秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ネップ

1648/松竹伸幸・レーニン最後の模索(2009)。

 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
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 あらためて、日本共産党の現在の綱領(2004年1月17日/第23回党大会で改定)から。
 ①「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。」
 ②「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。」
 ③「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…となろうとしていることである。」
 ④「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 ロシア革命とレーニンを肯定的に評価し、かつ「市場経済を通じて社会主義へ」という基本方針を掲げていることが明らかだ。
 かつ、ここでの「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、不破哲三、志位和夫によると、レーニンが、1921年3月党大会における「ネップ」導入決定後、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のものとして明確にした、という。関係する文献には、この欄で何度か触れた。
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 1991年のソ連解体後もまた、ロシア革命・「社会主義」やレーニンの意味を決して否定しておらず、(スターリン以降はともあれ)これらを明確に擁護する学者・研究者もいる。すでに記した。
 溪内謙、藤田勇、笹倉秀夫
 しかし、レーニンによる「ネップ」期での<市場経済を通じて社会主義へ>という路線の明確化(「社会主義」建設の一般論としても)、という把握を明確に述べている文献は、日本では、ほとんど日本共産党の幹部ものに限られる。
 不破哲三、志位和夫、聴濤弘。
 外国(欧米)文献で、こんなバカなことを記しているのは、見たことがない。
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 日本ではほかに、「松竹伸幸」(「1955-、日本平和学会員」とされる)のつぎの文献が、不破哲三らの上の考え方を支持する。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
 この問題をきちんと論じようとすれば、相当に関係文献を読んで検討しなければならないはずだ。
 しかし、2009年刊行の本でありながら、そのような形跡はない。注記はない。参考文献の一覧・後掲もない(統計資料についてだけ、なぜかある)。
 本文中に表に出てきているのは、レーニン全集からのレーニンの文章と、E・H・カー等のおそらくは10に満たない、この人物の主張の障害にならない文献だけだ。
 そもそもが、ロシア10月「革命」の「革命」性、あるいは、資本主義からの離脱という「社会主義革命」性自体を否定する文献が(日本も含めて)少なくない。
 そのような文献は、いっさい無視している。
 今回は予告として書いておくのだが、日本共産党綱領を踏まえつつ、不破哲三、志位和夫の「基本路線」から逸脱しないように、その基本的歴史理解を「敷衍」しているのが、上の本だろう。
 言うまでもなく、この「松竹伸幸」は(筆名の可能性がある)、日本共産党の党員だ、と明確に推察できる。
 日本共産党の幹部以外に、同党と同じ主張をする、同じ歴史理解をする「学者・研究者」もいる、ということを示すために執筆された、と推定される。
 そしてまた、社会一般、学界一般(ロシア・ソ連史、共産主義史・社会思想史等)に対してというよりも、上のことを日本共産党の一般党員に示すためにこそ、つまり不破哲三・志位和夫の「レーニン理解」に一般党員が(むろん何らかの分野の学者党員を含む)疑問を抱かないようにするためにこそ、執筆され、刊行されたのではないか、と想像される。
 一時期の間、見失っていたが、再発見した。
 リチャード・パイプスの関係時期およぴ「ネップ」関連部分は、すでに試訳を掲載した。
 L・コワコフスキの著にも、数頁の言及はある。
 その他、ネップに関する論及のある欧米文献は(粗密は様々だが)、100までいかないとしても、数十は瞥見している。
 じっくりと、この立派な?松竹伸幸著と比べて、この松竹著を批判的に分析いていきたい。

1518/ネップ期・1921年飢饉③-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・1921年の飢饉③。
 1921年の5月と6月、レーニンは国外から食糧を購入するように命じた。しかしそれは、彼の主な関心である都市住民に対して食を与えるためで、農民に対してではなかった。(186)
 飢饉はレーニンを当惑させたが、それは反対の政治的結果が生じる恐れが潜在的にせよあるかぎりにおいてだった。
 例えば、レーニンは1921年6月、飢えの結果として生じている『危険な状況』について語った。(187)
 そして彼は、すでに我々が見たように、正教教会に対する攻撃を開始する口実として飢餓を利用した。
 1921年7月に、ジェルジンスキーはチェカに、飢饉の被災地帯での反革命の脅威について警告し、苛酷な予防措置を取るように命じた。(188)
 収穫の減少についていかなる示唆をすることも、新聞には禁止された。7月初めにすら、農村地帯では全てがうまくいっているとの報道が続いた。
 ボルシェヴィキ指導者層は、飢饉とのいかなる明らかな連関に言及することも注意深く避けた。
 クレムリンの農民たち代表者であるカリーニンは、被災地域を訪れた唯一の人間だった。(189)
 飢饉が最悪点に達していた8月2日、レーニンは『世界のプロレタリアート』への訴えを発し、素っ気なく、『ロシアの若干の地方で、明らかに1891年の不運よりも僅かにだけ少ない飢餓が生じている』と記述した。(190)
 この時期にレーニンのが書いたものや語ったもののいずれにも、飢餓で死んでいく数百万人の彼の国民に対する同情の言葉は、何一つ見出すことができない。
 実際に、レーニンにとっては飢饉は、政治的には決して歓迎されざるものではなかった、ということが示唆されてきた。
 なぜならば、飢饉は農民たちを弱体化し、その結果として飢饉は『農民反乱のような類を全て一掃した』、そして食糧徴発の廃止によるよりももっと早くにすら村落を『平穏にした』のだから。(191)//
 クレムリンは7月にようやく、誰もが知っていること、国土が悲惨な飢饉に掴まえられていること、を承認しなければならなかった。
 しかし、クレムリンは直接にそうしたのではなく、したくはない告白をして私的な方途を通じた援助を求める口実にすることを選んだのだった。
 確実にレーニンの同意を得て、ゴールキは7月13日に、食糧と医薬品を求めて『敬愛する全ての人々へ』と題する訴えを発した。
 7月21日に政府は、市民団体指導者の要請にもとづいて飢餓救済のための自発的な民間人組織を形成することに同意した。
 全ロシア飢餓救済公共委員会(Vserossiiskii Obshchestvenny Komitet Pomoshchi Golodaiushchim、略称して Pomgol)と呼ばれたそれは、多様な政治組織に属する73人の委員をもち、その中にはマクシム・ゴールキ、パニナ伯爵夫人、ヴェラ・フィグナー、S・N・プロコポヴィッチとその妻、エカテリーナ・クスコワが、著名な農業学者、医師や作家などとともにいた。(192)
 この委員会は、類似の苦境にあった帝制政府を助けるために1891年に設立された飢饉救済特別委員会を、模したものだった。異なっていたのは、レーニンの指令にもとづいて、12人の有力な共産党員から成る『細胞(cell)』があったことだ。
 カーメネフが長として、アレクセイ・リュイコフが次長として働いた。
 このことは、共産主義ロシアで許可された初めての自立組織が、指定された狭い範囲の機能から逸脱しない、ということを確実にした。//
 7月23日、アメリカ合衆国商務長官のハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover〔共和党、のち1929-33年の大統領〕)が、ゴールキの訴えに反応した。
 フーヴァーは、アメリカ救済委員会(ARA)を設立して〔第一次大戦の〕戦後ヨーロッパに食糧と医薬品を供給する仕事に大成功していた。
 彼は確固たる反共産主義者だったが、政治は別に措いて、飢饉からの救済に精力的に没頭した。
 フーヴァーは、二つの条件を提示した。一つは、救済の指揮管理に責任をもつアメリカの組織には、共産党の人員からの干渉を受けることのない独立した活動が認められること。二つは、ソヴィエトの監獄に拘禁されているアメリカ市民を釈放すること。
 アメリカ人救済担当者は治外法権を享有するとのこの主張は、レーニンを激しく怒らせた。彼は、〔共産党中央委員会〕政治局に書いた。
 『アメリカの基点、フーヴァー、そして国際連盟は、珍しくひどい。
 『フーヴァーを懲らしめなければならない。
 <彼の顔を公衆の面前で引っぱたいて、全世界が>見るようにしなければならない。
 同じことは、国際連盟についても言える。』
 レーニンは私的にはフーヴァーを『生意気で嘘つきだ』と、アメリカ人を『欲得づくの傭兵だ』と描写した。(193)
 しかし、彼には実態としては選択の余地はなく、フーヴァーの条件を呑んだ。//
 ゴールキは7月25日、ソヴィエト政府に代わって、フーヴァーの申し出を受諾した。(194)
 ARAは8月21日にリガで、マクシム・リトヴィノフとともに、アメリカの援助に関する協定書に署名した。
 フーヴァーはまず、アメリカ議会からの1860万ドルを寄付し、それに民間人の寄付やソヴィエト政府が金塊を売って実現させた1130万ドルが追加された。
 その活動を終えるときまでに、ARAはロシアの救済のために6160万ドル(あるいは1億2320万金ルーブル)を使い果たした。(*)//
 協定書が結ばれたときに、レーニンは、ポムゴル(Pombgol〔全ロシア飢餓救済公共委員会〕)に関して小文を書いた。
 彼はこの組織を、敵である『帝国主義者』に助けを乞うたという汚名が生じるのを避けるために、仲介機関として利用した。
 この組織はこの目的に役立ったが、今やレーニンの怒りの矢面に立たなければならなかった。
 レーニンは8月26日、スターリンに対して政治局に以下のことを要求するように頼んだ。すなわち、ポムゴルを即時に解散させること、および『仕事に本気でないこと(unwillingness)』を尤もらしい理由としてポムゴルの幹部たちを投獄するか追放すること。
 彼はさらに、二ヶ月の間、一週間に少なくとも一度、その幹部たちを『百の方法で』、『嘲笑し』かつ『いじめて悩ませる』ように新聞に対して指示するように、命じた。(195)
 レーニンが要請して開催された政治局会議で、トロツキーはこれを支持して、ARAと交渉している間、アメリカ人は一度もこの委員会〔ポムゴル〕に言及しなかった、と指摘した。(196)
 その次の日、先陣のARA一行がロシアに到着し、ポムゴルの委員たちと一緒にカーメネフと会ったとき、ポムゴル全幹部の二人以外はチェカに拘束されて、ルビャンカに投獄された(ゴールキはあらかじめ警告されていたらしく、出席しなかった)。(197)
 彼らはそのあと、あらゆる形態の反革命の咎で新聞によって追及された。
 処刑されると広く予想されていたが、ナンセンが仲裁して、彼らを救った。
 彼らが監獄から釈放されたのち、何人かは国内に流刑となり、別の者は国外に追放された。(198)
 ポムゴルは、解体される前にもう一年の間、政府の一委員会として生き長らえた。(199)//
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  (186) レーニン, PSS, LII, p.184-5, p.290, p.441-2; LIII, p.105。
  (187) 同上, XLIII, p.350。
  (188) G. A. Belov, et al., ed, <略> (1958), p.443-4。
  (189) ペシブリッジ, 一歩後退, p.117。
  (190) レーニン, PSS, XLIV, p.75。
  (191) ペシブリッジ, 一歩後退, p.119。
  (192) イズベスチア, No. 159-1302 (1922年7月22日), p.2。エレ, in : 雑誌・ノート, XX, No. 2 (1979), p.131-172。フィッシャー, 飢饉, p.51。
  (193) レーニン, PSS, LIII, p.110-1, p.115。
  (194) フィッシャー, 飢饉, p.52-53。
  (*) H・H・フィッシャー, ソヴェト・ロシアの飢饉 (1927), p.553。
 ソヴィエトの金売却の収益は、もっぱら都市住民の食糧を購入するために使われたように思われる。
 外国人が飢饉のロシアへの食糧供給を助けたという最も古い事例は、1231-32年のノヴゴルード(Novgorod)であった。そのとき、飢餓のために人口が減っていた地域の人々を救ったのは、ドイツからの船便輸送による食糧だった。Novyi Entsikopedicheskii Slovar', XIV , 40-41。
  (195) レーニン, PSS, LIII (1965), p.141-2 で、初めて公表された。
  (196) B・M・ヴァイスマン, ハーバート・フーヴァーとソヴェト・ロシアの飢饉救済 (1974), p.76。
  (197) ミシェル・エレ, Pomoshch 入門 (1991), p.2。
  (198) ウンシュリフトのレーニンあて報告(1921年11月21日), in : RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1023。
  (199) ミシェル・エレ, in :雑誌・ノート, XX, No. 2 (1979), p.152-3。イズベスチア, No. 206/1645(1922年9月14日), p.4。
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 ④につづく。

1516/ネップ期・1921年飢饉②-R・パイプス別著8章10節。

 前回のつづき。
 1921年(大正10年)とは、その3月の第10回党大会で食糧徴発制から現物「税」制への変更が決定され(のちに言う「ネップ」=新経済政策の開始)、10月にはレーニンが「革命」4周年記念演説を行い、同10月末には、日本共産党・不破哲三らが<市場経済から社会主義へ>の途への基本方針を確立したと最重要視しているモスクワ県党会議でのレーニン報告があった、という年でもある。
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 第10節・1921年の飢饉②。
 1921年の春、干魃に見舞われた地方の農民たちは、草葉や樹皮やねずみ類を食べるという手段をとるべく追い込まれた。
 飢えは続き、政府による救援は見込まれない中で、起業精神のあるタタール人たちは、一ポンドあたり500ルーブルという値をつけて、『食用の粘土』と宣伝する物体を被災地域の市場に売りに出した。
 夏の初めに、空腹で狂いそうになった農民たちは、自分の村落を離れて、徒歩でまたは荷車で、最も近い鉄道駅へと向かった。食糧があると噂されている地域へと〔列車で〕進めるという望みを持ちながら。最初はウクライナへ、のちにはトルキスタンへ、だった。
 しばらくして、哀れな数百万の人々が、鉄道駅に密集した。
 モスクワ〔=政府=共産党〕は1921年7月までは大災害は起こっていないと頑なに主張していたので、彼ら農民は、列車運送を拒否された。
 彼らは鉄道駅で、『決して来ない列車を、あるいは避けられない死を』待った。
 以下は、シンビルスク鉄道駅が1921年夏にどのようだったかを述べている。//
 『汚いぼろ服の一団の民衆を、想像しなさい。その一団の中には、傾けた裸の腕があちこちに見える。顔には、すでに死斑が捺されているようだ。
 とりわけ、ひどく厭な臭いに気づく。通り過ぎることはできない。
 待合室、廊下、一歩進むたびに人々が覆ってくる。彼らは、身体を広げたり、座ったり、想像できるあらゆる姿でうずくまっている。
 近づいて見れば、彼らの汚れたぼろ服にはしらみ〔虱〕が充満しているのが分かる。
 チフスに冒された人々が、彼らの赤ん坊と一緒にいて、這い回り、熱で震えている。
 育てている赤ん坊たちは、声を失なった。もう泣くことができない。
 20人以上が毎日死んで、運び去られる。しかし、全ての死者を移動させることはできない。
 ときには、生きている者の間に、死体が5日間以上も残っている。//
 一人の女性が、幼児を膝の上に乗せてあやしている。
 その子どもは、食べ物を求めて泣いている。
 その母親は、しばらくの間、腕で幼児を持ち上げる。
 そのとき、彼女は突然に子どもをぶつ。
 子どもは、また泣き叫ぶ。これで、母親は狂ったように思える。
 彼女は、顔を激しい怒りに変えて、猛烈に子どもを叩き始める。
 拳で小さな顔を、頭を雨のごとく打ち続けて、最後に、幼児を床の上に放り投げ、自分の足で蹴る。
 戦慄の囁き声が、彼女の周囲でまき起こる。
 子どもは床から持ち上げられ、母親には悪態の言葉が浴びせられる。
 母親が猛烈な興奮状態から醒めてわれに戻ったとき、彼女の周りは、全くの無関心だ。
 母親はその視線を固定させる。しかし、きっと何も見えていない。』(179)//
 サマンサからの目撃者は、つぎのように書いた。
 『災害の恐ろしさを数行で叙述しようとするのは、無益だ。それを表現できる言葉を、誰も見つけられないだろう。
 彼ら骸骨の如き人間たち、骸骨のごとき子どもたちを、自分自身の目で見なければならない。
 子どもたちは病的に青白い、しばしば腫れ上がった顔をしていて、眼は空腹を訴えて燃えさかっている。
 彼らが恐れ慄いて、『Kusochek』(もう一欠片だけ)と死にゆきながら囁くのを、自分で聞かなければならない。』(180)//
 飢えで狂った者たちは、殺人を犯し、隣人をまたは自分たち自身を食べた。こうしたことについて、多数の報告があった。
 ノルウェイの社会奉仕家でこの当時にロシアを訪れていたフリートヨフ・ナンセンは、『恐るべき程度にまで』蔓延した現象として、人肉食(cannibalism)について語った。(181)
 ハルコフ大学の一教授は、これら諸報告の検討を請け負って、26事例の人肉食を事実だと承認した。
 『七つの事例で、…殺人が犯されており、死体が金儲けのために売られた。…ソーセイジ(sausage)の中に偽って隠されて、公開の市場に置かれた。』(182)
 死体嗜好症(necrophasia〔死姦〕)-死体の利用し尽くし-もまた発生した。//
 被災地帯を訪れた人たちは、村から村へと過ぎても、人の生命の兆候に気づかなかった。住民たちは逃げているか、移動するだけの身体の強さがなくて小家屋の中で横たわっていた。
 都市では、死体が路上に散乱していた。
 それらは拾い上げられ、荷車に乗せられ-しばしば裸に剥かれたあとで-、墓標のない民衆用墓地の穴へとぞんざいに投げ込まれた。//
 飢饉のあとには、伝染病が続いた。それは、空腹で弱くなった肉体を破壊した。
 主な死因はチフスだったが、数十万人が、コレラ、腸チフス熱、天然痘の犠牲にもなった。//
 ボルシェヴィキ体制の飢饉に対する態度を、30年前に同様の悲劇に直面した帝制政府のそれと比較してみることは、教育上も有益だ。かつて、およそ1250万人の農民が飢えに苦しんだ。(183)
 この当時におよびそれ以降に急進主義者やリベラルたちは、帝制政府は何もしなかった、救援は私的な団体によってなされた、という虚偽の情報宣伝をまき散らし、繰り返してきた。
 しかし、これとは反対に、記録は、帝制時代の国家機関は速やかにかつ効果的に動いたことを示している。
 それらは、食糧の供給を準備し、1100万人の被災者に引き渡し、地方政府に対して寛大な緊急的援助を与えた。
 その結果として、1891-92年飢饉に帰因する死者数は、37万5000人から40万人と推計されている。-これは、衝撃的な数字だ。
 しかし、この数字は、ボルシェヴィキ〔政府〕のもとで飢餓に苦しんだ人々の数の、13分の1にすぎない。(184)//
 クレムリン〔共産党政府〕は、急性麻痺に陥ったかのごとく、飢饉の広がりを眺めた。
 農村地方からの諸報告は災害が発生しそうだと警告していたけれども、またそれが起こった後ではその蔓延を警告していたけれども、クレムリンは何もしなかった。
 なぜならば、〔第一に〕『富農』、『白軍』または『帝国主義者』のいずれの責任にもすることのできない、国家的な大惨事の発生を承認することができなかったからだ。
 第二に、明確な解決策を、何も持っていなかった。
 『ソヴェト政府は初めて、その権力に訴えては解決することができない問題に直面した。』(185)
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  (179) フィッシャー, 飢饉, p.90、から引用。
  (180) 革命ロシア(RevR), No. 14/15 (1921年11-12月), p.15。
  (181) フィッシャー, 飢饉, p.300。
  (182) 同上, p.436n。
  (183) リチャード・G・ロビンス, Jr., ロシアの飢饉: 1891-1892 (1975)。
  (184) 同上, p.171。
  (185) ミシェル・エレ(Michel Heller), in :雑誌・ノート〔cahier〕 XX, No.2 (1979), p.137〔仏語〕。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。③につづく。

1515/ネップ期・1921年飢饉①-R・パイプス別著8章10節。


 つぎの第10節にすすむ。第10節は、p.410~p.419。
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 第10節・1921年の飢饉①。
 ロシアは、その歴史を通して定期的に、厳しい収穫不足を経験してきた。革命のすぐ前の年には、1891~2年、1906年および1911年に、それがあった。
 農村共同体(muzhik)は長い体験を通じて、一年のまたは二回の不作にすら耐え抜けるように、充分な予備を蓄えて自然災害に対処することを学んだ。
 不作はふつうは、飢餓というよりも空腹を意味した。間欠的に飢饉が蔓延することはあったけれども。
 飢饉(famine)は、三年にわたって冷酷にも農作を秩序立って破壊し、ボルシェヴィキは、数百万の人々が死亡する飢饉について熟知することになった。(*)//
 飢饉の前には、1920年に初めて感知された干魃があった。
 ウクライナと北コーカサスはソヴェト支配を逃れていて、何とか予備穀物を大量に集めていた。これらの〔ボルシェヴィキによる〕再征服があったために、災害から一時的に目を逸らすことになった。
 1921年に政府が新しい現物税制度のもとで獲得した食糧の半分は、ウクライナから来ていた。(171)
 しかし、食糧集積機構は1920年にはウクライナとシベリアでまだ完全には設けられていなかったので、徴収の重い負担が依然として、消耗した中央部地方にのしかかった。(172)//
 1921年飢饉を引き起こした天候の要因は、1891-92年のそれに似ていた。
 1920年の降水は、異常に少なかった。
 冬には雪がほとんど降らず、降ってもすぐに融けてしまった。
 1921年春に、ヴォルガ地域の収穫は少なかったが、決定的に悪くはなかった。
 そして、灼熱の暑さと干魃がやってきて、草葉が焼かれ、土地にひび割れが入った。
 巨大な範囲の黒土の一帯は、砂塵の鉢に変わった。(173)
 昆虫〔いなご〕は、残った草木類のほとんどを食べた。//
 しかし、悲劇に対して、自然災害は寄与したにすぎない。それは、原因ではなかった。
 1921年の飢饉は、『< Neurozhai, ot Boga; golod, ot liudiei >、不作は神の思し召し、空腹は人間が原因』という農民たちの諺の正しさを確認した。
 干魃は、大災難を促進した。そしてそれは、遅かれ早かれボルシェヴィキの農業政策の結果として必然的に起こったものだった。
 この主題を研究した一学生は、政治的および経済的要因がなかったとすれば、干魃は大きな意味をもたなかっただろうと述べる。(174)
 ほとんど余剰などではなく、農民たちの生存に不可欠だった穀物の『余剰』を容赦なく収奪したことは、大厄災を確実なものにした。
 供給人民委員〔ほぼ供給大臣〕の言葉によると、1920年までは、農民たちは自分たちが食べ、種子を残すにぎりぎり十分な程度を収穫していた。
 もはや生存のための余裕は残っていなかった。かつては穀物現物の蓄えが、悪天候に対して農民たちを柔らかく守ってくれた。それが、なかった。//
 1921年の干魃は、ほぼ間違いなく、食糧生産地帯の半分を襲った。この地帯のうちの20%は、収穫が全くなかった。
 飢饉を被った地域の人口は1922年3月で、ロシアで2600万人、ウクライナで750万人、併せて3350万人だった。子どもたち700万人以上を含む。
 アメリカの専門家は、被害者のうち1000万人から1500万人は死亡するか、死ぬまで残る後遺症を肉体に受けた、と推算した。(**)
 最も悲惨だったのは、ふつうの年だと穀物類の主要な供給地であるヴォルガの黒い土の地帯だった。
 カザン、ウファ、オレンブルク、サマラの各地域は、1921年の収穫高は一人あたり5.5 Pud より少なかった。-これは、種子用に何も残さないとして、農民たちの生存に必要な量の半分だった。(+)
 ドンの低地一帯や南部ウクライナも、悲惨だった。
 国土の残りの地方のほとんどで、収穫高は5.5~11 pud で、地方の民衆人口が食べるのにぎりぎりだった。(175)
 ヨーロッパおよびアジアのロシアの、飢饉に遭った二十の食糧生産地方での生産高は、革命以前には毎年に穀物類2000万トンだったが、1920年には845万トンに減り、1921年には290万トンに減った。つまり、〔革命前に比べて〕85%も低くなった。(176)
 比較してみると、帝制時代に天候条件によって最悪の不作となった1892年には、収穫高は平年よりも13%低かった。(177)
 この違いは、大部分について、ボルシェヴィキの農業政策に起因しているはずだ。//
 大厄災がどの程度に人為的行為によっているかを、さらに、伝統的に最大の収穫高をもつ地帯で最小のそれになったという数字によっても、強く主張することができる。
 例えば、ヴォルガのゲルマン自治共和国はふつうは繁栄した緑地だが、最悪地域の一つになり、その人口の20%以上を失った。
 ここでは、1920-21年に、全穀物類収穫物の41.9%が、〔国家によって〕徴収された。(178)// 
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  (*) なぜソヴィエトの歴史家がこの主題に注意を向けることができなかったのかは、理解し難い。なぜ西側の学者がこれを無視してしまったのかは、もっとありそうでない。
 例えば、E・H・カーは、その三巻の<ロシア革命の歴史>で、この最も秘儀的な情報に関する叙述部分を残してはいるが、死者の推定数は信頼できないという尤もらしい理由で、大災害を一段落(a single paragraph)でもって簡単に片付けている(<ボルシェヴィキ革命>, Ⅱ, p.285)。
 同様の理由づけは、ネオ・ナチの歴史家により、ホロコーストを無視する根拠として使われてきた。
 これを〔私が〕執筆する時点では、1921年飢饉に関する研究書は一つも存在していない。
  (171) レーニン, PSS, XLIV, p.667.; LIII, p.391。
  (172) 同上, XLIII, p.13-14。
  (173) 革命的ロシア(RevR), No. 14/15 (1921), p.14-15。
  (174) L・ハチンソン, in : F. A. Golder =Lincoln Hutchinson, ロシア飢饉の推移について (1927), p.50。
  (**) イズベスチア, No. 60-1499 (1922年3月15日), p.2。ハチンソン, in : Golder =Hutchinson, 推移について, p.17。少し異なる数字は、次に示されている。Pomgol, Itogi bor'dy s golodom v 1921-22 gg (1922), p.460。子どもたちの数字は、次による。ロジャー・ペシブリッジ, 一歩後退二歩前進 (1990), p.105。
  (+) 地域ごとに数字はいくぶん変わるけれども、農民は毎年、生存維持の穀物として最低でも10 pud (163 kg)を必要とし、種子として残すために追加して2.5~5 pud (40-80 kg)が必要だった。RevR, No. 14/15 (1921), p.13。
 L・カーメネフは、1914年以前のロシアで、一人当たりの平均穀物消費は一年で16.5 pud (種子穀類を含む)だったと見積もっていた。RTsThIDNI, F. 5, op. 2, delo 9, list 2。
  (175) H・H・フィッシャー, ソヴェト・ロシアの飢饉 (1927), p.50。
  (176) ジーン・M・インゲルソル, 生態学的災害の歴史的諸例 (1965), p.20。
  (177) V. I. Pokrovskii, in : <略> (1897), p.202。
  (178) V. E. Den, <略> (1924), 209。ファイジズ, 農民ロシア, p.272。
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 ②へとつづく。

