秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

レフとスヴェトラーナ

2325/レフとスヴェトラーナ29—第7章⑤。

 レフとスヴェトラーナ、No.29。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.168〜p.174。省略した箇所がある。
 ——
 第7章⑤。
 (51) レフに逢うと決意して、かつ非合法に収容所に立ちいることで逮捕される危険を冒したくなくて、スヴェータは、レフを訪れる公式の許可を得るべく、収容所管理本部へ行った。その白い古典的建造物は、前年にLev Izrailevich と二人で木材工場へ行く途中で通り過ぎたところだった。
 こうするのは、勇気ある行為だった。なぜなら、MVDはほとんど確実に、1947年の彼女の非合法の収容所への侵入を知っており、今は彼女の逮捕を命じるかもしれなかった。
 スヴェータは階段を昇り、収容所所長のA. I. Borovitsky の執務室のドアを見つけた。そこは、木の床の広い廊下の端にあり、廊下には彼女が木材工場の発電施設の煙突を眺めることのできる大きな窓があった。 
 Borovitsky の執務室の大きな広間には受刑者が作った浮き彫りの石膏があった。それは北方の森の風景、建物地区、鉄道線路を表現していた。
 着いたとき、Borovitsky は不在だった。
 彼が現れるのを待った。 
 彼女は長旅の後で、とても疲れていた。
 スヴェータは、こう思い出す。「管理本部長を一日いっぱい待ちました。夜遅くまでずっと待っていました」。
 (52) 他の幹部たちと同じく、またスターリンがそうだったように、彼は、夜に仕事をした。
 どの執務室の時計もモスクワ時間に合わせられていた。
 首都にあるMDV から電話がある場合に備えて、幹部は誰も眠ろうとはしなかった。
 Borovitsky がやっと現れて、執務室に入らせた。机と大きな金庫の間に、彼は座った。 
 Borovitsky は丁重かつ慇懃に、スヴェータの願いにすぐに応じて、命令書に署名した。そして、内容が見えるように示してスヴェータの手の中に入れた。
 スヴェータは思い出す。「彼にとても感謝しました」。
 通りにいったん出て、手の中の書類をもっと近寄せて見た。
 「明るい街路灯か、たぶん探索灯かがあり、その光で私は文書を読みました。
 『軍人監視員の同席のもとで、20分の面会を許す』。」//
 (53) 面会は翌日に、第二入植区の受刑者用営舎への入口にある小さな監視員小屋で行われた。
 執務中だった監視員は、その上司よりも親切であることが判明した。
 その監視員は、テーブルと長椅子のある主な部屋から離れた私的な休憩室で二人が逢うことを認めてくれた。
 休憩室のドアは開けられたままだったが、監視員は入って来なかった。
 テーブルの上には、監視員が訪問者の記録を付けるための帳面があった。
 スヴェータに与えられていたのは20分だった。しかし、その監視員は彼女が到着した時間を記帳しなかった。
 もし誰かが尋ねたら、彼女はいま到着したばかりでまだ帳面に記録していない、と答えただろう。
 このようにして、レフとスヴェータは、その日に数時間、一緒にいることができた。
 監視員の執務時間が終わる前に、彼は、翌日の正午に来るように二人に言った。それは、彼のつぎの執務時間だった。
 スヴェータは、指定された時間に戻って行った。
 そのとき、レフも現れた。そして二人は、その日の午後全部を、休憩室にある長椅子に座って過ごした。
 その間じゅうずっと、ドアの後ろから外を見ると、収監者たちや監視員が監視員小屋に出入りしていた。
 そうした時間は、二人が期待した以上に長いもので、かつ同時に、救いようもなく不適切なものだった。//
 (54) 8月30日、スヴェータはペチョラを発った。
 彼女はレフの忠実な友人のStanislav Yakhivich と一緒に駅まで行き、彼が切符を買い、モスクワ行きの列車に乗せてくれた。
  Kotlas までの途中の車内で、スヴェータは書いた。
 「私の大切なレフ、あなたがいない二日めが来て、もう過ぎていきます。/
 私の車両は組合せ型(上で寝て、下で座る)で、人々は(寝台車よりも)頻繁に出入りします。
 でも私のいる仕切り部屋は全員がKotlas へ旅行していて、Kotlas で列車は5時間停車する予定です。
 Kotlas は恐ろしい場所です。—全行程中であんなに不潔なところはありません。
 眠ります。
 寒い夜ですが、綿入りの下着を身に付けています。
 その上に毛布をかぶりますから、凍えないでしょう。…
 森林にはもう湿り気がありませんが、秋らしい様子が美しい。…
 私の下の段には子どもたちがいます。—10歳の女の子、女の子と5歳の男の子、また別の3歳の女の子。
 この子どもたちは三人の姉妹の子で、三人姉妹の夫は全員が殺されました。—そして、一家族としてみんな一緒に生活してます。
 子どもたちは可愛い。
 さて、レヴィ、今はこれで全て。
 気をつけて。みなさまによろしく。」//
 (55) 9月4日にようやく、彼女は家に帰った。そして、両親が心配して具合が悪いことを知った(両親はスヴェータから一通の電報も受け取っていなかった)。
 その夕方、彼女はレフに書き送った。
 「私の大切な、大切なレフ、やっと家にに着きました。
 Gorky からもう一通の手紙を送りたかったのだけど、時間がなかった。
 旅行中にどこかの駅から二度、そしてKirov から手紙を出しました。
 雨のためにKirov では横道はどこも抜けられませんでした。でも泥土で、Kotlas のようなぬかるみではなかった。
 Kirov からGorky までの列車は非常な旧式でしたが、寝床は好くて、人々も素敵でした。それで、よい気持ちで到着しました。
 下の寝台には、まだ歩かず、話しもしない3歳の男の子を連れた母親とお婆ちゃんがいました。
 医師たちは、治療する必要はない、ふつうに静かに気をつけて育てれば6歳になるまでには良くなる、と言うそうです。
 その男の子は見つめるととても可愛くて—長くて厚い丸まったまつげのある大きな眼だった—、とても人懐こかった。…
 私とともに旅行しているやはりモスクワ市民の別の女性もいました。彼女は、夫を(夫が労働収容所から帰るのを)10年間待っていて、一緒になろうとKirov へと引っ越しましたが、その夫は誰か別の女性と結婚していたそうです。
 彼女にとって、世界は空虚な場所になりました。/
 ほとんど3時間遅れて、モスクワに入りました。
 家には8時頃に帰り、ママが階段の上で私を迎えてくれました。…
 今9時で、外は急に暗くなっています。
 はい、私の大切な人、とりあえずさようならと言います。
 全てを覚えていて。
 あなたの気持ちが平穏であるよう、考え過ぎてあなたの心がかき乱されないよう、願っています。
 でも、あなたの頭に何か好くないことが起きたときには、ただちに私に手紙を下さい。私が治療法を見つけます。
 ごきげんよう。みなさまによろしく。」//
 (56) スヴェータはいつも、誰かを失った人々に惹き付けられた。しかし、労働収容所で別の女性のために夫を失った女性には初めて遭遇した。
 そのモスクワ女性のような話は、決して異常ではなかった。
 多数の夫婦が、10年の判決によって引き裂かれた。
 —妻たち、諦める、収容所にいる夫を待つことができない、あるいは死んでいると思う、そうして他の誰かと新しい人生を始める。
 —夫たち、妻や子どもたちが「人民の敵の縁戚」として差別されるのから救おうとして離婚する気になる、あるいは妻に見切りをつけて、自分が体験したことをよく理解できるかもしれない収容所出身の女性たちと結婚する。//
 (57) スヴェータは、ペチョラへの旅行によって、今度は元気になった。
 帰ったあとで彼女はレフにこう書いた。
 「今日鏡で、自分の姿を見ました。
 Pereslavl'(-Zalessky) から帰ったときよりも、はるかに良いように見えます。」
 3日後、彼女は「この上ない幸福感を感じ、誰に対しても親切だった」。
 3週間後でも、旅の効果を感じていた。
 彼女は書いた。
 「幸せでいっぱいです。
 もう泣かなくなっただけではなく、先日は電車に乗っていて微笑んでいる自分に気づきました。」//
 (58) 一方レフは、スヴェータ以外のことを考えることができなかった。
 9月4日、彼女が安全に帰宅したという知らせをまだ待っているときに、彼は書き送った。
 「僕の大切な、美しいスヴェータ、僕の状態をどう描写すればよいかわかりません。
 『切望している』は正しくない。—とても心配してもいるのです。
 考えたり見たりしているのは、きみだけだ。きみの全部ではなくて、きみの眼、眉毛、そしてきみの灰色の衣服だけを見ている。」/
 5日後、まだスヴェータからの手紙を受け取っていないとき、10日の彼女の幸福な誕生日を祝って書いた。しかし、悲しい気分だった。
 「僕の大切なスヴェータ、明日はきみの誕生日だ。
 僕の大切な人、僕がきみに何かを望むのはむつかしい。—僕がきみに望むことと今そして将来に可能なことの間には、大きな違いがあります。
 僕が望んでいることの全ては、誰も信じない、狂人のたわ言のように聞こえるに違いない。
 明日までに僕の手紙がきみに届くのなら、手紙を書かないでしょう。
 我々の状況を無意味に思い出させて、きみを困惑させることは今日はしたくない。
 スヴェータ、スヴェータ、もしも運命がもっと寛大だったなら、運命が我々に微笑んでくれるなら。…
 将来に何が起きるか、それがどのようなものか、分からない。でも、我々には共通する一つのものがあると、僕は信じたい。
 本当に多すぎて、信じることはできない? …
 スヴェト、気をつけて。スヴェティンカ、健康でいて。」//
 (59) 9月22日、スヴェータが発ってから3週間後にも、知らせの言葉はまだなかった。
 他の収監者たちは、わずか数日前にモスクワから送られた手紙を受け取っていた。だが、レフには、何も来なかった。
 彼は心配して、我を忘れた。
 「僕の大切なスヴェータ、きみから手紙がまだ来ていない。
 書いているように、僕が考えていることを神は知っている。
 いま、きみに書きます。
 こっけいで感傷的な16歳の少年と心配している年老いたママのいずれのようにも見える32歳の薄のろだと、自分を恥じてはいません。ただ、僕がきみを苦しめていて、僕の嘆きによって悩んでいるのではないかと、恐れています。もしも全てがうまくいっていれば、郵便で何かするだけではないかと。
 これが、理由ですか?」/
 23日、ついに一通の手紙が届いた。
 「僕は最悪のことを想像していて、最も耐えられない状態でした。そのとき突然に全く知りもしない男がやって来て、手紙を手渡してくれました。きみの手書き文字を認めるや否や、その人に感謝するのを忘れました。
 スヴェーティク、きみは僕のものだ、僕の大切な人、輝かしいスヴェトラニンスカだ。
 ただ困るのは、手紙を読んでもきみを思い描けないことです。
 二人のスヴェータがいる。—一人は目で見ている。もう一人は、きみの手紙から現れてくる。
 この後の方のスヴェータを望むなら、きみが書いた手紙の文章を思い出す。でも、声がないままでやって来るし、きみの姿と結びついてもいない。
 きみを見たいなら、僕には手紙がない方が簡単だ。
 気をつけて。このことから僕は、きみの手紙がなくとも人生は容易だなどと言いたいのではありません。スヴェータ、僕の大切な人。」//
 (60) レフは徐々に、日常の仕事に戻っていった。
 冬が再びやって来た。
 労働収容所は準備をしていなかった。壊れた窓、建物の多くの屋根にある穴、そして、第二入植区の十分でない暖房や電灯。
 管理部では、木材工場全体にもう一度鉄条網を張ることを話し合った。しかし、何もなされなかった。
 11月、河が凍ると、氷の上に木屑で作った大きなかがり火を焚きながら、労働収容所の手作業での清掃が始まった。//
 (61) レフは発電施設で、忙しく修繕作業をした。
 <以下、略>
 (62) レフは、極北の「特殊体制」収容所へと運ぶ移送車についての新しい風聞で困惑していた。
 その移送車に乗せられる受刑者の名簿が最終的に発表されたとき、彼の最も親しい友人で寝台仲間のLiubka Terletsky の名もそこに載っていた。
 11月2日、Terletsky は、最も過酷な鉱山収容所の一つで、Vortukaへの鉄道路上にある、ペチョラの180キロメートル北にあるInta へ送られた。
 それはレフにとって厄災事だった。彼はLiubka を弟のように好み、その若さと肉体的脆弱さのゆえに、彼をいつも心配していた。
 <以下、略>
 (63) レフは友人〔Liubka Terletsky〕は移送を生き延びることができるだろうかと怖れた。
 10月3日、レフはスヴェータに書き送った。
 「Liubka は懸命の労働でひどい病気になり、神経を消耗し、体重を落としている。
 今の凍える寒さの中での旅行は身体的に強い者にとってすら困難なものなので、僕は最悪のことを恐れている。…
 誰かにこれほどに親密に感じることができるとは、思っていなかった。
 あと11ヶ月*、彼は耐えることができると思う?」
 〔*原書注記—Inta へ送られたとき、Terletsky に対する10年の判決で残っていた期間〕//
 (64) 友人たちの支えに大きく依存してこそ、収容所で生き延びることができた。そしてレフはLiubka を、労働収容所でのただ一人の本当に親しい友人だと思ってきた。
 <中略>
 12月3日、レフはLiubka に一通の手紙を書いた。 
 「さぁ、僕の友よ、きみに手紙を送ることを怒らないでほしい。
 この手紙が配達されるのかどうか、そしていつかすら、僕は知らない。
 もちろん、僕の側の惨めな利己心から書いた。—生きている魂に対して、若干の言葉を告げたいという望みに打ち克つことができない。手紙を通じてだけであっても。こちらには、生きている魂はいないのだから。
 きみは手紙を受け取らない方が良いのだろう。—僕はきみを知っている。だが、耐えられるなら、この手紙はきみには何の害悪にもならないだろう。/ 
 Liubka 、そこがどんなに悪い条件であっても、一つのことだけ考えよう。
 8年半辛抱して、9年目で諦めるのは愚かなことだ。9年めの後がきみにとってより良いかどうか、どちらであっても。」/
 レフは、Liubka が去って以降その月に発電施設で起きた全てのことを詳細に書いた。
 <中略>
 その手紙は、配達されなかった。レフはInta のTerletsky にどのようにして届けられるのかを知らなかったからだ。
 彼には、Terletsky がそこにいるのかどうか自体が確かではなかった。//
 ——
 第7章、終わり。第8章〜第12章がまだある。

