秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

レーニン

1781/スターリン・権力へ③-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.18~p.21。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇③。
  新しい職〔総書記〕は党の階層の個人的な最高位ではなかったし、そのような職は実際に存在しなかった。
 総書記の職務は党官僚たちの当面の仕事を監督する、官僚機構内での調整を図る、上位者たちを任命する、等々だった。
 洞察すれば、つぎのことを明確に理解することができる。すなわち、全ての他の形態の政治生活が破壊され、党が国家にある唯一の組織された力あるものになれば、その党機構の職責にある個人は、全能になるにちがいない。
 これは、現実に生じたことだ。しかし、この当時は、誰も感知しなかった。
 ソヴィエト国家は歴史上に先例のないものだった。政治の舞台上の演者は、その劇の結末を予見していなかった。
 総書記としてのスターリンは、地方の党の職および最上位を除く中央の職についてすら、自分の味方をそれらの多数派になるよう送り込むことができた。そして、会議や会合を組織する仕事を通じて、その力は高まった。
 もちろん、それはゆっくりとした過程ではあった。
 最初の数年間にはまだ、党内部での論争、対抗集団の形成、異なる基本政策の主張が見られた。
 しかし、時が経つにつれて、それらの頻度は少なくなり、きわめて上位の階層内に限られるようになった。//
 述べてきたように、レーニンが生きている間に党内に反対集団があり、それは専制的で官僚的な統治方法の増大に対して、ある程度の共産党員が不満をもっていることを反映していた。
 最もよく知られる代表者はアレクサンダー・シュリャプニコフ(Alexsandr Shlyapnikov)とアレクサンドラ・コロンタイ(Alexsandra Kollontay)である「労働者反対派(Workers' Opposition)」は、字義どおりの「プロレタリア-トの独裁」、言い換えると、権力は党によってのみならず労働者階級全体によって実際に行使されるべきだということ、を信じた。
 彼らは決して国家民主政への回帰を擁護したのではなく、たわいもなくつぎのように空想した。ソヴィエト体制は、大多数、とくに農民と知識人、に関するかぎりで民主主義的生活様式を廃止したあとで、特権をもつ少数派、つまりプロレタリア-トのそれ(民主主義的生活様式)を維持することができる。
 別の反対派集団は、党の外部ではなく、党内部での民主主義を復活させることを望んだ。官僚機構の力の増大、全ての職の任命システム、および党内議論の減少や空虚な儀式のための選挙に異議を申し立てたのだ。//
 このような夢想家(Utopian)的批判は、ある程度はスターリン死後の共産主義体制の中で感じることとなる「危機的な」傾向を予期させた。すなわち、党の外部にではなく内部に民主主義が覆うべきだとの主張。あるいは、権力は全プロレタリア-トまたは労働者評議会によって、もちろん社会のそれ以外の者たちによってではなく、行使されるべきだとの主張。
 しかしながら、こうした考え方とは別に、初めの数年間に新しい範型の共産主義が出現した。それは、ある意味では、アジア的農民の必要と利益を反映する毛沢東主義(Maoism)の先行型だった。
 この傾向を作りだしたのは、民族的にはバシュキール(Bashkir)、職業は教師の、ミール-サイト・スルタン-ガリエフ(Mir Sayit Sultan-Galiyev)だった。
 この人物は十月革命のすぐ後にボルシェヴィキになっており、ソヴィエト同盟のムスリム(Muslim、イスラム教)圏域内からの数少ない知識人の一人だった。そして早々に、中央アジア民衆に関する専門家だと認められた。
 しかしながら彼は、ソヴェト体制はイスラムの民衆のいかなる問題も解決せず、彼らを別の形態の抑圧に従属させるだけだ、と考えた。
ロシアで独裁的権力を握った都市プロレタリア-トはブルジョアジーに劣らずヨーロッパ人で、やはりムスリム民衆には異邦人だ。
 時代の根本的な対立は発展諸国のプロレタリア-トとブルジョアジーの間にではなく、植民地または半植民地の民衆と産業化した世界全体の間にある。
 ロシアでのソヴィエト権力はこれら民衆を解放するために何もできないばかりか、恒常的な抑圧をし始め、赤旗のもとで帝国主義政策を追求するだろう。
 植民地民衆は、全体としてのヨーロッパの覇権に反対して結束し、自分たちの党とボルシェヴィキのそれから自立したインターナショナルを創設し、そして、ロシア共産主義に対するのと同様に西側の植民地主義者と闘わなければならない。
 彼らはイスラム教の伝統に反植民地イデオロギーを結びつけ、一党システム、および軍事力に支えられた国家組織を創出しなければならない。
 スルタン-ガリエフは、このような基本綱領にもとづいて、ロシアの党とは別にムスリムの党を結成し、そして独立のタタール=バスク国家を設立しようすらした。
  彼のこの運動は、レーニンのイデオロギー、ボルシェヴィキ党およびソヴィエト国家の利益と対立するものだとして、すみやかに抑圧された。
スルタン-ガリエフは1923年に党から除名され、外国の諜報機関の工作員だとして投獄された。これはおそらく、このような理由で責任追及がなされた最初の事例だろう。これはのちにはこのような場合の日常仕事になり、卓越した党員に対して一様になされていった。
 彼は、のちの大粛清(the great purge)の時代の間に処刑された。そして、その考え方は忘れ去られた。
 1923年6月の演説でスターリンは、スルタン-ガリエフは汎イスラムや汎トルコ的考えを理由としてではなく、トゥルキスタン(Turkestan)のバスマチ(Basmach)とともに党への反抗を企てたことを理由として逮捕された、と語った。
 このエピソードは、スルタン-ガリエフの考えとのちの毛沢東の教理または「毛主義的社会主義」範型との間の驚くべき類似性を説明するために記憶しておく価値がある。//
 党またはプロレタリア-トのために民主主義を擁護する反対派集団に関して言うと、これらは急速にかつ一斉に、レーニン、トロツキー、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフを含む党指導者によって粉砕された。
 1921年の党第11回大会は、分派集団形成を禁止すること、それへの加入党員を除名する権限を中央委員会がもつことを宣言した。 
 党の一体性の擁護者が指摘したように、つぎのことはじつに明瞭だった。すなわち、一党制のもとでの党内部の別々の諸集団は、必然的にかつてそれぞれの党派を形成していた全ての社会諸勢力の代弁者になる。ゆえに、かりに「分派(fractions)」が許容されるならば、事実上は多党制になるだろう。
 避けがたい結論は、専制的に支配している党それ自体が専制的に支配されなければならない、ということだ。そして、社会一般の民主主義的諸制度を破壊しておいて、党内部でそれを持ち続けようと考えるのは愚かだ、ということだ。労働者階級全体の利益については尚更だ。//
 にもかかわらず、官僚機構の手中にある受動的な装置へと党が変わっていく過程は、国家の内部で民主主義諸制度が破壊されていくよりも、長くつづいた。そして、1920年代の遅くまではまだ完了していなかった。
 1922-23年には党内での専制(tyranny)の増大に抵抗する強い潮流があった。そして、誰も、それを抑圧するのにスターリンほど長けているとは思っていなかった。
 病気で衰えていたレーニンに伝わる情報を首尾よく統御し、スターリンは、ジノヴィエフとカーメネフの助けを借りて、かつ権力からトロツキーを系統的に排除して、党を支配した。
 トロツキーは、その弁舌の才能と内戦勝利の立役者としての栄光にもかかわらず、早い段階で地位を失った。
 もしすればソヴェト権力の原理と矛盾していたのだろうが、彼は党の外部で見解を発表しようとは敢えてしなかった。このことが、政治生活の唯一の活動源だった党の官僚機構をトロツキーに反対するように動員することを容易にした。
 トロツキーは最後の段階でボルシェヴィキ党に加入し、古い党員たちから信用されていなかった。また、過度の修辞や横柄で傲慢な挙措も嫌われていた。
 スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフは巧みに、あらゆるトロツキーの欠点を衝いた。メンシェヴィキだったという過去、労働者の軍事化(スターリンならば決してこのような専制的言葉遣いをしなかった政策)への渇望、ネップに対する批判、レーニンとの古い論争、およびレーニンはかつて自分を捏造で陥れたとの責任追及。
 トロツキーは、軍事部人民委員および党政治局員として、まだ力があるように思われた。
 しかし、1923年までに彼は、孤立し、無援になっていた。
 彼の昔の心変わりの全てが、自分に向けられてきた。
 自分が置かれている状況に気づくに至ったとき、党の官僚機構化と党内民主主義の抑圧を攻撃した。
 引き降ろされた共産党指導者の全てに似て、トロツキーは権力から排除されるや否や民主主義者(democrat)になった。
 しかしながら、スターリンとジノヴィエフがつぎのように主張するのは、容易なことだった。
 トロツキーの民主主義感情と党官僚制に対する非難は最近のことだ。そればかりか、彼自身が権力をもっていたときは、他の誰よりも極端に専制的だった。さらには、党の「一体性」を守るのを支持してその動きを始めたのだ。-レーニンの政策とは逆に-労働組合を国家の統制のもとに置き、経済全体を警察の強制力に従属させることを望んだ。等々。
 後年になってトロツキーは、かつて支持した「分派」禁止の政策は永久の原理ではなくて例外的な手段と考えてのものだった、と主張した。
 しかし、そうだったとする証拠はない。また、その政策自体に、一時的なものだったと示唆するものは何もない。 
 つぎのことは、記しておいてよいかもしれない。すなわち、ジノヴィエフは、トロツキーを非難することではスターリン以上に激しい熱情を示した-彼を拘禁することに賛成した一つの段階-ということであり、およびそれによって、排除された二人の指導者が遅れて見込みなく、勝利した政敵に対して力をかき集めようとしたときに、スターリンに有用な防御手段を提供した、ということだ。
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 第3節、終わり。第4節「一国社会主義」へとつづく。

1780/スターリン・権力へ②-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.14~p.18。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇②。
 この時期にスターリンは民族問題に関する専門家として、自己決定は「弁証法的に」理解されなければならない(換言すると、それ以外ではなく党のスローガンに適応したものとして用いられなければならない)という旨を演説した。
 1918年初頭のソヴェトの第三回大会で彼は、適正に言えば自己決定とは「大衆」のためのもので「ブルジョアジー」のためのものではない、それは社会主義を目ざす闘いに従属しなければならない、と説明した。
 その年に公表した論文では、ポーランドとバルト諸国の分離は、これらの国々は革命ロシアと革命的西欧との間の障壁を形成するだろうから、反革命の動きであって帝国主義者の手中に嵌まる、と強調した。
 他方で、エジプト、モロッコまたはインドの独立を目ざす闘争は、帝国主義を弱体化することを意図しているので進歩的な現象だ、と。
 これら全ては完全に、レーニンの教理および党のイデオロギーと合致していた。
 分離主義運動は、ブルジョア政権に対して向かっていれば進歩的だ。しかし、ひとたび「プロレタリア-ト」が権力を手中にすれば、民族的な(national)分離主義は自動的にかつ弁証法的に、そのもつ意味を変化させる。それはプロレタリア国家、社会主義、そして世界革命に対する脅威なのだから。
 その定義からして社会主義は、民族的抑圧を行うはずがない。そうして、侵攻だと見えるものは、実際には解放のための行為なのだ。-例えば、スターリンの命令によって赤軍がジョージアの中へと進軍したときのように。ジョージアにはその当時(1921年)、代表制民主政体にもとづくメンシェヴィキ政府が存在していたのだが。
 こうしたことにもかかわらず、決して取り消されなかった民族自決権(自己決定権)というスローガンは、内戦でのボルシェヴィキの勝利に大きく貢献した。白軍の司令官たちは包み隠さず、自分たちの目的について、革命前の領土を少しも失うことなく一つで不可分のロシアを復活させることだ、と述べていたのだ。//
 スターリンがしたことはトロツキーのそれで覆い隠されているけれども、彼は内戦で重要な役割を果たした。
 この二人が対立する起源は、疑いなくこの時期にさかのぼる。この時期に、個人的な嫉妬と非難のし合い-誰が最もツァリツィン(Tsaritsyn)での勝利に貢献したのか、ワルシャワの前の敗北は誰の過ちによるのか、等々-があった。//
 スターリンは1919年に、労農監察部(the Workers' & the Peasants' Inspectorate)の人民委員になった。
 すでに述べたように、官僚制の侵入からソヴェト体制を守ろうとするレーニンの絶望的で見込みなき企てを、この組織は代表した。
 「純粋な」労働者と農民から成る監察部は、国家行政の他部門全てに対して監督する無制限の権限をもった。
 状況を改善するどころか、事態をさらに悪くした。この監察部には民主主義的な仕組みが欠けていたので、これはたんに大官僚組織に一列を付け加えたにすぎなかった。
 しかしながらスターリンは、これを利用して諸組織に対する自分の力を強化した。そして疑いなく、人民委員の地位にあったことは、彼が最高権力者へと昇りつめるのを助けることになった。//
 この段階で、独自性はなくとも重要な考察をしておくべきだろう。
 のちに党の歴史全体がスターリンの命令によって彼自身を称揚するために書き直されたとき、彼は若いときからレーニンの「副司令官」だったと叙述された。あるいはむしろ、自分をそう示そうとした。
 全ての活動分野で、スターリンは指導者、第一の組織者、同志の鼓舞者、等々だった。
 (党の質問で、彼は革命活動を行ったことが理由で放校になったと主張した。しかし、疑いなく彼はそこにいた間の禁じられた主題を議論してしまった。実際には、試験に出席することができなかったために追放された。)
 この狂熱的な考え方によると、彼はレーニンの最も親密な腹心で、党が創立されたまさにその瞬間からの助手だった。彼の輝かしい指導のもとで、コーカサスの幼なかった社会主義運動は成長した。そしてのちには、全党が疑問の余地なくスターリンをレーニンの正当で自然な後継者だと考えた、等々。
 彼は、革命のための頭脳、内戦の勝利の設計者、ソヴィエト国家の組織者だった。
 ベリア(Beriya)が創作した偉人伝では、1912年はロシアの党史上の、ゆえにまた人類史上の転換点として選び出された。スターリンが中央委員会委員になったのはまさにその年だったのだから。//
 他方で、トロツキーやスターリンを厭う理由をもつ他の多くの共産党員は、ボルシェヴィキの歴史でのスターリンの役割を何とか貶め、狡猾さと好運とが混じり合って階段の頂上へと昇りつめた二級の<党官僚(apparatchik)>と描写しようとした。その階段から踏み外させるのは不可能だと分かっていたのだった。//
 このような見方もまた、真実だと受け止めることはできない。
 確かなことは、スターリンは1905年以前には目立たない地方活動家で、より高く評価されて、より重要な役割を果たした者は彼の出身地域に多数いた、ということだ。
 にもかかわらず、1912年までには、6人または7人の著名なボルシェヴィキ指導者の一人になっていた。そして-トロツキー、ジノヴィエフあるいはカーメネフに比べると知られてはいなかったし、誰もレーニンの「当然の」後継者だとは考えていなかったけれども-、レーニンの晩年には、党を支配する小集団の中にいた。
 そしてレーニンが死んだとき、彼は理論上ではなく実務上だが、その国の誰がもつよりも大きな権力を保持していた。//
 我々には現在用いることのできる資料から、スターリンの同志たちは革命の前からすら、のちに病的な圧制者となった彼の性格に気づいていた、ということが分かっている。
 いくつかは、レーニンの「遺言」で記述された。
 スターリンは粗暴(brutal)で、不誠実で、我が儘で、野心家で、嫉妬深く、反対者に非寛容で、部下たちにとっては専制君主だった。
 彼がボルシェヴィキの「古い保護者」を全て一掃してしまうまでは、誰も真面目に哲学者だとか理論家だとかは思っていなかった。この点から見ると、トロツキーやブハーリンだけではなくて、党の主なイデオロギストたちの方が、スターリンよりも勝れていた。
 彼の論文、小冊子や演説には何も独自性がなく、それらの意図をきちんと伝えていない、ということを誰もが知っていた。マルクス主義理論家ではなく、数百人も他にいる党宣伝者(propagandist)の一人だったのだ。
 もちろんのちに、「人格カルト〔個人崇拝〕」の興奮状態の中で、彼が執筆した一片の紙切れも、マルクス=レーニン主義の財産に不朽の貢献をしたものになった。
 しかし、理論家としての全ての名声は命じられた儀礼の一部にすぎず、それは彼の死後たちまちに忘れ去られた、ということは完璧に明らかだ。
 スターリンのイデオロギー的著作が政治的に名声を求めることのない人物によって書かれたものであったとすれば、マルクス主義の歴史で言及するにほとんど値しなかっただろう。
 しかし、彼が権力を握っている間は、それ以外にマルクス主義の焼き印(ブランド)の付いたものは稀にしかなかった。また、この当時のマルクス主義は、彼の権威との関連でしかほとんど明らかにすることはできない。したがって、四半世紀にわたってスターリンが偉大なマルクス主義理論家だったと言うのは、本当のことであるばかりか、実際には、同義反復(トートロジー)だ。//
 いずれにせよ、スターリンは党に有用な多くの性質をもった。頂点にまで達して対抗者を排除したのは、偶然にのみよるのではなかった。
 彼は疲れ知らずの、目聡い、そして有能な活動家だった。
 実際上の諸問題に関して、教理的な考察を軽視し、論点の相対的な重要性の程度を明確に見分ける方法を知っていた。
  彼は(ヒトラーが侵攻してきた最初の数日を除いて)パニックに陥らなかったし、達成することしか頭にはなかった。
 また、見せかけの権力と実際の権力を区別することも巧かった。
 演説は下手で文章は退屈だったが、平易に喋ることができたので、ふつうの党員たちの心を掴んだ。そして、繰り返しや要点の番号振りをする衒学的な習癖は、提示した言葉(exposé)は力強くて明瞭だとの印象を与えた。
  彼は部下たちに威張りちらしたが、うまく彼らを使うことができた。
 党員、外国の新聞記者あるいは西側の政治家のいずれであれ、違う対話者に応じて異なるやり方で適応する術を知っており、プロレタリア-トの根本教条のために立ち向かう果敢な闘争者の役割を、あるいは国家にとって無意味ではない「親分」の役割を演じることができた。
  彼は、全ての成功を自分の栄誉として受け取り、全ての失敗を他者の責任として追及することのできる、類い稀な才能をもっていた。
 スターリンが確立するのを助けた体制によって、自分は僭政者になることができた。
 しかし、彼はその所期の成果を収めるべく長く懸命に仕事をした、ということは言っておかなければならない。//
 スターリンの有能さと組織する力を、レーニンは疑いなく評価していた。
 ときにはレーニンに同意しなかったが、危機にあるときにはつねにレーニンを守った。
 幹部級のボルシェヴィキの多くとは違って、「知識人的な」学習をしておらず、それについてレーニンは平気ではおれなかった。
 スターリンは淡々とした性格で、困難で下品な仕事をするのを気に懸けなかった。
 そして、遅れて見方を変えて、レーニンは自分が権力の頂部へと昇らせてい人物が危険だと気づいたけれども、スターリンがその敵対者に対して応答した言葉にはいく分かの真実がある。
 彼の敵対者たちが最後になってレーニンの「遺言」を書類庫から引っ張り出し、スターリンに反対する証文として使ったとき、スターリンはこう言った。
 そのとおり、レーニンはかつて私は粗暴だと責めた。そして、革命に関するかぎりは、私は粗暴<である>。-しかし、レーニンは一度でも、私の政策は過っていると言ったか?
 これには、反対者は答えることができなかった。//
 1922年4月にスターリンが党の総書記(the Secretary-General)になったのはレーニンの個人的な選抜だった、ということを疑う根拠はない。そして、他の指導者たちの誰かがこの指名に反対した、という証拠資料はない。
 トロツキーがのちにつぎのように明確に述べたのは、全く本当のことだ。
 この職を創設してスターリンをその地位に就かせることが彼がレーニンの継承者になることを意味するとは、誰も考えなかった。総書記の地位にある者は実際にはソヴェトの党と国家の最高支配者になるだろう、とも。
 全ての重要な決定は、まだ中央委員会政治局によって行われており、その諸決定は人民委員会議という媒介物を経て、国家を動かしていた。  
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1779/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑫。

 <マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、第四に、明確な<間違い>もある。
 その原因になっているのは、要するに、この人の「無知」だろう。
 この著とは、つぎで、<マクダーマット・アグニュー本>とはその下。
  江崎・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 (1)「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の同一視!
 江崎道朗はp.78で加入条件テーゼ12条がコミンテルン構成の各共産党は「民主的中央集権制」という組織原理にもとづくべきことを定めているのを引用しつつ、「第12条は党中央が全権を握る、プロレタリア独裁の宣言である」と書く。
 ああ恥ずかしい。プロレタリア-ト(プロレタリア)独裁とは共産党の内部で「プロレタリア」が「独裁」することなのか?
 江崎には、共産主義・共産党に関する基礎的知識もない。この部分では、レーニンの共産党・組織原理とマルクスにもあった「プロレタリアートの独裁」の区別がついていない。
 なお、江崎はp.71で「第1条」の中に「プロレタリア-トの執権」という語をそのまま引用して紹介しているが、間違いなくこの人は「プロレタリア独裁」と「~執権」が元来は同じ言葉であることに気づいていないだろう。
 (2)「社会愛国主義」は「愛国心」持つことだとする!
 江崎道朗はp.75で同6条が「露骨な社会愛国主義」を厳しく批判しているのを引用紹介しつつ、この意味は「自分の国を守ろうという愛国心」を「絶対に認めない」ということだ、とする。
 ああ恥ずかしい。この人は、「社会愛国主義」(または社会排外主義)とはレーニンらボルシェヴィキ・ロシア共産党側が自国の第一次大戦への参戦を支持したとくにドイツの「社会民主主義」者を批判するために作った言葉であることを知らない(「社会主義的愛国主義」と訳されてもよく、「社会主義」者なるものが称する(ニセの)愛国主義」と理解されてもよいものだ)。
 「社会」が付いているにもかかわらず、「愛国主義」の一種だと文学的に?解釈して、堂々と?コメントしているのだ。
 (3)軍隊内への浸透は「武力による暴力革命」を大前提?
 江崎道朗はp.75で同6条が「軍隊内」での「ねばりづよい、系統的な宣伝」を要求しているのを引用紹介しつつ、共産党が?「何より『武力による暴力革命』を大前提とする政党であることが、この条文からも明らかである」と書く。
 これも恥ずかしいだろう。<共産党=暴力革命>という図式をこの人は宣伝したいようで、そのためには何でも利用する(?)。
 「軍隊」に着目しているのは「暴力」装置だからだろうか。しかしそのことと、『武力による暴力革命』を大前提とするということとは論理的関係はない。「軍隊」を使っての「暴力革命」を想定しているのだ、という趣旨か?
 いずれにせよ、この条文から「明らかである」とするのは間違い。
 なお、江崎道朗も含めて、日本の「保守」派が(否定的・消極的に)しばしば用いる「暴力革命」なるタームの正確・厳密な意味について、検討が必要だ。ここでは立ち入らない。
 (4)「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と同一視!
 江崎道朗はp.79で同14条がコミンテルン加入希望党は「反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争」を支持する必要を定めているのを引用紹介しつつ、「ソ連への忠誠を求める規定である」と明記する。
 また、「ソヴィエト連邦に対する絶対の忠誠心を持たなければならない」とも重ねて説明し、かつまた、日本の共産主義者が「ソ連や中国共産党」を支持したのは「この方針から」だとする。
 ああ恥ずかしい。悲惨だ。
 ロシア革命によって「ソ連」が誕生したとこの著の冒頭で書いていた江崎道朗は、ひょっとすれば「ソヴェト」と「ソヴェト(ソヴィエト)連邦」=「ソ連」の区別がついていないのではないか、と危惧していたが、どうやら当たっていたようだ。
 このテーゼが発表・採択されたのは1920年夏で、まだ「ソヴィエト連邦」は結成されていない。また、「中国共産党」も生まれていない(日本共産党も)。
 まだ存在していないものに対する「忠誠心」や「支持」を江崎は語ることができると考えているらしい。相当の空想力だ。
 正確には確認しないが、ここでの「各ソヴェト共和国」とは、1917年「十月革命」てできた(またはそれを翌年に改称した)ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国を構成する、「各ソヴェト共和国」だと見られる。
 このロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国がさらにいくつかのソヴェト社会主義連邦共和国(ベラルーシ、ウクライナ等)とさらに「連邦」して、1922年に、「ロシア」等の地域名を持たない、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が設立された。
 こういう経緯があるからこそ、もともとのロシア(本域)からすれば、<シベリア行き>は「国外追放」処分であり「流刑」なのだ。ロシアからすれば、シベリア、ウラル、今の中央アジア地域は完全に「外国」だったのだ。
 江崎は「各ソヴェト共和国」という言葉を見て、「各」を無視して、「ソヴェト連邦」と類推したようだ。そのあとでたぶん「各」に気づいて、「中国共産党」も加えたのだろう。
 上で言及しなかったが、江崎は上の説明につづけてこう書く。p.79。
 「コミンテルンに所属するということは、ソ連や中国など外国に忠誠を誓うことなのだ」。
 ああ恥ずかしい。コミンテルンは1919年に設立され、上のテーゼが論じられた第二回大会は1920年。繰り返すが「ソ連」はまだない。それに、この時点で忠誠の対象だという「中国」とはいったい何のことなのだ? 新生・中華民国のことか?
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 第五に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、あるいはその近辺には、矛盾した説明・論述等がいくつもある(明確な間違いに含めてもよいものもある)。以下は、その例。
 (1)p.72で「加入条件」テーゼは「コミンテルンに加入した場合、何をしなければならないのか、具体的に示した」ものだとする。一方、p.80は、「加入するための条件」だとする。両者は意味が異なり、後者が正しい。
 (2)p.67で「民族問題」テーゼ第四項を引用紹介しているが、p.91以下では別の本を直接引用して、この項の「解説」をさせている。
 離れていると読者は忘れると思っているのか、相互の参照を要求していない。
 別の本とはクルトワら・共産主義黒書/アジア篇だ。江崎道朗は、p.67の辺りでは<マクダーマット・アグニュー本>を「下敷き」にし、p.91辺りではこの<クルトワら本>を「下敷き」にしているのだと思われる。
 「下敷き」にしている本の違いによって、共産主義・共産党・コミンテルンに対する論調がやや変わるのも、江崎らしいところだ。
 (3)p.53で、「プロレタリア独裁によらないかぎり平和にならない」、「平和とは」「共産党による独裁政権を樹立」することを「意味する」、と一気に書く。
 この両者は、方法と結果がほとんど反対だ。なぜこんな日本語文章を平気で書けるのか、本当に信じ難い。
 (4)他にも類似表現はあるが、p.80で「これらがコミンテルンに各国の共産党が加入するための条件である」と書く。
 「加入するための条件」だとするのは上に記したように誤っていない。しかし、「各国の共産党」の存在を前提にしているようであって、この点は<間違い>。
 この点は、そもそもコミンテルンとは何か、どのような経緯でこれは設立されたのか、レーニンらが「加入条件」を定める必要がある具体的環境・状勢はどうだったか、が理解できていないと、したがって、江崎道朗には、理解が困難なのだろう。
 あらためて前回に第三として論及した「加入条件」について触れたいとは思っている。
 江崎道朗が完全にスルーしているのは、コミンテルン加入の条件のきわめて重要な一つは各国の「コミンテルンに所属することを希望する全ての党」は「共産党」と名乗ることが義務づけられる、ということだ(加入条件第17項)。1922年の設立という「日本共産党」の名称も、これによる(同時に「コミンテルン~支部」となることも定められている)。
 「社会民主党」・「社会主義党」・「労働党」という名称(のまま)ではコミンテルンの一員にはなれない。
 この点は、評価は分かれるのかもしれないが、ロシア以外の<社会主義党派>または<社会主義運動>に分裂を持ち込んだ(ロシアでのボルシェヴィキとメンシェヴィキの古い対立のように)とも言われる。あるいは、<純粋で正しい>党を抽出することになった、のかもしれない。
 いずれにせよ、江崎は分かっていない。
 すでにこの欄に書いたように、江崎道朗にとって、共産主義、共産党、コミンテルン等々は全部同じであって、区別する必要を感じていないのだ。
 これで江崎道朗には、現在にまで流れているという「共産主義」に対する「インテリジェンス」を語る資格があるのだろうか。
 今回の諸指摘を、きちんと理解してもらえるとよいのだが。/つづく。

1778/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑪。

 江崎道朗のつぎの本について「悲惨と無惨」と形容するのは、決して誇張した表現ではない。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)からの直接引用部分に限って、その引用の仕方とその引用内容に対する江崎自身のコメントを詳しく見てみよう。以下、<マクダーマット・アグニュー本>とでも略記する。
 まず、前回に江崎はこの本の「付属資料」部分のみから引用していると理解して記述したのは誤りだった。数や全頁数は少ないが、何と執筆者二人によるコミンテルン又はレーニンの政策方針に対する評価・論評をそのまま引用して叙述している箇所がある。
 ①p.50-レーニンの「社会民主主義」批判。
 ②p.58-ロシア革命の当時の民衆にとっての意味。
 ③p.58-9-レーニンの「社会民主主義」批判。
 これらは、江崎自身が理解・了解でき、(意味を)納得できたからこそ、直接引用しているのだろう。
 しかし、マクダーマット=アグニューのように簡単にコメントできるのか自体が問題だ。和洋合わせて必ず数百冊以上は関係文献が存在しているレーニン等の考え方について、<マクダーマット・アグニュー本>というたった一冊のコメントでもって叙述してしまうというのは、恐ろしく信じ難い。
 その内容が客観的に見てレーニン側に立ったもの、ソ連解体以前の公式的論評の仕方に似ていること、したがってかつて日本共産党党が述べた又は強調した点と酷似することについては、直接引用部分の内容に関係するので、さらに別に言及する。
 少し先走って書けば、これらはマクダーマット・アグニューの二人が共産主義・コミンテルンについてまだなお「宥和的」であることによるだろう。
 別に言及するのは、<レーニンの生い立ち>に関する叙述等も含めて、江崎は「左翼的」または共産主義になお「宥和的」な書物(外国の共産党員とみられる者によるものを含む)を、吟味することなく<下敷き>として使っているので、これらは併せてコメントした方がよい、との判断による。
 さて、上以外の18箇所は「付属資料」からの直接引用だが、これらの引用部分は、邦訳書で計31頁、原書で計30頁('Documents')あるうちのごく一部にすぎない。江崎のp61-p.80 は18箇所で引用するが、引用元の資料はつぎの4つ。①~⑱は箇所の順番。
 A<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>-計2箇所で引用。①、②。
 B<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>-計3箇所で引用。③~⑤。
 C<コミンテルン「規約」>-計2箇所で引用。⑥、⑦
 D<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>-計11箇所で引用。⑧~⑱。
 既述のように<マクダーマット・アグニュー本>は計19件の「資料」を、しかも全てそれぞれの「抜粋」を収載しているが(「規約」すら全文ではなくごく一部だ)、江崎道朗が「利用」(引用)しているのは計4資料でしかない。
 かつまた、興味深いことに、邦訳書・原書の「付属資料」番号でいうと、№1、№3、№4、№5であって、最初の部分に集中している。
 今回も上に書いたように「資料」部分は邦訳書・計31頁、原書・計30頁だが、江崎が利用しているのは、そのうちの8頁の範囲の部分だけだ。
 改めて書くと、江崎道朗がたった一冊の本が掲載する「資料」のうち「利用」(引用)しているのは、計19資料のうち4資料、計30-31頁のうち約8頁にすぎない
 これでもって、江崎道朗はこう「豪語」するのだ。再掲する。
本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 唖然とするほかはない。この人の「神経」は私とはまるで異なる。
 つぎに、「しっかり読み込んで理解」しているのかどうかを、検討してみよう。丸数字は、私が付した上に記載の引用箇所番号。以下で言及する文章は、「引用」との明記がない部分は、江崎道朗自身による。
 第一に、つぎのように簡単に書くこと自体が、レーニンら「共産主義者」の術中に嵌まっていることにならないか。
 ①p.61-62のあと。第一次大戦後の「多くの」「…途方にくれていた」人々にとって、「レーニンの言葉は、大いなる説得力をもった」。
 ③p.67のあと。「残念なことに、欧米列強の支配に苦しんでいたアジア・アフリカの独立運動の指導者たちは、このコミンテルンの呼びかけに積極的に呼応していった」。
 第二に、「民族・植民地問題についてのテーゼ」からの引用とコメントの趣旨に疑問がある。なお、前回に記したように、これの全文、およびレーニンのテーゼではないコミンテルン第二回大会での関係演説全文はレーニン全集に収載されているはずだ。江崎が利用(引用)するために見ているのは、そのごく一部だ。
 ④p.68の引用-「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家や民族…」
 ⑤p.69の引用-「後進国における…」、「植民地…」。
 なぜ、江崎道朗はこれらを引用するのか。これは、興味深い論点にかかわる。というのは、江崎は日本と関係していると考える又は判断するからこそこれらを引用しているはずだ。そして、そうなのだとすると、江崎は1920年代の日本を「封建的諸関係、あるいは…家父長制的=農民的諸関係が優勢」の「遅れた国家」または「後進国」・「植民地」と見ていることになる。「植民地」は度外視するとしても、こうした日本についての見方はいわゆる<講座派マルクス主義>史観に立つもので、このこと自体について検討・論証が必要だ。
 まさか、コミンテルンをタイトルの一部とする著書を書く江崎道朗が、日本マルクス主義内での<講座派>と<労農派>の対立を知らないままで、執筆しているはずはないだろう。
 第三に、読解または解釈に無理がある、又は強引すぎる部分がある。こう単純化してはいけないだろう。
 ⑤p.69のあと。「…共産党員にすべきであって、仮に共産党員にならないのであれば、容赦なく粛清、つまり殺してしまえと言外に示唆している」。
 ⑨p.73のあと。「排除して置き換える-すなわち場合によっては殺せという意味だ。…コミンテルンに従わない人間はすべて根こそぎにせよという」。
 ⑯p.78のあと。「コミンテルンに入るなら」、「定期的粛清」をせよ。「共産主義が一億人近い人々を殺害した背景には、こうした一方的な粛清を正当化する方針がある」。
 ⑱p.80の前後。「最後の第21条で、再び粛清を義務づけている」。「コミンテルンに従わぬ者は粛清されなければならない-排除、粛清、殺戮が『義務』として課されている」。
 江崎道朗のために少し教示しておこう。
 共産主義・共産党が<思想・意見が異なることを理由として人間を殺してもよい>とする思想であり組織であることは認めよう。
 しかし、「排除」または「粛清」=<殺害>ではない、と理解しておくべきだ。一部に(=ある程度は)含むとしても、等号ではつなげないだろう。
 <テロル>という語もなお多義的で、<粛清>も同じだ。「排除」だと、または「粛清」ですら、除名・党外への追放もまた十分に含みうる。
 The Great Terror (大テロル)ではなくThe Great Purge (大粛清?)という語を同じ意味・内容としておそらく使っている外国語文献を最近に見た。Purge は「パージ」で、(公職からの)「追放」の意味でも日本ではかつて使われた。パージ=粛清=殺害ではない。
 また、purgeよりも、liquidate(liquidation)の方が「粛清」という語感に近いようだが、しかしこれとて、殺戮以外の「排除」・「一掃」という意味ももちうる。
 要するに、「排除」、「粛清」という訳語が使われているからといって、そこに<殺害>の意味をただちに持たせようとするのは、早計だろう。こう強引に「解釈」してしまえるのは、文学部出身の評論家らしい。
 念のため、原書収載の「テーゼ」上の英語はどうなっているかを確認してみる。
 上の⑤(民族11e)-cannot merge with- . 「言外に示唆」しているのかは確言できないが、これは要するに「…とは融合できない」と述べているだけ。邦訳書も同旨。
 上の⑨(規約2条)-remove, replace. これらに明示的または直接の「殺戮」の意味はない。邦訳書では「排除」、「おきかえる」。
 上の⑯(規約13条)- from time to time carry out purges (re-registrations). ()内の語には「殺戮」の意味はないだろう。引用のとおりに邦訳書では「定期的粛清(再登録)」。
 上の⑱(規約21条)- expell. これは「追放」・「除名」の意味であって、明示的または直接には「殺戮」の意味はない。邦訳書も「追放」と訳出している(邦訳書p.304.)
 以上のとおりで、江崎道朗は、無理やり「排除」、「追放」等を<殺戮>の意味だと<言外>以上に明示的に説明?している。
 このような江崎の読解の仕方を知って、この本を信頼できるだろうか。
 すでに上記の中にも含まれているが、第四に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎の説明・コメントには、明確な<間違い>もある。
 悲惨・無惨だ。ひどく中途半端だが、回を改める。/つづく。

