秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

モロトフ

1789/ネップと20年代経済④-L・コワコフスキ著1章5節。

 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.37~p.40。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 今回の部分にスターリン時代の農村地域の飢餓・困窮等に関する叙述があるが、レーニン時代にも、干魃という自然的要因も(ボルシェヴィキによる食糧徴発政策の他に)あったが、類似の状態があったことを想起させる。試訳をこの欄に掲載しているR・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1995)/ネップ期のうちの「1921年の飢饉」にはより生々しく具体的な描写があり、「人肉喰い」があった確実な最少の件数も記している。この欄の、2017年4月、No.1515; 1516; 1518; 1520を参照。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争④。
 経済および財務政策はネップ期の間に実際に変わらないままだったのではなく、農民層に対する圧力を増加させる方向へと動いた。
 ブハーリンは別として、党の最高幹部層の中でのネップの擁護者は、首相としてレーニンを継いだルィコフ(Rykov)と労働組合担当の職責にあったトムスキー(Tomsky)だった。
 この二人はいずれも自分自身の力による秀れたボルシェヴィキで、決してスターリンの操り人形ではなかった。
 しかしながら、初期の時代からスターリンはモロトフ(Molotov)、ヴォロシロフ(Voroshilov)、カーリニン(Kalinin)およびカガノヴィチ(Kaganovich)のような者たちを指導層に送り込んだ。これらは自分では何も表現せず、スターリンに対して無条件に服従した。
 経済政策が不確定で曖昧だったため(ネップ熱烈支持者ですら最後の拠り所としての「田園地帯ての階級闘争」という考えをすっかり放棄することはできなかった)、行き詰まり、満足できる出口がなくなった。
1925年の農民に対する実質のある譲歩によって農業生産は増大したが、1927年までは穀物生産高は1914年以前の高さまでまだ達していなかった。一方では、工業の発展と都市化とともに食糧需要が増した。
 小土地所有者には処分できる穀物かなく、クラクは急いで売ることもしなかった。クラクが受け取る金で買える物が何もなかったのだから。
 このゆえにこそスターリンは1927年に、没収と強制という極端な手段を採用することを決意した。
 ブハーリンは最初からこの政策を承諾し、自分自身の基本的考え(プログラム)を修正して、計画化や重工業への投資の増大、国家による市場への干渉の強化、そして最後にクラクに対する「攻勢(offence)」の方向へと進んだ。
 これは左翼反対派を十分に満足させるものではなかったが、このことは大した意味がない。その間に彼らの地位は破壊されてしまっていたのだから。//
 農民層に対する経済的および行政的な圧力が高まることで、分配の劇的な下落、すでに深刻だった食糧事情のいっそうの悪化が生じた。
 スターリンは何度も繰り返して、クラクの危険性と階級敵の力の成長について語った。しかし、1928年2月にはまだ、ネップの廃止やクラクの粛清という風聞は反革命的なたわ言だと強く主張していた。
 しかしながら、ほんの四ヶ月のちに、集団農場を大量に組織化する「ときが成熟した」と発表した。
 7月の中央委員会会議で、そのときまでは激しく攻撃していたプレオブラジェンスキーの諸主張(テーゼ)の全てを是認した。
 ロシアは国内での蓄積によってのみ工業化を達成することができる。唯一の解決策は、農民が工業製品を求める鼻を通じて支払うことができるような額に価格を固定することだ。
 スターリンは同時に、「中産農民との永遠の同盟」を支持しつづけ、小規模の農業生産はまだ不可欠だと断言した。
 にもかかわらず、ブハーリン、ルィコフおよびトムスキーは、この新しい政策に反抗した。これに対してスターリンは、新しい右翼反対派だとの烙印を捺した。
 スターリンは1929年の初めにこの悲しい展開を政治局に報せ、のちにすみやかに世界全体に知らせた。
 (1928年秋の諸演説で「右翼主義(rightist)の危険」に触れていたが、政治局は全員が一致していると明言していた。)
 説明によれば、右翼偏向は、工業化を遅らせる、不確定の将来へと集団化を延期する、取引の完全な自由を再構築する、クラクに対する「非常手段」の使用-換言すると、徴発、逮捕、警察による圧力-を貶す、といったもので成り立つ。
 「右翼主義者」は国際情勢の見方に関して誤りがある、ということもすぐに示された。すなわち、彼らはまだ世界資本主義の安定化を信じ、社会民主主義的左翼と闘うのを拒否しているのだ、と。//
 スターリンはこの時期に一連の演説も行い(最初は1928年7月)、新しい原理を表明した(これは理論家としての名声に加わった)。
 それは、共産主義が発展し続けるとき、階級闘争と搾取者の抵抗はますます暴力的になる、ということだった。
