秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ボルシェヴィキ

1464/レーニンと警察の二重工作員②-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)②〔つづき〕。  
 ボルシェヴィキ議員団の長が突然に、説明もされずにドゥーマから消え失せた。これによりマリノフスキーの経歴は終わったはずだった。しかし、レーニンは彼の側に立って、『清算人』と中傷して非難しつつ、メンシェヴィキの追及者たちからマリノフスキーを守った。
 この場合には、重要な仲間に対するレーニンの個人的な信頼がその合理的判断を妨げた、と言うのは可能だ。しかし、そうではないように見える。 
 マリノフスキーは、1918年の裁判で、レーニンは自分の前科について知っていたと語った。このような記録があればロシアではドゥーマ選挙に立候補することができないので、内務省がこの情報を使ってマリノフスキーが議会に入るのを阻止しなかったという事実からだけでも、レーニンはマリノフスキーの警察との関係を察知したに違いないだろう。
 ロシアの警察挑発問題に関する重要な専門家だったプルツェフは1918年に、マリノフスキーの裁判で証言した帝制時代の警察官との会話を通じて、つぎのように結論した。
 すなわち、『マリノフスキーによれば、彼の過去には通常の犯罪ではなく自分が警察の手のうちにあった-つまり挑発者だった-ことも隠されているということを、レーニンは理解していたし、理解せざるをえなかった』、と。(110)
 なぜレーニンは自分の組織に警察工作員を維持しようとしたのかについて、帝制時代の上級治安官僚だったアレクサンダー・スピリドヴィッチ将軍が、つぎのように示唆している。
 『ロシアの革命運動の歴史には、革命的組織の指導者がその構成員のうち何人かに政治警察との関係に入ることを認める、いくつかの大きな事例があった。彼ら構成員は、秘密情報員として、警察に瑣末な情報を与える代わりに、その革命的党派にとってもっと重要な情報を警察から引き出そうという狙いをもっていた。』(111)
 レーニンが1917年6月〔いわゆる二月革命のあと、ボルシェヴィキ「七月蜂起」の前-試訳者〕に臨時政府の委員会の前で証言した際、彼は実際にこのような方法でマリノフスキーを使ったのかもしれないことを仄めかした。
 『この事件については、また次の理由にもとづいて、私は挑発者の存在を信じない。かりにマリノフスキーが挑発者であるのならば、わが党が<プラウダ>やその他の合法的な組織全体から得るよりも多くの成果を、オフランカ(Ohkranka〔帝制時代の秘密警察部門〕)は得ていないだろう。 
 ドゥーマに挑発者を送り込み、また彼のためにボルシェヴィキの対抗者〔メンシェヴィキ〕を追い出すなどをしたが、オフランカは、ボルシェヴィキの粗野なイメージに支配されているのだ。-漫画本の滑稽な絵だと言おう。ボルシェヴィキは、武装蜂起を組織するつもりはない。
 オフランカの立場からすれば、あらゆる糸を手繰り寄せるために、マリノフスキーをドゥーマに、そしてボルシェヴィキの中央委員会に入り込ませることは、何らかの価値がある。
 しかし、オフランカがこの二つの目的を達成したときにようやく、マリノフスキーはわれわれの非合法の基地と<プラウダ>とを繋ぐ、長く固い鎖の連結物の一人であることが判明したのだ。』(*)
 レーニンはマリノフスキーの警察との関係を知っていたことを否認したけれども、上のような理由づけは、党の目的を推進させるために警察工作員を使ったことについての、もっともらしい釈明のように感じられる。-つまり、他にとりうる手段がないときに、大衆の支持を獲得するために最大限に合法活動の機会を利用するため、だったのだ。(+)
 マリノフスキーが1918年に裁判での審尋に進んだとき、ボルシェヴィキの訴追者は実際に、マリノフスキーはボルシェヴィキに対してよりも帝制当局に対してよりひどい害悪をなしたと証言するように警察側の証人に圧力をかけた。(112)
 マリノフスキーが自分の自由意思で1918年11月という赤色テロルが高潮しているときにソヴェト・ロシアに帰ってきたこと、そしてレーニンと逢うことを強く求めたことは、マリノフスキーは無罪放免になることを期待していたことを強く示唆している。 
 しかし、レーニンには、もはや彼の使い道がなかった。彼は裁判に出席はしたが、証言しなかった。
 マリノフスキーは、処刑された。//
 マリノフスキーは実際、レーニンのために多くの価値ある仕事をした。
 彼が<プラウダ>および「nashput」の創刊を助けたことは、すでに述べた。
 加えるに、ドゥーマで彼が演説をする際には、レーニン、ジノヴィエフその他のボルシェヴィキ指導者が書いた文章を読んだ。演説の前に彼はそれらの原稿を警察部門の副局長であるセルゲイ・ヴィッサーリオノフに提出し、校訂を受けた。 
 このように方法によって、ボルシェヴィキの宣伝文章は国じゅうに広がった。
 特筆しておきたいのは、マリノフスキーは注意深くかつ忍耐強く、ロシアのレーニンの支持者とメンシェヴィキとが再統合することを妨害したことだ。
 第四ドゥーマが開催されたとき、7人のメンシェヴィキ議員と6人のボルシェヴィキ議員は、レーニンまたは警察が望んだ以上に、協力的精神でもって行動した。実際、レーニンが不一致の種を植え付けるために個人的に出席していない場合には通常のことだったが、彼らは一つの社会民主党の議員団のごとく振る舞った。
 二つの党派を離れさせ、そうしてそれらを弱体化させることは、警察が設定した最優先の使命だった。ベレツキーによれば、『マリノフスキーは、両党派間の溝を深めることのできるいかなる事でもするように命令されていた。』(114)
 それ〔二党派間の溝の深まり〕は、レーニンの利益と警察の利益とが合致している、ということだ。(++)//
 レーニンの独裁的な手法とその完全に欠如した道徳感情は、彼の熱心な支持者をある程度は遠ざけた。陰謀と瑣末な争論に飽き、覆いかかる精神主義(spritualism)の風潮に囚われて、何人かの最も賢いボルシェヴィキは、宗教と観念哲学のうちに慰めを追求し始めた。1909年に、ボルシェヴィキ幹部たちの支配的な傾向は、『神の建設』(Bogostroitel'stvo)として知られるようになった。  
 のちの『プロレタリアの文化』の長のボグダノフやのちの啓蒙人民委員〔大臣〕のA・V・ルナチャルスキーに教え導かれた運動は、非ラジカル知識人の間で有名な『神の探求』(Bogoiskatel'stvo)に対する社会主義者の反応だった。 
 <宗教と社会主義>という書物の中でルナチャルスキーは、社会主義を一種の宗教的体験、『労働者の宗教』だと表現した。
 このイデオロギーの提唱者たちは1909年に、カプリに学校を設置した。 
 こうした展開全体を全く不愉快に感じていたレーニンは、反対の二つの学校を組織した。一つは、ボローニャで、もう一つは、パリ近くのローンジュモで。
 1911年に設立された後者は一種の労働者大学で、ロシアから送られた労働者が、社会科学と政治についての体系的な教条教育(indoctrinnation 〔洗脳〕)を受けていた。教師陣の中には、レーニンや彼の最も忠実な支持者であるジノヴィエフとカーメネフもいた。
 今度は学生に偽装した警察情報者が不可避的に潜入していて、ローンジュモでの教育について報告した。
 『授業の断片を生徒が丸暗記することで成り立っている。なされる授業は疑ってはいけないドグマの性格を帯びており、決して批判的な分析や合理的で意識的な学習を奨励するものではない。』(115) //
  1912年までに、マルトフがレーニンの無節操な財政取引や支配力を得るために多くは不法に獲得した金の使い方を公に明らかにしたあとだったが、二つの党派は一つの党だと装うことを止めた。
 メンシェヴィキは、ボルシェヴィキの行動は社会民主党運動を汚辱するものだと考えた。
 1912年の国際社会主義者事務局の会合で、プレハーノフは公然と、レーニンを窃盗者だと責め立てた。
 メンシェヴィキは、レーニンが犯罪や誹謗中傷に頼ったことや労働者を意識的に誤導したことに唖然としたと表明したにもかかわらず、また、レーニンを『政治的ペテン師』(マルトフ)と呼んで非難したにもかかわらず、レーニンを除名することをしなかった。一方、その咎はエデュアルド・ベルンシュタインの『修正主義』に共感したことだけのストルーヴェは、すみやかに追放された。
 レーニンがこれらを深刻に受け止めなかったしても、何ら不思議ではない。//
 二党派の最終的な分裂は、レーニンのプラハ大会で、1912年1月に起きた。それ以降は、彼らは共同の会合を開かなかった。
 レーニンは『中央委員会』という名前を『私物化』して、もっぱら強硬なボルシェヴィキたちで構成されるように委員を指名した。
 頂部に断絶があるのはもはや完璧なことだったが、ロシア内部でのメンシェヴィキおよびボルシェヴィキの幹部や一般党員は、しばしばお互いを同志と見なし続けて一緒に活動した。//
  (*) レーニンのマリノフスキーに関する証言は、委員会の記録にかかる数巻の出版物にも(Padenie)、レーニンの<選集>にも掲載されていない。
  (+) タチアナ・アレクジンスキーは、中央委員会に警察情報員が加入している可能性についての疑問が生じたとき、ジノヴィエフがゴーゴルの<将軍検査官>から『良い一家は、がらくたすらも利用する』を引用したことを憶えている。〔文献省略〕  
  (++) レーニンがマリノフスキーの警察との関係を知っていた蓋然性(likelihood)は、認められている。ブルツェフに加えて、ステファン・ポッソニー(1964, p.142-43.)によって。
 マリノフスキーの自伝は、ボルシェヴィキは警察がマリノフスキーによってボルシェヴィキに関して知ったよりも少ない情報しか、マリノフスキーから警察に関する情報を得ていないという理由で、この仮説を拒否している(Elwood, マリノフスキー, p.65-66.)。
 しかし、マリノフスキーが彼の二重工作員性に関してレーニンの陳述およびスピリドヴィッチの言明を無視していることは、上に引用した。
 ---
 第10節につづく。

1463/レーニンと警察の二重工作員①-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)

