秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

メンシェヴィキ

2592/R・パイプス1994年著第9章第六節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機、の試訳のつづき。第六節へ。原書、p.471〜。
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 第六節・ジョージア紛議(the controversy over Georgia)①。
 (01) レーニンのスターリンに対する敵対意識は強いものだったが、少数民族に対処するスターリンの高圧的方法によって、さらに増大した。
 レーニンは、ロシアの少数民族への適切な対応を重要視した。それはソヴィエト国家の結合にとって重要なだけではなく、植民地諸民族への影響をもちそうだったからだ。
 本質問題について、スターリンと対立してはいなかった。つまり、民族主義(nationalism)は「プロレタリアート独裁」においては「ブルジョア的」遺物だった。
 ソヴィエト国家は中央志向であり、諸決定は民族的選好を考慮することなく行われなければならなかった。
 スターリンとの違いは、方法だった。
 レーニンは、民族少数派はロシア人の過去の虐待を理由としてロシア人への不満を説明してきた、と考えた。
 彼は、制限された文化的自治をもつ連邦上の外装を認めたり、とりわけ最大限の如才なさでもって対応するといった、本質的には形式上の譲歩をすることで、この不満を緩和しようとした。
 民族的情緒を全く欠く人物を軽蔑し、大ロシア排外主義は共産主義の世界的利益にとって危険だと見ていた。//
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 (02) 奇妙な外国訛りでロシア語を話すジョージア人のスターリンは、異なって考えていた。
 彼は早くに、共産党の権力基盤は大ロシアの民衆にあると理解した。
 1922年に登録された37万6000人の党員のうち、ゆうに27万人あるいは72パーセントがロシア人だった。そして残りの党員たちのうち高い割合の者たちが、ロシア化していた。ウクライナ人党員の半分、ユダヤ人党員の三分の二。(注156)
 さらに、内戦の過程で、かつ対ポーランド戦争の間ですら、共産主義とロシア民族主義の間の微妙な融合が起きた。
 それが最も顕著に発現したのが、いわゆる「Smena Vekh」または「目印の変化」だった。これは保守的なエミグレ(国外脱出者)の中で人気を博した運動で、ソヴィエト国家をロシアの民族的偉大さを示すものと把握し、エミグレたちに帰国するよう説いた。
 第10回党大会(1921年)で、ある代議員は、ソヴィエト国家の成果は「ロシア革命に関係した者たちの心を誇りで充たし、特有の赤色ロシア愛国主義を引き起こした」、ということに気づいた。(注157)
 スターリンのような野心的政治家には、より大きい関心は、世界を転覆させることではなく、地元(home)で権力を獲得することにあった。そして、このような民族にかかわる推移は、危険ではなく好機だった。
 彼の経歴の最初から、そしてより公然と彼の独裁の年月とともに、彼は民族少数派を犠牲にする大ロシア民族主義者だと自認した。//
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 (03) 1922年までに、共産主義者は非ロシア人が住む境界諸国のほとんどを再征服していた。
 この帝国主義的拡大の決定的要因は、赤軍だった。
 しかし、本国の共産党員たちも、プロパガンダと破壊活動によって、貢献した。そして、新しい体制が樹立されると、地方の事情について発言しようとした。
 このような要求に、中央は十分な注意を払わなかった。スターリンは、民族問題人民委員と書記局長の職に就いていたが、各々のいわゆるソヴェト共和国を、帝政時代にあったのとよく似たロシアに固有の一部だと見ていた。
 その結果として生じたのは、〔中央に対する〕憤慨であり、地方の共産党員とモスクワの中央機構の間の対立だった。レーニンはこのことに、1922年遅くに注意を向けるに至った。//
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 (04) この点に関する最も暴力的な対立が、ジョージアで発生した。
 スターリンは、鎮圧したメンシェヴィキの本拠は自分の個人的な管轄区域だと見なし、ジョージアが占拠されたあとで、地方党員を越えて、ジョージア人仲間で共産党コーカサス事務局長のSergei Ordzhonikidze の助けを安直に求めた。
 トランスコーカサスの経済の統合というレーニンの指示を実行するために、Ordzhonikidze は、ソヴィエト・ロシアへと一体化する予備段階として、ジョージアをアルメニア、アゼルバイジャンとともに一つの連邦に合併させた。
 Budu Mdivani とPhlip Markharadze が率いた地方党員たちはこれに抵抗し、Ordzhonikidze の高慢な措置についてモスクワに対して不満を述べた。(注158)
 レーニンは彼らの異議に従って、トランスコーカサスの政治的および経済的統合を一時的に延期した。
 その後、1922年3月に、彼は合併を進めるよう命令した。
 そして、Ordzhonikidze は、トランスコーカサス・ソヴェト社会主義共和国連邦同盟の設立を発表した。三共和国の政府が行使していた権力のほとんどは、新しいトランスコーカサス連邦へと移管された。
 Tiflis〔ジョージアの首都—試訳者〕からの異議申立ては、レーニンには効果がなかった。彼はこのような問題について、スターリンの助言を信頼していた。//
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 (05) 1922年の夏、共産党の領域は、四つの共和国で構成されていた。
 ロシア(RSFSR, ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦)、ウクライナ、ベラルーシ、およびトランスコーカサス。
 これらの形式的関係は双務的条約で規定された。
 だが現実には、四つの共和国全てがロシア共産党によって管理された。
 今決定されたのは、これらの共和国の関係をより整理されたものにする、ということだった。
 レーニンは、連邦同盟の基本的考え方を検討する任務を、1922年8月に、スターリンを長とする委員会に委託した。(注159)
 スターリンは、驚くほどの簡潔さをもつ結論に至った。
 すなわち、三つの非ロシア人共和国は、RSFSR〔ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦〕に自治的団体として加盟する。ロシア共和国の中央国家機関が、連邦的権限を引き継ぐ。
 このような制度では、ウクライナまたはジョージアと、Iakutiia またはBashkiriia のようなRSFSR内部の自治共和国との間の国制上の区別が消滅してしまう。 
 これは、全ての重要な国家機能をロシア共和国に与えるという、きわめて中央集権的な制度編成だった。(注160)
 じつに、帝制時代の「一つで不可分のロシア」という原理を復元させるものだった。//
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 (06) これは、レーニンが想定していたものでは全くなかった。
 彼は1920年に早くも、二種のソヴェト的政体を構想していた。すなわち、大民族集団のための、形式上の主権をもつ「同盟」諸共和国と、少数派民族集団のための「自治」諸共和国。
 スターリンは、今のモスクワは行政の実際の観点から大民族と小民族を区別していないように、こう区別するのは学者的だと考えた。(注161) 
 レーニンの命令を受けて、スターリンは自分自身の考えに従って新しい国家構造を考案しようとした。//
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 (07) 「自治化」(autonomization)という観念にもとづくスターリンの提案の草稿が、同意を求めて各共和国に送られた。
 それは、敵対的に受けとめられた。
 最も不満をもったのは、ジョージア共産党だった。彼らは1922年9月15日に、スターリンの提案は「未熟」だと宣明した。(注162)
 Ordzhonikidze はこれを却下し、トランスコーカサス連邦に賛成して草稿は〔ジョージア共産党に〕同意されたと、スターリンに知らせた。
 ウクライナは判断を保留し、ベラルーシはウクライナの決定に従うと宣言して、両方に肩入れした。
 スターリンの委員会は、事実上の全員一致で、彼の案を採択した。//
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 後注
 (156) Richard Pipes, Formation of the Soviet Union, rev. ed. (1964), p.278.
 (157) V. P. Zatonskii in Desiatyi S"ezd, p.203.
 (158) Pipes, Formation, p.266-9.
 (159) Ibid., p.270; IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191.
 (160) スターリンの提案は、1964年に初めて公刊された。Lenin, PSS, XLV, p.557-8. 彼の「自治化」提案をめぐる論争に関するその他の文献資料は、つぎにある。IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191-p.218.
 (161) Lenin, Sochineniia, XXV, p.624. 
 (162) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.196.
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 ②へと、つづく。

2394/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節②。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
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 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師②。
 (6)Gorky、Bogdanov、Lunacharskyは1909年に、Capri 島の作家の別荘にロシアの労働者用の学校を設立した。
 13人の労働者(うち一人は警察のスパイ)が多大の費用を払ってロシアを密出国して、社会主義の歴史と西側文学に関する退屈な課程の講義を聴くべく座らされた。
 時間割以外の唯一の娯楽は、Naples(ナポリ)美術館へのLunacharskyの案内付旅行だった。
 1910年設立の二つめの労働者学校は、Bologna(ボローニャ)にあった。
 これらの教育の目的は、自覚のあるプロレタリア社会主義者のグループ—一種の「労働者階級知識人」—を作ることだった。このグループは、彼らの知識を労働者たちに普及し、革命運動が自分たちの文化革命を創出するのを確実にするだろう。
 学校の創始者たちはVpered(先進)グループを形成したが、ただちにレーニンと激しい対立をした。
 革命に関する先進グループ(Vperedists)の考え方は、労働者階級の文化の有機的発展に成功が依存する、という意味で本質的にメンシェヴィキだった。
 これに対して、レーニンは、独自の文化的勢力としての労働者の潜在的能力を無視していて、紀律を受けた党のための一員としての役割を強調した。
 先進グループは、知識は、とくに技術は、マルクスが予言した歴史の駆動力であり、社会階層の相違は資産ではなくむしろ所有する知識による、とも主張した。
 かくして、労働者階級は、生産、配分と交換の手段の統制によるのみならず、同時に生起する文化革命によって解放されるだろう。文化革命は、労働者階級に知識の力それ自体をも付与するのだ。
 だからこそ、自分たちは労働者階級の啓蒙を行う。
 先進グループは最後に、異端派の装いすらもって、マルクス主義は宗教の一形態だと見なさなければならない、とも論じた。—神聖な存在としての人間性と聖なる精神としての集団主義を伴う宗教だ。
 Gorky は、その小説の<告白>(1908年)で、この人間主義的(humanistic)主題を強調した。その小説では、主人公のMatvei は、仲間たちとの同志愛を通じて神を見出す。//
 (7)1917年の後、指導するボルシェヴィキは以前よりもプレス関係の権力を持っていたが、文化政策は、党内のこれらかつての先進グループに委ねられた。 
 Lunacharsky は、啓蒙〔Enlightenment,文部科学〕人民委員になった。—この名称は、目標として設定した文化革命の発想を反映していた。そして、教育と芸術の両方を所管した。
 Bogdanov は、プロレタリア文化を発展させるために1917年に設立されたProletkult 機構(プロレタリア文化機構)の長となった。
 1919年までには8万人の構成員をもった工場の同好会や工房を通じて、この機構は、素人の劇団、合唱団、楽団、美術教室、創造的文筆場、労働者のためのスポーツ大会を組織した。 
 モスクワのプロレタリア大学と<社会主義百科事典>とがあった。
 Bogdanov は後者の出版物を将来のプロレタリア文明を準備するものと見ていた。彼の見方では、Diderotの<百科事典>が18世紀のフランスの勃興するブルジョアジーが自分たちの文化革命を準備する試みだったのとちょうど同じように。(*19)//
 (8)Proletkult 知識人たちは、Capri やBologna の学校でと同様に、育てようとする労働者たちに対して経済的支援をする姿勢をときおり示した。
 Proletkult がもつ基本的前提は、労働者階級は自発的に自分たち自身の文化を発展させるべきだ、というものだった。この点に、彼らが労働者たちのためにする意味があった。
 加えて、彼らが促進する「プロレタリア文化」は、労働者たちはこうあるべきだと想定する彼らの理想と比べて、労働者の現実の嗜好とはあまり関係がなかった。—大部分は寄席演芸(vaudeville)やウォッカで、彼ら知識人は俗悪なものだとしてつねに軽蔑していた。 
 彼らの理想たる労働者は、ブルジョア個人主義に毒されていない。生活や思考の様式が集団主義だ。冷静かつ真剣で、自己啓発的だ。科学とスポーツに関心をもつ。要するに、知識人たちが自ら想像する社会主義的文化の先駆者でなければならない。//
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 ③へとつづく。

2223/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第2節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。       **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。        **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。         **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第2節。
 (1)さて、クロンシュタットでは、装甲戦艦の<Sevastopol>と<Petropavlovsk>(主要戦艦、系譜上の戦艦)が、不安な状態にあった。
 乗組兵たちは1918年にすでに、ボルシェヴィキの政策を支持しないことを主張していた。その際、ブレスト=リトフスク条約に対する社会革命党の批判の仕方を採用し、政治委員が自分たちが選んだ委員会に取って代わったことに怒っていた。
 彼らは、自由なソヴェト選挙を呼びかけた。
 1920年12月、怒りの雰囲気が満ち、脱走兵が増えた。
 海兵たちは、劣悪な条件について不満を言うためにモスクワに代表者団を派遣した。
 代表者たちは、逮捕された。(19) 
 1921年1月、不満がさらに増した。
 <Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、最近に行われたペトログラードからクロンシュタットへの移転に憤慨していた。また、それに続いた、上陸許可の延期を含むより厳格な紀律の導入に対しても。
 もっと根本的に彼らが憤慨していたのは、不平等な配給制を含む、特権に関する新しい階層制だった。
 農村地帯からの報せも、不満を増した。
 馬も、牛も、最後の一頭まで、家族や隣人から略奪されていた。(20)
 (2)ペトログラードでの操業停止を聞いて、<Sevastopol>と<Petropavlovsk>の乗員たちは、調査のための代表団を送った。
 3月1日、海兵たちは、政治方針を定式化した。
 それは、一連の政治的要求から始まる。
 まず、秘密投票による、かつ予備選挙運動を行う権利を伴う、ソヴェトの再選挙を呼びかけた。現在のソヴェトは「労働者と農民の意思を表現していない」からだ。
 政治方針はまた、言論、プレス、および集会の自由を要求した。-だが、「労働者と農民、アナキスト、および左翼社会主義政党」によるものだけの。
 単一の政党がプロパガンダを独占すべきではない、とも強く主張した。
 「社会主義諸党の全ての政治犯たち、および全ての労働者と農民、そして労働者と農民の運動に関係して逮捕された赤衛軍兵士と海兵たち」の釈放を要求した。また、収監や強制収容所に送る事例の見直しも。
 共産党による政治的統制と武装護衛兵団の除去も、要求した。
 労働者を雇用していないかぎりは、農民たちは土地と家畜に対する権利をもつ、とも主張した。(21)
 (3)クロンシュタット・ソヴェトに召喚されて、1万6000人の海兵たち、赤軍兵士、市の住民が二月革命記念日を祝うべく、島の中央広場に集合した。
 二月革命は、時代の変わり目だった。 
全ロシア〔ソヴェト〕中央執行委員会のM・カリーニン(Mikhail Kalinin)は特別の登場の仕方をした。音楽と旗と、軍事上の名誉儀礼で迎えられた。
 手続を始めたのは、クロンシュタット・ソヴェトの議長のP・ヴァシレフ(Pavel Vasil'ev)だった。
 カリーニンとバルト艦隊委員のN・クズミン(Nikolai Kuz'min)は演壇に昇って、海兵たちに対して、政治的要求を取り下げるよう強く迫った。
 彼らの言葉は、叫び倒された。
 S・ペトリチェンコ(Stephen Petrichenko)という名の戦艦<Petropavlovsk>の書記が、海兵たちの政治方針にもとづく投票を呼びかけた。
 広場にいる海兵たちは、「満場一致で」これを承認した。(22)
 (4)革命側に立った他の有名な指導者たちの多くと同様に、ペトリチェンコは、ボルシェヴィキが培養した草の根活動家の横顔にふさわしかった。
Kaluga 州の農民家庭に生まれ、ウクライナの都市、ザポリージャ(Zaporozhe )に移った彼は、2年間の学修課程と金属労働者としての経験を得た。
 1914年、22歳の年に、海軍へと編入された。
 1919年、共産党に加入した。(23)
 彼は熟練労働者の典型的な者の一人で、とくに技術的分野でそうだった。
 海軍の反乱では指導力を発揮した。このことはすでに、1905年に知られていた。(24)
 (5)指導性のみならず動員の過程もまた、標準的な革命のお手本に従うものだった。
 草の根的ソヴェトの伝統で、海兵たちは代表を選出し、選挙を組織し、元来の参加モデルに回帰することを要求した。
 3月2日、ペトリチェンコは、海兵代議員たちの会合を呼び集め、代議員たちは幹事会を選出し、全ての社会主義政党が参加するよう招聘するクロンシュタット・ソヴェトの新しい選挙を計画した。
 30人の代議員グループがペトログラードに派遣されて、工場での彼らの要求について説明した。
 彼らは、逮捕された。そして、行方不明になった。(25)
 (6)クズミンは海兵たちの不満に対応しようとせず、警告を発した。
 彼はこう発表した。ペトログラードは、静穏だ。あの広場から出現しつつあるものについて、支持はない。しかし、革命それ自体の運命が重大な危機にある。
 ピウズドスキ(Pilsudski)は境界地帯で待ち伏せしており、西側は、襲撃をしかけようしている。
 代議員たちは、「その気があれば彼を射殺できただろう」。
 彼はこう言ったと報告されている。「武装闘争をしたいのなら、一度は勝つだろう。-しかし、共産主義者は進んで権力を放棄しようとはしないし、最後の一息まで闘うだろう」。(26)
 海兵たちの側は、当局との妥協を追求すると言い張った。
 クロンシュタットのボルシェヴィキは、事態の進行から除外されていなかった。
 しかしながら、神経を張りつめていた。
 武装分団が島へと向かっている、との風聞が流れた。
 武力衝突を予期して、会合は、ペトリチェンコの指揮のもとに、臨時革命委員会(<Vremennyi revoliutsionnyi komitet>)を設立した。(27)
 (7) 海兵たちは、ペトログラードの不安は収まっているとのクズミンの主張を、信用しなかった。
 彼らは、自分たちで「第三革命」と称しているものへの労働者支持が拡大するのを期待した。
 大工場群のいくつかは、これに反応した。しかし、ペトログラードの労働者のほとんどは、控えた。
 ペトログラードの労働者たちは、戦争と対立にうんざりしていた。そして、テロルが新しく増大してくるのを恐れた。
 彼らは、海兵たちがすでに特権的地位にあると考えているものを自分たちのそれと比較して、不愉快に感じた。
 彼らは、断固たる公式プロパガンダを十分に受け入れて、クロンシュタット「反乱」は「白軍」のA・コズロフスキ(Aleksandr Kozlovskii)将軍の影響下にあると非難していたかもしれなかった。
 工場地区全域に貼られたポスターは、コズロフスキといわゆる反革命陰謀を非難していた。(28)
 労働者たちは、逮捕されるのを怖れて、公式見解に挑戦するのを躊躇した。(29)
 島には実際に、将軍コズロフスキがいた。
 コズロフスキは帝制軍の将軍の一人で、1918年に、「軍事専門家」として赤軍に加入した。
 クロンシュタット砲兵隊の指揮官として、蜂起の側を支援した。しかし、彼にはほとんど蜂起の心情はなかった。-そして、「白軍」運動への共感を決して示していなかった。 彼はこう述べた。「共産党は私の名前をクロンシュタット蜂起が白軍の陰謀だとするために利用した。たんに、私が要塞での唯一の『将軍』だったことが理由だ」。
 ペトログラードに帰ると、彼の家族は身柄を拘束され、人質となった。(31)//
 (8)反乱者たちは、要求を拒否した。
 彼らは、「我々の同志たる労働者、農民」にあてて、こう警告した。
 「我々の敵は、きみを欺いている。クロンシュタット蜂起はメンシェヴィキ、社会革命党、協商国のスパイたち、および帝制軍の将軍たちによって組織されている、と我々の敵は言う。…厚かましいウソだ。…
 我々は過去に戻ることを欲しはしない。
 我々は、ブルジョアジーの使用人ではなく、協商国の雇い人でもない。
 我々は、労働大衆の権力の擁護者であって、単一政党の抑制なき専制的権力の擁護者ではない。」
 ボルシェヴィキは、「ニコライよりも悪い」。
 ボルシェヴィキは、「権力にしがみつき、その専制的支配を維持するだけのために、全ロシアを血の海に溺れさせようとしている」。(32)
 クロンシュタットの不満の背後に、白軍の陰謀はなかった。しかし、反乱者には社会革命党が用いる言葉遣いがあった。
 しかしながら、ペトリチェンコは社会革命党員ではなく、反乱者のほとんどは特定政党帰属性を否定しただろう。
 それにもかかわらず、彼らは、社会主義と民衆の解放に関する言葉遣いを共有して受け容れていた。//
 (9)「同志たち」による「共産党独裁」に対する戦闘だった。
 革命の現実の敵は、この戦闘を歓迎したかもしれなかった。だが、指導者たちは、「反対の動機」からだと兵員たちに説明した。
 「きみたち同志諸君は、…真のソヴェト権力を再建するという熱意でもって奮起している」。労働者と農民に必要なものを、彼らに与えたいという願いによってだ。
 対照的に、革命の敵は、「帝制時代の笞と将軍たちの特権を回復しようとの願い」でもって喚起されている。…。
 きみたちは自由を求め、彼らはきみたちをもう一度隷従制の罠に落とし込むことを欲している」。(33)//
 (10)報道兵は、闘いの目的をこう説明した。
 「十月革命を達成して、労働者階級は自分たちの解放を達成することを望んだ。
 結果は、個々人の、いっそうひどい奴隷化だった。
 憲兵(police-gendarme)支配の君主制の権力は、その攻撃者の手に落ちた。-共産党(共産主義者)だ。共産党は労働大衆に自由をもたらさず、帝制時代の警察体制よりもはるかに恐ろしい、チェカの拷問室に入ることへの恒常的な恐怖をもたらした」。
 海兵たち自身の「第三革命」は、「なお残存する鎖を労働大衆から取り去り、社会主義の創建に向かう、広くて新しい途を開くだろう」。(34)
 社会主義は、なおも目標ではあった。//
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 第2節、終わり。

2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
 章の下位に「節」はないが、一行空けよりも明確に、各章の中に横線を挿入している箇所がある。その部分までを、便宜的に「節」と見なすこととする。
 一行ごとに改行する。段落の最後に//を付し、段落に原文にはない番号を頭書する。
 注番号は記すが、注記の内容そのものは、省略する。
 第6部・第2章は、<結語>直前の最終の章だ。
 章は省略して各部の表題(とp.の範囲)だけ記しておくと、以下のとおり。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。     **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。      **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。      **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第1節
 (1)赤色テロルが前提にしていたのは、つぎのことだ。すなわち、裏切りはつねに隠れている。体制による統制を免れるいかなる集団行動も、体制の存在に対する潜在的な脅威だ。全ての社会的主体は見かけ上のものではない。色を変更することができないグループまたは個人はどこにも存在しない。ゆえに、抑圧は前もってのみならず、専断的に行われなければならない。
 内戦時代を終わらせた1921年2月から3月の事態は、革命を出発させた民衆動員の力学を再びくり返したものだった。
 この事態によって、前線がないような戦争では安全な前線はない、ということが分かった。//
 (2)ペトログラードのプロレタリアート〔工業労働者〕とバルト艦隊は、ボルシェヴィキがもつ草の根の戦闘性の聖像(icon)だった。
 1917年2月、ペトログラードのストライキと街頭示威行動が、事態の懸崖を打ち破った。そこには、海兵と兵士の反乱も含まれていて、それらが、君主制の崩壊の原因となった。
 4年後の1921年2月、ストライキと抗議運動が、再び、ペトログラードを振動させた。
 首都は、モスクワに移っていた。レーニンが、ニコライに取って代わっていた。
 旧体制の終焉を歓迎しソヴェト権力から利益を得ようと期待していた大工業プラントの労働者たちは、今ではその指導者たちに反抗した。自分たちの名のもとで統治すると主張しているが、その政策は社会的経済的危機をもたらし、彼らの生存自体を脅かしている、として。
 工場地区での騒擾は、クロンシュタット要塞近くにいる海兵たちを、彼ら自身の抗議の声を上げるように喚起させた。
 1917年10月の熱心なボルシェヴィキ軍団が、今ではその憤激を、「共産党独裁」に対して向けた。//
 (3)クロンシュタットは、ペトログラードから約20マイル離れた、フィン湾の中の島だ。
 18世紀初頭にピョートル大帝が、彼の新首都の防衛のために要塞を構築した。
 島の東端に都市があり、その中央広場は、2万5000人の兵士たちが整列することのできる広さがあった。
 夏には、ペトログラードから船が着いた。11月遅くから3月初めまでは、湾が凍っていた。
 島は全体でおよそ5万の人口をもっており、半分は軍事関係者で、半分は民間人だった。(1)//
 (4)バルト艦隊の海兵たちはずっと、革命の最も急進的部分を代表してきた。
 彼らは1917年2月には、50人以上の自分たちの将校を半殺しにした。その中には4人の大将(admiral)も含まれていた。
 七月事件のときにはペトログラードにやって来て、動員されたペトログラードの労働者を支援し、ほとんどエスエル〔社会革命党〕の指導者のV・チェルノフ(Viktor Chernov)を殺害するところだった。
 メンシェヴィキのF・ダン(Fedor Dan)が回想するように、「あの記念すべき日々に、彼らは、自発的に射撃をし続け、かつほんの数名しか負傷させなかった」。(2)
 8月、将軍コルニロフに反対するよう世論に訴え、彼の逮捕と処刑を要求した。
 クロンシュタットの将校たちの多くもまた、コルニロフに反対した。しかし、うちの4名は、処刑の呼びかけを拒んだ。
 海兵たちは、この4人の身柄を拘束し、射殺した。(3)
 カデットのA・シンガレフ(Andrei Shingarev)とF・ココシキン(Fedor Kokoshkin)は、1918年2月、病院のベッドで、赤衛兵とクロンシュタット海兵たちによって殺害された。(4)
 彼らは、怒れば危険な男たちだった。//
 (5)1921年2月頃までには、元々いた海兵たちのある程度は、新補充兵に代わっていた。
 最近に加わった者たちはおそらくより熱心でなく、より職業的でなかったけれども、以前と同様に暴力を好む傾向と権威に対する敵意をもっていた。たぶん、いく分かは別の理由からだったが。(5)
 かつてボルシェヴィキの力の淵源だった者たちが、今では脅威だった。しかし、忠誠心をもつ前衛部隊だという神話は、放棄されていなかった。
 党は、クロンシュタットの反乱を白軍の反革命陰謀の傀儡だと非難した。-これは、ソヴィエトの時代を通じて、公式の解釈であり続けた。(6)
 十月以後の他の反乱の場合と同様に、反乱兵士には旧体制を復活させようとする意図は実際になかった。
 今度は、革命の名において、彼らは戦時共産主義と関連する諸政策に異議を唱えた。-強制労働、徴発、多数の者が食料について依存している小規模取引の抑圧、村落からの略奪。
 彼らは不平等の復活に憤激した。-食糧配給量は地位によって異なり、新体制の役人たちが特権を享受していた。
 「共産党(共産主義者)」を彼らが非難するとき、それは反動的白軍に取り憑かれたのが理由ではなかった。
 彼らはこのときにはボルシェヴィキを、かつて歓迎したのと同じ理由で、拒否したのであり、革命的でなくなったのが理由ではなかった。(7)//
 (6)ある者には、まるで1917年二月が再び「空中にある(in the air)」ように見えた。(8)
 1917年2月のように、抽象的な原理ではなく、飢えと貧困が、示威行進者を極端へと走らせた。
 1921年初めには、体制に対する民衆の抵抗が、ロシアの中核部全体に蔓延していた。
 都市部、すなわちボルシェヴィキを支持する中心部で、食糧が稀少になり、工場は燃料と原資材不足で閉鎖し、労働者は街頭へと出た。-飢餓が迫っていた。
 1月下旬、当局は食料配給量を削減した。(9) 
 ペトログラード連隊ですら、食糧が不足した。兵士たちは、飢えで気を失っていると言われた。
 ある者は、物乞いに出かけた。
 モスクワの兵士と労働者たちも、不安だった。彼らは、相次いで集会に集まった。(10)//
 (7)2月11日、体制は、ほとんど100のペトログラードの工場を近く閉鎖する、と発表した。その中には、プティロフ(Putilov)作業場、セストロレツク(Sestroretsk)武器工場、巨大なレンガ造りのTreugolnik 地区のような、急進派運動の温床だったところもあった。総計で2万7000人の労働者が、仕事を失うことになる。
 10日後のトルボシニュイ(Trubochnui)・プラントでの集会から、抗議運動が始まった。この集会は、非ボルシェヴィキ左翼反対派の標語である、純粋な民衆支配(<narodovlastie>)を支持することを宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、その集会を中止させた。
 工場から閉め出されることにより、労働者たちは賃金だけではなく、食料配給も失った。
 2月24日、街頭はトルボシニュイその他の工場から来た労働者で埋め尽くされ、ヴァシリェフスキ(Vasilevskii)島の工業地区では2万5000人に膨れ上がった。(11)//
 (8)ペトログラード当局は、緊急防衛委員会を設立し、戒厳令を敷いた。(12)
 2月27日、バルト艦隊の人民委員は、2万6000のクロンシュタットの海兵たちの中にある騒乱について報告した。(13)
 その翌日、運動は戦闘的なプティロフ作業場へと拡がった。従前の規模からすると影のようなものだが、なおも6000人の強さがあつた。
 抗議者たちは、工場からの共産主義者〔共産党・ボルシェヴィキ〕軍団の撤退、過剰人員の廃止、政治的権利の回復、を要求した。(14)//
 (9)こうした政治的要求は、メンシェヴィキと社会革命党の煽動活動家の影響を反映していたかもしれない。彼らは工場に、ビラを撒いてきていた。
 社会革命党〔エスエル〕は、反乱(revolt)を呼びかけていた。一方、メンシェヴィキは、忠誠心ある反対派のままだった。
 彼らは政策の変更を求めたのであり、この騒擾の時期が1917年の再演だとは考えていなかった。
 今では労働者は疲れ、組織から離れ、数自体が減っていた。
 彼らは、政治的理想ではなく、肉体的な生存を気にかけた。
 工場が燃料や原資材の不足で閉鎖される場合に、作業が止まるのは何ら脅威ではなかった。
 当局はある程度の譲歩を行い(特別の配給、糧食探しの許可、食糧没収の中止)、メンシェヴィキ中央委員会の委員を逮捕した。(15)
 3月3日頃までに、抗議運動は消滅した。//
 (10)F・ダンは、自分自身が逮捕された状況を思い出した。
 2月26日、抗議運動が始まったばかりのとき、彼はマリインスキ劇場へ行った。そこで、有名なバス歌手のF・シャリアピン(Feodor Chaliapin)がニコライ・リムスキ=コルサコフのオペラ<プスコフの娘>で歌うのを聴くためだった。
 つぎの細部が、語られている。
 ダンはそのようなときでも、劇場に関心があった。入場券はもう売られていなかった。だが、諸関係を通じて入手することができた。上演は早めに終わった。
 家に帰っているとき、夜の10時に、チェカの機関員に迎えられた。
 「シャリアピンが歌うのを楽しく聴くことのできる最後となった運命に感謝」したのだったが、ダンは、暗くて誰もいない街路を通って連れ去られた。(16)//
 (11)かつては帝制秘密警察のオフラーナ(Okhrana)が所在した建物、ダン自身が社会民主党の運動の初期だった25年前に拘禁された建物の中で、彼は服の上から調べられ、衣服を脱がされ、尋問を受けた。
 彼の捕獲者たちは冷酷な職業官ではなかったが、教育をほとんど受けていない者たちで、自分たちの新しい権力に誇りをもち、臆面もなく党のスローガンを捲し立てた。
 彼らは、ストライキをする者は社会主義の根本に対する裏切り者だと非難した。
 本当の労働者ならば、自発的に進んで前線へ行くか、または食糧旅団に加わるべきだ、と。
 あいつらは「くずで、利己主義者で、小商人で、戦争中に徴兵を免れようと工場へと逃げ込んだのだ」。(17)
 メンシェヴィキもまた、裏切り者だ。
 ダンは、このような、「プロレタリアートをくずと呼び、社会主義を海兵たちに押しつけてあてにする共産主義者(共産党員)たち」に、絶望した。//
 (12)一年の拘禁のあと、ダンは国から追放され、最終的にはニューヨークに落ち着いた。(18)
 1905年以降ずっと自分は革命の友人だと考えてきたシャリアピンは、1922年に自分の力でロシアを離れ、最後にパリで死んだ。//
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 第1節、終わり。


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2220/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動②。
 (18)もちろんこれは、メンシェヴィキが待ち望んでいたことだった。ボルシェヴィキに幻滅した労働者たちが、民主主義を求めてストライキしようとしている。
 メンシェヴィキは元々は、労働者幹部会の運動を支持していなかった。その指導者たちは政治家たちに懐疑的で、諸政党からの自立を欲していたからだ。
 しかし、4月頃までにメンシェヴィキは十分に感心して、運動の背後から支援した。
 5月16日、メンシェヴィキ中央委員会は、労働者代表者たちの全国的な会議の開催を呼びかけた。(*)
 社会革命党が、これに続いた。//
 (19)かりに状況が反対だったならば、つまり社会主義者が権力を握っていてボルシェヴィキは反対派だったとすれば、疑いなくボルシェヴィキは労働者の不満を煽り、政府を転覆させるためにあらゆることを行ったことだろう。
 しかし、メンシェヴィキと社会主義派の者たちは、そのような行動を断固として行わない、という気風だった。
 彼らはボルシェヴィキ独裁を拒否したが、しかしなお、それに恩義を感じていた。
 メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、厳しく批判する一方で、ボルシェヴィズムの生き残りには重大な関心があることを読者に理解させようとした。
 このテーゼを、彼らはボルシェヴィキが権力を奪取した直後に表明していた。
 「とりわけ重要なのは、ボルシェヴィキのクーを暴力的に廃絶することは同時に、ロシア革命の全ての成果を廃絶することに不可避的に帰着するだろう、ということだ。」(152) 
 また、ボルシェヴィキが立憲会議を解散させたあと、ボルシェヴィキ機関紙は、こう嘆いた。
 「我々は、ボルシェヴィキ体制の賛美者ではなかったし、現在も賛美者ではない。そして、ボルシェヴィキの国内および外交政策の破綻を、つねに予見してきた。
 しかし、我々の革命の運命がボルシェヴィキ運動のそれと緊密に結びついていることを、我々は忘れなかったし、一瞬たりとも忘れはしない。
 ボルシェヴィキ運動は、広範な人民大衆の、歪んで退廃した一つの革命的戦いを表現している。…」。(153) //
 (20)このような姿勢はメンシェヴィキの行動する意欲を麻痺させたばかりではなく、ボルシェヴィキとの同盟へと、すなわち、民衆の憤慨を煽り立てるのではなく、消し止めるのを助ける方向へと、向かわせた。(**)
 (21)労働者幹部会の会合が6月3日に再開催されたとき、メンシェヴィキと社会革命党の知識人たちは政治的ストライキという考えに反対した。それは、お決まりの、階級敵の手中に嵌まってしまう、という理由でだった。
 彼らは労働者の代表者たちにその決定を再考して、ストライキではなく、類似の組織をモスクワで創立する可能性を探るために、そこに代表団を派遣するように説得した。//
 (22)6月7日、派遣委員の一人がモスクワの工場代表者たちの集まりで挨拶して発言した。
 彼は、反労働者、反革命的政策を追求しているとしてボルシェヴィキ政府を非難した。
 このような語りかけは、十月以降のロシアでは聞かれないものだった。
 チェカは、事態をきわめて深刻に受け止めた。モスクワは今や国の首都であり、モスクワでの騒擾は「赤いペトログラード」でのそれよりも危険だったからだ。
 治安維持機関員が、演説を終えたペトログラードの派遣委員の身柄を拘束した。但し、仲間の労働者たちの圧力によって、解放せざるを得なかった。
 モスクワの労働者たちは、同情的ではあるものの、自分たちの労働者幹部会を設立する用意がまだない、ということが判明した。(154)
 モスクワとその周辺の労働者たちは、ペトログラードよりも、戦術に長けておらず、労働組合の伝統が少なかった、ということで、これは説明することがてきるかもしれない。//
 (23)労働者がソヴェトから離脱していく過程は、ペトログラードで始まり、国の残りの都市へと拡がった。
 多くの都市で(モスクワはすぐにその一つとなった)、地方ソヴェトは選挙を実施するのが阻止されるか、または選挙の適格性が否定された。それに対して、労働者たちは、政府の統制が及ばない、かついかなる政党とも関係がない「労働者評議会」、「労働者会議」、「労働者幹部会議会」等を設立した。//
 (24)不満の高まりに直面して、ボルシェヴィキは反撃した。
 モスクワで6月13日、、ボルシェヴィキは、労働者幹部会運動に加担している56名を拘禁した。そのうち6ないし7名以外は、労働者だった。(155)
 6月16日、ボルシェヴィキは、2週間以内に第五回ソヴェト大会を招集すると発表し、これに関連して、全ソヴェトに対して、ソヴェトの選挙を再度実施するように指令した。
 この再選挙でもやはり確実にメンシェヴィキと社会革命党が多数派を形成し、政府はソヴェト大会では少数派に追い詰められる立場になるだろう。そこで、モスクワは、社会革命党とメンシェヴィキを全てのソヴェトから、そしてむろんその執行委員会(CEC)から排除することを命じることで、対抗派には被選出資格がないとすることを提案した。(156) CEC 内のボルシェヴィキ議員団総会で、L. S. ソスノフスキ(Sosnovskii)は、つぎの論拠で、その趣旨の布令を正当化した。すなわち、メンシェヴィキと社会革命党は、ボルシェヴィキが臨時政府を転覆させたのと全く同じように、ボルシェヴィキを転覆させるつもりだ。(***) 
 したがって、投票者に提示された唯一の選択肢は、正規のボルシェヴィキの候補者、左翼エスエル、そして「ボルシェヴィキ同調者」として知られる帰属政党のない幅広い範疇の候補者たちの間にだけあった。
 (25)このような歩みは、ロシアでの自立した政党の終焉を画すものだった。
 君主制主義政党-オクトブリスト、ロシア人民同盟、国権主義者-は1917年の推移の中で解散しており、もはや組織ある実体としては存在していなかった。
 非合法とされたカデット〔立憲民主党〕は、その活動を境界地域に移しており、そこにはチェカの網は届かなかったが、ロシアの民衆の気分からも離れていた。あるいはまた、地下活動に潜って、国民センター(the National Center)と呼ばれる反ボルシェヴィキ連合を形成していた。(157)
 6月16日の布令は、明示的にはメンシェヴィキと社会革命党を非合法化していなかったが、政治的には無力にするものだった。
 白軍に対する戦いへの彼らの支援のご褒美として、この両党はのちに元の地位を回復し、限られた数だけソヴェトにもう一度加わることが許された。しかし、これは一時的で、政略的なものだった。
 本質的には、ロシアはこの時点で一党国家になった。ボルシェヴィキ以外の全ての組織に対して政治的活動を行うことが禁止される、そのような国家だ。//
 (26)6月16日、すなわちボルシェヴィキがメンシェヴィキと社会革命党のいずれも出席することができない第五回ソヴェト大会を発表した日、労働者幹部会会議は、労働者の全ロシア会議の開催を呼びかけた。(158)
 この組織は、国家が直面している最も緊要な問題を討議し、解決しようとするものとされていた。緊要な諸問題とは、①食糧事情、②失業、③法の機能停止、および④労働者の組織。
 (27)6月20日、ペトログラード・チェカの長官、V・ヴォロダルスキ(Volodarskii)が殺害された。
 殺人者を捜査する中で、チェカは工場での抗議集会を始めていた何人かの労働者を拘引した。
 ボルシェヴィキはネヴァ(Neva)労働者地区を兵団で占拠し、戒厳令を敷いた。
 最も厄介な工場であるオブホフの労働者たちは、閉め出された。(159)
 (28)ペトログラードでソヴェトの選挙が行われたのは、このきわめて緊張した雰囲気の中でだった。
 選挙運動の間、ジノヴィエフは、プティロフやオブロフでブーイングを受け、演説することができなかった。
 どの工場でも、労働者たちはソヴェトに二政党が参加することが禁止している布令を無視して、メンシェヴィキと社会革命党に多数派を与えた。
 オブロフでは、社会革命党5名、無党派3名、ボルシェヴィキ1名だった。
 セミアニコフ(Semiannikov)〔ネヴァ工場群〕で、社会革命党は投票総数の64パーセントを獲得し、メンシェヴィキは10パーセント、そしてボルシェヴィキ・左翼エスエル連合は26パーセントだった。
 その他の重要地区でも、同様の結果だった。(160)//
 (29)ボルシェヴィキは、こうした結果に縛られるのを拒否した。
 彼らは、多数派を獲得するのを欲し、獲得した。それは、通常は選挙権(franchise)を不正に操作することで行われた。ある範囲のボルシェヴィキたちには、1票について5票が与えられた。(****)
 7月2日、「選挙」結果が、発表された。
 新しく選出されたペトログラード・ソヴェトの代議員総数650のうち、ボルシェヴィキと左翼エスエルに610が与えられ、40だけが社会革命党とメンシェヴィキにあてがわれた。この両党を、ボルシェヴィキの公式機関紙は「ユダ(Judases)」だと非難していた。(+)
 このペトログラード・ソヴェトは、労働者幹部会会議の解散を票決した。
 その集まりで演説しようとした会議の代表者は、話すのを阻止され、肉体的な攻撃を受けた。
 (30)労働者幹部会会議は、ほとんど毎日、会合をもった。
 6月26日、会議は、7月2日に一日だけの政治ストライキを呼びかけることを満場一致で決定した。そのスローガンは、「死刑の廃止!」、「処刑と内戦をするな!」、「ストライキの自由、万歳!」だった。(161)
 社会革命党とメンシェヴィキの知識人たちは、再び、ストライキに反対した。
 (31)ボルシェヴィキ当局は市内全体にポスターを貼り、ストライキ組織者を白軍の雇い人だとし、全参加者を革命審判所に送り込むと威嚇した。(163)
 その上にさらに、市〔ペトログラード〕の重要地点に、機関銃部隊を配置した。
 (32)同情的な報告者は、労働者は動揺していると記述した。
 すなわち、カデットの<Nash>は6月22日に、彼らは反ボルシェヴィキだが識別できない、と書いた。
 国内および世界情勢の困難さ、食糧不足、明確な解決策の不在によって、彼らには、「極端に不安定な心理、ある種の抑うつ状態、そして全くの当惑」が発生した。
 (33)7月2日の事件は、こうした見通しを確認するものだった。
 帝制が崩壊して以降ロシアで最初の政治ストライキは、巻き起こり、そして消失した。
 労働者たちは、社会主義知識人たちに失望し、ボルシェヴィキによる実力行使の顕示に威嚇され、自分たちの強さと目的に自信がなく、そして心が折れた。
 ストライキ組織者は、1万8000人と2万人の間ほどの労働者がストライキの呼びかけに従うだろうと予想していた。この数は、ペトログラードに実際にいる労働者数の7分の1にすぎなかった。
 オブホフ、マクスウェル(Maxwell)、およびパール(Pahl)は、ストライキをした。
 他の工場群は、プティロフを含めて、しなかった。//
 (34)この結果が、ロシアの自立した労働者組織の運命を封じた。
 すみやかに、チェカは地方の支部とともにペトログラードの労働者幹部会会議を閉鎖させ、目立った指導者のほとんどを、牢獄に送った。//
 (35)こうして、ソヴェトの自主性、労働者が代表者をもつ権利、そしてなおも多元政党制らしきものとして残っていたものは、終わりを告げた。
 1918年の6月と7月に執られた措置でもって、ロシアでの一党独裁制の形成が完了した。
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 (*) 労働者議会(Congress)という発想は、1906年にAkselrod が最初に提起した。そのときは、メンシェヴィキとボルシェヴィキのいずれも、これを却下した。
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (151) Aronson, "Na perelome, ", p.7-p.8.
 (152) NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.1.
 (153) NZh, No. 20/234(1918年1月27日), p.1.
 (**) 公平さのために、つぎのことを記しておかなければならない。古きメンシェヴィキの小グループ、ロシア社会民主党の創設者たち-プレハノフ(Plekhanov)、アクセルロード(Akselrod)、ポトレソフ(Potresov)、およびV・ザスーリチ(Vera Sasulich)-を含むそれは、異なる考えだった。
 そして、アクセルロードは、1918年8月に、ボルシェヴィキ体制は「陰惨な(gruesome)」反革命へと堕落した、と書いた。
 そのような彼ですら、ジュネーヴのかつての彼の同志とともに、レーニンに対する積極的な抵抗にも反対した。その理由は、権力を取り戻そうとする反動分子たちを助けることになる、というものだった。
 A. Asher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism(Cambridge, Mass., 1972), p.344-6.
 プレハノフの姿勢につき、Samuel H. Baron, Plekhanov(Stanford, Calif., 1963), p.352-p.361.
 ポトレソフは、そのときおよびのちに、メンシェヴィキの仲間たちを批判した(V plenu u illiuzii(Paris, 1937))。しかし、彼もまたやはり、積極的な反対活動に参加しようとはしなかった。
 (154) NZh, No. 111/326(1918年6月8日), p.3.
 (155) Aronson, "Na perelome, ", p.21.
 (156) Dekrety, II, p.30-p.31.; Lenin, PSS, XXXVII, p.599.
 (***) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 NV, No. 96/120(1918年6月19日), p.3.によれば、CEC のボルシェヴィキ会派は、ソヴェトからメンシェヴィキと左翼エスエルを排除するのを拒否した。しかし、CEC からこれらを追放(除斥)することに同意した。
 (157) W. G. Rosenberg, Liberals in the Russian Revolution(Princeton, N.J., 1974), p.263-p.300.
 (158) NZh, No. 115/330(1918年6月16日), p.3.
 (159) W. G. Rosenberg in SR, XLIV, No. 3(1985年7月), p.235.
 (160) NZh, No. 122/337(1918年6月26日), p.3.
 (****) Stroev in NZh, No. 119/334(1918年6月21日), p.1.
 ある新聞(Novyi luch。NZh, No. 121/336(1918年6月23日), p.1-p.2.が引用)によると、ペトログラード・ソヴェトへと「選挙され」た130名の代議員のうち、77名はボルシェヴィキ党から、26名は赤軍部隊から、8名は供給派遣部隊から、43名はボルシェヴィキ職員の中から、選び抜かれていた。
 (+) NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.
 少し異なる数字が、つぎの中にある。Lenin, Sochineniia, XXIII, p.547.
 これによると、代議員総数は582で、そのうちボルシェヴィキが405、左翼エスエルが75、メンシェヴィキと社会革命党が59、無党派が43だ。
 (161) 例えば、Stroev in NZh, No. 127/342(1918年7月2日), p.1.を見よ。
 (162) NV, No. 106/130(1918年7月2日), p.3.
 (163) NV, No. 107/131(1918年7月3日), p.3. およびNo. 108/132(1918年7月4日). p.4.; NZh, No. 128/343(1918年7月3日), p.1.
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 第10節、終わり。第12章も終わり。つづく章の表題は、つぎのとおり。
 第13章・ブレスト=リトフスク、第14章・国際化する革命〔革命の輸出〕、第15章・「戦時共産主義」、第16章・農村に対する戦争、第17章・皇帝家族の殺害、第18章・赤色テロル、そして「結語」。