1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /3.The Breakdown.
 この本の邦訳書はない。
 試訳を続行する。第1章第2節までは、すでに掲載を済ませている。
 同第3節p.9~p.14。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇①。
 ボルシェヴィキ指導者の大半とは違って、のちの全ロシアの共産党の指導者は、プロレタリアでなかったとしても、いずれにせよ民衆の一人だった。
 ヨゼフ(ヨシフ、Yosif)・ジュガシュヴィリ(Dzhugashvili)は、ジョージアの小さな町であるゴリ(Gori)で1879年12月9日に生まれた。
 父親のヴィッサリオン(Vissarion)は靴作りの大酒飲みで、母親は読み書きができなかった。
 ヴィッサリオンはティフリス(Tiflis)に移り、靴工場で仕事をして、1890年にそこで死んだ。
 彼の息子はゴリの教区学校に5年間通い、1894年にティフリスの神学校への入学を認められた。この学校は実際のところ、コーカサスでは彼のような社会的条件の有能な若者がより上級の教育を受けることのできる唯一の学校だった。
 正教の神学校は同時に、ロシア化するための機関だった。しかし、多くのロシアの学校のように、政治不安の温床でもあった。ジョージア愛国主義はそうした学校で花咲き、ロシア本域からの多くの被追放者によって、社会主義思想が流布された。
 ジュガシュヴィリは社会主義集団に加入し、神学から得ていたかもしれない関心を全て失い、試験に出席しなかったことで1899年の春に追放された。
  神学校を背景とすることの痕跡は、のちの彼の著作に認めることができる。聖書からの引用があり、のちのプロパガンダとうまくつながる教理問答的文体への好みがあった。
 彼は論文や演説で、回答の中で言葉通りに反復する質問を設定する癖をもっていた。
 彼はまた、個々の考え方や叙述にそれぞれ番号を振ることによって、自分の論文が理解されやすいようにした。//
 神学校での生活以降、スターリンはジョージアにある多様で初歩的な社会主義集団とかかわった。
 ロシア社会民主党は、まだ存在していなかった。1898年のミンスク(Minsk)集会で、設立に向けた正式決議がなされていたけれども。
 1899-1900年の数ヶ月の間、彼はティフリスの地理観測所の事務員として働き、その後、合法と非合法の両方の、政治活動かつプロパガンダ活動に完全に専念した。
 彼は1901年から、秘密のジョージア社会主義者新聞である<闘争(Brdzola)>に論考を書き、労働者の間にプロパガンダを広めた。
 その年の終わり近くに、ティフリスでの党の仕事を指揮する委員会の一員になった。
  バトゥーム(Batum)での労働者の集団示威行動を組織したとして1902年4月に逮捕された。
 彼は、シベリアへの追放刑(流刑)を宣告されたが拘置所から(またはそこへ行く途中で)逃亡し、1904年の初めには再びコーカサスにいて、偽った名の新聞をもつ地下組織の構成員として活動した。
 その間に、社会民主党は第二回大会を開き、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの両派に分裂していた。
 スターリンはすみやかにボルシェヴィキを支持することを宣言し、党に関するレーニンの考え方を支援する冊子と論考を書いた。
 ジョージア社会民主党はほとんどがメンシェヴィキで、その指導者は、最もすぐれたコーカサスのマルクス主義者、ノエ・ジョルダニア(Noakh Zhordania)だった。
 1905年の革命の間とその後、スターリンはしばらく、全コーカサス地域を範囲とする職責をもつ党活動家としてバクー(Baku)で働いた。//
 しかしながら数年経って、彼はロシア本域のボルシェヴィキ活動家の一人となった。
 1905年12月のタンメルフォシュ(Tammerfors、フィンランド/タンペレ)での党大会に出席し、1906年には、ストックホルムでの「統一」大会に出席した唯一のボルシェヴィキとなった(そうできる彼の資格をメンシェヴィキは争った)。
 しかしながら、1912年までは、彼の活動の実際の舞台はコーカサスにあった。
 スターリンはタンメルフォシュで初めてレーニンと逢った。彼はレーニンの教理と指導性に、決して真剣に抗うことがなかった。
 しかしながらストックホルムでは、他の全ての問題についてはレーニンの側に立った一方で、党綱領はレーニンが主張する国有化ではなく土地の農民への配分を支持すべきだ、という路線を支持した。//
 この時期のスターリンの著作には、独自のものや記しておくに値するものは何もない。
 当時に生じていた話題に関するレーニンのスローガンを再現する、民衆むけのプロパガンダ的論考だけだ。 
 多くのスペースはメンシェヴィキに対する攻撃にあてられ、もちろん、カデット(立憲民主党)、「召喚主義者」(otzovoists)、「清算主義者」(liquidators)、無政府主義者(アナキスト)等に対する批判もあった。
 いかほどかの長さをもつ唯一の論文、<アナキズムかそれとも社会主義か?>は、1906年にジョージア語で発表された(1905年以降は彼はロシア語でも論考を書いた)。
 これは、社会民主党の世界観とその哲学的諸命題に関する不細工な作文にすぎなかった。//
 スターリンは1906-7年に党財政を充填させるための武装襲撃団である「収奪」の組織者の一人だった、ということが知られている。
 レーニンはこれに味方したが、この活動は1907年のロンドンでの第五回党大会で禁止され、非難された。
 しかし、ボルシェヴィキは、数ヶ月のちに大きなスャンダルを起こすまでは、この活動を実践し続けた。//
 近年に若干の歴史学者が、もともとはジョルダニアが、スターリンの死後は元のソヴィエト諜報機関の高官だったオルロフ(Orlov)が行っている、スターリンは1905年後の数年の間オフラーナ(Okhrana、帝制秘密警察)で仕事をしていた、という申し立てを検証した。
 しかし、この責任追及に有利な証拠は微少なもので、アダム・ウラム(Adam Ulam)やロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)を含むほとんどの歴史家によって却下されている。//
 スターリンは、1908年と二月革命の間、ほとんどの時間を牢獄か追放先で過ごした。最後の期間(1913~1917年)を除いて、彼はそこからいつでも脱出した。
 彼は腕の利く堅固で疲れを知らない革命家だとの評価を獲得して、1907年後のひどい年月の間、党のコーカサス組織を守るために尽力した。
 ロシア内部の多くの他の指導者たちと同じく、彼は移住者(エミグレ、émigré)内部での理論上の議論や口論に強い関心を抱かなかった。
 スターリンはレーニンの<唯物論と経験批判論>について懐疑的な見方をしていた(のちには、哲学思想の最高の偉業だと絶賛した)、そして1910年の暗黒の日々の間にメンシェヴィキとの統一を回復しようと純粋に努力をした、という、ある程度の証拠はある。
 レーニンがメンシェヴィキとの分裂を明確にすべくプラハでの全ボルシェヴィキの大会を招集した1912年1月、スターリンは追放されてヴォログダ(Vologda)にいた。
 その大会は党の中央委員会を選出したが、レーニンの提案によってスターリンはのちにその構成員に選ばれた。かくして、全ロシアの政治舞台にデビューすることとなる。//
 ヴォログダから脱出したのち、スターリンはもう一回逮捕され、追放された。しかし、また逃亡した。
 1912年11月、生涯で初めてロシア国外に旅行をし、オーストリア領ポーランドのクラカウ(Cracow、クラクフ)で数日間をすごした。ここで、レーニンと逢う。
 彼はロシアに戻ったが、12月に再び国外に出た。今度はウィーン(Vienna)に6週間だった-これは外国の土を踏んでいた最長の期間になった。
 ウィーンで彼はレーニンのために「マルクス主義と民族問題」という論文を書き、雑誌<Prosveshchenie(啓蒙)>に1913年に発表された。そして、これは理論家としての名声を求める彼の最も初期の主張をなすもので、また彼の主要な見解の一つだ。
 この論文は、民族問題についてレーニンが語ったことに何も付け加えていない。但し、民族(nation)を単一の言語、領域、文化および経済生活をもつ共同体だと定義したこと以外には。-なお、こうして例えば、スイス(人)やユダヤ(人)は「民族」から除外される。
 この論文は、オーストリア・マルクス主義者、とくにシュプリンガー(Springer、レナー, Renner)とバウアー(Bauer)、およびブント(ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)を攻撃するものとして執筆された。
 スターリンはロシア語とジョージア語だけを読めたので、ウィーンにいたときはたぶん、ブハーリン(Bukharin)がオーストロ・マルクス主義著作者からの引用文を選ぶのを助けていたのだろう。
 オーストロ・マルクス主義者は、民族の文化的自治という考えを個人による自己決定にもとづかせていた。これに対抗してスターリンは、民族の自己決定権と領域的な基礎にもとづく政治的分離を支持して論じた。 
 しかしながら、レーニンのように、彼が強調したのは、社会民主主義者は自分たち自身の国家を形成する全ての人民の権利を承認するけれども、それはあらゆる場合に分離主義を支持することを意味しはしない、ということだった。
 決定的な要因は労働者階級の利益であり、分離主義はしばしばブルジョアジーによる反動的なイデオロギーとして用いられるということを想起しなければならないのだ。
 こうした議論の全体は、もちろん、「ブルジョア革命」という前提のもとで行われた。
 トロツキーとパルヴゥスを除く当時の全ての社会主義者と同じく、スターリンは、ロシアは民主主義革命を経験し、その後の多年にわたりブルジョア共和国の支配が続く、と想定していた。
 しかし、その革命を起こすに際してプロレタリア-トは指導的な役割を果たさなければならず、ブルジョアジーの第二伴奏器であったり、ブルジョアジーの利益のためのたんなる従僕者であったりしてはならなかった。//
 民族問題に関する論文は、二月革命前にスターリンが執筆した最後のものだった。
 ウィーンから戻ったあとすぐの1913年2月に、彼はまたもや逮捕され、4年間の国外追放が宣告された。
 このときは逃亡しようとはせず、シベリアにとどまった。そして、1917年3月に再び、ペテログラードに姿を現した。
 レーニンが到着するまでの数週間、スターリンは事実上、首都の党の責任者だった。
 カーメネフとともに、<プラウダ>の編集部を所管した。 
 臨時政府およびメンシェヴィキに対するスターリンの姿勢は、いずれについても、レーニンのそれよりもはるかにより宥和的だった。そして、レーニンがスイスから送っている論文の調子を弱めたことで、レーニンの非難を受けるはめに陥った。
 しかしながら、レーニンのロシアへの帰還とその「四月テーゼ」の提示のあとは、少しは躊躇しつつ、「社会主義革命」とソヴェトによる政府のために活動する政策を受け入れた。
 対照的なことだが、ペテログラードにいた最初の数週間は、まだなお、「ブルジョア革命」、中央諸大国〔ドイツ帝国等〕との講和、大資産の没収、臨時政府の打倒を試みるのではなくそれに圧力を加える、といった趣旨のことを執筆していた。
 七月危機のあとで初めて、ペテログラードの党組織の会合で、スターリンはプロレタリア-トと貧農への権力の移行を明確に語った。
 このときに「すべての権力をソヴェトへ」とのスローガンは放擲された。ソヴェトは、メンシェヴィキとエスエルたちによって支配されていたのだ。
 十月革命の頃までに、スターリンは疑いなく、レーニン、(1917年7月に入党した)トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スヴェルドロフおよびルナチャルスキーと並んで、党の主要な指導者の中に入っていた。
 我々が知るかぎりで、彼は蜂起をした軍事組織に参加していない。しかし、スターリンは、レーニンの最初のソヴェト政権で、民族問題担当のコミッサール(Commissar、人民委員)に任じられた。
 ブレスト=リトフスク条約をめぐって生じた党の危機の間は、ドイツとの革命戦争を押し進めるべきだとする「左翼のボルシェヴィキ」と対抗するレーニンを支持した。
 しかしながら、レーニンのように彼も、ヨーロッパ革命がいつの日にか勃発するだろう、ドイツとの講和の取決めは一時的な戦術的退却にすぎない、と考えていた。// 
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 ②へとつづく。
 下は、分冊版のLeszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. の第1巻と第3巻。
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1776/諸全体主義の相違②完-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)
 試訳のつづき。第5章第6節。p.280-1。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違②。
 要するに、ロシアは社会構造が同質で民族的構造が異質だったので、熱望をもつ独裁者は階級間の敵意に訴えることが想定されえたのだが、状況が反対の西側では、訴えかけは民族主義(ナショナリズム)になったのだろう。//
 とは言え、今きちんと、つぎのことを記しておかなければならない。
 階級にもとづく全体主義と民族にもとづく(nation-based)全体主義は、一つに収斂しがちだ。
  スターリンはその政治的経歴の最初から、大ロシア民族主義と反ユダヤ主義を用心深く奨めていた。
 第二次大戦の間と後で彼は、おおっぴらに、明瞭な熱狂的愛国主義の言葉を使った。
  ヒトラーの側について言うと、彼はドイツ民族主義は制限的すぎると考えていた。
 彼は「私は世界革命を通じてのみ、自分の目的を達成することができる」とラウシュニンクに語り、ドイツ民族主義をより広い「アーリア人主義」へ解消するだろうと予言した。
 『民族(nation)という観念は無意味になってきた。…
 我々はこの偽りの観念から抜け出して、人種(race)の観念へと代えなければならない。…
 歴史的過去を帯びる人々の民族的区別の言葉遣いで新しい秩序を構想することはできない。だが、この区別を超える人種にかかる言葉遣いによってならそうすることができる。…
 科学的意味では人種というものは存在しないと、私は素晴らしく賢い知識人たちと全く同様に、完璧によく知っている。
 しかし、農民で牧畜者であるきみは、人種という観念なくしてはきみの生育の仕事をうまくは成し遂げられない。
 政治家である私は、今まで歴史の基盤の上に存在した秩序を廃棄して全般的で新しい反歴史的な秩序を実施し、そしてそれに知的な根拠を与える、そういうことを可能とする観念を必要としている。…
 そして、人種という観念は、私のこの目的のために役立つ。…
  フランス革命は、国民(民族、nation)という観念を国境を超えて伝播させた。
 国家社会主義は、人種という観念でもって広く革命をもたらし、世界を作り直すだろう。…
 民族主義(ナショナリズム)という常套句には多くのものは残らないだろう。我々ドイツ人には、ほとんど何も。
 その代わりに、善良な一つの支配する人種についての多様な言葉遣いが、理解されるようになるだろう。』(120)//
 共産主義と「ファシズム」は、異なる知的起源をもつ。一方は啓蒙哲学に、他方はロマン派時代の反啓蒙的文化に、根ざしている。
 理論については、共産主義は理性的、構築的で、「ファシズム」は非理性的、破壊的だ。このことは、共産主義がつねに知識人たちに対してきわめて大きい魅力を与えた理由だ。
 しかしながら、実際には、こうした区別もまた、不明瞭になっている。
 じつにここでは「存在」が「意識」を決定するのであり、全体主義諸制度はイデオロギーを従属させ、それを意のままに再形成するのだ。
 記したように、両者の運動は思想(ideas)を、際限のない融通性をもつ道具だと見なす。それは、服従を強制して一体性の見せかけを生み出すために、臣民たちに押しつけられる。
 結局のところ、レーニン主義-スターリン主義の全体主義とヒトラー体制は、いかに知的な起源が異なっていても、同じように虚無主義的(nihilistic)で、同じように破壊的なのだ。//
 おそらく最も語っておくべきなのは、全体主義独裁者たちがお互いに感じていた、称賛の気持ちだ。
 述べてきたように、ムッソリーニはレーニンに大きな敬意を払っていたし、「隠れたファシスト」に変わったことについてスターリンを惜しみなく賞賛した。
 ヒトラーはごく親しい仲間に、スターリンの「天才性」に対して尊敬の念を抱いていることを認めた。
 第二次大戦のただ中でヒトラーの兵団が赤軍との激しい戦いで阻止されていたとき、彼は両軍が一緒になって西側の民主主義諸国を攻撃し、破滅させることを瞑想した。
 このような両軍の協働に対する一つの重大な障害は、ソヴィエト政府の中のユダヤ人の存在だった。これは、ヒトラーの外務大臣のヨアヒム・リッベントロップ(Joachim Ribbentrop)にソヴィエト指導者が与えた、非ユダヤ系の適切な幹部の地位に就けば指導的部署から全てのユダヤ人を排除するとの保証、を考慮すれば解消できるように見えた。(121)
 そしてその代わりに、最も過激な共産主義者の毛沢東は、ヒトラーとその方法を称賛した。
 きわめて多くの同志の生命を犠牲にした文化革命のさ中に非難が加えられたとき、毛沢東は、「第二次大戦を、ヒトラーの残虐さを見よ。残虐さが強ければ強いほど、革命への熱狂はそれだけ大きくなる」、と答えた。(122)//
 根本のところで、左と右の様式がある全体主義体制は、類似した政治哲学と実践によってのみならず、それらの創設者の共通する心理によって結び合わされている。
 すなわち、搔き立てる動機は憎悪であり、それを表現したのが暴力だ。
 彼らの中で最も率直だったムッソリーニは、暴力は「道徳的な治癒療法」だ、人々を明白な関与に追い込むのだから、と述べた。(123)
 この点に、そして自分は疎外されていると感じている現存の世界を、どんな犠牲を払ってでも全ての手段を用いて徹底的に破壊しようとの彼らの決意のうちに、彼らの親近性(kinship)があった。//
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 (120) Rauschning, Hitler Speaks, p.113, p.229-230.
 (121) Henry Picker, ed., Hitlers Tischgespräche im Führerhauptquartier, 1941-1942 (Bonn, 1951), p.133. 
 (122) NYT(=New York Times), 1990年8月31日号, A2.
 (123) Gregor, Fascist Persuasion, p.148-9. 
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 第5章第6節、そして第5章全体が、これで終わり。

1775/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑩。

 江崎道朗の下掲の本で、コミンテルンに関する資料・関係文献として最もよく使っているのは、つぎだ。原書も同時に示す。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 この原書は、全体で計304頁(索引等を含む)。うち、邦訳書で江崎が用いていた「付属資料」の部分は計30頁だ(p.220~p.249)。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
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 この邦訳書もある原書の執筆者等に言及するのは後回しにして、前回記したこの邦訳書以外の二つも含めて三邦訳書以外に、コミンテルンに関する資料等になる邦語文献(とくに翻訳書)は存在しないのか、を問題にしてみよう。
 江崎道朗が参照している上の邦訳書の「付属資料」の冒頭に訳者/萩原直が付している注記からすでに、つぎのものがあることが分かる。
 ①村田陽一編訳・コミンテルン資料集(大月書店、1978-1985年)。/6巻までと別巻で計7冊。
 前回での②を一部とするつぎも資料の邦訳書なので、記しておく。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)、同Ⅱ-1923~1928(現代思潮社、1996)。/少なくとも計2冊。
 その他、以下のものがあるようだ。コミンテルンの第一次資料の邦訳を中心としていると見られるものに限る。秋月が一部でも所持しているものはあるし、所在が行方不明のものもあり、明確に入手していないものもある。なお、現時点での入手の容易さとはさしあたり無関係に記していく。
 ③村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本(大月書店、1986-1988)。/1巻~。少なくとも3巻まで、計3冊。
 ④ソ連共産党付属マルクス・レーニン主義研究所編/村田陽一訳・コミンテルンの歴史-上・下(大月書店、1973)/計2冊。…①・③との異同は秋月には不明。
 ⑤和田春樹=G. M. アジベーコフ監修/富田武・和田春樹編訳・資料集/コミンテルンと日本共産党(岩波書店、2014)
 ⑥トリアッティ/石堂清倫・藤沢道郎訳・コミンテルン史論(青木文庫、1961)
 ⑦B・ラジッチ=M.M.ドラコヴィチ/菊池昌典監訳・コミンテルンの歴史(三一書房、1977)
以上、
 さらに、レーニン全集(大月書店)にはコミンテルンに関する、またはコミンテルン大会等で報告・演説等をしたものが含まれているので、1919年3月以降のものの<表題>(一部は内容でも確認)に全て目を通して、以下に掲載する。内容としてコミンテルン(第三インター)に触れているものは他にもあるだろうが、逐一は確認できない。
 ①1919.04.15「第三インタナショナルとその歴史上の地位」第29巻p.303-p.311。
 ②1919.07.14「第三インタナショナルの任務について」第29巻p.502-p.524。
 ③1920.01.03「同志ロリオと第三インタナショナルに加入したすべてのフランスの友人へ」第30巻p.76-p.77。
 ④1920.03.06「第三インタナショナル創立一周年記念のモスクワ・ソヴェトの祝賀会議での演説」第30巻p.432-p441.」
 ⑤1920.06-「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.135-p.142.
 ⑥1920.06初「農業問題についてのテーゼ原案(共産主義インタナショナル第二回大会のために)」第31巻p.143-p.155.
 ⑦1920.06.12『共産主義』=「東南欧州諸国のための共産主義インタナショナルの雑誌」第31巻p156-p.158.
 ⑧1920.07.04「共産主義インタナショナル第二回大会の基本的任務についてのテーゼ」第31巻p.178-p.193.
 ⑨1920.07.08「イギリス共産党結成のための暫定合同委員会の手紙にたいする回答」第31巻p.194-p.195.
 ⑩1920.07-「共産主義インタナショナルへの加入条件」第31巻p.199-p.205.
 ⑪………「共産主義インタナショナル加入条件の第20条」第31巻p.206.
 ⑫1920.07.19「共産主義インタナショナル第二回大会/一・国際情勢と共産主義インタナショナルの基本的任務についての報告」第31巻p.207~.
 ・1920.07.23「同/二・共産党の役割についての演説」第31巻p.228~.
 ・1920.07.26「同/三・民族・植民地問題小委員会の報告」第31巻p.233~.
 ・1920.07.30「同/四・共産主義インタナショナルへの加入条件についての演説」第31巻p.239~.
 ・1920.08.02「同/五・議会主義についての演説」第31巻p.246~.
 ・1920.08.06「同/六・イギリス労働党への加入についての演説」第31巻p.251-p.257.
 ⑬1920.08.15「オーストリアの共産主義者への手紙」第31巻p.261-p.264.
 ⑭1920.08-09「共産主義インタナショナル第二回大会」第31巻p.265-p.267.
 ⑮1920.09.24「ドイツとフランスの労働者への手紙-共産主義インタナショナル第二回大会についての討論にかんして」第31巻p.276-p.278.
 ⑯1920.12.11「イタリア社会党の党内闘争について」第31巻p.379-p.397.
 ⑰1921.06.13「共産主義インタナショナル第三回大会/一・共産主義インタナショナル第三回大会でのロシア共産党の戦術についての報告要綱(原案)」第32巻p.481~.
 ・1921.06.28「同/二・イタリア問題についての演説」第32巻p.491~.
 ・1921.07.01「同/三・共産主義インタナショナルの戦術を擁護する演説」第32巻p.498~.
 ・1921.07.05「同/四・ロシア共産党の戦術についての報告」第32巻p.510-p.530.
 ⑱1922.11.04「共産主義インタナショナル第四回大会/一・コミンテルン第四回世界大会とペテログラード労働者・赤軍代表ソヴェトへ」第33巻p.432~.
 ・1922.11.13「同/二・ロシア革命の五カ年と世界革命の展望」第33巻p.434-p.449.
 ⑲1922.12.02「国際労働者救援会書記へ」第35巻p.617-p.618.
 ⑳1922.11.13前「コミンテルン第四回大会での演説のプラン」第36巻p.691-p.696.
 以上。<⑳は、レーニン死後の1926.01.21に初公表だとされる-上記第36巻。>
  さて、前回に引用紹介したように、江崎道朗は上掲書でつぎのように「豪語」した。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎は、レーニン全集関係のその上に記した文献①の所在を知っていたはずだが、無視している(計7冊は面倒と思ったのか?)。
「しろうと」の秋月でも文献③~⑦くらいの所在には気づくことができるが、江崎は無視している。
 <資料>としては、とくに日本との関係に着目すれば、例えば文献③の方が詳細で正確なようだが、江崎は無視している。下のものは、第一巻だ。
 村田陽一編訳・資料集/コミンテルンと日本① 1919-1928(大月書店、1986)
 この書物は<資料>だけで計510頁まであり、コミンテルン自体のものを多く含む資料が計153件、日本人(片山潜や佐野学ら)・外国人共産主義者の論文が計18篇、<付録>として戦前の日本共産党等の組織の文書計12件を収載している。
 江崎道朗は、コミンテルン・共産主義(者)と日本の関係を(タイトル上の)主題とする本を出版しているのだが、上の書をおそらく一瞥すらしていない。
 また、江崎・上掲書を一瞥してすぐに感じたのは、「コミンテルン」を扱いながら、なぜ、レーニン全集収載論考類を参照文献として挙げていないのだろう、ということだった。とっくの昔に日本語になって「公開されている」、コミンテルンの創設者と言ってよい人物が自ら記した文献資料であるにもかかわらず。
 結論は、要するに、この人=江崎は、レーニン全集を捲ってみる、という作業をおそらくは絶対に行っていない、ということだ。
 レーニンによる、「コミンテルン」=「共産主義インタナショナル」に直接に関係のある文献資料は、上掲のとおり、少なくとも20件はある。第31巻にかなり集中している。むろんこれらだけで、今回の冒頭に記載の邦訳書「資料」部分よりも、はるかに、比較しようもなく、長い。
 (なお、レーニンはコミンテルン組織の執行委員等でなかったとしても、ロシア共産党の代表者として他国の共産主義者・共産党員の前で発言・報告・演説したり、ロシア共産党の代表者として別国の共産党等に「手紙」類を送ることができた。「人民委員会議の議長として」というレーニンの挨拶文等が同全集に収載されてもいるが、これは党とは<別の>国家・行政の長としての立場でのものだ。)
 もう一度、江崎道朗の「豪語」を引用しよう。
 「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。p.95。
 江崎道朗は、コミンテルンに関する「公開されている情報」の「すべて」または多くを「読み込んで理解」しているだろうか。確実に、否、だ。
 ということは、既述のとおり、「インテリジェンスの第一歩」を終えていない、ということを意味する。
 そしてまた、このような文章執筆姿勢、書物出版意識は、確実に、戦前の日本に関する叙述の仕方にも現れている、と見られる。この点はまだ先のこととして、コミンテルン関係の江崎の叙述について、さらにつづける。

1774/諸全体主義の相違①-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。第5章第6節。p.278~p.230。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違①。

 共産主義者、ファシストおよび国家社会主義者の諸体制を分かつ、相違の問題に移る。
 これらが作動しなければならなかった社会的、経済的および文化的条件を対比させることで、我々はこれを説明することができる。
 換言すると、相違は、異なる哲学から生じたのではなく、同じ統治の哲学を地域的な情勢に戦術的に適応させたことから生じた帰結だ。//
 一方での共産主義、他方でのファシズムと国家社会主義の間の際立つ相違は、民族主義(ナショナリズム)に対するそれぞれの姿勢にある。
 すなわち、共産主義は国際的運動だが、ムッソリーニの言葉によると、ファシズムは「輸出」するためのものではなかった。
 1921年の国会下院での演説でムッソリーニは、共産党員たちにこう呼びかけた。
 『我々と共産党との間には政治的親近性はないが、知的な一体性はある。
 我々はきみたちのように、全ての者に鉄の紀律を課す中央志向の単一性国家が必要だと考える。違うのは、きみたちは階級という観念を通じてこの結果に到達するのに対して、我々は民族(nation)という観念を通じてだ、ということだ。』(116)
 のちにヒトラーの宣伝相になるヨゼフ・ゲッベルスは同様に、共産主義者をナツィスと区別する一つのものは前者の国際主義だ、と考えた。(117) //
 この相違は、いかほどに根本的なものなのか?
 厳密に検討すれば、この違いは大きくは三国の特殊に社会的かつ民族的な条件によって説明することができる。//
 1933年のドイツでは、成人人口の29パーセントが農地で、41パーセントが工場や手工業で、そして30パーセントがサービス部門で働いていた。(118)
 イタリアでのようにドイツでは、都市と農村の人口、賃金労働者と自営業者や使用者、そして財産所有者と所有しない者のそれぞれの割合は、ロシアでのよりもはるかによく均衡がとれていた。ロシアはこの点では、ヨーロッパよりもアジアに似ていた。
 かりに社会構成が複雑で、「プロレタリア-ト」にも「ブルジョアジー」にも属さない集団の意味が大きければ、一つの階級が別のそれと闘争するのは西側ヨーロッパではまったく非現実的なものだっただろう。
 熱望をもつ独裁者は、西側では、自分の政治的基盤を損なうことを真面目に考えないかぎり、自分を単一の階級と同一視することなどできなかっただろう。
 このような想定が正しいことは、社会革命を掻き立てようとする共産主義者たちが西側では何度も失敗したことで、実証された。
 共産主義者たちが反乱に巻き込むことに成功した知識人や労働者階級の一部は、-ハンガリー、ドイツ、イタリアの-どの場合でも、連合した別の社会集団によって粉砕された。
 第一次大戦のあと、最大数の支持者がいた国々、イタリアとフランス、ですら、共産主義者たちは、単一の階級にのみ依存したために、その孤独な状態を打破することができなかった。//
 熱望をもつ西側の独裁者は、階級ではなくて民族的な憎悪を利用しなければならなった。
 ムッソリーニと彼のファシスト理論家は、イタリアでは「階級闘争」は市民階級が別の者と闘うのではなくて「プロレタリア国民」全体が「資本主義」世界と闘うのだ、と主張して、二つのことを巧妙に融合させた。(119)
 ヒトラーは、「国際ユダヤ人」を「人種的」のみならずドイツ人の階級的な敵だとも称した。
 外部者-カール・シュミットの言う「敵」-に対する憤激に焦点を当てて、ヒトラーは、どちらかに明らかには偏することなく、中産階級と農民の利益の均衡を維持した。
 ムッソリーニとヒトラーの民族主義は、彼らの社会構造が外側へと憤激を逸らすのを必要としていたこと、および権力に到達する途は外国の者に対抗する多様な階級の協力を通じて存在しているということ、への譲歩だった。(*)
 多くの場合で-とくにドイツとハンガリーで-、共産主義者もまた、排外主義的感情で訴えるのを躊躇しなかった。//
 東側では、状況は大きく異なっていた。
 1917年のロシアは、圧倒的に一つの階級、つまり農民の国家だった。
 ロシアの産業労働者は比較的に小さく、かつたいていは、まだ村落を出身地にしていた。
 大ロシア諸地方では全体の90パーセントを占める相当に均質な労働者(toiler)である民衆は、社会経済的にのみならず文化的にも、残りの10パーセントとは明瞭に区別された。
 彼らは、幅広く西側化されている地主、公務員、専門職業人、事業者および知識人とは民族的一体性の意識を感じていなかった。
 ロシアの農民と労働者にとって、彼らは十分にまったくの外国人だった。
 革命的ロシアでの階級敵、burzhui (ブルジョア)は、少なくとも語り方、振舞い方や外観でもってその経済的地位によるのと同様に見分けられた。
 ゆえに、ロシアでの権力に到達する途は、農民大衆や労働者と西欧化されたエリートたちの間の内戦を通じて存在していた。//
 しかし、かりにロシアがイタリアやドイツよりも社会的に複雑でなかったとしても、ロシアは民族的構成の点では相当にこれらよりも複雑だった。
 イタリアやドイツは民族的には同質的だったが、ロシアは、最大の集団は人口の2分の1以下だと記録される、多民族帝国だった。
 公然とロシア民族主義に訴える政治家には、非ロシア人である半分を遠ざけてしまうリスクがあった。
 これは、大ロシア民族主義と明白に同一化するのを避けて、その代わりに民族的に中立的な「皇帝」という考えに依拠した、ツァーリ政府によって認識されていたことだ。
 この理由でもっても、レーニンは、ムッソリーニやヒトラーとは異なる路線を進み、民族的な色合いのないイデオロギーを促進しなければならなった。//
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 (116) Mussolini, Opera Omnie, XVII (Florence, 1955), p.295.
 (117) Kele, Nazis and Workers, p.92.
 (118) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.3.
 (119) Gregor, Fascist Persuation, p.176-7.
(*) コミンテルンの知識ある構成員は、このことを認識していた。
 1923年6月のコミンテルンの会議(Plenum)で、ラデックとジノヴィエフは、ドイツ共産党は、孤立状態を打破するには民族主義的な心性要素と繋がり合う必要があると強調した。
 ドイツにその一つがある「被抑圧」民族の民族主義的イデオロギーは革命的な性格を帯びる、ということでこのことは正当化された。 
ラデックはこの場合について言った。『国家に対する重い負荷は、革命的行為だ』、と。
 Luks, Entstehumg der kommunistischen Faschismustheorie, p. 62. 〔共産主義的ファシズム理論の生成〕
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 ②へとつづく。

1773/三全体主義の共通性⑨-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.276~p.278。
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 Ⅲ・党と社会③
 ムッソリーニは、ヒトラーが従った様式を基礎にした。
 彼は、「自然の」、ゆえに不可侵の権利だと承認することはしないで、私有財産はファシスト国家で存在する余地があると感じていた。つまり、彼にとっては財産所有権は条件つきの権利であって、国家の利益に従属する。国家はそれに介入し、生産手段に関するかぎりは国有化によって廃止する権限をもつ。(104)
 ファシスト政府はしきりに、経営が下手なため、労働関係が悪いためあるいはその他の理由の何であれ、政府の期待に添って活動しない私企業に介入した。
 政府当局はしばしば、労働組合を対等な協力者と見なさなければならなったことに怒りをもつ企業経営者たちと激論した。
 また、利益を「調整」し、経営者を交替させることで、生産や配分の過程にも介入した。
 このような実務に言及して、当時のある人は、ファシズムのもとでは私企業は労働者と同様に統制されるのだから、それを「成功した資本主義」と見なすのは適切でない、と観察した。(105)//
 ナツィスもまた、私企業を廃止する根拠はないと考えた。私企業は協力的で、ヒトラーが主要な経済目標として設定していた再軍備を助けようとしていたから。
 私的事業を許すのは一時的対応措置で、信念の問題ではなかった。
 ファシスト党のように、ナツィス党は私有財産の原理を承認したが、人的資源のごとく生産手段は「共同体」の利益に奉仕しなければならないという理由で、その神聖性を否定した。
 あるナツィの理論家の言葉によれば、「財産権は…もはや私的事柄ではなく、一種の国家による特権であって、『適切な』用法で使われるべき条件次第で制限される」。(106)
 もちろん、「私的事柄」ではない「財産権」は、もはや私的財産ではない。
 国民精神を体現化する総統は、「『共同体の任務』と合致する場合には、意のままに財産権の制限または収奪を行う」権利を有する。(107)
 ドイツ国家社会主義労働党が唯一の合法政党だと宣言した1933年7月14日に、ある法律が党と国家の「利益」に反する全ての財産を没収する権限を与えた。(108)
 共産主義者の実務から直接に借用して同じ目的、つまり急速な再軍備、を意図するナツィの四カ年計画は、国家が経済活動に介入する権能を大きく高めた。//
 『マルクス主義やネオ・マルクス主義の神話をもつ世代の者は、やはりおそらくは、1933年と1939年の間のドイツ経済のような非資本主義的な、または反資本主義的な方向にすら向かう、表向きは資本主義経済なるものを、平和時には決して知らなかった。…
 第三帝国での企業の地位はよくても、屈服することが成功の条件である、不平等な相手同士の社会上の契約の産物だった。』(109)
 土地を処分する農民の権利は、農民を家族の中に守るという考えから、厳格に規制された。
 事業に対する干渉は恒常的にあり、株主配当金として支払うことのできる収益の高さを制限するまでになった。
 ラウシュニンクは、西側の妥協者に対して1939年に、「ナツィスによるユダヤ人財産の収奪は第一歩にすぎず、ドイツの資本家と以前の支配階層の経済的地位を全体的にかつ不可逆的に破壊することの始まりだ」と警告した。(111)//
 ナチズムを「ブルジョア」的性格のものだとするのは、いずれも歴史上の証拠がないと反証される二つの論拠に依拠している。
 ヒトラーが権力への途上にあるときに、彼は産業界や銀行界から経済的な支援を受けた、と広く信じられてきた。
 しかしながら、文書記録上の証拠が示すのは、大企業はヒトラーにわずかの金額しか与えておらず、社会主義的スローガンに疑念をもったために、ヒトラーに対抗する保守諸政党へのそれよりもはるかに少なかった、ということだ。//
 『まったくの事実の歪曲のゆえにのみ、大企業者は(ワイマール)共和国の崩壊について深刻な、あるいは重大ですらある役割を果たしうることになった。…
 共和国解体についての大企業の役割が誇張されてきたとすれば、そのことはヒトラーの権力掌握についてのその役割について、もっと本当のことですらある。…
 国家社会主義労働党の初期の成長は、大規模な企業界からのいかなる大きな援助にもよることなく、生起した。』(112)
 第二に、ナツィ体制の期間のいつのときでも大企業は政策をナツィに押しつけるのは別としてナツィの政策に抵抗できた、ということを示すことはできない。
 あるドイツのマルクス主義歴史家は、ヒトラーのもとでの資本家階層の地位を、つぎのように叙述する。
 『ファシズムの自己認識からすると、ファシストの統治制度の特徴は政治の優越性にある。
 政治の優越がきちんと守られるかぎり、どの集団がその体制から利益を得ているかは関心のない事柄だった。
 ファシストの世界観によれば、経済秩序は二次的な重要性しかもたず、したがって彼らは現存する資本主義秩序も受け入れた。』(*)
 別の学者はこう書く。
 『国家社会主義運動は最初から、政治決定に対して現実的な影響を与えない地位に満足しているかぎりでのみ実業家や特権階層を許容する、そういう新しくて革命的なエリートたちによる統治を目指した。』(113)
 そして彼らは、余裕のある国家秩序やそれが与える収益に満足した。//
 これとの関係では、レーニンはドイツ帝国政府からはもちろんロシアの富裕層から金銭を貰ことに何の呵責も感じなかった、ということを忘れるべきではない。(114)
 権力へと向かっているとき彼は、資本家たち諸団体が新体制と協調関係をもって活動できるように交渉を開始して、喜んでロシアの大企業と協力した。
 その計画は、共産主義を進行させようと強く主張する左翼共産主義者たちの反対によって無意味になった。(115)
 しかし、意図はそこにあった。そして、かりにレーニンが新経済政策を始めた1921年にロシアの大規模な資本主義工業や商業のうちの何かが生き延びていたとするならば、彼はほとんど確実に、それと交渉を始めていただろう。//
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 (104) A. James Gregor, Ideology of Fascism (New York, 1969), p.304-6.
 (105) Beckrath, Wesen und Werden, p.143-4.
 (106) Theodor Maunz, in: Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.146-7.
 Feder, Der deutsche Staat, p.22 も見よ。
(107) Schoenbaum, 引用同上, p.147.
 (108) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.247.
 (109) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.114, p.116.
 (110) Neumann, Permanent Revolution, p.160-p.170.
(111) Rauschning, Revolution of Nihilism, p.56.
 (112) Henry A. Turner, Jr., German Big Business and the Rise of Hitler (New York, 1985), p.340-1.
 (*) Axel Kuhn, Das faschistishe Herrschaftssystem (Hamburg, 1973), p.83.
 この著者は、「ファシスト」をナツィの意味で用いている。
 ワイマール共和国では産業界は「…統治形態に対する驚くべき無関心さを示した」、ということが指摘されてきた。Henry A. Turner , in: AHR(=American Historical Review), Vol. 75, No. 1 (1969), p.57.  
 (113) Neumann, Permanent Revolution, p.170.
 (114) リチャード・パイプス・ロシア革命, p.193, p.369-372, p.410-2。
 (115) 同上、p.676-9。
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 第5節「三つの全体主義体制に共通する特質」終わり。第6節「…相違」へとつづく。

1772/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑨。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 この本での、江崎道朗の大言壮語、つまり「大ほら」は、例えば以下。
 ①p.7「本書で詳しく描いたが、日本もまた、ソ連・コミンテルンの『秘密工作』によって大きな影響を受けてきた」。
 ②p.7-8「コミンテルンや社会主義、共産主義といった問題を避けては、なぜ…、その全体像を理解するのは困難なのだ。本書は、その『全体像』を明らかにする試みである」。
 ③p.15「ソ連・コミンテルンによる『謀略』を正面から扱った本書が、…ならば、これほど嬉しいことはない」。
 ④p.95「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 秋月瑛二のコメント。番号は上に対応。
 ①-「本書で詳しく描いた」というのは本当か?
 ②-「全体像を明らかに」する<試み>をするのはよいが、どの程度達成したと考えているのか。
 ③-「謀略」を「正面から扱った」? いったいどこで?
 ④-なるほど「本書で使っている」資料は全て公開されているのだろう。しかし、コミンテルンに関する「公開」資料のうち、いかほどの部分を江崎は「使って」、「しっかり読み込んで理解」しているのか。江崎のコミンテルンに関する資料・史料の使い方・読み方は、後記のとおり、かなり偏頗だ。
 「公開」資料の全てまたはほとんどを「しっかり読み込んで理解」しているとは思われないので、江崎道朗は「インテリジェンスの第一歩」も踏み出していないことになるだろう。
 この部分はまるで、江崎が「公開」コミンテルン資料を全て又はほとんど読んでいるかの印象も与えるが、これは<大ウソ>。
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 1919年に設立された共産主義インターナショナル(コミュニスト・インター)=コミンテルンについて、「しろうと」にすぎない秋月瑛二ですら、次のようなことは指摘できそうだ。
 第一。共産党-国家(社会主義ロシア・ソ連)-コミンテルンという関係・連関の中で理解する必要がある。
 コミンテルンは共産党や国家(1922年以降のソ連)の対外・外交・戦争政策と深い関係がある。したがって、コミンテルンのみに関して著述がされていなくても、レーニン、スターリンあるいはロシア・ソ連共産党あるいはソヴィエト共産主義に関する(主として歴史)叙述の中で併せてコミンテルンにも言及される、ということがしばしばある。
 江崎道朗は「コミンテルン」をタイトルにする書物だけを検索し参照したとすれば、根本的に間違っている、と言うべきだろう。
 上のことは、共産党やロシア国家の基本的政策・方針が変われば、あるいは揺れれば、コミンテルンのそれも容易に変動するという関係にある、ということでもある。コミンテルンだけを独自の「変数」として取り扱うのは危険だ。
 しかし、共産党=(1922年以降の)ソ連=コミンテルン、と単純に理解することもできない。
 平井友義・三〇年代ソビエト外交の研究(有斐閣、1993)というソ連史アカデミズム内とみられる書物がある。
 目次から安易に引用すると、まず、「第一章/ナチス政権の出現とソ連の対応」の第一節は「ソ連、コミンテルンおよびナチズム」という見出しだ(p.17)。
 当然のようだが、「ソ連、コミンテルン」と<別に>語っていて、両者を一括していないことを確認しておきたい。(江崎道朗とは違って)研究者・学者では常識的なことなのだろう。
 つづくのは、「第二章/コミンテルンにおけるソ連ファクター」だ(p.68-)。そしてここでは、コミンテルンの戦術・方針が「ソ連ファクター」内部での論争によって揺れ動いていることが叙述・分析されているように見える。
 ともあれ、江崎道朗が叙述するのとはまるで異なる次元の、研究・分析の世界があることを、江崎は知らなければならない。
 第二。コミンテルンもまた、歴史的に変遷している可能性がむろんあるのであって、単色で一貫させることはできない。
 「しろうと」的には、少なくとも、①レーニン時代、②スターリン時代の1935年頃まで、③スターリン時代の、1935年のコミンテルンの大きな方針転換(議長はディミトロフ)-「人民戦線」・「反ファシズム統一戦線」への転換-以降。
 すでに書いてしまうと、上の本での江崎のコミンテルンに関する叙述は、ほとんどが上の①、部分的には②あたりにまで焦点を当てすぎているようだ。
 そして、江崎が下記の資料・史料を用いるのはこのあたりの時期のコミンテルンについてであって、重要な上の③については、論及はあるが(江崎p.231以下)、本格的には、あるいはきちんとは叙述していない、と考えられる。
 大雑把には、1920年代、1935年まで、1935年以降と三期に分ける必要があるかもしれない。だが、江崎の上の本のコミンテルンの叙述の仕方には、こうした注意深さはない。
 さらについでに書いてしまうと、前回触れたようにコミンテルンの現在まで続く「流れ」に触れながら、おそらくどこにも、これの後継組織に近いと常識的には理解できる<コミンフォルム>への言及がないようだ。
 戦後の日本共産党史にとって、つまりは1950年頃に同党に対して重要な影響を与えた<コミンフォルム>への言及がおそらく全くないとは、いかに戦前の歴史に対象を限っているとしても、不思議なことだ。
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 江崎道朗が上の本で参照している、または「下敷き」にしている、コミンテルンに関する史料・資料となる書物は、おそらく以下に限られている。しかも、多くは①によっている
 ①ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)
 ③ステファヌ・クルトワら・共産主義黒書-犯罪・テロル・抑圧-<コミンテルン・アジア篇>/高橋武智訳(恵雅堂出版、2006)
 上記のとおり、江崎道朗は「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」と豪語?しているが、何のことはない、この人が読んで(見て)いるのは、これらだけだと思われる。しかも、繰り返せば、ほとんどは、上の①だ。
 江崎道朗による①への依拠ぶりを、<マクダーマットら/萩原直訳・コミンテルン史(大月)>からの直接引用らしき行数をメモしておこう。
 p.50-10行、p.58-2行、p.58-59-4行、p.61-62-3行、p.65-66-9行、p.67-5行、p.68-8行、p.69-70-8行、p.71-72-計16行、p.73-74-計8行、p.75-76-計11行、p.77-5行、p.78-79-計10行、p.80-2行。
 コミンテルンの大会決定・規約等々のそのままの引用だが、これらを単純に合計すると、合計で102行になる。1頁が15行分なので、合計するとほとんど7頁が、つまりは30頁ほどの範囲の約4分の1がこの本からの直接引用で占めているようだ。
 もちろん、この前後に、この本を参照した、または<下敷き>にした、江崎道朗自身の文章が挿入されている。これを合わせると、大雑把にはやはり30頁ほど以上はこの本の影響を受けている。
 たしかに-以下のソースの問題はあるが-引用部分は重要かもしれない。しかし、既述のように、初期の(レーニン時代の)、かつ表向きだけのコミンテルンの公式文書だけを見て、コミンテルンを理解することはできない、と考えられる。
 それにもともと、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)とは、いかなる、いかほどに信頼できる書物なのだろう。
 史料・資料自体は、引用部分に限っては、正確なのかもしれない。
 しかし、この邦訳書を見ると、江崎が引用する典拠としている<付属資料>部分は33頁しかない(p.295~p.327。本文等も含めて、この著の邦訳書自体は計380頁足らず)。
 また、コミンテルンの19の文書だけが資料として添付、掲載され、かついずれも「抜粋」でしかない。
 要するに外国人(イギリス人)著者の二人が選抜した決定等文書19のうちの、かつ彼らが行った「抜粋」なのだ、と思われる(日本人訳者の介在・関与の程度・部分は必ずしも明瞭でない、p.295を参照)。
 その選別や「抜粋」に江崎道朗の判断、選択が加わっているはずはないだろう。
 そういう<狭い>範囲の中から、さらにその一部を江崎は<引用>し、おそらくは自分の説明や叙述の<下敷き>にしている。
 では、この二人は何者なのか(なぜ、大月書店が萩原直訳で出版したのか)、かつまた、コミンテルンに関する「公開」の、つまり日本語で読める翻訳資料・史料は、これ以外になかったのか。要するに、いかほどに江崎道朗は、コミンテルンに関する(日本語のものに限っても)資料・史料の探求を試み、「読み込んで」、「理解」しているのか。
 「政治」評論家・江崎道朗の<安直さ>が-見方によれば、悲惨さと無惨さが-この部分についても、明らかになるだろう。/つづく。

