秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

マルクーゼ

2040/L・コワコフスキ著第三巻第11章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。<第11章・マルクーゼ>へと進んでいる。分冊版、p.399-p.402。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第1節・ヘーゲルとマルクス対実証主義②。
 (5)実証主義というものは、哲学一般はもとより批判的弁証法哲学をさほど否定するものではないのだが(真の意味での哲学はつねに反実証主義的なのだから)、経験による事実を受容すること、そうして現実に生起する全ての状況の有効性を肯定すること、を基礎にしている。
 実証主義の観点からすると、どんな客体であれ、それを合理的に指し示す(designate)のは不可能だ。すなわち、客体は、恣意的な決定の結果であり、理性に基礎があるのではない。
 しかし、真実を探求するのが任務である哲学は、ユートピアを怖れない。なぜならば、真実は、現存する社会秩序では実現することができないかぎり、ユートピアであるのだから。
 批判的哲学は、未来へと訴えなければならない。ゆえに、事実にもとづくのではなく、理性の要求のみを基礎にしなければならない。批判的哲学は、人間の経験的状態ではなくて、人間がそうなることができるもの、人間の本質的な存在にこそ、関係しているのだ。
 実証主義は、対照的に、現存する秩序とのあらゆる妥協を是認し、社会的諸条件を判断する権利を投げ棄てる。//
 (6)実証主義の精神は、社会学によく例証されている。-特定の学派ではなくて、コントの規準に則る知識の一部門としての社会学それ自体だ。
 この種の社会学は、意識的に対象を何も限定せず、社会現象を描写する。そして、共同的生活の法則を考察するまでに進んだとすれば、現実に作動している法則を超えてさらに進むのを拒否する。
 このことから、社会学は、受動的な適応の道具だ。その一方で、批判的合理主義は、理性自体にその力の淵源をもつのであり、その力でもって、世界が理性に従うことを要求する。//
 (7)さらに、実証主義は順応主義と同じであるばかりか、全体主義的教理や社会運動の全てとの同盟者だ。その主要な原理は秩序の原理であり、権威主義的システムが提供する秩序のために自由を犠牲にする用意が、いつでもある。//
 (8)マルクーゼの主張全体が、我々は経験的データとは無関係に合理性がもつ先験的の要求を認識することができる、という信念に依拠していることは明らかだ。その合理性の要求に従って、世界は判断されなければならない。
 そしてまた、人間性の本質を我々は認識している、あるいは、「真の」人間存在は経験的なそれとは真反対のものだろう、という信念にも。
 マルクーゼの哲学は、理性の超越性にもとづいてのみ、理解することができる。但し、理性は歴史的過程のうちでのみ「明らかになる」。 
 しかしながら、この教理は、歴史的誤謬と論理的誤謬の、いずれにももとづいている。//
 (9)ヘーゲルに関するマルクーゼの解釈は、ほとんど正確に、マルクスが攻撃した青年ヘーゲル主義者たちと同じだ。
 ヘーゲルはたんに、事実をそれ自体の規準で評価する、超歴史的理性の主張者だとして提示されている。
 我々は、この点に関するヘーゲルの思考の曖昧さを、一度ならず叙述してきた。
 しかし、反ユートピア的特質を完全に無視して、ヘーゲルの教理を人間に「至福」(happiness)を達成する方途を語る超越的理性への信念へと還元してしまうのは、ヘーゲル思想のパロディだ。
 付け加えるに、マルクスをヘーゲル主義論理の範疇を政治の領域へと変換する哲学者だと叙述するのは、誤導的(misleading)どころではない。
 マルクーゼの議論は、マルクスのヘーゲル、そしてヘーゲル左派に対する批判の本質的特徴の全てを無視している。
 全ての種の権威主義的体制に対する自由の擁護者だとヘーゲルを描こうとマルクーゼは熱中して、マルクスによる、ヘーゲルの主体と叙述されたものの反転(reversal)に対する批判には全く言及していない。その反転によって、個人の生活の諸価値は、普遍的な理性の要件に依存するようになるのだ。
 だがなお、正しい解釈にどの程度に依拠しているかに関係なく、この批判は、マルクスのユートピアにとっての出発地点だった。そして、ヘーゲルからマルクスへの調和的移行を叙述するためにこの点を無視するのは、歴史を侮辱している。
 マルクーゼによる描写は、青年ヘーゲル主義やヘーゲルについての彼らのフィヒテ解釈に対するマルクスの批判を軽視することで、さらに歪んでいる。
 自分自身の哲学上の位置に関するマルクスの説明は、まず第一には、超歴史的理性の至高性への青年ヘーゲルの信念から解放されていることにもとづいていた。-これはまさに、マルクーゼがマルクスに帰そうとしている信念だ。//
 (10)このような歪曲にもとづいて、マルクーゼは、現代の全体主義的教理はヘーゲル的伝統とは何の関係もない、実証主義を具現化したものだ、と主張することができる。
 しかしながら、実証主義にいったい何があるのか?
 マルクーゼは、「事実崇拝」というラベルに同意し、その主要な構成者として、Comte、Friedrich Stahl、Lorenz von Stein、を、そしてSchelling すらも、挙げる。
 しかしながら、これは、恣意的で非歴史的な陳述を行うための、諸思想の混乱だ。
 Schelling の「実証主義哲学」は、「歴史的実証主義」と一致する名前以外には何もない。
 Stahl とvon Stein は実際に保守主義者で、ある意味ではComte だった。
 しかし、マルクーゼは所与の秩序の支持者の全てを「実証主義者」だと叙述し始める。そして、明白な事実に逆らって、全ての経験論者は、つまり理論を事実で吟味させようと望む全ての者は、自動的に保守論者だと、主張し始める。
 歴史的意味での実証主義は-Schelling とHume をほとんど区別することができないという意味とは反対に-、とりわけ、知識の認識上の価値はその経験的な背景に依存するという原理を具現化するものだ。したがって、科学はプラトンやヘーゲルのやり方で本質的なものと現象的なものの区別をすることができず、事物の所与の経験的状態はそれら事物の真の観念とは一致していないなどと我々は語ることもできない、ということになる。
 実証主義は「真の」人間存在または「真の」社会の規範を決定する方法を我々に提示してくれない、というのは本当のことだ。
 しかし、経験論は決して、現存する「事実」または社会的諸制度はたんにそれらが存在するという理由だけで支持されなければならない、と我々が結論づけることを強いはしない。それとは反対に、叙述的判断から規範的判断を帰結させるのを我々に禁止するのと同じ根拠でもって、そのような結論づけを論理的に馬鹿げたものだと見なして、明瞭に拒否するのだ。//
 (11)マルクーゼは実証主義と全体主義的制度との間の論理的連結関係を主張する点で間違っているのみならず、歴史的連環に関する彼の主張も、事実に全く反している。
 中世後半以降にイギリスで発展して人気を博した実証主義の思想は、それなくしては我々は現代科学、民主主義的法制あるいは人間の権利に関する考えを持ち得なかったもので、最初から、消極的自由や民主主義的諸制度の観念と分かち難く連結していた。
 経験主義の原理にもとづいて人間の平等という教理を設定して伝搬させたのは、また、法のもとでの個人の自由の価値という教理についてもそうしたのは、ヘーゲルではなく、ロック(Locke)やその継承者たちだった。
 20世紀の実証主義と経験論は、とくに分析学派といわゆる論理経験主義者は、ファシストという動向とは何の関係もないばかりか、例外はあるものの、全く明瞭な用語でもってその動向に反対している。
 かくして、実証主義と全体主義的政治の間には、いかなる論理的連結関係も歴史的連結関係もない。-マルクーゼの若干の言及が示唆するように、「全体主義的」という語が「実証主義」という語のもつ通常の意味とは離れた意味で理解されているのでないかぎりは。
 (12)他方で、論理的および歴史的論拠のいずれも、ヘーゲル主義と全体主義思想との間の積極的関係を、有力に示している。
 もちろん、ヘーゲルの教理は現代の全体主義国家を推奨することになる、と言うのは馬鹿げているだろう。しかし、同じことを実証主義について言うのと比べると、馬鹿さ加減は少ないだろう。
 このような推論は、ヘーゲル主義から多数の重要な特質を剥ぎ取ってこそ行うことができる。しかし、実証主義からは、このような推論を全く行うことができない。
 マルクーゼが行うように証拠を何ら示すことなく主張することができるのは、実証主義とは事実崇拝だ、ゆえにそれは保守的だ、ゆえにそれは全体主義的だ、ということなのだ。
 ヘーゲル主義の伝統が非共産主義的全体主義の哲学上の根拠としては何ら重要な役割を果たさなかった、というのは本当だ(マルクーゼは、この論脈では共産主義の多様さについては何も語らない)。
 しかし、マルクーゼがGiovanni Gentile 〔イタリア哲学者〕の事例に至るとき、彼は単直に、Gentile はヘーゲルの名前を用いたけれども、実際にはヘーゲルと一致するところは何もなく、実証主義者にきわめて近かった、と宣告している。