2218/R・パイプス・ロシア革命第12章第10節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第10節・労働者幹部会の運動①。
 (1)そして、ボルシェヴィキはなお一層、残忍さに訴えなければならなかった。権力掌握後わずか数カ月だけ経つと、彼らへの支持が浸食されはじめたからだ。
 ボルシェヴィキが民衆の支持に依拠していたのだとすると、臨時政府と同じ途をたどっただろう。
 秋には連隊兵士たちとともに最も強い支持基盤だった工業労働者たちは、たちまちに幻想から醒めるようになった。
 このような雰囲気の変化にはいくつかの理由があったが、主要なものは、食料事情の悪化だった。
 穀物やパンの私的取引を全て禁止した政府は、呆れるほどに安い価額を農民に支払ったので、農民たちは収穫物を貯蔵するか、闇市(black market)で売った。
 政府は都市住民たちに、ぎりぎりの最小限度だけの食糧しか供給できなかった。
 1917-18年の冬、ペトログラードでのパンの配給量は、一日につき4から6オンスの間を行き来した。
 闇市場で1ポンドのパンを買うには3ないし5ルーブルを要したが、それはふつうの民衆の手の届く額ではなかった。
 大量の失業者も生まれたが、それは主としては燃料不足のためだった。
 1918年5月には、ペトログラードの労働人口の12-13パーセントだけが、職に就いていた。(138)
 (2)飢えと寒さから逃れるために、数千人の市民が、縁戚者がいて食料および燃料事情がまだましな地方へと、疎開した。
 ペトログラードの労働人口は、この集団移住が原因で、1918年4月頃には二月革命の直前の57パーセントに低下した。(139)
 地方移住にしないで残った、腹が空いて、寒い、しばしば失業中の人々には、不満が沸き立った。
 このような事態を生んだボルシェヴィキの経済政策に、彼らは怒った。しかしまた、立憲会議の解散、中央諸国との屈辱的な講和条約(1918年3月に署名)、ボルシェヴィキの人民委員たちの生意気な態度、および政府の最上層部以外の全ての官僚たちの醜悪な汚職にも腹を立てた。
 (3)このような展開はボルシェヴィキにとっては危険な兆しで、さらに悪化するならば、これまでは信頼していた軍部も春が近づくにつれてほとんど離れて行きそうだった。
 故郷に帰らなかった兵士たちは、民衆にテロルを加え、ときにはソヴェトの役人たちを襲撃する略奪団を結成した。//
 (4)幻滅気分や堅くボルシェヴィキの手中にある現存諸機構からは救済を得られないという感情の増大によって、ボルシェヴィキとそれが支配している諸機構(ソヴェト、労働組合、工場委員会)から自立した、新しい組織をペトログラードの労働者たちが設立しようとする動きが促進された。
 1918年1月5日/18日-立憲会議が開会した日-、ペトログラードの諸工場の代表者たち、または「幹部会」委員たち(plenipotentiaries)は、目下の情勢を議論するために会合をもった。
 ある者は、労働者の態度の「分裂」を語った。(140)
 「幹部会」委員たちは、定期的に会合を開催し始めた。
 不完全な証拠資料だが、それによると、会合は3月に1回、4月に4回、5月に3回、6月に3回、開かれている。
 記録が存在する(141)、56の工場を代表する委員たちの3月の会合には、強い反ボルシェヴィキの言葉が見られる。
 その会合は、労働者と農民のために統治をすると主張している政府は独裁的権力を行使し、ソヴェトの新しい選挙の実施を拒んでいる、と抗議していた。
 また、ブレスト=リトフスク条約の拒否、ソヴナルコムの解散、および立憲会議の即時召集を呼びかけていた。//
 (5)3月31日、ボルシェヴィキは、チェカに労働者幹部会会議の本部を捜査させ、そこにあった諸文献を押収させた。
 別の状況であれば、おそらく労働者の動揺を刺激するのを怖れて、そのような介入はまだしなかっただろう。//
 (6)都市労働者は自分たちに反対していることを知って、ボルシェヴィキは、ソヴェト選挙の実施を遅らせた。
 いくつかの独立派ソヴェトが無視して選挙を行い、非ボルシェヴィキが多数派を形成したとき、ボルシェヴィキは実力でもってそれを解体させた。
 ソヴェトを用いることができないことは、労働者の欲求不満を醸成した。
 5月初め、多くの者が、自分たちで問題に対処しなければならない、と結論づたけた。
 (7)5月8日、二つの火急の問題を議論すめるために、プティロフ(Putilov)とオブホフ(Obukhov)工場群で、労働者の集会が開かれた。二つとは、食糧と政治だ。
 プティコフでは、1万人以上の労働者たちが、政府を非難した。
 ボルシェヴィキの発言者は反発を受け、諸決議に敗北した。
 その集会は、「社会主義かつ民主主義の勢力の即時の再合同」、パンの自由取引の制限の撤廃、立憲会議の再選出、および秘密投票によるペトログラード・ソヴェトの再選挙を要求した。(142)
 オブホフの労働者たちは、事実上の満場一致で、同様の決議を採択した。(143)//
 (8)翌日、ペトログラード南方の工業都市であるコルピノ(Kolpino)で、労働者の不満に油を注ぐ事件が発生した。
 コルピノへの政府機関による供給の状況は、とくに悪かった。この都市の1万の労働人口のうち300人だけが雇用され、闇市場で食料を買う金をほとんど持っていなかった。
 さらに、食糧配達の遅延によって、女性たちの市域全体の抗議運動が発生した。
 ボルシェヴィキの人民委員はうろたえて、兵団に対して示威行進者に対して発砲するように命じた。
 それによって生じた恐慌状態の中で、のちに判明したのは1人が致命傷で6人が負傷したのだったけれども、多数の者が死んだ、という印象が広がった。(144)
 この時期の標準からすると、とくに異常なことではなかった。
 しかし、ペトログラードの労働者たちが鬱積した怒りの捌け口を見出すのに、大した理由は必要ではなかった。//
 (9)コルピノで起こったことについて使者から知らされたペトログラードの大工場は、稼働を停止した。
 オブホフの労働者たちは、政府を非難し、「人民委員による支配」(komissaroderzhavie)の廃止を要求する決議を採択した。
 ペトログラード(3月に政府はモスクワに移っていた)の長〔ソヴェト議長〕のジノヴィエフが、プティロフに現れた。
 労働者に対して、彼は語った。
 「誤った政策を追求しているとして政府を非難する決議がここで採択された、と聞いた。
 しかし、いつ何時でも、ソヴェト政府を変更することはできない!」
 この言葉を聞いた聴衆に、大きな騒ぎ声が起こった。
 「ウソだ!」
 Izmailov という名のプティロフの労働者が、文明世界全体の目からすればロシアの労働者を馬鹿にしながら、ボルシェヴィキは労働者のために語るふりだけをしていると、非難した。(145)
 軍需工場での集会は、1500対保留2で、立憲会議の再招集を求める動議を可決した。(146)//
 (10)ボルシェヴィキは、背後にいて、なおも慎重さを維持した。
 しかし、このような煽情的な決議が伝搬されるのを阻止すべく、無期限にまたは一時的に、多数の新聞を廃刊させた。そのうちの4つは、モスクワの新聞だった。
 この諸事態を広く報道していたカデットの<Nash vek>は、5月10日から6月16日まで、停刊となった。//
 (11)ボルシェヴィキは7月初めに第五回ソヴェト大会を開催しようと計画していたので(第四回大会はドイツとの講和条約を批准するために3月に開かれていた)、ソヴェト選挙を実施しなければならなかった。
 この選挙は、5月と6月に行われた。
 その結果は、彼らの最悪の予想以上のものだった。
 労働者階級の意思に対する敬意をボルシェヴィキが持っていたならば、彼らは権力を放棄していただろう。
 どの町でも続いて、ボルシェヴィキは、メンシェヴィキと社会革命党に敗れた。
 「選挙があって数字資料のある、欧州ロシアの全ての州都で、メンシェヴィキと社会革命党は、1918年春の都市ソヴェトで多数派を獲得した」。(147)
 モスクワ・ソヴェトの投票では、ボルシェヴィキは、選挙権に関する明白な操作やその他の不正選挙によって、見せかけの過半数を達成した。
 観察者たちは、迫っているペトログラード・ソヴェト選挙でもボルシェヴィキは少数派になり(148)、ジノヴィエフは議長職を失うだろうと、予想した。
 ボルシェヴィキも、悲観的な見通しを持っていたに違いなかった。彼らは、ペトログラード・ソヴェト選挙を可能なかぎり遅くに、6月末に延期したからだ。//
 (12)この驚くばかりの展開は、ボルシェヴィキを拒絶するメンシェヴィキと社会革命党への称賛を大して意味してはいなかった。
 支配党から権力を奪おうとした選挙民たちには、社会主義諸党に投票する以外に選択肢はなかった。社会主義諸党だけが、反対派候補者の擁立が許されていたのだ。
 諸政党全ての中から完全に選択することができていればどういう投票行動になったかは、もちろん確定的に言うことはできない。//
 (13)レーニンが最近に「民主主義の本質的条件」だと叙述していた「リコール」の原理を実行に移す機会が、ボルシェヴィキにやって来ていた。その場合には、ボルシェヴィキ代議員をソヴェトから引き上げて、メンシェヴィキと社会革命党で埋め合わさせることになる。
 しかし、彼らは、結果を操作するのを選択した。つまり、指名委員会を利用して、選挙は違法だと宣言させた。
 (14)労働者の関心を逸らせるために、当局は階級敵を持ち出した。今度は、「田舎のブルジョアジー」に反対するように誘導した。
 5月20日、ソヴナルコムは、「食糧供給派遣隊」(prodovol'stvennye otriady)の設立を命じる布令を発した。その派遣隊は武装労働者で構成され、村落を行進して「クラク〔富農〕」から食料を徴発することとされていた。
 この手段によって(もっと詳細は第16章で述べるだろう)、当局は、食糧不足に対する労働者の怒りを自分たちから農民に転化させるのを望んだ。そして同時に、まだ社会革命党の強い支配のもとにあった田園地帯に地盤を築くことも。//
 (15)ペトログラードの労働者たちは、関心を逸らされることがなかった。
 5月24日、彼らの労働者幹部会は、労働者と農民の間に「深い亀裂」を生じさせる原因になるという理由で、食糧供給派遣隊という考えを拒否した。
 ある発言者たちは、その派遣隊に加わるような労働者はプロレタリアートの隊列から「追放(expell)される」と主張した。(149)//
 (16)5月28日、ペトログラードの労働者たちの昂奮は、さらに最高度にまで大きくなった。プティロフの労働者たちが、国家による収穫物の独占の廃棄、自由な言論の保障、自立した労働組合を結成する権利、そしてソヴェトの再選挙、を要求したときのことだ。
 同様の決議を採択する抗議集会がモスクワや多数の地方都市でつづいた。その中には、トゥラ、ニージニ(Nizhnii)、ノヴゴロード、オレルおよびトヴェリ(Tver)も含まれていた。//
 (17)ジノヴィエフは、経済的な譲歩をすることでこの嵐を沈静化させようとした。
 彼はおそらくはモスクワに対して、ペトログラードへの食糧輸送の追加を要請した。5月30日に、労働者へのパンの配給は8オンスへと引き上げられると発表することができたからだ。
 このような素振りでも、目的を達成することができなかった。
 6月1日、労働者幹部会の会合は、市域全体の政治的ストライキを呼びかける決議を下した。//
 「ペトログラードの工場や工場群の代表者たちから労働大衆の気持ちと要求に関する報告を聞いて、幹部会会議は、労働者の政府だと僭称する政府からの労働者の大量離反が急速に進行していることに、喜びをもって留意する。
 幹部会会議は、政治的ストライキの訴えに従おうとする労働者の意欲を歓迎する。
 幹部会会議は、現在の体制に反対する政治的ストライキを、ペトログラードの労働者が力強く準備することを、呼びかける。現体制は、労働者階級の名のもとで労働者を処刑し、牢獄に投げ込み、言論、プレス、労働組合、およびストライキの自由を圧殺している。また、民衆の代表者機関を絞め殺してきた。
 このストライキは、権力の立憲会議への移行、地方自治諸機関の復活、ロシア共和国の統合と独立のための闘いを、スローガンとするだろう。」(150)
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 (138) Dewar, Labour Policy, p.37.
 (139) A. S. Izgoev in NV, No. 94/118(1918年6月16日), p.1.
 (140) G. Aronson, "Na perelome, " Manuscript, Hoover Instituion, Nikolaevskii Archive, DK 265.89/L2A76 が、これらの事件に関する最良の史料だ。
 (141) Kontinent, No. 2(1975年), p.385-p.419.
 (142) NV, NO. 91/115(1918年5月9日), p.3.
 (143) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (144) NS, NO. 23(1918年5月15日), p.3.
 (145) NV, NO. 92/116(1918年5月10日), p.3.
 (146) 同上。
 (147) Vladimir Brovkin, in PR 1983年, p.47.
 Aronson, "Na perelome, " p.23-p.24. はこの見通しを確認している。
 (148) B. Avilov in NZh, No. 96/311(1918年5月22日), p.1.
 (149) 同上, No. 96/311(1918年5月22日), p.4.
 (150) Otro, 1918年6月3日。"Na perelome, ", p.15-p.16.が引用する。
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 第10節②へとつづく。

2207/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
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 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙②。
 (11)選挙結果を厳密に正しく確定することはできない。多くの地方で、諸政党やその分派が、ときには複雑な仕方で、連立を組んでいたからだ。ペトログラードだけでも、19政党が競い合った。
 さらに問題を大きくしているのは、選挙を所管する共産党当局〔政府・ボルシェヴィキ〕が生のデータを持っていて、諸政党や別々の候補者名簿上のグループを「ブルジョア」や「プチ・ブル」という範疇で一括りにしたことだ。
 可能なかぎりで最も正確には、選挙の最終結果(1000票単位)は、つぎのように決定することができる(この頁の表を参照)。(83)
 (12)全く予期しなかったというわけではないが、結果は、レーニンを失望させた。
 社会革命党〔エスエル〕の土地政策を採用して味方につけることを期待した農民たちは、ボルシェヴィキに投票しなかった。のみならず、左翼エスエルにも投票しなかった。
 選挙の有効性を疑問視するためにボルシェヴィキが使った論拠の一つは、社会革命党の分裂が遅すぎたので左翼エスエルに分離した別の投票が行われなかった、ということだった。
 しかし、この論拠には実体が存在しないことは、つぎの数字が明らかに示している。
 いくつかの選挙区(ヴォロネス〔Voronetz〕、ヴィヤトカ〔Viatka〕、およびトボルスク〔Tobolsk〕)では、左翼エスエルと社会革命党主流派は、別々の候補者名簿を立てて争った。
 いずれの選挙区でも、左翼エスエルは顕著な支持を獲得できなかった。総計のうち183万9000票は社会革命党に、そして左翼エスエルにはわずか2万6000票が投じられた。(84)//
 ***〔各1000票単位〕
 ロシア・社会主義諸政党        68.9%
  社会革命党〔エスエル〕   17,943 (40.4%)
  ボルシェヴィキ       10,661 (24.0%)
  メンシェヴィキ        1,144 ( 2.6%)
  左翼エスエル          451 ( 1.0%)
  その他             401 ( 0.9%)
 ロシア・リベラルほか=非社会主義政党  7.5%
  カデツト〔立憲民主党〕    2,088 ( 4.7%)
  その他            1,261 ( 2.8%)
 少数民族諸政党            13.4%
  ウクライナ社会革命党     3,433 ( 7.7%)
  ジョージア・メンシェヴィキ   662 ( 1.5%)
  Mussvat(アゼルバイジャン) 616 ( 1.4%)
  Dashnaktsutium(アルメニア)560 ( 1.3%)
  Alash Orda(カザフスタン)  262 ( 0.6%)
  その他             407 ( 0.9%)
 不明              4,543 10.2%
 ***
 ボルシェヴィキは、立憲会議の総議席715のうち175を、獲得した。
 これは、左翼だと自認する社会革命党代議員と合わせると、30%だ。(*)
 (13)ボルシェヴィキには、最も恐れた反対派政党であるカデット〔立憲民主党〕の強さも不愉快だった。
 カデットは全国票の5パーセント未満しか獲得しなかったけれども、ボルシェヴィキは彼らを最も恐るべき対敵だと見なしていた。
 カデットには、最多数の積極的支援者と新聞紙があった。
 彼らは社会革命党よりもはるかによく組織され、財力をもっていた。
 そして、ボルシェヴィキに対する社会主義対抗派とは違って、仲間意識、共通する社会的理想への奉仕感、および「反革命」とされることの怖れといったものに制約されていなかった。
 カデットは、1917年遅くまで活動し続ける唯一の大きな非社会主義政党として、君主制主義者を含む右翼・中道の有権者を惹き付けそうだった。
 選挙結果を総合的に見るならば、カデットは堤防が決壊したほどの大完敗を喫したわけではない、と実際に結論づけることができるかもしれない。(85)
 だがこれは、表面的な結論だろう。
 全国的な数字は、つぎの重要な政治的事実を覆い隠した。カデツトは、都市部できわめて健闘したのだ。その都市部は、ボルシェヴィキが農村地域での弱さを補うために必要で、かつ来たる内戦では決定的な戦闘地となると彼らが想定していた地域だった。
 ペトログラードとモスクワでは、カデットはボルシェヴィキに次ぐ強さで、前者では26.2パーセント、後者では34.2パーセントの票を獲得した。
 ボルシェヴィキのモスクワでの総数から消滅過程にあった軍隊の票を差し引けば、ボルシェヴィキの45.3パーセントに対して、カデットは総投票数の36.4パーセントを獲得していた。(86)
 さらには、38の州都のうち11都市でカデットはボルシェヴィキを上回り、その他の多くの都市でかなり接近した第二位だった。
 こうしてカデットは、全国的な獲得票数から結論づけるよりもはるかに手強い勢力を代表していた。//
 結果はこのように失望をもたらしたにもかかわらず、ボルシェヴィキには、ある程度の慰めも生じさせた。
 レーニンは、闘争の状態を調査している指揮者とは別に、数字を分析した。-彼は、多数の選挙区を「諸軍隊」と言いすらした。(87)
 そして、国の中心部では自らの党は最善を尽くしたという事実に、安心することができた。国の中心部とはすなわち、大都市、工業地域、および軍隊だ。(88)
 勝利した社会革命党の強さは、黒土(black-earth)地帯およびシベリアによっていた。
 レーニンがのちに観察することになるように、投票数のこの地理的な配分は、赤軍と白軍との間の内戦での前線地域を予兆するものだった。(89)その内戦では、ボルシェヴィキは中心部を制覇し、敵対者たちは辺縁部を支配することになるのだったから。//
 (14)ボルシェヴィキが満足したもう一つの根拠は、兵士と海兵、とくに都市部に駐在している軍団の支持だった。
 この諸兵団には、一つの望みしかなかった。可能なかぎり早く故郷に帰って、土地再配分の分け前を受け取ること。
 全政党の中でボルシェヴィキだけが、即時停戦交渉を開始すると約束していた。それは兵士ちに強く支持されるものだった。
 ペトログラードとモスクワの連隊は、それぞれボルシェヴィキ獲得票のうち71.3パーセントと74.3パーセントを投じていた。
 ペトログラード近くの北西にいる前線兵団もまた、ボルシェヴィキに最多票を与えた。
 反戦争のプロパガンダがさほどは響かなかった遠く離れた前線地域では、そのようにうまくはいかなかった。しかし、それでもなお、記録を利用することのできる4つの野戦軍では、ボルシェヴィキが投票数の56パーセントを獲得していた。(90)
 レーニンは、軍隊のこの支持がいかほどに固いものかについて、幻想を抱いてはいなかった。兵団が故郷に向って出発するときには、その支持は霧散してしまうだろう。
 しかし、当面の間は、軍隊の支援は決定的に重要だった。ボルシェヴィキ兵団は、かりに少数しかいなくとも、民主主義反対派を威嚇する実力を有していた。
 選挙結果を分析したレーニンは、満足げにこう記した。
 ボルシェヴィキが軍隊の中に持つのは、「決定的な瞬間に、決定的な場所で、実力の圧倒的な優勢を確保することのできる、政治的に際立つ力」だ。(91)
 (15)ソヴナルコムは11月20日に、立憲会議に関して議論した。
 いくつかの重要な決定が下された。(92)
 立憲会議の開会は、期間の限定なしで、延長された。
 その表向きの理由は、11月28日までに定足数以上が集合するのは困難だ、ということだった。(93)
 本当の理由は、ボルシェヴィキに時間稼ぎをさせることだった。
 地方ソヴェトに対して、選挙の「不正」を全て報告するようにとの指令が発せられた。
 その資料は、「再選挙」の理由として役立つはずだった。(94)
 海軍人民委員のP. E. ドィベンコ(Dybenko)は、ペトログラードに1万人と2万人の間の武装海兵を集合させよとの命令を受け取った。(95)
 そしておそらくはもっと重要なことだが、1月8日に第三回ソヴェト大会を招集することが決定された。ボルシェヴィキの支持者とエスエルが埋め尽くすその大会は、立憲会議に代わるものとされた。
 このような手段をとろうとすることは、ボルシェヴィキがあれこれの方法を使って立憲会議を骨抜き(abort)にしようと意図していることを、示していた。//
 (16)立憲会議の開会を漠然と延長するとの政府の声明は、社会主義諸党や農民大会代議員からの強い抗議を引き起こした。
 11月22日-23日、立憲会議防衛同盟が設立された。これは、ペトログラード・ソヴェト、労働組合、およびボルシェヴィキと左翼エスエル以外の全ての社会主義諸党で構成されていた。(96)
 (17)ボルシェヴィキは、立憲会議の選挙委員会(<Vsevybor>)を苦しめることで、立憲会議に対する攻撃を開始した。
 ソヴナルコムの命令にもとづいて、スターリンとG・ペトロフスキ(Grigorii Petrovskii)は11月23日、選挙委員会に対して、関係資料を調べ直すことを命じた。
 それが拒否されると、チェカは、委員会の委員等を勾留した。
 のちにペトログラード・チェカの長になるM. S. ウリツキが選挙委員会の委員長に任命され、誰が委員会に出席するかについて広い裁量権が与えられた。(97)
 (18)これに反応して、立憲会議防衛同盟は、ボルシェヴィキの命令を無視して、予定通りに立憲会議を開会すると決定した。(98)
 11月28日、牢獄から釈放されたばかりの選挙委員会の委員たちは、タウリダ宮で協議を開始した。
 ウリツキが姿を見せて、自分が同席してのみ会合することができる、と伝えた。しかし、ウリツキの言葉は無視された。
 立憲会議の擁護者たちは、示威的にタウリダ宮正面に集まった。学生、労働者、兵士、およびストライキ中の公務員たちで、「全ての権力を立憲会議へ」と書かれた旗をもっていた。
 ある新聞によると、その群衆の数は20万人とされている。しかし、この数字は誇張すぎだと思われる。共産党(ボルシェヴィキ)の報道官は、1万人だとした。(99)
 ウリツキの命令によって、ペトログラードで最も頼もしいボルシェヴィキ兵団であるラトヴィア人銃撃隊がタウリダ宮を包囲したが、介入まではしなかった。
 ある隊員たちは、自分たちは立憲会議を守るためにやって来た、と語った。
 タウリダ宮の内部では、ほとんどがペトログラードまたはその近郊出身の45人の代議員たちが、幹部会(Presidium)を選出した。//
 (18)その翌日、武装兵団がタウリダ宮の周囲を、厚く取り囲んだ。ラトヴィア人銃撃隊は退き、リトアニア人予備連隊、海兵派遣隊、機銃部隊によって増強されていた。
 彼らは群衆からは安全な距離を保ち、代議員と信頼の措ける報道者たちだけが建物に入るのを許した。
 夕方にかけて、海兵たちは代議員たちに、立ち去るよう命じた。
 その翌日、海兵たち包囲兵団は、誰が立ち入るのも拒んだ。
 この事件は、1月5日(旧暦)/18日(新暦)に現実に行われることとなる実力行使の強さを試す、リハーサルとなった。//
 (19)カデットの攻撃的姿勢を押さえつけようと、ボルシェヴィキはその党(カデット・立憲民主党, Constitutional-Democratic Party)を非合法化した。
 すでにペトログラードでの立憲会議選挙の最初の日に、ボルシェヴィキは武装した暴漢を派遣して、カデット機関紙<Rech'>の編集部を粉々に破壊していた。
 同じことが2週間後に、<Nah vek>について繰り返された。
 11月28日、レーニンは、典型的にプロパガンダ的な「革命に反対する内戦指導者たちの逮捕に関する布令」という名称をもつ命令を書いた。(100)
 カデット指導者たちは「人民の敵」と宣告され、拘禁が命じられた。
 その夜と翌日、ボルシェヴィキの派遣部隊は、捕らえることのできる著名なカデット党員全員の身柄を拘束した。その中には、何人かの立憲会議代議員もいた(A・I・シンガレフ(Shingarev)、P・D・ドルゴルコフ(Dorgorukov)、F・F・ココシキン(Kokoshkin)、S・V・パニナ(Panina)、A・I・ロジチェフ(Rodichev)等)。
 これらの者たちは、のちに釈放された(パニナは滑稽な裁判のあとで)。但し、シンガレフとココシキンの二人は、ボルシェヴィキ海兵たちによって収監所病院で殺戮された。
 カデットは、「人民の敵」だとされて、立憲会議の選挙運動に参加できなかった。
 彼らは、ボルシェヴィキ政府が初めて非合法化した政党だった。
 このことに対して、メンシェヴィキも社会革命党も、何ら憤慨しなかったように見える。//
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 (83) 以下にもとづく。L. M. Klassy i partii v grazhdanskoi voine v Rossi (1917-20 gg.)(Moscow, 1968)p.416-p.425、L. M. Spirin, Krushenie pomeshchich'ikh i burzhuaznyk partii v Rossi(Moscow, 1977), p.300-p.341。
 (84) DN, No. 2/247(1918年1月8日), p.1.
 (*) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), p.338.
 左翼エスエルへの支持の多くは、ペトログラードの労働者およびバルトや黒海海軍の急進的な海兵から来ていた。
 (85) Oliver Radkey, The Election to the Russian Constituent Assembly of 1917(Cambridge, Mass., 1950), p.15.
 (86) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), 表1と表2。
 (87) Lenin, PSS, XL, p.7.
 (88) Radkey, Election, p.38.
 (89) Lenin, PSS, XL, p.16-p.18.
 (90) Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.275, p.358.
 (91) Lenin, PSS, XL, p.10.
 (92) Fraiman, Forpost, p.163.
 (93) Dekrety, I, p.159.
 (94) Revoliutiia, VI, p.187.
 (95) Fraiman, Forpost, p.163.
 (96) Revoliutiia, VI, p.192.
 (97) 同上, p.199.
 (98) NV, No. 1(1917年11月30日), p.1-p.2, & No.2(1917年12月1日), p.2.; Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.; Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.309-p.310.
 (99) NV, No. 1(1917年11月30日), p.2,; Revoliutiia, VI, p.225.
 (100) Dekrety, I, p.162.
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 終わり。次節へとつづく。

2191/R・パイプス・ロシア革命第二部第12章第2節③。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる③。 
 (29)ボルシェヴィキが翌日につぎのことを知ったとき、この合意によって得たかもしれない安息の気分は、消え失せた。社会主義諸党の支持を受けた鉄道被用者同盟が、ボルシェヴィキはこぞって政府から退くようにという、強い主張を掲げたのだ。  
 まだレーニンとトロツキーを欠いていたボルシェヴィキ中央委員会は、その日のほとんどをこの要求について討議して過ごした。
 きわめて昂奮した雰囲気だった。アタマン・クラスノフが率いる親ケレンスキー軍が、いつ市内に突入しても不思議ではなかったのだから。
 何がしかの救いを求めて、カーメネフは、妥協を提案した。すなわち、レーニンはエスエル指導者のV・チェルノフ(Victor Chernov)にソヴナルコム議長職を譲って退任し、ボルシェヴィキは、エスエルとメンシェヴィキが支配する連立政権での次席的立場を受け容れる。(26)
 (30)その夜にかりに、クラスノフの軍が敗退したという知らせが入って来なかったとすれば、この譲歩はどうなっていたのか、を語るのは困難だ。
 (31)軍事的脅威を取り除いたレーニンとトロツキーは、今ようやく、党中央委員会の「降伏主義」方針が生んだ災難的政治状況に注意を向けた。
 11月1日夕方に中央委員会が再招集されたとき、レーニンは、統制できないほどの激しい怒りで激高していた。(27)
 レーニンは、こう要求した。「カーメネフの方針は、ただちに止められなければならない」。
 中央委員会は、同盟との交渉は「軍事行動をするための外交的粉飾」だとして、それを実施すべきだっただろう。-つまり、想うに誠実さによってではなく、ただケレンスキー兵団に対抗する助力を確保するためだけにでも。
 レーニンの要求に対して、中央委員会の多数派は動かされなかった。
 ルィコフは、勇気を出して、ボルシェヴィキは権力を維持することができない、という見解を語った。
 票決に付された。10名は連立政府に関する他社会主義諸党との会話を継続することを支持した。わずか3名だけが、レーニンの側についた(トロツキー、ソコルニコフ、そしておそらくジェルジンスキー)。
 スヴェルドロフですら、レーニンに反対した。
 (32)レーニンは、屈辱的な敗北に直面した。すなわち、彼の同志たちは十月の勝利の果実を投げ棄てるつもりであり、「プロレタリア独裁」を樹立するのではなく、小さな協力者として「プチ・ブルジョア」諸政党と権力を分有するだろう。
 そのときレーニンを救ったのは、トロツキーだった。トロツキーは、賢い妥協策でもって介入した。
 彼は、譲歩を激しく非難し始めた。こう言った。
 「我々には建設的な仕事をする能力がない、と言われている。
 しかし、かりにその通りだったとすれば、我々は単純に、正しく我々と闘っている者たちに権力を譲り渡すべきだ。
 しかし実際には、我々はすでに多くのことを達成した。
 銃剣に座るのは不可能だ、と我々は言われている。
 しかし、銃剣なくしては、どちらもすることができない。<中略>
 こちら側とあちら側と今はどちらにも立つことのできない全プチ・ブルジョアの屑どもは、ひとたび我々の権威は強いものだと知るならば、(同盟も含めて)我々の方にやって来るだろう。<中略>
 プチ・ブルジョア大衆は、従うべき力(force)を探し求めているのだ。」(28)
 アレクサンドラがニコニライに想起させたかったように、「ロシアは笞打ちを感じるのを愛する」。 
 (33)トロツキーは、時間稼ぎの方策を提案した。連立内閣に関する交渉は、十月のクーを受容する唯一の党である左翼エスエルとの間で継続すべきだ。一方、もう一度やってみて合意に達しなければ、他の社会主義諸党との交渉はやめるべきだ。
 この提案は、窮地から脱するには合理的でない方策だとは思われず、提案は支持された。
 (34)レーニンは、党幹部たちの敗北主義に終止符を打つと決意して、翌日の論争に加わり、中央委員会は「反対派」を非難せよと要求した。
 多数派の意思に反対していたのはレーニンなのだから、これは奇妙な要求だった。
 これに続いた議論で、レーニンは、その反対者たちを何とか分裂させることに成功した。
 反対派を非難する決議が、10対5で採択された。
 結果として、レーニンに最後まで立ちはだかった5人は、諦めた。その5人は、カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、ミリューティン、およびノギンだ。
 11月4日、<イズヴェスチア>は、彼らがその行動を説明するつぎの書簡を掲載した。
 「11月1日、中央委員会は、社会主義ソヴェト政府の設立を目的とするソヴェト(他の)諸党との合意を拒絶した。<中略>
 我々は、さらなる流血を避けるためには、かかる政府の設立がきわめて重要だと考える。<中略>
 中央委員会の主流グループは、ソヴェト諸党から成る政府の設立を許さず、どんな帰結をもたらそうとも、そしてどれだけ多数の労働者や兵士が犠牲となる必要があろうとも、純粋にボルシェヴィキの政府に固執する、という固い決意を明瞭に示す多くの企てを行ってきた。
 我々は、かかる致命的な中央委員会の政策方針に対して、責任をとることができない。その方針は、プロレタリアートと兵団の大多数の意思に反することを追求するものだ。<中略>
 これらの理由で、我々は、労働者大衆および兵士たちに明らかになる前に、我々の見解を防衛する権利を行使すべく、また、我々のスローガン、『ソヴェト諸政党の政権よ、永遠なれ』に対する支持を彼らに訴えるために、中央委員会から離任する。」(29)
 (35)二日のち、カーメネフはCEC 〔ソヴェト中央執行委員会〕の議長を辞任した。
 つぎの4人民委員(11閣僚中)も、同様に辞任した。ノギン(通商産業)、ルィコフ(内務)、ミリューティン(農業)、およびテオドロヴィチ(供給)だ。
 労働人民委員のシュリャプニコフは、書簡に署名していたが、職にとどまった。
 何人かの下位の人民部員のボルシェヴィキ党員も、同様だった。
 辞任する人民委員たちの書簡は、こう書いている。
 「我々は、全ての社会主義諸党による社会主義政府の設立が必要だ、という立場をとる。
 我々は、かかる政府の設立のみによってのみ、10月-11月の日々における労働者階級と革命的軍隊の英雄的闘争の成果を確固たるものにすることが可能だ、と信じる。
 我々は、排他的ボルシェヴィキ政権を政治的テロルによって持続させることだけが唯一の選択肢になっている、と考える。
 これが、人民委員会議が採用した途だ。
 我々は、この途を進むことはできないし、進みたくもない。
 我々は、この途の行き着く先は、政治生活の運営からの大衆的プロレタリア諸組織の排除、無責任体制の構築、そして革命とこの国の破壊だ、と考える。
 我々は、この政策方針に対する責任を負うことができない。よって、CEC に対して、人民委員職の辞任を申し出る。」(30)//
 (36)レーニンは、このような抗議や辞任を受けて、眠られないということはなかった。迷える羊たちはすぐに囲いの中に戻ってくる、という確信があったからだ。そして、実際に、そうなった。
 彼らは、他のどこに行けただろうか?
 社会主義諸党は彼らを追放する。
 リベラル派は、かりに権力を握ったとすれば、彼らを監獄に送り込むだろう。
 右翼政治家たちは、彼らを絞首刑にする〔=吊す〕だろう。
 彼らが肉体的に生存しつづけること自体が、レーニンの成功にかかっていたのだ。//
 (37)ボルシェヴィキ党中央委員会が採択した決定は、年下の同僚およびボルシェヴィキの決定にめくら判を捺す者という役割に甘んじるつもりのある政党とだけ、権力を共有する、ということを意味した。
 ボルシェヴィキが数人の左翼エスエルが内閣に加わることを許容した4ヶ月間(1917年12月~1918年3月)を除いて、いわゆるソヴィエト政府は、ソヴェトの構成を決して反映しなかった。ソヴェトを外面上だけ偽装した、ボルシェヴィキ政権のままだったのだ。
 (38)レーニンは今や、対抗する社会主義諸党による権力共有の要求を斥けることができた。
 しかし、彼はなお、自分の閣僚たちが責任を負うべきソヴェト議会だ、というCEC の変わりない主張に、対処しなければならなかった。//
 (39)ボルシェヴィキが十月に摘み取ったCEC は、自分たちは社会主義ドゥーマであって、政府の活動を監視し、内閣を任命し、そして立法する権能をもつ、と考えていた。(*)
 CEC は、10月のクーのあとに、規約を作成する作業を進めた。その規約では、総会、議長、多様な種類の委員会等の綿密な構成を定めていた。
 レーニンは、このような議会たる装いを馬鹿げたものだと考えた。
 最初の日から、彼は、政府官僚の任命と布令の発布のいずれについても、CEC を無視した。
 このことは、レーニンがCEC の新しい議長を選定した無頓着なやり方で、よく分かる。
 彼は、スヴェルドロフがカーメネフに替わる最良の人物だと決めた。
 CEC が自分の選択を承認することを疑う理由は、彼にはなかった。
 しかし、簡単に通過するという絶対的な自信はなかったので、スヴェルドロフを呼び出した。
 レーニンは言った。「イャコブ・ミハイロヴィチ、きみにCEC の議長になってもらいたい、どう思う?」
 スヴェルドロフは、明らかに同意した。レーニンが、中央委員会がこの選択に同意した後で、CEC のボルシェヴィキ多数派によって「注意深く」票決されるだろう、と約束したからだ。
 彼はスヴェルドロフに、頭数を計算して、ボルシェヴィキ派全員が確実に投票に向かうようにすることを指示した。
 計画したとおりに、11月8日に、スヴェルドロフは19対14で「選出」された。(*)
 スヴェルドロフが1919年3月に死ぬまで就いたこの地位によって、ボルシェヴィキ党の決定の全てをおざなりの議論の後でCEC が裁可することが、確実になった。//
 (40)レーニンは、内閣から去った人民委員の補充者の選択についても、同様にCEC を無視した。
 彼は新しい人民委員を、同僚たちと適当に相談して、しかしCEC の承認を求めることなく、11月8-11日に選任した。//
 (41)彼がまだ対処しなければならなかったのは、CEC の立法権能とCEC がもつ政府の布令に同意したり拒否したりする権利という重大な問題だった。
 新体制の最初の数週間では、CEC 議長のカーメネフは、突然に招集し、事前に議題を示さないことで、ソヴナルコムをCEC から守った。
 この短い期間、ソヴナルコムはCEC の承認を得るという面倒なことをしないで、立法(legislate)した。
 実際のところ、この当時の政府の手続は杜撰なものだったので、内閣の一員ですらないボルシェヴィキ党員の何人かは、ソヴナルコムに対して知らせることもなく、自分たちが提案して布令を発していた。ソヴェトの執行部に対しては、言うまでもない。
 このような二つの布令が、国制上の危機を発生させた。
 第一のものは、新政府の最初の日である10月27日の、プレスに関する布令だった。
 この布令は、ほとんど確実にレーニンの激励と同意のとでルナチャルスキーが起草したもので、レーニンが署名していた。(+)
 この注目すべき布令文書は、「反革命プレス」は害悪をもたらす。そのゆえに、「一時的かつ緊急的な手段によって、卑猥さと誹謗中傷が撒き散らされないように措置がとられなければならない」と規定した。-ここでの「反革命プレス」という言葉は定義されていないが、明らかに、十月のクーの正統性を承認しない全ての新聞に適用されるものだった。
 新政権に反対して煽る新聞紙は、閉刊されることとされた。
 布令はこう続ける。「新しい秩序が堅く確立されるやただちに、プレスに影響を与える全ての行政上の措置は撤廃され、プレスには完全な自由が保障される」。//
 (42)この国は、1917年2月以降、新聞や印刷工場の暴力的破壊に慣れてきていた。
 第一に、「反動的」プレスが攻撃され、廃刊となった。
 のちの7月に、同じ運命がボルシェヴィキ機関紙に降りかかった。
 ボルシェヴィキは、ひとたび権力を握るや、このような実務を拡張し、かつ公式化した。
 10月26日、〔トロツキー議長のペトログラード〕軍事革命委員会は、反対党派のプレスに対して組織的大暴虐(pogrom)を実行した。
 軍事革命委員会は非妥協的反ボルシェヴィキの<Nashe obschee delo>の刊行を禁止し、その編集長のV・ブルツェフ(Vladimir Burtsev)を逮捕した。
 同じように、メンシェヴィキの<Den'>、カデットの<Rech'>、右翼の<Novoe vremia>、中道右派の<Birzhevye vedomosti>を弾圧した。
 <Den'>と<Rech'>の印刷工場は没収され、ボルシェヴィキの報道者たちに譲り渡された。(32)
 弾圧された日刊紙のほとんどは、すみやかに名前を変えて、再び現れた。
 (43)プレスに関する布令は、さらに進んだ規定をもっていた。
 施行されれば、ロシア全土から、その起源がカトリーヌ二世の時代に遡る独立したプレスが廃絶することになっただろう。
 激しい怒りが、一斉に巻き起こった。
 モスクワでは、ボルシェヴィキが支配する軍事革命委員会が、11月21日に、非常事態は過ぎ去った、プレスは再び表現の完全な自由を享受すると宣告して、抑圧をとりやめるにまで至った。(33)
 CEC では、ボルシェヴィキのI・ラリン(Iurii Larin)が布令を批判し、その撤回を呼びかけた。(34)
 1917年11月26日、文筆家同盟は一度だけの新聞<Gazeta-Protest>を発行し、その中で何人かの指導的な作家たちが、表現の自由を窒息させようとする前例のない企てに対して、怒りを表明した。 
 V・コロレンコ(Vladimir Korolenko)は、レーニンの<ukaz>を読んだとき、恥ずかしさと憤りで顔が血に染まった、と書いた。
 「(ポルタヴァ〔Poltava〕の)共同体の構成員であり読者である私から、いったい誰がいかなる権利でもって、最近の悲劇的時期の間に何が首都で起こっているかを知る機会を奪ったのか?
 またいったい誰が、作家である私が、検閲者の是認を受けないままで、こうした事態に関する私の見解を仲間の市民たちに自由に表現する、そのような機会を妨害しようと考えたのか?」(35)
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 (26) Protokoly TsK, p.271-2. L. Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy〔共産主義専制体制の起源〕, 2ed ed., (Cambridge, Mass., 1977)によると、会合の詳細は中央委員会の発表された記録から削除された。それは、L. トロツキーのStalinskaia shkola fal'sifikatsii (Berlin, 1932), p.116-p.131で見ることができる。Oktiabr'skoe vooruzhennoe vosstanie, II(Leningrad, 1967), p.405-p.410も見よ。
 (27) Protokoly TsK, p.126-7.
 (28) トロツキー, Stalinskaia shkola fal'sifikatsii, p.124.
 (29) Izvestiia, 11月 4/17, 1917. Protokoly TsK, p.135から引用。
 (30) Revoliutsiia, VI, p.423-4.
 (31) V. D. Bonch-Bruevich, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1969), p.143.
 (*) このとき左翼エスエルは、彼に反対投票をした。Revoliutsiia, VI, p.99.
 (+) Dekrety, I, p.24-p.25. ルナチャルスキは、I・ラリンによって、執筆者だと信じられている。NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (32) A. L. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Lenigrad, 1969), p.166-7.
 (33) Revoliutsiia, VI, p.91.
 (34) Fraiman, Forpost, p.169.
 (35) Korolenko, "Protest", in Gazeta-Protest Souiza Russkikh Pisateli, 1917年11月26日.この文書の写しは、フーヴァー研究所で利用できる。
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 第2節④へとつづく。

2174/R・パイプス著・ロシア革命第11章第13節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 (1)モスクワでは、最初からボルシェヴィキの狙いから逸れていた。
 政府代表者たちが大胆な決定をしていたならば、彼らは大失敗に終わっていただろう。
 (2)モスクワのボルシェヴィキはレーニンやトロツキーではなくカーメネフやジノヴィエフの側に立っていたために、権力を奪取する心構えがなかった。
 ウリツキ(Ulitskii)は10月20日の中央委員会で、モスクワの代議員の多数派は蜂起に反対だ、と発言した。(223)
 (3)10月25日のペトログラードでの事態を知って、ボルシェヴィキはモスクワ・ソヴェトに、革命委員会を設立する決議を通過させた。
 しかし、首都では対応する組織がボルシェヴィキの支配下にあったが、一方のモスクワでは、純粋に諸党連立のソヴェト機関の設立が目指され、メンシェヴィキ、社会革命党〔エスエル〕およびその他の社会主義諸党も加わるよう招かれた。
 エスエルは辞退し、メンシェヴィキは、いくつかの条件を付けて招聘を受諾した。
 この諸条件は受け入れられなかった。その結果、メンシェヴィキは身を引いた。(224)
 ペトログラードのミルレヴコム〔Milrevkom, 軍事革命委員会〕に倣って、モスクワの革命委員会は午後10時に、つぎの訴えを発した。市内の連隊は行動する準備をし、革命委員会が発するかまたはその副署のある命令にのみ従うこと。(225)
 (4)モスクワ革命委員会は、10月26日の朝に初めて動いた。古代の要塞を奪取してその武器庫にある兵器を親ボルシェヴィキの赤衛隊に分配するように、クレムリンに二人の委員を派遣したのだ。
 クレムリンを護衛している第56連隊の兵団は、委員の一人が自分たちの将校であることで困惑しつつも、従った。
 そうであっても、<ユンカー>がクレムリンを包囲して降伏するよう最後通牒を突きつけたために、ボルシェヴィキは兵器を移動させることができなかった。
 最後通牒が拒否されると、<ユンカー>は攻撃した。数時間のちに(10月28日午前6時)、クレムリンは<ユンカー>の手に落ちた。
 (5)クレムリンを奪取することで、親政府勢力は都心を統制下に置いた。
 この時点で、軍民と公民について権限をもつ将校たちは、ボルシェヴィキの蜂起を粉砕することができていただろう。
 しかし、彼らは躊躇した。一つは過信によって、もう一つは、いま以上の流血を避けたいという希望を持っただめに。
 「反革命」という怖れも、彼らの心のうちに重くのしかかっていた。
 市長のV. V. ブドネフを長とする公共安全委員会とK. I. リャブツェフ大佐のもとの軍司令部は、革命委員会を拘束しないで、それとの交渉に入った。
 3日間つづいたこの交渉によって(10月28日-30日)、ボルシェヴィキには、回復し、工業地域である郊外や近隣の町からの増援を求める時間が与えられた。
 10月28-29日の夜には情勢を「危機的」と判断していた(226)革命委員会は、二日後には、攻撃に移れると自信を持った。
 民主主義を防衛しようとするモスクワの住民は、最終的には、軍事アカデミー、大学およびギムナジウムの十代の若者たちだけだった。彼らは、年配者の指導も支援も受けることなく、信条に生命を賭けた。//
 (6)対立の平和的解決に関する公共安全委員会と革命委員会の交渉は、10月30-31日の深夜に、決裂した。革命委員会が一方的に休戦を終わらせて、攻撃するように軍団に命令したのだ。(227)
 両勢力はそれぞれ1万5000人の兵を有して、おおよそは同等であると見えた。
 モスクワではその夜の間ずっと、激しい、建物ごとの戦闘が繰り広げられた。
 クレムリンを再び奪還すると決意したボルシェヴィキは、大砲によって攻撃し、古代からの城壁に損傷を加えた。
 <ユンカー>はよく健闘したが、郊外から集まるボルシェヴィキ軍によって次第に圧迫され、孤立した。
 11月2日の朝、公共安全委員会はその部隊に対して、抵抗をやめるよう命令した。
 同日夕方、同委員会は、同委員会を解散してその部隊は武器を捨てるという趣旨の降伏書に、革命委員会とともに署名した。(228)//
 (7)ロシアのその他の地域では、状況は当惑するほどに筋道の違いがあり、各都市での戦いの行方と結果は、競い合う諸党派の強さや決断力にかかっていた。
 共産主義イデオロギストたちは、ペトログラードでの十月クーにつづく「ソヴェト権力の勝利の凱旋」とこの時期を形容する。しかし、歴史研究者から見ると、事態は異なる。
 しばしばソヴェトの意向に反してすら広がっていたのは「ソヴェト」権力ではなく、ボルシェヴィキの権力だった。そして、軍事的実力による征圧というほどの「勝利の凱旋」ではなかった。//
 (8)見分けられるほどの明確な態様はなかったために、二つの重要都市以外でのボルシェヴィキによる征圧を叙述するのはほとんど不可能だ。(229)
 ある地域では、ボルシェヴィキはエスエルやメンシェヴィキと手を組んで「ソヴェトの支配」を宣言した。
 別の地域では、ある党派がその他の対敵を追放して、自分たちの権力を打ち立てた。
 親政府勢力は、あちこちで抵抗した。しかし、多くの地方で元来の政府系組織は「中立」を宣言した。
 たいていの地方諸都市では、その地方のボルシェヴィキは、ペトログラードからの指令なくして、自分たちで行動しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは、11月の初め頃までには、ヨーロッパの中心部、つまり大ロシアの地域を、少なくとも、その地域の諸都市を、統制下に置いた。ボルシェヴィキはそれら諸都市を、ノルマン人が千年前にロシアに対して行ったように、敵対的または無関心の住民が多数いる真ん中で、出撃基地に変えた。
 ボルシェヴィキは田園地帯のほぼ全領域について掌握するには至らず、分離して独立の共和国が設立された国境地域も同様だった。
 以下で叙述するだろうように、ボルシェヴィキはこれら諸国を、軍事活動でもって再征圧しなければならなかった。//
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 (223)Protokoly TsK, p.106-7.
 (224)Revoliutsiia, V, p.193-4; Revoliutsiia, VI, p.4-5; D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti (Moscow, 1963), p.500.
 (225)V. A. Kondratev, ed., Moskovskii Voenno-Revoliutsionnui Komitet: Oktiabr'-Noiabr' 1917 goda(Moscow, 1968), p.22.
 (226)同上、p.78。
 (227)同上、p.103-4。
 (228)同上、p.161。
 (229)そうしたもので我々が参照できるのは以下。V. Leilina in PR, No.2/49(1926), p.185-p.233, No.11/58(1926), p.234-p.255、No. 12/59(1926), p.238-p.258、およびJohn H. Keep in Richard Pipes(Cambridge, Mass., 1968)p.180-p.216.
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 最終第14節へ。

2173/レフとスヴェトラーナー第1章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章②。
 (12) ボルシェヴィキは、1919年の秋に、ベリョゾボにやって来た。
 彼らは、白軍と協力していると見なされた「ブルジョア」の人質を逮捕し始めた。白軍は反革命軍で、内戦の間はこの地域を占拠していた。
 ある日、ボルシェヴィキは、レフの両親を連れて行った。
 4歳のレフは、祖母と一緒に行って、両親が地方の監獄にいるのを見た。
 父親のグレブは他の9人の収監者と一緒に、大きな獄房に入れられていた。
 レフはそこに入るのを許され、父親の側に座った。その間じゅう、看守がライフルを持って入口の傍らにいた。
 「あのおじさんは、狩猟家なの?」
 レフが尋ねると、父は、「あのおじさんは我々を守ってくれている」と答えた。
 レフの母親は、独房にいた。
 彼は母親に、二度会いに行った。
 その最後のとき、母親は一椀のサワー・クリームと砂糖をレフに与えた。それらは、彼の訪問が記憶に残るように、収監者への配給金で買ったものだった。
 (13) ほどないうちに、レフは病院に連れていかれた。母親は死にかけていた。
 彼女は、たぶん看守に、胸部を狙撃されていた。
 レフが病室の入り口にいたとき、看護婦が、不思議な赤い拍動する物体を手にして彼の側を通りすぎた。
 それを見て怯えて、祖母が別れを告げるように彼に言ったとき、レフは病室内に入るのを拒んだ。だが、入口辺りから、祖母がベッドの上に行って、母親の額に接吻するのを見ていた。
 (14) 葬儀は、町の大きな教会で行われた。
 レフは、祖母と一緒に行った。
 開いた棺の正面にある椅子に座ったが、彼は小さくて中をのぞき込んで母親の顔を見ることができなかった。
 だが、棺の後ろから、色彩に富むイコノスタスで描かれた表面を見ることができた。そして、蝋燭の光で、レフは、棺の頭部の真上に神の御母のイコンがあるのに気づいた。
 彼は、神の御母の顔は自分自身の母親とよく似ていると思った、と記憶している。
 レフの父親は、葬儀のために監獄から一時釈放され、護衛に付き添われて、彼の傍らに姿を見せた。
 「別れを言いに来た」とある婦人が語るのを、レフは聞いた。
 しばらくの間、棺の側に立ったのち、父親は去っていった。
 レフはのちに、教会の外の共同墓地にある、母親の墓を訪れた。
 新しく掘り上げられた土塚は雪とは反対に黒く、その頂上には誰かが木の十字架を置いていた。
 (15) 数日のちに、祖母は彼を、同じ教会での第二の葬礼に連れて行った。
 今度は、イコノスタスの正面に低く並べられた10の棺があった。全て、ボルシェヴィキによって殺害された犠牲者たちだった。
 そのうちの一つが、レフの父親だった。
 父親の獄房の収監者たちはみな、同時に射殺された。
 彼らがどこに埋葬されているのかは、知られていない。
 (16) 1921年の雨が少ない夏、飢饉がロシアの農村地帯を襲った。そのとき、レフは祖母と一緒にモスクワに戻った。
 ボルシェヴィキは、「ブルジョアジー」に対する階級戦争を一時的に中止した。その結果、モスクワの残存中間階層がもう一度生活することが可能になった。
 彼の祖母は、小取引者と商店主が住む地区であるレフォルトヴォで20年間、助産婦として働いていた。そして、彼女とレフはこのときにその地区に引っ越して、遠い親戚と一緒に生活した。
 彼らは1年間、祖母が奇妙な看護婦の仕事をしている間、一室の角を-カーテンの裏のふつうのベッドと簡易ベッドで-占有した。
 1922年、レフは、「カーチャおばさん」(ヴァレンティナの妹)に引き取られた。彼女は、クレムリンから石を投げれば届く距離のグラノフスキ通りの共同住宅で、二番目の夫と暮らしていた。
 レフはそこに1924年まで滞在し、そのあと母親の叔母のエリザヴェータのアパートに転居した。この人は以前は女子高校の学校長で、その住居はマライア・ニキツカヤ通りにあった。
 レフは思い出す。「ほとんど毎日、カーチャおばさんが我々を訪れてくれた。そうして、私は、女性たちの影響と世話がつねにある状況の中で成長しました」。
 (17) 三人の女性たちの愛情は-三人ともに自分の子どもがなかった-母親を失ったことの埋め合わせにはならなかっただろう。
 だが、それによってレフには、女性一般に対する尊敬が、あるいは畏敬の念すらが、生まれた。
 女性たちの愛情に付け加えられたのは、彼の両親の親しい友人たちのうちの三人による、精神的かつ物質的な支援だった。彼らはみな、一定の金額を定期的にレフの祖母に送ってきた。三人とは、アルメニアの首都のエレヴァンにいる名付け親の医師、モスクワ大学の音響学教授のセルゲイ・ルジェフキン(「ゼリョザ叔父さん」)、年配のメンシェヴィキで言語学者、技師および学校教師のニキータ・メルニコフ(「ニキータ叔父さん」)で、レフはニキータを「二番めのお父さん」と呼んだ。
 (18) レフは、ボルシャヤ・ニキツカヤ通りにある、以前は女子ギムナジウムだった男女共学の学校へ通った(男子または女子だけの学校は、ロシアでは1918年に廃止されていた)。
 両翼をもつ古典的19世紀の邸宅が使用されていて、レフが通い始めた頃の学校はまだ、その時代の知識人たちの雰囲気を保っていた。
 多数の教師たちは1917年以前も、その学校で教えていた。
 レフのドイツ語の教師は、以前の校長だった。
 幼年組の教師は有名なウクライナの作曲家の従兄弟で、彼のロシア語の教師は作家のミハイル・ブルガコフに縁戚があった。
 しかし、レフが10歳代の1930年代初頭には、学校教育は工業技術を中心とする教科課程に移行していて、工学の勉強はモスクワの工場と連結していた。
 工業技術者が、実際的な指示や実験をして学校で授業をし、子どもたちが工場での実習生になるよう準備させることになる。
 (19) ヴゾフスキ小路にあったスヴェータの学校は、レフの学校から大して遠くはなかった。
 二人がこの当時に出会っていたならば、二人はどうなっていただろうか?
 彼らの出自は、かなり異なっていた。-レフはモスクワの中流階級の出身で、彼の祖母の正教の価値観はレフの躾け方にも反映されていた。一方、スヴェータは、技術系知識人たちのもっと進歩的な世界で育ってきた。
 だが二人には、多くの共通する基本的な価値と関心があった。
 二人ともに、年齢にしては成熟しており、真面目で、賢く、考え方に自主性があった。そして、プロパガンダや社会的因習からというよりも自分たちの経験で形成した、開放的な探求心のある知性を持っていた。
 この自立性は、のちの彼らに大きく役立つことになる。
 (20) スヴェータは1949年の手紙で、自分は11歳のときどんな少女だったかを思い出している。反宗教の運動が、ソヴィエトの諸学校で頂点に達していた頃のことだ。
 「学校の他の子どもたちより、私は大人びていたように思える。<中略>
 その頃、私は神や宗教の問題について、とても悩んだ。
 隣人たちは信仰者で、ヤラは彼らの子どもたちをいつもからかっていた。
 でも、私は割って入って、信仰の自由を擁護した。
 そして、神に関する問題を、自分で解決した。
 -神なくして、我々は永遠のことも創造のことも、理解することができないだろう。私が神の肝心な所を見ることができないのは、神が必要とされていないということだ(神を信じる他の人々には神が必要かもしれないが、私は必要としていない)。こう、結論づけた。」
 (21) レフとスヴェータはともに、その年齢の頃までに、真面目に働いて責任感をもつという気風が生んだ人間という、巧妙な作品に育っていた。
 スヴェータの場合は、イワノフ家の教育の結果だった。家の多数の雑用をこなすとともに、妹のターニャの面倒を見る責任もあった。レフの場合は、必要をもたらしたのは、彼の経済的境遇だった。
 レフは学校に通っていた間ずっと、祖母の少ない年金を埋め合わせるために、働かなければならなかった。
 (22) まだ15歳にすぎなかった1932年、レフは夜間の仕事をしていた。それは、ゴールキ公園とソコルニキ間の、モスクワで最初の地下鉄路線の建築工事の作業だった。
 彼は街路を横切るルートを測定したのち、大部分は農民移住者で成る掘削チームに加わった。彼らは、ボルシェヴィキによって強制的に集団農場に入れられるのを避けて、モスクワに溢れるほどにやって来ていたのだ。
 レフは、集団化が引き起こした、次の夏の恐るべき結果を知った。
 急に増えた集団農場から離れ出た人物として、彼は、ウクライナの農村地帯出身の同僚作業員と知り合いになった。その農村地帯は、ひどい飢饉に見舞わられていた。
 その男は「放擲された郷土の村落、死んでいく人々、囲いの中に積み重なった死体」について、悲しい詩を書いた。
 詩がもつ、感情に訴える力にレフは強い印象を受けたが、驚くべき主題にたじろいでしまった。
 「なぜ、そんな恐ろしい情景を作るのですか?」と尋ねると、答えはこうだった。
 「作ってなどしていない」。
 飢饉が存在している。誰にも、死んだ者を埋める体力がない。
 レフは衝撃を受けた。
 それまで、ソヴェト権力とその政策を本当に疑ったことは一度もなかった。
 彼は共産主義青年同盟であるコムソモールの一員だったし、党を信じてきた。
 しかし、その作業員の言葉で、疑いの種子が撒かれた。
 その年ののち、レフは生物教師が組織した校内小旅行で、モスクワ近郊の集団農場へと行った。その教師は熱心なボルシェヴィキ支持者で、「害虫に対する闘争」を演じるふりをして、農場にある遺棄された家屋を使っていた。
 その家屋内には、聖職者が持っていた書物を燃やした残り滓があって、その中には、レフの祖父がかつて読んだがソヴェト体制のもとではもはや用無しの言語である、ギリシア語で書かれた聖書も含まれていた。
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 ③へとつづける。

