秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

マルトフ

2216/R・パイプス・ロシア革命第12章第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 第9節・影響と意味(effects and implications)。
 (1)立憲会議の解散は、驚くべき無関心さで迎えられた。
 1789年には、バスティーユ襲撃を予期してルイ16世が国民議会を解散しようとしているとの風聞は、大きな憤激を生じさせた。しかし、そのようなものは、どこにもなかった。
 一年の無秩序状態(anarchy)のあと、ロシアは消耗していた。人々は、どのような方法で獲得されようとも、平和と秩序を乞い願っていた。
 ボルシェヴィキはそのような雰囲気に賭け、そして勝った。
 1月5日以降、権力を放棄するようレーニンを説得することができるとは、もはや誰にも考えられなかった。
 またそれ以降、ロシアの中央部には、影響力ある反ボルシェヴィキの武装対抗派が存在しなかった。そして、社会主義知識人は言いたくないことだが、常識的には、ここにボルシェヴィキ独裁が定着した、と叙述することができる。
 (2)直接の結果は、各省庁や民間企業の事務系就労者たちのストライキが終わったことだった。彼らは1月5日以降は、仕事へと押し戻された。ある者たちは個人的な必要に迫られて、ある者たちは、内部から事態に影響を与えることができる方がよいと考えて。
 反対派たちの心理はこのとき、致命的に砕かれていた。
 まるで、残虐性と国民の意思の無視が、ボルシェヴィキ独裁を正当化しているかのごとくだった。
 国全体が、混沌の一年のあとでやっと「本当(real)」の政府ができた、と感じた。
 このことは確実に農民や労働者大衆については言えたが、しかし、逆説的にも、<プラウダ>の言う「資本のハイエナ」や「人民の敵」である富裕層や「保守」的な人々についても当てはまった。この人たちは、ボルシェヴィキを軽蔑する以上に、社会主義知識人や街頭の群衆を侮蔑していたからだ。(*)
 ある意味では、ボルシェヴィキは1917年10月にではなく1918年1月にロシアの政府となった、と言ってよいかもしれない。
 当時のある者の言葉によると、「真正の、純粋なボルシェヴィズム、広範な大衆のボルシェヴィズムは、1月5日の後で初めて生まれた」。(130)
 (3)実際に、立憲会議の解散は、多くの点で、「全ての権力をソヴェトへ」という煙幕に隠れて実行された十月のクーよりも重要な意味をもった。
 ボルシェヴィキ党員を含むほとんど誰に対しても十月の目的は隠されたままだったとすると、その一方で1月5日以後に関するボルシェヴィキの意図は、疑いようがなかった。そのとき、人民の意思には気を配らないと考えていることを、ボルシェヴィキは間違いなく明確にしていたのだった。
 彼らは、字義通りの意味で、人民は「人民(people)」であるがゆえにその声を聴く必要がなかった。(**)
 レーニンの言葉によると、こうだ。「ソヴェト権力による立憲会議の解散は、革命的独裁の名による形式的民主主義の、完全なかつ公然たる廃絶だった」。(131)
 (4)民衆一般および知識人のこの歴史的事件に対する反応が予兆したのは、国の将来の悪さだった。
 もう一度事件を確認するならば、ロシアに欠落していたのは国民的結束の感覚だった。この意識があれば、善なる共通利益のために当面のかつ個人的な利益を断念しようと、国民は奮い立つだろう。
 「人民大衆」が示していた気持ちは、私的で地域的な利益、<duvan>の昂奮する愉しみだけを理解することができる、それらは当分の間はソヴェトと工場委員会によって充足されている、というものだった。
 「棒切れをひっ掴む者は伍長だ」というロシアの箴言と合致するように、彼ら人民大衆は、最も大胆で最も残虐な要求者に、権力を譲り渡した。//
 (5)証拠資料から明らかになるのは、ペトログラードの工業労働者たちは、ボルシェヴィキに投票した者たちであってすら、立憲会議が開かれて国の新しい政治的経済的諸制度を策定していくだろうと期待していた、ということだ。
 <プラウダ>が労働者の支持について不満を書いてはいたが、立憲会議防衛同盟の多様な請願書への彼らの署名によっても、このことは確認される。(132)また、立憲会議が招集される直前にボルシェヴィキが労働者に向けて発した、脅威と結びつける逆上しているがごとき訴えによっても。
 だがしかし、火を噴くことを躊躇しない銃砲に支えられて立憲会議を殺そうとする、ボルシェヴィキの断固たる決意に直面したとき、労働者たちの気持ちは挫けた。
 これは、抵抗するなと熱心に説いた知識人たちに裏切られたのが理由だったのだろうか?
 かりにそうであれば、帝制に反対した革命での知識人たちの役割は、思い上がった慰めだった、ということが際立ってしまうことになる。つまり、自分たちの刺激によらなければロシアの労働者は政府に立ち向かおうとしない、という思い上がりがあったように見える。//
 (6)農民たちについて言えば、彼らは大都市で進行している事態について全く関心がないというわけではなかった。
 社会革命党の煽動活動家たちが投票するように言い、そして彼らは投票をした。
 だが、「白い手」の別のグループが奪取したのであったとして、どんな違いがあっただろうか?
 彼らの関心は、その<volosti>の境界内の外には広がっていなかった。
 (7)こうして、社会主義知識人たちは選挙で確実な勝利を獲得してきたので国は従ってきていると自信をもって行動することができたのだが、その知識人たちが取り残された。
 トロツキーはのちに、社会主義知識人たちを嘲弄した。彼らはタウリダ宮に、ボルシェヴィキが権力を投げ棄てた場合に備えてキャンドルを、食料を奪われた場合に備えてサンドウィッチを持って来ていた。(133)
 だが、彼らは銃砲を携帯しようとはしなかった。
 立憲会議の招集の直前に、社会革命党のP・ソロキン(Pitirim Solokin)(のちにハーヴァード大学の社会学教授)は、立憲会議が実力でもって解散される可能性について論じて、こう予言した。
 「開会した会議が『機関銃』に遭遇すれば、我々はそのことを知らせる訴えを発し、我々を人民の保護の下に置くだろう」。(134)
 しかし、彼らには、そのような素振りについてすら、勇気が欠けていた。
 立憲会議の解散のあと、兵士たちが社会主義派代議員に近づいて来て、武装した実力行使でもって回復しようと提示したとき、恐れ慄いていた知識人たちは、その種のことは何もしないで欲しいと懇願した。
 ツェレテリ(Tsereteli)は、内戦を引き起こすよりは、立憲会議が静かに死んだ方がよかっただろう、と言った。(135)
 危険を冒そうとしない者たちは、つぎのようだ。すなわち、革命と民主主義について際限なく語る、しかし言葉と素振り以外によっては自分たちの理想を防衛しようとはいない。
 このような矛盾する行動、歴史の勢いに服従するふりを装う無気力さ、戦って勝利しようとする気がないこと、これらを説明するのは簡単ではない。
 その合理的な答えはおそらく、心理学(psychology)の領域に求めなければならない。-すなわち、チェーホフが巧みに描いた古いロシア知識人の伝統的態度であり、成功することを怖れ、非能率は「主要な美徳であって、光輪(halo)だけには勝つ」という信条をもっていることだ。(136)
 (8)1月5日の社会主義知識人の屈服は、その知識人たち自身の崩壊の始まりだった。
 武装抵抗の組織化を試みてできなかったある人物は、こう観察した。
 「立憲会議を守ることができなかったことは、ロシアの民主主義の最も深刻な危機だった。
 これが、分岐点だった。
 1月5日より後では、理想主義に執心するロシア人知識人がそのために存在する場所は、歴史上、ロシア史上に存在しなかった。 
 過去の存在として葬られたのだ。」(137)
 (9)対抗派の者たちとは違って、ボルシェヴィキはこの事件から多くのことを学んだ。
 武力で統制下に置いた地域では、組織されていない武装抵抗を怖れる必要がある、と分かった。
 彼らの対抗者たちは、民衆の少なくとも4分の3から支持されてはいたが、団結をせず、指導者がおらず、そして何よりも、戦う気概がなかった。
 この経験は、ボルシェヴィキが暴力に訴えるのに慣れさせることとなった。その暴力行使はもちろん、抵抗に遭遇すればいつでも、その抵抗を惹起した者を肉体的(physical)に殲滅することによって問題を「解決」する、ということを意味した。
 機関銃は、ボルシェヴィキが用いる主要な政治的説得の道具となった。
 彼らがそれ以来ロシアを支配した抑制なき残忍性は、相当の程度で、1月5日に彼らが得た、安心してこれを用いることができる、という知識から生じた。//
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 (*) 1918年5月1日、最も反動的な革命前からの政治家のV・プリシュケヴィチ(Vladimir Purishkevich)は公開書簡を発表して、こう書いた。ソヴェトの牢獄で半年過ごした後で、自分は君主制主義者のままであり、ロシアをドイツの植民地に変えたソヴェト政権に対して何ら釈明することはない。
 彼は続ける。「ソヴェト権力は堅固な権力だ。-ああ、しかし、私がロシアに作ろうとした堅固な権力の方向から生まれたものではない。ロシアの惨めで臆病な知識人層が、我々が蒙っている屈辱の主犯者だ。また、ロシア社会に統治の識見をもつ健全で堅固な権力を生み出すことができない、その主犯者だ。
 1918年5月1日付手紙、VO, No. 36(1918年5月3日), p.4. 所収。
 (130) Solokov in ARR, XIII, p.54.
 (**) このような姿勢をマルトフは1918年春に指摘した。そのときスターリンは誹謗中傷罪だと彼を非難して、革命審判所の前に立たせた。
 革命審判所はもっぱら「人民に対する罪」を裁くために設置されたと通告されて、マルトフは、「スターリンへの侮辱は人民に対する罪だと考えられるのか?」と尋ねた。
 そして自分でこう回答した。「スターリンは人民だと考える場合にだけだ」。
 "Narod eto ia", Vpered, 1918年4月1日/14日, p.1.
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (131) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (132) E. Iganov in PR, No. 5/76(1928年), p.28-p.29.
 (133) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (134) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.323.
 (135) V. I. Ignatev, Nekotorye fakty i itogi chetyrekh let grazhdanskoi voiny(Moscow, 1922), p.8.
 (136) D. S. Mirsky, Modern Russian Literature(London, 1925), p.89.
 (137) Sokolov in ARR, XIII, P.6.
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 第9節、終わり。次節・最終節の目次上の表題は、<労働者幹部会の運動>。

1742/マルトフとボルシェヴィキ②-L・コワコフスキ著18章9節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.770-、分冊版・第2巻p.519-520。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ②。
 レーニンとマルトフの間の論争は、このようにして、それが始まった1903年の時点で終わった。
 マルトフが労働者階級の支配について語ったとき、彼は言ったことそのままを意味させた。一方、レーニンの見解では、放置された労働者階級はブルジョアのイデオロギーを産出することができるだけで、労働者階級に現実の力を与えることは、資本主義の復古に結局はなるだろう。
 レーニンが全く正当に(rightly)、1921年8月にこう書いたごとくだ。
 『「労働者階級の力にもっと信頼を!」とのスローガンは、今や実際には、1921年春のクロンシュタッタトによってまざまざと証明され、実演されたように、メンシェヴィキやアナキストの影響力を増大させるために使われている。』(+)
 (「新時代と新しい装いの古い過ち」、全集33巻27頁〔=日本語版全集33巻「新しい時代、新しい形をとった古い誤り」9頁〕)。
 マルトフは、国家が過去の全ての民主主義的諸制度を奪い取り、その視野を拡張することを望んだ。 
 レーニンの国家は、共産主義者がその国家の権力を独占するかぎりでのみ、共産主義的だった。
 マルトフは、文化的継続性があることを信じた。
 レーニンにとっては、ブルジョアジーから奪い取るべき「文化」はただ、技術力と行政の技巧だけだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキはその観念体系のうちに物質的利益を求める堕落した大衆の飢餓を表現していると責め立てたとき、マルトフは誤った。
 このような見方は、革命の第一の局面を画した、大衆の略奪を原因としていた。
 しかし、レーニンも他のどのボルシェヴィキ指導者も、略奪は共産主義の原理の表現だとは見なしていなかった。
 反対に、レーニンは、労働生産力の増大が社会主義の優越性の証明印だ、と主張した。そして、全体的にではなくても主としては、社会主義をもたらす技術の進歩を信頼した。
 例えば、レーニンは、数十の地域的電力基地が建設されれば-しかしこれには、少なくとも十年はかかる-、ロシアの最も後進的部分ですら、妨害の段階なくしてまっすぐに社会主義へと進むだろう、と書いた。
 (<現物税(食糧税)>、1921年5月。全集32巻350頁〔=日本語版全集32巻「食糧税について」378頁〕。)
 実際、世界的な生産指標は社会主義の成功を根本的に証明するものだ、という考えを確立していたのは、ボルシェヴィキだった。
 むろん多くの言葉を用いてではなかったけれども、ボルシェヴィキは、生産者すなわち労働者共同体全体のために生活をより良くするかどうかに関係なく、生産の原理をそれ自体のために神聖視した。
 このことは、唯一のものではないけれども、至高の価値をもつものとしての国家権力のカルト(cult、狂熱集団)の重要な側面だった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第9節は終わり。つづく第10節の表題は、「論駁家としてのレーニン。レーニンの天才性。」。

1740/マルトフとボルシェヴィキ①。

 前回のつづき。コワコフスキの大著・三巻合冊本、p.770-。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ①。
 カウツキーやローザ・ルクセンブルクとともにマルトフは、ボルシェヴィキの観念体系(ideology)と革命後すぐの数年間の戦術に対する第三の傑出した批判者だった。
 彼の<世界ボルシェヴィズム>(1923年、ロシア語)、1918-19年に彼が書いた論考の集成は、メンシェヴィキの立場から、つまりはカウツキーのそれと似て社会民主主義を代表して、レーニン主義を批判する、おそらくは最も重要な試みだ。
 マルトフは、ロシアでの権力の前提はマルクス主義者により伝統的に理解されるプロレタリア革命とはほとんど共通性がない、と主張した。
 ボルシェヴィズムの成功は労働者階級の成熟によるのではなく、その解体と戦争に対する厭気〔=厭戦気分〕による。
 諸党派によって何年も、何十年も社会主義で教育された戦前の労働者階級は、大量殺戮によって悪質になり、田園的要素の流入によって性質を変えた。それは、全ての交戦国家で発生した過程だった。
 諸観念についての従前の権威は消滅し、粗野で単純な公理が日常の秩序だった。
 行動は、直接の物質的必要と全ての社会問題は軍隊の実力(force)によって解決されるとの信念によって指示された。
 社会主義左派は、ツィンマーヴァルトでの、プロレタリア運動に残っているものを救済する試みに敗北していた。
 マルクス主義は戦争の間に一方で「社会的愛国主義」、他方でボルシェヴィキのアナクロ・ジャコバン主義へと分解した、ということは、意識は社会条件に依存するというマルクス主義の理論を裏付けるだけだった。
 支配諸階級は、彼らの軍隊という手段によって、大衆の破壊、略奪、強制労働等々を準備していた。
 ボルシェヴィズムは、この逆行の真っ最中に、社会主義運動の廃墟の上に起き上がった。
 レーニンの<国家と革命>による革命後の現実に関する約束とは対照的に、やはりマルトフは、ボルシェヴィズムの本当の意味は民主主義の制限にあるのではない、という見解だった。
 革命は一定期間はブルジョアジーから選挙権を剥奪すべきだとのプレハノフの古い考えは、制度上の民主主義の別の形態が存在していたとすれば、適用され得ただろう。
 ボルシェヴィズムの観念体系は、科学的社会主義は真実(true)であり、そのゆえにブルジョアジーによって瞞着されて自分たち自身の利益を理解することのできない大衆に押しつけられなければならない、という原理にもとづく。
 この目的のためには、議会、自由なプレス、および全ての代表制的な制度を破壊することが必要だ。
 マルトフは言う。この教理は、空想的(ユートピア的)社会主義の伝統にある一定の歪み(strain)、すなわち、バブーフ主義者、ヴァイトリンク(Weitling)、カベー(Cabet)、あるいはブランキ主義者の諸綱領に描かれた手段、と合致している。
 労働者階級はそれが生きる社会に精神的に依存しているという原理から、空想家(夢想家たち)は、社会は、労働者大衆は受動的な対象の役割を演じつつ、一握りの陰謀家または啓蒙されたエリートによって変形されなければならない、という推論を導いた。
 しかし、例えばマルクスの第三<フォイエルバッハに関するテーゼ>に明言されているように、弁証法の見方は、人間の意識と物質的条件の間には恒常的な相互作用があり、労働者階級がその条件を変えようと闘うにつれて、自らを変え、精神的な解放を達成する、というものだ。
 少数者による独裁は、社会と独裁者たち自身のいずれも教育することができない。
 プロレタリア-トは、一階級としての主導性をとることができるようになるときにのみ、ブルジョア社会の成果を奪い取ることができる。そして、僭政体制、官僚制およびテロルの条件のもとでは、そうすることができない。//
 マルトフは、つづける。ボルシェヴィキは、プロレタリア-ト独裁や従前の国家機構の破壊に関するマルクスの定式に訴える資格を持っていない。
 マルクスは、普通選挙権と人民主権の名のもとに選挙法制攻撃したのであり、単一の政党の僭政の名のもとにおいてではなかった。
 マルクスは、民主主義国家の反民主主義的制度-警察、常置軍、中央志向の官僚制-の廃棄を呼びかけたのであり、民主主義の廃棄それ自体をではなかった。すなわち、彼には、プロレタリア-ト独裁とは統治の形式ではなく、特定の性格の社会だった。
 他方で、レーニン主義は、国家機構を粉砕するというアナキスト(無政府主義者)のスローガンを称揚し、同時に、考えられる最も専制的な形態でそれを再建しようと追求している。//
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 ②へとつづく。

