秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ポーランド

2520/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑥。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題。
 ——
 序説・ウクライナ問題③。
 (12) 言語と農村地帯との間の結びつきは、ウクライナ民族運動はつねに強い農民的雰囲気をもった、ということをも意味した。
 ヨーロッパの他の部分と同様に、ウクライナの民族的覚醒は田園地帯の言語と習慣の再発見によって始まった。
 民俗学者と言語学者は、ウクライナ農民の芸術、詩、日常会話を記録した。
 国の学校では教えられなかったけれども、ウクライナ語は、一定範囲の反体制的な、反既得権益層のウクライナの作家や芸術家が選択する言語になった。
 ウクライナ語は公式の取引では用いられなかった。だが、私的な文書のやり取りや詩作で使われた。
 1840年に、Taras Shevchenko —1814年に農奴の孤児として出生—は、〈Kobzar〉—「吟遊詩人」の意味—を出版したが、これは、ウクライナの詩歌を最初に本当に素晴らしく収集したものだった。 
 Shevchenko の詩は、浪漫的なナショナリズムと農村地帯の理想的な像を社会的不公正に対する怒りと結びつけ、出現すべき多数の議論の基調となった。
 「Zapovit」(「遺言」)という最も有名な詩の一つで、彼はDnieper の河岸に埋葬されるよう頼んだ。
 「私を埋めよ。そして、あなたたちは立ち上がり、重い鎖を壊し、暴君の血で洗い、自由を獲得する。…」(13)
 農民層の重要性はまた、最初から、ウクライナの民族的覚醒は、人民主義(Populist)やのちにロシア語やポーランド語を話す商人、地主、貴族に対する「左翼」反対派と呼ばれることになるものと同義だったことを、意味した。
 この理由で、ウクライナの民族的覚醒は急速に力強くなり、1861年の皇帝アレクサンダー三世のもとでのロシア帝国の頃の農奴解放が続いた。
 農民層の自由は、実際には、ウクライナの自由のことであり、ロシアやポーランドの主人たちに対する一撃だった。
 より強いウクライナの一体性を目指す運動は、帝国の支配層はよく理解していたことだが、当時ですら、より大きい政治的かつ経済的な平等を求める運動だった。//
 (13) ウクライナの民族的覚醒は国家制度と結びつかなかったため、それはまた、初期の時代から、広汎な、自律的で自由意思による慈善団体の形成を通じて表現された。これは、いま我々が「市民社会」と称するものの初期の例だった。
 農奴解放後の短い期間、「ウクライナ愛国者」はウクライナ青年たちに、自立した学習グループの形成、雑誌や新聞の刊行、日曜学校を含む学校の設立、農民層の識字能力の拡大、を呼びかけた。
 民族的希望は、精神的自由、大衆の教育、農民層の上方可動性を求めることとなった。
 この意味で、ウクライナ民族運動は、最初から、西側の同様の運動の影響を受けており、西側のリベラリズムや保守主義とともに西側社会主義の要素を含んでいた。//
 (14) この短い期間は、続かなかった。
 ウクライナ民族運動が強くなり始めるとすぐに、モスクワは、他の民族運動とともに、それは帝国ロシアの統一性に対する潜在的な脅威だと感知した。
 ジョージア人、チェチェン人その他のグループが帝国内部での自治を追求したように、ウクライナ人はロシア語の優越性に挑戦した。また、ウクライナを「南ロシア」、民族的一体性を有しないたんなる地方、と叙述する歴史のロシア的解釈に対しても。
 彼らは、すでに経済的な影響力を得ていたときには、農民層の力をさらに強くしようとした。
 富裕で、より識字能力があり、うまく組織された農民たちは、大きな政治的権利をも要求する可能性があった。//
 (15) ウクライナ語が、第一の目標だった。
 1804年にロシア帝国最初の大きな教育改革が行われたとき、皇帝アレクサンダー一世は、いくつかの非ロシア語が新しい国立学校で使われるのを許したが、ウクライナ語は認められなかった。表向きは、それは「言語」ではなく一つの方言だ、というのが理由だった。(14)
 実際には、ロシア帝国の官僚は、ソヴィエトの継承者がそうだったように、この禁止を政治的に正当化することを—1917年までつづいた—、およびウクライナ語が中央政府にもたらす脅威を、完全に理解していた。
 キーフ総督のPodolia とVolyn は、1881年に、ウクライナ語と学校の教科書でそれを用いることは高等教育や、さらに立法府、裁判所、公行政でそれを使用することになり、そうして「多大の複雑さと統一したロシアに対する危険な変化」を生むことになる、と宣告した。(15)//
 (16) ウクライナ語の使用が制限されたことで、民族運動は大きな影響を受けた。
 そのことで、識字能力を持たない人々が広がる、という結果にもなった。
 ほとんど理解できないロシア語で教育された多数の農民たちは、上達することがなかった。
 20世紀初めのPoltava のある教師は、「ロシア語での勉強が強いられると、生徒たちは教えたことをすぐに忘れる」と嘆いた。
 別の者は、ロシア語学校の生徒たちは「やる気を失って」、学校に退屈するようになり、「フーリガン」になる、と報告した。(16)
 差別はまた、ロシア化も生じさせた。ウクライナに住む全ての者—ユダヤ人、ドイツ人、その他のウクライナ人などの少数民族—にとって、より上の社会的地位を得る方途は、ロシア語を話すことだった。
 1917年の革命まで、政府の仕事、専門的仕事および商業取引には、ウクライナ語ではなく、ロシア語での教育を受けていることが要求された。
 現実にこのことは、政治的、経済的または知的な志望をもつウクライナ人は、ロシア語での表現能力を必要とする、ということを意味した。//
 (17) ロシア政府はまた、ウクライナ民族運動が大きくなるのを妨げるために、「政治的不安定を生じさせない保障として…、市民的社会団体と政治団体のいずれも」から成るウクライナ人の組織を禁止した。(17)
 1876年、皇帝アレクサンダー二世は、ウクライナ語の書物と定期刊行物を非合法化し、劇場で、そして音楽劇の台本にすら、ウクライナ語を用いることを禁止する布令を発した。
 彼はまた、新しい自発的組織の結成を思いどどまらせるか禁止し、反対に、親ロシアの新聞や親ロシアの組織には助成金を交付した。
 ウクライナの報道機関やウクライナの市民的社会団体に対する明確な敵意は、のちのソヴィエト体制でも維持された。—さらにのちには、ソヴィエト後のロシア政府によっても。
 このように、先例はすでに19世紀の後半にあった。(18)//
 ——
 序説④へと、つづく。

2519/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑤。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年、初版,London)
 試訳のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
 ——
 序説・ウクライナ問題②。
 (08) このような考え方の背後には、確固たる経済的根拠があった。
 ギリシャの歴史家のHerodotus 自身が、ウクライナの有名な「黒土」(black earth)、Dnieper河低地でとくに肥沃な土地について、こう書いた。
 「この堆積地沿いよりも穀物が大きく成長するところはない。穀種が播かれなければ、草が世界で最もよく生える。」(10)
 黒土地域は現代ウクライナのおよそ三分の二を覆い—ロシアとKazakhstan へと広がる—、比較的に温暖な気候と相俟って、ウクライナが毎年二回の収穫期をもつのを可能にしている。 
 「冬小麦」は秋に撒かれて、7月と8月に収穫される。春の穀物は4月と5月に植え付けられ、10月と11月に収穫される。
 ウクライナのきわめて肥沃な土地は、商業者の野望を掻き立てた。
 中世後半から、ポーランドの商人たちはウクライナの穀物を運んで、バルト海ルートで北方と取引した。
 ポーランドの聖職者や貴族は、今日の言葉を使えば起業地区を設定して、耕作してウクライナを開発する意欲のある農民に税や軍役を免除した。(11)
 貴重な資産を保有したいとの欲求は、しばしば植民地主義の論拠の背後にあった。
 ポーランド人もロシア人も、自分たちの穀倉地帯が独立した一体性をもつことを認めようとしなかった。
 それにもかかわらず、隣人たちが考えたこととは全く別に、分離して区別されるウクライナの自己認識(identity)が、現在のウクライナを構成する地域で形成された。
 中世の終わり頃からのち、この地域の人々は、つねにでなくともしばしば、ポーランドやロシアという占領する外国人とは区別される者として自分たちを認識する意識を共有した。
 ロシア人やベラルーシ人のように、ウクライナ人はその起源をキーフ公国の国王にたどり、偉大な東スラヴ文明の一部だと多くの者は自分たちを意識した。
 他の者たちは、自分たちは敗残者または反乱者だと考え、Zaporozhian コサックによる大反乱をとくに尊敬した。これは、Bohdan Khmelnytsky が率いて、17世紀にポーランドの支配に、そして18世紀初頭にロシアの支配に、抵抗したものだった。
 ウクライナのコサック—内部法をもつ準軍事組織である自治団体—は、自己一体性と不服の感覚を具体的な政治的目標に変えた最初のもので、ツァーリから大きな特権とある程度の自律性を獲得した。
 記しておくべきであるのは(確実にのちの世代のロシア人やソヴィエトの指導者は決して忘れなかった)、ウクライナのコサックは1610年と1618年のモスクワでの行進でポーランド軍に加わり、市の包囲攻撃に参加して、その当時のポーランド・ロシア間の対立が終わるの確実にし、少なくとも当時はポーランドの側に立っていた、ということだ。
 のちにツァーリは、ロシアへの忠誠を確保し続けるために、ウクライナ・コサックとロシア語を話すドン・コサックの両者に特別の地位を与えた。それによって、この両者は特別の自己一体性を保持することが認められた。
 これらがもつ特権によって、反抗しないことが保証された。
 しかし、Khmelnytsky とMazepa は、ポーランド人とロシア人の記憶に刻印を残した。ヨーロッパの歴史や文学に対しても同様だった。
 Voltaire はMazepa に関する報せがフランスに広がった後で、「ウクライナはつねに自由になろうと志してきた」と書いた。(12)//
 (09) 数世紀にわたる植民地支配のあいだに、ウクライナの多様な地域は多様な性格を得るに至った。
 東部ウクライナの定住者は、長くロシアに支配されていたが、ロシア語に少しだけ近いウクライナ語の一つを話した。
 彼らはまたロシア正教会派である傾向をもち、Byzantium から伝わった儀礼に従い、モスクワが指導した階層制のもとにあった。
 Volhynia、Podolia やGalicia 地方の定住者は、長くポーランドの支配のもとで生活し、18世紀末のポーランド分割の後では、オーストリア・ハンガリー帝国に支配された。
 彼らはウクライナ語のよりポーランド語的な範型を話し、ローマまたはギリシャのカトリックである傾向があった。正教会に似た儀礼を用いる信仰だったが、ローマ教皇の権威を尊重した。//
 (10) しかし、地域的勢力の境界はたびたび変更したため、上の両者を信仰する者がいたし、以前のロシアと以前のポーランドの境界を分ける両側には、今もいる。
 19世紀までに、イタリア人、ドイツ人、その他のヨーロッパ人が近代国家の国民だと自己を認識し始めたとき、ウクライナで「ウクライナ性」を議論する知識人たちは、正教派にもカトリック派にもいたし、「東部」と「西部」のウクライナのいずれにもいた。
 文法と正書法にある差異にもかかわらず、言語は地域を超えてウクライナを統一した。
 キリル文字のアルファベットを用いることで、ラテン・アルファベットで書かれるポーランド語と区別された。
 (一時期にハプスブルク家はラテン文字を導入しようとしたが、失敗した。) 
 キリル文字のウクライナ型はロシア語とも異なり、追加された文字も含めて違いを保ち、言語が近似しすぎるのを妨げた。//
 (11) ウクライナの歴史上は長く、ウクライナ語は主に田園地帯で話された。
 ウクライナがポーランドの、そしてロシア、オーストリア・ハンガリーの植民地だったとき、ウクライナの大都市は—トロツキーが観察したように—、植民地支配の中心地であり、ウクライナ農民層の大海の中でのロシア、ポーランド、またはユダヤの文化の島嶼部だった。
 20世紀に入っても、都市と農村部は言語によって区分された。たいていの都市住民はロシア語、ポーランド語またはYiddish (ユダヤ人の言葉の一つ)を話し、一方で地方のウクライナ人はウクライナ語を話した。ユダヤ人がYiddish を話せなければ、しばしば国と取引の言語であるロシア語が用いられた。
 農民たちは都市部を、富、資本主義、そして「外からの」—たいていはロシアの— 影響を受けたものと見なした。
 対照的に都市部のウクライナは、田園地帯を後進的で、未開だと考えた。//
 ——
 ③へと、つづく。

2518/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 緒言につづく、序説(Introduction)・ウクライナ問題、へ移る。
 ——
 序説・ウクライナ問題①。
 (01) ウクライナの地理はウクライナの運命を形づくった。
 Carpathian 山脈は南西部で境界を画した。しかし、国の北西部の穏やかな森林と野原では、軍隊の侵入を阻止することができなかったし、ましてや、東に開いた広原地帯ではそうだった。
 ウクライナの大都市は全て、東ヨーロッパ平原、国土のほとんどに広がる平地にある。—Dnipropetrovsk とOdessa、Donetsk とKharkiv、Poltava とCherkasy、そしてもちろん、古代の首都のKyiv。
 Nikolai Gogol は、ロシア語で書いたウクライナ人だったが、かつて、Dnieper 河がウクライナの中央を貫いて流れ、低地を形成している、と観察した。
 そこから、「河は中心から枝分かれして、一つならず境界に沿って流れ、隣国との自然の境界として役立っている」。
 このことは、政治的な帰結をもたらした。「山脈または海という自然の境界が一方の側にあったならば、ここに定住している人々は政治的な生活様式を保持して、分離した国家を形成していただろう。」(2)
 (02) 自然の境界が存在しないことは、なぜウクライナ人は20世紀の遅くまで主権をもつウクライナ国家を確立できなかったかを説明する助けになる。
 中世後半までに、明確なウクライナ語があった。その起源はSlavic で、関係はあったが、ポーランド語ともロシア語とも区別された。イタリア語とも関係はあったが、スペイン語やフランス語と区別された。
 ウクライナ人は、自分たちの食べ物、習慣、地方的伝統、自分たちの悪魔と英雄、伝説をもった。
 他のヨーロッパの民族のように、ウクライナの自己一体性(identity)の意識は、18世紀と19世紀のあいだに明瞭になった。
 しかし、その歴史のほとんどは、我々が今ウクライナと呼ぶ領域は、Ireland やSlovakia のように、他のヨーロッパの帝国の植民地(colony)だった。//
 (03) ウクライナ(Ukraine)—この言葉はロシア語とポーランド語で「境界地」を意味する—は、18世紀と20世紀のあいだ、ロシア帝国に帰属していた。
 その前は、同じ地域はポーランド、またはポーランド・リトアニア連邦に属した。後者は、1565年にリトアニア大公国を継承したものだ。
 さらに以前は、ウクライナ地域はキーフ大公国(Kyivan Rus' )の中心に位置した。これは、Slavic 種族とViking 貴族が9世紀に建てた中世国家だった。
 そして、この地域の記憶では、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人がそろって自分たちの祖先だとするほとんど神話的な王国があった。//
 (04) 何世紀にもわたって、帝国軍隊がウクライナの地上で戦闘した。ときには、前線の両者の側がウクライナ語を話す兵団だった。
 ポーランドの軽騎兵が、今はKhotyn というウクライナの町を支配するために、1621年にトルコの精鋭部隊と戦った。
 ロシア皇帝の兵団は、1914年にGalicia 地方で、オーストリア・ハンガリー帝国の軍団と闘った。
 ヒトラー軍は、スターリン軍と、1941年と1945年のあいだに、Kyiv、Lviv(リヴィウ)、Odessa で衝突した。//
 (05) ウクライナ領域の支配を目ざす闘いには、つねに知的な要素があった。
 ヨーロッパ人がnation とナショナリズムの意味を論じ始めて以来ずっと、歴史家、文筆家、報道者、詩人、民族学者は、ウクライナの範囲とウクライナ人の性質について論じてきた。
 ポーランド人は、中世初期の最初の接触のときから、ウクライナ人は言語や文化が自分たちとは違っていることを、つねに承認した。ともに同じ国家の一部であったときですら。
 16-17世紀のポーランドの貴族の称号をもつウクライナ人の多くは、ローマ・カトリックではなく正教会にとどまった。
 ウクライナの農民はポーランド人が「Ruthenian」と呼ぶ言葉を話し、異なる習慣、異なる音楽、異なる食べ物をもつ人々としてつねに描写された。//
 (06) 帝国の全盛時にはモスクワの者たちは承認しようとはしたくなかったけれども、彼らも、ときどきは「南ロシア」または「小ロシア」と称したウクライナは自分たちの北方の故郷とは異なっていることを、本能的に感じていた。
 初期のロシア人旅行者のIvan Dolgorukov 公は、1810年に彼の一行がついに「ウクライナの境界を越えた」ときについて、こう書いた。
 「私の思いは(Bohdan)Khmelnytsky と(Ivan)Mazepa へ向かった」。—この二人は初期のウクライナの民族的指導者だった。
 「そして、消え失せた樹木の街路を思った。…どこも、例外なく。
 粘土の小屋があった、だが、他に施設は何もなかった。」(3)
 歴史家のSerhiy Bilemky は、19世紀のロシア人はしばしばウクライナに対して、北ヨーロッパ人がイタリアに対して抱いた父親的(paternalistic)思いを持っていた、と観察した。
 ウクライナは、理想的な選択し得るnation だった。ロシアと比べてより旧式だったが、同時に、より純粋で、より情緒的で、より詩的だった。(4)
 ポーランド人も、失った後でも長く「自分たちの」ウクライナの土地に対する郷愁に充ちた思いを残しつづけ、ロマンティックな詩や小説の主題にした。//
 (07) だがなお、違いを承認していても、ポーランド人もロシア人もときには、ウクライナnation の存在を傷つけ、または否定しょうとした。
 19世紀のロシア・ナショナリズムの指導的理論家のVissarion Berlinsky は、こう書いた。
 「小ロシアの歴史は、ロシアの歴史という本流に入ってくる支流のようなものだ。
 小ロシアはつねに支流であって、決して一つの人民(people)ではなく、ましてや国家(state)ではなかった。」(5)
 ロシアの学者と官僚層は、ウクライナ語を「全ロシア語の方言、または半方言、あるいは話し方の一つ」として扱ったのであり、「〈patois〉やそのような単語類には独立に存在する権利がない」。(6)
 ロシアの文筆家は、ウクライナ語を口語または農民の話し方を示すために用いた。(7)
 一方で、ポーランドの文筆家は、ウクライナの領域の東方に対する「空白」を強調する傾向があり、ウクライナ領土をしばしば「文明化されていない辺境で、自分たちが文化と国家の形成をもたらした」と叙述した。(8)
 ポーランド人は〈dzikie〉、「荒野」という表現を、東部ウクライナの空虚な土地を描写するために用いた。東部ウクライナ地方は、ポーランド人の民族的想像力では、アメリカで荒れた西部(Wild West)がもったような機能を果たした。(9)//
 ——
 序説②へと、つづく。

2502/R・パイプスの自伝(2003年)⑩。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。原書、p,30-p.33。
 ——
 第三章・知と美への萌芽 ④。
 (28) 人間として扱われるときは、私はとても良い仕事をした。
 1937年の春、歴史の教師のMarian Malowist から、当時はポーランド語訳書のなかったドイツ語のPrescott の著〈ペルーの征服〉を夏の間に翻訳するように頼まれた。
 私は訳文を秋に提出することになった。
 頼まれた翻訳報告書を書き終えたが、夏が終わって学校に戻ったとき、Malowist はいなかった。彼は、教師たちの中で唯一のユダヤ人だった。そして、学校を去ったのは、Radonski の反ユダヤ詐術にもう我慢できなかったからだった。
 私は報告書をファイルに綴じ込んだ。
 その文書は、他の私の文書類と一緒に、戦争の後になって私に届けられた。 
 Malowist は、ポリオで手足が不自由だったのだが、奇跡的にホロコーストを生き延び、ワルシャワ大学の経済史の教授に任用された。
 彼は1975年に、Harvard 大学を訪問した。そして私はついに、ほとんど40年遅れて、Prescott の書物の翻訳文書を彼に手渡す機会を得た。
 これは何らかの記録になるのではないか、と思う。
 彼は帰国後のポーランドからの手紙で、報告文書を見て、戦争前に14歳だった少年が戦後のほとんどの大学生の能力を超える歴史研究書を執筆していることを思って、涙が出た、と書いてきた。//
 (29) 1938年6月に、ギムナジウムを卒業した。そして同じ学校の二年間のリセ(Lyseum)に登録することになった。
 教育省から来た視学官によって、私の卒業は目視された。
 教師は各人を彼女の机の所に呼んで、私たちの成長を示すべく若干の質問をした。
 私の番になったとき、どこで生まれたのかと彼女は尋ねた。
 「シェシンです」と答えた。
 「シェシンの特別なことは何ですか?」
 「市が二つに分かれていて、一方はCzechoslovakia に、片方はポーランドに帰属しています」。
 「その二つともどちらに帰属すべきですか?」と彼女は迫った。
 ためらうことなく、私は答えた。「Czechoslovakia」。 
 彼女は驚いて尋ねた。「なぜ? 人口の多数派はポーランド人でありたいと思っていることを示す住民投票はなかったのか?」
 私は応えた。「たしかにあった。でも住民投票は不正に操作されていた。」
 「ありがとう。座ってよい。」
 実際のところは、住民投票について何も知らなかった。私はたんに反抗していた。期待されているように言うのが嫌で、ポーランド・ナショナリズムに同意していないことを示したかった。
 60年後に、シェシンで住民投票は一度も行われておらず、公平に言って、市の住民の多数派を占めているのでポーランドに配属されるべきだった、ということを知った。
 経緯を父親に話したら、彼は怖くなった。そして、父親と母親のどちらかが事態を取り繕うために、教師に会いに行った。
 思うに、彼らは私が外国のラジオ放送でそのような異宗派の考え方を聞いたという理由で、私を弁明したのだろう。//
 (30) 私の美や知への関心を共有してくれるクラス友達はほとんどいなかったので、私はたいてい孤独だった。
 しかし、二人の友人がいた。一人はAlexander (Olek) Dyzenhaus で、人生の残りずっと仲良しだった(ポーランドで戦争を生き延び、南アフリカで死んだ)。
 もう一人はPeter Blaufuks で、とても神経質だった。不運にも、殺された。//
 (31) 女友達もいた。
 我々はKrynica という保養地で、1938-39年の冬に逢った。
 Wanda Elelman は二歳年上で、すでにギムナジウムを卒業していた。
 日記から判断すると、私は情熱的に恋をしたようだ。だが振り返ると、そうではなかった、と思う。かつてポーランドを離れるとき、遺憾なことに、彼女のことはほとんど思い浮かばなかった。
 でも我々は、とくに1939年の春には、カフェで、あるいはLazienski 公園沿いに花盛りの栗の木々の下を歩いて、たくさんの幸せな時間を一緒に過ごした。//
 (32) 戦争が近づいていた。
 母親とEmmy Burger の二人は、不測の事態に備えて、手袋と帽子の作り方を習った。
 私は、Methodist の夕方学級での英語の授業に出席した。
 そこでアメリカ人たちと初めて接触したのだが、彼らには不思議な印象をもった。
 各授業の前に我々は大ホールに集まって最近のヒット曲を歌った。例えば、ピアノを弾く歯の目立つ女性や髪の毛を真ん中で分けてポマードで塗り固めた男性に指導されて、「I love you, yes I do, I lo-o-ove you」。
 我々はふつうは、流行しているラブソングを学習と結びつけはしなかった。
 しかし、会話ができる程度には英語を学習した。このことはのちに、私に大いに役立つことになった。//
 (33) 1939年6月、John Burger を失った。彼の家族とは、ともにアメリカ合衆国へ移住することになる。
 彼の母親のEmmy は半分ユダヤ人で、彼は四分の一はユダヤ人だった。ニュルンベルク諸法では、どちらも非アーリア人だった。
 ドイツが1938年にオーストリアを併合したときに公民権を取り替えなければならなかったので、彼らは離れるのは賢明だと考えた。
 私には、彼らがとても羨ましかった。//
 (34) 戦争前の学校の最終学年に経験した悲哀の一つは、軍事教練だった。それは一般に「PW」として知られる「軍事予備訓練」で、一種のROTC だった。我々は皺くちゃの黄緑色の制服を着て毎月曜日に学校に行き、一定の訓練を受けた。
 リセの最終学年とその前年の間、卒業予定の一年前に、他の学校の学生たちと一緒に、三週間課程の軍事訓練に参加しなければならなかった。
 1939年6月の終わり頃、クラスの仲間とともにKozienice にある軍営地に向かった。そこはワルシャワから南西に約100キロメートル離れた森林地帯にあった。
 ひどく辛い経験だった。
 粗雑な営舎に住み、麦藁かけ布団の簡易ベッドで寝た。
 十分に食べはしたが、食べ物は粗末だった。—朝食は無地のライ麦パンで、コーヒーと紅茶のどちらかが付いた。 
 だが、最悪だったのは、ワルシャワの他の学校の学生から持ち込まれた反ユダヤ主義の蔓延だった。
 ユダヤ人学生は、馬鹿にされ、嫌がらせを受けた。しかし、ほとんどの場合は平然としていた。
 唯一の愉しみは、森の中に監視で立つことだった。夜に眠れないことを意味したが、静かで私的な時間が持てたからだ。//
 (35) まもなく、困惑することが起きた。
 ある日、隊列の中で喫煙しているのを見つけられた。
 その軍営地で予備将校として勤務していたRadoriski が私を叱責し、軽い制裁を命じた。
 ついで、私は野原に立って空を見上げ、外国の航空機の通過を報告するチームに、配属された。
 空中には外国の航空機はおらず、いても判別できなかっただろうから、馬鹿げた任務だった。
 私は近くの店に、煙草を買いに行った。
 同僚たちとそこにいた軍曹が、一緒にウォッカを飲もうと誘った。
 私はそれまでウォッカを飲んだことがなかったが、成人として扱われたことを喜んだ。そして、誘いを受けた。
 見つかって、紀律違反の行為についてもう一度Radoriski に報告しなければならなかった。
 釈明させてもらえるなら、我々について責任のある軍曹が非難されるべきだっただろう。
 だが、そのときまでに、全てに嫌気がさしていて、潜在的にはみんな放り出したい気分だった。
 数日後に、何らかの業務のために野原に集められた。
 髭を生やしたユダヤ人が、荷馬車を運転してやって来た。
 兵士たちは揶揄してやじった。もっと不快にさせたのは、ユダヤ人の彼もそれに加わって、自分自身を笑ったことだった。
 私はむかついた。
 その後のすぐ、軍営地が閉鎖される予定の三日前のことだったが、営舎で喫煙しているのを見つけられた。
 Radonski は、意地悪いほくそ笑みをたたえて、私に退学を言い渡した。
 それ以来、彼に会わなかった。一年以内に戦争捕虜となり、ソヴィエトの治安警察によって殺害されたのだろう。//
 (36) 家に帰った。
 両親は何が起きたかを知って、狼狽した。
 父親はその人的関係を通じて、私が第二次の軍営地訓練に参加するようにすぐに取り決めた。夏季の訓練を完了していないと、学校を修了することができなくなっただろうからだ。 
 第二次の軍営地は、最初よりもはるかに愉快だった。それに参加していた地方の学校は、ワルシャワに浸透していたユダヤ恐怖症(Judeophobia)に染まっていなかったからだ。
 私は問題なく訓練を終え、8月の初めにワルシャワに戻った。戦争が勃発する直前だった。//
 --------
 以下、試訳者。原書p.33 の途中から<第四章・イタリア>が始まるが、p.32 とp.33の間に、10頁ぶんの複数の写真が掲載されている。それぞれに固有の頁番号は付されていない。後にもそのような箇所が二つあって、L. Kolakowski, I. Berlin, Ronald Reagan, George Bush (父), Alexander Kerensky (ロシア十月革命前の臨時政府首班。亡命後の1959年) らとそれぞれ一緒の写真が掲載されている。
 p.32 とp.33の間の10頁ぶんに掲載されている写真は、つぎのとおり。
 01/母方の祖父。
 02/母方の祖母。
 03/父方の祖母と抱かれる従兄。Cracow, 1922年。
 04/①母親一族、計11名。1916年頃。②父親。Wien, 1919年。
 05/両親の結婚写真。1922年9月。
 06/①著者、18ヶ月。②著者、4歳の誕生日。1927年。
 07/①Burger 一家とPipes 一家、計6名(3×2)。②将来の妻 Irene、10歳。Warsaw, 1934年。 
 08/①学校の友人たち、Blaufuks, Olek, 著者を含めて計11名。②Burger 家のHans(弟代わり)。Warsaw, 1939年。
 09/①著者。Warsaw, 1939年6月。②ドイツによる爆撃後のMarszalkowska 通り。Warsaw, 1939年10月1日頃。
 10/①ワルシャワ出立後の旅券用写真、著者と両親。Warsaw, 1939年10月。②ポルトガルに停泊中のアメリカ行きの船上での著者と両親(愛犬ココも写っている)。Lisbon, 1940年7月。
 ——
 第一部第三章、終わり。

2501/R・パイプスの自伝(2003年)⑨。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。
 ——
 第三章・知と美への萌芽 ③。
 (19) 振り返ることができる範囲で言うと、我々の感覚で知覚する現実は究極的な現実を隠している表層にすぎない、と私は感じていた。
 Cracow の街路で従兄弟と遊んでいる少年だったが、下水管の蓋の下で流れる水の音に気を取られた。ごくふつうの下水管口で、ごくふつうの排水だったけれども、見えない源から生まれてくる音によって、我々は影の世界で動いているという私の思いは強くなった。
 (言うまでもなく、当時の私はプラトン(Plato)を読んだことがなかった。)
 同じような体験を地方の祭りでもした。私は釣竿を持って、スクリーンの背後のプレゼントを拾い上げることになっていた。 幕の後ろに何か別のものがいるのではと、私はいぶかった。
 別のあるとき、私が客体(objects)についてもつ考えはそれの現実を表現しておらず、理解など全くしないままで我々が対処することができるようにするための「表象」(symbols)として役立っているにすぎない、と思った。
 このような感覚は、生涯ずっと残ったままだった。私の研究はつねに、外面の背後にある「真実」を探求したいという衝動に駆られて行われてきた。//
 (20) 音楽家には、いや美術史学者にすらならなかったけれども、私の当初の音楽や絵画への愛好はずっと私に影響を与えつづけ、私は学問上の著作で意識的に、美学的な規準を充たそうと努めてきた。
 多年ののちに、Trevelyan のつぎの言葉を納得して読んだ。「真実は歴史研究の規準だ。しかし、歴史研究を駆り立てる動機は詩的なものだ。」(後注4)
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 (後注4) A. L. Rowse, The Use of History, 1946, p.54 による引用。
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 歴史家でいるための困難さは、両立し難いこれら二つの資質が求められることにある。詩人たる資質と、図書館の司書たる資質。前者は人を自由に舞い上がらせ、後者は人を束縛する。
 私が提示しようとしてきたものは全て、文章と構成のいずれに関しても、実証的証拠に細心の注意を払いつつ、美学的に満足できるように書いたものだった。
 このことはある程度は、創造的な芸術家になれなかったという失望を埋め合わせてくれた。
 だが、それ以上のことを意味する。
 私は学問を美学的な経験だと、それゆえに個人的な経験だと見ている。論文や著書の執筆で誰かと協力するという考えを私は抱くことはできない。
 つねに、知識によりも叡智に関心をもった。
 私が書いた全ては、芸術の場合にそうであるように、私の私的な見方を反映した。
 そのゆえに、私は同僚の学問的営為に一度も関与しなかったし、私自身の仕事を総意に適合するよう義務付けられているとも決して感じなかった。//
 (21) このような考え方のために、私は早くから論争的になった。
 多年ののち、Harvard の大学院生から、私が書いたものはなぜいつも論争を刺激しているのか、と尋ねられた。Samuel Butler のつぎの手紙に答えを見つけるまで、どう回答すればよいか分からなかった。
 「世論を聞く耳をもつ者たちの見解が間違っていると考えるまで、どんな主題についても私は書かない。これは必然的帰結として、私が書く本は全て、その分野を占める人々に逆行することになる。だから、私はいつも熱水の中にいる。」(後注5)
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 (後注5) Henry Festing Jones, Samuel Butler,II, 1919, p.306.
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 (22) 私の若いときの芸術への熱情は、あらゆる種類のイデオロギーに対する免疫という、有益で永続的な効果を私にもたらした。
 全てのイデオロギーは、創設者が普遍的な有効性があるとする真実の核を含んでいている。
 私が10歳代のときマルクス主義者たちといた時々の討論の間、私はほとんど彼らの議論に反対することができなかった。マルクス主義の正典(canon)について全く無知だったからだ。
 しかし、私は、いかなる定式も全てを説明することはできない、ということを、絶対的な確実さをもって知った。
 ある人々は、世界をきちんと整序させること、全てが「あるべき場所に収まる」ことに憧れる。—その全ては、マルクス主義やその他の全体主義理論にとっては「原材料」だ。
 別の人々は、トルストイが生の「無限の、永遠に尽きることのない発現」と称したものに喜ぶ。究極的には美的価値に由来する喜びだ。
 私は、後者の人々の中にいる。//
 (23) 私は女の子についてはきわめて臆病だった。
 学校に行く途中で、上品で黒味がかった髪の毛と瞳をもつきれいな同じ年頃の女の子をしばしば通り過ぎて、見とれたものだ。私は彼女を見つめ、彼女は私を見つめた。でも、言葉は交わさなかった。
 あるとき公共図書館にいて書棚の本を捲っていると、彼女が歩いてきて、近くに落ち着いた。誘いだったが、私はあえて彼女に接近しようとはしなかった。
 のちにローマで、彼女をワルシャワで援助していた人物を見つけ出した。
 彼女は、疑いなく、ホロコーストで死んだ。//
 (24) 1938年7月、私の15歳の誕生日に、ときどき日記を書き始めた。
 その日記は、奇跡的に、残った。
 ワルシャワを出る前、我々の荷物の中には入れる余地のない、私の最も貴重な文書類があった。
 ポーランド・ユダヤの出自でイタリアの市民権をもつLola De Spuches という女性(下記も参照)が戦争中に、家族に逢うためにしばしばワルシャワに旅行していた。そのような旅行のあるとき、私の文書類を預かっていたOlek が、それを一袋にして彼女に与えた。
 彼女は戦争のあいだそれをずっと保管し、私が最初にヨーロッパに戻った1948年の夏に、私に手渡してくれた。//
 (25) 戦争前の私の日記を読んで、全く陰鬱な気分になる。
 主として幸福でない時代に日記に心の裡を打ち明けたのだとしても、その中を激しい怒りによる継続的な緊張が貫いている。
 それは部分的には、とりまく環境に向けられていた。すなわち、ポーランド・ナショナリズム、反ユダヤ主義、不気味に迫る戦争。
 しかし、私の怒りの唯一の理由は、外部的な要因ではなかった。
 その後何度も確認してきたのだが、当時に私は、意味ある知的な作業に従事していないと簡単に憂鬱に陥ってしまう、ということに気づいた。
 15歳の私には、追求すべき意味ある知的な仕事はなかった。
 努力がどう結実するかが分からないまま、何の指針もなく自分で、音楽や美術史に手を出した。
 従って、たびたび襲う失意の時間は、学問の職業を得るとすぐに、永遠に消え失せた。//
 (26) 戦争の3-4年前の学校は、本当にいやだった。
 私はその頃からワルシャワに来て、私立のギムナジウムに通った。創立者のMichael Kreczmer の名にちなんだ学校で、都心にあり、生徒の半分はカトリックで、半分はユダヤ人だった。
 1935年頃、その頃までは問題がなかった雰囲気が、悪い方へ顕著に変化した。
 親切でクラシック好きだった校長が、新しい種類のナショナリストの教師たちに排除された。彼らはポーランド文学の指導者に率いられており、Tadeusz Radoński の流れにあった。私の学校かつ復讐の的の校長代理になった。
 露骨な反ユダヤ主義の宣告はなかったが、それが継続的な底流になった。
 カリキュラムの重点が、ナショナルな問題に置かれた。—ポーランドの歴史、ポーランドの文学、ポーランドの地理。これらへの私の関心は限られていて、むしろ音楽、芸術、哲学への私の愛好の邪魔になった。
 ユダヤ人はポーランドの人口の10パーセントを占め、ポーランドの経済と文化を支配しているとされていた。そのユダヤ人が、決して言及されることなく、まるで存在していないかのごとく扱われた。
 ポーランド人の意識にユダヤ人がほとんど影響を与えていないとは、全くの驚きだった。
 過去についても現在についても、ポーランドがカリキュラムの中心にあった。
 世界は大不況下にあり、我々の東ではスターリンが数百万人を殺害し、西ではヒトラーがそれ以上の殺害を準備していた。だが我々は、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))といった瑣末なことを学習し、アフリカのLimpopo 河の流れをなぞらされていた。//
 (27) 私が宿題をせず、クラスでの素行が悪かったのは不思議ではない。そのために、一時的にはクラスから追放され、とくに悪くなったときには、一日かそれ以上、家に送り還された。
 私の周囲で何が起きているかに無頓着のまま、机の下でニーチェを読んだものだ。
 数学は、私の最も不得手の科目だった。私は全く理解できず、私の母親の取りなしと授業料を払っている生徒だという事実のおかげで毎年に上級学年へと進んだ。
 (カトリックの生徒の多数でなければ、多くには奨学金があった。)
 古代史と世界地理を除けば、私の成績簿は最低で合格する等級の惨めな集まりだった。「素行」ですら、「良」(good)だったのに。
 だが、教師が私をのけ者にし、素行と成績の悪さの原因を反省せよと言い、私の自尊心に訴える、そのようなことは一度もなかった、と思う。教師らしく用いた手段は、罰や恥辱だった。
 振り返ってみると、学校での行いが良くなかったのは、私には有難いことだった。宿題を果たさないことで、能力試験や授業で得られる以上の価値あるものを学んだり、自分が得意なものを発見したりする、そういう時間を得ることができた。//
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 第一部第三章③、終わり。④へとつづく。

2497/R・パイプスの自伝(2003年)⑥。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第二章の試訳のつづき。
 ——
 第二章・私の出自 ②。
 (13) 我々は、ワルシャワに移る途中で、ウィーン出身の女性が経営する小ホテルの一室に初めて落ち着いた。
 そこでウィーン人のOscar とEmmy Burger の夫婦と出逢った。彼らは、運命的に、我々の最も親しい終生の友人となることになる。
 Oscar Burger はオーストリアの自動車製造会社、Steyt-Daimler-Puch のポーランドの代表者で、この会社はVolkswagen に先んじて小型で安価な車を製造していた。
 彼らには一人の子息がいた。Hans といって、私より1歳、年下だった。
 我々はまもなく、町の別の所にある同じ家屋の別々の区画を賃借りした。だがそこを立ち退かなければならなかったとき、彼らと一緒に転居し、それから5年間、我々は同じ生活区画を共有した。
 両親たちは離れ難く、Hans は代わりの弟になった。//
 (14) トルストイは友人にこう書き送った。「子どもたちはいつも—若いほどそれだけもっと—、医師たちの言う催眠の状態にいる」。
 私は、自分の子ども時代はそうだったと思い出す。
 ときに「現実の」世界と接触して中断したが、私自身の世界の中で生きていた。
 青少年期に入るまで、自分自身の思いと感情以外で私が経験した全ては、私の外側にあって、完全には現実ではないように感じた。
 まるで夢うつつの催眠状態でいて、ときたま覚醒して、またすみやかに元に戻って行ったかのようだった。//
 (15) 8歳か9歳のとき、母親がドイツ語の短い祈り言葉を教えてくれた。
 のちに、作者はLuise Hensel という、ロマン派時代の詩人だと知った。
  Müde bin ich, geh' zur Ruh,/Schliesse beide Äugelein zu,/
  Vater, lass die Augen dein,/Über meinem Bette sein./(*脚注)
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 (*脚注) 大まかには、「疲れて休みに行き、目を瞑る。父よ、あなたの目が私のベットの上にとどまるように」。
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 そのときもそれ以降も、私は神の存在や慈悲深い導きに対するどんな疑いも経験しなかった。
 じつに、神の存在は私には絶対的に確かなものだ。神は全ゆるところに現存している。これとは別のことは全て、仮定のものか、疑わしいものだと思えたし、そう思われる。//
 (16) 上のことは、私が幸せな子ども時代を送ったことの理由だ。
 家族の写真を見ると、我々は戦争を生き延び、ともかくも思春期になるまでは、私はつねに微笑している。
 外部の世界をときに楽しむことはあったが、怖ろしくなったとき、私はいつも自分の内部世界へと引っ込むことができた。
 その感覚は子ども時代にずっと続き、ある程度は生涯を通じて私に同伴した。
 私の生命が危険だった第二次大戦という事件ですら、私の外部のもので、ゆえに現実には意味はないもののように感じた。
 私には、幸福な結末が来るという、全くの自信があった。//
 (17) それでもやはり、宗教に関しては問題を抱えていた。
 13歳か14歳の頃を思い出しているのだが、かりに存在する全てのものが神から生まれるのだとすれば、全てのものが—どんなに小さくとも全ての被創造物(生物)が、どんなに瑣末でも全ての出来事が—永遠に存在するはずだ。
 だが、存在した痕跡もなく事物は消滅している。
 顕微鏡で生物種を覗き込んで、神は本当にかつて生きた全てのアメーバについて説明することができるのだろうか、と思う。
 古い写真を見て、群衆の中のこの人を、あるいは荷車を引くあの馬を、みんな全て死んでいるが、神は憶えているのだろうか、と自問する。
 私はこの問題を、心の裡で決して解決しなかった。
 私が歴史を愛好したのは、何らかの意味で、この葛藤にもとづいていた。
 過去のものとなり死んだように見える諸事象を扱うことによって、私はある意味で、それらを生き還らせ、そうして時間から逃れた。//
 (18) 大戦間のポーランドについて、「ファシスト」とか「反ユダヤ国家」との評価がある。しかしこれは、ユダヤ人の若者はどうすれば絶望的な苦難のある国以外の国で生きることができたかと不思議がるようなものだ。
 「ファシズム」という用語は、1920年代からソヴィエトの共産主義者たちが行った言葉の操作に影響を受けて、本来の全ての意味を失った。
 イタリアのファシズム—言葉の元来の厳密な意味での「ファシズム」—は、1914年より前にB・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が率いた極端に急進的な社会主義運動が大きく成長したものだ。 
 ムッソリーニは、第一次大戦勃発とともに、ヨーロッパを覆った愛国主義の狂熱と階級闘争を上回る民族への忠誠心に影響を受け、社会主義の上にナショナリズムを接ぎ木した。そして、現代世界での階級闘争は社会主義者が教えたように同一の国家内の市民対市民で闘われるのではなく、国や民族の間で、裕福で搾取するものと貧困で搾取されるものとの間で闘われる、と主張した。
 彼は徐々に対抗する諸政党を廃絶し、包括的な検閲制度を導入し、諸企業に対して、全面的な国家の監視の下にある労働組合と協力することを強いた。
 これは、のちにソヴィエト同盟で起こったことの、緩やかな範型だった。//
 (19) イタリアと似たようなことは、大戦前のポーランドでは起きなかった。
 1926年まで、ポーランドは民主主義の途を歩んだ。しかし、共産主義者と社会主義者がナショナリストと闘ったとき、そして人口の三分の一を占める少数民族の権利が侵害されたとき、苦境を克服できないことが分かった。
 1926年5月1日、政治の舞台から退いていたPilsudski がクー・デタを敢行した。
 しかし、その範囲は限られていた。
 共産主義政党を含む諸政党は公然と活動し続けていたし、プレスの自由も尊重された。そして、司法部も、その独立性を維持した。
 政府内では軍部が重要な役割を担い、Pilsudski は立法部を支配することができていたが、彼の独裁は穏和で、非暴力的だった。
 1935年に彼が死ぬまで、ポーランドには伝統的な権威主義的統治があったけれども、類似性がイタリアとはほとんどなく、ナツィ・ドイツとは全くなかった。//
 (20) ポーランドの反ユダヤ主義という一般的な印象も、一定の修正が必要だ。
 ポーランド人にとって疑いなく、ポーランド性の規準を明らかにするなら、それはカトリック教会の遵守だった。だからこそ、正統派のウクライナ人やユダヤ人は、いかにポーランドを文化や忠誠の対象としていても、本当のポーランド人とは見なされなかった。
 これが、カトリック教会が国全体を統合した、120年間の外国占領の結果だった。
 民衆全体がカトリック教会によって、ユダヤ人に対する敵意を吹き込まれ、教え込まれた。
 人種的な反ユダヤ主義ではなかった。だが、信仰の放棄によってのみ改宗でき、かつそうしてすら、ポーランド人からみると決して完全にはユダヤ性を除去することができなかったので、ほんのわずかに苦痛が少ないにすぎなかった。
 しかし、(政府や軍部内以外では)公然たる差別はなかったし、大虐殺(pogrom)もなかった。
 正統派ユダヤ人の大多数は、自分たちの意思で、狭い共同区画に住んだ。そこでの生活様式が宗教の遵守を容易にしたからだ。
 我々のような同化したユダヤ人は、こうした共同区画の外の仲介者的世界で生活した。だが、私はこう言わなければならない。我々を背教者のごとくに扱う正統派ユダヤ人によりも、教育を受けたポーランド人の方に共通性を感じた、と。//
 (21) ともあれこうした理由で、1935年以前には、ポーランド・ユダヤの中産階層の子どもたちは、全く幸せでいることができた。
 確かに、ひどい事件はあった。
 1930年代の初め、我々は明らかなユダヤ人だけの共同住宅に住んでいた。 
 そして、ときには名前を呼ぶことがあった。
 一度、改宗した家庭のユダヤ人少年が、私を「ユダヤ」と呼んだ。
 私は叫び返した。「ユダヤは、きみ自身だ!」
 それに反応して彼は、ペン・ナイフで私の頭を打ち、血が流れた。
 彼の両親は、丁重に詫びを言った。
 しかし、私の子ども時代はこのような稀な事件でとても不快だった、と言うことはできない。
 我々は、ふつうの生活を送った。冬にはスキーやスケートをし、夏には車で街を出てピクニックをし、大きい「Legia」プールで泳いだ。映画を観に行きもした。//
 (22) 私は、どの点でも傑出した子どもではなかった。
 どの方面についても、早熟の才能を示しはしなかった。
 たくさん読書することもなかった。
 でも、私はとても魅力的な男の子だと見なされていた。オリーブ色の肌、母親が前部を切り揃え続けたつややかな黒髪は、たびたび称賛された。そして、私はしばしば、ペルシャ人かインド人だと思われた。
 思春期に心が傷ついたことの一つは、この称賛が突然になくなったことだった。//
 (23) 職業的な文筆家に将来になる者にしては驚くべきことかもしれないが、若いときの私には、自分の考えを文書にして書き記すのがとても困難だった。
 しかしながら、きわめて流暢に、私は話した。
 十代のとき、英雄が登場人物となる即席の作り話を語って、クラス仲間を楽しませた。この才能のおかげで、後年になって私の子どもと孫たちのいずれも、ベッドでの寝物語でわくわくさせることができた。
 しかし、決まりきった学校の課題を執筆するのは、本当に苦痛だった。
 のちに、主題が自分に浮かんで来て、自分の感情を表現できてようやく、きちんと書くことを学んだ。//
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 第一部第二章、終わり。

