秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

プロレタリアート独裁

1993/マルクスとスターリニズム⑤-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 最終の第5節。
 ----
 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム②。
 (8)これは、マルクスの階級意識という観念の単純化した範型だ。
 たしかに、真実について独占する資格があるという党の主張がここから自動的に導き出されはしなかった。
 また、等号で結ぶためには、党に関する特殊レーニン主義の考えが必要だ。
 しかし、このレーニン主義考えには反マルクス主義のものは何もなかった。
 マルクスがかりに党に関する理論を持っていなかったとしても、彼には労働者階級の潜在的な意識を明確にすると想定される前衛集団という観念があった。
 マルクスはまた、自分の理論はそのような意識を表現するものだと見なした。
 「正しい」労働者階級の革命的意識は自然発生的労働者運動の中に外部から注入されなければならないということは、レーニンがカウツキーから受け継いだものだった。
 そして、レーニンは、これに重要な補足を行った。
 すなわち、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争によって引き裂かれた社会には二つの基本的なイデオロギーしか存在することができないので、プロレタリア的でない-換言すると前衛たる政党のイデオロギーと一致しない-イデオロギーは、必ずやブルジョア的なそれだ。
 かくして、労働者たちは助けがなければ自分たち自身の階級イデオロギーを産み出すことができないので、自分たちの力で産み出そうとするイデオロギーはブルジョア的なものになるに違いない。
 言い換えれば、労働者たちの経験上の「自然発生的な」意識は、本質的にはブルジョアの<世界観>であるものを生み出すことができるにすぎない。
 その結果として、マルクス主義の党は、真実の唯一の運び手であるがゆえに、経験上の(そして定義上ブルジョア的な)労働者の意識から完全に独立している(但し、プロレタリアートよりも前に進みすぎることのないように、その支持を得るために求められている場合には戦術的な譲歩をときどきはしなければならない)。//
 (9)これは、権力掌握後も、真実のままだった。
 党は真実の唯一の所持者として、大衆の(不可避的に未成熟な)経験上の意識を(戦術的意味がある場合を除いて)完全に無視することができる。
 じつに、そうしなければならない。それができないとすれば、必ずや、党はその歴史的使命を裏切ることになる。
 党は「歴史的発展法則」および「土台」と「上部構造」の正しい関係の二つを知っている。党はそのゆえに、過去の歴史的段階からの残滓として存続しているものとして破壊するに値する、そのような人民の現実的で経験的な意識を、完璧に見定めることができる。
 宗教的想念は、明らかにこの範疇に入る。しかし、人民の精神(minds)を内容において指導者たちのそれとは異なるものにしているもの全てが、そうだというのではない。//
 (10)プロレタリアの意識をこのように把握することで、精神に対する独裁は完全に正当化される。党は社会よりも、社会の本当の(経験的ではない)願望、利益および思索が何であるかを実際に知っている。
 我々の最終的な等式は、こうだ。真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定。
 プロレタリアートに一種の認識上の特権を与えるこの理論は、同志スターリンは決して間違いをしない、との言明に行き着く。
 この等式には、非マルクス主義のものは何もない。//
 (11)党についての真実の真実の唯一の所持者だという観念はもちろん、「プロレタリアートの独裁」という表現によって補強された。この後者の語をマルクスは、説明しないで、二度か三度何気なく使った。
 カウツキー、モロトフその他の社会民主主義者たちは、マルクスが「独裁」で意味させたのは統治の形態ではなく統治の階級的内容だ、この語は民主主義国家と反対するものとして理解されるべきではない、と論じることができた。
 しかし、マルクスは、この論脈では何らかの類のことをとくには語らなかった。
 そして、この「独裁」という語を額面どおりにレーニンが正確に意味させて明瞭に語ったものを意味するものだと受け取ることには、明らかに間違ったところは何もない。すなわち、法によって制限されない、完全に暴力(violence)にもとづく支配。//
 (12)党がもつ、全ての生活領域に対してその僭政を押しつける「歴史的権利」の問題とは別に、その僭政(despotism)という観念に関する問題もあった。
 この問題は、根本的にはマルクスの予見を維持する態様で解決された。
 解放された人類はつぎのことを行うと想定された。すなわち、国家と市民社会の区別を廃棄し、個々人が「全体」との一体化を達成するのを妨げてきた全ての媒介的装置を排除し、私的利害の矛盾を内包するブルジョア的自由を破壊し、労働者たちが商品のように自分たちを売ることを強いる賃労働制度を廃止する。
 マルクスは、この統合がいかにして達成され得るのかに関して、厳密には論述しなかった。つぎの、疑い得ない一点を除いては。搾取者の搾取-つまり、生産手段の私的所有制の廃棄。
 搾取というこの歴史的行為がひとたび履行されるならば、残っている社会的対立の全ては古い社会から残された遅れた(ブルジョア的)精神を表現するものにすぎない、と論じることができたし、そうすべきだった。
 しかし、党は、新しい生産関係に対応する正しい精神(mentality)の内容はどのようなものであるべきかを知っている。そして当然に、それとは適合しない全ての現象を抑圧することのできる権能をもつ。//
 (13)この望ましい統合を達成する適切な技術とは、実際のところ、どのようなものになるのだろうか?
 経済的基盤は、設定された。
 マルクスは市民社会が国家によって抑圧されるまたは取って代わられると言いたかったのではなく、政治的統治機構は余分なものになり、「物事の管理〔行政〕」だけを残して、国家が消滅することを期待したのだ、と論じることができた。
 しかし、国家が定義上、共産主義への途上にある労働者階級の道具であるならば、国家はその定義上、「被搾取大衆」に対してではなく、資本主義社会の遺物に対してのみ、権力を行使することができる。
 「事物の管理」または経済の運営はどのようにすれば、労働の、つまりは全ての勤労人民の利用や配分を伴わないことができるのか?
 賃労働-労働力の自由市場-は、廃棄されたはずだった。
 これは想定どおりに生じた。
 しかし、共産主義者の熱意だけが人々が労働をする不十分な誘因だと分かると、いったいどうなるのだろうか?
