秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

フランス革命

1816/クリストファ・ヒル(英国)のレーニン「幻想」。

 英国の歴史研究者・クリストファー・ヒル(Christopher Hill、1912~2003)は、80歳を過ぎて、英国紙Independent の1994年1月15日号の<文化>面らしきところに、以下の文章を寄せている。同紙のサイトによる。全文を訳してみる。一文ごとに改行して、本来の改行箇所には//を付す。
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 「私は1945-46年に、<レーニンとロシア革命>を執筆した。今日では考え難いけれども、戦争中の英国とソ連との間の友好関係が成長し続けるかのごとく見えた、短い期間の間にだった。//
 外務当局が政府の承認を得て、両国の学生たちを定期的に交換留学させるという大規模な企画を考えるために、学識者の有力な委員会を立ち上げていた。
 冷戦によって、これは終わった。そして、ソ連に関して何か良いことを発言するのは、流行らない、かつある分野ではその人の評判を危うくするものになった。
 冷戦の終焉によって、イギリスとロシアの関係をより良く修復し、レーニンと彼の革命を再評価することが、いずれも可能になった。//
 本を執筆しているとき、私は、17世紀のイギリス革命、1789年のフランス革命および1917年のロシア革命の間にある共通性を抽出することを旨としていた。
 1660年の後のイングランド、1815年の後のフランスには、先立つ革命に対する苛酷な反動があった。
 しかし、イングニンドで1688年、フランスで1830年に、それらは旧体制の復活ではないことが示された。
 イギリスの革命は存続して、18世紀のヨーロッパ啓蒙時代の基礎を形作った。クロムウェルのもとでイングランドがアイルランドに従属するという恐怖があったにもかかわらず。
 テロルがあったにもかかわらず、フランス革命の理念(理想)は世界を覆い尽くした。//
 ロシア革命の元来の理念(理想)-男女の平等、諸民族の平等、働いてそれが生んだ富の配分を公正に分け合うという誰もが有する権利、怠惰な遊休階級は望ましくないこと-、これらの理念(理想)のいくつかは、ソヴィエトの現実では見られなくなった。しかしなお、これらは有効性を保っている。
 スターリニズムの虚偽と歪曲が忘れられるときに、それらの理念(理想)は思い起こされるだろう。-とくに、第三世界では。//
 毛沢東がフランス革命について語ったように、ロシア革命を適切に評価するにはまだ早すぎる。
 しかし、すでに我々には、西側資本主義の最悪の特質を真似ようとする猪突猛進行動はロシアで継続していないことが確実だ。
 失業、急騰する物価、社会保障の欠如、富のひどい不平等、統制されない民族および人種の敵対感、財産と人身に対する犯罪-これらの全てが、多くの者を、ソヴィエト体制がもったより良き展望を郷愁をもって(nostalgically)回顧させている。
 安定が最終的にやって来たときにはじめて、レーニンと彼の革命の公正な評価に至ることが可能だろう。
 スターリンのゆえにレーニンを責めるという罠(trap of blaming Lenin for Stalin)に陥らないようにするのが重要だ。二人の間に、いかなる連環(links)を見ようとも。//」
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 このCh. Hill は1947年(35歳の年)に<レーニンとロシア革命>と題する書物を刊行した。
 もっとも、ロシア・ソ連史が専門ではなく、17世紀イギリス史がそれだとされる。
 しかし、上の<レーニンとロシア革命>は邦訳されて、岩波新書の一つとして1955年に刊行された。
 この岩波新書を、レーニンの「生い立ち」やその青年時代の思考を記述するために使っているのが、つぎの本だ。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 上のように、ロシア革命やレーニンをなお見ているヒルの本を、江崎はどのように<参照>しているだろうか。
 実質的に、江崎著指弾へと続く。

1799/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)②。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. ed. 2017).
 2017年版の試訳の第二回。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。
 №1794の内容構成(目次)の紹介には欠けているが、序説以外の各章のはじめにも、見出し文字のない「まえがき」部分がある。「(まえがき)」と記しておく。
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 序説/第3節・革命の解釈。
 全ての革命は<自由、平等、友愛>(liberté, égalité, fraternité )その他の高尚なスローガンをその旗に刻んでいる。
 全ての革命家は、熱狂者で狂信者だ。全てが、不公正や腐敗のない、旧世界にある無感情は永遠に除去される新世界を創ろうという夢をもつユートピアンだ。
 全ての革命家は、内輪もめを許すことができず、妥協をすることもできず、大きくて遠い目標に魅せられており、暴力的で、懐疑的で、そして破壊的だ。
 革命家たちは、非現実的で統治に習熟していない。制度や手続は、思いつきで作られる。
 彼らは、民衆の意思を具現化するという幻想に酔っている。民衆の意思は、彼らの想定では一枚岩だ。
 彼らはマニ教徒(Manicheans)で、世界を二つの陣地に分ける。光と闇、革命とその敵。
 彼らは、伝統、在来の知識、聖像(icons)および迷信を嫌う。
 彼らは、社会は革命がそこに書き記そうとする<無色の白板(tabula rasa)>のはずだ、と信じている。//
 幻滅や失望で終わるのは、革命家の本性だ。
 熱狂は、衰える。狂熱は、強いられるものになる。
 狂気 (7)と高揚の時間は、過ぎ去る。
 民衆と革命との関係は、説明し難いものになる。民衆の意思は必ずしも一体のものではないし、よく見通せるものでもない。
 富と地位への誘惑が戻ってくる。人は隣人を自分のごとく愛しはしないし、そう欲してもいないと気づくとともに。
 全ての革命家は事物を破壊し、すぐにその損失を後悔する。
 彼らが創るものは全て、予期したものよりも小さくて、違うものだ。//
 しかしながら、属性的な共通性とは別に、全ての革命には固有の性格がある。
 ロシアの位置は周縁にあり、そこでの教養のある階層は、ヨーロッパと比べての後進性に覆われていた。
 革命家とは、「プロレタリア-ト」を「民衆」にしばしば置き換え、革命は道徳的に強いられるものではなくて歴史の必然だと主張するマルクス主義者だった。
 革命が起きる前のロシアに、革命的政党はあった。戦争の真只中に革命がやって来たとき、その諸政党は、周辺にいる自発的な革命的群衆の献身ではなくて、民衆革命の既成の一団(兵士、海兵、ペテログラードの大工場の労働者)の支援を求めて競い合った。//
 この著では、三つの主題が特別の重要性をもっている。
 第一は、近代化という主題だ。-後進性から脱却するための手段としての革命。
 第二は、階級という主題だ。-プロレタリア-トとその「前衛」であるボルシェヴィキ党の使命としての革命。
 第三は、革命的暴力とテロルという主題だ。-革命はいかにその敵を処理し、それはボルシェヴィキ党とソヴィエト国家にとって何を意味したのか。//
 「近代化」という用語は、後近代(ポストモダン)としばしば表現される時代には通過点だったかのごとく響き始めた。
 しかし、ボルシェヴィキが追求した工業と技術の近代性は今では見込ないほど古くさかったがゆえに、これは我々の主題とするのに適切だ。すなわち、その当時は、汚染を撒き散らす恐竜の一群のように、従前のソヴィエト同盟から東ヨーロッパまでの風景を切り刻む巨大な煙突群は、革命の夢を実現するものだった。
 マルクス主義者たちは革命よりもだいぶ前から、西側の工業化との恋に落ちていた。
 彼らは資本主義(第一義的には資本主義的工業化を意味した)の不可避性を強く主張したが、これは19世紀遅くの人民主義者(the Populists)との議論の対立の核心だった。
 ロシアでは、のちに第三世界でそうだったように、マルクス主義は革命のイデオロギーであるとともに経済発展のイデオロギーだった。//
 ロシアのマルクス主義者にとって、工業化と経済の近代化は理論上は、目的のための手段にすぎなかった。目標は、社会主義になることだった。
 しかし、ボルシェヴィキがこの手段に明白にかつ集中的に焦点を当てれば当てるほど、目標はますます曖昧になって遠ざかり、ますます非現実的になった。
 「社会主義の建設」という用語が1930年代に一般に用いられるに至ったとき、その意味を、まさに進行中だった新しい工場や工業都市の現実の建設と区別するのは困難だった。
 あの世代の共産主義者たちにとっては、大草原に煙を吐き出す新しい工場群は、革命が勝利しつつあることを最もよく誇示するものだった。
 Adam Ulam が述べたように、いかに苦痛を伴いいかに強制的であっても、スターリンが促進した工業化は、「マルクス主義の論理の完成物であって、『裏切られた革命』ではなく『達成された革命』」だった。(8)//
 第二の主題である階級は、それ自体として最重要の当事者だと受け止められたがゆえに、ロシア革命で重要だ。
 マルクス主義の分析的範疇は、ロシアの知識人層に広く受け容れられた。そして、ボルシェヴィキは、より広い社会主義諸党派の中の例外ではなくて代表的なものだった。階級闘争という観点から革命を解釈し、工業労働者に特別の役割を割り当てるならば。
 権力をもったボルシェヴィキは、プロレタリアと貧農は彼らの自然の同盟者だと想定した。
 ボルシェヴィキはまた、「ブルジョアジー」-以前の資本家、以前の貴族的土地所有者、役人たち、小規模小売店主、クラク(富んだ農民)および一定の文脈ではロシアの知識人層を広く含む-の一員たちは彼らの自然の敵対者だと完全に想定していた。
 ボルシェヴィキはこのような者たちに「階級敵(class enemies)」という用語を使った。初期の革命的テロルがまず第一に向かったのは、こうした者たちに対してだった。//
 この時期に関して最も激しく議論される階級問題の一つは、労働者階級を代表するというボルシェヴィキの主張は正当なものだったか否かだ。
 ペテログラードとモスクワの労働者階級が急進化して他のどの諸政党よりも明らかにボルシェヴィキを選好した1917年の夏と秋を一見するならば、これはおそらく、十分に単純な問題だ。
 労働者階級の支持を得てボルシェヴィキが権力を掌握したということは、その支持を永続的に維持し続けた、ということを意味しなかった。-あるいは実際には、権力掌握の前であれ後であれ、その党を工場労働者のたんなる吹き口(mouthpiece)と見なしたのだ。//
 ボルシェヴィキは労働者階級を裏切ったとの非難は最初は1921年のクロンシュタット反乱(the Kronstadt revolt)に関係して国外から行われたもので、生じざるをえない、本当であるように思える非難だった。
 しかし、いかなる裏切りなのか-いつの時点での、誰との、いかなる結果をもつ裏切りなのか?
 労働者階級との婚姻関係は内戦の終わりの時期には解体に近そうに見えたが、ボルシェヴィキは、ネップ期に継ぎ当てをしてそれを守った。
 第一次五カ年計画の間に、実際の賃金と都市の生活水準が落ちこんで、また体制が生産性のさらなる向上を強く要求したために、関係は再び悪化した。
 正式の離婚ではなくとも、労働者階級との事実上の離別は1930年代に生じた。//
 しかし、これで物語の全部が終わったのではない。
 ソヴィエト権力のもとでの労働者それ自体の状況は、一つの問題だ。
 労働者が自分をより良くする(労働者以外の何者かになる)ために利用できる機会は、別の問題だ。
 ボルシェヴィキは十月革命後の15年間、主としては労働者階級から党員を集めることによって、労働者の党だというその主張をきわめて巧く確証した。
 ボルシェヴィキはまた、労働者階級が上方へと移動する広い経路を生み出した。労働者を新たに党員にすることは、共産主義者たちをホワイトカラーの行政や経営の地位へと昇進させることと関連していたのだから。
 1920年代末の文化革命の間、体制は、多数の若い労働者や労働者の子どもたちをより高等な学校へと送り込むことによって、上昇移動への新しい経路を切り拓いた。
 困難度の高い「プロレタリアの昇進」という政策は1930年代初めに弱まったが、その影響は残った。
 スターリン体制にとって重要なのは労働者ではなく、<以前の>労働者だった。-経営および職業上のエリートの中にいる新しく昇進した「プロレタリア-トの中核」だった。
 厳密なマルクス主義の立場からすれば、このような労働者階級の上への流動は、おそらく大した関心の対象ではなかった。
 しかしながら、受益者からすると、彼らの新しいエリートとしての地位は、革命が労働者階級に約束したことを実現したことの紛れもない証拠だと思われがちだった。//
 この著で一貫している最後の主題は、革命的暴力とテロルという主題だ。
 民衆の暴力は、革命に内在的なものだ。
 革命家たちは、後の時期には留保を増やしつつも、革命の初期の段階でそれをきわめて好意的に考える傾向にある。
 テロルとは、一般民衆を脅かし恐怖に陥れる、革命集団または体制による組織的な暴力を意味する。これは、近代諸革命に特徴的なものでもあり、フランス革命がその典型を設定した。
 革命家の目からするとテロルの主要な目的は、革命の敵や変革への障害を破壊することだ。
 しかし、革命家たち自身の純粋性や革命的意識を維持するという、二次的な目的がしばしばある。(9)
 敵と反革命者は、全ての革命できわめて重要だ。
 敵は公然とはもちろん密かにも抵抗する。彼らは、策略や陰謀を企む。彼らはしばしば、革命家の仮面を身につけている。//
 マルクス主義者の理論に従って、ボルシェヴィキは階級という観点から階級の敵という観念を生み出した。
 貴族(noble)、資本家またはクラクであることは、<そのこと自体で(ipso facto)>、反革命同調者の証拠だった。
 たいていの革命家たちと同様に(地下の党組織と策略という戦前の経験があったことを考えるとおそらくたいてい以上に)、ボルシェヴィキは反革命の陰謀に神経質だった。
 しかし、彼らのマルクス主義はこれに、特殊な捻りを加えた。
 かりに革命には本来的に有害な階級があれば、一つの階級全体を敵の共謀者だと見なすことができた。
 その階級の個々の構成員は、「客観的に」反革命共謀者であり得た。主観的には(つまり彼らの心の裡では)共謀に関して何も知らず、自分たちは革命の支持者だと考えているとしてすら。//
 ロシア革命で、ボルシェヴィキは二種のテロルを用いた。すなわち、党の外部にいる敵に対するテロルと、党内部の敵に対するテロル。
 前者は革命の初期の時代に支配的だったが、1920年代に少なくなった。そして再び、集団化と文化革命の10年間の末に急に激しくなった。
 後者は最初は、内戦の終末期に党の分派闘争の間にあった可能性として散見された。だが、1927年までには消失した。その当時、左翼反対派に対する小規模のテロルが行われた。//
 そのとき以降、党内部の敵に対して大規模のテロルを行う誘惑があることが明瞭になった。
 これの一つの理由は、体制は党外部の「階級敵」に対して相当規模のテロルを用いているということだった。
 もう一つの理由は、党員たちに対する党の定期的な粛清(chistki, 字義どおりには洗浄(cleansing))が、痒い部分を引っ掻くのと似た効果を持ったことだ。
 1921年に全国的規模で最初に行われた粛清(purges)は、その忠誠性、能力、出身および社会的関係を判断する公開の場に全ての共産党員を個人的に呼び集めて、再審査するというものだった。そして、望ましくないと判断された者たちは党から除名されるか、党員候補へと引き下げられた。
 1929年に全国的な党の粛清があり、1933-34年にもう一回あった。そしてそのあと-党の粛清がほとんど偏執狂的な活動になった-、1935年と1936年にさらに二回の党員再審査が素早く続いて行われた。
 除名(expulsion)は拘禁または国外追放のような重い制裁を伴う蓋然性はあったけれども、まだ比較的に穏やかだった。この党粛清のたびに、重くなっていったけれども。//
 テロルと党の粛清(purging, 「p 」は小文字)は最終的に、結合して大規模になって、1937-38年の大粛清(the Great Purges)に至った。(10)
 これは、通常の意味での粛清ではない。党員に対する系統的な再審査は含まれていないからだ。
 しかし、これは第一段階では党員に、とくに高い地位の公職にある党員に対して向けられた。そして、拘禁と恐怖が非党員の知識人にすみやかに広がった。より少ない程度でだが、広く一般民衆にも。
 より正確には大テロル(the Great Terror)と称されることになる大粛清では、疑念はほとんど確信と同じであり、犯罪行為の証拠は必要でなかった。そして、反革命罪に対する罰は、死または労働強制収容所送りの宣告だった。
 多数の歴史研究者に、フランス革命のテロルとの類似性が思い起こされた。そして、大粛清の組織者にも同様に、明らかに類推がなされていた。大粛清の間に反革命者だと判断された者に適用される「民衆の敵」という用語は、ジャコバン派のテロリストから借りたものだったのだから。
 この、示唆的な歴史的借用の意義については、〔この著の〕最後の章で検討する。//
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 (7) この語は、Aristide R. Zolberg, '狂気のとき' <政治と社会>2:2 (1972 冬号)p.183-p.207 から借用した。
 (8) Adam B. Ulam, The Historical Role of Marxism. ウラムの <ソヴィエト全体主義の新しい顔>(Cambridge, MA(USA), 1963)所収 p.35。
 (9) このテーマにつき、Igal Halfin の<私の精神におけるテロル-裁判に関する共産主義者の自伝> (Cambridge, MA, 2003)を見よ。
 (10) 「大粛清」とは西側の用語で、ロシアのものではない。
 長年にわたってロシア語で事件に言及する公的な方法は受け入れられなかった。公式にはこれは発生していなかったからだ。
 私的な会話では、決まって遠回しに「1937年」と言及されていた。
 「粛清(p-)」と「大粛清」という名称の間の混乱は、ソヴィエトの婉曲語法に由来する。テロルが1939年の党第18回大会での半ばの拒絶によって終わったとき、表向きで拒否されたのは「大量の粛清」(massovye chistki)だった。実際には、厳密な意味での党の粛清は1936年以降は行われなかったけれども。
 婉曲語法はロシア語では短い間使われたが、それもやがて消えた。一方、英語では、それは永続的に注意を惹き続けた。
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 第4節・第四版に関するノート。
 以前の各版と同様に、この第四版は、ロシア帝国とソヴィエト同盟の一部だった非ロシアの領域でではなく、基本的にロシアで経験されたロシア革命の歴史だ。
 この限定は、今や非ロシア圏域とその民衆に関する活発で価値ある研究が発展しているので、それだけ一層、強調しておかなければならない。
 中心的な主題に関しては、この版では、最近の国際的な学界の成果はもちろん1991年以降に利用できるようになった新しい資料も取り込む。
 この著の議論の仕方や構成に大きな変更はないが、新しい情報と新しい学問上の解釈に対応して、一定の小さな変更がある。
 脚注を利用したのは、英語に翻訳されたロシアの研究書はもちろん、最近の重要な英米語の研究書にも注意を向けるためだ。ロシア語での書物や資料からの引用は、最小限にとどめた。
 選んだ参照文献一覧は、さらに読書するための簡単な案内になるだろう。
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 第一章・初期設定(The Setting)。
 (はじめに)
 20世紀の初め、ロシアはヨーロッパの大国の一つだった。
 しかし、イギリス、ドイツおよびフランスと比較すると後進的だと一般的に見られていた大国だった。
 これは経済的な観点でいうと、封建体制から抜け出してくるのが遅れており(農民層は1860年代にようやく地主または国家による法的な拘束から解放された)、工業化も遅れていた、ということを意味した。
 政治的な観点でいうと、1905年までは合法的な政党も選挙された中央の議会もなく、弱くはない権力をもつ専制体制が残存していた、ということを意味した。
 ロシアの都市は政治的組織や自己統治という伝統を持たず、貴族階層も同様に、君主に対して譲歩を強いるだけの力をもつ一体的な自己意識を発達させることができなかった。
 法的には、ロシアの臣民はまだ「身分(estate)」(都市、農民、聖職者および貴族)の一つだった。身分制度は職業人や都市労働者に関する条項を何ら定めていなかったし、聖職者だけは、自己完結的な階層の特徴に似たものをもっていたけれども。//
 1917年の革命以前の30年間、窮乏化はなく、国富は増大した。
 政府の工業化政策、外国からの投資、銀行や信用構造の近代化および国内の起業活動の緩やかな発展の結果として、ロシアが急速な経済成長を経験したのは、この時代だった。
 革命の時期にロシアの総人口の80パーセントをまだ構成していた農民層は、その経済的地位に関して目立った改善を経験していなかった。
 しかし、当時のいくつかの見解とは対照的に、農民層の経済条件が絶え間なく悪化していくということは、ほとんど確実に、なかった。//
 ロシアの最後の皇帝であるニコライ二世は悲しくも、専制体制は知らぬ間に迫り来る西側からのリベラルな影響と闘っていることに気づいた。
 政治的変化の方向-西側の立憲君主制のようなものに向かう-は明確であるように見えた。教養ある階層の多くの構成員たちは変化の遅さに耐えられず、頑固な障害物は専制体制の側の態度だったけれども。
 1905年の革命の後、ニコライは譲歩して全国的に選出される議会、ドゥーマ(the Duma)を設置し、同時に政党と労働組合を合法化した。
 しかし、古い専制体制の支配の恣意的な習慣と継続した秘密警察の活動は、こうした譲歩を骨抜きにした。//
 1917年の十月革命の後で、多くのロシア人亡命者(エミグレ)は革命前の時代は前進していた黄金の時代だったと、だがこの時代は(こう思われたのだが)第一次大戦または手に負えない暴徒、あるいはボルシェヴィキによって妨害されたのだと、振り返った。
 進展はあったが、それは社会の不安定さと政治的変革の蓋然性に大きく寄与した。すなわち、社会の変化が急速であればあるほど(その変化が進歩的か逆行的かのいずれであれ)、社会はますます安定性を失っていく趨勢にあった。
 もしも我々が革命前のロシアの偉大な文学作品を思い浮かべれば、最も生々しいイメージは、転位感、疎外感および自己の運命を支配できないこと、といったものだ。
 19世紀の作者の Nikolai Gogol にとって、ロシアは見知らぬ目的地へと暗闇の中を疾走している馬車だった。
 ニコライ二世とその閣僚たちを公的に批判したドゥーマの政治家の Aleksander Guchkoiv にとっては、ロシアは狂った運転手が運転して断崖の縁に沿って進んでいる車だった。その車の中で恐怖に怯える乗客は、車輪を抑える危険性について議論している。
 1917年に、危険は冒された。そして、前方向へのロシアの大胆な動きは、革命へと突入することになる。//
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 以上、序説の第3節と第4節、および第一章の「はじめに」が終わり。

1795/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)①。

 シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命。
 =Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (Oxford, 2ed. 1994, 3rd. 2008, 4th. 2017).
 これの2017年版によって、訳を試みる。一文ごとに改行し、本来の改行箇所には//を付す。<>内は斜字体になっている書物のタイトル。なお、連続して掲載することは予定していない。
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 序説
 (はじめに
 アメリカのニクソン大統領が1972年に中国を訪れていたとき、会話がほとんど二世紀前のフランス革命に移った。
 周恩来首相は革命の影響を論評するように求められて、語るのは早すぎる、と答えた、という伝説がある。
 彼はおそらく質問を誤解し、1968年のパリ事件のことを尋ねられていると考えた、ということが判明した。しかし、どんな場合でもそう語るのは、よい答えだっただろう。
 大きな歴史的事件の影響について語るのは、つねに早すぎる。その影響は静態的でなく、現在の状況や我々自身の過去の変化に関する立脚点に応じて恒常的に変化しているのだから。
 同じことはロシア革命についても言える。これに関する記憶はすでに長い季節の移ろいを通り抜けており、かつ疑いなく将来にもまたもっと多く通り抜けるだろう。
 この著<ロシア革命>の第二版(1994年)は、劇的な事件の荒波-共産主義体制の崩壊と1991年末のソヴィエト同盟の解体-の中で出版された。
 この事件は、ロシア革命に関する歴史学者にとってあらゆる種類の重要な意味をもった。
 これは以前は閉ざされていた書類庫を開き、引き出しの中に隠されていた回想録を持ち出し、あらゆる種類の、とくにスターリン時代とソヴィエトによる抑圧の歴史に関する、洪水のごとき新しい資料を解放した。 
 その結果として、ソヴィエト後を含む歴史学者は1990年代と2000年代はとくに生産的で、また国際的な学術世界と改めて再連結した。
 第三版(2008年)で増加させた文献一覧は、殺到したこの新しい情報を反映している。
 今やこの第四版とともに、ロシア革命後一世紀(100年)に到達した。
 一世紀後というのは、再評価するには分かりやすい時期だ。しかし、奇妙だが、そのような試みをしようという熱意は、ロシアにはほとんどない。
 ソヴィエト後のロシアは、新しい国民の一体性の根拠としての有用な過去を必要としている。
 問題は、どの程度に革命がそれに適しているかを見分けることだ。
 スターリンは、比較的容易に、国家建設者だと、そして、第二次世界大戦で偉大な勝利を収めたロシア(ソヴィエト同盟)の指導者で、戦後の超大国への上昇の監督者だと、説明をつけることができる。
 しかし、現代のロシア人がレーニンとボルシェヴィキについてどう考えるべきかを知るのは、そう簡単ではない。//
 ロシア人とその他の旧ソヴィエトの市民にとって、ソヴィエト同盟の崩壊は革命の意味を根本的に再検討することを意味したはずだ。(1)
 以前はこの革命は、世界の「最初の社会主義国家」を生んだ基底的事件だったと称揚され、今は多くの者によって、74年間も正当な道からロシアを逸脱させた過ちだったと見られている。
 西側の歴史学者は難なく適応したが、彼らの見方は、ソヴィエト同盟の崩壊によるのと同様に冷戦の終わりによって微妙に変わった。
 砂塵はまだなお、精神上の再設定によって静められなければならない。
 しかし、一つのことだけは、明白だ。
 ロシア革命の意義に関するかぎりは、明確に語るのはまだ早すぎる。そして、この革命が現代ヨーロッパと世界の歴史の重大な分岐点だったと真面目に考察され続けているかぎりは、ずっとそうだろう。
 この著書は、ロシア革命の物語を叙述し、当事者によって観察された諸事態を明確にしようとする。
 しかし、ロシア革命の意味は、フランス革命のそれのように、際限なく議論されていくだろう。//
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 (1) 革命と名づけることすら、複雑になった。「ロシア革命」という用語は、ロシアでは決して使われなかった。多くのロシア人が今では避けるソヴィエトの用語法では、それは「十月革命」またはたんに「十月」だった。ソヴィエト後に好まれる用語は「ボルシェヴィキ革命」であるように見える。
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 第一節・革命の時期的範囲。
 革命とは複雑な社会的政治的大変革なので、革命に関して執筆する歴史学者は最も基本的な問題について-原因、革命の目標、社会に対する影響、政治的結果、そして革命の時間的範囲自体についてすら-、異なってこざるをえない。
 ロシア革命の場合は、開始時点を提示することに問題はない。
 ほとんど誰もが、1917年の「二月革命」のときだと考える。これは皇帝ニコライ二世の退位と臨時政府の成立をもたらした。(2)
 しかし、いつロシア革命は終わったのか?
 ボルシェヴィキが権力を掌握した1917年10月に全てが終わったのか?
 あるいは、ボルシェヴィキが内戦に勝利した1920年に革命は終わるに至ったのか?
 スターリンの「上からの革命」はロシア革命の一部だったのか?
 それとも、革命はソヴィエト国家が生存し続けている間ずっと継続していた、と我々は理解すべきなのか?//
 Crane Brinton はその著<革命の解剖学>で、革命は急激な変化を求める情熱と熱狂が増大する段階を経て、強烈さが最頂点に到達し、その後に幻滅という「テルミドール」段階がつづき、革命の活力は減少し、秩序と安定の回復への緩やかな移行となる、という考え方を述べた。(3)
 Brinton の分析の基礎にあるのと同じフランス革命モデルを抱いていたロシアのボルシェヴィキは彼ら自身の革命の「テルミドール」的衰亡を怖れ、内戦の終期にそれが起こったのではないかと半分は懸念した。そのとき彼らは、経済の破綻によって、1921年の「新経済政策」(NEP)の導入が画する「戦術的退却」をすることを強いられた。//
 しかしなお、ロシアは1920年代の終わりに、新しい大変革に突入した-スターリンによる「上からの革命」であり、第一次五カ年計画、農業の集団化、および最初は古い知識人に対して向けられた「文化革命」による産業化への強い志向を伴っていた。
 これの社会への影響は、1917年の二月革命、十月革命や1918-20年の内戦よりすらも大きかった。
 古典的なテルミドールの徴候を明瞭に認識することができたのは、この大変革が1930年代早くに終わってようやくのことだった。すなわち、革命的な情熱と戦闘性は減退した。そして、新しい政策は、秩序と安定の回復、伝統的な価値と文化の再生、新しい政治的社会的構造の強化をしようとした。
 しかしこのテルミドールですら、革命による大変革の終わりを告げるものではまったくなかった。
 最終の内部的激動、初期の革命的テロルの大波よりすらも激しい破壊があり、1937-1938年の大粛清(the Great Purge)が、多数の古いボルシェヴィキ革命家を一掃し、政治上、行政上および軍事上のエリートたち内部での大規模の人的な再編成をもたらし、百万以上の人々を殺し、またはグラクへと投獄した。(4)//
 ロシア革命の時期的範囲を決定するに際しての第一の論点は、1920年代のネップという「戦略的退却」の性質だ。
 これは革命の終わりだったのか、あるいは、そのように考えられていたのか?
 ある範囲の研究者たちは、レーニンは最後の日々に(彼は1924年に死んだ)、社会主義に向かうロシアの更なる前進は、徐々に、民衆の文化レベルを高めることによってのみ達成できると信じるようになった、と考える。
 しかしながら、ロシア社会はネップ期の間、きわめて移ろいやすく不安定であり続けた。
 ボルシェヴィキは反革命を怖れ、国内および国外の「階級敵」による脅威を懸念したままでいて、ネップへの不満足やネップを革命の最終的成果だとする理解への気乗り薄さを恒常的に表明していた。//
 考察すべき第二の論点は、1920代遅くにネップを終わらせたスターリンの「上からの革命」の性質だ。
 ある範囲の研究者たちは、スターリンの革命とレーニンのそれとの間には本当の(real)継続性は何らなかったという考えを拒否する。
 別の研究者たちは、スターリンの「革命」はその名に値しない、と感じる。民衆的蜂起ではなく、急進的な変化を狙う支配政党による社会に対する攻撃のようなものだ、と考えるからだ。
 私はこの著で、レーニンの革命とスターリンのそれの間にある、継続する線をたどる。
 スターリンの「上からの改革」をロシア革命に含めることについて言えば、これは歴史研究者によって異なって当然の問題だ。
 しかし、ここでの論点は、1917年と1929年は似たものか否かではなく、共通する過程の一部なのか否か、だ。
 ナポレオンの革命戦争は、フランス革命に関する我々の一般的観念の中に含めることができる。それを1789年の精神を具現化したものだと見なさないとしても。
 同様の接近方法は、ロシア革命の場合について正当であるように思える。
 常識的な用語法では、革命は、旧体制と新しい体制の確立との間の大変革と不安定の時期という意味とつながる。
 1920年代遅くには、ロシアの永続する外形はまだ明らかになる必要があった。//
 判断すべき最後の論点は、1937年-1938年の大粛清はロシア革命の一部だと考えるべきか否か、だ。
 これは革命的テロルだったのか? それとも、根本的に異なる種類の-おそらくは固く揺るぎない体制の体系的な諸目的に役立つテロルを意味する、全体主義的テロルという種類の-テロルだったのか?
 私の見解では、これら二つの性格づけのいずれも、大粛清を十分には描写していない。
 それは独特の現象であり、まさしく革命と革命後のスターリニズムの境界に位置するものだ。
 それは修辞、攻撃対象および加速していく進展の点で言えば、革命的テロルだ。
 しかし、構造ではなく人身を破壊し、指導者個人そのものを脅かさなかった点では、全体主義的テロルだ。
 スターリンによって始められた国家テロルだということは、ロシア革命の一部であるとすることを妨げはしない。結局のところは、1794年のジャコバンのテロルも同じ観点から描写することができる。(5)
 二つの事件のもう一つの重要な類似性は、どちらの場合も革命家たちが主要な破壊対象の中にいた、ということだ。
 劇的な理由だけでも、ロシア革命の物語は大粛清を必要とした。フランス革命の物語がジャコバンのテロルを必要としたのとちょうど同じように。//
 この著では、ロシア革命の時期的範囲は、二月革命から1937-1938年の大粛清までだとする。
 異なる諸段階-1917年の二月革命と十月革命、内戦、ネップという幕間、スターリンの「上からの革命」、その「テルミドール」的余波、および大粛清-は、20年間の革命の過程での別々の期間として扱われる。
 この20年が終わるまでに、革命のエネルギーは完全に費やされ、社会は疲れ切った。支配する共産党ですら、変革に飽きて、「正常さへの回帰」という一般的な切望を共有した。
 確かに、正常さ(Normalcy)は、まだ回復可能だった。ドイツの侵略とソヴィエトの第二次大戦への参戦開始は、大粛清のようやく数年後にやって来たのだから。
 戦争はさらなる激変を生んだが、少なくともソヴィエト同盟の1939年以前の領域に関するかぎりでは、もはや革命ではなかった。
 それは、ソヴィエトの歴史上の、革命の後の新しい時代の始まりだった。//
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 (2) 1918年に暦が変わる前の日付は旧歴で示す。この旧暦は1917年では、ロシアが1918年に採用した西欧暦よりも13日遅れる〔秋月注=進むのが遅い。=数字は少ない。〕
 (3) Crane Brinton, The Anatomy of Revolution (rev. ed; New York, 1995).
 (4) 後述、p.167 参照。
 (5) 私の国家テロルに関する考え方は、かなりの程度 Colin Lucas の論文、「革命的暴力、民衆とテロル」、in : K. Baker (ed.), The French Revolution and the Creation of Modern Political Culture [フランス革命と近代政治文化の創出], Vol. 4; The Terror [テロル], (Oxford, 1994) に負っている。
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 第二節・革命に関する書物。 
 解釈者にとって、革命ほどイデオロギー上の論争を刺激するものはない。
 1989年のフランス革命200周年に注目を向けさせたのは、例えば、何人かの研究者と評論者が、革命を歴史という塵の堆積物にすべく、解釈の長い対立を終わらせようと果敢に試みたことだった。
 ロシア革命についてはより少ない歴史文献しかないが、しかしそれはおそらくたんに、それに関して書くには一世紀半もまだ経っていないことによる。
 この著の最後にある選抜参照文献一覧で、私は最近の研究作業に注目し、ロシア革命に関するこの10-15年間の西側による研究の進展を反映させた。
 ここで、時代に関する歴史的展望についての最も重要な変化を概述し、ロシア革命とソヴィエトの歴史に関するいくつかの古典的著作の特徴を述べよう。//
 第二次大戦前の西側では、職業的歴史研究者がロシア革命について書くことは多くはなかった。
 多数の目撃者の報告資料や回想録があったが、その中で最も有名なのは、John Reedの<世界を震撼させた10日間>だった。もちろん、W. H. Chamberlin や Louis Fischer のような評論者が書いた、秀れた歴史叙述書はいくつかあった。彼らの<世界情勢の中のソヴィエト>は、一つの古典であるままだ。
 最も長いあいだ影響を与えた解釈に関する著作は、レオン(レフ)・トロツキー(Leon(Lev) Trotsky)の<ロシア革命の歴史>と、同じ著者の<裏切られた革命>だった。
 第一のものはソヴィエト同盟から追放された後だが政治的論争書として書かれておらず、当事者の視点からする1917年の分析を生き生きと描写している。
 第二のものは1936年にスターリンの犯罪を追及すべく書かれたもので、明らかになっていたソヴィエトの官僚主義階層の支持をうけた、かつ本質的にはブルジョア的価値観念を反映する、テルミドール的なものとしてスターリン体制を描写する。//
 戦前にソヴィエト同盟で書かれた著作の中で栄誉ある地位を占めるのは、スターリンの厳密な監視のもとで書かれて1938年に出版された、悪名高き<ソヴィエト共産党の歴史に関する短期講座>だ。
 読者は推測するだろうように、これは学問的著作ではなく、ソヴィエト史の全ての論点に関する正しい「党の基本方針」-すなわち、全党員によって学び取られ、全学校で教育されるべき正統(the Orthodoxy)-を設定することを意図したものだ。その論点の範囲は、ツァーリ体制の階級的性質や内戦で赤軍が勝利した理由から、「ユダヤのトロツキー」が率いて外国の資本主義勢力が支援した、ソヴィエト権力に対する共謀にまで及ぶ。
 ソヴィエト時代には、<短期講座>のような作品の存在は、生産的な学問研究の余地を多くは残さなかった。
 厳格な検閲と自己検閲は、歴史に関するソヴィエト職業人にとって日常のことだった。//
 ソヴィエト同盟で1930年代に確立するようになり、少なくとも1950年代半ばまで権威をもち続けたボルシェヴィキ革命の解釈は、ありきたりの公式的なマルクス主義だ、と叙述してよい。
 鍵となる要点は、十月革命は真のプロレタリア革命で、ボルシェヴィキはプロレタリア-トの前衛として奉仕した、そして革命は未成熟なものでも偶然でもなかった-それが生起したのは歴史法則に支配されている-ということだ。
 歴史法則(zakonomernosti)は、重要だとしてもうまく明瞭にできないが、ソヴィエト史上の全てを決定した。このことは実際上は、大きな政治決定は全て正当(right)だった、ということを意味した。
 現実ではない政治史が書かれた。レーニン、スターリンおよび若くして死んだ数人以外の全ての革命指導者は、革命に対する反逆者だと暴露され、「人に非ざる者」に、すなわち活字で言及することのできない者になったのだから。
 社会史は、事実上はこれらだけが演者であり題目である、労働者階級、農民層および知識人層という階級の用語法で書かれた。//
 ソヴィエトの歴史は西側で、第二次大戦の後にようやく強い関心事になった。主としては、敵を知るためという冷戦の文脈の中でだった。
 基調を設定した二つの書物は小説で、George Owell の<一九八四年>と Arthur Koestler の(1930年代遅くの年配のボルシェヴィキに対する大粛清裁判に関する)<真昼の暗闇>だった。しかし、学問の分野を圧倒したのは、アメリカ政治学だった。
 ナチ・ドイツとスターリンのロシアをいくぶん悪魔化して合成した全体主義モデルは、最も知られた解釈上の枠組みだった。
 これは、全体主義国家の全能性とそれがもつ「支配のための梃子」を強調し、イデオロギーや虚偽宣伝活動にかなりの注意を向けた。そして(消極的で、全体主義国家によって断片化されたと見られた)社会の分野はかなり軽視された。
 西側のたいていの研究者は、ボルシェヴィキ革命は少数党によるクー(coup)だ、いかなる種類の民衆の支持も受けず、正統性もない、ということで一致した。
 革命は、そしてそのためのボルシェヴィキ党の前史は、主としてソヴィエト全体主義の起源を説明するために研究された。//
 1970年代以前には、ロシア革命を含むソヴィエト史を敢えて研究する西側の歴史学者はほとんどいなかった。それは一つは、主題がとても政治的な負荷を帯びているからであり、また一つは、公文書や第一次資料に接近するのがきわめて困難だったからだ。
 イギリスの歴史研究者による二つの先駆的な著作は、記しておくに値する。
 E. H. Carrの<ボルシェヴィキ革命 1917-1923>は彼の複数巻の<ソヴィエト・ロシア史>の最初のもので、1952年に刊行された。そして、Isaac Deutscher のトロツキーに関する古典的人物伝の最初の巻である<武装せる予言者>は、1954年に出版された。//
 ソヴィエト同盟では、1956年の第20回党大会でのフルシチョフによるスターリン弾劾とそれに続く部分的な脱スターリン化によって、歴史再評価の入り口がある程度は開かれ、学問研究の水準が高められた。
 公文書にもとづく1917年や1920年代の研究が出現し始めた。但し、例えば労働者階級の前衛だというボルシェヴィキ党の地位に関して、遵守されるべき制約と教条がまだあったけれども。
 トロツキーやジノヴィエフのような人に非ざる者(non-persons)に論及することも可能になったが、それは侮蔑的な文脈でのみだった。
 フルシチョフの秘密報告が歴史研究者に提供した大きな機会というのは、レーニンとスターリンを分別する、ということだった。
 ソヴィエトの改革志向の歴史研究者たちは1920年代に関する多数の書物と論文を生み出して、様々な分野での「レーニン主義規範」はスターリン時代の実際よりも民主主義的で多様性により寛容で、強制性と恣意性がより少なかった、と論じた。//
 西側の読者にとって、1960年代および1970年代の「レーニン主義」傾向を示す代表例は<歴史に判断させよ>の著者、Roy Medvedev であり、<スターリニズムの起源と帰結>は西側では1971年に発行された。
 しかし、Roy Medvedev の著作はブレジネフ時代の雰囲気のためにスターリンに関して厳しすぎ、明らかに批判的すぎる。そして彼は、ソヴィエト同盟ではこれを出版することができなかった。
 これは、samizdat (原稿のソヴィエト同盟内部での非公式の流通)や tamizdat (外国での書物の非合法出版)が花咲いた時代でのことだった。
 この時期に現れた最も有名な反体制著作者は、Aleksander Solzhenitsyn だ。偉大なノーベル賞作家で歴史論争者の<収容所列島>は、1973年に英語版で出版された。//
 何人かの反体制的学者の仕事が1970年代に西側の読者に届き始めている一方で、ロシア革命に関する西側の学問的研究は「ブルジョア的歪曲」を被っているとなおも見なされ、事実上USSR〔ソヴェト同盟〕から排除された(Robert Conquest の<大テロル>を含むいくつかの著作はSolzhenitsyn の<列島>とともに密かに流通していたけれども)。
 それでもやはり、西側の学者の条件は改善した。
 制限されたかつ厳格に統制された公文書の利用を通じてではあるが、ソヴィエト同盟での調査研究を行うことが今やできるようになった。これに対して、初期の条件は非常に困難だったので多くの西側のソヴィエト学者は二度とソヴィエト同盟を訪れなかったし、別の者たちはスパイだとして追放されるか、多様な種類の嫌がらせを受けた。
 ソヴィエト同盟での公文書や第一次資料の利用が1970年代および1980年代に改善し、ロシア革命とその後に関する研究を選択する若い西側の歴史学者が増加したので、歴史、とくに社会史は、アメリカのソヴィエト学の重要な学問分野として、政治学にとって代わり始めた。
 学問研究の新しい章は、1990年代初頭に始まった。その当時に、ロシアの公文書庫の利用についての制限はほとんど撤廃され、以前に分類されていたソヴィエト文書によって描く最初の書物が出現し始めた。冷戦が過ぎ去るとともに、ソヴィエト史の分野は西側ではより政治的でなくなった。それはとてもよいことだつた。
 ロシアの、そしてソヴィエト後のその他の歴史研究者たちはもはや西側の対応者たちから孤立してはおらず、「ソヴィエト」、「亡命者(エミグレ)」および「西側」の学問研究という昔の区別は大きく消失した。
 ロシアとその外側で大きな影響力のある書物を刊行している学者の中に、モスクワを出身地とする(実際にはウクライナ人として生まれた)、公文書にもとづく党政治局に関する研究の先駆者である Oleg Khlevnyuk がいる。
 モスクワで生まれたかつてのエミグレで1980年代以降はアメリカ合衆国に住んでいる Yuri Slezkine は、<ユダヤ人の世紀>で革命とソヴィエト知識人界でのユダヤ人の位置に関する再解釈を行った。//
 公文書にもとづく新しいレーニンやスターリンの人物伝が現れ、グラクや民衆の抵抗のような、以前は公文書による仕事では達し得なかったテーマは多くの歴史研究者を惹きつけている。
 ソヴィエト同盟の解体と旧同盟共和国諸国を基礎とする独立国家の誕生に反応して、Ronald Suny や Terry Martin のような学者は、歴史学の分野としてソヴィエトの民族や境界諸国の問題を発展させた。
 Stephen Kotkin によるウラルのマグニトゴルスク(Magnitogorsk)に関する<磁場山岳>を含む、地域研究も盛んになった。この書物は、1930年代での異なるソヴィエト文化の出現(「スターリニズム的文明化」)について、明らかに革命の産物だと論じた。
 社会史学者はふつうの市民の当局に対する手紙(苦情、非難、訴え)を豊富に公文書庫で発見し、歴史人間学と多く合致する日常生活に関する研究を急速に発展させた。
 1980年代とは対照的に(そして歴史関係職業人内部での全体的な進展を反映して)、現今の若い世代の歴史研究者は社会史と同様に、ソヴィエトの経験の主観的で個人的な側面を照らし出す日記や自叙伝を用いる文化史や思想史にも惹かれている。//
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 以上、序説の、はじめに、第1節、第2節を済ませた。

