について、正統派的なレーニン主義の観点から議論した。//
 (23)才能ある著作者のChristopher Caudwell (Christopher St. John Sprigg, 1907-37の筆名)は短期間、イギリスのマルクス主義の中で傑れていた。
マルクス主義者かつ共産主義者としての彼の経歴はほとんど二年間しかなかった。-スペインの国際旅団で闘って殺された。
 しかし、1936年に、<幻想と現実-詩の源に関する研究>と題する注目すべき書物を生んだ。
共産党員になるまでに彼は、いくつかの探偵小説や飛行機に関する大衆向け書物を書いた。
 <死にゆく文化の研究>(1938)、当時のイギリス文学、「ブルジョア文化」一般に関する小文を集めたもの、および未完の<物理学の危機>(1939)、観念論、経験主義および現代科学理論の非決定論に対するレーニン主義的攻撃、のような彼の詩作は、死後に遺作として出版された。
 マルクス主義の著作として最もよく知られる<幻想と現実>で、彼は社会と技術の進化について異なる段階の韻律の変化を含めて、詩の歴史の相互関係を示そうとした。
 同時に、自由を必然性からの自立と把握するブルジョア的観念を攻撃した。一方でエンゲルスは、自由とは人間の目的のために自然的必然性を利用することだと述べていたのだが。
 この書物は、16世紀以降のイギリスの詩に個別に注目した。Marlowe とShakespeare は本源的蓄積の英雄的時代に位置し、Pope は重商主義時代に位置する、等々。
Caudwell は、詩作は元来は生産を増やす目的の農業儀礼の一要素にすぎなかった、とする見解だった(とくにマルクス主義的というのではないが、初期の人類学的作業だ)。
 のちの階級社会で、詩作、音楽および舞踏は生産と分離したが、それは芸術の疎外(alienation)を意味した。
 社会主義の役割は、この過程を逆方向に動かし、生産活動と芸術的活動の統一を回復することだ。//
 (24)西側ヨーロッパの知的生活は、またある程度の範囲ではアメリカ合衆国のそれは、1930年代遅くには奇妙な情況を呈した。
 一方では、スターリニズムが十分な実績をつみ、その最もおぞましい特質のいくつかは全世界の者が分かるまでに暴露されていた。
 しかし、他方では、多数の知識人たちが、ファシズムに代わる唯一の選択肢およびそれに対抗する防衛手段として、共産主義に魅了された。
 あらゆる種類の政治的集団はナツィの侵攻の脅威を前に、弱々しく、決断力がなく、そして無力であるように見えた。
 多くの者にとってマルクス主義は理性主義、人間中心主義そしてかつてのリベラルな考え方の全てを維持し続けているように思え、そして共産主義はマルクス主義を政治的に具現化したもので、ファシストの猛襲を食い止める最大の希望だった。
 左翼知識人たちは、実際に現存しているが最初からとくにマルクス主義的というのでもない特質をもつマルクス主義に向かって、惹き寄せられた。
 ソヴィエト・ロシアがファシズムに対抗する主要な勢力だと見えるかぎりで、こうした知識人たちは、ソヴィエト共産主義と彼らが理解するマルクス主義とを同一視しようと努めた。
 そのようにして彼らは、共産主義政治の現実にわざと目を閉ざした。
 George Orwell のように教理上の想定からではなく経験上の事実から実際の共産主義に関する考えを形成した人々は、憎悪と憤慨を味わった。
 偽善と自己欺瞞は、左翼知識人がもつ永続的な思潮になった。//
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 ③終わり、第3節終わり。そして、第三章も終わり。

1891/白井聡「『国家と革命』解説」(2011)。

 レーニン=角田安正訳・国家と革命(講談社学術文庫、2011)。
 この文庫本版のレーニン文献に翻訳者とは別の「解説」を書いているのが白井聡で、その表題は「解説-われわれにとっての『国家と革命』」。一年以上も前に、知ってはいた。
 レーニンとロシア革命の擁護という点で、目を剥く文章が見られる。以下に抜粋的に引用する。
 自らの『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)の議論の要約らしきものを述べた後でこのように書く。p.274-。
 ・<国家と革命>またはレーニンの言説全般にかかる「理想主義」か「現実主義」かの問いの無意味さは「現存社会主義」の崩壊によって「現実」となつたが、それは「想像力の貧困の帰結」だ。レーニンの文章の「不可解さ」は彼の罪ではなく、「われわれの想像力の貧しさ」にある。「いかにしてこのような貧困状態にわれわれが落ち込んだのか」。
 ・レーニンが描いた共産主義建設の試みは①「国家の死滅」ではない「国家の異常な肥大」や「形式的な民主主義」の無視をもたらし、②「理想社会」という「嘘と欺瞞に対する怨嗟」が広まって「帝国を崩壊」にもたらす、という「二度」の「挫折」をした。
 ・上の帰結の原因につき、①マルクス=レーニン思想に「内在する独断性」による「硬直的なほとんど教権的」体制の構築、②ロシアの特殊性、が語られる。
 ・しかし、上の①と②には「何の違いもない」。なぜなら、「ロシア革命の失敗をわれわれがその責めを負うべき失敗としてとらえるという視点を一切欠いている点」で共通しているからだ。
 ・「われわれがロシア革命の理想にほんのわずかでも共感を寄せる者であるとするならば」、ロシア革命の失敗の原因をレーニン、スターリン、マルクスのずれかに求める談義をする「潔白」な立場は、「欺瞞に満ちたものにすぎない」。
 ・こう考えるべきだ。「ロシア革命の失敗は、われわれが責めを負うべき事柄なのではないか」。あるいは、「ロシア革命の失敗が失敗であるがままでとどまっているのは、ほかでもなくわれわれのせいなのではないか」。
 ・「ボルシェヴィキ政権が」「恐ろしく強権的なもの」になったのは「事実」だが、「仮に、当時ほかの先進諸国のどこかでボルシェヴィキ革命と同程度に決然とした反資本主義の革命が一つでも起こっていたとするなら、世界は果たしてどうなっていただろうか」。それが起きていたなら、「ソヴィエト政権がかくも強硬なものとならざるを得なくなった必然性」の原因の一つが除去される。
 ・革命政権を干渉軍と「社会主義者たち」は非難した。レーニンが「ボルシェヴィキ革命を批判したカウツキーを『背教者』とまで呼んで罵倒したことは、筆者にとって完全に納得できる」。「社会主義者」にある「根本的欺瞞がレーニンをして怒髪天を衡く怒りを発せしめた」のだ。
 ・われわれがロシア革命の失敗の原因を論じるときに「カウツキーと同じ過ちを犯す危険」に近づく。つまり、「われわれはわれわれ自身の義務を果たした上で、レーニンの革命を批判しているのか?