 このことが意味するのは明らかに、それを破壊することが国家の任務である、ブルジョア的意識に囚われてしまう、ということだ。
 従って、賃労働を廃止する方法は、それを強制(coercion)に置き代えることだ。
 そうすると、かりに政治社会のみが人民の「正しい」意思を表現するのだとすると、市民社会と政治社会の統合はどのようにして達成されることができるのか?
 ここで再び言えば、その人民の意思に反対しまたは抵抗する者たちはみな、定義上は資本主義秩序の残存者となる。
 さらにもう一度言えば、統合へと進む唯一の途は、国家によって市民社会を破壊することだ。//
 (14)人々は自由に、強制されることなく協力するように教育されなければならないと主張する者は、誰であっても、つぎの問いに答えなければならない。
 このような教育を、どの段階で、どのような手段によれば、達成することができるのか?
 資本主義社会でそれが可能だと期待するのは、マルクスの理論とは確実に矛盾しているのではないか? 資本主義社会での労働人民は、ブルジョア的イデオロギーの圧倒的な影響のもとに置かれているのだ。
 (支配階級の思想は支配している思想だと、マルクスは言わなかったか?
 社会に関する道徳的変化を資本主義秩序で希望するのは、全くの夢想(pure utopia)ではないのか?)
 そして権力掌握の後では、教育は社会の最も啓蒙的な前衛の任務だ。
 強制は、「資本主義の残存者たち」に対してのみ向けられる。
 そうして、社会主義の「新しい人間」の産出と苛酷な強制との間を区別する必要はない。
 その結果として、自由と隷属の区別は、不可避的に曖昧になる。//
 (15)(「ブルジョア」的意味での)自由の問題は、新しい社会では意味のないものになる。
 エンゲルスは、本当の自由は人々が自然環境を征服することと社会過程を意識的に規制することの両方を行うことのできる範囲と定義されなければならない、と言わなかったか?
 この定義にもとづけば、社会の技術が発展すればするほど、社会は自由になる。
 また、社会生活が統合された指令権力に服従すればするほど、社会は自由になる。
 エンゲルスは、社会の規制は必ず自由選挙または他の何らかのブルジョア的装置を伴うだろう、とは述べなかった、
 そうすると、僭政的権力の一中心によって完全に規制された社会はその意味で完璧に自由ではない、と主張することのできる理由は存在しない。//
 ----
 ⑥へつづく。

1968/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.194-p.198。合冊本ではp.942-946。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想。
 (1)トロツキーはかくして、全ての機会を利用して、一方でのボルシェヴィズムまたはレーニン主義、つまりトロツキー自身のイデオロギーや政治と、他方でのスターリニズムの間には、継続性は存在しないと強調した。
 スターリニズムはレーニン主義の真の継承者ではなく、際立ってそれと矛盾したものだ。
 トロツキーは1937年の論文で、メンシェヴィキやアナキストたちと論争した。彼らが「我々はきみに最初からそう言ってきた」と述べたのに対して、トロツキーは、「ちっともそうでない」と答えた。
 メンシェヴィキとアナキストたちは、僭政体制とロシアのプロレタリアートの苦難がボルシェヴィキ政権の結果として生じるだろうと予見していた。
 実際にそうなったのだが、それはボルシェヴィズムとは何の関係もないスターリンの官僚制として生じたのだ。
 Pannekoek その他のドイツ・スパルタクス団員たちは、ボルシェヴィキはプロレタリアート独裁ではなく党の独裁を立ち上げた、スターリンはそれを基礎にして官僚制的独裁を確立した、と語る。
 これらはいずれも当てはまらない。
 プロレタリアートは、労働大衆の自由に対する願望を具体化する自分たち自身の前衛による以外には、国家権力を奪取できなかったのだ。//
 (2)多数の他の論文でと同様にトロツキーはこの論文で、反対者から、またSerge、Souvarine、Burnham のような支持者たちからも頻繁に提示された異論に答えることを強いられた。
 彼らは間違いなく、ボルシェヴィキはトロツキーの能動的な関与があって最初から、社会主義諸政党を含むロシアの全ての政党を廃絶させた、と指摘した。
 ボルシェヴィキは党内でのグループの形成を禁止し、プレスの自由を破滅させ、クロンシュタットの反乱を血でもって弾圧した、等々。//
 (3)トロツキーはこのような異議に対して何度も回答したが、いつも同じ態様でだった。すなわち、異議を申し立てられている行動は正しく(right)かつ必要なものだった、そしてプロレタリア民主主義の健全な創設に決して反するものではなかった、と。
 彼は1932年8月に出版されたチューリヒの労働者たちへの手紙で、こう書いた。ボルシェヴィキはたしかにアナキストと左翼エスエルを破壊するために実力(force)を用いた(他政党はこの文脈では言及すらされなかった)。しかし、ボルシェヴィキは労働者国家を守るためにそうしたのであり、ゆえにその行動は正当(right)だった。
 階級闘争は暴力(violence)なくしては実行することができない。唯一の問題は、どの階級によってその暴力が行使されているか、だ。
 彼は1938年の小冊子<彼らの道徳と我々の道徳>で、こう説明した。共産主義をファシズムと比較するのは馬鹿げている、これらが用いる手段(methods)にある類似性は「表面的な」もので付随的現象に関係するにすぎないのだから。
 重要なのは、そのような手段を用いる名義となる階級だ。
 トロツキーは、つぎのように批判された。彼は政治的対立者の家族から子どもたちを含めて人質をとった、そして、スターリンがトロツキストに対して同一のことをしたと憤慨している、と。
 しかし、彼はこう答えた。正しい(true)類推方法がない。自分がしたのは階級敵と闘ってプロレタリアートに勝利をもたらすために必要なことだった。それに対してスターリンは、官僚機構の利益のために行動している。
 トロツキーはSchachman への1940年の手紙で、自分が権力をもっていたときにチェカが生まれて機能していたことに同意した。-もちろん、そのとおりだった。
 しかし、彼は言う。チェカはブルジョアジーに対抗するために必要な武器だった。それに対してスターリンは、チェカを「真のボルシェヴィキ」を破壊するために用いている、だから適切な比較にはならない、と。
クロンシュタットの反乱の鎮圧について言えば、重要な防塞を反動的な農民兵士たちに手放すことが、プロレタリア政権にいかほどに期待され得ただろうか? その兵士たちの中には、少なくないアナキストがいたかもしれないのだ。
 党内集団の禁止について言えば、これは絶対に必要だった。全ての非ボルシェヴィキ政党を廃絶したあとでは、社会にまだ現存するかもしれない利害の対立が一つの党の内部に異なる志向をもつ表現体を探し求めざるをえなったからだ。//