2321/レフとスヴェトラーナ28−第7章④。

 レフとスヴェトラーナ、No.28。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.162〜p.168。
 **
 第7章④。
 (43) 〔1948年〕7月31日、スヴェータの母親が、三通の手紙を持って、モスクワから到着した。
 スヴェータは手紙を開くとき、昂奮をほとんど抑えられなかった。
 しかし、三つのうち最後の短い手紙を読んで、希望は失望に変わった。
 レフはその年の出逢いの可能性を全て排除し、賢明に観察していたが、ほとんど無頓着に「たぶん1949年はより良い年でしょう」と書いていた。
 スヴェータは立腹した—全てに。そして、レフにぶちまけた。
 自分が必死の思いで彼を訪れようとしているのに、その一年全体を待とうとしているのが、理解できなかった。
 絶望的になって、彼女は彼を叱った。何の確実さもなく、あなたと逢える
のを待ちつづけることができると考えているのか。
 8月2日、スヴェータは書いた。
 「レヴィ、気になる。分かっているの?
 たくさんの『もしも、だけでも』がなかったならば、私にはどんなに良かったか、ということを。
 あなたはこれに答えることができない。—質問ではなく、叱責です。」
 8月9日になってようやく、彼女はレフに多数の言葉を使って書くことができた。
 「私の気持ち(soul)が平穏で静かでなかったので(今でもそうでないけれど)、一週間、書かなかった。 
 ママがPereslavl' にいる私たちに会いに来て、あなたの手紙を持ってきたとき、再び、完全に、くずれ落ちました。
 (これは、あなたは手紙を書くべきではなかった、と言っているのではない。)
 私が早くペチョラに行かないようにする全ての分別ある大人に対して、休みをとるよう強く言うママに対して(全く正しいけれど)、腹を立てました。
 でも、もちろん、ほとんどは私自身に対してです。30歳になって、自分で物事を決定しているべきなのです。
 もっと早く急いであなたに逢わなかったことに、すぐに家に戻って研究所へ行って、仕事の旅行の手筈を整えなかったことに、怒りました。仕事旅行がまだ可能であればだったけど、今ではもう遅すぎます。
 そして私は、煮えくり返っている。どうすべきか、分からない。」/ 
 先の「叱責」が残酷と思われることを懸念して、スヴェータは、今はその意味を明確にした。
 「前の手紙で、自分がいなければ私の人生はもっと良くなる、とあなたが決して考えないようにと、私はあなたを叱りました。
 あの手紙を受け取っていない場合は、大事をとって、このことを繰り返します。」//
 (44) スヴェータは、激しく、レフに逢いたかった。
 彼の助言に従っていれば、さらにもう一年が、もう一度彼に逢わないままで過ぎてしまうだろう。
 1949年、自分は32歳になる。
 人生を開始するために、あとどのくらい長く待つことができるのか?
 子どもをもつまで、どのくらい長い時間が必要なのか?
 彼女は、レフと結びついていることの対価(cost)を分かっていた(彼は何度もこのことについて彼女に警告していた)。つまり、子どもをもてない可能性が大きくなっていた。
 そしてときたま、とても耐えられない、と感じた。//
 (45) スヴェータは、二通の「叱責」の手紙で、子どもの問題を提起していた。
 彼女はレフに、叔父のNikita と行った会話について書いた。その会話で叔父は、誰も「生命を生む権利」を有しない、「人々は自分たちだけのことを考えて、利己的な理由で子どもをもつ」と語っていた。
 スヴェータは「新しい生命は、世界により多くの良いことを生む可能性をもたらす」と答えた。
 彼女は、Nikita は気の毒だと思った。なぜなら、「彼の息子に対してより安楽でより愉快な人生を保障することができなかったのに、息子に生を与えたという、罪悪感をもっている」。
 答えは一人以上の子どもをもつことだ、スヴェータはそう結論づけた。
 かりにNikitaに子どもがもう一人いれば、「年下の子ども、あるいはもっと良いけど年上の子どもがいれば、今頃は彼にはすでに、何人かの孫がいたでしょう。その孫たちは彼を見守り、彼の人生に意味を与えてくれたでしょう。そうであれば、あのような考えが彼の頭に入り込みはしなかったのです。
 たぶん性別(gender)が違いの理由なのでしょう。
 女性にとっては、愛して子どもをもてば、人生はすでに達成されている。
 全ての(またはほとんど全ての)女性にとって、それは人生の中心目標なのです。公的生活や仕事等でいかほどにたくさんの様々な利益を得るかもしれないとしても。」
 (46) スヴェータは、モスクワに戻ってもう一度、ペチョラへ旅しようと決意した。—それも、夏が終わる前に。
 Natalia Arkadevna は、息子のGleb に逢うため、8月18日にペチョラに向かって出発することになつていた。 
 Nataliaとの間にはつぎの合意があった。スヴェータは、Natalia がペチョラのすぐ後でKirov への調査旅行へ行く費用を出すよう研究所を説得する。Natalia は、スヴェータの二回めの収容所訪問ができそうか否かを彼女に知らせるために、Kirov の郵便局へと電報を打つ。
 時間は経っていったが、十分な準備なしで旅行することの危険は大きかった。
 8月13日、スヴェータはレフに書き送った。
 「一方では、可能性は毎日少なくなっています。
 他方では、必要な取り決めを行っていないで旅行するのは不可能です。—そして、この取り決めの調整がとてもむつかしい。/
 それで、N. A. が到着するのを待つこと—そうすると彼女が私に電報を打つことができる—が最も賢明な選択肢のように思えます。…
 彼女は18日に出発する予定です。だから、19日より以前に電報を打つことができそうにありません。従って、私は20日までにKirov に行っている必要があります。
 これ以上待つのは恐ろしい。
 最良の手段を見つけることはできない。
 たぶん、彼女と一緒に旅行するのが良かったのでしょう。でもその場合は、切符入手の問題が生じたかもしれません。
 彼女から知らされていなければ、自分で危険を冒すだろうし、その場合は22日か23日に着くことになったでしょう。
 もちろん、Kirov から電報を打ちます。でも、それでは時間的に間に合ってあなたに届かないかもしれません。
 こんな計画を一切しないで、いつかお互いにもう一度逢うことができれば素敵です。
 新しい時刻表(今年用)によると、列車は夜にはもう着かず、午前の10時と11時の間に着きます(I(Ivan Lileev—Nikolai の父親)によるとです)。でも、たぶんひどく困難ではないでしょう。
 迎えにくる人がいなければ、直接に住居に行かずに、仕事中の人(軽い鞄を持っていて、今着いたばかりという明らかな兆候のない人)を探します*。
 〔*原書注記—スヴェータは名を隠した自発的労働者との接触について書いている。その人物は工業地帯内部の住居区画に彼女を泊らせることになる。実名は、Boris Arvanitopulo(木材工場の発電施設の長)とその妻のVera。〕
 これが最善だと思う。—間違った動き方をしないかと神経質になっています。
 私の愚かな頭で、その人(Arvanitopulo)の名前と休日中の姓を何とかして忘れました(イニシャルは憶えているけど)。そして、手紙のいずれからも必要な情報を探し出すことはできません。失くしたからです。
 最も重要な詳細が書いてある手紙は、手渡すためにどこかに片付けたことを憶えている。でも、『どこか』とはどこ?
 手紙類を、もう一度全部読み通さなければなりません。
 同名の人(Lev Izrailevich)への希望をまだ持ちつづけています。
 予定の日々と期間にはどこにも行かないことを確かめたくて、彼に手紙を書き送りました。 
 結局のところ、彼は私の行き方をほとんど知っていません。
 運命が私に逆らうのがとても怖いので、旅行の日程と戸惑ったときの時間を誰にも言っていません。
 閏年なのですが、だまし通して、こっそりと接近したいと思います。
 恐くて、何かを携行して運ぼうとは全く計画していません。…
 お願いが三つ。1. すぐに私に電報を打つ。2. 私の考えを理解する。3. 逢う。」
 (47) 5日後、スヴェータはまだモスクワにいた。
 列車の切符を入手するのに手間取ったからだ(人々が切符売場で行列を作るソヴィエト同盟では、珍しくなかった)。
 8月18日に、彼女はこう書いた。
 「いつ出発できるのか、神だけが知っている。
 三ヶ月の間に業務旅行をする人々のための特別の売場はありませんでした。
 運が好いと、事前予約所で一日以内に切符を買うことができます。または、翌日に並び順を変えないで始められるように人名が記帳されているので、二日以内に。…
 でも、自分が愚かなため、もう二日も使って何も得ていません。
 行列の中に私の場所をとり、Yara と一緒に仕事に出かけ、ママが私を引き継ぎましたが、ママが窓口に着くまでに切符は売り切れました。そして、ママは行列の中の位置を確保しておかなければならないことを知らずに、家に帰りました。
 ママは自身に腹を立てて、翌朝早くに行列の中に立ちました。でも、私が交替しようと到着したときに判ったのは、Gorky 方面行きの列車の切符は別の窓口だと言った警察官の話をママが信用してしまっていた、ということでした。
 短く言うと、ママは私がいた行列の中に立ってはいなかったのです。そして私には、もう一度最初から並び直す時間がありませんでした。研究所に行かなければならなかったので。…」/
 結局、あれこれの混乱があった後、スヴェータの母親は、21日付の片道切符を何とか購入することができた。
 その切符の有効期間は6日で、スヴェータがKirov の工場で仕事をし、ペチョラまで旅をするのに、際どいながら、ちょうど十分だった。
 彼女はKirov へ先に寄るかそれとも帰路にするかを決めなければならなかつた。
 先にKirov で降りることにした。
 このことによって、郵便局へ行って、Natalia Arkadevna からの電報が着いているかを調べ、帰りを延長するTsydzik に連絡することができることとなる。
 また、帰りの直通切符を買うことができることも、意味しただろう。
 彼女はレフに、「Kirov で停車するのは悲しいけれど、そこが済むと不安は少なくなるでしょう」と書いた。//
 (48) 8月21日、スヴェータはモスクワを出発した。
 Kirov に着いて電報を打った。それをレフが受け取ったのは、その翌日だった。
 しかし、彼女の指示に反して、彼は返答しなかった。彼女に届くにはもう遅すぎると考えたからだった。
 その代わりに、レフは彼女が到着するのを待ち受けていた。
 スヴェータを迎え、彼女が宿泊するのに同意していた彼の友人かつ上司のBoris Arvanitopulo は、23日に〔ペチョラ〕駅へ行った。
 列車が到着したのを見守り、駅のホールへと通り過ぎていく乗客たちの中にお下げ髪でリュックを背負った細くて若い女性を探した。
 乗客たちの中に、スヴェータはいなかった。
 24日、彼はまた駅へ行ったが、彼女はその日の列車のいずれにも乗っていなかった。
 そのつど、Boris はスヴェータを伴わずに収容所に帰ってきた。そしてそのたびに、レフは、心配して気が狂いそうになった。
 24日付で、彼はこう書いた。
 「僕の大切なスヴェータ、ここに座って考えている。来るのか、来ないのか?
 来ないのなら、全てが、N. A. に耳を傾けて**、K.(Kirov)へ電報を打たなかった僕の過ちだろう。
 他に何も考えることができない。
 たぶん、きみに何かが起きたのだ。」
 〔**原書注記—Natalia Arkadevna はレフに電報を発しないよう助言したに違いない。〕
 (49) スヴェータは実際に、苦しい状態にあった。
 Kirov とKotlas の間の線路上で、列車の後方の客車のいくつかが切り離された。検査官がそれらの車両に欠陥を見つけたからだった。
 前方の車両に座席を確保しようとする乗客が、前へと激しく突進した。
 スヴェータは持ち物をさっと掴んで、列車が動き始めるまでに、やっと前方の端の車両に座席を見つけた。
 さほど早くなかった他の乗客たちはどうなったのか、彼女には分からなかつた。
 もっと大きい危険が、やって来ることになった。
 彼女は、Kotlas 駅の庭でリュックの上に座っていた。ペチョラ行きの列車を待ち、かつ注目を避けることを期待したからだった。
 そのとき、一人の警察官が近づいてきた。
 彼女は、最初の旅の際に助けとなったカーキ色の礼服ではなく民間人の衣装だったので、おそらくは駅のホールの中で待たないのが良いと考えていた。
 警察官は彼女に書類を見せるように求め、どこへ旅行しているのかと尋ねることができただろう。
 しかし、その警察官は友好的であることが判った。ただ彼女の安全を気に掛けたのだった。
 彼は、この辺りには泥棒が徘徊している、列車を待つのならホールの中の方が安全だ、と告げた。//
 (50) 〔1948年8月〕25日、スヴェータはついにペチョラに着いた。
 Arvanitopulo は駅で彼女を迎え、木材工場を周る塀のすぐ外にある自分の家へ連れていった。
 Arvanitopulo 家には電話があった。
 Boris は発電施設での火災に備えていつも電話での呼び出しに応じる状態にあった。発電施設にも電話があり、レフが交替執務中は利用することができた。
 スヴェータは、レフに電話をかけた。
 その呼び出しは、電話交換所のMaria Aleksandrovskaya を経た。この女性は、前年に二人を自分の家に泊らせた人だ。
 レフはスヴェータに、非合法に労働収容所に入る彼女の計画を監視員に知らせた者がいる、「彼らは彼女を逮捕する機会を躍起になって待っている」と言った。
 しかしながら、全ての監視員が敵対的ではなかったように見える。彼らの一人が、その危険性をレフに警告していたのだから。
 レフは、発電施設の地下にある貯蔵室を「密議(conspiratorial)の部屋」に改造していた。首尾よくやって来れば、スヴェータはそこで彼と一緒に過ごすことができる。//
 **
 第7章⑤へとつづく。