 1908年に、社会民主党の運動は衰退に入った。その理由の一つは、知識人の革命への熱望が冷めたこと、二つは警察の潜入によって地下活動がほとんど不可能になったことだ。
 治安維持機関は、上から下まで、社会民主党の組織の中に入り込んだ。党員たちは逃げる前に日に晒され、逮捕された。
 メンシェヴィキはこの状況に、合法活動をすることを強調する新しい戦略でもって対応した。すなわち、出版物発行、労働組合の組織化、ドウーマでの活動。 
 いくらかのメンシェヴィキは、社会民主党を労働者党に置き換えることを望んだ。
 彼らは非合法活動をいっさい放棄するつもりではなかった。しかし、綱領問題の大勢は、党が労働者に奉仕するほど多くは労働者を指導しない、民主主義的な労働組合主義へと進んだ。
 レーニンには、これは呪詛の対象だった。彼はこのような戦略を支持するメンシェヴィキに、『清算人(liquidators)』とのラベルを貼った。彼らの狙いは党を清算し、革命を放棄することだからだ。
 レーニンの用語である『清算人』は、反革命主義者と同じ意味になった。//
 にもかかわらずレーニンも、警察による弾圧によって生じた困難な条件に適応しなければならなかった。
 彼は、対応するために、自分の組織に潜入した警察工作員を自分の目的で利用した。
 以下について確実なことは何もありえないけれども、そうでなくとも幻惑的な、工作員挑発者(agent provocateur)・マリノフスキーの事件は、最も納得できる説明になっているように見える。マリノフスキーは、しばらくの間(1912-14年)、ロシアのレーニン党派の代議員で、ドゥーマ・ボルシェヴィキ議員団の代表者だった。 
 それは、ウラジミール・ブルツェフの見解では、もっと有名なエヴノ・アゼフ事件を超えすらする重要性をもつ、警察による挑発の事件だった。(106)//
 レーニンは、支持者たちに第一回ドゥーマの選挙をボイコットするように命令した。その一方、メンシェヴィキは問題をその地方組織に委ね、ジョージア支部を除く多くの地方組織はボイコットを採択した。
 そのあとでレーニンは気持ちを変え、1907年に仲間たちのほとんどの意向を無視して、動く〔立候補する〕ようにボルシェヴィキに命じた。
 彼はドゥーマを、自分のメッセージを広げる公共広場として利用することを意図した。
 マリノフスキーが計り難い価値をもつことが判るのは、まさにドゥーマにおいてだった。//
 民族的にはポーランド人で、職業上は金属労働者、そして副業は窃盗というマリノフスキーは、窃盗と家宅侵入窃盗の罪で三つの収監判決を受けていた。
 彼自身の証言によれば、刑事記録〔前科〕のために満足させられない政治的野心に駆られて、またつねに金が必要だったために、マリノフスキーは、奉仕しようと警察当局に申し出た。 
 警察の指示により、彼はメンシェヴィキから向きを変えて、1912年1月にボルシェヴィキのプラハ大会に出席した。
 レーニンはきわめて好ましい印象を彼に持ち、『優秀な仲間』、『傑出した労働者指導者』だとマリノフスキーを褒めた。(107)
 レーニンはこの新規加入者を、裁量でもって党員を加える権限のある、ボルシェヴィキ中央委員会のロシア事務局員に任命した。 
 マリノフスキーはロシアに帰って、スターリン支持者を広げるためにこの権限を利用した。(108)
 内務大臣の命令にもとづき、マリノフスキーの刑事記録〔前科〕は抹消され、ドゥーマへと立候補することが許された。
 警察の助けで選出され、彼は、議員の免責特権を用いて、『ブルジョアジー』や社会主義『日和見主義者』を攻撃する燃えるがごとき演説を行った。それらの多くは治安機関によって準備され、全ては了解されていた。
 社会主義サークル内には彼の忠誠さについて疑問の声があつたにもかかわらず、レーニンは無条件でマリノフスキーを支持した。
 マリノフスキーがレーニンのためにした最大の仕事の一つは、-警察の許可を得てかつありそうなことだが警察の財政支援もおそらく受けて-ボルシェヴィキの日刊紙『プラウダ(pravda)』の創刊を助けたことだった。
 マリノフスキーは新聞の財産管理者として働いた。編集権は、警察の別の工作員、M・E・チェルノマゾフに渡った。 
 警察によって保護された党機関は、ボルシェヴィキの考えをメンシェヴィキ以上に広くロシア内部に伝搬させることができた。
 発行するために、警察当局は時たま<プラウダ>を繊細にさせたが、新聞は、発行され続けて、マリノフスキーや他のボルシェヴィキがドゥーマで行った演説の文章やボルシェヴィキの書きものを印刷し続けた。レーニンは一人で1912年と1914年の間に、265の論文をこの新聞に掲載した。
 警察は、マリノフスキーの助けによって、モスクワのボルシェヴィキ日刊紙「Nashput」をも創刊した。(109)
 このような仕事に就いている一方で、マリノフスキーは、定期的に党の秘密を警察に渡すという裏切り行為をしていた。
 われわれがのちに知るはずだが、レーニンは、この取引で得たものの方が、失ったものよりも大きいと信じた。//
 二重工作員としてのマリノフスキーの経歴は、内務省の新しい副大臣〔政務次官〕、V・F・ジュンコフスキーによって突然に終焉を告げられた。
 反諜報活動の経験のない職業軍人であるジュンコフスキーは、固く決心して、警察官たちの一団を『浄化』し、その政治活動を止めさせようとした。彼は、いかなる形態での警察の挑発についても、妥協をしない反対者だった。(*1) 
 任務を履行しているうちに、マリノフスキーは警察の工作員で、警察がドゥーマに浸透していることを知ったジュンコフスキーは、警察の大スキャンダルになることを恐れて、ドゥーマ議長のラジアンコに、その事実を内密に通知した。(*2)  
 マリノフスキーは退任を余儀なくされ、彼の年収分の6000ルーブルが与えられ、そして国外に追放された。//
  (*1) Badenie, Ⅴ, p.69, Ⅰ, p.315。ジュンコフスキーは、軍隊や第二次学校の中の警察細胞を廃止した。その理由は、軍人や学生の中で連絡し合うのは適切でない、ということだった。
 警察庁長官で、マリノフスキーの直接の監督者だったS・P・ベレツキーは、このような手段〔警察細胞の廃止〕は、政治的な反諜報活動の組織を混乱させるものだと考えた。Badenie, Ⅴ, p.70-71, p. 75。
 ベレツキーは、チェカ〔のちにボルシェヴィキ政府=レーニン政権が設立した政治秘密警察〕によって1918年9月に射殺された。これは、赤色テロルの波の最初のものだった。
  (*2) ドゥーマでのマリノフスキーの扇動的な演説は、ロシアが新しい産業ストライキの波に掴まれていた当時に労働者たちに対してもつ影響が大きかった、そのように警戒して、ジュンコフスキーはマリノフスキーを馘首した、という可能性は指摘されてきた。
 Ralph Carter Elwood, ロマン・マリノフスキー (1977), p.41-43。
 ---
 ②へとつづく。

1461/強盗と遺産狙いの党財政②-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
 ---
 レーニンが彼の組織のために金を獲得しようと進んだ途の行き着く先は、いわゆるシュミット事件によって例証される。(102)
 モロゾフと縁戚のある金持ちの家具製造業者であるN・P・シュミットは、1906年に逝去した。それは明らかに自殺で、12月のモスクワ蜂起に使われた武器の購入に財政援助したという責任を問われる裁判を待っている間のことだった。
 彼は遺書を残していなかった。しかし、ゴールキと他の友人は、シュミットはおよそ50万ルーブルに達する財産が社会民主党のものになることを欲していた、と語った。
 このような措置は、非合法の政党は遺産相続の利益を受けられないので、法の観点からは有効ではなかった。
 したがって、その金銭はシュミットの最も近い縁戚の、幼い弟に渡った。
 シュミットの財産が相続人によって濫費されたり、社会民主党の金庫に移されることを断固として阻止しようと、ボルシェヴィキは、レーニンを議長とする会合で、とりうる全ての手段を用いてそれを奪い取ることを決定した。
 十代の弟は、その二人の妹のために相続分を放棄するようにすぐに説き伏せられた。
 そして、二人のボルシェヴィキ党員が出廷して妹たち相続人と結婚する、という取り決めがなされた。
 下の方の幼い少女は、ヴィクトール・タラトゥータという名のボルシェヴィキの荒くれ男と結婚することになつた。しかし、警察の目をごまかすために、表向きは、堅実な男と二度目の結婚をすることとされた。
 彼女が結果として受け取った19万ルーブルは、パリにあるボルシェヴィキの金庫へと移された。(103) //
 シュミットの財産の第二部分は彼の姉が所有していたが、ボルシェヴィキに傾斜した社会民主党の党員でもある、その夫の手にあった。
 その夫は、しかし、金を守りたかった。
 論争は調停のために社会主義者の裁きの場に上程され、ボルシェヴィキに相続財産の半分または三分の一だけが与えられた。
 身体への暴力という脅迫によって、ついには夫は、妻の相続財産をレーニンに渡すように説得された。
 最終的にはレーニンは、シュミットの財産から、23万5000と31万5000の間のルーブルを獲得した。//
 このような醜悪な金銭事件やそれに類したものは、マルトフが暴露したときに、ロシアおよび国外でボルシェヴィキを大きく辱めた。そして、社会民主党の資金をドイツの社会民主主義者に預けることに同意するのを、レーニンは強いられた。
 金をめぐる争論は、1917年革命に先行する10年間に二つの党派が行った闘争の主要な柱の一つだった。
 レーニンの秘書として働いていたクルプスカヤは、見えないインキ、暗号、その他の警察を暗闇にいるままにする道具を使って、ロシアにいるボルシェヴィキの工作員との安定した連絡網を維持した。
 クルプスカヤの仕事を助けたタチアナ・アレクジンスキーによれば、レーニンからきた手紙のほとんどには、金の要求が含まれていた。(*)(105)
  (*) このように援助金が重要であることは、1904年12月の潜在的な寄付者に対する手紙においてもレーニンによって強調されている。
 『少なくとも半年の間に莫大な資金の助けで何とか耐えないと、われわれの仕事は破産に直面してしまいます。そして、削減することなく持ちこたえるためには、最小限度、毎月2000ルーブルが必要なのです。』 Lenin, 〔文献省略〕。

1460/強盗と遺産狙いの党財政①-R・パイプス著9章8節。

 前回のつづき。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第8節・ボルシェヴィキ党の財政事情。 
〔p.369-p.372.〕
 1917年革命以前のボルシェヴィキの歴史上最も秘密で今なお深刻な側面の一つは、党の財政にかかわる。
 全ての政治組織は、金を必要とする。しかし、ボルシェヴィキは党員全てに党のために一日中働くことを要求していたので、彼らにはきわめて重い財政上の負担があった。自立・自援のメンシェヴィキと違って、ボルシェヴィキの党員たちは、党の金庫からの手当てに頼っていたからだ。
 レーニンもまた、いつも多数の支援者がいたメンシェヴィキという好敵を策略的に打ち負かすために、金を必要とした。 
 ボルシェヴィキたちは、さまざまな方法で、ある者は伝来的方法で、別の者は高度に非伝来的な方法で、金を確保した。//
 一つの源は、奇矯な金持ちの産業家であるザッヴァ・モロゾフのような、裕福な共調者(シンパ)たちだった。モロゾフは、一月あたり2000ルーブルをボルシェヴィキの金庫に寄付した。
 モロゾフがフランスのリヴィエラ地方で自殺したあとで、彼の生命保険方策の被信託人として仕えていたマクシム・ゴールキの妻によって、彼の遺産から別の6万ルーブルが、ボルシェヴィキへと移された。(92)
 他にも寄贈者はいた。中でも、ゴールキ、A・I・エラマゾフという名の土地管理専門家、ウーファ地方の土地不動産を管理するアレクサンダー・ツィウルーパ(この人物は1918年にレーニン政権の供給大臣になる)、元貴族院議員の妻でストルーヴェの親友だったアレクサンドラ・カルミュイコワ、女優のV・F・コミッサールゼフスカヤ、その他、今日まで名前が分からないままの者たち。(93)
 紳士淑女気取りからするこれらの後援者(パトロン)たちは、根本的には彼らの利益を害するはずの教条のために援助した。レーニンの近い仲間だったレオニード・クラージンはこの当時に、つぎのように書く。
 『革命的党派に金銭を寄付することは、多かれ少なかれ過激なまたはリベラルなサークルでは、育ちの良さ(bon ton)の徴しだと見なされた。5から25ルーブルを定期的に納める寄付者の中には、有名な弁護士、技術者および医師のみならず、銀行の重役や政府組織の官僚もいた。』(94) 
 社会民主党のそれとは別に独立して作動していたボルシェヴィキの金庫の管理は、三人のボルシェヴィキ『中央』の手にあった。これは1905年に形成され、レーニン、クラージンおよびA・A・ボグダーノフから成っていた。 
 まさにこれの存在自体が、ボルシェヴィキの幹部および一般党員からはずっと秘密にされていた。//
 悔い改めたふうの『ブルジョア』たちからの献金ではしかし、不十分であることが判り、1906年早くにボルシェヴィキは、心地よくない手段、人民の意思やエスエル過激主義者が編み出したと思われる考え、に頼った。 
 多額のボルシェヴィキの財源は、それ以来、犯罪活動、とくに婉曲的表現では『収用』として知られる拳銃強盗から来ていた。
 彼らは大胆に急襲して、郵便局、鉄道駅、列車、銀行から強奪した。
 悪名高きティフリスの国有銀行強盗(1907年6月)では、25万ルーブルを強奪した。そのかなりの部分は、連続番号が登録された500ルーブル紙幣の束だった。
 このような略奪の成果品は、ボルシェヴィキの金庫へと移された。
 上の結果として、盗んだ500ルーブル紙幣をヨーロッパで両替えしようとした何人かの人間が逮捕された-その全員が(その中にはのちのソヴェト外務大臣、マクシム・リトヴィノフがいた)、ボルシェヴィキ党員であることが判明した。(95)
 この活動を監督していたスターリンおよび他の関係者は、社会民主党から除名された。(96)
 このような活動を非難する1907年党大会の正式決定を無視して、ボルシェヴィキは、ときにはエスエル党と協力しながら、強盗犯罪を行ない続けた。
 このような方法で、彼らは多額の金を獲得した。これは、相変わらず金欠症のメンシェヴィキに対して、ボルシェヴィキをかなり有利な立場にするものだった。(97)
 マルトフによると、犯罪の成果物のおかげで、ボルシェヴィキはペテルスブルクやモスクワの自分の組織に、それぞれ毎月1000から500ルーブルを送ることができた。この当時、合法的な社会民主党の金庫には、一月で100ルーブルを超えない党員費からの収入が入っていたのだが。
 1910年に、被信託人として仕事する三人のドイツ社会民主党の党員に金を差し出さなければならなくなって、この財源の流れが干上がってしまうや否や、ボルシェヴィキのロシア『委員会』は、薄い大気の中へと消滅した。(98) //
 このような秘密活動の全般的な指揮権は、レーニンの手のうちにあった。しかし、この分野の最高司令官は、いわゆる技術者集団(Technical Group)を率いるクラージンだった。(99)
 職業上は技術者であるクラージンは、二重生活をおくっていた。外面上は、善良なビジネスマンだが(モロゾフのために働くとともに、AEGやジーメンス・シュッケルトというドイツの商社にも勤めていた)、自由時間にはボルシェヴィキの地下活動へと走った。(*)
 クラージンは、爆弾を集めるために秘密の研究室を利用していて、その爆弾の一つはティフリスの強盗で使われた。(100) 
 ベルリンで彼は、3ルーブル紙幣の偽造紙幣作りも行なった。
 クラージンは、鉄砲火薬の密輸入にも従事した。-ときには純粋に商業的理由だったが、ボルシェヴィキの金庫の金を生み出すために。
 技術者集団は、場合によっては、ふつうの犯罪者たちとも取引した。-例えば、ウラル地方で活動する悪名高きルボフ団(ギャング)で、この団体には数十万ドルの価値がある武器を売った。(101) 
 このような活動は不可避的に、ボルシェヴィキ党員たちの中に、『教条』が犯罪生活の口実に使われるという、翳りのある要素を持ち込んだ。//
  (*) この電気製品商社がクラージンを雇ったのは、偶然ではなかったかもしれない。 
 1917年のロシアの反諜報活動(counterintelligence)の長によれば、ジーメンスはスパイ目的で工作員を使っており、ロシア南部のその支店が閉鎖されるに至った。[文献、省略]
 ---
 ②へとつづく。

