秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ドイツ

1498/あるドイツ人-Wolfgang Ruge(1917-2006)。

 ○ 日本人には全くかほとんど知られていないと思う。
 ヴォルフガング・ルーゲ(Wolfgang Ruge)というドイツ人がいる。
 1917年生~2006年没。
 1917年夏にドイツ・ベルリンで生まれた。ロシアでは二月革命と同年の「10月の政変」のちょうど間。レーニンの7月蜂起があった頃。現在からほぼ100年前のこと。
 そのとき、第一次大戦はまだ終わっておらず、2歳の頃までに、戦争終結、ベルサイユ講和条約締結、そして2019年8月のワイマール憲法制定を、したがってドイツ・ワイマール共和国の成立期を、おそらくは記憶しないままで大きくなった。
 1933年の夏、8月末頃、ベルリンからおそらく「難民」として、ソ連・モスクワへと移った。
 そのとき、ワイマール共和国は、ナチス・第三帝国に変わっていた。ナチス党の選挙勝利を経て1933年の初頭に、ヒトラーが政権・権力を握っていた。
 W・ルーゲは、夏に16歳ちょうどくらい。二歳上の兄とともに、ソ連・モスクワに向った。そこで育ち、成人になる。スターリンがソ連・共産主義体制の最高指導者だった。
 戦後まで生きる。戦後も、生きた。そして1982年、ドイツに「帰国」する。
 彼が、65歳になる年だ。
 しかし、それは、ヒトラー・ドイツでもなければドイツ連邦共和国でもなく、「東ドイツ」、1949年に成立したドイツ民主共和国のベルリンへの「帰国」だった。
 そこで「歴史学」の研究者・教授として過ごす。主な研究対象は、ワイマール期のドイツの政治および政治家たちだったようだ。
 1990年、彼が73歳になる年に、ドイツ民主共和国自体が消失して、統一ドイツ(ドイツ連邦共和国)の一員となる。
 2006年、88歳か89歳で逝去。
 すごい人生もあるものだ。第一次大戦中のドイツ帝国、ワイマール共和国、ヒトラー・ナチス、スターリン・ソ連、第二次大戦、戦後ソ連、社会主義・東ドイツ、そして統一ドイツ(現在のドイツ)。
 1990年以降に、少なくとも以下の二つの大著を書き、遺して亡くなった。
 Wolfgang Ruge, Lenin - Vorgänger Stalins. Eine politische Biografie (2010)。
  〔『レーニン-スターリンの先行者/一つの政治的伝記』〕
 Wolfgang Ruge (Eugen Ruge 編), Gelobtes Land - Meine Jahre in Stalins Sowietunion (2012、4版2015)。
  〔『賞賛された国-スターリンのソ連での私の年月』〕
 ○ 上の後者の著書の最初の方から「レーニン」という語を探すと、興味深い叙述を、すでにいくつか見いだせる。これらが書かれたのは、実際には1981年と1989年の間、つまりソ連時代のようだ(おそらくは子息である編者が記載した第一部の扉による)。
 ・W・ルーゲはベルリンから水路でコペンハーゲン、ストックホルムを経てトゥルク(フィンランド)へ行き、そこからヘルシンキとソ連との国境駅までを鉄道で進んでいる。
 コペンハーゲンからの船旅の途中で(16歳のとき)、この進路は「1917年という革命年にレーニンがロシアへと旅をしたのと同一のルート」だということが頭をよぎる(p.10)。
 このときの記憶として記述しているので、ドイツにいた16歳ほどの青少年にも、レーニンとそのスイスからのドイツ縦断についての知識があったようだ。
 ・W・ルーゲは、ストックホルムより後は、母親の内縁の夫でコミンテルンの秘密連絡員らしきドイツ人の人物とともに兄と三人でソ連に向かう。
 ソ連に入ったときの印象が、こうある。「レーニン」は出てこない。
 フィンランドの最終駅を降りてさらに、「決定的な、20ないし30歩」を進んだ。
 ロシア文字を知らなかったし、理解できなかったが、しかし、「そこには、『万国の労働者よ、団結せよ!』とあるのが分かった。宗教人が処女マリアを一瞬見たときに感じたかもしれないような、打ち負かされるような、表現できない感情が襲った。私は、私の新しい世界へと、入り込んだ」(p.12)。
 ・さかのぼって、ドイツ・ベルリンにいた6歳のときのことを、こう綴っている。
 「レーニンが死んだとき〔1924年1月-秋月〕、6歳だった私は、つぎのことで慰められた。
 レーニンの弟のK・レーニン(カリーニンのこと)がその代わりになり、全く理解できないではない謎かけではなくて、<レーニンは死んだ。しかしレーニン主義はまだ生きている>と分かりやすく表現してくれた。」(p.25)
 このとき彼はすでに、レーニンの名を知っていた。さらに、ソヴィエトの一ダースほどの指導者の名前を知っていた、ともある(同上)。