2311/レフとスヴェトラーナ26—第7章②。

 レフとスヴェトラーナ、No.26。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.148〜p.156。一部省略している。
 ——
 第7章②。
 (16) スキーとスケートは、スヴェータの気分を高めた。
 3月10日、彼女はレフに書いた。
 「いま躊躇なく楽しめるのは、スキーをすることです。—文学、演奏会よりも、人々さえよりも。
 日光が隙間から入り込む森林はとても美しく、とても(言葉の全ての意味で)純粋だから、生きるのはよいことだと思い(そしてふと大声を上げて)わが身を感じます。
 なぜか分からないけれど、辛くはありません。
 ある種の幸福の生理学(psysiology)なのでしょう。」/
 スヴェータは、冬のスポーツをもっとして過ごしたかった。彼女の母親は、スヴェータは体調がまだ良くないと思って、家に閉じ込めようとしたけれども。
 レフだけが、彼女自身の生活をして抑鬱に打ち克つために、もっと外出するよう励ました。
 4月15日に、彼は書き送った。
 「どこかへ行って下さい。
 身体に良いうえに、きみの内面状態にとって重要なことです。外部的側面と同様にきみの心に大きな効果があり、ときには感情の根源になるかもしれない。」
 彼は、スヴェータの健康を心配して、叔父のNikita に手紙を出して、彼女を見守ってくれるように頼んだ。
 4月にNikita にこう書いた。
 「彼女は直接にはそう言わないけれども、いろいろな点でとても辛い状態なのです」。
 (17) スヴェータには、信頼できる女性友達の小さな仲間があった。
 Irina Krause とAleksandra Chernomoldik は別として、とくに長い時間をともにした三人の女性たちだった。
 それぞれみな、夫と子どもを失っていたが、それでも苦しみと共に生きる術を見つけていた。スヴェータは、彼女たちの苦しみに同情し、自分もその仲間だと考えるようになった。
 まず、Lydia Arkadevna という同じ研究所出身の女性がいた。この人はスポーツと登山がとても好きで、スヴェータがスキーに熱心になるのを促した。/
 <以下、略>
 (18) つぎに、Klara という若い女性もいた。この人は研究所の技術助手の一人で、その家族は戦争中に抑圧された。
 Klara 自身も、研究の最初の年にKharkov 化学技術研究所から追放され、その後に数年間の流刑に遭った。スヴェータの手紙の一つでの論評から判断すると、「地理の知識が多すぎたこと」が彼女の問題の根にあった。
 <中略>
 Klara も子どもを亡くしていた。
 夫はペチョラにいる受刑者で、そこへと複数回旅をしてその夫と逢っていた。その際、Tamara Aleksandrovich の所に滞在した。
 <以下、略>
 (19) 最後に、物理学部以来のレフとスヴェータの友人である、Nina Semashko がいた。この人は戦争で夫のAndrei を失い、その後に赤ん坊の男の子を亡くした。
 Nina の子どもの死についてレフに書き記しながら、スヴェータは自分自身の苦しみに触れた。/
 「誰かを埋葬するのはいつも辛いことですが、小さくて幼い子の場合は全く違います。
 外部者は子どもの現在だけを知るでしょうが、その母親にとって現在は過去にさかのぼり、また未来へと展開します。
 9ヶ月待って、11ヶ月間育てただけではなく、その前に長く、願望と失望(あるいは可能かどうかすらについての不安)があったのです。
 私が詳細を知っているかは分からないけれど、この未来は全てであり、直前まではたくさんの計画と夢です。これには、孫をもつという望みも含まれます。
  そして、それ(子どもの死)はこの全てを剥ぎ取ってしまい、これを満たすものは何も残されていないように見えます。
 幸いにもこの世界では、苦痛が時間が経つにつれて和らぐものです。…
 Nina はまだ十分に若くて、自由があります。—新しい子どもで空虚を充たすことを決意する自由。でも今は、そんなことについて彼女と話題にするときではありません。
 彼女は今は、人が不運であれば何かを追い求めたり、幸せを探したりする所はない、と言うだけです。」//
 (20) スヴェータは、子どもをもつことを強く望んだ。
 彼女は、30歳だった。
 レフが釈放されるまで、少なくともあと8年間待たなければならないだろうことを、知っていた。あるいはそもそも、彼が戻ってくることはないかも知れなかった。
 彼女が「人生が始まる」のを待っていると書いたときに意味させていたのは、おそらくこのことだつた。
 ペチョラへと旅したあとで、スヴェータは、自分の未来—彼女の「全て」—はレフと結びついている、と確信した。
 しかし、レフが収監者であるぎりは子どもを持つことはしない、と二人は決めていた。
 レフは、後年になって、この自分たちの決定について想起する。
 「私は、彼女の将来を自分の現在や将来と妥協させたくなかった。
 私への愛を理由として、彼女の運命を犠牲にするのを望まなかった。
 だから、子どもたちに縛られるのを私は望まなかった。
 スターリンが生きているかぎり、何が将来に起きるか、誰にも分からない。
 私は、良いことを何も期待できなかった。
 そのような状況で—私は彼女を助けられず、彼女と子どもは恐ろしい生活条件のもとに置かれるかもしれない—、スヴェータに子どもという負担を課すのは、私にはできなかった。
 スターリン時代には、労働収容所から釈放された元受刑者は、つまり私のような「人民の敵」は、ふつうの生活をすることが不可能だった。
 しばしば再逮捕され、あるいは流刑〔国外追放〕に遭った。…
 私は、スヴェータと彼女の家族に恐ろしい困難と不幸を負わせることができなかった。二人が子どもを持てば、彼らはきっと苦しむことになっただろう。
 しかし、スヴェータは、子どもが欲しかった。」//
 (21) スヴェータは全ての母性的愛情を、Yara〔実兄〕の子どものAlik に注いだ。
 彼女の手紙類は、明らかに熱愛した、甥の男の子に関する定期的な報告を含んでいる。
 彼女は、こう書いた。
 「レーヴァ、Alik は8歳ではなく、7歳になりました。日曜日にわれわれは彼の誕生日を祝いました。
 <中略>
 すでに書いたように、Alik は7分の1は5分の1よりも小さいことを理解します。Lera が(学校から来て)全数字から一部を減じる仕方(とてもむつかしくはない)を教えました。
 彼はいま、工作に興味をもつようになりました。
 何かを分解し、もぐり込み、すっかり逆にして戻します。
 まだ自分の綺麗好きに気がついていません。
 でも、私には、子どもを『教育する』方法が全く分かりません。」//
 (22) 実際に、スヴェータの母親のAnastasia は、保育園の教師として働くことを考えるよう彼女に提案していた。
 スヴェータは自分の科学者としての能力を疑っていて、母親は、小さな子どもたちと一緒にもっと過ごせば彼女は幸せになるかもしれない、と考えた。
 レフは、その考えを勧めた。
 しかし、スヴェータは結局は、それに反対することに決めた。母親となる経験がなく、「子どもたちがどのようにして成長するか」について知らないのが、その理由だった。//
 (23) その間、Alik が来て彼女と一緒にいるのをスヴェータが好んだ。
 その子のやんちゃぶりは、自分の子ども時代を彼女に思い出させるものだった。
 <以下、略>
 (24) 偶然に一致して、レフも、「相談者、兼子ども世話係」の役割を果たしていた。
 〔1947年〕10月5日、スヴェータがペチョラからモスクワに到着したその日、レフに訪問者があった。
 「一人の女の子が発電施設にやって来て、僕が『われわれに会うために来たの?』と尋ねた。『そう』、『じゃあ、こっちにおいで』。
 <中略>
 われわれはすぐに親しくなった。僕は、彼女の名前がTamara Kovalenko で、Vinnytsa 出身、そして父親は厩舎で働いていることを知った。」/
 Tamara は11歳だった。
 彼女にはLida という姉、Tolik(Anatoly)という弟がいた。
 彼らは、洗濯所で働いていた母親に遺棄された子どもたちで、ぼろ服を着て、靴を履いていなかった。そして、父親が家計のほとんどをウォッカに使っていたため、いつも腹を空かしていた。 
 Kovalenko 家は木材工場の中の500の「特殊流刑房」の一つにあった。彼らの多くは刑務所地帯のすぐ外の第一入植地区の営舎に住んでいたが、Tamara のような子どもたちは、自由に労働収容所の周りを歩き回った。
 子どもたちは停止を求められず、監視員に探索されることもなかった。それで、収監者たちのために使い走りをし、収監者は彼らに甘菓子や金銭を与えたり、作業場で木材の玩具を作ってやったりした。
 町の子どもたちは、刑務所地帯の近くの周囲で、玩具を探したものだ。収監者はときどきそこへと、塀越しに木製玩具を投げていた。
 この何ということのない贈り物は、労働収容所の周囲の多くの家庭にあった。木製玩具は、収監者たち自らの子どもたちへの恋しさを思い出させるものとして、また、彼らへの人間的同情を得るものとして、役立っていた。//
 (25) Tamara は、毎日レフを訪問するためにやって来た。
 彼はTamara を好み、食料を与え、読み方と計算の仕方を教えることを始めた。
 10月25日に、スヴェータに書き送った。
 「僕は、今日再び、父親のリストに載りました。
 <以下、略>」/
 まもなく、Lida もやって来た。
 「彼女は年上で、…成長した振る舞いをした。
 二人の姉妹は、三人の電気技師と一人の機械操作者の娘たちになった。
 でも、二人は僕を第一の『パパ』と思っているように見える。」
 <以下、略>
 (26) レフは、懸命に勉強した。見つけた全ての本で電気技術について読み、発電施設の機能を改良するよう努めた。発電施設の容量が乏しいことは、木材工場での生産を妨げることを意味した。
 <以下、略>
 (27) レフは、木材工場の気まぐれな作業文化に対して、きわめて批判的だった。
 この場所は「まぬけたち」が運営していてると思い、上司たちが冒している「愚かさ」についてしばしば書いた。生産を高めようとする彼らの全ての決定が、頻繁な機械の故障、事故、火災その他の混乱につながった。—これで、計画を達成するのが困難にすらなった。
 <以下、略>
 (28) レフが発電施設の働きを改善しようと努力したのは、完全に自発的なものだった。
 彼の動機は政治的なものではなく、言ってみれば、システムを信じて発電施設を稼働させようとしている古参ボルシェヴィキのStrelkov のためだった。 
 レフはその本性からして真面目で、仕事に誇りと関心を持っていた。
 スヴェータにあてて書いた。
 「時計の音が何か奇妙だと、部屋で平穏に座っていることができません。
 『チクタク』と『タクチク』の間の時間が一定していないと、落ち着けないのです。
 われわれの電気技師たちの仕事を見ると、最良の者でも、もし僕が管理者であれば、彼らに対する非難はどんなものになるだろうか、と思います。」
 これに、当の技術者たちも同意しただろう。/
 「ここの操作者の一人が、僕はいつも何かすることを探している、と言った。
 『レフ、きみは頭脳(smack)のない馬鹿のようだ』。
 これは、ぞんざいだが、適確な比較だ。
 ある人間は、歩き回って何か建設的なことを得るために探し、それを見つけると安心する。
 別の人間は手間取って、余計なことに口を出し、みんなを邪魔し、ついにはそのために頭をぶたれる。そして、教訓を得るが、何にもならない。」//
 (29) しかし、工場でのレフの努力には、真面目さ以上のものがあった。
 それは、自負心、収監者でいる間に何か肯定的なものを達成したいという情熱、だった。おそらくは、こう認識してのことだろう。すなわち、もし時間をすっかり無駄に費やして収容所から出ために、精神の適切な枠組みをもって自分の人生を再構築しなければならないのだとすれば、この数年のうちに何らかの新しい技能を少なくとも学んでおく必要がある、と。
 (レフは収容所時代を振り返って、木材工場を稼働させるために発電施設の能力の改良によって達成したことを、いつも誇りとした。)
 彼にはまた、消極的で自己破壊的な考えが生じて、仕事して日々が過ぎていくうちに自分自身を見失わないように、気晴らしをする必要もあった。これは多くの受刑者が採用した生き残りの方法だった。〔原書注記—これは、Aleksandr Solzhenitsyn(A・ソルジェニーツィン)の小説、'One Day in the Life of Ivan Denisovich' の主要なテーマの一つだ。〕//
 (30) 自己防衛もまた、一つの役割を果たした。
 電力施設での有能性を示すことで、彼は特権的な地位を維持し続け、移送車で別の場所に送られる—レフの最大の恐怖—または材木引き揚げ部員に戻される、という危険を減少させることができた。
 1948年5月、木材工場の「補助活動部署」(発電施設を含む)のための新たな賞揚(credit)制度が導入れた。
 これ以来、受刑者がその生産割当の100から150パーセントを達成した日々について、一日あたり1.25が加算される。
 150から200パーセントの場合は、一日につき1.5。
 200から275パーセントの場合は、一日につき2。
 そして、275パーセント以上の場合は、一日に3。
 レフは、スヴェータに、こう書き送った。
 「それで、一日について〔プラスが〕4分の1だとすると、一月あたり6.5日と同じを意味し〔0.25x26日=6.5—試訳者〕、あるいは一年あたり2.5ヶ月と同じを意味する〔6.5x12月=78—試訳者〕。
 組織の長がとくに優秀と評価した場合に賞揚が付加される可能性もある。また、成果が少ない場合には賞揚を全て失うこともある。…
 一種の賭けだ。」//
 ——
 第7章②、終わり。

