秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

フランクフルト学派

2010/L・コワコフスキ著第三巻第10章第2節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.352-p.355.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第2節・批判理論の諸原理(principles)①。
 (1)「伝統的」理論に対する意味での「批判的」理論の規準は、Horkheimer の1937年の綱領的論考で定式化された。その主要なものは、以下のとおりだ。
 (2)現在までの社会現象の研究では、つぎのいずれかを前提として想定するのがふつうだった。第一は、社会現象研究は推論に関する通常の規則にもとづかなければならず、可能なかぎり量的に表現される、一般的観念や法則を公式化することを意図しなければならない、というものだ。第二は、現象主義者たちが考えるもので、経験的な結果から独立した「本質的」法則を発見するのは可能だ、というものだ。
 上のいずれの場合も、観察の対象となる事物の状態は、それに関する我々の知識から切り離されている。ちょうど、自然科学の研究主題が「外部から」与えられるように。
 知識(knowlege)の発展はそれ自体の内在的論理によって統御される、そして何らかの理論が他の理論のために無視されるとすれば、前者には論理的困難さがあるか、経験上の新しいデータと合致しないことが分かったからだ、とも想定されてきた。
 しかしながら、現実には、社会的変化は理論に変化を与える最も強力な要因だ。
 科学は、生産に関する社会過程の一部であり、その変化に応じて変化を受けざるを得なかった。
 ブルジョア哲学は、人々が知識の社会的由来や社会的機能を認識することを妨げる、そのような多様な先験論的(transcendentalist)諸教理でもって、科学とは別個に、誤りへと導く信念を表現してきた。
 ブルジョア哲学はまた、科学が与えることのできない評価的判断を要するがゆえに、凌いだり批判したりするのではなくて世界を叙述する、そのような活動だとして、知識に関する像を主張した。
 科学の世界は、観察者が一定の秩序へと切り縮めようとする、既製の事実の世界だった。まるで、そうした事実を感知すること(perception)は、その内部で生起する社会的外殻とは全く独立しているかのごとくに。//
 (3)しかしながら、批判理論にとって、そのような意味での「事実」は存在しない。
 感知を、その社会的発生源から切り離すことはできない。
 感知もその対象のいずれも、社会的で歴史的な産物だ。
 個々の観察者は客体<に対して>受動的だが、しかし、全体としての社会は過程のうちにある能動的な要素だ。無意識にそうであるかもしれないけれども。
 確定される事実は、考察者が用いる観念上の諸道具を修繕する人間たちの集団的な実践によって、部分的には決定される。
我々が知る対象たる客体は、部分的には諸観念と集団的諸実践の産物だ。そうした起源に気づいていない哲学者たちは、前個人的で先験論的な意識へと自らを間違って硬直化させている。//
 (4)批判理論は、社会観察者の一形態だと自らを見なし、そのような自分たちの機能と起源を自覚している。しかし、そうであっても、言葉の真の意味での理論ではない、と意味させているのではない。
 この理論の特有の機能は、つぎのことにある。すなわち、現存する社会-労働の分割、知的活動に割り当てられる場所、個人と社会の区別等々-にある規準は、自然で不可避のものだと、伝統的理論がそうするようには、単純に理解することを拒否すること。
 批判理論は、社会を全体として理解しようと追究する。そしてその目的のためには、ある意味では社会の外部の立場をとらなければならない。一方では、自らを社会の産物だと見なすのだけれども。
 現存社会は、その社会の構成員の意思とは別個の「自然の」所産のごとく行動する。そして、このことを理解することは、構成員たちが被っている「疎外」を認識することだ。
 「批判思考は、本当に緊張状態を超越し、かつ個人の合目的性、自発性および合理性と社会の基礎である労働の条件の間の対立を除去すべく努める、という動機をいまや有している。
 これは、人間はこの自己一体性(identity)を回復するまでは自分自身と対立する、という観念をもつことを、その意味に包含する。」
 (A. Schmidt 編, <批判理論>第二巻, p.159.)
 (5)批判理論は、知識に関する絶対的な主体は存在しないこと、その過程は実際には社会の自分に関する知識なのだが、主体と客体は社会に関するその思考の過程でまだ合致していないこと、を承認する。
 この合致は、将来のことだ。しかし、それは将来のたんなる知的な進歩の結果ではなくて、社会生活から擬似自然的な「外部」性を剥ぎ取ることによって人間を再びその運命を宰どる主人に変える、そのような唯一の社会過程の結果だ。
 この過程は、理論の性質に、また思考の機能およびその客体との関係に生じる変化を含んでいる。//
 (6)これから見るように、ここでのHorkheimer の見解は、ルカチ(Lukács)のそれに近い。すなわち、社会に関する思考はそれ自体が社会的事実であり、理論は不可避的にそれが叙述する過程の一部になる。
 しかし、重要な違いは、つぎのことにある。
 ルカチは、歴史に関する主体と客体の完全な統合は、したがってまた社会的実践とそれを「表現する」理論の統合は、プロレタリアートの階級意識の中で実現される、そのことからして、観察者のプロレタリアートの階級観(つまり共産党の方針)との自己一体化は理論的な正しさ(correctness)の保障となるということになる、と考えた。
 Horkheimer は、プロレタリアートの状態は知識の問題では何の保障をも提供しないと宣告して、これを明示的に拒否する。
 批判理論はプロレタリアートの解放に賛成だが、プロレタリアートが自立性を保持するのも望む。そして、プロレタリアートの見地を受動的に受容すると決することを拒む。
 そうでなければ、批判理論は社会心理学に、所与のときに労働者が考えたり感じたりすることをたんに記録することに、変質するだろう。
 正確にいえば「批判的」であるがゆえにこそ、理論は、全ての現存する社会意識の諸形態<に向かいあって>自立したままでなければならない。
 理論は、より良き社会を創造しようとする実践の一側面だ。
 理論は戦闘的性格をもつが、単純に現存の闘争によって作動するのではない。
 社会システムの「全体性」に対するそれの批判的態度は、理論上の発見物に重ねられた価値判断の問題ではなく、暗黙のうちにマルクスから継承されている、観念上の諸装置のうちにある。つまり、階級、搾取、剰余価値、利潤、貧困化のような諸範疇は、「その目的が社会を現状のままに再生産することではなく正しい(right)方向へと変革することである観念体系全体のうちの諸要素だ」(同上、p.167.)。
 理論はかくしてそれ自体の観念上の枠組みにおいて、能動的で破壊的な性格をもつ。しかし、現実のプロレタリアートの意識とは反対になり得るということを考慮しなければならない。
 批判理論は、マルクスに従って、抽象的諸範疇を用いて社会を分析する。しかし、いかなるときでも批判理論は、理論<として(qua)>、それが描写する世界の批判論であり、その知的行為は同時に社会的行為であり、かくしてマルクスの意味での「批判」である、ということを忘却していない。
 それの研究主題は、単一の歴史社会だ。すなわち、人間の発展を妨害し、世界を野蛮さへの回帰でもって脅かしている現在の形態での、資本主義世界だ。
 批判理論は、人間男女が自分自身の運命を決定し、外部的な必然性に服従しないもう一つの社会を展望する。
 そのようにして、批判理論は、そのような社会が出現する蓋然性を増大させるのであり、かつこのことに気づいている。
 将来の社会では、必然性と自由の間には何の違いも存在しなくなるだろう。
 この理論は人間の解放と幸福および人間の能力と必要に適応した世界の創造に奉仕する。そして、人類は現存する世界で他の者たちが表明している以上の潜在的能力をもつ、と宣言する。//
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 第2節②につづく。

