秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

トロツキー

2640/中北浩爾・日本共産党(中公新書、2022)①。

 中北浩爾・日本共産党—「革命」を夢見た100年(中公新書、2022)
 出版直後ではなく、数ヶ月あとに読了している。あまり記憶には残っていないが、この書の一部を再読して、日本共産党やこの書自体に関して、感想等を述べておく。
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  上の中北著は「はじめに」で、欧州の「急進左派政党」との比較、「ユーロコミュニズム」と日本共産党の「宮本路線」の異同の検討がその歴史も含めて必要だとし、それら等をふまえて「終章」で現状分析と当面する「選択肢」を論じる、とする。
 矛盾してはいないのだろうが、しかし、「終章」では欧州の「急進左派政党」や「ユーロコミュニズム」に言及することは少ない。但し、「社会民主主義への移行」と著者が推奨するらしき「民主的社会主義への移行」という選択肢の提示に役立っているのかもしれない。
 そうすると「社会民主主義」と「民主的社会主義」の区別が重要になる。そして、日本共産党の現在の綱領の骨格を維持した日本「共産党」という名称のままで可能なのか、も問題になる。中北は後者には論及していないようだ。
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  「ユーロコミュニズム」と日本共産党「宮本路線」が同じではないのは共産主義政党の成立以来の歴史から明瞭なことで、あらためて指摘するまでもない。
 封建制→(絶対主義)→資本主義→社会主義という「歴史の発展法則」が(マルクス・エンゲルスによって提示されたように)存在するとすれば、封建制・絶対主義以降の国家・「革命」政党にはこれらから決別する「(ブルジョア)民主主義革命」とそれはもう遂行されたとみて「社会主義革命」を目指すかの選択が強いられたはずだ。フランスやイタリア等では「社会主義」革命という一段階だけが残っていた。
 日本共産党はいわゆる「講座派」の立場から前者の<二段階>革命論を創立時から採用していたのは、諸テーゼからも明らかだ。
 戦前の綱領的文書は日本共産党が独自に策定したのではなく、ロシア・ソ連の共産党(・コミンテルン)に「押しつけられた」面が決定的だっただろう。ロシア帝制は1917年2月に崩壊したにもかかわらず天皇制がまだ残っている戦前の日本にはまだ「(ブルジョア)民主主義革命」だ必要だ、とロシアのボルシェヴィキたちは容易に判断したのかもしれない。
 もっとも、第一に、レーニン「帝国主義論」(1917年9月刊行)によると、「帝国主義」とは資本主義の「最高の」、「独占主義的」段階のようなのだが、そうすると、日本は「半封建的絶対主義天皇制」のもとで「帝国主義」戦争を遂行していたことにになる。これは、概念または語義に矛盾をきたしていたのではなかろうか?
 第二に、帝政崩壊を招来したロシア「二月革命」が、「(ブルジョア)民主主義革命」だったかは、疑わしい。
 それ以降も、来たるべき「革命」の性格や担うべき政党・運動の性格や共産党とプロレタリアートや農民の役割分担等々について、メンシェヴィキとボルシェヴィキの間等で、議論があった。
 中核にいるべきは「自分(たち)」だという点でレーニンは一貫していただろう。しかし、上の点に関するレーニンの主張・理解が明瞭だったとはいえない。「全ての権力をソヴェトへ!」とのスローガンを1917年四月から「十月」までずっと掲げたのでもない。
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 中北著もまた、100年間で日本共産党が「変わらない部分」は、「日本が当面、目指すべき革命の内容として民主主義革命を位置づけ、その後に社会主義革命を実現するという、二段階革命論をほぼ一貫して採用してきてこと」だ、と明記している。この点は現在の同党綱領を読んでも明らかだ。
 戦前の労農諸派、戦後の日本社会党との対抗の意味もあっただろうが、中北も頻繁にこの概念を用いているらしき「二段階革命論」の採用こそが、欧州のかつての共産党のほとんどとの違いであり、1991年12月以降も日本共産党がなおも勢力を残存できた根本的な「理論的」背景だったと考えられる。そしてまた、「民主主義」科学者協会法律部会(民科)の会員のような、「民主主義」のかぎりで一致する者たちを党(・日本共産党員学者)の周囲に置くことができた原因でもあった。
 なお、ロシアでのこの問題に関する事情の判断は容易ではないが、連続する(永続的)「二段階革命」論というのはトロツキーのほか、「革命の商人」とのちに言われた、レーニン・ボルシェヴィキへのドイツ帝国からの資金援助を媒介したともされるパルヴス(Parvus)によって唱えられていた、ともされている。トロツキーは1917年7月に遅れて入党したボルシェヴィキで、弁舌に秀でていたともに「理論家」でもあったようだ。
 なお、以下を参照。R・パイプスの著(試訳)→No.1453→No.1551L・コワコフスキの著(試訳)→No.1610→No.1661
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 つづく。
  

2614/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三編序①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.173〜。
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 第三編/新経済政策(NEP) の時期のニーチェ思想—1921-1927。
 
 第一節。
 (01) 新経済政策(NEP)のもとで、政府は「管制高地」(大工場と工場群、信用、外国通商)を支配したが、農民たちは納税後の余剰を売ることができた。私的な取引も許容された。
 1927年の末までに、生産はほとんどの分野で1913年の水準を回復した。
 しかしながら、労働者たちの生活は、ひどく悪い状態のままだった。農民たちの穀物を売ろうという意欲は売って得られる対価に左右され、消費用製品の価格とも関係があった。//
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 (02) 1921年の夏、レーニンの健康が悪くなり始めた。
 彼は、1924年1月24日に死亡した。
 レーニンの4回めの発作のあとの1923年3月に、後継者争いが始まっていた。レーニンは、無能となって取り残された。
 スターリンは、トロツキーを孤立させるために、Grigory Zinoviev(Radomysky, 1883-1936)およびLev Kamenev(Rozenfeld, 1883-1936)と同盟した。
 1924年半ばに、スターリンは方針を変えて、Bukharin、Aleksei Rykov(1881-1938)およびMikhail Tomsky(1880-1936)と手を組んだ。
 スターリンとブハーリンは、1924年から1928年まで、共同支配者だった。
 第5回党大会(1927年2月)で、スターリンは政治局の全権を握り、トロツキーは党を除名され、スターリンはNEPに逆行し始めた。
 レーニンが生きていたならばNEP はどのくらい長く継続したか、を判断するのは不可能だ。この問題についてのレーニンの言明は、矛盾を孕んでいた。//
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 (03) NEP の時期は、それ以前やそれ以降と比較してのみ、リベラル(liberal)だった。
 私的な活字出版業や劇場が始まった(または再開した)。
 検閲は緩和されたが、消滅はしなかった。ニーチェのものを含む危険な書物は、1920年に始まる人民図書館から排除されていた。
 党のAgitprop(煽動と宣伝)部門は、膨らんだ。
 チェカはGPU に替わった。そして、エスエルの指導者たちや「協力者たち」の見せしめ裁判が、1922年に繰り広げられた。
 Ivanov-Razumnik は、被告人の一人だった。
 その頃までに、拡大した文化機構が出現した。これには、「文化に関する党員起業家」(Christopher Read の用語)、文学や芸術を高く評価しているとしても元来の忠誠心は革命に向けられていた者たち、が配属された。
 彼らの任務は、大衆の意識を鋳造(mold)することだった。//
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 第二節へとつづく。

2602/R・パイプス1994年著結章<省察>第二節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.497〜。
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 第二節・ボルシェヴィキの権力掌握
 (01) ロシア革命で社会的経済的要因が果たした役割が相対的に小さかったことは、1917年二月の事件を考察すれば、明らかになる。
 二月は、「労働者」革命ではなかった。工業労働者たちは合唱隊の役を演じて、本当の主演者である軍隊に反応し、その活動を増幅させた。
 ペテログラード守備連隊の暴乱は、物価上昇と物資不足に不満な市民たちのあいだでの混乱を刺激した。
 ニコライが4年後にレーニンとトロツキーがKronstadt 蜂起と国土じゅうの農民反乱に直面した際に用いた、それと同じ残忍な鎮圧方法を選んでいたならば、暴乱は落ち着いていただろう。
 しかし、レーニンとトロツキーの関心は権力を握り続けることにあったのに対して、ニコライはロシアのことを気に懸けた。
 将軍とDuma 政治家たちが、軍隊を救い、屈辱的な降伏を避けるために退位すべきだと説得したとき、彼はおとなしく従った。
 権力にとどまり続けることが至高の目標であったならば、ニコライは容易にドイツと講和条約を締結し、軍隊を暴乱者たちに対して解き放っただろう。
 ツァーリは労働者と農民の反乱によって退位を迫られるという神話がまさに神話だったのは、記録からも疑いの余地はない。
 ツァーリが屈服したのは、反乱する民衆にではなく、将軍と政治家たちに対してだった。そして、愛国的な義務意識からそうした。//
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 (02) 社会的革命は退位に先行したというよりも、むしろその後に続いた。
 連隊兵士、農民、労働者、民族少数派は、各グループがそれぞれの目標を追求し、そのために国は統治不能になった。
 秩序を復活させる可能性は、臨時政府ではなくてソヴェトこそが正統な権威の淵源だと主張する、ソヴェトを動かす知識人層の主張によって挫折していた。 
 民主主義の敵は左翼の側にはいないと考えたケレンスキーの適確でない企てによって、政府の失墜は加速した。
 国全体が—その資産とともに政治的実体が—〈duvan〉、つまり略奪品の分配の対象になった。その進展が行き着くまで、誰にも止める力がなかった。//
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 (03) レーニンは、この無政府状態の中で権力へとつき進んだ。この状態をむしろ大いに促進したのだ。
 彼は、全ての不満グループに、それらが求めるものを約束した。
 農民たちの支持を得るために、社会主義革命党の「土地の社会化」綱領を吸収した。
 労働者たちには、工場の「労働者による統制」に関するサンディカリスト的傾向を激励した。 
 兵士たちに向けては、講和の展望を約束した。
 民族少数派に対しては、民族自決権を提示した。
 実際には、これら全ての誓約は彼の基本方針に反しており、それらの提示が目的を達成するとすみやかに破られた。このことは、国を安定化させようとする臨時政府の努力を無為にすることになった。//
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 (04) 同様の欺瞞は、臨時政府の権威を落とすためにも用いられた。
 レーニンとトロツキーは、ソヴェトと立憲会議への権力の移行を呼びかけるスローガンを用いて、一党独裁制の願望を隠蔽した。そして、問題を孕んだソヴェト大会の開催でもって、それを正当化した。
 ボルシェヴィキ党の一握りの指導者たち以外の誰にも、こうした約束やスローガンの背後にある真実が分からなかった。
 したがって、1917年10月25日の夜にペテログラードで起きたことを、ほとんど誰も気づかなかった。
 いわゆる「十月革命」は、古典的なクー・デタだった。
 その準備はきわめて内密に行なわれたので、カーメネフが事件の一週間前の新聞インタビューで党は権力奪取を意図していると暴露したとき、レーニンは、彼を裏切り者と宣告し、除名を要求した。(注5)
 もちろん、本当の革命であれば、予定表はなく、裏切られることもない。//
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 (05) ボルシェヴィキが臨時政府を打倒した容易さ—レーニンの言葉では「一枚の羽毛を持ち上げる」ようだった—によって、多数の歴史家は十月のクーは「不可避」だったと納得してきた。
 しかし、そう思えるのは、過去を振り返って見たときに限ってだ。
 レーニン自身が、きわめて不確かな(chancy)企てだと考えていた。
 1917年9月と10月の隠れ場から中央委員会に宛てた切迫した手紙で、成功は武装蜂起を実行する速度と決断に完全にかかっている、と彼は主張していた。
 10月24日に、こう書いた。「蜂起を遅らせるのは死ぬことだ。全てが間一髪に(on a hair)かかっている」。(注6)
 これは、歴史の趨勢を信頼する心構えのある、そのような人物が抱く感情ではない。
 トロツキーは、のちにこう主張した。—他のいったい誰がよりよく知る立場にいただろうか?
 もしも「レーニンと自分がペテルブルクにいなければ、十月革命は存在しなかっただろう」。(注7)
 わずか二人の個人の存在に依拠している、「不可避の」歴史的事件を、想定することができるか?//
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 (06) こうした証拠でもまだ確信を得られないならば、ペテログラードでの1917年十月の事件を精細に見るだけで足りる。「大衆」は観衆として振る舞って、冬宮への突撃を訴えたボルシェヴィキを無視したことを知るだろう。冬宮では、臨時政府の年長の大臣たちが外套で身を包み、若いカデットたち〔立憲民主党員〕、女性兵団、個人の小隊によって守られていた。
 我々はトロツキーの権威に従うことができる。彼自身によると、ペテログラードの十月「革命」は「せいぜい」2万5000人から3万人によって達成された。(注8)—この数字は、全国土に1億5000万人がおり、都市部には40万人が、連隊兵士たちが20万人以上いた、という中でのものだ。//
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 (07) 独裁的権力を掌握した瞬間から、レーニンは、のちに「全体主義的」(totalitarian)と名付けられた体制の基礎を掃き清めるために、全ての既存の制度を根絶し続けた。
 この「全体主義的」という用語は、冷戦期のものだと考えて用法を避けようと決めた西側の社会学者や政治学者に嫌悪されてきた。
 しかしながら、検閲機関がこの用語の使用禁止を解除したとき、いかにすみやかにソヴィエト同盟でこれが好まれるに至ったかは、注目に値する。
 かつての歴史には知られないこの種の体制は、私的だが全能の権力を国家に押し付け、全ての組織生活を例外なく自らに従属させる権利があると要求し、その意思の履行を無制限のテロルでもって強要した。//
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 (08) 全体を総合的に見れば、レーニンの歴史的な著名さは、きわめて劣っていた政治家たる資質によるのではなく、その統率の手腕によっていた。
 彼は、歴史の大きな征圧者の一人だった。この特質は、彼が征服した国は自分自身の国だけだったということで損なわれることはない。(*)
 レーニンの考えの新しさ、そして成功した理由は、政治を軍事化したことにあった。
 彼は、内政や外交を言葉の文字通りの意味での軍事行動として扱った、最初の国家の長だった。その目的は敵を服従するよう強いることではなく、殲滅することだった。
 レーニンはこの新しい考えによって、対抗者たちに対して顕著な有利さを獲得した。対抗者たちにとっては、軍事は政治の反対物であるか、そうでなければ異なる手段によって追求される政治だったからだ。
 彼は、軍事化した政治、そしてその結果としての政治化した軍事行動によって、先ず権力を掌握し、それを維持し続けることができた。それによって、まともに生育する社会的、政治的秩序の形成が助けられたのではない。
 彼は、ソヴィエト・ロシアとロシア依存国に対する争いの余地なき権威を主張したあとですら、闘って破壊すべき新しい敵を見出さなければならなかった。今は教会、つぎは社会主義革命党、そのつぎは知識人層。このようだったのは、全ての「前線」へと突撃することにきわめて習熟するに至っていたからだ。
 この好戦性は、共産主義体制の不変の特質になった。そして、スターリンの悪名高いつぎの「理論」で絶頂を極める。すなわち、共産主義が最終的な勝利に接近すればするほど、社会的対立はそれだけいっそう強くなる。—これは、空前無比の残忍さによる大量虐殺を正当化する考えだった。
 かくして、レーニン死後60年のうちに、ソヴィエト同盟は国内および外国での不必要な闘争でもって消耗し尽くし、自らを肉体的にも精神的にも破滅させた。 
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 (脚注*) Clausewitz はすでに1800年代の早くに、ヨーロッパ文明をもつ大国を獲得するのは、さもなくば内部的分割以上に不可能」になる、と書いていた。Carl von Clausewitz, The Campaign of 1812 in Russia (1843), p.184.
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 後注
 (05) RR〔=Richard Pipes, Russian Revolution〕, p.484-5.
 (06) Lenin, PSS, XXXIV, p.435-6.
 (07) Lev Trotskii, Dnevniki i pis'ma (1986), p.84.
 (08) Lev Trotskii, Istoriia russkoi revoliutsii, II, Pt. 2 (1933), p.319.
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 結章・第二節、終わり。第三節へと、つづく。
 

2599/R・パイプス1994年著第9章第九節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。最後の第九節
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 第九節・レーニンの死。
 (01) レーニンは、1924年1月21日月曜日の夕方に死んだ。
 家族や付添いの医師たち以外では、彼の最後の瞬間の唯一の目撃者は、ブハーリンだった。(*)
 一報が届くや否や、ジノヴィエフ、スターリン、カーメネフ、Kalinin は動力付雪上そりでGorki へと急いだ。指導部の残りの者たちは、列車で続いた。
 死んだ指導者のベッド脇で祈祷を行なったスターリンは、レーニンの頭を持ち上げ、自分の胸に寄せて、接吻をした。(注219)
 翌日、Dzerzhinskii は、レーニンの死に関する短い文章の原稿を書いた。GPU が大量逮捕をせざるを得なくなることがないように、「パニック」にならないよう民衆に警告するものだった。(注220)
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 (脚注*) Bukharin in Pravda, No. 17/2, 948 (1925.1.21), p.2. ブハーリンは、1937年2月に監獄からの生命を乞うスターリン宛ての手紙で、レーニンは「自分の腕の中で死んだ」と書いた。NYT, 1992.1.15, p.A11.
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 (02) レーニンが死んだ日、トロツキーは、保養地のSukhumi への途中で、Tiflis に着いた。
 彼はその翌日に、スターリンからの暗号電報で、それを知った。(注221)
 電信でのトロツキーの質問に対して、スターリンは、葬礼は土曜日(1月26日)に行われると知らせ、そのために戻ってくる時間はないだろう、政治局は予定通りSukhumi へ行くのが最善だと考える、と追記した。(注222)
 判明したように、葬礼は日曜日に行なわれた。
 トロツキーはのちに、自分を葬礼に出席させないよう意図的に間違った情報を与えた、とスターリンを攻撃した。
 この追及は、厳密な検討に耐えられるものではない。
 レーニンは月曜日に死に、トロツキーは火曜日の朝にその報せを受けた。
 モスクワからTiflis まで、彼は三日を要していた。
 彼がただちに帰還していれば、遅くとも金曜日にはモスクワに到着していただろう。かりに葬礼が土曜日に行なわれていても、彼は十分に出席できた。(+)
 それどころか、理由について何ら説明しなかったが、彼はスターリンの助言に従って、Sukhumi まで行った。
 レーニンの遺体が古参党員に付き添われて冬のモスクワに横たわっていたあいだ、トロツキーは、黒海の太陽を浴びていた。
 彼の不在は、大きな驚きと落胆をもって受け止められた。//
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 (脚注+) レーニンの葬儀を日曜日に延期するとの決定は、金曜日の1月25日に最初に発表された(Lenin, Khronika, XII, p.673)。したがって、土曜日に葬礼は執行されるとの電報でもって、スターリンは、トロツキーがのちに主張するように(Moia zhizn', II, p.249-250)意図的に彼を騙していた、のではなかった。
 Deutscher は、彼の英雄に好意的である特徴的な例だが、スターリンはトロツキーに葬礼は「翌日に」行なわれると知らせた、と主張する(Prophet Unarmed, p.133)。だが、スターリンの第二の電信は、葬礼は土曜日に、つまり「翌」日ではなく四日後に行なわれるだろうと述べていた。
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 (03) レーニンの遺体はどのように扱われたのか?(注223)
 これまで公にされていないが、彼の遺言で、レーニンは、ペテログラードの彼の母親の傍に埋葬されるという望みを表明していた。
 これは妻のKrupskaia も望んだことだった。
 彼女は、Pravda への手紙で、レーニン個人崇拝には強く反対していた。—記念碑も、式典も、そして暗黙にだが聖廟も、望まなかった。(注224) 
 しかし、党の支配者たちには、異なる考えがあった。
 政治局は、レーニンの死の数ヶ月前に、彼の遺体を防腐処理することを議論していた。
 この方針にとくに賛成したのは、スターリンとKalinin だった。彼らは、亡き指導者が「ロシア様式」で埋葬されるのを望んだ。
 聖人の遺体は腐敗しないという、正教に起源のある一般民衆の信仰に対応して、レーニンの肉体は永遠に展示される必要があった。
 彼らの共通の敵であるトロツキーを別として、彼らの誰も広くは知られていなかった。
 スターリンは官僚機構内の乱闘によってこの時点までに独裁的権力を獲得していたが、国内での知名度はほとんどなかった。
 死者は沈黙しているが姿は実在しているので、レーニンは、適切に保存されるならば、彼が創設した信条に正当性を与え、十月革命と後継者による支配の連続性を示すことになるだろう。
 レーニンの遺体を防腐処理して赤の広場の霊廟に展示するという決定が、ブハーリンとカーメネフの反対を遮って、採択された。//
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 (04) レーニンの遺体はDom Soiuyov の円柱ホールに横たえられていた。数万人がそれを見た。
 1月26日〔1924年〕、スターリンは弔辞を述べ、彼が神学校で学んだ宗教的抑揚を用いて、党の名のもとでレーニンの命令を実践すると「誓約」した。(注225)
 1月27日の日曜日、遺体は一時的な木製霊廟に運ばれた。(**)
 不幸なことに、春が到来する三月までに、遺体は変質し始めた。(注226)
 何がなされるべきだったか?
 葬礼の責任者だったKrasin は、再生を信じて、遺体を氷凍させることを提案した。そして、このための特別の装置がドイツから輸入された。だが、この考えは実行できないものとして中止を余儀なくされた。
 何事にも通じているのが仕事だったDzerzhinskii は、V. P. Vorobev という名のKharkov の解剖学者が生体組織の新しい保存方法を開発していたことを知った。
 指導部は長い討議のあとで、このVorobev にレーニンの防腐処理を委ねることを決めた。 
 彼が率いるグループは、不朽化(Immortalization)委員会と名付けられた。//
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 (脚注**) レーニンの脳は切除され、V. I. Lenin 研究所へと移された。そこの科学者たちは、彼の「天才性」の秘密を発見し、「人類の進化の高次の段階」を示すと証明することを任務として割り当てられていた。
 のちに、スターリンと他の若干の共産主義著名人の脳が、収集物に加わった。レーニンの心臓は、V. I. Lenin 博物館に預託された。AiF, No. 43/576 (1991.11), p.1.
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 (05) Vorobev は補助者とともに三ヶ月間、細胞と組織内の水を自分が案出した化学的流動体に変える仕事に従事した。
 この合成物は、通常の温度と湿度では気化せず、細菌や真菌類を破壊し、発酵もしない、と言われていた。 
 防腐処理は7月後半に完了し、遺体は翌8月に新しい木製霊廟に展示された。
 これは1930年に、石製の聖廟に変えられた。除幕式を行なったのはスターリンで、やがて国家後援の崇敬対象物となった
 1939年、スターリンは、22人の科学者を遺物を監視する研究室に配置した。注意深くしていても、遺物は安定したままではなかったからだ。
 外面上の腐敗や変化が進まないように、最も先進的な方法が採用された。//
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 (06) かくして、5年前には神を冒涜し、嘲弄する運動をして正教の遺物をニセモノとして晒したボルシェヴィキは、彼ら自身の神聖な遺物を創り上げた。
 くずと骨にすぎない教会の聖人たちとは違って、彼らの神は、科学の時代にふさわしく、アルコール、グリセリン、フォルマリンで成り立っていた。
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 後注
 (219) V. Bonch-Bruevich in KN, No. 1 (1925), p.186-191.
 (220) RTsKhIDNI, F. 75, op. 3, delo 287.
 (221) Text in Volkpgonov, Trotskii, II, p.42.
 (222) Trotsky, Stalin, p.381-2.
 (223) これにつき、Nina Tumarkin, Lenin Lives! (1983), Ch. 6を見よ。
 (224) Pravda, No. 23 (1924.1.30), p.1.
 (225) Stakin, Sochineniia, VIm p.46-p.51. 原文は、Pravda, No. 23 (1924.1.30), p.6.
 (226) 以下の叙述が基礎にしているのは、Iurii Lopukhn in Glasnost' (1991.10.18), p.6、およびTumarkin, Lenin Lives!, p.182-9.
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 第九節、そして第9章全体が、終わり。

2598/R・パイプス1994年著第9章第八節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第八節・トロツキーの敗退③。
 (11) 1923年12月、トロツキーはついに党内階層から離れ、「新路線」と称されるPravda 上の論文で、自分の事案を公にした。
 彼はこの論文で、民主主義の理想に燃える若い党員層と、凝固した古参党員を対比させた。
 それが強調した結論は、「党はその諸機構に従属しなければならない」だった。(注215)
 スターリンは、こう回答した。
 「ボルシェヴィズムは、党を党諸機構に対峙させるのを受け入れることができない」。(注216)//
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 (12) トロツキーも賛成して第10回党大会〔1921年3月〕で採択された党規約によれば、今や、彼が行なっていることは、とくにグループ46と協議していることは、争う余地なく、「分派主義」だった。
 この罪責は、トロツキーの二通の手紙が—偶然にか意図的にか—公に漏出した内容によって生じた。
 1924年1月に開催された党会議には、したがって、トロツキーと「トロツキー主義」を「小ブルジョア」的逸脱と非難する十分な権利があった。(注217)//
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 (13) トロツキーの舞台は終わっていた。残りは拍子抜けするものだった。
 党多数派に対して、彼は防御しなかったからだ。1924年に彼自身がこう認めることになったように。
 「我々の誰一人として、党に逆らうのを望まないし、誰一人として正当に党に逆らうことはできない。
 結局のところ、我々の党はつねに正しいのだ。」(注218)
 1925年1月、トロツキーは戦争人民委員の辞任を強いられることになる。
 続いたのは党からの除名と追放で、後者はまず中央アジアへ、ついで国外へだった。
 そして最後には、暗殺された。
 ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンその他の黙認でもってスターリンが取り仕切ったトロツキーを排除する諸行為は、党員層の支持を受けて実行された。党員層は、利己的な策略者から党の統一を守るためにそれらは役立つと考えた。//
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 (14) 敗北者が、勝利者よりも道徳的に優れていると見なされるがゆえに、後世の人々の同情を引きつける、という事例が、歴史上には多数存在する。
 トロツキーにこのような同情を掻き集めるのは、困難だ。
 確かに、彼はスターリンやその同盟者たちよりも教養があり、知的にはより興味深く、個人的にはより勇敢で、仲間の共産党員たちとの対応はより高潔だった。
 しかし、レーニンがそうであるように、彼が持つこのような美徳は、もっぱら党内部でのみ示された。
 外部者や民主主義の拡大を追求した内部者との関係では、トロツキーはレーニンやスターリンと同一だった。
 彼は、自らを破滅させる武器を作るのを助けた。
 心から同意しつつ、レーニン独裁への反対者たちが味わったのと同じ運命に陥った。
 カデット〔立憲民主党〕、社会主義革命党(エスエル)、メンシェヴィキ、赤軍で戦おうとしなかった帝制時代の将校たち、労働者反対派、Kronstadt の海兵たち、Tambov の農民たち、〔ロシア正教〕聖職者たち、と同じ運命にだ。
 トロツキーは、自分自身が脅威にさらされたときにのみ、全体主義の危険を呼び醒まそうとした。
 党内民主主義への彼の突然の転向は、原理を擁護したのではなく、自己保身の手段だった。//
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 (15) トロツキーは、自分をジャッカルの群れに襲われた誇りある虎だと叙述するのを好んだ。
 そして、スターリンはより怪物的だと示そうとした。レーニンのボルシェヴィズムの理想的範型を救済したいロシアや外国の者たちにとっては、このイメージはより説得的だと感じられた。
 しかし、記録が示しているのは、当時のトロツキーもまた、ジャッカルの群れの中の一頭だった、ということだ。
 彼の敗北には、この点を高貴にするものは何もなかった。
 トロツキーは、政治的権力を目ざす下劣な闘争で自分の首を絞めたがゆえに、敗北した。//
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 後注
 (215) Pravda, No. 281 (1923.12.11), p.4.
 (216) I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.16.
 (217) Kommunisticheskaia Partiia Sovetskogo Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh …7th ed., I (1953), p.778-785.
 (218) Trinadtsatyi S"ezd RKP(b) (1963), p.158.
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 第八節、終わり。最後の第九節の目次上の表題は、<レーニンの死>。

2597/R・パイプス1994年著第9章第八節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第八節・トロツキーの敗退②。
 (08) 1923年10月8日、トロツキーは中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の民主主義手続を放棄していると指導部を攻撃した。(注205)
 (ここでの民主主義手続は党内だけだった。—彼の書簡について議論すべく開かれた総会に対して、トロツキーが「同志諸君がよく知るように、私は決して『民主主義者』でなかった」と思い起こさせたように。)
 突然に提起された動議は、分派活動について知る者はGPU または適切な党機関に情報提供することが要求される、とのDzerzhinskii が行なった主張だった。(注206)
 この準備行動が自分とその支持者たちに向けられていることをトロツキーは十分に知っており、これは党の官僚主義化の兆候だと彼は解釈した。
 彼は知りたかったのだが、ともかくもそうする義務を履行することを共産党員に要求する特別の指令が発せられなければならなかったのか?
 彼は、攻撃の対象をnaznachenstvo の実務からの選抜、中央による地方党組織の書記たちの任命による、階層の頂部への権力の集中に定めた。
 「党の官僚主義化は事務職員の選抜手続の結果として、かつてないほどに増大した。…
 政府と党の組織機構の中に、党員職員の広大な階層が作り出された。彼らは少なくとも表面的には、まるで職員階層が党の見解を作り、党の決定を行う機構を代表していることを当然視しているかのごとく、自分たち自身の見解は完全に捨て去っている。
 自分自身の見解の表明を抑制している党員職員階層の下には、広汎な党員大衆がいる。彼らには全ての決定が、すみやかな召喚または命令の形でやって来る。」(注207)
 彼は「古くからのボルシェヴィキ」には特別の地位をもつ権利があることを認めつつ、彼らはきわめて少数派にすぎないことを想起させた。そして、こう結論した。
 「党員職員による官僚主義に終止符を打たなければならない。
 党内民主主義は—ともかくも、硬直化や腐敗の脅威が生じない範囲内でのそれは—、当然の権利を獲得しなければならない。」(注208)//
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 (09) 全ては十分に正しかった。だが、トロツキー自身が三年前に、全く同じ異論を「形式主義」、「呪物崇拝」だとして却下していた。
 新しい立場のトロツキーは、とくにいわゆる「46のグループ」から、ある程度の支持を獲得し、支持者たちは、彼の趣旨での手紙を中央委員会に送った。(注209)
 しかしながら、党の指導機関は、回答を用意していた。すなわち、諸書簡は、不法な分派の結成につながり得る「基盤」だ。(注210)
 長い反論文で、トロツキーについて、こう決めつけた。
 「二、三年前に同志トロツキーが中央委員会の多数派に反対して『経済』宣言を開始したとき、レーニン自身が彼に何度も経済問題は簡単に成功することのない問題領域であって、重要な結果を達成するには辛抱強い持続的な年月を必要とする、と説明した。…
 国の経済生活の適切な指揮を単一の中心に確保し、その中に最大限度の計画化を導入するために、1923年夏の中央委員会はSTOを再編成し、それに人数的に多数の共和国の経済指導者を含めた。
 中央委員会はその中に、同志トロツキーも選出した。
 しかし、同志トロツキーは、STOの会議に姿を見せることを考慮しなかった。多年にわたってソヴナルコムの会議に出席せず、同志レーニンのソヴナルコム議長代理者の一人になるようにとの提案を拒んだのと全く同じように。…
 同志トロツキーの不満、その大きな苛立ち、長年にわたる中央委員会に対する攻撃、党を揺さぶろうとするその決意、これら全ての基礎にあるのは、同志トロツキーは中央委員会が彼自身と同志[A. L.]Kolegaev に我々の経済生活に関する責任を持たせることを望んでいる、ということだ、
 同志レーニンは長くこのような人事に反対した。そして我々は、彼は完全に正しかったと考える。…
 同志トロツキーは、ソヴナルコムおよび再編されたSTO の構成員だ。
 彼はまた、同志レーニンから、ソヴナルコム議長の代理職の地位を提示された。
 同志トロツキーが望むならば、これら全ての地位を活用して、実際に全党に対して、自分が経済と軍事の分野で事実上無制限の権限を託される人間であることを例証できたはずだっただろう。
 しかし、同志トロツキーは、異なる行動を選択した。それは、我々の見解では、党員の義務と両立し得ないものだ。
 彼は、同志レーニンの指導中と引退後のいずれの期間も、ソヴナルコムの会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、旧であれ再編後であれ、STO の会議に一度なりとも出席しなかった。
 彼は、ソヴナルコムでもSTOでも一回も提案をしなかった。あるいはGosplan でも、経済、財政、予算等々の諸問題に関するいかなる提案もしなかった。
 彼はまた、代理職への同志レーニンの提示をきっぱりと拒んだ。この役職をどうやら彼は、自分の威厳よりも低いと見なしたようだ。
 彼は、『全か無か』の定式に従って行動している。
 同志トロツキーは実際のところ、経済と軍事の分野で独裁的権力を認めるか、さもなくば経済領域で仕事をするのを拒否し、毎日の困難な業務をしている中央委員会の系統的な破壊を行なう権利だけを自分に留保しようとするか、という態度を、党に対してとってきた。」(注211)/
 この反応は、トロツキーの書簡が提起した政治的問題に答えていなかった。その代わりに、レーニンとトロツキーが政治的論争に関して長く確立してきた原理的考え方に従って、トロツキーを個人的に激しく攻撃した。
 この攻撃は力強いもので、共産党員たちのあいだでトロツキーの信用をさらに傷つけたに違いない。//
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 (10) 10月23日、トロツキーは大胆不敵にも、中央委員会総会宛て書簡で、提起した論点を拡大しつつ、党の分裂を促進しているとの非難を否定した。(注212)
 歩み出すことをトロツキーが拒否したことに着目して、総会は102対2(保留が10)の票決で、彼を「分派主義」に従事したとして譴責した。
 また、党指導部の行動を「完璧に肯定」した。(注213)
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーを党から除名しようとした。だが、スターリンはそれは思慮深さを欠くと考えた。彼の強い主張によって、二人の動議は否定された。
 政治局はPravda に、トロツキーに不適切な振舞いがあったいもかかわらず、彼なくして仕事を継続することは考え難い、と言明する決議を掲載した。党最高諸機関での彼の協力の継続は「絶対に必要不可欠」だ。(*)
 スターリンは、「トロイカ」体制への批判が増えてきていることに気づいて、逸脱した同僚だが貴重な人物として保持するのを望んでいると装うのが得策だと考えた。
 のちに、こう説明することになるように。
 「ジノヴィエフとカーメネフには同意しなかった。隔絶の方針は党にとって危険を伴っている、隔絶という手段は流血の手段だ、ということを我々は知っているからだ。
 隔絶は危険であり、感染症的だ。ある一人を今日に遮断する。明日はもう一人。その次の日に三人め。そして、党には誰もいなくなってしまうだろう。」(注213)
 いつものように、スターリンは分別と妥協の人物だった。
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 (脚注*) Pravda, No. 287 (1923.12.18), p.4. ブハーリンはのちに、1923年にジノヴィエフはトロツキーが逮捕されるのを望んだと、ジノヴィエフに思い出させた。Pravda, No. 251/3, 783 (1927.11.2), p.3. レーニンの反応については、既述 p.467〔第9章第五節〕を見よ。
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 後注
 (205) IzvTsK, No. 5/304 (1990.5), p.165-.173.
 (206) Ibid., p.165. 〔IzvTsK=Izvestiia TsK KPSS〕
 (207) Ibid., p.170.
 (208) Ibid., p.173.
 (209) Ibid., No. 6/305 (1990.6), p.189-191.
 (210) Ibid., No. 5/304 (1990.5), p.178-9, No. 7/306 (1990.7), p.176-189.
 (211) Ibid., No. 7/306 (1990.7), p.177-9.
 (212) Ibid., No. 10/309 (1990.10), p.167-p.181.
 (213) Ibid., p.188-9.
 (214) Vasetskii Likvidatsiia, p.37 から引用。
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 ③へと、つづく。