2496/R・パイプスの自伝(2003年)⑤。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
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 第二章・私の出自(My Origins)①。
 (01) ここで、時計の針をまき戻して、私の出自を語ろう。//
 (02) 私は、1923年7月11日に、ポーランドのシレジアのCieszyn (チェシン、Teschen,テシェン)という小さな市の、同化した(assimilated)ユダヤ人家庭に生まれた。そこはチェコとの境界にあり、のちにアウシュヴィッツ最終収容所となる所から50キロメートル離れていた。
 父親のMark は、1883年にLwow (Lemburg, Lviv)で生まれ、若いときはウィーンで過ごした。
 祖先はもともとは「Piepes」と綴り、19世紀初めから、生まれた市の改革志向の市民の主要人物だった。
 Bernard という名だった我々の先祖の一人は、ユダヤ人共同体の書記として勤めていたが、1840年代に、率先してLwow に改革派ラビ〔ユダヤ教聖職者〕を送り、ほとんどが職業人で成る「進歩的寺院」を率いた。
 今日の基準からすると当時は全く保守的だったユダヤ教では「進歩的」だったとはいえ、正統派のユダヤ人は激しい怒りを感じたため、彼らの一人は新しいラビを殺害し、自分の娘を彼の台所にこっそり入らせて、食物に毒を入れた。//
 (03) 1914年、父親はポーランド軍団(Legions)に入隊した。それは、ポーランドの独立のために戦うために、ドイツ・オーストリアの援助を受けて、Joseph Pilsudski が組織していたものだった。
 彼は1918年まで現役兵のままでいて、「Marian Olszewski」という偽名で、Galicia のロシアと戦った。
 父親がどんな体験をしたのか、私は知らない。戦争をすぐ近くで見たほとんどの人々と同じく、彼は語るのを好まなかったからだ。
 彼はその間に、何人かの将校たちと親しくなった。彼らはのちにポーランド共和国を動かすことになり、友人関係は大戦間の時期や我々のポーランド脱出に役立った。//
 (04) 母親のSarah Sophia Haskelberg は、家族や友人には「Zosia」として知られ、Hasidic 〔ユダヤ教の一部—試訳者〕の裕福なワルシャワの事業家の11人の子どもたちの9番目の子どもだった。
 母親はその父親を、陽気な人で、食べて、飲む美食家で、大きなひどい声で歌ったと思い出していた。
 彼は事業を発展させてロシア政府とも取引をし、制服やロシア軍用の武器を売った。そして、ワルシャワとその郊外にかなりの不動産を獲得した。
 母親の兄弟の数人は、技術学校か船乗り学校に入るために、戦争前に、ベルギーへと送られた。
 家族は夏をワルシャワ近くのリゾート地で過ごした。そこには、祖父の別荘があった。
 家族はそこへ学校が終わる前のPassover 〔出エジプト記念のユダヤ人の祝日の日々—試訳者〕の頃に移り、9月に学校が始まる後まで、滞在した。
 ワルシャワでは、家族は祖父が所有するアパートに住んだ。1939年になっても、トイレはあったが浴室はなく、台所のシンクで洗う必要がああった。//
 (05) 1915年にロシア軍がワルシャワから撤退したとき、母親の父親は彼らについてくるよう強いられた。彼が裏切ってドイツ軍にロシア軍に関して知っていることを教えるのを阻止しょうとした、というのが最もありそうだ。
 彼はその後三年間、ロシアにいた。そのうち一年は、共産主義者の支配下だった。
 ドイツとの人的関係を通じて、1918年に、彼はポーランドに戻り、息子の二人、Henry とHerman が地位を引き継ぐとの取り決めがなされた。
 彼らは二人ともロシア人女性と結婚し、残る人生をソヴィエト同盟で過ごした。
 Herman は、スターリンの粛清(purges)で殺された。1937年11月に逮捕され、すみやかに処刑された。//
 (06) 我々は1902年のクリスマスの前夜が母親の誕生日だと受け取っていた。しかし、ロシア支配下のユダヤ人家庭は男の子が兵役に就くのを回避すべく息子たちの誕生日を「取引き」するのがふつうだったので、母親の誕生日も確実ではなかった(実際、1920年代にパレスチナへ移住した彼女の兄のLeon の誕生日は1902年12月28日とされていた)。
 私の母方の祖父は、私が生まれた年に癌で死んだ。
 母親の母親は、よく憶えているが、ポーランド語をほとんど話さず、私と最小限の会話しかしなかった。
 彼女は、73歳のときにホロコーストで殺された。強制的に送られて、Treblinka にあるナツィの死の収容所で毒ガスを吸わされた。
 学校の後でときおり、私は彼女のアパートに立ち寄ったものだ。そのときいつも優しくされ、食べ物をもらった。一方で、彼女がかつて我々を訪れたことは憶えていない。//
 (07) 私の両親は1920年に、父親がワルシャワに住んでいるときに逢った。
 母親はこう私に言った。彼のことを友人から聞いたのだが、その友人は仕事で彼の父親のところを訪れてもMarek Pipes は自分を気にかけてくれない、と愚痴をこぼした。
 母親には、彼をつかまえてデートに誘う自信があった。
 彼女は彼の事務所を訪れて、彼が頻繁に行っていると聞いたレストランで見たことがある、というふりをした。
 興味をそそられ、彼は餌に食いつき、彼女を誘った、かくして、ロマンスが始まり、二人は二年後に結婚した。
 結婚式は1922年9月に行われ、その後にCieszyn (チェシン)へと移った。そこで父親は、三人の仲間と一緒に—うち一人はのちに義兄弟になる—「Dea」というチョコレート工場を経営していた。
 それは今日でも、「Olza」という名前で存在しており、「Prince Polo」という名のウェハス棒を製造している。
 その市は川で二分されていた(今もそうだ)。東部はポーランドで、西半分はチェコスロヴァキアに属していた。
 ユダヤ人たちはその市に、遅くとも16世紀の初めから住み始めていた。//
 (08) 私はチェシンで4年間だけ過ごした。そして、この郷里について、ほとんど思い出がない。
 今でもある二階建ての家で、私は生まれた。
 70年後に、チェシン市長が私に名誉市民号を授与してくれたとき、式典で私は、憶えている幼年期のことを三点述べた。
 母親が、厚い層のバターとダイコンの付いたサンドウィッチかライ麦パンをくれたのを覚えている。
 家の前で食べていたとき、ダイコンがすべり落ちた。
 こうして私は、喪失を学んだ。
 そのような食べ物を、私はひどく欲しがった。
 こうして私は、羨望を知った。
 最後に、両親は私に、私は数人の友達を日用食料品店に誘って各人に一個ずつオレンジをあげたことがある、と話した。
 店主に誰が支払うのかと尋ねられて、私は「親たち」と答えた。
 こうして私は、結論的に言うのだが、共産主義とはどういうものか、つまり、誰か他人が支払うのものだ、ということを学んだ。//
 (09) 転居したあと何度かチェシンを訪れた。一度は1937-38年の冬休みの間で、つぎは1939年2月、ポーランド政府が、ミュンヘンで連合国から放棄されたチェコに、チェシン市の半分の割譲を強いたあとだった。
 荒廃した街路を歩きながら、母国の恥ずかしさで気分が悪くなった。//
 (10) 住民は、ポーランド語、ドイツ語、チェコ語を切り替えて使った。
 両親は、家では、ポーランド語とドイツ語のいずれかを選んで話した。
 私とは、もっぱらドイツ語で話した。ドイツ語を話すお手伝いも雇っていた。
 しかし、私と遊ぶ友達はみなポーランド語を話した。それで、私はその言語を向上させていった。
 その結果として、私は3歳か4歳のときに、バイリンガルだった。//
 (11) ヨーロッパの地理的中心 (*脚注) で出会う文化的な交錯の流れを、アメリカ人が思い浮かべるのはむつかしいに違いない。
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 (*脚注)  二つの線を北岬〔ノルウェー〕からシチリアまでと、モスクワからスペインの東部海岸まで引くと、それらはチェシン付近で交差する。
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 アメリカ合衆国には多数の民族集団があるけれども、イギリスの言語と文化がつねに主要なものだ。
 私が生まれた所では、諸文化が同等の基盤を持っていた。
 この環境によって、人々は、外国人の思考様式についての鋭い感覚を身に付けていた。//
 (12) 父親は1928年に、Dea を売って、家族とともに短期間、Cracow(クラカウ、クラクフ)へと移った。そこには父親の妹が夫と二人の男の子と住んでおり、また、彼の両親も一緒にいた。
 父親の父親のClemens(またはKaleb)は威厳のある背の高い紳士で、髭の生えた顔に私を接吻させたが、私に一言も発しなかった。
 彼は、1935年に死んだ。 
 Cracow で父親は、義兄弟ともう一人の仲間で新しいチョコレート工場、ウィーンのPischinger 商会の支店を設立した。チョコレート・ウェハスの製造に特化したものだった。
 (今でも、Wawel の名で稼働している。)
 Cracow には一年もいなかった。
 工場の経営を義兄弟と仲間に委ねて、父親は、小売販売業をする意図を持って、家族とともにワルシャワに移った。
 しかし、まもなく、不況がやって来た。
 父親はPischinger との関係を切って輸入事業を始め、主にスペインやポルトガルから果物を買い付けた。必要な資金は、政府内にいる友人から現金で割当てられた。
 母親の出身家庭がもつ不動産からの収入を加えた収入は、控えめな生活をするには十分だった。
  父親は本当は事業をするのに適していなかった、と追記してよいかもしれないと思う。
 彼には良い考えが浮かんだが、やり通す持続力が弱くて、毎日の管理業務にすぐに飽きた。
 私の両親は楽な暮らしを送ってきていた。
 のちに、事態がもっと悪くなったとき、父親は感傷をもって思い出していた。母親が毎日朝に直面していた主要な問題は、どのカフェで一日を過ごせばよいか、だったと。
 彼は、ワルシャワの男性の中のベスト・ドレッサーの一人という声価を得ていた。
 つねに、料理をし、掃除をし、朝早くにタイル貼りの暖炉に薪をくべるお手伝いを雇っていた。
 そのお手伝いは、台所で寝て、雇い賃は、部屋と食事込みで毎月5ドルか6ドルだった。//
 ——
 ②へとつづく。

2487/R・パイプスの自伝(2003年)③。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ③。
 (24) 〔1939年〕10月6日、ヒトラーが、勝利してポーランドの首都を視察するためにやって来た。
 私は、我々の4階の窓から、彼を眺めた。ドイツ兵が、行路である目抜き通りのMarzalkowska 通り沿いと我々の家屋の下に、数フィートごとに銃砲を持って配置されていた。
 彼はオープンカーのMerzedes に乗り、親しげな様子で立ち上がり、ナツィ式の敬礼をしていた。
 ヒトラーを殺すのは何と簡単なのか、と私は思った。//
 (25) ポーランド人は初めは、外国による占領を寡黙な宿命意識で耐えた。
 結局は、彼らの国は21年間だけ独立し、つづく120年は外国に支配された。
 ポーランド人の愛国意識は、国家性よりも文化を伴う民族性と彼らの宗教へと向かった。
 彼らは、この占領は長く続くだろうが、再生したポーランドをもう一度見るだろうことを、疑っていなかった。//
 (26) もちろん、ユダヤ人には状況はきわめて困難だった。
 ポーランドのユダヤ人の大多数—正統派で、密集した区画に住んでいた—はおそらく、彼らに対するナツィの考え方をほとんど何も知らなかった。
 東ヨーロッパのユダヤ人は、住民のうちで最も親ドイツの集団だった(共産主義とロシアに共感をもった者たちは別として)。(*脚注1)
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 (*脚注1)不幸なことに、多くがそうだった。その中で生活しつつもキリスト教徒から区別された彼らは、私事についてはきわめて現実的で、実際に厳しい体験で鍛えられていたが、伝統的に排除された政治の世界については著しく無知だった。
 彼らの中で同化した者たちは、メシアの到来を信じる正統派信者の仲間として、社会主義を信じがちだった。
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 彼らは、ドイツがロシアからポーランドを征圧して法と秩序をもたらした第一次大戦の間の時期(1915-1918)を記憶していた。私の母親の家族には、その時代のよい思い出しかなかった。
 私は思うのだが、ユダヤ人の大多数は1939年9月に起きたことをひどく怖がったということはなかった。そして、多少とも、正常な生活が回復すると予測した。
 Israel Zangwill はその〈ゲットーの子どもたち〉で、正当にこう語る。
 「ユダヤ人は迫害による苦痛をほとんど感じなかった。
 彼らはGoluth つまり亡命(exile)の時代にいると、またメシアの日々はまだ来ていないと、分かっていた。そして、迫害者は全知全能の神(Providence)の愚かな手先にすぎない、と考えた。」(+後注02)
 (+後注02) 1895年, New York &London.
 (27) 同化したユダヤ人は、より心配した。彼らはニュルンベルク法と水晶夜(Kristallnacht)〔1938年11月の反ユダヤ人暴動・「11月の虐殺」—試訳者〕について、知っていた。
 しかし、彼らですら、ドイツ支配下で何とかして生きていける、と考えた。ドイツ人にも結局は、医者、服屋、パン屋が必要だろう。
 ユダヤ人は二千年以上、敵対的環境の中で生き延びていく仕方を学んできていた。
 彼らは、体面や同情に訴えたり、人権を要求したりではなく、諸権力に有用な者に自分たちがなることによって、生存を達成した。すなわち、王や貴族に金を貸し、彼らの必需品を販売し、彼らの賃料や税金を徴収することによって。
 かつてしばらくの間、彼らが財産を奪われて追放されたのは本当だが、彼らはほとんどの時期を何とかして生きてきた。
 今度もそのようになるだろう、と彼らは思った。
 彼らは、大きな間違いを冒した。
 彼らが今対処しなければならない者たちは経済的な個人的利益には影響されず、異常な人種的憎悪に動かされていたのだ。—抑えることのできない憎悪感情。//
 (28) 半世紀後に、パレスチナ人と交渉するイスラエルの人々のナイーヴさを観察して、この〔ユダヤ人の〕態度を理解できるようになった。
 イスラエル人は、イスラエルを破壊し、そのユダヤ人住民を虐殺するか少なくとも追放しようとした、三回のアラブの侵攻を撃退した。そして、イスラエルの人々は定住して快適に生活し、平和と繁栄を維持するためにアラブ人にほとんどどんな譲歩でも行う気があった。
 イスラエル住民のかなりの部分は、パレスチナの隣人たちの宥和不可能な破壊的熱情に関する間違いようのない証拠を、素っ気なく無視した。譲歩すれば何とかなると、確信していたのだ。
 彼らは憎悪しなかったがゆえに、自分たちが憎悪されることがあり得ると考えるのは困難だった。//
 (29) 被占領下のポーランドの生活は、驚くべき速さで正常に戻った。日常がいかに速く「英雄的なもの」を圧倒したかは、驚嘆するほどだ。
 この経験が私に与えたのは、つぎの不変の確信だ。すなわち、民衆一般は歴史では、ともかくも少数のエリートに留保された政治や軍事の歴史では、辺縁的な役割しか果たさない。彼らは歴史を作るのではなく、生きる。
 私はこのことを、〈Old Wive's Tale〉へのArnold Bennett 自身の序文での洞察で確認した。そこで彼は、年配の鉄道被用者とその妻への、1870-71年のプロシャの包囲の間のパリに関するインタビューを思い出している。
 Bennett はこう書く。「我が彼らから得た最も有益なことは、最初は驚いたが、ふつうの人々は包囲されたパリで全くふつうの生活を営みつづけた、ということだった」。//
 (30) 1940年5月に記録したようにこうした期間の私の思い出を振り返ってよいなら、以下はドイツ占領下で私が過ごした時代について書いていたものだ。
 「私のこれまでの人生で最も悲しい月が始まった。それは結構な終わりを迎えることになった。—1939年10月。
 この期間に何をしたか、どうやって過ごしたか、自分が叙述するのは困難だ。
 アパートは、ひどく寒かった。
 私はほとんど全てを着込んで掛け布団の下で寝た。
 ドイツ軍が歩いている人々を拘引していたので、外へ出るのは危険だった。
 夜には電灯が点かず、ろうそくは節約する必要があったので、私は昼間にだけ読書し、勉強することができた。
 私たちは毎日、ライス、マカロニを食べ、種々のスープを飲んだ。—のちにはキャベツとパンが加わった。
 私は10時頃に起床し、強い嫌悪感をもって、しかし同様の食欲で、朝食を摂った。そのあとで、家を出て[友人の]Olek やWanda、あるいは家にいる他の誰かを訪れた。…。
 困難な状況を思って、絶望していた。—野心、計画、夢の全てが粉みじんに散った。」//
 (31) 父親がなぜドイツ占領でのたんなる生存の見込みすら厳しいと考えたのか、私は正確には分からなかった。ほとんどのユダヤ人は、占領を甘んじて受けていた。
 おそらくは、誇りからだった。父親はパリア(pariah、のけ者・下層民)のごとく自分が扱われると考えること自体を耐え難く感じる、自負心の強い人だった。
 彼は広がっているいかなる幻想も持たず、前方にあるものを正確に予測していた。
 一ヶ月後に、公然たる追及が始まる前のことだが、彼が書いた手紙で、彼はこう書いた。「ポーランドのユダヤ人は、ドイツのユダヤ人よりも悪い運命に直面している」。//
 (32) 10月の前半のいつかに、我々は台所で家族会議を開き始めた。それには、家族全員と、戦争勃発とともに行方不明になっていたお手伝いのAndzia も加わった。
 あるラテン・アメリカ国への偽造旅券でポーランドから西側へと出る可能性が、浮かび上がった。
 父親はその国の名誉領事を知っていた。X氏と称しておくが、この人物は領事館のスタンプのない、一冊の空白の旅券を持っており、このスタンプは、外交団と一緒に彼がワルシャワを去るときに総領事からもらっていた。
 X氏は、我々が自由に使えるよう、この旅券を我々に預けた。
 しかし我々は、つぎの疑問に直面した。我々はあえて慣れた場所を立ち去って、未知の場所へと行くのか?
 我々は裕福でなかったが、家で金銭について議論したことはなかった(総じて言って、金銭はユダヤ人中流家庭での会話の話題でなかった)。私も、生き延びるためのその必要性に関して、何の考えも持っていなかった。
 父親がこの冒険の是非を声を出して考えている間、私は賛成の意見だった。
 私は大学に入学登録したかったが、それはドイツ占領下のポーランドでは考え難いことを知り、ポーランドを離れるよう強く主張した。
 金銭については、我々は何とかするだろう。最終的には、父親には、我々が苦境を切り抜けるための銀行口座が、ストックホルムにある。//
 (33) 母親によると、離れるという決定が下されたのは、ドイツ軍が掲示板に彼らに登録した住民にはパンの配給券が発行されると発表した後だった。
 父親は、これは誰がユダヤ人なのかを決める手段だ、と結論した。//
 (34) 私の主張と私の(根拠のない)自信は、間違いなく、父親の判断を助けた。
 私は今でも、父親が全く大胆な決定をしたと驚嘆している。
 母親は、ユダヤ人の彫刻師を探し出して、欠けている領事館の公印を偽造させた。
 そして父親は、出国許可を求めてドイツ軍司令部との交渉を始めた。
 Gestapo は10月15日にワルシャワに入っていた。だが父親は、もっぱら軍部と交渉した。
 父親は私にこう言った。ドイツ軍司令部と我々の出国を交渉している間に、市長のStarzynski のところへ行ったのだが、彼は父親をドイツのスパイか協力者だと疑って怒りの視線を向けた、だが説明する機会がなかった、と。//
 (35) こうしたことが起きている間、私は、幸運に包囲攻撃から生き延びた友人たち全員を訪問した。
 音楽がとても好きな学校の友人の一人のアパートの中庭に入ったとき、Beethoven の〈英雄(Eroica)〉の音が聞こえた。
 別の学校友達の母親は驚いて、ドアを開けるのを拒んだ。
 最良の親友のOlek Dyzenhaus は、姿見がよかった。
 Marzalkowska 通りを二人で歩いていたとき、パン待ちの行列に気づいた。語り合い、笑いながら、我々もそれに加わった。
 後ろの一人の男性が、首を振りながら、「ああ、若いやつ、若いやつ」と呟いた。
 我々はこれは怪しい人物だと思った。しかし今では、彼の反応が分かる。//
 (36) ついに、全ての書類が揃った。イタリアへの通過ビザも含めて。
 我々は、ドイツ軍が市を占領していたので、10月27日金曜日の午前5時49分に、ワルシャワからの始発列車で出発することになった。
 その列車は、故郷へと兵団を運ぶ軍事用のものだった。
 我々の目的地は、Breslau(今日のWroclaw)だった。//
 (37) 父親は一人のドイツ系ポーランド人—Volksdeutsche と呼ばれた—と、推測するに我々が戻るまで、我々のアパートに転居することを取り決めた。
 その人物は、アパート所有物の詳細な目録に署名をした。
 私は、音楽と芸術の歴史に関するものが最も多い書物と写真を集めた。
 そして、ほとんど哲学書と芸術史書から成る私の小さな書斎に別れを告げた。
 その中の主要なものは、Meyer の〈Konversationslexicon〉だった。それは19世紀末に出版され、芸術史に関する知識のほとんどを、私はそれから得ていた。
 ロシアによる検閲で、攻撃的と見られた全ての文章が墨汁で黒く塗られていた。
 表紙は、第一次大戦の寒い冬の間の燃料になるよう、注意深く破り取られていた—そう叔父は私に教えた。
 私は夜のあいだずっと、手の施しようもなく震えていた。//
 ——
 第一章④へとつづく。

2486/R・パイプスの自伝(2003年)②。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 著者はドイツ軍の空襲を受けているワルシャワで(両親とは別の部屋で)ニーチェの〈権力への意思〉などを読みつつ寝た、という当時の日記の一部を掲載している。以下の(16)参照。興味深い。
 だが、当時16歳のポーランドの少年(青年?)が、どういう目的や思いをもってNietzsche の本を持っていて、「非常時」に目を通したのか?
 攻撃しているドイツの人物だからか、それともそれ以上に、ヒトラーとニーチェを結びつける何らかの言説があったからか。著者は何も触れていないので分からない(少なくともこの辺りの叙述まででは)。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ②。
 (15) 9月22日〔1939年〕の夜になり、外交団が撤退したあとで、ワルシャワは昼夜を問わない爆撃にさらされた。昼間はStuka 爆弾機が防衛なき市の上を巡回し、甲高い音を立てて飛んで民間人に対して爆弾を落とした。
 夜に我々は砲撃を受けた。
 爆撃は無差別で、9月23日だけは例外だった。その日はYom Kippur の日で、ドイツの飛行士たちはワルシャワのユダヤ人区画に集まって遊んでいた。//
 (16) 私の文書の中に、この出来事から8ヶ月後に書かれた日記を見つけた。それから引用するのが最もよいだろう。
 「23日、ラジオ放送が、爆撃を受けて停まった。
 その翌日、我々には水がなかった(ガスはしばらくの間不足していた〉。
 我々はすぐに逃げるために、全ての持ち物を手にして、完全に身繕いをして、寝た。
 私だけは、ニーチェの〈権力への意思〉や[Leopold]Staff の詩を読みながら、またはGiotto についての自分のエッセイを書きながら、6階で寝た。
 24日は一日じゅう爆撃が繰り返され、25日の朝に我々は、爆弾の音で目が覚めた。
 もう空からの攻撃に対抗する防衛力または[ポーランドの]航空機はなく、あちこちで機関銃の音が響いた。
 450機による一日じゅうの爆撃が始まった。それは、歴史上かつてないものだった。
 爆弾が次から次に、雨嵐のように、守る術なき市に降り注いだ。
 家は崩れ、数千の人々が埋まり、あるいは街路が火に包まれた。
 ほとんど発狂したかのごとき群衆が、子どもや包みを抱えて、瓦礫で覆われた街路を走った。
 ドイツの航空士たち、世界で最悪の野獣たちは、機関銃砲で[街路を]掃射すべく意識的に低く飛行した。
 夕方までにワルシャワは炎に包まれ、ダンテの地獄のようだった。
 市の端から端まで、見えるものは空を赤く染める炎だけだった。
 そうしてドイツの砲撃は続き、砲弾の雨で市を覆った。…。
 我々の[仮の]住まいは奇跡的に的中するのを免れ、二つ「だけの」砲弾の痕跡があった。/
 しかし、我々が何の被害も受けなかったのではなかった。
 午前1時頃、大きな爆発の音で目が覚めた。砲弾が下の階に当たり、女性が一人殺された。
 我々は跳び上がり、人々で群れた階段の吹き抜け箇所へと降りた。
 叫び声、絶望の言葉、うめき声が、無情な砲弾の爆発音と入り混じった。
 我々の建物が燃え始めた。
 中庭へと逃げた。私は、最も貴重な自分の書き物と本を入れた書類カバンを持ち、腕の中に震える我々の犬を抱えて、逃げた。
 庭を横切ったとたん、砲弾の欠片が近くで爆発した。だが、負傷はしなかった。
 我々は地下室へと避難した。しかし、午前5時に、そこを放棄せねばなければならなかった。もう安全ではなかったからだ。—階段の吹き抜け部分の一つが炎に包まれていた。/
 街の中へと走った。
 Sienkiewicz 通りで、広いがひどく汚れた、地下室のある避難所を見つけた。そこは群がる人で混んでいた。
 砲撃は絶えることなく続いていた。
 夕方7時に、この建物は燃え始めた。
 我々はもう一度、通りに走り出た。
 こんどはMarzalkowska (マルシャウコフスカ)通りで、狭い階段下空間に落ち着いた。…。
 二回目の夜がやってきた。
 爆撃は続いていた。市全体が、炎の中にあった。 
 Marzalkowska 通りとZielna 通りの角で我々が見た光景を、私は決して忘れない。—馬が自由に走り回り、あるいは鋪道の上に死んでだらりと横たわっていた。それらは、箱のごとく燃える家屋の火で照り輝いていた。
 人々は安全な隠れ場所を探して、家屋から家屋へと走り回った。
 夜中には爆撃がいくぶんか弱くなった。そんなとき、私はあるウェイトレスの膝の上に頭を乗せていた。そして、寝入った。
 空腹だった。我々は、砂糖と奇跡的に得た水を与えて、なんとか我々の犬を救った。/
 突然にドアが開いて、ひどく負傷した4人の兵士が運ばれてきた。
 彼らはろうそくの灯りの中で包帯を巻かれたが、水も薬もなかった。
 女性たちが気絶したり、理性を失ったりし始めた。子どもたちは泣き叫んだ。
 私も、ほとんど卒倒しそうだった。
 ようやく落ち着いて、無関心に、例えば、ろうそくの火を消すべきかどうか、といった議論を聞いた。
 人々の群れが、入ろうとして、我々のドアに押しかけた。
 爆撃は、はっきりと分かるほどに弱くなった。
 より静かになっていった。…。
 ワルシャワは、そしてそれとともにポーランドは、最後の日を体験したのだった。」//
 私の日記に記さなかったことを、付け足してよいだろう。すなわち、我々が燃える街路を走っていたとき、母親は走りながら、落ちてくる瓦礫の破片から守るために、私の頭の上に枕を乗せて抱えてくれていた。//
 (17) 地下室で、ひどい風聞が広まっていた。
 私はそれを、ポケット日記に記録した。—ポーランドはドイツの攻撃を撃退しており、諸都市を奪い返している。フランス軍はジークフリート(Siegfried)線を突破した。イギリス軍は東プロシャに上陸した。
 この数日間に〈Dzien dohry !〉(良い日だ!)という表題で出現したいつもと違う記事の一つは、その第一面(headline)でこう発表した。
 「ジークフリート(Siegfried)線が破られた。フランスがラインラント(Rheinland)に入った。ポーランドの爆撃機がベルリンを急襲攻撃する。」
 これら全ては、全くの作り話だった。
 ついに、真相が明らかになった。9月17日、ソヴィエト軍はポーランド国境を越え、東部諸地方を占拠した。
 私は日記の9月24日(日曜日)に、こう記した。
 「ワルシャワは自衛する。
 ソヴィエトはBoryslaw、Drohohyez、Wilno、Grodno を占領した。
 西部前線—静寂。
 ポーランドは負けた。
 どのくらい続くのか?」//
 (18) 〔1939年9月〕26日、ポーランド当局とドイツ軍は交渉を開始した。
 その翌日に、ワルシャワは降伏した。
 そのときに合意された条件によって、42時間の停戦になった。
 27日の午後2時、銃砲は沈黙し、航空機は空から消えた。その間に彼らは、市の建物の8分の1を破壊していた。
 奇妙な静けさが発生した。
 ドイツ軍は、9月30日に市に入った。
 私は偶然に彼らの先遣部隊、ワルシャワの中心部、Marzalkowska とAleje Jerozolimskie の通りの角に止まっていた、上部の除去可能な軍用車、に出くわした。
 運転手の隣に座っていた若い将校が立ち上がり、その車を囲んでいる群衆の写真を撮っていた。私は憎しみをもってその男を一瞥した。//
 (19) 二日間の停戦中に、我々のアパートに戻った。窓が何枚か破壊されているのを除いて、損害を免れていた。
 両側と通りを挟んだ向こう側の各家屋は、しかし、粉々になっていた。 
 ココ(Coco)、我々の老犬のコッカー・スパニエル(cocker spaniel)は、我々の放浪に従いてきたのだったが、喜びで狂ったようになり、激しく食事室を走り回り、ソファを跳び登ったり降りたりした。
 彼女は、我々の苦難は終わった、と思ったに違いない。//
 (20) ポーランドの1939年の軍事行動については、多数の誤報が存在する。ポーランド軍はドイツの戦車部隊を騎兵隊で阻止しようとしたとして馬鹿にされ、名目だけの抵抗を示した後で降伏したかのごとく叙述されている。
 実際には、ポーランド軍は、きわめて勇敢にかつ効果的に戦闘した。
 機密性を解除されたドイツの文書資料が明らかにしているのは、戦争の4週間にドイツ軍は多大の被害者を出した、ということだ。
 死者は9万1000人、重傷者は6万3000人。(+後注01)
 これらは、スターリングラードの戦いとその2年後のレニングラードの勝利までは、ドイツ軍が被った最大の被害だった。その2年間にドイツは、全ヨーロッパを事実上征服したのだったが。 
 +(後注01)Apoloniusz Zawilski 1972, p.248n. ポーランド軍はまた、ドイツ軍の191台の戦車と421機の航空機を破壊した。//
 (21) 我々には食べ、飲むものがあった。母親が戦争勃発のまさに直前に大きな一袋の米(rice)を購入していて、彼女のベッドの下に隠していたからだ。
 これが翌月の間の我々の主食になることになった。多様な料理法で提供され、マーマレードで味付けされていたことすらあった。
 我々はまた、浴槽に水をはった。//
 (22) 10月1日、ドイツ軍は市内の巡回を始めた。
 彼らはトラックを運転した。私が驚きつつ気づいたのは、兵士たちはナツィの情報宣伝にいう金髪の超人(supermen)ではなかった、ということだ。多くは背が低く、浅黒く、外見上は少しも英雄的でなかった。
 占領軍は、すみやかに日常生活を回復させた。
 パン屋が開いた。
 ポーランドの店舗は販売した。あるいはほとんど無料で品物を売った。
 私は、イワシの缶詰やチョコレート棒を含めて、できるだけ買った。
 占領の最初の一ヶ月の占領軍兵の振舞いは、全く適正だった。
 私は乱暴な行為をいっさい見なかった。
 心に残る像は、あるドイツ兵が髭の生えたユダヤ人をオートバイのサイドカーに乗せて、ワルシャワの街路を走らせていた、というものだ。
 別のときには、二人の若いユダヤ人女性がある建物の入口の監視兵と親しくして、当惑する彼の鼻を花でくすぐっているのを見た。
 私が見た唯一の反ユダヤ的出来事は、ドイツ軍のトラックの荷樽がユダヤ人区画の街路で落ちてころがり、中には老人もいたユダヤ人たちが当たるのを避けようと散り散りになったとき、ドイツ兵が笑い声を立てて歩き回った、というものだ。
 やがて、ドイツ軍司令部が作ったポスターが壁に貼られた。
 そこに名前が載っていたポーランド人は、文字どおりには「犬の血」で英語の「畜生(damn)」にほぼ該当する言葉の〈psiakrew〉をドイツ人の面前で発したごとき、種々の「犯罪」で、処刑された者たちだった。
 負傷したポーランド兵を描いた絵もあった。その兵士は腕を三角巾で吊るし、ワルシャワの廃墟を指し示しながら、怒ってチェンバリン(Chamberlain)に「お前の仕業だ」と叫んでいた。
 我々は黙って、こうしたポスターから学習した。//
 (23) 父親は一度ドイツ兵に止められ、その男が近づいてきて、父親の肩に腕を乗せて、「ポーランド人か?」と尋ねた。
 父親は怒って、流暢なドイツ語でこう答えた。「違う! 手を離せ。」
 仲間のドイツ人を困らせたと思って慌てた兵士は、詫びて、去って行った。//
 ——
 ③へとつづく。

2485/R・パイプスの自伝(2003年) ①。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 この書物はRichard Pipes (1923〜2018)の自叙伝だ。
 VIXI は「私は生きた」という意味のラテン語らしい(正確には知らない)。
 大きくつぎの四つの部で構成されている。 
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第二部/ハーヴァード。
 第三部/ワシントン。
 第四部/再びハーヴァード。
 読了してはいないが、第二部と第四部は主にHarvard 大学での研究(・教育)の時代、第三部はレーガン政権のソ連・東欧問題の補佐官としてソ連の崩壊を準備した時代、第一部がポーランドで出生して(その前の出自を含む)、第二次大戦勃発後にイタリアを経てアメリカに定住し、20歳でアメリカ国籍を取得する、等の時代だ(少しは間違っているかもしれない)。
 以前から、第一部だけはぜひ試訳して掲載しておきたいものだと、考えてきた。
 ユダヤ系ポーランド人の彼が、どのようにしてアメリカに来たのか、そして(むろん英米語を用いる)ロシア・東欧史専攻の研究者となり国際政治の実務にも関与したのか、にすこぶる関心を持ったからだ。
 この本の存在を知ったのはロシア革命に関する彼の二つの大著*を知って(それぞれ一部、この欄に試訳掲載済み)、その一部を読んだ後だったので、これら大著の著者の「背景」を知りたい、ということも、もちろんあった。
 *①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   <「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。>
  ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 ようやくこの欄への試訳掲載を始める。
 なお、この書物の目次や緒言よりも前に、欧米の書物にはよく(ほとんど)ある「献辞」がある。一頁全体の中に、つぎの文章だけがある。
 「この本を私の両親、Mark Pipes とSofia Pipes に捧げる。
 私を生んでくれ、そしてナツィスの手による確実な死から私を救ってくれたことに感謝して。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ①。
 (01) 1939年8月24日木曜日、我々が定期購読していた日刊紙の〈Nasz Przeglad〉(我々の論評)は最初の頁に、二つの宿敵国のナツィ・ドイツとソヴィエト同盟が不可侵条約に署名した、という驚くべき報せを掲載していた。
 私は前の月に16歳の誕生日を迎え、最終学年の前の年度にギムナジウムの生徒に要求されていた予備軍営(ポーランド語でROTC)での三週間の課程を終えて最近に帰ったところだった。
 通常の予定どおりだと、私は最終学年の学習のために数日以内に学校に戻っていただろう。
 しかし、そうはならなかった。//
 (02) 父親は、報せは戦争を告げていると結論づけ、我々のアパートから移ろうと決めた。我々が住んでいる家はワルシャワの中央鉄道駅の傍にあって、空からの爆撃の対象になりそうだったからだ。
 我々は、ワルシャワの南にある保養地のKonstancin へと移った。そこである邸宅の大部屋を借りて、つぎの進展を待った。
 当局は住民に対して、消灯の継続を命令した。
 私は、夕方にろうそくの灯りのそばで、父親と叔父の一人が戦争になるかどうかについて議論していたのを思い出す。
 叔父は、全てはムッソリーニにかかっているという意見だった。これは全く間違っていた。実際にはヒトラーの軍隊がスターリンの承認を得て、すでにポーランドの北、西、および南西に配置され、攻撃の準備をしていた。//
 (03) 市政府は郊外に住んでいる住民に、爆撃から守るために塹壕を掘るように命じた。
 私は、邸宅を所有する女性が彼女の花壇を損傷するから止めよと命じるまで、懸命になってその仕事に取り組んだ。//
 (04) 9月1日、金曜日の朝6時30分、私は遠くから聞こえる一続きのドーンという音で目が覚めた。
 私がまず思ったのは、自分は雷鳴を聞いている、ということだった。
 着替えて、外に出た。だが、晴天だった。
 上の空高くに、ワルシャワに向かっている銀色の航空機の一編成を見た。
 単独の複葉機—まるで木製のごとくだった—がそれらを迎えるべく、急傾斜で昇っていった。
 私が聞いた音は雷鳴ではなく、ワルシャワ空港に落とされている爆弾だった。それは、ポーランドが作った小さな空軍施設をすみやかに粉砕した。//
 (05) 軍事力には大きな不均衡があったにもかかわらず、ポーランドの立場は完全に見込みがないというものではなかった。
 第一に、ポーランドは、イギリスとフランスの両国から、ドイツが万が一攻撃してくればドイツに宣戦を布告するとの保証を得ていた。
 さらにフランスは、ドイツ軍をピン留めすべく、ドイツの西側の戦線で反抗攻撃を行うと約束していた。
 第二に、ポーランドはソヴィエトの中立を計算に入れていた。そのことで、ポーランド軍は再結集し、ドイツ軍が後方から攻めることのできない国土の東半分で踏みとどまることが可能になるだろう。
 フランスは約束を守らないこと、ソヴィエトは、ドイツがソヴィエトに東半分を譲与するとの不可侵条約の秘密条項をもっていたことを、ポーランドは知らなかった。//
 (06) 午前中が大して進んでいない頃、我々はラジオで、ポーランドとドイツが交戦状態にあること、敵の兵団が複数の場所から国境を越えたこと、を知った。//
 (07) 戦争についての私の考えは、希望と運命論の入り混じったものだった。
 ポーランド人かつユダヤ人として、私はナツィスを軽蔑し、連合軍の助けで我々が勝つことを期待した。
 運命論は、若者や完全には成熟していない大人にありがちだが、起きることは起きざるを得ないという考え方に由来していた。
 それは実際には、毎日を生きて最善を尽くす、ということを意味した。
 運命論は、セネカ(Seneca)の私の好きな言葉に要約された。すなわち、〈Ducunt volentem fata, volentem trahunt〉—「運命は意思する者を誘導し、意思しない者を遠ざける」。//
 (08) 第二次大戦となった最初の日の夕方に、父親は私を邸宅を囲む公園のベンチに座らせ、こう私に言った。父親と母親に何かが起きたなら、ストックホルムへ行き、そこで父親の口座があるSkanska 銀行のOllson 氏に連絡を取りなさい。
 多年ののちに私は知ったのだが、小切手の形の金銭はこっそりと持ち出され、1937年に親しい友人によってタイプライターの中に隠されていた。それはもともとはロンドンで預けられ、のちにストックホルムへと移されたものだった。
 あれは父親が初めて、私に一人前の大人として、向かい合ってくれたときだった。
 その金—3348ドルそこそこ—は、我々の生命を救うことになっていた。//
 (09) もちろん、戦争は何らの驚きもなくやって来たのではない。我々は長く戦争を予期し、ポーランドを離れることを考えていた。
 1938年10月に連合軍がミュンヘンで屈服したあと、私はヨーロッパ全体での戦争が避けられない、と思った。
 両親は、ニューヨークでの世界博覧会用の観光ビザを申請した。それをアメリカの領事館は私をポーランドに残すという条件つきで発行することに同意した。
 そのゆえに、パレスティナに住んでいて権限あるイギリス当局と良い関係がある私の叔父の一人を通じて、私は彼に合流することが取り決められた。いずれにせよ、それが私が選んだ道だった。
 私はのちに、6日後にヒトラーがポーランドを攻撃したことを知った。我々は〔本来ならば〕去ってしまっていただろう。両親は8月28日にアメリカ合衆国への観光ビザを受け取っており、その間に私はパレスティナへの必要な書類を得ていたのだから。(脚注1*)//
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 (脚注1*)後年に母親は、私にこう言った。親しい知り合いのスウェーデンの在ワルシャワ領事がスウェーデンへのビザを提示したが、その彼が母親の法律上の個人名は「Sarah」だと知ったとき、残念だがビザを提供することはできないと言った、と。
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 (10) 戦争勃発の翌日、私は自発的に、Konstancin の交通を監督するのを助けた。
 私の指示は、空襲警報用サイレンの音で自動車を道路から離れさせることだった。
 私は使命感をもって数日間そうしていたが、やがて無益さを知った。自動車は、その中には制服姿の軍人やその家族を乗せているものもあったが、国を脱出すべく南や東へと急いでいて、私の合図を無視したからだ。//
 (11) 1930年代末のヨーロッパの民間人は、空中からの化学兵器の危険性について、繰り返し警告されていた。
 私はたまたまガス・マスクを所有していたが、それはROTC軍営で購入したものだった。しかし、それにはフィルターが付いておらず、役に立たなかった。
 Konstancin で会った一人のユダヤ人少女が私に、そのフィルターを持っていて、家まで来るなら差し上げると言った。
 私は夕方に引き返して、暗い色の枠の家のドアを叩いた。
 ドアが開いて私が見たのは、部屋いっぱいに溢れた若者たちが蓄音機の音楽に合わせて情熱的に踊っている光景だった。
 その少女は私が欲しいものについて忘れており、私を追い払って、踊りの相手のところへ戻っていった。//
 (12) ドイツ軍が近くまで来ているという衝撃的な噂を聞いたとき、戦争は辛うじてまだ6日めだった。私はつけ始めた日記にそのことを記録した。
 実際に(当時は我々に知られていなかったけれども)、ポーランド政府はすでに9月4-5日に、その人員の一部のワルシャワからの避難を開始していた。
 その次の夜(9月6-7日)、ポーランド軍の筆頭司令官のRydzSmigly 元帥は、密かに首都を去った。
 父親が自動車を確保し、我々はワルシャワへと戻った。
 行路は検問で止められたが、父親がポーランド軍の退役兵であることを証明するものその他の文書を提示した後で、進むことが許された。
 市内は状況が緊迫していた。
 ドイツ軍は空から、降伏を迫るビラを落としていた。
 私は一枚を拾い上げようとしたが、通りすがりの人が、「毒が付いている」と警告した。
 ラジオは我々の意気が下がらないようにしていた。市長のStefan Starzynski (のちに拘束され、4年後にDachau で処刑された)からの訴えがあり、昼夜じゅうショパンの「軍隊」ポロネーゼが流された。
 負けたポーランド軍の敗残兵たち—何人かは負傷し、全員がぼろ服を着て消沈していた—が、市内へと、歩いて、馬で、あるいは荷車で、ばらばらに入ってきた。//
 (13) 9月8日、ドイツ軍はワルシャワ攻撃を開始した。しかし、激しい抵抗に遭遇した。
 私は民間人の長い列を見た。推測するに、政府の訴えに呼応した予備兵たちで、小さいバッグを運び、市内から東方へと出て行った。そこで軍役に就くことになっていたのだろう。
 私の両親は、ワルシャワを離れることを議論していた。我々には使用できる一台の車があった。父親はワルシャワから南東およそ100マイルのLublin へと我々を逃がせたかった。政府がその市へと避難していたからだ。
 その考えは、父親が知っている外務大臣のJoseph Beck に由来した。彼は父親に政府についていくよう言ったのだった。
 母親は断固として拒否した。その提案は父親が金を持っているという想定からのものだと、確信していた。
 出ていくとすぐに、我々は捨て去られるだろう。
 私はベッドの上で、この問題についての二人の叫び合うような議論を聞いていた。
 幸運にも、母親が勝った。//
 (14) 9月半ばまでに、ワルシャワは包囲され、我々は罠の中に入った。
 我々は住まいを二度目に出て、市の中心部から離れた固いアパート建物に住んでいる友人たちとともに、転居した。
 両親は彼らと一緒に落ち着いた。私はその間、ユダヤ人学者の住宅の最上階にある小さな部屋に泊まらされていた。
 彼はかなり大きな書斎を持っていて、私はビザンティウムに関する歴史書、William Oncken の世界史シリーズの一部を借りた。彼は、私が見つけたのと同じ形で返すよう求めた。
 私は自分の本も、何冊か持ってきていた。
 爆弾が雨のように街に落ちていたとき、母親が何回も来て、地下の避難壕に移るよう頼んだ。しかし、爆撃があまりにひどくなるまで、拒んだ。
 ワルシャワが降伏した後、私は、巨大な砲撃弾が私の部屋の天井を破り取って、ベッドの少し上の壁を砕き、爆発することなく地上に着弾しているのを見た。(脚注*2)
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 (脚注*2)後年に私は、若Pliny(Pliny the Younger)[=Gaius Plinius Caecilius Secundus〕が、ポンペイを破壊した大地震の間に似たような行動をしたことを、知った。彼はタキトゥスへの手紙で、美術館のそばにいて、激しい揺れを感じた、と書き送った。彼の母親は離れるよう強く言ったが、彼は—勇者だったのか愚者だったのか—Livy の本が送られてきた、「他にすることが何にもないがごとく読み続けたい」と頼んだ。彼は、自分の家が崩壊する危険が生じたあとでようやく離れた。彼はそのとき、17歳だった。
 〈Pliny the Younger の手紙〉(1969),p.170-1.
 ——
 ②へとつづく。