1672/共産党独裁①-L・コワコフスキ著18章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第4節へと進む。第2巻単行著の、p.485以下。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁①。
 しかしながら、この新しい情勢は、党の中に意見の不一致を呼び覚ますという別の新しい変化をもたらした。
 革命前の全ての約束が、突然に、紙の屑になってしまった。
 レーニンは、高級官僚や専門家たちと技能労働者等との間の報酬を同等化するために、常設軍と警察を廃止しようと企てていた。また彼は、武装する人民は直接に支配権を行使する、と約束していた。
 革命のすぐ後で、そしてネップよりもかなり前に、これらは空想家の夢であることが明らかになった。
 職業的将官幹部たちを伴う軍が、他の全ての軍隊と同じく、階級と厳格な紀律にもとづいて直ちに組織されなければならなかった。
 トロツキーは、赤軍の主な組織者としての秀れた才能を示した。そして、内戦を勝利に導いた主要な設計者だった。
 用いられた方法は、きわめて徹底的だった。敵対者は捕えられて処刑され、逃亡者およびその隠匿者は射殺され、規律に違反した兵士たちも同じだった、等々。
 しかし、このような手段は、大規模の信頼できる武装軍隊なくしては、取ることができなかっただろう。
 威嚇とテロルによって軍団をきちんと維持するためには、反テロル活動も力強くある状況でそのテロルを用いる意思を十分に持つ、そういう者たちが存在しなければならなかった。    
 革命後すぐに、政治警察の部隊を設定することが必要になった。これは、フェリクス・ジェルジンスキー(Feliks Dzerzhinsky)によって、効率よく設立された〔チェカ、Cheka〕。
 専門家たちを優遇しなければ生産活動を組織することができないこと、脅迫だけにもとづいてそれを行うことはできないこと、はすぐに明らかになった。
 1918年4月にもう、レーニンは、『ソヴェト政府の当面の任務』において、この点で『妥協』してパリ・コミューンの原理から離れることが必要だ、と認識していた。
 レーニンはまた、革命の最初から、ブルジョアジーから学ぶことが重要だ、と強く述べていた(ストルーヴェ(Struve)は、その時代には、同じことを言って裏切り者だと烙印を押された)。
 1918年4月29日の中央執行委員会では、社会主義はブルジョアから学ばなくとも建設することができると考える者は、中央アフリカの原住民の精神性をもっている、と語った。
 (全集27巻、p.310〔=日本語版全集27巻「全ロシア中央執行委員会の会議」313頁〕。)
 レーニンは、その著作物や演説で、『文明化(civilization)』、すなわち産業や国家を作動させていくために必要な技術上および行政上の専門能力、に対する関心をますます喚起した。
 共産主義者は傲慢であることをやめ、無知であることを受け入れ、このような専門能力をブルジョアジーから学ばなければならない、と強調した。
 (レーニンはつねに、政治的な扇動や戦闘を目的にしている場合を除いて、共産主義者をきわめて信用しなかった。ゴールキがボルシェヴィキの医師に相談したと聞いた1913年に、彼はすぐに、アホに決まっている『同志』ではない、本当(real)の医師を見つけるように強く勧める手紙を書いた。)
 1918年5月に、レーニンは、パリ・コミューンよりも良いモデルを思いついた。すなわち、ピョートル大帝(Peter the Great)。
 『ドイツの革命はまだゆっくりと「前進」しているが、我々の任務はドイツの国家資本主義を学習すること、それを真似る(copy)のに努力を惜しまないこと、<独裁的(dictational)>な方法を採用するのを怯まないで、急いで真似ること、だ。
 我々の任務は、ピョートルが野蛮なロシアに急いで西側を模写させたよりももっと急いで、この模写(copy)をすることだ。
 そして、野蛮さと闘うためには、この野蛮な方法を用いるのを躊躇してはならない。』(+)
 (『「左翼」小児病と小ブルジョア性』。全集27巻、p.340〔=日本語版全集27巻343-4頁〕。)
 産業の統制に関する一体性の原理がすみやかに導入され、工場の集団的な管理という夢想は、サンディカ主義的な逸脱だと非難された。//
 かくして、新しい社会は、一方では技術上および行政上の知識の増大によって、他方では強制と威嚇という手段によって、建設されることになった。
 ネップは、政治および警察によるテロルを緩和させなかったし、そのように意図しもしなかった。
 非ボルシェヴィキの新聞は内戦の間に閉鎖され、再び刊行が許されることはなかった。
 社会主義的反対諸党、メンシェヴィキとエスエルはテロルに遭い、絶滅(liquidate、粛清)された。
 大学の自治は、ついに1921年に抑圧された。
 レーニンは決まっていつも、『いわゆる出版の自由』は集会の自由や政党結成の自由と同じくブルジョアの欺瞞だ、ブルジョア社会ではふつうの者は新聞印刷機や集会する部屋を持っていないのだから、と繰り返した。
 今やソヴェト体制がこれらの設備を『人民』に与えるならば、人民は明らかにそれをブルジョアジーが欺瞞的な目的のために使うのを許さないだろう。そして、メンシェヴィキとエスエルがブルジョア政党の位置へと落ち込んだならば、彼らもまた、プロレタリア-ト独裁に屈服しなければならない。
 レーニンは、1919年2月のメンシェヴィキ新聞の閉刊を、つぎの理由で正当化した。
 『ソヴェト政府は、まさにこの最終的、決定的で最も先鋭化している、地主や資本家の軍団との武装衝突の時機に、正しい信条のために闘う労働者や農民と一緒に大きな犠牲に耐え忍ぼうとしない者たちを我慢することはできない。』(+)
 (全集28巻p.447〔=日本語版全集28巻「国防を害したメンシェヴィキ新聞の閉鎖について」482頁〕。)
 1919年12月の第七回ソヴェト大会で、レーニンは、マルトフ(Martov)がボルシェヴィキは労働者階級の少数派しか代表していないと非難するとき、この人物は『帝国主義者の野獣ども』-クレマンソー(Clemenceau)、ウィルソンおよびロイド・ジョージ(Lloyd George)-の言葉を使って語っているのだ、と宣告した。
 この論理的な帰結は、『我々はつねに警戒していなければならず、チェカ〔政治秘密警察〕が絶対に必要だと認識しなければならない!』、ということだった。
 (全集30巻p.239。)//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1659/第一次大戦③-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争③。
 ロシア国外での最後の年月に、レーニンは諸著作の中でおそらく最も一般に知られているものを書いた。すなわち、<帝国主義-資本主義の最高段階>(1917年、ペテログラード刊)。
 この小冊子-その経済の部分はレーニンの主要な根拠文献であるホブソン(Hobson)およびヒルファーディング(Hilferding)に見出され得ないものは何もない-は、革命党に対して力をもつべき新しい戦術の理論上の基礎を提供することを意図していた。
 帝国主義の世界的性格および不均等な発展を強調して、レーニンは、やがて共産主義諸党を拘束することとなる戦術の基礎を設定した。
 正しい路線は、いかなる理由によってであれ、いかなる階級の利益になるのであれ、いかなるときであれその時点の体制を打倒しようとする傾向の、全ての運動を支持することだ。植民地諸国の解放、民族運動あるいは農民運動、大きな帝国主義諸国に対するブルジョア的民族蜂起。
 これは、彼が何年もの間にロシアで説いてきた戦術を一般化するものだった。
 ツァーリ専政体制に反対する全ての要求と全ての運動を支持すること。そうして、それらの活力源を利用して、決定的な瞬間に権力を奪取すること。
 マルクス主義党の勝利は最終の目標だが、それはプロレタリアートだけで達成さ得るものではない。
 レーニンはすみやかに、実際に、民族主義者や農民のような他の大衆運動の支持なくして、労働者階級はその名前のもとで革命を遂行することはできない、との結論に達した。言い換えると、伝統的マルクス主義の意味での社会主義革命は、実現不可能なことだ。
 このことを発見したことは、レーニンの成功のほとんど全ての淵源であり、また彼の失敗のほとんど全てのそれだった。//
 農民との関係の問題は、この時期に、レーニンとトロツキーの間の主要な不一致点の一つだった。
 トロツキーは戦争勃発まで主にウィーンに住み、1908年以降は自身の機関誌<プラウダ>を編集した(彼は1912年に、ボルシェヴィキがその冠名を奪ったと非難した)。
 彼は折に触れて様々な問題についてメンシェヴィキとともに活動したが、それに加入はしなかった。来たる革命について異なる考え方をもち、社会主義の段階へと進化するだろうと予見していたからだ。
 トロツキーは党の一体性を回復しようと努力を繰り返したが、不首尾に終わった。
 彼は1914年から戦争反対派に属し、レーニンとともに『社会的愛国主義』を攻撃した。
 彼はまた、ツィンマーヴァルト宣言の草案も書いた。 
マルトフと一緒にパリで雑誌を発行し、それにはルナチャルスキーその他の指導的な社会民主主義知識人たちが寄稿した。
 第二回大会からボルシェヴィキに加入した1917年まで、トロツキーは、レーニンの側で例外的に敵愾心を抱く対象だった。現実の論争点に同意するかどうかに関係なく。
 レーニンは、トロツキーをこう描写した。状況に応じて、小うるさい弁舌者、役者、策略家、そして<ユドゥシュカ(Yudushka)>だ、と(最後は『小さなユダヤ人』の意味で、サルチュイコフ=シェードリンの小説<ゴロヴレフ一家>に出てくる偽善的性格の人物の名)。
 レーニンはまた、こうも言った。トロツキーは原理のない男で、一つのグループと他との間に巧みに身を隠し、発見されないようにとだけ気を配っている、と。
 レーニンは、1911年に、つぎのように書いた。
 『トロツキーにはいかなる考えもないので、この問題の本質に関して彼と議論するのは不可能だ。
 我々は、信念ある解党派やotzovists(召還主義者)たちと論じ合うことができるし、そうすべきだ。
 しかし、このどちらの傾向の過ちも隠そうとする遊び人と議論しても無意味だ。
 トロツキーの場合にすべきことは、最低限の度量しかない外交家だという姿を暴露することだ。』(+)
 (『確かな党政策から見るトロツキーの外交』、1911年12月21日。全集17巻p.362〔=日本語版全集17巻373頁〕。)
 彼は、1914年に、同じ考えを繰り返した。
 『しかしながら、トロツキーには「相貌(physiogmology)」が全くない。
 ただ一つあるのは、場所を変えて、リベラル派からマルクス主義者へと飛び移ってまた戻る、宣伝文句や大げさな受け売り言葉の断片を口に入れる、という癖だ。』(+)
 (『「八月ブロック」の分解』、1914年3月15日。全集20巻p.160〔=日本語版全集20巻163頁〕。)
 『トロツキズム』それ自体に関しては、こう言う。
 『トロツキーの独創的な理論は、ボルシェヴィキからは、断固たるプロレタリアの革命闘争やプロレタリアートによる政治権力の征圧の呼びかけを借用し、一方でメンシェヴィキからは、農民層の役割を「否認すること」を借用した。』(+)
 (『革命の二つの方向について』、1915年11月20日。全集21巻p.419〔=日本語版全集21巻432頁〕。)//
 トロツキーは、実際に、党はブルジョアジーの添え物ではなくて階級闘争を指導する力でなければならないとのレーニンの見地を共有していた。
 レーニンと同様に、トロツキーは、解党主義者と召還主義者のいずれにも反対した。そして、レーニンよりも早く、『二段階の革命』を予見した。
 しかしながら、彼は農民層がもつ革命的な潜在力の存在を信じなかった。そして、ヨーロッパ全体での革命の助けを借りてプロレタリアートはロシアを支配するだろう、と考えた。//
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 (+)=秋月注記。日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
 第1節、終わり。つづく第2節の表題は、「1917年の革命」。

1657/第一次大戦②-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争②。
 このような訴えは、呆けた夢物語のように見えたかもしれなかった。一握りの社会主義者たちだけが、それを支持するつもりがあったのだから。
 ほとんどの社会民主主義者たちは、階級闘争を中止して祖国の防衛のために結集しようという考えだった。
 プレハノフはこのように考えたロシア人の一人で、自分はマルクス主義者だと表明し続ける一方で、心から愛国主義の見地を受け入れた。
 このことによってプレハノフとレーニンの間の休戦状態は瞭然として終わりを告げ、プレハノフとポトレソフはもう一度、『道化師』であり反動派の指導者のプリシュケヴィチ(Purishkevich)の従僕だと非難された。
 レーニンは、イギリスのハインドマン(Hyndman)やフランスのゲード(Guesde)、エルヴェ(Herve)のような、その態度の基礎に民族の自己防衛原理をおく、全ての社会主義指導者と類似の見解をもっていた。当然に、交戦諸国の中には『侵略者(aggressors)』はいなかったことになる。
 しかしながら、徐々に戦争反対の集団が全ての国で形成された。そのほとんどは、正式に中心的位置を占める社会主義者によっていた。ドイツのベルンシュタイン、カウツキーおよびレデブーア(Ledebour)、イギリスのラムジー・マクドナルド(Ramsay MacDonald)。
 これには、マルトフとアクセルロートが率いる、従前のメンシェヴィキのほとんど、およびトロツキーも、属していた。
 しばらくの間、彼らの基礎的な違いにもかかわらず、レーニンの集団はこれら『平和主義者(Pacifists)』と折り合いをつけようとした。
 主としてスイスとイタリアの社会主義者の努力によって国際的な会議が1915年9月にツィンマーヴァルト(Zimmerwald)で開かれ、妥協的な戦争反対の決議を採択した。
 ツィンマーヴァルトは一時的には、新しいインターナショナル運動の萌芽だと見なされた。しかし、ロシア革命の後では、中心部とツィンマーヴァルト左派の間の意見の違いは、平和主義者と、祖国を防衛する者はともかくもこう称された『社会的な熱狂愛国主義者』の間の対立よりも、大きいものであることが分かった。
 38人の代議員のうちの7名から成るツィンマーヴァルト左派は、一般的な決議に署名することに加えて、自分たちの決議をも発した。それは、社会主義者たちに、帝国主義的政府からの撤退と新しい革命的なインターナショナルの結成を呼びかけるものだった。//
 レーニンは、初期の段階では、戦争反対の平和主義的な社会民主主義者を、『社会的な熱狂愛国主義者』に対してしたのと同様に激しく攻撃した。   
 彼の主要な反対論は、第一に、〔ツィンマーヴァルト会議での、社会民主主義者の〕中央主義者(centrists)は、自分たちの政府に対する革命的な戦争を遂行することによってではなく、国際的な協定を通じて講和することを望んでいるということだった。
 このことは、戦前の秩序への回帰と『ブルジョア的』方法による平和への懇請を意味する、とした。
 中央主義者は明らかにブルジョアジーの従僕で、帝国主義戦争を終わらせる唯一の途は少なくとも三つの大陸大帝国を打倒する革命によってだ、ということを理解できていない、とする。
 第二に、平和主義者は『併合または賠償のない講和』を望んでいる、ということだった。そのことで彼らが意図しているのは、戦時中の領土併合の放棄だけであり、かくしてその民族主義的抑圧を伴う旧い諸帝国を維持することだ。
 しかし、レーニンが考えるには、革命的な目標は、全ての領土併合を無効にすること、全ての民衆の自己決定権を保障すること、そしてかりに望むなら、彼ら自身の民族国家を形成することでなければならない。 
レーニンは、併合と迫害を責め立てる社会主義者を咎める強い立場にあったが、それは、彼らの民族的な敵によって行われるときにだけだった。
 ドイツ人はロシアでの民族の問題の扱いに完全に憤慨していたが、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリーの状態については何も語らなかった。
 ロシアとフランスの社会主義者は、中央諸国の問題からの自由を要求した。しかし、ツァーリの問題については沈黙したままだった。
 結局、平和主義者は、きっぱりと日和見主義者と決裂する決心のつかない言葉で熱狂愛国主義者を非難したけれども、彼らと再合流することやインターナショナルを甦生させることを夢見た。
 このことは、とくに重要だ。
 党内部での従前の紛争や分裂の全ての場合と同じく、レーニンは、反対者および、反対派と完全に別れるのを躊躇し、組織的統一を渇望することで原理的考え方を満足させる自分の身内内の『宥和者』に対して、同等に激しい怒りを向けた。
 中央主義者は、レーニンの態度は狂信的でセクト主義的だと非難した。そして、ときどきは無力で孤立した集団の指導者の地位へと彼を陥らせるように見えた、というのは本当だ。
 しかしながら、最終的には、他のどの戦術もボルシェヴィキのような中央集中化した紀律ある党を生みだし得なかった、という点で、レーニンが正しかった(right)ことが分かった。危機的なときに、もっと緩やかに組織される党では、状勢を乗り切って権力を奪取することができなかっただろう。
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 ③へとつづく。