2596/R・パイプス1994年著第9章第八節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機の試訳のつづき。第八節へ。
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 第八節・トロツキーの敗退①。
 (01) レーニンが舞台から退いても、スターリンはまだトロツキーに勝たなければならなかった。トロツキーは、ジョージア問題の処理についてスターリンを非難するようレーニンに指示されていた。
 トロツキーがレーニンから託された責任を回避したので、スターリンのこの責務は意外にも緩やかなものになった。
 トロツキーは、レーニンからの任務を実行しないで、ジョージア人を見棄てた。一人の秘書が電話で3月5日のレーニンの手紙を読んだとき、体調が悪いと言って、中央委員会総会でジョージア人のために発言することをそっけなく拒んだ。ほとんど動けない、と主張した。
 しかし、少しだけ躊躇してこう追加した。自分は今や完全にジョージア人反対派の側に立つようになった、と。(注190)
 そう言ってすら、トロツキーは、第12回党大会の開会を延期するとのスターリンの自己のための決定を支持した。(注191)
 彼は大会の直前に、スターリンの書記長への再任を支持する、Dzerzhinskii とOrdzhonikidze の追放に反対する、とカーメネフに保障した。(注192)
 彼は、伝統的にレーニンが行なってきた中央委員会報告を行なってほしいとの、仲間に組み込もうとしてのスターリンの提示を断わった。
 彼は、書記長であるスターリンの方が適格だと思った。 
 スターリンは穏やかに固持して、報告する栄誉はジノヴィエフに移った。彼は、レーニンの地位は望めば自分のものになると信じて、うかうかと前へと進み出た。(注193)//
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 (02) トロツキーとスターリンの経歴上この重大な分岐点でのトロツキーの行動は、現代人および歴史家のいずれをも不可解にさせてきた。
 トロツキー自身は、満足できる説明をいっさい行わなかった。
 多様な解釈が示されてきた。トロツキーはスターリンを過小評価した。あるいは反対に、書記長の地位は固く揺るぎないので挑戦しても失敗すると考えた。闘って確実に党を分裂させるという意欲がなかった。(注194)
 トロツキー信奉者の何人かは、彼は政治的内紛を自分の威厳よりも重視せず、個人的な政治的策謀をする考えが全くなかった、と主張する。(注195)
 彼の伝記作家のIsaac Deutscher は、トロツキーの消極性を彼の「度量」と「英雄的性格」に起因させた。この点でDeutscher は、トロツキーは「歴史上きわめて稀な人物」だと主張する。(注196)//
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 (03) トロツキーの行動は、探り出すのが困難な多数の絶望的要因によるものだったように思われる。
 彼は疑いなく、自分はレーニンの指揮権を継承する資格が最もある、と考えていた。
 だが、彼に立ち向かう険しい障害があることに十分に気づいていた。  
 彼には党指導部に支持者がなかった。指導層はスターリン、ジノヴィエフ、カーメネフの周りに群がっていた。
 よそよそしい個性とボルシェヴィキでなかった過去を理由として、党員のあいだで人気がなかった。
 彼を妨げたもう一つの要因—その性質からして評価し難いけれども確実に重みがあった—は、彼がユダヤ人であることだった。
 この点は、1990年に1923年10月の中央委員会総会に関する詳細が公刊されたことによって浮かび上がってきた。この総会でトロツキーは、代理職へのレーニンの提示を拒否したことに対する批判から防衛した。 
 彼は言った。ユダヤ人出自は自分には何ら意味がないが、政治的には大きな意味がある、と。
 レーニンが提示した高位の職に就くことで、自分は「この国はユダヤ人に支配されているという根拠を、敵に与える」だろう。
 レーニンはこの論拠を「ナンセンス」として却下した。だが、「彼の心の奥深くで、彼は私に同意していた」。(注197)//
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 (04) トロツキーはこのように考えて、1922-23年に大いに矛盾する行動をした。多数派から独立して行動しようと努め、同時に、致命的な「分派主義」との汚辱を避けるべく多数派に協力した。
 結局は、政治闘争に敗北したばかりか、もっと勇気のある立場をとっていたならば得ただろう道徳的敬意をも失った。//
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 (05) トロツキーの黙認によって、スターリンの破滅の舞台になる可能性があった第12回党大会は、彼の勝利で終わった。
 3月16日、スターリンは自信を滲み出して、Tiflis にいるOrdzhonîkidzeに電話して、「いろいろあったけれども」、大会はトランスコーカサス委員会の行為を承認するだろう、と伝えた。(注198) 
 彼は正しかったことが判明した。
 大会で彼は、より民主主義的な手続を40万人の党に導入すれば、党は「帝国主義の狼たち」の継続的な脅威のもとにあるときに行動することができない「おしゃべりクラブ」に変質する理由を、辛抱強く説明した。(注199)
 スターリンは、新しい人員でもって中央委員会を拡大することの有用性について、レーニンに同意した。一方で、構造の変化や人物の交替についての彼の提案は無視した。
 民族問題に関するレーニンの覚書は代議員たちには配布されたが、公表されなかった。(*)
 この問題に関する報告の中で、スターリンは、賢くも中庸の方向を歩んだ。ジョージア人反対派と緩やかな同盟を擁護するレーニンの議論を帳消しにした。一方で、無謀にも、レーニンが彼を追及した「大ロシア民族排外主義」を非難すらした。(注200)
 詳細な記録によれば、彼の組織に関する報告が終了すると、代議員たちは「大きい、長い拍手」でスターリンを讃えた。(+)
 (党大会でのレーニンの演説は、通常は「大きい拍手」とだけ書かれた。)
 トロツキーは、ソヴィエト工業の将来について報告するにとどめた。—これはこの大会での彼の唯一の登場で、たんなる「拍手」を受けた。
 スターリンは容易に、書記長の地位を再確認された。//
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 (脚注*) 1923年4月16日、Fotieva は彼女自身の責任で、民族問題に関するレーニンの小論の複写物をスターリンに送った。スターリンは、こういう仕方で「自分がかかわる」(〈vmeshivatsia〉)のをしたくないという理由で、受け取るのを拒んだ。そして、その複写物は中央委員会に送付された。
 スターリンは、その夜にFotievaから、レーニンの妹の手紙の趣旨をつぎのように引用する手紙を確保した。妹の手紙によると、レーニンはそれを公表せよとの指示を出さなかった、彼女自身も公表するにはまだ適さないと考える。
 スターリンは、Fotieva の手紙を受け取って、中央委員会に対して、レーニンのこのような重要な言明を秘密にしたままだったとしてトロツキーを責める文書を送った。その文書はこう結んでいた。
 「私は、同志レーニンの(民族問題に関する)論文はプレスで公表されるべきだ、と信じる。
 同志Fotieva の手紙によって、同志レーニンがまだ全部を見直していないので公表することはできない、と分かったのは、ただ残念なことだ。」
 公表される代わりに、レーニンの小論は「彼らの情報として」代議員たちに配布された。
 この問題の関係文書は、RTsKhIDNI, F.5, op.2, delo 34 に保管されており、IzvTsK, NO.9 (1990.9), p.153-161 に 再現されている。
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 (脚注+) Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.62. このような栄誉を受けた他の唯一の報告者は、ジノヴィエフだった(同上、p.47)。—これは、ジノヴィエフがレーニンの後継者だと予想(tout)されていた、さらなる証拠だ。
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 (06) トロツキーの融和的姿勢は、彼のためにはほとんど役立たなかった。
 彼は回想録に、レーニンが無力のあいだにスターリンの仲間たちは彼を除く全ての政治局委員が関与する陰謀を行なっていた、彼らは決定を行なう前に討議し、揃って行動した、と書いている。
 任命される資格を得るために、党員は唯一の基準を充たす必要があった。すなわち、自分(トロツキー)に対する憎悪だ。(注201)
 40名で成る新しい中央委員会で、トロツキーが自分の支持者に含めることができたのは、3人にすぎなかった。(注202)//
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 (07) 情勢は自分に圧倒的に不利で、失うものは何もないと意識して、トロツキーは敵に媚びるのをやめて、反対攻勢に出た。
 彼は、ぐらついている将来を立て直すべく、党員大衆の代弁者を装った。
 固く団結する古参党員たちが自分を外部者と扱うならば、自分は外部者たちの代表者になろう。
 外部者は党員の大多数だった。1922年の調査によれば、37万6000人の党員のうち1917年以前に入党していたのは、2.7パーセントだけだった。そしてそのゆえに、古参党員には有利な資格があった。(注203)
 しかし、その2.7パーセントが党の指導機関を独占し、その機関を通じて国家の諸機構を独占していた。(**)
 トロツキーの友人たちは、トロツキーは影響力のある共産党指導者であり、その名前はレーニンと分かち難く結びついている、と言った。(注204)
 ではどうして、一般党員たちはトロツキーに味方しようとしなかったのか?
 道徳的観点から言っても、1923年10月に開始されたトロツキーの反攻は、絶望的な賭け事にすぎなかった。
 1917年10月以降、誰もがこの時期ほど党の統一の至高の重要性を強く主張したことはなかった。労働者反対派や民主主義的中央主義者がしたように党内民主主義を強く呼びかけるのを、誰もが嘲笑して拒絶した。
 党内民主主義へのトロツキーの転換は、党の運営方法に関する根本的変化が動機となったものではあり得なかった。そのような変化は起きていなかったのだから。
 変化したのは党内でのトロツキーの立ち位置だった。かつては内部者だったが、今や彼は浮浪人(outcast)になった。
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 (脚注**) Leonard Schapiro によると、1920年初頭に党の要職を占めていた者たちの圧倒的多数は、革命以前からのレーニン主義者だった。「革命後の組織上の構造は、したがってこの点で、革命前の地下組織の構造にきわめて近かった」。Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union (1960), p.236-7.
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 後注。
 (190) IzvTsK, No. 9 (1990:9), p.149; Pravda, No. 225/25, 577 (1988.8.12), p.3.
 (191) Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (192) Trotskii, Moia zhizn', II, p.224-5.
 (193) Ibid., II, p.228-9.
 (194) E.g., ibid., II, p.217-8; Deutscher, Prophet Unarmed, p.93.
 (195) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.17.
 (196) Deutscher, Prophet Unarmed, ix. 同上、p.91も見よ。
 (197) V. P. Danilov in Ekonomika i Organizatsiia Promyshlennogo Proizvodstva (EKO), No. 1/187 (1990), p.60.
 (198) RTsKhIDNI, F. 558, op.1, ed. khr. 2518.
 (199) Dvenadtsatyi S"ezd, p.181-2.
 (200) Ibid., p.479-p.495; Pipes, Formation, p.289-293.
 (201) Trotskii, Moia zhizn', II, p.241.
 (202) Deutscher, Prophet Unarmed, p.106.
 (203) I. P. Trainin, SSSR i natsional'naia problema (1924), p.27.
 (204) Trotskii, Moia zhizn', II, p.230.
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 ②へと、つづく。

2595/R・パイプス1994年著第9章第七節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機第七節の試訳のつづき。
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 第七節/レーニン・スターリン・トロツキー②。
 (07) 民族問題に関するレーニンの小論をスターリンが知っていたか否かは、明瞭でない。だがいずれにせよ、レーニンが自分に対する全面的な闘いを準備していることを、今や疑うことができなかった。その闘いによって、自分は全てでないとしてもほとんどの役職を失うことになりそうだった。
 (レーニンはトロツキーに対して、第12回党大会でスターリンに対する「爆弾を用意している」と打ち明けていた。)
 スターリンは、自らの政治生命を賭けて闘っていた。今はいかに権力のある地位に就いていたとしても、レーニンが個人的に戦場を掌握してしまえば、自分には可能性がない。
 スターリンの一つの望みは、レーニンが自分を引き降ろす前に、彼が完全に無能力になることだった。//
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 (08) Dzerzhinskii は、二度めのジョージアでの仕事から、1923年1月に戻った。
 資料を求めるのがレーニンの要請だったが、その資料を携帯しつつ、ごまかしてスターリンに渡すという対応方策をとった。
 スターリンを見つけることが二日間はできなかった。ようやくたどり着いたとき、スターリンはFotieva にこう言った。政治局の許可があるときにのみ、レーニンが求めることに同意するすることができる。
 ついでに彼はFotieva に、「レーニンに何か余計なことを語っていないか」どうか、「レーニンは今どのようにしているのか?」と尋ねた。
 Fotieva は、レーニンに何を告げるのも拒んだ。実際、彼女はスターリンに全てを話していた。
 レーニンはのちに、彼女の面前で、背信を疑っている、と言った。(注180)
 彼は正しかった。
 自分の口述筆記は「絶対に」、「完全に秘密にする」という命令を、彼女は無視した。そして、やがて、Fotieva が得た文書資料から彼女がその内容をスターリンと若干のその他の政治局委員に決まって伝える、という慣行が出来上がった。(*)//
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 (脚注*) Volkogonov, Triumf, I/1, p.153. 褒賞として、スターリンは彼女を1930年代の粛清の対象外にした。彼女は、スターリンよりも長生きし、1975年に死んだ。
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 (09) 2月1日、政治局はようやくレーニンの要請に応じて、Dzerzhinskii が二度めの使命のときに収集した資料を、彼の秘書たちに渡した。
 レーニンは、その資料を読める状態ではなかったので、文書類を秘書団に配布し、情報の所在に関する厳密な指示を発した。
 その作業は終了すれば、ただちにレーニンに報告されることになっていた。
 スターリン、Dzerzhinskii、Ordzhonokidze に対する党大会での責任追及を行うためなので、レーニンは秘書団の作業の進展を強い関心をもって見守った。Fotieva によれば、彼のジョージア問題への関心が絶頂にあったのは1923年2月のあいだだった。(注181)
 3月3日に、報告が彼に届けられた。
 それを熟読したのち、レーニンは、ジョージア人反対派を全力で支援することに決した。
 3月5日、彼はトロツキーに民族問題に関する自分の覚書を送った。それには、中央委員会でジョージア共産党を擁護する責務を担ってほしい、とのトロツキーに対する要請が付いていた。
 「事案はスターリンとDzerzhinskii によって『処理され』ている。その客観性を、私は信頼することができない。全くの逆だ」。(注182)
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 (10) たまたま同じその日、3月5日だった。レーニンは、漏れ聞いた電話での会話についてKrupskaia に質問したところ、彼女は前年12月のスターリンとの出来事を話した。(注183)
 レーニンはただちに、スターリン宛てのつぎの手紙を口述筆記させた。
 「敬愛する同志スターリン!
 きみは厚かましく私の妻に電話して、妻を侮辱した。
 彼女はきみが言ったことを忘れる気持ちだと言ったけれども、このことは彼女を通じてジノヴィエフやカーメネフにも知られている。
 私は自分に対して行なわれたことを簡単に忘れるつもりはない。そして、言うまでもなく、私の妻に対して行われたことは全て、私自身へも向けられていた、と考える。
 この理由により、私はきみに、きみが言ったことを取り消して謝罪するか、それとも我々の関係を断絶させるのを選ぶか、いずれであるかを私に教えてくれるよう求める。」(+)
 Krupskaia はこの手紙を発送するのを止めようとしたが、無駄だった。この手紙は3月7日に、Volodichevaにより個人的にスターリンに配達された。カーメネフとジノヴィエフ宛ての複写物とともに。(注184)
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 (脚注+) Lenin, PSS ,LIV, p.329-330. レーニンは同僚たちに宛てて「敬愛する」(〈Uvazhaem yi〉)という形容詞を用いなかった。これが使われていることは、スターリンはもはや同僚ではない、ということを示唆する。
 手紙の文章からは、トロツキーがのちに主張するようには(例えば、Portrety, p.42)、レーニンがスターリンとの「全ての個人的、同志的関係を断絶」したのではなく、かりにスターリンが謝罪しなければそうするとたんに威嚇していることが、明確だ。—スターリンは謝罪した。
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 (11) スターリンは冷静にその手紙を読み、そして返事を書いた。その内容は1989年に公にされたが、まさに条件つきの謝罪だとのみ叙述できるものだった。
 彼はKrupskaia を攻撃するつもりはなかったと強調し、彼女のレーニンの健康についての責任を想起させたにすぎないと述べつつ、結論的にこう書いた。
 「あなたが『関係』の維持のためには私が先の言葉を『謝罪』すべきだと感じているなら、私は先の言葉を撤回することができる。しかしながら、いったいどうなっているのか、どこに私の誤りがあったのか、何が本当に私に求められているのか、私は理解することができない。」(**)//
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 (脚注**) IzvTsK, No. 12 (1989.12), p.193. Maria Ulianova によれば、レーニンの健康は急速に悪化していたので、彼はスターリンの「謝罪」を読む機会がなかった。同上、p.199。
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 (12) レーニンは翌日、もう一つの覚書を口述した—彼の生涯の最後の意思表明になった—。それはジョージア人反対派の指導者たちに宛てたもので、トロツキーとカーメネフ用の複写が付いていて、ジョージア問題について彼らを「心から」支持する、スターリンとDzerzhinskii の「黙認」に驚愕している、この主題に関する演説を準備している、と知らせた。(注185)//
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 (13) スターリンは、政治的破滅の見込みに直面した。
 レーニンが彼との関係の断絶を提示し、トロツキーには責任追及が依頼されているなら、スターリンが書記長にとどまり続ける可能性は、皆無に近かった。
 しかし、報せは全てが悪いものではなかった。というのは、スターリンが継続的に連絡を取り合っているレーニンの医師団は彼に、患者の健康はいっそう悪くなっていると知らせてくれたからだ。
 それでスターリンは、時間稼ぎをすることに決めた。
 3月9日、〈Pravda〉は、スターリンからの、説明なしの短い一行の発表文を掲載した。三月半ばに予定されていた次期党大会は、4月15日に延期される。(注186)//
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 (14) 賭けは実を結んだ。
 翌日(3月10日)、レーニンは大きな発作を起こし、話す能力を奪われた。10ヶ月後の彼の死まで、〈vot-vot〉(ここ・ここ)、〈s"ezd-s"ezd〉(大会・大会)のような単音節の言葉しか発することができなかった。(注187)
 レーニンに付き添っている医師団—若干のドイツからの専門家を含めて40名—は、彼はもう二度と政治に関して積極的役割を果たすことはないだろう、と結論づけた。
 5月、レーニンは永遠にGorki へと転居した。そこで、好天の日には公園の中で車椅子に座っていた。
 全ての実際的な目的に関して、彼は生きている亡骸だった。何と言われたかを理解し、文章を読めるようにも見えたけれども、彼には意思疎通の能力がなかったからだ。
 8月、Krupskaia は彼に、左手で書くことを教えようとした。しかし、結果は勇気づけるものではなく、彼女は諦めた。(注188)//
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 (15) このレーニンの生涯最後の時期、彼は失敗の感覚で圧倒されていたように見える。
 それを証拠立てているのは、彼が歴史に残した結果の全てについての、陳腐な賞賛や安心への渇望だった。
 かつては好意的であれ敵対的であれ他者の意見には注意を払わなかったレーニンが、1923年と1924年初頭には、賞賛の言葉を切望した。
 彼は明らかな喜びをもって、レーニンをマルクスになぞらえるトロツキーの論文、レーニンなくしてロシア革命は勝利しなかっただろうとのGorky の主張、そしてHenri Guilbeaux、Arthur Williams のような外国の崇拝者の賛辞を、読んでいた。(注189)/
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 後注
 (180) Lenin, PSS, XLV, p.477.
 (181) L. A. Fotieva in VIKPSS, No. 4 (1957), p.162-3.
 (182) Lenin, PSS, LIV, p.329.
 (183) Rogovin, Byla li, p.75.
 (184) IzvTsK, No. 9/308 (1990.12), p.151.
 (185) Lenin, PSS, LIV, p.330.
 (186) Pravda, No. 53 (1923.3.9), p.1; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39; IzvTsK, No. 9 (1990.9), p.152.
 (187) V. P. Osipov in KL, No. 2/23 (1927), p.236-p.247; Petrenko in Minuvshee, No. 2 (1986), p.146; Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.39.
 (188) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1289 &1290.
 (189) Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.279-284; Trotskii, Moia zhizn', II, p.251-2.
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 第9章第七節、終わり。

2594/R・パイプス1994年著第9章第七節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第七節へ。
 ——
 第9章第七節/レーニン・スターリン・トロツキー①。
 (01) レーニンはその月の遅くに戻り、頭脳の明晰さが残っていた二ヶ月のあいだ、仕事が許された合間に、短い文章を口述した。それらの文章の中で、彼は、自分が病気中のソヴィエトの政策がとった方向について絶望的な気持ちを表現し、改革の道筋を構想した。
 これらの小論で顕著なのは、まとまりの悪さ、本筋から逸れる書き方、繰り返しの多さだ。これら全てが、精神状態の悪化の兆候だった。
 きわめて有害なものは、スターリンの死まで、ソヴィエト同盟で公刊されなかった。
 レーニンの小論は最初はスターリンの継承者たちによってスターリンの信用を落とすために使われ、のちの1980年代には、ミハイル・ゴルバチョフの〈perestroika〉を正当化するために用いられた。
 これらは、経済計画、協同組合、労働者農民観察局の再編成、党と国家の関係を対象にしていた。
 全てを通じて、レーニンの晩年の文章や演説は共通する主題を扱い、ロシアの文化的後進性に対する絶望の感覚で溢れていた。彼は今や、文化の程度の低劣さがロシアでの社会主義建設の主要な障害だと見なすにいたった。
 「我々はかつて、活動の中心を政治的闘争に、革命に、権力の征圧に置いたし、そうしなければならなかった。
 しかしながら、今では、中心は平和的な『文化的』作業に広がり、それへと変化している。(注174)
 レーニンは、こうした言葉によって、暗黙のうちに自らの過ちを承認していた。すなわち、30年前に、ロシアは社会主義を達成する前に文化の貧困さを認めて資本主義の学校を卒業しなければならない、とのPeter Struve の議論を「ブルジョア的」として拒絶した、という過ちを冒した、ということを。(注175)
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 (02) レーニンの晩年の文章が扱った最も重要な主題は、後継者と諸民族の問題だった。
 12月23日と26日の間に、のちに1月4日付の補遺が付くが、小さい爆発物のように、彼は口述した。それは、来る第12回党大会〔1923年〕に配布される予定の同僚たちに関する一連の彼の論評だった。—やがてレーニンの「遺書」として知られることになる。(*)
 スターリンとトロツキーの対抗関係を心配して、レーニンは、中央委員会を27名から100名ほどにまで拡大することを提案した。新入者は、農民層と労働者階級から選抜される。
 この拡大は、党と「大衆」の間の懸隔を埋め、今はスターリンがしっかり握っている党を指導する機関の権力を弱める、という二重の効果をもつことになるだろう。//
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 (脚注*) Lenin, PSS, XLV, p.343-8. Krupskaia は1924年春に、レーニンの望みに従って晩年の文書類を彼の仲間たちに渡した。カーメネフは1924年の第13回党大会の上級者会議で、この「遺書」を読んだ。スターリンはこれが代議員たちに配布されていれば自分に生じたかもしれない窮迫事態から救われた。ジノヴィエフの、過去の者は過去へ、との示唆もあった。
 Krupskaia の反対意見をめぐって、この「遺書」は代議員たちに知らせるが公刊はしない、との合意が、トロツキーも一致してなされた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/116 (1989.1.22), p.8-9.
 この文書の内容は、つぎの記事で最初に公的に知られた。Max Eastman in the New York Times 1926年1月5日付。
 レーニンが「遺書」を残したことを1925年には全く信じなかったトロツキーは(Boolshevik, No., 1925, p.68)、10年後にThe Suppressed Testament of Lenin を出版した。この書物で彼は、「遺書」が党指導者たちに読まれたとき、自分に関する論評を聞いてスターリンは、レーニンに関する彼の本当の感情を表現する「語句」を口からすべらした、と想起した。その語句は発したことのないものだった。Suppressed Testament, p.16.
 「遺書」は1956年に、ソヴィエト連邦で初めて公表された。
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 (03) レーニンはあれこれと求めたが、文書が厳格に秘匿されることに全てが関係していた。彼は、文書は自分かKrupskaia のどちらかだけが開けられるよう、封印された封筒に入れるよう命令した。
 しかしながら、12月23日に口述を筆記した秘書のM. A. Volodicheva は、自分に委ねられた重要な文書を知っていることの責任に困惑し、Fotieva に相談した。するとFotieva は、その文書を書記長に見せるよう助言した。 
 スターリンは、ブハーリンとOrdzhonikidze がいる所でその文書を読んで、彼はVolodicheva に焼却するよう命じた。彼女はそうした。Gorki にある金庫にあと四つの複写物を入れていることを明らかにしないままで。(注176)//
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 (04) Volodicheva の不謹慎さに気づくことなく、翌日にレーニンは彼女に、党の指導的人物に関するいっそう爆弾的な言葉を口述した。(注177)
 書記長になっているスターリンは、「無制限の」(neob'iat-noia)権力を蓄積した。「私は、彼がこの権力を十分に慎重に行使する仕方をつねに知っているとは、確信していない」。
 1月4日〔1923年〕、つぎの補遺がFotieva に口述された、/
 「スターリンは粗暴[grub]すぎる。そして、この欠点は我々中央の内部や我々の関係では共産党員として十分に耐え得るものだが、書記長という役職にいれば耐え難いものになる。
 私はこの理由で、同志諸君はスターリンを今の役職から外し、同志スターリンよりもただ一点の長所、すなわち忍耐力、忠誠心、丁寧さ、同志の対する気配りをもっと持ち、もっと気紛れでない等の誰かと交替させることを考えるよう提案する。」(注178)/
 レーニンはかくして、スターリンの小さな悪癖、行為と気質の欠陥だけを指摘した。加虐的冷酷さ、誇大妄想、全ての優越者への憎悪が含まれる。そして、最後まで、スターリンを理解しなかった。//
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 (05) トロツキーについては、「現在の中央委員会で最も有能な人物」だが、「あまりにも自信に陥りやすく、仕事の純粋に管理的観点にあまりにも執着している」と論評した。
 後者の点でレーニンが意味させたのは、書類仕事ではない、非合議的な指令様式による運営への耽溺だった。
 1917年十月に、権力奪取に反対したカーメネフとジノヴィエフの恥ずべき行為を思い出した。
 だが、ブハーリンとPiatakov については、条件付きで良いことを叙述できた。—前者は党の最も傑出した理論家で、党のお気に入りだ。しかしなおも全くマルクス主義者でなく、スコラ哲学ふうだ。(+)
 いったい誰が書記長にふさわしいと思っているかに関しては、何も示されなかった。だが疑いなく、スターリンは去るべきだった。
 こうした散漫な論評を読んで受ける印象は、レーニンは誰一人として自分の権威を継承する資格がない、と考えていた、ということだ。
 Fotieva はすぐさま、こうした論評をスターリンに伝えた。(注179) 
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 (脚注+) レーニンは一年前に、カーメネフを叙述する四つの形容詞を書き留めていた。「貧素なやつ((bednenkii〉)、弱い、陽気な、怯えている」。RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 22300.
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 (06) レーニンはつぎに、民族問題に取りかかり、この主題について、12月30-31日に三つの覚書を口述した。
 ここで、共産党機構が少数民族に対処した態様を激しく批判した。(**)
 彼の論評の主旨は、「自治化」というスターリンの案—今は放棄されていた—は完全に時機を失しており、その目的はほとんどが帝制時代から残っているソヴィエトの官僚制が国全体を支配するのを可能にすることだ、ということだった。
 レーニンは、同化した非ロシア人であるスターリンとDzerzhinskii を、「民族排外主義」だと非難した。
 彼はスターリンについて、「純粋で本当の『社会主義的民族主義者』であるばかりか、粗雑な大ロシアDzerzhimorda でもある」と評した(Dzerzhimorda とは、Gogol の〈検察官〉に登場する警察官で、その名前は「大鼻の黙らせ屋(snout muzzler)」を意味する)。
 スターリンとDzerzhinskii は、ジョージア人に対する「この本当に大ロシア民族主義的な活動」について、個人的な責任を取るべきだ。
 レーニンは、実際的結論として、同盟は強化されるべきだが、少数民族の人民にはnational な統合と共存できる最大限の権利が与えられなければならない、と要求した。但し、彼はこうも言った。民族少数派共和国の一部の独立を企てるいかなる試みも、「党の権威によって適切に弱体化することができる」。
 これは、いかにも典型的なレーニン主義的解決だった。彼においては、民主主義の前景(facade)によって、全体主義の実質は隠されなければならない。//
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 (脚注**) つぎで最初に出版された。SV, No. 23-24/69-70 (1923.12.17), p.13-15. 後述する理由で、諸小論はソヴィエト同盟では1956年の第20回党大会まで公表されなかった。Lenin, PSS, XLV, p.356-362.
 その二年前の1954年に公刊した私の翻訳(Formation of the Soviet Union, p.273-7)は、Trotsky Archive at Harvard にあった複写物にもとづいていた。
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 後注
 (174) Lenin, PSS, XLV, p.376.
 (175) P. B. Struve, Kriticheskie zametki k vopros ob ekonomicheskom razvitii Rossii, I (1894), p.288; Richard Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), Ch. 6.
 (176) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8; Genrikh Volkov in Sovetskaia kul'tura, No. 9/6577 (1989.1.21), p.3.
 (177) Lenin, PSS, XLV, p.344-6.
 (178) Ibid., p.346.
 (179) Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1.22), p.8-9.
 ——
 ②へと、つづく。

