秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ライプニッツ

1562/神は幸せか?②-2006年のL・コワコフスキ。

 前回のつづき。
 Is God happy ? (2006), in : Leszek Kolakowski, Selected Essays (2012).
 ---       
 神は幸せなのか?//
 この疑問は馬鹿げてはいない。
 我々の伝統的な考え方からすると、幸せとは心の感情の状態の一つだ。
 しかし、神には感情があるのか?
 確かに、神は我々被造物を愛すると言われている。そして、愛とは、少なくとも世俗人間世界では、一つの感情だ。
 しかし、愛とはそれが報いられたときの幸せの源の一つであり、神の愛は、その客体の誰かにのみ報われるのであって決して全員によってではない。
 ある者は神は実在するとは信じないし、ある者は神が存在するかどうかを気にしないし、あるいは神を憎悪して、人間の苦痛や悲惨を前にして無関心だと責め立てる。
 神が無関心ではなくて我々のような感情をもっているならば、神は人間の苦しみを目撃して、つねに悲しみの状態で生きているに違いない。
 神は、その苦しみの原因になったわけでもないし、望んだわけでもない。だが、全ての悲惨、恐怖および自然が人々にもたらす又は人々がお互いに加え合う残忍さを前にして、無力なのだ。//
 一方で、神は完全に不変であるとすれば、我々の悲惨に動揺したりすることはありえず、したがって神は無関心であるに違いない。
 しかし、神が無関心だとすれば、いかにして神は慈愛の父であることができのか?
 そしてもし不変ではないとすれば、神は我々の苦しみに共感し、悲しみを感じる。
 いずれの場合でも、我々の理解できる全ての意味において、神は幸せではない。//
 我々は、聖なる存在を理解することはできないことを認めざるをえない。-全能の、神自身においてかつ神の外部にある何かとしてではなく自身を通じて全てを知る全智の、そして苦痛や悪魔に影響を受けない、聖なる存在のことを。//
 キリスト教の本当の神、イェズス・キリストは、認識可能な全ての意味において、幸せではなかった。
 キリストは、痛みを現実化されて苦しんだ。キリストは仲間の者たちの苦しみを分け持った。そして、十字架の上で死んだ。//
 つまりは、<幸せ>という言葉が聖なる存在にあてはまるとは思えない。
 しかし、人間にもそれはあてはまらない。
 我々が苦しみを経験しているのだけが理由ではない。
 あるときに苦しんではいないとしても、肉体的および精神的な愉楽や『永遠に続く』愛を超える瞬間を体験することができるとしてすら、我々は、悪魔の存在と人間の状態の悲惨さを決して忘れることができない。
 我々は他人の苦しみに同情はするが、死の予感や生きていることの悲しみを排除することはできない。//
 そうして、全ての愉しい感情は純粋に消極的なものだ、つまり苦痛がないことだ、というショーペンハウエル(Schopenhauer)の陰鬱な考え方を、我々は受容しなければならないのか?
 必ずしもそうではない。
 我々が善(good)だと経験するもの-美的な歓喜、性的な恍惚、あらゆる種類の肉体的精神的愉楽、豊かにしてくれる会話と友人の情愛-は全てたんなる消極物だと考える必要はない。
 このような経験は我々を強くし、精神的により健康にさせる。
 しかし、悪魔についても苦しみについても-malum culpae あるいは malum ponae -、これらは、何もすることができない。//
 もちろん、自分は成功しているとの理由で幸せだと感している人々はいる-健康面であれ豊かさ面であれ、隣人たちから尊敬(または畏怖)されている。
 このような人々は、人生は幸せそのものだったと信じるのかもしれない。
 しかし、これはたんなる自己欺瞞だ。時が経つにつれて、その人たちは真実を認識するのだとしても。
 真実は、その人たちは残りの我々のように失敗者だ、ということだ。//
 ここで異論が生起しうる。
 我々が高い種類の真の知識を学んだとすれば、アレクサンダー・ポープ(Alexsander Pope)のように何であれあるものは正しい(right)と、あるいはライプニッツ(Leipniz)のように我々は論理的に可能な全ての世界の最善の中に住んでいると、信じるかもしれない。
 こうしたものを精神的に受容することに加えて、つまり神にいつも導かれているので世界の全ての物事は正しい(right)と単純に信じることに加えて、我々の心の中でそのとおりだと感じ、壮麗さや、日常生活にある普遍的なものの善性(goodness)や美しさを経験するならば、我々は幸せだとは言っていけないのだろうか?
 答えは、否、だ。
 我々は、そうできない。//
 幸せとは我々が思い抱くもので、経験ではない。
 地獄や煉獄がもはや機能しておらず、全ての人間が、ただ一人の例外もなく神によって救済され、何も不足なく、完璧に充足して、苦痛や死もなく、いま天上界の至福を享有しているのだと思い浮かべると、彼らの幸せは現実にあり、過去の悲しみや苦しみは忘れ去られてしまったと、思い描くことができる。
 このような状態を思い抱くことはできる。しかし、それはかつて決して経験されてきていない。それを見た者は、これまでにいない。//
 2006年
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 終わり。

