秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

リベラリズム

2090/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)③。

 このテーマでの前回②で憲法概説書として「あくまで一例」を示したつもりだが、岩波書店刊行のものであることを気にする人がいるかもしれないので、(日本国憲法に即しての)憲法学における「自由」の分類・体系化の試みの例を、もう一つ示しておこう。
 佐藤幸治・日本国憲法論(成文堂、2011)。佐藤は英米系の憲法論に詳しいはずだが、消極・積極・能動といった分類はドイツの学者のそれを思い起こさせる。一種の「美学」・「アート」だから、「自由」の分類・体系化に絶対的なものはない。
 目次構成から見ると、つぎのとおりだ。一部につき省略や簡略化をする。
 第二編・国民の基本的人権の保障。
  第1章・基本的人権総論。
  第2章・包括的基本的人権。
   第1節/生命、自由および幸福追求権。
   第2節/法の下の平等。
  第3章・消極的権利。
   第1節/精神活動の自由。p.216~。
    1/思想・良心の自由。
    2/信教の自由。
    3/学問の自由。
    4/表現の自由。
    5/集会・結社の自由。
    6/結社・移転の自由。
    7/外国移住・国籍離脱の自由。
   第2節/経済活動の自由。p.299~。
    1/職業選択の自由
    2/財産権
   第3節/私的生活の不可侵。p.320~。
    1/通信の秘密
    2/住居などの不可侵
   第4節/人身の自由および刑事裁判手続上の保障
    1/奴隷的拘束・苦役からの自由
    2~6/<略>。
  第4章・積極的権利。〔生存権、等々〕
  第5章・能動的権利。〔参政権、等〕
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この書が、「自由」として「個人の属性」・「個人的精神」にかかわる<精神的自由>に限ろうとしているようであることを、特段批判するつもりはない。<精神的自由>・<精神活動の自由>といっても、上記も示すように、決して同一内容ではないのではあるが。
 従って、猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中公文庫、2015/叢書2001)のような経済学者による、<自由>を冠する書物を無視していても、問題視できないだろう。
 但し、「自由」論は、Liberty 系列かもしれないが、「リベラリズム」とか「リバタリアニズム」に関係しており、例えば以下の<新書>・<文庫>を秋月の広大な?書庫から見つけ出すことができる。
 森村進・自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門(講談社現代新書、2001)。
 仲正昌樹・「不自由」論-何でも「自己決定」の限界(ちくま新書、2003)。
 井上達夫・自由の秩序-リベラリズムの法哲学講義(岩波現代文庫、2017/双書2008)。
 こうした現代的?議論に西尾幹二は関心がないのかもしれない。それに、上の三つは、法学部出身者か、法学部に在職している人たちの書物だ。このことも、とくに疑問視することはしない、
 もちろん、以下の書物にも関心はないのだろう。
 ジョン・グレイ/松野弘監訳・自由主義の二つの顔-価値多元主義と共生の政治哲学(ミネルヴァ書房、2006)。
 =John Gray, Two Faces of Liberalism (2000).
 そして、巻末の計14頁に及ぶ「主な参考文献」から見ると、<歴史>、<思想・哲学>分野の文献が多い。
 但し、疑問をもつのは、<思想・哲学>での「自由」を表題の一部とする著名かもしれないものを欠落させている、ということだ。邦訳書があって所持しているものに限る。
 H・ベルクソン=中村文郎訳・時間と自由(岩波文庫、2001)。
 このベルクソンの書は、自由意思の存否を検討する中で茂木健一郎も触れていた。
 また、L・コワコフスキの大著は、このフランスの哲学者は、スターリン体制の中で「ブルジョアア」哲学者で「観念論」の代表者として扱われた、とかなり長く言及していた。
 また、L・コワコフスキがフランクフルト学派に関する叙述の中で言及していた中には、つぎの書もあった。
 エーリヒ・フロム=日高六郎訳・自由からの逃走(東京創元社、1952)。
 西尾は第2章の中で「自由が豊富に与えられることは自由をもたらしません。人間は大きな自由に耐えられない存在なのです」と書く(p.76)。L・コワコフスキは1978年(英訳)の書でこのE・フロムの著にも言及し、彼の考え方をこう簡単に叙述している。
 「我々は自由を欲するが、自由を恐れもする。なぜならば、自由とは、責任と安全不在を意味しているからだ。従って、人間は権威や閉ざされたシステムに従順になって、自由の重みから逃亡する。これは、生まれつきの性癖だ。破壊的なもので、孤立から自己諦念への、偽りの逃亡だけれども。」-本欄№2027/2019年8月16日参照。
 タイトルに用いているかだけが重要なのではないとしても、上のベルクソンとE・フロムのニ著は、「自由」に(も)関係するほとんど必須の哲学文献ではないのだろうか。   
 リベラリズムやリバタリアニズムを扱うべきだったとは思わないが、<時間と自由>、<自由からの逃亡>くらいは参照しいほしかったものだ。これは、「ないものねだり」だとは思われない。
 ともあれ、西尾幹二が挙げる「主な参考文献」が本当にきちんと吸収され、この書に利用されているのかを疑うとともに、よくは分からないが、重要な文献が参照されていないのではないかと思える。
 西尾は第1章関係文献として、H・アレント〔アーレント〕の全体主義論・全三巻の邦訳書を挙げている。西尾のこの書に関してまだ第1章にとどまって、ハンナ・アレントにも次回では言及する。

1827/読書しないでメモ。

 WiLL8月号増刊・歴史通(ワック、2018)。
 歴史通(ワック)というのはワックの季刊誌かと思っていたが、今は月刊誌の増刊号という扱いなのだろうか。
 表紙に、<朝日・NHKが撒き散らす「歴史」はフェイクだらけ>とある。
 朝日・NHKが撒き散らす「歴史」はフェイクだらけ、だとして、では、月刊Willの執筆者(・編集者)が撒き散らしている、いや失礼、適切に?伝播させている「歴史」には、「フェイク」はないのだろうか
 月刊正論、月刊Hanada、月刊WiLLの歴代編集者や執筆人の多くは、<日本会議史観>に染まってはいないのだろうか。「東京裁判史観」とか故渡部昇一のように言い出すと、すでにおかしい。
 櫻井よしこは国家基本問題研究所理事長だが、この「研究所」の評議員を務める編集者もいた。
 そして、伊藤哲夫、櫻井よしこ、江崎道朗らは、なぜかまず、聖徳太子の<十七条の憲法>を高く評価する。
 聖徳太子は皇族だったとされる。しかし、聖徳太子は神道よりも仏教に縁が深く、かつ政治的には敗北者だった。
 聖徳太子および近接の天皇・皇族たちの墓地(御陵)は飛鳥を含む奈良盆地にはなく、いまの大阪・南河内にある(太子町!)。伊藤哲夫、櫻井よしこ、江崎道朗らは、なぜかを説明できるのだろうか。
 日本にもかつて<憲法>があったなどという<言葉・概念>の幼稚なトリックに嵌まっていなければ幸いだ。
 つづいてなぜか、1000年も飛んで、後醍醐天皇も通過して、<五箇条の御誓文>を褒め讃える。
 そして、江崎道朗は、十七条の憲法・五箇条の御誓文・大日本帝国憲法は「保守自由主義」で一貫しているのだとのたまう。
 こういう単純化はたいていか全てそうだが、間違っている。<フェイク>の最たるものだ。
 ところで、こういう増刊ものは、新しい論考や座談だけではなくて、すでに発表されている論考等を再度掲載していることがある。
 <一粒で二度おいしい>のは出版社(・編集者)と執筆者(余分の収入になるとすれば)であり、迷惑なのはきっと<知的に誠実な>、新鮮な情報を期待している読者だろう。
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 八幡和郎・「立憲民主党」・「朝日新聞」という名の"偽リベラル"(ワニブックス、2018)。
 入手して、「はじめに」だけ一瞥した記憶がある。
 八幡和郎は文筆で「食って生きている」人物のようで、多数の安っぽい書物を敬遠してきたのだが、意外によいことを書いていることを、この半年くらいに、この人のブログで知った。したがって、現在は敬遠してはいない。
 池田信夫・所長とどういう関係にあるのか詳しく知らないが、親しくはあるようだ。
 そして、池田が八幡に対して「新手の皇国史観」だと批判したら、八幡が「それはそうかもしれないけれど」とか反論していたのが面白かった。
 面白かったというのは、内容もそうだが、たぶん同じ共同ブログサイトの執筆者でありながら、相互に批判し合っていたからだ。
 内容の当否に立ち入らないが、こういう<自由さ・率直さ>はなかなか面白く、よいと思われる。
 産経新聞の「正論」欄編集者が元原稿にあった特定の人物(批判された櫻井よしこ)の名を事実上削除した感覚とは、かなり異なるだろう。
 さて、上の本。「読まない」で書くが、第一に、望むらくは、秋月瑛二が<敵視している>勢力のことをやはり批判している、と理解したいものだ。立憲民主党と朝日新聞が明記されているところをみると、大いに期待できるだろう。
 第二、私は、「左翼」または共産主義(・社会主義)者・日本共産党および<容共>の者たちを、この欄で批判している。簡単には「左翼」または「容共」論者だ。
 しかして、八幡和郎のいう「偽リベラル」とはいったいどういうつもりの呼称なのだろう。
 もちろん、「本当の」・「真の」リベラルではない、ということは簡単に理解できる。
 中身を読めば書いているのかもしれないが(そう期待したいが)、リベラルまたはリベラリズムの概念論争に決定的な意味があるとも思えない。
 気になるのは、八幡和郎は「偽リベラル」を何と簡単に呼称しているかだ。立憲民主党や朝日新聞等でははっきりしない。要するに、共産主義(・社会主義)者・<容共>者ときちんと呼称して、対決しているか否かだ。
 私の理解では、立憲民主党と朝日新聞が「左翼」の中核にいるわけでは決してない。
 しかし、<特定保守>論壇もそうなのだが、商売として<左翼>をやっている気配がたぶんにある立憲民主党と朝日新聞を攻撃すればよい、というのでは不十分だろう。
 批判の矢はきちんと、日本共産党「等」の今に残る共産主義(・社会主義)者に向けられなければならない。
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 以上の二者。いずれも、本当に「読まないで」書いてしまった。
 八幡の本は入手して数ヶ月、本棚のどこかに置いたままだ。「本来の」リベラルの立場からするという、原理的「左翼」あるいは原理的護憲派、憲法九条死守派に対する批判など、簡単に想像できそうであるからでもある。大きく間違っていれば、幸いだ。

