秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

フェミニスト

0574/憲法デマゴーグ・樋口陽一-その3・個人主義と「家族解体」論。

 一 産経新聞7/05山田慎二「週末に読む」の中に、<家族>に関する次のような短い文章がある。
 「人類は、家族というものを発明した。とりわけ仲間といっしょに食事をしたり、育児を共同でするのは、人間だけである。/こうした人類だけの能力の深い意味を現代人は見失っている」。
 子どもが自立して生きていけるまで母親又は両親(つまり家族)が<育児>をする動物は「人類だけ」かとは思うが、人間の子どもの健全な成長にとって<家族>が重要であることは論を俟たないように思える(もちろんフェミニスト等による異なる議論はある)。
 今年の秋葉原通り魔連続殺害事件やかつての「酒鬼薔薇事件」の犯人は同じ年で、その両親たちも同世代であるに違いない。秋葉原事件のあとで<専門家>らしき者たちのいろいろなコメントが出ていたが、彼ら犯罪者を生んだ<家族>(や学校教育)環境にまで立ち入らないと、原因も解決策も適切には論じられないのではないか。
 二 林道義・母性崩壊(PHP研究所、1999)を一気に殆ど読んでしまったが、この本は酒鬼薔薇事件やこの事件の犯人ととくに母親の関係にも言及しており、幼児期(とくに3歳まで)の(父親ではなく―父親は2・3割程度重要だという―)母親の役割(<母性>)の重要性を強調しつつ、この犯人の母親(・両親)の手記の中に書かれてあることの中から具体的に問題点を指摘している。
 重要なテーマなので別の回に余裕があれば書きたいが、<母性崩壊>による(非婚化や晩婚化も経由しての)少子化という明瞭な現象は、林道義が指摘するような国家・社会を自壊させる<危険性>どころか、すでに国家・社会の活力を奪い、老年者福祉の財政問題等をも発生させて、日本を<自壊>させ始めている、と思える。明瞭にその過程に入っている、という感想を持たざるをえない。中国・北朝鮮による<侵略>によらずして、日本は自ら崩れていっている、ように見える。
 <母性崩壊>は、ではなぜ生じたのか。むろん簡単には論じられない。
 留意されてよい一つは、マルクス主義は<家族>を解体・消滅させようとする理論だった、ということだ。ウソのようだが、いつか引用したことがあるように、エンゲルスはその著の家族・私有財産及び国家の起源の中で、家族(家庭)内のブルジョアジーは男でプロレタリアートは女だ、と本当に書いている。いうまでもなく、「私有財産及び国家」とともに「家族」もまた、マルクス主義者(・共産主義者)の怨嗟の対象であり、将来は解体される・消滅するはずのものだった。
 もう一つは、<西欧近代>に発する<個人主義>だ。個人主義の強調は<家族>の安定的維持と矛盾・衝突しうる。<家族>の中で、親が子が、男が女がそれぞれの<個人>としての尊重などを口にし始めたら<家族>は維持できない。協力、譲り合い(ある意味では応分の負担と「犠牲」の分け合い)なくして<家族>のまとまりが継続してゆける筈がない。
 マルクス主義によるのであれ、西欧近代的<個人主義>によるのであれ、日本における<家族解体>化現象は進んでいる、と思われる。そしてそれは、一定の年齢以下の者たちによる近親者に向けられた、又は気持ち悪い犯罪の発生と無関係だとは思われない。
 (宮崎哲弥は何かの本―たぶん宮崎=藤井誠二・少年をいかに罰するか(講談社α文庫、2007)―で「少年」犯罪は統計上は増えていないと書いていたが、自分より弱者を攻撃したり、祖父母を含む肉親を攻撃したりする、若しくは殺害・傷害等の方法が<気味の悪い>犯罪に限っていえば、数量的にも増えているのではないか、と思われる。単純に何らかの犯罪者が「少年」である場合の統計だけを見ても大した意味はないだろう。)
 三 さて、憲法学者・樋口陽一の<個人主義>の問題性についてはあらためて何度でも触れたいが、彼も指摘するように、樋口の好きな<個人主義>又は<個人の尊厳>については、日本国憲法上の明文規定があるのは、13条と24条に限られる。24条2項は次のように定める。
 「……婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」。
