秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ルイセンコ

2257/池田信夫ブログ019-遺伝・環境・自己。

 池田信夫ブログマガジン8月24日号(先週)は①技術は遺伝するか、②国民全員PCR検査がもたらす「アウシュヴィッツ」、③新型コロナは「一類相当」の感染症に格上げされた、④名著再読:例外状態、のいずれも、関心を惹く主題で、密度が濃い。
 上の①の一部についてだけ「引っかかって」、それに関連する文章を書く。
 つぎの一文だ。すでになかなか刺激的だ。
 「獲得形質は遺伝しない、というのは中学生でも知っている進化論の鉄則である

  先祖が<偉い>からその子孫も<偉い>のかどうか。
 万世一系の天皇家の血は「尊い」という意識の適否に関する問題には触れないでおこう。
 だが、例えば源頼朝は伊豆に流されても「貴種」として大切にされた、といわれるように、かつては「親」がどういう一族・身分かは「子」にとって決定的に重要だった。
 そんな意識・感覚がまだ残っている例がある。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)は、重要人物として登場させる小田村寅次郎について、何と少なくとも四回も、小田村は<吉田松陰の妹の曾孫>だった、とわざわざ付記している。一度くらいは当該人物の係累紹介として言及してよいかもしれないが、四回は多すぎる。しかもまた、文章論理上、全く必要のない形容表現なのだ。
 これが、吉田松陰一族関係者だととくに書くことによって(小田村は吉田松陰ではなくその妹の「血」を直接には引いているのだが)、小田村寅次郎の評価または印象を高めるか良いものにしようという動機によるだろうことは明らかだ。
 なお、その影響を受けて、この書に好意的な結論的評価だけを与えた知識人・竹内洋(京都大学名誉教授)もまた、小田村について吉田松陰の係累者だとその書評の中でとくに書いている。
  獲得形質は遺伝しないのではなく遺伝し、かつまた生来(生得)形質も「子」に遺伝する、と多くの人が考えた国や時代もあった(ある)ようだ。
 北朝鮮では全国民が十数の「成分」に区別されている、という話を読んだことがある。あるいは、「成分」の違いによって、国民は十数に分類されている。
 日本帝国主義と戦った勇士の子孫から、旧日本協力者あるいは「資本家」の子孫まで。日本育ちか否かも考慮されるのかもしれない。これは、「親」の職業・地位・思考は「子」に遺伝する、という考えにもとづくものと思われる。
 かつてのソヴィエト連邦でも、少なくともスターリン時代、革命前の「親」の職業はその子の「思想」にも影響を与えると考えられたと見られる。
 ブルジョアジー・「資本家」(・富農)の「子」はその思想自体が<反社会主義>だと考えたのだとすると、「遺伝」を肯定していたと見てよいのではないか。
 上のことを側面から強く示唆する件が、自然科学・生物学・遺伝学の分野であった。<ルイセンコ事件>とも言われる。
 L・コワコフスキによると(2019/02/21、No.1921の試訳参照)、ルイセンコ(Lysenko)は「遺伝子」・「遺伝という不変の実体」は存在せず、「個々の生物がその生活を通じて獲得する特性はその子孫たちに継承される」と出張した。この考えは雑草のムギ化やムギの栽培方法の改革(「春化処理」)による増産、そして農業政策に具体的には関係するものだったが、1948年には党(・スターリン)の「公認」のものになった。
 参照、L・コワコフスキ著試訳/▶︎第三巻第四章第6節・マルクス=レーニン主義の遺伝学
 池田のいう「中学生でも知っている進化論の鉄則」をソ連共産党やスターリンは少なくともいっときは明確に否認していたわけだ。
 この否定論は、人間全改造肯定論であり、人間の改造、思想改造(・洗脳)は可能だ、そしてそれは子孫にも継承させうる、という考え方となる。
 「獲得形質」の強制的変更によって将来のヒト・人間も<変造>できる、というものだ。数世紀、数十世紀にわたっての自然淘汰、<変化>はありうるのだろうが、人間の、特定の「権力」の意思・意向による人間の「改造」論こそ、マルクス主義、あるいは少なくともスターリン主義の恐ろしさであり、このような<人間観>こそ、「暴力革命」容認とやら以上に恐ろしいイデオロギーではないだろうか。
