秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ハイデガー

2138/L・コワコフスキ著第三巻第13章第4節①-フランス。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。この書には、邦訳書がない。
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 第4節・フランスにおける修正主義と正統派①。
 (1)1950年代後半から、フランスのマルクス主義者たちの間で活発な議論が続いた。修正主義の傾向は部分的には実存主義からの支持を受け、部分的には実存主義との対立でもって支持を獲得した。
 ハイデガーとサルトルの二人がいずれも説いた実存主義には、マルクス主義修正主義と共通する一つの重要な特質があった。すなわち、還元不能な人間の主体性と実存の物的(thing-like)様相との間の対立を強調する、ということだ。
 同時に、実存主義は、人間存在は主体的な、つまり自由で自立した実存から「物象化された」状態へと逃げる恒常的な性向をも持つ、と指摘した。
 ハイデガーは、「不真正さ」と匿名性への漂流および非人格的現実と一体化する切望を表現することのできる、そのような諸範疇から成る精妙な大系を作り出した。
 同じように、サルトルによる「即自(in-itself)存在」と「対自(for-iself)存在」の対立に関する分析や、我々から自由を隠して我々自身や世界への責任から回避せしめる<悪意>に対する熱心な弾劾は、主体性や自由の哲学としてマルクス主義を復活させようとする修正主義者たちの試みと十分に合致していた。
 マルクス、およびそれ相当にだがキルケゴール〔Kierkegaard〕はいずれも、非人格的な歴史的存在へと人間の主体性を溶解させるヘーゲルの試みだと見なしたものに対して、反対した。
 このような観点からすれば、実存主義の伝統は修正主義者たちがマルクスの基礎的な教理だと考えたものと一致していた。//
 (2)のちの段階では、サルトルは、マルクス主義とソヴィエト同盟やフランス・マルクス主義を同一視しなくなった。しかし、同時に、決然として周到に、自分自身とマルクス主義を同一視するに至った。
 彼は<弁証法的理性批判>(1960年)で、実存主義の修正版と自らのマルクス主義解釈をを提示した。
 この長くてとりとめのない著書が明確に示したのは、サルトルの従前の実存主義哲学の名残りをほとんどとどめていない、ということだった。
 彼はこの書の中で、マルクス主義は<優れた>(par excellence)現代哲学だ、マルクス主義以前に、つまり17世紀にロックやデカルトがスコラ派哲学の見地からのみ批判され得たのと全く同じように、反動的な見地からのみ純然たる歴史的な理由で批判することができる、と述べた。
 この理由からして、マルクス主義は無敵(invincible)のもので、その個々の主張は「内部から」のみ有効に批判することができる。//
 (3)マルクス主義の歴史的「無敵さ」に関する馬鹿げた主張はともかくとして(サルトルの議論によれば、Locke に対するLeibnitz の批判やデカルトに対するホッブズの批判は、スコラ派の立ち位置に基づいているに違いなかった!)、<批判>は、「自然弁証法」や歴史的決定論を放棄するが、人間の行動の社会的重要性を維持しながら、「創造性」や自発性を目的として、マルクス主義の内部に領域を見出そうとする試みとして興味深い。
 意識的な人間の行為は、たんに人間の「一時性」を生む自由の投射物として表現されるのではなく、「全体化」に向かう運動として表現される。人間の感覚は現存する社会条件によって決定されている。
 換言すれば、個人は絶対的に自由に自分の行為の意味を決定することはできないが、環境の隷従物になるのでもない。
 共産主義社会を構成する、多数の人間の企図が自由に協同し合う可能性がある。しかし、そのことはいかなる「客観的法則」によっても保障されていない。
 社会生活は自由に根ざした諸個人の行為でのみ成り立っているのではなく、我々を制限している歴史の堆積物でもある。
 加えるに、自然との闘いなのだ。自然は我々を妨害し、社会関係を稀少性(<rareté>)が支配する原因となり、そうして、欲求の充足の全てが、相互に対立し合う淵源になり、人間がそれとして相互に受容し合うことを困難にしている。
 人間は自由(free)だ。しかし、稀少性によって個別の選択の機会が剥奪され、そのかぎりで人間性が消滅する。 
 共産主義は稀少性を廃棄することで、個人の自由と他者の自由を認識する能力を回復させる。
 (サルトルは、共産主義がいかにして稀少性を廃棄するのかを説明しない。この点で彼は、マルクスによる保障をそのまま信頼している。)
 共産主義の可能性は、多数の個人の企図が単一の革命的目的へと自発的に結びついていく可能性のうちにある。
 <批判>は、関係する他者のいかなる自由も侵害することなく、共同で活動に従事するグループを描写する。-革命的組織のかかる展望は、共産党の紀律と階層性に代わり、個人の自由を有効な政治的行動と調和させることを意図するものだ。
 しかしながら、この説明は一般的すぎるもので、かかる調和にある現実的諸問題を無視している。
 理解することができるのは結局、サルトルは目的をこう想定している、ということだ。すなわち、官僚制と装置化を免れた共産主義の形態を工夫して作り上げること。あらゆる様式での装置化は自発性とは真逆のもので、「疎外」の原因となっている。
 (4)多数ある余計な新語作成についてはさて措き、知覚や認識の歴史的性格、および自然弁証法の否定に関して、<批判>は何らかの新しい解釈を含んでいるようには思えない。サルトルは、ルカチの歩みを追っている。
 自発性と歴史的条件による圧力の調和について言うと、この著作が我々に語っているのは、せいぜいつぎのことだけだ。つまり、自由は革命的組織によって保護されなければならず、共産主義が諸欠陥を無くしてしまえば完璧な自由が存在するだろう、ということ。
 このような考え方は、マルクス主義の論脈で特段新しいものではない。新しいかもしれないのは、このような効果がいかにして達成されるかに関する説明の仕方だろう。
 (5)共産主義の伝統にもとづく哲学者たちに期待されるような、厳格な意味での修正主義は、「サルトル主義」とは合致しなかった。
