〇大阪の選挙で、「政治手法」とやらが争点の一つになっているらしい。もっと正確に書けば、「独裁(的)」か否かだ。
 11/13夕方の産経ニュースでも大阪市長選について、「市役所組織の解体につながる『大阪都構想』や、平松氏が『独裁的だ』と批判する橋下氏の政治手法の是非などが主な争点」と記している。
 上では民主党・自民党・共産党の支持する平松某の主張として「独裁的」が出てくるが、産経新聞も含めて、引用のかたちではなく、「独裁(的)」という語を橋下徹に関して用いているように見える場合もある。
 教育に関してだが、産経新聞11/09の「『政治の関与』か『独裁』か」という大きな文字も、橋下が後者だとは断定していないが、そのような見方のあることを少なくとも強く伝えるものになっている。
 また、府知事選への倉田某(民主党・自民党支持)の出馬表明を報道する産経新聞の10/27の記事の最も大きな文字の見出しは「『橋下氏は恐怖政治』」となっている。これは倉田某の発言の引用で、産経自体の見方を示しているのではない。だが、最大の見出しにする必要があるのか、という疑問がまず湧く。
 それに本文を読むと、倉田某はこう発言していることになっている。
 「橋下氏の府政運営については『恐怖政治』と厳しく断じたが、『やんちゃだが、大好きだ。純粋さ、スピード感はいい』とも」。
 これが倉田某の発言紹介の大部分なのだが、この発言をとらえて、「『橋下氏は恐怖政治』」という大きな見出しを打つのは、乱暴で、公正さを欠いている

 また、産経新聞10/22の橋下「知事辞職へ」の記事の最大のヨコ見出しは「破天荒な橋下府政」であり、「知事辞職へ」よりも大きなフォントを使った見出しに、「過激発言、都構想…借金6兆円」もある。

 ついでに、産経10/25の「ハシズムを斬る」集会の記事は、これを「…市民集会」と称しつつ、中島岳志・雨宮処凜・寺脇研の主張(橋下批判)を紹介するだけだ。
 産経(の少なくとも大阪の編集者)は、橋下徹には好意的ではないようだ。
 産経ですらこうなのだから、あとの新聞の論調(あるいは誘導方向?)はほとんど明らかだ(いちいち確認していないが)。

 このような産経新聞の論調が、大阪の自民党が橋下徹の対立候補を支持していることと関係があるとすれば、産経(大阪)もまた、まともな感覚をもってはいない。ますますもって「大政翼賛会」的、あるいは<左翼ファシズム>的になっている。
 〇その「独裁(的)」だが、橋下がつぎのような旨を言ったのはそのとおりだ。何度もテレビ報道がなされている。
 <政治で一番重要なのは独裁です。
 とくにこの部分を捉えて、橋下の「独裁」(的)政治手法批判に結びつけている者たちやメディアもあるのかもしれない。
 だが、一度だけ、テレビで見た(聞いた)が、上の部分にすぐ続けて、橋下徹は次のような旨を言ったのだった。
 <独裁と言われるような(ほどの)、強いリーダーシップが必要なのです。>