1995/マルクスとスターリニズム⑥-L・コワコフスキ1975年。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski), The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳の最終回。最終の第5節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム③。
(16)マルクスとエンゲルスから、つぎの趣旨の多数の文章を引用することができる。第一に、人間の歴史で一貫して、「上部構造」は所与の社会の対応する財産関係に奉仕してきた。第二に、国家は現存する生産関係のをそのままに維持するための道具にすぎない。第三に、法は階級権力の武器以外のものではあり得ない。
 同じ状況は、少なくとも共産主義が絶対的な形態で地球上を全体的には支配していないかぎり、新しい社会で継続する、と正当に結論づけることができる。
 言い換えると、法はプロレタリアートの政治権力の道具だ。そして、法は権力行使の技術にすぎないために(法の主要な任務は通常は暴力を隠蔽して人民を欺くことだ)、勝利した階級が支配する際に法の助けを用いるか用いないかは、何の違いもない。
 重要なのは階級内容であって、その「形式」ではない。
 さらに加えて、新しい「上部構造」は新しい「土台」に奉仕しなければならない、と結論づけるのも正当だと思える。
 このことがとりわけ意味するのは、文化生活は全体として、最も意識的な要員の口を通じて語られ、支配階級により明確にされる政治的任務に完全に従属しなければならない、ということだ。
 ゆえに、スターリニズム体制での文化生活を指導する原理として普遍的に役立ったのは、「土台-上部構造」理論からの適切な推論だった、と述べることができる。
 同じことは、科学についても当てはまる。
 もう一度言うが、エンゲルスは科学を理論的哲学による指導のないままにしてはならない、さもなくば科学は完全な経験論者的痴呆へと陥ってしまう、と語らなかったか?
 そして、これこそがじつに、関心の範囲はむろんのこと内容についても全ての科学をソヴィエトの哲学者と党指導者たちが哲学によって-つまりは党イデオロギーによって-統制することを、最初から正当化した方策だった。
 1920年代にKarl Korsch はすでに、最上位性を哲学が要求することと科学に対してソヴィエト体制がイデオロギー的僭政を行うことの間には明確な関係がある、と指摘した。//
 (17)多数の批判的マルクス主義者は、これはマルクス主義の戯画(calicature)だと考えた。
 私はそれを否定しようとはしない。
 しかしながら、こう付け加えたい。戯画が原物と似ている場合にのみ-実際にそうだったのだが-、「戯画」という語を意味あるものとして用いることができる。
 つぎの明白なことも、否定しようとはしない。マルクスの思想は、ソヴィエトの権力体制を正当化するためにレーニン=スターリン主義イデオロギーによって際限なく繰り返されたいくつかの引用文から感じられる以上にはるかに、豊かで、繊細で、詳細だ、ということ。
 だがなお、私は、そうした引用文は必ずしも歪曲ではない、と論じたい。
 ソヴィエト・イデオロギーによって採用されたマルクス主義の外殻(skelton)は、きわめて単純化されているが、新しい社会を拘束する虚偽の(falsified)指針だったのではない。//
 (18)共産主義の全理論は「私有財産の廃棄」の一句で要約することができるという考えは、スターリンが考えついたものではなかった。
 スターリンはまた、賃労働は資本なくしては存在できないとか、国家は生産手段に対する中央志向権力を持たなければならないとか、あるいは民族対立は階級対立とともに消滅するだろうとかの考えを提示したのでもなかった。
 我々が知っているように、これらの考えは全て、明らかに、<共産主義者宣言>で述べられている。
 これらの考えは、まとめて言うと、ロシアで起こったように、いったん工場と土地が国家所有になれば社会は根本的に自由になるということを、たんに示唆しているのみならず、論理的に意味している。
 このことはまさしく、レーニン、トロツキーおよびスターリンが主張したことだった。//
 (19)要点は、マルクスは人間社会は統合の達成なくしては「解放」されない、と実際に一貫して信じた、ということだ。
 そして、社会の統合を達成するものとしては、僭政体制とは別の技術は知られていない。
 市民社会を抑圧すること以外には、市民社会と政治社会の間の緊張関係を抑える方法は存在しない。
 個人を破壊すること以外には、個人と「全体」の間の対立を排除する方策は存在しない。
 「より高い」「積極的な」自由-「消極的な」「ブルジョア的」自由とは反対物-へと向かう方途は、後者を抑圧すること以外には存在しない。
 かりに人間の歴史の全体が階級の観点から把握されなければならないとすれば-かりに全ての価値、全ての政治的および法的制度、全ての思想、道徳規範、宗教的および哲学的信条、全ての形態の芸術的創造活動等々が「現実の」階級利益の道具にすぎないとすれば(マルクスの著作にはこの趣旨の文章が多数ある)-、新しい社会は古い社会からの文化的継続性を暴力的に破壊することでもって始まるに違いない、ということになる。
 実際には、この継続性は完全には破壊され得ず、ソヴィエト社会では最初から部分的(selective)な継続性が選択された。
 「プロレタリア文化」の過激な追求は、指導層が支援した一時期のみの贅沢にすぎなかった。
 ソヴィエト国家の進展につれて、ますます部分的な継続性が強調されていった。それはほとんどは、民族主義的(nationalistic)性格の増大の結果だった。
 (20)私は思うのだが、ユートピア(夢想郷)-完璧に統合された社会という展望-は、たんに実現不可能であるばかりではなく、制度的手段でこれを生み出そうとすればただちに、反生産的(counter-productive)になるのではないか。
 なぜそうなるかと言うと、制度化された統合と自由は反対の観念だからだ。
 自由を剥奪された社会は、対立を表現する活動の息が止まるという意味でのみ、統合されることができる。
 対立それ自体は、消失していかない。
 したがって結局は、全くもって、統合されないのだ。//
 (21)スターリン死後の社会主義諸国で起きた変化の重要性を、私は否定しない。これら諸国の政治的基本構成は無傷のままで残っている、と主張するけれども。
 しかし、最も大切なことは、いかに緩慢に行われるとしても、市場が生産に対して何らかの制限的影響を与えるのを許容すること、生活の一定領域での厳格なイデオロギー統制を放棄すること、あるいは少しでも緩和することは、マルクスによる統合の展望を断念することにつながる、ということだ。
 社会主義諸国で起きた変化が明らかにしているのは、この展望を実現することはできない、ということだ。すなわち、この変化を「真の(genuine)」マルクス主義への回帰だと解釈することはできない。-マルクスならば何と言っただろうかはともかく。//
 (22)上述のような解釈のために追加する-断定的では確かにないけれども-論拠は、この問題の歴史のうちにある。
 マルクス主義の人間主義的社会主義のこのような結末を「誰も予見できなかった」と語るのは完全にまやかし(false)だろう。
 社会主義革命のだいぶ前に、アナキストの著作者たちは実際にそれを予言していた。彼らは、マルクスのイデオロギー上の諸原理にもとづく社会は隷属と僭政を生み出す、と考えたのだ。
 ここで言うなら少なくとも、人類は、歴史に騙された、予見できない事態の連結関係に驚いた、と泣き事を言うことができない。//
 (23)ここで論じている問題は、社会発展での「生来(genetic)要因と環境要因」という問題の一つだ。
 発生論的考察ですら、考究される属性が正確に定義されていなければ、あるいはそれが身体的ではなくて精神的な(例えば「知性」のような)属性であるならば、これら二要因のそれぞれの役割を区別するのはきわめて困難だ。
 そして、我々の社会的な継承物(inheritance)における「生来」要因と「環境」要因を区別することはどれほど困難なことだろうか。-継承したイデオロギーと人々がそれを実現しようとする偶発的諸条件とを区別することは。
 これら二要因が全ての個別の事案で作動しており、それらの相関的な重要性を計算してそれを数量的に表現する方法を我々は持たない、ということは常識だ。
 分かっているのは、その子がどうなるかについて「遺伝子」(生来のイデオロギー)に全ての責任があると語ることは、「環境」(歴史の偶発的事件)がその全てを説明することができると語るのと同様に全く愚かなことだ、ということだ。
 (スターリニズムの場合は、これら二つの相容れない極端な立場が表明されている。それぞれ、一方でスターリニズムとは実際にマルクス主義を現実化したものにすぎない、他方でスターリニズムとはツァーリ体制の継承物にすぎない、という見方だ。)
 しかし、我々はスターリニズムについての責任の「適正な割合」についてそれぞれの要因群を計算したり配分したりすることはできないけれども、その成熟した姿が「生来の」諸条件によって予期されたか否かを、なおも理性的に問題にすることはできる。
 (24)私はスターリニズムからマルクス主義へと遡って軌跡を描こうとしたが、その間にある継続性は、レーニン主義からスターリニズムへの移行を一瞥するならば、なおも鮮明な形をとっていると思われる。
 非ボルシェヴィキ党派は(リベラル派は論外としてメンシェヴィキは)、ボルシェヴィキが採っていた一般的方向に気づいており、1917年の直後には、その結末を正確に予見していた。
 さらに加えて、スターリニズムが確立されるよりもずっと前に、新しい体制の僭政的性格は党自体の内部ですみやかに攻撃されていた(「労働者反対派」、ついで「左翼反対派」によって-例えばRakovskyによって)。
 メンシェヴィキは、自分たちの予言の全てが1930年代に確証されたことを知った。また、トロツキーが、メンシェヴィキによる「我々はそう言った」は悲しいほどに説得力がない、という時機遅れの反論を行ったことも。
 トロツキーは、メンシェヴィキは将来に起きることを予言したかもしれないが、それは全く間違っている、彼らはボルシェヴィキによる支配の結果としてそうなると考えたのだから、と主張した。
 トロツキーは言った。実際にそうなった、しかしそれは官僚制によるクーの結果としてだ、と。
 <欺されていたいと思う者は全て、欺されたままにさせよ(Qui vult decipi, decipiatur)。>//
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 終わり。

1947/R・パイプス著・ロシア革命第11章第6節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.473-p.477.
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 第6節・ボルシェヴィキのためのソヴェト大会の企て。
 (1)レーニンの切迫した意識は、かなりの程度は、憲法制定会議によって先手を打たれるのではないか、という怖れで大きくなっていた。
 8月9日、臨時政府はようやく最終的に、憲法制定会議の日程を発表した。
 選挙は、11月12日。最初の会合は、11月28日。
 ボルシェヴィキは数日間はこの会議で議席の多数派を獲得できるだろうと幻想していたが、心の裡では、かりに農民たちが確実にエスエルに投票するならばその機会はない、と分かっていた。
 ボルシェヴィキは都市と軍隊で強く、単独でソヴェト組織を握っていた。そしてボルシェヴィキの望みはただ、ソヴェトを通じて全国的な信任を勝ち得ることだった。
 さもなければ、全ては終わってしまう。
 民主主義的な選挙を通じて国家がいったんその意思を明らかにすれば、ボルシェヴィキが「民衆(people)」を代表しており、新しい政府は「資本主義者」だ、とはもはや主張できないだろう。
 したがって、ボルシェヴィキが権力を奪取するとすれば、それは憲法制定会議の前に行わなければならなかった。
 ボルシェヴィキが制御している場合にのみ、選挙での反対の結果を帳消しにすることができる。ボルシェヴィキのある出版物が、憲法制定会議の構成は「誰がそれを招集するかに大きくかかっている」と述べたように。(113)
 レーニンも同意見だった。憲法制定会議の「成功」は、クーの<あと>でのみ最もよく確保されるだろう。(114)
 事態が示すことになるように、このことは、ボルシェヴィキが選挙結果に不正に手を加えるか、そうでなければ会議を解散させるだろう、ということを意味した。
 レーニンが辞任宣告で脅かしてまで同僚たちを急がせた主要な理由は、このことにあった。//
 (2)ボルシェヴィキには、憲法制定会議を操作して自分たちに権力を譲らせるという望みはなかった。しかし、考えられ得ることとしては、彼らはこの目的をもってソヴェトを、定期的にではなく選挙され、農民たちの代表者のいない、ゆるやかな構造をもつこの装置を、利用することができた。
 このことを意識しつつ、ボルシェヴィキは、第二回ソヴェト大会の迅速な招集のための煽動活動を行い始めた。
 彼らには、事情があった。
 6月の第一回会議以降、ロシアの情勢は変化し、都市ソヴェトの構成員も変化していた。
 エスエルとメンシェヴィキは次の大会には全く熱心ではなかった。その理由の一つは、ボルシェヴィキの割合が大きくなるのを怖れたことだ。別の理由は、憲法制定会議の邪魔をすることになるだろうことだった。
 地方ソヴェトと軍隊もまた、否定的だった。
 9月の末、イスパルコムは169のソヴェトと軍委員会に対してアンケートを実施し、第二回ソヴェト大会を開催することの賛否を問うた。
 そのうち63のソヴェトが回答したが、賛成したのは8ソヴェトだけだった。(115)
 兵士たちの間の感情は、さらに消極的なものだった。
 10月1日、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門は、ソヴェトの全国大会に反対する票決を行い、10月半ばにイスパルコムに報告書を提出した。それは、軍委員会の代議員たちは満場一致でそのような大会は「時期尚早(premature)」で、憲法制定会議の基礎を破滅させるだろう、と述べていた。(116)//
 (3)しかし、ペトログラード・ソヴェトで優勢であるボルシェヴィキは、圧力をかけ続けた。そして9月26日、イスパルコム事務局は、10月20日に第二回ソヴェト大会を招集することに同意した。(117)
 この会議の議事対象は、憲法制定会議に提出する立法草案を起草することに限定されるものとされた。
 ソヴェトの都市協議部署に対して、地方ソヴェトに代議員を派遣して招聘するよう、指令が発せられた。//
 (4)ボルシェヴィキはかくして勝利したが、ほんの第一歩にすぎなかった。
 国全体のソヴェトでのボルシェヴィキの立場は、6月よりははるかに強くなっていた。しかし、第二回ソヴェト大会で彼らが絶対多数を獲得しそうにはなかった。(118)
 第二回ソヴェト大会を自分たちの手で招集し、たいていは中央や北部ロシアにあるソヴェトかまたは多数派を占めている軍委員会のソヴェトのみをその大会に招くことによってのみ、彼らは絶対多数の獲得を確保することができる。
 今やボルシェヴィキは、このように進むこととなった。//
 (5)9月10日、ヘルシンキで、第三回フィンランド労働者・兵士ソヴェトの地方大会が開かれた。
 ここではボルシェヴィキは、堅い多数派を形成していた。
 この大会は地方委員会を設立し、この委員会は、フィンランドの民間人および軍人に対して、同委員会が同意した臨時政府の法令にのみ従うよう指令した。(120)
 このような動きが意図したのは、ボルシェヴィキが動かす似而非政府的中心機関を媒介として臨時政府の正統性を奪う(delegitimate)ことだった。
 (6)フィンランドでの成功によって、ボルシェヴィキは、全ロシア・ソヴェト大会を従順なものにして開催する同じような装置を使うことができる、と納得した。
 9月29日にボルシェヴィキ中央委員会は議論し、10月5日、ペトログラードで北部地方ソヴェト大会を開催することを決定した。(121)
 招聘状は、フィンランド陸海軍および労働者の地方委員会と自称する、ボルシェヴィキのその日限りのフロント組織の名前で発送された。
 イスパルコム事務局は、この会合は正式ではない方法で招集されている、と抗議した。(122)
 地方委員会はこれを無視し、代議員を派遣する多数派をボルシェヴィキが握っているおよそ30のソヴェトを招聘する手続を進めた。
 それらの中にはとくに、モスクワ地方の各ソヴェトがあった。北部地方の中に入ってはいなかったのだけれども。(123)
 何人かのボルシェヴィキ指導者たち、とくにレーニンは、この地方ソヴェト大会に権力のソヴェトへの移行を宣言させることを考えた、と有力に示唆するものが存在する。(124) しかし、この計画は断念された。//
 (7)北部地方ソヴェト大会は、10月11日にペトログラードで開かれた。
 この大会は、ボルシェヴィキとその同盟者である、社会革命党を跳び出た集団の左翼エスエルが、完全に支配した。
 この奇抜な「大会」では、あらゆる種類の扇動的な演説が行われた。その中には、「言葉のための時間」は過ぎたと明瞭に語った、トロツキーのものもあった。(125)
 (8)もちろんボルシェヴィキには、他の党派と同じく、全国的であれ地方的であれ、ソヴェト大会を開催する権限はない。そしてイスパルコムは、この会合は公式の立場を有しない、個々のソヴェトの「私的な集会」だと宣言した。(126)
 ボルシェヴィキは、この宣言を無視した。
 彼らは、この大会を、10月20日に集まることが決定されている第二回ソヴェト大会を直接に先駆けするものだと見なしていた。-トロツキーによると、可能ならば合法的な手段で、それが可能でないならば「革命的」方法で。(127)
 この地方ソヴェト大会の最も重要な結果は、「北部地方委員会」の設立だった。これは、11名のボルシェヴィキと6名の左翼エスエルで構成され、その任務は第二回全ロシア・ソヴェト大会の開催を「確実なものにする」こととされた。(128)
 10月16日、北部地方委員会は、連隊、分団および軍団レベルの軍委員会へとともに、各ソヴェトに対して電報を発した。それは、第二回大会がペトログラードで10月20日に開催されることを告げ、代議員を派遣するよう要請するものだった。
 大会では、休戦と農民たちへの土地の配分が達成され、かつ憲法制定会議が予定どおりに開かれることが確実にされるべきだ。
 電報は、第二回大会の招集に反対している全ソヴェトと軍委員会-これらはイスパルコムの調査から知られるように大多数だったが-に対して、ただちに「再選挙」を行うよう指示していた。「再選挙」とは、ボルシェヴィキの暗号符では、「解散」のことだった。(129)//
 (9)このボルシェヴィキの動きは、紛れもなく、ソヴェトの全国組織に対するクー・デタだった。そして、権力掌握の開幕を告げるものだった。
 このような方法でもって、ボルシェヴィキ中央委員会は、第一回ソヴェト大会がイスパルコムに付与した権限を不法に自分たちのものにした。
 これはまた、臨時政府の権能を奪うものだった。なぜなら、ボルシェヴィキがいわゆる第二回大会に設定した議事予定は、憲法制定会議が開催されるまでの政府の活動の中枢に関係していたからだ。(130)
 (10)ボルシェヴィキがしようとしていることを十分に知って、メンシェヴィキとエスエルは、第二回大会の正統性を承認するのを拒否した。
 10月19日、<イズヴェスチア>は、イスパルコム事務局のみがソヴェトの全国大会を招集する権限をもつとのイスパルコムの声明文を掲載した。
 「このような大会を開催する主導権を奪う権限や権利は、別のどの委員会にも存在しない。北部地方委員会は地方ソヴェトに関して定められた全ての規約を侵犯する、恣意的にかつでたらめに(at random)選出されたソヴェトを代表する、ということを一緒にまとめて行っているのであるから、この権利がこの北部地方大会に帰属することは、なおさらあり得ない。」
 イスパルコム事務局はさらに進んで、ボルシェヴィキによる連隊、分団および軍団の各委員会に対する招集は、代議員は軍集会で、これを開催できない場合には2万5000人ごとに1名を基礎にした軍委員会で選出された者を代議員とすると定める軍代表制に関する所定の手続を侵犯する、と述べた。(131)
 ボルシェヴィキの組織者たちは明らかに、第二回大会に反対していることを知って、軍委員会を無視していた。(132)
 三日のちに<イズヴェスチア>は、つぎのように明確に指摘した。ボルシェヴィキは不法な大会を招集しているのみならず、受容された代表制に関する規約を明らかに侵犯している。2万5000人以下の者を代表するソヴェトは全ロシア大会に代議員を送ることができず、2万5000人から5万人までの場合は2名を派遣すると定める選挙規程があるにもかかわらず、ボルシェヴィキは、500人のいるソヴェトに2名の代議員を招聘し、別の1500人のいるソヴェトには5名の派遣を求めている。これは、キエフ(Kiev)に割り当てられている数よりも多い。(133)
 (11)これらの指摘は全て、正しいことだった。
 しかし、エスエルとメンシェヴィキは、来たる第二回大会は正規に代表されていないことはむろんのこと、不法だ、と宣言したにもかかわらずなお、手続が進行するのを許した。
 10月17日、イスパルコム事務局は、二つの条件を付けて第二回大会の開催を承認した。
 第一に、第二回大会は、地方の代議員にペトログラードに到着できる時間を与えるべく、5日間、10月25日まで、延期されるべきこと。
 第二に、その議題は、憲法制定会議を準備すべく国内状況と、イスパルコムの再選出に限定されるべきこと。(134) 
 これは、驚くべき、そしてじつに不可解な屈服だった。
 ボルシェヴィキが心の裡にもつことを知っていたにもかかわらず、イスパルコムは彼らが欲するものを与えた。
 支持者とその同盟者たちで充たされた、お手盛りの(handpicked)組織〔大会〕。これが確実に、ボルシェヴィキによる権力掌握を正当化することになるだろう。
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 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDRP(b)>(Moscow, 1958), p.74.
 (113) <SD>No.169(1917年9月28日), p.1.
 (114) レーニン, <PSS>XXXIV, p.403, p.405.
 (115) <Izvestiia>No.186(1917年10月1日), p.8.
 (116) <Revoliutsiia>V, p.53.; <Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5.
 (117) <NZh>No.138(1917年9月27日), p.3.
 (118) Leonard Schapiro, <ソヴィエト同盟共産党>(London, 1960), p.164.
 (119) <Revoliutsiia>IV, p.197, P.214.
 (120) 同上, p.256.
 (121) <Protokoly TsK>, p.73, p.76.
 (122) <Revoliutsiia>V, p.65.
 (123) <Protokoly TsK>, p.264.; <Revoliutsiia>V, p.63.
 (124) Alexander Rabinowitch, <ボルシェヴィキの権力奪取>(New York, 1976), p.209-p.211.
 (125) <Revoliutsiia>V, p.71-p.72.
 (126) 同上, p.70-p.71.
 (127) <NZh>No.138/132(1917年9月27日), p.3.
 (128) <Revoliutsiia>V, p.78.
 (129) 同上, p.246, p.254.
 (130) 9月25-27日の政府声明を見よ。<Revoliutsiia>IV所収, p.403-6.
 (131) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.7.
 (132) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (133) 同上, No.203(1917年10月21日), p.5.
 (134) <Revoliutsiia>V, p.109.; <NZh>No.156/150(1917年10月18日), p.3.
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 第6節は終わり。次節・第7節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の奪取>。

1941/R・パイプス著・ロシア革命第11章第4節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
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 第4節・ボルシェヴィキの好運(運命の上昇)(rise in Bolshevik fortunes)。
 (1)ケレンスキーが挑発してコルニロフと決裂し、自分の権威を高めようとした、というのがかりに正しいとすると、彼はこれに失敗したのみならず、全く反対のことを成し遂げてしまった。
 コルニロフとの衝突によって、保守派およびリベラル派世界との関係は、彼の社会主義派の基盤が強固になることなく、致命的に危うくなった。
 コルニロフ事件の第一の受益者は、ボルシェヴィキだった。
 8月27日の後、それらの支持にケレンスキーが依拠していたエスエルとメンシェヴィキは、徐々に消失していった。
 臨時政府は今や、そのときまでは有していたとされたかもしれない限定的な意味ですら、その機能を失った。
 9月と10月、ロシアは操縦者がいないままに漂流した。
 舞台は、左翼からの反革命のために用意された。
 かくして、ケレンスキーはのちにこう書いた。「(ボルシェヴィキのクーの)10月27日を可能にしたのは、8月27日だけだった」。
 こう書いたのは正しかったが、しかし、彼が言おうとした意味でではなかった。(84)
 (2)叙述したように、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対して七月蜂起についての厳しい制裁措置を何ら執らなかった。
 ケレンスキーの対抗諜報機関の主任であるニキーチン大佐によれば、ケレンスキーは、7月10-11日に、軍事スタッフからボルシェヴィキを逮捕する権限を剥奪し、ボルシェヴィキの所有物のうちから見つかった武器を没収することを禁じた。(85)
 7月末にはケレンスキーは、ボルシェヴィキがペトログラードで第6回党大会を開いたとき、見て見ぬふりをしていた。
 (3)この消極性は、ボルシェヴィキも参加しているイスパルコムと宥和しておきたいとのケレンスキーの願望に多くは由来していた。
 すでに述べたように、イスパルコムは8月4日、ツェレテリ(Tsereteli)の動議によって、微妙にも「7月3-5日の事件」と呼ばれたものに参加した者のさらなる迫害を止めるよう要求する決議を採択した。
 ソヴェトは8月18日の会合で、「社会主義諸党派の中での極端な潮流」の代表者たちに対してなされた「不法な逮捕と濫用に断固として抗議する」と票決した。(86)
 政府はこれに反応して、次々と著名なボルシェヴィキを釈放し始めた。ときには保釈金を課して、ときには友人の保証にもとづいて。
 最初に自由にになった(そして全ての責任追及を免れた)のは、カーメネフだった。彼は、8月4日に釈放された。
 ルナチャルスキー(Lunacharskii)、アントニオ-オフセーンコ(Antonio-Ovseenko)およびA・コロンタイ(Alexandra Kollontai)はすぐあとで、自由になった。そして、その他の者が続いた。
 (4)その間に、ボルシェヴィキは、政治的勢力として再登場していた。
 ボルシェヴィキは、政治的両極化によって利益をうけた。この政治的両極化は、リベラル派と保守派がコルニロフへと引かれ、急進派は極左へと振れた夏の間に生じていた。
 労働者、兵士、海兵たちは、メンシェヴィキとエスエルの優柔不断さを嫌悪し、これらを諦めて、大挙して唯一の選択肢もボルシェヴィキを支持するに至った。
 しかし、政治的な疲れもあった。
 春には揃って投票所へと行っていたロシア人は、彼らの状態の改善に何らつながらない選挙に徐々に飽きてきた。
 このことはとくに、過激派に対抗する機会がないと感じた保守的な人々について本当のことだった。しかし、リベラル派や穏健な社会主義立憲派についても当てはまった。
 この趨勢は、ペトログラードとモスクワの市議会選挙の結果でもって例証され得る。
 コルニロフ事件の一週間前、8月20日のペトログラード市会(Municipal Council)の投票で、ボルシェヴィキは得票率を1917年5月の20.4パーセントから33.3パーセントへと、さらには過半数へと伸ばした。
 しかしながら、絶対得票数では、投票数の低下によって17パーセントしか伸ばさなかった。 
 春の選挙では有権者の70パーセントが投票所へ行ったのだったが、8月にはそれは50パーセントに落ちた。首都のいくつかの地区では、前には投票した者の半分が棄権していた。(*)(87)
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 (*) Crane Brinton はその<革命の解剖学>(New York, 1938, p.185-6)で、革命的状況下では庶民的市民は政治参加するのに退屈し、極端主義者に広場を譲る、というのはふつうだと観察する。
 後者の影響力は、民衆の幻滅と政治に対する利害の喪失に比例して増大する。
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 モスクワでは、9月の市会選挙での投票参加者の減少は、さらに劇的だった。
 こちらでは、以前の6月の64万票に対して、38万票しか投じられなかった。
 投票票の半分以上はボルシェヴィキで、12万票を掘り起こしていた。一方、社会主義派(エスエル、メンシェヴィキおよびこれらの友好派)は37万5000票を失った。後者のほとんどはおそらくは、自宅にいるのを選んだ。
 ********
 モスクワ市会選挙(議席数の割合)(88)
 党       1917年3月 1917年9月 変化
 エスエル    58.9     14.7    -44.2
 メンシェヴィキ 12.2      4.2    - 8.0
 ボルシェヴィキ 11.7     49.5    +37.8
 カデット    17.2     31.5    +14.3   
 ********
両極化の一つの効果は、ケレンスキーが変わらない権力を求めて計算していた政治基盤の風化だった。
 8月半ばのペトログラードの市会選挙で社会主義諸党が示した貧弱さは、同じその月の遅くでのケレンスキーの行動の、重要な要因だったかもしれない。
 というのは、彼の政治基盤が消失していたとき、「反革命」の勝利者としてよりも左翼の側への自分の人気と影響力を高めるよい方法は、何だったたのか? かりに想像上のものだったとしても。
 (5)コルニロフ事件は、ボルシェヴィキの運命を、予期されなかった高さにまで押し上げた。
 コルニロフの幻想上の蜂起を抑止し、クリモフの兵団がペトログラードを占拠するのを阻止するために、ケレンスキーはイスパルコムの助けを求めた。
 8月27-28日の深夜会議で、あるメンシェヴィキの動議にもとづき、イスパルコムは、「反革命と闘う委員会」の設立を承認した。
 しかし、ボルシェヴィキの軍事組織だけがイスパルコムが用いることのできる実力部隊だったので、この行動は、ボルシェヴィキにソヴェトの部隊という責任を負わせるという効果をもった。(89) こうして、昨日の犯罪者は、今日は戦闘員になった。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキに対して直接に、コルニロフに対抗する自分を、その当時に明らかに大きくなっていたボルシェヴィキの兵士たちに対する影響力を使って助けるよう訴えた。(90)
 ケレンスキーの代理人は、アナキストとボルシェヴィキ共感者としてよく知られた巡洋艦<オーロラ>の海兵たちに、ケレンスキーの住居であり臨時政府の所在地である冬宮の防衛の責任を引き受けるように要請した。(91)
 M・S・ウリツキ(Ulitskii)はのちに、ケレンスキーのこの行動がボルシェヴィキを「名誉回復させた」と述べることになる。
 ケレンスキーはまた、ボルシェヴィキが労働者たちに4000丁の鉄砲を配って武装することを可能にした。相当の数の武器がボルシェヴィキの手に入ることになつた。
 ボルシェヴィキはこれらの武器を、危機が過ぎ去ったあとも保持し続けた。(92)
 ボルシェヴィキの再生とともにどの程度に事態が進行していたかは、8月30日の政府の決定、すなわち訴訟手続が始まっているごく数名を除いて拘禁されているボルシェヴィキ全員を釈放するとの決定、でもって判断できるかもしれない。(93)
 トロツキーは、この恩赦の受益者の一人だった。トロツキーは3000ルーブルの保釈金でKresty 監獄から9月3日に釈放され、ソヴェト内のボルシェヴィキ党派の責任者となった。
 10月10日までに、27人のボルシェヴィキ以外は全員が釈放され(94)、つぎのクーを準備した。一方で、コルニロフと他の将軍たちは、Bykhov 要塞に惨めに捨てられていた。
 9月12日、イスパルコムは政府に対して、レーニンとジノヴィエフについて、身体の安全の保証と公正な裁判を要請した。(95)
 (6)コルニロフ事件の劣らず重要な帰結は、ケレンスキーと軍部の間の分断だった。
 というのは、将校団は事件に混乱して政府を公然とは拒否するつもりはなく、コルニロフの反乱に参加するのを拒絶したけれども、彼らの司令官に対する措置や多数の優れた将軍たちの逮捕、そして左翼への追従についてケレンスキーを軽蔑したからだ。
 のちの10月遅くにケレンスキーがボルシェヴィキから自分の政府を救うのを助けるよう軍部に呼びかけたとき、ケレンスキーの嘆願は全く聞き入れられないことになる。
 (7)9月1日、ケレンスキーは、ロシアは「共和国」だと宣言した。
 一週間後(9月8日)、彼は政治的対抗諜報機関を廃止した。これは、彼自身からボルシェヴィキの企図に関する主要な情報源を奪うことを意味した。(96)
 (8)堅固な指導力をもつことができる誰かによってケレンスキーが打倒されることになるのは、ただ時間の問題だった。
 そのような人物は、左翼から出現するに違いなかった。
 種々の違いが彼らを分けていたとはいえ、左翼の諸政党は、「反革命」という妖怪と闘うときには隊列を固めた。「反革命」とはその定義上、ロシアに実効的な政府としっかりした軍隊を回復しようとする全ての先導的行為を含む用語だった。
 しかし、国家は〔政府と軍隊の〕いずれをも有しなければならないので、秩序を回復しようとする先導力は、彼らの内部から出現しなければならなかった。
  「反革命」は、「真の」革命を偽装して、やって来ることになる。//
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 (84) ケレンスキー,<Delo>, p.65.
 (85) ミリュコフ,<Istoriia>Ⅰ, Pt. 2, p.15n. <Echo de Paris>, 1920, <Oiechestvo>No.1, と<Poslednie Izvestiia>(Ravel), 1921年4月、を引用している。
 (86) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.299-p.300, p.70.
 (87) <NZh>No.108(1917年8月23日), p.1-2とNo.109(1917年8月24日), p.4.; W. G. Rosenberg, <SS>No.2(1969年)所収, p.160-1.
 (88) <Revoliutsiia>Ⅲ, p.122.; Rosenberg, 同上.
 (89) Golvin,<反革命>Ⅰ, Pt. 2, p.53-p.54.
 (90) Sokolnikov,<Revoliutsiia>Ⅳ所収, p.104.
 (91) 同上Ⅴ, p.269.
 (92) S. P. Melgunov,<<略>>(Paris, 1953), p.13.
 (93) <NZh>No.116(1917年8月31日), p.2.
 (94) <NZh>No.149/143(1917年10月10日), p.3.
 (95) <NZh>No.125/119(1917年9月12日), p.3.
 (96) <NZh>No.123/117(1917年9月9日), p.4.
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次節の目次上の表題は、「隠れている間のレーニン」。

1924/R・パイプス・ロシア革命(1990)第11章第1節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990)
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 なお、著者(R・パイプス)はアメリカで存命だったA・ケレンスキー(1881-1970)に直接に会って、インタビューしている。
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 第1節・コルニロフが最高司令官に任命される②。
 (10)Boris Savinkov (B・サヴィンコフ)は、軍事省の部長代行で、ケレンスキーとコルニロフの二人の信頼を得ていたため、仲介者としての役割を果たすには理想的にふさわしい人物だった。彼は、8月初めにつぎを求める四項目の案を起草した。すなわち、後方兵団への死刑の拡大、鉄道輸送の軍事化、軍需産業への戒厳令の適用、〔ソヴェトの〕軍事委員会の権限の縮小に対応する将校の紀律権限の回復。(8)
 彼によると、ケレンスキーは文書に署名すると約束したが、それを引き延ばし続け、8月8日に、「いかなる状況にあっても、後方部隊への死刑については署名しない」と彼に言った。(9)
 コルニロフは欺されたと感じて、ケレンスキーに「最後通牒」を突きつけた。これがケレンスキーを憤激させ、コルニロフをほとんど解任しそうになった。(10)
 ケレンスキーが軍隊の再活性化に強い関心を持っているのを知って以降、コルニロフはケレンスキーの不作為によって、首相は自由な人間ではなく社会主義者たちの道具にすぎないという疑念を持たざるをえなかった。社会主義者たちのうちの何人かは、七月蜂起以降、敵と通じていると言われていた。
 (11)コルニロフの執拗な要求は、ケレンスキーを困難な状態に追い込んだ。
 ケレンスキーは5月以降、何とか政府とイスパルコムの間に股がってきた。立法に関するイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の拒否権に譲歩してそれが離反しないようにし、他方では同時に、力強く戦争を遂行して、リベラル派や穏健な保守派すらの支持を得ることによって。
 コルニロフは、ケレンスキーが是非とも避けたいと願っていること-つまり左翼と右翼のいずれかを、国際的社会主義の利益とロシア国家の利益のいずれかを、選択すること-をするように首相に迫った。
 ケレンスキーは幻想のもとにいることはできなかった。すなわち、多くは合理的だと考えていたコルニロフの要求に応じるのは、ソヴェトとの決裂を意味するだろう。
 ソヴェトの会議は8月18日、ボルシェヴィキの動議にもとづき、軍隊へ死刑を復活させる案について議論した。
 この案は事実上の満場一致で、すなわち4人(ツェレテリ、ダン、M. I. Liber、チェハイゼ)の反対に対するおよそ850人の賛成で、前線部隊への死刑の適用を拒否する決議を採択した。それの適用は、「司令幕僚たちに対する奴隷にする目的でもって兵士大衆に恐怖を与えようとする手段だ」として。(11)
 明白なことだが、戦闘地域にいない後方の兵団に対して死刑を拡大することにソヴェトが同意することはあり得なかった。防衛産業や輸送の労働者たちに軍事紀律を課すことについては、言うまでもない。//
 (12)理論的には、ケレンスキーはソヴェトに対抗して、リベラル派と保守派に運命を委ねることも考えられ得ただろう。
 しかし、とくに六月攻勢の失敗と七月蜂起に対する優柔不断な対応の後でこれらの社会勢力が彼に抱いている低い評価を考えると、ケレンスキーがこれを選択する可能性はあらかじめすでに排除されていた。
 8月14日のモスクワの国家会議にケレンスキーが姿を現したとき、彼は左翼側によってのみ強く称賛された。右翼側は石のごとき沈黙でもって迎えた。彼らが拍手喝采を浴びせたのは、コルニロフに対してだった。(12) 
 リベラル派と保守派のプレスは、包み隠さすことのない侮蔑をもってケレンスキーに触れていた。
 したがって彼には、左翼側を選択する以外の余地はなかった。イスパルコムの社会主義知識人たちに従順でありつつ、一方では確信と成功の見込みは減っていても、ロシアの国家利益を推進しようとしながら。//
 (13)ケレンスキーが左翼側と宥和したかったのは、約束した軍隊改革をしなかったことのみならず、ボルシェヴィキに対して断固たる措置をとらなかったことでも明らかだった。
 彼は大量の証拠を手にしてはいたけれども、イスパルコムとソヴェトに遠慮して七月蜂起の指導者たちを訴追しなかった。彼らは、ボルシェヴィキの責任を追及するのは「反革命的」だと考えていた。
 ケレンスキーは、右翼と左翼の両方の戦争遂行「妨害者」に保護されるべきとの軍事省からの提案に反応して、これと類似した先入観をもっていることを示した。
 彼は、右翼側の逮捕されるべき者の名簿を承認した。しかし、別の名簿が届けられたときには躊躇を示した。そして、結局は半分以上の名前を除外したのだった。
 それらの文書が、連署が必要な内務大臣でエスエルのN. D. Avksentiv に届いたとき、彼は最初の名簿を再確認したが、第二の名簿からは2名(トロツキーとコロンタイ)以外の全ての者の名前を削除した。(13) //
 (14)ケレンスキーは、民主主義的ロシアを指導すると運命づけられていると自認する、きわめて野心的な人物だった。
 この野心を実現する唯一の方法は、民主主義的左翼-すなわちメンシェヴィキとエスエル-の主張を管掌することだった。そして、そうするためには、その左翼がもつ「反革命」という強迫観念を分かち持たなければならなかった。
 彼は、コルニロフのうちに全ての反民主主義勢力が集中したものを見たのみならず、そう見る必要があった。
 ボルシェヴィキが4月、6月そして7月の武装「示威行動」で何を意図していたのかをよく知っており、またレーニンやトロツキーが将来に企てていることを容易に理解したけれども、ケレンスキーは、ロシアの民主主義は左翼からの危険ではなく右翼からの危険に直面していると、自らを納得させた。
 知識がなかったわけでも知的精神をもっていなかったわけでもなかったので、彼のこのような馬鹿げた評価は、それが彼には政治的にふさわしかったという前提でのみ、意味があることになる。
 コルニロフにロシアのボナパルトの役を割り当てて、ケレンスキーは無批判に-じつは進んで-、コルニロフの友人や支持者たちが巨大な反革命の陰謀を企てているという風聞に反応した。(14)
 (15)軍隊改革が実行されないままで、貴重な日々が過ぎ去った。
 コルニロフは、ドイツがまもなく軍事攻勢を再開しようとしていると知り、また事態を動かすことを意図して、内閣と会うことの許可を求めた。
 彼は8月3日に、首都に着いた。
 大臣たちに挨拶をして、彼は軍隊の状態の概略を述べ始めた。
 コルニロフは、軍隊の改革に関して議論したかった。しかし、サヴィンコフが軍事省がその問題に取り組んでいると言って、遮った。
 コルニロフはそのあと、前線の状況に話題を変えて、ドイツとオーストリアに対して準備している軍事行動について報告した。
 この時点で、ケレンスキーはコルニロフに寄りかかって囁いて、注意するように求めた。(15) 一瞬のちに、同様の警告がサヴィンコフからもあった。
 この出来事によって、コルニロフと彼の臨時政府に対する態度が、動揺した。
 彼はこのことに何度も言及して、その後の彼の行動を正当化するものだとした。
 彼はケレンスキーとサヴィンコフの警告を正しく解釈していたので、一人のまたは別の大臣は軍事機密を漏洩する疑いがあった。
 モギレフに戻ったときコルニロフは、衝撃を受けた状態のままで、Lukomskii に起きたことを語り、いかなる性格の政府がロシアを動かしていると考えるかと尋ねた。(16)
 彼は、自分が警告された大臣はチェルノフだと結論づけた。チェルノフは、ボルシェヴィキを含むソヴェトの仲間たちに秘密情報を伝えていると信じられていた。(17)
この日以降、コルニロフは臨時政府を国家と国民を率いるに値しない、と見なした。(*)
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 (*) 政府は忠誠心のない者やおそらくは敵の工作員に惑わされているとの彼の確信は、彼がこの時期に政府に提出した秘密のメモ文書がプレスに漏れたことで強められた。
 左翼のプレスは抜粋版を発行し、コルニロフに反対する運動を開始した。悪口のキャンペーンだった。Martynov <コルニロフ>, p.48.
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(16)この出来事からほどなくして(8月6日又は7日に)、コルニロフは、第三騎兵軍団の司令官である将軍クリモフ(A. M. Krymov)に、その兵団をルーマニア地域から北方へ動かすよう命令した。そして、別の軍団を投入し、西部ロシアの大雑把にはモスクワとペトログラードと等距離にある都市のVelikie Luki で位置を整えるよう命じた。
 第三軍団は、二つのコサック分団とコーカサスからのいわゆる土着(または粗雑)分団で構成されていた。いずれも人員不足だったが(土着分団には1350人しかいなかった)、頼りになると見なされた。
 こうした命令に当惑して、Lukomskii は、これらの勢力をドイツ戦に用いるのだとするとVelikie Luki は前線から遠すぎる、と指摘した。
 コルニロフは答えて、モスクワかペトログラードのいずれかで発生する可能性が潜在的にあるボルシェヴィキの蜂起を鎮圧するための場所に軍団はいて欲しいと語った。
 彼はLukomskii に対し、臨時政府に対抗するつもりはない、だが必要だと分かれば、クリモフの兵団がソヴェトを解散し、その指導者たちを吊し、ボルシェヴィキを-政府の同意があってもなくても-簡単に片付ける、と付け加えた。(18)
 彼はまたLukomskii に、ロシアは国家とその軍隊を救うことのできる「確固たる権威」を絶望的にだが必要としている、と語った。
 つぎは、コルニロフの文章だ。
 「私は反革命家ではない。<中略>私は旧来の統治体制の形態が嫌いだ。それは私の家族を手酷く扱った。過去に戻ることはない。決して、あり得ない。
 しかし、我々は、本当にロシアを救うことのできる権威を必要としている。その権威は、戦争を栄誉をもって終わらせることを可能にし、立憲会議〔憲法制定会議〕へとロシアを指導するだろう。<中略>
 我々の現在の政府には、しっかりした個人はいるが、事態を、ロシアを、破滅させる者もいる。
 重要なことは、ロシアには権威がなく、そのような政府が設立されなければならないということだ。
 おそらくは私は、そのような圧力を政府に対してかけることになるはずだ。
 かりにペトログラードで騒擾が勃発すれば、それが鎮圧された後で私は政府に入り、新しい、強い権威の形成に参加しなければならないだろう。」(19)//
 (17)ケレンスキーがコルニロフに対して一度ならず自分も「強い権威」に賛成だと言っていたのを聞いていたので、Lukomskii は、コルニロフと首相は困難なく協力するはずだ、と結論した。(20)
 コルニロフはサヴィンコフの要請に応じて8月10日にペトログラードに戻った。しかしこれは、首相の望みには反していた。
 ケレンスキーの生命を狙う試みに関する風聞を聞いて、彼はTekke の護衛団とともに到着し、護衛団はケレンスキーの事務所の外側に機関銃を積み上げた。
 ケレンスキーは内閣全員と会いたいとのコルニロフの要請を拒否した。そしてその代わりに、顧問団であるNekresov とTereshenko が同席して、彼を迎えた。
 将軍の非常時意識は、ドイツが軍事攻勢をリガの近くで開始し、首都の脅威になりそうだ、という知識にもとづいていた。
 彼は改革の問題に話題を転じた。外国勢力のために働くロシア人に対する死刑も含めての、前線および後方での紀律の回復、および防衛産業や輸送の軍事化だった。
 ケレンスキーは、コルニロフが望んだことの多く、とくに防衛産業と輸送に関しては「馬鹿げている」と考えた。しかし、軍隊の紀律を強化することを拒否することはなかった。
 コルニロフは首相に、自分はまさに解任されそうで、軍での騒擾を刺激しそうな行動をしないように「助言されている」ということを分かっている、と言った。(22)
 (18)4日後、コルニロフは国家会議にあっと言わせる登場の仕方をした。その会議はケレンスキーがモスクワに国民の支持を集めるべく招集したものだった。
 まず最初に、ケレンスキーは会議で挨拶するのを許可せよとのコルニロフの要請を拒否した。しかし、軍事問題に限定するという条件つきで、容赦した。
 コルニロフがボリショイ劇場に着いたとき、彼は喝采を受け、群衆によって持ち上げられた。
 右翼の議員たちは、騒がしい歓迎の仕方で迎えた。
 むしろ素っ気ない演説でコルニロフは、政府の政治的な打撃になると解釈され得るものは何も語らなかった。ケレンスキーにとっては、この事態が、分岐点だった。すなわち彼は、将軍に対する共感を示すことはケレンスキーへの個人的な侮蔑だと解釈したのだ。
 ケレンスキーののちの証言によると、「モスクワ会議の後で、つぎの攻撃の試みは右翼から来るだろう、左翼からではない、ということは自分には明瞭だった」。(23)
 このような確信が彼の心の裡にいったん定着してしまうと、それは<固定観念(idée fixe)>になった。
 のちに起こることは全て、それを強化するのに役立つだけになる。
 右翼のクーが進行中だとの彼の確信は、将校たちや一般市民からの電信で強まった。それらは、コルニロフをその職のままにとどめておくことを求めるもので、また幕僚将校たちによる陰謀の軍事的中心部からの内密の警告だった。(24)
 保守派のプレスは、ケレンスキーとその内閣に対する連続的な批判を開始した。
 典型的だったのは右翼<Novoe vremia>の編集部で、ロシアを救う鍵は最高司令官の権威を疑いなく受容することだ、と主張した。(25)
 コルニロフがこの政治的キャンペーンを使嗾したという、いかなる証拠も存在しなかった。しかし、それを受け取る側には、彼は疑念の対象になった。//
 (19)冷静に観察すれば、司令官たる将軍への共感が高まるのは、ケレンスキーへの不満の表現であって、「反革命」の兆候ではなかった。
 国家は、しっかりとした権威の存在を切に必要としていた。
 しかし、社会主義者たちは、この雰囲気を敏感に気づくことはなかった。
 実際の政治ではなく歴史を詩文的に見て、社会主義者たちは保守派(「ボナパルティスト」)の反動は不可避だと堅く信じていた。(*)
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 (*) 著者〔R・パイプス〕との私的な会話でケレンスキーは、彼の1917年の行動はフランス革命の教訓に強く影響されていたことを認めた。
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 8月24-25日、何かがたまたまにでもそれを正当化する前に、社会主義派のプレスが反革命の存在を告げた。8月25日、メンシェヴィキの<Novaia zhizn>は、「陰謀」との見出しのもとに、真っ最中だ、政府が少なくともボルシェヴィキに対して示したのと同じだけの情熱をもってこれと闘うよう希望を表明する、と発表した。(26)
 かくして、筋書き(plot)は書かれた。
 残るのは、主人公を見つけることだった。//
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 (8) Boris Savinkov <K delu Kornilova>(Paris, 1919), p.13-14.
 (9) 同上、p.15. P. N. Miliukov <Istoriia <以下略>>(Sofoia, 1921), p.105.
 (10)ケレンスキー<Delo>p.23. Savinkov <K delu>p.15-16. Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.99.
 (11) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.69-70.
 (12) 同上、p.54.
 (13) Savinkov <K delu>p.15.
 (14) ケレンスキー<Delo>p.56-57. 同<Catastrophe>p.318.
 (15) Savinkov <K delu>p.12-13. Geprge Katkov <コルニロフ事件>(London-New York, 1980), p.54.
 (16) A. S. Lukomskii, <<略>>(Berlin, 1922), p.227.
 (17) Katkov <コルニロフ事件>, p.170.
 (18) Lukomskii, <<略>>, p.228, p.232.
 (19) Chuganov, <<略>>, p.429.
 (20) 同上、p.429-430.
 (21) <Revoliutsiia>Ⅳ, p.37-38. Lukomskii, <<略>>Ⅰ, p.224-5.
 (22) Miliukov <Istoriia>Ⅰ, Pt.2, p.107-8. Trubetakoi<<略>>No.8(1917年10月4日)所収。Martynov <コルニロフ>p.53が引用。
 (23) ケレンスキー<Delo>p.81. Gippius, <Siniaia kniga>p.164-5.
 (24) ケレンスキー<Delo>p.56-57.
 (25) <DN>No.135(1917年8月24日), p.1 に引用。
 (26) <NZh>No.110(1917年8月25日), p.1.
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 第2節へとつづく。