2383/L・コワコフスキ「暴力について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 邦訳書はない。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 **
 <背信>の項で、著者=L・コワコフスキは自分の(国内での教育と研究発表の場を剥奪されても形式上は)「自由」意思で母国・ボーランドから離れたことをある程度は意識していると想定される(党からは一方的除名だったので、そこに「自由」はなかったと見られる)。
 この<暴力>の項の最後の部分では、自ら援助・協力したポーランドの「連帯」運動が意識されていると見られる。以上、ほとんど行なっていない、試訳者の解説・注記もどきのもの。
 —— 
 第11章・暴力について(On Violence)②。
 (7)正当化される暴力とそうでない暴力の区別は、特定の多数の事例については明確だけれども、そう簡単に見極められるものではない。
 しつけの定期的な一部である子どもへの体罰は、疑いなく不必要な暴力だ。だが、子どもたちが自分を傷つけるのを阻止するために小さな子どもに我々が課す多様な肉体的制約を、暴力だと叙述することはしない。
 洗脳(indoctrinaton)はどうなるのか?
 我々の信条を、抵抗する精神的な力をもたない我々の子どたちに課すのは暴力か?
 我々の文化について子どもたちに教えるとき、我々は洗脳をしている。
 これは避けられないことだ。
 では、洗脳には善と悪の二つの形態がある、そして後者だけが暴力だと叙述されるべきだ、と言わなければならないのか?
 しかし、我々がかりに正しい信条、原理、規範だと考えるものを基礎にして善の洗脳と悪の洗脳を区別するとすれば、我々の暴力の定義は、我々自身の世界観にもとづくことになるだろう。そしてそれは、きっと良いことではなさそうだ。//
 (8)非肉体的な強制を一般に、「道徳的暴力」だと叙述することができるか?
 脅迫は、明らかに暴力の一例だ。
 おそらくは政府に何がしかの譲歩を強いることを意図してのハンガー・ストライキは、より明瞭でない事例だ。
 それがかりに非人間的な刑務所の条件に抗議するために行われるのであれば、我々はおそらく、正当視できると考えるだろう。受刑者が行うことのできる、唯一の抗議の形態なのだから。
 しかし、民主主義的政府に政治的譲歩を強いる手段としてそれが行われるのであれば、我々はおそらく、それを暴力の一形態と呼ぶだろう。//
 (9)正当化される暴力とそうでない暴力を区別するためには、我々はそれが用いられる目的を評価することができなければならない、ということが明らかだと思われる。
 その目的が問題なく価値がある場合には、当該目的を達成する方法が他にない<とするならば>、その暴力は正当化されるものと考えることができる(つねに賢明ではないとしても)。
 例えば 専制に対しては、暴力を用いてのみ闘うことがことができる。そして、キリスト教神学者ですら、専制者を殺すのは正当化されると主張した。
 全体主義国家で、非暴力的だが成功した闘争を我々は見てきた。だが、その闘争の成功は、全体主義がすでに相当に弱体化していたときに生じた。
 全体主義が強くて、何事もなく苛酷でいることができていれば、非暴力の闘争は、成功する可能性がなかっただろう。体制側は、初期の段階での不服従の試みを鎮圧し、その試みの報せが伝搬するのを抑止する手段をもつていたのだから。//
 (10)暴力の行使を正当化することのできる目的は、明確で、十分に画定され、そして明瞭に定義されていなければならない。別の国家に従属している国の独立の獲得、暴君の殺害、犯罪者に対する制裁。 
 1960年代の青年運動の参加者たちは、「選択肢のある社会」(どのようなものかを彼らは正確には語れなかったが、彼らには関心よりも誇りの問題だった)を建設するために「革命的暴力」と称するものに訴えた。
 だが、いずこにも正当化を見出し得なかった。
 かつまた、彼らの教師たちも、とりわけサルトルやマルクーゼだが、何ら正当化されない。
 彼らはたんに、民主主義的諸制度を破壊して自分たちの専制体制を確立する、という欺瞞的な展望をもて遊んだにすぎない。
 幸いにも、彼らは成功しなかった。
 しかし、同じ時期に、共産主義諸国にいる他の者たちは、武器としての言葉だけでもって、専制体制と闘っていた。全ての暴力は、体制の側にあった。
 最後には、彼らの闘いは成功したと判った。その闘争は人々の思考方法をゆっくりと変え、人々に恐怖は克服されるということを示し、体制のウソと無法ぶりを暴露した。
 彼らの場合は、何らかの形態での暴力の行使は正当化されただろう。たぶん、効果的ではなかったけれども。//
 (11)暴力ではなく言葉を求める、と言うのは容易だ。しかし、誰もまだ、そのような世界をつくる分かり易い処方箋を見つけてはいない。
 全ての暴力を絶対的かつ無条件に非難することは、生活(life)を非難することだ。
 しかし、暴力が犯罪、隷従、侵略および専制に対してのみ向けられている世界は、これらの消失を求めるために、非合理的なものではない。そのような結末の蓋然性を疑う、多くの十分な根拠があるとしても。//
 ——
 第11章、終わり。

2371/L・コワコフスキ「嘘つきについて」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)
 第4章の試訳のつづき。この書物に、邦訳書はない。
 ——
 (8-2)もしも誰かが言うこと全てをもはや信じることができないとすれば、人生はじつに耐え難いものになるだろう。
 だが、相互の信頼が完全に消失するとは、想定し難い。
 我々は通常は、どのような場合に、誰かが語ることを安全に信頼することができ、反対に、どのような場合に、我々を惑わせようとしている理由が対話者自身にあるために、ある程度は疑わしいかを、知っている。
 人々は、稀にしか、何の理由もなくてウソをつきはしない。
 もちろん、悪名高いウソつきはいる。
 私はかつて一人の作家を知っていたのだが、その作家は、そのときどきの環境や聴衆に応じて、彼の人生について色彩豊かな物語を作り出すのが好きだった。その彼は、すぐれた想像力と機知でもつてそれを行ったため、苦情を言うのは無作法に感じるほどだった。
 その上に、彼の物語は聞いて楽しいものだった。しかし、誰もが真面目に受け取ってはならないことを知っていた。そのため、真実性という美徳が著しく欠如しているのは彼の性格によるという理由があるので、他人が苦しむという危険はなかった。
 さて、何事についても真実を語ることが全くできない、病的なウソつきはいる。
 その者たちは、それらしい理由が何らなくして、かつまた想像力を発揮することもなく、全てを捻じ曲げ、歪曲するのだ。
 しかし、このような人々は、誰も語ることを信じないで、彼らにふさわしい軽侮の気持ちで対応するために、人畜無害でありそうだ。//
 (9)事業、政治および戦争にウソが蔓延していることは、これらと私的な関係をもつ他者に対する我々の信頼を脅かしている。
 これらの分野で仕事をする人々は、誰がなぜ騙す可能性があるかを完全によく気づいており、警戒すべきときを知っている。
 宣伝広告で語られるウソでも、これらの分野に比べればまだ無害だ。
 全ての国々は、消費者を虚偽表示から保護しようとする法制をもっており、商品についての宣伝広告にある虚偽の主張は、法律によって罰せられることがある。
 例えば、水道水をガンに絶対的効用がある治療法だとして市場で売り出すことは違法だ。
 他方で、奇蹟石鹸(Miracle soap)またはハンブルク・ビールは世界最良だと主張することは、違法ではない。
 違いがどこにあるかと言うと、後者の場合は、広告者は奇蹟石鹸やハンブルク・ビールは本当に世界最良だと我々に信じさせようと意図してはいない。
 そうではなく、彼らの意図は、奇蹟石鹸を特徴のある包装で我々に印象づけ、つぎには一個の石鹸を買わなければならないかのように誘引することにある。我々が何度もテレビでその宣伝広告を見た後では、その商品は我々に馴染みがあるように見えてしまうのだ。
 広告者は、正しく、我々の保守性(conservatism)への自然な志向を考慮している。
 奇蹟石鹸の画像を十分に頻繁に我々に見せれば、我々はかりに実際はそうではないとしても、それに馴染みがあるように感じるはずだ、と知っているのだ。//
 (10)しかしながら、政治の分野で語られるウソに目を向けるとき、重要な区別をしておかなければならない。
 政治では、頻繁にウソがつかれている。だが、民主主義諸国では、言論と批判の自由は、我々を一定の有害な影響から守るものだ。
 真実か虚偽かの違いは、変わりなく残されている。
 かりにある大臣が完全によく知っている何かに関する知識を否認したとすれば、彼はウソをついている。
 しかし、彼が見破られるかどうかはともかく、真実と虚偽の違いは明瞭なままだ。
 同じことを、全体主義国家について言うことはできない。とくに、共産主義が絶頂期にあった、スターリン主義の時代については。
 その国家と時代では、真実と政治的な正しさの区別は、全体として曖昧なままだった。
 その結果として、人々は自分たちが口に出して言ってきた「政治的に正しい」スローガンを、全くの恐怖から、半ば信じるようになった。なぜなら、長い期間だったし、政治指導者たちですらときには自分たちのウソの犠牲者となったからだ。
 このことがまさしく正確に意図されていた。真実と政治的正しさの区別を忘れるさせるような混同を人々の意識(mind)に十分に惹き起こすことができるならば、政治的に正しいものは何であろうとそのゆえに不可避的に真実だと、人々は考えるようになるだろう。
 このようにして、国民がもつ歴史の記憶の全体が、変更され得ることとなつた。//
 (11)これは、たんなるウソつきの例ではない。言葉の正常な意味での真実というまさにその観念をすっかり抹消してしまう、という試みだった。
 この試みは全体としては成功しなかったが、とくにソヴィエト同盟で、それが惹起した精神(mental)の荒廃は巨大だった。
 全体主義体制がその完全な能力を獲得しなかったポーランドでは、影響はより穏やかだったけれども、しかし、やはり強く感じられた。
 かくして、言論と批判の自由は、政治的なウソを排除できないが、それにもかかわらず、「虚偽」、「真実」および「正直」といった言葉の正常な意味を回復し、守ることができる。//
 (12)ウソつきが許され、あるいは「良い動機」があるから望ましいと見なされ得る環境条件はある。しかし、このことは、「ウソつきはときには間違いで、ときにはそうではない」、だから放っておけ、ということを意味しない。
 これでは曖昧すぎて、原理的考え方として依拠することができない。なぜなら、これでは、ウソつきの全ての場合を正当化するために用いることができるだろうから。
 また、このような教訓に従って我々の子どもたちを育てるべきだ、ということにも全くならない。
 どんな環境条件のもとでも、ウソをつくのはつねに間違いだと、子どもたちを教育する方がよいだろう。
 このようにすれば、子どもたちは、ウソをつくときに少なくとも心地悪さを感じるだろう。
 残りは、彼らが自分で、速やかにかつ容易に、大人たちの助けなくして、学ぶことができる。//
 (13)しかし、ウソをつくことの絶対的禁止は、効果がなく、またより重要な道徳的命令と矛盾する可能性もある。ウソをつくのが許される場合を説明することのできる一般的原理をどうすれば見出せるだろうか?
 先に述べたように、答えは、そのような原理的考え方は存在しない、ということだ。どんな一般論も、全ての考え得る道徳的な環境条件を考慮することはできず、過ちがあり得ない結論を与えることはできない。
 しかしながら、この問題の考察から抽出できるかもしれない、また役立ち得ると判るかもしれない、一定の道徳を語ることができるだろう。//
 (14)第一の道徳は、自分たち自身に対してウソをつかない努力をすべきだ、ということだ。
 これが意味するのは、とりわけ、ウソをつくときに我々は事実を知っているはずだ、ということだ。
 自己欺瞞はそれ自体が別の重要な主題で、私はここで論じることができない。
 良い動機から我々がウソをつくときはつねに、ウソをついてることを知っているべきだ、と言うだけにとどめる。//
 (15)第二に、自分たち自身へのウソを正当化する方法を憶えておくべきだ。ウソをつく名目となる「良い動機」という我々の観念は、その「良い動機」が我々自身の利益と合致している場合には、つねに疑わしい。//
 (16)第三に、ウソをつくのが何か別の、より重要な道徳的善の名のもとで正当化されるときでも、ウソをつくことそれ自体は道徳的に善ではないことを、心にとどめておくべきだ。
 (17)第四、そして最後に、ウソをつくのは他人をしばしば傷つける一方で、もっとしばしば我々自身を傷つける、ということを知っておくべきだ。ウソをつくことの効果は、精神(soul)の破壊だ。//
 (18)これら四つの事項を覚えていても、我々は、あるいは我々の大多数は、聖人にはなれないし、この世界からウソを廃絶することもできない。
 しかし、ウソを武器として用いるときに、かりにそうしなければならないときであっても、我々に慎重さを教えてくれるかもしれない。//
 ——
 第四章、終わり。

2247/R・パイプス・ロシア革命第13章第12節~第14節(1990年)。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。最適な訳出だと主張してはいない。一語・一文に1時間もかけるわけにはいかない。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第12節・ロシアがドイツの提示条件で降伏。
 (1)ドイツがボルシェヴィキとの交渉で風を得たのはフランスによってだったのか、それともたんなる偶然だったのか、ドイツがもどかしく待っていた回答が届いたのは、ボルシェヴィキの中央委員会とソヴナルコムが連合諸国の助けを求めると票決した、まさにその朝だった。(66)
 それはレーニンの最悪の怖れを確認するものだった。
 ベルリンは今では、戦争の推移の中でドイツ軍が掌握した領域だけではなく、ブレスト交渉が決裂した後の週に占拠した領域をも要求した。
 ロシアは動員解除するとともに、ウクライナとフィンランドを明け渡さなければならないものとされた。また、負担金を支払い、多様な経済的譲歩をするものとされた。
 通告書には、48時間以内での回答を要求する最後通牒の語句があり、その後で条約の調印には最長で72時間が許容されるとされていた。//
 (2)つぎの二日間、ボルシェヴィキ指導部は事実上は連続した会合をもった。
 レーニンは、何度も少数派であることを感じた。
 彼はついには、党と国家の全ての役職を辞任すると脅かすことで、何とか説き伏せた。//
 (3)ドイツの通告書を読むや否や、レーニンは中央委員会を招集した。
 15人の委員が現れた。(67)
 レーニンは言った。ドイツの最後通告書は無条件に受諾されなければならない。「革命的な言葉遊び(phrasemongering)は、もう終わりだ」。
 主要な事柄は、ドイツは屈辱的なことを要求しているが、「ソヴィエトの権威に影響を与えない」-すなわち、ボルシェヴィキが権力にとどまることをドイツは許容している、ということだ。
 かりに同僚たちが非現実的な行動方針に固執するならば、彼らは自分たちでそうしなければならないだろう、なぜなら、レーニンは政府からも中央委員会からも去ってしまっているだろうから。//
 (4)レーニンはそして、賢明に選択した言葉遣いで、三つの決定案を提示した。
 ①最新のドイツの最後通牒が受諾される、②ロシアは革命戦争を中止すべく即時の準備を行う、③モスクワ、ペトログラードおよび他都市の各ソヴェトは、それぞれの自らの事態に関する見方でもって票決を確認する。
 (5)辞任するとのレーニンの脅かしは、効いた。レーニンがいなければボルシェヴィキ党もソヴナルコムも存在しないだろうと、誰もが認識した。
 最初のかつ重大な決定では、レーニンは多数派を獲得しなかった。だがそれは4委員が棄権したからで、動議が7対4で採択された。
 二度めと三度めの決定では、問題がなかった。
 投票が終わると、ブハーリンと他の3人の左翼共産主義者は、党の内部や外部にある条約反対派を自由に煽動するために党と政府の全ての「責任ある役職」を辞任するという動議をもう一度経験した。//
 (6)ドイツの最後通告を受諾する決定にはまだ〔全国ソヴェトの〕中央執行委員会(=CEC)の同意が必要だったけれども、レーニンはその結果に十分に自信があり、ツァールスコエ・セロにいる無線連絡の操作者に対して、ドイツに対する連絡のために一チャンネルを空けておくよう指令した。//
 (7)その夜レーニンは、CEC で状況報告を行った。(68)
 その後の票決で、ドイツの最後通牒を受諾する決議案について技巧的な勝利を得た。それはしかし、反対するボルシェヴィキの議員たちは退出し、その他の多数の反対議員は棄権したからだった。
 最終票数は、レーニン案に賛成116、反対85、棄権26だった。
 この満足にはほど遠い、しかし形式的には拘束力をもつ結果にもとづいて、レーニンは、午前中の早い時間に、〔全国ソヴェト〕中央執行委員会の名前で、ドイツの最後通告を無条件で受諾する文章を執筆した。
 それはただちに、ドイツへと無線で伝えられた。//
 (8)2月24日朝、中央委員会は、ブレストへ行く代表団を選出した。(69)
 今や、国家と党の役職から辞任する多数の者の氏名が、手渡された。
 すでに外務人民委員を離任していたトロツキーは、他の役職も同様に辞した。
 彼はフランスとイギリスはソヴェト・ロシアとの協力に気を配ってくれ、ロシアの領土への意図をもっていなかった、という理由で、これら両国と緊密な関係をもつことを支持した。
 何人かの左翼共産主義者たちは、ブハーリンに倣って、辞職願いを提出した。
 彼らは、公開書簡で、動機を明確に述べた。
 彼らは、こう書く。ドイツへの降伏は、外国の革命的勢力に対する重大な打撃であり、ロシア革命を孤立させる。
 さらに、ロシアがドイツ資本主義と行うよう要求されている譲歩は、ロシアの社会主義にとって災難的な影響を与えるだろう。すなわち、「プロレタリアートの立場の外部的な屈服は不可避的に、内部的な屈服の道を切り拓く」。
 ボルシェヴィキは、中央諸国に降伏してはならず、また、連合諸国と協力してもならない。そうではなく、「国際的な規模での内戦を開始」しなければならない。(70)//
 (9)欲しいものを得たレーニンは、トロツキーと左翼共産主義者たちに、ソヴィエト代表団がブレストから戻るまでは辞任という行動をとらないように懇願した。
 最近の苦しい日々のあいだ、レーニンは顕著な指導性を発揮し、支持者たちに甘言を言ったり説得したりしながら、忍耐力も、決定力も、失わなかった。
 彼の生涯の中で、おそらく最も苛酷な政治闘争だった。//
 (10)恥辱的な<命令文書(Diktat)>に署名するために、誰がプレストへ行こうとするだろうか?
 誰も、その名前を、ロシアの歴史上最も屈辱的な条約に関係して残したくなかった。
 ヨッフェは、にべもなく拒んだ。一方、辞職していたトロツキーは、舞台から身を引いた。
 古いボルシェヴィキで一時は<プラウダ>編集長だったG・Ia・ソコルニコフは、ジノヴィエフを指名した。それに応えてジノヴィエフは、ココルニコフを逆指名して返礼した。(71)
 ソコルニコフは、指名されれば中央委員会を去ると、反応した。
 しかしながら、結局は、ソコルニコフが、ロシアの講和代表団の長を受諾するように説得された。この代表団の中には、L・M・ペトロフスキ(Petrovskii)、G・V・チチェリン(Chicherin)、L・M・カラハン(Karakhan)がいた。
 代表団は、2月24日にブレストに向けて出発した。//
 (11)ドイツに降伏するという決定に対していかに反対が強かったかは、レーニン自身の党内ですら、ボルシェヴィキ党のモスクワ地域事務局が2月24日にブレスト条約を拒み、全員一致で中央委員会を不信任する票決を通過させた、という事実で示されている。(72)
 (12)ロシアが降伏したにもかかわらず、ドイツ軍は前進をし続けて、司令官が引いていた限界線まで進み、その線を両国の永続的な国境にしようと意図した。
 2月24日、ドイツ軍はDorpat(Iurev)〔エストニア〕とプスコフを占拠し、ロシアの首都から約250キロメートル離れた場所に陣取った。
 翌日に彼らは、Revel〔ラトヴィア〕 とボリソフ(Borisov〔ベラルーシ〕)を掌握した。
 彼らは、ロシア代表団がブレストに到着した後でも前進し続けた。すなわち、2月28日、オーストリア軍はベルディチェフ(Berdichev〔ウクライナ〕)を奪取し、ドイツ軍は3月1日にホメリ(Gomel〔ベラルーシ〕)を占拠した後、チェルニヒウ(Chernigov〔ウクライナ〕)とモギレフ(Mogilev)を奪いに向かった。
 3月2日、ドイツの戦闘機は、ペトログラードに爆弾を落とした。//
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 (66) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.341-3.
 (67) Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)(Moscow, 1958), p.211-8.
 (68) Lenin, PSS, XXXV, p.376-380.
 (69) Protokoly TsK, p.219-p.228.
 (70) Lenin, Sochineniia, XXII, p.558.
 (71) Lenin, PSS, XXXV, p.385-6.
 (72) 同上, p.399.
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 第13節・ソヴィエト政権のモスクワ移転。
 (1)レーニンは、ドイツに対する冒険はしなかった。-彼は3月7日にこう言った。ドイツ軍がペトログラードを占拠する意図をもつことに「微塵の疑いもない」。(73)
 そして彼は、首都をモスクワに避難させることを命令した。
 ニゼール将軍によると、物資のペトログラードからの移転は、フランスの軍事使節が手配した専門家の助けで行われた。(74)
 移転の趣旨で発せられた公式の布令がないままに、3月初めに人民委員部はかつての首都への移転を開始した。
 <Novaia zhizn'>で「逃亡(Flight)」と題された記事は、パニックにとらわれたペトログラード、市民たちが鉄道駅に殺到していること、そして彼らがもしも鉄道に乗り込めなければ車または徒歩で逃亡しようとしていることを描写した。
 ペトログラード市は、やがて静寂に変わった。電力も、燃料も、医療サービスもなかった。学校や交通は機能するのを止めた。
 射殺やリンチ攻撃が、日常の出来事になった。(75)//
 (2)ペトログラードの露出した状態やドイツの意図の不確定性を考えると、共産主義国家の首都をモスクワに移転させる決定は、理にかなっていた。
 しかし、臨時政府が半年前に同じ理由でペトログラードから避難することを考えたとき、同じボルシェヴィキこそがその考えは裏切りだと最も激烈に非難した、ということを、完全に忘れることはできない。//
 (3)移転は、多大の安全確保に関する準備のもとで実行された。
 党と国家の官僚たちが先ずは移るものとされた。中央委員会の委員たち、ボルシェヴィキの労働組合官僚、および共産党系新聞の編集者たちを含む。
 彼らは、モスクワでは、没収した私的所有物(建築物)の中に入った。
 (4)レーニンは、3月10-11日の夜に、こっそりとペトログラードを出た。同行したのは、妻と秘書のボンチ=ブリュエヴィチだった。(76)
 この旅は、最高の秘密として計画された。
 一同は特別列車で、ラトヴィア人に警護されながら旅行をした。
 翌朝の早い時間に、逃亡者たちの意図不明の荷物を積んだ列車に衝突して、停車した。停止中にボンチ=ブリュエヴィチは、彼らの武装を解除させて、準備した。
 列車は進み続け、夕方遅くにモスクワに到着した。
 この旅については、誰も語られなかった。自称世界のプロレタリアートの指導者は、妹だけに迎えられて、どのツァーリもかつてしなかったやり方で、首都にこっそりと入ったのだ。//
 (5)レーニンはその住居を、仕事場とともにクレムリンに構えた。
 そこが、15世紀にイタリアの建築家によって建設された要塞の、石壁と重たい門の内部が、ボルシェヴィキ政府の新しい所在地となった。
 人民委員たちも家族とともに、やはりクレムリン内部に安全を求めた。
 この要塞の警護はラトヴィア人に委ねられた。彼らは、修道僧のグループも含めて、多数の居住者をクレムリンから追い出した。//
 (6)安全という観点から考え出されたものだったけれども、ロシアの首都をモスクワに移して、自分をクレムリンに落ち着かせるというレーニンの決定は、深い意味をもった。
 それはいわば、かつてのモスクワ公国の伝統を好んだピョートル一世が始めた親西側路線を拒否することの象徴だった。
 「一時的」だと宣言されたにもかかわらず、モスクワの首都化は永続的なものになった。
 首都移転はまた、個人的・人身的な安全を求める、新しい指導者たちの病的な恐怖心も反映していた。
 レーニンらのこの行為を評価するには、イギリスの首相がダウニング通りから転居して、その住居と仕事場を閣僚たちと同様にロンドン塔に移し、そこでシーア派の者たちの警護のもとで政治を行うことを想像してみなければならない。//
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 (73) Lenin, PSS, XXXVI, p.24.
 (74) Niessel, Triomphe, p.229.
 (75) La Piletskii in: NZh, No.38/253(1918年3月9日), p.2.
 V.Stroev, NZh, No.40/255(1918年3月12日), p.1.も見よ。
 (76) Bonch-Bruevich, Pereezd V. I. Lenina v Moskvu(Moscow, 1926).
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 第14節・ブレスト=リトフスク条約の諸条件。
 (1)ロシア人たちは3月1日にブレストに着き、その2日後、議論をいっさいすることなく、ドイツとの条約に署名した。
 (2)条件は、きわめて負担の大きいものだった。
 これを知ると、かりに連合諸国が負けていれば待ち受けていた講和条約がどういうものだったか、が分かるだろう。また、ドイツがヴェルサイユの<命令(Diktat)>に不満をもったのが根拠のないことも示している。ヴェルサイユ講和条約は、多くの点で、ドイツが無力のロシアに押しつけた条約よりは優しいものだったのだから。
 (3)ロシアは、領土に関する大きな譲歩を要求された。ロシアが17世紀半ば以降に征服した土地のほとんどの割譲だった。
 西方、北西そして南西と、ロシアの国境は、モスクワ公国時代のそれまでに縮まった。
 ロシアは、トランス・コーカサスの他に、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、およびリトアニアを放棄しなければならなかった。これらの全てがドイツの保護する主権国家となるか、またはドイツに併合された。
 モスクワはまた、ウクライナを独立の共和国として承認しなければならなかった。(*)
 これらの条項は75万平方キロメートルの国土の譲渡を要求するもので、その広さはドイツ帝国のそれのほとんど2倍だった。ブレスト講和のおかげで、ドイツの規模は3倍になったのだ。(77)
 (4)ロシアがかつてスウェーデンやポーランドから獲得していた、今次の割譲領土は、ロシアの最も豊かで最も人口密度の高い土地だった。
 この地域に、ロシアの住民の26パーセントが生活していた。その住民たちは、都市人口の3分の1以上を含んでいた。
 当時の概算では、この領域で、ロシアの農業収穫物の37パーセントが産出されていた。(78)
 また、この地域に工業企業の28パーセントが立地し、鉄道線路の26パーセント、石炭と鉄の堆積層の4分の3があった。//
 (5)しかし、たいていのロシア人がもっと苛立たしく感じたのは、付属文書に明記された、ドイツにソヴィエト・ロシアでの例外的な地位を認める経済的条項だった。(79)
 ドイツは、経済的利潤を獲得するだけではなくロシア社会主義を窒息死させるためにこれらの権利を利用するつもりだ、と多数のロシア人は考えた。
 理論上はこれらの権利は相互主義的なものだったが、ロシアは自分の取り分を要求できる立場になかった。//
 (6)中央諸国の市民と企業は、ボルシェヴィキが権力掌握後に発布した国有化布令の適用免除を事実上は受けた。ソヴィエト・ロシアで商業、工業および職業的活動を行うことはもとより、動産および不動産を所有することが認められたのだ。
 彼らは、厳しい税金を支払う必要なく、ソヴィエト・ロシアから本国に資産を送ることができた。
 この決まり事は遡及効をもった。すなわち、戦争中に署名国の市民から徴発した不動産、土地や鉱山の使用権は、元の所有者に返還されるものとされた。
 かりに国有化されていれば、元権利者に適正な補償金が支払われることになっていた。
 同じ決まりが、国有化された企業の有価証券保有者にも適用された。
 一つの国から他国への商品の自由な運送のための条項が、設けられた。各国はまた、お互いに最恵国待遇の地位を承認した。
 ロシアの公的および私的債務を否認した1918年1月布令にもかかわらず、ソヴィエト政府は、中央諸国との関係での債務を尊重する義務のあること、それらに付す利息の支払いを再開すること、を承認した。そのための詳細は別の協定で決定されるものとされた。//
 (7)こうした諸条項は、中央諸国に-実質的にはドイツに-、ソヴィエト・ロシアでの前例なき治外法権の特権を付与した。経済的規制を免除し、社会化された経済へと一層進展していたところで私的企業を経営することを認めた。
 ドイツ人は事実上、ロシアの共同経営者になった。
 彼らは私的部門を掌握する立場が与えられ、一方でロシア政府には、国有化された部門の管理が委ねられた。
 ブレスト=リトフスク条約の条件のもとでは、ロシアの工業企業、銀行、証券会社の所有者がその所有物をドイツに売却することが可能だった。この方法で、それらは共産党による統制から免れることができた。
 のちに述べるように、この可能性を封じるために、ボルシェヴィキは1918年6月にソヴィエトの全ての大企業を国営化した。//
 (8)条約の他の箇所では、ロシアは陸海軍の動員解除を明記した。-言い換えれば、国防力をないままにした。また、他の調印諸国の政府、公的機関および軍隊に対する煽動やプロパガンダ活動をやめることを約束した。アフガニスタンとペルシアの主権を尊重することも。//
 (9)ソヴィエト政府がブレスト=リトフスク条約の諸条件を国民に公にしたとき-それは民衆の反応を怖れて数日遅れて行われたのだが-、全ての政治諸階層から、極左から極右までに、憤激が巻き起こった。
 J・ウィーラー=ベネット(John Wheeler-Bennett)によれば、レーニンはヨーロッパで最も貶された(vilified)人物になった。(80)
 初代ソヴィエト・ロシア駐在ドイツ大使のミルバッハ公は、5月に自国外務省に、ロシア人は一人残らず条約を拒否しており、条約をボルシェヴィキ独裁に対してよりすらも憤懣の的だと感じている、とこう通信した。
 「ボルシェヴィキによる支配は飢餓、犯罪、名前のない恐怖のうちでの隠れた処刑でロシアを苦しめているけれども、ブレスト条約を受諾したボルシェヴィキに対しては、どのロシア人も喜んでドイツの助けを求めるふりすらするだろう。」(81)
 かつてどのロシア政府も、これほど広い領土を割譲しなかったし、これほど多くの特権を外国に認めることもなかった。
 ロシアは、「世界のプロレタリアートを売り払った」だけではなかった。ロシアは、ドイツの植民地となる長い道程を歩んでいた。
 ドイツは条約によって与えられた権利をロシアでの自由な起業のために用いるだろうと、-保守派の界隈では喜んで、急進派の界隈では怒りとともに-広く想定されていた。
 こうしてペトログラードでは、3月半ばに、ドイツは三つの国有化された銀行の所有者への復帰とそのあとの迅速な全銀行の非国有化を要求している、との風聞が流布された。
 (10)新国家の国制法(憲法)は、条約は2週間以内にソヴェト大会で批准されることを求めていた。
 それを行うソヴェト大会は、3月14日にモスクワで開催されることが予定として決定された。//
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 (*) この講和条件の履行のために、モスクワは4月半ばにウクライナ政府に対して、相互承認のための交渉を開始することを提案した。種々のウクライナ国内の政治事情のために、交渉はようやく5月23日に始まった。
 1918年6月14日、ソヴェト・ロシア政府とウクライナ政府は暫定的講和条約に署名した。そのあとで最終的な講和交渉を行うことになっていたが、結局それは行われなかった。
 The New York Times, 1918年6月16日付, p.3. 
 (77) Hahlweg, Diktatfrieden, p.51.
 (78) Piletskii in: NZh, No.41/256(1918年3月14日), p.1.
 (79) これらは、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.370-p.430. に資料として収載されていおり、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.269-p.275. で分析されている。
 (80) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.275.
 (81) W. Baumgart in: VZ, XVI, No.2(1968年1月), p.84.
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 第12節・第13節・第14節、終わり。

2094/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節④。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、p.466-9。゜
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義④。
 (27)1968年はチェコスロヴァキアへのソヴィエトの侵攻の年だったが、ポーランドの分離した知的動向としての修正主義の終焉を事実上は告げた年でもあった。
 多様な形態に分化した反対派は現在では、マルクス主義または共産主義の語句用法をほとんど用いていない。そして、民族的(national)保守主義、宗教や伝統的な民主主義ないし社会民主主義の用語法で、十分に適切に表現することができる。
 共産主義は一般に、知的な問題であることを終えて、たんに統治権力と抑圧の一問題になって残っている。
 状況は、逆説的だ。
 支配党は依然として、マルクス主義と「プロレタリア国際主義」の共産主義教理を公式には宣明している。
 マルクス主義は高等教育のどの場所でも義務的履修の科目であり、その手引書が出版され、その諸問題に関する書物が執筆されている。
 しかし、国家イデオロギーが今ほどに生気のない(lifeless)状態になったことはかつてなかった。
 誰も実際には、マルクス主義を信じていない。支配者と被支配者のいずれも、その事実を知っている。
 だが、マルクス主義はなくてはならない(indispensable)。それは、体制の正統性を基礎づける主要なものだからだ。党は労働者階級と人民の歴史的利益を「明確に表現」する、という主張が党の独裁の根拠であるのと同様に。
 誰もが、知っている。「プロレタリア国際主義」は、東ヨーロッパ諸国は自分たちの事柄を決定する主人ではないという事実、かつ「労働者階級を指導する役割」はたんに党官僚機構の独裁を意味するにすぎないという事実、を覆い隠す語句だ、と。
 その結果として、支配者たち自身が、少なくともある程度の反応を一般民衆から得ようと望むときには、紙の上だけに存在するイデオロギーに訴えることがますますなくなり、その代わりに、<国家の存在理由>(raison d'état)や民族利益(natinal interest)の用語を使っている。
 国家イデオロギーが生気のないものであるのみならず、それはスターリン時代のようには明確には定式化されていない。定式化することのできる権威が、もはや存在しないからだ。
 検閲や多様な警察的制限で苦しめられているが、知的生活は継続している。その際に、国家による支援が人為的に存在させつづけ、批判から免れてさせていたけれども、マルクス主義はほとんど役割を果たしていない。
 イデオロギーと人文科学の分野では、党は、抑圧とあらゆる種類の禁止でもって消極的にのみ活動することができる。
 その場合ですら、公式イデオロギーは、かつての普遍主義的な要求資格を失なければならなかった。
 もちろんマルクス主義は直接的には批判されないかもしれないが、哲学の分野ですら、マルクス主義を完全に無視し、まるでそれは存在してこなかったのごとく執筆されている著作が現れている。
 社会学の分野では、一定の正統派論考が定期的に刊行されている。それは主として、その著者たちの政治的信頼性の証明を確保するだめにだ。一方で同時に、多数の別の諸著作が、西側と同じ方法を用いる、通常の経験的社会学の範疇に入ってきている。
 そのような著作に許容される射程範囲は、むろん限定されている。家族生活の変化や産業での労働条件を扱うことはできるが、権力や党生活の社会学を論じることはできない。
 厳しい制限が課されているのは、とくに近年の歴史に関係する歴史科学についてのマルクス主義的な理由というよりもむしろ、純粋に政治的な理由だ。
 ソヴィエトの支配者は、自分たちは帝制主義(Tsarist)的政策の継続性を代表していると、固く信じているように見える。そしてそのゆえに、ロシアとの諸関係、分割、民族的抑圧に支配された2世紀にわたるポーランド史の学術研究は、多数の禁忌のもとに置かれている。
 (28)ポーランドの経済学研究について、一定程度は、修正主義をなおも語ることができるかもしれない。効率性の増大を推奨する、実践的なかたちをとっているからだ。
 この分野で最も著名なのは、W. Brus とE. Lipinski だ。この人物たちはともにマルクス主義の伝統に頼っているが、その形態は社会民主主義に接近している。
 彼らが論じているのは、抑圧的な政治システムと結びいているために、社会主義経済の欠陥と非効率性は純然たる経済的手法で治癒することはできない、ということだ。
 ゆえに、経済の合理化は、政治的多元化なくしては、つまり実際には共産主義特有の体制の廃絶なくしては、達成することができない。
 Brus は強く主張する。生産手段の国有化は公的所有制と同義ではない、政治的官僚機構が経済的決定権を独占しているのだから、と。
真に社会主義化した経済は、政治的独裁制とは両立し得ない。
 (29)いくぶんか少ない程度にだが、Władysław Bienkowski は、修正主義者と分類することができるかもしれない。
 ポーランドの外で出版された著作で彼は、官僚的諸政府のもとでの社会と経済の悪化を分析する。
 彼は、マルクス主義の伝統に訴えるが、それを超えて、階級(マルクスの意味での「階級」)のシステムから独立した政治権力の自主的メカニズムを検証している。
 (30)類似の動向が共産主義者の忠誠心の衰退、マルクス主義の活力やその政治的儀礼の減少と結びついていることを、観察することができる。共産主義諸国によって、その程度は多様だけれども。
 (31)チェコスロヴァキアの1956年は、ポーランドやハンガリーと比べて重要性ははるかに低かった。修正主義運動が発展するのが遅かった。しかし、一般的な趨勢はどこでも共通していた。
 チェコの経済学者の中で最も知られた修正主義者は、Ota Sic だ。この人物は1960年代初めに、典型的な改革綱領を提出した。すなわち、生産に対する市場の影響力の増大、企業の自主性の拡大、非中央的計画化、社会主義経済の非効率性の原因である政治的官僚制の分析。
 政治的条件はポーランドよりも困難だったが、哲学者たちの修正主義グループも発生していた。
 その最も著名な構成員は、Karel Kosic だった。この人物は<具象性の弁証法(Dialectics of the Concrete)>(1963年)で、多数の典型的に修正主義的な論点を提示した。すなわち、歴史解釈での最も一般的な範疇としての実践(praxis)の観念への回帰、人類学上の問題<に向かい合う>存在論の問題の相対性、唯物論的形而上学の放棄や「上部構造」に対する「土台」の優越性の廃棄、たんなる産物ではなく社会生活の共同決定要素としての哲学や芸術。
 (32)1968年初頭のチェコスロヴァキアでの経済危機は、政治的変化と党の指導性の変更を突如として早めた。この経済危機がただちに、修正主義の考え方にもとづく、政治的、イデオロギー的批判論の進展を解き放った。
 宣告された目標は、ポーランドやハンガリーでかつてそうだったのと同じだった。抑圧的警察制度の廃止、市民的自由の法的保障、文化の自立、民主主義的経済管理。
 複数政党制、または少なくとも異なる社会主義諸政党を形成する権利を求める要求は、党員である修正主義者たちによって直接に提起されたのではなかったが、恒常的に諸議論の中で姿を見せていた。
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 ⑤につづく。