1771/三全体主義の共通性⑧-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.274~p.276。
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 Ⅲ・党と社会②。
 ヒトラーは、教師、法律家、医師および航空士を含む全ての専門家や職業集団を受け容れるナツィが統御する団体の網を、ドイツに張り巡らせた。(97)
 社会民主党の影響が強かったために労働組合は解散させられ(1933年5月)、「労働フロント(戦線)」(Labor Front)に置き換えられた。これは、ムッソリーニの例に倣って、労働者や補助事務職員のみならず雇用主も含むもので、これら三集団はナツィ党の監督のもとで対立を調整することが期待された。(98)
 フロントに加入することは義務だったので、この組織は飛躍的に拡大し、結果として全国民の二分の一を登録することになった。
 労働フロントは、制度的には国家社会主義党の一支部だった。
 やがて、スターリンのロシアでのように、ドイツの労働者は業務に就かないことを禁止され、管理者は当局の許可なくしては労働者を解雇できなくなった。
 1935年6月にヒトラーは、ボルシェヴィキを摸倣して、強制的労働奉仕を導入した。(99)
 こうした政策の帰結は、ソヴィエト・ロシアでのように、国の組織化された生活を党が完全に支配することの受容だった。
 ヒトラーは1938年に、こう誇った。
 『共同体の組織は、巨大で独特なものだ。
 国家社会主義共同体の組織のいずれかに所属して働いていないドイツ人は、現時点でほとんどいない。
 それは全ての家、全ての職場、全ての工場に、そして全ての町と村に達している。』(100)//
 ファシスト党とナツィ党は、レーニンのロシアでのように、情報を政府に独占させた。
 ロシアでは全ての独立系新聞と定期刊行物が、1918年8月までに廃刊させられた。
 1922年の中央検閲機構、グラヴリト(Glavlit)、の設立によって、印刷される言葉に対する共産党の支配は完全になった。
 同じような統制が劇場、映画館その他の全ての表現形態で確立され、それはサーカスをもすら含んでいた。(*)//
 ムッソリーニは権力掌握後一年以内に、非友好的な新聞の編集部署や印刷工場を嵐のごとく暴力的に襲って、自立したプレスを攻撃した。
 マテオッティ(Matteotti)の殺害の後は、「ウソの」報道をする新聞に対して重い罰金が科された。
 ついに1925年、プレスの自由は公式に廃絶され、政府は報道内容や社説の画一性を要求した。
 そうであっても、出版物の所有権は私人にあり、外国の出版物は入ることが許され、教会は、決してファシストの政綱と接触しなかったその日刊紙、<Osservatore Romano(オッセルヴァトーレ・ロマーノ)>を刊行することができた。//
 ドイツではヒトラーが政権を獲得して数日以内に、緊急時諸立法によって、プレスの自由は制限された。
 1934年1月に、プレスが党の指令に従うのを確実にすべくライヒ(国家)「プレス指導官」が任命された。これは、非協力的な編集者や執筆者を馘首する権限をもった。//
 法に関するナツィの考え方は、ボルシェヴィキやファシストと同じだった。すなわち、法は正義を具体化したものではなく、支配のための道具にすぎない。
 超越的な倫理基準なるものの存在は否定された。道徳は主観的なもので、政治的な規準によって決定されるものだとされた。
 レーニンに同意しなかっただけの社会主義者を「裏切り者」だと誹謗したことをアンジェリカ・バラバノフ(Angelica Balabanoff)に咎められたとき、レーニンはこう語った。
 『プロレタリアの利益のために行われたことは全て、誠実な(honest)ものだ。』(101)
 ナツィスはこの偽りの道徳観を、アーリア人種の利益に役立つものが道徳だとする人種的語法へと、翻訳した。(**)
 一方は階級にもとづく、他方は人種にもとづく、倫理の定義でのこうした転化は、法と正義に関する類似の考え方を帰結させる。
 ナツィの理論家はいずれをも、功利主義の方法でもって取り扱った。
 「法とは、人民に利益となるものだ。」
 ここで「人民」とは、1934年7月に自分を「至高の裁判官」に任命した総統の人格と同一体だ。(+)
 ヒトラーはいずれは司法制度全体を廃棄する必要があるとしばしば語ったが、当分の間はそれを内部から破壊することを選んだ。
 ナツィス党はそれが定義する「人民に対する犯罪」を裁くために、ボルシェヴィキを摸倣して、二つの類型の裁判所を導入した。すなわち、レーニンの革命審判所の対応物である「特別裁判所」(Special Court, Sondergericht)と、ソヴェト・ロシアと同じ名の類似物である「人民裁判所」(People's Courts, Volksgerichtshofe)。
 前者では通常の法手続は、党による簡潔な評決によって除外された。
 ナツィの時代の間ずっと、犯罪が政治的性質があると宣告されるときはつねに、法的証拠の必要は免除された。(102)
 「健全な<人民>(Volk)の感覚」が、有罪か無罪かを決定する主要な手段になった。//
 そのような表面のもとで、一方での共産主義の実際と他方でのファシズムおよび国家社会主義のそれとの間には大きな相違が、私的財産に対するそれぞれの態度に存在した。
 多くの歴史家がムッソリーニとヒトラーの体制を「ブルジョア的」かつ「資本主義的」だと分類する理由になっているのは、この点の考察のゆえだ。
 しかし、これらの体制が私的財産を扱う態様をより正確に見るならば、これらは所有権を不可侵の権利ではなく、条件つきの特権だと考えていることが明瞭になる。//
 ソヴェト・ロシアではレーニンの死の頃までに、全ての資本と生産財は国有財産だった。
 農民たちから自分の生産物を処分する権利を剥奪した1920年代後半の農業の集団化によって、私有財産の廃絶は完成した。
 ソヴィエトの統計資料によれば、国家は1938年に、全国の国民所得の99.3パーセントを所有していた。(103)//
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 (97) Unger, Totaltarian Party, p.71-p.79. 
 (98) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.82-p.85.
 (99) 同上、p.79。
 (100) Unger, Totaltarian Party, p.78.
 (*) 以下の〔本書〕第6章を見よ。  
 (101) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (Ann Arbor, Mich., 1964), p.7.
 (**) ヒトラーは正義を「支配の一手段」と定義した。彼は、「良心とはユダヤ人の発明物だ、それは割礼のごとく汚辱だ」と言った。Rauschning, Hitler Speaks, p.201, p.220.
 (+) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.235, p.394.
 法に関するナツィの観念と実際に関する詳しい議論のために、以下を見よ。
 Ernst Fraenkel, The Dual State (New York, 1969), p.107, p.149.
 道徳とはその人民の利益となるもの全てだという考え方は、「ユダヤ人の利益となる全てのものは、道徳的で神聖だ」と述べようとした、<シオン賢者の議定書(プロトコル)>から導かれたと言われる。Hannah Arendt, Origins, p.358.
 (102) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.395.
 (103) Strany mira: Ezhegodnyi Spravochik (Moscow, 1946), p.129.
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 党と社会③へとつづく。

1770/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑧。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08)
 この本のp.95にこうある。コミンテルンの「流れは、現在に至るまで脈々と続いている」。
 そしてつづけて、「国際共産主義運動による様々な工作」を防ぐ必要のあることを、現在の日本の問題として叙述している。
 これはよし、と言ってよい。<現在の日本と共産主義>という問題意識が全くないか、きわめて薄い<保守>なる人物が、日本にはきわめて多数いるのだから。
 しかし、次のように記す江崎道朗はいかほどに共産主義・コミンテルン等々の「理論」を「理解」できているのか。
 「国際共産主義運動による様々な工作を防ぐ必要があると思うのなら、彼らがこのような理論に基づいて戦っていることを理解する必要がある」-p.95。 
 本格的に上掲著に論及し始めた最初に、たしか、この人は国家・党・コミンテルンの区別ができていない、と指摘した。
 今思うに、江崎道朗にとっては、高次すぎる問題だったような気がする。
 はたして江崎は、中国共産党の党大会と中国(国家)の全人代の区別ができているのだろろうかと、はなはだ疑問に思っている。
 さしあたりここでの結論的指摘を書いておくと、この人、つまり江崎道朗は、「コミンテルン」という語を単色の符号のようなものとして用いていて、ソ連や同共産党等といちおうは区別しなければならない、という意識がない、と想定される。
 「ソ連」と「コミンテルン」を混用していることはすでに例・頁数を示して指摘した。
 こんな例もある。
 p.33-「近衛政権の中枢にソ連のスパイがいた…」。
 同-「ゾルゲは…、実際には、ソ連の赤軍情報部(GRU)のスパイであり、尾崎らをメンバーとするスパイ組織を率いていた」。
 いずれも、「コミンテルン」のスパイではないことを自ら書いているに等しいが、おそらく江崎には、何ら気にならないのだろう。 
 要するに、ソ連も共産党も「コミンテルン」も全てが、彼には「コミンテルン」という語で一括できるものなのだ。
 そしてまた、タイトルに「コミンテルンの謀略」と掲げながら、積極的な「工作」がなくとも自ら進んでソ連等のためになるような行動を客観的にはすることもまた江崎は「謀略」活動の一環としてかなり強調して叙述しているので、「コミンテルンの謀略」とは、江崎道朗にとっては、要するにロシア・ソ連以外の日本やアメリカにもいる(ある)「共産主義(者)」の親共産主義的活動のことなのだ。
 とすると、タイトルは正確には、<共産主義と(日本の)戦争>という意味であることになる。
 こうなると、江崎の本自体が(ようやく?)後半になって参照文献として登場させている、三田村武夫・戦争と共産主義(1950年。改題、1987年。呉PASS出版・復刻2015年)と主題は同一で、江崎の本は60年以上前の本の指摘・叙述をいかほどに上回っているのか、という問題も出てくるだろう。
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 ロシア・ソ連、共産党(ボルシェヴィキが1918年に改称)、コミンテルンの関係は微妙で、むろん江崎道朗のように一括して単純化することができなくはない。
 しかし、最近に試訳したアメリカのロシア史学者(但し、R・レーガン政権で対ソ連政策補佐官)のR・パイプスの本が「党」=ボルシェヴィキ又は共産党のことを明確に「私的組織」と記述しつつ、近代以降の欧米政治思想の「標準的範疇・概念」にうまくフィットしない旨をと述べているように、また問題がなくはないが<一党国家>(one-party state)という語もあるように、<共産党>はたんなる一政党ではなく、しかし国家そのものでもないという、独特な位置を占める。
 そもそもは江崎道朗が何ら知らないと見られる、つぎのことに由来するかもしれない。
 10月「革命」直後にソヴィエト執行委員会のもとにソヴナルコム(人民委員会議)が形成されて、レーニンは「人民委員会議の議長」(実質的に「首相」とも言われる。外務大臣=外務人民委員はトロツキー、民族問題長官はスターリン)だった。これは、(ソヴェトとは何だったかが本当は疑問になるが)いちおうは<国家>の機構だ(但し、実質的に「布令」・「布告」という立法権も有したので単純に今日の日本の「内閣」と理解すると間違い)。
 一方、レーニンはボルシェヴィキ党(1918年に共産党に改称。ゆえに「共産党(ボ)」という表記がのちのちにまで続く)の中央委員会の長(「委員長」という語は文献上は出てこないようだ)であり続けた。
 国家・「内閣」の長であり、党の長でもある。しかし、両者は形式的にはずっと「別」のものではあった。中国の習近平は中国の国家主席かつ中国共産党のトップだ。
 余計なことも書いたが、要するに、江崎道朗は、こうしたことにまるで関心がないと思われる。<国家と党>の関係に立ち入ることなくして、今日の「国際共産主義運動」を語れるのだろうか(なお、北朝鮮における国家・党(北朝鮮と労働党)の関係も興味深い)。
 また、ロシア「革命」と「ソ連」設立の時期、ロシア・ソ連国家内部の機構の関係にまるで関心がないか無知な江崎の本だからこそ、つぎのような叙述もできる。
 p.61はつぎのように明記する。コミンテルンが「1919年3月にモスクワで結成される」、と。
 ところで、「ソ連」設立は1922年で、コミンテルン(第三インター)創設よりも後。
 事実はそうなのだが、つぎの文章はどういう意味だろう。
 p.81-チェカは「ボルシェヴィキ(ソ連共産党)が権力を掌握してから6週間足らずのうちに設立」された。
 p.83-チェカは「ソ連共産党(ボルシェヴィキ)が奪取した権力を維持する上で不可欠の装置だった」。
 江崎はボルシェヴィキ=ソ連共産党だと「思い込んで」いる。
 ソ連設立前に「ソ連共産党」がある筈はない。
 時期を確かめないが、ロシア社会民主(労働)党がメンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に決定的に分裂したときが「ボルシェヴィキ」党創立だとすると、1917年よりもとっくの前から、レーニンが指揮するボルシェヴィキ党は存在している。上に触れたが、1918年春に「共産党」と改称したが、むろんそのときは「ロシア共産党」。
 江崎道朗の関心のなさまたは無知は、チェカと赤軍(情報部)に関する叙述にも見られる。
 チェカと赤軍(情報部)はもともと別の目的を持つ機関のはずだが、江崎の本のp. 84は「国外からの反革命に対しても、当初はチェカーが対応していた」と記して何とかつないでいるようだ。
 但し、外国やその組織の「策略」・「使嗾」による<国内での>反革命運動・人物ならば当然にチェカの監視等の権限の範囲になる。
 それはともかくとしても、p.81-p.82のチェカやジェルジンスキーに関する叙述はいったい何なのだろう。
 「コミンテルン」なるものの中に、江崎は当然にロシア・ソ連国内の「政治秘密警察」部門も含めることになる。全てが<ごちゃごちゃ>だ。
 また、ジェルジンスキーが強く関与することになったと江崎が書く「赤軍・情報部」とはどういう組織なのか。
 江崎道朗はトロツキーの主張として叙述する中で、p.84に「赤軍(ソ連共産党軍)参謀本部に情報部門を設置すべきだ」と彼は主張した、旨を記している。
 トロツキーが赤軍=「ソ連共産党軍」と理解しているはずはない。
 江崎に尋ねたいものだ。ソ連共産党には「軍」があり、ロシア革命後の国家であるロシア・社会主義共和国連邦やソ連には「軍隊」はなかったのか?
 いや,江崎道朗には、どうでもよいことなのだろう。
 社会主義ロシアもソ連もボルシェヴィキ・共産党もどうだってよいのだ、この人には。さらに、これらと「コミンテルン」の区別もまた、この人にはどうだってよいのだ。
 今回の冒頭に記したように、共産主義(者)=「コミンテルン」なのだ、江崎道朗にとっては。ああ、恥ずかしい。/つづく。

1765/三全体主義の共通性⑤-R・パイプス別著5章5節。

 現在試訳を掲載しているのは、つぎの①の第5章第5節の一部だ。
 ①Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。計976頁。
 リチャード・パイプスには、この①でもときに参照要求している、つぎの②もあり、この欄でもすでに一部は試訳を掲載している。
 ②Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990, paperback; 1997)。計944頁。
 既述のことだが、これら二つの合冊版または簡潔版といえるのがつぎの③で、邦訳書もある。
 ③Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1996)。計431頁。
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。計444頁。
 邦訳書ももちろん同じだが、この③には、現在試訳中の②の『共産主義・ファシズム・国家社会主義』の部分は、全て割愛されている(他にもあるが省略)。歴史書としての通常の歴史記述ではないからだと思われる。
 したがって、この部分の邦訳は存在しないと見られる。
 前回のつづき。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。-第5節/三つの全体主義に共通する特質。
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 Ⅱ・支配党と国家②。
 首相に指名された2カ月のちの1933年3月に、ヒトラーは国会(Reichstag)から「授権法律」(Enabling Act)を引き出した。それによって議会は4年の期間、立法する権能を自ら摘み取った。-のちに分かったように、実際は、永遠にだったが。
 そのときから12年後のその死まで、ヒトラーは、憲法を考慮することなく発せられた「非常時諸法律」(emergency laws)という手段によって、ドイツを支配した。
 彼は、バイエルン、プロイセンその他という歴史的存在の統治機構を解体することによって、ドイツ帝国およびワイマール・ドイツのいずれにおいても連邦国家制を享有していた権力を絶滅させ、そうして、ドイツで最初の単一国家を産み出した。
 1933年の春と夏には、自立した政党を非合法のものにした。
 1933年7月14日、ナツィス党は唯一の合法的な政治組織だと宣言された。そのときヒトラーは、全く不適切なのだが、「党は今や国家になった」と強く述べた。
 現実には、ソヴィエト・ロシアでと同じく、ナツィ・ドイツでは、党と国家は区別された(distinct)ままだった。(89)//
 ムッソリーニもヒトラーも、法令、裁判所および国民の公民的権利を、レーニンがしたようには、一掃することがなかった。法的な伝統は二人の国に、合法的に法なき状態にするには、深く根づいていたのだ。
 その代わりに、西側の二人の独裁者は、司法権の権能を制限し、その管轄範囲から「国家に対する犯罪」を除外して秘密警察に移すことで満足した。//
 ファシスト党は、効果的な司法外のやり方で政治的対抗者を処理するために、二つの警察組織を設立した。
 一つは1926年以降は反ファシズム抑圧自発的事業体(OVRA)として知られるもので、党ではなく国家の監督のもとで活動する点で、ロシアやドイツの対応組織とは異なっていた。
 加えて、ファシスト党は、政敵を審判し幽閉場所を管理する「特別法廷」をもつ、それ自身の秘密警察をもっていた。(90)
 ムッソリーニは暴力を愛好すると頻繁に公言したけれども、ソヴィエトやナツィの体制と比べると、彼の体制は全く穏和的で、決して大量テロルに頼らなかった。すなわち、1926年と1943年の間に、総数で26人を処刑した。(91)
 これは、スターリンやヒトラーのもとで殺戮された数百万の人々とは比べようもなく、レーニンのチェカ〔秘密政治警察〕がたった一日に要求した一片の犠牲者数だ。//
 ナツィスはまた、秘密警察を作り上げるにもロシア・共産主義者を見倣った。
 ナツィスが一つは政府を守り、もう一つは公共の秩序を維持する、という異なる二つの警察組織を創設するという(19世紀初頭のロシアに起源をもつ)実務を採用したのは、共産主義者を摸倣したものだ。
 これらは、それぞれ、「安全警察」(Sicherheitspolizei)および「秩序警察」(Ordnungspolizei)として知られるようになった。これらは、ソヴィエトのチェカやその後継組織(OGPU、 NKVD等々)および保安部隊(the Militia)に対応する。
 安全警察、またはゲシュタポ(Gestapo)は、党を一緒に防衛したエスエス(SS)と同様に、国家の統制には服さず、その信頼ある同僚のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)を通じて、直接に総統のもとで活動した。
 このことはまた、レーニンがチェカについて設定した例に従っていた。
 いずれの組織も、司法の制度と手続によって制約されなかった。チェカやゲベウ(GPU)のように、それらは強制収容所(concentration camp)に市民を隔離することができた。そこでは、市民は全ての公民的権利を剥奪された。
 しかしながら、ロシアでの対応物とは違って、それらにはドイツ公民に対して死刑判決を下す権限はなかった。//
 公共生活の全てを私的な組織である党に従属させるこれらの手段は、西側の政治思想の標準的な範疇にはうまく適合しない、一種の統治機構(政府、government)を生み出した。
 アンジェロ・ロッシ(Angelo Rossi)がファシズムについて語ることは、もっと強い手段でなくとも同等に、共産主義および国家社会主義にあてはまるだろう。//
 『どこであってもファシズムが確立されれば、他のこと全てが依存する、最も重要な結果は、人々があらゆる政治的な活動領域から排除されることだ。
 「国制改革」、議会への抑圧、そして体制の全体主義的性格は、それら自体が評価することはできず、それらの狙いと結果の関係によってのみ評価することができる。
 <ファシズムとは、ある政治体制を別のものに置き換えるにすぎないのではない。
 ファシズムとは、政治生活自体の消滅だ。それは国家の作用と独占体になるのだから。>』(92)//
 このような理由づけにもとづいて、ブーフハイム(Buchheim)は、つぎの興味深い示唆を述べている。全体主義について、国家に過剰な権力を授けるものだと語るのは、適切ではないだろう、と。
 そのとおり、それは国家の否定なのだ。//
 『国家と全体主義的支配の多様な性質を見ると、まだなお一般的になされているように「全体主義国家」に関してこのような言葉遣いで語るのは矛盾している。…
 全体主義の支配を国家権力の過剰と見るのは、危険な過ちだ。
 現実には、政治生活と同様に国家も、適正に理解するならば、我々を全体主義の危険から防衛する、最も重要な前提的必要条件なのだ。』(93)
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 (89) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.251, p.232.
 (90) Friedrich and Brzezinski, Totalitarian Dictatorship, p.145. 
 (91) De Felice in Urban, Euro-communism, p.107.
 (92) Rossi, The Rise, p.347-8. < >は強調を付けた。
 (93) Buchheim, Totaritarian Rule, p.96.
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 ⑥/③へとつづく。

1764/三全体主義の共通性④-R・パイプス別著5章5節。

 つぎの本の第5章第5節の試訳のつづき。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、p.266-7。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第5節/三つの全体主義に共通する特質。

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 Ⅱ〔第二款〕・支配党と国家①。
 レーニンのように、ヒトラーとムッソリーニは、国家を奪い取るために彼らの組織を用いた。
 三つの国全てにおいて、支配党は私的な組織として機能した。
 イタリアでは、ファシスト党はたんに「国家の司令に服する公民と志願者の兵団」だという虚構が維持された。見かけ上のこととして、かりに政府の官僚(長官たち)が形式上はファシスト党の職員たちよりも優越していたとしても、真実(truth)は真逆だったけれども。(85)//
 ボルシェヴィキ、ファシストおよびナツィの各党が各国での統治を行っていく態様は、全ての実際的目的について、全く同一だった。すなわち、ひとたびレーニンの原理を取り込んでしまうと、その実行は比較的に容易な態様になった。
 いずれの場合も、党は、無制限の権力を求める途上にある諸制度を吸収するか骨抜きにするかのいずれかをした。
 第一に、国家の執行機構と立法機構、第二に、地方自治機関。
 これらの国家諸装置は、党の指令に直接に従うように設けられてはいなかった。
 国家は独立して行動しているとの印象を与えるために、注意深い方策が採られた。
 党は中心的な執行機構上の地位に党員を配置することによって、行政を動かした。
 このような欺瞞についての説明は、全体主義「運動」は、その名が示すようにダイナミックで流動的たが、行政は静態的なので固い構造と確かな規範を必要とする、ということだった。
 ナツィ・ドイツに関するつぎの観察は、同様に共産主義ロシアにもファシスト・イタリアにも当てはまる。//
 『運動それ自体は政治的決定を行い、機械的な実施は国家に委ねる。
 第三帝国の間に叙述されたように、運動は民衆の指導(Menschenfuehruug)を行い、対象物の管理(専門行政、Sachverwaltung)は国家に委ねる。
 (いかなる規範によっても指揮されない)政治的な基準と(技術的な理由で不可避である)規範との間の公然たる衝突を可能なかぎり回避するために、ナツィ体制は、表向きは、できるだけ合法的形態に近くなるようにその行動を取り繕った。
 しかしながら、この合法性は、決定的な意味を持たなかった。
 それは、二つの相容れない支配形式の溝に橋渡しをすることだけに役立った。』(86)//
 ある初期のファシズムの研究者が「近代史で知られる最も異常な国家の征服」だと見なした(87)「諸装置の征服」は、もちろん、ソヴィエト・ロシアで1917年10月の後で起きた同じ過程のたんなる模写物(copy)だ。//
 ボルシェヴィキは10週間の事態の中で、ロシア中央の執行機構と立法機構を服従させた。(88)
 彼らの任務は、1917年早くにツァーリ体制がその官僚制とともに消失していたことによって容易になっていた。臨時政府が充填することのできなかった権力の空白が残っていたのだ。
 ムッソリーニやヒトラーとは違って、レーニンは、作動している国家制度ではなく、アナーキー(無政府状態)と対向した。//
 ムッソリーニは、はるかに余裕をもった早さで、ことを進めた。
 彼は、ローマを占領したのち5年以上経って、1927-28年にだけ、事実上かつ法的に(de fact, de jure)、イタリアの独裁者だった。
 対照的にヒトラーは、ほとんどレーニンの早さで行動し、6カ月の間に国家の支配権を獲得した。//
 ムッソリーニは1922年11月16日に、下院(代議会、the Chamber of Deputies)に対して、「国民の名前で」彼が権力を掌握したということを知らせた。
 下院には、この事実を是認するか解体に直面するかの選択があった。そして、是認した。
 しかし、ムッソリーニはしばらくの間は立憲的に統治するふうを装い、ゆっくりと、熟慮しつつ一党体制を導入した。
 彼は、最初の一年半の間、いくつかの独立した政党の議員を、ファシスト党が支配する内閣の中に含み入れた。
 彼はこのような見せかけを、ジアコモ・マテオッティ(Giacomo Matteotti)の殺害に対する強い攻撃が始まったあとの1924年になってようやく、終わらせた。マテオッティは、ファシスト党の違法な行為を暴露していた社会党の代議員だった。 
 そうであってすら、彼は対抗政党の組織が作動するのを、しばらくの間は、許した。
 ファシスト党は、1928年12月に、唯一の合法的な政治団体だと明示された。このときに、イタリアでの一党国家の形成過程は完了したと言われている。
 諸州に対する統制は、ボルシェヴィキから借りた手段によって、つまり地方のファシスト党活動家に地方長官を監督させ、統領の指示を彼らに渡すことによって、確保された。//
 ナツィ・ドイツでは、政府と私的団体に対する党の支配の確立は、<画一化(Gleichschaltung)>あるいは<同期化(Synchronization)>(*)という名でもって行われた。
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 (85) M. Manoilescu, Die Einzige Partei (Berlin, (1941)), p.93.
 (86) Buchheim, Totalitarian Rule, p.93.
 対象となっているのは、フレンケル(Fraenkel)の<二重国家>(Dual State)だ。
 (87) Beckerath, Wesen und Werden, p.141.
 (88) リチャード・パイプス・ロシア革命、第12章。
 (*) この言葉は元々は、ドイツの連邦国家性を中央集権的国民国家へと統合することのために用いられた。しかしやがて、より広い意味を持つに至り、従前の全ての独立した組織がナツィ党に従属することだと定義された。以上、Hans Buchheim, Totarian Rule (Middletown, Conn., 1968), p.11.
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 段落の途中だが、区切る。⑤/②へとつづく。

1763/三全体主義の共通性③-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章第5節の試訳のつづき。p.264-6
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 Ⅰ〔第一款〕・支配党。
 ボルシェヴィキ独裁までは、国家は統治者と統治される者(臣民または市民)から成っていた。
 ボルシェヴィズムは、つぎの第三の要素を導入した。統治機構(政府)と社会の両者を支配し、一方で自らを両者のいずれの統制も及ばない位置に置く、単一政(monopoistic)の党。すなわち、実際には党ではなく、政府ではないままで統治し、民衆をその同意なくして民衆の名前で支配する党。
 「一党国家(One-party state)」とは、間違った言葉だ。なぜなら、第一に、全体主義国家を作動させる実体は、受容されている言葉の意味での政党では、実際にはない。第二に、党は国家から離れて存在する。
 党は、全体主義体制の、本当に際立つ特性だ。その真髄的な属性が。
 党は、レーニンが創ったものだった。
 ファシスト党とナツィスは、このモデルを忠実に写し取った。//
 A・エリート結社(Order)としての党。
 党員数を拡大しようとする本当の政党とは異なり、共産党、ファシストおよびナツィスの組織は、本来的に、排他的だった。
 入党は、社会的出自、人種または年齢といった規準によって厳密に審査され、党員たちの隊列からは、望ましくない者が定期的に洗い出され、追放(purge)された。
 この理由から、党員組織は、仲間うちで選ばれて永続する、エリートの「兄弟結社」または「指導的友愛組合」に似ていた。
 ヒトラーはラウシュニンクに、「党」はナツィス党(NSDAS)にあてはめるのは実際のところ間違った名称だ、「結社(Order, 独語=Orden)」と呼んだ方がよい、と語った。(78)
 あるファシスト理論家はムッソリーニの党のことを、「教会、すなわち、忠誠の宗派組織、至高で無比の目的に忠実な意思と意図をもつ一体」だと論及した。(79)//
 三つの全体主義組織は、在来の支配集団ではない外部者によって指揮された。つまり、ロシアでのように後者を破滅させたり、または別の並行する特権をもつ国家を確立してやがてはそれを自らに従属させる、孤立した者たちによって。
 この性質はさらに、通常の独裁制から全体主義的独裁制を区別するものだ。通常の独裁制は、自分たち自身の政治機構を創り出すことなく、官僚制、教会や軍隊のような、支配のための伝統的な制度に依存する。//
 イタリアのファシスト党は入党に関する最も厳格な基準を設け、1920年代には党員総数を百万人以下に制限した。 
 若者が、優先された。彼らは、共産主義ピオネールやコムソモルを真似たバリラ(Ballila)や前衛(Avanguardia)といった青年組織での役職を経たうえで、入党した。
 つぎの10年間に党員数は拡大し、第二次世界大戦でのイタリアの敗北の直前に、ファシスト党の党員数は400万以上に昇った。
 ナツィスには、入党に関する最も緩い基準があった。1933年に「日和見主義者」を除外するのを試みたのちに緩和して、体制が崩壊するときまでには、ドイツ人成人男性のほとんど4人に1人(23パーセント)が党員だった。(80)
 ロシア共産党の政策は、これら二つの間のどこかにあった。あるときは行政上および軍事上の必要に応じて党員数を拡大し、あるときは大量の、ときには流血を伴う追放をして党員数を減少させた。
 しかしながら、三つの場合の全てで、党に所属するのは特権だと考えられており、入党は招聘によってなされた。//
 B・指導者。
 彼らは客観的な規範がその権力を制限することを拒否したので、全体主義体制は、その意思が法にとって代わる一人の指導者を必要とした。
 かりに所与の階級または民族(または人種)の利益に奉仕することだけが「真」や「善」であるならば、たまたまのいつのときにでもこの利益が何かを決定するvozhd' (指導者)、Duce(統領)、または Fuerhrer (総統)という人物による最終裁決者が存在しなければならない。
 レーニンは実際には(ともかくも1918年以降は)自らで決定したけれども、自分が無謬であるとは主張しなかった。
 ムッソリーニとヒトラーはいずれも、そう主張した。
 「Il Duce a sempre ragione」(統領はつねに正しい(right))は、1930年代にイタリアじゅうに貼られたポスターのスローガンだった。
 1932年7月に発布されたナツィ党規約の最初の命令文は、「ヒトラーの決定は、最終のもの(final)だ」と宣告した。(81)
 別の指導者が奪い取らないかぎり、成熟した全体主義体制はその指導者の死を乗り越えて生き残るかもしれないが(レーニンとスターリンの死後にソヴィエト同盟でそうだったように)、一方では、やがては全体主義的特質を失って少数者独裁へと変わる集団的独裁制になる。
 ロシアでは、その党に対するレーニンの個人的な独裁は、「民主集中制」(democratic centralism)のような定式および非個性的な歴史の力を持ち出して個人の役割を強調しない習慣、によって粉飾(カモフラージュ)された。
 にもかかわらず、権力掌握後の一年以内にレーニンが共産党の疑いなき親分(boss)になった、そして彼の周りには紛れもない個人カルトが出現した、というのは本当のことだ。
 レーニンは、自分自身の考え方とは異なるそれを、ときにそれが多数派だったとしても、決して許容しなかった。
 1920年までに、「分派」(factions)を形成するのは党規約に対する侵犯であり、除名でもって罰せられるべきものだった。「分派」とは、最初はレーニンについでスターリンに反対して協力行動をする全ての集団のことだ。レーニンとスターリンだけは、「分派主義」という責任追及から免れていた。(82)//
 ムッソリーニとヒトラーは、共産主義者のこのモデルを見習った。
 ファシスト党は、集団的に作動しているという印象を与えるべく設計した、念入りの組織の外観を作っていた。しかし、党の誰にも、「Gran Consiglio」、党の全国大会にすら、実際上の権威はなかった。(83)
 党官僚たちは、彼ら全員がその採用について統領(Duce)か自分を指名した人物かに負っていたのだが、その人物への忠誠を誓約した。
 ヒトラーは、自分の国家社会主義党に対する絶対的な支配権について、このような粉飾という面倒なことすらしなかった。
 ヒトラーはドイツの独裁者になるずっと前に、レーニンのように厳格な紀律(つまり自分の意思への服従)を強く主張することによって、また再びレーニンのように彼の権威を弱体化させるだろうような他の政治団体との連立を拒否することによって、党に対する完全な支配を確立していた。(84)
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 (78) リチャード・パイプス・ロシア革命、p.510n。
 (79) Sergio Panunzio。以下から引用-Neumann, Permanent Revolution, p.130.
 (80) Aryeh L. Unger, The Totalitarian Party (Cambridge, 1974), p.85n. 〔アンガー・全体主義政党〕
 (81) Giselher Schmidt, Falscher Propheten Wahn (Mainz, 1970), p.111.
 (82) 以下〔この著〕、 p.455 を見よ。
 (83) Beckerath, Wesen und Werden, p.112-4. 
 (84) 共産党とナツィ党は、アンガー(Unger)の<全体主義政党>の中で比較されている。
 1933年以前のヒトラーによるナツィ党(NSDAS)の支配については、Bracher, Die deutsche Diktatur, p.108, p.143 を見よ。
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 ④-Ⅱ「支配党と国家」へとつづく。

1761/三全体主義の共通性①-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.262-3.
 つぎの節の大部分にはさらに下の見出しが付いているので、原著にはないが、初めの部分にかりに「序説」という表題を付けておく。
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 第5節・三つの全体主義体制に共通する特質①-序説①。
 (序説)
 三つの全体主義体制は、いくつかの点で異なる。この相違については、いずれきちんと論述するだろう。
 しかしながら、それらを結合するのは何かは、それらを分離するものは何かよりもずっと重要だ。
 第一に、最も重要なのは、共通する敵があることだ。すなわち、複数政党システム、法と財産の尊重、平和と安定という理想をもつ、リベラルな民主政体(liberal democracy)。
 レーニン、ムッソリーニおよびヒトラーの「ブルジョア民主主義」と社会民主主義者に対する激しい非難は、完全に相互交換が可能だ。//
 共産主義と「ファシズム」の関係を分析するためには、「革命」とはその本性からして平等主義的(egalitarian)かつ国際主義的で、一方のナショナリストによる変革は本来的に反革命的だとの伝来的な考え方を正さなければなければならない。
 こうした考え方は、ヒトラーのような率直なナショナリストが革命的願望を持っているはずはないと信じて、最初に彼を支持したドイツの保守派が冒した過ちだ。(70)
 「反革命」という語は、1790年代のフランスの君主制主義者が本当にそう考えたように、革命を取り消して以前の状態(status quo ante)に戻そうとする運動についてだけ、適正に用いることができる。
 「革命」を現存する政治体制を、つづいて経済、社会構造および文化を、突然に転覆させることを意味すると定義するならば、この用語は同等に、反平等主義的なおよび外国人差別の大変革にも適用することができる。
  「革命的」という形容詞は、変化の内容ではなく、それが達成される態様-すなわち、突然にかつ暴力的に(violently)-を描写するものだ。
 したがって、左翼による革命を語るのと同様に右翼による革命を語るのは適切だ。
 この二つが共存できない敵として相互に対立しているということは、有権者大衆をめぐって競争することに由来し、方法または目標の不一致に由来するのではない。
  ヒトラーもムッソリーニも、自分を革命家だと思っていた。正しく(rightly)、そう考えた。
 ラウシュニンクは、国家社会主義の目標は、実際には、共産主義とアナキズムのいずれよりも革命的だ、と主張した。(71)//
  しかしおそらく、三つの全体主義運動の間の最も根本的な親近性(affinity)は、心理(psychology)の領域に横たわっている。
 共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、大衆の支持を獲得するために、そして民主主義的に選出される政府ではなく自分たちこそが民衆の本当の意思を表現しているという主張を強化するために、民衆の憤懣(resentments)-階級、人種、民族-を掻き立てて、利用した。
 これら三つは全て、憎悪(hate)という感情に訴えたのだ。//
 フランスのジャコバン派は、階級的憤懣の政治的潜在力を認識した最初のものだ。
 彼らはそれを利用して、貴族制主義者その他の革命の敵による恒常的な陰謀を手玉にとった。ジャコバン派は没落する直前に、間違いなく共産主義的な含意をもつ、私有の富を没収する法令案を作った。(72)
 マルクスが歴史の支配的な特質として階級闘争の理論を定式化したのは、フランス革命とその影響に関する研究からだった。
 彼の理論で、社会的な敵意(antagonism)は初めて道徳上の正当性を授けられた。ユダヤ教を自己破壊的なものと非難し、(怒りの外装をまとう)キリスト教を大罪の一つだと見なす憎悪(hatred)は、美徳に作り替えられた。
 しかし、憎悪は両刃の剣で、犠牲者たちは自己防衛のためにそれを是認した。
 19世紀の終わりにかけて、階級戦争のための社会主義的スローガンとして民族的および人種的憤懣を利用する教理が出現した。
 1902年の予言的書物、<憎悪のドクトリン>で、アナトール・ルロイ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu)は、当時の左翼過激主義者と右翼過激主義者の間の親近性に注意を促し、両者の共謀性を予見した。それは、1917年のあとで現実になることになる。(73) //
 レーニンが富裕層、つまりブルジョア(the burzhui)に対する憤懣を都市の庶民や貧しい農民を結集させるために利用した、ということについて詳しく述べる必要はない。
 ムッソリーニは、階級闘争を「持てる」国家と「持たざる」国家の対立として再定式化した。
 ヒトラーは、階級闘争を人種や民族の間の対立、すなわち「アーリア人」のユダヤ人およびその言うユダヤ人によって支配されている民族との対立だと再解釈することによって、ムッソリーニの技巧に適応した。(*)
 ある初期の親ナツィの理論家は、現代世界の本当の対立は資本とそれに対する労働の間にではなく、世界的ユダヤ「帝国主義」とそれに対する人民(Volk)主権を基礎とする国家の間にある、ユダヤ民族が経済的に生き残る可能性を奪われて絶滅してのみこの対立は解消される、と論じた。(74)
 革命運動は、「右」と「左」のいずれの変種であれ、憎悪の対象を持たなければならない。抽象化を求めるよりも、見える敵に対抗するように大衆を駆り立てるのは、比較にならないほど容易だからだ。
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 (70) Hermann Rauschning, The Revolution of Nihilism (New York, 1939),p.55, p.74-75, p.105.
 (71) 同上、p.19。
 (72) Pierre Gaxotte, The French Revolution (London & New York, 1932), Chapter 12.
 (73) Anatole Leroy-Beaulieu, Les Doctrine de Haine (Paris,(1902)) 。リチャード・パイプス・ロシア革命p.136-7 を参照。
  (*) 階級戦争という考えが人種的な意味で再解釈される可能性は、すでに1924年に、ロシアのユダヤ人移住者、I・M・ビカーマン(Bikerman)が、ボルシェヴィキに親近的な同胞に対する警告として、指摘していた。
 Bikerman, Rossia i Evrei, Sbornik I (Berlin, 1924), p.59-p.60.
 「ペトルラの自由コサックあるいはデニーキンの志願兵はなぜ、全ての歴史を諸階級の闘争ではなく諸人種の闘争へと変える理論に従えなかったのか? なぜ、歴史の罪を正して、悪の根源があるとする人種を絶滅させることができなかったのか?
 略奪し、殺戮し、強姦する、こうした過剰は、伝統的に、同じ一つの旗のもとで、別の旗のもとでと同じように冒されることがあり得る」。
 (74) Gottfried Feder, Der dutsche Staat auf nationaler und sozialer Grundlage, 11th ed. (Muenchen, 1933).
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 段落の途中だが、こここで区切る。②へとつづく。

1760/ヒトラーと社会主義②-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.260-1。
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 第4節・ヒトラーと社会主義②。
 (冒頭の一部が前回と重複)
 この党は1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗り、政綱に反ユダヤ主義を追加し、退役軍人、個人店主、職業人を組織へと呼びよせた。
 (党名にある「労働」という言葉は「全ての働く者」を意味し、産業労働者のみではない。(61))
 ヒトラーが1919年に奪い取ったのは、この組織だった。
 ブラヒャー(Bracher)によると、こうだ。
 初期の党のイデオロギーは、『非理性的で暴力志向の政治イデオロギーの内部に、完全に革命的な中核部分を含んでいた。
 たんに反動的な体質を表現したものでは全くなかった。すなわち、労働者と労働組合主義者の世界が本源にあった。』(62)
 ナツィスは、労働者は共同体の柱石だと、そしてブルジョアジーは-伝統的貴族階級とともに-滅亡する階級だ、と宣言して、ドイツ労働者の社会主義的な伝統に訴えた。(63)
 同僚に自分は「社会主義者」だと語った(64)ヒトラーは、党に赤旗を採用させ、政権を取れば5月1日を国民の祝日にすると宣告した。
 ナツィ党の党員たちは、お互いに「同志」(Genossen)と呼び合うように命じられた。
 ヒトラーの党に関する考えは、レーニンのごとく、軍事組織、戦闘団(Kampfbund、「Combat League」)のそれだった。
 (「運動を支持する者は、運動の目標に合意することを宣言する者だ。
 党員は、その目標のために闘う者だけだ」。(65))   
 ヒトラーの究極の目的は、伝統的諸階層が廃止され、地位は個人的な英雄的資質(heroism)によって獲得されるような社会だった。(66)
 典型的に過激な流儀でもって、彼は、人間は彼自身を再生するものだと心に描いた。ラウシュニンクに、こう語った。
 「人は、神になりつつある。人は、作られつつある神だ」。(67)//
 ナツィスは当初は労働者を惹きつけるのにほとんど成功せず、党員たちの大多数は「プチ・ブル」〔小ブルジョアジー〕の出身だった。
 しかし、1920年代の終わり頃、その社会主義的な訴えが功を奏し始めた。
 1929-1930年に失業が発生したとき、労働者たちがひと塊になって(en masse、大量に)入党した。
 ナツィ党の記録文書によれば、1930年に、党員の28パーセントは産業労働者で成っていた。
 1934年に、その割合は32パーセントに達した。
 いずれの年にも、彼らはナツィ党の中で最大多数を占めるグループだった。(*)
 ナツィ党の党員たちがロシア共産党におけるそれと同じ責任を負うのではないとしても、誠実な(bona fide)労働者(全日勤務の党員となった元労働者は別)の割合は、ナツィ党(NSDAP)ではソヴィエト同盟の共産党におけるよりも、なんと予想に反して、高かった、と言える。//
 ヒトラーの全体主義政党のモデルは共産主義ロシアから借りたという証拠は、状況的な(circumstantial)ものだ。というのは、全く積極的に「マルクス主義者」への負い目を承認している一方で、彼は、共産主義ロシアから何ものかを借用したことを承認するのを完全に避けたからだ。
 一党国家という考えは、ヒトラーの心の中に、1920年代半ばには明らかに生じていた。1920年のカップ一揆(Kapp putsch)の失敗を省察し、戦術を変更して合法的に権力を掴もうと決心したときに。
 ヒトラー自身は、紀律ある階層的に組織された政党という考えは軍事組織から示唆された、と主張した。
 彼はまた、ムッソリーニから学んだことは積極的に認めることとなる。(68)
 しかし、その活動がドイツのプレスで広く知られていた共産党がヒトラーにも影響を与えなかった、というのはきわめて異様だ。明白な理由から、彼はその事実を認めるのは不可能だと分かっていたけれども。
 ヒトラーは、私的な会話では、つぎのことを認めることを厭わなかった。「レーニンとトロツキーおよび他のマルクス主義者の著作から革命の技巧を勉強(study)した」ということを。(+)
 彼によると、社会主義者から離脱して、「新しい」ものを始めた。社会主義者たちは-大胆な行動をすることのできない-「小者」だからとの理由で。
 これは、レーニンが社会民主党と決別してボルシェヴィキ党を設立した理由とは、大きく異なっている。//
 ローゼンベルクの支持者とゲッベルスやシュトラサーの支持者とが論争したとき、ヒトラーは最終的には前者の側に立った。
 ヒトラーにはドイツの投票者を怯えさせるユダヤ共産主義の脅威という妖怪が必要だったので、ソヴィエト・ロシアとの同盟はあるべくもなかった。
 しかし、このことは、彼自身の目的のために共産主義ロシアの中央志向の制度と実務を採用することを妨げはしなかった。//
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 (61) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.17.
 (62) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.59. 〔ドイツの独裁〕
 (63) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.48.
 (64) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.157.
 (65) The Impact of the Russian Revolution, 1917-1967 (London, 1967), p.340.
 (66) Rauschning, Hitler Speaks, p.48-p.49.
 (67) 同上、p.242.
 (*) Karl Bracher, Die deutsche Diktatur, 2ed. ed. (Cologne-Berlin〔ケルン・ベルリン〕, 1969), p.256.
 David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.28、p.36 は、少しばかり異なる様相を伝える。
 あるマルクス主義者の歴史家たちは、ナツィ党に加入したり投票したりする労働者を労働者階級の隊列から除外することによって、この厄介な事実を捨て去る。労働者たる地位は職業によってではなく「支配階級に対する闘争」によって決定される、との理由で。Timothy W. Mason, Sozialpolitik im Dritten Reich (Opladen, 1977), p.9. 〔第三帝国の社会政策〕
 (68) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, xiv.
 (+) Rauschning, Hitler Speaks (London, 1939), p.236.
 ヒトラーは1930年に、トロツキーが近年に出版した<わが人生>を読み、多くのことを学んだ、この著を「輝かしい(brilliant)」と称した、と驚く同僚に語った、と言われている。Konrad Heiden, Der Fuehrer (New York, 1944)、p.308。  
 しかしながら、ハイデン(Heiden)はこの情報の出所を記していない。
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 つぎの第5節の表題は、「三つの全体主義体制に共通する特質」。