1694/井上達夫-法哲学者の欧米と日本の「現実」。

 井上達夫、1954~。現役の東京大学教授・法哲学
 一度だけ単直に言及して、お叱りもネット上で受けた。
 あほな人は簡単に批判できるが(櫻井よしこ、平川祐弘、倉山満ら)、この人はそうはいかないだろう。
 じっくりと読んで批判的・分析的コメントをしたい。
 まだその時機ではないが、しかし、この無名の欄だからこそ、備忘の「しおり」的に書いておこう。
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 さしあたりの直感的な疑問は、以下。
 正義論でも、「リベラリズム」論でもよい。
 井上達夫は、いったい何を対象にして、いったい誰に向かって発言しているのか?
 つまり、こういうことだ。
 世界か、欧米(とくに米・英)か、日本か、日本の<論壇>か、日本の<法哲学界>か?
 さらには、こういうことだ。
 教壇・講壇で語るに必要な、またそのために研究してきた多様な<法哲学・法思想>上の知識、精神的・観念的・理論的な素養でもって、例えば日本の憲法や政治を論ずることができるのはいったい何故か?
 井上達夫がかりに日本の憲法や政治を論じているのだとすると、その基軸・分析枠組みは、欧米に関するそれと同じなのか、同じでよいのか?
 上の問いは、逆に言うと、こうなる。
 井上達夫がもつ(とくに法哲学・法思想・政治思想等の)欧米学者の議論で欧米を見ることは、ある程度の妥当性をもっては、きっとできるだろう。むろん、種々の法哲学者、社会・歴史・思想学者等々がいるのは、秋月瑛二でも知っている。
 しかし、それは、「日本」を語る場合、いかほどに有効か。この観点・視点を欠かせたままでは、適切で合理的な日本国家・日本社会に関する発言、あるいは日本に関する「法哲学・法思想」的観点からの発言にはならないものと思われる。
 日本と自分が日本人・日本国民である、ということの自覚・意識化がどの程度に、なされているのだろうか。
 <論じることの(実践的な)意味>を、どう自覚的に意識しているのだろうか。
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 上はほとんどは、仮定の、疑問だ。むろん、一読、一瞥しての疑問だ。逆にいうと、一読、一瞥しただけを基礎にする疑問だ。だから、「仮の」と言っている。
 井上達夫・リベラルのことは嫌いでも-(毎日新聞出版、2015)。
 知的関心?は山ほどある秋月瑛二は、これを2015年には入手して、ほんの少しだけ見た。冒頭の2頁めで、さっそくずっこけた。井上達夫は書く。
 丸山真男、川島武宜、大塚久雄-「彼らは左翼ではない」。p.7。
 もともと「左翼」、「リベラル」等を人々は多様に用いているので、用語法は自由ではある。
 しかし、秋月瑛二からすると、再三に書いているように、<容共>=<左翼>だ。
 上のうち少なくとも丸山真男は、日本共産党に批判されても(なお、この遡っての批判はたしか1990年代初頭で、日本共産党が最も「知識人」の動揺を怖れていた頃だ)、<容共産主義>であって、「左翼」だ。日本の<古層>に関心があっても、「左翼」だ。
 そのつぎの頁に、井上は書く(述べる)。
 「マルクス主義が自壊した後、保守の攻撃衝動がリベラルに集中的に向けられた」。 p.8。
 これは日本に関する認識であり、その叙述のようだが、本当か?
 「マルクス主義が自壊」とはいったい、何のことだ。大まかに、かつかりに言っても、欧米限りの話ではないか。
 日本で「マルクス主義が自壊」したとは、いったい何のことだ?
 「日本会議」と全く同じことを、井上達夫も述べている。
 これは<学者の頭の中で自壊した(はずだ)」という、多少は願望も込めた、認識の叙述であるならば、何とか、理解できる。
 端的にいって、井上達夫にとって、日本共産党とは何なのだ。日本にはマルクス主義者・共産主義者あるいはこれらの組織・団体は「自壊」して消失しているのか。
 この人もまた、「日本会議」と同じ幻想を振りまいているのではないか。
 ついで、「保守の攻撃衝動がリベラルに集中的に向けられた」。p.8。
 これもどうやら日本に関する話のようなのだが、ここでの「保守」とは何だ。「リベラル」とは何だ?
 これらを何となく理解するとして、「冷戦の終了」後に、前者が後者を<集中的に攻撃した>とは、いったいいかなる事実・現象を捉えて言っているのだろうか?
 井上達夫による<捏造>・<空想>ではないか。
 「保守の攻撃衝動がリベラルに集中的に向けられた」-日本で生じたいったいどういう現象のことなのか?。
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 非・反日本共産党で非・反「特定保守」ならば、私の<仲間>でもある。
 その憲法論も、私は「理解」できるつもりでいる。私が何とか「理解」できないような議論をしてもらっては困る。
 しかし、えてして、講壇学者さまたちは、上の両派とは異なる意味でだが、<独自の観念世界・観念体系、思想イメージ・理論イメージ>を作り、それを本当は複雑な思想・思潮・論壇等、そして<現実>に適用するという嗜好・志向をもっている
 理論・論理に興味深い点が多々あっても、<現実>から浮いていてはあまり意味がない。
 といった観点から、さらに井上達夫から「勉強」させていただこう。

0890/資料・史料ー自民党2010年綱領。

 <自由民主党HPより>
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 ● 平成22年(2010年)綱領
 平成22年1月24日
現状認識
 我が党は、「反共産・社会主義、反独裁・統制的統治」と「日本らしい日本の確立」―の2つを目的とし、「政治は国民のもの」との原点に立ち立党された。平成元年のベルリンの壁の崩壊、平成3年のソ連邦の解体は、この目的の1つが達成されたという意味で、我が党の勝利でもあった。そこに至るまでの間、共産主義・社会主義政党の批判のための批判に耐え、我が党は現実を直視し、日米安全保障条約を基本とする外交政策により永く平和を護り、世界第2の経済大国へと日本を国民とともに発展させた。
 日本の存在感が増すにつれ、国際化のなかで我々は多くのものを得た反面、独自の伝統・文化を失いつつある。長寿国という誇るべき成果の反面、経済成長の鈍化と財政悪化からくる財政諸機能の不全に現在も我々は苦しんでいる。少子化による人口減少は国の生産力を低下させると言われる。我が国は、これ等の現実を明るく希望ある未来に変えるため、少子化対策とともに、教育の充実と科学技術開発に国民資源を注力することにより生産性を向上させ、長寿人口の活用と国民資質の向上、国際化への良き対応により、経済成長が達成でき、国民生活の充実が可能なことを世界に示さねばならない。
 我々は、日本国及び国民統合の象徴である天皇陛下のもと、今日の平和な日本を築きあげてきた。我々は元来、勤勉を美徳とし、他人に頼らず自立を誇りとする国民である。努力する機会や能力に恵まれぬ人たちを温かく包み込む家族や地域社会の絆を持った国民である。家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、公への貢献と義務を誇りを持って果たす国民でもある。これ等の伝統的な国民性、生きざま即ち日本の文化を築きあげた風土、人々の営み、現在・未来を含む3世代の基をなす祖先への尊敬の念を持つ生き方の再評価こそが、もう1つの立党目的、即ち「日本らしい日本の確立」である。
 我が党は平成21年総選挙の敗北の反省のうえに、立党以来護り続けてきた自由と民主の旗の下に時代に適さぬもののみを改め、維持すべきものを護り、秩序のなかに進歩を求め、国際的責務を果たす日本らしい日本の保守主義を政治理念として再出発したいと思う。我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない。自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい。従って、我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。これと併せて、政治主導という言葉で意に反する意見を無視し、与党のみの判断を他に独裁的に押し付ける国家社会主義的統治とも断固対峙しなければならない。また、日本の主権を危うくし、「日本らしい日本」を損なう政策に対し闘わねばならない。我が党は過去、現在、未来の真面目に努力した、また努力する自立した納税者の立場に立ち、「新しい日本」を目指して、新しい自民党として、国民とともに安心感のある政治を通じ、現在と未来を安心できるものとしたい。


1.我が党は常に進歩を目指す保守政党である

(1) 正しい自由主義と民主制の下に、時代に適さぬものを改め、維持すべきものを護り、秩序のなかに進歩を求める
(2) 勇気を持って自由闊達(かったつ)に真実を語り、協議し、決断する
(3) 多様な組織と対話・調整し、国会を公正に運営し、政府を謙虚に機能させる