 ・レーニンの革命の理想を「救済」できるのは後代のわれわれだけだとすれば、「国家と革命」の中の「革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない」。
 ・日本人の大多数は戦後にロシア革命から「多大の恩恵」を受けた。資本主義体制が「階級対立の緩和、労働者階級の富裕化、富の分配の平等化、社会福祉の実現」をかなり追求した必然性の原因の一つは「巨大な社会主義陣営の存在」だった。
 ・「歴史の皮肉」は、「現存社会主義の体制を大方冷ややかに見ていた諸国の大衆こそが、社会主義革命の果実を最も豊富に享受していた」ということだ。「自由主義先進諸国の勤労者階級は、階級闘争において代行的に勝利を収めることとなった」。
 ・レーニン「国家と革命」の中の「革命」に、「われわれは非常に多くを負ってきた」。「今日のわれわれの社会が背負っている痛みは、部分的には、この多くのものが失われたことに起因する」。「われわれはこの革命を救い出さなければならない。それは、ほかならぬわれわれ自身を救済するためである」。
 以下略。上は、p.283まで。
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 上で印象的なのは、第一に、ロシアでの「十月革命」を「社会主義革命」だったと完全に信じていることだ。
 そして第二に、「社会主義(革命)」の理想を未だに抱いているごとくであり、資本主義=「悪」という立場に当然のごとく立っている。
 第三に、レーニンの描いた十月革命後の「理想」が実現されず、かつむしろ悲惨な結果をもたらしたことの大きな原因をドイツ等での「革命」が後続しなかったことに求めている。かりに-だつたら、こんなことにならなかった、と嘆いている。
 第四に、ロシア革命の失敗とその理想の追求を「われわれ」の痛みと夢として抱き続ける必要があると論じている。
 印象的な文章の例を、くどいかもしれないが、再度引用しよう。
 ①「ロシア革命の失敗をわれわれがその責めを負うべき失敗としてとらえるという視点を一切欠いている…」。
 ②「われわれがロシア革命の理想にほんのわずかでも共感を寄せる者であるとするならば」、ロシア革命の失敗の原因をあれこれの他者に求めようとする「潔白」な立場は、「欺瞞に満ちたものにすぎない」。
 ③レーニンの革命の理想を「救済」できるのはわれわれだけであって、「革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない」。
 ④「われわれはこの革命を救い出さなければならない。それは、ほかならぬわれわれ自身を救済するためである」。
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 なぜ、このように書く人物が生じたのか。
 すでに一度この欄で言及したが、白井聡が大学院学生または20歳台のときにもっぱら又はほとんど、レーニンの文献を読んでいたことの結果だと言えるだろう。
 加藤哲郎(元一橋大学)には、このような人物が生まれたことについての「責任」はないのだろうか(同じことは、長谷川三千子-小川榮太郎についても、感じる)。
 白井聡はもともと親社会主義・共産主義的心性は抱いていたのだろうが、レーニンを読み耽ることが、上のような文章を書くことにつながったと見られる。
 白井聡にとって、レーニンとそのロシア革命は「われわれ」という名の「自分」すなわち白井聡の「一部」であり「分身」なのだ。レーニンの屈辱も夢も、白井聡の同身者のものなのだ。
 このような、レーニン研究者としてはまだ研究業績があると言えるかもしれない者が戦後日本史あるいは現代日本について語り出すといったいどうなるのか。
 真面目に読む気がしないのだが、読まなくとも、この人の心底にある「怨念」めいた信条による歴史・現実の把握が尋常なものでなくなることが、容易に判るような気がする。
 それでも、雑文執筆を依頼し、書物の刊行までしてくれるマスコミや出版社が、日本にはある。かつまた、雇用してくれる大学も、日本にはある。
 白井聡は京都精華大学の教員らしい(教授ではない)。この大学はかつて、上野千鶴子が所属していた。また、この欄でレーニン幻想をもつ「左翼」としてとり上げた、理系・建築系の田中充子も(今を確認しないが)いた。
 これらは、京都精華大学という大学にとって名誉なことだろうか。

1889/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第3節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義
 1978年英語版 p.105-p.109、2004年合冊版p.871-p.874。
 なお、コミンテルン日本支部=日本共産党設立は、1922年。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容①。
 (1)事物の自然な行程として、スターリン化は世界共産主義運動の全体に広がった。
 それが存在した最初の10年の間、第三インターナショナルは、異なる共産主義イデオロギーの諸形態の間の、議論と対立のフォーラムだった。しかし、その後、コミンテルンは自立性をすっかり失い、ソヴィエトの外交政策の道具になって、完全にスターリンの権威に従属した。
 (2)第一次世界大戦の間に社会民主主義諸党の内部に出現した多様な左翼集団や分派は、全てが純粋なレーニン主義者たちではなかった。しかし、運動に対する第二インターナショナルの指導者たちの裏切りを全てが非難することでは合意した。
 彼らはみな、改良主義を拒み、伝統的な国際主義精神を再生させようとした。
 十月革命は新しい革命的根拠地を生み出した。そして、これら左翼の者たちの多くは、世界共産主義革命が切迫していると考えた。
 1918年に、ポーランド、ドイツ、フィンランド、ラトヴィア、オーストリア、ハンガリー、ギリシャおよびオランダで共産党が結成された。
 つづく三年間に、多様な少数集団を代表する大小の革命的諸政党が、全ヨーロッパ諸国に存在するにいたった。
 多くの複雑な論議と分立にもかかわらず、こうしてレーニン主義諸原理をもつ国際的な共産主義運動が形成された。//
 (3)1919年1月、ボルシェヴィキ党は、トロツキーが草案を書いて、新しいインターナショナルの創立を呼びかける宣言書を発した。
 会合(大会)が同年3月にモスクワで開かれ、一定の共産主義諸政党および左翼の社会民主主義諸集団の代議員たちは、その計画に賛成した。
 第三インターナショナルは、正確には1920年7月-8月の第二回大会までは設立されていない。
 最初から、多様な諸政党には内部的な分立やレーニン主義の規範からの乖離があった。
 一方では、最近に分裂したばかりの社会民主主義者たちとの和解を切望する「右派」諸集団があり、他方には、妥協戦術や議会政治での連携を原則として拒否する「左派」または「党派的(セクト的、sectarian)」離脱主義者たちがいた。
 これは、レーニンが<「左翼」共産主義-小児病(Infantile Disorder)>で書いた考え方に反対するものだった。
 一年以内に、世界で、少なくともヨーロッパで、ソヴィエト共和国になるだろうとの共産主義者に一般的だった信念からすると、「左翼」の傾向は「改良主義」のそれよりもはるかに強く、明らかに多かった。//
 (4)コミンテルンの規約は、第二インターナショナルの原理的考えからの完全な離反を明確に示した。第一のそれの伝統に立ち戻るものだったけれども。
 規約は、インターナショナルは単一の党であり、各国の諸政党は分肢だ、目的は国際ソヴィエト共和国を樹立するために武力を含む全ての手段を用いることだ、ソヴィエト共和国樹立はプロレタリアート独裁の政治形態として、国家の廃棄へと向かう歴史的に約定された前奏部だ、と定めた。
 インターナショナルは、毎年(1924年以降は二年ごとに)大会を開催し、各大会の間は執行委員会が指揮するものとされた。執行委員会はその指令を無視する「支部(sections)」を除名し、規律違反を理由として集団または個人を排除することを要求することができた。
 1920年大会で採択されたテーゼは、将来の社会の適切な形態としての議会制主義を断固として拒絶する条項を含んでいた。
 議会や全ての他のブルジョア的国家制度は、それらを破壊するためにだけ利用しなければならない。そして、共産党議員団は、党に対してのみ責任をもつのであって、投票者という名前なき集団に対してではない。