2075/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節③。


 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
 第13章・・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義③。
 (22)ハンガリーで修正主義の第一の中心になったのは、ブダペストの "Petőfi Circle"で、ルカチ学派の者たちを含んでいた。
 ルカチ自身はこの議論で顕著な役割を果たした。そして、ポーランドの修正主義者たちと比べて、彼もその支持者たちも、マルクス主義への忠誠をはるかに強調した。
 ルカチは「マルクス主義の枠内での」自由を求め、単一党支配の原理に疑問を抱いていなかった。
 あくまで想定にすぎないが、ハンガリーの修正主義者たちのスローガンがはるかに正統派的だったことは、民衆一般の不満の運動から離れるようになって、党に対する攻撃を彼らが適度に維持することができなかった理由だった。
 その結果は、明示的に反共産主義の性格をもつ大衆的抗議だった。そしてこれが、党の崩壊をもたらし、ソヴィエトの侵攻を招いた。
 ソヴィエトによる侵攻は、「民主化された」共産主義体制という考えはお伽噺であることがただちに明白になったポーランドにのみならず、西側の共産主義者たちに対しても、衝撃を引き起こした。
 小規模の共産党のいくつかは分裂し、その他の共産党は多数の知識人たちの支持を失った。
 ハンガリー侵攻は、世界じゅうの共産主義者たちの間に多様な異端的運動や、ソヴィエト路線の運動や教理を再構築しようとする試みが生まれるのを刺激した。
 イギリス、フランスおよびイタリアでは、民主主義的共産主義の可能性如何に関する多数の著作が出版された。
 1960年代の「新左翼」の大多数は、これらから刺激を受けて鼓舞されたものだ。
 (23)ハンガリーの修正主義運動は、ソヴィエトの侵攻によって破壊された。
 ポーランドのそれは、数年間にわたって、多様な、比較的に穏健な形態の抑圧と闘わざるをえなかった。抑圧とは、定期刊行物の閉刊、党方針に屈するのを拒む寄稿者の強制的な不採用、個々の著作者による出版の禁止、文化の全分野に及ぶ検閲の強化、といったものだ。
 しかしながら、ポーランドの修正主義が次第に減退していった主な理由は、そのような抑圧手段ではなく、修正主義者による批判論によって掘り崩されていった、党イデオロギーの解体にあった。
 (24)修正主義は、「根源」-主としては青年マルクスとその人間性の自己創造という観念-に立ち戻ることによってマルクス主義を再生し、その抑圧的で官僚制的な性格を治癒して共産主義を改良しようとする試みとしては、つぎのかぎりで、有効なものであり得ただろう。すなわち、党が伝統的イデオロギーを真摯に受け止め、党装置がイデオロギーの問題にある程度は敏感であるかぎりで。
 しかし、修正主義自体が、公式的教理に対する敬意を党が失ったこと、そしてイデオロギーがますます殺伐としているが不可欠の儀礼になったこと、の大きな原因だった。
 このようにして修正主義者の批判論は、とくにポーランドでは、共産主義の脚下からそれを崩した。
 文筆家や知識人たちは、宣言行動と抗議、当局に政治的圧力を加える試みを継続した。しかし、徐々に、真の修正主義思想、つまりマルクス主義に依拠することが少なくなった。
 党と官僚機構では、共産主義イデオロギーの重要性が明らかに衰退していた。
 かりにスターリニズムの暴虐に関与したのであってもそれぞれに忠実な共産主義者であって共産主義の理想を堅く保持していた者たちに替わって権力を掌握したのは、自分たちが利用してきた共産主義スローガンの空虚さを完全に知った、冷笑的で幻惑から醒めた出世第一主義者たち(careerists)だった。
 こうした種類の者たちで成る官僚制的機構は、イデオロギー上の衝撃にも動じなかった。/
 (25)他方で修正主義自体に、やがてマルクス主義の先端部を超えて進行するという、確かな内在的論理があった。
 合理主義の考え方を真摯に採用した者は誰でも、マルクス主義の伝統に対する自分の「忠誠心」の程度について、もはや関心をもつことができず、別の淵源や理論的刺激を利用することが禁止されているとも感じなかった。
 レーニン=スターリン主義の形態でのマルクス主義は貧困で未熟な構造をもつものだったので、厳密な検証を行うにつれて実際には消滅していった。
 マルクス自身の教理は、確かに知性に対するより多い栄養を供給するものだった。しかし、物事の性質からして、マルクスの時代より後に哲学や社会科学が提起した諸問題に対する回答を与えるものではなかったし、また、20世紀の人間主義的(humanistic)文化が発展させた多様で重要な観念的範疇を消化することができるものでもなかった。
 マルクス主義をどこかで始まっている新しい動向と結びつける試みがなされたが、それはすみやかにその明晰な教理形態をマルクス主義から奪うこととなった。
 マルクス主義は、知的歴史に寄与するいくつかのうちの一つにすぎなくなった。マルクス主義は、たとえ困難に思えても全ての問題に対する回答を見出すことができる、権威ある真理による全包括的な大系ではなくなった。
 マルクス主義は数十年間は、ほとんど全体として、有力だが自己充足的なセクトの政治イデオロギーとして機能した。その結果は、マルクス主義は諸思想がある外部世界からほとんど完全に遮断された、ということだった。
 この孤立状態を解消しようとする試みがなされたときには、すでに遅かった。-教理は解体した。ミイラ化した遺骸が突如として空中に晒されるがごとく。
 こうした観点からすると、正統派党員たちは全く正当に、マルクス主義の中に新しい空気を注入することを怖れた。
 修正主義者たちの訴えはたんに常識的なことと感じられた。-マルクス主義は科学に普遍的に適用される知的な方法にもとづく自由な討議で防衛されなければならない。現代的諸問題を解決するマルクス主義の能力を恐れることなく分析しなければならない。マルクス主義の観念的大系は豊富にされなければならない。歴史文書は捏造されてはならない。等々。
 こうした修正主義者たちの訴えは全て、悲惨な結末となることが判った。マルクス主義を豊かにしたり補完したりすることなく、疎遠だった諸思想の逆巻の中へと消失したのだ。//
 (26)ポーランドの修正主義はしばらくの間は残存したけれども、反対派の他形態の思想に比べて次第に重要ではなくなっていった。
 ポーランド修正主義の1960年代初期を代表したのは、KurońとModzelewski だった。彼らは、マルクス主義的かつ共産主義的な綱領を提案した。
 彼らによるポーランドの社会と政府に関する分析の結論は、共産主義諸国には新しい搾取階級が存在するに至っており、それはプロレタリア革命によってのみ克服される、というものだった。そしてこれは、伝統的なマルクス主義の基本的考えに沿っていた。
 彼らはこれにより、数年間の投獄を被った。しかし、彼らの抵抗が助けたのは、1968年の3月に相当に広がった暴動を指導することとなる、学生たちの反対運動の形成だった。
 しかしながら、このことは、共産主義イデオロギーとはほとんど関係がなかった。
 学生たちのほとんどは、市民的自由と学問の自由の名のもとで抗議運動を行った。そして、これらを特別に共産主義の意味で、また社会主義の意味ですら、解釈しはしなかった。
 政府は、暴乱を鎮圧した後、文化の分野での攻撃を開始した(これは当時の党内批判者たちとの闘いと関連していた)。そして、そうすることで、政府の主要なイデオロギー上の原理が反ユダヤ主義であることを露呈した。 
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 ④へとつづく。

2067/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
 第13章・・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第2節・東ヨーロッパでの修正主義②。
 (9)修正主義者たちは、これら全ての問題について、民衆一般のそれと合致するように要求した。
 しかしながら、彼らは、民族主義的または宗教的議論ではなく社会主義やマルクス主義の論拠を用いた。そして、党生活やマルクス主義研究に関連する要求も提示した。
 この点では、歴史上の異端者たちと同様に、「根源への回帰」を訴えた。すなわち、システムに対する批判論の基礎にしたのは、マルクス主義の伝統だった。
 とくに初期の段階では、一度ならず、レーニンの権威が持ち出された。彼らはレーニンの著作の中に、党内民主主義、統治への「広範な大衆」の参加、等々に関する文章を探し求めた。
 要するに、修正主義者たちは、しばらくの間は、この運動の残存者たちが今でもときどき行っているように、レーニンをスターリニズムに対抗させた。
 しかし、知的な面での多くの成果はなかった。スターリニズムとは、レーニンの基本的考え方を自然かつ正当に継承するものであることが、議論を通じてますます明確になったからだ。
 もっとも、政治的に見れば、彼らの論拠は、自分たちのステレオタイプに訴えかけることで、すでに述べたように共産主義イデオロギーが壊れていくのを助けた、という重要な意味があった。
 状況が特有だったのは、マルクス主義とレーニン主義はいずれも、人間的で民主主義的なスローガンに充ちたものとして語られた、ということだ。それらは、権力システムに関するかぎりでは空虚な修辞用語だったが、当時のシステムに反対するために呼び起こされた。
 修正主義者たちは、マルクス=レーニン主義が語ったことと現実の生活との間のグロテスクな対照を指摘することで、教理自体に内在する矛盾を暴露した。
 イデオロギーは、いわば政治的運動から切り離されるようになった。イデオロギーは運動のたんなる表面にすぎなかったのだが、しかし、独自の歩みをとり始めた。//
 (10)しかしながら、レーニン主義にしがみ付く試みはほとんどの修正主義者たちによってすみやかに放棄されたが、他方で、「真の(authentic)」マルクス主義に回帰するという望みは、より長く継続した。//
 (11)修正主義者たちを党の仲間たちから分かつ主要な論点は、彼らはスターリニズムを批判したということではなかった。
 当時、とくに20回党大会の後では、党員たちのほとんど誰も、異様な力をもってスターリニズムを防衛する、ということがなかった。
 主に批判論の範囲についてすら、違いはなかった。そうではなく、違いは、スターリニズムは「誤り」または「歪曲」だった、あるいは一続きの「誤りと歪曲」だった、という公式の見解を拒否した、ということにあった。
 彼らのほとんどは、スターリン主義システムはその社会的機能の観点からはほとんど誤っておらず、ゆえに悪の根源はスターリンの個人的な性格または共産主義権力の性質以外の「誤り」に求められなければならない、と考えていた。
 しかしながら、彼らがある範囲の時期の間に信じていたのは、共産主義をその基盤を疑問視することなく再建する、または「脱民主主義化」することができる、という意味で、スターリニズムは治癒可能だ、ということだった(その特質のうち基本的なのはは何で偶然的なのは何かはほとんど分かっていなかったけれども)。
 しかし、ときが経つにつれ、このような立場は成り立たないことがますます明瞭になった。すなわち、かりに一党システムが共産主義の不可欠の前提条件であるならば、共産主義システムを改良することはできない。//
 (12)しかしながら、しばらくの間は、マルクス主義の社会主義はレーニン主義改革がなくとも可能であるように、そして共産主義は「マルクス主義の枠組みの内部で」攻撃することが可能であるように見えた。
 このゆえに、反レーニン主義の意味でのマルクス主義の伝統を再解釈する試みが行われた。//
 (13)修正主義者たちは、マルクス主義は検閲、警察や特権といった一元的権力に依拠するのではなく、科学的な合理性という規範的規準に従うべきだ、と要求することから始めた。
 そのような特権的地位は不可避的にマルクス主義の頽廃をもたらし、マルクス主義から生命力を奪う、と論じた。
 マルクス主義は、科学が普遍的に受容する経験的かつ論理的な方法でもって、その存在を防衛することが可能でなければならない。かつまた、マルクス主義研究は、批判から免れる国家イデオロギーへと制度化されてきたがゆえに廃絶されなければならない。
 こうしたことは、理性的論拠でもってこそ各人の地位を守らなければならない、そのような自由な議論があってのみ、一般化することができただろう。
 批判論は、マルクス主義諸著作の未熟さと不毛さを、今ある時代の主要諸問題について適切さを欠くことを、図式性と硬直性を、そしてその教理の主要な構成員だと見なされている者たちの無知を、攻撃した。
 レーニン=スターリン主義的マルクス主義の観念的範疇の貧困さを、全ての文化を階級闘争の用語法で説明し、全ての哲学を「唯物論と観念論の間の闘い」へと還元し、全ての道徳性を「社会主義の建設」の手段に変える、等々の単純な企てを、攻撃した。//
 (14)哲学に関するかぎりは、修正主義者たちの主要な目標は、レーニン主義教理とは対立する、人間の主体性(human subjectivity)の擁護だった、と定式化することができるかもしれない。
 彼らによる攻撃の主要点は、つぎのとおりだった。//
 (15)第一に、レーニンの「反射の理論」を批判した。マルクスの認識論(epistemology)の意味とは全体として異なっている、と論じることによって。
 認識(cognition)とは客体が心(mind)に反射されることではなく、主体と客体の相互作用であり、社会的および生物的要因に規定されているこの相互作用を、世界を複写したものと見なすことはできない。
 人間の精神(mind)は、存在と関係し合う態様を超越することができない。
 我々の知る世界は、部分的には人間によって造られた。//
 (16)第二に、決定論(determinism)を批判した。
 マルクス理論も事実に関するいかなる考察も、とくに歴史に関する決定論的形而上学を正当化しない。
 不変の「歴史の法則」があり、社会主義は歴史的に不可避だという考えは、共産主義に対する熱望を掻き立てるのに一定の役割を果たしたかもしれない、しかしなおそれ以上のものをもった神話的迷信だった。
 偶然と不確実さを過去の歴史から排除することはできない。未来の予言については、なおさらのことだ。//
 (17)第三に、不確定な歴史編纂の定式から道徳的価値を帰結させようとする企てを、批判した。
 かりに間違って、社会主義の将来はあれこれの歴史的必然性によって保障されている、ということが支持されたとしても、そのような必然性を支持するのが我々の義務だ、ということにはならない。
 必要なことは、その貴重な理由のためにあるのではない。社会主義は、「歴史的法則」の結果だと主張されるものの基盤の上に、それを超えたところに、なおも道徳的基礎づけを必要としている。
 社会主義という観念を回復するためには、価値のシステムが先ずは歴史編纂上の教理からは別個に再建されなければならない。//
 (18)こうした批判論は全て、歴史過程および認識過程での主体の役割を回復するという共通の目的を持っていた。
 それらは、官僚制的体制への批判と結びついた。また、党装置は「歴史的法則」に関する優れた見解と知識をもっており、この力の強さにもとづいて無制限の権力と特権をもつのだ、という馬鹿げた偽装に対する批判とも。
 哲学の観点からは、修正主義はすみやかに、レーニン主義と完全に決裂した。//
 (19)修正主義者たちは、批判論を展開する過程で、当然のこととして、さまざまの根拠に訴えた。そのうちある範囲はマルクス主義で、別のある範囲はマルクス主義ではなかった。
 東ヨーロッパでは、一定の役割を実存主義(existentialism)が、とくにSartre の著作が、果たした。多くの修正主義者たちは、Sartre の理論、主体は事物たる地位に還元できないこと、に惹き付けられたのだ。
 別の多数の者たちは、ヘーゲルに着想を求めた。一方では、エンゲルスの科学理論に関心をもった者たちは、分析的(analytical)哲学をエンゲルスとレーニンの「自然弁証法」へと適用しようとした。
 修正主義者たちは、マルクス主義と共産主義に関する西側の批判論や哲学上の文献を読んだ。すなわち、Camu、Merleu-Ponty、Koesler、Orwell。
 過去のマルクス主義の権威は、彼らの議論と批判では二次的な役割しか果たさなかった。
 トロツキーへの言及は、ごく稀れだった。
 ある程度の関心はRosa Luxemburg に向けられたが、それは彼女のレーニンおよびロシア革命に対する攻撃のゆえだった(しかし、この点に関する彼女の書物をポーランドで出版する試みは、成功しなかった)。
 哲学者たちの中では、一時的にはLukács に人気があった。それは主として、主体と客体は統一へと向かうという歴史過程に関する彼の理論に理由があった。
 いくぶんか後に、Gramsci が関心の対象になった。彼の著作は完全にレーニンのそれとは反対する認識(knowledge)に関する理論の概略を含んでおり、それはまた、共産主義官僚制、先進的前衛という党に関する理論、歴史的決定論および社会主義革命への「操作的」接近方法、に関する批判的考察を伴っていた。//
 (20)このときにさらに補強する力を与えたのは、イタリア共産党だった。
 そのときまで生え抜きのスターリン主義者という、それに値する評価を受けていたPalmiro Togliatti は、第20回党大会の後では、ソヴィエトの指導者たちを批判した者として記録に残された。彼の言葉遣いは穏やかだったが、重要なのはその結論だった。
 彼はソヴィエト指導者たちを、スターリニズムの責任の全てをスターリンに負わせ、官僚機構の退廃の原因を分析できなかったとして非難した。そして、世界共産主義運動の「多極化(polycentrism)、すなわち他諸国共産党に対するモスクワの覇権を終焉させること、を訴えるに至った。//
 (21)1950年代の批判運動が東ヨーロッパの他国よりもはるかに進んだポーランドの修正主義は、党知識人から成る多数のグループの作業だった。-哲学者、社会学者、ジャーナリスト、文筆家、歴史家および経済学者。
 彼らは特別のプレスや文学、政治の週刊誌(とくに<Po prostu>と<Nowa Kultura>)に表現の場を見出し、それらは当局に抑圧されるまでは重要な役割を果たした。
 修正主義者だとして頻繁に攻撃された哲学者および社会学者の中には、B. Baczko、K. Pomian、R. Zimand、Z. Bauman、M. Bielińska および、主犯者として抜き出されたこの書物の執筆者がいた。
 修正主義理論を前進させた経済学者は、M. Kalecki、O. Lange、W. Brus、E. Lipinski およびT. Kowalik だった。//
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 ③へとつづく。

2064/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。 
 第2節・東ヨーロッパでの修正主義①。
 (1)1950年代の後半以降、共産主義諸国の党当局と公式イデオロギストたちは、党員またはマルクス主義者であり続けつつ多様な共産主義教条を攻撃する者たちを非難するために、「修正主義」という語を用いた。
 この言葉には、厳密に正確な意味はなかった。あるいは実際には、スターリン後の改革に反対する党「保守派」に対して、「教条主義」という語が用いられた。
 しかし、原則としては、「修正主義」という語が示唆していたのは、民主主義的かつ合理主義的な傾向だった。
 従来はこの語はマルクス主義に対するBernstein の批判について用いられてきたので、党活動家たちは新しい「修正主義」をBernstein の考え方と連結させようとした。しかし、これら両者の関係は隔たっていて、そうした関係づけは馬鹿らしいものだった。
 積極的な「修正主義者」のほとんど誰も、Bernstein に関心を持たなかった。
 1900年頃のイデオロギー論議の中心にあったものは、もはや話題にならなかった。
 当時に激しい憤懣を掻き立てたBernstein の考えのいくつかは、今では正統派マルクス主義者たちに受容されていた。社会主義は合法的手段で達成し得る、という原則的考え方のように。-全くの戦術上の変化だけれども、イデオロギー的には重要でなくはない。
 「修正主義」はBernstein の読解に因っていたのではなく、スターリンのもとにあった時代に由来していた。
 しかしながら、党指導者がこの用語をいかに曖昧に用いたとしても、1950年代と1960年代には、本当の、能動的な政治的および知的な運動が存在した。その運動は、当面の間はマルクス主義の範囲内で、あるいは少なくともマルクス主義の語彙を使って活動しはしたれども、共産主義の教理に対してきわめて破壊的な効果を持った。//
 (2)1955-57年に共産主義イデオロギーが解体するにつれて、システムに対する攻撃が広がった。
 この時期の典型的な特質は、現存する条件の批判にとどまらず、きわめて活発で目立っていて、全体としてきわめて有効だった、ということだ。
 このような優勢的な力には、いくつかの理由があった。
 第一に、修正主義者たちは「既得権益層」に帰属していたので、大衆メディアや非公開の情報に接近することが十分に容易だった。
 第二に、事柄の性質上、彼らは他のグループよりも、共産主義イデオロギーとマルクス主義について、また国家と党機構について、多くのことを知っていた。
 第三に、共産主義者たちは全ての問題について指導すべき考え方に慣れ親しんでおり、結局のところは党が、活力と主導性をもつ多数の党員たちを取り込んでいた。
 第四に、そしてこれが主要な理由だが、修正主義者たちは、少なくとも相当の期間、マルクス主義の語彙を用いた。すなわち、彼らは共産主義のイデオロギー的ステレオタイプとマルクス主義の権威に訴えかけ、社会主義の現実と「古典」に見出し得る価値と約束の間の差違について、驚かせるほどの比較を行った。
 このようにして、修正主義者は、民族主義または宗教の観点からシステムに反抗した他の者たちとは違って、党内見解について訴えかけたのみならず、党の周囲に反響を与え、覚醒させた。
 彼らの意見には党機構員も耳を澄まし、そしてこれが政治的変化の主たる条件だったのだが、その結果として党機構のイデオロギー的混乱を招くこととなった。
 彼らは、ある程度は共産主義ステレオタイプをまだ信じているがゆえに、またある程度はそれが有効だと知っているがゆえに、党の用語を用いた。
信仰と慎重な偽装(camouflage)の割合がどうだったかは、現在の時点では査定するのが困難だ。//
 (3)生活の全分野に影響を与え、共産主義の全ての神聖さを徐々に掘り崩した批判論の大波の中で、一定の要求や観点は修正主義に特有のものだったが、片方で、一定のそれらは非共産党または非マルクス主義の体制反対者と共通していた。
 提示された主要な要求は、つぎのようなものだった。//
 (4)第一に、批判論の全ては、公共生活の一般的な非中央化、抑圧と秘密警察の廃止、あるいは少なくとも、法に従い、政治的圧力から自立して行動する司法部に警察が従属すること、を求めた。
 プレスの自由、科学と芸術の自由、事前検閲の廃止も、要求した。
 修正主義者たちは党内民主主義も求め、ある範囲の者たちは党内に「分派」を形成する権利も要求した。 
 これらの点で、彼らの間には最初から違いがあった。
 ある者たちは、一般的要求にまで進めることなく党員のための民主主義を要求した。彼らは、党は非民主主義的社会の中にある孤立した民主主義的な島であり得ると考えているように見えた。
 彼らはそうして、明示的にであれ暗黙にであれ、「プロレタリアートの独裁」原理、すなわち党の独裁の原理を受容し、支配党は内部的な民主主義という贅沢物を提供できると想定していた。
 しかしながら、そのうちに、修正主義者のほとんどは、エリートたちだけのための民主主義は存在することができない、ということを理解するに至った。
 つまり、かりに党内グループが許容されれば、そのグループは、そうでなければ発言を否定される社会的勢力のための発言者となり、党内部の「分派」制度は多元的政党制度の代わりになるだろう、ということをだ。
 したがって、政治的諸党の自由な形成とそれに伴う全ての結果か、それとも党内部での独裁を含む一党による独裁か、を選択する必要があった。//
 (5)民主主義的要求の中でも重要なのは、労働組合と労働者評議会の自立性だった。
 「全ての権力を評議会へ」との叫びすら聞こえてきた。-たしかに声高ではなかったが、賃金や労働条件の問題のみならず産業管理にも重要な役割を果たす、労働者評議会の党からの独立という考えは、ポーランドとハンガリーの両国で頻繁に提示された。のちには、ユーゴスラヴィアの例が引用された。
 労働者の自己統治は、当然に経済計画の非中央化につながるものだった。//
 (6)非政党界隈で望まれた重要な改革は、宗教の自由と教会への迫害の中止だった。
 ほとんどが反宗教的である修正主義者たちは、この問題を傍観していた。
 彼らは教会と国家の分離を信じており、その間に拡大していた、宗教教育の学校への再導入という要求を支援しなかった。//
 (7)一般的に提示された要求の第二の範疇は、国家主権と「社会主義ブロック」諸国の間の平等に関係していた。
 全ての社会主義ブロック諸国で、ソヴィエトの監督は多数の分野できわめて強かった。とくに軍と警察は特別で直接的な統制のもとにあり、全ての問題について長兄〔ソヴィエト同盟〕の例に従う義務は、国家イデオロギーの基盤だった。
 民衆全体が鋭敏に感じていたのは、それぞれの諸国の恥辱、ソヴィエト同盟への従属、それによる隣国に対する不躾な経済的搾取、だった。
 しかしながら、ポーランド民衆は全体としては強く反ロシア的だった一方で、修正主義者たちは一般的には伝統的な社会主義諸原理を主張し、民族主義(nationalism)の語法を用いるのを避けた。
 修正主義者たちや他の人々が頻繁に主張した要求は官僚機構員たちが享受している特権の廃止であり、収入の問題というよりも、日常生活の困難さから彼らを解放している超法規的な取り決め-特殊な店舗や医療機関の利用、居住上の優先、等々-にあった。//
 (8)批判論の第三の主要な領域は、経済の管理だった。
 産業を元のように私人の手へと移すという要求はほとんどなされなかった、ということには注目しておかなければならない。
 ほとんどの人々は、産業が公的に所有されていることに慣れ親しんでいた。
 しかしながら、つぎのことが要求された。
 強制的な農業集団化の停止、極端に負担の多い投資計画の縮小、経済への市場条件の役割の拡大、労働者への利潤分配、合理化された経済計画、非現実的な全包括的計画の廃止、起業を妨害している基準や指令の減少、およびサービスや小規模生産の分野での私的および協同的活動の容認。
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 ②へとつづく。

2063/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳。分冊版、p.453~p.456。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
 第1節・「脱スターリニズム化」②。
 (8)ポーランドでは、第20回党大会の時点ですでに社会的批判と「修正主義」(revisionist)の運動は大きく前進してはいたが、その大会とフルシチョフ演説は、党の解体を大きく加速させた。 
 また、体制を公然と攻撃する大胆な批判が可能になった。そして、統治機構を弱めて、長年にわたって蓄積していたが威嚇でもって抑えられていた社会不安が、ますます明白な形をとって表面に出てくるまでに至った。
 1956年6月、Poznań で労働者の蜂起が発生した。
 直接的には経済的困難が誘発したものだったが、ソヴィエト同盟とポーランド政府に対する、労働者階級の鬱積した憎悪が反映されていた。 
反乱は鎮圧されたが、党は士気と方向を失い、分派に攪乱され、「修正主義」が浸食した。
 ハンガリーでは、党が完全に崩壊して、民衆が公然たる反抗を行うまでに達した。そして政府は、ソヴィエト軍事駐留地(ワルシャワ協定)から撤退していると発表した。
 赤軍が反乱を鎮圧すべく介入し、指導者たちは容赦なく処理され、1956年十月の政府一員たちのほとんど全てが殺戮された。
 ポーランドは最後の瞬間で侵攻を免れたが、それの理由の一つは、従前の党指導者のWladyslaw Gomulka (W・ゴムウカ)が暴乱を回避する好運な人物として前面に出てきたことによる。この人物は、スターリンによる粛清の時代に生命を救われていた。政治的に収監されていたという、こうした彼の背景は、民衆からの信頼を獲得するのに役立った。
 当初はきわめて疑い深かったロシアの指導者たちは、最終的には-判明したように全く正当に-、ゴムウカはクレムリンの承認なくして権力を継承したけれども著しく従順でないことはないだろうと、そして〔ポーランドへの〕侵攻は多大な危険を冒すことになるだろうと、判断した。
 「ポーランドの十月」と言われるものは、社会的文化的な革新または「自由化」の時期を誘引するものでは全くなく、そのような試みが徐々に消滅していくのを表象していた。
 1956年のポーランドは、相対的に言って自由な言論と自由な批判の可能な国だった。それは、政府がそのように意図したのが理由ではなく、政府が事態掌握能力を失っていたことによる。
 まだ残っていた自由の余地は、年ごとに少なくなった。
強制的に設立されていた農民の協同組合は、その大部分がすみやかに解体された。
 しかし、1956年十月以降は、党機構が、失っていた地位を少しずつ回復した。
 党機構は統治の混乱を修復し、文化的自由を制限し、経済改革を停止させた。そして、1956年に自発的に形成されていた労働者評議会(councils)には全くの粉飾的な役割しか与えなかった。
 そうしているうちに、ハンガリー侵攻とそれに続く処刑の大波は、 他の「人民民主主義」諸国へもテロルをもち込んだ。
 東ドイツでは、積極的な「修正主義者」のうちの数人が拘禁された。
 脱スターリニズム化は、最後には激しい抑圧をもたらした。しかし、ブロック全体に生じた荒廃状況は、ソヴィエト・システムは以前と全く同じものではあり得ない、ということを示した。//
 (9)「脱スターリニズム化」という言葉は(「スターリニズム」と同様に)諸共産党自身が公式に用いたものではなかった。共産主義諸党は、その代わりに「誤りと歪曲の是正」、「人格崇拝の克服」、「党生活のレーニン主義規範への回帰」といった語を用いた。
 これらの婉曲語は、スターリニズムは無責任な大元帥(Generalissimo)が冒した遺憾な一連の過ちであってシステム自体とは関係がない、かつまた、体制がもつ抜群の民主主義的性格を回復するためにはスターリンを非難するので十分だ、という印象を与えることを意図していた。
 しかし、「脱スターリニズム化」や「スターリニズム」という用語は、共産主義諸国の公式の語彙の中では用いるのが排除されているというのとは異なる別の理由で、誤りに導くものだ。共産党員たちは、つぎの理由でこれらを用いるのを慎重に避けたのだから。すなわち、「スターリニズム」という語は支配の人格の欠陥から生じた偶然の逸脱ではなく、システムに関するものだ、との印象を与えたから。
 他方ではしかし、「スターリニズム」という語はまた、「システム」はスターリンの個性と結びついており、彼を非難することは「民主化」または「自由化」の方向への急激な変化の合図だ、ということも示唆する。
 (10)第20回党大会の背景が何だったかの詳細は知られていないけれども、振り返ってみると、25年間を覆ったシステムの一定の特徴がスターリンと彼が享有した侵し得ない権威なくしては維持することができない体制だった、ということは明らかだ。
 大粛清(great purges)以降にロシアにあった体制のもとでは、党や政府の最も特権をもつ者は全て、党の政治局員ですら、ある日とその翌日の間に、生きているのかそれとも破壊されているのかが僭政者のむら気による誤謬なき指立てによって決定される、という状況にあった。
 スターリンの死後に彼の継承者は誰もその地位につくはずがない、と彼らが懸念したのは、何ら驚くべきことではない。
 「誤りと歪曲」を非難することは、党の指導者たちの間での相互安全確保のための、不文の手段だった。
 そして、それ以降、他の社会主義諸国でと同様にソヴィエト同盟では、党内対立は廃された寡頭制の指導者たちによって生命を失うことなく解決された。
 周期的に行われた大虐殺には、政治的安定の確保という観点からは、たしかに一定の長所があった。分派を形成するのを不可能にし、権力装置の統一を確保してきたわけだ。
 しかし、この統一のために払った対価は、ワン・マン僭政制だった。また、全ての組織員が隷属状態に貶められることだった。彼らには、生命の持続自体が不確実だったのだ。彼らは、もっと悲惨な条件のもとにある他の奴隷たちの管理人たる地位をまだ享受していたけれども。
 脱スターリニズム化の第一の影響は、大量テロルが選択的テロルに代わったことだった。テロルはまだかなりの範囲で行われていたが、スターリンのもとでと比べれば、全く恣意的なものではなくなつた。
 ソヴィエト市民たちは、これ以来、多かれ少なかれ、監獄または強制収容所に入れられるのを回避する方法を知った。従前は、これに関する規準が完全になかったのだ。
 フルシチョフ時代の最も重要な出来事の一つは、強制収容所から数百万の人々が解放されたことだった。//
 (11)変化のもう一つの影響は、非中央化に向けた多様な動向が見られたことだった。そして、対立する政治グループを秘密に形成することが、より容易になった。
 経済改革の試みも行われ、一定の程度で、経済の効率性が改善された。
 しかしながら、重工業の優先というドグマは保持されたままで(Malenkov のもとでの短い中間期間を除く)、市場機構を解放することによって大衆の需要にもっと対応するように生産を変える歩みは、何らなされなかった。
 また、農業分野での実質的な改良も、何らなされなかった。頻繁に「再組織化」がなされたけれども、農業は集団化によって貶められた従来の惨めな状態のままだった。//
 (12)しかしながら、あらゆる変化も、「民主化」には到達せず、共産主義僭政体制を無傷なままに残した。
 大量テロルの放棄は人間の安全確保にとって重要なことだったが、個人に対する国家の絶対的権力を変えるものではなかった。
 個人には制度上の権利を何ら付与するものではなかった。また、全ての生活領域での主導性と統制力についての国家と党の独占を何ら侵害しなかった。
 全体主義的統治の原理は保持されたままだった。他方で、人間は国家の所有物のままで、人間の全ての目標と行動は国家の目的と必要に適合しなければならなかった。
 多くの生活分野で〔全体主義への〕吸収に対する抵抗があったけれども、現在もそうであるように、体制の全体が、可能な最大の限度で国家の統制を保障すべく作動した。
 大規模の無差別テロルは、必要で永続的な全体主義の条件ではない。
 抑圧手段の性格と強度は、多様な状況に応じて可変的だったかもしれない。
 しかし、共産主義のもとでは、法の支配のような原理は存在しなかった。その原理のもとでは、法は市民と国家の間の媒介者として機能し、個人<と向かい合う>国家の絶対的権力を剥奪する。
 ソヴィエト同盟および他の共産主義諸国の現在の抑圧体制は、たんなる「スターリニズムの残存」、またはシステムの根本的な変化なくしていずれは修復され得る遺憾な欠陥にすぎないのではない。
 (13)世界にある共産主義体制だけが、レーニン=スターリン主義の様式(pattern)だ。
 スターリンの死とともに、ソヴィエト同盟のシステムは、個人的僭政から寡頭制的僭政へと変化した。
 国家の万能性という観点からすれば、少しは効率の悪いシステムだ。
 しかしながら、それは、脱スターリニズムに至っているのではなく、スターリニズムの病原を継承しているシステムにすぎない。//
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 つぎの第2節の表題は、<東ヨーロッパでの修正主義>。

2056/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳。最終章へと移る。分冊版、p.450~。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第1節・「脱スターリニズム化」①。
 (1)Joseph Vissarionovich Stalin は、1953年3月5日に脳卒中で死んだ。
 彼の後継者たちが権力をめぐって立ち回り、誤導的にも「脱スターリニズム化」と称された過程を開始したとき、世界はその報道をほとんど理解することができなかった。
 ほとんど3年後に、それは頂点に達した。そのとき、Nikita Khrushchevが、ソヴィエト共産党に、そしてすみやかに全世界に、進歩的人類の指導者、世界の鼓舞者、ソヴィエト人民の父、科学と知識の主宰者、最高の軍事的天才、要するに歴史上最大の天才だったスターリンは、実際には、妄想症的(paranoiac)拷問者、大量殺戮者、ソヴィエト国家を大敗北の縁に追い込んだ軍事的無学者だった、と発表した。//
 (2)スターリン死後の3年間は劇的瞬間に満ちた時期だった。ここでは簡潔にのみ言及する。
 1953年6月、東ドイツの労働者の反乱が、ソヴィエト兵団によって粉砕された。
 そのすぐあと、クレムリンの幹部の一人で国家保安局の長官だったLavrenty Beriya が多様な犯罪を冒したとして逮捕された(彼の裁判と処刑は12月まで報道されなかった)。
 同じ頃(西側はもっと後で非公式に知ったのだが)、いくつかのシベリアの強制収容所の収監者たちが、反乱を起こした。
 これらの反乱は残虐に鎮圧されたが、おそらくは抑圧制度の変化をもたらした。
 スターリン崇拝者たちは、スターリン死後の数カ月以内に多くは排除された。
 党が1953年7月に50周年を記念して宣言した「テーゼ」では、スターリンの名はわずか数回しか言及されず、いつもは随伴していた称賛の言葉がなかった。
 1954年、文化政策に若干の緩和があり、その秋には、ソヴィエト同盟がユーゴスラヴィアとの和解する用意があることが明らかになった。これが意味したのは、東ヨーロッパ全体の共産党指導者たちを処刑する口実となってきた「Tito主義者の陰謀」という責任追及を撤回する、ということだった。//
 (3)スターリン崇拝とスターリンの疑いなき権威は長年にわたり世界の共産主義イデオロギーの楔だったので、こうした転回が全ての共産党に混乱と不確実さもたらし、その全ての側面について-経済的愚鈍さ、警察による抑圧、文化の隷従化-、社会主義システムに対するますます厳しいかつ頻繁な批判を呼び起こしたことは、何ら疑うべきことではなかった。
 批判は、1954年末以降に「社会主義陣営」の中に広がった。
 最も激烈だったのはポーランドとハンガリーで、これらの国では、修正主義運動-と呼ばれたのだが-は、共産主義のドグマの例外なく全ての側面に対する全面的な攻撃へと発展した。//
 (4)1956年2月のソヴィエト同盟共産党第20回大会で、フルシチョフは、「個人崇拝」に関する有名な演説を行った。
 これは非公開の会議で行われたが、外国の代議員も出席していた。
 この演説はソヴィエト同盟では印刷されなかった。しかし、そのテキストはいく人かの党活動家に知られており、のちにすみやかにアメリカ合衆国国務省によって公表された。
 (共産主義諸国の間では、ポーランドは、信頼されていた党員によってテキストが「内部用に」印刷して配布された唯一の国だったように見える。
 西側の共産主義諸党は、このテキスト文の真正さを承認するのを長い間拒否した。)
 フルシチョフは演説文の中で、スターリンの犯罪と妄想症的幻想、拷問、処刑および党官僚の殺戮に関する詳細な説明をした。しかし彼は、反対派運動をした党員たちのいずれについても名誉回復を行わなかった。彼が言及した犠牲者たちは、Postyshev、Gamarnik、およびRudzutak のような疑いなきスターリニストたちで、Bukharin やKamenev のような独裁者のかつての反対者たちではなかった。
 この演説は、どのようにして、またいかなる社会的条件のもとで血に飢えた妄想狂が25年にわたって無制限の専制的権力を2億の住民をもつ国家に対して行使することができたかに関して-その国家はその間ずっと人間の歴史上最も進歩的で民主主義的な統治のシステムだと祝福されてきたのだったが-、何の手がかりも提示しなかった。
 確実だったのはただ、ソヴィエトのシステムと党自体は完璧に無垢であり、僭政者の暴虐について何の責任もない、ということだった。//
 (5)世界のコミュニストたちに対するフルシチョフ演説の爆弾的効果は、それが含む新しい情報の量によるのではなかった。
 西側諸国では、学問的性質のものであれ第一次資料であれ、すでに多数の文献を利用することができた。それらは、相当に確信的にスターリン体制の恐怖を叙述するもので、フルシチョフが言及した詳細は、一般的な像を変更したり多くを追加したりするものではなかった。
 ソヴィエト同盟や従属諸国では、共産主義者も非共産主義者も、個人的な経験から真実を知っていた。
 共産主義運動に対する第20回大会の破壊的な効果は、その運動の二つの重要な特質によっている。すなわち、第一に共産党員の心性(mentality)、第二に統治システムにおける党の機能。
 (6)国家当局が情報が外部世界に浸み出ることを阻止すべくあらゆる手段を用いた「社会主義ブロック」のみならず、民主主義諸国でも、共産党は、「外部から」の、すなわち「ブルジョア」的源泉から来る全ての事実と議論からの影響を完璧に受けない、という心性を生み出した。
 ほとんどの場合、共産党員たちは魔術的思考の犠牲者だった。その魔術的思考によれば、免疫的源泉が外部からの情報に汚染しないように清めてくれるのだ。
 基本的な係争点に関する政治的敵対者は全て、個々のまたは事実の問題で自動的に間違っているに違いなかった。
 共産党員の心性は、事実と理性的な論拠による攻撃に対して、十分に武装されていた。
 神話的システムでのように、真実は(むろんイデオロギー上の手引きでではないけれども)実践において、実践から生じる源泉でもって明確になる。 
 「ブルジョア的」書物や新聞に書かれているかぎりで何も怖れを生じさせない諸報告は、クレムリンの託宣が確認したときには雷鳴のごとき効果をもつ。
 昨日には「帝国主義者のプロパガンダによる卑劣なウソ」だったものは、突如として、呆れるほどの真実に変わった。
 さらに、落ちた偶像は誰か別の者に脚台を占められただけではなかった。 
 スターリンが冠を剥がれたことは一つの権威が崩壊したことを意味したのみならず、制度全体の崩壊を意味した。
 党員たちは、最初の者の誤りを糾すための第二のスターリンに希望を託すことができなかった。
 スターリンは悪だったが党とシステムは無欠だという公的な保証を、彼らはもはや真面目に受け止めることができなかった。//
 (7)つぎに、共産主義の道徳的破滅は、瞬間的に、権力のシステム全体を揺るがした。
 スターリン主義体制は、党の支配を正当化するイデオロギーという接合剤なくしては、存在することができなかった。そして、このときの党装置は、イデオロギー上の衝撃に対して敏感だった。
 レーニン=スターリン主義社会主義では権力システム全体の安定性は統治する機構のそれに依存していたので、官僚機構の混乱、不確実さおよび士気喪失は、体制の構造全体を脅かした。
 脱スターリニズム化とは共産主義が二度と治癒することのできない病原菌であることが判明することとなった。何とか一時的な態様をとってであれ、その病に適応すべく努力はしたのだけれども。//
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 第一節②へとつづく。第二節以降の表題は、つぎのとおり。
 第二節・東ヨーロッパの修正主義。
 第三節・ユーゴ修正主義。
 第四節・フランスでの修正主義と正統派。
 第五節・マルクス主義と「新左翼」。
 第六節・毛沢東の農民マルクス主義。