2.我が党の政策の基本的考えは次による

(1) 日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す
(2) 日本の主権は自らの努力により護る。国際社会の現実に即した責務を果たすとともに、一国平和主義的観念論を排す
(3) 自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組を充実する
(4) 自律と秩序ある市場経済を確立する
(5) 地域社会と家族の絆・温かさを再生する
(6) 政府は全ての人に公正な政策や条件づくりに努める
 (イ) 法的秩序の維持
 (ロ) 外交・安全保障
 (ハ) 成長戦略と雇用対策
 (ニ) 教育と科学技術・研究開発
 (ホ) 環境保全
 (へ) 社会保障等のセーフティネット
(7) 将来の納税者の汗の結晶の使用選択権を奪わぬよう、財政の効率化と税制改正により財政を再建する

3.我が党は誇りと活力ある日本像を目指す

(1) 家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、自立し、共助する国民
(2) 美しい自然、温かい人間関係、「和と絆」の暮し
(3) 合意形成を怠らぬ民主制で意思決定される国と自治体
(4) 努力するものが報われ、努力する機会と能力に恵まれぬものを皆で支える社会。その条件整備に力を注ぐ政府
(5) 全ての人に公正な政策を実行する政府。次世代の意思決定を損なわぬよう、国債残高の減額に努める
(6) 世界平和への義務を果たし、人類共通の価値に貢献する有徳の日本
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 <下線は秋月>

0675/佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社)を読む-その2

 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)には、この欄の1/29に「自由主義・『個人』主義-佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社)から・たぶんその1 」と題して、p.57-60あたりに言及した。その後、佐伯・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)へと回ったので、間隔が空いたが、「その2」を続けてみよう。
 1 ・「通俗的リベラリズム、すなわち抽象的な個人、本来何物にも拘束されない個人から出発すると、国家はもっぱら個人の自由の対立物と見なされる」。だが、個人が「伝統負荷的」だとは「国家負荷的」でもあるということだ。国家の解体・衰弱は「個人」も空中分解させる(p.61)。
 ・80年代以降の「個人」と「国家」の矛盾を「やり繰り」するためには、「何物にも拘束されない個人の自由」から「話を始めることをやめなければならない」。かかる「近代主義から決別しなければならない」(p.65)。
 論点は異なるが、もともと「国家」とは「個人」を含む概念かどうかという問題がある。両者を対峙させ、後者の前者からの「自由」、前者の後者(の生命・財産)を「保護する責任」を説くという用法もかなり広く見られる。だが、もともと、主権・領土・国民という三要素を持つとされる「国家」の場合は、その一部・一要素として「国民」を含み込んでいる。とくに社会系学問分野において、この「国家」概念自体が明確にされて議論されているのかどうか。場合によっては、「国家」と「統治(政治)権力」とはきちんと区別して論じる必要がある。但し、主権は「国民」にあるとし、「統治(政治)権力」者は最終的には「国民」だと説明し始めると、またややこしくなる。とすると、「…権力」はやめて、国家と区別される「統治機構(担当者)」と語るべきか。簡単には「政府」という言葉も使われている。だが、この「政府」概念は、<地方政府>=地方自治体を含みがたいという難点があると思われる。そもそも現在の地方自治体は<(地方)政府>といえるほどの実体があるのか、という問題も含めて。だが、地方自治体も「統治機構(担当者)」ではあるだろう。
 2 ・冷戦終結以降の一般的認識はイデオロギー・思想の時代は終わったというもので、代わって「その場しのぎの現実主義」、ほぼその自動的結果としての「大衆迎合主義」が登場している。1993年以降の二つの連立政権(非自民細川・自社さ)も「依然として、慣れ合いと大衆迎合に基礎」をもつ、「大衆迎合的現実主義」の産物で、「五五年体制から一歩も出ていない」(p.66-67)。
 ・「生活者重視」たるキーワードは、元来は「経済的自由主義」・「消費者主権」という陳腐な、だが「決して自明なものとして流通」できない概念の言い換えなのだろう。だが、「生活者」との語によって、「経済的自由主義」・「消費者主権」概念の問題・「まやかし」が隠蔽されている。「場当たり的現実主義」が、「思想的課題」を排除している(p.68)。
 ・政治家のみならず、「おおかたの」学者・ジャーナリスト等の「知識人」も「確かな見通し」をもてない。自国(国益)中心の経済的枠組みを作る必要があるのに「経済的自由主義」を、「民族主義」の噴出にかかわらず「グローバルなデモクラシー」を、建前とせざるをえない、という「思想的混乱」が現出している(p.70)。
 この本は1996年刊なのだが、上のような諸指摘は2009年の日本についても、なおそのまま妥当しているのではないか。

0670/櫻田淳は「真正保守」主義者か?等。

 〇一週間前に出した名前の小牧薫、高嶋伸欣でネット検索してみると、この二人がただの某裁判支援事務局長、名誉教授ではないことがよくわかった。逐一資料は挙げないが、れっきとした「左翼」組織員だ。日本共産党員である可能性もある。小牧薫は大江健三郎の本につき、「一定の」批判はある、と発言していたが、この「一定」(ある程度又はある側面)という表現の仕方は、日本共産党活動家に特有なものだ。あるいは、「左翼」活動家に広く使われている独特の表現方法・語彙の使い方かもしれない。
 〇産経新聞3/02の「正論」欄で、大原康男「保守派は『正念場』を迎えた」と書いている。
 政権交代が現実味を帯びており、民主党中心政権が誕生すると、①選択的夫婦別姓法案、②「戦時性的強制被害者問題解決」法案、③<定住外国人への地方参政権付与>法案、④<靖国神社に代わる国立追悼施設設置>法案などが成立する可能性がある。「保守派はこれまでにない難局に直面し、まさに正念場を迎えることになるだろう」。……
 そして大原は言う。-政治家だけではなく「民間の実力・器量も問われる」、「…党派を超えて真正保守の政と民が今まで以上に緊密かつ強力な戦線を構築することが望まれる」。
 大原に積極的に反対するつもりはないし、むしろきっとそうだろうとは思う。だがやはり、上の「真正保守」とはどういう考え方又はそれにもとづく団体・組織なのかは、不明瞭なままだろう。
 同じく産経新聞「正論」欄に登場し、「保守」派らしい月刊諸君!4月号(文藝春秋)に「保守再生は<柔軟なリベラリズム>から」を書いている櫻田淳は自らを「保守」主義者だと疑っていないようだが、大原のいう(いや誰が言ってもよい)「真正保守」の立場にあるのだろうか。
 櫻田によると、現在「保守」言論は「敗北」し、それは自らの「堕落」の帰結だ。櫻田は必ずしも解り易くはなくかつ決定的に重要とも思われない「福祉価値」と「威信価値」の二つを持ち出して、昨今の「保守・右翼」言説の特徴は後者の価値への「過度の傾斜」だとし、例として(日本)核武装論を挙げる。そして、この論は「核」廃絶による平和実現を説いた昔日の「進歩・左翼」言説と「何ら質的な差を見出せない」とする(諸君!4月号p.46-48)。
 さらに注目されることには又は驚かされることには、次のようにも言う。
 「村山談話」は、「現時点では日本の国益に資する『盾』や『共感の縁』としての効果を持つに至っていると評価している」。「村山談話」を、2005.04に小泉純一郎首相はバンドン演説で「対日批判」に対する「盾」として転用し、その演説は中韓以外のアジア・アフリカ諸国との「共感の縁」としても作用した(p.48-49)。
 こうした櫻田の主張は「保守」ではないのではないか。「盾」として転用せざるを得なかった?中韓の「反日」姿勢に対する批判的・警戒的な言葉はどこにもない。
 櫻田はつぎのようにも言う。-「村山談話」発表が世界での日本の「声望」への著しい害悪を及ぼしたのならば再考・破棄を提起したいが、「そうした事実を客観的に裏付ける根拠はない」(p.50)。
 かかる認識もまた(「保守派」としては)異様なのではないか。「そうした事実を客観的に裏付ける根拠はない」などと暢気に言っておれる神経が理解できない。また、論理的には、<日本の「声望」への著しい害悪>があったか否かが第一次的に重要なのではなく、「村山談話」の内容そのものの適否こそをまずは問題にしなければならないのではないか。
 櫻田は「保守・右翼」知識層の言説に種々の状況判断をふまえての<政治性>を求めているようだ。かかる姿勢は、不可避的に現状追認、過度の?摩擦・軋轢の回避の方向に親和的だ。それは、どこかで誰かが、あるいは広く朝日新聞等の「左翼」も含めて主張している、対中国・対韓国(・北朝鮮)関係は<できるだけ穏便に>・<不必要に刺激しないように>という、首を出すのを恐れるかたつむりか亀のような意識・神経をもて、という主張に近いように思われる。
 櫻田によると、高坂正嶤やかつての自民党は「福祉価値」を重視し、それの着実な充足によって多くの日本人の支持を得た。戦後生まれの者が三島由紀夫や福田恆存のように戦前の「古き良き」日本を思慕するのならば、それは「共産主義」社会を夢想した「進歩・左翼」の観念論に似た趣きをもつ。この「観念論の趣きこそが」、「保守」言論の「堕落」を招いている一因だ(p.51-53)。
 紹介は面倒なのでこのくらいにしたいが、まず第一に、「必ずしも解り易くはなくかつ決定的に重要とも思われない」とすでに上で記したが、櫻田が何やら新味を提出していると思っているらしい「福祉価値」と「威信価値」の区別は、多少の説明はあるが、また別の本か何かで書いているのかもしれないが、その意味・重大性の程度がきわめて曖昧だ。
 第二に、櫻田は「保守・右翼」言論が「進歩・左翼」のごとき「観念論の趣き」を持つと批判しているが、櫻田淳のこの論考自体が、私がこれまで読んできた「保守・右翼」言論の多くよりもはるかに「観念論」的だ。要するに、観念・言葉の<遊び>が多すぎる。日本の現実、日本をとり巻く国際情勢の現実を、この人は<リアル>に見ているのか。それよりも、「保守・右翼」言論の<方法・観点>を批判してやろうという主観的意図(これを一概に批判するわけではない)を、優先させているとしか思えない。
 このような櫻田淳は「真正保守」か?
 月刊正論4月号(産経新聞社)には潮匡人の「リベラルな俗物たち」の連載が続いている(今回の対象は、保阪正康という「軽薄な進歩主義を掲げた凡庸な歴史家」)。櫻田が「保守再生は<柔軟なリベラリズム>から」というときの「リベラル」と潮匡人の「リベラル」とは意味が違っているに違いない。違っていないとすれば、櫻田淳もまた客観的には「リベラルな俗物たち」の一人である可能性がある。
 「真正保守」・「リベラル」についての自らの見解を提示していないことは承知している。ただ<保守>論壇らしきものの危うさを懸念して、以上を書きたくなった。

