秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

モスクワ

2218/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動①。
 (1)そして、ボルシェヴィキはなお一層、残忍さに訴えなければならなかった。権力掌握後わずか数カ月だけ経つと、彼らへの支持が浸食されはじめたからだ。
 ボルシェヴィキが民衆の支持に依拠していたのだとすると、臨時政府と同じ途をたどっただろう。
 秋には連隊兵士たちとともに最も強い支持基盤だった工業労働者たちは、たちまちに幻想から醒めるようになった。
 このような雰囲気の変化にはいくつかの理由があったが、主要なものは、食料事情の悪化だった。
 穀物やパンの私的取引を全て禁止した政府は、呆れるほどに安い価額を農民に支払ったので、農民たちは収穫物を貯蔵するか、闇市(black market)で売った。
 政府は都市住民たちに、ぎりぎりの最小限度だけの食糧しか供給できなかった。
 1917-18年の冬、ペトログラードでのパンの配給量は、一日につき4から6オンスの間を行き来した。
 闇市場で1ポンドのパンを買うには3ないし5ルーブルを要したが、それはふつうの民衆の手の届く額ではなかった。
 大量の失業者も生まれたが、それは主としては燃料不足のためだった。
 1918年5月には、ペトログラードの労働人口の12-13パーセントだけが、職に就いていた。(138)
 (2)飢えと寒さから逃れるために、数千人の市民が、縁戚者がいて食料および燃料事情がまだましな地方へと、疎開した。
 ペトログラードの労働人口は、この集団移住が原因で、1918年4月頃には二月革命の直前の57パーセントに低下した。(139)
 地方移住にしないで残った、腹が空いて、寒い、しばしば失業中の人々には、不満が沸き立った。
 このような事態を生んだボルシェヴィキの経済政策に、彼らは怒った。しかしまた、立憲会議の解散、中央諸国との屈辱的な講和条約(1918年3月に署名)、ボルシェヴィキの人民委員たちの生意気な態度、および政府の最上層部以外の全ての官僚たちの醜悪な汚職にも腹を立てた。
 (3)このような展開はボルシェヴィキにとっては危険な兆しで、さらに悪化するならば、これまでは信頼していた軍部も春が近づくにつれてほとんど離れて行きそうだった。
 故郷に帰らなかった兵士たちは、民衆にテロルを加え、ときにはソヴェトの役人たちを襲撃する略奪団を結成した。//
 (4)幻滅気分や堅くボルシェヴィキの手中にある現存諸機構からは救済を得られないという感情の増大によって、ボルシェヴィキとそれが支配している諸機構(ソヴェト、労働組合、工場委員会)から自立した、新しい組織をペトログラードの労働者たちが設立しようとする動きが促進された。
 1918年1月5日/18日-立憲会議が開会した日-、ペトログラードの諸工場の代表者たち、または「幹部会」委員たち(plenipotentiaries)は、目下の情勢を議論するために会合をもった。
 ある者は、労働者の態度の「分裂」を語った。(140)
 「幹部会」委員たちは、定期的に会合を開催し始めた。
 不完全な証拠資料だが、それによると、会合は3月に1回、4月に4回、5月に3回、6月に3回、開かれている。
 記録が存在する(141)、56の工場を代表する委員たちの3月の会合には、強い反ボルシェヴィキの言葉が見られる。
 その会合は、労働者と農民のために統治をすると主張している政府は独裁的権力を行使し、ソヴェトの新しい選挙の実施を拒んでいる、と抗議していた。
 また、ブレスト=リトフスク条約の拒否、ソヴナルコムの解散、および立憲会議の即時召集を呼びかけていた。//
 (5)3月31日、ボルシェヴィキは、チェカに労働者幹部会会議の本部を捜査させ、そこにあった諸文献を押収させた。
 別の状況であれば、おそらく労働者の動揺を刺激するのを怖れて、そのような介入はまだしなかっただろう。//
 (6)都市労働者は自分たちに反対していることを知って、ボルシェヴィキは、ソヴェト選挙の実施を遅らせた。
 いくつかの独立派ソヴェトが無視して選挙を行い、非ボルシェヴィキが多数派を形成したとき、ボルシェヴィキは実力でもってそれを解体させた。
 ソヴェトを用いることができないことは、労働者の欲求不満を醸成した。
 5月初め、多くの者が、自分たちで問題に対処しなければならない、と結論づたけた。
 (7)5月8日、二つの火急の問題を議論すめるために、プティロフ(Putilov)とオブホフ(Obukhov)工場群で、労働者の集会が開かれた。二つとは、食糧と政治だ。
 プティコフでは、1万人以上の労働者たちが、政府を非難した。
 ボルシェヴィキの発言者は反発を受け、諸決議に敗北した。
 その集会は、「社会主義かつ民主主義の勢力の即時の再合同」、パンの自由取引の制限の撤廃、立憲会議の再選出、および秘密投票によるペトログラード・ソヴェトの再選挙を要求した。(142)
 オブホフの労働者たちは、事実上の満場一致で、同様の決議を採択した。(143)//
 (8)翌日、ペトログラード南方の工業都市であるコルピノ(Kolpino)で、労働者の不満に油を注ぐ事件が発生した。
 コルピノへの政府機関による供給の状況は、とくに悪かった。この都市の1万の労働人口のうち300人だけが雇用され、闇市場で食料を買う金をほとんど持っていなかった。
 さらに、食糧配達の遅延によって、女性たちの市域全体の抗議運動が発生した。
 ボルシェヴィキの人民委員はうろたえて、兵団に対して示威行進者に対して発砲するように命じた。
 それによって生じた恐慌状態の中で、のちに判明したのは1人が致命傷で6人が負傷したのだったけれども、多数の者が死んだ、という印象が広がった。(144)
 この時期の標準からすると、とくに異常なことではなかった。
 しかし、ペトログラードの労働者たちが鬱積した怒りの捌け口を見出すのに、大した理由は必要ではなかった。//
 (9)コルピノで起こったことについて使者から知らされたペトログラードの大工場は、稼働を停止した。
 オブホフの労働者たちは、政府を非難し、「人民委員による支配」(komissaroderzhavie)の廃止を要求する決議を採択した。
 ペトログラード(3月に政府はモスクワに移っていた)の長〔ソヴェト議長〕のジノヴィエフが、プティロフに現れた。
 労働者に対して、彼は語った。
 「誤った政策を追求しているとして政府を非難する決議がここで採択された、と聞いた。
 しかし、いつ何時でも、ソヴェト政府を変更することはできない!」
 この言葉を聞いた聴衆に、大きな騒ぎ声が起こった。
 「ウソだ!」
 Izmailov という名のプティロフの労働者が、文明世界全体の目からすればロシアの労働者を馬鹿にしながら、ボルシェヴィキは労働者のために語るふりだけをしていると、非難した。(145)
 軍需工場での集会は、1500対保留2で、立憲会議の再招集を求める動議を可決した。(146)//
 (10)ボルシェヴィキは、背後にいて、なおも慎重さを維持した。
 しかし、このような煽情的な決議が伝搬されるのを阻止すべく、無期限にまたは一時的に、多数の新聞を廃刊させた。そのうちの4つは、モスクワの新聞だった。
 この諸事態を広く報道していたカデットの<Nash vek>は、5月10日から6月16日まで、停刊となった。//
 (11)ボルシェヴィキは7月初めに第五回ソヴェト大会を開催しようと計画していたので(第四回大会はドイツとの講和条約を批准するために3月に開かれていた)、ソヴェト選挙を実施しなければならなかった。
 この選挙は、5月と6月に行われた。
 その結果は、彼らの最悪の予想以上のものだった。
 労働者階級の意思に対する敬意をボルシェヴィキが持っていたならば、彼らは権力を放棄していただろう。
 どの町でも続いて、ボルシェヴィキは、メンシェヴィキと社会革命党に敗れた。
 「選挙があって数字資料のある、欧州ロシアの全ての州都で、メンシェヴィキと社会革命党は、1918年春の都市ソヴェトで多数派を獲得した」。(147)
 モスクワ・ソヴェトの投票では、ボルシェヴィキは、選挙権に関する明白な操作やその他の不正選挙によって、見せかけの過半数を達成した。
 観察者たちは、迫っているペトログラード・ソヴェト選挙でもボルシェヴィキは少数派になり(148)、ジノヴィエフは議長職を失うだろうと、予想した。
 ボルシェヴィキも、悲観的な見通しを持っていたに違いなかった。彼らは、ペトログラード・ソヴェト選挙を可能なかぎり遅くに、6月末に延期したからだ。//
 (12)この驚くばかりの展開は、ボルシェヴィキを拒絶するメンシェヴィキと社会革命党への称賛を大して意味してはいなかった。
 支配党から権力を奪おうとした選挙民たちには、社会主義諸党に投票する以外に選択肢はなかった。社会主義諸党だけが、反対派候補者の擁立が許されていたのだ。
 諸政党全ての中から完全に選択することができていればどういう投票行動になったかは、もちろん確定的に言うことはできない。//
 (13)レーニンが最近に「民主主義の本質的条件」だと叙述していた「リコール」の原理を実行に移す機会が、ボルシェヴィキにやって来ていた。その場合には、ボルシェヴィキ代議員をソヴェトから引き上げて、メンシェヴィキと社会革命党で埋め合わさせることになる。
 しかし、彼らは、結果を操作するのを選択した。つまり、指名委員会を利用して、選挙は違法だと宣言させた。
 (14)労働者の関心を逸らせるために、当局は階級敵を持ち出した。今度は、「田舎のブルジョアジー」に反対するように誘導した。
 5月20日、ソヴナルコムは、「食糧供給派遣隊」(prodovol'stvennye otriady)の設立を命じる布令を発した。その派遣隊は武装労働者で構成され、村落を行進して「クラク〔富農〕」から食料を徴発することとされていた。
 この手段によって(もっと詳細は第16章で述べるだろう)、当局は、食糧不足に対する労働者の怒りを自分たちから農民に転化させるのを望んだ。そして同時に、まだ社会革命党の強い支配のもとにあった田園地帯に地盤を築くことも。//
