秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ヒトラー

1556/レーニンの革命戦術②-R・パイプス著10章3節。

 R・パイプス著の試訳のつづき。
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 第3節・レーニンの革命戦術②。
 世界的社会主義革命についてのレーニンの秘密主義は、一つは彼の意図を対抗者に隠しておこうという望みに由来していた。もう一つは、計画したようには事態が進まなかったときに失敗したという汚辱を避けることができるという利益があるからだった。
 そうしておけば、計画が失敗したときいつでもレーニンは、その計画はなかったと開き直ることができた(そして実際にそうした)。
 個人的にボルシェヴィキ勢力を指導していた1917年の春や初夏に、レーニンはいくつかの指令を発した。その諸指令から、レーニンの戦闘計画に関する一般的な見取り図を描くことができる。//
 二月の経験からレーニンは、臨時政府は街頭の大衆示威活動で打倒できると学んだように見える。
 まずは、1915-16年にそうだったように、雰囲気が醸成されなければならない、次いで、民衆からの目から見て臨時政府の評判を落とす力強い宣伝活動がなされなければならない。
 この目的のためには、過った全てについて非難が加えられるべきだった。政治不安、物資不足、物価高騰、軍事的後退。
 ペテログラードを明け渡すドイツ軍との共謀だ、と追及すべきだった。一方ではそれを防御し、裏切りだと非難しつつもコルニロフ(Kornilov)将軍と協力したけれども。
 非難が度はずれになればなるほど、政治的に鍛えられていない労働者や兵士たちは、その非難を信頼しそうだった。信じられない現実には、信じられない原因があるからではないのか ?
 しかし、二月とは異なって、街頭での過激な示威活動は厳しく監視されていたので、自然発生性という見かけを与える高度に計算した努力が必要だと強く考えていたにしても、レーニンは自発的な行動を待ちはしなかった。
 レーニンはナポレオンから学んで、< tiraillerie >、小戦闘の原理を国内戦争に適用した。何人かの軍事史研究者はこの考え方を、戦争へのナポレオンの主要な貢献だと見なしている。
 ナポレオンは、戦闘のためにその戦力を、職業的正規軍と志願兵団の二つに分けた。
 志願兵団を送ってその中に敵の砲火を誘い込むのは、戦闘の初期のナポレオンのやり方だった。これは、敵陣の配置を知ることを意味した。
 重大な時点になると、ナポレオンは、敵の最も弱い地点で敵陣を粉砕すべく正規軍を活動につかせ、戦闘させた。
 レーニンはこの戦術を、都市での戦闘に適用した。
 民衆が、臨時政府を刺激する扇動的なスローガンを掲げて街頭に送り込まれた。これへの反応で、政府側の強さと弱さが判明することになる。
 群衆が政府側の実力を圧倒するのに成功したとすれば、ナポレオンの正規軍に当たるボルシェヴィキが-つまり、ボルシェヴィキ軍事機構が組織する武装労働者と兵士たちが-奪い取ることになる。
 群衆が失敗したとすれば、その地点はそのままにされて、民衆が変えようとするが抵抗してみて政府は『反民主的』だと分かる、ということになる。
 そして、ボルシェヴィキは次の機会を待つ、といこととなる。
 基本的な考え方は、ナポレオンの『< on s'engage et puis on voit >』-『自分でやってみて、そして分かる』ということだった。
 レーニンの三回の蜂起の企てで(1917年の4月、6月および7月)、彼は群衆を街頭に送り込んだが、自身は後方でじっとしており、『人民』を指揮するのではなくてそれに従うふりをした。
 いずれの企ても失敗したあと、レーニンは革命的意図を持っていたことを否認することになるし、ボルシェヴィキ党は軽はずみな大衆を抑え込もうと全力を尽くしたとすら装うことになる。(*)//
 レーニンの革命の技術には、群衆を操作することが必要だった。
 本能的だったのか知識によってだったかを言うのは難しいが、レーニンは、フランスの社会学者のギュスタフ・ル・ボン(Gustav Le Bon)が1895年に< La Psychologie des Foules (群衆の心理学)>で初めて定式化した群衆行動の理論に従った。
 ル・ボンは、人は群衆の一員になると個性を失い、その本能的心理をもつ集団的人格の中へと解体させてしまう、と述べた。
 その心理の重要な特徴は、論理的に推論をする能力が低下し、対応して、『無敵の力』をもつという意識が発生することだ。
 無敵だと感じて群衆は行動に走り、熱望は彼らを操作にさらす。『群衆は何かを期待する精神状態になり、簡単に暗示に従う』。
 群衆は、言葉と観念との連関による暴力への訴えに、とくに反応する。その観念は壮大でかつ曖昧な像(イメージ)を呼び覚まし、『不可思議』の雰囲気を漂わせる。『自由』、『民主主義』そして『社会主義』のごとく。
 群衆は、恒常的に繰り返された暴力のイメージと結びつく狂信者に反応する。
 ル・ボンによると、群衆を動かす力は宗教的な忠誠心だと最終的には分析できるので、『他の全ての前の神を、必要とする』、超自然的性格を授けられた指導者を。
 群衆の宗教的情緒は、つぎのように素朴だ。//
 『優れた者と想定されている者への崇敬、価値づけられる権力への恐怖、その命令への盲目的服従、その教条に関して議論できないこと、その教条を拡散したい欲求、自分たちを受容しない者全てを敵と考える傾向』。(48)//
 群衆の行動に関する最近の観察者は、群衆の活力(dynamism)に注意を向けた。//
 『いったん形成された群衆は、急速に大きくなろうとする。
 群衆が広がる力と意思力を、強調してもすぎることはない。
 大きくなっていると感じるやいなや-例えば、少数だがきわめて激烈な群衆によって始まる革命的な諸国では-、群衆は自分たちが大きくなるのに反対する者を束縛的だと見なす。<中略>
 こうなると群衆は包囲された都市のようなもので、多くの包囲攻撃に見られるように、その壁の前にも内部にも敵がいる。
 戦闘している間に、群衆は、国じゅうから、ますます多数の別働隊(パルチザン)を魅きつける』。(49)//
 レーニンは、きわめて稀な正直なときに、仲間のP・N・レペシンスキーに、大衆の心理に関する原理的なことをよく理解している、と打ち明けた。彼は、つぎのように書く。//
 『(レーニンは)1906年の夏の終わりに、ある私的な会話の中で、相当の確信をもって革命の敗北を予言し、退却(retreat)をする準備が必要だと示唆した。
 このような悲観的な状況にもかかわらずレーニンがプロレタリアートの革命的な力を強化するために活動するとすれば、それは、おそらくは大衆の革命的精神は決して損なわれないという考えからだった。
 勝利への、あるいは半分の勝利へですら、新しい可能性が生じるのだとすれば、そのきわめて多くは、この革命的精神に拠っているだろう』。//
 言い換えると、失敗だったとしてすら、大衆の行動は、群衆を緊張と戦闘準備の高い次元にとどまらせ続ける、価値ある仕掛けなのだ。(**)//
 ロシアに帰国した後三ヶ月の間、レーニンは、臨時政府を群衆行動で打倒しようという無謀で性急なことをした。
 レーニンは、言葉で絶えず攻撃して、臨時政府とそれを支持する社会主義者は革命に対する裏切り者だという批判にさらし、それと同時に、民衆に対して国民的な不服従を呼びかけた-軍には政府命令の無視を、労働者には工場の管理の掌握を、地方共同体の農民には私的土地の確保を、少数民族には民族の権利の要求を。
 彼には予定表はなかったが、小戦闘は対抗者〔臨時政府〕の無能力さとともに優柔不断さを暴露していたので、すぐにでも成功すると確信していた。
 七月蜂起の間の決定的な瞬間にレーニンが狼狽しなかったとすれば、十月にではなくそのときに権力を奪取していたかもしれなかった。//
 逆説的にだが、レーニン(とのちにはトロツキー)の戦術は、武装はしたものの、肉体への暴力をたいして含んではいなかった。
 肉体への暴力は、のちに、権力が確保されたのちに出現することになった。
 虚偽情報宣伝活動と大衆の示威活動、集中砲火的な言葉と街頭騒乱の目的は、公衆一般はもとより対抗者〔臨時政府〕の心のうちに、不可避性の意識を植え込むことだった。変化はやって来る、何も止められはしない。
 レーニンの生徒で模倣者のムッソリーニやヒトラーのように、彼は、まずは進路上に邪魔して立つ者たちの精神を打ち砕き、そして滅亡する運命にあるのだと説き伏せることによって、権力を勝ち取った。
 十月のボルシェヴィキの勝利は、十分の九は、心理的なもので達成された。
 つまり、関与した軍事力はきわめて小さいもので、1億5000万人の国民のうちせいぜい数千人にすぎない。また、ほとんど一発も銃砲が火を噴くことなく勝利が到来した。
 戦争は始まる前にでも、人々の心の中で勝ったり負けたりする、というナポレオンの格言の正しさを、十月の全行程は確認している。//
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 (*) この戦術は、何人かの歴史家をすら困惑させるのに成功してきている。ボルシェヴィキは権力への欲求を公然とは宣言しなかったので、そう望まなかったのだ、という主張がある。しかし、1917年10月には、ボルシェヴィキは、そんな圧力は実際には存在しなかったにもかかわらず、下からの圧力によって行動した、と装うことになるのだ。
 ボルシェヴィキやその模倣者が使ったこの手法の二元性は、クルツィオ・マラパルテ(Curzio Malaparte)が、その著<クー・デタ>で最初に指摘した。
 ムッソリーニによる権力奪取の参加者であるマラパルテは、ほとんどの同時代人や多くの歴史家が見逃したことを知っていた-すなわち、ボルシェヴィキ革命とその継承者たちは、見えるものと隠されたものという二つの異なる次元で作動した、ということをだ。後者の隠されたものこそが、現存した体制の致命的な機関に対して、死への一撃を加えた。
  (48) G. Le Bon, The Crowd (ロンドン, 1952), p.73。
  (49) E. Canetti, Crowd and Power (1973), p.24-25。 
  (**) E. Hoffer, The True Believer (ニューヨーク, 1951) p.117, p.118-9 を参照。
 『行動とは、団結させるものだ。<中略> 全ての大衆運動は、団結する手段として自らの大衆行動の助けになる。大衆運動が探求し喚起する闘いは、敵を倒すためばかりではなく、その支持者たちに本能的な個人性を剥き出しにさせ、集団的な媒体へとより溶解させていくためにも役立つ』。
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 第4節につづく。