0659/自由主義・「個人」主義-佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社)から・たぶんその1

 一 <民主主義>とは「国民」又は「人民」の意向・意思に(できるだけ)即して行うという考え方、というだけの意味で(「民主政治」・「民主政」はそのような「政治」というだけのこと)で、「国民」・「人民」の意思の内容・その価値判断を問わない。従って、「国民」・「人民」の意思にもとづいて<悪い>又は<間違った>又は<不合理な>決定が行われることはありえ、そのような「政治」もありうる。民主主義にのっとった決定が最も「正しい」とか「合理的」だとは、全く言えない。
 また、「国民」・「人民」の意思だと僭称するか(各国共産党はこれをしてきたし、しているようだ)、しなくとも実際に多数「国民」・「人民」の支持・承認を受けることによって、ドイツ・ワイマール民主主義のもとでのナチス・ヒトラー独裁のように、民主主義から<独裁>も生じうる。また、民主主義の徹底化を通じた<社会主義・共産主義>への展望も、かつては有力に語られた。
 <民主主義>に幻想を持ちすぎてはいけない。
 <自由>が国家(・および「因習」等)による拘束からの自由を意味するとして、それは重要なことかもしれないが、このような<自由>な個人・人間が目指すべき目標・価値を、あるいは採るべき行動・措置を、何ら指し示すものではない。<自由>を活用して一体何をするか、何を獲得するかは、<自由>それ自体からは何も明らかにならない。
 とくに<経済的自由主義>はコミュニズムに対抗する意味でも重要なことだろうが(むろん「自由」にも幅があるので又は内在的制約があるので、<規律ある自由>とかが近時は強調されることもある)、しかし、「自由主義」に幻想を持ちすぎてもいけない。
 <個人主義>も同様だ。人間が「個人として尊重」されるのはよいし、その個人の「生命、自由及び幸福追求に対する…権利」が尊重されるのもよいが(日本国憲法13条)、「生命、自由及び幸福追求」というだけでは、「自由な」尊重されるべき「個人」が、一体何を目指し、何を獲得すべきか、いかなる行動を執るべきか、いかなる具体的価値を大切にすべきか、等々を語るには、なおも抽象的すぎる。要するに、各個人の「自由な」又は勝手気侭な選択はできるだけ尊重されるべし、というだけのことだ。
 <平等>主義も重要だろうが、これまた具体的<価値>とは無関係だ。適法性を前提としても(法の下の平等)、平等な貧困もあるし、平等に国家的・社会的規制を受けることがあるし、平等に「弾圧・抑圧」されることもありうる。<平等>原理だけでは、特定の<価値>を守り又は獲得する手がかりには全くならない。
 二 というようなことを思いつつ、佐伯啓思のいくつかの本を見ていると、なるほどと感じさせる文章に遭遇する。
 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)の、80年代アメリカ経済学・「グローバリズム」・「新自由主義」批判は省略。
 ①「リベラリズム」(自由主義)の「基礎を組み立てている」のは「消費者」ではなく、しいて名付ければ「市民」だとしたあと(上掲書p.56)、次のように書く。
 ・「市民」はその原語(ブルジョアジー)の定義が示すように何よりも「財産主」であり、「財産主」であることを守るためには「安定した社会秩序」を必要とした。さらに「社会秩序」の維持のためには「公共の事柄に対する義務と責任」を負い、この義務・責任は「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を必要とし、これらは「広義の教育」・「日々の経験」・「人々との会話」・「読書」・「芸術」によって培われる。
 ・「公共の事柄に対する義務と責任」を負うために必要な「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を、人は、「いかなる意味での『共同体』もなしに、すなわち剥き出しの個人として」身に付けることはできない。人は「近隣、家族、友人たち、教会、それに国家」、こうした「様々なレベルでの」「広義の『共同体』」と一切無関係に「価値や判断力」を獲得できない。
 ・「近代社会」による「封建的共同体からの個人の解放」は「個人主義」の成立・「近代リベラリズムの条件」だと理解されている。しかし、これは「基本的な誤解」か、「すくなくとも事態の半面を見ているにすぎない」。「一切の共同社会から孤立した個人などというものはありえない」。仮にありえたとして、彼はいかにして、「社会の価値、ルール、目に見えない人間関係の処世、歴史的なものの重要性、個人を超えた価値の存在」を学ぶのか。
 ・「通俗的な近代リベラリズムの誤りは、裸で剥き出しの抽象的個人から社会や社会のルールが生み出され、ここに一定の権利をもった『個人』なるものが誕生すると見なした点にある」。(以上、p.57-58)。
 昨年に憲法学者・樋口陽一の「個人」の尊重・「個人主義」観をこの欄で批判的に取り上げたことがある。樋口陽一や多くの憲法学者の理解している又はイメージしている「個人」とは、佐伯啓思は「ロックなどの社会契約論が思想の端緒を開き…」と書いているが、ロック・ルソーらの(全く同じ議論でないにせよ)社会契約論が想定しているようなものであり、それは「誤り」を含む「通俗的な近代リベラリズム」のそれなのではないか。
 ②次のような文章もある。
 ・80年代に「リベラリズム批判」と称される四著がアメリカで出版され、話題になった(4名は、ニスベット、マッキンタイアー、ベラー、サンデル)。これらに共通するのは、「支配的なリベラリズム」が想定する「何物にも拘束されない自由な個人という抽象的な出発点」は「無意味な虚構だ」として排斥することだ。「抽象的に自由な個人」、サンデルのいう「何物にも負荷されない個人」という前提を斥けると「個人とは何なのか」。マッキンタイアーが明言するように、「何らかの『伝統』の文脈と不可分な」ものだ。
 ・人は「書物や頭の中で考えたこと」によって「価値」・「行動基準」を学習・入手するのではなく、「日々の経験や実践」の中で学ぶ。ここでの「実践」も抽象的なものではなく、それは「必ず歴史や社会の個別性の中で形成される」。つまり、「実践」は必ず「伝統」によって負荷されている。従って、「実践」とは先輩・先人・先祖との関係に入ることも意味する。「伝統を無視し、その権威を破壊し去れば」、残るのは「極めて貧困な実践」であり、そこから「豊かな個人を生み出す」ことを期待するのは不可能だ(以上、p.58-59)。
 ・まとめ的にいうと、「確かに、リベラリズムは…、かけがえのない個人という価値に固執する」。「個人的自由」はリベラリズムの「基底」にある。しかし、「『個人』は、ある具体的な社会から切り離されて自足した剥き出しの個人ではありえない」。つまり、「特定の『実践』や『伝統』から無縁ではありえない」(p.60)。
 今回の紹介は以上。
 上の一部にあった、「伝統を無視し、その権威を破壊し去れば」、「豊かな個人を生み出す」ことを期待するのは不可能だ、ということは、わが国の戦後に実際に起こったことではないか。
 日本の戦前との断絶を強調し(八月革命説もそのような機能をもつ)、戦前までにあった日本的「伝統」・「価値」 を過剰に排斥又は否定した結果として、「伝統」・「歴史」の負荷を受けて成長すべき、戦後に教育を受けた又は戦後に社会的経験・「実践」をした者たちは(現在日本に生きている者のほとんどになるだろう)、まっとうな感覚をもつ「豊かな個人」として成長することに失敗したのではないか(私もその一人かも)。そのような「個人」が構成する社会が、そのような「個人」の総体「国民」が「主権」者である国家が、まともなものでなくなっていくのは(<溶解>していくのは)、自然の成り行きのような気もする。

0604/阪本昌成・法の支配(勁草書房、2006)を読む-04。

 反マルクス主義・ハイエキアンたることを明言する憲法学者・阪本昌成法の支配(勁草書房、2006.06)の読書メモを再開する。
 (前回は今年の2月にまでさかのぼる。)

 第一章・第2節「現代国家のパラドックス」
 1 統治の必要性と個人の自由
 (1)現代国家の新任務
 近代立憲主義=自由主義(リベラリズム)は、国家の必要性と国家による個人の自由の侵害の危険のパラドクスを解こうとした(統治の必要性と自由保障の同時実現のための思索)。
 現代立憲主義は、現代国家の「景気調整や所得再配分政策」を新任務と国家による個人の自由・所得の管理とのパラドクスを解こうとするが、成功していない。

 「現代立憲主義国家の新任務は人々に強制を加えており、その意味で、新たなパラドックスを発生させている」。

 徴収された税による「公共財」の提供なら受容できようが、政府は不平等に徴税し「私が利用しそうもない項目」に支出している。強制的徴税の論拠たる「公共性」を充たしているか疑問。