2009/L・コワコフスキ著第三巻第10章第1節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章・第1節の試訳のつづき。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第1節・歴史的・伝記的ノート③。
 (11)ドイツ文化に対して惨憺たる影響を与えたナツィズムの勝利によって、当然のこととしてフランクフルト学派の関心は、全体主義の驚くべき成功の心理学的および社会的な原因を考究することへと向かうことになった。
 ドイツとのちのアメリカ合衆国のいずれでも、研究所は、権威を望みその権威に服従する用意のあることを示した民衆の心理を研究する目的で、経験的な研究を行った。
 1936年の共著<権威と家族に関する研究>はパリで出版されたが、経験的観察とともに理論的な検討にもとづくものだった。
 これの主要な執筆者は、Horkheimer とFromm だった。
 Horkheimer は、家族の権威の消失と転移およびそれに対応した個人の「社会化」過程での政治制度の重要性の増大という趣旨で、権威主義的諸装置の成長を説明しようとした。
 Fromm は、心理分析の観点から権威への欲求を解釈した(サドマゾヒズム性)。
 しかしながら、Fromm は、本能と共同的生活の必要の間の不可避の対立あるいは文化の永続的な抑圧的役割に関する、フロイトの悲観主義を共有しなかった。
 フランクフルト学派の執筆者たちは、ナツィズムという現象に多様な側面から光を照らし、その心理学的、経済的および文化的根源を発見しようとした。
 Polleck は、国家資本主義という観点でナツィズムを議論した。彼はこれのもう一つの例を、ソヴィエト体制に見ていた。すなわち、この二つの体制は、国家が指令する経済、国家主義傾向、および強制力による失業の排除にもとづく支配と抑圧という、新しい時代を予兆している、と。
 ナツィズムは従来の資本主義を継続させたものではなく、経済が自立性を剥奪されて政治に従属する、新しい形成物だ。
 この学派のほとんどの執筆者たちは、現今の趨勢、つまり個人に対する国家支配の増大、社会関係の官僚主義化を見ると、個人の自由と本当の文化の見込みは乏しい、と考えた。
 ナツィとソヴィエトは歴史の逸脱ではなく、世界的な動向の兆候だ、と彼らは考えた。
 しかしながら、Franz Neumann は1944年の書物で、より伝統的なマルクス主義的見方を採用した。すなわち、ナツィズムは独占資本主義の一形態であり、その〔独占資本主義〕システムとの典型的な「矛盾」に巧妙に対処することはできないので、その存続期間は必然的に限られている。//
 (12)フランクフルト学派はアメリカで、全体主義体制の特徴である心理、信条および神話を生み出して維持する原因を明らかにすべく、社会心理分析の研究書を出版し続けた。
 これらの中に、反ユダヤ主義に関する一巻本やAdornoらの投影検査法や質問書にもとづく共著<権威主義的人格(The Authoritarian Personality)>(1950年)も含まれていた。
 これは権威を歓迎し崇敬する傾向にある異なる人格的特質の相互関係、およびこれらの特質や階級、養育、宗教のような社会的変数の存在と強さの連結関係に関する研究書だった。//
 (13)Adorno とHorkheimer は生涯にわたってきわめて活動的で、戦後のアメリカとドイツで諸著作を出版し、フランクフルト学派の古典的な文書だと見なされている。
 それらの中には、共著<啓蒙の弁証法>(1947年)、Horkheimer の<理性の腐食>(1947年)および<道具的理性批判について>(1967年)がある。
 Adorno には音楽学に関する多数の書物があるが(<新しい音楽の哲学>1949年、<不協和音-管理社会の音楽>1956年、<楽興の瞬>1966年)、この学派の哲学的概括書である<否定弁証法>(1966年)、実存主義批判書(<本来性という術語-ドイツのイデオロギーについて>1964年)、さらにはそのうちいくつかが<プリズメン(Prismen)>(1955年)に収載された文化理論に関する小論考も、出版した。
 彼はまたScholem と一緒に、二巻本のベンヤミン著作集(1955年)を編集した。
 Adorno の未完の<美の理論>は、死後の1973年に刊行された。
 上記のうち三つの英訳書(<啓蒙の弁証法>、<否定弁証法>、<本来性という術語>)も、1973年に出版された。//
 (14)私は、以下の諸節では、「批判理論」の主要点のいくつかを、年次的順序と無関係に、もっと十分に叙述する。
 Adorno の音楽理論は考慮外にしよう。重要でないという理由によってではなく、この分野についての私の能力のなさによる。//
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 第2節につづく。表題は、<批判理論の基本的考え方(principles)>。