1498/あるドイツ人-Wolfgang Ruge(1917-2006)。

 ○ 日本人には全くかほとんど知られていないと思う。
 ヴォルフガング・ルーゲ(Wolfgang Ruge)というドイツ人がいる。
 1917年生~2006年没。
 1917年夏にドイツ・ベルリンで生まれた。ロシアでは二月革命と同年の「10月の政変」のちょうど間。レーニンの7月蜂起があった頃。現在からほぼ100年前のこと。
 そのとき、第一次大戦はまだ終わっておらず、2歳の頃までに、戦争終結、ベルサイユ講和条約締結、そして2019年8月のワイマール憲法制定を、したがってドイツ・ワイマール共和国の成立期を、おそらくは記憶しないままで大きくなった。
 1933年の夏、8月末頃、ベルリンからおそらく「難民」として、ソ連・モスクワへと移った。
 そのとき、ワイマール共和国は、ナチス・第三帝国に変わっていた。ナチス党の選挙勝利を経て1933年の初頭に、ヒトラーが政権・権力を握っていた。
 W・ルーゲは、夏に16歳ちょうどくらい。二歳上の兄とともに、ソ連・モスクワに向った。そこで育ち、成人になる。スターリンがソ連・共産主義体制の最高指導者だった。
 戦後まで生きる。戦後も、生きた。そして1982年、ドイツに「帰国」する。
 彼が、65歳になる年だ。
 しかし、それは、ヒトラー・ドイツでもなければドイツ連邦共和国でもなく、「東ドイツ」、1949年に成立したドイツ民主共和国のベルリンへの「帰国」だった。
 そこで「歴史学」の研究者・教授として過ごす。主な研究対象は、ワイマール期のドイツの政治および政治家たちだったようだ。
 1990年、彼が73歳になる年に、ドイツ民主共和国自体が消失して、統一ドイツ(ドイツ連邦共和国)の一員となる。
 2006年、88歳か89歳で逝去。
 すごい人生もあるものだ。第一次大戦中のドイツ帝国、ワイマール共和国、ヒトラー・ナチス、スターリン・ソ連、第二次大戦、戦後ソ連、社会主義・東ドイツ、そして統一ドイツ(現在のドイツ)。
 1990年以降に、少なくとも以下の二つの大著を書き、遺して亡くなった。
 Wolfgang Ruge, Lenin - Vorgänger Stalins. Eine politische Biografie (2010)。
  〔『レーニン-スターリンの先行者/一つの政治的伝記』〕
 Wolfgang Ruge (Eugen Ruge 編), Gelobtes Land - Meine Jahre in Stalins Sowietunion (2012、4版2015)。
  〔『賞賛された国-スターリンのソ連での私の年月』〕
 ○ 上の後者の著書の最初の方から「レーニン」という語を探すと、興味深い叙述を、すでにいくつか見いだせる。これらが書かれたのは、実際には1981年と1989年の間、つまりソ連時代のようだ(おそらくは子息である編者が記載した第一部の扉による)。
 ・W・ルーゲはベルリンから水路でコペンハーゲン、ストックホルムを経てトゥルク(フィンランド)へ行き、そこからヘルシンキとソ連との国境駅までを鉄道で進んでいる。
 コペンハーゲンからの船旅の途中で(16歳のとき)、この進路は「1917年という革命年にレーニンがロシアへと旅をしたのと同一のルート」だということが頭をよぎる(p.10)。
 このときの記憶として記述しているので、ドイツにいた16歳ほどの青少年にも、レーニンとそのスイスからのドイツ縦断についての知識があったようだ。
 ・W・ルーゲは、ストックホルムより後は、母親の内縁の夫でコミンテルンの秘密連絡員らしきドイツ人の人物とともに兄と三人でソ連に向かう。
 ソ連に入ったときの印象が、こうある。「レーニン」は出てこない。
 フィンランドの最終駅を降りてさらに、「決定的な、20ないし30歩」を進んだ。
 ロシア文字を知らなかったし、理解できなかったが、しかし、「そこには、『万国の労働者よ、団結せよ!』とあるのが分かった。宗教人が処女マリアを一瞬見たときに感じたかもしれないような、打ち負かされるような、表現できない感情が襲った。私は、私の新しい世界へと、入り込んだ」(p.12)。
 ・さかのぼって、ドイツ・ベルリンにいた6歳のときのことを、こう綴っている。
 「レーニンが死んだとき〔1924年1月-秋月〕、6歳だった私は、つぎのことで慰められた。
 レーニンの弟のK・レーニン(カリーニンのこと)がその代わりになり、全く理解できないではない謎かけではなくて、<レーニンは死んだ。しかしレーニン主義はまだ生きている>と分かりやすく表現してくれた。」(p.25)
 このとき彼はすでに、レーニンの名を知っていた。さらに、ソヴィエトの一ダースほどの指導者の名前を知っていた、ともある(同上)。

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1483/ムッソリーニとレーニン⑤-R・パイプス別著5章2節。

 ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源⑤。
 
前回のつづき。
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 ムッソリーニは、ファシスト政党を設立した1919年には、自分自身を社会主義者だとなおも思っていた。
 イタリアは、多数の退役者が仕事を見つけられず、インフレに苦しみ、深刻な社会不安を抱えていた。巨大な数の労働者が、ストライキに入っていた。
 このような不穏状態は、ムッソリーニを元気づけた。
 1919年1月に彼は、郵便従業員の違法な怠業を煽動し、労働者には工場を確保するように訴えた。
 ある権威者によれば、社会的混乱が頂点に達していた1919年の夏に、ムッソリーニは、工場労働者による暴力活動を訴えて無能の社会党や全国労働者連盟(General Federation of -)に高い値で自分を売り込むことすらした。彼の新聞<イタリア人民>は、<不当利得者は街路灯上の麻薬中毒者だ>と述べていた。(32)
 ファシスト党の中核になった< fasci di combattimento >の1919年6月綱領は、社会党のそれとほとんど異ならなかった。すなわち、憲法制定会議〔立憲議会、Constituent Assembly〕、一日八時間労働制、工場管理への労働者参加、国民予備軍、『資本への重税』による富裕層からの部分的剥奪、および教会財産の没収。
 労働者は、『革命的な戦争』を始めることが奨励された。(33)
 社会党の専門家はムッソリーニを、『<革命的な社会主義者>』だと見なした。(34)//
 戦争に対する立場によって信用を落としはしたが、こうした活動によってかつて社会主義者の指導者だったムッソリーニは、イタリア社会党の役職をもう一度得るのを望んだ。
 しかしながら、社会党は、彼を許そうとしなかった。社会党はファシスト党との選挙連立ブロックの形成を意図していたが、それは、ムッソリーニが排除されるという条件つきだった。(35)
 ムッソリーニは、政治的に孤立し、主に社会主義干渉主義者によって支援され、そして右翼へと振れた。
 二つの大戦間の彼の歩みを見て示唆されるのは、彼が社会党を拒絶したのではなく、社会党が彼を拒絶したこと、彼は旧宅、つまり社会党では達成できなかった政治的野心を満たすための道具として、ファシスト運動を始めた、ということだ。
 ムッソリーニの社会主義との決裂は、言い換えると、イデオロギー上のものではなく、人間的なものだ。//
 1920年遅くに始まったが、武装したファシスト騒団が、不法居住農民を打ち砕くべく農村地帯へと行進した。
 彼らは翌年早くに、北部イタリアの小都市を脅かす『懲罰遠征隊』を組織した。
 彼らは、ボルシェヴィキが実際にしたことを想起させるやり方で、物理的な暴力と脅迫を用いて、社会主義諸党や労働組合を解体させた。
 イタリアの社会主義者たちは、ロシアでの対応者〔ロシア社会民主党〕がそうだったように、このような剛腕による方法に受動的にしか対応せず、支持者たちを混乱させ、意気消沈したままに放置した。。
 ムッソリーニの行動は、工場経営者や土地保有者の支援を獲得した。
 彼はまた、休戦協定に対するイタリア人の憤懣も利用した。イタリアは勝利した連合国側で戦ったが、領土の要求を全く満足させるものではなかったからだ。
 ムッソリーニはイタリアを『プロレタリアの国』と描写して、民衆の怒りをもとに活動した。この戦術によって、不快感をもつ軍退役者の間での支持をかち得た。
 ファシスト党は、1921年11月までに15万2000人の党員を有した。そのうち24%は農業従事者で、15%は工場労働者だった。(36)//
 ムッソリーニは、ファシスト指導者になってすら、共産主義に対する共感と敬意を隠さなかった。レーニンの『残虐な力強さ』を高く評価し、ボルシェヴィキによる人質殺戮に反対しなかった。(37)
 彼は誇らしげに、イタリアの共産主義はまだ子どもだと言った。
 国会下院での1921年6月21日の最初の演説で、つぎのように自慢した。
 『私は、共産主義者をよく知っている。何人かは、私が育てたからだ。
 皮肉に見えるかもしれないが真面目に認めよう、私は、多数のブランキ(Blanqui)が弱体化した小さなベルクソン(Bergson)をイタリアの社会主義に持ち込み、イタリアの民衆を社会主義に感染させた、最初の人間だ。』(38)
 ムッソリーニは1921年2月に、ボルシェヴィズムについてこう言った。
 『あらゆる形態のボルシェヴィズムを拒否する。しかし、かりにどれか一つを選ばなければならないとすれば、モスクワやレーニンのボルシェヴィズムを選ぶだろう。それは、その総体が巨大で、野蛮で、かつ普遍的であるのだけが理由だ。』(39)
 ムッソリーニは1926年11月に、自立した政党、団体、組織を禁止する布令を発した。そのときでも、彼は共産党の存続を許した、ということを見過ごしできないだろう。(40)
 彼は1932年には、ファシズムの共産主義との親近性(affinities)を承認した。
 『全ての消極的な面で、われわれは似ている。
 われわれとロシア人は、リベラルたち〔自由主義者〕に反対で、民主主義者に反対で、議会制度に反対だ。』(41)
 (ヒトラーはのちに、ナチスはボルシェヴィキと分かたれているのではなく結びついている、と語って、これに同意することになる。(42))
 ムッソリーニは1933年に、スターリンに対して、ファシズムのモデルに従うように公然と強く迫った。
 また、ソヴェト独裁者が歴史上最もおぞましい大虐殺を完遂し終わった1938年には、最高級の賞賛をしてスターリンを褒め称えた。
 『スターリンは、レーニン体制の全体的崩壊を前にして、秘密のファシストになった。』
 ロシア人、『すなわち半野蛮な種族』のスターリンは、刑務所の囚人を懲らしめるために、香料油を強いて注ぐというファシストのやり方を見習わなかった、という違いはあるけれども。(43)//
 まずムッソリーニが、次いでヒトラーが自分たちの政治技術を真似る(copy)のを、ロシアの共産主義者は不安げに見守った。
 こんな比較がまだ可能だったのかと思う第12回党大会(1923年)で、ブハーリンは、つぎのように観察していた。//
 『ファシストの方法と闘いの特徴は、他のどの党よりも多く、ロシア革命の経験を採用し、実践へと適用したことだ。
 <形式的>観点から、つまり政治方法の技術の観点から見れば、ファシストたちがボルシェヴィキの戦術を、とくにロシアのボルシェヴィズムの戦術を完全に適用しているのが分かる。それは、権力の速やかな中央集中化、緊密に構成された軍事組織の力強い活動、また、人の力を関与させる独特な制度、Uchraspredy、総動員など、そして、必要で情勢が求めるときはいつでも敵を容赦なく破滅させること、という意味でだ。』(*)//
 歴史の証拠は、以下を示す。
 ムッソリーニのファシズムは、自分の政治的利益を促進するためにこの二つ〔社会主義と共産主義〕を攻撃するのを躊躇しなかったとしても、社会主義または共産主義に対する右翼の反応として出現したのではない。(+)
 もしも機会があれば、ムッソリーニは1920-21年頃には、強い親近性を感じていたイタリア共産党を自分の党派のもとに、喜んで抱え込んでいただろう。
 その親近性は、確実に、民主主義的社会主義者、リベラルたち〔自由主義者〕および保守主義者に対するものよりも強かった。
 ファシズムは、総括的に言うが、イタリア社会主義の『ボルシェヴィキ』派から生まれたのであり、保守的なイデオロギーまたは活動から生まれたのでは決してない。
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  (32) ロッシ, 成立, p.19。
  (33) ディ・フェリーチェ, ムッソリーニ, p.742-745。   (34) 同上、p. 730。
  (35) ロッシ, 成立, p.39。   (36) 同上、p. 163。
  (37) ノルテ, 理論, p.231。
  (38) ロッシ, 成立, p.134-5。  (39) 同上、p.138。
  (40) Eevin von Beckerath, ファシスト国家の本質と生成 (1927), p.109-110。
  (41) Yvon de Begnac, ヴェネツィアの宮殿 :ある体制の歴史 (1950), p.361。
  (42) ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning), ヒトラー語る (1939), p.134。
  (43) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, XXIX (1959), P.63-64。Gregor, ファシスト信条, p.184-5 参照。
  (*) ロシア共産党(ボ)編集のXIIS" :Stenograficheskii otchet (1968), p.273-4。
 < Uchraspredy >とは、党活動家の任命に責任をもつ[共産党の]中央委員会の機関だ。
  第12回大会の議事原案の編集者は、ブハーリンが『馬鹿げた』、『根拠なき』、『非科学的』といった比喩を用いている部分を削除した。同上、p.865。
 さらに、Leonid Luks, 共産主義的ファシズム理論の生成 (1984), p.47 を見よ。
  (+) Renzo de Felice は、運動としてのファシズムと体制としてのファシズムを明確に区別し、前者は革命的なままだったと主張する。Michael Ladeen, in :国際的ファシズム, p.126-7。
 同じことは、権力を掌握するやその権力を維持するために保守的(conservative)になったボルシェヴィズムについても言えるかもしれない。
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第2節、終わり。

