秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ベリヤ

2056/L・コワコフスキ著第三巻第13章第1節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳。最終章へと移る。分冊版、p.450~。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第1節・「脱スターリニズム化」①。
 (1)Joseph Vissarionovich Stalin は、1953年3月5日に脳卒中で死んだ。
 彼の後継者たちが権力をめぐって立ち回り、誤導的にも「脱スターリニズム化」と称された過程を開始したとき、世界はその報道をほとんど理解することができなかった。
 ほとんど3年後に、それは頂点に達した。そのとき、Nikita Khrushchevが、ソヴィエト共産党に、そしてすみやかに全世界に、進歩的人類の指導者、世界の鼓舞者、ソヴィエト人民の父、科学と知識の主宰者、最高の軍事的天才、要するに歴史上最大の天才だったスターリンは、実際には、妄想症的(paranoiac)拷問者、大量殺戮者、ソヴィエト国家を大敗北の縁に追い込んだ軍事的無学者だった、と発表した。//
 (2)スターリン死後の3年間は劇的瞬間に満ちた時期だった。ここでは簡潔にのみ言及する。
 1953年6月、東ドイツの労働者の反乱が、ソヴィエト兵団によって粉砕された。
 そのすぐあと、クレムリンの幹部の一人で国家保安局の長官だったLavrenty Beriya が多様な犯罪を冒したとして逮捕された(彼の裁判と処刑は12月まで報道されなかった)。
 同じ頃(西側はもっと後で非公式に知ったのだが)、いくつかのシベリアの強制収容所の収監者たちが、反乱を起こした。
 これらの反乱は残虐に鎮圧されたが、おそらくは抑圧制度の変化をもたらした。
 スターリン崇拝者たちは、スターリン死後の数カ月以内に多くは排除された。
 党が1953年7月に50周年を記念して宣言した「テーゼ」では、スターリンの名はわずか数回しか言及されず、いつもは随伴していた称賛の言葉がなかった。
 1954年、文化政策に若干の緩和があり、その秋には、ソヴィエト同盟がユーゴスラヴィアとの和解する用意があることが明らかになった。これが意味したのは、東ヨーロッパ全体の共産党指導者たちを処刑する口実となってきた「Tito主義者の陰謀」という責任追及を撤回する、ということだった。//
 (3)スターリン崇拝とスターリンの疑いなき権威は長年にわたり世界の共産主義イデオロギーの楔だったので、こうした転回が全ての共産党に混乱と不確実さもたらし、その全ての側面について-経済的愚鈍さ、警察による抑圧、文化の隷従化-、社会主義システムに対するますます厳しいかつ頻繁な批判を呼び起こしたことは、何ら疑うべきことではなかった。
 批判は、1954年末以降に「社会主義陣営」の中に広がった。
 最も激烈だったのはポーランドとハンガリーで、これらの国では、修正主義運動-と呼ばれたのだが-は、共産主義のドグマの例外なく全ての側面に対する全面的な攻撃へと発展した。//
 (4)1956年2月のソヴィエト同盟共産党第20回大会で、フルシチョフは、「個人崇拝」に関する有名な演説を行った。
 これは非公開の会議で行われたが、外国の代議員も出席していた。
 この演説はソヴィエト同盟では印刷されなかった。しかし、そのテキストはいく人かの党活動家に知られており、のちにすみやかにアメリカ合衆国国務省によって公表された。
 (共産主義諸国の間では、ポーランドは、信頼されていた党員によってテキストが「内部用に」印刷して配布された唯一の国だったように見える。
 西側の共産主義諸党は、このテキスト文の真正さを承認するのを長い間拒否した。)