1976/加藤哲郎著(1990)とL・コワコフスキ。

 いつぞや、加藤哲郎の本がL・コワコフスキの文章(・詩?)を引用・掲載していた、と書いたことがある。
 その加藤の本を、久しぶりに見つけた。
 加藤哲郎・東欧革命と社会主義(花伝社、1990年3月)。
 この本全体のハードカバーの中にある表紙のそのつぎの頁に、L・コワコフスキの文章(?)が二頁分で引用されて掲載されている。
 「東欧革命」の途上での既存?社会主義に対する鋭い批判を諧謔をもって表現したものとして、加藤は採用したのだろう。
 もっとも加藤が英語訳にせよ直接にL・コワコフスキの文章に接したのではないようで、以下からの再引用・掲載だとされている。
 全集/現代世界文学の発見・第11巻-社会主義の苦悩と新生 (学芸書林、1970)。
 これの原物はいま手元にないが、購入し所持していて、確認はしている。
 加藤哲郎は「ポーランドの哲学者・コラコフスキー」と執筆者を示している。
 これは私も最初はそのように読んだところで、L・コワコフスキの初期の作品の珍しい邦訳書である以下も、著者を「ココフコフスキ」と表記していた。
 小森潔=古田耕作訳/L・コラコフスキー・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)。
 この著はL・コワコフスキがまだ完全にはマルクス主義者でなくなっておらず「修正主義者」とかマルクス主義正統派(スターリン派=ポーランド統一労働者党)から批判されていた時期のものだと見られる。そして、邦訳者たちもまた、反マルクス主義または反共産主義という観点からではなく、反スターリニズム(反日本共産党?)の観点から関心をもって、邦訳書を刊行したのだと推察している。
 その後、東欧の「お伽ばなし」・「怪談」とか哲学一般に関する書物の邦訳はあるが、L・コワコフスキの中心著作と評して欧米学界・論壇でも誤りはないと見られるつぎの著の邦訳書は決して?刊行されなかったことは何度も書いた。
 Leszek Kolakowski・マルクス主義の主要潮流(原語1976、英語訳1978)。
 さて、加藤哲郎が引用・掲載している文章(?)は「はしがき」のつぎの「目次」欄の右端にも、表題が「なにが社会主義でないか」と記されている。
 L・コワコフスキ自身の発表年は、1956年。この人が29歳の年。
 以下の中に収載されている。
 Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays. (2012年)。p.20-p.24.
 レシェク・コワコフスキ・神は幸せか?-小論選集(2012)
 これによると表題は、What is Socialism ? で、「なにが社会主義でないか」ではなく「社会主義とは何か」だ。もっとも、原作時点以降に変更された可能性はあるし、その文章?自体は「なにが社会主義でないか」を語ることから始め、「社会主義とは何か」をこれから語ろうと書いて、ほとんど終わっている。
 これまで「文章?」とか「文章(詩?)」とか記したように、L・コワコフスキの1956年の「社会主義とは何か」は「社会主義でない」国家・政体のスローガンもどきの列挙であって、美しいものでも、じっくりと味わえる文章でもない。むしろ、乱雑だ。よって、ここに書き写すつもりもない。
 しかしそれでも、その内容が当時のポーランド当局には危険なものだったのだろう。
 ポーランド共産党(統一労働者党)の党員だった、ワルシャワ大学の研究者・教育者が書いたものだったのだから。
 上の2012年の著の原文のあとに、つぎのような注記がある(p.24)。一文ごとに改行する。
 「この小論(essay)は検閲に引っかかり、これが書かれた学生雑誌は閉鎖させられた。
 そして、すみやかに当局が除去するまで、ワルシャワ大学の告知板に貼り出された(pinned up)、。
 そのとき以降、地下で複写版が回覧された。
 共産主義が崩壊するまで、ポーランドでは公刊されないままだった。」
 この注記はかつてからL・コワコフスキが記していた可能性もあるが、2012時点でのAgnieszka Kolakwskaya (L・コワコフスキの娘)によるものかもしれない。少なくともこの選集では、L・コワコフスキが英語で執筆していないものは、この人が(原文を)英訳したとされている。
 最後に、加藤哲郎に戻らなければならない。
 加藤は1990年時点でポーランドに「コラコフスキー」という名の現存?社会主義に批判的な哲学者がいることを知った筈だが、その後にL・コワコフスキに対する関心をいかほど持ち続けたかは疑わしい。
 1990年前後に欧米に滞在していたとすれば、何かのおりに、とくにポーランド関連では、Leszek Kolakowski の名を重要な人物のそれとして知ったとしても、またマルクス主義・共産主義・社会主義との関連で彼のMain Currents of Marxism という大著の存在を知ったとしても不思議ではないが、そのようなことはなかったのかもしれない。
 いったい何が日本から<マルクス主義の主要潮流>を遠ざけたのか、関心を引き続けることだ。

1969/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.198-p.201。合冊本ではp.946-948。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想②。
 (11)トロツキーは<彼らの道徳と我々の道徳>で、道徳性(morality)に関する彼の規準は単純に「自分にとって良いものが正しい」であり、そういう見方は目的が手段を正当化するというものだ、と異議を述べる支持者たちからの批判に論駁しようとした。
 彼はこの批判に対して、歴史が進展させる目的以外の何かによって手段が評価されるとすれば、その何かは神でのみあり得る、と答えた。
 言い換えれば、自分を疑問視する者たちは、Struve、Bulganov やBerdyayev のごときロシアの修正主義者がちょうどそうだったように、宗教的心情に陥っている。
 彼らはマルクス主義を階級よりも上位にある一種の道徳性と結びつけようとし、最後には教会の懐に抱かれた。
 トロツキーはこう明瞭に述べた。道徳は一般に、階級闘争の作用だ。
 道徳は現在ではプロレタリアートの利益のうちに存在し得るかファシズムのそれに存在し得るかのいずれかだ、そして明らなことだが、敵対している階級は類似の手段をときどきは用いるかもしれない。しかし、唯一の重要な問題は、いずれの側の利益になっているかだ。
 「手段は、その目的によってのみ評価することができる。
  プロレタリアートの歴史的利益を表現するマルクス主義の観点からは、目的は、自然に対する人間の力を増大させる方向へと、そして人間を支配する人間の力を廃棄する方向へと導くならば、正当化される。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>(1942年)p.34.)
 換言すれば、ある政策方針が技術的進歩(自然に対する人間の力)へと誘導するものならば、その政策方針を促進する全ての手段は自動的に正当化される。
 しかしながら、スターリンの政策は国家の技術水準を間違いなく高めたのだから、それにもかかわらず、なぜ非難されるべきなのか、は明瞭ではない。
 人間を支配する人間の力の廃棄に関して、トロツキーは、この支配力を廃棄することができる前にそれは最高度にまで達していなければならないという(スターリンが採用した)基本的考え方から解放されていた。
 彼は1933年6月の論文で、このような見方を何度も繰り返した。
 しかし、将来には、事情は異なるだろう。
 「歴史的目標」はプロレタリア政党に具現化され、ゆえにその党は、何が道徳的で何が非道徳的なのかを決定する。
 トロツキーの党は存在していないとのSouvarine の論評に関して、彼は自分だけは、道徳性の具現者だと自分を見なすに違いない。予言者は何度もレーニンの例を指摘することでもって答える。
 -レーニンは1914年には孤独だった、その後に何が起きたか?
 (12)ある意味では、批判者たちの異論は無効だ。トロツキーは、党が奉仕する利益は道徳的な善だ、党の利益を害するものは道徳的に悪だ、とは主張しなかった。
 彼はたんに、道徳の標識のようなものはなく、政治的な有効性という標識のみがある、と考えていた。
 「革命的道徳性の問題が、革命的な戦略と戦術の問題と融合されている」(同上, p.35.)。
 政治的な帰結とは無関係に事物それ自体の善悪を語ることは、神の存在を信じることと同じだ。
 例えば、政治的反対者の子どもを殺戮することがそれ自体で正しい(right)か否かを問うことは無意味だ。
 皇帝の子どもたちを殺すことは(トロツキーが別に述べるように)正当だった。政治的に正当化されたからだ。
 では、なぜスターリンがトロツキーの子どもたちを殺戮するのは間違っている(wrong)のか? それは、スターリンはプロレタリアートを代表していないからだ。
 善か悪かに関する全ての「抽象的」原理、民主主義、自由および文化的価値に関する全ての普遍的な規準は、それら自体では何ら意味をもたない。
 政治的な便宜(expediency)が指し示すところに従って、それらは受容されたり却下されたりする。
 そうすると、なぜ人はその反対者ではなくて「プロレタリアートの前衛」の側に立つべきなのか、あるいは、なぜ人は何であれ何かの目的と自分自身を重ね合わせるべきなのか、という疑問が生じる。
トロツキーはこの疑問に答えず、たんに、「目的は、歴史の運動から自然に流れ出てくる」と語る(同上, p.35.)。
 推察するに、このことは、彼は明瞭には述べていないけれども、つぎのことを意味する。
 我々は、歴史的に必然〔不可避〕であるものを見出さなければならない。そして、それが必然的であるという理由のみでもって、それを支持しなければならない。//
 (13)党内民主主義に関して言うと、トロツキーはこれについても全くカテゴリカル(categorical)だ。
 スターリンの党でトロツキー自身の集団は反対派だったが、彼は当然に自由な党内議論を要求し、「分派(fractions)」を形成する自由すら求めた。
 彼は他方で、彼自身とその他の者たちが1921年の第10回大会で定めた「分派」の禁止を擁護した。 
 これを、それが間違っているときには分派を禁止するのは正当だ、という以外の意味で解釈するのは困難だ。しかし、トロツキーの集団が禁止されてはならないのは、それがプロレタリアートの利益を表現しているからだ。
 追放されている間、トロツキーはまた、支持者から成る小集団に「真のレーニン主義諸原理」を課そうと努めた。彼は休みなく多様なかたちでの自分の言明からの逸脱を非難し、どの問題についてであれ彼の権威に抵抗する者全ての排除を命じた。そして、事あるごとに共産主義中央主義者の教理を宣言した。
 彼は、その名前自体がマルクス主義と決別していることを示しているとして(この点でトロツキーは正当だったかもしれない)、パリの「共産主義的民主主義者」というSouvarine の集団を非難した。
 Naville の集団が1935年に左翼反対派の範囲内での彼ら独自の綱領を宣言したきには、叱責した。
 彼はメキシコのトロツキスト指導者のLuciano Galcia を非難した。中央主義について忘却し、第四インターナショナル内部での完全な意見表明の自由を要求したからだった。
 彼は、全ての理論は懐疑心をもって扱われなければならないと語ったアメリカのトロツキストのDwight Macdonald を激しく罵倒した。
 「理論的懐疑主義を宣伝する者は、裏切り者だ」(<著作集1939-1940年>p.341.)。
 Burnham とSchachman が最終的にはソヴィエト同盟は労働者国家だということを疑い、ポーランド侵攻やフィンランドとの戦争についてソヴィエト帝国主義について語ったときには、最後通告たる判決を言い渡した。
 彼はこの場合に、アメリカのトロツキスト党内部で一般票決を行うのに同意しなかった(アメリカのこの党は約1000人の党員をもち、Deutscher によると第四インターナショナル内の最大の代表団のように思えた)。その理由は、党の政策方針は「単純に地方的決定の算術的な総計ではない」ということだった(<マルクス主義の防衛>(1942年), p.33.)。
 トロツキーは、この絶対主義が彼の運動を萎縮させ、ますます極小の宗教的セクトにようになり、その党員たちに、そして彼らだけに救世主になる宿命にあると確信づけたことに、少しも困惑しなかった。
 -もう一度。1914年のレーニンはどうだったか?
 トロツキーもレーニンの「弁証法的」見方を共有していたのは、つぎの点だった。すなわち、真のまたは「基礎になる」多数派は、たまたま多数者である者たちとは一致しておらず、正しく歴史的進歩の側に立つ者たちで成り立つのだ。
 彼は純粋に、世界の労働大衆は彼らの心の深奥で自分の側にいる、たとえ彼ら自身はそれにまだ気づいていなくとも、と信じていた。歴史の法則がこれが正しくそうであることを明らかにするのだから。//
 (14)民族的抑圧と自己決定権の諸問題に対するトロツキーの態度は、同様の方向にあった。
 彼の著作には、ウクライナ人やその他の民族の民族的要求に対するスターリンの抑圧への若干の言及が含まれている。
 彼は同時に、ウクライナ民族主義者にいかなる譲歩もしてはならないこと、ウクライナの真のボルシェヴィキは民族主義者と一緒に「人民戦線」を形成してはならないこと、を強調した。
 トロツキーはさらに進んで、4つの国に分かれているウクライナは、マルクスの見解では19世紀にポーランド問題となったのと同様の重要な国際的問題を生じさせる、とまで語った。
 しかし、彼は、武装侵攻によって他国に「プロレタリア革命」を持ち込む社会主義国家について、非難する言葉を何ら発しなかった。
 彼は1939-40年にSchachtman とBurnham に対して、ソヴィエトによるポーランド侵攻はあの国の革命運動と同時に発生した、スターリン官僚制はポーランドのプロレタリアートと農民に革命的衝動を与えた、そしてフィンランドでもソヴィエト同盟との戦争によって革命的感情が目覚めた、と憤然として説明した。
 たしかに、銃剣でもって導入されたが深い民衆的感情からわき起こらなかったので、これは「特殊な種類」の革命だった。しかし、それは全く同時に、純粋な革命だった。
 東部ポーランドやフィンランドで発生したことに関するトロツキーの知識は、もちろん何らかの経験的情報にではなく、「歴史の法則」にもとづいている。つまり、いかに頽廃しているとは言えども、ソヴィエト国家は人民大衆の利益を代表しており、ゆえに人民大衆は侵略する赤軍を支持しなければならない、というわけだ。
 この点で、トロツキーはたしかに、レーニン主義から逸脱していると責められることはあり得ない。「真」の民族的利益はプロレタリアートの前衛のそれと合致するのだから、その結果として、前衛に権力がある全ての国では(たとえ「官僚主義的頽廃」の状態にあっても)民族自決権は実現されており、大衆は事態のかかる状態を支持しなければならない。そのように理論が要求しているのだから。//
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 第3節、おわり。次節の表題は、<ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判>

1956/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.170-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義②。
 (7)武装侵攻以外の全ての形態での圧力が激烈に加えられたにもかかわらず、ユーゴスラヴィア共産党はその自立性を維持し、スターリン主義共産主義体制に戦争以降で最初の実質的な亀裂をもたらした。
 分裂後すぐに、ユーゴの党イデオロギーは、共産主義諸党は自立していなければならないと強調し、ソヴィエト帝国主義を非難する点でのみ、ソヴィエトと異なった。
 マルクス=レーニン主義の一般的原理はユーゴスラヴィアに力を持って残ったままであり、その点ではソヴィエト同盟で観察されたものと異なってはいなかった。
 しかしながら、やがて政治的教理の基礎は修正主義へと進み、ユーゴスラヴィアは社会主義社会についての自分自身のモデルを生み出し始めた。それは、重要な態様でロシアのそれとは異なっていた。
 (8)この頃までのコミンフォルムは、反ユーゴスラヴィア情報宣伝活動の道具とほとんど同じだった。その<存在理由>は、1955年春にフルシチョフ(Khrushchev)がベオグラードと和解しようと決定したときに消滅した。
 だが現実には、コミンフォルムは1956年4月までは解体されなかった。
 知られているかぎりで、そのとき以降、ソヴィエトの党は国際共産主義の組織的形態を設立しようとはせず、可能なかぎり、個別の諸党に対して直接的な統制を加えることによって闘い、ときおりは、世界的問題に関する決議を採択するための会議を呼びかけた。
 しかしながら、これらは従前に比べると成功しなかった。努力したにもかかわらず、ソヴィエトの指導者たちは、かつてユーゴスラヴィアについて行ったのと同様に中国共産党からの国際的非難を受けないようにすることが、うまくはできなかった。
 (9)スターリン支配の最後の年は、共産主義世界全体での、教理のソヴィエト化(Sovietization)を特徴とした。
 このことの影響はブロック内の国々によって異なった。しかし、圧力と趨勢は、一般的に言って同一だった。
 (10)以前の章で述べたように、ポーランドのマルクス主義はそれ自体の伝統をもち、ロシアのそれから全く自立していた。
 この伝統には単一の正統な形態はなく、厳密な党イデオロギーもなかった。
 ポーランドの知的情景の中では、マルクス主義はたんに一つの傾向にすぎず、きわめて重要なものでもなかった。
しかしながら、型にはまった教理を主張するのではなかったが、マルクス主義の諸範疇をその研究に利用した歴史学者、社会学者、および経済学者たちがいた。
 とりわけLudwik Krzywicki とStefan Czarnowski (1879-1937)だ。後の人物は傑出した社会学者、宗教歴史学者で、その晩年には、ある範囲で、マルクス主義へと接近した。
 (彼は、プロレタリア文化に関するある小論文で、新しい精神性と新しい類型の芸術の起源を労働者階級の状況と関連させて分析した。)
1945年の後の数年のうちに、この伝統が復活した。新しいマルクス主義の思考は、古いそれと同じく、特定の厳格な方向に何ら限定されておらず、むしろ、合理主義や文化的諸現象を社会紛争と関連させて分析する習慣の背景であるように見えた。
 こうした緩やかで、聖典化されないマルクス主義は、月刊誌<Mysl Wspolczesna(現代思想)>や週刊誌<Kuźnica(前進)>などの雑誌で表現されていた。
 1945-50年に、諸大学が戦前の方針のもとで再設立された。たいていは同じ教育スタッフが担当した。
 教育の分野でのイデオロギー的な粛清(purge)は、まだ存在しなかった。
 この時期に出版された多数の科学書や科学雑誌は、マルクス主義とは何の関係もなかった。
 体制側は「プロレタリアート独裁」とはまだ自称しなかった。そして、党のイデオロギーは共産主義の主題を強調せず、むしろ、愛国主義、民族主義または反ドイツの主題を重視した。
 ソヴィエト類型のマルクス主義は、この時期の背景には多く見られた。
 その主要な語り手は、Adam Schaff だった。この人物は、レーニン=スターリン主義の範型の弁証法的唯物論や歴史的唯物論について解説する書物や手引き書を執筆した。但し、ソヴィエトにいる同種の者たちのものほどに幼稚ではなかった。
 最悪の時代であってすら、ポーランドのマルクス主義はソヴィエトの水準にまで低落することがなかった、と一般的に言ってよい。
 ロシアの範型によって浸食されたにもかかわらず、ポーランド・マルクス主義は、ある程度の独創性と、理性的な思考に対する内気な敬意を保った。//
 (11)1945-49年に、政治と警察による抑圧がより強くなった。
 戦争後のおよそ二年の間、ドイツの侵略者と闘った、そしてロシアによって押しつけられた新しい体制に屈服するのを拒む、地下軍隊との武装衝突があった。
 処刑と頻繁な流血は、武装地下軍団や戦時中の政治組織に対する闘いの特質だった。農民政党やその他の合法的な非共産主義集団に対する闘いについても同様だったが。
 にもかかわらず、この時期の文化的圧力は、純粋に政治的な問題についてに限られていた。
 マルクス主義はまだ、哲学または社会科学での拘束的な標準たる地位を占めていなかった。かつまた、芸術や文学での「社会主義リアリズム」は、知られていなかった。//
 (12)1948-49年、ポーランドの党は「右翼民族主義者」を粛清した。
 党指導部は交替し、政治生活はロシアの指針に適合するようになり、農村の集団化が決定された(但し、いかなる程度にでも実施されなかった)。そして、体制はプロレタリアート独裁であることが、公式に宣言された。
 1949-50年、政治的な浄化のあとに続いたのは、文化のソヴィエト化だった。
 多数の学術および文化に関する雑誌が閉刊され、それらには新しい編集者が着任した。
 1950年代の初めに、ある範囲の「ブルジョア」教授たちが解任された。しかし、その数は大して多くはなかった。そして、教育や出版はすることができなかったけれども、給与を貰って、状況が苛酷でなくなった数年のちには出版することとなった書物を執筆していた。
 哲学学部の一定範囲の教授たちには職が残されたが、論理の教育に限定するように命じられた。
 その他の者たちには、科学アカデミーの中に再び職が与えられた。そこで彼らは、学生たちとの接触をしなかった。
 社会科学部門のカリキュラムは変更され、社会学の講座は歴史的唯物論の講座に替えられた。
 党の特別の研究所が、イデオロギー的に微妙な哲学、経済学および歴史学の部門について、「ブルジョア」教授たちに代わって幹部たちを研修するために、設置された。
 哲学については、マルクス主義的「攻撃」の手段は雑誌<Mysl Filozoficzna(哲学的思考)>だった。
 マルクス主義哲学者たちは一定期間、非マルクス主義の伝統と、とくに分析哲学のLwow-Warsaw 学派と闘うことに傾注した。Kotarbinski、Ajdukiewicz、Stanislaw Ossowski、Maria Ossowska、等々だ。
 多数の書物と論文が、上の学派の考え方の多様な論点を批判した。
 もう一つの攻撃対象は、トーマス主義(Thomism) だった。これは、Lublin カトリック大学を中心として強い伝統を持っていた。
 (この大学は-社会主義国家の歴史上例のないことだが-抑圧されたことがなく、様々な圧力と干渉の手段が講じられたにもかかわらず、今日まで機能している。)
 老若両世代の多数のマルクス主義者たち-Adam Schaff、Bronislaw Baczko、Tadeusz Kroński、Helena Eilstein、Wladyslaw Krajewski-が、この闘いに参加した。この著の執筆者〔L・コワコフスキ〕もそうだったが、この事実が誇りの大元だとは考えていない。
研究のもう一つの主題は、過去数十年間のポーランド文化に対するマルクス主義の寄与だった。//
 (13)この時代の文化的進展について完全に論評するのは、まだ時機が早すぎる。しかし、強要された「マルクス化(Marxification)」には、ある程度の埋め合わせ的な特徴があった。
知的生活は確かに、貧困でかつ不毛なものになった。しかし、マルクス主義の普及は、それが伴った強制にもかかわらず、良いことももたらした。
 破壊的で反啓蒙主義的な部分もあったが、本質的に価値があり、多かれ少なかれ知的な世界的相続財産たる性格をもつ特質を、それは持ち込んだ。
 例えば、文化的諸現象を社会的対立の側面だと把握したり、歴史的進展の経済的および技術的背景を強調したりする習慣だ。概して言うと、諸現象を、幅広い歴史的な趨勢との脈絡で研究する、ということだ。
 人文諸学問の新しい方向のある程度は、イデオロギー的な契機をもつものではあったが、例えばポーランドの哲学や社会思想の歴史に関して、価値ある結果を生み出した。
 哲学上の古典の翻訳書の出版やポーランドの社会思想、哲学思想、宗教思想に関する標準的著作物の再出版というかたちで、有意味な仕事がなされた。//
 (14)スターリン主義の時代には、国家は文化に対して全く寛容に助成金を支給した。その結果として、大量のがらくた作品が生産されたが、しかし、永続的価値をもつものも多く生まれた。
 一般的な教育水準と大学への入学者数は、戦前と比べて顕著に上昇した。
 破壊的だったのはマルクス主義での一般的教育ではなく、強制と政治的欺瞞の道具としてそれが用いられたことだった。
 初歩的で型に嵌まった形態だったとしてすら、マルクス主義は、その伝統の一部である有益で理性的な思考を植え付けることに、ある程度はなおも貢献した。
 しかし、そうした思考方法の種子は、マルクス主義の諸教理の抑圧的な利用が緩和されていてのみ、成長することができた。//
 (15)概していえば、厳密な意味でのスターリニズムは、ポーランドの文化にとって、ブロックの他諸国のそれに対するほどには有害ではなかった。そして、元に戻せない程度は、より低かった。
 このことには、いくつかの理由があった。
 まず、たいていは受動的だったが自発的な文化的抵抗と、ロシアに由来するもの全てに対する深く根ざした不信または敵意があった。
 スターリニズム文化の押し付けについては、一定の気乗り薄さ、あるいは首尾一貫性の欠如もあった。すなわち、マルクス主義が人文諸科学を絶対的に独占することは決してなかった。また、ソヴィエト的様式で生物学に圧力を加えようとする試みは貧弱だったし、効果もなかった。
 「社会主義リアリズム」の運動はある程度の釈明的な無価値のものを生んだが、文学や芸術を破壊することはなかった。
 高等教育の諸施設での迫害(purge)は、比較的に小規模だった。
 図書館で禁書とされた書物の割合は、他のどの諸国よりも小さかった。
 さらに加えて、ポーランドでの文化的スターリニズムは、比較的に短命だった。
 それは本気で1949-50年に始まったが、1954-55年にはすでに衰亡しつつあった。
 実証するのは困難ではあるが、もう一つの緩和要因が働いていた、と言うことができる。すなわち、戦前のポーランド共産党を破壊してその指導者たちを殺戮したスターリンに対する、多数の老練共産主義者たちの反感だ。//
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 ③へとつづく。

1955/L・コワコフスキ著第三巻第四章第13節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版、第三巻分冊版p.166-。
 第三巻は注記・索引等を含めて、総548頁。この巻の試訳は、本文のp.1から始めて、ここまで済ませている。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。第13節は、計17頁分と長い。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義①。
 (1)ソヴィエトの支配下にあった諸国でのマルクス主義の歴史は、大まかにはつぎの四つの段階に分けられる。
 第一は1945年から1949年までの時期で、「人民民主主義」諸国が政治的および文化的な多元主義の要素をまだ残し、徐々にソヴィエトの圧力の影響を受けていった。
 第二は1949年から1954年までの時期で、政治とイデオロギーに関しては「社会主義陣営」としての完全なまたはほとんど完全な<均一化(Gleichschaltung)>があり、また全ての文化の分野できわめて大きなスターリン主義化(Stalinization)が見られた。
 第三は1955年に始まった。マルクス主義の歴史に関係する最大の際立つ特質は、 多様な「修正主義」、反スターリニズムの動向が出現したことで、これは主にポーランドとハンガリーで、だが遅れてはチェコスロヴァキアで、またある程度は東ドイツでも、生じた。
 この時期は、おおよそ1968年に終わりを告げた。このとき、社会主義ブロックの諸国の少なくともほとんどで、硬直した無味乾燥な形態をまとったが、マルクス主義は支配党の公式イデオロギーのままだった。//
 (2)東ヨーロッパでの「スターリン主義化」と「脱スターリニズム」は、各国の多様な事情に応じて異なる態様で進行した。
 第一に、いくつかの国-ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア-は戦争で連合国側につき、その他の国は公式に枢軸側と同盟していた。
 ポーランド、チェコスロヴァキアおよびハンガリーは歴史的には西側のキリスト教世界に属していて、ルーマニア、ブルガリアおよびセルビアとは異なる文化的伝統をもっていた。
 東ドイツ、ポーランドおよびチェコスロヴァキアには、中世に遡る真摯な哲学的研究の伝統があった。こうした伝統はその他の同じブロックの国々には欠けていた。
 最後に、一定の諸国には、戦時中に積極的な地下運動やゲリラ運動があった。他方でその他の諸国では、ドイツの占領のもとでと同様に、抵抗は弱く、武装した闘争の形態をとらなかった。
 前者の範疇に入るのは、ポーランドとユーゴスラヴィアだった。但し、重要な違いはユーゴスラヴィアでは共産党は最も積極的な闘争者だったが、これに対してポーランドでは、小さな分派が全体の抵抗運動を行った。その支柱となっていたのは、ロンドン政府に忠誠をを尽くす軍部だった。
 これらの違いの存在は全て、東ヨーロッパと当該諸国のマルクス主義の進展にかかる戦後の重要な様相だった。
 それらはイデオロギー侵略の速さと深さ、およびスターリンがのちに拒絶される様相に影響を与えた。
 ドイツ侵略者からの解放が大部分は自分たち自身の共産党支配勢力によった唯一の国は、ユーゴスラヴィアだった。そしてこの国のみで共産党は、1945年以降は分かち難い権力を行使した。
 他の諸国では-ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ルーマニアおよびハンガリーでは-社会民主主義政党および農民政党が、戦後の初期の間に活動することが許容された。//
 (3)東欧の共産党指導者たちの多くは、最初は、自分たちの国は独立国家で、ロシアと同盟して、つまりロシアの直接的統制のもとにあってではなく、社会主義の諸装置を建築するだろうと考えた。こう想定するのは、全く可能だ。
 しかしながら、このような幻想は、長くは存続し得なかった。
 最初の二年間は、国際関係には戦時中の同盟関係の痕跡がまだ顕著にあった。つまり、共産主義諸党は、民主主義的諸制度、複数政党政権および東欧での自由選挙を定めていた、ヤルタ協定とポツダム協定に従順である姿勢を維持した。
 しかしながら、冷戦の始まりは、この地域にソヴィエト同盟からの自立を発展させるという望みの全てに、終止符を打った。
1946-1948年に、非共産主義諸政党は破壊されるか、または共産党と強制的に「統合」された。最初にこの運命に遭ったのは東ドイツの社会民主党だった。
 純然たる連立政権の要素がまだ残っていた最初の頃からすでに、共産党は権力の枢要な部分に隠然たる力を有した。とくに、警察と軍事の部門に。
 いたるところに存在するソヴィエトの「助言者」たちは統治の重要な諸問題に関する決定的発言力をもち、最も残忍で悪辣な抑圧の形態を直接に組織した。
 1949年、非共産主義諸政党に対する計略した抑圧のあとで、瞞着と暴力を特徴とする選挙のあとで、あるいはチェコスロヴァキアでの<クー>のあとで、スターリンの精密な統制のもとにある東ヨーロッパの諸共産党は、事実上の独占的権力を享有した。
 だが、スターリニズムがこうして衛星諸国で確立されていったそのときでもまだ、ユーゴスラヴィア分派というかたちをとった最初の重要な挫折に、それは遭遇した。//
 (4)スターリンが東ヨーロッパの、あるいは他地域の有力諸共産党を従属させるために用いた道具の一つは、共産主義者情報局(Communist Information Bureau)または「コミンフォルム」として知られる、コミンテルンの弱められた範型のものだった。
 この組織は、1947年9月に設立され(コミンテルンは1943年に解散した)、アルバニアと東ドイツを除く東ヨーロッパの全ての支配的諸共産党の代表者で構成された。-すなわち、ソヴィエト、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアおよびユーゴスラヴィアの諸党代表者。これらに、フランスとイタリアの共産党代表者が加わる。
 スターリンのもとでこの組織を指揮したのは、ズダノフ(Zhdanov)だった。
 そして、ユーゴスラヴィアの党が1944-45年の有利な情勢のもとで権力を奪取できなかったとしてフランスとイタリアの各共産党を攻撃したのは、このズダノフの指令によってだった。
 (こうした行動は実際にはスターリンが命令していたが、にもかかわらず、彼らは適切な自己批判をしなかった。)
 コミンフォルムの役割は、世界じゅうの共産主義者たちに、主要な諸党の合致した決定だと偽装したソヴィエト政策の要請を伝達することだった。
 いくつかの東欧の諸党は主権をもつ政府として行動する権限があると本当に考えていた気配が、実際にはあった。チェコスロヴァキアとポーランドはマーシャル・プランに素早く関心を示し、ブルガリアとユーゴスラヴィアはバルカン連邦構想を提案した。
 このような自立性の提示は全てすみやかに粉砕され、気分を害せた諸党はソヴィエトの命令に従った。
 第三次大戦が少なくとも全く考え難いものではなくなっていたとき、ソヴィエト同盟の外部にいる共産主義者たちは、「正しい(correct)」政策を決定する唯一の権威があり、その命令に微小なりとも逸脱するものは不愉快な結果を体験するだろう、ということを再び教え込まれなければならなかった。//
 (5)コミンフォルムの第一回会合で、ジダノフは、国際情勢の最重要の要素として世界の政治上の二つのブロックへの分裂を語った。
 コミンフォルムはまた、むろんソヴィエト共産党に支配されていたので、ソヴィエトの情報宣伝を指令する、国際的な雑誌を刊行した。
 この雑誌刊行は実際のところ、コミンフォルムの第一の任務だった。
 コミンフォルムは、あと二回だけ会合をもった。1948年6月と1949年11月。いずれも、ユーゴスラヴィア共産党を非難することを目的としていた。
 ソヴィエトとユーゴスラヴィアの共産党の間の軋轢は、1948年春に始まった。
 その直接の原因は、ティトー(Tito)とその同僚たちが、ソヴィエトの「助言者」たちのユーゴの国内問題、とくに軍隊と警察、に対する粗野で傲慢な干渉に苛立ったことにあった。
 スターリンはユーゴスラヴィアの国際主義の欠如を激しく怒って、ユーゴを跪かせようとした。そして、それは簡単な仕事だと疑いなく考えていた。
 情報宣伝活動について、そのときまでユーゴスラヴィア共産党はロシアに対して極端に卑屈だった。
 しかし、彼らは自分の家の主人だった。そして、ソヴィエト同盟は彼らをきわめて不十分にしか代表していない、ということが分かった。
 (論争の主要な原因の一つは、ソヴィエトの警察や諜報網へとユーゴ人が新規に採用されていたことだった。)
 ソヴィエトからの直接の給料で生活していたある程度のユーゴ人は別として、ユーゴスラヴィアの党は屈服する気が全くなかった。そして彼らを国際主義へと再転換させる唯一の方法は武装侵攻である、と思われた。それは、その是非はともかく、スターリンが危険すぎる行路だと考えたものだった。//
 (6)コミンフォルム第二回会合は、ユーゴスラヴィア共産党を公式に非難した。この会合に、ユーゴスラヴィアの代議員は欠席していた。
 ベオグラード(Belgrade)〔=ユーゴスラヴィア〕は、反ソヴィエト・民族主義者だと宣告された(その根拠は説明されなかった)。そして、ユーゴスラヴィアの共産主義者たちは、かりに正しい方針にただちに従わないならばティトー一派を打倒すべきだ、と呼びかけられた。
 ユーゴスラヴィアとの論争はコミンフォルムの雑誌の主要な主題となった。そして、この組織の第三回および最終の会合で、ルーマニア共産党書記長のGheorghiu Dej は、「殺人者とスパイたちに握られているユーゴスラヴィアの党」に関する演説を行った。
 この演説からは、つぎのように思えた。すなわち、全てのユーゴの党指導者たちは太古から多様な西側諜報機関の工作員だった、ファシズム体制を樹立している、主要な政策はソヴィエト同盟に混乱の種を撒き散らためにあったし現にあってアメリカの戦争挑発者の利益に奉仕している、と。
 これを契機として、世界の各共産党は、ヒステリックな反ユーゴ宣伝運動をするよう解き放たれた。
 このような対立のおぞましい帰結はこうだった。すなわち、「人民民主主義」諸国は、「ティトー主義者」のまたはその一員だとの嫌疑のある者を地方の共産党組織から追放(purge)するために、明らかにモスクワ見せ物裁判に倣った、一連の司法による殺戮を繰り広げた。
 多数の指導的共産主義者が、こうした裁判の犠牲者となった。これは、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ブルガリアおよびアルバニアで発生した。
 チェコスロヴァキアでの主要な裁判はSlánskýその他の者に関する裁判で、1952年11月に行われた。これはスターリンの死の直前のことで、明瞭な反ユダヤ感情の含意で際立っていた。
 この主題は、スターリンの晩年にソヴィエト同盟で前面に出てきたものだった。そして、党指導者たち等々を殺害する陰謀を図ったとして訴追されることとなった、ほとんどがユダヤ人の医師のグループの1953年1月の逮捕によって、絶頂点を迎えた。
スターリンが個人的に命令をした拷問を生き延びた者たちは、彼の死後にただちに釈放された。
ポーランドでは、党書記長のゴムウカ(Gomulka)およびその他の著名人物が監禁されたが裁判にかけられることはなく、処刑もされなかった。
 但し、若干のより下級の活動家たちは射殺されるか、最後には監獄で死に至った。
 東ドイツでは、逮捕と裁判には一定のパターンがあったが、犠牲者に関しては十分に知られていない。
 ブロックのその他の諸国では、「ティトー主義者」、「シオニスト」、その他の帝国主義の代理人、および党の書記局や政治局の中に「ひそかに入り込んで」いるファシストたちが、外国の諜報機関に雇われていることを告白し、その大部分が見せ物裁判のあとで処刑された。
 これらの者たち全てが、ロシアに対してより自立した共産主義体制を求めているという意味での、本当の「ティトー主義者」だった、と想定してはならない。
 これはある範囲の者たちについては正しかったが、別の者たちについては、恣意的な理由づけに用いる裏切り者だとして持ち込まれた。
 その一般的な目的は、東ヨーロッパの各支配党を弱体化(terrorize)させ、マルクス主義、レーニン主義および国際主義が何を意味するのかを教え込むことにあった。
 すなわち、ソヴィエト同盟は名義上はブロック諸国から独立した絶対的な主人であることを、そして他のブロック諸国は主人の命令を忠実に履行しなければならないということを。//
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 ②へとつづく。

1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski (1927.10-)は存命だと今年で92歳になるが、彼もヒト・人間なので永遠には生存できず、2009年の誕生月前に81歳で亡くなっている。
 以下は、L・コワコフスキの逝去を伝えるNew York Times の記事。
 とくに目新しく感じるところは多くない。私の印象に残ったのは、以下だ。
 ①sudden, short illness の後の死だったとされていること。それ以外の子細は公表されていない。
 ②訃報に接して、ポーランド国会が「黙祷」の時間をもったこと。
 ③エッセイ集にL・コワコフスキの英語訳者として名が出てくるAgnieszka Kolakowska は実の娘だと分かったこと(年齢等不詳。後で追記、1960年生まれ )。
 ④一番最後に紹介されているL・コワコフスキの文章は、彼らしく思えること。
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 レシェク・コワコフスキ、ポーランド人哲学者、81歳で逝去。
 New York Times 2009年7月20日。
 記者/Nicholas Kulish。
 ワルシャワ--レシェク・コワコフスキ、マルクス主義を拒否して国外滞在中に母国の連帯運動を活発になるのを助力したポーランド人哲学者が、金曜日に、イギリス、オクスフォードで逝去した。81歳だった。//
 彼の家族は彼の死をポーランドの新聞 Gazeta Wyborza に発表し、彼はオクスフォードの病院で「突然の、短い病気のあとで」死去したと語った。
 それ以上の詳細は、伝えられていない。//
 ワルシャワでは、国会が、彼の栄誉のために、彼のポーランドの自由に対する貢献のために、黙祷をした。//
 長いかつ広範囲の経歴のあいだに、コワコフスキ氏は冷戦というイデオロギー的および軍事的武装競争が極みにあるときに、自分が若いときに支持した共産主義体制の知的な土台を詳細に分析した。
 彼はその影響力が学問の領域をはるかに超える研究者であり、その書いたものは陽気で風刺的で、しかしほとんどは理解しやすい学者だった。//
 ポーランド反対派の指導者の一人である、1985年にGdansk 獄房から執筆したAdam Michnikは、コワコフスキ氏を「現代ポーランド文化の重要な創造者の一人」だと述べた。//
 彼の最も影響力ある著作である、1970年代に出版された三巻本の"マルクス主義の主要潮流-その発生、成長および解体"は、「我々の世紀の最大の幻想」とその哲学を称する、歴史書であり、批判書だった。
 彼は、スターリニズムはマルクス主義からの逸脱ではなく、むしろその自然の帰結だと主張した。//
 きわめて真剣な文章に加えて、彼は戯曲や寓話および魔王が多数の有名な神話上および歴史上の人物と討論する"悪魔との会話"という本も書いた。//
 コワコフスキ氏は、50年以上にわたる経歴の中で30冊以上の書物を出版した。
 彼は、ポーランドの最高の栄誉である白鷲勲位(the Order of the White Eagle)を受け、天才にその資格があると広く知られているMacArthur Foundation 助成金を受けた。//
 2003年には、ノーベル賞がない分野に与えられる、人文社会科学の生涯の偉業に対する、連邦国会図書館の100万ドルのW. Kluge 賞の初代の受賞者になった。
 図書館長のJames H. Billington はこの賞の発表に際して、コワコフスキ氏の学問のみならず、「彼自身の時代での大きな政治的事件への明白な重要性」にも注目を向け、「彼の声はポーランドの運命にとってきわめて重要であり、全体としてのヨーロッパに影響力をもった」、と付け加えた。//
 レシェク・コワコフスキは1927年10月23日にワルシャワの南方のRadom 市で生まれた。その世代のほとんどのポーランド人と同様に、コワコフスキ氏は幼少時に困難な体験をした。
 第二次大戦中のドイツ占領間、コワコフスキと彼の家族は異なる町や村へと移り住むことを強制された。//
 ドイツはポーランドの学校を閉鎖したために、若きレシェクは独学をし、設立されていた地下の学校制度の試験を受けなければならなかった。
 戦争の後、彼は哲学を最初はLodz 大学で学び、のちにWarsaw 大学で博士の学位を得た。
 彼はその大学で教職の地位を得て、哲学史部門の長へと昇った。
 人生のはじめは、彼はナツィズムによる自分の国の破壊に対する反応として共産主義を受け入れ、赤軍をドイツによる数年間の抑圧後の解放者だとして歓迎した。
 しかし、有望な青年マルクス主義知識人への報奨として意図されたモスクワ旅行は、逆に、転換点となった。「スターリン体制が引き起こした巨大な物質的および精神的な荒廃」と彼が叙述したものを、しっかりと見たのだった。//
 2004年のNYタイムズとのあるインタビューで、コワコフスキ氏は、「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」と語った。//
 1956年のPoznan での労働者騒擾のあとで、コワコフスキ氏の著述は検閲と激しく衝突し始めた。
 彼のスターリニズム批判 "社会主義とは何か?" はとくに、公刊禁止となった。
 コワコフスキ氏は、ポーランド統一労働者党から1966年に除名され、Warsaw 大学での地位を1968年に失った。
 彼は、その年に、外国へと移住した。//
 コワコフスキ氏はポーランドを離れたあと、Montreal のMcGill 大学、California 大学Berkley校、Yale およびChicago 大学の社会思想委員会を含む、最高級の研究施設で教育した。しかし、彼の本拠となったのは、Oxford だった。//
 コワコフスキ氏は、妻のTamara と一人娘のAgnieszka を残して先立った。//
 1982年の著名な講義でコワコフスキ氏は、哲学の文化的役割について、こう語った。
 「精神のもつ知的欲求のエネルギーを決して眠らせないこと、明白で決定的だと見えるものを疑問視するのを決してやめないこと、常識がもつもっともらしい純粋な根拠につねに反抗してみること」、そして「科学の正統とされる範囲を超えて存在してはいるが、それでもなお他にも、我々が知るように、人間の生存にとっては致命的に重要な諸問題がある、ということを決して忘れないこと」。
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 以上。
 下は全てRadom 市に存在するのものだと思われる。ネット上から。
 
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1904/NYタイムズ2004.02.14の記事-L・コワコフスキ。

 Leszek Kolakowski の第一回Kluge 賞受賞はアメリカのメディアの関心を惹いたようで、翌2004年の2月14日付The New York Times は、Oxford まで記者を派遣して(又はロンドン在住の記者によって)一部は明瞭にL・コワコフスキからのインタビューから成る記事を掲載している。
 上記期日のThe New York Times(Online)から試訳する。記者はSarah Lyall。
 L・コワコフスキの評価は彼の書物自体の内容によって行うべきことは明らかだ。
 しかし、その<人物>にも関心は向かうのはやむをえず、とくにL・コワコフスキの場合は、例えばつぎのような疑問が生じ、知りたくなる。
 ①ポーランド出国の詳細な経緯。
 ②例えば、強制的国外追放という制裁が「法的に」は想定し難いとすると(シベリア流刑とは異なる)、どのようにして国外に移ったのか。家族はいたのか。家族はいたとすれば、彼らも一緒だったのか、等々。
 ③L・コワコフスキの「連帯」運動への影響というのは、より詳細にはいかなる態様、内容のものだったのか。
 これらのうち、上の②の一部は、以下の記事によって判明する。
 その他の①について、相当に参考になる情報・知識をネット上で得たが、以下では明瞭ではない。
 さらに、上の③は私にはまだほとんど分からない。なお、ポーランド青年たちを「目覚ました」とされる1971年の小論<希望と絶望について>は、ネット上にフランス語→英語版が掲載されていたが、読んでいない。
 なお、以下で言及されている1960年代の"社会主義とは何か"は、長い論文ではなく標語の羅列のようなもので、のちの彼のエッセイ集にそのまま収載されている。
 また、手元で確認できていないが、日本では加藤哲郎が、何かの本でこの「社会主義とは何か?」に気づいてそのまま紹介、掲載していた。その元の本自体も不明なので、別の機会にこの欄に記す。
 加藤哲郎がその後ひき続いて、このポーランドの「レシェク・コワコフスキ」に対する関心を維持しなかったのは、間違いないように思える。
 その他のコメントは避ける。この記事の内容も、興味深いものがある。
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 The New York Times/2004年2月14日付。
 哲学者が変化をもたらすとき。

