秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ヨーロッパ近代

1713/西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」…(2017)。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。
 対談や座談会の内容を文字にした、安易に造られる書物が多すぎる、とは断定しないでおこう。
 何しろ、相対的にはきわめてマシな、優れていると感じている「保守」派論客の対談本なのだから(司会は柏原竜一)。
 まえがきを2017年3月に西尾幹二が書き、あとがきを10月に中西輝政が書き、同11月付で出版されている。この時期に、西尾と中西の二人は何を語るのか。
 目次全体を眺め、一章まで読了した(~p.70)。
 西尾幹二によると、日本国民の「歴史認識を永いあいだ分裂させ、歪めてきた当のもの」である<世界史に日本がなく、日本史に世界がない>という「変則状態」の「欠を埋め、ここで自覚を新たにしたいというおもい」で起ち上がり作成された書物だ、という。p.4。
 司会者・柏原竜一は「問題提起-『西洋近代』のいかがわしさ」と題する第一章の冒頭で(しかし、本書全体の意図のごとく)、こう言う。
 「昭和における日本人の精神性の覚醒を正しく位置づける」ためにも、「大局から、『近代』というもの、『西洋近代』というものを見直す必要がある」との問題意識で、(二人に)「対談をお願いする」ことになった。
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 まだ70頁までしか読んでいないが、大きな期待は持てそうにない、と直感的に思った。
 目次から、章名および節(に当たるもの)の名・タイトルにどのような言葉・概念が並んでいるかを見てみる。
 日本-14。最多のようだが、これは当然かもしれない。
 アメリカ-11、近代・西洋近代・西洋文明・欧米・ヨーロッパ-計8、中国-1。
 ロシア(・ロシア革命)・ソ連-ゼロ。共産主義・コミュニズム・マルクス主義・社会主義-ゼロ。
 あくまで目次上のタイトルで使用されている言葉・概念だ。
 しかし、この書のおおよその内容を掴む手がかりにはなるだろう。
 今年はロシア革命100年。だが、この書に関するかぎりでは、西尾幹二も中西輝政も、ロシア革命や「共産主義」の「世界史的」意義・意味、その今日に至るまでの日本に対する「日本史的」意義・意味には、とんと関心がないように見える。正確に再述しておく-「…かぎりでは」、「…ように見える」。
 中西輝政は、いつぞや「ネオ共産主義」という言葉を使って、まるで現在に現実としてある「共産主義」国家・「共産主義」体制は、<元来の・本来の>共産主義とは異なるとでも理解しているかのような文章を書いていた。この人にとって<真の>または<本来の・元来の>「共産主義」とはどういうものなのか。したがってまた、西尾との対談でもこれを(たぶんほとんど)話題にしないのは当然かもしれない。
 中西は、とっくに「マルクス主義の過ちは証明されている」ので、これ(マルクス主義・共産主義等)に拘泥するのは、遅れている、旧い発想だ、と考えているようにも思えた。
 このような発想は、じつは「日本会議」と同じだ。
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 「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判をテーマとする書物は、すでに多数ある。
 かつて私もよく読んだが、佐伯啓思がしてきた仕事のほとんどは、これだ。あるいはこれの繰り返し、しつこいまでの反復、だ。
