秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ドイツ

2578/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第14節

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第14節へ。
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 第14節・ドイツとソヴィエトの軍事協力の開始。
 (01) Rapallo 条約は、二つの国の軍事的協力関係を促進した。
 1922年7月29日、ソヴィエト軍事革命評議会メンバーのA. P. Rozengolts とSeeckt 将軍の代表者たちとの間で、協定が締結された(今のところ文書の所在が分からない)。
 内戦中はトロツキーの副官だったE. M. Sklianskii が率いたソヴィエト使節団が、1923年1月にベルリンに到着した。
 使節団は、3億金マルクで兵器を購入する、ドイツの信用借款で支払われる、と提示した。しかし、ドイツ側は、製造能力が自分たちの需要に合わないという理由で、拒んだ。(注270) 
 ロシア側は、ロシア領域内でヴェルサイユ条約により禁止されている兵器の製造をドイツが行ない、ドイツが財源を負担し、管理する、ということに同意した。
 また、ドイツの軍事要員がロシアで訓練されることにも、同意した。(注271) 
 ドイツ側は、代わりに、ソヴィエトの将校たちを教育することを引き受けた。(注272)
 その翌年、ドイツ帝国軍は7500万金マルクをこの目的のために予算計上し、モスクワに支部を開設した。(注273)
 両国の代表団は、ポーランドに対する、さらには連合諸国に対してすらの、共同軍事作戦について、秘密裡に議論した。(注274) 
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 (02) ソヴィエト経済の未成熟さと非効率さのために、ドイツ側にとっては、兵器生産は失望に近いものだった。
 この軍事的協力関係による両当事者の主要な利益は、来たる世界戦争用に設計された先進兵器の試験と訓練から生まれるものだった。//
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 (03) 1924年までに、ドイツのいくつかの主要な兵器製造会社がロシアでの権利を得た。
 ドイツの三つの軍事施設の存在が、ソヴィエト・ロシアで確認されていた。一つは、Junker 航空機製造のためにFili に、もう一つは辛子ガスや無色有毒ガスの生産のためにSamara 地方に、三つめは戦車製造のためにKazan に。(注275) 
 民間人のふりをしたドイツの将校たちが、戦闘訓練のためにロシアへと旅行した。(注276)
 1924年初めから、ドイツの操縦士たちがLipetsk で訓練を受け、オランダで秘密に購入したFokker 戦闘機を飛ばした。そこで120人の操縦士と450人の航空機人員が教育を受けた。
 彼らは、ヒトラーの空軍の中核を形成した。(注277)
 「特別集団 R」の一人だった将軍Helm Speidel によれば、Lipetsk での訓練は、将来のナツィス空軍の精神的基盤」を作った。(注278)
 ロシアで得た経験は、連合諸国に対する10年の有利さをドイツ空軍に与えた、と言われている。(注279)
 ロシアの操縦士と地上人員もまた、Lipetsk 基地で訓練を受けた。//
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 (04) ドイツの将校たちも、Kazan とSamara で、戦車と化学兵器の経験を積んだ。
 ソヴィエト・ロシアで生産された知られていない数の兵器は、こっそりとドイツへ輸出された。
 1926年、ドイツの平和主義たちは、ソヴィエト・ロシアで生産された30万発の砲弾を積み込まれた三隻のソヴィエト船をStettin 港で発見することになる。
 これを発見して、社会主義指導者のPhilipp Scheidemann は、両国間の軍事協力関係を暴露し、ドイツの労働者に対してソヴィエトの武器を用いようとしていると政府を責め立てることができた。(*)
 しかし、禁止されている装備をロシアで大規模に生産しようというドイツの期待は、失望に終わった。
 毒ガスの生産は、困難になった。
 より大きい問題すらが、Fill の航空機製造工場を苦しめた。ロシア人が発注どおりの仕事をできなかったので、ドイツ国防軍はそれを閉鎖した。(注280)
 潜水艦計画は、設計図から次に進むことは決してなかったようだ。//
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 (脚注*) F. L. Carsten in Survey, No. 44-45 (1962), p.121; Freund, Unholy Alliance, p.211; Müller, Das Tor, p.146. 前もって警戒していたようで、ソヴィエトのプレスは同日の12月16日に、ソヴィエト連邦にドイツの軍事施設があることを認めたが、防衛的なものだと説明した。Pravda, NO. 291/3, p.520 (1926.12.16), p.1. これは、ワイマール・ドイツとの軍事協力にソヴィエト・プレスが言及した唯一のものだと見られる。
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 (05) ソヴィエトの将校たちは、1925年の初めに、さまざまに装って、ある者はブルガリア人だと偽って、ドイツ国防軍の演習を観察した。
 他の者たちは、参謀本部で教えられる秘密課程に参加すべくドイツへと派遣されていた。その参謀たちは、Model、Brauchitsch、Keitel、Guderin といった将軍たちとともに、初代のナツィ防衛大臣のWerner von Blomberg 陸軍元帥を含む、将来のヒトラーの将軍たちだった。
 生徒の中にはTukhachevskii とIakir もいた、と言われている。
 「ロシア人はこの課程のあいだに、全ての指令、戦術や作戦の研究書、募兵や訓練の方法、そして違法な再軍備の組織上の計画すら、を見て学習することができた。
 彼らに秘匿されたものは何もなかったように思える。」(注281)
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 (06) 明らかなことだが、このような規模での協力関係が、気づかれないままで進行することはなかった。
 実際に、ポーランドとフランスの情報機関はそれを知っていて、Scheidemann が暴露した後で、公に知られることになった。
 しかし、連合諸国は何らかの理由で、警戒しなかった。
 連合諸国は、それを止めようとは何らしなかった。そして、続く年月の間に、両国の技術的協力関係は、遮られることなく継続した。//
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 (07) このようにして、ソヴィエト・ロシアは再生するドイツ軍が基盤を築くのを助けた。このドイツ軍を、ヒトラーが自分のために使うことになる。
 急降下爆撃、自動車兵器、陸空軍の連結作戦、これらの戦術は、ソヴィエトの領土内で最初に試された。そして、ヒトラーの〈電撃作戦(Blitzkrieg)〉の基礎となった。
 赤軍の側について言うと、この協力関係のおかげで、第二次大戦中に連合国軍よりも十分に、ドイツの攻撃に対応することができた。//
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 (08) ソヴィエト・ロシアとの協力にかかわったドイツの将軍たちは、第二次大戦を準備していた。これは、ヴェルサイユ条約を廃棄し、第一次大戦で失った大陸での覇権をドイツに与えることになる。 
 ドイツの将軍たちは明らかに、ロシアが将来の敵対国になると予期していれば、彼らの軍事機密にロシアを関与させはしなかっただろう。
 かくして、1939年のナツィ・ソヴィエト協定の原型が、1920年代に、すなわちレーニンがまだ生きていて責任を担っていたときに、生まれた。この1939年協定は、ドイツがモスクワの好意的中立のもとでヨーロッパの大部分を占領する、第二次大戦を勃発させることになる。//
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 後注
 (270) Müller, Das Tor, p.105-6.
 (271) Kochan, Russia and the Weimar Republik, p.60-61; Fischer, Stalin, p.515-p.536; Raphael R. Abramovitch, The Soviet Revolution (1962), p.247-p.258.
 (272) Freund, Unholy Alliance, p.125.
 (273) Hans W. Gatzke in AHR, Vol, 63, No. 3 (1958.4), p.573-6.
 (274) Müller, Das Tor, p.113-4.
 (275) Gatzke in AHR, Vol, 63, No. 3 (1958.4), p.578; Müller, Das Tor, p.144-5.
 (276) Freund, Unholy Alliance, p.207-8.
 (277) Ibid., p.209.
 (278) Helm Speidel in VfZ, I, 1 (1953.1), p.28.
 (279) Freund, Unholy Alliance, p.209.
 (280) Iu. L. Diakov & T. S. Bushueva, Fashistskii mech kovalsia v SSSR (1992), p.20-23.
 (281) Freund, Unholy Alliance, p.210; Helm Speidel in VfZ, I, 1 (1953), p.35.
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 第14節、終わり。第8章全体も、終わり。

2577/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第13節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第13節へ。
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 第13節・1923年-共産主義者のドイツ・ナショナリストとの同盟(1923 Communist alliance with German nationalists)。
 (01) モスクワにとっては、連合諸国とドイツを引き裂いたままにしておくことが最も重要だった。そして、これを達成するための手段を、ヴェルサイユ条約の中に見出した。
 ドイツの指導的な社会主義政党の社会民主党は、この条約の条件の範囲内で活動し、連合諸国との友好関係を築こうとした。これに対して、共産党は、ドイツの最も反動的でナショナリスト的部分に目を向けた。
 レーニンは、1920年12月に、ドイツの「ブルジョアジー」はソヴィエト・ロシアとの同盟に向かって駆り立てられている、と宣言した。
 「ドイツは、ヴェルサイユ条約に従わされて、存在が不可能な条件の中にいると感じている。
 そして、この状況下で自然に、ロシアとの同盟へと進んでいる。
 あの息苦しい国のロシアとの同盟は…、ドイツに政治的な狼狽を生み出した。ドイツの黒の百人組は、ロシアのボルシェヴィキとスパルタクス団への共感へと動いている。」(注258)
 本当は、共産主義者に求愛しているのが「黒の百人組」ではなく、黒の百人組に、つまりナツィスとその同族の精神に、媚びているのが共産主義者だった。
 共産主義者・「ファシスト」協力関係は、1923年1月以降に最高潮に達した。そのとき、フランスとベルギーは、ドイツの賠償金支払いの不履行を宣言して、ルール地方を占領した。
 コミンテルン執行部はフランスと対立したドイツをただちに支持し、モスクワは、フランスの要請を受けてポーランドが攻撃するならばドイツを助けると約束した。(注259)
 1923年5月、ドイツ共産党(KPD) は、民族主義的大衆を徴兵する可能性を承認する決議を採択した。(注260)//
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 (02) ドイツの保守層や極右社会と交渉するレーニンの主な代理人は、Karl Radek だった。 
 Radek は、ドイツ共産党が孤立状態から離れる唯一の方途はナショナリスト部分との同盟関係の形成だ、と考えていた。
 彼は、このような変化を、「被抑圧国家」の場合はナショナリズムは「革命的」現象だ、という(ジノヴィエフと同様の)論拠で正当化した。(注261)
 気落ちしているドイツ人に対して、彼は、連合諸国に対抗する統一戦線を提案した。
 ドイツ政府に対して、フランスとの戦争の場合は、ソヴィエト・ロシアは「好意的中立」政策を採るだろう、ドイツ共産党は積極的に支持するだろう、と助言した。(注262)
 1923年6月、彼は、コミンテルン執行部に対して演説を行ない、ルール地方での輸送を妨害したとしてフランスに射殺されたナツィ一族のAlbert Schlageter を褒めちぎった。Schlageter は「ドイツ・ナショナリズムの殉教者」で、「革命の兵士へ真摯な敬意」を払う「反革命の勇敢な戦士」だ、と。
 彼はこう明確に述べた。「ドイツの愛国主義層が自国の民衆の大多数の意向になると決意し、そうして連合諸国の資本主義者とドイツ資本に対する戦線を形成しないならば、Schlageter の意思は虚しいものになるだろう」。(注263) 
 Radek はのちに、この扇情的な演説の文章は政治局とコミンテルン執行部の同意を得ていた、と明らかにした。(注264)
 ドイツ共産党(KPD)の機関紙の〈赤旗〉は今や、ナショナリストのためにその紙面を割いた。
 ナツィスは共産党員の集会で語り、共産党はナツィス党員の集会で語った。
 ドイツ共産党は、鉤十字を赤い星と混ぜ合わせたポスターを掲示した。(注265) 
 スパルタクス団のRuth Fischer は、彼女自身ユダヤ人だったが、ドイツの学生たちに、ユダヤ資本家を「踏みつぶし」、「首をつるす」ように熱く訴えた。(注266)
 このような協力関係は、ナツィスが離れた1923年8月に終わった。//
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 (03) 状況をさらに混乱させることだが、モスクワは、その対ドイツ政策の二つの立場—政府との同盟とその右翼の敵との協力関係—を、第三の、社会革命に伴わせた。
 政治局は、1923年8月23日に、新首相Gustav Streseman の政府を打倒する、と決定した。新首相 が、財政援助とヴェルサイユの条件の緩和を求めて、連合諸国と交渉するのを阻止するためだった。これは、ドイツを固く西側陣営につなぎとめることになるだろう。(注267)
 トロツキーは、当時にドイツで勃発していたストライキの波を利用しょうと望んで、クーを組織するために、Alexis Skoblevskii 将軍を長とする軍事使節団をドイツに派遣した。(注268)
 100万トンの穀物が、予期される連合諸国の封鎖にドイツが抵抗できるように、ペテログラードと前線地点に貯蔵されていた。
 2億金ルーブルの救済基金も、別に用意されていた。(注269)
 トロツキーはドイツ共産党と、革命戦術について討論した。その助言に基づいて、ザクセンとテューリンゲンでクーを開始する、と決定された。
 しかし、ドイツの労働者は、革命的訴えに反応できなかった。そして、右翼のKapp 蜂起と同時に起こったクーは、惨めな失敗に終わった。
 1923年11月から1924年3月まで、ドイツ共産党は非合法化された。//
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 後注。 
 (258) Lenin, PSS, XLII, p.104-5. Ost-Information, No. 81, 1920.12.4.—Dennis, Foreign Policies, p.155 が引用—を参照。
 (259) Freund, Unholy Alliance, p.153; Louis Fischer, The Soviets in World Affairs, I (1930), p.451; Gustav Hilger, The Incompatible Allies (1953), p.120.
 (260) Arthur Spencer in Survey, No. 44-45 (1962), p.139.
 (261) Leonid Luks, Entstehung der kommunistischen Faschismustheorie (1984), p.62.
 (262) Ruth Fischer, Stalin and German Communism (1948), p.265.
 (263) Karl Mielcke, Dokumente zur Geschichte der Weimarer Republik (1951), p.46, p.48.
 (264) Protokoll: Fünfter Kongress der Kommunistischen Internationale, II (1925). p.713; Die Lehren der deutschen Ereignisse: Das Präsidium des Exekutivkomitees der Kommunistischen Internationale zur deutschen Frage (1924), p.18; Braunthal, Historzy, II, p.277.
 (265) Braunthal, History, II, p.277.
 (266) Ossip K. Flechtheim, Die Kommunistische Partei Deutschlands in der Weimarer Republik (1948), p.89.
 (267) Braunthal, History, II, p.278-9; Freund, Unholy Alliance, p.172.
 (268) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.209-212.
 (269) Ibid., p.218; G. Z. Besedovskii, Na putiakh k Termidoru (1930), p.123.
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 第13節、終わり

2576/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第12節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第12節②へ。
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 第12節・ラパッロ(Rapallo)②。
 (12) レーニンは、ドイツとの交渉をいったん決断すると、スターリンが1939年にいっそう巧く模倣した策略を用いた。すなわち、連合諸国との合意を追求しているふりをしつつ、ドイツに対して分離協定に署名するよう圧力を加えた。 
 この戦術が、フランスやイギリスを怒らせるのを怖れる政府内や実業界の親西欧派の反対を抑えるのに役立った。//
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 (13) 1922年1月遅く、Radek 〔ロシア・ボルシェヴィキ〕は、驚くべき報せを持ってベルリンに現れた。ソヴィエト・ロシアの法的承認と商業信用を呼びかけ、その代わりにモスクワはヴェルサイユ条約の実施を助ける、とするフランスとの間の協定をモスクワはまさに締結しようとしている、との報せだ。
 Radek は、かりにロシアがそうするつもりならば、フランスはポーランドとの関係を断つかもしれない、とすら主張した。(*)
 彼は、Rathenau 〔ドイツの政治家〕に対して、ロシアと折り合うことでそのそうな進展を阻止するように迫った。
 また、これには多額の金銭がかかわっていた。
 Rathenau は、50億紙幣マルクの借款を提示し、ロシアは自分を恐喝していると抗議した。しかし、Radek は、ソヴィエトの政策に影響を与えるにはこの額(金での5000-6000マルク)では少なすぎるとして、それを却下した。(+)
 Rathenau は言葉を濁し、連合諸国の反応を心配し、輸入代金を支払うロシアの能力に懐疑的になった。
 フランスとの協定が迫っているとの主張には、実体がなかった。しかし、ドイツの外務当局からRathenau を追い出した点では、究極的にはRadek とその仲間たちの役に立った。かりにドイツが1914年以前のフランス・ロシア同盟の復活を避けたかったとすれば、ドイツは行動すべきだった。それもすぐに、行動しなければならなかった。
 Radek は、近代的軍需産業の建設を早くするために、Seeckt 〔ドイツの陸軍軍人〕に対して、赤軍は春にポーランドを攻撃する準備をしている、と内密に打ち明けた。ポーランドは猛烈に航空機を必要としている。
 騙されやすいドイツ人たちはこの作り話を信じ込み、1922年4月に、モスクワの近傍のFili でのJunker 航空設備の開設を急がせた。
 彼らはまた、空想上のポーランド侵攻にもとづいて、赤軍との職員間の討議を始めた。(注240)
 Radek は、Genoa 経由で4月初めにベルリンに着いたChicherin の支援を受けた。
 彼は、提示されているソヴィエト・ドイツ協定案を持ってきていた。ドイツ外務省の専門家の助けでのちに修正されたのだが、それは、Rapallo 条約の基礎文書として役立つことになる。(注241)// 
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 (脚注*) Wipert von Blücher, Deutschlands Weg nach Rappallo (1951), p.154-5. Gerald Freund はこの情報を引用し、彼自身が主導して行ったと示唆しつつ、Radek を「無責任」と称する。
 しかし、このような重大な問題については、政治局とレーニン個人の是認なくして何も行なうことができなかった。これがまさにその事案に該当することの証拠は、Chicherin が率いたGenoa へのソヴィエト代表団は二ヶ月後に、全く同じ戦術を用いて、ドイツをRapallo 条約の署名へとさせた、ということだ。Freund, loc, cit., p.116-7.
 (脚注+) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1124. ベルリンからの報告の日付は、1922年2月14日。1922年2月22日のレーニンの覚書では、Genoa の戦術に下線があり、Chicherin が外国資本なくしてはソヴィエトの輸送と工業の再建の見込みはない、と強く主張していた。Ibid., delo 1151.
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 (14) 1922年2月28日、政治局は、Genoa 会議に関する、経済協定を中心とするレーニンの基本方針を是認した。これは、「平和主義」派を分つことで、「ブルジョア」陣営の分裂を促進するものだった。
 「我々は、その(ブルジョア)陣営(または特に選んだ別の丁重な表現を用いよ)の『平和主義的部分』は、小ブルジョア、平和主義者、準平和主義的民主主義派の第二インターナショナルか二・五インターナショナル、ゆえにKeynes タイプのそれ、等々だと見なして、呼称すべきだ。
 我々の原則の一つは、原則でなければGenoa での政治的課題は、ブルジョア陣営のこの派を全体として切り離して、いい気分にさせ、我々が締結を受容できかつそれは望ましいと考えていることを知らしめることだ。我々の観点からして、取引上のみならず、政治的な合意の点でも。
 (資本主義が新しい秩序へと進む平和的な移行の数少ない機会の一つとして。これに関して我々共産主義者は、全く楽観的ではないが、敵対的な他の多数派諸国の面前で、その試みを助ける気はあり、それが我々の義務だと、一つの大国を代表する者の義務だと見なしている。)/
 全ての可能なことを、ブルジョアジーの平和主義派を強くしたり、少しでも選挙の見通しを明るくするのは不可能な何がしかのことをせよ。
 これが、第一だ。
 第二に、Genoa で一緒に我々に抵抗するだろうブルジョア勢力を分裂させよ。
 これが、Genoa での我々の二つの任務だ。
 どのような状況でも、共産主義者の見方を促進しなければならない。」(注242) 
 Genoa でのレーニンの戦術にとって重要な平和主義は「小ブルジョア幻想」だということにChicherin が異論を述べたとき、レーニンは、苛立ちを包み隠さず、まさにそのとおりであって、「敵であるブルジョアジーを破壊する目的で平和主義者を利用」しないのは正気でない、と説明した。(注243)//
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 (15) Genoa 会議は、4月10日に開会した。
 ソヴィエト代表団は、レーニンではなく、Chicherin に率いられていた。レーニンは出席しようと思っていて、かつ議長になることを想定していたが、Krasin から暗殺に遭う危険があると警告された後でとどまることに決めた。
 レーニンは、トロツキーまたはジノヴィエフが自分の代わりをすることも、拒否した。(注244) 
 Chicherin は第一日め、一般的な武装解除に関する包括的な「平和主義」綱領を発表した。
 これは、ソヴィエト・ロシアが当時、ドイツの助けで近代化しつつある世界で最大の軍隊(武装兵80万人以上)(注245) を有していたことからすると、皮肉な案だった。
 フランスの要請により、その提案は会合の議題とは関係がないものとして握りつぶされた。//
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 (16) Genoa での原理的なソヴィエトの経済的目標は、外国の借款と投資を確保することだった。
 1918年にドイツ外務省とソヴィエト大使のAdolf Loffe の間の連絡者だった同調者のHarry Kessler 公は、ドイツ外務当局の東部支所の長から、「ロシア人が興味をもつのは金、金、金だ」と言われていた。(注246)
 レーニンは実際に会議の前日の〈プラウダ〉に、ロシア人はGenoa へと、「共産主義者としてではなく、商売人として行く」と書いていた。(注247)
 Genoa でのソヴィエトの政策方針は、ドイツに集中することだった。指導的なソヴィエトの新聞は、こう論じた。「自立したドイツのロシアでの経済政策は、ドイツ資本の合理的な利用への途を開く。ロシア自身でだけではなく、さらに東へと、目ざす途はロシアを通り抜け、ドイツが別の経路では到達することのできない領域へとつづく途だ。」(注248) //
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 (17) 連合諸国は、ソヴィエト政府に対して、ロシアの外国債務を承認し、その「行動または不注意」によって発生した損失を外国人に補償することを求めた。
 外国の請求権は、ソヴィエト債券の外国での発行によって埋め合わされるべきだ。(注249)
 Chicherin は、きわめて条件付きの言葉で示唆して、再建に必要な融資はもちろん外交上の国家承認を受けるならば、損失を外国人に補償する、という意向を表明した。(注250)
 この問題について交渉するふりをしながら、ロシア代表団は、ドイツとの分離条約の締結に向かって静かに動いていた。//
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 (18) こうした努力をするについて、ロシア代表団は、Lloyd George の外交的愚かさに助けられた。
 自らを〈最高の人物(primus inter pares)〉だと示そうとして、この首相は、ソヴィエトを含む多くの代表団と会食をした。
 彼のロシア人との私的な遭遇がさりげなく仕組まれ、Radek とChicherin は、連合国・ドイツ協定をドイツが結ぼうとしていると、警告した。(注251)
 Rathenau は、穏当でないことが起きそうだとの助言に納得しつつ、疑念を拭い去り、4月16日に、Rapallo 近くのSt. Margherita ホテルで、本質的にはモスクワが草案を書いたソヴィエト・ロシア協定に署名をした。(**)
 すぐのちに、二枚舌だと非難されて、ドイツは、連合諸国もまたモスクワと分離協定を結ぶべく動いていたと論じて、自分たちの行動を正当化した。(注252)//
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 (脚注**) 二ヶ月後、Rathenauは、Rapallo 条約のために人生を捧げたのち、「親共産主義のユダヤ」だとしてナショナリストに殺害された。
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 (19) 協定が定める条件により、署名によって相互の外交的承認がなされ、最恵国待遇の地位が与えられた。(注253)
 両国は、戦争に起因する請求権を相互に放棄し、友好的な経済関係を促進することを誓約した。
 ドイツはさらに、ソヴィエトの国有化措置によって政府や国民が受けた損失に対する請求権も放棄した。
 Rapallo 協定は、ドイツが外交政策について連合諸国とは別個にかつ本来の望みとは反対に行動した、休戦以降の三番めの事例になった。いずれの場合も、ドイツは、ロシアに有利に行動した。—最初は、1919年に、封鎖に参加することを拒んだ。次いで、1920年に、ドイツを横切ってポーランドへと軍需資材を送るのをフランスに対して許可しなかった。//
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 (20) 連合諸国は驚いて、ドイツに対して集団的抗議団を送り、国際的交渉が従うべき問題に関する一方的な決定だと非難した。ドイツは対等な相手国として招かれているが、一体性という精神を侵犯することで応えたのだ。
 ドイツはその行動によって、ソヴィエト・ロシアとの共同討議への参加を排除された。(注254)
 Genoa 会議は、解散した。
 西側はおそらく、Rapallo 条約の諸条項をその含意ほどには警戒しなかった。その意味とは、「怒れるドイツと貧しいロシアの同盟」がうっすらと出現した、ということだ。(注255)
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 (21) Rapallo 条約は、ヴェルサイユの後でドイツが初めて締結した国際条約だった。
 ほとんどのドイツの政治家は、ロシアをドイツの経済的、政治的浸透に対して開くものだという理由で、この条約を支持した。
 社会民主党は反対し、ロシアは世界革命のためにドイツを利用している、と警告した。(注256) 
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 (22) この条約は、ロシアのイギリスとの取引を犠牲にして、ソヴィエト・ドイツ間の取引を増大させた。
 1922-23年、ソヴィエトの輸入の三分の一は、ドイツからだった。
 1932年、この数字は47パーセントにまで上がった。(注257)
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 後注
 (240) Freund, Unholy Alliance, p.99; F. L. Carstein in Survey, No. 44-45 (1962), p.119.
 (241) Herbert Helbig, Die Träger der Rapallo-Politik (1958), p.79-81.
 (242) Lenin, PSS, XLIV, p.407-8.
 (243) 初出、Literaturnaia gazeta No. 45 (1972.11.5), p.11.
 (244) TP, II, p.656-9; RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 27069.
 (245) RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 74.
 (246) Harry Kessler, In the Twenties (1971), p.176.
 (247) Lenin, PSS, XLV, p.70.
 (248) EZh, No. 71 (1922.3.29), p.1.
 (249) Dennis, Foreign Policies, p.427.
 (250) Ibid., p.431-2.
 (251) Freund, Unholy Alliance, p.116-7.
 (252) Sovetsko-Germanskie otnosheniia ot peregovorov v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skgo dogovora, II (1971), p.485-6.
 (253) Text in NYT, 1922.4.18, p.1.
 (254) Sovetsko-Germanskie otnosheniia, II, p.486-7.
 (255) Dennis, Foreign Policies, p.430.
 (256) Freund, Unholy Alliance, p.148.
 (257) Müller, Das Tor, p.84. Walter Laqueur, Russia and Germany (1965), p.132.
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 第12節、終わり

2575/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第12節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第12節へ。
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 第8章
 第12節・ラパッロ(Rapallo)①。
 (01) 1920年代の(そしてこの問題では1930年代の)ソヴィエトの外交政策は、ドイツに焦点があった。ドイツは、つぎの革命の地域で、かつソヴィエト・ロシアの原理的敵対国のイギリスやフランスに対抗する潜在的な同盟相手だと見られていた。
 モスクワは同時にこの二つの目標—転覆と協力—を追求した。これらは相互に排他的で、そのことによってヒトラーによる権力への進軍への途を掃き清めたのだったとしても。//
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 (02) ヴェルサイユ後の国際関係の最も重要な事件は、アメリカが国際連盟への加入を拒んだことに次いで、Rapallo 条約だった。この条約で、ソヴィエト・ロシアとヴァイマール共和国は、Genoa での国際会議を経て、予期していなかった世界を驚かせた。//
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 (03) Genoa での会議は、二つの目的をもって開催された。
 ヴェルサイユで未解決のまま残された東欧と中欧の政治的、経済的問題を処理すること、ロシアとドイツとを国際社会へと再統合すること。—両国への招待状は第一次大戦の終焉以降それらが初めて受け取ったものだった。
 同盟政治家たちの副次的な関心は、ロシア・ドイツの潜在的な親交関係の成立を事前に防止することだった。彼らには、それは懸念すべき脅威だった。
 そのように判明したが、Genoa 会議は目標を一つも達成できなかった。その唯一の成果は、まさに阻止しようとしていた、ソヴィエト・ドイツの親交関係の成立だった。//
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 (04) ドイツには、ソヴィエト・ロシアと妥結すべき大きな理由があった。
 一つは、通商上の望みだった。
 ドイツは伝統的に、ロシアの主要な取引相手だった。
 二つの経済は、ロシアには豊富な原料があり、ドイツにはロシアが必要とする高い技術と経営技量がある、という点で、よく適合していた。
 ドイツの実業界は、戦後世界が「アングロ-サクソン」諸国に支配されているのは確かだが、ドイツが発展余地のある経済を維持していくための唯一の希望はモスクワとの緊密な関係のうちにある、と感じていた。
 NEP の導入は、このような協力関係を展望する見込みを可能にした。
 ドイツの実業家たちは、1921-22年に、ソヴィエト・ロシアとの通商関係の発展に関する野心的な計画を立てた。ロシアを潜在的な植民地のごとく位置づけるものだった。(注229) 
 彼らは、北部ロシアとシベリアの広大な森林、シベリアの鉄鉱や炭鉱を利用する見通しに夢中になった。それらは、Alsace とLorraine の喪失を埋め合わせてくれるだろう。(注230)
 ペテログラードをドイツの技術的、財政的援助でもって海運と工業の中心地に変える、という壮大な企画が語られた。
 両国の通商交渉は、1921年早くに始まった。それは、ロシアに投資する外国企業をレーニンが招待したことに由来した。(注231)
 ドイツの産業界の幹部たちはKrasin に、ロシアの基幹部門のいくつかの管理と引き換えに、ソヴィエト経済の再建を助ける大規模の投資を呼びかける提案を行なった。(注232)//
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 (05) しかし、通商上の利益は、地政学的な考慮、すなわち、ソヴィエト・ロシアの助けがあって初めてドイツはヴェルサイユで課された足枷を断ち切ることができるという確信、に次ぐ位置にあった。
 ドイツ人の多数、おそらく大部分は、講和条約の条件は屈辱的かつ重いもので、免れるためには何でもする用意があると、考えていた。
 条約が課した義務履行をしたがらないこと(あるいは、ドイツが言ったように、その能力がないこと)は、フランスの報復を挑発した。これが、親西欧のドイツの政治家の立場をさらに悪くした。
 このような状況のもとで、ドイツのnationalist 社会は協力者を探し求めた。そして、共産主義ロシア以外に、連盟諸国からよそ者として非難されていたもう一つのこの大国以外に、この役割をよりよく果たす者があっただろうか?//
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 (06) Genoa 会議は、ソヴィエトの外務人民委員のGeorge Chicherin の声明によって促進された。1921年10月28日のそれは、こう述べた。
 ロシア政府は、一定の条件のもとで、「1914年以前にツァーリ政府が締結した国家借款から生じる他の国家や国民に対する義務の存在を認める」用意がある。
 彼は、「国際会議に、…ロシアに対する諸大国の請求権を考慮し、それらとの間の明確な条約を作成する」ことを提案した。(注233)
 Lloyd George は、この宣言はロシア革命で生じている問題を最終的に解決する魅力的な機会になる、と考えた。
 1922年1月6日、連盟最高会議は、押収や留保によって侵害された財産上の権利の回復も含めて、中欧と東欧の経済再建を考える国際会議を開催すると決議した。//
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 (07) 既に述べたことだが(第四章)、Hans von Seeckt が率いたドイツの将軍たちは、1919年の冒頭に共産主義ロシアに対する裏口の回路たる役割を果たした。
 ソヴィエト・ドイツ軍事協力関係へと至る決定的歩みは、NEP 政策導入とポーランドとの戦争終結のためのRiga 条約の締結がつづいた1921年の春に、すでに採られていた。
 レーニンは、赤軍がポーランドに対して示す無気力さに驚きかつ心配して、ドイツに軍隊の近代化への助けを求めた。
 この分野では、両国の利害は合致した。ドイツにとって、軍事的協力関係に入るのは望ましかった。
 ドイツは、ヴェルサイユ条約の条件として、近代戦争に不可欠の兵器を製造することを禁じられていた。
 ソヴィエト・ロシアの側は、そのような兵器も欲しかった。
 こうした共通する利害にもとづき交渉が行われ、やがてつぎのようになった。ロシアは、ドイツが先進兵器を製造して検査する安全な場所を提供する。その代わりに、ドイツは、赤軍が使う装備を提供し、訓練を行う。
 この協力関係は、1933年9月まで、すなわちヒトラーが権力を掌握して9ヶ月後まで、続いた。
 両国の軍隊にとって、多大なる利益だった。
 協定期限がついにやってきたとき、当時は戦時人民委員代理だったTukhachevskii は、モスクワにいるドイツの臨時代理公使に、「ドイツの遺憾な進展にもかかわらず、ドイツ国軍が赤軍の組織を決定的に助けてくれたことは、決して忘れ去られないだろう」と言った。(注234)(*)
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 (脚注*) すぐ前の1933年5月、ナツィ・ドイツとの軍事協力関係がまだ現実的に見えていたとき、Tukhachevskii は訪問したドイツ代表団に、こう言った。「あなたがたと私たち、ドイツとロシアは、我々が協同するならば世界を我々の考え方で支配することができるということを、つねに心に留めておこう」。Iu. L. Diakov & T. S. Bushueva, Fashistkii mech kovalsia v SSSR (1992), p.25.
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 (08) レーニンは、1921年3月半ばに、赤軍の再編成を助けてくれるよう、ドイツ軍に正式に要請した。(注235) 
 Seeckt は、このような進展を予期して、いくぶんか前に、ドイツ国防軍の内部に「特殊集団 R」を組織していた。これは、ロシア人と付き合った経験のある将校たちに補佐された内密の部隊だ。
 レーニンが要請したあとで、交渉は迅速に進んだ。
 4月7日、Kopp はベルリンからトロツキーに、ドイツ「集団」は生産のための技術人員と製造設備を用意するために、三つのドイツ兵器製造会社をかかわらせることを提案した、と伝えた。—Blöhm & Voss、Albatrosswerke、Krupp。三社それぞれが、潜水艦、航空機、大砲と砲弾の生産。
 ドイツはモスクワに対して、これらの工業の建設のための信用借款と技術的援助の両方を提供した。これらは、赤軍とドイツ軍の双方に同時に役立つはずだった。
 レーニンは、Kopp の報告を是認した。(注236) 
 やがて、「特殊集団 R」の代表者たちがモスクワに到着して、支局を開設した。
 ドイツ側は、厳格な秘密性を強く要求した。
 この協力関係は首尾よく隠蔽されたので、一年半の間、ドイツの社会主義者大統領のFriedrich Ebert は知らなかった。彼がSeeckt から聞いて知ったのは1922年11月で、そのときに遅れて同意した。(注237)//
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 (09) ソヴィエト・ドイツの政治的協力関係は、1921年5月に決定的な方向へと向かった。連合国がドイツの賠償金支払いの改訂要請を拒否したあとでだ。
 ドイツのほとんどの保守主義者と民族主義者たちは上機嫌で、ロシア共産主義者と共通する信条を掲げることで、連合国に制裁を加えようとした。//
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 (10) このような友好関係へのソヴィエトの関心には、明確な動機があった。すなわち、政治や軍事に加えて、経済だった。
 レーニンは、ソヴィエト経済の再建には西側の資本とノウハウが必要であり、これらを最も容易にドイツから得ることができる、と考えた。
 連合諸国はソヴィエト・ロシアとの通商を望んだが、借款問題が満足な結果を得て解決するまでは、信用貸しをするつもりがなかった。
 この問題はロシア・ドイツ関係には大きな障害ではなかった。ソヴィエトの債務不履行と国有化によって被ったドイツの損失ははるかに少ないもので、いずれにせよ、両国の1918年〔ブレスト=リトフスク〕条約の定めでもって実質的には補償されていた。
 連合国・ソヴィエト間の通商のもう一つの障害は、ソヴィエト各省は西側の個々の会社ではなく合弁企業と交渉をすべきだ、という連合諸国の主張だった。  
 これはモスクワの気には全く召さなかった。外国企業を相互に競わせるのを好んだからだった。
 連合諸国とは対照的に、ドイツは、ロシアが一対一でドイツの企業と交渉することに異議を挟まなかった。Rathenau は実際に、ドイツはモスクワの同意なしにはどの合弁企業にも参加しない、とRadek に約束した。(注238)//
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 (11) 9月21日と同24日、Krasin は、Seeckt の副官の一人である参謀部からのドイツ人将校と、ロシア・ドイツの軍事協力に関する詳細を詰めるために逢った。(注239)
 Krasin は、レーニンに報告したとき、金儲けだけ考えて連合国に簡単に脅かされるドイツの銀行家や実業家を巻き込んでも無駄だ、という考えまで述べた。「真剣に復讐を考えている」ドイツ人と交渉するのが最も好い。
 協力関係は、ドイツ政府からは厳格に秘密にされ、その情報は軍部にだけに限定された。
 ドイツは、ソヴィエト・ロシアで企画されている軍需産業を動かす技術者
や経営要員はもとより、財政援助も提供することになるだろう。彼らの公式な監督は、ソヴィエトの「トラスト」に委ねられる。 
 Krasin によると、計画の全体が赤軍の近代化の努力だと偽装されており、現実的かつ直近の目的は、ドイツが数百万人の軍に先進的で禁止されている兵器を装備させないことにあった。//
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 後注
 (229) Rolf-Dieter Müller, Das Tor zur Weltmacht (1984), p.50-p.60.
 (230) Ibid., p.46-47.
 (231) Lenin, PSS, XLII, P.55-p.83; 初出、1963年。
 (232) R. G. Himmer in Central European History, Vol. 9, No. 2, (1976), p.155.
 (233) Correspondence with Mr. Krasin Respecting Russia's Foreign Indebtedness, Parliamentary Papers, Russia, No. 3, Cmd. 1546 (1921) , p.4-5.
 (234) Dispatch of 1933.12.6. in Department of State Documents on Germn Foreign Policy, Series C, Vol. II (1959), p.81.
 (235) Gerald Freund, Unholy Alliance (1957), p.92n. さらに、E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, III (1953), p.361-4 を見よ。また、Deutscher, Prophet Unarmed, p.57-58.
 (236) TP, II, p.440-3.
 (237) Freund, Unholy Alliance, p.149.
 (238) PTsKhIDNI, F. 5, op.1, delo 2103, list 84, F. 2, op.2, delo 1124.
 (239) Ibid., F. 2, op.2, delo 897,933,939.
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 ②へと、つづく。