 (15)ペトログラードの労働者たちは、関心を逸らされることがなかった。
 5月24日、彼らの労働者幹部会は、労働者と農民の間に「深い亀裂」を生じさせる原因になるという理由で、食糧供給派遣隊という考えを拒否した。
 ある発言者たちは、その派遣隊に加わるような労働者はプロレタリアートの隊列から「追放(expell)される」と主張した。(149)//
 (16)5月28日、ペトログラードの労働者たちの昂奮は、さらに最高度にまで大きくなった。プティロフの労働者たちが、国家による収穫物の独占の廃棄、自由な言論の保障、自立した労働組合を結成する権利、そしてソヴェトの再選挙、を要求したときのことだ。
 同様の決議を採択する抗議集会がモスクワや多数の地方都市でつづいた。その中には、トゥラ、ニージニ(Nizhnii)、ノヴゴロード、オレルおよびトヴェリ(Tver)も含まれていた。//
 (17)ジノヴィエフは、経済的な譲歩をすることでこの嵐を沈静化させようとした。
 彼はおそらくはモスクワに対して、ペトログラードへの食糧輸送の追加を要請した。5月30日に、労働者へのパンの配給は8オンスへと引き上げられると発表することができたからだ。
 このような素振りでも、目的を達成することができなかった。
 6月1日、労働者幹部会の会合は、市域全体の政治的ストライキを呼びかける決議を下した。//
 「ペトログラードの工場や工場群の代表者たちから労働大衆の気持ちと要求に関する報告を聞いて、幹部会会議は、労働者の政府だと僭称する政府からの労働者の大量離反が急速に進行していることに、喜びをもって留意する。
 幹部会会議は、政治的ストライキの訴えに従おうとする労働者の意欲を歓迎する。
 幹部会会議は、現在の体制に反対する政治的ストライキを、ペトログラードの労働者が力強く準備することを、呼びかける。現体制は、労働者階級の名のもとで労働者を処刑し、牢獄に投げ込み、言論、プレス、労働組合、およびストライキの自由を圧殺している。また、民衆の代表者機関を絞め殺してきた。
 このストライキは、権力の立憲会議への移行、地方自治諸機関の復活、ロシア共和国の統合と独立のための闘いを、スローガンとするだろう。」(150)
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 (138) Dewar, Labour Policy, p.37.
 (139) A. S. Izgoev in NV, No. 94/118(1918年6月16日), p.1.
 (140) G. Aronson, "Na perelome, " Manuscript, Hoover Instituion, Nikolaevskii Archive, DK 265.89/L2A76 が、これらの事件に関する最良の史料だ。
 (141) Kontinent, No. 2(1975年), p.385-p.419.
 (142) NV, NO. 91/115(1918年5月9日), p.3.
 (143) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (144) NS, NO. 23(1918年5月15日), p.3.
 (145) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (146) 同上。
 (147) Vladimir Brovkin, in PR 1983年, p.47.
 Aronson, "Na perelome, " p.23-p.24. はこの見通しを確認している。
 (148) B. Avilov in NZh, No. 96/311(1918年5月22日), p.1.
 (149) 同上, No. 96/311(1918年5月22日), p.4.
 (150) Otro, 1918年6月3日。"Na perelome, ", p.15-p.16.が引用する。
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 第10節②へとつづく。

2208/レフとスヴェトラーナ13-第4章①。

 レフとスヴェータ、No.13。
 (New York, 2012)

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 第4章①。
 (01) グラクは、手紙のやり取りに関する細かな規則を定めていた。
 この規則は状況に応じて変更されたが、各労働収容所(labor camp)ごとの異なる厳格さをもって、適用された。
 受刑者が受け取れる手紙の数の多さは、受けている判決の内容や生産割当て達成の程度によって変わった。//
 (02) 木材工場群では、公式には検閲後に毎月1通が認められた。
 これは、一年に数通にすぎない他の収容所に比べると、多かった。
 1946年8月1日の叔母オルガ宛てのレフの手紙は、受け取ることのできる手紙や小包みの数について制限はない、と書いていた。
 「手紙や印刷物〔banderoli〕はここには2-3週間で届きますが、モスクワからは7-8日で届く場合もあります。
 検閲のために長く留め置かれることはありません。…。
 書いて下さるなら、順番どおりに数字を書くのを忘れないで下さい。そうすれば、手紙を全部受け取っているかどうかを調べることができます。
 おそらく用紙と鉛筆以外には、何も送っていただかなくて結構です。」
 (03) レフが書いたことは、全部が本当ではなかった。
 彼はしばしば、手紙に関する収容所での条件を思い浮かべた。
 実際には手紙類は一ヶ月に2-3回配達され、受刑者は一度に数通を受け取ることがあり得た。
 しかし、これはまだよい方で、確実に1930年代のグラク収容所よりもはるかによかった。かつては、受刑者は数年間に一通の手紙も受け取らずにすごしていたからだ。
 検閲は比較的に緩やかだった。-検閲のほとんどを行っていたのは、収容所監視官やその他の役人たちの夫人たちで、彼女たちは完全には手紙を読み通すことができず、仕事をしていることを示すために若干の無害な語句を黒く塗りつぶすだけだった。
 しかし、受刑者たちはそのことを知らず、自分たちの文章について自主検閲(self-censorship)を行なった。//
 (04) 小包みや印刷物については、そう単純ではなかった。
 これらを送るためには、ムィティシ(Mytishchi)または他のモスクワ近郊都市に行くことを含めた複雑な官僚的手続が必要だった。グラク労働強制収容所への小包みはソヴィエトの首都から送ることができず、検査されて登録されるために数時間の長い質問に耐える必要があった。
 8キログラム以上の重さの小包みは、受理されなかった。
 収容所に届いたときにも、それらを受け取るための同じように複雑な手続が必要だった。
 木材工場群ではMVD官僚のところに集められ、権限ある監視官が全ての中を開け、しばしば勝手に自分のものにし、その後で内容物の残りを受刑者に与えた。
 食糧、金、および暖かい衣服はほとんどつねに監視官に奪われた。そこでレフは、友人や親戚の者たちに、書物以外の物は送らないように頼んだ。書物についても、外国文学書は、とくに1917年以前に刊行されたものは没収されそうだったので、警戒が必要だった。。
 そのことの注意を、レフは最初の手紙でスヴェータに求めた。
 「きみやオルガ叔母さんが本を送ってくれるときは、必ず安価なものにして下さい。
 安くてぼろいほど好いです。そうだと、失ったときに金を無駄遣いしないで済みます。
 外国語の文学書を送ってくれるなら、ソヴィエト版のもの、また古書専門店からのではないものにして下さい。そうしないと、検閲で誤解を招いて私が受け取れない可能性があります。」
 (05) レフの第一の手紙は、スヴェータが8月7日に書き送っていたとき、まだ届いていなかった。
 「私の親愛なるレフ、私は一にちじゅう、7月12日に送った手紙を受け取ったのかどうかと気を揉んですごしています。
 受け取った?」
 レフは受け取っていなかった(その翌日、「重要な」8日にそうした)。
 スヴェータは彼の最初の手紙を23日に受け取った。それは、別荘から帰っあとすぐのことだった。
 スヴェータは、その日の午後に書き送った。
 「私もまた、運命論者になりました。
 私が第一の手紙を書いているとき、あなたは二番めを書いている。
 でも、私が二番めを送るのは、あなたが私の一番めを受け取っているときです。
 そして、私が三番めを書いているのは、あなたの一番めを受け取ったときです。
 -<La Traviata>〔椿姫〕がラジオで流れています!」
 レフは、8月11日にスヴェータへの二番めの手紙を送って、9月10日の彼女の誕生日に確実に間に合うようにと考えた。そしてまさにその日に、彼の一番めの手紙に対する彼女の返事を受け取った。
 レフはその夕方にスヴェータに書いた。
 「私にはプレゼントでした。
 この日には、全てのプレゼントはきみのためのものであるべきなんだけれども。」
 (06) こうして、二人の会話が始まった。
 しかし、たどたどしくて戸惑いのある会話だった。
 スヴェータは、9月6日に、レフに対してこう書いた。
 「あなたの手紙を、今日26日に受け取りました。
 そして、その前に8日付と11日付のあなたの手紙も。
 でも、あなたの21日付はまだ受け取っていません。
 レヴィ、手紙の間隔が合わせて数カ月になると、お話しするのがむつかしい。
 私の気持ちを理解するまでに、あなたはもう別の気分になっているかもしれない。」
 (07) 遅配だけがいらいらの原因ではなかった。
 検閲があるという意識もまた、会話を制限した。
 どの程度までになら明確に書いても問題にならないのか、確信がなかった。
 レフは三番めの手紙で「明確な限界」について書いて、内心を明らかにしている。
 「スヴェータ、手紙を書くことを決して怠けてはいません。
 だから、心の中ではきみと24時間のうち16時間も話していると言っても、信じて下さい。