2008/L・コワコフスキ著第三巻第10章第1節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章・第1節の試訳のつづき。
 分冊版、p.347-p.350.  合冊版p.1065-1067. 一部について、ドイツ語版も参照した。
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 第3巻/ 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第1節・歴史的・伝記的ノート②。
 (7)実証主義の現象主義的立場と闘う際に、フランクフルト学派は青年マルクスの歩みをたどり、同じ関心によって刺激されていた。
 彼らの目的は、人は実際に何であり、真の人間性(humanity)のための必要条件は何であるかを確認することだった。-これは経験的に観察することも恣意的に決定することもできない、そして発見しなければならない、本質的な目標だった。
 この学派のメンバーたちは、人間のまさにその人間性という理性によって何かのある物の原因は人間に由来すると、そしてとくに、人間は幸福と自由へと至る資格があると、考えたように見える。
 しかしながら、彼らは、人間性は労働の過程で実現される、あるいは労働それ自体が現在または将来に「人間性の本質」を明らかにしてそれを完璧なものにする、という青年マルクスの考え方を、拒む傾向にあった。
 こうした議論では、人間性というパラダイム(paradigm)を忠実に追求することがどのようにして人間は歴史でのその自己創造によって決定されるという考えと調和することになるのかが、いっさい明瞭ではない。
 知的な活動は歴史的実践という束縛を超えることができないという言明がどのようにして、「全世界的(global)な」批判を要求することと一致するのかも、明らかではない。そのような批判では、実践の全体性は理論または理性と対立するのだ。//
 (8)批判的理論のこうした全ての要素は、すでに1930年代にHorkheimerに存在している。Marcuse やAdorno におけると同じように。
 Adorno は、主体性と客体の問題を、そしてとりわけKierkgaard の哲学分析や音楽批判の論脈で、「物象化」の問題を研究した。
 独占資本主義のもとでの芸術の商品性は、彼につねにあった研究主題だった。
 彼には、ジャズ音楽は全体として、頽廃の兆候であると思えた。
 主要な論点は、大衆文化での芸術は「否定的」機能を、すなわち現存する社会の上にありかつそれを超えるユートピアを再現するという機能を喪失している、ということだった。
 彼が反対したのは芸術の政治化というよりもむしろ、それとは逆に、受動的で無神経な娯楽のために芸術の政治的機能が減少することにあった。//
 (9)Walter Benjamin の著作を、マルクス主義の歴史の観点から完全に要約することは不可能だ。
 哲学および文学批判に関するその多数の著作の中には、マルクス主義の系譜を示すものはほとんどない。
 にもかかわらず、彼は長きにわたって、彼が独特に理解した意味での歴史的唯物論の支持者だった。そしてときには、共産主義にも共感を示した。共産党には加入しなかったけれども。
 Benjamin は、マルクス主義とは何の共通性もない、あらかじめ作り上げていた彼自身の文化に関する理論にもとづいて、歴史的唯物論を把握しようとしたと思える。
 彼の親友でユダヤ教の歴史に関する当時の最大の権威の一人だったGershom Scholem は、Benjamin はきわめて強い神秘的性向の持ち主で、終生にわたってマルクスをほとんど読まなかった、と強調している。
 Benjamin はつねに言葉の隠された意味に関心をもち、これに関連して、秘儀(cabbala)や魔術の言葉、および言葉の起源と作用に関して、関心を強めた。
 彼は、歴史的唯物論を歴史の秘密の意味を解くことのできる暗号符だと捉えたように見える。しかし彼は、自分が考察する際の歴史的唯物論の教理は、人間の行動を自然のうちに存在する一般的な「擬態的」衝動と結びつける、そういうもっと一般的な理論の特殊な場合または一つの適用例だと考えた。
 いずれにせよ、彼の歴史に関する考察は一般的な進歩理論あるいは歴史的決定論とは何の関係もなかった。
 それに対して彼を魅惑したのは、歴史、神話学および芸術のそれぞれにある一回性と頻出性の弁証法だった。
 共産主義が彼を惹き付けたと思われるものは、歴史の規則性という信条ではなく、むしろ歴史の非連続性の思想だった(そのゆえに彼のSorel への関心も生じた)。
 死の数カ月前に書いた<歴史概念論(Thesen über den Begriff der Geschichte)>で、彼は、歴史という河の流れに沿って泳いでいるという確信ほどにドイツ労働者運動にとって破壊的なものものはない、と述べた。
 彼の見解によると、とくに有害で疑わしいのは、利用する対象だと自然を見てそれを進歩的に制圧する過程が歴史だとするすマルクス主義の諸範型だった。-これに彼は、技術者支配(テクノクラート、tecnocratic)のイデオロギーの匂いを嗅いだ。
 同じ上の書物で、彼は、歴史は構成物であり、その意味で空虚な、未分化の時間ではなく、<今(Jetztzeit)>で充ち満ちたものだ、と書いた。-現在に絶えず再生される、過ぎ去ったものの出現だ。
 消え去らない「現在性」(presentness)というこの問題は、彼の著作のいくつかの箇所で現れる。
 Benjamin は、過去の永続性について強く保守的な感情をもち、その感情を歴史の非連続性という革命的信条と合致させようと努めた。
 彼はこの後者の歴史の非連続性の考えを、マルクス主義の教理とは反対に、真に内在的な終末(eschatology)は不可能だと考えて、ユダヤ的救世主(Messianic)伝統と結びつけた。
 そして、<終末日>(eschaton)は出来事の推移の自然な継続として現在に出現するのではなく、時間の空隙を通じて救世主(Messiah)の降臨として出現する、という見解を抱いた。
 しかし、歴史の非連続的で厄災的な性格は、意味を生む力を過去から取り去ることはできない。
 Benjamin の、芸術と神話や礼拝の間の古代的な連結の消失に関する多様な両義的で曖昧な考察から読み取ることができるのは、この空隙という断絶が本当の収穫物(pure gain)だとは決して考えなかった、ということだ。
 彼は、かりに文化が存続し続けるとすれば、何がしか本質的なものは人類の神話的な伝来遺産でもって救われて残される、と考えたように見える。
 彼はまた、人間の言語や芸術では創造されないが明示されはする人間の諸感覚(the senses)がもともと存在している、と明らかに考えたように見える。
 彼によれば、言語が意味を伝えるのは、慣習や状況でもってではなく、客体や経験との一種の錬金術師的な親和性によってだ(これとの関係で彼は、言語の起源に関するMarr の考察に関心をもった)。
 実証主義には特徴的な、言語はたんに道具にすぎないという見方は、彼には、技術支配政(technocracy、テクノクラシー)へと向かっている文明の中で、継承した意味を全体的に瓦解させた断片だと思えた。
 (10)Benjamin はときおりマルクス主義者だと告白したが、それにもかかわらず、彼は相当の部分でマルクス主義と一致していたとは思えない。
 芸術の商品化から帰結する多様な形態での文化の退廃に関心をもった点では、彼はたしかにフランクフルト学派と結びついていた。
 彼はしばらくの間はこの学派の他のメンバーたち以上に、プロレタリアートの解放に向かう潜在的能力を信じた。しかし、彼の見方によれば、プロレタリアートは新しい生産様式の組織者というよりもむしろ、神話の影響が衰退するにつれて消滅していった諸価値をいつか回復する、そのような文化の標準的な担い手だった。//
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 第1節③へとつづく。

2005/L・コワコフスキ著第三巻第10章<フランクフルト学派>第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.343-p.347.
 第1節の最初の部分は11段落に分けて人物の系譜等を叙述しているが、改行による段落分けがやや多すぎるので、ここでは便宜的に、(1)で一括する。(2)以降は、原書(=英訳書)の段落分けのとおり。
 <>内は、これまでどおり、原書で斜字体(イタリック)の部分。
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 第3巻/ 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第1節・歴史的・伝記的ノート①。