1474/全体主義の概念②-R・パイプス別著5章1節。

 前回のつづき。
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 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・『全体主義』の観念②。
 ココミンテルンが定式化した、左翼には優勢の見方によれば、『ファシズム』は共産主義の正反対物で、この二つを『全体主義』という傘の下に置く試みは、冷戦の産物だとして却下される。
 この見方によれば、『ファシズム』は、最終的な消滅へと進む資本主義における帝国主義段階の一様相だ。
 包囲されかつ驚いて、『独占資本主義』は、労働者階級の支配を維持しようと絶望的な努力をして、『ファシスト独裁制』に頼っているのだ。
 共産主義インターナショナル〔コミンテルン〕執行委員会は1933年に、ファシズムを『金融資本主義の、最も反動的で狂信愛国主義的なかつ帝国主義的な要素をもつ、公然たるテロリスト独裁制』と定義した。(9)
 傾倒したマルクス主義者にとっては、議会制民主主義と『ファシズム』の間に何の違いもない。ただ、ブルジョアジーが労働者大衆の要求に対抗して自らを守る方法が違うだけだ。
 『ファシズム』は、財産関係を維持し続けるがゆえに保守的だ。『社会主義社会への自然の発展を妨げようとする点において、革命的ではなく、反動的であり、または反革命的ですらある。』(10)
 ムッソリーニやヒトラーの体制にある革命的な要素は、現代人には驚くべきことに、欺瞞的な策略(deceptive maneuvers)だと叙述される。//
 『全体主義』観念やボルシェヴィズムは『ファシズム』に影響を与えたという示唆に反対する論拠には、二つの範型がある。
 低い議論の次元では、人身攻撃(ad hominem)の方法が用いられる。
 『全体主義』の観念(concept、コンセプト)は、冷戦を闘うための武器として考案されたと言われる。共産主義をナツィズムと接合させることは、世論が反ソヴェト同盟へと向かうのを助ける、というのだ。
 この観念は実際には、冷戦の優に20年前には存在していた。
 『全体的(total)』政治権力や『全体主義』の観念は、1923年に、ムッソリーニの反対者だった(のちにファシストに殺害された)ジョヴァンニ・アメンドーラによって定式化された。彼はムッソリーニによる国家制度の体系的な破壊を観察して、ムッソリーニ体制は伝統的に言う独裁制とは根本的に異なっている、と結論した。
 ムッソリーニは1925年に、『全体主義』という用語を採用し、肯定的な意味を与えた。
 彼は、『精神的なものも人間的なものも』全てを、『国家の外にある全てではなく、国家に反抗する全てではなく、国家の内部にある全てのもの』を政治化する、という意味で『全体的な』ものだと、ファシズムを定義した。(*)
 ヒトラーの勃興とそれと同時に起こったスターリンのテロルがあった1930年代に、この用語は、学者世界で受容されていた。
 これら全ては、冷戦のとっくに前に生じていたのだ。//
 『全体主義』との語を拒絶する、より真剣な理論家は、その論拠をつぎのように述べる。
 第一に、いかなる体制も完全な政治化や国家統制を実施することができなかった。第二に、いわゆる『全体的』体制に帰属する特質は、それに独特なものではない。
 『言葉の厳格な意味で全体的という呼称を使える制度は存在しない』。
 さらに論述は続く、『なぜなら、どこにでも多かれ少なかれ多元主義的な屑滓は残っているのだから。』、と。
 換言すると、明確に特徴的だとされる『単一体』を実現することなどできない。(11)
 これに対しては、つぎのように答えることができる。
 『厳格な』意味づけという標識でもってつねに判定されるならば、社会科学の学術用語は、全てが考査に合格しないだろう。
 何人も、『資本主義』について語ることはできないだろう。なぜならば、レッセ・フェール(laissez-faire)経済の全盛期においてすら、政府は規制していたし、そうでなくとも市場の活動に介入していたのだから。
 また、このような規準によるならば、何人も『共産主義経済』を語ることができないだろう。なぜならば、ソヴェト同盟では理論上は99%が国有で国家管理のもとにあったとしてすら、つねに『第二の』自由経済部門(sector)の存在を黙認しなければならなかったからだ。
 民主主義は、民衆による統治を意味する。しかし、政策に影響を与える特定の利益集団がどの最も民主主義的な国家でも存在していることを、政治理論は何の困難もなく承認している。
 このような諸概念は、所与の体制が欲するものは何か、得るものは何かを伝達するがゆえに、有用なのだ。-自然科学ではなされるような、辞書上の用語の意味での『厳格に』語ってではなく、人間世界で最大限に一致していることを大まかに語って伝えるのだ。
 実際に、全ての政治的、経済的および社会的な制度は『混合』したもので、どれ一つ純粋なものではない。
 学者の仕事は、総体として所与の制度を際立たせて他者と分離させる、その総体を識別することだ。
 より厳格な規準を『全体主義』概念に適用する、いかなる合理的で知的な根拠も存在しない。
 じつに、全体的な熱望はきわめて高いので、ハンス・ブーフハイムによれば、まさにその本性のゆえにそれを認識することができない。ブーフハイムは、つぎのように述べる。//
 『全体的支配は不可能なことを-人の人格と運命を完全に統御することを-追求するので、部分的にしか認識され得ない。
 目標は決して到達できないもので現実になることもなく、力への一つの勢い、一つの<要求>にとどまり続けなければならない、というのが、全体主義の本質だ。
 全体的支配は単一的に推論できる装置ではなく、各部分が同等に働いている。
 これは望ましい状態で、ある分野では現実にも理想に接近しているのかもしれない。しかし、全体(whole)として見ると、力への全体的な要求は、変転する強さ、異なる時間、多様な生活領域が伴う、拡散した方法でのみ、認識される。-そして、全体的な特質はつねに、非全体的なものとの混合物なのだ。
 しかし、力への全体的要求の結果は危険で暴虐的だというのは、まさにこの理由からだ。この要求は不明瞭で予見不能で、存在を証明するのが困難だ。(中略)
 全体的な総体に関するほとんどどの考察にも、ある事項については誇張し、別の事項については過小に評価するという、致命的な特徴がある。
 この逆説は、認識できない統御への要求から生じている。それは全体的な統治のもとでの生活に特徴的なものであり、全ての外部者が把握することをきわめて困難なものにしている。』(12)//
 全体主義の(イデオロギーへの傾倒、大衆への訴え、カリスマ的指導者のような)属性はどの政治体制にも存在している、という主張に対しても、同様の答えをすることができる。
 『いかなる構成物にも歴史上の独特さがあるという論拠は、「全体として(wholly)」独特だということを意味してはいない。そんなものは何一つないからだ。
 全ての歴史事象は、…分析対象を幅広く分類したもののうちのいずれかに属している。
 歴史はまずは、人間であれ物であれ、また事件であれ、個別的なものにかかわる。そして、歴史上の独特さは、特徴的な要素を十分に多様な図柄にしたもので成り立っているのだ。』(13) //
 イタリアのファシズムとドイツの国家社会主義について研究するためには、ロシア革命を理解することがきわめて重要だ。その少なくとも三つの理由は、つぎのとおりだ。
 第一に、ムッソリーニとヒトラーは、民衆を脅かして独裁権力に屈服させるために、共産主義という妖怪を利用した。
 第二に、二人とも、個人的に彼らに忠実な政党を造り上げ、権力を奪取して一党独裁体制を樹立する技術について、きわめて多くのことをボルシェヴィキから学んだ。
 これら二つの点で、共産主義は、社会主義や労働者運動に対してよりも大きい影響を、『ファシズム』に対して与えた。
 そして第三に、ファシズムや国家社会主義に関する研究文献は共産主義に関するそれよりも、多くかつより精細だ。それらに慣れ親しむことは、ロシア革命が出現させた体制に対して、多くの光をあてる。//
 影響は大きいので、歴史家は危うい地形に嵌まるかもしれない。なぜならば、前後関係のゆえに因果関係あり(post foc ergo propter hoc)という、その後で生じたからそれが原因だとの謬論に陥る危険性があるからだ。
 共産主義はファシズムと国家社会主義の『原因』になった、と言うことはできない。これらの源泉は生まれた地にあったのだから。
 しかし、つぎのことは言うことができる。すなわち、大戦後のイタリアとドイツでひとたび反民主主義的勢力が十分な強さを獲得したとき、その指導者たちの手には、従うことができるモデルが用意されていた。
 全体主義の全ての属性の先行形は、レーニン・ロシアのうちにあった。つまり、公式の包括的なイデオロギー、『指導者』を長として国家を支配する単一のエリート政党、警察のテロル、通信手段と軍隊に対する支配党の統制、経済への中央からの指令。(**)
 これらの制度と過程は、ムッソリーニがその政府をヒトラーがその党を設立した1920年代早くに、他のいかなる国でも見出せなかったが、すでにソヴェト同盟にはあった。
 したがって、『ファシズム』と共産主義の間には何の連結関係もないということの立証責任は、そのような見解の持ち主の側にある。//
  (*) 1950年代と1960年代のガーナの独裁者で、ソヴェトとの同盟者だったクワメ・クルマーは、自分の碑につぎの言葉を彫りこんだ。『まずは政治王国を探求せよ。そうすれば全ての他事は君の上に加わるはずだ。』
  (9) レオニード・ルークス, 共産主義者のファシズム理論の生成 (1984) p.177。
  (10) アクセル・クーン, ファシストの支配体制と現代社会 (1973) p.22。
  (11) ザイデル=イェンカー, 途 p.26。同じ反論は以下からも述べられている。クーン in, ファシスト的支配体制, p.87。
  (12) ブーフハイム, 全体的支配, p.38-39。
  (13) フリートリヒ, 全体主義, p.49。
  (**) これらの標識は、カール・J・フリートリヒとズビグニュー・K・ブレジンスキーによって、彼らの<全体的独裁と専制>(1964) p.9-10 で確立された。
 経済計画は1927年のロシアで最初に実現されるが、その基礎作業は、レーニンのもとで、1917年遅くの国家経済最高会議(VSNKh)の設立によって行なわれていた。R・パイプス『ロシア革命』第15章を見よ。
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 第2節へつづく。 