 記者・Sarah Lyall。
 連邦議会図書館が76歳のポーランド人哲学者のレシェク・コワコフスキに初めて語りかけたのは、100万ドルの新しい人文社会科学賞の候補に指名された、と伝えるためだった。
 のちに彼自身がその賞を受けたと伝えられたとき、彼はこのときのことを思い出した。//
 コワコフスキ博士は驚いたのだとすれば、ほとんどのアメリカ人はたぶん当惑しただろう。彼の名前は合衆国では十分に知られていなかったのだから。
 しかし、図書館長の James H. Billington 博士は、三ヶ月前の発表の際に、なぜこの哲学者が人文学および社会科学での生涯にわたる業績に対する初代のJohn W. Kluge 賞に選抜されたかを知りたい人々のために、つぎのように説明した。
 「これほどの広さで洞察しその時代の大きな政治的事件に重要な影響を与えた、奥深く熟考する思索家を、他にはほとんど誰も見出すことができない。」//
 ポーランドで生まれ、1960年代に、増大していた反正統派信条を理由として大学での地位と共産党から追放された。
 国外でのコワコフスキ博士は、1980年代のポーランド連帯運動の重要人物になった。
 三巻にわたるマルクス主義の分析作業、"マルクス主義の主要潮流" (1978年)は、その主題にかかる決定的著作だと考えられている。
 しかし、彼は明快で魅力あふれたエッセイ著述者でもあり、その書物や著作はSpinoza、Kant、モダニズム、権威と自由意志および日常生活での哲学の意味といった主題にかかわっている。//
 このような素晴らしい諸業績があるにもかかわらず、コワコフスキ博士は穏やかな人物のままであり、個人的な質問から逸らせた。
 「あなたは、私の人生について知らなくてもよいです」。
 彼は、数年前までAll Souls College の主任研究員だったOxford の北郊にある自宅の居間で、コーヒーをすすりながら、そう言った。//
 同じように、最近の受賞の報せにどう反応したかにも触れたくはないようだった。
 いや、そうだ。お金はどうしますか?
 彼はカップに目を落とし、悪戯っぽい笑いを浮かべて、言った。
 「金を使うことに、大きな問題は全くないです」。//
 コワコフスキ博士-その名は、LESH-ehk ko-wah-KUHV-skee と発音される-の人生は、二度、引き裂かれた。先ず、ナツィズムによって、次いで、共産主義によって。
 知識人の子息だった彼は、ドイツによる侵略のあと、家族とともに何度も中央ポーランドの町や村へと転居させられ、学校に通うことは禁じられた。彼は語った。
 「ドイツ人はポーランド人のための学校を閉鎖しました」。
 「ドイツ人のための豚飼いであるポーランド人を読み書きができないようにしておくというのは、素晴らしい考えでした」。//
 にもかかわらず、彼は多数の本をこっそりと読んで勉強し、戦後には、ワルシャワ大学から哲学で博士の学位を得た。
 最初は、ナツィズムの解毒剤として、そしてうむをいわさぬユートピア理想として、教条的マルクス主義を受け入れた。彼は、こう説明した。
 「私はポーランド文化にある一定の伝統-右翼、聖職主義、反ユダヤ-をひどく嫌いました。そして、戦争中に左翼の環境(milieu)の中に入りました」。
 「ドイツのもとでの恐怖の5年間のあと、われわれは、赤軍を解放者として歓迎しました」。//
 彼が語るには、そのあと、彼が信じて誓約したものはそう主張していたものではない、ということに気づくことができた。
 1950年に、有望な青年マルクス主義知識人のための企画の一環として三ヶ月の間モスクワに行って初めて、彼はイデオロギー的に目覚め、マルクス主義の豊かなイデオロギー上の修辞は薄っぺらで皮肉に満ちた現実と食い違っていることを発見した。//
 「文化的頽廃-ソヴィエトの科学とイデオロギーの指導的著名人の知的生活の貧しさ、芸術等々の貧しさ-が、分かった」、と彼は語った。//
 ポーランドに戻って、彼はワルシャワ大学での経歴を登り、最後には哲学史部門の講座長になった。一方では、マルクス主義を辛辣に攻撃した。また、しばしば風刺的に著述したことによって、彼はますます既成組織集団(establishment)には相容れないものになった。
 彼は人間主義的社会主義または社会主義的人間中心主義を擁護して議論することを始め、改革を支持して運動する知識人たちでが起こしていた「ポーランドの十月」運動を背後で支える指導的思考家になった。//
 コワコフスキ博士の影響力あるスターリン批判、"社会主義とは何か"は、多数ある著述の中でもとくに、政府によって発表が禁止された。しかし、幻滅していたその他の知識人たちの間には広く流通した。
 1966年に党から除名され、その二年後に、大学での仕事を奪われた。
 そして、精神病理学者の妻、妻との間の一人の娘とともに国を去り、Montreal のMcGill 大学の客員教授職を得た。彼は、つぎのように語った。
 「ポーランドにいなくなるのは2年だろうと想定していた。しかし、20年に延びた」。//
 1970年代および1980年代にポーランドで反対運動が力強くなり始めたとき、コワコフスキ氏の著作はポーランドの運動に対して中枢的な(pivotal)影響力をもち、とくに1981年に発布された戒厳令のあとでは、国外での運動を活気づける効果をもった。
 しかし、自分は著作物や政治的動きが影響力をもった多数の知識人の一人にすぎない、自分のしたことは「わずかな奉仕」だ、と言って、彼は自分の役割を軽く扱った。//
 あるときに、彼は英語で口挿んだ。-「私は一つの言葉しか持たない-ポーランド語だ。多数の言語で話すふりをしている(pretend)けれども」。
 (英語以外に、フランス語、ドイツ語およびロシア語だ。)//
 共産主義体制の解体について、コワコフスキ博士はこう語った。
 「このイデオロギーは、人々の思考(thinking)を型に入れて作るものだと考えられていた。しかし、ある時点で、きわめて弱くて馬鹿々々しいものになり、結果として、誰も、被支配者も支配者も、信じないようになった」。//
 コワコフスキ博士は、共産主義の崩壊とともに、Spinoza を含む初期の関心へと立ち戻った。
 彼は、哲学の歴史や宗教の歴史、倫理および形而上学に関する書物を執筆した。
 彼の著作は16世紀と17世紀のヨーロッパのキリスト教運動の歴史的検証から、風刺劇の脚本や寓話的童話にまで及んでおり、その寓話では彼はとくに、旧訳聖書から現代の弁証法的理性までの物語を主題にした。
 "悪魔との対話"(1972年)という初期の書物では、狡猾な魔王(Satan)は神話や歴史上の人物たちと討論する-Orpheus, Héloïse、Luther、St. Peter the Apostle、St. Bernard -。さらには「形而上学的新聞社大会」への参加者とも。
 最新の著作である"スピノザに関する二考と哲学者たちに関するその他のエッセイ"は、まもなく店頭に並ぶはずだ。//
 批評家のGeorge Gomori は、コワコフスキ博士について、こう書いた。
 「これが十分に、彼のメッセージの要点であるかもしれない。すなわち、真実と権威の双方を、貴方は愛することはできない
 ドグマに囚われず、貴方自身がもつ前提を頻繁に再思考して、貴方は選択しなければならない。
 コワコフスキは、大人のための哲学者だ」。
 その書いたものは実際上は難解であることがある多数の今日の哲学者たちとは対照的に、コワコフスキ博士は、学界に属していない者ですら平易に理解することができるように書く。//
 連邦議会図書館のScholarly programs の長であるProsser Gifford 博士は、コワコフスキ博士にKluge 賞を授賞することに最終的には決した選考過程を統括した。彼は、こう言った。
 「学界の仲間たちを、こき下ろしたくはない。
 しかし、ある範囲の側面での近年の人文社会科学は、きわめて奥義的(arcane)になっていて、専門家的隠語(jargon)でいっぱいだ。」
 「我々は、基礎的な諸問題を対象にして研究している。そしてそれらは、学界人ではなくそうした作業に職業的に関与していない人々にも理解可能なものであるべきだ。
 コワコフスキ博士は、それをしている」。//
 コワコフスキ博士はまた、答え難い質問にも尋ねる価値があると認める、無邪気とも言える率直さでも目立っている。
 例えば、"形而上学的恐怖(Metaphysical Horror)'' (1988年)で彼は、「ありえない疑問」に対する人々の恐怖を戯れ的に描き、ある意味では彼の生涯の作業を、この書物の最初の一行にまとめている。
 「似而非専門家(charlatan)だという感情を決して抱いたことのない今日の哲学者たちは、薄っぺらな心性しかもたないので、その著作はたぶん読むに値しない」。
 上のような見方について質問されて、彼は笑った。そして、ときどきは彼も似而非専門家のように感じるけれども、としつつ、こう語った。
 自分の似而非専門家的思考は、「似而非専門家ですら、有用な役割を果たすことができるという感情」でもって均衡が保たれている、と。
 コワコフスキ博士によると、根本的な諸問題を検討することは、それぞれの時点ではいかに無益で虚しいことのように見えるとしても、経験にとって根本的なことだ
 彼は語った。「形而上学上の、認識論上の、倫理上の諸問題を発するのは、人間の精神(mental)の抑え難い欲求だ。
 それについて思考するのが幸福だ、というのではない。そうした諸問題そのものが、抜け出すことが困難だからだ。」
 付け加える。「決定的に明確な回答はない。
 しかし、そうした諸問題に接近することによって、望む目標地点に到達しなかったとしても、正しい(right)途の上を進んでいるという感情を得ることができる」。
 彼は語った。「にもかかわらず、そうした場所(position)は、劇的で面白いものではない
 戦慄にみちたものでもない。
 人は、そうした場所で生きることができる。」
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 以上。

1900/Leszek Kolakowski の写真。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)がどういう風貌の人物かは、「(レシェク・)コワコフスキ」の検索で容易に判るので、意識してこの欄に掲載したことはなかった。
 例外はあって、一つは、リチャード・パイプス(Richard Pipes)の自伝的な書物の中にある、R・パイプスとL・コワコフスキが並んでしかも二人とも(I・バーリン等とは違って)顔を見せている写真だ。この二人が同時に写っているのは、私には貴重だった。これについては版権者からのクレームはないようだ。再掲。
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 もう一つは、L・コワコフスキ著のドイツ語版・第一巻のカバー裏袖にある写真(1978年刊だから50歳くらいの年)で、ネット上にない、珍しい、かつ理知的雰囲気の強い、よい写真だった。
 しかし、これはたぶん一ヵ月後くらいに画面から消失した。まさに版権者の「事前同意なく」載せたので、ドイツの出版社または写真版権者からクレームがあったのだろうと推測し、あえて再挑戦等はしていない(この写真はネット上ではその後も見たことがない)。可能性としては、当方のたんなる操作ミスも考えられるのだが。
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 以下の4枚は、L・コワコフスキの出身市であるラドム(Radom)市のウェブサイトと見られるものの中にある9枚のProf. Kolakowski の写真の中の4枚だ。したがって、版権上の問題は実質的にはない、と思われる。「(レシェク・)コワコフスキ」検索では、たぶん出てこない。
 順に、①時期が私には不明。
 ②1949-50年頃、22-23歳頃の写真。隣に立つのは、少なくとものちの配偶者で(つまりこのときに結婚していたかは不明で)医学博士の、個人名・Tamara 氏(で間違いない)。
 ポーランド、Lodz 大学で。
 かつてこの欄に経歴紹介でこのLodz 大学を「ロズ」大学と書き記したのは誤りで、l, o, dz の三つ全てが、原ポーランド語では英米語に対応していないようだ。正確には、「ウッチ」または「ウージ」。現在、人口ではワルシャワに次ぐポーランド第二の都市。
 ③・④1989年、62歳の頃、ポーランド・ワルシャワ大学での写真。③は、何か演説か講演か、あるいは多数者に対する挨拶かをしている。この1989年には、ポーランドに入国できたものと思われる。
 ***
 レシェク・コワコフスキ(1927〜2009)。
 Leszek-Kolakowski01-(2)1960 Leszek-Kolakowski02-(2)1949-50
 Leszek-Kolakowski-03-radom (2)1989warsawuni Leszek-Kolakowski-04-radom (2)1989warsawuni


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1889/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第3節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義
 1978年英語版 p.105-p.109、2004年合冊版p.871-p.874。
 なお、コミンテルン日本支部=日本共産党設立は、1922年。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容①。
 (1)事物の自然な行程として、スターリン化は世界共産主義運動の全体に広がった。
 それが存在した最初の10年の間、第三インターナショナルは、異なる共産主義イデオロギーの諸形態の間の、議論と対立のフォーラムだった。しかし、その後、コミンテルンは自立性をすっかり失い、ソヴィエトの外交政策の道具になって、完全にスターリンの権威に従属した。
 (2)第一次世界大戦の間に社会民主主義諸党の内部に出現した多様な左翼集団や分派は、全てが純粋なレーニン主義者たちではなかった。しかし、運動に対する第二インターナショナルの指導者たちの裏切りを全てが非難することでは合意した。
 彼らはみな、改良主義を拒み、伝統的な国際主義精神を再生させようとした。
 十月革命は新しい革命的根拠地を生み出した。そして、これら左翼の者たちの多くは、世界共産主義革命が切迫していると考えた。
 1918年に、ポーランド、ドイツ、フィンランド、ラトヴィア、オーストリア、ハンガリー、ギリシャおよびオランダで共産党が結成された。
 つづく三年間に、多様な少数集団を代表する大小の革命的諸政党が、全ヨーロッパ諸国に存在するにいたった。
 多くの複雑な論議と分立にもかかわらず、こうしてレーニン主義諸原理をもつ国際的な共産主義運動が形成された。//
 (3)1919年1月、ボルシェヴィキ党は、トロツキーが草案を書いて、新しいインターナショナルの創立を呼びかける宣言書を発した。
 会合(大会)が同年3月にモスクワで開かれ、一定の共産主義諸政党および左翼の社会民主主義諸集団の代議員たちは、その計画に賛成した。
 第三インターナショナルは、正確には1920年7月-8月の第二回大会までは設立されていない。
 最初から、多様な諸政党には内部的な分立やレーニン主義の規範からの乖離があった。
 一方では、最近に分裂したばかりの社会民主主義者たちとの和解を切望する「右派」諸集団があり、他方には、妥協戦術や議会政治での連携を原則として拒否する「左派」または「党派的(セクト的、sectarian)」離脱主義者たちがいた。
 これは、レーニンが<「左翼」共産主義-小児病(Infantile Disorder)>で書いた考え方に反対するものだった。
 一年以内に、世界で、少なくともヨーロッパで、ソヴィエト共和国になるだろうとの共産主義者に一般的だった信念からすると、「左翼」の傾向は「改良主義」のそれよりもはるかに強く、明らかに多かった。//
 (4)コミンテルンの規約は、第二インターナショナルの原理的考えからの完全な離反を明確に示した。第一のそれの伝統に立ち戻るものだったけれども。
 規約は、インターナショナルは単一の党であり、各国の諸政党は分肢だ、目的は国際ソヴィエト共和国を樹立するために武力を含む全ての手段を用いることだ、ソヴィエト共和国樹立はプロレタリアート独裁の政治形態として、国家の廃棄へと向かう歴史的に約定された前奏部だ、と定めた。
 インターナショナルは、毎年(1924年以降は二年ごとに)大会を開催し、各大会の間は執行委員会が指揮するものとされた。執行委員会はその指令を無視する「支部(sections)」を除名し、規律違反を理由として集団または個人を排除することを要求することができた。
 1920年大会で採択されたテーゼは、将来の社会の適切な形態としての議会制主義を断固として拒絶する条項を含んでいた。
 議会や全ての他のブルジョア的国家制度は、それらを破壊するためにだけ利用しなければならない。そして、共産党議員団は、党に対してのみ責任をもつのであって、投票者という名前なき集団に対してではない。
 レーニンが草案を書いた植民地問題に関するテーゼは、植民地および後進諸国の共産党に対して民族的な革命運動との暫時的な同盟を形成すること、かつ同時に、共産党は独立性を保ったままでいるべきで、民族ブルジョアジーが革命運動を掌握するのを許さず、最初からソヴィエト共和国形成に向けて闘うこと、を命じた。
 共産党の指導のもとで、後進諸国は資本主義段階を通過することなくして共産主義を達成するだろう。//
 (5)大会はまた、全インターナショナルの根本教条であるソヴィエト同盟のそれを無条件に支持することを要求する宣言も発した。
 (6)もう一つの重要な文書はコミンテルンに加入した諸党が履行しなければならない、「21の条件」のリストで、これは、共産主義運動全体へとレーニン主義的組織形態を拡大するものだった。
 「条件」は、各共産党はその宣伝活動についてコミンテルンの決定に完全に服従しなければならない、と定めていた。
 共産主義的プレスは、完全に党の統制下においていなければならない。
 「支部」は改良主義的傾向と断固として闘わなければならない。そして、可能ならばいつでも、労働者諸組織から改良主義者や中央主義者を排除しなければならない。
 「支部」はまた-これがとくに強調された-、当該諸国の軍隊内部での系統的な宣伝活動を履行しなければならない。
 「支部」は、平和主義と闘い、植民地解放運動を支持し、労働者諸組織、とくに労働組合で活動し、農民の支持を得るよう奮闘しなければならない。
 議会では、共産党議員団は全てを革命的宣伝活動に従属させなければならない。
 党は、最大限に中央志向(cenralized)でなければならず、かつ鉄の紀律を遵守し、定期的に小ブルジョア的要素をもつ党員を排除(粛清、purge)しなければならない。
 党は疑うことなく、全ての現存する諸ソヴィエト共和国(existing Soviet republics)を支援しなければならない。
 各党の綱領は、インターナショナルの大会またはその執行委員会によって是認されなければならない。そして、大会または執行委員会の諸決定は全ての支部を拘束する。
 全ての党は「共産党」(Communist)と称しなければならず、加えて、当該諸国の法令が公然と活動することを許容する党は、「決定的瞬間に」行動するための秘密(clandestine)組織を設立しておかなければならない。//
 (7)こうして、軍事的分野に作用する中央志向の党は、世界共産主義運動の予め定められた様式になった。
 しかしながら、インターナショナルの創立者であるレーニンとトロツキーは、それをソヴィエト国家の政策の道具だとは想定していなかった。
 ボルシェヴィキ党自体は世界革命運動の「支部」または分肢にすぎないという考えは、最初は、全く真摯に抱かれていた。
 しかし、コミンテルンが組織されていく過程と創立の歴史的事情は、すみやかにそのような幻想を追い払った。
 ボルシェヴィキ党は最初に革命に成功した党として自然に大きな威厳をもち、レーニンの権威は揺るがないものだった。
 最初から、ロシアは執行委員会での決定的な発言権をもち、モスクワに居住する他諸党の常勤代表者たちは、徐々にソヴィエトのための活動家になった。
 ソヴィエト内部での指導権をめぐる闘争はインターナショナルに反映したのみならず、ときにはその主要な関心事になった。
 レーニン死後の権力を目指して競い合うボルシェヴィキの寡頭支配者たちのいずれも、兄弟政党の指導者たちの支持を得ようとした。そして、国際的共産主義の勝利または敗北が、今度はモスクワでの兄弟政党間の闘いに利用された。//
 (8)初期のインターナショナル諸大会は、規約に従って適時に開催された。
 第三回大会は1921年6月-7月に、第四回は1922年11月に、そして第五回は1924年6月-7月に、開かれた。
 このときまでにロシアは内戦を経過し、ネップ〔新経済政策〕の第一段階に入っていた。そして、レーニンが死んだ。
 レーニンの訓示と合致して、インターナショナルは最初から、植民地および発展途上諸国での革命的煽動活動のために忙しく活動した。
 インド共産党のNath Roy は、アジアでの革命が世界共産主義の主要な目標であるべきだ、と論じた。資本主義の安定は植民地化された地域からの利潤に依存している、人類の将来を決定するのはヨーロッパではなくアジアだ、と。
 しかしながら、インターナショナルの多数派は、ヨーロッパこそがなおも主要な焦点であるべきだと考えた。
 1920年のワルシャワ〔ポーランド〕を前にしてのソヴィエト軍の敗北によって、すみやかな革命の期待は減ったが、希望が完全に消え失せたわけではなかった。
 しかしながら、ドイツでの革命の企ては、1921年3月に大失敗で終わった。そして、その年6月の第三回インターナショナル大会の諸決議は、世界ソヴェト共和国の見通しに関して、以前よりも悲観的だった。
 レーニンとトロツキーはドイツでの蜂起を非難し、例のごとく大会も、同様に批判した。
 ドイツ共産党指導者のPaul Levi は蜂起に反対しており、それが原因で大会が始まる直前に党から除名されていた。しかし、名誉回復することはなかった。彼はあらためて非難され、その除名は正当なものと見なされた。
 新しい「レーニン主義」スタイルが、明らかに全面的に作動していた。//
 (9)世界革命が遅滞している間、コミンテルン指導者たちは、「左翼」少数派の強い反対に対抗して、社会主義者たちと協力する「統一戦線」方式を決定した。
 1922年の第四回大会を前にして論議が始まった。しかし、何にもならなかった。社会主義者たちは十分な理由でもって、「統一戦線」は自分たちを破壊することを狙った策略だと疑ったのだ。
 1923年10月、ドイツで再び蜂起が発生し、失敗した。
 このとき、ドイツの新しい党指導者のHeinrich Brandler は、コミンテルンとボルシェヴィキ党が完全に作成して主導した計画の生け贄(scapegoat)になった。
 1924年、トロツキーは、ドイツでの権力掌握による革命的状況を利用することに失敗したとして、そのときジノヴィエフが指揮していたコミンテルンの責任を追及した。//
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 ②へとつづく。

1876/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.80-p.84、2004年合冊版p.852-p.854。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味②。
 (7)大粛清の地獄の様相は、しばしば歴史研究者、小説家、記録作家によって描写されている。
 見せ物裁判は、党をそれの主要な犠牲者とするジェノサイドの大量執行のうちの見える断片にすぎなかった。。
 数百万人が逮捕され、数十万人が処刑された。
 従前は散発的に用いられ、通常は真実にたどり着くことを目的としていた拷問は、今や、最もありそうにない犯罪について数千の虚偽の告白を引き出すための日常的な方法になった。
 (拷問は、18世紀にロシアの司法手続の一部であることをやめていた。のちには、ポーランド暴動や1905年革命のような例外的状況に際してのみ用いられた。)
 捜査官たちは、検察官が全くの想像上のものであることを知っている犯罪を行ったことを認めるように人々を誘導するための、肉体的および精神的な苦痛の全ての方法を自由に考案し、課した。
 このような手段には負けなかったわずかの人々も、自白するのを拒めば妻や子どもは殺されると聞いて、ふつうは屈服した。-この妻子の殺害は、ときどきは実際に実施された。
 誰もが安全だとは感じなかった。専制者に対するいかなる程度の阿諛追従の言動も、責任が追及されない保障にはならなかったからだ。
 いくつかの場合には、地域の全党委員会の委員たちが殺戮され、その後には、処刑の悪臭をまだ漂わせる彼らの委員会の後継者たちが墓場へと続いた。
 犠牲者たちの中にいたのは、ほとんど全てのオールド・ボルシェヴィキたち、レーニンの親密な同僚たち、政府、政治局そして党書記局の以前の構成員たち、全ての階位の活動家たちであり、また、研究者、芸術家、文筆家、経済学者、軍人、法律家、技術者、医師、そして-割り当てられた仕事をしなかったときには当然に-秘密警察の上層官僚であれとくに熱心だった党員であれ、粛清それ自体の機関員たち、だった。
 陸軍および海軍の将校団は、まとまって殺害された。これは、対ドイツ戦争で最初の二年間はロシアが敗北したことの原因だった。
 逮捕と処刑の指定数は、党当局によって特定の分野や地域ごとに割り当てられた。
 警察官たちがこの数字を履行しなければ、彼ら自身が処刑される可能性が高かった。かりにその数字を履行すれば、党幹部たちを皆殺しにしていることの説明に使われるのに間に合うかもしれなかった。
 (スターリンに関する典型的なおぞましい冗句によると、大量殺戮運動の功労者だったPostyshev のような者に対しても、責任追及は行われた。) 
 その任務を履行するのが不十分だった者は、怠慢を理由として射殺されるかもしれなかった。
 その任務を履行するのが十分すぎた者は、自分の不満を隠蔽するために熱意を示していると疑われるかもしれなかった。
 (1937年の演説でスターリンは、多くの破壊者たちは精確にこれを行っていると言った。)
 裁判と取り調べの意味は、レーニンの最も緊密な協力者たちも含めて、党の元来の中核のほとんど全体が一団のスパイ、帝国主義者の工作員、人民の敵であって、それらの考えはソヴィエト国家を破壊することであり、またかつてつねにそのことだった者たちだ。
 驚く外国の前で、全ての空想上の犯罪について、大きな見せ物裁判の場で被告たちの自白が行われた。
 全てのGrand Guignol(グラン・ギニョール=恐怖劇)の犠牲者のうち、ブハーリンは、架空の反革命の組織化という申し立てられた犯罪に対しては一般的責任を認めたけれども、スパイ行為やレーニン暗殺の企画のような罪を免れない責任追及に対しては、自白することを拒んだ。
 誤った指導に対する懺悔の念を明白に表明しつつ、ブハーリンは、裁判の雰囲気を典型化する言葉として、「新しい生活の愉快さに対抗する犯罪的な方法で我々は反抗した」と付け加えた。
 (明らかにブハーリンは、肉体的な拷問を受けていなかった。しかし、彼の妻と幼い息子を殺害すると脅かされていた。)//
 (8)粛清がもった第一の効果は、荒廃を生み出したことだった。党にのみならず、ソヴィエト同盟の全社会生活の全側面に。
 血の海(blood-bath)が、指導者に対して阿諛追従を表明する票決をしたにすぎない第17回党大会に出席した代議員たちの大多数、忠実なスターリニストたちのほとんどの者の気分の原因だった。
 きわめて多くの傑出した芸術家たちが、ソヴィエトの全文筆家の三分の一以上が、殺された。
 国家全体が、明らかに単一の専制者の意思が生じさせた-但し、表面的には欺瞞が講じられたが-悪魔的狂気によって握られた。//
 (9)ロシアにいる外国人共産主義者たちも、粛清の犠牲になった。
 ポーランド人の被害が最大だった。コミンテルンの1938年の決定によって、トロツキー主義者その他の敵の温床だとの理由でポーランド共産党は解散させられ、ソヴィエト同盟にいるその幹部たちは、逮捕され、処刑としてまとめて殺戮された。
 ほとんど全ての指導者たちは投獄され、ごく数人だけが、数年後に自由を再獲得した。
 幸運だったのは、ポーランドで収監されていたので招集されたときにロシアへ行くことができなかった者たちだった。
 招集に実際に従わなかったごく数人は、ポーランド警察の工作員だと公式に宣告され、そのポーランド警察の手に渡された。-これは、1930年代にロシア以外の国の地下共産党組織の「偏向主義者」に対して、しばしば用いられた手段だった。
 ポーランド人以外の粛清の犠牲者は、多数のハンガリー共産党員(Kun Béla を含む)およびユーゴスラヴィア、ブルガリアおよびドイツのそれらだった。1939年まで生き残ったドイツ共産党員のうちの何人かは、当然のごとくして、スターリンからGestapo(ゲシュタポ=ナツィス・ドイツの秘密警察)へと引き渡された。//
 (10)強制収容所は張り裂けそうなほどに、満杯だった。
 全てのソヴィエト市民は、つぎのことに慣れてしまっていた。すなわち、仕事を懸命にしようとしまいと、いかなる種類の反対派に属していたとしてもまた属していなかったとしても、あるいはさらに、スターリンが好きであろうとなかろうと、逮捕されて死刑を宣告されることあるいは恣意的に不特定の期間のあいだ収監されることには、全く何の関係もない、ということに。
 暴虐(atrocituy)の雰囲気は、一種の一般的なパラノイア(偏執狂)を、従前の全ての規準が、「通常の」専制体制の規準ですら、適用することができなくなる怪物的で非現実的な世界を、生じさせた。//
 (11)後年に流血と偽善のこの異常な秘宴(orgy)を理解しようとつとめた歴史研究者その他の者たちは、答えることが全く容易ではない問題を設定した。//
 (12)第一。どう考えても、スターリンまたはその体制には現実的な脅威は存在せず、党内部での反乱の源は全て、大量の殺戮なくして容易に一掃することができた、そのようなときに、かかる破壊的狂乱(frenzy)が生じた理由はいったい何だったのか?
 とりわけ、上層幹部たちの無差別の破壊は軍事的にも経済的にも国家を致命的に弱体化させるだろうことが明瞭だと思われることを、どのように説明するのか?//
 (13)第二。暴虐行為をきわめて献身的に実行した者たちですら含めて、民衆の全てに脅威が迫っていたにもかかわらず、抵抗が完全に欠けていたのはいったい何故だったか?
 多くのソヴィエト国民は軍事的な勇敢さを示し、戦闘では生命を危険に曝した。なぜ、誰も専制者に反抗する拳を振り上げなかったのか? なぜ進んで、全ての者が殺戮へと向かったのか?//
 (14)第三。見せ物裁判の犠牲者たちが虚偽宣伝を理由として存在しない犯罪を告白させられたということを認めるとしても、数十万人のまたは数百万人ほどの人々に、なぜ、誰もかつて聞いたことがないような告白が無理強いされたのか?
 警察の記録簿に載せられるが、どんな公的な目的にも使われない虚偽の認諾書に署名するように未知の犠牲者たちを追い込むために、なぜ途方もない労力がつぎ込まれたのか?//
 (15)第四。まさにこの時代に、スターリンはいかにして、自分個人に対する崇拝(cult)をかつて例のないほどの程度まで高めたのか?
 とくに、いったい何故、個人的な圧力を受けていないはずの、あれほど多くの西側知識人たちがこの時期にスターリニズムへとはまり込み、モスクワの恐怖の館を従順に受け入れ、あるいは積極的に称賛したのか? 現実に行われていることの虚偽と残虐さは誰にも明瞭だったはずではなかったのか?//
 (16)これらの疑問は全て、マルクス主義・社会主義(Marxist-socialist)が新しいシステムで稼働させ始めた特有の機能を、どう理解するかにとって重要だ。//
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 ③へとつづく。

1850/秋月瑛二の想念⑤-2018年9月。

 ヒト、人間とは何であるのか、というのは自分とはいったい何者か、という問いでもある。
 日本、日本人とは何なのかという問いは、日本人として生まれ育った私自身を問うことでもある。
 L・コワコフスキは、歴史を知る(学ぶ)ことは我々自身が何であるかを知る(探求する)ことだ、と書いた。
 また彼は、思想・イデオロギーの歴史、とりわけマルクス主義の教理の歴史を研究するのは、一定の程度で、我々自身の文化を自己批判する試みだ、とも書いた。
 さらにつぎの趣旨も書いた(マルクス主義の主要潮流・2004年版「新しい緒言」)-「宗教史、文化史の一部の研究によって我々は、人類の霊的(spiritual)活動を洞察し、我々の精神(soul)とそれの人間生活の他の形態との関係を考究することができる。宗教・哲学・政治の何であれ、諸思想の歴史に関する研究は、我々が自分自身を認識するための探求であり、我々の精神的かつ肉体的な活動の意味するところを探求することだ。マルクス主義あるいは共産主義もまた、十分に関心を惹く歴史研究の対象になりうる」。
 20歳でポーランド統一労働者党の党員となり、党幹部候補であったと推測されるがスターリン支配下のモスクワでの短期滞在(留学)を経てポーランドの<レーニン・スターリニズム体制>に疑問をもち、ついに祖国を離れて西欧や北米に滞在し、最後にはロンドンにいたL・コワコフスキにとって、かつて学んでいったんは自分のものにした「マルクス主義」またはスターリン解釈による「マルクス・レーニン主義」は、まさに若き自分自身の一部だったに違いなく、マルクス主義の歴史研究は「自分史」の自己批判を含む研究だったに違いない。
 また、出国後ではなくポーランド時代からすでに彼は、キリスト教(・カトリシズム)の文化の中にいたように推察される。
 マルクス主義に関する大著刊行のあと、きっぱりと?マルクス主義研究から離れ、むしろ「神学」・カトリック研究にたずさわったらしいのも、自分自身の一部を形成している「神学大系」を探求して、自分とは何かをさらに知ろうとする試みだったかに見える。
 ***
 原語はフランス語らしいが、画家・ゴーギャンはある大きな絵の左上隅に、つぎのように記したらしい。
 「D'où Venons Nous /Que Sommes Nous /Où Allons Nous.」
 「われわれは何処から来たのか。われわれは何者か。われわれは何処へ行くのか。
 この部分から邦訳書の表題をつけたと見られる書物に、以下がある。
 エドワード・O・ウィルソン/斉藤隆央訳・人類はどこから来て、どこへ行くのか(化学同人、2013年)。
 但し、原書はつぎのようで、そのタイトルは「地球(地上)の社会的征服(制覇)」くらいにしか直訳はできない。
 Edward O. Wilson, Social Conquest of Earth (Liveright Publ. CO, 2012).
 まだ邦訳書の「解説」しか読んでいないのだから、興味がわく、という程度のことしか書けない。
 ***
 だが、捲っていて気づいたp.323-325の三つの画像とそれらへのコメントは、「ヒト・人間の本性」または「ヒト・人間の脳内感覚」にすでに関係しているだろう。
 つまり「複雑さが中程度」のデザインが「無意識に最も刺激し」、日本の書道での漢字の「隷書体」や「和様体」には「自然にもたらす刺激」があり、「パンジャブ語」の文面の「本質的な美しさ」は「無意識の刺激のレベルを最大まで高める」、とか言うのだ。
 理屈ではない<視的感覚>、<視的な刺激・心地よさ>。
 こういうものは、むろん個人差(個体差)はあるだろうが、脳感覚の中にあると思われる。
 数ヶ月間、日本語の新聞も雑誌も見なかったあとで、外国で久しぶりに見た某日本文学全集の(縦書きの)、漢字とひらがなの混じった日本語文章は、アルファベットばかりの中で生活していたので、じつに(内容では全くなくて)紙面自体が美しく感じた。
 これは日本人であるがゆえの感覚だったかもしれない。
 だが、同じ日本語文章でも、言語学者でもある安本美典によると、根拠文献を探す手間を省くので正確な紹介はできないが、一頁(ひいては全体)の中の漢字とひらがなとの割合が一定のある割合だと、最も<快適に>読まれる傾向がある、という。
 漢字がたくさん詰まった難解で複雑そうな文章よりも、適度にひらがな(カタカナ)が入っていた方が読みやすい。-こういう感覚は、よく分かる。
 また、誰かが書いていたが、一頁(ひいては全体)の中の、改行の数も関係がある。
 改行なしの、一文がどこで終わるのかがすぐには判らない文章が長々と続くと、読みにくい。適度に改行をして、その下に「空白」を入れた方がよい。
 これは、たんなる美しさや快適さの問題なのではない。
 すなわち、書き手が伝えたいことが、きちんと「読者」に伝わるか否かにとって重要なことだ。また、そもそも、「読む」気を起こさせないような、例えば一頁以上も改行がなく、見た印象で7-8割が漢字のような文章は、全く読まれないことになりかねない。
 そうした意味でも、「理屈」・「内容的適正さ」よりも、「見た目」、あるいは「視的美意識」にも訴えるというのは、じつに人間の「感性」、そして「本性」に適合的だろう。
 他にも多数の「感覚」の問題、さらに脳内でのもっと複雑な「感情」の問題はある。
 これらを抜きにして、ヒト・人間を語ることはできないし、その「歴史」を-かりに「政治史」であれ-把握することもできないだろう。当たり前のことを書いたかもしれない。

1780/スターリン・権力へ②-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.14~p.18。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇②。
 この時期にスターリンは民族問題に関する専門家として、自己決定は「弁証法的に」理解されなければならない(換言すると、それ以外ではなく党のスローガンに適応したものとして用いられなければならない)という旨を演説した。
 1918年初頭のソヴェトの第三回大会で彼は、適正に言えば自己決定とは「大衆」のためのもので「ブルジョアジー」のためのものではない、それは社会主義を目ざす闘いに従属しなければならない、と説明した。
 その年に公表した論文では、ポーランドとバルト諸国の分離は、これらの国々は革命ロシアと革命的西欧との間の障壁を形成するだろうから、反革命の動きであって帝国主義者の手中に嵌まる、と強調した。
 他方で、エジプト、モロッコまたはインドの独立を目ざす闘争は、帝国主義を弱体化することを意図しているので進歩的な現象だ、と。
 これら全ては完全に、レーニンの教理および党のイデオロギーと合致していた。
 分離主義運動は、ブルジョア政権に対して向かっていれば進歩的だ。しかし、ひとたび「プロレタリア-ト」が権力を手中にすれば、民族的な(national)分離主義は自動的にかつ弁証法的に、そのもつ意味を変化させる。それはプロレタリア国家、社会主義、そして世界革命に対する脅威なのだから。
 その定義からして社会主義は、民族的抑圧を行うはずがない。そうして、侵攻だと見えるものは、実際には解放のための行為なのだ。-例えば、スターリンの命令によって赤軍がジョージアの中へと進軍したときのように。ジョージアにはその当時(1921年)、代表制民主政体にもとづくメンシェヴィキ政府が存在していたのだが。
 こうしたことにもかかわらず、決して取り消されなかった民族自決権(自己決定権)というスローガンは、内戦でのボルシェヴィキの勝利に大きく貢献した。白軍の司令官たちは包み隠さず、自分たちの目的について、革命前の領土を少しも失うことなく一つで不可分のロシアを復活させることだ、と述べていたのだ。//
 スターリンがしたことはトロツキーのそれで覆い隠されているけれども、彼は内戦で重要な役割を果たした。
 この二人が対立する起源は、疑いなくこの時期にさかのぼる。この時期に、個人的な嫉妬と非難のし合い-誰が最もツァリツィン(Tsaritsyn)での勝利に貢献したのか、ワルシャワの前の敗北は誰の過ちによるのか、等々-があった。//
 スターリンは1919年に、労農監察部(the Workers' & the Peasants' Inspectorate)の人民委員になった。
 すでに述べたように、官僚制の侵入からソヴェト体制を守ろうとするレーニンの絶望的で見込みなき企てを、この組織は代表した。
 「純粋な」労働者と農民から成る監察部は、国家行政の他部門全てに対して監督する無制限の権限をもった。
 状況を改善するどころか、事態をさらに悪くした。この監察部には民主主義的な仕組みが欠けていたので、これはたんに大官僚組織に一列を付け加えたにすぎなかった。
 しかしながらスターリンは、これを利用して諸組織に対する自分の力を強化した。そして疑いなく、人民委員の地位にあったことは、彼が最高権力者へと昇りつめるのを助けることになった。//
 この段階で、独自性はなくとも重要な考察をしておくべきだろう。
 のちに党の歴史全体がスターリンの命令によって彼自身を称揚するために書き直されたとき、彼は若いときからレーニンの「副司令官」だったと叙述された。あるいはむしろ、自分をそう示そうとした。
 全ての活動分野で、スターリンは指導者、第一の組織者、同志の鼓舞者、等々だった。
 (党の質問で、彼は革命活動を行ったことが理由で放校になったと主張した。しかし、疑いなく彼はそこにいた間の禁じられた主題を議論してしまった。実際には、試験に出席することができなかったために追放された。)
 この狂熱的な考え方によると、彼はレーニンの最も親密な腹心で、党が創立されたまさにその瞬間からの助手だった。彼の輝かしい指導のもとで、コーカサスの幼なかった社会主義運動は成長した。そしてのちには、全党が疑問の余地なくスターリンをレーニンの正当で自然な後継者だと考えた、等々。
 彼は、革命のための頭脳、内戦の勝利の設計者、ソヴィエト国家の組織者だった。
 ベリア(Beriya)が創作した偉人伝では、1912年はロシアの党史上の、ゆえにまた人類史上の転換点として選び出された。スターリンが中央委員会委員になったのはまさにその年だったのだから。//
 他方で、トロツキーやスターリンを厭う理由をもつ他の多くの共産党員は、ボルシェヴィキの歴史でのスターリンの役割を何とか貶め、狡猾さと好運とが混じり合って階段の頂上へと昇りつめた二級の<党官僚(apparatchik)>と描写しようとした。その階段から踏み外させるのは不可能だと分かっていたのだった。//
 このような見方もまた、真実だと受け止めることはできない。
 確かなことは、スターリンは1905年以前には目立たない地方活動家で、より高く評価されて、より重要な役割を果たした者は彼の出身地域に多数いた、ということだ。
 にもかかわらず、1912年までには、6人または7人の著名なボルシェヴィキ指導者の一人になっていた。そして-トロツキー、ジノヴィエフあるいはカーメネフに比べると知られてはいなかったし、誰もレーニンの「当然の」後継者だとは考えていなかったけれども-、レーニンの晩年には、党を支配する小集団の中にいた。
 そしてレーニンが死んだとき、彼は理論上ではなく実務上だが、その国の誰がもつよりも大きな権力を保持していた。//
 我々には現在用いることのできる資料から、スターリンの同志たちは革命の前からすら、のちに病的な圧制者となった彼の性格に気づいていた、ということが分かっている。
 いくつかは、レーニンの「遺言」で記述された。
 スターリンは粗暴(brutal)で、不誠実で、我が儘で、野心家で、嫉妬深く、反対者に非寛容で、部下たちにとっては専制君主だった。
 彼がボルシェヴィキの「古い保護者」を全て一掃してしまうまでは、誰も真面目に哲学者だとか理論家だとかは思っていなかった。この点から見ると、トロツキーやブハーリンだけではなくて、党の主なイデオロギストたちの方が、スターリンよりも勝れていた。
 彼の論文、小冊子や演説には何も独自性がなく、それらの意図をきちんと伝えていない、ということを誰もが知っていた。マルクス主義理論家ではなく、数百人も他にいる党宣伝者(propagandist)の一人だったのだ。
 もちろんのちに、「人格カルト〔個人崇拝〕」の興奮状態の中で、彼が執筆した一片の紙切れも、マルクス=レーニン主義の財産に不朽の貢献をしたものになった。
 しかし、理論家としての全ての名声は命じられた儀礼の一部にすぎず、それは彼の死後たちまちに忘れ去られた、ということは完璧に明らかだ。
 スターリンのイデオロギー的著作が政治的に名声を求めることのない人物によって書かれたものであったとすれば、マルクス主義の歴史で言及するにほとんど値しなかっただろう。
 しかし、彼が権力を握っている間は、それ以外にマルクス主義の焼き印(ブランド)の付いたものは稀にしかなかった。また、この当時のマルクス主義は、彼の権威との関連でしかほとんど明らかにすることはできない。したがって、四半世紀にわたってスターリンが偉大なマルクス主義理論家だったと言うのは、本当のことであるばかりか、実際には、同義反復(トートロジー)だ。//
 いずれにせよ、スターリンは党に有用な多くの性質をもった。頂点にまで達して対抗者を排除したのは、偶然にのみよるのではなかった。
 彼は疲れ知らずの、目聡い、そして有能な活動家だった。
 実際上の諸問題に関して、教理的な考察を軽視し、論点の相対的な重要性の程度を明確に見分ける方法を知っていた。
  彼は(ヒトラーが侵攻してきた最初の数日を除いて)パニックに陥らなかったし、達成することしか頭にはなかった。
 また、見せかけの権力と実際の権力を区別することも巧かった。
 演説は下手で文章は退屈だったが、平易に喋ることができたので、ふつうの党員たちの心を掴んだ。そして、繰り返しや要点の番号振りをする衒学的な習癖は、提示した言葉(exposé)は力強くて明瞭だとの印象を与えた。
  彼は部下たちに威張りちらしたが、うまく彼らを使うことができた。
 党員、外国の新聞記者あるいは西側の政治家のいずれであれ、違う対話者に応じて異なるやり方で適応する術を知っており、プロレタリア-トの根本教条のために立ち向かう果敢な闘争者の役割を、あるいは国家にとって無意味ではない「親分」の役割を演じることができた。
  彼は、全ての成功を自分の栄誉として受け取り、全ての失敗を他者の責任として追及することのできる、類い稀な才能をもっていた。
 スターリンが確立するのを助けた体制によって、自分は僭政者になることができた。
 しかし、彼はその所期の成果を収めるべく長く懸命に仕事をした、ということは言っておかなければならない。//
 スターリンの有能さと組織する力を、レーニンは疑いなく評価していた。
 ときにはレーニンに同意しなかったが、危機にあるときにはつねにレーニンを守った。
 幹部級のボルシェヴィキの多くとは違って、「知識人的な」学習をしておらず、それについてレーニンは平気ではおれなかった。
 スターリンは淡々とした性格で、困難で下品な仕事をするのを気に懸けなかった。
 そして、遅れて見方を変えて、レーニンは自分が権力の頂部へと昇らせてい人物が危険だと気づいたけれども、スターリンがその敵対者に対して応答した言葉にはいく分かの真実がある。
 彼の敵対者たちが最後になってレーニンの「遺言」を書類庫から引っ張り出し、スターリンに反対する証文として使ったとき、スターリンはこう言った。
 そのとおり、レーニンはかつて私は粗暴だと責めた。そして、革命に関するかぎりは、私は粗暴<である>。-しかし、レーニンは一度でも、私の政策は過っていると言ったか?
 これには、反対者は答えることができなかった。//
 1922年4月にスターリンが党の総書記(the Secretary-General)になったのはレーニンの個人的な選抜だった、ということを疑う根拠はない。そして、他の指導者たちの誰かがこの指名に反対した、という証拠資料はない。
 トロツキーがのちにつぎのように明確に述べたのは、全く本当のことだ。
 この職を創設してスターリンをその地位に就かせることが彼がレーニンの継承者になることを意味するとは、誰も考えなかった。総書記の地位にある者は実際にはソヴェトの党と国家の最高支配者になるだろう、とも。
 全ての重要な決定は、まだ中央委員会政治局によって行われており、その諸決定は人民委員会議という媒介物を経て、国家を動かしていた。  
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 段落の途中だが、ここで区切る。③へとつづく。