 だが、ある範囲では、それは実存主義的主張を示していた。
 (6)修正主義という目印は、いくつかの形態をとった。
 C. Lefort やC. Castoriadis らの若干の異端派トロツキストたちは、1940年代遅くに<社会主義または野蛮〔Socialisme ou barbarie〕> というグループを結成し、同名の雑誌を出版した。
 このグループは、ソヴィエト同盟は退廃してしまった労働者国家だというトロツキーの見方を拒否し、生産手段を集団的に所有する新しい階級の搾取者たちが支配している、と論じた。
 彼らはレーニンの党理論に搾取の新しい形態を跡づけて、社会主義的統治の真の形態としての労働者自己統治の考えを再生させようとした。党は、余計であるのみならず、社会主義を破滅にもたらすものだ。
 このグループは1950年代遅く以降に、フランスの思想家たちに、きわめて重要な思想をもち込んだ。労働者の自己統治、党なき社会主義、そして産業民主主義。
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 ②へとつづく。

2130/池田信夫のブログ016-近代啓蒙・西尾幹二。

 池田信夫ブログマガジン2020年1月20日号は「『不自然なテクノロジー』が人類を救う」と題して、この欄で別の著の一部を紹介したスティーヴン・ピンカー〔Steven Pinker〕/橘明美=坂田雪子訳・20世紀の啓蒙(草思社・2019)〔S. Pinker, Enlightment Now: The Case for Reason, Science, Humanism and Progress(2018)〕を紹介するふうだ。
 但し、池田はこの著については「本書のアメリカ的啓蒙主義に思想的な深みはない」とするだけだ。
 そして、むしろ、啓蒙主義によって「人類は幸福になった」とし、科学技術(テクノロジー)は「平和と安全」をもたらした、として、「原子力」の安全性や「環境」の改善等を強調する。
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 この文での「啓蒙主義」・「西洋文明」・「テクノロジー」等の厳密な意味は問題になりうるとして、また西尾幹二がいかなる気分・「主義」で文章を書いていたかは正確には知らないとしても、以下の西尾の文は、おそらく明らかに「啓蒙主義」・「西洋文明」・「テクノロジー」に反対・反抗したい<気分>を示しているだろう。すでに、ある程度は言及した。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通2019年11号再収載。p.222。
 ・女系天皇否認は「日本的な科学の精神」だ。
 ・「自然科学ではない科学」が蘇らない限り、「分析と解析だけでは果てしない巨大化と極小化へとひた走って」しまう。
 ・「自分たちの歴史と自由を守るために自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だ。
 なお、この対談には岩田温のつぎの発言もある。
 ・「皇室は、近代的な科学に抗う『日本文化の最後の砦』であり、無味乾燥な『科学』では言い尽くせない複雑な人間社会の擁護者であるともいえ」そうだ。
 これらは総じて、天皇・皇室あるいは日本の神話を「近代科学」・「自然科学」の対極に見ていて、後者を疑問視・批判するとともに、「日本」を対峙させる。
 西尾幹二には、「社会科学」を軽蔑するかのごとき、つぎの文章もある。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 ・「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 これらには「近代」も「啓蒙」も出てこないが、岩田は別論として西尾幹二は、もともとは西欧から生まれた「近代啓蒙主義」にもとづく、またはそれに連なる人文社会系学問および「自然科学」(生物心理学から宇宙論まで)を批判するという<気分>をもつことが明らかだと思われる。
 <批判>あるいは「限界の指摘」どころか、西尾は「自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だとか、「社会科学的知性」が扱わない「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」がある、というのだから、明治期以降に日本も「継受」してきた(和魂洋才?の)「自然科学」・「社会科学」を<否定>するニュアンスすらがある。
 これは困ったものだ。「血迷っている」、と評してよい。
 近代啓蒙、「ヨーロッパ近代」なるものに自分も影響を受けていることを肯定しつつ、所詮は西欧・欧米の「精神」にもとづくものなので、簡単に別の言葉を用いれば、それらにおける「自由と民主主義」=(自民党の名の由来でもあるLiberal Democracy)を「日本」的に修正する、「日本化」することに秋月もまた反対ではなく、むしろそう主張してきた。「自然科学」はよく知らないが、<人文社会科学>の「欧米かぶれ」は今だにひどすぎる、と感じている。日本の「人文社会科学」(ここでは狭義の「文学」を除く)はより自主的で「日本的」なものにしなければならないだろう。
 その意味では、「日本」は「西洋」とも「東洋」とも違うのだろう。
 しかし、西尾幹二のように、「日本文化は西洋と東洋の対立の中にあるのではなく、西洋と東洋がひとまとめて、日本文化と対立している。そういう風に私は思っています」(上の前者)と発言するのは、「日本・愛国」主義の月刊WiLL(ワック)読者のお気に召すかもしれないが、「血迷った」空文であり、観念的被害意識の発露だ。
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 反近代・反啓蒙には大きく二つがある、とも言われる。
 一つは「右翼」からのもので、「近代科学」の進展や世界規模での交流についていけず、「民族」・「一国家」、あるいは「非科学的」かもしれない「精神」的なもの・宗教・「神話」等への執着を示す。
 もう一つは「左翼」からのもので、「近代科学」の進展や世界化は<資本主義の発展>だと見なし、「資本主義」のもとでの科学技術の発展・「大衆文化」の成熟は<資本主義的欺瞞>のもとにあり、「真」の人間の成長にはむしろ有害だと見なす。