 頻繁には書けないとしても、それは書きたくないからではなく、明確な限界の範囲内できみに書く方法を私は知らないからだ、ということが分かるでしょう。」
 レフは、手紙に書けることについて慎重に考え、現実に書く前に数日間は頭の中でこしらえた。
 営舎を離れるときに他の受刑者が紙タバコ用に使うのを心配して、書き終わっていない手紙をポケットに入れて運んだ。そのために、書き終えたときには、手紙はしばしばよれよれになっていた。
 (08) レフが伝えたい意味は、行間で読まれなければならなかった。-遠回しの言葉が用いられた。MVDの役人(「叔父」、「親戚」)、グラク制度(「雨傘」)、贈賄金(金を意味するden'gi から「ビタミンD」)。また、収容所内での日常生活の不条理さを伝えるために、文学的隠喩(とくに19世紀のNikolai Gohol やMikhail Saltykov-Shchesrinのそれ)も用いられた。
 友人や縁戚者たちの名前は決して明記されず、イニシャルでまたは通称を使って隠された。
 (09) レフが元々もっていた怖れは、受刑者から手紙を受け取ることでスヴェータが危険に晒されるのではないか、ということだった。
 スヴェータへの最初の手紙で、彼は「局留め」(poste restante)にしようかと提案していた。
 スヴェータは回答した。
 「局留めにする必要は全くありません。
 私たち二人は、隣人たちをみんな知っています。」
 のちに彼女は考えを変えて、隣人たちがそのブロックの入口そばの郵便受けを見たときに「注意を惹かないように」、レフが封筒上の宛先から彼女の名前を省略することを提案した。
 しかしとりあえずは、スヴェータは受刑者に手紙を書いていることを明らかにし、彼女の家族や親友たちはそれに好意的だった。//
 (10) スヴェータも、慎重に手紙を書いた。
 草稿を書き、修正し、かつ自分が考えたことを正確にしておくために複写をすることになる。そして、レフを危険にすることは何も書かなかった。
 スヴェータは自分の手紙がうまく届くかに自信がなかった。そのため、草稿を置いておくことは安全確保のための最後の手段だった。
 彼女は、小さく、ほとんど読み難い手書きの文字を、白紙または最も間隔が細い線の入った便箋に書いた。その文字は、一枚の紙全体を埋め尽くした。
 スヴェータはどの手紙にも、何枚かの白紙を挿入した。レフが返事を書けるようにだった。
 彼女は、自分の家にいるときの夜に、手紙を書いた。
 「手紙を書くには家にいて、また(誰もが眠れるためにも)一人でいる必要があります。私の頭が邪魔されず、眠りたいと思わないために、また落ち着いた気分でおれるために。
 これらの目的(「fors」)は、必ずしもつねには一致しませんが。」
 (11) スヴェータは、自分の日常生活、家族、仕事と友人たちに関する新しい知らせや詳細で手紙をいっぱいにした。
 彼女は自分の手紙を通じて、レフのために生きた。
 スヴェータの文章は表面的には、ロマンティックな感傷に欠けているようにも思える。
 これはある程度は、ソヴィエトの技術系知識人世界-そこで彼女は育てられた-にあるあっさりとして質素な言語上の性格だ。一方で、レフは、彼の祖母や19世紀のロシア紳士階層がもつ、より表現的な言葉遣いに慣れていた。
 スヴェータは、自分は感情を奔出させるのが好きではないと、認めていた。
 実際的な人柄で、感情はたっぷりとあり、愛情についてもしばしば熱いものがあった。しかし、ロマンティックな幻想に負けてしまうほどに実直でも単純でもなかった。
 「愛に関する感傷的な言葉(高慢で安っぽいの両方)は、私には広告と同じような効果を生みます。
 私へのあなたの言葉と同じく、あなたへ私からの言葉も。
 それから生まれるのは、終わることのない哀しみです。
 心の中で、つぎの文章をいつも聴いています。
 『与えよ、そしてその見返りを得ようと手を出すな。-これは、心を全て開くためには不可欠だ』」。
 感傷的な言葉がスヴェータの手紙に少ないことは、誤魔化しでもあった。
 彼女が引用するサーシャ・コルニィ(Sasha Chorny)のつぎの詩は、手紙を毎回書いてレフに示す愛情を完璧に表現している。 
 「窮状を終わらせる最良の決定をしたとしても
 脚の重いハイエナが、世界全体を漁り回るだろう!
 空を飛ぶ本能的な愉しみ…に恋をすれば
 魂のすべてが解き放たれる
 兄弟、姉妹、妻、あるいは夫であれ
 医師、看護師、あるいは芸術の達人であれ
 自由に与えよ-しかし、震える手を出して見返りを求めるな
 これが、心を全て開くためには不可欠だ」
 (12) スヴェータはレフに、自分の生活を説明しつづけた。
 自分が仕事に行く途中のモスクワの風景を描写し、レフが憶えている自分の衣服に関する少しばかりの詳細を付け加えた。
 「モスクワっ子は自分が残しているものは何でも着ます。-皮のコート、綿入りジャッケット(私が電車で仕事に行く朝のお気に入り)。
 工場は8時に始まり、研究所は9時に始まり、役所は11時…。
 冬用コートを持っていません。古くて黒いコートは破りたい熱情の犠牲になりました。破壊願望は二本脚の全ての動物の特性ですが、ママが強く言い張ったので、良いスーツに再利用しました。…。
 灰緑色のコートは、まだ使っています。…。
 まだ他にどうなっているか、知っていますか?
 買っていた靴。これはいつも側にあって、とても軽いので、いま研究所まで履いています。…。
 私の生活の様子で書いておかなけれけばならないのは、以上です。
 -あなたが思い浮かべているだろうと私が思うほど好くはありません。」
 (13) レフは、モスクワに関する知らせを待ち望んだ。
 スヴェータからモスクワについて知るのをとても好んだ。
 彼は収容所で、アニシモフやグレブ・ワシレフ(Gleb Vasil'ev)のようなモスクワ仲間とその都市について、数時間もかけて想い出話をした。ワシレフは、スヴェータと同じ学校で勉強をした、金属工場にいる機械工で、1940年に逮捕されたときはモスクワ大学物理学部の第一年次を終えたばかりだつた。
 ペチョラの荒涼とした北西部の風景から、自分の手紙が夢のモスクワへと彼を運んでくれるのを願った。
 「今日は、灰色で、一面に曇っています。
 秋が静かに、瞞すようにして忍び寄ってきましたが、頑固さを主張するように、ペチョラの上、森林の上、堤防上の家屋の上、そしてわれわれの産業入植地の建物や煙突の上、無表情で厳しい松…の上は、蜘蛛の巣のように覆われています。
 モスクワには、Levitan やKuindzniにふさわしい秋があるでしょう。木の葉が落ち、乾いた葉っぱが足元でさらさらと音を立てる、そんな黄金の季節です。〔原書注-Isaac Levitan(1860-1900)とArkhip Kuindzni(1842-1910)は、ロシアの風景画家。〕
 全てが、何と遠く感じることでしょうか。
 でも、モスクワの夕べはかつてと同じに違いないと、私は思い浮かべます。-人々はかつてと同じで、街路は変わっていないままです。
 そして、きみがかつてそうだったのと同じだということも。
 そして、今なお見えているのは、消え失せる幻想だとは、思いたくはありません。
 ああ、この紙に何度『そして(and)』を書いたことだろう。そして、何と論理的でないことか。
 これは手紙ではなくて、感情を支離滅裂に束ねたものです。」//
 スヴェータは、現実的な描写をして、レフの郷愁を挫いた。
 9月10日に、こう書いた。
 「モスクワでは、もう黄金色は見えません。
 モスクワは、あなたが思い浮かべるようでは全くありません。
 人々の数が、多すぎます。
 街路電車では、それは愉快ではありません。
 人々は、苛立っています。
 人々は口論をし、喧嘩して組み打ちすらします。
 メトロ(地下鉄)はいつも満員です。
 あなたが乗り換えていた地下鉄駅では、もうそれはできません。」
 (14) スヴェータが最初の手紙で約束していたように、彼女はその仕事について、レフにより詳しく書いた。
 研究所は計650人が働く工場と実験所で成る大複合体で、技師120名、研究者および技術助手50名、そして残りは労働者だった。-整備工、組立て工、機械工。
 これら労働者の多くは戦争前に建てられていたラバー(ゴム)工場用の古い木造宿舎で、家族と一緒に生活していた。
 スヴェータが仕事をする実験室では、合成ゴム(重炭酸ナトリウム)からタイアを製造する新しい方法を試験していた。
 彼女の仕事は多数の研究と教育を含んでいたが、西側の最新の発展に追いつくために英語を学習することももちろんだった。西側の最新の状況を、スヴェータは博士号申請論文「ラバーの物理構造について」で論述しなければならなかったからだ。//
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 第4章②につづく。

2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。

 レフとスヴェトラーナ。

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   (1936年)
 ***
 第3章④。
 (30) レフにあてて、スヴェータは書いた。
 「1946年7月12日。(1)
 レヴィ(Levi)、人の行為は結果ではなくて動機で判断されるべきだと私が知らなかったら、私には黙っていたことであなたを責めたでしょう。//
 あなたがこのようには逢いたくないと言ったあの九月を、憶えているでしょう。
 ところが私は、二人に与えられたその週の間、喜んでいました。
 レフ、今でも同じ。それ以外になかったとすると、これが何よりもよかったのです。
 私たちは、ともに29歳です。二人は11年前に出逢い、お互いに5年間も逢わないままでした。
 これらの数字について詳しく話すのは、恐ろしい。でも、レフ、時間は過ぎてゆきます。
 そして私は、もう一度5年が過ぎる前に私たちが逢うことができるよう、全力を尽くすでしょう。//
 レフ、私は逞しくなっています。
 いったい何度、あなたの腕の中に身体をうずめたいと望み、でも前にある空っぽの壁に向き合うしかなかったことでしょうか?