 フルシチョフは演説文の中で、スターリンの犯罪と妄想症的幻想、拷問、処刑および党官僚の殺戮に関する詳細な説明をした。しかし彼は、反対派運動をした党員たちのいずれについても名誉回復を行わなかった。彼が言及した犠牲者たちは、Postyshev、Gamarnik、およびRudzutak のような疑いなきスターリニストたちで、Bukharin やKamenev のような独裁者のかつての反対者たちではなかった。
 この演説は、どのようにして、またいかなる社会的条件のもとで血に飢えた妄想狂が25年にわたって無制限の専制的権力を2億の住民をもつ国家に対して行使することができたかに関して-その国家はその間ずっと人間の歴史上最も進歩的で民主主義的な統治のシステムだと祝福されてきたのだったが-、何の手がかりも提示しなかった。
 確実だったのはただ、ソヴィエトのシステムと党自体は完璧に無垢であり、僭政者の暴虐について何の責任もない、ということだった。//
 (5)世界のコミュニストたちに対するフルシチョフ演説の爆弾的効果は、それが含む新しい情報の量によるのではなかった。
 西側諸国では、学問的性質のものであれ第一次資料であれ、すでに多数の文献を利用することができた。それらは、相当に確信的にスターリン体制の恐怖を叙述するもので、フルシチョフが言及した詳細は、一般的な像を変更したり多くを追加したりするものではなかった。
 ソヴィエト同盟や従属諸国では、共産主義者も非共産主義者も、個人的な経験から真実を知っていた。
 共産主義運動に対する第20回大会の破壊的な効果は、その運動の二つの重要な特質によっている。すなわち、第一に共産党員の心性(mentality)、第二に統治システムにおける党の機能。
 (6)国家当局が情報が外部世界に浸み出ることを阻止すべくあらゆる手段を用いた「社会主義ブロック」のみならず、民主主義諸国でも、共産党は、「外部から」の、すなわち「ブルジョア」的源泉から来る全ての事実と議論からの影響を完璧に受けない、という心性を生み出した。
 ほとんどの場合、共産党員たちは魔術的思考の犠牲者だった。その魔術的思考によれば、免疫的源泉が外部からの情報に汚染しないように清めてくれるのだ。
 基本的な係争点に関する政治的敵対者は全て、個々のまたは事実の問題で自動的に間違っているに違いなかった。
 共産党員の心性は、事実と理性的な論拠による攻撃に対して、十分に武装されていた。
 神話的システムでのように、真実は(むろんイデオロギー上の手引きでではないけれども)実践において、実践から生じる源泉でもって明確になる。 
 「ブルジョア的」書物や新聞に書かれているかぎりで何も怖れを生じさせない諸報告は、クレムリンの託宣が確認したときには雷鳴のごとき効果をもつ。
 昨日には「帝国主義者のプロパガンダによる卑劣なウソ」だったものは、突如として、呆れるほどの真実に変わった。
 さらに、落ちた偶像は誰か別の者に脚台を占められただけではなかった。 
 スターリンが冠を剥がれたことは一つの権威が崩壊したことを意味したのみならず、制度全体の崩壊を意味した。
 党員たちは、最初の者の誤りを糾すための第二のスターリンに希望を託すことができなかった。
 スターリンは悪だったが党とシステムは無欠だという公的な保証を、彼らはもはや真面目に受け止めることができなかった。//
 (7)つぎに、共産主義の道徳的破滅は、瞬間的に、権力のシステム全体を揺るがした。
 スターリン主義体制は、党の支配を正当化するイデオロギーという接合剤なくしては、存在することができなかった。そして、このときの党装置は、イデオロギー上の衝撃に対して敏感だった。
 レーニン=スターリン主義社会主義では権力システム全体の安定性は統治する機構のそれに依存していたので、官僚機構の混乱、不確実さおよび士気喪失は、体制の構造全体を脅かした。
 脱スターリニズム化とは共産主義が二度と治癒することのできない病原菌であることが判明することとなった。何とか一時的な態様をとってであれ、その病に適応すべく努力はしたのだけれども。//
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 第一節②へとつづく。第二節以降の表題は、つぎのとおり。