2510/R・パイプスの自伝(2003年)⑫—イタリア②。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第四章の試訳のつづき。
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 第一部/第四章・イタリア②。
 (12) このような悲劇的事態について、私は相談されなかったし、関与もしなかった。イタリアは、私には全くのパラダイスだった。
 学校も軍事教練もなく、Radonski はおらず、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))もアフリカのLimpopo 河もなかった!。
 私は毎日をのんびりと、ローマの美術館を訪れ、演奏会やオペラに通い、映画館へ行って過ごした。
 ポーランド大使館で世界じゅうの切手を収集し、ドイツ人難民の切手取扱業者に売って、これらを安価に楽しむ入場券代を得た。
 イタリア人が入場券を購入するとき、一定の映画鑑賞者がある言葉—「Dopolavoro」—を発しているのに、私は気づいた。これを言うと、半額で、通常は2リラのところを1リラで買うことができた。
 この言葉の意味を知ることなく、節約したい思いで、私は映画券を安くするために、さりげなく「Dopolavoro」と言ったものだ。
 のちにようやく、Dopolavoro(「労働の後」)とはファシストの労働者組織のことだと知った。
 このことはムッソリーニ独裁体制の弛緩ぶりを示している。誰も、私が会員であることの証明を要求しはしなかった。//
 (13) ローマには、ほとんど旅行者がいなかった。
 今日では混雑してフレスコ画をほとんど見ることのできないSistina Chapel は、いつ行っても、おそらく数人の旅行者しかいなかった。
 私は全ての美術館と画廊を訪れて、一度ならず、十分なメモを取った。
 スペイン広場の階段の上にあるドイツ芸術図書館で、数時間を過ごした。そこで、Giotto に関する企画書の資料を集めた。
 両親を通じて、若いポーランド・ユダヤ人女性と会って、友人になった。この人は、彼女の娘をポーランドから脱出させたいという望みをもって、上海からローマに来ていた。
 我々は一緒に美術館を訪れて、時間を過ごした。
 彼女は、私の唯一の同伴者だった。彼女が神経衰弱に罹って、彼女を失ったのは気の毒なことだった。//
 (14) 私の将来に関して、父親と衝突した。
 父親は、今の騒乱した世界では、しっかりした職業か事業を持たなければ私は生きていけないだろうと心配した。
 この当時の、1939年12月21日付の私の日記の初めに、こう書かれている。
 「私は、父親のつぎのような意見を拒絶した。私が学者になるというのは考え難い、いずれ、カナダのどこかの『チョコレート工場』で父親を継がなければならないだろう。
 〈Es kommt ausser Frage〉(問題外だ)、〈kommt nicht in Betracht〉(考慮外だ)、父親が私に言うことは。…
 自分のことは自分で決定する、自分がしたいことをするだろう、と私は分かっている。」//
 (15) 散発的に書き続けた日記から判断すると、今ではイタリアでの7ヶ月には楽しい思い出しかなかったようだ。しかし、幸せにはほど遠かった。孤独、郷愁に苦しみ、友人たちを懐かしく思い、将来のことで悩んでいた。//
 (16) フィレンツェ大学が外国人向けのイタリア芸術と文化の特別コースを提供していることを知り、出席させてくれるよう両親を説得した。
 完全に自分で行うこととした最初だった。
 3月半ば、母親はフィレンツェまで私に同行し、私がdei Benci 通りのユダヤ人女性の住戸区画の部屋を借りているのを知った。そこは、素晴らしいGiotto のフレスコ画のあるSanta Croce 教会の近くにあった。  
 私はその頃までに、講義を理解するためのイタリア語を増やしていた。
 誰とも親しくならなかったが、必要があるときは学生の誰かに、自分はラテン・アメリカ出身だと言った。
 イタリア文学の外国への影響に関する講義のときに、学生の一人が立ち上がって教授に向かって、聴衆の中にラテン・アメリカ人がいると伝えた。
 授業のあとで教授に紹介されたとき、その教授は私に向かって「素晴らしい、きみは私の家を訪れてきみの国の文学に関する全てを語ってくれたまえ」と言った。//
 (17) この出来事のあと、私は講義に出席するのをやめた。
 それ以降、ずっと一人で過ごした。フィレンツェの教会、美術館、そして市を囲む丘陵地を歩き回った。
 春で、花がいっぱい咲いていた。
 私はきわめて質素に生活した。
 主な昼食は、どの日も、種々の肉の欠片がかけられたパスタ、一杯のワイン、デザートのオレンジだった。それに7リラ(25USセント)支払った。快くほろ酔いになった。
 朝食と夕食に一日あたり5リラがかかり、家賃は一月120リラだった。
 今日まで60年間にあったインフレを少し考える。当時は700リラで一ヶ月を過ごすことができたが、それでは今日では一杯のエスプレッソも飲めないだろう。
 私は〈Osservatore Romano〉を読んで、戦争のニュースを追いかけ続けた。その新聞はVatican の公式の日刊紙で、適切な媒体だった。//
 (18) 私と同じアパートに、ドイツからの難民一家がいた。歯医者で、妻と娘がいた。
 私は本当の自分のことを話さなかったが、彼らは何も疑っていなかった。
 ほとんど6年後に、ベルリン出身のユダヤ人歯科医師の名簿をたまたま見る機会があった。
 私の知り合いを訪ねて、彼らはSomalia へ行き、そこからPalestine へと移ったということを知って、安心した。//
 (19) イタリア政府は、ドイツから、大部分は無視されていたその反ユダヤ諸法を実施するよう圧力を受け続けていた。
 1940年4月、政府当局はユダヤ人に不動産を貸すことを禁止する布令を施行した。
 私は転居せざるを得なくなり、Lungarno delle Grazie 10 のペンションの一部屋に移った。
 そこの賃借人のあとの二人は、フランス人女子学生と、イタリアの予備将校だった。
 我々は一緒に食事を摂った。
 思い出すのだが、あるときその将校が、かりに政府がフランスと戦闘することを命じたら、自分は武器を置いて降伏するつもりだ、と言った。
 私は唖然とした。ポーランドでは、ナツィ・ドイツやソヴィエト・ロシアでは勿論だが、そう発言したことがかりに報告されれば、将校は逮捕されて処刑されていただろう。
 ここでは、何事も起きなかった。//
 (20) ヨーロッパでは相対的な静穏さが続いていたが、父親は、可能なかぎりすみやかに我々を脱出させる決意だった。
 4月末、父親から、家族一の英語半会話者として、ナポリに同行するよう求められた。そこで、アメリカの領事にビザの発行を説くためだった。
 我々の要請は拒否された。我々の順番は6月になるだろう、と言われた。
 別れるときにアメリカの領事は、「I am sorry」と言った。この表現の仕方を聞くのは、初めてだった。//
 (21) ヨーロッパの危機が迫って来ていた。
 5月10日、ドイツがベルギーとオランダに侵攻した、とフランスの女の子に告げるために家へと急いだ。
 彼女は、出立しようとすぐに荷造りをした。
 2日後、両親から、ローマに戻るようにとの電話があった。
 両親は、我々の移住ビザが6月1日に用意されると、米国の領事から知らされたようだった。
 私は5月13日にローマに戻り、その月の残りをPiamonte 通りで過ごした。
 ドイツ軍は再び、驚異的な早さで前進していた。
 オランダは5月14日に、ベルギーは5月26日に、降伏した。
 ドイツ軍は6月の初めまでに、フランス内部へ深く侵攻し、連合軍は総退却した。
 ムッソリーニはもうすぐヒトラーに加わって宣戦するだろう、と予期された。//
 (22) 6月3日、母親が、アメリカのビザを受け取りにナポリへ行った。
 数日前に、父親は、スペインの通過ビザを得ていた。
 戦争熱の高まりの中で、スペインへの移動手段を獲得するのはきわめて困難だった。しかし、父親は、スペインのBalearic 諸島のPalmas 行きの水上飛行機の切符2枚を何とか確保した。
 父親と私が、兵役年齢で、それを理由に戦争中は勾留されるかもしれなかったので、その飛行機で出発し、母親は船で追いかける、と決定された。//
 (23) 6月5日、父親と私はスペインへと出発した。
 間一髪だった。我々はのちに知ったのだが、まさにその日に、イギリスとフランスの国民は人質として役立つべくイタリアを離れるのを禁止された。
 我々が自由にすることができるいかなる保証もなかった。
 ラテン・アメリカとポーランドの旅券を携帯して、我々はタクシーで空港へ行った。ポーランドの旅券はスペインとアメリカの二つのビザを伴っていたが、イタリアが我々をラテン・アメリカ人として登録するかは不確実だったので、前者はスペインのビザだけだった。
 父親が私に、搭乗ゲートにいる職員の後ろを盗み見して、気づかれないように我々の名前の次に公民権が記入されているかを覗くよう、頼んだ。
 消極の(記入されていないとの)合図を送ると、我々に同行した友人たちは、ニセの旅券を隠していたオレンジ入りの袋を母親から取り去った。
 その友人たちから、戦争後になって、イタリアの警察がその数日後にPiemonte 通りに来て、我々を逮捕しようとした、と聞かされた。//
 (24) 飛行機は離陸し、やがてPalmas に着いた。
 降りるとき、父親が帽子を挙げて「イタリア、万歳!」と叫んだ。イタリアの航空士は父親をスペイン人と思ったらしく、「エスパーニャ、万歳」と答えた。
 我々はその夜、船でバルセロナへ向かった。
 その船は、最近に解放された共和国の戦争捕虜たちで満杯だった。その中の一人と、私は会話した。
 バルセロナに到着したのは、6月6日だった。//
 (25) その間に母親は、ココ(Coco,愛犬)と荷物とともにGenoa へ行き、6月6日に、バルセロナ行きの〈Franca Fassio〉という名の船に乗った。
 出航する前に、母親はポーランド・ユダヤの知人が下船させられるのを防いだ。自分は兵役年齢のその青年の婚約者だ、というふりをしてだった。
 イタリアの役人たちが、二人の関係を証明できる人物を知りたがった。
 母親は、ローマにいるポーランド大使の名を挙げた。
 役人たちは実際に、彼に電話した。
 大使のWieniawa はすぐに出て、母親と青年はまだ結婚していないのか、と驚きを込めて言った。それで、その青年は解放された。
 母親が乗った船はつぎの夜(6月7日)に着岸した。
 好ましい別れの挨拶から判断するに、母親は乗船者の半分と親しくなったようだ。//
 (26) 我々は、二週間半をスペインで過ごした。
 この期間の記憶はほとんど残っていない。例外的に憶えているのは、フランスが降伏したのを知ったこと、ひどいフランス語で発せられ、フランスにイギリスとの同盟を提示したChurchill の演説を聴いたこと、だ。
 6月24日に、ポルトガルに向けて出立した。そこで、アメリカ合衆国まで我々を運んでくれる船を見つけるつもりだった。
 リスボンに着くまでに、フランスからの避難民が続々と乗り込んできた。多くの人々が同じ目的を心の裡に持っていた。アメリカへ渡ること。
 アメリカの乗客には優先権が与えられたので、我々が大西洋を横断することのできる船を見つけるのは、きわめて困難だった。
 やっと、〈Nea Hellas 丸〉という小さなギリシアの船に、船室の余裕を発見した。
 その船はニューヨークから来ていて、アテネまで航行する途中だった。だが、イタリアが参戦し、地中海は戦闘海域に入った。
 それで、乗客を完全に埋めることなく、引き返すことになっていた。
 7月2日に、乗船した。そして、翌朝に出航した。
 我々は、普通の三等船室で旅行した。
 食事は何とか食べられるもので(残しておいたメニュのある料理は「Chou ndolma Horientalep」だ)、ワイン(retsina,ギリシャワイン)は飲めなかった。
 ほんの数人のギリシャ人が乗っていた。彼らはアメリカを追放されていて、戻るのは決して不運ではなかった。
 最も注目した乗客は、Maurice Maeterlinck で、この人は19世紀遅くの著名な作家かつ戯曲家だった。今では忘れられ、読まれていない。
 好天のもとで、彼は一等の甲板で、ヘアネットを付けてゆったりと横になっていた。
 私は彼の写真をもらった。
 ドイツの潜水艦が停まって我々を探す危険がある程度はあったけれども、何事も起きずに船旅は過ぎた。
 (27) 1940年7月11日、New Jersey 州のHoboken に接岸した。
 その日は、私の17歳の誕生日だった。
 ——
 第一部第四章、終わり。

2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第一章の試訳のつづき。
 ——
 第一章 ④。
 (38) 二人の赤帽を連れてくるため駅へ行ったとき、まだ暗かった。
 我々は沢山の荷物を持って、一定の地位のある外国人用に作られたような一等車両で旅行した。
 制服を着たドイツ人で、駅は混んでいた。
 安全を期して、父親はBreslauまでは同伴してほしいと、領事X氏を説得していた。そこからミュンヘン経由でローマへ行くことになっていた。
 母親の兄弟の一人のMax が、別れを告げるために駅まで来た。彼は、残すほかに選択の余地がなかったココ(Coco)を抱えた。
 我々の小犬はキャンキャン鳴いて、革紐を引っ張った。
 列車が動いたとき、彼女は革紐を食いちぎって自由になり、踏み段に跳び上がって、真っ直ぐに私の腕の中に飛び込んで来た。
 私は放そうとしなかった。
 内部では、彼女は座席の下に小さく縮こまり、旅行の間ずっとそこにいた。まるで列車に乗る資格がないと言われ、面倒を起こしたくないかのごとくだった。
 10年後に死ぬまで、彼女は我々と一緒にすごした。//
 (39) 我々の区画(compartment)には、制服姿のドイツ人の医師、軍曹と上着に鉤十字をピン留めした屈強そうな女性がいた。
 医師は私を会話に引き込んだ。私がラテン・アメリカ出身だと聞くと、スペインのオレンジはアメリカのものより旨い(いや、別だったか?)、Radio City Roketts は素晴らしい、ポーランドの庭師を連れて帰るよう息子に頼まれた、とか言い、くすくす笑いながら、ポーランドの「悪臭たれ」だからその男が家に入るのは許さない、と付け加えた。
 軍曹は脂抜けした肩掛け鞄から横目で見て、肥えた男をさえぎった。そして、黙り込んだ。
 隣に座っていた母親が、ときおり私の足をやさしく蹴って、面倒なことに巻き込まれないよう警告した。
 彼女が休憩所へ行こうとしたとき、ドイツの一兵士が通路に立っていて、明らかに人種意識から、列車に乗れたのは幸運だと言いながら、行く手を妨害した。//
 (40) ポーランドはドイツに征圧されていたので、二つの国の国境はなく、困難なく我々はBreslau に到着した。
 我々への疑念を逸らすために、父親は市内の最良のホテルの一つを選んでいた。<四季(Vier Jahreszeiten)>という名で、鉄道駅に近接していた。
 荷物を下し、洗顔したあとで、私は街なかに入り、数冊の本を買った。
 市の清潔さと賑やかさに驚いた。
 我々は夕方に、二階にある優雅なホテル・レストランを訪れた。そこは制服を脱いだ将校たちと着飾った女性たちでいっぱいだった。
 我々はローストがもを注文した。
 ウェイターが慇懃に、肉のクーポンを持っているかと尋ねた。
 持っていなかった。彼は翌日に手に入れる方法を助言してくれた。//
 (41) 私は60年後に、Polonia と改称されたそのホテルを再び訪れた。
 三つ星の宿泊設備を提供していた。
 だが、記憶に朧げに残っているのは4分の1くらいだったけれども、二階の食堂がまだあった。//
 (42) 10月29日日曜日にミュンヘンに向かって出立する前、我々は二晩をBreslau ですごした。
 ミュンヘンまでと、そこからローマまでの切符を購入するドイツの金を、父親は所持していなかった。
 父親は実直そうな顔の将校を探して、駅を歩き回った。
 これは危険な活動だった。
 父親は一人に狙いを定め、—どんな口実だったか私は知らないが—持っているポーランドのzlotys をドイツ・マルクと交換してくれないかと頼んだ。ポーランドから帰ってくるドイツ軍属にはその資格があった。
 その将校は、応じてくれた。//
 (43) Dresden 経由でミュンヘンまで旅行し、午後にそこに到着した。
 ローマ行きの夜行列車に乗り込むまで、数時間待った。
 その時間をミュンヘンの大きな美術館、アルテ・ピナコークに行ってすごそうと、私は決めた。
 面倒なことはしないと約束して、両親の反対を無視した。
 鉄道駅からKalorinenplatz(カロリーネン広場)まで歩いた。そこには当時、総統のために騒乱で倒れたナツィの殺し屋どもの霊廟があった。衛兵が監視しながら立っていて、広場全体が鉤十字の旗で飾られていた。
 ピナコークまでの距離は1キロもなかった。まもなく東入口に着いた。
 階段の頂部には、制服姿のナツィが立っていた。/
 「これはピナコテークへの入口ですか?」と私は尋ねた。
 「ピナコテークは閉まっている。きみは戦争中なのを知らないのか?」//
 (44) 私は駅に戻った。
 母親はのちに、万が一のときのため、慎重に隠れて私の後をつけていた、と語った。
 私は1951年に、このルートを再び歩いた、そして、ナツィがもうおらず、私はいることに、大きな満足を感じた。//
 (45) Innsbruck に夕方に着いた。そこは接続駅で、イタリアとの国境として機能していた。
 一人のGestapo 将校が、旅券を集めるため入ってきた、—そのとき座っていたのは我々だけだった。
 我々には三人用の一つの旅券だけがあった。
 彼は、もう一度現れて、ドイツを離れてよいとのGestapo の許可がないからイタリアには進めない、と言った。/
 「我々は何をしなければならないのか」と、父親が質問した。
 「あなたたちはベルリンへ行かなければならない。そこで、あなたたちの大使館が必要な書類を入手してくれるだろう」。この言葉を残して彼は敬礼をし、旅券を返却した。//
 (46) 我々は荷物を列車から降ろして、ホームに積み上げた。
 父親はどこかに姿を消し、母親と私はすべなく立っていた。周りには若いドイツ人やオーストリア人がいて、肩にスキー板を乗せて陽気に喋っていた。
 突然に父親が戻ってきた。
 荷物を列車の中に戻すよう、彼は言った。
 列車がまさに出発しそうだったので、我々は大急ぎでそうした。
 Gestapo 将校が再び現れたとき、鞄類をかろうじて元の区画に置いたばかりだった。/
 「列車から出るようあなたたちに求めた」と、彼はいかめしく言った。
 しかし、彼は小男で、ひどく脅かすという響きはなかった。//
 (47) 父親にはドイツ語は母語で(彼は若い頃ウィーンですごした)、スペイン語を話す南米人を演じるために、文法と発音のいずれについてもドイツ語に関して最善を尽くした。
 (実際には、我々全員がスペイン語を一語も話せなかった。)
 父親は、Innsbruck 駅長に逢って、できる限り早く母国に帰る必要がある、と告げた、と説明した。
 駅長はたぶん呑気なオーストリア人で、この事案に何の権限もなかったが、父親の言ったことを聞いて、「von mir aus」のようなことを言った。
 これは大まかに翻訳すると、「私に関係するかぎり」またはたぶん口語表現では「私に関係がないから(どうぞ)」—「気にする範囲内で」を意味する。//
 (48) Gestapo の男は旅券の提出を要求し、そして去った。
 列車はこのときまでにゆっくりと動いて、約25マイル先にある、イタリア国境のBrennero へ向かっていた。
 窓を通して、巨大なアルプスが迫ってきた。
 我々の生命にとって、これが最も危機的なときだった。なぜなら、Brennero で列車から降ろされ、ベルリンまで行くことを強いられていたなら、確実に殺されていただろうから。「我々の」在ベルリン大使館は、我々が持つ旅券は無効だとすぐに判断し、我々をドイツに引き渡すに違いなかっただろう。//
 (49) どのくらい長く決定を待つ必要があったか、憶えていない。
 数分だっただろうが、耐え難く時間が延びているように感じた。
 Gestapo の男が、国境に到達する前に戻ってきた。
 そして、彼は言った。「あなたたちは、一つの条件付きで、進行することができる」。
 「どんな条件ですか?」と父親が尋ねた。
 「ドイツに帰ってこない、ということだ」。
 「〈ああ、そうしない!〉(Aber NEIN !)」と、父親はほとんど叫ぶように反応した。まるで、ドイツにもう一度足を踏み入れると少しでも思うと恐怖で充たされるかのごとくに。
 (50) ドイツ人は我々に旅券を手渡し、離れた。
 母親の顔は涙で溢れた。
 父親は私に、一本のタバコをくれた。初めてのことだった。
 (51) 朝早くに、Brennero に着いた。少し停車している間に、我々は新鮮なサンドウィッチを買った。
 太陽がまぶしく輝いた。
 10月30日月曜日の正午すぐ前に、ローマに到着した。
 (52) 我々は、救われた。
 ——
 第一章・戦争(原書p.1-p.14.)、終わり。


 000Pipes

2487/R・パイプスの自伝(2003年)③。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ③。
 (24) 〔1939年〕10月6日、ヒトラーが、勝利してポーランドの首都を視察するためにやって来た。
 私は、我々の4階の窓から、彼を眺めた。ドイツ兵が、行路である目抜き通りのMarzalkowska 通り沿いと我々の家屋の下に、数フィートごとに銃砲を持って配置されていた。
 彼はオープンカーのMerzedes に乗り、親しげな様子で立ち上がり、ナツィ式の敬礼をしていた。
 ヒトラーを殺すのは何と簡単なのか、と私は思った。//
 (25) ポーランド人は初めは、外国による占領を寡黙な宿命意識で耐えた。
 結局は、彼らの国は21年間だけ独立し、つづく120年は外国に支配された。
 ポーランド人の愛国意識は、国家性よりも文化を伴う民族性と彼らの宗教へと向かった。
 彼らは、この占領は長く続くだろうが、再生したポーランドをもう一度見るだろうことを、疑っていなかった。//
 (26) もちろん、ユダヤ人には状況はきわめて困難だった。
 ポーランドのユダヤ人の大多数—正統派で、密集した区画に住んでいた—はおそらく、彼らに対するナツィの考え方をほとんど何も知らなかった。
 東ヨーロッパのユダヤ人は、住民のうちで最も親ドイツの集団だった(共産主義とロシアに共感をもった者たちは別として)。(*脚注1)
 ---- 
 (*脚注1)不幸なことに、多くがそうだった。その中で生活しつつもキリスト教徒から区別された彼らは、私事についてはきわめて現実的で、実際に厳しい体験で鍛えられていたが、伝統的に排除された政治の世界については著しく無知だった。
 彼らの中で同化した者たちは、メシアの到来を信じる正統派信者の仲間として、社会主義を信じがちだった。
 -----
 彼らは、ドイツがロシアからポーランドを征圧して法と秩序をもたらした第一次大戦の間の時期(1915-1918)を記憶していた。私の母親の家族には、その時代のよい思い出しかなかった。
 私は思うのだが、ユダヤ人の大多数は1939年9月に起きたことをひどく怖がったということはなかった。そして、多少とも、正常な生活が回復すると予測した。
 Israel Zangwill はその〈ゲットーの子どもたち〉で、正当にこう語る。
 「ユダヤ人は迫害による苦痛をほとんど感じなかった。
 彼らはGoluth つまり亡命(exile)の時代にいると、またメシアの日々はまだ来ていないと、分かっていた。そして、迫害者は全知全能の神(Providence)の愚かな手先にすぎない、と考えた。」(+後注02)
 (+後注02) 1895年, New York &London.
 (27) 同化したユダヤ人は、より心配した。彼らはニュルンベルク法と水晶夜(Kristallnacht)〔1938年11月の反ユダヤ人暴動・「11月の虐殺」—試訳者〕について、知っていた。
 しかし、彼らですら、ドイツ支配下で何とかして生きていける、と考えた。ドイツ人にも結局は、医者、服屋、パン屋が必要だろう。
 ユダヤ人は二千年以上、敵対的環境の中で生き延びていく仕方を学んできていた。
 彼らは、体面や同情に訴えたり、人権を要求したりではなく、諸権力に有用な者に自分たちがなることによって、生存を達成した。すなわち、王や貴族に金を貸し、彼らの必需品を販売し、彼らの賃料や税金を徴収することによって。
 かつてしばらくの間、彼らが財産を奪われて追放されたのは本当だが、彼らはほとんどの時期を何とかして生きてきた。
 今度もそのようになるだろう、と彼らは思った。
 彼らは、大きな間違いを冒した。
 彼らが今対処しなければならない者たちは経済的な個人的利益には影響されず、異常な人種的憎悪に動かされていたのだ。—抑えることのできない憎悪感情。//
 (28) 半世紀後に、パレスチナ人と交渉するイスラエルの人々のナイーヴさを観察して、この〔ユダヤ人の〕態度を理解できるようになった。
 イスラエル人は、イスラエルを破壊し、そのユダヤ人住民を虐殺するか少なくとも追放しようとした、三回のアラブの侵攻を撃退した。そして、イスラエルの人々は定住して快適に生活し、平和と繁栄を維持するためにアラブ人にほとんどどんな譲歩でも行う気があった。
 イスラエル住民のかなりの部分は、パレスチナの隣人たちの宥和不可能な破壊的熱情に関する間違いようのない証拠を、素っ気なく無視した。譲歩すれば何とかなると、確信していたのだ。
 彼らは憎悪しなかったがゆえに、自分たちが憎悪されることがあり得ると考えるのは困難だった。//
 (29) 被占領下のポーランドの生活は、驚くべき速さで正常に戻った。日常がいかに速く「英雄的なもの」を圧倒したかは、驚嘆するほどだ。
 この経験が私に与えたのは、つぎの不変の確信だ。すなわち、民衆一般は歴史では、ともかくも少数のエリートに留保された政治や軍事の歴史では、辺縁的な役割しか果たさない。彼らは歴史を作るのではなく、生きる。
 私はこのことを、〈Old Wive's Tale〉へのArnold Bennett 自身の序文での洞察で確認した。そこで彼は、年配の鉄道被用者とその妻への、1870-71年のプロシャの包囲の間のパリに関するインタビューを思い出している。
 Bennett はこう書く。「我が彼らから得た最も有益なことは、最初は驚いたが、ふつうの人々は包囲されたパリで全くふつうの生活を営みつづけた、ということだった」。//
 (30) 1940年5月に記録したようにこうした期間の私の思い出を振り返ってよいなら、以下はドイツ占領下で私が過ごした時代について書いていたものだ。
 「私のこれまでの人生で最も悲しい月が始まった。それは結構な終わりを迎えることになった。—1939年10月。
 この期間に何をしたか、どうやって過ごしたか、自分が叙述するのは困難だ。
 アパートは、ひどく寒かった。
 私はほとんど全てを着込んで掛け布団の下で寝た。
 ドイツ軍が歩いている人々を拘引していたので、外へ出るのは危険だった。
 夜には電灯が点かず、ろうそくは節約する必要があったので、私は昼間にだけ読書し、勉強することができた。
 私たちは毎日、ライス、マカロニを食べ、種々のスープを飲んだ。—のちにはキャベツとパンが加わった。
 私は10時頃に起床し、強い嫌悪感をもって、しかし同様の食欲で、朝食を摂った。そのあとで、家を出て[友人の]Olek やWanda、あるいは家にいる他の誰かを訪れた。…。
 困難な状況を思って、絶望していた。—野心、計画、夢の全てが粉みじんに散った。」//
 (31) 父親がなぜドイツ占領でのたんなる生存の見込みすら厳しいと考えたのか、私は正確には分からなかった。ほとんどのユダヤ人は、占領を甘んじて受けていた。
 おそらくは、誇りからだった。父親はパリア(pariah、のけ者・下層民)のごとく自分が扱われると考えること自体を耐え難く感じる、自負心の強い人だった。
 彼は広がっているいかなる幻想も持たず、前方にあるものを正確に予測していた。
 一ヶ月後に、公然たる追及が始まる前のことだが、彼が書いた手紙で、彼はこう書いた。「ポーランドのユダヤ人は、ドイツのユダヤ人よりも悪い運命に直面している」。//
 (32) 10月の前半のいつかに、我々は台所で家族会議を開き始めた。それには、家族全員と、戦争勃発とともに行方不明になっていたお手伝いのAndzia も加わった。
 あるラテン・アメリカ国への偽造旅券でポーランドから西側へと出る可能性が、浮かび上がった。
 父親はその国の名誉領事を知っていた。X氏と称しておくが、この人物は領事館のスタンプのない、一冊の空白の旅券を持っており、このスタンプは、外交団と一緒に彼がワルシャワを去るときに総領事からもらっていた。
 X氏は、我々が自由に使えるよう、この旅券を我々に預けた。
 しかし我々は、つぎの疑問に直面した。我々はあえて慣れた場所を立ち去って、未知の場所へと行くのか?
 我々は裕福でなかったが、家で金銭について議論したことはなかった(総じて言って、金銭はユダヤ人中流家庭での会話の話題でなかった)。私も、生き延びるためのその必要性に関して、何の考えも持っていなかった。
 父親がこの冒険の是非を声を出して考えている間、私は賛成の意見だった。
 私は大学に入学登録したかったが、それはドイツ占領下のポーランドでは考え難いことを知り、ポーランドを離れるよう強く主張した。
 金銭については、我々は何とかするだろう。最終的には、父親には、我々が苦境を切り抜けるための銀行口座が、ストックホルムにある。//
 (33) 母親によると、離れるという決定が下されたのは、ドイツ軍が掲示板に彼らに登録した住民にはパンの配給券が発行されると発表した後だった。
 父親は、これは誰がユダヤ人なのかを決める手段だ、と結論した。//
 (34) 私の主張と私の(根拠のない)自信は、間違いなく、父親の判断を助けた。
 私は今でも、父親が全く大胆な決定をしたと驚嘆している。
 母親は、ユダヤ人の彫刻師を探し出して、欠けている領事館の公印を偽造させた。
 そして父親は、出国許可を求めてドイツ軍司令部との交渉を始めた。
 Gestapo は10月15日にワルシャワに入っていた。だが父親は、もっぱら軍部と交渉した。
 父親は私にこう言った。ドイツ軍司令部と我々の出国を交渉している間に、市長のStarzynski のところへ行ったのだが、彼は父親をドイツのスパイか協力者だと疑って怒りの視線を向けた、だが説明する機会がなかった、と。//
 (35) こうしたことが起きている間、私は、幸運に包囲攻撃から生き延びた友人たち全員を訪問した。
 音楽がとても好きな学校の友人の一人のアパートの中庭に入ったとき、Beethoven の〈英雄(Eroica)〉の音が聞こえた。
 別の学校友達の母親は驚いて、ドアを開けるのを拒んだ。
 最良の親友のOlek Dyzenhaus は、姿見がよかった。
 Marzalkowska 通りを二人で歩いていたとき、パン待ちの行列に気づいた。語り合い、笑いながら、我々もそれに加わった。
 後ろの一人の男性が、首を振りながら、「ああ、若いやつ、若いやつ」と呟いた。
 我々はこれは怪しい人物だと思った。しかし今では、彼の反応が分かる。//
 (36) ついに、全ての書類が揃った。イタリアへの通過ビザも含めて。
 我々は、ドイツ軍が市を占領していたので、10月27日金曜日の午前5時49分に、ワルシャワからの始発列車で出発することになった。
 その列車は、故郷へと兵団を運ぶ軍事用のものだった。
 我々の目的地は、Breslau(今日のWroclaw)だった。//
 (37) 父親は一人のドイツ系ポーランド人—Volksdeutsche と呼ばれた—と、推測するに我々が戻るまで、我々のアパートに転居することを取り決めた。
 その人物は、アパート所有物の詳細な目録に署名をした。
 私は、音楽と芸術の歴史に関するものが最も多い書物と写真を集めた。
 そして、ほとんど哲学書と芸術史書から成る私の小さな書斎に別れを告げた。
 その中の主要なものは、Meyer の〈Konversationslexicon〉だった。それは19世紀末に出版され、芸術史に関する知識のほとんどを、私はそれから得ていた。
 ロシアによる検閲で、攻撃的と見られた全ての文章が墨汁で黒く塗られていた。
 表紙は、第一次大戦の寒い冬の間の燃料になるよう、注意深く破り取られていた—そう叔父は私に教えた。
 私は夜のあいだずっと、手の施しようもなく震えていた。//
 ——
 第一章④へとつづく。

2486/R・パイプスの自伝(2003年)②。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 著者はドイツ軍の空襲を受けているワルシャワで(両親とは別の部屋で)ニーチェの〈権力への意思〉などを読みつつ寝た、という当時の日記の一部を掲載している。以下の(16)参照。興味深い。
 だが、当時16歳のポーランドの少年(青年?)が、どういう目的や思いをもってNietzsche の本を持っていて、「非常時」に目を通したのか?
 攻撃しているドイツの人物だからか、それともそれ以上に、ヒトラーとニーチェを結びつける何らかの言説があったからか。著者は何も触れていないので分からない(少なくともこの辺りの叙述まででは)。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ②。
 (15) 9月22日〔1939年〕の夜になり、外交団が撤退したあとで、ワルシャワは昼夜を問わない爆撃にさらされた。昼間はStuka 爆弾機が防衛なき市の上を巡回し、甲高い音を立てて飛んで民間人に対して爆弾を落とした。
 夜に我々は砲撃を受けた。
 爆撃は無差別で、9月23日だけは例外だった。その日はYom Kippur の日で、ドイツの飛行士たちはワルシャワのユダヤ人区画に集まって遊んでいた。//
 (16) 私の文書の中に、この出来事から8ヶ月後に書かれた日記を見つけた。それから引用するのが最もよいだろう。
 「23日、ラジオ放送が、爆撃を受けて停まった。
 その翌日、我々には水がなかった(ガスはしばらくの間不足していた〉。
 我々はすぐに逃げるために、全ての持ち物を手にして、完全に身繕いをして、寝た。
 私だけは、ニーチェの〈権力への意思〉や[Leopold]Staff の詩を読みながら、またはGiotto についての自分のエッセイを書きながら、6階で寝た。
 24日は一日じゅう爆撃が繰り返され、25日の朝に我々は、爆弾の音で目が覚めた。
 もう空からの攻撃に対抗する防衛力または[ポーランドの]航空機はなく、あちこちで機関銃の音が響いた。
 450機による一日じゅうの爆撃が始まった。それは、歴史上かつてないものだった。
 爆弾が次から次に、雨嵐のように、守る術なき市に降り注いだ。
 家は崩れ、数千の人々が埋まり、あるいは街路が火に包まれた。
 ほとんど発狂したかのごとき群衆が、子どもや包みを抱えて、瓦礫で覆われた街路を走った。
 ドイツの航空士たち、世界で最悪の野獣たちは、機関銃砲で[街路を]掃射すべく意識的に低く飛行した。
 夕方までにワルシャワは炎に包まれ、ダンテの地獄のようだった。
 市の端から端まで、見えるものは空を赤く染める炎だけだった。
 そうしてドイツの砲撃は続き、砲弾の雨で市を覆った。…。
 我々の[仮の]住まいは奇跡的に的中するのを免れ、二つ「だけの」砲弾の痕跡があった。/
 しかし、我々が何の被害も受けなかったのではなかった。
 午前1時頃、大きな爆発の音で目が覚めた。砲弾が下の階に当たり、女性が一人殺された。
 我々は跳び上がり、人々で群れた階段の吹き抜け箇所へと降りた。
 叫び声、絶望の言葉、うめき声が、無情な砲弾の爆発音と入り混じった。
 我々の建物が燃え始めた。
 中庭へと逃げた。私は、最も貴重な自分の書き物と本を入れた書類カバンを持ち、腕の中に震える我々の犬を抱えて、逃げた。
 庭を横切ったとたん、砲弾の欠片が近くで爆発した。だが、負傷はしなかった。
 我々は地下室へと避難した。しかし、午前5時に、そこを放棄せねばなければならなかった。もう安全ではなかったからだ。—階段の吹き抜け部分の一つが炎に包まれていた。/
 街の中へと走った。
 Sienkiewicz 通りで、広いがひどく汚れた、地下室のある避難所を見つけた。そこは群がる人で混んでいた。
 砲撃は絶えることなく続いていた。
 夕方7時に、この建物は燃え始めた。
 我々はもう一度、通りに走り出た。
 こんどはMarzalkowska (マルシャウコフスカ)通りで、狭い階段下空間に落ち着いた。…。
 二回目の夜がやってきた。
 爆撃は続いていた。市全体が、炎の中にあった。 
 Marzalkowska 通りとZielna 通りの角で我々が見た光景を、私は決して忘れない。—馬が自由に走り回り、あるいは鋪道の上に死んでだらりと横たわっていた。それらは、箱のごとく燃える家屋の火で照り輝いていた。
 人々は安全な隠れ場所を探して、家屋から家屋へと走り回った。
 夜中には爆撃がいくぶんか弱くなった。そんなとき、私はあるウェイトレスの膝の上に頭を乗せていた。そして、寝入った。
 空腹だった。我々は、砂糖と奇跡的に得た水を与えて、なんとか我々の犬を救った。/
 突然にドアが開いて、ひどく負傷した4人の兵士が運ばれてきた。
 彼らはろうそくの灯りの中で包帯を巻かれたが、水も薬もなかった。
 女性たちが気絶したり、理性を失ったりし始めた。子どもたちは泣き叫んだ。
 私も、ほとんど卒倒しそうだった。
 ようやく落ち着いて、無関心に、例えば、ろうそくの火を消すべきかどうか、といった議論を聞いた。
 人々の群れが、入ろうとして、我々のドアに押しかけた。
 爆撃は、はっきりと分かるほどに弱くなった。
 より静かになっていった。…。
 ワルシャワは、そしてそれとともにポーランドは、最後の日を体験したのだった。」//
 私の日記に記さなかったことを、付け足してよいだろう。すなわち、我々が燃える街路を走っていたとき、母親は走りながら、落ちてくる瓦礫の破片から守るために、私の頭の上に枕を乗せて抱えてくれていた。//
 (17) 地下室で、ひどい風聞が広まっていた。
 私はそれを、ポケット日記に記録した。—ポーランドはドイツの攻撃を撃退しており、諸都市を奪い返している。フランス軍はジークフリート(Siegfried)線を突破した。イギリス軍は東プロシャに上陸した。
 この数日間に〈Dzien dohry !〉(良い日だ!)という表題で出現したいつもと違う記事の一つは、その第一面(headline)でこう発表した。
 「ジークフリート(Siegfried)線が破られた。フランスがラインラント(Rheinland)に入った。ポーランドの爆撃機がベルリンを急襲攻撃する。」
 これら全ては、全くの作り話だった。
 ついに、真相が明らかになった。9月17日、ソヴィエト軍はポーランド国境を越え、東部諸地方を占拠した。
 私は日記の9月24日(日曜日)に、こう記した。
 「ワルシャワは自衛する。
 ソヴィエトはBoryslaw、Drohohyez、Wilno、Grodno を占領した。
 西部前線—静寂。
 ポーランドは負けた。
 どのくらい続くのか?」//
 (18) 〔1939年9月〕26日、ポーランド当局とドイツ軍は交渉を開始した。
 その翌日に、ワルシャワは降伏した。
 そのときに合意された条件によって、42時間の停戦になった。
 27日の午後2時、銃砲は沈黙し、航空機は空から消えた。その間に彼らは、市の建物の8分の1を破壊していた。
 奇妙な静けさが発生した。
 ドイツ軍は、9月30日に市に入った。
 私は偶然に彼らの先遣部隊、ワルシャワの中心部、Marzalkowska とAleje Jerozolimskie の通りの角に止まっていた、上部の除去可能な軍用車、に出くわした。
 運転手の隣に座っていた若い将校が立ち上がり、その車を囲んでいる群衆の写真を撮っていた。私は憎しみをもってその男を一瞥した。//
 (19) 二日間の停戦中に、我々のアパートに戻った。窓が何枚か破壊されているのを除いて、損害を免れていた。
 両側と通りを挟んだ向こう側の各家屋は、しかし、粉々になっていた。 
 ココ(Coco)、我々の老犬のコッカー・スパニエル(cocker spaniel)は、我々の放浪に従いてきたのだったが、喜びで狂ったようになり、激しく食事室を走り回り、ソファを跳び登ったり降りたりした。
 彼女は、我々の苦難は終わった、と思ったに違いない。//
 (20) ポーランドの1939年の軍事行動については、多数の誤報が存在する。ポーランド軍はドイツの戦車部隊を騎兵隊で阻止しようとしたとして馬鹿にされ、名目だけの抵抗を示した後で降伏したかのごとく叙述されている。
 実際には、ポーランド軍は、きわめて勇敢にかつ効果的に戦闘した。
 機密性を解除されたドイツの文書資料が明らかにしているのは、戦争の4週間にドイツ軍は多大の被害者を出した、ということだ。
 死者は9万1000人、重傷者は6万3000人。(+後注01)
 これらは、スターリングラードの戦いとその2年後のレニングラードの勝利までは、ドイツ軍が被った最大の被害だった。その2年間にドイツは、全ヨーロッパを事実上征服したのだったが。 
 +(後注01)Apoloniusz Zawilski 1972, p.248n. ポーランド軍はまた、ドイツ軍の191台の戦車と421機の航空機を破壊した。//
 (21) 我々には食べ、飲むものがあった。母親が戦争勃発のまさに直前に大きな一袋の米(rice)を購入していて、彼女のベッドの下に隠していたからだ。
 これが翌月の間の我々の主食になることになった。多様な料理法で提供され、マーマレードで味付けされていたことすらあった。
 我々はまた、浴槽に水をはった。//
 (22) 10月1日、ドイツ軍は市内の巡回を始めた。
 彼らはトラックを運転した。私が驚きつつ気づいたのは、兵士たちはナツィの情報宣伝にいう金髪の超人(supermen)ではなかった、ということだ。多くは背が低く、浅黒く、外見上は少しも英雄的でなかった。
 占領軍は、すみやかに日常生活を回復させた。
 パン屋が開いた。
 ポーランドの店舗は販売した。あるいはほとんど無料で品物を売った。
 私は、イワシの缶詰やチョコレート棒を含めて、できるだけ買った。
 占領の最初の一ヶ月の占領軍兵の振舞いは、全く適正だった。
 私は乱暴な行為をいっさい見なかった。
 心に残る像は、あるドイツ兵が髭の生えたユダヤ人をオートバイのサイドカーに乗せて、ワルシャワの街路を走らせていた、というものだ。
 別のときには、二人の若いユダヤ人女性がある建物の入口の監視兵と親しくして、当惑する彼の鼻を花でくすぐっているのを見た。
 私が見た唯一の反ユダヤ的出来事は、ドイツ軍のトラックの荷樽がユダヤ人区画の街路で落ちてころがり、中には老人もいたユダヤ人たちが当たるのを避けようと散り散りになったとき、ドイツ兵が笑い声を立てて歩き回った、というものだ。
 やがて、ドイツ軍司令部が作ったポスターが壁に貼られた。
 そこに名前が載っていたポーランド人は、文字どおりには「犬の血」で英語の「畜生(damn)」にほぼ該当する言葉の〈psiakrew〉をドイツ人の面前で発したごとき、種々の「犯罪」で、処刑された者たちだった。
 負傷したポーランド兵を描いた絵もあった。その兵士は腕を三角巾で吊るし、ワルシャワの廃墟を指し示しながら、怒ってチェンバリン(Chamberlain)に「お前の仕業だ」と叫んでいた。
 我々は黙って、こうしたポスターから学習した。//
 (23) 父親は一度ドイツ兵に止められ、その男が近づいてきて、父親の肩に腕を乗せて、「ポーランド人か?」と尋ねた。
 父親は怒って、流暢なドイツ語でこう答えた。「違う! 手を離せ。」
 仲間のドイツ人を困らせたと思って慌てた兵士は、詫びて、去って行った。//
 ——
 ③へとつづく。

2463/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次④。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20. überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。総計872頁(緒言・目次等を除く)。
 目次の④。
 ——
 第四部/行政作用:その他の行為形式
  第13章・法的命令(Rechtsverornung〔法規命令〕)
   第一節・法規範および行政の手段としての法的命令
    1/法規範
    2/行政の手段
    3/画定
   第二節・法的命令の法的前提条件
    1/授権根拠
    2/形式的適法性要件
    3/実質的適法性要件
    4/裁量
   第三節・法的命令の違法と権利保護
    1/違法性
    2/権利保護
  --------
  第14章・公法上の契約
   第一節・法的根拠
    1/行政手続法の規律
    2/社会給付法および公租公課法の規律
    3/都市建築上の契約
    4/その他の適用領域
   第二節・公法上の契約の概念と画定
    1/概念
    2/私法上の契約との区別
    3/公法上の契約の種類
    4/行政行為と公法上の契約の関係
   第三節・国家と国民の間の契約の展開と意義
    1/展開
    2/公法上の契約の意義と問題性
   第四節・公法上の契約の法的前提条件
    1/契約形式の許容性
    2/公法上の契約の形式的適法性
    3/公法上の契約の実質的適法性
   第五節・公法上の契約の違法の法的帰結
    1/行政手続法59条の規律に関する概述
    2/行政手続法59条第2項の無効事由
    3/行政手続法59条第1項の無効事由
    4/欧州同盟法違反
    5/公法上の契約の無効の帰結
    6/行政手続法59条の規律の欠缺の問題性
   第六節・契約関係の処理
    1/履行と給付中断
    2/特別の場合の適応と告知
    3/契約上の請求権の強制執行
   第七節・諸事案の問題解決への言及
  ---------
  第15章・単純(schlicht)行政活動
   第一節・事実行為
    1/概念
    2/法的整序
   第二節・公的警告その他の国家による情報提供活動
    1/概念の明確化
    2/法的許容性
    3/国家の犯罪者情報
   第三節・非公式の行政活動
    1/画定と意義
    2/法的判断
  --------
  第16章・計画と計画策定
   第一節・概説と意義
    1/概説
    2/意義
   第二節・法的整序
    1/計画は法的概念か?
    2/計画の拘束力
    3/計画の法的性質
   第三節・計画保障
    1/計画の存続を求める請求権?
    2/計画の遵守を求める請求権?
    3/過渡的規律や適応への援助を求める請求権?
    4/補償を求める請求権?
  --------
  第17章・行政私法上の行為.資金助成、公的任務の委託
   第一節・行政私法上の行為
   第二節・資金助成
    1/資金助成(Subvention)の概念
    2/資金助成のメルクマール
    3/資金助成の委託
   第三節・資金貸付
    1/二段階理論
    2/選択肢
    3/(我々の)見解
    4/私的銀行の介在
   第四節・その他の資金助成
    1/紛失資金
    2/保証金
    3/物的奨励
   第五節・公的任務の委託
    1/法的根拠
    2/膨大閾値を超えた委託
    3/膨大閾値以下の委託
   第六節・同盟法上の補助金
 ——
 第18章を除き、第四部は終わり。