 息ができないと、感じました。
 でも時は経ち、そして気を取り直したことでした。
 レフ、私たちはこの事態を乗り越えるでしょう。//
 大学を卒業すると、あなたに約束しました。そして、その約束を守りました。
 我々は1942年夏に(課程の4年目のあとに)卒業しましたが、その後ほとんど6ヶ月間、移り住みました。-モスクワからアシュハバート、スヴェルドロフスクへと…。//
 『パパ』の研究所(タイア産業科学研究所)の物理工学試験実験室に勤め出してから、まもなく4年になります(1942年の私の誕生日以降)。
 どれだけゴムを避けようとしたことか。でも、やはり戻ってきました。嬉しい?
 私の仕事は、新しくてもっと良い試験方法を考案することです(多くありすぎて一つの手紙で詳細を書くことはできません。だから、ほんの少しずつ書きます)。
 私の上司はとてもいい人ですが、本当の管理者ではなく、私たち二人が、あまりうまくいきませんが、42人の若い女性たちを監督しています。
 研究所に新しい卒業後課程ができ、最初の志望者は-スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ(Svetlana Aleksandrovna)!
 私はものの見事に、試験に合格ました(5月と6月)。大学の誰よりもよい成績で(その主な理由は、私の才能ではなくて科学についての素養です)。…。
 レヴィ、嬉しい?//
 7月1日からの休日に居続けなければなりません。でも、私たちの学術秘書が、雑誌のための論文を手渡すまで、自由にさせてくれないのです。
 どうすれば実行できるかを描写しようと、苦闘しています(ゴムの可塑性と成分に関する実験についてのものです)。
 ママとアリカ〔スヴェータの甥〕は、もう1ヶ月間、別荘に行っています。-やはりイストラ河畔ですが、今度は少しだけモスクワに近い。
 アリカは、もう6歳です。
 読み方を知って、大文字に夢中です。
 ヤラの器用さと才能を、受け継いでいるのでしょう。
 引っ張って、『実験』を始めます。話し方や書き方を喋ります。そしてもう、たくさんの詩を知っています。
 標本箱を作って、カブト虫、ハエ、芋虫を集めています。
 うたを歌います。-きっと、彼の叔母さん譲りです!
 可愛い頭はボタンのように丸くて、髪の毛はブロンド、大きくて黒い瞳、でも虹彩は青色(これも彼の叔母と同じ)。
 ヤラは、前の11月に家に来ました。
 彼については、3年以上何も知っていませんでした。
 そのとき彼は、とてもやつれていました。
 ターニャは軍にいて(1942年5月から)、1943年9月2日に、虫垂炎で病院で死にました。
 いつも、あなたのことを想うように、ターニャのことを考えます。でも、その中身は書けない。
 母も父も、もちろん、年老いました。
 父はいま、ゴム産業省で働いていて、母は家で忙しくしています。-ブルセラ症で、痩せている。…。//
 レヴィ、手紙を書いて、どんな小包を送れるかを知らせて下さい。
 私に可能なら、何が欲しいかも。
 小説、それとも物理の本?
 この手紙ができるだけ早くあなたに届いたら、それだけ早く返事を書けるでしょう。
 これで、終えます。
 ごきげんよう。
  スヴェト(Svet.)」//
 (31) 8月8日木曜日、夕方に仕事の後で郵便物を取りに営舎へ行ったとき、レフは手紙を受け取った。
 封筒に、スヴェータの手書き文字を認めた。
 それを開くと、中に彼女の写真も入っていた。
 レフはその夜、何度も、何度も、手紙を読み返した。
 寝台には行かないで、早足で外を回った。北極圏の白夜が、読めるだけの光を与えてくれた。
 レフが翌朝の5時半に手紙を書き始めたときには、太陽はすでに2時間も地上にあった。//
 「ペチョラ、1946年8月9日。第1番め。
 スヴェータ、スヴェト、いま何を感じているか、想像できますか?
 感じている幸福感がどんなもので、どんなに大きいか、書くことができません。
 8日は、私の人生ではいつも重要な日付です(運命論者になりました。分かる?)。
 手紙類を取りに行ったのですが、手紙を受け取る者たちには少しも嫉妬を感じていませんでした。自分あてのものは何も期待していませんでしたから。
 31日〔7月-試訳者〕にオルガ叔母から手紙を貰い、9月が始まるまでは、他に何も望んでいませんでした。
 そのとき、突然、-私の個人名!
 そして、まるで生きているような、きみの文字!
 3年間、私は何とか、きみの手書き文字で書かれた、紙の小片をきちんと持ち続けていました。-きみについて私が持つ全てでした。
 でも、1944年7月3日にブーヒェンヴァルトで全部調べ上げられて、没収されました。
 きみがまだ生きていて、もう一度二人は逢えるという希望をもって生活しました。
 しかし、きみの最後の誕生日、取調べを受けて辛いときに祝ったその日に、きみに別れの言葉を告げようと観念しました。…。
 もう一度きみと逢えるという望みだけではなく、きみについて何かを知るという望みすら拒んで、生きつづけました。//
 スヴェータ、少しでも想像できるなら、取調べ(interrogation)が実際にどんなものだったか、分かって下さい。
 肉体的苦痛の問題だけではないのです。-苦痛を私は一度も経験しませんでした。そうではなく、魂(soul)のような感じのする問題なのです!
 死よりも悪辣なものがあると、知っていましたか?
 それは、不信(mistrust)です。
 しかし、この点には触れません。
 そう、ともかくも、私はきみに、さよならと告げました。
 しかし、きみなくしては、頑張ることができなかった。
 8ヶ月のち、オーリャ叔母さんに手紙を書きました。-ごく僅かの僥倖を祈って、大した期待もしないで。
 そして、きみのことを尋ねました。
 そうすると、あの馬鹿な1936年7月31日と同じ月日のことでした。かつてのその日、私はボリスコヴォにいたきみに逢いに行く途中で、ほとんど溺れかけてイストラ河から救い上げられたのでした。
 あんな愛情溢れた、暖かい、母性的な手紙を、少しも期待してはいませんでした。
 本当に一通の手紙すら、少しも期待していませんでした。…。
 オーリャ叔母さんは、きみについて全部書いてくれた!
 きみは、-元気だ(alive)!
 そして、きみが彼女を訪れたことも分かる。これが意味しているのは、きみが私の記憶を消し去ろうとは、決心することができていない、ということでしょう。
 それ以上のことのいったい何を、私は望むでしょう!
 ただ私は、きみの人生に干渉しないで、きみの今について知りたいと思っていた。
 そして突然、昨日のことだ。いや、今8月9日の朝6時だから、今日だ。
 私はまだベッドに行っていません。だから、私には今日です。-ともあれ、北極圏には夜はありません。今日、突然に手紙が届きました。
 手書きだというだけでなく、きみが書いた文章だというだけでなく、何と言う言葉だ、何という手紙だ!
 そして、写真も。
 みんな、私のため?
 私のため?