2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。

 レフとスヴェトラーナ、No.24。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。ごく一部、原文のままにしている。p.132-p.138。
 ——
 第6章④。 
 (33) スヴェータが監視員に自分は居住区画に住んでいる自発的労働者の妻だと告げたとき、その監視員は夫が迎えに来なければならないと言って、彼女が入るのを拒否した。
 通行証をもつIzrailvich は、この地帯にいる彼女の「夫」を見つけて、監視小屋まで連れて来る、と言った。 
 Izrailvich は、長い間行ったままだった。
 監視員がスヴェータに対して粗雑に話しかけ始めた。その際彼は、彼女の策略だと推測していることを示唆するふうに、「北方の奥さん」(収容所の受刑者である夫と一緒にいる女性)と悪態をついた。
 ようやくIzrailvich が、「夫」とともに現れた。—濡れて雫を落とし、明らかに酔っ払っていた。この人物は居住区画の自由労働者で、スヴェータの配偶者役を割り当てられていたが、端役を演じるときになって酔っ払って寝てしまい、Izrailvich がバケツ一杯の冷たい水をかけて覚醒させなければならなかった。
 スヴェータは、こう思い出す。
 「その人は、ばつが悪い思いをしているようだった。
 キスをするのを避けて、身体を彼に向かって投げ出して、悪罵の言葉を発し始めた。
 『手紙を出したでしょう !! それなのに、迎えにくる手間さえかけなかった。』
 すると彼は、恥ずかしそうにしながら、『行こう、行こう』とだけ言った。」
 監視員が質問する時間をもつ前に、スヴェータとその「夫」は、刑務所地帯へと入り込んだ。//
 (34) 二人は、「夫」が住んでいる家屋に着いた。
 彼には妻がいることが判明した。その妻は、そこでレフをスヴェータと逢わせる約束を夫がしていることを聞いていなかった。
 息がひどくアルコール臭い夫に対して妻が叫ぶ、怒り狂った場面が見られた。
 スヴェータはこう思い出す。〔その妻の振舞いは〕「嫉妬からではなく」、発覚して、レフとスヴェータの犯罪を「助けて支援した咎で刑務所に入れられるかもしれない、という恐怖から」だった。
 レフはその家に早くに着いていて、スヴェータが到着するのを待って、外で隠れていた。
 この場面の真っ最中に姿を現して、心配になって怒り狂った妻からスヴェータを守ろうとした。
 これは、彼らが夢見た再会の仕方ではあるはずがなかった。—叫ぶ女と酔っ払った男が住む見すぼらしい家屋で再会するとは。しかし、それが現実だった。
 二人は6年間、この瞬間を待ち望んできた。だが、思い描いていたに違いないものとは大きく違つていた。二人は何ものにも邪魔されずに逢うはずだった。
 緊迫した、危険な状況だった。—妻はひどく怯えて、激怒していたので、自分の無実を証明しようとして監視員を呼ぶかもしれなかった。二人はとりあえずは、部屋の反対側に目を向けるしかなかった。
 レフはこう思い出す。
 「われわれは、感情を抑えなければならなかった。
 お互いに身を投げ出して、抱擁し合うような状況ではなかった。
 われわれがしていることは高度に非合法だったので、警戒していなければならなかった。」//
 (35) その夫婦は、居住区画にある木造家屋の一つの上階に2部屋で生活していた。一つには家具があり、もう一つは完全に何もなかった。
 スヴェータは思い出す。
 「彼らは、私たちのために2個の椅子を持って来た。
 そして私たちは、レフの友人が二人が隠れる別の場所を探しに離れている間、空の部屋にともに座っていた。
 そのうちに、Aleksandrovsky の所で泊まることができるという伝言が届いた。」
 (36) Aleksandrovsky 家は居住区画の近くの家屋に住んでいたが、電話部員のMaria は、自分用家屋にして2人の小さな男の子たちと生活していた。
 彼女の夫のAleksandrovsky は、ペチョラ拘置所にいた(鉄道駅の喫茶室で彼から盗もうとした者と喧嘩をして、「フーリガン主義」だとして訴追されていた)。
 Maria は、ソヴィエト通りの電話交換局で夜間勤務をすることになっていた。
 彼女は午後に監視員とその妻の訪問を待っていたが、その二人が立ち去るや否や、灯りを全て消して、レフとスヴェータが自分の家に来ても安全だ、という合図を送ることになっていた。//
 (37) 暗くなると、すみやかにレフとスヴェータは外に這い出し、可能なかぎりす早く、Maria の家へと移動した。
 Maria の窓の反対側にある積み重なった丸太の背後に隠れて、二人は監視員が離れるのを待った。
 身を潜めている間、もう一人の監視員が二人のいる所へと向かって来た。
 発見されたと思い、最悪のことを恐れた。すなわち、スヴェータは逮捕され、国家反逆罪で訴追されるだろう。レフは数年間の刑を追加され、移送車でさらに北へと送られるだろう。
 しかし、そのとき、積み丸太の反対側で放尿する音を二人は聞いた。
 それが終わると、その監視員は立ち去って行った。//
 (38) やがてMaria の家への訪問者は出て行った。
 彼女の家の明かりが全部消えた。
 レフとスヴェータは隠れ場所から姿を現して、内部へと入った。
 そこには二つの狭い部屋しかなかった。一つには通常はMaria が寝ている一人用寝台、テーブル、椅子があり、もう一つの床には男の子たち用の寝具があった。
 レフとスヴェータが入って来たとき、二人の男の子はMaria の部屋で眠っていた。それで、レフとスヴェータはもう一つの部屋を使った。
 スヴェータは思い出す。「その夜、少しも眠らなかった」。
 レフが付け加えた。
 「二人だけ、二人一緒に残され、怖れるものはもう何もなくなって、二人の少年は寝入っていたときです。そのとき初めて、われわれは自由に行動し、思うかぎりにキスをし、互いに抱き締め合いました。
 でも、…。これ以上言うつもりはありません。」
 レフが言い淀んだことを、のちにスヴェータが明らかにした。
 「私は彼に尋ねました。『Do you want to ?』」
 すると彼は考えて、こう答えました。『でも、後でどうなるのだろうか?』(what would happen afterwards ?)」//
 (39) レフとスヴェータはMaria の家で、一緒に二晩を過ごした。
 レフが昼間に発電施設で働いている間、彼女は中にいてMaria の子どもたちと遊んだ。
 二日めの夕方、レフとスヴェータは、実験室のStrelkov にあえて逢いに行くという冒険をした。
 何人かのレフの友人たちが、挨拶するためにやって来た。—彼らはみな、自分たちを訪れるという大きな危険を冒している若い女性に対して、多大の称賛の気持ちを示した。
 また、持っていき、自分たちに送るように、手紙類を彼女に渡した。
 (40) その翌日、スヴェータを密かに送り出すために誰かがやって来た。彼女はその人物が誰かを憶えていなかった。
 自分で鉄道駅まで歩き、切符売場のそばの広間で待った。切符売場は列車が到着する直前にだけ開くからだった。
 手枕をしてスーツケースに座っているうちに、疲労で寝入ってしまった。列車が到着して他の全員が乗車した後で目醒めた。
 持ち物をさっと掴み、切符を買って、彼女は、列車に向かって走った。
 切符を買った乗客用車両はすでに満員だった。しかし、「ガラ空きの、一種の衛生車両」に入ることが許された。
 彼女は、長椅子に横たわり、再び眠り込んだ。
 (41) Kozhva で目が覚めた。
 夜はもう遅かった。
 スヴェータはLev Izrailvich の家へ行き、そこで朝まで眠った。
 彼女が出発する前に、Lev Izrailvich は、レフへのお土産として、彼女の写真を2枚撮影した。
 一枚では、写真スタジオのように幕として吊り下げた布を背景にして、スヴェータが枝編み細工の籐椅子に座っている。もう一枚では、Izrailvichの家を出発するときに、コートを着て鞄を持って立っている。//
 ---------------------
 下は、その2枚。1947年9月の末日頃だと見られる。スヴェータ、誕生日がすぐ前にあって、30歳。原書p.137(下左)、p.136(下右)。後者の背後に見えるのが「土地に掘り込まれた」Izrailvichの家だろう。—試訳者。


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 (42) スヴェータはこれを、レフのためにKozhva で投函した。
 「私の大切なレフ、まだKozhva にいます。
 昨晩は直通列車がなかったのですが、今日はそのための切符を得ようとするでしょう。
 L. Ia.(Izrailvich)が明日、私の出立についてあなたに話すでしょう。
 とても素敵でした。…
 (ペチョラの)駅で、そして(Kozhva までの )移動中に、眠りました。
  I(Izrailvich)の家に深夜に着いて、そっと彼を揺り起こしました。
 そうして私は、また朝まで寝て、一度も目醒めませんでした。」
 「今のところ、私は元気です。調べ抜いた小さな穴から、一滴の水も流していません。
 そのためか、全てがまだ夢のようです。
 レヴェンカ、Askaya(Aleksandrov Maria)を家で見なかつたと、昨日 G. Ia(Strelkov)に言うのを忘れました。—そう彼に言っておくのを忘れないで。…
 レフ、私のためにしてくれたみんなに、もう一度感謝します。
 言葉では気持ちを言い尽くせません。でもたぶん、みんな理解してくれるでしょう。」
 「私の大切な人、ごきげんよう。もう一度キスをしてお別れにします。
 L. Ia.(Izrailvich)が、あなたにびっくり(surprise)を用意しています。—今は内緒です。」//
 レフは同じ日に、スヴェータにあてて書いた。
 「僕だけの素敵なスヴェータ、今日は天気も乱れています。
 風が強くて、今朝はひょうが降りました。全てが陰鬱で、悲しい。
 僕の同名人が来るのを待っています。—たぶん、明日来るでしょう。
 もちろん、心配しています。…
 今朝、9時まで、Gleb(Vasil'ev)と少ししゃべりました。
 我々は、お茶を飲みました。
 みんなStrelkov の所にいて、僕は出るとき、ガラス枠の下の<秋の日>を見せて、Strelkov の寝床の上に架けました〔原書注記—Isaac Levitan の有名な風景画の複製で、スヴェータが贈り物として持ってきたもの〕。そして、「幸運」のためにその下に座りました。…
 Nikolai(Lileev)は今日の夕方に来たがっていて、Oleg(Popov)は少しあとで立ち寄るでしょう。でも、僕はひとりでいたい。」//
 レフは、スヴェータが安全に帰ったという知らせを待ち望んだ。
 帰る途中で逮捕される危険が、彼女には相当にあった。
 彼は2日後に書いた。
 「僕だけの素敵な、輝かしいスヴェータ、今日、10月3日まで、きみから手紙をまだ受けとっていません。
 怖ろしい。そして僕は、他に何も考えることができません。」
 (43) ついに、Kotlas から送られた手紙が届いた。それには彼女の2枚の写真が付いていた。—Lev Izrailvichが用意した「びっくり」だった。
 「僕の素敵な、美しい(lovely)スヴェータ、…、やっと !!
 良かった。全てがうまくいっている。
 みんなに、僕の最も真摯な感謝を捧げます。
 きみのメモを読んで、僕はすぐに、いったいどんな驚きのことを書いているのかと思いました。でも、写真が少し見えたとき、こんなに欲しくて愉しいものだとは、全く思わなかった。
 きみはこの10年間、今と全く同じだったのだろう(肘掛け椅子)。
 でも、きみはいつも、あらゆる意味で美しい。…/
 僕の、本当に信じ難いほど美しいスヴェータ、誰もがきみに会釈を送るだろうが、僕は何を送ればよいか分からない。
 ただきみのことを考え、きみについて書きたい。
 Liubka(Terletsky)と少し話したのを除いて、僕はどんな会話も避けています。読書も興味を惹きません。…
 しきりと<秋の日>に見入って、なかなか離れる(tear myself away)ことができません。…
 僕の素敵で優しい人よ、きみの分身をしっかりと抱き締めています(squeeze your paws)。」//
 (44) 10月5日までに、スヴェータはモスクワに戻った。
 計画していたようには、Lev Izrailvich に電報を打たなかった。前のそれがKozhva の郵便局の誰かに盗み見られており、「ただちに全ての人民の所有物になった」(意味は、その内容がMDVに伝達され得ること)からだった。
 しかし、2日後、スヴェータはレフに手紙を書いて、帰路について説明した。//
 「250ルーブル払って、直通列車の座席を得ることができました。
 あなたの同名者が切符を私に渡し、列車に乗せてくれました。
 三晩過ごした、あなたの同名者の小さい家で、記念に私の写真を撮りました。
 車掌は最初はほとんど空いている仕切り付き車両に私を乗せたのですが、ほとんど眠れませんでした。そのとき、女性たちと一緒になってしまった男性と座席を交換するのをその車掌が提案し、私は喜んで同意しました。
 三人の素敵な若い女性がいて、彼女たちは航空写真撮影の旅行をしている写真技術者でした。
 彼女たちは末端(Vorkuta)から旅をしてきていて、はるばるとモスクワへ向かっていました。
 本当に何もすることがありませんでした。—帰り旅用に本を持ってくることなど思いつきませんでしたから。そして、ずっと寝ていました。…
 列車が着いたとき、私は目覚めすらしませんでした。」/
 「〔10月〕5日の朝(4時30分)に家に着き、うたた寝をした後、しばらくの間 Alikと遊びました。
 そして、蒸し風呂(banya)へ行った後、昼食を調理しました。
 ママの体温は、その日また39度でした。」/
 「モスクワは、陰鬱でした。—寒くて、雨模様です(でも全く絶望的ではない)。頭を惑わせる日常事は、今はジャガイモです。店で見つけるのが困難で、市場ではもう7ルーブルもします(以前は3ルーブルでした)。
 誰もが、貯蔵をしています。…
 砂糖は消え失せました。ペーストやロールパンも。
 憂鬱です。
 木々は葉っぱをほとんど落とし、市場の区画には花がありません。
 さて、レヴィ、大切な人、とりあえずさよならと言います。
 大きな、大きな愛を込めて。
 こちらで私が訪問した人々はみんな、あなたによろしくと言うでしょう。
 スヴェータ。
 そちらにいる全ての方々に、私の敬意と感謝の念を送ります。」//
 ——
 第6章④、終わり。第6章全体も終わって、第7章がつづく。