 わずかの文章から簡単に推察することはできないが、西尾幹二の近年の上に引用した文章には、上の二つの<気分>が、いずれもある。
 皇室・「日本」・「神話」の重視は、上の「右翼」的反近代論だと言える。
 一方、すでに№2124〔2020.01.17〕に書いたように、「自然科学」と戦うのが「現代」の最大の課題だとか、「社会科学」は(「条件」づくりではなく「真に」)重要な「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」の問題には役立たないとかの旨の言明は、擬似マルクス主義「左翼」である<フランクフルト学派>の「反啓蒙」論(・「反経験主義」)に相当に似ている。
 池田信夫は上記の本文の中で、一般論としてこう記す。
 「啓蒙主義に対して『美しい自然を人間が汚してきた』というハイデガーやアドルノのようなロマン主義は、いつの時代にも絶えない。
 『人類は破滅の道を歩んでいる』とか『西洋文明はもう終わりだ』といった暗い予感は、啓蒙主義より人気がある。
 しかし、西洋文明は終わらない。
 反啓蒙主義者が『帰るべき自然』と考えているものは、西洋文明が自然破壊を破壊し尽くした後に生まれた農耕社会なのだ。」
 「ハイデガーやアドルノののようなロマン主義」とフランクフルト学派は同義ではない。しかし、上の「西洋文明」を(西洋から発達した)「資本主義文明」あるいは「自由主義経済のもとでの文明」と読み替えると、上の「ロマン主義」やフランクフルト学派の基本的な論調と西尾幹二の「気分」はかなり似ている。西尾は、<大衆とは異なる鋭敏な知識人>の一部がかつてそうだったように、現況に「暗い未来」を感じとっているかのようだ。悪化しているとして現況を嘆く(ふりをする)のは「知識人」には「人気」があることかもしれない。
 むろん、両者が全く同じだとは言わない。西尾にはジョン・グレイ<わらの犬>が皮肉っている<道徳主義>・<人格主義>・<教養主義>が多分にある。これらは現代では日本でも相当に廃れている。
 そして、上の点はどの程度にフランクフルト学派論者に当てはまるかは分からないが、西尾はこうしたもの(=人格・教養等)が尊重された(と彼が思っている)時代への「ノスタルジー(郷愁)」があるようだ。
 しかし、<処方箋>を示すことなく、具体的な政策論を展開することもなく、「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」の問題が大切だなどと幼稚に言っているだけでは、何も始まらない。
 西尾が資本主義社会と社会主義社会を「相対化」して、共通する「現代」文明の(あるいは共通する「真の?自由」の喪失の)病弊があると言いたいようであることは別に触れることにしよう。
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 思い出したが、西尾幹二は<いわゆる保守派>には珍しい<反・原発>論者だ。ろくに読んでいないから確言できないが、原発・原子力の<安全性>に関する非イデオロギー的・科学技術的議論を行っているのではなく、中島岳志にような「『保守』精神」論から出発したり、独自の「現代文明」論・「現代の科学技術」論を基礎にしているのだとすれば、ろくな結論と論理構成にはなっていないだろう。
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 「各自の、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由の問題」を扱わなければならない、という旨の西尾幹二の高邁な?一文は、おそらくは現に生きている日本を含めた世界じゅうの人間たちのほとんどを「軽蔑」・「蔑視」するものだ。
 「物質」あるいは「物的条件」よりも「こころ・精神」が大切、という主張は一部の宗教家や哲学者によって歴史上、幾度となく語られてきた。西尾が特段新鮮なことを述べているわけではない。
 そもそもは、「脳科学」・「進化心理学」等々は、西尾幹二が知る以上にはるかに、人間の「精神」・「意識」・「こころ」に迫ろうとしている。アメリカが中心のようだが、近代啓蒙の基盤なくして、この分野での急速な進展は生じなかっただろう。
 この点は別として、キリがない話なので池田信夫の上の文章から手がかりを得て書くと、原発によるのであれ何であれ、「電気」エネルギーの助けがなければ、西尾幹二の住居の暖房も冷房もたぶん機能しない。「停電」・電力供給の停止の怖さを、西尾は想像したことがあるのか。「水道」事業もまた、長い歴史をもつ人間の技術的工夫の結果だ(一部は近代以前に遡り、一部では現在なお整備されていない国々が地球にはある)。「死亡率」は戦争・内乱によるのを含めるのかどうか知らないが、「幼児死亡率」とともに各段に下がったと思われる。これは医学・人間生物学・栄養学・薬学等およびこれらに関係する技術的開発の、さらには医療制度(医療保険制度を含む)等の社会制度(・法制度)のおかげでもある。
 常識的なことなのでキリがない。それでも西尾は、自分だけは「こころ」だけで生きているつもりで、いや「こころ・精神」が大切だ、と言い張るのか。「自然科学」と戦う、というその「自然科学」の成果を、西尾自身がタップリと享受している。
 エネルギー供給、交通手段の確保・運営、生活必需品の生産・販売等々、「より快適な条件で生物として生きていく」ために、多くの人々が働いている。
 台風・豪雨等の前や最中には、道路・河川・建物等の安全確保のために「働いて」いる多くの関係者がいる。災害によって生命を失う人もいる。西尾は、冷笑するのだろうか、いや「生命」よりも身の「安全」よりも、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」の方が大切だ、と。
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 「社会科学」もまた、人間で構成される「社会」を対象とするかぎり、その人間の「意志・意思」の決定の過程・ありようは、重要な研究対象となる。<合理的意思決定>論、<意思の自由>論(例えば刑法上の「責任能力」の議論)、<人間・日本人一般または各人の「心理」>等々は、人間一般の又は個別の人間の「こころ」の問題に直接または密接に関係する。経済学も経営学も法学も歴史学も同様。
 キリがないので、この点は別に機会があれば、書こう。
 西尾幹二は、「ふつうの、まともな人間のこころ」を持つのか?