1755/R・パイプス別著(ボルシェヴィキ体制下のロシア)第5章第3節。

 リチャード・パイプス『ボルシェヴィキ体制下のロシア』。計587頁。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (Vintage/USA, 1995).
 この本のうち、すでに試訳の掲載を済ませているのは、以下だ。
 ①p.240-p.253。第5章:共産主義・ファシズム・国家社会主義ー第1節・全体主義という概念。/第2節・ムッソリーニの「レーニン主義者」という出自。
 ②p.388-p.419。第8章:ネップ・偽りのテルミドールー第6節・強制的食糧徴発の廃止とネップへの移行。/第7節・政治的かつ法的な抑圧の強化。/第8節・エスエル「裁判」。/第9節・ネップのもとでの文化生活。/第10節・1921年の飢饉。
 ③p.506-p.507。終章:ロシア革命に関する考察ー第6節・レーニン主義とスターリニズム。
 上の①のつづきの部分(ヒトラーと社会主義との関係等)について、試訳を続行する。
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 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第3節・ナツィの反ユダヤ主義①。
p.253~。
 ボルシェヴィキとファシズムの出自は、社会主義だった。
 国家社会主義(National Socialism)は、異なる種子から成長した。
 レーニンの出身が位置の高いロシアの官僚階層の出身で、ムッソリーニのそれは疲弊した工芸職人階層であるとすると、ヒトラーは小ブルジョアの背景をもち、社会主義への敵意とユダヤ人への憎悪で充満した雰囲気の中で、青年時代をすごした。
 当時の政治的、社会的な理論に通じた熱心な読者だったムッソリーニやレーニンとは違って、ヒトラーは無知で、観察やときたまの読書や会話から知ったものを拾い上げた。
 ヒトラーには理論的な基礎がなく、意見と偏見だけはあった。
 そうだったとしてすら、最初にドイツの自由を排除し、つぎにヨーロッパじゅうに死と破壊を植え込んだ、そのような致命的な効果を与えて彼が用いることとなる政治的イデオロギーは、消極的にも積極的にも、ロシア革命によって奥深く影響されていた。
 消極的には、ロシアでのボルシェヴィズムの勝利とヨーロッパを革命化する企ては、ヒトラーの本能的な反ユダヤ主義と、ドイツ人を恐れさせる「ユダヤ共産主義」の陰謀という妖怪とを正当化した。
 積極的には、ロシア革命は、大衆操作の技術をヒトラーに教え、一党制の全体主義国家のモデルを提供することによって、ヒトラーが独裁的権力を追求するのを助けた。//
 反ユダヤ主義は、国家社会主義のイデオロギーと心理において、中心的で逸れることのない目標として独特の位置を占める。
 ユダヤ人恐怖症の起源は古典的太古にさかのぼるけれども、ヒトラーのもとで不健全で破壊的な形態を帯びたそれは、歴史上かつて見ないものだった。
 このことを理解するには、ロシアおよびドイツの民族主義運動に対するロシア革命の影響について記しておくことが必要だ。//
 伝統的な、20世紀以前の反ユダヤ主義は、もともとは宗教上の敵意によって強くなった。つまり、キリスト殺害者で、キリスト教の福音を頑強に拒む邪悪な人々だというユダヤ人に対する先入観。
 カトリック教会や一部のプロテスタント教派のプロパガンダのもとで、この敵意は、経済的な争いや金貸しで狡猾な商人としてのユダヤ人への嫌悪によって補強された。
 伝統的な反ユダヤ主義者にとって、ユダヤ人は「人種」でも民族を超える共同体でもなく、誤った宗教の支持者であり、人類への教訓として、故郷を持たないで(homelss)苦しみ、漂流するように運命づけられていた。
 ユダヤ人は国際的な脅威だとの考えが確立されるためには、国際的な共同社会が存在するに至っていなければならなかった。
 これはもちろん、世界的な商業と世界的な通信の出現とともに19世紀の過程で発生した。
 これらの発展は、地域と国家の障壁を超えて、近代までは相当に保護された自己完結的な存在だった共同体や国家での生活に対して、直接に影響を与えた。
 人々は、突然にかつ訳が分からないままに、自分たちの生活を支配することができなくなる感覚を抱き始めた。
 ロシアでの収穫が合衆国の農民の生活状態に影響を与え、あるいはカリフォルニアでの金の発見がヨーロッパでの価額に影響を与え、国際的な社会主義のような政治運動が全ての既存体制の打倒を目標として設定したとき、誰も、安全だと感じることはできなかった。
 そして、国際的な出来事が持ち込む不安は、全く自然なこととして、国際的な陰謀という考えを発生させた。
 ユダヤ人以上に誰がその役割をより十分に果たすのか?。最も可視的な国際的集団であるのみならず、世界的な金融とメディアで傑出した位置を占めている集団は誰か?。//
 ユダヤ人を、見えざる上位者の一団が統轄する、紀律のとれた超国家的共同社会とする見方は、最初はフランス革命の騒ぎの中で登場した。
 フランス革命への役割は何もなかったけれども、反革命のイデオロギストたちはユダヤを容疑者だと見なした。一つは、公民的平等を与えた革命諸法律によって彼らは利益を得たとの理由で、また一つは、フランスの君主主義者が1789年の革命についての責任があると追及したフリーメイソン(Masonic)運動と彼らは広くつながっているとの理由で。
 ドイツの急進派は、1870年代までに、全てのユダヤ人はどこに公民権籍があろうと秘密の国際組織によって支配されている、と主張した。この組織はふつうは、実際の仕事は慈善事業だった、パリに本拠がある国際イスラエル連合(the Alliance Israelite Universelle)と同一視された。
 このような考えはフランスで、ドレフュス(Dreyfus)事件と結びついて1890年代に一般的になった。
 ロシア革命に先立って、反ユダヤ主義は、ヨーロッパで広汎に受容されていた。それは主としては、パリア・カスト〔最下層貧民〕として彼らを扱うことに慣れていた社会で対等なものとしてユダヤ人が出現してきたことへの反作用だった。また、解放された後にすら同化することを拒むことへの失望によっていた。
 ユダヤ人は、その同族中心主義や秘密主義、いわゆる「寄生的」な(parasitic)な経済活動や「レバント」的(Levantine)挙措だと受け止められたことで、嫌悪(dislike)された。
 しかし、ユダヤ人に対する恐怖(fear)は、ロシア革命とともに生じた。そして、その最も厄災的な遺産であることが判明することになる。//
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 (秋月)今回の部分には注記はない。
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 ②へとつづく。

1750/スターリニズムの諸段階①-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.5-p.8。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階①。
 全ての時代を諸段階に分かつのは、ソヴィエト歴史学者の一つの熱狂心(マニア、mania)だ。
 しかし、とくに境界の画定がイデオロギー上の根拠にもとづいている場合には、その手続をとるのは正当なことだ。//
 スターリニズムはたんにソヴィエトのではなく世界的な現象だったので、その多様な姿は、ロシアの国内政治や党派的対立の観点からだけではなく、コミンテルンおよび国際的ボルシェヴィズムの観点からも考察しなければならない。
 しかしながら、各時期を相互に関連づけること、したがってまた、その術語方法には、困難がつきまとう。
 トロツキストや元共産党員は、ソヴィエト史を「左翼」段階と「右翼」段階に区別する習癖がある。
 1917年直後の、内戦と世界革命の希望で占められた時期は「左翼主義」だとされ、世界全体での「資本主義の一時的な安定」を党が承認したネップ(N.E.P)という「右翼主義」の時期が続くとされる。
 そして、1928-29年の「左翼への揺れ(swing)」が到来し、党はこの安定は終わったと宣言する。
 「革命の潮目」がもう一度始まり、社会民主主義は「社会ファシズム」だとして非難され、闘争相手になる。そして、ロシアは、民衆の集団化と強制的産業化を視ることになった。
 この段階は、ファシズムに対する人民戦線のスローガンのもとで「右翼主義」政策が採用された1935年に終わった、と考えられている。
 これらの連続した変化は、ロシアの指導者層の間の党派的かつ個人的な内部闘争と関連していた。
 スターリン、ジノヴェフおよびカーメネフによる支配は、トロツキーの政治的排除へと至った。
 ついで、ジノヴェフとカーメネフは、ブハーリン、リュコフおよびトムスキーのために追放された。
 そして1929年にブハーリンが追い出され、ボルシェヴィキ党の中での有効な意見不一致は終わりを迎えた。//
 しかしながら、このような年代史的叙述は、「左翼」と「右翼」という語の曖昧でかつ恣意的な用い方を別に措くとしてすら、困難さに満ちている。
 概念用法に関しては、「社会ファシズム」のスローガンはなぜ「左翼」で、蒋介石(Chiang Kai-shek)との妥協の試みはなぜ「右翼」なのかは明確でない。
 あるいは、大規模の農民迫害がなぜ「左翼」で、政治目的のための経済的手段はなぜ「右翼」なのか。 
 もちろん、政治がテロルをより多く含んでいればいるだけ「左翼」的だということが前提にある、と言うことはできる。-この原理的考え方は今日でも頻繁に用いられており、しかも共産主義者の公刊物においてのみではない。そして、「左翼主義」という伝統的な観念によって何を意味させているのかを理解するのは困難だ。
 この点はさておき、コミンテルンの政策の変化とソヴィエト国内の政治やイデオロギーの異なる局面との間にいかなる相互連関があったのかは、明瞭でない。
 ヨーロッパの社会民主主義はファシズムの一部門だとのいわゆる「左翼主義者」の主張は、ジノヴィエフによって案出され、遅くともすでに1924年には通用していた。
 社会民主主義に対するコミンテルンの闘いは、ロシア農業の強制的集団化が考案されるよりもかなり前、1927年に強化された。
社会民主主義に対する反対運動を中止してそれとの同盟を繕い直す不細工な努力がなされた1935年には、ソヴィエト同盟ではすでに民衆の政治的抑圧の波が存在しており、新しい、より怖ろしい抑圧がまさに始まろうとしていた。//
 要するに、「左翼」や「右翼」という技巧的標識である用語によってソヴィエト同盟の歴史を提示するのは、意味のないことだ。それは、ある場合には、馬鹿げた諸結論を導く。
 政治局(Politboro)の変化を歴史的転換点だと解釈するのも、適切ではない。
 レーニンの死後の時期に、一定の政治的およびイデオロギー的特質が、着実により顕著になった。他のものは、状勢次第での重要なことに揺れ動いている間に。
 体制の全体主義的性格-すなわち、市民社会の破壊の進行、社会生活の全態様の国家による統合-は、1924年から1953年までの間、ほとんど遮られることなく増大した。そして、確実に、私的所有と取引への譲歩にかかわらず、ネップよって縮小することはなかった。
 我々が見たように、ネップ(N.E.P)は、軍隊と警察という手段によって経済全体を作動させるという政策からの退却であり、経済の破滅が切迫しているとの見込みによって余儀なくされたものだ。
 しかし、政治的対抗者に対するテロルの使用、党内部での厳正さや脅迫の増大、哲学、文筆、芸術そして科学に対する自立性の抑圧と強制の増大-これらは全て、ネップの全期間を通じて深刻化し続けた。
 こうした観点からは、1930年代は、レーニンが生きている間に彼の指令のもとで始まった過程を強化し、高めたものにすぎなかった。
 無数の犠牲者を出した農業の集団化は、まさしく、転換点だった。
 しかしこのことは、体制の性格の変化、あるいは「左翼への揺れ」をもたらしたがゆえにではない。そうではなく、それ〔農業の集団化〕が決定的な重要性のある一つの部門で、根本的な政治的かつ経済的な全体主義の原理を強要したのが理由だ。
 農業集団化は、ロシアのきわめて多数の社会階層から財産を完全に剥奪し、農業への国家統制をひとたび全てのために確立し、何らかの程度で国家から自立していた共同体(community)の最後の部門を絶滅させ、無制限の権力をもつ東方の総督カルト(oriental cult of the satrap)の基礎を築いた。そして、飢饉、民衆の虐殺、数百万の死という手段によって、民衆の精神(spirit)を破壊し、抵抗の最後の痕跡を消去した。
 これは、疑いなく、ソヴィエト同盟の歴史上の画期的なこと(milestone)だった。しかし、それは、その根本的な原理、すなわち国家が課したり規制したりしていない全ての形態の政治的、経済的および文化的生活の廃絶、を継続するもの、あるいは拡張するものだつた。//
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 ②へとつづく。

1749/スターリニズムとは何か②-L・コワコフスキ著3巻1章1節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 試訳の前回のつづき。分冊版第3巻、p.3-p.5。
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第1節・スターリニズムとは何か②。
 スターリニズムの歴史は、詳細な諸点に関しては議論があるにもかかわらず、広く知られていて、多くの書物で適切に叙述されている。
 この著のこれまでの二つの巻でのように、この著の主要な対象は、教理(doctrine)の歴史だ。
 政治の歴史は、その中でイデオロギーの生命が進展した大枠を示すに必要なかぎりで、簡単に叙述されるだろう。
 しかしながらスターリン時代では、教理の歴史と政治的事件の間の連環は、以前よりも密接だ。我々が研究しなければならない現象は権力の装置としてのマルクス主義を絶対的に制度化したもの(institutionalization)だからだ。
 まさに、この過程は早くから始まった。
 それは、マルクス主義は「党の世界観」でなければならない、言い換えれば、マルクス主義の内容は個々の局面での権力闘争の必要に応じて決定されなければならない、とするレーニンの考え方にまでさかのぼる。
にもかかわらず、レーニンの政治的な日和見主義は、一定範囲で教理上の考慮によって制限された。
しかし他方でスターリンの時代には、1930年代の早くから、ソヴィエト政権およびそれが行う全てのことを正当化し賛美する目的のために、教理は絶対的に従属した。
 スターリンのもとでのマルクス主義は、言明、考え、あるいは概念をいくら収集しても定義することができない。
 何がマルクス主義であり何がそうでないかを全ての時点で宣告することのできる、全権の権威が存在した、ということ以外には、前提命題に関する疑問はなかった。
 「マルクス主義」とは、多かれ少なかれ、問題についての権威、すなわちスターリンの現在の見解以外の何ものをも意味しはしなかった。
 例えば、1950年6月までは、マルクス主義者だということは、とりわけ、N・Y・マッル(Marr)の哲学理論を受け容れることを意味した。そして、その日以降は、その理論を完全に拒否することを意味した。
 何か特別の思想-マルクス、レーニン、あるいはスターリンのでも-が正しい(true)と考えるがゆえにマルクス主義者だったのではなく、至高の権威者がきょう、明日あるいは一年のあるときに宣告するだろうものを何であっても受け容れる心づもりがあるがゆえに、マルクス主義者だったのだ。
 こうした制度化と教条化の程度は以前は全く見られなかったもので、1930年代にその頂点に達した。しかし、明らかにその根源への痕跡は、レーニンの教理へとたどることができる。  
マルクス主義はプロレタリア政党の世界観であり道具であるので、「外部から」どんな異論が挟まれても、それを無視して、何がマルクス主義であり何がそうではないかを決定するのは党だ。
 党が国家および権力装置と同一視され、それは一人の人物の僭政のかたちをとって完全な一体性を達成するならば、教理は国家の問題になり、僭政体制は不可謬だと宣せられる。
 じつに、マルクス主義の内容に関するかぎり、スターリンは実際に不可謬<である>のだ。
 党はプロレタリア-トが発言する口としての権能をもって主張し、ひとたび一体化を達成した党は、独裁者たる人物に具現化される指導性を通じてその意思と教理を表現するのだから。
 このようにして、プロレタリア-トは歴史的に他の全階級とは対照的な指導階級であり、客観的な真実の所持者であるという教理は、「スターリンはつねに正しい(right)」という原理へと変形された。
 このことは実際、党を労働者運動の前衛だとするレーニンの考えと結びつけられたマルクスの認識論を歪曲するものでは全くない。 
 真理(truth)=プロレタリアの世界観=マルクス主義=党の世界観=党の指導者たちの声明=最高指導者の声明、という等号化は、レーニンのマルクス主義に関する理解の仕方と完全に合致していた。
 我々は、スターリンがマルクス=レーニン主義と名付けて洗礼を施したソヴィエト・イデオロギーの最終的表現が見出されるこの等式化の過程を、追跡するよう努めるだろう。
 スターリンは、二つの別々の教理があると意味させていただろうマルクス主義<および>レーニン主義ではなく、このマルクス=レーニン主義という語を選択した、ということは重要だ。
 この複合表現は、レーニン主義は-マルクス主義のレーニン主義ではない別の形態があるかのごとく-マルクス主義内部での独自の傾向ではなく、傑出した(par excellence)マルクス主義であり、マルクス主義を新しい歴史の時代に展開し適合させた唯一の教理だ、ということを意味させた。  
 現実に、マルクス=レーニン主義は、スターリン自身の教理にマルクス、レーニンおよびエンゲルスの著作から彼が選んで引用したものを加えたものだった。
 マルクス、レーニンあるいはスターリン自身のですら、これらから随意に引用する自由が、スターリン時代に誰にもあった、などと想定してはならない。
 マルクス=レーニン主義とは、独裁者がいま権威を与えている引用句でのみ成り立つもので、その教理に合致するようにスターリンは発表していたのだ。//
 スターリニズムはレーニン主義の本当の(true)発展形だと主張するが、私は、それでスターリンの歴史的重要性を過小評価するつもりはない。
 レーニンの後、そしてヒトラーの傍らに並んで、スターリンは確実に、第一次大戦以降のどの人物よりも、いま現にある世界を形成する多くのことをした。
 にもかかわらず、党と国家の単一の支配者になったのは他のいずれのボルシェヴィキ指導者でもなくスターリンだったということを、ソヴィエト体制の本質によって説明することができる。
 スターリンの個人的な性格は対抗者たちに勝利するのに大きな役割を果たしたが、それ自体はソヴィエト社会の基本路線を決定したのではない、との見解がある。この見解を支持するのは、スターリンはその初期の経歴の間ずっと、ボルシェヴィキ党の中の急進派に属していなかった、ということだ。
 また一方では、スターリンは穏健派的人物で、彼は党内部の論争においてしばしば、良識や慎重さの側に立った。
 要するに、僭政君主としてのスターリンは、その創設者以上にはるかに、党が創出したものだった。スターリンは、抗しがたく個人化されていく体制を人格化したものだった。//
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 第1節、終わり。次節の表題は「スターリニズムの諸段階」。

1746/スターリニズムとは何か①-L・コワコフスキ著3巻1章。

 もともとロシア革命等の歴史をもっと詳しく知っておこうと考えたのは、日本共産党(・不破哲三)が1994年党大会以降、レーニンは「ネップ」路線を通じて<市場経済を通じて社会主義への途>を確立したが、彼の死後にスターリンによってソ連は「社会主義を目指す国家」ではなくなった、レーニンは「正しく」、スターリンから「誤った」という歴史叙述をしていることの信憑性に疑いを持ち、「ネップ(新経済政策)」期を知っておこう、そのためにはロシア「10月革命」についても、レーニンについても知っておこうという関心を持ったことに由来する。元来の目的は、日本共産党の「大ウソ・大ペテン」を暴露しようという、まさに<実践的な>ものだった。
 不破哲三(・日本共産党)によるレーニン・「ネップ」理解の誤り(=捏造)にはとっくに気づいているが、最終の数回の記述はまだ行っていない。
 もともとはスターリン時代(この時代のコミンテルンを含む)に立ち入る気持ちはなかった。それは、日本共産党もまたスターリンを厳しく批判しているからだ。但し、以下のL・コワコフスキ著の第三巻の冒頭以降は、スターリンに関する叙述の中でレーニンとスターリンとの関係や「ネップ」に論及しているので、しばらくは、第三巻の最初からの試訳をつづけてみる。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第一章から第三章までの表題と第一章の中の各節の表題は、つぎのとおり。
 第一章/ソヴィエト・マルクス主義の第一段階/スターリニズムの開始。
  第1節・スターリニズムとは何か。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・一国での社会主義。
  第4節・ブハーリンとネップ・イデオロギー、1920年代の経済論争。
 第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義における理論上の論争。
 第三章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 p.1~の第一章から。Stalinism は「スターリン主義」ではなく「スターリニズム」として訳す。なお、Leninism は「レーニニズム」ではなく「レーニン主義」と訳してきた(これからも同じ)。
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 第1節・スターリニズムとは何か①。
 「スターリニズム」という語が何を意味するかに関する一般的な合意はない。
 ソヴィエト国家の公式なイデオロギストたちはこの語を使ったことがなかった。一つの自己完結的な社会体制の存在を示唆するように見えるからだろう。
 フルシチョフ(Khrushchev)の時代以降、スターリン時代は何を目指していたかに関する受容された定式は、「人格(personality)のカルト」だった。そして、この常套句は、必ず二つの想定と関連づけられていた。
 第一は、ソヴィエト同盟が存在している間ずっと、党の政治は「原理的に」正しく(right)、健康的(salutary)だったが、ときたま過ち(errors)が冒され、その中で最も深刻だったのは「集団指導制」の無視だった、つまり、スターリンの手への無限の力の集中だつた、というものだ。
 第二の想定は、「過ちと歪曲」の主要な原因はスターリン自身の性格的な欠陥、すなわちスターリンの権力への渇望や専制的傾向等々にあった、というものだ。
 スターリンの死後、これら全ての逸脱はすみやかに治癒され、党はもう一度適切な民主主義的原理に適応した。そして、事態は過ぎ去った、ということになる。
 要するに、スターリンの支配は偶然の以外の奇怪な現象だった。そこには「スターリニズム」とか「スターリン主義体制」というものは全くなく、いずれにせよ、「人格のカルト」の「消極的な発現体」はソヴィエト体制の栄光ある成果とは関係なく消え去ったのだ。//
 こうした事態に関する見方は疑いなく執筆者やその他の誰かによって真面目には考察されなかったけれども、今日的用法上の「スターリニズム」という語の意味と射程に関しては、今なお論争が広く行われている。それは、ソヴィエト同盟の外に共産主義者の間にすらある。
 しかしながら、その考え方が批判的であれ正統派的であれ、上の後者〔外部の共産主義者〕は、スターリニズムの意味を、1930年代初期から1953年の死までのスターリンの個人的僭政の時期に限定する。
 そして、彼らがその時代の「過ち」の原因として非難するのはスターリン自身の悪辣さというよりも、遺憾だが変えることのできない歴史的環境だ。すなわち、1917年の前および後のロシアの産業や文化の後進性、ヨーロッパ革命を期待したという失敗、ソヴィエト国家に対する外部からの脅威、内戦後の政治的な消耗。
 (偶然だが、同じ理由づけは、ロシアの革命後の統治の堕落を説明するために、トロツキストたちによって決まって提出される。)//
 一方、ソヴィエト体制、レーニン主義あるいはマルクス主義的な歴史の図式を擁護するつもりのない者たちは、総じて、スターリニズムを多少とも統一した政治的、経済的およびイデオロギー的体制だと考える。それはそれ自体の目的を追求するために作動し、それ自体の見地からは「過ち」をほとんど犯さない体制だ。
 しかしながら、この見地に立ってすら、スターリニズムはいかなる範囲でかついかなる意味で「歴史的に不可避」だったのか、が議論されてよい。
 換言すると、ソヴィエト体制の政治的、経済的およびイデオロギー的様相は、スターリンが権力に到達する前にすでに決定されており、その結果としてスターリニズムだけがレーニン主義の完全な発展形だったのか?
 いかなる範囲でかついかなる意味で、ソヴィエト国家の全ての特質は今日に至るまで存続しているのか、という疑問もやはり、まだ残る。//
 用語法の観点からは、「スターリニズム」の意味を独裁者が生きた最後の25年間に限定するか、それとも現在でも支配する政治体制をも含むように広げるかは、特別の重要性はない。
 しかし、スターリンのもとで形成された体制の基本的な特質は最近の20年で変わったのかは、純粋に言葉の問題以上のものだ。そしてまた、その本質的な特徴は何だったのかに関する議論を行う余地も残っている。//
 この著者〔L・コワコフスキ〕も含めて、多くの観察者は、スターリンのもとで発展したソヴィエト体制はレーニン主義を継承したものだと、そしてレーニンの政治的およびイデオロギー上の原理にもとづいて創設された国家はスターリニズムの形態でのみ存続することができた、と考えた。
 さらに加えて、論評者は、狭い意味での「スターリニズム」、つまり1953年まで支配した体制は、スターリン後の時代の変化によっても本質的には決して影響をうけなかった、とする。
 これらの論点の第一は、これまでの各章で、ある程度は確証された。そこでは、レーニンは全体主義的教理および萌芽にある(in embryo)全体主義国家の創設者だ、と示された。
 もちろん、スターリン時代の多くの事件の原因は偶然だったり、スターリン自身の奇矯さだったりし得る。出世主義、権力欲求、執念、嫉妬、および被害妄想的猜疑心。
 1936~1939年の共産党員の大量殺戮を「歴史的必然」と呼ぶことはできない。
 そして我々は、スターリン自身以外の僭政者のもとではそれは生起しなかっただろうと想定してよい。
 しかし、典型的な共産主義者の見方にあるように、かりに大殺戮をスターリニズムの本当の「消極的」意味だと見なすとすれば、スターリニズムの全体が嘆かわしい偶発事だということに帰結する。-これが示唆するのは、傑出した共産党員たちが殺害され始めるまでは、共産主義者による支配のもとでは全てがつねに最善のためにある、ということだ。
 歴史家がこれを受容するのは困難だ。それは歴史家が党の指導者または党員ですらない数百万人の運命に関心があるということによるのみならず、特定の期間にソヴィエト同盟で発生した巨大な規模の血に染まるテロルは、全体主義的僭政体制の永遠の、または本質的な特質ではない、ということも理由としている。  
僭政体制は、個々の一年での公式の殺害者が数百万人と計算されるか、数万人とされるかに関係なく、また、拷問が日常の事として用いられていたのか、たんにときたまにだつたのかに関係なく、さらに、犠牲者は労働者、農民、知識人だけだったのか、あるいは党の官僚たちも同様だったのかに関係なく、力を持ったままで残っている。//
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 ②へとつづく。

1744/論駁者・レーニンの天才性②-L・コワコフスキ著第二巻の最終部分。

 以下の著の第二巻(部)および分冊版・第二巻の最終部分の試訳。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 三巻合冊版p.775-778、分冊版・第2巻p.524-527。
 第16章『レーニン主義の成立』(三巻合冊版p.661~、分冊版p.381~)から試訳を開始したので、三巻合冊版の総1283頁(参照文献等を含む)のうち118頁分、分冊版の総542頁(同上)のうち147頁分をいちおう訳出したことになる。
 しかし、重要な例外があって、「10月革命」以前の理論・哲学論争に関係する前者の約19頁分(ほぼ696~714頁)、後者の約24頁分(ほぼ424~447頁)は省略している。したがって、前者では99頁分/8%、後者では122頁分/23%だけしか、試訳ではあっても完了していない。
 L・コワコフスキはこの著をマルクス主義に関する「ハンドブック」つまり<手引き書>のごときものとして執筆したようで、詳細とはいえ、レーニンに関しても、メモ書き、要点列記という観の部分もある。
 それでもなお、全体(三巻合冊本)の1割も、試訳しながらの読書をしていないのだから、全三巻(全三部)にわたるマルクス主義の「主要潮流」に関するコワコフスキの叙述の幅広さ、論評・叙述の対象としている人物・「思想」群の多さ、そしていずれにせよ<凄まじさ>を感じざるを得ない。いずれかの機会に、対象としている人物数、読破しているとみられる全文献数を探ってみたいと感じている。とはいえ、各巻末尾の参照文献の列挙も<選択的(selective)…>と題されているので、上に関する正確な数はきっと誰にも、いつかにでも、判明しないのだろう。
 なお、この著は1970年代の後半に、つまりソ連解体の15年前には執筆・公刊され、英米語版も刊行されていたことを、あらためて追記しておく。
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 第18節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性②。
 (つづき)
 ストルーヴェは1913年に、<経済価格> と題する本を公刊した。その中で彼は、マルクスの意味での価値(value)は、価格(price)とは独立(independent)に、形而上の非経験的な範疇であって、不適切だ(superfluous)、と論じた。
 (これは新しい考えではなく、コンラッド・シュミット以降から多くの批判がなされていた。)
 レーニンは、つぎのような言葉で論評した。
 『どのようにすれば人は、この最も「過激な」方法をきわめて薄っぺらいと呼ばずにおれるだろうか?
 数千年もの間、人類は、交換の現象における客観的法則の働きに気づいてきた。それを理解して最大限度に精細に表現しようと試みてきた。経済生活についての数百万、数億の数の日々の観察による説明によって、それを吟味してきた。
 しかるに突然に、時流にのった職業-引用文を収集するそれ(私はほとんど郵便切手の収集と言ってしまった)-の時流にのった一人の代表者が出現して、「これら全てを捨て去る」。「価値は、幻影(phantom)だ」と言う。』
 (<再び粉砕される社会主義>、1914年3月。全集20巻200頁〔=日本語版全集20巻206頁〕。)
 レーニンは、説明をこうつづける。
 『価格は、価値の法則を宣言したものだ。
 価値は、価格の法則だ。換言すると、価格の現象の一般化された表現だ。
 ここで「独立性」を語るのは、科学を嘲弄するもの(mockery)だ。』
 (同上、201頁〔=日本語版全集同上207頁〕。)
 そして、こう締めくくる。『科学から法則を排除することは、実のところは、宗教の法則をこっそり持ち込むことだ。』
 結論はこうだ。『ストルーヴェ氏は、このような粗雑な方法によって、読者を欺き、自分の反啓蒙主義を隠蔽することができると、本当に考えているのか?』
 (同上、202頁・204頁〔=日本語版全集同上209頁・211頁〕。)
 これは、レーニンによる反対者の取り扱いの、典型的な例だ。
 ストルーヴェは、価値は価格とは独立には計算することができない、と言った。レーニンは、独立性を語るのは科学の嘲弄だと言う。
 本当の議論にするという試みはなく、冗漫な言葉と誤用の大波の中へと溺れている。//
 しかしながら、レーニンは人々や事件に対する純粋に技術的で道具的な姿勢から自分自身を除外しなかった、ということは繰り返しておくべきだ。
 彼は、個人的な利益のことを考えなかった。
 例えばトロツキーとは異なり、彼は決して<気取り屋(poseur)>ではなく、劇場的な振舞いに熱を上げることはなかった。
 レーニンは、革命の道具だと自分のことを見なし、自分は正しい(in the right)と揺るぎなく確信していた-そう確信していたので、政治上の対抗者たちに一人で又はほとんど一人で立ち向かうことを怖れなかった。
 彼は、神は、あるいはむしろ歴史は、自分の唇を通じて語ると固く信じていたことにおいて、ルター(Luther)に似ていた。
 彼は、例えばツィンマーヴァルト(Zimmerwald)でレデブール(Ledebour)がした、レーニンは自らを外国で安全にしたままでロシアの労働者に血を流すことを呼びかけている、という非難を、侮蔑心をもって却下した。
 レーニンの観点からは、このような批判は馬鹿げていた。彼が外国から指揮を執るのは、革命にとって利点だったのだから。
 ロシアの状勢のもとでは、国外逃亡者がいなければ、革命は起こり得なかっただろう。
 いかなる場合についても、誰も、レーニンの個人的な臆病さを責めることはできないだろう。
 彼は、最も重い責任を請け負うことができた。そしてつねに、どんな論争についても明確な態度を採った。
 レーニンは、たしかに正当(right)に、権力を奪取することを怖れていた他の全ての社会主義者集団の指導者たちを非難した。
 他の指導者たちは、歴史の法則を信頼することがより安全だと考えた。
 しかし、怖れなかったレーニンは、最大の賭けを行い、そして勝利した。//
 なぜ、レーニンは勝利したのか?
 確実なのは、彼が適正に(correctly)事態の推移を予見したのが理由ではない、ということだ。
 彼の予言や推測はしばしば間違っていて、ときどきはそれが明白だった。
 1905年の敗北の後、彼は長い間、もう一度の蜂起が切迫している、と信じた。
 しかしながら、革命の潮目が引き、反動的状勢下で長い年月にわたる活動をしなければならないことが分かったとき、彼は情勢からただちに、全ての推論を導いた。
 1912年にウィルソンが合衆国の大統領に選出されたとき、レーニンは、アメリカの二党制度は社会主義運動に<直面して(vis-a-vis)>破産している、と宣告した。
 1913年に彼は、アイルランド民族主義は労働者階級では死に絶えていると、断定的に述べた。
 1917年の後、彼はいつの日かのヨーロッパ革命を期待し、かつテロルを手段としてロシアの経済を作動させることができると考えた。
 しかし、彼の誤った判断の全ては、革命運動への期待を強くし、現実にそうだったよりも早く革命を宣言する方向へと導いた。
 レーニンの観点からは、それらは、好運な過ちだった。彼が1917年10月に武装蜂起を決意したのは、誤った評価のみにもとづいていたのだから。 
自分の過ち(mistakes)によって、彼は革命の可能性を完璧に利用することができた。そして、それが彼の勝利の原因だった。
 レーニンの天才性(genius)とは、予見の天才性ではなく、権力を奪取するために用いることのできる全ての社会的エネルギーを所与の瞬間に集中させる、そして彼と彼の党の力の全てをその一つの目的のために従属させる天才性だ。
 目的に関するレーニンの堅固さなくして、ボルシェヴィキが成功したとは考え難い。
 彼がいなければ、ボルシェヴィキは、ドゥーマをボイコットする政策を重大な時限以上に延長させていただろう。
 ボルシェヴィキだけで権力を確保する武装蜂起という冒険を、冒さなかっただろう。
 ブレスト=リトフスク条約に署名することはなかっただろう。
 そして、最後の時点では、新経済政策(the New Ecconomic Policy)を採択しなかったかもしれなかった。
 重大な諸状況では、レーニンは、党に対して暴力(violence)を用いた。そしてその結果として、彼の根本教条が党を覆い尽くした。
 我々が今日に知る世界の共産主義は、真に(truely)、彼の作品(work)だ。//
 レーニンもボルシェヴィキも、革命を「作った(made)」のではない。
 世紀が変わって以降、「歴史の法則」はその崩壊の態様を定めてはいなかったけれども、専制体制が不安定な状態にあったことは明らかになっていた。
 二月革命は、多数の要素が同時に発生したこと(coincidence)によるものだった。すなわち、戦争、農民の困窮、1905年の記憶、リベラルたちの策略、協商国からの支援、労働者階級の過激化。
 革命の過程が進展したとき、スローガンはソヴェト権力のそれで、十月革命を支持した者たちはボルシェヴィキ党のための権力ではなく、ソヴェトのための権力を要求した。
 しかし、「ソヴェトの権力」はアナキスト的夢想であり、大衆である民衆、無知で無学の人々のほとんどが永続する大量の隊列でもって全ての経済的、社会的、軍事的および行政的諸問題を決定するという社会を夢見たものだった。
 ソヴェト権力は打倒されていたとすら、ほとんど言うことができない。
 「共産主義者のいないソヴェト権力」というスローガンは、民衆の反ボルシェヴィキ一揆でしばしば用いられた。しかし、それは実際には、何ものをも意味せず、ボルシェヴィキはそのことを知っていた。
 ボルシェヴィキは、<ソヴェト政府>としての自分たちへの支持を取りつけることができ、単一の腕だけで統治する用意のある唯一の党だったときに革命のエネルギーを傾注することができた。//
 にもかかわらず、現実の革命の過程はソヴェトというよりはるかに、ボルシェヴィキ特有のものだった。そして、数年の間は、新しい社会の文化、雰囲気および習性は、ボルシェヴィキが最もよく組織された力(force)だが決して社会の多数派ではなかったことを反映した。
 革命は、ボルシェヴィキの<クー・デタ>ではなかった。そうではなく、労働者と農民のための本当(true)の革命だった。
 ボルシェヴィキだけが、彼ら自身の目的のために革命の手綱を握ることができた。
 彼らの栄光は、ただちに、革命にとっての敗北であり、ボルシェヴィキ的範型のですら、共産主義の理想にとっての敗北だった。
 レーニンは1922年3月の第11回(彼が最後に出席した)党大会で、尊敬すべき明瞭性をもって、前方にある危険を描写した。
 ツァーリ体制(帝制)時代から継承した文化に<直面する>共産主義者の弱さに関して、彼はこう語った。
 『かりに征服する民族が征服される民族よりも文化的であれば、前者は後者に対してその文化を押しつける。
 しかし、かりにその反対の場合には〔前者が後者よりも文化的でないならば〕、征服された民族が征服者に対してその文化を押しつける。
 ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国の首都で、これに似たことが発生しなかったか?
 4700人の共産主義者(ほとんど軍の一個師団全体で、彼らはみな最も優秀だ)が、外部者(alien)の文化の影響のもとに置かれなかったのか?
 なるほど、被征服者は高度の文化をもつ、という印象があるかもしれない。
 しかし、決してそうではない。
 彼らの文化はみすぼらしく(miserable)、とるに足らない。しかし、それでもまだ、我々の文化よりも高い次元のものだ。』(+)(*秋月注)
 (全集33巻288頁〔=日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会」のうち「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治報告/3月27日」294頁〕。)//
 これは、レーニンの、彼が生み出した国家に関する、最も透徹した観察の一つだ。
 「ブルジョアジーから学べ」というスローガンは、悲劇的でかつグロテスクな両方の方法で実践に移された。
 ボルシェヴィキは、多大な努力と部分的でしかない成功を伴いつつ、今でもまだしているように、資本主義世界の技術的な達成物を吸収することを始めた。
 苦労を少しも伴わないで、ボルシェヴィキは、急速にかつ完全に、ツァーリスト体制(帝制)の官僚制(chinovniks)の統治と行政の方法を採用した。
 革命の夢は、その体制の全体主義的帝国主義(totalitarian imperalism)を粉飾する、用語法上の残滓のかたちをとってのみ、生き延びた。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注) このL・コワコフスキが引用する1922年3月のこの文の直後につづく文章のいくつかを、日本語版全集33巻294頁から引用する。一部はひらがなを漢字に変えた。
 「それは、どんなに惨めで、みすぼらしかろうと、わが責任ある共産主義活動家の文化よりは、ましである。なぜなら、これらの活動家には、統治する能力が不足しているからである。機関の主長になっている共産主義者は、-<中略>-しばしばよい嬲り者にされている。こういうことを認めるのは、ひじょうに不愉快である。少なくともあまり愉快ではない。だが、いまはこれが問題の眼目であるから、このことを認めなければならない、と思う。」
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 以上で、第18章は終わり。第二巻(第二部)も終わり。  
 この本には、邦訳書がない。このことは、昨2017年の、私には最も衝撃的なことだった。
 なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。

1743/論駁者・レーニンの天才性①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 
第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.772-775、分冊版・第2巻p.520-524。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第10節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性①。
 