1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。p.269~p.271。
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 Ⅱ・支配党と国家③。
 〔目次上の見出し-「群衆の操作とイデオロギーの役割」〕
 「人々を全ての政治領域から排除すること」、およびその帰結である政治的生活の廃絶は、ある種の代用物を要求する。
 民衆のために語るふりをする独裁制は、単純に前民主政的な権威主義モデルに変えるというわけにはいかない。
 全体主義体制は、アメリカのおよびフランスの革命以降に投票者の10分の9またはそれ以上だと広く承認されている、民衆の意思を反映していると主張する意味では、「民衆的」(demotic)だ。 そして、大衆の積極的関与という幻想を生み出す、荘大な見せ物だ。//
 政治ドラマの必要はすでにジャコバン派によって感じ取られていて、彼らは、「至高存在」を讃えたり、7月14日を祝ったりする、手の込んだ祝祭でもって独裁制を偽装した。
 全権をもつ指導者たちと力なき庶民たちが一緒に世俗的儀式を行うことで、ジャコバン派は、その臣民たちとともにあるのだという意識を伝えようとした。
 ボルシェヴィキ党は内戦の間に、その乏しい資源をパレードを実施することや、バルコニーから数千の支持者に呼びかけることに使った。そして、近時の出来事にもとづいて、青空下の舞台で演劇を上演すること。
 このような見せ物の演出者は、観衆から役者を、そして民衆から指導者を、隔てる障壁を、かなりの程度まで壊した。
 大衆は、フランスの社会学者のギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon)が19世紀後半に定式化した原理に合致して、動かされた。ル・ボンは、群衆とは、心霊的(psychic)な操作を喜んで受ける客体に自分たちをする、まるで異なる集団的人格体だと述べた。(*)
 ファシスト党は最初に、1919-20年のフューメ(Fiume)占領の間にこうした方法を使って実験した。そのときこの都市を支配したのは、詩人政治家のガブリエレ・ダヌンツィオ(Gabriele d'Annunzio)だった。
 『ダヌンツィオが主役を演じた祭典の成功は、指導者と指導される者の境界を廃棄するものと想定された。そして、公会堂のバルコニーから下にいる群衆に向けた演説は(トランペット演奏が付いて)、同じ目的を達成することとなった。』(94)
 ムッソリーニと他の現代の独裁者は、このような方法は必須のものだと考えた-娯楽としてではなく、支配者と支配される者の間の分かち難い結びつきに似る印象を反対者や懐疑者に対して伝えるために考案された儀式として。//
 このような演出については、ナツィスを上回る者はいなかった。
 映画や演劇の最新の技巧を使い、ナツィスは止まることを知らない根本的な力に似た印象を参加者や見物者たちに伝える集会や無宗教儀礼でもってドイツ人を魅了した。
 総統とその人民との一体性は、大群の幹部兵士のごとき制服姿の男たち、群衆のリズミカルな叫び声、照明および炎や旗によって象徴された。
 きわめて自立した精神の持ち主だけが、このような見せ物の目的を認識できる心性を保持することができた。
 多くのドイツ人にとって、このような生き生きとした見せ物は、投票数を機械的に算定することよりもはるかによく、民族の精神を写し出すものだった。
 ロシア社会主義者の亡命者だったエカテリーナ・クスコワ(Ekaterina Kuskova)は、ボルシェヴィキと「ファシスト」両方による大衆操作の実際を観察する機会をもった。そして、強い類似性を1925年に記した。//
 『レーニンの方法は、<強制を通じて納得させること>だった。
 催眠術師、煽動者は、相手の意思を自分自身の意思に従わせる-ここに強制がある。
 しかし、その相手たる主体は、自分の自由な意思で行動していると確信している。
 レーニンと大衆の間の紐帯というのは、文字通りに、同一の性質をもつものだ。…
 まさしく同じ様相が、イタリア・ファシズムによって示されている。』(95)
 大衆はこのような方法に従い、実際には自分たちを非人間的なものにした。//
 これとの関係で、全体主義イデオロギーに関して何ほどかを書いておく必要がある。
 全体主義体制は、私的および公的な生活上の全ての問題への回答を与えると偽称する考え方を体系化したものを定式化し、かつ押しつけるものだ。
 このような性格の世俗的イデオロギーは、党が統御する学校やメディアによって履行されたもので、ボルシェヴィキとそれを摸倣したファシストとナツィスが導入した新しい考案物(innovation)だ。
 これは、ボルシェヴィキ革命の主要な遺産の一つだ。
 現在のある観察者は、その新基軸さに驚いて、これのうちに全体主義の最も際立つ特質を見た。そして、それは人々をロボットに変えるだろうと考えた。(**) //
 経験が教えたのは、このような怖れには根拠がない、ということだ。
 当局にとって関心がある何らかの主題に関して公共に語られ印刷される言葉の画一性は、三つの体制のもとで、じつにほとんど完璧だった。
 しかしながら、いずれも、思考(thought)を統制することはできなかった。
 イデオロギーの機能は、大衆的見せ物のそれと類似していた。すなわち、個人の共同体への全体的な没入(total immersion)という印象を生み出すこと。
 独裁者自身はいかなる幻想も持たず、服従者たちが考える一つの表面体の背後に隠れている私的な思考について、ひどくではないが多くの注意を向けた。
 ヒトラーが認めるところだが、かりに彼がアルフレッド・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)の<20世紀の神話>をわざわざ読まなければ、そしてそれが国家社会主義の理論的な根拠だと公式に宣言しなかったとすれば、我々はいかほど真面目にナツィの「イデオロギー」を受け止めるだろうか?
 そしてまた、いかほど多くのロシア人に、難解で瑣末なマルクスとエンゲルスの経済学を修得することが、本当に期待されていたのか?
 毛沢東のチャイナでは、洗脳(indoctrination)はかつて知られた最も苛酷な形態をとり、十億の民衆が教育を受ける機会や僭政者の言葉を収集したもの以外の書物を読む機会を奪われた。
 しかしなお、瞬時のムッソリーニ、ヒトラーおよび毛沢東は舞台から過ぎ去り、彼らの教えは薄い空気の中へと消失した。
 イデオロギーは、結局は、新しい見せ物であることが分かった。同じように、はかない見せ物だった。(+)
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 (*) La Psychologie des foules (Paris, 1895). 〔群衆の心理学〕リチャード・パイプス・ロシア革命、p.398 を見よ。
 ヒトラーと同じくムッソリーニがル・ボンの本を読んでいたことは知られている。A. James Gregor, The Ideology of Fascism (New York, 1969), p.112-3. および George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.24, No.1 (1989), p.14.
 レーニンはこれをつねに彼の机の上に置いていたと言われる。Boris Bazhanov, Vospominaniia byvshego sekretia Stahna (Paris & New York, 1983), p.117.
 (94) George Mosse in Journal of Contemporary History, Vol.14, No.1 (1989), p.15. さらに、George Mosse, Masses and Man (New York, 1980), p.87-p.103 を見よ。
 (95) Carl Laudauer and Hans Honegger, eds., Internationaler faschismus (Karlsruhe, 1928), p.112.
 (**) 全体主義に関する研究者はしばしば、このイデオロギーを押しつけることを全体主義体制の決定的な性質だとして強調する。
 しかしながら、イデオロギーは、三つの体制において、大衆操作に役立つ大きな道具の役割を果たす。
 (ナチズムについて、ラウシュニングはこう書いた。
 『綱領、公式の哲学、献身と忠誠は、大衆のためのものではない。
 エリートは何にも関与していない。哲学にも、倫理規準にも。
 それらは一つの義務にすぎない。同志、秘伝を伝授されたエリートである党員にとっての絶対的な忠誠の義務だ。』(Revolution of Nihilism, p.20.)
 同じことは、適用については限りなき融通性をもつ共産主義イデオロギーについて語られてよい。
 いずれにしても、民主政体もまた、そのイデオロギーを持つ。
 フランスの革命家たちが1789年に『人間の権利の宣言』を発表したとき、バーク(Burke)やドゥ・パン(de Pan)のような保守的な同時代人は、それを危険な実験だと考えた。
 「自明のこと」では全くなくて、不可侵の権利という考えは、その当時に新しく考案された、革命的なものだった。
 伝統的なアンシャン・レジームだけは、イデオロギーを必要としなかった。
 (+) ハンナ・アレント(Hannah Arendt)やヤコブ・タルモン(Jacob Talmon)のような知識人歴史家は、全体主義の起源を思想(ideas)へと跡づける。
 しかしながら、全体主義独裁者は、思想を吟味することに熱心な知識人ではなく、人々に対する権力を強く渇望する者たちだった。
 彼らは、目的を達成するために思想を利用した。彼らの規準は、いずれが実際に働くか、だった。
 彼らに対するボルシェヴィズムの強い影響は、彼らに適したものを借用するそのプログラムにあるのではなく、ボルシェヴィキが従前には試みられなかった手段を用いて絶対的な権威を確立するのに成功したという事実にある。
 こうした手段は、世界的な革命に対してと同様に、国家の(national)革命にもまさしく適用できるものだった。
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 ⑦/Ⅲ・党と社会、へとつづく。
 下は、R・パイプスの上掲著。
rpipes02-01

1761/三全体主義の共通性①-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.262-3.
 つぎの節の大部分にはさらに下の見出しが付いているので、原著にはないが、初めの部分にかりに「序説」という表題を付けておく。
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 第5節・三つの全体主義体制に共通する特質①-序説①。
 (序説)
 三つの全体主義体制は、いくつかの点で異なる。この相違については、いずれきちんと論述するだろう。
 しかしながら、それらを結合するのは何かは、それらを分離するものは何かよりもずっと重要だ。
 第一に、最も重要なのは、共通する敵があることだ。すなわち、複数政党システム、法と財産の尊重、平和と安定という理想をもつ、リベラルな民主政体(liberal democracy)。
 レーニン、ムッソリーニおよびヒトラーの「ブルジョア民主主義」と社会民主主義者に対する激しい非難は、完全に相互交換が可能だ。//
 共産主義と「ファシズム」の関係を分析するためには、「革命」とはその本性からして平等主義的(egalitarian)かつ国際主義的で、一方のナショナリストによる変革は本来的に反革命的だとの伝来的な考え方を正さなければなければならない。
 こうした考え方は、ヒトラーのような率直なナショナリストが革命的願望を持っているはずはないと信じて、最初に彼を支持したドイツの保守派が冒した過ちだ。(70)
 「反革命」という語は、1790年代のフランスの君主制主義者が本当にそう考えたように、革命を取り消して以前の状態(status quo ante)に戻そうとする運動についてだけ、適正に用いることができる。
 「革命」を現存する政治体制を、つづいて経済、社会構造および文化を、突然に転覆させることを意味すると定義するならば、この用語は同等に、反平等主義的なおよび外国人差別の大変革にも適用することができる。
  「革命的」という形容詞は、変化の内容ではなく、それが達成される態様-すなわち、突然にかつ暴力的に(violently)-を描写するものだ。
 したがって、左翼による革命を語るのと同様に右翼による革命を語るのは適切だ。
 この二つが共存できない敵として相互に対立しているということは、有権者大衆をめぐって競争することに由来し、方法または目標の不一致に由来するのではない。
  ヒトラーもムッソリーニも、自分を革命家だと思っていた。正しく(rightly)、そう考えた。
 ラウシュニンクは、国家社会主義の目標は、実際には、共産主義とアナキズムのいずれよりも革命的だ、と主張した。(71)//
  しかしおそらく、三つの全体主義運動の間の最も根本的な親近性(affinity)は、心理(psychology)の領域に横たわっている。
 共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、大衆の支持を獲得するために、そして民主主義的に選出される政府ではなく自分たちこそが民衆の本当の意思を表現しているという主張を強化するために、民衆の憤懣(resentments)-階級、人種、民族-を掻き立てて、利用した。
 これら三つは全て、憎悪(hate)という感情に訴えたのだ。//
 フランスのジャコバン派は、階級的憤懣の政治的潜在力を認識した最初のものだ。
 彼らはそれを利用して、貴族制主義者その他の革命の敵による恒常的な陰謀を手玉にとった。ジャコバン派は没落する直前に、間違いなく共産主義的な含意をもつ、私有の富を没収する法令案を作った。(72)
 マルクスが歴史の支配的な特質として階級闘争の理論を定式化したのは、フランス革命とその影響に関する研究からだった。
 彼の理論で、社会的な敵意(antagonism)は初めて道徳上の正当性を授けられた。ユダヤ教を自己破壊的なものと非難し、(怒りの外装をまとう)キリスト教を大罪の一つだと見なす憎悪(hatred)は、美徳に作り替えられた。
 しかし、憎悪は両刃の剣で、犠牲者たちは自己防衛のためにそれを是認した。
 19世紀の終わりにかけて、階級戦争のための社会主義的スローガンとして民族的および人種的憤懣を利用する教理が出現した。
 1902年の予言的書物、<憎悪のドクトリン>で、アナトール・ルロイ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu)は、当時の左翼過激主義者と右翼過激主義者の間の親近性に注意を促し、両者の共謀性を予見した。それは、1917年のあとで現実になることになる。(73) //
 レーニンが富裕層、つまりブルジョア(the burzhui)に対する憤懣を都市の庶民や貧しい農民を結集させるために利用した、ということについて詳しく述べる必要はない。
 ムッソリーニは、階級闘争を「持てる」国家と「持たざる」国家の対立として再定式化した。
 ヒトラーは、階級闘争を人種や民族の間の対立、すなわち「アーリア人」のユダヤ人およびその言うユダヤ人によって支配されている民族との対立だと再解釈することによって、ムッソリーニの技巧に適応した。(*)
 ある初期の親ナツィの理論家は、現代世界の本当の対立は資本とそれに対する労働の間にではなく、世界的ユダヤ「帝国主義」とそれに対する人民(Volk)主権を基礎とする国家の間にある、ユダヤ民族が経済的に生き残る可能性を奪われて絶滅してのみこの対立は解消される、と論じた。(74)
 革命運動は、「右」と「左」のいずれの変種であれ、憎悪の対象を持たなければならない。抽象化を求めるよりも、見える敵に対抗するように大衆を駆り立てるのは、比較にならないほど容易だからだ。
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 (70) Hermann Rauschning, The Revolution of Nihilism (New York, 1939),p.55, p.74-75, p.105.
 (71) 同上、p.19。
 (72) Pierre Gaxotte, The French Revolution (London & New York, 1932), Chapter 12.
 (73) Anatole Leroy-Beaulieu, Les Doctrine de Haine (Paris,(1902)) 。リチャード・パイプス・ロシア革命p.136-7 を参照。
  (*) 階級戦争という考えが人種的な意味で再解釈される可能性は、すでに1924年に、ロシアのユダヤ人移住者、I・M・ビカーマン(Bikerman)が、ボルシェヴィキに親近的な同胞に対する警告として、指摘していた。
 Bikerman, Rossia i Evrei, Sbornik I (Berlin, 1924), p.59-p.60.
 「ペトルラの自由コサックあるいはデニーキンの志願兵はなぜ、全ての歴史を諸階級の闘争ではなく諸人種の闘争へと変える理論に従えなかったのか? なぜ、歴史の罪を正して、悪の根源があるとする人種を絶滅させることができなかったのか?
 略奪し、殺戮し、強姦する、こうした過剰は、伝統的に、同じ一つの旗のもとで、別の旗のもとでと同じように冒されることがあり得る」。
 (74) Gottfried Feder, Der dutsche Staat auf nationaler und sozialer Grundlage, 11th ed. (Muenchen, 1933).
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 段落の途中だが、こここで区切る。②へとつづく。

1670/ネップ②-L・コワコフスキ著18章3節。

 この本には、邦訳書がない。-Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第3節・社会主義経済の始まり②。
 レーニンは、こう告げた。小農業は多年にわたった継続していかなければならないだろう、また、『無制限の取引というスローガンは避けられないだろう』。<中略>
 『それ〔制限なき取引〕が普及していきそうなのは、小生産者が存在する経済状態に適合しているからだ。』(+)
 (全集32巻p.187〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党第10回大会」194-5頁〕。)
 彼は、商業と工業の国有化について党が理論上または実際上の考慮をして正当化した以上に進みすぎたことを肯定し、『我々は、中間農民層を満足させ、そして自由な交換へと移らなければならない。さもなくば、世界革命が遅れているのを見れば、ロシアでのプロレタリア-ト支配を維持することは不可能、経済的に不可能だろう』、と宣言した。(+)
 (同上、p.225。)
 のちにすみやかにレーニンが強調したように、ネップは、余剰の収奪を均一的な穀物税に置き換えるだけでない、その他の多数の手段から成る、かなり長期間(serious long-term)の政策だと意味されていた。ロシアの外国資本への特権付与、協同組合への援助、私企業に対する国営工場の貸与、私的取引者への減免、私的商人を通じての国家生産物の分配、財政的および物的な資源に関する国営企業の自立性と主導性の向上、および物質的な動機づけの生産への導入。
 『商品交換は、ネップを動かす主要な梃子の前面へと押し出される。』(+)
 (同上、p.433〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第10回全国協議会」462頁〕。)
 レーニンは、つぎのように述べて、惨害的な誤りを冒したことを、秘密にはしなかった。//
 『我々は、つぎのことを期待(expect)していた-あるいはたぶん、適切に考慮することなくして想定(presume)していたというのが正しいだろう-。小農民の国で、プロレタリア国家が直接に指令して、国家による生産および国家による生産物の分配を共産主義的道筋で組織することのできる能力がある、と。 
 経験は、我々が間違っていた(wrong)ことを証明した。
 共産主義への移行を準備するためには-長年にわたる努力によって準備するためには-、多くの移行段階が必要だったように思われる-国家資本主義と社会主義-。
 直接に熱狂に依拠するのではなく、大革命が生んだ熱狂に助けられて、そして人間的な関心、人間的動機づけおよび職業原理を基礎にして、我々はまずは、この小農民の国で、国家資本主義の途を経る社会主義への堅固な通路を、建設し始めなければならない。』(+)
 (<プラウダ>、1921年10月18日。〔=日本語版全集33巻「10月革命4周年に寄せて」44-45頁。〕)//
 『共産主義へと真っ直ぐに移ろうとして、我々が1921年の春にこうむった経済の戦線上の敗北は、コルチャク、デニーキンあるいはピルスツキ(Pilsudski)から我々がこうむったいかなるものよりもっと深刻な敗北だった。
 この敗北は、はるかに重大で、本質的で、はるかに危険だった。
 それは、我々の経済政策の上部の管理者が下部から孤立していたことや、我々の党綱領が根本的でかつ切実なものと見なす生産力の発展を生み出すことに失敗したことに、現れていた。
 農村地帯での余剰食料の徴発制度は-これは都市の発展の問題への直接的な共産主義的接近なのだが-、生産力の成長を妨げ、そして、1921年に我々が経験した深刻な経済的かつ政治的危機の主要な原因だと判った。』(+)
 (1921年10月21日付の挨拶、全集33巻p.58, p.63-64〔=日本語版全集33巻「新経済政策と政治教育部の任務-政治教育部第二回全ロシア大会での報告」51頁〕。)//
 ブレスト〔=リトフスク〕条約のあとで、ネップは、権力を維持するために教理を犠牲にする、レーニンの非常なる能力を雄弁に示す第二のものだった。
 ネップは、誰もが国家が絶望的状況の縁にあることを知ることができたので、党での反対をさほどは掻き立てなかった。
 しかし、それでもなお、ネップは、資本主義への退却だった。レーニンが述べた、<よく跳ぶために、後ろに下がれ(reculer pour mieux sauter)>の場合だった。
 以前の年月の間、レーニンは、全ての経済上の問題は警察や軍隊のテロルで解決することができる、と考えていた。 
 それは、ジャコバン(the Jacobin)の基本政策だった。
 レーニンはこれは素晴らしい結果を生み出したと考え、またジャコバンと同様に危機に瀕していたが、彼らと違って、最後の瞬間で撤退することができた。
 戦時共産主義時代の彼の経済上の指令は、単純なものだった。すなわち、射殺、投獄、脅迫(intimidation)から成っていた。
 しかしながら、マルクス主義の教理は全く正しい(right)ことが、判明した。
 つまり、経済上の生活にはそれ自体の法則があるのであり、テロルによってそれを無視することは決してできない。
 飢饉と社会の崩壊のときに利得者たち(profiteers)を処刑しても、営利行為(profiteering)を根絶することはないだろう。//
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 (+)-秋月注記。日本語版全集を参考にして、あらためて訳をし直している。なお、四つ目の(+)の部分の文章は、原著には全集から引用の旨は記されていないが、上掲のとおり、日本語版全集の中にはある。
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 第3節、終わり。第4節の表題は、「プロレタリア-ト独裁と党の独裁」。