1513/ネップ期の「文化」-R・パイプス別著8章9節。

 つぎの第9節にすすむ。
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 第9節・ネップ下の文化生活。〔p.409~p.410.〕
 ネップのもとでのロシアの文化的生活は、表面的には、体制の初期にあった比較的に多様な姿を示し続けた。
 しかし、スターリン時代の愚かしい画一性へと進む途を歩んでいた。
 教理(doctrin)がいったん決定されると、文化(culture)は党に奉仕すべきものとされ、文化の役割は、共産主義社会を創出するのを助けることだとされた。
 また、出版や演劇に対する検閲や国家独占を通じて教理を実施する装置がいったん作り出されると、文化が政治の召使いになるのは時間の問題にすぎなかった。//
 意外なことだが、このような画一性への圧力は下から生じた。
 党の指導部は、むつかしい選択に直面した。
 彼らは文化を自分たちに奉仕させたかったが、同時に、銃砲や農機具の場合とは違って、芸術や文学は命令どおりには決して産出されえない性質のものだと知っていた。
 彼らはしたがって、妥協をした。すなわち、明確に反共産主義的なものは弾圧したが、〔共産主義との〕同伴者(fellow-travelers)的なものは大目に見た。
 トロツキーは、これについてつぎのように述べた。//
 『党が直接的かつ命令的に指導する領域がある。
 統御し、協働する別の領域もある。
 そして最後に、それに関する情報だけを確保し続ける領域がある。
 芸術は、党が命令を要請されない分野だ。…。しかし、党は、政治的な規準を用いて、有害で破壊的な芸術の諸傾向はきっぱりと否認しなければならない。』(161)//
 このような考え方は、実際には、国家機関が芸術や文学に介入はしないで監視し続けることを意味した。
 報道活動(ジャーナリズム)については、国家が介入する。
 高等教育については、国家が命令する。(162)
 そして実際に、製造業や取引での私的な主導性を許容するネップのもとで、体制側は文化に関しては、本来の厳格さをほとんど主張できなかった。(163)
 レーニンやブハーリンも、このような考え方を共有していた。//
 非共産主義文化に対するこのような寛容さは、自己流の『プロレタリア』作家からの烈しい攻撃に遭うことになった。(164)
 その名前すら忘れられている侵襲者たちには、自分たちの読者がなかった。国家出版局の長官によれば、『たった一人のプロレタリア作家への注文も』受けなかった。(165)
 彼らの残存は、国家の後援に、できれば独占的な性質のそれに、完全に依存していた。
 その後援を獲得するために彼らは、共産主義の旗に身を包んで、政治的に中立な文学を反革命的だと攻撃し、全ての文化が党の要求に奉仕すべきだと主張した。(166)
 彼らは、『文化の最前線』を自認する、教育を充分に受けていない党員たちの支持を獲得した。
 彼ら善良な党員たちは、創造的な知識人たちが、かつやつらだけが、党の統制から免れるという議論には我慢できなかった。(167)
 同伴者たちに寛容な有力な指導者だったトロツキーが1924年早くに不名誉なまま脱落したことは、彼らの教条的考え方の助けになった。//
 紛議を通じて、党は一定の見解を明確にしなければならないことになった。
 党は、いくぶん両義的なやり方で、これを行なった。1924年5月の第13回党大会は、つぎのように決議した。すなわち、いずれの文学上の派や『傾向』も、党の名をもって語る権利を有しないが、何らかの『文学上の批判の問題を調整する』ことがなされるべきである、と。(168)//
 これは、非政治的な文学のことが党大会決定の主題になった初めてのことだった。
 また、公式には文学の異なる『傾向、部門、集団』の間での中立を維持した最後のことだった。この中立性は、党の光を文学作品に当てて検査することとほとんど両立できなくなることが、いずれかのうちに分かってきた。(169)
 自然科学ですら、もはやイデオロギーによる検査や非難を免れなかった。
 共産党の出版物は、1922年までには、アインシュタイン(Einstein)や他の『理想主義的な』科学者を攻撃し始めた。(170)//
 
  (161) L・トロツキー, 文学と革命 (1924), p.165。
  (162) ペシブリッジ, 一歩後退, p.223。
  (163) E・H・カー, 一国社会主義, 1924-1926, Ⅱ (1960), p.78。
  (164) この論争について、同上, Ⅱ, p.76-78。
  (165) 1924年5月9日のN. Meshcherriakov, in : 〔略〕, p.120。
  (166) プラウダ, 第40号(1924年2月19日), p.6。
  (167) クリストファ・リード, 革命ロシアの文化と権力 (1990), p.203。
  (168) Trinadtsatyi S" ezd ロシア共産党(ボ) ,〔略〕(1963), p.653-4。
  (169) カー, 一国社会主義, Ⅱ, p.82-83。
  (170) ペシブリッジ, 一歩後退, p.213。
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 第9節、終わり。

1509/ネップ期の「見せしめ」裁判③-R・パイプス別著8章8節。

 前回のつづき。
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 第8節・エスエル「裁判」③。
 モスクワの聖職者たちに対する手続の結論が出て1月後、そして同様の訴訟がペテログラードの聖職者たちに開始される4日前、1922年6月6日に、裁判は開廷された。
 起訴状は、被告人たちを一般には反逆とテロルの行為とともにソヴェト国家に対する武装闘争をしたとして追及した。個別には、1918年8月のファニー・カプランによるレーニン暗殺企図とタンボフ反乱のいずれも組織したというのが起訴理由だった。
 かつてモスクワのクラブ・貴族だった舞踏場で行なわれた裁判を見るためには、ほとんど信頼できる党活動家にのみ発行された入場券が必要だった。
 観衆たちは政治劇が上演されているふうに行動し、訴追に拍手を浴びせ、被告人やその弁護人たちをやじった。
 外国人弁護団は最初に、つぎのような、いくつかの手続の特徴に抗議した。すなわち、裁判官全員が共産党員であること、弁護のための多くの目撃証人が証言を妨害されていること、法廷への入場が数名の被告人の友人以外には認められていないこと。
 裁判官は、あれこれの抗議を、ソヴェト法廷は『ブルジョア』的規則を遵守する義務はないという理由で、却下した。 
 裁判の八日め、死刑判決は下されないだろうというその約言をラデックが撤回したあとで、また、速記者をつける権利を含むその他の要求が却下されたあとで、4人の外国人弁護士が、『司法の下手な模造劇(parody)』への参加をやめると発表した。
 そのうちの一人はあとで、この裁判について『人間の生命をまるで雑貨物であるかのごとく取り扱っている』、と書いた。(152)//
 二週間後、手続はもっと醜悪な変化すら見せた。
 6月20日に、政府機関はモスクワの赤の広場で、大量の示威行進を組織した。
 群衆の真ん中で、主席裁判官が検察官と並んで行進した。群衆は、被告人たちへの死刑判決を要求した。
 ブハーリンは、群衆に熱弁を奮った。
 被告人はバルコニーの上に姿を見せて、罵声を浴びて、大群衆の脅かしに晒されることを強いられた。
 のちに、選ばれた『代表団』は法廷へと招き入れられて、『殺人者に死を!』と叫んだ。
 この嘲笑裁判で卑劣な役を演じたブハーリンは、リンチするかのごとき代表群団を『労働者の声』を明確に表現したものとして誉め称えた。このような嘲笑裁判は、16年のちに、もっと捏造された咎でブハーリン自身を非難して死刑を言い渡した裁判と、ほとんど異ならなかった。
 ソヴィエト映画界の有名人、ジガ・ヴェルトフが指揮したカメラは、このできごとを撮影した。(153)//
 エスエルたちは、公正な聴問に似たものを何も受けられなかったけれども、共産主義体制に関して遠慮なく批判する機会を得た-これが、ソヴィエトの政治裁判で可能だった最後ということになった。
 メンシェヴィキが被告人席に立つ順番になった1931年には、証言は注意深くあらかじめ練習させられ、文章の基本は検察側によってあらかじめ準備された。(154)//
 レーニンが予期されることを広汎に示唆していたので、8月7日に宣告された評決は、驚きではなかった。
 1922年3月の第11回党大会で、エスエルとメンシェヴィキの考え方を馬鹿にし、レーニンは、『これのゆえに、きみたちを壁に押しつけるのを許せ』と語った。(155)
 ウォルター・デュランティ(Walter Duranty)は、7月23日付の<ニューヨーク・タイムズ>で、訴訟は告発が『真実』であることを示した、被告人の大多数に対する非難は『確か』だった、『死刑判決のいくつかは執行されるだろう』、と報告した。(156)
 被告人たちは、刑法典第57条乃至第60条のもとで判決を受けた。
 そのうち14人は、死刑だった。しかし、検察側と協力した3人は、恩赦をうけた。(*)
 国家側の証人に転じた被告人たちもまた、赦免された。
 第一のグループの者たちは、いっさい自認しなかった。彼らは、裁判官が評決を読み始めたときに起立するのを拒否し、そのために(デュランティの言葉によると)『自分たちの告別式場から』追い出された。(157)//
 ベルリンでのラデックの早まった約言は裁判所に法的に有効でないとされ、恩赦を求めて正規に懇請するのをエスエルたちは拒んだけれども、裁判官たちは、処刑執行の延期を発表した。
 この驚くべき温情は、暗殺に対するレーニンの過敏な恐怖によっていた。
 トロツキーは、その回想録の中で、レーニンに対して訴訟手続を死刑へとは進めないようにと警告し、そうしないで妥協すべきだと示唆した、と書いている。
 『審判所による死刑判決は、避けられない!。
 しかし、それを執行してしまうことは、不可避的にテロルという報復へと波及することを意味する。…
 判決を執行するか否かを、この党〔エスエル〕がなおテロル闘争を続けるかどうかによって決するしか、選択の余地はない。
 換言すれば、この党〔エスエル〕の指導者たちを、人質として確保しなければならない。』(158)//
 トロツキーの賢い頭はこうして、新しい法的な機軸を生み出すに至った。
 まず、冒していない犯罪、かつまた嫌疑はかけられても決して法的には犯罪だと言えない行為について、一団の者たちに死刑の判決を下す。
 つぎに、別の者が将来に冒す可能性がある犯罪に対する人質として、彼らの生命を確保する。
 トロツキーによれば、レーニンは提案を『即座に、かつ安心して』受諾した。//
 裁判官たちは、つぎのことがあれば、死刑判決を受けた11名は死刑執行がされないと発表するように命じられていた。すなわち、『ソヴェト政府に対する、全ての地下のかつ陰謀的なテロル、諜報および反逆の行為を、社会主義革命党〔エスエル〕が現実に止める』こと。(159)
 死刑判決は、1924年1月に、五年の有期拘禁刑へと減刑された。
 このことを収監されている者たちは、死刑執行を待ってルビャンカ〔チェカ/ゲペウおよび監獄所在地〕で一年半を過ごしたのちに、初めて知った。//
 彼らはしかし、結局は処刑された。
 1930年代および1940年代、ソヴェト指導部〔スターリンら〕に対するテロルの危険性はもはや残っていなかったときに、エスエルたちは、計画的にすっかり殺害された。
 ただ二人だけの社会主義革命党活動家が、いずれも女性だったが、スターリン体制を生き延びた、と伝えられる。(160) 
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  (152) ヤンセン, 見せ物裁判, p.66。
  (153) ロジャー・ペシブリッジ(Roger Pethybridge), 一歩後退二歩前進 (1990), p.206。
  (154) メンシェヴィキ反革命組織裁判〔?、露語〕(1933)。
  (155) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.90。
  (156) NYT, 1922年7月27日付, p.19。
  (*) ブハーリンは、G・セーメノフに対しては温情判決を要請した。NYT, 1922年8月6日付, p.16。16年後のブハーリンに対する見せ物裁判では、ソヴェト指導層〔スターリンら〕に対するテロル企図でブハーリンを有罪にするために、セーメノフの名前が呼び起こされることになる。マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見せ物裁判 (1982), p.183。
 セーメノフは、ブハーリンとともに、スターリンの粛清によって死んだ。
  (157) 同上(NYT), 1922年8月10日付, p.40。
  (158) L・トロツキー, わが生涯, Ⅱ (1930), p.211-2。L・A・フォティエワ, レーニンの想い出 (1967), p.183-4 を参照。
  (159) NYT〔ニューヨーク・タイムズ〕, 1922年8月10日付, p.4。
  (160) ヤンセン, 見せ物裁判, p.178。 
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 第8節、終わり。

1507/ネップ期の「見せしめ」裁判②-R・パイプス別著8章8節。

 前回のつづき。
 田中充子・プラハを歩く(岩波新書、2001)p.210-2は、「まだレーニンが生きていたから」、ソ連に「いろいろな近代建築が生まれた」、「西欧的な教養を身につけたレーニンが死に」、「スターリンが独裁体制を敷いて自由主義的な風潮にストップをかけ」た、と何の根拠も示さずに書いていた〔2016年9/19、№1387参照〕。
 レーニンと「自由主義的な風潮」という、このような<像>を、田中充子はどこから仕入れたのか?
 田中充子の所属は、京都精華大学。この大学にかつて上野千鶴子も勤めていたことがあるので、わずか二人だけながら、この(おそらく)小規模の大学に好印象を持てなくてもやむをえないような気がする。
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 第8節・エスエル「裁判」②。〔第8節は、p.403-p.409.〕
 『右翼エスエル』と言われる党の指導者たちの裁判について、2月28日に発表があった。ソヴェト政府に反抗する暴力的かつ軍事的な活動を含む反革命行動を理由として、最高革命審判所による裁判にかけられる。(148)
 この発表は、社会主義革命党の多くの友人がいる西側の社会主義諸団体を動揺させた。
 後述するように(p.422)、偶々この頃、モスクワはヨーロッパの社会主義者との『統合前線』に関心をもっていた。
 ラデックは、彼ら社会主義者を宥めるために、1922年4月のベルリンでの社会主義者とコミンテルンとの合同会議で、被疑者は自由に弁護団を選べるし、重い刑罰が適用されることはないだろう、と述べた。
 レーニンはこの譲歩に対して烈しく怒り(『われわれは多く払いすぎた』は、この問題を書いた記事の見出しだった)、死刑にはならないだろうとの約束を破った。
 しかし彼は、その義務を果たすことはできないことを確実にしたうえで、エスエル被告人に外国人弁護団をつけることを許した。//
 登場人物の配役は、慎重に選ばれた。
 34人いた被疑者は、二つのグループに分けられた。
 24人は、真の悪玉だった。その中には、アブラハム・ゴッツやドミトリー・ドンスコイが率いたエスエル中央委員会の12名の委員がいた。
 第二のグループは、小物たちだった。その役割は、検察官に証拠を提出し、告白し、彼らの『犯罪』について後悔することだった。その代わりに、無罪放免というご褒美が与えられることになっていた。
 上演物の目的は、一群のエスエルの党員たちに対して、その党との関係を断ち切るように説得することだった。(149)//
 主任検察官の役は、ニコライ・クリュイレンコが指名された。この人物は、民衆を感銘させる手段として無実の者を処刑するのを好んだと記録されている。(150)
 エスエル裁判は彼に、1930年代のスターリンの見世物裁判で検察官を務めるための経験を与えたことになる。
 クリュイレンコは、ルナチャルスキーおよび歴史家のM・ポクロフスキーに補助された。
 裁判長は、共産党中央委員会の一員であるグリゴリー・ピャタコフだった。
 被告人は三チームの法律家たちによって弁護されたが、そのうち一つは外国から来た4人の社会主義者だった。その代表者、ベルギーのエミール・ヴァンダヴェルデは、第二イナターナショナル〔社会主義インター〕の事務局長で、ベルギーの前司法大臣だった。
 モスクワへの鉄道旅行中、外国人弁護士たちは敵意をもって取り扱われ、たまには集まった群衆の示威行為で脅かされた。
 モスクワでは、『労働者階級に対する裏切り者をやっつけろ!』と叫ぶ組織された大群衆に迎えられた。
 ジェルジンスキーは、爪にマニキュアを施して縁飾りのある靴を履くヴァンダヴェルデの習慣を公表して、彼の評価を落とす定期的な『運動〔キャンペーン〕』を開始するように、チェカの一員に指示した。(151)
 弁護団のもう一つのチームは、上演物の演出家によって任命された。その中には、ブハーリンとミハイル・トムスキーがおり、二人とも〔共産党中央委員会〕政治局のメンバーだった。
 この二人の役割は、味方である被告人の『道徳上の名誉回復』のために弁論することだった。//
 三ヶ月以上続いた予備審問の間に、クリュイレンコは多くの目撃証人を寄せ集めた。
 証人たちは、肉体的苦痛は与えられなかったが、さまざまな方法で協力するように、圧力が加えられた。
 エスエルの中央委員会メンバーたちは、従うのを拒否した。
 彼らの意図は、政府攻撃の公共空間として裁判を利用して、1870年代の政治犯たちを見習うことだった。
 手続の間じゅうずっと、彼らは、印象深い威厳をもって振る舞った。
 エスエルたちはつねに、知恵よりも強い勇気を示した。//
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  (148) レーニン, Sochineniia, XXVII, p. 537-8。
  (149) ヤンセン, 見せ物裁判, p.29。
  (150) リチャード・パイプス, ロシア革命 (1990), p.822〔第二部第17章「『赤色テロル』の公式開始」〕。
  (151) RTsKhIDNI 〔近現代史資料維持研究ロシアセンター(モスクワ)〕, F. 76, op. 3, delo 252。 ---
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 ③につづく。