 (4)つぎのことが明瞭だ。トロツキーにとって、統治の形態としての民主主義、あるいは文化的価値としての公民的自由を語る必要はない。この観点からすると、トロツキーはレーニンに忠実であり、かつスターリンと何ら異なるところがない。
 かりに権力が「歴史的に進歩的な」階級によって(むろんその前衛を通じて)用いられるならば、定義上それは真正(authentic)な民主主義だ。たとえ、あらゆる様相の抑圧と実力強制がその他の点では日常生活の秩序だったとしても。それは全て、進歩という根本教条に則っている。
 しかし、その権力がプロレタリアートの利益を代表しない官僚機構によって奪取されたその瞬間から、統治の同じ形態は自動的に反動的なものに、ゆえに「反民主主義」的なものになる。
 トロツキーは1931年の<右翼・左翼ブロック>と題する論文で、こう書いた。
 「党内民主主義の復活ということによって我々が意味させているのは、党の真の革命的プロレタリアートの中核は、官僚機構を抑制して党を本当に粛清〔purge、浄化〕する権利をもつ、ということだ。
 上部からの指令どおりに投票する、非原理的で経歴主義の歩兵たちはむろんのこと原理的にテルミドリアンで成る党の粛清、阿諛追従者で成る多数の派閥はむろんのこと末端主義者で成る党の粛清、だ。なお、阿諛追従者たちの資格はギリシャ語またはラテン語に由来するものであるはずはなく、現代的で官僚主義化した、かつスターリン化した形での現実にある今日的なロシア語に由来している。
これこそが、我々が民主主義を要求する理由だ。」
 (G. Breitman & S. Lovell 編<レオン・トロツキー著作集-1930-1931年>(1973年)、p.57.)
 かくして、トロツキーが「民主主義」によって意味させているのは、プロレタリアートの歴史的要求を表現しているトロツキー主義者による政権だ、ということが明らかになる。//
 (5)トロツキーは1939年12月の論文で、彼自身がボルシェヴィキ以外の諸政党の廃絶に責任はないのか否かという疑問に、再びこう答える。
 そのとおりだが、そうしたのは全く正当(right)だった。
 彼はつづける。「しかし、内戦期の法制を平穏時のそれと同一視することはできない」。
 -そして、そのとき、そうであるならば廃絶させられた諸政党は内戦後に再び合法化されるべきだった、との考えが彼の頭に浮かんだに違いない。彼は、こう付け足した。
 「独裁制またはプロレタリアートの法制をブルジョア民主主義の法制と同一視することもできない」。
 ( N. Allen & G. Breitman 編<レオン・トロツキー著作集-1939-1940年>(1973年)、p.133.)//
 (6)1932年末以降の日付のある言述には、つぎのようなものがある。
 「全ての体制は、まず第一にはそれがもつ規準によって評価されなければならない。
 プロレタリアート独裁の体制は、民主主義政体の諸原理や形式的規準を侵犯するものであることを秘密にしようとは願わない。
 それは新しい社会への移行を確実にする能力という観点から、評価されなければならない。
 他方で民主主義体制は、民主主義政体の枠組み内で階級闘争を展開することを許容する程度と範囲いう観点から、評価されなければならない。」
 (G. Breitman & S. Lovell 編<レオン・トロツキー著作集-1932-1933年>(1972年)、p.336.)
 (7)要するに、民主主義諸原理と自由を侵害するときには、民主主義諸国に憤慨してその諸国を攻撃するのは正当(right)だ、しかし、そのように共産主義独裁制を取り扱ってはならない。共産主義独裁制は民主主義諸原理を承認していないのだから。
 共産主義独裁制で最大に優先されるものは、将来に「新しい社会」を創造するという約束にある。//
 (8)我々は<裏切られた革命>で、つぎのようにすら語られる。スターリン憲法は普通選挙制度を宣言することで、もはやプロレタリアート独裁は存在しないことを明らかにした、と。
 (トロツキーもまた、スターリンは秘密投票制度の導入でもって明らかに彼の腐敗した体制をある程度は浄化(purge)することを望んでいると、論評した。
 信じ難い思われるが、トロツキーは明らかにスターリンの選挙制度を額面どおりに理解していた。)
 (9)かくして、つぎのことが明らかだ。トロツキーは絶えずスターリンとその体制を攻撃し、「ソヴィエト民主主義」と「党内民主主義」の回復を要求していたけれども、彼の一般的な根本的考えに照らして見ると、「民主主義」とはその政策方針が「正しい」とする規準を意味するものであり、政策方針の「正しさ」が民衆の支持を求めて競い合う異なる集団の議論の結果として決定される、ということを意味していない。
 彼は<裏切られた革命>で、ボルシェヴィキ(つまりはトロツキーとその支持者たち)とともに始まった「ソヴィエト式政党」への自由を再獲得する必要について書いている。
 しかし、いずれの他の諸政党が「ソヴィエト式」という性質をもつのかは明瞭ではない。
 プロレタリアートの純粋な前衛のみが権力を行使することができるとされるので、その前衛党はいずれの政党が「ソヴィエト式」で、いずれが反革命であるのかを決定する権利もまた有しなければならない。
 トロツキーの目からすると、結論はつぎのようなものだろう。すなわち、社会主義的自由とはトロツキー主義者のための自由のみを意味しており、他の誰のためのものでもなかった。//
 (10)同様の論述を、文化的自由についても行うことができる。
 トロツキーはしばしば、スターリン体制による芸術や科学の抑圧に対する怒りを表明した。
 彼は<裏切られた革命>で、自分が1924年に芸術や文芸分野でのプロレタリアート独裁の規準を定式化したことを想起させた。唯一の標識はその作品が革命を支持するのか革命に反対なのかであり、それ以上については完全な自由が存在しなければならない、というものだ。
 トロツキーは1932年に、「プロレタリアートの革命的任務に反対する方向に向けられたもののみを容赦なく排除して、芸術と哲学の自由が存在しなければならない、と書いた(<著作集-1932-1933年>p.279.)。
 しかしこれは、スターリンのもとで覆ったのと同じ考え方だった。すなわち、党当局が何が「プロレタリアートの革命的任務に反対する方向に向けられ」ているかを決定して、そのゆえに「容赦なく排除し」なければならない。
 このように理解される自由は、ソヴィエト国家では一度も侵害されなかった。
 このような一般的定式によればもちろん、文化の抑圧と統制の程度と範囲は多かれ少なかれ、多様な政治的情勢に従って決せられることになる。そして、1920年代には、抑圧や統制は1930年代よりも確実に少なかった。
 しかしながら、支配者が全ての場合について文化が発信しているものが支配者の政治的必要に合致しているか否かを決定する、ということが根本的な考え方であるがゆえに、抑圧や隷従化の程度は、プロレタリアート独裁に対抗するものとして容易に判断することができない。