 (1)社会研究所は、青年知識人たちによって1923年の初めにフランクフルトで設立された。
 資金は彼らのメンバーの一人のFelix Weil の家族によって寄付されたが、研究所は公式にはフランクフルト大学の一部署だった。
 主要な設立者および初期のメンバーは、つぎのとおり。
 Friedrich Pollock(1894-1970)は経済学者で、のちにソヴィエト・ロシアの計画経済に関する最初の真摯な分析で知られた(<ソヴィエト同盟の計画経済の試み, 1917-1927>(1929年))。
 Carl Grunberg (1861-1940)は初代研究所長で、ほとんどのメンバーたちと異なる知的背景をもつ人物だった。
 古い世代の正統マルクス主義者で、労働者運動の歴史を専門とし、<社会主義および労働者運動の歴史に関する雑誌>を編集した。
 Max Horkheimer(1895-1973)は研究所の中心人物で、1930年から所長だった。心理学者かつ教育を受けた哲学者。Hans Cornelius の生徒で、Kant に関する書物の執筆者。
 もう一人の最も初期のメンバーはKarl Wittfogel (1896年生れ)で、当時は共産党員、のちに中国の歴史に関する著作の執筆者として知られた(<中国の経済と社会>(1931年)、<東洋の僭政体制>(1957年))。
 彼は数年間だけ研究所で仕事をした。
 この人物のマルクス主義史上の重要性は、マルクスがほとんど触れなかった、「アジア的生産様式」に関する問題を考究したことだ。
 しかしながら、フランクフルト学派を典型的に代表する者だと見なすことはできない。
 Horkheimer と並んでフランクフルトでの個人的な哲学学派の形成に決定的に寄与したのは、Theodor Wiesengrund-Adorno (1903-1970)だった。1920年代遅くまで研究所には入らなかったけれども。
 哲学者、音楽理論家かつ作曲家で、Husserl の研究で博士の学位を得た。そして、Kierkegaad の美学に関する論著も書いた。
 彼は1925年以降、ウィーンで作曲と音楽理論を研究した。
 Horkheimer とAdorno は、二人の間でフランクフルト学派の具体化を行ったと考えてよいかもしれない。
 Leo Lowenthal (1900年生れ)もかなり遅くに研究所に加わり、文学(literature)の歴史と理論に関する著作でこの学派のイデオロギーに顕著な貢献を行った。
 研究所がドイツを去ったあと、1930年代に、Walter Benjamin (1892-1940)が加わった。この人物は、両大戦間の最も高名なドイツ文学批評家だった。
 しかしながら、彼の著作はマルクス主義の発展に対する寄与という点では重要でない。すなわち、フランクフルト学派の著名な執筆者全ての中で最も、マルクス主義運動とは関係がなかった。
 Wittfogel 以外に共産主義者だったのは、すでに別の章〔第8章-試訳者〕で論述したKarl Korsch 、およびFranz Borkenau だった。
 Borkenau は主として、党と決裂したあと共産主義を攻撃したことで知られている。
 しかしながら、彼の資本主義の成立に関する書物(<封建的世界像からブルジョア的世界像への移行>(1934年))は、フランクフルト学派の所産だと考えてよいだろう。というのは、この書物は、研究所での典型的な研究課題だった、市場経済の広がりと合理主義哲学の間の関係を分析するものだからだ。
 Henryk Grossman (1881-1950)はポーランド・ユダヤ人で、1920年代の遅くから研究所とともに仕事をしたが、典型的なメンバーではなかった。
 この人物は伝統的なマルクス主義正統派に属しており、利益率の低下と資本主義の崩壊に関するマルクスの予言を確認する目的をもって、経済分析に従事した。
 1930年代の初頭に、Herbert Marcuse が研究所に加わった。この人物については、こののちのその活動を説明すべく、別の章〔第11章-試訳者〕で論述する。
 かつてのフロイト主義者の中で最も有名な異端派の一人である、Erich Fromm についても〔第12章-試訳者〕。
 (2)研究所は1932年から、主要機関誌である<社会研究雑誌(Zeitschrift fur Sozialforschung)>を発行した。この雑誌に、この学派の基本的な理論上の文書の多くが掲載された。
 アメリカ合衆国に移ったのち、この<雑誌>は、<哲学と社会科学の研究>というタイトルのもとで2年間継続した(1939-1941年)。//
 (3)1933年初めにナツィスが権力を掌握したとき、もちろん、研究所はドイツでの活動を継続することができなかった。
 従前に支部がジュネーヴに設立されていたので、このときにドイツのメンバーたちはここに移った。
 パリに別の支部が設立され、ここで<雑誌>は発行され続けた。
 Adorno は、亡命生活の最初の数年間を、オクスフォード(Oxford )ですごした。その後1938年にアメリカ合衆国に移った。このアメリカに、研究所のほとんど全てのメンバーたちが遅かれ早かれ到着した(Fromm はその最初の人物だった)。
 Wittfogel は数ヶ月間強制収容所にいたが、最終的には解放された。
 <エミグレ (Émigrés)>〔移民・亡命者たち〕は、コロンビア大学に国際社会研究所を設立した。この研究所はフランクフルトでの企画を継続し、同様の方向にある新しい企画を開始させた。
 1935年以降はパリに住んでいたWalter Benjamin は、1940年9月にナツィスから逃れて、フランス・スペイン国境で自殺した。
 Horkheimer とAdorno は、第二次大戦中をニュー・ヨークとロサンゼルスですごした。
 彼らはそれぞれ1950年と1949年にフランクフルトに戻り、そこの大学で教授職を得た。
 Fromm、Marcuse、Lowenthal およびWittfogel は、アメリカにとどまった。//
 (4)フランクフルト学派の基礎的な考え方は認識論と文明批判のいずれにも当てはまるもので、Horkheimer の一連の論文によって定式化された。この諸論文のほとんどは、<批判的理論>というタイトルで1968年に再発行された(全2巻、A. Schmidt 編)。
 この論文のうち最も一般的で綱領的であるのは、1937年に執筆された「伝統的なものとと批判的理論」と題するものだった。
 その他のものは、多様な哲学上の問題を扱っていた。例えば、批判的理論の、合理主義、唯物論、懐疑主義および宗教との関係だ。
 我々は、Bergson、Diltheyおよびニーチェに関する批評文、あるいは哲学の役割、真実という観念および社会科学の独特の性格に関する小論考も、見出すことができる。
 「批判的理論」という語のHorkheimer の用い方は、彼の哲学的接近方法の三要点を強調することを意図している。
 第一に、マルクス主義を含む既存の諸教理<に対する>自立性。
 第二に、文明は治癒不可能なほどに病んでおり、たんなる部分的改良ではない急進的な改変を必要としている、という確信。
 第三に、現存社会の分析はそれ自体でその社会の一要素、その社会の自己意識の一形態だ、という信念。
 Horkheimer の思考には、マルクス主義の基本的考え方が浸透していた。その考え方とは、哲学、宗教および社会学的思想は異なる社会集団との関係でのみ理解することができ(しかし全てが「究極的には」階級利益に行き着くというのではなく)、その結果として理論は社会生活の一部になる、というものだ。
 彼は他方で、理論の自律性を擁護した。そして、これら二つの観点の間には解消されていない緊張関係がある。
 Horkheimer は、経験論者、実証主義者およびプラグマティストに対してヘーゲルの理性を擁護する。
 我々は真実を確認することができる、それは経験上の仮説または分析的判断としては表現することができない、と彼は確信していた。
 しかし、思うのだが、超自然的な主体に関するいかなる理論をも彼は受容していなかっただろう。
 彼は、科学主義に、換言すれば自然科学で現実に使われている方法は、我々が何らかの価値の認識し得る結果を獲得するために必要とする全ての知的装備で成り立っているという見方に、反対する。
 こうした見方に対して、彼は少なくともつぎの二点で、異論を唱える。
 第一に、自然科学とは違って社会的諸問題については、観察すること自体が観察されるものの中にある一要素だ。
 第二に、知の全ての分野で、経験的および論理的規準に加えて、理性(Reason)の活動が必要だ。
 但し、理性を支配する諸原理は、まだ十分には明瞭になっておらず、我々はそれをどこから導き出すのかはっきりしていない。//
 (5)このようなHorkheimer の思考は、Adorno の<否定的弁証法>のような、のちのフランクフルト学派の諸著作を本質的な点で予兆するものだった。
 すなわち彼は明らかに、伝統的にヘーゲル主義やマルクス主義が疑問視したことを論じるに際して、何とかして、全ての「還元主義」的定式を避けることになる。
 個人の主体性を完全に社会的範疇の中で叙述することはできず、社会的な原因へと完全に解消することもできない。ましてや、社会を心理学上の概念でもって叙述することはできない。
 主体は絶対的な優越性をもつもので、客体のたんなる派生物にすぎないのではない。
 「土台」も「上部構造」も、明らかに第一次的なものではない。
 「現象」と「本質」は、相互に独立して存在するものではない。
 実践は、理論を全て吸収することはできない。
 こうした思考は、しかしながら、厳密なものではなく、我々がただちにあらゆる「還元主義」、教条主義、観念論および世俗的唯物論の誘惑を抑えることができる方法論的規準の基礎を提供するほどのものではない。
 相互作用がある全ての場合で、我々は、相互に影響し合うが自律性の境界が明確に引かれている、そういう諸要素の部分的な自律性を意識して論じなければならない。
 恒常的な「媒介項」の必要を強調して、Horkheimer は明らかに、全ての「還元主義」的伝統に対する自分の立場を守ろうと努めている。//
 (6)Horkheimer からその他のフランクフルト学派の諸著作まで、つぎのことも明らかだ。
 すなわち、批判的理論は、経験論や実証主義の諸教理を、社会諸生活での技術や専門技術制的傾向の礼賛と関連させている。
 この学派の主要な主題の一つは、本質的には価値の世界とは無関係の科学が役立っている技術の進歩によって、世界は危機に瀕している、ということだ。
 かりに科学的な規準と制限が全ての認識活動を支配して、価値判断を生み出すことができないようになれば、科学と技術の進歩は、全体主義社会へと、人間存在の操作のいっそうの容易化と文化の破壊や個性の破壊へと、至ることを余儀なくしている。
 そのゆえに、ヘーゲルの理性(Reason、<Vernunft>)は理解(understanding、<Verstand>)と反対のもので、「全世界的な」判断を定式化することができる。非合理的に決定される目的を達成する手段のみならず、追求すべき目的をも予め定めることによって。
 科学者文化はこれを行うことができないし、行うつもりもない。なぜなら、その文化にとって、目的を科学的に決定することはできず、目的決定は気まぐれの問題に違いないからだ。
 しかしながら、Horkheimer もフランクフルト学派のその他のメンバーたちも、つぎのことを説明することができているようには思えない。
 同じ認識にある同僚専門家たちならば目的と手段の両者をどのようにして決定することができるのか?、あるいは、我々はどのようにすれば、諸現象の観察から、経験的に人がどうであるかのみならず自分自身の本性を完全に実現するならば人はどうなるかをも教えてくれる、そのような隠された「本質」を理解することにまで、進むことができるのか?//
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 第1節②へとつづく。