1473/全体主義の概念①-R・パイプス別著5章1節。

 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の訳を試みる。さしあたり、第5章のみ。
 原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には「//」を付した。<『 』>は、原著では<" ">だ。
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 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 「ファシズムとは何か。それは民主主義から解放された社会主義だ。」- Charles Maurras (1)
  第1節・『全体主義』の観念
 国内および国外での共産主義者の活動の意味は、世界的革命を解き放つことではなく、逆説的ではあるが、彼らの精神性に類似した運動を生起させ、共産主義を闘う彼らの方法を模写することだ。
 この理由によって、第一次大戦後にヨーロッパに出現した、いわゆる右翼過激派の、または『ファシスト』の運動はしばしば、共産主義の正反対物だと見られている。
 しかし、宗教上のであれ世俗上のであれ相互に激烈に闘うイデオロギーにはよくあるように、それらは異なる原理や熱望をもつがゆえにではなく、同じ構成物を目指して競争するがゆえに、相互に激しく闘うのだ。//
 共産主義と『ファシズム』の関係は長らく、論争の対象だった。
 共産主義歴史家には義務的な、西側の社会主義者やリベラルたちには好まれた解釈によれば、この二つは決して一致しない現象体だ。
 保守的な理論家の側は、両者を『全体主義』という観念のもとに包括する。
 問題はきわめて微妙だ。『ファシズム』、とくにその最も悪性の表現であるナツィズムは、マルクス・レーニン主義と、したがって究極的には社会主義と、縁戚関係があるのか、それともそうではなく、『資本主義』から生まれてくるのか、という問題が生じるからだ。//
 以下の論述は、直接にはこの論争にかかわらない。この問題については、すでに多数の文献が存在する。(2)
 その代わりに、共産主義が、見習うべき模範かつ利用すべき脅威のいずれもとして西側の政治に与えた影響に、光を当てるつもりだ。
 大戦間のヨーロッパでの右翼過激派運動の起源を例にとれば、その運動はレーニンとスターリンという先行者なくして理解できないだろうことが、すぐに明らかになる。
 この問題は、不思議にも、ヨーロッパの全体主義独裁制がまるで自分で生まれてきたかのように扱う歴史家や政治学者によって無視されている。権力へのヒトラーの蜂起に関する標準的な説明をするカール・ブラヒャーですら、ほとんどレーニンに言及していない。ブラヒャーのあらゆる段階についての叙述は、この二人が採用した方法との類似性を明らかにしているにもかかわらず。(3)//
 なぜ、ソヴェトの実験は、ファシズムや全体主義に関する文献で大きく無視されているのか ?。
 左翼の歴史家にとっては、ソヴェト共産主義と『ファシズム』の親近性という問題を持ち出すことですら、両者間の因果関係を肯定するのと同じことなのだ。
 彼らにとって『ファシズム』とは、その定義上、社会主義と共産主義の正反対物であるために、このような親近性は承認されえないもので、『ファシズム』の根源は、もっぱら保守的思想と資本主義の実践の中に求められなければならないのだ。
 ソヴェト同盟ではこの傾向は進んで、レーニン、スターリンおよび彼らの直接の後継者たちのもとでは、『国家社会主義』という用語を使うことが禁じられた。//
 つぎに、『全体主義』および『ファシズム』という概念が現代性を獲得した1920年代には、西側の学者はボルシェヴィキとそれが生んだ一党独裁体制についてほとんど何も知らなかった。
 すでに記したように (4)、1917-18年、ヨーロッパが第一次大戦の最後の年にあり、ロシア内部の展開によりも注意を払うべき緊急の問題がたくさんあったときに、あの体制は、設定された。
 共産主義体制の真の本性は、その背後に独占的な党が立つ、新奇な民主主義紛いの諸制度によって、外国人の目からは長い間、隠されていたのだ。
 今日からすれば奇妙に思えるかもしれないことだが、『ファシスト運動が発展した1920年代には、共産主義はまだ全体主義的体制の一つであるとは分かっておらず…、制限のない自由の擁護者のように見えていた…。』(5)
 二つの大戦の間には、共産主義体制の起源を問題にするいかなる研究も、真剣な歴史的で理論的な分析を行わなかった。
 ほとんどが1930年代に、ソヴェト・ロシアに関する若干の研究書が出版され、スターリンが支配する国家について叙述した。それら研究書はしかし、一党国家体制の父祖であるのはレーニンではなくスターリンだという偽りの印象を生み出した。
 1951年になって、ハンナ・アレントは、レーニンが最初に権力をソヴェトに集中させることを企図し、内戦が勃発して『大敗北』を喫したのちに、『至高の権力を…党官僚の手へと移した』という衝撃的な主張をすることができた。(6)//
 全体主義現象に関する初期の分析は、彼ら自身の民族的体験にもとづいて、ほとんどもっぱらドイツの学者によって行われた。(7)
 ハンナ・アレントが全体主義の属性の一つであるとして反ユダヤ主義に与えた、誇張された重要性は、ドイツ人による多数の研究を説明するものだ。(*1)
 初期の別の(ジグムント・ノイマンのような)研究者は、ヨゼフ・スターリン、ベニート・ムッソリーニおよびアドルフ・ヒトラーの諸体制の類似性に注目した。しかし彼らですら、共産主義政治体制の作動に関してほとんど何も知らないという単純な理由で、ロシアが右翼過激派運動に与えた影響を無視した。
 1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった。(8)
 ファシズムと国家社会主義に対するボルシェヴィズムの影響について研究することには、第三の要素が内在していた。それは、全ての反共産主義の運動と体制を描写する『ファシスト』の利益になるように『全体主義的』という形容句を『進歩的』思想の語彙群から除外しようとする、モスクワの強固な主張だった。
 この問題に関する党の方針は1920年代に定められ、コミンテルンの決定で定式化されていた。
 ムッソリーニ・イタリアやヒトラー・ドイツを曖昧に包括する『ファシズム』は、ポルトガルのアントニオ・サラザールやポーランドのピルズドスキーのような比較的に穏健な反共産主義独裁制とともに、『金融資本主義』の所産であり、ブルジョアジーの道具だと宣告された。
 1920年代に、ソヴェトの公式原理は、全ての『資本主義』国家は共産主義(社会主義)にひざまづく前に『ファシスト』段階を通過することを余儀なくされている、と決定した。
 モスクワが『人民戦線』政策を採った1930年代半ばには、ソヴェトのこの問題に関する見地はいくぶんかは柔らかくなり、定義上は『ファシスト』の範囲内にある政府や運動との協力を許した。
 しかし、反共産主義をファシズムと同一視する考え方は、ミハイル・ゴルバチョフによる<グラスノスチ>が登場するまで、共産主義による検閲に服している諸国では拘束的なものであり続けた。
 この考え方は、外国の『進歩的』なサークルでも広く行き渡っていた。
 いかなる方法によっても無謀にもムッソリーニまたはヒトラーを共産主義と結びつける、あるいは共産主義体制を紛れもない大衆運動だと叙述する学者には、言葉によるまたはその他の形態による嫌がらせを受けるリスクがあった。(*2)//
  (2) 例えば、カール・J・フリートリヒ, 全体主義 (1954); エルンスト・ノルテ 編, ファシズムに関する諸理論 (1967); レンツォ・ディ・フェリーチェ, ファシズムの解釈 (1972); ブルーノ・ザイデル=ジークフリート・イェンカー 編, 全体主義研究の途 (1968); エルンスト・A・ミェンツェ 編, 全体主義再検討 (1981)。
  (3) カール・ブラヒャー, ドイツの独裁者, 2版 (1969)。
  (4) リチャード・パイプス, ロシア革命, 12章。
  (5) ハンス・ブーフハイム, 全体的支配 (1968), p.25。
  (6) ハンナ・アレント, 全体主義の起源 (1958), p.319。
  (7) ペーター・クリスツィアン・ルドツ, in :ザイデル=ジークフリート・イェンカー 編, 途, p.536。エルンスト・フレンケル, 二重国家 (1942), フランツ・ナウマン, ビヒモス (1943) といったパイオニア研究を見よ。最初の大戦間10年間には、全体主義に関する多数の研究がドイツ移民によっても、とくに、アレント, 起源 やフリートリヒ, 全体主義, によってなされた。
  (*1) 〔略〕
  (8) カール・J・フリートリヒ=ズビグニュー・K・ブレジンスキー, 全体的独裁〔Dictatorship〕と専制〔Autocracy〕 (1956)。
  (*2) 例えば、ファシズムの有名な非『ブルジョア』的根源を強調するイタリアの知識人界がレンツォ・ディ・フェリーチェ(Renzo de Felice) に対してとった処遇を見よ。マイケル・レディーン(Michael Ledeen), in: George Mosse 編, 国際的ファシズム (1979) , p. 125-40。
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 ②へとつづく。