1506/日本共産党の大ペテン・大ウソ34-<ネップ>期考察01。

○ 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)p.173-4はこう書く。
 レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。
 レーニンが「共産主義」への「直接移行」と観念していたことはそのとおりだろうが、しかし、「勘違いして位置づけ」た、という表現の中に、日本共産党(幹部会)委員長・志位和夫の人間的な感情は、認められない。
 この「勘違い」によって、のちに1921年秋にレーニン自身が「生の現実はわれわれが過っていたこと(mistake, Fehler)を示した」と明言した<失敗>によって、いかほどの人間が犠牲になったのか。
 ○ 志位和夫は<戦時共産主義>という言葉を使い、多くの歴史書もこの概念を使っている。
 おそらくは、スターリン時代におけるソ連・ロシアの公式的歴史叙述によって、レーニン時代をおおよそこの<戦時共産主義>時代と<ネップ=新経済政策>時代に分けるということが定着して、そのまま現在にまで続いているようにも思われる。
 最近にほんの少し触れたように、<戦時共産主義>という語は、志位が「この戦時の非常措置」と書いているように、<戦時>のやむをえない措置だったかのように誤解させる。
 また、<戦時>とはまるで第一次大戦とその後の勝利諸国による対ロシア<干渉戦争>を意味するかのように誤解されうる。
 日本共産党は、そのように理解したい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。
 しかし、ロシアが第一次大戦から離脱したのは1918年3月の「中央諸国(ドイツ等)」との間のブレスト・リトフスク条約によってだ。また、1918年~1919年に戦闘終結とベルサイユ講和条約締結があった。
 そこで、日本共産党によると、英仏らによる<干渉戦争>と闘った、と言いたい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。しかし、大戦終結と英仏らの対ドイツ等との講和まで、およびその後のほんの数年間、英仏らが新生?ロシアと「戦争」をすべき理由がいかほどあっただろうか。
 たしかに、ボルシェヴィキ「赤軍」に対する「白軍」への物的・資金的援助はあったのだろう。だが、今のところの知識によれば、戦争といっても、対ロシアについては、英国軍が北方のムルマンスクまで来たということと、日本がいわゆる<シベリア出兵>をしたといった程度で、いかほどに<干渉戦争>という「戦争」に値する戦闘があったのかは疑わしい。日本軍は地方軍または「独立共和国」軍と戦闘したのだろうが、モスクワ・中央政府とその軍にとっては「極東」の遠いことだったのではないかとの印象がある(それよりも<東部>での農民反乱等の方に緊迫感があったのではないか)。
 誰もが一致しているだろうように、<戦時共産主義>とは、ロシアの「内戦」という「戦時」のことをさしあたりは意味している。「内戦」とは civil war, Buergerkrieg で(直訳すると「市民(・国民)戦争」で)、まさに「戦争」の一種なのだ。ボルシェヴィキの政府と軍は、国民・民衆と戦争をしていた。
 しかしさらに、<内戦>中の「非常措置」(志位和夫)という理解の仕方すら、相当に政治的な色彩を帯びている、と考えられる。
 後掲のL・コワコフスキの1970年代の書物も、<戦時共産主義>という語はmislead する(誤解を招く、誤導する)ものだと述べている。
 ○ 既述のように、秋月の今のところの理解では、10月「革命」後のレーニン・共産党(ボルシェヴィキ)の経済政策は、マルクスの文献に従った、かつレーニンがそれに依って具体的に1917年半ばに『国家と革命』で教条化した<共産主義>そのものだった。当時の「非常措置」だったのではない。
 そうして、レーニン・共産党による<ネップ>導入は、じつはマルクス主義又は共産主義理論自体の「敗北」を示していた、と考えられる。たんなる暫定的な「退却(retreat)」ではない。
 レーニンが病床にあって、大いに苦悩したというのも不思議ではないだろう。
 ○ 文献実証的に( ?)、1919年半ばにレーニンは何と主張していたかを、日本共産党も推奨するに違いないレーニン全集第29巻(大月書店、1958/1990第31刷)から引用する。
 まず、<校外教育第一回ロシア大会-1919.05.6-19>。
 「マルクスを読んだものならだれでも」、「マルクスが、その全生涯と…の大部分を、まさに自由、平等、多数者の意思を嘲笑することに、…ささげたこと」、こうした嘲笑の対象となる「空文句の裏には、商品所有者が勤労大衆を抑圧するためにつかう、商品所有者の自由、資本の自由の利益があるということの証明」に「ささげたことを知っている」。
 「全世界で、あるいはたとえ一国においてでも、…時機に、また資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅するための被抑圧階級の闘争が前面に現れているような歴史的時機に」、「その自由のためにプロレタリアートの独裁に反対する」者は、「そういう人は、まさに搾取者をたすけるものにほかならない」。p.350。
 後掲のL・コワコフスキの著によると、「資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅する」こととは、英文では、<the complete overthrow of capital and the abolition of commodity production >だ。「commodity production 」の、goods ではない「commodity」=「商品」は、「必需物」・「有用物」という含意もある。
 ともあれ、レーニンはこのとき、マルクスによりつつ「資本」の完全打倒と「商品生産」の完全絶滅を正しいものとして、目標に掲げていた。
 つぎに、<工場委員会、労働組合、…での食糧事情と軍事情勢についての演説-1919.7.30>。
 食糧政策・問題について、「真の勤労大衆の代表者、…人々、彼らは、ここでの問題が、どんな妥協をもゆるさない、資本主義との最後の決戦であることを知っている」。
 「われわれは、ほんとうに資本主義とたたかっており、資本主義がわれわれにどのような譲歩を強いようとも、…やはり資本主義と搾取に反対してたたかいつづけるのだ、と言う」。コルチャコフやデニーキン〔ボルシェヴィキと闘う「白軍」等の指導者-秋月〕などの「彼らを元気づけている力、それは資本主義の力であるが、この力は、…、穀物や商品の自由な売買にもとづくものだ」。「穀物が国内で自由に販売されているなら、こうした事態がつまり資本主義を生み出す主要な源泉であって、この源泉がまた…共和国の破滅の原因であったということを、われわれは知っている。いま資本主義と自由な売買にたいする最後の決闘がおこなわれており、われわれにとってはいま資本主義と社会主義とのもっとも主要な戦闘がおこなわれている」。p.538-9。
 ここでレーニンは、明確に、「穀物や商品の自由な売買」に反対することこそ社会主義の資本主義に対する闘いだと、「最後の決闘」とまで表現して、無限定に、つまり例外を設けることなど全くなく一般的に語っている。
 これら二点等について、以下を参照した。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978、〔マルクス主義の主要な動向〕), p.741-3。
 ○ むろん引用し切れないが、上の二つともに、レーニンは長々と、得々と喋り、同僚又は支持者たちに向けて力強く(?)演説している。
 日本共産党・志位和夫が言うように、後になって「…と勘違いして位置づけ」た、で済ませることができるだろうか。
 <ネップ>とはつまり、部分的にせよ、「商品生産」を、「穀物や商品の自由な売買」を正面から認めることとなる政策だったのだ。
 こんなふうに<転換>が語られるとすれば、それまでの農業政策等によって辛苦を舐めた農民たち、犠牲者等はやり切れないだろう(しかも、新政策がすみやかに施行又は「現実化」されたわけでもない)。
 ネップ導入は政策表明上の、つまるところ、レーニンによる「敗北」宣言だった。
 では、ネップという新政策導入時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という基本方針を、レーニンは確立したのかどうか。
 ずいぶんと前この欄でに設定したこの問題については、まだ本格的には立ち入っていない。あせる必要はない。現今の<時局>・<時流>のテーマではない。

1505/ネップ期の「見せしめ」裁判①-R・パイプス別著8章8節。

 同じ章の、つぎの第8節へと進む。
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 第8節・エスエル「裁判」①。
 レーニンは闘いを生きがいとした。戦争が、彼の本当の生業(me'tier)だった。
 それを実践するには、敵が必要だった。
 レーニンは、二度、敗北した。
 一度め、国外に共産主義を伝搬させるのに失敗した。
 二度め、自国で社会主義経済を建設するのに失敗した。
 彼は今や、現実にはいない敵と闘うことに力を向けた。
 レーニンが抑圧対象として選んだのは、何らかの行為または意図による理由でではなく、革命秩序を拒否して存在していることだけが理由となる『有罪者』だった。//
 彼の激怒の主な犠牲者は、聖職者と社会主義者だった。//
 クロンシュタット、タンボフ、および党自体の内部からの民主主義分派の出現(後述、p.448-459〔第9章第3節・『労働者反対派』等〕を見よ)によってレーニンは、エスエル〔社会主義革命党〕とメンシェヴィキが彼の体制を打倒しようと経済危機を利用する工作をしている、と確信した。
 不満には正当な原因がある、ということをレーニンは自分に対してすら認められなかった。帝制時代の典型的な警察官にように、全ての無愛想の背後には敵の煽動の仕業があるのではないかと疑った。
 実際には、エスエルとメンシェヴィキはレーニンの独裁制に適応していて、帝制時代にしていたのと同じことをすることが許されていた。責任を帯びずして、静かに愚痴を述べたり、批判したりすることだ。
 彼らは、数千の単位で共産党の党員になった。
 エスエルの中央委員会は、1920年10月には、ボルシェヴィキに対する全ての武装抵抗を止めた。
 しかし、ボルシェヴィキの独特の推論の世界では、『主観的』に欲することと『客観的』にそうであることとは、完全に別のものだった。
 ジェルジンスキーは、逮捕されたある社会主義革命党員に言った。
 『おまえは、主観的には、われわれがもっと多かれと望んだだろう程度に革命的だ。しかし、客観的には、おまえは、反革命に奉仕している。』(*)
 別のチェキストのピョートルは、社会主義者がソヴェト政府に対して拳を振り上げるか否かは重要ではない、彼らは排除されなければらならない、と語った。(140)//
 エスエルとメンシェヴィキは白軍に対抗するモスクワを助けていたので、内戦が進行している間は、彼らは我慢してもらえた。
 内戦が終わった瞬間に、彼らへの迫害が始まった。
 監視と逮捕が1920年に開始され、1921年に強化された。
 チェカは1920年6月1日に、エスエル、メンシェヴィキ、そしてかなり十分にシオニスト、の扱い方を書いた通達をその機関に配布した。
 チェカ各機関は、『協同的組織と協力している労働組合、とくに印刷工のそれ、で仕事をしているメンシェヴィキの破壊活動に特別の注意を払う』ことを指令され、『メンシェヴィキではなく、ストライキの企図者や煽動者その他だと説明して罪状証拠となる資料を、粉骨砕身して収集する』ものとされた。
 シオニストに関しては、保安機関は支持者だと知られる者を記録し、監視の対象にし、集会を開くことを禁止し、違法な集会は解散させ、郵便物を読み、鉄道旅行をすることを許さない、そして『多様な口実を用いて徐々に、〔シオニストの〕住居区画を占拠し、軍隊やその他の組織の必要性でもってこれを正当化する』こととされた。(141)//
 しかし、社会主義者に対する嫌がらせや逮捕では、彼らの考え方が民衆間の重要な階層に訴える力をもつかぎりは、問題を解消できなかつた。
 レーニンは、社会主義者は反逆者だと示すことでその評価を貶め、同時に、自分の体制を左から批判するのは右からのそれと変わらず、いずれも反革命と同じことだと主張しなければならなかった。
 ジノヴィエフは、『現時点では、党の基本線に対する批判は、いわゆる<左翼>派のものでも、客観的に言えば、メンシェヴィキの批判だ。』と言った。(142)
 レーニンは、この点をよく理解させるために、ソヴェト・ロシアで最初の見世物裁判(show trial)を上演した。//
 犠牲者として選んだのは、メンシェヴィキではなく社会主義革命党〔エスエル〕だった。そのわけは、エスエルが農民層の間でほとんど一般的な支持を受けていたことだ。
 エスエル党員の逮捕はタンボフの反乱の間に始まっていて、1921年の半ばまでには、エスエル中央委員会メンバー全員を含めて数千人が、チェカの牢獄の中に座っていた。//
 そして1922年夏、嘲笑の裁判手続がやってきた。(143)
 エスエルを裁判にかけるという決定は、1921年12月28日に、ジェルジンスキーの勧告にもとづいて行なわれていた。(144)
 だが、チェカに証拠を捏造する時間を与えるために、実施が遅れた。
 元エスエルのテロリストで、チェカの情報提供者に変じたゼーメノフ・ヴァシレフが、1922年2月にベルリンで、一冊の本を出版した。(145) この本が、裁判の中心主題だった。
 あらゆる成功した瞞着がそうであるように、この本は、真実と虚偽とを混ぜ合わせていた。
 セーメノフは、1918年4月のファニー・カプラン(Fannie Kaplan)のレーニン暗殺計画に関与していた。そして、この事件について、興味深い詳細を記述していたが、それはエスエル指導部を誤って巻き込んだ。
 のちにセーメノフは、被告人と検察側のスター証人のいずれもとして、裁判に臨むことになる。//
 エスエル裁判について発表される一週間前の1922年2月20日に、レーニンは、司法人民委員〔司法大臣〕に対して政治犯罪や経済犯罪を処理するには手ぬるいとの不満を告げる怒りの手紙を、書き送った。
 メンシェヴィキやエスエルの弾圧は、革命審判所と人民法廷によって強化されるべきだ、とした。(**)
 レーニンは、『模範〔見せしめ〕となる、騒がしい、<教育的な>裁判』を欲した。そして、つぎのように書いた。//
 『モスクワ、ペテログラード、ハルコフその他の若干の主要都市での(早さと抑圧の活力をもって、法廷と新聞を通じてその意味を大衆に教育する)一連の <模範> 裁判の上演(postanovka)。/
 裁判所の活動を改善し、抑圧を強化するという意味で、党を通じての人民裁判官や革命審判所メンバーに対する圧力。
 -これら全てが、系統的に、執拗に、義務的だと斟酌されつつ、実行されなければならない。』(146)//
 トロツキーはレーニンの提案を支持し、〔党中央委員会〕政治局への手紙で、『磨き上げられた政治的産物(proizvedenie)』となる裁判を要求した。(147)
 聖職者については、裁判所よりも煽動宣伝〔アジプロ〕演劇場にもっと似たものが続いた。
 役者は厳選され、その役割は特定され、証拠は捏造され、有罪判決を正当化すべく暴力的雰囲気がふさわしく醸し出され、判決文はあらかじめ党機関によって決定されていた。そして、『大衆』は、路上の劇場にいるように夢中になった。
 正式手続の最大の要素は脇におかれ、被告人たちは、その行為を犯したとされるときには、かつ拘留されたときには犯罪ではない犯罪について、告訴された。なぜならば、被告人たちが裁判にかけられている根拠の法典は、その裁判のわずか一週間前に公布されていたのだ。//
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  (*) マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見世物裁判 (1982), p.19。この規準でいくと、もちろん1917-18年のレーニンは、『客観的』には、ドイツの工作員〔代理人〕だった。
  (140) M. I. Latsis, <略、露語> (1921), p.16-17。
  (141) 社会主義情報〔SV〕, No. 5 (1921), p.12-14。
  (142) Dvenadtsatyi S" ezd RKP (b) (1968), p.52。
  (143) 以下の資料は、大きく、マルク・ヤンセン, <見せ物裁判(Show Trial)>にもとづく。
  (144) V. I. レーニンとVChK (1987), p.518。
  (145) <略、露語>。
  (**) この文書は、レーニン全集の以前の版では削除されており、1964年に初めて以下で完全に出版された。すなわち、レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.396-400。
 レーニンは、『われわれの戦略を敵に暴露するのは馬鹿げている』という理由で、この内容に関するいかなる言及も禁止した(同上, p.399)。
  (146) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.396-7。
  (147) Jan M. Meijer 編, トロツキー論集, 1917-1922 (二巻もの), Ⅱ, p.708-9。
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 ②へとつづく。

1501/ネップ期の政治的抑圧②-R・パイプス別著8章7節。

 前回のつづき。
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 第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大②。
 ゲペウ(GPU)は表面的には、チェカほどの専横的権力をもたなかった。
 しかし、現実は違った。
 レーニンとその同僚は、問題は民衆によって引き起こされるが、その災いを作った者を除去すれば問題は解決できる、と考えた。
 ゲペウを設立して一ヶ月も経たない1922年3月に、レーニンはピョートルにつぎのように助言した。ゲペウは『賄賂と闘うことができるし、しなければならない』、反対者を攻撃するその他の経済犯罪も同じだ。
 これを実施するための命令が、政治局を通じて司法人民委員部に送付するこことされた。(121)
 8月10日の布令は、『反革命活動』で告発された国民を、外国かロシアの指定した地方に、三年間まで行政的手続で追放する権限を、内務人民委員部に認めた。(122)
 11月に発せられたこの布令の付属書は、『集団強盗』を相当と判断する程度に処理すること、そして、法的手続によることなく『銃殺で処刑することまで』をゲペウに許した。これはさらに、強制労働を伴う追放〔流刑〕と結びついて強力になった。(123)
 ゲペウの司法上の特権は、1923年1月にさらに増大した。特定の地域(かつロシア共和国の境界内部)に住んでいる者がその活動、その過去あるいは犯罪者集団とのその関係からして革命秩序の警護という観点から危険だと見える(appear)場合には、その者を追放する権限が与えられた。(124)
 帝制時代のように、被追放者は護送車で監護されて、部分的には徒歩によって、苛酷な条件のもとで目的地に到達した。
 追放刑は、理屈上は、ゲペウの勧告にもとづいて内部人民委員部により科された。しかし実際には、ゲペウの勧告は判決文に等しかった。
 1922年10月16日には、ゲペウは審問をすることなく、武力強奪や集団強盗の嫌疑があって現行犯逮捕された者たちを処刑〔殺害〕する権限まで認められた。(125)
 かくして、『革命的合法性』の機関として設立されてから一年以内に、ゲペウは、全ソヴィエト国民の生活を覆うチェカの専制的権力を再び獲得した。//
 ゲペウ・オゲペウは、複雑な構造を進化させ、厳密には政治警察の範囲内にあるとは言えない、経済犯罪や軍隊での反国家煽動のような事件にも権限をもつ、特殊な部署をもった。
 その人員は1921年12月の14万3000人から1922年5月の10万5000人へと減らされたが (126)、それでもなお、強力な組織であり続けた。
 というのは、民間人協力者に加えて、軍隊の形態でのかなりの軍事力を利用したからだ。その数は、1921年遅くには、5万人の国境警備別団を別として、数十万人(hundreds of thousands)に昇った。(127)
 国じゅうに配備されたこれら兵団は、帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)と似た機能を果たした。
 ゲペウは国外に、国外ロシア移民を監視し分解させる、コミンテルンの人員を監督する、という二つの使命をもつ『工作機関(agencies)』(agentury)を設置した。
 ゲペウはまた、国家秘密保護局(Glavit)が検閲法令を実施するのを助け、監獄のほとんどを管理した。
 ゲペウに関与されていない公的な活動領域は、ほとんどなかった。//
 集中強制収容所は、ネップのもとで膨らんだ。その数は、1920年の84から1923年10月には315になった。(128)
 内部人民委員部がいくつかを、その他はゲペウが運営した。
 これら強制収容所のうち最も悪名高いのは、極北に位置していた(『特別指定北部収容所』、SLON)。そこからの脱走は、事実上不可能だった。
 そこには、通常の犯罪者とともに、捕獲された白軍将兵、タンボフその他の地方からの反乱農民、クロンシュタットの水兵たちが隔離されていた。
 収容者の中で死亡する犠牲者の数は、高かった。
 一年(1925年)だけでSLONは、1万8350人の死を記録した。(129)
 この強制収容所が満杯になった1923年の夏に、当局はソロヴェツク(Solovetsk)島の古来の修道院を集中強制収容所に作り変えた。そこは、イヴァン雷帝の代以降、反国家や反教会の罪を犯した者たちを隔離するために使われてきた。
 ソロヴェツク修道院強制収容所は1923年に、ゲペウが運営する最大の収容所になり、252人の社会主義者を含めて、4000人の収容者がいた。(130)//
 『革命的合法性』原理は、ネップのもとで日常的に侵犯された。従前と同様に、ゲペウがもつ司法を超える大きな権力のゆえだけではなく、レーニンが法を政治の一部門だと、裁判所を政府の一機関だと考えていたからだ。
 法についてレーニンが抱く考え方は、ソヴィエト・ロシアの最初の刑法典の草案作成過程で明確になった。
 レーニンは司法人民委員のD・I・クルスキーが提出した草案に満足せず、政治犯罪にどう対処するかに関する細かい指示を出した。
 彼は政治犯罪を、世界のブルジョアジーを『助ける虚偽宣伝活動(プロパガンダ)や煽動、または組織参加や組織支援』と定義した。
 このような『犯罪』に対しては、死による制裁が、あるいは酌量できる情状によっては収監または国外追放という制裁が科されるものとされた。(131)
 1845年のニコライ一世の刑法典は政治犯罪を同様に曖昧に標識化していたが、レーニンの定義は、それに似ていた。ニコライ一世刑法典は、『国家当局または国家要人や政府に対する無礼を掻き立てる記述物や印刷物を書いたり頒布したりする罪』を犯した者には苛酷な制裁を科すことを命じていた。
 しかし、帝制時代には、このような行為に死刑が科されることはなかった。(132)
 レーニンの指示に従って、法律官僚は第57条と第58条、裁判所に反革命活動をしたとされる有害人物ついて判決する専制的な権力を与える抱合せ条項を作成した。
 これら条項を、のちにスターリンは、合法性の外観をテロルに付与すべく利用することになる。
 レーニンの指示の意味を彼が認識していたことは、クルスキーに与えた助言からも明らかだ。レーニンは、つぎのように書いた。
 『原理的なかつ政治的な正しさ(かつたんに狭い司法のみならず)、…<テロルの本質的意味と正当化>…』を提示することが司法部の任務だ、『裁判所は、テロルを排除すべきではなく…、それを実現させて原理的に合法化すべきだ。』(133)
 法の歴史上初めて、法手続の役割は、正義を実施することではなく、民衆をテロルで支配することだ、と明言された。//
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  (121) レーニン, PSS, LIV, p.196。 
  (122) 同上のp.335。
  (123) SUiR, No. 65 (1922年11月6日), 布令 844号, p.1053。
  (124) 同上, No. 8 (1923年3月10日), 1923年1月3日付決定 No. 108, p.185。ゲルソン, 秘密警察, p.249-250。
  (125) イズベスチア, No. 236-1, 675 (1922年10月19日), p.3。
  (126) ゲルソン, 秘密警察, p.228。
  (127) 次の、p. 383n を見よ。
  (128) Andrzei Kaminskii, 1896年から今日までの集中強制収容所 :分析 (1982), p.87。ゲルソン, 秘密警察, p.256-7 参照。
  (129) セルゲイ・マセイオフ, in :Rul' No.3283 (1931年9月13日), p.5。ゲルソン, 秘密警察, p.314 参照。
  (130) ディヴッド・J・ダリン=ボリス・I・ニコレフスキー, ソヴィエト・ロシアの強制労働 (1947), p.173。SV, No. 9-79 (1924年4月17日), p.14。
  (131) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
  (132) リチャード・パイプス, 旧体制, p.294-5。
  (133) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.190。
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 ③につづく。

1500/日本共産党こそ主敵だ。反共産主義の「自由と孤独」。

 ○ 一年近く前に日本共産党こそ主敵という旨の文章を書いたが、二つの注記を付しておこう。
 第一に、日本共産党は日本の共産主義者の代表者又は代表的組織という意味であり、その他の共産主義的団体・組織又は個人を批判の対象から外しているわけではない。
 したがって、日本共産党の現在の路線(不破哲三・志位和夫体制)には反対だが、マルクスの理想あるいは論述だけは支持するという団体・組織に対しても、批判的立場にある。
 もっとも、そのような団体・組織はほとんどないかもしれない。
 というのは、ロシア「革命」・レーニンに対して(そしてたぶんスターリンにも)批判的だが、マルクス(・エンゲルス)だけは信じる、という団体・組織があるのか、疑わしいからだ。
 ある・いるとすれば、現実にあった「ソ連」社会主義はレーニンも含めて拙劣で悲劇的だったが、マルクス(・エンゲルス)の資本主義分析や将来展望だけは、正しくかつ「理想」だと思っている個人だろう。
 「左翼的」研究者・学者たちには、<雰囲気>だけでも、あるいは<頭の中>だけでも、そう思っている、または思いたい人々が、日本にはある程度存在しているように思える。この人たちも頭の中は「左翼」で、選挙での投票行動は<反自民党>である可能性が高い。
 つぎに、マルクス(・エンゲルス)は信じる、つまりマルクス主義を信奉しつつ、ロシア「革命」とその主導者・レーニンをロシアにそれを適用し現実化したものとして基本的には擁護する、そして一方で、スターリン以降のソ連・社会主義は支持せず、ソ連解体の原因をマルクス主義やレーニン・ロシア「革命」に内在するものとは見ない、という見地もある。このような見地にも、反対だ。
 これは、日本共産党の見地でもある。
 また、日本共産党のみならず、スターリンを批判する、スターリンから社会主義の道を踏み外したと見る点では日本共産党と同じだが、日本共産党をスターリニストの党として批判する、その他の反日本共産党の共産主義者たちにも、賛同することができない。
 このような組織・団体があることは知っている。有名なもの以外にも、いくつかあるようだ。
 この組織・団体や所属する人たちのことを日本共産党は、今でもきっと「トロツキスト」と呼んでいるのだろう。
 日本共産党は、スターリンはダメで、トロツキーがレーニンの継承者であればよかった、などとは一言も主張していない。また、同党には、理論上・論理上、あるいは歴史的にみて、そのように主張する資格はない。
 では、ロシア「革命」とレーニンを基本的に擁護する考えは日本共産党と「トロツキスト」以外にないかというとそうではなく、トロツキーを支持するわけでもスターリンを支持するわけでもなく、レーニン主義を継承する又は支持する、日本共産党=不破・志位以外の組織・団体以外の組織・団体あるいは個人もありうる。
 このような組織・個人も、日本にあるはずだ。彼らもなお「左翼」・容共主義者だろう。
 さらにいうと、日本共産党からの決裂、または同党との訣別の時期によって、すでに宮本顕治・不破哲三時代から(およそ1990年頃までに)この立場になった人々もいるだろうし、とりわけ1991年のソ連解体やそれへの同党の反応を知って、不破哲三体制ないし不破哲三・志位和夫体制時に分かれた人々もいるかもしれない。
 いろいろと推測できるが、固有名詞の列挙、個人名の特定はしないし、たぶん正確にはできない。
 反日本共産党と言っても、私がこれらの人々あるいは組織・団体に親しみを覚えているわけでも全くない。
 その他、反日本共産党だが、何となく「左翼」で自民党には絶対に(又は候補者が他にいないようなやむをえない場合を除いて)投票しないという人々も多いに違いない。
 非・反日本共産党で、かつ非・反自民党=反「保守」というのは、人文社会系の学者・研究者または大学の世界では、最も<安全な>立場だと見られ、イデオロギー・思想・信条とかとは関係なく、人間関係から、又は世すぎ・処世の手段として、この立場にいる者たちも多いように見える。
 しかし、この人たちは「主敵」ではないだろう。「左翼」であっても、じつは融通無碍な人々だ。
 もっとも、非・反日本共産党で、かつ非・反自民党=反「保守」と表向きは装いながら、じつは日本共産党の党員だったり、同党の熱烈な支持者だったりすることはある、と推測される。
 日本共産党・党員やその熱烈支持者は、こういう<偽装>を平気ですることができる人たちだ。目的のためならば、手段を選ばない。反・非日本共産党な言辞を吐くことくらいは平気でする、と想定しておいた方がよいように思われる。
 以上で書いたようなことは、じつは、大まかには1920年代ロシアの<ネップ>の評価・論じ方にも関係があるようだ。この回では触れない。
 第二に、日本共産党が当面に、社会主義・共産主義社会の実現を課題とはしていないことは承知しているし、同党を支持する国民たちが(場合によっては党員たちですら)社会主義・共産主義社会の展望を支持しているわけでもないことも、承知している。
 そのような意味で、日本共産党は主敵だと主張しているわけではない。
 問題は、長期的には<社会主義・共産主義の社会>を目指すと綱領に明記する政党に600万人ほどの有権者が投票していることだ。すなわち、<民主主義>でも<反戦・平和>でも<護憲>でも何であれ、「共産主義」を標榜する政党に、それだけ多くの日本国民が<ついていっている>ということだ。
 むろん、彼ら全員が社会主義・共産主義を目指しているわけではないし、同党員の中にすら、そのあたりは曖昧にしつつ、人間関係や処世の手段として入党した者も少なくないかもしれない。
 問題はいつまで<従っていくか>、日本共産党側からいえばどこまで<連れていくか>であって、そのあたりは慎重にかつ警戒しながら、日本共産党は政策立案やその表明をしている。憲法問題、天皇・皇室問題、「平和」問題、等々。
 ○ あえて再び指摘しなければならないのは、日本共産党の存在とその獲得票数や所属議員数から見ても、共産主義は決して日本で消滅していない、ということだ。
 支持者や党員の全員が社会主義・共産主義の「正しさ」を信じていないにしても、日本共産党それ自体は、指導部がそうであるように、日本の共産主義者の組織・団体だ。
 日本の共産主義について、「ネオ共産主義」(中西輝政)とか「共産主義の変形物」(水島総)を語る論者もいるが、そんな限定や形容句をつける必要なく、共産主義と共産主義者は立派に存在している。
 共産主義とは何かという「理論的・学者的」議論をしても、意味がない。
 自分で考える「共産主義」とは離れているから日本共産党は大丈夫だなどと、警戒感を解いてはならない。「正しい」、又は「真正」の共産主義(・マルクス主義)は、「保守」についても同じだが、誰も判断することができないはずのものだ(むろん、したい人は一生懸命に議論し、研究すればよい)。
 某「ほとんど発狂している」論者は、中国は「市場経済」を導入した、日本での共産主義の夢は滅びた、という旨を書いていたが、そのようなタワ言に影響されてはならない。
 明確であるのは、日本共産党・不破哲三らは<市場経済を通じて社会主義へ>の途を目指すと明言し、かつ、現在の中国(共産チャイナ)とベトナムを(あくまで今のところと慎重に言葉を選びつつ)<市場経済を通じて社会主義へ>と進んでいる国家と見なしていることだ。
 日中両共産党は1998年に「友党関係」を回復し、日本共産党・不破哲三もまた、中国共産党が<国際社会主義運動>の一員であることを肯定している。
 中国と中国共産党は、日本共産党にとっての<仲間>なのだ。
 しきりと中国や中国共産党を批判する人々が、なぜ批判の矢を、日本共産党にも向けないのか
 なぜ、反共を一応は謳う<保守>系月刊雑誌には、日本共産党に関する情報がほとんど掲載されないのか。
 日本共産党の影響は、じつはかなりの程度、<保守>的世界を含むマス・メディア、出版業界にも浸透している、と感じている。
 冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている。
 いく度も、このようなことを書かなければならない。