1459/レーニンと農民・民族-R・パイプス著9章7節。

 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 
第7節・レーニンの農民・民族問題に関する綱領。
 1905年と1914年の隙間の期間、レーニンは、その他の社会民主主義者によって採択されたのとはつぎの二つの点で異なる、革命の綱領を発展させた。すなわち、農民の問題と、少数民族の問題。
 党派間の差違は、メンシェヴィキは解決について考えたが、レーニンの関心はもっぱら戦術にあった、ということに由来した。つまり、レーニンは、革命を促進する目的で、不安の源泉を自らのものとして活用することを望んだ。
 すでに記したように、彼は1905年以前に、つぎのように結論していた。社会民主主義者は、産業労働者の数がロシアでは大きな意味をもたないことを見れば、『反革命的』と見なす『ブルジョアジー』を除いて、専制体制に反抗する全てのグループを闘いへと惹き付けて指導しなければならない。闘いに勝利したあとでは、一時的な同盟関係を解消するときがあるだろう。//
 マルクスとエンゲルスのそれによれば、農民に関する社会民主党の伝統的な見方は、つぎのようなものだ。土地を持たないプロレタリアートというありうる例外を除いて、農民は反動的な(『プチ・ブルジョアの』)階級だ。(85)  
 しかし、1902年の農業騒乱の間のロシア農民の行動を観察して、またロシア農民の地主財産に対する攻撃がもつ帝制崩壊への寄与の程度に着目して、レーニンは、つぎのように結論づけた。小作農民(muzhik)は、一時的だとしても、産業労働者の自然の同盟者だ、と。
 レーニンに都合のよいことには、党は、いわゆる otrezki 、1861年の解放令が責任を逃れるか必要とする分け前の一部になるかという選択肢を与えた土地、を補填するということのみを農民に約束する公式の綱領をさらに超えて進まねばならなかった。
 彼は、血の日曜日の後でヨーロッパへに逃亡していたガポンときわめて長く会話して、ロシア農民の気質(mentality)について多くのことを学んだ。クルプスカヤによれば、ガポンは農民の要求に習熟していて、レーニンは、彼を社会主義に転向させることを試みたほどに親しくなった。(86)
 レーニンは、このような観察と会話から、『プチ・ブルの』、『反革命的な』素質をもつ者たちを支援することを意味するとしてすら、社会民主党は農民に地主財産の全てを約束しなければならないという、オーソドクスでない見解を抱くようになった。社会民主党は、事実上、エスエル(社会主義革命党)の農業問題綱領を採用しなければならなかった。
 レーニンの綱領では、農民は今や『プロレタリアート』の主要な同盟者として、リベラルな『ブルジョアジー』に取って代わる。(87)
 彼の支持者たちの『第三回大会』で、レーニンは、地主財産を農民が獲得することを支持する条項を提案し、裁可させた。
 詳細を仕上げたあとでは、ボルシェヴィキの綱領は、私有または共同体所有の全ての土地の国有化、およびそれらの農民による耕作、ということになった。
 レーニンは、土地国有化は農民が土地は国家財産だと考えるようになったロシア歴史の『中国的な』伝統を促進するというプレハーノフの反対に直面しても、この綱領に執着した。 
 しかしながら、農民に関する綱領の出発点は、1917年遅くかつ1918年早くに、権力への闘争の深刻な局面の期間に、農民を宥和するためにボルシェヴィキにとって大きな価値をもつものだった、ということが証されることになる。//
 レーニンの農業問題綱領は、自立した保守的な農民階級を生み出すと約束した(あるいは別の視点からすれば脅迫した)ストリュイピンの改革によって危うくなった。 
 まさに現実主義者(リアリスト)のレーニンは、1908年4月につぎのように書く。ストリュイピンの農業改革が成功すれば、ボルシェヴィキはその農業に関する基盤を放棄する必要があったかもしれない、と。//
 『こんな政策は「不可能だ」と言うのは、空虚で馬鹿げた、民主主義的言葉商人的だ。可能だ!…。 
 大衆の闘いにもかかわらず、ストリュイピンの改革が『プロシア』モデルを勝利させるほどに長く続いたら、いったいどうなるのだ。
 ロシアの農業秩序は完全にブルジョア的なものに変わり、より強くなった農民たちは共同体の土地から分け前の全てを奪い、農業は資本主義のものになり、そうして<資本主義>のもとでは-過激かどうかはどちらでも-農業問題のいかなる解決もありえないだろう。』(88)
 この言明には、奇妙な矛盾がある。マルクスによれば資本主義は自らを破壊する種子をうちに胚胎していると想定されたので、大群の土地なきプロレタリアートが増大するロシア農業の資本主義化は、革命家が『農業問題』を『解決』するのを不可能にというより容易にするはずのものだった。
 しかし、われわれが知るように、レーニンの恐れはいずれにせよ根拠がないものだと判る。というのは、ストリュイピンの改革はロシアの土地所有の性格をほとんど変更せず、内心では反資本主義のままの muzhik〔小作農民〕の気質を全く変えなかったのだから。//
 レーニンは、民族問題についても、破滅的な接近方法をとった。 
 社会民主主義の仲間うちでは、ナショナリズムは労働者を階級闘争から引き剥がして大国家の破壊を促進する反動的なイデオロギーだ、ということが真正なものだった。
 しかしレーニンは、帝国ロシアの人口の半分が非ロシア人であり、そのある程度は強い民族意識を持っていて、ほとんど全てがより強い領土的かつ文化的な自主的政府を望んでいることにも、気づいていた。
 1903年の公式の綱領は、農民問題についてと同様にこの論点についても、きわめて微少なことしか述べていなかった。少数民族に対して、公民的平等、母国語での教育、地方の自治を提示していた。そのあとで、『全ての民族の自己決定権』という曖昧な定式が、具体的なことは何もなくして、述べられていた。(89)//
 レーニンは1912-13年に、これでは十分でない、と結論した。たしかにナショナリズムは階級矛盾が増大する時代には反動的な力でありおそらくは時代錯誤的なものだが、それが一時的に現れてくるのをまだ認めなければならない。 
 したがって、社会民主党は、農民が私的土地を要求する場合と全く同様に、それ〔ナショナリズム〕を条件つきのかつ一時的なという前提で利用する用意をしなければならない。//
 『ナショナリズムは、<現にある>敵に反抗する同盟者を支えるものだ。社会民主党は、共通する敵を崩壊させるのを速めるために、この支えについて定めなければならない。しかし、この一時的な同盟に<何も>期待しないし、いっさい譲歩しない。』(90)
 綱領による定式化を吟味して、レーニンは、東ヨーロッパの社会主義者には周知の二つの解決方法を拒絶した。すなわち、連邦主義と文化的自治を。前者は大国家の解体を促進するという理由で、後者は民族の差違を制度化するという理由で。
 レーニンは長い逡巡ののちに1913年に、最終的に、民族問題に関するボルシェヴィキ綱領を定式化した。
 それは、社会民主党の綱領上の『民族の自己決定権』の公式を独特に解釈して、一つの意味、そしてそれだけの意味をもたせる、という考えに依拠していた。主権ある国家から脱退する、かつそのような国家を形成する、全ての民族集団の権利。
 この定式は独立主義を助長すると彼の支持者たちが抗議したとき、レーニンは彼らを安心させた。 
 第一に、ロシア帝国の多様な地域をますます一つの経済全体へと融合させている資本主義の発展の勢いは、分離主義を抑止し、究極的にはそれを不可能にさせる。
 第二に、自己決定という『プロレタリアート』の権利は、民族の権利につねに優越する。このことは、想定とは逆に、非ロシア人が分離するならば、力でもって再統合されることを意味する。
 少数民族に全か無かの選択肢を提示することによって、レーニンは、(ポーランド人とフィンランド人を除く)ほとんど全ての彼らがその選択肢の間を望んでいる、という事実を無視していた。 
 彼は、少数民族が分離することなくロシア人と同化することを、完全に期待した。(91)
 レーニンは、デマゴギー的なこの定式を利用して、1917年によい結果を残した。//
  (87) John L. H. Keep, ロシアにおける社会民主主義の成立 (1963), p.194-5。
  (89) リチャード・パイプス, ソヴェト同盟の形成-共産主義とナショナリズム, 1917-23 (1954), p.31-p.33。
 
--- 
 第8節につづく。

1458/メンシェヴィキと決裂③-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
 ---
 二つの分派の民族構成について述べると、ボルシェヴィキは、主として大ロシア人だ。一方、メンシェヴィキは、ほとんど非ロシア人で、とくにジョージア人とユダヤ人を惹き付けた。
 社会民主党の第2回大会の際、レーニンを支持したのは主として中央部-つまり大ロシア人の-地域から選出された代議員たちだった。
 第5回大会の際(1907年)、ボルシェヴィキのほとんど5分の4(78.3%)は大ロシア人で、一方、メンシェヴィキのその比率は、3分の1(34%)だった。
 ボルシェヴィキのほぼ10%が、ユダヤ人だった。メンシェヴィキ党員の中での彼らの割合は、これの二倍多い。(77)(*) //
 初期のボルシェヴィキ党は、かくして、つぎのように特徴づけられる。(1) 構成において相当に農村的 (rural)で、党員たちは、『かなりの程度、田園地帯に生まれるかそれとの関係をまだ残したままの者たち』に引き摺られていた、(2) 『圧倒的に大ロシア人的』で、大ロシア人が生活する地域を基盤としていた。(78)
 言い換えると、ボルシェヴィキの社会的および文化的な根源(ルーツ)は、農奴制時代の最も古い伝統をもつ集団および圏域にあった。// 
 しかし、二つの党派には共通する特質もあった。そのうち最も重要なのは、代表すると謳う社会集団である、産業労働者との関係の希薄さだ。
 1880年代のロシアでの社会民主主義の出現以来、労働者は社会主義知識人を、相反する気持ちで見ていた。
 未熟および半熟練労働者は、知識人とは皇帝に私的な仕返しをすべく彼らを使用する紳士たち(『白い手』)だと考えて、完全に社会民主主義を避けた。
 彼らは、社会民主党の影響に感染しないままだつた。
 より教養があり、より熟達した、政治的意識のある労働者は、社会民主党をしばしば、それに指導される用意はないままで、仲間であり支援者であると見なした。彼らは通常は、政党政治よりも労働組合主義を選んだ。(79)
 以上の結果として、社会民主党組織における労働者の数は、微少でありつづけた。
 マルトフは、革命がすでに十分に進行していた1905年の前半に、ペテログラードのメンシェヴィキには1200から1500人の、ボルシェヴィキには『数百人』の積極的な労働者支持者があると、見積もっている。-これは、20万人以上の産業労働者のいる帝国の最も産業化した都市でのことだ。(80)
 1905年の末のペテログラードで、、二つの党派には合わせて3000人の党員がいた。(81) したがって、事実上は、メンシェヴィキもボルシェヴィキも、知識人の組織だった。 
 1914年に発行された書物でのこの点に関するマルトフの観察によれば、二月革命の後に出現すると予想される状況は、つぎのとおりだった。//
 『1905年の推移から広い範囲で積極的に活動することを現実に可能ならしめたペテログラードのような都市で、…党の組織には、中央集中の組織的活動を実行する『職業人』労働者および自己啓発のために党活動に入った若者労働者だけが残っている。
 政治的により成熟した労働者は、組織の外にいるままであるか、組織やその中央と大衆との間の関係に最も有害な影響を与えるものの一部だとだけ計算されている。 
 同時に、知識人が大量に党に流入することは、組織形態を知識人の生活条件(休暇、「陰謀」に時間をさく可能性、監視を避けるのに適した都市の中心区画の住居)に最もよく適合させたとしても、高い部分の(社会民主党の)組織の全てに知識人が充満することに帰結するだろう。これは、つまるところ、組織が大衆運動から心理的に離別するということだ。
 したがって、「中央と外縁」の間での果てしない衝突や軋轢、および労働者と知識人との間の嫌悪感の増大は、…。』(82) 
 実際に、メンシェヴィキは労働者運動と自らを同一視するのを好んだとしても、二つの党派は、労働者による干渉のない運動を行うことを選んだ。ボルシェヴィキは原理として、メンシェヴィキは生活実態への反応として。(83)
 マルトフは正しく、このような現象に注目していた。しかし、ロシアでは民主主義的な社会主義運動は、労働者のためのみならず労働者によっても行われなければ成功しない、という明白な結論を導き出さなかった。//
 これと似たようなことがあったとしても、メンシェヴィキとボルシェヴィキがともに力を合わせることが期待されえたかもしれない。 
 しかし、それは起こらなかった。友人感情はあったにもかかわらず、二つの党派は、同じ信仰の宗派としての全情熱をかけてお互いに闘い、分離していった。
 レーニンは、社会主義の教条と労働者階級の利益に対する裏切り者だとメンシェヴィキを非難することにより、メンシェヴィキから離別する機会を逃さなかった。
 苦い嫌悪感は、イデオロギーに由来するというよりも、人間的な理由からだった。//
 革命の崩壊から目覚めた1906年までに、メンシェヴィキは中央指向の、厳格な規律ある、陰謀的な政党を呼びかけるレーニンの綱領の採択に同意した。
 二党派の戦術観ですら、一致していなくはなかった。 
 例えば、両党派は、1905年12月の失敗したモスクワ蜂起を支援した。
 1906年に彼らは、アクセルロッドが提唱した労働者大会の考えを、党の規律違反だと一致して非難した。(84)
 些細な、しばしば学者的な違いが二つの党派の間にあったとしても、再統合を妨げたのは、権力を志向した、レーニンの尊大な欲望だった。それは、服従者以外のいかなる役割においても、彼とともに活動することを不可能にしたのだ。//  
  (*) スターリンは、このような実態から逃れられなかった。スターリンが出席した第5回大会に言及して、彼はつぎのように書いた。
 『統計は、メンシェヴィキ派の最大多数はユダヤ人から成っている…ことを示している。他方、ボルシェヴィキ派の圧倒的多数は、ロシア人から成っている…。これに関係して、あるボルシェヴィキは冗談で(これはアレクジンスキー同志のように思える)、メンシェヴィキはユダヤ人党派で、ボルシェヴィキは純粋なロシア人党派だ、ゆえに、われわれボルシェヴィキが党の綱領を組織化するという考えは悪くないだろう、と語った。』
 スターリン, …〔省略〕参照。
 ---
 第7節につづく。