 スヴェトカ(Svetka)、スヴェトカ!、これ以上何も書けません。…。//
 別のことに移りましょう。
 逢うことについて、きみは尋ねている。…。
 スヴェトカ、これはほとんど不可能です。
 58-1(b)は、恐ろしい数字です。〔原書注-刑法典第58条第1項(b)にもとづき、レフは判決を受けた。〕
 これについて、いかなる幻想も持っていません。
 でも、判決を訂正させるよう、できる限りのことをすることを、きみに約束します。//
 自律した生活をやはりきちんと送っていることを知って、嬉しい。スヴェータ!、きみは強くて、たしかな精神(spirit)がある。
 重要な仕事をし、きみが評価されているのも、嬉しい。
 スヴェータ、きみには素晴らしい知性(mind)があって、とても賢い(intelligent)! でも、でも、鼻を引張り上げないで下さい。-無知の者の褒め言葉ですから。
 スヴェータ、スヴェータ、きみが近くにいる。-5年間に何も起きなかったごとくに感じる。今は距離も二人を分かれさせているけれども。2,170キロメートルの距離が。
 私には、きみは実際にかつて同じだと見えます。-何かをほんの少しだけ感じるけれど。写真ではほとんど何も気づかない。心は年老いたときみは言うかもしれない。でも、本当だ。…。//
 本について尋ねている。
 恐ろしくも数年間、本がないのを寂しく思いませんでした。
 本を手に入れるのはとてもむつかしくて、だから、恥ずかしくもほとんど読んでいません。…。
 アフマトーヴァ(Akhmatova)やブロク(Blok)のものを憶えていますか?
 ブーシキンのものが欲しい。そして、君の好みのもの。
 「石の客(Stone Guest)」-Tver 大通りの街頭の下を二人で腕を組んで歩いていたとき、きみが私に少し諳んじてくれたのを思い出します。
 もう一つ、<La Traviata>〔椿姫〕。誰かが口ずさんだり、ラジオから聞こえてきたりすると、感慨なくしてこれを聴くことはできません。…。
 スヴェータ、きみが書くように、二人はこの事態を何とか乗り越えるでしょう。…。
 もう止めなければならない。
 きみの最良の幸運を願って。
 手紙以外は、何も送らないで下さい。手紙、-手紙! …。
  レフ。」
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 第3章、終わり。

2180/レフとスヴェトラーナ-第1章④。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章④。

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 (34) 1940年1月、レフの祖母が死んだ。
 スヴェータは、レフがヴァガンコフスコエ墓地に彼女を埋葬しているとき、彼のそばにいた。
 (35) その翌月、レフは、(ロシア語でFIANとして知られる)レベデフ物理学研究所の技術助手になった。
 彼はまだ大学の最終学年にいたが、FIANで仕事を始めたばかりの物理学部時代の友人のナウム・グリゴロフから推薦されたのだった。これは、研究の途に入るよい機会だった。
 FIANという名は、ロシアの物理学者で物体に反射されるか吸収される光が与える圧力を最初に測定したピョートル・レベデフに因んでいた。そのFIANは、原子物理学研究の世界的中心の一つで、その研究計画の先端には宇宙線研究があり、レフはそれに参加するようになった。
 レフは昼間は勉強していたため、実験所では夕方勤務で仕事をした。
 スヴェータは、遅くまで図書館にとどまり、物理学部からミウスキ広場のFIANまで3キロを歩くことになる。
 彼女は中庭のベンチに座って、レフを待った。レフはいつもだいたい8時に姿を見せて、彼女の家まで一緒に歩いた。
 あるとき、レフは疲れていて実験所で眠り込んでしまい、9時過ぎまで目覚めなかった。
 スヴェータはベンチで、じっと彼を待った。
 寝入ってしまったと彼が言ったとき、スヴェータは笑った。
 (36) その夏、レフは、コーカサスのエルブルス山に科学調査旅行に出かけた。
 FIANは高山の中に研究基地をもっていて、レフのグループはそこで、宇宙線が地球の大気圏に入ってくる間際のその効果を研究することができた。
 レフはその基地に3カ月いた。
 スヴェータに書き送った。
 「山を登って、昨日に早くも我々の小屋に入った。雄大だ。恐ろしく強い願望が出てきて、忘れられない思い出になる。」
 その間のスヴェータは大学の夏季休暇で、クレムリン近くにコンクリート造りで建設されていたレーニン図書館で働いていた。そして、レフに手紙を書いた。
 「図書館の前には可愛らしい広場がある。知ってますか?
 そこには灌木や花が、いっぱい植えられている。
 わたしの誕生日には、誰が花束を贈ってくれるつもりかしら?」
 レフの予定では、9月1日にコーカサスから帰ってくることになっていた。その日はスヴェータが23歳になる10日前で、彼は誕生日にはいつも花を贈っていた。
 その日までは、スヴェータは手紙を読んで済ますしかなかっただろう。
 「1940年8月3日
 レヴェンカ!
 今日家に帰って最初にしたかった事は、自分宛ての手紙が来ていないかと尋ねることだった。
 でも、きみに関して、みんなが僕を慰め始めた。それで僕は、待っているのはイリーナのハガキだというふりをした。
 しかしそのときにターニャが-とても強調して-、イリーナからのハガキはないけど、きみからのものがあるに違いないと知ってる、と言った。
 それでターニャにくっついて部屋から部屋を回り(きみが好きなように部屋を回れるように、扉はみんなまだ開けられていた)、ターニャに、きみからの手紙をおくれよと頼んだ。
 きみのママは最後には僕を憐んで、きみの手紙を僕に渡してくれた。」
 スヴェータは、自分についての新しいニュースを彼に書いた。
 彼女は、図書館での常勤の仕事を提示されていた。
 「私よりいい人物を、彼らは見つけないでしょう。
 部屋のレイアウト、部屋の押入、戸棚、みんな私は知っている。<中略>
 内外の定期刊行物を知っていて、ローマン・アルファベットの知識でもって、中国語以外のどの言語で書かれていても、雑誌の月、年、名前と価格を、私は探し出すことができる。<中略>
 私には肩の上に頭があって、最優秀の脳でいっぱいではなくとも、綿毛が詰まっているわけではない。<中略>
 ヴェラ・イワノーヴァは、一年後にはグループ主任になれる、と言いました。
 一生ずっと図書館に居続けるのを望むのなら、これは経歴としてはよいスタートでしょう。
 でも、私は一生全部を図書館で過ごしたくはない。<中略> 月曜日に、断わるつもりです。
 レフ、私の健康のこと、心配しないで。
 私の気分が私の身体状態によっているか、身体状態が気分によっているかのどちらかだと、貴方に言いました。
 ともかく、貴方は私が手書きしたものから、私は冷静で困難を抱えていないと分かるでしょう。私には痛みも、病気のような何も、ないのです。
 ママは、私には肺炎がある、と言います。
 その理由-私が痩せたこと。
 でも、知っているでしょう。何よりも困難だと考えていたダイエットのおかげです。そして他には、どんな兆候もありません。」//
 (37) 1941年6月、レフは、FIANの同僚たちとエルブルス山への第二次調査旅行に行くことになっていた。
 6月22日の日曜日の朝、彼のチームは研究所にいて、旅行の準備を終えようとしていた。
 レフはよい気分だった。
 大学での最終試験に合格したばかりで、学部委員会からこう告げられていた。卒業生のうち4人だけを選んで、宇宙線研究の計画のためにFIANに進むよう仕事を割り当てた、と。
 レフは、そのうちの一人だつた。
 彼は、6月6日の集合場所から、スヴェータの家族に手紙を書いた。
 「いまここは、かなり混乱しています。
 それで、我々の見通しについて、正確なことは何もお知らせできません。
 多少とも分かっているのはただ一つ、徴兵委員会が軍事業務に我々を召喚するままでは、ここで生活して研究をするだろう、ということです。」//
 (38) レフは、戦争の勃発に動揺していた。
 数日の間、これが何を意味するのか考え及ぶことができなかった。
 モスクワでの研究と生活、スヴェータとの関係。-全てが今や空中に消え失せた。
 「我々は、戦時にいる」。彼は不安げに内心で語りつづけた。//
 (39) レフは前線へと自発的に志願していたけれども、責任ある地位に就くのを怖れていた。
 スターリンのテロルによってソヴィエト軍は絶望的に将校の数に不足しており、レフのような新参者は、戦闘をする兵士たちを指揮すべく召喚された。
 わずか2年の軍事教練の後で、レフは、青年少尉の階位に達していた。これが意味したのは、30人の兵士から成る小隊の責任者に配置される可能性がある、ということだった。だが、彼には、戦術上の自信がなかった。
 レフは最終的には、6人の学生と2人の大学卒業生から成る小さな補給〔兵站〕部隊の指揮者に任命された。