 レーニンが草案を書いた植民地問題に関するテーゼは、植民地および後進諸国の共産党に対して民族的な革命運動との暫時的な同盟を形成すること、かつ同時に、共産党は独立性を保ったままでいるべきで、民族ブルジョアジーが革命運動を掌握するのを許さず、最初からソヴィエト共和国形成に向けて闘うこと、を命じた。
 共産党の指導のもとで、後進諸国は資本主義段階を通過することなくして共産主義を達成するだろう。//
 (5)大会はまた、全インターナショナルの根本教条であるソヴィエト同盟のそれを無条件に支持することを要求する宣言も発した。
 (6)もう一つの重要な文書はコミンテルンに加入した諸党が履行しなければならない、「21の条件」のリストで、これは、共産主義運動全体へとレーニン主義的組織形態を拡大するものだった。
 「条件」は、各共産党はその宣伝活動についてコミンテルンの決定に完全に服従しなければならない、と定めていた。
 共産主義的プレスは、完全に党の統制下においていなければならない。
 「支部」は改良主義的傾向と断固として闘わなければならない。そして、可能ならばいつでも、労働者諸組織から改良主義者や中央主義者を排除しなければならない。
 「支部」はまた-これがとくに強調された-、当該諸国の軍隊内部での系統的な宣伝活動を履行しなければならない。
 「支部」は、平和主義と闘い、植民地解放運動を支持し、労働者諸組織、とくに労働組合で活動し、農民の支持を得るよう奮闘しなければならない。
 議会では、共産党議員団は全てを革命的宣伝活動に従属させなければならない。
 党は、最大限に中央志向(cenralized)でなければならず、かつ鉄の紀律を遵守し、定期的に小ブルジョア的要素をもつ党員を排除(粛清、purge)しなければならない。
 党は疑うことなく、全ての現存する諸ソヴィエト共和国(existing Soviet republics)を支援しなければならない。
 各党の綱領は、インターナショナルの大会またはその執行委員会によって是認されなければならない。そして、大会または執行委員会の諸決定は全ての支部を拘束する。
 全ての党は「共産党」(Communist)と称しなければならず、加えて、当該諸国の法令が公然と活動することを許容する党は、「決定的瞬間に」行動するための秘密(clandestine)組織を設立しておかなければならない。//
 (7)こうして、軍事的分野に作用する中央志向の党は、世界共産主義運動の予め定められた様式になった。
 しかしながら、インターナショナルの創立者であるレーニンとトロツキーは、それをソヴィエト国家の政策の道具だとは想定していなかった。
 ボルシェヴィキ党自体は世界革命運動の「支部」または分肢にすぎないという考えは、最初は、全く真摯に抱かれていた。
 しかし、コミンテルンが組織されていく過程と創立の歴史的事情は、すみやかにそのような幻想を追い払った。
 ボルシェヴィキ党は最初に革命に成功した党として自然に大きな威厳をもち、レーニンの権威は揺るがないものだった。
 最初から、ロシアは執行委員会での決定的な発言権をもち、モスクワに居住する他諸党の常勤代表者たちは、徐々にソヴィエトのための活動家になった。
 ソヴィエト内部での指導権をめぐる闘争はインターナショナルに反映したのみならず、ときにはその主要な関心事になった。
 レーニン死後の権力を目指して競い合うボルシェヴィキの寡頭支配者たちのいずれも、兄弟政党の指導者たちの支持を得ようとした。そして、国際的共産主義の勝利または敗北が、今度はモスクワでの兄弟政党間の闘いに利用された。//
 (8)初期のインターナショナル諸大会は、規約に従って適時に開催された。
 第三回大会は1921年6月-7月に、第四回は1922年11月に、そして第五回は1924年6月-7月に、開かれた。
 このときまでにロシアは内戦を経過し、ネップ〔新経済政策〕の第一段階に入っていた。そして、レーニンが死んだ。
 レーニンの訓示と合致して、インターナショナルは最初から、植民地および発展途上諸国での革命的煽動活動のために忙しく活動した。
 インド共産党のNath Roy は、アジアでの革命が世界共産主義の主要な目標であるべきだ、と論じた。資本主義の安定は植民地化された地域からの利潤に依存している、人類の将来を決定するのはヨーロッパではなくアジアだ、と。
 しかしながら、インターナショナルの多数派は、ヨーロッパこそがなおも主要な焦点であるべきだと考えた。
 1920年のワルシャワ〔ポーランド〕を前にしてのソヴィエト軍の敗北によって、すみやかな革命の期待は減ったが、希望が完全に消え失せたわけではなかった。
 しかしながら、ドイツでの革命の企ては、1921年3月に大失敗で終わった。そして、その年6月の第三回インターナショナル大会の諸決議は、世界ソヴェト共和国の見通しに関して、以前よりも悲観的だった。
 レーニンとトロツキーはドイツでの蜂起を非難し、例のごとく大会も、同様に批判した。
 ドイツ共産党指導者のPaul Levi は蜂起に反対しており、それが原因で大会が始まる直前に党から除名されていた。しかし、名誉回復することはなかった。彼はあらためて非難され、その除名は正当なものと見なされた。
 新しい「レーニン主義」スタイルが、明らかに全面的に作動していた。//
 (9)世界革命が遅滞している間、コミンテルン指導者たちは、「左翼」少数派の強い反対に対抗して、社会主義者たちと協力する「統一戦線」方式を決定した。
 1922年の第四回大会を前にして論議が始まった。しかし、何にもならなかった。社会主義者たちは十分な理由でもって、「統一戦線」は自分たちを破壊することを狙った策略だと疑ったのだ。
 1923年10月、ドイツで再び蜂起が発生し、失敗した。
 このとき、ドイツの新しい党指導者のHeinrich Brandler は、コミンテルンとボルシェヴィキ党が完全に作成して主導した計画の生け贄(scapegoat)になった。
 1924年、トロツキーは、ドイツでの権力掌握による革命的状況を利用することに失敗したとして、そのときジノヴィエフが指揮していたコミンテルンの責任を追及した。//
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 ②へとつづく。

1888/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨⑲。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年)を見ていて、コミンテルンに関する叙述にさしかかり、江崎道朗の上の本のひどさ、「悲惨さと無惨さ」を思い出した。
 重なるがいま一度記しておく。
 江崎道朗は上の本でコミンテルンに論及したつもりで、こう豪語した。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 ああ恥ずかしい。
 江崎道朗はコミンテルン関係文書を英語訳等の原語では見ておらず、ほとんどを網羅しているとみられる、かつ古くから日本に存在する邦語訳の資料集類をいっさい参照していない。
 江崎が使っているのは、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)に<付録>として付いている資料で、以下の4点だけ。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつ第一に、これらは付録にある全19件のうちの4件にすぎず、第二に、個々に見ても付録自体にあるこれら一次資料(邦訳)は全文ですらなく全て「一部抜粋」にすぎない。
 そして、重要なことだが、第一にコミンテルンについてこれらにもとづいてのみ叙述しようとし、かつ第二に、もっぱら邦訳文に依拠していることと本来の「無知」によって、つぎのほぼ致命的なミスを活字にしてしまっている。
 わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある。
 何度でも指摘しておこう。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の違いを理解していなくて、なぜ共産主義、マルクス主義またはマルクス=レーニン主義あるいはコミンテルンに関する本を書けるのか?
 ②「社会愛国主義」=「社会排外主義」というレーニン・ボルシェヴィキらの侮蔑語(とくに第一次大戦、対ロシア戦争に反対しなかったドイツ社会民主党に対する)を知らずして、なぜレーニンら、あるいはコミンテルンに関する本を書けるのか?