1455/メンシェヴィキと決裂②-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
 ---
 ソヴェトの出現を、レーニンは懐疑的に見ていた。というのは、ソヴェトは非パルチザンの労働者組織で、政党による統制の外にいるものだと、考えられていたからだ。労働者階級の融和主義者的な傾向を考えると、レーニンやその支持者たちには、ソヴェトは信頼できるものではなかった。
 ソヴェトが形成されたとき、いくらかのペテログラードのボルシェヴィキは、労働者に社会民主党に対する労働者組織の優位を認めれば、『任意性という意識に従属すること』-いい換えると、労働者を知識人の上に持ち上げること-を意味するだろうという理由で (70)-、ソヴェトをボイコットするように呼びかけた。  
 レーニン自身は、ソヴェトの機能や有用性を全く決定できなかったが、より柔軟だった。
 1906年のあとで結局、彼は、ソヴェトは有用だが、『革命軍』の協力者としてのみだ、と決定した。
 ソヴェトは革命(『暴乱』)に不可欠だが、それ自体だけでは何も役立たない。(71)
 レーニンはまた、自主規律をもつ組織だとソヴェトを見なすことも拒否した-ソヴェトの働きは、厳格な規律の武装分遣隊が実行する暴乱の『道具』として役立つことだ。//
 1905年革命の勃発とともに、彼は党の主要な部分から離れて、公然と自分自身の組織を形成するときがきた、と決心した。
 1905年4月に、レーニンはロンドンに、社会民主党の正当ではない『第三回大会』を招集した。代議員のすべて(38名)が彼の党派の構成員だった。
 クルプスカヤは、つぎのように言う。//
 『第三回大会には労働者はいなかった-とにかく、少しでも目立つ労働者は一人もいなかった。 
 しかし、大会には、多数の「委員会の者たち」がいた。
 第三回大会のこの構造を無視すれば、多くのことはほとんど理解できないだろう。』(72) 
 レーニンには、このような友好的会合で自分の全ての決定が裁可されるのに何の困難もなかった-その諸決定は、正当な社会民主主義労働者党-翌年のストックホルムでの決定でこう明確にされた-を拒絶した。
 第三回大会は社会民主党の正式な分裂の始まりという画期をなすものだった。それは、1912年に完了する。//
 レーニンは、1905年11月早くにロシアに戻って、翌月のモスクワ蜂起の準備を進めた。だが、射撃が始まるや否や、彼は姿を消すということになった。 
 モスクワでバリケードが築き上げられた翌日に(1905年12月10日)、彼とクルプスカヤはフィンランドに避難した。
 彼らは12月17日に帰ってきたが、それは蜂起が敗北したあとだった。//
 1906年4月に、ロシア社会民主党の二つの分派は、ストックホルムの大会で気乗りのしない再統一の試みをした。
 レーニンはここで中央委員会での多数派を獲得しようとし、失敗した。
 彼はまた、多くの実際的な案件についても敗北した。大会は、武装分遣隊の創設と武装暴乱の考えを非難し、レーニンの農業問題綱領を拒否した。
 レーニンは怯むことなく、メンシェヴィキからは秘密に、非合法で内密の『中央委員会』(『事務局(ビュロー)』の後継機関)を、彼の個人的指揮のもとに形成した。
 最初は明らかに3人で構成されていたようだが、1907年には15人へと増加した。(73)//
 1905年の革命の間とそのあとに、数万人の新たな支持者が入党に署名し、社会民主党の党員は多方面で増加した。そのうち最も多いのは、知識人だった。 
 二つの分派は、このときまでに、異なる様相を呈していた。(74)
 1905年のボルシェヴィキには8400人の党員がいた、と見積もられている。それは大まかには、メンシェヴィキや同盟主義者(Bundists)と同じ数だった。 
 1906年4月にあった社会民主党のストックホルム大会は、3万1000人党員を代表し、そのうち、1万8000人はメンシェヴィキで、1万3000人はボルシェヴィキだったと言われる。
 1907年には、党は8万4300人の党員を擁するように成長し-この数字は、立憲民主党(カデット)とほぼ同じだった-そのうち4万6100人はボルシェヴィキ、3万8200人はメンシェヴィキだった。また、2万5700人のポーランド社会民主党、2万5500人の同盟主義者および1万3000人のラトヴィア社会民主党が連携していた。
 この数字は、増大する波の最頂点の記録だった。 
 1908年に脱退が始まり、1910年のトロツキーの見積もりでは、ロシア社会民主党は、1万人かそれ以下の党員数へと衰退した。(75) //
 メンシェヴィキ、ボルシェヴィキの各分派の社会的および民族的な構成は、異なっていた。  
 両派が惹き付けた上級階層者(gentry, dvoriane)の割合は不均衡だった-全国民中の dvoriane の割合は1.7%であるのに対して、20%だ(ボルシェヴィキについてはさらに多く、22%。メンシェヴィキはやや少なくて、19%)。
 ボルシェヴィキの党員の中には、かなり高い割合で、農民がいた。38%は、この農民グループの出身で、これと比べると、メンシェヴィキの場合は26%だった。(76)
 彼らは社会主義革命党(エスエル)を支持する耕作農民ではなく、仕事を求めて都市に移ってきた、基盤なき、階級を失った農民たちだった。 
 この社会的過渡期の構成要素は、ボルシェヴィキ党派に多数の中枢党員を提供することとなり、ボルシェヴィキの精神性(mentality)に多大の影響を与えた。
 メンシェヴィキは、より多く、低層階級の都市居住者(meshchane)、熟練労働者(例えば、印刷工、鉄道従業員)および知識人や専門職業人を惹き付けた。//
  (73) Schapiro, 共産党, p.86, p.105。 
  (74) 以下の情報は、多くは、D. Lane, The Roots of Russian Communism 〔ロシア共産主義の根源〕(1969) から抜粋している。
  (76) D. Lane, 根源, p.21。
 ---
 ③につづく。

1453/メンシェヴィキと決裂①-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第6節・メンシェヴィキとの最終的な決裂 〔p.361-p.363.〕

 ボルシェヴィキとメンシェヴィキのいずれも、1905年の革命の過程にさしたる影響力を与えなかった、ともかくも、最終の局面までは。
 社会民主党は1905年の暴力に喫驚し、その年のたいていの活動を、声明文の発行と彼らの統制を超えて広がる不安の煽動に限定した。
 1905年10月にようやく、ペテログラード労働者代表者ソヴェトが設立されたことに伴い、メンシェヴィキは革命における積極的な役割をはたした。だが、それ〔首都のソヴェト〕がリベラルな者たちとリベラルな綱領によって支配されるまでだった。//
 レーニンは直接にはこの出来事に関係しなかった。というのは、トロツキーやパルヴスと違って、彼はスイスという安全な場所からその出来事を観察していることを選んでいたので。慎重に判断して、11月初めにようやくロシアに戻った。そのあと、政治犯の恩赦の発表があった。 
 レーニンは、1905年1月はロシアでの幅広い革命の開始の画期となるものだと考えた。
 リベラルな『ブルジョワジー』から最初の起動が生じているが、この階級は推移のどこかで確実に屈服し、帝制と取引きするだろう。
 したがって、社会民主党が完全な勝利にまで責任をもち、労働者を指導することがきわめて重要だ。//
 レーニンにはつねにマルトフのいう『アナクロ-ブランキズム』へと傾く嗜好はあったにもかかわらず (66)、彼は自分の行動綱領を理論的に正当化するものを持っておく必要があった。
 彼はこれを、パルヴスの小論に見出した。それは、血の日曜日に直接の影響をうけた1905年1月に書かれたものだった。
 パルヴスの『連続(uninterrupted)』(または『永久(permanent)』)革命理論は、社会主義に先行する『ブルジョア』の支配の別個の段階があるという、オーソドクスなロシア社会民主主義の原理と、レーニンが一時的には選択したがマルクス主義と一致させることができなかった『直接の強襲』というアナーキストの理論との間に、幸福な妥協を提供するものだった。
 パルヴスは『ブルジョア』段階を認めたが、それは同時に進行するはずの社会主義の段階と時間的に区別することができないものだ、と主張した。(*1)
 このような見通しのもとでは、反専制体制の革命がひとたび勃発すれば、『プロレタリアート』(社会民主党のことを意味する)は権力掌握へとすぐに進むことになる。
 この理論が正当であるのは、ロシアには、西欧ではブルジョアジーを支援し鼓舞する過激な低中間階層が、存在していない、ということだ。
 裸の場所にいるロシアのブルジョアジーは、革命が達成されるのを許さず、それを途中で阻止するだろう。 
 社会主義者は、帝制崩壊につづくはずの内戦に向けて、大衆を組織する準備をしなければならない。 
 成功するための必須条件の一つは、党がその同盟者と区別される一体性を維持しつづけることだ。『ともに闘え、だが別々に進もう』。
 パルヴスの考え方はロシアの社会民主主義者に、とりわけレーニンとトロツキーに、大きな影響を与えた。『ロシアの運動の歴史上はじめて、プロレタリアートは、政治権力を掌握するのと同時に…臨時政府を形成する、という理論命題へと前進した。』(67)// 
 レーニンは、新しい考えや戦術を持ち出して運動における彼の優位性に挑戦するものが出てくればいつでもそうだったように、最初はパルヴス理論を拒否した。  
 だが彼は、すみやかに同調した。 
 1905年9月に、レーニンはパルヴスに賛同してつぎのように書いた。//
 『…民主主義革命のすぐあとに、さらに前進し始めるだろう、われわれの力が…社会主義革命に到達するのを認める地点まで。
 われわれは、連続革命を支持する。
 われわれは、中途で止まることはない。』(+) //
レーニンの見方によれば、社会主義革命は、ただ一つの形態でのみ生起しうる。すなわち、武装蜂起。
 彼は、都市圏域でのゲリラ行動の戦略と戦術を知るために、武装蜂起の歴史を懸命に研究した。きわめて役立ったのは、とくに、パリ・コミューンの軍事司令官、ギュスターヴ・クルセレットの回想録だった。 
 学んだことは、ロシアの支持者たちに伝えた。 
 1905年10月にレーニンは、革命軍の分遣隊を作るように彼らに助言した。その構成員は、つぎのような武装をするものだった。//
 『鉄砲、回転式連発拳銃、爆弾、ナイフ、真鍮製肘、棒、点火できるように灯油を染みこませた布きれ、ロープまたは縄はしご、バリケードを作るためのシャベル、綿火薬製の厚板、棘のある鉄線、(騎兵軍に対する)釘、およびその他…。
 武器がなくても、分遣隊はつぎのことにより、重要な仕事をすることができる。(1)群衆を指揮する、(2)一団から離脱したコサックを攻撃する(モスクワで起きたことのように)、(3)警察力がきわめて弱体であれば、拘束されたり負傷した者を救済する、(4)家屋の屋根や最上階に登る、など。そしてまた、兵団へと投石すること、彼らに熱湯を浴びせること、など。
 スパイ、警察官、憲兵の殺戮。警察署の爆破…。』(68)
 武装闘争の側面の一つは、テロリズムだった。
 ボルシェヴィキは名目上はテロルを否定する社会民主主義の基盤を支持していたが、実際には、自分たちで、および過激主義者(Maximalist)を含むエスエル(社会主義革命党)と共同での両方で、テロルをおこなっていた。
 原則として、この活動は秘密裏に組織された。しかし、場合によれば、ボルシェヴィキは支持者に対して公然と、テロルを奨励した。
 かくして、ワルシャワで警察官を射殺したポーランドの社会主義党の例を引用すれば、1906年8月に彼らは、『スパイ、黒い百(the Black Hundreds)の積極的支持者、警察官、陸海軍の武官、その他』に対する攻撃を命じた。(*2) //
  (*1) パルヴスは、トロツキーの冊子の前書きで、『連続』または『永久』革命の理論を最初に定式化した(但し、この両語を用いてはいない)。〔関係文献、省略〕
  (+) Wolfe も Schapiro も、この言明はレーニンの一面の異常性だ、その理由は、レーニンはその後には、多くの場合はロシアは『資本主義』と『民主主義』の段階を迂回することはできない、と語ったからだ、と考えている。しかし、1917年のレーニンの行動が明らかにするだろうように、彼は『民主主義』革命の考えに対して口先だけの支持を示しただけだ。すなわち、レーニンの真の戦略は、『ブルジョア』民主主義から『プロレタリアート独裁』への即時の移行を呼びかけることだった。
  (*2) その工作員たちがボルシェヴィキ問題に関する情報を維持した The Okhrana は、二月革命のすぐ前に、レーニンはテロルに反対していないが、エスエルはテロルに重要性を認めすぎていると考えている、と報告した。この報告の日付は、1916年12月24日、1917年1月6日。Hoover研究所のOkhrana 資料…。のちに記すように、彼の組織は、テロル活動のための爆発物をエスエルに提供した。  
 ---
 ②へとつづく。

