佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版、2008)を4/07夜までにp.245まで読み、あとは第六章のみ。全体の約3/4を了えた。
 この本の読書ばかりしている訳ではないので(仕事もある)、最初の方はもう忘れかけている。丸山真男に対する厳しいかつ明晰な批判は別の機会に触れよう。
 4/07に鷲田小彌太・「戦後思想」まるごと総決算(彩流社、2005)というのを買って第一部の3の最後、p.64まで(4の「天皇制、あるいはその政治と倫理」の前まで)一気に読んだ。佐伯著とともに戦後(思想)史を(も)扱う点で共通する部分があるが、鷲田著は直球一本の短い・断定的文章が連続している感じで、佐伯の文章、論理展開が直球・カーブ・シンカーあり、たまには捕手との相談あり、たまにはマウンドでの沈思黙考あり、という印象であるのと比べると、失礼ながら(比較する相手が悪いのか)相当に<粗い>。鷲田小彌太は決して嫌いな書き手ではないが。
 さて、佐伯啓思の上の本のほとんどは何と無く納得して読めるが、一点だけ気になることがある。それは、瑣末なことでもなさそうだ。
 p.19にこうある。「冷戦の崩壊は、社会主義に対して蜃気楼のような漠然たる希望を託した左翼の幻想を一晩で吹き飛ばした」。<左翼の幻想>はまだ残っていないかと問いたくなるが、この文はとりあえずまぁよいとしておこう。
 p.80の次の文章(要約)はどうだろうか。
 <「アメリカの歴史観」には「典型的な啓蒙主義的理念」、「西欧近代の進歩主義を代表する理念」がある。これは「左翼的思想」と言ってよく、少なくとも「無条件の進歩を疑うという西欧保守主義とは全く異なった思想」だ。そして、ソ連崩壊後はこの「左翼的思想」を掲げた国はアメリカになった。その「左翼的国家」との同盟に「国益を全面的に委ねる」日本の「保守派」は日米間で「価値を共有する」とまでいうが、これでは「何が保守なのか」分からなくなってしまう。>
 上の文章は気になりつつも読み続けていたら、p.239辺り以下(~p.243)にもこういう文章(要約)があった。
 <アメリカの「ネオコンの価値観」は「自由・民主主義」・「市場経済」・「隠されたユダヤ・キリスト教」。これらを日本人は「共有」していない。日本はアメリカの「啓蒙主義的なメシアニズムという進歩的歴史観」を「信奉」してもいない。にもかかわらず、小泉・安倍両首相は「価値観を共有している」ことを根拠として「日米関係」の「緊密化」を唱え、「保守主義者」がアメリカ的歴史観を支持するとは「何とも奇妙な光景」だ。アメリカ的歴史観は「東京裁判」に現れているが、その「東京裁判史観」を否定してきた「保守派」が「安易に、日米は価値観を共有している、などというべきではない」。>
 なかなか興味深い論点が提示されている。佐伯啓思が<グローバリズム>追従を批判する、<反米・非米>の保守主義者であることをここで問題視するつもりはない。かかる批判(矛盾・逆説の指摘)は<親米>保守派に向けられているのだろう(そういえば八木秀次は<親米>保守派を「現実的」保守とか称していた)。
 だが、日米間の<価値の共有>をこうまであっさりと切って捨ててしまうのはいかがなものか。
 佐伯啓思について気になるのは、ソ連崩壊によって社会主義・マルクス主義は「崩壊」してしまった、という強固な認識に立っているように見えることだ。p.243には、「マルクスが失権した後」、最「左」は「ヘーゲル」になり、この「ヘーゲルとコジェーブの進歩史観にもっとも忠実なのがネオコンのアメリカという事態」になった、とある。かかる「左」=「進歩主義」(のはずのもの)を日本の<左派>が批判し、<保守>が支持している、という「奇妙な光景」がある、というわけだ。