 自分のように経験がなくも彼が失策を冒しても労働者階級出身の兵士たちよりは自分を許してくれるだろうと考えて、彼は、学生たちの小隊であることを幸運だと感じた。//
 (40) レフの部隊は、モスクワの兵站基地から前線の通信大隊へと補給物品を移すこととされていた。
 彼の指揮のもとに、2人のトラック運転手、2人の作業員、料理人、会計官および在庫管理者がいた。
 前線に向かう途中で、彼らは、ソヴィエトのプレス報道によるプロパガンダが伝えない混沌とした状況を見た。
 モスクワでは、ソヴィエト軍はドイツ軍を撃退していると報道されていた。しかし、レフは、ソヴィエト軍が混乱しつつ撤退していることを知った。森の中は兵士や民間人でいっぱいで、多数の道路が、モスクワ方面の東へと逃亡する避難者で塞がれていた。
 莫大な数の人々が、殺されていた。
 7月13日までにレフは、ドイツ軍によって包囲された都市、スモレンスク近くの森に到達した。
 「スヴェティーク、我々は森の中にいて、日常的な仕事をしている。<中略>
 私はここで、全員に食糧を与えるものと考えられている。全員とは、たんに喚くだけで食べたいものを求めてこない、ほとんどが高級の将校たちも含めて、だ。<中略>
 ある程度はよい点もある。-食料庫までの旅の間は、比較的に自由だ。
 スヴェータ、きみが僕に手紙を書き送ることのできる場所は、絶対にない。-みんな、ある日からその翌日まで、自分たちがどこにいるのかを知らない。
 きみから報せを聞く唯一の方法は、旅の間に立ち寄ってきみの家で逢うことだ。
 それがいつになるのかは、分からない。」
 (41) モスクワと前線の間の何回かの旅で、レフは、兵士たちとその縁戚者のために手紙を運ぶことになる。
 彼はまた、陸軍倉庫を訪れている間に、スヴェータと家族に逢っただろう。
 スヴェータには逢えなかったが両親に逢えたのは、7月中の旅の1回だった。二人はレフに「食べ物と水を与え」てくれた。そのとき彼は、スヴェータ用に、手紙を残した。
 9月初めの2回めの訪問のときは、スヴェータは大学に戻っていた。
 レフが彼女の家族と連絡を取っておくのは、彼女と過ごすのとほとんど同様に重要なことだった。自分がどこかに属している、と感じさせたからだ。
 最後の訪問の一つのとき、スヴェータの父親は、彼に一枚の紙を渡した。それにレフは、4人の親しい友人とソヴィエト同盟の多くの都市にいる親戚の者たちの住所を記した。これらの住所にいるのは、レフが前線にいて不在の間にスヴェータとその家族がモスクワから避難する場合に、彼が助けを求めるはずの人々だった。
 レフは、多くを語らなかった。しかし、スヴェータの父親が、レフを息子だと考えていることは明瞭だった。
 (42) 最後にモスクワを訪れたことがあった。
 レフには、これがスヴェータと逢う最後の機会だと分かっていた。前線の大隊に送る補給物品の貯蔵はもう何もない、と聞かされていたからだ。
 運転手にあとで会おうと言って、レフは貯蔵庫からスヴェータの家へと走った。
 彼女は家にいそうではなかった-一日のど真ん中だった。しかしともあれ、誰かに別れを告げるために行く必要があった。
 たぶん、スヴェータの母親か妹なら、家にいるだろう。
 レフは、ドアをノックした。扉を開けたのは、スヴェータの母親のアナスタシアだった。
 レフは玄関廊下に入り込んで、モスクワにあと数時間だけいる、その後で離れて前線へと出発する、と説明した。
 彼は、感謝と別れの言葉を告げたかった。
 レフは、母親にキスをすべきかどうか分からなかった。
 アナスタシアは、大して温かみや感情を示さなかった。
 彼はお辞儀をして、玄関ドアへと向かった。
 しかし、母親が彼を止めた。「待って。貴方にキスをさせて」と彼女は言った。
 彼女は、レフをしっかりと抱き締めた。
 彼は、母親の手に接吻をし、そして去った。
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 第1章、終わり。もともと、各章に表題はない。

2175/R・パイプス著第11章第14節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 (1)当時のロシア住民の圧倒的大多数は、何が起こっているかを少しも知らなかった。
 二月革命以降は共立執行部として行動してきたソヴェトが、名目上は、完全な権力を掌握した。
 このことは、革命的な事件だとはほとんど思えなかった。すなわち、二月革命の最初に導入された「二重権力」の原理を、論理的に拡張したものだった。
 トロツキーがソヴェトへの権力移行だとボルシェヴィキによる権力奪取を誤認させたことは、素晴らしい成功だった。
 民主主義的社会主義者たちが二月と三月に導入した実務を、ボルシェヴィキの目的のために巧妙に利用したのだ。トロツキーは十月の事態をふり返って、こう自慢した。
 欺瞞がもたらした結末は、事実上何ら気づかれることなく、見かけ上は、新しい政府の危機をたんに「合法的」に解決したにすぎない、ということだった。
 (2)トロツキーは、つぎのように書く。(230)//
 「我々はこの蜂起を『合法的』だと称する。それは、二重権力という『正常な』状態から発展した、という意味でだ。
 宥和主義者たち〔エスエルとメンシェヴィキ〕がペトログラード・ソヴェトを支配していたとき、一度ならずソヴェトは、政府の決定を阻止し、あるいは訂正させた。
 こうした実務が、いわば歴史的には『ケレンスキー主義』として知られる体制の基本的構造の一部のごとくになった。
 ペトログラード・ソヴェトで権力を奪った我々ボルシェヴィキは、この二重権力の方法を拡張させ、深化させたにすぎない。
 我々は、(前線に対する)連隊の派遣に関する命令を抑止する権限をもった。
 我々はこのようにして、二重権力の伝統と実践の背後に、ペトログラー連隊の事実上の反乱を隠蔽した。
 それに加えて、権力の問題に関する我々の煽動を第二回ソヴェト大会のタイミングに合わせることによって、我々は二重権力の確立された伝統を発展させ、深化させたのだ。そして、ボルシェヴィキの蜂起のソヴェトによる『合法化』という枠組みを、全ロシア的規模で用意した。」
 (3)十月クーの社会主義という目標を隠したままにしたのも、欺瞞(deception)だった。
 まだ不確かだと感じられていた新体制が最初の週に発した公式文書は、「社会主義」という語を使わなかった。
 これが考え抜かれたもので見落としではないことは、つぎのことで分かるだろう。すなわち、レーニンは、臨時政府は廃止されたと宣言する10月25日の元々の草案では、「社会主義、万歳〔Long Live〕!」と書いていた。だが、宣言時には考え直して、その部分に線を引いて消した。(231)
 最も早い「社会主義」の語の公式な使用は、レーニンが書いた11月2日の日付のある文書に見られる。その文書は、「中央委員会は、社会主義革命の勝利を完全に確信する」と述べていた。(232)
 (4)こうしたこと全てによって、劇的な事件が起きたという意識が発生するのを抑え、公共の不安を和らげ、そして活発な抵抗を全て阻止する、という効果が生じた。
 十月のクーの意味に関する無知ががいかに広がっていたかは、ペトログラード株式取引所の反応が、よく例証しているだろう。
 当時のプレスによると、体制変化によって株取引は「まったく影響されなかった」。あるいはまた、ロシアに社会主義革命が起きたという、すぐそのあとの発表によってすら同じだった。
 クーの直後の日々には有価証券の取引はほとんどなかったけれども、価格は安定していた。
 神経質さを示したのはただ一つ、ルーブルの価値の急落だった。
 10月23日と11月4日の間に、ルーブルは外国での交換価値の二分の一を失い、アメリカ・ドルに対して、6.2から12~14へと安くなった。(233)
 (5)ほとんど誰も、臨時政府の崩壊を慨嘆しなかった。
 一般民衆はそのことに完全に無関心に反応した、と目撃者は報告している。
 ボルシェヴィキが頑固な抵抗を打ち破らなければならなかったモスクワについてすら、同じことが言えた。
 モスクワでは、政府が消失したことは気づかれなかった、と言われる。
 街頭を歩いている人々は、事態はたぶん少しも悪くはならないだろうと考えたために、誰が政権に就いても違いはない、と感じていたように見える。(234)//
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 (230)L.トロツキー, Sochineniia, III, Pt. 1(Moscow, n.d.), L.
 (231)Dekrety, I, p.2.
 (232)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.68; Lenin, PSS, XXXV, p.46.
 (233)NZh, No. 173/167(1917年11月5日), p.1.