2077/J・グレイ・わらの犬(2002)④-第2章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。<ー人間と他の諸動物に関する考察>。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。
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 第2章・欺瞞〔The Deception〕①。邦訳書、p.37~p.54。
 第1節・仮面舞踏会。
 カントが仮面舞踏会で恋慕した仮面の麗人は実妻だったというショーペンハウワーの寓話での妻はカント時代のキリスト教信仰で、ヒューマニズムが現代の信仰だ。哲学は200年の間にキリスト教を捨てたが、「人間は他の生き物と根本的に違うと考える教理の根幹をなす誤謬は温存した」。仮面を剥ぎ取るはずの哲学者の仕事は本格的には開始されていない。
 「動物はみな、この世に生まれ、番(つがい)の相手を求め、餌を漁り、死に果てる。それだけのことだ」。人間は「意識、自我、自由意思」があるから違うと言うが、誤りだ。
 「人の一生は意識の命じる主体的な行動よりも断片的な夢想の堆積である」。
 「死命を分ける重大な決断の多くを知らず知らずのうちに下す」。
 「自身の存在を意志の力で統御することはできない相談であるにもかかわらず、…できると考えるのは神に対する非合理な信仰を棄てて、非合理な人類信仰に乗り換えた思想家の教条主義である」。
 第2節・ショーペンハウアーの難題〔Crux〕。
 ショーペンハウワーは19世紀半ばの人間「全的解放」を批判し、「革命運動には恐怖と侮蔑」を抱き、主流哲学に「猛然と反発し」、「後にマルクスにも強い影響を与えたヘーゲルを国家権力の代弁人風情と扱き下ろした」。
 彼は規則正しく生活し、「人間存在の根底にある盲目的な意志」に従った。哲学は「キリスト教の偏見に毒されている」とし、18世紀の「啓蒙」の主潮だったカント哲学を「キリスト教信仰の世俗版」だと批判した。
 彼にとって「人間は本質において動物と何ら選ぶところがない」。人間も同じく「世界の根底にあって苦悩し、忍従しながらすべてを誘起する生命衝動-盲目的な意志の現れ」だ。
 カントはイギリス(スコットランド)のヒュームの「底知れぬ懐疑主義」に衝撃を受けた。ヒュームによれば「人間は外界の存在を知り得ず、…自分自身の存在すら知っていない」、「何も知らない以上、自然と慣習を標に生きるほかはない」。
 ヒューム説の「人間は事物をそれ自体として知ることはできず、ただ経験のかたちであたえられる現象を知るだけ」によると「経験の背後にあるリアリティ、カントのいわゆる物自体は不可知」だが、カントは「高鼾の熟睡」に再び戻り、ヒューム・懐疑論を拒否した。
 ショーペンハウワーは「世界は不可知」とのヒューム・カントを受容しつつ、「世界も、世界を知ったつもりでいる個別の主観も、リアリティの根拠を欠いた幻影だと論じた」。彼は「ベーダンタ哲学と仏教思想に共鳴している」。そして、カントを進めて、「表象」世界に生きる人間を捉え直した。
 ショーペンハウワーによると「欲情は種の保存を約束するが、個人の福祉や自律にはなんのかかわりもない。体験が人間に自由行為者たる確信を押しつけると考えるのはまちがいである」。また、「独立した個体は存在せず、数多性も差異もない」、ただ「<意志>と名付けた絶えざる衝動だけ」がある。「理知は否応もなく意志にしたがう下僕でしかない」。
 ショーペンハウワーは、「カント哲学を否定し、返す刀でキリスト教信仰とヒューマニズムの根底にある人間の唯我論を切り捨てた」。
 第3節・ニーチェの「楽天主義」〔Optimism〕。
 ニーチェはショーペンハウワーの「ペシミズム」を批判したが、後者は前者の「神の死」という結論をすでに道破していた。
 ニーチェは「キリスト教とその価値観を論難してやまなかった」が、それ自体が「信仰から脱しえなかったことの何よりの証拠」だ。父母に「キリスト教の血筋」もある。
 彼はショーペンハウワーを意識しかつ敬愛しつつも後者の「哀憐」は「至高の徳目ではなく、…生命力の減退の徴」だと弁じた。後者は<意志>に背いて=「自身の幸福や生存に対する執着を断って、はじめて他者を憐れむ心になる」と説いたのだが、ニーチェにとって、「憐れみ」は「反生命主義」で、<意志>を賛美する方が理に叶う。「苛酷な生をそっくりそのまま是認する」のが、ショーペンハウワー・悲観主義に対するニーチェの回答だった。
 しかし、ショーペンハウワーは「哀憐ゆえに蹉跌する」ことはなく、ニーチェの方が「錯乱」して「身を滅ぼした」。
 ニーチェと異ってショーペンハウワーは、キリスト教信仰・その根幹の「人類の歴史を重視する思想」を放棄した。
 「ほんとうにキリスト教と絶縁する気なら、人類は歴史に意味があるとする考えを棄てなければならない」。古来の異教世界と文化ではかかる認識の例はない。「ギリシア、ローマでは、歴史は栄枯盛衰の自然な循環であり、インドでは、ただ果てしなくくり返される共同幻想だった」。
 「人間は生き物で、他の動物と変わらないとわかってみれば、人類の歴史などというものはありえず、ただ個体の一生があるだけである。
 かりに種の歴史を語るとすれば、そうした個体の一生の、知りようもない総和に意味をさぐることでしかない。
 動物と同じで、幸せな生活もあれば、惨めな暮らしもある。
 だが、個体を超えたところに存在の意味はない。」
 ニーチェは「人類の歴史」の無意味を「知っていながら承服できなかった」。「最後まで信仰に囚われて」いたので「動物である人間もどうかなるという迷妄を断ち切れず」、「笑止千万な超人の思想を生み出した」。
 彼は「支離滅裂な人類の夢に、…悪夢を加えるだけで終わった」。
 第4節・ハイデガーのヒューマニズム〔Humanism〕。
 ハイデガーは西欧哲学を支配してきた「人間中心の思想」への決別を宣した。しかし、「人類は必然の存在だが、動物に正当な存在理由はないという」偏見をもち、「存在」に目を向けて「人類の特異な立場を肯定」した。ニーチェと同じく、「キリスト教の希望」を棄てきれなかった「不信仰者」だ。
 ハイデガーは「宗教に依存しない人間存在」を語るが、「現在性」・「無気味さ」・「罪」のいずれも「キリスト教の理念の世俗版」だ。キリスト教の「堕落」・「原罪」等に「実存主義的なひねりを加え」た「焼き直し」にすぎない。
 「存在」の意味は不明で「定義を拒むもの」と考えている節があるが、明らかに「独我論の根拠」になっている。
 ハイデガーは世界を「ただ人間との関係においてしか」見ない。「旧来の人間中心主義」と変わらず、「秘教的知恵」が救うとする「古代思想」や「グノーシス主義」の世俗化した「蒸し返し」だ。
 ニーチェは「放浪者」のために書いたが、ハイデガーは「終生、身の置きどころを求め」た。後者は次第にヒューマニズムから遠ざかったと公言したが、人間中心でない「古来の思想」への関心はなかった。「ギリシア語とドイツ語だけが真の哲学の言葉」だと断じて、「荘子、道元」等々の「深遠な思想も哲学ではありえない」と無視した。
 ハイデガーのごとく「哲学者がかくまで自己を主張し、妄想に取り憑かれることはきわめて稀である」
 晩年に「静謐」を語るが、ショーペンハウワーの「意志からの解放」にとどまるだろう。後者によると芸術・音楽への耽溺で「意志」形成の労苦を忘れて「没我の境」に入り、「無私無欲の観察者の視点」で世界を観察する。ハイデガーは晩年に「迂路をたどってショーペンハウアーに回帰した」。
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 つづける。

2021/L・コワコフスキ著第三巻第10章第4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.369-372.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第4節・実存的「真性主義」(existential 'authenticism')批判。
