秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ドイチャー

2589/R・パイプス1994年著第9章第五節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第五節へ。
 日本共産党「創立」は1922年とされている。そして同党2020年綱領も従来の綱領と同趣旨で、「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別し、後者のあとでは「スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨て」た、と明記する。レーニンの死の1924年が画期のようだ(より正確にはその死は1924年1月21日)。なお、叙述されているように、スターリンの書記長就任は1922年4月で日本共産党「創立」・コミンテルンによる承認よりも前、レーニン生前もスターリンを含む「トロイカ」体制があった。
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 第五節・レーニンの孤立①。
 (01) レーニンは、自分が作った体制の結果としてロシアが単独者支配になるとは、予想していなかった。
 そのようなことは不可能だと、考えていた。
 1919年1月、メンシェヴィキの歴史家のN. Rozhkov はレーニンに手紙で独裁的権力を掌握するよう、熱心に勧めた。これに対して、レーニンは、こう書き送った。
 「こう表現するのを許してくれるなら、『個人的独裁』に関しては、全くナンセンスだ。
 党機構はすっかり巨大になった、—ある意味では過剰なほどだ。
 このような状況では、『個人的独裁』は(一般に)実現し難い」。(注123)
 実際には、党機構がどれほど巨大になったか、それがどれほどの費用を要しているのか、レーニンはほとんど知らなかった。
 彼は、党の予算は過去の九ヶ月で4000万金ルーブルを要している、という1922年2月にトロツキーがもたらした情報を信用しなかった。(*)//
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 (脚注*) RTsKhIGNI, F. 2, op. 1, delo22737. この総額は、この時期にドイツがソヴィエト・ロシアに提供した信用借款額とほとんど等しい(上掲, p.427)。
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 (02) レーニンは、別のことに悩んでいた。すなわち、党は最上層部で抗争が激しくなり、下層からの官僚主義によって弱体化する、という見通しに恐れていた。 
 彼はどちらも脅威だとは思ってこなかった。共産主義者は、自分たちの誤りを除いて、生じたこと全てを不可避で科学的に説明し得るものだと見た。この点では、きわめて主意主義的(voluntarist)になっていて、人為的誤りによる間違いを非難した。
 公平な観察者からすると、レーニンが悩み、彼の革命を危うくしている問題は、彼の体制の諸前提に内在していたように見える。
 彼らが生み出した矛盾に関するDeutscher の分析を受け入れるためには、ボルシェヴィキがもった願望についての彼のロマンティックな見方に同調する必要はない。Deutscher はこう書いた。
 「ボルシェヴィキ党の夢想によると、党は紀律をもつが内部では自由な、献身的な革命家の集団であって、権力によって腐敗するはずはない。
 自分たちはプロレタリア民主主義を遵守し、少数民族の自由を尊重する。なぜなら、これらなくして、社会主義への真の前進はあり得ないからだ。
 こうした夢想を追求して、ボルシェヴィキは、巨大な中央志向の権力機構を築き上げた。そして、この機構のために、彼らの夢想を次第に潰してきた。プロレタリア民主主義、少数民族の権利も、そしてひいては彼ら自身の自由も。
 彼らは、その理想の達成を目ざして運動するとするなら、権力なしで済ませることはできなかった。
 しかし今や、彼らの権力が自分たちの理想と対立し、それを曇らせるに至った。
 きわめて深刻な矛盾が発生した。
 また、夢にしがみつく者と権力にしがみつく者との間に、深い溝も生まれた。」(注124)/
 論理的前提と現実的結果の間の連結を、レーニンは失った。
 生涯の最後の数ヶ月、彼は、体制を守るための方策として、諸制度を再構築し、人員を再配置する以外のことを考えつかなかった。//