 樋口陽一はこれを含む24条の素案を作ったベアーテ・シロタについて、同・個人と国家(集英社新書、2000)p.139で「なんと公募で選ばれた若い女性」としか書いていないが、日本語ができたことがメンバーになれた最大の理由だったと思われる、かつソ連と同憲法に憧れていた親コミュニストだった(コミンテルン又はアメリカ共産党から実質的に派遣されていた可能性もあり、何らかの資料も出てきているのかもしれないが、今回はこの程度で止める)。
 婚姻と家族に関する憲法条項の中に「個人の尊厳と両性の本質的平等」をふまえて婚姻や家族に関する法律は制定されるべし、との条文が入ったのは、「社会主義」ソ連では アメリカなどよりもはるかに又は徹底的に男女対等(平等)が実現されている(又は実現されようとしている)という、シロタの対ソ連又は対「社会主義」幻想が大いに影響したものと考えられる。
 樋口陽一のいくつかの本を見ていて印象に残った一つは、この人は日本国憲法24条の中に「家族解体の論理」が含まれている(少なくとも)可能性がある、と指摘し、かつそのことを疑問視・問題視はしていない、ということだ。
 ①樋口陽一・憲法と国家(岩波新書、1999)p.110-13条以外の個別条項では24条だけが「個人の尊厳」を謳っているのは、「家族」が近代「個人」主義が「貫徹しない飛び地」だったことへの「批判的見地」を示しているのではないか。「家族にかかわる領域で『個人』を本気でつらぬこうとする見地からすれば、憲法二四条は…家族解体の論理をも―もちろん必然的にではないが―含意したものとして、読むことができるだろう」。
 ②樋口陽一・「日本国憲法」-まっとうに議論するために(みすず書房、2006)p.70-「憲法二四条…がいちはやく『個人』を掲げたということは、…『個人』を徹底的につらぬくことによって、場合によっては家族を解体させる論理につながってゆく可能性をも、内に含んでいるのではないでしょうか」。
 ベアーテ・シロタが「家族」内に<個人主義>・<個人の尊厳>を(憲法条文上も)もち込もうとしたとき、<家族解体>論まで意識していたかどうかは(少なくとも現時点での私には)分からない。だが、コミュニズムの実際が育児(子育て)の0歳児の時点からの早期の<社会化>、幼児に対する早期の<洗脳>教育等を内容としていたことを考え合わせると、樋口の言うとおり「法の論理が含んでいる可能性」としてであれ、24条2項は客観的には、<家族解体>の方向に親近的な条項である、と言えるだろう。
 そのかぎりで、樋口陽一は、憲法制定者の意図を<正しく>把握(解釈)している、と言えなくもない。
 だが、上のような「法の論理が含んでいる可能性」を語るだけで、それに対する警戒的・批判的な(憲法政策論にも関係する)言辞が全く出てこない、というところに樋口陽一らしさがある。
 家族解体論者・フェミニストが喜びそうなこと(そのような憲法条項があること)を指摘し紹介することによって、客観的・結果的には家族解体論者・フェミニストに手を貸している。そういう意味のかぎりで、樋口陽一の<デマゴーグ>としての面目躍如たるところがある、と言えるだろう。
 なお、樋口はソ連等の欧州的「社会主義」の終焉後は明らかに、近代的「人権」論に対する批判的視覚を提起している一つがフェミニズムだと語り、それに関連する事柄に言及することが多くなっている。そして、憲法改正ではなく法律改正で済むのに夫婦別姓法案に「改憲」論者は反対している等とも述べて、この夫婦別姓法案に明確に賛成している(樋口陽一・個人と国家(上掲)p.194等)。
 あえて簡単に再言又は概括すれば、樋口陽一のいう<個人主義>は<家族>と対抗しうるものであり、<家族>を、そして<母性>を含む<子に対する親の役割>を軽んじるものだ。少なくともそのような<風潮>の形成に役立つ議論を、<左翼>樋口陽一はしてきている。
 少なくない若年者(10歳代・20歳代)の犯罪の犠牲者は、戦後日本を覆い続けた<左翼・個人主義>の被害者ではないのか。ごく簡単には、直感的にせよ、そういう想い・感慨をもつ。長々と書かないだけで、もう少しは論理的にかつ長く論旨展開できるつもりだ。そして、この感覚はたぶん基本的なところでは間違ってはいないだろう、と思っている。