2004/L・コワコフスキ著第三巻第10章<フランクフルト学派>序。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する論述の試訳へと進む。分冊版、p.341-p.395.の計55頁ぶん。
 表題つきの各節の前の最初の文章には見出しがない。かりに「(序)」としておく。
 原書と違って一文ごとに改行し、各段落に原書にはない番号を付す。
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 第3巻/ 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 (序)
 (1)「フランクフルト学派」という語は、1950年代以降にドイツの擬似マルクス主義(para-Marxist)運動を指し示すために使われてきた。その歴史は、1920年代初頭に遡り、社会研究所(Institute für Sozialforschung)の歴史と結びついている。
 ここで「学派」(school)とはマルクス主義内部での他の傾向と比べて、より厳格な意味で用いてよい。よくあるように、特定の個々人がこれに属するのか否か、およびどの程度に属するのかについては、疑問があるけれども。
 いずれにせよ、二世代にまたがる、明らかに継続的な思考様式がある。
 先駆者たちはもう生存していないが、彼らはこの分野の継承者たちを残した。//
 (2)フランクフルト学派には豊富な学術的で広く知られた著作物があり、人文社会(humanistic)の学問分野の多くに及ぶ。哲学、経験社会学、音楽理論、社会心理学、極東の歴史、ソヴィエト経済、心理分析、文学の理論および法の理論。
 ここでの短い説明でこれらの成果について全体としてコメントしても問題はあり得ないだろう。
 この学派は、第一に、マルクス主義をそれに対する忠誠さを維持しなければならない規範としては把握しなかった、という特質がある。規範ではなくて、現存する文化を分析し、批判するための出発点および助けだと見なしたのだ。
 このことからしたがって、この学派は、ヘーゲル、カント、ニーチェおよびフロイトのような、多数の非マルクス主義の淵源から、発想の刺激を得た。
 第二に、この学派の基本的考え方は、明確に非党派的(non-party)だった。
 すなわち、特定の共産主義または社会民主主義による、いかなる政治運動とも一体化しなかった。むしろこれら二つに対して、しばしば批判的な態度をとった。
 第三に、この学派は明らかに、1920年代にルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)が進展させたマルクス主義の解釈に影響を受けていた。とくに、現代世界の諸問題の縮図としての「物象化(reification)」という観念の影響を。
 しかしながら、これをルカチの門弟たちの学派だと見なすことはできない。なぜならば、このメンバーたちは-ここに第四の重要点があるが-、つねに理論の自主性と自律性を強調し、全てを包み込む「実践」に吸収されることに反抗してきたからだ。彼らがたとえ、社会変革の見地から社会を批判することにも専心してきたとしても。
 第五に-ここで再びルカチとは根本的に異なるのだが-、フランクフルト学派はプロレタリアートの搾取と「疎外」に関するマルクスの立場を受容しつつも、現存する階級意識と考えるという意味では、後者と一体視しなかった。<先験的な(a priori)>規範としての共産党の権威的指令については言うまでもない。
 フランクフルト学派は、社会の全分野に影響を与える過程としての「物象化」の普遍性を強調した。そして、プロレタリアートの革命的なかつ解放者としての役割をますます疑問視するようになり、最終的にはマルクスの教理のうちのこの部分をすっかり投げ棄てた。
 第六に、マルクス主義正統派に<対して>はきわめて修正主義的だったけれども、この学派は自分たちを革命的な知的(intellectual)運動だと考えた。
 改良主義的立場を拒絶し、社会の完全な移行の必要性を主張した。但し、ユートピア像を積極的には提示できないことをこの学派は認め、現在の条件ではユートピアを創り出すのは不可能だとすら認めていた。//
 (3)この学派が発展していく時代は、ナツィズムの勃興、勝利および瓦解の時代でもあり、その著作物の多くは、人種的偏見、権威の必要性、全体主義の経済的およびイデオロギー的起源のような、重要な社会的、文化的諸問題に関係していた。
 この学派の主要なメンバーのほとんどは、中産階層のドイツ・ユダヤ人だった。
 僅かに数人だけがユダヤ人共同体と現実の文化的連結関係にあったのだけれども、彼らの出自は疑いなく、この学派が関心をもった問題の射程範囲に影響を与えた。//
 (4)フランクフルト学派は、哲学において、知識と科学方法論の理論についての論理的経験主義や実証主義の傾向と論争した。のちには、ドイツ実存主義とも。
 そのメンバーたちは「大衆社会」を、そして、マス・メディアの影響力の増大を通じた、文化の頽廃、とくに芸術(art)の頽廃を攻撃した。
 彼らは、大衆文化の分析と激烈な批判の先駆者たちで、この点では、ニーチェの継承者であり、エリートの価値の擁護者だった。
 このような批判を彼らは、職業的官僚機構が大衆を操作する手段がますます効率的なものになっていく社会に対する批判と結合させた。そのような社会は、ファシストと共産主義者の全体主義および西側民主主義の両方について言えることだった。
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 第1節につづく。その表題は、<歴史的および伝記的なノート>。