大量のレーニンの刊行著作は、攻撃と論争(論駁、polemics)で成り立っている。
 読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性(agrressiveness)に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない(unparalleled)。
 彼の論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている(実際、彼にはユーモアのセンスが少しもなかった)。
 レーニンが攻撃しているのが「経済主義者」、メンシェヴィキ、カデット(立憲民主党)、カウツキー、トロツキーあるいは「労働者」対立派のいずれであれ、違いはない。
 彼の対抗者がブルジョアジーや土地所有者の追従者でないとすれば、その人物は、娼婦、道化師、嘘つき、屁理屈を言う詐欺師、そうしたもの、だ。 
 こうした論争のスタイルは、その日の話題に関するソヴィエトの著作物での義務的なものになることになった。ステレオタイプ化し、個人的な情熱を欠く官僚的な形式だったが。
 かりにレーニンの対抗者がたまたまレーニンが同意する何かを言ったとすれば、その人物は、それが何であれ、「認めることを強いられた」。
 論争が敵の陣地内で勃発すれば、その構成員の一人は他者に関する真実を「うっかり口にした」。
 書物または論考の著者がかりに、レーニンは言及すべきだったと考える何かに言及しなかったとすれば、その人物は「もみ消し」をした。
 社会主義者のそのときどきのレーニン敵対者は、「マルクス主義のイロハを理解していない」。
 しかしかりにレーニンが係争の問題点に関する考えを変えれば、「マルクス主義のイロハを理解していない」その人物は、レーニンがその日以前に主張していたものを主張している。
 誰もがつねに、最悪の意図を持っているのではないかと疑われている。
 きわめて些末な問題についてレーニンとは異なる意見をもつ者は誰でも、欺瞞者であり、またはせいぜいのところ、馬鹿な子どもだ。//
 このような技巧の目的は個人的な嫌悪を満足させることではなく、ましてや真実に到達することではなく、実践的な目標を達成することだった。
 レーニン自身が、1907年にある場合にこのことを確認した(他の誰かに関して言うだろうように、「思わず口を滑らせた」)。
 メンシェヴィキとの再統合の直前に、メンシェヴィキに対して「許し難い」攻撃をしたとして、中央委員会は党の審問所にレーニンを送った。
 レーニンは中でもとくに、『ペトルブルクのメンシェヴィキは、労働者の票をカデットに売り渡す目的でカデットとの交渉に入った』、そして『カデットの助けで労働者たちの中の人物をドゥーマ〔帝制下院〕にこっそりと送り込む取引をした』と、彼の小冊子で書いた。
 レーニンは審問の場で、自分の行動をつぎにように説明した。
 『この言葉遣い(つまり上に引用したばかりのもの)は、このような行為をする者たちに対する読者の憎悪、反感や軽蔑を誘発するために計算したものだ。
 この言葉遣いは、説得するためにではなく、対抗者の隊列を破壊してしまうために計算したものだ。
 論敵の過ちを是正するためではなく、彼らを破壊し、その組織を地上から一掃するためのものだ。
 この言葉遣いは、じつに、論敵に関する最悪の考え、最悪の疑念を呼び起こすような性質のもので、またじつに、説得したり是正したりする言葉遣いとは対照的な性質のものだ。それは、プロレタリア-トの隊列に混乱を持ち込むのだ。』(+)
 (全集12巻424-5頁〔=日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第五回大会にたいする報告」のうち「党裁判におけるレーニンの弁論(または中央委員会のメンシェヴィキ部分にたいする告訴演説」)433頁〕。)
 しかしながらレーニンは、これについて悔い改める気持ちを表明していない。
 彼の見解によれば、論拠に訴えるのではなく憎悪を駆り立てることは、反対者が同じ党の構成員でなければ、正当なこと(right)だった。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、分裂のために二つの別々の政党だった。
 レーニンは、中央委員会をこう非難した。
 『冊子を書いた時点で、(形式的にではなく本質的に)その冊子が起点とし、その目的に奉仕する単一の党は存在していなかった、という事実に関して、沈黙したままでいる。<中略>
 労働大衆の間に、異なる意見を抱く者たちに対する憎悪、反感や軽蔑等を体系的に広げる言葉遣いで党員同志に関して書くのは、間違っている(wrong)。
 しかし、脱落した組織に関してはそのような調子で<書くことができるし、そう書かなければならない>。
 何故、そうしなければならないのか?
 分裂が生じたときには、脱落した分派から指導権を<奪い返す>こと(to wrest)が義務だからだ。』(+)
 (同上、425頁〔=日本語版全集同上434頁〕。)
 『分裂に由来する、許容される闘争に、何らかの限度があるのか?
 そのような闘争には、党のいかなる基準も設定されていないし、存在し得ない。なぜなら、分裂とは、党が存在しなくなることを意味するからだ。』(+)
 (428頁〔=日本語版全集同上437頁〕。)
 我々は、レーニンを刺激してこう白状させたことについて、メンシェヴィキに感謝してよい。レーニンの言明は、彼の全生涯の活動で確認される。
 いかなる制約によっても、遮られない。重要なのは、目的を達成することなのだ。//
 レーニンは、スターリンとは違って、個人的な復讐心を動機として行動することはなかった。
 レーニンは、人々を-強調されるべきだが、彼自身も含めて-もっぱら政治的な器具として、かつ歴史的過程の道具として、操作(treat)した。
 このことは、彼の最も顕著な特質の一つだ。
 かりに政治的な計算で必要ならば、彼はある日にある人物に泥を投げつけ、翌日にはその人物と握手することができた。
 レーニンは1905年の後で、プレハノフを誹謗中傷した。しかし、プレハノフが清算主義者および経験批判論者に反対していることを知って、そして彼の名前の威信によって貴重な盟友だと知ってただちに、そうすることをやめた。
 1917年になるまでは、レーニンはトロツキーに対して呪詛を投げつけた。しかし、トロツキーがボルシェヴィキ党員になり、きわめて才能のある指導者であり組織者であることが分かるや、その全てが忘れられた。
 レーニンは、10月の武装蜂起計画に公然と反対したことについて、ジノヴィエフとカーメネフの裏切りを非難した。しかしのちには、彼らが党やコミンテルンの要職に就くのを許した。
 誰かを攻撃しなければならなかったときには、個人的な考慮は無視された。
 レーニンは、基本的な問題について同意することができると考えれば、論争を棚上げすることのできる能力があった。-例えば、党が第三ドゥーマ〔帝制下院〕に議員を出すこに関してボグダノフがレーニンに反対するまでは、彼は、ボグダノフの哲学上の誤りを看過した。
 しかし、レーニンがある時点で重要だと考える何かに論争が関係していれば、容赦なく反対意見を提示した。
 彼は、政治的な抗論において、個人的な忠誠に関する疑問を嘲弄した。
 メンシェヴィキがボルシェヴィキ指導者の一人だったマリノフスキーをオフラーナ(Okhrana)の工作員だと責め立てたとき、レーニンはこの「根本的な誹謗」にきわめて激烈に反駁した。
 二月革命の後で、メンシェヴィキの言い分は本当(true)だったことが明らかになった。それに対してレーニンは、ドゥーマ議長のロジヤンコ(Rodzyanko)を攻撃した。
 ロジヤンコはマリノフスキーの任務を知っていたが、彼の議員辞職をもたらし、(この当時に悪意をもってロジヤンコの政党を報じていた)ボルシェヴィキに言わなかった。それは、彼が内務大臣から〔マリノフスキーに関する〕情報を受けとったときに決して口外しないと「名誉」に賭けた約束をした、という、いかにもありそうな理由にもとづいてだ、と。
 レーニンは、ボルシェヴィキの敵たちが「名誉」という口実でもってボルシェヴィキを助けなかったことに、きわめて強い、偽りの道徳的(pseudo-moral)憤慨を感じた。//
 もう一つのレーニンの特徴は、彼の論敵たちはつねに悪党で裏切り者だったと示すために、敵意をしばしば過去へと投影させる、ということだ。
 1906年にレーニンは、ストルーヴェ(Struve)はすでに1894年に反革命者だった、と書いた。
 (「カデットの勝利と労働者党の任務」、全集10巻265頁〔=日本語版全集10巻253-4頁〕。)(*秋月注1)
 しかし誰も、1895年のストルーヴェに関するレーニンの議論からこのことを想定することはできなかった、その当時、二人はまだ協力関係にあったのだから。
 レーニンは数年にわたって、カウツキーを最も高い権威のある理論家だと見なしていた。しかし、カウツキーが戦争の間に「中央主義」の立場を採った後では、1902年の冊子で彼を「日和見主義者」だと非難した。
 (<国家と革命>、全集25巻479頁〔=日本語版全集25巻「国家と革命」のうち「第6章・日和見主義者によるマルクス主義の卑俗化」以降、516頁以降を参照〕。)
 また、カウツキーは1909年以降はマルクス主義者として執筆していなかった、と主張した。
 (1915年12月、ブハーリンによる冊子への序言。全集22巻106頁〔=日本語版全集22巻「エヌ・ブハーリンの小冊子『世界経済と帝国主義』の序文」115頁参照〕。)(*秋月注2)
 「社会排外主義者」に対する、1914年~1918年の攻撃の中でレーニンは、帝国主義戦争とは何の関係もない諸政党に呼びかけた第二インターナショナルのバーゼル宣言を援用した。
 しかし、第二インターナショナルと最終的に断絶した後では、その宣言は「変節者」による欺瞞文書だった。
 (1922年、「Publicist に関する覚え書」。全集33巻206頁〔=日本語版全集33巻「政論家の覚え書」203-4頁〕。)(*秋月注3)
 長年にわたってレーニンは、自分は社会主義運動内部のいかなる分離的傾向も支持せず、自分とボルシェヴィキはヨーロッパの社会民主主義者、とくにドイツ社会民主党と同じ原理を抱いてきた、と主張した。
 しかし、1920年に<左翼共産主義-小児病>で、政治思想の一種としてのボルシェヴィズムは、まさにその通りなのだが、1903年以来存在していたことが、明らかにされた。
 歴史に関するレーニンの遡及的な見方は、むろん、スターリン時代の体系的な捏造(falsification)とは比べものにならなかった。スターリン時代には、個々人と政治的諸運動に関するその当時の評価は全ての過去の年代について同じく有効だということが、何としてでも示されなければならなかったのだ。
 この点では、レーニンは、まだきわめて穏和な始まりを画したにすぎなかった。そして彼は、思想に関する合理的な流儀(mode)にしばしば執着した。例えば、プレハノフはマルクス主義の一般化に多大の貢献をした、プレハノフの理論上の著作は再版されるべきだと、プレハノフはそのときには完全に「社会排外主義者」の側に立っていたにもかかわらず、最後まで主張した。//
 レーニンは彼の著作の政治的な効果についてのみ関心があったがゆえに、彼の著作は反復で満ちている。
 彼は、同じ考えを何度も何度も(again and again)繰り返すことを怖れなかった。彼は、文体上の野心を持たず、党や労働者に対する影響にのみ関心があった。
 レーニンの文体はその党派的な論争の際や党の活動家に向かって表現しているときに最も粗暴だが、労働者に対してはかなり易しい言葉で語る、ということは記しておくに値する。
 労働者に対して向けられた彼の著作は、プロパガンダの傑作だ。ときどきの主要な諸問題に関する各政党の立場を簡潔かつ明快に説明している、<ロシアの諸政党とプロレタリア-トの任務>という小冊子(1917年5月)のように。//
 理論的な論争についても同様に、レーニンは論拠を詳細に分析することよりも、言葉と悪罵によって反対者を打ち負かすことに関心があった。
 <唯物論と経験批判論>はその際立った例だが、他にも多数の例がある。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注1) 日本語版全集10巻253-4頁から一部をつぎに引用する。「諸君の友人であるストルーヴェ氏を、反革命におしやったのはだれであったか、それはまたいつだったか?/ストルーヴェ氏は、彼の『〔ロシア革命の経済的発展の問題にたいする〕批判的覚え書』で、マルクス主義にブレンターノ主義的な但し書をつけた1894年には、反革命家であった」。
 (*秋月注2) 日本語版全集22巻115頁からつぎに引用する。「…。というのは、彼はこことを、すでに1909年に特別の著述-彼がマルクス主義者としてまとまりのある結論をもって執筆した最後のもの-のなかでみとめていたのである」。
 (*秋月注3) 日本語版全集33巻203-4頁からつぎに引用する。「20世紀の人々は、変節者、第二および第二半インターナショナルの英雄たちが1912年と1914~1918年に自分や労働者を愚弄するのにつかったあの『バーゼル宣言』の焼きなおしでは、そうやすやすと満足しはしないであろう」。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1742/マルトフとボルシェヴィキ②-L・コワコフスキ著18章9節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.770-、分冊版・第2巻p.519-520。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ②。
 レーニンとマルトフの間の論争は、このようにして、それが始まった1903年の時点で終わった。
 マルトフが労働者階級の支配について語ったとき、彼は言ったことそのままを意味させた。一方、レーニンの見解では、放置された労働者階級はブルジョアのイデオロギーを産出することができるだけで、労働者階級に現実の力を与えることは、資本主義の復古に結局はなるだろう。
 レーニンが全く正当に(rightly)、1921年8月にこう書いたごとくだ。
 『「労働者階級の力にもっと信頼を!」とのスローガンは、今や実際には、1921年春のクロンシュタッタトによってまざまざと証明され、実演されたように、メンシェヴィキやアナキストの影響力を増大させるために使われている。』(+)
 (「新時代と新しい装いの古い過ち」、全集33巻27頁〔=日本語版全集33巻「新しい時代、新しい形をとった古い誤り」9頁〕)。
 マルトフは、国家が過去の全ての民主主義的諸制度を奪い取り、その視野を拡張することを望んだ。 
 レーニンの国家は、共産主義者がその国家の権力を独占するかぎりでのみ、共産主義的だった。
 マルトフは、文化的継続性があることを信じた。
 レーニンにとっては、ブルジョアジーから奪い取るべき「文化」はただ、技術力と行政の技巧だけだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキはその観念体系のうちに物質的利益を求める堕落した大衆の飢餓を表現していると責め立てたとき、マルトフは誤った。
 このような見方は、革命の第一の局面を画した、大衆の略奪を原因としていた。
 しかし、レーニンも他のどのボルシェヴィキ指導者も、略奪は共産主義の原理の表現だとは見なしていなかった。
 反対に、レーニンは、労働生産力の増大が社会主義の優越性の証明印だ、と主張した。そして、全体的にではなくても主としては、社会主義をもたらす技術の進歩を信頼した。
 例えば、レーニンは、数十の地域的電力基地が建設されれば-しかしこれには、少なくとも十年はかかる-、ロシアの最も後進的部分ですら、妨害の段階なくしてまっすぐに社会主義へと進むだろう、と書いた。
 (<現物税(食糧税)>、1921年5月。全集32巻350頁〔=日本語版全集32巻「食糧税について」378頁〕。)
 実際、世界的な生産指標は社会主義の成功を根本的に証明するものだ、という考えを確立していたのは、ボルシェヴィキだった。
 むろん多くの言葉を用いてではなかったけれども、ボルシェヴィキは、生産者すなわち労働者共同体全体のために生活をより良くするかどうかに関係なく、生産の原理をそれ自体のために神聖視した。
 このことは、唯一のものではないけれども、至高の価値をもつものとしての国家権力のカルト(cult、狂熱集団)の重要な側面だった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第9節は終わり。つづく第10節の表題は、「論駁家としてのレーニン。レーニンの天才性。」。

1741/江崎道朗と加藤哲郎・白井聡。

 L・コワコフスキはその大著の第二巻第10節の最初の第二文と第三文でこう書く。-そのうちに試訳全体はこの欄に掲載する予定だ。
 第二/レーニンの大量の著作の「読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない。」
 第三/「レーニンによる論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている。」
 コワコフスキの著に接しながら、またレーニン全集の文章の一部を読みながら、上とほとんど全く同じ感想をもつ。そして想う、こんな文章ばかりを何年も読んでいると、どういう人格・個性・心性の人間になってしまうのだろう、気の毒なことだ、と。
 そして同時に連想するのは、この欄で一度だけ取り上げた、そしてなおも掲載できる素材のある、白井聡という人物だ。つぎの本について、この欄ですでに触れた。
 白井聡・未完のレーニン(講談社選書メチエ、2007)。
 白井聡は、一橋大学の大学院の学生時代、ロシア原語で(極端にいうとだが)レーニンばかりを読んでいたように見える。その時代の論文が上の本の基礎だったはずだ。
 まだ若いはずだが、学界・アカデミズムの中ではともかく、「左翼」系の、又はある程度売れれば何でもよいと考える出版社・編集者の間ではある程度の「地歩」をすでに築いているように見える。
 将来に変わる見込みはなさそうでもあるので、この人にはいずれまた、論及したい。
 これも断定はし難いとは言え、おそらく間違いなく、一橋大学大学院での白井聡の指導教授だったのは、加藤哲郎だ。
 加藤哲郎は、この欄で本格的には言及した記憶はないが、1990年頃、つまり東欧・ソ連の「社会主義」激動期までずっと(いつからかは知らない)日本共産党員で、その頃に離脱したようだ(一昨年秋以降に収集した日本共産党関係の書物の年表がこの人物を含む数名を批判した旨のことを記載していた)。
 いうまでもなく、日本共産党員ではなくとも、あるいは「反」・「非」日本共産党であっても、共産主義者であることはあるし、「左翼」にとどまっていることもある(有田芳生はその好例だ)。そして、加藤哲郎は依然として、少なくとも「左翼」=容共ではあるだろう。
 加藤には、こんな本もある。
 加藤哲郎・ゾルゲ事件-隠された神話(平凡社新書、2014)。
 この加藤の本をつぎのように肯定的に評価し、二箇所の直接の引用で計13行を用い、二頁にわたる記述の基礎にしている書物がある。
 加藤の上の著は「ソ連崩壊後に公開された一次史料を使って、ゾルゲ事件についてこれまで知られていなかった新事実を紹介している」。
 そのとおりかもしれない。だが、加藤哲郎はいかなる関心からゾルゲ事件に関する探索をしたのだろうか。
 そのような検討や執筆者の政治的立場を全く考慮していないと見られる上の書物とはつぎで、該当頁もつぎのとおりだ。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.07)、p.387-9。 
 江崎道朗は自らを「保守」派だと、しかも「保守自由主義」者だと考えているようだ。但し、外国の「左翼」または共産主義者・当該国の共産党員による書物を一部でかつ何箇所も下敷きにして上の本を2017年夏に刊行していたとしても、驚く必要はない。

1740/マルトフとボルシェヴィキ①。

 前回のつづき。コワコフスキの大著・三巻合冊本、p.770-。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ①。
 カウツキーやローザ・ルクセンブルクとともにマルトフは、ボルシェヴィキの観念体系(ideology)と革命後すぐの数年間の戦術に対する第三の傑出した批判者だった。
 彼の<世界ボルシェヴィズム>(1923年、ロシア語)、1918-19年に彼が書いた論考の集成は、メンシェヴィキの立場から、つまりはカウツキーのそれと似て社会民主主義を代表して、レーニン主義を批判する、おそらくは最も重要な試みだ。
 マルトフは、ロシアでの権力の前提はマルクス主義者により伝統的に理解されるプロレタリア革命とはほとんど共通性がない、と主張した。
 ボルシェヴィズムの成功は労働者階級の成熟によるのではなく、その解体と戦争に対する厭気〔=厭戦気分〕による。
 諸党派によって何年も、何十年も社会主義で教育された戦前の労働者階級は、大量殺戮によって悪質になり、田園的要素の流入によって性質を変えた。それは、全ての交戦国家で発生した過程だった。
 諸観念についての従前の権威は消滅し、粗野で単純な公理が日常の秩序だった。
 行動は、直接の物質的必要と全ての社会問題は軍隊の実力(force)によって解決されるとの信念によって指示された。
 社会主義左派は、ツィンマーヴァルトでの、プロレタリア運動に残っているものを救済する試みに敗北していた。
 マルクス主義は戦争の間に一方で「社会的愛国主義」、他方でボルシェヴィキのアナクロ・ジャコバン主義へと分解した、ということは、意識は社会条件に依存するというマルクス主義の理論を裏付けるだけだった。
 支配諸階級は、彼らの軍隊という手段によって、大衆の破壊、略奪、強制労働等々を準備していた。
 ボルシェヴィズムは、この逆行の真っ最中に、社会主義運動の廃墟の上に起き上がった。
 レーニンの<国家と革命>による革命後の現実に関する約束とは対照的に、やはりマルトフは、ボルシェヴィズムの本当の意味は民主主義の制限にあるのではない、という見解だった。
 革命は一定期間はブルジョアジーから選挙権を剥奪すべきだとのプレハノフの古い考えは、制度上の民主主義の別の形態が存在していたとすれば、適用され得ただろう。
 ボルシェヴィズムの観念体系は、科学的社会主義は真実(true)であり、そのゆえにブルジョアジーによって瞞着されて自分たち自身の利益を理解することのできない大衆に押しつけられなければならない、という原理にもとづく。
 この目的のためには、議会、自由なプレス、および全ての代表制的な制度を破壊することが必要だ。
 マルトフは言う。この教理は、空想的(ユートピア的)社会主義の伝統にある一定の歪み(strain)、すなわち、バブーフ主義者、ヴァイトリンク(Weitling)、カベー(Cabet)、あるいはブランキ主義者の諸綱領に描かれた手段、と合致している。
 労働者階級はそれが生きる社会に精神的に依存しているという原理から、空想家(夢想家たち)は、社会は、労働者大衆は受動的な対象の役割を演じつつ、一握りの陰謀家または啓蒙されたエリートによって変形されなければならない、という推論を導いた。
 しかし、例えばマルクスの第三<フォイエルバッハに関するテーゼ>に明言されているように、弁証法の見方は、人間の意識と物質的条件の間には恒常的な相互作用があり、労働者階級がその条件を変えようと闘うにつれて、自らを変え、精神的な解放を達成する、というものだ。
 少数者による独裁は、社会と独裁者たち自身のいずれも教育することができない。
 プロレタリア-トは、一階級としての主導性をとることができるようになるときにのみ、ブルジョア社会の成果を奪い取ることができる。そして、僭政体制、官僚制およびテロルの条件のもとでは、そうすることができない。//
 マルトフは、つづける。ボルシェヴィキは、プロレタリア-ト独裁や従前の国家機構の破壊に関するマルクスの定式に訴える資格を持っていない。
 マルクスは、普通選挙権と人民主権の名のもとに選挙法制攻撃したのであり、単一の政党の僭政の名のもとにおいてではなかった。
 マルクスは、民主主義国家の反民主主義的制度-警察、常置軍、中央志向の官僚制-の廃棄を呼びかけたのであり、民主主義の廃棄それ自体をではなかった。すなわち、彼には、プロレタリア-ト独裁とは統治の形式ではなく、特定の性格の社会だった。
 他方で、レーニン主義は、国家機構を粉砕するというアナキスト(無政府主義者)のスローガンを称揚し、同時に、考えられる最も専制的な形態でそれを再建しようと追求している。//
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 ②へとつづく。

1739/全体主義者・レーニン③ーL・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.769-、分冊版・第2巻p.515-7。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン③。
 コムソモル(青年共産同盟)大会での、しばしば引用される1920年10月2日のレーニンの演説は、同様の考え方で倫理の問題を扱う。
 『我々は、道徳(morality)は全体としてプロレタリア-トの階級闘争の利益に従属する、と言う。<中略>
 道徳は、搾取する旧い社会を破壊し、新しい共産主義社会を樹立しているプロレタリア-トの周りの全ての労働大衆を統一することに、奉仕するものだ。<中略>
 共産主義者にとって、全ての道徳は、この団結した紀律と搾取者に対する意識的な大衆闘争のうちにある。
 我々は、永遠の道徳の存在を信じず、道徳に関する全ての寓話の過ちを暴露する。』
 (全集31巻291-4頁〔=日本語版全集31巻「青年同盟の任務(ロシア青年共産同盟第三回全ロシア大会での演説)」288-292頁〕。)
 党の意図に奉仕するかまたは邪魔となるかの全てのことは、それぞれに対応して道徳的に善であるか悪であるかだ、そして何も道徳的に善であったり悪であったりしない、という以外のいかなる意味にも、このような文章を解釈するのは困難だろう。
 権力掌握の後、ソヴェトによる支配の維持と強化は、全ての文化的価値のためと同じく道徳のための唯一の規準になる。
 いかなる規準も、権力の維持を導くようにみえる可能性のあるいかなる行為にも反対することはなく、そして他のいかなる根拠についても価値があることを承認することはできない。
 かくして、全ての文化問題は技術的問題になり、一つの不変の基準によって判断されなければならない。すなわち、『社会の善』は完全に個々の構成員の善から分け隔てられるようになる。
 例えば、ソヴェトの権力を維持するのに役立つことを示すことができても、先制攻撃(aggression)や併合を非難するのは、ブルジョア的な感傷(sentimentalism)だ。
 定義上は『労働大衆の解放』のために奉仕する権力の目標達成に役立つならば、拷問を非難することは、非論理的であり、偽善だ。
 功利主義的道徳や社会的文化的現象に関する功利主義的諸判断は、社会主義の本来の基盤をその反対物へと変形させる。
 ブルジョア社会で生じるならば道徳的な憤慨を呼び起こす全ての現象は、新しい権力の利益に奉仕するならば、マイダスの接触(the Midas touch)によるかのごとく、金へと変わる。
 外国への武力侵攻は解放であり、攻撃は防衛であり、拷問は人民の搾取者に対する高貴な憤激を表現する。
 レーニン主義の原理のもとでは、スターリン主義の最悪の年月の最悪の過剰で正当化され得ないものは、ソヴェトの権力がそれによって増大したということが示され得るとするだけでも、絶対に何一つない。
 『レーニン時代』と『スターリン時代』の間の本質的な相違は、レーニンのもとでは党と社会に自由があったがスターリンのもとではそれは粉砕された、ということではなく、ソヴィエト同盟の人民の全ての精神的な生活が普遍的な虚偽(mendacuity)の洪水によって覆い隠されたのはスターリンの日々においてだった、ということだ。
 しかしながら、これはスターリンの個性(personality)にのみよるのではなく、こう述べ得るとすれば、状況の『自然の』発展でもあった。   
レーニンがテロル、官僚制、あるいは農民による反ボルシェヴィキ蜂起について語ったとき、彼はこれらの事物をそれぞれの名前で呼んだ。
 スターリン主義独裁が開始されるや、党は(敵によって攻撃されていたが)その威信を汚すことになるような過ちを冒さなかった。ソヴィエト国家は無謬であり、政府に対する人民の敬愛は無限だ。
 政府に対する制度的統制のいかなる痕跡も消滅してしまった国家では、予め定められている原理の問題として、政府を唯一正当化するのはそれが労働人民の利益であり希望である、という意味において、この変化は、自然だった。
 このことは、世襲の君主制にあるカリスマ性や適正に選挙される体制とは異なる、正統性の一つのイデオロギー的形態と呼ばれてよいかもしれない。
 ウソ(the Lie)の全能性は、スターリンの邪悪さによるのではなく、レーニン主義の諸原理にもとづく体制を正当化する、唯一の方法だった。
 スターリンの独裁期につねに見られたスローガン、『スターリンは、我々の時代のレーニンだ』は、かくして、総体的に正確だった。// 
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第8節は終わり。つづく第9節の表題は、「ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ」。なお、スターリンに関する叙述が以上で終わっているのではなく、彼にかかわる叙述は本格的には第三巻(第三部)の最初から始まる。

1738/全体主義者・レーニン②-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.768、分冊版・第2巻p.514-5。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン②。
 レーニンは、哲学を含むあらゆる領域について、不偏または中立の可能性を決して信じなかった。
 党に加入しようと望まず、自分を中立的だと宣する者はみな、隠れた敵だった。
 革命のすぐ後の1917年12月1日に、レーニンはソヴェト農民代表者大会で、鉄道労働組合を攻撃して、こう語った。
 『毎分が時を刻み、異論や中立は敵に言葉を発することを許し、敵が確実に聴かれようと欲し、その聖なる権利のための闘争をする人民を急いで助けることがなされていない、そのような革命的闘争のときには、このような立場を中立と呼ぶことはできない。
 それは、中立ではない。
 革命的な者は、それを教唆(incitement)と呼ぶだろう。』(+)
 (全集26巻329-330頁〔=日本語版全集26巻「農民代表ソヴェト臨時全ロシア大会」のうち「ヴィクジュリ代表の声明についての演説/11月18日(12月1日)」333-4頁〕。)//
 政治、あるいは他のどこにでも、いかなる「中立者たち」も存在しない。
 レーニンが関係したいつのいかなる問題についても全て、彼に関心があるのは、それは革命のために、又はのちにはソヴェト政権のために、良いのか、悪いのか、のいずれなのか、だった。
 トルストイの死後の1910-1911年に書かれた、レーニンの四つの彼に関する小論は、その典型的な例だ。
 レーニンの中心的な主題は、トルストイ作品の「二つの側面」の存在だ。
 第一は、反動的で、夢想家(utopian)(道徳的完全さ、全ての者への慈悲、悪への無抵抗)。
 第二は、「進歩的」で、批判的(抑圧、農民への憐れみ、上層階級および教会の偽善等に関する描写)。
 トルストイの基本的考えの「反動的」側面は、反動者たちによって誇張されたが、「進歩的」側面は大衆を喚起させる目的のために「有用な素材」を提供するかもしれない。政治的闘争は、トルストイによる批判の視野よりもすでにかなり広くなっているけれども。
 レーニンの1905年の論考、『党組織と党出版物』は、ロシアでの書かれる言葉の奴隷化をイデオロギー的に正当化するために十年間使われたし、いまなおも使われている。
 政治文学についてだけそれは関係すると言われてきたが、しかし、そうではない。それは、全ての種類の著作に関係している。
 上の論考は、以下のような文章を含む。
 『非パルチザン〔無党派〕の作家は、くたばれ!
 文学上の超人は、くたばれ!
 文筆は、プロレタリア-トの共通の根本教条(cause)の一部にならなければならない。
 単一の偉大な社会民主党の機構の「歯車とネジ」は、労働者階級全体の全体として゜政治的意識をもつ前衛によって、作動し始める。』
 (全集10巻45頁〔=日本語版全集10巻「党組織と党出版物」31頁〕。) 
 このような官僚制的態度を嘆いているらしき「神経質な知識人」の利益のために、レーニンは、著述活動の分野では、機械的な同等化はありえない、と説明する。
 個人的な主導性、想像力等の余地は残されていなければならない。
 それでもやはり、文筆の仕事は党の仕事の一部でなければならず、党によって統制されなければならない。(*秋月注)
 もちろんこのことは、ロシアは当然の行程として言論の自由を享受する、しかし党の著述家の構成員はその著作で党の心性(mindedness)を示さなければならない、という前提のもとで、『ブルジョア民主主義』を目指す闘いの間に書かれた。
 他の場合と同様に、党が国家の強制装置を支配したときには、こうした義務は一般的になった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (秋月注)この部分の趣旨の原文は、日本語版全集10巻32頁を参照。「新聞は種々な党組織の機関とならなければならない。文筆家はかならず党組織に入らなければならない」、という文もある。
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 ③へとつづく。

1736/全体主義者・レーニン①-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史にほとんど関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.766-7、分冊版・第2巻p.513-4。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン①。
 レーニンは、重要な実践的問題についてトロツキーよりもはるかに教理主義的(doctrinaire)ではなかったが、少なくとも二つの点では、自分自身の原理から逸脱した。
 第一に、労働組合は計画経済の遂行のためのみならず国家に対して労働者を守るためにも役割を果たす-本当の(true)マルクス主義の論理では、彼はトロツキーのようにこれは労働者階級が自分自身に対して自分自身を守るのであって馬鹿げたことだと以前には主張していたのだが-、と彼は認識していた。      
 第二に、国家は『官僚制的歪曲』を被っている、と認めていた。このことが彼の心理上の図式の中にどの程度入り込んでいたのか、は明らかではなかったけれども。
 階級利益の観点からは、表向きには、資本主義の官僚制は抑圧の道具であり、社会主義のそれは解放の道具だった。
 これら二つの問題についてドグマ(教条)を現実のために犠牲にすることができる、というのは、レーニンの常識に含まれていた。しかし、不運にも、何かをするには道理を分別するのが遅すぎた。
 どの場合でも、彼は、労働組合の自立性を擁護する一つの言葉ごとに、サンディカリズムの危険について十の言葉を発した。そして、より強くする以外に官僚制を解決する方策を持たなかった。
 党自身は社会全体では抑圧されていた自由な言論と自由な批判をすることのできる飛び地(enclave)だといういかなる幻想も、早くに消失する運命にあった。
 述べてきたように、レーニン自身は、党内部での徒党(派閥、clique)や論争は健康な徴候だとは決して考えなかった。
 召喚主義者(otzovist)や「革命思想や哲学思想の完全な自由」とのスローガンと闘っていた1910年にすでに、レーニンはこう書いた。
 『このスローガンは、全く日和見主義だ。
 全ての国々で、日和見主義者によってこの種のスローガンが社会主義政党の前に押し出されたが、実際にはこれは、ブルジョアジーの観念体系(イデオロギー)によって労働者階級を腐敗させる『自由』以外の何ものでもなかった。
 「思想の自由」(プレス、言論および信教の自由と読むべし)を、我々は、団結の自由とともに(党にではなく)<国家>に要求する。』(+)
 (「Vperyod 派」、1910年9月、全集16巻270頁(=日本語版全集16巻「『フペリョード』の分派について」288頁〕。)
 もちろんこれは、ブルジョア国家に論及したものだ。
 いったん国家の権威が党のそれと同一視されると、批判する自由に適用する論理は、明らかに、両者について同じでなければならない。
 党の<画一化(Gleichschaltung)>にはより長く要したが、しかしともに不可避のことだった。
 問題は、1921年3月の第10回党大会で、原理的に解決された。レーニンの分派主義および「諸見解の色合いを研究するという贅沢」に対する攻撃、そして『我々は偏向(deviation)に関する討議をすることはできない、それを中止しなければならない』という彼の言明によって。(+)
 (全集32巻177-8頁〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第十回党大会」のうち「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治活動についての報告/3月8日」184頁・185頁〕。)
 レーニンの死後数年間は、党内部に、あるいはむしろ党の諸機関の内部に、グループや「プラットホーム」を公然と形成することを完全に阻止するのは、不可能だった。
 しかし、まもなく、純粋な又は想像上の「偏向」は、国家の制裁的な腕力によって処理された。そして、統一(単一性、unity)という理想は、警察の手段でもって達成された。//
 しかしながら、レーニンの教義とそれに伴う思考のスタイルが全体主義システムの基礎を築いた、と言い得るとすれば、それは、テロルの使用や公民的自由の弾圧を正当化するために引き合いに出された諸原理を理由とするものではない。
 ひとたび内戦が開始されるや、テロリズムという極端な手段が両方の側から期待されることとなる。
 体制を維持し、強化するための公民的自由の廃絶は、つぎのような原理によってでなくしては、達成することはできない。すなわち、全ての活動-経済的、文化的等-は完全に国家に従属しなければならない。体制への反逆行為は禁じられて仮借なく罰せられるのみならず、いかなる政治的行為も「中立的」ではなく、個々の市民は国家の目的の範囲に入らないいかなることもする権利を持たない。市民は国家の所有物であり、そのようなものとして取り扱われる。
 これら諸原理をツァーリ帝制ロシアから受け継ぎ、はるかに強い程度の完成物となったソヴィエト体制は、この点で、やはりレーニンの作品(work)でもあった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 ②へとつづく。

1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史にほとんど関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.766-7、分冊版・第2巻p.511-2。
 <>はイタリック体=斜体字で、書名のほか著者=L・コワコフスキによる強調の旨の記載がとくにある場合があるが、その旨の訳出は割愛する。
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 第7節・独裁に関するトロツキー②。
 国家は、もちろん、労働大衆の利益のために組織されている。
 『このことは、しかし、最も優しいものから極端に苛烈なものまで、全てのその形態での強制(compulsion)の要素を排除する、というものではない。』
 (同上〔トロツキー・<テロリズムの擁護>〕、122頁)
 新しい社会では、強制は消失しないだけではなく、本質的な役割を果たすだろう。
 『まさに強制的な労働奉仕の原理は、共産主義者にとって、全く疑問の余地がない。<中略>
 <原理と実践の両方の見地からして>適正な(correct)経済的苦難の唯一の解決策は、全国の民衆を必要な労働力の供給源(reservoir)として取り扱うことだ。<中略>
 この強制労働役務の原理自体が、生産手段の社会化が資本主義の財産権に取って代わるにつれて、自由な雇用という原理と<過激にかつ永遠に>入れ替わったばかりのものだ。』
 (同上、124-7頁)
 労働は、軍事化されなければならない。
 『我々は<中略>、経済計画にもとづく社会的に規制された労働によって、資本主義的奴隷制に対抗する。その労働は、全民衆にとって義務的で、その結果としてこの国のいずれの労働者にも強制的なものだ。<中略>
 労働の軍事化の基礎になるのは、それなくしては社会主義者による資本主義経済の置き換えが永久に空響きのままにとどまるだろう、そういう形態での国家による強制だ。<中略>
 軍隊を除くいかなる社会組織も、プロレタリア-ト独裁の国家がしていることやすることを正当視されるような、そういう方法で市民を服従させることで、そしてそのような程度にまで、全ての側面についてその意思によって自ら自分たちを統制させることで、自らの正当性が証明されるとは考えてこなかった。』
 (同上、129-130頁)
 『我々は、経済的な諸力や国の資源を権威的に(authoritative)規制すること、および総括的な国家計画と整合して労働力を中央によって配分すること以外によっては、社会主義への途を見出すことができない。
 労働者国家は、全ての労働者をその労働を必要とする場所へと送り込む力をもつことを、正当なことと考える。』
 (同上、131頁)
 『若き社会主義国家は、より良き労働条件を目ざす闘争のためにではなく-これは全体としての社会組織や国家組織の任務だ-、生産の目標へと労働者を組織するために、そして研修し、訓練し、割り当て、グループ化し、一定の範疇と一定の労働者を固定された時期にその職にとどめておくために、労働組合を必要とする。』
 (同上、132頁)
 締め括れば、『社会主義への途は、最高限度に可能な国家の原理の強化の時期を通じて存在すしている。<中略>
 国家は、それが消滅する前には、プロレタリア-ト独裁の形態を、言い換えると、全市民の生活を権威的にあらゆる方向で抱きとめる(embrace)、最も容赦なき形態の国家の形態をとる。』
 (同上、157頁)//
 これ以上に平易に物事を述べるのは、本当に困難だろう。
 プロレタリア-ト独裁の国家は、市民の生活全ての側面に対する絶対的権力を政府が行使し、どの程度働くべきか、どのような性質の仕事をすべきか、何という場所で働くべきか、といったことを政府が詳細に決定する、そのような巨大で永続する集中〔強制〕収容所(concentration camp)のようなものとして、トロツキーによって叙述されている。
 個人は、労働の単位でしかない。
 強制は普遍的なものだ。そして、国家の一部ではないいかなる組織も国家の敵、したがってプロレタリア-トの敵であるはずだ。
 これら全ては、もちろん、理想的な自由の王国の名目のもとでのことだ。それの到来は、歴史的な時間の不確定の経過のあとに予期されている。
 我々は、こう言ってよい。トロツキーは、ボルシェヴィキたちによって理解されている社会主義の諸原理を完璧に表現している、と。
 しかしながら、我々は、マルクス主義の観点からすると、労働者の自由な雇用に何が取って代わるとされるのかに関しては、まだ明瞭には語られていない。-マルクスによると、労働者の自由な雇用とは、一人の人間が市場で労働力を売らなければならないので、換言すると自分を商品と見なし、かつそのようなものとして社会によって取り扱われるので、奴隷制の一つの目印だ。
 かりに自由な雇用が廃止されれば、人々を仕事へと導いて富を生み出す唯一の方法は、物理的な強制であるか、または道徳的な動機づけ(仕事への熱狂)だ。
 後者はもちろん、レーニンとトロツキーの両者によって褒め讃えられた。しかし、彼らはすぐに、それに依存するのは作動力の永遠の根源のごとく荒唐無稽なことだ、と知った。
 ただ強制だけが、残された。-生活費を稼ぐ必要にもとづく資本主義的な強制ではなく、苛酷な物理的力(force)にもとづく、投獄、肉体的な損傷、そして死への恐怖にもとづく強制だった。//
 ----
 以上で、第7節は終わり。次の節の表題は、「全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン」。
 下は、分冊版・第二巻の表紙/Reprint, 1988年/Oxford。
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1733/独裁とトロツキー①-L・コワコフスキ著18章7節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.763~、分冊版・第2巻p.509~。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第7節・独裁に関するトロツキー①。
 カウツキーの次の冊子、<テロリズムと共産主義>は、同じ表題をもつ書物で、トロツキーによって回答された。
 その英語訳書は、<テロリズムの擁護(defence)>として、1921年に刊行された。
 この含蓄のある著作は、レーニンの諸発言よりも、ある程度においてはより断固たるものですらある。
 党に関するレーニンの理論は一人の人間の僭政を導くだろうと1913年に予見したトロツキーは、1920年までに上の理論へと完全に変えられた。
 彼の冊子は、権力の内部にいるときに書かれているが、プロレタリア-ト独裁のもとでの国家に関する最も一般的な解説を含んでいるものとして、ゆえにまた、全体主義システムと言われるに至ったものに関する最も明瞭な説明を含んでいるものとして、記しておくに値する。
 確かに、その冊子は内戦およびポーランドとの戦争の間に書かれている(後者についてトロツキーは、『我々は勝利を望む、なぜなら我々にはそうする全ての歴史上の権利(historical right)がある』と、驚くべき無邪気さで語る)。
 しかし、それは明らかに、一般的理論であろうとしている。
 トロツキーの従前の演説からの数多くの引用は、その時点の真っ只中での彼のテーゼをたんに強調したにすぎないものではないことを、示している。
 彼はレーニンと同じように、プロレタリア-ト独裁に関する一般理論を提示する。
 ブルジョア民主主義は、欺瞞だ。
 階級戦争での重要な論点は、投票によってではなく、実力(force)によって決せられる。
 革命のときには、正当な路線は権力を目ざして闘うことであって、愚かしくも『多数派』を待つことではない。
 テロルを拒絶することは、社会主義を拒絶することだ(目的(end)を意図する者は手段(method)を意図しなければならない))。
 議会主義諸制度には全盛期があったが、それらは主として中間諸階層の利益を反映するもので、革命の時期に重要なのは、プロレタリア-トとブルジョアジーだけだ。
 『法の前の平等』、公民権等々に関する話は、現今では、精神的な(形而上学上の、metaphysical)たわ言にすぎない。
 憲法制定会議(the Constituent Assembly)を解散させたのは、正しかった(right)。
 選挙制度が事態の急速な推移に追い抜かれていた、そして、その会議は人民の意思を代表していなかったのだ、との理由だけでもかりにあったとすれば。
 人質を射殺したのは、正当だった(right)(<戦場では戦争のように振る舞う>)。
 プレスの自由は、階級敵とその同盟者、メンシェヴィキおよびエスエルたち、を助けるものなので、許容され得なかった。
 『真実(truth)』や誰が正しいのかを語るのは、無益だった(idle)--これは、学問上の議論ではなく、死に至らせる戦闘だったのだ。
 個々人の権利は、見当違いに馬鹿馬鹿しい(irrelevant nonsense)。
 そして、『我々について言えば、我々は、カント主義崇敬者や菜食主義クェイカー教徒たちの、人生の神聖性に関する贅言には、全く関心がなかった』(<テロリズムの擁護>60頁)。
 パリ・コミューンは、情緒的で人間主義的な躊躇を原因として、打倒された。
 プロレタリア-ト独裁では、党は、上訴に関する最高位の法廷でなければならず、全ての重要な案件に関する最終的決定権を持たなければならない。
 『プロレタリア-トの革命的な優越性は、プロレタリア-ト自身のうちに、明確な行動綱領と無謬の内部紀律をもつ党の、政治的な優越性を前提としている。』
 (同上、100頁)
 『ソヴェトの独裁は、党による独裁という手段によってのみ、可能になった。』
 (同上、101頁)//
 トロツキーは、しかしながら、レーニンが回避した又は無視した疑問に、答える。
 『一定の賢い人物たちは我々に、歴史発展の利益を表現するのはまさに貴方たちの党だ、ということの保証はどこにあるのか?、と問う。
 他の諸政党を破壊し又は地下に追いやって、貴方たちはそれで貴方たちとの政治的な競争を阻害し、その結果として貴方たちは、自分たちの活動路線を吟味(test)する可能性を失った。』
 トロツキーは、つぎのように答える。
 『こうした考えは、革命の推移に関する純粋にリベラル(liberal)な把握によって述べられている。
 あらゆる敵対が公然たる性格をもち、政治的な闘争が急速に内戦へと移行した時期には、支配する党は、メンシェヴィキ新聞のあるいは可能だった流通なくしても、活動方針を吟味するための十分に実質的な規準を持つ。
 ノスケ(Noske)は〔ドイツの〕共産党員たちを鎮圧した。しかし、彼らは成長する。
 我々はメンシェヴィキやエスエルたちを抑圧した。-そして、彼らは消滅した。
 これは、我々にとって十分な規準だ。』
 (同上、101頁)//
 これは、ボルシェヴィズムに関する、最も教示溢れる理論上の定式化だ。これによると、歴史上の運動または国家の『正しさ(rightness)』は、その暴力(violence)の行使が成功するか否かによって決定されることになる。
 ノスケはドイツの共産党員たちを鎮圧することに成功しなかった。しかし、ヒトラー(Hitler)がそれをした。
 かくして、トロツキーの規則からはつぎのことが帰結するだろう。すなわち、ヒトラーこそが、『歴史発展の利益を表現した』。
 スターリンはロシアのトロツキー主義者たちを粛清(liquidate)した。そして、彼らは、消失した。-そう、明らかに、トロツキーではなくスターリンが、歴史の進歩の側に立った。//
 前衛党による統治の原理から、もちろん、つぎのことが導かれる。
 『労働組合の継続的な「自立性」は、プロレタリア革命の時期には、連立の政策と全く同じく不可能だ。
 労働組合は、権力をもつプロレタリア-トの、最も重要な経済機関になる。
 ゆえに、労働組合は、共産党の指導権に服する。
 労働組合運動における原理に関する諸問題のみならず、その内部にある組織に関する重要な論争は、我々の党の中央委員会が決裁する。<中略>
 (労働組合は、)ソヴェト国家の生産の諸機関だ。そして、その運命に関する責任を引き受ける。-そのことに抵抗するのではなく、それと一体化するのだ。
 労働組合は、労働紀律の組織者になる。
 労働組合は労働者たちに、最も困難な条件のもとでの最も集中的な労働を要求する。』
 (同上、102頁)//
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 ②へとつづく。トロツキー<テロリズムの擁護>はトロツキー選集類の中に邦訳がある可能性があるが、参照していない(少なくとも単著としての邦訳書はないようだ)。