0484/フーコー、狂人と言わなくとも「奇矯な」<左翼>思想家、と桜井哲夫。

 桜井哲夫・フーコー―知と権力/現代思想の冒険者たちSelect(講談社、2003)のある程度の範囲を概読した(学習するが如く熟読するつもりはない)。
 フーコー(1926~1984)は勿論のこと「現代思想」に詳しいとは自分を思っていないので当然に専門家に伍した議論はできないだろうが、それでもフーコー(の「思想」)の概略は把握できる。
 別の回でも言及する可能性があるので記しておくが、この本には、Aフーコーの言説をそのまま(又はほとんどそのまま)直訳又は引用している部分、B著者(桜井)がフーコーの言説を要約してまとめて紹介している部分、C引用・紹介ではなく、著者(桜井)自身のフーコーの分析・論評が書かれている部分がある。そして、BとCは区別がつきにくいと感じる場合もないではない。
 さて、 フーコーは「かつて共産党に所属」していた(フーコー自身の言葉、p.181)。
 「フーコーの師のひとり」のアルチュセールはフランス共産党の党員で(まえがき、p.214)、アルチュセールの某論文を「骨格」とした本をフーコーは著した。桜井によると前者の「国家のイデオロギー装置」はフーコーの「真理の志というシステム」のことだ(p.214-5)。
 フーコーと「二十数年にわたって同居」したダニエル・ドゥフェール(男性)は「元毛沢東派活動家」だった(p.16-17、p.214)。
 フーコーはサルトルを批判しもしたが、1969年の騒乱?後のソルボンヌ大学学生の退学や起訴に対してサルトルと並んで抗議のデモ行進をした(p.199-200)。
 以上のことからでも、フーコーが(精神的に)馴染んでいた「空気」を推察することはできる。党派的にいうと、フランス<左翼>思想家と位置づけられることは間違いないだろう。最終的にはフランス共産党か社会党かはよく分からないが、そのどちらでもなく、日本の1960年代末以降1970年代半ばくらいまでに頻繁に言われた「新左翼」なるものに最も近いのかもしれない。
 教条的又はスターリニスト的マルクス信奉者ではなかったようだが、マルクスからの「解放」のあとのマルクスの「読み直し」や「よみがえり」もフーコーについて桜井は言及しており(仔細省略、p.146-、p.162-、p.188-等々)、マルクスに起源をもつ<マルクス主義の変種>の思想家と評しても大きくは誤っていないものと思われる。
 フーコーの性的嗜好や死の原因(桜井は断定的書き方をしている)にはあえて触れないでおくが、「性」や「肉体」にかなりの関心を向けていたフーコーの本は、<多様なライフスタイルが選択できるように>などとも主張している日本のフェミニスト、少なくとも「左派」フェミニストに好んで読まれている可能性がある。桜井によると、「フーコーは『ジェンダー』についてフェミニストの研究者たちがおこなった業績を、『性』に関して打ち立てたのだといえるだろう」(p.287)。桜井は「ジェンダー」概念がまともなものではないことを知らないかの如き書き方をしているが、立ち入らない。
  「思想」(・哲学)について著書をものにし多数に読まれた思想家(・哲学者)は誰でも<偉大>だ、と評価することはむろんできない。何やらむつかしそうな、凡人には理解出来そうにないことを書いていることが<尊敬>の対象になるわけでもない。むろん人(主体としてであれ対象としてであれ)によって評価は分かれるのだが、社会・人間・歴史に対して<悪い>影響を与えた・与えている(と評価されるべき)思想家(・哲学者)もいることは当然のことだ。
 読み囓りではあるが、そして別途フーコーの本の邦訳書も所持しているので、私もまた武田徹と同様に「フーコーの言説を引用」できる状態にはあるのだが(面倒くさいのでここには引用しない)、フーコーは、狂人とは言わないが、<奇矯な>思想家だ、というのが、最も簡潔な印象だ。
 桜井哲夫(1949~)が、専門というタコ壺に入りきらないフーコーに接して感動したというのは解らなくはないし、「一人一人の内面の探求からこそ」いかなる学問研究も始まるのだと大言壮語する(p.298)のも<気分>としては理解できそうだ。
 しかし、「フーコーの道具箱」を「さらに有効な分析装置に改変」して、「日本の現実」を分析したり「日本の歴史」を「従来のイデオロギーの呪縛から解き放って書き換える」べく「知的努力」を傾ける(のが「われわれに必要」だ)(p.298)などと言わない方がよい。いくら「フーコーの道具箱」を「さらに有効な分析装置に改変」しても適切な結果をもたらすとは思えない。桜井が自ら上の如き「知的努力」を傾けて、日本の現実や歴史を実際に「分析」する又は「書き換え」る作業をしてみたらどうか(自分の言葉には自分で責任をとれ、と言いたい)。
 そのような桜井哲夫が書く「まえがき」自体に、素人の私でも容易に指摘できる奇妙さが含まれている。桜井は述べる。
 ・「フーコーの仕事は、つねに新しいといわざるをえない」。「つねに既存の枠組みへの挑戦であり続けたから」。
 ・「新しい」とは「時代に迎合」せず、「時代に」「『否』を突きつける営為」で、そうした「知的努力」こそが「世界に新たな可能性を生み出してきた」。
 ・「フーコーの仕事を吟味すること」は、「新しい知的可能性を生み出す第一歩でなくてはならない」。
 自らの仕事の積極的な意味・意義を何とか見出したいという<気持ち>は解るとしても、以上の叙述は奇妙だ。
 すなわち、「新しい」ものであれば、あるいは時代に「否」を突きつける行為であれば、なぜそれらすべてが肯定的に評価されるのか?「世界に新たな可能性」とか「新しい知的可能性」とか言っているが、その<新しい可能性>が、人間・社会・歴史にとって<よい>ものである保障はどこにあるのか? たんに「時代」・「世界」・「知」を掻き混ぜて混乱させるだけのものもあるだろうし、決定的に<悪い>方向へと(「新しく」)導く「知的努力」又は「営為」もあるのだ(余計ながらマルクスもレーニンも毛沢東も金日成も、それぞれに独特の「新しさ」をもっていた)。
 「新しけりゃよい」なんてものではないことは、<伝来的なもの>(伝統的・歴史的に今日まで継承されている事物・精神)の中にも大切なものはありうる、と考えるだけでも分かる。
 こんなことくらい大学教授、社会学者、近現代歴史・社会・文化評論家(著者紹介による)ならば容易に理解できる筈だと思われる。フーコーは「つねに新しい」、ということは(それが正しい理解だとしても)、彼を積極的に「吟味」することの意味・必要性を肯定する根拠には全くならない。
 <新奇>あるいは<珍奇>な言説や思想らしきものは絶えず生じてくる。それらの中から、貴重な<宝石>を発見し吟味する必要はあるだろう。フーコーがそれである(あった)とは、とても思えない。