1446/レーニンの個性③-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
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 レーニンは最初の重要な国際主義者であり、国境は別の時代の遺物で、ナショナリズムは階級闘争の中の気晴らしとする世界的革命家だった。
 彼には、母国ロシアでよりもドイツでの方が疑いなかっただろうが、対立が生じているいかなる国でも、革命を指導する心づもりがあった。
 レーニンは成人となっての生活のほとんど半分を国外ですごし(1905-7年の二年間を除く1900年から1917年)、母国に関して多くのことを知る機会がなかった。『ロシアについて少しだけ知っている。ジンビルスク、カザン、ペテルスブルク、流刑-これで全てだ。』(34)
 彼はロシア人を低く評価し、怠惰で、優しく、そしてとても賢くはないと判断していた。 レーニンはゴールキに語った。『知識あるロシア人は、ほとんどつねにユダヤ人か、あるいはその系統にユダヤ人の血をもつ誰かだ。』(35) 
 彼は母国への郷愁という感情を知らない者ではなかったけれども、ロシアは彼にとって、最初の革命的変革の偶然的な中心であり、その渦は西側ヨーロッパになければならない真実の革命への跳躍台だった。
 1918年5月に、ブレスト=リトフスクでドイツに対して行った領土の譲歩を弁護して、レーニンは主張した。『この譲歩は国家の利益ではなく、社会主義の利益、国家の利益に優先する国際社会主義の利益のためだ』。(36) //
 レーニンの文化的素養は、同世代のロシアの知識人と比べればきわめて平凡なものだった。 
 彼が書いたものは表面的にだけはロシアの古典文学に慣れ親しんでいたが(ツルゲーネフを除く)、そのほとんどは明らかに中学生のときに得たものだった。
 レーニンとその妻の近くで働いたタチアナ・アレクシンスキーは、彼らは一度も演奏会や劇場に行かなかった、と記した。(37)
 レーニンの歴史に関する知識は、革命の歴史以外については、やはりおざなりのものだった。
 彼は音楽が好きだったが、同時代の人々を魅惑し驚かせた禁欲主義に沿って、それを抑えようとした。 
 レーニンはゴーリキに語った。//
 『音楽をたくさん聴くことはできない。それは神経を逆撫でする。
 馬鹿げたことを話したり、薄汚い地獄のような所に住んでこんな美しいものを創作できる人々に優しくすることの方が好きだ。
 今日は誰にも優しくする必要はないから、彼らはあなたの手を齧りとるだろう。
 あらゆる暴力に対面したとしてすら、想像上は、人は頭を容赦なく割らなければならない。』(38) //
 ポトレソフは、25歳のレーニンとは一つのテーマ、『運動』、についてだけ討論できる、ということに気づいた。
 レーニンは他の何にも関心がなく、何かについて語ることにも関心がなかった。(*)
 要するに、多面性のある人物と呼ばれる者では全くなかった。//
 この文化的素養のなさは、しかし、革命家の指導者としてのレーニンが持つ強さのもう一つの源泉だった。というのは、もっと素養がある知識人ではなかったので、彼は頭の中に、決意に対してブレーキのように作用する、事実や観念が入った過大な荷物を運び込まなかったから。 
 レーニンの指導者のチェルニュインスキーのように、彼は異なる意見を『たわごと』だと却下し、嘲笑の対象とする以外は、考慮することすら拒否した。
 彼が無視したり、その目的に応じて解釈し直したりするのは、都合の悪い事実だった。 反対者が何かに間違っていれば、その者は全てについて間違っていた。レーニンは、抵抗する党派に、いかなる美点も認めなかった。
 レーニンの討論の仕方は極度に戦闘的だった。マルクスの格言、すなわち批判は『外科用メスではなく兵器だ』を、完全にわが身のものにしていた。
 その武器の相手は敵で、武器は反駁するのではなく破壊することを欲するものだった。(39)
 このような考え方にもとづいて、反対者を徹底的に打倒するために、レーニンは言葉を飛び道具のごとく用いた。しばしば、反対者の誠意や動機に対するきわめて粗雑な人身攻撃という手段によって。
 ある場合、政治的目的に役立つときには、誹謗中傷を言い放ったり労働者を困惑させるのは間違っていない、と考えていることを認めた。  
 労働者階級に対する裏切りだとメンシェヴィキを非難して、1907年にレーニンは、社会主義者の裁きの場に連れてこられ、恥ずかしげもなく名誉毀損の責任を認めた。//
 『このような言葉遣いをしたのは、いわば読者に憎悪、革命心、このように振る舞う人間への侮蔑心を喚起するのを計算してだ。
 この言い方は、説得するためではなく、彼らの隊列をやっつけるために計算したものだ-反対者の誤りを訂正するのではなく、破壊し、その組織を地表から取り去るためのものだ。
 この言い方は、実際に、反対者には最悪の考えを、まさに最悪の懐疑心を喚起し、実際に、説得したり訂正したりする言い方とは違って、<プロレタリアートの隊列に混乱の種を撒く>。   
 …一つの党のメンバーの間では許されなくとも、分解していく党の部分内では許されるし、必要なのだ。』(40) //
 レーニンはこうしていつも、フランス革命の歴史家であるオーギュトト・コシンが『 乾いたテロル』と呼んだものに執心した。そして、『乾いたテロル』から『血塗られたテロル』へはもちろん、ほんの短い一歩だった。
 同僚の社会主義者はレーニンに、反対者(ストルーヴェ)に対する節度を欠く攻撃は、きっと誰か労働者に憤怒の対象を殺させることになると警告した。それに対してレーニンは落ち着いて答えた。『その男は殺されるべきだ』。(41)//
 成熟したレーニンは一つの工芸品でできていて、その人格は強い安堵感と離れた別の場所にあった。
 彼がボルシェヴィズムの原理と実践をその30歳代早くに定式化したあとでは、彼は異なる考えが貫き通ることのない、見えない防護壁で囲われた。
 そのときからは、何も彼の心性を変えることができなかった。
 マルキ・ド・キュスティンが、自分に告げるものを除いて全て知っている、と言った人間の範疇に、レーニンは属していた。
 レーニンに同意するのであれ、彼と闘うのであれ、不一致はつねに彼の側に、破壊的な憎悪とその反対者を『地表から』『除去』しようとする衝動を呼び覚ました。
 これは、革命家としての強さであり、政治家としての弱さだった。戦闘では無敵だったが、レーニンは、人類を理解し、指導するために必要な人間的性質を欠いていた。
 結局のところ、この欠陥が、新しい社会を創ろうとする彼の努力を打ち砕くだろう。人々がどのようにして平和に一緒に生きていけるかについて、レーニンはまったく理解することができなかったのだから。//
  (*) Tatiana Aleksinskii は同意する。『レーニンにとって、政治はあらゆるものに超越していて、他の何かの余地は全くない。』
  (39) カール・マルクス, ヘーゲル法哲学批判。
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 第4節につづく。

1409/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む③。

 一 ブレジンスキーにおいて「全体主義」または「全体主義のメタ神話」とは共産主義とファシズム(ないしナチズム)を意味する。そして、いかなる意味でも、レーニンを除外または「免責」することはない。
 「20世紀における最も強力で破壊的なメタ神話は、やはりヒトラー主義とレーニン主義だった。この二つが20世紀の政治の大半を支配し、また歴史に前例のない大量殺戮の原因となっている」(p.41)。
 よく<民族(・人種)>と<階級>が問題にされる。特定の前者の抹殺を図ったのがヒトラーで、特定の後者(ブルジョワジー)の抹殺を図ったのがレーニンだった。そうした旨を、ブレジンスキーも書いている(p.41、p.43)。
 かつまた、「全体主義」の代表者として共産主義の側ではスターリン(またはスターリニズム・スターリン体制)が挙げられることが多いが、ブレジンスキーは、「大衆を操作する政治」という点では、「ヒトラーとレーニンの方が共通点が多い」、「スターリンはどちらかというと、ヒムラーに近い」とする(p.42)。ヒムラーはゲシュタポ長官。
 したがって、ロシア/レーニン・スターリンとドイツ/ヒトラー・ヒムラー、という対比がブレジンスキーによれば成立することとなる。
 二 この1993年の本の一部を読んでの大きな印象の二つめは、ブレジンスキーはフランス革命を(そしてアメリカ独立革命も)肯定的に評価している、ということだ。
 この点で、ロシア革命あるいはマルクス主義の淵源の重要な一つをフランス革命(さらにルソー)に見出そうとするR・パイプスやハンナ・アレントらとは異なる。
 例えば、20世紀の「メタ神話は、フランス革命がヨーロッパに…解き放たれた多様な主張や姿勢を混ぜあわせた--そして悪用した--ものにすぎなかった」(p.34)。
 「強制的なユートピア」をつくろうとした「試みは、200年前のフランス革命でヨーロッパに解き放たれた合理的かつ理想主義的な衝動を誤った方向に導いてしまった」(p.8)。
 また、当初に想定した範囲外の第二部の冒頭では、つぎのように書いている。
 ・全体主義(=共産主義とファシズム)の失敗は、それによって歪曲されたとはいえ、「200年以上前にアメリカとフランスの革命が解き放った政治理念」を世界が受容する素地になりうる。「民主主義体制」のアメリカ・欧州・日本の成功が「その正しさを証明している」。「自由民主主義の理念〔liberal democratic concept〕そのものを、もっと魅力的なものにしなければならない」。
 しかし、彼は、世界中の「自由民主主義」の将来について、楽観視しているわけではなさそうだ。Out of Control という書名にすでに見られる。それは未読の第二部以下で語られるのだろう。liberal democratic concept という英語は、原著のZ.Brzenzinski, Out of Control(1993)p.47 による。
 なお、ブレジンスキーによれば、フランス革命等は、①ナショナリズム、②理想主義、③合理主義-脱宗教、を生み出した。これらすべてを「悪用」して成立したのが全体主義だ、とされる。
 近代市民革命または「近代」そのものにかかわる問題には、立ち入らない。
 三 きわめて興味深いのは、<自由と民主主義(liberal & democratic)>しか残らないという意味ではF・フクヤマ(「歴史の終わり」)と同じなのかもしれないが、ブレジンスキーは<反共産主義>を明確に語りつつ、同時に<自由・民主主義>への強い信頼も語っていることだ(世界がそれでまとまるかを懸念しつつ)。
 興味深いという気持ちは、日本での議論状況と対比して考える、ということをしたときに生じる。
 日本では、「左翼」の少なくとも有力な一傾向は、自民党・安倍政権等を「右」、ファシズム・軍国主義勢力とみて、その際に「民主主義」を有力な旗印にすることがある。その場合に、<人類の普遍的原理>なるものを持ち出して、例えば現憲法97条を削除する自民党改憲案を批判し、<人類の普遍的原理(基本的人権・民主主義等)を守る>勢力対<これを否定する>勢力の対立として政治状況(・理論 ?状況)を描こうとすることがある。要するに<自由・民主主義と平和を守れ>というわけだ。
 しかし、そのような日本の「左翼」は、決して<反・共産主義>を明確にはしていない。<非日本共産党>はあるかもしれないが、<反日本共産党>を明確にしている者はたぶんきわめて少ない。明確に<容共>・<親共産主義>だと思われる者は、上野千鶴子を含めて、少なくない。民進党も、いっときの政治判断かもしれないが、日本共産党との「共闘」を否定しない。
 このように、<反共かつ自由・民主主義>という勢力・理念が日本の「左翼」には少ないように見える。
 一方、「保守」の側はどうか。<反共>では、強調の程度の違いはあれ、一致しているかもしれない。
 しかし、<自由と民主主義>対する立場は、秋月によれば、「保守」の中において一様ではない。すなわち、①<自由・民主主義>は欧米産のかつ上記のアメリカ民主党系論者がそうであるように<アメリカ>のイデオロギーであって、日本国家と日本人は従えない、と日本の独自性を主張する勢力・論者がいる。とともに、②近代国家の諸原理あるいは「自由・民主主義」を日本も継承しているとみて、これの擁護について、全くか殆んど疑問視しない勢力・論者がいる。
 安倍晋三首相は<自由・民主主義・法の支配>といった「価値」の擁護を明言しているが、それは、純粋に上の②であるのか、あるいはそれは、アメリカの意向や共産中国等との違いを意識したりしての「政治的・戦略的」なもので、真意または個人的には上の①なのか。
 自民党の大臣や国会議員の発言や書いたものを見聞きしていると、自民党には、そしておそらくは「保守」論壇にも、①と②が混在している。あえて違いを見出せば、自民党議員には②の方が多く、論壇(要するに「保守」系雑誌)では①の方が多い。
 自民党という「保守」政党の個々の政治家が考えていることと、「保守」論壇の論者の思考には、かなりの乖離があると、秋月には思える。
 というわけで、<反共産主義と自由(リベラル)民主主義>を全く困難なく同居させ、素朴に主張できるアメリカの知識人・論者とは(こう簡単にアメリカをまとめられないだろうが、少なくともブレジンスキーとは)日本の「左翼」・「保守」ともに相当に大きく異なる、と感じられる。
 こんなことを考えさせたのが、ブレジンスキーの書の一部だった。
 これはしかし、重要な論点ではある。
 もちろん、日本には日本の議論があってよく、アメリカでの対立軸等に拘束されることはない。だが、日本の「保守」とは何か、どう主張するのが「保守」なのか、という問題に、あえて「保守」という言葉を使えば、根幹的に関係しているはずだ。
 *参考-なお、秋月瑛二は、以下の条文は削除されるべきだと考えている。1.条文にしては、「法規範」としての意味がないか、不明。2.実質的な憲法制定者が幼児・日本人を<説教>しているようだ。3.明らかに、元来は日本とは無縁の<自然権・天賦人権>論に立脚している。
 **日本国憲法97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

1229/共産主義者は平然と殺戮する-日本共産党と朝鮮労働党は「兄弟」。

 北朝鮮で張成沢の「死刑」執行される。死刑とはいってもいかなる刑事裁判があったのかはまるで明らかではなく、要するに、<粛清>であり、共産主義・独裁者の意向に反したがゆえの<殺戮>だ。
 日本共産党は現在はいちおう紳士的に振るまっているが、歴史的には目的のためには殺人を厭わないことを実践したこともあった。宮本賢治は暴行致死という一般刑罰も含めて網走刑務所に十年以上収監されていた。1950年前後には分裂していた日本共産党の一方は、公然と<武力>闘争を行った。
 1961年綱領のもとで、不破哲三の命名によるいわゆる「人民的議会主義」という穏健路線をとり、また綱領では明確に<社会主義・共産主義>社会をめざすと謳いつつ、とりあえずは<自由と民主主義>を守るとも宣言した。
 だが、だいぶ前に書いたことがあるが、現在の日本共産党員でも、その「主義」に忠実であるかぎりは、自分たちの「敵」の死を願い喜ぶくらいの気持ちは持っており、誰にも認知されない状況にあれば、例えば何らかの事故で「死」に貧しているのが「敵」の人物である場合は、救急車を呼ぶことなく放置し、「死」に至らせてよい、という気分を持っている、と思われる。
 生命についてすらそうなのだから、彼らが「敵」あるいは「保守・反動」と見なす者の感情を害するくらいのことは、これに類似するが<精神的にいじめる>くらいのことは、日本共産党員は平気で行ってきたし、現に行っている、と思われる。
 そのような共産主義者のいやらしさ・怖さを知らないで、日本共産党員学者が提案した声明類に賛同する、結果としてはあるいは客観的には<容共>の大学教授たちも日本には多くいるのだろう。
 20世紀において大戦・戦争による死者数よりも共産主義者による殺人の方が多く、ほぼ1億人に昇ると推定されている(政策失敗による餓死等による殺戮、反対勢力の集団的虐殺、政治犯収容所に送っての病死・餓死、政敵の<粛清>等)。
 「権威主義」は<リベラル>に極化すれば<社会主義(共産主義)>、<保守>に極化すれば<ファシズム>になる。という説明をする者もいる。ハンナ・アレントは<全体主義・ファシズム>には「左翼」のそれである<社会主義(共産主義)>と「右翼のそれである<ナチズム>があるとした。社会主義(共産主義)とファシズム(または全体主義)は対立する、対極にある思想・主義ではなく、共通性・類似性があるのだ。
 また、日本共産党が今のところは「民主主義」の担い手のごとく振るはってはいても、それは「民主主義」の徹底・強化を手段として社会主義(共産主義)へ、という路を想定しているためであり、「真の民主主義」の擁護者・主張者だなどというのは真っ赤なウソだ。フランス革命は<自由と民主主義、民主主義>の近代を生み出したとはいうが、そこでの民主主義の中には、早すぎた<プロレタリア独裁>とも言われる、ロベスピエールの、政敵の殺戮を伴う「恐怖政治」(テルール)を含んでいた。そしてまた、マルクスらの文献を読むと明記されているが、マルクス主義者はフランス革命の担い手に敬意を払い、レーニンらはそれにも学んでロシア革命を成功させた。民主主義の弊害の除去・是正こそ重要な課題だと筆者は考えるが、「民主主義」の徹底・強化を主張する、「民主化」なるものが好きな日本共産党は、市民革命(ブルジョワ革命)から社会主義革命への途へ進むための重要な手段として「民主主義」を語っているにすぎない。北朝鮮の正式名称が「朝鮮民主主義人民共和国」であるように、彼らにとっては「民主主義」と「共産主義」は矛盾しないのだ(だからこそ、<直接民主主義>礼賛というファシズム的思考も出てくる)。
 日本共産党員学者に騙されている大学教授たちに心から言いたい。対立軸は「民主主義」対「ファシズム(または戦前のごとき日本軍国主義)」ではない。後者ではなく前者を選ぶために日本共産党(員)に協力するのは、決定的に判断を誤っている。
 日本での、および世界でもとくに東アジアでの対立軸は、<社会主義(共産主義)>か<自由主義>かだ。誤ったイメージまたはコンセプトを固定化してしまって、共産主義者・日本共産党を客観的には応援することとなる<容共>主義者になってはいけない。
 日本共産党はコミンテルンの指令のもとで国際共産党日本支部として1922年に設立された。日本共産党に32年テーゼを与えたソ連共産党の実権はとっくにスターリンに移っていた。北朝鮮が建国したときにはコミンテルンはなくなっていたが、その建国時に金日成を「傀儡政権」の指導者としてモスクワから送り込んだのは、スターリンだった。
 してみると、日本共産党と「傀儡政権」党だった朝鮮労働党は<兄弟政党>であり、後者ではその後「世襲」により指導者が交代して三代目を迎えていることになる。
 歴史的に見て、日本共産党は北朝鮮の悲惨さ・劣悪さ・非人道ぶりを自分たちと無関係だなどとほざいてはおれないはずだ。まずは、マルクス主義・共産主義自体が誤りだったとの総括と反省および謝罪から始めなければならない。
 だが、ソ連が消滅してもソ連は「(真の)社会主義」国家ではなかったと「後出しじゃんけん」をして言うくらいだから、中国共産党や朝鮮労働党が崩壊・解体しても、いずれも「(真の)社会主義・共産主義」政党ではなかった、と言いだしかねない。なおも<青い鳥>のごとき<真の社会主義・共産主義>社会への夢想を語り続けるのかもしれない。もともと外来思想であって、日本人の多数を捉えることができるはずのない思想なのだが、それだけ、<マルクス幻想>、ルソーの撒き散らした<平等>幻想は強い、ということなのだろう。

1088/道州制と広域連合-橋下徹と藤井聡。

 〇 道州制には、前回にイメージしたもの以外のものもありうる。市町村・都道府県という二層制の上にあるいわば三層めの地方公共団体としてそれを構想することだ。現在よりもさらに複雑になるが、「広域行政」の必要からして、そういう「道州制」もありえなくはない。そして、道州住民の選挙による議会が置かれる可能性とともに、構成員を都道府県(または加えて現在の政令市など特定の市)という団体として住民代表議会を設置せず、構成団体(の長)が道州の「長」(知事・長官)を選出することにする、という構想も考えられる。この後者の場合、「道州制」は現行制度としての「広域連合」に類似しているところがある。
 但し、上の後者の場合であっても、特定の事務のために関係都道府県や市町村が任意に構成員となる広域連合とは違って(従ってその実際の例は関西広域連合があるにすぎないともされている)、「道州」制は<国家のしくみ>の一部としての統治機構である(一般的制度化が想定されているはずの)地方団体であるから、上のようなイメージのもとでも、その「長」は構成長(・代表者)の選挙により、それらの都道府県知事等とは別の者の中から選出されることになろう。
 鳥取県は関西広域連合の構成員の一つであり、現在の当該連合の「長」は兵庫県知事が兼任しているようだ。したがって、鳥取県知事(かつては片山善博)が関西連合の「長」になる可能性は抽象的には(現実的にはともあれ)あるだろう。
 前回言及した藤井聡が紹介する片山善博の発言は、そのような場合の気持ちを表明したものだろう。つまり、広域連合の「長」になっても元来は鳥取県民に直接に選ばれた者なのだから、鳥取県域を超えて「関西」広域全体について「真剣に親身に」なれる自信はない、と言っているのだと解される。
 従って、道州制の「長」が(考えられるその一つの制度設計のもとで)関係都道府県等(の代表)の選挙によって選出される場合だったとしても、特定の都道府県等の長を兼ねていない者が選任されるかぎりは、その者は当該「道州」全体について「真剣に親身に」ならなければならないし、そのようになれない人物は選任されるべきではないことになる。
 前回は想定またはイメージしていなかった「道州」制を構想してみても、やはり片山善博の発言についての藤井聡の理解は結論的には間違っているのだ。お分かりかな? 藤井聡くん。
 それにそもそも藤井は、自ら「道州制」をどのように理解・想定するかを明らかにしていないのだから、あらためて記しておくが、「道州制」や「地方分権」(国・地方関係)に関する論考としては、きわめて拙劣なものだ。
 〇 「道州制」の意味が大阪維新の会・橋下徹らにおいても明確でないと見られることは、既に記したとおりだ。「大阪都」構想との関係も明瞭ではない。
 橋下徹らは走りながら考える、考えながら走っているようなところがあって、研究者的に厳密な検討をすれば不十分なところは多々あるように思われる(藤井の論考は研究者の厳密な検討ではないが)。このことはこれまでも述べてきている。
 但し、「保守」主義の祖のごとく語られるE・バークも、抽象的かつ体系的に「保守主義」論を著したのではなく、現実のフランスの状況(フランス革命の推移)を念頭において、のちに<保守主義>と冠されるような論考を新聞等に発表したのだ。
 橋下徹らの提起する論点・問題が、抽象的ないし論理的に、学者の「書斎」から出ているのではないことは言うまでもない。現在の「国」・民主党政権の実際を念頭に置いて、さらにはそれら至る現実の日本の「統治の仕組み」を現実に・リアルに意識しながら、発せられているものと思われる。
 現実の「国」のありようを無視していかに一般的・抽象的に国・地方関係を議論しても無駄だ。少なくとも現実に建設的な検討結果は生まれないだろう。
 さまざまの現実を眼にした問題意識をもって語られる橋下徹らの言葉尻をとらえて、「書斎」派あるいは「アーム・チェア」派の論者があれこれと批判してみても、生産的な意味を持たず、橋下徹らのいう「既得権」者を利するだけではないか。あるいは、その批判に単純かつ性急なものがあるとすれば、(文章で構成されるマスコミの世界では「売れ」ても)ほとんど積極的な現実的意味をもたず、意識の攪乱を通じてむしろ現実を悪い方向に導くのではないか。
 最近に書いてきたのは、簡単には上のようなことだ。
 〇 何のワクワクした気分もなく、ただ久しぶりにこの欄を埋めて置こうという気分から書いた。本来は書きたいこと、言及・論及したいことが他にたくさんあるのだが、こんなに気軽には書けそうにないので、つい、起稿するのをやめてしまう。

1019/西尾幹二による樋口陽一批判②。

 前回のつづき。西尾幹二は、「ルソー=ジャコバン型モデルの意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が重要」という部分を含む樋口陽一の文章を20行近く引用したあと次のように批判する。
 ・「まずフランスを上位に据えて、ドイツ、日本の順に上から序列づける図式的思考の典型例」が認められる。「後進国」ドイツ・日本の「劣等感」に根拠があるかのようだった「革命待望の時代にだけ有効な立論」だ。革命は社会の進歩に逆行するという実例は、ロシア・中国で繰り返されたのだ(p.73-74)。
 ・中間団体・共同体を破壊して「個人を…裸の無防備の状態」にしたのが革命の成果だと樋口陽一は考えているが、中間団体・共同体の中には教会も含まれる。そして、王制だけではなく「カトリック教会」をも敵視した「ルソー=ジャコバン型」国家は西欧での「一般的な歴史展開」ではなく、フランスに「独自の展開、一つの特殊で、例外的な現象」だ。イエ・家族を中間団体として敵視するフランス的近代立憲主義は「日本の伝統文化と…不一致」だ(p.74-75)。
 ・日本では「現に樋口陽一氏のようなフランス一辺倒の硬直した頭脳が、国の大元をなす憲法学の中心に座を占め、若い人を動かしつづけている」。「樋口氏の弟子たちが裁判官になり、法制局に入り、…などなどと考えると、…背筋が寒くなる思いがする」(p.75)。
 ・オウム真理教の出現した戦後50年めの椿事は、「『個人』だの『自由』だのに対し無警戒だった戦後文化の行き着いた到達点」で、「解放」を過激に求めつづけた「進歩的憲法学者に煽動の責任がまったくなかったとは言いきれまい」。「解放と自由」は異なる。何ものかへの「帰依」なくして「自我」は成立せず、「信従」なくして「個性」も芽生えない。「共同体」をいっさい壊せば、人間は「贋物の共同体に支配される」(p.75)。
 ・「樋口氏の著作」を読んでいると、「社会を徹底的に『個人』に分解し、アトム化し、その意志をどこまでも追求していく結果、従来の価値規範や秩序と矛盾対立の関係が生じた場合に、『個人』の意志に抑制を求めるのではなく、逆に従来の価値規範や秩序の側に変革を求めるという方向性」が明確だ。「分解され、アトムと化した『個人』の意志をどこまでも絶対視する」結果、「『個人』はさらに分解され、ばらばらのエゴの不毛な集積体と化する」(p.75-76)。
 ・「『個人』の無限の解放は一転して全体主義に変わりかねない。それが現代である。ロベスピエールは現代ではスターリンになる可能性の方が高い」。実際とは異なり「概念操作だけはフランス的で…『個人』を無理やり演出させられていく」ならば、東北アジア人としての「実際の生き方の後ろめたさが陰にこもり、実際が正しければ正しいほど矛盾が大きくなる」、というのが日本の現実のようだ(p.76)。
 以上。法学部出身者または法学者ではない<保守>論客が、特定の「進歩的」憲法学者の議論(の一部)を正面から批判した、珍しいと思われる例として、紹介した。  樋口陽一らの説く「個人主義」こそが、個々の日本人を「ばらばらのエゴの不毛な集積体」にしつつある(またはほんどそうなっている)のではないか。
 本来は、このような批判的分析・検討は、樋口陽一に対してのみならず、古くは宮沢俊義や、新しくは辻村みよ子・浦部法穂や長谷部恭男らの憲法学者の議論・主張に対して、八木秀次・西修・百地章らの憲法学者によってこそ詳細になされるべきものだ。  「国の大元をなす憲法学の中心」が<左翼>によって占められ続けているという現実を(そしてむろんその影響はたんに憲法アカデミズム内に限られはしないことを)、そして有効かつ適切な対抗が十分にはできていないことを、少数派に属する<保守>は深刻に受けとめなければならない。

1018/西尾幹二による樋口陽一批判①。

 一 フランス革命やフランス1793年憲法(・ロベスピエール)、さらにはルソーについてはすでに何度か触れた。また、フランスの「ルソー=ジャコバン主義」を称揚して「一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」(自由と国家p.170)とまで主張する樋口陽一(前東京大学・憲法学)の著書を複数読んで、2008年に、この欄で批判的にとり上げたこともある。以下は、その一部だ。
 ・「憲法学者・樋口陽一はデマゴーグ・たぶんその1」
 ・「樋口陽一のデマ2+……」

 ・「憲法デマゴーグ・樋口陽一-その3・個人主義と『家族解体』論」
 ・「樋口陽一のデマ4-『社会主義』は『必要不可欠の貢献』をした」
 ・「憲法学者・樋口陽一の究極のデマ-その6・思想としての『個人』・『個人主義』・『個人の自由』」
 二 西尾幹二全集が今秋から刊行されるらしい。たぶん全巻購入するだろう。
 西尾『皇太子さまへのご忠言』以外はできるだけ西尾の本を購入していたが、西尾幹二『自由の恐怖―宗教から全体主義へ』(文藝春秋、1995)は今年になってから入手した。
 上の本のⅠの二つ目の論考(初出、諸君!1995年10月号)の中に、ほぼ7頁にわたって、樋口陽一批判があることに気づいた(既読だったとすれば、思い出した)。西尾は樋口陽一の『自由と国家』・『憲法』・『近代国民国家の憲法構造』を明記したうえで、以下のように批判している。ほとんど全く異論のないものだ。以下、要約的引用。
 ・「善かれ悪しかれ日本は西欧化されていて、国の基本をきめる憲法は…西欧産、というより西欧のなにかの模造品」だ。法学部学生は「西欧の法学を理想として学んだ教授に学んで、…日本人の生き方の西欧に照らしての不足や欠陥を今でもしきりに教えこまれている。……西欧人に比べて日本人の『個』はまだ不十分で…たち遅れている、といった三十年前に死滅したはずの進歩派の童話を繰り返し、繰り返しリフレインのように耳に注ぎこまれている」(p.70)。
 ・「例えば憲法学者樋口陽一氏にみられる…偏光レンズが『信教の自由』の憲法解釈…などに影響を及ぼすことなしとしないと予想し、私は憂慮する」(同上)。
 ・「樋口氏の文章は難解で読みにくく…符丁や隠語を散りばめた閉鎖的世界で、いくつかの未証明の独断のうえに成り立っている。それでも私は……など〔上記3著-秋月〕、氏の著作を理解しよう」とし、「いくつかの独断の存在に気がついた」(p.71)。
 ・「『日本はまだ市民革命が済んでいない』がその一つ」だ。樋口によると、「日本では『個人』がまだ十分に析出されていない」。「近代立憲主義を確立していくうえで、日本は『個人』の成立を阻むイエとか小家族とか会社とか…があって、今日でもまだ立ち遅れの著しい第一段階にある」。一方、「フランス革命が切り拓いたジャコバン主義的観念は『個人』の成立を妨げるあらゆる中間団体・共同体を否定して、個人と国家の二極のみから成る『ルソー=ジャコバン型』国家を生み出す基礎となった」。近代立憲主義の前提にはかかる「徹底した個人主義」があり、それを革命が示した点に「近代史における『フランスの典型性』」がある。―というようなことを大筋で述べているが、「もとよりこれも未証明の独断である。というより、マルクス主義の退潮以後すっかり信憑性を失った革命観の一つだと思う」(同上)。
 ・フランス本国で「ルソー=ジャコバン型」国家なる概念をどの程度フランス人が理想としているか、「私にははなはだ疑わしい」。「ジャコバン党は敬愛されていない。ロベスピエールの子孫の一族が一族の名を隠して生きたという国だ」。ロベスピエールはスターリンの「先駆」だとする歴史学説も「あると聞く」。それに「市民革命」経ずして「個人」析出不能だとすれば、「革命」を経た数カ国以外に永遠に「個人」が析出される国は出ないだろう。「樋口氏の期待するような革命は二度と起こらないからである」。「市民革命を夢みる時代は終わったのだ」(p.71-72)。
 ・樋口陽一の専門的議論に付き合うつもりはない。だが、「どんな専門的文章にも素人が読んで直覚的に分ることがある。氏の立論は…今述べた二、三の独断のうえに成り立っていて」、その前提を信頼しないで取り払ってしまえば、「立論全体が総崩れになるような性格のもの」だ(p.72)。
 ・樋口陽一「氏を支えているのは学問ではなく、フランス革命に対する単なる信仰である」(同上)。
 まだあるが、長くなったので、別の回に続ける。  

0999/アメリカ建国の理念とは-佐々木類(産経新聞)・佐伯啓思・中川八洋における。

 一 A 産経新聞アメリカ支局長・佐々木類は産経1/16付紙面で、「同盟深化に米建国の理念理解を」と題して、米国での銃規制の困難さにも関連させて、こう書いていた。

 「書生っぽいことをいえば、ロックが1676年に『統治二論』で著した社会契約説が、100年後に米国建国という形で具体的な姿を現した。ロックは、人間が自分を守る権利と労働の結果生まれた私有財産は人民の契約に基づいて国家が作られる前からあった『自然権』だとし、国家権力がこれに干渉してはならないと定義した。/この精神を引き継いだ英国の植民地人、つまり、米国人らが、自分たちの意向を無視して証書や新聞などに印紙を貼らす印紙税や茶に課税する英国に対し、『代表なくして課税なし』と立ち上がり、独立戦争に突き進んだのである」。
 B 佐伯啓思・日本という「価値」(NTT出版、2010)は、「アメリカの建国の精神」について、こう書く。

 ・「ジェファーソンの『独立宣言』に見られるように、「生命」「自由」「幸福の追求」を万人に平等に与えられた普遍的価値とみなしている」。
 ・「このアメリカ建国の精神である、強くて自由な個人、民主主義、個人の能力主義と競争原理などの価値へと『復帰』することは、アメリカにおいては『保守主義』ということになる」。
 ・「これは本来のイギリス流の保守主義とかなり異なっている。……アメリカ独立が…イギリスの伝統的国家体制への反逆であり、王権からの分離独立であることに留意すれば、アメリカの建国それ自体が、イギリスからすれば自由主義的な革新的運動であった」。アメリカ建国には「進歩主義」の理念が色濃く、「アメリカ流保守主義」は「いささか倒錯的なことに」すでに「『進歩主義』に染め上げられている」(p.188-9)。
 C 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)は、「米国の建国」について、つぎのように言及する。

 ・「サッチャー保守主義の原点」にはバークがあるが、その基底で「ヴィクトリア女王時代の栄光の大英帝国」を崇敬していた。これは、「ジョージ・ワシントンやアレクザンダー・ハミルトンが米国の建国に当たって、エリザベス女王時代の…あとの頃一六〇〇年代初頭の…古き英国をイメージして、理想の新生国家・米国を建設したのと似ている」(p.233)。
 二 さて、米国建設の理念・イメージがかくも異なって叙述されることにまずは止目されるべきだろう。

 中川八洋はアメリカの対英「独立」の理念と一三州統合しての「建国」の理念とは区別すべしと別の著で説いており、上で挙げるハミルトンらは英国「保守主義」と基本的に異ならない「建国」の理念提示者として叙述されていると見られる。

 これに対して佐伯啓思はジェファーソンの名を挙げて対英「独立」の理念に着目しているようだ。

 かかる違いはあるとはいえ、基本的に英国「保守主義」を継承したと捉える中川と、米国の「保守主義」は英国のそれから見ると「進歩主義」だとの見解を示す佐伯啓思とは、やはり同じことを述べているとは、同様に理解されているとは、理解できない。

 アメリカ「建国」の理念も、論者により、あるいは論じられる脈絡との関係により、異なって語られうることは、知的関心を惹く、興味深いことだ。これは、アメリカを理解するうえで、そして<日米同盟>を語る場合の、決して「知的」関心の対象にとどまらない問題でもあろう。

 これに対して、佐々木類の「書生っぽい」叙述は、上の二人の学者とはやはり異なり、通俗的だ。要するに、<欧米近代>を一色で見ている。英米の違いはもちろんのこと、英・仏間にある大きな違いを見ることもしていない。ロックの「社会契約説」を挙げていることからすると、米国独立戦争前のルソーの『社会契約論』(1762)も、米国の国家理念と矛盾していないと理解されているのだろう。

 怖ろしいのは、「書生っぽい」、あるいは高校の社会科教科書を真面目に勉強したような<欧州近代>の理解でもって、欧米諸国(の建国理念・歴史等)を単純に捉えてしまうことだと思われる。

 そこには、今日ではすでに自国ですら疑念が提起されている、かつての通説的な「フランス革命」の(美化的)理解を疑いもしない、かつての「書生っぽい」認識も含まれる。ルソーもフランス革命も、さらには<欧州近代>(ロックを含む)そのものも、日本の<保守派>ならば「懐疑」の対象にしなければならないのではないか。
 ちなみに、中川八洋に全面的に賛同するつもりはないし、評価する資格もないが、中川によるとロックはホッブズ(中川のいう有害な思想家)の影響を強く受けており、ハイエクは英国名誉革命に関するヒュームとロックの議論を対比してヒューム(中川のいう有益な思想家)に軍配を上げた、という。またヒュームは(中川も)ロック、ルソーの「社会契約説」に批判的だ(下掲書p.320-1)。但し、全体としては、中川八洋は、ロックを、モンテスキュー、パスカル、ショーペンハウエル、カントとともに(いずれかに傾斜しているとしつつも)「有益」、「有害」それぞれ31名の思想家リスト(p.384-5)の中には含めず、「双方の中間」と位置づけている(中川八洋・保守主義の哲学(PHP、2004)p.388)。