 (1)実存主義(existentialism)は「物象化」批判に関してはフランクフルト学派の主要な競争相手で、哲学としてははるかに影響力をもった。
 ドイツの思想家はほとんどこの語を用いなかったが、それにもかかわらず、彼らの人類学的理論の意図は同じだった。すなわち、個人の自己決定意識とそれ独自の規範に適合させようとする殺伐とした社会的紐帯の間の対照さを、哲学的用語を用いて表現すること。
 かくして、マルクスによるヘーゲル攻撃と同様に、KierkegaardおよびStirnerには共通する要素、つまり現実の主観性(subjectivity)に対する非人格的「一般性」の優越に対する批判、があったので、マルクス主義者と実存主義者は、人間存在を社会的に決定された役割に限定して擬似自然的な諸力に従属させる社会システムを批判する点で、共通する基盤に立った。
 マルクス主義者たちは、ルカチに従って、事物のこういう状態を「物象化」と呼び、マルクスが行ったように、その原因は資本主義諸条件の平準器である貨幣がもつ全能的な効力にあると見なした。
 実存主義それ自体は階級闘争や所有関係のようなものの説明を行わなかったが、やはり基本的には発展産業社会の文化に対する抗議であり、その文化は人間諸個人を社会機能の総体に貶めてしまうと考えていた。
 「真性」(authenticity)または「本当の存在」(authentic being)(<本来性(Eigentlichkeit)>)という範疇はハイデガーの初期の著作では重要な位置を占めるもので、還元不能な個々の主体を、「非人格的な」(impersonal)という言葉で要約される殺伐とした社会的諸力に対抗するものとして、擁護しようとする試みだった(<人(das Man)>)。//
 (2)ドイツの実存主義者に対するアドルノの攻撃は、したがって完全に理解可能なものだ。すなわち、彼は、フランクフルト学派は「物象化」に対する唯一の闘争者だと主張し、「物象化」を批判しているように見える実存主義は実際にはそれを是認していることを証明しようとした。
 これは、<本来性(Eigentlichkeit)という術語: ドイツのイデオロギーについて>(1964年)の目的だった。彼はこの書物で、ハイデガーと、またヤスパースや場合によってはBuber 等々とも原理的に論争した。
 アドルノは、「物象化」という概念とそれが人間の交換価値への従属から帰結したものだとするマルクス主義者の見方を受け入れた。しかし、プロレタリアートを人類の救済者だとする考えは拒絶し、「物象化」を生産手段の国有化によって除去するこができると考えもしなかった。//
 (3)実存主義に対するアドルノの攻撃の主要な点は、つぎのとおりだ。
 (4)第一に、実存主義者は、特有の「霊力」でもって言葉の独立した力に対する魔術的な確信を掻き立てる、そのような欺瞞的な用語法を創り出した。
 これは内容に先立つ修辞上の技術であり、たんに深遠だと思われるために考案されたものだ。
 言葉の魔術は、「物象化」の真の淵源を分析することに代わるもので、まじない言葉でもってそれを除去することができることを示すものだと考えられている。
 しかしながら、言葉は現実には、還元不能な主観性を直接に表現することはできず、「本当の存在」を一般化することもできない。すなわち、「真性主義」という惹句を採用して、物象化から逃れたと信じることは全く可能だが、実際にはそれに従属したままだ。
 さらに加えて-これが本質的だと思われるが-、「真性主義」はきわめて形式的な惹句またはまじない言葉だ。
 実存主義者たちは、どのようにして我々は「真性的」になることができるのかを語らない。すなわち、我々は何であるかに満足しているのみだとすれば、抑圧者や殺人者はまさにそれであることによってその任務を履行している。
 要するに(アドルノはこうした言葉で表現しなかったけれども)、「真性主義」は何らかの特有の価値を意味してはおらず、それが何であれ何らかの行動で表現され得るものだ。
 もう一つの欺瞞的な観念は、決まり文句の機械的な交換に対抗するものとしての、「本当の意思疎通(communication)」という観念だ。
 真性の意思疎通を語ることによって、実存主義者たちは、思考を他者に表現することだけで社会的抑圧を是正することができる、こうして会話はその後に生ずべきこと(アドルノは、これが何であるかを説明しない)の代わりになる、と人々を説得しようとしている。//
 (5)第二に、「真性主義」は、いかなる場合でも物象化の救済方策にはなり得ない。なぜなら、その淵源、つまり商品崇拝主義(fetishism)と交換価値の支配に関心を持っていないからだ。
 「真性主義」は、誰もが自分の生活を真性的にすることができると提示する。しかし、全体としての社会は、物象化の魔術のもとにあり続けている。
 これは、共同的生活の条件に変化を何ら生じさせることなく個人の意識のうちに自由を実現することができるという幻想を魔術的に取り出すことによって、人々の注意をその隷属状態から本当の原因を逸らす、古典的な形態だ。//
 (6)第三に、実存主義の効果は、「非真性」の生活の全領域を、排除できないが自分自身の存在に限定された努力でのみ抵抗することのできる、そのような形而上学的実体として硬直化することにある。
 例えば、ハイデガーは、物象化された世界としての空虚で日常的な雑談について語る。しかし、彼はそれを永続的な特質だと見なしており、宣伝広告のために金銭を浪費しない理性的な経済では存在しないだろうということに気づいていない。//
 (7)第四に、実存主義は、注意を社会的条件から逸らすことによってのみならず存在を定義する態様によって、物象化を永続化させがちだ。
 ハイデガーによれば、個々の人間存在(<Dasein>)は自己所有と自己参照の問題だ。
 全ての社会的内容は真性さの観念からは排除され、その真性さは自分自身を所有したいとの意思から成り立つ。
 このようにして、ハイデガーは、現実には、人間の主観性を物象化し、外部世界とは関連性のない「自分自身である」という同義反復的状態へと貶める。//
 (8)アドルノはまた、言語の起源を探求しようとするハイデガーの試みも攻撃する。
 彼はこれを、過ぎ去った時代、田園的素朴さ等を称賛する一般的傾向の一部で、その結果として「血と土」のナツィ・イデオロギーと連関したものだ見なす。
 (9)アドルノの批判は、「ブルジョア哲学」に対するマルクス主義者の伝来的批判の線に沿ったものだ。つまり、実存主義は、物象化を批判するふりをしつつ、実際には、社会的諸問題を考慮の外に置き、「自分自身である」とたんに決定することで「本当の生活」を達成することができると個々人に約束することによって、物象化をさらにひどくする。
 換言すれば、反対しているのは、<本来性という術語>は何の政治綱領も含まない、ということに対してだ。
 これは正しい。しかし、同じことは、アドルノ自身の物象化や否定いう術語についても言えるだろう。
 我々は交換価値を平準化する圧力に従属した文明に対してつねに断固として抵抗しなければならないという前提命題は、社会的行動に関するいかなる特有の規則をも意味包含していない。
 正統派マルクス主義者については、事情は異なっている。彼らは、有害な諸帰結を伴う物象化は全工場を国家が奪取するならば終わるだろう、と主張する。
 しかし、アドルノは、このような結論をとくに拒否する。
 彼は、代替可能な社会はどんなものかに関する示唆を何ら与えないままで、交換価値にもとづく社会を非難する。
 そして、将来に関する青写真を提示することができない実存主義者たちに対する彼の憤激には、何か偽善的なところがある。//
 (10)アドルノはたしかに正当に、「真性主義」は結論や道徳的規則を導くことのできないきわめて形式的な価値だと語る。
 さらには、それを最高に価値があるものとして設定するのは危険だ。例えば、強制収容所の所長はそれとして行動することで、人間存在を完全に達成することができる、という考えに対抗する道徳的な保護策を、それは提供しない。
 言い換えると、ハイデガーの人類学は、価値の定義を何ら含んでいないかぎりで、非道徳的だ。
 しかし、「批判理論」は、よりよい状況にあるのか?