 ルイセンコ説はソ連末期には否定されたが、フルチショフによる寛大な対応もあったとされ、かつまたこの説は、日本の生物学界にも影響を与えたらしい。
 戦後の民主主義科学者協会(民科)生物部会はルイセンコに好意的で、そのような説を説いた某京都大学教授もいた、とされる。ソ連の<権威>によるのだろうから、怖ろしいものだ。
 なお、ほとんど読んでいないが、つぎをいつか読みたい。
 中村禎里/米本昌平解説・日本のルイセンコ論争(新版)(みすず書房、2017)。計259頁。
  J・ヘンリック/今西康子訳・文化がヒトを進化させた-人類の繁栄と<文化・遺伝子革命>を取り上げての池田信夫の文章に少し戻る。
 リチャード・ドーキンス・利己的遺伝子(邦訳書、40周年版・2018)を読んでいないし、文化的遺伝子(ミーム)のこともよく分からない。但し、技術や文化をヒト・人間が生むととともに、そうした技術・文化自体がヒト・人間を「進化」させ、変化させたことも事実だろう。
 しかし、言葉や宗教・道徳の発生を含むそうした「進化」・変化はそれこそ数万年、数千年単位で起こったものだろう。それもまた「獲得形質の遺伝」と言えなくもないとしても、「技術は遺伝するか」(あるいは文化・宗教は遺伝するか)というように、「遺伝」という言葉・概念を用いるのは、やや紛らわしいのではないかと感じる。
 

1887/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.101-p.105、2004年合冊版p.868-p.871。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)③。
 (20)スターリンが解説する弁証法的および歴史的唯物論は、プレハノフ、レーニンおよびブハーリンに従ったマルクス主義の、陳腐で図式的な版型だ。すなわち、弁証法は現実の全側面を支配する普遍的「諸法則」を示すもので、人間の歴史はこの諸法則を適用した特殊な場合だと、広大無辺にかつ野心的に主張する哲学。
 この哲学は、天文学と同じ態様で自らを「科学的」だと主張し、社会過程は他のものと同様に「客観的」で、予見可能だと宣言する。
 この点で、ルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)が再構築したマルクス主義の見地とは根本的に異なる。これによれば、プロレタリアの意識の特定の場合に、社会過程とその過程の知覚は同一のものになり、社会に関する知識は社会を変える革命的実践と合致する。 
スターリンは、一般的な自然主義(naturalism)を採用した。それは第二インターナショナルのマルクス主義者たちに支配的だったもので、そこには「理論と実践の統一」という特有のマルクス主義的見方が入り込む余地はなかった。
 確かにこの定式は承認されていて、スターリンや随行哲学者たちががあらゆる機会に強調したものだった。
 しかし、その持つ意味は実際には、実践が理論に優越する、理論は実践の補助的なものだ、という主張へと変質していた。
 この考え方に沿って、学者たちに対して-とくに1930年代初めの科学アカデミーのイデオロギー的再建の後で-、工業にとって直接の利益になり得る分野に研究を限定すべきだという圧力が加えられた。
 この圧力は、全ての自然科学に、緩和されてだが数学に対してすら、適用された。
 (数学は、マルクス主義に関する博識の高僧たちでも理解するふりをしなかったので、ソヴィエト同盟で、イデオロギー的な監視がほとんどなかった。その結果として標準は維持され、ソヴィエト数学は時代による破壊から救われた。)
 「理論と実践の統一」は、もちろん人文科学にも適用された。だが、少しばかりは異なる意味でだった。
 大まかに言って、自然科学は工業へと、人文科学は党の宣伝活動へと繋がれていた。
 歴史、哲学および文学史や芸術史は、「党と国家に奉仕する」ものだと、換言すれば党の主張を守り、そのときどきの決定に理論的な支援を提供するものだと、想定された。//
 (21)自然科学は直接の技術的有用性がある研究分野に限定すべきとの要求は重要な分野についてはきわめて強く、その結果としてすみやかに、自然科学は技術へと落ち込んだ。
 しかしながら、より致命的ですらあったのは、科学研究の現実的成果をマルクス主義的「適正さ(correctness)」の名前のもとにイデオロギー的に統制しようとする試みだった。