 (234)NZh, No. 171/165(1917年11月3日), p.3. French CounsulのE. Grenard はペトログラードでの同様の反応を報告する。La Revolution Russea (Paris, 1933), p.285. 地方については、Keep in Pipes, Revolutionary Russia, p.211 を見よ。
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 第14節終わり。そして、第11章も終わり。

2174/R・パイプス著・ロシア革命第11章第13節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 (1)モスクワでは、最初からボルシェヴィキの狙いから逸れていた。
 政府代表者たちが大胆な決定をしていたならば、彼らは大失敗に終わっていただろう。
 (2)モスクワのボルシェヴィキはレーニンやトロツキーではなくカーメネフやジノヴィエフの側に立っていたために、権力を奪取する心構えがなかった。
 ウリツキ(Ulitskii)は10月20日の中央委員会で、モスクワの代議員の多数派は蜂起に反対だ、と発言した。(223)
 (3)10月25日のペトログラードでの事態を知って、ボルシェヴィキはモスクワ・ソヴェトに、革命委員会を設立する決議を通過させた。
 しかし、首都では対応する組織がボルシェヴィキの支配下にあったが、一方のモスクワでは、純粋に諸党連立のソヴェト機関の設立が目指され、メンシェヴィキ、社会革命党〔エスエル〕およびその他の社会主義諸党も加わるよう招かれた。
 エスエルは辞退し、メンシェヴィキは、いくつかの条件を付けて招聘を受諾した。
 この諸条件は受け入れられなかった。その結果、メンシェヴィキは身を引いた。(224)
 ペトログラードのミルレヴコム〔Milrevkom, 軍事革命委員会〕に倣って、モスクワの革命委員会は午後10時に、つぎの訴えを発した。市内の連隊は行動する準備をし、革命委員会が発するかまたはその副署のある命令にのみ従うこと。(225)
 (4)モスクワ革命委員会は、10月26日の朝に初めて動いた。古代の要塞を奪取してその武器庫にある兵器を親ボルシェヴィキの赤衛隊に分配するように、クレムリンに二人の委員を派遣したのだ。
 クレムリンを護衛している第56連隊の兵団は、委員の一人が自分たちの将校であることで困惑しつつも、従った。
 そうであっても、<ユンカー>がクレムリンを包囲して降伏するよう最後通牒を突きつけたために、ボルシェヴィキは兵器を移動させることができなかった。
 最後通牒が拒否されると、<ユンカー>は攻撃した。数時間のちに(10月28日午前6時)、クレムリンは<ユンカー>の手に落ちた。
 (5)クレムリンを奪取することで、親政府勢力は都心を統制下に置いた。
 この時点で、軍民と公民について権限をもつ将校たちは、ボルシェヴィキの蜂起を粉砕することができていただろう。
 しかし、彼らは躊躇した。一つは過信によって、もう一つは、いま以上の流血を避けたいという希望を持っただめに。
 「反革命」という怖れも、彼らの心のうちに重くのしかかっていた。
 市長のV. V. ブドネフを長とする公共安全委員会とK. I. リャブツェフ大佐のもとの軍司令部は、革命委員会を拘束しないで、それとの交渉に入った。
 3日間つづいたこの交渉によって(10月28日-30日)、ボルシェヴィキには、回復し、工業地域である郊外や近隣の町からの増援を求める時間が与えられた。
 10月28-29日の夜には情勢を「危機的」と判断していた(226)革命委員会は、二日後には、攻撃に移れると自信を持った。
 民主主義を防衛しようとするモスクワの住民は、最終的には、軍事アカデミー、大学およびギムナジウムの十代の若者たちだけだった。彼らは、年配者の指導も支援も受けることなく、信条に生命を賭けた。//
 (6)対立の平和的解決に関する公共安全委員会と革命委員会の交渉は、10月30-31日の深夜に、決裂した。革命委員会が一方的に休戦を終わらせて、攻撃するように軍団に命令したのだ。(227)
 両勢力はそれぞれ1万5000人の兵を有して、おおよそは同等であると見えた。
 モスクワではその夜の間ずっと、激しい、建物ごとの戦闘が繰り広げられた。
 クレムリンを再び奪還すると決意したボルシェヴィキは、大砲によって攻撃し、古代からの城壁に損傷を加えた。
 <ユンカー>はよく健闘したが、郊外から集まるボルシェヴィキ軍によって次第に圧迫され、孤立した。
 11月2日の朝、公共安全委員会はその部隊に対して、抵抗をやめるよう命令した。
 同日夕方、同委員会は、同委員会を解散してその部隊は武器を捨てるという趣旨の降伏書に、革命委員会とともに署名した。(228)//
 (7)ロシアのその他の地域では、状況は当惑するほどに筋道の違いがあり、各都市での戦いの行方と結果は、競い合う諸党派の強さや決断力にかかっていた。
 共産主義イデオロギストたちは、ペトログラードでの十月クーにつづく「ソヴェト権力の勝利の凱旋」とこの時期を形容する。しかし、歴史研究者から見ると、事態は異なる。
 しばしばソヴェトの意向に反してすら広がっていたのは「ソヴェト」権力ではなく、ボルシェヴィキの権力だった。そして、軍事的実力による征圧というほどの「勝利の凱旋」ではなかった。//
 (8)見分けられるほどの明確な態様はなかったために、二つの重要都市以外でのボルシェヴィキによる征圧を叙述するのはほとんど不可能だ。(229)
 ある地域では、ボルシェヴィキはエスエルやメンシェヴィキと手を組んで「ソヴェトの支配」を宣言した。
 別の地域では、ある党派がその他の対敵を追放して、自分たちの権力を打ち立てた。
 親政府勢力は、あちこちで抵抗した。しかし、多くの地方で元来の政府系組織は「中立」を宣言した。
 たいていの地方諸都市では、その地方のボルシェヴィキは、ペトログラードからの指令なくして、自分たちで行動しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは、11月の初め頃までには、ヨーロッパの中心部、つまり大ロシアの地域を、少なくとも、その地域の諸都市を、統制下に置いた。ボルシェヴィキはそれら諸都市を、ノルマン人が千年前にロシアに対して行ったように、敵対的または無関心の住民が多数いる真ん中で、出撃基地に変えた。
 ボルシェヴィキは田園地帯のほぼ全領域について掌握するには至らず、分離して独立の共和国が設立された国境地域も同様だった。
 以下で叙述するだろうように、ボルシェヴィキはこれら諸国を、軍事活動でもって再征圧しなければならなかった。//
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 (223)Protokoly TsK, p.106-7.
 (224)Revoliutsiia, V, p.193-4; Revoliutsiia, VI, p.4-5; D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti (Moscow, 1963), p.500.
 (225)V. A. Kondratev, ed., Moskovskii Voenno-Revoliutsionnui Komitet: Oktiabr'-Noiabr' 1917 goda(Moscow, 1968), p.22.
 (226)同上、p.78。
 (227)同上、p.103-4。
 (228)同上、p.161。
 (229)そうしたもので我々が参照できるのは以下。V. Leilina in PR, No.2/49(1926), p.185-p.233, No.11/58(1926), p.234-p.255、No. 12/59(1926), p.238-p.258、およびJohn H. Keep in Richard Pipes(Cambridge, Mass., 1968)p.180-p.216.
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 最終第14節へ。

2171/レフとスヴェトラーナ-第1章①。

 レフとスヴェトラーナ。
 *オーランド・ファイジズの文章の試訳。
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 第1章①。
 (01) レフはスヴェトラーナを初めて見た。
 モスクワ大学の入学試験に呼び込まれるために、中庭に三列を作って待っている一群の学生たちがいた。その中にすぐに、彼女に気がついたのだった。
 彼女は物理学部の建物の入口に向かう道沿いに、レフの友人と一緒に立っていた。その友人はレフを手招きして、前の学校のクラス友だちだとスヴェトラーナを紹介してくれた。
 二人は、学部の入口が開くまでに、一言か二言だけをを交わした。そのあと、学生の一群に加わって、階段を上り、試験が実施される大講堂に入った。
 (02) 最初に逢ったときは、恋でも愛でもなかった。二人ともに、そう分かっていた。
 レフはきわめて用心深かったので、簡単に恋に落ちることはなかった。
しかしそれでも、スヴェトラーナはすでに彼の注意を惹いた。
 彼女は背の高さは中くらいで、ほっそりしていて暗い茶色の髪だった。顎の骨が尖っていて顎先も尖っており、青い眼は落ち着いた知性で輝いていた。
 スヴェトラーナは、ソヴィエト同盟で最良の物理学の学部に入学した5-6人の女性の一人だった。レフも一緒に、別の30人の男子とともに1935年に同じ学部に入学した。
 暗色の羊毛服と短い灰色のスカート。スヴェトラーナは女子学校生と同じ衣服を見にまとい、男子ばかりの雰囲気の中で目立っていた。
 彼女は愛らしい声をもっていて(のちに大学合唱団で歌うことになる)、肉体的な魅力にそれを加えていた。
 彼女は人気者で、活発で、ときには軽薄で、鋭い辛辣な言葉によって知られることとなった。