 全ての問題は、再びもう一度、同じ様相に帰一することになる。
 つまり、かりにトロツキーに権限があったとすれば、自分の権威にとって危険だと考える自由を、もちろん許容しなかっただろう。
 スターリンも同様に行動した。いずれの場合も、自己の利益の問題なのだった。
 全ての違いは、つぎのことに帰着する。トロツキーは自分が「プロレタリアートの歴史的利益を代表」していると信じた。一方でスターリンは、彼、スターリンがそうしていると信じた。//
 ----
 ②へとつづく。

1967/L・コワコフスキ著第三巻第五章第二節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.190-p.194。合冊本ではp.939-942。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。
 第2節・スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析。
 (1)トロツキーの全ての分析が基礎にしていた確信は、彼とレーニンの政策方針は間違いなく正しい(right)、永続革命理論は事実によって豊富に裏付けられている、「一国での社会主義」は致命的に誤っている、というものだった。
 彼は「ロシア革命に関する三つのコンセプト」と題する論文(1939年)で、つぎのように主張した。
 人民主義者(Populists)は、ロシアは資本主義段階を完全に迂回できると考えた。一方、メンシェヴィキは、ロシア革命はブルジョア的性格のものでのみありうる、そしてプロレタリアート独裁という段階を語ることはできない、と考えた。
 そしてレーニンは、プロレタリアートと農民の民主主義的プロレタリアート独裁というスローガンを提唱した。この旗のもとで実施される革命は西側での社会主義革命を促進し、急速なロシアでの社会主義ヘの移行を可能にするだろう、と。
 トロツキー自身の見方は、民主主義革命という基本方針はプロレタリアート独裁の形態でのみ達成可能だが、プロレタリアート独裁は革命が西側ヨーロッパに伝搬してのみ維持することができる、というものだった。
 レーニンは1917年に同じ方針に立ち、その結果としてロシアでのプロレタリア革命は成功した。
トロツキーがその<ロシア革命の歴史>で長々と示したのは、ボルシェヴィキの誰も、ロシアのプロレタリアートは西側のプロレタリアートに支持されて初めて勝利することができる、ということを疑っていなかったこと、そして、「一国での社会主義」というきわめて有害な考え方は1924年の末にスターリンが考案するまでは誰の頭の中にも入っていなかった、ということだった。//
 (2)1917年以降はレーニンのものでもあった、トロツキーの疑いなく正しい(correct)政策方針が「寄生的官僚制」による統治を帰結させ、また、トロツキー自身が権力から排除されて裏切り者との烙印を捺されたのは、一体いかにして生じたのか?
 これに対する答えは、ソヴィエト権力の頽廃と「テメミドール主義」に関する分析のうちに見出されることになる。//
 (3)追放されていた最初の数年間、トロツキーがとっていた見方は、スターリンとその仲間たちはロシアの政治的範疇の中の「中央」(centre)を占め、革命に対する主要な危険は-ブハーリンとその支持者たちに代表される-「右翼」および「テルミドール反動」、つまり資本主義の復活、の脅威のある反革命分子から生じる、というものだった。
 トロツキーは、これに従って、スターリンに反革命に対する支援を提示した。
 彼は、スターリンは右翼にあまりに譲歩しすぎていて、その結果、「工業党」やメンシェヴィキの連続裁判に見られるように、罷業者や人民の敵が国家の計画部局の高い地位を占めて工業化を意識的に遅らせている、と考えた。
 (トロツキーは、被告人たちの有罪を暗黙にながら信じていた。そして、この裁判がでっち上げだとの思いは、一瞬なりとも持たなかった。
 彼は数年のちに、自分や仲間たちの悪事が大きな見せ物裁判で強力な証拠でもって同じように立証されていってようやく、驚嘆し始めた。)
 トロツキーは1930年代初めに、スターリン体制は「ボナパルティズム」だとした。
 しかし1935年に、フランス革命では初めにテルミドールが来て、ナポレオンはその後だった、順序はロシアでも同じであるに違いない、そしてすでにボナパルトは登場しているので、テルミドールはやって来てかつ過ぎたに違いない、と観察した。
 彼は「労働者国家、テルミドールおよびボナパルティズム」と題する論文で、その理論をいくぶん修正した。
 テルミドール反動はロシアで1924年(すなわち彼自身が権力から最終的に排除された年)に発生した、と述べた。
 しかしそれは、資本主義者の反革命ではなく、プロレタリアートの前衛を破壊し始めていた官僚機構による権力奪取だった。
 生産手段を国家がまだ所有しているので、プロレタリアート独裁は維持されている。しかし、政治権力は官僚層の手中へと移った。
 しかしながら、ボナパルティズム体制はすみやかに崩壊するに違いない。歴史の法則に反しているのだから。
 ブルジョア反革命はあり得るが、本当のボルシェヴィキ党員たちが適切に組織されるならば、避けることができるだろう。
さらにトロツキーは、こう付け加えた。ソヴィエト国家の労働者階級性に関する自分の見方を決して変更しないが、より精細に歴史的類推による説明を施しただけだ、と。
 フランスでも、テルミドールは<アンシャン・レジーム>への元戻りではなかった。
 ソヴィエト官僚制は社会階級(class)ではない。しかし、プロレタリアートからその政治的権利を剥奪し、残虐な専制制度を導入している階層(caste)だ。
 しかしながら、現在のかたちでのその存在は十月革命の至高の成果である国有財産制に依存しており、その成果を官僚制は守るように強いられるし、それなりの方法で守ってきた。
 ゆえに、スターリン主義の頽廃と闘いつつ、世界革命の根拠地として無条件にソヴィエト同盟を防衛することは、世界のプロレタリアートの義務だ。
 (トロツキーは、この二つの意図が実践的にいかにして結合されるのかについて、詳細には説明しなかった。)
 1936年までには、彼はつぎの結論に到達した。スターリニズムを改革や内部的圧力で打倒することはできない。簒奪者を実力(force)によって排除する革命が起こらなければならない。
 この革命は所有制度を変更するものではなく、ゆえに社会的革命ではなく、政治的革命だ。
 これはプロレタリアートの先進的前衛によって実施され、スターリンが破壊した真の(true)ボルシェヴィズムの伝統を具現化することになるだろう。//
 (4)「一国での社会主義」理論は、ロシアおよび外国での官僚主義的過ちの全てについて、責任がある。
 それは世界革命の希望を、ゆえに世界のプロレタリアートでのロシアの主要な支援という希望を、放棄することを意味する。
 一国での社会主義は不可能だ。換言すれば、開始することはできても完了させることができない。それ自体の内部に閉じられた一国では、社会主義は腐敗せざるを得ない。