 「観念主義」の相対性理論は、1930年代には、哲学者たちやA. A. Maksimovが率いる未熟な物理学者たちからの砲火を浴びた。
 同じ時期にはTrofim D. Lysenko(ルィセンコ)が登場した。この人物の役割は、マルクス=レーニン主義に従ってソヴィエトの生物学を革命化し、Mendel やT. H. Morgan の「ブルジョア」理論を破壊することだった。
 農学者のLysenko は、様々の植物栽培技術を探求し、経歴の初期に、それらから普遍的なマルクス主義の遺伝学理論を発展させようと決意した。
 彼は、助手のI. I. Prezent とともに1935年の後に、現代遺伝学理論を攻撃し、遺伝による影響は環境を適切に変化させることによってほとんど完全に排除することができる、と主張した。遺伝子なるものは、遺伝子型と表現型(phenotype)の区別と同様に、ブルジョア的考案物だ。
 「遺伝は永続的な実体をもつ」ことを否定し、生きている有機体を環境の変化によって望むとおりにまで変化させることができる、という主張がマルクス=レーニン主義(「全てのものは変化する」)と合致する、と党指導者たちやスターリン自身が納得するのは困難なことではなかった。また、人間は、とりわけ「ソヴィエト人間」は、その心に思い浮かべたように自然を変化させることができる、とするイデオロギーにそれが見事に適合している、ということについても。
 Lysenko は急速に党の支持を獲得し、研究所、研究者そして諸雑誌等々に対する影響を大きくした。そして、我々が知るだろうように、彼の革命的理論は1948年に完全な勝利をかち得た。
 党の宣伝はおよそ1935年以降から絶えず彼の発見を褒め称え、その実験には科学的な価値がないと反対していた者たちは、まもなく沈黙へと追い込まれた。
 新しい理論を支持するのを拒んでいた優れた遺伝学者のNicholay I. Vavilov は、1940年に逮捕され、Kolyma の強制収容所で死んだ。
 予期され得たことだが、たいていのソヴィエト哲学者たちは、Lysenko の見解に喝采を送る一群に加わった。//
 (22)今日では、Lysenko は無学で、山師だったということを誰も疑っていない。また、彼の経歴は、科学や文化の点だけではなくて経済や行政の分野でもソヴィエトのシステムがいかに機能していたかを教示してくれるよい例だ、ということも。
 後年にはより明確になった自己破壊的な特質が、すでに見えていた。
 党が全ての生活領域で無制限の権限を行使し、システム全体が指令の一方方向の連鎖をもって階層的に組織されていたことからして、どの個人の経歴も、権力に対する従順さや追従や弾劾をする技巧の熟達ぶりに依存することになる。
  他方では、主導性、自分自身の心性、あるいは真実に対する最小限度の敬意すらを示すことは、致命的だ。
 当局者たちの主要な目標がその権力を維持し、増大させることにあるとき、科学(とくにイデオロギー的に統制されている場合)についても経済管理についても、間違った人々が頂上へと進むだろうことは不可避だ。
 非効率性と無駄は、ソヴィエト体制の中に組み込まれている特徴だ。
 政治および「保安」を理由とする不適切で全体的な情報流通の制限の増大によって、経済発展は妨害される。
 経済を合理化しようとする後年の試みはある程度は成功したが、それは全体主義原理から、あるいはスターリニズムの体制が完成にまで至らしめていた「統一」という理想から、離れたかぎりでのみのことだった。//
 (23)1930年代のソヴィエト文化のもう一つの特質は、ロシア民族主義の成長だった。
 これはのちに頂点に到達した現象でもあるが、スターリンの演説が社会主義が生むことができかつ生まなけれならない「強いロシア」に関する言葉を述べ始めた、1930年代の初めにはすでに感知することができた。
 愛国的主題は次第に宣伝活動で強調されはじめ、ソヴィエトの愛国主義とロシアのそれとが同時に大きくなった。
 ロシアの歴史の栄光が、民族的誇りや自助努力への訴えの中に再生された。
 ウズベク人(the Uzbeks)のような、以前はアラビア文字で彼らの言語を記していて、ソヴィエト当局によってラテン・アルファベツトを与えられた諸民族は、今や、キリル(Cyrillic)の形式を採用するように強いられた。その結果として、同じ世代の者たちが三種類のアルファベットを使うようになった。