1499/ネップ期の政治的抑圧①-R・パイプス別著8章7節。

 次の節に入る。
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 第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大①。〔第7節/p.397~403。〕
 条件つきながらも私企業の出現を認めることになる経済統制の緩和は、ボルシェヴィキにとっては、政治的な危険だった。
 ゆえに彼らは、経済の自由化とともに政治的統制をいっそう強くすることを確認した。
 レーニンは第11回党大会〔1922年3月27日-4月2日〕で、矛盾していると見えるこのような政策の理由を、つぎのように説明した。//
 『栄光の大前進のあとで退却(retreat)するのは、たいへん困難だ。
 今では、諸条件は全く異なる。
 以前は、諸君が党規律を遵守しなくても、全員が自分たち自身で押し合って前へと突進した。
 党規律のことが今や、もっと考慮されなければならない。
 党規律が、百倍以上も必要だ。軍全体が退却しているときに、どこで止まればよいかを知ったり、見たりしないからだ。
 狼狽した声がここでいくつか上がれば、それで総逃亡になってしまう。
 そんな退却が実際の軍隊で起きれば、軍は機関銃部隊を展開する。そして、命じられた退却が壊滅的敗走に変われば、軍は命令する、「撃て(Tire)」。正しくそのとおりだ。』(*)//
 こうして1921年~1928年は、経済の自由化と政治的抑圧の増大とが結びついた時期だった。
 政治的抑圧は、ソヴェト・ロシアにまだ存続している自立組織、すなわち正教教会や対抗する社会主義諸党に対する迫害という形をとった。また、知識層や大学界に対しては、とくに危険だと考えられた知識人の大量の国外追放、検閲の強化、刑事法律の苛酷化によって、抑圧が増大した。
 このようなやり方は、ソヴィエト国家が経済自由化に賛成しているまさにそのときに外国に悪印象を生み出す、と主張して反対する者たちがいた。
 レーニンは、ヨーロッパを歓ばせる必要は全くない、ロシアは<私的関係>や公民の事案に国家が介入するのを強化する方向へ『さらに進む』べきだ、と答えた。(116)//
 このような介入の主たる手段は、闇のテロル機関から全方向に広がる枝葉をもつ官僚機構へとネップのもとで変形した、政治警察だった。
 ある内部的指令文書によると、その新しい任務は、経済状態を近くで監視して、反ソヴェト政党や外国資本による『怠業(sabotage)』を阻止すること、国家へと指定された物品が良質で間に合うように配達されるのを確実にすること、だった。(117)
 保安警察がソヴェトの生活のあらゆる側面を貫き透す程度は、その長、フェリクス・ジェルジンスキー(Felix Dzerzhinskii)が就いた地位が示している。
 彼は、あるとき、また別のとき、内務人民委員、交通人民委員、そして国家経済最高会議議長として仕事をした。//
 チェカは完全に憎まれ、無垢な血を流すことに対する悪評は、金を使って人を意のままにすることよりはまだましだった。
 レーニンは1921年遅くに、帝制時代の秘密警察に添うようにこの組織を改革することを決定した。
 チェカは今や、通常の(国家以外の)犯罪に対する権限を剥奪され、それ以降は、司法人民委員部に管理されるものとされた。
 レーニンは1921年12月に、チェカの実績を称えつつ、ネップのもとでは新しい保安の方法が必要で、現在の秩序は『革命的合法性』だ、と説明した。それは、国家の安定化によって政治警察の機能を『狭くする』ことができる、ということだった。(118)//
 チェカは1922年2月6日に廃止され、すぐに国家政治管理局、またはGPU(ゲペウ、Gosudarstvennoe politicheskoe upravlenie)という無害の名前の国家機関が代わった(ソヴィエト同盟の設立後の1924年に、OGPU(オゲペウ)又は『統合国家政治管理局』へと代わる)。
 その管理は変わらず、長がジェルジンスキー、次官はIa. Kh. ピョートル、他の全ての者で、『ルビャンカ〔チェカ本部〕からかき混ぜられたチェカ人はいなかった』。(119)
 帝制時代の警察部局と同様に、GPUは内務省(内務人民委員部)の一部だった。
 それは、『強盗を含む公然たる反革命行動』を鎮圧し、諜報活動(espionage)と闘い、鉄道線路や給水路を守り、ソヴィエト国境を警護し、そして『革命秩序を防衛するための…特殊任務を遂行する』ものとされた。(120)
 その他の犯罪は、裁判所や革命審判所(Revolutionary Tribunals)の管轄に入った。//
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  (*) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕p. 88-P. 89。レーニンは、以前の第10回党大会で、政治問題を解決する手段として機関銃部隊に言及した。労働者反対派の代弁者が機関銃を反対者に向ける脅威について反対したとき、レーニンは、彼の経歴上独特の例に違いないが、詫びて、二度とそのような表現を使わないと約束した。Desiatyi S' ezd, p. 544。
 レーニンは翌年に再び その表現を使ったので、自分の言明を忘れていたに違いない。
 〔レーニンの本文引用部分は、邦訳文がレーニン全集(大月書店)第33巻p.286、にある。そのままなぞった試訳にしてはいない。-試訳者・秋月〕
  (116) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.412。
  (117) RTsKhIDNi, F. 2, op. 2, delo p.1154、1922年2月27日付のS・ウンシュリフトによる草案。
  (118) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕p. 327-329。
  (119) レナード・G・ゲルソン, レーニンのロシアの秘密警察 (1976), p.222。
  (120) イズベスチア, No. 30/1469 (1922年2月8日), p.3。
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 ②につづく。

1497/食糧徴発廃止からネップへ④-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
 今回の最後の、そして第6節最後に一部が引用されるレーニンの文章は、1921年10日18日付<プラウダ>234号に掲載された、レーニン「十月革命四周年によせて」だ。
 これは、レーニン全集第33巻(大月書店、1978年第26刷)p.37~p.46に収載されている。R・パイプスが以下で引用する部分は、p.44-p.45。
 日本共産党・不破哲三らはこれのすぐ後の1921年10月29-31日の「第七回モスクワ県党会議」報告(同年11月3-4日の<プラウダ>248-9号に連載掲載)を重視していて、「十月革命四周年によせて」という重要性がありそうな題の、こちらの報告・演説文は、いっさい無視しているようだ。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行④〔p.393~p.394〕
十分に展開した新経済政策のもとに包括される結果の総体は、疑いもなく有益(beneficial)だった。不均一にそうだったけれども。
 どの程度有益だったかを正確に決定するのは困難だ。というのは、ソヴェトの経済統計は悪名高いほどに信頼のできないもので、依拠する情報源によって数100%もの違いがあるからだ。(*)
 利益はまず先に、農業に現れた。
 好適な気候はもちろん外国からの種子穀物の寄贈や購入によって、1922年のロシアは大豊作だった。
 耕作面積を増加させようとの新しい税政策に助長された農民たちは、生産を膨らませた。
 作付け面積は1925年に、1913年のそれと同等になった。
 しかし、生産額は革命の前よりも低いままで、収穫高もそれに応じて少なかった。
 集団化の前夜にあたる1928年になっても、それは1913年の数字よりも10%低かった。//
 資本不足や機械の旧式化、迅速な改修を妨げる同種の原因によって、工業生産は、もっとゆっくりと成長した。
 レーニンが爆発的な生産を計算した外国に対する諸権利の付与は、ほとんど何も役立たなかった。外国人は、借款不履行(デフォルト)で資産国有の国に投資するのを躊躇したからだ。
 外国資本に敵対的なソヴェト官僚制は、官僚的形式主義(red tape)やその他の逃げ口上の方法を使って、全力で、権利を与えるのを邪魔した。
 そしてチェカ〔国家秘密政治警察〕、のちのGPU〔ゲペウ、同〕は、ロシアへの外国による経済投資をスパイ活動(espionage)の偽装だと扱うことで、その役割を果たした。
 ネップの最後の年(1928年)には、動いている外国企業はソヴェト同盟の中にわずか31しかなかった。資本でいうと(1925年)、わずか3200万ルーブル(1600万ドル)だった。
 大多数の企業は、工業ではなくロシアの自然資源、とくに森林の利用に従事した。森林は、外国資本が権利を得て投資したうちの85%を占めた。(111)//
 ネップは、ボルシェヴィキが社会主義への不可欠のものだと見なす、総合的な経済計画の策定を妨げた。
 国家経済最高会議は、経済を組織するといういかなる考えも放棄し、できる限りで、ほとんど操業していない〔国有〕工業を『信用』という手段で管理することに集中した。
 この信用は、原材料をの融通はむろん、財政上の援助から受けた。その他の原材料は、公開市場で自由に購入した。
 それら工業が費用を自分で賄ったあとでは、生産全体が政府の手に委ねられた。
 経済計画の策定のために、レーニンは1921年2月に、Gosplan として広く知られる、新しい機関を設立した。その直接の任務は、電化のための壮大な計画を実施することで、それは将来の産業および社会主義の発展の基盤を提供することになるとされた。
 レーニンは、ネップの前の1920年にすら、ロシア電化全国委員会(GOELRO)を創設していた。それは来る10年から15年のうちに、主として水力エネルギーを発展させることで国家の電気供給能力を膨大に増加させることになる、とレーニンは期待した。
 レーニンは、この計画が他の諸解消を拒んでいた問題をこの計画の能力が解決できる、という奇想天外な期待を抱いた。
 レーニンの願望は、世に知られるつぎの彼のスローガンに表現されている。
 『ソヴェト+電化=共産主義』。これの精確な意味は、今日まで理解し難いままだ。(112)
 第12回党大会(1923年)の諸決定で、電化は経済計画の中心焦点で、国家経済の将来の『鍵となる石』だと叙述された。
 レーニンにとっては、これが意味するものは、なおも壮麗だった。
 彼は純粋に、電力の普及によって資本主義者精神がその最後の生存稜堡である農民家族経済で破壊されるだろうと、また宗教信仰も根こそぎ掘り返されるだろうと信じた。
 サイモン・ライバーマン(Simon Liberman)は、レーニンがつぎのように言うのを聞いた。農民にとって、電気は神にとって代わるだろう、そして彼らは電気に対して祈祷するだろう、と。(113)//
 計画の全体は、新しい夢想家(Utopian)の企画に他ならなかった。それは、経費を無視しており、金の欠如のゆえに無駄になるものだった。
 その計画の実現には、10年~15年にわたる毎年10億(1ビリオン)ルーブルの経費が必要だった。
 あるロシアの歴史家は、つぎのように書く。
 『かりに国家産業がほとんど静止状態にあり、かつ外国から必要な機械や技術的設計書を買うための穀物輸出も存在しないとすれば、電化計画は現実には『電気-小説』に似ている。』(114)
 現実の全体から見て、1921年3月のあとに導入された経済的手法は、ロシアに共産主義を持ち込むという一度抱かれた希望からすると、厳しい挫折(setback)だった。
 苛酷な力が問題をどこでも決定できる勝利者だったボルシェヴィキは、現実の経済の不変の法則によって敗北した。
 レーニンは、1921年10月に、そのことをつぎのように認めていた。〔以下、上掲レーニン全集による和訳を参考にする。〕
 『われわれは、小農民的な国で物資の国家的生産と国家的配分とをプロレタリア国家の能力にもとづき共産主義的に組織しようと、あてこんで(count)いた。-いや、と言うよりも、つぎのように言うのが正確かもしれない。われわれは、十分に考慮することなくして、そのように想定(仮定、assume)していたのだ。
 実生活は、われわれが誤っていた(mistake)ことを示した。』 (115) //

  (111) A. A. Kisalev, in :新経済政策(Novaia Ekonomicheskaia Politika), p.113。
  (112) レーニン, PSS, XLII〔第42巻〕, P.159。
  (113) Simon Liberman, レーニン・ロシアの建設 (1945), p.60。 
  (114) N. S. Simonovin, ISSSR, No. 1 (1992), p.52。
  (115) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.151。
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 第8章・第6節終わり。

1495/食糧徴発廃止からネップへ③-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行③ 〔p.393~p.394〕
 1922年と1924年の間に、モスクワは貨幣なき経済という考え方を放棄し、伝統的な会計実務を採用した。
 政府は予算上の欠損を充たす山積みの紙幣を必要としていたので、会計上の責任体制への移行は困難だった。
 ネップ(新経済政策)の最初の三年間、ソビエト同盟では実際には、二種類の通貨が並んで流通していた。
 一つは、denznaki とか sovznaki とか呼ばれる、実際には無価値の『引換券(token)』、もう一つは、chervonets と呼ばれる、金を基礎にした新しいルーブルだ。//
 ルーブル紙幣は、印刷機が作動するかぎりで急いで製造された。
 1921年にその発行数は16トリリオン(trilliom、16兆)だったが、1922年には2クヴァドリリオン(quadrillion=1000 trilliom、2000兆)に昇った。これは、『16桁の数字をもつ量、財務というよりも晴天の空での天文学を連想させる量』だった。(98)
 無価値の紙券が、洪水のように国を覆いつづけた。政府は一方で、新しい安定した通貨を生み出し始めた。
 財政改革は、ニコラス・カトラー(Nicholas Kutler)に託された。この人物は、銀行家、セルゲイ・ウィッテ内閣の大臣で、政府の仕事から引退したあとは、カデット(立憲民主党)の国会下院議員だった。
 カトラーの奨めで1921年10月に作られた国有銀行(Gosbank)の理事会の一員に、彼は指名された。
 政府が新通貨を発行することや国家予算を帝政時代のルーブルで表記することも、彼の助言によっていた。(99)
 (類似の改革は二年後に、ヒャルマール・シャハト(Hjalmar Schacht)のもとでのドイツでなされることになる。)
 国有銀行は1922年11月に、chervontsy 、5種類の銀行券を発行する権限を与えられた。これら銀行券は、25%は金塊と外国預金、残りは農産物や短期の借款で支えられた。
 新しい各ルーブルは純金7.7グラムに相当し、金の価値は帝制時代の10ルーブルと同じだった。(+)
 Chervontsy は法的な弁済よりも国有企業間の大規模の取引や決済に用いられることが想定されたが、古い引換券(token)と一緒に流通した。後者は、天文学的数字にかかわらず、小規模の小売り取引で必要とされた。
 (レーニンは、貨幣政策としては金を伝統的な地位に復活させる必要があると批判されて、共産主義が世界中で勝利するやいなや、ルーブル紙幣の使用は手洗所の建設に限られることになる、と約束した。)(100)
 1924年2月までに、Chervontsy で表記された貨幣量は10分の9になった。(101)
 引換券(token)ルーブルは1924年に流通しなくなり、帝制時代のルーブルの金の内容をもつ『国家財務省券』が取って代わった。
 このとき、農民は、国家への納税義務を一部又は全部、生産物ではなく金銭で履行することが認められた。//
 租税制度もまた、伝統的な方向で改革された。
 金ルーブルで計算される国家予算は、定期的に作成された。
 1922年に総支出の半分以上に達していた欠損は、次第に小さくなった。
 1924年に公布された法令は、欠損を埋めるための手段として銀行券を発行することを禁止した。(102)//
 国有企業の経営者は抵抗したにもかかわらず、小規模の私企業や協同企業を推進する布令が裁可された。これら企業は、法人格を付与され、限られた数の有給労働者を雇用することが許された。
 大企業は依然として国家の手のうちにあり、政府からの助成金で利益を確保し続けた。
 レーニンは、社会主義の国家的基礎を、彼の権力基盤とともに徐々に破壊するという危険(リスク)がネップにある、ということを十分に察知した。そして、経済の『管制高地』の支配権は政府が維持することを確かなものにした。輸送はもとより、銀行、重工業および貿易(=外国との取引)についてだ。(103)
 中規模の企業は、健全な会計実務に従うように命じられ、自立的になった。その会計実務は、Khozrazchet として知られる。
 怠惰な又は非生産的な中規模企業は、賃貸借の対象になる第一次の候補だと指示された。
 4000以上のこのような企業は、その大部分は小麦製粉業だったが、以前の所有者か又は協同企業に賃貸された。(105)
 こうしたことを容認したことは、設定した基本的考え方で、とくに社会主義の実務ではきわめて嫌悪された被雇用労働者を許した点で、主として重要だ。
 生産に対する実際の影響は、限られていた。
 1922年に国有企業は、価額を規準として、全国家産業生産高の92.4%を占めた。(106)//
 Khozrazchet への移行は、自由な業務や商品の綿密な構造を放棄することを強いた。そのために、およそ380万人の国民は、1920年と21年の間の冬に、政府の費用でもってその基本的な必需品を与えられた。(107)
 郵便と輸送は、〔政府から〕支払われるものとされた。
 労働者は金銭で給料を受け取り、公開の市場で必要な物を何でも購入した。
 配給もまた、次第に少なくなった。
 小売取引は、一歩一歩、私営化されていった。
 国民は、都市の不動産を売買すること、印刷業社を所有すること、薬品や農機具を製造すること、を許された。
 1918年に廃棄されていた相続する権利は、部分的に復活した。(108)//
 ネップは、魅力的でないタイプの起業家、古典的な『ブルジョア』とはきわめて異質な者たちを培養した。(109)
 私企業にとってロシアの環境は根本的に非友好的で、かつその将来は不安定だったので、経済自由化を利用した者たちは、得た利益を明日のことなど考えないで費やした。
 政府やそれと似た社会にパリア人のごとく取り扱われて、『ネップマンたち(Nepmen)』は、現物でもって返報した。
 貧窮のど真ん中で、彼らは贅沢にかつ目立って生活し、高価なレストランやナイトクラブに群らがった。毛皮のコートで身を包んだ愛人たちを見せびらかしながら。//
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  (98) Arthur Z. Arnold, ソヴェト・ロシアの銀行、信用、貨幣 (1937), p. 126。
  (99) カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ, p.350-352。
  (+) 帝制時代の『chervonets 』とは、金貨の名前だった。ソヴェトのchervontsy は多くは紙幣で、ある程度は新たに鋳造されたけれども。
  (100) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p. 225。
  (101) N. D. Mets, Nash rubl' (1960), p. 68。
  (102) ソ連の国民経済・1921-23以降〔統計年鑑〕, p.495-6, p. 498。
  (103) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p. 289-290。
  (104) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 34。
  (105) Genkina, Perekhod, p. 232-3。
  (106) カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ, p.302-3。
  (107) リチャード・パイプス, ロシア革命, p. 700〔第二部第15章「戦時共産主義」第8節「市場廃棄の努力と陰の経済の成長」〕。
  (108) Allan M. Ball, ロシアの最後の資本家 (1987), p.21-22。
  (109) 同上の各所。
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 ④につづく。