1732/社会主義と独裁⑥-L・コワコフスキ著18章6節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとってきわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派はマルクス主義の内実と歴史にまるで関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。分冊版・第2巻p.507の途中~。
 一文ごとに改行し、本来の改行箇所には「//」を付す(これまでの試訳の掲載と同じ)。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁⑥。
1922年5月のD・I・クルスキーへの手紙で、レーニンはこう書いた。
 『裁判所は、テロルの障害物となってはならない。<中略>
 そうではなく、その基礎にある動機を定式化しなければならず、原理的に、やさしく言えばいかなる見せかけや粉飾もしないで、それを合法化〔legalize〕しなければならない。』(+)
 追記する刑法典の修正案の中で、レーニンはつぎのような表現<言葉遣い、wording>を提案した。
 『資本主義に取って代わっている共産主義所有制度の諸権利を承認することを拒み、外からの干渉と封鎖のいずれかによって、あるいは諜報活動、諸プレスへの資金援助その他同様の手段によって、この制度を暴力によって転覆しようと躍起になっている、そのような国際的ブルジョアジーの部門の利益に客観的には奉仕する(異文-奉仕するもしくは奉仕しがちな)プロパガンダまたは煽動宣伝〔agitation〕は、死刑を科しうる犯罪行為である。
 但し、この量刑を緩和する事情のあることが立証されれば、自由の剥奪または国外追放(deportation)に代えることがありうる。』(+)
 (sc. ロシア; vysylka za granitsuから。)(全集33巻358-359頁〔=日本語版全集33巻「デ・イ・クルスキーへの手紙」371-372頁〕。)
 レーニンは、ロシア共産党(ボ)の第十一回大会で、ネップ〔The N.E.P.、新経済政策〕は資本主義に向かう退却だ、これは革命のブルジョア的性格を証明する、と主張するメンシェヴィキとエスエルは、そのような言明をしているがゆえに銃殺〔shoot〕されるだろう、と宣告した。<*秋月注記>
 (同上282-3頁〔=日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第十一回大会」のうち「…中央委員会の政治報告/1922年3月27日」287頁〕。)//
 こうして、レーニンは、全体主義をたんなる専制体制と区別する諸立法の基礎を築いた。重要なのは、苛酷〔severe〕だということではなく、誤っている〔spurious〕、ということだ。
 法律は、とくに全体主義的であることなくして、小さな犯罪に対して龍のごとき〔draconic〕制裁を与えることがありうる。
 全体主義的な法に特徴的であるのは、レーニンが語るような定式の用い方だ。
 すなわち、「客観的にはブルジョアジーの利益に奉仕する」見解を表明するがゆえに、人民は処刑されうる。
 このことは、政府はその選ぶ誰をも死に至らしめることができる、ということを意味する。
 法などというものは、存在しない。刑法典が苛酷であるのではない。刑法典は、その名前以外には何も存在していないのだ。//
 すでに述べたように、これら全ては、党〔ロシア共産党〕がまだ十分には支配しておらず、ときには批判に答えなければならなかった時期に、生じた。
 レーニンがテロルの使用を求め、民主主義と自由の可能性を拒否していた、断定的で曖昧さのない諸定式は、逆説的に、自由はまだ完全には根絶やしにされていなかった、ということを明らかにした。
 党外部からの、党と論争する批判が存在しなかったスターリンの時代には、テロルの用語法は民主主義のそれに置き換えられた。
 とくにスターリンの後半年には、ソヴェト体制は、人民による支配と全ての種類の民主主義的自由の、至高の具現体だとして提示された。
 しかしながら、レーニンの時代の指導者たちは、この観念に対してプロレタリア-ト独裁は民主主義破壊を不可避的に伴うと強い異論を唱えるロシアおよびその他のヨーロッパ両方での社会主義者の批判に、回答しなければならなかった。
 その著<プロレタリア-トの独裁>(1918年)によるカウツキーのソヴェト体制に対する激しい攻撃は、レーニンからの激烈な回答を惹起した。
 <プロレタリア革命と変節者・カウツキー>(1918年)でレーニンは、ブルジョア民主主義はブルジョアジーの、プロレタリア民主主義はプロレタリア-トのためのものだという事実を意識的に曖昧にして、階級内容を無視して民主主義について語る無学者に対する攻撃を繰り返した。
 カウツキーは、マルクスが「プロレタリア-トの独裁」を語ったとき彼は心の裡では体制の内容を意識していて統治の方法をではなかった、と論じた。
 カウツキーの見解によれば、民主主義的諸制度は、プロレタリア-トの支配と両立する、それの前提かりではなく、その条件の一つだ。
 レーニンには、これら全てが呆けごと(ナンセンス)だった。
 プロレタリア-トは統治しているがゆえに、実力(force)によって統治しなければならない。そして、独裁とは、実力による統治なのであり、法による統治などではない。//   
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 <*秋月注記> 日本語版レーニン全集33巻287頁からこの部分の前後を引用すると、つぎのとおり(一部は抜粋・要約)。。1922年3月の党大会(ネップ導入決定後1年)での演説内容の一部だ。
 こういうときこそ『整然と退却すること、狼狽に陥らないで退却の限界を正確に決めることが、もっとも肝心』だ。
 『メンシェヴィキが「諸君はいま退却しているが、私はいつも退却に賛成だった。私は諸君と同意見だ。私は諸君の仲間だ。さあ、いっしょに退却しようと言うなら、われわれはこれにたいして彼に言おう。』
 『「メンシェヴィキを公然と表明する者には、われわれの革命裁判所は銃殺でこたえるにちがいない。
 もしそうしないとすれば、それはわれわれの裁判所ではなくて、なんだかわけのわからないものである」と。』//
 彼らはこれを理解できないで『「この連中はなんという独裁癖をもっていることだろう!」と言う。』
 われわれのメンシェヴィキ迫害は『彼らがジュネーブでわれわれと喧嘩したためだと、いまでも彼らは考えている。』
 そんな道をとっていたらわれわれは『二ヶ月と権力を持ちこたえることができなかった』だろう。
 『実際、オットー・バウアーも、第二インターナショナルや第二半インターナショナルの指導者たちも、メンシェヴィキも、エスエルも、そういう説教をやっており、そのことが彼ら自身の本性となっている。
 すなわち、「革命はずっと行きすぎてしまった。
 諸君がいま言っていることは、われわれがつねに言ってきたことと同じである。
 われわれにそれをいま一度くりかえして言わせてくれたまえ」と。
 だがこれにたいしてわれわれは、こうこたえる。
 「そういうことを諸君が言った罰として諸君を銃殺させてくれたまえ。
 諸君は自分の見解の発表をさしひかえるようにつとめるか、それとも、白衛派が直接に来襲したときよりはるかに困難な事態のもとにある現状で、諸君が自分の政治的見解を発表しようとのぞむか、どちらかである。
 あとの場合には、われわれは、失礼ながら、諸君を白衛隊の最悪の、もっとも有害な分子として取りあつかうであろう」と。』
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 第6節は以上で終わり。つぎの第7節の表題は、「独裁に関するトロツキー」。

1731/社会主義と独裁⑤-L・コワコフスキ著18章6節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回=No.1707ー2017年9/17のつづき。分冊版・第2巻p.506の途中・三巻合冊版第二部p.761の途中~。
 一文ごとに改行し、本来の改行箇所には「//」を付す(これまでの試訳の掲載と同じ)。
 黙読して意味を「何となく」でも理解するのと、日本語文に置き換え、かつ日本語版レーニン全集で該当箇所を調べたうえで、この欄に掲載するのとでは、時間も手間も10倍以上ほども違うだろう。レシェク・コワコフスキの文章を再びきちんと読みたくなったので、再開する。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁⑤。 
 革命のすぐ後に、ボルシェヴィキが権力に到達するまでは執拗に要求した伝統的な民主主義的自由は、ブルジョアジーの武器だったと判ることになった。
 レーニンの著作は、報道(出版)の自由に関して、このことを繰り返して確認している。<以上の二文は、前回の再掲>
 『ブルジョア社会における「プレス〔the press, 出版・報道〕の自由」は、富者が体系的に、絶えることなく、日々、数百万の部数でもって、被搾取および被抑圧人民大衆および貧者を欺き、腐敗させ、愚弄する自由、を意味する。』(+) 
 (1917年9月28日、「憲法制定会議の成功をいかに担保するか」。全集25巻、p.376〔=日本語版全集25巻「憲法制定議会をどうやって保障するか(出版の自由について)」405頁〕。)
 これとは反対に、『プレスの自由は、全ての市民の全ての諸意見は自由に公表〔publish〕されてよい、ということを意味する。』(同上、p.377〔=日本語版全集同上407頁〕。)(+)
 こうしたことが述べられたのは、革命の直前のことだった。しかし、革命の数日後には、物事は異なっていた。
 『我々が権力を奪取すれば、我々はブルジョア諸新聞を閉刊〔close down〕させると、我々は早くに言っていた。
 こうした諸新聞の存在に対して寛容であるのは、社会主義者であるのをやめることに等しい。』(+)
 (1917年11月17日、〔全ロシア・ソヴェト〕中央執行委員会での演説。全集26巻285頁〔=日本語版全集26巻291頁〕。)
 レーニンは、こう約束した。-そして、この言葉を守った。
 『我々は、自由、平等、そして多数者の意思といった、耳障りのよいスローガンに欺されることを、決して自分たちに許さない。』
 (全集29巻351頁〔=日本語版全集29巻「校外教育第一回全ロシア大会/1919年5月19日演説」のうち「自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞についての演説」349頁〕。)
 『事態が世界中の、あるいは一国のにせよ、資本の支配を打倒する段階に到達している現今では <中略>、そのような政治状況のもとで「自由」一般について語る者は全て、この自由という名前でプロレタリア-トの独裁に抵抗する者は全て、搾取者たちを援助し、支援しているのに他ならない。
 なぜなら、自由が労働の資本の軛からの解放を促進しないならば、それ〔自由〕は一つの欺瞞だからだ。』(+)
 (1919年5月19日の演説、全集29巻352頁〔=日本語版全集29巻同上350頁〕。)
 要点は、コミンテルン第三回大会で、きわめて明瞭にこう述べられた。
 『最終的問題が普遍的な規模で決定されるまでは、このおぞましい戦争の状態は続くだろう。
 そして、我々は言う。「戦争では戦争の流儀で振る舞う〔a la guerre comme a la guerre〕、我々はいかなる自由も、あるいはいかなる民主主義も、約束しない」、と。』(+)
 (1921年7月5日、全集32巻495頁〔=日本語版全集32巻「共産主義インターナショナル第三回大会」529頁〕。)
 代表制度、公民権、少数者(または多数者)の権利、政府に対する統制、立憲的諸問題一般に関する疑問の全体は-これらの全ては、戦争では戦争の流儀で振る舞う〔a la guerre comme a la guerre〕という箴言によって沈黙させられ、そして戦争は、世界中での共産主義の勝利までは進行するものとされる。
 とくに、そしてこれが問題の心臓部なのだが、社会的熟考の制度としての"法" という観念の全体が、存在しなくなる。
 法は一つの階級がそれによって別の階級を抑圧する装置に「他ならない」ので、法の支配〔rule of law 〕と直接的な強制による支配との間には、明らかに、本質的な違いはない。
 重要な全ては、どの階級が権力を手中にしているか、なのだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑥へとつづく。

1728/邦訳書がない方が多い-総500頁以上の欧米文献。

 T・ジャットはL・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』について、「コワコフスキのテーゼは1200ページにわたって示されているが、率直であり曖昧なところはない」とも書いている。
 トニー・ジャット・河野真太郎ほか訳・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011)p.182〔担当訳者・伊澤高志〕。
 この記述によって総頁数にあらためて関心をもった。T・ジャットが論及する三巻合冊本の「New Epilogue」の最後の頁数は1214、その後の索引・Index まで含めると、1283という数字が印刷されている。これらの頁数には本文(本来の「序文」を含む)の前にある目次や諸新聞等書評欄の「賛辞」文の一部の紹介等は含まれていないので、それらを含むと、確実に1300頁を超える、文字通りの「大著」だ。
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 ロシア革命・レーニン・ソ連等々に関係する外国語文献(といっても「洋書」で欧米のもの)を一昨年秋あたりから収集していて、入手するたびに発行年の順に所持本のリストを作っていた。いずれ、全てをこの欄に発表して残しておくつもりだった。しかし、昨年前半のいつ頃からだったかその習慣を失ったので、今から全てを公表するのは、ほとんど不可能だ。
 そこで、所持している洋書(といっても数冊の仏語ものを除くと英米語と独語のみ)のうち総頁数が500頁以上のもののみのリストを、やや手間を要したが、作ってみた。
 頁数は本の大きさ・判型や文字の細かさ等々によって変わるので、総頁数によって単純に範囲の「長さ」を比較することはできないが、実質的には…とか考え出すと一律な基準は出てこない。従って、もっと小型の本で活字も大きければ500頁を確実に超えているだろうと推測できても、除外するしかない。
 また、このような形式的基準によると450-499頁のものもある。490頁台のものもあって「惜しい」が、例外を認めると下限が少しずつ変わってくるので、容赦なく機械的に区切るしかない。
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 以下にリスト化し、総頁数も記す。長ければ「質」も高いという論理関係はもちろんないが、所持しているものの中では、レシェク・コワコフスキの上記の本が、群を抜いて一番総頁数が大きい。次は Alan Bullock のものだろうか(1089頁。但し、これは中判でコワコフスキのものは大判 )。
 また、邦訳書(日本語訳書)がある場合はそれも記す。その場合の頁数も。但し、邦訳書のほとんどは「索引」(や「後注」)の頁は通し数字を使っていない。その部分を数える手間は省いて、通し頁数の記載のある最終頁の数字を見て記している。
 邦訳書がないものの方が多いことは、以下でも明らかだ。この点には別にさらに言及する必要があるが、欧米文献(とくに英米語のもの)が広く読まれていると考えられる<欧米>と日本では、ロシア革命・レーニン等についても、「知的環境」あるいは「情報環境」自体がかなり異なっている、ということを意識しておく必要があるだろう。
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 *発行年(原則として、初出・初版による)の順。同年の場合は、著者(の姓)のアルファベット順。タイトル名等の直後に総頁数を記し、そのあとに秋月によるタイトルの「仮訳」を示している。所持するものに限る(+印を除く)。
 いちいちコメントはしないが、最初に出てくる Bertram D. Wolfe(バートラム・ウルフ、ベルトラム・ヴォルフ)は、アメリカ共産党創設者の一人、いずれかの時期まで同党員、共産主義活動家でのち離脱、共産主義・ソ連等の研究者となった。 
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・1948年
 Bertram D. Wolfe, Three Who made a Revolution -A Biographical History, Lenin, Trotsky and Stalin (1964, Cooper Paperback, 1984, 2001).計659頁。〔革命を作った三人・伝記-レーニン、トロツキーとスターリン〕
 =菅原崇光訳・レーニン トロツキー スターリン/20世紀の大政治家1(紀伊國屋書店、1969年)。計685頁/索引含めて計716頁。
・1951年 Hannah Arendt, The Origins of Totalitarianism.計527頁。〔全体主義の起源〕
 =Hannah Arendt, Element und Urspruenge totaler Herrscaft (独、Taschenbuch, 1.Aufl. 1986, 18.Aufl. 2015). 計1015頁。〔全体的支配の要素と根源〕
 =大島通義・大島かおり訳・第2巻/帝国主義(みすず書房, 新装版1981)。
 =大久保和郎・大島かおり訳・第3巻/全体主義(みすず書房, 新装版1981)。
・1960年
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union. 計631頁。〔ソ連共産党〕
・1963年
 Ernste Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche (Piper, 1966. Tsaschenbuch, 1984. 6. Aufl. 2008). 計633頁。〔ファシズムとその時代〕
・1965年
 Adam B. Ulam, The Bolsheviks -The Intellectual and Political History of the Triumph of Communism in Russia (Harvard, paperback, 1998). 計598頁。〔ボルシェヴィキ-ロシアにおける共産主義の勝利の知的および政治的な歴史〕
・1972年
 Branko Lazitch = Milorad M. Drachkovitch, Lenin and the Commintern -Volume 1 (Hoover Institute Press). 計683頁。〔レーニンとコミンテルン/第一巻〕
・1973年
 Stephen F. Cohen, Bukharin and the Bolshevik Revolution - A Political Biography, 1888-1938. 計560頁。ブハーリンとボルシェビキ革命ー政治的伝記・1888-1938年。
=塩川伸明訳・ブハーリンとボリシェヴィキ革命ー政治的伝記:1888-1936(未来社、1979。第二刷,1988)。計505頁。
・1976年
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (Paris, 1976. London, 1978. USA- Norton, 2008 ). 計1283頁。
 -Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume II - The Golden Age (Oxford, 1978. Paperback, 1981, 1988). 計542頁。
 -Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume III - The Breakdown (Oxford, 1978). 計548頁。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume III - The Breakdown (Oxford, 1981). 計548頁。
<The Breakdown (Oxford, 1987). 計548頁。
・1981年
 Bertram Wolfe, A Life in Two Centuries (Stein and Day /USA). 計728頁。〔二世紀にわたる人生〕
・1982年
 Michel Heller & Aleksandr Nekrich, Utopia in Power -A History of the USSR from 1917 to the Present (Paris, 1982. Hutchinson, 1986). 計877頁。〔権力にあるユートピア-ソヴィエト連邦の1917年から現在の歴史〕
・1984年
 Harvey Klehr, The Heyday of American Communism - The Depression Decade. 計511頁。〔アメリカ共産主義の全盛時-不況期の10年〕
・1985年
 Ernst Nolte, Deutschland und der Kalte Krieg (Piper, 2. Aufl., Klett-Cotta, 1985). 計748頁。〔ドイツと冷戦〕
・1988年
 François Furet, Revolutionary France 1770-1880 (英訳- Blackwell, 1992). 計630頁。〔革命的フランス-1770年~1880年〕
・1990年
 Richard Pipes, The Russian Revolution. 計944頁。〔ロシア革命〕
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (paperback,1997). 計944頁。
・1991年
 Christopher Andrew = Oleg Golodievski, KGB -The Insde Story. 計776頁。〔KGB-その内幕〕
 =福島正光訳・KGBの内幕/上・下(文藝春秋、1993)-上巻計524頁・下巻計398頁。
 Alan Bullock, Hitler and Stalin - Parallel Lives. 計1089頁。〔ヒトラーとスターリン-生涯の対比〕
 =鈴木主税訳・対比列伝/ヒトラーとスターリン-第1~第3巻(草思社、2003)-第1巻計573頁、第2巻計575頁、第3巻計554頁。
・1993年
 David Remnick, Lenins' Tomb : The Last Days of the Soviet Empire. 計588頁。〔レーニンの墓-ソヴィエト帝国の最後の日々〕
 =三浦元博訳・レーニンの墓-ソ連帝国最期の日々(白水社、2011).
 Heinrich August Winkler, Weimar 1918-1933 - Die Geschichte der ersten deutschen Demokratie (Beck) . 計709頁。ワイマール1918-1933ー最初のドイツ民主制の歴史。
・1994年
 Erick Hobsbawm, The Age of Extremes -A History of the World, 1914-1991 (Vintage, 1996).計627頁。〔極端な時代-1914-1991年の世界の歴史〕
 =河合秀和訳・20世紀の歴史-極端な時代/上・下(三省堂, 1996).-上巻計454頁、下巻計426頁)。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime. 計587頁。〔ボルシェヴィキ体制下でのロシア〕
 Dmitri Volkogonow, Lenin - Life and Legady (Paperback 1995). 計529頁。〔レーニン-生涯と遺産〕
 =Dmitri Volkogonow, Lenin - Utopie und Terror (独語、Berug, 2017). 計521頁。〔レーニン-ユートピアとテロル〕
・1995年
 François Furet, Le Passe d'une illsion (Paris).+
 =Das Ende der Illusion -Der Kommunismus im 20. Jahrhundert (1996).計724頁。〔幻想の終わり-20世紀の共産主義〕
 =The Passing of an Illusion -The Idea of Communism in the Twentieth Century (Chicago, 1999).計596頁。〔幻想の終わり-20世紀の共産主義思想〕
 =楠瀬正浩訳・幻想の過去-20世紀の全体主義 (バジリコ, 2007.09). 計721頁。
 Martin Malia, Soviet Tragedy - A History of Socialism in Russia 1917-1991. 計592頁。ソヴィエトの悲劇ーロシアにおける社会主義の歴史・1917年-1991年。
 =白須英子訳・ソヴィエトの悲劇ーロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997)。上巻計450頁・下巻計395頁。
 Stanley G. Payne, A History of Fascism 1914-1945(Wisconsin Uni.). 計613頁。〔ファシズムの歴史-1914年~1945年〕
 Andrzej Walick, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia. 計641頁。〔マルクス主義と自由の王国への跳躍ー共産主義ユートピアの成立と崩壊〕
・1996年
 Orland Figes, A People's tragedy - The Russian Revolution 1891-1924(Penguin, 1998).計923頁。民衆の悲劇ーロシア革命1891-1924年。
 =Orland Figes, -(100th Anniversary Edition, 2017. New Introduction 付き). 計923頁。
 Donald Sassoon, One Hundred Years of Socialism -The West European Left in the Twentieth Century (paperback, 2014). 計965頁。社会主義の百年ー20世紀の西欧左翼。
・1997年
 Sam Tannenhaus, Wittaker Chambers - A Biography. 計638頁。ウィテカー・チェインバーズー伝記。
・1998年
 Helene Carrere d'Encausse, Lenin.<仏語>計527頁。〔レーニン〕
 =Helene Carrere d'Encausse, Lenin (New York, London, 2001).計371頁。〔レーニン〕
 =石崎晴己・東松秀雄訳・レーニンとは何だったか(藤原書店, 2006).計686頁。
 Dmitri Volkogonov, Autopsy for an Empire - The Seven Leaders who built the Soveit Regime. 計572頁。〔帝国についての批判的分析-ソヴィエト体制を造った七人の指導者たち〕
 Dmitri Volkogonov, The Rise and Fall of the Soviet Empire (Harper paerback, 1999).計572頁。ソビエト帝国の成立と崩壊。
 *参考:生田真司訳・七人の首領-レーニンからゴルバチョフまで/上・下(朝日新聞社、1997。原ロシア語、1995)
・1999年
 Martin Malia, Russia under Western Eye - From the Bronze Horseman to the Lenin Mausoleum. 計514頁。〔西欧から見るロシア-青銅馬上像の男からレーニンの霊廟まで〕
・2000年
 Arno J. Mayer, The Furies - Violence and Terror in the French ans Russian Revolutions. 計716頁。〔激情-フランス革命とロシア革命における暴力とテロル〕
・2002年
 Gerd Koenen, Das Rote Jahrzent -Unsere Kleine Deutche Kulturrevolution 1967-1977 (独,5.aufl., 2011).計554頁。〔赤い十年-我々の小さなドイツ文化革命 1967-1977年〕
・2003年
 Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin).計610頁。〔グラク〔強制収容所〕-歴史〕
 =川上洸訳・グラーグ-ソ連強制収容所の歴史(白水社、2006)。計651頁。
・2005年
 Tony Judt, Postwar -A History of Europe since 1945. 計933頁。〔戦後-1945年以降のヨーロッパ史〕
・2007年
 M. Stanton Evans, Blacklisted by History - The Untold History of Senator Joe McCarthy and His Fight against America's Enemies. 計663頁。〔歴史による告発-ジョウ・マッカーシー上院議員の語られざる歴史と彼のアメリカの敵たちとの闘い〕
 Orlando Figes, The Whisperers - Private Life in Stalin's Russia. 計740頁〔囁く者たち-スターリン・ロシアの私的生活〕
 =染谷徹訳・囁きと密告/上・下(白水社、2011)-上巻・計506頁、下巻・計540頁(ともに索引等は別)。
 Robert Service, Comrades - Communism: A World History. 計571頁。〔同志たち-共産主義・一つの世界史〕
・2008年
 Robert Gellately, Lenin, Stalin and Hitler -Age of Social Catastrophe.計696頁。〔レーニン、スターリンとヒトラー-社会的惨害の時代〕
・2009年
 Archie Brown, The Rise and Fall of Communism.計720頁。〔共産主義の勃興と崩壊〕
 =Aufstieg und Fall des Kommunismus (Ullstein独, 2009 ).計938頁。
 =下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社, 2012).計797頁。
 Michael Geyer and Sheila Patrick (ed.), Beyond Totalitarianism - Stalinism and Nazism Compared (Cambridge). 計536頁。〔全体主義を超えて-スターリニズムとナチズムの比較〕
 John Earl Hayns, Harvey Klehr and Alexander Vassiliev, Spies -The Rise and Fall of the KGB in America (Yale). 計650頁。〔スパイたち-アメリカにおけるKGBの成立と崩壊〕
 David Priestland, The Red Flag -A History of Communism (Penguin, 2010). 計676頁。〔赤旗-共産主義の歴史〕
 =David Priestland, Welt-Geschchte des Kommunismus -Von der Franzaesischen Revolution bis Heute <独語訳>.〔共産主義の世界史-フランス革命から今日まで〕
・2010年
 Timothy Snyder, Bloodlands -Europa zwischen Hitler und Stalin (Vintage, and独語版, 2011). 計523頁。〔血塗られた国々-ヒトラーとスターリンの間のヨーロッパ〕
 =布施由紀子訳・ブラッドランド-ヒトラーとスターリン・大虐殺の真実(筑摩書房、2015)/上・下。-上巻計346頁、下巻計297頁(+4頁+95頁)。
・2011年
 Herbert Hoover, Freedom Betrayed - Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath. 計957頁。〔裏切られた自由ーハーバート・フーバーの第二次大戦とその余波に関する秘密の歴史〕
 =渡辺惣樹訳・裏切られた自由-フーバー大統領が語る第二次大戦の隠された歴史とその後遺症/上・下(草思社、2017)-上巻702頁・下巻591頁。
・2015年
 Thomas Krausz, Reconstructing Lenin - An Intellectual Biography. 計552頁。〔レーニンを再構成する-知的伝記〕
 Herfried Muenkler, Der Grosse Krieg -Die Welt 1914-1918. 計923頁。〔大戦-1914-1918年の世界〕
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 1981年の項に、B.Wolfe の一冊を追記した(邦訳書はない)。/2018.03.27

1725/江崎道朗・コミンテルン…(2017)②-2017年秋。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)
 昨2017年の八月半ば以降に大幅にこの欄への文章を書くのを止めたのは、半分程度は、上の本の(消極的な)衝撃による。
 秋月瑛二のいう<反・共産主義>の意味での「保守」-それと同義で「自由主義」/元来の・伝統的な「リベラリズム」という語を使ってもよい-の立場で種々書いてはきているが、江崎の上の本を一瞥して、即座に感じた。
 どうしようもないところにまで来ている。ほとんど総崩れだ。
 身震いするほど、怖ろしい。
 日本の「保守」派らしき人々は、ほとんど信頼できない。「保守」と自称しないで、むしろそれと自らを区別しているらしき、池田信夫や八幡和郎等の方が、「反・共産主義」という点ではしっかりしているのではないか。
 そののちに、上の江崎道朗著の推薦文をオビに書いている中西輝政のいかがわしさにも気づいた(何回か昨秋頃にこの欄に記した)。
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 江崎道朗の上の本(新書)の「はじめに」は、二行め、本の第二文から間違っている
 「1917年に起きたロシア革命によってソ連という共産主義の国家が登場した」。
 1917年「二月革命」ではなく10月(または新暦で11月)と特定していないことは、まぁよい。
 しかし、1917年10月の「ロシア革命」によって登場したのは、「ソ連」ではない
 ソ連=ソヴィエト連邦=ソヴィエト・社会主義共和国連邦という国家(連邦国家)が成立したのは「戦時共産主義」よりも「ネップ政策導入決定」よりも後、1922年だ。
 上のロシア革命によって成立したとされたのは、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国で「大ロシア人」地域を領域としており、地理的にも、のちのソ連と異なる。
 江崎道朗は、こんなことにすら無頓着で、「ソ連」はロシア革命によって生まれた、と単純に理解したまま、大切な本の二行めに書いてしまっているのだ。
 ついでに書いておこう(秋月瑛二は専門家でも何もないが,江崎道朗に教えてあげよう)。
 ソヴィエト・ソビエト・ソヴェトとは地名その他の固有名詞ではなく、多くの人が知っているだろうように(江崎がどうなのかは知らない)「会議」とか「評議会」とか訳せる普通名詞だ(council, Rat)。
 そうした名詞が国家名に使われ、チャイナとか朝鮮とかの固有名詞(王朝・氏族名を含む)が使われていないのは、おそらく希有のこと(だった)だろう。
 以下の方が重要だ。
 ロシアで最初の「ソヴェト」の設立・結成に、レーニンらボルシェヴィキは関与していない。
 また、ペテログラード・ソヴェト等のソヴェトの主導権を、ほとんどの間、レーニンらボルシェヴィキ(のちロシア共産党に改称、ソ連共産党へと発展)は握っていなかった。
 1917年のほんの一時期にレーニン・トロツキーらがソヴェトの多数派となり、実力行使も担当し、「10月革命」とのちに呼ばれるものが起きた(ことになっている)。
 しかし、のち、ソヴェト系列の国家機構を形骸化し、ボルシェヴィキ=ロシア共産党(江崎のために記すがまだソ連共産党ではない)が実質的な権力を掌握する。
 その後ずっと、ソヴェトというのは、実体・実質・実権が全くかほとんどないまま、1991年まで、ソ連という国家名の一部として、堂々と使われ続けた。
 ソヴェト・ソヴィエトという言葉に関する「詐欺」とすら言える。国名についてまで、ロシア・ソ連「社会主義・共産主義」国家は、異様・異形だったのだ。
 元に戻る。江崎道朗が「コミンテルン」を表題の重要な一部として使う本をかきながら、ソ連・ロシア革命・コミンテルンについて正確な知識を持たないことは、上の点のほか、つぎのことでも分かる。すでに「はじめに」の中に見られる。
 すなわち、とくにアメリカや日本に対する「工作」・「秘密工作」をする主体・主語として書かれているのは、「旧ソ連・コミンテルン」p.3、「ソ連」p.3、「コミンテルン」p.4、「ソ連・コミンテルン」p.5、「ソ連・コミンテルン」p.7、「コミンテルン」p.7、「ソ連・コミンテルン」p.8、「ソ連・コミンテルン」p.9、「ソ連・コミンテルン」p.12、「コミンテルン」p.12、p.13、「ソ連・コミンテルン」p.13、と一様でない。
 江崎道朗に教えてあげるが、「ソ連」と「コミンテルン」は同じものではない。
 同種のものとして扱うためには、その旨の注記が必要だ。
 また、同種のものと扱うのは、きちんとした書物であるかぎりは、間違っている。
 すなわちソ連(またはその前の社会主義ロシア)、ソ連共産党(またはロシア共産党)およびコミンテルンの三つは、きちんと区別すべきだ
 そうでないと、例えばスパイ・ゾルゲはいったいどの組織の「スパイ」・「工作員」だったのか、「スパイ」・「工作員」の相互連絡はどうしてなされたのか、等の解明ができなくなる。
 一昨年の秋にこの欄で、こうした関心から、尻切れになったかもしれないが、「国家・党・コミンテルン」とか題する(正確に確認しない)文章を書いたことがある。
 レーニンは、あるいはスターリンは、ロシアまたはソ連「共産党」と「コミンテルン」を巧く使い分けていたと見られる。かつ、非難されないように、決して「ソ連」とかの国家そのものとは厳密には区別していたように思われる。また、ソ連国家といっても、外交部署、治安・保安担当部署と「軍」の区別くらいは、少なくとも必要だろう。
 どうでもよいではないか、ということにはならない。
 そのように感じるのは、「保守自由主義」者らしき江崎道朗のかなり粗雑な、特定の読者層を意識した頭脳だけだろう。
 他にも、この著には、相当の疑問点・問題点がある。
 よい本が出たと、「日本会議」系の論壇者や活動員たちのように喜んでおれるわけがない。

1719/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ③。

 トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011。河野真太郎ほか訳)、第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産(訳分担・伊澤高志)の紹介のつづき。
 前回と比べて一貫しないが、今回は原注の邦訳も紹介する。原注の執筆者は、もちろん トニー・ジャット(Tony Judt)。
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 『主要潮流』の第三巻は、多くの読者が「マルクス主義」と考えるだろうもの、つまり1917年以降のソヴィエト共産主義と西欧マルクス主義思想の歴史を扱った部分だが、それはぶっきらぼうに「崩壊<The Breakdown>」と題されている。
 スターリンからトロツキーに至るソヴィエト・マルクス主義にはこのセクションの半分しか当てられておらず、残りはほかの国々の20世紀の思想家に割り当てられている。
 そのうちいく人か、とくにアントニオ・グラムシジェルジ・ルカーチは、20世紀思想を学ぶ者にとっては興味の対象であり続けている。
 また、ほかの者たち、例えばエルンスト・ブロッホカール・コルシュ(ルカーチの同時代のドイツ人)は、もっと好古趣味的な関心の対象だ。
 さらにほかの者たち、とりわけリュシアン・ゴルドマンハーバート・マルクーゼは、コワコフスキが彼らをほんの数ページで片付けてしまった70年代中葉よりも、現在ではさらに、興味深い存在ではなくなっている。//
 この本の最後は、「スターリンの死以後のマルクス主義の展開」で、そこでは、コワコフスキはまず彼自身の「修正主義者としての」過去を簡単に振り返り、ついでほとんど間断ない侮蔑的な調子で、その時代のつかのまの流行を記録し始める。
 それは、サルトルの『弁証法的理性批判』と、そのはなはだしく愚かしい「不必要な新造語」から、毛沢東の「田舎農民のマルクス主義」と、その西洋の無責任な崇拝者たちに至るものだ。
 このセクションを読む者は、この著作の第三巻にもともと付されていた序文で、あらかじめ警告を与えられている。
 そこで著者は、この最終章で扱われる題材に関しては「敷衍してもう一巻書くこともできた」ということを認めつつ、「この主題はそれほど長大にして扱うほどの本質的価値のあるものとは思えなかった」と結論づけている。
 おそらくここで記しておくべきは、『主要潮流』の最初の二巻はフランスで出版されているが、このコワコフスキの代表作の第三巻にして最終巻は、いまだにフランスでは出版されていない、ということだ。//
 コワコフスキによるマルクス主義の学説に関する歴史記述の驚くべき幅の広さを、短い書評で示すことは、まったく不可能だ。
 それがほかの著作にとって代わられることも、ないだろう。
 いったい誰が、これほど詳細に、これほど洗練された分析によって、この領域に再び足を踏み入れるだけの知識を得ることが、あるいはそれを望むことが、あるだろうか。
 『マルクス主義の主要潮流』は、社会主義の歴史ではない。
 著者は、政治的文脈や社会組織については、わずかに触れるにすぎない。
 この本は、正面切って思想を語るもので、かつて有力だった理論と理論家の一族の盛衰を語る教養小説で、その最後の生き残りの子供のひとりが、懐疑的で、かつての迷いが解けた老年時代に語った物語なのだ。//
 コワコフスキのテーゼは1200頁にわたって示されているが、率直で、曖昧なところはない<*straightfoward & unanbiguous>。
 彼の見解ではマルクス主義は真剣に考えられるべきものだが、それは、階級闘争に関するその主張のためではない(それらはときには正しいものだったが、決して目新しいものではなかった)。
 また、資本主義の不可避の崩壊や、プロレタリア-ト主導の社会主義への移行を約束したからでもない(それは予測としては完全に外れた)。
 そうではなく、マルクス主義が独創的なロマン主義的幻想と断固とした歴史的決定論(*historical determinism>の、他にはない、そして真にオリジナルな混合物<*blend>を提示したからだ。//
 このように理解されたマルクス主義の魅力は、明白なものだ。
 マルクス主義は、世界がどのように動いているかを説明してくれた。
 つまり、資本主義と社会的階級関係に関する経済学的分析だ。
 それはまた、世界がどのように動くべきかを示してくれた。
 つまり、人間の諸関係の倫理学で、マルクスの若く理想主義的な思索によって示された(また、ジェルジ・ルカーチによるマルクス解釈によって示されていて、コワコフスキはルカーチ自身の妥協的キャリアを軽蔑しているにもかかわらず、その解釈にほぼ同意している(注06))。
 さらにマルクス主義は、マルクス(とエンゲルス)の著作からロシアでの後継者たちが引き出した歴史的因果関係に関する一連の主張によって、物事は将来的にはそのように動くだろうと信じるに足る、議論の余地のない根拠を与えてくれた。
 経済に関する記述、道徳に関する規範、政治に関する予言、これらの組み合わせは、強烈に魅惑的なもので、また便利なものでもあった。
 コワコフスキが述べているように、マルクスは今でも読む価値がある。
 ただし、ほかの者たちが自ら生じせしめた政治システムを正当化するためにマルクスを引き合いに出すときに、彼の理論がかくも変幻自在であるのはなぜか、ということを、私たちが理解する助けになる、そのかぎりで、読む価値がある(注07)。//
 マルクス主義とコミュニズムの関係とは、マルクスがスターリン(とレーニン)の手にかかって歪曲されてしまうことから「守る<*save>」ために、三世代にわたる西欧マルクス主義者たちが果敢にも最小限に抑えようとしてきたものだが、それについて、コワコフスキは歯に衣を着せぬものがある<*explicit>。
 なるほどマルクスは、ヴィクトリア王朝期のロンドンで生きた、ドイツ人著述家だった(注08)。
 彼はいかなる理解可能な意味でも20世紀のロシアや中国の歴史に関して責任などあるなどとは考えられないし、それゆえ数十年の長きにわたってマルクス主義純粋主義者たち<*Marxist purists>が、その創始者の真の意図を確証しようとしたり、マルクスとエンゲルスが自分たちの名のもとに将来なされる罪について何を考えていたかを確かめようとしたり努めてきたことは、無駄だし、余計なことだ。
 とはいえ、神聖なるテキストの真実に立ち返ることを繰り返し強調することは、コワコフスキがとくに注意を払っている、マルクス主義のセクト的側面を示すものではある。//
 それにもかかわらず、教義<*doctrine>としてのマルクス主義は、それが生み出した政治的運動とシステムの歴史から切り離せるものではない。
 事実、マルクスとエンゲルスの論法には、決定論という核がある。
 それは、以下のような主張だ。
 「つまるところ」、人間には決定的な支配などできぬ理由によって、物事はそうあるべき姿になるのだ、と。
 このような断言は、古いヘーゲルを「逆さま」にすることや、歴史の核心に物質的原因(階級闘争、資本主義の発展の法則)を議論の余地のないかたちで挿入すること、それらに対するマルクスの欲望<*desire>から生じたものだ。
 このような都合のよい認識論的背景に、プレハーノフやレーニン、その追随者たちは、歴史的「因果関係」の理論体系と、それを実践するための政治機構を、もたせかけようとした。//
 そのうえ、若きマルクスのもう一つの直観、すなわちプロレタリア-トは自分たちの解放が全人類の解放を告げるものとなる、被搾取階級という特別な役割のために、歴史の最終目的に対して特権的な洞察力を有している、という直観は、最終的にコミュニストがもたらした結果と深く結びつくもので、それは、プロレタリア-トの利害がそれを体現すると主張する独裁的政党に従属することによるものだった。
 マルクス主義による分析とコミュニズムの独裁とを結ぶこのような論理的連関の強固さは、レーニンがフィンランド駅〔1917年7月、弾圧から逃れたレーニンが降り立ったペテログラード(現サンクトペテルブルク)の駅〕近くのどこかに逃れるずっと以前から、コミュニズムのもたらす帰結を予測しそれに警告を発していた、ミハイル・バクーニンからローザ・ルクセンブルクにいたる多くの観察者や批判者の存在から、判断できるだろう。
 もちろん、マルクス主義は、違う方向へ進んだかもしれない。
 あるいは、どこへも向かわずに消え去ったかもしれない。
 しかし、「レーニンのマルクス主義は、唯一の可能性ではなかっただろうが、きわめてもっともらしく響くものだった」(注09)。//
 なるほど、マルクスもその後継者も、産業プロレタリア-トによる資本主義の打倒を説く教義が大部分が農村の立ち遅れた社会で力を得るなどとは、意図も予想もしていなかっただろう。
 しかし、コワコフスキにとっては、このようなパラドクスは信念の体系としてのマルクス主義の力を強調するものにすぎない。
 もしもレーニンとその信奉者たちが自分たちの成功を不可避的な必然だ<*ineluctable necessity>と主張しなければ(そして遡及的に理論上の正当化を行わなければ)、その主意主義的<*voluntaristic>努力は、決して成功しなかっただろう。
 また、何百万もの外部の崇拝者たちにとって、あれほど説得力のある模範にもならなかっただろう。
 ドイツ政府が秘密車両でレーニンをロシアに送り届けたことで可能になったご都合主義的な政変<*opportunistic coup>を「不可避の」革命に転じるためには、戦術的な才能だけでなく、イデオロギー的信念の広範囲にわたる実践が、必要だった。
 コワコフスキは、まったく正しい。
 政治的マルクス主義は、なににも増して、世俗化した宗教<*secular religion>だったのだ。//
 (原邦訳書・原著、一行空白)
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 (注06)他の場所でコワコフスキは、ルカーチ--彼はベーラ・クンによる1919年のハンガリー・ソヴィエト共和国の文化委員を短期間務めており、スターリンの命令により、彼がそれまでに記した興味深い言葉の全てを捨て去った--について、「暴君のために知性を用いた」偉大な才能だと記した。結論として、「彼の著作が思考を刺激することはなく、彼の故国ハンガリーにおいてさえ、『過去の産物』とみなされている」。
 "Communism as a Cultural Formation", Survey 29, no.2 (Summer 1985); reprinted in My Own Correct Views on Everything as "Communism as a Cultural Force", p.81参照。
 (注07)"What Is Left of Socialism", first published as "Po co nam projecie sprawieldliworci spolecznej ?" in Gazeta Wyborcza, May 6-8, 1995; republished in My Own Correct Views on Everything.
 (注08)『主要潮流』で、マルクスは彼の精神的風景を支配しているドイツ哲学の世界に、確固たる地位を与えられている。社会理論家としてのマルクスは、ほとんど顧みられない。マルクスの経済学への貢献--労働価値説であれ、先進資本主義下での利益率低下の予言であれ--は、そっけなく片付けられている。マルクス自身が経済に関する彼の研究成果に満足していなかったことを考慮すれば(それが『資本論』が完成しなかった理由の一つだ)、これはありがたいことと考えるべきだろう。
 というのも、マルクス主義経済学の予言的な力は、少なくともジョゼフ・A・シュムペーターの Capitalism, Socialism, and Democracy (New York, London: Harper and Brothers, 1942)〔『資本主義・社会主義・民主主義(新装版)』中山伊知郎・東畑精一訳、東洋経済新報社、1996年〕以来、左翼にとってすら長いあいだ顧慮されてこなかった。
 それから20年後、ポール・サミュエルソンが恩着せがましくも、カール・マルクスはせいぜいで「マイナーなポスト・リカード主義者」だと認めたのだ。
 彼の弟子のいく人かにとってさえ、マルクス主義経済学は最初に登場してからの数年の歴史によって、実際的価値のないものとなってしまった。
 エンゲルスの友人でもあったエドゥアルト・ベルンシュタインは、Evolutionary Socialism (first published in 1899)で、資本主義的競争のはらむ矛盾が労働者の置かれた状態の悪化と革命によってしか解決できない危機を必ずもたらすことになるという予言を、決定的に解体した。
 この主題に関する英語での議論でいまだに最良のものは、Carl E. Schorske, German Social Democracy, 1905-1917: The Development of the Great Schism (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1955 )だ。
 (注09)Kolakowski, "The Devil in History", Encounter, January 1981; reprinted in My Own Correct Views on Everything.          
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 以上、原邦訳書の本文p.185の途中まで。原注の訳は、同p. 243-4。
 コワコフスキの英訳書の各巻の表題(副題)は順番にThe Founders(創始者たち)、The Golden Age(黄金時代)、The Breakdown(崩壊)だと言及されている。ついでに記しておくと、ドイツ語訳書の各巻の表題(副題)は、順番に、Entstehung(生成・成立)、Entwickelung(発展・展開)、Zerfall(崩壊)で、前二者は必ずしも英語訳とは合致していない(コワコフスキの原書はポーランド語だとされている)。