2593/R・パイプス1994年著第9章第六節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第九章/新体制の危機・第六節、の試訳のつづき。とくに、レーニン生前の1923年はどういう状態だったのか。
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 第六節・ジョージア紛議②。
 (08) レーニンは9月25日〔1922年〕に、スターリンの草稿を知った。
 また、ジョージア共産党中央委員会の決議も読んだ。これには、スターリンが(彼にしては)異様に長文の説明書を添付していた。
 スターリンは、各共和国の純粋な自立と完全な統合との間の中間は現実には存在しないという理由で、自分の案を正当化した。
 スターリンは、こう書いた。遺憾なことに、「民族問題についてモスクワのリベラリズムを示す必要があった」内戦の時代に、「我々は、我々の意思に反して、共産党員たちのあいだに本当の独立を要求する純粋な、そのゆえの社会主義的独立主義者(〈sotsial-nezavisimtsy〉)を生んできた」。(注163)//
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 (09) レーニンには、読んだ文書の調子とともに内容も不適切だった。
 スターリンは、非ロシア人共産党員の反対意見を無視しているのみならず、彼らを粗雑に扱っていた。
 レーニンは会話しようとスターリンを呼び(9月26日)、その会話は2時間40分続いた。
 その後、彼は政治局に覚書を送り、その中でスターリンの草案を激烈に批判した。(注164)
 彼の案では、三つの非ロシア人共和国はロシア共和国と一体化されるのではなく、RSFSR とともに仮に「ソヴェト欧州・アジア共和国同盟」と称する新しい超民族的統合体に加入する。
 レーニンが意図したのは、第一に、新しい国家から「ロシア」という名前を削除することで、国制上の対等性を強調すること(彼の言葉では「分離主義者に餌を与えない」ため)、第二に、将来に共産主義国へと歩む諸国を強化する中核を生み出すこと、だった。(*)
 彼の案ではさらに、スターリンが目論んだようにロシアの中央執行委員会が同盟の全機能を掌握するのではなく、新しい中央執行委員会が連邦のために設置される。//
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 (脚注*) スターリンは当時に、新しい同盟は「世界の労働者を世界ソヴェト社会主義共和国への統合へと向かう決定的な歩みを刻むものだ」と記した。I. V. Stalin, Sochineniia, V (1947), p.155.
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 (10) スターリンは、レーニンによる批判に反応する中で、党指導者に対するにふさわしい慣行的敬意を何ら示さなかった。
 一方では新しい国家の構造に関するレーニンの意思を尊重し、また彼の委員会に修正案を諮問しつつ、彼は、RSFSR の中央執行委員会が連邦のそれ(CEC)になることに固執した。
 彼は、レーニンのその他の反対は瑣末なものとして無視した。
 ある点で、彼はレーニンを、「民族的自由主義」(national liberalism)だと批判した。(注165)
 しかしながら、彼は結局はレーニンの意向に同意し、それに従って案を修正することを強いられた。(注166)
 このような形で、ソヴェト社会主義共和国同盟の憲章案が出来上がった。その発足は、1922年12月30日にRSFSR のソヴェト第10回大会で正式に宣せられた〔ソヴィエト連邦=ソ連の発足—試訳者〕。
 三つの非ロシア人共和国の代表者たちによって出席者は増加しており、この大会は第一回ソヴェト全同盟大会と称された。//
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 (11) ジョージア人の意見は変わらなかった。ウクライナとベラルーシは形式上は主権共和国として直接に同盟に加入するのに対して、ジョージアはトランスコーカサス連邦を通じて、つまり自治的政体として、そうしなければならない。
 スターリンの書記局を迂回して、彼らはクレムリンに対して直接に、かりに案が強行されるならば自分たちは離れるつもりだ、と知らせた。(注167)
 スターリンはこれに反応して、中央委員会は満場一致で彼らの反対を却下した、と伝えた。
 10月21日に、レーニンからの電信もあった。彼もまた、ジョージアの意見を、実質的にも、それが表明された態様の点でも、拒絶した。(注168)
 これを受け取って、ジョージア共産党中央委員会全体は10月22日、脱退を申し出た。
 これは、共産党の歴史上、かつてなかった事件だった。(注169) 
 Ordzhonikidze は、この意思表明を利用して、〔ジョージア共産党の〕中央委員会を、彼とスターリンの意向に従順な若い共産主義への転宗者が担う新しい機関に置き換えた。
 スターリンはOrdzhonikidze に、中央委員会は承認した、と伝えた。(注170)//
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 (12) この時点まで、レーニンは、スターリンによるジョージアの処理に同意していた。
 しかし、すでに反スターリン気分があった11月遅く、ジョージアの事案にはもっと何かがなされてよいと結論づけた。
 彼は、ジョージアに関する事実調査委員会を派遣するよう依頼した。
 スターリンは、その長にDzerzhinskii を指名した。
 書記局の策略に不信を抱き、Tiflis との自分自身の連絡網を作ろうと意図して、レーニンは、Rykov もジョージアに行くよう求めた。
 レーニンの秘書たちの一人は、彼は切実な気持ちで調査の結果を待っていた、と記録した。(注171)//
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 (13) Dzerzhinskii は12月12日に、任務を終えて帰ってきた。
 レーニンはただちに、彼に会うためにGorkI からモスクワへ向かった。
 Dzerzhinskii はOrdzhonikidze とスターリンを完全に免責した。だが、レーニンは納得しなかった。
 レーニンは、政治的議論の中でOrdzhonikidze がジョージアの同志たちを敗北させたことを知ってとくに苛立った。
 (彼はOrdzhonikidze を「スターリン主義者のバカ(ass)」と呼んだ。)(注172)
 彼は、Dzerzhinskii に対して、もっと証拠を集めるよう命じた。
 翌日(12月13日)、スターリンに二時間会った。これは二人の最後の出逢いだった。
 レーニンは会話の後で、民族問題全般についての相当量の覚書をカーメネフに書き送ろうとした。しかし、それができる前の12月15日、もう一度発作を起こして横臥した。//
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 (14) レーニンは同僚たちに裏切られたと感じていたので、離れて生活していた13ヶ月の間、同僚たちの誰とも逢うのも断固として拒んだ。間接的に、秘書たちを通じてのみ、連絡し合った
 1923年中の彼の活動記録が示しているのは、トロツキーともスターリンとも会っていないことだ。ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、Rykov のいずれとも。
 彼ら全員は、レーニンの明確な指示にもとづいて、遠ざけられた。(注173)
 親しい同僚たちからこうして離れたことは、地位にあった最後の数ヶ月間、ニコライ二世が大公たちとの関係を遮断すると決めたことに、似ていた。//
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 後注
 (163) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.199.
 (164) Lenin, PSS, XLV, p.211-3. 初版は1959年。
 (165) Ibid., XLV, p.558. スターリンの反応は、TP, II, p.782-5.
 (166) Lenin, PSS, XLV, p.559.
 (167) Pravda, No. 225/25, 777 (1988.8.12), p.3.
 (168) Lenin, PSS, LIV, p.299-300.
 (169) Pipes, Formation, p.274-5.
 (170) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, khr. 2446.
 (171) VIKPSS, NO. 2 (1963), p.74-.
 (172) Pravda, No. 225/25 557 (1988.8.12), p.3.
 (173) V. P. Osipov in KL, No. 2, p.243; Petrenko in Minuvshee, No. 2, p.259-260.
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 第9章第六節、終わり。

2591/R・パイプス1994年著第9章第五節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第五節・レーニンの孤立③。
 (12) 官僚機構上の小さな敗北、そしてレーニン・トロツキー連合という妖怪。これらは三人組に警戒を促した。彼らが生き残るには、政府案件からレーニンを完全に隔絶することが必要だった。
 トロツキーが勝利した12月18日〔1922年〕、スターリンとカーメネフは中央委員会総会で、レーニンの健康と摂生に関する権限をスターリンに全権委任する決定を獲得した。
 スターリンがその秘書のLydia Fotieva に伝えたように、この決定はきわめて重要な意味をもった。その条項はつぎのとおり。
 「同志スターリンに対して、共産党員との接触と文通のいずれについても、Vladimir Ilich Lenin の隔離(isolation,〈izoliatsiiu〉)に関する個人的な責任を付与すること」。(注142、/
 スターリンの指示によると、レーニンは短い時間ごとに仕事をし、そのうちの一人はスターリンの妻のN. I. Allulieva である秘書たちに、口述筆記させることができた。
 これは驚くべき方法で、レーニンと彼の妻を精神的無能者として扱うものだった。
 レーニンはただちに、中央委員会は医師団の助言にもとづいて決定しておらず、反対に、医師団にどう語るべきかを伝えている、と疑った。(注143)//
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 (13) レーニンは、その中心にスターリンがいるとますます疑った、その計略の罠に嵌ったと感じて、助けを求めてトロツキーへと向かった。トロツキーもまた、同様の窮地にいた。
 トロツキーによると、我々にはこの彼の言葉しか手がかりがないのだが、レーニンは、ソヴナルコムの副議長の地位を受諾するようもう一度彼に要請した。—12月前半のいつかの私的な会話のことで、二人が直接に接触した最後となった。
 しかし、トロツキーが言うには、この場合はレーニンはさらに進んで、官僚機構一般に、とくに組織局に対抗する「陣営」(bloc)に彼も加わるよう求めた。
 トロツキーはこれを、スターリンに対抗する連合(coalition)を意味していると理解した。(注144)//
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 (14) 1922年12月15-16日の夜、レーニンは、二度めの発作を起こした。その後、医師団は強制的な休息と全ての政治的活動の自制を命令した。
 レーニンは、服従を拒んだ。(注145)
 彼は、完全な身体的無能力になる、また、あり得る死の危機に瀕していると感じた。そして、全てを良い状態で残すのを確実にしたいと思った。
 12月22日、話す力を失ったときは青酸カリを渡すようにFotieva に頼んだ。(注146)
 レーニンは五月に早くもスターリンに似たような頼みをしていた。これは、彼はスターリンに特別の信頼を寄せていた証拠だと、Maria Ulianova が理解する事実だ。(*)//
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 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198. 彼女の叙述は、スターリンの命令に応えたブハーリンの依頼で書かれた。また、ブハーリンの手書き文書も残されていており、真実性にはある程度の疑問を生じさせる。Rogo vin, Byla li, p.71.
 トロツキーは、殺害される直前の1939年に、1923年2月の政治局会議での出来事を思い出した。その会議でスターリンは邪悪な目つきをして、レーニンが希望のない状態を終わらせるために自分に毒を求めた、と報告した。L. D. Trotsky, Portrety (1984), p.45-49.
 トロツキーはその生涯の最後に、レーニンは書記長〔スターリン〕が与えた毒で死んだと信じていたようだ。Houghton Library, Harvard Uni,, Trotsky Archive, bMS Russian 13 T-4636, T-4637, T-4638.
 トロツキーの主張には不誠実なところがあった。なぜなら彼は、レーニンの血液には毒素の痕跡はなかった、とする検死結果を知らせるDzerzhinskii からの電話を受ける地位にあったからだ。RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 322.
 Fotieva によると、スターリンはレーニンに決して毒を与えなかった。MN, No. 17 (1989.4), p.8.
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 (15) 12月21日、レーニンは秘書たちを信頼できなかったようで、妻のKrupskaia にトロツキーへの暖かいメモを口述した。それは、「一発の砲弾も打つことなく戦術的妙計だけでもって」外国通商の独占をめぐる闘いに彼が勝利したことを祝うものだった。
 彼はトロツキーに、攻撃を強めるよう強く迫った。(注147) 
 このメモの内容は、すみやかにスターリンに伝えられた。彼は今では、レーニンとトロツキーが自分に対抗する勢力に加わっているという疑いに確信をもった。
 彼はその翌日に、Krupskaia に電話をかけ、彼女の夫の口述ををしたのは党の権限でもって自分が決めた摂生方法に違反していると、激しく叱責した。そして、中央統制委員会の調査にかける、と彼女を脅かした。
 電話が終わったあと、Krupskaia は激怒の発作に陥り、泣きながら床を歩き回った。(注148)
 その夜〔12月22日〕、彼女が夫にこの出来事を告げる前に、レーニンはさらにもう一回、発作を起こした。 
 Krupskaia はカーメネフに対して、党員であった全期間を通じて誰もスターリンがしたようには自分に話しかけなかった、と書き送った。
 自分以上に誰が、夫の健康の世話をするのか?、彼にとって良いことを自分以上に誰が知っているのか?(注149)
 スターリンは、この手紙について知らされて、Krupskaia に電話をして詫びるのが分別ある態度だと考えた。しかし、カーメネフと相談をして、レーニンの隔離を実行すべくいっそう警戒する措置をとった。
 12月24日、政治局(ブハーリン、カーメネフ、およびスターリン)の指示に従って、医師団はレーニンに対して、口述の時間を一日に5分ないし10分に限定するよう命じた。
 彼の口述は回答を必要とする意向伝達ではなく、個人的なメモ書きだと見なされることとされた。これは、レーニンが国家の諸問題に介入したり、トロツキーに通信したりするのを禁止する、巧妙な方策だった。
 指示書には、こうある。「いかなる友人も家族も、レーニンに考察や興奮の素材を与えないように、政治生活に関してはいっさい彼に伝えてはならない」。(注150)
 かくして、健康を守るためという装いのもとで、スターリンとその仲間たちは、レーニンを事実上は家屋内監禁の状態にした。(+)
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 (脚注+) この措置には30年後に奇妙な反応があった。1952年の秋、スターリンの医師は彼が健康でないと知り、ただちに全ての仕事をやめるよう迫った。スターリンは、おそらく先例を忘れておらず、その医師の逮捕を命じた。Egor Iakovlev in MN, No. 4/446 (1989.1), p.9.
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 (16) レーニンは、その政治的習癖への高い対価を払っていた。
 20年間、彼はその同僚たちを支配してきた。だが今や、彼らは権力を味わい、自分たちが権力を握ろうと焦っていた。
 彼らは、党内につぎのようなつぶやきを流布する運動をして、静かなクー・デタに至ることを正当化した。「老人」とは連絡が取れない、彼は精神状態が正常ではない。(注151)
 トロツキーは、不誠実にも、この運動に加わった。
 1923年1月、レーニンは迫っている党大会に備えてPravda 用に論文を書いた。その中で彼は、党の分裂の可能性について懸念を述べ、これを阻止する方策を提案した。(注152)
 政治局と組織局は合同会議を開き、一般党員に衝撃を与えそうな論文の公表の是非を、長々と議論した。党員からは、指導部との不一致は語られてないなかったのだ。
 レーニンは自分の論文が掲載された〈プラウダ〉を見たいと要求していたので、V. V. Kuibyshev は、レーニンが目にする一部だけの発行を提案した、
 結局、政治局の会議には中央統制委員会(TsKK)の代表者が同席すべきだとする一節を除いて、論文は公表されると決定された。中央統制委員会は、とりわけ書記長を含む、どの「有名人たち」の影響下にもなかった。(注153)
 同時に、指導部は論文の潜在的に有害な影響を弱めるために、地方や地区の党組織に対して、秘密の回覧書を配布した。
 1月27日付のその文書は、トロツキーが起草し、スターリンを含む政治局と組織局のメンバーが手書きで署名した。そして、レーニンの体調は良くなく、政治局の会議に出席することができない、と忠告するものだった。
 このことから分かるのは、実際には党が分裂する危険性は少しもなかった、ということを、レーニンは認識していなかった、ということだ。
(注154)
 この文書の内容を知ったならば、レーニンは、ニコラス二世が退位を強いられた後で日記に書いた言葉を思い出したかもしれない。
 「あたり一面、裏切り、臆病、欺瞞ばかりだ!」。//
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 (17) トロツキーが協力した褒賞として、スターリンは彼に対して1月に、VSNKh(最高経済会議)またはGosplan(国家計画委員会)のいずれかを所管する〈zamy〉の職をもう一度提示した。
 トロツキーは、再び断わった。(注155)//
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 (18) レーニンは、追いつめられた動物のように抵抗した。
 発作の間の明晰なときに三人組がしていることを知り、それに対抗する大きな運動を準備した。
 明らかにそうできる状態ではなかったけれども、トロツキーの助けを借りて、3月に予定されている第12回党大会で、国の政治的および経済的運営の劇的な変化を貫徹しようとした。
 トロツキーは、この闘いの当然の同盟者だった。彼もまた、政治的に孤立していたからだ。
 かりにレーニンが成功していたならば、スターリンの経歴は大幅に後退していただろう。破滅しはしなかったとしても。//
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 後注
 (142) RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo, list 88.
 (143) Lenin, PSS, XLV, p.485.
 (144) L. Trotsky, The Real Situation in Russia (1928), p.304-5; Moia zhizn', II, p.215-7.
 (145) Khronika, XII, p.542-3.
 (146) Maria Ulianova in IzvTsK, No. 6/317 (1991), p.190.
 (147) Lenin, PSS, LIV, p.327-8.
 (148) Ulianova in IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (149) Lenin, PSS, LIV, p.674-5.
 (150) Ibid., XLV, p.710.
 (151) Leon Trotskii in Biulleten Oppozitsii, No. 46 (1935), p.4.
 (152) Lenin, PSS, XLV, p.383-8.
 (153) Pravda, No. 16 (1923.1.25), p.1. PSS, XLV, p.387を参照。
 (154) 初出は、IzvTsK, No. 11/298 (1989.11), p.179-180.
 (155) Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n-199n.
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 第9章第五節、終わり

2590/R・パイプス1994年著第9章第五節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。原書、p.466〜。
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 第五節・レーニンの孤立②。
 (07) スターリンは、レーニンから下級層まで、全ての者を欺瞞する素晴らしい演技を行なった。
 彼は、他の誰もしようとはしない不可欠の仕事を引き受けた。党細胞から政治局へ、政治局から党細胞への書類発送などの単調な骨折り仕事。他に、無数の人員配置の仕事も。
 誰も気づかなかったように見える。このような仕事によって形成されたのは、スターリンが自らを無敵の政治的機械として作り上げることができる後援の基盤だった、ということを。
 彼はつねに、党にとって良いことが最高の価値だと思っている、と主張した。
 彼には個人的な野望や虚栄心がないように見え、トロツキー、カーメネフ、およびジノヴィエフに公的な光を浴びさせていた。
 これを巧妙に行なったので、1923年には、レーニンの後継者争いはトロツキーとジノヴィエフの間で繰り広げられる、と広く考えられていた。(注132)
 スターリンは、党の統一が至高の善であって、そのためには原理すら犠牲ににしなければならないと、強く主張しただろう。
 彼は別のときには、原理を維持するのが必要だとすれば、分裂を回避してはならない、と論じただろう。
 そのときどきに自分に適したものに依拠して、あるときはこれ、別のときはあれ、と使い分けただろう。
 討論の方法はつねに、分別に頼ること、つまりは気高い規準をときどきの都合に合わせようとすることだった。これが穏健さの模範であり、誰に対しても脅威にならないことだった。
 スターリンには、あり得るトロツキーを別にすれば、敵がいなかった。トロツキーに対してすらも、断固として拒否するまでは友好的であろうとした。トロツキーはスターリンを「党の著名な凡庸人(〈vydaiushchaiasia posredstvennosst'〉)」と称し、わざわざ論じるほどの意味はない、と無碍に否認したのだったが。
 スターリンは田舎の別荘で、ときどきは妻や子どもたちとともに党の指導者たちを集め、内容のあることを議論するとともに、思い出話をしたり、歌ったり、踊ったりしただろう。(注133)
 社交的な外面の下には殺戮の意思が潜んでいると示唆することを、彼は行わなかったし、語らなかった。
 彼は、無害の昆虫を擬態する捕食動物のように、疑っていない餌食のど真ん中に自らを棲息させていた。//
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 (08) 1922年9月11日、レーニンは、政治局に関する覚書をスターリンに宛てて送った。その中で、Rykov が休暇にために出発するときが近づき、Tsiurupa は負担全部を一人では処理できないことを考慮すると、二人の代理職者が任命されるべきだ、と書いた。一人は人民委員会議を、もう一人は労働国防評議会(STO)をそれぞれ監督するのを補佐する。いずれも政治局とレーニン自身による厳格な監視のもとで仕事をする。
 この役職について、レーニンは、トロツキーとカーメネフを提案した。
 トロツキーの友人と敵は、この依頼のように、きわめて多くのことを行なってきた。友人の中には、レーニンは後継者にトロツキーを選んだと主張する者までいた(例えば、Max Eastman は、まもなくレーニンはトロツキーに、「ソヴィエト政府の長になり、そうして世界の革命運動の指導者になる」よう求めた、と書いた)。(注134)
 現実は、他愛のないものだった。
 レーニンの妹によると、この提示は「外交的な理由」で、すなわちトロツキーの疲れた羽根を温めて優しくするために、行なわれた。(注135)
 実際のところ、その職は重要でなかったのでトロツキーが得るものは何もないことが、提案の理由だった。
 政治局がレーニンの動議を票決したとき、スターリンとRykov は賛成し、カーメネフとTomskii は保留し、カリーニンは「反対しない」と述べ、トロツキーは「端から(categorically)断わる」と記した。(*)
 トロツキーはスターリンに、提示を受けることができない理由を説明した。
 彼は従前に〈zamy〉制を、実質がないことを理由に批判した。今は手続を理由とする追加的反対意見を述べた。この提案は政治局でも中央委員会総会でも議論されていない、と。また、ともあれ、自分は4週間の休暇に出るところだ、とした。(注136)
 彼の本当の理由は、提案の性格を傷つけることにあったようだ。すなわち、彼は四人の代理者の一人になるのだが—一人は政治局委員ですらなかった—、明確に画定された職責のない、そのような無意味の「代理者」だ。
 提示を受容するのは、彼にとって屈辱だったのだろう。
 しかしながら、トロツキーが断わったことは、彼の敵たちに恐るべき武器を与えることになった。
 ソヴィエトの政府高官が「端から(categorically)」指名を拒否するというのは、全く前代未聞のことだったからだ。//
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 (脚注*)
 , RTsKhDNI, F. 2, op. 1, delo 26002; Stalin in Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n. この逸話についてのスターリンの回想は、第12回党大会(1923年)の議事録の初版からはスターリンの求めにより削除された。同上、p.199n.
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 (09) スターリンは、翌日にGorki に戻った。
 二時間の出会いの間にレーニンと何を話し合ったかは、知られていない。
 しかし、レーニンの提示をトロツキーが拒否したことが話題の一つだった、と推定しても不合理ではない。
 いや、つぎに起きたことを考えると、レーニンがトロツキーを正式に譴責することに同意したことを疑う理由すらない。
 9月14日(1922年)のトロツキーは欠席した政治局会議は、提示された職をトロツキーが受容すべきだと考えなかったのは「遺憾」だ、と表明した、
 これは、トロツキーの信用を失墜させる運動の第一撃だった。
 ほどなく、三人組体制のために行動するカーメネフは、レーニンに個人的な意向伝達を行ない、トロツキーを除名することを提案した。
 レーニンの反応は、激怒だった。
 「トロツキーを国外追放すること—これがきみが示唆していることだ、他の解釈はあり得ない—は、きわめて馬鹿げている。
 きみが私をその見込みなく騙そうと思っているのでなければ、きみはどうしてそう考えることができるのだ??? …」(+)
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 (脚注+) RTsKhICIDNI, F. 2, op. 2, delo 1239. 文書資料庫は、この文書の日付を「1922年7月12日より後」としている。V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991) p.36 が論じているように、1922年10月というのが、よりありそうな日付のように思われる。
 トロツキーを党から排除することはカーメネフとジノヴィエフの提案とほとんど確実に結びついていた。—スターリンは反対した。後述、p,485 〔第八節〕参照。
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 (10) しかしながら、政治的な位置関係は、突然にトロツキーに有利に変化した。
 9月に、レーニンが仕事を再開することについて、医師たちの許可が出た。
 10月2日、彼の健康への影響を懸念したスターリンとカーメネフの反対はあったが、レーニンはクレムリンに再び現われた。そして、一日に10時間と12時間のあいだを業務し続けるという、多忙な予定表を採用した。
 不在中のトロイカ体制の活動をより詳しく知って、レーニンは懐疑心を掻き立てられた。
 トロツキーは、本当は存在しないレーニンとの協力関係を想定して、こう書いた。
 「彼(レーニン)は、ほとんど感知し難い陰謀の糸筋が自分の病気に関係して我々の背後で編まれている、と察知しているように見えた」。(注137)
 レーニンは実際に、自分を孤立させることが目的の陰謀を感知した。
 彼は、同僚たちは表面的な服従を装いつつ、自分を諸案件の指揮から排除しようと間断なく準備している、と感じ、やがてそれは確信に変わった。
 証拠の材料の一つは、政治局会議の後の手続だった。
 彼はすぐに疲労したので、しばしば早めにこの会議から離れなければならなかった。
 翌日、彼の不在中に重大な決定がなされていたことを知ることになる。(注138)
 レーニンは、このような実務を止めるべく、政治局会議は三時間以上は続けない(午前11時から午後2時までに限る)、という決まりを作った。未解決の案件の処理は、次回の会議へと持ち越される。
 また、議題は遅くとも24時間前に配布されるものとされた。(注139)//
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 (11) レーニンがのちに結ぶトロツキーとの親交関係は、外国通商の独占という、小さな問題に関して始まった。
 これが明確になったのは、同時期に勃発したジョージア問題をめぐってスターリンと合意しなかったことによってだった(後述)。
 レーニンが不在中、中央委員会はソヴィエトの起業家や商社に外国との取引に関して大きな自由を付与した。
 Krasin は、これでは外国貿易に関する国家独占が侵害されると考え、ソヴィエト・ロシアは国家独占によって外国やその企業と競争して取引をするに際して多大な優越性を獲得しているという理由で、中央委員会決定に反対した。(注140)
 レーニンにとっては、外国通商の国家独占は新経済政策のもとで国家に留保された「管制高地」の一つだった。
 この決定に対する彼の怒りは、つぎのような感情に由来した。すなわち、同僚たちは、自分の不在を利用して、自分が資本主義の復活に対する防止策として設定したものを、破壊しようとしている。
 トロツキーは自分と同意見だと知って、レーニンは12月13日と15日に覚書を口述筆記させ、中央委員会総会のつぎの会合では二人の共通する立場を擁護してほしい、と頼んだ。(注141) 
 トロツキーはそのようにし、12月18日に中央委員会で、何とか大きな困難なく、レーニンの立場を採用させることができた。//
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 後注
 (132) Carr, Interregnum, p.270.
 (133) Alliuyeva, Twenty Letters, P.29-31; Volkogonov, Triumf I/1, p.191.
 (134) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.18.
 (135) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (136) TP, II, p.831.
 (137) Trotskii, Moia zhizn', II, p.212.
 (138) V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.36.
 (139) Lenin, PSS. XLV, p.327.
 (140) Boris Souvarine, Staline (1977), p.269-270; L. B. Krasin in Vospominaniia o V. I. Lenine, II (1957), p570-5.
 (141) Lenin, PSS, LIV, p.324, p.325-6.
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 ③へと、つづく。