 いくどか書いたことがあるが、アジアには中国・北朝鮮という「社会主義」(←マルクス主義)を標榜する国々があり、「冷戦」は終わっていない。ソ連・東欧「社会主義」の崩壊により終焉したのは欧州(又は欧米)内での「冷戦」だ。日本には「日本共産党」という社会主義・共産主義社会を目指すことを綱領に明記する政党が国会内に議席を占め、佐伯啓思が所属する大学にも京都府委員会直属の日本共産党の「大学支部」がちゃんと?まだ残っている筈だ。
 日本は近隣に中国・北朝鮮という国々を置いて生きていかなければならない。その際に、中国・北朝鮮と欧米と、<価値観>が(相対的に)より近いのはどちらなのだろうか。
 むろん、佐伯が強調するように、アメリカ(や欧州)と日本は「価値観」が全く同じではなく、全く同じにすることもできない、ということはよく分かる。平均的日本人以上に、その点は私も強く感じるに至っている。アメリカ産の<戦後民主主義の虚妄に賭ける>とか書いたらしい丸山真男はバカに違いない、と考えている。
 だが、日本の政治家が近隣の「社会主義」国家(<侵略>国家・<拉致>国家だ)の存在を意識し、とくに<正規の軍隊>を持てないという憲法上の制約の中で、(中国・北朝鮮と比べての)アメリカとの<価値観の近さ>を強調し、<価値観外交>を展開する、あるいはインド等をも含めた<自由の弧>構想を描く(麻生太郎元外相)ということが、なぜ上のように厳しく批判されなければならないのか。
 政治・外交は戦略であり方便だ。全く同じ価値を共有していなくとも、アメリカと100%完全に異質の文化・価値を持っているわけでもなかろう。その場合に、中国・北朝鮮に対抗するために<価値観の共通性>を(むろん厳密な学者の議論としては問題があるかもしれないが)強調して、何が悪いのか。
 <戦後レジーム>の問題性・限界を意識していた筈の安倍晋三が、日本(人)はアメリカとべったり全く同じ価値観をもつ国(人)だなどと考えていたとは思われない。麻生太郎も同様。
 佐伯啓思の論理それ自体はよく理解できる(つもりだ)。西欧近代(進歩主義)の一方の鬼子のソ連が消滅して、もう一方の鬼子のアメリカが(かつてはソ連に隠れて分からなかった)進歩主義=「左翼」国家として登場している、という。
 上のこと自体はかりにそれでよいとして、しかし、佐伯啓思の眼(頭)には、アジアに厳然として残る「社会主義」国家、マルクス主義の思想潮流はどの程度の大きさをもって映っているのだろうか。<西欧近代>又は<自由・民主主義>の限界の露出のみが現代の(国家および思想の)状況だとは思われない。まだマルクス主義・「社会主義」との闘いは続いている。マルクス主義者・「社会主義」者は、<親>・<シンパ=共感者>も含めて、しぶとくまだ生き残っている、と私は考えている。彼らのいう<自由・民主主義>の欺瞞を暴くことも、また中国・北朝鮮における<自由・民主主義>の欠如を衝くことも、戦略的には何ら責められないのではないか。
 <西欧近代>に淵源をもつ本来は非日本的な<自由・民主主義>価値観の欺罔を批判することも大切だろうが、やはり<西欧近代>に発する<社会主義>的価値観と闘うことも依然として重要ではないか。究極的には、日本も属する<自由主義>を採るか、中国・北朝鮮が立脚する<社会主義(共産主義)>を採るか、であり、この対立は、反米か親米かよりもより重要な、より大きな矛盾なのではないか。
 とこう書いている私は「進歩主義」に毒されているだろうか。そうとは自覚していない。問題は、上の方で引用した言葉を使えば、ソ連の崩壊は「左翼の幻想を一晩で吹き飛ばした」と簡単に言い切れるかどうか、だ。この点の認識の違いが、佐伯啓思の一部の論理に違和感を覚えた理由だろう。
 追-二カ所、校正ミスを発見している。
 ①p.138-「共産主義ルネサンス」→正しくは「共和主義ルネサンス」。②p.170後から5行め-「傷づけられた」→正しくは「傷つけられた」。