 ここで我々は、「正当性に関する疑問」と「事実に関する疑問」について混乱する。なぜならば、マルクーゼは、ヘーゲル主義は事実の問題としてファシズムを正当化するものとして利用された、というあり得る異論に対して反駁しようとしているのだから。
 ヘーゲル主義は不適切に利用されたと語るのは、この異論に対する回答になっていない。//
 (13)簡潔に言えば、実証主義に対するマルクーゼの批判全体は、そしてヘーゲルとマルクスに関する彼の解釈のほとんどは、論理的にも歴史的にも、恣意的な言明の寄せ集め(farrago)だ。
 さらに加えて、これらの言明は、人類の地球的解放に関するマルクーゼの明確な見解や至福、自由および革命に関する彼の思想と統合して、結び合わされている。
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 第1節は終わり。第2節の表題は、<現代文明批判>。

2039/L・コワコフスキ著第三巻第11章<マルクーゼ>①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。<第11章・マルクーゼ>へと進む。分冊版、p.396-。合冊版、p.1104-。
 第1節の前の見出しがない部分を「(序)」とする。
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 第11章・マルクーゼ-新左翼の全体主義ユートピアとしてのマルクス主義。
  (序)
 (1)マルクーゼは、1960年代遅くまでは学界の外部では著名にはなっていなかつた。その1960年代遅くに彼は、アメリカ合衆国、ドイツおよびフランスでの反乱する学生運動によってイデオロギー上の指導者として喝采を浴びた。
 マルクーゼが「学生革命」の精神的指導者になろうと追求したと想定する、いかなる根拠もない。しかし、その役割が自分に与えられたとき、彼は拒まなかった。
 彼のマルクス主義は、かりにマルクス主義の名に値するとすればだが、イデオロギー上の奇妙な混合物だった。
 合理主義的ユートピアの予言者としてのヘーゲルとマルクスを独自に解釈して、彼のマルクス主義は、「学生革命」の人気あるイデオロギーへと進化した。そのイデオロギーでは、性の自由化が大きな役割を担い、学生たち、過激な少数派およびルンペン・プロレタリアートに譲るために、労働者階級は注意が向かう中心から追い出された。
 マルクーゼの重要さは、1970年代には相当に弱まった。しかし、彼の哲学は、論議するになおも値する。その本来の長所が理由なのではなく、おそらくは一時的なものだけれども、重要な、我々の時代でのイデオロギーの変化の趨勢と合致しているからだ。
 マルクーゼの哲学は、マルクス主義の教理で成り立ち得る、驚くべき多様な用い方があることを例証することにも役立つ。//
 (2)マルクス主義の解釈に関するかぎりでは、マルクーゼは一般に、フランクフルト学派の一員だと見なされている。彼はその否定の弁証法でもってこの学派と連携し、合理性という超越的規範を信じていた。
 マルクーゼは1898年にベルリンで生まれ、1917-18年には社会民主党の党員だった。しかし、のちに彼が書いたように、Liebknecht とRosa Luxemburg の虐殺のあとで、社会民主党を離れた。それ以降、どの政党にも加入しなかった。
 彼はベルリンとフライブルク(im Breisgau〔南西部〕)で勉強して、ヘーゲルに関する論文で博士の学位を取った(ハイデガーが指導した)。
 その<ヘーゲル存在論と歴史性理論の綱要>は、は1931年に出版された。
 彼はまた、ドイツを出国する前に、その思考の将来の行く末を明らかに予兆する多数の論文を執筆した。
 彼は、それらを発表したあとですぐに、マルクスのパリ草稿の重要性に注意を喚起した最初の者たちの一人になった。
 ヒトラーの権力継承のあとで出国し、一年をスイスで過ごし、そのあとはアメリカ合衆国に移って、ずっとそこで生きた。
 ニューヨークのドイツ人<エミグレ>が設立した社会研究所で、1940年まで仕事をした。そして、戦争中は、国家戦略情報局(OSS)に勤務した。-のちに知られたこの事実は、学生運動での彼の人気を落とすのを助けた。
 マルクーゼは多数のアメリカの大学で教育し(Columbia、Harvard、Brandies、そして1965年からSan Diego)、1970年に引退した。
 1941年に<理性と革命>を刊行した。これは、実証主義批判にとくに着目してヘーゲルとマルクスを解釈するものだった。
 <エロスと文明>(1955年)は、フロイトの文明理論にもとづいて新しいユートピアを設定し、「内部から」精神分析学を論駁しようとする試みだった。
 1958年に<ソヴィエト・マルクス主義>を刊行したあと、1964年に、彼の書物のうちおそらく最も広く読まれた、<一次元的(One-Dimensional)人間>と題する技術文明に対する一般的批判書を出版した。
 他の短い諸著作のいくつかも、多くの注目を惹いた。とくに、1965年の「抑圧的寛容」、1950年代から60年代の日付で書かれてのちの1970年に<五つの講義-精神分析・政治・ユートピア>と題して刊行された一連の小考集だ。//
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 第1節・ヘーゲルとマルクス対実証主義。
 (1)マルクーゼが継続的な攻撃対象としたのは、きわめて個人的な態様で定義する「実証主義」、(消費と贅沢への崇拝ではなく)労働と生産への崇拝にもとづく技術文明、アメリカ的中産階級の諸価値、(アメリカ合衆国をその顕著な例とするために定義される)「全体主義」、およびリベラル民主主義と寛容と結びつく全ての価値や制度だ。
 マルクーゼによれば、これら全ての攻撃対象は、統合された全体物を構成する。そして、彼は、この基礎的な統合状態を説明しようと努力する。//
 (2)マルクーゼは、実証主義を「事実を崇拝する」ものだとして攻撃する点で、ルカチに従う。実証主義は歴史の「否定性」を感知するのを妨げるのだ。
 しかし、ルカチのマルクス主義は主体と客体の間の弁証法や「理論と実践の統合」に集中していたが、そうしたルカチとは異なってマルクーゼは、理性の否定的、批判的な機能を最も強調する。理性は、社会的現実を判断することのできる規準を提供するのだ。
 マルクス主義とヘーゲルの伝統との間の連結関係を強調する点では、ルカチに同意する。
 しかし、その連結の性質に関しては、ルカチとは完全に異なっている。すなわち、マルクーゼによれば、ヘーゲルとマルクスの本質的な基礎は、主体と客体の一体化に向かう運動にではなく、理性の実現に向かう運動にある。理性の実現は同時に、自由と至福の実現でもある。//
 (3)マルクーゼは、1930年の論考で、理性(reason)は哲学と人間の宿命の間に連環を与える基礎的な範疇だ、という見方を採用していた。
 理性に関するこの考えは、現実は直接に「合理的」なのではなく合理性へと還元することができるものなのだ、という確信にもとづいて展開していた。
 ドイツ観念論哲学は、経験的現実を非経験的規準で判断することによって、理性を論証のための最高法廷にした。
 この意味での理性が前提とする自由は、人間が生きる世界を人々が完全に自由に判断することができないとすれば、それを宣明したところで無意味だろうような自由だ。
 しかしながら、カントは、現実を内部領域へと転位させ、それを道徳的な要求(imperative)にした。ヘーゲルは一方で、それを必然性という拘束の範囲内へと限定した。
 しかし、ヘーゲルの自由は、人間がその現実的宿命を自覚することのできる理性の働きの助けを借りてのみ可能だ。
 かくしてヘーゲルは、哲学の歴史上は、人間存在に自分たち自身の真実を明らかにする理性、換言すると真正な人間性の命令的要求、というものの正当性を戦闘的に擁護する者として立ち現れる。
 理性の自己変革的作用は、歴史の全ての段階に新しい地平を切り拓く否定の弁証法を生む。そして、経験的に知られるその段階の可能性をさらに超えて前進する。
 このようにして、ヘーゲルの著作は永続的な非妥協性を呼び起こすものであり、革命を擁護するものだ。//
 (4)しかしながら-そしてこれが<理性と革命>の主要な主張の一つだが-、理性は世界を支配しなければならないとする要求は、観念論の特権ではない。
 ドイツ観念論は、イギリス経験論と闘うことで文明に寄与した。その経験論は、「事実」を超えて進んだり<先験的に>合理的な観念に訴えかけることを禁止し、その結果として大勢順応主義や社会的保守主義を支持していた。
 しかし、批判的観念論は、理性は思考する主体のうちにだけ存在するものと考え、物質的で社会的な諸条件の領域へとそれを関係づけることに成功しなかった。そして、それを達成することが、マルクスに残された。
 マルクスのおかげで、理性の実現という命題は、「真の」観念または人間性の真の本質と合致する社会的諸条件の合理化という要求となった。
 理性の実現は、同時に、哲学の優越であり、その批判的機能が十分に発揮されることだ。//
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 ②へとつづく。 

2030/L・コワコフスキ著第三巻第10章第7節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.387-p.392。合冊版、p.1096-1100.