1472/R・パイプス著『ボルシェヴィキ体制下のロシア』の内容・構成。

 既述のように、①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>とは別の、リチャード・パイプスの著に、② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)<原著・大判で約600頁>がある。これら二つを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。
 上の①の構成・目次とそこに掲げられている年表はすでに紹介し、第9章にかぎって試訳を行った。上の②の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)〔パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア〕の目次・構成は、つぎのように成っている。章番号については「章」という語はなく数字だけだが、「章」を加えた。
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 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)
 第1章/内戦-最初の戦闘(1918)
 第2章/内戦-頂点(1919-20)
 第3章/赤色帝国
 第4章/革命の輸出
 第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 第6章/プロパガンダとしての文化
 第7章/宗教に対する攻撃
 第8章/ネップ・偽りのテルミドール
 第9章/新体制の危機
 〔数字なし〕/ロシア革命に関する省察
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 以上のうち、第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、目次上では数字番号と「節」にあたる文字はないままに、つぎの節に分かたれている。但し、本文には見出し文章はなく、各節の間の区別は、一行の空白を挿入することによってなされている。
 National Socialism は、「国民社会主義」が定訳なのかもしれないが、「国家社会主義」と訳しておいた。
 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・「全体主義」の観念。
  第2節・「レーニン主義者」を源とするムッソリーニ。
  第3節・ナツィの反ユダヤ主義。
  第4節・ヒトラーと社会主義。
  第5節・全体主義三体制の共通性。
   1・支配政党。
   2・支配党と国家。
   大衆操作とイデオロギーの役割。
   3・党と社会。
  第6節・全体主義諸体制の差違。
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 以上。[注記、翌3/29に第5章内の節区分けの表示を改めた。]
  

1406/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む①。

  ズビグニュー・ブレジンスキー(鈴木主悦訳)・アウト・オブ・コントロール(草思社、1994)の「はじめに」と「第一部・組織化された狂気の政治」p.5-p.57。
 第一部は「第一章・大量死(メガデス)の世紀」、「第二章・全体主義のメタ神話」、「第三章・強制的なユートピア」から成り立つ。
 原書は、Zbigniew Brzezinski, Out of Control - Global Turmoil on the Eve of the 21st Century(Charles Scribner's Sons, 1993)
 一 ブレジンスキーにはすでに次の著もあり、「20世紀における共産主義の誕生と終焉」を語っていた。
 Zbigniew Brzezinski, The Grand Failure - The Birth and Death of Communism in the Twentieth Century (Macmillan Publishing, 1989)=ブレジンスキー(伊藤憲一訳)・大いなる失敗-20世紀における共産主義の誕生と終焉(飛鳥新社、1989)
 二 とりあえず上記の部分のみについてだが、すでに考えさせる、または刺激的な叙述に溢れている。
 この人は冒頭(表紙裏)に「ジミー・カーターに捧げる」と書いているようにアメリカの民主党系の学者だ。リチャード・パイプス(1923生)よりも5歳だけ若く(1928年生)、パイプスが共和党系であるのと異なる。但し、この二人ともポーランド生まれの、民族的にはポーランド人だ、と見られる(アメリカに帰化)。
 フーバーとF・ルーズヴェルトの違いを知ると、共産主義についての見方に共和党と民主党には大きな差違があるようにも思える。しかし、ポーランド生まれであることが関係しているのかどうか、ブレジンスキーは(も)<反共産主義>を鮮明にしている。これが、やや驚きでもある第一点だ。
 「はじめに」の最後の段落の文章を、やや長いが引用してみよう。邦訳書p.15-16。
 「20世紀は妄想の政治とおぞましい殺人の世紀でもあった。過去に例をない規模で狂気が制度化され、まるで大量生産を思わせる組織的なやり方で人間が殺された。人類を幸福にするはずの科学の可能性と、実際に歯止めがかけられなくなった政治の邪悪さは、おそろしいほどに対照的である。人類の歴史を振り返っても、殺人がこれほどあちこちで起こり、多くの人命が失われたことはなかった。不合理な目的のために、特定の人間を絶滅させるべく、これほど集中的にかつ持続的な努力が傾けられたこともなかった。/
 たしかに、…。中世には、…。…。しかし、このほかの暴力が激化した例を見ても、それらは基本的には突発事件だった--激しい暴力のために多くの血が流されたが、それは持続しなかったのである。大量虐殺、とりわけ非戦闘員のそれは、…、念入りな計画にもとづく一貫した方針にそって行なわれたわけではなかった。20世紀という時代が政治史に悲惨な足跡を残したとすれば、まさに念入りな計画にもとづく一貫した方針によって大量虐殺が行なわれたことなのである。」
 「20世紀の大量殺人」、「組織化された狂気の時代」の「大量殺戮」によってブレジンスキーは何を意味させているか。彼はその原因を①戦争・局地戦争・内戦、②全体主義>共産主義、③宗教・民族問題に分けて論じているようだが、ほとんどは<共産主義>によるものについてだ。
 ブレジンスキーによれば、①による(「実際の戦闘」による、民間人も含む)死者数は8700万人(広島を含む)。③によるものは、「300-400万人」。そして、②+③の「イデオロギーや宗教上の理由」により「意図的に殺された」人間は「8000万人を超える」(p.28)。
 合計の約1億7000万人は、仏・伊・英の三国の人口数の合計にほぼ等しく、アメリカの人口の3分の2以上(p.28)。
 ブレジンスキーは、20世紀を「大量死(Megadeath)」の時代、と称する(p.17)。Mega とは、10の6乗の数。
 ②の「『強制的なユートピア』をつくろうという全体主義的な試み」によるものについての叙述はかなり詳しい。以下は、抜粋引用的な紹介。
 「道徳的観点からすると、戦争の犠牲者の数さえ見劣りするかもしれないその数字こそ、20世紀を大量死の世紀と正当に位置づける根拠となる」。その数こそが「主義に名を借りた憎悪や感情のせいで、計画的に死に追いやられた無防備な人びとの数」だ(p.20)。
 この「政治的な動機による大量殺人」の原因は、つぎの4人の人間だった。
 すなわち、ヒトラー、レーニン、スターリン、毛沢東。
 「推定」数字だが、「重要なのは規模であって、正確な数字ではない」(p.18))
 ヒトラーによって、約1700万人。レーニンによって、「およそ600万人から800万人」。
 スターリンによって、「控えめに見積もっても、2000万人以上が、おそらくは2500万人が殺された」(p.21)。中国の指導部は「秘密」にしているが、推計では、毛沢東の「文化大革命」により、「100万人から200万人が殺された」(p.26)。
 その他、「東欧、北朝鮮、ヴェトナム、キューバ」で、「少なくとも300万人」。カンボジアでその3分の1、つまり約100万人。
 「共産主義は人類が歴史上最も大きな犠牲を払って失敗した試みだった」(p.27)。
 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある(p.22以下)。
 <以下、続ける。>

1394/日本の「左翼」-白井聡/アラン・ブロックの著。

 一 日本共産党綱領(2004)は、つぎの数字を明示的に掲げる。
 日本の「侵略戦争」は「2000万人をこえるアジア諸国民」と「300万人をこえる日本国民」の「生命を奪った」(+「…原爆が投下され、その犠牲者は20数万にのぼり…」)。
 「ファシズムと軍国主義」を糾弾し、同党の「たたかい」を称揚するために、かかる数字を挙げて、いかに多くの人命が犠牲になったか、と言いたいのだろう。
 この数字自体に疑問はないとしても、では共産主義(者・体制)によっていかほどの人命が犠牲になったのかも示さないと、歴史を公正に見ることにはならないだろう、と思われる。
 これに関連して、クルトワ等・共産主義黒書の推測では共産主義の犠牲者数は一億人(10,000万人)を下らない、という数字をこの欄でも書いたことがある(数字を確認しない)。
 二 白井聡は、このような統計的数字を挙げることに、感情的に反発している。
 白井聡・未完のレーニン(講談社、2007)は、そのあとがき(p.229-)で、まさにクルトワ=ヴェルトの共産主義黒書への反発を最初に記したあとで、次のように書く。引用に値する文章だ。
 ・「マルクス主義・共産主義思想を単純に断罪し、…世界で最も憎むべきものとして認知させよう」という「今日声高に主張されている断罪の言説の多くが拠って立つ根拠は、それに関して何人の人が死んだか、その犠牲者はナチズムのそれよりも統計的に多かった、ということ以上のものではない」。
 ・「…反共主義者と全体主義的政治機構の首領は、暴力による人間の死という問題を統計的にしか考えることができない、という点で奇妙にも一致している」。以上、p.230。
 このあと続けて白井は、このような状況は現在の「精神的な頽廃」だろう、とも言っている。
 この白井聡という人物は、いかに<反・共産主義>を嫌悪しているのだとしても、正常な感覚の持ち主だとは、したがって、まともな学者だとは到底思えない。
 反マルクス主義・反共主義の言説の「多くが拠って立つ根拠」は共産主義の「犠牲者はナチズムのそれよりも統計的に多かった、ということ以上のものではない」 ? ?。
 こんな馬鹿なことを秋月瑛二を含む「多く」の者が述べているわけではない。
 そのあとの文章もひどい決めつけ方だ(「全体主義的政治機構の首領」とは何を指すのか不明だ)。人の「死」を「統計的にしか考えない」、というような罵倒でもって、反共産主義者を批判してはならない。
 ついでにいうと、クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書について白井はこうも言う(p.229)。
 マルクス主義・社会主義革命を断罪し、「新自由主義化した資本主義や多くの国々でおよそ健全に機能しているようには見えない議会制民主主義を全面肯定する」ことが「正義であると結論すれば」、歴史の教訓が得られるとは思えない。
 白井聡に「諭して」おくが、マルクス主義・共産主義を厳しく批判することと、現在の、あるいは今日の日本の資本主義や「議会制民主主義」を「全面肯定」することとはまるで異なる次元の問題だ。クルトワとヴェルトの本は、上のような「結論」を示してはいないはずだ。
 2006年にこんな幼稚なことを書いていたことを、恥ずかしくは思わないだろうか。
 かくも明確な<反・反共主義>ぶりをおそらくは最初の刊行物で明らかにした白井聡が、「左傾」した日本の出版界・論壇等で受容されているらしい経緯・理由も、よく分かる。
 なお、白井聡の学生時代の指導教授は、加藤哲郎らしい。この、1990年前後に日本共産党から離れた(党員ではなくなった)加藤の文献は、日本共産党に関連して少なからず所持して(かつ一読はして)いるので、いずれ言及することがある。
 三 つぎの「統計」を述べている書物がある。レーニンを上掲書で扱った白井聡がまるで関心をもっていない、レーニンの時期の数字だ。
 アラン・ブロック・対比列伝/ヒトラーとスターリン(鈴木主悦訳)(草思社、2003)第一巻p.180は「ほとんど信じられないけれども充分な確証のある数字」の、この書が挙げる「最初の例」として、こう書いている。原著は、Alan Bullock, Hitler and Stalin - Parallel Lives (Vintage, 1993)。ロシア・ソ連に関する叙述で、以下の「内戦」とは、ロシアでの主として白軍・赤軍間の「戦い」だ。
 「子供を含む推定1000万人の男女が、1917年から21年にかけての内戦で生命を落とした。第一次大戦で死んだ軍人と民間人を加えれば、1200万人の人命が失われたのである。人口統計学者によれば、1923年のソ連の人口は、それ以前の数値にもとづいて予測される数字を3000万単位で下回っているという」。
 1200-1000で、第一次大戦でのソ連の軍民死者は200万人、ということになるのだろう。
 これら数字の原因があげてレーニンにある、と主張してはいない。だが、少なくとも「内戦」については(むろんこれはロシア革命が起こったがゆえに生じている)、個人名に限るとかりにすれば、レーニンに最も原因がある。