0960/レーニンとフランス・ジャコバン独裁(1793年憲法)-その2。

 レーニンが1915年11月に雑誌か新聞に寄せた論文「革命の二つの方向について」(レーニン10巻選集第6巻(大月書店、1971)p.172-3)は、フランス一七八九年革命に次のように言及している。

 ①プレハーノフは、マルクスの「フランスの一七八九年の革命は、上向線をたどったが一八四八年の革命は下向線をたどった」との文を引用する。前者では権力が「より穏健な政党からより左翼的な政党へと」、すなわち「立憲派―ジロンド派―ジャコバン派」へと移行した。後者では逆だ(「プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世」)。これらの事例からするプレハーノフの現在のロシアに関する推論は誤っている。

 ②「マルクスは、一七八九年にはフランスでは農民と結合し、一八四八年には小ブルジョア民主主義派がプロレタリアートを裏切ったと書いている」。

 ③「一七八九年の上向線は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 プレハーノフによるロシア(1915年時点)への推論を批判してはいるが、マルクスが示したという「革命の二つの方向」、一七八九年の「上向線」と、一八四八年の「下向線」という理解そのものには、レーニンも反対していないことは明らかだ。成功(上向)と失敗(下向)の各事例の階級・階層関係の分析がプレハーノフとは異なるようだ。

 さて、上の②をプレハーノフは知っていたのに無視しているとレーニンは批判しているが(p.172)。上の②とこの批判を含まない、これらに続く文章が、平野義太郎編・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)に引用されている(平野編p.115)。

 「一七八九年のフランスでは、絶対主義と貴族を打倒することが問題であった。ブルジョアジーは、……農民との同盟に応じた。この同盟が革命の完全な勝利を保証したのである。一八四八年には、プロレタリアートがブルジョアジーを打倒することが問題であった。フロレタリアートは、小ブルジョアジーを自分のほうに引きつけることに成功しなかった。そして小ブルジョアジーの裏切りが革命を敗北させたのである」。

 このあとに、上記の(レーニン選集第6巻の)③がつづく。

 但し、平野編著は、上の①・②を割愛しているからだろう、そのまま引用するだけではなく、〔〕内に平野による「注」または「補足」を挿入している。したがって、上の③は次のようになっている。
 ③「一七八九年の上向線立憲派―ジロンド党―ジャコバン党〕は、人民が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線〔プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世〕は、小ブルジョアジーの大衆がプロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」。

 レーニン自身による上の①を参照すると、ここでの〔〕内への挿入内容が平野による独自の解釈などではなく、レーニンの理解と矛盾していないことは明瞭だろう。

 つまり、こういうことだ。レーニンは、<絶対主義→ブルジョア民主主義>というフランス革命の「勝利」の最後の頂点に「ジャコバン派(党)」を位置づけている。

 レーニンにおいて、ジャコバン独裁・1793年の時期が肯定的に評価されていることは明らかだ。あらためて記しておくが、そのようなジャコバン独裁期に制定された(だが施行されなかった)、「人民(プープル)主権」原理に立つ1793年憲法を熱心に研究して1989年に著書を刊行したのが、辻村みよ子(現東北大学教授)だ。

 なお、レーニンが執筆したもののすべてに目を通すことは不可能で、平野編著も決して網羅的ではないようだ。河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)によるとレーニンは1915年に「偉大なブルジョア革命家」として「ロベスピエール」(ジャコバン派)に言及したらしいのだが、該当部分をレーニンの著書や上の平野編著の中に見出すことはできなかった。

 レーニン(またはマルクス)がフランス・ジャコバン独裁をどう評価していたかの探索(?)は、とりあえずはこれで終えておく。

0953/辻村みよ子・フランス革命の憲法原理(1989)は「社会主義」の失敗・死滅を予想していたか。

 一 ブレジンスキーはアメリカ中心の歴史観・時代観に立っているだろうし、共産主義に対する「民主主義」の勝利という書き方をしているのも、欧米的「民主主義」に万全の信頼を置かないかぎり、全面的には賛同できないところがある。

 だが、1989年の前半の時点で<共産主義の死滅>を明瞭に予測した書物(伊藤憲一訳・大いなる失敗、計366頁)を執筆しえたことは、やはり記憶にとどめられてよいものと思われる。

 二 ところで、既に言及している辻村みよ子・フランス革命の憲法原理―近代憲法とジャコバン主義(日本評論社)は、1989年7月に刊行されている。

 この書は序章によると、「人民主権」原理による男子普通選挙制・人民投票制等の「民主的な内容」をもったためにフランスで「最も民主的な憲法」等と評価されてもいる1793年憲法、パリ・コミューンや第二次大戦後の「左翼共同政府綱領」等々においていわば「反体制のシンボル」たる役割を果たしてきた1793年憲法、について、「その特質とブルジョワ憲法としての限界を明らかにしよう」とするもので、同時に、①「ブルジョワ革命期憲法」=「近代市民憲法」の「本質と限界」等にもアプローチし、②「近代市民憲法の嫡流である日本国憲法の諸原理との比較研究」も行う(p.3-6)。

 フランス革命の簡単な通史である河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959)は、むろん辻村著のごとく1793年憲法に詳細に立ち入っていないが、「ルソーの問題意識と理論の継承者」だったとするモンターニュ派=ジャコバン派の支配したフランス革命の一時期と1793年憲法について、次のように書いていた。

 ・1793年憲法は「ルソー的民主主義を基調」とし、「『人民』主権」を採り、議員は選挙民に「拘束」された。この最後の点は「『一般意思』は議員によって代表されないというルソーの理論の適用」だった(p.148)。のちの「民主主義者たち」や「二月革命期の共和派左翼」は「福音書」扱いし、「革命の最大の成果をこの憲法のなかにみた」(p.148-9)。

 ・ロベスピエールとともに公安委員会委員だったサン=ジュストは「反革命容疑者の財産を没収」し「貧しい愛国者たちに無償で分配」することを定める法令を提案し制定した。「ルソーが望んだように『圧制も搾取もない』平等社会を実現」することを企図したものだが、「資本主義が本格的にはじまろう」という時期に「すべての人間を財産所有者にかえようとする」ことは「しょせん『巨大な錯覚』(マルクス)でしかなかった」(p.157)。
 ・経済的には「ブルジョア革命」は1793年5月に終わっていたので、その後に「ロベスピエールが小ブルジョア的な精神主義」に陥ったときに「危機が急速度にやってきた」。しかし、「ロベスピエール派」の「政治的実践」は「すべて無効」ではない。国王処刑と独裁は「一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、…政治を完全に人民のものにすることができた」。「この『
フランス
革命の巨大な箒』(マルクス)があったからこそ、人々は自由で民主的な人間関係をはじめて自分のものとすることができた」(p.166-7)。
 ・この時期に「私有財産にたいする攻撃、財産の共有制への要求があらわれた」。とくにロベスピエールは、「すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』」を樹立しようとしたが、この意図は「輪郭がえがかれたままで挫折した」(p.190)。
 ・「資本主義がまさに出発」しようとしているとき、「すべての人間を小ブルジョアとして育成し、固定させようとすることは、歴史の法則への挑戦であった」。「悲壮な挫折は不可避」だった(p.190)。

 この河野健二著は、ジャコバン独裁期と1793年憲法の「特質と限界」を、すでに簡潔に述べていた、と言えるだろう。

 河野によれば、大まかにいって、ジャコバン独裁期と1793年憲法は、「民衆」とともに(「民衆」のための)急進的平等主義を目指したがゆえに「歴史の法則」に反し、そのゆえに不可避的に「悲壮な挫折」をした。

 辻村みよ子もまた、より複雑に叙述しているとはいえ、河野健二と似たようなことを書いている。例えば、総括的な章の中に、1793年憲法が「民主的・急進的な憲法原理」を持っていたことを認めたうえでの、次のような文章がある。

 ・1793年憲法の「不完全な」「人民主権」原理でさえ、ロベスピエールらは「あくまで(議会)ブルジョアジー」で「民衆」とは一線を画し、「民衆の利益を共有することは本来的に不可能」だったために、「危機」がなくとも実施されなかっただろう。

 ・「一方、主権者としての民衆も、この民主的な憲法を実施するには、あまりにも未熟」だった(p.376)。

 河野はロベスピエールは「民衆の力を基礎として資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間」だと評するのに対して、辻村はロベスピエールらは「民衆」とは社会基盤を異にする「議会ブルジョアジー」だったとする。このような、あるレベルでは重要かもしれない違いはあるが、<「民衆」を基礎にしたさらなる(徹底的な)変革を現実に行うには、時代的・時期的な限界があった>という点では共通の理解があるものと思われる。

 興味があるのは、1989年に書物を刊行したとき、辻村みよ子は、いかなる時代状況、あるいはいかなる「歴史の発展」方向にかかる意識・認識をもっていたのか、だ。

 ほぼ同時期に、「共産主義(・社会主義)」の死滅を予見するブレジンスキーの本が出ていたし、すでにソ連や東欧等の<激変>の兆しは表れていた。

 にもかかわらず、やはりこの人は、絶対王政→近代市民(ブルジョア)革命→社会主義革命という<見通し>をなおも有していたのではないか。

 辻村自身が、1793年憲法はパリ・コミューンやバブーフ等々によって参照されかつ支持されてきたことを述べている。バブーフについて、こう書く。

 「私有財産を廃止による徹底的な平等と人民主権の実現をめざしていたバブーフも、一九七三年憲法を高く評価していた」(p.377)。「バブーフの平等主義」は1793憲法の諸原理を「超える」ものだったが、1795年憲法に対抗して「民衆や反政府的共和主義者」の力を結集するためには、彼らが尊重すべき「民衆的・民主的伝統の源泉」だった1793年憲法は「必要かつ最も適切な道具」でもあった(p.378)。

 しかし、辻村は、注意深く(?)、1793年憲法あるいはジャコバン独裁(ロベスピエールら)とマルクスやレーニン(・ロシア革命)との関係に言及することを避けている。おそらくは意図的にだ。

 これについては河野健二の著が、すでに紹介した中にマルクスの言葉が使われていたように、率直に語っている。
 ・レーニンは1915年に、「マルクス主義者」は「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせ」る、と書いたが、その際、「彼はロベスピエールの名前をあげることを忘れなかった」。

 ・「ロシア革命の一歩一歩は、フランス革命におけるジャコバンのたたかいと、公安委員会とパリ・コミューンの経験を貴重な先例として学びつつ進められた」(p.193)。
 そもそもが、辻村が「ブルジョアジー」と区別して用いている「民衆」とは、いったい何を指しているのだろうか。何を意味させているのだろうか。この人が頻繁に使う「民主的」とかの概念とともに、じつは明瞭には説明・定義されていない。

 だが、おそらくは、のちには(のちのロシア革命では)革命の「主体」となった「民衆」、すなわちマルクス主義用語にいう「プロレタリアート」(労働者大衆)を意味させているのだろう。「ブルジョアジー」と区別して対比させられる範疇としては、これしか考えられない。

 辻村みよ子はおそらく、早すぎたがゆえに挫折した「社会主義革命」の試みまたはその萌芽をジャコバン独裁と1793憲法のうちに見て、今日でも、「近代市民憲法の嫡流である日本国憲法」の解釈論等に1793年憲法の諸原理を生かそうとしているとしているのだろう(具体例として、外国人参政権肯定がある)。

 このような辻村にとって、1989年の時点で、ロシア革命により成立したソビエト連邦等が崩壊することなど、微塵も想定できないことだったに違いない。

 現在では、社会主義への「発展」については多少は自信(?)を無くしているかもしれない。だが、日本国憲法を「近代市民憲法の嫡流」とあっさりと書いた辻村は、今日でもなお、佐伯啓思のいう「マルクス主義だの戦後進歩主義だの」という思潮の影響を受けた者の「思い込み」、すなわち「西欧近代は、中世・封建制を打倒して、人間の普遍的な自由を打ち出したという歴史観…。そして、日本は、…明治に西欧的近代を導入し、…戦後に改めて自由と民主主義を確立した」という「思い込み」(12/13エントリー参照)だけには少なくとも強く浸ったままだろう。

0938/三島由紀夫の「憲法」理解の対極にあった憲法学界の<親社会主義>。

 一 三島由紀夫は1970年11月に、「生命尊重以上の価値」をもつ「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」を「骨抜きにしてしまった憲法」と、1947年憲法(日本国憲法)を評した。そこで念頭に置かれているのはとくに、国家の軍隊の存在を否定する九条2項であることは明らかだ。自衛隊が存在しながらこれを正規の「軍その他の戦力」と位置づけない憲法解釈は、あるいは憲法改正によってそれを明瞭にしない<憲法護持>論は、三島にとって、姑息で欺瞞に満ちたものだった。

 こういう三島のような理解は、しかし、当時の政治家・国民の多数派のものではなかったし、ましてや憲法学者の大勢の理解でもなかった。

 当時はもちろん、今日でも、上の三島由紀夫のような理解は日本の憲法学界においてほとんど支持されていないと見られる。

 なぜか。端的に言って、戦後の憲法学者の圧倒的多数には、<社会主義幻想>がはびこっていたからだと思われる。資本主義→社会主義という<歴史の発展法則>に添うような憲法解釈をしようとすれば、日本が<社会主義>国になるためには、日本は(資本主義国たる日本を守るための)正規の「軍隊」などを保持してはならない、ということになる。その帰結は、①自衛隊を「違憲」の存在と見て廃止または縮小を求めるか、②自衛隊は正規の「軍その他の戦力」ではないために「合憲」であるという一種の強弁に、じつは詭弁・虚言に、少なくとも表向きはしがみつくか、のいずれかだった。

 <社会主義幻想>の内容の一つは、社会主義国は<平和愛好>的で資本主義国は<侵略的>とのデマだった。

 社会主義国ならばともかく、資本主義陣営の日本国家に、<侵略>性を有する軍隊などを保持させてはならなかった。かかる観点から憲法9条2項の解釈と自衛隊へのその適用も論じられたのだ。

 二 日本の憲法学・公法学が、表面的にはともかく、<体制選択>に関する特定の判断を前提として議論を展開させてきたことは、現役憲法学者・阪本昌成(広島大学→立教大学)の次の叙述により、明確だ。

 阪本昌成・法の支配(2006.06、勁草書房)p.1-2は、次のように一著の冒頭に書いている。時期的には、安倍晋三内閣が成立する直前にあたるだろう。

 「公法学における体制選択  20世紀は資本主義と社会主義との偉大な闘争の時代だった。経済思想史においても、政治思想史上においても、この闘争は人類史上の最大の論争点だったといっても過言ではない。この論争は公法学にも当然影を落とした。/

 過去半世紀を超えて、わが国の公法学者は、資本主義か社会主義かという体制選択問題を常に意識しながらも、あからさまなイデオロギー論争を巧みに避けて、個別的な場面での『解釈』や『政策提言』に各自の思想傾向を忍ばせてきた。イデオロギーを異にしながら、多様な『解釈』や『政策提言』を示してきた公法学者にも、奇妙な共通項があった。それは、経済市場と国家の役割への見方である。通常は、国家のもつ強制力に警戒的である論者も、こと経済市場の動きに対しては、国家介入に寛容となる。いくつか例を挙げれば、国家による市場秩序の人為的設計(かたや大企業への警戒感、かたや弱者としての中小企業や労働者の救済策)、社会保障プログラムの拡大・充実(市場における経済的弱者への思い入れ)、環境保護政策の推進(公害問題の発生因を市場経済に求める着想)等の姿勢である。/

 体制選択のひとつの候補が社会主義だった。この言葉には、”人々が程良い豊かさと自由を享受する正しい社会”という響きがどこかにあった。そのため、自由経済体制(「資本主義体制」)の社会主義体制に対する優越を公然と口にする公法学者には『右派・保守』というスティグマが与えられがちだった。ところが、社会主義国家の自己崩壊後、『社会主義』という言葉に輝きも快い響きもない。……」

 上でこの欄での文脈上とくに重要なのは、「自由経済体制(「資本主義体制」)の社会主義体制に対する優越を公然と口にする公法学者には『右派・保守』というスティグマ〔焼き印・刻印〕が与えられがちだった」、という部分だ。

 反社会主義的(または反共産主義的=反共的)言辞・発言には、<右派・保守>というレッテルが貼られがちだった、というのだ。それが少なくとも「社会主義国家の自己崩壊」までは続いた、と阪本昌成は言う。三島の死から約20年経っても、<反共>的言辞は<右派・保守>として異端視されていたのだ。

 社会主義国家はじつはすべて「崩壊」してはおらず、「体制選択」の問題は、日本では、そして日本の公法学界では、「あからさま」ではないにしても残っているように思われる。この点では、「自由経済体制」=「資本主義」の勝利とまだ決定的には断じられないところがある、と私は感じている。

 上のことには留意が必要だが、しかし、憲法学界等の公法学界の雰囲気が<親社会主義>的だったことは、おそらくは上の阪本昌成の文章でも示されているとおりだろう。

 そのような<親社会主義>的姿勢が、九条を始めとする憲法「解釈」や「政策提言」に影響を与えないはずがない

 辻村みよ子・フランス革命の憲法原理―近代憲法とジャコバン主義―(日本評論社、1989.07)は、ルソーの影響を受けたロベスピエールらの「ジャコバン主義」者、彼らの(未施行の)1793憲法の研究書だが、これらへの共感に満ち、これらを称揚しつつ、日本国憲法の「(国民)主権」論等の「原理」に関する示唆を得ようとするものだ。

 この本は東西ベルリンを隔てる「壁」の崩壊直前に執筆されたと見られる。そして、「あからさま」にはイデオロギー表明はしていないものの、(河野健二・岩波新書によると)早すぎた「社会主義」革命だったがゆえに失敗したとされる<ジャコバン独裁>を肯定的に把握しようとするもので、「あからさま」ではないが<社会主義幻想>に依拠して書かれている、と想定して間違いない。
 こうした人々にとって、三島由紀夫などは<右翼・反動>の極致の人物だっただろう。そして、こういう人々こそが(世代は上の杉原泰雄樋口陽一らも含めて)憲法学界・公法学会の主流派だったと見られる。今日に至って、少しは変化しているのだろうか

 ともあれ、日本の憲法学(学界)の大勢は、三島由紀夫の対極に位置していた、ということだけを、少なくとも確認しておきたい

 三 なお、第一に、阪本昌成が学界の「奇妙な共通項」として上に指摘するようなことは、日本国憲法もしっかりと(?)勉強して司法試験に合格した戦後教育の優等生である、福島みずほや仙石由人等を見ていると、なるほどと頷けるところがあるだろう。

 第二に、阪本昌成の上の本は、この欄でメモしながら読みつなぐことを意図したが、二年前にp.21くらいまで進んだだけで終わってしまった。

 上の引用は、最後の部分を除いて全文だが、かつて、次のように要約していた。

 <前世紀は資本主義と社会主義の対立の世紀で、この対立・論争は「公法学」にも影を落とした。日本の公法学者はこの体制選択問題を「常に意識し」つつも「あからさまなイデオロギー論争を巧みに避け」て、個別の解釈論や政策提言に「各自の思想傾向を忍ばせ」てきたが、「経済市場と国家の役割への見方」には奇妙な一致があった。すなわち、通常は国家の強制力を警戒する一方で、経済市場への国家介入には寛容だった。
 体制選択の一候補は社会主義で、快い響きをもっていたため、自由主義経済体制(資本主義)の優越を「公然と口にする公法学者」には「右派・保守」とのレッテルが貼られた。だが、社会主義国家が自己崩壊し体制選択問題が消失した今では、「リベラリズムの意義、自由な国家の正当な役割、市場の役割」を問い直すべきだ。その際のキーワードは、「政治哲学」上の「自由」、「法学」上の「法の支配」>。 

0914/ルソーの民主主義・「人民主権」と佐伯啓思・表現者32号。

 一 佐伯啓思「『民主党革命』はあったのか」隔月刊・表現者32号(2010.09、ジョルダン)はかなり前にすでに読んだ。

 民主主義・国民主権そしてルソーにつき、関心を惹いた叙述がある。佐伯啓思は、以下のように述べる(p.62-63)。

 ・戦後日本には「民主主義」の誤解、「民主主義」=「国民主権」=「国民の意思が政治に直接反映するもの」という「思い込み」がある。
 ・かかる「おそらくはルソーの人民主権論に由来すると思われる民主主義理解は、実はルソー自身さえも決して支持するものではなく」、ルソーは「主権者」=人民と、政治的意思決定を下す「統治者」を区別しており、後者は「人民そのもの」ではない。
 ・「主権者」と「統治者」を一致させようとすれば「民主制は全体主義へと転化する」。「国民の意思」=「すべての国民に共有された意思」=ルソーにいう「一般意思」なので、「国民主権」のもとで決定されて明示された「国民の意思」に「誰も逆らうことはできない」し、「逆らう者がいるはずがない」からだ。いるとすれば、それは「国民」ではない。

 ・「民主主義」が「政治的たりうる」には「国民主権」との「一定の距離」が必要で、「政治」と「世論」の間の「適切な距離感こそが政治感覚」だ。民主党はこの「距離感を見失った」。いやむしろ、「距離感」を放棄して「政治」を「国民主権」に「寄り添う」ようにさせた。「主権者」と「統治者」をできるだけ一致させようとした。

 このあとの民主党分析・批判も興味深いが、さて措く。

 二 ルソーの真意だったか否かはともかく、ルソーの「プープル(人民)主権」論は社会主義あるいは「全体主義」と親和的だとの批判または分析はこれまでもあった。

 一例がかつてこの欄で言及したことのある、中川八洋・正統の哲学・異端の思想―「人権」・「平等」・「民主」の禍毒(1996、徳間書店)だ。

 中川の叙述を大幅に簡潔化すると、中川によれば、ルソー→<フランス革命>(ロベスピエール)→ヘーゲル→マルクス→レーニン→<ロシア革命>という系譜が語られうる。また、ロベスピエールらのジャコバン党の教義が「マルクス・レーニン主義」の「原型」、ルソーらの思想こそが「フランス革命の暴力/破壊/独裁の源泉」で、「マルクス・レーニン主義」とは「ルソー・ロベスピエール主義」の「二番煎じの模倣」とされる。

 ルソー・社会契約論で示されたらしきいわゆる「プープル(人民)主権」論は、どこかに「全体主義」と通底させる<トリック>を潜ませている、と想定している。上の佐伯啓思論稿は吟味が必要であることを示唆してはいるが。

 抜粋になるが、中川のルソーの文章の一部を使った叙述によると、①「人民主権の政治」とは「人民すべての意思」=「一般意思」と「合致した政治」、②「人民」がすべての権利・自由を「共同体に譲渡する」「社会契約」により個々の「人民の意思」は一致して「一般意思」となる。③「人民の一般意思」を体得した「立法者」はそれを個々の「人民」に「強制する」、④自らの意思=「一般意思」に強制され服従することによってこそ個々の「人民」は<自由>になる(例、中川p.233-237)。
 理解しやすいものではないが、「人民の意思」=「一般意思」にもとづいていると僭称する<独裁者>が出現すれば、ここにいう「人民主権」論は容易に<全体主義(・社会主義)>容認論になるだろう。

 三 日本の憲法学者の中には間接または半代表制の「国民(ナシオン)主権」よりも直接民主制的な「人民(プープル)主権」論を支持する者がいて(例、東北大学現役教授・辻村みよ子)、なぜか「間接民主主義」よりも「直接民主主義」の方が<より進んでいる・より進歩的>と考えているようだ。むろん、ルソーやフランス革命期のジャコバン憲法・ロベスピエールを高く評価する立場でもある。

 こうした議論からすると、民主党あるいは菅直人・鳩山由紀夫等の「民主主義」理解は従来の自民党的なそれよりも肯定的に評価されるのだろう。

 だが、佐伯も指摘するように、彼らの「民主主義」あるいは「国民主権」の理解は皮相すぎる。また、立法・行政の<権力分立>も正しくは理解していない、と考えられる。別の機会で、また触れる。

0827/三島由紀夫全集第35巻の大野明男関連文章(1969)を読む。

 一 ①「大野明男氏の新著にふれて―情緒の底にあるもの」、②「再び大野明男氏に―制度と『文化的』伝統」の二つが、決定版三島由紀夫全集第35巻(新潮社、2003)に収載されている。
 契機となった大野著とは『70年はどうなる-⦅見通し⦆と⦅賭け⦆』で(出版社等不明)、上の三島由紀夫の文章は、毎日新聞1969.08.08夕刊、同1969.08.26夕刊が初出で、いずれも三島・蘭陵王(新潮社、1971)に所収。
 大野明男は当時「全共闘」支持の「左翼」論者だったようで、三島由紀夫がこういう文章を書いて、<保守>の立場での一種の<時事評論>をしていたとは詳しくは知らなかった。小説・戯曲を書いたり、一般的な文化・思想論を展開したりしていただけではなかったのだ。そういえば、<東大全共闘>と討論?し、それを本にしていた。けっこう、現実具体的な問題に介入していたのだ。なるほど、そうでないと、1970年11月の市ヶ谷での一種の<諫死>も理解はできない。
 さて、大野・三島論争?自体に立ち入らない(立ち入れない)。大野の文章全体を正確には知らないから。
 二 興味深い一つは、三島由紀夫の<憲法(とくに日本国憲法)>観が示されていることだ。
 三島によると、大野は「憲法」はその名のためではなく「成立を導いた『革命』のような政治過程の根本理念を表現した」ものであるがゆえに尊く、他に「優越」する、と書いたらしい。この部分を引用したあと、三島は書く。
 「なるほど新憲法に盛込まれた理念はフランス革命の人権宣言の祖述であるが、その自由民権主義はフランスからの直輸入ではなくて、雑然たる異民族の各種各様の伝統と文化理念を、十八世紀の時点における革命思想で統一して、合衆国といふ抽象的国家形態を作り上げたアメリカを経由したものである。しかもアメリカ本国における幻滅を基調にして、武力を背景に、日本におけるその思想的開花を夢みて教育的に移植されたものである。『血みどろの過程を通って』獲得されようが、されまいが、それが一個の歴史的所産であることは否定できない。
 私は新憲法を特におとしめるわけではないが、これも旧憲法と等しく、継受法の本質をもち、同じ継受法でありながら、日本の歴史・文化・伝統のエトスを汲み上げる濃度において、新憲法は旧憲法より薄い、とはっきり言へると思ふ。
 …継受法も一種の歴史的所産であるなら一国民一民族の歴史的文化的伝統との関わり合ひにおいて評価せねばならぬ、というのが私の立場である。憲法に対して客観主義的立場の人がその保持に熱狂し、憲法に対して主観的主体的立場をとらうとする人が必ずしも熱狂的ではない、といふところが面白い」。(全集第35巻p.603-4)。
 三島は1969年に44才(1945年に20才)。東京大学法学部で誰のどのような憲法の講義を受講したのだろうか。美濃部達吉か宮沢俊義か。いや(在学期間を確認すれば判明することだが)新憲法自体が1947.05施行なので、そのときはすでに卒業していて、旧憲法を前提とする講義を聴いたのだろう。
 いずれにせよ、大学教育によって上のような知見に至ったわけではあるまい。そして、日本国憲法についての、その理念は「フランス革命の人権宣言の祖述であるが、その自由民権主義はフランスからの直輸入ではなくて、雑然たる異民族の各種各様の伝統と文化理念を、十八世紀の時点における革命思想で統一して、合衆国といふ抽象的国家形態を作り上げたアメリカを経由したもの」という理解の仕方は正確なもののように思われる。1969年当時の大学法学部のほとんどにおいては、このような日本国憲法の説明は(憲法教育は)なされていなかったと思われるし、今日でもおそらく同様だろう。
 そしてまた、旧憲法も「継受法」だとしつつも、新憲法の方が「日本の歴史・文化・伝統のエトスを汲み上げる濃度」が旧憲法よりも「薄い」と明言して、新憲法に対する違和感・嫌悪感を表明している、と考えられる。
 大野明男は(反体制派「かつ」、あるいは「しかし」)<護憲>派だったようなのだが、新憲法(日本国憲法)に対する親近と嫌悪、これは今日にも続いている国論の分裂の基底的なところにあり、九条二項や「アメリカ」経由の欧米的理念の色濃い現憲法諸規定の<改正=自主憲法制定>に反対するか、積極的に賛成するかは、(公務員制度や政治家・官僚関係に関する議論・対立などよりもはるかに)重要な対立軸であり続けている、と考えられる。
 現憲法に対する態度は、結局は<戦後レジーム>に対する態度・評価の問題にほとんど等しい。これは、公務員制度や政治家・官僚関係に関する議論・対立などよりもはるかに大きな対立軸だ。そして、民主党のほとんどあるいは民主党中心新政権は<戦後レジーム>(現憲法)護持派なのであり、自民党の中には(民主党内に比べてだが)<戦後レジーム>脱却派=自主憲法制定派(改憲派)が多い(党是からは消えていない筈だ)、という違いがあることになろう。
 三 興味深い第二は、三島によると、大野明男は次のように書いたらしい(以下の「」は三島による引用内)。
 「日本の生産的労働階級」は「千余年の間、『天皇』などは知らずに、営々として『日本』を生きてきた…。心を『天皇』に捕えられるのは、つまり三島氏が『国民的メンタリティ』などと…持出しているのは、特殊な『明治以後』的なもの、正確には『日清戦争以後』的な、膨張と侵略の時代のメンタリティにすぎないのである」。
 おそらくは三島が「日本の歴史・文化・伝統のエトス」の中心に「天皇」を置く、又は少なくともそれと不可分の要素として「天皇」を考えているのに対して、大野は、日本の庶民の対「天皇」心情あるいは「天皇」中心イデオロギーは明治時代以降の産物で、「日本の歴史・文化・伝統」ではない、と主張したいのだろう。
 三島は大野の文を引用したのち、「これはよくいはれるルーティンの議論で、別に目新しいものではない」と応じ、<制度>・<感情>・<文化的伝統>等に論及している(上掲p.604-5)。
 この二人の議論と似たような議論が最近にもあったことを思い出す。
 すでに言及したが、隔週刊・サピオ11/11号(小学館)誌上で、小谷野敦のブログによる『天皇論』批判に対して、小林よしのりが反論している部分だ。
 大野明男にあたるのが小谷野敦で、三島のいう「よくいはれるルーティンの議論」をしていることになる。三島にあたるのが小林よしのりで、三島よりも<実証的に>江戸時代にとっくに庶民は「天皇」の存在を知っておりかつ敬慕していた「旨」を明らかにしている(なお「敬慕」の語はここで用いたもので、とくに拘泥したい語でもない。小林よしのりもこの語は用いていなかったかもしれない)。
 「左翼」の教条的な「ルーティンの議論」は40年を経て、なお生き続けていることにもなる。ウソでも100万回つけば…。「左翼」は捏造・歪曲にも執拗だ。

0794/月刊正論9月号の長谷川三千子による朝日新聞、竹本忠雄による「厄災としてのフランス革命」論。

 一 二年前の朝日新聞による安倍晋三(内閣)攻撃のひどさは、月刊正論9月号(産経新聞社)の長谷川三千子「難病としての民主主義/いま日本国民は何を自戒すべきか」では、こう叙述されている。
 「安倍首相に対する朝日新聞の『言葉』は、徹頭徹尾『感情的』であり、ハイエナの群れが、これぞと狙ひをさだめた獲物の、腹といはず足といはず、手あたり次第のところにかじり付き、喰い破ってゆくのを思はせる、『残酷』さにみちていた。そして、それは少しも『無力』ではなかったのであり、朝日新聞の『言葉のチカラ』は、つひに安倍首相の体力・気力を奪ひ去つて、首相の座から追ひ落とすことに成功したのであつた。政権の『投げ出し』だと言って騒ぎたてた、あの時の朝日新聞のはしゃぎぶりはまだ記憶に生々しい」(p.58)。
 なお、ここに触れられているように朝日新聞が一時期喧伝していた<ジャーナリズム宣言>の中の「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを」とのフレーズが、上では意識されている。「言葉のチカラ」によって虚偽でも真実に変えてみせるという朝日新聞の宣言かとも受け取れ、気味悪く感じたものだった。
 また、長谷川は、「もっとも厄介なこと」は「言葉」による「感情的で、残酷」な政府攻撃こそが「民主主義イデオロギーにかなつたことだ」ということだ、ということを指摘する中で上を述べているが、この「デーモクラティア」にかかわる論点には立ち入らない。
 
 二 月刊正論9月号では、編集者が民主党・鳩山由紀夫の「友愛」論と関係づけているのか否かは分からないが、それとは独自に、竹本忠雄「厄災としてのフランス革命/博愛は幻想-ルイ16世の遺書を読み解く」(p.200-)が目を惹く。
 1791年にパリから(ヴァレンヌを経て)オーストリアへ「逃亡」しようとしたが「逮捕」され、1793年に「斬首」されたルイ16世の政治的遺書にあたる「告辞」(1791.06.20付)が発見されたらしい。そして、その内容の概略の紹介や一部の邦訳が載せられている。
 詳細な引用はしかねるが、「革命と共和制の『大義』を誇大に評価する一方、恐怖政治の残虐と、それに対して抵抗する反革命運動の民衆を相手に各地で展開された大虐殺の事実とを、無視または隠蔽しようとする進歩主義史観が、これまで日仏間の言論界を制してきた」(p.204)状況の中で、フランス最後の絶対君主=悪、フランス革命=善という「日本における共和制論者、すなわち進歩主義史観の持主たち」(p.203)の通念を少なくともある程度は揺るがしうる。
 また、王妃アントワネットも「斬首」されたとともに、よく知らなかったが、わずか10歳の長子ルイ17世(カペー・ルイ)も「両親の処刑のあと獄中で革命政府の手により残酷な殺され方をした」(p.201)、「残酷な獄中死」をした(p.204)、「残酷な犠牲者となった」(p.205)、らしい。
 元国王夫妻の処刑やその長子のかかる処遇は<革命>の成就にとってもはや無意味だったと思われる。また、ヴァンデやシュアンの「戦い」に対する弾圧=大虐殺の実態につき、フランスでも、「ナチによるユダヤ人虐殺」のみならず「われわれフランス人もジェノサイドをやった」との事実を認めようとする運動があるらしい(p.205)。
 日本の明治維新の際の<残虐さ>の程度と比較したくもなる。また、竹本忠雄は「フランスでは立憲君主制は一夜にして崩壊し、日本ではいまなお保持されているが、主権在民を基本とする以上、法的に〔な?〕危うさは変わらない。昨今の日本政府の舵取りは奇妙に、フランス革命の初期の一連の出来事とパラレル」だ、と述べて日本の<天皇制度>へも論及していて興味深いが、これ以上は立ち入らないでおこう。

