秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

マルクス・レーニン主義

1642/日本共産党・不破哲三の大ウソ35-「自主独立」?。

 久しぶりに、<日本共産党・大ウソ>シリーズ。
 不破哲三・古典教室第1巻(新日本出版社、2013)。
 この著の一番最後の章のそのまた最後を一瞥していて、さすがに日本共産党、不破哲三さん、自分の党に有利に言いますねぇ、と感じ入る部分があった。
 産経新聞の人々も、「日本会議」の人々も、きっとこんな本に目を通すことはないだろう。それどころか、所持もしていない。いやそれどころか、存在を知りもしない。
 不破哲三は、欧州の、正確には(かつて「ユーロ・コミュニズム」の牙城だった)イタリアとフランスの共産党についてこう言う。
 1960年に日本の共産党が「衆議院で一議席しか」なかったときに、「イタリアでは一〇〇を超える議席」をもち、フランス共産党は「野党第一党の地位」を持っていた。
 「いまではイタリアでは共産党がただの民主党に右転落してしまい、フランスでは共産党がいろんな理由があってかなり大きく落ち込んでい」る。p.282。
 以上は事実だから、最後のフランスの「いろいろな理由」は知りたいが、よろしい。
 問題は、これを日本共産党の自慢話に変えていることだ。
 イタリアやフランスの共産党は「ソ連崩壊の大波に、自主性を持っていなかった」ために「呑まれて」しまった。「ソ連流『マルクス・レーニン主義』以外に理論を持っていなかった」。そのなかで日本共産党は…。「そういう党は、いま資本主義の共産党のなかで日本にしかありません」。p.282-3。
 こういう状況の理由、背景は種々ある。日本共産党がよく頑張ったから、立派だったからだけでは少なくともない。
 <日本共産党がよく頑張ったから、立派だったから>というのも、きわめておかしい。
 第一に、この欄でかなり詳しく記したが、日本共産党・不破哲三がソヴィエト連邦を「社会主義国」ではなかった、すでにスターリン時代に道を踏み外して「社会主義国」ではなくなっていた、と言ったのは、1994年7月の党大会のことだ
 それまで、1991年のソ連共産党解散とソ連邦自体の解体があっても、その当時、一言も、ソ連は「社会主義国」でなかった、などと主張していない。
 スターリンを批判しソ連共産党も批判していたが、それまではあくまで、ソ連は<建設途上の>または<現存する>「社会主義国」だという前提のもとで、「社会主義国」あるいは「国際共産主義運動」内部で生じた、又は生じている問題として、スターリンやソ連共産党指導部を批判していたのだ。
 したがってまた第二に、この時点では、『マルクス・レーニン主義』を、日本共産党も掲げていた。
 文献資料的な根拠をすぐに見つけられないが、レーニン自体に遡ってソ連の「過ち」を指摘していたのでは全くなかった。
 <マルクス・レーニン主義>と言わないで<科学的社会主義>と言うべき、まだ<マルクス主義>は許せる、と不破哲三が言ったのは、この1994年よりも後のことでだ。
 「ソ連流『マルクス・レーニン主義』以外に理論を持って」いた、という言い方は、ほとんどマヤカシだ。
 日本共産党もまた、ずっと一貫して長らく「マルクス・レーニン主義」の党だったはずだ。
 また、かりに「ソ連流『マルクス・レーニン主義』」以外の理論を持っていたとして、「ソ連流」のそれを批判的に扱うのであれば、その中にレーニンそのものは入るのか入らないのかを明確にすべきだろう。
 ところが、日本共産党・不破哲三は、「ソ連流」の中にレーニンが入るとは、現綱領上も、絶対に言えない。
 レーニンは、基本的には、正しく「社会主義への」道を歩んでいた、とされているのだ(その論脈の中で<ネップ>も位置づけている)。
 不破哲三は言う。「科学的社会主義の理論を自主的に発展させ」た、「どんな大国主義の理論にも打ち勝」ってきた。p.282-3。
 ここに現在の日本共産党・不破哲三の、喝破されたくはないだろう、本質的な欺瞞がある。
 つまり、共産党相互間の問題、あるいは共産党の問題と、一方での「国家」の問題とを、意識的に、(党員向けにもワザと)混同させているのだ。
 <自主独立>とか<大国主義批判>とかは、1991年・ソ連解体までは明らかに、ソ連共産党との関係での、ソ連共産党(・その指導部)を批判するスローガンだった
 それを、1991年・ソ連解体後は、<ソ連型「社会主義」国家>自体を批判してきたのだ、と言い繕い始めた。