2589/R・パイプス1994年著第9章第五節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第五節へ。
 日本共産党「創立」は1922年とされている。そして同党2020年綱領も従来の綱領と同趣旨で、「レーニンが指導した最初の段階」と「レーニン死後」を区別し、後者のあとでは「スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨て」た、と明記する。レーニンの死の1924年が画期のようだ(より正確にはその死は1924年1月21日)。なお、叙述されているように、スターリンの書記長就任は1922年4月で日本共産党「創立」・コミンテルンによる承認よりも前、レーニン生前もスターリンを含む「トロイカ」体制があった。
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 第五節・レーニンの孤立①。
 (01) レーニンは、自分が作った体制の結果としてロシアが単独者支配になるとは、予想していなかった。
 そのようなことは不可能だと、考えていた。
 1919年1月、メンシェヴィキの歴史家のN. Rozhkov はレーニンに手紙で独裁的権力を掌握するよう、熱心に勧めた。これに対して、レーニンは、こう書き送った。
 「こう表現するのを許してくれるなら、『個人的独裁』に関しては、全くナンセンスだ。
 党機構はすっかり巨大になった、—ある意味では過剰なほどだ。
 このような状況では、『個人的独裁』は(一般に)実現し難い」。(注123)
 実際には、党機構がどれほど巨大になったか、それがどれほどの費用を要しているのか、レーニンはほとんど知らなかった。
 彼は、党の予算は過去の九ヶ月で4000万金ルーブルを要している、という1922年2月にトロツキーがもたらした情報を信用しなかった。(*)//
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 (脚注*) RTsKhIGNI, F. 2, op. 1, delo22737. この総額は、この時期にドイツがソヴィエト・ロシアに提供した信用借款額とほとんど等しい(上掲, p.427)。
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 (02) レーニンは、別のことに悩んでいた。すなわち、党は最上層部で抗争が激しくなり、下層からの官僚主義によって弱体化する、という見通しに恐れていた。 
 彼はどちらも脅威だとは思ってこなかった。共産主義者は、自分たちの誤りを除いて、生じたこと全てを不可避で科学的に説明し得るものだと見た。この点では、きわめて主意主義的(voluntarist)になっていて、人為的誤りによる間違いを非難した。
 公平な観察者からすると、レーニンが悩み、彼の革命を危うくしている問題は、彼の体制の諸前提に内在していたように見える。
 彼らが生み出した矛盾に関するDeutscher の分析を受け入れるためには、ボルシェヴィキがもった願望についての彼のロマンティックな見方に同調する必要はない。Deutscher はこう書いた。
 「ボルシェヴィキ党の夢想によると、党は紀律をもつが内部では自由な、献身的な革命家の集団であって、権力によって腐敗するはずはない。
 自分たちはプロレタリア民主主義を遵守し、少数民族の自由を尊重する。なぜなら、これらなくして、社会主義への真の前進はあり得ないからだ。
 こうした夢想を追求して、ボルシェヴィキは、巨大な中央志向の権力機構を築き上げた。そして、この機構のために、彼らの夢想を次第に潰してきた。プロレタリア民主主義、少数民族の権利も、そしてひいては彼ら自身の自由も。
 彼らは、その理想の達成を目ざして運動するとするなら、権力なしで済ませることはできなかった。
 しかし今や、彼らの権力が自分たちの理想と対立し、それを曇らせるに至った。
 きわめて深刻な矛盾が発生した。
 また、夢にしがみつく者と権力にしがみつく者との間に、深い溝も生まれた。」(注124)/
 論理的前提と現実的結果の間の連結を、レーニンは失った。
 生涯の最後の数ヶ月、彼は、体制を守るための方策として、諸制度を再構築し、人員を再配置する以外のことを考えつかなかった。//
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 (03) 彼は、権力掌握以降に、権力は一人に、つまり彼自身に依存し、彼がソヴナルコムの議長かつ党政治局の名義なしの指導者という二つの役割を果たしてきた。だが、彼一人に依拠するこのような党と国家機関の融合を、永続的なものとして制度化することはできない、とやむなく結論づけた。
 いずれにせよ、国家機構から提出された、重要な問題と些細な問題への対応で、ほとんどが瑣末な多数の案件の事務処理で、党の政策形成機関が停滞していて、組織機構は作動しなくなっていた。
 レーニンが部分的に引退したのち、古い組織編成は改められた。
 彼は1922年3月に、全てがソヴナルコムから党政治局に持ち込まれていると不満を述べ、「ソヴナルコムと党政治局の間の連結にかかわる多くのことを自分自身が行なってきた」のだから、結果として生じている混乱の責任は自分にある、と認めた。また、「私が去らなければならないとき、二つの車輪は協調して回ることはないことが明らかになった」と述べた。(注125)//
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 (04) 1922年4月、スターリンが総書記の役職に就いたその月、レーニンは、二人の信頼できる同僚を国家機構の監視者として指名することを思いついた。
 彼は政治局に対して、二人の代理者(deputy、〈zamestiteli〉、短くは〈zamy〉)を設けることを提案した。一人はソヴナルコムを動かし、もう一人は労働国防評議会(Truda i Oborony ソヴェト、またはSTO)を動かす。(+)
 どちらの機関でも議長であるレーニンは、ソヴナルコムのために農業専門家のAlexander Tsiurupa、STOのためにRykov を、多数の人民委員部職員を監督させるために用いることを提案した。(**)
 経済運営について何の権限も与えられていなかったトロツキーは、この提案を激しく批判し、〈Zamy〉の職責はあまりに広くて無意味なほどだ、と主張した。
 トロツキーは、経済は党の介入をなくして、中心からの権威主義的方法に従わせないかぎりは、満足できない実績を生み続けるだろう、と考えていた。(注126) これは、経済の「独裁者」になりたいというトロツキーの願望を意味していると、広く解釈された。
 レーニンはトロツキーを「根本的に誤っている」と評し、間違った判断を言い募ったと責めた。(注127) //
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 (脚注+) Lenin, PSS, XLV, p.152-9. この評議会はソヴナルコムの最も重要な委員会だった。主として経済問題を扱い、一種の「経済内閣」(Alex Nove, An Economic History of the USSR, 1982, p.70)を形成していた。E. B. Genkia, Perekhod sovetskogo gosudarstva k Novoi Ekonomicheskoi Politike (1954), p.362 を参照。
 この提案の背景について、T. H. Rigby, Lenin's Government: Sovnarkom, 1917-1922 (1979), 第13章を見よ。
 (脚注**) Isaak Deutscher (The Prophet Unarmed, 1959, p.35-36) は、トロツキー文書庫を一般的に参照しつつ、1922年4月11日の政治局の会議で、レーニンはトロツキーに第三の代理者の職を提示した、と主張している。
 しかしながら、その日の政治局の会議の記録は存在しない。そして、トロツキー文書庫には、この叙述を確認できる文書はない。
 また、トロツキーが言うところのこの提示を「政治的に抹消されてしまう」との理由で拒否したことを彼は正当化した、とのDeutscher の主張を支持する何の証拠資料もない。Deutscher, ibid., p.87. さらに、Rigby, Lenin's Government, p.292-3 を見よ。
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 (05) 1922年5月25-27日、レーニンは最初の発作を起こした。これによって、彼の右腕と右脚は麻痺し、一時的に会話し執筆する能力が失われた。
 その後二ヶ月、彼は職責を免ぜられ、ほとんどの時間をGorki で休んで過ごした。
 医師たちは今では診断を脳の動脈硬化、おそらくは遺伝性のそれ、へと変更した。(レーニンの二人の姉妹と兄は同じようにして死ぬことになる。)
 強制的なこの不在の期間、彼の最も重要な職務—党政治局とソヴナルコムを主導的に運営すること—は、モスクワの党組織の長だったカーメネフに移された。
 スターリンは、書記局と組織局を主宰した。それらでの仕事として、彼は、党機構の日常的な業務をこなした。
 ジノヴィエフは、ペテログラードの党組織の長、かつコミンテルンの議長だった。
 これら三名は「トロイカ」体制、政治局を支配し、それを通じて党と国家機構を支配する指導部、を形成した。
 三人のいずれにも、トロツキーの義兄であるカーメネフにすら、彼らの共通の好敵であるトロツキーに対抗する勢力に加わる理由があった。
 彼らは、レーニンの発作の時期に休暇中だったトロツキーに、情報を提供するという手間すらとらなかった。(注128)
 彼らは、継続的にレーニンと意思疎通を行なった。
 この期間のレーニンの活動の記録(1922年5月25日から10月2日まで)が示しているのは、スターリンが最も頻繁なGorki への訪問者で、12回レーニンと逢っている、ということだ。
 ブハーリンによると、レーニンが自らの病気の最も深刻な時期に会うことを求めた唯一の中央委員会メンバーは、スターリンだった。(++)
 Maria Ulianova によると、二人の出会いはきわめて愛情のこもったものだった。  
 「V. I. レーニンは、友好的に(スターリンと)逢った。冗談を言い、笑い、私に彼をもてなすよう、ワインを出す等々を、頼んだ。
 何度もの訪問の際、私がいるところでトロツキーについて議論していた。
 その際、レーニンがスターリンの味方で、トロツキーには反対していることが明らかだった。」(注129)
 レーニンはまた、手紙を書いてしばしばスターリンに連絡した。
 彼の文書資料庫には、外交政策を含めて考えられ得るあらゆる問題について、スターリンの助言を求める多数のスターリン宛ての文書が残されている。
 彼は、スターリンの過重労働を心配して、毎週二日間は田舎で休暇をとるよう政治局はスターリンに指示するよう求めた。(注130)
 Lunacharsky からスターリンはみすぼらしい区画に住んでいることを教えられて、彼にもっとましな所が見つかるよう取り計らった。(注131)
 レーニンと他の政治局員との間には、このような親密さを示す記録はない。//
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 (脚注++) IzvTsk, No. 12/299 (1989.12), p.200, note 19. しかしながら、のちにブハーリンは、メンシェヴィキの歴史家のBoris Nicolaevsky に、自分は1922年後半に頻繁にレーニンを訪問した、そして彼と真剣に会話をした、と打ち明けた。Boris I. Nicolaevsky, Power and the Soviet Elite (1965), p.12-13.
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 (06) レーニンの同意を得て、そして自分たちで問題を決定して、三人組は政治局とソヴナルコムに、これらが当然の事として同意する決議を提出することになる。
 トロツキーは多数派とともに投票するか、保留をした。
 当時は7人の委員しかいなかった政治局での三人の協力によって、トロイカ体制は全ての案件を通過させ、政治局に支持者を一人ももたなかったトロツキーを孤立させることができた(7人とは、3人の他に、欠席中のレーニン、トロツキー、Tomskii、ブハーリンだ)。//
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 後注
 (123) RTsKhiDNI, F. 5, op. 1, d. 1315, 1.p.1-4; F. 2, op. 1, d. 8492.
 (124) Deutscher, Prophet Unarmed, p.73.
 (125) Lenin, PSS, XLV, p.113-4.
 (126) Trotsky Archive, Houghton Library, Harvard Uni., T-746 &T-747. それぞれ、1922年4月18日付と19日付。上掲、note 108.
 (127) Lenin, PSS, XLV, p.180-2.
 (128) Trotskii, Moia zhizn', II, p.207-8.
 (129) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
 (130) Ibid., No. 4/291 (1989), p.185.
 (131) RTsKhiDNI, F. 2, op.1, delo 24699.
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 第五節①、終わり。②へと続く。

2588/R・パイプス1994年著第9章第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節。日本共産党「創立」は1922年。
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 第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭②。
 (05) このような理由があったにもかかわらず、1922年にレーニンがその職責の配分を取り決めたとき、彼はトロツキーを看過した。
 レーニンは、継承者たちが合議でもって統治することに多大の関心をもった。決して「チーム・プレイヤー」でなかったトロツキーは、適していなかった。
 レーニンの生涯の最期に一緒にいた妹のMaria Ulianova の証言によると、レーニンはトロツキーの才能と勤勉さを評価していたが、そのゆえにその気持ちを表現せず、「トロツキーに共感を感じていなかった」。彼は「多くの特質がありすぎて、彼と一緒に集団で仕事をするのはきわめて困難だった」。(*)
 スターリンは、レーニンの要求をより充たしていた。
 そのゆえに、レーニンはスターリンに、今まで以上に多くの職責を割り当てた。その結果として、レーニンが舞台から消えていくにつれて、スターリンはその代理たる地位を握り、そうして実際には、名前上でなくとも、レーニンの継承者となった。//
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 (脚注*) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.197.
 彼女によると、トロツキーはレーニンと対照的に、気分をコントロールすることができず、政治局のある会議で彼女を「ごろつき(hooligan)」の兄弟と呼んだ。レーニンはチョークのように白くなったが、何ら答えなかった。同上。
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 (06) 1922年4月、スターリンは総書記に、つまり書記局の長に任命された。レーニンの個人的な指示にもとづいて、これは4月3日の中央委員会総会で正式に承認された。(+)
 今日の研究者によって、スターリンが党の分裂の危険を継続して警告し、スターリン自身だけにそれを阻止する力があると保障したがゆえに、レーニンはこの歩みをとった、と主張されてきている。(注110)
 しかし、この出来事のこのような背景事情は不明瞭なままだ。また、レーニンは、そのときまではきわめて僅かしか意味のなかった地位へとスターリンを昇格させることの重要性を理解していなかった、と示唆されてもいる。(注111)//
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 (脚注+) F. Chuev, ed., Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.181.
 トロツキーは、何も証拠資料を示すことなく、この任命はレーニンの意思に逆らって行われtた、と主張する。Moia zhizn', II (1930), p.202-3, および The Suppressed Testament of Lenin (1935), p.22. 彼はさらに、スターリンは第10回党大会でかつジノヴィエフの提案で任命されたと主張して、問題を混乱させている。
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 (07) スターリンが指揮する書記局には、二つの職務があった。第一に、政治局との間の文書作業の監視、第二に、党内での逸脱の防止。//
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 (08) Molotov は、第11回党大会での組織問題報告で、中央委員会は文書作業い忙殺されている、その多くは瑣末だ、と不満を述べた。中央委員会は前年に、党の地方部局から12万の報告書を受理していた。また、受け付ける質問の数はほとんど50パーセント増加していた。(注112)
 レーニンは同じ大会で、政治局はフランスからの保存肉の輸入のような重要な問題を扱うべきだ、と嘲弄した。(注113)
 彼は、政府が発する全ての命令に署名するのは馬鹿げていると感じていた。(注114)
 書記長の職務の一つは、政治局が重要な書類だけを受け取り、その決定が適切に実行されるのを確保することだった。(注115)
 この職責から、書記局は政治局の議題の準備に責任をもち、関係資料を用意した。そして、政治局の決定を党の下位の層へと中継した。
 この役割によって、書記局は二方向の運搬ベルトとなった。
 しかし、厳密に言えば書記局は政策決定機関ではなかったので、ほとんど誰も書記局の長がもつ潜在的な力を認識しなかった。
 「レーニン、カーメネフ、ジノヴィエフ、そしてより少ない程度にトロツキーは、スターリンが占める全ての役職について、スターリンの後援者だった。 
 スターリンの仕事は、政治局の華やかな知識人たちをほとんど惹きつけない類のものだった。彼らの政治的分析力は、労働者農民監察局や…書記局のどちらでも、全く用いられなかっただろうが。
 書記局で必要だったのは、面倒で退屈な作業を行ない、組織に関する詳細に対して我慢強く継続的に関心をもち続ける、莫大な能力だった。
 同志たちの誰も、スターリンの仕事について文句を言わなかった。」(注116)
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 (09) スターリンの擡頭の鍵は、組織局の委員かつ書記局の長である彼に与えられた役割の結合にあった。
 スターリンの指揮のもとで、官僚たちは昇格され、配転され、あるいは解職された。
 彼はこの権力を、中央委員会の判断に抵抗する全ての者を排除するためだけではなく、レーニンが望んだように、個人的に彼に忠誠心をもつ活動家をを任命するためにも用いた。
 レーニンが意図したのは、党員たちを厳格に監視し続け、異端分子を拒否または除名することによって、書記長に党のイデオロギー的正統派を守らせる、ということだった。
 スターリンは、この力を用いて、イデオロギー的純粋性を護持するという体裁をとりつつ責任ある役職に任命することで、彼らは自分に個人的恩義を感じ、党内での自分の個人的な権威を高めることができる、とすみやかに気づいた。
 彼は、執行部の地位に就く資格のある党員名簿(〈nomenklatury〉)を作成した。そして、それに掲載されている者だけを任命の際に選抜した。
 Molotov は1922年に、中央委員会は厳格な審査を受けた2万6000人の党活動家(または婉曲に「党労働者」と称された者)の名簿をもっている、と報告した。
 1920年には、彼らのうち2万2500人が任務を割り当てられた。(注117)
 スターリンは全てを自分が監督しておけるようにするため、地方の党書記局に、一ヶ月に一度個人的に彼自身に宛てて報告するよう要求した。(注118)
 彼はまた、Dzerzhinskii と調整して、GPU〔1920年にチェカが改称—試訳者〕に対して、毎月7日に定期的な概括書を書記局に送らせた。(注119)
 スターリンはこのようにして、党内の詳細事に関する並び立つ者のいない知識を得た。この知識は、任命する権限と合わさって、彼に党機構を有効に統御する力を与えた。
 中央委員会総会の議案書を含めて大部分は秘密だった党内文書を取り仕切ることによって、スターリンは、彼の潜在的な対抗者からの情報も抑えることができた。(注120) 
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 (10) スターリンの力の増大は、気づかれないまま進んだ。
 トロツキーの仲間は第11回党大会で、スターリンの職責は大きすぎると不満を述べた。
 レーニンは、もどかしげにこの異論を払いのけた。(注121)
 スターリンはうまく事を進めた。党の統一を維持するという至高の必要性を理解し、振る舞いや個人的要求について穏健だった。 
 のちの1923年秋、スターリンの同僚の一部が、彼の権力を制限しようとする秘密会議を開いた。それは、カーメネフへの私的な手紙で「スターリンの独裁」を語ったジノヴィエフに指導されていた。
 この企ては失敗した。スターリンが賢明に対抗者たちを出し抜いたからだった。(注122)
 複雑で面倒な国家機構を動かし、分裂を防止するというレーニンの熱望から、彼はスターリンに、権力を授与した。その権力をレーニン自身が六ヶ月後には、「無限の」と称することになる。
 そのときには、スターリンの権力を制限するにはもう遅すぎた。
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 後注
 (110) N. Shteinberger in VI, No. 9 (1989), p.175-6.
 (111) Ibid.
 (112) Odinadtsatyi S"ezd, p.53, p.59.
 (113) Lenin, PSS, XLV, p.100-3, p.114.
 (114) LS, XXIII, p.228.
 (115) Volkogonov, Triumf, I/1, p.136.
 (116) Deutscher, Stalin, p.234 を参照。
 (117) Odinadtsatyi S"ezd, p.49, p.56.
 (118) Pethybridge, One Steo, p.155.
 (119) RTsKhIDNI, F. 76, op.3, delo 253; 発せられた日付は、1922年7月6日。
 (120) Ibid., delo 270.
 (121) E. Preobrazhenskii in Odinadtyi S"ezd, p.84-85; Lenin, PSS, XLV, p.122.
 (122) IzvTsK, No. 4/315 (1991.4), p.198; Carr, Interregnum, p.290-1; Fainsod, How Russia Is Ruled, p.186; Nikolai Vasetskii, Likvidatsiia (1989), p.33.
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 第9章第四節、終わり

2587/R・パイプス1994年著第9章第四節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節へ。
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 第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭①。
 (01) レーニンの病気の最初の兆候は、1921年の2月に現れた。その頃、彼は頭痛と不眠を訴え始めた。
 それらは、全てが肉体に起因するものではなかった。
 レーニンは、連続した屈辱的な敗北を被っていた。ヨーロッパへの革命の拡大という望みが断ち切られたポーランドでの軍事的大失敗、市場の力への屈辱的な降伏が必要になった経済破綻、など。
 身体上の兆候は、1900年に生じたものに似ていた。そのときは、社会民主主義運動が内部分裂で崩壊しそうに見えた、党の歴史上のもう一つの危機的な時期だった。(*)
 1921年夏を経て、頭痛は徐々に治まったが、レーニンは、眠れないで困っていると言い続けた。(+)
 秋には、政治局が、レーニンの仕事のし過ぎを心配し、仕事の予定を軽くするよう求めた。
 12月31日には、彼の状態をなおも心配して、政治局は6週間の休暇をとるよう命令した。書記局の許可がないかぎり、職務に復帰してはならない。(注96)
 このような命令は奇妙に思えるかもしれないが、党の最高機関から共産党員に対して、機械的に発せられていた。レーニンの主要な秘書のE. D. Stasova がS. S. Kamenev 将軍に言ったように、ボルシェヴィキ党員たちはその健康が「宝のような資産」だと見られていた。(注97)//
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 (脚注*) N. K. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine. 2nd ed. (1933), p.35. このときには、愛人のInessa Armand のコレラによる突然死(1920年12月)によっても動揺した。
 (脚注+) レーニンは、クレムリンの薬局に自分で精神安定剤(Sumnacetin とVeronal)を注文することになる。
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 (02) レーニンの体調は、改善を示さなかった。
 昔には二つの仕事をすることができたのに今はほとんど一つもできないと、こぼした。
 彼は、1922年3月のほとんどを田舎で休養して過ごした。そこで、事態の推移を詳細に辿り、第11回党大会用の演説の草稿を書いた。
 どら声になり、苛立っていた。医師たちは、問題は「極度の疲労からの神経衰弱」だと誤診した。(注98)  
 この当時、彼の習慣的な辛辣さは極端になり、異常なほどだった。エスエルや(正教会の)聖職者の逮捕、裁判、そして処刑を命じたのは、この時期だった。//
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 (03) レーニンの身体状態の悪化は、彼が出席するのが最後になる、1922年3月に開かれた第11回党大会で明らかになった。
 彼はとりとめのない二つの演説を行なった。防衛的な性格のもので、自分に同意しない全ての者の人格をやたらに攻撃した。最も親密な仲間の何人かも愚弄した。
 奇妙な動き、記憶間違い、ときに生じる発話障害を見て、何人かの医師たちは今では、より深刻な病気、すなわち進行性麻痺に罹っていると結論した。それには治療法はなく、やがては全身不随になり、死ぬ。
 最近の2月にカーメネフとスターリンへの私的な手紙で自分の病気には「客観的兆候」がないと否定していたレーニンは (注99)、この診断を受け入れたようだった。きちんとした権限の移行の準備を開始したのだから。
 この準備は彼には苦痛となる仕事だった。他の何よりも権力が好きだっただけではなく、1922年12月のいわゆる「遺書」で明確にしたように、自分の権威を継承する資格が本当にある者はいないと考えたからだった。(**)
 彼はさらに、現実政治から自分が退去すれば、仲間たちの中に破壊的な個人的抗争を解き放つことになるのではないかと懸念した。//
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 (脚注**) 1922年3月21日付のレーニンの不思議なメモがある。これは、訪問中のドイツ人専門家に、Chicherin、トロツキー、カーメネフ、スターリンその他のソヴィエト高官たちの「神経疾患」を検査させることの同意を、中央委員会に求めていた。RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, delo 22960.
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 (04) 当時は、トロツキーがレーニンの自然の相続者だと思われた。
 Radek が称した「勝利の組織者」(注100) であるトロツキー以上に、誰がレーニンの継承者たる権利を持つだろうか?
 しかし、トロツキーの立場は、実質よりも表面だった。レーニンに数多く逆らってきたのだから。
 トロツキーは、長年にわたってレーニンとその支持者たちを冷笑し、批判したあとで、十月のクーの直前にボルシェヴィキ党に加入した。
 古くからの支持者たちは、トロツキーの過去を理由として彼を決して許さなかった。1917年以降の彼の技量がどうであれ、党の内部社会からすれば外部者のままだった。
 トロツキーの主な対抗者であるジノヴィエフ、スターリン、カーメネフとは違って政治局員だったけれども、党の執行的役職に就いたことはなく、ゆえに後援する勢力はもちろん一般党員たちに支持基盤を持たなかった。
 第10回党大会(1921年)の際の中央委員会選挙で、トロツキーは第10位で、スターリンよりも、相対的には無名のViachevlav Molotov よりすらも、下位だった。(注101)
 つぎの大会で、若きアルメニアの党員、Anastas Mikoyan は、トロツキーを軽蔑して、党が地方でどのように活動しているかを知らない「軍人」だと称した。(注102)  
 トロツキーの個性も、利点ではなかった。
 彼は、傲岸さと気配りの欠如のために広く嫌われていた。自分自身が認めたように、「非社交的、個人主義的、貴族主義的」という評判があった。(注103)
 トロツキーを称賛する自伝作家すら、彼は「他人にその過ちを思い出させる、 自分の優越性を言い張って分からせようとする、そのような誘惑に、ほとんど抵抗できなかった」と認めた。(注104) 
 彼は、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者たちの合議スタイルを侮蔑して、国の軍隊の司令官のように、自分への絶対的な服従を要求し、「ボナパルティスト」的野望が語られもした。
 かくして1920年10月、Wrangel に直面した赤軍兵団の中にあった不服従の報告に怒って、彼は、つぎの文章を含む命令を発した。
 「私は、つまりは政府に任命された、人民の信任を得ている、きみたちの赤色指導者は、私自身への完全な忠誠を要求する」。
 彼の命令を疑問視する全ての企ては、即決の処刑で対処されることになっていた。(注105)
 その高圧的な管理手法は中央委員会の注意を惹くことになり、中央委員会は1919年7月に厳しく批判した。(注106)  
 1920年の労働の軍事化という彼の無謀な企ては、その判断力に疑問を生じさせただけでなく、ボナパルティズムの疑いを強めた。(注107)
 1922年3月、トロツキーは、政治局に対して声明文を送り、党は経済運営への直接の介入をやめるべきだと強く主張した。
 政治局はトロツキーの提案を拒絶し、レーニンは、トロツキーの書簡についての慣例だったように、その上に「文書庫へ」と走り書きした。しかし、トロツキーの対抗者たちは、この文書を、彼は「党の指導的役割を廃絶しようとした」証拠として利用した。(注108)
 彼は、日常的な政治に巻き込まれるのを拒み、しばしば内閣の会議やその他の行政的討議に欠席した。喧嘩を超越した政治家というポーズをとったのだ。
 「トロツキーにとって主要なのはスローガン、話し手の基盤、印象的な身振りであって、決まりきった作業ではなかった」。(注109)
 彼の行政的能力は、実際に、低いレベルのものだった。
 Harvard 大学のトロツキー文書資料庫にある文書の蓄えが示しているのは、その中にはレーニンへの多数の連絡文書もあるのだが、トロツキーには簡潔で実際的な解決策を文章化する能力がもともとないことだ。レーニンは、原則として、そうした文書にコメントしなかったし、それらに依拠して行動しもしなかった。//
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 後注
 (96) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, ed. khr. 4376.
 (97) G. A. Kamevev in Revvoensovet Respubloki (1991), 115. IzvTsK, No. 4/291 (1984.4), p.191-8.を参照。
 (98) N. Petrenko, in MInuvshee (Paris), No. 2, 1986, p.198.
 (99) RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, ed. khr. 24760.
 (100) Pravda, No. 56 (1923.3.14), p.4.
 (101) Desiatyi S"ezd, p.402.
 (102) Odinadtsatyi S"ezd, p.430.
 (103) L. Trotskii, Moia zhizn', II (1930), p.246.
 (104) Deutscher, Prophet Unarmed, p.34.
 (105) RevR, No. 3 (1922.2), p.7.
 (106) Iu. I. Korablev in REvvoensovet (1991), p.51.
 (107) RR, p.707-8.
 (108) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1164; Dvenadtsatyi S"ezd, p.817.
 (109) Volkogonov, Triumf, I/1, p.116.
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 ②へと、つづく。
 

2586/R・パイプス1994年著第9章第三節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。日本共産党が「創立」され、コミンテルンの支部となった1922年のことにも論及がある。
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 第三節・「労働者反対派」③。
 (14) Shliapnikov は、「統一」は至高の目標だと認めた。しかし、党員たちとの意思疎通の欠如のゆえに、党は過去、つまり権力奪取以前に有していた統一を失った、と論じた。(注84)
 この断絶は、ペテログラードでのストライキの波やKronstadt 暴乱で示されている。 
 問題は、労働者反対派ではない。「我々がモスクワや他の労働者都市で見ている不同意の原因は労働者反対派につながるのではなく、クレムリンに向かっている」。
 労働者たちは強制的に党から遠ざけられたと感じている。
 伝統的にボルシェヴィズムの基盤だったペテログラードの金属労働者の中には、2パーセント以下の党員しかいない。
 モスクワでは、入党している冶金労働者の割合はわずか4パーセントにまで落ちた。(*) 
 Shliapnikov は、経済の破綻は「客観的」要因から、とくに内戦から生じた、とする中央委員会の論拠を否認した。
 「我々の経済に今観察しているのは、我々とは関係のない客観的原因の結果のみではない。
 我々が見ている崩壊の責任の一部は、我々が採用したシステムにもある。」(注85) 
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 (脚注*) 1922年前半のペテログラードからレーニンの書記局への秘密報告書は、その市で工場労働者のわずか2ないし3パーセントだけが共産党に加入していると述べて、Shliapnikov の評価の正しさを確認している。RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 11.
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 (15) 労働者反対派の動議は票決に付されず、代議員たちは、レーニンが提案した二つの決議案への賛成か反対かを投票することで意見を表明することができた。二つの決議案とは、「党の統一について」と「我々の党におけるサンディカリスト的およびアナキスト的逸脱について」で、これらは労働者反対派の議論を批判し、支援者たちを非難していた。
 前者は25の反対票、2の保留票に対して413の賛成票を獲得し、後者は30の反対票、3の保留票、1の無効票に対して375の賛成票を獲得した。(注86)
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 (16) 労働者反対派は決定的な敗北を喫し、解散を命じられた。
 これは最初からの宿命だったが、強く確立していた中央党機構の利益に挑戦したことだけが理由ではなく、反対派は一党国家という思想を含めた共産主義の非民主主義的諸前提を受容していた、という理由からでもあった。
 労働者反対派は、イデオロギー的に、そしてますますその構造上、民衆の意思を無視するようになっていた党内の民主主義的手続を擁護した。
 反対派が党の統一は至高の善だといったん認めてしまえば、その破壊だという責任追及を自らに招くことなくして、進み続けることはできなかった。//
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 (17) 共産党の歴史上の挿話的事件について、多くの紙面を割いた。労働者反対派は初めて、そして判明するように最後に、基本的に異なる方途を示して党に対抗した、というのが、その理由だった。
 支持基盤が国民全体の中のきわめて薄い層に縮小した党は、その一般的には言われる主人である労働者出身の自分たちの党員からの反乱に、今や直面した。
 党は、その事実を承認して退くか、さもなくば、それを無視して権力に居座り続けるか、どちらかをすることができた。
 後者を選ぶ場合は、国を運営するために採用したのと同じ独裁的方法を、党に持ち込むほかに選択の余地はなかっただろう。
 レーニンは後者を選んだ。かつ、支持者たちの熱心な支持を得て、そうした。その中には、のちにその方法が自分たちに向けられたときに、人々の護民官と民主主義擁護者のふりをすることになる、トロツキーやブハーリンもいた。
 レーニンは、この運命的な歩みをとることによって、一般党員に対する中央機構の優越性を確実にした。
 そして、スターリンが中央機構の確固たる主宰者になろうとしていたときだったので、レーニンは、スターリンの優越的支配力をも確実にした。//
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 (18) 党内にこれ以上に反対が出現するのを不可能にすべく、レーニンは、第10回党大会で、「分派」形成を不法とする、新しくかつ致命的な規約を採択させた。「分派」は、自分たち自身の基盤をもつ組織的集まり(organized groupings)と定義された。
 「党の統一について」という決議の鍵となる最後の文章は、当時は秘密にされていたが、違反者に対して厳格な制裁を与えようとするものだった。
 「党内部での、および全てのソヴィエト諸活動での厳格な紀律を維持するために、そして全ての分派主義を排除して最も偉大なる統一を獲得するために、大会は中央委員会に対して、紀律違反または分派主義の復活や容認がある場合には、党からの除名までをも含む全ての手段を用いることを授権する。」(+)
 除名には、中央委員会委員と委員候補の三分の二の投票が必要だった。
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 (脚注+) Desiatyi S"ezd RkP(b): Stenograficheskii otchet (1963), p.573. この条項は、トロツキーを非難するために、1924年1月の党会議で、スターリンによって初めて公にされた。I. V. Stalin, Sochineniia, VI (1947), p.15.
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 (19) レーニンと彼の決議に賛成投票をした多数派はその潜在的な意味に気づいていなかったように見えるけれども、これはきわめて深刻な結果をもたらした。
 Leonard Shapiro は、この条項を共産党の歴史における決定的な出来事だと見なしている。(注87)
 トロツキーの言葉によると、単純に述べれば、支配者は「国家を覆っている政治体制を、支配している党の内部生活へと」移し換えた。(注88) 
 これ以来、党もまた、独裁制によって運営されることになった。
 反対は、個人的な、つまり組織されていないものであるかぎりでのみ許容されることになる、
 決議は党員から、中央委員会によって統御された多数派に異議を唱える権利を剥奪した。個人的反対はつねに代表されていないものとして無視することができ、一方で組織的反対は違法(規約違反)だったからだ。
 「官僚主義的厳格さを確実にすることほど、うまく考案されたものはなかった。この官僚主義的厳格さが、共産主義運動でまだ生きていた全てのものを最終的に窒息死させた。
 なぜなら、レーニンが1922年に総書記(書記長)という役職を作り、スターリンがその役職の初代に就くのに同意したのは、主として分派禁止を実行するためだったのだから。/
 分派禁止の帰結は、翌年〔1922年〕の第11回党大会での光景で、可視的になった。
 労働者反対派を「アナクロ・サンディカリスト的逸脱」と非難するレーニンの決議案に第10回党大会で反対票を投じる勇気があった30人の代議員のうち、6人以外は粛清され、より従順な代議員に換えられていた。
 Molotov は、党内分派は全て排除された、と勝ち誇った。(注90)
 1923年に開かれた第12回党大会の頃までには、残存していた6人のうち3人は同様に排除され、Shliapnikov がその一人だった。(注91)
 このような見えない粛清が、中央委員会の確固たる支配を確実にした。中央委員会は、その地位と利益を維持したい代議員たちで党大会を埋め尽くさせた。
 敢えて示せば、第12回党大会(1923年)の代議員の55.1パーセントは党の仕事だけを行なっている常勤職員で、30パーセントは非常勤の職員だった。(注92)
 第12回党大会で、そしてその後で、全ての決議が満場一致で採択されたのは、何ら驚くことではない。
 モスクワ公国時代の「全国集会」のように、この大会は(歴史家のVasilii Kliuchevskii の言葉では)「政府が自分の機関に意見を諮問する」ものだった。//
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 (20) このような恐るべき障害に直面しても、労働者反対派はなお継続しようと努めた。
 金属労働者組合内の共産党員派は、党の決議を無視して、1921年5月に120対40の票決でもって、中央によって提示された役員名簿を拒絶した。
 中央委員会はこの票決を無効とし、この組合その他の労働組合の指揮権を奪った。
 労働組合の一員であることが義務となり、これ以降は労働組合の財政は国家の援助によって賄われた。(注93)//
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 (21) 反分派決議は労働者反対派を非合法の団体にし、これを迫害する根拠になった。
 レーニンは、復讐心をもって、指導者たちをしつこく攻撃した。
 彼は、1921年8月に中央委員会総会に対して、彼らを除名するよう求めた。しかし、彼の動議は、必要な三分の二に1票不足して挫折した。(**)
 そうであっても、労働者反対派の指導者たちは嫌がらせを受け、あれこれの口実のもとで党の役職から排除された。(注94)
 意見聴取を受けることができなかったので、労働者反対派は愚かにも、この事案を、コミンテルンの執行委員会へと、事前にロシア代表団の同意を得ておくことなく、持ち出した。
 今やすでにロシア共産党の一部門であるコミンテルン執行委員会は、訴えを却下した。
 1923年9月、ストライキの波のあとで、労働者反対派の支持者たちは逮捕された。(注95)
 スターリンは、全員が殺害されるのを確実にすることになる。
 Kollontai は、唯一の例外だった。彼女は1923年にノルウェイに、つぎにメキシコへ送られた。最後にはスウェーデンに送られ、大使として務めた。—外交代表団の長となった歴史上初めての女性だ、と言われた。
 これは、自由恋愛の国で自由恋愛の主導者の彼女にスターリンの代わりをさせるという、彼の下品なユーモア感覚を満足させたように思われる。
 Shliapnikov は、1937年に射殺された。
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 (脚注**) Lenin, PSS, XLV, p.526-7; Odinadtsatyi S"ezd, p.748.
 この場合のレーニンの行動は、彼が職責にある間は、どの党指導者もどの党集団も除名や除名による威嚇をされなかったという、レーニン崇拝者がしばしば語った主張と矛盾している(例えば、Vadmin Rogovin, Byla li al'ternativa? 1992, p.25.)。この著者は彼のRussian Revolution (p.511) でも同じ誤りを冒している。
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 後注。 
 (84) Desiatyi S"ezd, p.71-76.
 (85) Ibid., p.361.
 (86) Ibid., p.571-6, p.769.
 (87) Schapiro, Origin of the Communist Autocracy, p.319-320.
 (88) Leon Trotsky, The Revolution Betrayed (1937), p.96.
 (89) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed: Trotsky, 1921-1929 (1959), p.115-6.
 (90) Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.602, p.646.
 (91)  Desiatyi S"ezd, p.778; Odinadtsatyi S"ezd p.583-p.597; Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), p.729-759.
 (92) Vadmin Bogovin, Byla li al'ternativa? (1992), p.89.
 (93) S. Volin, Deiatel'nost' Menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti (メンシェヴィキ運動史に関する国際研究, No.13, 1982), p.87.
 (94) V.V. Kosior in Odinadtsatyi S"ezd p.127; Molotov, ibid., p.54-55 も.
 (95) Carr, Interregnum, p.292-3; Isaac Deutscher, Stalin (1967), p.258.
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 第三節、終わり