 つづく25年の間、ここで新たに述べられたことは、ソヴィエト同盟およびその支配に服する諸国家での大規模の抑圧、迫害および虐殺の根拠として役立つことになった。//
 こうしたことが、ソヴィエト農業の大量集団化を始める設定条件だった。-おそらくは、国家が自らの公民に対してかつて行なった最も大規模な、戦争に似た作戦行動だった。
 強制的手段を緩やかに用いる試みが成果をもたらさないことが分かって、スターリンは1929年の終わりに、大量の「階級としてのクラクの粛清」を伴う、完全な集団化をただちに開始することを決定した。
 数ヶ月のちの1930年3月、この政策がすでに厄災的な結果を生じさせたとき-農民たちは大規模に穀物を粉砕して家畜を殺戮した-、スターリンは一時的に落ち着かせて、「成功による目眩み」という論考で、党官僚にある過度の熱狂と焦りや「自発性の原理」違反を非難した。
 これは党と警察機構にためらいを生じさせ、多くの集団農場は自分たちで合意して解散した。
もはや強制力を用いる政策へと転じるほかはなく、それは国をこの世の地獄に変えた。
 数十万の、最終的には数百万の農民たちが、恣意的に「クラク」と張り札をされてシベリアまたは他の離れた地域に追放された。
 村落での絶望的な一揆は軍隊や警察によって血をもって弾圧され、国は混乱、飢餓と困窮に陥った。
 ある場合には、いくつかの村落の住民全員が追放されるか、飢餓によって死んだ。
 大急ぎで編成された大量の護送車の中で、数千人が殺されるか、寒さと窮状に追い込まれた。
 半死の犠牲者たちは救援を求めて田園地帯を放浪した。そして、人肉喰い(cannibalism)行われた場合もあった。
 飢えていく農民が都市へ逃亡するのを防ぐために、国内旅券制度が導入され、許可されていない住居の変更には投獄という制裁が課されることとされた。
 農民には、この旅券が少しも発行されなかった。そしてそのために、封建的農奴制の最悪の時代のように、土地に縛りつけられた。
 このような物事の状態は、1970年代まで変わらなかった。
 集中強制収容所(concentration camp)は、重労働を宣告された新しい囚人の群れで満ちた。
 農民たちの自立を拒絶して彼らを集団農場へと追いたてる目的は、奴隷である民衆を生み出すことだった。その労働の利益は、工業を増加させるだろう。
 直接の効果は、多数の再組織化や改革の手段をとったにもかかわらず、まだ回復していない減退の状態にソヴィエト農業をしたことだった。
 スターリンが死んだとき、大量の農業集団化が始まってからほとんど四半世紀の後に、人口一人当たりの穀物生産高は、1913年のそれよりもまだ低かった。
 この期間のあいだずっと、困窮と飢餓があったにもかかわらず、農場生産のうちの大量部分はソヴィエト工業のために全世界へと輸出された。
 この年月のテロルと抑圧は、実際のとおり桁外れだが、たんに人命の損失数だけで表現することはできない。
 集団化とは何を意味したのかを最も生々しく描いているのは、おそらくヴァシリ-・グロスマン(Vasily Grossman)の、その死後に出版された小説、<永遠に流れる>(Forever Flowing)だ。//
 「新路線」と強制的集団化の政策を採用したのは、スターリンがたんにトロツキー=プレオブラジェンスキーのプログラムを、その執筆者を排除したあとで取り上げたにすぎない、と広く考えられている。
 このことは最初からブハーリンの責任だったとされる。そして、もはや政策の根本的な衝突はないという理由で急いでスターリンに許しを乞うた、以前の反対派の多くも、そう信じた。
 許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑤へとつづく。

1520/ネップ期・1921年飢饉④-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・1921年の飢饉④。
 ARA〔アメリカ救済委員会〕は、活動が最も活発だった1922年の夏、一日に1100万の人々に食糧を与えた。
 他の外国の諸団体は、300万人ぶんを加えた。
 総体的にいうと、この期間にソヴィエト政府および外国の救済諸機関が輸入した食糧は、1億1500万~1億2000万pud、あるいは200万トンに達した。(200)
 このような活動の結果として、1922年夏の初めには、『飢餓による現実の死の報告は、事実上なくなった。』(201)
 ARAはまた、800万ドルに値する医薬品も供給した。これは、感染症を食い止めるのに役立った。
 さらに、1922年と1923年に穀物の種子も供給し、続けて二回分の豊かな収穫を可能にした。
 数百人のARAスタッフは、フーヴァーが作成した取り決めにしたがい、数千人のソヴィエト市民に助けられながら、食糧や医薬品の分配を監督した。
 共産党当局は干渉しないと合意していたが、ARAの活動はチェカおよびその後継機関であるゲペウ(GPU)によって近くで監視されていた。
 レーニンはARAには全体にスパイが潜入していると確信していて、モロトフに対して、ARAが雇った外国人に目を光らせ続ける委員会を組織するように命じた。また、『英語に習熟している最大多数の共産党員』を動員して、『フーヴァーの委員会に〔採用するよう〕紹介し、監視と情報収集の別の形態として使う』ことも命じた。(202)