2462/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次③。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20,überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。索引を含めて、総計872頁(緒言・目次等を除く)
 目次の③。
 —— 
 第三部/行政作用:行政行為
  第9章・行政行為の概念、意義および種類
   第一節・発展と一般的定義
   第二節・行政行為概念のメルクマール
    1/規律
    2/権力性(hoheitlich)
    3/個別事案の規律
    4/官庁
    5/外部に対する直接の法的効果
   第三節・一般処分
    1/概念
    2/規準となる法
    3/特殊例—交通信号
   第四節・行政行為の意義
    1/法的整序
    2/行政行為の法的特性
    3/行政行為の機能
    4/行政行為と裁判所の判決
   第五節・行政行為の種類
    1/命令的、形成的、確認的行政行為
    2/授益的、負荷的行政行為
    3/審査容認と例外の承認
    4/物的行政行為
    5/受理、確言、内示、予備決定、部分的許可、暫定的行政行為および予防的行政行為
    6/事実的行政行為
    7/州相互の、および国を超えた行政行為
   第六節・行政行為の通知
    1/一般的意味
    2/通知の前提条件
    3/公式の配達
    4/公示
  --------    
  第10章・行政行為の適法性と有効性
   第一節・適法性、有効性、および確定力の区別
    1/適法性
    2/有効性
    3/確定力
   第二節・行政行為の適法性の条件
    1/授権根拠と行政権能
    2/形式的適法性
    3/実質的適法性
   第三節・手続の瑕疵の治癒と重要性
    1/問題性
    2/手続の瑕疵の治癒
    3/手続の瑕疵の重要性(行政手続法46条)
   第四節・違法性の帰結:抗告可能性と取消し可能性
    1/抗告可能性と取消し可能性の根拠
    2/審査請求〔不服申立て〕
    3/取消訴訟
    4/義務づけ訴訟
    5/仮の権利保護
   第五節・例外としての無効
    1/無効の条件
    2/無効の帰結
   第六節・転換と修正
    1/条件
    2/行政手続法47条の法的効果
    3/明らかに修正不可能であるものの修正の限界
   第七節・部分的違法
   第八節・排除
 --------
 第11章・行政行為の取消しと撤回
  第一節・総説
   1/法的根拠
   2/概念と画定
   3/取消しと撤回の対象
   4/部分的取消し
   5/関係者に対する法的効果による取消しと撤回の差異
   6/取消しと撤回の区別
   7/取消しと撤回の法的性質
  第二節・授益的行政行為の取消し
   1/効果と問題性
   2/行政手続法48条による取消しの規律に関する概述
   3/行政手続法48条第1項第2文、第2項、第3項による権利保護
   4/取消し期限
   5/許容と補償
   6/同盟法に違反する行政行為の取消し
  第三節・授益的行政行為の撤回
   1/総説
   2/行政手続法49条第2項と第3項による個別の撤回の根拠
   3/権利保護、補償および許容性
  第四節・負荷的行政行為の取消しと撤回
   1/負荷的行政行為の取消し
   2/負荷的行政行為の撤回
  第五節・手続の再開
   1/問題性
   2/制度
   3/狭義の手続再開(行政手続法51条第1項)
   4/広義の手続再開
  第六節・第三者効をもつ授益的行政行為の取消し可能性
   1/抗告
   2/取消しと撤回
   3/行政手続法50条による特別の規律
 --------
 第12章・行政行為の付款
  第一節・総説
   1/付款の意味
   2/内容本体と付款の区別
  第二節・付款の種類
   1/期限と条件
   2/撤回の留保
   3/負担
   4/負担の留保
  第三節・区別と解釈
   1/修正された評価
   2/解釈:実務での付款の種類
  第四節・付款の許容性
   1/特別の諸規定
   2/行政手続法36条の規律
   3/一般的な適法性要件
  第五節・付款に対する権利保護
   1/判例と学説の対立
   2/連邦行政裁判所の判例
 ——
 以上。第三部、終わり。

2461/H. マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次②。

 H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20. überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)。索引を含めて、総計872頁(緒言・目次等を除く)
 現在のドイツで、大学法学部で用いられている、行政法に関する代表的教科書の一つと見られる。2020年版。目次の②。
 ——
 第二部/行政法の基本概念
  第6章・行政の法律適合性の原則
   第一節・法律の優位の原則
   第二節・法律の留保の原則
    1/概念の明確化
    2/根拠
    3/法律の留保の射程範囲と規律密度
    4/個別領域
 --------
  第7章・裁量と不確定概念
   第一節・前記
    1/行政による法律の適用
    2/行政裁判所による統制
    3/法律による拘束の緩和
   第二節・行政の裁量
    1/概念
    2/裁量の前提条件
    3/裁量の意義
    4/裁量に対する拘束
    5/裁量の瑕疵
    6/裁量の収縮
   第三節・不確定法概念と判断余地
    1/不確定法概念
    2/判断余地説
    3/判例上の判断余地
    4/事実上取消し得ない場合の行政裁判所による統制の限界
   第四節・制約と解決
    1/競合規定
    2/不確定法概念と裁量の交換可能性
    3/裁量の授権に際しての反対傾向と不確定法概念
    4/〔我々の〕見解
   第五節・計画策定における形成自由性
   第六節・調整裁量
 --------
  第8章・公権と行政法関係
   第一節・公法上の権利
    1/公権の概念
    2/公権の意義
    3/公権の前提条件
    4/権利と基本権〔基本的人権〕
    5/瑕疵なき裁量決定を求める請求権
    6 同盟法および国際法における権利
   第二節・行政法関係
    1/概念
    2/意義
    3/行政法関係の種類
    4/行政法関係は行政法学〔法解釈学〕の基礎か指針か?
   第三節・特別権力関係
    1/概念と由来
    2/特別権力関係の解体
 ——

2446/H.マウラーら・ドイツ行政法総論(2020)目次①。

  H. Maurer =C. Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrcht, 20.überarbeitete & ergänzte Auflage(C.H.Beck, 2020)
 目次(Inhaltsverzeichnis)の試訳。
 ——

 目次
 第一部/行政と行政法
  第1章・行政
   第一節・行政の概念
    1 多様な行政概念
    2 実質的意味における行政
    3 行政の典型的標識
   第二節・行政の多形成性
    1 行政の対象
    2 行政の任務または目的設定
    3 行政手段の国民に対する法的効果
    4 行政の法形式
    5 法律による拘束(Gesetzesbindung)の程度
    6 行政組織の種別化
  ---------
  第2章・行政と行政法の歴史について。憲法と行政法。欧州統合。
   第一節・行政の憲法依存性
   第二節・行政の歴史の諸時代
    1 17-18世紀の絶対国家における行政
    2 19世紀のリベラルな法治国家における行政
    3 20世紀の社会的法治国家における行政
   第三節・行政法の発展
   第四節・基本法のもとでの行政法
    1 法律による拘束の包括性
    2 議会と裁判所による統制の間での行政の独自性
    3 給付行政および嚮導行政の任務
    4 行政客体ではない人としての国民
    5 行政法に対する憲法上の帰結
    6 近年の改革の議論
    7 行政の現実(Verwaltungswirklichkeit)
   第五節・従来のドイツ民主共和国における、および再統一の際の行政法
    1 ドイツ民主共和国における行政法
    2 再統一の前およびその間の行政法
   第六節・欧州統合
    1 同盟法のドイツ行政法への影響
    2 同盟法の執行
  ----------
  第3章・行政の法
   第一節・行政法
    1 行政法総論と行政法各論
    2 外部法と内部法
   第二節・公法の一部としての行政法およびその私法との区別
    1 公法と私法の区別
    2 区別の諸理論
    3 区別と帰属
   第三節・私法および行政私法による行政作用
    1 需要に対応する行政
    2 行政の企業経済的活動
    3 私法の形式での行政の任務の遂行
    4 基本権による拘束
   第四節・法律により十分に規律されていない事案の検討
    1 事実行為
    2 法的行為
   第五節・行政法における私法上の諸規定の補助的適用
    1 問題性と適用領域
    2 理由
    3 債権法改革、とくに消滅時効に関するそれ、の影響
    4 行政私法への遡及効
 ——
  第4章・行政法の法源
   第一節・法源論と階層論
   第二節・現行の階層関係の概観
    1 法領域と法条(Rechtsätze)
    2 階層
    3 手続の側面
   第三節・ドイツ法の成文法源。憲法、形式的法律、法的命令および条例
    1 憲法
    2 形式的法律
    3 法的命令
    4 条例(Satzung)
   第四節・慣習法
    1 概念と条件
    2 通用領域
   第五節・行政法の一般原則と判例法
    1 行政法の一般原則
    2 判例法(Richterrecht)
   第六節・行政規程(Verwaltungsvorschriften〉
   第七節・連邦法と州法
    1 形式的法律
    2 法的命令
    3 条例
    4 慣習法
    5 行政法の一般原則
   第八節・法源の階層秩序の個別的問題
    1 規範の衝突
    2 慣習法の組入れ
    3 審査と評価の権能
   第九節・同盟法
    1 一次法と二次法
    2 階層、審査と評価の権能
    3 同盟法の優先適用の根拠と限界
   第一〇節・国際法
  --------
  第5章・行政手続法(VwVfG)
   第一節・行政手続法の成立と発展
    1 前史
    2 草案
    3 関連法律
    4 行政手続法の改正
   第二節・行政手続法の意義
   第三節・行政手続法の適用範囲
    1 公法上の行政活動
    2 連邦官庁
    3 特定の行政手続への限定
    4 適用排除条項
    5 補充条項
   第四節・諸州の行政手続法
    1 概観
    2 適用可能性
    3 行政手続法の適用可能性の拡大
   第五節・欧州法の次元 
  ——
  第一部、終わり。細目次②、第二部へとつづく。

2382/L・コワコフスキ「暴力について」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 第11章へと移る。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 —— 
 第11章・暴力について(On Violence)。
 (1)暴力は文化の一部であり、自然の一部ではない。
 鳥が昆虫を飲み込むとき、あるいは狼が鹿に咬み付くとき、我々はこれらを暴力の行為だとは言わない。
 動物の権利を狂信していなければ、エビを茹でることは暴力だとも言わないだろう。
 我々は「暴力」という言葉を人間との関係でのみ用いる。
 人間だけが暴力を行使し、その被害をうける。
 暴力行為を行うことは有形力(実力、force)を行使することであり、有形力で脅かすことは人々を一定の態様で行動させたり、一定のことを阻止したり、あるいはたんにそれ自体を目的として人々を苦しめることだ。//
 (2)我々のほとんどは、有形力の正当な行使と不当な行使とを区別する。例えば、警察、裁判所、および法的制度のような国家の装置は、我々が犯罪だと考える一定の類型の行動を阻止したり制裁を課したりするために、有形力の行使が正当化される。
 しかしながら、国家による有形力行使を含む、全ての形態の暴力を非難する人々がいる。法による制裁が何もない世界を想定するのは困難だけれども。
 全ての形態の暴力は間違っていると考える人々は、イエスが悪魔に反抗しないでもう一方の頬を向けよと語った山上の垂訓を引き合いに出して、自分たちの信念を正当化しようとする。
 しかしながら、イエスは、個人について、かつ個人が他者の暴力にさらされているときの対処方法についてだけ、語っていた。彼自身の殉教と死の例で言うと、怖れることなく確信と精神的強さをもって、暴力に対して暴力で返すのを拒否することができる、そしてなお世界を克服することができる、と我々に示したのだ。
 イエスは国家の働きについて語っておらず、政治的な教義を残してもいない。
 世界の終わりは切迫していると、彼は確信していた。受容しつつも、いつそれが訪れるかは知らなかったけれども。
 しかしながら、彼自身が、神殿から金貸しを追い払うとき、暴力に訴えた。//
 (3)暴力は、まさにその最初からずっと、人間の歴史の抹消できない一部だった。
 戦争も同様で、これはたんに集団的な暴力を組織化したものだった。
 戦争と暴力は良いものと考えられるべきだ、と言いたいのではない。
 そうではなく、これらを自然であるばかりか有用な生活の一部だと考えてきた多数の人々がいた、ということだ。この人々は、多くの美徳を注ぎ込むものとこれらを考えてきた。勇気や自分の種族のための犠牲精神のような美徳。
 彼らにとって戦争は、若者の中に精神の気高さ、英雄主義、耐久力を育む最良の方法だった。
 今では、勇気は疑いなく良いものだが、かつての人々にとって、その際に役立つまさしく美徳を発展させる機会を与えてくれるがゆえに、戦争は良いものだった。
 言い換えれば、いつも戦争があったというだけではなく、将来もつねにそういうものだと、彼らは考えていた。//
 (4)多様な形態での暴力は我々の運命にある恒常的な部分でありつづけるだろう、と言うのがかなり安全であるために、戦争もまた行われつづけるだろうと言うことが可能だ。
 戦争は現実に行われつづけるだろうと考える、十分な根拠がある。
 戦争とは、かつての敵の種族の存在のみならず、例えば水や農場の利用に関する純粋な対立の進展をも含んでいる。人々の居住密度が耐え難くなり始めたときの、いろいろな種類の領土や領域の利用に関する対立も、その例だ。
 しかし、戦争それ自体を美化することは、第二次大戦とその全ての恐怖を経験した圧倒的大多数の人々には、間違いなく理解し難いことに違いない。
 Pierre Proudon は、のちにGeorges Sorel は、なおも戦争を称賛することができた。しかし、Ernst Jünger のような後の世代の人々がそうしたとき、彼らが想定していたのは、第一次大戦だつた。//
 (5)今日では、戦争それ自体が称賛されるのをほとんど聞かない。
 アフリカでの際限のない種族虐殺やボスニアの恐怖によって、戦争芸術に魅力を与える根拠はほとんどなくなっている。
 そして、第一次大戦後には世界のほとんどどの一角でも起きていた大小の無数の戦争があったが、民主主義諸国の間では一つも戦争は発生しなかった、というのは意義深いことだ。
 というのは、戦争は専制(tyranny)から生まれるものだからだ。
 世界の民主主義諸国には、疑いなく豊富な良心の呵責があつた。そして、主権の政策として有形力の行使に頼ることを熟知してきた。
 しかし、諸国は相互の間で戦争を起こすことをしなかった。
 民主主義諸国はその代わりに、紛争を交渉と妥協で解決するメカニズムを生み出した。
 そして、このメカニズムにはときに恐喝や欺瞞が含まれるが、大規模の殺戮し合いを包含するものではなかった。
 アテネとスパルタの間の対立を我々が固定観念とする(stereotype)十分な理由がある。すなわち、我々の文化は本当にアテネに由来しており、それは若者に(むろん市民で、奴隷ではない)詩、哲学、芸術を教えた。軍事技術が主要な教育科目だったスパルタに由来してはいない。—アテネでも、国家の政治を習熟させたけれども。
 暴力は我々の生活の不可避の一部かもしれず、我々はつねにそれを予期しなければならない。
 しかし、暴力を悪魔扱い(lacedaemonize)する—換言するとスパルタ市民のように考える—、あるいは暴力を不幸な必要物にすぎないと見なす、そのような理由は存在しない。//
 (6)理論上は、正当化された暴力とそうでない暴力を区別すること、あるいはこの区別の特定の例を挙げると、防衛的戦争と攻撃的戦争を区別することは、相当に単純なことのように見える。
 しかし実際には、明瞭な状況というのは少ない。
 もちろん20世紀には、「侵略の犠牲者」だけはあった。
 どの国も自らを攻撃者と呼ぶのを好まなかった。侵略の行為には、ナツィ・ドイツの場合(支配する人種のための「生命空間」の必要)やソヴィエト同盟の場合(戦争は社会主義国家が行うならばつねに正当化されるというレーニン主義の原理的考え方。そこでは社会主義国家は「進歩的階級」の具現物で、誰が戦争を開始したかは重要ではない)のように、イデオロギー上の根拠があったとしてすら。
 一定の場合には、攻撃者を識別するのは容易だ。すなわち、1939年のドイツ、1941年の日本、そして再び1956年のハンガリー、1950年の北朝鮮。
 他の場合には明瞭さはより少ない。
 「誰が開始したか」を決定することは、遊び場での子どもたちの取っ組み合いを種別化するがごとく、困難だ。
 (「彼が最初にぼくを押した!」—「でも、彼がぼくを最初に蹴った!」—「でも、彼がぼくを最初に押した!」—「それは彼がぼくをブタと呼んだからだ!」—「ウソだ。彼が最初にぼくの名を呼んだんだ」、等々。)
 ——
 ②へとつづく。

2322/E. Forsthoff・ドイツ行政法I·総論(1973)—目次②。

 Ernst Forsthoff, Lehrbuch des Verwaltungsrechts,Erster Band, Allgemeiner Teil, 10., neubearbeitete Auflage(C.H.Beck, München, 1973)。
 上のドイツ語著、エルンスト·フォルストホフ・行政法教科書第一巻・総論、第10版・改訂版の、目次部分の試訳のつづき。丸数字は試訳者が挿入。
 **
 第二部/行政法規とその適用。
  第七章・行政法源。
  A・行政内部での組織的立法。
   第一節—①緒言、②法律の機能、③一般権力関係と特別権力関係、④行政の法律適合性原則の中の空隙、⑤営造物法の問題性、⑥行政過程での立法(法の定立)の増大。
   第二節—①法規命令(法的命令)、②概念、③その法規性、④問題性、⑤伝来的理論への批判、⑥法律との関係、⑦法規(法的)命令の限界、⑧法規命令の公告、⑨法的拘束性、⑩制約としての法律、⑪裁判所による審査。
   第三節—①行政命令、②概念、③前提としての特別権力関係、④職務規程、⑤行政訓令、⑥法規定の画定、⑦形式、⑧瑕疵ある行政命令。
   第四節—①自治法(条例)・概念、②法規との関係、③自主性、④拘束性、⑤公布強制、⑥形式要件。
  B・非組織的法源。
   第一節—①慣習法・成文法との関係、②公法における慣習法、③慣習法の生成、④慣習法に対する異論、⑤期限、⑥慣習法の生成、⑦たんなる裁判慣行または行政慣行では十分でないこと、⑧法的確信の要件、⑨慣習法の力、⑩consuetudo abrogatoria、⑪連邦慣習法と州慣習法。
   第二節—①地方的慣習法、②法律との関係、③生成。
 --------
  第八章・行政法規の時間的・地域的通用性。
   第一節—①時間的通用・施行、②失効、③期限、④廃止、⑤授権の消失、 ⑥行政主体の消滅、⑦遡及効、⑧永続的効力、⑨権利の取得、⑩法曹界、⑪法政策的考察、⑫措置法律、⑬連邦憲法裁判所の判例、⑭行政規程の特性。
   第二節—①地域的通用・国境の変更、②国内行政の限定、③司法部、④成文法上の諸規定。
 --------
  第九章・法適用の原則。
   ①主題の限定、②行政法上の概念の目的的性格、③目的論的方法の正当性と限界、④行政作用の法的指針としての社会的正当性、⑤法解釈の原理、⑥行政法の法典化、⑦行政手続法の法典化、⑧行政法の規範形式の表面的欠如、⑨実証主義の克服、⑩制度的法解釈、⑪その文言上の証拠、⑫成文法の欠缺、⑬類推、⑭その許容性の限界、⑮民法の適用可能性、⑯類推と直接の法適用、⑰BGB(民法典)の一般条項、⑱信義誠実、⑲行政の法律適合性の原則、⑳官庁による許諾、㉑失効、㉒期間の算入、㉓期間満了、㉔BGB812条以下、㉕BGB688条以下、㉖法律の回避。
 --------
  第一〇章・行政法関係。
   第一節—①憲法上の義務、②その種類、③属人的義務と代替的義務、④職務遂行義務、⑤行政上の責務の私人への負荷。
   第二節—①行政法関係の概念、②関与者、③権利能力、④行為能力、⑤一般的規律の欠如、⑥代理、⑦法定代理、⑧限定的効力、⑨法律行為による代理、⑩機関による代理。
   第三節—①行政法関係の対象・権利と義務、②公権(公法上の主観的権利)、③その憲法上の条件、④法人としての国家、⑤公権の概念、⑥たんなる反射権、⑦GG〔基本法=現ドイツ憲法〕19条4項。
   第四節—①公権と公的義務の非融通性の原則、②法律行為による変更の排除、③例外、④例外としての法的効果、⑤純粋に財産法上の権利の特性。
   第五節—①期限による発効、②置換、③失効、④除斥期間。
 ---------
 **
 第三部へとつづく。

2281/L. Engelstein, Russia in Flamesー第6部第1章第1節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の書の以下だけを、すでに試訳した。
 ・第6部・勝利と後退/第2章・革命は自分に向かう。・結語。原書、p.606-p.632.
 上の直前の第1章に戻って、試訳を再開する。p.585以下。
 **
 第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
 第一節。
 (1)驚くかもしれないが、内戦の混乱と暴虐があったことを考えると、不安定なボルシェヴィキ体制は非資本主義経済の基礎を何とか築こうとしていた。
 ボルシェヴィキは、先行体制からいくつかの問題、戦略、諸制度を継承した。第一には穀物の徴発と戦争関連産業の結集だったが、引き継いだ国家装置は崩壊の途上にあり、ボルシェヴィキの政策はその解体をさらに押し進めた。
 それにもかかわらず、ボルシェヴィキの目標は、堅固な基盤の上に国家装置を再建することだった。
 (2)戦争は、いかなる政治体制のもとでも、国家による統制と計画化の強化を必要とする。
 だがしかし、社会主義のモデルは互いに矛盾し合う要素を含んでおり、社会主義者たちには多様な色合いがあった。
 ボルシェヴィキ党の内部ですら、違いがあった。
 ボルシェヴィキ指導者たちの指針は、明らかに、マルクス主義の基礎的な諸命題だった。すなわち、社会主義は私有財産を廃して国家所有の国有財産に換え、自律的な市場を中央計画に換え、富の不公平を経済的平等に換えなければならない。
 しかしながら、党内で、これらの命題をいかにして実際に適用するかに関する激しい論議が生じた。
 内戦の過程で採用された特別の措置は、十分に練られた予定にもとづいておらず、戦争の圧力と経済の崩壊が生んだ諸問題に対応するものにすぎなかった。
 それらは全てが一度に導入されたものではなく、1917年と1920年の間の三年間に切れ切れにとられた措置だった。(1)
 国家統制は中央の権力を想定していたが、−まだ十分な国家でなかった−ボルシェヴィキ国家は、この時点では、競合して無秩序な諸機関で構成されていた。
 どの分野についても、中央権力と地方の党幹部、イデオロギーと必要性、大きな展望と当面の危機管理との間に、緊張関係があった。
 (3)歴史家の Silvana Malleは、イデオロギーは「受容し得る選択可能な措置を選ぶためのフィルターとして働いた」が、特定の措置を指示するものではなかった、と観察する。(2)
 戦時共産主義(War Communism)という術語は、最初に、1920年4月にレーニンによって遡及的に用いられた。レーニンは、「この特有の戦争は共産主義だ。…極端な欠乏と破滅が我々に戦争を強いている。戦争はプロレタリアートの経済的任務にふさわしい政策ではないし、そうであってはならない」と強く主張した。(3)
 だが、その基礎的な構成要素は、まさしく精確に、想像された未来の共産主義のそれだった。(4)
 その諸要素は、階級戦争(階級闘争)の武器でもあった。
 教育人民委員のAnatolii Lunacharskii はこう言った。「我々はブルジョアジーを殺戮し、彼らの手にある全ての財産を破壊しなければならない。なぜなら彼らは、それを我々に対する武器として利用しているからだ」。
 「搾取者どもを搾取せよ」、「略奪されたものを略奪せよ」−これらは、加えて、十月のクー直後から続いた、大衆による強奪の波に承認印を与えるスローガンだった。(5)
 ボルシェヴィキを強奪者だと告発することは、非難ではなかった。大衆はボルシェヴィキがしていることを知っていた。
 (4)内戦中のソヴィエト政府を駆動させたのは、かくして、国家の計画と統制を通じて(産業、都市化、教育、生産性の)近代化の達成を目指す経済関係の構築を最優先する、という党の政策だった。だが、その目指す経済関係とは実際には、急場凌ぎのものでもあった。
 いつものようにレーニンは、イデオローグとプラグマティストのいずれでもあった。
 赤軍を結成して維持した経験をもつトロツキーは、社会主義的情緒主義(sentimentalism)とは無関係だった。
 この両人はやがて敵に変わって、各自のゲームでいかにして相手に対する勝利を達成するかに関するモデルを提示することになる。
 トロツキーにとっては、隊員と中央司令部をもつ軍隊だった。レーニンにとっては、巨大な企業と技術的専門知識をもつ資本主義だった。資本主義では国家の役割は戦時中という緊急事態の際に拡大する。
 ドイツの「国家資本主義」は、レーニンの手本(prototype)であり、彼は、いかなる手段によってしても、「いかに独裁的であっても」、「野蛮な中世的ロシアに」課されるべきものだ、と言った。−「野蛮主義と戦うにあたって野蛮な手段」を用いるのを躊躇してはならない。(6)
 これは異端説ではなかった。
 マルクス主義者は、独占資本主義と共産主義の間の構造的類似性を知って(recognize)いた。−産業発展の高度の次元での生産手段と労働の大衆化(massifuication)。先ずは私人の手に、次いで国家による統制のもとに。
 (5)権力政治上の目標(ソヴィエト体制が生き延びて、支配しようとする国を再建すること)を追求しつつ、人民委員たちは一方では、社会主義理論が正しく強調するように社会の生産力を構成する一般民衆の追従に頼らなければならなかった。
 大衆なくして経済はない。経済がなくして、意欲する大衆もいない。
 田園地方から穀物を挑発する切実な必要が農民の抵抗に対してどれほどに行われてきたか、交渉がどれほどに加減されなければななかったか、どれほどに多様な戦略が試みられ、失敗し、修正されてきたか、を我々は知っている。
 とどのつまりは、実力による強制と飢饉が生産者たちを整列させた。
 「飢えという骨ばった手」。
 (6)製品生産部門との関係では、政治的統制の行使とともに生産性の維持を必要とした。
 二つの重要な論点が関係していた。所有制と規制。
 1917年11月14日の労働者の支配に関する布令は、自分たち自身が管理権を奪取しようとの草の根の工場委員会の要求を称賛していた。
 しかしながら、その布令に表現された考え方は、労働者に生産に対する権力を付与するものではなかった。 「支配」(control)とは、資格のある技術者と行政官が諸活動を監視(monitor)する権利を意味した。言ってみれば、それらはすでに存在したのだ。
 さらに加えて、経済を統治する政策決定は、個々の工場施設や地方当局の次元によってなされるのではなく、権力の中央に、したがって、国家経済最高会議(VSNKh)という12月初めの設立物(establishment)にあった。
 (7)最初はまるで、国家所有制と労働者は協力して歩むがごとく見えた。
 店頭への権力行使の民主化を補完するものは、私有資産の奪取だった。
 工場委員会は、もっと大きな役割をすら望んで、迅速な変革に向かって圧力をかけた。
 しばしば個々の工場、鉱山または地方ソヴィエトは、主導権を握って、従前の所有者たちを排除した。
 対照的に、ソヴナルコム(Sovnarkom、人民委員会議)とVSNKhは、生産を維持することを懸念して、そのような進展を中止させるか遅延させようとしたが、それにもかかわらず、略奪の多くを称賛し、彼らが阻止することのできないものに公式の是認を与えた。
 さらに、VSNKhは1918年早くに、最大の冶金工業施設群の所有者と、没収および継続する諸機能について交渉を続けていた。(8)
 (8)ブレスト-リトフスクは、このような方向へと向かう強い誘因を与えた。
 この条約は、1918年7月1日以前に国家が掌握した企業を除いて、ドイツ所有の財産の返還を求めていた。除外財産については、正確な補償だけが要求された。
 かくして、1918年6月28日、多くはドイツ所有の共同出資会社が、突然に奪い取られた。
 全般的な国有化は、1920年11月までは行われなかった。その11月の時点で、全ての大企業とたいていの中規模企業を含んでおり、併せて工場労働者のほとんど90パーセントを占めていた。(9)
 労働者国家による生産手段の所有は、しかしながら、労働者たちが主人になることを意味しなかった。
 労働組合と委員会は、既存の経営者にしばしば抵抗し、賃上げと生産目標設定への関与の拡大を要求した。しかし、レーニンの関心は、全体としての経済の行く末にあった。
 レーニンは、こう宣告した。社会主義は、先ずは、政治権力の中央からの規整を受ける「国家資本主義」の段階を通ってのみ達成することができる。(10)
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 第一節①、終わり。 

2254/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第16節・第17節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第16節・ボルシェヴィキに対するアメリカの反応。
 (1)批准という形式的手続が、まだ残っていた。
 トロツキーが連合諸国代表者たちに打ち明けた間違った懸念にもかかわらず、事態は疑問の余地が決してないものだった。
 ソヴェト大会は、民主主義的に選出された機関ではなく、信仰者たちの集会だった。すなわち、3月14日に集まった1100名ないし1200名の代議員のうち、3分の2はボルシェヴィキ党員だった。
 レーニンは、長々と続く散漫な演説を行って、ブレスト=リトフスク条約を模範的に擁護し、現実主義に立つことを求めた。-完全に疲れ切った人物の演説だった。//
 (2)レーニンは、アメリカやイギリスへの経済的および軍事的援助の要請に対する反応を待っていた。彼にはじれったくも待ち遠しいものだったが、条約が批准された瞬間にそれを得る機会は皆無になることを、十分によく知っていた。//
 (3)ボルシェヴィキ権力の初期の時期には、ロシアに関する知識やロシア事情への関心の大きさは、ロシアに対するその国の地政学的近接性に直接に比例していた。
 最も近いところにいたドイツは、ボルシェヴィキと交渉しているときですら、彼らを軽蔑しかつ怖れた。
 フランスとイギリスは、戦争を継続しているかぎりで、ボルシェヴィキの行動やその意図に大した関心がなかった。
 大洋を離れたアメリカ合衆国は、ボルシェヴィキ体制を積極的に歓迎しているように見えた。そして、十月のクーの後の数カ月は、大規模なビジネスの機会という幻想に誘引されて、ボルシェヴィキの指導者たちに気に入られようと努めた。//
 (4)ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)は、ボルシェヴィキは本当に人民のために語っていると信じていたように見える。(93)そして、普遍的な民主主義と永遠の平和に向かって前進していると想定した大国際軍の分遣部隊を設立した。
 彼は、ボルシェヴィキの「人民」に対する訴えに対しては回答が必要だ、と感じた。
 ウィルソンはこの回答を、1918年1月8日の演説で行った。そこで彼は、有名な14項目を提示したのだ。
 彼は、ブレストでのボルシェヴィキの行動を称賛するまでに至っていた。
 「私にはこう思えるのだが、世界中の困惑した空気の中に充ちているどの感動的な声よりも身震いさせて心を掴む、そのような原理的考え方と目的を明確に示す声が、そこにはある。
 ボルシェヴィキの訴えは、これまでに何の同情も憐憫もないと知られるようになったドイツの容赦なき権力の前では、よるべなく、ほとんど無力だと見えるだろう。
 ボルシェヴィキの権力は、明らかに痛めつけられている。
 しかしなお、彼らの精神は屈服していない。
 彼らは、原理においても行動においても、屈従しないだろう。
 正義、人間性、そして彼らが受容する高潔性に関する彼らの考え方は、率直に語られてきた。それらには、見方の広さ、精神の寛容性、そして人間的共感があり、人類のこれまでの全ての友情に対する賞賛に挑戦するものであるに違いない。
 彼らはその考え方を混ぜ合わせて、彼ら自身には安全かもしれないものを放棄するのを、拒んできた。
 彼らは、我々が望むものは何か、かりにあるならば、彼らのものとは異なる我々の目的や精神はいつたい何にあるのか、を語ることを我々に迫っている。
 そして私は、合衆国の人民は完全な簡潔さと率直さをもって私が回答することを望むだろう、と信じる。
 現在の彼らの指導者たちが信じようと、信じまいと、ロシアの人民が自由(liberty)と秩序ある平和という最大の希望を獲得できるよう援助する特権を我々がもつかもしれない、そのような方途が我々には開かれている、ということは、我々の心からの願望であり、希望だ。」(94)//
 (5)ボルシェヴィキと連合諸国の関係には潜在的には重大な一つの障害があった。それは、ロシアの負債の問題だった。
 すでに記したように、1月にボルシェヴィキ政府は、ロシア国家の国内および国外の貸主に対する債務に関して債務不履行を宣言(default)した。(95)
 ボルシェヴィキは、かなりの懸念をもってこの措置を執った。このような数十億ドルに上る国際法侵犯は「資本主義者十字軍」を誘発するのではないか、と怖れたのだ。
 しかし、西側で革命が切迫しているという予想の拡がりによって警戒が逸らされ、この措置が執られた。//
 (6)西側に革命は起こらず、反ボルシェヴィキ十字軍もなかった。
 西側諸国は、この新しい国際法違反を驚くべき沈着さで迎えた。
 アメリカはボルシェヴィキに対して、何も怖れる必要はないと保証するまでした。
 レーニンの親密な経済助言者のI・ラリン(Iurii Larin)は、アメリカ領事の訪問をペトログラードで受けたが、その領事は、合衆国は国際的借款の無効宣告を「原理的に」受け入れることはできないが、としつつ、こう語った。
 「合衆国は、支払いを要求しないこと、ロシアが世界に登場したばかりの国家であるかのごとく関係を開くことを、事実上受諾するだろう。
 合衆国はとくに、ロシアがアメリカから全ゆる種類の機械や原料をムルマンスク、アルハンゲルまたはウラジオストークへの配送を通じて輸入するために、我々(ソヴェト・ロシア)に大規模の商業上の貸付(credit)を提供することができるだろう。」
 返済を確保すべく、合衆国領事は、ソヴェト・ロシアが中立国スウェーデンに若干の金貨を預託し、アメリカ合衆国にカムチャツカの割譲をすることを考慮するよう、提案した。(96)//
 (7)自分たちの国民を革命へと煽動しているときですら「帝国主義的強奪者たち」とのビジネスをすることができる、ということについて、これ以上の証拠が必要だろうか?
 そして、ある一国との取引関係を別の国とのそれが競争し合うようけしかけるだろう。あるいは、資本主義的産業家や銀行家を軍事と対抗させるだろう。
 このような<対立させて政治をせよ(divide et impera)>の政策を用いる可能性は、無限にあった。
 そして実際に、ボルシェヴィキは、自分たちの呆れるほどの弱さを埋め合わせるための機会としてこれを最大限に利用することとなる。つまり、自国の民衆が飢えて凍えているときですら、諸外国が持たない食料や原料と交換して工業製品を輸入するという餌で諸外国を釣ることによって。//
 (8)アメリカ合衆国政府がボルシェヴィキ当局に1918年初期に伝えた全ての意向は、ワシントンが表向きはボルシェヴィキの民主主義的および平和的意図の宣告をそのまま受け取り、世界革命の呼びかけを無視する、ということを示した。  
そのことによってレーニンとトロツキーは、ワシントンへの救援の訴えに対する積極的な反応を十分に期待することができたのだった。//
 (9)待ちに待った、3月5日の問い合わせに対するアメリカの回答は、ソヴェト第四回大会の開会日(3月14日)に届いた。
 ロビンスはそれをレーニンに手渡した。レーニンはたたちに、その回答書を<プラウダ>で公表した。
 それは当たり障りのない内容で、ソヴィエト政府ではなくソヴェト大会が宛先となっていた。おそらくは、このソヴェト大会がアメリカの議会と同等のものだと考えたからだろう。
 その回答は、当面はソヴィエト・ロシアを援助するのを拒否しつつ、非公式の承認にほとんど近いものをソヴィエト体制に認めるものだった。
 アメリカ合衆国大統領は、こう書いていた。//
 「今ここに、ソヴェト大会が開催される機会を利用して、ドイツ軍が自由を求める闘い全体を妨害しそれに逆行し、ドイツの願望のためにロシア国民の目的を犠牲にしているこの瞬間に、アメリカ合衆国国民がロシア国民に対して感じている真摯な共感を表明させて下さい。//
 合衆国政府は現在は不幸にも、本来は望んでいる直接的で有効な援助を行う立場にはありませんけれども、私は貴大会を通じてロシア国民に対して、ロシアがもう一度完全な主権と自己に関係する問題に関する自立性を確保するための、かつまたロシアがヨーロッパと現代世界の生活上のその偉大な役割を完全に回復するための、全ての機会を利用するつもりである、と保証させて下さい。//
 合衆国国民の全ての心は、専制的政治から永遠に自由になろうと、そして自分たちの生活の主人になろうとしているロシア国民とともにあります。
 ウッドロウ・ウィルソン
 ワシントン、1918年3月11日。」(97)
 イギリス政府も、同様の趣旨の反応をした。(98)//
 (10)この回答は、ボルシェヴィキが期待したものではなかった。ボルシェヴィキは、「帝国主義」陣営が互いに競い合う能力を過大評価していたのだ。
 ウィルソンの電信回答はたぶん最初の提示にすぎないと期待して、レーニンはロビンスに、追加の伝言を乞い続けた。
 その追加回答はもうないということが明らかになったとき、レーニンは、(大統領ではなく)アメリカ「人民」を侮蔑する回答書を執筆した。そこで彼は、アメリカ合衆国での革命は遠からずやって来る、とつぎのように確約した。//
 「大会は、アメリカ国民に、とりわけ合衆国の全ての労働、被搾取階級に対して、厳しい試練の中にいるソヴェト大会を通じてウィルソン大統領がロシア国民に表明した共感に対して謝意を表する。//
 ソヴェト・ロシア社会主義連邦共和国は、ウィルソン大統領が意向表明した機会を利用して、帝国主義戦争の恐怖によって死滅し苦痛を被っている全ての人民に対して、心からの共感と、全ての諸国の労働大衆が資本主義の軛を断ち切って、社会主義国家を建設する幸福なときが来るのは遠くないという堅い信念を、表明する。社会主義社会のみが、全ての労働人民の文化と福利はもとより、公正で永続する平和を達成することができる。」(99)//
 ソヴェト大会は、嘲弄の轟きの中で、この決議を満場一致で可決した(二箇所の小さな修正はあった)。ジノヴィエフはこの決議を、アメリカ資本主義を面前にしての「痛烈な非難」だったと叙述した。(100)//
 (11)大会は予定通り、ブレスト=リトフスク条約を批准した。
 この趣旨での提案は、724票の賛成を得た。この数は出席したボルシェヴィキ党員よりも10パーセント少なかったが、それでも3分の2の多数を超えていた。
 276名の代議員、あるいは4分の1は、ほとんど全員が左翼エスエルでおそらくは左翼共産主義者のうちの若干が加わっていたが、反対票を投じた。
 118名の代議員は、保留した。
 結果が発表された後、左翼エスエルはソヴナルコムから離脱することを宣言した。
 これによって、「連立政権」という虚構は終わった。左翼エスエルはなおも当分は、チェカを含む下級のソヴェト機関で職務を継続したけれども。//
 (12)ソヴェト大会は、秘密投票によって、政府にブレスト条約を破棄し、その裁量でもって宣戦を布告する権限を付与するボルシェヴィキ中央委員会の決議を承認した。//
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 (93) George Kennan, Russia Leaves the War(Princeton, N.J., 1956), p.255.
 (94) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.70.
 (95) Dekrety, I, p.386-7.; これにつき、以下の第15章を参照。
 (96) NKh, No.11(1918年), p.19-p.20.
 (97) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.87-p.88.
 (98) 同上, p.91-p.92.
 (99) 同上, p.89.; ロシア語原文は、Lenin, PSS, XXXVI, p.91.
 (100) Noulens, Mon Ambassade, II, p.34-p.35.
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 第17節・ボルシェヴィキの外交政策の原理。
 (1)レーニンは、屈辱的な条約を受諾するという先見ある見方でもって、必要とする時間を稼ぎ、事態を自然に崩壊させたとして、ボルシェヴィキ党員から広く、高い評価と信頼を得た。
 ドイツが西側連合諸国に降伏したあとの1918年11月13日にボルシェヴィキがブレスト条約をを破棄したとき、ボルシェヴィキ運動でのレーニンの資産は、これまでになかった高さにまで達した。
 無謬だという彼の評価を、これ以上に高めたものはなかった。レーニンは、その生涯で二度と、辞任するという脅かしをする必要がなかった。//
 (2)だがしかし、レーニンが同僚たちにドイツの要求に従うよう説得している際に、彼は中央諸国の降伏が差し迫っていると予見していた、ということを示すものは何もない。
 反対派を説得しようと考えられ得る全ての論拠を使っていた1917年12月から1918年3月までの彼の演説や文章の中で、公的であれ私的であれ、レーニンは、時勢はドイツから離れており、ソヴェト・ロシアは放棄しなければならなかったもの全てを再びすぐに取り戻すだろう、とは何ら主張しなかった。
 全くの反対だった。
 1918年の春と夏、連合諸国に破壊的な敗北を与えそうだというドイツ最高司令部の楽観的見方を、レーニンは共有しているように見えた。
 L・クラージン(Leonid Krasin)は、1918年9月早くにドイツから帰ったときに<イズヴェスチア>の読者に対して、優秀な組織と紀律の力でドイツは困難なく戦争をさらにもう5年間継続するだろう、と保障した。(101)これは確実に、自分のためだけに語ったのではなかった。
 ドイツは勝利するとのボルシェヴィキの信頼は、つぎの綿密な協定によって証されている。それはモスクワがベルリンと1918年8月に締結したもので、両国が公式の同盟関係国に至る初めにあるという見方を前提にして同意している。(102)
 ドイツの敗北がモスクワにとってはいかに想定し難く考えられていたかは、ドイツ帝国が死の発作に陥っていた1918年9月30日になっても、レーニンは3億1250万ドイツ・マルクの価値のある資産をベルリンに移し替えることを許可しいる、という事実によって証明されている。そのような移し替えについては、8月27日のブレスト条約の付属協定によって定められいたのだが、レーニンは、安全にその支払いを遅延させて、放棄することもできたのだった。
 ドイツが休戦を求める一週間前、ソヴィエト政府は、ドイツ市民はソヴィエトの銀行から預金を引き出して、それを自国にもち出すことができる、ということを再確認した。(103)
 こうした証拠から見て引き出される疑い得ない結論は、レーニンはドイツの<命令(Diktat)>〔ブレスト=リトフスク条約〕に屈従していた、ということだ。その理由はドイツが相当に長くはその条約を履行することができないと考えたからではなく、反対に、ドイツが勝利するだろうと予期し、勝者の側に立ちたかったからだ。//
 (3)ブレスト=リトフスク条約をめぐる状況は、ソヴィエトの外交政策になることとなるものの古典的なモデルを提供している。
 ソヴィエト外交政策の原理的考え方は、つぎにように要約することができるだろう。//
 1) いつ何時でも最高の優先順位をもつのは、政治権力の維持だ。-つまり、一つの国家領域のある部分に対する主権的権能と国家機構の統制。
 これはこれ以上小さくすることのできない、最少限度だ。
 これを確保するための対価で高すぎる事物は存在し得ない。
 このためには、何でもかつ全てを犠牲にすることができる。人命でも、土地や資源でも、民族的名誉でも。
 2) ロシアが十月革命を経て世界の社会主義の中心(「オアシス」)となって以降、ロシアの安全確保と利益は他の全ての諸国、闘争、あるいは党、のそれらに優先する。後者には、「国際プロレタリアート」のそれらも含まれる。
 ソヴェト・ロシアは、国際社会主義運動を具現化したものであり、社会主義運動を推進するための基地だ。
 3) 一時的な利益を得るためめに、「帝国主義」諸国と講和することは許され得る。しかし、その講和は軍事休戦と見なされなければならず、利益となる情勢の変化があれば破棄されるべきものだ。
 レーニンは1918年5月に、資本主義が存在するかぎりで、国際的取り決めは「紙の屑だ」と語った。(104)
 表向きは平和の時期ですら、協定に調印した政府を打倒するという見地から、敵対行動が、因習にとらわれない手法によって、追求されなければならない。//
 4) 福利を求める政策、国内政策と同様に外交政策は、つねに非感情的に実施されなければならない。その際には、「力の相関関係」への考慮に対してくきわめて綿密な注意が払われなければならない。以下のとおり。
 「我々は偉大な革命的経験をした。そしてその経験から、我々は客観的条件が許すならばいつでも絶えざる前進をする戦術をとる必要があることを学んだ。<中略>
 しかし、我々は、客観的条件が一般的に絶えざる前進を呼びかけることのできる可能性を示していないならば、力をゆっくりと結集して、遅らせる戦術を採用しなければならない。」(105)。
 (4)だが、ボルシェヴィキの外交政策にはもう一つの基本的な原理があることが、ブレスト条約の施行後に明らかになった。すなわち、外国の共産主義者の利益は<分割統治(divide et impera)>原則の適用によって促進されなければならないという原理的考え方だ。あるいは、レーニンの言葉によると、こうだ。
 「敵の間にある最も小さな『裂け目(crack)』であってもそれら全てを、多様な諸国のブルジョアジーの間や、産業国家内部のブルジョアジーの多様な集団や分野の間にある全ての利害対立を、慎重に、用心深く、警戒して、かつ巧妙に利用することによって」、促進されなければならない。(106)
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 (101) Izvestiia, No.190/454(1918月9月4日), p.3.
 (102) 後述、第14章を見よ。
 (103) Izvestiia, No.242/506(1918月11月5日), p.4.
 (104) Lenin, PSS, XXXVI, p.331.
 (105) 同上, p.340.
 (106) 同上, XLI, p.55.
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 第16節・第17節、終わり。第13章も終わり。次章・第14章の表題は、<国際化する革命>。