2585/R・パイプス1994年著第9章第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第三節・「労働者反対派」②。
 (06) ロシアの労働組合の指導者たちは、彼らの国は「プロレタリアート独裁」だという主張を、真面目に受け取った。論法の微妙さに馴染みのない者たちだったので、彼らは、知識人で成り立っている党指導部がどのようにして労働者自身以上に労働者にとっての利益を知っているのか、理解できなかった。
 彼らは、工業経営から労働者代表を排除することや、従前の工業指導者が「専門家」を装って権限ある地位に復帰することに反対した。
 これらの者たちは旧体制下で行なってきたのと同じように自分たちを扱う、と不満を述べた。
 はて、何が変わったのか? 革命とは何のためにあったのか?
 彼らはさらに、赤軍に指揮階層を導入することや軍内の身分制の復活にも反対した。
 党の官僚主義化と中央委員会への権限の集積にも、反対した。
 彼らは、地方の党役職が中央によって任命されるという実務を、非難した。
 党が労働大衆と直接に接触するように、党の命令機関の人員は頻繁に交替すべきだ、そうすれば本当の労働者たちに心を開いて近づけるだろう、と提案しもした。(注70)//
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 (07) 労働者反対派の出現は、19世紀末に遡る敵愾心がまだ燻っていることを明るみに出した。すなわち、政治的に積極的な労働者たちの少数派と彼らを代表し、彼らのために語っていると主張する知識人たちの間の反目関係を。(注71) 
 マルクス主義よりも通常はサンディカリズムに傾斜した急進的な労働者たちは、社会主義知識人層と協力し、彼らに指導された。政治経験が不足していることを知っていたからだ。
 しかし、彼らは、自分たちと相手の間にある溝を意識することをやめなかった。
 そして、今や「労働者国家」が誕生したとすれば、「白い手」の権威に服従する理由はもうなかった。(*) //
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 (脚注*) Krupskaiaは1925年に、Clara Zetkin に対して、「農民と労働者の広範な層は、知識人を大土地所有者やブルジョアジーと同一視している。人々のあいだでの知識人界への憎悪は強い」と書き送った(IzvTsK, No. 2/289, 1989.2, p.204.)。
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 (08) 労働者反対派が表明した問題点は、1921年3月の第10回党大会の討議の中心になった。
 開催される直前に。Kollontai は党内用に小冊子を発行し、体制の官僚主義化を攻撃した。(注72) 
 (党の規約は党内論争を公にするのを禁じていた。)
 彼女は、もっぱら労働者男女から成る労働者反対派は党指導部は労働者の気分を喪失したと感じている、と論じた。昇っていく権限の階梯が高くなるほどに、労働者反対派への支持が少なくなっている、と。
 こうしたことが起きているのは、ソヴィエト組織が共産主義を見下す階級敵に奪われているからだ。小ブルジョアジーが官僚機構の統制権を掌握し、一方で、「専門家」を偽装した「大ブルジョアジー」は産業経営と軍事指揮権を奪取したのだ。//
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 (09) 労働者反対派は第10回党大会に、二つの決議を提出した。一つは党組織に関係し、もう一つは労働組合の役割に関係していた。
 独立の決議—すなわち中央委員会が発議していない決議—が党大会で討議されるのは、これが最後となる。
 第一の文書は、内戦中に採用された軍事指揮についての慣例が永続化したこと、および指導部が労働者大衆から疎遠になったことによって生じた、党の危機を語っていた。
 党の事務は〈glasnost〉(公開性)も民主主義もないまま、労働者を信頼していない者たちによって官僚主義的に処理されている。それによって、労働者たちは党への信頼を失い、大挙として離党している。
 この状況を是正するためには、党は全体的な粛清を行なって、日和見主義分子を除去し、労働者の参加を増大させるべきだ。
 全ての共産党員に、少なくとも一年毎に三ヶ月の肉体労働が要求されなければならない。 
 全ての役職者は党員から選出され、党員に対して責任を負わなければならない。中央による任命は例外的な場合だけに限定されるべきだ。
 中央諸機関の人員は、定期的に交替されるべきだ。役職の過半は、労働者のために留保されなければならない。
 党の事務の焦点は、中心にではなく、細胞に当てられなければならない。(注73)//
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 (10) 労働組合に関する決議案も、同様に過激だった。(注74)
 これは、「事実上ゼロ」の状態にまで減じた労働組合の弱体化に抗議した。
 国の経済の再建には、大衆の最大限度の参加が必要だ。「面倒な官僚主義機構にもとづく組織編成の制度と方法」は、生産者の「創造的な主導性や自立性を損なっている」。
 党は、労働者とその組織への信頼を示さなければならない。
 国家の経済は、生産者たち自身によって底辺から再組織されるべきだ。
 やがては、大衆が経験を積むにつれて、経済の管理は、共産党が任命するのではなく労働組合と「生産者」団体が選出した、新しい組織の全ロシア生産者会議に移管されるべきだ。
 (この決議に関する討論で、Shliapnikov は、「生産者」に農民が含まれることを否定した。)(注75)
 このような組織編成のもとで、党は、経済の指揮を労働者に委ねて政治に集中することができるだろう。//
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 (11) 労働者出身の老共産主義者たちによるこれらの提案は、ボルシェヴィキの理論と実務について明らかに無知だった。
 レーニンは、最初の挨拶で、「明瞭なサンディカリスト的逸脱」を示すと明確に非難した。
 彼は続けた、このような逸脱は、経済が危機にあり武装蛮族が国に蔓延している状況でないならば、危険ではないだろう、と。ここで武装蛮族という言葉で意味させたのは、農民反乱だった。
 「小ブルジョア的」自発性の危険は、白軍が提起するそれよりも大きい。かつて以上に、党の統一がいっそう必要だ。(注76)
 コロンタイについては、レーニンは冗談めいた雑談として明らかに彼女の労働者反対派の指導者との個人的関係に言及して、彼女の主張を斥けた。
 (「ああ神よ、同志Kollontai と同志Shliapnikov は『階級的紐帯と階級意識』で結ばれている」。)(+)
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 (脚注+) Lenin, PSS, XLIII, p.41. Angelica Balabanoff, My Life as a Rabel (1973), p.252 を参照。
 レーニンは、Kollontai が労働者反対派に加わったことに激怒し、彼女に語りかけることも、彼女に関して語ることすらも、拒んだ。Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.97-98.
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 (12) 労働者反対派は、レーニンとその仲間に、一つの問題を突きつけた。
 「プロレタリアート」が背を向けているときに、どのようにして「プロレタリアート」の名前で統治するのか?
 一つの解決策は、ロシアの労働者階級を無視することだった。
 今ではしばしば、「本当の」労働者は内戦に生命を捧げており、代わって存在するのは社会的残りかすだ、と語られた。
 ブハーリンは、ロシアの労働者階級は「農民化」しており、「客観的に言って」労働者反対派は農民反対派だ、と主張した。またチェカの一人はメンシェヴィキのDan に、ペテログラードの労働者は本当のプロレタリアートが全て前線へ行ったあとに残った「滓」(〈svoloch〉)だ、と語った。(注77)  
 レーニンは、第11回党大会で、ソヴィエト・ロシアにマルクスの意味での「プロレタリアート」がいる、ということすら否定した。産業労働の階層は詐病者と「あらゆる種類の臨時要員」で充ちている、というのがその理由だった。(注78) 
 Shliapnikov は、このような主張に反駁して、労働者反対派を支持する第10回党大会の代議員41人のうち16人は1905年以前にボルシェヴィキ党に加入しており、全員が1914年以前に入党している、と特に言及した。(注79)//
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 (13) (労働者反対派の)挑戦に対処するもう一つの方策は、「プロレタリアート」を抽象概念と解釈することだった。この見方では、党はその定義上「人民」(people)であり、生きている人民が何を望んでいると考えていようとも、人民のために行動する。(注80)
 これは、トロツキーが採用した方途だった。
 「党のいわば革命的で英雄的な優越性という意識を、持たなければならない。この優越性は、重要な勢力(〈stikhiia〉)が一時的に躊躇していても、必然的に党の独裁制を断固として主張する。労働者の中にすら一時的な動揺がある場合であっても、それにもかかわらずだ。…
 この意識がなければ、党は、転換点の一つごとに目的を持たないまま衰亡するかもしれない。そのような転換点は多数ある。…
 党は全体として、形式的要因の上に超えたところに党の独裁制があり、その独裁制は労働者階級の気分が動揺しているときでもその根本的な利益を擁護する、という理解のもとで、一緒になって統合している。」(注81) 」
 言い換えると、党はそれ自体で当然に存在しているのであり、その存在が労働者階級の利益を反映しているというまさにその事実によって存在している。
 生きている人民—〈stikhiia〉—の生きている意思は、たんなる「形式的」要因にすぎない。
 トロツキーはShliapnokov を、「民主主義の物神崇拝(fetish)」だと批判した。
 「労働者運動内部での選挙の原理が、言ってみれば、党の上に置かれている。まるで党は、その独裁制が労働者民主主義内部での刹那的な気分と一時的に衝突するという事態にすら、この独裁制を断固として主張する権利を有しないがごとくに。」(注82)
 経済管理を労働者に委ねるのは不可能だ。彼らの中にはほとんど共産党員がいないという理由だけでも。
 これとの関係で、トロツキーはつぎの趣旨のジノヴィエフを引用した。国の最大の工業中心地のペテログラードでは、労働者の99パーセントが共産党を選択していないか、または選好していてもメンシェヴィキや黒の百人組にもある程度は共感している。(注83)
 換言すると、共産主義(「プロレタリアートの独裁」)と労働者支配のどちらも支持できるが、しかし、どちらもそうしないこともあり得る。民主主義は、共産主義を破滅させる宿命にある。
 トロツキーまたは他の共産党指導者がこのような見方の馬鹿々々しさを理解していた、ということを示すものは何もない。
 例えば、ブハーリンは、共産主義は民主主義と両立することはできない、ということを明示的に承認した。
 1924年、非公開の中央委員会総会で、彼はこう言った。
 「我々の任務は、二つの危険の存在を認めることだ。
 第一は、我々の党機構の中央集権化から発生する危険だ。
 第二は、政治的民主主義の危険だ。これは、民主主義が縁を超えて進めば発生し得る。
 反対派は、第一の危険—官僚制—だけを見ている。
 官僚主義の危険の背後には〈政治的民主主義の危険があることを、反対派は見ていない〉。…
 プロレタリアートの独裁を維持するためには、我々は党の独裁を支持しなければならない。」(**)
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 (脚注**) Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/1 (1989), p.197. 強調を追加した〔〈〉内の斜字体部分—試訳者〕。
 ブハーリンは自分の考えをトロツキーに宛てて書いていた。トロツキーは、後述する理由で1924年までにその考え方を変え、労働者反対派が早くに主張していた考え方の強い擁護者になった。
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 後注
 (70) Desiatyi S"ezd, p.240.
 (71) これにつき、私〔R. Pipes〕のSocial Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) を見よ。
 (72) Rabochaia oppozitsiia(限定私家版). 英語版は、The Workers' Opposition in Russia (London, n.d.).
 (73) Desiatyi S"ezd, p.651-6.
 (74) Ibid., p.685-691.
 (75) Ibid., p.359-360, p.362, p.530.
 (76) Ibid., p.27-29.
 (77) Ibid., p.223-4; F. Dan, Dva goda skitanii (1922), p.122.
 (78) Odinadtsatzyi S"ezd, p.37-38.
 (79) Desiatyi S"ezd, p.530.
 (80) RR, p.131-2 を参照。
 (81) Desiatyi S"ezd, p.351-2.
 (82) Ibid., p.350.
 (83) 上述、p.373 〔第8章第二節・農民反乱〕を見よ。
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 ③へと、つづく。

2584/R・パイプス1994年著第9章第三節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第三節へ。
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 第三節・「労働者反対派」①。
 (01) 1920年夏、共産党は反対派(heresy)によって揺さぶられた。その反対派を党支配層は「労働者反対派」(Workers' Opposition)と名付けた。
 これは、ボルシェヴィキの工業労働者の不満を反映していた。知識人たちが国を支配しているという不満、より明確には工業の官僚主義化と、それと同時に生じている、労働組合の権限と自立性の縮小、に対する不満を内容としていた。
 報道担当者は古くからの共産主義者だったけれども、この運動は、党に所属したりメンシェヴィキに傾斜したりもしていない労働者の多数派の気分をも表現していた。
 主要な支持基盤は、労働者反対派が〈gubkom〉を握ったSamara、ドンバス地域、ウラルだった。
 大きな影響力をもったのは、冶金、鉱業、織物工業だった。(注64)
 長のAlexander Shliapnokov は、国で最強の労働組合で伝統的にボルシェヴィキにはきわめて友好的な、金属労働者の組合を動かしていた。
 労働者を基盤とする上級のボルシェヴィキ活動家で、第一次大戦中にShliapnokov は、ペテログラードの地下活動を指揮し、1917年十月に労働人民委員部を掌握した。
 彼の愛人のAlexandra Kollontai は、この運動の最も明瞭な理論家だった。
 労働者反対派とともに、「民主主義的中央派」として知られる第二の反対派が出現した。
 著名な共産主義知識人で構成されていて、党の官僚主義化と「ブルジョア専門家」の工業界への採用に反対した。
 これの支持者たちは、ソヴェトがもっと権力をもつことを望み、経済運営での主要な役割を要求する労働組合には反対した。
 指導者の一人で、やはり労働者出身の古くからのボルシェヴィキであるT. V. Sapronov には、党大会でレーニンを「無学」(〈nevezhda〉)で「独裁的」だと呼ぶ向こうみずさがあった。(*) 
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 (脚注*) 記録が印象に残って、この形容句はスターリンが1924年に初めて公にした。Stalin, Ob oppozitsii (1928), p.73.
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 (02) 労働者反対派は、熱烈なボルシェヴィキだった。
 彼らは、党の独裁、労働組合での党の「指導的役割」を承認していた。
 「ブルジョア的」自由の廃棄や諸政党に対する抑圧にも、同意した。
 農民層への党の対応には何も間違いはない、と考えていた。
 1921年のKronstadt 暴乱のときには、彼らは、暴乱鎮圧のために形成された赤軍軍団に最初に自発的に加わった。
 Shliapnokov の言葉によると、レーニンとの違いは目標にではなく、手段にあった。
 彼らは、新しい官僚機構に組み入れられている知識人層が国の支配階級である労働者を遠ざけているのは受け入れ難い、と感じた。
 なぜなら、国の「労働者」政府はじつに一人の労働者も権限ある地位につけていない。指導的役人たちのほとんどは、工場や農場で働いたことがないばかりか、しっかりした仕事に就いたことがない。(注65) //
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 (03) レーニンは、この異論をきわめて深刻に受け取った。彼は「労働者の自発性」を無視するつもりはなかった。それはボルシェヴィキ党の創立以来つねに闘ってきたものだったが。
 彼は、労働者反対派はメンシェヴィズムとサンディカリズムの一種だと非難して、すみやかにそれを粉砕した。
 しかし、そのために、共産党内に残っていた民主主義の要素を最終的に破壊する手段を用いた。
 レーニンは、労働者の望みを無視しつつボルシェヴィキ独裁制は労働者の政府だというフィクションを維持する一方で、本来の支持者からすら政府を確実に離反させた。//
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 (04) 労働者反対派は、第9回党大会(1920年3月)で出現した。それは、工業に単独者経営を導入するというモスクワの決定に関係していた。
 それまでは、ソヴィエト・ロシアの国有化された企業は、委員会によって運営されていた。その委員会には、技術的専門家や党職員と並んで、労働組合と工場委員会の代表も加わっていた。
 このような仕組みは非効率であることが分かり、工業生産の崩壊の原因だと批判された。
 党指導部はすでに1918年に、単独者による経営への移行を決定していた。だが、労働者側の抵抗があったため、その実施は困難だった。
 内戦が終わった今や、第9回党大会は、「上から下まで、所定の仕事については所定の人間が責任を負うという、頻繁に語られた明確な原理」を実施することを決議した。「審議や決定の過程である程度の位置を占める〈合議制〉は、執行の過程では無条件に〈個人主義(独任制)〉に道を譲らなければならない」。(注66)
 この決議を予期して、ソヴィエト労働組合中央評議会は、1920年1月に、単独者管理に反対することを票決していた。
 レーニンは、この要求を考慮しなかった。 
 同様に、ドンバスの労働者たちの意向も無視した。彼らの代議員たちは、20対3で、工業の運営での合議制を維持することに賛成票決をしていた。(注67)
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 (05) 1920年と1921年に全国的に導入された新しい制度のもとで、労働組合と工場委員会はもはや決定には参画せず、職業的経営者が下した決定の執行にのみかかわった。
 レーニンは、労働組合が経営に干渉することを禁止する決議を、第9回党大会に採択させた。
 彼は、このような推移をつぎのような論拠で正当化した。搾取階級を排除した共産主義のもとでは、労働組合は労働者の利益をもはや守る必要がない。それは政府によって行なわれるからだ。
 労働組合の固有の役割は、生産を改善し、労働紀律を維持して、政府の代理者として行動することにあった。
 「プロレタリアート独裁のもとでは、労働組合は資本家という支配階級に対する労働の売り手の闘争のための組織から、支配する労働者階級の道具へと変容したのだ。
 労働組合の任務は主として、組織化と教育の領域にある。
 これらの任務を労働組合は、自己完結的な、組織的に離れた勢力としてではなく、共産党に導かれるソヴィエト国家の道具として、履行しなければならない。」(注68)
 換言すれば、ソヴィエトの労働組合は、これ以来、労働者ではなく、政府を代表すべきものになった。
 トロツキーはこのような見方に賛成し、「労働者国家」では労働組合は雇用主を敵と見る習癖から脱して、党の指導のもとで生産性を高める要因に変質しなければならない、と論じた。(注69)
 労働組合の役割に関するこのような見方が現実に意味したのは、労働組合の役員は組合員によって選出されるのではなく、党が指名した、ということだった。
 ロシアの歴史過程でしばしば生じたように、自分たちの利益を守るためにある社会集団が設立した組織は、国家によってその国家自体の目的のために奪い取られた。//
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 後注。
 (64) Shliapnikov to Lenin, 1921.8.21, RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 24625.
 (65) Rigby, Lenins' government, p.149-p.156.
 (66) Deviatyi S"ezd Rkp(b): Protokoly (1960), p.411.
 (67) Ibid., p.177.
 (68) Ibid., p.417.
 (69) Desiatyi S"ezd, p.813-5.
 ——
 ②へと、つづく。
 

2582/R・パイプス1994年著第9章第一節③。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第一節・共産党の官僚主義化③。
 (15) いつの間にか、新しい支配者たちは、古い支配者たちの習慣にのめり込んでいた。
 Adolf Loffe はトロツキーに対して、腐敗の蔓延について不満を述べた。
 「頂上から底まで、そして底から頂上まで、どこでも同じだ。
 最下級のレベルでは、一足の靴か兵士のシャツ[gimnasterka]。
 上になると、自動車、鉄道車両、ソヴナルコムの食堂、クレムリンや『国営』ホテルの部屋。
 そしてこれらを全て利用できる最高の段階では、威厳であり、傑出した地位であり、名声だ。」(注32)
 Loffe によると、「指導者たちは何でもすることができる」と考えることが心理的に受容されるようになっていた。
 民衆の奉仕者のこのような貴族的習慣のどれ一つとして、マルクス主義は何の関係もなかった。だが、ロシアの政治的伝統とは大きな関係があった。//
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 (16) 新体制のもとでの地方の行政官の鍵は、広くgubkomy として知られた、地方の(〈guberniia〉)党委員会の長だった。
 ピョートル大帝以来、guberniia はロシアの基礎的な行政単位で、その長である知事は、広汎な執行と警察の権力を持ち、帝国の権威を代表していた。
 ボルシェヴィキ体制は、この伝統に従った。つまり、gubkomy の書記局長が、事実上、帝制時代の知事の継承者になった。
 ゆえに、この長を任命する権限は、相当の恩寵の淵源だった。
 革命前には、ツァーリが内務大臣の推薦にもとづいて知事を任命していた。
 今では、レーニンが、組織局と書記局の推薦にもとづいて知事を任命した。
 1920年に設置された書記局内のUcharaspred(Uchetno-Raspredetil'nyi Otdel)と呼ばれる特別部署が、党人員を選抜し、配転させた。
 1921年12月、gobkom 長に任命されるためには1917年10月以前に入党していなければならない、と定められた。
 地区(〈uezd〉)の党委員会(〈ukomy〉)の書記局長は、最少限度3年間の党員履歴をもっていなければならなかった。
 このような任命は全て、より上級の党機関によって承認される必要があった。(注33)
 これらの条項は、紀律と正統性を守るのを助けたかもしれない。しかし、党の細胞から自分たち自身の職員を選出する権利を剥奪する、という対価を払ってのことだった。
 当時はほとんど気づかれなかったけれども、これらの条項は、中央機関の権力を巨大なものにした。「組織局または書記局がもつ承認する権利は…、実際には、『推薦』や『指名』をする権利と同一になった」。(注34)
 これら全てのことは、スターリンが1922年4月に書記長の職を掌握する以前に、起きていたことだった。//
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 (17) こうした実務の結果として、地方での党の要職の任命は、ますます党員によってではなく、「中央」によって行われるようになった。
 1922年のあいだに、37人の〈gubkom〉長が解任されるか配転され、42人が「推薦」にもとづき任命された。(*)
 今や、帝制時代のように、忠誠心が、任用されるための最高の資格だった。中央委員会が配った回状「同志の党への忠誠について」では、これが役職に就くための第一の規準として挙げられていた。(注35)
 1922年に、書記局と組織局は1万件以上の任用を行なった。(注36) 
 政治局は多くの仕事に忙殺されていたので、任用の多くは、書記長と組織局の裁量でなされた。
 調査団がしばしば地方に派遣され、〈gubkomy〉の 実績について報告した。—帝制ロシアでの「是正」の模倣だった。
 1921年3月の第10回大会で、〈gubkom〉長は三ヶ月毎にモスクワに来て、書記局に報告すべきものとされた。(注37) 
 書記局で仕事をしていたViacheslav Molotov は、彼らに任せれば〈gubkomy〉はほとんど自分たちの地方的案件にかかわり、national な党の問題を無視する、という論拠でもって、このような実務を正当化した。(注38)
 こうして実際に、〈gubkomy〉は「モスクワの指令の運び手」に変わった。(注39)//
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 (脚注*) Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed. (1963), p.633, note 10.
 1923年にE. A. Preobrazhenskii は、〈gubkom〉長の30パーセントは中央委員会によって「推薦」された、と語った。これを彼は「国家内部の国家だ」と称した。(Dvenadtsatyi S"ezd RKP(b), 1968,p.146.)
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 (18) 書記局は、名目上は党の最高機関である党大会の代議員を選抜するという、追加の権限も獲得した。
 1923年までに、代議員は〈gubkom〉長の推薦にもとづいて任命された。その〈gubkom〉長自身が、相当程度に書記局に任命された者たちだった。(注40)
 この権限があることによって、書記局は、一般党員の反対を封じることができた。
 かくして、いわゆる「労働者反対派」や「民主主義的中央派」が中央委員会を追及する辛辣な討論を行なった第10回党大会(1921年)で、代議員たちの85パーセントは、反対派を非難する中央委員会を支持した。利用できる証拠資料によって判断するならば、党員全体の気分をほとんど反映していない票決だった。(注41)
 二年後の第12回党大会では、反対派は無力な辺縁部にまで減った。
 その次の大会〔1924年〕では、もはや、反対それ自体が存在しなかった。//
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 (19) かくして、共産党職員階層の中に、貴族制度が出現した。
 権力奪取後5年後に採用された実務は、体制の初期からははるかに遠ざかっていた。当時は、党は党員たちに対して、平均的労働者よりも安い俸給を受け取れ、生活区画は一人あたり一部屋に限定せよ、と強く言っていたのだった。(注42)
 これはまた、工場に雇用される共産党員に特権を与えず、むしろより重い義務を課す、という決まり事を捨て去ることも、意味していた。(注43) 
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 後注
 (32) Volkogonov, Trotskii, I, p.379-p.380.
 (33) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.277n-278n: Odinadtsatyi S"ezd, p.555.
 (34) Carr, Interregnum, p.278n.
 (35) Pravda, NO. 64 (1921.3.25), p.1.
 (36) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.182.
 (37) Kommunisticheskaia Soiuza v Rezoliutsiiakh i Resheniiakh, I (1953), p.576.
 (38) Odinadtsatyi S"ezd, p.156-7.
 (39) Roger Pethybridge, One Step Backwards, Two Sieps Forward (1990), p.154.
 (40) Aleksandrov, Kto upravliaet, p.22-23.
 (41) Desiatyi S"ezd, p.137.
 (42) M. Dewar, Labour Policy in the USSR, 1917-1928 (1956), p.162-3.
 (43) Desiatyi S"ezd, p.881.
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 ③、終わり。第一節も、終わり。

2581/R・パイプス1994年著第9章第一節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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 第一節・共産党の官僚主義化②。
 (09) 1920年にすでに、組織局が地方の党職員を指名することは一般的だった。彼らが運営すべく選出される、その地方党組織に諮ることのないままで。(注15) これは〈naznachenstvo〉、「任命制」と称されるようになった。
 数世紀にわたって官僚の支配と上からの指令の雨に慣れてきた国では、このような成り行きは正常に見え、これに対する反対は少なく、あっても影響力がなかった。//
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 (10) 理想主義的な理由で入党した共産主義者は疑いなくいたけれども、大多数の者は、党員であることによって得られる有利さのために入党した。
 党員たちは、19世紀には郷紳(〈dvorianstvo〉)の地位と結びついていた特権、すなわち政府の執行的(「責任ある」)地位に就けるという保障を享受した。
 トロツキーは彼らをダイコンと呼んだ(外側は赤く、内側は白い)。 
 共産党の階層で十分に高い者たちは、現金の手当のほかに食料配給の追加を受け、専門店舗を利用した。
 彼らは、逮捕や訴追から事実上は免れていた。これは無法のソヴィエト社会では決して小さな特権ではなかった。
 ソヴィエト政府は、帝制時代の実務を凌ごうとして、1918年に早くも、党職員は職務の遂行として行なった行動については訴追されない、という原則を打ち立てた。(注16)
 帝制時代には、直接の上司との意見不一致という理由だけで役人は裁判に付されることがあり得た。これに対して、共産党の役人は、「党で占めている等級に対応する党組織が知り、承認したうえでのみ」逮捕され得た。(注17) 
 レーニンは、このような実務に熱心に反対し、共産党員が間違った行動をしたならば他者よりも厳しく罰せられるべきだ、と主張した。だが、慣習を変えるには、彼は無力だった。(注18) 
 支配の最初から、法を超越する共産党の地位は、その党員たちへも移し換えられた。//
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 (11) 法的免責と結びついたこのような権力は、不可避的にその濫用を生じさせた。
 第8回党大会(1919年)が始まると、党職員の汚職や彼らの民衆からの離反に関する不満が語られた。(注19)
 共産党のプレスの紙面は、党職員が清廉という最も基礎的な規範を破っているという記事で埋められた。
 いくつかから判断すると、共産党幹部たちは、18世紀の奴隷所有者のごとく振る舞っていた。
 かくして、1919年1月、共産党のAstrakhan 機関は、Kliment Voroshilov の訪問に関して報告した。この人物はスターリンの戦友で、Tsaritsyn の第1十軍の司令官だった。 
 Voroshilov は豪奢な〈shesterka〉、6頭の馬に牽引された馬車で現れた。随行員たちの10台の馬車、トランク、樽その他の物品を高く積み上げた50ほどの荷車が、続いた。
 このような突然事には、地方の住民は訪問する賓客に対して全ての態様の人的サービスを行なうことが要求され、拒否すれば拳銃で威嚇された。(注20)//
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 (12) このような不面目な振舞いを終わらせるべく、党は1921年に、遅くと1922年早くに、粛清(purge)を実施した。
 表向きは内戦中の緩やかな受入れ手続で入党した出世主義者に向けられていたが、本当の攻撃対象は、他の社会主義政党、とくにメンシェヴィキから移ってきた者たちだった。レーニンは、共産党の隊列の中に民主主義思想その他の異端思想を注入しているとして、メンシェヴィキを非難していた。(注21)
 多くの者が除名された。
 そして、とくに不機嫌になった労働者たちなどに自発的に離党した者があって、党員数は、65万9000から50万に下がった。そしてさらに、40万人以下になった。(*) 
 このときに、「党員候補」の指名が制度化された。彼らは、入党資格を得る前に見習い期間を経験しなければならなかった。
 つぎの粛清(purge)では、より多くの者が除名されるか離党し、党のほとんど半分が変転した。(注22)
 こうした過程によって党はメンシェヴィキや他の「小ブルジョア社会主義者」を取り去ったかもしれなかった。しかし、腐敗した共産党員をそうしたのではなかった。
 共産党の特権的地位と法的責任からの完全な自由に内在しているがゆえに、権力の濫用は継続した。
 かりに市民が投票者または資産所有者のいずれかとして自分に関する事務処理を是正させる手段をもたないならば、また加えて、かりに党員は法的責任を免れているならば、行政集団は自制的になるか、居座り続けるか、あるいは自己満足の集団になってしまうだろう。
 党の倫理を監督するために1920年に設置された統制委員会は、党職員はその業務の遂行について自分たちを任命した者に対してのみ説明責任があり、「党員大衆」に対してはではない、ましてや国民全体にではない、と感じている、と報告した。(注23)
 これは、帝制時代の役人たちに広くあった態度を引き継いだものだった。(注24) //
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 (脚注*) 1922年9月の党組織部署のスターリンへの報告書は、地方によっては1921-22年に離党者が6.8から9.2パーセントに及んだ、と記した。: RTsKhIDNI, F. 558, op. 1 delo 2429.
 Kalinin によれば、党を去った者たちの大半は農民や労働者だった。RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9. 
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 (13) さらに悪いことに、党自体が官僚機構を腐敗させ始めた。
 1922年7月1日、組織局は、無害に感じさせる、「積極的党労働者の生活条件の改善について」という裁定を下した。これはもともと、省略した形で公にされた。(注25)
 この裁定は、党役人の給与体系を定めた。数百(新)ルーブルが受領される。家族手当、超過勤務手当が加えて支払われる。これで、全部では、基礎俸給の二倍になる。—この額は、工業労働者は平均して10ルーブルを得ていたときのものだった。
 上級の党官僚はさらに、代金を支払うことなく、追加の食料配給を受ける権利があった。他にもちろん、住居、衣服、医療、そして一定の場合には、運転手付きの自動車。
 1922年夏、党の中央機関に採用された「責任ある労働者たち」には、補足の食料配給が行われ、一月あたり26ポンドの肉、2.6ポンドのバターが配られた。
 彼らは、布張りで蝋燭の灯った特別の鉄道車両で旅行した。一方で庶民たちは、幸運に切符を入手できても、混み合った三等の客室か貨物車に詰め込まれた。(注26)
 最高級の役人には、外国の保養地で一ヶ月から三ヶ月の休暇または静養期間をとる権利があった。その費用は、党が金ルーブルで支払った。
 1921年11月、少なくとも6名のトップ・レベルの共産党員はドイツでの医療を受けていた。その一人(Lev Karakhan)は、痔の手術のためにドイツへ行った。(注27)
 このような利益の割当ては、スターリンの書記局が決定した。彼が採用したそこの職員は、600人いた。(注28)
 1922年の夏には、特別の恩恵を受ける者の数は、1万7000を超えた。
 同年の9月、組織局はその数を6万に増やした。//
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 (14) 党指導者たちは、別荘をもつ資格があった。
 田舎の家屋を得た最初の人物は、レーニンだった。彼は、1918年10月にモスクワの南西35キロメーターのGorki に、かつては帝制時代の将軍の資産だった屋敷を手に入れた。
 他の者たちも、レーニンに倣った。
 トロツキーは、ロシアで最も贅沢な不動産、Akhangelskoe を手に入れた。かつて、Iusuoov 王子の屋敷だった。
 スターリンは、Zubalovo の石油王の田舎家屋を自分のものにした。(注29)
 レーニンはGorkiで、GPUが操作する6台のリムジン車を自由に使用した。(注30)
 彼は自分のためには稀にしかそれを利用しなかったけれども、家族や友人たちのために利用させるのに反対ではなかった。例えば、妹とブハーリン家族がほとんど確実に休暇のためにクリミアへ旅行する私的車両には、彼らの旅の早さを上げるべく軍事列車が随行するように指示したように。(注31)
 劇場またはオペラに行ったとき、新しい指導者たちは、当然のこととして、皇帝用だった特別席を占めた。//
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 後注
 (15) Refail[R. B. Farbman]in Desiatyi S"ezd, p.97.
 (16) I. Zaitsev in Novyi den', No. 16 (1918.4.12), p.1; RR, p.63.
 (17) Konstantin Shteppa in Simon Wolin & Robert M. Slusser, The Soviet Secret Police (1957), p.86-87.
 (18) Lenin, PSS, XLIV, p.398; XLV, p.53.
 (19) E. g., N. Osinskii in Vos'moi S"ezd RKP(b): Protokoly (1959), p.27-28, p.164-7; A. A. Solts in Desiatyi S"ezd, p.57-58.
 (20) Kommunist (Abstrakhan), No. 6 (1919.1.11). Izvestiia, No. 12/564 (1919.1.18), p.4 が引用。
 (21) Lenin, PSS, XLIV, p.122-4.
 (22) "Aleksandrov", Kto upravlaet Rossiei ? (1933), p.28.
 (23) Solts in Desiatyi S"ezd, p.60.
 (24) RR, p.61-p.75. 〔RR=R. Pipes. Russian Revolution〕
 (25) A. Podshchekoldin in AiF, No. 27/508 (1990.7.7-13), p.2.
 (26) Alexander Berkman, The Bolshevik Myth (1925), p.43.
 (27) RTsKhIDNI, F.2, op.2, delo 1005.
 (28) S. K. Minin in Desiatyi S"ezd, p.92.
 (29) Svetlana Alliluyeva, Twenty Letters to a Friend (1967), p.26-27; Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/I (1989), p.190.
 (30) Lenin, PSS, LIV, p.649, p.266.
 (31) TP, II, p.444-7.  
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 第一節②、終わり。③へ。