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 (03) 彼は、権力掌握以降に、権力は一人に、つまり彼自身に依存し、彼がソヴナルコムの議長かつ党政治局の名義なしの指導者という二つの役割を果たしてきた。だが、彼一人に依拠するこのような党と国家機関の融合を、永続的なものとして制度化することはできない、とやむなく結論づけた。
 いずれにせよ、国家機構から提出された、重要な問題と些細な問題への対応で、ほとんどが瑣末な多数の案件の事務処理で、党の政策形成機関が停滞していて、組織機構は作動しなくなっていた。
 レーニンが部分的に引退したのち、古い組織編成は改められた。
 彼は1922年3月に、全てがソヴナルコムから党政治局に持ち込まれていると不満を述べ、「ソヴナルコムと党政治局の間の連結にかかわる多くのことを自分自身が行なってきた」のだから、結果として生じている混乱の責任は自分にある、と認めた。また、「私が去らなければならないとき、二つの車輪は協調して回ることはないことが明らかになった」と述べた。(注125)//
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 (04) 1922年4月、スターリンが総書記の役職に就いたその月、レーニンは、二人の信頼できる同僚を国家機構の監視者として指名することを思いついた。
 彼は政治局に対して、二人の代理者(deputy、〈zamestiteli〉、短くは〈zamy〉)を設けることを提案した。一人はソヴナルコムを動かし、もう一人は労働国防評議会(Truda i Oborony ソヴェト、またはSTO)を動かす。(+)
 どちらの機関でも議長であるレーニンは、ソヴナルコムのために農業専門家のAlexander Tsiurupa、STOのためにRykov を、多数の人民委員部職員を監督させるために用いることを提案した。(**)
 経済運営について何の権限も与えられていなかったトロツキーは、この提案を激しく批判し、〈Zamy〉の職責はあまりに広くて無意味なほどだ、と主張した。
 トロツキーは、経済は党の介入をなくして、中心からの権威主義的方法に従わせないかぎりは、満足できない実績を生み続けるだろう、と考えていた。(注126) これは、経済の「独裁者」になりたいというトロツキーの願望を意味していると、広く解釈された。
 レーニンはトロツキーを「根本的に誤っている」と評し、間違った判断を言い募ったと責めた。(注127) //
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 (脚注+) Lenin, PSS, XLV, p.152-9. この評議会はソヴナルコムの最も重要な委員会だった。主として経済問題を扱い、一種の「経済内閣」(Alex Nove, An Economic History of the USSR, 1982, p.70)を形成していた。E. B. Genkia, Perekhod sovetskogo gosudarstva k Novoi Ekonomicheskoi Politike (1954), p.362 を参照。
 この提案の背景について、T. H. Rigby, Lenin's Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), 第13章を見よ。
 (脚注**) Isaak Deutscher (The Prophet Unarmed, 1959, p.35-36) は、トロツキー文書庫を一般的に参照しつつ、1922年4月11日の政治局の会議で、レーニンはトロツキーに第三の代理者の職を提示した、と主張している。
 しかしながら、その日の政治局の会議の記録は存在しない。そして、トロツキー文書庫には、この叙述を確認できる文書はない。
 また、トロツキーが言うところのこの提示を「政治的に抹消されてしまう」との理由で拒否したことを彼は正当化した、とのDeutscher の主張を支持する何の証拠資料もない。Deutscher, ibid., p.87. さらに、Rigby, Lenin's Government, p.292-3 を見よ。
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 (05) 1922年5月25-27日、レーニンは最初の発作を起こした。これによって、彼の右腕と右脚は麻痺し、一時的に会話し執筆する能力が失われた。
 その後二ヶ月、彼は職責を免ぜられ、ほとんどの時間をGorki で休んで過ごした。
 医師たちは今では診断を脳の動脈硬化、おそらくは遺伝性のそれ、へと変更した。(レーニンの二人の姉妹と兄は同じようにして死ぬことになる。)
 強制的なこの不在の期間、彼の最も重要な職務—党政治局とソヴナルコムを主導的に運営すること—は、モスクワの党組織の長だったカーメネフに移された。