2247/R・パイプス・ロシア革命第13章第12節~第14節(1990年)。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。最適な訳出だと主張してはいない。一語・一文に1時間もかけるわけにはいかない。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第12節・ロシアがドイツの提示条件で降伏。
 (1)ドイツがボルシェヴィキとの交渉で風を得たのはフランスによってだったのか、それともたんなる偶然だったのか、ドイツがもどかしく待っていた回答が届いたのは、ボルシェヴィキの中央委員会とソヴナルコムが連合諸国の助けを求めると票決した、まさにその朝だった。(66)
 それはレーニンの最悪の怖れを確認するものだった。
 ベルリンは今では、戦争の推移の中でドイツ軍が掌握した領域だけではなく、ブレスト交渉が決裂した後の週に占拠した領域をも要求した。
 ロシアは動員解除するとともに、ウクライナとフィンランドを明け渡さなければならないものとされた。また、負担金を支払い、多様な経済的譲歩をするものとされた。
 通告書には、48時間以内での回答を要求する最後通牒の語句があり、その後で条約の調印には最長で72時間が許容されるとされていた。//
 (2)つぎの二日間、ボルシェヴィキ指導部は事実上は連続した会合をもった。
 レーニンは、何度も少数派であることを感じた。
 彼はついには、党と国家の全ての役職を辞任すると脅かすことで、何とか説き伏せた。//
 (3)ドイツの通告書を読むや否や、レーニンは中央委員会を招集した。
 15人の委員が現れた。(67)
 レーニンは言った。ドイツの最後通告書は無条件に受諾されなければならない。「革命的な言葉遊び(phrasemongering)は、もう終わりだ」。
 主要な事柄は、ドイツは屈辱的なことを要求しているが、「ソヴィエトの権威に影響を与えない」-すなわち、ボルシェヴィキが権力にとどまることをドイツは許容している、ということだ。
 かりに同僚たちが非現実的な行動方針に固執するならば、彼らは自分たちでそうしなければならないだろう、なぜなら、レーニンは政府からも中央委員会からも去ってしまっているだろうから。//
 (4)レーニンはそして、賢明に選択した言葉遣いで、三つの決定案を提示した。
 ①最新のドイツの最後通牒が受諾される、②ロシアは革命戦争を中止すべく即時の準備を行う、③モスクワ、ペトログラードおよび他都市の各ソヴェトは、それぞれの自らの事態に関する見方でもって票決を確認する。
 (5)辞任するとのレーニンの脅かしは、効いた。レーニンがいなければボルシェヴィキ党もソヴナルコムも存在しないだろうと、誰もが認識した。
 最初のかつ重大な決定では、レーニンは多数派を獲得しなかった。だがそれは4委員が棄権したからで、動議が7対4で採択された。
 二度めと三度めの決定では、問題がなかった。
 投票が終わると、ブハーリンと他の3人の左翼共産主義者は、党の内部や外部にある条約反対派を自由に煽動するために党と政府の全ての「責任ある役職」を辞任するという動議をもう一度経験した。//
 (6)ドイツの最後通告を受諾する決定にはまだ〔全国ソヴェトの〕中央執行委員会(=CEC)の同意が必要だったけれども、レーニンはその結果に十分に自信があり、ツァールスコエ・セロにいる無線連絡の操作者に対して、ドイツに対する連絡のために一チャンネルを空けておくよう指令した。//
 (7)その夜レーニンは、CEC で状況報告を行った。(68)
 その後の票決で、ドイツの最後通牒を受諾する決議案について技巧的な勝利を得た。それはしかし、反対するボルシェヴィキの議員たちは退出し、その他の多数の反対議員は棄権したからだった。
 最終票数は、レーニン案に賛成116、反対85、棄権26だった。
 この満足にはほど遠い、しかし形式的には拘束力をもつ結果にもとづいて、レーニンは、午前中の早い時間に、〔全国ソヴェト〕中央執行委員会の名前で、ドイツの最後通告を無条件で受諾する文章を執筆した。
 それはただちに、ドイツへと無線で伝えられた。//
 (8)2月24日朝、中央委員会は、ブレストへ行く代表団を選出した。(69)
 今や、国家と党の役職から辞任する多数の者の氏名が、手渡された。
 すでに外務人民委員を離任していたトロツキーは、他の役職も同様に辞した。
 彼はフランスとイギリスはソヴェト・ロシアとの協力に気を配ってくれ、ロシアの領土への意図をもっていなかった、という理由で、これら両国と緊密な関係をもつことを支持した。
 何人かの左翼共産主義者たちは、ブハーリンに倣って、辞職願いを提出した。
 彼らは、公開書簡で、動機を明確に述べた。
 彼らは、こう書く。ドイツへの降伏は、外国の革命的勢力に対する重大な打撃であり、ロシア革命を孤立させる。
 さらに、ロシアがドイツ資本主義と行うよう要求されている譲歩は、ロシアの社会主義にとって災難的な影響を与えるだろう。すなわち、「プロレタリアートの立場の外部的な屈服は不可避的に、内部的な屈服の道を切り拓く」。
 ボルシェヴィキは、中央諸国に降伏してはならず、また、連合諸国と協力してもならない。そうではなく、「国際的な規模での内戦を開始」しなければならない。(70)//
 (9)欲しいものを得たレーニンは、トロツキーと左翼共産主義者たちに、ソヴィエト代表団がブレストから戻るまでは辞任という行動をとらないように懇願した。
 最近の苦しい日々のあいだ、レーニンは顕著な指導性を発揮し、支持者たちに甘言を言ったり説得したりしながら、忍耐力も、決定力も、失わなかった。
 彼の生涯の中で、おそらく最も苛酷な政治闘争だった。//
 (10)恥辱的な<命令文書(Diktat)>に署名するために、誰がプレストへ行こうとするだろうか?
 誰も、その名前を、ロシアの歴史上最も屈辱的な条約に関係して残したくなかった。
 ヨッフェは、にべもなく拒んだ。一方、辞職していたトロツキーは、舞台から身を引いた。
 古いボルシェヴィキで一時は<プラウダ>編集長だったG・Ia・ソコルニコフは、ジノヴィエフを指名した。それに応えてジノヴィエフは、ココルニコフを逆指名して返礼した。(71)
 ソコルニコフは、指名されれば中央委員会を去ると、反応した。
 しかしながら、結局は、ソコルニコフが、ロシアの講和代表団の長を受諾するように説得された。この代表団の中には、L・M・ペトロフスキ(Petrovskii)、G・V・チチェリン(Chicherin)、L・M・カラハン(Karakhan)がいた。
 代表団は、2月24日にブレストに向けて出発した。//
 (11)ドイツに降伏するという決定に対していかに反対が強かったかは、レーニン自身の党内ですら、ボルシェヴィキ党のモスクワ地域事務局が2月24日にブレスト条約を拒み、全員一致で中央委員会を不信任する票決を通過させた、という事実で示されている。(72)
 (12)ロシアが降伏したにもかかわらず、ドイツ軍は前進をし続けて、司令官が引いていた限界線まで進み、その線を両国の永続的な国境にしようと意図した。
 2月24日、ドイツ軍はDorpat(Iurev)〔エストニア〕とプスコフを占拠し、ロシアの首都から約250キロメートル離れた場所に陣取った。
 翌日に彼らは、Revel〔ラトヴィア〕 とボリソフ(Borisov〔ベラルーシ〕)を掌握した。
 彼らは、ロシア代表団がブレストに到着した後でも前進し続けた。すなわち、2月28日、オーストリア軍はベルディチェフ(Berdichev〔ウクライナ〕)を奪取し、ドイツ軍は3月1日にホメリ(Gomel〔ベラルーシ〕)を占拠した後、チェルニヒウ(Chernigov〔ウクライナ〕)とモギレフ(Mogilev)を奪いに向かった。
 3月2日、ドイツの戦闘機は、ペトログラードに爆弾を落とした。//
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 (66) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.341-3.
 (67) Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)(Moscow, 1958), p.211-8.
 (68) Lenin, PSS, XXXV, p.376-380.
 (69) Protokoly TsK, p.219-p.228.
 (70) Lenin, Sochineniia, XXII, p.558.
 (71) Lenin, PSS, XXXV, p.385-6.
 (72) 同上, p.399.
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 第13節・ソヴィエト政権のモスクワ移転。
 (1)レーニンは、ドイツに対する冒険はしなかった。-彼は3月7日にこう言った。ドイツ軍がペトログラードを占拠する意図をもつことに「微塵の疑いもない」。(73)
 そして彼は、首都をモスクワに避難させることを命令した。
 ニゼール将軍によると、物資のペトログラードからの移転は、フランスの軍事使節が手配した専門家の助けで行われた。(74)
 移転の趣旨で発せられた公式の布令がないままに、3月初めに人民委員部はかつての首都への移転を開始した。
 <Novaia zhizn'>で「逃亡(Flight)」と題された記事は、パニックにとらわれたペトログラード、市民たちが鉄道駅に殺到していること、そして彼らがもしも鉄道に乗り込めなければ車または徒歩で逃亡しようとしていることを描写した。
 ペトログラード市は、やがて静寂に変わった。電力も、燃料も、医療サービスもなかった。学校や交通は機能するのを止めた。
 射殺やリンチ攻撃が、日常の出来事になった。(75)//
 (2)ペトログラードの露出した状態やドイツの意図の不確定性を考えると、共産主義国家の首都をモスクワに移転させる決定は、理にかなっていた。
 しかし、臨時政府が半年前に同じ理由でペトログラードから避難することを考えたとき、同じボルシェヴィキこそがその考えは裏切りだと最も激烈に非難した、ということを、完全に忘れることはできない。//
 (3)移転は、多大の安全確保に関する準備のもとで実行された。
 党と国家の官僚たちが先ずは移るものとされた。中央委員会の委員たち、ボルシェヴィキの労働組合官僚、および共産党系新聞の編集者たちを含む。
 彼らは、モスクワでは、没収した私的所有物(建築物)の中に入った。
 (4)レーニンは、3月10-11日の夜に、こっそりとペトログラードを出た。同行したのは、妻と秘書のボンチ=ブリュエヴィチだった。(76)
 この旅は、最高の秘密として計画された。
 一同は特別列車で、ラトヴィア人に警護されながら旅行をした。
 翌朝の早い時間に、逃亡者たちの意図不明の荷物を積んだ列車に衝突して、停車した。停止中にボンチ=ブリュエヴィチは、彼らの武装を解除させて、準備した。
 列車は進み続け、夕方遅くにモスクワに到着した。
 この旅については、誰も語られなかった。自称世界のプロレタリアートの指導者は、妹だけに迎えられて、どのツァーリもかつてしなかったやり方で、首都にこっそりと入ったのだ。//
 (5)レーニンはその住居を、仕事場とともにクレムリンに構えた。
 そこが、15世紀にイタリアの建築家によって建設された要塞の、石壁と重たい門の内部が、ボルシェヴィキ政府の新しい所在地となった。
 人民委員たちも家族とともに、やはりクレムリン内部に安全を求めた。
 この要塞の警護はラトヴィア人に委ねられた。彼らは、修道僧のグループも含めて、多数の居住者をクレムリンから追い出した。//
 (6)安全という観点から考え出されたものだったけれども、ロシアの首都をモスクワに移して、自分をクレムリンに落ち着かせるというレーニンの決定は、深い意味をもった。
 それはいわば、かつてのモスクワ公国の伝統を好んだピョートル一世が始めた親西側路線を拒否することの象徴だった。
 「一時的」だと宣言されたにもかかわらず、モスクワの首都化は永続的なものになった。
 首都移転はまた、個人的・人身的な安全を求める、新しい指導者たちの病的な恐怖心も反映していた。
 レーニンらのこの行為を評価するには、イギリスの首相がダウニング通りから転居して、その住居と仕事場を閣僚たちと同様にロンドン塔に移し、そこでシーア派の者たちの警護のもとで政治を行うことを想像してみなければならない。//
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 (73) Lenin, PSS, XXXVI, p.24.
 (74) Niessel, Triomphe, p.229.
 (75) La Piletskii in: NZh, No.38/253(1918年3月9日), p.2.
 V.Stroev, NZh, No.40/255(1918年3月12日), p.1.も見よ。
 (76) Bonch-Bruevich, Pereezd V. I. Lenina v Moskvu(Moscow, 1926).
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 第14節・ブレスト=リトフスク条約の諸条件。
 (1)ロシア人たちは3月1日にブレストに着き、その2日後、議論をいっさいすることなく、ドイツとの条約に署名した。
 (2)条件は、きわめて負担の大きいものだった。
 これを知ると、かりに連合諸国が負けていれば待ち受けていた講和条約がどういうものだったか、が分かるだろう。また、ドイツがヴェルサイユの<命令(Diktat)>に不満をもったのが根拠のないことも示している。ヴェルサイユ講和条約は、多くの点で、ドイツが無力のロシアに押しつけた条約よりは優しいものだったのだから。
 (3)ロシアは、領土に関する大きな譲歩を要求された。ロシアが17世紀半ば以降に征服した土地のほとんどの割譲だった。
 西方、北西そして南西と、ロシアの国境は、モスクワ公国時代のそれまでに縮まった。
 ロシアは、トランス・コーカサスの他に、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、およびリトアニアを放棄しなければならなかった。これらの全てがドイツの保護する主権国家となるか、またはドイツに併合された。
 モスクワはまた、ウクライナを独立の共和国として承認しなければならなかった。(*)
 これらの条項は75万平方キロメートルの国土の譲渡を要求するもので、その広さはドイツ帝国のそれのほとんど2倍だった。ブレスト講和のおかげで、ドイツの規模は3倍になったのだ。(77)
 (4)ロシアがかつてスウェーデンやポーランドから獲得していた、今次の割譲領土は、ロシアの最も豊かで最も人口密度の高い土地だった。
 この地域に、ロシアの住民の26パーセントが生活していた。その住民たちは、都市人口の3分の1以上を含んでいた。
 当時の概算では、この領域で、ロシアの農業収穫物の37パーセントが産出されていた。(78)
 また、この地域に工業企業の28パーセントが立地し、鉄道線路の26パーセント、石炭と鉄の堆積層の4分の3があった。//
 (5)しかし、たいていのロシア人がもっと苛立たしく感じたのは、付属文書に明記された、ドイツにソヴィエト・ロシアでの例外的な地位を認める経済的条項だった。(79)
 ドイツは、経済的利潤を獲得するだけではなくロシア社会主義を窒息死させるためにこれらの権利を利用するつもりだ、と多数のロシア人は考えた。
 理論上はこれらの権利は相互主義的なものだったが、ロシアは自分の取り分を要求できる立場になかった。//
 (6)中央諸国の市民と企業は、ボルシェヴィキが権力掌握後に発布した国有化布令の適用免除を事実上は受けた。ソヴィエト・ロシアで商業、工業および職業的活動を行うことはもとより、動産および不動産を所有することが認められたのだ。
 彼らは、厳しい税金を支払う必要なく、ソヴィエト・ロシアから本国に資産を送ることができた。
 この決まり事は遡及効をもった。すなわち、戦争中に署名国の市民から徴発した不動産、土地や鉱山の使用権は、元の所有者に返還されるものとされた。
 かりに国有化されていれば、元権利者に適正な補償金が支払われることになっていた。
 同じ決まりが、国有化された企業の有価証券保有者にも適用された。
 一つの国から他国への商品の自由な運送のための条項が、設けられた。各国はまた、お互いに最恵国待遇の地位を承認した。
 ロシアの公的および私的債務を否認した1918年1月布令にもかかわらず、ソヴィエト政府は、中央諸国との関係での債務を尊重する義務のあること、それらに付す利息の支払いを再開すること、を承認した。そのための詳細は別の協定で決定されるものとされた。//
 (7)こうした諸条項は、中央諸国に-実質的にはドイツに-、ソヴィエト・ロシアでの前例なき治外法権の特権を付与した。経済的規制を免除し、社会化された経済へと一層進展していたところで私的企業を経営することを認めた。
 ドイツ人は事実上、ロシアの共同経営者になった。
 彼らは私的部門を掌握する立場が与えられ、一方でロシア政府には、国有化された部門の管理が委ねられた。
 ブレスト=リトフスク条約の条件のもとでは、ロシアの工業企業、銀行、証券会社の所有者がその所有物をドイツに売却することが可能だった。この方法で、それらは共産党による統制から免れることができた。
 のちに述べるように、この可能性を封じるために、ボルシェヴィキは1918年6月にソヴィエトの全ての大企業を国営化した。//
 (8)条約の他の箇所では、ロシアは陸海軍の動員解除を明記した。-言い換えれば、国防力をないままにした。また、他の調印諸国の政府、公的機関および軍隊に対する煽動やプロパガンダ活動をやめることを約束した。アフガニスタンとペルシアの主権を尊重することも。//
 (9)ソヴィエト政府がブレスト=リトフスク条約の諸条件を国民に公にしたとき-それは民衆の反応を怖れて数日遅れて行われたのだが-、全ての政治諸階層から、極左から極右までに、憤激が巻き起こった。
 J・ウィーラー=ベネット(John Wheeler-Bennett)によれば、レーニンはヨーロッパで最も貶された(vilified)人物になった。(80)
 初代ソヴィエト・ロシア駐在ドイツ大使のミルバッハ公は、5月に自国外務省に、ロシア人は一人残らず条約を拒否しており、条約をボルシェヴィキ独裁に対してよりすらも憤懣の的だと感じている、とこう通信した。
 「ボルシェヴィキによる支配は飢餓、犯罪、名前のない恐怖のうちでの隠れた処刑でロシアを苦しめているけれども、ブレスト条約を受諾したボルシェヴィキに対しては、どのロシア人も喜んでドイツの助けを求めるふりすらするだろう。」(81)
 かつてどのロシア政府も、これほど広い領土を割譲しなかったし、これほど多くの特権を外国に認めることもなかった。
 ロシアは、「世界のプロレタリアートを売り払った」だけではなかった。ロシアは、ドイツの植民地となる長い道程を歩んでいた。
 ドイツは条約によって与えられた権利をロシアでの自由な起業のために用いるだろうと、-保守派の界隈では喜んで、急進派の界隈では怒りとともに-広く想定されていた。
 こうしてペトログラードでは、3月半ばに、ドイツは三つの国有化された銀行の所有者への復帰とそのあとの迅速な全銀行の非国有化を要求している、との風聞が流布された。
 (10)新国家の国制法(憲法)は、条約は2週間以内にソヴェト大会で批准されることを求めていた。
 それを行うソヴェト大会は、3月14日にモスクワで開催されることが予定として決定された。//
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 (*) この講和条件の履行のために、モスクワは4月半ばにウクライナ政府に対して、相互承認のための交渉を開始することを提案した。種々のウクライナ国内の政治事情のために、交渉はようやく5月23日に始まった。
 1918年6月14日、ソヴェト・ロシア政府とウクライナ政府は暫定的講和条約に署名した。そのあとで最終的な講和交渉を行うことになっていたが、結局それは行われなかった。
 The New York Times, 1918年6月16日付, p.3. 
 (77) Hahlweg, Diktatfrieden, p.51.
 (78) Piletskii in: NZh, No.41/256(1918年3月14日), p.1.
 (79) これらは、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.370-p.430. に資料として収載されていおり、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.269-p.275. で分析されている。
 (80) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.275.
 (81) W. Baumgart in: VZ, XVI, No.2(1968年1月), p.84.
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 第12節・第13節・第14節、終わり。

2236/R・パイプス・ロシア革命第13章第6節・第7節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第6節・ブレストでのトロツキー。
 (1)ブレストでの交渉は、12月27日/1月9日に再開した。
 ロシア代表団を率いたのは、今度はトロツキーだった。
 彼は、時間稼ぎを継続してプロパガンダを拡散しようと考えて、やって来ていた。
 レーニンは、この戦術にしぶしぶ同意していた。
 トロツキーは、かりにドイツがそれを見越して最後通牒を発すれば、ロシア代表団は屈従する、と約束しなければならなかった。(28)
 (2)トロツキーは到着し、交渉の休止の間にドイツがウクライナの民族主義者たちと別の連絡手段を確立していることを知って、不愉快な驚きをもった。
 12月19日/1月1日、若い知識人たちから成るウクライナ代表団は、公開の分離交渉を行おうとのドイツの招きで、ブレストに着いていた。(29)
 ドイツの目標は、ウクライナを切り離して、ドイツの保護国にすることだった。
 1917年12月に、ウクライナ評議会(Council)、あるいはRada は、ウクライナの独立を宣言した。
 ボルシェヴィキはこの承認を拒み、自分たちが公式に宣言した「民族の自己決定権」の権利を侵害して、その地域を再征服するために軍隊を派遣した。(30)
 ドイツの見積もりでは、ロシアは、食糧の3分の1、石炭と鉄の70パーセントをウクライナから受け取っていた。ウクライナが分離することは明らかに、ボルシェヴィキを弱体化し、ドイツへの依存をさらに高めることを意味した。同時に、ドイツ自身の逼迫する経済的必要を、徐々に充足させるものだった。
 トロツキーは、伝統的外交官の役割を演じて、ドイツの行動はロシアに対する内政干渉だ、と宣告した。しかし、彼に可能だったのは、それだけだった。
 12月30日/1月12日、中央諸国は、ウクライナのRada を国の正統な政府だと承認した。
 これによって、ウクライナとの分離講和条約の締結への歩みが始まった。//
 (3)そのとき、ドイツによる領土要求の提示があった。
 キュールマンはトロツキーに対して、我々はロシアの「併合と賠償金なし」の講和要求は受け入れ難いと考えており、ドイツが占領している領土をロシアから引き離すつもりだ、と知らせた。
 全ての征圧地を譲ろうというチェルニンの提案について言うと、この提案は、連合諸国が講和交渉に加わることを条件としており、かつその参加は行われなかったので、有効性を失っていた。
 1月5日/18日、マックス・ホフマン将軍は地図を開いて、不審がるロシア人に対して、両国の間の新しい国境線を示した。(31)
 それによると、ポーランドの分離と、リトアニアおよび南部ラトヴィアを含むロシア西部の広大な領域のドイツへの併合が、求められていた。
 トロツキーは、我が政府はこのような要求を絶対に受け入れることができない、と答えた。
 その1月5日/18日はたまたまボルシェヴィキが立憲会議を解散させたまさにその日だった。その日、トロツキーは無謀にも、こう言った。ソヴィエト政府は、「最も肝要なのは新しく形成される国家の運命だ、住民投票(referendom)が人民の意思を表明する最良の手段だ、という考え方になお執着する」、と。(32)
 (4)トロツキーは、ドイツが提示した条件をレーニンに伝え、その後で、政治的交渉を12日間延期することを要請した。
 彼は同日にペトログラードへと出立し、ヨッフェは残された。
 この延期についてドイツがいかに神経質だったかは、つぎのことからも知られる。すなわち、キュールマンはベルリンに情報を伝えて、ボルシェヴィキによる延期要請を交渉の決裂だと理解してはいけない、と強く要望した。(33)
 ドイツには、講和交渉の破綻は同国の産業中心地域での市民の騒擾を巻き起こすのではないかと怖れる、十分な理由があった。
 1月28日、社会主義運動の左翼が組織し、100万人以上の労働者が加わった政治的ストライキの波が、勃発した。ドイツの多数の都市で、すなわちベルリン、ハンブルク、ブレーメン、キール、ライプツィヒ、ミュンヘン、そしてエッセンで起こった。
 あちこちで、「労働者評議会」が設立された。
 ストライキ活動家たちは、併合と賠償金なしの講和と東ヨーロッパ諸民族の自己決定を要求した。-これは、ロシアの講和条件の受容を意味した。(34)
 ボルシェヴィキが直接に関与していたとの証拠資料は存在していないが、ストライキに対するボルシェヴィキのプロパガンダの影響は明白だつた。
 ドイツ当局は、強い、ときには残虐な弾圧でもって対処した。そして、2月3日までには、ドイツ政府は状況を統制下に置いた。
 しかし、ストライキは厄介なことを示す証拠となった。前線で何が起きていようとも、国内での状況を当然のこととは考えることができなかったのだ。
 人々は、平和を切望していた。そして、ロシアがそのための鍵を握っているように見えた。//
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 (28) Lenin, PSS, XXXVI, p.30.
 (29) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.183, p.190.; Fischer, Germny's Aims, p.487.
 (30) 私の Formation of the Soviet Union: Communism and Nationalism, 1917-23(Cambridge, Mass., 1954), p.114-p.126 を見よ。
 (31) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229.; J. Weeler-Bennet, Brest-Litovsk: The Forgotten Peace(London-New York, 1956), p.173-4.
 (32) W. Hahlweg, Der Diktatfrieden von Brest-Litovsk(Münster, 1960), p.375.
 (33) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229-p.230.
 (34) 1918年1月ストライキにつき、G. Rosenfeld, Sowjet-Russland und Deutschland 1917-1922(Köln, 1984), p.46-p.55.; Weeler-Bennet, Forgotten Peace, p.196.
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 第7節・ボルシェヴィキ内の激しい対立とドイツの最後通牒〔bitter divisions among Bolsheviks and the Geman ultimatum〕。
 (1)ドイツの要求によって、ボルシェヴィキ指導部は相争う3分派に分裂した。これらは、のちの経緯で、2分派へと融合した。
 (2)ブハーリン派は、交渉をやめて、ドイツ革命の炎を煽りつつ主として遊撃部隊的戦闘によって軍事作戦を継続させることを望んだ。
 この立場は、ボルシェヴィキ党員たちの大多数派の支持を受けた。ペトログラードとモスクワのいずれの党官僚たちも、この趣旨での決議を採択した。(35)
 ブハーリンの伝記著作者たちは、のちに「左翼共産主義」と称された彼の政策方針はボルシェヴィキの多数派の意向を反映していた、と考えている。(36) 
 ブハーリンとその支持者たちは、西ヨーロッパは社会革命の瀬戸際にあると見ていた。その革命こそがボルシェヴィキ体制の存続にとって不可欠だと認められているのだから、「帝国主義者」ドイツとの講和は、彼らには反道徳的のみならず、自己欺瞞に他ならなかった。
 (3)トロツキーは、第二の派の代表だった。この派は左翼共産主義者とは、戦術上の微妙な違いだけがあった。
 トロツキーは、ブハーリンのようにドイツの最後通告を拒みたかったが、それは「戦争でも講和でもない」という耳慣れないスローガンのもとでだった。
 ロシアはブレストでの交渉をやめ、一方的に(unilaterally)戦争の終止を宣言する。
 そうすればドイツは、したいこと、つまりロシアが何をしても抑止できないことを自由に行うだろう-西部および南西前線部の広大な領土の併合。しかし、ロシアの承諾なくしてそれを行わなければならない。
 トロツキーが主張するには、こう進展することで、人気のない戦争を遂行するという重荷からボルシェヴィキは解放され、自由になるだろう。そして、ドイツ帝国主義の残虐性を暴露することとなり、ドイツの労働者を反乱へと鼓舞して立ち上がらせるだろう。//
 (4)レーニンはカーメネフとジノヴィエフに支持されて、ブハーリンとトロツキーに反対した。
 彼の切迫感覚およびロシアは取引できる立場にはないという考えは、戦争大臣のクルィレンコ(Krylenko)が12月31日/1月13日にソヴナルコムに提出した報告によって強化された。
 動員解除(復員)に関する全軍会議の代表者たちに配布されたアンケート回答書にもとづいて、クルィレンコは、ロシア軍は、あるいはそれだとして残っているものは、戦闘能力をもっていない、と結論づけていた。(37)
 レーニンは、こう思考した。紀律と十分な装備のある敵に抵抗することはできない、と。
 (5)レーニンは1月7日/20日に、「併合主義的分離講和の即時締結問題に関するテーゼ」で、彼の考え方を定式化した。(38)
 これによると、彼はつぎの諸点を挙げている。
 (1) 最終的な勝利の前に、ソヴィエト体制はアナーキーと内戦の時期に直面する。これは「社会主義革命」のために必要な時期だ。
 (2) ロシアは少なくとも数カ月の余裕が必要だ。その過程で「体制は、まずは自分の国で始めてブルジョアジーに対して勝利する」、そして自分たちの諸勢力を再組織する、「完全に自由な時間的余裕を獲得しなければならない」。
 (3) ソヴィエトの政策は、国内事情を考慮して決定されなければならない。外国で革命が勃発するか否かは不確実だからだ。
 (4) ドイツでは、「軍事党」が上層部を握った。ロシアは、領土割譲と財政的制裁金を要求する最後通告を提示されるだろう。
 政府は、交渉を長引かせるべく全力を尽くしたが、この戦術は自然消滅した。
 (5) ドイツの条件での即時講和に反対する者たちは、このような講和は「プロレタリア国際主義」の精神を侵犯すると、間違って論じている。
 彼らが望むように政府がドイツとの戦闘継続を決定するならば、別の「帝国主義陣営(Bloc)」からの助力を求める以外に選択の余地はないだろう。その協商諸国(Entente)は、フランスとイギリスの代理人へと変わるだろう。
 かくして、戦争の継続は「反帝国主義」の動きではない。二つの「帝国主義」陣営の間での選択を呼びかけるものだからだ。
 しかしながら、体制がいま果たすべき責務は、「帝国主義諸国」の間で選択することではなく、権力を確固たるものにすることだ。
 (6) ロシアは実際に外国の革命を推進しなければならない。しかし、「諸勢力の相関関係」を考慮することなくしてこれを行うことはできない。
 現時点でのロシア軍は、ドイツ軍の前進を食い止めるには無力だ。
 さらに言えば、ロシアの「農民」軍隊の大多数は、ドイツが要求する「併合主義」講和を支持している。
 (7) ロシアが現在のドイツの講和条件の受け入れ拒否に固執するならば、いずれもっと負担の大きい条件を受諾せざるを得なくなるだろう。
 しかし、これはボルシェヴィキではなくその継承者たちが行うことだ。その間にボルシェヴィキは、権力を剥奪されているだろうから。
 (8) 政府は小休止によって、経済(銀行と重工業の国有化)を組織する機会をもつだろう。経済の組織化は、「社会主義をロシアと全世界でで揺るぎないものにし、そして同時に、強力な労働者・農民赤軍を築く堅固な経済的基礎を生み出すだろう」。
 (6)レーニンには、彼の異議にもかかわらず本当は世界大戦が継続することを望んでいることを暴露してしまうだろうがゆえに明言することのできない、別の理由があった。
 レーニンは、中央諸国と協商諸国の「ブルジョアジー」が講和をすればすぐに、彼らは勢力を合体してソヴィエト・ロシアを攻撃するのは確実だと感じていた。
 彼は、ブレスト条約に関する討議の間に、この危険性を暗示した。
 「我々の革命は、戦争から産まれた。
 戦争がなかったならば、全世界の資本主義者たちの統合を目撃していただろう。この統合は、我々に対する闘いを基礎とするものだ。」(39)
 レーニンは、彼自身の政治的闘志を反映して、「敵たち」の巧妙さや果断さをきわめて高く評価していた。
 実際には、1918年11月の停戦以降に、このような「統合」は発生しなかった。
 しかし、彼は危険が本当にあると考えたので、想定される「資本主義者」の攻撃に抵抗することのできる軍隊を建設するための時間を稼ぐために、戦争を長引かせなければならなかった。
 (7)1918年1月8日/21日、ボルシェヴィキは、三つの本拠地で、党指導者たちの会議を開いた。ペトログラード、モスクワ、そしてウラル地域。
 レーニンは、ドイツの最後通告の受諾を求める決議を提案した。
 この提案は、全63票のうち僅か15票の支持しか受けなかった。
 トロツキーの「講和でも戦争でもない」妥協的決議は、16票を獲得した。
 多数派(32代表者)は、左翼共産主義者の決議に賛成投票をし、妥協なき「革命」戦争を要求した。(*)//
 (8)議論はつぎに、中央委員会に移った。
 トロツキーはここで、敵対行動の即時かつ一方的な停止およびロシア軍の一斉の動員解除の動議を提出した。
 この動議は、9対7の過半数で辛うじて通過した。
 レーニンは、ドイツの条件での即時講和を支持する情熱的な演説でこれに反応した。(40)
 しかし、レーニンは少数派のままだった。そして、翌日にボルシェヴィキ中央委員会が左翼エスエルの中央委員会と合同の会合をもったときには、さらに支持者数を減少させた。左翼エスエルは、レーニンの講和提案に激しく反対していたのだ。
 この日、ここでも再び、トロツキーの決議が通過した。
 (9)この信任を受けたトロツキーは、ブレストに戻った。
 交渉は、1月15日/28日に再開した。
 トロツキーは、意味の乏しい発言やプロパガンダ的演説を行って、時間稼ぎを継続した。
 これには、さすがの自制心のあるキュールマンですら、苛立ち始めた。//
 (10)ロシア・ドイツ間交渉が修辞学的言葉の遣り取りにはまり込んでいた一方で、ドイツとオーストリアは、ウクライナと合意に達した。
 2月9日、中央諸国はウクライナ共和国との間に分離講和条約を締結した。これはウクライナを事実上はドイツの保護国とするものだった。(41)
 ドイツとオーストリアの兵団は、ウクライナへと移動した。そこで彼らは、ある程度の法と自由を回復した。
 この歓迎されるべき行為の対価は、船によってウクライナの食糧が西方へと大量に輸送されたことだった。//
 (11)ロシア・ドイツ間政治交渉の膠着状態を破ったのは、ドイツ皇帝からの電報だった。皇帝は、将軍たちの影響をうけて、2月9日にブレストに電報を発した。
 彼はその中で、最終通告書をロシアに与えるよう命じていた。//
 「本日、ボルシェヴィキ政府はラジオで私の兵団に en clair を伝え、立ち上がって軍部上官に公然と反抗するように迫った。
 私もフォン・ヒンデンブルク元帥閣下も、このような事態をこれ以上受け入れたり、甘受したりすることはできない!
 可能なかぎり迅速に、このようなことを終わらせなければならない!
 トロツキーは、明日、(2月)10日の午後8時までに、…<遅滞なく、我々の条件での講和>に署名しなければならない。…。
 拒否する場合または遅滞その他の釈明を企てる場合には、10日夜の8時に、交渉は決裂し、停戦は終わる。
 そうなれば、東部前線部隊は、事前に定められた線へと前進するだろう。」(42)
 (12)翌日、キュールマンはトロツキーに対し、ドイツ政府の最終通告を伝えた。
 トロツキーはそれ以上の議論をすることなくまたはその他の遅延を行うことなく、講和条約のドイツ語文に署名すべきものとされた。
 トロツキーは、ソヴィエト・ロシアは戦争から離れており、軍隊の動員解除を進めていると言って、そうするのを拒んだ。(43)
 しかしながら、ペトログラードへとその間に移った経済的、法的な議論は、そう望まれていたとすれば、継続することができただろう。
 トロツキーは列車に乗り込み、ペトログラードへと向かった。//
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 (38) Lenin, PSS, XXXV, p.243-p.252.
 =レーニン全集第26巻「併合主義的単独講和の問題についてのテーゼ」452頁~460頁(大月書店、1958)。
 (39) 同上, p.324.; Hahlweg, Diktatfrieden, p.48.
 (*) Lenin, PSS, XXXV, p.478.; LS, XI, p.41.; Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918(Vienna-Munich, 1966), p.22.
 レーニンを支持したスターリンは、西側での革命は見えていない、と語った。
 この会議の議事録は消失したと言われている。Isaac Steinberg は、左翼エスエルは「戦争でも講和でもない」定式を好み、それを定式化したものを手にしていた、と語る。
 Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.190-2.
 (40) Lenin, PSS, XXXV, p.255-8.
 (41) ロシア語文、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.298-p.308.
 英語訳文、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.392-p.402.
 (42) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.311-2.
 (43) Soviet Declaration in Lenin, Sochineniia, XXII, p.555-8.
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 第13章第6節・第7節、終わり。

2226/R・パイプス・ロシア革命第13章第3節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳をつづける。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第3節・ドイツとボルシェヴィキが講和交渉へ。
 (1)既述のように、レーニンには、中央諸国が要求する条件を受け入れる心づもりがあった。しかし、レーニンはドイツの工作員だとする疑いが広がっていたために、慎重に事を進める必要があった。
 したがって、ただちにドイツやオーストリアとの交渉に入るのではなく、あらかじめ考えていただろうように、全交戦諸国に対して、会合して講和しようとの訴えを発した。
 実際には、ヨーロッパの一般的平和は、彼が最も望んでいないことだった。
 述べてきたように、十月での権力奪取を急いだ一つの理由は、そのような平和がまさに訪れるのを怖れたからだった。そうなってしまえば、ヨーロッパに内乱を発生させる機会を永遠に封じてしまうからだ。
 明らかに、これまでのいくつかの訴えが聞く耳を持たれなかったために、レーニンは平和を呼びかけることに怖れを感じなかったと思われる。従前の訴えには、1916年12月のウィルソン大統領の提案、1917年7月のドイツ帝国議会の講和決議、1917年8月の書面上の諸提案が含まれる。
 想定したとおりにレーニンの提案が連合諸国に拒否されれば、彼は自由に手筈を整えることができるだろう。//
 (2)レーニンが起草して第二回ソヴェト大会が採択した、奇妙な名前の「平和に関する布令」は、交戦諸国に対して3ヶ月の停戦を提案した。
 この提案は、イギリス、フランスおよびドイツの労働者に対する訴えと一対のものだった。後者は各国労働者について、こう言う。
 「その多方面からする決定的で、無私の旺盛な活動は、平和の任務を、同時に、各人民の勤労被搾取大衆を全ての奴隷化と搾取から解放する任務を、我々が成功裡に達成するのを、助けている」。(7)
 G・ケナン(George Kennan)は、この「布令」を「示威的(demonstrative)外交」と名付けた。彼によると、「諸政府間の、自由に受容されかつ相互の利益となる合意達成を促進するのでなく、他政府を当惑させかつ各国の国民内部での対立を掻き立てることを意図する」外交だ。(*)
 ボルシェヴィキは、同じ趣旨の諸宣言を発して、交戦諸国の国民に対して、反乱を起こすよう強く訴えた。(8)
 レーニンは国家の長として、今やツィンマーヴァルト(Zimmerwald)左翼の綱領を推進することができた。//
 (3)ボルシェヴィキは、11月9日/22日に、平和布令を連合諸国外務部局に伝えた。
 連合諸国政府はただちに、これを拒否した。トロツキーはこのあと、中央諸国に対して、停戦交渉を開始する用意があることを知らせた。
 (4)ボルシェヴィキの取り込み政策は、ドイツにとって相当の利益となるものだった。
 ロシアの分離講和の提案がドイツのある範囲の者たちに思い出させたのは、1763年の「奇跡」だった。その年、親フランスのエリザベトの死と親プロイセンのピョートル三世の即位によって、ロシアは七年戦争から撤退した。そのことがフリートリヒ大帝を敗北から、プロイセンを解体から救ったのだった。
 ロシアの連合諸国からの離脱意欲は、ドイツには二つの利益があった。すなわち、①数十万人の兵団を西へと移動させる、②イギリスの海上封鎖を突破する。
 このような見込みは、ドイツが再び勝利を手元に引き寄せるように思わせた。
 ペトログラードでのボルシェヴィキの権力掌握を知って、ルーデンドルフ(Ludendorff)は、1918年春に、東側前線から移ってくる分団の助力でもって西側前線で決定的な攻撃を行う作戦を練り上げた。
 皇帝は、その計画を承認した。(9)
 この段階でルーデンドルフは、親ボルシェヴィキ志向の設計者であるR・v・キュールマン(Richard von Kühlmann)が追求している外務当局の、ロシアとすみやかに停戦して、講和へと進む、という政策方針にすっかり同意していた。//
 (5)ボルシェヴィキと中央諸国の間の知恵比べでは、後者の側が圧倒的に有利であるように見えた。一方には数百万人の紀律ある軍をもつ安定した政府があり、これと比べると他方には、解体過程にある寄せ集めの軍をもつ、ほとんどの外国が承認していない素人と簒奪者の政治体制があったのだ。
 しかしながら、現実には、力の均衡はさほどに一方的ではなかった。
 1917年末頃、中央諸国の経済状況は絶望的になっていて、戦争継続を行うことができそうでなかった。
 オーストリア=ハンガリーはとくに、心許ない状態だった。その外務大臣のO・チェルニン侯(Count Ottokar Czernin)は、ブレスト交渉での間にドイツに対して、自分の国はたぶん次の収穫期まで持ちこたえることができない、と語った。(10)
 ドイツは好かったが、辛うじてにぎなかった。ある範囲のドイツの政治家たちは、 1918年4月半ばまでに食糧を使い果たすだろうと考えていた。(11)//
 (6)ドイツとオーストリアは、民間人の戦意という問題を抱えていた。ボルシェヴィキによる平和の訴えが民衆の間に大きな希望を掻き立てていたからだ。
 ドイツの宰相は皇帝に対して、ロシアとの交渉が決裂すればオーストリア=ハンガリーはおそらく戦争から離脱し、ドイツは国内騒擾に巻き込まれるだろう、と助言した。
 ドイツの(戦争を支持した)社会主義多数派の指導者であるP・シャイデマン(Philipp Scheidemann)は、ロシアとの講和交渉が失敗すれば「ドイツ帝国の終焉となる」だろうと、予見した。(12)
 こうした全ての-軍事、経済、および心理上の-理由で、中央諸国は、ボルシェヴィキが必要とするのとほとんど同じ程度にロシアとの講和を必要とした。
 ロシア側が十分には知っていなかったこの事実は、ドイツとオーストリアに接近するレーニンの降伏主義政策に反対する者たちは、ふつうは言われているほどには非現実的ではなかった、ということを示している。
 敵もまた、自分の頭に銃砲を向けて交渉していたのだ。//
 (7)ボルシェヴィキにはまた、別の有利さもあった。すなわち、相手側に関する詳細な知識があった。
 西側で数年間生活していたので、ドイツの国内問題、政治上および取引上の人々の性格、党派的配列状態等によく通じていた。
 彼らのほとんど全員が、西側の言語の一つまたはそれ以上を話した。
 ドイツは社会主義の理論と実践の第一の中心地だったために、自国以上ではなくとも同等に、ドイツのことを知っていた。そしてかりに必要とあれば、ソヴナルコムは喜んでそこで権力を掌握しただろう。
 知識がこのようにあったことで、事業家を将軍たちと、左翼を右翼社会主義者と競わせたり、ドイツの労働者たちを容易に理解可能な言語で革命へと喚起させたりすることによって、彼らは、敵側陣営内部にある不和を利用することができた。
 対照的に、ドイツは、交渉に入ろうとしている相手方について、ほとんど何も知らなかった。
 脚光を浴びてきたばかりのボルシェヴィキは、ドイツにとっては、無骨かつ饒舌で実用的でない知識人の一群だった。
 ドイツ人は一貫してボルシェヴィキの行動を誤解し、その狡猾さを過少評価した。
 ある日、ボルシェヴィキは性急な革命家たちで、意のままに操作できるように見えた。
 次の日、ボルシェヴィキは、自分自身のスローガンを信じないで実務的(businesslike)な取引をする用意のある、現実主義者だった。
 1917-18年の両者の関係では、ボルシェヴィキは、ドイツ人を当惑させ、その欲求を刺激する保護色を纏うことによって、何度もドイツを出し抜いた。//
 (8)ドイツのソヴィエト政策を理解するために、そのいわゆる<ロシア政策(Russlandpolitik)>について、少しばかり述べておこう。
 しばらくの間、ロシアと講和をする直接の利益は、軍事的な考慮にもとづくものだった。ドイツもロシアについて、長期的な地政学的企図を有していた。
 ドイツの戦略家たちは伝統的に、ロシアに強い関心を示してきた。第一次大戦以前にドイツほどにロシア研究の伝統を積み重ねていた国がなかったのは、偶然ではなかった。
 保守派は、自国〔ドイツ〕の国家的安全保障には弱いロシアが必要だ、ということを自明のことと考えていた。
 第一に、ロシアが第二戦線でドイツを脅かすことができない場合にのみ、ドイツ軍は自信をもって、世界の覇権をめぐる戦いでフランスや「アングロ=サクソン」に立ち向かうことができる。
 第二に、<世界政治(Weltpolitik)>での重要な競争国となるためには、ドイツは、食糧を含むロシアの自然資源を利用することができることが必要だ。ドイツはこの自然資源を、ロシアがドイツの服属者になってのみ、満足できる条件で獲得することができる。
 ドイツはきわめて遅くに国民国家として確立したがゆえに、帝国主義略奪競争に入らなかった。
 競争相手諸国の経済的力量に対抗するドイツの唯一の現実的機会は、東方へと、広大なユーラシアへと、膨張することにあった。
 ドイツの銀行家や産業家は、ロシアに、潜在的な植民地を、アフリカの代用物を見た。
 彼らはドイツ政府の文書の草稿を書いて、その中で、ドイツが無関税でロシアの良質な鉄鉱石とマンカン鉱石を輸入すること、そしてロシアの農業と炭鉱を利用すること、の重要性を強調した。(13)//
 (9)ロシアを服属国家に変えるためには、二つのことがなされなければならなかった。
 ロシア帝国は解体して、大ロシア人が居住する領域へと縮小されなければならない。
 このことの意味の一つは、ドイツがバルト地方を併合して、表向きは主権をもつが実際にはドイツが支配する保護領である<防疫線(cordon sanitaire)を生み出す、ということだった。保護領とは、ポーランド、ウクライナ、およびジョージア。
 大戦前および戦争間に政治評論家のP・ロールバハ(Paul Rohrbach)が主張していたこの基本方針は(14)、とくに軍部に対して、強い訴求力をもった。
 1918年2月、ヒンデンブルクは皇帝に対して、ドイツの利益のために必要なのは、ロシアの国境線を東に移し、人口が多くて経済的力のあるロシアの西部地方を併合することだ、と書き送った。(15)
 これが本質的に意味したのは、ロシアを大陸ヨーロッパから追放することだった。
 ロールバハの言葉によれば、問題は「我々の将来の安全が確保されるべきだとすれば、ロシアは今日までにそうだったのと同じ意味でのヨーロッパの大国にとどまるのが許容されるのか、<それとも、そうであることが許容されないのか?>」だった。(16)//
 (10)第二に、ロシアはドイツに、全ての経済的な権利や特権をドイツに譲りわたして、ドイツの浸透を、究極的にはドイツの覇権を認めなければならなかった。
 ドイツの企業家たちは戦争中に政府に対して、ロシアの西部地方を併合し、ロシアを経済的に利用することを強く要望していた。(17)//
 (11)こうした観点からすると、ロシアにボルシェヴィキ政府があること以上に好都合のものはなかった。
 1918年からのドイツ国内の情報通信は、つぎの理由でボルシェヴィキが権力ある地位にとどまるのを助けるべきだ、という議論で充ちていた。すなわち、ボルシェヴィキは、膨大な領土的経済的な譲歩を行う用意がある、またその無能力さと不人気のゆえにロシアが永続的な危機にあるのを続けさせる、ロシアの唯一の政党だ。
 国家補佐官だった大将P・v・ヒンツェ(Paul von Hintze)は、つぎのような合意を表明した。それは、1918年秋に、信頼できない危険な相棒だと見てボルシェヴィキを拒絶しようとしていた者たちに立ち向かっていたときのことだった。
 ボルシェヴィキを排除することは、「ロシの軍事的弱体化を目指していた、東方領域での我々の戦争指導力と我々の政策のこれまでの全作業を覆してしまうだろう」。(18)
 P・ロールバハも、類似の調子で、こう論じた。//
 「ボルシェヴィキは、大ロシアを破滅させている。ロシアが潜在的にもつ将来の危険の根源を、根こそぎ破壊している。
 ボルシェヴィキは、大ロシアについて我々が感じてきた不安のほとんどを、すでに解消した。
 そして我々は、彼らが可能なかぎり長くその仕事を継続することができるよう、全てのことを行うべきだ。それは我々に有益だ。」(19)//
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 (7) Dekrety, I, p.16.
 (*) George Kennan, Russia Leaves the War(Princeton, N. J., 1956), p.75-p.76.
 11月早くに、ボルシェヴィキは、外務省の書類から、ロシアと連合諸国間の秘密条約を公表し始めた。
 ボルシェヴィキは、訴えを発することで、1792年11月に自由の「再獲得」を熱望する全ての国民に対して「兄弟愛と助力」を誓約したフランスの革命家たちに見倣った。
 (8) E. G. Revoliutsiia, V, p.285-6.
 (9) Fritz Fischer, Germany's Aims in the First World War(New York, 1967), p.477.
 (10) Sovestsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.278.
 (11) 同上, p.108.
 (12) 同上, p.184.
 (13) 一例は、同上, p.68-p.75。Fischer, Germany's Aims, p.483-4.も見よ。
 (14) 例えば、Paul Rohrbach's Russland und Wir(Stuttgart, 1955)を見よ。
 (15) Sovestsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.194-6.
 (16) Paul Rohrbach, Russland und Wir, p.3.
 (17) Fritz Fischer, Griff nach den Weltmacht(Düsseldorf, 1967), passim〔多数箇所〕.
 (18) Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918(Vienna-Munich, 1966), p.245-6.
 (19) Isaac Deutscher, The Prophet Armed: Trotsky, 1870-1921(New York-London, 1954), p.387.
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 第3節、終わり。