 そして、大切なこととして指摘しておきたい。「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判は、マルクス主義者・共産主義者もまた、共有する。
 彼らは、「市民革命」思想らしきものを都合よく利用しつつ、<自由と民主主義>をブルジョアジーが被支配者を「欺瞞」するための道具だとも考えた(考えている)。
 <西洋近代>の嫡出か鬼胎かはともかく、<近代>は共産主義もまた生み出したし、一方で共産主義は<近代>を克服しようとした(とする)考え方・運動だ。
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 多くの<西洋近代>懐疑・批判書と違って、二人のこの本は、アメリカを主対象とし、アメリカ批判を主とするもののようでもある(しかし、トランプ等々、アメリカの現代政治を扱っているのでもなさそうだ)。
 オビに、こうある。
 「戦後日本を縛りつけているものは何か?/いまも世界を支配する歴史の亡霊。その体現者・アメリカの正体を暴く!」。
 この対談書によるかぎりで、西尾幹二と中西輝政にとって、現時点で「大局的には」、中国共産党体制よりも北朝鮮よりも、アメリカの方が<歴史的に?>大切な、重大な関心事なのだろう。
 しかし、素朴につぎのように考えてしまう。
 二人が語るアメリカ(の歴史等)とロシア(・ソ連)や中国等との関係はいったいいかなる<世界史的>関係にあるのか。日本史を語る際にも、少なくとも幕末以降の日本・ロシア関係、そして何よりも第一次大戦中のロシア革命(1917年)や終戦後のコミンテルン(1919年)との関係は重要な関心事でなければならないだろう。いやすでに北一輝にも見られるように、ロシア革命以前から、マルクス主義(・思想)の影響は日本に強くあったのだ。
 また、つぎのようにも思う。
 反アメリカ、あるいは「アメリカの正体を暴く」というだけでは、基本的には佐伯啓思ら多数の者がしてきた仕事の、新味のあるらしき、焼き直しにすぎないだろう。
 また、日本共産党もまた<反アメリカ>のナショナリスト政党だということを、あらためて強く指摘しておかなければならない。アメリカを批判的に考察し、「アメリカの正体を暴く」、というのは、決して日本共産党が嫌がることではない。
 この政党は十分に、民族主義的・対米自立の「自主・独立」、そして「愛国」政党でもある。
 さらに、北朝鮮がいまだに「アメリカ帝国主義」と称しているのも、中国が決してアメリカと全面的には同調しないのも、根源的には、その「共産主義」性、あるいはマルクス主義(・思想)がある。反資本主義・反「帝国主義」の心性を、彼らは失っていない。
 日本共産党についても同じ。アメリカを歴史的に批判することは、少なくとも一面では、あるいは一部は、日本共産党等の日本の共産主義者および「左翼」もまた喜びとするものであることを、強く意識しておく必要があるだろう(この点は、佐伯啓思の<左翼との通底性>にもかかわる)。
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 さて、第一章。
 <「近代」とは何か>はでたらめのタイトルのごとくで、キリスト教に関する話が多すぎる。
 国家と宗教の分離、そこでの宗教について話題にするな、とは言わない。しかし、とりわけ、中西輝政の、「ピューリタニズム」に関する話が長すぎる。
 この機会にと、中西は最近に勉強?(研究?)したことを披瀝したかったのかもしれない。新しい知識も(いかほどに確かなのかは分からないが)、得られる。
 しかし、大発見のごとく勇んで強調するほどのことなのか。それで?、とも尋ねたくなる。
 中西輝政が上についてきちんと発言したいのならば、<欧米・ピューリタニズムと日本>とでも題する本格的な、300-500頁から成る専門的研究書を執筆・刊行して、世に問うていただきたい。
 もう一つ、中西輝政の発言には、気になる部分がある。別の日に。