2304/レフとスヴェトラーナ23—第6章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.23。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.123-p.132。
 ——
 第6章③。
 (18) その間に、ペチョラの夏は終わろうとしていた。
 9月4日、レフはスヴェータにあてて書いた。
 「秋が近づいて来ました。
 一昨日は、早朝に凍った最初でした。我々のもの以外は、野菜畑の地方ジャガイモは全部凍りました。畑の半分は夜間に霜で覆われ、あとの半分は霜の降りない乾燥機の近くにあって免れたからです。
 どちらもやはり、使いものにほとんどならないでしょう。
 夏は本当に短かすぎます。
 夜はもう完全に本当のものになって、暗闇が9時から2時半まで続きます。」//
 (19) スヴェータが予告したとおり、彼女の8月20日の手紙を、レフは9月5日に受け取った。
 今や彼女が来ることが明確になったので、彼女を迎え、秘密裡に木材工場に出入りさせる計画を練る必要があつた。
 9月7日までに、彼女にこう書き送るまで進んだ。
 「スヴェト、きみが想定したとおり、9月5日に手紙が届いた。…
 でも、きみの計画についてまだ明瞭にする必要なことがあったので、率直には返事しなかった。
 この手紙は、きみが出発する前に配達されないかもしれない。
 僕はまだ、何か具体的なことを書くことができない。少なくとも、今日の夕方までは。でも、きみが受け取れる可能性があるなら、今書く必要がある。
 きみは、Kirov での電報で(電信局で。郵便局留め)、きみの従兄弟〔原書注記—工業地帯に彼女を隠すことに同意した自由労働者の暗号〕の正確な住所を、知るだろう。—この人とともに、きみは数日間を過ごすだろう。
 きみの出発の詳細について、僕の同名者に電報を打って下さい。
 さらに指示を受け、かつ余分な荷物を置いていくために、きみは彼の家に行く必要がある。
 きみの最終的目標と同じく、これをずっと覚えていて下さい。
 時間が近づいて、つぎに何が起きるか、我々は心配するでしょう。
 書物については、自分に立腹しています。
 きみに余計な困難さを生じさせたのではないかと、恐れている。—書物は小包で僕あてに送ってもらうのが最も良かった。あるいは、同名人が承知しないなら、きみが元々望んでいたように、写真用資材と一緒に彼あてに。」//
 (20) この手紙を彼が書いていたその日、9月7日、モスクワはその800周年を祝っていたので、スヴェータは家にいた。
 彼女はレフにあてて、自分の部屋から書き送った。//
 「歓声が起きたばかりです。
 ママは街を散歩しようと外出しましたが、パパと私はもう、昨日に長く歩きました。
 我々の窓を通して、全部が本当によく見えます。二つの大きな、光を放つ(スターリンとレーニンの)肖像画があり、赤の広場の上の気球から吊り下げられています。市全体の上にある空は、赤く輝く旗でいっぱいです(やはり気球から下げられている)。A.とB.リング〔大通りとGarden環状道路〕に沿って投光証明があり、青色と薄紫色の影の中の巨大な網が、花火の色彩豊かな爆発と一緒に空(多くの気球)を通過しています。
 歓声が大好きです。
 河川の小型艦船は、…みんな飾り付けをしています。
 モスクワの発電所は、完全に彩飾されています。…
 パパと私は昨日、10時に外に出ました。…
 詰めかけた群衆の中を戦闘のようになって通り抜けて、中心部へ行かなければなりませんでした。
 野外の演奏会場がある全ての広場に、楽団がいました。120の移動用投光機、至る所に生姜焼き菓子の店がある市場。…
 こんなものはどこでも、どの人もかつて見たことがないと思います。…
 モスクワの全部が、路上にありました。」//
 3日後の9月10日は、スヴェータの30歳の誕生日だった。
 レフには、より多くの知らせはなかった。
 彼は彼女の近づく旅を心配し、当惑して苛立ち、彼女の途上にある危険への遭遇から助けることのできない無力さを感じていた。
 レフは本当に彼女が来るとは、あえてほとんど希望しないようにした。//
 「きみが期待するようには、何も明らかになっていない。
 しばらくの間は、僕はまだ何も見出さないだろう。
 I(Izrailvich)と逢うことすらできていない。
 できるときに—およそ2日のうちに—電報を打つでしょう。
 今日は、きみの誕生日です。
 この日、僕はいつも一人でしばらくの時間を過ごすのが好きで、いま自分の仕事場に座っています。…
 そして、きみのことを考えます。
 僕の思いは必ずしも明瞭または幸福ではなく、ときどきは訳の分からないものです。—そう、そのはずだと想像します。
 ただ一つだけは明白です。こうした思いは、僕の人生の重要な全てだということ。そうした思いを何か役立つものにしたり、行動へと変えることができないのは、好くありません。」//
 (21) スヴェータには、よい誕生日だった。9月12日に、レフにこう書いたように。//
 「研究所では、二つの大きな束の花を貰いました(グラジオラス、ダリアや菊科のアスター)。ママが三つ目をくれました(カーネーション)。
 みんな、花は良いことの前兆だと言います。
 私は実験室のフラスコに私用に若干のアスターを残し、若干はMikh.(Mikhail)Al.(Aleksandrovich)のビーカーに入れました。
 残りは、家にあります。
 Irina とShura は、北方旅行のためにお願いしていた特別の一点の服をくれました。 
 Shura は誕生日にはいませんでした。…。でもIrina はいて、研究所のLinda もいました。
 ママは素敵なキャベツ・パイを焼いてくれ、われわれは二個のケーキを食べました(砂糖の代わりに配給券で入手したもの)。」//
 (22) 悪い知らせは、レフにそうするつもりだと告げたようには、15日にKirov へと出立しそうでないことだった。
 研究所に、遅れがあった。
 スヴェータは、レフに書き送った。「私の書類カバンに仕事旅行の詳細を入れているのですが、20世紀の間はいかなる金銭も約束しようとしてくれません」。
 友人たちと親戚は、スヴェータのために金を集め始めて、彼女の月額給料よりも多い約1000ルーブルに達した。
 その間にスヴェータは、「賃金と支払い率の不均衡について」と題する報告書を書くことで彼女の研究所から「別に300ないし400ルーブル」を受け取った(この金は、Tsydzik が不在の間に実験室の管理を引き受けた責任を負ったことによるものだった)。この報告書は、理事長がまともに読まないで署名たけする山積みの書類の中に綴じ込められた。
 かりに自分のために金を求めていれば、彼女はきっと断られていただろう(研究所は現金が不足していて、所員への未払いの言い訳をいつも探していた)。そして、研究チームの指導者に必要な公共精神が足りないと責められていただろう。
 なぜスヴェータは突如として金を必要としているのか、という厄介な疑問すら生まれたかもしれなかった。
 スヴェータはこのような方法で理事長を欺くのは愉快でなかった。このことは、旅をすることで負う大きな危険についての一般的にな懸念に、さらに加わったことだった。
 彼女はレフにこう書いた。
 「準備することについて、とても神経質になっています。
 用意が出来たら完了することはない(または、完了しても悪いことが起こる)のと同じ、迷信じみた感情に落ち込んでしまいます。」//
 (23) レフは、同名人物とまだ接触しておらず、スヴェータの到着についての計画を最終のものにすることができなかった。 
 9月5日以降はLev Izrailvich から何も聞いておらず、逢ってすらいなかった。
 彼はスヴェータにこう説明した。「それで、きみの手紙が書いていたことを知らせ、前もって教え、あるいは何かを頼むことができない」。
 スヴェータの訪問のためにしておくべき重要な準備がまだあった。すなわち、Izrailvich と接触すれば、Kirov にいるスヴェータに電報を打って意思疎通を図ろうと今は計画していた。
 9月17日にスヴェータにあてて、「概して言うと、この10日間ほどは本当に何も進んでいない」と書いた。
 最近に発生した主要な難事は、レフが以前よりも頻繁に営舎に閉じ込められるということだった。—第二入植地域で保安警告があったからだ。これによって、彼が工業地帯でスヴェータと出会うのはより困難になった。//
 (24) 5日後の9月22日、レフはまだ同名者からの連絡を受けていなかった。 
 Izrailvich は病気なのに違いない、と彼は考えた。
 レフは、9月5日以降のスヴェータからの手紙も、受け取っていなかった。
 自由労働者の一人が、彼女はすでにモスクワを出発したと推測して、レフに代わって、Kozha のLev Izrailvich の住所にあてて郵便局留めで電報を打った。Kozha へとスヴェータは行き、そこで新しい指示を待たなければならなかった。//
 (25) スヴェータの旅の詳細は、完全には明らかでない。
 これについて、後年に彼女は、困惑するようになった。
 彼女は9月20日直後のいつかに、モスクワを出発したように思われる。
 スヴェータの父親と兄弟がYaroslvi 駅まで彼女を連れていき、Kirov 行きの列車に乗せた。彼女はそのKirov で、タイヤ工場での仕事を履行するため、少なくとも3日間を過ごしたに違いなかった。
 スヴェータは計画どおり、Kirov からTsydzik (この人物も計略の中にいた)へと電報を送り、「数日遅れるだろう」と伝えた。
 そして彼女は、非合法に入手していた切符を使って、Kozhva 行きの列車に乗った。その切符は父親が軍の将校から購入したもので、その人物は、Kozhva に着けば自分に返すという条件で、彼の「個人的助手」として彼女を同行させることに同意していた。
 スヴェータは、寝台車の上段にいた。「未知の豪華さ」だったと、彼女は後年に振り返った。//
 (26) 北方に旅をし、Kotlas で乗り換えてKozhva へと旅をし続けているとき、スヴェータは何を感じていたのか?
 監視塔と鉄道線路沿いの鉄条網の塀を最初に見たとき、彼女は恐くなかったのか?
 非合法に収容所地帯に入り込む企てをすることの危険性を、どう考えていたのか?
 数ヶ月後に旅を思い出して、スヴェータは1948年4月に、「首尾よくいかない結末を覚悟していたし、少し感情を失っていた」ので恐くなかった、と書いた。
 半分は失敗を予期して、彼女は自分の情緒の全てを成功の見込みに注ぎはしなかった。このことが、彼女の神経を安定させ続けるのに役立った。
 しかし、ときが経つにつれて、彼女は自分の勇猛果敢さについて、大きな驚嘆の気持ちをもって振り返った。
 70年以上の自分の台所に腰掛けながら、スヴェータは当時に自分が旅をするのは「自然(natural)」なことだったと思い出すことになる。
 しかし、そのときこう付け加えた。
 「いろいろな危険に巻き込まれることを想定すらしないで、どうすれば私は進むことができたのですか?
 分かりません。
 愚かななことをしました。
 きっと悪魔が私の頭の中に入り込んでいたのです !! 」/
 (27) この旅の非合法な部分のゆえにだが、逮捕される危険に陥ったことがあった。
 スヴェータは友人のShura から衣服を貰っていた。Shura は自分のカーキ色をした古い軍服の綿素材で、それをこしらえていた。
 のちに、スヴェータは書いた。
 「この制服が、私を救った。
 私は検札官を避けようと努めていた。彼らは乗客全員の切符と書類を点検しながら車両をわたって来ていた。
 私は何とか頭を下に向けたままにし、制服を身につけていた。その間ずつと、検札官の視線に合わせないようにした。
 しかし、彼らの一人が私の所にやって来て、切符が奇妙だ、合法のものではない、と言った。そして、尋問するために私を列車から降ろそうとした。
 にせの切符について、どのように説明できるだろう?
 私は、その切符が誰のものかすら知らなかった。—切符の上にはたぶん男性の名前があつた。しかし、私は女性で、しかもどこへ旅行することになっているかすら知らなかった。
 もちろん、私が本当はどこへ行くのかを言うことはできなかつた。
 さらに加えて、その切符を軍の将校に返すように言われていた。
 しかし、そのとき、明らかに軍人と思われる別の乗客が私を彼らの仲間だと見てとって、私を守る側になって、友好的に検札官と議論し始めた。
 彼らはこう言った !! 何か間違いがあるしても、彼女が原因ではない。
 すると、検札官は私をそのままにして去った。」//
 (28) スヴェータは、ペチョラから数キロメートルだけ離れたKozhvaまではるばると旅をした。そこで彼女は、土地に掘られたLev Izrailvichの家を見つけた。その家に彼の「ちっぽけな(tiny)部屋」があった。〔参考—次回に掲載する当時のスヴェータの写真の背後にこの家が写っている—試訳者〕
 レニングラード出身の彼の父親が一緒に滞在していた。—たぶんその理由は、木材工場でレフと会ったことがないということ。それで、睡眠の仕方はとても窮屈だった。
 翌日、Izrailvich とスヴェータは一緒に、木材工場へ行った。
 ペチョラにある駅からソヴィエト通りの距離を歩いた。その通りは汚れた車跡のある、両側に8住戸のある木造家屋が並ぶ、そして「側道」は地上に置いた厚板で造られている大通り(avenue)だった。
 二人は曲がってモスクワ通りに入り、町の最初の石製建物である、新古典派様式の構造物を過ぎた。その建物は、最近にAbez から移転してきた北部ペチョラ鉄道労働収容所管理部用に建てられたばかりだった。
 建物の外側に監視員はおらず、誰もスヴェータを止めたり、書類を調べるために質問したりしなかった。彼女は見かけない人物として印象に残ったに違いないとしても。 
 Izrailvich とスヴェータはモスクワ通りから、第一入植地区の住居群やGarazhnaia(ガレージ)通りの自動車修理場を過ぎて、木材工場の正門へと着いた。そこで二人は監視員に、スヴェータは居住区画に住んでいる自発的労働者の妻だと告げる予定だった。//
 (29) 木材工場の治安確保は、混乱した状態にあった。
 およそ数百人の監視員がいて、刑務所地帯を巡視した。
 監視員のほとんどは軍に従事した元農民で、戦争末期に家に帰って集団農場に行くのを避けて、監視員として就業契約をしていた。
 多くのものは読み書きの能力がなく、たいていの者はひどい酒飲みだった。そして、彼らはほとんど賄賂を受け取り、受刑者から盗んだ。
 彼らはまた、木材工場の店舗や、とくに産業地帯にある馬小屋、産業地帯の外の第一入植地区に近い風車で強奪した。第一入植地区では少なくとも12人の監視員がオート麦を盗み、収監者や自由労働者に売るウォトカに変造する、大きな恐喝団に関与していた。
 このようにして1946年には、数トンのオート麦が所在不明になつていた。
 (30) ほとんど恒常的な酔っ払いは、監視員に関する主要な問題だった。
 木材工場の党資料には、懲戒のため聴取に関するものが多数ある。それには、「勤務時間での酔っ払い」、「監視小屋での仕事中の飲酒による意識不明」、「酔っ払っての数日間の消失」等々が記録されている。
 党指導者たちはみな、監視員の間にある酒乱は治安確保に対する最大の危険だ、ということに同意した。
 収監者たちは、酔っ払った監視員が主要監視小屋で寝ている間に収容所から歩いて外へ出ていた。
 別の収監者たちは、賄賂を監視員に渡して町の女性を訪問させ、さらに賄賂を提供して、営舎地帯に帰らせ、光が消えているときは「いる」者の中に算定させた。
 ペチョラの遠隔さ—他の労働収容所以外のどこからも1000キロメートル—によつて、ペチョラ自体が刑務所になった。
 (31) 監視員が賄賂を受け取って、外部者が刑務所地帯に入るのを認める場合ももあった。
 1947年の木材工場での党の会合は、「不審者(strangers)」が通行証なしで居住区画の自由労働者を訪問するのが許されているいくつかの事件を報告した。
 工業地帯の内部では一度、侵入者が探索を逃れていた。
 小さな街路照明灯しかなかったこと—およそ7台の電灯—は、治安確保よりも生産目的を優先することを意味した。
 探索照明灯のある8つの監視塔が鉄条網の塀の周りにあったが、そのうち3塔の照明灯は電球を失くしていた。//
 (32) Lev Izrailvich とスヴェータは、邪魔されることなく木材工場の正門に到達した。
 正門は今にも壊れそうな代物だった。両側にある木と鉄条網でできている塀よりもほんの僅かだけ強固で、宣伝標語(propaganda slogan)が描かれた四角い枠のベニヤ板が付いていて、最上部には労働収容所の槌・鎌の標識があった。
 通路の右に監視小屋があった。木材工場を出入りする者は全員がそこで、執務中の武装監視員に通行証を呈示することが意図されていた。
 受刑者用の移送車も、出入りが数えられた。//
 ——
 第6章③、終わり。