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1468/第一次大戦と敵国スパイ③-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。③
 パルヴゥスの申し出を拒否はしたが、レーニンは、あるエストニア人、アレクサンダー・ケスキュラを通してドイツ政府との政治的かつ金銭的な関係を維持した。(*1)
 ケスキュラは1905-7年に、エストニアのボルシェヴィキの指導者だった。 
 彼はのちに、エストニアの熱心な愛国者となり、母国の独立を目指そうと決心していた。
 帝制ロシアの打倒はドイツ軍によってのみ達成されるとパルヴゥスのように考えて、ケスキュラは大戦の勃発の際に、ドイツ政府にその身を委ね、その諜報機関に加わった。
 ドイツの援助を受けて、彼はスイスやスゥェーデンの外からロシア移民からロシア内部の状況に関する情報を確保したり、ボルシェヴィキの戦争反対文献をそれらの国へとこっそり輸入したりする活動をした。
 1914年10月にケスキュラはレーニンと逢った。ケスキュラは、帝制体制の敵およびエストニアの潜在的な解放者として彼〔レーニン〕に関心をもっていた。
 かなりの年月を経てケスキュラは、自分はボルシェヴィキを直接には財政支援しなかった、そうではなく間接的にその金庫に寄付をして、出版物の刊行を援助したのだ、と主張した。
 これらはいつでも、困窮化しているボルシェヴィキ党を支援する重要な財源だった。しかし、ケスキュラは、レーニンに直接に援助したかもしれない。
 明らかにケスキュラの要請に応えて、レーニンは1915年9月に、彼に奇妙な七点の綱領的な文書を与えた。それは、革命的ロシアがドイツとの講和を準備する条件を概述するものだった。
 この文書は第二次大戦のあとで、ドイツ外務省の建物の文書庫で発見された。(++)
 この存在は、レーニンがケスキュラをたんなるエストニアの愛国者ではなくてドイツ政府の工作員(agent、代理人)だと見ていたことを示している。
 ロシアの内部事情に関係がある点(共和制の宣言、大財産の没収、八時間労働の導入、少数民族の自治)は別として、レーニンは、ドイツがすべての併合と援助を放棄した場合に分離講和の可能性があると確言した。
 レーニンはさらに、ロシア軍のトルコ領域からの撤退とインドへの攻撃を提案した。
 ドイツは確実にこれらの提案を心に留め、一年半後に、レーニンがその領土を縦断してロシアへと帰るのを許した。//
 ベルリン〔ドイツ政府〕から渡された資金を使って、ケスキュラは、レーニンとブハーリンの著作物をスウェーデンで発行すべく手配した。ボルシェヴィキ党員たちは、これらの本をロシアへとこっそり持ち込もうとした。
 このような援助金の一つを、あるボルシェヴィキ工作員が盗んだ。(129)
 レーニンは返礼として、ロシアにいる彼の工作員から送られたロシアの内部状況に関する報告書をケスキュラに進呈した。ドイツは、明白な理由で、この報告書に鋭敏な関心を寄せた。
 1916年5月8日付の配達便で、ドイツ軍参謀部の官僚は、東方面の破壊活動に責任をもつ外務省部局の職員に、以下のように報告した。
 『最近数ヶ月に、ケスキュラはロシアとの多くの関係を新しく開設した…。
 彼はきわめて有用なレーニンとの関係も維持しており、ロシアにいるレーニンの秘密工作員から送られた状勢報告の内容をわれわれに伝えた。
 ゆえにケスキュラには、引き続いて今後の必要な生活手段が与えられなければならない
 異常に不利な交換条件を考慮すれば、一月あたり2万マルクでちょうど十分だろう。』(*2)
 レーニンは、パルヴゥスの場合と同じく、ケスキュラとの関係について、生涯の沈黙を守った。そしてそれは、理解できる。その関係は、ほとんど大逆罪(high treason)に該当するからだ。//
 1915年9月に、スイスのベルン近くの村、ツィンマーヴァルトで、イタリアの社会主義者が発案した、インターナショナルの秘密会合が開かれた。
 ロシア人は、出席した二つの党派の社会民主党とエスエル党により、強い代表者を持った。
 集団は、すぐに二派に分裂した。より穏健派は、戦争を支持する社会主義者との連携を維持することを求めた。左翼派は、きつぱりと離別することを主張した。
 38代議員のうちの8名から成る後者を率いるのは、レーニンだった。
 多数派は、『帝国主義者(imperialist)』の戦争を内乱(civil war)に転化せよとのレーニンが提起した草案を拒絶した。危険であるとともに実現不能だ、という理由で。
 代議員の一人が指摘したように、そのような宣言に署名することは、母国に帰ったときに彼らを死に直面させることになるだろう。その間、レーニンはスイスでの安全を享受するとしても。
 レーニンの、国を愛する社会主義者が支配するインターナショナル委員会からの分裂要求も、却下された。
 そうであっても、レーニンはツィンマーヴァルトで敗北はしなかった (130) 。というのは、会議の公式な宣言文書はいくらかの言葉上の譲歩をレーニンにしており、各政府の継戦努力を支援する社会主義者を非難し、全諸国の労働者たちに『階級闘争』に加わるよう呼びかけていたからだ。(131)
 ツィンマーヴァルトの左派は、自分たちの声明文を発表した。それはより激しかったが、レーニンが欲したように、ヨーロッパの大衆に反乱へと立ち上がることを呼びかけるまでには至らなかった。(132)
 両派間の不一致の基礎にあるのは、愛国主義(patriotism)に対する異なる態度だった。ヨーロッパの多くの社会主義者は強烈にその感情をもっていたが、ロシアの多くの社会主義者は、そうでなかった。//
  (*1) ケスキュラについて、Michael Futrell in St. Antony's Papers, Nr.12, ソヴェト事情, 3号 (1962) , p.23-52。著者はこのエストニア人にインタビューする貴重な機会を得た。しかし、不運にも、いくぶん無批判に彼の証言を受け止めた。
  (+) Futrell, ソヴェト事情, p.47は、これはボルシェヴィキ指導者との唯一の出会いだと述べる。しかしそれは、ほとんどありえそうにないと思われる。
  (++) 1915年9月30日付、ベルンのドイツ大臣からベルリンの首相あて電信で再現されている[人名省略]。Werner Hahlweg, レーニンのロシア帰還 1917〔独語〕(1957) p. 40-43 (英訳、Zeman, ドイツ, p.6-7。)
  (130) 以下で主張されているように。J. Braunthal, 第二インターの歴史 (1967) , p.47。
  (*2) ドイツ参謀・政治局の Hans Steinwachs から外務部の Diego von Bergen 大臣あて。Zeman 編, ドイツ, p.17。スウェーデンに浸透していたレーニン組織の報告書から得たことを〔ケスキュラが〕仄めかしたとき、ケスキュラは Futrell に誤った情報を伝えた、ということをこの文書の言葉遣いは示している。Futrell, ソヴェト事情, p.24。
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 ④につづく。