 1924年末までは世界革命を発生させるという適切な政策目標を追求したコミンテルンは、スターリンによって、ソヴィエトの政策と陰謀の道具へと変質させられた。そして、世界の共産主義運動は、頽廃と不能の状態に落ち込むことになった。//
 (5)トロツキーは、つぎのことを説明しようと多数の試みをした。プロレタリアートの政治権力が破壊され、官僚機構が支配権を獲得し、(のちに再三にわたり述べたように)統治の全体主義的システムを導入した、と。
 多数の書物や論文でのこの試みは、首尾一貫した議論を形づくるものではなかった。
 彼はしばしば、頽廃の主要な原因は世界革命の勃発が遅れていることにある、と主張した。西側のプロレタリアートはその歴史的な任務を適時に引き受けることをしなかった、と。
 彼は他方で同様にしばしば、ヨーロッパでの革命の敗北はソヴィエト官僚制の過ちだ、と主張した。
 かくして、いずれの現象が原因であり結果であるのかについて、疑問が残った。-のちには彼が指摘したごとく、相互に悪化させ合っていたのだけれども。
 我々は<裏切られた革命>で、官僚主義が成長した社会的基盤はネップ時代のクラク〔富農〕を厚遇した誤った政策だ、と語られる。
 かりにそうであるなら、富農の廃絶と第一次五カ年計画のもとでの工業化の強行によって、官僚機構はかりに破滅しなくとも少なくとも弱体化したことになるだろう。
 実際に正確には、それとは反対のことが起きた。そしてトロツキーは、なぜそうだったかをどこでも説明していない。
 彼はのちに同じ書物で、官僚機構は元々は労働者階級のための機関だったが、のちに物品の配分に関与するようになったときに、「大衆の上」のものになって特権を要求し始めた、と語る。
 しかしこれは、特権のシステムの発生は避けられ得たのか否か、どのようにすれば、を説明していないし、なぜ本当は権限のある労働者階級がそのような事態が起きるのを許したのか、も説明していない。
 トロツキーは同じ書物でさらに、官僚制的統治の主要な原因は、歴史的使命を履行すべき世界のプロレタリアートの緩慢さだ、と語る。
 初期の小冊子<ソヴィエト連邦発展の諸問題>(1931年)では、彼は別の理由を挙げる。すなわち、内戦後のロシアのプロレタリアートの疲弊、革命の時代に育まれた幻想の解体、ドイツ、ブルガリアおよびエストニアでの革命的蜂起の挫折、および中国とイギリスのプロレタリアートの官僚主義的裏切り。
 彼は翌年の論文で、戦争に疲弊した労働者たちが秩序と再建のために権力を官僚機構の手に委ねた、と述べた。
 しかし、なぜそのことが自分が指導する「真のボルシェヴィキ・レーニン主義者」によって実行され得なかったのか、を説明しなかった。 //
 (6)多くの種々の説明から、一つの明瞭な論拠が明らかになる。つまり、トロツキー自身は官僚制的システムの形成に些かなりとも関係しなかった、そして、官僚機構は革命後の初期6年の間の独裁とは何の関係もなかった、ということだ。
 しかし、現実は、これらの反対だった。
 初期6年の間に党組織が絶対的な権力を行使したという事実は、スターリンとその徒党の体制とは関係がない、と主張しているとトロツキーの議論は読める。なぜなら、この時代の党は「プロレタリアートの先進的前衛」であり、一方でスターリンの後続の体制は何物も何者も、いっさい代表しなかったからだ。
 そうであるならば、我々はつぎのように尋ねることができる。
 なぜプロレタリアートは、いかなる社会的背景も欠く簒奪者の徒党たちを一掃することができなかったのか?。
 トロツキーはこれに対する答えも用意している。すなわち、プロレタリアートは、現在の状況では自分たちの革命は資本主義の復活を招くだろうと怖れたので、スターリンの統治に反抗しなかった(しかし、継続的な反抗があった、と我々はいたるところで読める)。//
 (7)トロツキーの議論からは、このような惨憺たる結果が生まれるのを避ける方法は全くなかったのか否か、が明確ではない。
 全体として言えば、なかった、ように思われる。なぜなら、あったならば、トロツキーとその仲間たちは絶えず正しい政策方針と本当のプロレタリアートの利益を「表明」しようとしていたのであって、官僚層による権力奪取を確実に阻止できたはずだろう。
 トロツキーたちが阻止しなかったとすれば、その理由は、そうできなかったからだ。
 かりに官僚機構が可視的な社会的基盤なくして存続しつづけたとすれば、そのことはきっと、歴史の法則によるところに違いない。//
 ----
 つぎの第3節の表題は、<ボルシェヴィズムとスターリニズム。ソヴィエト民主主義という観念>。

1888/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨⑲。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年)を見ていて、コミンテルンに関する叙述にさしかかり、江崎道朗の上の本のひどさ、「悲惨さと無惨さ」を思い出した。
 重なるがいま一度記しておく。
 江崎道朗は上の本でコミンテルンに論及したつもりで、こう豪語した。
 p.95-「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 ああ恥ずかしい。
 江崎道朗はコミンテルン関係文書を英語訳等の原語では見ておらず、ほとんどを網羅しているとみられる、かつ古くから日本に存在する邦語訳の資料集類をいっさい参照していない。
 江崎が使っているのは、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)に<付録>として付いている資料で、以下の4点だけ。
 ①1919.01.24-<レーニンによるコミンテルン第1回大会への「招待状」>。
 ②1920.07.28-<レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」>。
 ③1920.08.04-<コミンテルン「規約」>。
 ④1920.08.06-<レーニンの「コミンテルンへの加入条件についてのテーゼ」>。
 かつ第一に、これらは付録にある全19件のうちの4件にすぎず、第二に、個々に見ても付録自体にあるこれら一次資料(邦訳)は全文ですらなく全て「一部抜粋」にすぎない。
 そして、重要なことだが、第一にコミンテルンについてこれらにもとづいてのみ叙述しようとし、かつ第二に、もっぱら邦訳文に依拠していることと本来の「無知」によって、つぎのほぼ致命的なミスを活字にしてしまっている。
 わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある。
 何度でも指摘しておこう。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の違いを理解していなくて、なぜ共産主義、マルクス主義またはマルクス=レーニン主義あるいはコミンテルンに関する本を書けるのか?