0774/ルソーとフランス革命と「全体主義」。

 1.ルソーは将来の「フランス革命」の具体的戦略・戦術を論じてはいない。マルクスも、将来の「ロシア革命」の具体的戦略・戦術を論じてはいない(それをしたのはレーニンだ)。
 だが、ルソーが「フランス革命」の理論的・理念的ないし<思想的>根拠を、マルクスが「ロシア革命」の理論的・理念的ないし<思想的>根拠を提供したからこそ、ルソーとマルクスは後世にまで名を知られ、影響を与えたのだろう。言うまでもなく、「フランス革命」と「ロシア革命」は現実に(とりあえずは)<成功した>革命だったからだ。「フランス革命」と「ロシア革命」が現実に生起していなければ、ルソーもマルクスも、現実に持ったような「思想」的影響力を持たなかったように思われる。
 2.ルソーのいう「社会契約」等が内容的・思想的にフランス革命に影響を与えただろうことは推測がつく。また、『人間不平等起原論』が人間の「本来的平等」論につながるだろうことも判る。だが、ルソーとフランス革命の関係、前者の後者への具体的影響関係は必ずしも(私には)よく分からないところがある。
 前回言及の小林善彦ら訳の本(中公クラシックス)のルソーの年譜に、1778年に死去してパリの「エルムノンヴィル邸」(城館)に面する池の中の「ポプラの島」の埋葬されたが、1794年10月11日に遺骸が「ポプラの島」から「パンテオン」に移されて葬られた、とある。中心部の南又は東南にある「パンテオン」はフランス又はパリの<偉人>たちの墓でもあるらしいので、ロベスピエールの失脚(斬首)のあとの、1794年10月段階の穏健「革命」政府によって積極的に評価された一人だったことは確かだ。
 詳細な人物伝ではないが、中里良二・ルソー(人と思想)(清水書院、1969)という本があり、次のような文章を載せる。
 ・「ルソーの『社会契約論』は、その存命中にはあまり広くは読まれなかったが、かれの死後、革命家たちの福音書になり、デモクラシーの精神を発達させるのに役立った。そして、一七九三年には、ロベスピエールとサン=ジュストは、『社会契約論』を典拠として国民公会憲法をつくったという」(p.24)。この「国民公会憲法」は1793年制定だとすると、これは<プープル(人民)主権>を謳った、しかし施行されなかった、辻村みよ子お気に入りのフランス1793年憲法のことだ。
 ・「ルソーがフランス革命において、ただ一人の先駆者」ではないが、「その一人であるということはできよう」。「一七九一年一二月二九日、デュマールは国民議会でルソーの像を建てることを提案する演説の中で、『諸君はジャン=ジャック=ルソーの中に、この大革命の先駆者をみるだろう』といっている」。
 ・「マラは一七八八年に公共の広場で『社会契約論』を読んでそれを注解し、それを熱心に読んだ聴衆が拍手喝采したという」。
 ・「一七九一年には、モンモランシーに建てられたルソー像には『われわれの憲法の基礎をつくった』と刻まれている」(以上、p.25)。
 このあと、中里良二はこうまとめる。
 「このような例だけによってみても、ルソーのフランス革命への影響がいかに大きかったかがうかがい知られる…」。
 ロベスピエールを<ルソーの子>又はこれと類似に表現する文献を読んだような気がする(中川八洋の本だったかもしれないが、確認の手間を省く)。
 ともあれ、ルソーのとくに『社会契約論』は(他に所謂<啓蒙思想>等もあるが)「フランス革命」の現実の生起に<思想的>影響を与えたことは間違いないようだ。
 なお、松浦義弘「ロベスピエール現象とは何か」世界歴史17・環大西洋革命(岩波講座、1997)p.200によると、ロベスピエールは「ルソーの霊への献辞」と題する文章の中で、「同胞たちの幸福」を求めたという自らの意識が「有徳の士にあたえられる報酬」だ、と書いたらしい。
 3.もっとも、以上は、松浦義弘(1952~)のものを除いて、フランス革命を<進歩的>な<良い>現象と捉えたうえで、ルソーにも当然に肯定的な評価を与えるものなので、その点は割り引いて読む必要がある。
 中里良二(1933~)の本の「はしがき」は次の文章から始まる。
 「ルソーは、今日にもっとも影響を及ぼした一八世紀の思想家の一人である」。
 その「影響」が人類にとって「よい」ものだったか否かはまだ結論を出してはいけないのではなかろうか。
 しかし、小林善彦(1927~)はこうも書いている。
 『社会契約論』は理解困難だった歴史をもつ。「二〇世紀の後半になると、ルソーこそは全体主義の源流だと見なす研究者さえ出てきている。時代背景も著者の生涯も無視して、たんにテクストだけを切り離して読むならば、そう読めないこともないとはいえるが、それならばルソーが二百年以上もの間、日本を含めて世界中におよぼした影響をどう説明するのだろうか。やはり素直に読めば、主権者たる市民による民主主義の主張の書として読むのが正しいのではないかと思う」(中公クラシックス・ルソーp.18)。
 ここでは、①「たんにテクストだけを切り離して読むならば」、「ルソーこそは全体主義の源流だ」と「読めないこともないとはいえる」、と認めていることが興味深い。そして、フランス革命時の革命家たちは「テクストだけを切り離して」読んでいたのではないか、と想像できなくもないので、彼らは実質的には<全体主義>者になったと言うことも不可能ではない、ということになりそうなことも興味深い。
 ②疑いなく、「主権者たる市民による民主主義」を、肯定的に理解している。全世界に、少なくとも日本とっても<普遍的に正しい>思想だと理解している。かかる、小林善彦が当然視しているドグマこそ疑ってかかる必要があるのではないか、と特段の理由づけを示すことなく、言えるだろう。佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)という本もあった。
 もっとも、日本の中学や高校の社会系教科書では、圧倒的に、ルソーは小林善彦らの(従来の)通説に従って評価され、叙述されてはいるのだが。
 ③「ルソーが二百年以上もの間、日本を含めて世界中におよぼした影響をどう説明するのだろうか」との指摘は<全体主義の源流>論に対する、何の反論にもならない。<二百年以上もの間、日本を含めて世界中におよぼした「悪い」影響>の可能性を否定できない。ルソー(・フランス革命)はマルクスに影響を与え、従って「ロシア革命」にも影響を与えた。共産主義(コミュニズム)による一億人以上の殺戮に、ルソーは全く無関係なのかどうか。

0771/鳩山由紀夫の「友愛」とフランス革命等。

 7/10の日本記者クラブでの会見で、内閣総理大臣(首相)になる現実的可能性がある鳩山由紀夫(民主党)は、次のように述べた。
 1 「政権交代の必然性」の一つは、「世界史の潮流」。①イラク戦争の誤り、②「新自由主義、このある意味で行き過ぎた自由主義経済」の反省、これに関連して③アメリカでのオバマ政権の誕生(「チェンジ」)。もう一つは、「長期政権がもたらしました政治不信」の脱却。①「官僚主導の政治から民主導、国民の皆さんが主役になる政治への転換」。②「中央集権的な政治、…から真の意味での地方分権」、「地域主権」の世へ。③「縦型のいわゆる利権社会を脱して、新たなに横型のネットワークで結ばれた、絆のある社会」が求められている。
 長いコメントはしない。第一点は日本の政権交代とは無関係。「新自由主義」という概念をどう厳密に理解しているかは不明。第二点のうち、「国民の皆さんが主役になる政治への転換」とは、美しい表現かもしれないが、気味が悪く、かつ怖ろしい。「横型のネットワークで結ばれた、絆のある社会」とは、<左翼>的論者が最近よく言っているように推察される表現。
 2.つぎに<国の理念>に触れて、「フランス革命」にこう言及する。
 「この国にはそれなりの理念というものが今、求められているはずだ、と。その理念を友愛と感じた」。「フランス革命のときには自由・平等・博愛という3つが叫ばれたわけでありますが、このときは貴族の社会からいわゆる市民が蜂起をして、独立を勝ち取るための戦いであり、自由も平等もあるいは博愛・友愛もこれは両立し得る状況であったわけでございます。即ち貴族から、市民が独立をするという意味において、自由も求められ、平等も求められ、さらに博愛も求められてきたということでございます」。
 「ございます」の多用は気持ちが悪いことは別として、じつに単純なフランス革命観だ。厳密には、そもそも<「貴族」からの「市民」の「独立」>と表現して適切なのかどうか。
 ほかに、第一。阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)p.197によると、「三色旗」が革命のシンボルとされたのは1792年以降なので、<自由・平等・博愛>が1789年に始まる「フランス革命」で最初から「叫ばれた」わけではないと見られる。
 第二。鳩山由紀夫の思い描く「友愛」と、フランスでかつて語られた「友愛」・「博愛」は同じ意味なのか。「友愛」又は「博愛」(又は「同志愛」)=Fraterniteとは、当時においては、主義・主張を同じくする<仲間たちとの間での愛情・友情>のことで、当時の欧州諸国家国民を含むような普遍的なものではないとともに、同じフランス国民でも、<革命に敵対する(した)>者たちへの愛情・友情などを意味するものではなかったと思われる。
 「理念」にすぎないと言われればそれまでだが、政治家に対する<テルール(恐怖政治)>も、ヴァンデの反乱(ヴァンデ虐殺)において戦闘員でもなく抵抗もしていないヴァンデ地域(ロアール下流南部)の主として農民家庭の婦女・子ども等を全員<虐殺>=「皆殺し」したことも、世界・欧州に普遍的な、かつフランス国民全員にも通じる「友愛」精神にもとづくものとはとても思えない。
 3.さらに、現代の「自由」と「平等」の関連に触れる。
 「現代社会」になり、「自由…が、いわゆる市場原理主義に委ねられる自由」になると、さまざまな社会に格差というものが生まれた」。「地域における格差、雇用における格差、まさに所得の格差から、教育医療の格差」広がった。「一方で政府に頼りすぎる、政府に依存すると平等という社会」は「非効率、非生産性の社会」に向かう。「自由」も「平等も行き過ぎてはいけない」。その中間、「市場原理主義と政府万能主義の間というものが必要」ではないか。「そこに私はコミュニティとかあるいはボランティアとかそういった考え方が中心となる生き様というものが必ず求められてくる」と思っている。
 この程度の「自由」・「平等」論ならば、問題意識のある高校生でも語れるのではないか。「市場原理主義と政府万能主義の間というものが必要」などの言辞は、誰でも昔から言っていることで、今さら言うようなことではない。「コミュニティとかあるいはボランティアとかそういった考え方」は最近の(「市民派」)「左翼」がよく言っていることだ。
 鳩山由紀夫はかつて理系の研究者(大学教員)で、社会・人文的な基礎的な知識は高校卒業程度であると見て間違いない。戦後の<何となく左翼的な>教科書を高校までに学んで育った優等生だったと思われる。にもかかわらず、この記者会見に見られるような、正常な感覚の持ち主ならば恥ずかしくてあえて語れないようなことを喋ってしまえるのは、鳩山一族の一人で、政治家の血を引いていて、(「天下国家」を語る)政治家の素質が自分にもある筈だというただの傲慢さと、政治家になってから吸い込んだ「市民派」知識と思考によるのではないか、と推察される。
 この程度しか語れない人物が日本国の内閣総理大臣(首相)になってしまうのか。もっとも、自民党も含めて、歴史・(政治・経済・社会)思想についても十分な知識・見識をもった傑出した人物はいるのか、と思い巡らすと、 はなはだ心許ない。

0770/阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)におけるフランス革命-7。

 阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)-7。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? 
フランス革命
 E(p.197~199)
 マルクスは「市民社会」=「ブルジョア社会」とし、「人間の労働」は不可避的に「プロレタリアート」階級を生み出すとした。マルクス主義の影響を受けて、フランス革命の未来に「第三身分」の解放に続く「第四階級」(プロレタリアート)のそれを予想する者もいた。「人権と民主主義」は「階級対立のない、万人が自由で平等な、同質の社会」で初めて実現される、それはフランス革命の「やり残したこと」だ、とも考えられた。
 しかし、フランス革命は「恐怖政治」をもたらした。R・ニスベット(邦訳書1990年)はフランス革命のしたことは「平等の名による均一化」、「自由の名によるニヒリズム」、「人民の名による絶対的で全面的な権力の樹立」だったと書いた。「恐怖政治」を「過渡的現象」で「不可避」とする能天気な論者は、「歴史に対して鈍感すぎる」か「政治的に極端なバイアス」を持っている。ここには「ブルジョア」による統治は「寡頭的」で「農民と民衆」による統治は「民主的」だとの「決めつけ」がある。
 「均質化された大衆の権力ほど、自由にとって危険なものはない」。「実体のない国民が人民として実体化され、ひとつの声をもつかのように論じられるとき、全体主義が産まれ出」る。「自由主義と民主主義」は両立し難いとの指摘はこの点を衝いている。フランス革命の過中で現れた「一般意思、人民主権、人権思想(自由と平等…)は合理主義的啓蒙思想の産み落とした鬼子だ」と割り切った方が「全体主義」の危険に陥らないだろう。
 日本の憲法教科書での「近代立憲主義の流れ」は、①イギリスの動向、②アメリカ諸邦の憲法、③アメリカ独立宣言、④同憲法、⑤フランス人権宣言(とくに16条)、⑥フランス第一共和国憲法(立憲君主制憲法)の順で叙述されることがあるが、「一連の流れ」ではなく「断絶の歴史だった」と言うべきだ。ロックとルソー、フランス革命とアメリカ革命を「同列に並べて論ずる」のは「論外」だ。
 イギリスの立憲主義は自然発生的な「地方分権」・「国民経済の発展」を基礎にして「徐々に形成」された。これが「近代立憲主義のモデル」だとしても不思議ではない。しかし、マルクス主義の強い日本ではイギリスは「資本主義誕生の国家」だったので、それを「乗り越えようとした」フランスが「近代立憲主義のモデル」として期待されたのではないか。
 〔3〕「アメリカ革命と独立宣言
 (前款最後の「アメリカはモデルになる」か?に続けて、この〔3〕が始まる。以下、フランス革命に言及する部分のみを引用又は抜粋する。〕
 ・アメリカ独立革命は「革命」性を持たず、「独立宣言」の「革命」性も強調すべきでない。「アメリカ革命と独立宣言」は「フランス革命と人権宣言」とは別種のものだ。
 ・アメリカ革命の「独立宣言」は「個別的事実の確認」。一方、フランス革命の「人権宣言」は「普遍的原理の表明」。
 ・フランス革命はなるほど「絶対主義からの解放の成功例」だったが、革命「直後」はそうであっても、「何らかの固定した組織機構」を作らず、「別の形の絶対主義を産み出し」た。追求された「公的自由」は世界初の「徴兵制をもった中央集権的国家」をもたらし、さらに何度も述べたように「恐怖政治とナポレオン」をも生んだ。(以上、p.204)
 ・L・ハーツ(邦訳文庫1994)はこう言う。-アメリカの場合、「成文憲法の制定は、…具体化された多くの機構的工夫を含めて、…一連の歴史的経験の集積の産物」で、「政治的伝統主義の真髄」だった。欧州の場合、「その逆が真実」、つまり「成文憲法の概念は、合理主義者の恋人であり、活動しつつある解放された精神の象徴」だった。(p.205)
 ・アメリカ(の英国からの)「独立」後の<建国・統一>期の指導者は「社会契約」と「憲法制定」が別物であることを明確に認識していた。「人民主権(popular sovereignty)」の「人民(popular)」は「実在」しても「多元的存在であること」、「主権(sovereignty)」は「正当性の契機にととまるべきこと」を知っていた。
 ・アメリカの「穏健的指導者たち」は「過去の歴史」のよい点を取り入れないと「新しい国のかたち」は実現不可能であることを知っていて、「憲法制定会議は、過去と未来を結びつけるための堅実な作業に従事した」。「フランスでみられた抽象的理論は意図的に避けられ」た」。(以上、p.206)
 〔以上で、とりあえず、第Ⅱ部・第6章の(とくにフランス革命論に着目した)紹介を終える。
 「実体のない国民が…、ひとつの声をもつかのように論じられるとき、全体主義が産まれ出」る、とは、今日の日本にも当てはまる警句だろう。  <国民が主人公>、<国民の皆様…>、<国民の声>等の、政党の他にマスコミもしばしば用いる標語等は笑わせるとともに、怖ろしい。〕

0769/阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)におけるフランス革命-6。

 阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)-6。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? 
フランス革命
 D(つづき、p.195~)
 フランス革命を、「ブルジョア対ブロレタリアート」、「前期資本主義における産業資本」等の経済史概念を用いて分析すべきではない。「人民主権原理が徹底されるほど、民主的で望ましい政体だ」と断定すべきでもない。まして、「歴史法則」・「民主化の程度」を対照して、ある憲法の「望ましさ」を判断すべきではない
 「自由」よりも「本質的平等」を謳う人権宣言の方が「進歩的」だとか、「人民に対して同情的な人権保障」が「進歩的で望ましい」とか決めつけるのは短絡だ。<人権は誰にも貴重だ>との前提と<民衆・弱者にとって有利か不利か>という命題との間には両立し難い溝がある。
 G・ヘーゲルはフランス革命が初めて「市民社会」を作出したと論じたが、そこでの「市民社会」は「自分自身と家族の利害を自分自身の目的としている私人」を指し、「公共善を目的として活動する」「シトワイエン」〔フランス語の「市民」〕ではなかった。
 だが、後世の社会経済史学者はフランス革命を「王党派対ジャコバン派」、「貴族対ブルジョアジー」、「伝統対革新」という「二項対立図式」で捉えた。主流派(「アナール派」)はかかる「構造的」把握によって、「旧体制からの非連続性」を強調したかったのだ。連続性を見た例外はA・トクヴィルで、ルフェーブルの著『一七八九年…』(岩波文庫、1975)は却って「修正主義」を勢いづかせた。
 (D、おわり。Eにつづく)

0767/阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)におけるフランス革命-5。

  阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)-5。
 第Ⅱ部・第6章
 
〔2〕「近代の鬼子? フランス革命
 D(p.194~)
 私(阪本)のフランス革命の見方は、辻村みよ子らのフランス憲法専門家等から以下の如き批判を受けるだろう。
 ①フランス革命のいつの時期・どの要素を捉えているのか。91年までの過程重視派と93年の過程重視派があるはず。
 ②近代立憲主義のモデル探索の目的にとって、91年憲法重視か93年憲法重視かは決定的に重要だ。
 ③91年派と93年派が対立していても、「近代市民社会と憲法」という基礎観念を生んだ1789年が重要ということにはコンセンサスがあるはず。
 全面的論争のつもりはないが、以下が素人的「感想」。
 1.フランス「人権宣言」(89年)が最重要との前提で91年憲法か93年憲法かを論じるのは、「枠組み自体が狭すぎる」。フランス革命の成否は、より「長期的なタイム・スパン」で評価されるべき。振り返ってみて、「1789年以降の諸憲法がどれほどの自由を人びとにもたらした」というのか?

 2.既述の如く、フランス「人権宣言」は体系性ある法文書ではなく「政治的なPR文書」だ。
 3.91年憲法も93年憲法も「人為的作文」(法学者が「頭の中で考えたデッサン」)だ。ナシオン主権かプープル主権かというフランス憲法史でお馴染みの論争はその典型で、前者=間接民主制、後者=直接民主制とのロジックは、「それらのタームの中に結論を誘導する仕掛けを用意しているからこそ成立」するにすぎない。
 4.「一度も施行されなかった93年憲法は、どのようにでも語りうる」。

 
 <91年憲法か93年憲法か>という論争は「統治がどれほど民主化されているか」にかかかわるようだが、評価基準は「ある憲法が、実際、どれだけの自由保障に貢献したか」に置かれるべきだ。
 (Dがさらにつづく)

0766/ハンナ・アレント・革命について(ちくま学芸文庫、志水速雄訳)におけるフランス革命1。

 ハンナ・アレント・革命について(ちくま学芸文庫、志水速雄、1995、初出1975)から、フランス革命について言及するところを引用して紹介。阪本昌成の本が前回紹介した部分で参照要求している箇所とは異なる。p.242-243。
 別に扱いたいルソーの<社会契約論>・「一般意思」に言及する部分(②)もあるが、一連の叙述なので、この回で引用しておく。
 ①「歴史的にいえば、アメリカ革命とフランス革命のもっとも明白で、もっとも決定的な相違は、アメリカ革命の受け継いだ歴史的遺産が『制限君主制』であったのに対して、フランス革命のそれは、明らかに、われわれの時代の最初の数世紀とローマ帝国の最後の数世紀にまで遠くさかのぼる絶対主義だったということ」だ。
 「新しい絶対者たる絶対革命を、それに先行する絶対君主制によって説明し、旧支配者が絶対的であればあるほど、それにとって代わる革命も絶対的となるという結論をくだすことくらい真実らしく思われることはない」。
 「十八世紀のフランス革命と、それをモデルにした二十世紀のロシア革命は、この真実らしさの一連の表現であると考えることは容易であろう」。
 ②「ルソーの一般意思の観念は、…、国民が複数の人間から成るのではなく、あたかも実際に一人の人間から成るように扱っている。…この一般意思の観念がフランス革命のすべての党派にとって公理となったのは、それがこのように、実際、絶対君主の主権意思の理論的置きかえであったため」だ。「問題の核心は、憲法によって制限された国王と異なり、絶対君主は、国民の潜在的に永遠の生命を代表していたということ」だ。
 上の②は、阪本昌成が1793年憲法(ジャコバン独裁=ロベスピエール)がいう「プープル(人民)主権論」は「全体主義の母胎」になったと指摘していた(前回紹介参照)のと実質的には同趣旨だと解される。
 なお、かかるアレントのフランス革命理解は日本の学校教育におけるフランス革命の叙述にほとんど生かされてはいないようだ。また、岩波書店はハンナ・アレントの著作の文庫化を全くしていないことも興味深い。これは、岩波書店が、<古今東西の>「社会」・「人文」系の重要な文献を<広く>出版しているのでは全くなく、岩波の<思想>に合わせて取捨選択して出版している証左の一つだ。

0765/阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)におけるフランス革命-4。

  阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)-4。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? 
フランス革命
 C(p.191~)
 高橋幸八郎を代表とする日本の歴史学者の定説はフランス革命を<民衆の支持を得たブルジョア革命>と見た。それは「ジャコバン主義的な革命解釈」で、「一貫した構造的展開」があったとする「歴史主義的な理解」でもある。
 私(阪本)のような素人には「構造的展開」があったとは思えない。①急いで起草され一貫性のない「人権宣言」という思弁的文書、②その後の一貫性のない多数の成文憲法、③「ジャコバン独裁」、④サン=キュロット運動、⑤「テルミドールの反乱」、⑥ナポレオン、そして⑦王政復古-こうした経緯のどこに「構造的展開」があるのか。「フランス革命は民主主義革命でもなければ、下部構造の変化に対応する社会法則」の「体現」でもない。
 フランス革命が後世に教示したのは、「自由と平等、自由と民主主義とを同時に達成しようとする政治体制の苛酷さ」だ。ヘーゲルはこれを見抜いていた。
 革命時の「憲法制定権力」概念も「独裁=苛酷な政治体制を正当化するための論拠」だった。とくに「プープルという公民の総体が主権者」だとする「人民(プープル)主権論」こそが、「代表制民主主義」を欠落させたために、「全体主義の母胎となった」。
 <1791年体制は93年体制により完成したか>との論議には加わらない。1793年〔ジャコバン独裁の開始〕がフランス革命の「深化」と「逸脱」のいずれであれ、1789年以降の「全体のプロセス」は「立憲主義のモデル」とは言えない、と指摘したいだけ。
 フランス革命の全過程は「個人・国家の二極構造のもとで中央集権国家」を構築するもの。この二極構造を強調する政治理論はつねに「独裁」につながり、フランス革命もその例だった。<個人の解放>と<個人による自由獲得>とは同義ではなかった。この点をハンナ・アレントも見事に指摘している(『革命について』ちくま学芸文庫・志水速雄訳、p.211)。トクヴィルも言う-フランス革命は「自由に反する多くの制度・理念・修正を破壊した」が、他方では「自由のためにどうしても必要な多くのものも廃止した」等々(『アンシャン・レジームと革命』既出、p.367)。
 (Cは終わり。Dにつづく)
 

0763/阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)におけるフランス革命-3。

 阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? 

 A(つづき、p.188~)
 フランス革命は「脱宗教的な形をとった文化大革命という政治的革命」で、「共同体にとっての汚染物を浄化する運動」だった。「『プープル』〔人民〕という言葉も、政治的には人民の敵を排除するための」、「経済的には富豪を排除し、倫理的には公民にふさわしくない人びとを排除するための」ものだった。だからこそフランス革命は「長期にわたっ」た。
 しかし、この「文化大革命」によって「人間を改造することはでき」なかった。「最善の国制を人為的に作り出そうとする政治革命は、失敗せざるをえ」なかった。「精神的史的大転換を表現する政治的大転回」は「偉大な痙攣」に終わった。
 B フランス革命を「古い時代の終焉」とともに「新しい時代の幕開け」だと「過大評価」してはならない。フランス革命は紆余曲折しつつ「人権」=「自由と平等」を、とくに「人の本質的平等」を「ブープル」に保障する「理想社会」を約束しようとした。それは「差別を認めない平等で均質な社会」の樹立を理想とした。しかし、「結局、中央集権国家をもたらしただけで失敗」した。「高く掲げられた理想は、革命的プロパガンダにすぎなかった」。
 「人権宣言」は法文書ではなく「政治的プロパガンダ」ではないかと疑うべきだ。立憲主義のための重要な視点は、「人権宣言」にではなく、「徐々に獲得されてきた国制と自由」にある。
 トクヴィルは冷静にこう観察した。-「民主主義革命」を有効にするための「法律や理念や慣習は変化をうけなかった」。フランス人は「民主主義」をもったが、「その悪徳の緩和やその本来の美点の伸張」は無視された。旧制度から目を離すと、「裡に権威と勢力のすべてをのみこんでまとめあげている巨大な中央権力」が見える。こんな「中央権力」はかつて出現したことがなく、革命が創造したものだ。「否、…この新権力は革命がつくった廃墟から、ひとりでに出てきたようなもの」だ(『アンシャン・レジームと革命』講談社学術文庫・井伊玄太郎訳、p.110-1)
 (Bは終わり。Cにつづく)

0762/阪本昌成におけるフランス革命-2。

 阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? フランス革命」(p.186~)
 A 近代立憲主義の流れもいくつかあり、「人間の合理性を前面に出した」のがフランス革命だった。
 フランス革命の狙いは以下。①王権神授説の破壊・理性自然法の議会による実定化、②「民主主義」実現、そのための中間団体の克服、③君主の意思が主権の源泉との見方の克服、④個人が「自律的存在」として生存できる条件の保障。これらのために、1789.08に「封建制廃止」による国民的統一。「人権宣言」による「国民主権」原理樹立。
 しかるに、「その後の国制は、数10年にわたって変動を繰り返すばかり」。これでは「近代の典型」でも「近代立憲主義の典型」でもない。「法学者が…歴史と伝統を無視して、サイズの合わない国制を縫製しては寸直しする作業を繰り返しただけ」。
 なぜフランス革命が「特定の政治機構があらわれると、ただちに自由がそれに異を唱える」(トクヴィル)「不安定な事態」を生んだのか。
 私(阪本)のフランス革命の見方はこうだ。
 フランス革命はあくまで「政治現象」、正確には「国制改造計画」と捉えられるべき。「下部経済構造変化」に還元して解剖すべきでない。「宗教的対立または心因」との軸によって解明すべきでもない。
 <フランス革命は、法と政治を通じて、優れた道徳的人間となるための人間改造運動だった>(すでにトクヴィルも)。そのために「脱カトリシズム運動」たる反宗教的様相を帯びたが、「宗教的革命」ではなく、「18世紀版文化大革命」だった。
 その証拠は以下。革命直後の「友愛」という道徳的要素の重要視、1790年・聖職者への国家忠誠義務の強制、1792年・「理性の礼拝」運動、1794年・ロベスピエールによる「最高存在の祭典」挙行。
 (Aがまだつづく)

0761/阪本昌成におけるフランス革命-1。



 阪本昌成・新・近代立憲主義を読み直す(成文堂、2008)において、フランス革命はどう語られるか。旧版に即してすでに言及した可能性があり、また多くの箇所でフランス革命には論及があるが、第Ⅱ部第6章「立憲主義のモデル」を抜粋的・要約的に紹介する。
 マルクス主義憲法学を明確に批判し、ハイエキアンであることを公然と語る、きわめて珍しい憲法学者だ。
 現役の憲法学者の中にこんな人物がいることは奇跡的にすら感じる(広島大学→九州大学→立教大学)。影響を受けた者もいるだろうから、憲法学者全体がマルクス主義者に、少なくとも「左翼」に支配されているわけではないことに、微小ながらも望みをつなぎたい。
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 第Ⅱ部第6章〔1〕「フランス革命の典型性?」(p.182~)
 A 近代憲法史にとっての「フランスの典型性」を樋口陽一らは語り、それを論証するように、<権利保障・権力分立がなければ憲法ではない>旨のフランス人権宣言16条が言及される。
 このフレーズは誤った思考に導きうる。16条の「権利」の中には「安全」への権利も含まれているが、これが立憲主義の要素として語られることは今日では稀。また、「自由と権利における平等」と「平等な生存」の並列はいかにも羅列的だし、「所有権」まで自然権と割り切っていることも奇妙だ。
 「自由、平等、財産権」の差異に無頓着ならば、フランス人権宣言はアメリカ独立宣言と同じく立憲主義の一要素に見事に言及している。しかし、アメリカとフランスでは「自由・平等」のニュアンスは異なる。「自由」の捉え方が決定的に異なる。
 B 革命期のフランスにおいて人民主権・国家権力の民主化を語れば「一般意思」の下に行政・司法を置くので、モンテスキューの権力分立論とは大いにずれる。<一般意思を表明する議会>とは権力分立の亜種ですらなく、「ルソー主義」。
 アメリカ建国期の権力分立論は「人間と『人民』に対する不信感、権力への懐疑心、民主政治への危険性等々、いわゆる『保守』と位置づけられる人びとの構想」だった〔青字部分は原文では太字強調〕。
 立憲主義に必要なのは、国家権力の分散・制限理論ではなく、国家にとっての憲法の不可欠性=「国家の内的構成要素」としての憲法、との考え方だろう。これが「法の支配」だ。立憲主義とは「法の支配」の別称だ。
 <立憲民主主義>樹立が近代国家の目標との言明は避けるべき。「民主的な権力」であれ「専制的なそれ」であれ、その発現形式に歯止めをかけるのが「立憲主義」なのだ。
 近代萌芽期では「立憲主義」と「民主主義」は矛盾しないように見えた。だが、今日では、「民主主義という統治の体制」を統制する「思想体系」が必要だ。(つづく)