0462/山下悦子はよく、荷宮和子はヒドい。上野千鶴子は勿論ヒドい。

 一昨年に(少なくとも一部を)読み、感想もすでにメモしたことがあるが、この欄にも若干の修正を加えて掲載しておく。
 山下悦子・女を幸せにしない「男女共同参画社会」(洋泉社新書、2006.07)は、一章まで(~p.72)を読んだだけだが、なかなか面白かった。上野千鶴子や大沢真理等の「フェミニスト」の議論は大多数のより「ふつうの」女性の利益に反する<エリート女性シングル>のための議論だとして、強く批判しているからだ。大沢真理が関係法律(男女共同参画法)の成立に審議会委員として貢献したという知識を得たのはこの本によってが初めてだった。また、「ジェンダー・フリー」とは誤読にもとづく和製英語で、「性別にかかわりなく」という意味を本来は持っていないとされていることも初めて知った。東京大学教授の二人の英語の知識が問われている(但し、上野千鶴子が<戦略的に>作った概念だとの話もあることはいつぞや触れた)。
 上野は明確な「団塊」世代で大沢は下だがほぼ準じる。そして、上野や大沢を代表とするような女性と彼女たちのような議論を生み出したのも、戦後の-とりわけ1970年以降の?-教育を含む日本社会に他ならないだろう。
 それにしても、繰り言の反復になるが、東京大学は、正確には又は実質的には文学部及び文学研究科・社会学専攻にたぶんなるが、上野・大沢をよくも採用したものだ。
 荷宮和子・若者はなぜ怒らなくなったのか(中公新書ラクレ、2003)は「団塊と団塊ジュニアの溝」との副題が気を引いて、読んだ。だが、「あとがき」を先ず読んで、この人自身の表現を借りると、この人は「アホである」(p.245)と感じた。
 多少中身を見ても概念定義・論理構成が全く不十分だ。同・なぜフェミニズムは没落したのか(同前、2004)も既所持で第一章まで読んでいたが、この人自身の表現を借りると、やはり、この人は「アホである」(p.277)。活字文化のレベルはここまで落ちている。
 何の学問的基礎・専門知識もなく、喫茶店のダベリを少し体系化しただけのような本が出ている。そんな傾向を全否定はしないが、中公ラクレ編集部の黒田剛司は自社の名誉・伝統のためにも執筆者の再検討をした方がよい。
 2冊ともたぶん100~300円で買った古書なので大した打撃ではないが、読んだ多少の時間が惜しい。小浜逸郎・やっぱりバカが増えている(洋泉社、2003)というタイトルどおりの証左かもしれない。が、その本人が「バカがこれ以上増えませんように」(荷宮の前者最末尾)と書いてあるから、ひっくり返った。

0191/夫婦別姓・家族-宮崎哲弥・石坂啓。

 フェミニズムは「家」における男による「女」の搾取を糾弾し子どもの利益よりも母親という「女」個人のそれを優先するもので、女性の立場からの戦後的「個人主義」の一つと見てよいだろう。
 宮崎哲弥・正義の見方(新潮OH文庫)p.25-26等は「父母のどっち側であれ、親の姓が終生つきまとう合理的な根拠とはいったい何か」と問いかけ、福島瑞穂を批判して夫婦別姓ではなく「家」と結びついた「姓氏全廃を叫ぶべき」と説いてる。
 「個人主義」を貫くならば、宮崎の言うとおり、なぜ「姓氏」又は「苗字」が必要なのか、という疑問が生じる筈だ。宮崎はさらに「個人主義の原則に立つ限り、人は、自ら決したただ一つの「名」で生きるべきではないか」とも書くが、この指摘は、とても鋭い。
 私は若かりし頃、親から引き継いだ又は与えられた氏名を18歳くらいで本人が変更する自由又は権利を認めることを「夢想」し、何かに書いたこともあった。「個人の尊厳」(憲法13条)というなら、個人の名前くらいは自分で選び又は決定できるべきだ、親が決めたものを一生名乗るべき合理的理由はない、と考えたからだ。いま再び構想すれば、18歳~20歳と期間を限って姓名の変更を認め、その旨を戸籍や住民基本台帳に反映させることとなる(中学卒業後の就職者は16歳まで下げてもよい)。
 だが、上のような主張は大勢の支持をおそらく得られないだろう。「個人主義」とは別に「家」又は「家族」という観念は-「戸主」を伴う戦前的家族制度と結合していなくとも-やはり残り続けているのだ(欧米でも、いやたぶんほぼ全世界でそうだ)。それは親-子という人間関係がある限り、永続する(すべき)ように思われる。
 話を変えるが、改正教育基本法は「家庭教育」にも言及している。昨年11月の某番組で、週刊金曜日編集者・九条の会賛同者の石坂啓(女性)は教育基本法改正前のタウンミーティング問題に関連して「家庭教育が大事だと思うと女性に言わせてましたね。これね、それもありだよなと一見異を唱える人はいらっしゃらないと思います。家も大事だし親御さんたちにも参加してもらって子供の教育を一生懸命にやりますよと見せかけていますが、私はその場にいると異を唱えると思います。というのは、そのように巧妙に(不明)ますが、結局は国が都合のよいように女性であったりお母さんであったり子供への役割というのをもっと色々と強いてくる法律なんです非常に危険だというか、根本から変わるんです、教育内容が。」とコメントしていた。  こんなことを平然とテレビでのたまうフェミニストがいるからこそ、日本の「教育」はおかしくなったのでないか、と思っている。