 第二節・東ヨーロッパの修正主義。
 第三節・ユーゴ修正主義。
 第四節・フランスでの修正主義と正統派。
 第五節・マルクス主義と「新左翼」。
 第六節・毛沢東の農民マルクス主義。

1931/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質②。
 (7)イデオロギー全体の礎石は、指導者に対する個人崇拝(cult)だった。これは、この時代にグロテスクで悪魔的な様相を見出したもので、のちの毛沢東に対する個人崇拝を例外として、おそらくは歴史上にこれを上回るものはない。
 スターリンを賛美する詩歌、小説および映画が、途切れない潮流の中に溢れ出た。彼の写真や肖像が全ての公共広場を飾った。
 作家、詩人、および哲学者はお互いに競って、新しい酒神礼賛的(dithyrambic)崇拝の形態を考案した。
託児所や幼稚園の子どもたちは、彼らの幸福な幼年生活について、スターリンに心溢れる感謝を捧げた。
 民衆の宗教心の形態は全て、歪められた形で復活した。すなわち、聖像(icon)、行列、声を揃えて朗読される祈り、(自己批判という名のもとでの)罪の告白、遺物崇拝。
 このようにしてマルクス主義は、宗教のパロディー(parody)となった。 但し、内容を欠いたパロディーだ。
 適当に選んで、以下は、この当時のある哲学上の著作にある、典型的な導入部だ。
 「同志スターリン、諸科学に関する偉大な指導者は、深さ、明瞭さ、および活力について無比の研究をして、弁証法的かつ歴史的唯物論の基礎の体系的論述を、共産主義の理論上の土台として、与えた。
同志スターリンの理論的諸著作は、全同盟共産党(ボルシェヴィキ)中央委員会およびソ連邦閣僚会議により、彼の70歳の誕生日での同志スターリンへの挨拶で、尊敬の念をもって語られた。
 『科学の偉大な指導者!。帝国主義、わが国におけるプロレタリア革命と社会主義の勝利という新しい時代に関連させてマルクス=レーニン主義を発展させた貴方の古典的な諸著作は、人類の巨大な達成物であり、革命的マルクス主義の百科辞典である。
 ソヴィエトの男女および全国の労働人民の指導的代表者たちは、労働者階級の運動の勝利へと向かう闘いにおいて、知識、確信および新たな強さを、共産主義への今日の闘争に関する最も焦眉の諸問題についての解答を見出しつつ、これら諸著作から獲得している。』
 <弁証法的および歴史的唯物論>に関する同志スターリンの輝かしい哲学的全集は、知識と世界の革命的変革の力強い手段であり、不可避的に打倒される宿命にある、唯物論の敵および資本主義社会の衰亡していくイデオロギーと文化、に対抗する圧倒的な武器である。
 それは、マルクス=レーニン主義世界観の発展…<中略>における新しい、至高の段階である。
 同志スターリンはその全集において、無比の明瞭さと簡潔さをもって、マルクス主義の弁証法的方法の基本的特質を解説し、自然と社会の法則的な発展に関する理解の重要性を指摘した。
 同じ深さ、力強さ、簡潔さおよび党政治上の決意をもって、同志スターリンは、その諸著作で、マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質…<以下略>を定式化した。」
 (V. M. Pozner, <マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質に関するJ. V. スターリン>、1950年)
 (8)スターリンは、ロシア史上の偉大な英雄たちを通じて、間接的にも称賛された。
 ピョートル大帝、イワン雷帝およびアレクサンダー・ネフスキーに関する映画や小説が、スターリンの栄誉のために捧げられた。