 ③ソ連邦=ソヴィエト社会主義共和国連邦がまだ結成されていない時期の文書中の「各ソヴェト共和国」をソ連のことだと理解する<妄想力>を、いったいどうやって身につけたのか。
 なお、のちに(原稿最終提出時に?)複数のごとき「各」が付いていることに気づいたのか、ソ連以外に共産党支配の中国のことも意味する旨も記している。
 この部分は、しっかりした?邦訳資料集の邦訳によるとつぎのとおり。
 共産主義インターナショナルへの加入条件(1920年8月6日)。
 L・コワコフスキは、「21の条件」(Twenty-One Conditions)と略記している(第三分冊、p.107.)。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻(大月書店、1978年)に所収。
 これの、第14条(の第一文)。
 「共産主義インターナショナルに所属することを希望するすべての党は、反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争を全幅的に支持する義務がある。
 江崎道朗によると、1920年の文書にいうここでの「各ソヴェト共和国」とは、1922年結成のソ連邦(および1949年の中華人民共和国)なのだ。しっかりと、「あほ」だろう。
 L・コワコフスキの書物(第三巻p.107)では上の「各ソヴェト共和国」の部分は、直接の引用でなくして、all existing Soviet republics になっている。原文の「条件」では少なくとも(all) Soviet republics が使われているのだろう。
 これを2017年にソ連邦(および1949年の中華人民共和国)と理解する日本人がおり、かつ一冊の本にまで明記するとは、1920年のボルシェヴィキやコミンテルン関係者は誰も想像できなかったに違いない。
 ついでに、上の⑤に触れる。
 L・コワコフスキは粛清と大粛清とを意識的には区別していないようでもあるが、great と「大」を付加している場合は、スターリン時代のそれをもっぱら意味させているようだ。
 なお、「粛清」と秋月瑛二も邦訳していることがほとんどである原英語は、purge (パージ)。いつか触れたが、日本での「レッド・パージ」は「赤」に対する「殺害・殺戮」を意味したわけではない。
 この点、シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitspatrick)・ロシア革命(2017年)は言葉遣いにより厳しく、一般的な「粛清」はpurge、スターリン時代のそれはPurge と、小文字と大文字で使い分けている。
 なぜなら、レーニン時代の共産党・ボルシェヴィキ内の「粛清」(purge)は殺害・殺戮の意味を実質的にも持たず、革命後に急速に数が増大した共産党員のうち適性・資格を欠く者の<定期的検査による除名>をほぼ意味したからだ。
 時代の変化を敏感に読み取った出世主義?の者たちの大量入党者の中には、「社会主義革命」とか「プロレタリアート独裁」等の意味を全く知らなかった者もいたに違いなく、又出身階層も(農村から都市への移住者はまだマシだが)原・元の「プロレタリアート」であるのか疑わしい者もいたに違いなく、レーニンらは資格・適性の<再検討・再審査>が必要だと判断したと見える。
 よって、この初期の「粛清」は殺害・殺戮の意味を帯びてはいない。
 なお、L・コワコフスキ著のドイツ語訳書の「粛清」は、Säuberung
 これは「浄化」にも近く、「粛清」という訳語でも誤りではない。
 もともとのロシア語は、cleansing の意味だとどこかに誰かが書いていた(S・Fitspatrick だったかもしれない)。
 これは要するに「清潔にすること」、「清浄化」、「浄化」で、独語のSäuberung とたぶんほとんど同じ。
 但し、英語の purge には、「追放」とか「迫害」の意味もある可能性がある。
 これくらいにするが、いずれにせよ、江崎道朗には、「粛清」という言葉・概念の意味についてしっかりと吟味する姿勢自体が存在しないと推定される。
 この点は、しかし、まだマシだ。
 上の①~③はひどい。決定的に、悲惨で無惨。
 これでよく、「コミンテルン」を表題の重要な要素にする書物を刊行できたものだ。
 なお立ち入っていないが、日本の明治以降の江崎道朗の叙述もひどいものがある。
 最終的には、聖徳太子の一七条の憲法-五箇条のご誓文-大日本帝国憲法を、何の論拠も示さず、いかなる詳しいまたは厳密な概念定義を示すことなく、「保守自由主義」なるもので結合させる(7世紀~19世紀!)という単純さと乱暴さ。
 江崎道朗。月刊正論(産経)の毎号執筆者であり続けている。
 月刊正論編集部も、天下の?産経新聞社も、<恥ずかしい>とは感じないのだろうか。
 この程度の人が、何と新書一冊を出版できる、という現在の日本の<惨憺たる>知的世界、<あまりのユルさ>にも唖然とした、江崎道朗・上掲書だった。

1887/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.101-p.105、2004年合冊版p.868-p.871。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)③。
 (20)スターリンが解説する弁証法的および歴史的唯物論は、プレハノフ、レーニンおよびブハーリンに従ったマルクス主義の、陳腐で図式的な版型だ。すなわち、弁証法は現実の全側面を支配する普遍的「諸法則」を示すもので、人間の歴史はこの諸法則を適用した特殊な場合だと、広大無辺にかつ野心的に主張する哲学。
 この哲学は、天文学と同じ態様で自らを「科学的」だと主張し、社会過程は他のものと同様に「客観的」で、予見可能だと宣言する。
 この点で、ルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)が再構築したマルクス主義の見地とは根本的に異なる。これによれば、プロレタリアの意識の特定の場合に、社会過程とその過程の知覚は同一のものになり、社会に関する知識は社会を変える革命的実践と合致する。 
スターリンは、一般的な自然主義(naturalism)を採用した。それは第二インターナショナルのマルクス主義者たちに支配的だったもので、そこには「理論と実践の統一」という特有のマルクス主義的見方が入り込む余地はなかった。
 確かにこの定式は承認されていて、スターリンや随行哲学者たちががあらゆる機会に強調したものだった。
 しかし、その持つ意味は実際には、実践が理論に優越する、理論は実践の補助的なものだ、という主張へと変質していた。
 この考え方に沿って、学者たちに対して-とくに1930年代初めの科学アカデミーのイデオロギー的再建の後で-、工業にとって直接の利益になり得る分野に研究を限定すべきだという圧力が加えられた。
 この圧力は、全ての自然科学に、緩和されてだが数学に対してすら、適用された。
 (数学は、マルクス主義に関する博識の高僧たちでも理解するふりをしなかったので、ソヴィエト同盟で、イデオロギー的な監視がほとんどなかった。その結果として標準は維持され、ソヴィエト数学は時代による破壊から救われた。)
 「理論と実践の統一」は、もちろん人文科学にも適用された。だが、少しばかりは異なる意味でだった。
 大まかに言って、自然科学は工業へと、人文科学は党の宣伝活動へと繋がれていた。
 歴史、哲学および文学史や芸術史は、「党と国家に奉仕する」ものだと、換言すれば党の主張を守り、そのときどきの決定に理論的な支援を提供するものだと、想定された。//
 (21)自然科学は直接の技術的有用性がある研究分野に限定すべきとの要求は重要な分野についてはきわめて強く、その結果としてすみやかに、自然科学は技術へと落ち込んだ。
 しかしながら、より致命的ですらあったのは、科学研究の現実的成果をマルクス主義的「適正さ(correctness)」の名前のもとにイデオロギー的に統制しようとする試みだった。
 「観念主義」の相対性理論は、1930年代には、哲学者たちやA. A. Maksimovが率いる未熟な物理学者たちからの砲火を浴びた。
 同じ時期にはTrofim D. Lysenko(ルィセンコ)が登場した。この人物の役割は、マルクス=レーニン主義に従ってソヴィエトの生物学を革命化し、Mendel やT. H. Morgan の「ブルジョア」理論を破壊することだった。