 かりに上半分のみを捉えて「独裁(的)」か否かが争点だとしているのだとすると、マスメディアや反橋下の人々は、じつは「強いリーダーシップ」が必要か否かが争点だとしていることになり、または「強いリーダーシップ」に反対していることになることを知らなければならない。
 マスコミ、とりわけテレビとは怖ろしいものだ。ほとんどの場合、橋下自身は「強いリーダーシップ」に少なくとも近い意味で用いている「独裁」を、後者の言葉を使った部分のみを(後続部分をカットして)放映してきたのだ(最近は減っているかもしれない)。
 橋下がおそらくはこの点について、マスコミの報道ぶりに反発しているらしいのもよく分かる。
 〇大阪の自民党の愚劣さ(「バカ}・「アホ」ぶり)については、すでに書いた。
 とくに大阪市長選について、その愚劣な選択はさらに際立つことになった。日本共産党が独自候補を(予定変更して)立てず、民主党・自民党とともに平松某を支持することに決めたからだ。
 11/07か11/08の夕方のテレビで途中から、府・市の有力?候補5人がナマ出演して討論しているのを視聴したが(府知事3名、市長2名)、その中で、日本共産党の府知事候補某は、市長選での平松某支持について<反ファシズム(反ファッショ)統一戦線ですよ>と言い放った。
 平松某を積極的に支持してきたわけではないが、「ファシスト」橋下徹の当選を阻止することを優先して、自党候補を立てず、平松某を応援する、というのだ。
 コミンテルンは社会民主主義者を「社会ファシスト」とか呼んで批判してきたところ、それを改めて、社民主義者とも<統一戦線>を組んでドイツ・ナチスと対抗しようとした。主唱者は、ディミトロフだった。
 中国における<国共合作>もこれと同じまたは類似の戦略だったが、それはともあれ、日本共産党は橋下陣営と橋下徹をファシズム・ファシストと見なし、これを敗北させることを最優先課題と位置づけたわけだ。
 橋下陣営・橋下徹についての「ファシスト」という性格づけはそもそも問題で、厳密には十分に検討する余地がある。「強いリーダーシップ」の必要を訴えて、あるいは教育行政への「政治(首長)関与」の増大を訴えて「ファシスト」と呼ばれたのでは、たまらないだろう。だが、「ハシズム」という造語に見られるように、反橋下陣営は「ファシズム(・ファシスト)」という語を自分たちに有利に使おうとしている。
 旧東ドイツの政権党(実質的に共産党)が「社会主義統一党」(SED)という名称だったのは、元来の共産党と社民党の合同・統一政党だったからに他ならない。
 そのような、もともと「左翼」の戦略としての「統一戦線」に、今日の日本の大阪では、「保守」または「自由主義」政党のはずの自民党(自由民主党)までが入っている。
 これはもはや「お笑い」・「大笑い」としか言いようがない。
 大阪の自民党は共産党とともに、元来は民主党推薦だった現職候補を支持する、というのだ。
 大阪の自民党諸氏は恥ずかしくないのだろうか。奇妙だとは感じないのだろうか。
 京都や大阪では(東京等とともに)共産党の力が強く、1970年代途中まで社共連合の(社共統一候補による)「革新」知事が続いた。社会党の離反によりそれは消滅したのだったが、代わりに生じたのは(きちんと確認しないで書くが)<非共産>連合による府知事だったように思われる。つまり、自民党と旧社会党は、非共産という点で一致し、ともに与党であり続けてきたわけだ。
 それは国政と全く同じではないが、一種の<55年体制>であっただろう。自民党と旧社会党がそれなりにうまく<棲み分けて>きたのだ。
 今回の<反維新>・反橋下の自民党の行動も、そのような意識を引きずっているように見える。
 つまり、民主党系・公明党とうまく<棲み分けて>市議会や府議会を構成して、その「既得権」を守りたいにもかかわらず、橋下徹らの「維新の会」が誕生し、その地域政党が自分たちの「既得権」を侵そうとしていることに、自民党の市議たちは我慢ができない、ということなのではないか。
 そこでは、もはや<反共>政党という理念などは忘れ去られている。国政の小選挙区とは異なり複数の定数をもつ地方議会選挙において、自分たちが他党と<うまく棲み分けて>当選してしていきたいのに、それを邪魔するのが橋下徹・「維新の会」だと感じているのではないか。
 政策論もあるかもしれないが、むしろ自民党(大阪)が優先したのは市議会・府議会議員の「保身」だと思える。
 今からでも遅くはない。<共産党と同じ候補を支持するわけにはいかない>という勇気ある、そしてまっとうな声は、大阪の(とくに大阪市の)自民党内からは出てこないのか。
 〇最近に書いた、<赤(コミュニズム)か自由か>、および反・反共=「反ファシズム」という表現については、補足しておきたいこともあるので、別の機会に書く。