1467/第一次大戦と敵国スパイ②-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。
 戦争が勃発するや、連合国〔仏、英ら〕および中央諸国〔ドイツ、オーストリアら〕のいずれの社会主義議会人も、公約に背いた。
 1914年夏に、彼らは情熱的に平和について語り、戦争継続に抗議して集団示威行進をする大衆を街路へと送り込んだ。
 しかし、交戦が始まったとき、彼らは列に並んで戦争予算に対して賛成票を投じた。
 とくに痛ましかったのは、ヨーロッパで最強の党組織を持ち、第二インターの背骨になっていたドイツ社会民主党の裏切りだった。
 戦争借款に対して彼らの議員団の全員が一致して賛成したのは驚くべきことで、かつ、分かったことだが、社会主義インターナショナルに対するほとんど致命的な一撃だった。//
 ロシアの社会主義者は、西側にいる同志たちよりも、インターの公約を真面目に考えていた。一つは、母国での社会主義の源が浅く、母国を愛する誇りがほとんどなかったこと、もう一つは、シュトゥットガルトの決定が想定した『戦争によって生じる経済的かつ政治的な危機』を利用すること以外に権力へと到達する機会はないことを知っていたこと、による。
 プレハーノフやL・G・ダイヒのごとき社会民主主義運動の長老者および軍事衝突で愛国的感情に目覚めた多くの社会主義革命党員(ザヴィンコ、ブルツェフ)から離れて、ロシア社会主義の著名人の多くは、インターナショナルの戦争反対決定に忠実なままだった。
 第四ドゥーマの社会民主党および Trudovik(エスエル)議員団は、全員一致して戦争借款に反対票を投じて、このことを証明した。-これは、セルビアの社会民主党を除けば、ヨーロッパでただ一つの議会人の行動だった。//
 スイスに到着したレーニンは、『ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義者の任務』と呼ばれる綱領的声明を起草した。(124)
 ドイツ、フランスおよびベルギーの指導者を裏切りだと非難したあとで、レーニンは、非妥協的にラディカルな立場を概述した。
 『任務』の第6条には、つぎの提案が含まれていた。//
 『労働者階級および全ロシア人民の被搾取大衆の視座から見ると、最も害悪ではないことは、ポーランド、ウクライナ、および多数のロシア人民…を抑圧している皇帝君主制とその軍の敗北である。』(*1)
 その他のいかなる主要なヨーロッパの社会主義者も、自分の国が戦争で敗北することに賛成だとは公言しなかった。
 ロシアの敗北を支持するレーニンの驚くべき主張は不可避的に、彼はドイツ政府の工作員だという非難をもたらした。(+) 
 戦争に関するレーニンの言明の実際上の結論は、このテーゼの第7条と最後の条で述べられていた。その内容は、『全ての国家の反動的でブルジョア的な政府と政党』に対する内戦を解き放つために、戦争をしている諸国の民間人や軍人の間で精力的な扇動と組織的な宣伝活動を行う、というものだった。
 この文書の模写物はこっそりとロシアに持ち込まれ、帝国政府が<プラウダ>を廃刊させ、ドゥーマのボルシェヴィキ議員たちを逮捕する根拠になった。 
 この事件でボルシェヴィキを弁護した法律家の一人は、アレクサンダー・ケレンスキーだった。 
 生命を落とす可能性がある大逆(treason)という罪で審問され、ボルシェヴィキたちは判決により追放された。これは、二月革命まで、党をほとんど舞台の外に追い出した。//
 レーニンの綱領の重点は、社会主義者は戦争を終わらせるためにではなく、自分たち自身の目的で戦争を利用するために奮闘すべきだ、ということにあった。レーニンは1914年10月に、つぎのように書いた。
 『「平和」というスローガンは、この瞬間では、誤っている。
 このスローガンは、ペリシテ人と聖職者のスローガンだ。 
 プロレタリアートのスローガンは、こうでなければならない。内戦(civil war、内乱)、だ。』//
 レーニンは、戦争の間ずっと、この定式に忠実であろうとした。
 もちろん中立国スイスでは、戦闘中のロシアにいる彼の支持者たちに比べれば、レーニンの身はかなり安全に守られた。//
 レーニンの戦争に関する綱領を知ると、ドイツは熱心に彼を自らのために利用しようとした。ロシア帝国軍の敗北を主張することは、結局のところ、ドイツの勝利を支持するのと全く同じことだ。
 ドイツの主要な媒介者は、パルヴゥスだった。このパルヴゥスは、1905年のペテルスブルク・ソヴェトの指導者の一人で、『連続革命』理論の創始者だったが、最近はウクライナ解放同盟の協力者だった。
 パルヴゥスは、きわめて腐敗した個性をもつとともに、ロシアの革命運動上、最も大きな知性をもつ知識人の一人だった。
 1905年の革命が失敗したあとで彼は、ロシアでの革命の成功はドイツ軍の助けを必要とする、という結論に達した。ドイツ軍だけが、帝制を打倒することができる。(*2) 
 パルヴゥスは、その政治的関係を使って相当の財産を蓄え、ドイツ政府に身を任せた。
 戦争勃発の際、彼はコンスタンチノープルに住んでいた。 
 パルヴゥスは、その地のドイツ大使と接触し、ドイツの利益を促進するためにロシアの革命家を利用するときだと、概述した。
 その論拠は、ロシアの過激派は、帝制が倒れてロシア帝国が破滅する場合にのみその目的を達成することができる、ということだった。この目的は偶然にだが、ドイツにとっても都合がよい。『ドイツ政府の利益は、ロシアの革命家たちのそれと一致している』。
 パルヴゥスは、金を求め、かつ左派のロシア移民と連絡をとることの承認を求めた。(126)
 ベルリン〔ドイツ政府〕に奨められて、彼は1915年5月に、ツューリヒにいるレーニンと接触した。パルヴゥスは、ロシア移民の政界に通暁していたので、レーニンが左翼の鍵となる人間であることを知り、もしも自分がレーニンを獲得すればロシアの残りの戦争反対左翼は一線に並ぶだろうことが分かった。(127)
 この企図は、さしあたりは、失敗した。
 レーニンがドイツと取引きすることに反対したというのでも、ドイツから金をもらうことが不安だったわけでもない。-この失敗は、レーニンが、社会主義の教条に対する裏切り者、変節者、『社会主義狂信愛国者(socialist chauvinist)』と交渉しようと思わなかったことによるだけだ。
 パルヴゥスの伝記作者は、その個人的な嫌悪感に加えて、レーニンはつぎのように考えたのではないかと示唆している。すなわち、レーニンは、もしもパルヴゥスと交渉すれば彼〔パルヴゥス〕が『そのうちにロシアの社会主義組織の支配権を獲得し、その財産資源と知的能力を使って他の全ての政党指導者を打ち負かしてしまう』ことを恐れた、と。(128) 
 レーニンは、このパルヴゥスとの出会いについて、公にはいっさい言及しなかった。//
  (*1) レーニンはロシアのウクライナに対する『抑圧』と強調して当惑させているが、それは少なくとも部分的には、レーニンのオーストリア政府との金銭上の協定によって説明されるものでなければならない。レーニンは、ウクライナもオーストリアの支配から解放されるべきだと要求しはしなかった。
  (+) この点についての告発は、警察官僚について日常的によく知っているスピリドヴィッチ将軍によってなされた。彼は、証拠を提出しないでつぎのように主張する。
 1914年の6月と7月にレーニンは二度ベルリンへと旅行したが、ドイツ人とともにロシア軍背後での反ロシア的活動計画を作るためで、その対価として7000万マルクがレーニンに支払われることになっていた、と。
 Spiridovich, ボルシェヴィズムの歴史, p.263-5。
  (*2) パルヴゥスは事態を見て自分の正しさが分かったと感じた。彼は1918年に、1917年の革命に言及して、以下のように書いた。
 『プロシア〔ドイツ〕の銃砲は、ボルシェヴィキのビラよりも大きな役割を果たした。とりわけ思うのは、もしもドイツ軍がヴィステュラ(Vistula〔ポーランドの河〕)に達していなかったら、ロシアの移民たちはまだ放浪し、自分で苦しんでいただろう、ということだ。』
  (126) Zeman 編, ドイツとロシアでの革命, 1915-18 (1958), 1915年1月の配達便, p.1-2。
  (127) パルヴゥスのレーニンとの出会いについて、Zeman and Scharlau, 商人, p.157-9。
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 ③につづく。