2303/レフとスヴェトラーナ22—第6章②。

 レフとスヴェトラーナ、No.22。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.117-p.123。
 ——
 第6章②。
 (10) スヴェータはレフに切に逢いたかった。
 6月7-8日の週末に、手紙を書いた。それは土曜日に出発するGleb の母親が彼に渡すこととなっていた。//
 「レヴィ、Gleb の母親がO. B.(オルガ叔母)を訪れて、水曜に(ペチョラへ)出発すると言いました。
 そして今、あなたにどう書いたらよいか、分かりません。
 あなたととても逢いたい、ということ?
 そんなこと、分かっているでしょう。
 時間の外で生きていて、まるで今は休憩時間のごとく、私の人生がこれから始まるのを待っているような感じがします。
 何をしていても、ただ暇つぶしをしているように思えます。
 よくないと思います。
 ゆっくりとまたは無頓着に時間を費やすのは、強い人間にはふさわしくありません。
 致命的な誤りでもあります。あなたは失った時間を取り戻すことはできないのだから。
 私は、たんに待つのではなく、生きなければなりません。
 そうしなければ、待つのが終わったときに、自分がしっかりしてあなたと一緒に私たちの人生を築いていくことができないでしょう。//
 いつも、愛が十分ではないと怖れてきました。
 人は愛することができないといけないし、一緒になって、たぶんずっと残酷なままだろうこの世界で、生きていかなければなりません。
 でも、時は過ぎていくのに、私は強くも、賢くもなってきていないと思えます。
 私は少なくとも、自分自身の愚かさや、愛しているけれど遠く離れている人々への誠実さについて、十分には考えてきていない。このことはかつて、私自身や他の人々を苛む原因になりました(あなたもまた、このせいで苦しまなければならなかった)。
 こうしたバカなことで、私は大量のH2O〔酸素〕を失ってきました。
 待たなければならないとき、あるいは怒っているとき、私は強くはなかったように思います。
 こんな理由で、自分の脚でしっかり立っているとは感じていないのです。
 私には、依りかかれる—悲しいときでも愉しいときでも—あなたが必要です。
 私たちは今の事態を、一緒に切り抜かなければならない。かつてそうだったように、腕を組んで歩みながら。—昔はあなたに寄りかからなかったと思うけれど。
 私はあなたの腕で、重くはなかったわ。そう思っているけど、正しい?
 こんなことを書き、あなたは苦痛を感じるだけで何も得られないお願いをして、私は優しくない。
 でも、疲れています。今日だけではなく、いつもと同じ。
 私には『支え』が必要です。こうした手紙を通してであっても(手紙は私たちの会話です)。
 でも、レヴィ、うろたえないで。
 最後には、私たちは多くの人よりも、幸せになる。—愛をちっとも知らない人たちよりも、愛の見つけ方を知らない人たちよりも。
 このことが道理にかなっていると、望んでいます。//
 疲れているとき、私は辛口に、Irina(Krause)が言ったように『心の中を隠さなく(unshaved inside)』なります。そうして私は、私と親しい人々から支援を受ける仕方が分からなくなるのです。
 その人たちに何を望んでいるのか、分かりません。
 理解してほしい、何かしてほしいと期待しているのではなく、私は自分が何を頼べばよいか分からないのです。
 私は沈黙したままです。でも活動しながら静かになります。これは、自分の殻の中に閉じこもる、という意味です。
 Shurka(Aleksandra Chernomordik)ですら、私は最近では一週間に二回しか訪問していません。また、今度の日曜に会いに行かなくてIrina を傷つけました(とても疲れていたと言ったので、彼女は許してくれました)。
 一昨日は、私とあなたについて彼女が尋ねて、事態はもっと悪くなりました。衝撃です。
 昨日、誰をも避けたくて行かなかった演奏会のあと、まだ好くなってはいません。
 私は思慮が足らず、意地が悪いと、あなたは思うでしょう。私がそれを理解して後悔していてすら、どうすれば良くすることができるか、私には分かりません。
 いつか健康を悪くすれば(疲労のためだけであっても)、あなたに語りかけず、耐えきれなくなってあなたから離れてしまうのではないかと、上に書いたような理由で怖れています。
 リョヴカ(Lyovka)!、もしそうなっても、私はあなたに怒っていないと、分かって下さい。
 心を折ったり、自分を苛んだりしないで下さい。適当な休みを私がとるまで、待って下さい。
 約束できますか?//
 この手紙で書いたことはとくに賢明だとは思えないけれど、私にとくに優れた意見を求めていないでしょう(少しだけは正解)。
 レヴィ、これ以上馬鹿なことを書いてしまう前に、寝床に行かなければなりません。
 書く前に少し泣いて、この手紙をいま終えようとしているのはいい事です。顔に微笑を浮かべて、私の大切な、愛おしいレヴィに誓います。」//
 この手紙は、スヴェータが自分の抑鬱状態(depression)という主題に本当に触れた最初のものだった。彼女はそうだとは認識していなかったけれども。
 彼女は十分に正確にその兆候を、また「耐えきれなくなって離れてしまう」心理を叙述することができたが、それらに名称を与えはしなかった。
 「世界で最も幸福な国」のソヴィエト連邦では、抑鬱状態についての公的認知や議論はなかった。//
 (11) 翌朝、スヴェータは手紙を書き続けた。//
 「レヴィ、私があなたに逢いに行くことについて。
 どこに行くべきか、どこに申請すべきか、分からないので、とても困っています。
 Gleb に、母親が戻ったら私と連絡を取るように頼んでもらえますか?(D.B(オルガ叔母)よりも先に私に連絡するということです。彼女は叔母にいずれ訪問せざるをえないのだから。)
 Gleb の母親は、7月の早くか半ばのいつかに戻ると言っていました。そのとき私は、必要ならば、街を出て彼女に会いに行けます。その日に休暇を取る権利はないのだけれど。
 7月に休暇を欲しいとは思っていません(とくに前半については)。精神的にも経済的にも、旅行の準備をする必要があるからです。また、もう一度、こちらで許可が得られるよう試してみたい。 
 Gleb の母親は不要だと言ったけれど、許可があれば私は本当に安心でしょう。また、どちらにしても、悪くはなりません。
 どの程度時間がかかるか、私には分かりません。
 私が投げ出したら、Mihail Aleksandrovich(スヴェータの上司のTsydzik)が自分で休暇を取りたくなるかもしれません。
 その場合は、私が行く前に彼が帰るまで待たなければならないてしょう。
 すみやかに逢いに行けるとは、思わないで下さい。
 休みを取るという意味では、遅い方がよいかもしれません(この点で私は他の人たちと似ていません)。早くにある休日はすぐに忘れてしまい、残りは全くないがごとくになってしまうのですから。 
 Mihail Aleksandrovich も、同じ理由で、遅く休暇を取るのが好きです。…
 O. B. が今ここに来ました。それで、止めます。…//
 我々はGleb の母親に、美味しいものを一緒に持っていくように頼みました。あなたに4月以降に届けようとしたものです。O.B.からの甘菓子、Irina からのチョコレート、そして自然に、私からの砂糖。Irina は砂糖に我慢できず、私は甘菓子に無関心だったから、自然です。 
 何が起きるか分からないので(怒らないで。でないと、肝臓が悪くなる)、若干の現金も送っています。
 金銭は持っているといつでも有用です。自分のためのものを買わないならば、仲間たちのために使って下さい。
 一緒に持って行ってほしいとGleb の母親に頼んだものは、あなた用の眼鏡です。
 それは、Shurka が得ることのできた(正確にa3.5の取得です)二番めのものです。
 パパは自分の眼鏡を取り戻しました。
 さあ、これで今日は全部です。
 気をつけて、私の大切な人。とても、とても優しく、キスをします。」//
 (12) Gleb の母親は、Litvinenko たちよりも、うまくやった。
 彼女は、もう一度、数日つづけて毎日数時間ずつ息子に逢うことができた。今度は監視員に聴かれたままだったが、正門の所にある大きくてせわしい小屋よりも小さい、工業地帯と第二入植地区の営舎の間にある監視小屋で逢った。
 レフはスヴェータに、Natalia Arkadevna の成功をあまり重視しすぎないように警告した。
 Gleb の適用条項は、レフのものよりも少し緩かった。また、Gleb の母親は運が好かった(あるいは賄賂の支払いが非常に巧かった)。
 スヴェータが幸運でも、レフと「数分間」逢うことができるだけで、MVDからの「無記入の拒否状」のもとで出逢う可能性もあっただろう。
 しかし、Gleb の母親から聞いたことで、スヴェータは元気づけられた。
 7月16日にレフにあてて、こう書いた。//
 「Natalia Arkadevna が月曜に会いに来ました。
 彼女は物質的経済的側面〔賄賂〕について詳細に語ってくれました。そして、その問題についての私の神経を完全に鎮めてくれました。
 彼女は、旅したいとの私の希望を支えてくれました。
 魅力的な人です。これは確かなことで、彼女に私はとても感謝しています。」//
 (13) スヴェータがNatalia Arkadevna から学んだことによって、どんな対価を払ってでもペチョラへ行こうという決意が強固になっただけではなかった。収容所管理機関が許可を拒んだとすれば、自分で別の何らかの手段を見つけることができるという考えも、さらに強くなった。
 賄賂によってでなくとも、工業刑務所地帯へと自分が密かに入り込む方法を見つけようとした。
 (14) 7月16日までの日々を、スヴェータは、夏が終わる前にペチョラへの旅に必要な取り決めをするために用いた。
 休暇を取れるときに上司のTsydzik が同意するのを待つ必要があった。また、とりわけ、ペチョラにいる間は、彼女を守ってくれる彼に頼らざるを得なかったからだ。
 Tsydzik は7月の最後の週に、入院してしまった。
 彼は、8月1日には休暇を取ってコーカサスのKislovosk へ行き、早くても9月12日まではモスクワに帰ってこないことになっていた。しかし、この旅行は、遅れた。
 スヴェータは、7月28日にこう書いた。//
 「レヴェンカ、私の大切な人、私たちはもう一度忍耐力と我慢強さを呼び起こさなければなりません。
 猫のように泣いて(meow)います。
 でも、美徳には褒美があると知っているかぎり、12月まで何としてでも待つつもりです(その場合にはちっとも美徳ではない?)。
 もう一度。私は猫のように泣いています。」//
 (15) 8月、モスクワ市民の多くはずっと休暇で街から離れていたけれども、スヴェータは研究所へと仕事にをしに出かけた。そして、Tsydzik の管理の仕事を代わって行った。
 8月12日の手紙で、レフにこう書いた。//
 「ここでは28度で、工場の煙と砂塵で全てが覆われています。
 人々はモスクワ800年記念式典〔9月7日〕のために、市を急いで飾っています。それで、通りの半分は立ち入りを阻止されています。」//
 市が祭典を準備している間、スヴェータは、ペチョラへの旅のための自分の準備をした。これを9月末に実行するだろうと、今では予想していた。
 彼女は、Lev Izrailvich のための写真用資材を最もよく得る方法を見出すために多くの時間を使った。このIzrailvich は、Kozhvaで自分を宿泊させ、木材工場に入り込むのを助けてくれる人物だった。
 「今は不足はありません。誰でも店で容易に購入できるでしょう。…
 私は全ての物を用意するでしょう。かりに旅がうまくいかなくても、小荷物で彼の住所に送ることは可能です。—了解?
 二人のために私がいます。—フィルムは彼のために、書籍はあなたのために。」//
 (16) スヴェータはこのときまでに、自分が非合法に旅をすることになると分かった。
 モスクワのMDV から許可を得ることはあきらめていた。そして、それがなくとも、ペチョラの地図に記されていない秘密の収容所の居住地区へと行く仕事があったわけでもなかった。
 彼女は、ペチョラに着けば、Lev Izrailvich と一緒に木材工場に入り、工業地帯内部の自由労働者の一人の家屋に隠れようと計画していた。
 レフは、居住地区への入口にいる監視員をやり過ごせば、発電施設での職務時間内に、そこで彼女と逢うことができるだろう。
 これは、大胆でかつ危険な計画で、スヴェータを甚大な恐れに巻き込む可能性があつた。
 MDV の同意なくして収容所に立ち入ることは、国家に対する重大な犯罪だった。
 彼女の研究には軍事上の重要性があったので、もしも確信的「スパイ」と接触しようとして逮捕されれば、彼女自身が労働収容所へと送られただろう。
 彼女を助けた者もまた全員が、面倒なことにかなっただろう。//
 (17) 旅行の真の目的を隠すために、スヴェータは、ウラルの近くのKirov へと、彼女の研究所と関係のあるタイヤ工場を視察するために行くという計画を立てた。 
 スヴェータがモスクワに帰るのが遅れると知らせる電報を計画どおりにKirov から打てば、 Tsydzik は彼女の痕跡を抹消するのに必要な書類作業をすることになっていた。
 Kirov からKotlas 経由でKozhva へ列車で行くには、一晩と一日しかかからないだろう。そのKozhva で、スヴェータはLev Izrailevich に迎えられることになっていた。
 8月20日、スヴェータはレフにあててこう書いた。//
 「Kirov からは地方鉄道があり、十分に利用できるので、一石二鳥です。
 Mik. Al.(Tsydzik)が12日に戻れば、15日までに私は、およそ10日間の工場視察旅行を公式のものにするでしょう。
 そこから、まだ仕事の旅行をしているがごとく、私は進むつもりです。切符なしで、ただビタミンC〔賄賂の金銭〕だけを持って。
 切符の費用を節約します。でも、重要なのは、Kirov 往復に使う日数は私の休暇の中に含まれていない、ということです。それで、私にはさらに好都合になるでしょう。 
 Kirov で、およそ2、3日仕事をします(工場を一瞥し、報告書を書き、何らかの助言をするでしょう)。
 旅行について少し神経質になっていると、打ち明けなければならない。
 モスクワを出発すればすぐに、あなたと同名の人に電報を打ちます。そして、もう一度、Kirov から打ちます。—これらは、1ヶ月以内に起きる予定のことです。
 レヴィ、増えた旅行バッグを処分するつもりはありません。
 書物のいくつか(最新の英語の教科書や核関係の書物のような入手し難いもの)をP.は、見つけてくれると私に約束しました。
 Nat(Natalia)とArk(Arkadevna)は明らかに、何かを、衣服、旅行用のパン等々を、送ろうとしています。
 既に言ったと思うけど、私はあなたと同名の人に小荷物を送りたいのですが、今の時点で写真用具をまだ何も購入していません。…
 O. B.(オルガ叔母)はなぜ、服を送ったように書物も送らないのかを、理解していません。でも、レヴィ、私はあなたに怯えています。
 不機嫌なことでしょう。
 父親の髭にかけて誓います。このあと十月革命30年記念日(1947年11月7日)よりも前には、威張って本屋に入らない、と。…
 この手紙は、(9月)5日まではあなたに届かないでしょう。
 だから、何か至急に知らせる必要があるときは、電報を打つようLev Izrailvich に頼んで下さい。私の返事は時機どおりには届かないだろうことも留意しておいて。
 Kirov の郵便局留めで手紙を送ってくれることもできます。
 安全のために、私がKirov にいる間は、郵便局と電話局に入って調べるでしょう。」//
 10日後、スヴェータは、旅行計画をもう一度確認すべく書き送った。
 「私の全ての計画に変わりはありません。つまり、15日にKirov に行き、21日にはあなたと一緒にいます。
 緊急事態が生じれば、カーボン紙を使ってM(モスクワ)とKirov の郵便局留めの両方に手紙をくれるか、同名の人に電報を打つよう頼んで下さい。」//
 ——
 第6章②、終わり。