 スターリンは、書記局と組織局を主宰した。それらでの仕事として、彼は、党機構の日常的な業務をこなした。
 ジノヴィエフは、ペテログラードの党組織の長、かつコミンテルンの議長だった。
 これら三名は「トロイカ」体制、政治局を支配し、それを通じて党と国家機構を支配する指導部、を形成した。
 三人のいずれにも、トロツキーの義兄であるカーメネフにすら、彼らの共通の好敵であるトロツキーに対抗する勢力に加わる理由があった。
 彼らは、レーニンの発作の時期に休暇中だったトロツキーに、情報を提供するという手間すらとらなかった。(注128)
 彼らは、継続的にレーニンと意思疎通を行なった。
 この期間のレーニンの活動の記録(1922年5月25日から10月2日まで)が示しているのは、スターリンが最も頻繁なGorki への訪問者で、12回レーニンと逢っている、ということだ。
 ブハーリンによると、レーニンが自らの病気の最も深刻な時期に会うことを求めた唯一の中央委員会メンバーは、スターリンだった。(++)
 Maria Ulianova によると、二人の出会いはきわめて愛情のこもったものだった。  
 「V. I. レーニンは、友好的に(スターリンと)逢った。冗談を言い、笑い、私に彼をもてなすよう、ワインを出す等々を、頼んだ。
 何度もの訪問の際、私がいるところでトロツキーについて議論していた。
 その際、レーニンがスターリンの味方で、トロツキーには反対していることが明らかだった。」(注129)
 レーニンはまた、手紙を書いてしばしばスターリンに連絡した。
 彼の文書資料庫には、外交政策を含めて考えられ得るあらゆる問題について、スターリンの助言を求める多数のスターリン宛ての文書が残されている。
 彼は、スターリンの過重労働を心配して、毎週二日間は田舎で休暇をとるよう政治局はスターリンに指示するよう求めた。(注130)
 Lunacharsky からスターリンはみすぼらしい区画に住んでいることを教えられて、彼にもっとましな所が見つかるよう取り計らった。(注131)
 レーニンと他の政治局員との間には、このような親密さを示す記録はない。//
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 (脚注++) IzvTsk, No. 12/299 (1989.12), p.200, note 19. しかしながら、のちにブハーリンは、メンシェヴィキの歴史家のBoris Nicolaevsky に、自分は1922年後半に頻繁にレーニンを訪問した、そして彼と真剣に会話をした、と打ち明けた。Boris I. Nicolaevsky, Power and the Soviet Elite (1965), p.12-13.
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 (06) レーニンの同意を得て、そして自分たちで問題を決定して、三人組は政治局とソヴナルコムに、これらが当然の事として同意する決議を提出することになる。
 トロツキーは多数派とともに投票するか、保留をした。
 当時は7人の委員しかいなかった政治局での三人の協力によって、トロイカ体制は全ての案件を通過させ、政治局に支持者を一人ももたなかったトロツキーを孤立させることができた(7人とは、3人の他に、欠席中のレーニン、トロツキー、Tomskii、ブハーリンだ)。//
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 後注
 (123) RTsKhiDNI, F. 5, op. 1, d. 1315, 1.p.1-4; F. 2, op. 1, d. 8492.
 (124) Deutscher, Prophet Unarmed, p.73.
 (125) Lenin, PSS, XLV, p.113-4.
 (126) Trotsky Archive, Houghton Library, Harvard Uni., T-746 &T-747. それぞれ、1922年4月18日付と19日付。上掲、note 108.
 (127) Lenin, PSS, XLV, p.180-2.
 (128) Trotskii, Moia zhizn', II, p.207-8.
 (129) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (130) Ibid., No. 4/291 (1989), p.185.
 (131) RTsKhiDNI, F. 2, op.1, delo 24699.