 ②「社会愛国主義」=「社会排外主義」というレーニン・ボルシェヴィキらの侮蔑語(とくに第一次大戦、対ロシア戦争に反対しなかったドイツ社会民主党に対する)を知らずして、なぜレーニンら、あるいはコミンテルンに関する本を書けるのか?
 ③ソ連邦=ソヴィエト社会主義共和国連邦がまだ結成されていない時期の文書中の「各ソヴェト共和国」をソ連のことだと理解する<妄想力>を、いったいどうやって身につけたのか。
 なお、のちに(原稿最終提出時に?)複数のごとき「各」が付いていることに気づいたのか、ソ連以外に共産党支配の中国のことも意味する旨も記している。
 この部分は、しっかりした?邦訳資料集の邦訳によるとつぎのとおり。
 共産主義インターナショナルへの加入条件(1920年8月6日)。
 L・コワコフスキは、「21の条件」(Twenty-One Conditions)と略記している(第三分冊、p.107.)。
 村田陽一編訳・コミンテルン資料集第1巻(大月書店、1978年)に所収。
 これの、第14条(の第一文)。
 「共産主義インターナショナルに所属することを希望するすべての党は、反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争を全幅的に支持する義務がある。
 江崎道朗によると、1920年の文書にいうここでの「各ソヴェト共和国」とは、1922年結成のソ連邦(および1949年の中華人民共和国)なのだ。しっかりと、「あほ」だろう。
 L・コワコフスキの書物(第三巻p.107)では上の「各ソヴェト共和国」の部分は、直接の引用でなくして、all existing Soviet republics になっている。原文の「条件」では少なくとも(all) Soviet republics が使われているのだろう。
 これを2017年にソ連邦(および1949年の中華人民共和国)と理解する日本人がおり、かつ一冊の本にまで明記するとは、1920年のボルシェヴィキやコミンテルン関係者は誰も想像できなかったに違いない。
 ついでに、上の⑤に触れる。
 L・コワコフスキは粛清と大粛清とを意識的には区別していないようでもあるが、great と「大」を付加している場合は、スターリン時代のそれをもっぱら意味させているようだ。
 なお、「粛清」と秋月瑛二も邦訳していることがほとんどである原英語は、purge (パージ)。いつか触れたが、日本での「レッド・パージ」は「赤」に対する「殺害・殺戮」を意味したわけではない。
 この点、シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitspatrick)・ロシア革命(2017年)は言葉遣いにより厳しく、一般的な「粛清」はpurge、スターリン時代のそれはPurge と、小文字と大文字で使い分けている。
 なぜなら、レーニン時代の共産党・ボルシェヴィキ内の「粛清」(purge)は殺害・殺戮の意味を実質的にも持たず、革命後に急速に数が増大した共産党員のうち適性・資格を欠く者の<定期的検査による除名>をほぼ意味したからだ。
 時代の変化を敏感に読み取った出世主義?の者たちの大量入党者の中には、「社会主義革命」とか「プロレタリアート独裁」等の意味を全く知らなかった者もいたに違いなく、又出身階層も(農村から都市への移住者はまだマシだが)原・元の「プロレタリアート」であるのか疑わしい者もいたに違いなく、レーニンらは資格・適性の<再検討・再審査>が必要だと判断したと見える。
 よって、この初期の「粛清」は殺害・殺戮の意味を帯びてはいない。
 なお、L・コワコフスキ著のドイツ語訳書の「粛清」は、Säuberung
 これは「浄化」にも近く、「粛清」という訳語でも誤りではない。
 もともとのロシア語は、cleansing の意味だとどこかに誰かが書いていた(S・Fitspatrick だったかもしれない)。
 これは要するに「清潔にすること」、「清浄化」、「浄化」で、独語のSäuberung とたぶんほとんど同じ。
 但し、英語の purge には、「追放」とか「迫害」の意味もある可能性がある。
 これくらいにするが、いずれにせよ、江崎道朗には、「粛清」という言葉・概念の意味についてしっかりと吟味する姿勢自体が存在しないと推定される。
 この点は、しかし、まだマシだ。
 上の①~③はひどい。決定的に、悲惨で無惨。
 これでよく、「コミンテルン」を表題の重要な要素にする書物を刊行できたものだ。
 なお立ち入っていないが、日本の明治以降の江崎道朗の叙述もひどいものがある。
 最終的には、聖徳太子の一七条の憲法-五箇条のご誓文-大日本帝国憲法を、何の論拠も示さず、いかなる詳しいまたは厳密な概念定義を示すことなく、「保守自由主義」なるもので結合させる(7世紀~19世紀!)という単純さと乱暴さ。
 江崎道朗。月刊正論(産経)の毎号執筆者であり続けている。
 月刊正論編集部も、天下の?産経新聞社も、<恥ずかしい>とは感じないのだろうか。
 この程度の人が、何と新書一冊を出版できる、という現在の日本の<惨憺たる>知的世界、<あまりのユルさ>にも唖然とした、江崎道朗・上掲書だった。

1869/宮地健一HPによる日本共産党の異様性・稀少性。

 <宮地健一のホームページ>の中の、コミンテルン型共産主義運動の現状-ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り→1/ヨーロッパの発達した資本主義国における転換・終焉の3段階・2/ヨーロッパ各国・各党の終焉の経過と現状→3)/発達した資本主義国での運動…ユーロ・コミュニズムといわれた諸党、の中につぎの表が掲載されている。宮地作成のものと思われる
 <(表1)レーニン型前衛党の崩壊過程と割合