2188/レフとスヴェトラーナ-第2章③。

 レフとスヴェトラーナ。
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 第2章③。
 (26) スヴェータは、Kazarmennyi Pereulok にある家族用共同住宅から、長い道程を路面電車でHighway of Enthusiasts にある研究所に通った。その中の三階にある古い実験室で仕事をしたが、窓からはモスクワ東部の工場の煙突群が見えた。
 そうした場所だったので、彼女は陰鬱になった。
 何度もそこを去ってどこか別の町で、別の都市であっても、研究職を見つけたいと考えたが、「レフとの連絡を失う怖れ」を感じた。
 モスクワは二人が接触した唯一の都市であり、またレフが帰って来ると望んだ場所だった。
 (27) レフに関する新しい知らせは何もなかったが、スヴェータには彼はまだ生きていると考える十分な根拠があった。
 NKVD(内務人民委員部〔ほぼ秘密警察〕)が1942年に叔母のオルガを訪れて、レフから便りはないかと尋ねた。
 彼らは、軍に勤務している者のために残されていたレフの部屋の持ち物を全部調査していた。
 カティンのドイツ軍に選ばれたスパイのうち何人かは、ソヴィエト領域に明らかに入って来ていて、逮捕された。
 それらスパイたちの一人が尋問を受けて、レフのことを言い、レフがドイツで大尉と会話していたことを思い出したに違いなかった。
 NKVD は、レフはモスクワに入っていてドイツのためにスパイ活動をしているとの想定のもとで、おそらくは動いていた。
 彼らは、スヴェータがモスクワに戻った後で、彼女を召喚して毎晩のように質問した。
 レフがすでにモスクワにいるならスヴェータと逢うだろう、と思っていたのだ。
 彼らはレフはスパイだと言い張って、彼を逮捕するのに協力するようスヴェータに迫った。その際に、拒否するなら重大なことになる、と脅かした。
 NKVD の司令部があるルビヤンカ(Lubianka)への出頭を命じられるのは、ぞっとすることだった。大テロルの記憶が、人々の心に鮮明に残っていた。
 スヴェータは、しかし、簡単には恐がらなかった。
 レフとの関係を守るために、ソヴィエト当局に従わないつもりだった。
 彼らの要請についには嫌気がさし、性格上の勇敢さと頑固な無分別さをとっさに示して、NKVD の男たちに、独りにさせてほしいと言った。
 彼女はのちに、レフに書き送った。
 「同一の親戚たち(NKVD 部員の暗号語)が私を困らせ続けたので少しばかり怒って、私はまだ貴方の妻ではない、我々が-一時間だけではなく十分な時間を使って-逢えば、問題は明瞭になる、と言いました。」
 (28) スヴェータはその間に、レフに関する情報はないかと尋ねる手紙を軍当局に書き送っていた。
 彼女が26歳の誕生日を迎えた直後、1943年9月10日に、知らせが届いた。
 彼女はのちに、レフに書き送った。
 「私の縁戚たちがみんな、私の誕生日のためにやって来ました。
 モスクワの父親の兄とその家族がいました。レニングラードの弟とその奥さん、従兄姉のニーナとその夫、彼らの子ども、なども。
 全てが素晴らしくて、いい時間を過ごしました。
 もちろん、そこにいない人たち全員の健康を祈って乾杯しました。
 すると全く突然に、大変なことが起こりました。-ターニャが死んだという連絡書が来たのです(ケーシャ叔父はそれを遮って取って、長い時間ママに見せませんでした)。」
 ターニャは、スターリングラードの軍事病院で、急性虫垂炎で死んでいた。
 のちに、もっと悪い知らせが飛び込んだ。
 叔母のオルガが、軍当局から公式に、レフが前線で「行方不明になった」という報告を受けた。
 きわめて多数の人々が「行方不明になった」1930年代のテロルの記憶から依然としてまだ回復しようとしている数百万の家族にとって、これは恐ろしい告知だった。
 この言葉(「propal bez vesti」)は、ほとんど特別の意味を持っていた。
 敵の捕虜となること(ソヴィエトの戦時法では「反逆罪」と同じ)。
 さらに悪いと、敵方への「逃亡」(「人民の敵」という犯罪)。
 あるいは、遺体が発見されないままでの死。
 多数の兵士たちが殺されたので、スヴェータはレフについて最悪のことを怖れたに違いなかった。
 「つらくて苦しい。だから、貴方がいなければ、もう誕生日をお祝いしない。
 知ってるように、矮星の存在は絶望的に痛ましい。電子シェル全体を失っていて、核だけしかないのだから。
 私の胸も空虚で、痛くて、心は消え失せそうだった。
 息をすることができない。
 何カ月もずっと、誰とも話すことができず、どこにも行けず、何も読まなかった。
 家にもどるとすぐに、壁に顔を向けたことだ。そして、いったいどれほど泣き続けたことだろう。夕方に、夜の間に、また朝に、苦しみは癒えない。」
 (29) スヴェータは、レフへの思慕や不安に懸命に耐えつつ、感情を詩に注ぎ込んだ。
 二つの彼女の詩が残っている。
 最初のものは「1943年冬」と記されていて、レフが行方不明になったと知った9月の「あの恐ろしい日」からさして離れていない頃のものだ。
 彼女はのちに詩について、「私に必要なのは誰かに話しかけることだ」と書くことになる。
 その詩は、レフを失うことについてのスヴェータの悲しみを表現している。
 「長いあいだ とば口に立っていた
  でも今は 心を決めて出発する
  道で 砕けた石の真ん中で
  平和と幸福の 徴しを見つけた
  あなたの扉に 架かっていた蹄鉄
  それを持って愉しみを あなたと分かち合う
  でも戦争が 二人を別々にして
  別々の道を それぞれが彷徨う
  どの森の中を通らなければならなかったの?
  どの石が あなたの血を吸っているの?
  ここには 孤独な年寄りの幽霊がいる
  脅かすように わたしの頭にかぶさる
  どんな形見を わたしに残してくれるの?
  長くつづいた夢の 苦い想い出なの?
  それとも別の女性が あなたの心を掴んでいるの
  九月のような情熱的な言葉で?
  あなたを信頼してよいの? あなた以外に誰を
  今は 私の知らない若い人なの?
  友達仲間は ますます少なくなった
  そのうちのどの人で 私は終わりになるの?」
 第二の詩は、短かった。
 これも、その冬に書かれた。
 最初のものよりも、レフの帰還への彼女の祈りが絶望的であることが記されている。
 「私は あなたを裁かない
  戦火の下にいるあなたを
  誰と 死はすでに
  一度ならず語り合ったのか
  でも 昼も夜も お祈りする
  聖母よ わたしのために あなたを守ってと
  こう 祈るだろう しかし
  お祈りの仕方を
  母も父も 教えてくれなかった
  だからわたしには 神への道が分からない
  愉しみ、悲しみ、あるいは嘆きの中で」
 (30) しかし、レフは、死んでいなかった。
 ヒトラーの最も苛酷な労働強制収容所の一つに、収監されていた。ソヴィエトの捕虜たちが厳しい監視のもとで毎日ピトラー軍需工場で働くために行進させられている、ライプツィヒの収容所にだった。
 レフは、ミュールベルクの監獄から送られてきた。ミュールベルクには、ポーランド国境で1943年7月に捕まったあとで、来ていたのだった。
 ピトラー工場での管理体制は、懲罰的だった。
 武装監視兵が作業場の全てのドアのそばに立ち、ドイツの作業長はいつでも使えるようにリボルバーを持っていた。
 1943-44年の冬の間、東部戦線で新たに敗北する度にドイツ軍の兵器需要が増え、労働者管理の体制はますます厳格になった。
 捕虜労働収容所が消耗しかつ紀律を失って生産力が落ちたことを理由として、ゲシュタポ(Gestapo)は、奴隷(slave)反乱の潜在的な指導者を探し出して根絶しようとした。
 (31) レフは、何度も尋問された。
 1944年5月のある日、26人の収監者グループとともにレフは拘束され、ライプツィヒの中央監獄へと送られた。そこでは全員が、ドアそばに便器と洗面器がある独房に閉じ込められた。
 一ヶ月の間、独房から出してもらえないまま監禁された。
 〔1944年〕7月4日、彼らは、ヴァイマル近郊の名高い強制収容所であるブーヒェンブァルト(Buchenwald)へと移された。そして、四層の寝棚のある、長くつづく隔離獄舎に入れられた。
 多様な国籍の収監者がいた。-フランス、ポーランド、ロシア、ユーゴスラヴ。それぞれについて、縞模様の制服に、異なる図案のバッジが付けられた。
 レフのバッジには、他のロシア人のと同じく、赤い三角形の上に「R」の文字があった。
 (32) その兵舎で一ヶ月経ったあと、ピトラー収容所出身グループは、ブーヒェンブァルトと関連する多様な補助収容所へと散っていった。
 レフは、ライプツィヒ近くのマンスフェルト(Mansfeld)軍需工場の作業旅団に送られ、そのあと、ヴァンスレーベン(Wansleben)・アム・ゼーの放棄された岩塩鉱山そばのブーヒェンブァルト=ヴァンスレーベン収容所に送られた。そこにレフは、9月の第一週に着いた。
 その岩塩鉱は、400メートル地下にある、連合国による空爆からも安全な一連の作業場へと転換されていた。そしてその作業場では、収監者たちによって、空軍用航空機のエンジンの一部が組み立てられることになっていた。
 岩塩鉱へのトンネルを掘ることに従事したあるフランス人収監者は、「それらの部屋ごとに、12人ほどの収監者が死んだ」、と想起する。
 レフは、そこで、つぎの七ヶ月間を働いた。
 管理体制は厳しく、11時間交替制で、苛酷な規制があった。
 「どんな非行や作業能率の低下に対しても、収監者は、ゴム製棍棒で20回鞭打たれた。それは身を切られるように痛かったが、身体に痕跡を残さない制裁の方法だった。//
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 ④につづく。

2184/レフとスヴェトラーナ-第2章①。

 レフとスヴェータ。
 これはフィクションまたは「小説」ではない。
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 第2章①。
 (01) レフは3台のトラックとともにモスクワを出発した。その車は、クラスノプレスネンスカヤ義勇分隊に補給物品を運ぶものだった。
 数日前に分隊と離れたとき、その分隊はモスクワとスモレンスクの間のヴャジマ〔Viazma〕近くの場所を占拠していた。しかし、レフが戻ったときは、もう去っていた。
 〔ドイツの〕第三および第四装甲軍〔Panzer Group〕が戦車、銃砲と航空機でヴャジマを突然に包囲して北と南から攻撃したとき、前線は崩壊した。
 驚愕してバニックに陥ったソヴィエト軍兵士たちは、森林の中に散り散りに逃げ込んだ。
 レフは、無線通信機もなく、分隊を見つける方法が分からなかった。
 何が進行しているのか、誰も知らなかった。
 至るところに、混乱があった。
 (02)レフの部下たちは、分隊指揮部がいる位置を探そうと、ヴャジマの方向に運転した。
 暗くなり、地図もなかった。
 トラックの一台が壊れたので、レフは歩いて進んだ。
 深い森の中を通る道を歩いているうちに、前方に銃砲の音を聞くことができた。
 朝の早い時間に、村落に着いた。そこでは、彼の分隊の残存兵たちがドイツの戦車と激しい銃撃戦を繰り広げていた。ドイツの戦車は森林から出て路上に現れていたのだ。
 まもなくソヴィエトの砲兵たちは砲台を捨て(弾薬を残さなかった)、戦車がゆっくりと前へ進み、村落に入って、機関砲で家屋に向かって火を放った。
 レフは戦車と村落の間の畑の中にいて、身を伏せて、戦車がそばを通り過ぎるのを待った。そして、森林の中へと突進した。
 オー・デ・コロンの香りを嗅いだのは、まさにそのときだった。微小な傷の殺菌剤を彼のコートのポケットの瓶に入れていたのだが、その瓶が銃弾で壊れたのだ。幸いにも、彼には傷がなかった。
 (03) レフは、森深く入り込んだ。
 部隊を見失った数百のソヴィエト兵士たち全員が、樹木の中で同じ方向へと動いていた。
 レフはどこへと向かっているのか、分からなかった。
 持っていたのは、ピストル、シャベル鋤と自分用のナップザックだけだった。
 昼間は、ドイツ軍から隠れるように、地上に横たわっていた。
 夜になると、東へと、あるいは東だと思った方向へ、歩いた。ソヴィエト軍にもう一度加わろうと期待して。
 (04) 10日3日、三度めの夜に、ドイツ軍に占拠された村落の端にいるのに気づいた。
 暗闇になれば、すぐにそこから離れようと決めた。
 森林の中に戻って、溝を掘って入り込み、枝で身体を覆って、寝入った。
 膝の下の激しい痛みで、目が覚めた。
 小枝を通して、ライフルを持つ一人のドイツ兵だと思った者が正面にいるのを見た。
 レフは衝動的にピストルを出し、その男に向かって発射した。
 弾を撃つや否や、レフは頭の後ろを激しく殴打された。
 二人の兵士がいた。彼の頭を殴った男は銃剣で彼を刺して、生きているか死んでいるかを確かめていた。
 レフは武装を解除され、村落へと連れて行かれた。//
 (05) レフは一人ではなかった。
 10月の第一週に、ドイツのヴャジマ包囲軍は数万人のソヴィエト兵士を捕らえていた。
 レフは、スモレンスク外郊にある通過収容所、Dulag〔Durch-gangslager)-127に送り込まれた。そこには、数千人の収監者が、以前はソヴィエトの軍事貯蔵所だった暖房のない建物に詰め込まれていた。
 他の者たちと同様に、そこでレフは、一日に200グラムだけのパンを与えられた。
 数百人が寒さと飢え、あるいはチフスが原因で死んだ。チフスは11月から、伝染病的に蔓延していた。しかし、レフは生き延びた。//
 (06) 12月初め、レフは、Dulag-127からカティン〔Katyn〕近くの特別監獄へと移される20人の収監者団の一人となった。
 その一団はモスクワ出身の教育を受けた者で、ほとんどは科学者または技術者で、構成されていた。
 彼らは、レフが戦争前は学校か病院だったに違いないと考えた建物に入れられた。
 廊下の両側に大きな部屋があり-それぞれ40人まで収監できた-、監視者が生活する大きな部屋がその端にあった。
 収監者たちは、好遇された。肉、スープ、パンが与えられた。そして、彼らの義務は、比較的に軽かった。
 第三週めの終わりに、レフと仲間のモスクワ出身者は、身なりの良いロシア人のグループと一緒になった。ロシア人たちは、監視員がくれたウォッカを飲んでいた。
 酔っ払ったときに彼らの一人が、スパイとして訓練されたと口をすべらした。
 彼らはソヴィエトの戦線から戻ってきたばかりで、その仕事に対する報償を受けていたのだ。
 数日後に、カティンへと出立した。//
 (07) そのあとすぐ、レフと他の6人のモスクワ人は、カティンのスパイ学校に連れて行かれた。その学校で、ロシア語を話すドイツ人大尉が、スパイにして、ドイツ軍の利益となる情報を集めるためにモスクワに派遣する、と提案した。
 その人物はこう言った。これを呑むことだけが、Dulag-127でのほとんど確実な死から救われることとができる。かりに拒めば、Dulag-127に送り還す。
 レフは、ナツィスのためには働かないと決心していた。しかし、他の収監者の面前でそれを言えば、反ドイツ・プロパガンダだと非難されて最悪の制裁を受けるのではないかと怖れた。
 それでレフは、学校と大学で勉強した言語であるドイツ語で、その大尉に言った。「私はその任務を履行することができない」。
 ドイツ人が理由を尋ねたとき、彼はこう答えた。「後で説明します」。//
 (08) その大尉に別室に連れて行かれたのち、レフはロシア語で説明した。
 「私はロシア軍の将校です。その軍に、私の同僚たちに、反対の行為をすることはできません。」
 大尉は何も言わなかった。
 レフは、管理部屋(holding cell)に送られた。
 そこで知ったのは、他の3人もスパイになるのを拒否した、ということだった。
 かりにレフが最初に明言していれば、他の者たちの抵抗を勇気づけたとして非難されたかもしれない。//
 (09) 4人の拒否者はトラックの覆いのない後部に押し込まれ、高速道路を使ってスモレンスクに連れて行かれた。
 運転手に背を向けた監視者は、ずっとライフルを触っていた。
 トラックは、曲がって森に入っていった。
 レフは、射殺される、と思った。
 彼は、思い出す。
 「トラックはとても速いスピードで狭い森の中の道に入った。
 我々は処刑地に連れて行かれるに違いない、と想った。
 射撃隊の正面に立ってどう振る舞うか、を考えた。
 十分に自己抑制できるだろうか?
 自殺した方がよくはないか?
 トラックから飛び降りて、望むらくは樹木にぶつかることができるだろう。もし兵士が砲撃しても、その方がましではないか。」
 レフは飛び降りる準備をした。
 だがそのとき、金属缶をきちんと積んである小屋が樹木を通して見えるのに気づいた。
 ガソリンを入れるために停めようとしているのだ。射殺されるのではなかった。
 大尉が脅かしたように、彼らは、Dulag-127に連れ戻された。
 そこで彼らは、スパイ学校から帰っきたたと知っているに違いない別のソヴィエト収監者たちからの非難を免れようと、一緒になって努めた。
 (10) 数週間後の1942年2月、レフは、別の将校グループと一緒に、POW キャンプ(捕虜収容所)へと送られた。その収容所は、ベルリンの80キロ北東にあるプロイセン型温泉町のフュルステンベルク・アム・オーデル近くにあった。
 病気で汚染されたDulag-127からやって来た者であったために、彼らは隔離されて、木製の兵舎に収容された。その兵舎で、最初の数日間に、6人がチフスで死んだ。
 死ななければ、待遇は良く、収容所の条件は一般的には良好だった。
 レフは、所長と二人の将校から尋問を受けた。
 ドイツ語を上手に話すことのできる理由を、彼らは知りたがった。また、レフの仲間がそう言っているからとの理由で、ユダヤ人かどうかを尋ねた。
 レフが主の祈り(Lord's Prayer)を暗誦すると、ようやく彼らはユダヤ人ではないと納得した。//
 (11) 4月、レフは小グループのソヴィエト将校とともにベルリン郊外の「教育収容所」〔Ausbildungslager〕へと送られた。
 「教育」(training)の意味は、ナツィ・イデオロギーとヨーロッパのためのドイツ新秩序に関する講義を受けることだった。そうした思想を、他の強制収容所にいる彼らの仲間のソヴィエト人捕虜に伝えることが想定されていた。
 6週間、教師たちの講義を聴いた。教師たちのほとんどはロシアからのエミグレで、授業用原稿に忠実にゆっくりと読んだ。
 そして5月、将校たちは多様な収容所へと散って行った。
 レフは、オーシャッツ(Oschatz)のコップ・ガーベルラント(Kopp and Gaberland)軍需工場に付属した作業旅団(work brigade)に組み入れられた。//
 (12) オーシャッツは、ライプツィヒとドレスデンの間の、捕虜強制労働収容所(Stammlager、又は略してStalag)がある巨大な工業地域の中心地だった。
 レフは、軍監察部隊の通訳として働かされ、そのあと8月に、ライプツィヒのHASAG(フーゴ・シュナイダー株式会社)工場に移された。
 HASAGは、ドイツ陸空軍の兵器を製造している大きな金属工場群だった。
 1942年夏頃には、このHASAGに、多様な民族(ユダヤ、ポーランド、ロシア、クロアチア、チェコ、ハンガリー、フランス)の約1万5000人の捕虜がいるいくつかの捕虜強制収容所があった。二つの地区があって、一つは「ロシア」、もう一つは「フランス」と名付けられていた。
 レフはフランス地区に自分だけの箱部屋を与えられて住み、E・ラディク(Eduard Hladik)というチェコ人付きの通訳を割り当てられた。この人物の役目は、捕虜強制収容所内部での紛争を処理することだった。
 ラディクの母親はドイツ人だったが、彼は自分をチェコ人だと思っていた。
 彼は、ドイツによる1938年のチェコ併合の後に、HASAG 収容所の護衛兵としてドイツに徴用された。
 ラディクは、捕虜強制収容所に対して気の毒さを感じた。そして、捕虜たちがドイツの勝利のために働いているとき、彼らをひどく扱うという感覚を理解することができなかった。
 レフは収監者として、ライプツィヒの街路でラディクに付き添っているとき、落ち込みつつ歩かなければならなかった。
 かりに通りすがりの者がレフを侮辱すれば、ラディクはこう言ってレフを守っただろう。「答え返すことのできない人間に悪態をつくのは簡単だよ」。//
 (13) ラディクは、レフを信頼できる人物だと見ていた。
 レフの性格には、彼について責任がある人々を魅惑する何かがあった。-彼の誠実さはたぶん又はきっと、同じ言語で人々と話すことができる、ということだけによって感じたのかもしれないが。
 チェコ人のラディクはレフの助けとなり、彼にドイツの新聞を与えた。捕虜強制収容所の者へのこのような行為は、軍事情勢に関する正確な報告を示してしまうがゆえに禁じられていた。また、-強制収容所で見せられるプロパガンダ用の紙と異なり-スラヴ人は「二級人間だ(sub-human)」と書いてあったからだ。
 感染防止を名目にしてラディクはレフを兵舎区域の外に連れ出して、自分の友人を訪れる際に連れて行きすらした。その友人はE・レーデル(Eric Rödel)という社会主義者で、ロシア語を少し話し、ソヴィエトの放送局を受信して聴くことのできるラジオを持っていた。
 レーデルは元SA(突撃隊)将校の上の階に住んでいたので、そうした聴取はきわめて危険なことだった。
 レーデルとその家族は、レフを貴重な客として受け入れた。
 レフは、思い出す。
 「我々は長い間歩いた。<中略>すると、エリック〔レーデル〕はラジオを合わせ、私はモスクワからの『最新ニース』を聴いた。それはソヴィエト情報局からの軍事速報だった。
 今では番組の内容を記憶していない。しかし、-奇妙なことに十分に-放送上の一つの文章が私の心を捉えた。『ジョージアでは、茶葉の収穫が行われた。』」
 (14) やがてドイツは、ラディクを疑うようになった。
 別の護衛兵の一人が彼を非難して、反ドイツ活動をしていると追及した。ラディクは尋問を受けるために召喚された。
 彼は、ノルウェイの前線へと送られた。
 通訳として働き続けたくなくなって、レフは、収容所当局に対して、自分のドイツ語は不正確である可能性が十分にあるという理由で、義務を免じてくれるよう申し込んだ。
 「プロパガンダの仕事をする能力がない。なぜなら、私には説得の技巧がない-科学者にすぎないのだから、とも私は述べた」。
 11月〔1942年〕に、レフは、オーシャッツのコップ・ガーベルラント軍需工場に付属の作業旅団へと送り還された。//
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 第2章②へとつづく。

2039/L・コワコフスキ著第三巻第11章<マルクーゼ>①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。<第11章・マルクーゼ>へと進む。分冊版、p.396-。合冊版、p.1104-。
 第1節の前の見出しがない部分を「(序)」とする。
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 第11章・マルクーゼ-新左翼の全体主義ユートピアとしてのマルクス主義。
  (序)
 (1)マルクーゼは、1960年代遅くまでは学界の外部では著名にはなっていなかつた。その1960年代遅くに彼は、アメリカ合衆国、ドイツおよびフランスでの反乱する学生運動によってイデオロギー上の指導者として喝采を浴びた。
 マルクーゼが「学生革命」の精神的指導者になろうと追求したと想定する、いかなる根拠もない。しかし、その役割が自分に与えられたとき、彼は拒まなかった。
 彼のマルクス主義は、かりにマルクス主義の名に値するとすればだが、イデオロギー上の奇妙な混合物だった。
 合理主義的ユートピアの予言者としてのヘーゲルとマルクスを独自に解釈して、彼のマルクス主義は、「学生革命」の人気あるイデオロギーへと進化した。そのイデオロギーでは、性の自由化が大きな役割を担い、学生たち、過激な少数派およびルンペン・プロレタリアートに譲るために、労働者階級は注意が向かう中心から追い出された。
 マルクーゼの重要さは、1970年代には相当に弱まった。しかし、彼の哲学は、論議するになおも値する。その本来の長所が理由なのではなく、おそらくは一時的なものだけれども、重要な、我々の時代でのイデオロギーの変化の趨勢と合致しているからだ。
 マルクーゼの哲学は、マルクス主義の教理で成り立ち得る、驚くべき多様な用い方があることを例証することにも役立つ。//
 (2)マルクス主義の解釈に関するかぎりでは、マルクーゼは一般に、フランクフルト学派の一員だと見なされている。彼はその否定の弁証法でもってこの学派と連携し、合理性という超越的規範を信じていた。
 マルクーゼは1898年にベルリンで生まれ、1917-18年には社会民主党の党員だった。しかし、のちに彼が書いたように、Liebknecht とRosa Luxemburg の虐殺のあとで、社会民主党を離れた。それ以降、どの政党にも加入しなかった。
 彼はベルリンとフライブルク(im Breisgau〔南西部〕)で勉強して、ヘーゲルに関する論文で博士の学位を取った(ハイデガーが指導した)。
 その<ヘーゲル存在論と歴史性理論の綱要>は、は1931年に出版された。
 彼はまた、ドイツを出国する前に、その思考の将来の行く末を明らかに予兆する多数の論文を執筆した。
 彼は、それらを発表したあとですぐに、マルクスのパリ草稿の重要性に注意を喚起した最初の者たちの一人になった。
 ヒトラーの権力継承のあとで出国し、一年をスイスで過ごし、そのあとはアメリカ合衆国に移って、ずっとそこで生きた。
 ニューヨークのドイツ人<エミグレ>が設立した社会研究所で、1940年まで仕事をした。そして、戦争中は、国家戦略情報局(OSS)に勤務した。-のちに知られたこの事実は、学生運動での彼の人気を落とすのを助けた。
 マルクーゼは多数のアメリカの大学で教育し(Columbia、Harvard、Brandies、そして1965年からSan Diego)、1970年に引退した。
 1941年に<理性と革命>を刊行した。これは、実証主義批判にとくに着目してヘーゲルとマルクスを解釈するものだった。
 <エロスと文明>(1955年)は、フロイトの文明理論にもとづいて新しいユートピアを設定し、「内部から」精神分析学を論駁しようとする試みだった。
 1958年に<ソヴィエト・マルクス主義>を刊行したあと、1964年に、彼の書物のうちおそらく最も広く読まれた、<一次元的(One-Dimensional)人間>と題する技術文明に対する一般的批判書を出版した。
 他の短い諸著作のいくつかも、多くの注目を惹いた。とくに、1965年の「抑圧的寛容」、1950年代から60年代の日付で書かれてのちの1970年に<五つの講義-精神分析・政治・ユートピア>と題して刊行された一連の小考集だ。//
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 第1節・ヘーゲルとマルクス対実証主義。
 (1)マルクーゼが継続的な攻撃対象としたのは、きわめて個人的な態様で定義する「実証主義」、(消費と贅沢への崇拝ではなく)労働と生産への崇拝にもとづく技術文明、アメリカ的中産階級の諸価値、(アメリカ合衆国をその顕著な例とするために定義される)「全体主義」、およびリベラル民主主義と寛容と結びつく全ての価値や制度だ。
 マルクーゼによれば、これら全ての攻撃対象は、統合された全体物を構成する。そして、彼は、この基礎的な統合状態を説明しようと努力する。//
 (2)マルクーゼは、実証主義を「事実を崇拝する」ものだとして攻撃する点で、ルカチに従う。実証主義は歴史の「否定性」を感知するのを妨げるのだ。
 しかし、ルカチのマルクス主義は主体と客体の間の弁証法や「理論と実践の統合」に集中していたが、そうしたルカチとは異なってマルクーゼは、理性の否定的、批判的な機能を最も強調する。理性は、社会的現実を判断することのできる規準を提供するのだ。
 マルクス主義とヘーゲルの伝統との間の連結関係を強調する点では、ルカチに同意する。
 しかし、その連結の性質に関しては、ルカチとは完全に異なっている。すなわち、マルクーゼによれば、ヘーゲルとマルクスの本質的な基礎は、主体と客体の一体化に向かう運動にではなく、理性の実現に向かう運動にある。理性の実現は同時に、自由と至福の実現でもある。//
 (3)マルクーゼは、1930年の論考で、理性(reason)は哲学と人間の宿命の間に連環を与える基礎的な範疇だ、という見方を採用していた。
 理性に関するこの考えは、現実は直接に「合理的」なのではなく合理性へと還元することができるものなのだ、という確信にもとづいて展開していた。
 ドイツ観念論哲学は、経験的現実を非経験的規準で判断することによって、理性を論証のための最高法廷にした。
 この意味での理性が前提とする自由は、人間が生きる世界を人々が完全に自由に判断することができないとすれば、それを宣明したところで無意味だろうような自由だ。
 しかしながら、カントは、現実を内部領域へと転位させ、それを道徳的な要求(imperative)にした。ヘーゲルは一方で、それを必然性という拘束の範囲内へと限定した。
 しかし、ヘーゲルの自由は、人間がその現実的宿命を自覚することのできる理性の働きの助けを借りてのみ可能だ。
 かくしてヘーゲルは、哲学の歴史上は、人間存在に自分たち自身の真実を明らかにする理性、換言すると真正な人間性の命令的要求、というものの正当性を戦闘的に擁護する者として立ち現れる。
 理性の自己変革的作用は、歴史の全ての段階に新しい地平を切り拓く否定の弁証法を生む。そして、経験的に知られるその段階の可能性をさらに超えて前進する。
 このようにして、ヘーゲルの著作は永続的な非妥協性を呼び起こすものであり、革命を擁護するものだ。//
 (4)しかしながら-そしてこれが<理性と革命>の主要な主張の一つだが-、理性は世界を支配しなければならないとする要求は、観念論の特権ではない。
 ドイツ観念論は、イギリス経験論と闘うことで文明に寄与した。その経験論は、「事実」を超えて進んだり<先験的に>合理的な観念に訴えかけることを禁止し、その結果として大勢順応主義や社会的保守主義を支持していた。
 しかし、批判的観念論は、理性は思考する主体のうちにだけ存在するものと考え、物質的で社会的な諸条件の領域へとそれを関係づけることに成功しなかった。そして、それを達成することが、マルクスに残された。
 マルクスのおかげで、理性の実現という命題は、「真の」観念または人間性の真の本質と合致する社会的諸条件の合理化という要求となった。
 理性の実現は、同時に、哲学の優越であり、その批判的機能が十分に発揮されることだ。//
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 ②へとつづく。 

2030/L・コワコフスキ著第三巻第10章第7節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.387-p.392。合冊版、p.1096-1100.
 一部について、ドイツ語訳書の該当部分を参照した。
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第7節・批判理論(つづき)-ユルゲン・ハーバマス(Jürgen Habermas)。
 (1)ハーバマス(Habermas)(1929年生れ)は現役ドイツ哲学者の代表者の一人に位置づけられる。
 彼の主要な書物の表題-<理論と実践>(1963年)、<認識と利益>(1968年)、<「イデオロギー」としての技術と科学>(1970年)-は、その主要な哲学的関心を示している。
 彼の著作は、理論的推論-歴史学および社会科学の意味のみならず自然史の意味での-と人間の実践的必要、利益および行動の間のあらゆる種類の連結関係を、反実証主義的に分析することで成っている。
 しかしながら、それは知識に関する社会学ではなくむしろ認識論的批判であり、この批判が示そうと意図しているのは、いずれの理論も実証主義および分析主義学派で案出された規準では適切な根拠を見出すことができず、また実証主義はつねに非理論的な関心に従った想定をしているけれども、実践的な関心と理論的な研究とを合致させる観点を見出すのは可能だ、ということだ。
 こうした見解には、フランクフルト学派の関心領域にたしかに入る主題がある。
 しかし、ハーバマスは、彼の前世代の指導者たちに比べて、より分析的に厳密化したものを提示する。
 (2)ハーバマスは、「啓蒙の弁証法」というホルクハイマーとアドルノの主題を採り上げる。-人類を偏見から解放するのに寄与する理性がその内在的な論理に従ってそれ自体に反発し、偏見と権威を維持するのに奉仕する、という過程のことだ。
 Hollbach によって代表される啓蒙主義の古典的時代には、理性は既存の秩序に対する社会的かつ知的な闘いの武器だった。そして、闘う際の大胆さという重要な美徳を維持するものでもあった。
 啓蒙主義からすると邪悪と偽善は同一のもので、解放と真実もまたそうだった。
 それは価値評価をなくしてしまおうとは考えなかったけれども、導かれるべき諸価値を公然と宣言した。
 フィヒテ(Fichte)の理性は、カント的批判にもとづくもので、ゆえに経験論のご託宣を呼び込むことはなかった。それにもかかわらず、それ自体がもつ実践的性格を意識していた。
 理解するという行為と世界を構成するという行為は、同時に行われる。理性と意思がそうであるのと同じく。
 自己を解放する自我の実践的利益は、理性の理論的活動ともはや分離することができない。
 マルクスにとっても、理性は批判的な力だ。しかし、フィヒテの見方とは対照的に、その理性の強さの根源は道徳的意識にあるのではなく、その解放する活動が社会的な解放の過程と同時進行することにある。
 虚偽の意識を批判することは、同時に虚偽の意識が由来している社会的諸条件を廃棄するという実践的行為だ。
 かくして、マルクスの範型での啓蒙主義は、理性と利益の連結関係を明瞭に維持している。
 しかしながら、科学、技術および組織の進展でもって、この連環は破壊された。
 理性は、次第にその解放機能を喪失した。一方では、合理性はますます技術的効率性に限定され、たんなる組織上の手段以外の目標を提示していない。
 理性は道具的な性格をおび、物質的または社会的技術の廃止に役立つ意味発生機能を放棄している。
 啓蒙主義は、それ自体に反抗している。
 理性は人間の利益から自立しているという妄想は、実証主義の認識論のように、また価値判断から自由な科学的プログラムのように是認されており、そうして、解放機能を遂行することができなくなった。//
 (3)しかしながら、ハーバマスは、フランクフルト学派の他の者たちと同様に、ルカチの意味での、または実用主義の意味での「実践の優位」に関心はない。
 彼が関心をもつのは、技術とは異なるものとしての実践という観念への回帰だ。言い換えれば、実践的機能を意識した、かつ「外部から」課されたいかなる目的にも従属しないで何とかしてそれ自体の合理性によって社会的な目的を構成する、そのような理性の観念の回復だ。
 ハーバマスは、そのゆえに、実践的でかつ理論的な理性を統合することのできる知的な能力(faculty)を得ようとする。それは、目標の意味を見極めることができ、従って目的に関して中立であることができず、また中立ではないだろうからだ。//
 (4)しかしながら、ハーバマスの批判の最重要点は、そのような中立性は存在しなかったし、あり得なかったし、実際にも達成されないものだ、そして、実証主義者の基本的考え方や価値から自由だとする理論の考え方は自己破壊の段階での啓蒙主義の幻想だ、と主張することにある。
 フッサール(Fusserl)は、正当に、こう論じた。自然科学が既製の現実、未構成の事物それ自体だとして提示するいわゆる事実または客体は、実際には、始原的な、自発的に創造された<生界(Lebenswelt)>だ。また、全ての科学は、前思考的な(pre-reflective)理性から、多様な実践的な人間の利益に従う一連の形態を継受している、と。
 しかしながら、フッサールは、理論に関する、実践の後滓がないとする自分自身の考えがのちには実践的目的のために使われることはない、と想定している点で、間違っていた。
 なぜならば、理論が実践的目的をもつのだとかりにすれば、現象学はいかなる宇宙論(cosmology)も、いかなる普遍的秩序に関する観念も、前提とすることができないのだから。
 ハーバマスは、つづける。自然科学は、技術という利益を基礎にして形成されている。
 自然科学は、その内容は実践的考慮に影響されないという意味で中立的なのではない。
 自然科学がその貯蔵物として用意している素材は、世界に存在するがままの事実の反射物ではなく、実践的な技術活動の有効性を表現したものだ。
 歴史的解釈(historico-hermeneutic)学もまた、別の形態によってではあるが、実践的利益によって部分的には決定されている。つまり、この場合は、「利益」とは、意思疎通を改善するために、人間界での理解可能領域を維持し拡大することにある。
 理論的活動は、実践的な利益から逃れることはできない。すなわち、主体・客体関係は、それ自体が何がしかの程度の利益を包含していなければならない。そして、人間の知識のどれ一つとして、人類の歴史との関係を除外してしまえば知的(intelligible)なものではない。人類の歴史には、そうした実践的利益が結晶化しているのだ。
 全ての認識上の規準の有効性は、その認識を支配している利益に依存している。
 利益は、-労働、言語、権威という-三つの分野または「媒介物」で作動する。そして、利益のこれら三類型に、それぞれ、自然科学、歴史的解釈学、社会科学が対応する。
 しかしながら、自己省察または「省察に関する省察」を行えば、利益と認識は合致する。そして、「解放する理性」が形を成すのは、この分野でこそなのだ。
 かりに、理性と意思、あるいは目的決定と手段分析、が一致する地点を発見することができないとすれば、我々は、つぎのように咎められることになるだろう。すなわち、先ずは表向きは中立的な科学がある、と。次には目標に関して根本的に非合理的な決定をしている、と。この後者の場合に合理的でないとは決して批判することはできず、どの目標も同等程度のものであるにもかかわらず。//
 (5)ハーバマスは、マルクーゼ(Marcuse)のようには、科学を批判することまでは進まなかった。すなわち、現代科学のまさにその内容が、技術的応用とは反対に、反人間的な目的に奉仕しているとは、あるいは、現代の技術は本来的に破壊的なもので人間性の善のために用いることができず、異なる性格の技術に変えられなければならないとは、主張しない。
 このように語ることは、現存する科学と技術に代わる選択肢を提示することができてのみ、意味があるだろう。マルクーゼは、そうすることができない。
 全く同じように、科学と技術は、それらの応用という点でも完全に潔白であるのではない。これらが大衆の破壊と僭政体制の組織化のための武器になる場合のあることを考えるならば。
 重要なのは、現代の生産諸力と科学が現代の産業社会を政治的に正当化する要素になった、ということだ。
 「伝統的社会」は、世界に関する神話的、宗教的および形而上学的解釈にもとづく諸装置によって、正統化されていた。
 資本主義は、生産諸力の発展のための自己推進機構を作動させて、変化と革新の現象を制度化し、権威の正統化のための伝統的諸原理を投げ棄てた。そして、等価の商業的交換に対応する諸規範-社会的組織化の根拠としての相関性(mutuality)という規則-へと置き代えた。
 このようにして、所有関係は直接的に政治的な意味を失い、市場の法則が支配する生産関係になった。
 自然科学は、技術的応用の観点からその射程範囲を定義し始めた。
 同時に、資本主義の進展につれて、生産と交換の分野への国家介入がますます重要になり、その結果として、政治はたんなる「上部構造」の一部ではなくなった。
 国家の政治活動-公的生活の組織化を改善する純粋に技術的な手段だと見られたもの-は、同じ目的のために役立つと想定された科学や技術と融合する傾向をおびた。
 生産諸力と権力の正統化を区別する線は曖昧になった。このことは、生産機能と政治機能が明瞭に分離していたマルクスの時代の資本主義とは異なっている。
 かくして、土台と上部構造に関するマルクスの理論は、時代遅れになり始めた。同じことが、(科学の巨大な重要性を生産力の一つと考えた)マルクスの価値に関する理論についても言えた。
 科学と技術は、技術モデルにもとづく社会像や人々から政治的意識、つまり社会的目標に関する自覚、を剥奪する技術政的(technocratic)イデオロギーを生み出したという意味で、「イデオロギー的」機能をもった。それは、人間の全諸問題は技術的、組織的な性格のもので、科学の手段によって解決することができる、という意味を含むものだった。
 技術政的心性(mentality)は、暴力を行使しないで人々を操作することを容易にする。また、「物象化」へと進むさらなる一歩なのであって、それ自体は目標について何も語らない技術的活動と人間に特有の関係性の間の区別を曖昧にする。
 経済に対する強い影響力を国家諸制度がもつ状況では、社会的対立もまたその性格を変え、マルクスが理解したような階級対立とはますます遠ざかる。
 新しいイデオロギーはもはやたんなるイデオロギーではなく、技術的進歩のまさにその過程と溶け合ってしまう。
 それを見分けるのは困難になり、その結果として、イデオロギーと現実の社会的諸条件はもはや、マルクスがそうしたようには、区別することができない。//
 (6)生産諸力の増大は、それ自体が解放の効果をもつのではない。
 そうではなく反対に、その諸力の「イデオロギー化された」形態をとって、人々が自分たちを事物(things)だと理解するようにさせ、技術と実践の区別を抹消する傾向にある。-この実践という用語が意味するのは、行為主体がその目標を決定する自発的活動だ。//
 (7)マルクスの批判の目的は、人々は真に主体にならなければならないということ、換言すると、自分たち自身の生活を合理的かつ意識的に統御しなければならない、ということだった。
 しかし、社会生活による自主規制は実際的または技術的な問題のいずれかだと理解することができるかぎりで、この批判の意味するところは不明確だった。そして、技術的な問題の場合は、無生物の客体を技術的に扱うのに似た操作の過程だと考えることができた。
 こうして、物象化は無くなりはせず、さらに悪化した。
 他方で、真の解放は、全ての者が社会的諸現象の統御に能動的に関与することを意味する範疇である「実践」へと回帰することとなった。言い換えれば、人々は客体であってはならず、主体でなければならない。
 この目的を達成するためには、ハーバマスは考察するのだが、人間の意思交流(communication)や現存する権力システムに関する自由な討議の改善、および生活の脱政治化(de-politicization)に反対する闘いが存在しなければならない。//
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 ②へとつづく。