1446/レーニンの個性③-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
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 レーニンは最初の重要な国際主義者であり、国境は別の時代の遺物で、ナショナリズムは階級闘争の中の気晴らしとする世界的革命家だった。
 彼には、母国ロシアでよりもドイツでの方が疑いなかっただろうが、対立が生じているいかなる国でも、革命を指導する心づもりがあった。
 レーニンは成人となっての生活のほとんど半分を国外ですごし(1905-7年の二年間を除く1900年から1917年)、母国に関して多くのことを知る機会がなかった。『ロシアについて少しだけ知っている。ジンビルスク、カザン、ペテルスブルク、流刑-これで全てだ。』(34)
 彼はロシア人を低く評価し、怠惰で、優しく、そしてとても賢くはないと判断していた。 レーニンはゴールキに語った。『知識あるロシア人は、ほとんどつねにユダヤ人か、あるいはその系統にユダヤ人の血をもつ誰かだ。』(35) 
 彼は母国への郷愁という感情を知らない者ではなかったけれども、ロシアは彼にとって、最初の革命的変革の偶然的な中心であり、その渦は西側ヨーロッパになければならない真実の革命への跳躍台だった。
 1918年5月に、ブレスト=リトフスクでドイツに対して行った領土の譲歩を弁護して、レーニンは主張した。『この譲歩は国家の利益ではなく、社会主義の利益、国家の利益に優先する国際社会主義の利益のためだ』。(36) //
 レーニンの文化的素養は、同世代のロシアの知識人と比べればきわめて平凡なものだった。 
 彼が書いたものは表面的にだけはロシアの古典文学に慣れ親しんでいたが(ツルゲーネフを除く)、そのほとんどは明らかに中学生のときに得たものだった。
 レーニンとその妻の近くで働いたタチアナ・アレクシンスキーは、彼らは一度も演奏会や劇場に行かなかった、と記した。(37)
 レーニンの歴史に関する知識は、革命の歴史以外については、やはりおざなりのものだった。
 彼は音楽が好きだったが、同時代の人々を魅惑し驚かせた禁欲主義に沿って、それを抑えようとした。 
 レーニンはゴーリキに語った。//
 『音楽をたくさん聴くことはできない。それは神経を逆撫でする。
 馬鹿げたことを話したり、薄汚い地獄のような所に住んでこんな美しいものを創作できる人々に優しくすることの方が好きだ。
 今日は誰にも優しくする必要はないから、彼らはあなたの手を齧りとるだろう。
 あらゆる暴力に対面したとしてすら、想像上は、人は頭を容赦なく割らなければならない。』(38) //
 ポトレソフは、25歳のレーニンとは一つのテーマ、『運動』、についてだけ討論できる、ということに気づいた。
 レーニンは他の何にも関心がなく、何かについて語ることにも関心がなかった。(*)
 要するに、多面性のある人物と呼ばれる者では全くなかった。//
 この文化的素養のなさは、しかし、革命家の指導者としてのレーニンが持つ強さのもう一つの源泉だった。というのは、もっと素養がある知識人ではなかったので、彼は頭の中に、決意に対してブレーキのように作用する、事実や観念が入った過大な荷物を運び込まなかったから。 
 レーニンの指導者のチェルニュインスキーのように、彼は異なる意見を『たわごと』だと却下し、嘲笑の対象とする以外は、考慮することすら拒否した。
 彼が無視したり、その目的に応じて解釈し直したりするのは、都合の悪い事実だった。 反対者が何かに間違っていれば、その者は全てについて間違っていた。レーニンは、抵抗する党派に、いかなる美点も認めなかった。
 レーニンの討論の仕方は極度に戦闘的だった。マルクスの格言、すなわち批判は『外科用メスではなく兵器だ』を、完全にわが身のものにしていた。
 その武器の相手は敵で、武器は反駁するのではなく破壊することを欲するものだった。(39)
 このような考え方にもとづいて、反対者を徹底的に打倒するために、レーニンは言葉を飛び道具のごとく用いた。しばしば、反対者の誠意や動機に対するきわめて粗雑な人身攻撃という手段によって。
 ある場合、政治的目的に役立つときには、誹謗中傷を言い放ったり労働者を困惑させるのは間違っていない、と考えていることを認めた。  
 労働者階級に対する裏切りだとメンシェヴィキを非難して、1907年にレーニンは、社会主義者の裁きの場に連れてこられ、恥ずかしげもなく名誉毀損の責任を認めた。//
 『このような言葉遣いをしたのは、いわば読者に憎悪、革命心、このように振る舞う人間への侮蔑心を喚起するのを計算してだ。
 この言い方は、説得するためではなく、彼らの隊列をやっつけるために計算したものだ-反対者の誤りを訂正するのではなく、破壊し、その組織を地表から取り去るためのものだ。
 この言い方は、実際に、反対者には最悪の考えを、まさに最悪の懐疑心を喚起し、実際に、説得したり訂正したりする言い方とは違って、<プロレタリアートの隊列に混乱の種を撒く>。   
 …一つの党のメンバーの間では許されなくとも、分解していく党の部分内では許されるし、必要なのだ。』(40) //
 レーニンはこうしていつも、フランス革命の歴史家であるオーギュトト・コシンが『 乾いたテロル』と呼んだものに執心した。そして、『乾いたテロル』から『血塗られたテロル』へはもちろん、ほんの短い一歩だった。
 同僚の社会主義者はレーニンに、反対者(ストルーヴェ)に対する節度を欠く攻撃は、きっと誰か労働者に憤怒の対象を殺させることになると警告した。それに対してレーニンは落ち着いて答えた。『その男は殺されるべきだ』。(41)//
 成熟したレーニンは一つの工芸品でできていて、その人格は強い安堵感と離れた別の場所にあった。
 彼がボルシェヴィズムの原理と実践をその30歳代早くに定式化したあとでは、彼は異なる考えが貫き通ることのない、見えない防護壁で囲われた。
 そのときからは、何も彼の心性を変えることができなかった。
 マルキ・ド・キュスティンが、自分に告げるものを除いて全て知っている、と言った人間の範疇に、レーニンは属していた。
 レーニンに同意するのであれ、彼と闘うのであれ、不一致はつねに彼の側に、破壊的な憎悪とその反対者を『地表から』『除去』しようとする衝動を呼び覚ました。
 これは、革命家としての強さであり、政治家としての弱さだった。戦闘では無敵だったが、レーニンは、人類を理解し、指導するために必要な人間的性質を欠いていた。
 結局のところ、この欠陥が、新しい社会を創ろうとする彼の努力を打ち砕くだろう。人々がどのようにして平和に一緒に生きていけるかについて、レーニンはまったく理解することができなかったのだから。//
  (*) Tatiana Aleksinskii は同意する。『レーニンにとって、政治はあらゆるものに超越していて、他の何かの余地は全くない。』
  (39) カール・マルクス, ヘーゲル法哲学批判。
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 第4節につづく。

1433/ロシア革命史年表②-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.849-p.850。
 /の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。
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 1906年
  3月 4日 集会と結社の権利を保障する法令発布。
   4月16日 ウィッテが閣僚会議議長を退任、ゴレミュイキンと交代。
  4月26日 新基本法(憲法)公布される。ストルイピン、内務大臣に。
  4月27日 ドゥーマ、開会。
  7月 8日 ドゥーマ、閉会。ストルイピン、閣僚会議議長に指名される。
  8月12日 社会主義革命党原理主義者、ストルイピンの生命を狙う。
  8月12日・27日 ストルイピンの第一次農業改革。
  8月19日 民間人対象の軍法会議の提案。
 11月 9日 ストルイピンの共同体的土地所有に関する改革。
 1907年
  2月20日 第二ドゥーマ、開会。
  3月    ストルイピン、改革綱領を発表。
  6月 2日 第二ドゥーマ、閉会。新選挙法。
 11月 7日 第三ドゥーマ、開会。1912年までの会期。
 1911年
  1月-3月 西部のZemstvo の危機。
  9月 1日 ストルイピン、射撃され、4日後に死亡。ココフツォフが後継者。
 1912年
 11月15日 第四(そして最後の)ドゥーマ、開会。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキの最終的な分裂。
 1914年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長に。
  7月15日/28日 ニコライ、部分的な戦争動員を命令。
  7月17日/30日 ロシア総動員令。
  7月18日/31日 ドイツ、ロシアに対する最後通告。
  7月19日/8月1日 ドイツ、ロシアに戦争を宣言(宣戦布告)。
  7月27日 ロシア、ルーブルの交換を停止。
  8月    ロシア軍、東プロシャおよびオーストリア・ガリシアへと侵攻。
  8月末   ロシア軍、東プロシャで敗退。
  9月 3日 ロシア軍、オーストリア・ガリシアの首都、レンベルク(ルヴォウ)を奪取。
 1915年
  4月15日/28日 ドイツ、ポーランドでの攻撃に着手。
  6月11日 スコムリノフ、戦争大臣を解任され、ポリワノフに交替。
  6月    さらに内閣人事の変更。
  6月-7月 進歩的ブロックの形成。
  7月    国家防衛特別会議の創設。軍需産業委員会を含むその他の会議・委員会が、戦争行動の助力のため従う。
  7月9日/22日 ロシア軍、ポーランドからの撤収を開始。
  7月19日 ドウーマが6週間、再開される。ロシア兵団、ワルシャワから逃亡。
  8月21日 ほとんどの大臣、ニコライにドゥーマによる内閣の形成を要望。
  8月22日 ニコライ、個人的にロシア軍団司令権を握り、モギレフの総司令部へと出発。
  8月25日 進歩的ブロック、9項目綱領を公表。
  8月    政府、全国Zemstvo と地方会議組織の設立を承認。
  9月 3日 ドゥーマ、閉会。
  9月    戦争反対社会主義者のツィンマーヴァルト(Zimmerwald)会議。
 10月    中央労働者集団の設立。
 11月    Zemstvoの全国統一委員会(Zemgor)が創設される。
 1916年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長を、ステュルマーと交代。
  3月13日 ポリワノフ、戦争大臣を解任され、シュヴァエフと交代。
  4月    戦争反対社会主義者のキーンタール(Kiental)会議。    
  5月22日/6月4日 ブルシロフの攻撃、開始。
  9月18日 プロトポポフ、内務大臣代行に。12月に内務大臣に昇格。
 10月22-24日 カデット党大会、来るドゥーマ会期での論争戦術を決定。
 11月 1日 ドゥーマ、再開会。ミリュコフ、政府中枢での裏切りを示唆。
 11月8-10日 ステュルマー、解任される。
 11月19日 A・F・トレポフ、閣僚会議議長に。ドゥーマに協力要請。
 12月17日 ラスプーチンの殺害。
 12月18日 ニコライ、マギレフを離れ、ツァールスコエ・セロに向かう。
 12月27日 トレポフ、解任され、ゴリツィンと交代。」
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 *1917年以降につづく。