1655/第一次大戦①-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 これの邦訳書はない。試訳をつづける。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。第2巻単行著の、p.467~。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争①。
 1908年~1911年は、ロシア社会民主主義運動の大きな衰退と解体の時期だった。
 革命後の抑圧のあとで、ツァーリ体制が一時的に安定した。公民的自由はかなり増大し、弱体化した社会構造を官僚制と軍隊以外の別の基盤の上に造ろうとする試みがなされた。 首相のストリュイピン(Stolypin)は、中規模の所有地を持つ強い農民階層を生み出すことを意図する改革を導入した。
 この政策手段は、社会主義者たち、とくにレーニン主義の信条をもつ者たちの警戒心を呼び覚ました。彼らは、かりに農業問題が資本主義によって改革の方法で解決されれば、土地に飢える民衆がもつ革命的な潜在力は取り返しがつかないほどに失われるだろうと気づいていた。
 1908年4月29日の『踏みならされた道を!』と題する論考で(全集15巻p.40以下〔=日本語版全集15巻24頁以下。〕)、レーニンは、ストリュイピンの改革は成功して、農業に関して資本主義発展の『プロイセンの途』を確立するするかもしれないと認めた。
 かりに成功してしまえば、『誠実なマルクス主義者は、率直にかつ公然と、全ての「農業問題」を屑鉄の上にすっかり放り投げるだろう。そして、大衆に向かって言うだろう。「労働者はロシアにユンカー(Junker)ではなくアメリカ資本主義を与えるべく、できる全てのことをした。労働者は、今やプロレタリアートの社会革命に参加するよう呼びかける。ストリュイピン方式での農業問題の解決の後では、農民大衆の生活の経済条件に大きな変化をもたらすことのできる、もう一つの革命はあり得ないのだから。」』//
 ストリュイピンの政策は長くは続かず、期待された結果をもたらさなかった。その政策が実現していれば、のちの事態の推移は完全に変わっているかもしれなかった。
 レーニンは1917年の後に、ボルシェヴィキが土地を没収して農民に分配するというエスエルの綱領を奪い取っていなかったら、革命は成功できなかっただろう、と書いた。
 1911年にストリュイピンの暗殺があったにもかかわらず、ロシアは数年間は、明らかに立憲君主制の基礎原理をもつブルジョア国家の方向へと動いていた。
 この発展は、社会民主主義者の間に新しい分裂を生じさせた。
 レーニンは、この時期に、『otzovists』、すなわち非合法の革命行動を完全に信じているボルシェヴィキ党員たちに加えて、『清算人(liquidators、解党者)』、多少ともメンシェヴィキと同義の言葉だが、を絶え間なく、批判し続けた。
 彼はマルトフ(Martov)、ポトレソフ(Potresov)、ダン(Dan)、そしてたいていのメンシェヴィキ指導者たちに対して、非合法の党組織を精算し、現存秩序の範囲内での『改良主義』闘争へと舵を切って労働者の『形態なき』合法的集団に置き換えようと望んでいると非難した。 
 メンシェヴィキは、実際に、党が非合法活動まですることを望んでおらず、平和的手段により多くの重要な意味を与えて、専政体制が打倒されたときに社会民主主義者が西欧の仲間たちと同様の位置にいることを期待した。
 そうしている間、党内部の古い対立は存在しつづけた。
 メンシェヴィキは、民族問題についてオーストリアの処理法を容認した(『領域を超えた自治』)。一方で、ボルシェヴィキは、継承権を含む自己決定を主張した。
 メンシェヴィキはブント(Bund)やポーランドの社会主義者との連携を主張したが、レーニンはこれらはブルジョア・ナショナリズムの組織だと見なした。
 しかしながら、プレハノフは、ほとんどのメンシェヴィキ指導者とは違って『清算人』政策に反対した。そのことで、レーニンはプレハノフに対する悪罵と論駁の運動をやめて、ロシア社会主義のこの老練者との間の一種の不安定な同盟へと戻った。//
 様々の意見の相違により、党の新しいかつ最終的な分裂が生じた。
 1912年1月、プラハでのボルシェヴィキ大会は党全体の大会だと宣言して自分たちの中央委員会を選出し、メンシェヴィキと決裂した。
 レーニン、ジノヴィエフおよびカーメネフ以外に、この中央委員会の中には、オフラーナ〔帝国政治警察〕工作員のロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)もいた。
 レーニンはマリノフスキーについて、何度もメンシェヴィキから警告を受けていた。
 レーニンはその警告を、『「黒の百」の新聞のごみ屑の山から集めることのできた最も汚い中傷』だと称した。
 (『解党派とマリノフスキーの経歴』、1914年5月。全集20巻p.204〔=日本語版全集20巻319頁以下。〕)  
 マリノフスキーは、実際、レーニンの命令の忠実な執行者だった。オフラーナが、そうするように命じていたので。そして彼には、自分のイデオロギー上のまたは政治的な野望がなかった。
 スターリンは、プラハ大会のすぐ後で、レーニンの側近機関である中央委員会へと推挙された。かくて彼は、ロシアの社会民主主義政治の舞台にデビューした。//
 レーニンは、戦争が勃発する前の最後の二年間、クラカウ(Cracow)およびその近くの保養地のポロニンで過ごした。後者からロシアの組織との接触を維持するのは、より容易だった。
 ボルシェヴィキは、合法的な活動の機会を逃さなかった。
 1912年からサンクト・ペテルブルクで、<プラウダ>を発行した。この新聞は二月革命の後で再刊され、それ以来に党の日刊紙になった。
 ドゥーマ〔帝国議会下院〕には数人のボルシェヴィキ党員がいて、レーニンによって禁じられるまでは、メンシェヴィキと協同して活動した。//
 戦争が勃発したとき、レーニンはポロニンにいた。
 オーストリア警察に逮捕されたが、ポーランド社会党とウィーン(Vienna)の社会民主党が介入したことによって、数日後に釈放された。
 スイスに戻って、1917年4月まで滞在し、インターナショナル〔社会主義インター〕を挫折させた『日和見主義的裏切り者』を非難したり、新しい状勢のもとでの革命的社会民主主義者のための指令文書を作成したりしていた。
 レーニンは、革命的敗北主義を宣言した、ヨーロッパの最初かつ唯一の社会民主主義の指導者だった。
 各国のプロレタリアートは、帝国主義戦争を内乱に転化すべく、自分たち政府の軍事的敗北を生じさせるよう努めるべきだ。
 ほとんどの指導者が帝国主義の奉仕者へと移行してしまったインターナショナルの廃墟から、プロレタリアートの革命的な闘争を指揮する共産主義インターナショナルが、創立されなければならない。//
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 ②へとつづく。 

1615/二党派と1905年革命①-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 この書物には、邦訳がない。三巻合冊で、計1200頁以上。
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。三巻合冊本(New York, Norton)の、p.687~p.729。
 試訳をつづける。訳には、第2巻の単行本、1978年英訳本(London, Oxford)の1988年印刷版を用いる。原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には、//を付す。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争①。
 第二回党大会の効果は、ロシアでの社会民主主義運動の生命が続いたことだと誰にも感じられた。
 レーニンが大会の後半で党への支配力を勝ち取った僅少差の多数派を、彼が望んでいたようには行使できないことが、大会の後ですぐに明らかになった。
 これは、主としてプレハノフ(Plekhanov)の『裏切り』によった。
 大会は、党機関誌のための編集部を任命した。この機関は、そのときは実際には中央委員会から独立していて実際上はしばしばもっと重要だったが、プレハノフ、レーニンおよびマルトフ(Martov)で構成された。一方で、『少数派』の残り-アクセルロート(Akselrod)、ヴェラ(Vella)およびポトレソフ(Potresov)-は、レーニンの動議にもとづいて排除された。
 しかしながら、マルトフはこうして構成された編集部で働くのを断わり、一方で、プレハノフは、数週間のちにボルシェヴィキと離れ、彼の権威の重みでもって4人の全メンシェヴィキの者と編集部を再構成するのに成功した。 
 このことで、レーニンは代わって辞任した。そのときから<イスクラ>はメンシェヴィキの機関になり、ボルシェヴィキが自分たちのそれを創設するまで一年かかった。//
 大会は、論文、小冊子、書籍およびビラが集まってくる機会で、新しく生まれた分派はそれらの中で、背信、策略、党財産の横領等々だという嘲弄と非難を投げかけ合った。
 レーニンの書物、<一歩前進二歩後退>は、この宣伝運動での大砲が炸裂した最も力強い破片だった。
 これは大会での全ての重要な表決を分析し、党の中央集権的考えを擁護し、メンシェヴィキに対して日和見主義だと烙印を捺した。
 一方で<イスクラ>では、プレハノフ、アクセルロートおよびマルトフの論考がボルシェヴィキは官僚制的中央集中主義、偏狭、ボナパルト主義だと、そして純粋な労働者階級の利益を知識階層から成る職業的革命家の利益に置き換えることを謀っていると、非難した。
 それぞれの側は、別派の政策はプロレタリアートの利益の真の表現ではないという同じ非難を、お互いに投げつけ合った。その非難は、だが、『プロレタリアート』という言葉が異なるものを意味しているという点を見逃していた。
 メンシェヴィキは、その勝利へと助けるのが党の役割である、現実の労働者による現実の運動を想定した。
 レーニンにとっては、現実の自然発生的な労働者運動は定義上ブルジョア的な現象で、本当のプロレタリア運動は、正確にはレーニン主義の解釈におけるマルクス主義である、プロレタリア・イデオロギーの至高性によって明確にされる。//
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、理論上は、一つの政党の一部であり続けた。
 両派の不和は不可避的にロシアの党に影響を与えた。しかし、多くの指導者が<移民者>争論をほとんど意味がないと見なしたように、その不和はさほど明白ではなかった。
 労働者階級の社会民主党員は、それぞれの派からほとんど聞くことがなかった。
 両党派は、地下組織への影響力を持とうと争い、それぞれの側に委員会を形成した。
 一方で、レーニンとその支持者たちは、党活動を弱めている分裂を治癒するために、可能なかぎり早く新しい大会を開くように圧力をかけた。
 そうしている間に、レーニンは、ボグダノフ(Bogdanov)、ルナチャルスキ(Lunacharski)、ボンチ・ブリュェヴィチ(Bonch-Bruyevich)、ヴォロフスキー(Vorovsky)その他のような新しい指導者や理論家の助けをうけて、ボルシェヴィキ党派の組織的かつイデオロギー的基盤を創設した。//
 1905年革命は両派には突然にやって来て、いずれも最初の自然発生的勃発には関係がなかった。
 ロシアに戻ってきた<亡命者>のうち、どちらの派にも属していないトロツキーが、最も重要な役割を果たした。
 トロツキーはただちにセント・ペテルブルクに来たが、レーニンとマルトフは、1905年11月に恩赦の布告が出るまで帰らなかった。
 革命の最初の段階は、レーニンが労働者階級自身に任せれば何が起こるかを警告したのを確認するがごとく、実際には警察によって組織された労働組合をペテルブルクの労働者が作ったこととつながっていた。
 しかしながら、オフラーナ〔帝制政治警察〕のモスクワの長であるズバトフ(Zubatov)が後援していた諸組合は、組織者の観点から離れていた。
 労働者階級の指導者としての役割を真剣に考えた父ガポン(Father Gapon)は、『血の日曜日』(1905年1月9日)の結果として革命家になった。そのとき、冬宮での平和的な示威活動をしていた群衆に対して、警察が発砲していた。
 この事件は、日本との戦争の敗北、ポーランドでのストライキおよび農民反乱によってすでに頂点に達していた危機を誘発した。//
 1905年4月、レーニンは、ボルシェヴィキの大会をロンドンに召集した。この大会は党全体の大会だと宣言し、しばらくの間は分裂に蓋をし、反メンシェヴィキの諸決議を採択し、ただのボルシェヴィキの中央委員会を選出した。
 しかしながら、革命が進展するにつれて、ロシアの両派の党員たちは相互に協力し、これが和解の方向に向かうのを助けた。
 自然発生的な労働者運動は、労働者の評議会(ソヴェト)という形での新しい機関を生んだ。
 ロシア内部のボルシェヴィキは最初は、これを真の革命的意識を持たない非党機関だとして信用しなかった。
 しかしながら、レーニンは、将来の労働者の力の中核になるとすみやかに気づいて、政治的にそれら〔ソヴェト〕を支配すべく全力をつくせと支持者たちに命じた。//
 1905年10月、ツァーリは、憲法、公民的自由、言論集会の自由および選挙される議会の設置を約束する宣言を発した。
 全ての社会民主主義集団とエスエルはこの約束を欺瞞だと非難し、選挙をボイコットした。
 1905年の最後の二ヶ月に革命は頂点に達し、モスクワの労働者の反乱は12月に鎮圧された。
 血の弾圧がロシア、ポーランド、ラトヴィアの全ての革命的な中心地区で続き、一方で革命的な群団は、テロルやポグロム(pogroms、集団殺害)へと民衆を煽った。
 大規模の反乱が鎮圧された後のしばらくの間、地方での暴発や暴力活動が発生し、政府機関によって排除された。
 革命的形勢のこのような退潮にもかかわらず、レーニンは、闘争の早い段階での刷新を最初は望んだ。
 しかし、レーニンは、最後には反動的制度の範囲内で活動する必要性を受容し、1907年半ばからの第三ドゥーマ選挙に社会民主党が参加することに賛成した。
 この場合には(後述参照)、彼は自分の集団の多数派から反対され、メンシェヴィキには支持された。//
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 ②へとつづく。

1596/党と運動⑤-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性⑤。
 党員条項をめぐる論争は、実際に、党組織に関する二つの対立する考え方(ideas)を反映していた。これについてレーニンは、大会およびのちの諸論考で多くのことを語った。
 彼の見解では、マルトフ、アクセルロート(Akselrod)およびアキモフ(Akimov)が提案した『緩い』条項は、党を助ける教授にも中学生にも、あるいはストライキから出てきた労働者にも、全てに党員だと自称することを認めることになる。
 これが意味するのは、党が結合力と紀律および自分の党員たちへの統制を失う、ということだ。党は、上からではなく下から建設された大衆組織に、中央集中的な行動には適さない、自律的な単位の集合体に、なってしまうだろう。
 レーニンの考えは、正反対のものだった。すなわち、党員資格の厳しく定義された条件、厳格な紀律、その諸組織に対する党機関の絶対的な統制、党と労働者階級の間の明確な区別。
 メンシェヴィキはレーニンを、党生活への官僚主義的な態度を採用する、労働者階級を侮蔑する、独裁する野望をもつ、そして党全体を一握りの指導者に従属させる望みをもつ、と批判した。
 レーニンの側では、彼は大会のあとで書いた(<一歩前進二歩後退>、1904年。全集7巻p.405の注.〔=日本語版全集7巻435頁注(1)〕)。
 『マルトフ同志の基本的な考え-党への自主登録-は、まさしく偽りの「民主主義」で、下から上へと党を建設するという考えだ。
 一方、私の考えは、党は上から下へと、党大会から個々の党組織へと建設されるべきだという意味で、「官僚主義的」だ。』(+)//
 レーニンは、この論争の基本的な重要性を、最初から適切に感知していた。のちにはいくつかの場合に、この論争をジャコバン派とジロンド派の争論になぞらえた。
 これは、ベルンシュタインの支持者とドイツ正統派の間の論争よりは、適切な比較だった。というのは、メンシェヴィキの位置はドイツ社会民主党の中央にほとんど近かったからだ。
 メンシェヴィキは、より中央集中的でない、より『軍事的』でない組織を支持し、党は名前やイデオロギーについてのみならず、可能なかぎり多くの労働者を包含し、たんなる職業的革命家の一団ではないことによってこそ労働者階級の党だ、と考えた。
 彼らは、党は個々の諸組織に相当程度の自律を認めるべきで、もっぱら指令の方法によって諸組織との関係をもつべきではない、と考えた。
 彼らはレーニンを、外部から注入されるべき意識という教理を受容はするけれども、労働者階級を信頼していないと批判した。
 メンシェヴィキが他の問題についても異なる解決方法を採用する傾向にあることは、すみやかに明白になった。規約のただ一つの条項に関する論争が、党を実際に、戦略上および戦術上の諸問題にいわば本能的に異なって反応する二つの陣営へと分裂させた。
 メンシェヴィキはあらゆる事案について、リベラル派との同盟の方向へと引き寄せられた。
 一方でレーニンは、農民の革命と農民との革命的な同盟を強く主張した。
 メンシェヴィキは、合法的な行動形態や、可能になるならば、議会制度上の方法によって闘うことに重きを置いた。
 レーニンは長い間、ドゥーマ〔帝国議会下院〕に社会民主党が参加するという考えに反対し、その後もそれをたんなる情報宣伝の場所だと見なして、ドゥーマが定めるいかなる改革をも信頼しなかった。
 メンシェヴィキは、労働組合の活動を強く主張し、法令制定またはストライキ行動によって労働者階級が確保しうる全ての改良がもつ、固有の価値を強調した。
 レーニンにとっては、全てのそのような活動は、最終的な闘いを準備するのを助けるかぎりでのみ有意味だった。
 メンシェヴィキは、民主主義的自由をそれ自体で価値があるものと見なしたが、一方でレーニンにとってそれは、特殊な事情で党のために役立ちうる武器にすぎなかった。
 この最後の点で、レーニンは、ポサドフスキー(Posadovskii)が大会で行った特徴的な言明に賛成して、引用する。
 『我々は将来の政策を一定の基本的な民主主義原理(principles)に従属させて、それに絶対的な価値があると見なすべきか?
 それとも、全ての民主主義原理はもっぱら我々の党の利益に従属しているものであるべきか?
 私は断固として、後者の立場に賛同する。』
 (全集7巻p.227.)(++)
 プレハノフも、この見地を支持した。このことは、党が代表すると想定される階級の直接的利益を含めて種々の考察をする中で、『党の利益』をまさに最初から、いかに最も貴重なものとしているかを例証するものだ。
 レーニンの他の著作も、彼が『自由(freedom)』それ自体にはいかなる価値も与えていないことについて、疑問とする余地を残していない。演説や小冊子は、『自由への闘い』への言及で充ち溢れているているけれども。
 『この自由をプロレタリアが利用するという独自の運動(cause)に役立つことのない、この自由を社会主義へのプロレタリアの闘争のために使う運動に役立つことのない、一般論としての自由の運動のために役立つものは、分析をし尽くせば、平易かつ単純に、ブルジョアジーの利益のための闘士なのだ。』(+)
 (雑誌<プロレタリア>内の論考『新しい革命的労働者同盟』、1905年6月。全集8巻p.502.〔=日本語版全集8巻507頁〕)//
 このようにして、レーニンは、のちに共産党となるものの基礎を築いた。-すなわち、こう特徴づけられる党。観念大系の一体性、有能性、階層的かつ中央集中的構造、そして、プロレタリアート自身は何を考えていようとその利益を代表するという確信。
 戦術上の目的がある場合は別として、それが代表すると自認する人民の実際の欲求や熱望を無視することのできる、そういう『科学的知見』を持つがゆえに、その利益が自動的に労働者階級の利益、および普遍的な進歩の利益となることを宿命づけられている党。//
 (+秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
 (++) 日本語版全集7巻で、この文章は確認できなかった(2017.06.21)。
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 ⑥へとつづく。