1031/片山杜秀「ヒトラーの命がけの遊び」新潮45/8月号と菅直人。

 産経新聞7/24の稲垣真澄「論壇時評」は、新潮45の2011年8月号の、片山杜秀「国の死に方2/ヒトラーの命がけの遊び」にほとんどを費やして注目し.要約的な紹介もしている。
 この書評記事を読む前に上記の片山杜秀の新潮45論考を読んで感心していたので、あらためて印象に残った。
 稲垣真澄の文章から離れて(それに依拠しないで)片山の文章の一部を紹介してみるが、菅直人・菅内閣という言葉はどこにもないにもかかわらず、つまりヒトラーに関する文章であるにもかかわらず、菅直人・菅内閣を強く想起させるものになっている。以下、一部の要約的紹介。
 ・ナチス時代のドイツは無統制的で責任の所在不明確で役割分担が曖昧だった。平時にも非常時にも徹しきれず、中途半端。ヒトラーは何か失敗したのか。いや、すべてが計算づくだった。「ヒトラーは意図的に国家を麻痺させていった」。ハンナ・アレントはこれを(のちに)「無秩序の計画的創出」と呼んだ(p.83-84)。
 ・なぜそんなことをしたのか。「ヒトラーは一日でも長くドイツ国家の頂点に居座りたかっただけ」だ。しかも、自らの権力を単なる調整ではない実のあるものにしておきたかった。それには、「ワイマール共和国の作り上げたいかにも近代国家らしい複雑精緻で能率的な機構」が邪魔だった。政治・経済・文化・科学の専門組織がきちんと機能すれば、各分野の専門家が実権を握る=「官僚等が幅を利かせる」。独裁者・権力者も調整役に甘んじ、専門家たちを統制できず、権力の上層は空洞化する(p.84)。
 ・いやならば専門組織を機能させなければよいが、「いきなり壊しては国家が即死する」だけなので、近代国家の「精密なメカニズムを怪奇なポンコツへとわざとゆっくり時間をかけて」変貌させる。党と政府の組織をすべて「二重化」し、党と政府の中に「似た役割の機関を増殖させる」(p.84)。
 ・その果ては「国家の死」だが、ヒトラーにはそれでよかったのだろう。彼は中下層の実務家に降りていた権力を上へと回収し、裁量権を拡大した。「法律の裏付けも実現可能な根拠もない思いつきの命令」を「唐突に」発しても、組織が多すぎて批判すべき部署が分からなくなり、「権力の暴走」を止められなくなった(p.84)。
 ・ここに「ヒトラーの政治の肝腎かなめ」がある。古代ローマの「一時的独裁」とはまるで異なる「ファシズム」なのだ。軍国主義・戦争を連想するように、平時にはファシズムは成立し難い。しかし、非常時は戦争に限らず、軍隊が登場しなくてもよい。「経済危機でも大災害でも電力不足」でもヒトラーの掲げた「共産主義の恐怖」でも何でもよい。そうした「非常事態に対処するためと称して、社会の見通しを悪くし、人々から合理的な判断の基盤を失わせ、世の中が刹那的な気分で運ばれてゆく」ようになれば、もう「立派なファシズム」だ(p.85)。
 ・ヒトラーは「命がけの遊び」を続けた。「日々に新しい組織を仕立て、次々と非常事態的新事態を引き起こした」。何が根本的問題でどう解決すべきなのか、彼はナチス党員にも国民にもゆっくり考える暇を与えなかった。そして、「目先の混乱状況をエスカレートさせては、それだけでいつも人々の頭を一杯にさせた。そうやって一日一日と綱渡りで延命した」(p.85)。
 以上、どう考えても、どう読んでも、菅直人(・民主党内閣)が念頭に置かれていないはずはない文章だ。
 例えば、大災害・原発不安等々の「非常事態に対処するためと称して、社会の見通しを悪くし、人々から合理的な判断の基盤を失わせ」ているのは菅直人そのものであり、ほとんどのマスメディアも本質的なことは報道しないで、ヒトラー、いや菅直人のお先棒を担いでいるだけではないのだろうか。
 思えば、ナチス党の正式名称は「国家(民族)社会主義労働者党」なのだった。ナチスあるいはファシズム=「右翼」と多くの人々は理解している(感じている)のかもしれないが、「社会主義」・「労働者」を冠した、立派な<左翼>政党だったとも言える。
 もともとハイエクやハンナ・アレントが指摘したように、あるいは旧民社党が「左右両極の全体主義を排し…」などと言っていたように、コミュニズム(共産主義)とナチズムは「全体主義」という点で共通性がある。
 「左翼」・菅直人がヒトラーによる「ファシズム」的政治・行政手法を採っていても、何の不思議もない。