1451/ボルシェヴィズム登場②-R・パイプス著9章5節。

 前回のつづき。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第5節・ボルシェヴィキの出現 〔p.358-p.361〕 ②
 レーニンは〔党組織に関する〕その考えを、1902年3月刊行の<何をなすべきか ?>で周知させた。 
 この本はその当時まで練り上げられたもので、社会民主主義的語彙でもって人民の意思の考えを粉飾したものだった。
 彼はこの本で、帝制打倒に身を捧げる全日活動の職業的革命家から成る、規律厳しい、中央に集中した党の創立を呼びかけた。
 レーニンは政党『民主主義』の観念を、労働者運動は自然の推移をたどって大衆の革命を実行するだろうとの信念とともに、却下した。自身たちのための労働者運動には、労働組合主義を実践する能力しかない。
 社会主義と革命的熱情は、外から労働者に注入されなければならない。『意識性』が『任意性』に圧倒的に優先しなければならない。
 労働者階級はロシアで少数派なので、ロシア社会民主主義者は、闘争の中に暫定的同盟者として他の階級を巻き込まなければならなかった。
 <何をなすべきか ?>は、名前こそ正統派マルクス主義のものだが、マルクス主義の原理の基礎的教義を転倒させ、社会民主主義の民主主義的要素を拒否するものだった。
 にもかかわらず、人民の意思の古い伝統がまだ残って生きていて、プレハーノフ、アクセルロッドやマルトフの遅延戦術に我慢ができなくなっているロシアの社会主義知識人に対して、きわめて大きな印象を与えた。
 この当時、のちの1917年のように、レーニンの魅力の多くは、つぎのことに由来していた。すなわち、平易な言葉を使って文章を書いたこと、そして、ライバルの社会主義者たちの考えを行動綱領に転化したことだ。彼らは、信念を維持する勇気を欠いて、多くの条件にむしろ束縛されていた。//
 レーニンの非正統的なテーゼは、1902-3年に激しい論争の対象になった。そのとき、社会民主主義者は、きたる党の第二回大会の準備をしていた-その名にかかわらず、政党の設立総会となる予定の大会だ。
 イデオロギー上の違いが混じり、しばしば指導権をめぐる個人的闘争の外観も呈した争論が勃発した。
 プレハーノフに支持されたレーニンは、幹部や一般の党員が中央に服従する、より中央に集中した組織を作ることを要求した。一方で、のちにメンシェヴィキの指導者になるマルトフは、『党組織の一つの一定の方向のもとで、党に対して定期的に個人的な協力をする』者は誰でも受け入れる、より緩やかな構造を求めた。(60) //
 第二回大会は1903年7月にブリュッセルで開催された。51の投票権をもつ、43人の代議員が出席した。(*)
 労働者だったと言われる4名以外の全員は、知識人だった。 
 レーニンへの対抗派を率いるプレハーノフが、いつも多数を獲得した。だが、彼〔プレハーノフ〕がその対抗者と協力してユダヤ人同盟に党内で自治的な地位を与えるのを拒否し、5名の同盟員たちが〔会場外へ〕歩き去り、2名の経済学者の代議員がそれに続いたとき、プレハーノフは、多数派の支持を喪失した。
 レーニンはすぐさま、中央委員会の支配権を掌握する機会を利用し、その機関である<イスクラ>の大勢を確保した。
 この場合のレーニンの呵責のない方法と策略は、彼と他の党リーダーとの間に、きわめてひどい悪感情を惹起することになった。
 そのとき、そしてその後でも、一体性の表装(ファサード)を維持するための多くの努力がなされたけれども、分裂は、実際上、修復不能になった。解消されえたイデオロギー上の差違はさほど大きな理由ではなく、個人的な嫌悪感から生じていた。 
 レーニンは、自分の党派のためにボルシェヴィキの名を、『多数派』を意味する名を要求する瞬間を掴んだ。
 この名前は、第二回大会のあとですぐに生じたことだが、少数派になったことが分かった後でも、維持された。
 これはレーニンに、党の最も人気のある分派の指導者として立ち現れる利益をもたらした。
 『正統な』マルクス主義者だというポーズを、彼はずっととり続けた。これは、正統派を最高の美徳だと、そして異派を変節だと見なす宗教的感情のある国では、重要な魅力だった。
 党の歴史のつぎの2年間(1903-5年)は、悪質な計略で満ちていた。それらは、関係者の人間性を明らかにする点を除けば、大した関心の対象ではない。
 レーニンは、断固として、党を彼の意思に従属させようとした。かりにできないとなれば彼は、党のカバーのもとに彼の個人的支配が及ぶ平行組織を設立することを準備していた。
 1904年末までに実際、レーニンは、『党多数派の委員会事務局』と呼ばれる『中央委員会』をもつ彼自身の党派を持った。
この行為を理由として、彼は正当な中央委員会から追放された。(61)
 レーニンが少数派である場合には、正当化されていない平行機関を、信奉者が集まる同じ名前の平行機関を設立することによって、正当な諸機構を弱体化させる戦術をとった。このような戦術を彼は、1917-18年には権力の別の中心、とりわけソヴェト、に対して適用することになる。//
 1905年の革命が勃発するときまでに、ボルシェヴィキの組織は定まった。//  
 『指導者、つまりレーニンに対する個人的な忠誠と結合した、かつまたその指導が十分に過激で極端であるかぎりいかなることがあってもレーニンに服従する意思をもつ、そういう陰謀家たち一団が集結した、職業的な委員たちの厳しい規律ある秩序』。(62)
 対抗者たちは、レーニンはジャコバン主義者だとして責め立てた。トロツキーは、つぎのように記した。ジャコバン派のようにレーニン主義者たちは、大衆の『任意性(随意性)』を恐れた、と。(63)
 この攻撃に動揺することなく、レーニンは誇らしげに、ジャコバンという称号は、自分自身のためにある、と言った。(64)
 アクセルロッドは、レーニン主義はジャコバン主義ですらなく、『内務省の官僚専政制度の模写か戯画であるにすぎない』と考えた。//(65)
  (60) Leonard Schapiro, ソヴェト同盟の共産党 (1960), p.49。
  (*) この月の末には、ロシアとベルギーの警察による監視を避けて、大会はロンドンへと移った。
  (65) 1904年6月のカール・カウツキーへの手紙。A. Ascher, Pavel Axelrod and the Development of Menshevism (1972) p.211.から引用。
 ---
 第6節につづく。

1450/ボルシェヴィズム登場①-R・パイプス著9章5節。

前回のつづき。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第5節・ボルシェヴィズムの出現
 〔p.358-p.361〕
 産業労働者はもともと非革命的で実際は『ブルジョア的』だ、そしてブルジョアジーは『反革命的』だ、と結論づけたレーニンには、二つの選択肢があった。
 一つは、革命を起こす考えを放棄することだ。
 しかし、先に述べた精神的な理由から、レーニンはこれを選べない。彼にとって革命は、目的のための手段ではなく、目的そのものなのだ。
 もう一つは、大衆の意思を顧慮することなく、陰謀とクー・デタによって上から、革命を実行することだ。 
 レーニンは、後者を選んだ。1917年7月に、つぎのように書くことになる。
 『…革命の時代には、「多数者の意思」を見出すことでは十分ではない。-ちがう。決定的瞬間に、決定的場所で、「より強く」なければならず、「勝利」しなければならない。
 中世ドイツの「農民戦争」に始まり…1905年まで、われわれは、よりよく組織され、より多く意識的な、より十分に武装した少数者が、その意思を多数者に押しつけて征圧してきた無数の例を知っている。』(55)
 その任務を遂行すべき党組織のモデルを、レーニンは、直接に人民の意思から採用した。
 人民の意思はその構造や活動についてきわめて秘密的だったので、今日までこのテーマの多くのことは不明瞭なままだ。(56)
 しかしレーニンは、カザンとサマラにいた間に元の人民の意思の者との会話を通じて直接に多くの知識を得ていた。  
 人民の意思は階層的な構造をもち、準軍事的な様相でもって活動した。
 その母体である土地と自由(Land and Freedom)とは違って、構成員の平等の原則を否定し、その頂点に全権力をもつ執行委員会(Executive Committee)が立つ、命令的構造に置き換えていた。
 執行委員会の構成員になるためには、綱領を無条件に承認するだけではなく、その根本教条に全身全霊で貢献することが必要だった。委員会規約はいう、『全構成員は、その全ての才能、能力、関係および共感と反感、そしてその生命すら、無条件に組織の意のままにしなければならない。」(57)
 多数の票決を経た執行委員会の決定は、全ての構成員(委員)に対する拘束力をもった。
 委員は、合議によって選出された。
 委員会を下から支えるべく、軍事委員会および地域的または従属的な支部を含む特殊な機関があった。これらは、抗弁なくして委員会の指令を実行しなければならなかった。
 執行委員会委員は全日働く(full-time)革命家であり、その多くは党が好意者から得た金で生活しなければならなかった。//
 レーニンはこの組織原理と実務を、そっくり採用した。  
 厳格な規律、職業家主義、そして階層的組織は、彼が社会民主党に注入しようと探していた全遺産だった。そして、それが叶わなかったとき、彼は自分自身のボルシェヴィキ党派にこれらを課したのだった。
 1904年にレーニンは、『革命的社会民主主義者の組織原理は、上から下へと進もうとするもので、党の中央機関に全ての部分又は支部が服従することを必要とする、と主張した。(58) -これは、人民の意思の規約に由来する表現だ。// 
 しかしながらレーニンは、二つの重要な点で、人民の意思の実務から離れた。
 第一に、人民の意思は階層的に組織されたが、個人的な指導権を許さなかった。すなわち、その執行委員会は、合議によって活動した。
 このことはボルシェヴィキの(議長はいない)中央委員会(Central Committee)の理論的な基盤でもあった。しかし、レーニンは実際には、完全に委員会の議事進行を支配し、彼の同意がなければ、ほとんど多数決すら行われなかった。
 第二に、人民の意思は、帝制から解放されたロシアの政府になるつもりはなかった。その使命は、憲法制定会議(Constituent Assembly)の開設でもって終わることになっていた。(59)
 これに対して、専制体制の打倒は、レーニンにとって、彼の党が実施する『プロレタリアート独裁』の序奏にすぎなかった。//