 (2)現代国家の負の効果

 その他、開発・自由な土地利用を規制する法律は無数あり、手続は煩雑で、この手続的等の「コスト」は膨大。このコスト計算による計画断念の方が合理的選択になりそうで、規制法律は企業家精神を萎えさせイノベーションの機会を減少させている。

 また、最低賃金法は「潜在的労働者の就職機会を減少させる」法制度だ。この法律は無技能の人々の雇用機会に対する負のインセンティブをもつ。

 国家による市場への直接介入は誰かの自由に強制を加え、市場の秩序と効率性を攪乱する。
 「現代立憲主義の幻覚」から覚醒するためには「近代立憲主義」を「真剣に再検討」する必要がある。
 以上、p.13~p.15。 

0585/憲法学者・樋口陽一の究極のデマ(6)-「個人」・「個人主義」・「個人の自由」/その3

  三 ふたたび、佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)から。
 「『何にも負荷されない個人』という前提をしりぞけると、個人とは何なのか。実際には、個人は…、何らかの『伝統』の文脈と不可分」だ。「人は、ただ書物や頭の中で考えたことによって価値を学び、行動の基準を手に入れるのではな」く、「日々の経験や実践の中で学んでゆく」。「『個人』と同様、…抽象的で一般的な『実践』などというものを想定」はできず、「『実践』は必ず歴史や社会の個別性の中で」形成され、「必ず『伝統』によって」負荷されている。「伝統を無視し、その権威を破壊し去れば」、「豊かな個人を生み出すなどということを期待することを不可能」だ。/(p.59)
 西洋史の中に「古典ギリシャ的伝統、中世的・キリスト教的伝統それに近代的伝統」の三者を区別する者もいるように、西洋人ですら「いくつかの伝統の折り重なりあいの中に生きている」。人間は「伝統負荷的な存在」であり、「『共同の偏見』をとりあえずは引き受けざるをえない」。「リベラリズムは、あくまで、かけがえのない個人という価値に固執する」が、しかし、「『個人』は、ある具体的な社会から切り離されて自足した剥き出しの個人ではありえないのである」。/(p.60)
 「リベラリズムは個人という価値にこだわるからこそ、…ある社会の『伝統』にもこだわらなければならない」。「伝統」とは「われわれをほとんど無意識のレベルで拘束し枠づけている思考形式、価値判断の母体」だ。この「伝統」の中には「国家」も含まれ、従って、「『国家』と『個人』の関係について…もう一度考え直さなければならない」。/(p.60-61)
 「通俗的なリベラリズム、すなわち抽象的な個人、本来何物にも拘束されない個人から出発すると、国家はもっぱら個人の自由の対立物とみなされる」。しかし、「個人が『伝統負荷的』であるということは、個人が『国家負荷的』でもあるということだ」。「有り体に言えば、日本人は、とりあえず、日本人であることの宿命を引き受けざるをえない」ということだ。「国家が解体したり衰退すれば、個人も空中分解してしまう」。このことのロジカルな帰結は、「個人は個人を保守するためにも国家を保守しなければならない」ということ。つまり、「私」は同時に「公的」な存在でもある必要がある。「『公的な』(国家的な)存在としてのわたしがあって初めて『私的な』存在としてのわたしが生ずる」のだ。/(p.61-62)
 以上。佐伯啓思は「個人」・「個人主義」を直接に論じているのではなく「リベラリズム」に関する議論の中でおそらくは不可避のこととして論及している。憲法学者・樋口陽一の「思考」・「観念」と比べて、どちらがより真実に近く、どちらがより適切だろうか。

0583/憲法学者・樋口陽一の究極のデマ―その6・思想としての「個人」・「個人主義」・「個人の自由」

 樋口陽一の文章をあらためていつか再引用してもよいが、樋口陽一その他大勢の憲法学者の「人権」 論の基礎にはその主体としての(自由なかつ自律した)「個人」があり、それを(又はその「尊厳」を)尊重するということが憲法の最も枢要な原理とされる。だが、そのような、個々の自然人たる(アトムとしての)「個人」が(社会)契約によって国家を構成しそれと対峙する、というイメージ自体が、一つの「思想」であり、一つのイデオロギーだろう。
 以下、何回か、<個人主義>を批判又は疑問視する文章の引用のみを続ける。
 一 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)。
 欧州の元来の定義「ブルジョアジー」がそうであるように「市民」は「まず財産主」であり、それを守るための「安定した社会秩序」を必要とし、「社会秩序の維持」のためには「公共の事柄」への義務・責任を負った。この義務・責任は「それなりの見識や判断力、知識、道徳心など」を必要とし、これらは「広義の教育」、「日々の経験」、「人々との会話」、「読書」、「芸術」が与えた。/
 「人は、こうしたものを、いかなる意味での『共同体』もなしに、すなわち剥き出しの個人として、身につけることはできない。近隣、家族、友人たち、教会、それに国家、それらを広義の『共同体』と呼んでおくと、様々なレベルでの『共同体』と一切無縁に、人は価値や判断力を身につけることはできない」。/
 近代社会は「封建的」共同体からの「個人の解放」を促し、「通俗的には、共同体からの個人の解放こそが『個人主義』の成立であり、それこそが近代リベラリズムの条件だ」と理解されている。「しかし、これは基本的な誤解であるか、あるいは少なくとも事態の半面を見ているにすぎない。事実上、一切の共同社会から孤立した個人などというものはありえないし、また仮にありえたとしても、彼は、どのようにして、社会の価値、ルール、目に見えない人間関係の処世、歴史的なものの重要性、個人を超えた価値の存在を学ぶのだろうか。通俗的な近代リベラリズムの誤りは、裸で剥き出しの抽象的個人から社会や社会のルールが生み出され、ここに一定の『権利』をもった『個人』なるものが誕生すると見なした点にある」/
 「しかし、ロジカルにいっても、何の価値や判断力も、さらには恐らく理性さえまだ学んでいない、『無』の個人からどのようにして権利をもち、社会のルールについて判断力をもった個人が生まれるというのだろうか」。
 以上、上掲書p.57-58。
 樋口陽一における<視野狭窄>性・<観念>性・<通俗>性の指摘は、ほとんど上で尽きている。
 (この項、つづく。)

0452/佐伯啓思=大澤真幸・テロの社会学(新書館、2005)のごく一部・「保守反動」。

 佐伯啓思=大澤真幸・テロの社会学(新書館、2005)を入手して、「語り下ろし」の第三章・ポストモダンの行方(p.126-)を何となく見ていたら、冒頭で佐伯啓思が次のように発言する。
 「あえて一言でレッテルをはれば、大澤さんはポストモダン派左翼、ぼくは保守反動ということになっています」。
 大澤某のことは全く知らないが、佐伯が自らを「保守反動ということになっています」と(本気かどうかは別として)語っているのを読んで、微苦笑をした。そのあとで、心の中でハッハッハと笑ってしまった。今のところ私は佐伯啓思の愛読者なので、私も「保守反動」なのだ、きっと(ワッハッハ)。
 以上だけだと短かすぎるので、その後の大澤真幸発言だけ要約しておく。
 <保守主義・リベラリズムの対立において、佐伯さんは、「リベラリズムがヘゲモニーを握っているという状況認識」を前提にし、「真の保守主義」が必要とし、「伝統であるとか保守の重要性に気づいている論者のほうから抜けていこう」とする。私は、現代日本の論壇では明確な「保守主義」でなくとも「保守的論調」がアピールしていると見ており、「保守が論壇でヘゲモニーを握ろうとしている」今こそ、「いままでのリペラルとは違うほんとうのリベラルが必要」と考え、「ポストモダンに批判的ではあるけれども、その方向性をもっと突き詰めたときに出口がある」と思っている。対立を「別のように眺め、別の方向を目指している」。「右から抜けるか左から抜けるかというシンメトリーがある」。(p.128~p.130)
 「真の保守主義」か「ほんとうのリベラル」か!?
 <ポストモダン>思想なるものに疎いこともあって論評しにくいが(<新奇だが、何となくいかがわしく珍奇だ>との予断をもっている)、上のまとめ方(二分)でいうと佐伯啓思の状況認識の方に私は親近的だ。もっとも、<保守主義>・<リベラリズム(リベラル)>の両概念の意味が(上の部分だけでは)正確には分からないので、これについて両人に一致があるのかも含めて、きちんと読まなければならないだろう。
 今日、明日から読み始める気はないが。