 たしかにそれは、基礎的諸観念のうちにとりわけ「理性」と「自由」を含んでいる。
 しかし、「理性」は些細な論理または経験的情報崇拝に拘束されることはない、ということ以外には、より高次の弁証法的形式での「理性」については、ほとんど何も語っていない。
 そして、「自由」に関しては、自由ではないものを主としては語るだけだ。
 その自由は、物象化を排除しないで悪化させるブルジョア的自由でも、マルクス=レーニン主義によって約束され、実現される自由でもない。その自由は、隷属だからだ。
 明らかに、これら以外の何か良いものがなければならない。しかし、それが何かを語るのはむつかしい。
 我々は、積極的意味でのユートピアを予期することはできない。
 我々が行うことができる最大のことは、否定的に現存する社会を超越することだ。
 かくして、批判理論が教えるものは、特定されない行動の呼びかけにすぎず、ハイデガーの「真性主義」と全く同様に形式的なものだ。//
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 つぎの第5節の表題は、<「啓蒙」批判>。

2016/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節③。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.363-p.366.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第3節・否定弁証法(negative dialetics)③。

 (15)ハイデガー(Heidegger)の存在論はこの状況を解消しないし、むしろさらに悪いものを提示する。
 哲学から経験論とフッサールの<形相(eidos)>を排除して、ハイデガーは、存在(Being)を把握しようとしている。-その存在は、彼の理解によれば、純然たる無(nothingness)だ。
 彼はまた、現象を「分離」し、それを明確化に至る過程の諸要素(aspects, <Momente>)だと考えることができない。そのようにして、現象は「物象化」されるのだ。
 フッサールに似てハイデガーは、「媒介」なくして個別的なものから普遍的なものへと進むことができる、あるいは省察することに影響を受けない形式で存在を理解することができる、と考える。
 しかしながら、これは不可能だ。すなわち、存在は主体によって「媒介される」のだ。
 ハイデガーの「存在」は構成されたもので、たんに「与えられた」ものではない。
 「我々は、思考による場合に、主体と客体の分離がただちに消失するいかなる立場も採用することができない。なぜならば、全ての思考において、この分離は本来的なものだからだ。分離は、思考それ自体の中に内在している。」(p.85.)
 自由は、生活の両極の間に生起する緊張関係を観察してのみ、探し出すことができる。しかし、ハイデガーは、この両極を絶対的な現実だと見なし、それらをそれぞれの宿命に委ねるのだ。
 彼は一方で、社会は「物象化」されなければならないと認める。換言すると、<現状>をそのまま承認する。
 他方でしかし、人間にとっての自由は既に得られているものであるかのように叙述し、そうして、隷属状態を承認する。
 彼は形而上学を救おうと試みているが、救済を目指しているのは「直近に現存するもの」だと間違って想定している。
 概して言えば、ハイデガーの哲学は、抑圧的社会に役立つ<支配学(Herrschaftswissen)>の一例だ。
 存在するものとの間の約束した聖餐式を行うために、諸観念を放棄しようと呼びかけている。-しかし、この存在には内容がない。その正確な理由は、諸観念の「媒介」なくしてもそれを把握することができる、と想定されていることにある。
 彼の哲学は、根本的には、「である(is)」という連結詞を実在化したもの(substantivization)にすぎない。//
 (16)可能なかぎり一般的な用語で語れば、〔上のような〕ハイデガーの存在論に対するアドルノの攻撃の主要点は、つぎのヘーゲルの主張にある。第一に、主体を形而上学的考究の結果から完全に排除することは決してできない。第二に、かりにこのことを忘れて主体と客体を両側に位置づけようとすれば、そのいずれをも理解することが絶対にできない。
 いずれもが、分離できない考察の一部だ。いずれにも、認識論上の優越性はない。それぞれが、他者によって「媒介」される。
 同様に、いずれかが絶対的に個別的なものだとする認識-これをハイデガーは<存在とJemeinigkeit(自己帰属性)>と呼ぶ-によって理解する方策は存在しない。
 一般的な諸観念の「媒介」なくしては、純然たる「ここにあるこの物」は、抽象物だ。
 それを考察から「引き離す」ことはできない。
 「しかし、真実は、つまり主体と客体とが相互に浸透し合う集合体は、ハイデガーが曖昧にしがちな主体性との弁証法的関係をもつ存在へと還元する以上には、主体性に切り縮めることができない」(p.127.)。//
 (17)アドルノが「否定弁証法」という語で意味させたいものを説明するのに最も役立つ文章は、つぎのものだ。
 「弁証法的論理は、ある意味では、それを排除する実証主義以上に実証主義的だ。
 思考しているとき、弁証法的論理は、その客体が思考(thinking)の規則を気に掛けない場合であってもいずれが思考されるべきもの-客体-なのかを尊重している。
 客体を分析するのは、思考の規則から脱するということだ。
 思考は、それ自体の規則適合性に甘んじている必要はない。それを放棄しても、我々は様々に思考することができる。かりに弁証法を定義するのが可能ならば、これは提示するに値する定義になるだろう。」(p.141.)