 

0584/憲法学者・樋口陽一の究極のデマ(6)-「個人」・「個人主義」・「個人の自由」/その2

 二 月刊正論8月号(2008、産経新聞社)の小浜逸郎「死に急ぐ二十代女性の見る『世界』」は若い女性の自殺率の高まりの原因等を分析するものだが、最後の文章は次のとおり(p.285)。
 「人間は一人では生きられない。戦後、日本人は欧米との戦争の敗北をふまえて、『欧米並みの近代的な個の確立』という課題をやかましく叫んできた。しかし、気づいてみると、そういう心構えの問題を通り越して、社会(ことに企業社会)の構造そのものが、ばらばらな個として生きることを強いるようになってしまった。若い女性の一部にそのことの無理を示す兆候が顕著になってきた」のかもしれない。/
 そうだとすれば、「私たちは、個の単なる集合として社会を捉えるのではなく、あくまでもネットワークとしてこの社会が成り立っているのだということを、もう一度根底から捉え直す必要があるのではないのだろうか」。以上。
 <欧米並みの近代的な個の確立>を説く樋口陽一において、企業・法人は国家とともに「個人」を抑圧するものとして位置づけられていた。
 しかるに小浜逸郎は「企業社会」の「構造そのものが、ばらばらな個として生きることを強いるようになってしまった」という。これを樋口陽一は当然視して歓迎しても不思議ではないのだが、樋口本人はどう理解・評価するのか。
 いずれにせよ、<欧米並みの近代的な個の確立>などという(日本の進歩的文化人・「左翼」知識人が唱えてきた)お説教が日本と日本人にとって適切なものだったかどうか自体を、小浜の指摘のとおり、「根底から捉え直す必要がある」だろう。<欧州近代>を普遍的なもの(どの国も経る必要があり、かつ経るはずの段階)と理解する必要があるか否か、という問題でもある。
 また、自信をなくしての自殺も自尊心を損なっての行きずり(無差別)殺人も、戦後日本の<個人(の自由)主義>の強調・重視と無関係ではない、と感じている(仮説で、面倒な検証と議論が必要だろうが)。
 (この項、つづく。)

0437/佐伯啓思・<現代文明論・上>のメモのつづき。

 佐伯啓思・<現代文明論・上>(PHP新書、2003)からの要約的引用のつづき。
 ・フランス革命の同時代の英国人、「保守主義の生みの親」とされるエドマンド・バークは1790年の著で、国家権力・「政府」は「社会契約などという合理主義でつくり出すことはできない」と述べ、フランス国王・王妃殺害の前、むろん「ジャコバン独裁」とその崩壊の前に、フランス革命は「大混乱に陥るだろうと予測した」。(p.162-3)
 ・バークによれば、フランス革命の「誤り」は「抽象的で普遍的な」「人間の権利」を掲げた点にある。「人間が生まれながらに自然に普遍的にもっている」人権などは「存在しない」、存在するのは抽象的な「人間の権利」ではなく、「イギリス人の権利」や「フランス人の権利」であり、これらは英国やフランスの「歴史伝統と切り離すことはできない」として、まさにフランス「人権宣言が出された直後に『人権』観念を批判した」。(p.166)
 ・バークによれば、「緩やかな特権の中にこそ、統治の知恵や社会の秩序をつくる秘訣がある」。彼は、「特権、伝統、偏見」、これらの「合理的でないもの」には「先人の経験が蓄積されている」ので、「合理的でない」という理由で「破壊、排除すべきではない」。それを敢行したフランス革命は「大混乱と残虐に陥るだろう」と述べた。(p.167-8)
 今回は以上。
 「合理的でないもの」として、世襲を当然視する日本の「天皇」制度がある。これを「破壊、排除すべきではない」、と援用したくなった。
 それよりも、<ヨーロッパ近代>といっても決して唯一の大きなかつ「普遍的な」思想潮流があったわけではない、ということを、あらためて想起する。
 しかるに、日本国憲法はこう書いていることに注意しておいてよい。
 前文「……<前略>。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
 第97条「……基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、…、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
 もちろん、客観的に「普遍の原理」にもとづいているのではなく(正確には、そんなものはなかったと思われる)、<制定者が「普遍的」だと主観的には理解した>原理が採用されている、と理解しなければならない。「生まれながらの」(生来の)とか「自然的な」自由・権利という表現の仕方も、一種のイデオロギーだろう。
 話題を変える。月刊WiLL5月号の山際澄夫論稿(前回に触れた)の中に、「(朝日新聞にそういうことを求めるのは)八百屋で魚を求める類であろうか」との表現がある(p.213)。
 上掲誌上の潮匡人「小沢民主党の暴走が止まらない!」を読んでいたら、(民主党のガセネタ騒動の後に生じたことは)「木の葉が沈み、石が浮くような話ではないか」との表現があった。
 さすがに文筆家は(全員ではないにせよ)巧い表現、修辞方法を知っている、と妙な点に(も)感心した。潮匡人は兵頭二十八よりも信頼できるが、本来の内容には立ち入らない。民主党や現在の政治状況について書いているとキリがないし、虚しくなりそうだから。