 のちにARAが解散したあとで、諜報活動や誰も欲していない物品のロシアへの荷下ろしを含む行為の、きわめて邪悪な動機はARAの責任だと非難しようとした。(203)
 第二次大戦の後でもなお、おそらくはスターリンがマーシャル・プランによる援助を拒否したことを正当化するために、ARAが雇ったソヴィエト国民の何人かが、諜報活動に従事したという言明書に署名させられた。//
 飢えているソヴィエト市民に対する食糧供給という重要な責任をアメリカや他国の組織が引き受けるやいなや、モスクワはその資源を別の目的へと転用した。
 8月25日-フーヴァーとの協定書に署名があって3日後-に、リトヴィノフはモスクワに対して、つぎのように知らせた。すなわち、自分はイギリス団に2000万金ルーブルの価格で宝石を売却した、また、購入者は2000万ポンド(一億ドル)(204)-この金額はアメリカと欧州を併せての飢餓ロシア人への寄付額を上回る-を支払ってさらに宝石を買う用意がある、と。
 トロツキーは1921年10月早くに、厳格に秘密にしているドイツのソヴィエト工作員、ヴィクトール・コップに、1000万金ルーブル(500万ドル)でライフル銃と機関銃を買い付けるように命令した。(205)
 これらの事実は、この当時は知られていなかった。
 知られるようになり、アメリカの救済団体にきわめて大きな衝撃を与えた。このことは、まさにその当時に、ソヴェト政府は自らの国民への食糧供給を西側の慈善金に頼っていたことを証拠だてている。
 ソヴェト政府は、外国に売るために食糧品を使っていた。(206)
 モスクワは1922年の秋に、数百万トンの穀物類を輸出できるように保有していると発表した。-これは、来たる冬の間に800万のソヴィエト市民がなおも食糧の支援を必要としており、その半分だけを国内の穀物資源で対応できるという時期に、行なわれた。(207)
 ソヴェト当局は質問されて、工業用や農業用の機械類を購入するために金銭が必要なのだと説明した。
 この行為は、アメリカの救済関係職員を激怒させた。
 『ソヴェト政府は、外国の市場で食糧供給物の一部を販売しようと懸命に努力しているが、一方では、輸出物に代替させるために、世界中に食糧の寄付を懇願している。』(208)
 フーヴァーは、抗議した。『生存者の経済条件を改善すべく機械や原料を確保するために、飢えている人々から奪って食糧を輸出する、ソヴェト政府の政策の非人間性』、に対して。(209)
 しかし、飢饉の最悪期が過ぎてしまうと、モスクワは外国の声を聞くのを拒絶することができた。
 穀物類が輸出されていることが報告されるとロシア人救済のための追加資金を集めることは不可能になり、ARAは1923年6月に、ロシアでの活動を停止した。//
 1921年飢饉の死傷者数は、犠牲者たちの痕跡が維持されなかったために、確定するのはむつかしい。
 最大の損失は、サマラとシェラビンスク地方およびゲルマンとバスク(Bashkir)の各自治共和国で発生した。合わせての人口は、20.6%減少した。(210)
 社会的階層について言えば、最大の被害を受けたのは、農村地方の貧困者、とくに、乳牛(cow)を持っていなかった人々だった。それを保有していれば、多くの家族が死から逃れることができた。(211)
 年齢について言うと、最も多く死んだのは、その多くが飢えた両親によって捨てられた、子どもたちだった。
 1922年に、150万人以上の農民の子どもたちが孤児になり、物乞いをし、窃盗をしていた。
 乳幼児・孤児保護施設(besprizornye)での死亡率は、50%に達した。(212)
 ソヴィエト中央統計局は、1920年と1922年の間の人口減少を、510万人だと推算した。(213)
 ロシアの1921年飢饉は、戦争によるものを別にすれば、黒死病以来の、ヨーロッパ史上最大の人的大災害だった。//
 少なくとも900万人の人命を救ったと概算されているフーヴァーの博愛主義の活動がなければ、損失はさらに大きくなっていただろう。(214)
 ゴールキはフーヴァーあての手紙で、人類史上に類例のない活動だったとフーヴァーを称賛した。
 『貴方の助けは、最大級の賞賛に値する、無類の巨大な業績として歴史に残るでしょう。そして、貴方が死から救ってくれた数百万のロシア人の記憶のうちに、長くとどまり続けるでしょう。』(215)
 多くの政治家が、数百万の人々を死に至らしめたとして歴史上に重要な位置を占めている。
 ハーバート・フーヴァーは、大統領としての業績のゆえに悪評はあり、すぐにロシアで忘れられたが、数百万の人々を救った人物として、稀なる栄誉が与えられる。//
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  (200) フィッシャー, 飢饉, p.298n。
  (201) ハチンソン, in : Golder and Hutchinson, 推移, p.18。
  (202) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, ed. khr. 830、1921年8月23日付。
  (203) 例えば、レーニン, Sochineniia, XXVII, p.514 を見よ。
  (204) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, ed. khr. 837。