1718/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ②。

  Tony Judt, Reappraisals - Reflections on the Fogotten Twentieth Century (New York, 2008).
   Chapter VIII, Goodbye to All That ? Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 邦訳書/トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011)。
   第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産。
 上の原文を、その下の邦訳書(河野真太郎ほか訳)による訳(分担・伊澤高志/177頁~197頁)に添って紹介する。
 そのままの転記では能がないだろう。基本的にそのまま写すが、多少は日本語表記だけを、短くする方向で、改める。
 例えば、「したのである」→「した」、または「したのだ」。
 また、ひらがな部分の一部を漢字に変える。句読点も変えることがある。
 翻訳関係権利を侵害していないかと怖れもするが、上記のとおり代表訳者と分担訳者の氏名、邦訳書名は明らかにしており、かつ訳出内容・意味を変更するものではないので、違法性はないと考える。このような機会を持ち得たことについて、とくに伊澤高志には、謝意を表する。
 原邦訳書とは異なり、(リチャード・パイプス、L・コワコフスキの各著(や後者の論考)についてこの欄でしてきたように)一文ごとに改行し、本来の改行箇所には、//を付す。一部を太字にしているのも、秋月による。
 以下の<*->は原邦訳書にはない、Tony Judt の原著での元の英米語で、秋月が原著を見て挿入した。
 邦訳書でも訳出されている原注は箇所だけを示し、それらの内容は、以下では、さしあたりは、省略させていただく。
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 レシェク・コワコフスキは、ポーランド出身の哲学者だ。
 しかし、彼をこのように定義づけることは、正しくは-または十分では-ない。
 チェスワフ・ミウォシュや彼以前の多くの者たちと同じように、コワコフスキも彼の知的・政治的キャリアを、伝統的なポーランド文化に根づいた様々な特徴、つまり聖職者主義<*clericalism>、排外主義、反ユダヤ主義に対立するかたちで形成した。
 生まれた土地を1968年に追われ、コワコフスキは故国に戻ることもそこで著作を出版することもできなかった。
 1968年から1981年の間、彼の名前はポーランドの発禁作家の一覧に載せられていたし、彼をこんにち有名にしている著作の多くが国外で書かれ、出版された。//
 亡命中<*in exile>のコワコフスキはその大部分をイギリスで過ごし、1970年以来、オクスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ<*All Souls College>の特別研究員となっている。
 しかし、昨年〔2005年-秋月注、原訳書のまま。以下同じ〕のインタビューで彼が説明したように、イギリスは島で、オクスフォードはそのイギリスの中の島で、オール・ソウルズ(学生を受け入れていないカレッジ)はオクスフォードの中の島で、さらにレシェク・コワコフスキ博士はオール・ソウルズ内部の島、「四重の島」なのだ (注1)。
 かつては実際に、ロシアや中欧からの亡命知識人のための場所が、イギリスの文化的生活には、あった。
 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン〔オーストリア出身〕、アーサー・ケストラー〔ハンガリー出身〕、アイザイア・バーリン〔ラトヴィア出身〕のことを考えてほしい。
 しかし、ポーランド出身の元マルクス主義者でカトリックの哲学者はもっと珍しい存在で、国際的な名声にもかかわらず、レシェク・コワコフスキは彼の永住の地では無名で、奇妙なほどに、正当な評価を受けていなかった。//
 しかしながら、イギリス以外の場所では、彼は有名<*famous>だ。
 同世代の中欧出身の学者たちと同じく、コワコフスキも、ポーランド語やのちに身につけた英語に加え、ロシア語、フランス語、ドイツ語に堪能な多言語使用者で、多くの栄誉と賞を、とくにイタリア、ドイツ、フランスで手にしている。
 アメリカでは長らくシカゴ大学の社会思想委員会で教鞭をとったが、そこでも彼の業績は広く認められ、2003年に米国議会図書館から第1回クルーゲ賞--ノーベル賞のない研究分野(とくに人文学<*the humanities>)での長年にわたる業績に対して与えられる賞--を与えられた。
 しかし、コワコフスキは、パリにいるときが一番落ち着くと何度か述べていることから分かるように、イギリス人でもなければアメリカ人でもない。
 おそらく彼のことは、20世紀版「文学界」の最後の傑出した市民<*the last illustrious citizen of the 20 th-Century Republic of Letters>と考えるのがふさわしいだろう。//
 彼が住んだ国々のほとんどで、レシェク・コワコフスキの著作で最もよく知られているのは(そしていくつかの国では唯一知られているのは)、三巻本の歴史書『マルクス主義の主要潮流』だ。
 1976年にポーランド語で(パリで)出版され、その二年後にイギリスでオクスフォード大学出版局によって出版、そして現在、ここアメリカで、一巻本としてノートン社から再刊された(注2)。
 この出版は、間違いなく、歓迎すべき事態だ。
 なぜなら、『主要潮流』は、現代人文学の金字塔<a monument of modern humanistic scholarship>だからだ。
 しかし、コワコフスキの著作の中でこれだけが突出していることには、あるアイロニーが見られるが、それは、この著者が「マルクス主義者」といったものでは決してないからだ。
 彼は、哲学者で、哲学史家で、カトリック思想家だ。
 彼は、初期のキリスト教セクトや異端の研究に多くの時間を費やし、また、過去四半世紀の間、ヨーロッパの宗教と哲学の歴史と、哲学的神学的思索とでも呼ぶべきものとに専心してきた(注3)。//
 コワコフスキの「マルクス主義者」時代は、戦後ポーランドの彼の世代の中で、最も洗練されたマルクス主義哲学者として傑出した存在だった初期の頃から、1968年に彼がポーランドを離れるまで続き、それは、きわめて短期間だった。
 そして、その時期の大部分で、彼はすでに、マルクス主義の教義に異を唱えていた<*dissident>。
 1954年という早い時期に、24歳の彼はすでに、「マルクス=レーニン主義イデオロギーからの逸脱<*straying>」によって非難を受けていた。
 1966年には「ポーランドの10月」の10周年を記念して、ワルシャワ大学でマルクス主義批判で有名な講演を行い、党指導者であるヴワディスワフ・ゴムウカによって「いわゆる修正主義<*revisionist>運動の主要なイデオローグ」だとして公式に弾劾された。
 当然にコワコフスキは大学の教授職を追われたが<expelled>、それは、「国の公式見解と相容れない意見を若者たちのうちに形成させた」ことによるものだった。
 西欧にやって来るまでに、彼はすでに、マルクス主義者ではなくなっていたのだ(後述のように、これは彼の崇拝者たちにとっては混乱の種だ)。
 その数年後、この半世紀で最も重要なマルクス主義に関する著作を書き上げてから、コワコフスキは、あるポーランド人研究者が丁重に述べたように、「この主題については関心を失っていった」(注4)。//
 このような彼の足跡は、『マルクス主義の主要潮流』の特質を説明するのに役立つものだ。
 第一巻「創始者たち<*The Founders>」は、思想史の慣習にのっとるかたちでまとめられている。
 弁証法や完全な救済というプロジェクトのキリスト教的起源から、ドイツ・ロマン派の哲学とその若きマルクスへの影響、そしてマルクスとその盟友フリードリッヒ・エンゲルスの円熟期の著作へと、流れが記述される。
 第二巻は、意味深長にも(皮肉な意味ではないと思うのだが)、「黄金時代<*The Golden Age>」と題されている。
 そこで述べられているのは、1889年に設立された第二インターナショナルから1917年のロシア革命までだ。
 ここでもコワコフスキは、とりわけ、注目すべき世代のヨーロッパの急進的思想家たちによって洗練された水準でなされた、様々な思想と論争とに関心を寄せている。//
 その時代の主導的なマルクス主義者であるカール・カウツキー、ローザ・ルクセンブルク、エドゥアルト・ベルンシュタイン、ジャン・ジョレス、そしてV・I・レーニンは、みなしかるべき扱いを受け、それぞれに章が割り当てられ、つねに効率よく明晰に、マルクス主義の物語でのその位置づけと、主要な主張とが、まとめられている。
 しかし、通常はこのような概説では目立つことはない人物に関する、いくつかの興味深い章がある。
 イタリアの哲学者アントニオ・ラブリオーラ、ポーランド人のルドヴィコ・クルジウィキ、カジミエシュ・ケレス=クラウス、スタニスワフ・ブジョゾフスキ、そしてマックス・アドラー、オットー・バウアー、ルドルフ・ヒルファーディングら「オーストリア・マルクス主義者」についての章だ。
 コワコフスキによるマルクス主義の記述でポーランド人の割合が相対的に高いことは、部分的にはポーランド出身者としての視点のためと、それらの人物が過去に軽視されてきたことに対して埋め合わせをするためであるのは、間違いない。
 しかし、オーストリア・マルクス主義者(本書全体で最も長い章の一つを与えられている)と同様に、彼らポーランド人マルクス主義者たちは、長らくドイツ人とロシア人によって支配されていた物語から忘れられ、そして消し去られてしまった中欧の、世紀末での知的豊穣さを、たゆまず思い出させてくれるものだ(注5)。//
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 これで邦訳書のp.180の末まで、全体のほぼ5分の1が終わり。

1707/社会主義と独裁④-L・コワコフスキ著18章6節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁④。 
 理論上の観点からは、レーニンの有名な小冊子『<左翼共産主義-小児病>』(1920)で事態は明らかにされた。それによると、少しも問題はないように見える。//
 『問題のたんなる設定-「党の独裁か、それとも階級の独裁か。指導者の独裁(党)か、それとも大衆の独裁(党)か?」-だけでも、ほとんど信頼できない、救いようもなく錯乱した思考をしていることが分かる。<中略>
 誰もが知るように、大衆は諸階級に、<中略>通常は多くの階級に分化している-少なくとも今日の文明諸国では-、そして、諸階級は政党によって指導されている。
 また、まったく通常のこととして、政党は、最も責任ある地位を占めて指導者と称される、最も権威と影響力と経験のある構成員から成る、多少とも安定した集団によって動いている。
 このことこそが、基本だ。
 このことこそが、明白で単純なことだ。
 これをなぜ、煩わしいことを言って、何かの新しいヴォラピュク語(Volapuek)でもって、言い換えようとするのか?』(+)//
 『ロシアのボルシェヴィキは、<中略>このことに関する「上からか」<それとも>「下からか」とか、指導者の独裁か<それとも>大衆の独裁かとか等々の議論を、こっけいな、子どもじみたたわ言だと見なさざるを得ない。その左脚と右腕のいずれが人間にとってより重要なのかを議論しているようなものだ。』(+)
(全集31巻、p.41, p.49〔=日本語版全集31巻26-27頁、35頁〕。)//
 レーニンはこのように問題を度外視し、階級と党の間に関して、あるいは党とその指導者の間に関して何の問題もないことを示唆し、また、一握りの寡頭的指導者による統治は、階級が彼らを代表者としたいのか否かを判別する制度上の方法は何らなかったけれども、彼らが代表すると主張する階級による統治だと適切に称し得ることを意味させた。
 レーニンの論拠は粗雑なので、真面目にそう考えていたと信じるのは困難なほどだ(上掲の文章では、ローザ・ルクセンブルクに似た基本的考えにもとづいてレーニンを批判したドイツのスパルタクス団に対して回答している)。
 しかし、彼のここでの論拠はその思考の一般的スタイルと十分によく合致している。
 階級の利益以外には『真に(really)』存在するものは何もないがゆえに、統治集団または統治組織の独立した利益に関して設定される問題はすべて、いつわりの(false)問題だった。
 組織(apparatus)は階級を『代表する』。このことが『基本的』であって、他の全ては『子どもじみたたわ言』なのだ。//
 レーニンは、この点については全く一貫していた。
 <国家と革命>〔1917年〕によると、無学者または狡猾なブルジョアだけが、労働者は産業を、そして国家と行政を直接にかつ集団的に管理することができないと思うことができた。
二年後には、無学者または狡猾なブルジョアだけが、労働者は産業を、そして国家と行政を直接にかつ集団的に管理することができると思うことができるのだと判明した。
 産業は明白に単一の経営者を必要とした。そして、『共同参加』を語るのは馬鹿げていた。
 『協同経営〔合議制〕に関する論議は、全くの無知と専門家に反対するという心性にあまりに強く埋め込まれすぎている。<中略>
 我々は(労働組合が)悪名たかい民主主義の残存物に反対して闘争する精神に立ってこの任務を体得するようにしなければならない。
任命制度に反対する大騒ぎの全て、多様な決定と会話に向かっているこの全ての古くて危険なほどに下らないものは、一掃されなければならない。』(+)
 (ロシア共産党(ボ)第9回大会での演説、1920年3月29日。全集30巻、p.458-9〔=日本語版全集30巻474-6頁〕。)
 『どの労働者も国家を運営する仕方を知っているだろうか?
 実務領域で働いている者たちは、そうではない、と知っている。<中略>
 我々は、農民たちと結びついた労働者が非プロレタリアのスローガンに欺されがちであることを知っている。
 どれだけの数の労働者が、政府の仕事に従事してきたか?
 ロシア全土で数千人で、それ以上ではない。
 候補者を立てて〔=当選させて〕統治するのは党ではなく労働組合だと我々が言うならば、それはきわめて民主主義的に聞こえるかもしれない。そして若干の票を掴み取るのに役立つかもしれないだろう。しかし、長くは続かない。
 それは、プロレタリア-トの独裁にとって致命的(fatal)だろう。』(+)
 (鉱山労働者大会での演説、1921年1月23日。全集32巻、p.61-62〔=日本語版全集32巻52-53頁〕。)
 『しかし、その階級の全体を包み込む組織を通じてでは、プロレタリア-トの独裁は、行使され得ない。<中略>
 行使することができるのは、この階級の革命的活力を吸収してきた前衛だけだ。』(+)
 (『労働組合、現況とトロツキーの過ち』、1921年12月30日。同上、p.21〔=日本語版全集32巻「労働組合について、現在の情勢について、トロツキーの誤りについて」5頁〕。)//
 独特の論法のおかげで、かくして、プロレタリア政府はプロレタリア-トの独裁の廃墟になるだろうということが分かる。-これは、完璧に妥当だと思われる結論だ、レーニンによる後者の言葉の解釈に従えば。
 また、『本当(true)の』民主主義とはそれまで民主主義的だと見なされてきた全ての制度の廃棄を意味することも分かる。 
 この最後の点に関して、レーニンの言葉遣いは全く一貫しているわけではない。
 すなわち、彼はときには、ソヴェト権力は民主主義の最高の形態だと褒め讃える。人民による支配を意味するからだ。
 だが別のときには、民主主義をブルジョアの道具だと非難する。
このことは、興味をそそる矛盾を生じさせた。1918年1月25日の第3回ソヴェト大会での、つぎの演説に示されるように。
 『民主主義は、純粋な社会主義に対する全ての裏切り者によって制覇されたブルジョア国家の一形態だ。彼らは公認された社会主義の先頭に位置して、民主主義はプロレタリア-ト独裁の反対物だと主張している。
 革命がブルジョア体制の枠を超越するに至るまでは、我々は民主主義に賛成してきた。
 しかし、革命の進展のうちに社会主義の最初の兆候を見るや否や、我々はプロレタリア-トの独裁を支持する強硬なかつ断固たる立場をとった。』(+)
 (全集26巻、p.473〔=日本語版全集26巻「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第三回全ロシア大会483頁〕。)
 換言すれば、社会主義に対する裏切り者は民主主義は独裁の反対物だと主張するが、我々は、その反対物である独裁のために民主主義を放棄した。
このような間抜けさ(awkwardness)は、レーニンが民主主義的制度がほとんど何も残っていない浸食状態に気づいているが、ときどきは民主主義という美徳の印象のある名前を引き合いに出したかった、ということを示す。//
 革命のすぐ後に、ボルシェヴィキが権力に到達するまでは執拗に要求した伝統的な民主主義的自由は、ブルジョアジーの武器だったと判ることになった。
 レーニンの著作は、報道(出版)の自由に関して、このことを繰り返して確認している。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑤へとつづく。

1706/社会主義と独裁③-L・コワコフスキ著18章6節。

 この本には、邦訳書がない。何故か。
 日本共産党と日本の「左翼」にとって、きわめて危険だからだ。
 <保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁③。
 プロレタリア-ト独裁は-一時的にではなく永続的に-、議会制度および立法権と執行権の分離を廃棄するだろう。
 これこそが、ソヴェト共和国と議会主義体制の間の主要な違いだとされるものだ。<以上二文、前回と重複>
 1918年3月のロシア共産党(ボルシェヴィキ)第七回大会で、レーニンはこの原理を具体化する綱領案を提示した。
 『議会制度(立法権の執行権からの分離としての)の廃棄、立法的国家活動と執行的国家活動との統合。行政と立法の融合。』
 (全集27巻p.154〔=日本語版全集27巻「…第七回大会/ソヴェト権力についての一〇のテーゼ」154頁〕。)
 別の言葉で云えば、支配者は法を決定し、その法によって支配し、誰からも統制されない。
 しかし、誰が支配者なのか?
 レーニンはその草案で、自由と民主主義は全ての者のためにではなく、労働被搾取大衆のために、彼らの解放のために目指されるべきだ、と強調した。
 革命の最初から、レーニンは、プロレタリア-トからの支持のみならずクラク(kulag, 富農)に反対する労働農民からの支持を期待した。
 しかし、すぐに明確になったのは、農民全体が大地主に対する革命を支持し、次の段階へ進むことについては熱狂的でない、ということだった。
 党は、農村地帯での階級闘争を煽ることを最初から望み、貧農や労働農民が豊かな農民に対して抵抗するように掻き立てた。とりわけ、いわゆる『貧農委員会(Committees of the Poor)』によって。
 しかし、成果は乏しかった。そして、階級としての農民の共通の利益が貧農と富農との間の対立よりも総じて強いことが明確だった。
 レーニンはすみやかに、全体としての農民を『中立化』すること支持して語ることを始めた。
 1921年5月、ネップ前夜の党第一〇回全国協議会で、レーニンはこう明言した。
 『我々は、欺すことをしないで、農民たちに、率直かつ正直に告げる。
 社会主義への途を維持し続けるために、我々は、諸君、同志農民たちに、多大の譲歩をする。
 しかし、この譲歩は一定の制限の範囲内のみでであり、一定の程度までだ。
 もちろん、その制限と程度とを、我々自身が判断することになる。』
 (全集32巻p.419〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第十回全国協議会/食糧税についての報告の結語」449頁。)//
 最初の『過渡的な』スローガンは、つまりプロレタリア-ト独裁と貧窮農民のスローガンは、もはや妄想であるかプロパガンダの道具だった。
 党は、やがて公然と、プロレタリア-ト独裁は全農民層に対して行使されることを肯定した。かくして、農民に最も関係する問題の決定について、農民は何も言わなかった。彼らはなおも、考慮されるべき障害物であり続けたけれども。
 事態は、実際、最初から明白だった。〔1917年の憲法制定会議のための〕十一月の選挙が示したとおりに、かりに農民が権力を分かち持っていたならば、国家は、ボルシェヴィキを少数野党とするエスエルによって統治されていただろう。//
 プロレタリア-トはかくして、独裁支配権を誰とも共有しなかった。
 『多数派』の問題について言うと、このことはレーニンを大して当惑させなかった。
 『立憲主義の幻想』という論文(1917年8月)で、彼はこう書いていた。
 『革命のときには、「多数派の意思」を確認することでは十分でない。
 -諸君は、決定的な瞬間に、決定的な場所で、「より強い者であることを証明」しなければならない。諸君は「勝利」しなければならない。<中略>
 我々は、よりよく組織され、より高い政治意識をもった、より十分に武装した少数派の勢力が、自分たちの意思を多数派に押しつけて多数派を打ち破った、無数の実例を見てきた。』
 (全集25巻p.201〔=日本語版全集25巻218頁〕。)//
 しかしながら、<国家と革命>で叙述されたようにではなく、プロレタリア-トは党によって『代表される』との原理に合致してプロレタリア少数派が権力を行使すべきものであることは、最初から明白だった。
 レーニンは、『党の独裁』という語句を使うのを躊躇しなかった。-これは、党がまだその危機に対応しなければならないときのことで、ときどきは正直すぎた。
 1919年7月31日の演説で、レーニンはつぎのように宣告した。
 『一党独裁制を樹立したと批難されるとき、そして諸君が耳にするだろうように、社会主義者の統一指導部が提案されるとき、我々はこう言おう。
 「そのとおり。一つの党の独裁だ! 我々は一党独裁の上に立っており、その地位から決して離れはしない。なぜなら、数十年をかけて、全ての工場と産業プロレタリア-トの前衛たる地位を獲得した党だからだ」。』
 (全集29巻p.535〔=日本語版全集29巻「教育活動家および社会主義文化活動家第一回全ロシア大会での演説」549頁〕。)
 レーニンは、1922年1月の労働組合に関する文書で、大衆の遅れた層から生じる『矛盾』に言及したあと、こう明言した。
 『いま述べた矛盾は、間違いなく、紛議、不和、摩擦等々を生じさせるだろう。
 これらの矛盾をただちに解決するに十分な権威をもつ、より高次の機構が必要だ。
 その高次の機構こそが党であり、全ての国家の共産党の国際的連合体-共産主義者インターナショナル〔コミンテルン〕だ。』
(全集33巻p.193〔=日本語版全集33巻「新経済政策の諸条件のもとでの労働組合の役割と任務について」191頁〕。)//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
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 ④へとつづく。

1705/江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(2017年08月)①。

 この出版物を、慶賀とともに、悲痛な想いで一瞥した。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017年08月)。
 要点をできるだけ絞る。
 第一。「第一章/ロシア革命とコミンテルンの謀略」、p.29-96、について。
  1.日本への影響を叙述する、日本の書物の中では詳しいのだろう。
 しかし、決定的な弱点は日本語訳書に限っても、10冊も使っていないことだ。従って、説得力や実証性が十分ではない。
 参考にしている、または依拠している文献は、おそらく以下だけ。狭い意味でロシア革命とレーニン以外のものも含めて、欧米(+ロシア・ソ連)の文献そのものはないようだ。1950年代の古すぎる本は除外。出版社・翻訳者、刊行年は省略。
 ①クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書/ソ連篇。
 ②アンヌ・モレリ・戦争プロパガンダ/10の法則。
 ③マグダーマット=アグニュー・コミンテルン史。
 ④ミルトン・レーニン対イギリス情報部。
(⑤春日井邦夫・情報と謀略。)
 江崎道朗のこの本の出版を喜ぶとともに、日本の現況を考えて、寒心に堪えない。身震いがする。怖ろしい。
 2017年の夏に、この程度の詳しさでも、日本人の執筆者が書いた、おそらくは先進的な叙述になるのだろう
 江崎が最も依拠しているのは上の③のようで、コミンテルン自体の文書やレーニンの文章は、この③の資料部から採用・引用しているようだ。
 2.江崎道朗に是非とも助言しておきたい。以下を読んで、参考にしてもらいたい。
 一部の試訳・邦訳をこの欄で試みている、①リチャード・パイプスのロシア革命本二冊、②レシェク・コワコフスキの本(マルクス主義の主要潮流)でも、ロシア革命とレーニンは詳しく扱われている(後者では、著者は「ハンドブックを意図する」と第一巻で書いているが、全3巻の中で、レーニンについてはマルクスに次いで詳しく叙述する)。 
 前者のリチャード・パイプスの二冊については一冊の簡潔版があって、これには邦訳書がすでにある。
 この邦訳書だけでもすでに、昔ふうの?レーニンの像とは異なるものが明確だ。
 リチャード・パイプスの本には「革命の輸出」という章もあって、当然ながらコミンテルンへの論及も、その背景・目的も含めてある(世界革命か一国革命かにも関わる)
 レシェク・コワコフスキの本は、今まで訳した中では(以下の重要な指摘を除いて)、レーニンの「戦争」観にも(当然ながら)論及がある。
 日本人の中では、学者もしていなことを先進的に?研究した,などと自信を持ってはいけない。
 3.一瞥して、私、秋月瑛二の方が<より詳しい。より多くロシア革命とレーニンについては知っている。>と感じた。
 例えば、江崎道朗は、つぎの重要なことに言及していない。しかし、秋月は気づいている。
 試訳では、L・コワコフスキの文章をこう訳した。この部分はかなり意味読解に苦労して、無理矢理訳したところもある(翻訳が生業ではないのだから、やむをえないと思っている)。8/5=№.1693。
 「1920年12月6日の演説で、レーニンは、アメリカ合衆国と日本の間でやがて戦争が勃発せざるをえない、ソヴィエト国家はいずれか一方に反対して他方を『支持する』ことはできないが、その他方に対する『決勝戦』を闘わせて、自国の利益のためにその戦争を利用すべきだ、と明言した。/ (全集31巻p.443〔=日本語版全集31巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」449-450頁〕参照。)」//
 私は、レーニン全集の該当巻の該当するらしきところだけ探し出しているだけではない。自然に、前後も読んでしまうときがある。
 そして、レーニンがこのとき何を考えていたかの一部を理解した。レーニン全集日本語版31巻の上掲「演説」を参照。
 すなわち、第一に、日米間で戦争が(「帝国主義」国間の戦争が)起きるだろうと予測し、かつ期待した。
 第二に、日本がアメリカと闘わずにロシア・ソ連を攻める(いわばのちに言う「北進」だ)のを恐れた。
 明言はないが、<帝国主義国>相互を闘わせて、消耗させよう、と思っている。これは、ロシア・新ソ連の利益になる。また、日本がアメリカではなくて、ロシア・ソ連に向かうのをひどく恐れている。ロシア・新ソ連の<権力>を守るためだ。
 すでに、1920年のこと。日米戦争への明確な論及がある(江崎道朗はたぶん知らない)。
 スターリンは、このレーニンの「演説」も、じかに聞いたか、のちにじっくりと読んだに違いない。
 スターリン・ソ連が、日本が北と南のどちらに向かうかをきわめて気にしていたこと、それに関する情報を切実に知りたかったこと(ゾルゲ事件参照)は、その根っこは、遅くともすでに1920年のレーニンの文章・演説に見られる
 4.江崎は中西輝政を尊敬して、この分野(コミンテルンと日本)の第一人者だと思っているようだが、秋月瑛二のこの一年間の読書によると、中西輝政にも相当の限界がある。あくまで日本の学界内部では優れている、というだけではないだろうか。
 何しろ、中西がW・チャーチルを「保守」政治家として肯定的に評価しているようであるのは、スターリン時代にまで遡ると、きわめておかしい。
 戦後にようやく?<反共>政治家になったのかもしれないが、江崎道朗もしきりに言及しているようであるF・ルーズヴェルトとともに、<容共>の、かつ戦後世界に対する<責任>がある、と私には思われる。
 また、アメリカ等に対するコミュニズムの影響力を<ヴェノナ>文書でのみ理解するのでは、決定的に不十分だ。
 上の邦訳書づくりへの寄与をむろん肯定的に評価しはする。
 しかし、アメリカについては(おそらくイギリスについても)ロシア革命後の<アメリカ共産党>の創立とその運動についても、知らなければならないだろう。
 この欄でいずれ触れる。
 英語文献を知っている人ならば、英米の共産党(レーニン主義政党)の少なくともかつての存在に気づくはずだ。英米語が読めれば、何とか私でもある程度のことは分かる。2000年以降でも、アメリカ共産党や同党員だった者に関する書物は出版されている。
 リチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキだけが特殊ではない。
 日本の「共産主義者」や日本共産党にとって<危険な>欧米文献は全くかほとんど邦訳されていない、ということを知らなければならない。
 5.中西輝政あたりが、最高の、あるいは最も先進的な、<共産主義・コミンテルンの情報活動と日本>というテーマの学者・研究者だし思われているようであること。
 これは、日本の現況の悲痛なことだ。
 月刊正論執筆者の中では<反共産主義>が明瞭だと思われる江崎道朗ですら、リチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキの名すら知らず、ましてや原書を一部ですら読んでいないようであること。
 これまた、悲痛な日本の<反共産主義>陣営の実体だ。
 「日本会議」は日本共産党や共産主義と闘おうとしていない。この人たちにとってマルクス主義の過ちは、<余すところなく>すでに証明されているのだ。
 繰り返すが、リチャード・パイプスやレシェク・コワコフスキだけではない。
 欧米文献を多少とも目にして分かることは、欧米にある<しっかりとした反・共産主義>の伝統だ。
 自らを<社会民主主義者>と称しているようであるトニー・ジャッドですら、<反・共産主義>の態度は決定的に明確だ。
 アメリカ的「社会的民主主義者」ないしは<自由主義者>であるらしきトニー・ジャッドがフランスのフランソワ・フュレのフランス革命観と「反共産主義」姿勢に同感していることは、アメリカでは決して珍しいことではないと思われる。
 日本では「社会民主」主義者は<容共>かもしれないが、少なくともアメリカのトニー・ジャッドにおいてはそうではない。
 このような脈絡でも、井上達夫の主張・議論・「思想」には興味がある。
 第二。「おわりに」より。p.414。
 この回を、急ごう。
 江崎道朗もまた、「明治維新」を分かっていない。理解が単純すぎると思われる。
 江崎は、反共産主義者でありかつ「保守自由主義」者のようだ。私もおそらく全く同じ。
 しかし、つぎの文章の内容は、絶対にダメだ。p.414。
 「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文につながる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 ここに日本の「保守」派に多く見られる、明治は素晴らしかった、という、「日本会議」史観の影響があるようだ。この点に限れば、司馬遼太郎史観もそうかもしれない。
 「聖徳太子の十七条の憲法」と「五箇条の御誓文」をふり返るべき日本の「(保守的?)精神」だと単純に考えているようでは、先は昏い。絶望を感じるほどに、暗然としている。
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 江崎道朗の新書出版は、ある程度は慶賀すべきことなのだろう。
 しかし、途方もなく涙が零れそうになるほどに、日本の本来の「保守」=反・共産主義派の弱さ・薄さ(ほぼ=共産主義がとっくに「体制内化」していること)を感じて、やるせない。
 1991年の<米ソの冷戦>終焉から、四半世紀。日本人は、いったい何をしてきたのか。

1704/谷沢永一・正体見たり社会主義(1998)③など。

 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998/原1994)。
 メモ書きをつづける。マルクスについて要領のよいと思われる批判が並ぶ。
 「国家なき社会の運営のプラン」はマルクスになく、レーニンにも「何もなかった」。p.164。
 「レーニンは、プロレタリア-トの独裁によって過渡的な形でできる国家は、勝利獲得後、ただちに死滅しはじめると考えた」。
 レーニンは「マルクス主義とアナーキズムには類似性があると認めるところまでいっていた」。「国家の代わり」の「実務のみの社会」は「人間の善意のみで運営」される村役場あるいはバザールで、「極端な復古主義」だ。p.166-7。
 レーニンは当初は「プロレタリア-トの党については、考えていなかった。革命さえ起こせば、すべてが解決する」はずだった。<国家と革命>には「党のことはほとんど触れられていなかった。これは歴然たる事実なのである」。p.168-9。
 上の最後はほとんど同趣旨が、L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1974、英訳1976)の中にある。他の部分も、L・コワコフスキが叙述していることと似たようなことを書いている。
 谷沢はL・コワコフスキ著をある程度知っていたかとも思わせるが、党については、革命直前の<国家と革命>研究書・論評書は多かったりするので、常識的なことなのかもしれない。
 但し、革命前の運動期の<何をなすべきか>では独自の、職業家から成る意識的・純粋な党の像を語り、メンシェヴィキと対立した。革命後の党の役割、国家と党の関係等には熟考のないまま、「革命」=権力剥奪に進み切った(好機があれば逃さなかった)のだろう。権力奪取の後の政治・行政の<付け焼き刃>。
 何が根拠なのか、レーニンに「甘い」部分もある。
 「レーニンが考えた党の独裁とは、合議制による運営」で、「レーニン個人による独裁」でなかった。スターリンがこれを踏みにじった。p.192。
 「独裁」の意味にもよるが、ソヴェトの内部での一党支配、ソヴェト自体からの自立、を経ての国家=一党支配体制におけるレーニンの位置は、<立法・行政>権ともに持ちかつ<司法権>を下部に置く「人民委員会議の議長(首相とも紹介される)」かつ党中央委員会委員長だ。その人民委員会議や中央委員会が「合議制」というのは全くの建前で、レーニンの意思・意向に反することは決められていない。
 但し、スターリンは党内部の政敵・意見対立者を「殺した」が、レーニンはそこまではしなかった(反面では、党「外部」者、例えば左翼エスエル指導者、対しては行なった)。
 スターリンによる<大テロル>(1935-38年又はより短くは1936-38年)は、今日では日本共産党すらが大々的に批判している。
 谷沢p.203によると、1935-38年の4年間に、10月「革命」時の名のある指導者たちの「ほとんど全部が、トロツキストの汚名のもとに逮捕投獄された」。しかも「その多くが」「処刑されていった」。1934年党大会で選出された中央委員・同候補のうち「7割の98人」、同大会代議員の「過半数」が「処刑ないし追放された」。p.203。
 逮捕・拘束-「自白(強要)」-刑法典等による「処刑」もあれば、陰に陽にの「暗殺」=不意打ちの突然の殺戮もあった。スターリンの「意」をうけた殺戮者グループがいた。
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 ところで、この本については、10年以上前に、この欄の前のサイトで言及していた。
 2006年9月下旬にすでに。ぼんやりとある程度読んだ記憶があるだけで、書き込んだことまではすっかり失念していた。こんなことは他にもしばしばあるので、イヤになる。 №--0044・2006年09/23付でこうある。谷沢関係部分の全文。
 「谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)を2/3ほど読んだ。
 平易な語と文章で解りやすい。この本は同・『嘘ばっかり』で七十年(講談社、1994)の文庫化で、題名どおり日本共産党批判の書だ。
 今でいうと「…八十年」になるだろう。もっとも終戦前10数年は壊滅状態だったので、1945年か、実質的に現綱領・体制になった1961年を起点にするのが適切で、そうすると『嘘ばっかり』の年数は少なくなる。
 それにしても谷沢は日本近代文学専攻なのに社会主義や共産党問題をよく知っている。戦前か50年頃に党員かシンパだったと読んだ記憶があるが、『実体験』こそがかかる書物執筆の動機・エネルギ-ではなかろうか。」
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 谷沢永一の没後、昨年に、二巻選集が刊行された。
 浦安和彦編・谷沢永一・二巻選集/上・精撰文学論(言視舎、2016.01)。
 鷲田小弥太編・谷沢永一・二巻選集/下・精撰人間通(言視舎、2016.09)。
 とくに後者を一瞥したが、鷲田小弥太の解説・解読も読む価値がある。また、谷沢のすさまじい知識ぶりにも感心する。
 もっとも、誤っていると思われる事実認識や論評も散見される。
 こうした「知識人」が存在したことについて、種々、感じることもある。
 ①戦後日本の「大学」というもの、「大学教授」というものの存在。谷沢永一の生活を支え、こうした「自由」な言論ができたのも、「大学(教授)」という制度が存在したからだ。
 ②関西と東京(または首都圏)。中西輝政ですら、京都・関西と東京(首都圏)の言論人・論壇人(?)との<距離>について、何かで語っていた。
 東京集中のメディアと出版業界も関係する。京都よりさらに東京から「遠い」大阪にいたことも、<谷沢永一>を生んだに違いない。
 司馬遼太郎についてもまた、この観点を無視できないだろうと思われる。
 ③上に関係があるのかどうか、谷沢永一は<新しい歴史教科書をつくる会>の教科書を批判した。まだ生ぬるい、あるいは<左翼的・自虐的>だ、というのがおおよその理由だったかと思う。
 日本の<保守>論者、<保守>的言論の歴史も複雑だ。
 ④上の「下」に収載の<日本通史>(別に単行本になっていて、所持している可能性が高い)は、一人でここまで書ける<文学評論家>がいたのかと驚かせる。
 だが、反・非マルクス主義的であるものの、<天皇・皇室>を肯定的な意味で重視したり(なお、「天皇制」という語をマルクス主義概念だとして拒否する)、昭和天皇を称えたりと、ある意味では、1990年代までの(今もつづく?)「左翼・自虐史観」に反対するがゆえだと思われる、明治維新以降に関する歴史叙述があるのも印象的だ。
 この「知識人」もまた、時代の制約から全く「自由」ではなかった、と思われる。
 全く「自由」だった人、全く「自由」な人、はいるのか、と問われると、皆無と答えるしかないのかもしれない。
 個々の人間が、時代環境、所属する国家、思考するために使う言語、成長過程も含めて学校教育あるいは文献読書で入手した知識・情報から「自由」でないはずはない、ということだろう。
 上の③や④は別に触れるかもしれない。

1700/社会主義と独裁②ーL・コワコフスキ著18章6節。

 レーニンは、「人民(民衆)」、「被抑圧階級」等々とよく言う。
 日本共産党がこれに該当とするものとして現在用いているのは、「国民」だ。
 「国家、それは一階級の他の階級に対する支配を維持するための機構である」。p.485。
 「国家とは、一階級が他の階級を抑圧するための機構、一階級に他の隷属させられた諸階級を服従させておくための機構である」。p.487。
 エンゲルスが言うように、「土地と生産手段の私的所有が存在しており、資本が支配している国家は、どんなに民主主義的であろうと、すべて資本主義国家であり、労働者階級と貧農を隷属させておくための資本家の手中にある機構である」。p.493。
 以上、1919年。日本語版・レーニン全集29巻より。
 「今日に至るまでの全ての社会の歴史は、階級闘争の歴史だ。/
 封建時代の没落から生まれた近代ブルジョア社会は、階級対立をなくさはしなかった。新たな階級を、新たな抑圧条件を、新たな闘争形態を古いものと置き換えたにすぎない。/ブルジョア階級の時代は、階級対立を単純化したことによって際立っている。社会全体がますます、敵対する二大陣営、直接に対峙し合う二大階級-ブルジョア階級と7プロレタリア階級-に分裂する」。
 以上、1848年。カール・マルクス・共産主義宣言より。平凡社・2015年の柄谷行人訳を参照。
 日本共産党は、「国家」観も、「歴史」観も、最初からまるで違っている。
 <階級闘争>-<敵・支配階級との闘い>-絶えず<敵>を設定しての執拗かつ継続的な<闘い>。まともな人間は意識したり想定したりしないところのものを、彼らはつねに考えている。彼らとは<人間>そのものが同じではない、と理解しておくべきものなのだ。
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 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。何故か。
 日本共産党と「左翼」にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。
 <保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁②。
 1917年4月-5月の『党綱領改正に関する資料』で、レーニンはこう書いた。
 『公教育は、民主主義的に選出された地方政府機関によって管理されるべきこと。
 学校のカリキュラム編成や教材の選択に中央政府が介入するのを許さないこと。
 教師たちは直接に地方民衆によって選任され、地方民衆は望ましくない教師を解任する権利をもつこと』、等々(全集24巻p.473〔=日本語版全集24巻501頁〕。)(+)//
 最終目標は国家と全ての束縛を完全に廃棄することだ。このことは、自発的な共存と連帯の原理に人民が慣れるときに可能になるだろう。
 犯罪や非行の原因は、搾取と貧困だ。そして、社会主義のもとで徐々に消失するだろう。 -こうしたレーニンの確信は、実際上、社会主義者たちの間で一般的なものだった。//
 ヨーロッパで戦争が闘われている間にこうした言葉で叙述されたレーニンの夢想郷(Utopia)は、ソヴィエト権力50年を経た後で読む者には、度肝が抜かれるほどにナイーヴ(無邪気)だ。
 トマス・モアの空想小説がヘンリ13世のイギリスを扱ったのと同じように、やがてすぐに成立することとなる国家を扱っている。
 しかし、綱領的計画と半世紀後のその『達成物』の間の醜悪な相違(grotesque divergences)を全て指摘するのは、実りないことだ。
 レーニンの夢想郷は、総じてはマルクスの考えと合致している。しかし、のちの著作には触れないで、レーニン自身の初期の著作と比較すると、際立つ違いが明らかだ。すなわち、党に関してはそもそも何も語っていない、ということだ。//
 レーニンがその幻想を真面目に書いたことを疑う理由はない。書いたときに彼は、世界革命がまさに起こりつつあると間違って(wrongly)信じていた、ということが想起されるべきだ。
 しかし、レーニンは明らかに、自分が描く絵は自分自身の革命と党に関する教理に紛れもなく反している、ということを感知していなかった。
 『多数者の独裁』は、歴史に関する科学的な理解で装備された政治組織を通じて行使されると想定されていた。『過渡期のプロレタリア国家』という考えに広く通じるこうした性格づけは、<国家と革命>では、全く述べられていない。
 この書物を書いていた時期に、レーニンは、明確につぎのように思い描いていた。武装し、解放された全人民が、行政、経済管理、警察、軍隊、裁判等々の全ての作用を直接に遂行するだろう、と。
 彼はまた、自由への制約は従前の特権的階級に対してのみ適用され、一方で労働者および労働農民は完璧に自由に、選択に従って彼らの生活を規律するだろう、と考えていた。//
 しかしながら、革命後に出来あがった体制の本質は、たんに内戦やロシアの外部での革命運動の立ち止まりと関係する歴史的偶然の結果ではなかった。
 専制的でかつ全体主義的な(この区別は重要だ)全ての特質を備えた体制は、その主要な道筋については、レーニンが長い年数をかけて作りだしたボルシェヴィキの教理によって、あらかじめ描かれていた。当然に、その結果は完全には実現されなかったし、予見もされなかったけれども。//
 レーニンが1903年以降に多くの場合にかつ多様な形態で設定した根本的な原理は、自由や政治的平等といった範疇は重要な意味をもたず、階級闘争の道具にすぎない、そして、どの階級の利益に役立つのかを考慮しないでこれらを擁護するのは阿呆(foolish)だ、というものだった。
 『実際には、プロレタリア-トは、共和制への要求を含む、全ての民主主義的要求への闘いをブルジョアジーの打倒のための革命的な闘争の劣位に置くことによってのみ、自主性を維持することができる。』(+)
 (『社会主義革命と民族の自己決定権』、1916年4月。全集22巻p.149〔=日本語版全集22巻「社会主義革命と民族自決権」172頁〕。)
 ブルジョア諸制度のもとでの専制政と民主政の違いは、後者が労働者階級の闘争を容易にするかぎりでのみ意味がある。これは二次的な違いであって、形式の一つにすぎない。
 『普通選挙、憲法制定会議、国会は、たんなる形式であり約束手形であるにすぎず、現実の事態を何ら変えることがない。』 (+)
 (『国家について』、1919年7月11日の講義。全集29巻p.485〔=日本語版全集29巻493頁〕。)
 これこそが、革命後の国家に関する、なおさらに(a fortiori)本当のことだ。
 プロレタリア-トに権力があるがゆえに、その権力を維持すること以外に、重要なものは何も考えられない。
 全ての組織上の問題は、プロレタリア-ト独裁を維持することの劣位に置かれる。//
 プロレタリア-ト独裁は-一時的にではなく永続的に-、議会制度および立法権と執行権の分離を廃棄するだろう。
 これこそが、ソヴェト共和国と議会主義体制の間の主要な違いだとされるものだ。
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 (+) 秋月注記-日本語版全集を参考にし、ある程度は訳を変更した。
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 段落の中途だが、ここで区切る。③へとつづく。