1866/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気④完。
合冊版、p.831~p.833。
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 (16)国家もまた最初から、教会と宗教の影響を破壊し始めた。
 これは明らかにマルクス主義の教理と一致しており、全ての独立した教育を破壊するという国家の目標とも一致していた。
 我々はすでに見たことだが、ソヴィエト体制は教会と国家の分離を宣言したけれども、この原理を現実化するのに成功していなかったし、成功することのできないものだった。
 なぜなら、教会と国家の分離は、国家が市民の宗教的見方に関心を抱かず、どの宗派に属しているかまたはいないかを問わず市民に同等の権利の全てを保障し、一方で教会は私法の主体として承認される、ということを意味するだろうからだ。
 国家がひとたび反宗教哲学をもつ党によって購われるものになってしまえば、この分離は不可能だった。
 党のイデオロギーは国家のそれになった。そして、全ての形態の宗教生活は、否応なく反国家活動になった。
教会と国家の分離は、信者とそうでない者とが同等の権利をもち、前者は無神論者である党員と同様の権力行使の機会をもつ、ということを意味する。
この原理を実現しようとするのはソヴィエトの条件のもとではいかに馬鹿々々しいかと述べるので十分だ。
 最初から根本的な哲学またはイデオロギーへの執着を表明した国家があり、その哲学またはイデオロギーにその国家の正統性が由来するのであるから、宗教<に対して(vis-à-vis)>中立などということはあり得なかった。
 したがって、1920年代の間ずっと、教会は迫害され、キリスト教を伝道することを妨害された。異なる時期ごとに、その過程の強度は違っていたけれども。
 体制の側は、階層の一部に対して譲歩するように説得するのに成功した-これはその一部の者たち自身にとって譲歩でなかったので、妥協だと言うことはほとんどできない。そして、1920年代の後半に多数の頑強な神職者たちが殺戮されてしまったあとで、ほどよい割合の者たちがとどまって忠誠を表明し、ソヴィエト国家と政府のために祈祷を捧げた。
 そのときまでに、無数の処刑、男女の各修道院の解体、公民権の収用や剥奪のあとで、教会は、かつてあったものの陰影にすぎなくなった。
 にもかかわらず、反宗教宣伝は今日まで、党の教育での重要な要素を占めている。
 1925年にYaroslavsky の指導のもとで設立された戦闘的無神論者同盟(the League of Militant Atheists)は、キリスト教者やその他の信者を全てのありうるやり方で執拗に攻撃して迫害し、そうすることで国家の支援を受けた。//
 (17) 新社会で最も力強い教育への影響力をもったのは、しかしながら、警察による抑圧のシステムだった。
 この強度は変化したけれども、いかなる市民でもいかなる時にでも当局の意ののままに抑圧手段に服することがあり得るというのは日常のことだった。
 レーニンは、新しい社会の法は伝統的な意味での法とは全く関係がない、と明言していた。換言すれば、政府権力をいかなる態様をとってであれ制限することが法に許容されてはならない、と。
 逆に一方では、いかなる体制のもとでも法は階級抑圧の道具に「他ならない」がゆえに、新しい秩序は対応する「革命的合法性」の原理を採用した。これが意味したのは、政府当局は証拠法則、被告人の権利等々の法的形式に煩わされる必要はなく、「プロレタリアート独裁」に対する潜在的な危険を示していると見え得る誰であっても単直に逮捕し、収監し、死に至らしめることができる、ということだった。
 KGBの先駆者であるチェカは、最初から司法部の是認なくして誰でも収監する権限をもっていた。そして、革命の直後に、多様で曖昧に定義された範疇の人々-投機家、反革命煽動者、外国勢力の工作員等々-は「無慈悲に射殺される(shot witout mercy)」ものとする、と定める布令が発せられていた。 
 (いかなる範疇の者は「慈悲深く(mercifully)射殺される」のかは、述べられていなかった。)
 これが実際上意味したのは、地方の警察機関が全市民の生と死に関する絶対的な権力をもった、ということだ。
 集中収容所(Conceneration camps)(この言葉は現実に使われた)はレーニンとトロツキーの権威のもとで、様々のタイプの「階級敵」のために用いるべく、1918年に設置された。
 もともとは、この収容所は政治的反対者を制裁する場所として使われた。-カデット〔立憲民主党〕、メンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕、のちにはトロツキストその他の偏向主義者、神職者、従前の帝政官僚や将校たち、および資産所有階級の構成員、通常の犯罪者、労働紀律を侵害した労働者、およびあらゆる種類の頑強な反抗者たち。
 数年しか経たないうちに、この収容所は、大量の規模の奴隷労働を供給するという利点によって、ソヴィエト経済の重要な要素になった。
 異なる時期に、とくにそのときどきの「主要な危険」に関する党の選択に応じたあれこれの社会集団に対して、テロルが指令された。
 しかし、最初から、抑圧システムは絶対的に法を超越していた。そして、全ての布令と罰則集は、すでに権力を保持する者による恣意的な権力行使を正当化することに寄与するものにすぎなかった。
 見せ物裁判(show trial)は初期に、例えばエスエルや神職者たちの裁判で始まった。
 来たるべき事態を冷酷に告げたのは、Donets の石炭盆地で働く数十人の技術者たちに関する1928年5月のShakhty での裁判だった。そこでは証拠は最初から最後まで捏造されており、強要された自白を基礎にしていた。
 怠業と「経済的反革命」の咎で訴追された犠牲者たちは、体制の経済後退、組織上の失敗および一般国民の哀れな状態の責任を負う、好都合の贖罪者だった。
 11名が死刑を宣告され、多数は長期の禁固刑だった。
 この裁判は、国家による寛大な処置を期待することはできないという、全ての知識人たちに対する警告として役立った、ということになった。
 Solzhenitsyn は訴訟手続の記録を見事に分析し、ソヴィエト体制のもとでの法的諸観念の絶対的な頽廃を描いてみせた。//
 (18)犠牲者の誰もがボルシェヴィキ党員ではなかった間は、党指導者の誰かが、いずれかのときに、抑圧や明らかに偽りの裁判に対して異議を申立てたり、または妨害を試みたりした、とするいかなる証拠もない。
 反対派集団は、献身的な党活動家だった自分たちの仲間にまでテロルが及んできたとき初めて、苦情を訴え始めた。
 しかし、そのときまでには、苦情は無意味になっていた。
 警察機構は完全に、スターリンとその補助者たちの掌中にあった。そして、下部については、それが党の官僚機構に先行していた。
 しかしながら、警察が党全体を統制していた、と言うことはできない。なぜなら、スターリンは、警察のではなく党の最頂部にいた間ずっと、至高の存在として支配した。彼が党を統治したのは、まさに警察を通じて、なのだ。//
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 第1節終わり。第2節へとつづく。

1807/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑦。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第7回。
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 第二章/第2節・ボルシェヴィキ。
 二月革命のとき、事実上全てのボルシェヴィキ指導者は、外国に亡命しているかロシア帝国の遠い地方に追放されていた。ボルシェヴィキがロシアの参戦に反対しただけではなくてロシアの敗北が革命のために利益になると主張したたために、一まとめになって拘束されたのだ。
 スターリンやモロトフを含むシベリアに追放されたボルシェヴィキ指導者は、中では最初に首都に戻った。
 しかし、ヨーロッパに亡命していた指導者たちが帰るのははるかに困難な状況にあった。何しろ、ヨーロッパは戦争中だったからだ。
 バルト地域を経て帰還するのは危険で、連盟諸国の協力を必要とした。一方で、陸上のルートは敵国の領土内を走っていた。
 にもかかわらず、レーニンとエミグレ社会の他の者たちは、切実に戻りたかった。
 そして、仲介者によって行われた交渉の後で、ドイツ政府は彼らに封印列車でドイツを縦断する機会を与えた。
 戦争に反対しているロシアの革命家たちをロシアに帰還させるのは、明らかにドイツの利益だった。しかし、政治的に妥協する危険を冒して帰ってよいのかと革命家たちは慎重に衡量しなければならなかった。
 レーニンは、主としてボルシェヴィキのエミグレの一団とともに、危険を冒すことを決断し、3月末頃に出発した。
 (スイスにいたロシア革命家たちのより多数のグループは、ほとんど全てのメンシェヴィキを含んでいたが、慎重に考えて待つことに決めた。-これは、レーニンの旅が引き起こした論争と責任追及を全て回避できたので、賢明な行動だった。
 このグループは、一ヶ月のちに、ドイツとの同様の取り決めによって、第二の封印列車でつづいた。)//
 4月初めにレーニンがペテログラードに戻る前に、シベリアに追放されていた者たちはすでにボルシェヴィキ組織を再建し、新聞を発行し始めていた。
 この時点で、他の社会主義者グループのようにボルシェヴィキは、ペテログラード・ソヴェトの周囲にある緩やかな連携の中で漂っている徴候を示していた。
 しかし、ソヴェトのメンシェヴィキとエスエルの指導者たちはレーニンが悶着の種だったことを忘れておらず、憂慮しつつレーニンの到着を待った。
 それは正当なことだったと分かることなる。
 4月3日、レーニンがペテログラードのフィンランド駅で列車から降りたとき、彼はソヴェトの歓迎委員会に素っ気なく反応し、群衆に向かって反対者を不快にする耳障りな声で若干の言葉を発した。そして突然に離れて、ボルシェヴィキ党の仲間たちとの私的な祝宴と会合に向かった。
 レーニンは明らかに、かつての党派的な習癖を失っていなかった。
 かつての政治的対立者を革命の勝利という栄光の仲間だと受け容れる、この数ヶ月にはしばしばあった愉快な感情の一つの徴候も、彼は示さなかった。//
 歴史上四月テーゼとして知られる、政治情勢に関するレーニンの評価は、戦闘的で、非妥協的で、明らかにペテログラードのボルシェヴィキたちを不安にさせるものだった。彼らは、躊躇しつつも社会主義の一体性というソヴェトの基本方針を受容し、新政府を批判的に支持する立場にいた。
 二月に達成したことを承認すべく立ち止まることをほとんどしないで、レーニンはすでに、革命の第二の段階、プロレタリア-トによるブルジョアジーの打倒、を目指していた。
 レーニンは、臨時政府を支持してはならない、と述べた。
 団結という社会主義者の幻想や新体制への大衆の「無邪気な信頼」を、破壊しなければならない。
 ブルジョアの影響力に屈服している現在のソヴェト指導部は、使い物にならない(ある演説でレーニンは、ローザ・ルクセンブルクによるドイツ社会民主党の戯画化を借用して、ソヴェト指導部を「腐臭を放つ死体」だと呼んだ)。//
 にもかかわらずレーニンは、ソヴェトは-再活性化した革命的指導部のもとで-ブルジョアジーからプロレタリア-トへの権力の移行にとってきわめて重要な組織になるだろうと予見した。
 レーニンの四月テーゼのスローガンの一つである「全ての権力をソヴェトへ!」は、実際には、階級戦争の呼びかけだった。
 「平和、土地、パン」は四月の別のスローガンだったが、同様に革命的な意味合いがあった。
 レーニンの言う「平和」は、帝国主義戦争から撤退することだけではなくて、その撤退は「資本主義の打倒なくしては…<不可能>だ」と認識することをも意味した。
 「土地」は、土地所有者の資産を没収し、農民が自分たちにそれを再配分することを意味した。-農民の随意による土地取得にきわめて近いものだった。
 「革命的民主主義のど真ん中で内戦の旗を掲げている」というレーニンに対する批判が生じたのは、不思議ではなかった。(10)//
 レーニンの見方と指導性を尊重してきたボルシェヴィキは、彼の四月テーゼに衝撃を受けた。ある者は、レーニンは国外にいる間にロシアの生活の現実に関する感覚を失ったのではないかと考えた。
 しかし、レーニンの訓戒と叱責を受けて数ヶ月のうちに、ボルシェヴィキは社会主義者の連立から離脱するという、より非妥協的な立場へと移行した。
 しかしながら、ボルシェヴィキなくしてもペテログラード・ソヴェトの多数派は形成されていたので、「全ての権力をソヴェトへ!」というレーニンのスローガンはボルシェヴィキに実践的な行動指針を与えはしなかった。
 レーニンの戦略は秀れた政治家のそれだったのか、それとも偏頗な過激主義者-古い社会主義者のプレハノフの左翼側の対応者-のそれだったかは、未解明の問題であるままだ。プレハノフは、戦争問題に関する留保なき愛国主義のために、ロシアの社会主義者政治家の主流から外された。//
 かつての偏狭な不一致を抑えることを誇りとする、ソヴェトに関係するたいていの政治家には、社会主義者の一体性の必要は自明のことだと思われた。 
 6月、ソヴェトの第一回全国大会の際、ある発言者が否定の返答を想定して修辞的に、いずれかの政党に単独で権力の責任を負う用意があるだろうかと問うたとき、レーニンは「その政党はある!」と言って遮った。
 しかし、ほとんどの大会代議員にとって、それは真面目な挑戦ではなく虚勢のように聞こえた。
 しかしながら、、ボルシェヴィキは民衆の支持を得つつあり、連立する社会主義者は失いつつあったので、真面目な挑戦の言葉だった。//
 6月のソヴィエト大会の際にはボルシェヴィキはまだ少数派で、大都市での選挙でさらに勝利しなければならなかった。
 しかし、ボルシェヴィキの強さが大きくなっていることはすでに草の根レベルで-労働者の工場委員会、軍隊内の兵士・海兵委員会および大きな町の地方的地区ソヴェトで-明白だった。
 ボルシェヴィキの党員数も、劇的に増加していた。党は大衆的に入党させる運動をする正式の決定をしておらず、多数の流入にほとんど驚いたように見えたけれども。
 党員の数は、確実なものではなくておそらく実際よりも誇張されてはいるが、その拡大をある程度は示している。すなわち、二月革命のときのボルシェヴィキ党員は2万4000人(この数字は、ペテログラードの党組織は2月には実際には約2000人だと識別しており、モスクワの組織は同じく600人なので、とくに疑わしい)、4月の終わり頃に10万人以上、そして1917年十月には総計で35万人だった。これには、ペテログラードおよびその近郊地方の6万人、モスクワおよびそこに近い中央工業地域での7万人が含まれる。(11)
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 (10) V. I. レーニン, 全集(Moscow, 1964)24巻p.21-26。レーニンが引用する批判者は、Goldenberg。
 (11) 党員の数字に関する注意を払った分析として、T. H. Rigby, <ソヴェト同盟の共産党員-1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), Ch. 1.を見よ。
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 第3節・民衆の革命。
 1917年の初頭に、軍には700万の男たちがおり、200万人の予備兵もいた。
 軍隊は多大な損失を被り、脱走率の増大や前線でのドイツ人との交流への反応から見て戦争疲れのあることは明確だった。
 兵士たちから見て二月革命とは戦争がまもなく終わるという暗黙の約束で、彼らは臨時政府が-主導しなくともペテログラード・ソヴェトの圧力によって-それを実現するのを辛抱強く待った。
 1917年の早春に、選出された委員会という新しい民主主義的構造をもち、不十分な供給という昔からの問題を抱え、そして不安で不確実な雰囲気のあった軍は、せいぜいのところ、有効性の疑わしい戦闘部隊だった。
 前線では、志気が完全に喪失していたというわけではなかった。
 しかし、予備兵団が駐留している、国の周囲の守備軍団の状況は、かなり険悪なものだった。//
 1917年のロシアの兵士と海兵たちは、伝統的に、制服を脱いだ場合の職業を無視して、「プロレタリア-ト」に分類されてきた。
 実際には入隊している者たちのたいていは、農民だった。バルト艦隊や北部および西部の前線の部隊では、彼らが入隊した地域が比較的に工業化されていたために、不均衡に労働者が多かったけれども。
 マルクス主義の概念上は、軍隊の兵士たちは現在の仕事を理由としてプロレタリア-トだということは、議論の余地がある。しかし、より重要なのは、この問題は明らかに、彼らはどのように自分たち自身のことを意識していたのか、だ。
 Wilderman の研究が示すように (12) 、1917年春に前線にいた兵士たちは-革命と新しい行動規範を受け入れる将校たちと協力する心づもりがあったときですら-、将校と臨時政府は一つの階級、「ご主人」の階層に属していると考え、自分たちの利益は労働者やペテログラード・ソヴェトのそれと一体のものだとみなしていた。
 5月までに、最高司令官が警戒して報告したように、将校と兵士たちの間の「階級対立」が軍の愛国的連帯精神の中に深く浸入していた。//
 ペテログラードの労働者は2月に、革命的精神をすでに力強く示した。「ブルジョア」的臨時政府の設立に抵抗するほどに十分に戦闘的で、その心理的な用意があったわけではなかったけれども。
 二月革命後の最初の数ヶ月、ペテログラードその他で表明された不満は経済的なもので、一日八時間労働(戦時という非常時を根拠にして臨時政府はこれを拒否した)、賃金、超過勤務、および失業に対する保護のような日常的問題に焦点を合わせていた。(13)
 しかし、ロシア労働者階級にある政治的戦闘性の伝統からして、この状態がつづいていく保証はなかった。
 戦争が労働者の構成を変えたというのは本当のことだ。労働者の全体数がいくぶんは増大したのはもちろんだが、女性の割合も大きく増えた。
 女性労働者は男性よりも革命的ではないと、通常は考えられてきた。
 だが、国際女性日でのストライキが二月革命のきっかけになったのは、女性労働者だつた。また、前線に夫をもつ女性労働者たちは、戦争の継続に反対する傾向がとくに強かった。
 ペテログラードは、熟練技術をもつ男性労働者が徴兵義務を免除された軍需産業の中心地として、戦前からの男性労働者階級のうちの比較的に大きな割合を、工場に雇用していた。 
 戦争初期のボルシェヴィキの摘発にもかかわらず、また、その後の、工場にいる多数の政治的問題者の逮捕や軍事召集にかかわらず、ペテログラードの大きな冶金や防衛の工業施設は、ボルシェヴィキや他の革命的諸政党に所属する、驚くべきほどに多くの労働者を雇用し続けていた。戦争勃発の後でウクライナやその他の帝国部分から首都にやって来た、ボルシェヴィキの職業的な革命家をもすら。
 他の革命的労働者たちは、二月革命後に工場に戻った。そのことは、さらなる政治不安の潜在的可能性を増大させていた。//
 二月革命は、ロシアの工業中心部全てに、とくにペテログラードとモスクワに、労働者の力強い陣容を生み出した。
 労働者ソヴェトはペテログラード・ソヴェトのような都市レベルだけではなく、より下位の都市的地域でも設立された。後者では、指導部が社会主義的知識人ではなくて、通常は労働者自身で成っており、その雰囲気はしばしばより急進的だった。
 新しい労働組合も、結成された。そして、労働者たちは、工業施設レベルで、経営にかかわるべく工場委員会を設立し始めた(これは労働組合組織の一部ではなく、ときには地方の労働組合支部と共存した)。
 最も草の根に近い工場委員会は、全ての労働者組織の中で最も急進的になる傾向にあった。
 ペテログラードの工場委員会では、ボルシェヴィキが1917年5月までに、支配的地位を獲得した。//
 工場委員会の元来の機能は、資本家による工業施設の経営に対する労働者のための監視者(watchdogs)であることだった。
 この機能を表現するために使われた言葉は「労働者による統制(control)」(rabochii kontrol)で、経営上の意味での統制(支配)ではなくて監視(supervision)を含意させていた。
 しかし、工場委員会は実際には、しばしばさらに進んで、経営上の機能も奪い取り始めた。
 ときには、これは雇用や解雇の統御をめぐる紛争にかかわった。あるいは、いくつかの工業施設で労働者が人気のない作業長や幹部を手押し車に押し込んだり、川に投げ込んだりするに至る一種の階級対立の産物になった。
 別の例で言うと、工場委員会は、所有者または経営者が金がかかるとの理由で工業施設を放棄したり、閉鎖すると脅かしたときに、労働者を失業から守るために事業を引き継いだ。
 このような事例がより一般的になってくるにつれて、「労働者による統制」の意味は、労働者による自己経営のようなものに接近してきた。//
 労働者の政治的雰囲気がより戦闘的になり、ボルシェヴィキが工場委員会での影響力を獲得するにつれて、このような変化が生じた。
 戦闘性とは、ブルジョアジーに対する敵意と労働者の革命における優越性を意味した。変化した「労働者による統制」の意味が、労働者は彼らの工業施設の主人であるべきだというのと全く同じように。こうして、「ソヴェトの権力」とは労働者は地区、都市およびおそらくは国家全体の単一の主人であるへきだということを意味するという考えが、労働者階級に出現してきた。
 これは政治理論としては、ボルシェヴィズムよりもアナキズムやアナクロ・サンディカリズムに近いものだった。そして、ボルシェヴィキの指導者たちが、工場委員会やソヴェトを通じての労働者による直接民主主義は党が指導する「プロレタリア-トの独裁」という彼ら自身の考え方に至るあり得るまたは望ましい選択肢の一つだという見方に、実際に賛同したのではなかった。
 にもかかわらず、ボルシェヴィキは現実主義者だった。そして、1917年夏の政治的現実はその党が工場委員会の強い支持を得ているということであり、彼らはその支持を失うのを欲しはしなかった。
 その結果として、ボルシェヴィキは、何を意味させるのかを厳密には定義しないままで、「労働者による統制」を擁護した。//
 使用者たちは、大きくなる労働者階級の戦闘性に対して警告を発した。多くの工業施設が閉鎖され、ある著名な実業家は用心深く、「飢えて痩せた手」は最後には都市労働者が秩序を回復する手段になるかもしれない、という意見を表明した。
 しかし、田園地域では、土地所有者の農民層に対する警戒と恐怖の方がはるかに強かった。
 二月のときに村落は平穏で、若い農民の多くは、兵役へと徴用されていたためにいなかった。
 しかし、5月までに、明らかに田園地域は、都市革命に反応して1905年にそうだったように、騒乱に陥った。
 1905-6年でのように、地主の邸宅は略奪されて燃やされた。
 加えて、農民たちは私有地や国有地を自分たちが使うために奪取していた。
 夏の間、騒擾が多くなったときに、多数の土地所有者が資産を放棄して田園地域から離散した。//
 ニコライ二世は、1905-6年反乱の後でも、地方の役人や土地所有貴族の意見がどうであれロシアの農民はツァーリを敬愛しているという考えに縋りついていた。しかし、多数の農民は君主制の崩壊と二月革命の報せに、それと全く異なる反応をした。
 農民ロシア全体で、新しい革命は貴族たちのかつての不当な土地に関する権限を破棄したことを意味する-または意味させるべきだ-と想定されていたように見える。
 土地は耕作する者に帰属すべきだと、農民たちは春に、臨時政府に対する夥しい請願書で書いた。(14)
その具体的言葉で農民たちが意図したのは、農奴のごとく貴族のために耕作してきた、そして農奴解放の取り決めによって土地所有貴族が保有している土地を自分たちが取得すべきだ、ということだった。
 (この土地の多くは当時には土地所有者から農民に賃貸されていた。別の事例では、雇用労働者として地方の農民を使って、土地所有者が耕作していた。)//
 農民たちが半世紀以上前の農奴制時代に溯る土地に関する考え方を抱いていたとすれば、ストリュイピンが第一次大戦前に実施した農業改革が農民の意識にほとんど影響を与えなかったというのは、何ら驚くべきことではない。
 まだなお、1917年に、農民の<ミール>が明らかに活力を有していることは、多くの人々には衝撃だった。
 マルクス主義者たちは1880年代以降、<ミール>は基本的には内部的に解体しており、国家がそれを有用な装置だと考えただけの理由で存続している、と主張してきた。
 紙の上では、ストリュイピンの改革の効果によって欧州ロシアの村落の相当程度に高い割合で<ミール>は解体することになっていた。
 だが、それにもかかわらず、<ミール>は明らかに、1917年の農民の土地に関する思考における基本的な要素だった。
 請願書で彼らは、貴族たち、国家および教会が保有している土地の平等な再配分を求めた。-つまり、<ミール>が村落の田畑に関して伝統的に行ってきた村落世帯間での平等な再配置と同じ種類のものを。
 1917年夏に非合法の土地略奪が大規模で始まったとき、その略奪は個々の農民世帯のためではなくて村落共同体のために行われた。そして、一般的な態様は、かつての土地を伝統的に分割してきたように<ミール>がすみやかに村民へと新しい土地を分割する、というものだった。
 さらに加えて、しばしば<ミール>は、かつての構成員に対するその権能を、1917-18年にあらためて主張した。すなわち、戦前に<ミール>に自立小農民として身を立てる力を残したストリュイピンの「分割者」は、多くの場合は彼らの保有物をもう一度、村落の共有地に戻して、それと一体となるように強いられた。//
 土地問題の深刻さや1917年春以降の土地奪取に関する報告にもかかわらず、臨時政府は、土地改革の問題を先送りにした。
 リベラルたちは、原理的には私有地の収奪に反対ではなかった。そして、一般的には農民の要求は正当なものだと考えていたように見える。
 しかし、いかなる急進的な土地改革も、明らかに重大な問題を惹起させただろう。
 第一に、政府は、土地の収奪と譲渡のための複雑な公職機構を設定しなければならなかっただろう。それはほとんど確実に、当時の行政上の能力を超えるものだった。
 第二に、政府は、たいていのリベラルたちが必要だと考えていた土地所有者に対する多額の補償金を何とかしでも支払うことはできなかっただろう。
 臨時政府の結論は、立憲会議が適正に解決するまで、問題を棚上げするのが最善だ、というものだった。
 その間に、政府は農民に対して(ほとんど役に立たなかったけれども)、かりにでも一方的に制裁することはない、と通告した。//
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 (12) Wilderman, <ロシア帝国軍隊の終焉>。1917年2月-4月の軍というその中心主題に加えて、この書物は、二月の権力移行に関する利用可能な最良の分析の一つを提供している。
 (13) Marc Ferro, <1917年2月のロシア革命>, J. L. Richards 訳(London, 1972), p.112-121.
 (14) 多様な民衆の反応について、Mark D. Steinberg, <革命の声-1917年>(New Haven & London, 2001)にある資料文書を見よ。
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 第二章(二月と十月の革命)のうち第2節(ボルシェヴィキ)と第3節(民衆の革命)の試訳が終わり。

1806/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑥。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第6回。
 注記-the (a) Constituent Assembly は「憲法制定会議(-議会)」とするのが<定訳>のようでもあるが、ここでは「立憲会議」という語で訳出する。予定されていた会議(集会)は「憲法」制定を目的にしたものではなく(正確には「国制」の基本的あり方を決定するためのものであり)、ボルシェヴィキを含む各政党・党派が各党独自の「憲法草案」を用意して競った、というものでは全くないからだ。
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 第二章・二月と十月の革命。
 (はじめに)

 1917年2月、民衆の集団示威行進と体制への支持の撤退を見て、専制体制は崩壊した。
 革命の高揚感からして、政治的解決の方策は簡単であるように見えた。
 ロシアの将来の統治形態は、もちろん民主政的(democratic)だっただろう。
 この曖昧な言葉とロシアの新しい国制(constitution)の性格の正確な意味は、情勢が許すかぎりですみやかにロシア民衆が選出する立憲会議(the Constituent Assembly)が決定するだろう。
 それまでの間は、エリートの革命と民衆の革命とが共存するだろう。1905年の国民の革命的連帯という栄光の日々にそうだったように。-前者の範疇にはリベラル政治家たち、有資産階層と専門家階層、および上級官僚層が入り、後者の範疇には、社会主義政治家たち、都市的労働者階級および兵士や海兵という軍人たちが入る。
 制度の観点から言うと、新しい臨時政府(Provisional Government)はエリート革命を代表し、新たに再生したペテログラード・ソヴェトは民衆の革命を代弁するだろう。
 これら二つの関係は、競争的ではなくて補完し合うものだろう。そして、「二重権力」(dual power)(この語は臨時政府とソヴェトの共存を示すために使われた)は、弱さではなくて強さの淵源になるだろう。
 ロシアのリベラルたちは結局のところ、社会主義者たちを同盟者だと見なす傾向に伝統的にあった。社会主義者たちの社会改革への特別の関心は、政治的民主主義化というリベラルたち自身の特別の関心と類似していて、併存可能だったのだ。
 同じように、ロシアのたいていの社会主義者には、リベラルたちを同盟者だと見なす心づもりがあった。リベラルたちは、ブルジョア的でリベラルな革命が政治課題の第一段階で、社会主義者は専制体制に反対する闘いでそれを支援せざるを得ないという、マルクス主義の考え方を受容していたのだから。//
 だが8ヶ月以内に、二月の希望と期待は、朽ち果てた。
 「二重権力」は、権力の真空を覆い隠す幻想だと分かった。
 民衆革命は、徐々に過激になっていった。一方でエリート革命は、財産、法と秩序を守ろうとする不安気で保守的な立場の方向へと動いた。
 臨時政府は、将軍コルニロフ(Kornilov)による右からのクーの試みを辛うじて生き延び、10月のボルシェヴィキによる左からの成功したク-には屈服した。後者は一般的には、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンを連想させた。
 長く待った立憲会議は召集されたが、1918年1月にボルシェヴィキが無作法に解散させたので、何ごとも達成されなかった。
 ロシアの周縁部では、旧帝制軍の将校たちがボルシェヴィキと闘う勢力を集結させていた。ある範囲の者たちは、1917年に永遠に消失したと思われた君主制の旗のもとにいた。
 革命は、リベラルな民主政体をロシアに生み出さなかった。
 その代わりに、アナーキー〔無政府状態〕と内戦とをもたらした。//
 民主主義の二月から赤い十月への一気の推移は、勝者と敗者のいずれをも驚かせた。
 ロシアのリベラルたちには、衝撃は巨大だった(traumatic)。
 革命がついに起きた-<彼らの>革命は、西側ヨーロッパの歴史が明確に例証し、正当に思考するマルクス主義者すら同意するように正しいはずのものだった。しかしその革命は、彼らの手中から、邪悪で理解し難い勢力が奪い去っていっただけだった。
 メンシェヴィキとその他の非マルクス主義者たちは、同様にひどく憤慨した。すなわち、プロレタリア-トの社会主義革命には、時機がまだ成熟していない。マルクス主義政党がルールを破って権力を奪取するなどとは、釈明することができないことだ。
 ヨーロッパでの戦争の仲間である連盟諸国は、突然の政府崩壊に呆然として新政府の承認を拒絶した。このことは、ロシアを戦争から一方的に閉め出す用意をすることだった。
 外交官たちは、ロシアの新しい支配者の名前すらほとんど知らなかった。しかし、最悪のことの発生を疑い、彼らが2月に歓迎した民主政の希望がすみやかに復活するようにと祈った。
 西側の新聞の読者は、文明化から無神論の共産主義(Communism)という野蛮な深みへとロシアが崩落したことを、恐怖とともに知った。//
 十月革命が残した傷痕は深かった。そしてそのことは、ボルシェヴィキの勝利に続いた内戦の間または直後に国外逃亡した多数の教養あるロシア人によって、外部世界にもより痛ましくかつより理解できるようになった。
 エミグレたちにとって、ボルシェヴィキ革命はギリシャの意味での悲劇だというよりもむしろ、予期していない、不当で、本質的には不公正な災難だった。
 西側の、とくにアメリカの世論にとって、ロシアの民衆はそのために長く高潔に闘ってきたリベラルな民主主義に欺されたように思えた。
 ボルシェヴィキの勝利を説明することのできる陰謀論が、広い範囲で信憑性を獲得した。
 そのうち最も知られているのは、国際的なユダヤ人による陰謀だとの説だった。トロツキー、ジノヴィエフおよび多くの他のボルシェヴィキ指導者はユダヤ人だったのだから。
 だが、Solzhenitsyn の<チューリヒのレーニン>が蘇らせた別の論は、ボルシェヴィキはドイツの人質だったと描き、ドイツは〔ボルシェヴィキを使って〕ロシアを戦争から追い出す策略に成功した、とする。
 もちろん歴史研究者は、陰謀論には懐疑的な傾向にある。
 しかし、このような議論が盛んになることを可能にした感じ方は、この問題に対する西側の学問的接近方法にも影響を与えた。
 ほんの最近まで、ボルシェヴィキ革命に関する歴史的説明は、何らかの方法でその非正統性を強調した。まるで、事件とその結末について、ロシアの民衆をいかなる責任からも免れさせようとしているかのごとく。//
 ボルシェヴィキの勝利とその後のソヴィエト権力の展開に関する西側の古典的解釈によると、<問題解決の神>(deus ex machina)は、党の組織と紀律という、ボルシェヴィキの秘密兵器だった。
 レーニンの小冊子<何をなすべきか>(上述、p.32参照)は非合法の陰謀的政党が成功するための組織に関する必要条件を述べたもので、基本的なテキストとしてつねに引用された。
 そして、<何をなすべきか>が示した考え方は成長期のボルシェヴィキ党の型を形成し、1917年2月の地下からの最終的な出現の後ですらボルシェヴィキの行動を決定し続けた、と主張された。
 ロシアでの二月以降の開かれた民主主義的な多元主義的政治は、それゆえに弱体化し、陰謀組織による十月のクーによるボルシェヴィキの非合法の権力奪取でもって頂点に達したのだ、と。
 中央志向の組織と厳格な党紀律というボルシェヴィキの伝統によって、新しいソヴィエト体制は抑圧的な権威主義の方向へと向かい、のちのスターリンの全体主義的独裁制の基礎を設定した、と。(1)
 だが、ソヴィエト全体主義の起源というこの一般的な考えを1917年の二月と十月の間に展開した特有の歴史的状況へと適用するのは、つねに問題があった。
 第一に、かつての秘密結社的ボルシェヴィキ党には新しい党員が大量に流入した。とくに工場や軍隊からの新規加入は、他の全ての政党を凌駕していた。
 1917年の半ばまでに、ボルシェヴィキ党は開かれた大衆政党になっていて、<何をなすべきか>で叙述された一日中を働く革命家たちの紀律あるエリート組織とはほとんど似ていなかったのではないか?
 第二に、党全体も党指導者も、1917年の最も基本的な政策問題に関して一致していなかった。
 例えば10月に、蜂起が望ましいか否かに関して党指導者内部に大きな不一致があったために、その論点についてボルシェヴィキは、日刊新聞上で公的に議論した。//
 1917年のボルシェヴィキの力強さは厳格な組織と規律にあるのではなく(当時はほとんど存在しなかった)、政治の射程での極左に位置する頑強な急進主義だった、と言えるかもしれない。
 他の社会主義やリベラルのグループは、臨時政府やペテログラード・ソヴィエト内での地位を求めて競い合った。一方でボルシェヴィキは、選任されるのを拒み、連立と妥協の政策を非難した。
 従前は急進的だった他の政治家は節度と責任を、そして政治家らしい指導力を求めた一方で、ボルシェヴィキは、責任がなくかつ戦闘的な革命的群衆とともに街頭に出ていた。
 「二重権力」構造が解体し、臨時政府とペテログラード・ソヴェト指導層に代表される連立諸党派への信頼が失墜したとき、ボルシェヴィキだけが利益を得る立場にあった。
 社会主義諸政党の中で、ボルシェヴィキだけがマルクス主義者としての良心の咎め(scruples)を抑制し、群衆の空気を掴み、プロレタリア革命の名のもとで権力を奪取する気概があることを宣言した。//
 臨時政府とペテログラード・ソヴェトの「二重権力」関係は、階級の観点から、ブルジョアジーとプロレタリア-トの間の同盟だとつねに考えられてきた。
 それの存続は、これら両階級やそれらを代表すると主張する政治家たちの間の継続的な協力関係に依存していた。
 しかし、二月の脆弱な合意は、1917年夏までには深刻なほどに掘り崩されていた。
 都市社会が法・秩序の右派と革命的左派にますます分極化していったとき、民主主義的連立という中間的な基盤は、粉々になり始めた。
 7月、労働者、兵士および海兵はペテログラードの街頭に出現して、ソヴェトが労働者階級の名前で権力を奪取することを主張し、臨時政府の「10人の資本主義大臣」を非難した。
 8月、コルニロフ将軍のクーが失敗した月、指導的な実業家はリベラル派に対して、自分たちの階級利益を守るためにもっと断固であれと、つぎのように迫った。
 『我々は…、現在の革命はブルジョア革命であり、現に存在しているブルジョア秩序は不可避だ、と言うべきだ。そして、不可避であるがゆえに、完璧に論理的な結論を導出しなければならず、国家を支配する者はブルジョア的様式で思考し、ブルジョア的様式で行動しなければならない。』(2)
 「二重権力」は立憲会議が招集されるまでの暫定的な仕組みだと考えられていた。
 しかし、左派と右派からの攻撃を受けてそれが解体し、ロシアの政治がいっそう分極化したことは、1917年半ば頃、現時点に関してはもちろんのこととして将来に関する憂慮すべき問題を生じさせた。
 ロシアの政治的諸問題は民衆により選出される立憲会議と西側モデルによる議会制民主主義の形式的な制度化によって解決することができる、という望みは、まだ合理的だったのか?
 立憲会議による解決は、暫定的な「二重権力」のように、ある程度の政治的な一般的合意と妥協が必要であることについての了解を必要とした。
 合意と妥協に至る、気づかれていた代替選択肢は、独裁制や内戦だった。
 しかしながら、これらの代替案は、政府の手綱を放り捨てた、動揺して鋭く分極化した社会によって選択されそうに見えた。//
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 (1) この議論に関する批判的な歴史編集的考察として、Stephen F. Cohen, <ボルシェヴィズムとスターリニズム>, in: Robert C. Tucker, ed., <スターリニズム>(New York, 1977)を見よ。
 (2) W. Rosenberg, <ロシア革命におけるリベラル派>(Prinston, NJ, 1974)p.209 から引用した。
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 第1節・二月革命と「二重権力」。
 2月の最終週、食糧不足、ストライキ、ロックアウト、そして最後にヴィボルク地区での女性労働者による国際女性日記念の集団示威行進が、群衆をペテログラードの街頭へと送り込んだ。これを当局は、解散させることができなかった。
 会期の最後に達していた第四ドゥーマは皇帝に対して、責任ある内閣の再度の設置と危機存続中の会期延長とを懇願した。
 いずれの要望も、拒否された。
 しかし、カデット党内リベラル派および進歩派が支配していたドゥーマの無権限の委員会は、実際は開会中のままだった。
 皇帝の閣僚たちは最後の、何も決定しない会合を開き、そして逃げ去った。彼らのうちの用心深い者は、即時に首都を離れた。
 ニコライ二世自身は出席しておらず、モギレフ(Mogilev)にある軍最高司令部を訪れていた。
 危機に対する彼の反応は、騒擾はただちに終焉させるべしという、電報でのわずかな言葉による指示だった。
 しかし、警察は解体しつつあり、ペテログラード守備軍から群衆を統制すべく市内に派遣された兵士たちは、群衆に同調し始めた。
 ペテログラードの軍司令官は、革命的群衆が全鉄道駅、全銃砲施設、そして知る限りで市の全体を奪い取った、と報告しなければならなかった。
 彼の指示を受け入れる信頼できる兵団はほとんど残っていなかった。そして、彼の電話ですら作動しなくなっていた。//
 軍の最高司令部には、二つの選択肢があった。一つは新しい兵団を送り込むことだが、彼らは結束するかもしれないけれども、そうしない可能性もあった。もう一つは、ドゥーマの政治家の助けを借りて政治的解決を追求することだった。
 軍最高司令部は、後者を選択した。
 モギレフからの帰路にあったプスコフ(Pskov)で、ニコライの列車に最高司令部とドゥーマからの使者がやって来た。彼らはニコライに恭しく、皇帝位を放棄するように示唆した。
 若干の議論のあとで、ニコライは穏やかに同意した。
 しかし、最初は彼の子息へと譲位するという提案を受け容れたのだったが、皇太子アレクセイの健康をもう一度考えて、自分と子息のために退位するのではなく、弟のミハエル大公に譲位すると決断した。
 つねに家庭的だったニコライは、驚くべき平穏さをもって、また自分の私人としての将来に関する政治的無邪気さをもって残りの旅を過ごした。//
 『〔対ドイツ戦争という〕対立が続いている間は外国へ行こう、そしてロシアに戻り、クリミアに定住して、子息の教育に完全に没頭したい、と彼は言った。
 彼に対する助言者のある者は、彼はそうするのを許されるだろうかと疑った。しかし、ニコライは、子どもの世話をする権利を否定する親はどこにもいない、と答えた。』(3)//
(ニコライは首都に到着したあと、家族と一緒になるためにペテログラードの外に送られた。そのあと、臨時政府と連盟諸国が彼の処遇を決めようとしている間は、軟禁状態で静かにしていた。
 のちに家族全員がシベリアに、ついでウラルに送られた。まだ軟禁状態で、かつ状況はますます困難になっていたが、ニコライは強い精神力でそれに耐えた。
 1918年7月、内戦開始のあとで、ニコライとその家族は、ボルシェヴィキのウラル・ソヴェトの指令にもとづいて処刑された。(4)
 退位からその死のときまで、ニコライは実際に私人として振る舞い、積極的な政治的役割はいっさい果たさなかった。)
 ニコライの退位につづく日々、ペテログラードの政治家たちは、高度に興奮し熱狂的に行動する状態だった。
 彼らの元来の意図は、君主制ではなくてニコライを取り去ることにあった。
 しかし、ニコライのその子息への譲位は、アレクセイが未成年の間の摂政政治の可能性をも奪い取った。
 そして、賢明な人物のミハエル大公は、兄を嗣ぐという誘いに乗り気ではなかった。
 したがって、ロシアは事実上もはや君主制国ではなかった。//
 国家の将来の統治形態はいずれ開催される立憲会議(a Constituent Assembly)で決定される、それまでの間は自己任命の「臨時政府」が従来の帝国閣僚会議の責任を引き継ぐ、と決定された。
 ゼムストヴォ連盟の長で穏健なリベラルのルヴォフ(Georgii Lvov)公が新政府の長になった。
 彼の内閣には、歴史学者でカデット党の理論家のミリュコフ(Pavel Milyukov)が外務大臣として、二人の著名な実業家が財務大臣および通商産業大臣として、社会主義者の法律家であるケレンスキー(Aleksandr Kerensky)が司法大臣として入った。//
 臨時政府には選挙による委任(mandate)がなく、その権威は、今は消滅したドゥーマ、軍最高司令部の同意およびゼムストヴォ連盟や戦時産業委員会のような公共的組織との非公式の合意に由来した。
 旧帝制の官僚機構はその執行的機能を提供したが、先立つドゥーマの解体の結果として、臨時政府にはそれを支える立法機関がなかった。
 脆弱でありかつ形式上の正統性が欠けていても、新政府が権力を掌握することはきわめて容易であると思われた。
 連盟諸国はただちに、それを承認した。
 ロシアで一夜にして君主主義感情が消滅したように見えた。第十軍の全体と二人の将校だけが、臨時政府に忠誠を誓うことを拒否したのだ。
 リベラルのある政治家は、のちにこう振り返った。//
 『多くの個人や組織は、新権力への忠誠を表現した。
 Stavka〔軍司令部〕は全体として、それに続いて全ての司令官たちも、臨時政府を承認した。
 帝制期の大臣たちや副大臣の何人かは、収監された。しかし、その他の官僚たちはそれぞれの職にとどまった。
 各省、役所、銀行、実際にはロシアの政治機構の全体が、作動するのを止めなかった。
 この点では〔二月の〕クー・デタは順調に過ぎ去ったので、その当時ですら、これは終わりではない、こんな危機がこれほど平和裡に過ぎ去ることはありえない、という漠然とした胸騒ぎを覚えたほどだった。』(5)//
 実際、まさに最初から、権力移行の有効性を疑うことのできる理由はあった。
 最も重要なのは、臨時政府には競争相手があった、ということだ。すなわち、二月革命は、全国的な役割を主張する、一つではなく二つの自己形成的権威を生んだ。
 第二のものはペテログラード・ソヴェトで、労働者、兵士および社会主義政治家による1905年のペテルブルク・ソヴェトを範型として形成された。
 3月2日に臨時政府の設立が発表されたとき、ソヴェトはすでにタウリダ宮で会合をしていた。//
 臨時政府とペテログラード・ソヴェトの二重の権力関係は自然に明らかになってきたもので、政府はそう選択するしかなかったためにこれを広く受け容れた。
 最も現実的な面から述べると、自由にできる力を持たない10人ほどの大臣は、むさ苦しい労働者、兵士および海兵たちの群れから王宮(政府とソヴェト両者の最初の会合場所)を無事に通過することがほとんどできなかった。彼らは中をどしどしと歩き回り、外に向かって演説し、食べて、寝て、議論し、宣言文を書いていた。
 断続的にソヴェトの部屋に突入してきて、捕まえた警察官やかつての帝制期大臣を〔ソヴェトの〕代議員のもとに残していく、そのような群衆の雰囲気は、何とか通り過ぎようとの意図を萎えさせたに違いない。
 もっと広い観点からは、戦時大臣だったグチコフ(Guchkov)は3月初めに、軍の最高司令官に対してこう説明していた。//
 『臨時政府は、本当の(real)権力を何も持っていない。
 その公的な命令は、労働者・兵士代表ソヴェトが許す範囲でのみ実施される。ソヴェトは、本当の権力の本質的な要素を全て享有している。兵団、鉄道、郵便および電信、これらは全て、彼らの手中にあるからだ。
 平易に言うと、臨時政府は、ソヴェトが許容しているかぎりでのみ存在している。』(6)//
 最初の数ヶ月、臨時政府は主としてリベラルたちで構成されていた。一方、ソヴェトの執行委員会は社会主義者の知識人によって、党派所属上は主としてメンシェヴィキとエスエルによって占められていた。
 臨時政府の一員でありかつ社会主義者でもあるケレンスキーは、二つの組織を結び合わせるめに活動し、両者の間の連絡者として働いた。
 ソヴェトの社会主義者たちは、ブルジョア革命がその行程を終えるときまで労働者階級の利益を守るために、臨時政府に対する監視者(watchdogs)として行動するつもりだった。
 このようなブルジョアジーに対する敬意は、一つには、社会主義者が良きマルクス主義教育を受けていたからであり、二つには、警戒と不確実さの産物だった。
 ソヴェトのメンシェヴィキ指導者の一人であるスハノフ(Nikolai Sukhanov)が記したように、先には厄介なことが起きそうだった。そしてリベラルたちが責任をもち、必要ならば責めを甘受した方がよかったかもしれない。//
 『ソヴィエトの民主政は、権力を階級敵である有資産要素に託さなければならなかった。その者たちの関与がなければ、解体という絶望的状況で行政の技術を急に修得することはできなかったし、帝制主義者やそれと一体となったブルジョアジーをうまく処理することもできなかっただろう。
 しかし、この移行の<条件>は、近い将来での階級敵に対する完全な勝利という民主政体を確実にするものでなければならない。』(7)
 しかし、ソヴィエトを構成した労働者・兵士・海兵は、さほどに用心深くはなかった。
 臨時政府の公式の樹立またはソヴィエトでの「責任ある指導者層」の出現よりも前の3月1日、悪名高い命令第一号がペテログラード・ソヴェトの名前で発せられた。
 命令第一号は革命的文書で、ソヴィエトの権力を主張するものだった。
 それは、選挙された兵士委員会の設立による軍の民主主義化、将校の懲罰権限の削減、軍隊に関する全ての政策問題に関するソヴィエトの権限の承認を要求した。すなわち、ソヴィエトの副署がないかぎりは、いかなる政府のまたは軍の命令も有効ではない、と述べていた。
 命令第一号は、現実に将校をその地位に確保するための選挙の実施を要求するものではなかった。また、そのような選挙は実際には、より規則に則らない単位で組織されてきていた。
 そしてまた、数百人の海軍将校たちがクロンシュタットとバルティック艦隊の海兵によって二月の時期に拘束されて殺害された、という報告があった。
 ゆえに、命令第一号は、階級戦争を強調する意味をもつもので、階級の協力という展望についての保障を提供することは全くできなかった。
 これは、二重権力という最も機能できない形態を予兆した。つまり、軍隊に入った者たちはペテログラード・ソヴェトの権威だけを承認し、一方で将校団は臨時政府の権威だけを承認する、という状況の予兆だった。//
 ソヴィエトの執行委員会は、命令第一号が意味させていた急進的立場から退却をすべく最大限の努力をした。
 しかし、スハノフは4月に、執行委員会が事実上臨時政府と連立していることが生んだ「大衆からの孤立」について論評した。
 もちろんそれは、部分的な連立だった。
 ソヴィエト執行委員会と臨時政府の間では、労働政策や農民の土地要求の問題について、対立が頻出していた。
 また、ヨーロッパの戦争へのロシアの関与に関して、重要な不一致もあった。
 臨時政府は、戦争努力をしっかりと行い続ける立場だった。そして、外務大臣のミリュコフによる4月18日の覚書は、コンスタンチノープルとその海峡に対するロシアの支配の拡大(ツァーリ政府と連盟諸国とで調印された秘密条約で同意されていた)に利益を持ち続けることすら意味させていた。大衆的な抗議と新しい街頭示威行進によって、ミリュコフは辞任を余儀なくされた。
 ソヴィエト執行委員会は「防衛主義」の立場を採った。ロシアの領土が攻撃されている間は戦争継続に賛成するが、併合主義的戦争意図や秘密条約には反対する、というものだ。
 しかし、ソヴェトの側では-そして街頭、工場、とくに守備軍団では-、戦争に対する態度はより単純でかつ強烈なものになる傾向にあった。すなわち、戦闘をやめよ、戦争から抜け出せ、兵士たちを故郷に。//
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会と臨時政府の間に進展した関係は、1917年の春と夏には熱心で、親密で、そして議論を嫌がることがなかった。
 執行委員会は、その別々の主体性を用心深く守った。しかし、最終的には、二つの組織は緊密に結びついていたために、お互いの運命に無関心ではおれなくなり、あるいは、悪い事態が発生したときに相手から離れることができなくなった。
 連携は5月には強化された。その月に、臨時政府がリベラル派のものであることをやめ、ソヴェト執行委員会で最も重要な影響力をもつ大きな社会主義政党(メンシェヴィキとエスエル)の代表者たちを引き込むことによって、リベラル派と社会主義者との連立政権になったのだ。
 社会主義者たちは、政府に加わることに乗り気ではなかった。しかし、国民的な危機の時期に、ぐらつく体制を強化するのは自分たちの義務だと結論づけた。
 彼らは、ソヴェトは自分たちが政治行動をする、より自然な分野だと見なし続けた。とりわけ、社会主義者である新しい農務大臣と労働大臣がリベラル派の反対によって彼らの政策を実施することができないと明らかになったときには。
 しかしながら、象徴的な選択が行われていた。すなわち、臨時政府とより緊密に連携し合ううちに、「責任のある」社会主義者たちは(そして広く言えばソヴェト執行委員会は)、「責任のない」民衆革命から離れていっていた。//
 「ブルジョアの」臨時政府に対する民衆の反感は、戦争の疲労が増大し、都市の経済状況が悪化していたので、春遅くには高まった。(8) 
 7月に発生した街頭での集団示威行動(七月事件)の間、示威行進者たちは「全ての権力をソヴェトへ」と呼びかける旗を掲げていた。これが実際に意味したのは、臨時政府から権力を奪い取ることだった。
 逆説的にだが-政府に参加する趣旨からすると論理的にだが-、ペテログラード・ソヴェト執行委員会は、「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンを拒絶した。
 そして、実際、集団示威行進は、政府に対してと同様に現在のソヴェト指導部に対して向けられた。
 ある行進者は「おまえたち、与えられているときに、権力を奪え!」と社会主義政治家に向かって、拳を振り上げながら叫んだ。(9) 
 しかしこれは、「二重権力」の支持を誓った者たちには返答することができない訴え(あるいはおそらく脅迫?)だった。//
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 (3) George Katkov, <ロシア・1917年-二月革命> (London, 1967), p.444.
 (4) ニコライの最後の日々に関する資料的文書として、Mark D. Steinberg & Vladimir M. Khrustalev,<ロマノフ王朝の最後>(New Haven & London, 1995), p.277-366. を見よ。
 (5) A. Tyrkova-Williams, <自由からブレスト・リトフスクへ>(London, 1919), p.25.
 (6) Allan K. Wildman, <ロシア帝国軍隊の終焉>(Princeton, NJ, 1980), p.260. から引用した。
 (7) Sukhanov, <ロシア革命・1917年、i> p.104-5.
 (8) 地方での展開する状勢に関する生き生きとした説明として、Donald J. Raleigh, <ヴォルガでの革命>(Ithaca & London, 1986)を見よ。
 (9) Leonard Schapiro, <共産主義専制体制の起源>(Cambridge, MA, 1955), p.42, n.20. から引用した。
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 第二章(二月と十月の革命)のうち「はじめに」と第1節(二月革命と「二重権力」)の試訳が終わり。