  (205) トロツキー選集(J. M. Meijer 編) Ⅱ, p,596-599。RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo, p.914。
  (206) フィッシャー, 飢饉, 第14章。
  (207) 同上, p.315, p.321。ニユーヨーク・タイムズ, 1922年10月16日付, p.4。
  (208) フィッシャー, 飢饉, p.321。
  (209) 同上, p.321-2。
  (210) V・E・デン, 経済地理路線〔? 露語〕, p.209。
  (211) EZh (Ekonomicheskaia zhizn'), No. 292 (1922年12月24日), p.5。ファイジズ,農民ロシア, p.271。
  (212) インゲルソル, 歴史的諸例, p.36。ペーター・シャイベルト, 権力にあるレーニン (1984), p.166。
  (213) デン, 上掲, p.210。
  (214) インゲルソル, 歴史的諸例, p.27。
  (215) H・ジョンソン, in : Strana i mir, No. 2-68 (1992), p.21、から引用。
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 第10章、終わり。

1490/レーニンとスターリン-R・パイプス別著終章6節、日本共産党の大ウソ33。

 日本共産党こそ「主敵」だと書き、主として①ソ連解体後にソ連は「社会主義国」ではなかったと後づけで主張し始めた欺瞞性、②レーニンはネップで<市場経済を通じて社会主義へ>の途を切り拓いたがスターリンがそれを打ち砕いて社会主義への途から転落したという歴史叙述の大ウソ、の二つに言及し始めてから、すでに1年が経過しようとしている。
 リチャード・パイプスの著書の日本語への試訳の紹介も予定より遅れているが、上の元来の関心そのものかきわめて近い、ネップやレーニン・スターリンの関係についての、R・パイプスの1994年の著の叙述を、順番を変えて、先に試訳しておこう。原則として全てを改行し、本来の改行(段落の終わり)の箇所には、「//」を付す。
 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の、p.506-8。章名・章番号のない実質的には最終章又は結語「ロシア革命についての省察」の第6節になる。また、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.401-3 と内容がほぼ等しい。
 さらに補記すると、「レーニンとスターリン」という論点を設定する、同趣旨だがスターリンはレーニンの後継者かレーニンの破壊者かという問題について論じる、というのは1990年代には珍しくなかったとしても-簡単にR・パイプスも以下のように論及はするが-、今日でのロシア革命・ソ連史(戦前)研究ではさほど関心を惹く主題にはなっていないように見える。以下のような叙述すら珍しいようだ。
 つまりは、<化石>のごとき<スターリン悪玉論>にしがみついてレーニン(とロシア「革命」)だけは原則的に擁護しようとしているのは、ソ連や欧米を含む世界中で、日本共産党・不破哲三らのみだ、と言えるように思われる。
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 結語〔最終章〕
 第6節・レーニン主義とスターリン主義

 ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題点は、レーニン主義とスターリン主義の関係-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。そう主張して、二人の共産主義指導者の間にいかなる接合関係があることも拒絶する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式的歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑される先行者からスターリン主義後の体制を分離するという目的に役立った。
 面白いことに、レーニンの権力掌握を不可避だったと叙述する全く同じ人々が、スターリンに至ると、その歴史哲学を捨て去る。スターリンは、歴史の逸脱だと表現するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、批判された先行者の路線のあとで歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)34年間の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 スターリンの経歴を一つ例に出しても、レーニンの死後に権力を掌握したのではなく、彼は最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかだ。