1595/犯罪逃亡者レーニン②-R・パイプス著10章12節。

 前回のつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁②。
 兵士たちは、7月6日から7日の夜の間に、ステクロフの住居にやって来た。彼らがステクロフの居室を壊して彼を打ちのめそうと脅かしたとき、彼は電話して救いを求めた。
 イスパルコムは、二台の装甲車で駆けつけて、彼を守った。ケレンスキーも、ステクロフの側に立って仲裁した。
 同じ夜に、兵士たちは、レーニンの妹のアンナ・エリザロワ(Anna Elizarova)のアパートに現われた。
 部屋を捜し回ったとき、クルプスカヤは彼らに向かって叫んだ。『憲兵たち! 旧体制のときとそっくりだ!』
 ボルシェヴィキ指導者たちの探索は、数日の間つづいた。
 7月9日、私有の自動車を調べていた兵団がカーメネフを逮捕した。この際には、ペテログラード軍事地区司令官のポロヴツェフの力でリンチ行為は阻止され、ポロヴツェフはカーメネフを自由にしたばかりではなく、彼を自宅に送り届ける車を用意した。
 結局は、暴乱に参加したおよそ800人が収監された。(*)
 確定的に言えるかぎりで、ボルシェヴィキは一人も、身体的には傷つけられなかった。
 しかしながら、ボルシェヴィキの所有物に対しては、相当の損傷が加えられた。
 <プラウダ>の編集部と印刷所は、7月5日に破壊された。
 クシェシンスキー邸を護衛していた海兵たちが無抵抗で武装解除されたあと、ボルシェヴィキ司令部〔クシェシンスキー邸〕もまた、占拠された。
 ペトロ・パヴロ要塞は、降伏した。//
 7月6日、ペテログラードは、前線から新たに到着した守備軍団によって取り戻された。//
 ボルシェヴィキ中央委員会は7月6に、レーニンのレベルでの叛逆嫌疑の訴追を単調に否定し、詳細な調査を要求した。
 イスパルコムは、強いられて、5人で成る陪審員団を任命した。
 偶然に、5人全員がユダヤ人だった。このことはその委員会について、レーニンに有利だという疑いを、『反革命主義者』に生じさせたかもしれない。そこで、委員会は解散され、新しくは誰も任命されなかった。//
 ソヴェトは実際、レーニンに対する訴追原因について調査しなかったが、被疑者の有利になるように断固として決定することもしなかった。
 レーニンの蜂起は、5月以来のそれと緊密に連関して、政府に対してと同程度にソヴェトに対して向けられていた。それにもかかわらず、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕は、現実と向き合うことをしようとしなかった。
 カデット〔立憲民主党〕の新聞の表現によると、社会主義知識人たちはボルシェヴィキを『叛逆者』と呼んだが、『同時に、何も起こらなかったかのごとく、ボルシェヴィキの同志たちのままでいた。社会主義知識人たちは、ボルシェヴィキとともに活動し続けた。彼らは、ボルシェヴィキとともに喜んだり考えたりした。』(186)
 メンシェヴィキとエスエルは今、以前と今後もそうであるように、ボルシェヴィキをはぐれた友人のごとく見なし、彼らの敵は反革命主義者だと考えた。
 彼らは、ボルシェヴィキに向けられた追及がソヴェトや社会主義運動全体に対する攻撃をたんに偽ったものなのではないかと、怖れた。
 メンシェヴィキの< Novaia zhizn >は、つぎのように、Den' 〔新聞 ND = Novyi den' 〕から引用する。//
 『今日では、有罪だとされているのはボルシェヴィキだ。明日は、労働者代表ソヴェトに嫌疑がかかるだろう、そして、革命に対する聖なる戦争が布告されるだろう。』//
 この新聞はレーニンに対する政府の追及を冷たくあしらい、『ブルジョア新聞』は『嘆かわしい中傷』や『粗雑なわめき声』だとして非難した。
 これは、『意識的に労働者階級の重要な指導者の名誉をひどく毀損』している者たち-おそらくは臨時政府-を強く非難しようとしていた。
 レーニンに対する追及は『誹謗中傷』だとしてレーニンの弁護に飛びついた社会主義者の中には、マルトフ(Martov)がいた。(**)
 こうした主張は、事案の事実とは何も関係がなかった。イスパルコムは政府に証拠の開示を求めなかったし、自分たち自身で詳しい調査をしようともしなかった。//
 そうであっても、ボルシェヴィキを政府による制裁から守るのは多大な痛みにはなった。
 7月5日の早くに、イスパルコムの代表団がクシェシンスカヤ邸へ行き、この事件の平和的な解決に関するボルシェヴィキ側の条件を議論した。
 彼らは全員が、党に対する抑圧はもうないだろう、事件に関係して逮捕されている者はみな解放されるだろう、ということで合意した。
 イスパルコムはそして、ポロヴツェフに対して、いつ何時でもしそうに思えたので、ボルシェヴィキ司令部を攻撃しないように求めた。
 レーニンに関係がある政府文書の公表を禁止する決定も、裁可した。//
 レーニンは自分でいくつかの論考を書いて、自己弁護した。
 < Novaia zhizn >に寄せたジノヴィエフとカーメネフとの共同論文では、レーニンは、自分のためにでも党のためにでも、ガネツキーやコズロフスキーから『一コペック〔硬貨の単位〕』たりとも決して受け取っていない、と主張した。
 事態の全体は新しいドレフュス(Dreyfus)事件または新しいベイリス(Beilis)事件で、反革命の指揮をしているアレクジンスキー(Aleksinsky)によって組み立てられたものだ。
 7月7日、レーニンは、この状況では審判に出席しない、彼もジノヴィエフも、正義が行われると期待することができない、と宣言した。//
 レーニンはつねに、その対抗者の決意を大きく評価しすぎるきらいがあった。
 彼は、彼とその党は終わった、パリ・コミューンのように、たんに将来の世代を刺激するのに役立つだけの運命だ、と確信していた。
 レーニンは、党中央をもう一度外国へ、フィンランドかスウェーデンに移すことを考えた。
 彼は、その理論上の最後の意思、遺言書、『国家に関するマルクス主義』の原稿(のちに<国家と革命>の基礎として使われた)を、最後のものには殺される事態が生じれば公刊してほしいという指示をつけて、カーメネフに託した。
 カーメネフが逮捕されてほとんどリンチされかけたあとで、レーニンはもはや成算はないと決めた。
 7月9日から10日にかけての夜、レーニンは、ジノヴィエフとともに、小さな郊外鉄道駅で列車に乗り込み、田園地方へと逃れて、隠れた。//
 党が破壊される見通しに直面していた際のレーニンの逃亡は、ほとんどの社会主義者には責任放棄に見えた。
 スハノフの言葉によると、つぎのとおりだ。//
 『逮捕と審問に脅かされてレーニンが姿を消したことは、それ自体、記録しておく価値のあることだ。
 イスパルコムでは誰も、レーニンがこのようにして『状況から逃げ出す』とは想定していなかった。
 彼の逃亡は我々仲間にな巨大な衝撃を生み、あらゆる考えられる方法での熱心な議論を生じさせた。
  ボルシェヴィキの間では、ある程度はレーニンの行動を是認した。
 しかし、ソヴェトの構成員のうちの多数派の反応は、鋭い非難だった。
 軍やソヴェトの指導者たちは、正当な怒りの声を発した。
 反対派は、その意見を明らかにしないままでいた。しかし、その見解は、政治的および道徳的観点からレーニンを無条件に非難する、というものだった。<中略>
 羊飼いが逃げれば、羊たちに大きな一撃を与えざるをえないだろう。
 結局、レーニンに動員された大衆が、七月の日々に対する責任の重みの全体を負った。<中略>
 「本当の被告人(culprit)」が、軍、同志たちを捨てて、個人的な安全を求めて逃げた!』//
 スハノフは、レーニンの逃亡は、彼の人生でも個人的な自由行動でもあえて危険を冒さなかったほどの、最も非難されてしかるべきことだと見られた、と付け加える。//
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  (*) Zarudnyi, in : NZh, No. 101 (1917年8月15日), p.2。Nikitin, Rokovye gody, p.158 は、2000人以上だった、とする。
  (186) NV = Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) 8月4日に、ツェレテリが提案して、イスパルコムは、7月事件に関与した者を迫害から守るという動議を、このような迫害は『反革命』の始まりを画するという理由で、採択した。
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 ③へとつづく。

1592/党と運動④-L・コワコフスキ著16章2節。

 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性④。
 党に関するレーニンの教理が『エリート主義』ではないということが分かるだろう。
 あるいは、社会主義の意識は外部から自然発生的な労働者運動に導入されるという理論は、レーニンの党を中央集中的で教条的で頭を使っていないがきわめて効率的な機械にするようになり、とくに革命後にそうなった。
 この機械の理論上の淵源は、というよりもそれを正当化するものは、党は社会に関する科学的な知識をもつために政治的主導性の唯一の正統な淵源だ、とするレーニンの確信だった。
 これはのちに、ソヴィエト国家の原理(principle)になった。そこでは、同じイデオロギーが、社会生活の全ての分野での主導性を党が独占することを、そして党の位置を社会に関する知識の唯一の源泉だと見なし、したがって社会の唯一の所有者だと見なすことを、正当化するのに役立つ。
 全体主義的(totalitarian)国家の全体系が、意識的に目論まれて、1902年に表明されたレーニンの教理の中で述べられていた、と主張するのは、むろん困難だろう。
 しかし、権力奪取の前と後での彼の党の進化は、ある程度は、マルクス主義者の、あるいはむしろヘーゲル主義者の、不完全だが歴史的秩序に具現化される『物事の論理的整序』という信念を確証するものだ。
 レーニンの諸命題は、社会的階級、つまりプロレタリアートの利益と目標は、その問題についてその階級は一言も発することなくして決定されることができるし、またそうされなければならない、と信じることを、我々に要求する。
 同じことは、そのうえさらに、いったんその階級に支配され、そのゆえにおそらくその階級の目標を共有した社会全体について、また全体の任務、目的およびイデオロギーがいったん党の主導性によって支配されてその統制のもとに置かれた社会全体について、当てはまる。
 党の主導権に関するレーニンの考え(idea)は、自然に、社会主義社会における党の『指導的役割』という考えへと発展した。--すなわち、党はつねに社会それ自体よりも社会の利益、必要、そして欲求すらをよく知っている、民衆自身は遅れていてこれらを理解できず、党だけがその科学的知識を使ってこれらを見抜くことができる、という教理にもとづく専政体制(独裁, despotism)へと。
 このようにして、一方では夢想主義(utopianism)に対抗し、他方では自然発生的な労働者運動に対抗する、『科学的社会主義』という想念(notion)が、労働者階級と社会全体を支配する一党独裁のイデオロギー上の基盤になった。//
 レーニンは、党に関するその理論を決して放棄しなかった。
 彼は、第二回党大会のとき、<何をなすべきか>で僅かばかり誇張した、と認めた。しかし、どの点に関してであるのかを語らなかった。
 『我々は今ではみな、「経済主義者」が棒を一方に曲げたことを知っている。
 物事をまっすぐに伸ばすためには、誰かが棒を他の側に曲げ返さなければならなかった。それが私のしたことだ。
 私は、いかなる種類の日和見主義であってもそれによって捻られたものを何でも、ロシア社会民主党がつねに力強くまっすぐに伸ばすだろうと、そしてそのゆえに、我々の棒はつねに最もまっすぐであり、最も適任だろうと、確信している。』(+)
 (党綱領に関する演説、1902年8月4日。全集6巻p.491〔=日本語版全集6巻506頁〕.)//
 <何をなすべきか>はどの程度において単一性的な党の理論を具体化したものかを考察して、さらなる明確化がなされなければならない。
 このときそしてのちにも、レーニンは、党の内部で異なる見解が表明されることを、そして特殊な集団が形成されることを、当然のことだと考えていた。
 彼は、これは自然だが不健全だと考えた。原理的には(in principle)、唯一つの集団だけが、所与の時点での真実を把握できるはずだからだ。
 『科学を前進させたと本当に確信している者は、古い見解のそばに並んで新しい見解を主張し続ける自由をではなく、古い見解を新しい見解で置き換えることを、要求するだろう。』(+)(全集5巻p.355〔=日本語版全集5巻371頁〕.)
 『悪名の高い批判の自由なるものは、あるものを別のものに置き換えることを意味しておらず、全ての統括的で熟考された理論からの自由を意味している。
 それは、折衷主義および教理の欠如を意味する。』(+)(同上, p.369〔=日本語版全集5巻388頁〕.)
 レーニンが、重要な問題についての分派(fractionalism)や意見の差違は党の病気または弱さだとつねに見なしていた、ということに疑いはあり得ない。
 全ての異見表明は過激な手段によって、直接の分裂によってか党からの除名によって、治癒されるべきだとレーニンが述べるかなり前のことではあったが。
 正式に分派が禁止されたのは、ようやく革命後にだった。
 しかしながら、レーニンは、重要な問題をめぐって同僚たちと喧嘩別れすることをためらわなかった。
 大きな教理上のおよび戦略上の問題のみならず組織の問題についても、全ての見解の相違は結局のところは階級対立を『反映』しているとレーニンは考えて、彼は自然に、党内での彼への反抗者たちを、何らかの種類のブルジョア的逸脱の『媒介者』だと、またはプロレタリアートに対するブルジョアの圧力の予兆だと、見なした。
 彼自身がいつでもプロレタリアートの真のそして最もよく理解された利益を代表しているということに関しては、レーニンは、微少なりとも疑いを抱かなかった。//
 <何をなすべきか>で説かれた党に関する理論は、第二回党大会でのレーニンの組織に関する提案で補完された。
 第二回党大会は長い準備ののちにブルッセルで1903年7月30日に開かれ、のちにロンドンへと移されて8月23日まで続いた。
 レーニンは、春から住んでいたジュネーヴから出席した。
 最初のかつ先鋭的な意見の相違点は、党規約の有名な第1条に関するものだった。
 レーニンは、一つまたは別の党組織で積極的に活動する者に党員資格を限定することを望んだ。
 マルトフ(Martov)は、一方で、党組織の『指導と指揮のもとで活動する』者の全てを受け入れるより緩やかな条項を提案した。
 この一見すれば些細な論争は、分裂に似たもの、二つの集団の形成につながった。この二つは、すぐに明確になったが、組織上の問題のみならず他の多くの問題について、分かれた。
 レーニンの定式は、プレハノフ(Plekhanov)に支持されたが、少しの多数でもって却下された。
 しかし、大会の残り期間の間に、二つの集団、すなわちブント(the Bund、ユダヤ人労働者総同盟)と定期刊行物の < Rabocheye Delo >を代表する『経済主義者』が退席したおかげで、レーニンの支持者たちは、僅かな優勢を獲得した。
 こうして、レーニンの集団が中央委員会や党会議の選挙で達成した少しばかりの多数派は、有名な『ボルシェヴィキ』と『メンシェヴィキ』、ロシア語では『多数派』と『少数派』、という言葉を生み出した。
 この二つはこのように、もともとは偶然のものだった。しかし、レーニンとその支持者たちは、『ボルシェヴィキ(多数派)』という名称を掴み取り、数十年の間それに執着した。その後の党の推移全般にわたって、ボルシェヴィキが多数派集団だと示唆し続けた。
 他方で、大会の歴史を知らない多くの人々は、この言葉を『最大限綱領主義者(Maximalist)』の意味で理解した。
 ボルシェヴィキたち自身は、このような解釈を示唆することは決してなかった。//
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 (+秋月注記) 日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
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 ⑤へとつづく。