2004/L・コワコフスキ著第三巻第10章<フランクフルト学派>序。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する論述の試訳へと進む。分冊版、p.341-p.395.の計55頁ぶん。
 表題つきの各節の前の最初の文章には見出しがない。かりに「(序)」としておく。
 原書と違って一文ごとに改行し、各段落に原書にはない番号を付す。
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 第3巻/ 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 (序)
 (1)「フランクフルト学派」という語は、1950年代以降にドイツの擬似マルクス主義(para-Marxist)運動を指し示すために使われてきた。その歴史は、1920年代初頭に遡り、社会研究所(Institute für Sozialforschung)の歴史と結びついている。
 ここで「学派」(school)とはマルクス主義内部での他の傾向と比べて、より厳格な意味で用いてよい。よくあるように、特定の個々人がこれに属するのか否か、およびどの程度に属するのかについては、疑問があるけれども。
 いずれにせよ、二世代にまたがる、明らかに継続的な思考様式がある。
 先駆者たちはもう生存していないが、彼らはこの分野の継承者たちを残した。//
 (2)フランクフルト学派には豊富な学術的で広く知られた著作物があり、人文社会(humanistic)の学問分野の多くに及ぶ。哲学、経験社会学、音楽理論、社会心理学、極東の歴史、ソヴィエト経済、心理分析、文学の理論および法の理論。
 ここでの短い説明でこれらの成果について全体としてコメントしても問題はあり得ないだろう。
 この学派は、第一に、マルクス主義をそれに対する忠誠さを維持しなければならない規範としては把握しなかった、という特質がある。規範ではなくて、現存する文化を分析し、批判するための出発点および助けだと見なしたのだ。
 このことからしたがって、この学派は、ヘーゲル、カント、ニーチェおよびフロイトのような、多数の非マルクス主義の淵源から、発想の刺激を得た。
 第二に、この学派の基本的考え方は、明確に非党派的(non-party)だった。
 すなわち、特定の共産主義または社会民主主義による、いかなる政治運動とも一体化しなかった。むしろこれら二つに対して、しばしば批判的な態度をとった。
 第三に、この学派は明らかに、1920年代にルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)が進展させたマルクス主義の解釈に影響を受けていた。とくに、現代世界の諸問題の縮図としての「物象化(reification)」という観念の影響を。
 しかしながら、これをルカチの門弟たちの学派だと見なすことはできない。なぜならば、このメンバーたちは-ここに第四の重要点があるが-、つねに理論の自主性と自律性を強調し、全てを包み込む「実践」に吸収されることに反抗してきたからだ。彼らがたとえ、社会変革の見地から社会を批判することにも専心してきたとしても。
 第五に-ここで再びルカチとは根本的に異なるのだが-、フランクフルト学派はプロレタリアートの搾取と「疎外」に関するマルクスの立場を受容しつつも、現存する階級意識と考えるという意味では、後者と一体視しなかった。<先験的な(a priori)>規範としての共産党の権威的指令については言うまでもない。
 フランクフルト学派は、社会の全分野に影響を与える過程としての「物象化」の普遍性を強調した。そして、プロレタリアートの革命的なかつ解放者としての役割をますます疑問視するようになり、最終的にはマルクスの教理のうちのこの部分をすっかり投げ棄てた。
 第六に、マルクス主義正統派に<対して>はきわめて修正主義的だったけれども、この学派は自分たちを革命的な知的(intellectual)運動だと考えた。
 改良主義的立場を拒絶し、社会の完全な移行の必要性を主張した。但し、ユートピア像を積極的には提示できないことをこの学派は認め、現在の条件ではユートピアを創り出すのは不可能だとすら認めていた。//
 (3)この学派が発展していく時代は、ナツィズムの勃興、勝利および瓦解の時代でもあり、その著作物の多くは、人種的偏見、権威の必要性、全体主義の経済的およびイデオロギー的起源のような、重要な社会的、文化的諸問題に関係していた。
 この学派の主要なメンバーのほとんどは、中産階層のドイツ・ユダヤ人だった。
 僅かに数人だけがユダヤ人共同体と現実の文化的連結関係にあったのだけれども、彼らの出自は疑いなく、この学派が関心をもった問題の射程範囲に影響を与えた。//
 (4)フランクフルト学派は、哲学において、知識と科学方法論の理論についての論理的経験主義や実証主義の傾向と論争した。のちには、ドイツ実存主義とも。
 そのメンバーたちは「大衆社会」を、そして、マス・メディアの影響力の増大を通じた、文化の頽廃、とくに芸術(art)の頽廃を攻撃した。
 彼らは、大衆文化の分析と激烈な批判の先駆者たちで、この点では、ニーチェの継承者であり、エリートの価値の擁護者だった。
 このような批判を彼らは、職業的官僚機構が大衆を操作する手段がますます効率的なものになっていく社会に対する批判と結合させた。そのような社会は、ファシストと共産主義者の全体主義および西側民主主義の両方について言えることだった。
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 第1節につづく。その表題は、<歴史的および伝記的なノート>。

1934/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章②/四月テーゼ後。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)。
 第8章の試訳のつづき②、「四月テーゼ後」。p.131-p.136.
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 (16)これらの主張が真実なのかどうかはともかく、ドイツの対ロシア政策の重心がどこにあるのかは、間違えようがなかった。
 あらゆる党派(連合諸国の助けを望んだ親戦争のエスエル「防衛主義者」を除く)の追放社会主義者たちが、ドイツの費用で、ロシアへと送られた。ソヴェトと臨時政府の間の緊張関係を激化させるためだった。
 ウクライナ、フィンランド、ポーランド、エストニア各人の血を引くロシア帝制側の戦争捕虜たちは、独立を煽動させるために故郷に送られた。
 革命的ロシアに流れ込んだ不満分子たち大勢の中で、レーニンはたんなる一人にすぎなかった。
 しかし、その戦争に関する過激な考えとウクライナ分離主義の日和見主義的受容心によって、レーニンは混沌をさらに促進する危険人物であり、ロシアの戦争遂行を挫折させるために送られた一人だけの破壊員だった。
 パルヴゥス自身が3月遅くにコペンハーゲンにいたドイツの大臣に説明したように、臨時政府のもとでロシアの戦闘意欲が復活するのを阻止するためには、「無政府状態を増大させるべく過激な革命運動を支持しなければならないだろう」。
 あるいは、そのときコペンハーゲンを訪れていたドイツ社会民主党の指導者のP・シャイデマン(Philip Scheidemann)にパルヴゥスが説明したように、レーニンは、ロシア社会主義者で中で最も「無謀な狂乱者(raving mad)」だった。//
 (17)ドイツによるレーニンへの投資は、すぐにその配当を生み出した。
 ストックホルムで、レーニンの友人のカール・ラデク(Karl Radek)はペトログラードのレーニンと通信するためのボルシェヴィキ外国特命組織を設立した。そこにレーニンは途中下車したのち、ロシア人一団は列車による旅を続け、1917年4月3日のちょうど午後11時すぎにペトログラードのフィンランド駅に到着した。その列車はのちに、レーニンの英雄的時間を記念すべくガラスで覆われた(今もそこにある)。
 急いでボルシェヴィキ党の本部へ行き、レーニンは、「海賊たちの帝国主義戦争」を非難する2時間にわたる烈しい演説を行い始めた。そこには、戦争を継続している臨時政府を支持する堕落者たちもいた。
 レーニンが提起した基本方針は過激すぎたので、党機関誌<プラウダ>は最初はそれを印刷するのを拒否した。
 その「四月テーゼ」は、「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンで今日でもよく記憶されている。これはしかし、戦争に対するいかなる支持も否認し、ロシア軍の廃絶を主張する点で、外交政策としても同等に過激だった。
 数時間のうちに、レーニンの「極端に過激で平和主義の」方針はペトログラードの話題になった。Frank Golder は、その日記に、ドイツが「彼と彼の党が平和を宣伝して、戦意喪失をもたらす」ために、レーニンをペトログラードに送り込んだ、との風聞があることも記した。 
 ストックホルムのドイツ軍諜報機関は小さな驚きとともに、ドイツ軍最高司令部に、こう報告した。「レーニンのロシア入国はうまくいった。彼は、我々がまさに望んでいるように仕事をしている」と。(16)//
 (18)17年の間ほとんどロシアに足を踏み入れなかった追放者だったので、レーニンは、ロシアの社会主義仲間に対する礼儀その他の実際的な配慮を全く気に懸けることなく、自由に政治方針を考えた。
 彼の戦争に関する展望はかくして、ともに二月革命後にシベリア流刑を恩赦されて解放されていた、L・カーメネフ(Lev Kamenev)やJ・スターリン(Josef Stalin)のような、ロシアにいたボルシェヴィキとは異なるものになった。
 カーメネフは、<プラウダ>の編集長で戦争勃発時にはドゥーマのボルシェヴィキ議員団長だったが、1915年1月に逮捕された。
 スターリンは1913年に4年間の流刑(国内追放)を宣告され、北東シベリアのTurhansk近くにいて戦争を迎えた。-彼にはそのときまで最も離れた土地への追放で、逃亡するのは不可能な場所だった。
 戦争中の苦難によって指導者たる地位を得たと考えているカーメネフは、爆弾のごときレーニンの演説の後で、ボルシェヴィキ中央委員会は党の現在の基本方針を維持して、臨時政府と戦争をしかるべく支持し、「『革命的敗北主義』の士気を喪失させる悪影響や同志レーニンの批判に反対」すべきだと主張した。
 スターリンは<プラウダ>でより大胆に、レーニンの「戦争よくたばれ」のスローガンは「無用」だと非難した。
 ボルシェヴィキ中央委員会は、4月8日、レーニンの四月テーゼを13対2で、正しく徹底的に却下した。(17)//
 (19)しかし、レーニンは、切り札(エース・カード)を持っていた。すなわち、ドイツの金。 〔太字化は、試訳者による。〕
 二月革命後の最初の月の記念号である<プラウダ>3月12日号は、Moika 運河ぞいの政府が保有する印刷工場からは、限られた数しか発行されなかった。
 レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキは25万ルーブル(当時の12万5000ドル、現在のおよそ1250万ドルと同額)で、Suvorovsky 大通りに私有の印刷機を購入した。それは所有者から熟練工を(現在の150万ドルまたは一年で1800万ドルと同額、一カ月あたり3万ルーブル以上の)全額負担して雇う、という約束をしてのちのことだった。
 この最後の約定は、所有者の気乗り薄さを克服するために決定的なものだった。その所有者は、「労働者印刷集団」ふうの様子の影あるグループが手持ちの現金を用意しているのかどうか疑っていたからだ。(18)//
 (20)ボルシェヴィキは今や、事実上は無制限の量の、宣伝物を発行することができた。
 <プラウダ>の発行部数は急速に増えて、8万5000部に達した。
 4月15日、党はペトログラード守備連隊の兵士たちに向けて、新しい大判紙の<兵士のプラウダ>の発行を開始した。
 この新聞はもともと5万部の発行を予定していたが、そのとき7万5000部になった。
 つづいて、前線の兵士たちに宛てたもの(<Okopnaiaプラウダ>)、バルティック艦隊の海兵たち向けのもの(<Golos Pravdy>)も発行された。
 ほどないうちに、前線の兵団に届くボルシェヴィキの日刊紙部数は6桁〔10万以上〕に達した。
 特別の小冊子も、10万の単位で発行された。
 このような目覚ましい出版上の大成功は、ドイツの財政支援によって可能となった。このことを考慮するならば、カーメネフやスターリンによる声高の反対があったにもかかわらず、レーニンが最終的には、反戦争というまだ知られていない基本方針を<プラウダ>で伝搬させることができたのは、何ら驚くべきことではない。(19)//
 (21)ソヴィエト政府がのちに多数の文書の束を廃棄したために、歴史研究者がドイツ政府とペトログラードのボルシェヴィキの間の金の動きの軌跡をたどるのはきわめて困難だ。
 レーニンは、ストックホルムにいるラデクへの若干の暗示的な電報があるのを除いては、自分の手を汚さないままでいた。
 そのうちの一つで、レーニンは、4月21日、2000ルーブルを受領したことを確認していた。
 もう一つの電報では、レーニンは、「もっと資材(materials)を」と要請していた。(20)
 臨時政府で反対諜報活動に従事したB・V・ニキーチン大佐は、いくつかの刑事罰の対象になりうる電報をその回想録で再現した。それによると彼は、E・スメンソン(Evgenia Sumenson)というボルシェヴィキの工作員が尋問を受けて(彼女がドイツ製品輸入業で洗浄して合法化した)金銭をボルシェヴィキ党中央委員会の一員であるM・コズロフスキ(Miecyslaw Kozlovsky)という名のポーランドの弁護士に渡した、ということを自白した。
 ケレンスキーは、1917年にロシアを離れた後で、連合諸国の諜報機関から文書資料に関する報告を受けた。彼が見たと主張したその文書資料の中には、シベリア銀行のスメンソンの口座から75万ルーブルを引き出すための有名なものもあった。
 今日まで、ほとんどの歴史研究者たちは、ロシア側の文書庫から対応する証拠が出ていないために、このような論争の種となる資料は曖昧なままにしておかなければならない、と考えてきた。(21)//
 (22)しかしながら、臨時政府がボルシェヴィキ・ドイツ間の紐帯を明らかにする文書の全てが破壊されてしまったわけではない。
 共産党の文書庫の中にあった新しい証拠からは、つぎのことが明らかだ。すなわち、スメンソンは実際に、ナデジンスカヤ通り36番地にある大きくて家具が全て調えられたペトログラードのマンションから、かりに異様ではあっても本当に、輸入業を営んでいた
 (彼女の活動は、隣人たちの相当の好奇心の対象になった。未婚の、子どものいない女性が4つの寝室をもつ住戸に住み、多数の男性訪問者を迎えているのはどうしてだろう、と。)
 スメンソンは、ドイツ製の温度計、医薬品、長靴下、鉛筆、およびネスレ(Nestlé)の食料品を現金払いで販売していた。
 彼女はシベリア銀行と、さらにはロシア・アジア(Russo-Asiatic)銀行やAzov-Don 銀行に活動口座を有しており、そのいずれにも、裕福なロシア人にドイツの贅沢品を販売して蓄積した、数10万ルーブルの金を預けていた。
 複数の目撃者が、スメンソンが定期的に数千ルーブルを現金で、コズロフスキに個人的に渡していたのを見た。(22)//
 スメンソンはまた、ストックホルムとコペンハーゲンの各銀行から直接に電信を受け取っていた。それはふつうは彼女の従兄弟のヤコブ・フュルステンベルク-ハネッキ(Jakob. Fürstenberg-Hanecki)(革命運動上の別称は「クバ(Kuba)」)からのもので、彼は、レーニンが最も信頼する党同志の一人で、のちにソヴィエトの財務大臣となる人物だった。
 明白な証拠がある電信で、コズロフスキは、クバがストックホルムのNya銀行からペトログラードのスメンソンへ10万ルーブルを送るよう要請した。そして、数日後に、この正確な金額が、滞りなくロシア=アジア銀行の彼女の口座に振り込まれた。
 このような直接の電信による移動やスメンソンの輸入業から生じるルーブル立ての収益の洗浄によって、ドイツ政府は、莫大な金額をペトログラードのレーニンの党へと移すことができた。その額は最終的には5000万ゴールド・マルクに昇った。これは、現在の10億ドル余と同額になる。(23)//
 (23)ロシアの地下世界でその日暮らしの活動をした年月のあと、ボルシェヴィキは今や大勝利を収め、それにふさわしく行動した。
 フィンランド駅へと帰還したあと、レーニンはクシェシンスカヤ邸(Kshesinskaya Mansion)へと移った。これは市内の最大の邸宅の一つで、マチルダ(Mathilde)・クシェシンスカヤのために、1904-1906年にアール・ヌーヴォー様式で建築されていた。-クシェシンスカヤは最も有名なバレリーナで、皇帝ニコライ二世のあとは、二人のロシア大侯爵の愛人だった。
 その邸宅は戦略的に見るとペーター・ポール大要塞とちょうど正反対の場所に位置しており、レーニンの帰還後は、優美なバレリーナの住まいから、補強された軍事的複合施設、ボルシェヴィキの神経中枢へと変えられた。
 (ソヴィエト時代に革命博物館と改称され、今は政治史博物館になっている。)//
 (24)クシェシンスカヤ邸は、諸活動が集中する場所になった。党中央委員会の諸会合、<プラウダ>や<兵士のプラウダ>の編集部、そしてボルシェヴィキ「軍事組織」の最高司令部。ここからは、ロシア軍団を反戦争信条へと転換させるべくコミサールが派遣された。
 階下には会計部署があり、「高価な印刷装備」と並んでいた。のちにニキーチン(Nikitin)の人員が発見したところよると、この印刷施設は、信頼できる活動家や兵士たちのために個人識別カードや自動車運転免許証を大量に作成していた。
 小冊子や宣伝ビラが、通路に散乱していた。
 伝達人(クーリエ)が指令書をもって、あちらこちらへと急いで出て行った。(24)//
 (25)街路の視点から見ると、光景はもっと印象的なものだった。
 クシェシンスカヤ邸はすみやかにペトログラード市内の至る所から来る示威活動家の集会場となった。彼らは、興奮-と抗議の意思表示-を求めていた。
 情報宣伝に関するボルシェヴィキの熟達さは本当のことで、軍隊はレーニンのあからさまな政治方針によって、さらなる一撃を受けていた。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルはしぶしぶ、軍隊の紀律を回復すること(指令第二号によるような)への協力に同意したが、ボルシェヴィキは、単純に、「政府よくたばれ!」と宣言した。
 何人かの目撃者によれば、レーニンが帰還した後、ボルシェヴィキのポスターには、こう書くものが出現した。すなわち、「ドイツ人は我々の兄弟だ」。(25)//
 (26)ドイツ軍はロシア領域内にいたので、このようなスローガンの力は、かりに叛逆的でなくとも、強烈だった。
 レーニンはドイツの工作員だとの噂が、すでにかけ巡っていた。
 このような状況にあったことを考慮すると、上のようなポスターを掲示しようとする者がいたことは注目に値する。
 この点についてもまた、新しい証拠によって手がかりが得られる。
 E. Shelyakhovskaya という名のロシア赤十字の看護婦は前線からペトログラードに戻ったばかりだったが、この女性によると、クシェシンスカヤ邸の玄関にいた身なりのよい何人かの男たちが(彼女は詳細に彼らの特徴を表現した)1917年4月遅くに反戦争と親ドイツのポスターを配布していた、その際に、そのポスターを貼るつもりのある誰に対しても10ルーブル紙幣を手渡していた。
 これは、今日の500ドルに近い現金だった。
 これらのボルシェヴィキの運び屋たちは、Shelyakhovskaya によると、カバンが空になるまで現金紙幣を渡し終えると、クシェシンスカヤ邸の中に再び入り、カバンに新しい10ルーブル紙幣を詰め込んですぐにまた現れた。
 二人めの目撃者は、このようなShelyakhovskayaによる観察の基本的な部分を、宣誓のもとで確認した。(26)//
 (27)看護婦の話に色どりを加えると、ニキーチン大佐によれば、これらの10ルーブル紙幣はドイツ政府によって作られた偽造のものだったらしくある。ドイツ政府は、戦争前に10ルーブル紙幣の型版を獲得していた。
 これら偽造紙幣には顕著な目印があり、それは、ニキーチンによれば、「通し番号の最後の二桁の下にうっすらと線が引かれていた」ことだった。
 こうした「ドイツ製」紙幣の多くは、のちに、逮捕されたボルシェヴィキ煽動活動家の所有物の中から発見された。(27)//
 (28)レーニンと彼へのドイツの財政支援者は、本気でゲームを続けた。
 臨時政府は、ロシアがかつて革命前に行うと約束していた春季攻勢を行うよう連合諸国から厳しい圧力を受けていた。また、軍隊の制御をめぐって、ソヴェトとの苦い闘いに没頭すらしていた。その臨時政府には今や、想定することのできるもう一つの敵が、出現した。
 ボルシェヴィキが臨時政府に血を浴びせるのに、長くはかからなかっただろう。//
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 以上で、第8章は終わり。

1933/S・マクミーキン・ロシア革命(2017)第8章/ドイツ縦断のレーニン。

 Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 ショーン・マクミーキン・ロシア革命-一つの新しい歴史(Basic Books, 2017年)
 この著は序文とあとがきを除いて大きくは、つぎの三部で成る。
 第一部・ロマノフ家の黄昏、第二部・1917年の崩壊、第三部・権力にあるボルシェヴィキ。これが通し番号での「章」に分けられている。第一部/1-4章、第二部/5-17章、第三部/18-23章、計23章まで。
 この書物の章名では叙述対象の時期や事件がほとんど明らかにはならないのだが、レーニン・ボルシェヴィキとドイツに関係がありそうな箇所(章)を選んで、試訳してみよう。
 まず、第8章・ドイツの先札(Gambit)。p.125-p.136.
 Gambit はよく分からないが、最初の手札、切り出しとかの意味のようで、自信はないが試訳として「先札」としておいた。
 叙述対象の時期は、1917年の二月革命後、レーニンの(「封印列車」による)ロシア帰還の頃だ。
 各章はさらに「節」へと分けられてはおらず、段落の区切りしかない。日付間の/は、原文どおりで、旧暦/新暦。
 この著については、注番号だけ付して、その内容(後注)の紹介は、省略する。
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 第8章・ドイツの先札(Gambit)①。p.125-p.130.
 (1)ロシアでの二月革命の報せは、ニコライ二世の退位のあとですぐに世界中をかけ巡った。多くの詳細は、翻訳されなかったけれども。
 ロンドンとパリでは、反応は高揚感に溢れた。これらの都市には、帝政に反対する意見を生じさせるための政治報告があって、ロシアのリベラル派が要点を記述すべく作成していた。
 <ウェストミンスター新聞(Westminster Gazette)>は「重たい荷物の排除」、「劇的な一撃」だとして帝制の崩壊を祝賀し、専制的ロシアを「仲間的忠誠と経験」へと並ばせるものだとした。
 <ル・マタン(Le Matin)>は、二月革命は「連合国にとっての勝利」だとして祝賀し、「ロシアの解放は我々の敵国の外交計画を破滅させるだろう」と予言した。(1)
 (2)ワシントンほどにこの報せが熱狂的に歓迎された都市はなかった。そこではW・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領が、ドイツとの戦争に備えて議会-とアメリカ国民-を説得する突然に切迫した闘いに直面していた。
 1916年11月、ウィルソンは大部分は「戦争の圏外にとどまり続ける」と豪語したおかげで再選されており、ドイツの一連の非道行為にただ衝撃を受けていた。
 1917年2月1日の無制限の潜水艦製造の再開のあとでアメリカ合衆国の介入があり得ることを考慮して、ヴィルヘルム通り〔ベルリン・ドイツ帝国〕は、すぐに悪名高くなった「ツィンマーマン電報(Zimmermann Telegram)」を-アメリカの外交用電線を経て-メキシコ・シティのドイツ大使館に送り、いっそうの悪辣さを示した。
 この驚くべき文書で、ベルリンは、メキシコがアメリカに宣戦布告をすればメキシコがアメリカの南西部(テキサス、ニュー・メキシコ、およびアリゾナ)の<再征服(reconquista)>を支持すると約束していた。
 アメリカとこの突発情報を注意深く分有していたイギリスの暗号解読者たちが、ツィンマーマン電報を最初に読み解いた。その内容は、1917年2月15日/28日、まさにペトログラードでロシア革命が勃発するときに、プレスに発表された。(2)//
 (3)アメリカ世論に対する二月革命の影響は、電気に打たれたごとくだった。
 ウィルソン政権は2月初めに無制限潜水艦製造再開のあとですでにベルリンと厳しい外交関係に入っていたけれども、そのことはまだ宣戦布告にまでには至らせなかった。
 リベラルで学者風の理想主義者であるウィルソンは、「アメリカ例外主義」の信条を掲げており、国家の在来的な理由ではアメリカ合衆国を戦争へと突入させることを決して快くは考えていなかった。
 ツィンマーマン電報ですら、ウィルソンの「武装中立」の方針を変えさせることはなかった。
 ロシアが「リベラルで民主主義な」陣営に加わった後ではじめて、ウィルソンは刺激を受けて、1917年3月20日/4月2日の議会の合同会議の前で宣戦布告を行った。それは、「世界を民主主義を求めて安全なものにしなければならない」、「平和は政治的自由という吟味済みの基礎の上に築かれなければならない」、と述べた。(3)//
 (4)ウィルソンは、見たかったものを二月革命のうちに見た。
 彼が表明した高貴な理想は、アメリカや(より少ない程度で)イギリスのような、権力に余裕がある国の贅沢だった。これらの国は、ドイツのUボートによる公海上での攻撃を超えて、安全に対する生存にかかわる脅威に直面してはいなかった。
 パリから65マイルだけ離れたノヨン(Noyon)要塞をドイツが有しているフランスでは、生まれつつあるロシア民主主義に関する気分のよさは、ロシアの春季攻勢に対する革命の影響に関する実践的な関心に、大きな影響を受けていた。その攻勢はドイツの軍事力をフランスから逸らせることが期待されていたのだ。
 <ル・マタン>は、ペトログラード・ソヴェトの「過激主義者」について警告を発した。
 曖昧にだが指令第一号-連合諸国の通信員たちにはまだ知らされていなかった驚くべき布令-を示唆して、<ル・マタン>は、「その決定はタウリダ宮の1600人の代議員に行き渡っている。混乱状態にあると言われていることだけが分かる」と不満を漏らした。(4)
 (5)ベルリンでは愛国主義の記者たちは、肯定的な報せを軽視して、ペトログラードの革命が生み出す秩序混乱を強調しがちだった。
 <ベルリンLokal Anzeiger>は、「社会主義が溢れる。そして無政府状態になる」と一面の大見出しを掲げた。
 <ベルリンTagesblatt>は、ロシアにいるドイツの戦争捕虜たちはストックホルム経由で送られている、と肯定的に記した。
 <Tagesblatt>のコペンハーゲン通信員は、「フィンランドへの血なまぐさい革命の広がり」という不快な説明記事を掲載した。
 ドイツの立場からすると、革命がより混乱を増せば増すほど、それだけ良かった。(5)//
 (6)連合国側の観察者がロシアの戦闘能力に対する革命の影響に関して望ましい考え方をしてしまった一方、より暗いドイツの記事は、偏った見方に彩られていてはいたが、努めて真実により近いものを叙述していた。
 反乱がロシアの陸海軍をつうじて広がって<いた>(前線全てに対するのと同等の影響ではなかったけれども)。そして、無政府状態が国土じゅうに伝搬している。
 さらに加えて、ペトログラードの現地に工作員をもち、外国にいるロシアの革命家たちの世界と良好な接触をしてしてきたドイツは、理想的にロシアの混乱を利用できる-そしてそれを拡大することのできる-位置にいた。
 レーニン・カードを切る、そのときがやって来た。〔太字化は試訳者〕//
 (7)ボルシェヴィキ党の指導者は、努力に欠けていたわけではないが、ずっと静かな闘いをしてきた。
 1914年8月の大戦勃発のとき、レーニンは、ロシアの国境に近いオーストリア・ガルシアのクラカウのそばのポロニモ(Poronimo)にいて、地方のウクライナ人の間で煽動活動を行っていた。
 クラカウの警察は敵国外国人として彼を逮捕した。オーストリアの社会主義者の指導者がレーニンはツァーリ体制のスパイではなくロシアの憎い敵だと保証してくれた。
 レーニンの場合は、その住居を探索して本当の(bona fide)マルクス主義活動家に取り憑くかもしれない退屈な経済研究書の類だけしか発見されなかったことが、役立った。
 オーストリアの役人による尋問で、レーニンは公然とウクライナ分離主義を支持する革命的狂信者だと確認された。ウクライナの分離は、中央諸国の中心的な戦争目的だった。
 レーニンは9月初めに、ハプスブルク軍事省の特別の命令によって釈放され、軍事郵便列車で-妻のNadezhda Krupskaya と彼に忠実なボルシェヴィキの副官(aide-de-camp)のG・ジノヴィエフ(Grigory Zinovoev)と一緒に-スイスへと送られた。そこで彼は、ツァーリに対抗する戦争陰謀を練って過ごした。(6)//
 (8)すでにオーストリアの監視のもとにあったレーニンは、二つの別々の経路でドイツ外務当局の注意を引くことになった。
 第一は、我々がすでに言及した、アレクサンダー・「パルヴゥス(Parvus)」・ヘルファンドだった。この人物は1905年に、ペトログラードで面倒なことを起こしていた。
 シベリア追放から脱出したあと、パルヴゥスは、外国のドイツとそのあとトルコで、豊かで興味深い人生を送った。
 大戦が勃発したとき、彼は、ウクライナ分離主義者、アルメニアとジョージアの社会主義者その他の帝制に追放された者たちのためにボスポラスの政治サロンを運営していた。その仕事の中で彼は、1915年1月にオットーマン帝国駐在のドイツ大使であるヴァンゲンハイム(Hans von Wangenheim)男爵に出席を求めた。
 パルヴゥスはヴァンゲンハイムに対して、「ドイツ帝国政府の利益は、ロシアの革命家たちと同一だ」と語った。(7)//
 (9)第二の媒介者のA・ケスキュラ(Alexander Kesküla)も、同様に多彩だった。
 ケスキュラは、パルヴゥスのように1905年革命の被抑圧者だったエストニア人ボルシェヴィキだった。そして、より最近に全面的なエストニア民族主義の考えを抱いた(フィンランド人の友人にエストニアがペトログラードを支配した後でのペトログラードに関する計画を尋ねたところ、その諸宮殿は素晴らしい「採石場」になるだろう、と答えた)。
 のちに彼が想起したように、1914年9月にドイツの諜報機関の仕事に加わったケスキュラの動機は、単純だった。すなわち、「ロシアに対する憎悪」。
 1915年9月、ケスキュラはベルンにいるドイツ領事のGisbert von Romberg に、レーニンの考えやイデオロギー状況を知らせた。
 そのあとロンベルクはケスキュラに1カ月あたり2万マルクを、レーニンその他のボルシェヴィキに配るべく支払った。(8)//
 (10)レーニンの戦争に関する立場から見ると、それは追放社会主義者たちのツィンマーヴァルト(1915年)やキーンタール(1916年)での会議で彼が概述していたものだが、なぜドイツの外務当局がレーニンを養ったかを理解するのは困難ではない。
 これらの集会での多数派は(まだメンシェヴィキの)トロツキーが起草した決議を支持してはいたが、これに対する反対派は、戦争に反対し、労働するのを拒むか古い「ゼネ・スト」原理によって闘うよう訴えていた。
 レーニンは、「革命的敗北主義」という少数派の教理を定式化した。
 彼は、社会主義者は彼らの自国が敗北するように活動しなければならず-彼はこれを文字通りに意味させた-、そして、「帝国主義戦争を内戦に転化しなければならない」、と主張した。
 協議案による抵抗よりもむしろ、社会主義者は労働者に対して、軍隊に加入し、その中で反乱を行って軍隊を「赤」に変えるよう激励しなければならない。
 こうした考え方はツィンマーヴァルトでのマルクス主義多数派によって分裂の起因になると見られていたけれども、レーニンは、ウジェーヌ・ポティエ(Eugène Pottier)の社会主義の歌の精神により近いところまで切り進んでいた。
 その歌、<インターナショナル>は、軍隊での反乱を推奨していた。
 「王公たちが、俺たちに煙を食わせる。
 俺たちは仲良くなって、専制者たちと闘おう。
 軍隊に対して、ストライキをしよう。
 銃砲を空中に放って、隊列をかき乱そう。
 彼ら人喰いたちがなおも抵抗するなら、
俺たちを英雄に仕立てたいのなら、
 すぐに知るだろう、俺たちの銃口は、
 俺たち自身の将軍さまに向けられていることを。」
 〔歌全体の一部。/大島博光訳を参照した。〕
 (11)このようにレーニンの「ツィンマーヴァルト左派」の教理は過激であるので、ロンベルク領事がその旨をベルリンに説明したとき、ドイツ外務当局は、レーニンの基本的な考え方の出版を抑えるべく介入した。オフラナ(Okhrana)〔ロシア帝制秘密警察〕がそれをロシアにいる社会主義者の大量拘束を正当化するために利用しないように。
 (12)二月革命の前の数カ月、レーニンはドイツの監視網からある程度は離れていた。
 パルヴゥスはロシアでの産業労働者を怠業させる自分の努力に集中しており、ケスキュラは、レーニンがエストニア問題に無関心であるためにレーニンに冷たくなっていた(ドイツの返礼は、1916年10月にケスキュラとの関係を絶つことだった)。
 レーニン自身は、ロシアの事情に疎遠になり始めていた。それについては彼は意気消沈していた。
 1917年1月9日/22日にチューリヒのVolkshaus で、集まっている若き社会主義者たちにこう語りかけた。「我々古い世代の者は、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないかもしれない」。(11)//
 (13)レーニンは革命について、1917年3月1日/14日にオーストリアの同志から聞いて初めて知った。
 レーニンは元気になり、ただちにペトログラードへと帰還したかった。西側と東側の前線を避けるためには、スイスからロシアへと最も近くて安全な経路をとることだったが、それにはドイツを縦断することが必要で、ロシア人には本国に戻ることができるのか、疑わしく思えた。
 ベルンのドイツ領事、ロンベルクは、何とか助けたいと思ったが、彼もレーニンも、慎重にことを進める必要があった。
 スイスの社会主義者、F・プラッテン(Fritz Platten)が仲介者として行動し、レーニンとスイスおよびドイツ両政府の間の全ての交渉を処理した。彼は全ての切符を購入し、列車がドイツを縦断する間は公的な「ホスト」と報道官として振る舞い、その結果としてロシア人は誰も、ドイツの役人たちと話す必要がなかった。
 偽装を追加するため、プラッテンはまた、レーニンと19人のボルシェヴィキ仲間-ジノヴィエフ、レーニンの妻のNadazhada、彼の愛人のInessa Armond、および煙草好きのポランド=ユダヤ人のK・ラデク(Karl Radek)ーには、その列車で年配メンシェヴィキ指導者のJ・マルトフ(Jurius Martov)と6人のユダヤ人同盟の非ボルシェヴィキたちが同行している、と明記した。
 プラッテンはさらに、結局は失敗したが、社会革命党(エスエル)の追放者も名簿に入れようとした。これらの愛国的ロシア人の誰も、レーニンと連携するのを望まなかった。
 最も重要な条件は「治外法権」にかかわっていた。プレスの電信で語られた、レーニンの列車は「封印」され、ドイツを縦断中はドアを開けようとしなかった、との物語があった。
 1917年3月23日/4月5日、ドイツ政府は500万ゴールド・マルクをロシアの革命化のために充当した。そしてその4日後に、レーニンは出立した。(12)//
 (14)誰もが封印列車のことを知らせようとしたのかもしれないが、物語はほとんどすぐに漏れ広がった。
 ロシア人はスイスの国境を越えたあとで、列車を交換しなければならなかった。このことは、彼らはドイツの土を、Gottmadingen で「踏んだ」ことを意味する。
 越えたあと、新しいドイツの列車がやって来た。二人のドイツ人将校、団長のvon Planetz と副官のvon Buhring が同行していた。二人とも、ドイツ軍最高司令部で直接に将軍E・ルーデンドルフ(Eeich Ludendorff)に属していた(Buhring は、ロシア語に流暢だったために選ばれた)。
 ドイツ側の記録によれば、我々はつぎのことも知る。第一に、ロシア人の一団は「フランクフルトでの接続を逃し」、そこで長い間、列車の間を、途中下車をしなければならなかった。第二に、ベルリンを通過する間に、四人めのドイツ人の「民間人の服を着た将校」がレーニンが乗る列車を訪れた。第三に、列車はベルリンに20時間停車し、食物と新鮮な牛乳が補給された。第四に、この二回目の遅延によって、ロシア人たちはのちにサスニッツ(Sassnitz)のドイツ・ホテルで、デンマーク行きの次のフェリーを持つ間、完全に一晩を過ごすことを余儀なくされた。
 (15)革命後にドイツから送還されたロシア人捕虜たちの宣誓証言書によると、レーニンの列車がドイツに止まったことが怒りの原因に何らならない、ということはなかった。
 彼らの一人、上級予備士官のF. P. Zinenko は、レーニンがドイツの助けを得たことは、レーニンがウクライナ分離主義を支持したこととともに、捕虜収容所で公然と議論された、と証言した。
 別の証言者、部隊長のE. A. Tishkin は、バルト海岸のStralsund にある収容所では1917年4月に「全員が突然にレーニンについて話し始めた」、サスニッツ近くに向かう途中でレーニンがStralsund を通過することに驚いてではなかった、と報告した。レーニンはサスニッツで、1917年3月29日/4月11日の夜を過ごしていた。
 Tishkin は宣誓して証言した。Stralsund 収容所では、ドイツを縦断している間にレーニンが政治的演説をするために列車を降りていたことは、一般的な知識だった、と。(14)//
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 ②へとつづく。