0126/林香里とは本当に「研究者」なのか-文春新書の最低。

 目を通したことのある文春新書の中で最低の本は、かつ種々の新書類の中でも最低の部類に入る本は、あえて明記するが、林香里・「冬ソナ」にハマった私たち(2005)だ。
 最低だと考える理由の大きな一つは、このタイトルの本の中で、日韓関係に関する自らの「歴史認識」を―多数の、対立しもする議論があるにもかかわらず―、単純素朴に曝し出していることだ。
 例えば、「日本は20世紀初頭に海外を侵略した歴史にきちんとした清算をしていないため、…近隣諸国に心から称賛されるようにはなっていない。これに対して、ドイツは、…
(p.173)。
 日本(前小泉首相等)は「国内においては韓国をはじめとする近隣諸国との歴史認識に対する無知と無関心を先延ばしにし、対外的には日本のアジアでの孤立を招いてきた」(p.209)。
 本来のテーマと直接の関係はないかかる断定的文章を歴史や外交の専門家ではない著者が平然と書いているのだ。
 いま一つは、明らかにフェミニズムの立場でこの本のテーマを扱っており、かつそのテーマとは直接の関係はないフェミニズムの主張を紛れ込ませていることだ。
 例えば、「子どもを生み育てること…などなど、女性として…当然のこととして寄せられる社会的役割」、そういう「期待をしている社会の思想的源泉」は「やっかいな「国家」という社会的そして政治的機能である」(p.196。「子どもを生」むことも、女性差別、「社会的」に期待された「役割」かね?、林くん!ω)。
 このような二つの類の主張を―上野千鶴子鶴見俊輔の名前だけをなぜか出しつつ―しているため、極めて読みにくい本でもある。
 これで著者が助教授として属するという「東京大学大学院情報学環」の修士論文審査に合格するだろうか。
 いま一つ、一文を引用しよう。「韓国は、韓流というパワーでもって、日本の男性が築き、守るべき国家と、それに従属した主婦という女たちを切り崩しつつある…」(p.198)。
 こんな文章を読んでいると頭がヘンになる。
 この本はタイトル等からすると、日本のとくに女性が
「冬ソナ」にハマった原因・背景を分析することが目的だった筈だ。そして、私が要約するが、「冬ソナ」にハマったのは、良妻賢母型教育を受け「古きよき時代」への郷愁と外国(韓国)に関する教養主義的心性をもつ中高年女性だ、というのが結論だ(たぶん。ちなみにタイトルの「私たち」の中に著者は含まれない)。
 しかし、何故か、主題と直接には無関係の上のような文章が<混入>しているのだ。
 私は林氏の文章執筆者・論文執筆者としての資格・能力を疑う。だが、と最近気づいたのだが、過剰とも思える、根拠づけ・理由づけなしの言いっ放しの贅言は、この人の、読者に対するというよりも、仲間に対する<信仰告白>なのではないだろうか。新書を書く機会があったから、ついでにアレコレとちゃんと書いておいたよ、安心して!という類のものではないだろうか(原田敬一・岩波新書についても同旨のことを書いたが、この林の方がヒドい)。