1323/日本共産党こそ主敵-10人に1人以上が投票する「左翼」の総本山。

 日本共産党と同党員こそが主敵だというのは、むろん、中国・同共産党や「左翼」的アメリカ(あるいはアメリカの「左翼」)が味方であるという意味ではない。これらは十分に「敵」だ。だがしかし、日本国内にいる同類の組織や人間たちを批判しないでおいて、反中国や反米国だけをいくら説いてもほとんど空しいように思える。
 政権に加担したことがない日本共産党くらいを批判し、攻撃し、そして弱体化させることができないで、どうして中国・同共産党や「左翼」的アメリカ(あるいはアメリカの「左翼」)に勝てるのだろうか。
 中国や中国共産党を批判するまたは批判的に分析する(日本人による)書物・論考は少ないとは言えないだろうが、なぜそうした書物・論考はほとんど、日本共産党にも批判の眼を向けていないのだろう。
 無視してよいくらい、日本の共産党は微少な政党なのだろうか。
 2014年12月の総選挙(衆議院議員)における得票数・率を、日本共産党と自由民主党のみについて、小選挙区・比例区の順に比べる。数は1万以下を、率は1%以下を四捨五入。
 小選挙区  日本共産党  704万 13%
         自由民主党 2546万 48%
 比例区  日本共産党  606万 11%
         自由民主党 1766万 33%
 保守派の人々、論壇人あるいは「保守」系のつもりの出版社・新聞社は、 日本共産党が自民党と比較して比例区ではほぼちょうど1/3の、小選挙区では27%の得票を得ていることを意識しているだろうか。
 日本共産党は選挙で自民党のせいぜい10%・一割程度しか得票していない、と思っているとすれば大間違いだ。
 また、投票有権者の10人に1人以上は日本共産党の候補者の名をまたは日本共産党という党名を書いている、という現実を無視できないことは、当たり前だろう。
 日本共産党がこの程度は力を持っているからこそ、朝日新聞・岩波書店内やABC・TBS内の「左翼」は(党員がいることも間違いない)、あるいは非共産党系の論壇人・評論家・学者研究者類は、「安心して」、日本共産党と全く同じ又は同工異曲の 「左翼」的言辞を吐けるのだ。
 イタリアにはもはや共産党は存在せず、かつて社会党と共闘してミッテラン大統領を生み出したフランス共産党も今日ではわずか数%の得票率しか得ていない。
 その他のサミット構成国でいうと、アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツにはもともと(大戦後は)、少なくとも合法的には共産主義・社会主義を目指すことを目標として明記する政党(共産党)は存在しない。
 八百万の神の国のためなのだろうか、日本人らしい鷹揚さ・寛容さのためもあるのだろうか。社会全体が、そしてまたいわゆる「保守」あるいは<自由主義>の陣営もまた、自民党ももちろん含めて、少しは異様だ、と感じなければならないと思う。

1098/月刊WiLLの藤井聡論考による誤解・謬論の蔓延?