0760/実教出版の高校教科書・世界史B(2007、鶴見尚弘・遅塚忠躬)を一読。

 実教出版高校/世界史Bの教科書(2006.03検定済み、2007.01発行)。執筆・編修代表者(表紙掲記者)は鶴見尚弘遅塚忠躬
 ・「フランス革命の意義」をこう書く(p.238-9)。
 「旧体制を打倒」して「資本主義に適合した社会をもたらしたという意味で」、「市民革命(ブルジョワ革命)の代表的なもの」だった。イギリスとは異なり「広範な民衆や農民が積極的に革命に参加」したので「自由の実現」だけでなく「社会的な不平等」の是正の努力がなされた。「そのような意味で、…民主主義をめざす革命」で、「民主主義」理念は19世紀以降の「革命運動」に大きな影響を与えた。「しかし…深刻な問題もあった」。「反対派を暴力で排除しようとする恐怖政治がうまれた」からだ。同じ状況は「20世紀のロシア革命でくりかえされる」。(以下の6行分省略)
 基本的には「市民革命」と位置づける従来型と変わらない。「社会的な不平等」の是正を目指したという意味で「民主主義をめざす革命」だった、という叙述は、「平等(主義)」と「民主主義」の関係がよく分からない。あるいは、「民主主義」をいかなる意味で用いているのかがよく分からない。
 但し、「恐怖政治」という「深刻な問題」があったこと、それがロシア革命で繰り返されたこと、をきちんと書いている点は積極的に評価できるだろう。
 執筆・編修者に私の知るようなマルクス主義者はいないことも、上のような叙述につながっているのかもしれない。但し、この教科書に限らないと推測されるが、マルクス主義や社会主義国「ソ連」等に対する批判がやはり弱いままだし、日本にとっての<自虐的>な叙述もなお多く残ったままだ。
 ・マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」、前者の「資本論」は、「労働運動と社会主義」の項の中で、「後世に大きな影響を与えた」ものとして記述される(p.253)。
 肯定的評価をしているように読めるし、少なくとも後世にとっての<悪い>大きな影響だった可能性を考慮していないかの如き書きぶりだ。
 ・「現代の文化」、多くの潮流のある「20世紀の思想」等として明記されるのは、つぎの4つ(p.391)。①「レーニンらが発展させたマルクス主義」、②「ベルクソンに代表される生の哲学」、③「サルトルらの実存主義」 、④「フロイトの精神分析学」。
 ・ソ連解体と東欧諸国の変化に当然に触れてはいるが、その原因らしきものとして書かれるのは、「社会主義体制下での政治的自由の欠如、経済の停滞」のみ(p.375-6)。
 これでは「世界史」は理解できないだろう。一方ではマルクスらの著や「レーニンらが発展させたマルクス主義」を肯定的に叙述しているが、これらの<誤り>こそが<ソ連解体>等の基本的原因ではないのか?。
 ・「全体主義」との概念はいっさい用いられていない。ドイツ・ナチスとイタリア・ファシスト党が「ファシズム」の担い手として語られている(p.334。日本は?)。
 ・「日本軍」による1937年の「市内外での多数の捕虜・民衆など」の「虐殺」を「南京大虐殺事件」と表現して、事実として書いている。注記では「女性・子どもを含む非戦闘員や武器を捨てた兵士も虐殺…。犠牲者は20万人以上といわれるが…他の説もある。中国ではその数は30万人以上としている」と記述(p.338)。
 これでは、被「虐殺」者数が20~30万人と読まれてしまうだろう。
 ・「日本の植民地支配」につき、朝鮮で「徹底した日本への同化政策をおしすすめた」とし、「台湾でも同様の政策を強行した」とする(p.344)。
 また、「日本は、太平洋戦争遂行のために植民地・被占領地の人的、物的資源を収奪した」との一文のあと、「70万人に及ぶ朝鮮人が強制的に…連行され」、少なくない人が「従軍慰安婦として戦場に送られた…」等と書く(p.344)。受動態になっていて隠されているが、主体は「日本」(国家)としか読めない。
 さらに、日本軍は中国で「三光政策」を採ったと書く(p.345)。
 朝鮮や台湾はかつて日本の「一部」であり、そうなったことは合法的という意味でも(非難されるいわれのない)正当なものだった。そうした地域について、なぜ「収奪した」などという表現が使えるのだろうか。
 こうした、日本や日本軍に関する叙述は、この教科書が突出して「左翼的」あるいは「自虐的」だからではないだろう。おそらくはほとんどの教科書が同様なのだろう。ここにむしろ、恐ろしさがある。
 こんな教科書を読んでいると<反日・自虐>は、当然の<マナーとしての心情>になってしまうに違いない。
 じわじわと形成されているのが感じられる<左翼全体主義>は、こうした教科書による学校教育によるところも大きいと考えられる。
 NHKの濱崎憲一らもこうした教科書を学んだのだろう。また、自民党の国会議員の中でも(相対的に若手の)相当数の者が、学校教育の結果として、こうした<反日・自虐>「史観」に嵌っていると思われる。推測だが、石原伸晃山本一太片山さつき佐藤ゆかりも。稲田朋美は異なると思われるが。

0740/読書メモ-小林よしのり・天皇論、西村幸祐責任編集・世界を愛した日本(オークラ出版)+辻村みよ子。

 〇今月6/05(金)~6/07(日)に、小林よしのり・天皇論(小学館、2009)を全読了。為備忘。
 〇辻村みよ子・フランス革命の憲法原理―近代憲法とジャコバン主義日本評論社、1989.07)はずっと以前に入手しているが、読むに至っていない。副題に見られるように「ジャコバン主義」=「モンターニュ派」・ロベスピエールの「主義」を中心とする研究書のはずで、(未施行の)フランス1793年憲法=「ジャコバン」憲法を主対象とする。
 出版年月の1989.07というのは微妙な年月だ。翌年のドイツ再統一(「社会主義」東独の消滅)、翌々年の「社会主義」ソ連解体のあとであれば、こんな副題をもつ研究書を<恥ずかしげもなく>刊行できたかどうか。いわゆる<フランス革命>の過程中の「ジャコバン主義」時代こそ、「人民主権」=「人民民主主義」=「プロレタリア独裁」の実験時で、<早すぎた>がゆえに失敗した、という説明もある(マルクス主義に立つ河野健二ほか)からだ。
 巻末の「主要参考文献一覧」を見て気づくことはルソーやロベスピエールの著作の原典を直接には読んでいないようであることだ。そもそもロベスピエールには知られた著書はないのかもしれないが、ルソーについても、桑原武夫他訳の岩波文庫「社会契約論」が挙げられているだけで、ルソー「人間不平等起源論」は邦訳書であっても上の「一覧」にはない。素人ながら、「ジャコバン主義」の理解に当たって、マルクスの<原始共産制>の叙述を想起させるような(「自然」=「未開」状態の叙述・理解がルソーとマルクスとで全く同様だとの趣旨ではない)「人間不平等起源論」の内容の理解は重要だと思われるのだが。
 また、「反共」主義であっても、ハイエクの著作が挙げられていないことは仕方がないとしても、ハンナ・アレントの著作が何ら挙げられていないことは気になる。
 ハンナ・アレントは「革命について」、「全体主義の起源」といった著作をすでに刊行していて、邦訳書もあった。前者に限れば、1968年(合同出版)、1975年(中央公論社)に邦訳書が出ている。
 そして、上の後者を基礎にしたアレント・革命について(ちくま学芸文庫、1995。志水速雄訳)の「解説」者・川崎修によると、この本は「アメリカ独立革命とフランス革命との比較史的研究」であり、アレントはマルクス主義によるフランス革命解釈(「逆算」)から「解放」したのではなく、マルクス主義によるフランス革命解釈=後からの「逆算」的解釈を「転倒」させただけの、「かなりの程度マルクス主義的に理解されたフランス革命への批判」をした、とある程度は批判的なコメントもある。
 アレントのフランス革命論又は川崎修のその「解釈」の当否はともあれ、フランス革命理解にとって、ハンナ・アレントの著作は1980年以前においてすでに看過できないものになっていたのではないのだろうか。
 「修正主義」への言及も冒頭にはあり、F・フュレの原著も参考文献に挙げられてはいるが、辻村みよ子の上の著は、所詮は<主流派>=マルクス主義的解釈によるフランス革命・「ジャコバン主義」論を土台にし、かつそれを支持したうえでのもののような気がしてならない。
 〇西村幸祐責任編集・世界を愛した日本(オークラ出版・撃論ムック、2009)も、「中学歴史教科書2009年度版徹底比較」(全読了)を含めてすでにある程度は読了。
 表紙に「『諸君!』さらばと言おう。」と大きくあるが、中身には、雑誌「諸君!」に関する記事・論考が一つもないのはどういうわけか。あまり遊んでもらっても困る。

0704/フランス・ジャコバン派(ロベスピエール)とレーニン・マルクス。

 〇 1.あらためて書くが、河野健二・フランス革命小史岩波新書、1959)は、ロベスピエールをこう称揚した。
 「彼(ロベスピエール)こそは民衆の力を基礎にして資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間だからである」(p.191)。
 この河野の本はまた、レーニンは1915年に次のように述べ、「とくにロベスピエールの名前をあげることを忘れなかった」という。
 「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせないようでは、マルクス主義者ではありえない」(p.193)。
 ジャコバン(モンターニュ派)独裁については、上の河野の本は次のように叙述する。
 「モンターニュ派、とくにロベスピエールは、こういう運動〔「私有財産に対する攻撃、財産の共有制への要求」-秋月補足〕の背後にある要求をくみとりながら、すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』をうちたてようとした」(p.189)。
 モンターニュ派の夢見た「第三の革命」は「輪郭がえがかれたままで挫折した。資本主義がまさに出発しようとしているとき、…とすることは歴史の法則そのものへの挑戦であった。悲壮な挫折は不可避であった」。
 これらの文章をもう少しわかりやすく言えば、ジコバン派=ロベスピエールは「ブルジョア(市民)革命」を超えて、さらに「第三の」、すなわち「社会主義革命」まで進もうとしたのだが、それはまだ<早すぎて>「歴史の法則」に反し、「悲壮な挫折は不可避」だった、ということだ。
 2.ところで、のちのマルクスやレーニンが「ジャコバン独裁」に注目しかつそれに学ぼうとしたことは疑いを入れない。
 平野義太郎・レーニン/国家・法律と革命(大月書店、1967)は、日本共産党党員(故人)の平野義太郎がレーニンの「国家・法律と革命」に関する文章・命題を抜粋してそのまま掲載している(体系・順序の編集のうえで)ものだが、事項索引に「ロベスピエール」はないが「ジャコバン」はあり、4箇所の頁数が示されている。それを手がかりに読むと、レーニンおよびマルクスが「ジャコバン独裁」を肯定的にかつ高く評価していたことが明瞭だ。以下、そのまま一部引用する。①~④は、レーニン自身の文章だ。
 ①「ジロンド派は…一貫しない、不決断な、日和見主義的な擁護者であった。だから、…十八世紀の先進的階級の利益を首尾一貫してまもり抜いたジャコバン派は、彼らとたたかったのである」(p.44、1905.03=レーニン執筆の年月、以下同)。
 ②「真のジャコバン派の歴史的偉大さは、彼らが『人民とともにあるジャコバン派』、人民の革命的多数者、当時の革命的な先進的諸階級とともにあるジャコバン派だったことにあった」。「…プレハーノフらの諸君。…一七九三年の偉大なジャコバン派が、ほかならぬ当時の国民の反動的・搾取者的少数者の代表を、ほかならぬ当時の反動的諸階級の代表を、人民の敵と宣言するのを、恐れなかったことを、諸君は否定できるか?」(p.44-45、1917.06)。
 ③「マルクスは、…とくに全プロレタリアートの武装が必要であること、プロレタリア衛兵を組織すること、…を主張している。…マルクスは、一七九三年のジャコバン党のフランスを、ドイツ民主主義派の模範としている」(p.82、1906.03)。
 ④「一七八九年の上向線〔立憲派―ジロンド党―ジャコバン党〕は、人民大衆が絶対主義に勝った革命の形態であった。一八四八年の下向線〔プロレタリアート―小ブルジョア民主主義派―ブルジョア共和派―ナポレオン三世〕は、小ブルジョアジーの大衆がブロレタリアートを裏切って革命を敗北させた革命の形態であった」(p.115、〔〕は前後の文脈からする平野による補足と見られる。1915.11)。
 ⑤〔平野義太郎の「解題」の中〕レーニンは「…革命人民の歴史を述べる必要があり、とくにマルクスと同じように、フランス大革命のジャコバン党の歴史、それから一八四八年のドイツ・フランスの革命、一八七〇年のパリ・コミューンからまなんで革命の歴史を述べるときがきた。…」(p.401)。
 3.以上のとおり、(ルソー→)ロベスピエール(ジャコバン派)→マルクス→レーニンという<系譜>があることは明瞭だ。(ロベスピエールはルソーの思想的弟子。)
 だが、日本のとくに最近の学者たちは、マルクスやレーニンの名を出すことなく(換言すればマルクス(・レーニン)主義の擁護・支持を<隠したままで>)、ルソー、フランス革命、ロベスピエール(ジャコバン派)賛美・称揚を行っている。
 「ルソー・ジャコバン型」民主主義・個人主義を近代原理の典型的な一つとする樋口陽一や、施行もされなかった1793年(ジャコバン)憲法に憲法(思想)史上の重要な位置を与える辻村みよ子も、憲法学者の中でのそうした者の例だ。
 あらためて述べておくが、フランスのジャコバン派や1793年憲法に肯定的・親近的な文章を書いている者は、冒頭の河野健二はもちろんのこと、マルクス主義者又は少なくとも親マルクス主義者であることは疑いないと思われる。「マルクス主義」専門用語をできるだけ使わないようにしつつ、その実は、マルクス主義の骨格部分をなお支持して学者・研究者生活をおくっている者は少なくないと思われる。そのような者たちが少なくないからこそ、日本の「左翼」は他の<先進・自由主義>諸国の「左翼」とは異質で、かつ異様なのだ。
 〇田母神俊雄=潮匡人・自衛隊はどこまで強いのか(講談社+α新書、2009)を4/18に全読了。

0703/朝日新聞にエラそうに語る資格があるのか(週刊新潮問題)+辻村みよ子・ロベスピエール追記。

 〇 某新聞の4/17付社説の一部。週刊新潮「事件」に関するもの。
 「一般に大手出版社は、社内の週刊誌編集部の独立性を尊重しつつも、法務など別のセクションと日常的に意見交換して、問題記事が出るのを防ぐ工夫をしている。
 だが、新潮社では編集部に取材や記事づくりほぼすべてを任せていると同社は説明している。それほどの権限があるのであれば、編集部にはなおのこと厳しい自己点検が必要だ。
 報道機関も間違いを報じることはある。だが、そうした事態には取材の過程や報道内容を検証し、訂正やおわびをためらわないのがあるべき姿だ。事実に対して常に謙虚で誠実であろうと努力をすること以外に、読者に信頼してもらう道はないからだ。
 今回の週刊新潮と新潮社の態度からは、そうした誠実さが伝わってこない。この対応に他の出版社や書き手たちから強い批判の声があがっているのは、雑誌ジャーナリズム全体への信頼が傷ついたことへの危機感からである」。
 某新聞とは朝日新聞。呆れている。 
 1.この引用の冒頭に「大手出版社」とあるが<大手全国(新聞)紙>では、各部(政治部・社会部等)や「編集部の独立性を尊重しつつも、法務など別のセクションと日常的に意見交換して、問題記事が出るのを防ぐ工夫をしている」のか、自社のことも述べてほしいものだ。記事を書いた記者・その属する部(政治部・社会部等)と最終的に掲載するかどうかを判断する(権限があるとすれば)<編集>部との関係も知りたい。ついでに、2005年1月の際の本田雅和らの記事はどのように社内を「通過」したのかも具体的に。
 2.「報道機関も間違いを報じることはある。だが、そうした事態には取材の過程や報道内容を検証し、訂正やおわびをためらわないのがあるべき姿だ。事実に対して常に謙虚で誠実であろうと努力をすること以外に、読者に信頼してもらう道はないからだ」-よくぞこう言えたものだ。
 朝日新聞はこれまで、何度「間違い」を犯し、そのうち何度、「ためらわない」態度で「訂正やおわび」をしてきたのか??
 北朝鮮祖国帰還運動をどれほど煽ったのか。警察・公安当局は北朝鮮によるとの「疑問」を明確に表明していたにもかかわらず、そして「疑い」を当局は示したといくらでも<客観報道>できたにもかかわらず、全くといいほど言及・報道しなかったのは何故か。教科書検定による「侵略」→「進出」への書き換えという誤報について「訂正やおわび」をしたのか。特定政治家によるNHKに対する政治的「圧力」という「間違い」の捏造記事について「訂正やおわび」をしたのか。
 <天に唾する>あるいは<厚顔無恥>あるいは<どの面下げて>とは、上のような文章を言うのではないか。
 〇 前回紹介の辻村みよ子の記述についてコメントを補足。
 ロベスピエールに言及する日本国憲法の教科書・概説書も珍しいとは思うが、「財産権」のところで、それを「社会的制度」として把握した者として(のみ)登場させるのは一種の<偏向>だろう。
 すでに平民の階級になっていた旧国王夫妻がコンコルド広場で処刑(ギロチンによる斬首)された後に、<ジャコバン独裁>とか<恐怖政治>とか称される時代を築き、思想信条の差異を理由として同胞国民(・「市民」)を数万人(数十万人?)も殺戮し、のちのスターリン、毛沢東、金日成、ポル・ポトらの<さきがけ>となった人物こそロベスピエールではないか。
 ロベスピエールは<生命>(<「個人」)の尊さの箇所で、あるいは「思想・信条の自由」の箇所で(その侵害者として)登場させる方が適切だろう。
 あるいは、やや専門的かもしれないが、<宗教・信教の自由>の箇所はどうだろう。キリスト教式ではない「理性の祭典」=「最高存在の祭典」の挙行は、キリスト教に対抗した「理性」を一種の神とする新<宗教>の樹立をしようとしたものとして、<宗教活動(の自由)>を考察する場合でも興味深い素材ではないか。
 いずれにせよ、辻村みよ子はロベスピエールに<肯定的>文脈において言及する(ルソーについても全く同様)。それはいったい何故か。ルソー(・フランス革命)を呼び覚ませば、マルクスは何度でもよみがえる、との旨の中川八洋の言葉は聞くべきところがある。
 ルソー→ロベスピエール→バブーフ/サン・シモンやフーリエ→マルクス、という思想系譜が一つの流れとしてはある。その後、マルクス→レーニン→スターリン・毛沢東・金日成(・宮本顕治)らと続く。この怖ろしい、<共産主義>そして<全体主義>の系譜にロベスピエールも位置するということを(少なくともこのような理解もあるということを)知った上で、教科書・概説書は慎重に書かれるべきだ(特定のイデオロギーを宣伝したいならば別だが)。

0702/辻村みよ子・憲法/第三版(日本評論社、2008)を読む・その4。

 〇 しばらくぶりに、辻村みよ子・憲法/第三版(日本評論社、2008)。
 事項索引に依ってフランス1793年憲法に言及する部分を(この欄で数回に分けて)読んでみた。実質的にこれに関係する「国民主権」の部分は別の機会に委ねて、事項索引中に「ロベスピエール」が一箇所示されているので、紹介してみよう。自由権/経済的自由権/「財産権」の最初の「一・意義」のところで、次のようにロベスピエールに言及している(p.264-5)。
 ・1789年フランス人権宣言、アメリカ憲法第5修正は「所有」を「自然権」又は「神聖かつ不可侵の権利」として掲げた。かかる所有権絶対視の「近代的人権」思想は「ブルジョアジー」の経済活動の正当化・自由確保をして、「資本主義経済を推進するために重要な歴史的意義」を担った。
 ・その後「資本主義の弊害による社会・経済的不平等」の発生により所有権の公的制限の必要が生じ、ドイツ・ワイマール憲法は153条で「絶対不可侵性」を否定して、「所有権は義務を伴う」と謳った。かかる考え方は、フランス革命時の、所有権を「社会的制度」と捉えたロベスピエールや、「財産の共有から私的所有の禁止」へと到達したバブーフにも思想的淵源をもつ。
 ・上記のことの先駆的な意義は第二次大戦後に明らかになり、イタリア等も含めて「社会国家」思想のもとでの「現代型の財産権論」が定着した。日本国憲法29条1項もこの系譜に連なる。
 ・この29条1項につき、「通説・判例」は、個人の財産権を保障するとともに「私有財産制」をも保障するものと解釈する。この説によると、この条項による「制度保障」の核心は「生産手段の私有制」であり、「社会主義へ移行するためには憲法改正が必要」である。
 ・一方、「議会を通じて一定の社会化を達成する」ことは憲法改正を必要としないとする学説もあった(今村成和)。
 ・「資本主義と社会主義の要件」が「変容」し、「区別の基準が不明確になっている」今日では、従来の「多数説を維持することは困難」だ。そこで「個人の自律的な生活を保障することを目的とする制度的保障の理解」が求められている。
 以上。
 上に出てくる「社会国家」とは「社会主義国家」の意味ではなく、英米的には「福祉国家」にほぼあたるものと思われる。また、今村成和説らしい「一定の社会化」可能論は、辻村の叙述だと誤解を与えうるが、<社会主義化>可能論とは異なるものだろう。これらの点はともかく、興味深いのは次の三点だ。
 第一に、戦後又は「現代」の財産権(所有権)制限思想の淵源として、ロベスピエールとアナーキスト(=無政府主義者)のバブーフの二人をあえて挙げていることだ。アナーキズム(無政府主義)もマルクス主義につながる「思想」の一つだった。私的所有廃止・国家不要(死滅)論はマルクス主義と異ならない。
 第二に、「社会主義」の存在意義自体が問われる今日においてなお、「社会主義へ移行するためには憲法改正が必要」=現憲法のままでは日本は「社会主義」国家になれない、と解釈するのが「通説・判例」だと、わざわざ述べていることだ。推測にすぎないが、きっとこの人はかつて、日本国憲法のもとでの日本の「社会主義国家」化の可能性を関心をもって思い巡らしただろう。
 第三に、辻村は、今日では「資本主義と社会主義の要件」が「変容」し、「区別の基準が不明確になっている」と断定的に明記している。
 はたしてそうなのだろうか。中国・北朝鮮・キューバ等を日本等とは基本的<体制>の異なる「社会主義」国家(又はそれを志向している国家)と理解するのは「今日」では誤り又は不適切なのだろうか。概念用法の問題は多少はあるかもしれないが、かかる基本的<体制>の区別は、なおも基本的レベルで重要な意味がある、と考えられる。辻村の書いていることは、ソ連「社会主義」国家解体後の、<資本主義と社会主義の相対化論>と軌を一にしているように思われる。
 以上の三点はいずれも、「ブルジョアジー」という語を平然と使っていることも含めて、辻村みよ子の<思想>の「左翼」(おそらく、ほぼマルクス主義)性をほぼ明瞭に示しているだろう。
 ついでに、「個人の自律的な生活を保障することを目的とする制度的保障の理解」なるものはほとんど意味不明だ。二つほどこの考え方らしき文献が参照要求されているが、観念的・空想的作文の類の議論ではあるまいか。
 〇 NHKについて関心を少し増やしたことの結果として、池田信夫・電波利権(新潮新書、2006)を昨日か一昨日、一気に読了。この分野でもアメリカの政策が日本の政府・産業界に多大の影響を与えていること等をあらためて知る。

0691/フランス1793年憲法・ロベスビエール独裁と辻村みよ子。

 一 「フランス・ジャコバン独裁と1793年憲法再論-河野健二と樋口陽一・杉原泰雄」とのタイトルで簡単にまとめたことがあった(2008/11/02)。
 河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959。1975年に19刷)は、これまでの「体制派」=「進歩派」=「左翼」のフランス革命史・フランス革命観を叙述していると見られる。重複部分があるが、フランス1793年憲法・ジャコバン(=ロベースピエール)独裁については、以下のごとし。
 「ロベスピエール派」の「政治的実践」は失敗したが、「すべて無効」ではなかった。「モンターニュ派」による国王処刑・独裁強化は「一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、…政治を完全に人民のものにすることができた」。「この『フランス革命の巨大な箒』(マルクス)があったからこそ、人々は自由で民主的な人間関係をはじめて自分のものとすることができた」(p.166-7)。/「モンターニュ派」独裁の中で、「私有財産にたいする攻撃、財産の共有制への要求があらわれた」。とくにロベスピエールは、「すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』」を樹立しようとした。しかし、戦争勝利とともに「ロベスピエール派」は没落し、上の意図は「輪郭がえがかれたままで挫折した」(p.190)。/「資本主義がまさに出発」しようとしているとき、「すべての人間を小ブルジョアとして育成し、固定させようとすることは、歴史の法則への挑戦であった」。「悲壮な挫折は不可避であった」(p.190)。/ロベスピエールが「独裁者」・「吸血鬼」と怖れられているのは彼にとって「むしろ名誉」ではないか。彼こそ、「民衆の力を基礎として資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間だから」だ(p.191)。
 ロベスビエールは失敗したが、しかし、それは時代を先取りしすぎていたからで、彼らが指し示した歴史的展望は不滅のものだ、とでもいいたげだ。マルクス主義者又は親マルクス主義者にとって、ロベスピエール独裁とは、<ブルジョア(市民)革命>に続く、<社会主義革命>(プロレタリア独裁?)の萌芽に他ならなかった。
 かかる「ジャコバン(モンターニュ)独裁」観に、樋口陽一も立っていたといってよい。樋口は同・自由と国家(岩波新書、1989=ソ連解体前)p.170で、日本人はフランスの1793年の時期を、「ルソー=ジャコバン型個人主義」を「そのもたらす痛みとともに追体験」せよ、と主張していた。
 二 日本国憲法の教科書・概説書の中に、索引によると、フランス1973年憲法に6カ所で言及しているものがある。
 辻村みよ子・憲法/第3版(日本評論社、2008)だ。なお、日本評論社から憲法(日本)の教科書・概説書を出版しているのは、この辻村みよ子と、浦部法穂の二人かと思われる。日本評論社の<法学>系出版物の「左翼」傾向はこの点でも例証されていると考えられる。
 以下、辻村みよ子の上の著がフランス1973年憲法をどう記述しているかをメモしておく。
 ①「ブルジョアジー」が狭義の「国民主権」を定めた1791年憲法に対して、「王権停止後に初の共和制憲法として成立した1793年憲法は、平等権や社会権の保障のほか、市民の総体としての人民を主体とする『人民(プープル)主権』原理に基づく直接民主主義的な統治原理を採用した。しかし、この急進的な憲法は施行されず、1795年憲法が制定されて、…<以下、略>」(p.22)。
 この部分は諸外国における「近代憲法の成立」の説明の中にある。諸外国とはイギリス、アメリカ、フランスで、ドイツに関する記述はない。
 ②日本の「私擬憲法草案」の中では、植木枝盛起草の『東洋大日本国国憲按』(1881)には、「フランス1789年人権宣言のほか、急進的な1793年憲法の人権宣言の抵抗権や蜂起権の影響が認められる」(p.34)。
 この部分は、明治憲法の制定過程に関する叙述の中にある。
 くり返しておくが、フランス1793年憲法とは、現実には<施行されなかった>憲法だ。つづく。

0684/佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)を読む-その4・戦後憲法。

 一 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)をさらに読みつなぐ。なおも憲法にかかわる。
 ・「近代憲法の正当性の根拠」は欧州でも問題がなかったわけではなく、二つの立場があった。一つは、「ロック流の個人の社会権という社会契約というフィクション」を必要とした、「革命」により「近代社会」(普遍的「人権」等を内包する)が始まり、「その精神を憲法化する」、というやり方。フランスやアメリカで、これらには「近代社会」の「神話」を受容する「歴史的な構造」があった。もう一つは、イギリスのように「歴史的連続性」を強調するもので、統治・権利の原則を元来「イギリス人がもっていたもの」という伝統に遡及させる。「革命」という断絶は回避され、歴史の中の「本来の経験」に戻ろうとする(p.151-2)。
 ・では、日本の戦後憲法は上のどちらなのか? 明治憲法の「改正」手続を採った点で(形式的には)「歴史的連続性」が踏襲されているが、一方、実質的には、八月「革命」説のように「戦前との断層」に存在意義を主張していると見られる。ここに「日本国憲法の歴史に例を見ない奇妙な性格がある」。現憲法の「ユニークさ」はただ第九条にのみあるのではない(p.152)。
 ・欧米憲法において、国民(人民)主権原理のもとでは主権者たる国民(人民)が(議会・政府を通じて)自らの権力を制限するが(「集合的な権力の主体としての国民」)、これとは別に、そのような「権力」を超えた、「普遍的な権利をもった一人一人の個人」という範疇も成立する。国民(人民)主権を支えた、現実の「国民の一体感」・「愛国心」こそが、この二つの範疇の矛盾をとりあえず「隠蔽」し、「辛うじて調和させ」た(p.153)。
 ・アメリカ憲法修正1~10条は「連邦議会から個人の権利を守る」目的のものだが、ここでの「個人」は「抽象的で普遍的な」それではなく、アメリカ国民(人民)であり、連邦政府を作った張本人たちだ。これとは別に、「連邦政府の権限の以前に」、「自由な個人」が想定されていて、彼ら「個人」の「基本的な権利は不可侵」なのだ。
 ・日本国憲法においてはどうなのか? その11条によると「基本的人権」を保障するのは「この憲法」に他ならないが、元のGHQ案の表現では、「基本的人権」の根拠は「多年にわたる人類の自由への戦い」という歴史の「普遍性」にあった。この辺りが、現憲法では「一切不明確なまま」だ(p.156-7)。
 〔なお、ここで挿んでおくと、現憲法97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と、-その具体的な法的意味は他の条項に比べて違和感があるほど不明確だが-書いている。この条文によっても佐伯の提出する問題は残るだろうが、佐伯がこの97条の存在を意識しているかは定かでない。〕
 ・「憲法の専門家たち」がどう説明しているのか知らないが、戦後憲法において「国民の意思」、「その由来するところ」は「きわめてあいまい」ではないか? その原因は直接にはGHQ案に基礎をもつことにあるだろうが、「もっと根本的には」、「近代憲法の正当性の基盤」という困難な問題を「回避」したことによる(p.159)。
 ・既述のように、フランス型憲法における、「革命」により「普遍的人権に基づく近代社会」の創設という「ストーリー」を支えたのは「人民の一体感をともなった愛国心」・「国民意識」だったが、「戦後日本にはそのようなものはほぼ皆無だった」(p.159-160)。
 ・「戦後の体制変革は革命ではなく占領政策」だった。「愛国心や国民意識は…打ち砕かれていた」。そんな状態で「普遍的人権」に依拠した「近代憲法を創設する」ことができるわけがない。「国民」に憲法制定能力がないとすれば、「憲法の正当性は明治憲法の改正という手続」に求めるほかはない。そうだとすると、(改正の最終的主体としての)「天皇制度の維持はきわめて重要な事項」だった(p.160)。
 ・「良かれ悪しかれ、天皇制度を国家の(象徴的な)骨格としたのが日本の歴史の連続性」で、明治憲法も「その改正を天皇の勅令をもって帝国議会に付すべきこと」を規定していた。従って、明治憲法の中核である「天皇制度…を廃止するような改正」は「事実上不可能」だったのだ。だとすれば、その存続がマッカーサーの政治的判断であろうとなかろうと、「天皇制度」は「憲法のロジックにしたがって生き延びることになる」(p.161)。
 二 以上、あまり読んだことのないような指摘、問題設定、説明等がなされている(「国民」と「人民」は意識して区別されることなく叙述されている)。
 現に生きている日本国憲法は、そもそも何によって憲法として「正当化」されているのか? (憲法前文の前の告諭が明示するように)天皇が「裁可し、公布せしめ」た現憲法が、所謂「天皇」主権を廃して「国民主権」原理を採用している(とされている)ことはどう説明されるのだろうか。「告諭」は「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび」から始まるが、「日本国民の総意に基いて」と、なぜ言えたのだろう。
 ぎりぎり間接的には「国民代表」者から成る衆議院による可決を経ているが、国民(有権者)投票が行われたわけではなく、逆に、「枢密顧問の諮詢」という明治憲法上の規定もなかった枢密院での審議・可決手続を経ており、また、新憲法によって廃止されることとなっていた「貴族院」での審議・可決すらあったのだ。
 戦後日本は、<不思議な>来歴の憲法の下で国家運営がなされてきた、とあらためて感じる。法的・論理的には、完璧な説明はできないのではないか。そのような憲法が60年以上も生き続けてきたことに、大多数の国民が違和感を持たなかったのだから、憲法学者を含むその<鈍感さ>にあらためて驚くとともに、占領期の日本人の<思考停止>状態におけるGHQの力の大きさも感じる。
 新憲法制定・施行を「祝う」行事・催事がなされたはずだし、何といっても天皇陛下が「裁可し、公布せしめ」たとあっては、大多数の国民は(その内容に関係なく)新憲法を(少なくとも当面は)「支持」せざるを得なかったものと考えられる。
 だが、その「支持」は、はたして「内容」をも全面的に支持するものだったのかどうか。表面的にはともかく(占領下に新憲法反対の国民運動が起こせる筈もない)、実感としては違和感も覚える憲法条項もあったのではなかろうか。そうした違和感を潜在的には多少とも覚えつつ、建前としては「支持」しているうちに、<ごまかした>まま60年が経過してしまった、というところだろうか(直接には「護憲」派が国会で少なくとも1/3以上を占め続けたことによる)。
 当時の国民の全てが、あるいは圧倒的多数の国民が、手続的にはともかく「内容」的に支持し、受容した、という、少なからぬ(と思われる)憲法学者等の説明は、信頼できない、と思われる。

0679/福田恆存「私の保守主義観」(1959)を読む。

 福田恆存評論集第五巻(麗澤大学出版会、2008.11)の中に収載されている「私の保守主義観」、初出は「読書人」1959年6月19日号、はたった5頁だが(p.126-)、興味深い。以下、要約又は引用。
 ・私は「保守的」だが「保守主義者」とは考えていない。「保守派」は「保守主義」を「奉じるべきではない」。
 ・「保守派」は眼前の「改革主義」という「敵」を見て自らが「保守派」であることに気づく。「保守主義」はイデオロギーとしては「最初から遅れをとっている」。それは、「本来、消極的、反動的であるべき」ものだ。
 ・「保守派がつねに現状に満足し、現状の維持を欲している」とは、「革新派」の誤解。「保守党」が自分たち支配階級の利害しか考えず、「進歩や改革を欲しない」との「革新派の宣伝」は、日本では「古すぎるし、効果もない」。
 ・「保守派」と「革新派」の差異は、「進歩や改革」を前者はただ「希望する」だけなのに対して、後者は「義務」と心得ることにある。前者における「私的な欲望」は後者において「公的な正義になる」。「進歩」は前者において自然な「現実」・人間活動の「部分」・「手段」だが、後者においては最高の「価値」、生存の「全体」・「目的」になる。
 ・「保守派が合理的でないのは当然」。「進歩や改革」を嫌うのはその「影響や結果に自信がもてないから」。一部の改革が全体の総計に与える不便に関する見通しがつかないから。
 ・「保守派」は「態度によって人を納得させるべきで」、「イデオロギーによって承服させるべきではない」。「保守派が保守主義をふりかざし、それを大義名分としたとき、それは反動になる」。「大義名分」は「改革主義」のもの。
 ・「保守派は無智といわれようと、頑迷といわれようと、まづ素直で正直であればよい。…。常識に随い、素手で行って、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか」。
 以上。今や死語になったかの「革新(派)」という語が出てくるなど、時代を感じさせる。だが、「まづ素直で正直で」、「常識に随い」…とは、<左右>を問わない、人の生き方そのものだと思える。無理をする必要はない。イデオロギー闘いを挑み、「左翼」を論難するのも本来は「保守派」ではないかもしれない。
 中西輝政=八木秀次・保守はいま何をなすべきか(PHP)というような問いかけも、少しは肩肘が張りすぎているのかもしれない、と思ったりする。「常識に随い、素手で行って、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか」。このくらいの神経を持っていないと、今の時代を精神の安定を保って生きるのはむつかしいのかもしれない。
 ところで、保守又は「保守主義」を論じるとき、イギリスのE・バークはフランス革命に際して…と始める論者も多いように見えるが、福田恆存はその「保守派」の考え方をどのようにして形成したのだろう。バークを読んだから、ではないことは確かなのだが。 