1493/食糧徴発廃止からネップへ②-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
 なお、不破哲三・レーニンと「資本論」第7巻(新日本出版社、2001)p.118-p.125は、レーニンは1921年10月29日-31日の「第7回モスクワ県党会議」での報告によって、「市場経済を容認し、それと正面から取り組みながら、社会主義への道を探求するというこの方針」に到達したと述べ、かつまた「この報告」は「『新経済政策』の展開の歩みのなかで、その後の歴史にてらしても、もっとも重大な、文字通り画期的な意義をもつものだった」と記す。
 志位和夫・綱領解説第2巻(新日本出版社、2003)p.177-もこれに追随する。志位によると、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のだが(p.179)、つぎのようにも書く。
 レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。新たに転換した路線とは「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ(p.177-8)。
 レーニンの上記報告の全文(邦訳)は、以下。
 レーニン全集第33巻(大月書店、1978年第26刷)p.70~p.98/「第七回モスクワ県党会議」。
 前回部分もそうだが、この日付や会議名にも留意してR・パイプス著を継続して読むと、興趣を少しはそそられるかもしれない。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行② 〔p.391~p.393〕
 新政策を表明する際に、レーニンは、その政治的意義を強調した。
 農民が人口の大多数を構成するロシアでは、農民から支持を受けないで効果的に統治することはできない。
 カーメネフは内部的な連絡文書で、この政策の第一の目標として『農民層への政治的平穏性の導入』を挙げた(次いで、作付け面積の増加の奨励)。(87)
 従来は階級敵と見なされていた農民層は、これ以来、同盟者だと扱われた。
 レーニンは今や、以前は拒否していたこと、西ヨーロッパーの多くの国とは違ってロシアでは、農村住民の多数は被雇用者でも土地賃借耕作者〔小作人〕でもなく、独立した小規模生産者だ、ということを承認した。(88)
 確かに、上の最後の者は、『プチ・ブルジョアジー』だった。そして、彼らに対する譲歩は、レーニンによると、遺憾な退却(retreat)だが、一時的な(temporary)なものだった。
 レーニンは、『経済上の息つぎ(breathing spell)』だと正当化した。
 ブハーリンとD・B・リャザノフは一方、『農民とのブレスト〔-・リトフスク講和条約〕』だと語った。(89)
 この『息つぎ(breathing spell)』がどのくらい長く続くかについては、何も語られなかった。だがレーニンはある箇所で、農民を変えるのには数世代(generations)かかるだろうことを認めている。(90)
 このような又はその他のレーニンのこの問題についての言葉は、レーニンの究極の目標は集団化であるままだが、スターリンがしたように早くにはそれを開始しなかっただろう、ということを示唆している。//
 1921年4月についてすでに触れたように、新しい政策によって農民世帯は、穀物、馬鈴薯、油用種子について規準の税を課された。
 翌年に、他の農産物がリストに加えられた。すなわち、卵、乳製品、毛織物、タバコ、干し草、果物、蜂蜜、獣肉、および生皮。(91)
 穀物税〔現物税〕の大きさは、赤軍、工業労働者および非農業集団の最小限の必需によって決定された。
 村落ソヴェトの裁量に委ねられた割当額の決定は、規模、自由に使用できる耕作適地の広さ、および地域の穀物生産高に応じて決定される、個々の農民世帯の納入能力と相応したものでなければならなかった。
 布令は、農民に生産増加を促すために、税の規準として、実際に耕作されている土地ではなく耕作がなされる可能性のある土地、つまり全耕作適地の広さを用いた。
 国家への義務を果たす『集団責任』(krugovaia otvetstvennost')の原理は、放棄された。(92)//
 最初の現物税は、2400万Pud〔単位、1トン=ほぼ6 Pud?〕が設定された。これは、1921年に徴収されたよりも600万少なく、1921年について従前に設定された< Prodrazverstka >〔余剰食糧徴発制〕の上限のわずか41%だった。
 政府は、物々交換原理のもとで、農民に工業製品を余剰穀物と交換してもらうことで、不足を埋め合わせることを望んだ。
 これによって、追加して1600万Pud がもたらされるはずだった。(93)
 これらの望みは、何一つ叶えられなかった。主要な穀物生産地帯を1921年春に厳しい干魃が襲ったからだ。
 被害を受けた地域はほとんど何も生まなかったので、徴収できた税は、上記の2400万Pud ではなく、1280万Pud にすぎなかった。(94)
 誰も、どの穀物についても、提案された物々交換をしなかった。交換取引をする工業製品がなかったからだ。//
 新しい政策は直ちには改善につながらなかったけれども-実際に最初は徴集した食糧は < Prodrazverstka >よりも少なかった-、長期的にはきわめて大きい利益になるという共産主義者の思考方法に関して、重要な前進点を画した。
 農民層をたんに収奪の対象として扱うかつての実務とは対照的に、現物税、あるいは< prodnalog >は、農民層の利益も考慮に入れた。//
 新しい農業政策の経済上の利益は、直ちには明らかにならなかった。しかし一方で、政治上の報償は、すぐに与えられた。
 食糧徴発制の廃止は、反乱という帆船隊の帆を根こそぎ吹き飛ばした。
 レーニンは、翌年に、以前は農民蜂起が『ロシアの一般的な絵画を決定』したが、その蜂起はほとんど終わった、と誇ることができた。(*)//
 現物税を導入したとき、ボルシェヴィキ〔共産党〕は、それの影響・効果について何も考えていなかった。無傷で国家経済の中央集中管理を維持することを、意図していたからだ。
 商取引と工場制工業に対する国家独占を放棄することは、ボルシェヴィキが最も望んでいないことだった。
 ボルシェヴィキは、物々交換で農民に工業製品を与えて、穀物の余剰分を吸い上げようと十分に期待していた。
 しかしながら、この期待が非現実的で、その結果としてつぎのことをボルシェヴィキに強いるものであることが、すみやかに明らかになった。すなわち、かつてより野心的な改革を少しずつ実行して、社会主義と資本主義の独特な合成物をついには生み出すことを強いられる、ということだ。両者のこの独特な合成物(hybrid)は、新経済政策(NEP, New Economic Policy)として知られる。(この言葉は、1921-22年の間の冬に初めて一般的になった。)(95)
 現物税は必然的に、自由に処分できる余剰生産物の部分で、農民層に商取引をする権利を認めることを意味した。
 (そうでなければ、農民の生産高を増加させる心的動機としてはほとんど何の影響力も持たないので、自由処分可能な余剰を手放すことは、ただ名目上の譲歩にしかならないだろう。)
 このことは反面では、農業生産についての市場の再生、農業と工業を結びつける不可欠の結節点であり貨幣の循環が甦る領域である市場関係の再建、を意味した。(96)
 < prodnalog >〔現物税〕は、かくして不可避的に、まず最初に、穀物とその他の食糧についての私的取引を復活する途へと誘い込んだ。
 これが生じたとき、穀物取引についての国家独占という要塞を放棄して明け渡すくらいなら、全員を殺させる方がよいとレーニンが誓約したのち、ほとんど15週間も経っていなかった。(97)
 さらに、公認の価値という客体に支えられる安定した通貨制度をもつ、伝来的な貨幣実務が回復することも、意味した。
 また加えて、農民は代わりに工業製品を取得できるときにのみ自分の余剰分を引き渡すので、工業に対する国家独占を放棄することをも意味した。
 これが必要としたのは、また反面では、消費者をもつ工業の相当部分の私営化(privatizing)だった。
 このようにして、国土に広がる共産党に対する蜂起を鎮静化させるために企図された緊急措置は、最後の出口には資本主義とその帰結である『ブルジョア民主主義』の復活が待っている、予め地図に描いていなかった水路へと、共産党の者たちを導いた。(**)//
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  (87) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 9。
  (88) レーニン, PSS, XLIII〔第43巻〕, p.57-58。
  (89) 同上, p.69-70。Desiatyi S" ezd, p.224, p.468。
  (90) レーニン, PSS, XLIII〔第43巻〕, p.60-61。
  (91) 1921年4月21日の布令, SUiR, No. 38 (1921年5月11日), p.205-8。E. B. Genkina, 新経済政策のソヴェト政府の布令〔?露語〕1921-22 (1954), p. 123-124。
  (92) SUiR, No. 26 (1921年4月11日), 第147条, p. 153。
  (93) E・H・カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ (1952), P. 283-4。
  (94) Genkina, Perekhod, p. 302。
  (*) レーニン, Sochineniia, XXVII〔第27巻〕, P. 347。この文章の文言は、次とは異なる。最新版の、レーニン選集(PSS, XLV, p. 285)。
  (95) <省略、露語>
  (96) Maurice Dobb, 1917年以降のソヴェト経済の展開 (1948), p. 131。
  (97) レーニン, XXXIX〔第39巻〕, p.407。Iu. Poliakov, <省略>を見よ。
  (**) 『戦時共産主義』は即興的なものだったが、ネップは計画された、とふつうは考えられているけれども、現実は、反対方向にあった。
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 ③につづく。

1491/食糧徴発廃止からネップへ①-R・パイプス別著8章6節。

 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)のp.369-の<第8章・ネップ-偽りのテルミドール>は、目次上は、以下の節で構成されている。
 第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
  第1節・テルミドールではないネップ。
  第2節・1920-21年の農民大反乱。
  第3節・アントーノフの登場。
  第4節・クロンシュタットの暴乱。
  第5節・タンボフでのテロル支配。
  第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
  第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
  第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
  第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
  第10節・1921年飢饉。
  第11節・外国共産党への支配の増大。
  第12節・ラパッロ〔-条約〕。
  第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
  第14節・ドイツとソ連邦の軍事協力の開始。
 以上。
 このようにR・パイプスが扱う<ネップ期>の範囲・問題は幅広い。
 以下では、<第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行>だけの邦訳を試みる。
 このあたりを指して、日本の某政党(日本共産党)は、レーニンが「市場経済を通じて社会主義へ」の途を確立した、とか歴史叙述しているからだ。
 <フランス革命>を終焉させた「テルミドール(七月)」との比較から始まった、アントーノフ運動、クロンシュタット反乱、タンボフの悲劇等々の叙述はすでに終わっている。
 原則として一文ごとに改行し、本来の改行(段落の最後)の箇所には「//」を付す。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行 〔p.388~〕
 クロンシュタット暴動の前にもう、レーニンには明らかに農民たちを宥める必要があると分かった。
 このような考えを促進したかもしれないのは、(1921年)2月9日に起きた西シベリアの農民蜂起だった。(79)
 数万にのぼるパルチザンがトボルスクを含む主要都市を占拠し、ロシア中部を東部シベリアと結ぶ鉄道線路を切断した。
 地方軍では立ち向かうことができず、中央は、この圏域に50000人の兵団を動員した。(80)
 烈しい戦闘が続き、正規軍は最終的にはゲリラ部隊を鎮圧することができた。
 しかし、シベリアからの食糧輸送が二週間途絶えたことは、蜂起がまだ進行中であったなかで、ソヴェト指導者に、農業政策全体を再検討することを強いた。(81)//
 ついに水兵の暴動が発生した。赤軍が海軍基地への最終攻撃を始めるべく場所を定めた3月15日に、レーニンは、新しい経済政策の中核になることになる政策を表明した。それは、< Prodrazverstka > 〔余剰食糧徴発(収奪)制度-試訳者・秋月〕として知られる恣意的な食糧剥奪を廃止して現物税(tax in kind)を採用する政策だった。
 < Prodrazverstka > には、最も広く嫌悪された戦時共産主義の特質があった。-生産物を奪われる農民たちは嫌悪し、食糧が配給される都市住民もまた嫌悪した。//
 食糧徴発は、明らかに恣意的に実施されていた。
 供給人民委員部〔人民委員=ほぼ大臣、従ってほぼ<供給省>〕は、要求する食糧の量を決定した。-その量は、生産者が供給できる量とは無関係に、都市や軍隊の消費者〔・需要者〕に食を与えるために必要な量によって、決定した。
 供給人民委員部はこの数字を、不適切でかつしばしば古い情報にもとづいて、各地方、各地区、各村落ごとの担当量へと割り振った。
 この制度は、残酷であったが、また非効率だった。例えば1920年に、モスクワは< Prodrazverstka >を5億8300万puds(950万トン)に設定したが、何とか集めたのはその量の半分だけだった。(82)//
 徴集担当者は、つぎの二つを前提にして行動した。すなわち、供出するように強いられる穀物は余剰ではなく家族用の食糧や種を確保するために不可欠のものだ、と農民たちが言うのはウソだ。また、農民たちは秘蔵食糧を掘り出すことで損失を補填できる。
 農民たちはこの秘蔵を、1918年と1919年にはできたかもしれなかった。
 しかし、彼らは1920年までには、秘蔵所にいくばくかは残っているとしてもほとんど何もなくなった。その結果がどうだったかは、タンボフ県の事例で見ることができる。そこでは、< Prodrazverstka >は不完全にしか徴集されなかったとしても、農民たちにほとんど何も残さなかった。
 もう何もない、これで全てだ。
 熱心な徴集者は、『余剰』と生存に必要な食糧だけでなく、翌年の作付けのために除けていた穀物をも奪い取っていった。共産党高位官僚の一人は、当局が収穫物の100%を収奪したことを認めた。(*)
 この供出を拒むことは、結果として家畜類が奪われ、殴打されることを意味した。
 付け加えると、徴集員や地方役人は、彼らの要求が抵抗に遭うと、抵抗農民に対して『クラーク(kulak、富農)』に唆(そそのか)された、または『反革命的』なとレッテルを貼ることで、力を得た。また、食糧、畜牛、そして個人的使用の衣類をも勝手気侭に収奪できると思っていた。(83)
 農民は、激しく抵抗した。ウクライナだけで、彼らは1700人の徴集官僚たちを殺害したと報告されている。(84)//
 自らをより痛める政策を考え出すのは困難だっただろう。
 この制度は、農民がより多く生産すればそれだけ多く剥奪されるという、不合理な原理にもとづいて作動していた。この帰結は、自分たちの需要を超えれば、それ以上は何も生産しないという、不変の論理だ。
 ある地域が豊かになればなるほど、それだけ多く政府による略奪を甘受することになる、そうすると、それだけ多く生産を削減しがちになった。国の中央部、穀物不足地帯の一つ、での作付け面積は、1916-17年と1920-21年の間に、18%減少した。一方、穀物過多の主要地域では、同じ比較で33%減った。(+)
 肥料や牽引動物が足りないために面積(エーカー)あたりの生産高が減少したので、1913年に8010万トンだった穀物生産高は、1920年には4610万トンに落ちた。(85)
 1918年と1919年に『余剰』を徴発することがまだできていれば、農民たちは1920年までには、教訓を得て、供出する物は何もないと確信していた。
 農民たちにはパンもなく種もなくなることを意味するとしても政府が欲する物を奪い取っていく、という事態は、明らかに生じなかった。//
 経済的と政治的の二つの理由で、< Prodrazverstka >は放棄されなければならなかった。
 飢餓に直面した農民たちから奪い取れる物は、何も残されていなかった。飢餓は、国土上の広汎な反乱に油を注いでいた。
 政治局〔共産党中央委員会の〕はついに、〔1921年〕3月15日に、< Prodrazverstka >を中止することを決定した。(**) 
 新しい政策は、3月23日に公示された。(86)
 これ以降は、農民たちは、ある特定の量の穀物を、政府機関に供出することが要求された。恣意的な『余剰』の収奪は、終止符を打った。//
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  (79) 同上, 265-70。 
  (80) Desiatyi S" ezd, p.430。
  (81) プラウダ, 51号 (1921.03.08), 1; Radkey, 知られざる内戦, p.229。
  (82) Desiatyi S" ezd, p.415, p.418。
  (*) I. I. Skvortsov, in :Desiati S" ezd, p. 69。農民たち自身の消費や種のために必要な穀物すらも剥奪することを命じた、レーニンの諸指令文書が現存している。レーニン, PSS, XLXⅢ〔第48巻〕, P.219。1921年半ばに供給人民委員部は、穀物の種の半分をタンボフ県からサマラへ輸送するように命令した。TP〔トロツキー文書〕Ⅱ, P.550-1。< Prodrazverstka >の濫用について、イズベスチア(Izvestiia), 42-1-185号 (1921.02.05), p.2。
  (83) Radkey, 知られざる内戦, p.31。
  (84) Tsiurupa, in: Desiatyi S" ezd, p.422。
  (+) Frank A. Golder と Lincoln Hutchinson, ロシア飢饉の軌跡 (1927), p.8。リチャード・パイプス, ロシア革命, p.697-8〔第15章・『戦時共産主義』/第5節・「農業生産力の衰退」〕。カ-メネフは国土全体について、1920年に25%減少したと見積もった。プラウダ, 1921年7月2日号, in: M. Heller, Cahiers 〔ノート〕, XX, No. 2 (1979), p.137。作付け面積の削減は、内戦の間に遂行した敵軍からの収奪によって牽引動物が不足したことによっても惹起された。1920年のロシアとウクライナでの牽引牛馬の数は、革命直前の時期と比べて、それぞれ28%、30%減った。Genkina, Perekhod, p.49。
  (**) Desiatyi S" ezd, p.856-7。トロツキーは思い出して、その自伝(Ⅱ, p.198-9)でつぎのように書く。1920年2月に、中央委員会に< Prodrazverstka >を放棄して現物税を採用すべきと提案したが、票決で負けた、と。レフ・トロツキー, Sochineniia, 第17巻, Pt. 2 (1926), p.543-4。この提案は、きわめて先見の明がある。
  (86) イズベスチア, No. 62-1205 (1921年3月23日), 2。
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 ②へとつづく。

1472/R・パイプス著『ボルシェヴィキ体制下のロシア』の内容・構成。

 既述のように、①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>とは別の、リチャード・パイプスの著に、② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)<原著・大判で約600頁>がある。これら二つを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。
 上の①の構成・目次とそこに掲げられている年表はすでに紹介し、第9章にかぎって試訳を行った。上の②の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)〔パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア〕の目次・構成は、つぎのように成っている。章番号については「章」という語はなく数字だけだが、「章」を加えた。
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 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)
 第1章/内戦-最初の戦闘(1918)
 第2章/内戦-頂点(1919-20)
 第3章/赤色帝国
 第4章/革命の輸出
 第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 第6章/プロパガンダとしての文化
 第7章/宗教に対する攻撃
 第8章/ネップ・偽りのテルミドール
 第9章/新体制の危機
 〔数字なし〕/ロシア革命に関する省察
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 以上のうち、第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、目次上では数字番号と「節」にあたる文字はないままに、つぎの節に分かたれている。但し、本文には見出し文章はなく、各節の間の区別は、一行の空白を挿入することによってなされている。
 National Socialism は、「国民社会主義」が定訳なのかもしれないが、「国家社会主義」と訳しておいた。
 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・「全体主義」の観念。
  第2節・「レーニン主義者」を源とするムッソリーニ。
  第3節・ナツィの反ユダヤ主義。
  第4節・ヒトラーと社会主義。
  第5節・全体主義三体制の共通性。
   1・支配政党。
   2・支配党と国家。
   大衆操作とイデオロギーの役割。
   3・党と社会。
  第6節・全体主義諸体制の差違。
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 以上。[注記、翌3/29に第5章内の節区分けの表示を改めた。]
  

1412/日本共産党の大ウソ30-志位和夫綱領解説02。

 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のうち、不破哲三の研究に依拠するという<ネップ>に関する叙述、つまりネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」(「」はp.179より引用)ということについての叙述を、要約・部分引用しながら紹介する。
 ・レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。(p.173-4)
 志位(したがって不破)によれば、レーニンが「深い試行錯誤から抜け出し」「国際情勢の変化」を「的確に見定めた」ことは、1920年11月の「ロシア共産党モスクワ県会議」での「わが国の内外情勢と党の任務」と題する演説で示された。レーニン全集31巻415頁に掲載されており、つぎのような文章を含む。
 ・「われわれがロシアの反革命の企てをみな粉砕し、西欧のあらゆる国々と正式の講話締結をかちとった」ことから、「われわれが息つぎを獲得」しただけではなく、資本主義諸国の包囲の中で「われわれの基本的な存立をかちとった新しい一時期を獲得した」ことが明らかだ。
 これを含むレーニン演説を、志位(不破)はつぎのように理解・解釈する。
 ・レーニンは、ロシア革命の勝利のためには「国際的勝利」(=秋月によると「世界革命」、つまり全欧州レベルでの「社会主義革命」の勃発と勝利)が必要と考えていたが、戦争の結果はそれをもたらさなかったけれども、資本主義諸国の包囲の中で「ソビエト・ロシアが存立していく条件」は闘いとった。「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった、という「新しい一時期」になった。
 以上、p.174-5。志位(不破)は、そのあとすぐに続けてこう書く。
 ・「新しい時期」に入ったと「見定めた以上、方針も変えることが求められ」る。レーニンは「やがて」、「多くの分野で」の「路線転換の仕事に取り組むようにな」る。
 志位によると、不破著/レーニン第7巻は、レーニンは上の1920年11月の「転換」を「契機にして」、「レーニンの理論活動が"夜明け"を迎えた」と書いている、らしい(別途確認はする)。
 さて、以下がネップに関する叙述だ。
 ・1921年3月の「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じ、そういうもとで「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられて、レーニンは「経済政策の大転換を始め」る。
 ・1921年3月に開始され5月ぐらいからその政策は「新経済政策(ネップ)」と呼ばれるようになる。まずは、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行。/「現物税」を払っても農民に残る「余剰」部分は「大きくなるはず」だった。
 ・だが、「余剰」部分はどう処理するのかという「大問題」が生じる。レーニンは最初は「市場経済とたたかいながら生産物を交換」するという方式を考えたが「うまくい」かず、余剰の処理・生産物交換は「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・上の「経験をふまえて」レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。以上、p.177-8。
 志位によると、この報告による「新しい現実に直面」してのその転換した新しい「路線」の内容は、つぎのようなもので、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」ものだった、という。
 ・「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」。
 そして、志位は、この会議での「討論」(レーニン全集収載)にも見られるように反対・不満も多かったが、レーニンは「懇切ていねいに説得的に」反論し、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかにし」た、とする。
 以上のあとで、すでに今回の冒頭で記したように、志位は、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」とする。
 以下(次回以降)で、不破哲三文献やレーニン全集そのものに立ち入る。
 また、前回に紹介したのは、クロンシュタットの「反乱」の前に発生していたタブロフ県地方での<農民反乱>中の(それを鎮圧するための、レーニンも許容したとみられる)トゥハチェフスキーらの「命令(指令)」の内容だが(この反乱自体に志位和夫の綱領解説は言及していない)、1920年の秋から約一年間のレーニン・ロシア共産党(ボルシェヴィキ)、そしてロシアに関する情勢あるいは諸事実にも、併せて言及する(なぜなら、不破哲三と志位和夫は具体的にロシアで生起した諸事情・事件等々の「現実」を「認識」したうえで書いているのか、という大きな疑問があるからだ)。
 1920-21年というのは、日本の大正9年-10年。
 不十分だが、年表的なものを掲載する。のちに補充していく。
 1917年8月/ケレンスキー臨時政府、憲法制定会議の選挙・招集予定を発表。
 1917年9月/レーニンがフィンランドから「蜂起」=「権力奪取」を促す手紙。
 1917年10月/ロシア10月「革命」。
 1918年2月/ブレスト・リトフスク条約でドイツと停戦。
 1918年3月/社会民主労働党・ボルシェヴィキ派から「ロシア共産党」へと名称変更。
 同/ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法発布。
 1918年5月/チェコ軍団反乱。成人男子を兵役招集、「赤軍」の始まり。
 1918年8月/ブレスト・リトフスク条約の補足条約締結。
 1918年11月/トイツ降伏により第二次大戦終結。
 1919年3月/コミンテルン(国際共産主義者同盟)結成。
 1919年春~/コルチャーク、デニーキンらの攻撃、「白軍」との戦闘(内戦)。
 1920年1月/ベルサイユ条約発効・国際連盟成立。
 1920年2月/ドイツで「国家社会主義労働者」党(ナツィス党)発足(改称)。
 1920年4月/ロシア・ポーランド戦争始まる。
 1920年8月 ?/タンボフの農民「反乱」始まる。
 1921年2月/クロンシュタットの「反乱」始まる。
 1921年3月/クロンシュタットの「反乱」鎮圧される。。
 同/ロシア共産党(10回党大会 ?)がネップ政策導入を決定。
 同/ロシア・ポーランド間でリガ条約。
 1921年6月 ?/タンボフの農民「反乱」鎮圧される。
 1921年7月/モンゴル「革命」。
 同/中国共産党創立。
 1921年10月/レーニン、<戦時共産主義>につき、「誤り」を認める。
 1921年12月/ワシントン会議による4カ国条約。日英同盟廃棄。
 1922年2月/チェカ廃止。同様の機能の「ゲ・ペ・ウ」発足。
 1922年3月/ロシア共産党第11回党大会。
 1922年7月/日本共産党結成=コミンテルン日本支部。
 1922年12月/ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。