0027/掛谷英紀・学者のウソ(2007.02)を3月半ばに読む-フェミニズム批判。

 ソフトバンク新書というのが新発行されたものの関心を惹くテーマ・執筆者のものが僅かだった。しかし、掛谷英紀・学者のウソ(2007.02)は、3月半ばに一部を読み終わっただけだが、なかなか良い本だ。読んだ順に記すと、第一に、脱税企業に関する新聞記事の量と当該新聞紙上の広告主との関係につき、仔細は省略するが、「朝日新聞についてはスポンサーへの配慮が記事にまで影響を及ぼしている可能性がきわめて高いことがわかる。一方、読売新聞にはスポンサー・非スポンサー間で有意な差は見られなかった。私は個人的には読売新聞をよく思っていないが、脱税事件の報道に限ると、同新聞の報道姿勢は評価に値する」(p.139)との結論が興味深い。朝日がスポンサーを配慮せざるを得なくなっているとすれば、それは経営的には必ずしも順調でないことを意味する、とつながれば、私にはますます好ましい情報なのだが。
 第二に、知る人ぞ知るの話かもしれないが、私は知らなかった。p.144-5によると、上野千鶴子は自閉症は母子密着が原因と主張したが生まれつきとの説が有力で、自閉症児の親たちから差別助長と抗議を受け、最初主張した本と同じ出版社の「「マザコン少年の末路」の記述をめぐって」の一部に謝罪文を掲載した。これを読んだ某「自閉症児の親の会」の会員いわく-上野からは自閉症に無知識だったのでうっかりしていた、ごめんなさいと素直に謝って貰ったらすっきりしたが、また彼女には「弱者の味方」のイメージもあり期待したが、謝罪文を読んで「「二度と自閉症にかかわるものか」という上野さんの姿勢が感じられ、その落差が激しくて…」。
 著者・掛谷は、次のように書く。「上野氏は弱者の味方のふりをするだけで、…持論を補強するために弱者を利用しているにすぎない」ことにこの母親は気づいてなかったのだろう。「上野氏がなくしたいのは、差別でも性差別でもなく、性差の存在(性の区別)そのものである」。著者は自信をもって断定している。
 上の第二で言及した「事件」はありうることだと納得できるが、第三に、つぎの諸指摘は断定的・明瞭でありすぎるために、その内容に驚きとじわりとした恐怖を感じる。掛谷いわく-フェミニストの殆どは「学歴エリート」だが、人間を男女の二つに分け、「女性全体を弱者と見立て」た上で、「弱者集団である女性への援助を名目に、女性集団の中の強者であるエリート女性のみに手厚い政策的援助が行くように誘導する」。「男女共同参画では強者の女性を援助して弱者の女性への福祉は切り捨てている」。フェミニストは専業主婦を「税金泥棒呼ばわりする」が、「現行の税・社会保障制度で一番得をするのは、…夫婦とも中・高収入を得ているエリートカップルの世帯」だ。「男女共同参画社会は、…高学歴夫婦世帯に対して集中的に福祉を施している。これでは格差がさらに拡大される」(p.155-p.160)。
 私が挟めば、フェミニスト、弱者のふりをし、「女性という人権」を振りかざして、少数の高学歴(かつとくに配偶者のいない)女性の利益のために政府にゆすり・たかりをしている圧力集団の参謀ではないか。その中の参謀長クラスが上野千鶴子だと思われる。
 第四に、少子化の原因としての妊娠・出産の減少は、女性の社会進出と無関係ではない、外での仕事が魅力的だと、又は外で働く必要があれば、女性が出産・育児を厭う場合もあれば、希望してもできない場合もあるだろう、だからある程度はやむを得ない、時代の流れなのかな、と何となく思ってきたのだが、この本を読んでかなり変わった。フェミニズムこそが少子化、人口減を招き、将来の日本を危うくしている根本的思想なのではないか、と。