0412/佐伯啓思における4種の「リベラリズム」=<市場経済>の見方。

 佐伯啓思・自由とは何か(講談社新書)からの確認的メモのつづき。
 「リベラリズム」は「自由主義」と言い換えてもよいが、前回紹介の「自由」や「現代のリベラリズム」は、佐伯が自ら述べるように、「拘束」・「抑圧」からの解放という「近代の入り口」での「自由」とはかなり性格を異にしている。かつ、あくまで「今日の代表的な立場」における「自由」観で、「アメリカ的」又は「アングロサクソン的」と限定をつけてもよい、とも言う(p.160)。
 また、佐伯によると、「拘束」・「抑圧」からの自由がおおよそ実現し、「自由」の内実が「多様な主観的価値の共存のための条件」になってしまった結果、「自由」には「それほどの切迫さも切実さも」なくなった(p.161)。
 上にも見られるように、佐伯は「現代のリベラリズム」を説明・分析しているだけで、それを自らの価値として主張しているわけではない。<価値相対主義>(「価値」に関する「主観主義」)についても、「価値」による行動は社会的「妥当性」を要求するので、「価値」は本質的に個人の「主観を超えた次元」にある(「嗜好」や「趣味」とは異なる)、と疑問視する。かかる立場からすると、例えば<援助交際>は「特定の行為に示された価値の問題」、「本質的に社会的な問題」、「社会的普遍化、妥当性要求をはらんだ問題」で、「主観の問題」ではなく、「それは個人の自由であり、自己責任だ」で済ますことはできない(p.162-163)。
 もともと予定していなかった部分の要約はこれくらいにする。確認的にメモしておきたかったのは以下だ。佐伯は、「市場経済」(「市場競争」)について四つのタイプの議論があり、それぞれに対応して、「四つのリベラリズム」がある、とする(p.187以下)。この部分はなかなか参考になる。
 第一、「市場中心主義」。共通の透明なルールのもとで人々が「自己利益を最大化」せんとするのは当然で、たとえ報酬格差が数百倍に開こうと受け容れるべきだ。
 第二、「能力主義」。人の「能力や努力」に対して報酬を付与するのは市場競争でも同じ。但し、例えば「莫大な遺産」による「不労所得」は市場の結果であっても修正されるべき。「投機的利益」への課税等も同旨。「古典的な」「プロテスタント風の倫理精神」やロックの「財産保有と労働」に基づく市場を擁護する。
 第三、「福祉主義」。市場競争により勝者・敗者が発生するが、敗者は「たまたま市場経済のなかでうまくいかなかっただけ」で、それで「彼の人格や生活のすべて」を左右すべきでない。競争が「結果としてもたらす不平等」を、敗者=弱者に対する福祉給付・所得再配分によって政府が是正すべき。敗者も「そこそこ幸福な人生を送る権利」をもつ。
 第四、「是正主義」。勝者・敗者という「不平等」は多くの場合は「ある種の人々が構造的に不利な立場」にあることから生じるので、彼らの救済には事後的な福祉給付では不適切で、「初期条件をできるだけ平等化」すべき。アファーマティブ・アクション、自立支援プログラム等によって。
 こうした分類を前提にすると、佐伯によると、第一の論者としてはミルトン・フリードマンハイエク、第二はロバート・ノージック(第一に近いかもとの注記あり)、第三は「いうまでもなく」ジョン・ロールズ、第四はロナルド・ドゥウォーキンアマルティア・センを想起できる。
 さらに佐伯はこう述べる。第一、第二は「個人主義的な側面を濃厚に持った自由主義」で、とくに第一は、しばしば「リバータリアニズム」と呼ばれる。これらは「最小国家観、夜警国家観」に立ち、国家は「特定の価値を含まない」(→中立的国家)。
 第三、第四は「どちらかといえば」、「平等性に傾いた平等主義的な自由主義」で、「狭い意味」ではこれらをとくに「リベラリズム」と呼ぶことが多い。これらは「介入主義的国家」観に立つともいえるが、介入は基本的には「個人の権利を保障するための平等化政策」で、それ以上のことを目指さない(→やはり中立的国家)。
 説明は続く。第一において、市場競争への「参加の権利」の付与が重要で、結果は特に問題視しない。第二も同じだが、「人の能力の帰結としての財産への権限」を決定的に重要視する。「能力と努力が権利を生み出す」のだ。
 第三では、福祉給付により実現される「人間として最低限の生活をなすという権利」が唱えられる。第四は弱者・構造的被差別者にも「平等な機会へアクセスする権利」が保障されるべきだとする。
 以上の論述を前提にして佐伯啓思自身による議論が続いていくが省略する。
 上にみたように、「リベラリズム」とはさしあたりは広義に、市場経済=資本主義(=広義の「自由主義」)に立つ、非・反社会主義(・共産主義)とほとんど同義に用いられているようだ(なお、佐伯は「コミュニズム」あるいは「マルクス主義」を殆ど無視している。議論の俎上に乗せる意味自体を否定しているように見える)。その上で、上記の如く「狭い意味」での、<社会民主主義>にかなり近いかもしれない「リベラリズム」概念も用いられている。
 さて、かりに上記の如き整理が適切だとして、われわれはいずれの立場・考え方を支持すべきか? こうした基底的?レベルでの思考と選択をひとまずは誰でもしておくべきではなかろうか。こうした思考と選択は、「人間」観や「人生」観にもかかわる、けっこう現実的で、その意味では<生臭い>、重要な問題だと思える。

0411/佐伯啓思における「自由」又は「現代のリベラリズム」の三本柱。

 佐伯啓思・自由とは何か(講談社現代新書)には、論理の展開が知的刺激を与えるというよりも、論理展開の途中で又は結果として、頭の整理に便利な叙述も含まれている。確認的に記しておく。
 二つ記したいが、まず、「自由」が依って立つ「基本的な柱」は彼によると次の三点だ(p.151以下)。
 第一は、「価値についての主観主義」あるいは「価値の相対主義」。これは近代「合理主義」の帰結。すなわち、論理整合性・事実との符合によって「合理的に判断」できる命題とかかる「検証」のできない命題に分ける、その上で、「実証的に検討できる客観的な事実命題」とそれができない「価値命題」を峻別する。そして、「価値」判断は人により異なる「主観的」なもので、「客観的で普遍的な」ものは存在しない(←「実証主義」)、という考え方。
 ロールズにおける「正義」は、「価値」あるいは「善」の内実いかんにではなく、いかなる「価値」・「善」を選択する「自由」は保障されるべき、ということにある(「善に対する正義の優位」、「善に対する権利の優位」)。
 第二は、「中立的国家」。つまり「価値の領域に対しては国家は介入しない」ということ。自由・民主主義等の近代的「価値」を掲げ、人々の「生命・財産の尊重」を決定的価値とする「近代国家」が「価値中立的」ではあり得ないが、「正義」(>「自由への平等な権利」)ではなく多様な「善」について国家は「中立的」とされる。さらに、種々の「政策」選択をする国家は決して「価値中立的」ではないが、「政策」決定の最終的判断者は「国民」であり、国家は特定の「政策」=「価値」=「善」を予め想定して掲げたりはしない、ということを意味するとされる。
 第三は、「自発的交換」。つまり、「個人の社会的活動は、基本的に個人と個人の間の自発的な相互作用としてなされるべき」、という考え方(秋月注-「自発的」とは、個人の「自由意思」にもとづく、と換言してよいだろう)。これを典型的に実現するのが「市場経済」だ(秋月注-ある個人と他の個人との間の「自由意思」の合致=契約にもとづく相互の権利・義務の形成・変動、と言っても大きくは離れていないだろう)。
 以上、要点のみ。佐伯は、これら三点が、やや表現を変えて、「現代のリベラリズム」の「柱」だ、とも述べ、次のようにまとめている(p.159-160)。
 「現代のリベラリズムの立場は、基本的に個人の価値の多様性を認め、それを尊重する、そのためには、『自由への平等な権利』という正義の原則がまずは確立していなければならない、そのもとで、国家は中立性を守るべきであり、また諸個人の主要な社会的行為は個人の自発的な交換としてなされるべきだというのである」。
 もう一つは次回に。

0406/佐伯啓思・自由とは何か-「自己責任論」から「理由なき殺人」まで(講談社)の120頁を読む。

 佐伯啓思・自由とは何か「自己責任論」から「理由なき殺人」まで(講談社現代新書、2004.11)を偶々見つけて中を見ると、第1章・ディレンマに陥る「自由」と第2章・「なぜ人を殺してはならないのか」という問い(~p.100)は既に読んだ形跡があった。一部だけを読んでまた別の本に向かってしまうという傾向がたしかにある(それだけ読みたい本が多いからでもある)。
 区切りをつけておこうと、佐伯啓思・上掲書を第4章・援助交際と現代リベラリズム、第5章・リベラリズムの語られない前提、第3章・ケンブリッジ・サークルと現代の「自由」の順で昨夜一気に読んだ(p.101~p.222)。あと、第6章のみが残っている。
 面白い。<戦後民主主義の虚妄>を佐伯は衝いたようだが、たしかに<戦後民主主義>が前提とする個人的「自由」の脆うさ・生気のなさの不可避性が理解できる気がする。現代日本について感じる「骨格」のなさや「規範意識」の欠如についても。
 引用しながらの紹介は避ける。<戦後民主主義>を<右から>の攻撃から「保守」しようという<情緒>で凝り固まっている人々は、佐伯の「自由」(・リベラリズム)論に関心はもてず、あるいはそもそも理解できないのではないかと思われる。

0394/阪本昌成・法の支配(勁草、2006)-03。

 阪本昌成・法の支配(勁草、2006)を読む、のつづき。
 第1章・第1節
 2・統治の過剰
 (1)市場に介入する国家  公法的規制・管理が「ここまで来た」日本国家は異常。健全な市民が法令違反不可避、法令の詳細不知で国家機関の指示に依存、は「実に息苦しい」。こうした現状は「統治の過剰」と表現できる。/国民負担率40%は「自由な国家」からほど遠い。/個人・家族への公的給付に「国家の正当性」が「大きく依存」しているのも異常。
 「統治の過剰」は、マルクス主義・ケインジアン政策・社会民主主義等々の副産物だ。これは「現代立憲主義」への批判でもある。
 現代立憲主義のもとでの国家の新任務は<資本主義の歪みの是正>で、景気調整・社会保障・環境保護、中でも所得移転政策・経済政策(財政政策)が中心になる。/これらは自由・平等・豊かさへの善意で考案され、提唱者はリベラリストと自称した(阪本は「修正リベラリズム」と呼んだ)。/
この新種リベラリズムの立脚点は?、新任務は政治道徳上正当化可能か?、その任務の「終わり」はどこ?
 「統治の過剰」は「人々の自由を次第しだいに浸食」している。我々は、国家が我々の自由を管理し分与する現状に鈍感になっている。/「なぜ、こうなったのか」。/ハイエクの回答は以下。
 (2)ハイエクの回答  <1870年代以降の「自由の原則の退廃」は「自由をきわめて数多くの個別的な諸目的達成の手段として国家が指定するものとして、また、通常は、国家によって与えられるものとして、解釈し直したこと」と密接に関係している。>
 「国家による自由」・「実質的自由」への転換が自由を個別化・細分化し始めた。その自由概念への影響は本書の重要課題の一つ。
 大衆民主主義下での政治は、自由を細分化し個別的に「設計主義的に」実質化せんとする勢いをさらに加速させた。
 個々人の自由と市場のもたらすトータルな秩序を正確に予測するのは不可能。なのに大衆民主主義は「近い将来の見通しを人為的に設計して、これを国家の手によって実現しようとする」。景気調整、輸入制限、生産調整、価格統制等。
 大衆民主主義に歓迎される「平等主義は、富の分配の望ましいパターンをも人為的・設計主義的に作り上げようとする」(所得再配分政策)。
 ハイエク等の古典的リベラリストは民主主義と平等主義のもたらす負の効果を「長期的視点に立って、予測し、恐れつづけてきた」。
 以上、第1章・第1節が終わり。p.10~p.13。