2580/R・パイプス1994年著第9章第一節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第9章
 第一節・共産党の官僚主義化①。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たち、なかんずくレーニンは、進行しているその体制の官僚主義化(bureaucratization)に苛立った。
 指導部は、党と国家はともに、その役職を個人的な利益を高めるために使う役人という寄生階層に圧迫されている、と感じていた(そして、これを支持する統計上の証拠もあった)。
 さらに悪いことに、官僚制が膨張するほど、それが吸い込む予算は増大し、得られるものは少なくなった。
 このことは、チェカについてすらも言えた。Dzerzhinskii は1922年9月に、チェカの人員が行なっていることの完全な会計の提示を要求し、調査すれば「致命的な」(〈ubiistvennye〉)結果が出るだろうと付け加えた。
(注5)
 人生の最終期のレーニンにとって、官僚制はつきまとって離れない問題になっていた。//
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 (02) 彼らがこの現象に驚いたということは、つぎのことを示しているだろう。すなわち、ボルシェヴィキの強固な現実主義には、際立つ無邪気さが内在していた。(*)
 経済活動を含めた組織生活全体の国有化は必然的にホワイト・カラー労働者の数を膨張させる、ということは、彼らに明らかだったはずだろう。
 彼らが決して十分にはもたなかった「権力」(〈vlast'〉)が意味したのは機会だけではなく、責任でもあった、ということを彼らは考えなかったようだ。その責任の履行は、対応して大人数の職業人を必要とする常勤者の仕事だ、ということを。また、その職業人はもっぱらまたは主としてですら公共の福利のためだけに従事するのではなく、彼ら自身の利益のためにも勤務するのだ、ということを。
 共産党支配に伴なう官僚主義化は、事務的経歴しか有しない者たちが従来は不可能だった中間層へと上昇する、これまでにはなかった機会を与えることとなった。彼らこそが、官僚主義化の主要な受益者だった。(注6)
 労働者ですらも、工場の床を離れて役所へと向かえば、労働者であることをやめ、官僚層の中に混じり込んだ。党の統計上はしばしば、まだ労働者として記録されていたけれども。Kalinin はレーニンへの私的な手紙で、肉体労働に従事する者だけが労働者として表記され、一方で「監督者、監視者、評価者」は役人(office personnel、〈sluzhashchie〉)に分類されるべきだ、と強く迫った。(注7)
 以下は、メンシェヴィキのエミグレ機関紙がNEP の直前における現象について記述したものだ。
 「ボルシェヴィキ独裁…は、統治および公行政の全領域から帝制期の官僚機構のみならず、ブルジョア社会の学位制度を伴った知識人層を排除し、そのようにして、小ブルジョアジー、農民層、労働者階級、軍隊等々の無数の人々に『上昇する途』を開いた。彼らは従前は、富と教育をもつ者の特権的地位のために下級階層に所属させられていたが、今では巨大な『ソヴィエト官僚制』を構成している。—この新しい都市的階層の本質と野心は小ブルジョアであり、彼らの利益の全てがこの層を革命につなげている。革命こそが彼らを今ある地位に昇らせ、過酷な生産労働から逃れさせ、国民大衆の〈上に〉立つ国家行政機構に含み込んだからだ。」(注8)//
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 (脚注*) 1921年4月、レーニンは、体制の最初の一年半の間には官僚主義化の危険に気づかなかった、と認めた。彼は1919年にようやく、新綱領を採択した第8回党大会でそれを承認した。その綱領は遺憾さをもって「ソヴィエト・システム内部での官僚主義の部分的な復活」と記した。Lenin, PSS, XLHI, p.229.
 しかし、そのときでもレーニンは、この現象の原因は内戦が必要にさせた原始的な生産の方法と取引活動にあると批判した。Ibid., p.230. 
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 (03) ボルシェヴィキは、彼らの歴史哲学によれば政治はもっぱら階級闘争の付随物であり、政府は支配階級の道具にすぎなかったがゆえに、このような展開を予想することができなかった。この考え方は、国家とその公務員層は、そられが奉仕すると言われてきた階級利益とは異なる利害を有する、ということを見逃していた。
 その同じ哲学が、気がついたときに問題の性質を理解するのを妨げた。
 レーニンは、帝制時代の全ての保守主義者のように、「統制」委員会を積み上げ、監視者を派遣し、「善良な者たち」を制裁できるような濫用はないと要求する、といったこと以外には、官僚機構による濫用を抑止するための装置を考え出すことができなかった。
 問題の制度上の根源を、彼は最後まで、理解しなかった。//
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 (04) 官僚主義化は、国家と同様に党でも生じた。//
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 (05) 高度に中央志向の構造だったが、ボルシェヴィキ党はその党員層内部で、一定程度の非公式の民主主義を伝統的に育ててきた。(注9)
 「民主主義的中央集権主義」の原理のもとで、指令部門による諸決定は、疑問を抱くことなく下級機関によって実行されなければならなかった。
 しかし、決定は、全員が発言できる機会のある討論を経たあとで多数票決によって行われた。—まず中央委員会、次いで政治局。
 地方の党細胞の意見聴取が、機械的に行われた。
 国の独裁者ではあったが、レーニンは党内部では〈同輩中の首席〉にすぎなかった。政治局にも、中央委員会にも、正式の議長はいなかった。
 党の最高機関である党大会への代議員たちは、地方の諸組織から選出された。
 地方の党役員は、同輩たちによって選ばれた。
 実際には、レーニンはほとんどつねに、その個性と党創設者たる名声でもって支配した。だが、勝利は保障されておらず、ときには彼から外れた。//
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 (06) 党は国の運営という大きな責任をつねに負ったので、党員数も管理的機構も膨張した。
 1919年3月まで、Iakov Sverdlov という一人の人物が、その頭の中に、党組織と党員の全ての詳細を抱えていた。
 彼は、レーニンとその仲間が政治的決定や軍事的決定を自由に行うことができるよう、毎日党内を走り回った。(注10) 
 ともあれ、このようなシステムは、1919年3月に党員数は31万4000になったので、長くは続かなかった。
 この頃のSverdlov の突然の死によって、党をより公式に管理することが必須となった。
 このために、1919年3月の党第8回大会は、中央委員会に二つの新しい機関を設置した。一つは政治局で、中央委員会全体に諮ることなしで迅速に決定をすべく、最初は5人で構成された(レーニン、トロツキー、スターリン、カーメネフ、Nikolai Krestinskii)。もう一つは組織局でやはり5人で構成され、実際には人的任命を意味する組織問題を扱った。
 第三の機関、1917年3月に設置されていた書記局は、スターリンが1922年4月にその長に任命されるまでは、主として書類を捲るのに忙殺されていたように見える。
 その長である書記長は、組織局の一員である必要があった。
 スターリン以降の組織局と書記局の任務から判断すると、両者の間には厳格な所掌事務の区別はなく、ともに人事問題を扱った。但し、組織局は、党員の実績評価についてより直接的な責任をもっていたように思われる。(注11) 
 これらの機関の設置によって、党の事務の、モスクワにある頂点の権威への集中が始まった。//
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 (07) 共産党には、内戦が終わるまでに、もっぱら文書作業を行う手頃な規模の職員がいた。
 1920年の末頃にかけて行われた統計調査は、その構成に関して興味深い数字を明らかにした。
 職員の21パーセントだけが工業または農業での肉体労働に従事していた。
 残りの79パーセントは、多様なホワイト・カラーの職に就いていた。(+)
 職員の教育レベルはきわめて低くて、彼らの責任や権限と釣り合っていなかった。1922年では、0.6パーセント(2316人)だけが高等教育を修めていて、6.4パーセント(2万4318人)が第二次学校を終えていた。
 あるロシアの歴史家はこの資料にもとづいて、当時の党員の92.7パーセントは仕事上わずかしか識字能力がなかった(1万8000人または4.7パーセントは完全に識字能力がなかった)と結論づけた。(注12)
 ホワイト・カラー職員の一団から、共産党の中央機関にモスクワで採用される活動家エリートが出現した。
 1922年の夏、この集団は1万5000人以上を数えた。(注13)
 「党生活の官僚主義化は、不可避の結果を生んだ。…
 もっぱら党の仕事に従事した党職員は、工場や政府官署で常勤で働いている一般党員に比べて、明らかに有利だった。
 党の運営に職業として没頭できることは強い力となって、党職員層に対して、立案、指導、統制の中心部たる位置を与えた。
 党の階層の全てのレベルで、権限の移行が見えるものとなった。まずは大会または会議から、名目上は大会等が選出した諸委員会へ、次いで、諸委員会から、表向きは諸委員会の意思を執行する党書記局への移行。」(注14) 
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 (脚注+) N. Solovev in Pravda, No. 190 (1921.8.28), p.3-4. 完全ではないけれども—統計調査はロシア共和国の三分の二にしか及んでいない—、党の代表者全体について想定される。
 数字には、首都のモスクワは含まれていない。モスクワに関する統計は「信頼できない」と宣せられた。かりにこれを計算にいれれば、ホワイト・カラーの仕事をもつ共産党員の割合は、相当により高くなっただろう。首都は官僚制帝国の中枢なのだから。
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 (08) 当然のこととして、中央委員会組織は徐々に、そしてほとんど感知されることなく、ほとんどの諸決定のみならず全てのレベルでの執行人員の選抜についても、党の地方機関から権限を奪い取った。
 中央集権化への推移は止まらず、冷酷な論理を伴って進行した。
 まず、共産党は、全ての組織立った政治生活を掌握した。次いで、中央委員会は、自発性を抑え込み、批判を沈黙させて、党の指揮権を自らの手に握った。さらに、政治局は、中央委員会のための全ての決定を用意し始めた。
 そして、三人の男たち—スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ—が、政治局を支配するに至った。
 最終的には、一人だけが、つまりスターリンだけが、政治局のために決定をした。
 一人の独裁への途がいったん極まると、もうどこにも進む途はなく、スターリンの死によって、党とその国家の権威が漸次的に解体していく、という結果となった。//
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 後注
 (05) RTsKhIDNI, F. 76, delo 265.
 (06) Daniel Orlovsky in Diane P. Koenker, et al., eds., Party, State and Sosiety in the Russian Civil War (1989), p.180-p.209.
 (07) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9.
 (08) SV, No. 2 (1921.2.16), p.1.
 (09) 共産党の中央集権化と官僚主義化に関する最良の議論は、以下に見られる。Merle Fainsod, How Russia Is Ruled, revised ed., (1963), Chap. 6.; Leonard Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy (1977), Part III.
 (10) Krestinskii in DesiatyiS"ezd, p.499.
 (11) RTsKhIDNI, F. 17, op. 112.
 (12) Pravda, No. 17 (1923.1.26), p.3.; A. V. Pantsov in VI, No. 5 (1990), p.80.
 (13) Fainsod, How Russia Is Ruled, p.181.
 (14) Ibid., p.181. 
 ——
 第一節①、終わり。

2579/R・パイプス1994年著第9章序。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、へと試訳を進める。
 第9章の構成は、つぎのとおり。数字は本文にも目次にもなく、表題は目次にだけ見られる。
  
  第一節・共産党の官僚主義化。
  第二節・国家の官僚主義化。
  第三節・「労働者反対派」。
  第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭。
  第五節・孤立するレーニン。
  第六節・ジョージアに関する論争。
  第七節・レーニン・スターリン・トロツキー。
  第八節・トロツキーの衰退。
  第九節・レーニンの死。
 ——
 第9章/新体制の危機。 
 あなたはつぎの問題を、どのように解くか。
 農民層は我々の味方でなく、労働者階級は多様なアナーキズムの影響下にあって我々を放棄しようとしているとすれば、いま共産党はいったい何を基盤にすることができるのか?
 以上、共産党第10回大会で、Iurii Milonov (1921年3月)。(注1) 
 中央の政府を妨害する障害は何もなくなっていたが、同時に、それを支えてくれるものも何もなかった。
 以上、Alexis de Tocqueville. (注2)
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 序。
 1921-23年に共産党を襲った政治的危機の原因は、対抗諸政党の弾圧によっても不満は消失せず、党員内部へと不満が移ったにすぎなかった、ということにあった。
 このような展開は、ボルシェヴィズムの主要な教義、紀律のある統一、を侵すものだった。
 第11回党大会の諸決議は、起きていることを遠回しに認めていた。
 「きわめて緊張していた内戦という状況下で、プロレタリアートの勝利を確固たるものにするために、その独裁を維持するために、プロレタリアートの前衛は、ソヴィエトの権威に敵対する全ての政治集団から組織する自由を剥奪しなければならなかった。
 ロシア共産党は、ロシアの唯一の合法的政党として残った。
 もちろん、このような状況は、労働者階級とその党に多くの優越性をもたらした。
 しかしそれは、他方で、党の仕事をきわめて複雑にする現象も生み出した。
 不可避的に、唯一の合法的政党の党員たちには、自分たちの影響力を行使しようとする気分が生じてきた。別の状況であれば共産党員のみならず、社会民主党またはその他の小ブルジョア社会主義の政党の党員たちにも出現するだろう集団や層だ。」(注3)
 トロツキーが、こう述べたように。「我々の党は今やロシアの唯一の政党だ。あらゆる不満が、我々の党を通じて昇って来る」。(注4)
 かくして、党指導部は、苦痛の選択を迫られた。すなわち、党内部での不満に寛容になることで、統一とそれから生まれる利点を犠牲にするか、それとも、党指導機構の硬化と党員たちの指導部からの離反という両者の危険をともに冒してでも、統一を維持するか。
 レーニンは、躊躇することなく、後者を選択した。彼はこう決意することによって、スターリンの個人的独裁の基礎を築いた。//
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 後注
 (01) DesiatyiS”ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1963), p.84.
 (02) Alexis de Tocqueville, The Ancient Regime and the French Revolution, Chap. 12.
 (03) OdinadtsatyiS"ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1961), p.545.
 (04) DesiatyiS”ezd RKP(b): Stenograficheskii Otchet (1963), p.352.
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 序、終わり。

2577/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第13節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第13節へ。
 ——
 第13節・1923年-共産主義者のドイツ・ナショナリストとの同盟(1923 Communist alliance with German nationalists)。
 (01) モスクワにとっては、連合諸国とドイツを引き裂いたままにしておくことが最も重要だった。そして、これを達成するための手段を、ヴェルサイユ条約の中に見出した。
 ドイツの指導的な社会主義政党の社会民主党は、この条約の条件の範囲内で活動し、連合諸国との友好関係を築こうとした。これに対して、共産党は、ドイツの最も反動的でナショナリスト的部分に目を向けた。
 レーニンは、1920年12月に、ドイツの「ブルジョアジー」はソヴィエト・ロシアとの同盟に向かって駆り立てられている、と宣言した。
 「ドイツは、ヴェルサイユ条約に従わされて、存在が不可能な条件の中にいると感じている。
 そして、この状況下で自然に、ロシアとの同盟へと進んでいる。
 あの息苦しい国のロシアとの同盟は…、ドイツに政治的な狼狽を生み出した。ドイツの黒の百人組は、ロシアのボルシェヴィキとスパルタクス団への共感へと動いている。」(注258)
 本当は、共産主義者に求愛しているのが「黒の百人組」ではなく、黒の百人組に、つまりナツィスとその同族の精神に、媚びているのが共産主義者だった。
 共産主義者・「ファシスト」協力関係は、1923年1月以降に最高潮に達した。そのとき、フランスとベルギーは、ドイツの賠償金支払いの不履行を宣言して、ルール地方を占領した。
 コミンテルン執行部はフランスと対立したドイツをただちに支持し、モスクワは、フランスの要請を受けてポーランドが攻撃するならばドイツを助けると約束した。(注259)
 1923年5月、ドイツ共産党(KPD) は、民族主義的大衆を徴兵する可能性を承認する決議を採択した。(注260)//
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 (02) ドイツの保守層や極右社会と交渉するレーニンの主な代理人は、Karl Radek だった。 
 Radek は、ドイツ共産党が孤立状態から離れる唯一の方途はナショナリスト部分との同盟関係の形成だ、と考えていた。
 彼は、このような変化を、「被抑圧国家」の場合はナショナリズムは「革命的」現象だ、という(ジノヴィエフと同様の)論拠で正当化した。(注261)
 気落ちしているドイツ人に対して、彼は、連合諸国に対抗する統一戦線を提案した。
 ドイツ政府に対して、フランスとの戦争の場合は、ソヴィエト・ロシアは「好意的中立」政策を採るだろう、ドイツ共産党は積極的に支持するだろう、と助言した。(注262)
 1923年6月、彼は、コミンテルン執行部に対して演説を行ない、ルール地方での輸送を妨害したとしてフランスに射殺されたナツィ一族のAlbert Schlageter を褒めちぎった。Schlageter は「ドイツ・ナショナリズムの殉教者」で、「革命の兵士へ真摯な敬意」を払う「反革命の勇敢な戦士」だ、と。
 彼はこう明確に述べた。「ドイツの愛国主義層が自国の民衆の大多数の意向になると決意し、そうして連合諸国の資本主義者とドイツ資本に対する戦線を形成しないならば、Schlageter の意思は虚しいものになるだろう」。(注263) 
 Radek はのちに、この扇情的な演説の文章は政治局とコミンテルン執行部の同意を得ていた、と明らかにした。(注264)
 ドイツ共産党(KPD)の機関紙の〈赤旗〉は今や、ナショナリストのためにその紙面を割いた。
 ナツィスは共産党員の集会で語り、共産党はナツィス党員の集会で語った。
 ドイツ共産党は、鉤十字を赤い星と混ぜ合わせたポスターを掲示した。(注265) 
 スパルタクス団のRuth Fischer は、彼女自身ユダヤ人だったが、ドイツの学生たちに、ユダヤ資本家を「踏みつぶし」、「首をつるす」ように熱く訴えた。(注266)
 このような協力関係は、ナツィスが離れた1923年8月に終わった。//
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 (03) 状況をさらに混乱させることだが、モスクワは、その対ドイツ政策の二つの立場—政府との同盟とその右翼の敵との協力関係—を、第三の、社会革命に伴わせた。
 政治局は、1923年8月23日に、新首相Gustav Streseman の政府を打倒する、と決定した。新首相 が、財政援助とヴェルサイユの条件の緩和を求めて、連合諸国と交渉するのを阻止するためだった。これは、ドイツを固く西側陣営につなぎとめることになるだろう。(注267)
 トロツキーは、当時にドイツで勃発していたストライキの波を利用しょうと望んで、クーを組織するために、Alexis Skoblevskii 将軍を長とする軍事使節団をドイツに派遣した。(注268)
 100万トンの穀物が、予期される連合諸国の封鎖にドイツが抵抗できるように、ペテログラードと前線地点に貯蔵されていた。
 2億金ルーブルの救済基金も、別に用意されていた。(注269)
 トロツキーはドイツ共産党と、革命戦術について討論した。その助言に基づいて、ザクセンとテューリンゲンでクーを開始する、と決定された。
 しかし、ドイツの労働者は、革命的訴えに反応できなかった。そして、右翼のKapp 蜂起と同時に起こったクーは、惨めな失敗に終わった。
 1923年11月から1924年3月まで、ドイツ共産党は非合法化された。//
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 後注。 
 (258) Lenin, PSS, XLII, p.104-5. Ost-Information, No. 81, 1920.12.4.—Dennis, Foreign Policies, p.155 が引用—を参照。
 (259) Freund, Unholy Alliance, p.153; Louis Fischer, The Soviets in World Affairs, I (1930), p.451; Gustav Hilger, The Incompatible Allies (1953), p.120.
 (260) Arthur Spencer in Survey, No. 44-45 (1962), p.139.
 (261) Leonid Luks, Entstehung der kommunistischen Faschismustheorie (1984), p.62.
 (262) Ruth Fischer, Stalin and German Communism (1948), p.265.
 (263) Karl Mielcke, Dokumente zur Geschichte der Weimarer Republik (1951), p.46, p.48.
 (264) Protokoll: Fünfter Kongress der Kommunistischen Internationale, II (1925). p.713; Die Lehren der deutschen Ereignisse: Das Präsidium des Exekutivkomitees der Kommunistischen Internationale zur deutschen Frage (1924), p.18; Braunthal, Historzy, II, p.277.
 (265) Braunthal, History, II, p.277.
 (266) Ossip K. Flechtheim, Die Kommunistische Partei Deutschlands in der Weimarer Republik (1948), p.89.
 (267) Braunthal, History, II, p.278-9; Freund, Unholy Alliance, p.172.
 (268) E. H. Carr, The Interregnum, 1923-1924 (1954), p.209-212.
 (269) Ibid., p.218; G. Z. Besedovskii, Na putiakh k Termidoru (1930), p.123.
 ——
 第13節、終わり

2572/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節の②。
 ——
 第四節・クロンシュタット暴乱②。
 (10) トロツキーは、3月5日にペテログラードに着いた。
 彼は暴乱者たちに、直ちに降伏し、政府の処置に委ねよと命じた。
 他の選択は、軍事的報復だった。(注56)
 少し変更すれば、彼の最後通告は、帝制時代の総督が発したものになっていただろう。
 反乱者に対する呼びかけの一つは、抵抗を続けるならばキジのように撃ち殺されるだろう、と威嚇した。(注57)
 トロツキーは、ペテログラードに住んでいる暴乱者たちの妻や子どもたちを人質に取るよう命じた。(注58)
 彼は、ペテログラード・チェカの長がKronstadt 反乱は自然発生的なものだと執拗に主張するのに困って、解任させるようモスクワに求めた。(注59)
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 (11) 反抗的なKronstadt 暴乱者たちは、トロツキーの行動を知って、1905年の血の日曜日での治安部隊への命令を思い出した。その命令は、ペテルブルク知事だったDmitri Trepov によるとされるものだった。—「弾丸を惜しむな」。
 反乱者たちは誓った。「労働者の革命は、行動で汚れたソヴィエト・ロシアの国土から、卑劣な中傷者と攻撃者を一掃するだろう」。(注60)//
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 (12) Kronstadt は島で、冬以外の季節に力でもって奪取するのはきわめて困難だった。だが、3月では、周囲の水は、まだ固く凍りついていた。
 このことが、猛攻撃を容易にした。大砲で氷を破砕しておくべきとの将校たちの助言を反乱海兵たちが無視していたために、なおさらそうなった。
 3月7日、トロツキーは、攻撃開始を命じた。
 赤軍は、Tukhachevskii の指揮下にあった。
 Tukhachevskii は、常備軍は信頼を措けないことを考えて (注61)、その中に、内部的抵抗と闘うために形成された特殊選抜分団を散在させた。(*) //
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 (脚注*) 1919年に、モスクワは反革命と闘う特殊な目的で、元々は共産党の将校と「特殊任務部隊」(〈Chasti Osobogo Naznacheniia, ChON〉)として知られる徴募された将校とが配属された選抜(エリート)軍を創設した。これらは1921年に3万9673名の幹部兵と32万3373名の徴集兵を有した。G. F. Krivosheev, Grif sekretnosti sniat (1993), p.46n.
 追記すると、内部活動軍(〈Voiska Vnutrennei Sluzhby, VNUS〉)があり、これは、同様の目的で1920年に設立され、1920年遅くには36万人が所属した。同上、p.45n.
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 (13) ペテログラードの北西基地からの攻撃が、本土要塞からの大砲発射とともに、3月7日の朝に始まった。
 その夜、白いシーツで包まれた赤軍兵団が、氷上に踏み出し、海軍基地に向かって走った。
 彼らの背後には、チェカの機銃部隊が配置されていて、退却する兵士は全て射殺せよとの命令を受けていた。
 兵団は海軍基地からの機銃砲で切断され、攻撃は大敗走となった。
 一定数の赤軍兵士たちは、義務の遂行を拒んだ。
 およそ1000人の兵士が、反乱者側へと転じた。
 トロツキーは、命令に背いた5分の1の兵士たちの処刑を命じた。//
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 (14) 第一砲が火を噴いた後のその日、Kronstadt の臨時革命委員会は、綱領的な声明を発表した。「何のために闘っているのか」、それは「第三の革命」を呼びかけることだ。
 アナキスト精神が滲むその文書は、知識人がこれまで書いてきた全ての特性をもっていたが、しかし、進んで闘って死ぬという意思でもって防衛者の気持ちは証明される、と表現してもいた。
 「労働者階級は、十月革命を実行することで、その解放が実現することを望んだ。
 その結果は、人間のいっそうの奴隷化ですらあった。
 権力は、警察と憲兵を基礎にした君主政から「奪取者」—共産主義者—の手に渡った。その共産主義者は労働者たちに、自由ではなく、チェカの拷問室で死に果てるという日常的な不安を、帝制時代の憲兵による支配を何十倍も上回る恐怖を、与えた。//
 銃剣、弾丸、〈oprichniki〉(+) の、チェカからの乱暴な叫び声、これが、長い闘争の成果であり、ソヴィエト・ロシアの労働者が被ったものだ。
 共産党当局は、労働者国家という栄光ある表象—槌と鎌—を、実際には、銃剣と鉄柵に変え、新しい官僚制の平穏で呑気な生活を守るために、共産主義人民委員部と役人機構を生み出した。//
 しかし、これら全ての最基底にあり、最も犯罪的であるのは、共産主義者によって導入された道徳的奴隷制だ。すなわち、彼らは、労働人民の内面世界へも手を伸ばし、彼らが思考するとおりに思考することを強制している。//
 国家が動かす労働組合という手段によって、労働者は自分たちの機構に束縛され、その結果として、労働は愉楽ではなく新しい隷属の淵源になっている。
 自然発生的な蜂起で表現された農民たちの異議申立てに対して、また、生活条件がやむなくストライキに向かわせた労働者たちのそれに対して、彼らは、大量処刑と、ツァーリ時代の将軍たちのそれをはるかに超える血への渇望でもって対応した。//
 労働者のロシア、労働者解放の赤旗を最初に掲げたロシアは、共産党支配の犠牲者の血で完全に浸されている。 
 共産主義者は、労働者革命という偉大で輝かしい誓いとスローガンを全て、この血の海へと溺れさせた。//
 ロシア共産党がその言うような労働人民の守り手ではないこと、労働人民の利益は共産党には異質なものであること、いったん権力を握ればその唯一の恐れは権力を失うことであること、そしてそのゆえに、(その目的のための)全ての手段—誹謗、暴力、欺瞞、殺戮、反乱者の家族への復讐行為—が許容されること、これらはますます明らかになってきており、今や自明のことだ。//
 労働者の長い苦しみは、終わりに近づいた。//
 いたるところで、抑圧と強制に対する反乱の赤い炎が、国の空の上に光っている。…//
 現在の反乱は最後には、自由に選挙された、機能するソヴェトを獲得して、国家が動かす労働組合を労働者、農民、および労働知識人の自由な連合体に作り変える機会を、労働者に提供する。
 最終的には、共産党独裁という警棒は粉砕される。」(注62)//
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 (脚注+) 1560年代に、想定した敵に対するテロル活動(〈Oprichnina〉)で、イワン四世に雇われた男たち。
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 (15) Tukhachevskii は、つぎの週に増援部隊を集め、その間ずっと、守備兵に夜間の襲撃に耐えられるよう警戒を続けさけた。
 島の士気は、本土からの支援の欠如と食料供給の枯渇によって低下した。
 このことを赤軍司令部は、Kronstadt にいる、反乱者から活動の自由と電話の使用を認められていた共産党員から、知らされた。
 仲間を攻撃するのに気乗りしない、自分たちの意気を高めるために、共産主義者は、反乱は反革命の愚かな手段だとプロパガンダするいっそうの努力を開始した。//
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 (16) 5万人の赤軍兵団による最終攻撃は、3月16-17日の夜間に始まった。このときは、主要兵力は南から、Oranienbaum とPeterhof から出発した。
 防衛者たちの人数は1万2000〜1万4000で、そのうち1万人は海兵、残りは歩兵だった。
 攻撃者たちは、何とか這い上がって、気づかれる前に島に接近した。
 激烈な戦闘が続いた。その多くは白兵戦だった。
 3月18日の朝までに、島は共産主義者が支配した。
 数百人の捕虜が殺戮された。
 敗北した反乱者の何人かは、指導者も含めて、氷上を横断してフィンランドへと逃げて、生きながらえた。但し、そこで抑留された。
 生き残った捕虜たちをクリミアとコーカサスに割り当てるのが、チェカの意図だった。しかし、レーニンはDzerzhinskii に、彼らを「北方のどこかに」集中させる方が「便利だろう」と告げた。(注63)
 これが意味したのは、ほとんどの者が生きて帰還することのない、白海上の最も過酷な強制労働収容所に彼らを隔絶させる、ということだった。//
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 (17) Kronstadt 蜂起が壊滅したことは、一般民衆に良く受け入れられたのではなかった。
 そのことはトロツキーの声価を高めなかった。トロツキーは彼の軍事的、政治的勝利を詳しく語るのを好んだけれども。しかし、彼の回想録では、この悲劇的事件で自分が果たした役割には、何ら触れるところがない。//
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 後注
 (56) Berkman, Kronstadt, p.31-32; L. Trotskii, Kak vooruzhalas' revoliutsiia, III/1 (1924), p.202.
 (57) Petrogradskaia pravda, No. 48 (1921.3.4). N. Kronshtadskii miateyh (1931), p.188-9 に引用されている。
 (58) Berkman, Kronstadt, p.14-15, p.18, p.29.
 (59) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
 (60) Pravda o Kronshtadte, p.68.
 (61) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167: Cheka report.
 (62) Pravda o Kronshtadte, p.82-84.
 (63) RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo 167.
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 第四節、終わり。