0614/佐伯啓思・国家についての考察(2001)p.25-全体主義に対立するのは民主主義よりも保守主義。

 一 佐伯啓思・国家についての考察(飛鳥新社、2001)も佐伯の本の中でじくりと味わうべきものの一つだろう。
 全体の詳細な紹介、要約的言及の余裕はない。
 p.23からの数頁は「保守的であること」との見出しが付いている。そして、「保守的である」という気持ちのもち様、態度についての興味深い叙述があり、こうした「態度の背景」には、「人間の理性的能力への過信に対する防御」、「理性万能主義(設計主義)への深い疑問」等がある、とする。
 今回紹介したいのはその次の辺りの文章だ。佐伯啓思は言う(p.25)。
 ・「保守主義が明瞭に対立するのは社会主義にせよ、ファシズムにせよ、社会全体を管理できるとする全体主義に他ならない」。
 ・「理念としていえば民主主義などよりも保守主義の方が全体主義に対立する」。
 ・上のことは、「保守主義の生みの親とも目されるエドモンド・バーク」がその「保守的思考」を、「ジャコバン独裁をもたらすことになるフランス革命批判から生み出した」ことからも「すぐにわかるだろう」。
 二 宮沢俊義をはじめとする戦後・進歩的知識人のみならず日本国民の多くにも、先の大戦は<民主主義対ファシズム>の闘いであり、理論的・価値的にも優れた?前者が勝利した、という認識又は理解が、空気の如く蔓延した(蔓延しつづけている?)ようでもある。
 だが、既述の如くソ連を「民主主義」陣営の一者と位置づけることは、<人民民主主義>という概念などによってかつては誤魔化すことができたかもしれないが、いまや殆ど笑い話に近いほどに、正しくはない。
 また、ヒトラー独裁・ドイツファシズムが<ワイマール民主主義>の中から<合法的に>出現したことをどう説明するか、という問題もある。なお、<日本軍国主義>体制も(そのようなものがあるとして)法的には合憲的・合法的に成立したといわざるをえないだろう。

 つまり、<民主主義対ファシズム>の闘いだったと先の大戦を把握することは歴史の基本を捏造するものだ。従ってまた、今日までずっと<軍国主義・ファシズムの復活を阻止するために、民主主義を守り・徹底する>という目的を掲げてきている又は何となくそういう図式・イメージをもっている者たちもまた、歴史の基本的なところの理解を誤って国家・社会の動向を観察していることになる。
 「左翼」にとっては、とくに日本共産党員をはじめとするコミュニストにとっては、上の佐伯の叙述のように「社会主義」と「ファシズム」を「全体主義」という概念で包括するのは我慢できないことだろうが、社会「全体」の管理可能性を信じる点で、両者にはやはり共通性がある。
 また、この「全体主義」に対立するのはむしろ「個人主義」又は「自由主義」と言うべきであり、「民主主義」は別の次元の主義・理念だろう。
 そしてまた、フランス革命期における<急進的な(又は直接的)民主主義>(ルソー的「人民主権」論の現実化=「ジャコバン独裁」)を警戒したのは、叙上のように、イギリスの「保守主義」者・バークだった。
 佐伯啓思があえて言及しているように、今日において民主主義、さらにはコミュニズム(社会主義・共産主義)を論じる場合において、フランス革命期の「ジャコバン独裁」(ロベスピエールらによる)をどう評価し、どう理解しておくべきかは、不可欠の論点なのだ、と思う。「人民主権」(プープル主権)論の評価についても同じことがいえる。
 フランス革命や「ジャコバン独裁」・「人民(プープル)主権」論に言及してきたし、これからも言及するだろう理由は、まさに上のことにある。

0610/実教出版『世界史B・新訂版』(2007.01)は仏革命期の「恐怖政治」がロシア革命でも、と。

 一 樋口陽一は「ルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」と記した。同・自由と国家(岩波新書、1989)p.170。
 あらためてきちんと引用すると、河野健二は同・フランス革命小史(岩波新書、1959)p.167でこう書いていた。
 「モンターニュ派は、王を処刑し、公安委員会をつくり、独裁を強化することで、旧制度からひきついだ一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、超越的であった政治を完全に人民のものとすることができた」。
 モンターニュ派(=ジャコバン派)は国王処刑・公安委員会設置・独裁強化によって、「政治を完全に人民のものとすることができた」、と書いている。
 これは史実か? ここでの「政治」とは、「人民」とは、「人民のものにする」とは、いったいいかなる意味なのか。
 ロベスピエールらモンターニュ派(ジャコバン派)のしたことは「恐怖政治」(テルール)との言葉でも形容されるがごとく、反対派の暗殺等の<大量殺戮>でもあった。
 それを上のように讃えることのできた京都大学教授・河野健二は、そこに、日本でも将来に行われるかもしれない、<プロレタリア独裁>による反対派・「反動」派の<正当な>殺害を見たのではないか、という気がする。「革命」遂行のための<正当な>暴力行使(殺戮>虐殺を含む)、これを(ひそかに?)肯定していたのではないか、と想像する。

 そのような河野において、「献身的な革命家」が「革命の殉教者」として葬られたのが、「テルミドールの反動」だった(上掲書p.167)。
 かつて学習した教科書にも、「テルミドールの反動」という言葉が載っていた。なるほど、<進歩>・<前進>に対する逆流と理解されたゆえにこそ、「反動」という言葉が選ばれていたのだと思われる。
 だが、それは当時の主流派的(マルクス主義的)フランス革命解釈によるもので、客観的にはそれは、<テルミドールの「正常化」>(<狂気の終焉>)に他ならなかっただろう。なおも混乱は続いたが、「正常化」又は「再秩序化」への第一歩ではあったと考えられる。

 二 中学校・高校用のすべての歴史・世界史の教科書を見たわけではないが、実教出版『世界史B・新訂版』(2007.01発行、2006.03検定済)のフランス革命関連の叙述はなかなか面白い(具体的な特定の執筆者名は不明)。少なくとも従来の主流派的(マルクス主義的)フランス革命解釈に依っていないことは明らかだ。
 ①ロベスピエールの「恐怖政治」について書いたあと、こう続ける。「経済統制をきらうブルジョアジーは、革命の徹底化に強い不安を感じはじめ…、戦況の好転によって独裁権力そのものが不必要になったとき、1794年夏、テルミドールのクーデタによってロベスピエールは即決裁判にかけられ処刑された」。
 この教科書には「テルミドールの反動」という言葉は出てこない。
 ②「フランス革命」となお称しつつ、これの「意義」を次のように書いている(p.238-9。以下は全文ではない)。
 フランス革命は「民主主義をめざす革命であったといってよい」。「しかし同時に深刻な問題もあった。不平等の是正については社会各層の利害が鋭く対立したため、反対派を暴力で排除しようとする恐怖政治がうまれたからである。同じような状況は、20世紀のロシア革命でくりかえされることになる」。
 ここではフランス革命が随伴した「問題」の指摘(=「恐怖政治」への言及)があり、同様のことが「20世紀のロシア革命でくりかえされ」た、とまで書かれている。
 かつてフランス革命の未完の部分を完成させたロシア革命という積極的評価が主流派・マルクス主義派のそれだったが、ロシア革命によって生まれたソ連「社会主義」が崩壊してみると、ロシア革命に伴った「悪」はフランス革命に由来する(少なくとも似ている)、とでも言っているような叙述が登場しているのだ。
 こうしてみると、多少は勇気づけられる。明らかに、(部分的かもしれないが)マルクス主義的な「フランス革命」理解は後退し、別の歴史の見方に変わっている。
 あと50年先、100年先、「戦後民主主義」なるものと「昭和戦後進歩的知識人・文化人」(丸山真男、大江健三郎、樋口陽一ら)については消極的・弊害的部分がきちんと総括され、「昭和戦後進歩的知識人・文化人」の活躍(跳梁?)の舞台を提供し、彼らを育成した岩波書店や朝日新聞は一時期の<流行>に影響されただけだという、基本的には消極的・否定的評価が下されているだろう、と確信したいものだ。

0609/フランス・ジャコバン独裁と1793年憲法再論-河野健二と樋口陽一・杉原泰雄。

 フランス「革命」時のジャコバン派(モンターニュ派、ロベスピエールら)独裁、又はその初期を画した1793年憲法(但し、未施行)について、何回か書いてみる。

 一 すでにいく度か言及している。例えば、
 A 憲法学者の杉原泰雄・国民主権の研究(岩波書店、1971)にも触れた。
 より短縮して再紹介するが、杉原は、ルソーの「人民主権論」はとくに「『プロレタリア主権』論として、私有財産制の否定と結合させられながら存続していることは注目されるべき」で、「国民主権と対置して、それを批判・克服するためにの無産階級解放の原理として機能している」と述べたのち、次のようにつなげる。「『ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制』という一つの歴史の潮流、…二〇世紀…普通選挙制度・諸々の形態の直接民主主義の採用などに示される人民主権への傾斜現象さらには人民主権憲法への転化現象は、このことを明示するものである」。以上、p.181-2にあり、「」内は直接引用で、私・秋月の要約ではない。
 杉原において、「ルソーは民衆の解放を意図していたために、ブルジョアジーのための主権原理(「国民主権」)を本来構想しえなかった」とされる(p.92)。すでに書いたように、杉原において<ルソーは、早すぎたマルクスだった>のだ。
 また、これも既述だが、1971年には「ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制」という歴史的必然?を杉原は語り得たが、今となってみれば、<夢想>であり<幻想>であり、あるいは<妄想>にすぎなかった。
 杉原泰雄の上の著は、むろんジャコバン憲法=1793年憲法にも論及している。例えば、次のように。  ・p.82-「一七九三年憲法」による「『人民主権』の樹立に一応賛成する態度をとりつつ…封建地代の無償廃止に踏み切ったことも、民衆革命の高揚と…反革命に対処するためにブルジョアジーがそれに頼らざるをえない状況」にあったことを前提としてはじめて「合理的に理解」できる。。
 ・p.83-「民衆」は「人民主権」を、「ブルジョアジー」は「国民主権」を要求する。「民衆の革命的エネルギー」に頼らざるを得ない状況下では、「ブルジョアジー」は「『国民主権』の主張を自制」し、留保を付しつつ「『人民主権』に賛成するポーズ」をとった。「その事例」は、「一七八九年人権宣言、一七九三年憲法」である。
 1793年憲法(とくにその「主権論」)それ自体(但し、繰り返すが、施行されなかった!)の<急進的>・<民衆的>・<直接民主主義的>内容には、とりあえず、ここでは立ち入らない(杉原p.273~など)。

 B 憲法学者の樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)にも触れた。
 樋口陽一は、「一七八九年を完成させた一七九三年」と捉える立場に依って「ルソー=ジャコバン主義」を理解する旨を述べ(p.122)、次のように明言していた。再紹介する。p.170だ。

 日本(の一部)では「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」が見事に否定されている。「そうだとしたら、一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」。

 樋口において、「ルソー=ジャコバン主義」、そして1793年憲法が肯定的・積極的に評価されていることは明らかだろう。そして、日本(人)はフランスの1793年の時期を、「ルソー=ジャコバン型個人主義」を「そのもたらす痛みとともに追体験」せよ、と(1989年、ソ連「社会主義」体制の崩壊の直前に)主張していたのだ。

 二 杉原泰雄は「『ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制』という一つの歴史の潮流」を明言していたが、樋口陽一も含めて、口には出さなくとも、戦後の所謂<進歩的>知識人・文化人は、ルソー→マルクス→レーニン、あるいはフランス革命(のような「ブルジョア革命」)→ロシア革命(のような「社会主義」革命)という、普遍的で必然的な?<歴史の流れ(発展法則)>を意識し、そのような観念・尺度でもって日本の国家・社会を観察していた(場合によっては何らかの実践活動もした)と思われる。

 そのような歴史観の形成に少なからず寄与したと思われるのは桑原武夫らのグループのフランス「革命」史研究であり、河野健二・フランス革命小史(岩波新書、1959。1975年に19刷)もその一つだろう。

 概読してみると、ジャコバン独裁(・1793年憲法)の位置づけ・性格づけなどについて、杉原泰雄や樋口陽一が前提とし、イメージしているような、マルクス主義的「通念」が<見事に>叙述されている。以下は、その概要又は断片のメモだ。「」は直接引用。

 ・フランス革命は「ブルジョア革命の模範」であるのみならず「歴史上の一切の革命の模範」とされる(「はしがき」)。
 ・1792年8-9月頃、ロベスピエールはこう書いた。「自分たち自身のため」の共和国を作ろうとする「金持ちと役人の利益」だけ考える者たちと、「人民のために」、「平等と一般利益の原則」の上に共和国を樹立しようとする者たちの二つに、これまでの「愛国者」は分裂する、後者こそ「真の愛国者」だ、と。「ロベスピエールが目ざしたのは、後者」だった(p.131)。
 ・1792年の時点で、「ジロンド派」と「モンターニュ派」の議会内対立は封建制・資本主義、資本家・労働者、反革命・革命の対立ではなく、両派ともに「ブルジョア・インテリたち」だったが、「ジロンド派」はチュルゴら百科全書派の弟子で「経済的自由主義」者だったのに対して、「モンターニュ派はルソーの問題意識と理論の継承者だった」。ロベスピエールもマラーもサン=ジュストも後者だった(p.133)。
 ・「モンターニュ派」は「…農民や手工業者を中核として、平等で自由な共和国をつく」ることを理想とし、その実現のための解決を、「政治の上では独裁と恐怖政治、道徳の上では美徳の強調と国家宗教(最高存在の崇拝)の樹立」のなかに求めた(p.134)。
 ・対外国戦争敗北等により1793年春以降、「政治情勢は急速に進んだ」。主流派の「ジロンド派」は抵抗し、「私有財産擁護」や「地方自治体の連合主義」を主張したが、5/31に「モンターニュ派」支持者による「蜂起委員会」の成立等により、6/02にパリでは「モンターニュ派」が勝利した(p.144-6)。
 ・1793年の6/24に議会が1793年憲法を採択、「人民投票」により成立した(但し、緊急事態を理由に施行延期)。この憲法は「ルソー的民主主義を基調」とし、「『人民』主権」を採り、議員は選挙民に「拘束」された。この最後の点は「『一般意思』は議員によって代表されないというルソーの理論の適用」だ(p.148)。
 ・実施されなかったこの憲法を、のちの「民主主義者たち」や「二月革命期の共和派左翼」は「福音書」扱いし、「革命の最大の成果をこの憲法のなかにみた」(p.148-9)。

 ・だが、「あまりにも美しく、あまりにも完全な」この憲法は、「一七九三年の条件のもとでは、まったく実現不可能なものだった」。「モンターニュ派」の「理想」ではあっても「現実政策」の表明ではなかった(p.149)。
 ・「都市の民衆暴動」に「モンターニュ派」は苦しみ、妥協して急進的法律をいくつか作りつつ、「過激派」の逮捕・裁判も強行した。そして、「公安委員会の独裁と恐怖政治がはじまった」(p.149-150)。

 ・公安委員会は「王党派、フイヤン派、ジロンド派」を追及し「処刑」した。だが、「ブルジョア的党派と、プロレタリア党派が排除されると」、「モンターニュ派」自体が左右に分裂し始めた。ロベスピエールら公安委員会は「反対派の生命をうばう」「個人的暴力」を用いた。これが「残された唯一の道」だった。1994年4月以降、公安委員会の独裁というより、「ロベスピエール個人、あるいは…を加えた三頭政治家の独裁」だった(p.155-7)。

 ・三人の一人、サン=ジュストは「反革命容疑者の財産を没収」し「貧しい愛国者たちに無償で分配」することを定める法令を提案し制定した。「ルソーが望んだように『圧制も搾取もない』平等社会を実現」することを企図したものだが、「資本主義が本格的にはじまろう」という時期に「すべての人間を財産所有者にかえようとする」ことは「しょせん『巨大な錯覚』(マルクス)でしかなかった」(p.157)。
 (河野健二による総括的な叙述の紹介を急ごう。)
 ・経済的には「ブルジョア革命」は1793年5月に終わっていた。その後に「ロベスピエールが小ブルジョア的な精神主義」に陥ったとき、「危機が急速度にやってきた」。
 ・だが、「ロベスピエール派」の「政治的実践」は「すべて無効」ではない。「モンターニュ派」による国王処刑・独裁強化は「一切の古い機構、しきたり、思想を一挙に粉砕し、…政治を完全に人民のものにすることができた」。「この『フランス革命の巨大な箒』(マルクス)があったからこそ、人々は自由で民主的な人間関係をはじめて自分のものとすることができた」(p.166-7)。
 ・「モンターニュ派」独裁の中で、「私有財産にたいする攻撃、財産の共有制への要求があらわれた」。とくにロベスピエールは、「すべての人間を小ブルジョア的勤労者たらしめる『平等の共和国』」を樹立しようとした。しかし、戦争勝利とともに「ロベスピエール派」は没落し、上の意図は「輪郭がえがかれたままで挫折した」(p.190)。
 ・「資本主義がまさに出発」しようとしているとき、「すべての人間を小ブルジョアとして育成し、固定させようとすることは、歴史の法則への挑戦であった」。「悲壮な挫折は不可避であった」(p.190)。
 ・ロベスピエールが「独裁者」・「吸血鬼」と怖れられているのは彼にとって「むしろ名誉」ではないか。彼こそ、「民衆の力を基礎として資本の支配に断乎たるたたかいを挑み、一時的にせよ、それを成功させた最初の人間だから」だ(p.191)。

 ・今世紀、ロシア・中国で、「ブルジョア革命のもう一歩さきには、社会主義社会をめざすプロレタリア革命が存在することが…実証された」(p.193)。
 ・レーニンは1915年に書いた。「マルクス主義者」は「偉大なブルジョア革命家に、最も深い尊敬の念をよせ」る、と。その際、「彼はロベスピエールの名前をあげることを忘れなかった」。レーニンは「ブルジョア革命と社会主義革命」との間の「深いつながり」を見ていた。
 ・「事実、ロシア革命の一歩一歩は、フランス革命におけるジャコバンのたたかいと、公安委員会とパリ・コミューンの経験を貴重な先例として学びつつ進められた」(p.193)。
 ・すべての「民族・民衆が『自由、平等、友愛』をめざすたたかいをやめないかぎり」「フランス革命は、…永久に生きつづけるにちがいない」(p.193)。
 三 以上の河野健二著の紹介は、むろん<(肯定的に)学ぶ>ためにメモしたのではない。現在はフランス、アメリカ等で<修正主義>が有力に主張されるなど、フランス革命の「革命」性自体が問題になっている。そして、細かな部分は別として、河野の叙述もじつに教条的なテーゼらしきものを前提としていることが分かる。最後の方の「まとめ」的部分などは、むしろ冷笑と憐れみをもって読んだ。
 <進歩的>知識人・文化人が共有したと見られる<フランス革命観>からもはや離れなければならない。
 <ジャコバン独裁>の中に、ロベスピエールの思考の中に、ロシア革命<「社会主義革命」の「先取り」>を見て、あるいは<早すぎたがための失敗・挫折>を見て、(いかほどに正直に書くかは別として)肯定的側面を見出すような思考をもはや止めなければならない。
 河野健二もまた、(明言はたぶんないが)日本にも徹底した「民主主義」化と「社会主義革命」がいずれ不可避的に生じるだろうと「夢想」していたのだろう(フランス革命の経験が<日本革命>にとってどのように「貴重な先例」として「学び」の対象になると考えているのかは全く不明だが)。
 四 1950年代末に書かれ、長く出版され続けた河野のような本を、杉原泰雄も樋口陽一も読んで、脳内に蓄え込んだものと思われる。そこでのフランス革命観と基本的な歴史発展の認識が誤っているとすれば、彼らのいかなる憲法関連の議論も、どこかが狂っているものになっているだろう。

0576/阪本昌成の反マルクス主義と樋口陽一「推薦」の蟻川恒正・石川健治・毛利透・阪口正二郎・長谷部・愛敬浩二

 一 樋口陽一について前回書いたこととの関係でいうと、すでに紹介したことはあるが、同じ憲法学者でも樋口よりも若い世代、1945年生まれの阪本昌成(広島大学→九州大学)は相当に勇気があるし、エラい。
 阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー(有信堂、1998)p.22は、次のように明言した。第二版(2004)も同じp.22。
 「マルクス主義とそれに同情的な思想を基礎とする政治体制が崩壊した今日、マルクス主義的憲法学が日本の憲法学界で以前のような隆盛をみせることは二度とないはずだ(と私は希望する)。/マルクス主義憲法学を唱えてきた人びと、そして、それに同調してきた人びとの知的責任は重い。彼らが救済の甘い夢を人びとに売ってきた責任は、彼らがはっきりととるべきだ、と私は考える」。
 「マルクス主義憲法学を唱えてきた人びと」や「それに同調してきた人びと」の具体的な氏名を知りたいものだが、多数すぎるためか、区別が困難な場合もあるためか、あるいは存命者が多い場合の学界上の礼儀?なのか、残念ながら、阪本昌成は具体的な固有名詞を挙げてはいない。
 また、阪本昌成・「近代」立憲主義を読み直す-フランス革命の神話(成文堂、2000)のp.7は、こうも明記していた。
 「戦後の憲法学は、人権の普遍性とか平和主義を誇張してきました。それらの普遍性は、国民国家や市民社会を否定的にみるマルクス主義と不思議にも調和しました。現在でも公法学界で相当の勢力をもっているマルクス主義憲法学は、主観的には正しく善意でありながら、客観的には誤った教説でした(もっとも、彼らは、死ぬまで「客観的に誤っていた」とは認めようとはしないでしようが)」。
 二 樋口陽一が「マルクス主義憲法学を唱えてきた人びと」又は「それに同調してきた人びと」の中に含まれることは明らかだ。その樋口は、樋口陽一・「日本国憲法」まっとうに議論するために(みすず書房、2006)の最後の「読書案内」の中で、「ここ一〇年前後の公刊された単独著者の作品」としてつぎの6人の書物を挙げている。
 樋口陽一が気に食わないことを書いている本を列挙する筈はなく、樋口にとっては少なくとも広い意味での<後継者>と考えている者たちの著書だろう。その六名はつぎのとおり(p.176-7)。
 ①蟻川恒正(東京大学→退職)、②石川健治、③毛利透、④阪口正二郎(早稲田→東京大学社会科学研究所→一橋大学)、⑤長谷部恭男(東京大学。ご存知、バウネット・NHK・政治家「圧力」問題で朝日新聞の報道ぶりを客観的には<擁護>した「外部者」委員会委員の一人)、⑥愛敬浩二(名古屋大学。憲法問題の新書を所持しているが、宮崎哲弥による酷評があったので今のところ読む気がしない)。
 樋口陽一がその著書を実質的には<推薦>しているこのような人物たちは-阪本昌成よりもさらに若い世代の者が多そうだ-、日本の国家と社会にとって<危険な>・<害悪を与える>、例えば<リベラル>という名の<容共>主義者である可能性が大きい。警戒心を持っておくべきだろう。

0524/樋口陽一は<ジャコバン独裁>の意義を「痛みとともに追体験」せよ、と主張した。

 一 樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)は、「ジャコバン主義」には次の二つの異なる含意がある、とする。①「一七九三年」を「一七八九年を否定する」、「『市民=ブルジョア革命』からの逸脱」と捉える、②「一七八九年を完成させた一七九三年」と捉える。そして、樋口は後者②の意味で「ルソー=ジャコバン主義」を理解する旨を明記している(p.122)。これは、前回言及したフランスの一七八九年と一七九三年の関係の「理解」に関する第二の説に他ならない。そして、「ルソー=ジャコバン主義」とは彼において、「フランスの近代国家のあり方の象徴」たる表現なのだ(p.122)。
 ところで、樋口は上の二つの含意に触れる直前に、「『ギロチンと恐怖政治』というひとつのステロタイプ化された『ジャコバン主義』像はここで問題にしなくてよい」と書いている(p.122)。本当に「問題にしなくてよい」のだろうか。そして「問題にしなくてよい」のはいったい何故なのだろうか。「ステロタイプ化され」ているか否かが争点ではないだろう。だとすると、おそらく樋口は、「ギロチンと恐怖政治」は革命過程のやむを得ない必要な一環だったと理解しているか、「ギロチンと恐怖政治」の実態を知らない(又は知ろうとしていない)かのいずれかなのだろう。そのどちらにせよ、それでよいのか?
 二 前回に紹介してもよかったことだが、柴田三千雄・フランス史10講(岩波新書、2006)は、フランス革命は「ブルジョワ革命の典型」だったとする従来一般的だったかに見える理解は「今日」では「成り立ちにくい」と明言する。その理由として挙げられているのは、①封建制→資本主義→社会主義という「発展段階理論」自体がソ連の解体によって崩壊した、②「一九六〇年代から、貴族とブルジョアジーは必然的に対立するものではなく、またフランス革命はブルジョアジーが資本主義の支配を目的にしたものではない、とする『修正主義』が有力となった」、ということ。
 さて、この柴田の本は、学問分野や関心の違いからして当然かもしれないが、「ジャコバン主義」を、又はそれにかかわる歴史的経緯を、樋口陽一とは異なってつぎのように説明している(理解しやすい、定義的な文章はない)。
 1792年9月発足の国民公会で「ジャコバン派(=山岳(モンテーニュ)派)」に同調する議員が増え、1793年6月に対立する「ジロンド派首脳」を国民公会から「排除」した。その後同公会は1793年憲法を採択したが、10月に「憲法の施行を停止して公会に全権力を集中する『革命政府』体制をとることを宣言」し、とくに「公会内の公安委員会の権限」を大きくした。これが「恐怖政治」(テルール)体制と呼ばれるもので、その理念は「ジャコバン主義」とも言われた。代表するのはロベスピエール。
 ロベスピエールにおいて、民衆への所有権の配分と「習俗の全面的刷新」による(民衆たちの?)「新しい人間」創出が重要だった。「テルール」とは「『徳と恐怖』を原理にもつ戦時非常体制」のことで、「徳」=「公共の善への献身」、「恐怖」=「それに反する者への懲罰」だ。
 「革命政府」は「反革命勢力にたいする仮借のない戦い」とともに「独走する民衆運動のコントロール」も重視した。「ジャコバン派(=山岳派)」は鉄の団結をもつ派ではなく、1794年春にロベスピエールは、ジャコバン派内の右派「ダントン派首脳」と民衆運動へり影響力をもつ左派「エベール派」を「粛清」した(以上、p.127-9)。
 その後ロベスピエールは「独善的な精神主義」に傾斜していくとされる(p.129。元来からそうだったのだろう)。以上に簡単に触れられているロベスピエールの思想又は「理念」は、なるほど、この欄でも何度か言及した(「狂人」とすら呼ぶ人すらいる)ルソーのそれと同じか、近い。
 三 柴田三千雄・フランス革命(岩波現代文庫、2007。初出1989、2004)は、「ジャコバン主義」につき、ジロンド派の殆どを排除した議会(国民公会)の「革命路線」は、「九三年から九四年にかけてのジャコバン・クラブが、この路線をとる革命家たちの中核的機関だった」ために、一般に「ジャコバン主義」と言われる、と説明している(p.169)。そして、「もっとも指導的な立場」にあったのはロベスピエールだったとしつつ、上の岩波新書よりも、歴史的・時間的経緯等を詳細に叙述している。
 反復と詳細な紹介を避けて、三点だけメモしておく。
 ①1792年に「九月の虐殺事件」が起きた。パリの牢獄内で反革命陰謀ありとの噂が立ち、「群衆」が複数の牢獄に侵入して「即決裁判」にかけ、2800人の囚人のうち1100~1400人が「殺され」た。囚人のうち政治(思想)犯だった者は約1/4(以上、p.157-8)。これは「革命政府」成立前のことだが、柴田によると「のちのジャコバン独裁は、この九月の虐殺の経験と関連がある」。すなわち、「反革命に対する民衆の危惧を盲目的に暴発させてはならず、…コントロールする必要がある」ために、「内部に妥協分子を含む二重権力ではなく、民衆の正当な要求を先取りしてゆく強力な革命的集中権力の樹立が前提条件になる」、これが「のちの恐怖政治の論理」だ(p.159)。
 ②「恐怖政治」(テルール)には「反革命の容疑者を捕えてどんどんギロチンにかける」という狭義の「司法的」一面の他に、「自由経済に対する統制」という「経済統制の面」もある(前者の「一面」を否定していないことが、確認的にではあれ関心を惹いた)。
 ③「革命政府」とは当時使われた言葉で、「憲法に基づかない」政府という意味だ。1993年憲法は国民公会の10月10日の宣言により施行が停止され、12月4日の法令により「全権力」が国民公会に集中された。とくに国民公会内の公安委員会と治安委員会に権力が集中し、行政府(大臣等)は「公安委員会に従属」した(p.176-7)。
 四 <ジャコバン独裁>期の殺戮等の実態については、さらに関係文献を渉猟し参照して紹介する。また、フランス的又はルソー=ジャコバン的<個人>観についても触れたいことはある。
 上の二テーマについては、ある程度の用意はある。だが、後回しにして、今回は、最後に、樋口陽一・自由と国家(1989)の中の次の文章を紹介しておきたい。
 日本(の一部)では「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」が見事に否定されている。「そうだとしたら、一九八九年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」(p.170)。
 これは、樋口陽一のきわめて<歴史的>な発言で、<歴史>に永く記憶されるべきだ、と考える。
 「中間団体」の問題には立ち入らない(まだ言及していないから)。また、「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」を日本と日本人が何故守り、実現しなければならないのか?という基本的に重要な論点・問題もある。  だが、それよりも重要なのは、樋口が、日本人に対して、「ルソー=ジャコバン型個人主義の意義」を「追体験」せよ、と主張していること、しかも、「そのもたらす痛みとともに」追体験せよ、と主張していることだ。
 端的にいえば、これは、<ジャコバン独裁>期の(思想の違いを理由とする)<殺戮・虐殺>を伴うような<革命>を経験せよ、<殺戮・虐殺>も「追体験」して、(それに耐えられるような?)「中間団体」に守られない<強い>「個人」になれ、という主張だ、と考えられる。少なくとも、かかる解釈を許すことを否定できないものだ。この人は、1989年に、何と怖ろしい主張をしていたものだ。こういう主張・考え方は<左翼・全体主義>と形容することもできる。<共産主義>の萌芽をそのまま承認している、と言ってもよい。
 大雑把に書くが、国家の「一般意思」に全面的に服従する(献身する=犠牲になる)ことによって人民は「自由」になる、というルソー的考え方、個人(人民)の「自由」意思=人民の(直接民主主義的)代理人(の集合体たる議会)の意思=「一般意思」というルソー的観念結合は、実際には容易に一部の者の「独裁」、あるいは「全体主義」を導くものであり、上に引用にしたロベスピエールの考え方の一端にも垣間見えるように、思想の違いを理由とする(「一般意思」に違反するとの合理化による)<粛清>を正当化するものだ。
 樋口陽一は、この著名らしい元東京大学の憲法学者は、まさに上のような考え方を持っていたのだ、と判断できる。そういう人が(むろん「左翼」で「親マルクス主義」者で、そして憲法九条護持論者だが)多数の本を出しており、社会的影響力もおそらく持っている。日本は怖ろしい社会になってしまった、と思わざるをえない。まだ、紙の上、言葉だけにとどまっているのが幸いではあるが、むろん人々の種々の政治行動(投票活動等)に影響を与え、現実化していく可能性はある(すでにある程度は現実化している?)。
 あらためていう。樋口陽一の上の文章は<怖ろしい>内容をもつ。
 付記-大原康男・天皇-その論の変遷と皇室制度(展転社、1988)は、数日前に全読了した。

0523/樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)とフランス革命・ロシア革命。

 一 樋口陽一の<ルソー=ジャコバン型国家>なる表現及びその肯定的評価に関するコメントは終えたわけではない。そして、今回でも終わらないだろう。
 フランス革命については、少なくともその一過程に見られる<狂熱的残虐さ>やロシア革命を導いたものとの性格づけ(フランス革命なくしてロシア革命(社会主義・共産主義へ)はない)について、いろいろな人の著書等に触れながら、たびたびこの欄でも論及してきた。  すでに紹介した可能性はあるが(有無を確認するには時間を要しすぎる)、中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間書店、1996)は、その「はじめに」で次の旨を述べていたことを、むろん、一人の研究者の発言としてでよいのだが、確認しておきたい。
 