 〇忘れかけていたが、「投稿」欄を見て思い出したので、再び触れる。
 月刊WiLL4月号(ワック)掲載の藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」について<アホ丸出し>と批判して、具体的指摘もした。表現はいささか下品ではあるが、評価に変わるところはない。
 月刊WiLL5月号(同)を見ると、「藤井氏提言に感銘」と題された一読者の投稿文が掲載されている。それによると、投稿者は藤井の「姿勢に心強いものを感じ」ているそうで、とくに次の文を引用して「国家的見地からの国民の利益、幸福を願う思いを強く感じた」と書いている(p.322)。
 「中央集権は悪でも何でもないし。地方分権が善でも何でもない。国家・国民のためには中央集権あっての発展・成長が多々あり、双方のバランスが大切である」(じつは原文と同一ではないが、ほぼ同じ文章が刊WiLL4月号p.202)にある。
 感銘を受けるのはけっこうなことだが、しかし、「双方のバランスが大切」、原文では中央集権と地方分権の「不適切なバランスが悪」で「両者の間の良質なバランスが善」だ、と藤井が言っていることは、誰でも言える、当たり前のことにすぎない
 一般論として橋下徹や大阪維新の会が「中央集権は悪」で「地方分権が善」などとは主張していないはずだ。そのように誤解される部分があるとすれば、それは、日本という国の、戦後の現在という時点での、国政を担う特定の集団(国会議員や国の行政官僚等)を念頭において、<地方分権>の方を重視した主張をしているにほかならないからだろう。
 この点ですでに上の藤井の文章は橋下徹批判になっていないのだが、既述のように橋下徹らは中央集権=国の役割を否定し、「国家」を解体しようとてしいるわけでもない。外交・防衛・通貨発行権等を橋下らは語っていたかと記憶する。
 というわけで、拙劣な・不勉強の藤井論考だけを読んで、橋下徹らの考え方・政策を誤解する人たちがいるとすれば、困ったことだ、言論人の一人のはずの藤井聡の責任は大きい、と感じる。
 加えて、同じ投稿者は次のように書いているが、藤井に影響を受けたのかもしれない―従って藤井の責任が大きい―誤った考え方だ、と思われる。
 すなわち、「地方分権論、道州制の強化は、ますます地方を窮地に追い込むこと必定である。そのような事態にならないよう…」。
 上記のとおり必要なのは「バランス」なので、一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならない、と思われる。
 問題は「強化」の具体的程度・中身にある、と言ってもよい。
 民主党のいう「地方主権」論には、「主権」概念の使用について問題があるが、「地方分権」自体は、現憲法に「地方自治」という章(第八章)があるほどに法的に根付いた(はずの)もので、一般的に批判することはできない(問題はその程度だ)。
 また、道州制にしても、もともとはたしか関経連という財界・経済界が主張した、「保守(・反動)」の側からの「地方自治」破壊論とすら(少なくとも「左翼」からは)目されたもので、「国(国家)」の役割を否定したり無視したりする議論ではまったくない(問題はその具体的な制度設計だ)。
 「地方自治」を重視し「地方」に権限・財源をより多く配分しようとする議論が、自民党政府時代に、ある程度は<政治的に>(つまり憲法解釈論を部分的には超えて)とくに「左翼的」学者によって少なからず唱えられたことは承知しているが、そのような時代と同じように<地方分権>論を「左翼」的だと反発するのは、「左翼」・民主党が国政を担っている時代には、必ずしもそぐわないだろう。
 あるいは逆に、民主党政権だからこそ、橋下徹らは<地方分権>の方を重視するような主張の仕方をしているのだ、と理解することが、少なくともある程度はできる。
 問題は、現実の時代・政治状況を前提として議論されなければならない。一般論としていえば藤井の書くとおり「バランス」が問題なのであり、片方の「強化」も、その具体的意味・内容が明らかにされていないかぎり、論評の仕様がない。上記のとおり一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならないはずで、このような誤解を与えたとすれば、藤井に責任があると言えるだろう。
 〇具体的な国、時代、政治状況を前提にしてはじめて<地方分権>論等の是非も議論できることは、外国の例を見ても分かる。
 古い知識だが、ミッテラン大統領までのフランスはきわめて中央集権的で(=パリ中心で)、「県」知事も戦前の日本と同様に国の任命の国家公務員だったはずだ。現在は多少は地方分権の要素が増大したとされている。
 一方、隣国のドイツはドイツ連邦共和国という国名のとおり連邦制をとる。ということは、連邦のもとに「州(・邦・国)」=ラント(Land)があり、その下に市等の基礎的自治体(Gemeinde)がある。そして、「州」ごとに憲法があり、州ごとに(州法律としての地方自治法にもとづいて)異なる基礎的自治体制度(狭義の地方制度)があり、例えば市長の選び方も州によって異なり、また教育事務は連邦ではなく州が行い、連邦には教育(文部科学)大臣はいない。若干の例を挙げただけだが、フランスと比べれば、もともとドイツは<地方分権>的だ。
 そして、アメリカも同様だが、連邦制を採っているということは、上に州(国)が憲法まで持つ(そして州法律まである)と書いたように、ドイツは、日本でいわれる<道州制>以上に、<分権>的なのだ。
 でははたして、ドイツにおいて国家=連邦は「解体」されているだろうか。そんなことはないことは誰でも知っているだろう。
 地方分権や道州制が、あるいはその強化が「国家」全体を解体させるとか弱体化させるという議論は、一般論としていえば、謬論(誤った見当はずれの議論)にすぎない。
 イギリスもまた「連合王国」と言われるように、少なくともイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという、「国家」の中の「国(・州)」で成り立っていて、日本よりも―ドイツと同じく日本よりも人口は少ないが―<分権>的だ。だからといって、イギリスに中央政府がないとか、「国家」が全体として解体または弱体化しているというわけではない。

 このように若干の国を見ても地方(分権)制度は多様なのだが、それぞれの国の歴史、地理的条件、成り立ち等に由来するもので、「国家」全体の観点からしても、どれが最も優れている、ということにはならない。
 〇大学理科系学部出身の藤井聡はおそらく、上のような具体的なことも何ら知らないで、月刊WiLLの論考を書いている。
 今の日本の、具体的状況の中で、地方分権も「道州制」も議論する必要がある(都道府県制度は明治以降の長い歴史をもつが、いずれ「道州制」に向かわざるをえない時期が来るのではないかと、おそらくは橋下徹と同様に私も予想している)。
 ついでながら、最近に論及した雑誌・撃論+の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」には東京都に独特のシステムとしての「都区財政調整制度」への言及がある。これが<大阪都>においてもそのまま適用されるかどうかは問題だが、ともあれ、藤井聡は「都区財政調整制度」なるものとその内容を知っているのだろうか。専門家面するならば、この程度の知識は持った上で、地方自治・地方分権・大都市制度等に関する文章を書いていただきたいものだ。

1025/非常事態への対応に関する法的議論。

 <保守>派に限られるわけでもないのだろうが、ときに奇妙な<法的>言説を読んでしまうことがある。
 表現者37号(ジョルダン、2011年7月)の中の座談会で、柴山桂太(1974~、経済学部卒)は、こんな発言をしている(以下、p.46)。
 「今回の大震災に関しても、…、復旧に関しては、ある程度超法規的措置をとらなければいけない。本来であれば国家が、非常事態で一時的に憲法を停止して…それで対応しなければいけないんだけれども、日本ではそれが出てこない。そもそも戦後憲法に『非常事態』というものに対する規定がないからです」。「日本は近代憲法を受け入れたんだけれども…、平時が崩れた時にどうするかという国家論の大事な部分を見落としてきたという問題も出てきている…」。
 問題関心は分からなくはないが、俗受けしそうな謬論だ。この柴山という人物は憲法と法律を区別しているのか(その区別を理解しているのか)、「超法規的措置」という場合の「法規」に憲法は含まれるのか否か、といった疑問が直ちに生じる。
 そして、「一時的に憲法を停止」しなければ非常事態に対処できないという趣旨が明らかに語られているが、これは誤りだ。
 憲法に非常事態(あるいは「有事」)に関する規定がなくとも、あるいは憲法を一時的に「停止」しなくとも、憲法とは区別されるその下位法である法律のレベルで、<非常事態>に対処することはできる。
 なるほど日本国憲法は「非常事態」に関する規定を持たないが、1947年時点の産物とあればやむをえないところだろうし、ドイツ(西)の憲法(基本法)もまた、当初から非常事態(Notstand)に関する規定を持ってはいなかった(彼我の現在の違いは改正の容易さ-いわゆる硬性憲法か否かによるところも大きいだろう)。
 憲法が非常事態に対処するための法律を制定することを国会に禁止しているとは解せられないので(実際に、いくつかの「有事」立法=法律およびそれ以下の政令等が日本にも存在している。但し、いわゆる「有事立法」は自然災害を念頭には置いていない)、自然災害についても、現行法制に不備があれば法律を改正したり新法律を制定すれば済むことなのだ。
 ともあれ、憲法に不備があるから非常事態に対応できない、というのは(不備は是正されるのが望ましいとは言えても)、真っ赤なウソだ。
 JR系の薄い月刊誌であるウェッジ7月号(2011)の中西輝政「平時の論理で有事に対処/日本は破綻の回路へ」も、今回のような大災害に遭遇したとき、本来は「国家非常事態」を宣言して「平時の法体系とは別の体系」に移行すべきだったが、戦後日本の憲法には「そんな条項」はなく、「従って非常法体系も備わってはいなかった」と、柴山桂太と似たようなことを書いている(p.9)。
 しかし、<憲法の一時停止>に(正しく)言及してはおらず、「平時の法体系とは別の体系」・「非常法体系」とは法律レベルのものを排除していない、と解される点で(日本国憲法に触れているために少し紛らわしくなってはいるが)、基本的には誤っていない。
 上のことは、中西輝政が「現行法にもある災害対策基本法第105条」に(正しく)言及していることでも明らかだ。
 次の機会に、「現行法」制度の若干を紹介し、それを菅直人内閣が適切に執行・運用しているかどうかという問題に言及する。これは、 阿比留瑠比も含む「政治部」記者が―法学部出身であっても―十分には意識していない(または十分な知識がない)問題・論点であり、震災に関するマス・メディアの報道に「法的」議論がほとんど登場してこない、という現代日本の異様な状態にも関係するだろう。