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 第五節①、終わり。②へと続く。

1882/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.84-p.88、2004年合冊版p.854-p.857。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味③。
(17)第一の問題について、多くの歴史研究者たちは、大粛清の主要な目的は政治生活の潜在的な焦点である党を、何らかの事情のもとではそれ自体の、たんに支配者の手にある道具ではない生命を獲得するかもしれない力を、排除することだ、と考えた。
 Isaac Deutscher は、モスクワ裁判に関する彼の最初の(ポーランドで出版された)書物で、メンシェヴィキによるボルシェヴィキに対する復讐行為だ!との注目に値する議論を述べた。-その理由は、犠牲者はほとんどオールド・ボルシェヴィキであり、主任検察官のVyshinsky は元メンシェヴィキで、当時の主要な党宣伝者のDavid Zaslavsky はユダヤ同盟の一人だった、ということにある。
 これは、Deutscher がのちにトロツキーの人生に関する三巻本(<追放された予言者>1963年、p.306-7)で進めた説明のように空想的なものだった。すなわち、ソヴィエトの上層官僚たちは富を蓄積できなかった、または子どもたちに遺すことができなかったために、大きかったけれども彼らの特権に満足していなかった、また、トロツキーが危惧したように、彼らが社会的な所有制度を破壊しようとする危険があった、とする。
 Deutscher によれば、スターリンは、この危険を察知し、新しい特権階層が固定してシステムを破滅させることを妨げるためにテロルを用いた。
 これは、実際は、犠牲者たちはロシアに資本主義を復活させようとしていたというスターリニストたちの見方を言い換えたものだ。
 しかしながら、Deutscher はスターリンの人生に関する書物(1949年)では、多少とも歴史研究者たちに一般的な見方を採用していた。
 スターリンは、政府または党指導者のうちの全ての考えられる代替選択肢を破壊したかった。もはや積極的な反対者はいなかったが、突然に危機が発生するかもしれず、彼は党内に対抗的な権力が集まる全ての可能性を粉砕しなければならなかった。//
 (18)この説明はモスクワ裁判には合っているかもしれない。しかし、粛清の大量性の説明としては明瞭性がない。それは、代替的な党指導者になるいかなる機会もなかった、知られざる数百万の人々に影響を与えたのだ。
 スターリンは経済の失敗についての生け贄を必要としたとか、スターリンの個人的な執念深さやサディズムとかの、他の考え方に対しても、同じ異論がしばしば当てはまる。-それらはたしかに大多数の場合についての説明になるが、数百万の大殺戮についてはほとんど困難だ。//
 (19)その目的を他の手段では全く不十分にしか達成できなかったという意味で、大粛清はおぞましい的はずれだった、と言えるかもしれない。
 だがしかし、大粛清は言わば、システムの自然的論理の一部だった
 全ての顕在的または潜在的な対抗者を破壊することのみではなく、かりに僅かで些細であってもなお国家とその指導者以外の何らかの根本教条への忠誠の残滓が-とくに、指導者や党の現在の指令から自立した参照枠組みと崇拝対象としての共産主義イデオロギーへの信念の残滓が-まだ依然としてある単一の有機的組織体(organism)を全て除去してしまうこと、こそが疑問だったのだ。
 全体主義的(totalitarian)システムの目的は、国家が課さず、国家が厳密に統制することのない共同生活の全ての形態を破壊することだった。そのようにして、個々人が他者から引き離され、国家の手中にあるたんなる道具になる、ということだった。