 <自主独立>とか<大国主義批判>は(ソ連(・中国)共産党ではなく)、<ソ連型「社会主義」国>を批判するスローガンだったかのごとく、変質させている
 これは大ウソであり、大ペテンだ。
 不破哲三は、平然とウソをつく。党内の研修講義の場でも、平然とウソをつく。 
 その証拠資料の一つが、この2013年9月刊行の書物だ。
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 自民党の田村重信らの書物に、日本共産党についての知識・認識不足があるのは、この欄ですでに記した。
 田村重信=筆坂秀世(対談)・日本共産党/本当に変わるのか?(世界日報社、2016)の田村発言の一部について。
 山村明義・劣化左翼と共産党(青林堂、2016.03)。
 これも、ひどい。
 この著で山村は、しきりと「マルクス・レーニン主義」という言葉を(最後まで)使っている。「左翼」はともかくも、日本共産党がこの概念・語を避けていること、むしろ禁止していると見られることを、この人は知らないままで、表記の本を出している。
 恥ずかしいことだ。<劣化保守>、あるいは<劣化・反共産主義>だと言いたい。
 しかも、山村自身が自分は<マルクス・レーニン主義>に詳しいのだと言っているのだから(しきりと匂わせているのだから)、苦笑してしまった。
 また、<劣化左翼>と<共産党>の区別を何らつけないで叙述していることも、致命的な欠陥だ。
 この本のオビには、<保守原理主義者>としてこの欄で取り上げた、「憲法改正」に大反対している、倉山満の<激賛>の言葉が付いている。
 倉山満が激賞・激賛するようでは、この本の内容もまた、すでに示唆されているのかもしれない。

1528/「左翼」の君へ②-L・コワコフスキの手紙/1974。


 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
 前回のつづき。
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 もちろん、そうではない〔類似性はない〕。『野獣』、『ヘンな年寄り』に満ちた、消費者資本主義だ(君の言葉だ)。
 どこを見ても、我々の血は沸き立つ。
 こちらで余裕をもって再び熱烈な道徳家でおれるかもしれないし、また我々は-君も-資本主義制度は改良をやめることができないそれ自身の『論理(logic)』をもつことを論証できる。
 君は言うのだろう、国家による健康サービスは民間の事業の存在によって困窮化しており、教育における平等は人々が民間産業によって訓練されるために損なわれている、等々。
 改革は失敗に終わる運命にある、とは君は言わない。ただ、改革が資本主義を破壊させないかぎりは資本主義は壊れない、と説明はする。それは確かに真実(true)だ。
 また君は、『もう一つの選択肢である社会主義の論理への平和革命による移行』を提唱する。
 君が言いたいことをこれが完全に明確にすると、確実に考える。
 私は逆に、完全に不明確だと考える。再び言うが、工場の完全な国家所有が一度認められると君の言うユートピアへとつながる道の上での小さな技術的問題しか残らない、と君が想像力を働かせないかぎりは。
 しかし、立証責任(onus probandi)は、社会主義社会を描く新しい青写真の制作者はこの(『歴史家にとっては』重要でない)50年の経験を放擲できる、と主張する人たちの側にある。
 (ロシアでは、『例外的な事情』というのがあった。なかったか ? だが、西側ヨーロッパに関しては例外的なものは何もない。)//
 この些細な50年(今や57年)を新しい選択可能な社会について解釈するという君のやり方は、1917年と1920年代初めの間およびスターリングラードと1946年の間の『最も人間的な顔をした共産主義』を折々に語ることでも明らかだ。
 前の第一の場合、君は『人間の顔』という言葉で何を言いたいのか ?
 警察と軍隊によって全ての経済を支配しようという企てだった。大衆の飢餓をもたらし、無数の犠牲者が出て、数百の農民反乱があった、そうしてみんな、血の海に溺れた(レーニンがのちに認めたように〔1921年10月<革命4周年>演説-試訳者〕、正確にそれを予見していた多数のメンシェヴィキやエスエル〔社会主義革命党〕の党員たちを殺したり、投獄したりしたあとで起こった、全体的な経済の災害だった)。
 それとも、七つの非ロシア人諸国の武装侵略のことを言っているのか ?