1590/七月三日-五日の事件②-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事②。
 他の工場や軍事分団から集まって群衆は膨れ上がり、その数は数万人になった。(+)
 ミリュコフ(Miliukov)は、タウリダ宮の正面で繰り広げられた情景を-自然発生的だという見かけにもかかわらず、群衆の中に分散していたボルシェヴィキ党員によって緊密に指揮されていた情景を-、つぎのように叙述する。//
 『タウリダ宮は、言葉の完全な意味での、闘争の焦点(the focus)になった。
 全日にわたって、武装した軍団がその周辺に集まり、ソヴェトが最後には権力を奪えと主張した。<中略>
 (午後4時頃、)クロンシュタットの海兵たちが到着し、建物の中に入ろうとした。
 彼らは司法大臣のペレヴェルツェフ(Pereverzev)に対して、ジェレツニャコフ(Zhelezniakov)の海兵やアナキストがドゥルノヴォ(Durnovo)邸に拘禁されている理由を説明せよと要求した。
 ツェレテリが出てきて、反抗的な群衆に、ペレヴェルツェフは建物内にいない、すでに辞任してもはや大臣ではない、と告げた。
 前者は本当だったが、後者はそうでなかった。
 直接に釈明されることがなかったので、群衆たちはしばらくは、どうすればよいか分からなかった。
 しかし、ついで、大臣たちはお互いに連帯して責任を負っている、との叫び声が鳴り響いた。
 ツェレテリを拘束しようとする企てがなされたが、彼は宮の中へと何とか逃れた。
 チェルノフ(Chernov)が宮から姿を現わして、群衆を静かにさせた。
 群衆はすぐに彼に突進し、武器を持っていないかと探した。
 チェルノフは、こんな状態では話せない、と宣告した。
 群衆は、沈黙した。
 チェルノフは、社会主義者大臣たちの仕事ぶりについて、一般的にかつ、とくに農務大臣である彼自身について、長い演説を始めた。
 カデット〔立憲民主党〕の大臣に比べれば、まだ安全なこと(bon voyage)だった。
 群衆たちは反応して叫んだ。
 「なぜ以前に、そう言わなかったのか?
 土地は労働者に、権力はソヴェトに移されていると、すぐに宣言せよ!」
 一人の背の高い労働者が拳を大臣の面前につき突けて、怒って叫んだ。
 「おい、おまえたちにくれたら、権力を奪え!」
 群衆の中の数人がチェルノフを捕まえて、車の方向に引き摺った。他の者たちは一方で、彼を宮の方に引っ張った。
 大臣のコートは引き千切られ、クロンシュタットの海兵たちはその身体を車の中に押し込んで、ソヴェトが権力を奪うまでは解放しないと宣言した。
 何人かの労働者たちがソヴェトが会議をしている部屋に突入して、叫んだ。
 「同志たちよ、チェルノフをやっつけているぞ!」
 混乱の真っ只中で、チハイゼはチェルノフを自由にさせるべく、カーメネフ、ステクロフ(Steklov)およびマルトフを指名した。
 しかし、チェルノフはトロツキーによって解放された。トロツキーは、その場に着いたばかりだった。
 クロンシュタットの海兵たちはトロツキーに従い、彼はチェルノフを連れて会議室に戻った。』(*) //
 そうした間に、レーニンは、目立つことなくタウリダに向かっていた。そこで、現場の事態に関与することなく、事態の展開に依拠しながら、権力を握り取るか、それとも示威活動は民衆の怒りが自然発生的に暴発したものだと宣告するか、を考えた。そして、その情景から姿を消した。
 ラスコルニコフは、レーニンは満足しているようだと思った。(165) //
 全ての行動がタウリダ宮で起こったわけではなかった。
 群衆がソヴェト所在地に集まっている間に、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構が指令した武装分遣隊員が、戦略的な諸地点を占拠した。
 ボルシェヴィキが勝利する見込みは、ペトロ・パヴロ要塞の守備軍団、8000人余りがボルシェヴィキの側へと動いたことで、かなり良くなった。
 武装車のボルシェヴィキ分団は、いくつかの反ボルシェヴィキ新聞社から機械装備を取り上げた。
 アナキストたちは、新聞社の中で最も自由な< Novoe vremia〔新時代〕>を掌握した。
 他の分遣隊は、フィンランド駅とニコライ駅で警護任務を剥奪し、ネフスキー通りとその両側の通りに機関銃の砲台を設置した。この後者は、ペテログラード軍事地区の参謀がタウリダ宮から出てくるのを阻止する効果をもった。
 ある武装分団は、レーニンのドイツとの取引に関する資料が保存されている防諜機関の建物を攻撃した。
 抵抗には遭わなかった。
 リベラルな新聞社の判断によると、その日の推移の結果、ペテログラードはボルシェヴィキの手のうちに渡された。(167)//
 かくして段階は、正規の奪取へと設定された。すなわち、表面的にはソヴェトの名前での、現実にはボルシェヴィキのための、権力の奪取。
 この最高の事態を用意して、ボルシェヴィキは、54の工場から厳選した代表団をすでに編成していた。彼らは、ソヴェトが権力を掌握することを要求する請願書を持って、タウリダ宮で呼びかけることになっていた。
 この者たちは、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕が占有している部屋に強引に入っていった。
 そのうち数人が、話すのを許された。
 マルトフとスピリドノワ(Spiridonova)は、彼らの要求を支持した。マルトフは、これは歴史の意思だ、ときっぱりと述べた。
 この時点で、反乱者たちが身体を張って埋め尽くして、ソヴェト所在地を奪ってしまうことになるようにも思える。
 ソヴェトには、このような脅威に対する何の防御もなかった。ソヴェトを防衛しているのは、全体で6人の護衛だった。//
 だが、それでもなお、ボルシェヴィキは最後の一撃(coup de grace)を放つことに失敗した。
 これは組織が貧弱だったからか、決意のなさによるのか、あるいはこの双方のゆえか、を語るのは不可能だ。
 ニキーチン(Nikitin)は、つぎのように述べて、ボルシェヴィキによる権力奪取の失敗を、拙劣な計画によるとして非難した。//
 『蜂起は、即興的に行なわれた。敵方の全ての行動は、それらが準備されていなかったことを示した。
 連隊や大きな分団は、主要地域に入っても、自分たちの直接の使命を知っていなかった。
 彼らは、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕のバルコニーから、「タウリダ宮〔ソヴェト本部〕へ行け、権力を奪え」と告げられた。
 彼らが行ってつぎの命令を待っている間に、それぞれが混じり合ってしまった。
 対照的に、トラックや武装車に乗った10人から15人の分隊や車の小分遣隊は、完全に自由な行動をした。全市にわたって大きな顔をした。
 しかし彼らも、鉄道駅、電話局、食糧貯蔵所、兵器庫という重要拠点や広く開いている全ての入り口を奪い取れという具体的な命令を受け取らなかった。
 街路は血で染まった、しかし指導者がいなかった……。』(**)//
 しかし、最終的な分析をするならば、ボルシェヴィキの失敗は、不適切な戦力や拙劣な計画以外の要因で惹起されたと思われる。
 今日の研究者たちは、市〔ペテログラード〕は、求めているボルシェヴィキのものだった、ということで合意している。
 上のような要因ではなくて、最高司令官の側にある、最後の瞬間の精神力(nerve)の失敗が原因だった。
 レーニンは、たんに決心できなかったのだ。
 この数日間をレーニンの側にいて過ごしたジノヴィエフによると、今は『やる(try)』ときなのか、そのときではないのか、レーニンは声を出して迷い続けていた。そして、そのときではない、と決めた。
 何らかの理由で、レーニンは、飛躍をする勇気を呼び覚ますことができなかった。
 ドイツとの取引が政府によって暴露されるということが引っ掛かっていて、その暗雲が彼を思いとどまらせた可能性がある。
 のちに二人ともに収監されていたとき、レーニンへの隠れた批判をしていたラスコルニコフに、トロツキーは言った。
 『おそらく、我々は過ちをおかした。
 我々は、権力を奪うべきだったのだ。』//
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  (+) ボルシェヴィキはその数を、50万人またはそれ以上だと推算する。V. Vladimir in : PR =Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.40。これはひどく水増しされている。示威活動に参加した群衆は、おそらくこの数の十分の一を超えなかった。参加したと知られる守備軍の一隊による分析が示しているのは、兵団のせいぜい15-20%が関与し、またはたぶんそれよりも少なそうだ、ということだ。B. I. Kochakov, in : Uchenye Zapski Leningradskovo Gosudarstvennogo Universiteta, No. 205 (1956), p.65-66、G. L. Sobolev, in : IZ, No. 88 (1971), p.77、を見よ。
 示威活動者の数をきわめて誇張するのは、そのときものちもボルシェヴィキの政策で、その目的は、自分たちは『大衆』を指揮しているのではなく彼らの圧力に対応しているのだ、という主張を正当化することにあった。目撃者による証拠資料である、以下を見よ。A. Sobolev, in : Rec,' No. 155-3-897 (1917年7月5日), p.1。
  (*) Miliukov, Istoriia Vtoroi Russkoi Revoliutsii, Ⅰ, Pt. 1 (ソフィア, 1921), p.243-4。チェルノフ事件に関する別の説明は、Vladimirova, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5-17 (1923), p.34-35、Raskolnikov, 同上, p.69-71 にある。
  (165) Raskolnikov, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5/17 (1923), p.71、No. 8-9/67-68 (1927), p.62。
  (167) NV= Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) Nikitin, Rokovye gody, p.148。ネヴスキーは、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は、敗北する可能性を予期して、慎重にその戦力の半分を残したままだった、と語る。Krasnoarmeets, No. 10-15 (1919.10), p.40。
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 第12節へとつづく。

1576/六月騒乱の挫折②-R・パイプス著10章7節。

 前回からのつづき。
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 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動②。
 ボルシェヴィキは、予定した日の4日前の6月6日、最高司令部の会議を開いて最後の準備をした。
 この会議の議事内容を、我々は削り取られた議事録からしか知ることができない。その議事録では、最も重要な最初の事項、レーニンの発言が粗々しく切断されている。
 蜂起するという考えは、強い抵抗に遭った。
 レーニンの『冒険主義』を4月に批判したカーメネフは、再び主導権を握った。
 カーメネフは、この作戦は確実に失敗する、と言った。ソヴェトの権力獲得に関する問題は、ソヴェト大会に委ねるのが最善だ。
 中央委員会のモスクワ支部から来たV・P・ノギン(Nogin)は、もっと率直に、つぎのように語った。
 『レーニンの提案は、革命だ。我々にそれができるのか?
 我々は国の少数派だ。二日では、攻撃を準備できるはずがない。』
 ジノヴィエフも、計画している行動は党を大きな危機に瀕せしめると述べて、反対派に加わった。
 スターリン、中央委員会書記のS・D・スタソワ(Stasova)、およびネフスキー(Nevskii)は、力強くレーニンの提案を支持した。
 レーニンの議論内容は、知られていない。しかし、ノギンの言っていることから判断して、レーニンが何を求めていたかは明瞭だ。//
 ペテログラード・ソヴェトとソヴェト大会は、示威活動を起こすことを考慮して、完全に闇の中に置かれたままだった。//
 6月9日、ボルシェヴィキの扇動者たちが兵舎や工場に現れて、兵士や労働者たちに翌日に予定された示威活動について知らせた。
 軍事機構の部署である<兵士プラウダ>は、示威行進者たちに詳しい指示を与えた。
 その新聞の論説は、つぎの言葉で結ばれていた。
 『資本主義者たちに対する戦争を勝利の結末へ!』//
 このときに開会中のソヴェト大会は、大会での弁舌に夢中になっていて、ほとんど遅すぎると言っていいほどに、ボルシェヴィキの準備について何も知りはしなかった。
 6月9日の午後になって、ボルシェヴィキのビラを見て初めて、彼らがしようとしていることを知った。
 出席していた全ての政党が-もちろんボルシェヴィキを除いて-、ただちに、示威活動の断念を命令すること、およびこの判断を労働者区画と兵舎に伝える活動家を派遣すること、を表決した。
 ボルシェヴィキは、新しい事態に対処すべく、その日遅くに会合を開いた。
 公刊された記録文書は存在していないのだが、彼らは議論の末に、ソヴェト大会の意思に屈して、示威活動を断念することを決定した。
 彼らはさらに、ソヴェトが6月18日に予定した平和的(換言すると、武装しない)示威行進に参加することに合意した。
 おそらくボルシェヴィキ最高司令部は、ソヴェト首脳部に挑戦するのはまだ時機が好くないと考えた。//
 ボルシェヴィキのクーは、回避された。しかし、ソヴェトの勝利の価値には、疑わしいところがあった。なぜなら、ソヴェトには、この事件から適切な結論を導く、道徳的勇気が欠けていたからだ。
 ボルシェヴィキを含めてソヴェトの全党派を代表するおよそ100人の社会主義知識人たちが、6月11日に、この二日間の事態について議論すべく会合を開いた。
 メンシェヴィキの代弁者であるテオドア・ダン(Theodore Dan)はボルシェヴィキを批判し、いかなる党派もソヴェトの承認なくして示威活動をするのは許されない、武装の集団はソヴェトが支援する示威活動にのみ投入される、という決議案を提案した。
 これらの規則の違反者は除名されるものとされていた。 
 レーニンは自ら選んで欠席しており、ボルシェヴィキの事案はトロツキーによって防御された。
 最近にロシアに到着したトロツキーは、まだ正式には党員ではなかったが、ボルシェヴィキ党にきわめて近い立場にいた。
 議論の途中でツェレテリは、臆病すぎるとして、ダンの提案に反対するように出席者に求めた。
 青白くなり、興奮して声を震わせて、彼は叫んだ。//
 『起きたことは、<陰謀に他ならない。
 -政府を転覆させて、ボルシェヴィキに権力を奪取させる陰謀だ>。
 彼らが他の手段では決して獲得できないと知っている権力を、だ。
 この陰謀は、我々が発見するや否や無害なものに抑えられた。
 しかし、明日にもまた発生しうる。
 反革命が頭をもたげた、と言う。
 それは違っている。
 反革命が頭をもたげたのでは、ない。頭を下げたのだ。
 反革命は、ただ一つの扉を通ってのみ貫ける。ボルシェヴィキだ。
 ボルシェヴィキが今していることは、考え方の情報宣伝ではなく、陰謀だ。
 批判を攻撃する武器は、武器を攻撃する批判によって置き換わる。
 ボルシェヴィキ諸君、許せ。だが、我々は、別の手段での闘争を選択すべきだ。
 武器をもつ価値のない革命家からは、武器を奪い取らなければならない。
 ボルシェヴィキは、武装解除されなければならない。
 彼らが今まで利用してきた異様な専門的用具を、彼らの手に残してはならない。
 機関銃や武器を、彼らに残してはならない。
 我々は、このような陰謀に寛容であってはならない。』(*)//
 ツェレテリはある程度の支持を得たが、多数は反対だった。
 ボルシェヴィキの陰謀だとする、どんな証拠があるのか?
 純粋な大衆運動を代表するボルシェヴィキを、なぜ武装解除するのか?
 彼は本当に『プロレタリアート』を、自衛できないものにしたいのか?
 マルトフは、とくに猛烈に、ツェレテリを非難した。
 社会主義者たち〔ソヴェト大会〕はその翌日に、ダンの穏健な提案に賛成する表決をした。これは、ボルシェヴィキの武装解除に、彼らから秘密の装置を剥ぎ取ることに、反対することを意味した。
 精神の、重大な過ちだった。
 レーニンは直接に、ソヴェトに挑戦した。そしてソヴェトは、その目を逸らした。
 ソヴェト多数派は、つぎのように信じることを好んだのだ。すなわち、ボルシェヴィキは、ツェレテリが言うような、権力奪取を志向する反革命の党ではなく、疑問のある戦術を用いている、ふつうの社会主義政党の一つなのだ、と。
 社会主義者たちはかくして、ボルシェヴィキを非合法なものにする機会を、敵に対してソヴェトの利益を代表し、その利益のために活動していると主張するという、強い政治的武器を奪い取る機会を、逃した。//
 ボルシェヴィキは、臆病ではなかった。
 <プラウダ>は、ツェレテリの提案が否決された翌日に、ボルシェヴィキは現在も将来も、ソヴェトの命令に服従する意思はないと、ソヴェトに知らしめた。
 『我々は、以下のとおり宣言するのが義務だと考える。
 ソヴェトに参加しても、かつソヴェトが全ての権力を獲得するために闘っても、一瞬でも、また原理的に我々の敵対物であるソヴェトの利益のためにも、つぎの権利を放棄することはしない。
 すなわち、分離しておよび自立して、我々のプロレタリア階級政党の旗のもとに労働者大衆を組織化する全ての自由を活用する権利。
 我々はまた、そのような反民主主義的制限に服従することを、範疇的に拒否する。
 <国家の権力が全体としてソヴェトの手に移ったとしても>、-そしてこれを言いたいが-ソヴェトが我々の煽動活動に足枷をはめようとしても、<我々は、温和しく服従するのではなく>、国際的社会主義の理想の名において、投獄やその他の制裁を受ける危険を冒す。』(112)//
 これは、ソヴェトに対する戦争開始の宣言であり、ソヴェトが政府になっても、なったときにも、それに反抗して行動する権利をもつことを強く主張するものだった。// 
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  (*) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.2。これは非公開の会議だった。そして、他の根拠資料は存在しない。しかし、ツェレテリは、<プラウダ>からの本文引用部分は、若干の些細な、重要ではない省略はあるけれども、正しく自分の発言を伝えるものであると確認している。ツェレテリ, Vospominaniia, II, p.229-230。
  (112) <プラウダ> No. 80 (1917年6月13日付) p.1。強調の< >は補充。
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 第8節につづく。