0308/民主主義はつねに「正しい」結論を出すか-読売7/31河野博子コラムに寄せて。

 7/29の夜から翌日未明にかけてのテレビ放送を観ていると、安倍首相が続投表明をしたあとで、それを疑問視する発言・コメントが多かったように思う。
 それもいちおう<政治評論家>を名乗っている者がそういう発言をすることは別に不思議ではないのだが、奇妙に思ったのは、番組のキャスター類(要するに司会進行役が基本のはずだ)やさらにはあろうことか番組のふつうのアナウンサーまでもが、何か喋らないと時間が潰れなかったのか、平気で安倍首相の行動・判断を批判又は疑問視する発言をしていたことだ。翌日の彼らの発言・コメントも含めておいてよい。
 日本のテレビ局のキャスターやアナウンサーはいつからそんなに<エラく>なったのか。いつから<政治>を論評できる資格を実質的にでも身に付けたのか。
 <しろうと>が生意気にあるいはエラそうに電波を使って多数視聴者に<したり顔>で語っているのだから、じつに滑稽であるととともに怖ろしい、日本のマスコミの姿だと感じた。それも政権側を、あるいは敗戦した側を批判しておけば<多数大衆に受けて>無難と考えたのか、政権側を批判するのが<進歩的・良心的・知的>で、そのようなコメントの方が格好良い又は自分をエラく見せられると考えたのか、上述のような内容の発言・コメントなのだから、度し難いバカバカしさを感じた。
 ヘンなのは民放各局だけではない。30日に入ってからの島田敏夫というNHKの解説委員の発言・解説的コメントは、録画していないので正確に再現できないが、少なくとも私から見れば、相当に<偏り>のあるものだった。視聴率が低くてあまり注目されていないが、日付が変わってからのNHKの政治がらみのニュース解説には??と感じさせる奇妙なものがあると感じていたが、島田敏夫なる人物のコメントも奇妙だった。
 また、島田および上で触れた民放各局のキャスター類にも共通することだが、そして今に始まったことでもないが、内閣総理大臣という国家機関を担当している者に対する慰労の念などこれっぽっちもなく、内閣総理大臣担当者に対する儀礼的でもいい敬意すらなどこれっぽっちも示さず(むろん首相への直接の質問者は最低限の丁寧さはあったとは思うが)、安倍と呼び捨てているような雰囲気で、あれこれと批判・疑問視しているのも奇妙に感じた。
 そのような人たちは内閣総理大臣たる職務の重要性・大変さを理解したうえで発言しているのか疑問に思ったものだ。大衆注視の舞台の上で何かを<演技している>のが政治家ではない。演技かゲームプレイの巧さ・下手さをヤジウマのような感覚でプレイヤーと対等な感覚で論評する、というのが国政選挙にかかる発言・コメントではないだろう。
 元に戻れば、7/31午後7時半からのNHK・クローズアップ現代国谷裕子の言葉・雰囲気もヒドいものだった。
 安倍続投が気に入らない、問題にしなければならない、何故自民党内で続投批判が大きくならないのか、という関心に立脚して彼女は喋っていた。原稿が別の政治記者によって書かれているとすれば、その政治記者の気分をそのまま画面上で伝えたのかもしれないが、明らかに公平さを欠く報道の仕方だった。画面に登場した政治記者の方がまだ冷静又はより客観的だったのが救いだったが、ともあれ、NHKの報道等の仕方・内容は決して安心して観れるものだけではないことは十分な注意を要する。政治記者クラブの世界の意識・雰囲気は一般国民又は心ある国民のそれらとは相当に異なっている可能性がある、と想像しておくべきだろう。
 最後にもう一点指摘したいのだが、次のことをあらかじめ一般論として述べておきたい。
 民主主義理念にもとづく有権者国民の投票の結果は、<正しい>または<合理的>なものだろうか? 答えは勿論、一概には言えない、だ。選挙結果は歴史的に見て<正しい>または<合理的>とは言えなかった、と評価されることは当然にありうる。
 民主主義はつねに正しい又は合理的な決定を生み出す、というのは幻想だ(だから私は直接民主主義的制度にはどちらかと言うと反対だし、限られた範囲での住民投票制度の導入にも政策論として消極的だ)。多数の者が<参加>したからより<正しく>又はより<合理的に>決定できる(た)、と考えるのは一種の<幻想>にすぎない。
 民主主義はあくまで手続又は方法なのであって、生み出される結果の正しさ・合理性を保障するものではない。ここで民主主義を「選挙」と言い換えてもよい。くどいが、「民意」がつねに<正しく><合理的だ>と理解すれば基本的な誤りに陥る。
 このような観点から、読売新聞7/31夕刊編集委員・河野博子の「行動を起こす」と題するコラムを読むと、なかなか興味深いし、素朴な誤りに取り憑かれていると感じる。
 この人は次のように書く。「有権者の投票」という「アクション」が「自民党大敗をもたらした」。「年金、政治と金の問題、閣僚の問題発言に、国民は肌で「これはおかしい」と感じ、反応した。頂点に達した不信がはっきりした形で示された」。これをどう今後に生かすかが問題で簡単ではないが、「しかし、信じたい。人びとのアクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていくのだ、と」。
 これは読売新聞に載っていたのであり、朝日新聞ではない。この河野博子が何を分担担当している編集委員なのか知らないが、上の文章はヒドい。
 第一に、「有権者の投票」という「アクション」とその結果を100%肯定的に評価している。読売社内にいて、一部マスコミ(つまり朝日新聞等)の<異常な反安倍報道ぶり>に何も気づかなかったのだろうか。また、読売は社説で選挙結果に伴う衆参のねじれ等から生じる混乱等に<憂慮>も示していたのだが、そんな心配は、上の河野コラムには微塵もうかがうことができない。
 第二に、今回の結果をもたらしたような「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」と結んでいる。ここでも言うまでもなく、選挙結果の肯定的評価が前提とされている。
 さて、この河野という人物は、選挙の結果=「民意」はつねに<正しい>又は<合理的>なものだ、という素朴な考え方にとどまっいるのではないか。このような考え方が<正しい>又は<合理的>なものではないことは上に述べた。
 上で書くべきだったが、ヒトラーは合法的に・民主主義的に政権を獲得し、合法的に・民主主義的に実質的<独裁>政権を樹立した。民主主義は結果の正当性を保障しない。
 朝日新聞と同様に今回の選挙結果を、投票までの種々の要素をヌキにして結果としてはそのまま<正しい>ものと判断しているなら、読売から朝日に移籍したらどうか。
 第二に、「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」などというのは、失礼ながら、少女の描く政治幻想とでもいうべきものではないか。
 問題は「アクション」の中身なのであり、いくらつまらない、あるいは有害な<アクション>が積み重なっても「世の中」は良くならないのだ。「世の中を、一つ、一つ変えていく」とは、文脈・論旨からすると<良い方向に変えていく>という意味だろう。
 こんなふうには、絶対に言えない。何かのアクションの積み重ねによって世の中が良い方向に変わるのなら、こんなに簡単なことはない。改良・改善の方向への動きを阻止・妨害する「アクション」も生じうることは、一般論としても明らかではないか。多言はもうしないが、この筆者は単純素朴な<進歩主義者>なのかもしれない。
 読売新聞の解説委員までもが(と言っておく)上に簡単に紹介したような文章を書いて活字にしてしまうところに、日本のマスメディアの大きな恐ろしさがある。
 読売新聞の解説委員はなんと、要するに、今回の投票のような国民のアクションの積み重ねで世の中は良くなる、と書いたのだ。朝日新聞等のおかげで論じられるべき争点は論じられず、結果として「安倍改革」・「安倍政治」の進行を滞らせることになったのが、今回の選挙結果なのではないか、読売新聞自体もこのことをある程度は理解し、憂慮し、警告を発しているのではないのか。河野博子コラムは読売全体の論調からも外れている。

0149/「大衆」の忘恩と小児性-「民主主義」は機能するか。

 すでに読み終えた中川八洋・保守主義の哲学だが、刺激的な言葉が随所にある。例えば、
 「日本列島は無政府状態の色を濃くしているし、レーニン/ヒットラーの全体主義を再現するかのような不気味な土壌をつくりつつある」(p.297)。
 「日本の学界・教育界は、大正デモクラシーの大波をかぶってそのままデカルト/ルソー/マルクスの住む島に流れつきそこにとじこもることすでに八十年、理性万能の狂妄から目を覚ますことがない」(p.325)。
 ところで、読みながら、失礼ながら何故か、「きっこのブログ」や「きっこの日記」のきっこ?を想起してしまったのは、第六章「平等という自由の敵」の第四節「大衆という暴君」の中の、次のような、紹介されている等の、いくつかの言葉だった(p.298-9)。
 オルテガ-「大衆人」は「生の中心がほかでもなく、いかなるモラルにも束縛されずに生きたいという願望にある」。
 中川-「道徳」とは…のことだが、「これを欠くか、ない方がよいと願う「大衆人」とは、その本性において、社会主義者・共産主義者のシンパとなりやすい特性をもっている」。
 オルテガ-「大衆人」は「倫理・道徳性の欠如」を示し、「忘恩の徒」となる。「忘恩」とは「甘やかされた子供の心理」でもあり、「今日の大衆人の心理図表に…線を引くことができる。…安楽な生存を可能にしてくれたいっさいのものに対する徹底した忘恩の線を…」。
 ホイジンガ-「ピュアリリズム(小児病)」とは「子供を大人に引き上げようとせず、逆に子供の行動にあわせてふるまう社会、このような社会の精神態度」のことだ。
 ホイジンガ-「ピュアリリズム(小児病)」の特質は「…他人の思想に寛容でないこと、褒めたり、非難するとき、途方もなく誇大化すること、自己愛や集団意識に媚びるイリュージョンに取り憑かれやすいこと」だ。
 ル=ボン-「衝動的で、昂奮しやすく、推理する力のないこと、判断力あよび批判精神を欠いていること、感情の誇張的であることなど…こういう群衆のいくつかの特徴は、野蛮人や小児のような進化程度の低い人間にもまた同様に観察される」。
 自戒の意味も込める必要があるが、きっこ?氏に限らず、日本という国家への「忘恩」、上に種々書かれている「小児」性は日本国民のかなりの部分に蔓延しているのではないだろうか。上では「大衆」という言葉が使われ、中川八洋には「大衆蔑視」的ニュアンスが全くなくはないと感じるのは気になるところだが、ほぼ「(一般)国民」と置き換えて読むべきだろう。そして、国民の「忘恩」と「小児」性は、「民主主義」は適切に機能するか、の基本的な問題でもある、とも考えるのだ。

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