1897/Wikipedia によるL・コワコフスキ②。

 'Leszek Kolakowski' は英米語版のWikipedia も勿論あるが(日本語版はひどい)、その著、'Main Currents of Marxism' という書物自体も、英米語版Wikipedia は項目の一つにしている。
 以下は、その試訳。2018年12月21日現在。なお、この欄で合冊版の発行年を、所持している版の発行年2008年としたことがあり、最近では書物の最初部分に依拠して最も若い年の2004年としているが、以下では2005年だと記されている。( )は改行後を示すもので、数字も含めて、原文にはない。
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 (1) <マルクス主義の主要潮流-その起源、成長および解体>(〔ポーランド語・略〕は、政治哲学者レシェク・コワコフスキによる、マルクス主義に関する著作。
 英語版での三つの諸巻は、第一巻・創成者たち、第二巻・黄金時代、第三巻・崩壊。
 1976年にパリでポーランド語によって最初に出版され、英語翻訳版は1978年に出た。
 2005年に、<マルクス主義の主要潮流>は一巻の書物として再発行され、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグがそれに付いていた。  
 この著作はコワコフスキによると、マルクス主義に関する「手引き書」という意図だった。
 彼は、かつて正統派マルクス主義者だったが、最終的にはマルクス主義を拒絶した。
 そのマルクス主義に対する批判的な立場にもかかわらず、コワコフスキはカール・マルクスに関するLukács György〔ルカチ・ジョルジュ〕の解釈を支持した。
 (2) この著作は、マルクス主義に関するその論述の包括性とその叙述の質を褒め称える、多数の肯定的な論評を受けた。
 歴史的唯物論、ルカチ、ポーランド・マルクス主義、レオン・トロツキー、ハーバート・マルクーゼおよびフランクフルト学派に関するその論述が、とくに抜きん出ているとされた。
 別の論評者たちはフランクフルト学派に関する彼の扱いにもっと批判的だ。また、カール・カウツキー、ウラジミル・レーニンおよびアントニオ・グラムシに関する取り扱いについて、彼らの評価は、分かれている。 
 コワコフスキは、特定の著者たちまたは諸事件、彼のマルクス主義に対する敵意、ルカチの解釈への依存、に関する論述を省略していると批判された。また、現代世界に対するマルクス主義の訴えまたは影響を説明していない、他のマルクス主義著作者を無視してマルクス主義哲学者に焦点を当てることでマルクス主義の印象を誤らせる、とも。//
 1/背景と出版の歴史。
 コワコフスキによると、<マルクス主義の主要潮流>は、1968年と1976年の間にポーランド語で執筆された。その頃、この著作を共産主義が支配するポーランドで出版するのは不可能だった。
 ポーランド語版はフランスでthe Institute Littérailie よって1976年と1978年に出版され、そのときに、ポーランドの諸地下出版社によって複写された。一方、P. S. Falla が翻訳した英語版は、1978年に、Oxford University Press によって出版された。
 ドイツ語、オランダ語、イタリア語、セルビア=クロアチア語およびスペイン語の各翻訳書版が、そのあとに続いて出版された。
 別のポーランド語版は、1988年にイギリスで、Publishing House Aneks によって出版された。
 この著作は、2000年にポーランドで初めて、合法的に出版された。
 コワコフスキは、最初の二巻だけがフランス語版となって出版されていると書き、その理由を、「第三巻は、フランス左翼たちの間の憤懣が激しかったので出版社がリスクを冒すのを怖れた」、と推測している。
 <マルクス主義の主要潮流>の全一巻合冊版は、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグ付きで、2005年に出版された。
 2/要約。
 (1) コワコフスキは、マルクス主義の起源、哲学上の根源、黄金時代および崩壊〔瓦解〕を論述する。
 彼は、マルクス主義は「二〇世紀の最大の幻想(fantasy=おとぎ話)」、「虚偽と搾取と抑圧の怪物的体系」のための建設物となる完璧な社会という夢想、だと叙述する。
 彼は、共産主義イデオロギーのうちのレーニン主義やスターリン主義はマルクス主義を歪曲したものでも堕落させたものでもなく、マルクス主義のありうる諸解釈の一つだ、と主張する。
マルクス主義を拒絶しているにもかかわらず、彼のマルクスの解釈はルカチから影響を受けている。
 第一巻は、マルクス主義の知的背景を論述し、Plotinus、Johannes Scotus Eriugena、Meister Eckhart、Nicholas of Cusa、Jakob Böhme、Angelus Silesius、Jean-Jacques Rousseau、David Hume、Immanuel Kant、Johann Gottlieb Fichte、Ludwig Feuerbach、Georg Wilhelm Friedrich Hegel および Moses Hess を検証した。カール・マルクスとフリートリヒ・エンゲルスの諸著作の分析があるのは、勿論のことだ。
 ヘーゲルは全体主義の弁解者だということを彼は承認しなかったけれども、ヘーゲルに関して彼は、「ヘーゲルの教理の適用が実際に意味したのは、国家機構と個人とが対立する全ての場合に勝利するのは前者だ、ということだ」と書いた。
 (2) 第二巻は、第二インターナショナルおよびPaul Lafargue、Eduard Bernstein、Karl Kautsky、Georgi Plekhanov、Jean Jaurès、Jan Wacław Machajski、Vladimir Lenin、Rosa Luxemburg やRudolf Hilferding といった人々に関する論述を内容とする。
 これは、経済学者の Eugen Böhm von Bawerk との価値理論に関するヒルファーディングの議論を再述している。
 また、オーストリア・マルクス主義に関しても論述する。
 第三巻は、Leon Trotsky、Antonio Gramsci、Lukács、Joseph Stalin、Karl Korsch、Lucien Goldmann、Herbert Marcuse、Jürgen Habermas および Ernst Bloch といった人々を扱う。フランクフルト学派と批判理論については勿論のことだ。
 コワコフスキは、ルカチの<歴史と階級意識>(1923年)やブロッホの<希望の原理>(1954年)を批判的に叙述する。
 また、Jean-Paul Sartre についても論述する。
 コワコフスキは、サルトルの<弁証法的理性批判>(1960年)を批判する。
 彼は、弁証法的唯物論は、第一にマルクス主義に特有の内容を有しない自明のこと、第二に哲学上のドグマ(dogmas)、第三にたわ言(nonsense)、そして第四に、これらのいずれかであり得る、どう解釈するかに依存する言明 、で成り立つと論じて、弁証法的唯物論を批判する。
 (3) 2005年版で追加した緒言で、コワコフスキは、ヨーロッパでの共産主義の解体の理由の一つはイデオロギーとしてのマルクス主義の崩壊にある、と叙述した。
 彼は、ヨーロッパ共産主義が終焉したにもかかわらず研究対象としてのマルクス主義の価値を再確認し、全く確実ではないにせよ、将来でのマルクス主義と共産主義の再生はなおもあり得る、と述べた。
 彼が追加したエピローグでは、マルクス主義に関するこの著作は「この対象になお関心をもつ数少なくなっている人々にはたぶん有益だろう」と最後に記した。
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 3以降へとつづく。