 弁証法は論理の規則に束縛される必要はないということ以上を、我々がこの定義から導出できる、とは思えない。
 我々は実際に別の文章で、もっと自由につぎのように語られる。
 「哲学は理性の真実(vérité de raison)から成るのでも、事実の真実(vérité de fait)から成るのでもない。
 哲学が語る何も、『存在する事実(being the case)』に関する感知可能な規準に屈従しはしないだろう。
 構成観念に関する諸命題は、事実性に関する諸命題が経験科学の規準に従属しているほどには、事実の論理的状態に関する規準に従属していない。」(p.109.)
 もっとよく分かる立場表明を想定するのは、実際のところ困難だろう。
 否定弁証法論者は、第一に、論理の観点からも事実の観点からも批判されることはあり得ない、と明確に述べる。それらの規準は自分たちとは関係がないと断定しているのだから。
 第二に、自分たちの知的および道徳的な優越性は、これらの規準をまさに無視していることにもとづく、と宣言する。
 そして第三に、この無視こそが実際に、「否定弁証法」の本質(essence)だ、と主張する。
 「否定弁証法」は単直に言って白紙の小切手であり、歴史によって署名され、裏書きされる。
 存在、主体および客体は、アドルノとその支持者たちのためにある。
 いかなる金額も書き込むことが可能で、何であっても有効で、論理の「実証主義的偏愛」や経験主義から絶対的に自由だ。
 思考は、弁証法的にその反対物へと変転する。
 このことを否定する者は、「一体性原理」の奴隷となる。これは、交換価値に支配された、ゆえに「質的な相違」を知らない社会を受容することをその意味に包含している。//
 (18)アドルノによると、「一体性原理」がきわめて危険な理由は、それがつぎのことを意味することにある。
 それは、第一に、分離されたものは全て経験的に存在するものだ、第二に、個別的な客体は一般的諸概念でもって見極めることができる、つまり抽象化に向かって分析することができる(これはアドルノは言及していないが、Bergson の考えだ)、ということを意味する。
 一方では、哲学の任務は、第一に、事物は現実に何であるかを確定することであって、たんにそれがどの範疇に帰属するかを確定することにあるのではない(アドルノはこの種を分析した例を挙げていない)。
 第二に、それ独自の観念に従えば、まだ存在に至っていなくともそれは何であるべきかを説明することだ(これはアドルノはこの論脈では言及していないが、Bloch の考えだ)。
 人間は自分を定義する方法を知っている。だが、社会は、人間にあてがう機能に一致するように様々に人間を定義する。
 これら二つの定義の仕方の間には、「客観的な矛盾」がある(ここでも例示はない)。
 弁証法の目的は、観念による事物の固定化に反対することにある。
 弁証法は、事物は決してそれらと同一視されない、という立場をとる。 
 弁証法は、否定の否定は肯定的なものへの回帰を意味すると想定することをしないで、否定を探し出す。
 弁証法は個別性を承認するが、一般性によって「媒介された」ものとしてのみそうするのであり、個別性の要素(aspect, <Moment>としてのみ一般性を承認する。
 弁証法は、客体のうちに主体を見る。逆もまた同様であり、理論のうちに実践を、実践のうちに理論を、現象のうちに本質を、本質のうちに現象を見る。
 弁証法は差違を理解しなければならないが、それを「絶対化」することはない。そして、何らかの特定の事物を最も優れた(par excellence )出発点だと見なすことはあり得ない。
 フッサールの先験的主体のような、一切何も前提としない見方というものは、存在し得ない。
 全てのものを含み、かつ全体と一体となる一つの精神(spirit)があり得るという思想は、全体主義体制における単一党という思想と同じく、馬鹿げた(nonsensical)ものだ。
 精神と物質のいずれに優越性があるかに関する論争は、弁証法的思考では無意味だ。なぜならば、精神や物質という観念はそれら自体が経験から抽象化されたものであり、それら二つの間の「根本的相違」なるものは、因習的約束事(convention)に他ならない。
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 ④へとつづく。

1856/総特集・木村敏/臨床哲学のゆくえ(現代思想2016年11月臨時増刊)。

 現代思想2016年11月臨時増刊号(青土社)-総特集・木村敏/臨床哲学のゆくえ。
 上のうち、以下を読み終えている。
 内海健=檜垣立哉(対談)「存在・時間・生命-木村敏との対話」、p.41-63。
 深尾憲二朗「激烈な非難と無際限の楽観-木村敏と科学」、p.64-81。
 ***
 日本共産党員や日本のマルクス主義者ないし共産主義者が「社会科学」という概念をマルクス主義と同義のものだとしたり、マルクス主義を「科学」的社会主義だなどと称しているので、「社会科学」という語を用いるのは抵抗があって、社会系学問分野とか表現したこともあった。
 かりにそうした限定的な意味でなくとも、「科学」の一つである社会科学と「宗教」は相容れないもので、宗教的感覚を排除することこそが(社会)科学だという意識・考え方は相当に一般的だろう。
 しかし、自然科学はかりに別論としても、社会科学もまた観念・概念の論理的体系構造をもつとすれば、宗教的想念や宗教的「教義大系」と相当に近いものだ、というのが近年の強い「想念」になっている。
 そもそもが宗教と「学問」とが(自然・人間・社会のいずれにも関連して)渾然一体となっていた時代は日本にも必ずや存在したと考えられる。そして、究極的には分離し難いことはおそらく、今日でも同じだろう。
 そうだとすれば、例えば日本共産党は日本「共産教」の信者組織だと表現するのは、むしろ宗教に対して失礼であって、「宗教」の本質を理解していないことになるだろう。
 おそらくは日本会議を典型とするのかもしれない日本の原理的・特定「保守」派を<愛国カルト>と称している「ネトサヨ」ブログ欄もあるようだが、そういう表現の仕方をすれば日本共産党は日本の代表的な<反・反共カルト>組織であり、現在の同党は1961年以降はより正確には<宮本・不破カルト>という信仰団体になるだろう。1994年以降は、ひょっとすれば宮本顕治は後景に退いて、<不破哲三カルト>かもしれない(あるいは、それほどまでの教義があるわけではない、ただの世俗的政治団体だという見方も、内部にすらあるかもしれない)。