0425/佐伯啓思・人間は進歩してきたのか(PHP新書、2003)全読了。

 このサイトに参加して以来一年が経過した。
 昨夜、佐伯啓思・人間は進歩してきたのか-「西欧近代」再考(PHP新書、2003)を最後まで一気に読了。面白かった。(前夜読んだ範囲内では)ウェーバー、フロイト、フーコー、ニーチェ等を登場させてこのように「西欧近代」という「物語」(p.265)を「描き出」せる人は日本にはなかなか存在しないのではないか。
 部分的にでも引用したい文章は多くありすぎる。別の機会におりに触れて、適当に使ってみよう。
 ニーチェ死去のちょうど1900年辺りを区切りにしているためか、ロシア革命への言及はない。この本の続編にあたる同・20世紀とは何だったのか-「西欧近代」の帰結<現代文明論・下>(PHP新書、2004)の目次を見たかぎりでも、ロシア革命への論及は少ない。
 それにマルクスらの『共産党宣言』は1848年刊だから、「西欧近代」再考の前著でマルクス主義・社会主義(「空想的社会主義」も場合によっては含めて)叙述してもよかった筈だが、言及がいっさいない。
 このことは、佐伯がマルクス主義を<相手にしていない>、マルクス主義に<関心自体をよせていない>(つまり、これらに値するものとは考えていない)ということを意味するのだろうか。
 この点、マルクス主義やロシア革命との関係で各思想家(哲学者)を位置づけていたと見られる中川八洋とは異なるようだ。
 だが、マルクス主義(→ロシア革命)もまた「西欧近代」の所産(それが「鬼殆」・「鬼子」であろうとも)だとすれば、少しは言及があってもよかったように思える。このブログ欄が、明確に反コミュニズム(共産主義>日本共産党)を謳っている(つもり)だからかもしれないが。
 さて、次は上記の<現代文明論・下>にしようか。中途で停止中の佐伯・隠された思考(筑摩)にしようか。それとも、しばらく忘れている阪本昌成・法の支配(勁草)にしようか。自由な時間が欲しい。