1411/日本共産党の大ウソ29-レーニン時代の毒ガス等。

 「大ウソ26追」のさらに追加たる性格をもつが、番号数字を改める。
 前回の最後に書いたのは、今回の伏線でもある。
 一 岩波書店刊行のロバート・W・デイヴィス〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(1998)p.239以下は、1920年8月に始まった<タンボフ県の農民反乱>-指導者の名から「アントーノフ運動」ともいう-に対する中央政府=党中央の命令・指令類の全文又は主要部分を紹介している。これらは「チェーカー〔秘密警察〕報告」を掲載する、1994年刊行のKrest'yanskoe vosstanie という書物(史料集 ?)によるらしい(p.437の注記参照)。
 上の反乱は「恐るべき無慈悲さ」で鎮圧された(p.238)。タンボフ県ソヴィエト議長・政府全権代表・トゥハチェフスキー(タンボフ赤軍司令官)は連名で、1921年6月11日付の「命令第171号」を発した。内容は、以下のとおり。p.239-p.240による。
 「一 自分の名前を明言することを拒否する市民は裁判なしで即座に処刑される。
  二 武器が隠されている村の居住地では人質がとられ、もし武器が引き渡されなければ人質は銃殺刑に処せられる。
  三 もし隠匿された武器が発見されたときは、その家族のうちの年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる。
  四 住居に匪賊を隠している家族は逮捕され県外に追放される。その財産は没収される。その家族の年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる…。
  六 匪賊の家族が逃亡した場合には、その財産はソヴィエト権力に忠実な農民のあいだで分配され、住居は焼き払うか取り壊される。
  七 この命令は厳格にそして無慈悲に遂行されるべし。」
 この命令について「知っていておそらくそれに反対しなかったレーニン」(p.242)は、ブハーリンに対して鎮圧に関する報告書を送ったが、トゥハチェフスキーらの処置は「全く便宜的なもので正しい」とし、報告書につぎの書き込みをした(p.242による)。
 「ブハーリンへ--秘密。大いにうろたえた罰として一行一行読み通したのち、これを返却せよ。/〔1921年〕八月一七日 レーニン。」
つぎに、上記の「命令第171号」の翌日、同年6月12日に以下の「簡潔第二の命令」が発せられた。著者は「より一層恐ろしいもの」と形容する。p.240。
 「一 匪賊が隠れている森林は毒ガスで浄化される。その際、毒ガスの雲が森林全体に広がって、隠れているものすべてを皆殺しにするよう注意深く準備するものとする。
  二 砲兵監は必要数の毒ガス弾と必要な専門家を直ちに送るものとする。
  三 軍部隊の指揮官はこの命令を断固として精力的に遂行する。
  四 実施された処置を報告すべし。」
 この毒ガス使用命令がどの程度実施(現実化)されたかははっきりしないが、著者はつぎのように書く。p.241。
 「毒ガス命令の実際の適用についての証拠はいくぶん曖昧である。しかし軍のある文書ははっきりと、一つの郷で五九の化学兵器を投下したことに言及している」。
 二 以上は、「命令(指令)」の具体的内容の紹介。岩波書店刊行の本による。
 タンボフの農民反乱については、上のデイヴィスの書から、とりあえず次の二つの興味深いことを知ることができる。
 第一に、この反乱が鎮圧され収束したのは1921年7月末で、レーニンによるネップ政策の導入決定(党大会、1921年3月)よりも後だ、ということだ。また、この時点で、3月の決定(=現物税の採用)はこの地域では実施(現実化)されていなかった、ということも分かる。以上、p.245。
 第二に、<タンボフの農民反乱>の「綱領」はエスエル(社会革命党)の理念に強く影響されたもので、①憲法制定会議の開催・自由選挙、②出版の自由、③土地の社会化、を要求していた、とされる(p.244)。逆にいうと、これらはボルシェヴィキ政権のもとでは実施されていない、又は保障されていないという実態があったわけだ。
 また、「食糧とその他の必需品は協同組合を通じて供給される」などの経済政策を反乱農民側は主張した。そして、「この経済分野の提案は多くの点でネップと共通していた」とされる(p.244)。
 食糧の供給は<戦時共産主義>のもとでは基本的に、農民からの(余剰部分の)直接徴用(徴発)とその都市住民への配給によっていた。これを<ネップ>によって改めたのだったが、同様の施策の要求はすでに反乱農民側に見られ、中央政府・党中央は当初の時点ではこれを拒否していた、ということになる。
 デイヴィスの叙述に戻ると、こうある。p.244。
 タンボフの歴史家たちによれば、「アントーノフのネップ」は「決してあらわれなかった」。「タンボフ農民の闘争は『レーニンの』ネップの導入を刺激した」。歴史家たちのこの論じ方は「説得的」だ。
以上、岩波書店刊行の本による。レーニンらボルシェヴィキは、「大ロシア」国民との間で、国民を敵として「戦争」をしていた(「内戦」)。常識的な意味での政治も行政も、存在しない。

1404/日本共産党の大ウソ27-02-不破哲三・平凡社新書02。

 不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)は、「ソ連とはいかなる存在だったか」という節見出しのもとで、レーニンについて、つぎのように書く。日本共産党2004年綱領のレーニン関係部分を説明していることになろう。
 この欄は<反共デマ宣伝>を意図してはいないので、これまでと同様に、客観的に、日本共産党・不破哲三らの文章も引用または紹介する。
 ・日本共産党は「ソ連の歴史を見るとき」、「レーニンが指導した初期の時代と、スターリンの指導に移って以降の時代」とを、「はっきり区別」している。
 ・「レーニンは、…革命のあと、経済的には遅れていたロシアを社会主義への道に導くために、真剣な努力を行いました」。
 ・「初期、とくにイギリス、日本など14の資本主義諸国が軍隊を送り込んだ内戦の時期には、『戦時共産主義』などの誤った模索もあ」った。
 ・だが、「戦争終結のあと、内外の諸政策の抜本的な転換をおこない、内政面では、市場経済を通じて漸進的に社会主義に進む『新経済政策=ネップ』路線を、対外面では資本主義諸国との平和共存および周辺の諸民族の独立の尊重を基本とする外交路線をうちだし、それを基本路線として社会主義の道にふみだし」た。
 ・「しかし、不幸なことに」、「確立した路線にそっての前進を開始したばかり」の1923年にレーニンは「重い病に倒れ、翌24年1月、生涯を閉じ」た。
 以上、p.198。
 ここでは、「戦時共産主義」を「誤った模索」と明記していることのほか、レーニンの積極面として、①内政における「新経済政策=ネップ」、対外面での②「資本主義諸国との平和共存」と③「周辺の諸民族の独立の尊重」を基本路線としたこと、を挙げていることを、確認しておく必要がある。また、1923年には「確立した路線にそっての前進を開始した」とされていることも、関心を惹く。
 以上のあとはスターリンの時期の叙述だが、そのはじめに、「レーニンの最後の時期に」、つぎの点について、スターリンはレーニンと「激しい論争を交わしてた」と書かれていることも確認しておく必要があろう。
 すなわち、「国内の少数民族政策と党の民主的運営の問題について」。同じく、p.198。
 この欄では大きな第二の論点として「ネップ」導入は<市場経済を通じて社会主義へ>の路線の発見・確立だったのかを取り上げるが、その他の不破が上で言及しているような問題・事項についても、余裕があれば断片的にではあれ、論及する。例えば、資本主義諸国との「平和共存」 ?、「周辺諸民族の独立尊重」 ?(「国内の少数民族政策」 ?)。
 なお、このような日本共産党・不破哲三によるソ連またはレーニン・スターリンにかかる歴史の認識について、近年または最近の-いや1994年以降の-産経新聞社発行等のいくつかの<日本共産党研究>本は、きちんと批判的にとりあげているだろうか。反共産主義または「反共・保守」派の論壇は、日本共産党の主張・議論を詳しくかつ個別に反駁しておくことをしてきたのだろうか。相当に怪しく、心もとない。

1388/日本共産党の大ウソ25-日本共産党とレーニン。

 一 日本共産党2004年綱領(23回党大会採択)は、「1917年にロシアで起こった十月社会主義革命」なるものの存在とその肯定的評価を当然の前提として、こう書く。
 ・「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、…、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」 
 ・「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 ・「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、…にもかかわらず、…をともないながら、真剣に社会主義をめざす積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、…、国内的には、…、の道を選んだ。……、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、…重大であった」。
 この「市場経済を通じて社会主義へ」論は1994年(20回党大会)綱領では語られていないし、その際の不破哲三報告も、「ネップ(新経済政策)」に言及しつつも、上のようがな定式化をしているわけではない。
 だが、現綱領では「レーニンが指導した最初の段階」での「真剣に社会主義をめざす積極的努力」としか明記されていないが、不破哲三や志位和夫の文献を読めば明かなのは、レーニンによる「ネップ(新経済政策)」導入の肯定的評価と「市場経済を通じて社会主義へ」論が結合していること、端的には、レーニンこそが(「ネップ(新経済政策)」導入を通じて)「市場経済を通じて社会主義へ」という<新>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と日本共産党は理解していることだ。
 かつまた、現綱領も日本共産党の基本的方針として明記しているように、「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、ロシアにかぎらないすべての国にあてはまる社会主義国建設の方法の少なくとも一つとして、レーニンが「ネップ(新経済政策)」期に明らかにした、と日本共産党は理解していることも重要だ。
 これらについてはあらためて、不破哲三、志位和夫等(他にもいる)の文献に即して引用、紹介しなければならない。
二 前回に述べたように、佐藤経明・現代の社会主義経済(岩波新書、1975)が「1921年春のネップへの転換」について、「主として現実政治上の考慮から」もしくは「農民層の離反という政局を避ける実際政策上の必要から」なされたと分析していることは、納得できるものだ。
 ここでの論点の結論をかなり先取りすることになるが、佐藤経明は明確に述べてはいないものの、私の理解では、「現実政治上の」・「実際政策上の」考慮・必要とは、つまるところ、レーニンを最高指導者とするボルシェヴィキの「権力」を維持し続けること、にある。
 レーニンにはもともとかなり融通無碍(プラグマティック)なところがあり、いわゆる二月革命のあとの「社会主義革命」の必要性・可能性、あるいは「社会主義革命」は世界的にほとんど同時に起こりうる(起こるべき)かそれとも一国でも可能か、について、一貫した「理論」的立場があったのではない。あるいは、彼の元来の「理論」と彼が実際に行ったことが合致しているわけではない。
 「10月革命」による権力奪取とその後の「内戦」およびいわゆる「干渉戦争」の期間におけるその権力の維持の間もそうだが、レーニンに明確な「社会主義」建設の<一般的理論>などはなかったのであり、レーニンには、ただ<社会主義>へと進まなければならない、あるいは<資本主義>からの基本的離反を維持しなければならない、という強い<意欲>または<執念>があったにすぎない、と思われる。
 ネップの導入もまた、自分自身と自らの党の政治的権力を維持するための方策であり、それ(出発点は農民からの徴税方法の変更)が引き起こした農民・農業分野に限られない全産業または<経済>全般への影響をレーニンが予見していたわけでは全くなかった、と思われる。
 レーニンによる「市場経済から社会主義へ」という<理論>の発見・確立というのは、日本共産党の不破哲三らのみが主張している、戯けた(タワけた)奇論に他ならない、と考えられる。
 これらについては、あらためて書くことがあるだろう。
 三 上に<レーニン自身と自らの党の政治的権力の維持>と書いた。
 専門的研究者による、石井規衛・文明としてのソ連(山川出版社、1995)は、もっと詳細かつ緻密に分析して、「古参党員集団の寡頭支配」の維持について語っている(p.123あたり以降)。「10月革命」以降に入党した「新参」党員を含まないようなボルシェヴィキ権力の確保・維持という趣旨だ。
 古参党員の中には、トロツキーもスターリンもいる。また、党員の<粛清>は、レーニン期のボルシェヴィキ(共産党)も行ったことで、スターリンに始まるわけではまったくない。また、いわゆる「白軍」あるいは諸<反乱>の指導者の殺戮がレーニンの指示または指導によって行われたことも当然だ(例えば田中充子の無知ははなはだしいが、そのような共産党員や同シンパはいくらでもいるだろう)。
 以上では簡単すぎて言及とすらいえない。ネップ自体についても詳しい石井上掲著にはここではこれ以上立ち入らない。
 では、自らと共産党の<権力>への執着はそもそも何に由来するのだろう。
 ここでコミュニズム(共産主義)自体、ロシアにおけるボルシェヴィズム自体を持ち出さずにいかないものと思われる。
 「執着」では軽すぎる。<狂熱>と言ってよいだろう(資本主義打倒と社会主義・共産主義を志向する)強い信念・固着、これは完全には理解できそうにないが、とりわけレーニンの頭に「取り憑いて」いたもののようだ。
 ヴォルコゴーノフ(生田真司訳)・七人の首領-レーニンからゴルバチョフまで/上(朝日新聞社、1997)は、ネップに関係してつぎのように書く(p.182-3)。
 レーニンは「戦時共産主義」の「生みの親」で、共産主義へのその「性急」さを「誤り」とも認めたが、「資本主義の復活」だとして「商業」の承認に反対した。「レーニンはボルシェヴィキによって引き起こされた経済的破綻で壁際まで追い込まれ、新経済政策に同意せざるをえなくなった」。「そして、それを私たちは革命的弁証法の素晴らしいお手本であると呼んでいたのだ! かくして、あらゆる失敗、犯罪、不首尾は弁証法で正当化された」。
 ここには、私の印象とはやや異なるレーニンのネップ観が示されてはいる。
 それよりも、ヴォルコゴーノフがレーニンまたはレーニン主義全般について以下のように述べていることは、上記のレーニンの<狂熱>に少しは関係しているように見える。
 ・「マルクス主義のロシア的異説、ロシア的バリエーション」である「レーニン主義」は、「歴史的状況」・「専制主義的帝国の特殊性」・「ロシア人の心理的タイプの独特さ」だけではなく、「レーニンのまったく独特な特性にも」よって形成された。
 ・「その特性の肝心なところは、彼自身が事業の権化」で、「ボルシェヴィズムとレーニンの個人的な運命が、彼個人の意識のなかだけではなく、多くの人たちの社会意識のなかで統合されていた」点にある(以上、p.175)。
 ・レーニンは「マルクス主義を土台に、世俗的宗教」を、「新しい宗教」を作り出した(p.177)。
 ・「レーニン主義はテロルなしには考えられない」。「レーニン主義の擁護者」はテロルは「国内戦の現実」・「特殊な状況」から生まれたと言うが、テロルは「レーニン主義の過酷な哲学から生まれた」。その哲学の「非人道性の恐ろしい刻印は、レーニン主義と呼ばれる現象の恥ずべき標識として永遠に残るであろう」(p.185)。
 これらは、スターリンについての文章(訳文)ではない。具体的な事象・手紙・電信類を著者は記しているが、言及は(キリがないので)省略する。
 四 たまたま最近に手に取った文献から、レーニンが欲した<権力>維持の内容やその「執念」にかかわる部分に言及した。
 石井規衛とヴォルコゴーノフの述べる内容、述べ方が違っていても、この欄の執筆者にとっては、全く問題はない。レーニンとその時代、スターリンとの差違等のそれら自体を研究しようとしているわけではなく、日本共産党のレーニン(とくにスターリンとの対比における)「解釈」が誤っているだろうこと、少なくとも決して常識的なものでは全くない奇論であること、を示せば足りるからだ。
 日本共産党の幹部と同党党員「研究者」以外に、冒頭で紹介したようなレーニン等についての理解・解釈を示している者はいない。
 一人の日本共産党党員「研究者」らしき者が、党員であることを隠したまま、日本共産党の上記の理解・解釈をふくらませた「研究書」らしきもの、幼稚で杜撰な本、客観的には「研究」書の体裁をとった<プロパガンダ>本、あるいは日本共産党にとっての<アリバイ作り>本を、大月書店から刊行していることを、つい最近に知った。もちろん、いずれ論及する。 

1386/日本共産党の大ウソ24-ネップと佐藤経明著。

 一 社会主義・共産主義について、あるいはさらに広く国家・社会・人間・政治・文明等々を論じたかつての人々、歴史家・哲学者等々の人文・社会系の多少とも名が残っている人々の文献のうち、1989-91年以降に発行されたもの、正確にはそれ以前に書かれたものは、もはやほとんど「無効」なものではないかと思っている。
 ルソーもカントもマックス・ヴェーバーも-あくまで例示だが-、20世紀にコミュニズムが引き起こした現実、数千万人以上の人間を何の咎なくして殺戮することができる国家・体制と政治家・人間がいた、という事実・現実を知らないままで何らかの「哲学」や「思想」を語った人々は、その無知のゆえだけでも決定的に限界をもった人々だと思われる。「歴史」的遺物としての文献であり、その意味での「古典」なのであり、現在と将来を分析し展望するためには、社会・国家そして人間についての決定的に重要な考察が欠けている書物を残した人々だと思われる。ソ連で起きたこと、カンボジアで起きたこと、中国で起こっていること、等々の現実を知らないで、人間や社会・国家をまともに論じられるはずはない。
 ソ連について、あるいはロシア革命について、ソ連の崩壊、かつて「社会主義(を目指す)国家」として誕生したものが現在は消失している、という事実・現実を知らないままでソ連・ロシア革命あるいは社会主義・共産主義について何かを語った諸文献もまた、ほとんど「無効」だろう。
 E・H・カーやドイッチャー等々が書いたものも、そのようなものとして扱われる必要がある。
 したがって一方ではまた、ソ連の解体(あるいはかつてのソ連の実態・真実)を知ることがないままでコミュニズム(共産主義)の本質、「悪魔」の思想であることを剔抉していた人々はきわめて高く評価されなければならない、ということにもなる。
 二 上のことからして1989-91以前の和洋の文献は、コミュニズム(共産主義)や日本共産党について記述するために原則としては用いない、または限界があるものとして読む、という心づもりでいる。
 唐突だが、佐藤経明・現代の社会主義経済(岩波新書、1975)という本がある。
 上の原則からして1975年の本を敢えて読むつもりはなかったが、広大な書庫で(冗談だ)たまたま手にとって捲ってみたら、目次に「ネップ(新経済政策)」という「柱」があるのを知った。「社会主義」経済の一般的「理論」が主題かと感じていたが、ロシア・ソ連の「経済」がむしろ主対象のようだ。
 1925年生まれの佐藤経明という経済学者の書物を読んだことは(このように所持していても、)ない。
 しかし、岩波書店発行の本ではあるが(言わずもがなかも)、この人、この本がネップについて述べていることは、結論的部分の一つにおいて、秋月瑛二がすでにネップとその時期のレーニンの「考え」について形成している基本的な理解の仕方と同じだ。
 その部分のみを引用する。
  「1921年春のネップへの転換」は、「主として現実政治上の考慮からおこなわれ、十分理論的に基礎づけられはしなかった」(「したがって、転換の理解のしかたもさまざまであった」)(p.57)。
 「戦時共産主義からネップへの転換は、農民層の離反という政局を避ける実際政策上の必要から迫られたものであって、理論上の転換を十分にはともなわなかった。レーニンも例外ではなかった」(p.62)。
 これらの文章に、少なくとも今のところ、完全に同意する。
 不破哲三(やその教条的追随者・志位和夫)のようにレーニンが書いたもの(レーニン全集)から当時のロシアの現実、さらには共産党自体の方針=厳密にはレーニンと同一ではない、を理解しようとするのは決定的に誤っている。
 ましてや、不破によるレーニン文献の読み方・「解釈」が恣意的で(・政治的に偏向した)誤ったものだとすれば、日本共産党は、悲惨な、歴史を無視した「綱領」のもとで存在し、活動していることになる。
 以上の二文の詳細は、今後に、この欄で記述していくことになる。
 三 あらためて日本共産党の綱領によるレーニン/スターリン理解、レーニンの「市場経済から社会主義へ」論を紹介することから再 ?開しようと思っていたが、研究論文を執筆しているわけではないので、すでにそのような記述スタイルを採っているが、以下でもかなり思いつくままの叙述を続けていく。
 追記。1.兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞出版、2005)に論及したが、この本の文庫版(新潮文庫、2008)は単行本の内容そのままだと思っていたところ(「新版」とかがタイトルにないので)、少なくとも言及した最後の方の部分は完全に書き改められていることに気づいた。雑誌「幻想と批評」所載のものやこの半年間に月刊雑誌掲載のもの(最初のものは珍しくなく感心もしなかったが、最後に「カウツキー」に触れているたぶん二本めは面白い)など、元日本共産党員・「共産主義研究家」の兵本達吉はやはり参照に値する。
 2.たぶんまだこの欄では明記していないが、ネップ期前後の時期については、前回にも記したようにかなりの文献に目を通しているので、タンボフ県とかクロンシュタットという地名もすでに馴染みのあるものになっている。だが、今回のテーマではない。
 3.ネップあるいは社会主義ロシア初期の農業・農民政策に関する研究書に、例えばつぎのものがある。
 ・梶川伸一・飢餓の革命-ロシア10月革命と農民(名古屋大学出版会、1997)。
 ・梶川伸一・ボルシェヴィキ権力とロシア農民(ミネルヴァ書房、1998)。
 ・梶川伸一・幻想の革命-十月革命からネップへ(京都大学学術出版会、2004)
 すべてを熟読したわけではないが、不破哲三らのイメージするネップやレーニンとは雲泥の差違のある、ロシアの現実が記述されていると思われる。
 梶川伸一は1949年生まれ、少なくともかつて金沢大学教授。政治的立場を推測すれば反日本共産党の人物だと思われるが、月刊正論、月刊WiLL等の「保守」系雑誌では名前を見たことがない(これらの雑誌は広範な<反・共産主義>の媒体では全くない、ととくに最近は感じる)。
 日本共産党の、とくに「知識人」意識のある党員たちは、現実を正視する姿勢と「良心」があるならば、上の一つでも概読したうえで、自らの党の綱領におけるレーニン像、レーニン時代のロシア像を真摯に再考してみたらどうか。
 なお、秋月瑛二のこの欄の最近の日本共産党批判はネップやロシア史の「研究」を意図してはおらず、日本共産党の「大ウソ」、つまり同党の理解・主張が決して事実に即していないだろうことを不破哲三ら自体の文献およびいくつかの(できれば多くの)文献によって例証すれば足りる。「いくつかの」文献には、今回の佐藤経明のものも含めて、すでに多少は言及している。