1792/ネップと20年代経済⑥-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.41~p.44。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑥完。

 スターリンは、なぜそうしたのか? <この文、前回と重複>
 第一の選択肢が「歴史の法則」によって排除されていたわけではない。また、第二の途を進むべき宿命的な強制が働いたわけでもない。
 そうであるにもかかわらず、現実に選択された方向へと強く作動する論理(logic)が、ソヴィエト体制にあった。
 力をもったイデオロギーは、国家による統制のもとにあってすら、市場条件へと回帰することよりもはるかに、テロルを基礎とする奴隷経済と適合するものだった。
 巨大な民衆が経済的に多少とも国家から自立すれば、またある程度の自立性を自分たちのために国家に守らせたとしてすら、分かち難い独裁という理想(ideal)は、完全には実現され得ない。 
 しかしながら、マルクス=レーニン主義の教理は、完全に中央集権的な政治的および経済的な権力によってのみ社会主義を建設することができる、と教えた。
 生産手段に関する私的所有制の廃止は、人間の至高の任務であり、世界の最も進歩的な体制の主要な義務だ。
 マルクス主義は、プロレタリア-ト独裁を通じての、公民社会と国家の融合または同一化という展望を提示した。
 そしてそのような単一化へと至る唯一の方法は、全ての自発的な形態をとる政治的、経済的および文化的生活を絶滅させ(liquidate)、国家が押しつける形態へと置き換えることだ。
 スターリンはかくして、社会に対する彼の独裁を強固にすることにより、また、国家が課していない全ての社会的紐帯と労働者階級自体を含む全ての階級を破壊することにより、唯一の可能性のあるやり方でマルクス=レーニン主義を実現した。
 もちろんこの過程は、一夜にして終わったのではない。
 まず最初に、労働者階級を政治的に従属させること、次いで党をそうすること、が必要だった。ありうる全ての抵抗の粒を粉砕しなければならず、プロレタリア-トから自己防衛の全ての手段を剥奪しなければならなかった。
 党はこれを、最初に大多数のプロレタリア-トによって支持された権力をもつがゆえに行うことができた。
 政治的意識が高く闘争に習熟した古い労働者階級が内戦で死亡した、戦後の荒廃と窮乏が諦念と疲労を生み出した、とドイチャー(Deutscher)は強調する。しかし、そう単純ではない。
 党の成功はまた、プロレタリア-トの支持を得た時期を二つの方法で利用したことにもよる。
 第一に、党は、最も有能な労働者階級の一員を国家の職務の特権的な地位に昇らせた。そうして彼らを、新しい支配階層に変えた。
 第二に、党は、労働者階級の組織の現存形態全てを、とくに他の社会主義政党や労働組合を、破壊した。そして、そのような組織が生き残る物質的な手段を労働者が届く範囲から閉め出した。
 これらは全て、初期の段階でかつまったく手際よくなされた。
 労働者階級はかくして無力にされ、疲労だけではなく全体主義に進む急速な過程が、ときたま絶望的な試みはあったが、すぐ後に効果的な行動を起こすのを妨げた。
 この意味で、ロシアの労働者階級は、その個々の階級的出自とは無関係に、自らの専制君主を生み出した。
 同じようにして、知識人層も長年の間に、極左からの絶え間ない脅迫に直面して躊躇し、屈服することで、無意識に自分たちを破壊することとなった。//
 かくして、メンシェヴィキの予言は実現された。メンシェヴィキは1920年に、トロツキーによって表明された勇敢な新世界をエジプトの奴隷によるピラミッド建設になぞらえたのだった。
 トロツキーは、多くの理由で、自分のプログラムを達成するには適していなかった。
 スターリンが、トロツキー<を現実にしたもの>(in actu)だった。//
 新しい政策は、ブハーリンとその同盟者の政治的敗北を意味した。
 論争の最初の時点で、右翼はまだしっかりした政治的地位を占め、かなりの支持を党内に広げていた。
 しかし、彼らの全資産は総書記(the Secretary General)の権力とはまったく比べものにならないことがすぐに分かった。
 「右翼主義偏向」は、スターリンとその取り巻きが攻撃する主要な対象になった。
 ブハーリン派(the Bukhrinites)-たんなる個人的権力ではなく統治の原理のために闘った最後の反対集団-は、1929年のうちに、国家の官僚機構で占めていた全ての役職から排除された。
 このことは、左翼反対派が復活したということを決して意味しなかった。
 スターリンは数人には微少な義務を負わせたが、左翼反対派の誰も、元の役職に復帰しなかった。仕事のできるラデクは、数年間、政府の賛辞文作成者に据え置かれた。
 ブハーリン派は、左翼がかつてしたほどには、あえては党外に見解を公表しようとしなかった(彼らのときはそうする可能性がもっとあったけれども)。
 ブハーリン派はまた、「分派」活動を組織しようともしなかった。彼らが分派主義を痛罵し、党の一体性を称賛してトロツキーやジノヴィエフと闘って以降、「分派」活動は結局は短い期間だけのものだった。
 一党支配について言えば、左翼反対派も右翼もそれを疑問視しなかった。
 全ての者が、自分の教理と自分の過去に囚われていた。
 全ての者が、自分たちを破砕する暴力装置を創る意思をもって活動した。
 カーメネフとの連合を形成しようとのブハーリンの見込みなき試みは、彼の経歴の痛々しい終章にすぎなかった。
 1929年11月に、偏向者たちは悔悛を示す公開行動を演じたが、これすら、彼らを救わなかった。
 スターリンの勝利は、完全だった。
 ブハーリン反対派の崩壊は、党と国にある専制体制の勝利を意味した。
 1929年12月、スターリンの50歳誕生日は大きな歴史的行事として祝祭された。この日以降を我々は、「個人カルト」の時代と呼んでよい。
 1903年のトロツキーの予言は、現実のものになった。党の支配は中央委員会の支配になり、これはつぎに、一人の独裁者の個人的専制になった。//
 人口の4分の3を占めるソヴィエト農民の破壊は、世紀全体につづく経済的のみではない道徳的な厄災だった。
 数千万人が半奴隷状態へと落とし込まれ、数百万人以上がその過程を実行する者として雇われた。
 党全体が制裁者と抑圧者の組織になった。誰も無実ではなく、全ての共産党員が社会に強制力を振るう共犯者だった。
 かくして、党は新しい種の道徳上の一体性を獲得し、もはや後戻りできない途を歩み始めた。//
 このときにまた、残っていたソヴィエト文化と知識人界は系統的に破壊された。体制は、最終的な統合の段階に入っていた。//
 1929年から判決にもとづき殺害される1938年までのブハーリンの個人的運命は、ソヴィエト同盟やマルクス主義の歴史にとって重要ではない。
 敗北したあと彼は、最高経済会議のもとで調査主任としてしばらく働き、ときどき論文を発表した。それによって彼は、-ステファン・F・コーエン(Stephen F. Cohen)がその優れた人物伝で指摘するように-押し殺した批判をときおりは発しようとした。
 ブハーリンは中央委員会委員のままであり、公的に自説をさらに撤回した後で1934年に、<イズヴェスチヤ(Izvestiya)> の編集者になった。
 その年の8月の著述家大会で、当時にしては「リベラル」な演説を行い、1935年には、新しいソヴィエト憲法を起草する委員会の事実上の議長だった。この憲法文書は1936年に公布され、1977年まで施行された。この文書は、全部がではなくとも主に、ブハーリンの仕事だった。
 1937年2月に逮捕され、一連の怪物的な見せ物裁判の最後に、死刑が宣告された。
 伝記作者は彼を「最後のボルシェヴィキ」と呼ぶ。
 この叙述が本当なのか誤りなのかは、それに付着させる意味による。
 ボルシェヴィキという言葉で、新しい秩序の全ての原理-一つの政党の無制限の権力、党の「一体性」、他者の全てを排除するイデオロギー、国家の経済的独裁-を受諾する者を意味させるとすれば、本当だ。
 また、この枠の中で寡頭制または一個人による専制を避けること、テロルの使用なくして統治すること、そしてボルシェヴィキは権力を目ざす闘争の間に擁護した諸価値-すなわち、労働民衆またはプロレタリア-トによる統治、自由な文化の展開、芸術、科学および民族的伝統の尊重-を維持することは可能だと信じる者、を意味させているとすれば。
 しかし、かりに「ボルシェヴィキ」がこれら全てを意味するとすれば、その自らの前提から論理的帰結を導き出すことができない人間のことを、たんに意味している。
 他方、もしかりにボルシェヴィキのイデオロギーが一般論の問題にすぎないのではなく、自分の原理からする不可避の結果を受容することを含むとすれば、スターリンは、全てのボルシェヴィキやレーニン主義者と最も合致していた、と自らを正当に誇ることができる。//
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 以上で、第5節は終わり、第1章全体も終わり。叙述は第2章<1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立>へと移っている。

1780/スターリン・権力へ②-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.14~p.18。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇②。
 この時期にスターリンは民族問題に関する専門家として、自己決定は「弁証法的に」理解されなければならない(換言すると、それ以外ではなく党のスローガンに適応したものとして用いられなければならない)という旨を演説した。
 1918年初頭のソヴェトの第三回大会で彼は、適正に言えば自己決定とは「大衆」のためのもので「ブルジョアジー」のためのものではない、それは社会主義を目ざす闘いに従属しなければならない、と説明した。
 その年に公表した論文では、ポーランドとバルト諸国の分離は、これらの国々は革命ロシアと革命的西欧との間の障壁を形成するだろうから、反革命の動きであって帝国主義者の手中に嵌まる、と強調した。
 他方で、エジプト、モロッコまたはインドの独立を目ざす闘争は、帝国主義を弱体化することを意図しているので進歩的な現象だ、と。
 これら全ては完全に、レーニンの教理および党のイデオロギーと合致していた。
 分離主義運動は、ブルジョア政権に対して向かっていれば進歩的だ。しかし、ひとたび「プロレタリア-ト」が権力を手中にすれば、民族的な(national)分離主義は自動的にかつ弁証法的に、そのもつ意味を変化させる。それはプロレタリア国家、社会主義、そして世界革命に対する脅威なのだから。
 その定義からして社会主義は、民族的抑圧を行うはずがない。そうして、侵攻だと見えるものは、実際には解放のための行為なのだ。-例えば、スターリンの命令によって赤軍がジョージアの中へと進軍したときのように。ジョージアにはその当時(1921年)、代表制民主政体にもとづくメンシェヴィキ政府が存在していたのだが。
 こうしたことにもかかわらず、決して取り消されなかった民族自決権(自己決定権)というスローガンは、内戦でのボルシェヴィキの勝利に大きく貢献した。白軍の司令官たちは包み隠さず、自分たちの目的について、革命前の領土を少しも失うことなく一つで不可分のロシアを復活させることだ、と述べていたのだ。//
 スターリンがしたことはトロツキーのそれで覆い隠されているけれども、彼は内戦で重要な役割を果たした。
 この二人が対立する起源は、疑いなくこの時期にさかのぼる。この時期に、個人的な嫉妬と非難のし合い-誰が最もツァリツィン(Tsaritsyn)での勝利に貢献したのか、ワルシャワの前の敗北は誰の過ちによるのか、等々-があった。//
 スターリンは1919年に、労農監察部(the Workers' & the Peasants' Inspectorate)の人民委員になった。
 すでに述べたように、官僚制の侵入からソヴェト体制を守ろうとするレーニンの絶望的で見込みなき企てを、この組織は代表した。
 「純粋な」労働者と農民から成る監察部は、国家行政の他部門全てに対して監督する無制限の権限をもった。
 状況を改善するどころか、事態をさらに悪くした。この監察部には民主主義的な仕組みが欠けていたので、これはたんに大官僚組織に一列を付け加えたにすぎなかった。
 しかしながらスターリンは、これを利用して諸組織に対する自分の力を強化した。そして疑いなく、人民委員の地位にあったことは、彼が最高権力者へと昇りつめるのを助けることになった。//
 この段階で、独自性はなくとも重要な考察をしておくべきだろう。
 のちに党の歴史全体がスターリンの命令によって彼自身を称揚するために書き直されたとき、彼は若いときからレーニンの「副司令官」だったと叙述された。あるいはむしろ、自分をそう示そうとした。
 全ての活動分野で、スターリンは指導者、第一の組織者、同志の鼓舞者、等々だった。
 (党の質問で、彼は革命活動を行ったことが理由で放校になったと主張した。しかし、疑いなく彼はそこにいた間の禁じられた主題を議論してしまった。実際には、試験に出席することができなかったために追放された。)
 この狂熱的な考え方によると、彼はレーニンの最も親密な腹心で、党が創立されたまさにその瞬間からの助手だった。彼の輝かしい指導のもとで、コーカサスの幼なかった社会主義運動は成長した。そしてのちには、全党が疑問の余地なくスターリンをレーニンの正当で自然な後継者だと考えた、等々。
 彼は、革命のための頭脳、内戦の勝利の設計者、ソヴィエト国家の組織者だった。
 ベリア(Beriya)が創作した偉人伝では、1912年はロシアの党史上の、ゆえにまた人類史上の転換点として選び出された。スターリンが中央委員会委員になったのはまさにその年だったのだから。//
 他方で、トロツキーやスターリンを厭う理由をもつ他の多くの共産党員は、ボルシェヴィキの歴史でのスターリンの役割を何とか貶め、狡猾さと好運とが混じり合って階段の頂上へと昇りつめた二級の<党官僚(apparatchik)>と描写しようとした。その階段から踏み外させるのは不可能だと分かっていたのだった。//
 このような見方もまた、真実だと受け止めることはできない。
 確かなことは、スターリンは1905年以前には目立たない地方活動家で、より高く評価されて、より重要な役割を果たした者は彼の出身地域に多数いた、ということだ。
 にもかかわらず、1912年までには、6人または7人の著名なボルシェヴィキ指導者の一人になっていた。そして-トロツキー、ジノヴィエフあるいはカーメネフに比べると知られてはいなかったし、誰もレーニンの「当然の」後継者だとは考えていなかったけれども-、レーニンの晩年には、党を支配する小集団の中にいた。
 そしてレーニンが死んだとき、彼は理論上ではなく実務上だが、その国の誰がもつよりも大きな権力を保持していた。//
 我々には現在用いることのできる資料から、スターリンの同志たちは革命の前からすら、のちに病的な圧制者となった彼の性格に気づいていた、ということが分かっている。
 いくつかは、レーニンの「遺言」で記述された。
 スターリンは粗暴(brutal)で、不誠実で、我が儘で、野心家で、嫉妬深く、反対者に非寛容で、部下たちにとっては専制君主だった。
 彼がボルシェヴィキの「古い保護者」を全て一掃してしまうまでは、誰も真面目に哲学者だとか理論家だとかは思っていなかった。この点から見ると、トロツキーやブハーリンだけではなくて、党の主なイデオロギストたちの方が、スターリンよりも勝れていた。
 彼の論文、小冊子や演説には何も独自性がなく、それらの意図をきちんと伝えていない、ということを誰もが知っていた。マルクス主義理論家ではなく、数百人も他にいる党宣伝者(propagandist)の一人だったのだ。
 もちろんのちに、「人格カルト〔個人崇拝〕」の興奮状態の中で、彼が執筆した一片の紙切れも、マルクス=レーニン主義の財産に不朽の貢献をしたものになった。
 しかし、理論家としての全ての名声は命じられた儀礼の一部にすぎず、それは彼の死後たちまちに忘れ去られた、ということは完璧に明らかだ。
 スターリンのイデオロギー的著作が政治的に名声を求めることのない人物によって書かれたものであったとすれば、マルクス主義の歴史で言及するにほとんど値しなかっただろう。
 しかし、彼が権力を握っている間は、それ以外にマルクス主義の焼き印(ブランド)の付いたものは稀にしかなかった。また、この当時のマルクス主義は、彼の権威との関連でしかほとんど明らかにすることはできない。したがって、四半世紀にわたってスターリンが偉大なマルクス主義理論家だったと言うのは、本当のことであるばかりか、実際には、同義反復(トートロジー)だ。//
 いずれにせよ、スターリンは党に有用な多くの性質をもった。頂点にまで達して対抗者を排除したのは、偶然にのみよるのではなかった。
 彼は疲れ知らずの、目聡い、そして有能な活動家だった。
 実際上の諸問題に関して、教理的な考察を軽視し、論点の相対的な重要性の程度を明確に見分ける方法を知っていた。
  彼は(ヒトラーが侵攻してきた最初の数日を除いて)パニックに陥らなかったし、達成することしか頭にはなかった。
 また、見せかけの権力と実際の権力を区別することも巧かった。
 演説は下手で文章は退屈だったが、平易に喋ることができたので、ふつうの党員たちの心を掴んだ。そして、繰り返しや要点の番号振りをする衒学的な習癖は、提示した言葉(exposé)は力強くて明瞭だとの印象を与えた。
  彼は部下たちに威張りちらしたが、うまく彼らを使うことができた。
 党員、外国の新聞記者あるいは西側の政治家のいずれであれ、違う対話者に応じて異なるやり方で適応する術を知っており、プロレタリア-トの根本教条のために立ち向かう果敢な闘争者の役割を、あるいは国家にとって無意味ではない「親分」の役割を演じることができた。
  彼は、全ての成功を自分の栄誉として受け取り、全ての失敗を他者の責任として追及することのできる、類い稀な才能をもっていた。
 スターリンが確立するのを助けた体制によって、自分は僭政者になることができた。
 しかし、彼はその所期の成果を収めるべく長く懸命に仕事をした、ということは言っておかなければならない。//
 スターリンの有能さと組織する力を、レーニンは疑いなく評価していた。
 ときにはレーニンに同意しなかったが、危機にあるときにはつねにレーニンを守った。
 幹部級のボルシェヴィキの多くとは違って、「知識人的な」学習をしておらず、それについてレーニンは平気ではおれなかった。
 スターリンは淡々とした性格で、困難で下品な仕事をするのを気に懸けなかった。
 そして、遅れて見方を変えて、レーニンは自分が権力の頂部へと昇らせてい人物が危険だと気づいたけれども、スターリンがその敵対者に対して応答した言葉にはいく分かの真実がある。
 彼の敵対者たちが最後になってレーニンの「遺言」を書類庫から引っ張り出し、スターリンに反対する証文として使ったとき、スターリンはこう言った。
 そのとおり、レーニンはかつて私は粗暴だと責めた。そして、革命に関するかぎりは、私は粗暴<である>。-しかし、レーニンは一度でも、私の政策は過っていると言ったか?
 これには、反対者は答えることができなかった。//
 1922年4月にスターリンが党の総書記(the Secretary-General)になったのはレーニンの個人的な選抜だった、ということを疑う根拠はない。そして、他の指導者たちの誰かがこの指名に反対した、という証拠資料はない。
 トロツキーがのちにつぎのように明確に述べたのは、全く本当のことだ。
 この職を創設してスターリンをその地位に就かせることが彼がレーニンの継承者になることを意味するとは、誰も考えなかった。総書記の地位にある者は実際にはソヴェトの党と国家の最高支配者になるだろう、とも。
 全ての重要な決定は、まだ中央委員会政治局によって行われており、その諸決定は人民委員会議という媒介物を経て、国家を動かしていた。  
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1742/マルトフとボルシェヴィキ②-L・コワコフスキ著18章9節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.770-、分冊版・第2巻p.519-520。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ②。
 レーニンとマルトフの間の論争は、このようにして、それが始まった1903年の時点で終わった。
 マルトフが労働者階級の支配について語ったとき、彼は言ったことそのままを意味させた。一方、レーニンの見解では、放置された労働者階級はブルジョアのイデオロギーを産出することができるだけで、労働者階級に現実の力を与えることは、資本主義の復古に結局はなるだろう。
 レーニンが全く正当に(rightly)、1921年8月にこう書いたごとくだ。
 『「労働者階級の力にもっと信頼を!」とのスローガンは、今や実際には、1921年春のクロンシュタッタトによってまざまざと証明され、実演されたように、メンシェヴィキやアナキストの影響力を増大させるために使われている。』(+)
 (「新時代と新しい装いの古い過ち」、全集33巻27頁〔=日本語版全集33巻「新しい時代、新しい形をとった古い誤り」9頁〕)。
 マルトフは、国家が過去の全ての民主主義的諸制度を奪い取り、その視野を拡張することを望んだ。 
 レーニンの国家は、共産主義者がその国家の権力を独占するかぎりでのみ、共産主義的だった。
 マルトフは、文化的継続性があることを信じた。
 レーニンにとっては、ブルジョアジーから奪い取るべき「文化」はただ、技術力と行政の技巧だけだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキはその観念体系のうちに物質的利益を求める堕落した大衆の飢餓を表現していると責め立てたとき、マルトフは誤った。
 このような見方は、革命の第一の局面を画した、大衆の略奪を原因としていた。
 しかし、レーニンも他のどのボルシェヴィキ指導者も、略奪は共産主義の原理の表現だとは見なしていなかった。
 反対に、レーニンは、労働生産力の増大が社会主義の優越性の証明印だ、と主張した。そして、全体的にではなくても主としては、社会主義をもたらす技術の進歩を信頼した。
 例えば、レーニンは、数十の地域的電力基地が建設されれば-しかしこれには、少なくとも十年はかかる-、ロシアの最も後進的部分ですら、妨害の段階なくしてまっすぐに社会主義へと進むだろう、と書いた。
 (<現物税(食糧税)>、1921年5月。全集32巻350頁〔=日本語版全集32巻「食糧税について」378頁〕。)
 実際、世界的な生産指標は社会主義の成功を根本的に証明するものだ、という考えを確立していたのは、ボルシェヴィキだった。
 むろん多くの言葉を用いてではなかったけれども、ボルシェヴィキは、生産者すなわち労働者共同体全体のために生活をより良くするかどうかに関係なく、生産の原理をそれ自体のために神聖視した。
 このことは、唯一のものではないけれども、至高の価値をもつものとしての国家権力のカルト(cult、狂熱集団)の重要な側面だった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第9節は終わり。つづく第10節の表題は、「論駁家としてのレーニン。レーニンの天才性。」。

1732/社会主義と独裁⑥-L・コワコフスキ著18章6節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとってきわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派はマルクス主義の内実と歴史にまるで関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。分冊版・第2巻p.507の途中~。
 一文ごとに改行し、本来の改行箇所には「//」を付す(これまでの試訳の掲載と同じ)。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁⑥。
1922年5月のD・I・クルスキーへの手紙で、レーニンはこう書いた。
 『裁判所は、テロルの障害物となってはならない。<中略>
 そうではなく、その基礎にある動機を定式化しなければならず、原理的に、やさしく言えばいかなる見せかけや粉飾もしないで、それを合法化〔legalize〕しなければならない。』(+)
 追記する刑法典の修正案の中で、レーニンはつぎのような表現<言葉遣い、wording>を提案した。
 『資本主義に取って代わっている共産主義所有制度の諸権利を承認することを拒み、外からの干渉と封鎖のいずれかによって、あるいは諜報活動、諸プレスへの資金援助その他同様の手段によって、この制度を暴力によって転覆しようと躍起になっている、そのような国際的ブルジョアジーの部門の利益に客観的には奉仕する(異文-奉仕するもしくは奉仕しがちな)プロパガンダまたは煽動宣伝〔agitation〕は、死刑を科しうる犯罪行為である。
 但し、この量刑を緩和する事情のあることが立証されれば、自由の剥奪または国外追放(deportation)に代えることがありうる。』(+)
 (sc. ロシア; vysylka za granitsuから。)(全集33巻358-359頁〔=日本語版全集33巻「デ・イ・クルスキーへの手紙」371-372頁〕。)
 レーニンは、ロシア共産党(ボ)の第十一回大会で、ネップ〔The N.E.P.、新経済政策〕は資本主義に向かう退却だ、これは革命のブルジョア的性格を証明する、と主張するメンシェヴィキとエスエルは、そのような言明をしているがゆえに銃殺〔shoot〕されるだろう、と宣告した。<*秋月注記>
 (同上282-3頁〔=日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第十一回大会」のうち「…中央委員会の政治報告/1922年3月27日」287頁〕。)//
 こうして、レーニンは、全体主義をたんなる専制体制と区別する諸立法の基礎を築いた。重要なのは、苛酷〔severe〕だということではなく、誤っている〔spurious〕、ということだ。
 法律は、とくに全体主義的であることなくして、小さな犯罪に対して龍のごとき〔draconic〕制裁を与えることがありうる。
 全体主義的な法に特徴的であるのは、レーニンが語るような定式の用い方だ。
 すなわち、「客観的にはブルジョアジーの利益に奉仕する」見解を表明するがゆえに、人民は処刑されうる。
 このことは、政府はその選ぶ誰をも死に至らしめることができる、ということを意味する。
 法などというものは、存在しない。刑法典が苛酷であるのではない。刑法典は、その名前以外には何も存在していないのだ。//
 すでに述べたように、これら全ては、党〔ロシア共産党〕がまだ十分には支配しておらず、ときには批判に答えなければならなかった時期に、生じた。
 レーニンがテロルの使用を求め、民主主義と自由の可能性を拒否していた、断定的で曖昧さのない諸定式は、逆説的に、自由はまだ完全には根絶やしにされていなかった、ということを明らかにした。
 党外部からの、党と論争する批判が存在しなかったスターリンの時代には、テロルの用語法は民主主義のそれに置き換えられた。
 とくにスターリンの後半年には、ソヴェト体制は、人民による支配と全ての種類の民主主義的自由の、至高の具現体だとして提示された。
 しかしながら、レーニンの時代の指導者たちは、この観念に対してプロレタリア-ト独裁は民主主義破壊を不可避的に伴うと強い異論を唱えるロシアおよびその他のヨーロッパ両方での社会主義者の批判に、回答しなければならなかった。
 その著<プロレタリア-トの独裁>(1918年)によるカウツキーのソヴェト体制に対する激しい攻撃は、レーニンからの激烈な回答を惹起した。
 <プロレタリア革命と変節者・カウツキー>(1918年)でレーニンは、ブルジョア民主主義はブルジョアジーの、プロレタリア民主主義はプロレタリア-トのためのものだという事実を意識的に曖昧にして、階級内容を無視して民主主義について語る無学者に対する攻撃を繰り返した。
 カウツキーは、マルクスが「プロレタリア-トの独裁」を語ったとき彼は心の裡では体制の内容を意識していて統治の方法をではなかった、と論じた。
 カウツキーの見解によれば、民主主義的諸制度は、プロレタリア-トの支配と両立する、それの前提かりではなく、その条件の一つだ。
 レーニンには、これら全てが呆けごと(ナンセンス)だった。
 プロレタリア-トは統治しているがゆえに、実力(force)によって統治しなければならない。そして、独裁とは、実力による統治なのであり、法による統治などではない。//   
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 <*秋月注記> 日本語版レーニン全集33巻287頁からこの部分の前後を引用すると、つぎのとおり(一部は抜粋・要約)。。1922年3月の党大会(ネップ導入決定後1年)での演説内容の一部だ。
 こういうときこそ『整然と退却すること、狼狽に陥らないで退却の限界を正確に決めることが、もっとも肝心』だ。
 『メンシェヴィキが「諸君はいま退却しているが、私はいつも退却に賛成だった。私は諸君と同意見だ。私は諸君の仲間だ。さあ、いっしょに退却しようと言うなら、われわれはこれにたいして彼に言おう。』
 『「メンシェヴィキを公然と表明する者には、われわれの革命裁判所は銃殺でこたえるにちがいない。
 もしそうしないとすれば、それはわれわれの裁判所ではなくて、なんだかわけのわからないものである」と。』//
 彼らはこれを理解できないで『「この連中はなんという独裁癖をもっていることだろう!」と言う。』
 われわれのメンシェヴィキ迫害は『彼らがジュネーブでわれわれと喧嘩したためだと、いまでも彼らは考えている。』
 そんな道をとっていたらわれわれは『二ヶ月と権力を持ちこたえることができなかった』だろう。
 『実際、オットー・バウアーも、第二インターナショナルや第二半インターナショナルの指導者たちも、メンシェヴィキも、エスエルも、そういう説教をやっており、そのことが彼ら自身の本性となっている。
 すなわち、「革命はずっと行きすぎてしまった。
 諸君がいま言っていることは、われわれがつねに言ってきたことと同じである。
 われわれにそれをいま一度くりかえして言わせてくれたまえ」と。
 だがこれにたいしてわれわれは、こうこたえる。
 「そういうことを諸君が言った罰として諸君を銃殺させてくれたまえ。
 諸君は自分の見解の発表をさしひかえるようにつとめるか、それとも、白衛派が直接に来襲したときよりはるかに困難な事態のもとにある現状で、諸君が自分の政治的見解を発表しようとのぞむか、どちらかである。
 あとの場合には、われわれは、失礼ながら、諸君を白衛隊の最悪の、もっとも有害な分子として取りあつかうであろう」と。』
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 第6節は以上で終わり。つぎの第7節の表題は、「独裁に関するトロツキー」。

1674/共産党独裁②-L・コワコフスキ著18章4節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 この第18章とは、第2巻(部)の第18章のことだ。各巻が第1章から始まる。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁②。
 非ボルシェヴィキの組織や定期刊行物の閉鎖、数百人の主要な知識人のロシアからの追放(この寛大な措置はまだ採られていた)、全ての文化的組織での迫害、あらゆる日常生活内に入り込んだテロルの雰囲気-これら全てが、社会対立がボルシェヴィキ党それ自体の内部で反映されるという、企図していない、だが当然の結果をもたらした。
 そしてこれは、つぎには、党が社会に対して行使したのと同じ専制的支配という原理を、党の内部に適用することへと導いた。
内戦は、経済的破滅と一般的な消耗をもたらした。そして、強さがなくなった労働者階級は、平和的建設という事業においてかつて戦闘の場で示したのと同じような熱狂と自己犠牲を示すようにとの訴えに敏感でなくなった。
 ボルシェヴィキが労働者階級全体を代表するということは、1918年以降は一つの公理(axiom)だった。それは、立証できないものだった。立証するための仕組みが何も存在していないのだから。
 しかしながら、プロレタリア-トは、怒りと不満を示し始めた。最も烈しかったのは、1921年3月のクロンシュタット蜂起で、これは、大量の死者を出して鎮圧された。
 クロンシュタットの海兵たちは、労働者階級の大多数と同じく、ソヴェトの権力を支持していた。しかし、彼らは、それを単一の支配政党による専政と同じものだとは考えなかった。
 彼らは、党による支配に反対して、ソヴェトによる支配を要求した。
 党自体の内部で、プロレタリア-トの不満は強い『労働者反対派』へと反映された。これは、中央委員会では、アレクサンドロ・シュリャプニコフ(A・Shlyapnikov)、アレクサンドラ・コロンタイ(A・Kollontay)その他が代表した。 
 このグループは経済の管理を労働者の一般的組織、すなわち労働組合に委託することを求めた。
 彼らは報酬の平等化を提案し、党内からの支配という専制的方法に異議を唱えた。
 つまりは、彼らは、レーニンが革命前に書いていた『プロレタリア-トの独裁』を求めた。
 彼らは、労働者のための民主主義と党内部での民主主義は、何か他のものに代わって民主主義が存在しない場合ですら安全装置でありうる、と考えていた。
 レーニンとトロツキーは、もはやそのようないかなる幻想をも抱かなかった。
 この二人は、『労働者反対派』はアナクロ=サンディカ主義的逸脱だと烙印を捺し、彼らの代表者を様々な嘘の理由をつけて党の活動から排除した。投獄したり、射殺したりはしなかったけれども。//
 この事件は、ソヴェト体制での労働組合の位置と機能に関する一般的な議論を生んだ。
 三年早い1918年3月に、レーニンは、『プロレタリア-ト階級の独立性を維持し強化するという利益のために、労働組合は国家組織になるべきではない』と主張したとして、メンシェヴィキを厳しく罵倒した。
 『このような考え方は、かつても今も、最も粗野な類のブルジョアの挑発であるか、極端な誤解であって、昨日のスローガンのスラヴ的な繰り返しだ。<中略>
 労働者階級は、国家の支配階級になりつつあるし、またそうなった。
 労働組合は、国家の組織になりつつあるし、社会主義を基盤として全ての経済生活を再組織化することに第一次的な責任を負う、国家の組織にならなければならない。』 (+)
 (全集27巻p.215〔=日本語版全集27巻「『ソヴェト権力の当面の任務』の最初の草稿」218頁〕。)
 労働組合を国家の組織に変えようとする考えは、論理的には、プロレタリア-ト独裁の理論から帰結する。
 プロレタリア-トは国家権力と同一視されるので、労働者が国家に対抗する利益を守らなければならないと想定するのは、明らかに馬鹿げていた。
 トロツキーは、こうした考えを持っていた。
 しかし、レーニンは上に引用した二つの点のいずれについても、考え方を変更した。
 1920年にソヴェト国家は官僚主義的歪みに苦しんでいると決定したあと、彼は自分自身が最近まで述べていた考えを抱いているとしてトロツキーを攻撃し、つぎのことを明確に宣告した。労働者を守るのは労働組合がする仕事だ、しかし、労働者を彼ら自身の国家から守るのもそうかというと、そうではなくて悪用(abuse)だ、と。
 彼は、同時に、組合は経済を管理するという国家の機能を奪い取るべきだとの考えに、烈しく反対した。//
 そうしているうちに、レーニンは、反対する集団が将来に党内部で発生するのを防止する措置を講じた。
 党内での分派(factions)の形成を禁止し、党大会で選出されていたメンバーの内部から排除する権限を中央委員会に与える規約が、採択された。
 こうして、自然な進展として、最初は労働者階級の名において社会に対して行使されていた独裁は、今や党それ自体についても適用され、ワン・マン暴圧体制(tyranny)の基礎を生み出した。//
 レーニンの最後の数年にますます重要になってきたもう一つの主題は、言及したばかりだが、『官僚主義的歪み』の問題だった。
 レーニンは、つぎのことに、ますます頻繁に不満を述べる。国家機構が必要もなく無制限に膨張している、かつ同時に何も処理する能力がない、煩わしくて形式主義的だ、役人たちは党の幹部官僚にきわめて些細な問題について照会している、等々。
 このような当惑の根源は、彼がつねに強調したように、制度全体が法制にではなくて実力にもとづいていることにある、ということは、レーニンには決して思い浮かばなかったようだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ③へとつづく。

1672/共産党独裁①-L・コワコフスキ著18章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第4節へと進む。第2巻単行著の、p.485以下。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁①。
 しかしながら、この新しい情勢は、党の中に意見の不一致を呼び覚ますという別の新しい変化をもたらした。
 革命前の全ての約束が、突然に、紙の屑になってしまった。
 レーニンは、高級官僚や専門家たちと技能労働者等との間の報酬を同等化するために、常設軍と警察を廃止しようと企てていた。また彼は、武装する人民は直接に支配権を行使する、と約束していた。
 革命のすぐ後で、そしてネップよりもかなり前に、これらは空想家の夢であることが明らかになった。
 職業的将官幹部たちを伴う軍が、他の全ての軍隊と同じく、階級と厳格な紀律にもとづいて直ちに組織されなければならなかった。
 トロツキーは、赤軍の主な組織者としての秀れた才能を示した。そして、内戦を勝利に導いた主要な設計者だった。
 用いられた方法は、きわめて徹底的だった。敵対者は捕えられて処刑され、逃亡者およびその隠匿者は射殺され、規律に違反した兵士たちも同じだった、等々。
 しかし、このような手段は、大規模の信頼できる武装軍隊なくしては、取ることができなかっただろう。
 威嚇とテロルによって軍団をきちんと維持するためには、反テロル活動も力強くある状況でそのテロルを用いる意思を十分に持つ、そういう者たちが存在しなければならなかった。    
 革命後すぐに、政治警察の部隊を設定することが必要になった。これは、フェリクス・ジェルジンスキー(Feliks Dzerzhinsky)によって、効率よく設立された〔チェカ、Cheka〕。
 専門家たちを優遇しなければ生産活動を組織することができないこと、脅迫だけにもとづいてそれを行うことはできないこと、はすぐに明らかになった。
 1918年4月にもう、レーニンは、『ソヴェト政府の当面の任務』において、この点で『妥協』してパリ・コミューンの原理から離れることが必要だ、と認識していた。
 レーニンはまた、革命の最初から、ブルジョアジーから学ぶことが重要だ、と強く述べていた(ストルーヴェ(Struve)は、その時代には、同じことを言って裏切り者だと烙印を押された)。
 1918年4月29日の中央執行委員会では、社会主義はブルジョアから学ばなくとも建設することができると考える者は、中央アフリカの原住民の精神性をもっている、と語った。
 (全集27巻、p.310〔=日本語版全集27巻「全ロシア中央執行委員会の会議」313頁〕。)
 レーニンは、その著作物や演説で、『文明化(civilization)』、すなわち産業や国家を作動させていくために必要な技術上および行政上の専門能力、に対する関心をますます喚起した。
 共産主義者は傲慢であることをやめ、無知であることを受け入れ、このような専門能力をブルジョアジーから学ばなければならない、と強調した。
 (レーニンはつねに、政治的な扇動や戦闘を目的にしている場合を除いて、共産主義者をきわめて信用しなかった。ゴールキがボルシェヴィキの医師に相談したと聞いた1913年に、彼はすぐに、アホに決まっている『同志』ではない、本当(real)の医師を見つけるように強く勧める手紙を書いた。)
 1918年5月に、レーニンは、パリ・コミューンよりも良いモデルを思いついた。すなわち、ピョートル大帝(Peter the Great)。
 『ドイツの革命はまだゆっくりと「前進」しているが、我々の任務はドイツの国家資本主義を学習すること、それを真似る(copy)のに努力を惜しまないこと、<独裁的(dictational)>な方法を採用するのを怯まないで、急いで真似ること、だ。
 我々の任務は、ピョートルが野蛮なロシアに急いで西側を模写させたよりももっと急いで、この模写(copy)をすることだ。
 そして、野蛮さと闘うためには、この野蛮な方法を用いるのを躊躇してはならない。』(+)
 (『「左翼」小児病と小ブルジョア性』。全集27巻、p.340〔=日本語版全集27巻343-4頁〕。)
 産業の統制に関する一体性の原理がすみやかに導入され、工場の集団的な管理という夢想は、サンディカ主義的な逸脱だと非難された。//
 かくして、新しい社会は、一方では技術上および行政上の知識の増大によって、他方では強制と威嚇という手段によって、建設されることになった。
 ネップは、政治および警察によるテロルを緩和させなかったし、そのように意図しもしなかった。
 非ボルシェヴィキの新聞は内戦の間に閉鎖され、再び刊行が許されることはなかった。
 社会主義的反対諸党、メンシェヴィキとエスエルはテロルに遭い、絶滅(liquidate、粛清)された。
 大学の自治は、ついに1921年に抑圧された。
 レーニンは決まっていつも、『いわゆる出版の自由』は集会の自由や政党結成の自由と同じくブルジョアの欺瞞だ、ブルジョア社会ではふつうの者は新聞印刷機や集会する部屋を持っていないのだから、と繰り返した。
 今やソヴェト体制がこれらの設備を『人民』に与えるならば、人民は明らかにそれをブルジョアジーが欺瞞的な目的のために使うのを許さないだろう。そして、メンシェヴィキとエスエルがブルジョア政党の位置へと落ち込んだならば、彼らもまた、プロレタリア-ト独裁に屈服しなければならない。
 レーニンは、1919年2月のメンシェヴィキ新聞の閉刊を、つぎの理由で正当化した。
 『ソヴェト政府は、まさにこの最終的、決定的で最も先鋭化している、地主や資本家の軍団との武装衝突の時機に、正しい信条のために闘う労働者や農民と一緒に大きな犠牲に耐え忍ぼうとしない者たちを我慢することはできない。』(+)
 (全集28巻p.447〔=日本語版全集28巻「国防を害したメンシェヴィキ新聞の閉鎖について」482頁〕。)
 1919年12月の第七回ソヴェト大会で、レーニンは、マルトフ(Martov)がボルシェヴィキは労働者階級の少数派しか代表していないと非難するとき、この人物は『帝国主義者の野獣ども』-クレマンソー(Clemenceau)、ウィルソンおよびロイド・ジョージ(Lloyd George)-の言葉を使って語っているのだ、と宣告した。
 この論理的な帰結は、『我々はつねに警戒していなければならず、チェカ〔政治秘密警察〕が絶対に必要だと認識しなければならない!』、ということだった。
 (全集30巻p.239。)//
 ---
 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1669/ネップ①-L・コワコフスキ著18章3節。

 この本には、邦訳書がない。-Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第3節の試訳へ
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 第3節・社会主義経済の始まり①。
 レーニンのもとでのソヴェト・ロシアの経済史は、二つの時代に分けられる。
 『戦時共産主義』の時代と、『新経済政策(N.E.P.、ネップ)』の時代。
 『戦時共産主義』という言葉は、第二期の間に作られた。そして、つぎのような誤解を生み出しかねない。すなわち、内戦から生じた一時的な政策であり、経済的破滅状態の国に食を与えるために非常事態の手段として採用する必要があったのだ、という誤解。
 歴史書はしばしばこのように事態を説明し、さらに、ネップはあらかじめ計画されていたが、戦争という例外的な情勢によって実行することができなかったものだ、と示唆する。言い換えると、ネップは退却(retreat)や誤ったこと(error)の告白ではなく、党が一時的に逸脱を強いられていた、従前に選択した途への回帰(retern)だ、と示唆する。//
 現実には、事態の推移およびそれに関するレーニンの説明のいずれからも、つぎのことが明らかだ。すなわち、戦時共産主義は『共産主義の完全な勝利』まで維持されるべき経済制度だと最初から考えられていたこと、そして一方で、ネップとは敗北を認めること(admission)だったこと。  
 荒廃したロシアでの最重要問題は、言うまでもなく、食糧生産、とくに穀物の生産だった。
 戦時共産主義はもともと、農民から全ての余剰食料を、あるいは地方の政府機関や徴発部隊が余剰(surplus)だと見なした全ての食糧を、徴発すること(requisitioning)から成っていた。 
 数百万の小農場での貯蔵や余剰の質量を正確に計算するのは不可能だったので、徴発のシステムは農民大衆が政府に反対し、巨大な規模での贈収賄や実力強制を生じさせることになっただけではなく、農業生産を破滅させ、そうして権力の体制全体の基礎を掘り崩した。
  しかしながら、レーニンは、こう信じていた。小農民の国での穀物の自由取引は、一時的な手段ではなく原理として、資本主義の復活と等しい(tantamount)と、また、経済の回復の名のもとにこれ〔穀物の自由取引〕を提案する者はコルチャクの同盟者だ、と。
 1919年5月19日の演説で、レーニンは、 『資本および商品(commodity)生産の完全な打倒が前線に立ち現れている、そういう歴史的時機』、に論及した。(+)
 (全集29巻p.352〔=日本語版全集29巻「校外教育第一回全ロシア大会」350頁〕。)
 その年の7月30日、食料状勢に関する演説では、自由取引の問題は資本主義との最終的な闘いでの決定的なものだと再度強調し、自由取引はデニーキンおよびコルチャクの経済的な頼りなので、『ここには、他ならぬこの分野には、いかなる妥協もあり得ない』、と語った。
 『我々は、資本主義の主要な根源の一つがその国の穀物についての自由取引にあること、この根源がまた従前の全ての共和国が破滅した原因だったこと、を知っている。
 いまや資本主義と取引の自由に対する最後の決定的な闘いが行われており、これは我々には、資本主義と社会主義の間の真に根本的(truly basic)な闘いなのだ。
 この闘いに我々が勝利すれば、資本主義や以前の体制に、過去にあった体制に、元戻りすることはあり得ないだろう。
 このような元戻りは、ブルジョアジーに対する戦争、投機者に対する戦争が、そしてプチ経営者に対する戦争が続いているかぎりは、不可能だろう。』(+)
  (以上、全集29巻p.525・p.526〔=日本語版全集29巻「工場委員会、労働組合。モスクワ中央労働者協同組合代表のモスクワ協議会での食糧事情と軍事情勢についての演説」538頁、539頁〕。)//
 そのとき、レーニンは集団的または国営の農業への即時の移行を予想しなかった一方で、つぎのことに全く疑いを持っていなかった。すなわち、農業生産は最初から国家の直接の統制のもとに置かれなければならないこと、商品の自由取引は社会主義の破滅を意味していること。
 レーニンの意図は最初から、農業生産は警察による農民に対する強要(coercion)を、そして生産物の直接の収奪を基礎にしなければならない、というものだった。この収奪とは、翌年のための穀物の種子用に十分でかつ家族一員が食べていく最少限度を残すと(これを実際に実行するのは不可能だった)想定する割当量を基準とする形態で行われるものだ。//
 ネップへの移行は、こうした政策の、大惨事的な失敗によるものだった。
 -メンシェヴィキやエスエルたちが、痛みを代償にして予言した失敗。その予言のゆえに彼らは、非難され、投獄され、白衛軍(the White Guards)への無節操な追従者として殺害された。//
 レーニンは、1921年3月の第10回党大会で、退却(retreat)を発表した。
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 (+) 秋月注記-日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1659/第一次大戦③-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争③。
 ロシア国外での最後の年月に、レーニンは諸著作の中でおそらく最も一般に知られているものを書いた。すなわち、<帝国主義-資本主義の最高段階>(1917年、ペテログラード刊)。
 この小冊子-その経済の部分はレーニンの主要な根拠文献であるホブソン(Hobson)およびヒルファーディング(Hilferding)に見出され得ないものは何もない-は、革命党に対して力をもつべき新しい戦術の理論上の基礎を提供することを意図していた。
 帝国主義の世界的性格および不均等な発展を強調して、レーニンは、やがて共産主義諸党を拘束することとなる戦術の基礎を設定した。
 正しい路線は、いかなる理由によってであれ、いかなる階級の利益になるのであれ、いかなるときであれその時点の体制を打倒しようとする傾向の、全ての運動を支持することだ。植民地諸国の解放、民族運動あるいは農民運動、大きな帝国主義諸国に対するブルジョア的民族蜂起。
 これは、彼が何年もの間にロシアで説いてきた戦術を一般化するものだった。
 ツァーリ専政体制に反対する全ての要求と全ての運動を支持すること。そうして、それらの活力源を利用して、決定的な瞬間に権力を奪取すること。
 マルクス主義党の勝利は最終の目標だが、それはプロレタリアートだけで達成さ得るものではない。
 レーニンはすみやかに、実際に、民族主義者や農民のような他の大衆運動の支持なくして、労働者階級はその名前のもとで革命を遂行することはできない、との結論に達した。言い換えると、伝統的マルクス主義の意味での社会主義革命は、実現不可能なことだ。
 このことを発見したことは、レーニンの成功のほとんど全ての淵源であり、また彼の失敗のほとんど全てのそれだった。//
 農民との関係の問題は、この時期に、レーニンとトロツキーの間の主要な不一致点の一つだった。
 トロツキーは戦争勃発まで主にウィーンに住み、1908年以降は自身の機関誌<プラウダ>を編集した(彼は1912年に、ボルシェヴィキがその冠名を奪ったと非難した)。
 彼は折に触れて様々な問題についてメンシェヴィキとともに活動したが、それに加入はしなかった。来たる革命について異なる考え方をもち、社会主義の段階へと進化するだろうと予見していたからだ。
 トロツキーは党の一体性を回復しようと努力を繰り返したが、不首尾に終わった。
 彼は1914年から戦争反対派に属し、レーニンとともに『社会的愛国主義』を攻撃した。
 彼はまた、ツィンマーヴァルト宣言の草案も書いた。 
マルトフと一緒にパリで雑誌を発行し、それにはルナチャルスキーその他の指導的な社会民主主義知識人たちが寄稿した。
 第二回大会からボルシェヴィキに加入した1917年まで、トロツキーは、レーニンの側で例外的に敵愾心を抱く対象だった。現実の論争点に同意するかどうかに関係なく。
 レーニンは、トロツキーをこう描写した。状況に応じて、小うるさい弁舌者、役者、策略家、そして<ユドゥシュカ(Yudushka)>だ、と(最後は『小さなユダヤ人』の意味で、サルチュイコフ=シェードリンの小説<ゴロヴレフ一家>に出てくる偽善的性格の人物の名)。
 レーニンはまた、こうも言った。トロツキーは原理のない男で、一つのグループと他との間に巧みに身を隠し、発見されないようにとだけ気を配っている、と。
 レーニンは、1911年に、つぎのように書いた。
 『トロツキーにはいかなる考えもないので、この問題の本質に関して彼と議論するのは不可能だ。
 我々は、信念ある解党派やotzovists(召還主義者)たちと論じ合うことができるし、そうすべきだ。
 しかし、このどちらの傾向の過ちも隠そうとする遊び人と議論しても無意味だ。
 トロツキーの場合にすべきことは、最低限の度量しかない外交家だという姿を暴露することだ。』(+)
 (『確かな党政策から見るトロツキーの外交』、1911年12月21日。全集17巻p.362〔=日本語版全集17巻373頁〕。)
 彼は、1914年に、同じ考えを繰り返した。
 『しかしながら、トロツキーには「相貌(physiogmology)」が全くない。
 ただ一つあるのは、場所を変えて、リベラル派からマルクス主義者へと飛び移ってまた戻る、宣伝文句や大げさな受け売り言葉の断片を口に入れる、という癖だ。』(+)
 (『「八月ブロック」の分解』、1914年3月15日。全集20巻p.160〔=日本語版全集20巻163頁〕。)
 『トロツキズム』それ自体に関しては、こう言う。
 『トロツキーの独創的な理論は、ボルシェヴィキからは、断固たるプロレタリアの革命闘争やプロレタリアートによる政治権力の征圧の呼びかけを借用し、一方でメンシェヴィキからは、農民層の役割を「否認すること」を借用した。』(+)
 (『革命の二つの方向について』、1915年11月20日。全集21巻p.419〔=日本語版全集21巻432頁〕。)//
 トロツキーは、実際に、党はブルジョアジーの添え物ではなくて階級闘争を指導する力でなければならないとのレーニンの見地を共有していた。
 レーニンと同様に、トロツキーは、解党主義者と召還主義者のいずれにも反対した。そして、レーニンよりも早く、『二段階の革命』を予見した。
 しかしながら、彼は農民層がもつ革命的な潜在力の存在を信じなかった。そして、ヨーロッパ全体での革命の助けを借りてプロレタリアートはロシアを支配するだろう、と考えた。//
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 (+)=秋月注記。日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
 第1節、終わり。つづく第2節の表題は、「1917年の革命」。