 農学者のLysenko は、様々の植物栽培技術を探求し、経歴の初期に、それらから普遍的なマルクス主義の遺伝学理論を発展させようと決意した。
 彼は、助手のI. I. Prezent とともに1935年の後に、現代遺伝学理論を攻撃し、遺伝による影響は環境を適切に変化させることによってほとんど完全に排除することができる、と主張した。遺伝子なるものは、遺伝子型と表現型(phenotype)の区別と同様に、ブルジョア的考案物だ。
 「遺伝は永続的な実体をもつ」ことを否定し、生きている有機体を環境の変化によって望むとおりにまで変化させることができる、という主張がマルクス=レーニン主義(「全てのものは変化する」)と合致する、と党指導者たちやスターリン自身が納得するのは困難なことではなかった。また、人間は、とりわけ「ソヴィエト人間」は、その心に思い浮かべたように自然を変化させることができる、とするイデオロギーにそれが見事に適合している、ということについても。
 Lysenko は急速に党の支持を獲得し、研究所、研究者そして諸雑誌等々に対する影響を大きくした。そして、我々が知るだろうように、彼の革命的理論は1948年に完全な勝利をかち得た。
 党の宣伝はおよそ1935年以降から絶えず彼の発見を褒め称え、その実験には科学的な価値がないと反対していた者たちは、まもなく沈黙へと追い込まれた。
 新しい理論を支持するのを拒んでいた優れた遺伝学者のNicholay I. Vavilov は、1940年に逮捕され、Kolyma の強制収容所で死んだ。
 予期され得たことだが、たいていのソヴィエト哲学者たちは、Lysenko の見解に喝采を送る一群に加わった。//
 (22)今日では、Lysenko は無学で、山師だったということを誰も疑っていない。また、彼の経歴は、科学や文化の点だけではなくて経済や行政の分野でもソヴィエトのシステムがいかに機能していたかを教示してくれるよい例だ、ということも。
 後年にはより明確になった自己破壊的な特質が、すでに見えていた。
 党が全ての生活領域で無制限の権限を行使し、システム全体が指令の一方方向の連鎖をもって階層的に組織されていたことからして、どの個人の経歴も、権力に対する従順さや追従や弾劾をする技巧の熟達ぶりに依存することになる。
  他方では、主導性、自分自身の心性、あるいは真実に対する最小限度の敬意すらを示すことは、致命的だ。
 当局者たちの主要な目標がその権力を維持し、増大させることにあるとき、科学(とくにイデオロギー的に統制されている場合)についても経済管理についても、間違った人々が頂上へと進むだろうことは不可避だ。
 非効率性と無駄は、ソヴィエト体制の中に組み込まれている特徴だ。
 政治および「保安」を理由とする不適切で全体的な情報流通の制限の増大によって、経済発展は妨害される。
 経済を合理化しようとする後年の試みはある程度は成功したが、それは全体主義原理から、あるいはスターリニズムの体制が完成にまで至らしめていた「統一」という理想から、離れたかぎりでのみのことだった。//
 (23)1930年代のソヴィエト文化のもう一つの特質は、ロシア民族主義の成長だった。
 これはのちに頂点に到達した現象でもあるが、スターリンの演説が社会主義が生むことができかつ生まなけれならない「強いロシア」に関する言葉を述べ始めた、1930年代の初めにはすでに感知することができた。
 愛国的主題は次第に宣伝活動で強調されはじめ、ソヴィエトの愛国主義とロシアのそれとが同時に大きくなった。
 ロシアの歴史の栄光が、民族的誇りや自助努力への訴えの中に再生された。
 ウズベク人(the Uzbeks)のような、以前はアラビア文字で彼らの言語を記していて、ソヴィエト当局によってラテン・アルファベツトを与えられた諸民族は、今や、キリル(Cyrillic)の形式を採用するように強いられた。その結果として、同じ世代の者たちが三種類のアルファベットを使うようになった。
 ソヴィエト同盟の中の非ロシア共和国で権力を行使する「民族の幹部たち(cadres)」という考え方は、すぐに作り話(fiction)であることが分かった。すなわち、理論的にではないが実際には、党や国家行政の最高部の職(posts)は、通常はモスクワが任命したロシア人によって占められた。
 国家権力のイデオロギーは、徐々にロシア帝国主義のそれと区別できないものになった。//
 (24)ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義は、きわめて早く、政策を決定する自立した要素ではなくなった。
 必然的に、その内容は内政または外交問題に関する特定の動向を正当化するために、曖昧で一般的なものにならなければならなかった。NEP(ネップ)または集団化、ヒトラーとの友好または彼との戦争、内部体制のあれこれの厳格化または緩和、等々。
 そして実際に、理論は「一方で」上部構造は土台の産物かつ道具だとし、「他方で」上部構造は土台に影響を与えるとするがゆえに、経済を規制する、あるいは文化を多かれ少なかれ統制する、全ての考えられ得る政府の政策は、マルクス主義と合致した。
 「一方で」個人は歴史を作らず、「他方で」歴史的必然性を理解する例外的な個人は歴史に重要な役割を果たすとのだとすれば(そしていずれの見方もマルクスやエンゲルスの引用によって支持され得るのだとすれば)、社会主義の専制者に聖なる栄誉を与えることも、その実践を「逸脱」だと非難することも、いずれも同等にマルクス主義に合致している。
 「一方で」全ての民族は自己決定の権利をもち、「他方で」世界社会主義革命の根本教条が至高の理念だとすれば、柔和であれ厳格であれ、帝国に住む非ロシア人民衆の民族的願望を挫折させる目的の政策は、疑いなくマルクス主義的だ。
 このようなことは実際、スターリンのマルクス主義の両義的な基礎であり、その曖昧で矛盾する様相は、「弁証法」原理に似たようなものだった。
 かかる観点からすると、公式のソヴィエト・マルクス主義の機能と内容はいずれも、スターリンの死後も同じままだった。
 マルクス主義は、たんにロシア帝国の現実政策(Realpolitik)を理論的に粉飾するにすぎないものになった。//
 (25)こうした変化の理由は、きわめて単純だった。つまり、ソヴィエト同盟はその定義上人間の進歩の基地であるがゆえに、ソヴィエトの利益に奉仕するものは何であれ進歩的であり、そうでないものは反動的なのだ。
 歴史上のその他の大国と同様に帝制ロシアは、その対抗国を弱体化させるために少数民族の民衆の願望を支援した。ソヴィエト同盟もまた、最初からそうした政策を追求した。しかし、異なる口実(guise)によってだった。
 「封建的な」民族長老(sheikh)やアジアの皇子ですら、スターリンによれば、帝国主義の前線を掘り崩すかぎりでは、「客観的に」進歩的な役割を果たした。
 これは完全に、世界革命に関するレーニンの理論と合致していた。レーニンの理論は、非社会主義者、非プロレタリアートおよびマルクス主義の用語では「反動的」勢力のですら、それらの参加を是認し、また要求しすらするものだった。
 弁証法の見地からは、世界の別の大国の利益に敵対的であるならば、反動的な者たちの活動はただちに進歩的なものになる。
 同じく、ソヴィエト同盟はその定義上世界的解放運動の中心者なので、1917年以降は、つぎのことは自明のことになった。すなわち、外国の領域の一部への武装侵入(incursion)やその占領は全て、侵略(invasion)ではなく、解放する行為だ。
 こうしてマルクス主義は、帝国主義者がもつ道具として、帝制ロシアが異民族を支配するのを正当化しようとした不器用でかつ滑稽ですらある基本的考え方よりもはるかに有用な論拠の目録を、ソヴィエト国家に提供した。//
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 ③終わり。かつ、第2節も終わり。第3節の表題は「コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー的変容」。 
 