 レーニンは、党の諸装置を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠は、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日々の事務を遂行したことや、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて大量の助言を与えたことを示している。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは〔共産党の〕中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 この資格にもとづいてスターリンは、ほぼ全ての党支部や国家行政部門に執行的人員を任命するのを監督した。
 レーニンが組織的な反抗者(『分派主義』)の発生を阻止するために設定していた諸規程のおかげで、スターリンは彼が執事的位置にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上は、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、彼の人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞の99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数十万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI・S・ウンシュリフト(Unshlikht)は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに『容赦なく』処理したかを、またレーニンが資本主義世界の<人道性>をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(18)
 二人にある上記の違いは、『外部者』という概念の差違にもとづいている。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して採用したのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産主義者〔党員〕の殺戮を除き-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量の虐殺〔テロル〕も含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動方式(modus operandi)はレーニンのそれらだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的にはあるいは、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思いつくことができる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして>彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそ重要な指揮命令構造を党に与えることによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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  (18) RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
  (*) 実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたヴィャチェスラフ・モロトフは、スターリンと比べてレーニンの方が『より苛酷(harsher)』だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184。
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 結章6節終わり。
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ギャラリー
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
  • 0784/「廃太子」を煽動する「極左」雑誌・月刊WiLL(花田紀凱編集長)。
  • 0775/総選挙と「左翼全体主義」、小林よしのり編・日本を貶めた10人の売国政治家(幻冬舎新書)。
  • 0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
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  • 0768/小池百合子と山崎拓の対立、NHK6/22の「反日捏造番組」。
  • 0761/阪本昌成におけるフランス革命-1。
  • 0759/山室信一・憲法九条の思想水脈(朝日新聞社、2007)の欺瞞-なぜ「司馬遼太郎賞」。
  • 0757/NHK「売国反日プロデューサー」列伝-長井暁・濱崎憲一ら。
  • 0751/全体主義者・高嶋伸欣-週刊金曜日6/19号、NHK番組に関して。
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