 --- 
 ②へとつづく。

1438/レーニンの青少年期①-R・パイプス著9章1節。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) の邦訳書は、刊行されていない。このことを意識して、(おそらく間違いなく一部の)邦訳を試みる。英語や英文読解の専門家ではなく、ロシア革命・ロシア史・ソ連史の専門家でもないので不正確又は不適切な訳があるのは当然だろうが、とりあえずはスピードも配慮する。
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源、の第1節の最初から。
 読みやすさを考えて、原則としてすべての一文ごとに改行する。原書での改行(一段落の終わり)は、以下では、「//」を記すことにする。
 注の記号又は番号も付す。但し、注記の内容は、ロシア語文献等の場合は訳出しないこととする。
---
第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第1節・レーニンの青少年期 〔p.341-p.345。〕
 レーニンは、ロシア革命とそれに続く体制にとって計り知れない重要な役割を果たした。こう論評するにあたって、歴史は『偉人』によって作られる、と考える必要はない。
 この重要性とは、権力が事態の推移に決定的な影響力をもつことを彼に許したということのみならず、1917年10月に彼が設定した体制は、いわばレーニンの個性を組織化したものだった、ということでもある。
 ボルシェヴィキ党はレーニンの創造物だった。すなわち、彼は創立者として、自分の心象に抱いたものを生み、内外からの反対者をすべて打倒することにより、彼が描いた路線上にこの党を維持し続けた。
 1917年10月に権力奪取した同じ党が、すみやかに対抗政党と組織を排除し、ロシアの政治権力の排他的な源泉になった。 
 ゆえに、共産主義ロシアは、最初から異様な程度にまで、一人の人物の精神と心理を反映したものだった。レーニンの伝記とロシアの歴史は、独特なかたちで融合しあっている。//
 歴史的な人間像についてこれほど多くのことが書かれている者はほとんどいないが、レーニンに関する真実の情報は散在している。
 レーニンは自分を自らの教条(cause)と区別することを好まなかったし、また、その教条から離れた存在だと認めようとすらしなかったので、自叙伝的な記録をほとんど何も残していない。彼の人生は、そう思い抱いたごとく、党の生命と同じなのだった。 
 自分自身の目や仲間の目からしても、レーニンだけが、唯一の公的な人格をもっていた。
 彼にある個人的特性は、共産主義者の文献では、偉人伝に共通する美徳になっている。すなわち、教条への自己犠牲的な献身、謙虚さ、自己規律、寛容さ。// 
 レーニンの成長期については、ほとんど知られていない。
 レーニンの最初の23年間について書かれたものには、ほんの20の事項があるにすぎない。そのうちのほとんどは、請願書、証明書、その他の公的な文書だ。(1)
 若きインテリに期待するかもしれない、手紙も、日記も、あるいは随筆類もない。
 このような資料は実存していないか、または、ありそうなことだが、ソヴェトの資料庫(archives)に秘密にして隠されている。それを開放すれば、公的な文献で描かれたのとはきわめて異なる青年レーニンの本性が明らかになるだろう。(*)
 伝記作者は、どの出来事についても、レーニンの知的かつ心理的な成長を再現しようとはほとんどしていない。いかなる政治的な関与も、狂信的な革命家への興味もすらないままで大きくなった、ふつうの青少年の成長の期間(およそ1887-93年)についてだ。
 われわれが持つ証拠資料は、ほとんどが雰囲気や状況に関するものだ。その多くは、否定的な知識-つまり、ひょっとすればレーニンが失敗したこと-に依拠している。
 若きレーニンを再現するためには、長年の組織的カルト生活によって彼の像に堆積した上塗りの層を、注意深く剥がしていく努力が必要だ。(+)//
 レーニンは、ウラジミール・イリィチ・ユリアノフとして、1870年4月にジンビルスクで、伝統的な、そして不自由のない裕福な官僚の家族の中に生まれてきた。
 学校監理官の父親は、1886年に死ぬまでに、将軍や世襲貴族と同等の地位のある国家評議会員の身分を獲得していた。
 父親は、アレクサンダー二世の改革に共感し、教育こそがロシアの進歩のための鍵だと考える、保守・リベラルの人物だった。
 彼はきわめて懸命に働き、監理官としての16年の間に数百の学校を設置したと言われている。 
 ブランクというレーニンの母親は、ドイツ人に祖をもつ医師の娘だった。彼女の写真を見ると、まるでウィスラーの肖像画から踏み出てきたかのように感じる。
 信心深く正教派教会の儀礼と休日とを遵守する、幸福なかつ緊密な家族だった。//
 1887年に、悲劇が家族を襲った。レーニンの兄、アレクサンダーが、友人たちと組んでツァーリ〔皇帝〕を暗殺すべくペテルスブルクで爆弾を運んでいたという咎で逮捕された。
 熱心な科学者のアレクサンダーは、ペテルスブルク大学で3年を終えるまでは、政治に対して何の関心も示さなかった。
 彼は大学で、プレハーノフやマルクスの書物に慣れ親しみ、そして人民の意思(People's Will = Narodnaia Volia)の綱領に一定の社会民主主義の要素を接ぎ木することを主張する、折衷派的政治イデオロギーを選択した。
 産業労働者に革命における主要な役割を与えることを認め、政治テロルは手段であり、社会主義への直接的移行が目的であると彼は考えていた。
 マルクス主義と人民の意思のこの特徴的な混合物は、レーニンが数年後に自ら発展させる綱領を予期させるものだった。
 アレクサンダー・ユリアノフは1887年3月1日、アレクサンダー二世暗殺の第6回記念日に逮捕され、公開の裁判にかけられ、仲間の陰謀者たちとともに処刑された。
 彼は、その間ずっと、模範的な威厳を保つ振る舞いをした。//
 父親の死後まもなくのちに行われたアレクサンダーの処刑は、彼の革命活動について何も知らなかった家族に強い影響を与えた。
 しかし、ウラジミールの行動を何らかのかたちで変えた、といういかなる証拠資料もない。
 レーニンの妹、マリアはだいぶのちに、レーニンは兄の運命を知って『いや、われわれはそう進まない。われわれはそう進んではならない』と叫んだと主張した。(2) 
 こう強く述べたときマリア・ユリアノフは当時ほんの9歳だったことを差し置いても、真実ではありえない。なぜなら、兄が処刑されたとき、レーニンは政治にはまったく無頓着だった。
 マリアが想像した目的は、17歳の高校生だったレーニンがすでにマルクス主義に傾倒していた、ということを示唆することだ。しかし、これは用いうる証拠資料と矛盾している。 
 さらに、家族が収集していたものから決定的に明らかになるのは、二人の兄弟は親密ではなかったこと、およびアレクサンダーはウラジミールの生意気な振る舞いや冷笑の癖をきわめて不快に感じていた、ということだ。//
  (*) ソヴェトの保管所に隠されたままだった若きレーニンに関する第一次および第二次の資料については、R. Pipes 編・Revolutionary Russia (1968), p.27, n.2 を参照。
  (+) 私はR. Pipes 編・Revolutionary Russia (1968) で、利用できる革命期ロシアの資料文書にもとづいて、レーニンの初期の知的および精神的な成長を描こうと試みた。この辺りの頁の情報のたいていは、この作業によるものだ。さらに補足して、私のつぎの二つの著作を挙げておく。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, 1870-1905 (1970)、および R. Pipes, Social Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) 。二次的情報源の中では、Nikolai Valentinov, The Early Years of Lenin (1969) が最も有益だ。
 ---
 ②へとつづく。

1437/R・パイプスの大著『ロシア革命』(1990)の内容・構成。

 1.Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)は、表紙、新聞書評の抜粋、著者の他の著書の紹介、扉、著作権記述、献辞(「犠牲者たちに」)、内容〔=目次〕、写真・地図の一覧、謝辞、略語表、まえがき、本文p.1-p.840、あとがきp.841、用語集〔ロシア語/英語〕p.842-p.846、年表p.847-p.856、注記p.857-p.914、参考文献〔ロシア革命に関する100の著作〕p.915-p.920、索引p.921-p.944、文献への謝辞〔9文献・資料集〕p.945、著者紹介p.946、裏表紙、から成る。p.は、記載された頁数。
 2.「内容」=目次のうち、細節を除いて、部と章のタイトル、始めの頁数を記すとつぎのとおり。
 ---
 第一部 旧体制の苦悶 p.1
  第01章 1905年-予震 p.3
  第02章 帝国ロシア p.53 
  第03章 田園ロシア p.91
  第04章 知識人 p.121
  第05章 立憲主義の実験 p.153
  第06章 戦時ロシア p.195
  第07章 崩壊へ p.233
  第08章 二月革命 p.272
 第二部 ボルシェヴィキによるロシアの征圧 p.339
  第09章 レーニンとボルシェヴィズムの起源 p.341
  第10章 ボルシェヴィキの権力への欲求 p.385
  第11章 十月のクー p.439
  第12章 一党国家の建設 p.506
  第13章 ブレスト=リトフスク p.567
  第14章 革命の世界輸出 p.606
  第15章 『戦時共産主義』 p.671
  第16章 農村に対する戦争 p.714
  第17章 皇帝家族の殺戮 p.745
  第18章 赤色テロル p.789
 ---
 上のうち、第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』は、目次の細目部によると、以下の諸節から成っている。但し、「節」の旨の言葉も「数字番号」も、原著にはない。原著の本文では、これら(以下の各節)の区切りは、一行の空白を挿むことによってなされている。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第1節 レーニンの青少年期
  第2節 レーニンと社会民主党 
  第3節 レーニンの個性
  第4節 レーニンの社会民主党への失望
  第5節 ボルシェヴィズムの出現
  第6節 メンシェヴィキとの最終決裂
  第7節 レーニンの農業問題・民族問題綱領
  第8節 ボルシェヴィキ党の財政事情
  第9節 マリノフスキーの逸話
  第10節 ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との接触
 ---
 以上。

1435/ロシア革命史年表④-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.852-p.854。/の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔9月以降〕
  9月10日 ボルシェヴィキ支援による第3回ソヴェト地方大会開く、フィンランドで。
  9月12日・14日 レーニン、〔ボルシェヴィキ党〕中央委員会に、権力掌握のときは熟している、と書き送る。  
  9月25日 ボルシェヴィキ、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門で過半数を獲得。トロツキー、〔ペトログラード・〕ソヴェト議長に。
  9月26日 CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕、ボルシェヴィキの圧力のもとで、第2回全ロシア・ソヴェト大会を10月20日に開催することに同意。
  9月28日-10月8日 ドイツ軍、リガ湾の島々を占拠、ペトログラードを脅かす。
  9月29日 レーニン、権力奪取について中央委員会あて第三の手紙。
 10月 4日 臨時政府、ペトログラードからの避難を討議。 
 10月 9日 CEC、メンシェヴィキの動議により、首都防衛軍事組織の結成を票決(すみやかに、軍事革命委員会と改称)。
 10月10日 レーニン出席して、ペトログラードでボルシェヴィキ中央委員会が深夜の真剣な会議、武力による権力奪取に賛成票決する。
 10月11日 ペトログラードで、ボルシェヴィキ支援による北部地方ソヴェト大会開く。『北部地方委員会』を設立し、第2回ソヴェト大会への案内状を発行。
 10月16日 ソヴェト、軍事革命委員会(Milrevkom、ミルレヴコム)の設立を承認
 10月17日 CEC、第2回〔全ロシア〕ソヴェト大会を10月25日に延期。
 10月20日 軍事革命委員会、ペトログラード市内および近郊の軍団に『コミッサール』を派遣。
 10月21日 軍事革命委員会、各連隊委員会の会議を開く。兵団へのいかなる命令も軍事革命委員会の副書を必要とする旨を参謀部(Military Staff)に提示する無毒のような決定を裁可させようとする。要求は却下される。
 10月22日 軍事革命委員会、参謀部は『反革命的だ』と宣言。 
 10月23-24日 軍事革命委員会、参謀部と欺瞞的な交渉を継続。 
 10月24日 政府〔ケレンスキー首班の臨時政府〕に忠実な軍団、ペトログラードの要所を占拠、ボルシェヴィキの新聞社を閉鎖。ボルシェヴィキ、反対行動を起こし、ペトログラードの多くを奪い返す。
 10月24-25日の夜 ケレンスキー、前線からの助けを求める。変装したレーニン、ボルシェヴィキが支える第2回ソヴェト大会が始まろうとするスモルニュイへと進む。ボルシェヴィキ、軍事革命委員会を使って、首都を完全に征圧。
 10月25日朝 ケレンスキー、軍事支援を求めて冬宮から前線へ逃亡。レーニン、軍事革命委員会の名で、臨時政府打倒と権力のソヴェトへの移行を宣言。
 10月25日 ボルシェヴィキ、冬宮の確保に失敗。そこでは、政府の大臣が忠実な兵団による救出を待つ。トロツキー、午後に、ペトログラード・ソヴェトの緊急会議を開く。レーニン、7月4日以来初めて、外に姿を現す。ボルシェヴィキの動議により、モスクワで、軍事革命委員会を設立。
 10月26日 モスクワ軍事革命委員会の兵団、クレムリンを掌握。
 10月25-26日の夜 冬宮が落ち、諸大臣が逮捕される。ボルシェヴィキ、第2回ソヴェト大会を開会。
 10月26日夕 ソヴェト大会、レーニンの土地および講和に関する各布令を裁可。レーニンを議長(首相)とする新しい臨時政府、すなわち人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の形成を承認。ボルシェヴィキが支配する新しいCECを任命。
 10月27日 第2回ソヴェト大会、中断。反対派のプレス、非合法に(プレス布令)。
  10月28日 親政府の兵団、モスクワ・クレムリンを再奪取。
 10月29日 鉄道被用者組合、ボルシェヴィキに対して政府の構成政党の拡大を要求する最後通告を渡す。カーメネフ、同意。政府、ソヴェト・CECの事前の同意なくして法令を発布するつもりだと表明。政府被用者〔公務員〕組合、ストライキを宣言。
 10月30日 プルコヴォ近くで、コサックと親ボルシェヴィキ船員および赤衛軍との間の衝突。コサックが撤退。鉄道被用者組合、権力を手放すようボルシェヴィキに対して要求。
 10月31日-11月2日 モスクワで戦闘が起こり、親政府兵団の降伏で終わる。
 11月 1-2日 ボルシェヴィキ中央委員会、鉄道被用者の要求を拒否。カーメネフとその他4名のコミッサール〔人民委員〕、内閣構成の拡大の妥協に対するレーニンの拒否に抗議することを諦める。
 11月 4日 レーニン、トロツキーとソヴェト・CEC〔中央執行委員会〕の間の深刻な出会い。票決を操作することにより、ソヴナルコム〔人民委員会議=内閣〕が布令(decree)により立法(legislate)する公式権限を獲得。 
 11月 9日 ボルシェヴィキ、講和に関する布令を、政府は即時停戦に反対している同盟諸国の代表者に送る。
 11月12日 憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙、ペトログラードで始まる。月末まで、非占領のロシア全域で続く。社会主義革命党〔エスエル〕が最大多数票を獲得。
 11月14日 銀行従業員、金銭を求めるソヴナルコムの要求を拒否。
 11月15日 ボルシェヴィキのソヴナルコム、第1回定期会合。
 11月17日 ボルシェヴィキ兵団、国有銀行を襲い、500万ルーブルを奪う。 
 11月20日/12月3日 ブレスト・リトフスクで停戦交渉始まる。ソヴェト代表は、ヨッフェ。
 11月22日 裁判所のほとんどおよび法曹職業を廃止する布令。革命裁判所の創設。
 11月22-23日 憲法制定会議防衛同盟の設立。
 11月23日/12月6日 ロシアと中央〔中部欧州〕諸勢力、停戦で合意。
 11月26日 農民大会、開かれる、ペトログラードで。
 11月28日 憲法制定会議の座り込み〔 ?〕会合。
 12月    国家経済最高会議、創設(VSNKh)。 
 12月 4日 ボルシェヴィキと左翼エスエル〔社会主義革命党左派〕、農民大会を破壊。 
 12月 7日 チェカ(Cheka〔秘密政治警察〕)、設立。
 12月9-10日 ボルシェヴィキと左翼エスエルの協議成立。左翼エスエル、ソヴナルコムおよびチェカに加入。
 12月15日/28日 ブレスト会議、一時休止。
 12月27日/1月9日 ブレスト会議、再開。トロツキーがロシア代表団を率いる。
 12月30日/1月12日 中央〔中部欧州〕諸勢力、ラダ〔ウクライナ・ソヴェト〕をウクライナ政府として承認。
 12月後半 アレクセイエフ、コルニロフ各将軍、義勇軍(Volunteer Army)を立ち上げる。