1655/第一次大戦①-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 これの邦訳書はない。試訳をつづける。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。第2巻単行著の、p.467~。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争①。
 1908年~1911年は、ロシア社会民主主義運動の大きな衰退と解体の時期だった。
 革命後の抑圧のあとで、ツァーリ体制が一時的に安定した。公民的自由はかなり増大し、弱体化した社会構造を官僚制と軍隊以外の別の基盤の上に造ろうとする試みがなされた。 首相のストリュイピン(Stolypin)は、中規模の所有地を持つ強い農民階層を生み出すことを意図する改革を導入した。
 この政策手段は、社会主義者たち、とくにレーニン主義の信条をもつ者たちの警戒心を呼び覚ました。彼らは、かりに農業問題が資本主義によって改革の方法で解決されれば、土地に飢える民衆がもつ革命的な潜在力は取り返しがつかないほどに失われるだろうと気づいていた。
 1908年4月29日の『踏みならされた道を!』と題する論考で(全集15巻p.40以下〔=日本語版全集15巻24頁以下。〕)、レーニンは、ストリュイピンの改革は成功して、農業に関して資本主義発展の『プロイセンの途』を確立するするかもしれないと認めた。
 かりに成功してしまえば、『誠実なマルクス主義者は、率直にかつ公然と、全ての「農業問題」を屑鉄の上にすっかり放り投げるだろう。そして、大衆に向かって言うだろう。「労働者はロシアにユンカー(Junker)ではなくアメリカ資本主義を与えるべく、できる全てのことをした。労働者は、今やプロレタリアートの社会革命に参加するよう呼びかける。ストリュイピン方式での農業問題の解決の後では、農民大衆の生活の経済条件に大きな変化をもたらすことのできる、もう一つの革命はあり得ないのだから。」』//
 ストリュイピンの政策は長くは続かず、期待された結果をもたらさなかった。その政策が実現していれば、のちの事態の推移は完全に変わっているかもしれなかった。
 レーニンは1917年の後に、ボルシェヴィキが土地を没収して農民に分配するというエスエルの綱領を奪い取っていなかったら、革命は成功できなかっただろう、と書いた。
 1911年にストリュイピンの暗殺があったにもかかわらず、ロシアは数年間は、明らかに立憲君主制の基礎原理をもつブルジョア国家の方向へと動いていた。
 この発展は、社会民主主義者の間に新しい分裂を生じさせた。
 レーニンは、この時期に、『otzovists』、すなわち非合法の革命行動を完全に信じているボルシェヴィキ党員たちに加えて、『清算人(liquidators、解党者)』、多少ともメンシェヴィキと同義の言葉だが、を絶え間なく、批判し続けた。
 彼はマルトフ(Martov)、ポトレソフ(Potresov)、ダン(Dan)、そしてたいていのメンシェヴィキ指導者たちに対して、非合法の党組織を精算し、現存秩序の範囲内での『改良主義』闘争へと舵を切って労働者の『形態なき』合法的集団に置き換えようと望んでいると非難した。 
 メンシェヴィキは、実際に、党が非合法活動まですることを望んでおらず、平和的手段により多くの重要な意味を与えて、専政体制が打倒されたときに社会民主主義者が西欧の仲間たちと同様の位置にいることを期待した。
 そうしている間、党内部の古い対立は存在しつづけた。
 メンシェヴィキは、民族問題についてオーストリアの処理法を容認した(『領域を超えた自治』)。一方で、ボルシェヴィキは、継承権を含む自己決定を主張した。
 メンシェヴィキはブント(Bund)やポーランドの社会主義者との連携を主張したが、レーニンはこれらはブルジョア・ナショナリズムの組織だと見なした。
 しかしながら、プレハノフは、ほとんどのメンシェヴィキ指導者とは違って『清算人』政策に反対した。そのことで、レーニンはプレハノフに対する悪罵と論駁の運動をやめて、ロシア社会主義のこの老練者との間の一種の不安定な同盟へと戻った。//
 様々の意見の相違により、党の新しいかつ最終的な分裂が生じた。
 1912年1月、プラハでのボルシェヴィキ大会は党全体の大会だと宣言して自分たちの中央委員会を選出し、メンシェヴィキと決裂した。
 レーニン、ジノヴィエフおよびカーメネフ以外に、この中央委員会の中には、オフラーナ〔帝国政治警察〕工作員のロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)もいた。
 レーニンはマリノフスキーについて、何度もメンシェヴィキから警告を受けていた。
 レーニンはその警告を、『「黒の百」の新聞のごみ屑の山から集めることのできた最も汚い中傷』だと称した。
 (『解党派とマリノフスキーの経歴』、1914年5月。全集20巻p.204〔=日本語版全集20巻319頁以下。〕)  
 マリノフスキーは、実際、レーニンの命令の忠実な執行者だった。オフラーナが、そうするように命じていたので。そして彼には、自分のイデオロギー上のまたは政治的な野望がなかった。
 スターリンは、プラハ大会のすぐ後で、レーニンの側近機関である中央委員会へと推挙された。かくて彼は、ロシアの社会民主主義政治の舞台にデビューした。//
 レーニンは、戦争が勃発する前の最後の二年間、クラカウ(Cracow)およびその近くの保養地のポロニンで過ごした。後者からロシアの組織との接触を維持するのは、より容易だった。
 ボルシェヴィキは、合法的な活動の機会を逃さなかった。
 1912年からサンクト・ペテルブルクで、<プラウダ>を発行した。この新聞は二月革命の後で再刊され、それ以来に党の日刊紙になった。
 ドゥーマ〔帝国議会下院〕には数人のボルシェヴィキ党員がいて、レーニンによって禁じられるまでは、メンシェヴィキと協同して活動した。//
 戦争が勃発したとき、レーニンはポロニンにいた。
 オーストリア警察に逮捕されたが、ポーランド社会党とウィーン(Vienna)の社会民主党が介入したことによって、数日後に釈放された。
 スイスに戻って、1917年4月まで滞在し、インターナショナル〔社会主義インター〕を挫折させた『日和見主義的裏切り者』を非難したり、新しい状勢のもとでの革命的社会民主主義者のための指令文書を作成したりしていた。
 レーニンは、革命的敗北主義を宣言した、ヨーロッパの最初かつ唯一の社会民主主義の指導者だった。
 各国のプロレタリアートは、帝国主義戦争を内乱に転化すべく、自分たち政府の軍事的敗北を生じさせるよう努めるべきだ。
 ほとんどの指導者が帝国主義の奉仕者へと移行してしまったインターナショナルの廃墟から、プロレタリアートの革命的な闘争を指揮する共産主義インターナショナルが、創立されなければならない。//
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 ②へとつづく。 

1619/二党派と1905年革命③-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争③。
 つづく数年間は、これらの問題、とくに農業問題綱領およびカデットとの関係についての問題、に関する論争でいっぱいだった。
 メンシェヴィキ派は、ますます懐疑心をもち、戦術上の問題についてしばしば優柔不断だった。そして、合法的な制度や幅広い基盤のあるプロレタリア組織を是認する方向へと傾斜した。
 レーニンは、党があらゆる合法的活動の機会を利用するのを望んだが、しかし、その秘密組織を維持し、憲法制定主義、議会主義および労働組合主義への追従に抵抗することをも望んだ。すなわち、全ての合法的形態は、実力による権力奪取という最終の目標に従属するものでなければならないのだった。
 レーニンは、同時に、個人に対するテロルというエスエル〔社会革命党〕の方針に反対した。
 彼は、1905年の前に、党は原理上の問題としてテロルを拒否はしない、テロルは一定の事情のもとで必要だ、しかし、大臣やその他の公的人物への攻撃は時期尚早で、反発を誘発する、と強調した。革命的勢力を散逸させ、有益な効果を何らもたらさないだろうから、という理由で。
 革命の時代の後半部には、レーニンは、『没収(expropriations)』に関してメンシェヴィキと激論を交わした。『没収』とは、党の財政資金を補充するための、テロリスト集団による武装強盗のことだ。
 (トランスコーカサスでのスターリンは、このような活動の主要な組織者の一人だった。)
 メンシェヴィキおよびトロツキーは、このような実務は無価値で非道徳的だと非難した。しかし、レーニンは、個人に対してではなく銀行、列車あるいは国家財産に対して行使されるという条件で、これを擁護した。
 1907年春の党大会で、レーニンの反対に抗して、『没収』はメンシェヴィキの多数派によって非難された。//
 党員の数は、反動の時期に相当に消滅した。
 1906年9月の『統一大会』の後で、レーニンは、その数を10万人余だと見積もった。
 大会の代議員たちは、およそ1万3000人のボルシェヴィキと1万8000人のメンシェヴィキを代表した。再加入したブント(the Bund)は3万3000人のユダヤ人労働者を有しており、加えて、2万6000人のポーランド・リトアニア社会民主党員、1万4000人のラトヴィア人党員がいた。トロツキーはしかし、1910年に、全体数をわずか1万人と推算していた。
 しかしながら、減勢にもかかわらず、革命後の状況は合法活動への多くの幅広い機会を与えた。
 1907年の初めに、レーニンはフィンランドへと移り、そこでその年の末に再び亡命した。
 彼は、第二ドゥーマ選挙のボイコットを宣言した。しかし、全ての社会民主党員が従ったわけではなく、35名が選出された。
 約三ヶ月のちに、第二ドウーマが、第一のそれのように、解散された。そのときに、レーニンは、ボイコット方針を放棄し、彼の支持者たちが第三ドゥーマに参加するのを認めた。社会改革のためにではなく、議会制主義という妄想を暴露して、農民代議員たちを革命的方向へと導くために。
 数ヶ月前にはボイコットに反対していた誰もが、レーニンによると、レーニンはマルクス主義の考え方を知らない全くの日和見主義者だという姿勢を示した。今や、ボイコットに賛成する誰もが、日和見主義者で無学な者を自認することになった。
 ボルシェヴィキの中に、レーニンを『左翼から』批判する小集団、彼が『otzovist』と命名した者たち、すなわち社会民主党代議員をドウーマから召還(recall)することを主張する『召還主義者』、が出現するようになった。
 一方で、別の集団は、『最後通告主義者(ultimatist)』と命名された。ほとんどはメンシェヴィキの代議員たちに、従わなければ解職すると党が送付すべきとする最後通告書(ultimatum)の案を作成したからだ。
 二つの小集団の違いは重要ではなく、重要だったのは、革命的ボルシェヴィキの中にレーニンに反対する分派ができ、党は議会と関係をもつべきではなく、来たる革命への直接的な用意に集中すべきだ、と考えたことだ。
 この小集団の最も積極的なメンバー、A・A・ボグダノフ(Bogdanov)は、レーニンの長い間のきわめて忠実な協力者で、ロシア内でボルシェヴィズムを組織化する主要な役割を果たした。そして、独立の政治運動としてのボルシェヴィズムを、レーニンとともに共同で創始した者だと見なすことができる。
 『召還主義者』または『最後通告主義者』の中には、数人の知識人がいた-すなわち、ルナチャルスキー(Lunacharsky)、ポクロフスキー(Pokrovsky)、メンジンスキー(Menzhinsky)。このうち何人かは、のちにレーニン主義正統派へと復帰した。//
 『召還主義者』との戦術上の論争は、奇妙な様態で哲学上の論争と、このときに社会民主党の陣地内で生じた論争と、絡みついた。レーニンはこの論争から唯物論を守る専門論文を作成して、1909年に刊行した。
 この論争には、簡単に叙述しておくべき前史があった。//
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 第1節、終わり。第2節・ロシアの知識人の新傾向、へとつづく。

1617/二党派と1905年革命②-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争②。
 革命の結果、社会民主党は正式に再統合した。
 1906年4月のストックホルム大会で-メンシェヴィキ〔原義は少数派〕はかなりの多数派だったが旧名を維持した-、組織上の一体性が回復され、1912年にレーニンが最終的な分裂をもたらすまで、6年間続いた。
 イデオロギー上および戦術上の一体性は、しかしながら、なお不足していた。
 根本的な違いと相互非難はつづいた。レーニンは従来よりは、メンシェヴィキに関して粗野でなく侮蔑的でない言葉を用いたけれども。
 いずれの党派も、革命の結果は自分たちの理論を確認するものだと解釈した。
 レーニンは、ブルジョアジー(この場合はカデット)は瑣末な譲歩と引き換えにツァーリ体制と取引を始める用意がある、彼らは官僚制よりも民衆革命が怖ろしい、と主張した。
 彼は強く主張した。革命はまた、プロレタリアート以外に見込むことのできる唯一の勢力は、この段階では社会民主党の自然の同盟者である農民層だということを示した、と。
 他方で、メンシェヴィキの何人かは、ブルジョアジーを同盟者だと見なすようにしないで疎外するのを要求する過度の急進主義によって、第二の局面ではプロレタリアートが切り離されたがゆえに、革命は失敗した、と考えた。
 トロツキーは、1905年の諸事件に学んで、その永続革命の理論をより精確なものに定式化して、ロシアの革命はただちに社会主義の局面へと進化するに違いない、それは西側に社会主義的大激変を誘発するはずだ、と主張した。//
 かくして1905年革命後の時期には、旧い対立は残ったままで、新しい問題がそれぞれの考えにしたがって反応する二つの分派に立ちはだかった。
 メンシェヴィキは、新しい議会制度上の機会を利用する方向へと多く傾斜した。
 レーニンの支持者たちは、最初はボイコットに賛成し、ドゥーマに代表者を送ることに最終的に同意したとき、ドゥーマは社会改革の仕組みではなくて革命的な宣伝活動のための反響板だと見なした。
 メンシェヴィキは、革命の間の武装衝突に参加はしたけれども、武装蜂起を最後に訴えるべき方法だと考え、他の形態での闘いにより大きな関心をもった。
 一方で、レーニンには、暴力を用いる蜂起や権力の征圧は革命的目標を達成する唯一の可能な方法だった。
 レーニンは、プレハノフの『我々は武器を握るべきでない』との言葉に呆れて、メンシェヴィキのイデオロギー上の指導者がいかに日和見主義者であるかを示すものとして、これを繰り返して引用した。
 メンシェヴィキは、将来の共和主義的国家での最も非中央集権的な政府に賛成し、とりわけこの理由で、没収した土地を地方政府機関に譲り渡すことを提案した。国有化はブルジョアジーの手中に収まるだろう中央の権力の強化を意味することになる、と論拠づけることによって。
 (ロシア国家の『アジア的』性格は、プレハノフが非中央集権化に賛成したもう一つの理由だった。)
 レーニンは、国有化案を-つまり農民の土地の没収でも農村集団共有化でもない『絶対的地代』の国家への移転を-持っていた。彼の見方では、革命後の政府はプロレタリアートと農民の政府の一つになり、メンシェヴィキの主張には根拠がなかった。
 他のボルシェヴィキたちは再び、若いスターリンを含めて、没収した全ての土地を分配することを支持した。これは農民たちが現実に願っていることに最も近く、最終的には綱領に書き込まれた。
 メンシェヴィキは、ドゥーマの内外のいずれの者も、カデット〔立憲民主党〕との戦術的な連合の方に傾いていた。
 レーニンはツァーリ体制の従僕だとしてカデットを拒否し、1905年の後で主として労働者団(the Labour Gruop)(トルドヴィキ、Trudoviki)によって代表される農民たちと一緒に活動することを選んだ。
 メンシェヴィキは、全国的な労働者大会でプロレタリアートの幅広い非政党的組織、つまりは全国的なソヴェトの制度を作ることを計画した。  
 しかし、レーニンにとって、これが意味するのは党の排除であり、党を<何と怖ろしくも>( horribile dictu )プロレタリアートに置き換えることだった。
 レーニンはまた、ソヴェトは蜂起(insurrection)の目的にのみ用いられるものだと主張して、アクセルロート、ラリン、その他の労働者大会の提唱者を激しく攻撃した。
 『「労働者ソヴェト」代表たちとその統合は、蜂起の勝利にとって不可欠だ。勝利する蜂起は、不可避的に別の種類の機関を創出するだろう。』(+)
 (<戦術の諸問題>シンポジウムより、1907年4月。全集12巻p.332。〔=日本語版全集12巻「腹立ちまぎれの戸惑い」331頁。〕)
  (+秋月注記) 日本語版全集12巻(大月書店、1955/32刷・1991)を参考にして、ある程度は変更した。
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 ③へとつづく。

1615/二党派と1905年革命①-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 この書物には、邦訳がない。三巻合冊で、計1200頁以上。
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。三巻合冊本(New York, Norton)の、p.687~p.729。
 試訳をつづける。訳には、第2巻の単行本、1978年英訳本(London, Oxford)の1988年印刷版を用いる。原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には、//を付す。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争①。
 第二回党大会の効果は、ロシアでの社会民主主義運動の生命が続いたことだと誰にも感じられた。
 レーニンが大会の後半で党への支配力を勝ち取った僅少差の多数派を、彼が望んでいたようには行使できないことが、大会の後ですぐに明らかになった。
 これは、主としてプレハノフ(Plekhanov)の『裏切り』によった。
 大会は、党機関誌のための編集部を任命した。この機関は、そのときは実際には中央委員会から独立していて実際上はしばしばもっと重要だったが、プレハノフ、レーニンおよびマルトフ(Martov)で構成された。一方で、『少数派』の残り-アクセルロート(Akselrod)、ヴェラ(Vella)およびポトレソフ(Potresov)-は、レーニンの動議にもとづいて排除された。
 しかしながら、マルトフはこうして構成された編集部で働くのを断わり、一方で、プレハノフは、数週間のちにボルシェヴィキと離れ、彼の権威の重みでもって4人の全メンシェヴィキの者と編集部を再構成するのに成功した。 
 このことで、レーニンは代わって辞任した。そのときから<イスクラ>はメンシェヴィキの機関になり、ボルシェヴィキが自分たちのそれを創設するまで一年かかった。//
 大会は、論文、小冊子、書籍およびビラが集まってくる機会で、新しく生まれた分派はそれらの中で、背信、策略、党財産の横領等々だという嘲弄と非難を投げかけ合った。
 レーニンの書物、<一歩前進二歩後退>は、この宣伝運動での大砲が炸裂した最も力強い破片だった。
 これは大会での全ての重要な表決を分析し、党の中央集権的考えを擁護し、メンシェヴィキに対して日和見主義だと烙印を捺した。
 一方で<イスクラ>では、プレハノフ、アクセルロートおよびマルトフの論考がボルシェヴィキは官僚制的中央集中主義、偏狭、ボナパルト主義だと、そして純粋な労働者階級の利益を知識階層から成る職業的革命家の利益に置き換えることを謀っていると、非難した。
 それぞれの側は、別派の政策はプロレタリアートの利益の真の表現ではないという同じ非難を、お互いに投げつけ合った。その非難は、だが、『プロレタリアート』という言葉が異なるものを意味しているという点を見逃していた。
 メンシェヴィキは、その勝利へと助けるのが党の役割である、現実の労働者による現実の運動を想定した。
 レーニンにとっては、現実の自然発生的な労働者運動は定義上ブルジョア的な現象で、本当のプロレタリア運動は、正確にはレーニン主義の解釈におけるマルクス主義である、プロレタリア・イデオロギーの至高性によって明確にされる。//
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、理論上は、一つの政党の一部であり続けた。
 両派の不和は不可避的にロシアの党に影響を与えた。しかし、多くの指導者が<移民者>争論をほとんど意味がないと見なしたように、その不和はさほど明白ではなかった。
 労働者階級の社会民主党員は、それぞれの派からほとんど聞くことがなかった。
 両党派は、地下組織への影響力を持とうと争い、それぞれの側に委員会を形成した。
 一方で、レーニンとその支持者たちは、党活動を弱めている分裂を治癒するために、可能なかぎり早く新しい大会を開くように圧力をかけた。
 そうしている間に、レーニンは、ボグダノフ(Bogdanov)、ルナチャルスキ(Lunacharski)、ボンチ・ブリュェヴィチ(Bonch-Bruyevich)、ヴォロフスキー(Vorovsky)その他のような新しい指導者や理論家の助けをうけて、ボルシェヴィキ党派の組織的かつイデオロギー的基盤を創設した。//
 1905年革命は両派には突然にやって来て、いずれも最初の自然発生的勃発には関係がなかった。
 ロシアに戻ってきた<亡命者>のうち、どちらの派にも属していないトロツキーが、最も重要な役割を果たした。
 トロツキーはただちにセント・ペテルブルクに来たが、レーニンとマルトフは、1905年11月に恩赦の布告が出るまで帰らなかった。
 革命の最初の段階は、レーニンが労働者階級自身に任せれば何が起こるかを警告したのを確認するがごとく、実際には警察によって組織された労働組合をペテルブルクの労働者が作ったこととつながっていた。
 しかしながら、オフラーナ〔帝制政治警察〕のモスクワの長であるズバトフ(Zubatov)が後援していた諸組合は、組織者の観点から離れていた。
 労働者階級の指導者としての役割を真剣に考えた父ガポン(Father Gapon)は、『血の日曜日』(1905年1月9日)の結果として革命家になった。そのとき、冬宮での平和的な示威活動をしていた群衆に対して、警察が発砲していた。
 この事件は、日本との戦争の敗北、ポーランドでのストライキおよび農民反乱によってすでに頂点に達していた危機を誘発した。//
 1905年4月、レーニンは、ボルシェヴィキの大会をロンドンに召集した。この大会は党全体の大会だと宣言し、しばらくの間は分裂に蓋をし、反メンシェヴィキの諸決議を採択し、ただのボルシェヴィキの中央委員会を選出した。
 しかしながら、革命が進展するにつれて、ロシアの両派の党員たちは相互に協力し、これが和解の方向に向かうのを助けた。
 自然発生的な労働者運動は、労働者の評議会(ソヴェト)という形での新しい機関を生んだ。
 ロシア内部のボルシェヴィキは最初は、これを真の革命的意識を持たない非党機関だとして信用しなかった。
 しかしながら、レーニンは、将来の労働者の力の中核になるとすみやかに気づいて、政治的にそれら〔ソヴェト〕を支配すべく全力をつくせと支持者たちに命じた。//
 1905年10月、ツァーリは、憲法、公民的自由、言論集会の自由および選挙される議会の設置を約束する宣言を発した。
 全ての社会民主主義集団とエスエルはこの約束を欺瞞だと非難し、選挙をボイコットした。
 1905年の最後の二ヶ月に革命は頂点に達し、モスクワの労働者の反乱は12月に鎮圧された。
 血の弾圧がロシア、ポーランド、ラトヴィアの全ての革命的な中心地区で続き、一方で革命的な群団は、テロルやポグロム(pogroms、集団殺害)へと民衆を煽った。
 大規模の反乱が鎮圧された後のしばらくの間、地方での暴発や暴力活動が発生し、政府機関によって排除された。
 革命的形勢のこのような退潮にもかかわらず、レーニンは、闘争の早い段階での刷新を最初は望んだ。
 しかし、レーニンは、最後には反動的制度の範囲内で活動する必要性を受容し、1907年半ばからの第三ドゥーマ選挙に社会民主党が参加することに賛成した。
 この場合には(後述参照)、彼は自分の集団の多数派から反対され、メンシェヴィキには支持された。//
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 ②へとつづく。

1609/二つの革命・三人における①-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』②。
 社会民主主義者は全て、綱領の最小限と最大限の区別を当然のことと見なしていた。そして、いかにして社会民主主義者がブルジョア革命後の『次の段階』への闘いを遂行するかに関心を持っていた。
 彼らの誰も、どの程度長くロシアの資本主義時代が続くのかを敢えて予測しようとはしなかった。
 しかしながら、メンシェヴィキは一般に、西側の民主主義および議会制度を吸収する歴史的な一時代全体が必要だろうと考えた。そして、社会主義への移行は遙かに遠い期待だ、と。
 レーニンは、彼の側では、全ての戦術を将来の社会的転覆に向かって連動させなければならない、『最終目標』をつねに心に抱いて全ての党の行動を指揮しなければならない、というまったくマルクス主義の精神のうちにあるこの原理を重大視した。
 問題は、こうだった。ブルジョア革命が人民に、すなわちプロレタリアートと農民に権力を与えれば、彼らは不可避的に社会を社会主義の方向へと変形させようとするだろうか、そしてブルジョア革命は社会主義革命へと成長するだろうか?
 この問題は、1905年革命の直前の数年間に、そしてその革命後すぐのパルヴゥス(Parvus)やトロツキー(Trotsky)の著作で、前面に出てきた。//
 レオン・トロツキー(Leon Trotsky, Lyov Davidovich Bronstein)は、ロシアの亡命者集団でのマルクス主義の有能な主張者として、1902-3年に名前を知られるようになった。
 1879年11月7日(新暦)にヘルソン地方のヤノヴカ(Yanovka)で、ユダヤ人農夫(ウクライナ地域に少しはいた)の子息として生まれ、オデッサ(Odessa)とニコライエフ(Nikolayev)の小中学校に通い、18歳の年にマルクス主義者になった。
 彼は数ヶ月の間、オデッサ大学で数学を学んだ。だがすぐに政治活動に集中して、南ロシア労働者同盟(the Southern Russian Workers' Union)で働いた。この同盟は、純粋に社会民主主義ではないがマルクス主義思想の影響を多く受けていた。
 トロツキーは1898年の初頭に逮捕され、二年間を刑務所で過ごし、そして四年間のシベリア流刑の判決を宣せられた。
 収監中および流刑中に、熱心にマルクス主義を学び、シベリアでは研修講師をしたり合法的新聞に論考を発表したりした。
 トロツキーという名の偽の旅券によってシベリア流刑から逃れて、ここから彼の歴史に入っていくが、1902年の秋にロンドンでレーニンと会い、<イスクラ>の寄稿者になった。
 彼は、第二回党大会では、レーニンは労働者階級の組織ではなく閉鎖的な陰謀家集団に党を変えようとしているとして、その規約1条案に反対表決をした多数派の一人だった。
 トロツキーはしばらくはメンシェヴィキの陣営にいたが、リベラル派との同盟に向かう趨勢に同意できなくなってそれと決裂した。
 1904年にジュネーヴで、とりわけ党に関するレーニンの考えを攻撃する、<我々の政治的任務について>と題する小冊子を発行した。
 レーニンは人民と労働者階級を侮蔑しており、プロレタリアートを党に置き換えようとする、と主張した。これは時が推移すれば、中央委員会を党に置き換え、中央委員会を一人の独裁者に置き換えるだろうことを意味する、と。  
 これ以来頻繁に引用されるこの予言は、ローザ・ルクセンブルクによるレーニン批判と同じ前提にもとづくものだった。つまり、職業革命家から成る中央集中的かつ階層的な党という考えは、労働者階級は自分たち自身の努力ではじめて解放されることができるとの根本的なマルクス主義の原理に反している、という前提。//
 トロツキーは多年にわたり、主として独立の社会民主主義の主張者として活動し、党のいずれの派にも属さないで、党の統一の回復の方向へとその影響力を用いた。
 ミュンヒェンで、ロシア系ユダヤ人のパルヴゥス(Parvus、A. H. Helfand)の友人になった。パルヴゥスは、ドイツに住んでいて、ドイツ社会民主党左翼に属していた。
 このパルヴゥスは、永続革命理論の本当の(true)先駆者であり創始者だと見なされている。
 パルヴゥスの見方によると、ロシアの民主主義革命は社会民主主義政府に権力を与え、それは必然的に、社会主義に向かう革命の過程を継続するよう努めることになる。
 トロツキーはこの考えを採用し、1905年の革命に照らしてこれを解釈した。
 あの事件から一般化して、ロシアのブルジョアジーは弱いので、来たる革命はプロレタリアートによって率いられなければならず、ゆえにブルジョアの段階で停止しないだろうと、述べた。
 ロシアの経済的後進性が意味しているのは、ブルジョア革命のあとにただちに社会主義革命が続くだろう、ということだ。
 (これは、ドイツについての1948年のマルクスとエンゲルスの予測に似ていた。)
 しかし、『第一段階』でプロレタリアートは農民に支えられるが、社会主義革命の時期には農民は、それに反対する小土地所有者の大衆になるだろう。
 ロシアでは少数派なので、西側の社会主義革命によって助けられないかぎり、ロシアのプロレタリアートは権力を維持することができないだろう。
 しかし、革命の進行がロシアからヨーロッパおよび世界のその他の地域へと速やかに広がることを、期待することができる。//
 かくして、トロツキーの『永続革命』理論は、彼がその後数年間にしばしば繰り返した二つの前提条件に依拠している。
 ロシアのブルジョア革命は、継続的に社会主義革命へと進化する、ということ。
 これは、西側での大乱(conflagration)を誘発する、ということ。
 もしそうでなければ、ロシアの革命は生き残ることができない。プロレタリアートが農民大衆の圧倒的な抵抗と闘わなければならなくなるのだから。//
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 ③へとつづく。

1608/農民かブルジョアジーか-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』①。
 全ての社会民主主義者は、ロシアはつぎのような革命の前夜にあるということで合意していた。専政体制を除去し、民主主義的自由を確立して農民に土地を与え、隷従と人的依存を廃棄する、ブルジョア革命。
 しかし、いくつかの重要な未決定の諸問題が残されており、それらはある程度は、マルクス主義の教理の理論上の根本に関わっていた。//
 ロシアのブルジョアジーは弱くて臆病すぎるので、プロレタリアートが来たる革命を導くという考えはプレハノフ(Plekhanov)に由来し、多少の程度の差はあれ、この問題に関して最初から人民主義者との論争に、のちには『経済主義者』との論争に加わった、社会民主主義者の共通の財産だった。
 しかしながら、メンシェヴィキはこの見解に一貫して従わず、専制を打倒する場合のプロレタリアートの自然の同盟者はブルジョアジーやリベラル諸党派であり、革命後に後者は権力をもち、社会民主主義者はその反対側にいると、ブルジョア革命の性格から帰結させていた。//
 この点に関して、レーニンは初期の段階で、全く異なる戦術をとることを明らかにした。
 革命がロシアの資本主義への途を敷き詰めるということは、革命後にブルジョアジーが権力を確保すること、あるいは、社会民主主義者は革命のためにリベラル派と同盟すべきだということを、意味しなかった。
 レーニンはこうした考えを、リベラル派に対する凝り固まった憎悪からのみではなく、主としては、農民問題が決定的な要素だという自分の確信から抱いた。そしてこのことは、西側の民主主義革命の経験にもとづくいかなる図式をも、ロシアについて採用するのを非難することにつながった。
 正統派マルクス主義者と違って、レーニンは、農民の充たされない要求のうちにある巨大な革命的な潜在力を感知し、伝統的な見方から離れて小土地所有者を支持するという『反動的な』綱領を含むと思われるかもしれないとしても、党はこの力を利用すべきだと強く主張した。
 (『古典的な』思考様式によると、所有権の集中化は社会主義への前進を速める、したがって、土地所有権の分散は『反動的』だ。)
 レーニンは、鋭敏に政治的で機会主義的な(opportunist)かつ非教条的な見通しをもって、マルクス主義的『正しさ(correctness)』にさほど関心はなく、主として、または専ら、提案される戦術の政治的有効性に関心をもった。
 『一般的に言えば』と、彼は、つぎのように書いた。//
 『小土地所有を支持するのは、反動的だ。なぜなら、その支持が大規模の資本主義経済に鉾先を向け、その結果として社会発展を遅らせ、階級闘争を曖昧にして回避するからだ。
 しかしながら、我々はこの事案では、資本主義に反対してではなく農奴制的所有に反対して、小土地所有を支持することを求める。<中略>
 地上のあらゆる事物には、二つの面がある。
 西側では、自作農民はその役割を民主主義運動ですでに果たし終えた。そして今や、プロレタリアートと比較しての特権的な地位を守ろうとしている。
 ロシアでは、自作農民はまだ決定的で全国的に広がる民主主義運動の前夜にいて、この運動に共感せざるをえない。<中略>
 現在のような歴史的時点では、農民を支持するのが我々の義務だ。』(+)//
 我々の重要で直接的な目標は、農村地帯での階級闘争の自由な発展へと、途を開くことだ。国際的社会民主主義運動の究極的な目標の達成へと、プロレタリアートによる政治権力の征圧および社会主義社会建設の基礎の樹立へと向かう、プロレタリアートによる階級闘争のそれへの途を、だ。
 (『ロシア社会民主党の農業問題綱領』、1902年8月< Zarya >所収。全集6巻p.134、p.148。〔=日本語版全集6巻127-8頁・143頁〕)//
 かくして、レーニンは『ブルジョアジーとの同盟』という一般的考えを受け容れるが、それをただちにかつ根本的に修正(qualify)した。君主制に順応する用意のあるリベラル・ブルジョアジーとの同盟ではなく、革命的で共和的(republican)な『ブルジョアジー』、つまり農民との同盟へと。
 これは、党規約の問題よりも重要な、レーニンとメンシェヴィキの間の主要な基本的対立点だった。
 これはまた、1905年の第三回大会後に書かれた、レーニンの『二つの戦術』の主要な主題だった。//
 しかし、これは革命の間の同盟に関する問題だけではなく、その後の権力の問題でもあった。
 レーニンは、革命が設定することになるブルジョア社会をプロレタリアートと農民が支配すると、明確に述べた。
 彼が考えるに、このブルジョア社会は階級闘争の無制限の発展と所有権の集中を認めるだろうが、政治権力は、プロレタリアートと農民によってそれらが尊敬する党を通じて行使される。
 このような見地では、社会民主党は農民の支持を培養し、適切な農業問題綱領を用意しなければならない。
 これはまた、論争の主題になった。
 レーニンは、全ての土地の国有化へと進むことを提案し、ブルジョア社会を掘り崩すことはない一方で農民の支持を獲得するだろうと強調した。
 エスエルのように、たいていのボルシェヴィキは、大土地所有者の土地と教会の土地を補償なしで没収し、そうした土地を彼らで分けることに賛成だった。
 メンシェヴィキは没収した土地の『市有化(municipation)』、つまり地方諸団体に譲渡することに賛成だった。
 レーニンは、1903年の『貧農に訴える』で、つぎのように書いた。
 『社会民主主義者は、従業者を雇用していない小農や中農から土地を取り上げるつもりは決してない。』(全集6巻p.397。〔=日本語版全集6巻407頁。〕)(+)
 しかし、同じ小冊子で、彼は、社会主義革命の後では土地を含む全ての生産手段が共有されるだろうと語った。
 いかにして『貧農』がこの二つの言明を矛盾なく甘受すると見込まれたのかは、明確でない。//
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 (+) 秋月注記/日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 ②へとつづく。


1598/党と運動⑥-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑥。
 ローザ・ルクセンブルクのように、メンシェヴィキはレーニンを、ブランキ主義だ、<クー・デタ>による既存秩序の破壊を企図している、トカチョフ(Tkachov)の陰謀のイデオロギーを奉じている、そして『客観的』条件を無視して権力を追求している、と決まって批判した。
 レーニンは、自分の理論はブランキ主義と関係がない、真のプロレタリアの支持のある党の建設を望んでいる、一握りの陰謀家により遂行される革命という考えを持っていない、と反論した。
 メンシェヴィキは、レーニンは『主観的要因』、すなわち革命の意思力(will-power)の決定的な役割について反マルクス主義の信条をもつ、と主張した。
 史的唯物論の教えによれば、革命的意識を党の努力によって人工的に創出することはできず、それは社会状勢の成熟に依存している。
 革命的状況をもたらす経済的事象を待たずして革命を引き起こそうとするのは、社会の発展法則に違背することになる。//
 このような批判は、誇張はされているが、根拠がないわけではない。
 レーニンは、もちろん、小さな陰謀集団が適切に準備すればいつでも実行できる<クー・デタ>を心に描く、という意味での『ブランキ主義者』ではなかった。
 彼は、意のままに計画するまたは生み出すことはできない根本的な事象だと革命を認識していた。
 レーニンの見地は、ロシアでの革命は不可避であり、それが勃発したときに党はそれを指揮するよう用意し、歴史の波に乗り、そして権力を奪取しなければならない、その権力は最初は革命的農民たちと分かちあう、というものだった。
 彼は革命を惹起させることを計画していたのではなく、革命意識の成長を促進して、やがては大衆運動を支配することを計画していた。
 党が革命の過程での『主観的要因』であるならば、--そしてこれが、レーニンとその対抗者たちのいずれもがどのように問題を理解していたかなのだが--彼は、労働者階級の自然発生的な蜂起は、党が存在してそれを塑形し指揮しないかぎりは、何ものにもならないだろうと、まさしく考えていた。
 これは、党の役割は社会主義の意識の唯一の可能な運び手だという考え方の、一つの明確な推論結果(corollary)だった。
 プロレタリアートそれ自身は、この意識を発展させることができない、したがって革命への意思はたんに経済的事象によって発生するのではなく、計画的に作り出されなければならない。
 『経済主義者』、メンシェヴィキおよび左派ドイツ社会民主党、経済の法則が社会主義革命を自動的にもたらすと期待したこれらは全ては、悲惨な政策に従っていた。これは、決して起こらないのだから。
 その政策は、この問題についてマルクスに十分に訴えるものではなかった(レーニンによると、ローザ・ルクセンブルクはマルクスの教理を『世俗化して卑しくさせた』)。
 マルクスは、社会主義の意識または他のいかなる意識も社会条件から自動的に掻き立てられるとは言わなかった。その条件が意識の発展を可能にする、とだけ言ったのだ。
 現実になる可能性をもつためには、革命的な観念(idea)と意思が、組織された党の形態で存在していなければならなかった。//
 この論争でのどちらの側がマルクスをより正確に理解しているのかに関して、確定的な回答は存在しない。
 マルクスは、社会的条件は、やがてその条件を変容させる意識を発生させる、しかし、実際にそうなるためには、まずは明確に表現された形態をとらなければならない、と考えた。
 意識は現実の状勢を反映するものに『すぎない』という見方を支えるために、マルクスの多くのテクストを引用することができる。
 これは、正統派の見地の<待機主義(attentisme)>を正当化するものであるように見える。
 しかし他方で、マルクスは自分が書いたことを潜在的な意識の明確化または明示化だと見なした。
 マルクスがプロレタリアートの歴史的使命に言及する最初のテクストで、マルクスは語る。
 『我々は、この石のように固まった関係を、それら自身の旋律をそれらに演奏して踊るようにさせなければならない。』
 誰かが、この旋律を演奏しなければならない。--その『関係』は、自発的にそうすることはできない。
 社会的意識が変わらないままに『神秘化された』形態をとり、プロレタリアートが出現するときに勢いを止める、そういう過去の歴史についてのみ『社会的存在が意識を決定する』という原理が適用されるのだとすれば、前衛は意識を喚起するために必要だという教理は、マルクスの教えに合致している。
 問題はかくしてたんに、喚起することが可能となる地点まで条件が成熟した、ということを、我々が決定する規準(標識, criteria)を見分けることだ。
 マルクス主義は、この規準がどういうものなのかを示していない。
 レーニンはしばしば、プロレタリアートは(sc. 『物事の本質において』)革命的階級だと述べた。
 しかしながら、これは、プロレタリアートは革命的意識を自分で発展させるということではなく、その意識を党から受け取ることがことができる、ということのみを意味した。
 ゆえに、レーニンは『ブランキ主義者』ではないが、彼は、党だけが革命的意識の首唱者であり淵源だと考えた。
 『主観的要因』は、社会主義へと前進するためのたんに必要な条件である(メンシェヴィキも含めて全てのマルクス主義者が認めるように)のではなく、プロレタリアートからの助けなくしては革命を開始することはできないけれども、革命的意識を真に創り出すものなのだ。
 マルクス自身は決してこのような表現方法では問題を設定しなかったけれども、この点に関するレーニンの見解はマルクス主義の『歪曲』だと判断する根拠が、十分にあるのではない。// 
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 第3節・民族問題へとつづく。

1596/党と運動⑤-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑤。
 党員条項をめぐる論争は、実際に、党組織に関する二つの対立する考え方(ideas)を反映していた。これについてレーニンは、大会およびのちの諸論考で多くのことを語った。
 彼の見解では、マルトフ、アクセルロート(Akselrod)およびアキモフ(Akimov)が提案した『緩い』条項は、党を助ける教授にも中学生にも、あるいはストライキから出てきた労働者にも、全てに党員だと自称することを認めることになる。
 これが意味するのは、党が結合力と紀律および自分の党員たちへの統制を失う、ということだ。党は、上からではなく下から建設された大衆組織に、中央集中的な行動には適さない、自律的な単位の集合体に、なってしまうだろう。
 レーニンの考えは、正反対のものだった。すなわち、党員資格の厳しく定義された条件、厳格な紀律、その諸組織に対する党機関の絶対的な統制、党と労働者階級の間の明確な区別。
 メンシェヴィキはレーニンを、党生活への官僚主義的な態度を採用する、労働者階級を侮蔑する、独裁する野望をもつ、そして党全体を一握りの指導者に従属させる望みをもつ、と批判した。
 レーニンの側では、彼は大会のあとで書いた(<一歩前進二歩後退>、1904年。全集7巻p.405の注.〔=日本語版全集7巻435頁注(1)〕)。
 『マルトフ同志の基本的な考え-党への自主登録-は、まさしく偽りの「民主主義」で、下から上へと党を建設するという考えだ。
 一方、私の考えは、党は上から下へと、党大会から個々の党組織へと建設されるべきだという意味で、「官僚主義的」だ。』(+)//
 レーニンは、この論争の基本的な重要性を、最初から適切に感知していた。のちにはいくつかの場合に、この論争をジャコバン派とジロンド派の争論になぞらえた。
 これは、ベルンシュタインの支持者とドイツ正統派の間の論争よりは、適切な比較だった。というのは、メンシェヴィキの位置はドイツ社会民主党の中央にほとんど近かったからだ。
 メンシェヴィキは、より中央集中的でない、より『軍事的』でない組織を支持し、党は名前やイデオロギーについてのみならず、可能なかぎり多くの労働者を包含し、たんなる職業的革命家の一団ではないことによってこそ労働者階級の党だ、と考えた。
 彼らは、党は個々の諸組織に相当程度の自律を認めるべきで、もっぱら指令の方法によって諸組織との関係をもつべきではない、と考えた。
 彼らはレーニンを、外部から注入されるべき意識という教理を受容はするけれども、労働者階級を信頼していないと批判した。
 メンシェヴィキが他の問題についても異なる解決方法を採用する傾向にあることは、すみやかに明白になった。規約のただ一つの条項に関する論争が、党を実際に、戦略上および戦術上の諸問題にいわば本能的に異なって反応する二つの陣営へと分裂させた。
 メンシェヴィキはあらゆる事案について、リベラル派との同盟の方向へと引き寄せられた。
 一方でレーニンは、農民の革命と農民との革命的な同盟を強く主張した。
 メンシェヴィキは、合法的な行動形態や、可能になるならば、議会制度上の方法によって闘うことに重きを置いた。
 レーニンは長い間、ドゥーマ〔帝国議会下院〕に社会民主党が参加するという考えに反対し、その後もそれをたんなる情報宣伝の場所だと見なして、ドゥーマが定めるいかなる改革をも信頼しなかった。
 メンシェヴィキは、労働組合の活動を強く主張し、法令制定またはストライキ行動によって労働者階級が確保しうる全ての改良がもつ、固有の価値を強調した。
 レーニンにとっては、全てのそのような活動は、最終的な闘いを準備するのを助けるかぎりでのみ有意味だった。
 メンシェヴィキは、民主主義的自由をそれ自体で価値があるものと見なしたが、一方でレーニンにとってそれは、特殊な事情で党のために役立ちうる武器にすぎなかった。
 この最後の点で、レーニンは、ポサドフスキー(Posadovskii)が大会で行った特徴的な言明に賛成して、引用する。
 『我々は将来の政策を一定の基本的な民主主義原理(principles)に従属させて、それに絶対的な価値があると見なすべきか?
 それとも、全ての民主主義原理はもっぱら我々の党の利益に従属しているものであるべきか?
 私は断固として、後者の立場に賛同する。』
 (全集7巻p.227.)(++)
 プレハノフも、この見地を支持した。このことは、党が代表すると想定される階級の直接的利益を含めて種々の考察をする中で、『党の利益』をまさに最初から、いかに最も貴重なものとしているかを例証するものだ。
 レーニンの他の著作も、彼が『自由(freedom)』それ自体にはいかなる価値も与えていないことについて、疑問とする余地を残していない。演説や小冊子は、『自由への闘い』への言及で充ち溢れているているけれども。
 『この自由をプロレタリアが利用するという独自の運動(cause)に役立つことのない、この自由を社会主義へのプロレタリアの闘争のために使う運動に役立つことのない、一般論としての自由の運動のために役立つものは、分析をし尽くせば、平易かつ単純に、ブルジョアジーの利益のための闘士なのだ。』(+)
 (雑誌<プロレタリア>内の論考『新しい革命的労働者同盟』、1905年6月。全集8巻p.502.〔=日本語版全集8巻507頁〕)//
 このようにして、レーニンは、のちに共産党となるものの基礎を築いた。-すなわち、こう特徴づけられる党。観念大系の一体性、有能性、階層的かつ中央集中的構造、そして、プロレタリアート自身は何を考えていようとその利益を代表するという確信。
 戦術上の目的がある場合は別として、それが代表すると自認する人民の実際の欲求や熱望を無視することのできる、そういう『科学的知見』を持つがゆえに、その利益が自動的に労働者階級の利益、および普遍的な進歩の利益となることを宿命づけられている党。//
 (+秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
 (++) 日本語版全集7巻で、この文章は確認できなかった(2017.06.21)。
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 ⑥へとつづく。

1592/党と運動④-L・コワコフスキ著16章2節。

 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性④。
 党に関するレーニンの教理が『エリート主義』ではないということが分かるだろう。
 あるいは、社会主義の意識は外部から自然発生的な労働者運動に導入されるという理論は、レーニンの党を中央集中的で教条的で頭を使っていないがきわめて効率的な機械にするようになり、とくに革命後にそうなった。
 この機械の理論上の淵源は、というよりもそれを正当化するものは、党は社会に関する科学的な知識をもつために政治的主導性の唯一の正統な淵源だ、とするレーニンの確信だった。
 これはのちに、ソヴィエト国家の原理(principle)になった。そこでは、同じイデオロギーが、社会生活の全ての分野での主導性を党が独占することを、そして党の位置を社会に関する知識の唯一の源泉だと見なし、したがって社会の唯一の所有者だと見なすことを、正当化するのに役立つ。
 全体主義的(totalitarian)国家の全体系が、意識的に目論まれて、1902年に表明されたレーニンの教理の中で述べられていた、と主張するのは、むろん困難だろう。
 しかし、権力奪取の前と後での彼の党の進化は、ある程度は、マルクス主義者の、あるいはむしろヘーゲル主義者の、不完全だが歴史的秩序に具現化される『物事の論理的整序』という信念を確証するものだ。
 レーニンの諸命題は、社会的階級、つまりプロレタリアートの利益と目標は、その問題についてその階級は一言も発することなくして決定されることができるし、またそうされなければならない、と信じることを、我々に要求する。
 同じことは、そのうえさらに、いったんその階級に支配され、そのゆえにおそらくその階級の目標を共有した社会全体について、また全体の任務、目的およびイデオロギーがいったん党の主導性によって支配されてその統制のもとに置かれた社会全体について、当てはまる。
 党の主導権に関するレーニンの考え(idea)は、自然に、社会主義社会における党の『指導的役割』という考えへと発展した。--すなわち、党はつねに社会それ自体よりも社会の利益、必要、そして欲求すらをよく知っている、民衆自身は遅れていてこれらを理解できず、党だけがその科学的知識を使ってこれらを見抜くことができる、という教理にもとづく専政体制(独裁, despotism)へと。
 このようにして、一方では夢想主義(utopianism)に対抗し、他方では自然発生的な労働者運動に対抗する、『科学的社会主義』という想念(notion)が、労働者階級と社会全体を支配する一党独裁のイデオロギー上の基盤になった。//
 レーニンは、党に関するその理論を決して放棄しなかった。
 彼は、第二回党大会のとき、<何をなすべきか>で僅かばかり誇張した、と認めた。しかし、どの点に関してであるのかを語らなかった。
 『我々は今ではみな、「経済主義者」が棒を一方に曲げたことを知っている。
 物事をまっすぐに伸ばすためには、誰かが棒を他の側に曲げ返さなければならなかった。それが私のしたことだ。
 私は、いかなる種類の日和見主義であってもそれによって捻られたものを何でも、ロシア社会民主党がつねに力強くまっすぐに伸ばすだろうと、そしてそのゆえに、我々の棒はつねに最もまっすぐであり、最も適任だろうと、確信している。』(+)
 (党綱領に関する演説、1902年8月4日。全集6巻p.491〔=日本語版全集6巻506頁〕.)//
 <何をなすべきか>はどの程度において単一性的な党の理論を具体化したものかを考察して、さらなる明確化がなされなければならない。
 このときそしてのちにも、レーニンは、党の内部で異なる見解が表明されることを、そして特殊な集団が形成されることを、当然のことだと考えていた。
 彼は、これは自然だが不健全だと考えた。原理的には(in principle)、唯一つの集団だけが、所与の時点での真実を把握できるはずだからだ。
 『科学を前進させたと本当に確信している者は、古い見解のそばに並んで新しい見解を主張し続ける自由をではなく、古い見解を新しい見解で置き換えることを、要求するだろう。』(+)(全集5巻p.355〔=日本語版全集5巻371頁〕.)
 『悪名の高い批判の自由なるものは、あるものを別のものに置き換えることを意味しておらず、全ての統括的で熟考された理論からの自由を意味している。
 それは、折衷主義および教理の欠如を意味する。』(+)(同上, p.369〔=日本語版全集5巻388頁〕.)
 レーニンが、重要な問題についての分派(fractionalism)や意見の差違は党の病気または弱さだとつねに見なしていた、ということに疑いはあり得ない。
 全ての異見表明は過激な手段によって、直接の分裂によってか党からの除名によって、治癒されるべきだとレーニンが述べるかなり前のことではあったが。
 正式に分派が禁止されたのは、ようやく革命後にだった。
 しかしながら、レーニンは、重要な問題をめぐって同僚たちと喧嘩別れすることをためらわなかった。
 大きな教理上のおよび戦略上の問題のみならず組織の問題についても、全ての見解の相違は結局のところは階級対立を『反映』しているとレーニンは考えて、彼は自然に、党内での彼への反抗者たちを、何らかの種類のブルジョア的逸脱の『媒介者』だと、またはプロレタリアートに対するブルジョアの圧力の予兆だと、見なした。
 彼自身がいつでもプロレタリアートの真のそして最もよく理解された利益を代表しているということに関しては、レーニンは、微少なりとも疑いを抱かなかった。//
 <何をなすべきか>で説かれた党に関する理論は、第二回党大会でのレーニンの組織に関する提案で補完された。
 第二回党大会は長い準備ののちにブルッセルで1903年7月30日に開かれ、のちにロンドンへと移されて8月23日まで続いた。
 レーニンは、春から住んでいたジュネーヴから出席した。
 最初のかつ先鋭的な意見の相違点は、党規約の有名な第1条に関するものだった。
 レーニンは、一つまたは別の党組織で積極的に活動する者に党員資格を限定することを望んだ。
 マルトフ(Martov)は、一方で、党組織の『指導と指揮のもとで活動する』者の全てを受け入れるより緩やかな条項を提案した。
 この一見すれば些細な論争は、分裂に似たもの、二つの集団の形成につながった。この二つは、すぐに明確になったが、組織上の問題のみならず他の多くの問題について、分かれた。
 レーニンの定式は、プレハノフ(Plekhanov)に支持されたが、少しの多数でもって却下された。
 しかし、大会の残り期間の間に、二つの集団、すなわちブント(the Bund、ユダヤ人労働者総同盟)と定期刊行物の < Rabocheye Delo >を代表する『経済主義者』が退席したおかげで、レーニンの支持者たちは、僅かな優勢を獲得した。
 こうして、レーニンの集団が中央委員会や党会議の選挙で達成した少しばかりの多数派は、有名な『ボルシェヴィキ』と『メンシェヴィキ』、ロシア語では『多数派』と『少数派』、という言葉を生み出した。
 この二つはこのように、もともとは偶然のものだった。しかし、レーニンとその支持者たちは、『ボルシェヴィキ(多数派)』という名称を掴み取り、数十年の間それに執着した。その後の党の推移全般にわたって、ボルシェヴィキが多数派集団だと示唆し続けた。
 他方で、大会の歴史を知らない多くの人々は、この言葉を『最大限綱領主義者(Maximalist)』の意味で理解した。
 ボルシェヴィキたち自身は、このような解釈を示唆することは決してなかった。//
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 (+秋月注記) 日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
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 ⑤へとつづく。