 (しかしながら、イワン雷帝のほかにスターリンの明確な命令にもとづきその<oprichnina〔親衛隊〕>または秘密警察を賛美するアイゼンシュタイン(Eisenstein)の映画は、スターリンが生きている間は上映されなかった。そうした映画は、いかに雷帝が、たとえ気が重くても、最も執念深い陰謀家たちの手を切り落とさざるをえなかったかを描写していたからだ。-なるほど、観客たちには疑いなく、まさしく札付きの悪漢だが、イワンは思慮深い政治家には期待され得たことを何もしなかった、という気分が残っただろうけれども。
 身長の低いスターリンは、映画や劇では、レーニンよりもかなり身長のある、背の高い男前の人間のように描かれた。//
 (9)ソヴィエト官僚機構の階層的構造は、スターリン崇拝が下位の者たちにまで影を落としていたということに見られた。
 全てではないにせよ多数の分野で、スターリンの線上で公式に「最も偉大な者」として知られる者たちがいた。
 スターリン自身が最高位を占める多数の場合-哲学者、理論家、政治家、戦略家、経済学者-は別として、例えば、誰が最も偉大な画家、生物学者、あるいはサーカスの道化師なのか、が知られていた。
(ちなみに、サーカスは1949年に、この分野でのブルジョア形式主義を非難した<プラウダ>上の論文でイデオロギー的に改革された。
 ユーモアの世界主義的形態へと堕落して、イデオロギー的内容がなく、階級敵に対処するために教育するのではなく、たんに人々を笑わせようとしていた上演者が、どうやらいたようだ。)//
 (10)この時代に、歴史の偽造と歴史研究者に対する圧力が、クライマクスに達した。
 帝制ロシアの外交政策は基本的に進歩的だった、とくにロシアによる征服は他民族にロシア文明の恵みをもたらした、ということを示すのは、歴史家の任務になった。
 レーニン全集の第四版は新しい文書をいくつか含んでいたが、別のいくつかは削除されていた。その中には、一国での社会主義の建設の不可能性に関する、きわめて断定的(categorical)な論述があった。また、ジョン・リード(John Reed)の<世界を震撼させた十日間>への熱心な序言も、そうだった。
 十月革命の間はペトログラードにいたリードは、レーニンとトロツキーについては多くのことを語っていたが、スターリンには全く言及していなかった。したがって、レーニンが彼の書物を世界に推奨するのは、〔スターリンには〕許しがたい<失態(gaffe)>だった。
 新しい版はまた、ほとんど完全に、執筆者が粛清によって殺戮された者たちである、いくつかのきわめて貴重な歴史的な論評や記述を、削除した。
 (こうした過去の再編集の方法は、スターリンの死でもって終わった。
 ベリヤ(Beriya)が新指導者によって死刑に処せられたその数カ月のち、<大ソヴィエト百科辞典>の申込み者たちはその次の巻の注意書きが、こう求めていることに気づいた。以前の一定の頁分をカミソリ刃を使って切除し、注意書きに添えられた新しい頁の用紙をそこに挿入するよう求めていることに。
 読者たちは、指示された場所を開いてみて、ベリヤに関する記載部分だと分かった。
 しかしながら、補充する新しい頁の用紙は、ベリヤに関するものでは全くなく、ベーリング海(Bering -)の追加の写真が掲載されたものだった。)
 歴史的な資料は、警察が例外なく握っており、それらを利用するのは、今日でもそうであるように、厳格に制限されていた。
 これはしばしば、賢い手段で判明することだった。すなわち、例えば、女性ジャーナリストがかつて古い教会区の書庫でレーニンの母親はユダヤ人の血を引いていると発見したとき、彼女にはこの情報をソヴィエトのプレスに掲載しようと試みる馬鹿正直さ(naïvety)すらがあった。//
 (11)この雰囲気は、当然にあらゆる種類の、適切に愛国的言語を用いて彼らの偉業を宣言する科学的ぺてん師を培養した。
 ルィセンコが最も有名だったが、他にも多数いた。
 Olga Lepeshinskaya という名前の生物学者は1950年に、無生の有機物から生細胞を作り出すのに成功したと発表した。そして、プレスはこれをブルジョア科学に対するソヴィエトのそれの優越性を証明するものだとして拍手喝采した。
 しかしながら、すみやかに、彼女の実験は全て無価値であることが判明した。