1379/兵本達吉・メドヴェージェフ・レーニン03-日本共産党の大ウソ24予③。

 一 メドヴェージェフが引用する次のレーニンの文はメドヴェージェフ著(1917年のロシア革命)p.136-7に掲載されている。
 「われわれは、社会主義にたいするわれわれの見地全体が根本的に変化したことを、みとめないわけにはいかない」。
 このレーニンの文章は、既述のとおり、メドヴェージェフが注記するとおりレーニン全集第33巻p.494にある。また、既述のように、この文章はレーニンの「協同組合について」というタイトルのプラウダ発表論稿の中にある(執筆1923.01、発表1923.05)。
 レーニン等共産主義(社会主義)者の文章を読む際には、例えばスターリン等にあてての「秘密文書」か、国民一般に呼びかけるような文章なのか等に気を配っておく必要があるが(現在の日本共産党もそうだが、「使い分け」があることに留意する必要がある)、発表媒体からして、これはロシア共産党の党員むけの文章のようだ。
 さて、上の(ここでの)いわゆるレーニン引用文の意味については、上の言葉はどういう文脈の中で書かれているのかを多少とも吟味する必要がある。
 「協同組合について」全体を抜粋的にでも紹介しようと思ったが、不破哲三が同・レーニンと『資本論』7巻-最後の三年間(新日本出版社、2001)の中で不破のレーニン理解に有利な方向でこの文献を用いていることに気づいた(だが、決定的または最重要のレーニン文献だとは見なされていないと解される)。
 したがって、これに立ちいることは、「あまり生産的・建設的な問題ではなさそう」と前回に書いてしまったが、日本共産党の大ウソ・大ペテン、そして不破哲三のレーニン文献の読み方の<こじつけ・強弁>ぶりに直接に関係してしまう。
 そこでここでは、兵本達吉が前提とするような読み方はできないだろうこと、あるいは一方では、レーニンが「統制(計画)経済を断念して、市場社会主義とも言うべきものに社会主義の構想を改めた」証左にすることもできないことを示しておくにとどめることにする。
 レーニンはこの論稿で「協同組合」の社会主義国建設にとっての重要性から説き初め、一般的なそれでなく、農民が(社会主義の方向を支持しつつ)能動的に参加する「協同組合」が必要であり、その能動的参加のためには農民の<文化・教育>程度の向上を図らなくてはならないと強調する。
 上のいわゆるレーニン引用文を直前の文と直後の文とともに引用すれば、つぎのとおり。
 「いまではわれわれは、協同組合のいかなる成長も(さきにあげた「小さな例外」はあるが)、われわれにとっては社会主義の成長と同じである、と言ってさしつかえない。われわれは、社会主義にたいするわれわれの見地全体が根本的に変化したことを、みとめないわけにはいかない。この根本的変化は、以前はわれわれが重心を政治闘争、革命、権力の獲得などにおいていたし、おかないわけにはいかなかったが、いまではこの重心が平和な組織的・『文化的』活動にうつされるまでにかわってきている、ということである」。
 もともとネップ期に農民問題に関して書かれた文章だという特性があるとともに(したがって、社会主義国建設論一般を述べるものでは全くない)、直後の文章から明白であるように、「われわれの見地全体が根本的に変化した」というのは、レーニンや共産党の闘争の「重心」が「政治闘争、革命、権力の獲得など」から「平和な組織的・『文化的』活動」に移った、ということを意味していると考えられる。
 数行のちにレーニンは、「国内の経済関係にかぎれば、いまではわが国の活動の重心は、実際に文化活動にうつっているのである」とも書いている(p.494)。
 こうした文章を、レーニンが「統制(計画)経済を断念して、市場社会主義とも言うべきものに社会主義の構想を改めた」ことを示すものとして取り上げることはできないが、しかしまた、ネップはあくまで「一時的な後退」にすぎない等と、あえて反駁する手がかりにする必要もない、と言うべきだろう。
 以上で、「気になること」の解消は終わり。
 二 メドヴェージェフ・1917年のロシア革命(現代思潮社、1998)p.138も、レーニンの上とは別の文献を引用して、レーニンが「一定の文化水準」・「文明」が(当時のロシアには)必要である旨を語っていたことを述べている。
 レーニンがこの時期に「文化」問題に論及していたと叙述するのは、詳細な叙述ではないが、以下のオクスフォードの英国人学者・共産主義史研究者のつぎの文献も同様だ。
 David Priestland, The Red Flag - A History of Communism (Grobe Press / NY、2009)。
 =ドイツ語版/David Priestland, Weltgeschichte des Kommunismus - Von Franzoesischen Revolution bis Heute (Anaconda/Koeln、2014)。
 和訳すれば、①前者(本来のタイトル)は「赤旗-共産主義の歴史」、②後者のドイツ語に訳された本は「共産主義の世界史-フランス革命から今日まで」になる。
 この本にはこの回以降も言及するので、すでに言及したい箇所はいくつかあるが省略。
 「文化」問題への言及のある数行は、仮訳すれば、つぎのとおりだ(英文とドイツ語文の双方を見たが、予期に反して、文法構造も単語のニュアンスも同じではないので困る)、①p.101、②p.140。
 「1921年の3月にこの企ては挫折した。レーニンは、ネップというセミ資本主義は長期間続くだろうことを受容せざるをえなかった。彼は今や述べた、労働者階級が『文化革命』を経過してはじめて、社会主義を実現することができる、と。その際に彼は、教育と労働倫理の習得を想定していた」。
 他にもコミュニズム(共産主義)やロシア革命の歴史に関する、ソ連崩壊後に出版された、欧米の研究者による英語・ドイツ語文献をいくつか所持していて、少しは目を通しているが、上のDavid Priestlandのものも含めて、ほとんどすべてが、邦訳されていない、と見られる。
 日本共産党批判につながる可能性がある外国のコミュニズム関係文献を和訳して出版したくはない、あるいはそれを躊躇する、という日本の出版界、あるいはそれを含む知的環境・風土の異常さを感じてしまうのだが(この旨は前にも書いた)、少しは考えすぎだろうか。

1378/兵本達吉・メドヴェージェフ・レーニン02-日本共産党の大ウソ24予②。

 一 兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞社、2005)のp.443-4の論旨は、レーニンはネップ導入期に「社会主義に対する…見地全体が根本的に変化した」ことを認めており、これをまるで「社会主義の構想」自体を改めたかの如く理解する者もいるが、メドヴェージェフも述べるようにそのようなレーニン解釈は誤りだ、ということだ。メドヴェージェフはレーニンが「ネップにロシア革命の救いを求めようとした」との「馬鹿げた議論にクギをさし」た、というわけだ。
 しかし、兵本が言及するメドヴェージェフの、同・1917年のロシア革命(現代思潮社、1998)p.136-の叙述をそのように読むのは、相当に無理があるようだ。
 ・兵本がメドヴェージェフに言及する直前のメドヴェージェフの文章は、前回にも紹介のとおり「正統派マルクス主義の枠内でのネップの立案と、その根拠付け」はレーニンの「最も重要な理論的業績」だった、というものであり、つまりネップという経済政策を重要な理論的業績」と評価(?)するものだ。したがって、レーニンを(いかなる立場からであれ)擁護したい者・党派にとっては、その次のいわゆるレーニン引用文と併せて、スターリンとの違いを示す論述として、援用されてよい可能性があるだろう。
 ・兵本がメドヴェージェフから引用する「ネップへの移行はいうまでもなく、逸脱であった。しかし、ロシア共産党とソヴィエト・ロシアを破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱であった」という部分は、つぎのようにも解釈できる。すなわち、「ネップへの移行」は「逸脱」ではあったが、「…破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱」であって、<誤りからの逸脱>、つまり正しい(=適切な)選択だった、と。
 ・兵本がつぎに引用する、「ネップへの移行は1917年から1922年のロシア革命の終焉である」という部分は、つぎのようにも解釈できる。すなわち、たんに「ネップへの移行」期以降は、「1917年から1922年」までの時代とは区別されるべきである、という意味だと。換言すれば、「ネップ」期はレーニンらの権力掌握(憲法制定評議会選挙の無視も含む)と「戦時共産主義」の時期とは異なる新しい時期だ、という意味だと。
 「ロシア革命の終焉」とは社会主義(路線)の終焉を全く意味しておらず、「1917年から1922年のロシア革命」の時期が「終焉」したことを意味し、要するにロシア<社会主義>の歴史上の「1917年から1922年」が終わった(新しい時代に入った)ということを意味している、と十分に読める。
 ・兵本が引用していない、その直後のメドヴェージェフの文章は、「国家と党はまだきわめい慎重に、あまり自信なく改革の新しい道に足を踏み入れつつあった」(p.137)というものだ。ここでは、ネップについて「改革の新しい道」が語られている。
 以上のことからすると、メドヴェージェフの叙述を、ネップに「ロシア革命の救いを求め」る議論に「グギをさし」たものと理解・解釈するのはかなり無理があると思われる。
 もちろん、メドヴェージェフはレーニンはネップ導入によって「市場社会主義」とか「市場経済」とかの従来とは質的に全く異なる路線を選択した、などとは書いていない。
 だが、メドヴェージェフは、ロシア「社会主義」の歴史を淡々と叙述したもので、ソ連崩壊後に来日したという彼が日本共産党のネップ理解や主張を知っていたのかどうかは知らないが、日本共産党のような議論を意識して、ネップやレーニンに論及しているわけではないように読める。
 二 メドヴェージェフは、兵本引用部分のあとで、つぎのようにも叙述している。
 レーニン/ネップを、どのような立場からであれ、全面的に擁護しているわけでも、全面的に非難しているわけでもないことは明らかだろう。
 兵本達吉から離れるが、彼なりに、レーニン/ネップの意味を理解・総括しようしているのだと思われる。
 ・レーニンは「社会主義について、社会的関心と個人的関心を、また大規模産業と小規模産業とを調和させる社会として述べ」はじめた。彼にとって、「あらゆる種類や形態の協同組合の発展は資本主義の発達ではなく、社会主義の発達」だった(p.137-8)。
 ・レーニンは「ロシアを社会主義的に発展させる新しい戦略的計画」を「より綿密に練り上げる」ことができなかった。レーニンが書いたのは「草案」で、独仏の社会民主主義者が自国について示した道よりも「はるかに複雑なものになる」ことが予想できた。
 ・ネップは「相対的後進国」でかつ「資本主義に包囲された条件の下で資本主義と社会主義を同時に発展させようとする計画」だったので、「最大限の慎重さ、用意周到さを必要」とした。しかし、それが「現実的計画」だった。この計画は「1927年まで基本的に遂行され。明確にされた」。
 ・「1920年代の現実的条件の下では、ネップこそがソヴィエト・ロシアにとって容易ではないが最良の繁栄への道を開くもの」だった。
「1920年代末」にスターリンはこれを放棄した(以上、p.139)。
 抜粋引用の紹介終わり。
 メドヴェージェフは旧ソ連国家内部での「反体制知識人」だったらしい。かつて「反体制」的だったとしても実際のソ連共産党支配に反発していただけのことで、社会主義・共産主義(理論)一般を批判・否定していたと即断することはできない。
 また、監訳者の一人・沼野充義によると、ソ連崩壊の前後を通じてメドヴェージェフの「理想主義と批判精神」は変わっていないという(p.214-217)。
 沼野充義自身の「立場」・考え方に言及するのは避けるが、こうしたことも併せて考えると、メドヴェージェフが上のようにレーニン/ネップについて語っていることは、レーニン/ネップを肯定的に評価しすぎている、あまりにも「美化」しすぎている、と感じられる。だが、そのことは、ここでのテーマではまだない。
 三 では、いわゆるレーニン引用文はいかなる意味のものだったのか。あまり生産的・建設的な問題ではなさそうだが、行きがかり上、次の回で扱う。

1375/兵本達吉・メドヴェージェフ・レーニン01-日本共産党の大ウソ24予①。

 一 2016年6/08の「日本共産党の大ペテン・大ウソ17」で、「気になること」をつぎのように記した。
 「兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞出版、2005)も関係文献で「28項」の「ロシア革命は何であったか?」はネップにも分かりやすく言及している。
 しかし、p.443には、レーニンは「1922年秋頃」になるとトーンに「明らかな変化」を見せ、「我々は、社会主義に対する我々の根本的見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない」と書いた、としている。この発言または文章は、不破哲三の上掲書にも(進んで紹介しそうなものだが)引用・紹介されていない。レーニンのいつの、(全集掲載ならば)レーニン全集各巻のどこに載っているのだろうか」。
 兵本はメドヴェージェフの名を挙げているが、この当時はメドヴェージェフのどの文献であるかが分からなかったし、兵本の引用するレーニンの文章がメドヴェージェフからの再引用であることも知らなかった。
 日本共産党の「大ペテン・大ウソ」と直接の関係はまだないので、その予備編として、上の「気になること」を解消しておく。
 二 ロイ・A・メドヴェージェフ(1925~)には、所持しているものに限ると、次の三冊の邦訳著がある。最初の二つはタイトルも似ている。
 ①1917年のロシア革命〔石井規衛=沼野充美監訳、北川和美=横山陽子訳〕(現代思潮社、1998〔原著1997〕)。
 ②10月革命〔石井規衛訳〕(未来社、1989〔原英訳著1979〕)。
 ③スターリンと日本〔海野幸男訳、対談・訳注佐々木洋〕(現代思想新社、2007)。
 兵本達吉・上掲書が言及している書物は上の①で、かつ兵本が引用しているのと同じレーニンの文章が上の①のp.136-7にある。
 すなわち、「正統派マルクス主義の枠内でのネップの立案と、その根拠付け」はレーニンの「最も重要な理論的業績」だった。これについては「レーニン自身が『…われわれは、社会主義にたいするわれわれの見地全体が根本的に変化したことを、みとめないわけにはいかない』と記している」。
 また、このレーニンの言葉がレーニン全集第33巻のp.494に載っていることも、メドヴェージェフは(邦訳書のp.185の)注で記している。
 三 さっそく(といってもこの投稿文執筆からはだいぶ以前に)、レーニン全集の該当頁も読んでみた。兵本は引用の直前に「1922年秋頃」という時期を記しているのでこの頃のレーニンの文章かと誤解していたが、1923年1月に書かれた「協同組合について」と題するものの一部で、1923年5月に新聞「プラウダ」に掲載されている。1921年3月に「ネップ」導入が決定されており、翌年1924年1月にレーニンは死ぬ。
 このような時期の記述等も全く無駄ではないと思うが、困ってしまうのは、兵本達吉、メドヴェージェフにおいて、レーニンの文章の「解釈」あるいは理解の仕方が同じではないと見られることだ。また、私はロシア語版ではなく日本語版のレーニン全集33巻で読むしかないが、、ロシア語原文を見たのであろうメドヴェージェフの「解釈」が果たして全くの誤りがないのかも、そもそもは問題になりうる。
 これら三者の、日本語(または日本語に訳された)のテクストを見ても、日本語文の「解釈」あるいは「読み方」という問題が伏在することを感じざるえない。「言葉」を媒介とする意味理解とは、なかなか厄介なことだ。
 まずは、同じ日本語の書き手であるはずの兵本達吉が上のレーニンの文を引用しつつ述べていることの「趣旨」に私なりに論及してみよう。
 最後にはレーニンにたどりつく予定で、レーニンの「市場経済」の捉え方という、元来のテーマの検討に役立つかもしれない。
 四 兵本達吉(・日本共産党の戦後秘史のp.443-4)の文章を順次抜粋すれば、つぎのようなものになる。
 ①「1921年」には、レーニンはネップを「農民への一時的譲歩、一時的後退」だと考えていた。
 ②「1922年秋頃になるとレーニンのトーンは「明らかな変化」を見せた。今度は「問題は、戦術ではなく戦略」で、「一時的譲歩」ではなく「本腰を入れた、長期にわたる」政策の問題であり、「革命的方法から『改革的方法』への移行」だった。
 ③「そしてレーニンは、『我々は、社会主義に対する我々の根本的見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない』と書いている」〔これがここでのいわゆるレーニンの引用文〕。
 ④今日、「レーニンのこの一言に社会主義最後の救いを求めようとする人たちが殺到している。日本にも大勢いる」。/「レーニンは、『戦後共産主義』に見られる統制(計画)経済を断念して、市場社会主義とも言うべきものに社会主義の構想を改めた、というわけである」。
 ⑤メドヴェージェフは以下のように書いた。「ネップへの移行はいうまでもなく、逸脱であった。しかし、ロシア共産党とソヴィエト・ロシアを破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱であった」、「ネップへの移行は1917年から1922年のロシア革命の終焉である」
。〔秋月注記-メドヴェージェフの上記①のp.137。兵本の引用と微細な差異があるが、無視してよい程度だろう。〕
 ⑥こう書いてメドヴェージェフは、「レーニンがネップにロシア革命の救いを求めようとしたなどという馬鹿げた議論にクギをさしている」。
 ⑦レーニンは、「資本主義復活に対する警戒心」と「ネップがあくまでも一時的で。戦術的な後退であること」を隠さなかった。
 ⑧1921年党大会でレーニンは、「経済的ネップは、決して政治的ネップを意味するものではない」と語り、一方で党内分派禁止等の「民主集中制」を組織原則とする「一枚岩的党」の建設の基礎を築いた。/ネップは「市場経済への一歩後退」を意味したが、「政治的には」レーニン・スターリン移行期に、党は「軍隊的規律を持った強固な組織」に変わった。
 以上。ここですでに、日本共産党によるレーニンの経済政策や社会主義建設論の理解の仕方に触れたくはなる。兵本達吉は明らかに、日本共産党の考え方(<レーニンは正しく、スターリンが覆した>)を意識して、上のことを述べていると間違いなく推測できるからだ。
 だが、既述のように、日本共産党、正確にはおそらく不破哲三やその追随者・志位和夫らがレーニンが<市場経済を通じて社会主義へ>の道を明らかにしたとして論及する文献は、レーニン全集の上記部分ではない。
 ともあれ、兵本がレーニンにとってネップは<市場経済を通じて社会主義へ>の道を採用したものでは全くなく、「一時的な後退」にすぎない、というレーニン解釈を採っていることは明らかだ。
 この当否にはここでは触れない(むしろ結論は同じだとも言える)。
 但し、このレーニンの引用文を、およびこれへの論及を含むメドヴェージェフの文章を、兵本達吉の理解の仕方を基礎づけるものとして援用する、あるいはそのように「解釈」するのは、多少は無理があるようにも感じられる。
 <この部分、さらに続ける。>

1374/日本共産党の大ペテン・大ウソ23。

 一 ようやく二つのうちの第一の論点を終える。
 1991年のソ連崩壊前後の日本共産党の文献を通じて(もちろん全てではないが)、①1994年第20回党大会による綱領改定に際して、(とっくに、1930年代に)ソ連は社会主義国ではなくなっていた、という同党の歴史理解を明らかにした、ということが分かり、②日本共産党は、ソ連崩壊後の一時期はソ連(・ソ連共産党)の「覇権主義」等を厳しく批判しながらも、ソ連が社会主義国だったのか、つまりは社会主義国をめざす国家や共産党に対していわば<(国際共産主義運動の)仲間うち>の問題として「覇権主義」等の誤りをしてきたのか、社会主義国ではもはやないソ連に対して「覇権主義」等を批判してきたのかを曖昧にしてきたことも分かった。そして、③上の②の答えは1991年以前は明らかに前者、つまり<(国際共産主義運動の)仲間うち>の問題としての指摘だったにもかかわらず、ソ連崩壊以後は何と、<30年にわたってソ連を批判し続けてきた>ということを、日本共産党は「正しい」(1994年7月以降は、崩壊したのは社会主義ではない)と言い張る根拠にする、という大ペテンを仕掛けたのだった。
 1994年に至って、このようなソ連の性格に関する見地の根本的な変更、従来とは全く反対の理解をすることについて、不破哲三は、1994年の党大会で日本共産党中央委員会幹部会委員長として、「旧ソ連社会にたいする私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもので、今日から見れば明確さを欠いていた」とだけ、反省(?)の言葉を述べたのだった(2016.05.23秋月「…の大ペテン・大ウソ09」参照)。
 二 第二の論点は、すでに少し立ちいっているのだが、ソ連の歴史について日本共産党がいう、スターリン以降に「誤った」(レーニンは「正し」かった)という旨の1994年以降の日本共産党による<歴史の評価>は適切なのか、だ。
 「…大ペテン・大ウソ」の第01回めでは、「日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。/このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=「社会主義」、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか」、と書いた。
 この問題は第一の論点と異なり、関係文献をきちんと読んで分析すれば(客観的に把握すればよい)というものでは必ずしもない。なぜなら、レーニンとスターリンの異同そのものの問題として言えば、共通性もあれば異質性もあったということになるはずなのであり、問題は<社会主義>の方向に向かっているか(「正し」かったか)、逆(又はそうでない)方向に向かっている(「誤って」いたか)という、<評価・論評>の世界に入ってしまうからだ。
 しかし、<社会主義>にとっていずれが「正しい」(正しかった)かどうかは秋月の関心ではないし、そもそもが<社会主義(・共産主義)の方向>とは何かを論じるつもりも資格もない。
 厳密に論理的にいえば、かりにマルクスが理解し主張したのが<正しい>社会主義だったとすれば、第一に、レーニンもすでに「誤って」いた(=突き詰めれば、ロシアの1917年10月にあったのは「社会主義革命」ではなかった)、したがって「誤って」いた点ではレーニンもスターリンも同じだ、という理解・論評も成り立つだろう。
 一方、第二に、かりにマルクスが理解し主張したのが<正しい>社会主義だっとして、レーニンもスターリンもともに「正しく」社会主義の道を歩んだ、ソ連の崩壊(とソ連存続中に生じた事象)は、マルクス主義自体が含む歴史的な必然の表れだった、という理解・論評も成り立つはずだ。
 上の二つ捉え方は、マルクス・レーニン・スターリンの三者の基本的な異同に着目すれば、次のように図示できる。
 A 〇-×-×。 B 〇-〇-〇。
 これらと対比すれば、日本共産党の理解・評価の仕方は、次のようになる。
 C 〇-〇-×。
 また、実際に主張者があるどうかは知らないが、ロシアに「社会主義革命」が起こったにもかかわらず、レーニンはとくに「ネップ(新経済政策)」の導入によって市場経済・「資本主義」への方向へと道を切り換えて社会主義への道を踏み外した、これをスターリンが本来の社会主義への道へと戻した、という理解・論評もありうる、と考えられる。かりにマルクスの理解・主張は「正しい」ものだという前提に立てば、この理解・論評は次のように図式化できるはずだ。
 D 〇-×-〇。
 すでに論及し始めているここでの論点は、上のC(日本共産党の評価)の適否だ
 マルクスとの間の対応関係を捨象してしまえば、より正確には、あるいは厳密には、レーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という道を、ロシアに特有のかつ一時的戦略としてではなく、社会主義到達方法論の一つとして<理論的に>選び、少しは<現実に>も実施したのか(そして、スターリンはそれを覆したのか)、ということになる。
 はたして「市場経済を通じて社会主義へ」という道が(とりわけマルクスから見て)一部にせよ、あるいは一般論としても、ありうるのかどうか、という問題は関心対象ではない(<社会主義>社会を夢みている人々は真摯に議論していただきたい)。
 要するに、日本共産党の理解・主張の適否は、レーニンはロシアに特有のかつ一時的戦略としてではなく、社会主義建設方法論の一つとして「市場経済を通じて社会主義へ」という道を主張しかつ実践した、と評してよいのかを、とりわけレーニン関係文献を通じて検討することによって明らかになるはずだ、と言えるだろう。
 以下、あらためてこの作業を続けていく。
 <つづく>

1349/日本共産党の大ウソ・大ペテン17。

 今回は「休憩」して、若干のメモを残すにとどめる。
 1 不破哲三・レーニンと「資本論」7ー最後の三年間(新日本出版社、2001)p.90-196(とくにp.120-2)、レーニン全集第33巻(大月書店、1959/1978の26刷)のとくにp.79-109。この二つを比較・確認しつつ読んだ。
 不破、そして志位和夫、そして日本共産党の<大ウソ>・<大ペテン>は明らかだ。
 何回かあとに詳しく述べる予定だ。
 気になること。兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞出版、2005)も関係文献で、「28項」の「ロシア革命は何であったか?」はネップにも分かりやすく言及している。
 しかし、p.443で兵本は、レーニンは「1922年秋頃」になるとトーンに「明らかな変化」を見せ、「我々は、社会主義に対する我々の見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない」と書いた、としている。この発言または文章は「市場経済を通じて…」論に有利であるかにも見えるが、進んで引用・紹介しそうなものなのに、不破哲三の上掲書には引用・紹介されていない(と思われる)。レーニンのいつの、(全集掲載ならば)レーニン全集各巻のどこに載っているのだろうか。1922年秋の11月にはコミンテルン大会でのレーニン生前最後の演説があったりするが、稲子恒夫・ロシアの100年(既出)の年表類でも上の旨の発言・文章は確認できない。
 2 ソ連について触れようとしつつ、いつから「共産党」になったのか、ソ連はいつ結成されたのかと迷うことがある。つぎのようにメモしておく。
 ①「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党(ボルシェヴィキ)」への名称変更-1918.03.
 ②「共産主義インターナショカル(コミンテルン)」<第三インター>結成大会-1919.03(→最後の第7回大会は1935.07-08)
 ③「ソヴィエト社会主義共和国連邦」結成-1922.12. 
 *1924.01、レーニン死去
 ④「ロシア共産党(ボ)」から「全連邦共産党(ボルシェヴィキ)」への改組-1925.12.
 3 日本共産党、不破哲三らの書いていること、主張していることは時期により大きくまたは微妙に異なっているので、いつの時期の文章か、とりわけいずれの綱領(改定)に関する報告等であるのか、に意識・留意しておかなければならない。以下もメモ。
 現在の日本共産党(宮本→不破→志位)は1961年綱領から出発していると理解しているので、それを含めてその後、以下の8つの綱領があったことになる。
   ①日本共産党1961年綱領 1961.07第08回党大会
   ②1973年、同・一部改定 1973.11第12回党大会
   ③1976年、同・一部改定 1976.07第13回臨時党大会
   ④1985年、同・一部改定 1985.11第17回党大会
   ⑤1994年、同・一部改定 1994.07第20回党大会
   ⑥ 2004年、同・全面改定 2004.01第23回党大会
   *④と⑤の間に<ソ連崩壊>があった。
以上。
 