 秋月がもともと日本の神道・神社や日本の仏教・寺院に素朴な関心と素朴な愛着を感じてきたことはこの欄で示してきているとおりで、社会や歴史とともに日本の「宗教」について語ることに何ら違和感はない。むしろ、例えば櫻井よしこの日本の宗教に関する「無知」と「無教養」に驚いてしまったほどだ。
 社会系学問も(人文系はもちろん)宗教的な議論も「観念」や「論理」を用いるのだとすると、さらにそもそも、ヒトまたは人間の「観念」・「論理」等に関する、又はそれらを用いた<精神>活動とはいったい何なのか、にも関心は移っていく。
 そうすると関心は<精神>的営為を行うヒト・人間の<いのち>にも波及するのであり、<生命>に関する福岡伸一の<動的平衡>の連作がいう、<絶え間なく変化しながら一定のまとまりを維持する平衡体>(これは福岡の文章の正確な引用ではない)ということの趣旨も何となくは理解できる。彼によると、<絶対矛盾的自己統一>という西田幾多郎哲学はこれと矛盾せず、よく似ているのだそうだ。
 ともあれ、<精神>活動が人間の(対外的表現の基礎となる観念・言葉の産出作用それ自体は)「脳内」活動であることに異論はないと思われるが、文筆・評論的な活動をしている主としては<文系の>人々は、得てして、このことを忘れがちだろう。
 ***
 「精神分析」とか「精神病理学」とかの言葉自体は従前から知っており、関心はあったが、まともに読む機会は少なかった。 
 上の雑誌を手にして一部読んで相当に面白いのは、ある程度は予期し得たことかもしれないが、文系とされる「哲学」と理系・自然科学系とされる「精神医学」との間の垣根は存在しないか、両者はほとんど接近している、ということだ。
 上の①の対談の二人は、文系の「哲学」専攻者・研究者(檜垣)と自然系・医学系の「精神医学/精神病理学」専攻者・研究者(内海)だ。木村敏という先学者に関して語り合って、会話・対談が成り立っていること自体が、疎遠だった者からすると相当に興味深い。
 内海は比較的最初の方で、精神医学者で「臨床哲学者」ともされる木村敏(京都大学医学部元教授)について、木村の「分裂病論が斬新だったのは、分裂病を自己の自己性に関わる病態として捉えたこと」だと述べているが(以下は省略)、<自己の自己性>とは「哲学」の問題でもあるはずだ。
 また、逐一言及するのはやめるが、じつに多くの、「哲学」、「社会・政治思想」の論者または学者だとされている者たちの名が-最多はフランスのそれらのようだ-出てくる。木村自体がハイデガーや西田幾多郎等々の読者かつ研究者だった、という。
 無知な読者として印象に残るのは、病態としての<狂気>もまた、各人の「自己」と無関係なはずはない社会(・国家)の病気の一つで(あくまでも可能性として)あり得る、そして<狂気>(これが精神「障害」なのか精神「疾患」なのかという問題もある)の認定もまた一つの、人間世界の、その意味で社会的な判断作業だ、という示唆であり、あるいはそのことを前提にして対談がなされている、ということだろう。医学または自然科学上の議論を等閑視してはいけない。
 上の②もまた、簡単な要約はできない。木村敏には『精神医学から臨床哲学へ』という書物があるようだが、これはさらに簡略化すれば<医学から哲学へ>になる。
 印象に残った一つは、「脳死」判断に関する木村の意見だ。簡単にしか紹介されていないが、「死」の認定方法・基準自体が<社会性>を帯びる、という当たり前のことかもしれないことを感じさせる。
 「死」を厳密にどう理解するかは、ヒト・人間の究極的な「哲学」的問題に対処することかもしれない。木村敏は「脳死」基準導入に対して、学部教授会で「ほとんど一人で反対した」、という。つぎの文章が紹介されている(一部引用)。
 「純粋に医学的・自然科学的な理論」によって「個体の死」が定義され、認定されたあとで、この「理論上の死体から生きた臓器を摘出するという人為的な作為によって実際の死が強制的にひきおこされるというのは、家族の共同体にとって殺人と同様の暴力的で不自然な事態ではないのだろうか」。
 「自然な死」と「不自然な死」。「自然には死ねなくなっている現代日本の高齢化社会…」。さて。

 

0434/佐伯啓思・<現代文明論・下>(PHP新書)における「世論」。

 佐伯啓思・<現代文明論・下>-20世紀とは何だったのか・「西欧近代」の帰結(PHP新書、2004)をp.149(第五章の途中)くらいまで読んだ(半分を超えた)。
 第二章はニーチェ、第三章はハイデガー、第四章はファシズム、第五章は「大衆社会」が主テーマ。論旨は連続して展開していっているが、省略。
 前回書いたことにかかわり、「大衆社会」における、又は大衆民主主義のもとでの「世論」なるものを佐伯が次のように表現・説明しているので書き記しておく。
 「世論」とは「国民の意思」=「民意」と言い換えてもよいだろう。昨年の参院選後に<ミンイ、ミンイ>と叫んでいた者たちに読んで貰いたい。佐伯の本を聖典の如く扱っているわけでは全くないが。
 ①「世論」は、「人々の個性的な判断や討議の結果というよりも、もともとはひとつの情報源から発したものが多量に複製された結果というべきもの」(p.140-1)。
 ②「世論」は、「人々のさまざまな独自の意見の結集ではなく、人々がお互いに相手を模倣しているうちに、ひとつの平均的な意見に収斂してしまったものにすぎない」(追-「発信源になるものは多くの場合、新聞やラジオといったメディアでしょう」)(p.145)。
 ③「世論」は、「人間がある集団のなかで、その集団に合わせるために、その集団の平均的見方で物事を考えているだけだ」(p.148)。
 以上。なお、佐伯は、これらを現代日本を念頭に置いて書いてはいない。20世紀に入って生成した「大衆社会」(大衆民主主義)の時代における「世論」について一般論として(欧米の議論を参照しつつ)書いている。だが、むろん、現代日本もまた「大衆民主主義社会」だ。

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