1855/「ポピュリズム」考-神谷匠蔵の一文から②。

 ポピュリズムとは字義からして、人種とか民族には関係がないと漠然と感じてきた。
 神谷匠蔵が2017年に「人種差別」や「排外主義」をも要素とするものだと「左翼」が意味を転倒させたとして嘆き又は批判しているのは、アメリカや欧州(とくにルペンのフランス)を意識してのことだろう。
 おそらく1年以上前にドイツに関する日本での報道特集的なものを見ていたら、ドイツ・メルケルの難民政策に批判的な活動をしている中年男性ドイツ国民を取り上げていて、同時に、その国民の話しかけに対して‘Schweine!’と吐き捨てた若い夫婦らしき二人のうちの男性も映像に捉えていた。
 邦訳されていなかったが、Schweine!とはたぶん、<ブタ野郎!>とかの意味だ。
 ドイツ政府の難民政策の見直し要求・批判をする者を侮蔑する国民も、一方にはいる、ということだ。
 欧米でのポピュリズムなるものが、各国での「難民」政策にかかわっており、したがってそれに関する議論が人種・民族に関連している、ということなのだろう。
 アメリカのトランプ(大統領)やフランスのルペン(この当時に大統領候補)を批判した(している)「左翼」の側が、この人たちを支持し、難民政策の変更または移入制限を求める人々や運動をポピュリズム(・ポピュリスト)とか称したのだろう。
 関連して思い出すのは、NHK等の日本のテレビ・メディアが、フランス・ルペンやドイツの政党・AfD(ドイツのための選択肢)を明瞭に「極右」と表現していたことだ。
 フランス社会党の候補が大統領決戦投票の二人の中に存在しなかったという状況で、二人の候補の一人を「極右」と形容したのは、フランス国民に対して失礼だっただろう。
 共・社・中道左派・中道右派そして「極右」という時代のままの、すでに古くさい図式に日本のメディア関係者は嵌まったままだと感じたものだ。しかも、日本にこそある、日本的な外国人移民・労働政策への真摯な検討の姿勢を新聞も含めた日本のメディアにはあまり感じないような状態であったにもかかわらず。
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 日本でポピュリズムという語を使った批判があることを知ったのは、橋下徹に対する佐伯啓思による批判によってだっただろうか。その後に昨年も小池百合子に対する批判の中で、「ポピュリズムに陥ってはならない」というようなことが説かれていたように思う。
 日本での議論・評論の特徴の一つは(あるいはどの国でもきっとそうなのだろうが)、意味不分明なままで言葉がすでに何らかの評価(ポピュリズムの場合は批判的・蔑視的評価)を持ったものとして使われることだ。
 一年ほど前だろう、天下の読売新聞が「ポピュリズム」についてこれをとくに「大衆迎合主義」と言い換えて、言葉・概念の説明する小さい欄を設けていた。
 これもどとらかと言えば、批判的・消極的な評価を伴うものだったが、違和感を感じた。
 神谷匠蔵によると「大衆の熱狂」の喚起又はその利用がこの言葉の中核要素らしいのだが、そこまで進まない「大衆迎合」くらいは読売新聞社もどの新聞社も行っていることで(そうでないと販売できないだろう)、他人事のごとく大新聞社が「大衆迎合主義」と訳して解説していたのが奇妙で、あるいはむしろ面白かった。
 厳密には違うと訂正されそうでもあるが、民主主義とは民衆主義・大衆主義でもあるのであり、もともと「大衆迎合主義」の要素を含んだ概念ではないのだろうか。Democracy のDemo とは「大衆」であり、あるいは「愚民」のことだろう。
 「大衆迎合」を批判できる民主主義体制など存立し得るのだろうか。
 これは言葉の意味・射程の問題で、少なくとも、決まり切った答えはないだろう。
 しかし、この言葉になおこだわって想念を働かせると、新聞や雑誌の販売部数もテレビ番組の視聴率も、あるいは全ての(物やサービスの)商品の売れ行きも「大衆に迎合」してこそ高くなるのであって、「大衆迎合はけしからん」などとは、ほとんど誰も口にできないのではないか。
 にもかかわらず「大衆」を何となくバカにする、ポピュリズム=「大衆迎合主義」批判はどうも偽善的だ。本音では、販売部数を、視聴率を、販売額等々を読者・視聴者・消費者大衆との関係で「上げたい」はずなのに。
 ***
 ところで、佐伯啓思は2012年かその次の総選挙の際に、<ポピュリズムがどう評価されるか、それが今回の選挙の争点だ>と投票前に何かに書いていた。選挙後にこれについての総括をこの人はたぶん何も行っていなかったはずだ。
 今日に捲っていた本の中で原田伊織が「学者」と「物書き」の区別をしていた。
 佐伯啓思の新聞や雑誌での文章はたぶん学者・研究者の「論文」ではなく評論家という「物書き」の仕事としてのものなのだろう。この人は一年くらいからは「死に方評論家」にもなったらしく、また西部邁逝去後には西部に関連して「右か左かなどはとるに足らない問題だ」とか某雑誌に書いていた。佐伯啓思に全く限りはしないのだが、「学者」の議論は専門家すぎるか全体・大局を見ない議論・主張であることも少なくなく、たぶん「評論家」なるものも含まれるだろう「物書き」は玉石混淆だが「玉」は滅多にいなくて、アホらしくて読めないものがや多い。
 この感想に圧倒的に寄与した大人物は、佐伯啓思ではなく、月刊正論(産経)毎号執筆者・江崎道朗。第三者には理解し難いかもしれないが、とりわけ日本会議系「保守」論者の低レベル、いやそういう高低の評価自体になじまないほどの悲惨さ・無残さには唖然とした。こんなヒドさでも、平気で出版できる日本のアマさ、ユルさは相当の程度に達している。
 あまり意味のない、退屈な文章を書いてしまった。

1791/旧西独で-「ベルリンを想え!」。

 この欄にたんなる紀行文、旅行記を書き記すつもりはない。
 以下の内容からして、まだドイツは再統一されていなかった頃だ。
 前日にローテンブルク(Rotenburg od. Tauber)に宿泊して、ニュルンベルクの市中見学を経てフュッセン(Füssen)まで鉄道で行き、翌朝にノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)城を見てみようと計画した。若さゆえの無理をした算段だが、実際にそのとおりになった。
 ローテンブルクには鉄道駅はなく30分ほどはバスに乗ってシュタイナハ(Steinach)という駅まで行く必要があった。この駅は都市の入口または中央駅というふうで全くなかったが、そこからニュルンベルクまで直接に進めるわけではなく、アンスバッハ(Ansbach)駅で別の電車(汽車?)に乗り換える必要があった。
 シュタイナハはもちろん、都市としてはローテンブルクよりも大きいのではないかと駅前まで出て感じた(よく知られているように「改札」というのはないので、切符を持って自由に構外に出ることができる)。
 アンスバッハの駅の北側で、現在でも明確な記憶として残っているものを見た。
 それは石碑だったのか、たんなる木版だったのか不明になってしまったが、「ベルリンを想え!」と刻まれるか、記されていた。-Denkt an Berlin !
 意味、趣旨は明確だと思われた。東西にドイツが分割され、ベルリンもむしろ枢要部は「東ベルリン」と呼ばれる社会主義ドイツ(東独、ドイツ民主共和国)の首都になっているという現実のもとで、社会主義国で生活しているベルリン市民を、そして東独の市民を想え、ということだっただろう。
 当時にヘルムート・コール(Helmut Kohl)が野党党首だったのかすでに首相だったのか、東ドイツ国民は「ソ連の人質として取られている」という趣旨のことを演説で言ったのを直接に聴いたことがある(但し、遠くに彼の姿を見たのは確かだが、H. Kohl の演説を聴き取れたのかは怪しいので、翌日あたりの新聞で内容を読んだのかもしれない)。
 そういう時代だから、アンスバッハ市民がまたはそこの公的団体が、ドイツは分断されていることを忘れるな、という趣旨で、「ベルリンを想え!」と駅前に記したのだろう(なお、アンスバッハはバイエルン州)。
ところで、余談になるが、ドイツ語に苦しんでいた頃だったから、denkt という語の文法上の位置づけもおそらく当時にすでに気になったに違いない。
 これは、<万国の労働者、団結せよ!>という場合の後段の vereinigt (euch) に相当する、敬称ではない場合の複数者に対する命令形だと思われる。
 この使い方は表向きの会話や新聞ではあまり出てこないので、印象に残ったのかもしれない。
 しかし、そうしたドイツの<言語、言葉>に関する記憶は山ほどある(理解不能だったり、恥ずかしかったり…。それでも当時(現在でもだが)、英米語よりはるかにドイツ語の方がマシだった)。
 この Denkt an Berlin ! を今でも憶えているのは、その内容によるだろう。
 のちに再訪はしなかったが、あの石版か木版は、おそらくとっくに除去されているに違いない。

1776/諸全体主義の相違②完-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)
 試訳のつづき。第5章第6節。p.280-1。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違②。
 要するに、ロシアは社会構造が同質で民族的構造が異質だったので、熱望をもつ独裁者は階級間の敵意に訴えることが想定されえたのだが、状況が反対の西側では、訴えかけは民族主義(ナショナリズム)になったのだろう。//
 とは言え、今きちんと、つぎのことを記しておかなければならない。
 階級にもとづく全体主義と民族にもとづく(nation-based)全体主義は、一つに収斂しがちだ。
  スターリンはその政治的経歴の最初から、大ロシア民族主義と反ユダヤ主義を用心深く奨めていた。
 第二次大戦の間と後で彼は、おおっぴらに、明瞭な熱狂的愛国主義の言葉を使った。
  ヒトラーの側について言うと、彼はドイツ民族主義は制限的すぎると考えていた。
 彼は「私は世界革命を通じてのみ、自分の目的を達成することができる」とラウシュニンクに語り、ドイツ民族主義をより広い「アーリア人主義」へ解消するだろうと予言した。
 『民族(nation)という観念は無意味になってきた。…
 我々はこの偽りの観念から抜け出して、人種(race)の観念へと代えなければならない。…
 歴史的過去を帯びる人々の民族的区別の言葉遣いで新しい秩序を構想することはできない。だが、この区別を超える人種にかかる言葉遣いによってならそうすることができる。…
 科学的意味では人種というものは存在しないと、私は素晴らしく賢い知識人たちと全く同様に、完璧によく知っている。
 しかし、農民で牧畜者であるきみは、人種という観念なくしてはきみの生育の仕事をうまくは成し遂げられない。
 政治家である私は、今まで歴史の基盤の上に存在した秩序を廃棄して全般的で新しい反歴史的な秩序を実施し、そしてそれに知的な根拠を与える、そういうことを可能とする観念を必要としている。…
 そして、人種という観念は、私のこの目的のために役立つ。…
  フランス革命は、国民(民族、nation)という観念を国境を超えて伝播させた。
 国家社会主義は、人種という観念でもって広く革命をもたらし、世界を作り直すだろう。…
 民族主義(ナショナリズム)という常套句には多くのものは残らないだろう。我々ドイツ人には、ほとんど何も。
 その代わりに、善良な一つの支配する人種についての多様な言葉遣いが、理解されるようになるだろう。』(120)//
 共産主義と「ファシズム」は、異なる知的起源をもつ。一方は啓蒙哲学に、他方はロマン派時代の反啓蒙的文化に、根ざしている。
 理論については、共産主義は理性的、構築的で、「ファシズム」は非理性的、破壊的だ。このことは、共産主義がつねに知識人たちに対してきわめて大きい魅力を与えた理由だ。
 しかしながら、実際には、こうした区別もまた、不明瞭になっている。
 じつにここでは「存在」が「意識」を決定するのであり、全体主義諸制度はイデオロギーを従属させ、それを意のままに再形成するのだ。
 記したように、両者の運動は思想(ideas)を、際限のない融通性をもつ道具だと見なす。それは、服従を強制して一体性の見せかけを生み出すために、臣民たちに押しつけられる。
 結局のところ、レーニン主義-スターリン主義の全体主義とヒトラー体制は、いかに知的な起源が異なっていても、同じように虚無主義的(nihilistic)で、同じように破壊的なのだ。//
 おそらく最も語っておくべきなのは、全体主義独裁者たちがお互いに感じていた、称賛の気持ちだ。
 述べてきたように、ムッソリーニはレーニンに大きな敬意を払っていたし、「隠れたファシスト」に変わったことについてスターリンを惜しみなく賞賛した。
 ヒトラーはごく親しい仲間に、スターリンの「天才性」に対して尊敬の念を抱いていることを認めた。
 第二次大戦のただ中でヒトラーの兵団が赤軍との激しい戦いで阻止されていたとき、彼は両軍が一緒になって西側の民主主義諸国を攻撃し、破滅させることを瞑想した。
 このような両軍の協働に対する一つの重大な障害は、ソヴィエト政府の中のユダヤ人の存在だった。これは、ヒトラーの外務大臣のヨアヒム・リッベントロップ(Joachim Ribbentrop)にソヴィエト指導者が与えた、非ユダヤ系の適切な幹部の地位に就けば指導的部署から全てのユダヤ人を排除するとの保証、を考慮すれば解消できるように見えた。(121)
 そしてその代わりに、最も過激な共産主義者の毛沢東は、ヒトラーとその方法を称賛した。
 きわめて多くの同志の生命を犠牲にした文化革命のさ中に非難が加えられたとき、毛沢東は、「第二次大戦を、ヒトラーの残虐さを見よ。残虐さが強ければ強いほど、革命への熱狂はそれだけ大きくなる」、と答えた。(122)//
 根本のところで、左と右の様式がある全体主義体制は、類似した政治哲学と実践によってのみならず、それらの創設者の共通する心理によって結び合わされている。
 すなわち、搔き立てる動機は憎悪であり、それを表現したのが暴力だ。
 彼らの中で最も率直だったムッソリーニは、暴力は「道徳的な治癒療法」だ、人々を明白な関与に追い込むのだから、と述べた。(123)
 この点に、そして自分は疎外されていると感じている現存の世界を、どんな犠牲を払ってでも全ての手段を用いて徹底的に破壊しようとの彼らの決意のうちに、彼らの親近性(kinship)があった。//
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 (120) Rauschning, Hitler Speaks, p.113, p.229-230.
 (121) Henry Picker, ed., Hitlers Tischgespräche im Führerhauptquartier, 1941-1942 (Bonn, 1951), p.133. 
 (122) NYT(=New York Times), 1990年8月31日号, A2.
 (123) Gregor, Fascist Persuasion, p.148-9. 
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 第5章第6節、そして第5章全体が、これで終わり。

1757/ナチスの反ユダヤ主義②-R.パイプス別著5章3節。

 前回の試訳のつづき。p.255~p.257。
 なお、見出しに「別著」と記しているのは、R・パイプスの1990年の著、Richard Pipes, The Russian Revolution (ニューヨーク・ロンドン)とは「別著」であるR・パイプスの1995年の著、Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク)、という本の訳だという意味だ。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義②。
 このような展開について最大の責任があったのは、いわゆる<シオン賢者の議定書(Protocols of the Elders of Zion)>、これに関する歴史家であるノーマン・コーン(Norman Cohn)の言葉によるとヒトラーのジェノサイドのために『保証書』を与えた偽書、だった。(44)
 この偽造書の執筆者の名は、特定されていない。しかし、ドレフュス事件の間に1890年代のフランスで、反ユダヤの冊子から収集されて編まれたもののように見える。この冊子の刊行は、1897年にバーゼルで開催された、第一回国際シオニスト大会に刺激を受けたものだった。
 ロシアの秘密警察である帝制オフラーナ(Okhrana)のパリ支部は、これに手を染めていたと思われる。
 この本〔上記議定書(プロトコル)〕は、ある出席者から得られたとされる、特定できない時期と場所でユダヤ人の国際的指導層によつて開かれた会合の秘密決定、キリスト教国家を従属させユダヤ人の世界支配を樹立する戦略を定式化する決定、を暴露するものだと主張する。
 想定されたこの目標への手段は、キリスト教者たちの間に反目を助長することだった。ときには労働者の騒擾を喚起し、ときには軍事競争と戦争を誘発し、そしてつねに、道徳的腐敗を高めることによって。
 ひとたびこの目的を達成するや出現するだろうユダヤ人国家は、いたる所にある警察の助けで維持される、僭政体制(despotism)になるだろう。それは、穏和なものにする、十分な雇用を含む社会的利益がないばかりか、自由が剥奪された社会だ。//
 このいわゆる『議定書』は、最初は1902年に、ペテルブルクの雑誌に公刊された。
 そして、三年後、1905年の革命の間に、セルゲイ・ニルス(Sergei Nilus)が編集した、<矮小なる者の中の偉大なる者と反キリスト>というタイトルの書物の形態をとって登場した。
 別のロシア語版が続いたが、外国語への翻訳書はまだなかった。
 ロシアですら、ほとんど注目を惹かなかったように見える。
 きわめて熱心な宣伝者(propagator)だったニルスは、誰もこの本を真面目に受け取ってくれないと愚痴をこぼした。(45)//
 <議定書>をその瞠目すべき履歴に乗せたのは、ロシア革命だった。
 第一次世界大戦はヨーロッパの人々を完全な混乱に追い込み、彼らは、大量殺戮の責任を負うべき罪人を見つけ出したかった。
 左翼にとって、第一次大戦に責任がある陰謀者は『資本家』であり、とくに兵器製造業者だった。すなわち、資本主義は不可避的に戦争に至るとの主張は、共産主義の多くの支持者の考えを捉えた。
 このような現象は、陰謀理論の一つの変種だった。//
 別の、保守派の間で一般的だった考えは、ユダヤ人に向けられた。
 第一次大戦に対して他の誰よりも大きい責任のある皇帝・ヴィルヘルム二世は、戦闘がまだ続いている間にもユダヤ人を非難した。(46)
 エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorf)将軍は、ユダヤ人はドイツが屈服すべくイギリスとフランスを助けたのみならず、「おそらく両者を指示した」と、つぎのように主張した。
 『ユダヤの指導層は、<中略>来たる戦争はその政治的、経済的目的、つまりユダヤのためにパレスチナに国家領土と一つの民族国家としての承認を獲ち取り、ヨーロッパとアメリカで超国家かつ超資本主義の覇権を確保すること、を実現する手段だと考えた。
 この目標に到達する途上で、ドイツのユダヤ人は、すでに屈服させていた諸国〔イギリスとフランス〕でと同じ地位を占めるべく奮闘した。
 この目的を達するためには、ユダヤの人々にとって、ドイツの敗北が必要だった。』(47)//
 このような「説明」は、<議定書>の内容を反復しており、そして疑いなく、その書の影響を受けていた。//
 ボルシェヴィキの、ユダヤ人が高度に可視的な体制による世界革命への激情と公然たる要求は、西側の世論が贖罪者を探し求めていたときに、発生した。
 戦後には、とくに中産階級や職業人の間では、共産主義をユダヤ人による世界的陰謀と同一視し、共産主義を<議定書>が提示したプログラムを実現するものと解釈するのが、一般的(common)になった。
 一般的な感覚〔常識的理解〕は、ユダヤ人は「超資本主義」とその敵である共産主義の二つについて責任があるという前提命題は拒んだかもしれないが、一方で、<議定書>の論法は、この矛盾を十分に調整することができるほどに融通性があった。
 ユダヤ人の究極の目的はキリスト教世界を弱体化することだと語られたので、情勢とは無関係に、彼らは今は資本主義者として行動でき、別のときは共産主義者として行動できるだろう、とされた。
 実際に、<議定書>の著者によれば、ユダヤ人は、自分たちの「弱い兄弟たち」を戦上に立たせるために、反ユダヤ主義と集団虐殺(pogrom)に助けを求めることすらする。(*)//
 ボルシェヴィキが権力を掌握して彼らのテロルによる支配を開始したのち、<議定書>は、予言書としての地位を獲得した。
 傑出したボルシェヴィキの中にはスラブ的通称の背後に隠れたユダヤ人がいる、という知識がいったん一般的になると、物事の全体が明白になるように見えた。すなわち、十月革命と共産主義体制は、世界支配を企むユダヤ人にとって、決定的な前進だった。
 スパルタクス団の蜂起やハンガリーおよびバイエルンでの共産主義「共和国」には多くのユダヤ人が関与していて、根拠地ロシアの外部でユダヤ人の権力を拡大するものだと理解された。
 <議定書>の予言が実現するのを阻止するためには、キリスト教者(「アーリア人」)は危険を認識し、彼らの共通の敵に対して団結しなければならなかった。//
 <議定書>は、1918-1919年のテロルの間に、ロシアでの人気を獲得した。その読者の中に、ニコライ二世がいた。(**)
 この書物の読者層は皇帝一族の殺害の後で拡大し、ユダヤ人は広く非難された。
 1919-1920年の冬に敗北した数千人の白軍の将官たちが西ヨーロッパでの庇護を探り求めたとき、ある程度の者たちは、この偽書を携帯していた。
 そのことは、この書物を有名にして、総体的にヨーロッパ人の運命と無関係では全くなく、共産主義はロシアの問題ではなくてヨーロッパ人もまたユダヤ人の手に落ちるだろう世界の共産主義革命の第一段階だと、ヨーロッパ人に警告するという彼らの関心に役立った。//
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 (44) Norman Cohn, Warrant for Genocide (London, 1967).
 (45) 同上、p.90-98。
 (46) R・パイプス・ロシア革命(1990年)、p.586。
 (47) Erich Ludendorf, Kriegsfuerung und Politik 〔E・ルーデンドルフ・戦争遂行と政治〕 (ベルリン、1922年)、p.51。
 (*) Luch Sveta Ⅰの<議定書>、第三部 (1920年5月)。 このような霊感的発想をするならば、ヒトラーが気乗りしていない兄弟たちをパレスチナに送るためにホロコーストを組織するのをユダヤ人が助けた、というテーゼをソヴィエト当局が許し、またそのことによってそのテーゼの信用性を高めた、というのはほとんど確実だ。 L.A.Korneev, Klassovaia sushchnost' Sionizma (キエフ、1982年) 。
 (**) アレクサンドラ皇妃は、1918年4月7日(旧暦)付の日記に、こう記した。
 『ニコライは、私たちにフリーメイソンの議定書を読み聞かせた。』(Chicago Daily News, 1920年6月23日、p.2。)
 この書物は、エカテリンブルクでのアレクサンドラの身の回り品の中から発見された。N.Sokolov, Ubiistvo tsarskoi sem'i (パリ、1925年)、p.281。
 前に述べたように、これはまた、コルチャク(Kolchak)のお気に入りの読み物だった。
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 ③へとつづく。

1572/レーニンらの利点とドイツの援助③-R・パイプス著10章6節。

 前回のつづき。
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 ボルシェヴィキの権力闘争での利点とドイツの資金援助③。
 これらの出版物は、レーニンの考え方を広めた。しかし、隠した内容で、だった。
 採用した方法は『プロパガンダ(propaganda)』で、読者に何をすべきかを伝える(これは『アジテーション(agitation)』の任務だ)のではなく、望ましい政治的結論を自分たちが導く想念を読者に植え付けることだった。
 例えば、兵団に対する訴えで、ボルシェヴィキは、刑事訴追を受けさせることになるような脱走を唆しはしなかった。
 ジノヴィエフは、<兵士のプラウダ>第1号に、新聞の目的は労働者と兵士の間の不滅の緊密な関係を作り出し、結果として兵団員たちが自分たちの『真の』利益を理解して労働者の『集団虐殺』をしないようにさせることにある、と書いた。
 戦争の問題についても、彼は同様に用心深かった。//
 『我々は、いま<銃砲を置く>ことを支持しない。
 これは、決して戦争を終わらせない。
 いまの主要な任務は、全兵士に、何を目ざしてこの戦争は始まったのか、<誰が>戦争を始めたのか、誰が戦争を必要とするのか、を理解させ、説明することだ。』(91)//
 『誰が』、もちろん、『ブルジョアジー』だった。兵士たちは、これに対して銃砲を向けるようになるべきだ。//
 このような組織的な出版活動を行うには、多額の資金が必要だった。
 その多くは、ほとんどではなかったとしても、ドイツから来ていた。//
 ドイツの1917年春と夏のロシアでの秘密活動については、文書上の痕跡はほとんど残っていない。(*)
 ベルリンの信頼できる人間が、信頼できる媒介者を使って、文書に残る請求書も受領書も手渡すことなく、中立国スウェーデン経由で、ボルシェヴィキに現金を与えた。
 第二次大戦後にドイツ外交部の文書(archives)が公になったことで、ボルシェヴィキに対するドイツの資金援助の事実を確かなものにすることができ、そのある程度の金額を推算することができるが、ボルシェヴィキがドイツの金を投入した正確な用途は、不明瞭なままだ。
 1917-18年の親ボルシェヴィキ政策の主な考案者だったドイツ外務大臣、リヒャルト・フォン・キュールマン(Richard von Kuelmann)は、ドイツの資金援助を主としてはボルシェヴィキ党の組織と情報宣伝活動(propaganda)のために用いた。
 キュールマンは1917年12月3日(新暦)に、ある秘密報告書で、ボルシェヴィキ党派に対するドイツの貢献を、つぎのように概括した。//
 『連合諸国(協商国、Entente)の分裂およびその後の我々と合意できる政治的連結関係の形成は、戦争に関する我々の外交の最も重要な狙いだ。
 ロシアは、敵諸国の連鎖の中の、最も弱い環だと考えられる。
 ゆえに、我々の任務は、その環を徐々に緩め、可能であれば、それを切断することだ。
 これは、戦場の背後のロシアで我々が実施させてきた、秘密活動の目的だ--まずは分離主義傾向の助長、そしてボルシェヴィキの支援。
 多様な経路を通して、異なる標札のもとで安定的に流して、ボルシェヴィキが我々から資金を受け取って初めて、彼らは主要機関の<プラウダ>を設立することができ、活力のある宣伝活動を実施することができ、そしておそらくは彼らの党の元来は小さい基盤を拡大することができる。』(92) //
 ドイツは、ボルシェヴィキに1917-18年に最初は権力奪取を、ついで権力維持を助けた。ドイツ政府と良好な関係をもったエドュアルト・ベルンシュタイン(Edward Bernstein)によれば、そのためにドイツがあてがった金額は、全体で、『金で5000万ドイツ・マルク以上』だと概算されている(これは、当時では9トンないしそれ以上の金が買える、600~1000万ドルになる)。(93)(**)//
 これらのドイツの資金のある程度は、ストックホルムのボルシェヴィキ工作員たちを経由した。その長は、ヤコブ・フュルステンベルク=ガネツキー(J. Fuerustenberg-Ganetskii)だった。
 ボルシェヴィキとの接触を維持する責任は、ストックホルム駐在ドイツ大使、クルツ・リーツラー(Kurz Riezler)にあった。
 B・ニキーチン(Nikitin)大佐が指揮した臨時政府の反諜報活動によると、レーニンのための資金はベルリンの銀行(Diskontogesellschaft)に預けられ、そこからストックホルムの銀行(Nye Bank)へと転送された。
 ガネツキーがNye 銀行から引き出して、表向きは事業目的で、実際にはペテログラードのシベリア銀行(Siberian Bank)の彼の身内の口座へと振り込まれた。それは、ペテログラードのいかがわしい社会の女性、ユージニア・スメンソン(Eugenia Sumenson)だった。
 スメンソンとレーニンの部下のポーランド人のM・Iu・コズロフスキー(Kozlovskii)は、ペテログラードで、表向きは、ガネツキーとの金融関係を隠す覆いとしての薬品販売事業を営んでいた。
 こうして、ドイツの資金をレーニンに移送することができ、合法の取引だと偽装することができた。
 スメンソンは、1917年に逮捕されてのちに、シベリア銀行から引き出した金をコズロフスキー、ボルシェヴィキ党中央委員会メンバー、へと届けたことを告白した。
 彼女は、この目的で銀行口座から75万ルーブルを引き出したことを、認めた。
 スメンソンとコズロフスキーは、ストックホルムとの間に、表向きは取引上の連絡関係を維持した。そのうちいくつかは政府が、フランスの諜報機関の助けで、遮断した。
 つぎの電報は、一例だ。//
 『ストックホルム、ペテログラードから、フュルステンベルク、グランド・ホテル・ストックホルム。ネスレ(Nestles)は粉を送らない。懇請(request)。スメンソン。ナデジンスカヤ 36。』(97)//
 ドイツは、ボルシェヴィキを財政援助するために、他の方法も使った。そのうちの一つは、偽造10ルーブル紙幣をロシアに密輸出することだった。
 大量の贋造された紙幣は、七月蜂起〔1917年〕の余波で逮捕された親ボルシェヴィキの兵士や海兵から見つかった。//
 レーニンは、ドイツとの財政関係を部下に任せて、うまくこうした取引の背後に隠れつづけた。
 彼はそれでもなお、4月12日のガネツキーとラデックあての手紙で、金を受け取っていないと不満を述べた。
 4月21日には、コズロフスキーから2000ルーブルを受け取ったと、ガネツキーに承認した。
 ニキーチンによると、レーニンは直接にパルヴス(Parvus)と連絡をとって、『もっと物(materials)を』と切願した。(***)
 こうした通信のうち三件は、フィンランド国境で傍受された。
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  (91) <兵士のプラウダ>第1号(1917年4月15日付) p.1。
  (*) 1914年~1917年のロシアの事態にドイツが直接に関与したことを示すと称する、『シッション文書(Sission Papers)』と呼ばれるひと塊の文書が、1918年早くに表れた。これはアメリカで、戦争情報シリーズ第20号(1918年10月)の<ドイツ・ボルシェヴィキの陰謀>として、公共情報委員会によって公刊された。ドイツ政府はただちに完全な偽造文書だと宣言した(Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命 1915-1918, ロンドン, 1958, p.X.。さらに、ジョージ・ケナン(George Kennan) in: The Journal of Modern History, XXVIII, No.2, 1956.06, p.130-154、を見よ)。これは、レーニンの党に対するドイツの財政的かつ政治的支援という考え自体を、長年にわたって疑わせてきた。
  (92) Z. A. ゼーマン, ドイツとロシア革命, p.94。
  (93) <前進(Vorwaerts)>1921年1月14 日号, p.1。
  (**) ベルンシュタインが挙げる数字は、ドイツ外務省文書の研究で、大戦後に確認された。そこで見出された文書によると、ドイツ政府は1918年1月31日までに、ロシアでの『情報宣伝活動』のために4000万ドイツ・マルクを分けて与えた。この金額は1918年6月までに消費され、続いて(1918年7月)、この目的のために追加して4000万ドイツ・マルクが支払われた。おそらくは後者のうち1000万ドイツ・マルクだけが使われ、かつ全てがボルシェヴィキのためだったのではない。当時の1ドイツ・マルクは、帝制ロシアの5分の4ルーブルに対応し、1917年後の2ルーブル(いわゆる『ケレンスキー』)にほぼ対応した。Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik <ドイツの東方政策> 1918 (ウィーン・ミュンヘン, 1966), p.213-4, 注19。
  (97) Nikitin, Rokovye gody, p.112-4。ここには、他の例も示されている。参照、Lenin, Sochineniia, XXI, p.570。  
  (99) Lenin, PSS, XLIX, p.437, p.438。
  (***) B. Nikitin, Rokovye gody (パリ, 1937), p.109-110。この著者によると(p.107-8)、コロンタイ(Kollontai)も、ドイツからの金を直接にレーニンに渡す働きをした。ドイツの証拠資料からドイツによるレーニンへの資金援助が圧倒的に証明されているにもかかわらず、なおもある学者たちは、この考え(notion)を受け容れ難いとする。その中には、ボリス・ソヴァリン(Boris Souvarine)のようなよく知った専門家もいる。Est & Quest, 第641号(1980年6月)の中の彼の論文 p.1-5、を見よ。
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 第7節につづく。

1498/あるドイツ人-Wolfgang Ruge(1917-2006)。

 ○ 日本人には全くかほとんど知られていないと思う。
 ヴォルフガング・ルーゲ(Wolfgang Ruge)というドイツ人がいる。
 1917年生~2006年没。
 1917年夏にドイツ・ベルリンで生まれた。ロシアでは二月革命と同年の「10月の政変」のちょうど間。レーニンの7月蜂起があった頃。現在からほぼ100年前のこと。
 そのとき、第一次大戦はまだ終わっておらず、2歳の頃までに、戦争終結、ベルサイユ講和条約締結、そして2019年8月のワイマール憲法制定を、したがってドイツ・ワイマール共和国の成立期を、おそらくは記憶しないままで大きくなった。
 1933年の夏、8月末頃、ベルリンからおそらく「難民」として、ソ連・モスクワへと移った。
 そのとき、ワイマール共和国は、ナチス・第三帝国に変わっていた。ナチス党の選挙勝利を経て1933年の初頭に、ヒトラーが政権・権力を握っていた。
 W・ルーゲは、夏に16歳ちょうどくらい。二歳上の兄とともに、ソ連・モスクワに向った。そこで育ち、成人になる。スターリンがソ連・共産主義体制の最高指導者だった。
 戦後まで生きる。戦後も、生きた。そして1982年、ドイツに「帰国」する。
 彼が、65歳になる年だ。
 しかし、それは、ヒトラー・ドイツでもなければドイツ連邦共和国でもなく、「東ドイツ」、1949年に成立したドイツ民主共和国のベルリンへの「帰国」だった。
 そこで「歴史学」の研究者・教授として過ごす。主な研究対象は、ワイマール期のドイツの政治および政治家たちだったようだ。
 1990年、彼が73歳になる年に、ドイツ民主共和国自体が消失して、統一ドイツ(ドイツ連邦共和国)の一員となる。
 2006年、88歳か89歳で逝去。
 すごい人生もあるものだ。第一次大戦中のドイツ帝国、ワイマール共和国、ヒトラー・ナチス、スターリン・ソ連、第二次大戦、戦後ソ連、社会主義・東ドイツ、そして統一ドイツ(現在のドイツ)。
 1990年以降に、少なくとも以下の二つの大著を書き、遺して亡くなった。
 Wolfgang Ruge, Lenin - Vorgänger Stalins. Eine politische Biografie (2010)。
  〔『レーニン-スターリンの先行者/一つの政治的伝記』〕
 Wolfgang Ruge (Eugen Ruge 編), Gelobtes Land - Meine Jahre in Stalins Sowietunion (2012、4版2015)。
  〔『賞賛された国-スターリンのソ連での私の年月』〕
 ○ 上の後者の著書の最初の方から「レーニン」という語を探すと、興味深い叙述を、すでにいくつか見いだせる。これらが書かれたのは、実際には1981年と1989年の間、つまりソ連時代のようだ(おそらくは子息である編者が記載した第一部の扉による)。
 ・W・ルーゲはベルリンから水路でコペンハーゲン、ストックホルムを経てトゥルク(フィンランド)へ行き、そこからヘルシンキとソ連との国境駅までを鉄道で進んでいる。
 コペンハーゲンからの船旅の途中で(16歳のとき)、この進路は「1917年という革命年にレーニンがロシアへと旅をしたのと同一のルート」だということが頭をよぎる(p.10)。
 このときの記憶として記述しているので、ドイツにいた16歳ほどの青少年にも、レーニンとそのスイスからのドイツ縦断についての知識があったようだ。
 ・W・ルーゲは、ストックホルムより後は、母親の内縁の夫でコミンテルンの秘密連絡員らしきドイツ人の人物とともに兄と三人でソ連に向かう。
 ソ連に入ったときの印象が、こうある。「レーニン」は出てこない。
 フィンランドの最終駅を降りてさらに、「決定的な、20ないし30歩」を進んだ。
 ロシア文字を知らなかったし、理解できなかったが、しかし、「そこには、『万国の労働者よ、団結せよ!』とあるのが分かった。宗教人が処女マリアを一瞬見たときに感じたかもしれないような、打ち負かされるような、表現できない感情が襲った。私は、私の新しい世界へと、入り込んだ」(p.12)。
 ・さかのぼって、ドイツ・ベルリンにいた6歳のときのことを、こう綴っている。
 「レーニンが死んだとき〔1924年1月-秋月〕、6歳だった私は、つぎのことで慰められた。
 レーニンの弟のK・レーニン(カリーニンのこと)がその代わりになり、全く理解できないではない謎かけではなくて、<レーニンは死んだ。しかしレーニン主義はまだ生きている>と分かりやすく表現してくれた。」(p.25)
 このとき彼はすでに、レーニンの名を知っていた。さらに、ソヴィエトの一ダースほどの指導者の名前を知っていた、ともある(同上)。

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1468/第一次大戦と敵国スパイ③-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。③
 パルヴゥスの申し出を拒否はしたが、レーニンは、あるエストニア人、アレクサンダー・ケスキュラを通してドイツ政府との政治的かつ金銭的な関係を維持した。(*1)
 ケスキュラは1905-7年に、エストニアのボルシェヴィキの指導者だった。 
 彼はのちに、エストニアの熱心な愛国者となり、母国の独立を目指そうと決心していた。
 帝制ロシアの打倒はドイツ軍によってのみ達成されるとパルヴゥスのように考えて、ケスキュラは大戦の勃発の際に、ドイツ政府にその身を委ね、その諜報機関に加わった。
 ドイツの援助を受けて、彼はスイスやスゥェーデンの外からロシア移民からロシア内部の状況に関する情報を確保したり、ボルシェヴィキの戦争反対文献をそれらの国へとこっそり輸入したりする活動をした。
 1914年10月にケスキュラはレーニンと逢った。ケスキュラは、帝制体制の敵およびエストニアの潜在的な解放者として彼〔レーニン〕に関心をもっていた。
 かなりの年月を経てケスキュラは、自分はボルシェヴィキを直接には財政支援しなかった、そうではなく間接的にその金庫に寄付をして、出版物の刊行を援助したのだ、と主張した。
 これらはいつでも、困窮化しているボルシェヴィキ党を支援する重要な財源だった。しかし、ケスキュラは、レーニンに直接に援助したかもしれない。
 明らかにケスキュラの要請に応えて、レーニンは1915年9月に、彼に奇妙な七点の綱領的な文書を与えた。それは、革命的ロシアがドイツとの講和を準備する条件を概述するものだった。
 この文書は第二次大戦のあとで、ドイツ外務省の建物の文書庫で発見された。(++)
 この存在は、レーニンがケスキュラをたんなるエストニアの愛国者ではなくてドイツ政府の工作員(agent、代理人)だと見ていたことを示している。
 ロシアの内部事情に関係がある点(共和制の宣言、大財産の没収、八時間労働の導入、少数民族の自治)は別として、レーニンは、ドイツがすべての併合と援助を放棄した場合に分離講和の可能性があると確言した。
 レーニンはさらに、ロシア軍のトルコ領域からの撤退とインドへの攻撃を提案した。
 ドイツは確実にこれらの提案を心に留め、一年半後に、レーニンがその領土を縦断してロシアへと帰るのを許した。//
 ベルリン〔ドイツ政府〕から渡された資金を使って、ケスキュラは、レーニンとブハーリンの著作物をスウェーデンで発行すべく手配した。ボルシェヴィキ党員たちは、これらの本をロシアへとこっそり持ち込もうとした。
 このような援助金の一つを、あるボルシェヴィキ工作員が盗んだ。(129)
 レーニンは返礼として、ロシアにいる彼の工作員から送られたロシアの内部状況に関する報告書をケスキュラに進呈した。ドイツは、明白な理由で、この報告書に鋭敏な関心を寄せた。
 1916年5月8日付の配達便で、ドイツ軍参謀部の官僚は、東方面の破壊活動に責任をもつ外務省部局の職員に、以下のように報告した。
 『最近数ヶ月に、ケスキュラはロシアとの多くの関係を新しく開設した…。
 彼はきわめて有用なレーニンとの関係も維持しており、ロシアにいるレーニンの秘密工作員から送られた状勢報告の内容をわれわれに伝えた。
 ゆえにケスキュラには、引き続いて今後の必要な生活手段が与えられなければならない
 異常に不利な交換条件を考慮すれば、一月あたり2万マルクでちょうど十分だろう。』(*2)
 レーニンは、パルヴゥスの場合と同じく、ケスキュラとの関係について、生涯の沈黙を守った。そしてそれは、理解できる。その関係は、ほとんど大逆罪(high treason)に該当するからだ。//
 1915年9月に、スイスのベルン近くの村、ツィンマーヴァルトで、イタリアの社会主義者が発案した、インターナショナルの秘密会合が開かれた。
 ロシア人は、出席した二つの党派の社会民主党とエスエル党により、強い代表者を持った。
 集団は、すぐに二派に分裂した。より穏健派は、戦争を支持する社会主義者との連携を維持することを求めた。左翼派は、きつぱりと離別することを主張した。
 38代議員のうちの8名から成る後者を率いるのは、レーニンだった。
 多数派は、『帝国主義者(imperialist)』の戦争を内乱(civil war)に転化せよとのレーニンが提起した草案を拒絶した。危険であるとともに実現不能だ、という理由で。
 代議員の一人が指摘したように、そのような宣言に署名することは、母国に帰ったときに彼らを死に直面させることになるだろう。その間、レーニンはスイスでの安全を享受するとしても。
 レーニンの、国を愛する社会主義者が支配するインターナショナル委員会からの分裂要求も、却下された。
 そうであっても、レーニンはツィンマーヴァルトで敗北はしなかった (130) 。というのは、会議の公式な宣言文書はいくらかの言葉上の譲歩をレーニンにしており、各政府の継戦努力を支援する社会主義者を非難し、全諸国の労働者たちに『階級闘争』に加わるよう呼びかけていたからだ。(131)
 ツィンマーヴァルトの左派は、自分たちの声明文を発表した。それはより激しかったが、レーニンが欲したように、ヨーロッパの大衆に反乱へと立ち上がることを呼びかけるまでには至らなかった。(132)
 両派間の不一致の基礎にあるのは、愛国主義(patriotism)に対する異なる態度だった。ヨーロッパの多くの社会主義者は強烈にその感情をもっていたが、ロシアの多くの社会主義者は、そうでなかった。//
  (*1) ケスキュラについて、Michael Futrell in St. Antony's Papers, Nr.12, ソヴェト事情, 3号 (1962) , p.23-52。著者はこのエストニア人にインタビューする貴重な機会を得た。しかし、不運にも、いくぶん無批判に彼の証言を受け止めた。
  (+) Futrell, ソヴェト事情, p.47は、これはボルシェヴィキ指導者との唯一の出会いだと述べる。しかしそれは、ほとんどありえそうにないと思われる。
  (++) 1915年9月30日付、ベルンのドイツ大臣からベルリンの首相あて電信で再現されている[人名省略]。Werner Hahlweg, レーニンのロシア帰還 1917〔独語〕(1957) p. 40-43 (英訳、Zeman, ドイツ, p.6-7。)
  (130) 以下で主張されているように。J. Braunthal, 第二インターの歴史 (1967) , p.47。
  (*2) ドイツ参謀・政治局の Hans Steinwachs から外務部の Diego von Bergen 大臣あて。Zeman 編, ドイツ, p.17。スウェーデンに浸透していたレーニン組織の報告書から得たことを〔ケスキュラが〕仄めかしたとき、ケスキュラは Futrell に誤った情報を伝えた、ということをこの文書の言葉遣いは示している。Futrell, ソヴェト事情, p.24。
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 ④につづく。