1579/レーニン主義②-L・コワコフスキ著<マルクス主義>16章1節。

 試訳のつづき。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (Norton, 三巻合冊 2008)では、第16章第1節は、p.661-4。第二分冊(第二巻)の以下は、p.382-。
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 第1節・レーニン主義をめぐる論争②。
 レーニンは『修正主義者』だったかという問題は、レーニンの著作物とマルクスの著作物とを比較することによって、あるいはこの問題または別の問題についてマルクスならば何をしただろうかまたは何と語っただろうかという回答不能の問題を設定することによってのみ決定することができる。
 明白に、マルクスの理論は多くの箇所で不完全で曖昧だ。そして、マルクスの理論は、その教理をはっきりと侵犯することなくして、多くの矛盾する方法で『適用』されうるだろう。
 にもかかわらず、マルクス主義とレーニン主義の間の継承性に関する問題は、完全に意味がないわけではない。
 しかしながら、この問題は、『忠実性』に関してではなくて、理論の分野でマルクス主義の遺産を『適用』するまたは補足するレーニンの企てにある一般的な傾向を吟味することによって、むしろよりよく考察することができる。//
 述べたとおり、レーニンにとっては、全ての理論上の問題は、唯一の目的、革命のためのたんなる道具だった。そして、全ての人間の行い、観念、制度の意味および価値は、もっぱらこれらがもつ階級闘争との関係にあった。
 このような志向性を支持するものを、多くの理論上の文章の中で、ある階級社会における生活の全側面のうち一時性や関係性を強調したマルクスやエンゲルスの著作物に見出すのは困難ではない。
 にもかかわらず、この二人の特有の分析は、このような『還元主義』定式が示唆すると思える以上に、一般論としてより異なっており、より単純化できないものだ。
 マルクスとエンゲルスはともに、『これは革命にとって良いものか悪いものか?』という発問によって意味されている以上の、利益についての相当に広い視野を持っていた。
 他方、この発問は、レーニンにとっては、問題がそもそも重要かどうか、そうであればそれはどのように決定されるべきかに関する、全てを充足する規準だった。
 マルクスとエンゲルスには、文明の継続性に関する感覚があった。そして、彼らは、科学、芸術、道徳、および社会的諸制度の全ては階級の利益のための道具『以外の何物でもない』、とは考えなかった。
 にもかかわらず、彼らが史的唯物論を明確にする一般的定式は、レーニンが用いるのに十分だった。
 レーニンにとって、哲学的問題はそれ自体では意味をもたず、政治的闘争のためのたんなる武器だった。芸術、文学、法と制度、民主主義諸価値および宗教上の観念も、同様だった。
 この点で、レーニンは、マルクス主義から逸脱していると非難することができないだけではなく、史的唯物論の教理をマルクス以上に完全に適用した、ということができる。
 例えば、かりに法は階級闘争のための武器『以外の何物でもない』とすれば、当然に、法の支配と専横的独裁制の間に本質的な差違はない、ということになる。
 かりに政治的自由はブルジョアジーがその階級的利益のために使う道具『以外の何物でもない』とすれば、共産主義者は権力に到達したときにその価値を維持するよう強いられていると感じる必要はない、と論じるのは完全に適正だ。
 科学、哲学および芸術は階級闘争のための器官にすぎないので、哲学論文を書くことと砲火器を使うことの間には『質的な』差違はない、と理解してよいことになる。-この二つのことは、異なる場合に応じた異なる武器であるにすぎず、味方によって使われるのかそれても敵によってか、に照らして考察されるべきものだ。
 このようなレーニンの教理の見方は、ボルシェヴィキによる権力奪取以降に劇的に明確になった。しかし、こういう見方は、レーニンの初期の著作物において表明されている。
 レーニンは、見解がやや異なる別のマルクス主義者たちとの議論で、共通する教理を適用する変わらない簡潔さと一貫性で優っていた。
 レーニンの論敵たちがレーニンはマルクスが実際に言った何かと矛盾していると-例えば、『独裁』は法による拘束をうけない専制を意味しないと-指摘することができたとき、彼らは、レーニンの非正統性というよりもむしろ、マルクス自身のうちにある首尾一貫性の欠如を証明していた。//
 しかし、それでもなお、レーニンがロシアの革命運動に導入した一つまたは二つのきわめて重要な点に関する新しい発想は、マルクス主義の伝統に対する忠実性がなり疑問であることを示唆する。
 第一に、レーニンは初期の段階で、『ブルジョア革命』のための根本戦略として、プロレタリアートと農民との間の同盟を擁護した。一方で、レーニンに対する反対者たちは、ブルジョアジーとの同盟の方がこの場合の教理とより一致しているはずだ、と主張した。
 第二に、レーニンは、民族問題を、たんなる厄介な邪魔者のではなくて、その教理を社会民主主義者が発展させるべく用いることができかつそうすべき活動源の、強力な蓄蔵庫であると見た最初の人物だった。
 第三に、レーニンは、自分自身の組織上の規範と、労働者による自然発生的な突発に向けて党が採用すべき態度に関する彼自身の範型とを、定式化した。
 これら全ての点について、レーニンは改良主義者やメンシェヴィキからのみならず、ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg)のような正統派の中心人物によっても批判された。
 また、これら全ての点について、レーニンの教理は極度に実践的なものであることが判明した。そして、上記の三点の全てについて、レーニンの政策が、ボルシェヴィキ革命を成功させるために必要なものだった、とレーニンの教理に関して、安全には言うことができる。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と随意性、へとつづく。

1570/レーニンらの利点とドイツの援助②-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
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 第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの財政援助②。
 しっかりした指導者がいないロシアでは解体が進み、社会主義者が作動させていたものを含む国家諸制度が全て弱体化した。そうして、事態の推移は、全ロシア・ソヴェトや労働組合中のメンシェヴィキやエスエルの指導者たちを出し抜く機会を、ボルシェヴィキに与えた。
 連立政府の形成ののちにマルク・フェロ(Marc Ferro)は、ペテログラードの全ロシア・ソヴェトの権威が各地域のソヴェトのそれが大きくなるにつれて弱くなったことを指摘した。
 同じようなことが労働運動でも起こり、全国的労働組合は権威を失って地方の『工場委員会(Factory Committe)』に譲った。
 各地域ソヴェトと工場委員会は、ボルシェヴィキが操縦しやすい、政治経験のない人々によって管理されていた。//
 ボルシェヴィキは、メンシェヴィキが支配する大きな全国的労働組合にはほとんど影響力を持たなかった。
 しかし、輸送と通信の状態が悪化したとき、ペテログラードかモスクワに本部がある大きな全国的労働組合は、広大な国土に散在している構成員と接触できなくなった。
 労働者たちは今や、職業的労働組合から工場へと、忠誠の方向を移す傾向が生じた。
 このような推移は、1917年に全国的労働組合の構成員数がきわめて多数になったにもかかわらず、発生した。
 実力と影響力を最も急速に身につけた労働者組織は、工場委員会(あるいは Fabzavkomy)だった。
 この工場委員会は、旧政府が任命した管理者が姿を消したあとで、二月革命の始まりの時期に、国有の防衛装備工場で出現した。
 そこから、私有の諸企業へと広がった。
 3月10日、ペテログラード産業家連盟はイスパルコムとの間で、首都の全工場施設(plants)に工場委員会を設置することに合意した。
 臨時政府は翌月に、それらを公的に承認し、工場委員会が労働者たちの代表団として行動する権利を付与した。//
 工場委員会は最初は穏健な立場を採用し、生産の増大と労働争議の仲裁に関心を集中させた。
 そうして、工場委員会は、急進化した。
 不幸なことに物価高騰や燃料、原料の不足が工場閉鎖になるほどにひどくなり、工場委員会は、投機や偽りの会計帳簿のせいだと雇用主を責め立て、一時罷業の手段をとった。
 あちこちで彼らは、所有者や管理者を追い払って、自分たちで工場を稼働させようと企てた。
 そうでなくとも、彼らは経営に自分たちの声が強く反映されることを要求した。
 メンシェヴィキはこのようなアナクロ・サンディコ主義的組織に好意をもたず、工場委員会を全国的労働組合へと統合しようとした。
 しかし、労働者の当面の日々の関心が、別の場所にいる同職業の仲間ではなく同じ傘のもとに雇われている仲間とますますつながっていくにつれて、趨勢はメンシェヴィキの意向とは反対の方向へと進んだ。
 ボルシェヴィキは、労働組合でのメンシェヴィキを弱体化する理想的な手段だと、工場委員会のことを考えた。
 ボルシェヴィキは『労働者の支配』というサンディコ主義の考えに同意はしなかったが、かつ権力奪取ののちにはこの組織を絶滅させることになるのだが、1917年の春には、工場委員会を大きくすることが彼らの利益だった。
 ボルシェヴィキは工場委員会の設立を助け、全国的に組織した。
 5月30日に開催されたペテログラード工場委員会の第一回大会では、ボルシェヴィキは、少なくとも三分の二の代議員を支配した。
 工場の会計書類に関与できるだけではなくて工場の管理についての決定的な表決権が労働者に与えられるべきだとのボルシェヴィキの提案は、圧倒的な多数でもって可決された。
 工場委員会、Fabzavkomyは、ボルシェヴィキの手に落ちた、最初の組織だった。(*)//
 レーニンは暴力行為による権力奪取を目論んでいたので、政府とソヴェトの双方から独立し、党の中央委員会に対してのみ責任をもつ自分自身の軍団を必要とした。
 『労働者の武装』は、将来のクー・デタへの綱領の中心にあった。
 群衆は、二月革命の間に、軍需物資を略奪した。数万の銃砲が消え、そのいくらかは工場の中に隠された。
 ペテログラード・ソヴェトは、帝制時代の警察に代わる『人民軍』を組織した。
 だがレーニンは、ボルシェヴィキがこれに加入するのを拒んだ。自分自身の実力部隊が欲しかったのだ。
 国家転覆のための組織を作っているとして訴追されることのないように、レーニンは、その私的な軍を最初は『労働者民兵』と呼んで、工場を略奪者から守る当たり障りのない護衛団のごとく偽装した。
 この私的民兵は4月28日に、ボルシェヴィキの赤衛軍(Red Guard, Krasnaia Gvardiia)と一つになり、後者には、『革命の防衛』と『反革命軍に対する抵抗』という使命が加わった。
 ボルシェヴィキは、この自分の軍に対するソヴェトの反対を無視した。
 赤衛軍は結局は、通常の民間警察に変わるか人民軍と併合するかしたので、期待外れのものに終わった。どちらの場合でも、レーニンが期待したような階級軍精神をもつものにはならなかったからだ。
 必要になった十月には、存在していないことで異彩を放つことになる。//
 ボルシェヴィキはクーを準備して、守備軍団や前線兵団の間での虚偽情報宣伝や煽動活動も熱心に行なった。
 この仕事の責任は、軍事機構(Military Organization)が負うこととされた。
 ある共産党資料によれば、この軍事機構は、守備兵団の四分の三に、工作員や細胞(cell)を持った。
 軍事機構はその工作員や細胞から軍団の雰囲気に関する情報を得るとともに、それらを通じて、反政府および反戦争の宣伝活動を実行した。
 ボルシェヴィキは制服組の人間からほとんど支持されていなかったが、首尾よく兵団の不満を煽った。それの効果は、兵士たちが、政府またはソヴェトからのボルシェヴィキに対抗する呼びかけに服従したくない気分になる、ということだった。
 スハノフ(Sukhanov)によれば、最も強く不満を持っていた守備軍兵士たちですらボルシェヴィキを支持したのではなかったが、兵士たちの雰囲気は『中立』や『無関心』の一つで、反政府の訴えに反応しやすくなっていた。
 守備軍団の中の最大部隊、第一機関銃連隊の雰囲気は、この範疇に属していた。//
 ボルシェヴィキは主としては、印刷した言葉の手段でもって、心情に影響を与えた。
 <プラウダ>は、6月までには、8万5000部が発行された。
 ボルシェヴィキは地方紙や特定の集団に向けた文書(例えば、女性労働者、少数派民族)を発行し、夥しい数の小冊子を作成した。
 ボルシェヴィキは、制服を着た男たちに特別の注意を払った。
 兵士用の新聞、< Soldatiskaia プラウダ>が4月15日に発刊され、これは5万から7万5000部が印刷された。
 つづいて、海兵用の< Golos Praudy >、前線兵士用の< Okopnaia Pravda >が、それぞれクロンシュタット、リガで印刷されて、発刊された。
 それらは合わせて1917年の春に、兵団にむけて一日に10万部が配られ、ロシアの全軍に1200万人の兵士がいたとすれば、一隊あたり毎日一人のボルシェヴィキ党員の需要を満たすものだった。
 ボルシェヴィキ系新聞の合計部数は、7月初めには、32万になった。
 追記すると、< Soldatiskaia プラウダ>は、35万の小冊子と大判紙を印刷した。
 ボルシェヴィキには1917年二月には新聞がなかったことを考えれば、こうしたことは特筆されるべき事柄だ。//
  (*) 労働組合と工場委員会の対立は、20年後にアメリカ合衆国でも起きた。そのとき、工場を基礎にする組合はCIOと提携して、AFLの職業志向の組合に挑戦した。ここでは共産主義者は、ロシアのように、前者に味方した。
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 ③へとつづく。

1568/レーニンらの利点とドイツの援助①-R・パイプス著10章6節。

 第5節終了の前回からのつづき。第6節は、p.407~p.412。
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 第6節・ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツによる財政援助。
 1917年の5月と6月、社会主義諸党の中で、ボルシェヴィキ党はまだ寂しい第三党だった。
 6月初めの第一回全ロシア・ソヴェト大会のとき、ボルシェヴィキには105人の代議員がいたが、これに対してエスエルは285人、メンシェヴィキは248人だった。(*)
 しかし、潮目はボルシェヴィキに向かって流れていた。//
 ボルシェヴィキには多くの有利な点があった。
 新しい臨時政府に対する唯一の対抗選択肢であり、決意があり権力を渇望する指導部をもつ、という独自の地位。そしてこれら以外にも、少なくとも二つの利点があった。
 メンシェヴィキとエスエルは社会主義的スローガンをまくし立てはしたが、それらを論理的な結論へと具体化することをしなかった。
 このことは支持する有権者たちを当惑させ、ボルシェヴィキを助けた。
 社会主義者たちは、二月革命以降のロシアは『ブルジョア』体制になり、ソヴェトを通じて自分たちが統制すると言ってきた。
 だが、そうであれば、なぜソヴェトは『ブルジョアジー』を除去して完全な権力を握らないのか?
 社会主義者たちは、戦争は『帝国主義的』だと称した。
 そうであれば、なぜ武器を捨てさせ、故郷に戻さないのか?
 『全ての権力をソヴェトへ』や『戦争をやめよ』のスローガンは、1917年の春や夏にはまだ一般に受容されていなかったが、確実に避けられない論理をもった-つまり、社会主義者たちが一般民衆の間に植え付けた考えの脈絡で、『意味』をもった。
 ボルシェヴィキは勇気をもって、社会主義者に共通の諸基本命題から、彼らがそれに実際に堪えることは決してないという明白な結論を抽出した。
 したがって、社会主義者がそうしてしまうことは、自分たち自身を裏切るのと同じになる。
 社会主義者たちは、レーニンの支持者たちが厚かましく民主主義的手続に挑戦して権力への衝動を見せたときいつも、そして何度も、やめよと語りかけ、だが同時に、政府が対応措置をとることを妨げることになった。
 社会主義者たちのたった一つの罪が危険ではない手法で同じ目標を達成しようとしたことにあるとすれば、彼らがボルシェヴィキに立ち向かうのは困難だっただろう。
 レーニンとその支持者たちは、多くの意味で、本当の『革命の良心』だった。
 多数派社会主義者には精神的臆病さと結びついて知的な責任感が欠如していたので、少数派ボルシェヴィキが根付いて成長する、心理的および理論的な環境が醸成された。//
 しかしおそらく、ボルシェヴィキがその好敵たちを凌駕する唯一かつ最大の有利な点は、ロシアに対する関心が全くないことにあった。
 保守主義者、リベラルたち、そして社会主義者たちはそれぞれに、革命が解き放ち国を分解させている個別の社会的地域的な利害を敢えて無視して、一体性あるロシアを守ろうとした。
 彼らは、兵士たちに紀律の維持を、農民たちに土地改革を待つことを、労働者には生産力の保持を、少数民族には自治の要求の一時停止を、訴えた。
 このような訴えは、人気がなかった。ロシアには国家や民族に関する強い意識がなかったので、中心から離れる傾向は増大し、全体を犠牲にした個別利益の優先が助長されていたからだ。
 ボルシェヴィキにとってはロシアは世界革命のための跳躍台にすぎず、彼らはこれらに関心がなかった。
 かりに自然発生的な力が現存の諸制度を『粉砕』してロシアを破壊すれば、それはきわめて結構なことだっただろう。
 こうした理由から、ボルシェヴィキは、全ての破壊的な傾向を完璧に助長し続けた。
 この傾向は二月にいったん解き放たれるや留まることを知らず、ボルシェヴィキは膨れあがる波の頂点に立った。
 自分たちは不可避的なものだと主張しつつ、統制されているという見かけをかち得た。
 のちに権力を掌握した際、すぐに全ての約束を破棄し、かつてロシアが知らなかった中央集中的な独裁形態の国家を作り上げることになる。
 そのときまではしかし、ロシアの運命に無関心であることは、ボルシェヴィキにとって、きわめて大きな、かつおそらくは決定的な利点となった。//
 (*) W. H. Chamberlin, The Russian Revolution, I (ニューヨーク, 1935) p.159。
 第一回農民大会には1000名以上の代議員が出席したが、そのうちボルシェヴィキ党は20人だった。同上、VI, No.4 (1957) p.26。
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 ②につづく。

1563/五月連立・エスエルら入閣-R・パイプス著10章5節。

 前回からのつづき。
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 第5節・社会主義者の臨時政府への加入。p.405-7。
 四月騒乱は、臨時政府の最初の重大な危機だった。
 ツァーリ体制(帝制)が崩壊して僅か二ヶ月後に、知識人たちはその眼前で国の統合が壊れていくのを見た-そしてもはや、責めるべき皇帝も官僚層もいなかった。
 政府は4月26日に、もう統治できない、『今まで直接で即時には内閣の一部を占めていなかった国の創造的な人たちの代表者』を、つまり社会主義知識人の代表者を、招き入れたい、という感情的な訴えを国民に対して発した。
 『大衆』の目から妥協しているとされるのをまだ怖れて、イスパルコムは4月28日に、政府からの打診を拒否した。
 イスパルコムが態度を変えた原因は、戦時大臣、グチコフの4月30日の退任だった。
 グチコフが回想録で説明するように、ロシアは統治不能になったと彼は結論していた。
 唯一の救済策は、コルニロフ将軍や実業界の指導者たちに代表される『健全な』勢力を政府に招き入れることだ。      
 社会主義知識人の態度が変わらなければこれは不可能なので、グチコフは階段を下りた。
 ツェレテリによれば、そのあとでミリュコフの任務から解放されたいとの要請がつづいたグチコフの辞任は、もはや一時凌ぎの方策では対応できない範囲に及んでいる、危機の兆候だった。
 『ブルジョアジー』が、政府を放棄しようとしていた。
 5月1日にイスパルコムは方針を変え、総会に諮ることなく、賛成44票対反対19票、保留2票の表決をして、メンバーが内閣の職を受諾することを許した。
 反対票は、ソヴェトが全ての権力を獲得することを願うボルシェヴィキと(マルトフ支持者の)メンシェヴィキ国際派によって投じられた。
 ツェレテリは、〔国際派以外の〕多数派を合理化する説明をしている。
 彼が言うには、政府は、迫りつつある破滅から国を救うことができないことを認めた。
 このような状況では、一歩を踏み出して革命を救う義務が、『民主主義』勢力にある。
 ソヴェトは、マルトフやレーニンが望むように、自らのために自らの名前で権力を得ることは、できない。そんなことをすれば、民主政を信じてはいないが民主主義勢力と協力するつもりのある多数の国民を、反動者たちの手に押し込んでしまうことになるのだから。
 別のメンシェヴィキのV・ヴォイチンスキー(Voitinskii)にツェレテリが語ったのは、つぎのようなことだ。
 『ブルジョアジー』との連立に賛成し、『全権力をソヴェトに』のスローガンに間接的には反対することになるのは、農民たちがソヴェトの『右翼側に』位置しており、おそらく彼らは自分たちが代表されていない組織を政府だと認めるのを拒むだろうからだ。//
 イスパルコムは、連立政府の設立に同意する際に、一連の条件を付けた。
 すなわち、連合国間の協定の見直し、戦争終結への努力、軍隊の一層の『民主化』、農民に土地を配分する段階を始める農業政策、そして憲法制定会議(Constituent Assembly)の召集。
 政府の側では、新政府を、軍隊の最高指令権の唯一の源泉であることはもとより、状況によれば軍事力を実際に行使する権限をもつ、国家主権の排他的保持者だと認めることを、イスパルコムに要求した。
 政府とイスパルコムの代表者たちは、五月の最初の数日間を、連立の条件を交渉することで費やした。
 5月4日から5日にかけての夜に、合意に達した。それに従って、新しい内閣が職務を開始した。
 安定感があって無害のルヴォフ公が首相に留任し、グチコフとミリュコフは正式に辞任した。
 外務大臣職は、カデット〔立憲民主党〕のM・I・テレシェンコ(Tereschenko)に与えられた。
 若き実業家のテレシェンコは政治経験がほとんどなく、公衆にはあまり知られていなかったので、これは不思議な選抜だった。
 しかし、一般に知られていたのは、ケレンスキーのようにフリーメイソンに所属しているということだった。この人物の任命はフリーメイソンとの関係によるという疑問の声が挙がった。
 ケレンスキーは、戦時省を所管することになった。
 彼もこの職へと後援するものは持たなかったが、ソヴェトでの卓越ぶりと弁舌の才能によって、夏期の攻勢を準備している軍隊を鼓舞することが期待された。
 6人の社会主義者が、連立内閣の大臣になった。そのうち、チェルノフは農務省の大臣職に就き、ツェレテリは郵便電信大臣になった。
 この内閣は、二ヶ月間、生き存えることになる。//
 五月協定は、究極的な権威について国民を当惑させる二重権力体制(dvoevlastie)の奇妙さを、いくぶんか和らげた。
 五月協定は、大きくなっていく失望の意識だけを示すのではなく、社会主義知識人の成熟さが増大したことをも示していた。そして、そのようなものとして、一つの明確な発展だった。
 表面的には、『ブルジョアジー』と『民主主義』を一つにした政府は、二つの集団が相互に敵対者となるよりは効率的だと、約束した。
 しかし、この合意は、新しい問題も生じさせた。
 社会主義政党の指導者が入閣した瞬間に、彼らは反対者〔野党〕の役割を失った。
 内閣に入ることで彼らは自動的に、間違う全てについての責めを分け持つことになった。
 このことが許したのは、政府に入らなかったボルシェヴィキが現状に対抗する唯一の選択肢であり、ロシア革命の守護者であるという位置を占めることだった。
 そして、リベラルおよび社会主義知識人の行政能力は救いようもなく低かったので、事態は、より悪化せざるをえなかった。
 ボルシェヴィキが、唯一の想定できるロシアの救い手として、現われた。//
 臨時政府は今や、崩壊する権威から権力統御権を奪う穏健な革命家たちの、古典的な苦境に立ち至った。
 クレイン・ブリントン(Crane Brinton)は、革命に関する比較研究書の中で、つぎのように書く。//
 『穏健派たちは、少しずつ、旧体制の反対者として得ていた信頼を失っていることに気づく。そして、ますます旧体制の相続人としての地位と見込みでは結びついていたものを失墜させていることに。
 防御側に回って、彼らはつぎつぎと間違いをする。防御者であることにほとんど慣れていないのが理由の一つだ。』
 『革命の進行に遅れる』と考えることが心情的に堪えられなくて、左翼にいる好敵と断交することもできなくて、彼らは誰も満足させず、十分に組織され、十分に人員をもつ、より決意をもつ好敵たちに、喜んで道を譲る。(79) //
  (79) Crane Brinton, Anatomy of Revolution (ニューヨーク, 1938), p.163-171。

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 第6節につづく。 

1543/スイスにいたレーニン②-R・パイプス著第10章。

 前回のつづき。
 第1節・1917年初期のボルシェヴィキ党②。
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 1917年3月のボルシェヴィキ党は、このような〔レーニンの〕野心的計画を遂行できる状況ではほとんどなかった。
 大戦中に警察に逮捕されて、それは2月26日が最もひどかったのだが、党の最も重要な組織体であるペテログラード委員会の委員が勾留され、党の機構は無力になった。
 指導部の者たちはみな、投獄されるか、追放されていた。
 1916年12月初期のレーニンあて報告で、シュリャプニコフ(Shliapnikov)は、いくつかの工場や要塞守備兵団での前の数ヶ月間の党の活動について、『戦争をやめろ』、『政府を倒せ』とのスローガンだったと叙述した。だが同時に彼は、ボルシェヴィキが警察の情報員にスパイされていて非合法の活動をするのがほとんど不可能になった、と認めた。
 二月革命を呼びかけたとか組織したとすらしたとかのボルシェヴィキによるそのすぐあとの主張は、したがって、全く事実ではない。
 ボルシェヴィキは、自発的な示威行動者たち、そしてまた、メンシェヴィキやそれが支配するソヴェトの後にくっついて、その人たちの上着の裾を握って歩いたようなものだった。
 反乱兵団の中には支持者はほとんどいなかったし、この時期の工場労働者の中でボルシェヴィキを支持する者は、メンシェヴィキやエスエルに対してよりもはるかに少なかった。
 二月の日々の間、ボルシェヴィキがしたことと言えば、訴えや宣言文書類を発行することに限られていた。
 せいぜいのところ、2月25-28日のデモ行進で労働者や兵士たちが運んだ革命の旗を準備するのに手を染めたかもしれない。//
 しかしボルシェヴィキは、数の少なさを組織化の技術で埋め合わせた。
 3月2日、監獄から釈放されたばかりの党ペテログラード委員会は、三人総局(Bureau)を立ち上げた。それは、シュリャプニコフ、V・A・モロトフおよびP・A・ザルツキー(Zalutskii)の三人で構成された。
 この総局は3日後に、モロトフが編集長になって、再生した党の機関誌、<プラウダ>の第一号を発行した。
 3月10日には、N・I・ポドヴォイスキーとV・I・ネフスキー(Nevskii)のもとに軍事委員会(のち軍事機構と改称)を設立して、ペテログラード守備兵団への情報宣伝と煽動を実施することになった。
 ボルシェヴィキは活動の本拠として、若いニコライ二世の愛人だとの風聞のあったバレリーナのM・F・クシェシンスカヤ(Kshesinskaia)の贅沢なアール・ヌーヴォー様式の邸宅を選んだ。
 この邸宅をボルシェヴィキは、所有者の抗議を無視して、友好的兵団の助けで『収用した』。
 1917年7月までここに、ペテログラード委員会と軍事機構はもちろんだが、ボルシェヴィキ党の中央委員会も所在した。//
 1917年3月はずっと、ロシアのボルシェヴィキはその指導者から切り離され、メンシェヴィキやエスエルとほとんど異ならない政治路線を追求した。
 中央委員会のある決定は、口では臨時政府は『大ブルジョア』や『地主』の代理人だと述べていたが、それに対抗するとは主張しなかった。
 最も力があるボルシェヴィキの組織であるペテログラード委員会は、3月3日に、メンシェヴィキ・エスエルの立場を採用して、< postol'ku-poskol'ku >、つまり『民衆』の利益を向上させる『範囲で』政府を支持することを訴えた。
 理論的にも実務的にも、ペテログラードのボルシェヴィキ指導部は、レーニンのそれとは完全に対立する基本方針を採った。
 ペテログラード指導部はしたがって、レーニンから一週間後に届いた3月6日の電報の内容が気に入ったはずはなかった。
 ペテログラード委員会の会議に関する公刊されている議事録は、電報を受け取った後の議論を記載していない。//
 この親メンシェヴィキの方向は、追放されていた三人の中央委員会メンバーがペテログラードに着いて、強化された。三人とはL・B・カーメネフ、スターリンおよびM・K・ムラノフで、年長者優先原理により、この三人が、党の指揮権と<プラウダ>の編集権を握った。 
 これら三人はいずれも、彼らの論考や演説で、レーニンがツィンマーヴァルト(Zimmerwald)やキーンタール(Kiental 〔いずれもスイスの小村、社会主義インターの会合地〕)でとった見地を拒否した。
 彼らは、国家間の戦争を内乱に転化するのではなく、社会主義者が講和交渉の即時開始を強く主張することを望んだ。(11)
 ペテログラード委員会は、3月15-16日に会議を開いた。
 そのときの議事録も決定集も公刊されていないことは、新政府や戦争への態度という重大な論争点について、多くの出席者が反レーニンの立場を選択したことを強く示唆する。
 しかし、知られていることだが、3月18日のペテログラード委員会の閉鎖会議で、カーメネフは、臨時政府は間違いなく『反革命的』で打倒されるべき運命にあるが、その打倒のときはまだ将来だ、『重要なことは権力を掌握することではなく、それを維持し続けることだ』と主張した。
 カーメネフは、同旨のことを3月末の全ロシア・ソヴェト協議会でも語った。
 この当時のボルシェヴィキは、メンシェヴィキとの再統合を真剣に考えていた。
 3月21日にペテログラード委員会は、ツィンマーヴァルトやキーンタールの基本線を受け入れるメンシェヴィキと合同するのは『可能でかつ望ましい』と宣言した。(*)//
 こうした態度を考えると、アレクサンダー・コロンタイ(A. Kollontai)がレーニンの第一と第二の『国外からの手紙』を携えて彼らの前に現れたときに、ペテログラードのボルシェヴィキが衝撃や疑惑の反応を示したことは、理解できない。
 レーニンはこの手紙で、3月6日/19日の電報について詳述していた。つまり、臨時政府の不支持と労働者の武装。
 この基本方針は、ロシアの状況の雰囲気を全く知らない誰かが考え上げた、完全に現実離れしているものだと、彼らは感じた。
 数日間の躊躇の後で、彼らは第一の『国外からの手紙』を<プラウダ>に載せたが、レーニンが臨時政府を攻撃している部分の文章は除外した。
 彼らは、第二の手紙、およびその後のものを掲載するのを拒んだ。//
 3月28日と4月4日の間にペテログラードで開かれた全ロシア・ソヴェト大会で、スターリンが動議を提案して、代議員たちが採択した。それは、臨時政府への『統制』、および『反革命』と闘い革命運動を『拡大する』目的をもつその他の『進歩勢力』との協力を呼びかけるものだった。(+)
 ボルシェヴィキのこのようなもともとの『反ボルシェヴィキ』的態度とレーニンが到着した後の速やかな変化は、彼らの振る舞いが、信奉して適用する原理にもとづいているのではなく、指導者の意思にもとづいている、ということを示す。
 すなわち、ボルシェヴィキは、信じることにではなく信じる人物に、完全に拘束されていた。//
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  (11) カーメネフ, プラウダ, No.9 (1917年3月15日), p.1、スターリン, プラウダ, No.10 (1917年3月16日), p.2。
  (*) シュリャプニコフは、つぎのように書く。ペテログラードのボルシェヴィキは、カーメネフ、スターリンおよびムラトフが強く主張して迫った政策方針を知って狼狽した、しかし、ペテログラードに現れた年長の三人のボルシェヴィキの前で自分たちが従った政策の見地に立ったので、狼狽した別のありそうな原因は、端役を演じなければならなかったことへの憤慨にあったように見える、と。 
  (+) この大会の記録はロシアでは公刊されてこなかったが、レオン・トロツキー, Stalinskaia shkola falsifikatsii (ベルリン, 1932) で見い出せる。上の決定は、p.289-p.290 に出てくる。
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 第2節につづく。

1509/ネップ期の「見せしめ」裁判③-R・パイプス別著8章8節。

 前回のつづき。
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 第8節・エスエル「裁判」③。
 モスクワの聖職者たちに対する手続の結論が出て1月後、そして同様の訴訟がペテログラードの聖職者たちに開始される4日前、1922年6月6日に、裁判は開廷された。
 起訴状は、被告人たちを一般には反逆とテロルの行為とともにソヴェト国家に対する武装闘争をしたとして追及した。個別には、1918年8月のファニー・カプランによるレーニン暗殺企図とタンボフ反乱のいずれも組織したというのが起訴理由だった。
 かつてモスクワのクラブ・貴族だった舞踏場で行なわれた裁判を見るためには、ほとんど信頼できる党活動家にのみ発行された入場券が必要だった。
 観衆たちは政治劇が上演されているふうに行動し、訴追に拍手を浴びせ、被告人やその弁護人たちをやじった。
 外国人弁護団は最初に、つぎのような、いくつかの手続の特徴に抗議した。すなわち、裁判官全員が共産党員であること、弁護のための多くの目撃証人が証言を妨害されていること、法廷への入場が数名の被告人の友人以外には認められていないこと。
 裁判官は、あれこれの抗議を、ソヴェト法廷は『ブルジョア』的規則を遵守する義務はないという理由で、却下した。 
 裁判の八日め、死刑判決は下されないだろうというその約言をラデックが撤回したあとで、また、速記者をつける権利を含むその他の要求が却下されたあとで、4人の外国人弁護士が、『司法の下手な模造劇(parody)』への参加をやめると発表した。
 そのうちの一人はあとで、この裁判について『人間の生命をまるで雑貨物であるかのごとく取り扱っている』、と書いた。(152)//
 二週間後、手続はもっと醜悪な変化すら見せた。
 6月20日に、政府機関はモスクワの赤の広場で、大量の示威行進を組織した。
 群衆の真ん中で、主席裁判官が検察官と並んで行進した。群衆は、被告人たちへの死刑判決を要求した。
 ブハーリンは、群衆に熱弁を奮った。
 被告人はバルコニーの上に姿を見せて、罵声を浴びて、大群衆の脅かしに晒されることを強いられた。
 のちに、選ばれた『代表団』は法廷へと招き入れられて、『殺人者に死を!』と叫んだ。
 この嘲笑裁判で卑劣な役を演じたブハーリンは、リンチするかのごとき代表群団を『労働者の声』を明確に表現したものとして誉め称えた。このような嘲笑裁判は、16年のちに、もっと捏造された咎でブハーリン自身を非難して死刑を言い渡した裁判と、ほとんど異ならなかった。
 ソヴィエト映画界の有名人、ジガ・ヴェルトフが指揮したカメラは、このできごとを撮影した。(153)//
 エスエルたちは、公正な聴問に似たものを何も受けられなかったけれども、共産主義体制に関して遠慮なく批判する機会を得た-これが、ソヴィエトの政治裁判で可能だった最後ということになった。
 メンシェヴィキが被告人席に立つ順番になった1931年には、証言は注意深くあらかじめ練習させられ、文章の基本は検察側によってあらかじめ準備された。(154)//
 レーニンが予期されることを広汎に示唆していたので、8月7日に宣告された評決は、驚きではなかった。
 1922年3月の第11回党大会で、エスエルとメンシェヴィキの考え方を馬鹿にし、レーニンは、『これのゆえに、きみたちを壁に押しつけるのを許せ』と語った。(155)
 ウォルター・デュランティ(Walter Duranty)は、7月23日付の<ニューヨーク・タイムズ>で、訴訟は告発が『真実』であることを示した、被告人の大多数に対する非難は『確か』だった、『死刑判決のいくつかは執行されるだろう』、と報告した。(156)
 被告人たちは、刑法典第57条乃至第60条のもとで判決を受けた。
 そのうち14人は、死刑だった。しかし、検察側と協力した3人は、恩赦をうけた。(*)
 国家側の証人に転じた被告人たちもまた、赦免された。
 第一のグループの者たちは、いっさい自認しなかった。彼らは、裁判官が評決を読み始めたときに起立するのを拒否し、そのために(デュランティの言葉によると)『自分たちの告別式場から』追い出された。(157)//
 ベルリンでのラデックの早まった約言は裁判所に法的に有効でないとされ、恩赦を求めて正規に懇請するのをエスエルたちは拒んだけれども、裁判官たちは、処刑執行の延期を発表した。
 この驚くべき温情は、暗殺に対するレーニンの過敏な恐怖によっていた。
 トロツキーは、その回想録の中で、レーニンに対して訴訟手続を死刑へとは進めないようにと警告し、そうしないで妥協すべきだと示唆した、と書いている。
 『審判所による死刑判決は、避けられない!。
 しかし、それを執行してしまうことは、不可避的にテロルという報復へと波及することを意味する。…
 判決を執行するか否かを、この党〔エスエル〕がなおテロル闘争を続けるかどうかによって決するしか、選択の余地はない。
 換言すれば、この党〔エスエル〕の指導者たちを、人質として確保しなければならない。』(158)//
 トロツキーの賢い頭はこうして、新しい法的な機軸を生み出すに至った。
 まず、冒していない犯罪、かつまた嫌疑はかけられても決して法的には犯罪だと言えない行為について、一団の者たちに死刑の判決を下す。
 つぎに、別の者が将来に冒す可能性がある犯罪に対する人質として、彼らの生命を確保する。
 トロツキーによれば、レーニンは提案を『即座に、かつ安心して』受諾した。//
 裁判官たちは、つぎのことがあれば、死刑判決を受けた11名は死刑執行がされないと発表するように命じられていた。すなわち、『ソヴェト政府に対する、全ての地下のかつ陰謀的なテロル、諜報および反逆の行為を、社会主義革命党〔エスエル〕が現実に止める』こと。(159)
 死刑判決は、1924年1月に、五年の有期拘禁刑へと減刑された。
 このことを収監されている者たちは、死刑執行を待ってルビャンカ〔チェカ/ゲペウおよび監獄所在地〕で一年半を過ごしたのちに、初めて知った。//
 彼らはしかし、結局は処刑された。
 1930年代および1940年代、ソヴェト指導部〔スターリンら〕に対するテロルの危険性はもはや残っていなかったときに、エスエルたちは、計画的にすっかり殺害された。
 ただ二人だけの社会主義革命党活動家が、いずれも女性だったが、スターリン体制を生き延びた、と伝えられる。(160) 
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  (152) ヤンセン, 見せ物裁判, p.66。
  (153) ロジャー・ペシブリッジ(Roger Pethybridge), 一歩後退二歩前進 (1990), p.206。
  (154) メンシェヴィキ反革命組織裁判〔?、露語〕(1933)。
  (155) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.90。
  (156) NYT, 1922年7月27日付, p.19。
  (*) ブハーリンは、G・セーメノフに対しては温情判決を要請した。NYT, 1922年8月6日付, p.16。16年後のブハーリンに対する見せ物裁判では、ソヴェト指導層〔スターリンら〕に対するテロル企図でブハーリンを有罪にするために、セーメノフの名前が呼び起こされることになる。マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見せ物裁判 (1982), p.183。
 セーメノフは、ブハーリンとともに、スターリンの粛清によって死んだ。
  (157) 同上(NYT), 1922年8月10日付, p.40。
  (158) L・トロツキー, わが生涯, Ⅱ (1930), p.211-2。L・A・フォティエワ, レーニンの想い出 (1967), p.183-4 を参照。
  (159) NYT〔ニューヨーク・タイムズ〕, 1922年8月10日付, p.4。
  (160) ヤンセン, 見せ物裁判, p.178。 
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 第8節、終わり。

1505/ネップ期の「見せしめ」裁判①-R・パイプス別著8章8節。

 同じ章の、つぎの第8節へと進む。
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 第8節・エスエル「裁判」①。
 レーニンは闘いを生きがいとした。戦争が、彼の本当の生業(me'tier)だった。
 それを実践するには、敵が必要だった。
 レーニンは、二度、敗北した。
 一度め、国外に共産主義を伝搬させるのに失敗した。
 二度め、自国で社会主義経済を建設するのに失敗した。
 彼は今や、現実にはいない敵と闘うことに力を向けた。
 レーニンが抑圧対象として選んだのは、何らかの行為または意図による理由でではなく、革命秩序を拒否して存在していることだけが理由となる『有罪者』だった。//
 彼の激怒の主な犠牲者は、聖職者と社会主義者だった。//
 クロンシュタット、タンボフ、および党自体の内部からの民主主義分派の出現(後述、p.448-459〔第9章第3節・『労働者反対派』等〕を見よ)によってレーニンは、エスエル〔社会主義革命党〕とメンシェヴィキが彼の体制を打倒しようと経済危機を利用する工作をしている、と確信した。
 不満には正当な原因がある、ということをレーニンは自分に対してすら認められなかった。帝制時代の典型的な警察官にように、全ての無愛想の背後には敵の煽動の仕業があるのではないかと疑った。
 実際には、エスエルとメンシェヴィキはレーニンの独裁制に適応していて、帝制時代にしていたのと同じことをすることが許されていた。責任を帯びずして、静かに愚痴を述べたり、批判したりすることだ。
 彼らは、数千の単位で共産党の党員になった。
 エスエルの中央委員会は、1920年10月には、ボルシェヴィキに対する全ての武装抵抗を止めた。
 しかし、ボルシェヴィキの独特の推論の世界では、『主観的』に欲することと『客観的』にそうであることとは、完全に別のものだった。
 ジェルジンスキーは、逮捕されたある社会主義革命党員に言った。
 『おまえは、主観的には、われわれがもっと多かれと望んだだろう程度に革命的だ。しかし、客観的には、おまえは、反革命に奉仕している。』(*)
 別のチェキストのピョートルは、社会主義者がソヴェト政府に対して拳を振り上げるか否かは重要ではない、彼らは排除されなければらならない、と語った。(140)//
 エスエルとメンシェヴィキは白軍に対抗するモスクワを助けていたので、内戦が進行している間は、彼らは我慢してもらえた。
 内戦が終わった瞬間に、彼らへの迫害が始まった。
 監視と逮捕が1920年に開始され、1921年に強化された。
 チェカは1920年6月1日に、エスエル、メンシェヴィキ、そしてかなり十分にシオニスト、の扱い方を書いた通達をその機関に配布した。
 チェカ各機関は、『協同的組織と協力している労働組合、とくに印刷工のそれ、で仕事をしているメンシェヴィキの破壊活動に特別の注意を払う』ことを指令され、『メンシェヴィキではなく、ストライキの企図者や煽動者その他だと説明して罪状証拠となる資料を、粉骨砕身して収集する』ものとされた。
 シオニストに関しては、保安機関は支持者だと知られる者を記録し、監視の対象にし、集会を開くことを禁止し、違法な集会は解散させ、郵便物を読み、鉄道旅行をすることを許さない、そして『多様な口実を用いて徐々に、〔シオニストの〕住居区画を占拠し、軍隊やその他の組織の必要性でもってこれを正当化する』こととされた。(141)//
 しかし、社会主義者に対する嫌がらせや逮捕では、彼らの考え方が民衆間の重要な階層に訴える力をもつかぎりは、問題を解消できなかつた。
 レーニンは、社会主義者は反逆者だと示すことでその評価を貶め、同時に、自分の体制を左から批判するのは右からのそれと変わらず、いずれも反革命と同じことだと主張しなければならなかった。
 ジノヴィエフは、『現時点では、党の基本線に対する批判は、いわゆる<左翼>派のものでも、客観的に言えば、メンシェヴィキの批判だ。』と言った。(142)
 レーニンは、この点をよく理解させるために、ソヴェト・ロシアで最初の見世物裁判(show trial)を上演した。//
 犠牲者として選んだのは、メンシェヴィキではなく社会主義革命党〔エスエル〕だった。そのわけは、エスエルが農民層の間でほとんど一般的な支持を受けていたことだ。
 エスエル党員の逮捕はタンボフの反乱の間に始まっていて、1921年の半ばまでには、エスエル中央委員会メンバー全員を含めて数千人が、チェカの牢獄の中に座っていた。//
 そして1922年夏、嘲笑の裁判手続がやってきた。(143)
 エスエルを裁判にかけるという決定は、1921年12月28日に、ジェルジンスキーの勧告にもとづいて行なわれていた。(144)
 だが、チェカに証拠を捏造する時間を与えるために、実施が遅れた。
 元エスエルのテロリストで、チェカの情報提供者に変じたゼーメノフ・ヴァシレフが、1922年2月にベルリンで、一冊の本を出版した。(145) この本が、裁判の中心主題だった。
 あらゆる成功した瞞着がそうであるように、この本は、真実と虚偽とを混ぜ合わせていた。
 セーメノフは、1918年4月のファニー・カプラン(Fannie Kaplan)のレーニン暗殺計画に関与していた。そして、この事件について、興味深い詳細を記述していたが、それはエスエル指導部を誤って巻き込んだ。
 のちにセーメノフは、被告人と検察側のスター証人のいずれもとして、裁判に臨むことになる。//
 エスエル裁判について発表される一週間前の1922年2月20日に、レーニンは、司法人民委員〔司法大臣〕に対して政治犯罪や経済犯罪を処理するには手ぬるいとの不満を告げる怒りの手紙を、書き送った。
 メンシェヴィキやエスエルの弾圧は、革命審判所と人民法廷によって強化されるべきだ、とした。(**)
 レーニンは、『模範〔見せしめ〕となる、騒がしい、<教育的な>裁判』を欲した。そして、つぎのように書いた。//
 『モスクワ、ペテログラード、ハルコフその他の若干の主要都市での(早さと抑圧の活力をもって、法廷と新聞を通じてその意味を大衆に教育する)一連の <模範> 裁判の上演(postanovka)。/
 裁判所の活動を改善し、抑圧を強化するという意味で、党を通じての人民裁判官や革命審判所メンバーに対する圧力。
 -これら全てが、系統的に、執拗に、義務的だと斟酌されつつ、実行されなければならない。』(146)//
 トロツキーはレーニンの提案を支持し、〔党中央委員会〕政治局への手紙で、『磨き上げられた政治的産物(proizvedenie)』となる裁判を要求した。(147)
 聖職者については、裁判所よりも煽動宣伝〔アジプロ〕演劇場にもっと似たものが続いた。
 役者は厳選され、その役割は特定され、証拠は捏造され、有罪判決を正当化すべく暴力的雰囲気がふさわしく醸し出され、判決文はあらかじめ党機関によって決定されていた。そして、『大衆』は、路上の劇場にいるように夢中になった。
 正式手続の最大の要素は脇におかれ、被告人たちは、その行為を犯したとされるときには、かつ拘留されたときには犯罪ではない犯罪について、告訴された。なぜならば、被告人たちが裁判にかけられている根拠の法典は、その裁判のわずか一週間前に公布されていたのだ。//
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  (*) マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見世物裁判 (1982), p.19。この規準でいくと、もちろん1917-18年のレーニンは、『客観的』には、ドイツの工作員〔代理人〕だった。
  (140) M. I. Latsis, <略、露語> (1921), p.16-17。
  (141) 社会主義情報〔SV〕, No. 5 (1921), p.12-14。
  (142) Dvenadtsatyi S" ezd RKP (b) (1968), p.52。
  (143) 以下の資料は、大きく、マルク・ヤンセン, <見せ物裁判(Show Trial)>にもとづく。
  (144) V. I. レーニンとVChK (1987), p.518。
  (145) <略、露語>。
  (**) この文書は、レーニン全集の以前の版では削除されており、1964年に初めて以下で完全に出版された。すなわち、レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.396-400。
 レーニンは、『われわれの戦略を敵に暴露するのは馬鹿げている』という理由で、この内容に関するいかなる言及も禁止した(同上, p.399)。
  (146) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.396-7。
  (147) Jan M. Meijer 編, トロツキー論集, 1917-1922 (二巻もの), Ⅱ, p.708-9。
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 ②へとつづく。