1737/英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ①。

 2017年夏の江崎道朗著で「参考」にされている、又は「下敷き」にされている数少ない外国文献(の邦訳書)の執筆外国人についてネット上で少し調べていた。本来の目的とは別に、当たり前のことだったのだろうが、日本語版Wikipediaと英語版(おそらくアメリカ人が主対象だろうが、他国の者もこの私のようにある程度は読める)のそれとでは、記載項目や記述内容が同じではないことに気づいた。
 <レシェク・コワコフスキ>についての日本語版・ウィキの内容はひどいものだ。
 英語版Wikipediaの方が、はるかに詳しい。日本語版・ウィキの一部はこの英語版と共通しているので、日本語版の書き手は、あえて英語版の内容のかなり多くを削除していると見られる。あえてとは、意識的に、だ。
 なぜか。先に書いてしまうが、日本人から、レシェク・コワコフスキの存在や正確な人物・業績内容等に関する知識を遠ざけたかったのだと思われる。そういうことをする人物は、日本の「左翼」活動家や日本共産党員である可能性が高いと思われる。
 英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ(1927.10.23~2009.07.17)を、以下に、冒頭を除き、日本語に試訳しておく。
 Wikipedia の記述が完全には信用できないものであることは、むろん承知している。また、今後に追記や修正もあるだろう。
 しかし、L・コワコフスキの名前自体がほとんど知られていない日本では、以下のような記述(しかも参照文献の注記つき)の紹介は無意味ではないと考える。
 なお、①ポーランドの1980年前後以降の「連帯」労働者運動(代表はワレサ/ヴァレンザ、のち大統領)に、L・コワコフスキが具体的な支援活動をしていたことを、初めて知った。
 ②末尾に、最近にこの欄で名前を出したRoger Scruton による追悼文(記事)のことがあり、興味深い。
 引用の趣旨の全体の「」は省略する。< >はイタリック体。ここでは、一文ごとに改行する。//は本来の改行箇所。注または参照文献はほとんど氏名・出所だけなので、挙げられる氏名のみを記す。
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 彼〔レシェク・コワコフスキ〕は、そのマルクス主義思想の批判的分析で、とくにその三巻本の歴史書、<マルクス主義の主要潮流>(1976)で最もよく知られている。
 その後の仕事では、コワコフスキは徐々に宗教問題に焦点を当てた。
 1986年のジェファーソン講演で、彼は『我々が歴史を学ぶのは、いかに行動しいかに成功するかを知るためではなく、我々は何ものであるかを知るためだ』と主張した。(3)//
 彼のマルクス主義および共産主義に対する批判を理由として、コワコフスキは1968年に事実上(effectively)ポーランドから追放された。
 彼はその経歴の残りのほとんどを、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで過ごした。
 この国外追放にもかかわらず、彼は、1980年代にポーランドで花咲いた連帯(solidarity)運動に対する、大きな激励者だった。そして、ソヴェト同盟〔連邦〕の崩壊をもたらすのを助けた。彼の存在は『人間の希望を呼び醒ます人物(awakener of human hope)』と表現されるにまで至る。(4)// 
 経歴(biography)。
 コワコフスキは、ポーランド、ラドムで生まれた。
 第二次大戦中のポーランドに対するドイツの占領(1939-1945)の間、彼は公式の学校教育を享受しなかった。しかし、書物を読み、ときどきの私的な教育を受け、地下にあった学校制度で、外部の学生の一人として、学校卒業諸試験に合格した。
 戦争の後、彼はロズ(Lodz)大学で哲学を研究した。
 1940年代の後半までに、彼がその世代の最も輝かしいポーランドの知性の一人であることが明確だった(5)。そして、1953年<26歳の年>には、バルシュ・スピノザに関する研究論文で、ワルシャワ大学から博士号を得た。その研究では、マルクス主義の観点からスピノザを分析していた。(6)
 彼は1959年から1968年まで〔32歳の年から41歳の年まで〕、ワルシャワ大学の哲学史部門の教授および講座職者として勤務した。//
 青年時代に、コワコフスキは共産主義者〔共産党員〕になった。
 1947年から1966年まで〔20歳の年から39歳の年まで〕、彼はポーランド統一労働者党の党員だった。
 彼の知性の有望さによって、1950年〔23歳の年〕にモスクワへの旅行を獲得した(7)。そこで彼は、実際の共産主義を見て、共産主義は気味が悪い(repulsive)ものだと知った。
 彼はスターリン主義(スターリニズム)と決別し、マルクスの人間主義(humanist)解釈を支持する『修正主義マルクス主義者』となった。
 ポーランドの10月である1956年の一年後〔30歳の年〕に、コワコフスキは、歴史的決定論を含むソヴィエト・マルクス主義に関する四部からなる批判を、ポーランドの定期刊行誌・<新文化(Nowa Kultura)>に発表した。(8) 
ポーランドの10月十周年記念のワルシャワ大学での公開講演によって、ポーランド統一労働者党から除名された。
 1968年〔41歳、「プラハの春」の年)のポーランドの政治的危機の経緯の中で、ワルシャワ大学での職を失い、別のいかなる学術関係ポストに就くことも妨げられた。(9)//
 彼は、スターリン主義の全体主義的残虐性はマルクス主義からの逸脱(aberration)ではなく、むしろマルクス主義の論理的な最終の所産だ、との結論に到達した。そのマルクス主義の系譜を、彼は、その記念碑的(monumental)な<マルクス主義の主要潮流>で検証した。この著は彼の主要著作で、1976-1978年に公刊された。(10)//
 コワコフスキは次第に、神学上の諸前提が西側の思想、とくに現代の思想に対して与えた貢献(contribution)に魅惑されるようになった。
 例えば、彼は<マルクス主義の主要潮流>を、中世の多様な形態のプラトン主義が一世紀後にヘーゲル主義者の歴史観に与えた貢献を分析することから始める。
 彼はこの著作で、弁証法的唯物論の法則は根本的に欠陥があるものだと批判した-そのいくつかは『マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truisms)』だ、別のものは『科学的方法では証明され得ない哲学上のドグマ』だ、そして残りは『無意味なもの(nonsense)』だ、と。(11)//
 コワコフスキは、超越的なものへの人間の探求において自由が果たす役割を擁護した。//
 彼の<無限豊穣(the Infinite Cornucopia)の法則>は究明の状態(status quaestions)の原理を主張するもので、その原理とは、人が信じたいと欲するいかなる所与の原理についても、人がそれを支持することのできる論拠に不足することは決してない、というものだ。(12)
 にもかかわらず、人間が誤りやすいことは我々は無謬性への要求を懐疑心をもってとり扱うべきだということを示唆するけれども、我々のより高きもの(例えば、真実や善)への追求心は気高いもの(ennobling)だ。//
 1968年〔41歳の年〕に彼は、モントリオールのマクギル(McGill)大学で哲学部門の客員教授になり、1969年にカリフォルニア大学バークリー校に移った。
 1970年〔43歳の年〕に彼は、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで上級研究員となった。
 1974年の一部をイェイル大学ですごし、1984年から1994年までシカゴ大学の社会思想委員会および哲学部門で非常勤の教授だったけれども、彼はほとんどをオクスフォードにとどまった。//
 ポーランドの共産主義当局はポーランドで彼の諸著作を発禁にしたが、それらの地下複写物はポーランド知識人の抵抗者の見解に影響を与えた。
 彼の1971年の小論<希望と絶望に関するテーゼ>(<中略>)は(13)(14)、自立して組織された社会諸集団は徐々に全体主義国家で市民社会の領域を拡張することができると示唆するもので、1970年代の反体制運動を喚起させるのに役立ち、それは連帯(Solidarity)へとつながった。そして、結局は、1989年〔62歳の年〕の欧州での共産主義の崩壊に至った。
 1980年代にコワコフスキは、インタビューに応じ、寄稿をし、かつ基金を募って、連帯(Solidarity)を支援した。(4)//
 ポーランドでは、コワコフスキは哲学者および思想に関する歴史学者として畏敬されているのみならず、共産主義(コミュニズム)の対抗者のための聖像(icon)としても崇敬されている。
 アダム・ミクニク(A. Michnik)は、コワコフスキを『今日のポーランド文化の最も傑出した創造者の一人』と呼んだ。(15)(16)//
 コワコフスキは、2009年7月17日に81歳で、オクスフォードで逝去した。(17)
 彼の追悼文(-記事)で、哲学者のロジャー・スクルートン(Roger Scruton)は、こう語った。
 コワコフスキは、『我々の時代のための思想家だった』。また、彼の知識人反対者との論議に関して、『かりに<中略>破壊的な正統派たちには何も残っていなかったとしてすら、誰も自分たちのエゴが傷つけられたとは感じなかったし、あるいは誰も彼らの人生計画に敗北があったとは感じなかった。他の別の根拠からであれば最大級の憤慨を呼び起こしただろう、そういう議論の仕方によって』、と。(18)//
 (3) Leszek Kolakowski. (4) Jason Steinhauer. (5) Alister McGrath. (6) Leszek Kolakowski.(7) Leszek Kolakowski.(8) -Forein News. (9) Clive James. (10) Gareth Jones. (11)Leszek Kolakowski. (12) Leszek Kolakowski. (13) Leszek Kolakowski. (14) Leszek Kolakowski. (15) Adam Michnik. (16) Norman Davis. (17) Leszek Kolakowski.(18) Roger Scruton.
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 以上。

1718/T・ジャット(2008)によるL・コワコフスキ②。

  Tony Judt, Reappraisals - Reflections on the Fogotten Twentieth Century (New York, 2008).
   Chapter VIII, Goodbye to All That ? Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 邦訳書/トニー・ジャット・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011)。
   第8章・さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産。
 上の原文を、その下の邦訳書(河野真太郎ほか訳)による訳(分担・伊澤高志/177頁~197頁)に添って紹介する。
 そのままの転記では能がないだろう。基本的にそのまま写すが、多少は日本語表記だけを、短くする方向で、改める。
 例えば、「したのである」→「した」、または「したのだ」。
 また、ひらがな部分の一部を漢字に変える。句読点も変えることがある。
 翻訳関係権利を侵害していないかと怖れもするが、上記のとおり代表訳者と分担訳者の氏名、邦訳書名は明らかにしており、かつ訳出内容・意味を変更するものではないので、違法性はないと考える。このような機会を持ち得たことについて、とくに伊澤高志には、謝意を表する。
 原邦訳書とは異なり、(リチャード・パイプス、L・コワコフスキの各著(や後者の論考)についてこの欄でしてきたように)一文ごとに改行し、本来の改行箇所には、//を付す。一部を太字にしているのも、秋月による。
 以下の<*->は原邦訳書にはない、Tony Judt の原著での元の英米語で、秋月が原著を見て挿入した。
 邦訳書でも訳出されている原注は箇所だけを示し、それらの内容は、以下では、さしあたりは、省略させていただく。
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 レシェク・コワコフスキは、ポーランド出身の哲学者だ。
 しかし、彼をこのように定義づけることは、正しくは-または十分では-ない。
 チェスワフ・ミウォシュや彼以前の多くの者たちと同じように、コワコフスキも彼の知的・政治的キャリアを、伝統的なポーランド文化に根づいた様々な特徴、つまり聖職者主義<*clericalism>、排外主義、反ユダヤ主義に対立するかたちで形成した。
 生まれた土地を1968年に追われ、コワコフスキは故国に戻ることもそこで著作を出版することもできなかった。
 1968年から1981年の間、彼の名前はポーランドの発禁作家の一覧に載せられていたし、彼をこんにち有名にしている著作の多くが国外で書かれ、出版された。//
 亡命中<*in exile>のコワコフスキはその大部分をイギリスで過ごし、1970年以来、オクスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ<*All Souls College>の特別研究員となっている。
 しかし、昨年〔2005年-秋月注、原訳書のまま。以下同じ〕のインタビューで彼が説明したように、イギリスは島で、オクスフォードはそのイギリスの中の島で、オール・ソウルズ(学生を受け入れていないカレッジ)はオクスフォードの中の島で、さらにレシェク・コワコフスキ博士はオール・ソウルズ内部の島、「四重の島」なのだ (注1)。
 かつては実際に、ロシアや中欧からの亡命知識人のための場所が、イギリスの文化的生活には、あった。
 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン〔オーストリア出身〕、アーサー・ケストラー〔ハンガリー出身〕、アイザイア・バーリン〔ラトヴィア出身〕のことを考えてほしい。
 しかし、ポーランド出身の元マルクス主義者でカトリックの哲学者はもっと珍しい存在で、国際的な名声にもかかわらず、レシェク・コワコフスキは彼の永住の地では無名で、奇妙なほどに、正当な評価を受けていなかった。//
 しかしながら、イギリス以外の場所では、彼は有名<*famous>だ。
 同世代の中欧出身の学者たちと同じく、コワコフスキも、ポーランド語やのちに身につけた英語に加え、ロシア語、フランス語、ドイツ語に堪能な多言語使用者で、多くの栄誉と賞を、とくにイタリア、ドイツ、フランスで手にしている。
 アメリカでは長らくシカゴ大学の社会思想委員会で教鞭をとったが、そこでも彼の業績は広く認められ、2003年に米国議会図書館から第1回クルーゲ賞--ノーベル賞のない研究分野(とくに人文学<*the humanities>)での長年にわたる業績に対して与えられる賞--を与えられた。
 しかし、コワコフスキは、パリにいるときが一番落ち着くと何度か述べていることから分かるように、イギリス人でもなければアメリカ人でもない。
 おそらく彼のことは、20世紀版「文学界」の最後の傑出した市民<*the last illustrious citizen of the 20 th-Century Republic of Letters>と考えるのがふさわしいだろう。//
 彼が住んだ国々のほとんどで、レシェク・コワコフスキの著作で最もよく知られているのは(そしていくつかの国では唯一知られているのは)、三巻本の歴史書『マルクス主義の主要潮流』だ。
 1976年にポーランド語で(パリで)出版され、その二年後にイギリスでオクスフォード大学出版局によって出版、そして現在、ここアメリカで、一巻本としてノートン社から再刊された(注2)。
 この出版は、間違いなく、歓迎すべき事態だ。
 なぜなら、『主要潮流』は、現代人文学の金字塔<a monument of modern humanistic scholarship>だからだ。
 しかし、コワコフスキの著作の中でこれだけが突出していることには、あるアイロニーが見られるが、それは、この著者が「マルクス主義者」といったものでは決してないからだ。
 彼は、哲学者で、哲学史家で、カトリック思想家だ。
 彼は、初期のキリスト教セクトや異端の研究に多くの時間を費やし、また、過去四半世紀の間、ヨーロッパの宗教と哲学の歴史と、哲学的神学的思索とでも呼ぶべきものとに専心してきた(注3)。//
 コワコフスキの「マルクス主義者」時代は、戦後ポーランドの彼の世代の中で、最も洗練されたマルクス主義哲学者として傑出した存在だった初期の頃から、1968年に彼がポーランドを離れるまで続き、それは、きわめて短期間だった。
 そして、その時期の大部分で、彼はすでに、マルクス主義の教義に異を唱えていた<*dissident>。
 1954年という早い時期に、24歳の彼はすでに、「マルクス=レーニン主義イデオロギーからの逸脱<*straying>」によって非難を受けていた。
 1966年には「ポーランドの10月」の10周年を記念して、ワルシャワ大学でマルクス主義批判で有名な講演を行い、党指導者であるヴワディスワフ・ゴムウカによって「いわゆる修正主義<*revisionist>運動の主要なイデオローグ」だとして公式に弾劾された。
 当然にコワコフスキは大学の教授職を追われたが<expelled>、それは、「国の公式見解と相容れない意見を若者たちのうちに形成させた」ことによるものだった。
 西欧にやって来るまでに、彼はすでに、マルクス主義者ではなくなっていたのだ(後述のように、これは彼の崇拝者たちにとっては混乱の種だ)。
 その数年後、この半世紀で最も重要なマルクス主義に関する著作を書き上げてから、コワコフスキは、あるポーランド人研究者が丁重に述べたように、「この主題については関心を失っていった」(注4)。//
 このような彼の足跡は、『マルクス主義の主要潮流』の特質を説明するのに役立つものだ。
 第一巻「創始者たち<*The Founders>」は、思想史の慣習にのっとるかたちでまとめられている。
 弁証法や完全な救済というプロジェクトのキリスト教的起源から、ドイツ・ロマン派の哲学とその若きマルクスへの影響、そしてマルクスとその盟友フリードリッヒ・エンゲルスの円熟期の著作へと、流れが記述される。
 第二巻は、意味深長にも(皮肉な意味ではないと思うのだが)、「黄金時代<*The Golden Age>」と題されている。
 そこで述べられているのは、1889年に設立された第二インターナショナルから1917年のロシア革命までだ。
 ここでもコワコフスキは、とりわけ、注目すべき世代のヨーロッパの急進的思想家たちによって洗練された水準でなされた、様々な思想と論争とに関心を寄せている。//
 その時代の主導的なマルクス主義者であるカール・カウツキー、ローザ・ルクセンブルク、エドゥアルト・ベルンシュタイン、ジャン・ジョレス、そしてV・I・レーニンは、みなしかるべき扱いを受け、それぞれに章が割り当てられ、つねに効率よく明晰に、マルクス主義の物語でのその位置づけと、主要な主張とが、まとめられている。
 しかし、通常はこのような概説では目立つことはない人物に関する、いくつかの興味深い章がある。
 イタリアの哲学者アントニオ・ラブリオーラ、ポーランド人のルドヴィコ・クルジウィキ、カジミエシュ・ケレス=クラウス、スタニスワフ・ブジョゾフスキ、そしてマックス・アドラー、オットー・バウアー、ルドルフ・ヒルファーディングら「オーストリア・マルクス主義者」についての章だ。
 コワコフスキによるマルクス主義の記述でポーランド人の割合が相対的に高いことは、部分的にはポーランド出身者としての視点のためと、それらの人物が過去に軽視されてきたことに対して埋め合わせをするためであるのは、間違いない。
 しかし、オーストリア・マルクス主義者(本書全体で最も長い章の一つを与えられている)と同様に、彼らポーランド人マルクス主義者たちは、長らくドイツ人とロシア人によって支配されていた物語から忘れられ、そして消し去られてしまった中欧の、世紀末での知的豊穣さを、たゆまず思い出させてくれるものだ(注5)。//
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 これで邦訳書のp.180の末まで、全体のほぼ5分の1が終わり。

1667/ロシア革命④-L・コワコフスキ著18章2節。

 ロシア10月革命は、「共産主義政党へと国家権力を移行させたという意味」ではなく、「マルクス主義者の予言を確認する、という意味」では、「共産主義革命ではなかった」。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。第2巻単行著・p.481、三巻合冊著・p.741。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳、第2節の前回のつづき。
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 1917年の革命④(終)。
 こう言うことで、レーニンは、何が人民の利益であるのかを決めるのは人民の誰のすることでもない、というその持続的な信念を、ただ繰り返している。<この一文、前回と重複>
 彼は実際、『古い偏見への元戻り』をするつもりはなかった。
 しかし、しばらくの間は、独裁を農民層に対して、すなわちロシア人民(people)の大部分に対して、行使しなければならないとすれば、プロレタリア-トの圧倒的多数に支持される独裁はなおあり得るだろう、と考えた。
 この幻想(illusion)もまた、とっくに消え失せた。
 しかしながら、新しい国家は、最初から、労働者および農民の多数から支持されることを想定することができた。そうでなければ、レーニンが率直に認めたように、ソヴェト権力の将来が一度ならず脅威による縛り首に遭遇しかけた、戦慄するほどの内戦(国内戦争)の苦難を生き残ることができなかったはずだ。
 その年月の間にボルシェヴィキ党が示した超人間的な活力、そして党が労働者から絞り出すことのできた犠牲的行為が、経済的な破滅、甚大な人的被害、数百万の生命の損失および社会の野蛮化と引き換えに、ソヴェトの権力を救った。
 闘いの最後の局面では、革命はさらに、対ポーランド戦争の敗北にも遭遇した。これは、ソヴェト的体制を早い時期にヨーロッパへと移植することができるだろうとの望みを、最終的に打ち砕いた。//
 1919年4月23日に、レーニンはこう書いた。
 『ロシア人には、偉大なプロレタリア-ト革命を始めることは、まだ容易だった。
 しかし、彼らが革命を継続し、社会主義社会の完全な組織化という意味での最終的な勝利まで遂行するのは、より困難だろう。
 我々が始めるのは、まだ容易だった。その理由は、第一に、ツァーリ君主制という-20世紀の欧州にしては-通常ではない政治的な後進性が、大衆の革命的襲撃に通常ではない力強さを与えてくれたことだ。
 第二の理由は、ロシアの後進性が、ブルジョアジーに対するプロレタリア革命を、土地所有者に対する農民革命と独特なかたちで融合させてくれたことだ。』
 (『第三インターナショナルとその歴史上の地位』、全集29巻p.310〔=日本語版全集29巻308頁〕。)
 1921年7月1日、コミンテルン第三回大会で、レーニンは問題をより明快に述べた。
 『我々は、ロシアで勝利した。このように容易だったのは、帝国主義戦争の間に我々の革命を準備していたからだ。
 このことが、第一の条件だった。
 ロシアの数千万の労働者と農民が、戦闘をしていた。そして、我々のスローガンは、いかなる犠牲を払っても即時の講和を、というものだった。
 我々が勝利したのは、きわめて広範な農民大衆が大土地所有者に反抗する革命的な気持ちを持っていたからだ。』
 第二に、『我々が勝利したのは、持ち前のものではなく社会主義革命党〔エスエル〕の農業問題綱領を採用し、それを実践に移したからだ。
 我々の勝利は、社会主義革命党の綱領を実行したことにあった。』
 (全集32巻p.473, p.475〔=日本語版全集32巻504頁、506頁〕。)//
 レーニンは、実際、ロシアの共産主義者がヨーロッパの諸党のように『生産関係と生産力の間の矛盾』が必要な地点まで成熟するのを待たなければならなかったとすれば、プロレタリア革命の希望を捨て去るのを余儀なくされただろう、と認識していた。
 また、彼は、ロシアでの事態の推移は伝統的なマルクス主義の図式(schemata)と何の関係もない、とうことを十分に意識していた。その全ての関係にかかる理論上の問題を考察しなかったけれども。
 ロシア革命の圧倒的な力強さは、労働者とブルジョアジーの間の階級闘争にあったのではない。そうではなく、農民層の熱望、戦時中の大失敗、そして平和への渇望にあった。
 共産党(共産主義党)へと国家権力を移行させたという意味では、共産主義革命だった。
 しかし、資本主義社会の運命に関するマルクス主義者の予言を確認する、という意味での共産主義革命ではなかった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 第2節、終わり。第3節の表題は、「社会主義経済の始まり」。<ネップ(新経済政策)>への論及が始まる。

1604/民族問題②-L・コワコフスキ著16章3節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。 その第3節は、三巻合冊本の、p.674~p.680。
 前回のつづき。
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 第3節・民族問題②。
 第一に、ポーランドは、ヨーロッパの被支配民族のうちの最大のものだった。
 第二に、ポーランドは、大陸の三つの大国の間で分割されていた。
 第三に、マルクスによると、ポーランドの独立はツァーリ専政体制および他の分割諸国、ドイツとオーストリア・ハンガリー、の形をした反動に対する決定的な一撃を加えることになる。
 しかしながら、ローザ・ルクセンブルクとレーニンは、この点に関するマルクスの見地はかつて有効だったとしても、時代遅れだと考えた。
 ローザ・ルクセンブルクは、ツァーリ帝国の経済運動に反するものとして、ポーランドの独立という復古を無視した。彼女は、自己決定なるものを、いかなる場合でも、一つ民族全体の共通の理想のふりをしてプロレタリアートを騙すために仕組まれたブルジョアの考案物だと、見なした。
 レーニンは、この点では、ポーランド社会民主党は党の利益と無関係に一つの目標として独立へと進むべきだとの考えは拒否したけれども、より柔軟だった。
 彼は、1902年のメーリング(Mehring)の若干の言明に全面的に賛同して、引用した。
 『ポーランドのプロレタリアートが、支配階級自体は耳を貸そうとしないポーランド階級国家の復活をその旗に刻み込みたいと望むなら、歴史上の笑劇を演じることになるだろう。 <中略>
 他方でかりに、この反動的なユートピアが、ある程度はなおも民族的扇動に反応する知識階層と小ブルジョア部門に対して、プロレタリアートによる扇動に好意をもたせようとするならば、そのユートピアは、安価で無価値の一時的な成功のために長期的な労働者階級の利益を犠牲にする、卑劣な日和見主義が生んだものとして、二重に根拠薄弱なものだ。』(+)
 同時に、レーニンは続けて語る。『疑いなく、資本主義の崩壊より前のポーランドの復古の蓋然性はきわめて低い。しかし、絶対に不可能だと主張することはできない。<中略>
 そして、ロシア社会民主党は、決して、自分の手を縛ろうとはしない。』(+)
 (同前、p.459-460。〔=日本語版全集6巻「我々の綱領における民族問題」474頁、475頁。〕)//
 かくして、レーニンの立場は明白だ。そして、どのようにして全人民のための政治的独立を主張する最高の闘士だと、彼はそのように著名なのだが、これまで考えられることができたのかを理解するのは、困難だ。
 彼は、民族的抑圧に対する断固たる反対者で、自己決定権を宣明した。
 しかし、それにはつねに、社会民主党が政治的分離を支持できるという例外的な事情がある場合にのみだ、という留保が付いていた。
 自己決定は、いつでも絶対的に、党の利益に従属していた。後者が人民の民族的な希望と矛盾するならば、後者の意味はなくなる。
 この留保は実際に自己決定権を無価値にし、純粋に戦術上の武器へと変えた。
 党はつねに、権力への闘争に際して、民族の希望を利用しようとし続けることになる。
 しかし、『プロレタリアートの利益』がある人民全体の願望に従属することは決してあり得ないことだった。
 レーニンが革命の後でブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)条約に関する<テーゼ>で書いたように、『いかなるマルクス主義者も、マルクス主義と社会主義の原理を一般に放棄することなくして、社会主義の利益は民族の自己決定権よりも優先する、ということを否定することができない。』(全集26巻p.449。〔=日本語版全集26巻「不幸な講和の問題の歴史によせて」459頁。〕)
 しかしながら、プロレタリアートの利益は定義上は党の利益と同じであり、プロレタリアートの本当の熱望は党の口からのみ発せられ得るので、党が権力へと到達すれば、党だけが独立や分離主義の問題に関して決定することができるのは明白だ。
 このことは、1919年の党綱領に書き込まれた。同綱領は、各民族の歴史的発展の高さは、独立問題に関する真の意思(real will)を表明する者は誰かに関して決定しなければならない、と述べる。
 党のイデオロギーもまた断言するように、『民族の意思』はつねに最重要の階級、つまりプロレタリアートの意思として表明され、一方でこの後者の意思は多民族国家を代表する中央集中的な党のそれとして表明される。したがって明白に、個々の民族は、その自らの運命を決定する力を持たない。
 これら全ては、レーニンのマルクス主義およびレーニンの自己決定権の解釈と完全に合致している。
 いったん『プロレタリアートの利益』がプロレタリア国家の利益に具現化されるとされれば、その国家の利益と力が全ての民族の熱望に優先することについて、疑いは存在し得ない。
 次から次へと続いた自由でありたいと求める諸民族への侵攻と武装抑圧は、レーニンの見地と全く首尾一貫していた。
 オルドホニキゼ(Ordzhonikidze)、スターリンおよびジェルジンスキー(Dzerzhinsky)がジョージアで用いた残虐な方法にレーニンが反対したのは、可能なかぎり残虐さを減らしたいとの彼の側の願望によっていたかもしれないが、しかし、彼らは隣国を従属させる『プロレタリア国家』の権利を冒さなかった。
 レーニンは、社会民主主義政府を合法的な選挙で設立したジョージア人民が赤軍による武装侵入の対象になったということに、何も過ちはない、と考えていた。
 同じように、ポーランドの独立を承認したことは、ポーランド・ソヴェトが突発するや否や、レーニンがポーランド・ソヴェト政府の中核を形成するのを妨止するものではなかった。-レーニンはほとんど信じ難い無知によって、ポーランドのプロレタリアートはソヴェト兵団の侵攻を解放者だとして歓迎するだろうと考えた、というのは本当だけれども。//
 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 ③へとつづく。

1602/民族問題①-L・コワコフスキ著16章3節。

  Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976,英訳1978, 三巻合冊本2008).

 第16章・レーニン主義の成立。
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 第3節・民族問題①。
 第二回党大会はまた、ツァーリ体制の政治上の重要問題だった民族問題に関する立場を明らかにする機会を与えた。
 問題は、ブント〔ユダヤ人労働者総同盟〕によって提起された。この組織はユダヤ労働者大衆の唯一の代表だと承認するように要求したが、レーニンを含む多数派によって否決された。
 カウツキーやストルーヴェ(Struve)を含むその他多数と同じく、レーニンは、ユダヤ人は共通の言語と領域的な基盤を持たないので、民族だと見なすことはできないと考えた。
 しかしまたレーニンは、民族を規準とする連邦制的政党の創立を意味しているとして、ブントの提案に反対した。
 レーニンの見地では、出自、教育および職業の違いは党において意味があるべきではなく、このことは民族についてはなおさら本当のことだった。
 党の中央集中化は党員の全ての差違を除去すべきものであり、各党員は全て、最も純粋な党の精神を具体化したものであるべきで、それ以外の何者でもなかった。//
 この問題は、ロシア帝国の臣民たちが分離主義を民族運動で表明したのでますます、レーニンの関心を惹いた。
 彼は、党が民族的抑圧を非難して、民族問題をとりわけ帝制専政を転覆させる梃子として使うことを望んだ。
 レーニンが大ロシア熱狂的愛国主義(the Great Russian chauvinism)を憎悪し、党内でのそれを根絶させるべく最善を尽くした、ということに疑いはない。
 1901年の末に、ツァーリ政府がフィンランドの穏やかな自治を侵犯した際に折良く、レーニンは書いた。
 『我々は他人民を奴隷の地位へと落とすために利用されるほどに、なおも奴隷なのだ。
 我々は、処刑人の残虐さでもってロシアでの自由への全ての志向を抑圧している政府に、なおも耐えているのだ。さらには、他人民の自由を暴力的に侵害するためにロシア軍兵を使っている政府にだ。』(+)
 (<イスクラ>、1901年11月20日。全集5巻p.310.〔日本語版全集5巻「フィンランド人民の抗議」322頁。〕)//
 社会民主主義者の間には、民族抑圧問題に関する論争はなかった。
 しかし、全ての者によって自己決定の原則(principle)、すなわち各民族全ての分離して政治的に存在する権利、が受容されていたわけでは決してない。
 オーストリアのマルクス主義者は、二重君主制のもとでの民族的自治を支持した。各民族集団は、言語、文化、教育および出版等に関する完全な自由をもつべきだとした。しかし、政治的な自立については、明確には表明されなかった。
 レンナー(Renner)、バウアー(Bauer)およびこれらの仲間たちは、党内部での民族的対立に絶えず悩まされた。
 オーストリア・ハンガリー帝国のプロレタリアートは一ダースかそれ以上の民族集団に属していて、たいていは明確に区切られた地域にはおらず、地理を超えていたので、政治的な分離主義は、境界地帯での身動きならない問題を生じさせていた。
 ロシアに関するかぎり、レーニンは、文化的自治では不十分で、自己決定は分離国家を形成する権利を含まないならば無意味だ、と考えた。
 彼はこの見地をしばしば主張し、1913年の民族問題に関する小冊子に、そのように記述するようにスターリンに勧めた。
 自己決定の問題は、この問題についてしばらくの間はロシア社会民主労働者党の外にとどまり続けたSDKPiL〔ポーランド・リトアニア社会民主党〕との論争の主題だった。
 レーニンに対する最も果敢な反対者は、すでに述べたように、ローザ・ルクセンブルクだった。この問題に関する彼女の立場は、ポーランドの特殊な事情とは関係なく、マルクスへの表現方法上の忠実さが、より高いものだった。
 レーニンの見地では、全人民が自己決定の権利を対等に持っており、科学的社会主義の創始者とは違って、彼は『歴史的な』民族と『非歴史的な』それとを区別しなかった。//
 しかしながら、理論上はともあれ、この論争は、思われるほどには激しいものではなかった。
 レーニンは、自己決定権を承認した。しかし、彼は最初から、一定の留保を付けていた。すなわち、留保付きだったことは、レーニンの定式は変わらないままで維持されたけれども、革命の後すぐに、じつに現実が示すことを余儀なくしたように、そこでの『権利』は空虚な美辞麗句にすぎなくなった、という事実が説明している。
 第一の制約は、党は自己決定権を支持する、しかし全ての分離主義者の意図に深くはかかわらない、ということだった。多くの場合、実際はほとんどの場合、党は、分離主義者たちの反対側にいた。
 これには、何の矛盾もなかった。レーニンは論じた。
 『我々、プロレタリアートの党は、暴力や不正によって外から民族の自決決定権に影響を与えるいかなる企てにも、つねにかつ無条件で反対しなければならない。
 この我々の消極的な義務(暴力に対する闘争と抗議)をいつでも履行する一方、我々は、我々の側では、諸民族人民の自己決定権よりも、各民族の全ての<プロレタリアート>の自己決定について配慮する。<中略>
 民族的自治の要求への支持に関して言えば、これは決してプロレタリアートの綱領にある永遠の拘束的な部分ではない。
 これを支持することは、稀少な例外的な場合にのみ必要になりうる。』(+)
 (『アルメニア社会民主主義者の宣言について』、<イスクラ>1903年2月1日。全集6巻p.329。〔=日本語版全集6巻338頁。〕)//
 第二の制約は、党はプロレタリアートの自己決定に関心があり、全体としての人民のそれにではない、ということから生じる。
 ポーランドの独立を無条件に要求する場合に、この党は『理論的背景や政治的活動について、いかにプロレタリアートの階級闘争との結びつきが弱いかを証明している。
 しかし、我々が民族の自己決定権の要求を従属させなければならないのは、まさにこの闘争の利益に対してだ。<中略>
 マルクス主義者は、民族の自立の要求を、条件付きでのみ認めることができる。』(+)
 (『我々の綱領における民族問題』, <イスクラ>1903年7月15日。全集6巻p.456.〔=日本語版全集6巻471頁。〕) //
 ポーランド問題は、三つの理由で、この議論のうちきわめて重要なものだった。
 第一に、…。
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 (+秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。②へとつづく。

1533/「左翼」の君へ④-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 レシェク・コワコフスキの書物で邦訳があるのは、すでに挙げた、小森潔=古田耕作訳・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)の他に、以下がある。
 繰り返しになるが、この人を最も有名にしたとされる、1200頁を優に超える大著、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978〔マルクス主義の主要な潮流〕) には邦訳書がない。
 L・コワコフスキ〔野村美紀子訳〕・悪魔との対話(筑摩書房、1986)。
 L・コワコフスキ〔沼野充義=芝田文乃訳〕・ライオニア国物語(国書刊行会、1995)。
 L・コワコフスキ〔藤田祐訳〕・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014)。
 また、レシェク・コラコフスキー「ソ連はどう確立されたか」1991.01(満63歳のとき)、もある。つぎに所収。
 和田春樹・下斗米伸夫・NHK取材班・社会主義の20世紀第4巻/ソ連(日本放送出版協会、1991.01)のp.250-p.266。
 試訳・前回のつづき。
 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything(1974、満47歳の年), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
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 実際のところ、反共産主義とは何だ。君は、表明できないか ?
 確かに、我々はこんなふうに信じる人々を知っている。
 共産主義の危険以外に、西側世界には深刻な問題はない。
 ここで生じている全ての社会的紛議は、共産主義者の陰謀だと説明できる。
 邪悪な共産主義の力さえ介入しなければ、この世は楽園だろうに。
 共産主義運動を弾圧するならば、最もおぞましい軍事独裁でも支持するに値する。
 君は、こんな意味では反共産主義者ではない。そうだろう ?
 私もだ。しかし、君が現実にあるソヴィエト(または中国)の体制は人間の心がかつて生み出した最も完璧な社会だと強く信じないと、あるいは、共産主義の歴史に関する純粋に学者の仕事のたった一つでも虚偽を含めないで書けば〔真実を書けば〕、君は反共産主義者だと称されるだろう。
 そして、これらの間には、きわめて多数の別の可能性がある。
 『反共』という言葉、この左翼の専門用語中のお化けが便利なのは、全てを同じ袋の中にきっちりと詰め込んで、言葉の意味を決して説明しないことだ。
 同じことは、『リベラル』という言葉にもいえる。
 誰が『リベラル』か ? 
 国家は労働者と使用者との間の『自由契約』に介入するのを止めるべきだと主張したおそらく19世紀の自由取引者は、労働組合はこの自由契約原理に反しているとは主張しないのだろうか ?
 君はこの意味では自分を『リベラル』ではないと思うか ?
 それは、君の信用にはとても大きい。
 しかし、書かれていない革命的辞典では、かりに一般論として君が隷従よりも自由が良いと思えば、君は『リベラル』だ。
 (私は社会主義国家で人民が享受している純粋で完全な自由のことを言っているのではなく、ブルジョアジーが労働者大衆を欺すために考案した惨めな形式的自由のことを意味させている)。
 そして、『リベラル』という言葉でもって、あれこれの物事を混合させてしまう仕事が容易にできる。
 そう。リベラルの幻想をきっぱり拒否すると、大きな声で宣言しよう。しかし、それで正確に何を言いたいかは、決して説明しないでおこう。//
 この進歩的な語彙へと進むべきか ?
 強調したい言葉が、もう一つだけあった。
 君は健全な意味では使わない。『ファシスト』または『ファシズム』だ。
 この言葉は、相当に広く適用できる、独創的な発見物だ。
 ときにファシストは私が同意できない人間だが、私の無知のせいで議論することができない。だから、蹴り倒してみたいほどだ。
 経験からすると、ファシストはつぎのような信条を抱くことに気づく(例示だよ)。
 1) 汚れる前に、自分を洗っておく。
 2) アメリカの出版の自由は一支配党による全出版物の所有よりも望ましい。
 3) 人々は共産主義者であれ反共産主義者であれ、見解を理由として投獄されるべきではない。
 4) 白と黒のいずれであれ人種の規準を大学入学に使うのは、奨められない。
 5) 誰に適用するのであれ、拷問は非難されるべきだ。
 (大まかに言えば、『ファシスト』は『リベラル』と同じだ。)
 ファシストは定義上は、たまたま共産主義国家の刑務所に入った人間だ。
 1968年のチェコスロヴァキアからの逃亡者は、ときどきドイツで、『ファシズムは通さない』とのプラカードを持っている、きわめて進歩的でかつ絶対に革命的な左翼と遭遇した。//
 そして君は、新左翼を戯画化して愉快がっていると、私を責める。
 こんな滑稽画はどうなるのだろうかと不思議だ。 
 もっと言うと、君が苛立つのは(でもこれは君のペンが燃え広げさせた数点の一つだ)、理解できる。
 ドイツのラジオ局がインタビューの際の、私の二ないし三の一般的な文章を君は引用する(のちにドイツ語から英訳されて雑誌<邂逅(Encounter)>で出版された)。
 その文章で私はアメリカやドイツで知った新左翼運動への嫌悪感を表明した。しかし、-これが重要だ-私が念頭に置いた運動を明言しなかった。
 私はそうではなく、曖昧に『ある人々』とか言ったのだ。
 私は君が仲間だった時期の1960-63年の<新左翼雑誌>をとくに除外しなかった、あるいは私の発言は暗黙のうちに君を含んでいさえした、ということをこの言葉は意味する。
 ここに君は引っ掛かった。
 私は1960-63年の<新左翼雑誌>をとくに除外することはしなかった。そして、率直に明らかにするが、ドイツの記者に話しているとき、その雑誌のことを心に浮かべることすらしなかった。
 『ある新左翼の者たち』等々と言うのは、例えば、『あるイギリスの学者は飲んだくれだ』と言うようなものだ。
 君はこんな(あまり利口でないのは認める)発言が、多くのイギリスの学者を攻撃することになると思うか ? もしもそうなら、いったいどの人を ?
 私には気楽なことに、新左翼に関してこんなことをたまたま公言しても、私の社会主義者の友人たちはどういうわけか、かりに明示的に除外されていなくとも含められているとは思わない。//
 しかし、もう遅らせることはできない。
 私はここに、1971年のドイツ・ラジオへのインタビー発言で左翼の反啓蒙主義について語っていたとき、エドワード・トムソン氏が関与していた1960-63年の<新左翼雑誌>については何も考えていなかった、と厳粛に宣言する。
 これで全てよろしいか ?//
 エドワード、君は正当だ。我々、東ヨーロッパ出身の者には、民主主義社会が直面する社会問題の重大性を低く見てしまう傾向がある。それを理由に非難されるかもしれない。
 しかし、我々の歴史のいかなる小さな事実をも正確に記憶しておくことができなかったり、粗野な方言で話していても、その代わりに、我々が東でいかにして解放されたのかを教えてくれる人々のことを、我々は真面目に考えている。そうしていないことを理由として非難されるいわれはない。
 我々は、人類の病気に対する厳格に科学的な解消法をもつとする人たちを真面目に受け取ることはできない。この解消法なるものは、この30年間に5月1日の祝祭日で聞いた、または政党の宣伝小冊子で読んだ数語の繰り返しで成り立っている。
 (私は進歩的急進派の態度について語っている。保守の側の東方問題に関する態度は異なっていて、簡単に要約すればこうだ。『これは我々の国にはおぞましいだろう。だが、この部族にはそれで十分だ』。)//
 私がポーランドを1968年末に去ったとき(少なくとも6年間はどの西側諸国にも行かなかった)、過激派学生運動、多様な左翼集団または政党についてはいくぶん曖昧な考えしか持っていなかった。
 見たり読んだりして、ほとんどの(全ての、ではない)場合は、痛ましさと胸がむかつくような感じを覚えた。
 デモ行進により粉々に割れたウィンドウをいくつか見ても、涙を零さなかった。
 あの年寄り、消費者資本主義は、生き延びるだろう。
 若者のむしろ自然な無知も、衝撃ではなかった。
 印象的だったのは、いかなる左翼運動からも以前には感じなかった種類の、精神的な頽廃だ。
 若者たちが大学を『再建』し、畏るべき野蛮な怪物的ファシストの抑圧から自分たちを解放しようとしているのを見た。
 多様な要求一覧表は、世界中の学園できわめて似たようなものだった。
 既得権益層(Establishment)のファシストの豚たちは、我々が革命を起こしている間に試験に合格するのを願っている。試験なしで我々全員にAの成績を与えさせよう。
 とても奇妙なことに、反ファシストの闘士が、ポスターを運んだりビラを配ったりまたは事務室を破壊したりしないで、数学、社会学、法律といった分野で成績表や資格証明書を得ようとしていた。
 ときには、彼らは望んだどおりにかち得た。
 既得権益あるファシストの豚たちは、試験なしで成績を与えた。
 もっとしばしば、重要でないとしていくつかの教育科目を揃って廃止する要求がなされた。例えば、外国語。(ファシストは、我々世界的革命活動家に言語を学習するという無駄な時間を費やさせたいのだ。なぜか ? 我々が世界革命を起こすのを妨害したいからだ。)
 ある所では、進歩的な哲学者たちがストライキに遭った。彼らの参考文献一覧には、チェ・ゲバラやマオ〔毛沢東〕のような重要で偉大な哲学者ではなく、プラトン、デカルトその他のブルジョア的愚劣者が載っていたからだ。
 別の所では、進歩的な数学者が、数学の社会的任務に関する課程を学部は組織すべきだ、そして、(これが重要だ)どの学生も望むときに何回でもこの課程に出席でき、各回のいずれも出席したと信用される、という提案を採用した。
 これが意味しているのは、正確には何もしなくても数学の学位(diploma)を誰でも得ることができる、ということだ。
 さらに別の所では、世界革命の聖なる殉教者が、反動的な学者紛いの者たちによってではなく、彼ら自身が選んだ他の学生によってのみ試験されるべきだ、と要求した。
 教授たちも(もちろん、学生たちによって)その政治観に従って任命されるべきだ、学生たちも同じ規準によって入学が認められるべきだ、とされた。
 合衆国の若干の事例では、被抑圧勤労大衆の前衛が、図書館(偽物の知識をもつ既得権益層には重要ではない)に火を放った。
 書く必要はないだろう。聞いているだろうように、カリフォルニアの大学キャンパス(campus)とナチの強制収容キャンプ(camp)での生活に違いは何もない。
 もちろん、全員がマルクス主義者だ。これが何を意味するかというと、マルクスまたはレーニンが書いた三つか四つの文、とくに『哲学者は様々に世界を解釈した。しかし、重要なのは、それを変革することだ』との文を知っている、ということだ。
 (マルクスがこの文で言いたかったことは、彼らには明白だ。すなわち、学んでも無意味だ。)//
 私はこの表を数頁分しか携帯できないが、十分だろう。
 やり方はつねに、同じ。偉大な社会主義革命は、何よりも、我々の政治的見解に見合った特権、地位および権力を我々に与え、知識や論理的能力といった反動的な学問上の価値を破壊することで成り立つ。
 (しかし、ファシストの豚たちは我々に、金、金、金をくれるべきだ。)// 
 では労働者については ? 二つの対立する見方がある。
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 ⑤につづく。