2571/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第四節①。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき、第四節。
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 第四節・クロンシュタット暴乱(the Kronstadt mutiny)①。
 (01) 1920-21年の冬のあいだ、ヨーロッパ・ロシアの都市部での食料と燃料の供給状態は、二月革命の前夜を思い起こさせるものだった。
 運輸の断絶と農民による退蔵が原因となって、配送がきわめて落ち込んだ。
 ペテログラードは、生産地から遠く隔たっていることで、再び最も影響を受けた。
 燃料不足のため、工場は閉鎖された。
 多くの住民が、市から逃げ出した。
 とどまっていた者たちは、政府から無料で配られたまたは仕事場から盗んだ工業製品を食糧と物々交換するために農村地帯へと向かった。但し、産物を没収する「妨害部隊」(〈zagraditel'nye otriady〉)によって、帰りの途中で停止させられた。//
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 (02) こうした状況を背景として、1921年2月に、Kronstadt の船員たち、トロツキーの言う「革命の美と誇り」が、反乱の狼煙を上げた。//
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 (03) 海軍の暴乱に火をつけたのは、モスクワやペテログラード等の多数の都市でのパンの配給を、10日間三分の一減らす、という1月22日の政府命令だった。(注45)
 この措置は、いくつかの鉄道路線を閉鎖させている燃料不足のために必要になった、とされた。(注46) 
 最初の異議申立ては、モスクワで勃発した。
 モスクワ地域の政党色のない冶金労働者の会合が、2月初めに、体制側の経済警察が全面的に非難していると聞き、ソヴナルコム〔人民委員会議、ほぼ内閣〕構成員を含む全員の平等を求めて配給「特権」の廃止を要求した。また、恣意的な食料取立てを定期的な現物税に置き換えることも、要求した。
 何人かの発言者は、立憲会議(Constituent Assembly)の招集を呼びかけた。
 2月23-25日、多数のモスクワの労働者がストライキを行ない、公的な配給制度の外で、自分で食糧を獲得することを認めるよう、要求した。(注47)
 この抗議運動は、実力でもって鎮圧された。//
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 (04) 政府への不満が、ペテログラードに広がった。そこでは、最も特権的な階層である工業労働者の食料配給は一日当たり1000カロリー分減らされていた。
 1921年の2月初め、ペテログラードの大企業のいくつかは、燃料不足のために閉鎖を余儀なくされていた。(注48)
 2月9日、ストライキが散発的に発生した。
 ペテログラードのチェカは、原因はもっぱら経済にあり、「反革命者」が関与している証拠はない、と決定した。(注49)
 2月23日以降、労働者たちは会合を開いた。その中には、そのままストライキに進んだものもあった。
 ペテログラードの労働者たちは、当初は、農村地帯で食料を掻き取る権利だけを要求した。しかし、やがて、おそらくメンシェヴィキやエスエルの影響を受けて、ソヴェトの公正な選挙、言論の自由、そして警察のテロルの中止を呼びかける、政治的要求を追加した。
 ここでも、反共産党気分にときおり伴っていたのは、反ユダヤ主義のスローガンだった。
 2月末、ペテログラードはゼネ・ストの見通しに直面した。
 チェカは、この都市のメンシェヴィキとエスエルの指導者たち全員を逮捕し続けた。
 反乱している労働者たちを鎮静化しょうとするジノヴィエフの試みは、成功しなかった。すなわち、彼の聴衆は敵対的で、話し続けることができなかった。(注50)//
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 (05) レーニンは、労働者の反抗に直面して、まさしくニコライ二世が4年前に行なったように反応した。すなわち、彼がとりかかったのは、軍事だった。
 しかし、最後のツァーリは疲れ切って、不本意に戦闘し、すぐに屈服したのに対して、レーニンは、権力を握り続けるためにどこまでも闘うつもりだった。
 2月24日、共産党ペテログラード委員会は、将軍S.S.Khabalov の1917年二月25-26日の命令を彷彿させる言葉を用いて「防衛委員会」を—誰から「防衛」するのかを特定することなく—設置し、非常事態を宣言し、街頭集会を全て禁止した。
 委員会の議長は、アナキストのAlexander Berkman が「ペテログラードで最も嫌悪されている人物」と称した、ジノヴィエフだった。
 Berkman はこの委員会の一員のボルシェヴィキ、「太って、脂ぎって、不快な感じ」に見えるM.M. Lashevich の演説を聞いていた。このLashevich は、「ゆすりをするヒル」のように、抗議をする労働者を拒否した。(注51)
 ストライキ労働者たちは、ロック・アウトされた。これは、彼らが食料配給を受けられないことを意味した。
 当局はメンシェヴィキ、エスエルを逮捕し続けた。また、反乱「大衆」から遠ざけるためにペテログラードと他の地域のアナキストたちも。
 1917年二月には、不満の主な原因は要塞守備隊だったが、今のそれは工場だった。
 そうであっても、ペテログラードに駐在する赤軍部隊は懸念材料だった。そのいくつかが、労働者の示威行動の抑圧に参加しない、と宣言したからだ。
 そのような部隊は、武装を解除された。//
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 (06) ペテログラードでの労働者騒擾の報せが、Kronstadt の海軍基地に届いた。
 そこに配置された1万の海兵たちは伝統的には、特定のイデオロギー的志向のない、「ブルジョアジーへの憎悪」を強くもつアナキズムを選好していた。
 1917年には、こうした感情はボルシェヴィキのために役立った。
 だが今は、それはボルシェヴィキに反抗する方向に機能した。
 海軍基地でのボルシェヴィキへの支持は、十月の後にすみやかに失われ初めた。そして、1919年に海兵たちはペテログラードを防衛する赤軍のために勇敢に闘ったけれども、体制を熱狂的に支持したのでは全くなかった。とくに、内戦が終わった後ではそうだった。(注52)
 1920-21年の秋から冬に、Kronstadt の党組織員の半分である4000人が、切り札を出した。(注53)
 ペテログラードのストライキ労働者は銃火を浴びているという風聞が広がったとき、海兵の代表団が調査のために派遣された。彼らは帰還して、本土の労働者たちは帝政時代のかつての監獄でのように扱われている、と報告した。
 2月28日に、以前はボルシェヴィキの本拠だった戦艦〈Petropavlovsk〉の乗組員は、反共産党の決議を採択した。
 その決議は、秘密投票によるソヴェトの再選挙、(「労働者、農民、アナキスト、左翼エスエル党員」のためだけの)言論やプレスの自由、集会と労働組合の自由を要求した。また、賃労働者を雇用しないかぎりで、適切と考えるとおりに土地を耕作する農民たちの権利も。(注54)
 翌日、決議が、Kalinin にいる海兵と兵士の集会でほとんど満場一致で採択された。彼らは、暴乱者を鎮圧するために派遣されていたのだったが。
 集められて出席した多数の共産党員たちは、決議への賛成票を投じた。
 3月2日、海兵たちは、島を管理し、予期される本土からの攻撃に対する防衛を担当する、臨時革命委員会を設立した。
 反乱者たちは、赤軍の武力に長く抵抗できるという幻想を持ってはいなかった。だが、彼らの主張へとnation と軍事力 を結集させることを当てにした。//
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 (07) 彼らのこの期待は、失望に終わった。ボルシェヴィキが、暴乱の広がりを阻止すべく、迅速で効果的な対抗措置をとったからだ。この点では、新しい全体主義体制はツァーリ体制よりもはるかに有能だった。
 海兵たちは孤立していると感じ、彼らが勝利できそうにない軍事闘争に閉じ込められた。//
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 (08) 旧体制は、その権威に対する全ての挑戦をどす黒い外国勢力に起因させた。この習癖をボルシェヴィキがすみやかに吸収していたのは、興味深い。
 そして、その外国勢力とはかつてはユダヤ人だったが、今では「白衛軍」だった。
 3月2日、レーニンとトロツキーは、暴乱は「白衛軍」将軍たちの陰謀であり、その背後にはエスエルと「フランスの対敵諜報機関」がいる、と宣告した。(*)
 Kronstadt 暴乱がペテログラードに波及するのを阻止するために、同市共産党委員会が設置した「防衛委員会」は、群衆を解散させ、従わなければ発砲せよとの命令を兵団に発した。
 鎮圧措置は、譲歩と一組のものだった。すなわち、ジノヴィエフは「妨害派遣部隊」を撤収させ、政府は食料徴発を放棄しようとしているとの示唆を与えた。
 実力行使と譲歩の結合によって、労働者たちは鎮静化し、海兵たちへのきわめて重要な支援が奪われた。//
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 (脚注*) Pravda, No. 47 (1921.3.3), p.1. のちにスターリンのプロパガンダはさらに進んで、Kronstadt 蜂起には経済的援助があった、とまで主張することになる。
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 (09) Kronstadt 暴乱勃発から1週間後、ボルシェヴィキ指導者層は第10回党大会にためにモスクワに集まった。
 誰の意識にもKronstadt 暴乱があったけれども、議題はそれではなかった。
 レーニンは演説を行なったが、暴乱の件を軽視し、反革命陰謀だとして却下した。彼は、こう明確に述べた。「白軍の将軍たち」の関与は「完全に証明されている」、陰謀の全体はパリで企てられた、と。(注55) 
 実際には、指導部は、この挑戦をきわめて深刻に受け取っていた。//
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 後注。
 (45) Pravda, No. 14 (1921.1.22), p.3.
 (46) EZh, No. 14 (1921.1.22), p.2.
 (47) Lenin, Sochineniia, XXVI, p. 640; Oravda, No. 27 (1921.2.8), p. 1; Desiatyi S"ezd, p.861-2; RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.166.
 (48) Pravda, No. 32 (1921.2.13), p.4.
 (49)  RTsKhIDNI, F. 76, op. 3, delo p.167.
 (50) Ibid. 〔同上〕
 (51) Alexanser Berkman, Kronstadt, p.6 とThe Bolshevik Myth (1925), p.292.
 (52) Avrich, Kronstadt, p.62-71.
 (53) Ibid., p.69.
 (54) Pravda o Kronshtadte (1921), p.8-10.
 (55) Lenin, PSS, XLIII, p.23-24.
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 第四節②へと、つづく。

2566/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第一節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 この書(総計約590頁)のうち、章単位で試訳掲載を済ませているのは、数字番号のない結語のような末尾の「ロシア革命の省察」(約20頁)を除くと、つぎだけだ。原書で約40頁。これら三者(ロシア・イタリア・ドイツ)の共通性と差異を考察している。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
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 この書物の第8章の節別構成は、つぎのとおり。
 第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
  第1節・テルミドールではないネップ。
  第2節・1920-21年の農民大反乱。
  第3節・アントーノフの登場。
  第4節・クロンシュタットの暴乱。
  第5節・タンボフでのテロル支配。
  第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
  第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
  第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
  第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
  第10節・1921年飢饉。
  第11節・外国共産党への支配の増大。
  第12節・ラパッロ〔条約〕。
  第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
  第14節・ドイツとソヴィエト連邦の軍事協力の開始。
 以上のうち、この欄に試訳の掲載を済ませているのは、以下に限られる。
 第6節〜第10節。5年前の2017.04.10〜2017.04.27 のこの欄に掲載した。
 以下、第一節〜第五節の邦訳を試みる。
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 第8章・ネップ(NEP)—偽りのテルミドール。
 第一節・テルミドールではないネップ。
 (01) 「テルミドール」(Thermidor)は、フランス革命暦の七月で、その月にジャコバンの支配が突如として終わり、より穏健な体制に譲った。
 マルクス主義者にとって、この語は反革命の勝利を表象するものだった。その反革命は最後には、ブルボン王朝の復活に行き着いたからだ。
 それは、彼らが何としてでも阻止すると決意している展開だった。
 経済の破綻と大量の反乱に直面して、レーニンは1921年3月に、経済政策を急進的に変更させることを強いられていると感じた。その変更は、私的企業に重大な譲歩をする結果となるものであり、新経済政策(NEP)として知られるようになった路線だった。国の内外で、ロシア革命もまたその路線を辿り、テルミドール段階に入った、と考えられた。//
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 (02) このような歴史的類推を用いることはできないことが、判明した。
 1794年と1921年の最も顕著な違いは、フランスではジャコバン派がテルミドールに打倒され、指導者たちは処刑されたのに対して、ロシアでは、ジャコバン派に相当する者たちが新しくて穏健な路線を実施した、ということだった。
 彼らは、変化は一時的なものだと理解したうえで、そうした。
 1921年12月に、ジノヴィエフはこう言った。「同志たちよ、新しい経済政策は一時的な逸脱、戦術的な退却にすぎず、国際資本主義の前線に対する労働者の新しくて決定的な攻撃のための場所を掃き清めるものだ、ということを明瞭にしてほしい」。(注02)
 レーニンは、NEP をブレスト=リトフスク条約になぞらえるのを好んだ。これは当時は誤ってドイツ「帝国主義」への屈服と見られたが、後退の一歩にすぎなかった。つまり、長くは続かず、「永遠に」ではなかったのだ。(注03)//
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 (03) 第二に、NEP は、フランスのテルミドールとは異なり、経済の自由化に限定されていた。
 トロツキーは、1922年にこう言った。「我々は、支配党として、経済分野での投機者を許容することができる。しかし、政治領域でこれを認めることはできない。」(注04)
 実際に、NEP のもとで許容された限定的資本主義が全面的な資本主義の復活になることを阻止する努力を行ないつつ、体制は、政治的抑圧の強化をそれに伴わせた。
 モスクワが対抗する社会主義諸政党を破壊し、検閲を系統化し、秘密警察の権限を拡大し、反教会の運動を立ち上げ、国内と外国の共産主義者への統制を厳しくしたのは、1921-23年のことだった。//
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 (04) 退却の戦術的性格は、当時は広くは理解されていなかった。
 共産主義純粋主義者たちは、十月革命への裏切りだと見て憤激し、一方では、体制への反対者たちは、恐ろしい実験は終わったと安心してため息をついた。
 レーニンは、頭脳が働いた最後の二年間、繰り返してNEP を擁護しなければならず、革命はその行路上にあると強く主張した。
 しかしながら、彼の心の奥深くでは、敗北の感覚に取り憑かれていた。
 彼は、ロシアのような後進国で共産主義を建設する企ては時期尚早であって、不可欠の経済的、文化的基盤が確立されるまで延期されなければならない、と気がついていた。
 計画どおりに進んだものは、何もなかった。
 レーニンは一度、うっかり口をすべらした。「車は制御不能だ。運転してはいるが、車は操縦するようには進んでいない。だが、何か非合法なものに、何か違法なものに操縦されて、神だけが知る行方へと、向かっている。」(注05)
 経済破綻の状況の中で行動する国内の「敵」は、白軍の連結した諸軍よりも大きな危険性をもって体制に立ちはだかっていた。
 「共産主義への移行という企てをしている経済戦線では、我々は1921年春までに、Kolchak、Denikin、あるいはPilsudski が我々に与えたものよりも重大な敗北を喫した。はるかに重大で、はるかに根本的で危険な敗北だった。」(注06)
 これは、レーニンは1890年代に早くも、ロシアは十分に資本主義的で、社会主義の用意ができている、と間違って主張した、ということを認めるものだった。(注07) //
 ——
 後注。
 (02) A.L.P.Dennis, The Foreign Politics of Soviet Russia (1924), p,418. Ost-Information, No,191 (1922,01,11) から引用。
 (03) Lenin, PSS, XLIII, p.61; XLIV, p.310-1.
 (04) Odinadsatyi S"ezd RKP(b); Stenograficheskii Otchet (1961). p.137.
 (05) Lenin, PSS, XLV. p.86.
 (06) Ibid., XLIII. p.18, p.24; XLIV, p.159.
 (07) R. Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), あちこちの頁に.
 ——
 第一節、終わり

2559/O.ファイジズ・スターリンによる継承②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第8章の試訳の続き。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン②。
 第二節。
 (01) 第12回党大会は、ついに1923年4月に開催された。
 遺書は、レーニンが意図していたようには、代議員たちに読み上げられなかった。
 三人組は、そのように取り計らった。
 トロツキーは、その決定に反対しようとはしなかった。
 彼は、中央委員会での自分の力は弱いことを知っていた。//
 ----
 (02) トロツキーは、その代わりに、指導部の「警察体制」に対抗する一般党員の代弁者を任じた。
 10月8日、彼は「中央委員会への公開書簡」を書き送り、党内の民主主義の抑圧を追及し(内戦中のトロツキー自身の超中央志向性からすると偽善的主張だ)、そのことが原因でソヴィエト・ロシアでの最近の労働者のストライキや、労働者が共産党に幻滅したドイツでの革命運動の失敗、が生じていると述べた。
 1923年から1927年までに三頭制に反対した左翼反対派の基礎を成す宣言を書いたPiatakov やSmirnov を含む「グループ46」というボルシェヴィキ指導者たちに、トロツキーは支持されていた。
 だが、彼の敵たちは、彼を「分派主義」だとして追及するのに必要な証拠を得た(「分派主義」は1921年3月の分派禁止以降、最悪の犯罪だった)。
 彼らはトロツキーを「ボナパルティズム」としても責め立てた。これは、専横だというトロツキーへの評価にもとづく責任追及だった。//
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 (03) 10月の党総会で、トロツキーは、高い役職をというレーニンの申し出を何度も固辞したことを思い起こさせて、自己を防衛した。—一度は、1917年10月で(内務人民委員のとき)、もう一度は1922年(ソヴナルコム副議長のとき)。固辞した理由は、ロシアに反ユダヤ主義の問題があるので、そのような地位にユダヤ人が就くのは賢明ではない、ということだった。
 前者の場合、レーニンは彼の異議を却下したが、後者の場合は同意した。
 トロツキーは、党内での自分への反感はユダヤ人であるからだと示唆すべく、レーニンの権威を持ち出していた。
 党の前に非難されて立っているという生涯のこの重大な瞬間に、ユダヤ出自の問題を振り返らなければならないのは、トロツキーにとって、悲劇だった。—革命家としてのみならず、人間としても。
 自分はユダヤ人だと一度も感じてこなかった者にすれば、これはトロツキーがいかに孤独だったかを示していた。//
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 (04) トロツキーの感情的な訴えは、代議員たちにほとんど感銘を与えなかった。—彼らのほとんどは、スターリンによって選抜されていた。
 総会は、102対2の票決でもって、「分派主義」を理由とするトロツキー非難の動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、党からの除名を主張したが、スターリン(つねに中庸の意見の主張者として立ち現れたかった)はこれには反対し、この主張による動議は否決された。
 いずれにせよ、スターリンは急ぐ必要がなかった。
 トロツキーは、ソヴィエト同盟での大きな政治勢力の一つとして終わった。
 左翼反対派は三頭制に対する口うるさい批判者であり続けたが、いっそうスターリンの手中に入りつつある党機構を前にしては、無力だった。//
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 (05) このことは、第13回党大会の前の会議で、確認された。1924年のレーニンの死後数ヶ月後のことで、Krupskaya の要求にもとづいて、亡き夫の遺言が中央委員会その他の代議員たちに読み上げられた。
 スターリンは辞任すると申し出たが、ジノヴィエフとカーメネフはスターリンを排除すべきとのレーニンの助言を無視するよう会議を説得した。その理由は、スターリンの何らかの行為が犯罪としての罪責があろうとも重大ではなく、彼はそれ以降に償いをしてきた、というものだった。
 トロツキーは、人々を他に納得させる機会はもうないということを疑いなく意識しつつ、その会合で発言しなかった。
 レーニンの遺書を各地域の代議員別に読み上げることが決定されたが、党大会でそれに関して議論するという決定はなかった。
 実際には、遺書はレーニンが意図したスターリンを指導層から排除させるという効果を奪われていた。
 その代わりに、党大会〔2024年〕は、スターリンを指導者とする党の統一の呼びかけにもとづいた、トロツキー非難の合唱に転じていた。
 トロツキーは、抵抗することができなかった。
 敗北した人間として、党大会を去った。//
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 (06) 1925年1月に人民委員部の役職を退任したあと、トロツキーは1927年11月12日に、党を除名された。
 彼は十月の権力掌握10周年を祝う独立したデモ行進を組織した。だが、警察によって解散させられた。
 彼の支持者のほとんどもまた、1927年12月の第15回党大会での決議に従って、排除された。この党大会では、「反対派」の見解は党員であることと両立しない、と宣言された。
 このときに、ジノヴィエフとカーメネフも、党から除名された。
 二人は1925年にスターリンと不仲になり、トロツキーの左翼反対派や従前の労働者反対派の若干の指導的人物と勢力を合同して、1926年に党内の表現の自由の増大を要求する統合反対派を結成した(実際に分派の禁止へと結末した)。
 分派を構成したとして追放されたあと、二人はいずれものちに、誤りを認め、党に再加入した。
 しかし、トロツキーには戻る途はなかった。
 Kazakhstan に追放され、1929年にはソヴィエト同盟から国外追放となった。//
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 (07) スターリンはいつ、「権力に到達」したのか?
 正確に語るのは困難だ。レーニンの承継問題について、彼が残した複雑さのゆえに。
 レーニンの指導者性は、個人的な権威—ボルシェヴィキは〈彼の〉党だった—にもとづいていた。そして、その権力を是認するために、いかなる職位も彼は必要としなかった。
 彼の死後、同じ権威を誰かの指導者個人が継承することはただちに可能ではなかった。
 スターリンは、レーニン死後わずか一週間後の追悼会合でレーニンが始めた革命を完成させることを誓う演説を行なった。そのとき彼は、自分はレーニンの唯一の継承者だとする初期の主張を行なっていた。
 しかし、本当は、スターリンは集団指導制の中で行動せざるを得なかった。
 スターリンがその独裁に対する最後のくびきから自由になったのは、1930年代に入ってからだった。//
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 第三節
 (01) レーニンの死は、レーニン個人崇拝を復活させた。ボルシェヴィキ体制は、それ自体の正統性の感覚を、ますますこの個人崇拝に求めるようになっていく。
 レーニン記念碑が、至るところに建立された。
 指導者の巨大な肖像写真が、街頭に出現した。
 ペテログラードは、レニングラードと改称された。
 工場、役所、学校は、「レーニン区画」を作った。—彼の偉業を示す写真や遺品で成る聖なる場所。
 レーニンは人間として死に、神として生まれた。
 レーニン全集の第一版(〈Leninskii sbornik〉)づくりが始まった 。十月革命の聖典だ。//
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 (02) ジノヴィエフはレーニンの葬礼のとき、「レーニンは死んだ。だが、レーニン主義は生きている」と宣告した。
 「レーニン主義」という用語が、かくして初めて用いられた。
 三人組は、自分たちは「反レーニン主義者」のトロツキーに対抗する本当の防衛者だと描こうとした。
 このときから、指導部は、その政策—それが何であれ—を正当化するために「レーニン主義」を援用して、批判者を「反レーニン主義者」だと非難するようになる。
 レーニンの現実の思想は、つねに進化し、変転していた。
 その思想は、しばしば矛盾していた。
 聖書のように、彼の著作は多数の多様な事柄を支持するために用いることができた。そして、レーニンを支持する者たちはその事柄に適した部分を選抜するようになる。
 スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフ—彼らは全て「レーニン主義者」だった。
 しかし、変わらない原理が一つあるとすれば—四分の三世紀にわたるボルシェヴィキ独裁の基盤—、それは「党の統一」だった。つまり、人格を集団に融合させて、指導部の判断に服従するという全党員の「レーニン主義的義務」。
 党の方針に疑問をもつことは、それが何であれ、「反レーニン主義」と見なされるということは、この絶対的な原理にもとづいていた。//
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 (03) レーニンは、ペテログラードにある母親の墓の隣に埋葬されるのを望んでいた。
 しかしスターリンは、遺体を防腐処理させることを強く主張した。
 レーニン個人崇拝を生きたままにするためには、遺体は展示されなければならなかった。聖人の遺物のように、それは腐敗してはならないものだった。
 レーニンのアルコール漬けされた遺体は、木製の地下堂に置かれた。—のちに花崗岩の霊廟に移され、それは現在も赤の広場のクレムリンの内壁のそばに存在する。
 一般民衆に公開されたのは、1924年8月だった。//
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 (04) レーニンの脳は身体から除去され、新しく設置されたレーニン研究所に移された。
 脳は3万の断片に薄切りにされ、観察できる状態にすべくガラス板の間に保たれた。将来の世代の科学者たちが、それを研究して、「彼の天才性の実体」を発見するだろう。//
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 (05) かりにレーニンがあと数年生きていれば。どうなっていただろうか?
 スターリンは権力を握っていただろうか?
 革命は実際と同じ途を歩んでいただろうか?//
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 (06) スターリン主義体制の根本的要素—一党国家、テロルのシステム、指導者崇拝—は、1924年にはすでにあった。
 党機構は、すでに大部分は、スターリンの手中の忠実な道具だった。
 レーニンは、この全てが生じるのを許容していた。
 政治改革をしようとの彼の遅れた努力は。ボルシェヴィキ独裁制の本性や、内戦で確固たるものになっていた一般党員の政治的姿勢を、いずれも変えるまでには至らなかった。//
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 (07) しかし、レーニンの体制とスターリンのそれの間には。大きな違いがあった。
 レーニンのもとでの初期には、〔党内では〕わずかの者しか殺されなかった。
 彼による分派禁止にもかかわらず、レーニンが生きている間は、党には、激しいが同志的な議論を行なえる余地がまだあった。—そして1930年代初頭までは、諸政策に反対し続けていたことだろう。
 1930年代初頭になってスターリンは、反対する者を殺害するという効果を伴う厳格な党の方針を課した。
 レーニンは、革命への反抗者を殺害するのに何の躊躇も持たなかった。だが、党内の同志については、彼らの政治的見解を理由として収監したり殺害したりはしなかった。//
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 (08) レーニンがスターリンと異なるのは、とりわけ、農民層に関する政策だった。
 レーニンならば、スターリンが指導者となったときのような暴力的方法で農業の集団化を実施するのを、許さなかっただろう。
 NEP でのレーニンの革命の見通しは、より農民に友好的で、より多元主義的で、より寛容だった。1928-29年にNEP を覆したときにスターリンが約束した「大分岐」と、長い期間で見れば、同様にユートピア的だったとしても。
 さて、最後に、レーニンと革命の運命に関する問題は、NEP の成り行きにかかっている。そして、つぎの章で扱うのは、この問題だ。//
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 第8章、終わり。

2558/O.ファイジズ・スターリンによる継承①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著の邦訳書は、ない。
 そのうち、第8章の試訳。
 第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第8章/レーニン・トロツキー・スターリン①。
 第一節。
 (01) レーニンの病いの最初の兆候は、頭痛と疲労を訴えた1921年に現れた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだとどまっていたFanny の銃弾の毒素に原因があると診断した。
 だが、その他の医師たちは、より病理学的な問題を疑った。
 その懸念の正しさは、1922年5月25日にレーニンが大きな発作を起こし。右半身を事実上麻痺し、発話能力を失ったときに、確認された。//
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 (02) その夏のあいだ、Gorki の田舎の家で回復しているときにレーニンの頭を占めていたのは、彼の後継者の問題だった。
 彼は自分を継承する集団指導制を明らかに望んでいた。
 彼がとくに心配したのは、内戦中に大きくなったトロツキーとスターリンの個人的対立だった。//
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 (03) 二人ともに当然に指導者となる資質はもっていたが、レーニンを継承する権利はなかった。
 トロツキーは華麗な演説者で、優秀な管理者だった。
 赤軍の最高指導者として、他の誰よりも、内戦で活躍した。
 しかし、—メンシェヴィキだった過去やユダヤ人的な知的な風貌は言うまでもなく—トロツキーの自尊心と傲慢さのために、党内では人気がなかった。
 トロツキーは、自然な「同志」ではなかった。
 彼は、集団的指導制の場合の大佐ではなく、自分の軍隊の将軍でありたかっただろう。
 彼は、党員の隊列からすれば、「外部者」だった。
 政治局の一員ではあったが、党のより下位の職に就いたことがなかった。//
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 (04) スターリンは対照的に、最初は集団指導制をより巧く運営する能力があるように見えた。
 彼は内戦中に多数の職責を担った。—民族問題人民委員、Rabkin(労働者・農民の調査)人民委員、政治局と組織局の一員、そして書記局の長。その結果、穏健で勤勉な中庸の人物だという声価を得ていた。
 スターリンは、短身で、素振りは粗くて、あばたのある顔とジョージア訛りの発音で、党内のより国際人的で知的な指導者たちの中では劣っている、と感じさせていた。いずれは、彼らに復讐することになるが。
 秘密主義的で執念深い人物で、仲間からのごく僅かな事柄も、彼は許さず、かつ忘れなかった。—コーカサスの半分犯罪的な地下の革命家世界で身につけたごろつき的習癖。
 彼は、1917年での自分の役割を小さくした者に対してとくに憤慨していた。誰よりも、知識人世界に入らないと自分を見ていたトロツキーに対して。
 トロツキーは〈わが生涯〉(1930年)で、1924年のレーニンの死の当時のスターリンについて、こう書いた。
 「彼は、実際性、強い意思、狙いを実行する執着性で優れていた。
 政治的地平は限定されていて、理論的な知識は貧弱だった。…。
 考え方はひどく経験主義的で、創造的な想像力に欠けていた。
 党集団の指導者としては(党外の広くには全く知られていなかった)、二番目か三番目の仕事をする宿命にある男だ。」(注01)
 党指導者たちの全てが、スターリンの権力の淵源は彼が就いた職から積み重ねた支持にある、という同じ過ちを冒した。—これは、1930年代のテロルで排除された者たちの、致命的な間違いだった。
 レーニンにも、その他の者たちと同様の罪責はあった。
 スターリンが強く迫ったために、レーニンはそれに応じて、1922年4月に党の初代の総書記に任命した。
 これは、革命史上の最悪の誤りだったと論じられ得る。//
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 (05) スターリンの力は、地方の党諸機関の統制から大きくなった。
 書記局の長として、また組織局にいる唯一の政治局員として、彼は自分の支持者を昇進させ、反対者の経歴を妨害することができた。
 1922年の一年だけで、1万人以上の地方党官僚が、組織局と書記局によって任命された。
 彼らは、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンとの党指導者をめぐる闘いで、スターリンの主要な支持者になることになった。
 スターリンと同様に、彼らはきわめて低い層の出身だった。
 彼らは、トロツキーやブハーリンのような知識人に疑問をもち、スターリンの実際的な知恵への信頼の方を選んだ。革命のイデオロギーの問題が生じたときには、スターリンによる統一と紀律の分かりやすい呼びかけの方を好んだ。//
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 (06) レーニンの不在中は、政府は三頭制(スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフ)で運営された。これは、反トロツキー連合として出現したものだった。
 三人は党の会議の前に会合し、戦略を調整し、どう投票すべきかについて支持者たちに指示した。
 カーメネフはスターリンを好んだ。二人は、1917年以前は一緒にシベリアで流刑にあっていた。
 ジノヴィエフは、それほどはスターリンを気にかけなかった。
 しかし、ジノヴィエフのトロツキー嫌いは全面的なものだったので、敵のトロツキーが敗北するのに役立つかぎり、悪魔の側にすら立っただろう。
 二人は、党指導者を目指す自分たちの要求でトロツキーに勝利するためにスターリンを利用していると考えていた。二人は、トロツキーがより重大な脅威だと思っていた。//
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 (07) レーニンは〔1922年〕9月までに回復し、仕事に復帰した。
 彼は三頭制を疑うようになった。それは、自分の背後にいる支配派閥のように動いていた。それで、トロツキーに、「反官僚制ブロック」(「官僚制」とはつまりはスターリンとその権力基盤)の自分に加わるように求めた。
 しかし、そのとき、12月15日に、レーニンは二度めの発作を起こした。
 スターリンは、総書記としての彼の権力を用いて、レーニンの医師について担当するとともに、レーニンを訪問できる者を制限した。
 車椅子に閉じ込められ、「一日に5分から10分まで」の口述筆記だけが許されて、レーニンは、スターリンの囚人になった。
 彼の二人の主要な秘書たち、Nadezhda Allilueva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンが語ったこと全てをスターリンに報告した。//
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 (08) 12月23日から1月4日まで、レーニンは、近づく第12回党大会用の、一連の断片的な覚書を口述した。これは、彼の遺書として知られるようになる。
 レーニンは秘書たちに秘密にするよう命じたが、彼女たちはスターリンに明らかにした。
 この口述筆記のあいだ、革命の進展方向について、深刻な関心と不安があった。
 レーニンは三つの問題を気にかけていた。—そしてそれらのどれについても、スターリンが主要な問題だったように見えた。//
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 (09) 第一は、民族問題とどのような同盟条約が署名されるべきか、だった。
 中心にあった問題は、ボルシェヴィキとジョージアとの関係だった。
 スターリンは、そのジョージア出自にもかかわらず、民族少数派に対する熱狂的なロシア愛国主義者として内戦中にレーニンが批判したボルシェヴィキの先頭にいた。
 赤軍がウクライナ、中央アジアおよびコーカサスの旧ロシア帝国の国境地帯を再征服すると、民族問題人民委員としてのスターリンは、非ロシア人共和国は自治領として、事実上は同盟を脱退する権利を剥奪されて、ロシアに加わるよう提案した。
 レーニンは、これら地域は主権ある共和国としてこの権利を持つべきだと考えた。どうであっても、これらはソヴィエト連邦の一部であることを望むだろうと考えたからだった。
 彼が見ていたように、革命は全ての民族的利益に打ち勝った。//
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 (10) スターリンの提案は苦々しくも、ジョージアのボルシェヴィキに反対された。彼らの権力基盤はジョージアのモスクワからの自治の手段を獲得することに依存していた。
 ジョージア共産党の全中央委員会は、スターリンの政策に異論を唱えるのを断念した。
 レーニンが、介入した。
 彼は、ある論議でモスクワのコーカサス局の長でスターリンの側近のSergo Ordzhonikidze がジョージア・ボルシェヴィキを打ち負かしたと知って、激しく怒った。
 レーニンは、スターリンとジョージア問題を異なる観点から見るようになった。
 大会用の彼の覚書でレーニンは、スターリンを、少数民族を威嚇して従属させることだけができる「悪漢で暴君」だと称した。必要なのは「深い注意、繊細さ」、彼らの合法的な民族的諸要求との「妥協の用意」なのだ。とくに、ソヴィエト同盟は新しい帝国になるべきではなく、植民地世界での被抑圧民族の友人と解放者のふりをすべきである場合には。(注02)//
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 (11) レーニンは病気であるために、スターリンは自分の途を進んだ。
 ソヴィエト同盟の創設条約は基本的に中央志向で、各共和国に「民族性」(nationhood)の文化形態を許容するのは、モスクワにいるソヴィエト同盟(CPSU)の共産党が設定した政治的枠組の範囲内でのみだった。
 政治局は、「民族的逸脱者」としてジョージア・ボルシェヴィキを排除(purge)した。このレッテルをスターリンは、のちの時代に非ロシア人地域の多数の指導者たちに対して用いることになる。//
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 (12) 遺言でのレーニンの第二の関心は、党の指導機関を説明責任をより果たすものにすることだった。
 彼は、党の下級機関から50-100名の新人を加えることで中央委員会を「民主化」すること、中央委員会による検査のために政治局を公開することを提案した。
 こうした党幹部と一般党員との間の増大している空壁を埋めようとする努力がボルシェヴィキ独裁の根本問題—官僚主義と代表しているとする労働者大衆からの疎遠化—を解消しただろうかは、疑わしい。
 レーニン自身が遺言で書いたように、現実にあった問題は、革命が後進的農民国家で起き、必要な「文明化の要件」を欠いている、ということだった。大衆の自分たち自身による管理にもとづく本当の社会主義政府を樹立するために必要な要件を。(これは、メンシェヴィキが正しかったかもしれないと認めるに至る地点に接近していた。)
 さらに、ボルシェヴィキは、内戦中の暴力的習癖を捨て去り、「国家という機械」の複雑な機構を通じてより効率的に統治する仕方を学ぶ必要があった。//
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 (13) レーニンの遺書の最後の論点—そして最も爆発的だったもの—は、承継の問題だった。
 レーニンは、集団指導制への自らの選好を強調するかのように、主要な党指導者たちの欠陥を指摘した。
 カーメネフとジノヴィエフは、1917年10月の二人のレーニンに対する態度によって、批判された。
 ブハーリンは「全党の中のお気に入りだったが、彼の理論的見解は留保つきでのみマルクス主義と言い得るものだった」。
 トロツキーは「中央委員会の中でおそらく最も有能な人物」だが、「過剰な自信を誇示して」いた。
 だがなおも、レーニンが最も痛烈な批判を残していたのは、スターリンに対してだった。
 「スターリンは、粗暴すぎる。この欠点は、共産党員の間での行いでは全く耐え得るものだけれども、総書記としては耐え難いものになる。
 私は、この理由で、同志諸君はスターリンをその地位から排除して、包容力、忠誠心、丁重さ、同志たちへの配慮心がもっとあり、もっと気紛れではない等、の別の誰かと交替させる方策を考えるよう提案する。」(注03)
 レーニンは、スターリンは去らなければならないことを。明瞭に述べていた。//
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 (14) レーニンの決意は、3月5日に強まった。その日、12月の彼には秘密にされていた事件について、知ったからだ。
 スターリンは〔レーニンの妻の〕Krupskaya を「粗々しく罵り」、レーニンからトロツキーへの三頭制に関する論議での勝利を祝福する口述筆記の手紙を受け取ったことで、党規約違反として尋問すると脅かしすらしていた。
 レーニンはこの事件を知って、荒れた。
 彼はスターリンあての手紙を口述筆記させ、スターリンの「粗暴さ」について謝罪を要求し、関係を断つと威嚇した。
 権力を握って完全に傲慢になっていたスターリンは。返書で死にゆくレーニンへの侮蔑心をほとんど隠そうともせず、Krupskaya は「あなたの妻であるのみならず、私の古くからの党同志だ」ということをレーニンに思い起こさせた。(注04)//
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 (15) レーニンの状態は、一夜で悪化した。
 三日後、彼は三回めの発作を起こした。
 言語能力が失われた。
 10ヶ月後に死亡するまで、単語をいくつか発することができただけだった。「ここ・ここ(〈vot-vot〉)」と「大会・大会(〈s'ezd-s'ezd〉)。//
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 第8章第一節、終わり。