1479/レーニンの極秘文書。日本共産党・不破哲三らの大ウソ32。

 ○ R・パイプスの本を読んで訳を試みているのも、とくに二つの大著について邦訳書がないことにもよるが、単純な知的関心によるのではない。
 日本共産党、不破哲三ら、そして「左翼」学界人等々が抱いているかに見える<レーニン観(・イメージ)>を壊しておく必要があると感じているからだ。
 繰り返すが、レーニンがいなければロシアでの1917年10月「政変」はなく、ロシア共産党もなく、1919年の共産主義インターナショナル(コミンテルン)の設立もなく、したがって、1922年のその支部としての日本共産党の設立もなかった(なお、この設立の事情は不明確なところがある。月日・場所等について、在モスクワの共産主義日本人が異なる情報を寄せた可能性がある)。
 したがって、宮本顕治の日本共産党入党も在獄もなく、宮本を指導者とする1961年綱領もなく、宮本・不破哲三体制もなく、不破哲三・志位和夫体制もなかった。
 これは、たんなる時代の前後関係というのではなく、原因・結果の因果関係だと思われる。
 その日本共産党が現在もなお、ロシア革命を美化し、レーニンを原則的には擁護し、スターリンから過った、という<歴史叙述>を公然と行っている。
 つまりは、レーニン像を(そして日本共産党の「ロシア革命」観を)壊すことは現実的な意味がある。その観点からR・パイプス等々の本を捲っている。
 したがって、<実践的>または<政治的>意図・意識を持っていることを、隠そうとは思わない。
 しかし、たんなる、彼らのいう<反共デマ宣伝>をするつもりは全くなく、可能なかぎり<文献実証的に>、かつ自分自身の頭で理解して、事実を確認したいと考えている。
 ○ R・パイプスは、レーニン「陰謀家」ぶりを強調しているようだ。この人の叙述を100%信頼しているわけではなく、ロシア史、ロシア革命についての欧米の研究者にも、いくつかの傾向があることを-この欄に記してはいないが-知っている。
 だが、以下に一部紹介するレーニン自身の1922年3月の「秘密書簡」の原文(但し、英訳)を読むと、さすがにこの「ソヴェトの指導者のMentality(心性・気質)」にある「非人間的な残虐性」、「きわめて異常(exrraordinary)」さを感じざるをえない。以下以外にも多々あるが、「陰謀家」・「策謀家」あるいは「捏造家」・「煽動者」等々と評するのは、誇張では全くないだろうと思われる。
 少し上の「」内は、以下から利用した。
 ① Richard Pipes, ボルシェヴィキ体制下のロシア (1994), p.350, p.352 (「第7章・宗教に対する攻撃」)。
 これの全文は、② Richard Pipes 編, 知られざるレーニン-秘密資料から〔The Unknown Lenin, -〕(1996), p.152以下にある。
 また、① Richard Pipes, ボルシェヴィキ体制下のロシア (1994)も、ほぼ全文を1頁半にわたって引用している。但し、英訳が同じでないのは、ロシア語文の翻訳だとはいえ、興味深い。
 さらに、③ Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, The New Edition (2008), p.97- は、Richard Pipes の上掲著 (1994) を参照要求しつつ、一部を原文どおりに引用している。
 ○ もちろん、背景事情をある程度は知らないと、ほとんど理解不可能なのかもしれない。しかし、「異様さ」だけは伝わってくる。
 歴史的背景については、梶川伸一の<宮地健一のホームページ>にある、以下が詳しい(むろん、上掲の①②③も、精粗はあれ触れている)。但し、原文の邦訳文はないと見られる。
 <宮地健一のホームページ/6.二〇世紀社会主義を問う/第7部・ネップ後での革命勢力弾圧継続強化/農民問題と飢餓・飢饉の関連ファイル/梶川伸一・レーニン体制の評価について/5.秘密裡の宗教弾圧
 ○ Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution, Tthe New Edition (2008), p.97-の一部原文引用部分だけでも、邦訳しておこう。残余も、邦訳しておく意味があると思われるので、機会があれば、試みるかもしれない。
 原文全体には、いわば前記と後記を除くと13の段落がある(1996年のR・パイプス編著による)。
 フィッツパトリックが原文引用しているのは、その中の、第4の段落の、さらにその一部だ(1994年のR・パイプス著によると思われる)。以下、その部分だけの試訳。
 『飢餓にある地方の人民が人肉(human flesh)を食べ、数千でなければ数百の死体が道路上に散乱しているときに、わけわれが著しく苛酷で容赦なき力を注いで教会〔ロシア正教〕財産の剥奪を実行することができる(ゆえに、そうしなれればならない)のは、まさしく今、そして今のみなのだ。』
 以下、Sheila Fitzpatrick の要約的説明が少し入る-「飢饉からの救済という助けを借りて教会財産を奪い取る[そして名目上は飢えた人々に分ける]運動(campaign)が暴力的示威活動を刺激して生じさせたシュヤ(Shuya, Shuia)について、レーニンは結論した。『巨大な数の』地方聖職者とブルジョアたちは逮捕されて、裁判にかけられなければならない、そしてその裁判はこう終わる必要がある、と」。再び、原文引用。
 その裁判は、『シュヤにいる巨大な数の最も影響力があり最も危険な黒い百を、銃撃隊が射殺する以外の方法で終わってはならない
 そしてモスクワを含む都市やその他のいくつかの聖職者の中心地だけではなく、…大きければ大きいほど、数多くの反動的な聖職者や反動的なブルジョアジーの代表者たちの処刑を、その理由でもって、より十分に達成することができる。
 われわれは今すぐ、これらの者たちに教訓を与えて、この数十年間は、いかなる抵抗も敢えてしようとはせず、かつまたそれを思い付くことすらしないようにしなければならない。』
 1922年3月19日、〔共産党〕政治局各メンバーに代わって同志マルトフあて。
 前記-『極秘いかなる理由でもコピーをとるな。だが、(同志カリーニンはもちろん)各政治局員は、この文書に関する何らかの意見を記せ。/レーニン』。
 これは、ちょうど一年前の党大会で<ネップ>政策導入がすでに決定され、日本共産党、不破哲三や志位和夫によれば、1921年10月のモスクワ県党会議における<確立>を経て、レーニンが問題を抱えつつも<市場経済を通じて社会主義へ>の途を「正しく」歩もうとしていた時期の文書だ。
 以上。 
 

1466/第一次大戦と敵国スパイ①-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。/の左右の日付は、左がロシア暦、右が欧州暦。 
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との関係。

 第一次世界大戦の勃発前の二年間を、レーニンは、クラカウ(cracow、クラクフ)で過ごした。彼はそこから、ロシアの支持者との接触を維持することができた。
 開戦のすぐ前および直後に、レーニンはオーストリアの政府機関、そしてウクライナ解放同盟と関係を結んだ。後者は、ウクライナ人の民族的願望をレーニンが支援する代わりに資金を出し、その革命活動を助けた。(116) 
 その同盟は、ウィーンとベルリンから資金を受け取り、オーストリア外務省の監督のもとで活動していた。
 この活動に加わっていた者たちの一人がパルヴゥスで、彼は1917年には、レーニンがドイツを通って革命ロシアまで確実に通過するのに重要な役割を果たすことになる。 
 ウィーン発、1914年12月16日付で同盟が提示した声明文には、以下の冒頭部分があった。//
 『同盟は、ロシア社会民主党の多数派党派を金銭のかたちで支援し、ロシアとの通信網の構築を援助する。
 その党派指導者、レーニンは、<ウクライナ情報〔新聞〕>で報告されている彼の講演が示すように、ウクライナ人の要求に敵対的ではない。』(117)
 レーニンとグリゴーリ・ジノヴィエフが敵国人でありスパイの嫌疑があるとしてオーストリア警察に逮捕されたとき(1914年7月26日/8月8日)、この団体と関係していることがきわめて役立った。
 オーストリアとポーランドの社会主義運動に影響力のある人物、とくにヤコブ・ガネツキー(ハニエッキ。フュルステンベルクとしても知られる)が、すなわちパルヴゥスが雇っている、レーニンの親密な仲間が、彼らのために穏便にことを済ませてくれた。 
 五日のちに、ルボフ(Lwow〔レンベルク〕)のガリシア総督は、『ロシア帝国の敵』と見なされているレーニンを確保しておくのは好ましくないと助言する電信文を受け取った。(118)
 クラクフの軍事長官は8月6日/19日に、レーニンが収監されていた地域裁判所に電報を打って、即時釈放を命じた。(119)
 レーニン、クルプスカヤ、彼女の母親は8月18日/9月1日に、オーストリア警察の旅券をもって、オーストリア軍事郵便鉄道でウィーンを離れ、スイスに向かった-ふつうの敵国外国人が利用できそうにない輸送手段だった。(120)
 ジノヴィエフとその妻は、二週間後に続いた。
 オーストリアの拘置所からレーニンとジノヴィエフが解放された事情は、ウィーン〔オーストリア政府〕は二人を価値ある資産だと見なしていることを示唆する。// 
 スイスでレーニンはすぐに、戦争反対の基盤に敬意を表して、社会主義インターナショナルの失敗を処理し始めた。// 
 労働者階級の利益は国境を超越し、『プロレタリアート』はいかなる条件のもとでも、市場獲得を目指す資本主義国間の闘争で血を流さない、というのが、国際社会主義運動の根本的な金言だった。
 国際的危機の真っ只中の1907年8月に開催された社会主義インターのシュトゥットガルト大会は、軍事主義と戦争の脅威に多くの注意を向けた。
 二つの傾向があったが、ベーベルによって指導されたその一つは、戦争反対を支持し、かりに戦争が勃発すれば、『早期の終戦』のために闘う、というものだった。
 もう一つの傾向は、三人のロシア代議員-レーニン、マルトフおよびローザ・ルクセンブルク-によって表明されたもので、ロシアの1905年革命の体験に教訓を得て、社会主義者たちが国際的内戦を引き起こすために戦闘を利用することを望んだ。(121)
 後者が強く主張され、大会は、国家の敵対が発生した場合には、以下のことが労働者階級と議会内の労働者議員たちの義務だと決定した。// 
 『終結を速めるために介入すること、戦争により生じた経済的かつ政治的危機を人民を覚醒させるために利用すべく全力を出すこと、そして資本主義階級の支配の廃棄を促進すること』。(122) //
 この条項は、二つの傾向の違いを覆い隠すための左翼少数派に対する右派多数派の修辞的な譲歩だつた。
 しかし、このような妥協にも、レーニンは満足しなかった。
 ロシアの社会民主主義運動で用いたのと同じ軋轢生成的な戦術をとって、レーニンは、社会主義インターの穏健な多数派からの離脱を始めた。革命目的のために将来の戦争を利用する、非妥協的な左翼にとどまることによって。
 レーニンは、平和政策に反対した。その平和政策は、諸国の対立を止めることを意図しており、ヨーロッパの社会主義者に多くに是認されていた。レーニンは実際、戦争を望んだ。悪辣なことに、その理由は、戦争は革命を起こすためのすばらしい機会を提供する、というものだった。
 このような立場は社会主義者にとって一般的ではなくまた受容できないものだったので、レーニンはこの見解を公に表明するのを控えた。
 しかし、あるとき、新しい国際的な危機が生じていた期間の1913年1月に、マクシム・ゴールキへの手紙の中で一度、レーニンは書いた。
 『オーストリアとロシアの間の戦争は、(東ヨーロッパの全てでの)革命にとって最も役立つものだ。しかし、フランツ・ヨーゼフ〔墺〕とニッキー〔ニコライ、露〕は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(123)//
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 ②につづく。