1347/日本共産党の大ペテン・大ウソ16。

 二(つづき)
 E・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)には、ネップ(新経済政策)とその時期について、次のような叙述もある。抜粋的に紹介・引用する。
 ・ネップが目指した「農民との結合」の必要性を疑う者は数年間は稀で、1921-22年の「悲惨な飢餓」ののちの農業の回復等によりネップの正当性は立証された。しかし、危機が去って「戦時共産主義」の窮乏が忘れられてくると、「社会主義」からの徹底的な離脱への不安感が生じた。結局「誰かが」農民への譲歩の「犠牲を払った」のであり、「ネップの直接、間接の帰結のあるものは、予期も歓迎もされない」ものだった。2年以内に、新たな危機が生じ、農業以外の全経済部門に影響を与えた。(p.70)
 ・工業への影響は「主として消極的」だった。重要な修正はあったが、レーニンのいう「管制高地」である大規模工業は「国家の手に残った」。
 ・ネップ導入後、想定された現物的商品交換は売買に変化したため、商業過程への「公的統制」が図られた。それはむしろ「ネップマン」=新商人階級の活動を容易にし、小売商業が活発になり、「繁栄の空気が資本の裕福な方面」に戻ってきた、ネップの受益者には、「未来はバラ色」に見えた。(以上、p.71-73)
 ・しかし、「ネップのより深い含意が、相互に関連する危機」を伴って現れた。最初は、狂気じみた価格変動による「価格危機」だった。農産物価格の高騰・工業製品価格の下落は「労働の危機を招来」し「失業」を生んだ。雇用者は労働者に現金支払いではなく「現物支給」をした。
 ・労働組合と雇用者又は経済管理者の間の交渉で紛争解決が図られたが、労働者の不満は「赤い経営者」=かつてのツァーリの将校あるいはかつての工場経営者・工場所有者に向けられた。彼らは高い給料をもらい、工業経営・政策への発言権も持ち始めた。彼らへの非難は、<革命>とは逆転した状況への「嫉妬と憤慨の徴候」だった。(以上、p.74-77)
 ・「失業の到来」は労働者に、「ネップ経済におけるその低下した地位を最も強く意識させた」。ネップは農民を厄災から救ったが、「工業と労働市場」は「混沌寸前の状況」だった。「革命の英雄的旗手たるプロレタリアートは、内戦と産業混乱の衝撃の下で、離散、解体、極端な数的減少」を被っていた。「工業労働者はネップの継子になっていた」。
 ・「金融上」の危機が別の側面だった。ルーブリの価値が急落したため、1921年末の党協議会決定により「金ルーブリ」を貨幣単位とする紙幣等が発行されたものの、実際上の効果は少なかった。こうした状況の結果として、1923年に「大きな経済危機」が起き、労働者の不満は同年の「夏から冬に、不穏な状態とストライキの波をひきおこした」。(以上、p.77-79)
 まだ叙述は続いていくが、このくらいにしよう。
 1923.03.03-レーニン、3度目の脳梗塞により言語能力を失う。
 1924.01.21-レーニン死去。
 省略しつつも、かつ上の部分以降には全く言及しないものの、かなり長く引用・紹介したのは、日本共産党は、レーニンが「ネップ(新経済政策)」導入を通じて、「市場経済を通じて社会主義へ」という<新しく正しい>路線を明確にした、この「正しい」路線をスターリンが覆した、と理解しているからだ。
 また、既に紹介のとおり、志位和夫は、1921年10月のレーニン報告は「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった、「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した、「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方」は、「画期的な新しい領域への理論的発展」で、レーニンが「情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ、などと書いているからだ。
 志位和夫がエピゴーネンとして依拠している不破哲三の本も一瞥しているが、いわゆる戦時共産主義とレーニンの死の間の時期、ネップ期とも言われることもある時期・時代の歴史は、上のコンパクトなカーの書物においてもすでに明らかなように、日本共産党や志位和夫・不破哲三が描くような単純なものではない。
 また、個人、例えばレーニンが「頭の中」で考えて手紙等で記したことと、党の会議での発言内容(・提出文書)と、そして党(ボルシェヴィキ)の公式・正式決定として承認されたもの(レーニンの原案であれ)は、党にとってもロシアにとっても意味は同じではないと思われ、それぞれ区別しておく必要があると思われる。
 上の点での厳密な史料処理はなされていないと思われるし、また、「観念」・「意識」と「現実」は違うはずだ、という基本的な点が日本共産党、不破哲三らにおいてどう理解され、方法論的に処理されているのかについても疑問がある。
 つまり、いくら<考え>あるいは<党決定>がかりに適切な(正しい)ものであったとしても、<現実>とは異なるのであり、前者に応じて後者も変わったということを、別途叙述または論証する必要があるだろう。
 不破哲三らはレーニンが何と言ったか、書いたかの細かな(文献学的な)詮索をしているが、かつての、1920年くらいから1924年くらいまでの現実の具体的な歴史の変遷を細かく確認する作業は怠っているように見える。
 そして、レーニンの生前と死後とで政策方針と現実が質的に大きく変わったかのごとき単純化は、誤っている、とほとんど断じてよいものと思われる。なお、レーニン生前の、「革命」後の党決定等には、スターリンも党幹部として関与している。
 三 ネップ期に限っても別の文献を紹介することはできるが、当然のことだが、ネップ期の前や10月「社会主義革命」まで(さらには2月「ブルジョワ革命」まで?)遡らないと、レーニンとロシア(・ソ連)についての理解は困難だ。
 今のところ所持している関係文献に、以下がある。すでに言及しているものも含む。
 ①稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)。
 ②D・ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/上・下(1995、日本放送出版協会)。
 ③M・メイリア(白須英子訳)・ソヴィエトの悲劇-ロシアにおける社会主義の歴史1917~1991/上・下(1997、草思社)
 ④R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(2000、成文社)。
 ⑤クルトワ=ヴェルト・共産主義黒書/ソ連篇(2001、恵雅堂出版/文庫版もある)。
 ⑥E・H・カー・ボリシェヴィキ革命1~3(1967・1967・1971、みすず書房)。
 ⑦E・H・カー(塩川伸明訳)・ロシア革命-レーニンからスターリンへ1917~1929年(1979、岩波現代新書)。
 カーの書物はソ連解体前のもので、それ以降に明らかになった史料は使われていない。
 カーは、「ソ連型社会主義」が<失敗>したと理解したとすれば、その原因をスターリンに求めるのだろうか、「革命」後のレーニンに求めるのだろうか、それとも「ロシア革命」自体に求めるだろうか、あるいはマルクス自体に?
 上の諸文献を利用しつつ、さらに、レーニンとスターリンの異同をめぐる日本共産党の<大ペテン>・<大ウソ>に論及していくこととする。

1343/日本共産党の大ペテン・大ウソ15。

 一 ネップ(新経済政策)の問題は、現在の日本共産党綱領の正当性にもかかわるじつに微妙な?問題だ。
 現2004年(23回党大会)綱領はつぎのように書く。
 ・「今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、…、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、…、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」 
 ・「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。」
 上の第一の観点から、現在の中国(シナ)とベトナムの両「社会主義」国の歩みは日本共産党によって正当化され、また第二点のように、日本共産党自身も「市場経済を通じて社会主義に進む」と明言している。
 しかして、この「市場経済を通じて社会主義へ」論は1994年(20回党大会)綱領では語られていないし、その際の不破哲三報告にも、-「ネップ(新経済政策)」への言及はあるが-このような定式化は見られない。
 そして重要なのは、レーニンによる「ネップ(新経済政策)」導入の肯定的評価と「市場経済を通じて社会主義へ」論が結合していること、いや端的には、レーニンこそが(「ネップ(新経済政策)」導入を通じて)「市場経済を通じて社会主義へ」という<新>路線を明確にした(この「正しい」路線をスターリンが覆した)、と日本共産党は理解していることだ。
 志位和夫・綱領教室第2巻(2013、新日本出版社)によれば、こうだ。
 1921年10月のレーニン報告は、「市場経済を正面から認めよう」、「市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しよう」という路線を打ち立てていくもので、「『市場経済=敵』論と本格的に手を切る」ものだった。「そこで本格的な『ネップ』の路線が確立」した。レーニンの主張には反対もあったが、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかに」した。
 「レーニンがこの時期に確立した『市場経済を通じて社会主義へ』という考え方は、…、画期的な新しい領域への理論的発展」で、「レーニンが、…、情勢と格闘し、模索しながらつくった」ものだ。(以上、p.178-9)
 志位はこの考え方を「マルクス、エンゲルスの理論にもなかった新しい考え方」だとしている(p.179)。不破哲三の文献で確認しないが、志位和夫は「不破さんの研究に依拠しつつ」説明すると明記しているので(p.176)、不破哲三においても同じ理解がされているのだろう。
 そうだとすると、「マルクス、エンゲルスの理論」の「画期的な新しい領域への理論的発展」であるよりむしろ、マルクス主義からの<逸脱>ではないか、という気がしないでもない。<マルクス・レーニン主義>とは言うが、レーニンはマルクス主義から逸脱していたのではないのか。とすれば(マルクスを基準にすれば)、レーニンがすでに「誤って」いたのではないいか(とすれば、日本共産党1922年創立自体も、正しい科学的社会主義理論?からの逸脱の所産ではないか)。
 だが、そこまで問題にするのは避けて、レーニンは<正しく、ネップ路線を導入した>のかに焦点をあてよう。これが日本共産党の主張するようなものでなければ、それは現日本共産党の綱領の正当性、および同党の現在の存在意義そのものにかかわることは、変わりはない。
 二 ネップについてはすでに言及してきており、稲子恒夫の認識も、その一部は紹介している。
 上記の志位和夫の著はE・H・カーのロシア革命-レーニンからスターリンへ、1917~1929年〔塩川伸明訳〕(岩波現代新書、1979)に肯定的に言及しているが、同じカーの書物のレーニンとネップとの関係についての部分は、次のようなものだ。
 ・「戦時共産主義」の評価の差異は「ネップ」の評価にも反映し始めた。1921年3月の危機的状況の中で「戦時共産主義のより極端な政策からネップへの転換」が満場一致で受け入れられたときでも「分岐は棚上げされた」のであり、全面的「和解」はなかった。//
 ・「戦時共産主義が社会主義に向かう前進としてではなく、軍事的必要に迫られた逸脱、内戦の非常事態に対するやむをえざる対応として考えられる限り、ネップは強要されたものではあるが遺憾な脱線からの撤退であり、…より安全でより慎重な道への回帰であった」。//
 ・「戦時共産主義が社会主義のより高度な点への過度に熱狂的な突進-確かに時期尚早ではあったが、それ以外の点では正しかった-として扱われる限り、ネップは、当面保持するのが不可能だとわかった地歩からの一時的撤退であり、その地歩は早晩奪還されるべきものであった。レーニンが-彼の立場は必ずしも一貫してはいなかったが-、ネップを『敗北』、『新たな攻撃のための撤退』と呼んだのは、この意味においてであった。」//
 ・「第10回党協議会においてレーニンが、ネップは『真剣かつ長期にわたって』意図されていると言ったとき(だが、質問に答えて、25年という見積りは『あまりに悲観的』であると付けたした)、ネップは戦時共産主義という過誤の望ましくかつ必要な修正であるとの見解と、ネップ自身が将来修正され、とって代わられるべきものであるとの見解の両方に言質を与えたのである。」//
 ・「第一の見解の言外の前提は、後進的農民経済と農民心理を勘案することが実際に必要であるという点であった。第二の見解のそれは、工業を建設し、革命の主要な拠点をなしている工業労働者の地位をこれ以上悪化させないことが必要だということであった。」//
 ・1920-21年の難局の解消への感謝で当面は覆われていた「分岐は、2年後の更なる経済危機と党内危機の中で再び現れるのである。」/
 以上、p.52-53。//は原文では改行ではない。
 E・H・カーの1979年の本ではまだ見逃されたままの資料・史料があったかもしれない。だが、それにもかかわらず、上の叙述を読んだだけでも(他にもネップ言及部分はある)、主として農業・対農民政策をとってみるだけでも、レーニン時代とスターリン時代とに大別する発想をすることは、複雑な歴史を(都合のよいように?)単純化するものではないだろうか、という疑問が生じる。
 <つづく>
 

1342/日本共産党の大ペテン・大ウソ14ー稲子恒夫・山内昌之。

 二(さらにつづき)
 レーニン時代の「真実」が明らかになってきていることについて、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)はつぎのように書いている。
 不破哲三や日本共産党は、新情報を知っているのかどうか。あるいは知っていても無視しているのかどうか。
 「レーニンはソビエト政権初期の問題のほとんど全部に関係していたが、日本ではソ連の否定的なことは全部スターリンの『犯罪的誤り』であるとして、彼〔スターリン〕一人のせいにし、レーニンはこれと関係がなく、彼にも誤りがあったが、彼〔レーニン〕は基本的に正しかったとするレーニン無関係説が有力である。この説はレーニン時代の多くのことを不問にしている
./〔改行〕
 今は極秘文書が公開され、検閲がないロシアでは、レーニンについても…多くのことが語れるようになった。//
 たとえばスパイ・マリノーフスキーを弁護したレーニンの文書、臨時政府時代のドイツ資金関係の一件書類、レーニン時代の十月革命直後と戦時共産主義時代のプロレタリアート独裁と法、一連の人権侵害-報道、出版の自由の否定、宗教の迫害、数々の政治弾圧、赤色テロ、とくに…1921年8月の「ペトログラード戦闘組織団」事件の真実が明るみに出ている。/〔改行〕
 ボリシェヴィキーは中選挙区比例代表という民主的選挙法による憲法制定会議の選挙で大敗すると、1918年1月に憲法制定会議の初日にこれを武力で解散するクーデターをしたことが、今日非難されており、ニコラーイ二世一家の殺害も問題になっている。//
 ソ連時代は食糧などの徴発と食糧独裁、農民弾圧がまねいた飢饉と数多くの緑軍(農民反乱,…)など戦時共産主義時代の多くのことが秘密だった。この秘密が解除され,数多くの事実が判明した。その上戦時共産主義時代のペトログラードの労働者と一般市民の生活と動向が判明した。//
 ネップへの政策転換をうながしたのは、クロンシュタートの反乱だけでなく、…労働者農民の支持を失ったソビエト政権が存亡の危機にあったことである。党指導部はひそかに亡命の準備をしていたことまで明らかになった。//
 したがってレーニンの秘密が解けた今日、ロシア史研究は資料が豊富になった彼の時代の真実にあらためてせまる必要があるだろう。」
 以上、p.1006-7。//は原文では改行ではない。
 三 山内昌之は、ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(1995、日本放送出版協会)の末尾に、この書物の「解説」ではなく「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」と題する文章を寄せている(p.377-)。 
その中に、つぎの一文がある。
 ・「もっと悲劇的なのは、レーニンの名において共産主義のユートピアが語られると同時に、二十世紀後半の世代にとっては、まるで信じがたい犯罪が正当化されたことであろう。//
 この点において、レーニンとスターリンは確実に太い線で結ばれている。//
 スターリンは、レーニンの意思を現実的な<イデオロギーの宗教>に変えたが、その起源はレーニンその人が国民に独裁への服従を説いた点に求められるからだ。」
以上。p.378、//は原文では改行ではない。
 他にも、山内は以下のことを書いている。
 ・「 …赤軍は、タンボフ地方の農民たちが飢餓や迫害からの救いを求めて決起した時、脆弱な自国民には毒ガスの使用さえためらわなかった。1921年4月にこの作戦を命じた指揮官は、後にスターリンに粛清されるトゥハチェフスキーであった。もちろんレーニンは、この措置を承知しており、認めてもいた」。
 ・「歴史が自分の使った手段の正しさを証明するだろうというレーニンの信仰は、狂信的な境地にまで達していた」。
 以上、p.378。
 山内は上掲書を当然に読んだうえで書いているのだろう。
 上掲書/上・下には、レーニンの「真実」が満載なので、のちにも一部は紹介する。
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 さて、日本共産党現綱領が「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、…、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」と明記してしまっている歴史理解は、すでに<大ウソ>または自己の出生と存在を正当化するための<大ペテン>であるように見える。
 もう少し論点を整理して、レーニンとスターリンとの違い・同一性に関する諸文献を見ていこう。その際の諸論点とは、さしあたり、以下になる。
 ①ネップ(新経済政策)への態度。レーニンは<正しく>これを採用したが、スターリンは<誤って>これを放棄したのか。
 ②<テロル>。スターリンは1930代半ばに「大テロル」とか称される、粛清・殺戮等々を行なったとされる。では、レーニンはどうだったのか。この点でレーニンはスターリンとは<質的に>異なっていたのか。
 なお、日本共産党は、レーニンとスターリンの対立点は社会主義と民族(民族自決権)との関係についての見方にあった、ということを、少なくともかつては(覇権主義反対としきりに言っていた時期は)強調していたかに見える。但し、近年から今日では、この点を重視していないように見える。
 もっとも、レーニンはスターリンの危険性を見抜いていてそれと「病床でたたかった」という<物語>を、今日でも述べているようだ。以下では、この点にも言及することがあるだろう。
 <つづく>

1341/日本共産党の大ペテン・大ウソ13-稲子恒夫は批判する②。

 二(つづき)
 稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)より。
 <スターリン主義の起源>との見出し-
 ・「誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが、…、スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基盤に生まれた。//
 レーニンが『共産主義の左翼小児病』で認めたようにロシアを実際に統治していたのは、共産党中央委員会政治局という小さい寡頭集団だったし、彼は独裁が個人独裁を生む危険についても警告していた。//
 レーニンは首相を兼ね、常時クレムリンにいたから、政治局内で単なる同輩中の第一人者ではなかった。レーニンの党は彼を中心に高度に中央集権的に組織されていた。この状況は党中央の絶対化と官僚主義、党とレーニンの同一視、指導者個人の崇拝と礼賛を生み出していた。//
 スターリンは書記長、組織局員として党中央の実務と中央地方の党組織をにぎるから、党崇拝とレーニンの聖人化、個人崇拝を生みだして、レーニンの後継者である自分の大売り出しに成功した。」/〔改行〕
 以上、上掲書p.1009。//は原文では改行ではない。
 以下、簡単なコメント。
 <レーニンは正しく、スターリンが道を誤った>という理解はまったく示されていない。端的に抜き出せば、「スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基盤に生まれた」とされる(p.1009)。また、レーニン時代にすでに「党中央の絶対化と官僚主義、党とレーニンの同一視、指導者個人の崇拝と礼賛」があり、スターリンはさらに「党崇拝とレーニンの聖人化、個人崇拝」を生んで、自分のために利用した、とされる。
 とすれば、以上のかぎりでは、レーニンもスターリンもほとんど変わりはないのではないか。
 また、これまでこの欄ではほとんど言及していない論点だが、レーニンは<ネップ>に積極的ではなかった、という重要なことが指摘されている(p.1008)。
 この点は、また別に論及するが、レーニンが<市場経済を通じて社会主義へ>という「正しい」道を歩んでいたにもかかわらず、スターリンがこれを覆したとする、現在の日本共産党の公的な歴史理解と真っ向から対立するものであり、日本共産党の歴史理解を大きく疑問視させるものだ。
 少なくとも、ロシア・ソ連に関する専門家・学者たちのすべてが現在の日本共産党のように理解しているわけではない。日本共産党、不破哲三の主張・理解も、あくまで一つの「説」にすぎない。
 稲子恒夫は、上掲書の「はしがき」で、つぎのような旨を語っている。
 ソ連の末期にはスターリン時代の多くのことが明らかになったが、「レーニン時代はまだ霧につつまれていた」。1991年以降にレーニン時代を含む極秘文書を含む資料が多数出るようになった。(はしがきp.3-4)
 そして、つぎのように続ける。
 「公開の文書のなかには、レーニンの意外な真実を伝えるものがあり、レーニンは基本的に正しかったが、スターリンは重大な誤りをおかしたというたぐいの、レーニン論の根本的な見直しが必要になった」。(はしがきp.4)
 不破哲三は、「科学」と「真実」を追求するのならば、<スターリン秘史>だけではなく、<レーニン秘史>もまた著すべきだろう。
 <つづく>

1340/日本共産党の大ペテン・大ウソ12-稲子恒夫は批判する①。

 一 最初に設定した疑問の第二は、「日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=『社会主義』、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか」、というものだった。最後の<それ>にかかわる論点には、既に長らく言及した。
 さて、現在の2004年綱領は、レーニンとスターリンについてつぎのように明記している。「世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中で書かれている。
 「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」 
 この綱領以前の段階で、1980年代後半には、レーニンの時期とスターリン(以降)の時期を区別する必要が、不破哲三らによって(そして日本共産党によって)語られてきた。
 「少なくない試行錯誤をともないながら」という限定はついているが、二つの時期を大きく簡単に区別することができるのか。
 この問題は<正・邪>の論評・評価にかかわるので、単純な<事実>認識の問題ではない。しかし、上のようにソ連の歴史を単純化できるのか、<ロシア革命>自体について、あるいは<新経済政策(ネップ)>等々について、これら等々とレーニンやスターリン等との関係について、種々の議論・歴史学上の検討成果がありうる。
 ロシア社会主義革命とレーニンを否定するということは、日本共産党を否定することに等しい。
 なぜなら、日本共産党は1922年に、ロシア「社会主義革命」を達成したボルシェビキ、のちのソ連共産党が中心として1921年に結成したコミンテルン(国際共産党、第三インター)の日本支部として創立されたからだ。
 日本共産党自体が、ロシア革命がなくコミンテルンもなければ、産まれていないのだ。 日本共産党が「共産党」と名乗り、創立年を(例えば1961年ではなく)1922年とするかぎり、ロシア「社会主義革命」と(かつての、少なくとも1922-35年の間の、コミンテルンの存在の正当性を絶対に否認することができない、という宿命にある。
 そして、ロシア「社会主義革命」とコミンテルン結成に主導的役割を果たしたのはレーニンだから、日本共産党はレーニンを(いまこの政党がスターリンについて行なっているようには)批判し否定することが絶対にできない。
 そのような日本共産党がレーニンとスターリンについて上のように現在主張している(認識している?)のは、そもそも身勝手な主張ではないのだろうか?
 ソ連の政治、法制、社会、歴史の専門家ではない秋月が、レーニン研究もスターリン研究も適切に行えるわけではないことは当然だ。
 しかし、いま日本共産党の主張しているように単純には言えないのではないか、と疑問視することはできるし、日本共産党が主張しているようには理解してはいないソ連(・ロシア)に関する学者・研究者もいる、という程度の指摘・紹介くらいはすることができる。そして、次のようにも言えるだろう。日本共産党は<大ウソ>をついているのではないか、と。
 二 さっそく、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)のうち、編著者自身の分析結果を示す文章の一部を引用・紹介する。
 稲子は、「日本共産党」と名指しはしないが、この党の「説」をこの著で批判していることが明らかだ。
 <レーニンの真実>との見出し-
 ・「スターリンの国家万能とレーニン無関係説は…、レーニンの革命前後の主張と『ウラーの国有化』とその結果の経済の混乱の実際にふれないで、彼〔レーニン〕の功績をもっぱら市場経済移行の新経済政策(ネップ)の開始から始める。//
 しかし、…というネップは…、クロンシュタートの反乱、エスエルが主張していたことであり、レーニンは乗り気でなかった。//
 しかも彼〔レーニン〕は生前最後の22.11.20の演説でネップを『後退のゼスチャー』と言い、新たな飛躍を宣言した。//
 このネップの中止を呼びかける演説は『レーニン全集』に新聞報道による要旨だけが載っており、全文はやっと1995年の…に公表された。//
 ネップは党の戦術(長期政策)ではなく、当面の戦略だからあいまいだった。」/〔改行〕
 ・「そのうえネップには政治の改革がなかった。//
 ネップとレーニン礼賛者はこの時期の…、報道の自由、出版の自由など政治的自由の否定、検閲の確立、教会の弾圧、多数の知識人の国外追放など、ネップにともなうプロレタリアート独裁の制度化にふれない。」/〔改行〕
 ・「さらにネップ時代の広範な政治犯罪と類推適用を認めた1922年刑法典へのレーニンの関与、流刑の復活、法律によらない都市からのネップの湯あか(ネップマン)の追放、彼らの財産没収というレーニンのいう経済的テロも無視できないだろう。」/〔改行〕
以上、稲子・上掲示書p.1008-9. //は原文では改行ではない。
 <稲子編著も含めて、つづく>
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