1695/社会主義と独裁①-L・コワコフスキ著18章6節。

 この本には、邦訳書がない。何故か。
 日本共産党と「左翼」にとって、読まれると、極めて危険だからだ。
 <保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第6節へと進む。第2巻単行著では、p.497~。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁①。
 レーニンの活動の全体は、『最終的な目標』、すなわち社会主義社会の建設、のための闘争に向けられていた。しかし、戦争の前には、その社会がどのようなものであるかを明確に語ることに関心を示さなかった。
 その著作物の中には、財産の集団化、賃労働や商品経済の廃止等々の、よく知られる社会主義の考えへの言及が散在していた。
 しかしながら、革命の前には、『プロレタリア-ト独裁』という、生涯にわたって変えないままだった概念が何を意味するかを説明した。
 <カデットの勝利と労働者党の任務>で、彼は、強調してこう表明した。
 『独裁とは、法にではなく実力(force)にもとづく、制限なき権力(power)だ。』
 (全集10巻p.216。)
 『権力(authority)-無制限で、法の外に立ち、そして言葉の最も直接的な意味での生の力(force)にもとづく-が、独裁だ』(同上、p.244〔=日本語版全集10巻231頁〕。)。
 『「独裁」という概念には、<これ以外のいかなる意味もない>。-このことをよく憶えておきなさい、カデット紳士諸君』(同上、p.246〔=日本語版全集10巻233-4頁〕。)。//
 見地が変わらなかったことを明白にするため、レーニンは上のような言明を1920年に繰り返した。
 独裁は『強制の最も直接的な形態』だ。そして、プロレタリア-ト独裁は、プロレタリア-トが打倒した搾取者に対してプロレタリア-トが実力(force)を行使することだ。
 この実力がいかに行使されるかに関して、レーニンは、第二インターナショナルの指導者たちに向けられた小冊子<国家と革命>で、回答を示した。
 第三インターナショナル(彼の頭では早くも1915年のつもりだった)創立の直前に、革命が全ヨーロッパの至る所ですみやかに勃発するだろうと期待して、レーニンは、何度も国家に関するマルクス主義理論および社会主義が国家装置の作動にかかわってくる変化の理論を詳説することが必要だと考えた。//
 マルクスとエンゲルスによれば、とレーニンは指摘する、国家は和解しえない階級対立の結果物だ。両者の間を調整したり仲裁するという意味においてではなく、逆に、国家そのものは今まではつねに、所有階級が被抑圧階級に押しつけてきた装置だった。
 その諸装置は階級対立において中立ではありえず、一方の階級の他方に対する経済的抑圧の法的表現にすぎない。
 ブルジョア国家の諸装置と諸機関が、労働者の解放のために用いられることはあり得ない。
 ブルジョア国家での選挙権は、社会的緊張を緩和する手段ではない。被抑圧階級が権力を獲得するのを可能にする手段でもない。たんに、ブルジョアジーの権力(authority)を維持する方法にすぎない。
 プロレタリア-トは、国家機構を破壊(destry)することなくして自らを解放することはできない。
 これが革命の主要な任務であって、マルクス主義理論と一致する国家の『消滅』とは明確に区別されなければならない。
 ブルジョア国家は、ここでいまや、粉砕(smash)されなければならない。消滅は、プロレタリア国家にとっては革命のあとに、すなわち政治的権力が打倒される将来の時点に、生じる。//
 レーニンは、とくにパリ・コミューンに関するマルクスの論文およびその<ゴータ綱領批判>に言及し、また、エンゲルスの小文や手紙にも言及する。
 社会主義運動上の修正主義およびブルジョア国家をプロレタリア-トの利益に役立つよう使用するという考え方は、マルクス主義の基盤に反している、と彼は言う。
 それは妄想であり、あるいは革命を放棄した日和見主義者の欺瞞的な策略だ。
 プロレタリア-トは、国家を必要とする(ここでアナキストは過った)。しかし、それは、枯渇して自らを破壊する方向にある国家でなければならない。
 移行期に搾取者の抵抗を抑え込むために、その抵抗の強さを予見することはできないが、国家の従前の形態とは違って所有階級の残り滓に対する社会の大多数による独裁になる、プロレタリア-トの独裁が存在しなければならない。
 その時期の間、資本主義者の自由は制限されなければならない。一方で諸階級がすっかりなくなってしまったときにのみ、完全な民主主義が可能になるだろう。
 この移行期の間、国家は困難なく作動し続けるだろう。多数者が少数の搾取者を簡単に打ち負かし、特殊な警察機構を必要としないだろうから。//
 パリ・コミューンの経験は、共産主義国家組織の一般的な特質を描写するのに役立つ。
 その国家では、常設軍は廃止され、代わりに人民が武装するだろう。国家の全官僚が、労働者階級によって選出されかつ罷免されるだろう。
 警察は、軍隊のごとき機能を持つものとしては必要とされず、武力を携帯することのできる人民全体によって実施されるだろう。
 付け加えると、国家の組織上の作用は簡素なので、読み書きをする誰もが履行することができる。
 社会一般の作動のためには、特殊な技能は必要でないだろう。そして、そのゆえに、分離した官僚層は生じないだろう。簡素な行政と会計が、手工業者と同じ賃金で、公民全員によって交替で履行されるだろう(レーニンは、この点をとくに強調した)。
 誰もが平等に国家の奉仕者[公務員]になり、平等な基準によって支払われ、平等に仕事をする義務を負うだろう。
 彼らは手仕事労働者と役人[公務員]のいずれかを選択できるので、誰も官僚主義者にならないだろう。
 行政の簡素さ、報酬の平等さ、そして公務員たちの選挙と解任可能性があるので、社会から孤立した、寄生的官僚層が形成される危険はないだろう。
 最初には政治的な強制がなければならないが、国家がその機能を失うにつれて、徐々にその政治的な性格も失い、純粋な行政の問題になるだろう。
 命令はもはや、最上者から与えられるのではない。必要な中央の計画が、幅広い領域的自治と結びつくだろう。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
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 段落の中途だが、ここで区切る。②へとつづく。

1693/帝国主義と革命③-L・コワコフスキ著18章5節。

 この本には、邦訳書がない。何故か。
 日本共産党と「左翼」にとって、読まれると、極めて危険だからだ。
 <保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第5節・帝国主義の理論と革命の理論③。
 誰が侵略者であるかは問題でなく、実際、攻撃(offensive)戦争と防衛戦争の違いはなかった。そして、軍事活動の基礎にある階級の利益こそが重要だった。
 この点に関するレーニンの言明は多くあって、かつ完璧に明白だ。現在の後継者たちによって、さほど多くは引用されないけれども。
 『戦争を防衛戦争と侵略(agrresive)戦争に分けるのは馬鹿げている』。(+)
 (1914年10月14日の演説。全集36巻p.297〔=日本語版全集36巻「『プロレタリア-トと戦争』についての公開報告」331頁〕。)
 『国際関係上の全ての個別現象に対する社会民主党の態度を考察して決定する唯一の規準は、戦争の性質が防衛的か攻撃的かではなく、プロレタリア-トの階級闘争の利益、あるいは-より十分に言えば-、プロレタリア-トの国際的運動の利益だ。』 (+)
 (『好戦的軍事主義と社会民主党の反軍国主義的戦術』、1908年8月。全集15巻p.199〔=日本語版全集15巻186頁〕。)
 『あたかも問題なのは、誰が最初に攻撃したか?で、戦争の原因は何なのか? その目的は何なのか? どの階級が遂行しているのか?、ではないようだ。』 (+)
 (ボリス・スヴァラン(Boris Souvarine)への公開書簡、1916年12月。全集23巻p.198〔=日本語版全集23巻215頁〕。)
 『戦争の性格(反動的であれ革命的であれ)は、攻撃したのは誰かや『敵』がどの国に設定されているかに関係はない。
 <どの階級>が戦争を遂行しているのか、いかなる政策をこの戦争は継続するものなのか、による。』 (+)
 (<プロレタリア革命と変節者カウツキー>、1918年。全集28巻p.286〔=日本語版全集28巻305-6頁〕。)//
 かくして、『侵略』は戦争の階級的性格を隠蔽いるのに役立つブルジョアの詐欺的な観念だ、ということだけではなく、自分の国家で組織される労働者階級は、資本主義国家に対する戦争を遂行する全ての権利をもつ、ということが分かる。定義上は、労働者階級は抑圧された階級の利益を代表し、正義(justice)は彼らの側にあるのだから。
 レーニンは、この結論を出すのを躊躇することはない。
 『例えば、社会主義が1920年にアメリカやフランスで勝利し、そのとき日本や中国が、まあ言おう、彼らのビスマルクたちを-最初は外交的にだけでも-我々に向けてくれば、我々はきっと、彼らに対する攻撃的な革命戦争に賛成するだろう。』 (+)
 (『第二インターナショナルの崩壊』。全集21巻p.221注〔=日本語版全集21巻217頁注(1)〕。)
 1920年12月6日の演説で、レーニンは、アメリカ合衆国と日本の間でやがて戦争が勃発せざるをえない、ソヴィエト国家はいずれか一方に反対して他方を『支持する』ことはできないが、その他方に対する『決勝戦』を闘わせて、自国の利益のためにその戦争を利用すべきだ、と明言した。
 (全集31巻p.443〔=日本語版全集31巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」449-450頁〕。)
 1918年3月の第七回党大会では、『大会は、党中央委員会が適切な時機に至ったと判断するときには、あらゆる講和条約を破棄しまたどの帝国主義国家に対してであれ全世界に対してであれ宣戦を布告する権限を党中央委員会に対して与える』との意味を持つ決議を提案した。 (+)
 (全集27巻p.120〔=日本語版全集27巻「戦争と講和についての決議にたいするトロツキーの修正案に反対する発言。3月8日」118頁〕。)
 これがブレスト=リトフスクの雰囲気で草せられていた、というのは本当だ。しかし、応用については概括的で、レーニンの教理と完全に合致している。
 プロレタリア国家は定義上資本主義国家に真反対に向かい立つ(vis-avis)ので、また、侵略の問題は戦争を判断するに際しての重要性がないがゆえに、事態が示すときはいつでも、プロレタリア国家には明らかに、資本主義国家を世界革命のために攻撃する権利と義務がある。資本主義と社会主義の間の平和的共存がレーニンの見解では不可能なので、ますますそうなのだ。
 既に引用したが、1920年12月6日の演説で、彼は、こう述べた。
 『我々は戦争から平和へと移行させたが、戦争は戻ってくるだろうことを忘れなかった、と私は言った。
 資本主義と社会主義がともに生きている間は、両者は決して平和裡に生活することができない。』 (+)
 (全集31巻p.457〔=日本語版全集31巻「…モスクワ組織の活動分子での会合での演説」464頁〕。)//
 こうしたことが、社会主義国家の外交政策の簡素なイデオロギー上の基盤だった。
 新しい国家は定義上、歴史を指導する勢力を代表した。攻撃しようと自衛しようと、それは、進歩の名のもとで行動していた。
 国際法、仲裁、軍縮会議、戦争の『違法化(outlawing)』-これらは全て、資本主義が存続しているかぎりでの欺瞞だ。そして、のちには、これらは必要でなくなるだろう。戦争は社会主義のもとでは、資本主義のもとでは不可避であるがごとく、不可能だからだ。//
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 (+) 日本語版全集を参考にし、ある程度は訳を変更にした。
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 第5節、終わり。第6節の表題は、<社会主義とプロレタリア-ト独裁>。

1689/帝国主義と革命②-L・コワコフスキ著18章5節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第5節・帝国主義の理論と革命の理論②。
 レーニンが第二インターナショナルの指導者たち〔カウツキーら〕を言葉上は革命的で行動上は修正主義者だと批難したのは、疑いもなく正当(right)だ。
 彼だけが、権力奪取のことを真剣に考えていた。そして、さらには、彼はそれ以外のことを何も考えていなかった。
 レーニンの立場は、明確だった。すなわち、権力というものは、それが政治的に可能であればいつでも、奪取しなければならない。
 彼は、生産力が社会主義者の蜂起の地点にまで成熟しているかどうかに関する理論上の推計に耽ることはなかった。彼の推計は、全てが政治情勢に関係していた。
 レーニン自身は、言葉上の決定論者(determnist)で、行動上は現実政治家(Realpolitiker)だと、正当に批難され得ただろう。
 頻繁にではないがときどき、彼は決定論者的なカテキズム(catechism, 公教要理主義)を繰り返した。
 (『歴史上に起きることは全て、必然的に起きる』-『ズュデクム(Suedekum)のロシア版』、1915年2月1日。全集21巻p.120〔=日本語版全集21巻「ロシアのジュデクム派」113頁〕。〕(+)
 しかし、この決定論は自分や他人が、共産主義の根本教条は勝利すべく歴史的に強いられていると確信するのに寄与しただけで、独特な政治行動のいずれにも適用されなかった。
 レーニンは、全ての国は資本主義の発展段階を経て進まなければならないという、マルクス主義の基礎の一つだと見なされていた考えすら、投げ捨てた。
 1920年7月26日のコミンテルン第二回大会で、つぎのように宣言した。遅れている人民たちは、先進諸国のプロレタリア-トとソヴェト権力の助けによって、資本主義の『段階』を回避(bypass)して、直接に社会主義へと進みうる(might)だろう、と。
 (じつに、このことがなければ、ロシア帝国に属する数ダースの未開部族や小数民族対してソヴィエトの国家権力を行使するのを正当化するのは困難だっただろう。)//
 そうして、レーニンは、『経済的な成熟性』にではなく、もっぱら革命的な情勢の存在にのみ、関心をもった。
 1915年の論文『第二インターナショナルの崩壊』で、この情勢の主要な特徴を、つぎのように明確にした。
 (1) 『低層階級の者』が従来どおりに『生活するのを望まない』だけではきわめて不十分だ。『上層階級の者』が従来どおりに『生活するのができない』ことがまた必要だ。
 (2) 被抑圧階級の苦痛と欲求が、尋常でない程に高くなること。
 (3) 『上記のことの結果として、自立した歴史的活動に自ら加わろうとする<中略>大衆の活動力が著しく増大すること』。
 しかし、『すべての革命的情勢が革命を生み出すとは限らない。
 革命は、上述の客観的な変化が主体的な変化を伴なう情勢からはじめて発生する。この主体的変化とは、革命的階級が古い統治を破壊するか揺るがすかするに足りるほどに強い革命的大衆活動を行う、という能力のことだ。』(+)
 (全集21巻p.213-4〔=日本語版全集21巻208-9頁〕。)//
 レーニンが叙述した状勢は戦争時に、とくに軍事的な敗北の際に発生しそうだ、というのが容易に見てとれる。
 このことから、彼は怒った。資本主義は戦争を回避し、そしておそらくは革命的情勢が発生する機会を排除するだろうとの見解に対して。
 かくしてまた、革命家たちは帝国主義戦争で自分たちの国が敗北するのを狙い、そしてそれを国内の戦争(内戦)に転化させるべきだ、とのレーニンの欲望も、生じる。//
 レーニンが政治権力の問題に頭を完全に奪われていたことは、つぎのことを意味した。すなわち、いわゆる『ブルジョア的平和主義』のいかなる痕跡からも完璧に自由な、唯一の社会民主党の指導者だった。-彼にとって、この『ブルジョア的平和主義』というのは、資本主義の革命的廃棄なくして戦争を放棄したいという希望であり、戦争が勃発したならば国際法の方法でそれを終わらせようという試みだ。
 ブルジョア的平和主義の兆候は、戦争の階級的性格を無視して、侵略(aggression)という観念(concept)を用いることだった。
 戦争は、国家の用語法によってではなく、階級の用語法で理解されるべきものだ。戦争は二つの国家組織体の衝突ではなく、階級の利害の産物だ。
 レーニンはしばしば、クラウセヴィツがこう述べたのを引用した。『戦争とは、別の手段による政治の継続にすぎない』。
 そして、この格言によって、ナポレオン時代のプロイセンの将軍〔クラウセヴィツ-秋月〕は『戦争に言及する弁証法の主要命題』を定式化したとされた(同上、p.219〔=全集21巻214-5頁〕。)(+)
 戦争とは、階級利害を原因とする対立の宣告だ。この対立を解消する戦争的手段と平和的手段との違いは、純粋に技術上のもので、この違いに政治的な意味合いはない。
 戦争は『たんに』、別の時代にはそれによらないで目標を達成できた手段であり、階級の利害とは別の、特別の道徳的または政治的な性質を持たない。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
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 段落の中途だが、ここで区切る。③へと、つづく。

1686/帝国主義と革命①-L・コワコフスキ著18章5節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第5節へと進む。第2巻単行著の、p.491以下。
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 第5節・帝国主義の理論と革命の理論①。
 帝国主義に関するボルシェヴィキの理論は、レーニンとブハーリンが作った。
 ブハーリンは、最初に、新しい歴史的時代のために革命の戦略の基礎を定式化した。
 帝国主義に関する著作でレーニンは-すでに書いたことだが、たいていの部分は、J・A・ホブソンの<帝国主義>(1902)とR・ヒルファディングの<金融資本主義>(1910)にもとづく-、帝国主義を前独占資本主義時代と区別する主要な五つの特質を列挙する。
 (1) 生産と資本の集中。これは、大独占体による世界経済の支配へと至る。
 (2) 銀行と金融資本の融合およびその結果としての金融寡頭制。
 (3) 資本の輸出のとくに重要な役割。
 (4) 国際的資本主義の独占同盟者たちによる世界分割。
 (5) 大帝国主義諸勢力による世界の領土的分割競争。
 この状況は資本主義の矛盾を除去せず、極限にまでその矛盾を高める。体制内部での発展の不均等性と競争の激しさは、戦争の蓋然性を減少させないばかりか、それを一層不可避にする。
 最後の点を、レーニンは、カウツキーを攻撃して、強調する。
 カウツキーは、世界経済体制が『極端な帝国主義』の段階へと移行するのを予見するのは可能だ、と主張していた。その段階とは、大諸国と国際的カルテルが世界の分割を安定化させ、戦争の危険性を排除できる帝国主義の段階だ。
 カウツキーは、これを一般的な仮説として提起し、このように必然的に進むとは何も主張しなかった。
 しかし、レーニンは、戦争なき資本主義、革命も起こりそうにない状態の国家、という考え方だと憤慨した。
 カウツキーの『愚にもつかない話』は反マルクス主義的で、日和見主義の兆候だ。帝国主義は、世界発展の不均等性を調整して排除する手段はないので、戦争なくしては存在し得ないはずだろう。
 そのことから、論文『プロレタリア革命の軍事綱領』(1916)で、レーニンは、社会主義は全ての国で同時に勝利することはない、との結論を導いた。
 革命の過程は一つまたは若干の国々で始まり、それがさらなる対立と戦争につながるだろう。//
 ブハーリンは、革命の展望と、単一の制度を同時に構成する世界経済の不均等な発展との関係を、戦争中と革命後の最初の数年の間に書いた書物で、詳述した。
 彼が説明するには、帝国主義は、監督して規制する力のある国家とともに、生産の無秩序を克服しようと、かつ合理的な経済を組織しようと追求する。
 しかし、矛盾と競争を除外することはできず、そのゆえに、帝国主義戦争を避けることはできない。
 全体としての資本主義体制は、社会主義革命に向けて成熟している。しかし、技術的な発展が高度に達しており、莫大な収益のおかげでブルジョアジーが労働者に高い賃金を支払うことができ、労働者に革命を思いとどまらせるところでは、矛盾の集中が最大になっている、つまり資本主義世界の外縁の、後進地域、植民地および半封建的な諸国以上に、この社会主義革命は、勃発しそうにない。
 増大する搾取、民族的抑圧、および農民運動が組み合わさって、これらの諸国は、世界的体制の鎖を力づくでもぎ取ることのできる最も弱い繋ぎ目(環)だ。
 発展していない諸国での社会運動は、直接に社会主義の建設を導くことはできない。しかし、それは、先進諸国のプロレタリア-トの自然の同盟者であって、労働者、農民の結合した力にもとづいて、漸進的で平和的な社会主義への発展と一致するブルジョア民主主義的目標を達成する、そのような過渡的な社会形態を創り出すことができるだろう。//
 しかしながら、レーニンは1916年までに、議論をつぎの段階へと進めた。
 『自己決定に関する討論の総括』で、こう書いた。//
 『植民地や欧州の小民族の反乱が伴わない、<偏見を全てもった>小ブルジョアの一部の革命的な暴発が伴わない、地主、教会および君主制による抑圧に反対する、あるいは民族的抑圧に反対する等々の、政治的には無自覚のプロレタリアと半プロレタリアの大衆の運動が伴わない、そのような社会革命が<考えられ得る>、と想像するのは全て、社会革命を放棄することを意味する。<中略>
 「純粋な」社会革命を期待する者は誰も、それに生きてめぐり合うことは<決してない>だろう。<中略>
 ヨーロッパでの社会主義革命は、抑圧されかつ不満をもつあらゆる全ての者の側の、大衆闘争の暴発以外のものでは<あり得ない>。
 不可避的に、小ブルジョアや遅れた労働者の一部もそれに参加するだろう-このような参加なくして、<大衆>闘争は不可能であり、<いかなる革命も>また可能では<ない>。
 また彼らは、全く同じように不可避的に、自分たちの偏見、反動的な空想、弱さと誤りを運動に持ち込むだろう。
 しかし、<客観的には>、彼らは<資本>を攻撃するだろう。』
 (全集22巻p.355-6〔=日本語版全集22巻416-7頁〕。)//
 この理論の帰結またはこれがマルクス主義の伝統から逸脱する程度を、レーニンが十分に意識していたかどうかは明確でない。
 マルクス主義が発展の『ブルジョア』段階だと、別言すれば一次的な農民と従属民族の段階だと見なすような多数の充足されない要求や熱望があるところでのみ、社会主義者の蜂起は発生し得る。-このことが、いずれにしても、断固として述べられた。
 これは、社会がブルジョアジーとプロレタリア-トでのみ構成される、マルクスが予見したような状況に資本主義が接近するときには、社会主義革命は生じない、または生じそうにない、ということを意味する。
 充たされない農民と民族的要求および『封建主義の残滓』の存在はプロレタリア-トを助けて、『非プロレタリア』の活力でもってプロレタリア-トを補強し得るだろうとのレーニンの言明は、もちろん、マルクスとエンゲルスの戦略と矛盾してはいない。
 マルクスとエンゲルスは、多様な場合に同様の立場を採用した。例えば、1848年のドイツのプロレタリア革命や1870年代のロシアの革命への望みにおいて、あるいは、アイルランド問題はイギリスの労働者階級の立場を強化するだろうとの見方において。
 本当のことだが、マルクスとエンゲルスは、この同盟がどのように作動するかに関するいかなる精確な理論をも提示しなかったし、どのようにして彼らの望みは社会主義革命に関する一般理論と調和できるのかについて、明確でもなかった。
 しかし、プロレタリア革命は『封建主義の残滓』による補強なくしては決して生じることができないとの言明は、マルクス主義における新考案物(novelty)であり、伝統的理論からは完全に離反するものだった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1679/共産党独裁③-L・コワコフスキ著18章4節。

 日本語版レーニン全集36巻(大月書店、1960/14刷・1972)の手元の所在がなぜか分からないので、今回部分の日本語版の参照はできない。後日、追記するかもしれない。<8/01に追記。>
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁③。
 レーニンは、非能率な者をどこにでも投獄することを要求した。そして、なぜ彼らは自分で決定するのを怖れ、可能ならばいつでも上官に問い合わせるのだろうと不思議に思った。
 彼は慎重な監督と徹底的に記録することを要求し、『書記仕事(pen-pushing)』の莫大な多さに驚愕した。
 (『社会主義=ソヴェト権力+電化』という彼の言明は、しばしば引用される。
 革命直後に言った、『社会主義が意味するのはとくに、あらゆることを文書化する(keeping account)ことだ』は、さほど多くは引用されない(中央執行委員会会議、1917年11月17日。全集26巻p.288〔=日本語版全集26巻「全ロシア中央執行委員会の会議/エスエル左派の質問にたいする回答」293頁)。)(+)(*)
 彼は、地方の党や警察機関内部ではいかなる批判も反革命だと見なされ、その批判文執筆者は投獄か死刑の危険に晒される、ということに依拠する制度を作り出し、同時に、労働者人民には、怖れないで国家機関を批判するように求めた。
 官僚主義という癌に関する彼の分析結果は、単純だった。すなわち、教育、『文化』および行政能力、の欠如による。
 二つの処方箋があり、これまた単純だった。すなわち、非能率者を投獄〔=収監〕すること、および実直な官僚から成る新しい監督機関を設置すること。
 レーニンは、スターリンが率いる労働者・農民査察官(Inspectorate)(ラブクリン、Rabkrin)に重要な意味を与えた。これは、全ての行政部署およびその他の監視機関を監督する権限があるものとして任命されていた。そして、彼の考えによれば、官僚主義に対する闘いの成功は、最終的には、この機構の誠実さに依っていた。
 この機構はテロルに関する負担を引き受けたり、あらゆる方向への役立たない指令を発したりしたが、それに加えて、1922年に党の総書記になったスターリンによって、反対者を叩き出す杖として、および党内部の闘争に使う武器として利用された。  
 もちろん、このことを、レーニンは予見しなかった。
 彼は『最後の治療薬』を処方したが、それは、-彼が十分に知っていた-国に離れがたく締め込まれている官僚主義の連鎖へと繋がる形をとる、官僚主義に対する治療薬だった。
 党組織(ヒエラルキー)は、徐々に肥大していった。
 それは、全ての公民を覆う生と死に関する権力を持った。
 最初は真面目な共産主義者によって指導されたが、それは、時の推移のうちに大量の立身出世主義者(careerists)、寄生者(parasites)、追従者(sycophants)を吸い込んだ。そして、数年の間に、彼らが自分たちで描く、統治スタイルの範型になった。//
 レーニンが生きた最後の二年間、動脈硬化と連続する心臓発作という病気が影を投げていた。彼は最後まで、それと闘わなければならなかった。
 1922年12月と1923年1月に党大会の用意として書かれた文章から成る有名な『遺書』は、続く34年の間、ソヴィエトの一般公衆に隠された。
 この文章は、国家の困難さと党組織内部で接近している権力闘争に関する絶望的な感情を表している。
 レーニンは、スターリンを批判する。過度に権力を手中にすることに集中しており、高慢(粗雑、high-handrd)で、気まぐれで、不誠実だ、ゆえに総書記局にとどまるのはふさわしくない、と。
 レーニンはまた、トロツキー、ピャタコフ(Pyatakov)、ジノヴィエフおよびカーメネフの欠点も列挙し、ブハーリンを非マルクス主義者の考えだと批判する。
 彼は、オルジョニキーゼ(Ordzhonikidze)、スターリンおよびジェルジンスキーを、大ロシア民族主義者だ、ジョージア侵攻で使われた手段が残虐だった、と非難する。
 レーニンは、『ロシア人の弱い者いじめに対抗する本当の防御策を非ロシア人に与える』必要性については語らない。そして、つぎのように予言する。
 『我々がツァーリ体制から奪い取ってソヴェトの油脂を少しばかり塗った…国家機構』つまりは同盟〔ソヴィエト同盟〕から離脱できるという約束した自由は、『たんなる紙屑になるだろう。そして、本当のロシア人たちの襲撃から非ロシア人を守ることはできないだろう。そのロシア人の大ロシア熱狂的愛国主義(chauvinist)は、本質において卑劣で暴圧的で、典型的なロシア官僚主義はこうだと言えるようなものだ。』 (+)
 (全集36巻p.605-6〔=日本語版全集36巻「覚え書のつづき-1921年12月30日/少数民族の問題または『自治共和国化』の問題によせて」716頁〕。)//
 こうした訴え、警告および非難には、実際上の重要性がほとんどなかった。
 レーニンは、民主主義的に選出されたメンシェヴィキ政府をもつジョージアを自分の承認を得て赤軍が侵攻したすぐ後に、少数民族の保護や民族自決権について喚起した。
 彼は、中央委員会を拡大することで分派的対立を防止することを望んだ。あたかも、彼自身が実際上は党内民主主義を終わらしめたときと比べて、その大きさが何らかの違いを生じさせ得るかのごとくに。
 レーニンは、主要な党指導者全員を批判し、スターリンの交替を呼びかけた。
 しかし、彼はいったい誰が、新しい総書記になるべきだと考えていたのか?
 -トロツキーは『自信がありすぎる』、ブハーリンはマルクス主義者ではない、ジノヴィエフやカーメネフが『1917年10月の裏切り者』だったのは『偶然ではない』、ピャタコフは、重要な政治問題について信用が措けない。
 レーニンの政治的な意図が何だっただろうとしても、『遺書』は今日では、絶望の叫びのように(like a cry of despair)読める。//
 レーニンは、1924年1月21日に死んだ。
 (スターリンが毒を盛ったという、トロツキーがのちに示唆したことを支持する証拠はない。)
 新しい国家は、レーニンが教え込んだ根本路線に沿って進まなければならなかった。
 防腐(embalm)の措置を施されたその遺体は、今日までもモスクワの霊廟に展示されている。このことは、彼が約束した新しい秩序がすみやかに全人類を抱きしめる(embrace)だろうことを、適切に象徴している。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*) 上記日本語版全集によると、このように続く。-「社会主義は、上からの命令によって作り出されるものではない。社会主義の精神は、お役所的=官僚主義的な機械的行為とは縁もゆかりもない」。
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 第4節、終わり。第5節の表題は、<帝国主義の理論と革命の理論>。 

1674/共産党独裁②-L・コワコフスキ著18章4節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 この第18章とは、第2巻(部)の第18章のことだ。各巻が第1章から始まる。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁②。
 非ボルシェヴィキの組織や定期刊行物の閉鎖、数百人の主要な知識人のロシアからの追放(この寛大な措置はまだ採られていた)、全ての文化的組織での迫害、あらゆる日常生活内に入り込んだテロルの雰囲気-これら全てが、社会対立がボルシェヴィキ党それ自体の内部で反映されるという、企図していない、だが当然の結果をもたらした。
 そしてこれは、つぎには、党が社会に対して行使したのと同じ専制的支配という原理を、党の内部に適用することへと導いた。
内戦は、経済的破滅と一般的な消耗をもたらした。そして、強さがなくなった労働者階級は、平和的建設という事業においてかつて戦闘の場で示したのと同じような熱狂と自己犠牲を示すようにとの訴えに敏感でなくなった。
 ボルシェヴィキが労働者階級全体を代表するということは、1918年以降は一つの公理(axiom)だった。それは、立証できないものだった。立証するための仕組みが何も存在していないのだから。
 しかしながら、プロレタリア-トは、怒りと不満を示し始めた。最も烈しかったのは、1921年3月のクロンシュタット蜂起で、これは、大量の死者を出して鎮圧された。
 クロンシュタットの海兵たちは、労働者階級の大多数と同じく、ソヴェトの権力を支持していた。しかし、彼らは、それを単一の支配政党による専政と同じものだとは考えなかった。
 彼らは、党による支配に反対して、ソヴェトによる支配を要求した。
 党自体の内部で、プロレタリア-トの不満は強い『労働者反対派』へと反映された。これは、中央委員会では、アレクサンドロ・シュリャプニコフ(A・Shlyapnikov)、アレクサンドラ・コロンタイ(A・Kollontay)その他が代表した。 
 このグループは経済の管理を労働者の一般的組織、すなわち労働組合に委託することを求めた。
 彼らは報酬の平等化を提案し、党内からの支配という専制的方法に異議を唱えた。
 つまりは、彼らは、レーニンが革命前に書いていた『プロレタリア-トの独裁』を求めた。
 彼らは、労働者のための民主主義と党内部での民主主義は、何か他のものに代わって民主主義が存在しない場合ですら安全装置でありうる、と考えていた。
 レーニンとトロツキーは、もはやそのようないかなる幻想をも抱かなかった。
 この二人は、『労働者反対派』はアナクロ=サンディカ主義的逸脱だと烙印を捺し、彼らの代表者を様々な嘘の理由をつけて党の活動から排除した。投獄したり、射殺したりはしなかったけれども。//
 この事件は、ソヴェト体制での労働組合の位置と機能に関する一般的な議論を生んだ。
 三年早い1918年3月に、レーニンは、『プロレタリア-ト階級の独立性を維持し強化するという利益のために、労働組合は国家組織になるべきではない』と主張したとして、メンシェヴィキを厳しく罵倒した。
 『このような考え方は、かつても今も、最も粗野な類のブルジョアの挑発であるか、極端な誤解であって、昨日のスローガンのスラヴ的な繰り返しだ。<中略>
 労働者階級は、国家の支配階級になりつつあるし、またそうなった。
 労働組合は、国家の組織になりつつあるし、社会主義を基盤として全ての経済生活を再組織化することに第一次的な責任を負う、国家の組織にならなければならない。』 (+)
 (全集27巻p.215〔=日本語版全集27巻「『ソヴェト権力の当面の任務』の最初の草稿」218頁〕。)
 労働組合を国家の組織に変えようとする考えは、論理的には、プロレタリア-ト独裁の理論から帰結する。
 プロレタリア-トは国家権力と同一視されるので、労働者が国家に対抗する利益を守らなければならないと想定するのは、明らかに馬鹿げていた。
 トロツキーは、こうした考えを持っていた。
 しかし、レーニンは上に引用した二つの点のいずれについても、考え方を変更した。
 1920年にソヴェト国家は官僚主義的歪みに苦しんでいると決定したあと、彼は自分自身が最近まで述べていた考えを抱いているとしてトロツキーを攻撃し、つぎのことを明確に宣告した。労働者を守るのは労働組合がする仕事だ、しかし、労働者を彼ら自身の国家から守るのもそうかというと、そうではなくて悪用(abuse)だ、と。
 彼は、同時に、組合は経済を管理するという国家の機能を奪い取るべきだとの考えに、烈しく反対した。//
 そうしているうちに、レーニンは、反対する集団が将来に党内部で発生するのを防止する措置を講じた。
 党内での分派(factions)の形成を禁止し、党大会で選出されていたメンバーの内部から排除する権限を中央委員会に与える規約が、採択された。
 こうして、自然な進展として、最初は労働者階級の名において社会に対して行使されていた独裁は、今や党それ自体についても適用され、ワン・マン暴圧体制(tyranny)の基礎を生み出した。//
 レーニンの最後の数年にますます重要になってきたもう一つの主題は、言及したばかりだが、『官僚主義的歪み』の問題だった。
 レーニンは、つぎのことに、ますます頻繁に不満を述べる。国家機構が必要もなく無制限に膨張している、かつ同時に何も処理する能力がない、煩わしくて形式主義的だ、役人たちは党の幹部官僚にきわめて些細な問題について照会している、等々。
 このような当惑の根源は、彼がつねに強調したように、制度全体が法制にではなくて実力にもとづいていることにある、ということは、レーニンには決して思い浮かばなかったようだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ③へとつづく。

1673/谷沢永一・正体見たり社会主義(1998)②。

 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)
 ←原著、谷沢永一・「嘘ばっかり」で七十年(講談社、1994)。
 谷沢永一によるとレーニンの特徴は「徹底した現実主義、機会主義」で、「理論は否定しないが、即応もしない」というもの。そして、①既成理論に囚われず、②目的のためなら手段を選ばず、③「共産主義実現ためならすべてが許される」を方針とする。
 これはネップについても現れていて、「一時的に国内を鎮めるためなら、共産主義からの逸脱も厭わない」という考え方を象徴するものだ、とする。p.184-6。
 ネップ導入=「共産主義からの逸脱」との理解はおそらく適切なものだ。
 L・コワコフスキを参考にしていうと、ネップ導入は共産主義経済政策の失敗の是認だった。
 さらに言うと、「共産主義」経済自体が人間の本性に反するものであって、そもそもが成功する見込みがないものだった。
 食べて生きていく、そのために必要な物をまずは自分(・家族)のために得ようとする、という人間の本性を、「共産主義」は無視している。もともと、理論上・観念上の想定の失敗=非現実性がある。
 人間の本性を、イデオロギーや「独裁」あるいはテロルによって変えることができる、と考えること自体に欠陥があり、恐ろしさがある。
 元に戻ると、谷沢は、ネップについての日本共産党・不破哲三らの立論に言及していない。つまり、<市場経済を通じて社会主義へ>という路線の発見・明確化という(私に言わせれば)歴史の偽造に言及していない。
 また、この本の出版の前にあった1994年日本共産党大会での、<ソ連はスターリン以降は社会主義国ではなかった>論の珍奇極まりない登場についても、触れていない。
 広くよく知ってはいると思うが、継続的な、詳しい、日本共産党ウォッチャーではなかったようだ。マルクス、レーニン、スターリンを知ることも大切だ。日本共産党のときどきの主張や政策について知っておくことも重要だ。

1672/共産党独裁①-L・コワコフスキ著18章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第4節へと進む。第2巻単行著の、p.485以下。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁①。
 しかしながら、この新しい情勢は、党の中に意見の不一致を呼び覚ますという別の新しい変化をもたらした。
 革命前の全ての約束が、突然に、紙の屑になってしまった。
 レーニンは、高級官僚や専門家たちと技能労働者等との間の報酬を同等化するために、常設軍と警察を廃止しようと企てていた。また彼は、武装する人民は直接に支配権を行使する、と約束していた。
 革命のすぐ後で、そしてネップよりもかなり前に、これらは空想家の夢であることが明らかになった。
 職業的将官幹部たちを伴う軍が、他の全ての軍隊と同じく、階級と厳格な紀律にもとづいて直ちに組織されなければならなかった。
 トロツキーは、赤軍の主な組織者としての秀れた才能を示した。そして、内戦を勝利に導いた主要な設計者だった。
 用いられた方法は、きわめて徹底的だった。敵対者は捕えられて処刑され、逃亡者およびその隠匿者は射殺され、規律に違反した兵士たちも同じだった、等々。
 しかし、このような手段は、大規模の信頼できる武装軍隊なくしては、取ることができなかっただろう。
 威嚇とテロルによって軍団をきちんと維持するためには、反テロル活動も力強くある状況でそのテロルを用いる意思を十分に持つ、そういう者たちが存在しなければならなかった。    
 革命後すぐに、政治警察の部隊を設定することが必要になった。これは、フェリクス・ジェルジンスキー(Feliks Dzerzhinsky)によって、効率よく設立された〔チェカ、Cheka〕。
 専門家たちを優遇しなければ生産活動を組織することができないこと、脅迫だけにもとづいてそれを行うことはできないこと、はすぐに明らかになった。
 1918年4月にもう、レーニンは、『ソヴェト政府の当面の任務』において、この点で『妥協』してパリ・コミューンの原理から離れることが必要だ、と認識していた。
 レーニンはまた、革命の最初から、ブルジョアジーから学ぶことが重要だ、と強く述べていた(ストルーヴェ(Struve)は、その時代には、同じことを言って裏切り者だと烙印を押された)。
 1918年4月29日の中央執行委員会では、社会主義はブルジョアから学ばなくとも建設することができると考える者は、中央アフリカの原住民の精神性をもっている、と語った。
 (全集27巻、p.310〔=日本語版全集27巻「全ロシア中央執行委員会の会議」313頁〕。)
 レーニンは、その著作物や演説で、『文明化(civilization)』、すなわち産業や国家を作動させていくために必要な技術上および行政上の専門能力、に対する関心をますます喚起した。
 共産主義者は傲慢であることをやめ、無知であることを受け入れ、このような専門能力をブルジョアジーから学ばなければならない、と強調した。
 (レーニンはつねに、政治的な扇動や戦闘を目的にしている場合を除いて、共産主義者をきわめて信用しなかった。ゴールキがボルシェヴィキの医師に相談したと聞いた1913年に、彼はすぐに、アホに決まっている『同志』ではない、本当(real)の医師を見つけるように強く勧める手紙を書いた。)
 1918年5月に、レーニンは、パリ・コミューンよりも良いモデルを思いついた。すなわち、ピョートル大帝(Peter the Great)。
 『ドイツの革命はまだゆっくりと「前進」しているが、我々の任務はドイツの国家資本主義を学習すること、それを真似る(copy)のに努力を惜しまないこと、<独裁的(dictational)>な方法を採用するのを怯まないで、急いで真似ること、だ。
 我々の任務は、ピョートルが野蛮なロシアに急いで西側を模写させたよりももっと急いで、この模写(copy)をすることだ。
 そして、野蛮さと闘うためには、この野蛮な方法を用いるのを躊躇してはならない。』(+)
 (『「左翼」小児病と小ブルジョア性』。全集27巻、p.340〔=日本語版全集27巻343-4頁〕。)
 産業の統制に関する一体性の原理がすみやかに導入され、工場の集団的な管理という夢想は、サンディカ主義的な逸脱だと非難された。//
 かくして、新しい社会は、一方では技術上および行政上の知識の増大によって、他方では強制と威嚇という手段によって、建設されることになった。
 ネップは、政治および警察によるテロルを緩和させなかったし、そのように意図しもしなかった。
 非ボルシェヴィキの新聞は内戦の間に閉鎖され、再び刊行が許されることはなかった。
 社会主義的反対諸党、メンシェヴィキとエスエルはテロルに遭い、絶滅(liquidate、粛清)された。
 大学の自治は、ついに1921年に抑圧された。
 レーニンは決まっていつも、『いわゆる出版の自由』は集会の自由や政党結成の自由と同じくブルジョアの欺瞞だ、ブルジョア社会ではふつうの者は新聞印刷機や集会する部屋を持っていないのだから、と繰り返した。
 今やソヴェト体制がこれらの設備を『人民』に与えるならば、人民は明らかにそれをブルジョアジーが欺瞞的な目的のために使うのを許さないだろう。そして、メンシェヴィキとエスエルがブルジョア政党の位置へと落ち込んだならば、彼らもまた、プロレタリア-ト独裁に屈服しなければならない。
 レーニンは、1919年2月のメンシェヴィキ新聞の閉刊を、つぎの理由で正当化した。
 『ソヴェト政府は、まさにこの最終的、決定的で最も先鋭化している、地主や資本家の軍団との武装衝突の時機に、正しい信条のために闘う労働者や農民と一緒に大きな犠牲に耐え忍ぼうとしない者たちを我慢することはできない。』(+)
 (全集28巻p.447〔=日本語版全集28巻「国防を害したメンシェヴィキ新聞の閉鎖について」482頁〕。)
 1919年12月の第七回ソヴェト大会で、レーニンは、マルトフ(Martov)がボルシェヴィキは労働者階級の少数派しか代表していないと非難するとき、この人物は『帝国主義者の野獣ども』-クレマンソー(Clemenceau)、ウィルソンおよびロイド・ジョージ(Lloyd George)-の言葉を使って語っているのだ、と宣告した。
 この論理的な帰結は、『我々はつねに警戒していなければならず、チェカ〔政治秘密警察〕が絶対に必要だと認識しなければならない!』、ということだった。
 (全集30巻p.239。)//
 ---
 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。
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