1464/レーニンと警察の二重工作員②-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)②〔つづき〕。  
 ボルシェヴィキ議員団の長が突然に、説明もされずにドゥーマから消え失せた。これによりマリノフスキーの経歴は終わったはずだった。しかし、レーニンは彼の側に立って、『清算人』と中傷して非難しつつ、メンシェヴィキの追及者たちからマリノフスキーを守った。
 この場合には、重要な仲間に対するレーニンの個人的な信頼がその合理的判断を妨げた、と言うのは可能だ。しかし、そうではないように見える。 
 マリノフスキーは、1918年の裁判で、レーニンは自分の前科について知っていたと語った。このような記録があればロシアではドゥーマ選挙に立候補することができないので、内務省がこの情報を使ってマリノフスキーが議会に入るのを阻止しなかったという事実からだけでも、レーニンはマリノフスキーの警察との関係を察知したに違いないだろう。
 ロシアの警察挑発問題に関する重要な専門家だったプルツェフは1918年に、マリノフスキーの裁判で証言した帝制時代の警察官との会話を通じて、つぎのように結論した。
 すなわち、『マリノフスキーによれば、彼の過去には通常の犯罪ではなく自分が警察の手のうちにあった-つまり挑発者だった-ことも隠されているということを、レーニンは理解していたし、理解せざるをえなかった』、と。(110)
 なぜレーニンは自分の組織に警察工作員を維持しようとしたのかについて、帝制時代の上級治安官僚だったアレクサンダー・スピリドヴィッチ将軍が、つぎのように示唆している。
 『ロシアの革命運動の歴史には、革命的組織の指導者がその構成員のうち何人かに政治警察との関係に入ることを認める、いくつかの大きな事例があった。彼ら構成員は、秘密情報員として、警察に瑣末な情報を与える代わりに、その革命的党派にとってもっと重要な情報を警察から引き出そうという狙いをもっていた。』(111)
 レーニンが1917年6月〔いわゆる二月革命のあと、ボルシェヴィキ「七月蜂起」の前-試訳者〕に臨時政府の委員会の前で証言した際、彼は実際にこのような方法でマリノフスキーを使ったのかもしれないことを仄めかした。
 『この事件については、また次の理由にもとづいて、私は挑発者の存在を信じない。かりにマリノフスキーが挑発者であるのならば、わが党が<プラウダ>やその他の合法的な組織全体から得るよりも多くの成果を、オフランカ(Ohkranka〔帝制時代の秘密警察部門〕)は得ていないだろう。 
 ドゥーマに挑発者を送り込み、また彼のためにボルシェヴィキの対抗者〔メンシェヴィキ〕を追い出すなどをしたが、オフランカは、ボルシェヴィキの粗野なイメージに支配されているのだ。-漫画本の滑稽な絵だと言おう。ボルシェヴィキは、武装蜂起を組織するつもりはない。
 オフランカの立場からすれば、あらゆる糸を手繰り寄せるために、マリノフスキーをドゥーマに、そしてボルシェヴィキの中央委員会に入り込ませることは、何らかの価値がある。
 しかし、オフランカがこの二つの目的を達成したときにようやく、マリノフスキーはわれわれの非合法の基地と<プラウダ>とを繋ぐ、長く固い鎖の連結物の一人であることが判明したのだ。』(*)
 レーニンはマリノフスキーの警察との関係を知っていたことを否認したけれども、上のような理由づけは、党の目的を推進させるために警察工作員を使ったことについての、もっともらしい釈明のように感じられる。-つまり、他にとりうる手段がないときに、大衆の支持を獲得するために最大限に合法活動の機会を利用するため、だったのだ。(+)
 マリノフスキーが1918年に裁判での審尋に進んだとき、ボルシェヴィキの訴追者は実際に、マリノフスキーはボルシェヴィキに対してよりも帝制当局に対してよりひどい害悪をなしたと証言するように警察側の証人に圧力をかけた。(112)
 マリノフスキーが自分の自由意思で1918年11月という赤色テロルが高潮しているときにソヴェト・ロシアに帰ってきたこと、そしてレーニンと逢うことを強く求めたことは、マリノフスキーは無罪放免になることを期待していたことを強く示唆している。 
 しかし、レーニンには、もはや彼の使い道がなかった。彼は裁判に出席はしたが、証言しなかった。
 マリノフスキーは、処刑された。//
 マリノフスキーは実際、レーニンのために多くの価値ある仕事をした。
 彼が<プラウダ>および「nashput」の創刊を助けたことは、すでに述べた。
 加えるに、ドゥーマで彼が演説をする際には、レーニン、ジノヴィエフその他のボルシェヴィキ指導者が書いた文章を読んだ。演説の前に彼はそれらの原稿を警察部門の副局長であるセルゲイ・ヴィッサーリオノフに提出し、校訂を受けた。 
 このように方法によって、ボルシェヴィキの宣伝文章は国じゅうに広がった。
 特筆しておきたいのは、マリノフスキーは注意深くかつ忍耐強く、ロシアのレーニンの支持者とメンシェヴィキとが再統合することを妨害したことだ。
 第四ドゥーマが開催されたとき、7人のメンシェヴィキ議員と6人のボルシェヴィキ議員は、レーニンまたは警察が望んだ以上に、協力的精神でもって行動した。実際、レーニンが不一致の種を植え付けるために個人的に出席していない場合には通常のことだったが、彼らは一つの社会民主党の議員団のごとく振る舞った。
 二つの党派を離れさせ、そうしてそれらを弱体化させることは、警察が設定した最優先の使命だった。ベレツキーによれば、『マリノフスキーは、両党派間の溝を深めることのできるいかなる事でもするように命令されていた。』(114)
 それ〔二党派間の溝の深まり〕は、レーニンの利益と警察の利益とが合致している、ということだ。(++)//
 レーニンの独裁的な手法とその完全に欠如した道徳感情は、彼の熱心な支持者をある程度は遠ざけた。陰謀と瑣末な争論に飽き、覆いかかる精神主義(spritualism)の風潮に囚われて、何人かの最も賢いボルシェヴィキは、宗教と観念哲学のうちに慰めを追求し始めた。1909年に、ボルシェヴィキ幹部たちの支配的な傾向は、『神の建設』(Bogostroitel'stvo)として知られるようになった。  
 のちの『プロレタリアの文化』の長のボグダノフやのちの啓蒙人民委員〔大臣〕のA・V・ルナチャルスキーに教え導かれた運動は、非ラジカル知識人の間で有名な『神の探求』(Bogoiskatel'stvo)に対する社会主義者の反応だった。 
 <宗教と社会主義>という書物の中でルナチャルスキーは、社会主義を一種の宗教的体験、『労働者の宗教』だと表現した。
 このイデオロギーの提唱者たちは1909年に、カプリに学校を設置した。 
 こうした展開全体を全く不愉快に感じていたレーニンは、反対の二つの学校を組織した。一つは、ボローニャで、もう一つは、パリ近くのローンジュモで。
 1911年に設立された後者は一種の労働者大学で、ロシアから送られた労働者が、社会科学と政治についての体系的な教条教育(indoctrinnation 〔洗脳〕)を受けていた。教師陣の中には、レーニンや彼の最も忠実な支持者であるジノヴィエフとカーメネフもいた。
 今度は学生に偽装した警察情報者が不可避的に潜入していて、ローンジュモでの教育について報告した。
 『授業の断片を生徒が丸暗記することで成り立っている。なされる授業は疑ってはいけないドグマの性格を帯びており、決して批判的な分析や合理的で意識的な学習を奨励するものではない。』(115) //
  1912年までに、マルトフがレーニンの無節操な財政取引や支配力を得るために多くは不法に獲得した金の使い方を公に明らかにしたあとだったが、二つの党派は一つの党だと装うことを止めた。
 メンシェヴィキは、ボルシェヴィキの行動は社会民主党運動を汚辱するものだと考えた。
 1912年の国際社会主義者事務局の会合で、プレハーノフは公然と、レーニンを窃盗者だと責め立てた。
 メンシェヴィキは、レーニンが犯罪や誹謗中傷に頼ったことや労働者を意識的に誤導したことに唖然としたと表明したにもかかわらず、また、レーニンを『政治的ペテン師』(マルトフ)と呼んで非難したにもかかわらず、レーニンを除名することをしなかった。一方、その咎はエデュアルド・ベルンシュタインの『修正主義』に共感したことだけのストルーヴェは、すみやかに追放された。
 レーニンがこれらを深刻に受け止めなかったしても、何ら不思議ではない。//
 二党派の最終的な分裂は、レーニンのプラハ大会で、1912年1月に起きた。それ以降は、彼らは共同の会合を開かなかった。
 レーニンは『中央委員会』という名前を『私物化』して、もっぱら強硬なボルシェヴィキたちで構成されるように委員を指名した。
 頂部に断絶があるのはもはや完璧なことだったが、ロシア内部でのメンシェヴィキおよびボルシェヴィキの幹部や一般党員は、しばしばお互いを同志と見なし続けて一緒に活動した。//
  (*) レーニンのマリノフスキーに関する証言は、委員会の記録にかかる数巻の出版物にも(Padenie)、レーニンの<選集>にも掲載されていない。
  (+) タチアナ・アレクジンスキーは、中央委員会に警察情報員が加入している可能性についての疑問が生じたとき、ジノヴィエフがゴーゴルの<将軍検査官>から『良い一家は、がらくたすらも利用する』を引用したことを憶えている。〔文献省略〕  
  (++) レーニンがマリノフスキーの警察との関係を知っていた蓋然性(likelihood)は、認められている。ブルツェフに加えて、ステファン・ポッソニー(1964, p.142-43.)によって。
 マリノフスキーの自伝は、ボルシェヴィキは警察がマリノフスキーによってボルシェヴィキに関して知ったよりも少ない情報しか、マリノフスキーから警察に関する情報を得ていないという理由で、この仮説を拒否している(Elwood, マリノフスキー, p.65-66.)。
 しかし、マリノフスキーが彼の二重工作員性に関してレーニンの陳述およびスピリドヴィッチの言明を無視していることは、上に引用した。
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 第10節につづく。

1461/強盗と遺産狙いの党財政②-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
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 レーニンが彼の組織のために金を獲得しようと進んだ途の行き着く先は、いわゆるシュミット事件によって例証される。(102)
 モロゾフと縁戚のある金持ちの家具製造業者であるN・P・シュミットは、1906年に逝去した。それは明らかに自殺で、12月のモスクワ蜂起に使われた武器の購入に財政援助したという責任を問われる裁判を待っている間のことだった。
 彼は遺書を残していなかった。しかし、ゴールキと他の友人は、シュミットはおよそ50万ルーブルに達する財産が社会民主党のものになることを欲していた、と語った。
 このような措置は、非合法の政党は遺産相続の利益を受けられないので、法の観点からは有効ではなかった。
 したがって、その金銭はシュミットの最も近い縁戚の、幼い弟に渡った。
 シュミットの財産が相続人によって濫費されたり、社会民主党の金庫に移されることを断固として阻止しようと、ボルシェヴィキは、レーニンを議長とする会合で、とりうる全ての手段を用いてそれを奪い取ることを決定した。
 十代の弟は、その二人の妹のために相続分を放棄するようにすぐに説き伏せられた。
 そして、二人のボルシェヴィキ党員が出廷して妹たち相続人と結婚する、という取り決めがなされた。
 下の方の幼い少女は、ヴィクトール・タラトゥータという名のボルシェヴィキの荒くれ男と結婚することになつた。しかし、警察の目をごまかすために、表向きは、堅実な男と二度目の結婚をすることとされた。
 彼女が結果として受け取った19万ルーブルは、パリにあるボルシェヴィキの金庫へと移された。(103) //
 シュミットの財産の第二部分は彼の姉が所有していたが、ボルシェヴィキに傾斜した社会民主党の党員でもある、その夫の手にあった。
 その夫は、しかし、金を守りたかった。
 論争は調停のために社会主義者の裁きの場に上程され、ボルシェヴィキに相続財産の半分または三分の一だけが与えられた。
 身体への暴力という脅迫によって、ついには夫は、妻の相続財産をレーニンに渡すように説得された。
 最終的にはレーニンは、シュミットの財産から、23万5000と31万5000の間のルーブルを獲得した。//
 このような醜悪な金銭事件やそれに類したものは、マルトフが暴露したときに、ロシアおよび国外でボルシェヴィキを大きく辱めた。そして、社会民主党の資金をドイツの社会民主主義者に預けることに同意するのを、レーニンは強いられた。
 金をめぐる争論は、1917年革命に先行する10年間に二つの党派が行った闘争の主要な柱の一つだった。
 レーニンの秘書として働いていたクルプスカヤは、見えないインキ、暗号、その他の警察を暗闇にいるままにする道具を使って、ロシアにいるボルシェヴィキの工作員との安定した連絡網を維持した。
 クルプスカヤの仕事を助けたタチアナ・アレクジンスキーによれば、レーニンからきた手紙のほとんどには、金の要求が含まれていた。(*)(105)
  (*) このように援助金が重要であることは、1904年12月の潜在的な寄付者に対する手紙においてもレーニンによって強調されている。
 『少なくとも半年の間に莫大な資金の助けで何とか耐えないと、われわれの仕事は破産に直面してしまいます。そして、削減することなく持ちこたえるためには、最小限度、毎月2000ルーブルが必要なのです。』 Lenin, 〔文献省略〕。

1460/強盗と遺産狙いの党財政①-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第8節・ボルシェヴィキ党の財政事情。 
〔p.369-p.372.〕
 1917年革命以前のボルシェヴィキの歴史上最も秘密で今なお深刻な側面の一つは、党の財政にかかわる。
 全ての政治組織は、金を必要とする。しかし、ボルシェヴィキは党員全てに党のために一日中働くことを要求していたので、彼らにはきわめて重い財政上の負担があった。自立・自援のメンシェヴィキと違って、ボルシェヴィキの党員たちは、党の金庫からの手当てに頼っていたからだ。
 レーニンもまた、いつも多数の支援者がいたメンシェヴィキという好敵を策略的に打ち負かすために、金を必要とした。 
 ボルシェヴィキたちは、さまざまな方法で、ある者は伝来的方法で、別の者は高度に非伝来的な方法で、金を確保した。//
 一つの源は、奇矯な金持ちの産業家であるザッヴァ・モロゾフのような、裕福な共調者(シンパ)たちだった。モロゾフは、一月あたり2000ルーブルをボルシェヴィキの金庫に寄付した。
 モロゾフがフランスのリヴィエラ地方で自殺したあとで、彼の生命保険方策の被信託人として仕えていたマクシム・ゴールキの妻によって、彼の遺産から別の6万ルーブルが、ボルシェヴィキへと移された。(92)
 他にも寄贈者はいた。中でも、ゴールキ、A・I・エラマゾフという名の土地管理専門家、ウーファ地方の土地不動産を管理するアレクサンダー・ツィウルーパ(この人物は1918年にレーニン政権の供給大臣になる)、元貴族院議員の妻でストルーヴェの親友だったアレクサンドラ・カルミュイコワ、女優のV・F・コミッサールゼフスカヤ、その他、今日まで名前が分からないままの者たち。(93)
 紳士淑女気取りからするこれらの後援者(パトロン)たちは、根本的には彼らの利益を害するはずの教条のために援助した。レーニンの近い仲間だったレオニード・クラージンはこの当時に、つぎのように書く。
 『革命的党派に金銭を寄付することは、多かれ少なかれ過激なまたはリベラルなサークルでは、育ちの良さ(bon ton)の徴しだと見なされた。5から25ルーブルを定期的に納める寄付者の中には、有名な弁護士、技術者および医師のみならず、銀行の重役や政府組織の官僚もいた。』(94) 
 社会民主党のそれとは別に独立して作動していたボルシェヴィキの金庫の管理は、三人のボルシェヴィキ『中央』の手にあった。これは1905年に形成され、レーニン、クラージンおよびA・A・ボグダーノフから成っていた。 
 まさにこれの存在自体が、ボルシェヴィキの幹部および一般党員からはずっと秘密にされていた。//
 悔い改めたふうの『ブルジョア』たちからの献金ではしかし、不十分であることが判り、1906年早くにボルシェヴィキは、心地よくない手段、人民の意思やエスエル過激主義者が編み出したと思われる考え、に頼った。 
 多額のボルシェヴィキの財源は、それ以来、犯罪活動、とくに婉曲的表現では『収用』として知られる拳銃強盗から来ていた。
 彼らは大胆に急襲して、郵便局、鉄道駅、列車、銀行から強奪した。
 悪名高きティフリスの国有銀行強盗(1907年6月)では、25万ルーブルを強奪した。そのかなりの部分は、連続番号が登録された500ルーブル紙幣の束だった。
 このような略奪の成果品は、ボルシェヴィキの金庫へと移された。
 上の結果として、盗んだ500ルーブル紙幣をヨーロッパで両替えしようとした何人かの人間が逮捕された-その全員が(その中にはのちのソヴェト外務大臣、マクシム・リトヴィノフがいた)、ボルシェヴィキ党員であることが判明した。(95)
 この活動を監督していたスターリンおよび他の関係者は、社会民主党から除名された。(96)
 このような活動を非難する1907年党大会の正式決定を無視して、ボルシェヴィキは、ときにはエスエル党と協力しながら、強盗犯罪を行ない続けた。
 このような方法で、彼らは多額の金を獲得した。これは、相変わらず金欠症のメンシェヴィキに対して、ボルシェヴィキをかなり有利な立場にするものだった。(97)
 マルトフによると、犯罪の成果物のおかげで、ボルシェヴィキはペテルスブルクやモスクワの自分の組織に、それぞれ毎月1000から500ルーブルを送ることができた。この当時、合法的な社会民主党の金庫には、一月で100ルーブルを超えない党員費からの収入が入っていたのだが。
 1910年に、被信託人として仕事する三人のドイツ社会民主党の党員に金を差し出さなければならなくなって、この財源の流れが干上がってしまうや否や、ボルシェヴィキのロシア『委員会』は、薄い大気の中へと消滅した。(98) //
 このような秘密活動の全般的な指揮権は、レーニンの手のうちにあった。しかし、この分野の最高司令官は、いわゆる技術者集団(Technical Group)を率いるクラージンだった。(99)
 職業上は技術者であるクラージンは、二重生活をおくっていた。外面上は、善良なビジネスマンだが(モロゾフのために働くとともに、AEGやジーメンス・シュッケルトというドイツの商社にも勤めていた)、自由時間にはボルシェヴィキの地下活動へと走った。(*)
 クラージンは、爆弾を集めるために秘密の研究室を利用していて、その爆弾の一つはティフリスの強盗で使われた。(100) 
 ベルリンで彼は、3ルーブル紙幣の偽造紙幣作りも行なった。
 クラージンは、鉄砲火薬の密輸入にも従事した。-ときには純粋に商業的理由だったが、ボルシェヴィキの金庫の金を生み出すために。
 技術者集団は、場合によっては、ふつうの犯罪者たちとも取引した。-例えば、ウラル地方で活動する悪名高きルボフ団(ギャング)で、この団体には数十万ドルの価値がある武器を売った。(101) 
 このような活動は不可避的に、ボルシェヴィキ党員たちの中に、『教条』が犯罪生活の口実に使われるという、翳りのある要素を持ち込んだ。//
  (*) この電気製品商社がクラージンを雇ったのは、偶然ではなかったかもしれない。 
 1917年のロシアの反諜報活動(counterintelligence)の長によれば、ジーメンスはスパイ目的で工作員を使っており、ロシア南部のその支店が閉鎖されるに至った。[文献、省略]
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 ②へとつづく。