 ソヴィエト同盟の中の非ロシア共和国で権力を行使する「民族の幹部たち(cadres)」という考え方は、すぐに作り話(fiction)であることが分かった。すなわち、理論的にではないが実際には、党や国家行政の最高部の職(posts)は、通常はモスクワが任命したロシア人によって占められた。
 国家権力のイデオロギーは、徐々にロシア帝国主義のそれと区別できないものになった。//
 (24)ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義は、きわめて早く、政策を決定する自立した要素ではなくなった。
 必然的に、その内容は内政または外交問題に関する特定の動向を正当化するために、曖昧で一般的なものにならなければならなかった。NEP(ネップ)または集団化、ヒトラーとの友好または彼との戦争、内部体制のあれこれの厳格化または緩和、等々。
 そして実際に、理論は「一方で」上部構造は土台の産物かつ道具だとし、「他方で」上部構造は土台に影響を与えるとするがゆえに、経済を規制する、あるいは文化を多かれ少なかれ統制する、全ての考えられ得る政府の政策は、マルクス主義と合致した。
 「一方で」個人は歴史を作らず、「他方で」歴史的必然性を理解する例外的な個人は歴史に重要な役割を果たすとのだとすれば(そしていずれの見方もマルクスやエンゲルスの引用によって支持され得るのだとすれば)、社会主義の専制者に聖なる栄誉を与えることも、その実践を「逸脱」だと非難することも、いずれも同等にマルクス主義に合致している。
 「一方で」全ての民族は自己決定の権利をもち、「他方で」世界社会主義革命の根本教条が至高の理念だとすれば、柔和であれ厳格であれ、帝国に住む非ロシア人民衆の民族的願望を挫折させる目的の政策は、疑いなくマルクス主義的だ。
 このようなことは実際、スターリンのマルクス主義の両義的な基礎であり、その曖昧で矛盾する様相は、「弁証法」原理に似たようなものだった。
 かかる観点からすると、公式のソヴィエト・マルクス主義の機能と内容はいずれも、スターリンの死後も同じままだった。
 マルクス主義は、たんにロシア帝国の現実政策(Realpolitik)を理論的に粉飾するにすぎないものになった。//
 (25)こうした変化の理由は、きわめて単純だった。つまり、ソヴィエト同盟はその定義上人間の進歩の基地であるがゆえに、ソヴィエトの利益に奉仕するものは何であれ進歩的であり、そうでないものは反動的なのだ。
 歴史上のその他の大国と同様に帝制ロシアは、その対抗国を弱体化させるために少数民族の民衆の願望を支援した。ソヴィエト同盟もまた、最初からそうした政策を追求した。しかし、異なる口実(guise)によってだった。
 「封建的な」民族長老(sheikh)やアジアの皇子ですら、スターリンによれば、帝国主義の前線を掘り崩すかぎりでは、「客観的に」進歩的な役割を果たした。
 これは完全に、世界革命に関するレーニンの理論と合致していた。レーニンの理論は、非社会主義者、非プロレタリアートおよびマルクス主義の用語では「反動的」勢力のですら、それらの参加を是認し、また要求しすらするものだった。
 弁証法の見地からは、世界の別の大国の利益に敵対的であるならば、反動的な者たちの活動はただちに進歩的なものになる。
 同じく、ソヴィエト同盟はその定義上世界的解放運動の中心者なので、1917年以降は、つぎのことは自明のことになった。すなわち、外国の領域の一部への武装侵入(incursion)やその占領は全て、侵略(invasion)ではなく、解放する行為だ。
 こうしてマルクス主義は、帝国主義者がもつ道具として、帝制ロシアが異民族を支配するのを正当化しようとした不器用でかつ滑稽ですらある基本的考え方よりもはるかに有用な論拠の目録を、ソヴィエト国家に提供した。//
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 ③終わり。かつ、第2節も終わり。第3節の表題は「コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー的変容」。 
 
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