0374/阪本昌成・法の支配(勁草、2006)-01。

 阪本昌成・法の支配-オーストリア学派の自由論と国家論(勁草書房、2006.06)、本文計254頁、をメモしながら読んでいく。
 阪本昌成は、「ハイエキアン」を自称する、わが国には珍しい憲法学者だ(広島大学→九州大学)。この人の本の二つをこの欄を利用しつつ読んだことがある。その当時に想定した時期がかなり遅れたが、三冊めに入る。以下、数十回をかけてでも、要約を続ける。
 序章・自由の哲学(p.1~p.5)
 1・公法学における体制選択
 前世紀は資本主義と社会主義の対立の世紀で、この対立・論争は「公法学」にも影を落とした。日本の公法学者はこの体制選択問題を「常に意識し」つつも「あからさまなイデオロギー論争を巧みに避け」て、個別の解釈論や政策提言に「各自の思想傾向を忍ばせ」てきたが、「経済市場と国家の役割への見方」には奇妙な一致があった。すなわち、通常は国家の強制力を警戒する一方で、経済市場への国家介入には寛容だった。
 体制選択の一候補は社会主義で、快い響きをもっていたため、自由主義経済体制(資本主義)の優越を「公然と口にする公法学者」には「右派・保守」とのレッテルが貼られた。だが、社会主義国家が自己崩壊し体制選択問題が消失した今では、「リベラリズムの意義、自由な国家の正当な役割、市場の役割」を問い直すべきだ。その際のキーワードは、「政治哲学」上の「自由」、「法学」上の「法の支配」。
 2・自由の究極的正当性
 自由の究極的正当性につき、道徳哲学者は論者により「人間性」や「内心領域の不可侵性」を挙げ、関心を「政治体制」の中での自由に向ける論者は、人により「リベラリズム」の究極的正当性を「正義」、「効用」、「権利」の諸観念に求めた。
 上の問題の解は未だない。自由・リベラリズムの普遍的意義を問い究極的正当性を根拠づけるのは知的に傲慢な態度で、この問題をこの書で論じはしない。自由と同等以上に論争的な概念の「平等」でもって「自由」を理解するドゥウォーキンを支持はできない。
 3・強制力の最小化
 この書の論点を「国家の統治権力と自由の関係」に限定し、「自由への強制を最小化するには、社会的・政治的制度はどうあるべきか」を論じていく。この「制度」は「国家、政府、法、政体、市場、習律、伝統等」を含む。その中でも、「法の支配」という「法制度」と「自由市場」という「経済制度」に目を注ぐ。そうした際、「憲法哲学の書でもあろうとする本書」が「国家の役割・政府権限の限界」に言及するのは当然のこと。
 主要な関心事は、国家は積極的に何をすべきかではなく、何をすべきでないか、だ。在来の国家論は、何らかの価値を積極的に追求しがちだが、そこでの諸価値は茫洋としており、「輪郭のない責務」を(われわれに)負わせうる。本書は、「われわれに明確な責務だけを負わせる国家とその任務はどうあるべきか」を語る。
 本書は国家を「一定の道徳目標を実現するための集団ではなく、個々人に保護領域を与えて、個々人の道徳的目標を実現しやすくするための装置」と把握している。そして、道徳的価値の一つの「自由」を「国家統治のなかで極大化するための接近法」に言及する。この根源的・回帰的な問いを突きつけてきたのは、「政治学」での「リベラリズム」、「憲法学」での「近代立憲主義」だった。
 次章の課題は「現代国家における政府の任務」を検証すること。
 今回は以上まで。
 諸外国の理論・思想には(憲法学を超えて)幅広い知識をもちそれらに依りつつ思索しているようだが、日本の古典への言及がたぶん全くないのは最近にこの欄で書いたことを思い出すといささか鼻白むところはある。また、はたして現実の日本国家・日本社会が阪本の主張する方向に変わりうるかは疑問なしとしない。しかし、「大多数の」憲法学者と異なる思考をしていることは間違いないと見られるので、知的刺激を得るためだけにでも、関心をもって読んでみよう。

0286/無限に近い目的は「罠」だ-日本共産党綱領。

 日本共産党の綱領(2004.01、第23回党大会)が最後に「五、社会主義・共産主義の社会をめざして」と題してまず「生産手段の社会化」を提唱していること自体の中に、ソ連・東欧の失敗や北朝鮮・中国での経済運営の失敗に学べないマルクス・レーニン主義(科学的社会主義)の病弊を看てとることができる。
 さらに、その「五」の最後には、「(一七)社会主義・共産主義への前進の方向を探究することは、日本だけの問題ではない」との見出しを立て、「二一世紀を、搾取も抑圧もない共同社会の建設に向かう人類史的な前進の世紀とする」ことをめざすという、美辞麗句らしきもので結んでいる。
 読書のベースは阪本昌成の別の著の次は同・リベラリズム/デモクラシー〔第二版〕(有信堂、2004)だったのだが、やっと、第一部のp.116まで読了した(その次は、阪本昌成・法の支配(勁草書房)の予定)。
 そのp.111にA・ゲルツェンという人の次の語句が引用されている。
 「無限に近い目的などは目的ではない。それはいわば罠なのだ」(ゲルツェン・向う岸から)。
 この文章を阪本は「統治」は「人類や労働者階級を救済するためにある」のではなく「人びとが現世の諸利益を獲得し、維持し、増進することを可能にする」ためにある、ということから、<政治理論>・<国制論>に関して引用している。
 私は日本共産党の上のような<政治理論>を連想してしまった。<21世紀の遅くない時期に民主連合政府を>という目標もすでに「無限に近い目的」だと思うが、その後の「社会主義・共産主義への前進」などは「無限」そのものの将来の目標ではないか。そして、それはじつは「罠なのだ」。
 可哀想にも「」に嵌ってしまった日本共産党員以外に、どの程度の支持を同党が獲得できているか、それは私の今月末の参院選の結果についての大きな関心の一つだ。
 いずれ消滅する政党だとは思うが、とりあえずは、憲法九条護持の主張を(社会民主党とともに)明言して、選挙の争点の一つとしているのは、この点が曖昧な民主党よりはそのかぎりで潔いし立派だ。
 そして、6000ほどもあるという「九条の会」が一般国民をも巻き込み、かつ日本共産党の支持を増大させていれば、同党の得票や議席は増えるはずだ。しかし、同党の得票や議席が変わらないか減少するとすれば、「九条の会」運動は、次の二つのいずれかであることが判明するだろう。
 第一に、憲法九条改正反対の国民の集まりであり、日本共産党が主導権を持っておらず、又は少なくとも選挙時の投票行動にまで影響を与えるには至っていない。
 第二に、日本共産党の地域・職場の「支部」が名前を変えただけのものに殆ど等しく、ほとんど<仲間うち>だけの「会」になっている。
 憲法改正に向けての障害物に他ならない日本共産党(と社会民主党)の選挙での帰趨を早く知りたい気もする。