1535/「左翼」の君へ⑤-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 L・コワコフスキの名をタイトルに使うドイツ語版の書物に、とりあえずだが、以下の二つがある。
 ①Ossip K. Flechtheim, Von Marx bis Kolakowski -Sozialismus oder Untergang in der Barbarei ? (1978). <マルクスからコワコフスキまで-社会主義かそれとも野蛮な没落か ?>
 ②Bogdan Piwowarczyk, Leszek Kolakowski -Zeuge der Gegenwart (2000). <レシェク・コワコフスキ-現代の証人>
 後者の②によると(p.192)、L・コワコフスキは1978年に、当時の西ドイツの雑誌か新聞だと思われるが(Zeit-Gespraeche)、「マルクス主義は民衆のアヘン(das Opnium des Volkes )だ」と題する論考かインタビュー記事を載せている。これはマルクスの著名な、「宗教はアヘンだ(科学的な社会主義とは違う)」との言明を意識したものに違いない。
 この欄の4/21付・№1511に紹介した下斗米伸夫の言葉はこうだった。再掲。
 1980年代前半の「当時の日本では、少なくとも知的世界の中では、現代ソ連論は学問の対象というよりも、まだ政治的立場の表明のような扱いしか受けておらず、戦後や同時代のソ連について議論をするのはやや勇気の要ることでもあった」。/自分も「1970年代末にある論壇誌でチェコ介入についてのソ連外交論を書いたが、学界の重鎮から、それとなくお叱りを受けた」。
 L・コワコフスキの『マルクス主義の主要な潮流』の刊行は1970年代の後半(1976、1978年)。なお、ドイツ語版は1977-79年に三巻に分けて刊行されているようだ。
 L・コワコフスキの1978年頃の言葉や書物と、その当時の日本の政治学界や私も実感していたはずの日本の「雰囲気」との間の、この懸隔の大きさを、2010年代、ロシア革命から100年後に日本で過ごしている秋月は、どう理解すればよいのだろうか。
 マルクス-レーニン-スターリン(-フランクフルト学派・毛沢東等)をきちんと「マルクス主義」の範疇で系統立てる、L・コワコフスキの『マルクス主義の主要な潮流』には、まだ日本語へ翻訳書すら存在していない。
 とりわけ、「レーニンとスターリン」を硬く結びつけていること、レーニンに何らかの「幻想」を全く示していないことが、日本の学者・研究者ないし学界や出版業者・諸メディアには<きわめて危険>なのだろうと推測される。
 試訳・前回のつづき。
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 では労働者については ? 二つの対立する見方がある。
 ある(偽のマルクーゼ派の)者は、こいつらはブルジョアジーから賄賂を受け取っていて、もう何も期待できない、と言う。
 今や学生が最も抑圧されていて、社会の最も革命的な階級だ。
 別の(レーニン主義者の)者は、労働者は虚偽の意識をもち、資本家が与える間違った新聞を読んでいるので彼らの疎外を理解できない、と言う。
 我々革命家たちだけが、頭に正しいプロレタリアートの意識を蓄え込んでいる。
 我々は労働者が考えるべきものを知っており、実際に、知らないままでも考えている。
 したがって、我々は権力を奪取する資格がある。
 (しかしこれは、科学的に証明されているように、まさに人民を欺くためにある馬鹿げた選挙遊びを通じてではない)。//
 革命的な笑談だと、不満を言っているだろう。
 そのとおり、革命的笑談だ。しかし、こう言うだけでは十分じゃない。
 これは社会を転覆できる笑談ではないが、大学を壊すことはできる。
 これは心配するに値する上演劇だ(いくつかのドイツの大学は、すでに政党の学校のように見える)。//
 私信でずっと前に議論した一般論的問題に戻ろう。
 まさしく私が『…だが、ベトナム戦争はあった』と書いて叙述した運動を、君は擁護する。
 じつに、そのとおりで、上品に行っている。だが、疑いなく、多くの違うこともある。
 伝統あるドイツの大学には、いくつかの我慢ならない特徴がある。
 イタリアやフランスの大学には、それらに固有の別の特徴がある。
 どの社会にも、どの大学にも、異議申し立てを正当化できるたくさんの物事がある。
 そして、これが私の言いたい重要な点だ。まともで十分に正当化できる不満が全くない世界には、いかなる政治運動も存在しない。
 権力を目指して相互に非難し合っている政党を見れば、彼らの主張や攻撃には十分に選ばれたかつ根拠のあるものがあることに、君はいつも気づくだろう、だがそれらの全てを理由あるものと受け取りはしない。
 誰も、すっかり間違ってはいない。共産党に加入する者はすっかり間違っている(wrong)のではない、と君が言うのは、もちろん正当(right)だ。
 ワイマール共和国でのナチの宣伝物をもう一度見れば、きわめて多数、十分に正当化できるものがあることに君は気づくだろう。
 ナチの宣伝はこう主張した。ベルサイユ条約は恥だ、そうだった。
 民主主義は腐敗している、そうだった。
 ナチは特権階級を、金権政治を、銀行家の政治を、付随的には、人々の現実の必要には関係がなく、汚いユダヤ人の新聞に役立つとして、偽りの自由を攻撃した。
 しかし、このことは、『よろしい、彼らはとても上品に振る舞ってはおらず、考えのいくつかは愚劣にすぎないけれど、彼らは多くの点で間違ってはいない。だから、条件つきで支持しよう』と言う、十分な根拠にはならない。
 少なくとも、多くの人がそう言うのを拒んだ。
 実際、ナチが既存の体制を攻撃したことに多くの長所がなかったなら、彼らは勝利しなかっただろうし、広げた旗を突撃隊(SA)の上に掲げて行進する<赤い戦線(Rotfront)>の党員たちのごとき現象は存在しなかっただろう。
 このことこそが、つぎのようにはできなかったことの理由だ。
 新左翼の運動は同じ行動様式を真似ており、同じ(例えば、全ての『形式的な』自由や全ての民主主義諸制度にかかわる点や寛容および学問上の価値に関する)イデオロギーの一部を真似ていると、私は思った。そう思ったときに、『だが、ベトナム戦争はあった』と観察することでは強く感銘をうけることはできなかった。//
 我々は彼らが見えるように蒙を啓くのを助けるべきだ、と君は言う。
 この助言を、僅かの限定をつけて、受け入れる。
 全能で全方向を見渡していると思っている人々について君が語る際に、これを適用するのはむつかしい。
 議論をする用意がある人との議論を拒んだことは、私にはない。
 困惑してしまうのは、議論する用意のない人が中にいることで、その理由は全く精確に、私には欠けている、彼らの全能性(omniscience)にあるのだった。
 本当に、私は20歳のときにほとんど完全に知識をもっていたが(omniscient)(まだ完全にではなかった)、君が知るように、みんな年を取るにつれて馬鹿になるものだ。
 28歳のときにはもっと全能ではなかったし、今やますますそうでない。
 完全な確実性や、世界の全ての厄災や惨害に対する即時の全地球的な解決方法を探している、そのような人々に満足してもらうことはできない。
 またさらに、その他の人々に接近して、カルバン派ではなくイェズス会派の体系にできる限りは従うべきだ、と私は考える。
 すなわち、誰も完全にはかつまた絶望的には堕落していない、誰もが、歪んでいようと乏しかろうと、いくつかは長所をもっていていくつかは善良な態度を示している、ということを我々は予め想定しておくべきだ。
 これはまたよく言われる、言うは行うよりも易しということだが、我々二人とも、このソクラテス的弁証法の完璧な理解者だとは私は思っていない。//
 <〔原文、初めての一行の空白〕>
 君の…との提案は…。
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 ⑥につづく。

0979/「透明な共産主義」の蔓延-中川八洋・民主党大不況(2010)による②。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)は1週間ほど前に全読了。
 第八章の自民党批判(または批判的分析)の中の同党や同党幹部の「極左」扱いにはさすがに首を傾げる。櫻井よしこの「谷垣自民党」と民主党の「同根同類」論または<同質性が高い>論をはるかに超えて、自民党を「リベラル」以上に「左翼」政党視している。だが、同質論を強調しているわけではなく、中川によると、民主党はすっぽり全体が<極左>そのものなのだろう。

 中川八洋によると、「保守主義」とは「全体主義とアナーキズムの極左思想を祖国から排除すべく、剣を抜く戦闘的イデオロギー」だ(p.308)。あるいはまた、具体的には「反マルクス・レーニン主義」・「反ルーマン(社会学)」・「反フェミニズム」・「反ポスト・モダン主義」・「反ポスト・コロニアリズム」だ(p.311)。

 中川の論調にはついて行けないところがあるとはいえ、かかる反共主義・反コミュニズムという立場の鮮明さが、中国やアメリカとの関係での<ナショナリズム>の強調をむしろ主眼としているように読めなくはない<保守派>論者たちと比較しての中川の特長だ。その点は、「共産革命の脅威は、ソ連崩壊とともに日本から消えた」(p.304)と錯覚して、その旨を主張し、誤った幻想をふり撒いているかにも見える論者たちよりも明確に支持されるべきだ。

 中川が言うように、「日本の共産革命勢力」は、ソ連崩壊の頃(1991年末)より、「言葉を変え、まとう衣装を変え、従来のマクロな革命手法を、ミクロ的作戦を多く乱立させる戦術に変えた」のだろうと思われる。中川はこれを「透明な共産主義」と称している(p.304)

 日本共産党の国会獲得議席はたしかに減少し続けている(ついでに社民党もそうだ)。しかし、そのことをもって、「左翼」は弱体化していると見るのは大間違いだ。コミュニズム、マルクス主義あるいは「左翼」は、民主党等に影響を与え、あるいは浸透しているのであり(自民党もその影響の例外ではない)、戦後日本の主流的思潮の<平和と民主主義・合理主義・進歩主義>の中で、執拗かつ強靱にコミュニズム、マルクス主義(共産主義・社会主義)イデオロギーが根を張っている、ということを知っておく必要がある。その点でも、やや大げさに感じなくはなくとも、中川八洋の指摘・主張は基本的には正当と思われ、耳を傾けるべきだ。

 中川は、1992年以降の「共産革命の戦術」を大きく四つに分け、それぞれの具体的政策も挙げている。以下のとおり(p.304-6)。これらは「日本共産党」系のものとされ、他に大きくは二つあるが、今回は省略。