0862/外国人(地方)参政権問題-月刊正論・長尾一紘論考と産経新聞4/11記事。

 月刊正論5月号(産経)の長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」p.55に以下の趣旨がある。
 <「許容説はドイツにおいて少数説」だ。当時(1988年)も現在も「禁止説が通説」。マーストリヒト条約によりEU内部での「地方選挙権の相互保障」を認め合うこととなり、ドイツでは「憲法改正が必要」となった。その結果、「EU出身の外国人」の地方参政権は「与えてよい」ことになった。「その他の国からきた外国人」については現在でも「憲法上禁止されていると考えられて」いる。>

 この叙述とはニュアンスと内容のやや異なる情報が、産経新聞4/11付に載っている。「外国人参政権/欧米の実相」の連載の一つだ。「『招かれざる客』めぐり二分」との見出しの文章の中に以下がある(署名、ベルリン・北村正人)。

 <ドイツでは80年代にトルコ人が地方選挙権を求めて行政訴訟を起こし、「法改正により外国人に地方…選挙権を与えても」違憲ではないとの判決があった。そこで、社民党政権の2つの州で外国人地方参政権付与の「法改正」があった。

 だが、保守系〔CDU・CSU、ちなみにメルケル現首相はCDU〕連邦議会議員らが「違憲訴訟」を起こし、連邦憲法裁判所は90年に「国民」=「国籍保有者」として、2州の「法改正」を「違憲」とした。

 現在、「左派党」政権の3つの州が「定住外国人に地方参政権を付与する」連邦憲法(基本法)改正案を連邦参議院(秋月注-ベルリンに連邦議会とは別の場所にある第二院で各州の代表者たちから成る)が「発議」している。>

 現在は憲法裁判所判決の結果として憲法(基本法)の解釈による付与の余地がないので、付与の方向での憲法(基本法)自体の改正の動きが一部にはある、ということのようだ(その運動議員の考えと写真も紹介されている)。

 なるほど「少数説」だったかもしれないが、かつて西ドイツ時代の11州のうち2州は(連邦憲法裁判所の「違憲」判決が出るまでは)外国人に「地方選挙」の「選挙権」を認める、という<実績>まであったのだ。当然に、それを支える法学者たちの見解もあったに違いない。また、<左派>の社民党(ドイツ社会民主党)や現在の「左派党」〔または「左翼党」、die Linke〕が付与に熱心だということも、日本と似ていて興味深い。

 この「記事」中、「法改正」とは「州法律」の「改正」のことだろう。「地方選挙」が何を指しているかはよく分からない。「州」議会議員選挙は含まず、記事中に引用の連邦憲法中の「郡および市町村」〔Kreis、Gemeindeの訳語だと思われる〕の議会の議員の選挙なのだろう。ドイツの州は連邦を構成する「国」ともいわれ、「地方」ではなさそうなので。また、「選挙権」とだけ書いているので、被選挙権を含んでいないのだろう。

 ともあれ、上の二つの種類の情報を合わせて、ドイツのことはある程度詳しく分かった。

 両者には、とくにドイツの現在の法的状況について、異なるとも読めるところがあるようだ。現在ベルリンにいるらしい産経・北村の方が正確または詳細かもしれない。
 以上は感想のみだが、この外国人参政権問題についてはさらに別の機会に触れる。

0678/佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)を読む-その3・現憲法の「正当性」。

 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)には、佐伯にしては珍しく、日本国憲法の制定過程にかかわる叙述もある。
 ・日本国憲法は形式的には「明治憲法の改正」という手続をとった。これは、イタリア・ドイツと異なる。イタリアでは君主制廃止に関する国民投票がまず行われ、その廃止・共和制採用が多数で支持されたあとで、「憲法会議」のもとの委員会により新憲法が作成された(1947年)。ドイツでは西側諸国占領11州の代表者からなる「憲法会議」により「基本法」が策定された(1949年)。
 ・日本国憲法の特徴は、内容以前に「正当性の形式」に、さらに言えば「正当性という問題が回避され、いわばごまかされた」点にある。明治憲法の「改正」形式をとることにより、「正当性」を「正面から議論する余地はなくなってしまった」。
 ・むろん、新憲法の「出生の暗部」、つまり「事実上GHQによって設定された」ことと関係する。さらに言えば、日本が独自に憲法を作る力をもちえなかった、ということで、これは戦後日本国家・社会のあり方そのものの問題でもある。
 ・「護憲派」は、「仮にGHQによって設定されたものであっても、それは日本国民の一般的感情を表現したものであるから十分に国民に受容されたもの」だ、と弁護する。かかる議論は「二重の意味で正しくない」。
 ・第一に、「受容される」ことと「十分な正当性をもつ」ことは「別のこと」だ。新憲法は形式的な正当性はあるが実質的なそれにはGHQによる「押しつけ」論等の疑問がつきまとっている。「問題は内容」だとの論拠も、問題が「正当性の根拠」であるので、無意味だ。「GHQによって起草」されかつ趣旨において「明治憲法と大きな断想」がある新憲法を明治憲法「改正による継続性」確保によって「正当性を与え」ることができるか、はやはり問題として残る。
 <たとえ押しつけでも、国民感情を表現しているからよい>との弁護自体が、「正当性に疑義があることを暗黙のうちに認めている」。
 ・第二に、「国民感情が実際にどのようなものであったかは、実際にはわからない」。それが「わからないような形で正当性を与えられた」ことこそ、新憲法の特徴だ。少なくともマッカーサー・メモ(三原則)は日本側を呆然とさせるものであったし、「一言で言えば、西洋的な民主化が、決してこの当時の日本人の一般的感情だなどとはいえないだろう」。「もし仮に、この〔GHQの〕憲法案が国民投票に付されたとしても、まず成立したとは考えにくい」。
 以上、p.147-p.151。
 現憲法の制定過程(手続)については何度も触れており、結果として国民に支持(受容)されたから「正当性」をもつかの如き「護憲派」の議論は論理自体が奇妙であること等は書いたことがある。
 1945年秋の段階では、美濃部達吉や宮沢俊義は明治憲法の「民主的」運用で足り、改正は不要だとの論だったことも触れた。
 さらには、結果として憲法「改正」案を審議することになった新衆議院議員を選出した新公職選挙法にもとづく衆議院選挙において、憲法草案の正確な内容は公表されておらず、候補者も有権者もその内容を知らないまま運動し、投票した、という事実もある(岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP、2002)に依って紹介したことがある)。従って、新憲法の内容には、国民(有権者)一般の意向は全くかほとんど(少なくとも十分には)反映されていない、と見るのが正しい。
 ついでに付加すれば、衆議院等での審議内容は逐一、正確に国民に報道されていたわけでもない。<占領>下であり、憲法(草案作成過程等々)に関してGHQを批判する、又は「刺激」するような報道を当時のマスコミはできなかった(そもそもマスコミが知らないこともあった)。制定過程の詳細が一般国民に知られるようになるのは、1952年の主権回復以降。
 「押しつけられた」のではなく、国民主権原理等は鈴木安蔵等の民間研究会(憲法研究会)の案が採用されたとか、九条は幣原喜重郎らの日本側から提案したとか、反論する「護憲派」もいる。のちには日本共産党系活動家となった鈴木安蔵は、「日本の青(い)空」とかの映画が作られたりして、「九条の会」等の<左翼>の英雄に最近ではなっているようだ。立花隆は月刊現代(講談社)誌上の連載で、しつこく九条等日本人発案説を(決して要領よくはなく)書き連ねていた。
 だが、かりに(万が一)上のことを肯定するとしても、日本の憲法でありながら、その策定(改正)過程に、他国(アメリカ)が「関与」したことは、「護憲派」も事実として認めざるを得ないだろう。彼らのお得意の言葉遣いを借用すれば、かりに「強制」されなくとも、「関与」は厳としてあったのだ。最初の「改正」への動きそのものがGHQの<示唆>から始まったことは歴然たる事実だ。そして、日本の憲法制定にGHQ又は米国が「関与」したということ自体がじつに異様なものだったことを、「護憲派」も認めるべきだ。
 ところで、長谷部恭男(東京大学)は、一般論として<憲法の正当性>自体を問うべきではない旨のわかりにくい論文を書いている。
 この点や本当に新憲法は国民に「受容」されたのか等々を、佐伯啓思の上では紹介していない部分に言及しつつ、なおも扱ってみる。