 市民は国家に帰属し、国家のイデオロギーに対してすら、忠誠心を抱いてはならなかった。
 このことは逆説的であるように見える。しかし、この類型のシステムを内部から見知っている全ての者にとって、驚くべきことではなかった。  
 支配党に対する全ての形態の反抗、全ての「偏向主義」と「修正主義」、分派、批判、抵抗-こうした類の全ては、党が防御者であるイデオロギーに訴えかけてきた。
 その結果として、イデオロギーは、それに自立的に訴えかける資格を以上のような者たちは持たないということをを明確にするために、修正された(revised)。-ちょうど、中世には無資格の人々は聖典に関して論評することが許されず、聖書自体がつねに<論述の神(liber haereticorum)>だったのと全く同様に。
 党は本質的にはイデオロギー的組織体だった。言わば、党員たる者は共通する忠誠心でもって連結され、諸価値を分かち持った。
 しかし、諸イデオロギーが諸装置に変わるときにはつねに生じるように、その忠誠心は、教義の「本当の」変更はないと主張されつつも、全ての政治的動きを正当化するためには曖昧で不明瞭なものでなければならかった。
 不可避的に、真摯に忠誠心を理解する者たちは自分でそれを解釈することを欲し、あれこれの政治的な歩みがマルクス=レーニン主義(Marxism-Lenumismatic)に関するスターリンの見方と合致しているか否かを考えようとした。
 しかし、そのことは、たとえスターリンに対する忠誠を誓ったとしても、彼らを政治的危機と政府に対する反抗へと追い込んだ。なぜなら、彼らはつねに今日のスターリンに反抗して昨日のスターリンに依拠しているのかもしれず、指導者自身に反対して指導者の言葉を引用しているかもしれなかったからだ。
 ゆえに、粛清が企図したのは、党内部になお存在しているイデオロギー上の連結を破壊し、上位者からの最新の命令に対する以外にはいかなるイデオロギーや忠誠心も持たないことを党員たちに確約させること、そして、社会の残余者たちのように無力で統合されていない大衆へとを党員たちを貶めること、だつた。
 これは、リベラル諸政党や社会主義諸政党、独立したプレスおよび文化的諸組織、宗教、哲学、芸術、そして最後に党内部の分派の廃絶(liquidation)を始めたのと同じ論理を継続させたものだった。
 支配者に対する忠誠心以外に何らかのイデオロギー上の連環がある場合にはつねに、現実には存在していないとしても、分派主義(fractionalism)が生まれる可能性があった。
 粛清の目的はこの可能性を除去することであり、その目的に関して、粛清は成功した。
 しかし、1930年代の大虐殺(hecatomb)を必要とした原理的考え方はなおも力を持っており、まだ決して放棄されていない。
 そのようなものとしてのマルクス主義イデオロギーに対する忠誠は、今なお犯罪であり、あらゆる種類の逸脱の源泉だ。//
 (20)そうであっても、ソヴィエトの民衆は、そして党ですらも、ホロコーストに抵抗しなかったという事実は、いずれにせよあの規模のごとくには粛清は必要でなかったということを示唆しているように見える。
 党はすでに(マルクスがフランスの農民について言った)「ジャガ芋袋」の理想的状態になるほど閉鎖的で、独立した思考の中心が生まれることは望まれず、かつそれをする能力もなかった、と思われていただろう。
 一方で、粛清がなかりせば、例えばドイツとの戦争の最も危険なときのような危機の場合にそうならなかったかどうかは、分からない。//
 (21)このことは、我々につぎの第二の疑問を生じさせる。いかにして、ソヴィエト社会は抵抗することが全くできなかったのか?