1886/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.94-p.101、2004年合冊版p.863-p.868。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)②。
 (7)<小教程>は、レーニン・スターリン崇拝と結びついたボルシェヴィキの神話の全てのパターンを確立したのみならず、儀式や式典の詳細をも定めた。
 これが発行されたときから、この書物が扱う主題のどの部分にではあれ接触する作家、歴史家および宣伝家たちは、経典化した全ての定式に従い、全ての重要な語句を反復するように強いられた。
 <小教程>は、歴史を捏造した書物であるのみならず、一つの強力な社会的装置だった。-マインド・コントロールをするための党の最も重要な手段、批判的思考および自分たちの過去に関する社会的記憶のいずれをも破壊する道具、の一つだった。//
 (8)この書物は、こうした観点からは、スターリンが生んだ全体主義国家のまさに一部だ。
 システムを完成させて市民社会を無きものにするためには、国家が統制しないで何らかの脅威を形成する可能性のある、生活の全形態を根絶する必要があった。
 また、自立した思考と記憶を破壊するための道具を考案する必要もあった。-きわめて困難だが、重要な課題だった。
 全体主義的システムは、恒常的に歴史を書き換えることなくして、そして過去の事件、人々や思想を排除してそれらの代わりに偽りのもので補填することなくしては、生き延びていくことができない。
 ソヴィエト・イデオロギーの趣旨からすると、粛清の犠牲となった特定の指導者がかつては党に対する本当の奉仕者だったがのちに栄誉を失った、と述べることはおよそ考えられない。最終的に裏切り者だと宣告された者は全て、最初から裏切り者でなければならなかった。
 裏切り者との烙印を捺されることなくたんに殺戮された者たちは名無し人(unpersons)となり、二度と彼らについて語られることはなかった。
 ソヴィエトの読者たちは、まだ販売されているが編集者や翻訳者の氏名が注意深く抹消された多数の版この書物を見るのに慣れてしまった。
 しかしながら、かりに執筆者自身が裏切り者であれば、この書物は完全に流通しなくなって消失し、数部だけが図書館の「禁書」部分に残されただろう。
 この書物の内容が申し分なくスターリニストのそれだったとかりにしてすら、同じだった。すなわち、全ての呪術思考でのように、いかなる態様であっても邪悪な精神と結びついている対象は永遠に堕落したままなのであり、記憶から除去され、抹殺されなければならなかった。
 ソヴィエト国民は、式典による呪詛に包含するために、<小教程>が言及している数少ない裏切り者の存在を思い出すことが許された。しかし、悪魔の仲間の残り者たちは忘れ去られることが想定されており、かつどの国民も、あえて彼らの名前を語ろうとはしなかった。
 古い新聞や雑誌は、裏切り者の写真や彼らが書いた論文が掲載されていると分かると、一夜にして不浄なものになった。
 過去だけが継続的に修正されたのではなく、-スターリニズムの重要な特質だが-一方ではそのことおよび修正がなされる全く単純な方法に気づいており、他方ではそれに関しては悲惨な処罰を受けるので何も語らない、のいずれもが、国民の全てについて想定されていた。
 ソヴィエト同盟には、この種の偽りの秘密(pseudo-secret)が他にも多数存在した。すなわち、国民大衆はそれに関して知っても決して言及しようとはしない諸事項が。
 労働強制収容所については、新聞では決して言及されなかった。しかし、市民が収容所に関して知っておかなければならないのは、不文の法だった。そのような事物を何とかしてでも秘密にし続けることはできない、という理由のみによるのではない。すなわち、そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつも、ソヴィエトの生活にある一定の事実に気づいていることを、政府は人々に望んでいる、という理由によってだ。
 システムの目的は、人々に二重(dual)の意識を作り出すことだった。
公衆の会合で、あるいは私的な会話ですら、市民たちは、儀礼的な様式で自分たち自身、世界およびソヴィエト同盟に関する醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ、同時に、十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた。テロルに遭っているからのみではなく、市民たちが党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって-ウソだと知りながら-そのウソについて党と国家の共犯者運動の共犯者になったからだ。
 体制側の意図は、提示される馬鹿々々しさを文字どおりに信じるべきだ、というのではなかった。そうしたり現実を完全に忘れるにはきわめて繊細(naïve)な問題であれば、彼らの良心と<向かい合う>愚かな状態になり、共産主義イデオロギーをを本来的に妥当なものと受け入れる傾向になるだろう。
  しかしながら、完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になるだろう。
 (スターリンは、レーニンのように、彼自身はマルクス主義に何も「付け加えて」おらず、ただ発展させただけだ、と注意深く強調した。)
 党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する。一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている。
 市民はかくして、「信じることなくして信じる」ことをしなければならなかった。そして、党が党員たちの中に、また可能なかぎりで全民衆の中に、作り出して維持しようとしているのは、まさにこのような心理(mind)の状態だった。
 生活必需品を欠く半ば飢えている人々は、集会に参加し、いかに富裕であるかについて政府のウソを繰り返して言った。そして考え難いことに、その人々は自分たちが言っていることを半分は信じていた。
 彼らはみな、何と言うのが「正しい」のか、つまり何と言うことが彼らに要求されているかを知っていた。そして、奇妙なことだが、彼らは真実と「正しさ」とを混同していた。
 真実は党が問題にすることだ、と彼らは知ってた。そのゆえに、ウソが経験上の単純な事実と矛盾しているとしても、ウソが真実になった。
 このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった。//
 (9)<小教程>は、虚偽の歴史と二重思考の完全な手引き書だった。
 それがもつ虚偽と隠蔽はあまりに明白すぎて、問題のある事象を目撃していた読者たちが看過したほどのものだった。最も若い党員たち以外の全てが、トロツキーとは誰か、ロシアの集団化はいかにして生じたかを知っていた。しかし、彼らは、公式の見解をオウムのごとく繰り返すことを余儀なくされて、新しい過去の共作者になり、党が作った真実の信奉者になった。
 かりに誰かが明白な経験的事実にもとづいてこの真実を攻撃したとすれば、忠誠者たちの憤激は完璧に嘘偽りのないものだった。
 スターリニズムはこうして、実際に「新しいソヴィエト人間」を生み出した。
 すなわち、イデオロギー上の統合失調症患者、自分が言ったことを信じるウソつき、知的な自傷行為を絶えずかつ自発的に行うことのできる人間。//
 (10)すでに述べたように、<小教程>は弁証法的および歴史的唯物論の新しい提示を含んでいた。-全世代の者にとっての、完全なマルクス主義教理書。
 スターリンのこの作業は、例えばブハーリンの手引き書にも見られ得る簡潔なマルクス主義の説明に、何かを付け加えるものでは実際にはなかった。しかし、全てに番号を振り、体系的に説明する、という長所があった。その書物の他部分と同じく、マルクス主義の提示(exposé)は説教をする目的をもち、理解し記憶するのが容易だった。//
 (11)弁証法的唯物論、マルクス主義哲学は二つの要素、すなわち世界の唯物論的見方および弁証法的方法、から成る、から文節は始まる。
 後者は四つの原理的特質をもつ法則に区別される。
 第一に、全ての現象は相互に連関し合っており、全世界は全体として考究されなければならない。