 不勉強を曝すが、現在の政府の少子化対策は、働く女性の支援、つまり働きながらでも安心して子育てできる、同じことだが子育てしながらも安心して働ける環境の整備らしい。つまりはゼロ歳児から預けられる保育所も含めての、保育所の増設だ。これは、子育てしながら安心して働ける環境を整備すれば出生率は回復する、又は増加するとの「理論」又は「予想」にもとづく。そのために10年間、毎年2-3000億円の公金を厚生労働省は使った。しかるに、現実は出生率が増加していない。政策効果は出ていない。
 掛谷の本p.56以下によれば、上の「理論」・「予想」は誤りで、赤川学・信州大学教授が、同・子どもが減って何が悪い(ちくま新書)で、1.男女共同参画が進めば=女性が働きやすい環境が整備されれば出生率が上昇するとの「理論」の根拠とされるデータには「捏造」があり、OECD加盟国全27国の統計では「女性の社会進出が進むほど出生率は低下する」こと、2.28-39歳の有配偶者女性ではaフルタイム従業、b本人の収入、c都市居住、の三変数が「出生率の低下に有意に寄与している」、つまり「都市でフルタイムで働く高所得女性ほど出産しない」こと、を示した。男女共同参画は少子化を促進しても抑制することはない、ということだ。こちらの方に説得力があると、私には感覚的に思える。だが、フェミニスト又は女性学者等はなお、男女共同参画推進こそが少子化対策になると主張している、という。
 政府の少子化対策施策は昨年の猪口邦子大臣提言等で子育て家庭への経済的支援(育児手当、児童扶養手当類)の増大へと少し舵取り方向を変えるようだが、従来の男女共同参画社会論者はその見解=「男女共同参画を進めれば子どもが増える」を変えようとせず、「開き直っている」というわけだ。
 掛谷は上の赤川学の理解を支持しつつ、そのような学者ら=上野千鶴子、田嶋陽子、白波瀬佐和子、樋口美雄等を批判し、故意の、確信犯的な「学者のウソ」と断じる(p.73等)。また、女性学会とその周辺学会は「間違った情報を発信し続けて」おり、「日本女性学会のホームページをみると、…学会ではなく政治団体なのではないかと思うような情報発信が多い」としている(p.69)。
 男女平等も男女共同参画も基本的なところでは概念・理念として誤っているわけではないだろう(但し、男女平等は男女の差異の無視・否定と同義ではない)。だが、具体的な政策・施策の次元では、どうやら誤りのジェンダー・フリー論が幅を利かせ、政府の審議会類を乗っ取
ってきた気配がある。掛谷によると、フェミニストは「日本女性学会」等に巣くって政治的主張を展開しているようだ。
 p.66-67に紹介の上野千鶴子の、人口現象の原因を突き止めることは「できない」、少子化対策は「極端に言えば、やってもやらなくても同じ、とも言える」との発言は、掛谷の言葉どおり、「よく考えると、ものすごい」。関係学問の力を否定し、政策効果のなさを自認しているのだ。学問とは何かを、政策・政治との関係を考えてしまう。一般論的すぎるが、政策・政治に「悪い」影響を与える学問はなくてよい。あるいは、そのようなものは政治的主張ではなく社会系の「学問」と本当に言えるのかどうか。
 掛谷はまだ30歳代で、分かりやすい、しっかりした文章も書く。今後の活躍に期待したい学者だ。マルクス主義学者の「ウソ」に殆ど言及がないのは残念だが、年齢・世代、理系出身等からしてやむをえないだろう。それと、「学者のバカ」というタイトルは折角の好著には少し軽すぎだ。もっといい表題だったら、より売れるのでないか。