 答えは、党は、つまり指導者の外側は、装置から独立したいかなる態様でも自分たち自身を組織することがすでにできなかった、ということのように見える。
 残りの国民大衆と同じく、党は個人の離ればなれの集合体へと変形されていた。
 抑圧の文脈では、生活の全ての他の分野のように、一方での全能の国家が他方での孤立した市民に対して向かいあっていた。 
 個人の麻痺状態は、完全だった。
 そして同時に、党が最初から獲得していた原理的考え方に適合して行動することが否定された。
 党員は全員が民衆に対する大量の残虐行為に加担し、彼ら自身が無法状態の犠牲者になったとき、彼らには訴えて頼るものが何もなかった。
 彼らのうち誰も、被害者が党員でなかった間は、虚偽の裁判と処刑に反対しなかった。
 彼らは全員が積極的であれ消極であれ、「原理として」司法による殺人に間違ったところは何もない、と受け入れた。
 また、彼らは全員が、いかなるときでも、誰が階級敵なのか、富農の仲間なのか、あるいは帝国主義者の手先なのか、を党指導者が決定することができる、ということに同意していた。
 彼らが容認していたゲームの規則は彼らに向かって集中的に課されており、抵抗精神を促進したかもしれない道徳的な原理を彼らは身につけていなかった。//
 (22)戦争中に、ポランドの詩人、Aleksander Wat は、スターリンの監獄の一つでオールド・ボルシェヴィキである歴史研究者のI. M. Stelov と遭遇し、モスクワ裁判の全ての主役はたちはなぜ、最も滑稽な責任を告白したのか、と質問した。
 Stelov は単純に、こう答えた。「我々はみな、血に夢中になっていた」。//
 (23)第三の問題について言うと、我々は最初は、集団的な幻覚(hallucination)を論じているように見える。
 共産党員の大量殺戮にはそれなりの理由がスターリンにあったと想定してすら、なぜ無数の重要ではない人々を拷問によって、ウズベキスタンをイギリスに売り渡すことを謀った、Pilsudski の工作員だった、あるいはスターリンを謀殺しようと試みた、と自白させることが必要だったのか?
 しかし、この狂気においてすら、少しばかりの方法はあった。
 犠牲者たちは、肉体的に破壊されたり無害なものに変えられたりしたのみならず、道徳的にも廃人になった。
 NKVDの機関員たちは虚偽の自白書に自分たちで署名して、拷問を受けた犠牲者たちに止めを刺すか、有罪を「認めた」ことを理由に収容所へと送り込んだ、ということが考えられ得ただろう。-もちろん、全世界に対して自分たちの罪責を宣言しなければならない見せ物裁判の被告たちを除いて。
 しかし、これらは全体のごく僅かの割合にすぎなかった。
 しかしながら、実際には、警察が人々に自分たちの自白に署名することを強いた、そして、知られている限りでは、署名を偽造することはなかった。
 結果は、犠牲者たちが自分たちに冒した犯罪に対する付属物になり、偽造という一般的な運動への関与者になった、ということだった。
 ほとんど誰も、拷問によって何かを自白することを強いられ得なかった。しかし、通常は、少なくとも20世紀には、拷問は真実の情報を得るために用いられている。
 スターリン・システムでは、拷問を加える者とその犠牲者たちは両方とも完全に、情報は虚偽だということを知っていた。
 しかし、彼らは作り話に固執し、そのようにして、誰もが、普遍的な作り話が真実だという見かけを呈する、そういう非現実的な「イデオロギー上の」世界を構築するのを助けた。//
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 ④へとつづく。

1792/ネップと20年代経済⑥-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.41~p.44。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑥完。

 スターリンは、なぜそうしたのか? <この文、前回と重複>
 第一の選択肢が「歴史の法則」によって排除されていたわけではない。また、第二の途を進むべき宿命的な強制が働いたわけでもない。
 そうであるにもかかわらず、現実に選択された方向へと強く作動する論理(logic)が、ソヴィエト体制にあった。