 第二に、自然にある全ての事物は変化、運動および発展の状態にある。
 第三に、現実の全ての分野で、変化は量的蓄積から生じる。
 第四に、「統合と反対物の闘い」の法則は、全ての自然現象は内部矛盾を具現化したもので、発展の「内容」はその諸矛盾の対立だ、というものだ。
 全ての現象に積極的および消極的側面が、過去と未来があり、闘いは新しいものと古いものとの対立の形態をとる。//
 (12)気づかれるだろうが、この説明は、レーニンが<哲学草稿>で述べたような、エンゲルスの「否定の否定」を含んでいない。
 これを省略している理由は、説明されていない。しかし、いずれにせよ、弁証法はこののちは四つの法則から構成されるのであり、それ以上からではない。
 弁証法の反対物は「形而上学」だ。
 形而上学者はブルジョア哲学者や学者で、当該の諸法則のうちの一つかそれ以上を否定する。そうして彼らは、現象を分離して、つまり相互関係においてではなく、判断することを要求し、何ものも発展しないと主張する。彼らは、質的な変化が量的変化から生じることを理解せず、内部矛盾という考え方を拒否する。//
 (13)自然の唯物論的解釈は、三つの原理を含む。
 第一に、世界はその性質上物質的で、全ての現象は動いている事物の形態だ。
 第二に、事物または存在は我々の精神(mind)の外側に自立して存在する「客観的な現実」だ。
 第三に、世界の全てのものは、知り得る(=可知、knowable)。//
 (14)歴史的唯物論は、弁証法的唯物論の論理的帰結だとして提示される。これを支える見解は、エンゲルス、プレハノフおよびブハーリンのいくつかの叙述に見出すことができる。
 「物質的世界が一次的で、精神は二次的なものである」ため、「社会の物質的生活」、つまり生産と生産諸関係も一次的で、「客観的な現実」だ。一方、社会の精神的(spritual)生活はそれの二次的「反射」だ。
 こうした推論の論理的根拠は、説明されていない。
 スターリンはその際にマルクスの諸定式を引用する。土台と上部構造、階級と階級闘争、イデオロギー(および上部構造の他の全諸形態)の生産諸関係への依存性、社会的変化の理由を地勢や人口動態に求めることの誤り、歴史は一次的には技術発展に依存すること、に関するマルクスの諸定式だ。
 そして、五つの主要な社会経済体制に関する説明がつづく。すなわち、原始共産制、奴隷所有制、封建制、資本主義、社会主義。
 これらが次々と発生する順序は歴史的に不可避のものだ、と叙述される。
 マルクスの言う「アジア的生産様式」に関しては、何も語られていない。
 考えられるその理由は、別の箇所で論述した(第一巻第一四章、pp.350-1)。//
 (15)社会の五つの類型の列挙とその世界各国への適用は、ソヴィエトの歴史研究者に大きな問題を与えた。
 そのような現象をかつて聞いたことがない人々にとって、奴隷社会や封建社会の存在を識別するのは容易なことではなかった。
 さらに、資本主義がブルジョア革命によって生まれ、社会主義は社会主義革命によって生まれたので、従前の移行も同様の方法で発生した、と想定するのは当然だった。
 スターリンは実際、封建制は奴隷所有制から奴隷革命(slave revolution)の結果として出現した、と書いた(または「証明した」。ソヴィエト哲学では、マルクス=レーニン主義の古典に関係する場合にはこれらの二つの言葉は同じことを意味した)。
 スターリンは、実際に1933年2月19日の演説で、同じ点を指摘した。すなわち、奴隷所有制は奴隷革命によって打倒された。その結果として、封建領主たちがかつての搾取者の地位を奪った。
 これは歴史研究者たちに、奴隷所有制から封建制への移行の全ての場合について「奴隷革命」の存在を識別しなければならないという問題を追加した。//
 (16)スターリンの作業はイデオロギストたちの、マルクス主義理論の至高の達成物で哲学史を画するものだ、との大合唱によって歓迎された。
 つづく15年間、ソヴィエト哲学は、この至高の功績の主題に関してはほとんど全く変わりがなかった。
 全ての哲学の論考や参考書は、義務のごとく弁証法の四つの「標識」と唯物論の三つの原理を列挙した。
 哲学者たちには、異なる現象は相互に関連していること(スターリンの第一法則)、あるいは事物は変化すること(第二法則)等々を示す例を見つける(各法則を証明する)こと以外にすることがなくなった。
 こうして、哲学は、最高指導者に対して絶えざる阿諛追従をする媒体の地位へと身を落とした。
誰もが、精確に同じ文体で執筆した。彼らの仕事の形式や内容でもって誰がしているかを区別することはできなかった。
 自立して思考しようとする試みはなく、眠気が生じる決まり文句が際限なく繰り返された。自立した思考は、いかに臆病で媚びたものであっても、その著者を直接的な攻撃の対象にさせただろう。
 哲学に関して自分自身の何かを語ることは、スターリンは重要な何かを省略したと追及していることをすでに意味しただろう。
 自分の様式で執筆することは、スターリンよりもうまく何かを表現することができると示唆することであって、危険な図々しさを示すことだった。
 こうして、ソヴィエトの哲学上の文献は、<小教程>第四章第二節の内容を薄めて再生産する無駄紙の山で成り立つようになった。
これと比較すれば、「弁証法論者」と「機械主義者」のかつての論争は、大胆かつ生産的な、そして自立した思考の一つの例だった。
 哲学史は、ほとんど忘れられた科目になった。
 1930年代には、哲学の古典の翻訳書がなおいくつか出版されていた。しかし、それらの著者は良くも悪くも「唯物論者」だと区分けされるものか、宗教に反対する者だった。ソヴィエトの読者はときにはHolbach やVoltaire の反聖職者本を、あるいは幸運であれば、Bacon やSpinozaの何かを、見たかもしれなかった。
 ヘーゲルの書物も、彼は「弁証法」的執筆者の聖人の一人だったので、まだ出版されていた。
 しかし、およそ40年の間、他の危険な観念論者は言わずもがな、プラトン(Plato)が読まれる機会は存在しなかった。
 職業的哲学者たちは、「マルクス=レーニン主義の古典」、すなわちマルクス、エンゲルス、レーニンそしてスターリンのみを引用した。もちろん、全員が揃って言及されるときにはこの年代的な順序が守られたが、引用の頻度の点でいうと、順序はまさに正反対だった。//
 (17)<小教程>の刊行が生んだイデオロギー状況は、最終的な完璧さの一つだった、と見えるかもしれなかった。
 しかし、戦後には、いっそうの改良がさらになされることになった。//
 (18)スターリンによって成文化されたマルクス主義は何らかの基本的な点でレーニン主義とは異なる、と考えてはならない。
 そのマルクス主義は単調な、初歩的な範型であって、新しい何かをほとんど含んでいなかった。
 1950年以前のスターリンの著作のいくつかに見出し得る独自的なものは、じつに、二つの例外を除いて、ほとんど何もない。。
 第一に、我々が輸入元をすでに考察した、社会主義は一国で建設することができる、ということ。
 第二に、階級闘争は社会主義の建設が前進するにつれて激しくならなければならない、ということ。
 この原理的考え方は、スターリンがソヴィエト同盟にはもはや敵対階級は存在しないと宣言した後でも、公式には有効なままだった。-もはや階級はない、だが階級闘争はかつて以上に深刻になっている。
 1933年1月12日の中央委員会幹部会でスターリンが始めて発表したもののように思われる第三の原理的考え方は、共産主義のもとで国家が「消滅する」前に、弁証法的理由によって国家はようやく最大限の力強さの頂点へと発展するにちがいない、というものだった。
 しかし、この考え方は、トロツキーが内戦の間にすでに定式化していた。
 いずれにせよ、第二および第三は、警察テロルのシステムを正当化すること以外には、意味をもたなかった。//
 (19)しかしながら、つぎのことを再び強調しておかなければならない。すなわち、スターリンのイデオロギーに関して重要なのはその内容ではなく-聖典的な形態で表明されたとしてすら-、イデオロギー上の問題について異論を挟むことのできないと誰もが判断する、至高の権威をもった、という事実だ。
 イデオロギーは、かくして、完全に制度となり、事実上は全ての知的生活がそれに従属した。