0002/浅野史郎は「戦後教育」の優等生だ。だからこそ共産主義の怖さを知らない。

 浅野史郎は「日本が外国人を少なくとも一部は強制的に引っ張ってきて、従軍慰安婦という形で使ったのは歴史的事実」との「歴史認識」をお持ちのようだが、おそらく、慰安婦問題も、南京「大虐殺」問題も、これに関連する「百人斬り」競争報道事件も、関連する文献を、どの立場のものであれ、きちんと読んだことは一度もないのだろう。そして、河野洋平官房長官(当時)が1993年に事実を認めて謝罪したのだから、「少なくとも一部は」事実に違いない、という程度の認識なのだろう。
 学校秀才が東京大学に入り、上級官僚になり…の過程で、かつて日本政府・軍は「悪いことをした」という中・高校生のときの教育によって、何となくであれ、形成された歴史に関する一定のイメージは、何ら変わらず維持されたものと見える。そう、戦後教育の優等生であれば、十分に「何となく左翼」になってしまうのだ。
 そのような人々にとって、中国共産党がかつてどういう陰謀を実行して日本を戦争に引きずり込み、かつ現在も直接・間接に指示・示唆して反日本の雰囲気を世界で形成しようとしているかなど、思いもつかないのだろう。
 「何となく左翼」ではない、マルクス主義的フェミニスト、観念的・教条的平和主義者等々の「明瞭な左翼」に取り囲まれてしまっては、いかに賢くて関係文献をきちんと読めば判る筈の人でも、自らの頭による判断・確認の作業を省略して、「思いこんで」しまっている可能性が高い。
 一般にも言えそうに考えている。戦後「民主主義」教育の優等生は、大江健三郎が典型的大先輩だが、「戦前の日本は悪いことをした」史観をもつようになり、同じことだが「何となく左翼」になる。そして、社会主義・共産主義(=マルクス・レーニン主義)の本当の怖さを知らない、と。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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