2290/レフとスヴェトラーナ16—第4章④。

 レフとスヴェトラーナ、No.15。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.82-p.86.
 **
 第4章④。
 (30) レフの配転は、Nikolai Lileev との友情のおかげだった。この人は、レフがフランクフルトからの護送車の中で会った受刑者だった。 
 Lileev は、ペチョラに着いたとき壊血病を発症していたので、彼ができる仕事は電力施設にだけあった。彼はそこで、電気グループの長のViktor Chikin に、レフを推薦した。 
 Chikin は、自分自身が受刑者だつた。
 この人物は1938年に逮捕され、彼が監視していたVologda の発電所で火事が発生したことを理由として、ペチョラでの15年の判決を受けていた。
 彼の技師としての専門能力が高く評価されたために、木材製造所での電力管理の責任に就くこととなった。
 労働収容所にはChikin やStrelkov のような、専門家および管理者として働く多数の収監者がいた。
 1946年には実際に、木材製造工場の生産側の責任ある地位の半数以上を、受刑者が占めていた。 
 Lileev による推薦は、好都合のときに行われた。
 木材製造は、生産目標よりもはるか下に落ち込んでいた。
 それには、電力不足という特有の問題がからんでいた。発電施設は、乾燥所、製材所および作業所に、必要な量の半分以上の電力を供給することがだきなかった。(木材を燃やしての蒸気エンジンで動く)三機の発電機は、その本来の能力である700キロワットの四分の一しか機能しておらず、経常的に故障した。
 事故や火事が頻繁に発生した。かつまた、慢性的に、電気工、技師、機械工、化学者の需要があった。
 生産力を増大させるために、MVD は、収監者の中から212名の専門家を募集または訓練することを決定した。
 レフは、そのうちの一人になった。
 (31) 発電施設で働くことは、収監者にとって特権的な地位だった。
 収容所の標準からすれば易しい場所で、 〔川からの樹木の—秋月〕引き揚げ部隊の背骨が折れるような労働とはかけ離れた世界だった。
 ふつうの12時間労働ではなく、8時間交替制だった。これは、管理当局が、疲労によって事故が生じる可能性を削減するためにとった措置だった。
 業務に就く者たちには、工場の稼働を監督し、修繕を行うこと以外にすることがほとんどなかった。そのため、彼らは余った時間で、手紙を読み書きし、カード、ドミノやチェスで遊ぶことができた。
 発電所はいつも暖かく、 給炭工や機械工のためのシャワー室があった。そこでレフは、身体や衣類を熱い湯で洗うことができた。—これは、しばしば衣類が盗まれ、水の冷たい洗い場まで行く必要がなかったので、大きな利点だった。
 発電施設には監視員がおらず、収監者が作業をするための護送車もなかった。それで、レフと電気グループの友人たちは、工業地域を自由に動き回ることができた。
 レフたちは、発電施設のそばの家屋で生活している自発的労働者を訪れることができた。また、他の収監者用の境界の外にある木材製造所のクラブ・ハウスへも行くことができた。そこでは映画が上映され、ラジオ(ペチョラ収容所局にのみ周波数が合った)があり、近傍の店舗から購入することのできるウォッカやタバコがあった。
 仕事を終えて宿舎に帰る途中でStrelkov の実験室に、彼らの友人たちに会いに立ち寄ることもできた。さらに、好むがままに、営舎区域の内外を通ることも。
 Lileev は思い出す。
 「営舎と他の工業地域の間にある監視舎を通り抜けるとき、我々がしなければならないのは、後ろ名前と収監者番号を言うことだけだった。
 一人の監視員が、出た時刻と戻ってきた時刻を、特別の机の上に置いてあった記録帳に記入したものだ。
 ときどき監督者がもっと厳しくしようとしたけれども、全てがまったく寛大(relax)だった。」
 (32) 1946年の秋、レフは昼間交替制で、朝の8時から働いていた。
 彼は他の収監者たちよりも遅くその仕事を始めるので、彼らよりも後で6時に起床し、鉄道地帯の監視員が労働護送車を数えている間に食堂で朝食を摂った。
 護送車の多くは一時間かかって作業場へと送り届け、のちにまた一時間で帰ってきた。
 しかし、レフは歩いて8分で、仕事場へ行った。
 昼食は、発電施設で業務をしている間に、届けられた。
 機械類が稼働しているのを監視することだけが仕事の間に、レフは、スヴェータあての手紙をつづった。
 10月30日に、彼はこう書いた。「今まさに僕の隠れ部屋で、昼間の動揺は全くなく、落ち着いています」。
 「昼間の仕事が終わります。明日まで、することはありません。
 一時間で、交替の労働者が来るでしょう。
 機械類の物音越しでなければ、きみは自分の声を聴くことができない。でも、困ってはいません。僕は、慣れました。
 窓を通して暗くて青い黄昏の光が見えますが、一時間前に黒い夜に変わりました。いまは暗闇が、ペチョラの主宰者です。」
 調整室には換気装置がなかった(「蒸し風呂(banya)のようです。—熱くて、湿って、もうもうとしている」)。そのために、紙を乾いた状態で保つことが、一つの問題だった。
 しかし、営舎で夜に書くのに比べれば、発電施設で手紙を書くのは容易だった。営舎では収監者たちの喧騒が調整室の機械類よりも耳障わりだった。また、天井からぶら下がっている白熱電球の光は、レフがスヴェータに説明したように、「うすぼんやりとした黄色で、テーブル上の灯油夜間灯なしでは、書くのがむつかしいでしょう」というものだった。
 (33) レフは、仕事の後は、夕食と就寝前の最終点呼まで、自由だった。
 通常は彼は、この貴重な時間を実験室で過ごした。そこには、電気グループの友人たちをもてなすことの好きなStrelkov がいた。
 9月2日、レフはスヴェータにあてて書いた。
 「仕事が終わった瞬間から、僕は実験室の主人のもてなしを楽しんでいます。
 僕は、壺、秤、フラスコと試験管の文化的かつ「科学的」な周囲の中に座っています。そして、スピーカーから流れるマズルカの音にだけ邪魔されながら、全くの静けさの中で、愉快に、きみあての手紙を書いています。」 
 Strelkov は、みんなが彼の若き崇拝者である電気技師たちをとくに好んだ。
 Lileev は、「実験室で過ごす時間は、我々の生活で最も幸せなものだった」と思い出す。
 「我々は、彼の実験室に行ける、どんな機会も利用しました。
 しばしば実験室で、昼食休憩時間の全部を使いました。
 ときどきは(我々の仕事の交替時間が同じであれば)、我々の誰かの誕生日か何かの記念日には、そこで何とか逢うようにすらしました。」 
 Strelkov の実験室は、彼らの手紙、小荷物その他の貴重な所持品を隠して貯めておく安全地帯(refuge)だった。そうしなければ、監視員が、または営舎内の仲間たちが、盗んでしまっていただろう。
 またそこは、収容所の苛酷かつ退屈な生活条件から逃れる、数時間の安息所になっていた。
 電気技師たちは、そこへ行って飲み、タバコをふかし、ラジオの演奏会に周波数を合わせ、カードやチェスで遊び、手紙を読んだり書いたりし、あるいはたんにStrelkov の話に耳を傾けたりした。
 レフはスヴェータに、Strelkov は「彼が読んできたあらゆる種類の情報、事件、事象や事物に関して途方もなく知っている、話し上手だ」、と説明した。「僕は口を開けて、彼の話を傾聴している」。
 (34) Strelkov の実験室に定期的に集まったのは、6人の電気技師だった。
 そのうち一人は、レフと営舎が同じのLiubka Terletsky で、この人物は、発電施設の昼間体制でレフとともに働いていた。
 レフは、Terletsky との付き合いを楽しんだ。
 彼は、この若きウクライナ人を守りたく感じていた。Terletsky の健康は、ペチョラですでに過ごした6年の間に損なわれていた。
 「Liubka は素晴らしい、とても特別な少年だ」と、11月15日にレフはスヴェータに書き送った。
 「彼は24歳くらいに見え、聡明で、ユーモアの感性と愉快な性格をもっている。
 彼はLvov の学生だったとき物理学を勉強し、自分で電気技術について学んだ。…
 ロシア文学を愛しており、ポーランド語を読めないのを寂しがっている。…
 彼はたくさんのことを体験した。きみが彼に語りかけたら、彼はいつでも気に掛けていたのに、6年の間、自分の両親に手紙を出そうとしなかった理由が分かるだろう。
 彼はとても穏健で、誠実で、上品な性格だ。でも、いま以上のことを自分に要求している。
 彼は今では希望をすっかり失っているように見える。そして、誰かがここに来たとしても、『自分の全体を作り直すことはできない』と考えているように思える。
 ときどき彼が語るのを聞いていると、自分自身が語るのを聞いているように思う。
 彼は、僕の考え方には論理がある、と言う。
 でも、僕が生きることができる論理は、スヴェータ、きみの手紙の中に含まれている。」
 **
 第4章④、終わり。同⑤へとつづく。