0413/佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社)を読みつぎ、樋口陽一の本も。

 佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)の内容の一部に今年の1/12と1/30に言及していて、自らの記載を辿ってみると、言及部分は、後者ではp.95以下、前者ではp.181以下と明記されていた。その後しばらく放念していたが、先週に思い出して、第Ⅱ章のp.260まで読了(あと40頁で最後)。p.70までの序章は読了しているか不明だが、少なくとも半分には読んだ形跡がある(傍線を付している)。
 同・自由とは何か(講談社現代新書)と同様にやはり面白い。読書停止?中の同・隠された思考(筑摩、1985)よりも読み易く、問題意識がより現実関係的だ。但し、筆者は隠された思考の方に、時間と思索をより大きく傾注しただろう。
 紹介したい文章(主張、分析、指摘等々)は多すぎる。
 p.212以下は第Ⅱ章の3・「『歴史の終わり』への懐疑」で、F・フクシマのソ連崩壊による「歴史の終わり」論を批判して、そこでの「歴史」とはヨーロッパ近代の「リベラル・デモクラシー」のことで、それは20世紀末にではなく「実際には19世紀で終わっていた」(p.219)と佐伯が主張しているのが目を惹いた。
 その論旨の紹介は厭うが、その前の2・「進歩主義の崩壊」からの叙述も含めて、意味は理解できる。
 一部引用する。①欧州思想界の主流派?の「進歩主義」(→戦後日本の「進歩的」知識人)に対して、19世紀のーチェ、キルケゴール、ドストエフスキー、20世紀のベルグソン、シュペングラー、ホイジンガー、オルテガ、ハイデッガーらは「近代を特権化しようとする啓蒙以来のヨーロッパ思想、合理と理性への強い信頼に支えられたヨーロッパ思想がもはやたちゆかないというペシミズムの中で思想を繰り広げ」た。「もはや進歩などという観念は維持できるものではなくなっていた」(p.219~220)。
 ②「歴史の進歩の観念」=「個人の自由と民主主義からなる近代市民社会を無条件で肯定する思考」は「実際には…二十世紀には神通力を失っていた」。「近代、進歩、市民社会、といった一連の歴史的観念は、一度は破産している」(p.222-223)。
 これらのあと、(戦後)日本の<進歩主義>又は「進歩的」知識人に対する<批判>らしきものがある。
 ③欧州の「進歩」観念を「安易」に日本に「置き換えた」ため、「進歩の意味は、…検証されたり、…論議の対象となることなく、進歩派という特権的知識人集団の知的影響力の中に回収されてしまった」。「進歩は、…進歩的知識人の頭の中にあるとされた。彼らが進歩だとするものが進歩なのであり、これは多くの場合、ヨーロッパ思想の中から適当に切り取られたもの」だった(p.224)。
 ④「普遍的理念としての進歩の観念(近代社会、市民社会、自由、民主主義、個人主義、人権など)は、戦後のわが国では、ただ進歩派知識人という社会集団の頭を占拠したにすぎない」(p.225)。
 このあとの展開は省略。
 「進歩的知識人の頭の中」だけ、というのはやや誇張と思われる。「進歩的知識人の頭の中」だけならいいが、書物や教育を通じて、「進歩的知識人」が撒き散らす概念や論理は<空気の如く>日本を支配してきたし、現在でもなお有力なままではないか、と思われるからだ(この旨を佐伯自身もこの本か別の著に書いていた筈だ)。
 但し、別の所(p.200)で「大塚久雄、丸山真男、川島武宜」の三人で代表させている戦後日本の<進歩的>知識人たちが、欧州<近代>を丸ごと、歴史的・総合的に<学んだ>のではなく、ルソー、ケルゼンらの<主流派>の思想、現実ないし制度へと採用されたことが多かったような「通説的」?思想のみを「適当に」摘み食いしてきた(そして日本に<輸入>してきた)という指摘はおそらく適切だろうと思われる。
 上の本に併行して、樋口陽一・「日本国憲法」まっとうに議論するために(みすず書房、2006)を先週に読み始め、2/3以上になるp.114まで一気に読んだ(最後まであと40頁)。とくにむつかしくはない。「まっとうな」憲法論議の役にどれほど立つのかという疑問はあるが、いろいろと思考はし、問題設定もしている(但し、本の長さ・性格のためかほとんど具体的な回答は示されていない)ということは分かる。
 <個人主義>(個人の尊重)との関係で佐伯と樋口の両者の本に同じ回に言及したことがあった。
 上で<ヨーロッパ近代>や「進歩的知識人」に関する佐伯の叙述の一部を引用した動機の一つは、次の樋口の、上の本の冒頭の文章を読んだからでもある。
 <自己決定原則は「自分は自分自身でありたい」との「人間像」を前提に成立していたはず。実際には、「教会やお寺」・「地元の有力者」・「世間の風向き」などの他の「だれかに決めてもらった」方が「気楽だ」という人の方が「多かったでしょう」。しかし、「そんなことではいけない」というのが「近代という社会のあり方を準備した啓蒙思想以来の、約束ごとだったはず」だ。この「約束ごと」に対する「公然とした挑戦が…思想の世界でも」説かれはじめた、「『近代を疑う』という傾向」だ。>(p.10)。
 樋口陽一は丸山真男らの先代「進歩的知識人」たちを嗣ぐ、重要な「進歩的知識人」なのだろう。上の文のように、「近代」の「約束ごと」を墨守すべきことを説き、「『近代を疑う』という傾向」に批判的に言及している。
 樋口のいう「近代」とは<ヨーロッパ近代>であり、かつ欧州ですら-佐伯啓思によると-19世紀末には激しい批判にさらされていたものだ。樋口はまるで人類に「普遍的な」<進歩的>思想の如く見なしている。
 樋口に限らず多数の憲法学者もきっと同様なのだろう。特定の<考え方>への「思い込み」があり、特定の<考え方>に「取り憑かれて」いる気がする。
 日本国憲法がそのルーツを<ヨーロッパ近代>に持ち、「人類」に普遍的な旨の宣明(前文、97条)もあるとあっては憲法学者としてはやむをえないことなのかもしれない。しかし、憲法学者だから日本国憲法が示している(とされる)価値をそのまま<自分自身のものにする>必要は全くなく、むしろそれは学問的態度とは言えないのではないか。憲法学者は、日本国憲法自体を<客観的に・歴史的に>把握すべきではないのか。<よりよい憲法を>という発想あるいは研究態度が殆どないかに見える多くの憲法学者たちは、やはり少しおかしいのではないか。
 筆が滑りかけたが、単純に上の二著のみで比較できないにせよ、参照・言及している外国の思想家等の数は樋口よりも佐伯啓思の方がはるかに多く、思索はより深い。憲法規範学に特有の問題があるかもしれないことについては別の機会に(も)触れる。