 一部について、ドイツ語訳書の該当部分を参照した。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第7節・批判理論(つづき)-ユルゲン・ハーバマス(Jürgen Habermas)。
 (1)ハーバマス(Habermas)(1929年生れ)は現役ドイツ哲学者の代表者の一人に位置づけられる。
 彼の主要な書物の表題-<理論と実践>(1963年)、<認識と利益>(1968年)、<「イデオロギー」としての技術と科学>(1970年)-は、その主要な哲学的関心を示している。
 彼の著作は、理論的推論-歴史学および社会科学の意味のみならず自然史の意味での-と人間の実践的必要、利益および行動の間のあらゆる種類の連結関係を、反実証主義的に分析することで成っている。
 しかしながら、それは知識に関する社会学ではなくむしろ認識論的批判であり、この批判が示そうと意図しているのは、いずれの理論も実証主義および分析主義学派で案出された規準では適切な根拠を見出すことができず、また実証主義はつねに非理論的な関心に従った想定をしているけれども、実践的な関心と理論的な研究とを合致させる観点を見出すのは可能だ、ということだ。
 こうした見解には、フランクフルト学派の関心領域にたしかに入る主題がある。
 しかし、ハーバマスは、彼の前世代の指導者たちに比べて、より分析的に厳密化したものを提示する。
 (2)ハーバマスは、「啓蒙の弁証法」というホルクハイマーとアドルノの主題を採り上げる。-人類を偏見から解放するのに寄与する理性がその内在的な論理に従ってそれ自体に反発し、偏見と権威を維持するのに奉仕する、という過程のことだ。
 Hollbach によって代表される啓蒙主義の古典的時代には、理性は既存の秩序に対する社会的かつ知的な闘いの武器だった。そして、闘う際の大胆さという重要な美徳を維持するものでもあった。
 啓蒙主義からすると邪悪と偽善は同一のもので、解放と真実もまたそうだった。
 それは価値評価をなくしてしまおうとは考えなかったけれども、導かれるべき諸価値を公然と宣言した。
 フィヒテ(Fichte)の理性は、カント的批判にもとづくもので、ゆえに経験論のご託宣を呼び込むことはなかった。それにもかかわらず、それ自体がもつ実践的性格を意識していた。
 理解するという行為と世界を構成するという行為は、同時に行われる。理性と意思がそうであるのと同じく。
 自己を解放する自我の実践的利益は、理性の理論的活動ともはや分離することができない。
 マルクスにとっても、理性は批判的な力だ。しかし、フィヒテの見方とは対照的に、その理性の強さの根源は道徳的意識にあるのではなく、その解放する活動が社会的な解放の過程と同時進行することにある。
 虚偽の意識を批判することは、同時に虚偽の意識が由来している社会的諸条件を廃棄するという実践的行為だ。
 かくして、マルクスの範型での啓蒙主義は、理性と利益の連結関係を明瞭に維持している。
 しかしながら、科学、技術および組織の進展でもって、この連環は破壊された。
 理性は、次第にその解放機能を喪失した。一方では、合理性はますます技術的効率性に限定され、たんなる組織上の手段以外の目標を提示していない。
 理性は道具的な性格をおび、物質的または社会的技術の廃止に役立つ意味発生機能を放棄している。
 啓蒙主義は、それ自体に反抗している。
 理性は人間の利益から自立しているという妄想は、実証主義の認識論のように、また価値判断から自由な科学的プログラムのように是認されており、そうして、解放機能を遂行することができなくなった。//
 (3)しかしながら、ハーバマスは、フランクフルト学派の他の者たちと同様に、ルカチの意味での、または実用主義の意味での「実践の優位」に関心はない。
 彼が関心をもつのは、技術とは異なるものとしての実践という観念への回帰だ。言い換えれば、実践的機能を意識した、かつ「外部から」課されたいかなる目的にも従属しないで何とかしてそれ自体の合理性によって社会的な目的を構成する、そのような理性の観念の回復だ。
 ハーバマスは、そのゆえに、実践的でかつ理論的な理性を統合することのできる知的な能力(faculty)を得ようとする。それは、目標の意味を見極めることができ、従って目的に関して中立であることができず、また中立ではないだろうからだ。//
 (4)しかしながら、ハーバマスの批判の最重要点は、そのような中立性は存在しなかったし、あり得なかったし、実際にも達成されないものだ、そして、実証主義者の基本的考え方や価値から自由だとする理論の考え方は自己破壊の段階での啓蒙主義の幻想だ、と主張することにある。
 フッサール(Fusserl)は、正当に、こう論じた。自然科学が既製の現実、未構成の事物それ自体だとして提示するいわゆる事実または客体は、実際には、始原的な、自発的に創造された<生界(Lebenswelt)>だ。また、全ての科学は、前思考的な(pre-reflective)理性から、多様な実践的な人間の利益に従う一連の形態を継受している、と。
 しかしながら、フッサールは、理論に関する、実践の後滓がないとする自分自身の考えがのちには実践的目的のために使われることはない、と想定している点で、間違っていた。
 なぜならば、理論が実践的目的をもつのだとかりにすれば、現象学はいかなる宇宙論(cosmology)も、いかなる普遍的秩序に関する観念も、前提とすることができないのだから。
 ハーバマスは、つづける。自然科学は、技術という利益を基礎にして形成されている。
 自然科学は、その内容は実践的考慮に影響されないという意味で中立的なのではない。
 自然科学がその貯蔵物として用意している素材は、世界に存在するがままの事実の反射物ではなく、実践的な技術活動の有効性を表現したものだ。
 歴史的解釈(historico-hermeneutic)学もまた、別の形態によってではあるが、実践的利益によって部分的には決定されている。つまり、この場合は、「利益」とは、意思疎通を改善するために、人間界での理解可能領域を維持し拡大することにある。
 理論的活動は、実践的な利益から逃れることはできない。すなわち、主体・客体関係は、それ自体が何がしかの程度の利益を包含していなければならない。そして、人間の知識のどれ一つとして、人類の歴史との関係を除外してしまえば知的(intelligible)なものではない。人類の歴史には、そうした実践的利益が結晶化しているのだ。
 全ての認識上の規準の有効性は、その認識を支配している利益に依存している。
 利益は、-労働、言語、権威という-三つの分野または「媒介物」で作動する。そして、利益のこれら三類型に、それぞれ、自然科学、歴史的解釈学、社会科学が対応する。
 しかしながら、自己省察または「省察に関する省察」を行えば、利益と認識は合致する。そして、「解放する理性」が形を成すのは、この分野でこそなのだ。
 かりに、理性と意思、あるいは目的決定と手段分析、が一致する地点を発見することができないとすれば、我々は、つぎのように咎められることになるだろう。すなわち、先ずは表向きは中立的な科学がある、と。次には目標に関して根本的に非合理的な決定をしている、と。この後者の場合に合理的でないとは決して批判することはできず、どの目標も同等程度のものであるにもかかわらず。//
 (5)ハーバマスは、マルクーゼ(Marcuse)のようには、科学を批判することまでは進まなかった。すなわち、現代科学のまさにその内容が、技術的応用とは反対に、反人間的な目的に奉仕しているとは、あるいは、現代の技術は本来的に破壊的なもので人間性の善のために用いることができず、異なる性格の技術に変えられなければならないとは、主張しない。
 このように語ることは、現存する科学と技術に代わる選択肢を提示することができてのみ、意味があるだろう。マルクーゼは、そうすることができない。
 全く同じように、科学と技術は、それらの応用という点でも完全に潔白であるのではない。これらが大衆の破壊と僭政体制の組織化のための武器になる場合のあることを考えるならば。
 重要なのは、現代の生産諸力と科学が現代の産業社会を政治的に正当化する要素になった、ということだ。
 「伝統的社会」は、世界に関する神話的、宗教的および形而上学的解釈にもとづく諸装置によって、正統化されていた。
 資本主義は、生産諸力の発展のための自己推進機構を作動させて、変化と革新の現象を制度化し、権威の正統化のための伝統的諸原理を投げ棄てた。そして、等価の商業的交換に対応する諸規範-社会的組織化の根拠としての相関性(mutuality)という規則-へと置き代えた。
 このようにして、所有関係は直接的に政治的な意味を失い、市場の法則が支配する生産関係になった。
 自然科学は、技術的応用の観点からその射程範囲を定義し始めた。
 同時に、資本主義の進展につれて、生産と交換の分野への国家介入がますます重要になり、その結果として、政治はたんなる「上部構造」の一部ではなくなった。
 国家の政治活動-公的生活の組織化を改善する純粋に技術的な手段だと見られたもの-は、同じ目的のために役立つと想定された科学や技術と融合する傾向をおびた。
 生産諸力と権力の正統化を区別する線は曖昧になった。このことは、生産機能と政治機能が明瞭に分離していたマルクスの時代の資本主義とは異なっている。
 かくして、土台と上部構造に関するマルクスの理論は、時代遅れになり始めた。同じことが、(科学の巨大な重要性を生産力の一つと考えた)マルクスの価値に関する理論についても言えた。
 科学と技術は、技術モデルにもとづく社会像や人々から政治的意識、つまり社会的目標に関する自覚、を剥奪する技術政的(technocratic)イデオロギーを生み出したという意味で、「イデオロギー的」機能をもった。それは、人間の全諸問題は技術的、組織的な性格のもので、科学の手段によって解決することができる、という意味を含むものだった。