 1918年 1月
  1月 1日 レーニンの暗殺未遂。  
  1月 5日/18日 憲法制定会議の一日会合。憲法制定会議を支持するデモ、発砲され、逃散。労働者『幹部会』、第1回会合。トロツキー、ブレストからペトログラードへ戻る。
  1月 6日 憲法制定会議、閉じられる。
  1月 8日 ボルシェヴィキが支援する第3回ソヴェト大会、開く。『労働者および被搾取大衆の権利の宣言』を採択し、ソヴェト・ロシア共和国を宣言。
  1月15日/28日 ソヴェト・ロシア、国外および国内の債務履行を拒否。
  1月28日 ラダ、ウクライナの独立を宣言。」  
-----------
*1918年2月以降につづく。

1434/ロシア革命史年表③-R・パイプス著(1990)による。

Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.850-p.852。 〔〕は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔8月末まで〕
「  1月27日 プロトポポフ、労働者集団を逮捕。
   2月14日 ドゥーマ、再開会。
   2月22日 ニコライ、モギレフへと出立。
   2月23日 国際婦人日と連携したペトログラードでの集団示威行進(デモ、Demonstrations)。
   2月24日 ペトログラードでさらに大きなデモ。
   2月25日 デモが暴力に変わる。ニコライ、力による鎮圧を命令。
   2月26日 ペトログラード、軍隊により占拠される。ヴォリンスキー連隊の一団が民衆に発砲し、40人死亡。パヴロフスキー連隊の一団、抗議して反乱。
   2月26日-27日の夜 パヴロフスキー連隊兵団、徹夜で会合し、対民間人発砲命令に対する不服従を票決。
   2月27日 ペトログラードの大部分、反抗する守備部隊の手中に。政府の建築物が燃焼。ニコライ、混乱を収拾する特殊兵団を率いてペトログラードへと進むよう、イワノフ将軍に命令。メンシェヴィキ、ソヴェト代議員選挙を要求し、夕方に、ペトログラード・ソヴェトの会合を組織。
   2月28日 ニコライ、早朝にツァールスコエ・セロに向かう。ドゥーマの年長者議員会議が行われ、臨時委員会を設立。ペトログラードの全域で、工場や軍駐屯地がソヴェトへの代議員を選出。ソヴェトの最初の幹部会合。混乱がモスクワへと広がる。
   2月28日-3月1日の夜 皇帝列車、停止。プスコフへと方向転換。
   3月 1日 イスパルコム(Ispolkom 〔ペトログラード・ソヴェト執行委員会〕)、ドゥーマの臨時委員会との合意の基盤とする9項目綱領を起草し、第一命令を発布。ニコライ、夕方にプスコフに到着、ドゥーマによる内閣形成を求めるアレクセイエフ将軍の懇願に同意し、イワノフ将軍に任務終了を命令。モスクワ・ソヴェトの設立。
   3月1日-2日の夜 ドゥーマとソヴェト代議員、9項目綱領を基礎に合意を達成。ランスキー将軍がモギレフで、ドゥーマ議長・ロジアンコと電信による会話。
   3月 2日 G・E・ルヴォフを議長として臨時政府設立。アレクセイエフは前線の兵団長たちと連絡をとる。ニコライ、子息への譲位に同意。シュルギンとグシュコフがプスコフへと出発。ニコライ、帝室医師と子息について会話し、弟・ミハイルに譲位すると決めたとシュルギンとグシュコフに伝える。退位声明に署名。ウクライナのラダ(ソヴェト)、キエフで設立。
   3月 3日 臨時政府がミハイルと会見し、帝位を放棄するように説得。 
   3月 4日 ニコライの退位宣言とミハイルの帝位放棄が公表される。臨時政府、警察部局を廃止。
   3月 5日 臨時政府、官僚と幹部職員の全員を解任。
   3月 7日 イスパルコム、臨時政府を監視する『連絡委員会』を設置。
   3月 8日 ニコライ、軍兵士たちに別れを告げることを懇願、逮捕されたままでツァールスコエ・セロに向かう。
   3月 9日 合衆国〔アメリカ〕、臨時政府を承認。
   3月18日 イスパルコム、全ての社会主義政党が3名の代議員を出す権利があると決める。
   3月22日 ミリュコフ、ロシアの戦争目的を明確にする。
   3月25日 臨時政府、穀物取引の国家独占を導入。
   3月 末  イギリス、皇帝一族を保護すべく撤退を提案。
   4月 3日 レーニン、ペトログラードに到着。
   4月 4日 レーニン『四月テーゼ』。
   4月21日 最初のボルシェヴィキのデモ、ペトログラードとモスクワで。
   4月26日 臨時政府、秩序維持能力の欠如を認める。
   4月28日 ボルシェヴィキ、赤衛軍(Red Guard)を組織。
   4月 初期 ソヴェト・全ロシア協議会、ペトログラードで開会。ソヴェト・全ロシア中央執行委員会(CEC)を形成。
   5月 1日 CEC、メンバーの臨時政府参加を容認。   
   5月4日-5日の夜 ルヴォフのもとで連立政権の形成、ケレンスキーは戦争大臣、6人の社会主義者が閣内に。 
   5月    トロツキー、ニューヨークからロシアに帰還。
   6月 3日 第1回全ロシア・ソヴェト大会、開会。
   6月10日 CECの圧力により、ボルシェヴィキが政府転覆の考えを放棄。
   6月16日 ロシア軍、オーストリアへの攻撃を開始。
   6月29日 レーニン、フィンランドへ逃亡、7月4日朝までとどまる。
   7月 1日 臨時政府、ボルシェヴィキ指導者の逮捕を命令。
   7月2-3日 ペトログラード第一機銃連隊の反乱。
   7月 4日 ボルシェヴィキの蜂起、レーニンがドイツと交渉するとの情報により鎮圧される。
   7月 5日 レーニンとジノヴィエフ、最初はペトログラードに、のち(7月9日)首都近くの田園地域に隠れる。最後に(9月)、レーニンはフィンランドへ。
   7月11日 ケレンスキー、首相に。
   7月18日 コルニロフ、最高司令官に指名される。
   7月 末  第6回ボルシェヴィキ党大会、ペトログラードで。
   7月31日 ニコライとその家族、トボルスクへ出立。
   8月 9日 臨時政府、憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙を11月12日に行い、11月28日に同会議を招集する予定を発表。
   8月14日 モスクワ国家会議、開かれる。コルニロフ、騒然として迎えられる。
   8月20-21日 ロシア軍、ドイツに対してリガを放棄。 
   8月22日 V・N・ルヴォフ、ケレンスキーと会合。
   8月22-24日 モギレフのザヴィンスキー、コルニロフにケレンスキーの命令を渡す。
   8月24-25日 ルヴォフ、コルニロフと逢う。
   8月26日 ルヴォフ、ケレンスキーにコルニロフの「最後通告」文を伝える。ケレンスキー、コルニロフと電話会談。ルヴォフ、逮捕される。 
   8月26日-27日の夜 ケレンスキー、内閣から独裁的権力を確保。コルニロフを解任。 
   8月27日 コルニロフ、反逆者とされる。コルニロフ暴乱、武装団にコルニロフに従うよう求める。
   8月30日 臨時政府、7月蜂起によりまだ収監中のボルシェヴィキの解放を命令。」
--------------
 *1917年9月以降につづく。