1464/レーニンと警察の二重工作員②-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)②〔つづき〕。  
 ボルシェヴィキ議員団の長が突然に、説明もされずにドゥーマから消え失せた。これによりマリノフスキーの経歴は終わったはずだった。しかし、レーニンは彼の側に立って、『清算人』と中傷して非難しつつ、メンシェヴィキの追及者たちからマリノフスキーを守った。
 この場合には、重要な仲間に対するレーニンの個人的な信頼がその合理的判断を妨げた、と言うのは可能だ。しかし、そうではないように見える。 
 マリノフスキーは、1918年の裁判で、レーニンは自分の前科について知っていたと語った。このような記録があればロシアではドゥーマ選挙に立候補することができないので、内務省がこの情報を使ってマリノフスキーが議会に入るのを阻止しなかったという事実からだけでも、レーニンはマリノフスキーの警察との関係を察知したに違いないだろう。
 ロシアの警察挑発問題に関する重要な専門家だったプルツェフは1918年に、マリノフスキーの裁判で証言した帝制時代の警察官との会話を通じて、つぎのように結論した。
 すなわち、『マリノフスキーによれば、彼の過去には通常の犯罪ではなく自分が警察の手のうちにあった-つまり挑発者だった-ことも隠されているということを、レーニンは理解していたし、理解せざるをえなかった』、と。(110)
 なぜレーニンは自分の組織に警察工作員を維持しようとしたのかについて、帝制時代の上級治安官僚だったアレクサンダー・スピリドヴィッチ将軍が、つぎのように示唆している。
 『ロシアの革命運動の歴史には、革命的組織の指導者がその構成員のうち何人かに政治警察との関係に入ることを認める、いくつかの大きな事例があった。彼ら構成員は、秘密情報員として、警察に瑣末な情報を与える代わりに、その革命的党派にとってもっと重要な情報を警察から引き出そうという狙いをもっていた。』(111)
 レーニンが1917年6月〔いわゆる二月革命のあと、ボルシェヴィキ「七月蜂起」の前-試訳者〕に臨時政府の委員会の前で証言した際、彼は実際にこのような方法でマリノフスキーを使ったのかもしれないことを仄めかした。
 『この事件については、また次の理由にもとづいて、私は挑発者の存在を信じない。かりにマリノフスキーが挑発者であるのならば、わが党が<プラウダ>やその他の合法的な組織全体から得るよりも多くの成果を、オフランカ(Ohkranka〔帝制時代の秘密警察部門〕)は得ていないだろう。 
 ドゥーマに挑発者を送り込み、また彼のためにボルシェヴィキの対抗者〔メンシェヴィキ〕を追い出すなどをしたが、オフランカは、ボルシェヴィキの粗野なイメージに支配されているのだ。-漫画本の滑稽な絵だと言おう。ボルシェヴィキは、武装蜂起を組織するつもりはない。
 オフランカの立場からすれば、あらゆる糸を手繰り寄せるために、マリノフスキーをドゥーマに、そしてボルシェヴィキの中央委員会に入り込ませることは、何らかの価値がある。
 しかし、オフランカがこの二つの目的を達成したときにようやく、マリノフスキーはわれわれの非合法の基地と<プラウダ>とを繋ぐ、長く固い鎖の連結物の一人であることが判明したのだ。』(*)
 レーニンはマリノフスキーの警察との関係を知っていたことを否認したけれども、上のような理由づけは、党の目的を推進させるために警察工作員を使ったことについての、もっともらしい釈明のように感じられる。-つまり、他にとりうる手段がないときに、大衆の支持を獲得するために最大限に合法活動の機会を利用するため、だったのだ。(+)
 マリノフスキーが1918年に裁判での審尋に進んだとき、ボルシェヴィキの訴追者は実際に、マリノフスキーはボルシェヴィキに対してよりも帝制当局に対してよりひどい害悪をなしたと証言するように警察側の証人に圧力をかけた。(112)
 マリノフスキーが自分の自由意思で1918年11月という赤色テロルが高潮しているときにソヴェト・ロシアに帰ってきたこと、そしてレーニンと逢うことを強く求めたことは、マリノフスキーは無罪放免になることを期待していたことを強く示唆している。 
 しかし、レーニンには、もはや彼の使い道がなかった。彼は裁判に出席はしたが、証言しなかった。
 マリノフスキーは、処刑された。//
 マリノフスキーは実際、レーニンのために多くの価値ある仕事をした。
 彼が<プラウダ>および「nashput」の創刊を助けたことは、すでに述べた。
 加えるに、ドゥーマで彼が演説をする際には、レーニン、ジノヴィエフその他のボルシェヴィキ指導者が書いた文章を読んだ。演説の前に彼はそれらの原稿を警察部門の副局長であるセルゲイ・ヴィッサーリオノフに提出し、校訂を受けた。 
 このように方法によって、ボルシェヴィキの宣伝文章は国じゅうに広がった。
 特筆しておきたいのは、マリノフスキーは注意深くかつ忍耐強く、ロシアのレーニンの支持者とメンシェヴィキとが再統合することを妨害したことだ。
 第四ドゥーマが開催されたとき、7人のメンシェヴィキ議員と6人のボルシェヴィキ議員は、レーニンまたは警察が望んだ以上に、協力的精神でもって行動した。実際、レーニンが不一致の種を植え付けるために個人的に出席していない場合には通常のことだったが、彼らは一つの社会民主党の議員団のごとく振る舞った。
 二つの党派を離れさせ、そうしてそれらを弱体化させることは、警察が設定した最優先の使命だった。ベレツキーによれば、『マリノフスキーは、両党派間の溝を深めることのできるいかなる事でもするように命令されていた。』(114)
 それ〔二党派間の溝の深まり〕は、レーニンの利益と警察の利益とが合致している、ということだ。(++)//
 レーニンの独裁的な手法とその完全に欠如した道徳感情は、彼の熱心な支持者をある程度は遠ざけた。陰謀と瑣末な争論に飽き、覆いかかる精神主義(spritualism)の風潮に囚われて、何人かの最も賢いボルシェヴィキは、宗教と観念哲学のうちに慰めを追求し始めた。1909年に、ボルシェヴィキ幹部たちの支配的な傾向は、『神の建設』(Bogostroitel'stvo)として知られるようになった。  
 のちの『プロレタリアの文化』の長のボグダノフやのちの啓蒙人民委員〔大臣〕のA・V・ルナチャルスキーに教え導かれた運動は、非ラジカル知識人の間で有名な『神の探求』(Bogoiskatel'stvo)に対する社会主義者の反応だった。 
 <宗教と社会主義>という書物の中でルナチャルスキーは、社会主義を一種の宗教的体験、『労働者の宗教』だと表現した。
 このイデオロギーの提唱者たちは1909年に、カプリに学校を設置した。 
 こうした展開全体を全く不愉快に感じていたレーニンは、反対の二つの学校を組織した。一つは、ボローニャで、もう一つは、パリ近くのローンジュモで。
 1911年に設立された後者は一種の労働者大学で、ロシアから送られた労働者が、社会科学と政治についての体系的な教条教育(indoctrinnation 〔洗脳〕)を受けていた。教師陣の中には、レーニンや彼の最も忠実な支持者であるジノヴィエフとカーメネフもいた。
 今度は学生に偽装した警察情報者が不可避的に潜入していて、ローンジュモでの教育について報告した。
 『授業の断片を生徒が丸暗記することで成り立っている。なされる授業は疑ってはいけないドグマの性格を帯びており、決して批判的な分析や合理的で意識的な学習を奨励するものではない。』(115) //
  1912年までに、マルトフがレーニンの無節操な財政取引や支配力を得るために多くは不法に獲得した金の使い方を公に明らかにしたあとだったが、二つの党派は一つの党だと装うことを止めた。
 メンシェヴィキは、ボルシェヴィキの行動は社会民主党運動を汚辱するものだと考えた。
 1912年の国際社会主義者事務局の会合で、プレハーノフは公然と、レーニンを窃盗者だと責め立てた。
 メンシェヴィキは、レーニンが犯罪や誹謗中傷に頼ったことや労働者を意識的に誤導したことに唖然としたと表明したにもかかわらず、また、レーニンを『政治的ペテン師』(マルトフ)と呼んで非難したにもかかわらず、レーニンを除名することをしなかった。一方、その咎はエデュアルド・ベルンシュタインの『修正主義』に共感したことだけのストルーヴェは、すみやかに追放された。
 レーニンがこれらを深刻に受け止めなかったしても、何ら不思議ではない。//
 二党派の最終的な分裂は、レーニンのプラハ大会で、1912年1月に起きた。それ以降は、彼らは共同の会合を開かなかった。
 レーニンは『中央委員会』という名前を『私物化』して、もっぱら強硬なボルシェヴィキたちで構成されるように委員を指名した。
 頂部に断絶があるのはもはや完璧なことだったが、ロシア内部でのメンシェヴィキおよびボルシェヴィキの幹部や一般党員は、しばしばお互いを同志と見なし続けて一緒に活動した。//
  (*) レーニンのマリノフスキーに関する証言は、委員会の記録にかかる数巻の出版物にも(Padenie)、レーニンの<選集>にも掲載されていない。
  (+) タチアナ・アレクジンスキーは、中央委員会に警察情報員が加入している可能性についての疑問が生じたとき、ジノヴィエフがゴーゴルの<将軍検査官>から『良い一家は、がらくたすらも利用する』を引用したことを憶えている。〔文献省略〕  
  (++) レーニンがマリノフスキーの警察との関係を知っていた蓋然性(likelihood)は、認められている。ブルツェフに加えて、ステファン・ポッソニー(1964, p.142-43.)によって。
 マリノフスキーの自伝は、ボルシェヴィキは警察がマリノフスキーによってボルシェヴィキに関して知ったよりも少ない情報しか、マリノフスキーから警察に関する情報を得ていないという理由で、この仮説を拒否している(Elwood, マリノフスキー, p.65-66.)。
 しかし、マリノフスキーが彼の二重工作員性に関してレーニンの陳述およびスピリドヴィッチの言明を無視していることは、上に引用した。
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 第10節につづく。

1463/レーニンと警察の二重工作員①-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)

 1908年に、社会民主党の運動は衰退に入った。その理由の一つは、知識人の革命への熱望が冷めたこと、二つは警察の潜入によって地下活動がほとんど不可能になったことだ。
 治安維持機関は、上から下まで、社会民主党の組織の中に入り込んだ。党員たちは逃げる前に日に晒され、逮捕された。
 メンシェヴィキはこの状況に、合法活動をすることを強調する新しい戦略でもって対応した。すなわち、出版物発行、労働組合の組織化、ドウーマでの活動。 
 いくらかのメンシェヴィキは、社会民主党を労働者党に置き換えることを望んだ。
 彼らは非合法活動をいっさい放棄するつもりではなかった。しかし、綱領問題の大勢は、党が労働者に奉仕するほど多くは労働者を指導しない、民主主義的な労働組合主義へと進んだ。
 レーニンには、これは呪詛の対象だった。彼はこのような戦略を支持するメンシェヴィキに、『清算人(liquidators)』とのラベルを貼った。彼らの狙いは党を清算し、革命を放棄することだからだ。
 レーニンの用語である『清算人』は、反革命主義者と同じ意味になった。//
 にもかかわらずレーニンも、警察による弾圧によって生じた困難な条件に適応しなければならなかった。
 彼は、対応するために、自分の組織に潜入した警察工作員を自分の目的で利用した。
 以下について確実なことは何もありえないけれども、そうでなくとも幻惑的な、工作員挑発者(agent provocateur)・マリノフスキーの事件は、最も納得できる説明になっているように見える。マリノフスキーは、しばらくの間(1912-14年)、ロシアのレーニン党派の代議員で、ドゥーマ・ボルシェヴィキ議員団の代表者だった。 
 それは、ウラジミール・ブルツェフの見解では、もっと有名なエヴノ・アゼフ事件を超えすらする重要性をもつ、警察による挑発の事件だった。(106)//
 レーニンは、支持者たちに第一回ドゥーマの選挙をボイコットするように命令した。その一方、メンシェヴィキは問題をその地方組織に委ね、ジョージア支部を除く多くの地方組織はボイコットを採択した。
 そのあとでレーニンは気持ちを変え、1907年に仲間たちのほとんどの意向を無視して、動く〔立候補する〕ようにボルシェヴィキに命じた。
 彼はドゥーマを、自分のメッセージを広げる公共広場として利用することを意図した。
 マリノフスキーが計り難い価値をもつことが判るのは、まさにドゥーマにおいてだった。//
 民族的にはポーランド人で、職業上は金属労働者、そして副業は窃盗というマリノフスキーは、窃盗と家宅侵入窃盗の罪で三つの収監判決を受けていた。
 彼自身の証言によれば、刑事記録〔前科〕のために満足させられない政治的野心に駆られて、またつねに金が必要だったために、マリノフスキーは、奉仕しようと警察当局に申し出た。 
 警察の指示により、彼はメンシェヴィキから向きを変えて、1912年1月にボルシェヴィキのプラハ大会に出席した。
 レーニンはきわめて好ましい印象を彼に持ち、『優秀な仲間』、『傑出した労働者指導者』だとマリノフスキーを褒めた。(107)
 レーニンはこの新規加入者を、裁量でもって党員を加える権限のある、ボルシェヴィキ中央委員会のロシア事務局員に任命した。 
 マリノフスキーはロシアに帰って、スターリン支持者を広げるためにこの権限を利用した。(108)
 内務大臣の命令にもとづき、マリノフスキーの刑事記録〔前科〕は抹消され、ドゥーマへと立候補することが許された。
 警察の助けで選出され、彼は、議員の免責特権を用いて、『ブルジョアジー』や社会主義『日和見主義者』を攻撃する燃えるがごとき演説を行った。それらの多くは治安機関によって準備され、全ては了解されていた。
 社会主義サークル内には彼の忠誠さについて疑問の声があつたにもかかわらず、レーニンは無条件でマリノフスキーを支持した。
 マリノフスキーがレーニンのためにした最大の仕事の一つは、-警察の許可を得てかつありそうなことだが警察の財政支援もおそらく受けて-ボルシェヴィキの日刊紙『プラウダ(pravda)』の創刊を助けたことだった。
 マリノフスキーは新聞の財産管理者として働いた。編集権は、警察の別の工作員、M・E・チェルノマゾフに渡った。 
 警察によって保護された党機関は、ボルシェヴィキの考えをメンシェヴィキ以上に広くロシア内部に伝搬させることができた。
 発行するために、警察当局は時たま<プラウダ>を繊細にさせたが、新聞は、発行され続けて、マリノフスキーや他のボルシェヴィキがドゥーマで行った演説の文章やボルシェヴィキの書きものを印刷し続けた。レーニンは一人で1912年と1914年の間に、265の論文をこの新聞に掲載した。
 警察は、マリノフスキーの助けによって、モスクワのボルシェヴィキ日刊紙「Nashput」をも創刊した。(109)
 このような仕事に就いている一方で、マリノフスキーは、定期的に党の秘密を警察に渡すという裏切り行為をしていた。
 われわれがのちに知るはずだが、レーニンは、この取引で得たものの方が、失ったものよりも大きいと信じた。//
 二重工作員としてのマリノフスキーの経歴は、内務省の新しい副大臣〔政務次官〕、V・F・ジュンコフスキーによって突然に終焉を告げられた。
 反諜報活動の経験のない職業軍人であるジュンコフスキーは、固く決心して、警察官たちの一団を『浄化』し、その政治活動を止めさせようとした。彼は、いかなる形態での警察の挑発についても、妥協をしない反対者だった。(*1) 
 任務を履行しているうちに、マリノフスキーは警察の工作員で、警察がドゥーマに浸透していることを知ったジュンコフスキーは、警察の大スキャンダルになることを恐れて、ドゥーマ議長のラジアンコに、その事実を内密に通知した。(*2)  
 マリノフスキーは退任を余儀なくされ、彼の年収分の6000ルーブルが与えられ、そして国外に追放された。//
  (*1) Badenie, Ⅴ, p.69, Ⅰ, p.315。ジュンコフスキーは、軍隊や第二次学校の中の警察細胞を廃止した。その理由は、軍人や学生の中で連絡し合うのは適切でない、ということだった。
 警察庁長官で、マリノフスキーの直接の監督者だったS・P・ベレツキーは、このような手段〔警察細胞の廃止〕は、政治的な反諜報活動の組織を混乱させるものだと考えた。Badenie, Ⅴ, p.70-71, p. 75。
 ベレツキーは、チェカ〔のちにボルシェヴィキ政府=レーニン政権が設立した政治秘密警察〕によって1918年9月に射殺された。これは、赤色テロルの波の最初のものだった。
  (*2) ドゥーマでのマリノフスキーの扇動的な演説は、ロシアが新しい産業ストライキの波に掴まれていた当時に労働者たちに対してもつ影響が大きかった、そのように警戒して、ジュンコフスキーはマリノフスキーを馘首した、という可能性は指摘されてきた。
 Ralph Carter Elwood, ロマン・マリノフスキー (1977), p.41-43。
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 ②へとつづく。

1460/強盗と遺産狙いの党財政①-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第8節・ボルシェヴィキ党の財政事情。 
〔p.369-p.372.〕
 1917年革命以前のボルシェヴィキの歴史上最も秘密で今なお深刻な側面の一つは、党の財政にかかわる。
 全ての政治組織は、金を必要とする。しかし、ボルシェヴィキは党員全てに党のために一日中働くことを要求していたので、彼らにはきわめて重い財政上の負担があった。自立・自援のメンシェヴィキと違って、ボルシェヴィキの党員たちは、党の金庫からの手当てに頼っていたからだ。
 レーニンもまた、いつも多数の支援者がいたメンシェヴィキという好敵を策略的に打ち負かすために、金を必要とした。 
 ボルシェヴィキたちは、さまざまな方法で、ある者は伝来的方法で、別の者は高度に非伝来的な方法で、金を確保した。//
 一つの源は、奇矯な金持ちの産業家であるザッヴァ・モロゾフのような、裕福な共調者(シンパ)たちだった。モロゾフは、一月あたり2000ルーブルをボルシェヴィキの金庫に寄付した。
 モロゾフがフランスのリヴィエラ地方で自殺したあとで、彼の生命保険方策の被信託人として仕えていたマクシム・ゴールキの妻によって、彼の遺産から別の6万ルーブルが、ボルシェヴィキへと移された。(92)
 他にも寄贈者はいた。中でも、ゴールキ、A・I・エラマゾフという名の土地管理専門家、ウーファ地方の土地不動産を管理するアレクサンダー・ツィウルーパ(この人物は1918年にレーニン政権の供給大臣になる)、元貴族院議員の妻でストルーヴェの親友だったアレクサンドラ・カルミュイコワ、女優のV・F・コミッサールゼフスカヤ、その他、今日まで名前が分からないままの者たち。(93)
 紳士淑女気取りからするこれらの後援者(パトロン)たちは、根本的には彼らの利益を害するはずの教条のために援助した。レーニンの近い仲間だったレオニード・クラージンはこの当時に、つぎのように書く。
 『革命的党派に金銭を寄付することは、多かれ少なかれ過激なまたはリベラルなサークルでは、育ちの良さ(bon ton)の徴しだと見なされた。5から25ルーブルを定期的に納める寄付者の中には、有名な弁護士、技術者および医師のみならず、銀行の重役や政府組織の官僚もいた。』(94) 
 社会民主党のそれとは別に独立して作動していたボルシェヴィキの金庫の管理は、三人のボルシェヴィキ『中央』の手にあった。これは1905年に形成され、レーニン、クラージンおよびA・A・ボグダーノフから成っていた。 
 まさにこれの存在自体が、ボルシェヴィキの幹部および一般党員からはずっと秘密にされていた。//
 悔い改めたふうの『ブルジョア』たちからの献金ではしかし、不十分であることが判り、1906年早くにボルシェヴィキは、心地よくない手段、人民の意思やエスエル過激主義者が編み出したと思われる考え、に頼った。 
 多額のボルシェヴィキの財源は、それ以来、犯罪活動、とくに婉曲的表現では『収用』として知られる拳銃強盗から来ていた。
 彼らは大胆に急襲して、郵便局、鉄道駅、列車、銀行から強奪した。
 悪名高きティフリスの国有銀行強盗(1907年6月)では、25万ルーブルを強奪した。そのかなりの部分は、連続番号が登録された500ルーブル紙幣の束だった。
 このような略奪の成果品は、ボルシェヴィキの金庫へと移された。
 上の結果として、盗んだ500ルーブル紙幣をヨーロッパで両替えしようとした何人かの人間が逮捕された-その全員が(その中にはのちのソヴェト外務大臣、マクシム・リトヴィノフがいた)、ボルシェヴィキ党員であることが判明した。(95)
 この活動を監督していたスターリンおよび他の関係者は、社会民主党から除名された。(96)
 このような活動を非難する1907年党大会の正式決定を無視して、ボルシェヴィキは、ときにはエスエル党と協力しながら、強盗犯罪を行ない続けた。
 このような方法で、彼らは多額の金を獲得した。これは、相変わらず金欠症のメンシェヴィキに対して、ボルシェヴィキをかなり有利な立場にするものだった。(97)
 マルトフによると、犯罪の成果物のおかげで、ボルシェヴィキはペテルスブルクやモスクワの自分の組織に、それぞれ毎月1000から500ルーブルを送ることができた。この当時、合法的な社会民主党の金庫には、一月で100ルーブルを超えない党員費からの収入が入っていたのだが。
 1910年に、被信託人として仕事する三人のドイツ社会民主党の党員に金を差し出さなければならなくなって、この財源の流れが干上がってしまうや否や、ボルシェヴィキのロシア『委員会』は、薄い大気の中へと消滅した。(98) //
 このような秘密活動の全般的な指揮権は、レーニンの手のうちにあった。しかし、この分野の最高司令官は、いわゆる技術者集団(Technical Group)を率いるクラージンだった。(99)
 職業上は技術者であるクラージンは、二重生活をおくっていた。外面上は、善良なビジネスマンだが(モロゾフのために働くとともに、AEGやジーメンス・シュッケルトというドイツの商社にも勤めていた)、自由時間にはボルシェヴィキの地下活動へと走った。(*)
 クラージンは、爆弾を集めるために秘密の研究室を利用していて、その爆弾の一つはティフリスの強盗で使われた。(100) 
 ベルリンで彼は、3ルーブル紙幣の偽造紙幣作りも行なった。
 クラージンは、鉄砲火薬の密輸入にも従事した。-ときには純粋に商業的理由だったが、ボルシェヴィキの金庫の金を生み出すために。
 技術者集団は、場合によっては、ふつうの犯罪者たちとも取引した。-例えば、ウラル地方で活動する悪名高きルボフ団(ギャング)で、この団体には数十万ドルの価値がある武器を売った。(101) 
 このような活動は不可避的に、ボルシェヴィキ党員たちの中に、『教条』が犯罪生活の口実に使われるという、翳りのある要素を持ち込んだ。//
  (*) この電気製品商社がクラージンを雇ったのは、偶然ではなかったかもしれない。 
 1917年のロシアの反諜報活動(counterintelligence)の長によれば、ジーメンスはスパイ目的で工作員を使っており、ロシア南部のその支店が閉鎖されるに至った。[文献、省略]
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 ②へとつづく。

1459/レーニンと農民・民族-R・パイプス著9章7節。

 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 
第7節・レーニンの農民・民族問題に関する綱領。
 1905年と1914年の隙間の期間、レーニンは、その他の社会民主主義者によって採択されたのとはつぎの二つの点で異なる、革命の綱領を発展させた。すなわち、農民の問題と、少数民族の問題。
 党派間の差違は、メンシェヴィキは解決について考えたが、レーニンの関心はもっぱら戦術にあった、ということに由来した。つまり、レーニンは、革命を促進する目的で、不安の源泉を自らのものとして活用することを望んだ。
 すでに記したように、彼は1905年以前に、つぎのように結論していた。社会民主主義者は、産業労働者の数がロシアでは大きな意味をもたないことを見れば、『反革命的』と見なす『ブルジョアジー』を除いて、専制体制に反抗する全てのグループを闘いへと惹き付けて指導しなければならない。闘いに勝利したあとでは、一時的な同盟関係を解消するときがあるだろう。//
 マルクスとエンゲルスのそれによれば、農民に関する社会民主党の伝統的な見方は、つぎのようなものだ。土地を持たないプロレタリアートというありうる例外を除いて、農民は反動的な(『プチ・ブルジョアの』)階級だ。(85)  
 しかし、1902年の農業騒乱の間のロシア農民の行動を観察して、またロシア農民の地主財産に対する攻撃がもつ帝制崩壊への寄与の程度に着目して、レーニンは、つぎのように結論づけた。小作農民(muzhik)は、一時的だとしても、産業労働者の自然の同盟者だ、と。
 レーニンに都合のよいことには、党は、いわゆる otrezki 、1861年の解放令が責任を逃れるか必要とする分け前の一部になるかという選択肢を与えた土地、を補填するということのみを農民に約束する公式の綱領をさらに超えて進まねばならなかった。
 彼は、血の日曜日の後でヨーロッパへに逃亡していたガポンときわめて長く会話して、ロシア農民の気質(mentality)について多くのことを学んだ。クルプスカヤによれば、ガポンは農民の要求に習熟していて、レーニンは、彼を社会主義に転向させることを試みたほどに親しくなった。(86)
 レーニンは、このような観察と会話から、『プチ・ブルの』、『反革命的な』素質をもつ者たちを支援することを意味するとしてすら、社会民主党は農民に地主財産の全てを約束しなければならないという、オーソドクスでない見解を抱くようになった。社会民主党は、事実上、エスエル(社会主義革命党)の農業問題綱領を採用しなければならなかった。
 レーニンの綱領では、農民は今や『プロレタリアート』の主要な同盟者として、リベラルな『ブルジョアジー』に取って代わる。(87)
 彼の支持者たちの『第三回大会』で、レーニンは、地主財産を農民が獲得することを支持する条項を提案し、裁可させた。
 詳細を仕上げたあとでは、ボルシェヴィキの綱領は、私有または共同体所有の全ての土地の国有化、およびそれらの農民による耕作、ということになった。
 レーニンは、土地国有化は農民が土地は国家財産だと考えるようになったロシア歴史の『中国的な』伝統を促進するというプレハーノフの反対に直面しても、この綱領に執着した。 
 しかしながら、農民に関する綱領の出発点は、1917年遅くかつ1918年早くに、権力への闘争の深刻な局面の期間に、農民を宥和するためにボルシェヴィキにとって大きな価値をもつものだった、ということが証されることになる。//
 レーニンの農業問題綱領は、自立した保守的な農民階級を生み出すと約束した(あるいは別の視点からすれば脅迫した)ストリュイピンの改革によって危うくなった。 
 まさに現実主義者(リアリスト)のレーニンは、1908年4月につぎのように書く。ストリュイピンの農業改革が成功すれば、ボルシェヴィキはその農業に関する基盤を放棄する必要があったかもしれない、と。//
 『こんな政策は「不可能だ」と言うのは、空虚で馬鹿げた、民主主義的言葉商人的だ。可能だ!…。 
 大衆の闘いにもかかわらず、ストリュイピンの改革が『プロシア』モデルを勝利させるほどに長く続いたら、いったいどうなるのだ。
 ロシアの農業秩序は完全にブルジョア的なものに変わり、より強くなった農民たちは共同体の土地から分け前の全てを奪い、農業は資本主義のものになり、そうして<資本主義>のもとでは-過激かどうかはどちらでも-農業問題のいかなる解決もありえないだろう。』(88)
 この言明には、奇妙な矛盾がある。マルクスによれば資本主義は自らを破壊する種子をうちに胚胎していると想定されたので、大群の土地なきプロレタリアートが増大するロシア農業の資本主義化は、革命家が『農業問題』を『解決』するのを不可能にというより容易にするはずのものだった。
 しかし、われわれが知るように、レーニンの恐れはいずれにせよ根拠がないものだと判る。というのは、ストリュイピンの改革はロシアの土地所有の性格をほとんど変更せず、内心では反資本主義のままの muzhik〔小作農民〕の気質を全く変えなかったのだから。//
 レーニンは、民族問題についても、破滅的な接近方法をとった。 
 社会民主主義の仲間うちでは、ナショナリズムは労働者を階級闘争から引き剥がして大国家の破壊を促進する反動的なイデオロギーだ、ということが真正なものだった。
 しかしレーニンは、帝国ロシアの人口の半分が非ロシア人であり、そのある程度は強い民族意識を持っていて、ほとんど全てがより強い領土的かつ文化的な自主的政府を望んでいることにも、気づいていた。
 1903年の公式の綱領は、農民問題についてと同様にこの論点についても、きわめて微少なことしか述べていなかった。少数民族に対して、公民的平等、母国語での教育、地方の自治を提示していた。そのあとで、『全ての民族の自己決定権』という曖昧な定式が、具体的なことは何もなくして、述べられていた。(89)//
 レーニンは1912-13年に、これでは十分でない、と結論した。たしかにナショナリズムは階級矛盾が増大する時代には反動的な力でありおそらくは時代錯誤的なものだが、それが一時的に現れてくるのをまだ認めなければならない。 
 したがって、社会民主党は、農民が私的土地を要求する場合と全く同様に、それ〔ナショナリズム〕を条件つきのかつ一時的なという前提で利用する用意をしなければならない。//
 『ナショナリズムは、<現にある>敵に反抗する同盟者を支えるものだ。社会民主党は、共通する敵を崩壊させるのを速めるために、この支えについて定めなければならない。しかし、この一時的な同盟に<何も>期待しないし、いっさい譲歩しない。』(90)
 綱領による定式化を吟味して、レーニンは、東ヨーロッパの社会主義者には周知の二つの解決方法を拒絶した。すなわち、連邦主義と文化的自治を。前者は大国家の解体を促進するという理由で、後者は民族の差違を制度化するという理由で。
 レーニンは長い逡巡ののちに1913年に、最終的に、民族問題に関するボルシェヴィキ綱領を定式化した。
 それは、社会民主党の綱領上の『民族の自己決定権』の公式を独特に解釈して、一つの意味、そしてそれだけの意味をもたせる、という考えに依拠していた。主権ある国家から脱退する、かつそのような国家を形成する、全ての民族集団の権利。
 この定式は独立主義を助長すると彼の支持者たちが抗議したとき、レーニンは彼らを安心させた。 
 第一に、ロシア帝国の多様な地域をますます一つの経済全体へと融合させている資本主義の発展の勢いは、分離主義を抑止し、究極的にはそれを不可能にさせる。
 第二に、自己決定という『プロレタリアート』の権利は、民族の権利につねに優越する。このことは、想定とは逆に、非ロシア人が分離するならば、力でもって再統合されることを意味する。
 少数民族に全か無かの選択肢を提示することによって、レーニンは、(ポーランド人とフィンランド人を除く)ほとんど全ての彼らがその選択肢の間を望んでいる、という事実を無視していた。 
 彼は、少数民族が分離することなくロシア人と同化することを、完全に期待した。(91)
 レーニンは、デマゴギー的なこの定式を利用して、1917年によい結果を残した。//
  (87) John L. H. Keep, ロシアにおける社会民主主義の成立 (1963), p.194-5。
  (89) リチャード・パイプス, ソヴェト同盟の形成-共産主義とナショナリズム, 1917-23 (1954), p.31-p.33。
 
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 第8節につづく。

1458/メンシェヴィキと決裂③-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 二つの分派の民族構成について述べると、ボルシェヴィキは、主として大ロシア人だ。一方、メンシェヴィキは、ほとんど非ロシア人で、とくにジョージア人とユダヤ人を惹き付けた。
 社会民主党の第2回大会の際、レーニンを支持したのは主として中央部-つまり大ロシア人の-地域から選出された代議員たちだった。
 第5回大会の際(1907年)、ボルシェヴィキのほとんど5分の4(78.3%)は大ロシア人で、一方、メンシェヴィキのその比率は、3分の1(34%)だった。
 ボルシェヴィキのほぼ10%が、ユダヤ人だった。メンシェヴィキ党員の中での彼らの割合は、これの二倍多い。(77)(*) //
 初期のボルシェヴィキ党は、かくして、つぎのように特徴づけられる。(1) 構成において相当に農村的 (rural)で、党員たちは、『かなりの程度、田園地帯に生まれるかそれとの関係をまだ残したままの者たち』に引き摺られていた、(2) 『圧倒的に大ロシア人的』で、大ロシア人が生活する地域を基盤としていた。(78)
 言い換えると、ボルシェヴィキの社会的および文化的な根源(ルーツ)は、農奴制時代の最も古い伝統をもつ集団および圏域にあった。// 
 しかし、二つの党派には共通する特質もあった。そのうち最も重要なのは、代表すると謳う社会集団である、産業労働者との関係の希薄さだ。
 1880年代のロシアでの社会民主主義の出現以来、労働者は社会主義知識人を、相反する気持ちで見ていた。
 未熟および半熟練労働者は、知識人とは皇帝に私的な仕返しをすべく彼らを使用する紳士たち(『白い手』)だと考えて、完全に社会民主主義を避けた。
 彼らは、社会民主党の影響に感染しないままだつた。
 より教養があり、より熟達した、政治的意識のある労働者は、社会民主党をしばしば、それに指導される用意はないままで、仲間であり支援者であると見なした。彼らは通常は、政党政治よりも労働組合主義を選んだ。(79)
 以上の結果として、社会民主党組織における労働者の数は、微少でありつづけた。
 マルトフは、革命がすでに十分に進行していた1905年の前半に、ペテログラードのメンシェヴィキには1200から1500人の、ボルシェヴィキには『数百人』の積極的な労働者支持者があると、見積もっている。-これは、20万人以上の産業労働者のいる帝国の最も産業化した都市でのことだ。(80)
 1905年の末のペテログラードで、、二つの党派には合わせて3000人の党員がいた。(81) したがって、事実上は、メンシェヴィキもボルシェヴィキも、知識人の組織だった。 
 1914年に発行された書物でのこの点に関するマルトフの観察によれば、二月革命の後に出現すると予想される状況は、つぎのとおりだった。//
 『1905年の推移から広い範囲で積極的に活動することを現実に可能ならしめたペテログラードのような都市で、…党の組織には、中央集中の組織的活動を実行する『職業人』労働者および自己啓発のために党活動に入った若者労働者だけが残っている。
 政治的により成熟した労働者は、組織の外にいるままであるか、組織やその中央と大衆との間の関係に最も有害な影響を与えるものの一部だとだけ計算されている。 
 同時に、知識人が大量に党に流入することは、組織形態を知識人の生活条件(休暇、「陰謀」に時間をさく可能性、監視を避けるのに適した都市の中心区画の住居)に最もよく適合させたとしても、高い部分の(社会民主党の)組織の全てに知識人が充満することに帰結するだろう。これは、つまるところ、組織が大衆運動から心理的に離別するということだ。
 したがって、「中央と外縁」の間での果てしない衝突や軋轢、および労働者と知識人との間の嫌悪感の増大は、…。』(82) 
 実際に、メンシェヴィキは労働者運動と自らを同一視するのを好んだとしても、二つの党派は、労働者による干渉のない運動を行うことを選んだ。ボルシェヴィキは原理として、メンシェヴィキは生活実態への反応として。(83)
 マルトフは正しく、このような現象に注目していた。しかし、ロシアでは民主主義的な社会主義運動は、労働者のためのみならず労働者によっても行われなければ成功しない、という明白な結論を導き出さなかった。//
 これと似たようなことがあったとしても、メンシェヴィキとボルシェヴィキがともに力を合わせることが期待されえたかもしれない。 
 しかし、それは起こらなかった。友人感情はあったにもかかわらず、二つの党派は、同じ信仰の宗派としての全情熱をかけてお互いに闘い、分離していった。
 レーニンは、社会主義の教条と労働者階級の利益に対する裏切り者だとメンシェヴィキを非難することにより、メンシェヴィキから離別する機会を逃さなかった。
 苦い嫌悪感は、イデオロギーに由来するというよりも、人間的な理由からだった。//
 革命の崩壊から目覚めた1906年までに、メンシェヴィキは中央指向の、厳格な規律ある、陰謀的な政党を呼びかけるレーニンの綱領の採択に同意した。
 二党派の戦術観ですら、一致していなくはなかった。 
 例えば、両党派は、1905年12月の失敗したモスクワ蜂起を支援した。
 1906年に彼らは、アクセルロッドが提唱した労働者大会の考えを、党の規律違反だと一致して非難した。(84)
 些細な、しばしば学者的な違いが二つの党派の間にあったとしても、再統合を妨げたのは、権力を志向した、レーニンの尊大な欲望だった。それは、服従者以外のいかなる役割においても、彼とともに活動することを不可能にしたのだ。//  
  (*) スターリンは、このような実態から逃れられなかった。スターリンが出席した第5回大会に言及して、彼はつぎのように書いた。
 『統計は、メンシェヴィキ派の最大多数はユダヤ人から成っている…ことを示している。他方、ボルシェヴィキ派の圧倒的多数は、ロシア人から成っている…。これに関係して、あるボルシェヴィキは冗談で(これはアレクジンスキー同志のように思える)、メンシェヴィキはユダヤ人党派で、ボルシェヴィキは純粋なロシア人党派だ、ゆえに、われわれボルシェヴィキが党の綱領を組織化するという考えは悪くないだろう、と語った。』
 スターリン, …〔省略〕参照。
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 第7節につづく。

1455/メンシェヴィキと決裂②-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 ソヴェトの出現を、レーニンは懐疑的に見ていた。というのは、ソヴェトは非パルチザンの労働者組織で、政党による統制の外にいるものだと、考えられていたからだ。労働者階級の融和主義者的な傾向を考えると、レーニンやその支持者たちには、ソヴェトは信頼できるものではなかった。
 ソヴェトが形成されたとき、いくらかのペテログラードのボルシェヴィキは、労働者に社会民主党に対する労働者組織の優位を認めれば、『任意性という意識に従属すること』-いい換えると、労働者を知識人の上に持ち上げること-を意味するだろうという理由で (70)-、ソヴェトをボイコットするように呼びかけた。  
 レーニン自身は、ソヴェトの機能や有用性を全く決定できなかったが、より柔軟だった。
 1906年のあとで結局、彼は、ソヴェトは有用だが、『革命軍』の協力者としてのみだ、と決定した。
 ソヴェトは革命(『暴乱』)に不可欠だが、それ自体だけでは何も役立たない。(71)
 レーニンはまた、自主規律をもつ組織だとソヴェトを見なすことも拒否した-ソヴェトの働きは、厳格な規律の武装分遣隊が実行する暴乱の『道具』として役立つことだ。//
 1905年革命の勃発とともに、彼は党の主要な部分から離れて、公然と自分自身の組織を形成するときがきた、と決心した。
 1905年4月に、レーニンはロンドンに、社会民主党の正当ではない『第三回大会』を招集した。代議員のすべて(38名)が彼の党派の構成員だった。
 クルプスカヤは、つぎのように言う。//
 『第三回大会には労働者はいなかった-とにかく、少しでも目立つ労働者は一人もいなかった。 
 しかし、大会には、多数の「委員会の者たち」がいた。
 第三回大会のこの構造を無視すれば、多くのことはほとんど理解できないだろう。』(72) 
 レーニンには、このような友好的会合で自分の全ての決定が裁可されるのに何の困難もなかった-その諸決定は、正当な社会民主主義労働者党-翌年のストックホルムでの決定でこう明確にされた-を拒絶した。
 第三回大会は社会民主党の正式な分裂の始まりという画期をなすものだった。それは、1912年に完了する。//
 レーニンは、1905年11月早くにロシアに戻って、翌月のモスクワ蜂起の準備を進めた。だが、射撃が始まるや否や、彼は姿を消すということになった。 
 モスクワでバリケードが築き上げられた翌日に(1905年12月10日)、彼とクルプスカヤはフィンランドに避難した。
 彼らは12月17日に帰ってきたが、それは蜂起が敗北したあとだった。//
 1906年4月に、ロシア社会民主党の二つの分派は、ストックホルムの大会で気乗りのしない再統一の試みをした。
 レーニンはここで中央委員会での多数派を獲得しようとし、失敗した。
 彼はまた、多くの実際的な案件についても敗北した。大会は、武装分遣隊の創設と武装暴乱の考えを非難し、レーニンの農業問題綱領を拒否した。
 レーニンは怯むことなく、メンシェヴィキからは秘密に、非合法で内密の『中央委員会』(『事務局(ビュロー)』の後継機関)を、彼の個人的指揮のもとに形成した。
 最初は明らかに3人で構成されていたようだが、1907年には15人へと増加した。(73)//
 1905年の革命の間とそのあとに、数万人の新たな支持者が入党に署名し、社会民主党の党員は多方面で増加した。そのうち最も多いのは、知識人だった。 
 二つの分派は、このときまでに、異なる様相を呈していた。(74)
 1905年のボルシェヴィキには8400人の党員がいた、と見積もられている。それは大まかには、メンシェヴィキや同盟主義者(Bundists)と同じ数だった。 
 1906年4月にあった社会民主党のストックホルム大会は、3万1000人党員を代表し、そのうち、1万8000人はメンシェヴィキで、1万3000人はボルシェヴィキだったと言われる。
 1907年には、党は8万4300人の党員を擁するように成長し-この数字は、立憲民主党(カデット)とほぼ同じだった-そのうち4万6100人はボルシェヴィキ、3万8200人はメンシェヴィキだった。また、2万5700人のポーランド社会民主党、2万5500人の同盟主義者および1万3000人のラトヴィア社会民主党が連携していた。
 この数字は、増大する波の最頂点の記録だった。 
 1908年に脱退が始まり、1910年のトロツキーの見積もりでは、ロシア社会民主党は、1万人かそれ以下の党員数へと衰退した。(75) //
 メンシェヴィキ、ボルシェヴィキの各分派の社会的および民族的な構成は、異なっていた。  
 両派が惹き付けた上級階層者(gentry, dvoriane)の割合は不均衡だった-全国民中の dvoriane の割合は1.7%であるのに対して、20%だ(ボルシェヴィキについてはさらに多く、22%。メンシェヴィキはやや少なくて、19%)。
 ボルシェヴィキの党員の中には、かなり高い割合で、農民がいた。38%は、この農民グループの出身で、これと比べると、メンシェヴィキの場合は26%だった。(76)
 彼らは社会主義革命党(エスエル)を支持する耕作農民ではなく、仕事を求めて都市に移ってきた、基盤なき、階級を失った農民たちだった。 
 この社会的過渡期の構成要素は、ボルシェヴィキ党派に多数の中枢党員を提供することとなり、ボルシェヴィキの精神性(mentality)に多大の影響を与えた。
 メンシェヴィキは、より多く、低層階級の都市居住者(meshchane)、熟練労働者(例えば、印刷工、鉄道従業員)および知識人や専門職業人を惹き付けた。//
  (73) Schapiro, 共産党, p.86, p.105。 
  (74) 以下の情報は、多くは、D. Lane, The Roots of Russian Communism 〔ロシア共産主義の根源〕(1969) から抜粋している。
  (76) D. Lane, 根源, p.21。
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 ③につづく。

1453/メンシェヴィキと決裂①-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第6節・メンシェヴィキとの最終的な決裂 〔p.361-p.363.〕

 ボルシェヴィキとメンシェヴィキのいずれも、1905年の革命の過程にさしたる影響力を与えなかった、ともかくも、最終の局面までは。
 社会民主党は1905年の暴力に喫驚し、その年のたいていの活動を、声明文の発行と彼らの統制を超えて広がる不安の煽動に限定した。
 1905年10月にようやく、ペテログラード労働者代表者ソヴェトが設立されたことに伴い、メンシェヴィキは革命における積極的な役割をはたした。だが、それ〔首都のソヴェト〕がリベラルな者たちとリベラルな綱領によって支配されるまでだった。//
 レーニンは直接にはこの出来事に関係しなかった。というのは、トロツキーやパルヴスと違って、彼はスイスという安全な場所からその出来事を観察していることを選んでいたので。慎重に判断して、11月初めにようやくロシアに戻った。そのあと、政治犯の恩赦の発表があった。 
 レーニンは、1905年1月はロシアでの幅広い革命の開始の画期となるものだと考えた。
 リベラルな『ブルジョワジー』から最初の起動が生じているが、この階級は推移のどこかで確実に屈服し、帝制と取引きするだろう。
 したがって、社会民主党が完全な勝利にまで責任をもち、労働者を指導することがきわめて重要だ。//
 レーニンにはつねにマルトフのいう『アナクロ-ブランキズム』へと傾く嗜好はあったにもかかわらず (66)、彼は自分の行動綱領を理論的に正当化するものを持っておく必要があった。
 彼はこれを、パルヴスの小論に見出した。それは、血の日曜日に直接の影響をうけた1905年1月に書かれたものだった。
 パルヴスの『連続(uninterrupted)』(または『永久(permanent)』)革命理論は、社会主義に先行する『ブルジョア』の支配の別個の段階があるという、オーソドクスなロシア社会民主主義の二段階革命(two-phase revolution)の原理と、レーニンが一時的には選択したがマルクス主義と一致させることができなかった『直接の強襲』というアナーキストの理論との間に、幸福な妥協を提供するものだった。
 パルヴスは『ブルジョア』段階を認めたが、それは同時に進行するはずの社会主義の段階と時間的に区別することができないものだ、と主張した。(*1)
 このような見通しのもとでは、反専制体制の革命がひとたび勃発すれば、『プロレタリアート』(社会民主党のことを意味する)は権力掌握へとすぐに進むことになる。
 この理論が正当であるのは、ロシアには、西欧ではブルジョアジーを支援し鼓舞する過激な低中間階層が、存在していない、ということだ。
 裸の場所にいるロシアのブルジョアジーは、革命が達成されるのを許さず、それを途中で阻止するだろう。 
 社会主義者は、帝制崩壊につづくはずの内戦に向けて、大衆を組織する準備をしなければならない。 
 成功するための必須条件の一つは、党がその同盟者と区別される一体性を維持しつづけることだ。『ともに闘え、だが別々に進もう』。
 パルヴスの考え方はロシアの社会民主主義者に、とりわけレーニンとトロツキーに、大きな影響を与えた。『ロシアの運動の歴史上はじめて、プロレタリアートは、政治権力を掌握するのと同時に…臨時政府を形成する、という理論命題へと前進した。』(67)// 
 レーニンは、新しい考えや戦術を持ち出して運動における彼の優位性に挑戦するものが出てくればいつでもそうだったように、最初はパルヴス理論を拒否した。  
 だが彼は、すみやかに同調した。 
 1905年9月に、レーニンはパルヴスに賛同してつぎのように書いた。//
 『…民主主義革命のすぐあとに、さらに前進し始めるだろう、われわれの力が…社会主義革命に到達するのを認める地点まで。
 われわれは、連続革命を支持する。
 われわれは、中途で止まることはない。』(+) //
レーニンの見方によれば、社会主義革命は、ただ一つの形態でのみ生起しうる。すなわち、武装蜂起。
 彼は、都市圏域でのゲリラ行動の戦略と戦術を知るために、武装蜂起の歴史を懸命に研究した。きわめて役立ったのは、とくに、パリ・コミューンの軍事司令官、ギュスターヴ・クルセレットの回想録だった。 
 学んだことは、ロシアの支持者たちに伝えた。 
 1905年10月にレーニンは、革命軍の分遣隊を作るように彼らに助言した。その構成員は、つぎのような武装をするものだった。//
 『鉄砲、回転式連発拳銃、爆弾、ナイフ、真鍮製肘、棒、点火できるように灯油を染みこませた布きれ、ロープまたは縄はしご、バリケードを作るためのシャベル、綿火薬製の厚板、棘のある鉄線、(騎兵軍に対する)釘、およびその他…。
 武器がなくても、分遣隊はつぎのことにより、重要な仕事をすることができる。(1)群衆を指揮する、(2)一団から離脱したコサックを攻撃する(モスクワで起きたことのように)、(3)警察力がきわめて弱体であれば、拘束されたり負傷した者を救済する、(4)家屋の屋根や最上階に登る、など。そしてまた、兵団へと投石すること、彼らに熱湯を浴びせること、など。
 スパイ、警察官、憲兵の殺戮。警察署の爆破…。』(68)
 武装闘争の側面の一つは、テロリズムだった。
 ボルシェヴィキは名目上はテロルを否定する社会民主主義の基盤を支持していたが、実際には、自分たちで、および過激主義者(Maximalist)を含むエスエル(社会主義革命党)と共同での両方で、テロルをおこなっていた。
 原則として、この活動は秘密裏に組織された。しかし、場合によれば、ボルシェヴィキは支持者に対して公然と、テロルを奨励した。
 かくして、ワルシャワで警察官を射殺したポーランドの社会主義党の例を引用すれば、1906年8月に彼らは、『スパイ、黒い百(the Black Hundreds)の積極的支持者、警察官、陸海軍の武官、その他』に対する攻撃を命じた。(*2) //
  (*1) パルヴスは、トロツキーの冊子の前書きで、『連続』または『永久』革命の理論を最初に定式化した(但し、この両語を用いてはいない)。〔関係文献、省略〕
  (+) Wolfe も Schapiro も、この言明はレーニンの一面の異常性だ、その理由は、レーニンはその後には、多くの場合はロシアは『資本主義』と『民主主義』の段階を迂回することはできない、と語ったからだ、と考えている。しかし、1917年のレーニンの行動が明らかにするだろうように、彼は『民主主義』革命の考えに対して口先だけの支持を示しただけだ。すなわち、レーニンの真の戦略は、『ブルジョア』民主主義から『プロレタリアート独裁』への即時の移行を呼びかけることだった。
  (*2) その工作員たちがボルシェヴィキ問題に関する情報を維持した The Okhrana は、二月革命のすぐ前に、レーニンはテロルに反対していないが、エスエルはテロルに重要性を認めすぎていると考えている、と報告した。この報告の日付は、1916年12月24日、1917年1月6日。Hoover研究所のOkhrana 資料…。のちに記すように、彼の組織は、テロル活動のための爆発物をエスエルに提供した。  
 ---
 ②へとつづく。

1446/レーニンの個性③-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
 ---
 レーニンは最初の重要な国際主義者であり、国境は別の時代の遺物で、ナショナリズムは階級闘争の中の気晴らしとする世界的革命家だった。
 彼には、母国ロシアでよりもドイツでの方が疑いなかっただろうが、対立が生じているいかなる国でも、革命を指導する心づもりがあった。
 レーニンは成人となっての生活のほとんど半分を国外ですごし(1905-7年の二年間を除く1900年から1917年)、母国に関して多くのことを知る機会がなかった。『ロシアについて少しだけ知っている。ジンビルスク、カザン、ペテルスブルク、流刑-これで全てだ。』(34)
 彼はロシア人を低く評価し、怠惰で、優しく、そしてとても賢くはないと判断していた。 レーニンはゴールキに語った。『知識あるロシア人は、ほとんどつねにユダヤ人か、あるいはその系統にユダヤ人の血をもつ誰かだ。』(35) 
 彼は母国への郷愁という感情を知らない者ではなかったけれども、ロシアは彼にとって、最初の革命的変革の偶然的な中心であり、その渦は西側ヨーロッパになければならない真実の革命への跳躍台だった。
 1918年5月に、ブレスト=リトフスクでドイツに対して行った領土の譲歩を弁護して、レーニンは主張した。『この譲歩は国家の利益ではなく、社会主義の利益、国家の利益に優先する国際社会主義の利益のためだ』。(36) //
 レーニンの文化的素養は、同世代のロシアの知識人と比べればきわめて平凡なものだった。 
 彼が書いたものは表面的にだけはロシアの古典文学に慣れ親しんでいたが(ツルゲーネフを除く)、そのほとんどは明らかに中学生のときに得たものだった。
 レーニンとその妻の近くで働いたタチアナ・アレクシンスキーは、彼らは一度も演奏会や劇場に行かなかった、と記した。(37)
 レーニンの歴史に関する知識は、革命の歴史以外については、やはりおざなりのものだった。
 彼は音楽が好きだったが、同時代の人々を魅惑し驚かせた禁欲主義に沿って、それを抑えようとした。 
 レーニンはゴーリキに語った。//
 『音楽をたくさん聴くことはできない。それは神経を逆撫でする。
 馬鹿げたことを話したり、薄汚い地獄のような所に住んでこんな美しいものを創作できる人々に優しくすることの方が好きだ。
 今日は誰にも優しくする必要はないから、彼らはあなたの手を齧りとるだろう。
 あらゆる暴力に対面したとしてすら、想像上は、人は頭を容赦なく割らなければならない。』(38) //
 ポトレソフは、25歳のレーニンとは一つのテーマ、『運動』、についてだけ討論できる、ということに気づいた。
 レーニンは他の何にも関心がなく、何かについて語ることにも関心がなかった。(*)
 要するに、多面性のある人物と呼ばれる者では全くなかった。//
 この文化的素養のなさは、しかし、革命家の指導者としてのレーニンが持つ強さのもう一つの源泉だった。というのは、もっと素養がある知識人ではなかったので、彼は頭の中に、決意に対してブレーキのように作用する、事実や観念が入った過大な荷物を運び込まなかったから。 
 レーニンの指導者のチェルニュインスキーのように、彼は異なる意見を『たわごと』だと却下し、嘲笑の対象とする以外は、考慮することすら拒否した。
 彼が無視したり、その目的に応じて解釈し直したりするのは、都合の悪い事実だった。 反対者が何かに間違っていれば、その者は全てについて間違っていた。レーニンは、抵抗する党派に、いかなる美点も認めなかった。
 レーニンの討論の仕方は極度に戦闘的だった。マルクスの格言、すなわち批判は『外科用メスではなく兵器だ』を、完全にわが身のものにしていた。
 その武器の相手は敵で、武器は反駁するのではなく破壊することを欲するものだった。(39)
 このような考え方にもとづいて、反対者を徹底的に打倒するために、レーニンは言葉を飛び道具のごとく用いた。しばしば、反対者の誠意や動機に対するきわめて粗雑な人身攻撃という手段によって。
 ある場合、政治的目的に役立つときには、誹謗中傷を言い放ったり労働者を困惑させるのは間違っていない、と考えていることを認めた。  
 労働者階級に対する裏切りだとメンシェヴィキを非難して、1907年にレーニンは、社会主義者の裁きの場に連れてこられ、恥ずかしげもなく名誉毀損の責任を認めた。//
 『このような言葉遣いをしたのは、いわば読者に憎悪、革命心、このように振る舞う人間への侮蔑心を喚起するのを計算してだ。
 この言い方は、説得するためではなく、彼らの隊列をやっつけるために計算したものだ-反対者の誤りを訂正するのではなく、破壊し、その組織を地表から取り去るためのものだ。
 この言い方は、実際に、反対者には最悪の考えを、まさに最悪の懐疑心を喚起し、実際に、説得したり訂正したりする言い方とは違って、<プロレタリアートの隊列に混乱の種を撒く>。   
 …一つの党のメンバーの間では許されなくとも、分解していく党の部分内では許されるし、必要なのだ。』(40) //
 レーニンはこうしていつも、フランス革命の歴史家であるオーギュトト・コシンが『 乾いたテロル』と呼んだものに執心した。そして、『乾いたテロル』から『血塗られたテロル』へはもちろん、ほんの短い一歩だった。
 同僚の社会主義者はレーニンに、反対者(ストルーヴェ)に対する節度を欠く攻撃は、きっと誰か労働者に憤怒の対象を殺させることになると警告した。それに対してレーニンは落ち着いて答えた。『その男は殺されるべきだ』。(41)//
 成熟したレーニンは一つの工芸品でできていて、その人格は強い安堵感と離れた別の場所にあった。
 彼がボルシェヴィズムの原理と実践をその30歳代早くに定式化したあとでは、彼は異なる考えが貫き通ることのない、見えない防護壁で囲われた。
 そのときからは、何も彼の心性を変えることができなかった。
 マルキ・ド・キュスティンが、自分に告げるものを除いて全て知っている、と言った人間の範疇に、レーニンは属していた。
 レーニンに同意するのであれ、彼と闘うのであれ、不一致はつねに彼の側に、破壊的な憎悪とその反対者を『地表から』『除去』しようとする衝動を呼び覚ました。
 これは、革命家としての強さであり、政治家としての弱さだった。戦闘では無敵だったが、レーニンは、人類を理解し、指導するために必要な人間的性質を欠いていた。
 結局のところ、この欠陥が、新しい社会を創ろうとする彼の努力を打ち砕くだろう。人々がどのようにして平和に一緒に生きていけるかについて、レーニンはまったく理解することができなかったのだから。//
  (*) Tatiana Aleksinskii は同意する。『レーニンにとって、政治はあらゆるものに超越していて、他の何かの余地は全くない。』
  (39) カール・マルクス, ヘーゲル法哲学批判。
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 第4節につづく。
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