 技術政的心性(mentality)は、暴力を行使しないで人々を操作することを容易にする。また、「物象化」へと進むさらなる一歩なのであって、それ自体は目標について何も語らない技術的活動と人間に特有の関係性の間の区別を曖昧にする。
 経済に対する強い影響力を国家諸制度がもつ状況では、社会的対立もまたその性格を変え、マルクスが理解したような階級対立とはますます遠ざかる。
 新しいイデオロギーはもはやたんなるイデオロギーではなく、技術的進歩のまさにその過程と溶け合ってしまう。
 それを見分けるのは困難になり、その結果として、イデオロギーと現実の社会的諸条件はもはや、マルクスがそうしたようには、区別することができない。//
 (6)生産諸力の増大は、それ自体が解放の効果をもつのではない。
 そうではなく反対に、その諸力の「イデオロギー化された」形態をとって、人々が自分たちを事物(things)だと理解するようにさせ、技術と実践の区別を抹消する傾向にある。-この実践という用語が意味するのは、行為主体がその目標を決定する自発的活動だ。//
 (7)マルクスの批判の目的は、人々は真に主体にならなければならないということ、換言すると、自分たち自身の生活を合理的かつ意識的に統御しなければならない、ということだった。
 しかし、社会生活による自主規制は実際的または技術的な問題のいずれかだと理解することができるかぎりで、この批判の意味するところは不明確だった。そして、技術的な問題の場合は、無生物の客体を技術的に扱うのに似た操作の過程だと考えることができた。
 こうして、物象化は無くなりはせず、さらに悪化した。
 他方で、真の解放は、全ての者が社会的諸現象の統御に能動的に関与することを意味する範疇である「実践」へと回帰することとなった。言い換えれば、人々は客体であってはならず、主体でなければならない。
 この目的を達成するためには、ハーバマスは考察するのだが、人間の意思交流(communication)や現存する権力システムに関する自由な討議の改善、および生活の脱政治化(de-politicization)に反対する闘いが存在しなければならない。//
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 ②へとつづく。

2025/L・コワコフスキ著第三巻第10章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.376-p.380.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第5節・「啓蒙主義」(enlightenment)批判②。
 (8)一般的に言って著者たちの「啓蒙」概念は風変わりで、彼らが嫌悪する全てのものを非歴史的に構成した混合物だ。実証主義、論理、演繹と経験科学、資本主義、貨幣の権力、大衆文化、リベラリズム、およびファシズム。
 彼らの文化についての批判は-商業化された芸術の有害さについてそれ以来常識的なものになってきた正しい観察は別として-、文化の享受がエリートたちに留保されてきた時代への郷愁に満ちている。つまりそれは、大衆に対する封建的軽侮の気分をもつ、「ふつうの人間の時代」に対する攻撃だ。
 大衆社会は前世紀に、多様な地域から攻撃された。とりわけ、Tocqueville、Renan、Burkhardt およびNietzsche によって。
 ホルクハイマーとアドルノの新しさは、この攻撃を実証主義と科学に対する激しい批判と結びつけ、マルクスに従って、悪の根源を労働の分化、「物象化」および交換価値の支配のうちに感知することだ。
 しかしながら、彼らは、マルクスよりもさらに進んだ。彼らによれば、啓蒙主義の原罪は、人間を自然から切り離し、自然をたんなる利用の対象だとして扱い、その結果として、人間が自然秩序と同質化され、それと同じように人間が利用されている、ということにある。
 このような過程は、性質ではなく量的に表現することができるもののみにに関心を持ち、技術的目的に役立つようにした、科学にあるイデオロギーの反映だ。//
 (9)こう理解することのできる攻撃は、本質的にはロマン派的伝統のうちにある。
 しかし、著者たちは、頽廃状態から脱するいかなる方法も提示しない。どうすれば再び自然と親しい友人になることができるかを、あるいはどうすれば交換価値を排除して貨幣や計算なしで生活することができるかを、語らない。
 彼らが提示しなければならない唯一の解決策は、理論的な推論だ。そして、我々は、彼らがその主要な長所だと想定しているのは論理と数学による僭政からの解放なのではないか、と推察できるかもしれない(彼らは、論理は諸個人に対する侮蔑を意味する、と語る)。//
 (10)つぎのことは注目に値する。すなわち、社会主義者は資本主義は貧困を生み出すと公式には非難するけれども、フランクフルト学派がもつ主要な不満は、資本主義が豊かさを生み、多元的な欲求を充足させ、そうして文化の高次の(higher)形態にとって有害だ、ということにある。//
 (11)<啓蒙の弁証法>は、現代哲学に対するマルクーゼ(Marcuse)ののちの攻撃の全ての要素を含んでいる。価値の世界に関する実証主義的「中立主義」を主張し、人間の知識は「事実」によって統御されなければならないと強調することによって、全体主義に味方している、とする攻撃だ。
 この奇妙な反理(paralogism)は、経験的で論理的な規準の遵守を現状<status quo>への忠誠やあらゆる挑戦の峻拒と同一視するもので、フランクフルト学派の諸著作に繰り返して何度も現れる。
 かりにその想定する実証主義と社会的保守主義または全体主義(この著者たちはこの二つを同一のものだと見なす!)の間の連結関係を歴史に照らして検討するならば、明らかになってくる証拠は全く異なっている。すなわち、実証主義者たちはヒューム(Hume)以降、リベラルな伝統との親愛関係に入ったのだ。
 明らかに、上の両者の間には論理的関係はない。
 かりに科学的観察がその客体に対する「中立」性を保ち評価を抑制することが<現状>を擁護するということを意味するとすれば、精神病理学的観察は疾病の肯定を意味すると、そしてその疾病と闘ってはならないと、我々は主張しなければならなくなるはずだろう。
 医学と社会科学との間に重要な違いがあることは、認めよう(この論脈でのフランクフルト学派の者たちの論述は人間の知識の全てに当てはまるのだけれども)。
 社会科学では、観察それ自体が、それが社会の像全体を含めて行われるかぎり、主観性をもつ事柄(subject-matter)の一部だ。
 しかし、だからと言って、できる限り価値判断を抑制している科学者は社会的固定主義または社会順応主義者の代理人だ、ということになるわけではない。その科学者はそうであるかもしれないが、そうでないかもしれない。
 そうではなくて、科学者の観察が「外部的」だとか中立的だということからは、何も推論することはできない。
 一方でかりに、観察者が見方について何らかの実践的関心をもつという意味でのみならず、自分の認識活動を一定の社会的実践の一部だと見なしているという意味で「関係して」いても、その科学者は、多かれ少なかれ、特定の関心には通用力のあると見えるものは何であっても、真実だと理解するよう余儀なくされている。特定の関心とは、自分が一体化する、換言すれば発生論的で実用主義的な真実の規準を用いるような関心だ。
 かりに上の原理が適用されるならば、我々が知るような科学は消失し、政治的なプロパガンダに置き代えられてしまうだろう。
 疑いなく、多様な政治的利益と選好は、多様なかたちで社会科学に反映される。
 しかし、これを最小化するのではなくそうした影響を一般化しようとする規準的考え方は、科学を政治の道具に変えてしまうだろう。全体主義諸国家の社会科学について生じたように。
 理論的な観察と討議は、その自律性を完全に喪失するだろう。これは、別の箇所に示されているような、フランクフルト学派の執筆者たちが望んでいるだろうこととは反対のことだ。//
 (12)科学的な観察それ自体は目的(aims)を生み出さない、ということも本当のことだ。
 一定の言明または仮定が科学の一部になる条件を記述する規準の中に、すでに何らかの価値判断が暗黙に示されているとしてすら、このことは言える。
 科学的手続という神聖な規範は、もちろん、探求者が実際的な目的に役立つ何かを発見しようと欲していることによって、あるいは、彼の関心が何らかの実際的関係によって喚起されているということによって、侵害されることはない。
 しかし、事実と価値の二元論を「克服する」というふりをしつつ(多数のマルクス主義者と同じくフランクフルト学派の執筆者たちは絶えずこれを克服していると自負した)、科学の真実がそれが何であれ何らかの利益に従属しているならば、その規範は侵害されている。
これが単直に意味するのは、科学者が自分自身と一体化する利益に適合するものは何であっても正しい(right)、ということだ。//
 (13)経験的観察の規準は、中世遅くから以降のヨーロッパの精神世界で、数世紀の間に進化してきた。
 そうした発展は何がしかの程度で市場経済の広がりと結びついていた、ということは、確実には証明されていないけれども、あり得る。
 他のほとんどの主題と同様にこれにもとづいて、「批判理論」の支持者たちは、歴史的分析を欠いた、剥き出しの主張のみを行う。
 実際に歴史的な連結関係があるならば、そうした経験的観察規準は「商品フェティシズム」の道具であって資本主義の拠り所だ、ということにはまだ決してならないだろう。