1467/第一次大戦と敵国スパイ②-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。
 戦争が勃発するや、連合国〔仏、英ら〕および中央諸国〔ドイツ、オーストリアら〕のいずれの社会主義議会人も、公約に背いた。
 1914年夏に、彼らは情熱的に平和について語り、戦争継続に抗議して集団示威行進をする大衆を街路へと送り込んだ。
 しかし、交戦が始まったとき、彼らは列に並んで戦争予算に対して賛成票を投じた。
 とくに痛ましかったのは、ヨーロッパで最強の党組織を持ち、第二インターの背骨になっていたドイツ社会民主党の裏切りだった。
 戦争借款に対して彼らの議員団の全員が一致して賛成したのは驚くべきことで、かつ、分かったことだが、社会主義インターナショナルに対するほとんど致命的な一撃だった。//
 ロシアの社会主義者は、西側にいる同志たちよりも、インターの公約を真面目に考えていた。一つは、母国での社会主義の源が浅く、母国を愛する誇りがほとんどなかったこと、もう一つは、シュトゥットガルトの決定が想定した『戦争によって生じる経済的かつ政治的な危機』を利用すること以外に権力へと到達する機会はないことを知っていたこと、による。
 プレハーノフやL・G・ダイヒのごとき社会民主主義運動の長老者および軍事衝突で愛国的感情に目覚めた多くの社会主義革命党員(ザヴィンコ、ブルツェフ)から離れて、ロシア社会主義の著名人の多くは、インターナショナルの戦争反対決定に忠実なままだった。
 第四ドゥーマの社会民主党および Trudovik(エスエル)議員団は、全員一致して戦争借款に反対票を投じて、このことを証明した。-これは、セルビアの社会民主党を除けば、ヨーロッパでただ一つの議会人の行動だった。//
 スイスに到着したレーニンは、『ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義者の任務』と呼ばれる綱領的声明を起草した。(124)
 ドイツ、フランスおよびベルギーの指導者を裏切りだと非難したあとで、レーニンは、非妥協的にラディカルな立場を概述した。
 『任務』の第6条には、つぎの提案が含まれていた。//
 『労働者階級および全ロシア人民の被搾取大衆の視座から見ると、最も害悪ではないことは、ポーランド、ウクライナ、および多数のロシア人民…を抑圧している皇帝君主制とその軍の敗北である。』(*1)
 その他のいかなる主要なヨーロッパの社会主義者も、自分の国が戦争で敗北することに賛成だとは公言しなかった。
 ロシアの敗北を支持するレーニンの驚くべき主張は不可避的に、彼はドイツ政府の工作員だという非難をもたらした。(+) 
 戦争に関するレーニンの言明の実際上の結論は、このテーゼの第7条と最後の条で述べられていた。その内容は、『全ての国家の反動的でブルジョア的な政府と政党』に対する内戦を解き放つために、戦争をしている諸国の民間人や軍人の間で精力的な扇動と組織的な宣伝活動を行う、というものだった。
 この文書の模写物はこっそりとロシアに持ち込まれ、帝国政府が<プラウダ>を廃刊させ、ドゥーマのボルシェヴィキ議員たちを逮捕する根拠になった。 
 この事件でボルシェヴィキを弁護した法律家の一人は、アレクサンダー・ケレンスキーだった。 
 生命を落とす可能性がある大逆(treason)という罪で審問され、ボルシェヴィキたちは判決により追放された。これは、二月革命まで、党をほとんど舞台の外に追い出した。//
 レーニンの綱領の重点は、社会主義者は戦争を終わらせるためにではなく、自分たち自身の目的で戦争を利用するために奮闘すべきだ、ということにあった。レーニンは1914年10月に、つぎのように書いた。
 『「平和」というスローガンは、この瞬間では、誤っている。
 このスローガンは、ペリシテ人と聖職者のスローガンだ。 
 プロレタリアートのスローガンは、こうでなければならない。内戦(civil war、内乱)、だ。』//
 レーニンは、戦争の間ずっと、この定式に忠実であろうとした。
 もちろん中立国スイスでは、戦闘中のロシアにいる彼の支持者たちに比べれば、レーニンの身はかなり安全に守られた。//
 レーニンの戦争に関する綱領を知ると、ドイツは熱心に彼を自らのために利用しようとした。ロシア帝国軍の敗北を主張することは、結局のところ、ドイツの勝利を支持するのと全く同じことだ。
 ドイツの主要な媒介者は、パルヴゥスだった。このパルヴゥスは、1905年のペテルスブルク・ソヴェトの指導者の一人で、『連続革命』理論の創始者だったが、最近はウクライナ解放同盟の協力者だった。
 パルヴゥスは、きわめて腐敗した個性をもつとともに、ロシアの革命運動上、最も大きな知性をもつ知識人の一人だった。
 1905年の革命が失敗したあとで彼は、ロシアでの革命の成功はドイツ軍の助けを必要とする、という結論に達した。ドイツ軍だけが、帝制を打倒することができる。(*2) 
 パルヴゥスは、その政治的関係を使って相当の財産を蓄え、ドイツ政府に身を任せた。
 戦争勃発の際、彼はコンスタンチノープルに住んでいた。 
 パルヴゥスは、その地のドイツ大使と接触し、ドイツの利益を促進するためにロシアの革命家を利用するときだと、概述した。
 その論拠は、ロシアの過激派は、帝制が倒れてロシア帝国が破滅する場合にのみその目的を達成することができる、ということだった。この目的は偶然にだが、ドイツにとっても都合がよい。『ドイツ政府の利益は、ロシアの革命家たちのそれと一致している』。
 パルヴゥスは、金を求め、かつ左派のロシア移民と連絡をとることの承認を求めた。(126)
 ベルリン〔ドイツ政府〕に奨められて、彼は1915年5月に、ツューリヒにいるレーニンと接触した。パルヴゥスは、ロシア移民の政界に通暁していたので、レーニンが左翼の鍵となる人間であることを知り、もしも自分がレーニンを獲得すればロシアの残りの戦争反対左翼は一線に並ぶだろうことが分かった。(127)
 この企図は、さしあたりは、失敗した。
 レーニンがドイツと取引きすることに反対したというのでも、ドイツから金をもらうことが不安だったわけでもない。-この失敗は、レーニンが、社会主義の教条に対する裏切り者、変節者、『社会主義狂信愛国者(socialist chauvinist)』と交渉しようと思わなかったことによるだけだ。
 パルヴゥスの伝記作者は、その個人的な嫌悪感に加えて、レーニンはつぎのように考えたのではないかと示唆している。すなわち、レーニンは、もしもパルヴゥスと交渉すれば彼〔パルヴゥス〕が『そのうちにロシアの社会主義組織の支配権を獲得し、その財産資源と知的能力を使って他の全ての政党指導者を打ち負かしてしまう』ことを恐れた、と。(128) 
 レーニンは、このパルヴゥスとの出会いについて、公にはいっさい言及しなかった。//
  (*1) レーニンはロシアのウクライナに対する『抑圧』と強調して当惑させているが、それは少なくとも部分的には、レーニンのオーストリア政府との金銭上の協定によって説明されるものでなければならない。レーニンは、ウクライナもオーストリアの支配から解放されるべきだと要求しはしなかった。
  (+) この点についての告発は、警察官僚について日常的によく知っているスピリドヴィッチ将軍によってなされた。彼は、証拠を提出しないでつぎのように主張する。
 1914年の6月と7月にレーニンは二度ベルリンへと旅行したが、ドイツ人とともにロシア軍背後での反ロシア的活動計画を作るためで、その対価として7000万マルクがレーニンに支払われることになっていた、と。
 Spiridovich, ボルシェヴィズムの歴史, p.263-5。
  (*2) パルヴゥスは事態を見て自分の正しさが分かったと感じた。彼は1918年に、1917年の革命に言及して、以下のように書いた。
 『プロシア〔ドイツ〕の銃砲は、ボルシェヴィキのビラよりも大きな役割を果たした。とりわけ思うのは、もしもドイツ軍がヴィステュラ(Vistula〔ポーランドの河〕)に達していなかったら、ロシアの移民たちはまだ放浪し、自分で苦しんでいただろう、ということだ。』
  (126) Zeman 編, ドイツとロシアでの革命, 1915-18 (1958), 1915年1月の配達便, p.1-2。
  (127) パルヴゥスのレーニンとの出会いについて、Zeman and Scharlau, 商人, p.157-9。
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 ③につづく。

1446/レーニンの個性③-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
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 レーニンは最初の重要な国際主義者であり、国境は別の時代の遺物で、ナショナリズムは階級闘争の中の気晴らしとする世界的革命家だった。
 彼には、母国ロシアでよりもドイツでの方が疑いなかっただろうが、対立が生じているいかなる国でも、革命を指導する心づもりがあった。
 レーニンは成人となっての生活のほとんど半分を国外ですごし(1905-7年の二年間を除く1900年から1917年)、母国に関して多くのことを知る機会がなかった。『ロシアについて少しだけ知っている。ジンビルスク、カザン、ペテルスブルク、流刑-これで全てだ。』(34)
 彼はロシア人を低く評価し、怠惰で、優しく、そしてとても賢くはないと判断していた。 レーニンはゴールキに語った。『知識あるロシア人は、ほとんどつねにユダヤ人か、あるいはその系統にユダヤ人の血をもつ誰かだ。』(35) 
 彼は母国への郷愁という感情を知らない者ではなかったけれども、ロシアは彼にとって、最初の革命的変革の偶然的な中心であり、その渦は西側ヨーロッパになければならない真実の革命への跳躍台だった。
 1918年5月に、ブレスト=リトフスクでドイツに対して行った領土の譲歩を弁護して、レーニンは主張した。『この譲歩は国家の利益ではなく、社会主義の利益、国家の利益に優先する国際社会主義の利益のためだ』。(36) //
 レーニンの文化的素養は、同世代のロシアの知識人と比べればきわめて平凡なものだった。 
 彼が書いたものは表面的にだけはロシアの古典文学に慣れ親しんでいたが(ツルゲーネフを除く)、そのほとんどは明らかに中学生のときに得たものだった。
 レーニンとその妻の近くで働いたタチアナ・アレクシンスキーは、彼らは一度も演奏会や劇場に行かなかった、と記した。(37)
 レーニンの歴史に関する知識は、革命の歴史以外については、やはりおざなりのものだった。
 彼は音楽が好きだったが、同時代の人々を魅惑し驚かせた禁欲主義に沿って、それを抑えようとした。 
 レーニンはゴーリキに語った。//
 『音楽をたくさん聴くことはできない。それは神経を逆撫でする。
 馬鹿げたことを話したり、薄汚い地獄のような所に住んでこんな美しいものを創作できる人々に優しくすることの方が好きだ。
 今日は誰にも優しくする必要はないから、彼らはあなたの手を齧りとるだろう。
 あらゆる暴力に対面したとしてすら、想像上は、人は頭を容赦なく割らなければならない。』(38) //
 ポトレソフは、25歳のレーニンとは一つのテーマ、『運動』、についてだけ討論できる、ということに気づいた。
 レーニンは他の何にも関心がなく、何かについて語ることにも関心がなかった。(*)
 要するに、多面性のある人物と呼ばれる者では全くなかった。//
 この文化的素養のなさは、しかし、革命家の指導者としてのレーニンが持つ強さのもう一つの源泉だった。というのは、もっと素養がある知識人ではなかったので、彼は頭の中に、決意に対してブレーキのように作用する、事実や観念が入った過大な荷物を運び込まなかったから。 
 レーニンの指導者のチェルニュインスキーのように、彼は異なる意見を『たわごと』だと却下し、嘲笑の対象とする以外は、考慮することすら拒否した。
 彼が無視したり、その目的に応じて解釈し直したりするのは、都合の悪い事実だった。 反対者が何かに間違っていれば、その者は全てについて間違っていた。レーニンは、抵抗する党派に、いかなる美点も認めなかった。
 レーニンの討論の仕方は極度に戦闘的だった。マルクスの格言、すなわち批判は『外科用メスではなく兵器だ』を、完全にわが身のものにしていた。
 その武器の相手は敵で、武器は反駁するのではなく破壊することを欲するものだった。(39)
 このような考え方にもとづいて、反対者を徹底的に打倒するために、レーニンは言葉を飛び道具のごとく用いた。しばしば、反対者の誠意や動機に対するきわめて粗雑な人身攻撃という手段によって。
 ある場合、政治的目的に役立つときには、誹謗中傷を言い放ったり労働者を困惑させるのは間違っていない、と考えていることを認めた。  
 労働者階級に対する裏切りだとメンシェヴィキを非難して、1907年にレーニンは、社会主義者の裁きの場に連れてこられ、恥ずかしげもなく名誉毀損の責任を認めた。//
 『このような言葉遣いをしたのは、いわば読者に憎悪、革命心、このように振る舞う人間への侮蔑心を喚起するのを計算してだ。
 この言い方は、説得するためではなく、彼らの隊列をやっつけるために計算したものだ-反対者の誤りを訂正するのではなく、破壊し、その組織を地表から取り去るためのものだ。
 この言い方は、実際に、反対者には最悪の考えを、まさに最悪の懐疑心を喚起し、実際に、説得したり訂正したりする言い方とは違って、<プロレタリアートの隊列に混乱の種を撒く>。   
 …一つの党のメンバーの間では許されなくとも、分解していく党の部分内では許されるし、必要なのだ。』(40) //
 レーニンはこうしていつも、フランス革命の歴史家であるオーギュトト・コシンが『 乾いたテロル』と呼んだものに執心した。そして、『乾いたテロル』から『血塗られたテロル』へはもちろん、ほんの短い一歩だった。
 同僚の社会主義者はレーニンに、反対者(ストルーヴェ)に対する節度を欠く攻撃は、きっと誰か労働者に憤怒の対象を殺させることになると警告した。それに対してレーニンは落ち着いて答えた。『その男は殺されるべきだ』。(41)//
 成熟したレーニンは一つの工芸品でできていて、その人格は強い安堵感と離れた別の場所にあった。
 彼がボルシェヴィズムの原理と実践をその30歳代早くに定式化したあとでは、彼は異なる考えが貫き通ることのない、見えない防護壁で囲われた。
 そのときからは、何も彼の心性を変えることができなかった。
 マルキ・ド・キュスティンが、自分に告げるものを除いて全て知っている、と言った人間の範疇に、レーニンは属していた。
 レーニンに同意するのであれ、彼と闘うのであれ、不一致はつねに彼の側に、破壊的な憎悪とその反対者を『地表から』『除去』しようとする衝動を呼び覚ました。
 これは、革命家としての強さであり、政治家としての弱さだった。戦闘では無敵だったが、レーニンは、人類を理解し、指導するために必要な人間的性質を欠いていた。
 結局のところ、この欠陥が、新しい社会を創ろうとする彼の努力を打ち砕くだろう。人々がどのようにして平和に一緒に生きていけるかについて、レーニンはまったく理解することができなかったのだから。//
  (*) Tatiana Aleksinskii は同意する。『レーニンにとって、政治はあらゆるものに超越していて、他の何かの余地は全くない。』
  (39) カール・マルクス, ヘーゲル法哲学批判。
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 第4節につづく。

1433/ロシア革命史年表②-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.849-p.850。
 /の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。
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 1906年
  3月 4日 集会と結社の権利を保障する法令発布。
   4月16日 ウィッテが閣僚会議議長を退任、ゴレミュイキンと交代。
  4月26日 新基本法(憲法)公布される。ストルイピン、内務大臣に。
  4月27日 ドゥーマ、開会。
  7月 8日 ドゥーマ、閉会。ストルイピン、閣僚会議議長に指名される。
  8月12日 社会主義革命党原理主義者、ストルイピンの生命を狙う。
  8月12日・27日 ストルイピンの第一次農業改革。
  8月19日 民間人対象の軍法会議の提案。
 11月 9日 ストルイピンの共同体的土地所有に関する改革。
 1907年
  2月20日 第二ドゥーマ、開会。
  3月    ストルイピン、改革綱領を発表。
  6月 2日 第二ドゥーマ、閉会。新選挙法。
 11月 7日 第三ドゥーマ、開会。1912年までの会期。
 1911年
  1月-3月 西部のZemstvo の危機。
  9月 1日 ストルイピン、射撃され、4日後に死亡。ココフツォフが後継者。
 1912年
 11月15日 第四(そして最後の)ドゥーマ、開会。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキの最終的な分裂。
 1914年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長に。
  7月15日/28日 ニコライ、部分的な戦争動員を命令。
  7月17日/30日 ロシア総動員令。
  7月18日/31日 ドイツ、ロシアに対する最後通告。
  7月19日/8月1日 ドイツ、ロシアに戦争を宣言(宣戦布告)。
  7月27日 ロシア、ルーブルの交換を停止。
  8月    ロシア軍、東プロシャおよびオーストリア・ガリシアへと侵攻。
  8月末   ロシア軍、東プロシャで敗退。
  9月 3日 ロシア軍、オーストリア・ガリシアの首都、レンベルク(ルヴォウ)を奪取。
 1915年
  4月15日/28日 ドイツ、ポーランドでの攻撃に着手。
  6月11日 スコムリノフ、戦争大臣を解任され、ポリワノフに交替。
  6月    さらに内閣人事の変更。
  6月-7月 進歩的ブロックの形成。
  7月    国家防衛特別会議の創設。軍需産業委員会を含むその他の会議・委員会が、戦争行動の助力のため従う。
  7月9日/22日 ロシア軍、ポーランドからの撤収を開始。
  7月19日 ドウーマが6週間、再開される。ロシア兵団、ワルシャワから逃亡。
  8月21日 ほとんどの大臣、ニコライにドゥーマによる内閣の形成を要望。
  8月22日 ニコライ、個人的にロシア軍団司令権を握り、モギレフの総司令部へと出発。
  8月25日 進歩的ブロック、9項目綱領を公表。
  8月    政府、全国Zemstvo と地方会議組織の設立を承認。
  9月 3日 ドゥーマ、閉会。
  9月    戦争反対社会主義者のツィンマーヴァルト(Zimmerwald)会議。
 10月    中央労働者集団の設立。
 11月    Zemstvoの全国統一委員会(Zemgor)が創設される。
 1916年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長を、ステュルマーと交代。
  3月13日 ポリワノフ、戦争大臣を解任され、シュヴァエフと交代。
  4月    戦争反対社会主義者のキーンタール(Kiental)会議。    
  5月22日/6月4日 ブルシロフの攻撃、開始。
  9月18日 プロトポポフ、内務大臣代行に。12月に内務大臣に昇格。
 10月22-24日 カデット党大会、来るドゥーマ会期での論争戦術を決定。
 11月 1日 ドゥーマ、再開会。ミリュコフ、政府中枢での裏切りを示唆。
 11月8-10日 ステュルマー、解任される。
 11月19日 A・F・トレポフ、閣僚会議議長に。ドゥーマに協力要請。
 12月17日 ラスプーチンの殺害。
 12月18日 ニコライ、マギレフを離れ、ツァールスコエ・セロに向かう。
 12月27日 トレポフ、解任され、ゴリツィンと交代。」
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 *1917年以降につづく。

1323/日本共産党こそ主敵-10人に1人以上が投票する「左翼」の総本山。

 日本共産党と同党員こそが主敵だというのは、むろん、中国・同共産党や「左翼」的アメリカ(あるいはアメリカの「左翼」)が味方であるという意味ではない。これらは十分に「敵」だ。だがしかし、日本国内にいる同類の組織や人間たちを批判しないでおいて、反中国や反米国だけをいくら説いてもほとんど空しいように思える。
 政権に加担したことがない日本共産党くらいを批判し、攻撃し、そして弱体化させることができないで、どうして中国・同共産党や「左翼」的アメリカ(あるいはアメリカの「左翼」)に勝てるのだろうか。
 中国や中国共産党を批判するまたは批判的に分析する(日本人による)書物・論考は少ないとは言えないだろうが、なぜそうした書物・論考はほとんど、日本共産党にも批判の眼を向けていないのだろう。
 無視してよいくらい、日本の共産党は微少な政党なのだろうか。
 2014年12月の総選挙(衆議院議員)における得票数・率を、日本共産党と自由民主党のみについて、小選挙区・比例区の順に比べる。数は1万以下を、率は1%以下を四捨五入。
 小選挙区  日本共産党  704万 13%
         自由民主党 2546万 48%
 比例区  日本共産党  606万 11%
         自由民主党 1766万 33%
 保守派の人々、論壇人あるいは「保守」系のつもりの出版社・新聞社は、 日本共産党が自民党と比較して比例区ではほぼちょうど1/3の、小選挙区では27%の得票を得ていることを意識しているだろうか。
 日本共産党は選挙で自民党のせいぜい10%・一割程度しか得票していない、と思っているとすれば大間違いだ。
 また、投票有権者の10人に1人以上は日本共産党の候補者の名をまたは日本共産党という党名を書いている、という現実を無視できないことは、当たり前だろう。
 日本共産党がこの程度は力を持っているからこそ、朝日新聞・岩波書店内やABC・TBS内の「左翼」は(党員がいることも間違いない)、あるいは非共産党系の論壇人・評論家・学者研究者類は、「安心して」、日本共産党と全く同じ又は同工異曲の 「左翼」的言辞を吐けるのだ。
 イタリアにはもはや共産党は存在せず、かつて社会党と共闘してミッテラン大統領を生み出したフランス共産党も今日ではわずか数%の得票率しか得ていない。
 その他のサミット構成国でいうと、アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツにはもともと(大戦後は)、少なくとも合法的には共産主義・社会主義を目指すことを目標として明記する政党(共産党)は存在しない。
 八百万の神の国のためなのだろうか、日本人らしい鷹揚さ・寛容さのためもあるのだろうか。社会全体が、そしてまたいわゆる「保守」あるいは<自由主義>の陣営もまた、自民党ももちろん含めて、少しは異様だ、と感じなければならないと思う。

1098/月刊WiLLの藤井聡論考による誤解・謬論の蔓延?

 〇忘れかけていたが、「投稿」欄を見て思い出したので、再び触れる。
 月刊WiLL4月号(ワック)掲載の藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」について<アホ丸出し>と批判して、具体的指摘もした。表現はいささか下品ではあるが、評価に変わるところはない。
 月刊WiLL5月号(同)を見ると、「藤井氏提言に感銘」と題された一読者の投稿文が掲載されている。それによると、投稿者は藤井の「姿勢に心強いものを感じ」ているそうで、とくに次の文を引用して「国家的見地からの国民の利益、幸福を願う思いを強く感じた」と書いている(p.322)。
 「中央集権は悪でも何でもないし。地方分権が善でも何でもない。国家・国民のためには中央集権あっての発展・成長が多々あり、双方のバランスが大切である」(じつは原文と同一ではないが、ほぼ同じ文章が刊WiLL4月号p.202)にある。
 感銘を受けるのはけっこうなことだが、しかし、「双方のバランスが大切」、原文では中央集権と地方分権の「不適切なバランスが悪」で「両者の間の良質なバランスが善」だ、と藤井が言っていることは、誰でも言える、当たり前のことにすぎない
 一般論として橋下徹や大阪維新の会が「中央集権は悪」で「地方分権が善」などとは主張していないはずだ。そのように誤解される部分があるとすれば、それは、日本という国の、戦後の現在という時点での、国政を担う特定の集団(国会議員や国の行政官僚等)を念頭において、<地方分権>の方を重視した主張をしているにほかならないからだろう。
 この点ですでに上の藤井の文章は橋下徹批判になっていないのだが、既述のように橋下徹らは中央集権=国の役割を否定し、「国家」を解体しようとてしいるわけでもない。外交・防衛・通貨発行権等を橋下らは語っていたかと記憶する。
 というわけで、拙劣な・不勉強の藤井論考だけを読んで、橋下徹らの考え方・政策を誤解する人たちがいるとすれば、困ったことだ、言論人の一人のはずの藤井聡の責任は大きい、と感じる。
 加えて、同じ投稿者は次のように書いているが、藤井に影響を受けたのかもしれない―従って藤井の責任が大きい―誤った考え方だ、と思われる。
 すなわち、「地方分権論、道州制の強化は、ますます地方を窮地に追い込むこと必定である。そのような事態にならないよう…」。
 上記のとおり必要なのは「バランス」なので、一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならない、と思われる。
 問題は「強化」の具体的程度・中身にある、と言ってもよい。
 民主党のいう「地方主権」論には、「主権」概念の使用について問題があるが、「地方分権」自体は、現憲法に「地方自治」という章(第八章)があるほどに法的に根付いた(はずの)もので、一般的に批判することはできない(問題はその程度だ)。
 また、道州制にしても、もともとはたしか関経連という財界・経済界が主張した、「保守(・反動)」の側からの「地方自治」破壊論とすら(少なくとも「左翼」からは)目されたもので、「国(国家)」の役割を否定したり無視したりする議論ではまったくない(問題はその具体的な制度設計だ)。
 「地方自治」を重視し「地方」に権限・財源をより多く配分しようとする議論が、自民党政府時代に、ある程度は<政治的に>(つまり憲法解釈論を部分的には超えて)とくに「左翼的」学者によって少なからず唱えられたことは承知しているが、そのような時代と同じように<地方分権>論を「左翼」的だと反発するのは、「左翼」・民主党が国政を担っている時代には、必ずしもそぐわないだろう。
 あるいは逆に、民主党政権だからこそ、橋下徹らは<地方分権>の方を重視するような主張の仕方をしているのだ、と理解することが、少なくともある程度はできる。
 問題は、現実の時代・政治状況を前提として議論されなければならない。一般論としていえば藤井の書くとおり「バランス」が問題なのであり、片方の「強化」も、その具体的意味・内容が明らかにされていないかぎり、論評の仕様がない。上記のとおり一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならないはずで、このような誤解を与えたとすれば、藤井に責任があると言えるだろう。
 〇具体的な国、時代、政治状況を前提にしてはじめて<地方分権>論等の是非も議論できることは、外国の例を見ても分かる。
 古い知識だが、ミッテラン大統領までのフランスはきわめて中央集権的で(=パリ中心で)、「県」知事も戦前の日本と同様に国の任命の国家公務員だったはずだ。現在は多少は地方分権の要素が増大したとされている。
 一方、隣国のドイツはドイツ連邦共和国という国名のとおり連邦制をとる。ということは、連邦のもとに「州(・邦・国)」=ラント(Land)があり、その下に市等の基礎的自治体(Gemeinde)がある。そして、「州」ごとに憲法があり、州ごとに(州法律としての地方自治法にもとづいて)異なる基礎的自治体制度(狭義の地方制度)があり、例えば市長の選び方も州によって異なり、また教育事務は連邦ではなく州が行い、連邦には教育(文部科学)大臣はいない。若干の例を挙げただけだが、フランスと比べれば、もともとドイツは<地方分権>的だ。
 そして、アメリカも同様だが、連邦制を採っているということは、上に州(国)が憲法まで持つ(そして州法律まである)と書いたように、ドイツは、日本でいわれる<道州制>以上に、<分権>的なのだ。
 でははたして、ドイツにおいて国家=連邦は「解体」されているだろうか。そんなことはないことは誰でも知っているだろう。
 地方分権や道州制が、あるいはその強化が「国家」全体を解体させるとか弱体化させるという議論は、一般論としていえば、謬論(誤った見当はずれの議論)にすぎない。
 イギリスもまた「連合王国」と言われるように、少なくともイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという、「国家」の中の「国(・州)」で成り立っていて、日本よりも―ドイツと同じく日本よりも人口は少ないが―<分権>的だ。だからといって、イギリスに中央政府がないとか、「国家」が全体として解体または弱体化しているというわけではない。

 このように若干の国を見ても地方(分権)制度は多様なのだが、それぞれの国の歴史、地理的条件、成り立ち等に由来するもので、「国家」全体の観点からしても、どれが最も優れている、ということにはならない。
 〇大学理科系学部出身の藤井聡はおそらく、上のような具体的なことも何ら知らないで、月刊WiLLの論考を書いている。
 今の日本の、具体的状況の中で、地方分権も「道州制」も議論する必要がある(都道府県制度は明治以降の長い歴史をもつが、いずれ「道州制」に向かわざるをえない時期が来るのではないかと、おそらくは橋下徹と同様に私も予想している)。
 ついでながら、最近に論及した雑誌・撃論+の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」には東京都に独特のシステムとしての「都区財政調整制度」への言及がある。これが<大阪都>においてもそのまま適用されるかどうかは問題だが、ともあれ、藤井聡は「都区財政調整制度」なるものとその内容を知っているのだろうか。専門家面するならば、この程度の知識は持った上で、地方自治・地方分権・大都市制度等に関する文章を書いていただきたいものだ。

1025/非常事態への対応に関する法的議論。

 <保守>派に限られるわけでもないのだろうが、ときに奇妙な<法的>言説を読んでしまうことがある。
 表現者37号(ジョルダン、2011年7月)の中の座談会で、柴山桂太(1974~、経済学部卒)は、こんな発言をしている(以下、p.46)。
 「今回の大震災に関しても、…、復旧に関しては、ある程度超法規的措置をとらなければいけない。本来であれば国家が、非常事態で一時的に憲法を停止して…それで対応しなければいけないんだけれども、日本ではそれが出てこない。そもそも戦後憲法に『非常事態』というものに対する規定がないからです」。「日本は近代憲法を受け入れたんだけれども…、平時が崩れた時にどうするかという国家論の大事な部分を見落としてきたという問題も出てきている…」。
 問題関心は分からなくはないが、俗受けしそうな謬論だ。この柴山という人物は憲法と法律を区別しているのか(その区別を理解しているのか)、「超法規的措置」という場合の「法規」に憲法は含まれるのか否か、といった疑問が直ちに生じる。
 そして、「一時的に憲法を停止」しなければ非常事態に対処できないという趣旨が明らかに語られているが、これは誤りだ。
 憲法に非常事態(あるいは「有事」)に関する規定がなくとも、あるいは憲法を一時的に「停止」しなくとも、憲法とは区別されるその下位法である法律のレベルで、<非常事態>に対処することはできる。
 なるほど日本国憲法は「非常事態」に関する規定を持たないが、1947年時点の産物とあればやむをえないところだろうし、ドイツ(西)の憲法(基本法)もまた、当初から非常事態(Notstand)に関する規定を持ってはいなかった(彼我の現在の違いは改正の容易さ-いわゆる硬性憲法か否かによるところも大きいだろう)。
 憲法が非常事態に対処するための法律を制定することを国会に禁止しているとは解せられないので(実際に、いくつかの「有事」立法=法律およびそれ以下の政令等が日本にも存在している。但し、いわゆる「有事立法」は自然災害を念頭には置いていない)、自然災害についても、現行法制に不備があれば法律を改正したり新法律を制定すれば済むことなのだ。
 ともあれ、憲法に不備があるから非常事態に対応できない、というのは(不備は是正されるのが望ましいとは言えても)、真っ赤なウソだ。
 JR系の薄い月刊誌であるウェッジ7月号(2011)の中西輝政「平時の論理で有事に対処/日本は破綻の回路へ」も、今回のような大災害に遭遇したとき、本来は「国家非常事態」を宣言して「平時の法体系とは別の体系」に移行すべきだったが、戦後日本の憲法には「そんな条項」はなく、「従って非常法体系も備わってはいなかった」と、柴山桂太と似たようなことを書いている(p.9)。
 しかし、<憲法の一時停止>に(正しく)言及してはおらず、「平時の法体系とは別の体系」・「非常法体系」とは法律レベルのものを排除していない、と解される点で(日本国憲法に触れているために少し紛らわしくなってはいるが)、基本的には誤っていない。
 上のことは、中西輝政が「現行法にもある災害対策基本法第105条」に(正しく)言及していることでも明らかだ。
 次の機会に、「現行法」制度の若干を紹介し、それを菅直人内閣が適切に執行・運用しているかどうかという問題に言及する。これは、 阿比留瑠比も含む「政治部」記者が―法学部出身であっても―十分には意識していない(または十分な知識がない)問題・論点であり、震災に関するマス・メディアの報道に「法的」議論がほとんど登場してこない、という現代日本の異様な状態にも関係するだろう。

0862/外国人(地方)参政権問題-月刊正論・長尾一紘論考と産経新聞4/11記事。

 月刊正論5月号(産経)の長尾一紘「外国人参政権は『明らかに違憲』」p.55に以下の趣旨がある。
 <「許容説はドイツにおいて少数説」だ。当時(1988年)も現在も「禁止説が通説」。マーストリヒト条約によりEU内部での「地方選挙権の相互保障」を認め合うこととなり、ドイツでは「憲法改正が必要」となった。その結果、「EU出身の外国人」の地方参政権は「与えてよい」ことになった。「その他の国からきた外国人」については現在でも「憲法上禁止されていると考えられて」いる。>

 この叙述とはニュアンスと内容のやや異なる情報が、産経新聞4/11付に載っている。「外国人参政権/欧米の実相」の連載の一つだ。「『招かれざる客』めぐり二分」との見出しの文章の中に以下がある(署名、ベルリン・北村正人)。

 <ドイツでは80年代にトルコ人が地方選挙権を求めて行政訴訟を起こし、「法改正により外国人に地方…選挙権を与えても」違憲ではないとの判決があった。そこで、社民党政権の2つの州で外国人地方参政権付与の「法改正」があった。

 だが、保守系〔CDU・CSU、ちなみにメルケル現首相はCDU〕連邦議会議員らが「違憲訴訟」を起こし、連邦憲法裁判所は90年に「国民」=「国籍保有者」として、2州の「法改正」を「違憲」とした。

 現在、「左派党」政権の3つの州が「定住外国人に地方参政権を付与する」連邦憲法(基本法)改正案を連邦参議院(秋月注-ベルリンに連邦議会とは別の場所にある第二院で各州の代表者たちから成る)が「発議」している。>

 現在は憲法裁判所判決の結果として憲法(基本法)の解釈による付与の余地がないので、付与の方向での憲法(基本法)自体の改正の動きが一部にはある、ということのようだ(その運動議員の考えと写真も紹介されている)。

 なるほど「少数説」だったかもしれないが、かつて西ドイツ時代の11州のうち2州は(連邦憲法裁判所の「違憲」判決が出るまでは)外国人に「地方選挙」の「選挙権」を認める、という<実績>まであったのだ。当然に、それを支える法学者たちの見解もあったに違いない。また、<左派>の社民党(ドイツ社会民主党)や現在の「左派党」〔または「左翼党」、die Linke〕が付与に熱心だということも、日本と似ていて興味深い。

 この「記事」中、「法改正」とは「州法律」の「改正」のことだろう。「地方選挙」が何を指しているかはよく分からない。「州」議会議員選挙は含まず、記事中に引用の連邦憲法中の「郡および市町村」〔Kreis、Gemeindeの訳語だと思われる〕の議会の議員の選挙なのだろう。ドイツの州は連邦を構成する「国」ともいわれ、「地方」ではなさそうなので。また、「選挙権」とだけ書いているので、被選挙権を含んでいないのだろう。

 ともあれ、上の二つの種類の情報を合わせて、ドイツのことはある程度詳しく分かった。

 両者には、とくにドイツの現在の法的状況について、異なるとも読めるところがあるようだ。現在ベルリンにいるらしい産経・北村の方が正確または詳細かもしれない。
 以上は感想のみだが、この外国人参政権問題についてはさらに別の機会に触れる。

0678/佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)を読む-その3・現憲法の「正当性」。

 佐伯啓思・現代日本のリベラリズム(講談社、1996)には、佐伯にしては珍しく、日本国憲法の制定過程にかかわる叙述もある。
 ・日本国憲法は形式的には「明治憲法の改正」という手続をとった。これは、イタリア・ドイツと異なる。イタリアでは君主制廃止に関する国民投票がまず行われ、その廃止・共和制採用が多数で支持されたあとで、「憲法会議」のもとの委員会により新憲法が作成された(1947年)。ドイツでは西側諸国占領11州の代表者からなる「憲法会議」により「基本法」が策定された(1949年)。
 ・日本国憲法の特徴は、内容以前に「正当性の形式」に、さらに言えば「正当性という問題が回避され、いわばごまかされた」点にある。明治憲法の「改正」形式をとることにより、「正当性」を「正面から議論する余地はなくなってしまった」。
 ・むろん、新憲法の「出生の暗部」、つまり「事実上GHQによって設定された」ことと関係する。さらに言えば、日本が独自に憲法を作る力をもちえなかった、ということで、これは戦後日本国家・社会のあり方そのものの問題でもある。
 ・「護憲派」は、「仮にGHQによって設定されたものであっても、それは日本国民の一般的感情を表現したものであるから十分に国民に受容されたもの」だ、と弁護する。かかる議論は「二重の意味で正しくない」。
 ・第一に、「受容される」ことと「十分な正当性をもつ」ことは「別のこと」だ。新憲法は形式的な正当性はあるが実質的なそれにはGHQによる「押しつけ」論等の疑問がつきまとっている。「問題は内容」だとの論拠も、問題が「正当性の根拠」であるので、無意味だ。「GHQによって起草」されかつ趣旨において「明治憲法と大きな断想」がある新憲法を明治憲法「改正による継続性」確保によって「正当性を与え」ることができるか、はやはり問題として残る。
 <たとえ押しつけでも、国民感情を表現しているからよい>との弁護自体が、「正当性に疑義があることを暗黙のうちに認めている」。
 ・第二に、「国民感情が実際にどのようなものであったかは、実際にはわからない」。それが「わからないような形で正当性を与えられた」ことこそ、新憲法の特徴だ。少なくともマッカーサー・メモ(三原則)は日本側を呆然とさせるものであったし、「一言で言えば、西洋的な民主化が、決してこの当時の日本人の一般的感情だなどとはいえないだろう」。「もし仮に、この〔GHQの〕憲法案が国民投票に付されたとしても、まず成立したとは考えにくい」。
 以上、p.147-p.151。
 現憲法の制定過程(手続)については何度も触れており、結果として国民に支持(受容)されたから「正当性」をもつかの如き「護憲派」の議論は論理自体が奇妙であること等は書いたことがある。
 1945年秋の段階では、美濃部達吉や宮沢俊義は明治憲法の「民主的」運用で足り、改正は不要だとの論だったことも触れた。
 さらには、結果として憲法「改正」案を審議することになった新衆議院議員を選出した新公職選挙法にもとづく衆議院選挙において、憲法草案の正確な内容は公表されておらず、候補者も有権者もその内容を知らないまま運動し、投票した、という事実もある(岡崎久彦・吉田茂とその時代(PHP、2002)に依って紹介したことがある)。従って、新憲法の内容には、国民(有権者)一般の意向は全くかほとんど(少なくとも十分には)反映されていない、と見るのが正しい。
 ついでに付加すれば、衆議院等での審議内容は逐一、正確に国民に報道されていたわけでもない。<占領>下であり、憲法(草案作成過程等々)に関してGHQを批判する、又は「刺激」するような報道を当時のマスコミはできなかった(そもそもマスコミが知らないこともあった)。制定過程の詳細が一般国民に知られるようになるのは、1952年の主権回復以降。
 「押しつけられた」のではなく、国民主権原理等は鈴木安蔵等の民間研究会(憲法研究会)の案が採用されたとか、九条は幣原喜重郎らの日本側から提案したとか、反論する「護憲派」もいる。のちには日本共産党系活動家となった鈴木安蔵は、「日本の青(い)空」とかの映画が作られたりして、「九条の会」等の<左翼>の英雄に最近ではなっているようだ。立花隆は月刊現代(講談社)誌上の連載で、しつこく九条等日本人発案説を(決して要領よくはなく)書き連ねていた。
 だが、かりに(万が一)上のことを肯定するとしても、日本の憲法でありながら、その策定(改正)過程に、他国(アメリカ)が「関与」したことは、「護憲派」も事実として認めざるを得ないだろう。彼らのお得意の言葉遣いを借用すれば、かりに「強制」されなくとも、「関与」は厳としてあったのだ。最初の「改正」への動きそのものがGHQの<示唆>から始まったことは歴然たる事実だ。そして、日本の憲法制定にGHQ又は米国が「関与」したということ自体がじつに異様なものだったことを、「護憲派」も認めるべきだ。
 ところで、長谷部恭男(東京大学)は、一般論として<憲法の正当性>自体を問うべきではない旨のわかりにくい論文を書いている。
 この点や本当に新憲法は国民に「受容」されたのか等々を、佐伯啓思の上では紹介していない部分に言及しつつ、なおも扱ってみる。

0570/小林よしのり・パール真論(小学館)の一部からの連想。

 小林よしのり・パール真論(小学館、2008)の主テーマ・主論旨とは無関係だが、次の言葉が印象に残った(初出、月刊正論2008年2月号(産経新聞社))。
 「『反日』を核として国家の正当性を維持するしかないという厄介な国が、ヨーロッパにではなく、アジアにあった、それがドイツの幸運であり、日本の不幸であった」(p.83)。
 小林よしのりはここで中国と韓国を指しているようだが、北朝鮮も含めてよいだろう。
 たとえばサルトル以降の「左翼」フランス思想等のヨーロッパからの「舶来」ものを囓っている者たちは強くは意識しないのだろうが、日本は欧州諸国とは異なる環境にある。ドイツにせよフランスにせよ、日本にとっての
中国、韓国や北朝鮮にあたる国はない。異なる環境にある日本を、現代欧州思想でもって(又は-を参考にして)分析しようとしても、大きな限界がある、ということを知るべきだ。
 やや離れるが、欧州に滞在するのは、ある意味でとてもリフレッシュできる体験だ。なぜなら、ドイツにもイギリスにもイタリアにも「…共産党」がない。フランス共産党は現在では日本における日本共産党よりも勢力が小さいといわれる。また、日本共産党的組織スタイルの共産党が残るのはポルトガルだけとも言われる。
 そういう地域を、つまり共産党員やそのシンパが全く又は殆どいない地域を旅すること、そういう国々に滞在することは何とも気持ちがよいことだ。むろん、デカルト以来の<理性主義>や欧州的<個人主義>の匂いを嗅ぎとれるような気がすることもあって、「異国」だとはつねに感じるが。
 <左翼>系新聞はあるだろう。しかし、多くはおそらく社会民主主義的<左翼>で、日本の朝日新聞のような<左翼政治謀略新聞>は日本のように大部数をもってはきっと発行されていない(たぶん全ての国で、日本のような毎日の「宅配」制度がない)。すべての言語をむろん理解できないにしても、これまた清々(すがすが)しい。
 というわけで、しばしば欧州に飛んでいきたい気分になる(アメリカにも共産党は存在しないか、勢力が無視できるほどごく微小なはずだが)。先進資本主義国中で、日本はある意味で(つまり元来は欧州産の共産党とマルクス主義勢力―正面から名乗ってはいなくとも―がかなりの比重をもって東アジアに滞留しているという意味で)きわめて異様な国だ、ということをもっと多くの日本の人びとが知ってよい。

0345/産経・花岡信昭のコラムは傲慢だ。

 産経の客員編集委員という肩書きの花岡信昭が書いたものについては、これまで言及したことがない。
 この人が書いている内容にとくに反対ということはほとんどなかったと思うが、その内容は<教条的な>保守・反左翼の言い分で(つまりよく目にする論調と同じで)、表面的で視野が広くはなく、例えばだが、「正論」執筆者の多く?と比べて、基礎的な又は深く厚い<学識>のようなものをあまり感じなかったからだ。
 花岡が自・民大連立といったん受け容れたかの如き小沢を肯定的に評価したことについて肯定的な評価も一部にはあるようだ。
 私も大連立一般とその可能性の追求に反対はしないし、社民や共産を排しての連立という点も無視してはいけないだろう。
 だが、問題はいかなる点で政策を一致させて<連立>するかにある。この点を考慮しないで(捨象して)当面する論点を大連立一般の是非として設定するのは間違っている。
 小沢一郎の記者会見等の報道によると、きちんとした合意があったとは思われないし、合意があったとしてもその内容が(自民党の本来の政策、これまでの政府の言動等から見て)妥当であったようには見えない。
 仔細はよく分からないが、<大連立>の可能性を残しての<政策協議>に入る、という程度のことであれば、否定・反対するほどのことではないだろう。だが、<政策協議>を経た、安全保障政策・憲法問題に関する基本的一致を含む<政策合意>があってはじめて<大連立>が可能となることは常識的なことだろう。こうした過程を抜きにした、<ともかく大連立を>論ににわかに賛成することはできない。小沢一郎個人のなにがしかの<思惑>が入っているとなればなおさら―これまでの彼の行動からして―警戒しておくに越したことはないかに見える。
 花岡信昭は産経11/14のコラム・政論探求で、「保守派、リベラル派」のいずれの「識者」からも<「大連立」構想への支持がほとんど出なかった>ことを嘆いているようであり、かつ「識者たちが日ごろ主張していることは、頭の中だけの仮想世界が前提となっていたのではないか。現実政治の中でいかに解決していくか、という基本スタンスが決定的に欠けている」と言い切っている。
 上の後半の<八つ当たり>的言明は、いささか傲慢不遜すぎはしないか。花岡自身を含む少数の識者のみが「現実政治」のことを真摯に考え、あとの者たちは「仮想世界」に生きている、かのごとき言明は。
 読売がどういう意味で、どういうレベルでの<連立>を支持していたのかを正確には知らない。一方また、ドイツで大連立を経て同国社民党が単独で政権(ヘルムート・シュミット首相)を担うようになったことくらいの知識はある。
 ドイツの当時の社民党レベルにまで日本の民主党はとくに安全保障政策・憲法問題に関して<成熟>しているのか、というと疑問だ。また、自民党がますます<左傾>していく連立も一般論としては望ましくはないだろう。
 よく分からないことは多い。だが少なくとも、花岡信昭は、上のような不遜なことを<「大連立」放棄の情けなさ>との見出しのもとで書くべきではないだろう。
ギャラリー
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