0570/小林よしのり・パール真論(小学館)の一部からの連想。

 小林よしのり・パール真論(小学館、2008)の主テーマ・主論旨とは無関係だが、次の言葉が印象に残った(初出、月刊正論2008年2月号(産経新聞社))。
 「『反日』を核として国家の正当性を維持するしかないという厄介な国が、ヨーロッパにではなく、アジアにあった、それがドイツの幸運であり、日本の不幸であった」(p.83)。
 小林よしのりはここで中国と韓国を指しているようだが、北朝鮮も含めてよいだろう。
 たとえばサルトル以降の「左翼」フランス思想等のヨーロッパからの「舶来」ものを囓っている者たちは強くは意識しないのだろうが、日本は欧州諸国とは異なる環境にある。ドイツにせよフランスにせよ、日本にとっての
中国、韓国や北朝鮮にあたる国はない。異なる環境にある日本を、現代欧州思想でもって(又は-を参考にして)分析しようとしても、大きな限界がある、ということを知るべきだ。
 やや離れるが、欧州に滞在するのは、ある意味でとてもリフレッシュできる体験だ。なぜなら、ドイツにもイギリスにもイタリアにも「…共産党」がない。フランス共産党は現在では日本における日本共産党よりも勢力が小さいといわれる。また、日本共産党的組織スタイルの共産党が残るのはポルトガルだけとも言われる。
 そういう地域を、つまり共産党員やそのシンパが全く又は殆どいない地域を旅すること、そういう国々に滞在することは何とも気持ちがよいことだ。むろん、デカルト以来の<理性主義>や欧州的<個人主義>の匂いを嗅ぎとれるような気がすることもあって、「異国」だとはつねに感じるが。
 <左翼>系新聞はあるだろう。しかし、多くはおそらく社会民主主義的<左翼>で、日本の朝日新聞のような<左翼政治謀略新聞>は日本のように大部数をもってはきっと発行されていない(たぶん全ての国で、日本のような毎日の「宅配」制度がない)。すべての言語をむろん理解できないにしても、これまた清々(すがすが)しい。
 というわけで、しばしば欧州に飛んでいきたい気分になる(アメリカにも共産党は存在しないか、勢力が無視できるほどごく微小なはずだが)。先進資本主義国中で、日本はある意味で(つまり元来は欧州産の共産党とマルクス主義勢力―正面から名乗ってはいなくとも―がかなりの比重をもって東アジアに滞留しているという意味で)きわめて異様な国だ、ということをもっと多くの日本の人びとが知ってよい。

0345/産経・花岡信昭のコラムは傲慢だ。

 産経の客員編集委員という肩書きの花岡信昭が書いたものについては、これまで言及したことがない。
 この人が書いている内容にとくに反対ということはほとんどなかったと思うが、その内容は<教条的な>保守・反左翼の言い分で(つまりよく目にする論調と同じで)、表面的で視野が広くはなく、例えばだが、「正論」執筆者の多く?と比べて、基礎的な又は深く厚い<学識>のようなものをあまり感じなかったからだ。
 花岡が自・民大連立といったん受け容れたかの如き小沢を肯定的に評価したことについて肯定的な評価も一部にはあるようだ。
 私も大連立一般とその可能性の追求に反対はしないし、社民や共産を排しての連立という点も無視してはいけないだろう。
 だが、問題はいかなる点で政策を一致させて<連立>するかにある。この点を考慮しないで(捨象して)当面する論点を大連立一般の是非として設定するのは間違っている。
 小沢一郎の記者会見等の報道によると、きちんとした合意があったとは思われないし、合意があったとしてもその内容が(自民党の本来の政策、これまでの政府の言動等から見て)妥当であったようには見えない。
 仔細はよく分からないが、<大連立>の可能性を残しての<政策協議>に入る、という程度のことであれば、否定・反対するほどのことではないだろう。だが、<政策協議>を経た、安全保障政策・憲法問題に関する基本的一致を含む<政策合意>があってはじめて<大連立>が可能となることは常識的なことだろう。こうした過程を抜きにした、<ともかく大連立を>論ににわかに賛成することはできない。小沢一郎個人のなにがしかの<思惑>が入っているとなればなおさら―これまでの彼の行動からして―警戒しておくに越したことはないかに見える。
 花岡信昭は産経11/14のコラム・政論探求で、「保守派、リベラル派」のいずれの「識者」からも<「大連立」構想への支持がほとんど出なかった>ことを嘆いているようであり、かつ「識者たちが日ごろ主張していることは、頭の中だけの仮想世界が前提となっていたのではないか。現実政治の中でいかに解決していくか、という基本スタンスが決定的に欠けている」と言い切っている。
 上の後半の<八つ当たり>的言明は、いささか傲慢不遜すぎはしないか。花岡自身を含む少数の識者のみが「現実政治」のことを真摯に考え、あとの者たちは「仮想世界」に生きている、かのごとき言明は。
 読売がどういう意味で、どういうレベルでの<連立>を支持していたのかを正確には知らない。一方また、ドイツで大連立を経て同国社民党が単独で政権(ヘルムート・シュミット首相)を担うようになったことくらいの知識はある。
 ドイツの当時の社民党レベルにまで日本の民主党はとくに安全保障政策・憲法問題に関して<成熟>しているのか、というと疑問だ。また、自民党がますます<左傾>していく連立も一般論としては望ましくはないだろう。
 よく分からないことは多い。だが少なくとも、花岡信昭は、上のような不遜なことを<「大連立」放棄の情けなさ>との見出しのもとで書くべきではないだろう。
ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
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  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。