 このような前提は全て、実際には本当に馬鹿げたものだ。
 我々がいま考察している執筆者たちは、ともかくも潜在的には、人間の本性からの需要を充足させる何らかの科学上のもう一つの選択肢がある、と考えたように見える。
 しかし、彼らはそれに関しては、何も語ることができない。
 彼らの「批判理論」は実際のところ、理論には誰も否定しようとはしない大きな重要性があるというだけの一般的言明にすぎない。あるいは、思考でもって「超越する」よう我々を誘導しようとする、そのような現存する社会に対する批判的態度のための釈明物と大した変わりがない。
 しかしながら、超越せよとの命令は、どの方向へと現存秩序は超越されるべきなのかを彼らが語ることができないかぎりは、無意味だ。
 この観点からすれば、すでに記述したように、正統派マルクス主義にはもっと独自性がある。正統派マルクス主義は少なくとも、いったん生産手段が公的に所有され、共産主義政党が権力を掌握するならば、わずかに若干の技術的な問題だけが普遍的な自由と幸福の前に立ちはだかるだろう、と主張しているのだから。
 このようなマルクス主義者による保障は、経験によって完璧に否定されている。しかし、我々は少なくとも、彼らが何を言いたいかがが分かる。//
 (14)フランクフルト学派の<啓蒙の弁証法>その他の書物は、産業社会での芸術の商業化や文化的産物の市場への依存という弱さに関して、多数の健全な指摘を含んでいる。
 しかし、著者たちがこのことが芸術全体や人々開かれた芸術の享受一般を頽廃させると主張するとき、彼らはきわめて疑わしい根拠しか持っていない。
 かりに主張がそのとおりだとすれば、例えば、18世紀のカントリー・フォークはある程度の高次の文化形態をもったが、資本主義が徐々にその形態を奪い、粗野で大量生産の対象物と娯楽へと変化させた、ということを意味するだろう。
 しかしながら、18世紀の田舎者たちが、現在の労働者たちがテレヴィジョンから提供される以上に、教会の儀式、民衆スポーツや舞踊のかたちで高次の文化形態を享受していた、というのは明瞭ではない。
 いわゆる「高次の」文化は消失していないが、かつて以上に、比べものにならないほどに入手しやすくなった。20世紀の劇的で形式的な変化を交換価値の支配によって全て説明することができる、と論じるのは、きわめて納得し難い。//
 (15)アドルノはその多数の書物で芸術の頽廃に言及し、現在の状況には希望がないと考えているように思える。つまり、芸術を再活性化してその適切な機能を果たさせることのできる力の淵源は存在していない、と考えているようだ。
 他方で、「肯定的」芸術があり、現在の状況を受け入れて、混沌しかないところに調和を見出すふりをしている(例えば、Stravinsky)。
 また一方には、抵抗する試みもあるが、現実世界に根ざしていないので、非凡な者たち(例えば、Schönberg)ですら現実逃避に走り、自分たち自身の芸術素材の自己満足的王国に閉じこもっている。
<アヴァン・ギャルド>運動は否定の運動だが、さしあたりは少なくとも、それ以上の何も生み出すことができない。
 それが我々の時代の本当のことだと言うのならば、大衆文化や偽の「肯定的」芸術とは違って、文化の破産を表現する、か弱くて気の滅入る真実なのだ。
 アドルノの文化理論の最後の言葉は、明らかに、我々は異議を申し立てなければならない、だがその申し立ては無駄になるだろう、というものだ。
 我々は過去の諸価値を取り戻すことができない。現在の諸価値は堕落して野蛮だ。そして、未来は何も与えてくれない。
 我々に残されているのは、全体的に否定する素振りをすることだけだ。そのまさに全体性によって、内容が剥奪される。//
 (16)これまで述べたことがアドルノの著作についての適切な説明であるならば、我々はそれをマルクスの思想を継承したものと見なすことはできない、というばかりではない。
 アドルノは、その悲観主義という動機でもって、マルクスと真反対に対立している。
 明確なユートピア像を描くのに失敗して、人間の条件に対する最終的な反応は、言葉にならないほどの嘆き声(inarticulate cry)でのみあり得るだろう。
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 第6節の表題は、<エーリヒ・フロム(Erich Fromm)>。

2005/L・コワコフスキ著第三巻第10章<フランクフルト学派>第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.343-p.347.
 第1節の最初の部分は11段落に分けて人物の系譜等を叙述しているが、改行による段落分けがやや多すぎるので、ここでは便宜的に、(1)で一括する。(2)以降は、原書(=英訳書)の段落分けのとおり。
 <>内は、これまでどおり、原書で斜字体(イタリック)の部分。
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 第3巻/ 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第1節・歴史的・伝記的ノート①。

 (1)社会研究所は、青年知識人たちによって1923年の初めにフランクフルトで設立された。
 資金は彼らのメンバーの一人のFelix Weil の家族によって寄付されたが、研究所は公式にはフランクフルト大学の一部署だった。
 主要な設立者および初期のメンバーは、つぎのとおり。
 Friedrich Pollock(1894-1970)は経済学者で、のちにソヴィエト・ロシアの計画経済に関する最初の真摯な分析で知られた(<ソヴィエト同盟の計画経済の試み, 1917-1927>(1929年))。
 Carl Grunberg (1861-1940)は初代研究所長で、ほとんどのメンバーたちと異なる知的背景をもつ人物だった。
 古い世代の正統マルクス主義者で、労働者運動の歴史を専門とし、<社会主義および労働者運動の歴史に関する雑誌>を編集した。
 Max Horkheimer(1895-1973)は研究所の中心人物で、1930年から所長だった。心理学者かつ教育を受けた哲学者。Hans Cornelius の生徒で、Kant に関する書物の執筆者。
 もう一人の最も初期のメンバーはKarl Wittfogel (1896年生れ)で、当時は共産党員、のちに中国の歴史に関する著作の執筆者として知られた(<中国の経済と社会>(1931年)、<東洋の僭政体制>(1957年))。
 彼は数年間だけ研究所で仕事をした。
 この人物のマルクス主義史上の重要性は、マルクスがほとんど触れなかった、「アジア的生産様式」に関する問題を考究したことだ。
 しかしながら、フランクフルト学派を典型的に代表する者だと見なすことはできない。
 Horkheimer と並んでフランクフルトでの個人的な哲学学派の形成に決定的に寄与したのは、Theodor Wiesengrund-Adorno (1903-1970)だった。1920年代遅くまで研究所には入らなかったけれども。
 哲学者、音楽理論家かつ作曲家で、Husserl の研究で博士の学位を得た。そして、Kierkegaad の美学に関する論著も書いた。
 彼は1925年以降、ウィーンで作曲と音楽理論を研究した。
 Horkheimer とAdorno は、二人の間でフランクフルト学派の具体化を行ったと考えてよいかもしれない。
 Leo Lowenthal (1900年生れ)もかなり遅くに研究所に加わり、文学(literature)の歴史と理論に関する著作でこの学派のイデオロギーに顕著な貢献を行った。
 研究所がドイツを去ったあと、1930年代に、Walter Benjamin (1892-1940)が加わった。この人物は、両大戦間の最も高名なドイツ文学批評家だった。
 しかしながら、彼の著作はマルクス主義の発展に対する寄与という点では重要でない。すなわち、フランクフルト学派の著名な執筆者全ての中で最も、マルクス主義運動とは関係がなかった。
 Wittfogel 以外に共産主義者だったのは、すでに別の章〔第8章-試訳者〕で論述したKarl Korsch 、およびFranz Borkenau だった。
 Borkenau は主として、党と決裂したあと共産主義を攻撃したことで知られている。
 しかしながら、彼の資本主義の成立に関する書物(<封建的世界像からブルジョア的世界像への移行>(1934年))は、フランクフルト学派の所産だと考えてよいだろう。というのは、この書物は、研究所での典型的な研究課題だった、市場経済の広がりと合理主義哲学の間の関係を分析するものだからだ。
 Henryk Grossman (1881-1950)はポーランド・ユダヤ人で、1920年代の遅くから研究所とともに仕事をしたが、典型的なメンバーではなかった。
 この人物は伝統的なマルクス主義正統派に属しており、利益率の低下と資本主義の崩壊に関するマルクスの予言を確認する目的をもって、経済分析に従事した。
 1930年代の初頭に、Herbert Marcuse が研究所に加わった。この人物については、こののちのその活動を説明すべく、別の章〔第11章-試訳者〕で論述する。
 かつてのフロイト主義者の中で最も有名な異端派の一人である、Erich Fromm についても〔第12章-試訳者〕。
 (2)研究所は1932年から、主要機関誌である<社会研究雑誌(Zeitschrift fur Sozialforschung)>を発行した。この雑誌に、この学派の基本的な理論上の文書の多くが掲載された。
 アメリカ合衆国に移ったのち、この<雑誌>は、<哲学と社会科学の研究>というタイトルのもとで2年間継続した(1939-1941年)。//