1458/メンシェヴィキと決裂③-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 二つの分派の民族構成について述べると、ボルシェヴィキは、主として大ロシア人だ。一方、メンシェヴィキは、ほとんど非ロシア人で、とくにジョージア人とユダヤ人を惹き付けた。
 社会民主党の第2回大会の際、レーニンを支持したのは主として中央部-つまり大ロシア人の-地域から選出された代議員たちだった。
 第5回大会の際(1907年)、ボルシェヴィキのほとんど5分の4(78.3%)は大ロシア人で、一方、メンシェヴィキのその比率は、3分の1(34%)だった。
 ボルシェヴィキのほぼ10%が、ユダヤ人だった。メンシェヴィキ党員の中での彼らの割合は、これの二倍多い。(77)(*) //
 初期のボルシェヴィキ党は、かくして、つぎのように特徴づけられる。(1) 構成において相当に農村的 (rural)で、党員たちは、『かなりの程度、田園地帯に生まれるかそれとの関係をまだ残したままの者たち』に引き摺られていた、(2) 『圧倒的に大ロシア人的』で、大ロシア人が生活する地域を基盤としていた。(78)
 言い換えると、ボルシェヴィキの社会的および文化的な根源(ルーツ)は、農奴制時代の最も古い伝統をもつ集団および圏域にあった。// 
 しかし、二つの党派には共通する特質もあった。そのうち最も重要なのは、代表すると謳う社会集団である、産業労働者との関係の希薄さだ。
 1880年代のロシアでの社会民主主義の出現以来、労働者は社会主義知識人を、相反する気持ちで見ていた。
 未熟および半熟練労働者は、知識人とは皇帝に私的な仕返しをすべく彼らを使用する紳士たち(『白い手』)だと考えて、完全に社会民主主義を避けた。
 彼らは、社会民主党の影響に感染しないままだつた。
 より教養があり、より熟達した、政治的意識のある労働者は、社会民主党をしばしば、それに指導される用意はないままで、仲間であり支援者であると見なした。彼らは通常は、政党政治よりも労働組合主義を選んだ。(79)
 以上の結果として、社会民主党組織における労働者の数は、微少でありつづけた。
 マルトフは、革命がすでに十分に進行していた1905年の前半に、ペテログラードのメンシェヴィキには1200から1500人の、ボルシェヴィキには『数百人』の積極的な労働者支持者があると、見積もっている。-これは、20万人以上の産業労働者のいる帝国の最も産業化した都市でのことだ。(80)
 1905年の末のペテログラードで、、二つの党派には合わせて3000人の党員がいた。(81) したがって、事実上は、メンシェヴィキもボルシェヴィキも、知識人の組織だった。 
 1914年に発行された書物でのこの点に関するマルトフの観察によれば、二月革命の後に出現すると予想される状況は、つぎのとおりだった。//
 『1905年の推移から広い範囲で積極的に活動することを現実に可能ならしめたペテログラードのような都市で、…党の組織には、中央集中の組織的活動を実行する『職業人』労働者および自己啓発のために党活動に入った若者労働者だけが残っている。
 政治的により成熟した労働者は、組織の外にいるままであるか、組織やその中央と大衆との間の関係に最も有害な影響を与えるものの一部だとだけ計算されている。 
 同時に、知識人が大量に党に流入することは、組織形態を知識人の生活条件(休暇、「陰謀」に時間をさく可能性、監視を避けるのに適した都市の中心区画の住居)に最もよく適合させたとしても、高い部分の(社会民主党の)組織の全てに知識人が充満することに帰結するだろう。これは、つまるところ、組織が大衆運動から心理的に離別するということだ。
 したがって、「中央と外縁」の間での果てしない衝突や軋轢、および労働者と知識人との間の嫌悪感の増大は、…。』(82) 
 実際に、メンシェヴィキは労働者運動と自らを同一視するのを好んだとしても、二つの党派は、労働者による干渉のない運動を行うことを選んだ。ボルシェヴィキは原理として、メンシェヴィキは生活実態への反応として。(83)
 マルトフは正しく、このような現象に注目していた。しかし、ロシアでは民主主義的な社会主義運動は、労働者のためのみならず労働者によっても行われなければ成功しない、という明白な結論を導き出さなかった。//
 これと似たようなことがあったとしても、メンシェヴィキとボルシェヴィキがともに力を合わせることが期待されえたかもしれない。 
 しかし、それは起こらなかった。友人感情はあったにもかかわらず、二つの党派は、同じ信仰の宗派としての全情熱をかけてお互いに闘い、分離していった。
 レーニンは、社会主義の教条と労働者階級の利益に対する裏切り者だとメンシェヴィキを非難することにより、メンシェヴィキから離別する機会を逃さなかった。
 苦い嫌悪感は、イデオロギーに由来するというよりも、人間的な理由からだった。//
 革命の崩壊から目覚めた1906年までに、メンシェヴィキは中央指向の、厳格な規律ある、陰謀的な政党を呼びかけるレーニンの綱領の採択に同意した。
 二党派の戦術観ですら、一致していなくはなかった。 
 例えば、両党派は、1905年12月の失敗したモスクワ蜂起を支援した。
 1906年に彼らは、アクセルロッドが提唱した労働者大会の考えを、党の規律違反だと一致して非難した。(84)
 些細な、しばしば学者的な違いが二つの党派の間にあったとしても、再統合を妨げたのは、権力を志向した、レーニンの尊大な欲望だった。それは、服従者以外のいかなる役割においても、彼とともに活動することを不可能にしたのだ。//  
  (*) スターリンは、このような実態から逃れられなかった。スターリンが出席した第5回大会に言及して、彼はつぎのように書いた。
 『統計は、メンシェヴィキ派の最大多数はユダヤ人から成っている…ことを示している。他方、ボルシェヴィキ派の圧倒的多数は、ロシア人から成っている…。これに関係して、あるボルシェヴィキは冗談で(これはアレクジンスキー同志のように思える)、メンシェヴィキはユダヤ人党派で、ボルシェヴィキは純粋なロシア人党派だ、ゆえに、われわれボルシェヴィキが党の綱領を組織化するという考えは悪くないだろう、と語った。』
 スターリン, …〔省略〕参照。
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 第7節につづく。

1451/ボルシェヴィズム登場②-R・パイプス著9章5節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第5節・ボルシェヴィキの出現 〔p.358-p.361〕 ②
 レーニンは〔党組織に関する〕その考えを、1902年3月刊行の<何をなすべきか ?>で周知させた。 
 この本はその当時まで練り上げられたもので、社会民主主義的語彙でもって人民の意思の考えを粉飾したものだった。
 彼はこの本で、帝制打倒に身を捧げる全日活動の職業的革命家から成る、規律厳しい、中央に集中した党の創立を呼びかけた。
 レーニンは政党『民主主義』の観念を、労働者運動は自然の推移をたどって大衆の革命を実行するだろうとの信念とともに、却下した。自身たちのための労働者運動には、労働組合主義を実践する能力しかない。
 社会主義と革命的熱情は、外から労働者に注入されなければならない。『意識性』が『任意性』に圧倒的に優先しなければならない。
 労働者階級はロシアで少数派なので、ロシア社会民主主義者は、闘争の中に暫定的同盟者として他の階級を巻き込まなければならなかった。
 <何をなすべきか ?>は、名前こそ正統派マルクス主義のものだが、マルクス主義の原理の基礎的教義を転倒させ、社会民主主義の民主主義的要素を拒否するものだった。
 にもかかわらず、人民の意思の古い伝統がまだ残って生きていて、プレハーノフ、アクセルロッドやマルトフの遅延戦術に我慢ができなくなっているロシアの社会主義知識人に対して、きわめて大きな印象を与えた。
 この当時、のちの1917年のように、レーニンの魅力の多くは、つぎのことに由来していた。すなわち、平易な言葉を使って文章を書いたこと、そして、ライバルの社会主義者たちの考えを行動綱領に転化したことだ。彼らは、信念を維持する勇気を欠いて、多くの条件にむしろ束縛されていた。//
 レーニンの非正統的なテーゼは、1902-3年に激しい論争の対象になった。そのとき、社会民主主義者は、きたる党の第二回大会の準備をしていた-その名にかかわらず、政党の設立総会となる予定の大会だ。
 イデオロギー上の違いが混じり、しばしば指導権をめぐる個人的闘争の外観も呈した争論が勃発した。
 プレハーノフに支持されたレーニンは、幹部や一般の党員が中央に服従する、より中央に集中した組織を作ることを要求した。一方で、のちにメンシェヴィキの指導者になるマルトフは、『党組織の一つの一定の方向のもとで、党に対して定期的に個人的な協力をする』者は誰でも受け入れる、より緩やかな構造を求めた。(60) //
 第二回大会は1903年7月にブリュッセルで開催された。51の投票権をもつ、43人の代議員が出席した。(*)
 労働者だったと言われる4名以外の全員は、知識人だった。 
 レーニンへの対抗派を率いるプレハーノフが、いつも多数を獲得した。だが、彼〔プレハーノフ〕がその対抗者と協力してユダヤ人同盟に党内で自治的な地位を与えるのを拒否し、5名の同盟員たちが〔会場外へ〕歩き去り、2名の経済学者の代議員がそれに続いたとき、プレハーノフは、多数派の支持を喪失した。
 レーニンはすぐさま、中央委員会の支配権を掌握する機会を利用し、その機関である<イスクラ>の大勢を確保した。
 この場合のレーニンの呵責のない方法と策略は、彼と他の党リーダーとの間に、きわめてひどい悪感情を惹起することになった。
 そのとき、そしてその後でも、一体性の表装(ファサード)を維持するための多くの努力がなされたけれども、分裂は、実際上、修復不能になった。解消されえたイデオロギー上の差違はさほど大きな理由ではなく、個人的な嫌悪感から生じていた。 
 レーニンは、自分の党派のためにボルシェヴィキの名を、『多数派』を意味する名を要求する瞬間を掴んだ。
 この名前は、第二回大会のあとですぐに生じたことだが、少数派になったことが分かった後でも、維持された。
 これはレーニンに、党の最も人気のある分派の指導者として立ち現れる利益をもたらした。
 『正統な』マルクス主義者だというポーズを、彼はずっととり続けた。これは、正統派を最高の美徳だと、そして異派を変節だと見なす宗教的感情のある国では、重要な魅力だった。
 党の歴史のつぎの2年間(1903-5年)は、悪質な計略で満ちていた。それらは、関係者の人間性を明らかにする点を除けば、大した関心の対象ではない。
 レーニンは、断固として、党を彼の意思に従属させようとした。かりにできないとなれば彼は、党のカバーのもとに彼の個人的支配が及ぶ平行組織を設立することを準備していた。
 1904年末までに実際、レーニンは、『党多数派の委員会事務局』と呼ばれる『中央委員会』をもつ彼自身の党派を持った。
この行為を理由として、彼は正当な中央委員会から追放された。(61)
 レーニンが少数派である場合には、正当化されていない平行機関を、信奉者が集まる同じ名前の平行機関を設立することによって、正当な諸機構を弱体化させる戦術をとった。このような戦術を彼は、1917-18年には権力の別の中心、とりわけソヴェト、に対して適用することになる。//
 1905年の革命が勃発するときまでに、ボルシェヴィキの組織は定まった。//  
 『指導者、つまりレーニンに対する個人的な忠誠と結合した、かつまたその指導が十分に過激で極端であるかぎりいかなることがあってもレーニンに服従する意思をもつ、そういう陰謀家たち一団が集結した、職業的な委員たちの厳しい規律ある秩序』。(62)
 対抗者たちは、レーニンはジャコバン主義者だとして責め立てた。トロツキーは、つぎのように記した。ジャコバン派のようにレーニン主義者たちは、大衆の『任意性(随意性)』を恐れた、と。(63)
 この攻撃に動揺することなく、レーニンは誇らしげに、ジャコバンという称号は、自分自身のためにある、と言った。(64)
 アクセルロッドは、レーニン主義はジャコバン主義ですらなく、『内務省の官僚専政制度の模写か戯画であるにすぎない』と考えた。//(65)
  (60) Leonard Schapiro, ソヴェト同盟の共産党 (1960), p.49。
  (*) この月の末には、ロシアとベルギーの警察による監視を避けて、大会はロンドンへと移った。
  (65) 1904年6月のカール・カウツキーへの手紙。A. Ascher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism (1972) p.211.から引用。
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 第6節につづく。

1447/幻滅の社会民主主義①-R・パイプス著9章4節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第4節・レーニンの社会民主主義への失望

 1893年秋にレーニンが表向きは専門法曹の仕事に就くべくペテルスブルクに移ったとき、実際は過激派サークルと接触して、革命家としての経歴を歩み始めた。(42)
 到着した彼と連絡をとった社会民主主義者には、レーニンは『赤すぎる』ように思えた-つまり、まだ人民の意思の信奉者でありすぎた。
 レーニンはすぐに自分の知り合い仲間を広げ、有名な社会民主主義知識人のグループに加入した。その指導的精神をもつ者は、23歳のペーター・ストルーヴェだった。-この人物は、レーニンに似て高級官僚の子息だったが、レーニンとは違って、西欧にいた国際人で、きわめて幅広い知識を習得していた。
 この二人は、頻繁に議論をした。
 二人の不一致は主として、レーニンの資本主義に関する単純な観念と、レーニンの『ブルジョアジー』への態度だった。
 ストルーヴェはレーニンに、一度自分の目で西欧を見れば納得するだろうように、ロシアは西欧タイプの資本主義経済を獲得しなかったので、資本主義的発展への途の最初の一歩をほとんど進んでいない、と説明した。
 また、社会民主主義は、産業労働者に励まされた中産階級が出版の自由や政党結成権のような公民的自由を生み出す場合にのみ、ロシアで花咲くことができる、とも説明した。
 レーニンは、納得しないままだった。//
 1895年の夏に国外に出て、レーニンはプレハーノフや他の社会民主主義運動の老練活動家に逢った。
 『ブルジョアジー』を拒絶するのは大きな誤りだと、彼は言われた。プレハーノフが語るには、『われわれはリべラルたちに顔を向けなければならない、しかるに君は、背を向けている』。(43)
 アクセルロッドは、『リベラル・ブルジョアジー』とのいかなる共同行動でも、社会民主主義者は支配を失なうことはない、なぜなら、自身の利益に最も寄与する方向での暫定的な同盟を指導しかつ操作することによって、共同闘争の『主導権(ヘゲモニー)』を維持し続けるだろうから、と強く言った。//
 プレハーノフを尊敬するレーニンは、影響を受けた。
 どの程度深く彼が納得したのかを、決定的に述べることはできない。しかし、つぎのことは明白な事実だ。すなわち、1895年秋にペテルスブルクに戻って正統な社会民主主義者としてデビューし、『リベラル・ブルジョアジー』と同じ先頭に立って専制体制に対抗する闘争へと労働者を組織したのだ。 
 この変化は驚くべきことだった。レーニンは1894年夏には、社会主義と民主主義は両立しえない、と書いた。今や、この二つは不可分だ、と主張する。(44)
 彼の目に映るロシアは、決して資本主義国ではなく、半封建的な国家だった。そして、プロレタリアートの主たる敵は、専制体制と同盟するブルジョアジーではなく、専制体制それ自体なのだった。
 ブルジョアジーは-ともかくもその進歩的要素は-、労働者階級の同盟者だった。//
 『社会民主党は、…専制的政府に対抗する闘争を行う全てのブルジョアジー層を支持することを宣言する。
 民主主義者の闘争は社会主義者のそれと不可分であり、完全な自由とロシアの政治的かつ社会的体制の民主化の獲得なくして、労働者の根本教条のための闘争に勝利することは不可能である。』(45)
 レーニンは今や、陰謀とクー・デタを、実践不可能なものとして拒否した。 
 しかしながら、『リベラル・ブルジョアジー』の役割に関する彼の心境の変化は、アクセルロッドによれば、つぎの前提と固く結びついている、ということに留意することが重要だ。すなわち、革命的社会主義者は、専制体制に対する組織的運動を指導し、ブルジョアジーはそれに従う、という前提だ。//
 帰国したあとレーニンは、首都で危なかしい団体を率いている労働者サークルとの不確定な接触を保った。 
 彼はマルクス主義理論の個人的指導をいくらか担当したが、教育活動に熱心にはなれず、<資本論>の初歩を教えていた労働者が彼の外套を盗んで歩き去ったあとで、それを止めた。(46)
 レーニンは、活動へと労働者を組織することを選んだ。
 その当時、ペテルスブルクでは社会民主主義知識人のサークルが、個々の労働者および労働者たち自身が相互支援と自己研修を目的として作った中央労働者団体と接触して活動していた。
 レーニンはその社会民主主義サークルに加入した。しかし、リトアニアのユダヤ人によって定式化された『煽動』戦術が1895年遅くに採用されたときになって、その団体の仕事に従事しはじめた。
 『煽動』戦術は、労働者の政治への嫌悪感を克服するために、経済的な(つまり非政治的な)不満をもとにして産業ストライキを行おうと呼びかけた。 
  いかに政府と秩序維持の力が、汚染した企業経営者に味方しているかをひとたび知れば、労働者は政治体制の変革なくして自らの経済的不満を満足させることはできないと悟るだろう、と考えられた。
 これを悟れば、労働者は政治化するだろう、と。 
 マルトフから『煽動』戦術を学んだレーニンは、ペテルスブルクの労働者たちに文書を配布する仕事に加わった。その文書資料は、法のもとでの労働者の諸権利を説明し、その諸権利がいかに使用者によって侵害されているかを示すものだった。
 その成果は微々たるもので、労働者への影響力は疑わしかった。しかし、1896年5月に3万人の首都の労働者が自発的にストライキを実施したのは、社会民主主義者たちには大きな歓びだった。//
 そのときまでレーニンとその仲間は、1895-96年の冬にストライキを誘発したとして収監されていた。
 にもかかわらずレーニンは、『煽動』戦術の正しさが立証されたと思った。そして、織物ストライキのあとで彼はこう書いた。『工場所有者に対する日常生活の必要のための労働者の闘争』は、『<それ自体で不可避的に>労働者に<国家と政治の問題>を連想させる。』(47)。
 レーニンは党の任務を、つぎのように定義した。//
 『ロシア社会民主党は、その任務が、労働者階級の意識を高め、その組織を支援し、闘争の真の到達点を示すことによって、ロシア労働者の闘争を助けることにある、と宣言する…。
 党の任務は、労働者のための当世風の方法を脳内に捏造することにではなく、労働者運動に<加入>すること、労働者を啓蒙すること、そして<すでに開始されている>闘争において労働者を<助ける>ことにある。』(48) //
 逮捕されたあとの審問中に、レーニンは、警察が間違ってP・K・ザポロヘツという名の仲間のものだとした原稿が自ら書いたものであることを否認した。 
 その結果としてザポロヘツは、追加して2年間の収監と流刑の罰を負うことになった。
 レーニンはシベリアでの3年間の流刑(1897-1900年)を比較的に快適に過ごし、同志たちと継続的に連絡し合ってもいた。
 彼は読書し、文章を書き、翻訳し、熱心に身体運動も行った。(*) //
  (*) シベリアに同行していたレーニンの内縁の妻、ナデジダ・クルプスカヤのために、彼女と正式に婚姻しなければならなかった。ロシア政府がこの結婚を承認しなかったので、婚礼が教会で催された(1898年7月10日)。Robert H. McNeal, 革命の花嫁: レーニンとクルプスカヤ (1972) p.65。レーニンもその妻も、彼らが書いたものの中でこの当惑した出来事に言及していない。
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 ②につづく。
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