 この表は、「レーニン型前衛党」の要素として、①プロレタリア独裁理論、②民主主義的中央集権制、③前衛党概念、④「マルクス・レーニン主義」、⑤政党名=「共産党」を挙げ、ヨーロッパ各国および日本と<社会主義4国(中国・北朝鮮・ベトナム・キューバ)>の各<共産党>がどのように維持したり、放棄等をしたりしているのかの「現状」を示している。
 これによると、社会主義4国は北朝鮮の党名が「労働党」である以外は全て「堅持」している。
 ヨーロッパ(東欧は除外)各国の共産党は、⑤の政党名(政党形態)の項によると、1.イタリア-「左翼民主党」に1991年に改称、2.イギリス-1991年に解党、3.スペイン-1983年に分裂、4.フランス-「共産党」維持、5.ポルトガル-「共産党」維持。
 以上と日本(日本共産党)をすでに比べてみると、日本と同じなのはフランスとポルトガルだけ。
 ④「マルクス・レーニン主義」の堅持状況は、1.イタリア-放棄、2.スペイン-放棄、3.フランス-1994年に放棄、4.ポルトガル-堅持。
 そして宮地は日本(日本共産党)は「訳語変更堅持」だとする。これは、「科学的社会主義」という語・概念への言い換えのことを意味するとみられる。
 以上までで日本(日本共産党)を比べてみると、日本と同じなのは、すでにポルトガル(ポルトガル共産党)だけ
 ③の前衛党概念の堅持状況も、日本と同じなのは、ポルトガル(ポルトガル共産党)だけ。宮地によると日本は「隠蔽・堅持」。
 ②の民主主義的中央集権制という組織原則については、1.イタリア-1989年に放棄、2.スペイン-1991年に放棄、3.フランス-1994年に放棄、4.ポルトガル-堅持。宮地によると日本は「略語で堅持」。おそらく「民主集中制」だろう。
 この点も、日本と同じなのは、ポルトガル(ポルトガル共産党)だけ。
 ①のプロレタリアート独裁理論については、1.イタリア-1976年放棄、2.スペイン-1970年代前半放棄、3.フランス-1976年放棄、4.ポルトガル-1974年放棄
 ここで、初めて、日本とポルトガルの違いが出てくる。
 日本共産党は「プロレタリアート独裁」という言葉(訳語)を変更しているが、実質的には維持しているからだ。宮地健一も、日本共産党につき「訳語変更堅持」と明記している。
 宮地健一は、この表の上すぐと下で、つぎのように日本共産党の基礎的な現状についてまとめ、コメントしている。一文ごとに改行。
 「資本主義諸国において、残存するレーニン型前衛党は、2党だけになってしまった。
 ただ、ポルトガル共産党は、1974年12月、ヨーロッパ諸党の中で一番早く、プロレタリア独裁理論は誤りだとして、放棄宣言をした。
 よって、5つの基準・原理のすべてを、『訳語変更、略語方式、隠蔽方式』にせよ、堅持しているのは、世界で日本共産党ただ一つとなっている。

 「21世紀の資本主義世界で、いったい、なぜ、日本共産党という一党だけが、レーニン型前衛党の5基準・原理を保持しつつ残存しえているのか。」 
 ----
 「世界で日本共産党ただ一つ」、「日本共産党という一党だけが」ということは<誤り・間違い>であることの論拠にはならない。
 しかし、日本には<左翼>または<容共>者が欧米各国に比べて異様に多いということの根本的な原因を、この日本共産党という独特の政党・政治組織の存在に求めることは誤りではない、と考えられる。
 上に記されているような意味で「世界でただ一つ」の共産党がある程度の組織を維持しつつ存在するがゆえに、安心して?、朝日新聞社等々の「左翼」メディアがあり、また、立憲民主党等の「左翼」政党がある。岩波書店(・日本評論社法学系)等の「左翼」出版社もある。
 立憲民主党はともあれ、朝日新聞社、岩波書店等々の中には、当然のごとく日本共産党員もいる。
 また、日本共産党の路線が<先ず民主主義革命>であるために、「民主主義」という旗印(これに近いのが「平和」・「護憲」)を支持して日本共産党の周囲に、ある程度の範囲の者たちが集まってくる(そして入党勧誘の候補者になる者もいる)ということになる。
 こうしたことの背景にはさらに、日本はほぼ日本語だけで社会が動き、(共産主義・共産党に関するものも含めて)英語等の外国語による世界の情報が十分に正確には入っていない、ということがある。
 上の宮地健一が示すような現状は、日本ではほとんど知られていないだろう。
 そうした外国語情報の流入は意図的に阻止されていることがある、と考えられる。
 明らかに<反共産主義>の文献は、どの分野であれ、日本語に訳されて出版されることが全くないか、ほとんどない。少なくとも大手出版社はそのような文献の邦訳書を出版しない。
 欧米では意見・感想の違いはあっても読書されて当然の、例えばレシェク・コワコフスキの大著、リチャード・パイプスの二著の邦訳書がいまだに日本に存在していないのは、その顕著な例だろう(一方で、欧米の若手<親マルクス主義系>研究者の本が簡単に邦訳されたりしている)。

1450/ボルシェヴィズム登場①-R・パイプス著9章5節。

前回のつづき。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第5節・ボルシェヴィズムの出現
 〔p.358-p.361〕
 産業労働者はもともと非革命的で実際は『ブルジョア的』だ、そしてブルジョアジーは『反革命的』だ、と結論づけたレーニンには、二つの選択肢があった。
 一つは、革命を起こす考えを放棄することだ。
 しかし、先に述べた精神的な理由から、レーニンはこれを選べない。彼にとって革命は、目的のための手段ではなく、目的そのものなのだ。
 もう一つは、大衆の意思を顧慮することなく、陰謀とクー・デタによって上から、革命を実行することだ。 
 レーニンは、後者を選んだ。1917年7月に、つぎのように書くことになる。
 『…革命の時代には、「多数者の意思」を見出すことでは十分ではない。-ちがう。決定的瞬間に、決定的場所で、「より強く」なければならず、「勝利」しなければならない。