 (3)1933年初めにナツィスが権力を掌握したとき、もちろん、研究所はドイツでの活動を継続することができなかった。
 従前に支部がジュネーヴに設立されていたので、このときにドイツのメンバーたちはここに移った。
 パリに別の支部が設立され、ここで<雑誌>は発行され続けた。
 Adorno は、亡命生活の最初の数年間を、オクスフォード(Oxford )ですごした。その後1938年にアメリカ合衆国に移った。このアメリカに、研究所のほとんど全てのメンバーたちが遅かれ早かれ到着した(Fromm はその最初の人物だった)。
 Wittfogel は数ヶ月間強制収容所にいたが、最終的には解放された。
 <エミグレ (Émigrés)>〔移民・亡命者たち〕は、コロンビア大学に国際社会研究所を設立した。この研究所はフランクフルトでの企画を継続し、同様の方向にある新しい企画を開始させた。
 1935年以降はパリに住んでいたWalter Benjamin は、1940年9月にナツィスから逃れて、フランス・スペイン国境で自殺した。
 Horkheimer とAdorno は、第二次大戦中をニュー・ヨークとロサンゼルスですごした。
 彼らはそれぞれ1950年と1949年にフランクフルトに戻り、そこの大学で教授職を得た。
 Fromm、Marcuse、Lowenthal およびWittfogel は、アメリカにとどまった。//
 (4)フランクフルト学派の基礎的な考え方は認識論と文明批判のいずれにも当てはまるもので、Horkheimer の一連の論文によって定式化された。この諸論文のほとんどは、<批判的理論>というタイトルで1968年に再発行された(全2巻、A. Schmidt 編)。
 この論文のうち最も一般的で綱領的であるのは、1937年に執筆された「伝統的なものとと批判的理論」と題するものだった。
 その他のものは、多様な哲学上の問題を扱っていた。例えば、批判的理論の、合理主義、唯物論、懐疑主義および宗教との関係だ。
 我々は、Bergson、Diltheyおよびニーチェに関する批評文、あるいは哲学の役割、真実という観念および社会科学の独特の性格に関する小論考も、見出すことができる。
 「批判的理論」という語のHorkheimer の用い方は、彼の哲学的接近方法の三要点を強調することを意図している。
 第一に、マルクス主義を含む既存の諸教理<に対する>自立性。
 第二に、文明は治癒不可能なほどに病んでおり、たんなる部分的改良ではない急進的な改変を必要としている、という確信。
 第三に、現存社会の分析はそれ自体でその社会の一要素、その社会の自己意識の一形態だ、という信念。
 Horkheimer の思考には、マルクス主義の基本的考え方が浸透していた。その考え方とは、哲学、宗教および社会学的思想は異なる社会集団との関係でのみ理解することができ(しかし全てが「究極的には」階級利益に行き着くというのではなく)、その結果として理論は社会生活の一部になる、というものだ。
 彼は他方で、理論の自律性を擁護した。そして、これら二つの観点の間には解消されていない緊張関係がある。
 Horkheimer は、経験論者、実証主義者およびプラグマティストに対してヘーゲルの理性を擁護する。
 我々は真実を確認することができる、それは経験上の仮説または分析的判断としては表現することができない、と彼は確信していた。
 しかし、思うのだが、超自然的な主体に関するいかなる理論をも彼は受容していなかっただろう。
 彼は、科学主義に、換言すれば自然科学で現実に使われている方法は、我々が何らかの価値の認識し得る結果を獲得するために必要とする全ての知的装備で成り立っているという見方に、反対する。
 こうした見方に対して、彼は少なくともつぎの二点で、異論を唱える。
 第一に、自然科学とは違って社会的諸問題については、観察すること自体が観察されるものの中にある一要素だ。
 第二に、知の全ての分野で、経験的および論理的規準に加えて、理性(Reason)の活動が必要だ。
 但し、理性を支配する諸原理は、まだ十分には明瞭になっておらず、我々はそれをどこから導き出すのかはっきりしていない。//
 (5)このようなHorkheimer の思考は、Adorno の<否定的弁証法>のような、のちのフランクフルト学派の諸著作を本質的な点で予兆するものだった。
 すなわち彼は明らかに、伝統的にヘーゲル主義やマルクス主義が疑問視したことを論じるに際して、何とかして、全ての「還元主義」的定式を避けることになる。
 個人の主体性を完全に社会的範疇の中で叙述することはできず、社会的な原因へと完全に解消することもできない。ましてや、社会を心理学上の概念でもって叙述することはできない。
 主体は絶対的な優越性をもつもので、客体のたんなる派生物にすぎないのではない。
 「土台」も「上部構造」も、明らかに第一次的なものではない。
 「現象」と「本質」は、相互に独立して存在するものではない。
 実践は、理論を全て吸収することはできない。
 こうした思考は、しかしながら、厳密なものではなく、我々がただちにあらゆる「還元主義」、教条主義、観念論および世俗的唯物論の誘惑を抑えることができる方法論的規準の基礎を提供するほどのものではない。
 相互作用がある全ての場合で、我々は、相互に影響し合うが自律性の境界が明確に引かれている、そういう諸要素の部分的な自律性を意識して論じなければならない。
 恒常的な「媒介項」の必要を強調して、Horkheimer は明らかに、全ての「還元主義」的伝統に対する自分の立場を守ろうと努めている。//
 (6)Horkheimer からその他のフランクフルト学派の諸著作まで、つぎのことも明らかだ。
 すなわち、批判的理論は、経験論や実証主義の諸教理を、社会諸生活での技術や専門技術制的傾向の礼賛と関連させている。
 この学派の主要な主題の一つは、本質的には価値の世界とは無関係の科学が役立っている技術の進歩によって、世界は危機に瀕している、ということだ。
 かりに科学的な規準と制限が全ての認識活動を支配して、価値判断を生み出すことができないようになれば、科学と技術の進歩は、全体主義社会へと、人間存在の操作のいっそうの容易化と文化の破壊や個性の破壊へと、至ることを余儀なくしている。
 そのゆえに、ヘーゲルの理性(Reason、<Vernunft>)は理解(understanding、<Verstand>)と反対のもので、「全世界的な」判断を定式化することができる。非合理的に決定される目的を達成する手段のみならず、追求すべき目的をも予め定めることによって。
 科学者文化はこれを行うことができないし、行うつもりもない。なぜなら、その文化にとって、目的を科学的に決定することはできず、目的決定は気まぐれの問題に違いないからだ。
 しかしながら、Horkheimer もフランクフルト学派のその他のメンバーたちも、つぎのことを説明することができているようには思えない。
 同じ認識にある同僚専門家たちならば目的と手段の両者をどのようにして決定することができるのか?、あるいは、我々はどのようにすれば、諸現象の観察から、経験的に人がどうであるかのみならず自分自身の本性を完全に実現するならば人はどうなるかをも教えてくれる、そのような隠された「本質」を理解することにまで、進むことができるのか?//
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 第1節②へとつづく。

1897/Wikipedia によるL・コワコフスキ②。

 'Leszek Kolakowski' は英米語版のWikipedia も勿論あるが(日本語版はひどい)、その著、'Main Currents of Marxism' という書物自体も、英米語版Wikipedia は項目の一つにしている。
 以下は、その試訳。2018年12月21日現在。なお、この欄で合冊版の発行年を、所持している版の発行年2008年としたことがあり、最近では書物の最初部分に依拠して最も若い年の2004年としているが、以下では2005年だと記されている。( )は改行後を示すもので、数字も含めて、原文にはない。
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 (1) <マルクス主義の主要潮流-その起源、成長および解体>(〔ポーランド語・略〕は、政治哲学者レシェク・コワコフスキによる、マルクス主義に関する著作。
 英語版での三つの諸巻は、第一巻・創成者たち、第二巻・黄金時代、第三巻・崩壊。
 1976年にパリでポーランド語によって最初に出版され、英語翻訳版は1978年に出た。
 2005年に、<マルクス主義の主要潮流>は一巻の書物として再発行され、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグがそれに付いていた。  
 この著作はコワコフスキによると、マルクス主義に関する「手引き書」という意図だった。
 彼は、かつて正統派マルクス主義者だったが、最終的にはマルクス主義を拒絶した。
 そのマルクス主義に対する批判的な立場にもかかわらず、コワコフスキはカール・マルクスに関するLukács György〔ルカチ・ジョルジュ〕の解釈を支持した。
 (2) この著作は、マルクス主義に関するその論述の包括性とその叙述の質を褒め称える、多数の肯定的な論評を受けた。
 歴史的唯物論、ルカチ、ポーランド・マルクス主義、レオン・トロツキー、ハーバート・マルクーゼおよびフランクフルト学派に関するその論述が、とくに抜きん出ているとされた。