 A・マルクス/エンゲルス/レーニンの家族解体を実践する革命>①夫婦別姓→民法改悪・②子育て支援→少子化対策基本法・次世代育成支援対策推進法・子ども手当の支給・保育園の聖性化など。
 B・子どもの人格を「共産主義的な人間」に改造する革命>①ジェンダー・フリー教育・②性教育。

 C・共産革命にとって最大の障害である日本の伝統と慣習を全面的に破壊する革命>①男女共同参画社会基本法・②女系天皇への皇室典範の改悪。

 D・自由社会の生命で根幹たる「法の支配」を破壊する革命>①裁判員法〔ここは①のみ〕。

 また、中川八洋は、「主要な極左イデオロギー」に次の七つがあるとし、すべてに対して思想闘争をするのが「保守主義」だとする。心ある<保守派>は、けっして次の①のみではないことをしっかりと意識しておく必要がある、と考えられる。なお、→は分化または派生関係を示している。

 ①マルクス・レーニン主義→②ラディカル・フェミニズム、①→③性差破壊のフェミニズム、①→④フランクフルト学派社会学+知識社会学+ルーマン、①→⑤ポスト・モダン思想、⑤→⑥生殖放棄のセックス・サイボーグ化フェミニズム、⑤→⑦ポスト・コロニアリズム
 別の機会に、あらためて、このあたりについては紹介・言及する。
 不思議に思うのは、中川八洋が自らを「たった一人の(日本人)保守主義者」と理解している(p.351~)ことの当否は別としても、産経新聞や月刊正論、月刊WiLL等々の書評欄または新刊書紹介欄等で、中川八洋の本はほとんど無視されているように思われることだ。かりに中川八洋に論考執筆を求めることはしなくとも、この人の本(他にもある)を紹介し、書評くらいしたらどうなのか。

 なるほど、産経新聞やワックの基本的な論調とは異なるところはあるのだろう。しかし、産経新聞的(?)保守、あるいは中川のいう「民族系」論者に対する中川の批判を無視することなく、疑問だと思えばきちんと反論したらどうなのだろうか。

 中川の本からは、間接的に<保守>論壇の奇妙なところも感じさせられる。<保守>論壇が、そこそこの収益をもたらす、自己満足の<売文業界>に堕してはならないだろう。

0042/「団塊」世代のみが「隠れた世紀病」に罹ったのか-「正論」5月号・田中英道論文を読む。

 月刊正論5月号(産経)に田中英道「「68年世代」の危険な隠れマルクス主義-左翼思想に染まったのは日本の「団塊の世代」だけではない」がある。新聞広告にこのタイトルが載っていて、関心を持ち買って読んだ。
 日本の「団塊の世代」は「左翼思想に染まった」ことを前提とする副題が気になった。当時は大学進学率はたぶん約1/3で、大学生でなかった者、そして大学生でも少なくとも過半は(たぶん3/4は)、大学での「全共闘」運動を経験していないからだ。
 だが、一時期新しい教科書をつくる会々長だったという田中の主題は、「団塊」世代の厳密な分析ではなさそうだ。すなわち、大雑把に言って反権力・反(資本主義)体制ではマルクス主義と共通する(その意味で「隠れマルクス主義」の)、マルクーゼ(1898-1979)やハーバーマス(1929-)を代表とする所謂フランクフルト学派の論文・発言・行動の影響を受けて欧米でも「68年」頃に過激な学生運動があり、日本の「68年」を中心とする、「団塊」世代が担った全共闘運動もその一環だった、その意味で世界的な同一世代による社会変動がこの頃に起きた(そして社会はより悪くなっていった)、というのが最も主張したいことのように読める。
 それはそれで興味深いし、恥ずかし乍ら、ルーマンとやらの論争でも有名な(だが読んだことのない)ハーバーマスがフランクフルト学派に属することも初めて知った。だが、背景的な欧米の同時代の雰囲気は指摘のとおりだとしても、「全共闘」運動(又は「団塊」世代)とフランクフルト学派の関係については、そもそも「全共闘」運動は何だったか、どういう理論と組織に支えられていたのか、を含めて、もう少し実証的な叙述又は根拠が欲しい、という感じがする。
 また、この論文は「団塊」世代批判だ。かいつまんで紹介すると、この世代による「自由教育」が「寒々しい日本人とその家族を生み出した」、フランクフルト学派の影響も受けて、環境・男女同権・原発等々につき「反権威主義」という名の「破壊運動」を継続しており、「大学とかマス・メディアを支配している「団塊の世代」が、保守主義の傾向に、常に反対の態度」をとり、「贖罪観を、日本人に植え付けようとする動き」を支えているのもこの世代だ、「大学教員やマス・メディアに巣くうこうした運動」を注意深く見守り、阻止すべきだ、この世代の「隠れた世紀病」の克服は容易でない。
 省略しすぎの紹介だが、論証にはあまりに具体的・実証的・統計的根拠がなさすぎるだろう。殆ど何も示しておらず、田中の「直感」によるものと思われる。
 しかし、じつは半分は、私の直感も田中の見方を支持している。朝日新聞の若宮啓文は1948年生まれで、自ら「社会党支持だった」ことを雑誌上で明言しているくらいだから、田中の主張を裏付ける、恰好の、典型的な人物かもしれない。一方、支持できない、又は不十分だと思う残り半分は、つぎの点に関係する。
 第一に、「隠れた世紀病」あるいは「隠れマルクス主義」あるいは「反権威主義」という病に罹っているのは、日本においては「団塊の世代」だけだろうか。この著者を含む60年安保世代のある程度の部分も、田中はきっと健康だったのだろうが、すでに罹っていたと思われる。
 1960年に20歳になった人は1940年生れで、1945~1952年の「占領下」の教育を少なくとも部分的には経験しているのだ(その間に東京裁判があり「新」憲法施行もあった)。フランクフルト学派の動向などに関係なく、彼らが受けた、GHQ批判・日本の伝統擁護等々が許されない教育が<病原菌のない、正常な>ものだったとは思われない。また、その時期に日本のマルクス主義は復活しているのだ。
 第二に、「団塊」世代に全く責任がないとは言わないが、指導・煽動した別の世代が存在すると思われる、ということだ。「団塊」世代は完全に自分たちだけの力で67年~71年頃の全共闘運動等々を展開したのだろうか。使嗾し、誘引する、もっと年上の別の人たち又は世代がいたに違いない、と私は思っている。いつか触れた川上徹は1940年生まれの筈で「団塊」世代ではなく、日本共産党・民青同盟の側の指導者だった。中核派の北小路敏は生年を確認できないが、60年安保の際もブントに属して主流派全学連幹部として「活躍」したようで「団塊」世代ではなく、かつ67年~71年頃は革共同中核派の指導者で同派を通じて「全共闘」や「全闘委」にも影響を与えていただろう。東京大学全共闘の議長だった山本義隆は1941年生まれで、「団塊」世代ではない。
 私の印象では、それこそ相当に「直感」的だが、「団塊」世代、大まかには1952年生まれ(今年に55歳)辺りを下限として、それ以上の年齢の人々でおおよそ1928~29年生まれ(今年78~79歳)までの人々は、それ以下の世代よりも、「反権力」的信条あるいは「何となく左翼」の気分がより強い。
 きちんとした資料は示せないが、日本社会党又は(日本共産党を含む)「革新」勢力の支持者が最も多かったのは、日本社会党がなくなるまでの数十年間の世論調査の報道の記憶では、おおよそ「団塊」世代を含むそれ以上の世代だったように思うのだ。
ギャラリー
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 1721/L・コワコフスキの「『左翼』の君へ」等。
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