1532/「左翼」の君へ③-L・コワコフスキの手紙。

 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
 前回のつづき。
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 君が極楽に住み、我々は地獄にいると君に信じさせようとしているのではない。
 私の国のポーランドでは、飢えで苦しんでいないし、刑務所で拷問されているわけでもないし、集中強制収容所もない(ロシアと違って)。最近二年間は数人の政治犯がいただけだし(ロシアと違って)、多くの人が比較的容易に国外へ行ける(再び、ロシアと違って)。
 しかし、国家の主権は奪われている。これは、フット氏やパウェル氏が共通市場に入ればイギリスは主権を失うかもしれないと言っているのとは意味が違い、悲しくも直接的かつ明白な意味においてだ。
 軍事、外交、貿易、重要産業およびイデオロギーといった生活について鍵となる部門は、相当に几帳面に権力を行使する外国の帝国の硬い統制のもとにある、という意味だ。
 (例えば、特定の書物は発行できない、特定の情報は明らかにされない、深刻なことについて語ってはいけない。)
 まだ言えば、ウクライナ、リトアニアのような国々と我々を比べると自由の縁の部分をたくさん享受している。
 これら諸国は、自立の政府の権利に関するかぎりでは、イギリス帝国の昔の植民地よりも状況は数段悪い。
 この自由の縁は、重要なんだけれど(ハンガリー以外の『ルーブル』地域の他のどこより、重要なことを言ったり出版したりできる)、法的な保障に何ら支えられていなくて、全てが(かつてそうだったように)一夜のうちに、ワルシャワかモスクワにいる党支配者の決定によって消滅してしまう。これが、問題なのさ。
 これはたんに、権力の分化という詐欺的なブルジョア的装置がないことによる。単一性という社会主義者の夢を実現したのだが、これは同じ国家機関が立法権、執行権、司法権、さらに加えて全生産手段を支配する権力をもつことを意味する。
 同じ人間が法を作り、解釈し、実施する。国王で、議会で、軍司令官で、裁判官で、検察官で、警察官で、(新しく社会主義が生み出した)全ての国富の所有者で、唯一の雇用者で、全てが同じ机にいる-どんなに社会主義単一性が素晴らしいか、君は想像できるか ?。//
 君は政治的な理由でスペインに行かなかったことが誇りだ。
 私は原理的でないので、二度行った。
 抑圧的で非民主主義的だのに、あの体制は他のどの社会主義国よりも(たぶんユーゴスラビアを除いて)市民に自由を与えている、と言うのは不愉快だ。
 小気味よく(Shadenfreude)言っているのでなく、恥ずかしげに言っている。内心には内戦に関する哀感を持ち続けている。
 スペインの国境地帯は開かれていて(この場合に毎年300万人の観光客がいる理由を気に懸けるな)、その開かれた国境には全体主義的支配は働いていない。
 スペインでは、出版について事後検閲はあるが事前にはない(私の本は出版されて押収され、その後で数千部のコピーが売れた。ポーランドで同じ状態だったらよかったのだが)。
 スペインへ行くと、書店にはマルクス、トロツキー、フロイト、マルクーゼ等々がある。
 我々のように彼らには選挙がなく、政党がない。しかし、我々と違って、国家と支配政党から独立した多様な形態の組織がある。
 スペインは、国家として主権をもつ。//
 現存する社会主義国に理想など見ていないし、民主主義的社会主義のことを考えていると君は明言できるので、私は無駄のことを書いているようにたぶん思っているだろう。
 たしかにそうだ。そして私は、社会主義秘密警察の支持者だと君を責めはしない。
 それでも、私が言おうとしていることは、君の論考には二つの理由できわめて重要だ。
 第一に、現存する社会主義国を(確かに不完全な)新しくより良い社会秩序の始まりだと、資本主義を超えて進みユートピアを目指している過渡的な形態だと、考えている。
 この形態が新しいことを否定しないが、それがいかなる点でもヨーロッパの民主主義諸国よりも優れているというのは否定する。
 私は君の言うことを否認して、逆のことを論証する。言い換えると、民主主義制度を上回る(人々には厄介さは少なくても)全ての専制制度の悪名高き利点を除いて、現存社会主義が主張するのかもしれない優越性が根拠とする点を示す。
 第二の同じく重要なのは、民主主義的社会主義の意味を君が知っているふりをしているが、じつは知らない、ということだ。
 君は、つぎのように書く。『2000年先にある私自身のユートピアは、モリスのいう「残余時代」のようなものではない。それは(D・H・ローレンスならこう言うだろうように)「貨幣価値」が「生活価値」に、または(ブレイクならこう言うだろうように)「肉体」戦争が「精神」戦争に道を譲る世界だろう。
 ある男女は、力の源泉を容易に利用できるようになり、シトー派の修道院のように偉大な自然美の中心に位置する、単一化した諸共同体で生活するのを選べる。そこでは、農業、工業および精神的な仕事は、結びつき合っている。
 別の男女は、多様さを好んで、都市国家のいくつかの長所を再発見する都市生活の歩みを選ぶかもしれない。
 また別の人々は、隠遁の生活を選ぶだろう。
 これら三つうちをどれでも、みんなが選ぶことができる。
 学者は、パリで、ジャカルタで、ボゴタで、議論を続けることになる。』//
 これは、社会主義者の著述のきわめて良い例だ。
 世界は善良であって悪くないはずだ、と語るにまで至っている。
 この点については君の側に、完全に立つ。
 人々の心が際限のない金の追求に占められたり、需要が無限の成長をもたらす魔法の力をもったり、使用価値ではなく利益の動機が生産を支配する、といったことはきわめて嘆かわしいことだ。そのような結論をもたらす君の(マルクス、シェイクスピア、その他多数の)分析者たちと、私は無条件に、同じ立場だ。
 君が優秀なのは、こうしたことから抜け出す仕方を正確に知っていることだ。私は、知らない。//
 左翼のイデオロギストは簡単に無視しているが(よろしい。これは例外的事情でなされており、このやり方を真似しない。我々はもっと巧くやろう)、現存する唯一の共産主義の問題が社会主義思想にとって、なぜきわめて深刻なのかは、つぎに書くような理由でだ。
 すなわち、『新しい選択肢のある社会』の経験は、社会の害悪(生産手段の国家所有)に対して人々がもつ唯一の世界的な医療薬は資本主義世界の厄災、つまり搾取、帝国主義、環境汚染、貧困、経済的浪費、民族憎悪および民族対立、には完全に効かないだけでなく、その医療薬自体の一連の厄災、つまり非効率性、経済的誘導動機の欠如、とりわけ全能の官僚制や人類史がかつて知らなかった権力の集中がもつ制限なき役割、を資本主義世界に付け加える、ということをきわめて説得的に明らかにした。
 不運な一撃にすぎない ?
 いや、君は正確にはそうは言っていない。君はたんに問題を無視するのを選んでいるだけだ。そして、正当にそうしている。
 この経験を検討しようと少しでもしてみれば、偶発的な歴史的事情のみならず、社会主義のまさにその思想をも振り返ることになり、その思想に隠された両立しえない諸要求(少なくともその要求の両立性が証明されないまま残っていること)を発見することになる。
 我々は大きな自治権をもつ小さな諸共同体で成る社会を欲する。そうでないかい ?
 また、経済についての、中央集中的計画を欲する。
 この二つがどうやって両方ともに働くのかを、考えてみよう。
 我々は産業の民主主義を求め、かつ効率的な管理を求める。
 この二つはともにうまく機能するのか ?
 もちろん、そうだ。左翼のお花畑(天国)では全てが両立でき、解決できる。子羊とライオンは同じベッドで寝る。
 世界の恐怖を見よう。そうすれば、新しい社会主義の論理に向かう平和革命をいったん起こせばそれから免れることができるのが容易に分かる。
 中東戦争やパレスティナ人の不満は ?
 もちろん、これは資本主義の結果だ。
 革命を起こそう。そうすれば、問題は解決される。
 環境汚染 ? もちろん、少しも問題ではない。新しいプロレタリア国家に工場を奪わせよう。そうすれば、環境汚染はなくなる。
 交通渋滞 ? これの原因は、資本主義者が人間の快適さに関する不満を配慮しないことにある。力を与えてくれるだけでよい(実際、これは優れた点だ。社会主義では、車がずっと少ないので、従って、交通渋滞もずっと少ない)。
 インドの人々が飢えて死んでいる ? 
 もちろん、アメリカの帝国主義者が彼らの食糧を食べているからだ。
 だが、ひとたび革命を起こせば、等々。
 北アイルランドは ? メキシコの人口統計問題は ? 人種間憎悪 ? 種族間戦争 ? インフレ ? 犯罪 ? 汚職 ? 教育制度の悪化 ?
 これら全てに対して、ただ一つの同じ答えがある。全てについて同じ答えだ!//
 これは風刺画ではない。これっぽっちも、そうではない。
 これは、改革主義という悲惨な幻想を克服して人類の諸問題を解決する有益な装置を考案したとする人々の、標準的な思考方法だ。
 そしてこの有益な装置とは、反復されるだけでしばしば十分な数語で成り立ち、革命、選択肢ある社会、等々の内実があるかのごとく見え始めるものだ。
 そして追記すれば、我々には、恐怖を生み出すたくさんの消極的な言葉がある。
 例えば、『反共産主義』、『リベラル』。
 エドワード君、君はこれらを、説明なしでよく使う。その目的は多くの多様なことを混合させ、曖昧で消極的な連想を生じさせることにあると、きっと気づいていると思うのだけれど。
 実際のところ、反共産主義とは何だ。君は、表明できないか ?
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 ④につづく。

1526/「左翼」の君へ-レシェク・コワコフスキの手紙①。

 Leszek Kolakovski, Is God Happy ?(2012)のうち、「第一部/社会主義、イデオロギーおよび左翼」の中にある、My Correct Views on Everything, 1974 〔全ての物事に関する私の適正な見方〕の日本語への試訳を、以下、行ってみる。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には、文末に//を記す。
 他にも「社会主義とは何か ?」、「左翼の遺産」、「全体主義と嘘の美徳」、「社会主義の左翼とは何か ?」、「スターリニズムのマルクス主義根源」等の関心を惹くテーマが表題になっているものも多いが、これをまずは選んだ理由は、おそらくその内容によって推測されうるだろう。
 1974年の小論。書簡の形式をとっている。
 スターリンの死、フルシチョフのスターリン批判、ハンガリー動乱、中国の文化大革命、プラハの「春」があり、日本の大学を含む「学生」運動等もほぼ終わっていた。L・コワコフスキはイギリス・オクスフォードにいて、マルクス主義哲学の研究執筆をしていたかもしれない。
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 My Correct Views on Everything, 1974 〔全ての物事に関する私の適正な見方、1974年〕
 「親愛なる、エドワード・トムソン(Edward Thompson)君へ。
 この公開書簡でなぜとても楽しくはないかというと、君の手紙は(少なくとも同じくらい)個人的な態度とともに、考え方に関係しいるからだ。
 しかし、共産主義イデオロギーについてであれ1956年についてであれ、個人的な説明をして問題を済ませはしない。とっくの前に片付いている。
 だが、一緒に始めよう、過去のことを運びあげて、署名しよう…、と言うのだったら。//
 Raymond Williams による最新号の Socialist Register の書評に、君の手紙はこの10年間で最良の左翼の著作作品の一つだと書いてあった。それは直接に、他の全ては、またはほとんど全ては、より悪いと述べているようなものだ。
 Williams はよく分かっている、私も彼の言葉に従おう。
 たまたま私がその対象になっているとしても、ある程度は、この文章を書くに至ったのを誇らしく感じる。
 そう。だから、私の反応の一つめは、感謝だ。
 二つめは、<富者の迷惑>のようなものだ。
 君の100頁もの公開書簡に対して私が答えるのに話題を適正に選択しなければならないことを、君は私に詫びるのだろう(認めると思うが、君の書簡はうまく区切りされていない)。
 最も論争点になっているものを、取り上げることにしよう。
 興味深いのだが、君の自叙伝的な部分にコメントすべきだとは思わない。
 たとえば、休日にスペインへ行かない、費用の一部を自分の懐から支払わないで社会主義者の会議に出席するということはしない、フォード財団が財源支援した会議に参加しない、権威者の前で帽子を脱ぐのを年寄りのクェーカー教徒のように拒んだのは自分だ、等々と君は書いているが、私自身の徳目一覧からして答えるべきだと、助言されるとは思わない。この徳目一覧はたぶん厳格なものではないのだろう。
 また、New Left Review 〔新左翼雑誌〕から君は離れたという話だが、私がいくつかの雑誌のいくつかの編集委員会の全てを辞めた話でもって交換するつもりはない。これらは、とても瑣末なことだ。//
 三つめは、悲しさだ、と言いたい。
 君の研究分野について十分な能力はないが、学者そして歴史家としての君の高名は知っている。
 それなのに、君の手紙の中に、話したまたは書いた多くの左翼(leftist, 左翼主義者)の決まり文句(cliche's)があるのを知るのは残念なことだ。それらは、三つの趣向からできている。   
 第一、言葉を分析するのを拒み、意図的に考え出された言葉の混合物を問題を混乱させるために使う。
 第二、ある場合には道徳的なまたは情緒的な規準を、別の類似の場合には政治的または歴史的な規準を使う。
 第三、歴史的事実をそのままに受容するのを拒む。
 言いたいことをもっと詳しく、書いてみよう。//
 君の手紙の中には個人的な不満がいくつかあり、一般的問題に関する議論もいくつかある。
 小さな個人的不満から始めよう。
 レディング(Reading)の会議に招かれなかったことで君は攻撃されたと感じているように見えるのは、また、かりに招かれれば深刻な道徳的根拠を持ち出して絶対に出席するのを拒んでいただろうと語るのは、とても奇妙だ。
 直感的に思うのだが、結局は、かりに招かれても同様に攻撃されたと感じただろう。だから、君を傷つけない方法は、会議の組織者にはなかったのだ。
 今書こう、君が持ち出す道徳的根拠とは、君がR・Sの名を組織委員会の中に見つけたということだ。
 そしてR・Sには不運だったのは、彼がかつてイギリス外交の業務で仕事をしていたことだ。
 そう、君の高潔さは、かつてイギリス外交に従事した誰かと同じテーブルに着くのを許さない。
 ああ、無邪気さに、幸いあれ! 
 君と私は二人とも、1940年代と50年代にそれぞれの共産党の活動家だった。我々の高貴な意図や魅惑的な無知(あるいは無知から逃れるのことの拒否)が何だったとしても、われわれの穏健な手段の範囲内で、人間社会で最悪の種類の奴隷的集団労働や国家警察のテロルを基礎にしている体制を、二人ともに支えた。
 このような理由で我々と一緒に同じテーブルに着くのを拒む、多数の人々がいるとは、思わないか ?。
 いや、君は無邪気だ。しかし私は、多くの西側知識人たちがスターリニズムへと改心していた『あの年月の政治の意義』を、君が書くようには、感じない。//
 スターリニズムについての君の気軽な論評から集めてみると、『あの年月の政治の意義』は、君にとってのそれは私のよりも明らかに鋭敏で多様だ。
 第一、スターリニズムの責任の一部(一部、これを私は省略しない)は、西側の諸国家にある、と君は言う。
 第二、『歴史家にとっては、50年では新しい社会体制について判断する時間が短かすぎる』、と君は言う。
 第三、『1917年と1920年代の初めの間、およびスターリングラードの闘いから1946年までの間に共産主義(コミュニズム)体制がきわめて人間的な顔を見せた時代ののような、新しい社会体制体制が発生しているならば』、と君が言うのを我々は知っている。//
 いくつか仮定を付け加えれば、全ては正当だ(right)。
 明らかにも我々が生きる世界では、ある国で重要なことが起きれば、それは通常は別の国々で起きることの一部に影響を与える。
 ドイツ・ナチズムについての責任の一部はソヴィエト同盟にあった、ということを君はきっと否定しないだろう。
 ドイツ・ナチズムに対するソヴィエト同盟の影響を、君はどう判断しているのだろうか ?//
 君の二つめのコメントは、じつに啓発的だ。
 『歴史家にとっては』50年とは、何のことか ?
 私がこれを書いている同じ日にたまたま、1960年代(1930年代ではない)の初めにソヴィエトの監獄と強制収容所にいた体験を綴った、アナトール・マルシェンコという人の本を読んだ。
 この本は1973年に(ドイツ・)フランクフルトで、ロシア語で出版された。
 ロシア人労働者の著者は、ソヴィエトからイランへと国境を越えようとして逮捕された。
 彼は幸運なことに、J・V・スターリンの遺憾な(そう、正面から見つめよう、西側諸国に責任の一部があったとしても遺憾な)誤りが終わっていたフルシチョフの時代にこれをした。
 そして、彼はわずか6年間だけ、強制収容所で重労働をした。
 彼が物語る一つは、護送車から森の中へ逃げようとした3人のリトアニア人囚人に関してだ。
 3人のうち2人はすぐに見つけられ、何度も脚を射撃され、起ち上がるように命じられ(彼らはそうできなかった)、そして、護衛兵たちによって蹴られ、踏みつけられた。
 最後に、2人は警察の犬によって噛まれ、引き裂かれた(資本主義が存続している、娯楽映画のごとくだ)。
 そうしてようやく、銃剣で刺し殺された。
 このような事態の間、ウィットに富む役人は、次の類いのことを述べていた。『さあ、自由なリトアニア人、這え、そうすればすぐに独立をかち取れるぞ!』。
 3人めの囚人は射撃され、死んだと囁かれて、荷車の死体の下に放り込まれた。
 生きて発見されたが、彼は殺されなかった(脱スターリニズム化だよ!)。しかし、数日間は、傷が膿んでいるままで暗い小部屋に入れられて放置された。
 彼は、腕が切断されているという理由だけで、生き延びた。//
 これは、君が今でも買える多数の本で読める、数千の物語の一つだ。
 知識ある左翼エリートたちは、こうした本を、進んで読もうとはしていない。
 第一に、たいていは、重要でない。
 第二に、小さく細かい事実だけを提供する(結局のところは、何らかの誤りがあることを我々は認める)。
 第三に、それらの多くは、翻訳されていない。
 (ロシア語を学習した西欧人に君が会うとして、少なくとも95%の率で血なまぐさい反応に遭うということを、君は気づいたか ? ともあれ、彼らは賢い。)//
 そして、そうだ。歴史家にとって50年、とは何のことだ ?
 50年というのは、著名ではないロシアの労働者であるマルシェンコの人生、本を出版すらできなかったもっと無名のリトアニアの学生の人生、を覆ってしまう長さだ。
 『新しい社会制度』に関する判断を急がないことにしよう。
 チリやギリシャの新しい軍事体制の良い点を査定するのに、いったい何年が必要なのかと、確実に君に質問することができるだろう。
 だが、私には君の答えが分かる。どこにも類似性がない。-チリとギリシャは資本主義の中にとどまっており(工場は私人が所有し)、一方のロシアは新しい『もう一つの選択肢のある社会』だ(工場は国家の所有で、土地も、居住している全員も)。
 真正な歴史家であるならば、もう一世紀を待てるし、わずかばかり感傷的だが慎重に楽天的な歴史知識を維持し続けることができるだろう。//
 いや、もちろんそうではない。
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 ②につづく。

1522/レシェク・コワコフスキーという反マルクス主義哲学者。

 L・コワコフスキーのつぎの小論選集(Selected Essays)も、当然に ?、邦訳されていない。
 Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回にこの人物について紹介したのはかなり古い情報だったので、この著によって上書きする。
 多数の書物を刊行し(略)、欧米諸国の学士院類の会員であり、多数の「賞」を受けている人物・哲学者が、なぜ日本ではほとんど知られていないのか。なぜ邦訳書が前回紹介のもの以外にはおそらく全くないのか。
 一部を読んだだけなので確言はしかねるが、つぎのことを推測できる。
 日本の「左翼」、とりわけ熱心な容共のそれ、そして日本の共産主義者(トロツキー派を含む)、とくに日本共産党にとって、<きわめて危険>だからだ。
 この人の著作を知っている哲学またはマルクス主義関係の「学者・研究者」はいるだろう。しかし、例えば岩波書店・朝日新聞社に、この人物の書物(『マルクス主義の主要な潮流』もそうだが)の邦訳書を刊行するようには助言や推薦を全くしないだろうと思われる。
 一方、日本の「保守」派は、いちおうは「反共」・反共産主義を謳いながら、共産主義理論・哲学に「無知」であり、欧米の共産主義をめぐる議論動向についてほとんど完全に「無関心」だからだ。
 じつに奇妙な知的雰囲気がある。
 この欄の№1500・4/14に書いた。-「冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている」。
 L・コラコフスキーの日本での扱いも、他の人物についてもすでに何人か感じているが、この「仕掛け」の一つなのではないか。
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 A-経歴。
 無署名の冒頭注記および縁戚者(実娘か。Agnieszka Kolakowska)執筆の「Introduction」(vii-xiii)から、L・コラコフスキーのつぎのような履歴が分かる。年齢は、単純に生年を引いたもの。
 1927年、ポーランド・ラドム生まれ。
 ロズ(Lodz)大学、ワルシャワ大学で哲学を学ぶ。
 (第二次大戦後、ソ連・モスクワ大学留学。)
 1953年/26歳、ワルシャワ大学で博士号取得。助教授に。
 1955年以降の研究著作の重要主題は、「マルクス主義」という「イデオロギーの危険性、欺瞞と虚偽および全体主義の本質」だった(Agnieszka による、vii)。
 1956年までに、「修正主義者」扱いされ、国家当局から睨まれる重要人物になる。
 1956年/29歳、『神々の死』<上掲書所収、新訳>を執筆。
 これは、「共産主義のイデオロギーと実際を極めて強く攻撃し、体制の偽った合理化やそれの虚偽情報宣伝の神話を強く批判する。当時としては驚くべきほど明快で、理解し易さや力強さに息を呑む」(Agnieszka による、viii)。
 この論考は「検閲」されて、「共産主義崩壊までのポーランドでは刊行されないまま」だった。「地下では、手書きの模写物が回覧された」(同)。
 1956年/29歳、『社会主義とは何か ?』<上掲書所収>を執筆。初期のもう一つの重要論考。「検閲」されて、これを掲載した雑誌は廃刊となる。ポーランドで非刊行、地下での回覧は、上と同じ。
 (1956-57年、オランダ、フランス・パリの大学に留学。)
 1959年/32歳、現代哲学史の講座職(the Chair)=教授に任命される。
 数年にわたり、ポーランド学術学士院(Academy)哲学研究所でも勤務。
 1966年/39歳、ワルシャワ大学で<ポーランドの10月>10周年記念の講演。
 「1956年10月以降の好機を逸し、希望を実現しなかった」として(Agnieszka による、ix)、党(ポーランド統一労働者党=共産党)と共産主義政府を、激しく批判する。
 これを理由に、党から除名される。
 1968年3月/41歳、政府により、大学の講座職(the Chair)=教授資格が剥奪され、教育と出版が禁止される。
 1968年の遅く/41歳、モントリオール・マギル(McGill)大学-カナダ-からの招聘を受けて、客員教授に。
 1969年-70年/42-43歳、カリフォルニア大学バークレー校-アメリカ-の客員教授。
 1970年/43歳~1995年/68歳、オクスフォード大学-イギリス-に移り、哲学学部の上級研究員。
 1975年/48歳、イェール大学-アメリカ-客員教授を兼任。
 1981年/54歳~1994年/67歳、シカゴ大学-アメリカ-社会思想研究所教授を兼任。
 (2009年/82歳、逝去。)
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 B。かつて、英国学士院(Academy)会員、アメリカ学士院外国人会員。ポーランド学士院、欧州学士院(Academia Europea)、バイエルン(独)人文学士院、世界文化アカデミー(Akademie Universelle des Cultures)の各メンバー。
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 C-受賞、とりわけ以下。
 Jurzykowski 賞(1969)、ドイツ出版協会平和賞(1977)、欧州エッセイ賞(仏, 1981)、エラスムス賞(1982)、ジェファーソン賞(1986)、トクヴィル賞(1993)、ノニーノ(Nonino)特別賞、イェルザレム賞(2007)。
 多数の大学から、名誉博士号。
 生涯にわたる人間性についての業績に対して、連邦議会図書館W・クルーゲ賞の第一回受賞者(2003)。
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 D-書物。30冊以上。17冊の英語著・英訳書を含む<略>。
 E-上掲書のIs God Happy ? -Selected Essays (2012).
 つぎの小論から成る。タイトルの仮の訳と発表年、およびこの本で初めて英語文で刊行されたか否か(<新訳>と記す)を記載する。また、Agnieszka Kolakowskiによる<改訳>もある。既に公刊されているものは、文献を省略して、()で刊行年のみ記す。p.324-7の「第一刊行の詳細」による。
 第一部/社会主義、イデオロギーおよび左翼。
 「神々の死」1956年<新訳>。
 「社会主義とは何か ?」1956年(英語1957年)。
 「文化の力としての共産主義」1985年(講演1985、英語<改訳>2005年)。
 「左翼の遺産」1994年(1994年)。
 「全体主義と嘘の美徳」1983年(1984年)。
 「社会主義の左翼とは何か ?」1995年(英語2002年)。
 「ジェノサイドとイデオロギー」1977年(英語1983年)。
 「スターリニズムのマルクス主義根源」1975年(英語1977年)。
 「全てに関する私の適正な見方」1974年(1974年)。
 第二部/宗教、神および悪魔の問題。
 「イェス・キリスト-予言者と改革者」1956年(英語<改訳>2005年)。
 「ライプニッツと仕事」2002年(英語2003)。
 「エラスムスとその神」1965年<新訳>。
 「外見上の神なき時代の神に関する不安」1981年(<改訳>, 2003年)。
 「神からの祝宴への招待」2002年<新訳>。
 「なぜ仔牛 ? 偶像崇拝と神の死」1998年<改訳>(講演)。 
 「神は幸せか ?」2006年<英語・新訳>(講演, オランダ語で初刊)。
 第三部/現代性、真実、過去およびその他。
 「無期日性を称賛して」1961年<新訳>。
 「俗物根性を称賛して」1960年<新訳>。
 「罪と罰」1991年(英語1991年)。
 「自然法について」2001年(講演, 英語2003)。
 「集団的同一性について」1994年(2003年)。
 「歴史的人間の終焉」1989年(1991年)。
 「我々の相対的な相対主義について」1996年(1996年, ハーバマス(Habermas)やロルティ(Rorty)との討議の中で)。
 「真実への未来はあるか ?」2001年<新訳>。
 「理性について(およびその他)」2003年<新訳>。
 「ロトの妻」1957年(<改訳>, 1972年, 1989年)。
 「我々の楽しいヨハネ黙示録」1997年<新訳>。
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 以上。

1455/メンシェヴィキと決裂②-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 ソヴェトの出現を、レーニンは懐疑的に見ていた。というのは、ソヴェトは非パルチザンの労働者組織で、政党による統制の外にいるものだと、考えられていたからだ。労働者階級の融和主義者的な傾向を考えると、レーニンやその支持者たちには、ソヴェトは信頼できるものではなかった。
 ソヴェトが形成されたとき、いくらかのペテログラードのボルシェヴィキは、労働者に社会民主党に対する労働者組織の優位を認めれば、『任意性という意識に従属すること』-いい換えると、労働者を知識人の上に持ち上げること-を意味するだろうという理由で (70)-、ソヴェトをボイコットするように呼びかけた。  
 レーニン自身は、ソヴェトの機能や有用性を全く決定できなかったが、より柔軟だった。
 1906年のあとで結局、彼は、ソヴェトは有用だが、『革命軍』の協力者としてのみだ、と決定した。
 ソヴェトは革命(『暴乱』)に不可欠だが、それ自体だけでは何も役立たない。(71)
 レーニンはまた、自主規律をもつ組織だとソヴェトを見なすことも拒否した-ソヴェトの働きは、厳格な規律の武装分遣隊が実行する暴乱の『道具』として役立つことだ。//
 1905年革命の勃発とともに、彼は党の主要な部分から離れて、公然と自分自身の組織を形成するときがきた、と決心した。
 1905年4月に、レーニンはロンドンに、社会民主党の正当ではない『第三回大会』を招集した。代議員のすべて(38名)が彼の党派の構成員だった。
 クルプスカヤは、つぎのように言う。//
 『第三回大会には労働者はいなかった-とにかく、少しでも目立つ労働者は一人もいなかった。 
 しかし、大会には、多数の「委員会の者たち」がいた。
 第三回大会のこの構造を無視すれば、多くのことはほとんど理解できないだろう。』(72) 
 レーニンには、このような友好的会合で自分の全ての決定が裁可されるのに何の困難もなかった-その諸決定は、正当な社会民主主義労働者党-翌年のストックホルムでの決定でこう明確にされた-を拒絶した。
 第三回大会は社会民主党の正式な分裂の始まりという画期をなすものだった。それは、1912年に完了する。//
 レーニンは、1905年11月早くにロシアに戻って、翌月のモスクワ蜂起の準備を進めた。だが、射撃が始まるや否や、彼は姿を消すということになった。 
 モスクワでバリケードが築き上げられた翌日に(1905年12月10日)、彼とクルプスカヤはフィンランドに避難した。
 彼らは12月17日に帰ってきたが、それは蜂起が敗北したあとだった。//
 1906年4月に、ロシア社会民主党の二つの分派は、ストックホルムの大会で気乗りのしない再統一の試みをした。
 レーニンはここで中央委員会での多数派を獲得しようとし、失敗した。
 彼はまた、多くの実際的な案件についても敗北した。大会は、武装分遣隊の創設と武装暴乱の考えを非難し、レーニンの農業問題綱領を拒否した。
 レーニンは怯むことなく、メンシェヴィキからは秘密に、非合法で内密の『中央委員会』(『事務局(ビュロー)』の後継機関)を、彼の個人的指揮のもとに形成した。
 最初は明らかに3人で構成されていたようだが、1907年には15人へと増加した。(73)//
 1905年の革命の間とそのあとに、数万人の新たな支持者が入党に署名し、社会民主党の党員は多方面で増加した。そのうち最も多いのは、知識人だった。 
 二つの分派は、このときまでに、異なる様相を呈していた。(74)
 1905年のボルシェヴィキには8400人の党員がいた、と見積もられている。それは大まかには、メンシェヴィキや同盟主義者(Bundists)と同じ数だった。 
 1906年4月にあった社会民主党のストックホルム大会は、3万1000人党員を代表し、そのうち、1万8000人はメンシェヴィキで、1万3000人はボルシェヴィキだったと言われる。
 1907年には、党は8万4300人の党員を擁するように成長し-この数字は、立憲民主党(カデット)とほぼ同じだった-そのうち4万6100人はボルシェヴィキ、3万8200人はメンシェヴィキだった。また、2万5700人のポーランド社会民主党、2万5500人の同盟主義者および1万3000人のラトヴィア社会民主党が連携していた。
 この数字は、増大する波の最頂点の記録だった。 
 1908年に脱退が始まり、1910年のトロツキーの見積もりでは、ロシア社会民主党は、1万人かそれ以下の党員数へと衰退した。(75) //
 メンシェヴィキ、ボルシェヴィキの各分派の社会的および民族的な構成は、異なっていた。  
 両派が惹き付けた上級階層者(gentry, dvoriane)の割合は不均衡だった-全国民中の dvoriane の割合は1.7%であるのに対して、20%だ(ボルシェヴィキについてはさらに多く、22%。メンシェヴィキはやや少なくて、19%)。
 ボルシェヴィキの党員の中には、かなり高い割合で、農民がいた。38%は、この農民グループの出身で、これと比べると、メンシェヴィキの場合は26%だった。(76)
 彼らは社会主義革命党(エスエル)を支持する耕作農民ではなく、仕事を求めて都市に移ってきた、基盤なき、階級を失った農民たちだった。 
 この社会的過渡期の構成要素は、ボルシェヴィキ党派に多数の中枢党員を提供することとなり、ボルシェヴィキの精神性(mentality)に多大の影響を与えた。
 メンシェヴィキは、より多く、低層階級の都市居住者(meshchane)、熟練労働者(例えば、印刷工、鉄道従業員)および知識人や専門職業人を惹き付けた。//
  (73) Schapiro, 共産党, p.86, p.105。 
  (74) 以下の情報は、多くは、D. Lane, The Roots of Russian Communism 〔ロシア共産主義の根源〕(1969) から抜粋している。
  (76) D. Lane, 根源, p.21。
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 ③につづく。

1407/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む②。

 一 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある。
 スターリン時代のソ連のドイツ人戦争捕虜は35万7000人が死亡した、日本、ルーマニア、フィンランド、イタリアの戦争捕虜「数万人」の生命も奪われた。ボーランド人戦争捕虜のうち14万人が生きて帰れなかった。全部で「100万人近くの捕虜が死亡した」(p.22)。
 ミンスクの近くにある埋葬場所から1980年代後半に「20万体」の骨が掘り起こされた。よく知られるようになつたのは、1939年にソ連がポ-ランドを占領したあとのポーランド人捕虜についてだ。
ポーランド人将校14,736名が三つの収容所におり、同政治犯10,685名が刑務所にいたが、処理案の文書を示されたスターリンは「書記長」のサインをして了解した。文書(1940.03.05)には、「出頭は求めず、起訴状を見せることなく終わらせる。/「特別な措置によって解決することとし、最高刑を適用する。銃殺。」等と記されていた。ポーランド人は元将校・官吏・工場所有者・憲兵等々で、帰国後にはポーランドの再建にとって重要な人物たちも含まれていた(p.23-24)。
 約2万5000人の被殺戮者の遺体は埋められて、のちに発掘された場所が<カティンの森>だったことから、<カティンの森虐殺事件>と呼ばれるようになった、上に出てくるのは、それにかかわる指令文書のことかもしれない。しかし、ブレジンスキーは「カティン」と明記していないので、はっきりしない。
<カティン事件>についていうと、当初はスターリン・ソ連政府はドイツ・ヒトラー軍によるものとして否定し続け、第二次大戦後になって初めてソ連政府・軍が関与したことを認めた。
 将来の国家(ポーランド)の幹部になる可能性があるものを2万人以上殺害してその芽を<あらかじめ>摘み取っておくとは、想像し難い発想だ。
二 岩波講座・世界歴史23-アジアとヨーロッパ(岩波、1999)はロシア・ソ連に関する独立の論考を含んでいないが、概論である山内昌之「アジアとヨーロッパ-日本からの視覚-」(p.3~)は、冒頭で上に見たブレジンスキー: OUT OF CONTROLを注記しつつ、つぎのように言う。
 「…、革命の残忍さとテロルの普及、ファシズムと共産主義が生み出した人間無視などは、…20世紀につきまとった。ソビエト社会主義のもとにおける厳しい飢饉や大量テロル、ナチズムのユダヤ人ホロコーストなどに象徴されるように、人間の生命が鴻毛のように軽く扱われたのは驚くほかない。…『大量死(メガデス)』というコンセプトで計算するなら、今世紀の大量死者数は1億8700万人ということになる」。
 この数字は、ブレジンスキーが挙げていた数度と同じ。山内はこれにもとづき、つぎのように書く。
 「それは1900年の世界人口の10人あたり1人以上に相当する」。
 1914年-1945年までの戦争、共産主義国内・ファシズム国内およびその後の東欧(東独を含む)・中国・北朝鮮等々によって、20世紀は人口の10分の1を失った。これはまた、彼らが将来に生む可能性のあった人間が生まれなかったことも意味する。
 これらに愕然とする「感性」をもたなければならない。
 歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的「感性」を率直に示して、何ら問題がないはずだ。

0459/日本共産党ではなく「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体。

 安い古本だからこそ店頭で買ったのだが、日本民青同盟中央委・なんによって青春は輝くか(初版1982.04)という本がある。中身は青年・若年層向けの宮本顕治・不破哲三等の講演を収めたもの。
 宮本顕治のものは四本ある。宮本は逝去まで日本共産党中央から非難されなかった珍しい人物なので、この本で宮本が語っていることを日本共産党は批判できず、「生きている」日本共産党の見解・主張と理解してよいだろう。
 全部を読んでいないし、その気もない。p.14を見ていて、こんな内容が少しだけ興味を惹いた。以下、宮本の講演録(1982年2月に民青新聞に掲載)の一部。
 <「社会主義」とは第一に「搾取をなくし、特権的な資本家をなくして、労働者の生活を守る」、第二に、「広範な働く人の民主主義を保障する」、第三に「民族独立を擁護する」。ポーランド問題で社会主義自体がダメだとの批判が起きているが、そうではない。社会主義そして「将来の共産主義社会」は「どんな暴力も強制も不要な」「すべての人びとの才能が花ひらく、才能が保障される社会」で「マルクス、エンゲルス、レーニンたちが一貫して主張してきた方向」だ。>
 ここまででも「搾取」・「特権的な資本家」といった概念がすでに気になるし、またこの党が「民族独立」=反米を強調していることも面白い(社会主義の三本柱の一つに宮本は挙げている。はたして、「社会主義」理論にとって「民族独立」はこれほどの比重を占めるものなのか)。
 だが、面白いと思い、さすがに日本共産党だと感じたのは、上に続く次の文だ-マルクスらの説は「ただ希望するからではなく、人類の歴史、いろんな発展が、そうならざるを得ない」。
 このあとの、マルクスらの説は「人類のつくったすべての学説のすぐれたものを集めたもの」だということが「共産主義、科学的社会主義のほんとうの立場」だ、という一文のあとに「(拍手)」とある。
 いろいろな事実認識、予測をするのは自由勝手だが、上の「いろんな発展が、そうならざるを得ない」とはいったい何だろうか。「そうならざるを得ない」ということの根拠は何も示されていない。共産党のいう<歴史的必然性>とやらのことなのだろうが、それはどのようにして、論証されているのか??
 たんなる「希望」であり、そして要するに「確信」・「信念」の類であり、<科学的>根拠などどこにもない
 上のような内容を含む講演というのは、信者または信者候補者を前にした<教主さま>の<説教>・<おことば>に違いない。その宗教の名前は、<日本共産教>または<科学的社会主義教>が適切だろう。
 現在も、こんな(将来の確実な<救済>=仏教的には「浄土」の到来?を説く点で)基本的には新興宗教を含む「宗教」と異ならない「教え」を信じて信者になっていく青年たちもいるのだろう。1960年代後半から1970年前半頃までは、今よりももっと多かったはずだ。
 こんな民青同盟又は日本共産党の組織員になって「青春」が「輝く」はずもない。一度しかない人生なのに、日本共産党(・民青同盟)に囚われる若い人々がいるのは(この組織だけでもないが)本当に可哀想なことだ。
 読了済みの佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版)の紹介を含めた言及をしたいのだが、内容が重たいので、書き始められずにいる。
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  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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