 別の論評者たちはフランクフルト学派に関する彼の扱いにもっと批判的だ。また、カール・カウツキー、ウラジミル・レーニンおよびアントニオ・グラムシに関する取り扱いについて、彼らの評価は、分かれている。 
 コワコフスキは、特定の著者たちまたは諸事件、彼のマルクス主義に対する敵意、ルカチの解釈への依存、に関する論述を省略していると批判された。また、現代世界に対するマルクス主義の訴えまたは影響を説明していない、他のマルクス主義著作者を無視してマルクス主義哲学者に焦点を当てることでマルクス主義の印象を誤らせる、とも。//
 1/背景と出版の歴史。
 コワコフスキによると、<マルクス主義の主要潮流>は、1968年と1976年の間にポーランド語で執筆された。その頃、この著作を共産主義が支配するポーランドで出版するのは不可能だった。
 ポーランド語版はフランスでthe Institute Littérailie よって1976年と1978年に出版され、そのときに、ポーランドの諸地下出版社によって複写された。一方、P. S. Falla が翻訳した英語版は、1978年に、Oxford University Press によって出版された。
 ドイツ語、オランダ語、イタリア語、セルビア=クロアチア語およびスペイン語の各翻訳書版が、そのあとに続いて出版された。
 別のポーランド語版は、1988年にイギリスで、Publishing House Aneks によって出版された。
 この著作は、2000年にポーランドで初めて、合法的に出版された。
 コワコフスキは、最初の二巻だけがフランス語版となって出版されていると書き、その理由を、「第三巻は、フランス左翼たちの間の憤懣が激しかったので出版社がリスクを冒すのを怖れた」、と推測している。
 <マルクス主義の主要潮流>の全一巻合冊版は、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグ付きで、2005年に出版された。
 2/要約。
 (1) コワコフスキは、マルクス主義の起源、哲学上の根源、黄金時代および崩壊〔瓦解〕を論述する。
 彼は、マルクス主義は「二〇世紀の最大の幻想(fantasy=おとぎ話)」、「虚偽と搾取と抑圧の怪物的体系」のための建設物となる完璧な社会という夢想、だと叙述する。
 彼は、共産主義イデオロギーのうちのレーニン主義やスターリン主義はマルクス主義を歪曲したものでも堕落させたものでもなく、マルクス主義のありうる諸解釈の一つだ、と主張する。
マルクス主義を拒絶しているにもかかわらず、彼のマルクスの解釈はルカチから影響を受けている。
 第一巻は、マルクス主義の知的背景を論述し、Plotinus、Johannes Scotus Eriugena、Meister Eckhart、Nicholas of Cusa、Jakob Böhme、Angelus Silesius、Jean-Jacques Rousseau、David Hume、Immanuel Kant、Johann Gottlieb Fichte、Ludwig Feuerbach、Georg Wilhelm Friedrich Hegel および Moses Hess を検証した。カール・マルクスとフリートリヒ・エンゲルスの諸著作の分析があるのは、勿論のことだ。
 ヘーゲルは全体主義の弁解者だということを彼は承認しなかったけれども、ヘーゲルに関して彼は、「ヘーゲルの教理の適用が実際に意味したのは、国家機構と個人とが対立する全ての場合に勝利するのは前者だ、ということだ」と書いた。
 (2) 第二巻は、第二インターナショナルおよびPaul Lafargue、Eduard Bernstein、Karl Kautsky、Georgi Plekhanov、Jean Jaurès、Jan Wacław Machajski、Vladimir Lenin、Rosa Luxemburg やRudolf Hilferding といった人々に関する論述を内容とする。
 これは、経済学者の Eugen Böhm von Bawerk との価値理論に関するヒルファーディングの議論を再述している。
 また、オーストリア・マルクス主義に関しても論述する。
 第三巻は、Leon Trotsky、Antonio Gramsci、Lukács、Joseph Stalin、Karl Korsch、Lucien Goldmann、Herbert Marcuse、Jürgen Habermas および Ernst Bloch といった人々を扱う。フランクフルト学派と批判理論については勿論のことだ。
 コワコフスキは、ルカチの<歴史と階級意識>(1923年)やブロッホの<希望の原理>(1954年)を批判的に叙述する。
 また、Jean-Paul Sartre についても論述する。
 コワコフスキは、サルトルの<弁証法的理性批判>(1960年)を批判する。
 彼は、弁証法的唯物論は、第一にマルクス主義に特有の内容を有しない自明のこと、第二に哲学上のドグマ(dogmas)、第三にたわ言(nonsense)、そして第四に、これらのいずれかであり得る、どう解釈するかに依存する言明 、で成り立つと論じて、弁証法的唯物論を批判する。
 (3) 2005年版で追加した緒言で、コワコフスキは、ヨーロッパでの共産主義の解体の理由の一つはイデオロギーとしてのマルクス主義の崩壊にある、と叙述した。
 彼は、ヨーロッパ共産主義が終焉したにもかかわらず研究対象としてのマルクス主義の価値を再確認し、全く確実ではないにせよ、将来でのマルクス主義と共産主義の再生はなおもあり得る、と述べた。
 彼が追加したエピローグでは、マルクス主義に関するこの著作は「この対象になお関心をもつ数少なくなっている人々にはたぶん有益だろう」と最後に記した。
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 3以降へとつづく。

1535/「左翼」の君へ⑤-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 L・コワコフスキの名をタイトルに使うドイツ語版の書物に、とりあえずだが、以下の二つがある。
 ①Ossip K. Flechtheim, Von Marx bis Kolakowski -Sozialismus oder Untergang in der Barbarei ? (1978). <マルクスからコワコフスキまで-社会主義かそれとも野蛮な没落か ?>
 ②Bogdan Piwowarczyk, Leszek Kolakowski -Zeuge der Gegenwart (2000). <レシェク・コワコフスキ-現代の証人>
 後者の②によると(p.192)、L・コワコフスキは1978年に、当時の西ドイツの雑誌か新聞だと思われるが(Zeit-Gespraeche)、「マルクス主義は民衆のアヘン(das Opnium des Volkes )だ」と題する論考かインタビュー記事を載せている。これはマルクスの著名な、「宗教はアヘンだ(科学的な社会主義とは違う)」との言明を意識したものに違いない。
 この欄の4/21付・№1511に紹介した下斗米伸夫の言葉はこうだった。再掲。
 1980年代前半の「当時の日本では、少なくとも知的世界の中では、現代ソ連論は学問の対象というよりも、まだ政治的立場の表明のような扱いしか受けておらず、戦後や同時代のソ連について議論をするのはやや勇気の要ることでもあった」。/自分も「1970年代末にある論壇誌でチェコ介入についてのソ連外交論を書いたが、学界の重鎮から、それとなくお叱りを受けた」。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要な潮流』の刊行は1970年代の後半(1976、1978年)。なお、ドイツ語版は1977-79年に三巻に分けて刊行されているようだ。
 L・コワコフスキの1978年頃の言葉や書物と、その当時の日本の政治学界や私も実感していたはずの日本の「雰囲気」との間の、この懸隔の大きさを、2010年代、ロシア革命から100年後に日本で過ごしている秋月は、どう理解すればよいのだろうか。
 マルクス-レーニン-スターリン(-フランクフルト学派・毛沢東等)をきちんと「マルクス主義」の範疇で系統立てる、L・コワコフスキの『マルクス主義の主要な潮流』には、まだ日本語へ翻訳書すら存在していない。
 とりわけ、「レーニンとスターリン」を硬く結びつけていること、レーニンに何らかの「幻想」を全く示していないことが、日本の学者・研究者ないし学界や出版業者・諸メディアには<きわめて危険>なのだろうと推測される。
 試訳・前回のつづき。
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 では労働者については ? 二つの対立する見方がある。
 ある(偽のマルクーゼ派の)者は、こいつらはブルジョアジーから賄賂を受け取っていて、もう何も期待できない、と言う。
 今や学生が最も抑圧されていて、社会の最も革命的な階級だ。
 別の(レーニン主義者の)者は、労働者は虚偽の意識をもち、資本家が与える間違った新聞を読んでいるので彼らの疎外を理解できない、と言う。
 我々革命家たちだけが、頭に正しいプロレタリアートの意識を蓄え込んでいる。
 我々は労働者が考えるべきものを知っており、実際に、知らないままでも考えている。
 したがって、我々は権力を奪取する資格がある。
 (しかしこれは、科学的に証明されているように、まさに人民を欺くためにある馬鹿げた選挙遊びを通じてではない)。//
 革命的な笑談だと、不満を言っているだろう。
 そのとおり、革命的笑談だ。しかし、こう言うだけでは十分じゃない。
 これは社会を転覆できる笑談ではないが、大学を壊すことはできる。