 スヴェトラーナは自分を崇拝する男子に不足することはなかったけれども、レフについては、何か特別な思いをもった。
 レフは背が高くも、体格が力強くもなかった。-彼の背の高さはスヴェトラーナよりも少し低かった。また、同世代の若い男たちのようには容貌に自信がなかった。
 彼は、当時の写真全部で、いつも同じ古い上衣を着ている。-当時のロシア様式で、最上部のボタンは留め、ネクタイをしていない。
 レフは、外観上は、男性というよりも、まだ少年だった。
 しかし、女の子のように、柔らかい青い眼とふっくらした唇をもつ、優しくて思いやりのある顔をしていた。
 (03) 第一学期の間、レフとスヴェータ(彼は彼女をこう呼び始めた)は、頻繁に逢った。
 二人は講義室で一緒に並んで座り、図書館でお互いにうなづき、新進の物理学者や技術者で成る同じサークルの方へと動いた。そのサークルの者たちは学生食堂で一緒に食事をし、図書館への入口に近い学生クラブ室に集まった。そこには、ある者はタバコを喫むために、他の多くはただ脚を伸ばしておしゃべりをするためにやって来た。 
 (04) のちにレフとスヴェータは、友人たちのグループから離れて、劇場や映画館に行くようになる。そしてそのあと、彼は歩いて彼女の家まで送ったのだが、スヴェータの家の近くにあるプーシキン広場からポクロフスキ兵舎までの庭園大通り沿いのロマンティックなコースを選んだ。この大通りは、夕方に恋人たちが散歩するところだった。 
 1930年代の大学生の世界では、婚約する以前の男女関係についての伝統的な考えがまだ残っていて、ロマンティックな礼節が尊重されていた。
 1917年以降のある時期には、性的な振る舞いの解放が喧伝されたけれども。
 モスクワ大学では、ロマンスは真剣で純真なものだった。通常は男女二人が多くの友人たちのグループから離れてから始まり、男子が女子をその家まで送っていくことから出発する。
 そのときが親密に二人きりで会話する好機で、たぶんときどきは、好みの詩を誦み合ったりする。詩は、愛に関する会話の手段として受容されていた。そして、彼女の家で別れる前には、キスをする機会があったかもしれない。
 (05) レフは、スヴェータが好きになって、自分は孤独ではないと知った。
 彼は、彼女を自分に紹介してくれたリャホフと一緒に、スヴェータがクレムリン近くのアレクサンドラ公園を歩いているのを見た。
 レフは遠慮して、スヴェータとの関係をリャホフに尋ねなかった。しかし、ある日、リャホフが言った。「スヴェトラーナ、あんな素晴らしい娘はいない。でも、とても頭がよい。恐ろしく頭がいい」。
 リャホフはそのようにして、自分が彼女の知性におじけづいていることをレフに伝えようとしたのだ。
 レフはすみやかに気づいたのだが、たぶんスヴェータは気紛れで、他人に批判的で、そして、自分と同じように賢くはない人間には我慢できなかったのだろう。
 (06) ゆっくりと、レフとスヴェータは親しくなった。
 レフは思い出す。二人にはともに「深い好意」が芽生えた、と。
 70年以上のちに自分の居間に座って、彼は最初の感情的な結びつきを思い出して、小さく微笑んだ。
 つぎの言葉を選ぶまで慎重に考えていた。
 「突然に恋に落ちたのではない。だが、深くて永遠につづくような親近さを感じた」。
 (07) 二人はついには、お互いを恋人だと考えるようになった。
 「私は他のどの女性にも一人では逢わなかったので、みんな、スヴェトラーナは自分の恋人だと分かった」。
 二人のどちらにもそのことが明確になったときがあった。
 ある午後、カラルメニュイのスヴェータの家近くの静かな通りを二人が歩いていたとき、彼女が彼の手を取って、「あちらに行きましょう。私の友だちに貴方を紹介するわ」と言った。
 彼らは行って、スヴェータの親しい友人たちに逢った。彼女の前の学校からの友人たちで、イリーナ・クラウゼは外国語学校でフランス語を勉強していた。アレクサンドラ・チェルノモルディクは、医学生だった。
 レフは、これは自分に対する彼女の信頼の証しなのだと理解した。親愛の徴しとして、自分の子ども時代の友人たちに逢わせてくれたのだ。
 (08) まもなく、レフはスヴェータの家に招かれた。
 イワノフ家は大部屋二つと台所のある私的な住戸を持っていた。
 -これは、スターリン時代のモスクワではほとんど知られていない贅沢なことだった。モスクワの標準的な共同住宅では、一家族について一部屋で、台所とトイレは共用だった。
 スヴェータと妹のターニャは、両親と一緒に一部屋で生活していた。
 娘たちは、折り畳むとベッドになるソファの上で寝ていた。
 娘たちの兄のヤロスラフ(「ヤラ」)は、妻のエレーナと一緒に別の部屋で生活していた。そこには大きな衣装箪笥、前面にガラスのある書籍棚、グランド・ピアノがあって、家族みんなで使っていた。
 イワノフ家の住戸には、高い天井と古風な家具があった。そして、労働者国家の首都であるモスクワの知識人たちが集まる、小さな島だった。
 (09) スヴェータの父親のアレクサンドル・アレクセイヴィチは50歳台半ばで、背が高くて髭を生やしていて、注意深い目と塩胡椒色の髪の毛をもっていた。
 老練なボルシェヴィキで、1902年にカザン大学の学生のときに革命運動に参加した。
 流刑に遭って収監されたが、のちにペテルブルク大学物理学部に再入学した。
 そこで、第一次大戦の前には、化学者セルゲイ・レベデフとともに合成ゴムの開発に従事した。
 1917年の十月革命の後は、ソヴィエトのゴム生産を組織する指導的な役割を果たした。
 だが、1921年に、党を去った。
 表向きの理由は体調の悪さだったが、実際には、ボルシェヴィキの独裁に幻滅するに至っていたからだった。
 彼はその後10年間、仕事のために2回、西側を旅行した。そして、1930年に、家族とともにモスクワに転居した。
 この頃は、五カ年計画がソヴィエト同盟を工業化するために施行中の真只中だった。
 また、「ブルジョア専門家」に対して、スターリンの最初のテロルの大波が襲っていた。そのときに、アレクサンドルの多数の友人や仕事仲間たちが「スパイ」とか「反逆者」だとかして非難されて、射殺されるか強制労働収容所へと送られるかした。
 アレクサンドルに外国旅行の経験があったことは政治的に危険だったが、彼は何とかして生き延び、ソヴィエトの工業のために仕事を続け、ロシア合成樹脂研究所の副所長にまでなった。
 彼の家族には、技術と科学の精神が染み渡っていた。子どもたちはみな、技術または科学を勉強するように言われて育った。ヤラはモスクワ機械建設研究所に進み、ターニャは気象学を勉強しており、そしてスヴェータは物理学部に通っていた。
 (10) スヴェータの父、アレクサンドルは、レフを歓迎して、家に招き入れた。
 父親は、もう一人科学者がいるのを愉しんでいた。
 スヴェータの母親は、もう少し疎遠で、控えめだった。
 アナスタシアは肉づきが良くて、ゆっくり動く40歳台半ばの婦人で、手の疾患を隠すために手袋を填めていた。
 彼女はモスクワ経済研究所のロシア語教師で、教育については厳格な態度をとった。
 アナスタシアは眼を上げて、厚い縁の眼鏡を通してレフをじっと見つめた。
 レフは長い間、母親には怯えていたが、彼とスヴェータの大学一年次の終わり頃に、全てを大きく変化させる出来事があった。
 スヴェータは欠席した講義のノートを、レフから借りていた。
 最初の試験のためにそれを返してもらおうとしてレフが来たとき、アナスタシアは彼に、貴方のノートはとても良いと思う、と告げた。
 多大なではないが小さな、そして予期していなかった褒め言葉だった。
 そして、母親の声の柔らかさで、レフは、アナスタシアに、つまりはスヴェータの家族の関門に、受け入れられた徴しだ、と感じた。
 レフは思い出して言う。「私はその言葉を、彼女の家に入る合法的パスのようなものだと理解しました」。
 「私はもっと足繁く、臆病にならずに、彼女たちの家を訪れました。」
 試験が終わったあとの1936年の長くて暑い夏、レフは夕方になるといつもスヴェータに逢いにくることになる。そして、自転車の乗り方を教えるために、ソコロニキ公園へと彼女を連れて行く。
 (11) レフがスヴェータの家族に受け入れられたことは、二人の関係にとってつねに重要な一部だった。
 レフには直属の家族がなかった。
 彼は1917年1月21日に生まれた。-世界を永遠に変えた二月革命の激変の直前だ。
 母親のヴァレンティナは小さな地方の公務員の娘で、幼いときに両親を喪ったあと、モスクワにいた二人の叔母に育てられた。
 彼女は市立学校の一つで教師をしていて、そのときに、レフの父親と会った。
 父親のグレブ・ミシュチェンコはモスクワ大学物理学部の卒業生で、そのときは、技師になるために鉄道研究所で勉強していた。
 ミシュチェンコとは、ウクライナの名前だった。
 グレブの父のフョードルは民族主義ウクライナ知識人の中の著名な人物で、キエフ大学で言語学の教授をしており、また、古代ギリシアの文章のロシア語への翻訳家だった。
 十月革命後、レフの両親はシベリアのベリョゾボという、トボルスク州の小さな町に引っ越した。その町のことを、鉄道技師としての調査旅行で知ったのだった。
 ベリョゾボは、18世紀以来の流刑地として、ボルシェヴィキ体制から遠く離れた場所で、比較的に豊かな農業地域にあった。
 また、モスクワにテロルと経済的な破滅を持ち込んだ内戦(1917-21年)を避けることのできる、良い位置にあったように見えた。
 家族はヴァレンティナの叔母とともに、大きな農民家庭の家屋の一室を借りて生活した。
 父のグレブは学校教師と気象学の仕事を見つけ、母のヴァレンティナも教師として働いた。
 レフは、母親の叔母のリディアによって育てられた。彼はこの叔母を「祖母」と呼んだ。
 彼女はレフに童話を語り聞かせ、神への祈りを教えた。レフは、生涯にわたって、このことを憶えていた。
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 ②へとつづける。
ギャラリー
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