 スターリンの死後、なお一層衝撃的な記事が<プラウダ>に出た。それは、消費するよりも大きなエネルギーを生み出す機械がSaratov の工場で製造されたというものだった。
 -かくしてこれは、ついに熱力学の第二法則を定めて、同時に宇宙に放散されたエネルギーはどこかに(Saratov の工場に特定される)集中するはずだというエンゲルスの言明を確認することになる。
 しかしながら、のちにすみやかに、<プラウダ>は恥じ入った撤回記事を掲載しなければならなかった。-知的雰囲気がすでに変化してしまっていた徴しだった。//
 (12)書き言葉の世界も話し言葉の世界も、スターリン時代の雰囲気を忠実に反映していた。
 公共に対して何かを発表する目的は知らせることではなく、教示し、啓発することだった。
 プレスの内容は、ソヴィエト体制を賛美する、または帝国主義者を非難する報告だけだった。
 ソヴィエト同盟は、罪からのみならず自然災害からも免れていた。これらはともに、帝国主義諸国家の不幸な特権なのだった。
 事実上は、いかなる統計も公表されなかった。
 新聞の読者たちは、公然とは語られないが全ての者が知っている特殊な符号(code)で情報を得るのに慣れていた。
 例えば、党の幹部たちがあれこれの場合に名前を呼ばれる順序は、彼らがその時点でスターリンの好みの中のいかほどの位置にいるかを知る指標(index)だった。
 表面的には、「コスモポリタニズムおよび民族主義と闘おう」は「民族主義およびコスモポリタニズムと闘おう」と同じだと思えるかもしれなかった。しかし、ソヴィエトの読者は、スターリンの死後に後者の表現を見つけるやいなや、「方針が変わった」、民族主義が現在の主要な敵だと気づいた。
 ソヴィエト・イデオロギーの言語は暗示で成り立っており、直接的な言明によってではなかった。すなわち、<プラウダ>の指導的論文の読者は、決まり文句の洪水の真ん中にさりげなく書かれた単一の文章が掴みどころだと知っていた。
 意味を伝えるのは特定の言明の内容なのではなくて、言葉の順序であり、文章全体の構造なのだった。
 官僚制的な言語の独占、死んでいるがごとき非人間的な文章、そして不毛な言葉遣いは、社会主義文化のこり固まった聖典(canon)となった。
 多数の語句が、自動的に繰り返された。したがって、一つの言葉から次の言葉を予測することができた。例えば、「帝国主義者の凶暴な顔」、「ソヴィエト人民の栄光ある偉業」、「社会主義諸国家の揺るぎない友情」、「マルクス=レーニン主義の古典執筆者たちの不滅の業績」。-このような類の無数のステレオタイプの語句は、数百万のソヴィエト民衆の、知的な規定食(diet)だった。//
 (13)スターリンの哲学は、成り上がり者的な官僚制的心性に、形式と内容のいずれについても見事に適合していた。
 彼の論述のおかげで、誰もが30分で哲学者になることができた。真実を完全に所有するに至るだけではなくて、ブルジョア哲学者たちの馬鹿げて無意味な思想を知ることができた。
 例えば、カントは何かを知るのは不可能だと言ったが、我々ソヴィエト人民は多数の事物を知っている。カントには多すぎたのだ。
 ヘーゲルは世界は変わると言い、世界は観念(idea)で構成されていると考えた。にもかかわらず、誰でも、我々の周りにあるものは観念ではなくて物(things)であることを理解している。
 マッハ主義者は私が座っている椅子は私の頭の中にあると言ったが、明らかに、私の頭と椅子とは別の場所にある。
 このような考え方をして、哲学は、全ての小役人の遊戯場になった。彼らは、若干の常識的で自明なことを繰り返すことによって哲学上の問題を全て片付けたと思って、満足していたのだ。//
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 つづく第11節の表題は、「弁証法的唯物論の認知状態」。
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