 これは心配するに値する上演劇だ(いくつかのドイツの大学は、すでに政党の学校のように見える)。//
 私信でずっと前に議論した一般論的問題に戻ろう。
 まさしく私が『…だが、ベトナム戦争はあった』と書いて叙述した運動を、君は擁護する。
 じつに、そのとおりで、上品に行っている。だが、疑いなく、多くの違うこともある。
 伝統あるドイツの大学には、いくつかの我慢ならない特徴がある。
 イタリアやフランスの大学には、それらに固有の別の特徴がある。
 どの社会にも、どの大学にも、異議申し立てを正当化できるたくさんの物事がある。
 そして、これが私の言いたい重要な点だ。まともで十分に正当化できる不満が全くない世界には、いかなる政治運動も存在しない。
 権力を目指して相互に非難し合っている政党を見れば、彼らの主張や攻撃には十分に選ばれたかつ根拠のあるものがあることに、君はいつも気づくだろう、だがそれらの全てを理由あるものと受け取りはしない。
 誰も、すっかり間違ってはいない。共産党に加入する者はすっかり間違っている(wrong)のではない、と君が言うのは、もちろん正当(right)だ。
 ワイマール共和国でのナチの宣伝物をもう一度見れば、きわめて多数、十分に正当化できるものがあることに君は気づくだろう。
 ナチの宣伝はこう主張した。ベルサイユ条約は恥だ、そうだった。
 民主主義は腐敗している、そうだった。
 ナチは特権階級を、金権政治を、銀行家の政治を、付随的には、人々の現実の必要には関係がなく、汚いユダヤ人の新聞に役立つとして、偽りの自由を攻撃した。
 しかし、このことは、『よろしい、彼らはとても上品に振る舞ってはおらず、考えのいくつかは愚劣にすぎないけれど、彼らは多くの点で間違ってはいない。だから、条件つきで支持しよう』と言う、十分な根拠にはならない。
 少なくとも、多くの人がそう言うのを拒んだ。
 実際、ナチが既存の体制を攻撃したことに多くの長所がなかったなら、彼らは勝利しなかっただろうし、広げた旗を突撃隊(SA)の上に掲げて行進する<赤い戦線(Rotfront)>の党員たちのごとき現象は存在しなかっただろう。
 このことこそが、つぎのようにはできなかったことの理由だ。
 新左翼の運動は同じ行動様式を真似ており、同じ(例えば、全ての『形式的な』自由や全ての民主主義諸制度にかかわる点や寛容および学問上の価値に関する)イデオロギーの一部を真似ていると、私は思った。そう思ったときに、『だが、ベトナム戦争はあった』と観察することでは強く感銘をうけることはできなかった。//
 我々は彼らが見えるように蒙を啓くのを助けるべきだ、と君は言う。
 この助言を、僅かの限定をつけて、受け入れる。
 全能で全方向を見渡していると思っている人々について君が語る際に、これを適用するのはむつかしい。
 議論をする用意がある人との議論を拒んだことは、私にはない。
 困惑してしまうのは、議論する用意のない人が中にいることで、その理由は全く精確に、私には欠けている、彼らの全能性(omniscience)にあるのだった。
 本当に、私は20歳のときにほとんど完全に知識をもっていたが(omniscient)(まだ完全にではなかった)、君が知るように、みんな年を取るにつれて馬鹿になるものだ。
 28歳のときにはもっと全能ではなかったし、今やますますそうでない。
 完全な確実性や、世界の全ての厄災や惨害に対する即時の全地球的な解決方法を探している、そのような人々に満足してもらうことはできない。
 またさらに、その他の人々に接近して、カルバン派ではなくイェズス会派の体系にできる限りは従うべきだ、と私は考える。
 すなわち、誰も完全にはかつまた絶望的には堕落していない、誰もが、歪んでいようと乏しかろうと、いくつかは長所をもっていていくつかは善良な態度を示している、ということを我々は予め想定しておくべきだ。
 これはまたよく言われる、言うは行うよりも易しということだが、我々二人とも、このソクラテス的弁証法の完璧な理解者だとは私は思っていない。//
 <〔原文、初めての一行の空白〕>
 君の…との提案は…。
 ---
 ⑥につづく。

0042/「団塊」世代のみが「隠れた世紀病」に罹ったのか-「正論」5月号・田中英道論文を読む。

 月刊正論5月号(産経)に田中英道「「68年世代」の危険な隠れマルクス主義-左翼思想に染まったのは日本の「団塊の世代」だけではない」がある。新聞広告にこのタイトルが載っていて、関心を持ち買って読んだ。
 日本の「団塊の世代」は「左翼思想に染まった」ことを前提とする副題が気になった。当時は大学進学率はたぶん約1/3で、大学生でなかった者、そして大学生でも少なくとも過半は(たぶん3/4は)、大学での「全共闘」運動を経験していないからだ。
 だが、一時期新しい教科書をつくる会々長だったという田中の主題は、「団塊」世代の厳密な分析ではなさそうだ。すなわち、大雑把に言って反権力・反(資本主義)体制ではマルクス主義と共通する(その意味で「隠れマルクス主義」の)、マルクーゼ(1898-1979)やハーバーマス(1929-)を代表とする所謂フランクフルト学派の論文・発言・行動の影響を受けて欧米でも「68年」頃に過激な学生運動があり、日本の「68年」を中心とする、「団塊」世代が担った全共闘運動もその一環だった、その意味で世界的な同一世代による社会変動がこの頃に起きた(そして社会はより悪くなっていった)、というのが最も主張したいことのように読める。
 それはそれで興味深いし、恥ずかし乍ら、ルーマンとやらの論争でも有名な(だが読んだことのない)ハーバーマスがフランクフルト学派に属することも初めて知った。だが、背景的な欧米の同時代の雰囲気は指摘のとおりだとしても、「全共闘」運動(又は「団塊」世代)とフランクフルト学派の関係については、そもそも「全共闘」運動は何だったか、どういう理論と組織に支えられていたのか、を含めて、もう少し実証的な叙述又は根拠が欲しい、という感じがする。
 また、この論文は「団塊」世代批判だ。かいつまんで紹介すると、この世代による「自由教育」が「寒々しい日本人とその家族を生み出した」、フランクフルト学派の影響も受けて、環境・男女同権・原発等々につき「反権威主義」という名の「破壊運動」を継続しており、「大学とかマス・メディアを支配している「団塊の世代」が、保守主義の傾向に、常に反対の態度」をとり、「贖罪観を、日本人に植え付けようとする動き」を支えているのもこの世代だ、「大学教員やマス・メディアに巣くうこうした運動」を注意深く見守り、阻止すべきだ、この世代の「隠れた世紀病」の克服は容易でない。
 省略しすぎの紹介だが、論証にはあまりに具体的・実証的・統計的根拠がなさすぎるだろう。殆ど何も示しておらず、田中の「直感」によるものと思われる。
 しかし、じつは半分は、私の直感も田中の見方を支持している。朝日新聞の若宮啓文は1948年生まれで、自ら「社会党支持だった」ことを雑誌上で明言しているくらいだから、田中の主張を裏付ける、恰好の、典型的な人物かもしれない。一方、支持できない、又は不十分だと思う残り半分は、つぎの点に関係する。
 第一に、「隠れた世紀病」あるいは「隠れマルクス主義」あるいは「反権威主義」という病に罹っているのは、日本においては「団塊の世代」だけだろうか。この著者を含む60年安保世代のある程度の部分も、田中はきっと健康だったのだろうが、すでに罹っていたと思われる。
 1960年に20歳になった人は1940年生れで、1945~1952年の「占領下」の教育を少なくとも部分的には経験しているのだ(その間に東京裁判があり「新」憲法施行もあった)。フランクフルト学派の動向などに関係なく、彼らが受けた、GHQ批判・日本の伝統擁護等々が許されない教育が<病原菌のない、正常な>ものだったとは思われない。また、その時期に日本のマルクス主義は復活しているのだ。
 第二に、「団塊」世代に全く責任がないとは言わないが、指導・煽動した別の世代が存在すると思われる、ということだ。「団塊」世代は完全に自分たちだけの力で67年~71年頃の全共闘運動等々を展開したのだろうか。使嗾し、誘引する、もっと年上の別の人たち又は世代がいたに違いない、と私は思っている。いつか触れた川上徹は1940年生まれの筈で「団塊」世代ではなく、日本共産党・民青同盟の側の指導者だった。中核派の北小路敏は生年を確認できないが、60年安保の際もブントに属して主流派全学連幹部として「活躍」したようで「団塊」世代ではなく、かつ67年~71年頃は革共同中核派の指導者で同派を通じて「全共闘」や「全闘委」にも影響を与えていただろう。東京大学全共闘の議長だった山本義隆は1941年生まれで、「団塊」世代ではない。
 私の印象では、それこそ相当に「直感」的だが、「団塊」世代、大まかには1952年生まれ(今年に55歳)辺りを下限として、それ以上の年齢の人々でおおよそ1928~29年生まれ(今年78~79歳)までの人々は、それ以下の世代よりも、「反権力」的信条あるいは「何となく左翼」の気分がより強い。
 きちんとした資料は示せないが、日本社会党又は(日本共産党を含む)「革新」勢力の支持者が最も多かったのは、日本社会党がなくなるまでの数十年間の世論調査の報道の記憶では、おおよそ「団塊」世代を含むそれ以上の世代だったように思うのだ。
ギャラリー
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
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  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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