2288/レフとスヴェトラーナ15—第4章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.15。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.79-p.82.
 **
 第4章③。
 (24) レフは、スヴェータの愛をありがたく感じた。救われた、と思った。
 彼には彼女に提供するものがなかった。戻ってくるという希望すらも。だが、彼女は自分自身を与えてくれた。
 自分を待ってくれることに、彼は深く感謝した。収監者である彼を、彼女は全てを投げ打って愛し、待っているのだ。
 しかし、罪と恥の感覚によって悩まされもした。
 彼は、スヴェータに負担をかけたくはなかった。—他の誰にも。
 彼が最初に彼女にではなくオルガ叔母に手紙を書いたのも、それが理由だった。
 また、友人たちや親戚に「連絡する」のを恐れた理由でもあった。
 スヴェータは、これを理解した。
 彼女が彼に言ったように、「侮蔑も誇りも、責められるべきだ」。
 (25) 二人は、レフの謙譲ぶりをめぐって、しばしば論争することになる。
 スヴェータは心を込めて小荷物を作り、彼に送ったが、彼は文句をいうばかりだった。手紙、用紙、ペンと数冊の本だけが欲しい、他には何もいらない、と。そして、自分のために金銭と貴重な時間を無駄にしないでほしいと切願した。
 スヴェータは、それに応じようとはしなかった。
 「小荷物については、やめさせようとはしないで。
 今の私たちには、何らかの満足を得ることのできる唯一の物です(我々の人生には他の全てが必要ですが、どんな愉しみももたらしません)。…
 ママは私に、20番めで送る小包に何を詰めればよいか、訊ねてきました。…
 ここにリストがあります。白シャツ、暖かい靴下、縦縞のズボン、タオルとハンカチ、石鹸、歯磨き、ブラシと櫛、スリッパ、糸とボタン、缶詰食品二缶(1キロまで)、一箱のチョコレート(あなたに書いたように奇妙な包みだけど、ねずみを理由にパパが執拗に加えます)、紙、教科書、鉛筆、ペンとインク、グルコースとアスコルビン酸(知らない人にはビタミンC)—お願いだから、飲んで。」
 レフは、反対しつづけた。
 負担になっているというだけではなく、自分は子どものように無力になつている、と感じた。
 「スヴェータ、きみが従ってくれないから、神または誰かが僕を懲らしめている。
 小荷物で僕を煩わせないでほしい、とすでに書いた。…
 きみから時間と活動力を奪うことの責任の90パーセントは、僕にある。—このことすら、きみは否定するかもしれないが。
 たぶんきみが考えている以上にはるかに大きく、僕の苦悩の種になっている。…
 僕が返礼としてできるだろうことは、絶対に何もない。…
 自分の意思によってではなく30歳になってしまったけれど、本来は僕がしなければならないときに、スプーンで食べさせられている子どものような立場にいる。…
 これほどに苦悶の原因となることは、他にある?
 僕の言葉が激しいことを許してほしい。でも、遠慮なく言っておく必要がある。」
 (26) レフが激しく厳しかったり、遠慮なくずけずけ書いたりすることは稀だった。
 初期の頃の手紙で彼はつねに、収容所での自分の状態について好い印象を与えるように気を配った。
 自己憐憫は、レフの性格ではなかつた。沈着さ(Stoicism)が彼の性格だった。
 彼の主要な不安は自分にではなくスヴェータにあり、自分の収容所での生活状態を詳細に叙述すれば、彼女にどのような影響を与えるか、を懸念していた。
 寒さや空腹については、一度も書かなかった。—反対に、暖かくしていて、十分に食べている、と強調した。そして、しばしば残酷かつ暴力的に収監者たちを処置する監視員については、ほとんど何も書かなかった。
 木材製造工場(wood-combine)の諸資料から明らかになるのは、レフが収容所にいた最初の6ヶ月間に監視員が数人の受刑者たちをランダムに殺戮した、ということだ。—これは、監視員グループが酔っ払って収監者を射殺した、または打ちのめして殺した、という事件だった。
 レフがこうした事件を知らなかったとは、考え難い。—噂は収容所内を駆け巡っていた。
 しかし彼は、手紙でこのことに一度も触れなかった。
 (27) その代わりに彼は、北方の空の美しさについて書いた。美しい空は、刑務所地区から彼が見える最大の気休めであり、彼がいま見ることのできるただ一つの世界だった。
 「ここの秋は、美しい。
 空は晴れていて、日射しは暖かい。最初の寒さが続く朝の新鮮さで、静穏さが生まれ、元気づけられます。
 北方の太陽は、もう星たちと闘っています。
 輝く光の幕は、まるで青、赤、緑の探索灯の光線と一緒になって織り合わされているがごとく見え、空に朧げに浮かんでいて、いつも変化していて、素晴らしく、そして魅力的です。
 それは人間の幸福の、光と静寂の象徴です。まだ達することのできない未来についての、つねにある夢です。—神に感謝。」
 (28) レフは、自分たちが失っている時間について嘆いた。
 「スヴェータ、きみに手紙を書くとき、ときどき—」と、18番めの手紙を書き始めた。
 「僕は、自分の周りの収容所の仲間たちを見入る。過去とはとても異なる環境と条件のもとで、みんな生きている。
 彼らの精神的な見かけは、認識できないほどに変わった。
 これは老化、人が年を取るにつれて経験しなければならない変化、の問題ではない。年を取らないことの方が悪いだろう。
 きみはかつて(正確には忘れてしまったけれど、きみは『原理』か『熱力学』(Thermodynamics)を持ってテーブルに座っていた。でも、夕方のことで、テーブル・ランプが鳴り続けていて、僕はピアノのそばに立っていた、と憶えている)、全く正しく、時間とともに変化しなければ、人は人格者になることができない、と言った。
 スヴェトラーナ、きみが語ったことについて、僕は何も言うことができない。
 毎日きみに会うと、きみがかつてどうであり今どうしているかを僕は知っていると言える? …。そして、きみの髪の毛に灰色が混じっていくのを悲しむだろうけれども、きみの眼の角に加わるもの全てが僕を苦しめるだろうけれども、こうしたことは起こらなければならない、ときみに言える?
 こうしたことが起こったときでも、僕がきみについて感じていることが変わることはないだろう、何かが—きみのもの以外の何かが—きみに加えるだけだろう、と言う?
 これが老年と呼ばれるものならば、本当に意味があることだろうか?
 きみは僕の世界だったし、これからもそうだろう。そして、きみがどうであろうと、僕にとってのきみは、僕のスヴェトであり、僕の光だ。」
 スヴェータは同意した。「時間は過ぎていき、人は変化している。これは正しい」。
 「でも、人々は本当に悪い方に向かって変化しているの?」
 「レフ、私には分からない。年を取ることには好い面があるように私には思える。
 年齢と時間の経過の問題は、17歳から19歳にかけて、私を最も苦しませました。
 当時、人生の半分にいるように思えた。最良の半分がもう過ぎてしまったと思えた。
 でも、あなたと知り合って、私の年齢のことをもう二度と考えませんでした。
 私の人生は良いもので、良いままで続くか、大きくは変わらないだろうと思っていました。
 私はこの5年間でたぶん年老いた。自分では判断できないけれど。でも少なくとも、私は老人(old)にはなっていません(年齢を重ねることと老人になることは別のことです)。
 年齢のことに少しでも関心をもつとしたら、陳腐なレベルにある、全くの物理的な(physical)問題です。
 若さを維持したいし、かつてのように美しくありたい。—あなたへの贈り物として。」
 (29) レフは、その間に、彼女の「毛髪が灰色になっていく」のを見るという希望が実現するまでに、彼に残された判決履行期間は3360日ある、と彼女に教えつづけた。〔秋月注—レフは10年の判決を受けている。〕
 彼はスヴェータに手紙を出して、十分に用心深く、収容所内部の主な出来事について記した。
 最初の秋の大きな報せは、彼の木材製造所の乾燥部隊から発電施設への配置換えだった。
 電気技師としての訓練を受けておらず、経験もなかったが、彼には科学的素養があったので、何ともなく高圧の電気ケーブルについて仕事をすることができた。
 労働収容所には技術者がほとんどおらず、管理当局は、そのような危険な仕事をさせる受刑者たちの安全に対する配慮をほとんどしてこなかった。
 彼は、9月2日に、「僕はついに何とか、もっと好ましい仕事1へと移りました」と知らせた。
 「僕は、調整者として、電気グループへと配転されました。
 この仕事は好きで、人々もより善良です。仕事は肉体的にはよりつらくなりましたが。
 愉しみつつ働いていて、週の何曜日かすら意識していません。
 今日は9月2日。月曜だっけ?
 今までは電話所でと、少し工場の電気施設で働いただけなので、もっと勉強しなければならないでしょう。今は架空ケーブルで働いています。
 電気施設についての手引書か電気技師についての何らかの教科書を見つけたら、送って下さい。」
 **
 第4章③、終わり。

2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。

 <レフとスヴェトラーナ>という表題をつけて、この欄に13回かかって、第一章冒頭から第4章の4分の1までを試訳してきた(No.2171/2020.03.15〜No.2208/04.21、p.7〜p.72)。全体の二割以上はすでに超えている。
 いずれ明記しようとは考えていたその原書は、以下のとおり。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳=オーランド•ファイジズ・ただ言葉を送って—収容所での愛と生存の真の物語
 再開しようと思うが、この書物の著者のOrlando Figesによる序言(Preface)を試訳することから始めよう。段落の区切りを示すため、原書にはない数字番号を付す。
 この書物の性格、内容等のある程度が、すでに書かれている。
 この書物のカバー裏の筆者紹介によると、Orlando Figesは、<クリミア戦争>、<囁き>(以上、邦訳書あり—秋月)、<人民の悲劇>(ロシア革命史—秋月)の著者で、これらは20 以上の言語で翻訳された。特に挙げればWolfson 歴史学賞、LosAngelsTimes書籍賞を受けており、ロンドン大学Birkbeck 校の歴史学教授。
 まだ試訳を掲載していない<Epilogue >によると、この著者は、子どもも孫もいるレフとスヴェトラーナ夫妻に、2008年3月に会って話している。これ以上の言及は、当面は避ける。
 二人の学生時代のものと思われる写真は、すでにこの欄に掲載した(No.2203/2020.04.16 、原書p.180 とp.181の間にある)。
 以下は、表紙。

 IMG_2705 IMG_2706

 ——
 序言(Preface)。
 (01) 三個の古いトランクが届けられたばかりだった。
 それらは入り口の通路に置かれていて、人々が忙しい部屋に入るのを邪魔していた。その部屋で、公衆や歴史の研究者たち仲間をモスクワの記念館オフィス(offices of Memorial)が受け入れていた。
 私は2007年秋に行って、そこにいる、人権組織研究部門の何人かの仲間を訪れた。
 トランクに私が関心を持ったことに気づいて、それらの中には20年間存続している記念館が受け取ったうちで最大の個人的な(private)資料がある、と教えてくれた。
 その資料は、レフおよびスヴェトラーナ・ミシュチェンコ(Lev and Svetlana Mishchenko) が持っていたものだった。この二人は、1930年代に学生として出逢ったが、1941-45年の戦争とその後にレフが収容所(Gulag)に収監されたことで引き裂かれることになった。
 誰もが私に言い続けたように、二人の愛の物語(love story)は尋常なものではなかった。
 (02) 我々は最も大きなトランクを開けた。
 そのようなものを私は見たことがなかった。糸とゴム輪で括られた束として積み重ねられた数千の手紙、ノート、日記帳、資料、そして写真。
 資料の最も貴重な部分は、三つめの最も小さなトランクにあった。それは、皮の飾りと簡単に爪で開けられる金属鍵のついた、茶色の合板ケースだった。
 我々は中にある手紙の数を判断できなかった—たぶん2000通だと推測した。但し、そのケースの重さは分かった(37キログラム)。
 手紙は全て、レフが Pechora の収監者でいた間にレフとスヴェトラーナが交換した愛の手紙(love letters)だった。Pechora 収容所は、ロシアの極北にある、スターリン時代の最も悪名高い労働収容所の一つだ。
 最初のものはスヴェトラーナが1946年7月に書き、最後のものはレフが1954年7月に書いていた。
 二人はお互いに、週に少なくとも二回書き送っていた。
 これは、かつて見出されたうちで、完全に最大の、収容所に関する貴重な資料だった。
 しかし、その手紙類が特筆すべきものであるのは、量によるだけではない。特筆すべきは、誰もその手紙類を検閲して妨害しなかった、という事実だった。
 手紙類は、レフに共感し同情する自発的な労働者や役人たちによって、労働収容所の内外へとこっそりと運ばれていた。
 手紙類の秘密の出し入れに関する噂は、収容所にある多数の俗話(folklore)の一つだった。しかし、この規模での非合法の郵便配達が行われていたとは、かつて誰も想像していなかった。
 (03) 多数の手紙は固く縛られていたので、私は隙間に指を差し込んで最初のものを無理して取り出さなければならなかった。
 それは、スヴェトラーナからレフに宛てて書かれたものだった。
 短い宛先は、こう読める。
  Komi ASSA
  Kozhva Region
  Wood-combine
  C(orrection)C(amp) 274-11b
  To Lev Glebovich Mishchenko
 (04) 私は、黄色い紙に書かれたスヴェトラーナの小さな、際どく判読できる手書き文字を読み始めた。その紙は私の指で破れた。
 「そうして、私はここにいます。あなたに何を書くべきなのかを知りすらもしないで。
 私があなたを想っていることを? でも、あなたは分かっている。
 私は時間の外で生きていると感じる。そして、今はまるで休憩時間であるかのごとく、私の人生が始まるのを待っている、と。
 私が何をしようと、たんに暇つぶしをしているにすぎないように思えます。」
 同じ束から、別の手紙を取り出した。
 それは、レフからのものの一つだった。
 「希望をもって生きるのと希望なしで生きるのと、どちらが簡単かと、かつてあなたは僕に尋ねた。
 僕は、どんな種類の希望だって、呼び起こすことができない。ただ、希望のないままで静穏でおれると感じている。……。」
 私は、二人の間で交わされる会話に耳を澄ました。
 (05) 手紙をめくるにつれて、私の昂奮は増した。
 レフの手紙は、労働収容所の詳細な事項について、豊かな内容を含んでいた。
 それはおそらくは、世に明らかにされる、収容所の日常生活に関する同時代の、唯一の最大の記録文書だった。
 従前の収監者が労働収容所について多数の追想書を出版していたけれども、この未検閲の手紙類と比べられるものは一つもなかった。それは、鉄条網の区域の内部で、当時に書かれたものだつた。
 ただ一人の想定される読み手に、どのように過ごしているかを説明しようと書き記しながら、数年間にわたるレフの手紙は、次第にますます、収容所の状況を明らかにしていた。
 スヴェトラーナの手紙は、レフに希望を与えて、収容所にいる彼を支えることを意図していた。しかし、私はすみやかにつぎのことを認識した。スヴェトラーナの手紙は、彼に対する彼女の愛を生きたまま保とうとする彼女自身の闘いの物語でもある、と。
 (06) おそらく2000万の人々が、大部分は男子が、スターリンの労働収容所を耐え忍んだ。
 収監者たちは平均して、一ヶ月に一度だけ手紙を出したり受け取ったりするのを許された。しかし、これら全ての文通内容は検閲された。
 全ての通信内容が先ず警察当局によって検閲されるとき、手紙によって親密な関係を維持し続けるのは不可能だった。
 八年ないし十年の判決は、関係の破壊を決まって意味した。恋人、妻または夫、家族全員との関係を、収監者たちは喪失した。
 レフとスヴェトラーナは、例外だった。
 この二人は、手紙を出し、ときには非合法に逢ったりすらしただけではなく—後者は甚だしい収容所規則違反で、より苛酷な制裁の原因となった—、二人の愛の物語の記録として、全ての貴重な手紙類を持ち続けた(これはもっと大きい危険に彼らを晒すものだった)。
 (07) 最も小さなトランクにはほとんど1500通の手紙があることが判明した。
 それら全てを書き写すのに、二年以上がかかった。
 解読するのは困難だった。暗号的言葉がたくさんあり、明瞭にされる必要のある細かな事項やイニシャル文字があったからだ。
 こうした手紙類は、この<Just Send Me Word>の資料的な基礎になっている。また、この書物は、以下にももとづいている。レフとスヴェトラーナ、彼らの親戚、友人との何回ものインタビュー、Pechora 収容所の他の収監者たちが書いたもの、この町への訪問や住民たちとのインタビュー、およびその労働収容所自体の諸資料。
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