<1991年以降も、マルクス主義・共産主義・全体主義という「悪の思想ウィルス」は、スタイルを変えてでも、除毒されず、伝染力を温存したままだ。「スタイルの変更」の「代表的なもので、また最も効果的」なものは、「ルソーヘーゲルの温存ならびにフランス革命の賛美をすること」だ。そして「現実にそのとおりのことが集中的になされている」>(p.3)。
 次の中川の文もそのまま引用しておきたい。
 「ルソーとヘーゲルとフランス革命を次世代の青年に教育すれば、もしくはこれに対する親近感を頭に染みこませれば、それだけで全体主義のドグマは充分に生き残ることができる。『マルクス』は何度でも蘇生する」(p.3)。
 また、フランス革命の解釈・理解については<旧い封建制又は絶対王政をブルジョアジーが実力をもって打倒して支配階級にとって代わり、資本主義を準備した「市民(ブルジョア)革命」だ>といった旧来の又は伝統的な主流派解釈に対して、「修正主義」という新しい解釈・理解も有力になっていることも記したことがあるかもしれない。
 「修正主義」解釈の中身にさしあたりここでは立ち入らないが、その内容を紹介しつつ、柴田三千雄・フランス革命(岩波現代文庫、2007.12)は次のようにすら語っている。
 <「修正主義」はフランスでも別途出てきたが、その「潮流はまずイギリスからおこってアメリカにゆき、アングロ=サクソン系の歴史家の間ではこれが主流にさえなっている」(p.41)。
 二 日本で<従来の主流派的解釈>を明瞭にそのまま採用していたのが、桑原武夫や、樋口陽一が「あえて何度でもしつこくたちもどる必要がある」としていた三人の学者のうち、西洋史学者の大塚久雄高橋幸八郎だった(あとの一人は丸山真男樋口陽一・比較の中の日本国憲法(岩波新書、1979)p.9参照)。
 ちなみにやや先走っていえば、上記の柴田三千雄・岩波現代文庫は、高橋幸八郎の「理論」を1頁ほどかけて紹介したあと、「この考え方には無理があると思われます」とこの文自体は素っ気なく述べ、そのあとで理由をかなり詳しく書いている(p.34~p.39)。
 さて、樋口陽一は長谷川正安=渡辺洋三=藤田勇編・講座・革命と法第一巻の「フランス革命と近代憲法」の中で、「修正主義派」の存在に言及しつつ、「そこで提起されている諸論点の意義、などについて、ここではコメントをくわえる紙幅も能力もない」と述べている(p.124)。そして、「右のような論争的争点に直接に立ち入ることなしに」、フランス革命は「『ジャコバン的理想』=一九九三年の段階」を不可欠とする高橋幸八郎「史学」と基本的には全く同様に、「フランスの法・権力構造の基本は、一七八九年が一七九三年によってフォローされたことによって決定づけられた」という前提で、「以下の叙述をすすめる」と書いている。
 この論旨の運びはいささか、いや多分に奇妙だ。  第一に、「高橋史学」等による<従来の主流派的解釈>にそのまま従っている、と見てよいにもかかわらず、その根拠・理由は述べていない。  第二に、論争について「コメントをくわえる紙幅も能力もない」と釈明しながら、「右のような論争的争点に直接に立ち入ることなしに」、上のように<従来の主流派的解釈>に従って叙述をすすめることが「許されると考える」、と書いているが、本当に「許される」のか。まさしく「論争的争点に…立ち入」っていることになるのではないか。そして、基本的には<従来の主流派的解釈>に従うことを選択しているにもかかわらず、その理由は一切述べておらず、<逃げて>いるのだ。  ここには、かつて高橋幸八郎(や大塚久雄ら)を読んで身につけたフランス革命のイメージを壊されたくない、という<情念>の方が優っているのではあるまいか。
 三 先日この問題に言及したときには手元になかった、樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)を入手した。その「あとがき」によると、この新書の一部(第三章)は上で言及した講座・革命と法第一巻の中の論文での「記述を骨組みとして」いるらしい。
 そして、若干部分の比較的読み方をしてみると、①冒頭での「修正(主義・論)」の存在への言及や「コメントをくわえる紙幅も能力もない」という釈明は、表現を変えて別の箇所に移されている(p.113-「歴史家ならぬ私の役まわりではない」等)。
 ②その代わりに、フランス革命「理解」、とくに1789年と1793年の関係について三説があるとし(そのまま正確に引用したいが省略)、高橋幸八郎の、フランス革命は「『ジャコバン的理想』=一九九三年の段階」を不可欠とする(正確には、つづけて、「…段階を経過することによってこそ、『新たな資本制生産の自由な展開を孕む母胎が形成された』」との文章を引用しつつ、「八九年が九三年によってのりこえられることで革命が完成したと見る―さらに一九一七年によって本当に完成したと見る」第二の説に立って(と解釈できる)、講座・革命と法の中の論文と同様又は類似のことを書いている。
 要するに、特段の詳細な理由づけをすることなく、当時すでに現れて有力にもなっていた「修正主義」をきちんと検討することもなく、やはり<従来の主流派的解釈>に従っている、と見られる。「かつて高橋幸八郎(や大塚久雄ら)を読んで身につけたフランス革命のイメージを壊されたくない、という<情念>の方が優っているのではあるまいか」との疑念は消えない。
 しかも驚くべきことなのは、上の第二の説というのは、革命は「さらに一九一七年によって本当に完成したと見る」という考え方を含んでいるらしい、ということだ。「一九一七年」とは言うまでもなく、「ロシア革命」のこと。この点は、講座・革命と法第一巻の中では明記されていなかっていなかった、と思われる。また樋口は、高橋幸八郎の発したメッセージは「こだわるに値するはず」だとして、高橋の1950年の「われわれ」〔日本人?〕は西欧では100年前に提起・解決された問題を「世界史の法則として直接確認しようとしている」という文章を肯定的に引用している。樋口もまた、「世界史の法則」なるものの存在を信じて(信仰して?)いたのだろう。
 出典は省略するが(確認していると時間がかかる)、大塚久雄は、「近代化」とは「社会主義化」を含むものだ旨を晩年の方の本の中で明記したらしい。上で触れたように、樋口陽一もまた、フランス革命によって残された部分を「社会主義革命」が補充して完成させる(又はロシア革命によって実際に完成された)という理解・考え方に立っていたことを充分に示唆することを、述べていたことになる。いわば、有名な<発展段階>史観でもある。
 しかして、上の岩波新書が刊行されたのは1989年年11月で、講座・革命と法第一巻と殆ど同じ頃。原稿執筆中はベルリンの壁は崩壊しておらず、東ドイツもソ連もまだ表向きは健在だっただろう。しかし、1991年以降になってみれば、「本当に完成した」筈の「革命」は瓦解してしまったのではないか
 そして感じるのだが、ソ連・東欧諸国等の「社会主義」諸国の存在(それも可能ならば健康的な存在)があって初めて成り立つような議論・論旨部分を一部にせよ含む本を、樋口陽一がその後も刊行させ続けていることに驚かざるをえない。私が入手したのは、1996年2月の第14刷の本。
 ソ連解体後も、とっくに破綻が明らかになっていた<朝鮮戦争=韓国軍の北侵による開始>説を述べている井上清・新書日本史8講談社現代新書、1976。1992第9刷)等が発売されていたことにこの欄で批判的に触れたことがある。樋口陽一はソ連解体前のこの岩波新書・自由と国家を一部なりとも訂正・修正することなく発売し続けているようだ。
 樋口は「八九年が九三年によってのりこえられることで革命が完成したと見る―さらに一九一七年によって本当に完成したと見る」説は自説だと明記してはいないとでも釈明又は反論するだろうか。だが、あとの二つの説は「九三年=恐怖政治=闇」とする説と「九三年=一九一七年=スターリニズム説」なので、樋口がこれらに依拠していないことは、「ルソー=ジャコバン型国家像」や「ルソー=ジャコバン主義」という語をフランス革命やフランスの「近代」的国家像を表現するために用いていることでも明らかなのだ。また、歴史学上の「修正派」とは反対に「『九三年』がかならずしも『ブルジョア革命』の軌道から外れてしまったものとはいえない」との見地を「憲法学のほう」から提供できる、とも書いているのだ(p.120-1)。
 一度岩波新書で書いたものを一部でも訂正すると、自説を変えるようで恥ずかしいのだろうか。一部訂正では済まないので(恥ずかしげもなく)発売し続けているのだろうか。有名な憲法学者らしいが(何といっても元東京大学教授)、本当に<学問的>・<良心的>だろうか。<情念>あるいは<信仰>がつきまとってはいないだろうか。
 四 まだ、このフランス革命又は「ジャコバン独裁」に関係する<つぶやき>は続ける。

0519/<ルソー・ジャコバン型>は肯定的に評価されるべきなのか-樋口陽一。

 菅孝行は、「樋口陽一は、…、日本人は一度は強者の個人主義をくぐれ、ルソー・ジャコバン型民衆主義をくぐれと執拗に提唱している」と書いた(同・9・11以後丸山真男をどう読むか(2004)p.88)。菅はこの提唱を意義あるものとしてその後に文章をつなげていっているのだが、樋口がかかる提唱をする本として、樋口陽一・自由と国家同・比較の中の日本国憲法の二つを示している。出版社名・出版年の記載も頁の特定もされていないないが、いずれも岩波新書で、前者は1989年、後者は1979年の刊行だ。
 上の前者は所持していないが、後者を見てみると、<ルソー・ジャコバン型民衆主義をくぐれ>との旨を明記している部分はどうやらなさそうだ。但し、類似の又は同趣旨だろうと思われる記述はある。
 樋口・比較の中の日本国憲法p.8-10は、要約部分も含めるが、次のように言う。
 「西洋近代」を批判する者(日本人)は「社会現象としては西洋近代だけが生み出した」「個人主義のエートス」を自分にも他人にも「きびしく要求」すべきだ。/西欧と日本の「落差」は「型」ではなく「段階」のそれと見るべきだが(加藤周一に同調、p.5)、その見地に立って「西洋近代とは何かという問いを追求した代表的な仕事」は「大塚〔久雄〕=高橋〔幸八郎〕史学」や「丸山〔真男〕政治学」で、「私たちは、こういう仕事の問題意識と問題提起に、あえて何度でも、しつこくたちもどる必要がある」。(〔〕は秋月が補足)
 いつか記したことがあるように樋口陽一は丸山真男集(全集)の「月報」に一文を寄せて丸山真男を「先生」と呼んでいる。上の文章においても、大塚久雄・高橋幸八郎・丸山真男の仕事に
「あえて何度でも、しつこくたちもど」れ、と(1979年に)書いていたわけだ。私(秋月)や私たちの世代には殆ど理解できない<戦後進歩的文化人の(そのままの)継承者>がここにいることに気づく。
 上の岩波新書では<ルソー・ジャコバン型>うんぬんに明示的には言及していないように思えるが、最近にこの欄で言及した、樋口陽一「フランス革命と法/第一節・フランス革命と近代憲法」長谷川正安=渡辺洋三=藤田勇編・講座・革命と法/第一巻・市民革命と法(日本評論社、1989)は明瞭に、「ルソー=ジャコバン型国家像」という概念を「トクヴィル=アメリカ型国家像」と対比される重要なものとして用いている。
 もっとも、「ルソー=ジャコバン型国家像」とは何かは分かりやすく説明されてはいない(丸山真男が「ファシズム」一般の定義をしていないのに似ている?)。
 樋口によると、「ルソー=ジャコバン主義」という語はフランスで用いられることがあるようなのだが、それは、<主権=政治の万能=国家とその法律の優越=一にして不可分の共和国>という脈絡で用いられている。これだけでは理解し難いが、1789年の否定・1793年〔ジャコバン独裁期-秋月〕の「ブルジョア革命」逸脱視を意味するのではなく、フランス近代法の「個人対集権国家の二極構造のシンポル」としてのそれらしい(以上、p.130-1)。要するに、<近代的>「個人」と(中央集権的)国家の対立(二極構造)を基本とするフランス的意味での<近代的>国家観のことなのだろう。
 別の箇所では、「ルソー=ジャコバン型国家像」は、フランス第三共和制(1875~)以来、「一般意思の表明としての法律の志高性」の観念のもとで「徹底した議会中心主義」の形態で実定化それてきた、ともいう(p.132)。
 大統領制との関係・差違は問題になりうるが、結局のところ、「ルソー=ジャコバン型国家像」とは国家と個人の対立構造を前提とした、「一般意思」=「法律」→法律制定「議会」(→議員を選出する者=「個人」(国民?、人民?、民衆?)を尊重又は重要視する、(フランス的)国家理念(像=イメージ)なのだろう。
 それはそれでかりによいとして、だが、かかる国家像をなぜ<ルソー=ジャコバン型>と呼ぶことに樋口陽一は躊躇を示さないのか、ということが気になる。今回の冒頭に示した菅孝行の言葉によっても、樋口は<ルソー=ジャコバン型>を消極的には評価しておらず、むしろ逆に高く評価しているようだ。
 そのような概念用法自体の中に、看過できない問題が内包されているように見える。

0507/桑原武夫編・日本の名著((中公新書、1962)と佐々木毅・政治学の名著30(ちくま新書、2007)

 一年以上前に桑原武夫編・日本の名著-近代の思想(中公新書、1962)に言及した。
→ 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/154432/
そして、アナーキスト・マルクス主義者・親マルクス主義者等の本が15程度は取り上げられていて多すぎる、1960年代初頭の時代的雰囲気を感じる、とか述べた。あらためて見てみると、桑原武夫の「なぜこの五〇の本を読まねばならぬか」との命令的・脅迫的なタイトルのまえがきの中には、「わたしたちは過去に不可避的であった錯誤のつぐないにあたるべき時期にきている」という、「過去」を「錯誤」とのみ切り捨てて<贖罪>意識を示す言葉もあった。
 また、あらためて50の本の著者全員をメモしておくと、つぎのとおり(1年余前にはかかるリストアップはしていない)。
 福沢諭吉・田口卯吉・中江兆民・北村透谷・山路愛山・内村鑑三・志賀重昂・陸奥宗光・竹越与三郎・幸徳秋水・宮崎滔天・岡倉天心・河口慧海・福田英子・北一輝・夏目漱石・石川啄木・西田幾太郎・南方熊楠・津田左右吉・原勝郎・河上肇・長谷川如是閑・左右田喜一郎・美濃部達吉・大杉栄・内藤虎次郎・狩野亮吉・中野重治・折口信夫・九鬼周造・中井正一・野呂栄太郎・羽仁五郎・戸坂潤・山田盛太郎・小林秀雄・和辻哲郎・タカクラ=テル・尾高朝雄・矢内原忠雄・大塚久雄・波多野精一・小倉金之助・今西錦司・坂口安吾・湯川秀樹・鈴木大拙・柳田国男・丸山真男
 名前すら知らない者も一部いるのだが、それはともかく、これらのうち、幸徳秋水や大杉栄は「読まねばならぬ」ものだったのだろうか。日本共産党員だった野呂栄太郎(山田盛太郎も?)、一時期はそうだった中野重治(他にもいるだろう)、マルクス主義者の羽仁五郎も「読まねばならぬ」ものだったのか。
 すでに被占領期を脱して出版・表現規制はなくなっているはずだが、「右派」と言われる者の本は意図的にかなり除外されているように見える。<日本浪漫派>とも言われた保田與重郎はない。「武士道」の新渡戸稲造もない。「共産主義的人間」(1951)の林達夫は勿論ない。「共産主義批判の常識」(1949)の小泉信三もない(小林秀雄はあるが、福田恆存江藤淳はまだ若かったこともあってか、ない)。
 上のうち秋水、河上、野呂、山田、羽仁、大塚の項を担当して何ら批判的な所のない記述をしているのは河野健二。  桑原武夫と河野健二はいずれもフランス革命研究者だが(中公・世界の名著のミシュレ・フランス革命史の共訳者ではなかったか?)、当時の主流派的フランス革命解釈を採用し、かついずれも親マルクス主義又は少なくとも「容」マルクス主義者だったとすれば、以上のような選択と記述内容になるのも無理はないのかもしれない。
 日本かつ近代に限定した上の本と単純に比較できないが、佐々木毅・政治学の名著30(ちくま新書、2007)という本もある。世界に広げかつ「政治学」関係に絞っている。そして、(良く言えば)バランスのとれた?佐々木毅による本のためかもしれないが、桑原武夫が1960年代に選択したとかりにしたものと比べると、ある程度は変わってきていると考えられる。
 すなわち、30の全部をメモしないが(日本人は福沢諭吉・丸山真男のみ)、ルソー、マルクス、へーゲルらの本とともに、バーク・フランス革命についての省察、ハミルトンら・ザ・フェデラリスト、トクヴィル・アメリカにおけるデモクラシー、ハイエク・隷従への道、ハンナ・アレント・全体主義の起源という、<保守主義>又は<反・左翼>の本も堂々と?登場させている。40年ほど経過して、<時代が(少しは)変わってきた>ことの(小さな?)証拠又は痕跡ではあるだろう。

0467/共産主義との闘い-人間が人間らしく生きるために。

 「なぜ1917年に出現した現代共産主義は、ほとんど瞬時に血なまぐさい独裁制をうちたて、ついで犯罪的な体制に変貌することになったのだろうか。…この犯罪が共産主義勢力によって、平凡で当たり前の施策と認識され実践されてきたことをどう説明できるのだろうか」。
 これはクルトワ等共産主義黒書コミンテルン・アジア篇(恵雅堂出版、2006)p.334の文章だ。「犯罪」はむろん粛清=大量殺戮を含む。
 この本はフランス人によるだけにフランス革命後のロベスピエール等によるギロチン等による死刑とテロルの大量さとの関連性にも言及しているのが興味深いが、この文章の「現代共産主義」は殆どソ連のみを意味する。だが、「現代共産主義」は欧州では無力になったとしても、東アジアではまだ「生きている」。アジア的・儒教的とか形容が追加されることもある、中国・北朝鮮(・ベトナム)だ。中国との「闘い」に勝てるかどうかが、これらの国を「共産主義」から解放できるかどうかが、大袈裟かつ大雑把な言い方だが、日本の将来を分ける。下手をすると(チベットのように<侵略>されて)中華人民共和国日本州になっている、あるいは日中軍事同盟の下で事実上の中国傀儡政権が東京に成立しているかもしれない。そうした事態へと推移していく可能性が全くないとはいえないことを意識して、そうならないように国と全国民が「闘う」意思を持続させる必要がある、と強く感じている。むろん「闘い」は武力に限らず、言論・外交等々によるものを含む。
 といって、現在の北朝鮮・中国情勢に関して日本「国家」が採るべき方策の具体的かつ詳細な案が自分にあるわけではない。だが、中国・北朝鮮対応は共産主義との闘いという大きな歴史的流れの中で捉えられるべきだし、将来振り返ってそのように位置づけられるはずのものだ、と考えている。
 近現代日本史も「共産主義」との関係を軸にして整理し直すことができるし、そうなされるべきだろう。共産主義がロシアにおいて実体化されなかったら、日本共産党(国際共産党日本支部)は設立されず、治安維持法も制定されなかった。コミンテルンはなく、その指導にもとづく中国共産党の対日本政策もなく、支那は毛沢東に支配されることもなかった。米ルーズベルト政権への共産主義の影響もなく、アメリカが支那諸政府よりも日本を警戒するという「倒錯」は生じなかった。悪魔の思想=コミュニズムがなかったら、一億の人間が無慈悲に殺戮される又は非人間的に死亡することはなかったとともに、今のような東アジアの状態もなかった。

0437/佐伯啓思・<現代文明論・上>のメモのつづき。

 佐伯啓思・<現代文明論・上>(PHP新書、2003)からの要約的引用のつづき。
 ・フランス革命の同時代の英国人、「保守主義の生みの親」とされるエドマンド・バークは1790年の著で、国家権力・「政府」は「社会契約などという合理主義でつくり出すことはできない」と述べ、フランス国王・王妃殺害の前、むろん「ジャコバン独裁」とその崩壊の前に、フランス革命は「大混乱に陥るだろうと予測した」。(p.162-3)
 ・バークによれば、フランス革命の「誤り」は「抽象的で普遍的な」「人間の権利」を掲げた点にある。「人間が生まれながらに自然に普遍的にもっている」人権などは「存在しない」、存在するのは抽象的な「人間の権利」ではなく、「イギリス人の権利」や「フランス人の権利」であり、これらは英国やフランスの「歴史伝統と切り離すことはできない」として、まさにフランス「人権宣言が出された直後に『人権』観念を批判した」。(p.166)
 ・バークによれば、「緩やかな特権の中にこそ、統治の知恵や社会の秩序をつくる秘訣がある」。彼は、「特権、伝統、偏見」、これらの「合理的でないもの」には「先人の経験が蓄積されている」ので、「合理的でない」という理由で「破壊、排除すべきではない」。それを敢行したフランス革命は「大混乱と残虐に陥るだろう」と述べた。(p.167-8)
 今回は以上。
 「合理的でないもの」として、世襲を当然視する日本の「天皇」制度がある。これを「破壊、排除すべきではない」、と援用したくなった。
 それよりも、<ヨーロッパ近代>といっても決して唯一の大きなかつ「普遍的な」思想潮流があったわけではない、ということを、あらためて想起する。
 しかるに、日本国憲法はこう書いていることに注意しておいてよい。
 前文「……<前略>。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
 第97条「……基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、…、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
 もちろん、客観的に「普遍の原理」にもとづいているのではなく(正確には、そんなものはなかったと思われる)、<制定者が「普遍的」だと主観的には理解した>原理が採用されている、と理解しなければならない。「生まれながらの」(生来の)とか「自然的な」自由・権利という表現の仕方も、一種のイデオロギーだろう。
 話題を変える。月刊WiLL5月号の山際澄夫論稿(前回に触れた)の中に、「(朝日新聞にそういうことを求めるのは)八百屋で魚を求める類であろうか」との表現がある(p.213)。
 上掲誌上の潮匡人「小沢民主党の暴走が止まらない!」を読んでいたら、(民主党のガセネタ騒動の後に生じたことは)「木の葉が沈み、石が浮くような話ではないか」との表現があった。
 さすがに文筆家は(全員ではないにせよ)巧い表現、修辞方法を知っている、と妙な点に(も)感心した。潮匡人は兵頭二十八よりも信頼できるが、本来の内容には立ち入らない。民主党や現在の政治状況について書いているとキリがないし、虚しくなりそうだから。

0431/佐伯啓思・<現代文明論・上>のメモ。

 佐伯啓思・<現代文明論・上>(PHP新書、2003)からの要約的引用のつづき。
 ・フランスにはアメリカと違い「きわめて貧しい」「市民階級」があり、「貧民市民層」の支配層(王・宮廷貴族・官僚・僧侶)への「恨み」・「怒り」=「ルサンチマンに彩られた自己意識、…被害者意識」がフランス革命を導いた「人々の心理」だった。革命は「権力の創出」(アメリカ)ではなく、「権力の破壊」に向けられた。(p.156-7)
 ・フランスでの「人民主権、…民主主義は、まずは反権力闘争として提示された」。フランス革命が生んだ「近代民主主義」は古典古代の如き「有徳の市民による政治参加」ではなく、「恨みと怒りに突き動かされた無産階級の、財産階級への闘争だった」。この意味で、「近代民主主義は、本質的に反権力的で、つねに権力を破壊しようとの衝動を伴っている」。(p.157)
 ・ロベスピエールはルソーを通して古代「共和主義」に共鳴して「徳の共和国」を作ろうとしたが、その「徳」は「貧者への同情に変形され」、その結果、フランス革命の「徳の共和国」は「徳のテロル」に変わった。(p.160)
 ・「ルソーの民主主義論」の二側面のうち「古典古代的な共和主義」・「市民的美徳」の再構成は「アメリカに受け継がれた」。また、アメリカ独立革命の指導者たちは「ルソー的な直接民主主義を完全に放棄」し、「連邦制という新たなシステム」を創出した。(p.161)
 ・もう一つの側面=「社会契約論を徹底した根源的な人民主権」は、「フランス革命に受け継がれた」。「古典的な共和主義や古典的市民の観念を失った近代民主主義は、フランス革命において凄惨な帰結をもたら」した。(p.162)
 以上。

0424/大月隆寛、辻村みよ子、保阪正康。

 1.産経新聞3/19の「断」というコラムで、大月隆寛が、福田康夫首相も用いた「生活者」という言葉に(「オルタナティブ」や「自立」と同様に)警戒する必要がある旨を書いている。<生活者(市民)の目線で>などと言っている政治家は信用できない旨をこの欄で書いたことがあり、大月には全く同感だ(大月の文章は愉快でもある)。
 大月は「プロ市民系のお札みたい」な言葉の筈なのに福田首相までが何故?、という叙述をしていたので、「市民」という言葉自体が「プロ市民系」の用語であることがあることを思い出した。いわく<市民運動>・<市民参加>・……。
 2.ここでさらに連想したのだが、憲法学者・辻村みよ子(現在、東北大学)は2002年に『市民主権の可能性-21世紀の憲法・デモクラシー・ジェンダー』という著書を刊行している(有信堂高文社)。「デモクラシー・ジェンダー」という概念の並び、すでにマルクス主義(但し、非共産党系と見られる)憲法学者としてその本の一部に言及した杉原泰雄(元一橋大)が指導教授だったらしいこと、と併せて推測すると、この「市民主権の可能性」というタイトル自体が、「プロ市民系」、「民主党社民党共産党界隈」(大月の上のコラム内の言葉)の概念である可能性があるだろう。
 安い古本が出れば、この辻村の本を読んでみたい。なお、
辻村みよ子には(これまた所持しておらず安い古本待ちだが)『人権の普遍性と歴史性―フランス人権宣言と現代憲法 』(1992)という本もある。ルソー・フランス革命・「人権宣言」に親近的な者であることにたぶん間違いない(かりに「賛美者」とは言えなくとも)。
 ついでにさらにいうと、辻村みよ子は小森陽一と岩波ブックレット・有事法制と憲法(2002)を書いてもいる。「プロ市民系」、「民主党社民党共産党界隈」の精神世界に居住する(と見られる)れっきとした憲法学者が国立大学(法人)に現にいらっしゃることを忘れてはならない。
 3.言葉、ということでさらに連想したのだが、かつては「左翼」又は進歩的文化人・知識人に馴染みだった筈の言葉に、<ファシズム>がある。この言葉自体はよいとしても(つまりドイツやイタリアについては使えるとしても)、少なくともかつては、日本も戦前(・戦中)は「ファシズム」国家だったという認識が、意識的に又は暗黙裡に表明されていたと思われる。何といっても、先の大戦は、<民主主義対ファシズム>の戦争で、道義的・倫理的にも優る前者が勝利した、と(GHQ史観の影響も受けて)語られてきたのだ。
 しかるに、丸山真男が典型だったが、戦前日本をファシズムと規定するかかる用語法は近年はあまり用いられなくなった、と思われる。
 ところが、この語を2006年の夏に平然と用いていた者に、評論家・保阪正康がいる。以下の記事にはこれまでも別の角度から言及したことがあるが、保阪正康は2006年8月の朝日新聞紙上で、次のように明記した。
 「…昭和10年代の日本は極端にバランスを欠いたファシズム体制だった…」、「無機質なファシズム体制」が2006年08.15に宿っていたとは言われたくない(「ひたすらそう叫びたい」)。
 さて、保阪正康は具体的には又は正確には「ファシズム(体制)」をどのようなものと理解し又は定義したうえで、日本はかつてその「体制」にあり、その再来を憂える、と主張しているのか。歴史家又は歴史評論家(とくに昭和日本に関する)を自認するのなら、この点を揺るがせにすることはできない筈だ。どこか別の本か何かに書いているのかもしれないが、かりに平然と又は安易に戦前日本=ファシズムというかつての(左翼に主流の)図式に現在ものっかっているだけならば、昭和日本に関する歴史家又は歴史評論家と自称するのはやめた方がよい。かりに「作家」の資格で文章を書いているとしても、かつての「プロ市民系」、<社会党共産党界隈>の概念を、その意味を曖昧にしたままで安易に用いるべきではなかろう。

0423/佐伯啓思・人間は進歩してきたのか(PHP新書)を半分以上読んだ。

 先週のいつ頃からだったか、二夜ほどで、佐伯啓思・人間は進歩してきたのか-「西欧近代」再考<現代文明論・上>(PHP新書、2003)の最初からp.168までを一気に読んだ。
 広いスパンだけに、むつかしくはない。だが、これは大学の全学共通科目(私の時代では「教養」科目)の講義を元にしてできた本のようで、当該科目を受講できた学生たちが羨ましい。自分も20歳前後にこんな内容の講義を(まじめに)聴いていれば、人生が変わったかも、と思ったりする。
 とりあえず、二点が印象に残る。
 第一に、何をもって、またいつ頃からを「近代」というかは問題だが、佐伯によると、中世=封建時代からただちに近代=自由・民主主義の時代に<発展>したわけではなく(ルネッサンス・「絶対王政」の時期が挟まる)、些か安易に一文だけ抜き出せば、「宗教改革という名のキリスト教の原理主義的回帰から、宗教から自立した近代的国家が成立し、世俗の領域が確立した」(p.81)。あえてさらに短縮すれば、宗教(神)から自立した世俗的国家・社会の成立こそが「近代」なのだ。
 これはむろん<ヨーロッパ(西欧)近代>のことで、かつ西欧でもフランス、イギリス、ドイツで異なる歴史的展開があったのだとすれば、<(ヨーロッパ)近代>の萌芽・成立・その後の「変化」を日本に当てはめるのは、キリスト教という宗教と<世俗>世界の対立・抗争に類似のものを日本は持たないことだけでも、もともと(よほどひどく単純化・抽象化しないかぎりは)不可能なことだろう。<進んでいる・遅れている>を論じても、-欧州「進歩」思想に全面的に同調しないかぎりは-無意味なのではないか。
 第二は、前回書いたことにかかわり、前回にすでに意識はしていたことなのだが、ルソーについてだ。
 ルソーについては前回も触れたが、中川八洋や阪本昌成の著書を参照しつつ、何度かその思想の中身に言及してきた。
 かつて自分がこの欄に書き記したことをほぼ失念しているが、佐伯啓思もほぼ同旨のことを(も)述べているように思う。以下、適当に要約的に引用する。
 ①万人が争う「自然状態」をなくして「自己の保存」(個人の生命・財産の安全確保)のために<契約>して「国家」ができるとするホッブズの矛盾・弱点-個人・市民と主権者・国家が乖離し後者が前者を抑圧するという可能性-を「論理的に解決」する考え方を示したのがルソーだ(p.115-6、p.119)。
 ②「近代」社会の合理性・理性主義を肯定し、「自由や平等に向けた社会改革」を支持するのが「啓蒙思想」だとすると、ルソーは(啓蒙主義者・啓蒙思想家としばしば称されるが)「啓蒙主義に対する敵対者」だった(p.119)。
 ③ルソーを啓蒙主義者の代表者にしたのは彼の著書『社会契約論』だが、この本の理解は容易でない。
 1.ホッブズと同様、「生命・財産の安全を確保するための契約」を結ぶ。但し、ホッブズの「契約」だと市民は国家・主権者に「結局、…服従」してしまうので、人間が「本来自然状態でもっていた基本的な自由」を失わず、「自分が何者かに決して従属しない」契約にする必要がある(とルソーは説く)。
 2.どうすればよいのか。「唯一の答えは、すべての人が主権者になるような契約」を行うことだ。これは、換言すると、「すべての者が従属者」でもある、ということ。この部分のルソーの叙述はわかりにくい。
 3.このわかりにくさの解消のために持ち出した「非常に重要な概念」が「一般意思」(p.121-3)。
 ④1.「一般意思」とは「すべての人が共通にもっているような意思(あるいは利害・関心)」。かかる「意思」を軸にして全ての人が結合でき、一つの「共同社会」ができる。この共同体は「すべての人が共通にもっている利害や関心を実現し、またそれを焦点にすることで形成される」。
 2.とすると、「共同体の意思」と「一人ひとりの人間」の「意思」は「同じはず」。「一般意思」による「共同体」形成により「個人の意思、利益、関心と社会の意思、利益、関心とは完全に一致する」。
 3.人はたしかに「共同体にすべて委ねてしまう」が、共同体に「従属」しはせず、むしろ「委ねる」ことにより自分の意思・利益を「いっそう有効に実現」できる。
 くり返せば、人がその生命・身体・全ての力を「共同体に委ね」、身体・全ての力を「共同のものとして、一般意思の最高の指導のもとに置く」。「自分自身を共同体に委ねてしまうことによって、逆に共同体の全体の力を、自分自身のものとして受け取ることができる」(p.123-4)。
 以上が、人は「自らが主権者であり、また服従者だ」ということの意味。 
 ⑤1.「一般意思」とは、個人の個々の関心の調整で生じるのではない、「もっと崇高」で「もっと根源的なもの」。
 もっとも基本的なものは「共同防衛」、「共同で自分たちの生命・財産を防衛すること」。
 2.共同防衛が「一般意思」ならば、人は「一度、全面的に一般意思に服」する必要がある。ルソーいわく、「共同体の構成員は…自己を共同体に与える。…彼自身と…彼のすべての力を、現にあるがままの状態で与える」。
 3.(佐伯は言う)「これはたいへんな話です」。「一般意思の実現のためには共同体に命を預けなければならない」。
 ルソーいわく、<統治者が国家のために死ねと言えば、市民は死ななければならない>。
 4.(佐伯は言う)上の2.3.のような面は「従来の政治思想史のなかでは…故意に触れられずにき」た。だが、かかる重要な点を欠いては、ルソーの社会契約論、つまり、「人々が契約によって社会状態に入り、なおかつ主権を維持するという論理は生まれえない」(p.125-8)。
 (以下にこそ本当は引用したかった部分が続くのだが、長くなりそうなので(すでに長いので)、結論的な叙述のみ引用しておく。)
 ⑥1.「一般意思」は事実上「人民(又は国民)の意思」に置換される。「『人民の意思』を名乗った者はすべてが許されます。彼に反対する者は『人民の敵』となるわけで、『人民の敵』という名のもとに反対者はすべて抹殺されてしまう」。「代表者に敵対する者は一般意思に対する裏切り者」で「共同社会に対する裏切り者」となる。「これは、独裁政治であり全体主義です」。
 2.「つまり、ルソーの論理を具体的なかたちで突き詰め現実化すると、まず間違いなく独裁政治、全体主義へと行き着かざるをえない。根源的民主主義は、それを現実化しようとすると、全体主義へと帰着してしまう」。
 3.「現にそれをやったのがフランス革命でした。フランス革命は。…ルソーの考え方をモデルにして行われた…。ルソーの最大の賛美者であり、徹底したロベスピエールは、まさに、自らが『人民の意思』を代表すると考え、人民の敵…といわれる者をすべて抹殺していく。いわゆるジャコバン独裁、恐怖政治に陥る」(p.134-5)。
 とりあえず以上。ルソーはフランス革命そして「近代」や「民主主義」の父などというよりも、ファシズムや社会主義(・共産主義)を用意した理論・思想を自らのうちに胚胎させていたのではなかろうか。
 ルソーがいなければマルクスも(そしてマルクスがいなければレーニンも)いなかった。中川八洋も同旨のことを繰り返し述べていたように記憶する。
 このように見ると、フランス革命を「学んだ」ポル・ポトらが「社会主義」の名のもとで自国民の大量虐殺を行ったのも何ら不思議ではない。と述べて、前回からのつなぎの意味も込めておく。

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  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
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  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
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  • 0775/総選挙と「左翼全体主義」、小林よしのり編・日本を貶めた10人の売国政治家(幻冬舎新書)。
  • 0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
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  • 0751/全体主義者・高嶋伸欣-週刊金曜日6/19号、NHK番組に関して。
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