1011/佐伯啓思のリスボン大地震・カント・「近代」への言及を受けて。

 佐伯啓思が1775年にリスボンで大地震があり、カントが影響を受けて著書まで書いた〔『美と崇高の感情の観察』→『判断力批判』)、ということを初めて記したのはおそらく新潮45(新潮社)5月号だ(p.231-)。最近の表現者37号(ジョルダン、2011.07)の座談会「文明内部の危機」でも、同旨のことが語られている(p.39-)。
 佐伯によると、ヴォルテールはアウグスティヌスやライプニッツの<神の創造した世界は最善>とかの「神学的」世界観を疑う契機とした。また、カントは、壮大な自然現象の恐怖・脅威を人間は理性と構想力で克服しようとし、そのような人間は「人格性」をもち、かつ「崇高」だ、と論じた。これは「近代的な理性中心の発想」に連なるもので、「ちょっと極端にいえば」、「リスボン大地震を一つのきっかけ」にして「自然を人間がコントロールできる」、そこに人間の「素晴らしさ、崇高さがある、という近代的なヒューマニズムのようなものが力を得てくる」。要するに、リスボン大地震はそういう(「近代」に向けての)「大きな価値観の転換をもたらした」。そして、佐伯啓思によると、今回の日本の大震災は、かかる「近代的な考え方」が限界を迎えたことを意味する、という(表現者37号p.40)。また、新潮45の5月号では、カントのような欧州近代(またはそれを用意した欧州啓蒙主義)の自然観とは異なるものとして、宮沢賢治の詩に見られる(日本の)自然観・死生観に言及している(p.234-)。
 なかなか興味深いし、別のどこかで誰かが、ルソーの人間不平等起源論の「自然に帰れ」との反文明観の吐露もリスボン大地震の影響があったと書いていたこともついでに思い出す。
 だがむろん、完全に釈然としているわけではない。ヴォルテールとカントだけを持ち出して、「欧州近代」へのリスボン大地震の影響は論証できるのだろうか、という疑問がある。「一つのきっかけ」程度で、リスボン大地震の影響を過大評価してはいけないとの議論もできそうだ。
 また、自然災害を前にして自然と闘おうとする欧米(西洋)「近代」思想と、自然と「共生」しようとする日本的自然観・死生観との対比も上の佐伯啓思の論調には見られるようだが、そもそも「自然」環境そのものが、欧州と日本では異なる、ということが出発点なのではないか、という気もする。すなわち、自然観・死生観が異なるから大地震等々の「自然」現象への対処・対応が異なるのではなく、逆に「自然」環境が異質だからこそ、欧州と日本では自然観・死生観も異なるに至ったのではないだろうか。
 1775年といえば明治維新から100年近く前の江戸時代・安永年間。その頃以降も日本ではいくたびも大地震・津波を経験したのだが、欧州については1775年の大地震まで遡らなければならないということ自体に、自然<大災害>の多寡が示されているようにも見える。
 地域によって違うだろうが、土地の肥沃度では日本の方が総じて豊かなような気もする。しかし、地震、津波、台風といった自然現象による災禍は、古代からして欧州よりも日本の方がはるかに多く、そこから、日本(・日本人)には欧州とは異なる独自の自然観・死生観が育まれてきたのではないだろうか。
 というようなことを考えていると、なかなかに面白い。

ギャラリー
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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