 力をもったイデオロギーは、国家による統制のもとにあってすら、市場条件へと回帰することよりもはるかに、テロルを基礎とする奴隷経済と適合するものだった。
 巨大な民衆が経済的に多少とも国家から自立すれば、またある程度の自立性を自分たちのために国家に守らせたとしてすら、分かち難い独裁という理想(ideal)は、完全には実現され得ない。 
 しかしながら、マルクス=レーニン主義の教理は、完全に中央集権的な政治的および経済的な権力によってのみ社会主義を建設することができる、と教えた。
 生産手段に関する私的所有制の廃止は、人間の至高の任務であり、世界の最も進歩的な体制の主要な義務だ。
 マルクス主義は、プロレタリア-ト独裁を通じての、公民社会と国家の融合または同一化という展望を提示した。
 そしてそのような単一化へと至る唯一の方法は、全ての自発的な形態をとる政治的、経済的および文化的生活を絶滅させ(liquidate)、国家が押しつける形態へと置き換えることだ。
 スターリンはかくして、社会に対する彼の独裁を強固にすることにより、また、国家が課していない全ての社会的紐帯と労働者階級自体を含む全ての階級を破壊することにより、唯一の可能性のあるやり方でマルクス=レーニン主義を実現した。
 もちろんこの過程は、一夜にして終わったのではない。
 まず最初に、労働者階級を政治的に従属させること、次いで党をそうすること、が必要だった。ありうる全ての抵抗の粒を粉砕しなければならず、プロレタリア-トから自己防衛の全ての手段を剥奪しなければならなかった。
 党はこれを、最初に大多数のプロレタリア-トによって支持された権力をもつがゆえに行うことができた。
 政治的意識が高く闘争に習熟した古い労働者階級が内戦で死亡した、戦後の荒廃と窮乏が諦念と疲労を生み出した、とドイチャー(Deutscher)は強調する。しかし、そう単純ではない。
 党の成功はまた、プロレタリア-トの支持を得た時期を二つの方法で利用したことにもよる。
 第一に、党は、最も有能な労働者階級の一員を国家の職務の特権的な地位に昇らせた。そうして彼らを、新しい支配階層に変えた。
 第二に、党は、労働者階級の組織の現存形態全てを、とくに他の社会主義政党や労働組合を、破壊した。そして、そのような組織が生き残る物質的な手段を労働者が届く範囲から閉め出した。
 これらは全て、初期の段階でかつまったく手際よくなされた。
 労働者階級はかくして無力にされ、疲労だけではなく全体主義に進む急速な過程が、ときたま絶望的な試みはあったが、すぐ後に効果的な行動を起こすのを妨げた。
 この意味で、ロシアの労働者階級は、その個々の階級的出自とは無関係に、自らの専制君主を生み出した。
 同じようにして、知識人層も長年の間に、極左からの絶え間ない脅迫に直面して躊躇し、屈服することで、無意識に自分たちを破壊することとなった。//
 かくして、メンシェヴィキの予言は実現された。メンシェヴィキは1920年に、トロツキーによって表明された勇敢な新世界をエジプトの奴隷によるピラミッド建設になぞらえたのだった。
 トロツキーは、多くの理由で、自分のプログラムを達成するには適していなかった。
 スターリンが、トロツキー<を現実にしたもの>(in actu)だった。//
 新しい政策は、ブハーリンとその同盟者の政治的敗北を意味した。
 論争の最初の時点で、右翼はまだしっかりした政治的地位を占め、かなりの支持を党内に広げていた。
 しかし、彼らの全資産は総書記(the Secretary General)の権力とはまったく比べものにならないことがすぐに分かった。
 「右翼主義偏向」は、スターリンとその取り巻きが攻撃する主要な対象になった。
 ブハーリン派(the Bukhrinites)-たんなる個人的権力ではなく統治の原理のために闘った最後の反対集団-は、1929年のうちに、国家の官僚機構で占めていた全ての役職から排除された。
 このことは、左翼反対派が復活したということを決して意味しなかった。
 スターリンは数人には微少な義務を負わせたが、左翼反対派の誰も、元の役職に復帰しなかった。仕事のできるラデクは、数年間、政府の賛辞文作成者に据え置かれた。
 ブハーリン派は、左翼がかつてしたほどには、あえては党外に見解を公表しようとしなかった(彼らのときはそうする可能性がもっとあったけれども)。