1432/ロシア革命史年表①-R・パイプス著(1990)による。

 ロシア革命の歴史年表については、昨年10/22の<日本共産党の大ウソ30>の中にその一部を記しているが、研究者による本格的で詳しい年表があるので、以下に、そのまま翻訳して記載しておく。
 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)。これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著で、邦訳書はない。
 以下は、この著のうち、p.847-p.856の「年表」の一部で、今回①は、p.847からp.849の一部まで。
 なお、上の著はおよそ1919年くらいまでを対象としており、別著の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)と併せて、おおよそスターリン期開始まで(あるいはレーニン死去まで)の、Richard Pipes の広義の<ロシア革命史>叙述が完成している。
 -------------
 「年表(Chronology)
 この年表は、この本で対象とする主要な諸事象を列挙する。別のことを記載しないかぎり、1918年2月以前の月日は、ユリウス暦(『旧暦』)により記す。この日付は、19世紀の西洋暦よりも12日遅く、21世紀のそれよりも13日遅い。1918年2月からの月日は、西洋暦に一致する『新暦』で記される。
 1889年
  2月-3月 ロシアの大学生たちのストライキ。
  7月29日 不穏学生を軍隊に徴用する権限を付与する「暫定命令」。
 1900年 
 政府、Zemstva の課税権を制限。
 11月 キエフ、その他の大学で騒乱。
 1901年
  1月11日 183名のキエフの学生を軍隊に徴用。
  2月    教育大臣・ボゴレポフの暗殺。警察支援の(Zubatov)商業組合が初めて設立。
 1902年 
 1901-2年の冬 ロシア社会民主党(PSR)の結成。
  6月    リベラル派、ストルーヴェの編集により隔週刊雑誌 Osvobozhdenie(解放)をドイツで発行。
  3月    レーニン『何をなすべきか ?』
  4月 2日 内務大臣・シピアギンの暗殺。プレーヴェが後継者。
 1903年
  4月 4日 キシネフの大量殺害。
  7月-8月 ロシア社会民主党第二回(創設)大会。メンシェヴィキ派とボルシェヴィキ派に分裂。
   7月20-22日 解放同盟、スイスで設立される。
1904年
  1月 3-5日 解放同盟、ペテルスブルクで組織される。
  2月 4日  プレーヴェ、ガポンの集会開催を承認。
  2月 8日 日本軍、旅順を攻撃。露日戦争の開始。
 7月15日 プレーヴェの暗殺。
  8月    ロシア軍、遼陽で敗戦。
 8月25日 スヴィアトポルク-ミルスキー、内務大臣に。
 10月20日 解放同盟第二回大会。
 11月 6-9日 Zemstvo 大会、ペテルスブルクで。  
 11-12月 解放同盟が全国的な夕食会宣伝活動を組織。
 12月 7日 ニコライと高官が改革綱領を討議。国家評議会に被選挙代議員を加える考えを拒否。
 12月12日 改革を約束する勅令公布。
 12月20日 旅順、日本軍に降伏。
 1905年
  1月 7-8日 父ガポンによりペテルスブルクで大産業ストライキが組織される。
  1月 9日 血の日曜日。
  1月18日 スヴィアトポルク-ミルスキー解任、ブリュイギンに交代。
  1月10日以降 ロシア全域で産業ストライキの波。
  1月18日 政府がドゥーマの招集を約束し、苦情陳述請願書を提出するよう国民に求める。
  2月    ペテルスブルクの工場で政府後援の選挙。   
  2月    ロシア軍、瀋陽(ムクデン)を放棄。
 3月18日 全高等教育機関が在籍年限を超えた者に対して閉鎖。 
 4月     第二回Zemstvo 大会、憲法制定会議を要求。
  春     6万の農民請願書が提出される。
  5月 8日 組合同盟がミリュコフを議長として設立される。
  5月14日 ロシア艦隊、対馬海峡の戦闘で破滅。D・F・トレポフ、内務大臣代行に。
 6月    オデッサでの反乱と虐殺。戦艦ポチョムキンでの暴動。
 8月 6日 ブリュイギン、(諮問機関的な)ドゥーマ開設を発表。
  8月27日 政府が寛大な大学規制を発表。
  9月 5日(新暦) 露日講和条約に署名、ニューハンプシャー・ポーツマスで。
  9月    学生が労働者に大学施設を開放。大衆煽動。
  9月19日 ストライキ活動の再開。
 10月 9-10日 ウィッテ、ニコライに大きな政治的譲歩を強く求める。
 10月12-18日 立憲民主党(カデット、Kadet)結成。
 10月13日 ペテルスブルクで中央ストライキ委員会設立、まもなくペテルスブルク・ソヴェトと改称。
 10月14日 ストライキにより首都が麻痺。
 10月15日 ウィッテ、十月マニフェストの草案を受諾。
 10月17日 ニコライ、十月マニフェストに署名。
 10月18日以降 反ヤダヤ人・反学生の虐殺。地方での暴乱が始まる。
 10月-11月 閣僚会議議長・ウィッテ、内閣に加入すべき民間人との討議を開始。
 11月21日 モスクワ・ソヴェト設立。
 11月24日 定期刊行物の事前検閲を廃止。
 12月 6日 ペテルスブルク・ソヴェト、ゼネ・ストを指令。
 12月 8日 モスクワ武装蜂起が鎮圧される。
 -------------------
*1906年以降につづく。
 

1418/国家・共産党・コミンテルン04-02/デクレ。

 一 R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)の原書は、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)だ。
 これとは別に、Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)があり、これは本文842頁、その後の注・索引等を含めて946頁、最初の目次等を含めると計960頁を超えそうな大著だ。これには、邦訳書がない。
 また、これのコンサイス版が邦訳書のあるA Concice History of the Russian Revolution (1995)のようにも見えるが、訳者の西山克典が「訳者あとがき-解説にかえて」で書いているように、この邦訳書・ロシア革命史(成文社、2000)は、上記のThe Russian Revolution (1990)と、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995、<ボルシェヴィキ体制下のロシア>)とを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」一冊にまとめたものだ(邦訳書p.409)。後者も、本文512頁、あとの注・索引等を含めて計587頁、目次等を含めると計600頁を超える大著だ。これも、邦訳書がない。
 二 R. Pipes, The Russian Revolution (1990)を見ていると、最近に参照していた邦訳書とその原書にはない叙述があることに気づいた。
 Decree(布告)という語に関係するので、以下、当該部分を含む、<11年間の立憲主義を拭い去った>旨の文章までを、三段落ぶんだけ仮訳しておく。p.525。但し、原書にはない改行をこの仮訳では施す。
 第二部「ボルシェヴィキがロシアを征服する」(なお、第一部は「旧体制の苦悩」)内の第12章「一党国家の建設」の一部。p.525のほとんど。
 「ソヴナルコムは、今や理論上、実際にその最初からそうだったもの、執行権と立法権を統合した機関になった。CEC〔ソヴェト・中央執行委員会〕はしばらくの間は、政府の活動を議論する権利を享受した。その権利とは、かりに政策には何の影響をもたらさなくとも、少なくとも批判をするための機会を与えられる、というものだった。
 しかし、非ボルシェヴィキが排除された1918年の6-7月以降は、CECは、ボルシェヴィキ委員がルーティン的にボルシェヴィキ・ソヴナルコムの決定を「裁可した」、共鳴板(Echo)的機構に変わった。代わって、ソヴナルコムは、ボルシェヴィキ・〔ロシア共産党〕中央委員会の決定を履行した。
 民主主義的諸力がこのように突然にかつ完全に崩壊したことおよびその結果として立憲主義的諸力を取り戻すことが不可能になったことは、ロシア君主制に対して立憲主義的な制約を課そうとした1730年の最高Privy会議の失敗を想起させる。今と同じく当時、独裁者からの断固とした「ノー」で充分だった。
 この日からロシアは、布告(Decree)によって支配された。
 レーニンは、1905年10月以前に皇帝が享有した特権を掌握した。彼の意思は、法(law)だった。
 トロツキーはこう言った:『レーニンは、臨時政府が廃されたと宣言された瞬間から、大小のすべての問題に、政府として行動した』。
 ソヴナルコムが発令した『Decrees』という言葉は、革命時のフランスから借用した、ロシアの憲法(constitutional law)には知られていない名を帯びていたけれども、完全に、皇帝の Ukazy に相当するものだった。この Ukazyは〔ソヴナルコム・Decreeと同じように〕、最も根幹的な事案から最も些細な事案まで無分別に取り扱い、独裁者が署名をした瞬間に効力を発した。
 (Isaac Steinbergによれば、『レーニンは、たいてい、自分の署名はいかなる政府の行為にも必要である、という見解だった』。)
 レーニンの総括書記だったボンシュ=ブリュヴィッチ(Bonch-Bruevich)は、こう書いている。Decreesは、人民委員(Commissar〔人民委員会議=ソヴナルコムの一員〕)の一人からの発案により発せられたものであっても、レーニンが署名するだけで、法の力(force of law)を獲得した、と。
 このような実務は、ニコライ一世またはアレキサンドル三世のような人々には、全く理解できないものだっただろう。
 10月のクー(Coup、クーデタ)から二週間のうちにボルシェヴィキが設定したこのような統治の制度(System、システム)は、1905年以前のロシアを支配した専政(独裁)体制への逆戻りだった。ボルシェヴィキは、介在する12年間の立憲主義(constitutionalism)を、そっけなく拭い去った。」
 以上。
 三 上の部分には見当たらないが、記憶に頼ると、上の書物にはDekret という語も出てくる。
 これも含めて考えると、ロシアでの原語(レーニンらが用いた言葉)はDekretであり、これをR・パイプスはDecree という英米語に変えて(訳して)いるのだと思われる。そして、Dekret は、上でも言及されているように、(フランス革命の史実を知っているはずのレーニンらが)フランス語のDecret から借用して作った、ロシアでは新しい言葉だった、と考えられる。かつまた、R・パイプスは、これを、帝制時代の(皇帝が発する)Ukazyと同じようなものだ、と理解して叙述しているわけだ。
 明治憲法下での日本での「勅令」のうち、「令」の部分に該当するだろう。
 戦前はたしか「閣令」と称したようだが、現在の日本でも「政令」というものがある。
 この政令の制定者・制定機関は内閣で、内閣総理大臣でも各省大臣でもない。
 しかし、上の叙述・説明によると、少なくともレーニン政権初期のDecreeは、どうやら、一人民委員(一大臣)の発案によるレーニンの署名で発効したらしい。こんなものは、現在の日本にはない。現在の日本の「政令」に相当するものだとすれば、ソヴナルコム(=内閣とも訳される)の構成員の「合議」によって決定されなければならないからだ(署名、公布等の論点は除く)。
 R・パイプスの書と西山克典訳はまだましだが、他のロシア革命史又はソ連史に関する日本語訳書の中には、簡単に「法律」とか「法令」とかという言葉を使っているものがある(ソヴェト大会の形式的承認があっても、ソヴェトは今日的にいう「議会」ではない)。訳者ではなく、原著者自体に多少の問題があるのではないか、と考えられる。だが、とくに英米系の書物では、(議会制定法がなかったとしても)law という語を全く用いないで<ソ連>史を叙述するのは困難なのかもしれない(現在のロシア法では事情が異なる)。

1416/国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

1414/国家・共産党・コミンテルン01。

 一 ロシア革命またはレーニン(を首領とするボルシェヴィキ)が生み出した国家のことを<一党制国家>とか<党所有国家> ということがある。
 下斗米伸夫・ソ連=党が所有した国家(講談社メチエ、2002)も参照。
 国家・政府と(一国家の)共産党(政党)の関係、さらにはこれらと1919年設立のコミンテルンの関係・違いに焦点を当てて、以下、紹介したりコメントしたりする。
 渡部昇一が何と言おうと、過去の問題ではない。コミンテルン、コミンフォルムはもうないが、国家・政府と(一国家の)共産党の関係は見事に、現在の共産中国や北朝鮮、そしてベトナムやキューバにまで継承されていると考えられる。
 なお、現在開催されているらしい、中国共産党の<中央委員会第~回総会>という表現の仕方は、現在の日本共産党と同じ。共産党の<党大会>の間は、<中央委員会総会>でつないでいくのだ。
 二 R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)によると、ソヴィエト(ソビエト)・ソヴェート・ソヴェト(Soviet)という言葉が、日常的意味でなく制度的な又は機関を指すものとしてロシアで用いられたのは、1905年の10月、ペテルブルク工科大学で「ストライキ委員会」が招集されたとき、それがすぐのちに「労働者代表ソヴェト」と名乗ったことが最初のようだ(p.58。以下、同じ)。
 英語ではCouncil、独語ではRat と訳されているはずだ。日本語では、「評議会」または「会議」だろう。
 なぜ大学にという疑問には、政治的集会・デモに対する当時の規制が大学構内については緩かったと、パイプスに従って指摘するにとどめる。
 このソヴェトの指導部には、学生も農民も入っておらず、また労働者でも兵士でもなく、それは「社会主義諸政党」が指名した「急進的」「知識人」で構成されていた(p.58)。
 1905年12月に「モスクワ・ソヴェト」は①帝制打倒、②憲法制定会議招集、③「民主共和国」の宣言を要求し、④「武装蜂起」を呼びかけた、という(p.59)。
 この「ソヴェト」はのちに、ボルシェヴィキ・共産党ではなく、国家・政府の系列の機関へと発展 ?していく。
 三 1917年二月革命により「臨時政府」(国会議員臨時委員会)が組織され、ケレンスキーが委員の一人になった。これは、パイプスによれば「私的な性格」のものとされるが、(帝制終焉時の)の国会の議員全体ではないにせよ、国会議員内の「私的な会合」または「指導者たち」が設立を決定したとされるので(p.94)、二月革命による<非連続>的なものではあるが、のちの「10月革命」に比べればまだ、国家機関又は政府としての連続性・「民主性」を少しは保っているかもしれない。
 上の臨時政府の設立と同日(2月28日)、「ペトログラード・ソヴェト」が設立された。主導権はメンシェヴィキにあった。2週間後の代議員3000名のうち、2000名以上が兵士で、二月革命の「初期の局面」は「兵士の反乱」だった(p.95)。
 代議員数千人では会議・実質的な決定ができない。ソヴェトの決定機関が「イスパルコム」という「執行委員会」に移った。この機関は「社会主義諸政党の調整機関」で、兵士に支持者がおらず、労働者の中でも「わずか」の支持者しかいないボルシェヴィキに属する委員の比重が不均衡に高かった。またこれは、ソヴェト総会から自立して活動し、あらかじめ実質的に決定する「社会主義知識人の幹部会」のようなものになった(p.96)。
 このソヴェトは「臨時政府」系列ではなく、社会主義諸政党による「私的」な組織で、臨時「政府」には参加しないと決定する(同上)。同年10月末まで続く、いわゆる<二重権力>の時代だ。
 パイプスによると、表向きは臨時政府が「全ての統治上の責務」を引き受け、「現実には」、ソヴェト「イスパルコム」が「立法と執行」の両機能を果たした(同上)。
 皇帝逮捕(のち一族がボルシェヴィキ=共産党により全員殺害される)ののちソヴェト・「イスパルコム」は5名から成る「連絡委員会」を設置し、政府に、イスパルコムの事前承認を得ることなく重要な決定をすべきでないと主張し、政府はこれに応じた、という(p.108)。
 中途だが、いわゆる「10月革命」事件以前のペトログラード・ソヴェトの状況から、次回につづける。
ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。