0387/産経2/04を見て-「ヨーロッパ近代」の背理。

 産経新聞にも、朝日新聞ならば見ることができないだろうような、<産経らしい>記事がよくある。
 産経2/04を見ていると、①「正論」欄で首都大学東京学長・西澤潤一が、南原繁・丸山真男という「人格者」の考え方が、現在の徳育の欠如・国力の低下の原因でもあったとして、「きれいごとだけをつないで、自分の哲学としているだけでは足りない」等と批判している。詳細ではないし、必ずも論旨明瞭ではないが、<わが意を得たり>というところ。
 ②「溶けゆく日本人」の「蔓延するミーイズム」の部の開始も産経らしい。「ミーイズム」(個人主義・反国家主義・反ナショナリズム)賛美の朝日新聞では出てこない企画だろう。
 ③一面の石原慎太郎「日本よ-国家への帰属感、断想」も現在の日本人の「国家への帰属感」の有無又は「質」に言及して憂慮感を示す。まじめな朝日新聞記者ならば、「白熱の国際試合」での「ニッポン、ニッポン」に対してすら眉をひそめるのではないか。無国籍新聞、朝日。
 ④曽野綾子の連載コラムは<教育は強制>等を強調している。
 結局のところ、<ヨーロッパ近代>の生み出した<自由・民主主義>等の<負>の部分が(敗戦・占領という特殊日本的要因もあって)、現代日本に集中的に顕現している、ということでもあろう。
 つい最近読んだ佐伯啓思・イデオロギー/脱イデオロギー(岩波、1995)にこんな文章があった。
 ①近代の真に重要な問題は「権力者に対する市民の戦い」ではなく、「自由が、実現されていくにつれて、むしろ生き生きとした内実を失ってゆくという逆説」にある(p.157)。
 ②「自由の達成は、人を放縦へと追いやり、価値観の拡散と相対化をもたらし、われわれは自由の中で、本当の手ごたえを失ってゆくだろう」(p.160)。
 ロシア・北米という周縁部分を含めた<ヨーロッパ近代>はロシア革命・「社会主義」の母胎ともなったのだが、「社会主義」革命にまで極端化しなくとも、もともと種々の問題を内包させている。<個人主義・自由・民主主義、万歳!>という段階にとどまっているわけには、とてもいかないのだ。
 これらの徹底(あるいは侵害の危険性)を逆に強調して<個人主義・自由・民主主義>を国家・権力に対峙させる発想を最優先に置く政党や新聞や人々は、<倒錯・時代遅れ・時代逆行>としか私には思えないのだが。
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