0279/阪本昌成の「社会権」観とリベラリズム。

 中川八洋はその著・保守主義の哲学等で、ハイエクにも依りつつ、「社会的正義」という観念を非難し、「社会的正義」の大義名分の下での「所得の再分配」」は「異なった人びとにたいするある種の差別と不平等なあつかいとを必要とするもので、自由社会とは両立しない。…福祉国家の目的の一部は、自由を害する方法によってのみ達成しうる」などと主張する。
 そこで5/13には<中川八洋は一切の「福祉」施策を非難するのだろうか。>とのタイトルのブログを書いたのだった。
 自称「ハイエキアン」・「ラディカル・リベラリスト」の阪本昌成もまた「福祉国家」・「社会国家」・「積極国家」というステージの措定には消極的なので、中川八洋に対するのと同様の疑問が生じる。
 その答えらしきものが、棟居快行ほか編・いま、憲法を問う(日本評論社、2001)の中に見られる。「人権と公共の福祉」というテーマでの市川正人との対談の中で、阪本昌成は次のように発言している。
 1.私(阪本)は「自由」を根底にするものを「人権」と捉え、「社会権」のように国家が制度や機関を整備して初めて出てくる「基本的人権」は「人権」と呼ばない(p.207)。
 2.「生存権」によって保障されているのは「最低限の所得保障に限る」。その他の要求を憲法25条に取り込む多数憲法学者の解釈は「国民負担を大とし」、「現代立憲主義の病理」を導いている。「大きな政府」に歯止めを打つ必要があるp.208)。
 3.「社会権」の重視は「社会的正義の表れ」というのだろうが、そのために「経済的自由、なかでも、所有権保障は相対化されてきた」(同)。
 4.日本には「自由な市場がない」。ここに「いまの日本の病理がある」。これは一般的な「自由経済体制の病理ではない」(p.212)。
 5.経済的自由は「政策的」公共の福祉によって制約できるというだけでは、また、精神的自由との間の「二重の基準論」のもとでの「明白性の原則」という枠だけでは立法政策を統制できない(p.217-8)。
 私は阪本昌成の考え方に「理論」として親近感を覚えるので、主張の趣旨はかなり理解できる。
 もっとも、現実的には日本国家と日本社会は、日本こそが<社会主義国>だ、と半ばはたぶん冗談で言われることがあったように、経済社会への国家介入と国家による国民の「福祉」の充実を当然視してきた。
 現在の参院選においても、おそらくどの政党も「福祉」の充実、「年金」制度の整備・安定化等を主張しているだろう。従って、阪本「理論」と現実には相当の乖離がある。また、「理論」上の問題としても、国民の権利の対象となるのは「最低限の所得保障」であって、それ以上は厳密な国民の権利が対応するわけではないとしても、例えば高速道路や幹線鉄道の整備、国民生活に不可避のエネルギーの供給等に国家が一切かかわらないということはありえず、一定限度の国家の<責務>又は<関与の容認>は語りうるように思われる。 
 かつて7/01に日本は英国や米国とは違って「自由主義への回帰が決定的に遅れた」と書いた。
 宮沢喜一内閣→細川護煕内閣→村山富市内閣→という<失われた10年>を意味させたつもりだった。だが日本の実際は「自由主義への回帰」はそもそもまだ全くなされていないというのが正しい見方かもしれない。
 「理論的」には阪本は基本的に正しい、というのが私の直感だ。国家の財政は無尽蔵ではない。活発な経済活動があってはじめて主として税収から成る国庫も豊かになる。そうであって初めて「福祉」諸施策も講じることができるのだが、「平等化」の行き過ぎ、どんな人でも同様の経済的保障を例えば老後に期待できるのであれば、大元の自由で「活発な経済活動」自体を萎縮させ、「福祉」のための財源も(よほどの高率の消費税等によらないかぎり)枯渇させてしまう。
 経済・財政の専門家には当たり前の、あるいは当たり前以下の幼稚なことを書いているのだろうと思うが、本当は、経済政策、国家の経済への介入の程度こそが大きな政治的争点になるべきだ、と考えられる。
 だが、焦る必要はないし、焦ってもしようがない。じっくりと、「自由主義」部分を拡大し、<小さな国家>に向かわせないと、日本国家は財政的に破綻するおそれがある。まだ時間的余裕がないわけではないだろう。
 なお、上の本で市川正人は「たまたま親が大金持ちであったために裕福な人と、親が貧しかったために教育もまともに受けられなかった人とがフェアな競争をしているとは到底できないでしょう」と発言し、阪本は「誰も妨害しないのであれば、それは公正なレースと言わざるをえない…。個々人の違いは無数にあって、全てに等しい条件を設定するということは国家にはできません」と回答している。
 このあたりに、分かりやすい、しかし深刻な<思想>対立があるのかもしれない。私は阪本を支持する。市川の議論はもっともなようなのだが、しかし例えば<たまたま生まれつき賢かった、一方たまたま生まれつきさほどに賢くなかった>という「個々人の違い」によって生じる可能性・蓋然性を否定し難い<所得の格差>は、国家としてはいかんともし難いのではないか。
 同じくいちおうは健康な者の中でも<たまたま頻繁に風邪をひき学校・職場を休むことが相対的に多い者とたまたま頑強で病欠などは一度もしない者>とで経済的報酬に差がつくことが考えられるが、このような、本人の<責任>を追及できず生まれつき(・たまたま)の現象の結果と言わざるをえないような「個々人の違い」まで国家は配慮しなければならないのだろうか。
 二者択一ならば、こう答えるべきだろう。平等よりも自由を平等の選択は究極的には国家財政を破綻させるか、<平等に貧乏>(+一部の特権階層にのみのための「福祉」施策)という社会主義社会を現出させるだろう。

0150/阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー(第二版)「まえがき」。

 4/30午前0時台のエントリーで紹介したように、阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー(第二版/有信堂、2004)は「マルクス主義憲法学」批判を鮮明にしている。そのときに紹介しなかったマルクス主義批判の文に、次のようなものもある。
 「正義は、人間の知性によって積極的に作り上げうるものではなく、また、人間の情念を度外視して語れるものではない。二〇世紀最大の人類的規模の実験が失敗に終わった理由は、ここにある」(p.23)。
 デカルト以降の「理性」信仰(私流に言えば、人は、人間や社会を「合理的」に認識・説明でき、改革できる筈だとの、人知の及ばない領域があることを無視した「近代」の傲慢さ)への批判が上の文にも含められているだろう。
 5/13のやはり午前0時台のエントリーで述べたように、中川著の後の読書のベースは阪本昌成の上の本で、50頁くらいまでは進んだ。基礎概念の意味と論旨展開は重要なので、メモ書き代わりにここに記していこう。
 阪本にとってマルクス主義はもはや「論敵」ではないとされ(p.22)、既述程度の文章しかないのだが、マルクス主義批判の文のあとには「福祉国家」が「警戒すべき実験」として語られる(p.23)。
 先走ったが、阪本も自称ハイエキアンであり、ハイエクを(きわめて)肯定的・積極的に評価する中川八洋と同様の論調である所があるだろうことは容易に想像がつく。
 さて、最初から出発しよう。「まえがき」によれば、「リベラリスト」とは「統治の正当性・限界を、人びとの合意に求めることを避けて、すべての人に保護領域が与えられるべきことに求めようとする立場の人」だ(「保護領域」とはさしあたり「自由に行動できる生活空間」で十分)。
 一方、「デモクラット」とは「統治の正当性・限界、すなわち立憲主義の源泉は人びとの合意にある、と強調する人」だ(p.1)。
 書名でも明らかなのだが、リベラリズムとデモクラシーは矛盾しあう・対立しあうということが著者の議論の前提だ。あえて日本語を使えば、自由主義と民主主義自由と民主の差違・関係が阪本の関心事であり、かつこの問題が(マルクス主義うんぬんよりも)今日的・現実的な意味をもつ、と考えられているものと思われる。
 そして、阪本は自分は「ラディカル・リベララリスト」だと既に結論的に宣言している(p.2)。となると、未読の部分の方が多いが、デモクラシー(民主主義・民主政治)への批判が多いだろうと想像できる。
 つぎに言う。「リベラル」や「リベラリスト」は米国では「社会民主主義(者)」を指すため、「真のリベラリズム」のために「リバターリアニズム(リバターリアン)」という言葉が作られ、後者は、ア.個人主義徹底、イ.国家の強制力は反道徳的、ウ.国家・公共の利益に懐疑的、という態度だ。だが、阪本は「リバターリアニズム」と共通性があるかもしれないとしつつ、リベラル/リバターリアルの区別の論議に入らず、「リベラリズム」を次の共通性をもつものの意味で用いるとする。
 1.「自由を消極的に捉えること」(秋月注-「消極的」とは「否定的」の意ではない)、
 2.「ルールの源泉を人間の意思に求めないこと」、
 3.「ルールは社会のなかで自己増殖的にできあがり、そのルールは一定の属性をもつに至ると承認すること」等。
 但し、「リベラリズム」は社会民主主義を含む曖昧さを持つので、上の意味でのリベラリズムを「古典的リベラリズム」、「社会民主主義的な自由観」を「修正的リベラリズム」と称することもある、という(p.2)。
 その後、若干の主張が(結論示唆的に?)なされる。
 「法学でいう自由」とは「個人の人格的規律や意思の不可侵性」といった「個人の内面領域」ではなく「政治・統治の領域」での概念で、リベラリストは、「私たちの日常的な利害対立の調整または解決を政治過程にできるだけのせないことが望ましい」と考える。
 リベラリストはこう考える傾向にある。1.「個人の内心の自由」は「政治的自由」の「根源的な位置」にあるものではなく、「歴史的にみて最初のものでもない」。
 2.個人の「内面的自由は「政治的自由」を否定された人びとが「内面への退却」をしたときに気づかれたもので、「内面的自由は人間の尊厳にとって固有の領域」だとの「誇張された主張」は、自由の問題を「人格的自律や意思の不可侵性」を問う議論へと「再び誘導する」だろう。しかし、この筋道を避けて、「人と人との交わりのなかで世俗的な利害の調整のあり方に賢慮を」めぐらすべきだ。
 3.「「法の支配」を真剣に受けとめる」。「法の支配」とは「私たちの消極的自由を保障するための思想であり、制度だ」。一冊の本が必要なところを「あえて簡単にいえば」、「国家が法律を制定するにあたって、私たちを匿名の存在として扱うルールに従うこと」だ。(p.3-p.4)
 「まえがき」の僅か4頁のためにこれだけ費やしたとは先が思いやられる。
 だが、何らかの共通了解があって語られているようにも見える「自由」も「民主」も(そして「立憲主義」も「法の支配」も)じつは簡単に語りえない複雑な側面をもち、両者は単純な関係には立たない(ようだ)。
 若い頃から近年までの勉強不足、思考不足を嘆きつつ、読み終えてみよう(計230頁程度)。
 ところで、中川八洋の本を読んでおいたことはよかった。阪本著で外国人の名とその「思想」が出てきても殆ど全く、驚きはしないからだ。

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