 ブハーリン派はまた、「分派」活動を組織しようともしなかった。彼らが分派主義を痛罵し、党の一体性を称賛してトロツキーやジノヴィエフと闘って以降、「分派」活動は結局は短い期間だけのものだった。
 一党支配について言えば、左翼反対派も右翼もそれを疑問視しなかった。
 全ての者が、自分の教理と自分の過去に囚われていた。
 全ての者が、自分たちを破砕する暴力装置を創る意思をもって活動した。
 カーメネフとの連合を形成しようとのブハーリンの見込みなき試みは、彼の経歴の痛々しい終章にすぎなかった。
 1929年11月に、偏向者たちは悔悛を示す公開行動を演じたが、これすら、彼らを救わなかった。
 スターリンの勝利は、完全だった。
 ブハーリン反対派の崩壊は、党と国にある専制体制の勝利を意味した。
 1929年12月、スターリンの50歳誕生日は大きな歴史的行事として祝祭された。この日以降を我々は、「個人カルト」の時代と呼んでよい。
 1903年のトロツキーの予言は、現実のものになった。党の支配は中央委員会の支配になり、これはつぎに、一人の独裁者の個人的専制になった。//
 人口の4分の3を占めるソヴィエト農民の破壊は、世紀全体につづく経済的のみではない道徳的な厄災だった。
 数千万人が半奴隷状態へと落とし込まれ、数百万人以上がその過程を実行する者として雇われた。
 党全体が制裁者と抑圧者の組織になった。誰も無実ではなく、全ての共産党員が社会に強制力を振るう共犯者だった。
 かくして、党は新しい種の道徳上の一体性を獲得し、もはや後戻りできない途を歩み始めた。//
 このときにまた、残っていたソヴィエト文化と知識人界は系統的に破壊された。体制は、最終的な統合の段階に入っていた。//
 1929年から判決にもとづき殺害される1938年までのブハーリンの個人的運命は、ソヴィエト同盟やマルクス主義の歴史にとって重要ではない。
 敗北したあと彼は、最高経済会議のもとで調査主任としてしばらく働き、ときどき論文を発表した。それによって彼は、-ステファン・F・コーエン(Stephen F. Cohen)がその優れた人物伝で指摘するように-押し殺した批判をときおりは発しようとした。
 ブハーリンは中央委員会委員のままであり、公的に自説をさらに撤回した後で1934年に、<イズヴェスチヤ(Izvestiya)> の編集者になった。
 その年の8月の著述家大会で、当時にしては「リベラル」な演説を行い、1935年には、新しいソヴィエト憲法を起草する委員会の事実上の議長だった。この憲法文書は1936年に公布され、1977年まで施行された。この文書は、全部がではなくとも主に、ブハーリンの仕事だった。
 1937年2月に逮捕され、一連の怪物的な見せ物裁判の最後に、死刑が宣告された。
 伝記作者は彼を「最後のボルシェヴィキ」と呼ぶ。
 この叙述が本当なのか誤りなのかは、それに付着させる意味による。
 ボルシェヴィキという言葉で、新しい秩序の全ての原理-一つの政党の無制限の権力、党の「一体性」、他者の全てを排除するイデオロギー、国家の経済的独裁-を受諾する者を意味させるとすれば、本当だ。
 また、この枠の中で寡頭制または一個人による専制を避けること、テロルの使用なくして統治すること、そしてボルシェヴィキは権力を目ざす闘争の間に擁護した諸価値-すなわち、労働民衆またはプロレタリア-トによる統治、自由な文化の展開、芸術、科学および民族的伝統の尊重-を維持することは可能だと信じる者、を意味させているとすれば。
 しかし、かりに「ボルシェヴィキ」がこれら全てを意味するとすれば、その自らの前提から論理的帰結を導き出すことができない人間のことを、たんに意味している。
 他方、もしかりにボルシェヴィキのイデオロギーが一般論の問題にすぎないのではなく、自分の原理からする不可避の結果を受容することを含むとすれば、スターリンは、全てのボルシェヴィキやレーニン主義者と最も合致していた、と自らを正当に誇ることができる。//
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 以上で、第5節は終わり、第1章全体も終わり。叙述は第2章<1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立>へと移っている。
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