 中世ドイツの「農民戦争」に始まり…1905年まで、われわれは、よりよく組織され、より多く意識的な、より十分に武装した少数者が、その意思を多数者に押しつけて征圧してきた無数の例を知っている。』(55)
 その任務を遂行すべき党組織のモデルを、レーニンは、直接に人民の意思から採用した。
 人民の意思はその構造や活動についてきわめて秘密的だったので、今日までこのテーマの多くのことは不明瞭なままだ。(56)
 しかしレーニンは、カザンとサマラにいた間に元の人民の意思の者との会話を通じて直接に多くの知識を得ていた。  
 人民の意思は階層的な構造をもち、準軍事的な様相でもって活動した。
 その母体である土地と自由(Land and Freedom)とは違って、構成員の平等の原則を否定し、その頂点に全権力をもつ執行委員会(Executive Committee)が立つ、命令的構造に置き換えていた。
 執行委員会の構成員になるためには、綱領を無条件に承認するだけではなく、その根本教条に全身全霊で貢献することが必要だった。委員会規約はいう、『全構成員は、その全ての才能、能力、関係および共感と反感、そしてその生命すら、無条件に組織の意のままにしなければならない。」(57)
 多数の票決を経た執行委員会の決定は、全ての構成員(委員)に対する拘束力をもった。
 委員は、合議によって選出された。
 委員会を下から支えるべく、軍事委員会および地域的または従属的な支部を含む特殊な機関があった。これらは、抗弁なくして委員会の指令を実行しなければならなかった。
 執行委員会委員は全日働く(full-time)革命家であり、その多くは党が好意者から得た金で生活しなければならなかった。//
 レーニンはこの組織原理と実務を、そっくり採用した。  
 厳格な規律、職業家主義、そして階層的組織は、彼が社会民主党に注入しようと探していた全遺産だった。そして、それが叶わなかったとき、彼は自分自身のボルシェヴィキ党派にこれらを課したのだった。
 1904年にレーニンは、『革命的社会民主主義者の組織原理は、上から下へと進もうとするもので、党の中央機関に全ての部分又は支部が服従することを必要とする、と主張した。(58) -これは、人民の意思の規約に由来する表現だ。// 
 しかしながらレーニンは、二つの重要な点で、人民の意思の実務から離れた。
 第一に、人民の意思は階層的に組織されたが、個人的な指導権を許さなかった。すなわち、その執行委員会は、合議によって活動した。
 このことはボルシェヴィキの(議長はいない)中央委員会(Central Committee)の理論的な基盤でもあった。しかし、レーニンは実際には、完全に委員会の議事進行を支配し、彼の同意がなければ、ほとんど多数決すら行われなかった。
 第二に、人民の意思は、帝制から解放されたロシアの政府になるつもりはなかった。その使命は、憲法制定会議(Constituent Assembly)の開設でもって終わることになっていた。(59)
 これに対して、専制体制の打倒は、レーニンにとって、彼の党が実施する『プロレタリアート独裁』の序奏にすぎなかった。//

 --- 
 ②へとつづく。

-0046/日本共産党綱領の変遷・少年少女文学全集を思い出す。

 北朝鮮が3日に核実験実施声明を出した。その核弾頭が日本に向けられる日がくる可能性があるが、「九条の会」の人々はきっと切迫感・現実感が薄いに違いない。
 日本共産党は北朝鮮批判の声明を出した。だが、1962年のソ連の核実験のあと「ソ連の核はきれいな核」と主張して日本の原水禁運動を分裂させた(共産党系は日本原水協と略される)のは同党だった。同党は北朝鮮だけは中国・ベトナム・キューバという「社会主義」国と区別しているようだ。当然といえば当然だが。
 その日本共産党の綱領は1961年綱領以降にも何度か改正され、2004年1月のものが最新のようだ。だが、内容に本質的変化があったわけではない。
 以下、4号まで揃った雑誌・幻想と批評2号の金子甫「日本共産党の新綱領」(2004.06)に主として依拠する。
 1961年には「科学的社会主義であるマルクス・レーニン主義」だったのが76年にたんに「科学的社会主義」に改められた。
 三二年テーゼの「プロレタリアートと農民の独裁」は1961年「労働者、農民を中心とする人民の民主連合独裁」、94年「労働者、農民、勤労市民を中心とする人民の民主連合」の「権力」に変わった。
 また1961年・94年の「民族民主統一戦線政府」は2004年に「統一戦線の政府・民主連合政府」と改められたが、同党は戦前に「不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかった」としているので、これも三二年テーゼの「プロレタリアートと農民の独裁」の趣旨だろう。
 従って、1961年の「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」が「…執権」に変えられ、この語も用いなくなった後、1994年の「労働者階級の権力」としてのみ残り、さらに2004年にこの語も削除された。しかし、三二年テーゼの「プロレタリアートと農民の独裁」という考え方が否定されたことには全くならない。
 さらに「二つの敵」に関して、2004年に「アメリカ帝国主義の対日支配」は「アメリカに対する異常なまでの従属状態」に、日本「独占資本の人民支配」は「大企業による政府に対する強い影響力」に改められた。
 こうした変更を見ていると、大人用の文学作品を子ども用に易しく書き直した少年少女世界文学全集の類を思い出してしまう(「レ・ミゼラブル」は「あゝ無情」だった)。
 マルクス・レーニン主義→科学的社会主義独占資本→「大企業」などが典型的で、かつ(少年少女世界文学全集類と同様に)本質的には何も変わっていない(はずな)のだ。
ギャラリー
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
アーカイブ
アマゾン(Amazon)
記事検索
カテゴリー