 その諸国は独立政府を形成した。あるものは社会主義的、あとは非社会主義的だ(ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン、ウクライナ、リトアニア、ラトヴィア、エストニア。神はこれら全ての国の民族が生きる場所を知っている)。
 あるいは、ロシアの歴史上唯一つ民主主義的に選挙された議会を、それが一言も発しない前に、兵士によって解散させたこと〔1918年1月の憲法制定会議の解散-試訳者〕を言っているのか ?
 社会主義的政党も含む全ての政党への暴力的な弾圧、非ボルシェヴィキ出版の禁止、そして何よりも、望むがままに殺戮、拷問、投獄をして、党とその警察の絶対的権力へと法を置き換えたことか ?
 そして、1942-46年の最も人間的な顔とは何か ?
 君はソヴィエト同盟の八つの全民族の、80万の犠牲者を生んだ国外追放のことを言っているのか ?(八つではなく七つと言おう。一つはスターリングラードのほんの少し前に追放されたから。)
 君は同盟軍から受け取った数十万人のソヴィエトの捕虜を集中強制収容所に送り込んだことを言っているのか ?
 言葉の背後にある現実について何かを考えているならば、バルチック諸国のいわゆる『集産化(collectivization)』のことを言っているのか ?//
 君が書いていることを説明できる、三つの可能性がある。
 第一。こうした事実に関しての単純な無知。歴史家だという君の職業を考えると、信じ難い。
 第二。『人間の顔』という言葉を、私が把握できないトムソン主義者の意味で使っている。
 第三。正統派と批判派〔「修正主義」派-試訳者〕のいずれであれ、たいていの共産主義者のように、共産主義制度では党の指導者たちが殺されないかぎり全ては正当だ(right)、と信じている。
 新しい選択肢のある社会主義の論理を共産主義者たち自身と、およびとくに党の指導者たちと共有できないと悟ったとき、これこそが実際に、共産主義者が『批判的』になる標準的な方法なのだ。
 フルシチョフが1956年の(重要性を私は全く理解できない)演説でただ一人名前を出した被害者は pur sang のスターリニストだったと気づいているか ?
 彼らのたいていは(ポツィシェフのように)、自分が犯罪の犠牲者になる前に無数の犯罪を冒した罪人だった。
 共産主義者が殺戮されるのを見て突然に恐怖を催したたくさんの元共産党員(名前を挙げないけど、許せ)が、回想録や批判的分析書を書いた。その恐怖に君は気づいたか ?
 彼らはつねに、『だが、そのような人々は共産主義者だった』と言って、犠牲者についての無知を釈明している!
 (ついでに言うと、これは自虐的な防御だ。何故かというと、非共産主義者を殺戮することには何も過ち(wrong)はないことを意味する。
 このことは、共産主義者と非共産主義者を区別する権限をもつ国家機関があり、その国家機関は銃砲を持つ同じ支配者でのみありうる、ということを示唆する。
 したがって、被殺戮者は、その定義によって非共産主義者であり、そして全ての物事はみんな正当(right)なのだ。)//
 よし。トムソン君、私は本当に、このような思考方法を君の責任にするつもりはない。
 でも、評価に際して君が二重の規準を使っていることに、気づかざるをえない。
 そして『二重の規準』と言うとき、新しい諸問題を見渡す『新しい社会』には経験がないのを正当化してしまいたいことを意味させてはいない。
 類似の状況に対して、政治的規準と道徳的規準とを交替に使い分けている、と言いたいのだ。
 政治的な情勢いかんによって、ある場合には熱心な道徳家で、別の場合には現実政治家だったり世界歴史に関する哲学者だったりするようなことをしてはいけない。//
 我々が理解し合うべきだとすると、君に明確にしたいのは、まさにこのことだ。
 ブラジルでの拷問について語ったラテン・アメリカの革命家との会話内容を(憶えていることから)君に書いてみよう。
 『拷問は過ち(wrong)か ?』と尋ねた。『何が言いたいのだ ?』と彼は言った。
 全て正当だ(right)と言うのか ? 拷問を正当化しているのか ?