 「理論と実践の統一」は、教理、政治および警察の権威のスターリン個人への集中によって表現された。//
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 ③へとつづく。

1884/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.91-p.94、2004年合冊版p.860-p.863。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)①。
 (1)ソヴィエト同盟の文化諸分野は1930年代に厳しく統制され、自立した知的生活は、実際上は存在しなくなった。
 純文学(Belles-lettres)は徐々にだが効果的に、体制と指導者を称賛して「階級敵」の仮面を剥ぐことを唯一の目的とする、政治と虚偽宣伝の付属物になっていった。
 スターリンは1932年にGorky の家で作家グループと話しているとき、著作者たちは一般に「人間の精神(souls)に関する技術者」だと述べた。そして当然に、この追従的な言葉遣いは、公式の決まり文句になった。
 映画や演劇も、同じように見なされた。後者の方が被害は少なかったけれども。
 伝統的な戯曲の演目は、たいていは古典的ロシア劇作家である作者が「進歩的」であるか「部分的に進歩的」であると表現できる場合にのみ、上演することが許された。この中には、Gogol、Ostrovsky、Saltykov-Shchedrin、TolstoyおよびChekhov が含まれていた。そして、最悪の年代にすら、優れた上演作品はロシアの舞台で観ることができた。
 小説家、詩人および映画監督たちは、Byzantine で、スターリンの称賛を互いに競い合った。これが頂点に達したのは戦後だったが、いま我々が考察している時代にすでに高い程度に至っていた。//
 (2)しかしながら、抑圧と統制は、異なる程度で異なる知的分野に影響を与えた。
 1930年代には、科学の一定の分野で、とくに理論物理学と遺伝学で、マルクス主義を志向する大きな趨勢があった。しかし、1940年代遅くまでには頂点に達しなかった。
 しかしながら、とくにイデオロギーの観点からは微妙(sensitive)な他の分野、すなわち哲学、社会理論および歴史-とりわけ党の歴史と近現代一般の歴史-のような分野は、1930年代にたんに拘束着を身につけさせられた(straight-jacketed)ばかりではなく、スターリンの用語法で完全に成文化(codify)された。//
 (3)ソヴィエトの歴史編纂が屈服した重要な段階は、スターリンが1931年に雑誌<プロレタリア革命>に寄せた書簡によって画された。その手紙は、編集部による適切な自己批判とともに掲載されていた。
 スターリンの書簡は、1914年以前のボルシェヴィキとドイツ社会民主党の関係に関するSlutsky の論考を掲載したとして編集部を叱責した。その論考は、第二インターナショナルでの「中央主義」と日和見主義の危険性を正しく評価することができなかったとして、レーニンを批判していた。
 スターリンはまず、レーニンは何かを「正しく評価することのできなかった」、つまりレーニンはかつて謬りを冒したと示唆する「赤いリベラリズム」だと雑誌を厳しく咎めた。そのあとで彼は、のちに経典的文章となった第二インターナショナルの完全な歴史を概述した。
 スターリンの主要な関心は、非ボルシェヴィキの左翼とトロツキーにあった。
 スターリンによれば、社会主義的左翼は日和見主義との闘いである程度の貢献はしたが、重大な過ちも冒した。
 Rosa Luxenburg とParvus は、例えば党規約に関する党の論争でしばしばメンシェヴィキの側に立った。そして1905年には、「永続革命という準メンシェヴィキ的図式」を案出した。その図式はのちにトロツキーが採用し、その致命的な誤りはプロレタリアートと農民間の同盟という考えを拒否したことだった。
 トロツキー主義について言えば、それは共産主義運動の一部ではとっくになくなっており、「反革命的ブルジョアジーの先鋭的特殊部隊」になっていた。
 戦争前のレーニンはブルジョア民主主義革命が社会主義革命へと不可避的に発展することを理解していなかった、レーニンはのちにトロツキーからその考え方を拾い上げた、というのは、奇怪なウソだ。
 スターリンの書簡(英語版全集第13巻、1955年、pp.86ff.)は、ソヴィエトの歴史編纂の仕方を最終的に決定した。すなわち、レーニンはつねに正しかった(right)。ボルシェヴィキ党は、敵が組織内にしのび込んで組織を正しい道から逸らそうとして失敗したときでも、つねに無謬だった。
 社会主義運動での全ての非ボルシェヴィキの集団は、つねに裏切りの温床であり、せいぜいのところ有害な過ちの培養地だった。//
 (4)こうした判断はRosa Luxenburg の歴史的評価を封印し、決定的にトロツキーに関する処理をつけた。
 しかしながらさらに、歴史、哲学および社会科学の全ての諸問題が、最終的に解決済みのものとされた。
 これを行ったのは、匿名の委員会が編集した1938年の<ソヴィエト同盟共産党の歴史・小教程(Short Cource)>だった。スターリンは当時、党の世界観に関して是認される範型を叙述する、「弁証法的かつ歴史的唯物論」という名高い部分(第4章)だけの執筆者だと考えられた。
 しかしながら、戦後には、この書物全部がスターリンによるものだったとされ、彼の全集の一部として再発行された。そして、その死後も途切れることがなかった。
 スターリンの特徴的な文体はいくつかの場所で明確だった。とくに、多様な反抗者や偏向主義者を「白衛軍のまぬけ」、「ファシストの完璧な子分」等々と称するところで。//
 (5)<小教程>の特質は、出版史の世界での際立つ記録だ。
 ソヴィエト同盟で数百万冊が発行され、15年のあいだ、全市民を完全に拘束するイデオロギーの手引き書として用いられた。
 版の多さは、疑いなく、西側諸国では聖書のそれだけが比べものになっただろう。
 止むことなく、あらゆる場所で発行され、教えられた。
 中学校の上級クラス、高等教育の全ての課程、党での研修等々、<小教程>は何かが教育される全てのところで、ソヴィエト市民の主要な知的滋養源(pabulum)だつた。
 識字能力のある全ての者にとって、これを知らないままでいることは異様な曲芸であっただろう。
 ほとんどの者が何度も読み返すことを義務づけられ、党の宣伝者や講師たちはほとんどこれを暗記していた。//
 (6)<小教程>は、もう一つの点でも世界記録を打ち立てた。
 歴史の体裁をとる書物の中で、これだけ多くの虚偽と隠蔽(lies and suppressions)を含むものは、おそらく存在しない。
 書名が示すように、この本は最初からボルシェヴィキ党の歴史だと謳う。だが第4章も、読者を世界史の一般的諸問題へと誘引し、読者にマルクス主義哲学と社会理論の「正しい」見方を解説する。
 諸教訓(morals)が歴史的事象からあっさりと抽出され、それらがボルシェヴィキ党と世界共産主義運動の諸行動の基礎を形成したものだと提示される。
 歴史の結論は、単純だ。すなわち、レーニンおよびスターリンの素晴らしい指導のもとで、ボルシェヴィキ党は、十月革命の成功という栄冠に輝く、誤りのない政策を最初から確固として追求してきた。
 レーニンはつねに歴史の先頭にいると描かれる。そして、すぐ後に、スターリンがつづく。
 幸福にも大粛清の前に死亡した第二または第三ランクの少数の者たちは、物語の適当な箇所で簡単に言及される。
 レーニンが党を創立するのを実際には助けた指導者たちは、全く言及されないか、または札付きの裏切り者もしくは党に入り込んで妨害と陰謀とをその経歴とする破壊者だと叙述される。
 一方で、スターリンは、最初から過ちなき指導者であり、レーニンの最良の生徒であり、レーニンが最も信頼した協力者であり、最も親密な友人だった。
 レーニン自身については、彼はまだ若い間に人間性を発展させる計画を抱いており、彼の人生の一連の全ての行為はその計画を実現するための考え抜いた歩みだった、と読者が理解するように記述される。//
 ----
 ②へとつづく。

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