 私は言った、『逆だ。ただ、拷問は道徳的に受容できない奇怪物だと考えるかどうかを尋ねている』。彼は答えた、『もちろんだ』。
 『キューバでの拷問もそうか ?』と私は質した。
 彼は回答した、『うん。それは別のことだ。
 キューバは、アメリカ帝国主義の脅威のもとにつねにある小さな国家だ。
 彼らは、残念だけど、自己防衛のために全ての手段を使わなければならない』。
 私は言った、『そうか。貴方は、二つとも取ることはできない。
 私も同じだが、拷問は道徳的な理由で忌まわしくかつ受容できないと貴方は考えるのなら、定義上、いかなる事情があってもそうだ。
 しかし、拷問が受忍されうる事情があるのだとすれば、貴方は拷問をする体制を非難できない。拷問それ自体には本質的に過ち(wrong)であるものは全くないと仮定しているのだから。
 ブラジルについてと全く同様にキューバの拷問を非難するか、それとも、人々に対する拷問を理由としてブラジルの警察当局を非難するのをやめるか、どちらかだ。
 実際、貴方は政治的な理由では拷問を非難できない。それはたいていの場合は完全に有効で、欲しいものをもたらすからだ。
 道徳的な理由でのみ貴方は非難できる。そしてそうだとすれば、不可避的に、どこでも、バチスタのキューバでもカストロのキューバでも、北ベトナムでも南ベトナムでも、全く同じだ』。//
 これは、私が君に明快にしたい、陳腐だけど重要な点だ。
 アメリカ合衆国にある大小あれ何らかの不公正について聞くときには心臓が失血して死にそうになり、一方では、新しい選択肢ある社会のより酷い恐怖について聞かされると突然に賢い歴史修辞学者か冷静な合理主義者になる、そういう人々がいる。
 私はたんに、そういう人と一緒になるのを拒否している。//
 これは、東ヨーロッパ出身の者が西側の新左翼に対して抱く、自然発生的なかつほとんど一般的な不信感の理由の、唯一ではないが、一つだ。
 奇妙にも一致して、この恩知らずの人々の大半は、西欧または合衆国にいったん定住すると、革命家だと思われる。
 偏狭な経験主義者や利己主義者は、彼らのほんの僅か数十年のちっぽけな個人的体験から推論して(君が正当にも観察するように、これは論理的には受容できない)、その中に、光輝く社会主義の未来に対する懐疑を抱いていることの口実を見出す。その未来というのは、最良のマルクス・レーニン主義の基礎の上に、西側諸国の新左翼というイデオロギストが精巧に作り上げたものだ。//
 ある程度はもっと詳しく書きたい話題は、これだ。
 事実をそのままに受け取ることや、一般理論から演繹することで現存社会に関する知識を得ていないことでは、我々は異なっていない、と思う。
 今度はインド出身のマオ〔毛沢東〕主義者との会話を、再び引用しよう。
 彼は言った、『中国の文化革命は、貧農(peasants)の富農(kulaks)に対する階級闘争だった』。
 私は尋ねた、『どのようにして、それを知るのか ?』
 彼は答えた、『マルクス・レーニン主義理論からだ』。
 私はコメントした、『そう。予想していたことだ』。
 (彼は理解できなかった。君には分かる。)
 しかし、これでは十分ではない。というのは、君に分かるように、適当に漠然としたイデオロギーはどれもつねに、その重要な構成要素を放棄しなくとも全ての事実を吸収(absorb)する(古いものを捨て去る(discard)、との意味だ)ことができるからだ。
 そして、厄介なことは、たいていの人々は熱心なイデオロギストではないということだ。
 誰もかつて資本主義も社会主義も見たことがなく、彼らが理論的に解釈することのできない一揃いの小さな諸事実だけを見てきたと信じているかのごときやり方で、彼らの浅薄な気持ちは作動している。
 ある諸国の人々は他諸国の人々よりも良い状態にある、ある諸国での生産、配分、サービスは他諸国よりもかなり効率的だ、こちらの人々は公民権や人権そして自由を享有しており、あちらではそうでない、と彼らは単純に気づいている。
 (君がそうするように、西側ヨーロッパに当てはめる言葉を使うには、ここで『自由』と引用符を付けるべきだろう。
 それが絶対的に義務的な左翼の叙述方法だと、私は悟っている。
 じつに、何が『自由』か。この言葉は十分に、一方の側には大きな笑いを充満させる。
 そして我々、ユーモアのセンスの欠けた人間は、笑いはしない。)//
 君が極楽に住み、我々は地獄にいると君に信じさせようとしているのではない。
 ---
 ③につづく。
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