2555/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第7章の試訳のつづき(で最終回)。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した
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 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成②。
 第五節。
 (01) 奇妙に感じられるかもしれないが、レーニンがソヴィエト・ロシアで広く知られるようになったのは、ようやく1918年の9月だった。—そして、そのときに彼があやうく死亡しかかったからだった。
 レーニンは、ソヴィエト権力の最初の10ヶ月の間、ほとんど公衆の前に出なかった。
 彼の妻のNadezhda Krupskaya は、「誰も、レーニンの顔すら知らなかった」と回想した。(注6) 
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 (02) このボルシェヴィキ指導者がFanny Kaplan というテロリストの暗殺者が放った二発の銃弾で傷ついた8月30日、全てが変わった。撃たれたのは、レーニンがモスクワのある工場を訪問していたときだった。
 ソヴィエトのプレスで、彼の回復は奇跡だと大きく喧伝された。
 レーニンは、超自然的な力で守られた、人々の幸福のために自分の生命を犠牲にすることを怖れない、キリストのごとき人物として喝采を浴びた。
 レーニンの肖像が、街頭に現れ始めた。
 彼は〈ウラジミール・イリイチのクレムリン散歩〉というドキュメント・フィルムで初めて広く観られた。これは、同年の秋のことで、殺されたという大きくなっていた風聞を打ち消した。
 これが、レーニン個人崇拝の始まりだった。—レーニンの意思の反して、自分たちの指導者を「人民のツァーリ」として持ち上げたいボルシェヴィキが考案した個人崇拝。//
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 (03) かくして、赤色テロルも、始まった。
 Kaplan は一貫して否認したが、エスエルと資本主義諸国家のために働いていたとして訴追された。
 彼女は、ソヴィエトはよく連係した国際的な外部の敵に包囲されている、という体制の偏執狂的理論の、生きている証拠だった。—この理論は、白軍や反革命的蜂起への連合諸国の支援によって明証された。また、ソヴィエトが生き残るには継続的な内戦を闘わなければならない、という理論の。
 同じ論理は、スターリン時代の全体を通じるソヴィエトのテロルを正当化することになる。//
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 (04) プレスは、レーニンの生命を狙った企てに対する大衆的報復を訴えた。
 数千人の「ブルジョアの人質」が逮捕された。
 チェカの牢獄を見れば、膨大な数の異なった人々が拘禁されていることが明らかになっただろう。—政治家、商人、貿易業者、公務員、聖職者、教授、売春婦、反対派労働者、そして農民。要するに、社会の縮図だった。
 人々は、「ブルジョアの挑発」(狙撃または犯罪)の現場の近くにいたという理由だけで逮捕された。
 ある老人は、チェカの一斉捜索の際に法廷服姿の男の写真を身に付けているのを発見されたという理由で、逮捕された。それは、1870年代に撮られた、死亡している親戚の写真だった。//
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 (05) チェカの拷問方法の巧妙さは、スペイン的尋問に匹敵していた。
 地方のチェカにはいずれにも、得意分野があった。
 Kharkov では、「手袋だまし」を使うまでに至った。—被害者の手を水泡ができた皮膚が剥げ落ちるまで沸騰している湯に入れた。
 Kiev では、被害者の胴体をネズミ籠に固定し、ネズミ類が逃げようとする被害者の身体を噛み尽くすように、胴体を温めた。//
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 (06) 赤色テロルは、社会の全領域からの抗議を呼び起こした。
 党内部にも、その過剰さについて、批判があった。
 しかし、指導部内の「強硬派」(レーニン、スターリン、トロツキー)は、チェカを支持した。
 レーニンは、内戦でのテロル行使に怖気付く者たちには耐えられなかった。
 彼は、1917年10月26日にカーメネフが提案した死刑廃止の決議を第二回ソヴェト大会が採択した際の意見聴取で、「きみたちは、狙撃隊なくしてどうやって革命をすることができるのか?」と尋ねた。
 「自分たちが武装解除すれば、きみたちの敵もそうするとでも期待しているのか?
 他に鎮圧するどんな手段があるのか?
 監獄か?
 内戦中にそれはいかほどの意味があるのか?」(注7)//
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 (07) 〈テロリズムと共産主義〉—スターリンが詳細に研究した書物—で、トロツキーは、テロルは階級闘争で勝利を獲得するためには不可欠だと主張した。
 「赤色テロルは、破壊される宿命にあるが死滅するのを望まない階級に対して用いられる武器だ。
 白色テロルがプロレタリアートの歴史的勃興を妨害することができるなら、赤色テロルは、ブルジョアジーの破滅を早める。
 この促進は—たんなる速度の問題だが—、一定の時期には、決定的な重要性をもつ。
 赤色テロルなくして、ロシアのブルジョアジーは、世界のブルジョアジーとともに、ヨーロッパで革命が起きるはるか前に、我々を窒息させるだろう。
 このことに盲目になってはならない。あるいは、これを否定する詐欺師になってはならない。
 ソヴィエト・システムが存在するというまさにそのことの革命的で歴史的な重要性を認識する者は、赤色テロルもまた容認しなければならない。」(注8)//
 ----
 (08) テロルは、最初から、ボルシェヴィキ体制の統合的要素だった。
 この数年間のその犠牲者の数は、誰にも分からないだろう。しかし、赤軍による農民とコサックの大量殺戮の犠牲者数を計算するとするなら、内戦による戦闘で死んだ者たちの数と同程度だった可能性がある。—100万を超える数字。//
 ——
 第六節。
 (01) チェコ軍団は、Samara で捕われたあとで崩壊した。
 1918年11月に第一次大戦が終わったあとでは、戦闘を継続する理由がなかった。
 赤軍に抵抗する有効な兵力がなくしては、Komuch (立憲会議議員委員会)がVolga 地域を掌握しきれなくなる前の、時間の問題にすぎなかった。
 エスエルは、Omsk へ逃げ去った。そこでの彼らの短期間の指令政府は、シベリア軍の右翼主義将校たちによって打倒された。シベリア軍将校たちは、反ボルシェヴィキ運動の最高指導者になるようKolchak 提督を招いた。
 Kolchak はイギリス、フランス、アメリカ各軍の支援を受けていた。これら諸国は、ボルシェヴィキを権力から排除するために政治的な理由でとどまっていた。大戦が今では終わって、連合諸国がロシアに干渉する軍事的理由はもうなかったけれども。//
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 (02) 10万人を擁するKolchak の白軍は、Volga 地域へと進んだ。そこでは、ボルシェヴィキが、1919年春に彼らの戦列の背後で起きた大規模の農民蜂起に対処するために戦っていた。
 赤軍は死にもの狂いの反抗をして、6月半ばまでにKolchak 軍をUfa へと退却させた。そのあと、Ural とそれ以上の諸都市は、白軍が結束を失い、シベリアを通って退却したときにすみやかに引き続いて、赤軍が奪い取った。
 Kolchak はついにIrkutsk で捕えられて、1920年2月にボルシェヴィキによって処刑された。// 
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 (03) Kolchak の攻撃が大きくなっていたあいだ、Denikin の勢力はDonbas 炭鉱地域と南西ウクライナに突入した。この地方では、コサック軍が赤軍によるコサック撃退の大量テロル運動(「非コサック化」)に対する反乱を起こしていた。
 イギリスとフランスの軍事支援を受け、今や明確な政治的理由で反ボルシェヴィキ活動をしていた白軍は、簡単にウクライナに入った。
 赤軍は供給の危機に苦しんでいて、3月と10月の間に南部前線で100万人以上の脱走兵を失った。
 後方は農民蜂起に襲われていた。その当時赤軍は、馬や必需品を徴発し、増援のための徴兵を求め、脱走兵を匿っていると疑った村落を弾圧した。
 ウクライナの南東角では、赤軍はNestor Makhno の農民パルチザンたちに大きく依存していた。彼らはアナキストの黒旗のもとで闘ったが、補給がよく、紀律もある白軍とは比べものにならなかった。//
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 (04) 7月3日、Denikin はそのモスクワ指令(Moscow Directive)、ソヴィエトの首都を総攻撃せよとの命令、を発した。
 これはイチかバチかの賭けだった。赤軍の一時的な弱さを利用しての白軍騎兵隊の速度を考慮していたが、訓練を受けた予備兵、健全な指揮管理と補給戦で守備されていない後方の白軍を残す危険もあった。//
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 (05) 10月14日、白軍は北へと前進し、モスクワからわずか250マイルのOrel を奪取した。
 しかし、Denikin 兵団は大きく伸びすぎていた。
 Makhno のアナキスト・パルチザンやウクライナ民族主義者たちから基盤を防衛するに十分な兵団を後方に残さないままで、出発していた。そして、モスクワ攻撃の真っ最中に、これらと交渉するために撤兵することを余儀なくされた。
 通常の補給がなかったので、Denikin 兵団は分解して農場を略奪した。
 しかし、白軍の主要な問題は、農民たちの恐怖だった。彼らは、白軍は土地所有者たちの報復軍ではないかと思った。
 白軍の勝利は、土地に関する革命を元に戻してしまうのではないか。 
 Denikin の将校たちは、ほとんどが大地主の子息だった。
 白軍は、土地問題について、大地主たちの余った土地は将来には農民層に売却されるというカデット(Kadet)の政策綱領以上に進むつもりはないと明言していた。
 この考え方によると、農民たちは、革命で大地主から奪った土地の四分の三を返却しなければならないことになる。//
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 (06) 白軍がモスクワに向かって進軍したとき、農民たちは赤軍の背後に集まった。
 6月と9月の間に、Orel とモスクワの二つの軍事地域だけから、25万人の脱走兵が赤軍に復帰した。
 これらの地域では、地方農民が1917年に相当に広い土地を獲得していた。
 農民たちの多くがどれほど暴力的な徴発や派遣官僚たちを嫌悪していたとしても、土地に関する革命を守るために白軍に対抗する赤軍の側に付いただろう。//
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 (07) 赤軍は20万の兵団でもって、半分の数の白軍が南へと撤退するよう強いた。白軍は紀律を失った。
 Denikin 軍の残余は、黒海沿岸の連合国の主要な港のあるNovorossisk で敗北した。そのうち5万の兵団は、1920年3月にクリミア地域へと急いで避難した。
 連合国の船舶に争って乗ろうとする、兵士や民間人の絶望的な光景が見られた。
 兵士たちが優先されたが、全員が救われたのでは全くなく、6万人の兵士がボルシェヴィキの手中に残された(ほとんどがのちに射殺されるか、強制収容所に送られた)。
 Denikin 批評者にとって、避難の不手際が決定的だった。
 将軍の謀反はモスクワ指令の批判者だった男爵Wrangel への地位継承を余儀なくした。Wrangel は、1920年にクリミアで、ボルシェヴィキに抵抗する最後の一戦を行った。
 しかし、これは白軍の不可避の敗北を数ヶ月だけ遅らせたにすぎなかった。//
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 (08) 白軍の失敗の原因は何だったのか?
 Constantinople、パリ、ベルリンにあった白軍側のエミグレ共同社会は、長年にわたってこの疑問に苦悶することになる。
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 (09) 彼らの信条に同調する歴史家たちはしばしば、彼らには勝ち目がなかった「客観的」要因を強調した。
 赤軍は、数のうえで圧倒的に優勢だった。
 彼らは、錚々たる諸都市と国の工業のほとんどがある中央ロシアの広大な地勢を統御した。直接の燃料でなくとも、ある前線から別のそれへと移動することができる鉄道網の中核部分も支配した。
 これとは対照的に、白軍はいくつかの異なる前線に分かれ、作戦を協同して展開するのが困難だった。また、補給の多くを連合諸国に頼らなければならなかった。
 こうした要因があった。
 しかし、彼らの敗北の根源にあったのは、政策の失敗だった。
 白軍は、大衆の支持を獲得することのできる政策を立案することができず、またその意欲ももたなかった。
 ボルシェヴィキと比べて、彼らにはプロパガンダがなく、赤旗や赤い星に対抗できる自分たちのシンボルもなかった。
 彼らは、政治的に分裂していた。
 右翼君主制主義者と社会主義的共和主義者を含む何らかの運動が政治的合意に達する論点があっただろう。
 しかし、実際には、白軍が政策について合意するのは不可能だった。
 合意を形成しようとすらしなかった。
 彼らのただ一つの考えは、1917年10月以前に時計を巻き戻すということだった。
 彼らは、新しい革命的状況に適合することができなかった。
 民族独立運動を受け入れるのを彼らが拒んだことは、悲惨だった。
 そのことは潜在的にきわめて貴重だったポーランド人やウクライナ人の支持を失わせ、コサックとの関係を複雑にした。コサックたちは、白軍指導者が準備していた以上のロシアからの自立を欲していた。
 しかし、こうした彼らの無為無策の主要な原因は、土地に関する農民革命を受容することができなかったことにあった。//
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 第七節。
 (01) 農民たちは、革命が脅かされるかぎりでのみ、白軍に対抗する赤軍を支持した。
 白軍が敗北するや、農民たちは反ボルシェヴィキに変わった。ボルシェヴィキの食料徴発によって、農村的ロシアの多くの地方は飢餓の淵に立っていた。
 1920年秋までに、国土全体が農民との戦争で燃えさかった。
 怒った農民たちは、武器を手に取り、ボルシェヴィキを村落から追い出そうとした。
 彼らは徴発部隊と戦う組織を結成していた。そして、田園地帯にあるソヴィエトの基盤施設を破壊するために、ウクライナのMakhno 軍やTambov 中央ロシア地方のAntonov の反乱部隊のような、より大きい農民軍に加入した。
 どこであっても、彼らの意図は、基本的には同一だった。すなわち、1917-18年の農民による自治支配を復活させること。
 ある者たちは、これを混乱したスローガンで表現した。「共産主義者のいないソヴェトを!」、あるいは「ボルシェヴィキ万歳!、共産主義者に死を!」。
 多くの農民が、ボルシェヴィキと共産党は二つの別の政党だと錯覚していた。
 1918年3月の党名の変更は、遠く離れた村落にはまだ伝えられていなかった。
 農民たちは、「ボルシェヴィキ」は平和と土地をもたらし、「共産党」は内戦と穀物の徴発を持ち込んだ、と考えていた。//
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 (02) 1921年までに、ボルシェヴィキ権力は、田園地帯の多くで存在するのを止めた。
 都市部への穀物の輸送は、反乱地域の内部では停止した。
 都市部での食料危機が深化したとき、労働者たちはストライキへと向かった。//
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 (03) 1921年2月にロシアじゅうに押し寄せたストライキは、農民蜂起と同じく革命的だった。 
 ストライキ実行者は制裁を予期し得たので(即時解雇、逮捕と収監、そして処刑すら)、行動に移すのは必死の絶望的行為だった。
 初期のストライキは体制側との取引の手段だったが、1921年のそれは、体制を打倒する企てだった。//
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 (04) 労働者たちは、労働組合を党-国家に従属させるボルシェヴィキの試みに激怒した。
 トロツキーは、輸送人民委員として、鉄道労働組合(十月蜂起に反対だった)を解体させて、国家に服従する一般輸送組合に置き換えようと計画した。
 この計画は労働者のみならず、ボルシェヴィキの労働組合主義者をも憤激させた。組合主義者たちは、これを、全ての自立的労働組合の権利を廃絶しようとする広範な運動の一部だと捉えた。
 1920年に、党内に労働者反対派(Workers' Opposition)が出現していた。これは、経営についての労働組合の諸権利を守り、中央から指名された工場管理者、官僚たち、「ブルジョア専門家」の力の増大に抵抗しようとした。これらの者たちは、「新しい支配階級」だとして労働者たちの怒りの対象となっていた。//
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 (05) モスクワは、反乱が起きた最初の工業都市だった。
 労働者たちは、ストライキへと進んだ。
 彼らが訴えたのは、共産党員の特権の廃止と自由な取引、市民的自由(civil liberties)およぼ立憲会議(憲法制定議会)の復活だった。
 ストライキはペテログラードへと広がり、ここでも同様の要求が掲げられた。
 〔2021年〕2月27日の革命四周年記念日、ペテログラードの街頭につぎの宣言文が出現した。
 新しい革命を呼びかけるものだった。
 「労働者と農民は自由(freedom)を必要とする。
 彼らは、ボルシェヴィキの布令によって生きたいとは思っていない。
 自分たちの運命を統御したいと望んでいる。//
 我々は、逮捕された社会主義者と非党員労働者たちの解放を要求する。
 戒厳令の廃止、全ての労働者の言論、プレス、集会の自由、工場委員会、労働組合、およびソヴェトの自由な選挙を要求する。//
 集会を呼びかけ、決議を採択し、当局に代表団を派遣し、きみたちの要求を実現しよう。」(注9)//
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 (06) 反乱はその日に、Kronstadt 海軍基地へと広がった。
 1917年、トロツキーはKronstadt の海兵たちを、「ロシア革命の誇りと栄誉」と呼んだ。
 彼らは、ボルシェヴィキに権力を付与するに際して不可欠の役割を果たした。
 しかし今では、ボルシェヴィキ独裁の廃止を要求していた。
 彼らは、共産党員のいない新しいKronstadt ソヴェトを選出した。
 言論と集会の自由、「全ての労働人民への平等な配給」を要求し、海兵たちの多くの出身である農民層への残虐な措置の廃止を求めた。
 トロツキーは、反逆鎮圧の指揮権を握った。
 3月7日、海軍基地への砲撃でもって、攻撃が始まった。//
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 (07) この危機的状況の中で、3月8日にモスクワで、第10回党大会が開かれた。
 レーニンは、労働者反対派の打倒を決意して、この派を非難する票決を獲得するとともに、分派を禁止する秘密決議をそのときに採択させた(共産党の歴史の中で最も致命的に重大なものの一つ)。
 これ以来、党が国家を支配したのと同じく独裁的に、中央委員会が党を支配することになる。
 分派主義だという非難を受けるのを怖れて、誰一人、この決定に反対しなかった。
 スターリンの権力への上昇は、この分派禁止の所産だった。//
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 (08) 同じく重要なのは、この大会の第二の目印である、食料徴発を現物税に換えることだった。
 これは戦時共産主義の中心的な拠り所を放棄し、農民たちが現物税を納入すれば余剰の食糧品を販売するのを許すことで新しい経済政策(NEP)の基礎となった。
 レーニンは、代議員たちがNEP は資本主義の復活だと非難するのを懸念して、農民蜂起を鎮圧するために(彼は、「Dinikin 軍とKolchak 軍の全てを合わせたよりはるかに危険だ、と言った)(注10)、そして農民層との新たな同盟関係を築くために必要だ、と強く主張した。//
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 (09) ボルシェヴィキは同時に、民衆の反乱の鎮圧にも力を注いだ。
 3月10日、300人の党指導者たちがKronstadt の前線へ行くために大会を離れた。
 空からの砲弾攻撃のあとで、5万人の精鋭部隊が氷上を横断して海軍基地に突撃した。
 これで、1万人の生命が失われた。
 つづく数週間で、2500人のKronstadt の海兵たちが裁判手続なしで射殺された。別の数百人は、レーニンの命令にもとづいて、白海の島にある従前の修道院、ソヴィエト最初の巨大な収容所に送られた。その収容所では多数の者が、飢え、病気、体力消耗によってゆるやかに死んだ。
 指導者の逮捕と自由取引の復活のあとで、ストライキはペテルブルクとモスクワで勢いを失った。
 しかし、現物税を導入したにもかかわらず、農民叛乱は強くて鎮圧できなかった。
 食料徴発が飢饉の危機をもたらしていたVolga 地域では、農民たちは、今では生きるために、いっそうの決意をもって戦った。
 容赦なきテロルが、Tambov その他の地方の反乱地帯で用いられた。
 村落は、焼かれた。
 抵抗が抑えられるまでに、数万人の人質が取られ、数千人以上が射殺された。
 「国内の前線」で、ボルシェヴィキは内戦に勝った。
 だが今や、統治する仕方を知る必要があった。//
 ——
 第八節。
 (01) 内戦はボルシェヴィキにとって、成長期の経験だった。
 成功のモデル、「いかなる要塞も突破することができた」、革命の「英雄的時代」になった。
 一世代にわたる政治的習癖が形成された。—軍事的成功の新しい例が取って代わった1941年までは。
 スターリンが「ボルシェヴィキ的方法」または「ボルシェヴィキ的速さ」で物事を行うことについて語るとき—例えば五ヶ年計画について—、彼が念頭に置いたのは内戦での党の方法だった。
 ボルシェヴィキは内戦から、恒常的な「闘争」、「運動」、「戦線」とともに犠牲的行為の崇拝、統治の軍事的スタイルを継承した。
 革命の敵と永続的に闘争する必要性に、彼らは固執した。外国にであれ国内にであれ、至るとこるにいる敵たちとの戦いに。
 農民たちへの不信も引き継いだ。また、労働力の軍事化を伴う計画経済の原型と新しい社会の作り手だという国家についての夢想家的見通し(utopian vision)も。
 ——
 第7章、終わり。

2554/O.ファイジズ・内戦と戦時共産主義①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 この著のうち、第7章の試訳。
 第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
 ——
 第7章・内戦とソヴィエト・システムの形成①。
 第一節。
 (01) ブレスト=リトフスク条約によって、Czech とSlovak の兵士たちの大勢力—戦争捕虜とAustro-Hungary 軍からの脱走者—は、ソヴィエト領域内に取り残された。
 ナショナリストたちは自分たちの国のAustro-Hungary 帝国からの独立のために戦うと決心したので、戦争でロシア側に付いた。
 しかし、今ではフランスで戦っているチェコ軍の一部として戦闘を継続したかった。
 彼らは、敵の戦線を横切る危険を冒すのではなく、東方へと進み、世界をまさに一周して、Vladivostok とアメリカ合衆国を経てヨーロッパに着こうとした。
 〔1918年〕3月26日、ソヴィエト当局とPenza で合意に達した。それによれば、チェコ軍団の3万5000人の兵士は、自衛のための明記された数の武器をもつ「自由な市民」としてシベリア横断鉄道で旅をすることが認められた。//
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 (02) 5月半ばまでに、ウラルのCheliabinsk にまで到達し、そこで、地方ソヴィエトやその赤衛隊との戦闘に巻き込まれた。後者は彼らの銃砲を没収しようとした。
 軍団は、自由ソヴィエト・シベリアを通過して進もうと決め、グループに分かれ、軍備も紀律も乏しい赤衛隊から次から次へと町々を奪取した。赤衛隊は、よく組織されたチェコ軍団を見るやパニックに陥ってただちに逃げ去った。
 6月8日、チェコ軍団の8000人がヴォルガのSamara を奪った。そこは右翼エスエル(the Right SRs)の要塞地で、指導していたのは立憲会議〔憲法制定議会〕の閉鎖の後に当地へと逃亡した者で、Komuch(立憲会議議員委員会)という政府を形成していた。その政府で、チェコ軍団は力を握った。
 右翼エスエルは、フランスとイギリスがボルシェヴィキを打倒してドイツとオーストリアに対する戦争に再び戻るのを助けるつもりだ、と約束した。
 こうして、内戦—赤軍と白軍の間の軍事隊列で組織されていた—は、新しい段階に入った。それには最終的には、14の連合諸国が関わることになる。//
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 (03) 南ロシアのドン河地方で、すでに戦闘は始まっていた。その地方で、Bykhov 修道院を脱出していたコルニロフ(Kornilov〉と彼の白軍は、4000人の義勇軍を設立した。ほとんどは将校たちで、2月に氷結した平原を南へKuban 地方へ退却する前に、赤軍からRostov を短期間で奪った。
 コルニロフは4月13日に、Ekaterinodar 攻撃の際に殺された。
 将軍Denikin が指揮権を受け継ぎ、白軍を再びドン地方に向かわせた。そこではコサック農民たちがボルシェヴィキに対して反乱を起こしていた。ボルシェヴィキは銃で脅かして食料を奪い取り、コサック居住地で大暴れしていた。
 6月までに、4万人のコサック兵が将軍Krasnov のドン軍に合流した。
 その軍は、白軍とともに、北のヴォルガ地方を睨む強い位置にあり、モスクワを攻めるべくチェコ軍団と連係した。//
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 第二節。
 (01) 内戦の物語はしばしば、白軍と連合諸国のロシアへの干渉によってボルシェヴィキが闘うことを強いられた戦闘だった、と語られている。
 事態に関するこのような左翼史観では、赤軍は「非常手段」の行使について責められるべきではない、そのような措置は内戦で用いるよう余儀なくされたのだ—専断的命令とテロルによる支配、食糧徴発、大衆徴兵、等々—、なぜなら、ボルシェヴィキは反革命に対して革命を防衛するために決然とかつ迅速に行動しなければならなかったからだ、ということになる。
 しかし、このような見方は、内戦の全体像や内戦のレーニンとその支持者にとっての革命との関係を把握することができない。//
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 (02) レーニンらの見方では、内戦は階級闘争の必要な段階だった。
 彼らにとっては、内戦は革命をより激しく軍事的な態様で継続させるものだった。
 トロツキーは6月4日にソヴェトに対してこう言った。
 「我々の党は、内戦のためにある。
 内戦、万歳!
 内戦は、労働者と赤軍のためにあった。内戦は反革命に対する直接的で仮借なき闘いの名において行われた。」(注1)//
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 (03) レーニンは、内戦に備えており、おそらくは歓迎すらした。自分の党の基盤を確立する機会として。
 この闘争の影響は予見し得るものだっただろう。「革命」側と「反革命」側への国内の両極化。国家の軍事的および政治的な権力の拡張、反対者を抑圧するテロルの行使。
 レーニンの見方では、これら全てがプロレタリアート独裁の勝利のために必要だった。
 彼はしばしば、パリ・コミューンが敗北した理由はコミューン支持者たちが内戦を起こさなかったことにある、と言った、//
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 第三節。
 (01) チェコの勝利の平易さによって、今は戦争大臣のトロツキーに明らかになったのは、赤軍は、赤衛隊に代わる常備軍、職業的将校、指揮系統の中央集権的階層制を備え、帝政時代の徴兵軍をモデルにして再編成されなければならない、ということだった。
 この政策方針には、多数の反対が党員内部にあった。
 赤衛隊は労働者階級の軍と見られたが、ボルシェヴィズムの見方では、大衆徴兵は敵対的な社会勢力である農民層に支配された軍をつくることになる。
 党員たちはとくに、トロツキーの考えにある帝制時代の元将校の徴兵に反対した(内戦中に7万5000人がボルシェヴィキによって徴兵されることになる)。
 党員たちはこれは古い軍事秩序への元戻りであって、「赤軍将校」として彼らが昇進するのを妨害するものだと見た。
 いわゆる軍部反対派は、下層部にある不信と職業的将校やその他の「ブルジョア専門家」へのルサンチマンをあちこちで明確にしていた。
 しかし、トロツキーは、批判者たちの論拠を嘲弄した。革命的熱狂では、軍事的専門知識の代わりにならない。//
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 (02) 大衆徴兵は、6月に導入された。
 工場労働者や党活動家は最初に召集された。
 地方には軍事施設がなかったので、農民たちを動員するのは予想したよりもはるかに困難だった。
 最初の召集による募兵で想定していた27万5000人の農民のうち、4万人だけが実際に出頭した。
 農民たちは、収穫期に村落を去りたくなかった。
 徴兵に対しては農民蜂起が発生し、赤軍からの大量脱走もあった。
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 (03) ソヴィエトの力が地方で強くなるにつれて、農民の徴兵の割合は改善した。
 赤軍は、1919年春までに100万人の兵士をもち、1920年までに300万人に大きくなった。
 1920年の内戦の終わりまでには、500万人になった。
 赤軍は多くの点で大きすぎて、効率的でなかった。
 赤軍は荒廃した経済が銃砲、食糧、衣類を供給できる以上の早さで大きくなった。
 兵士たちは士気を失い、数千人の単位で、武器を奪って脱走した。その結果、新規の兵士たちが、十分な訓練を受けることなく、戦闘に投入されなければならなかった。そのことだけでも、脱走兵をさらに増やしそうだった。
 赤軍はこうして、大衆徴兵、供給不足、脱走の悪循環に陥っていった。これはつぎには、戦時共産主義(War Communism)という苛酷なシステムを生んだ。この戦時共産主義というシステムは、命令経済を目指すボルシェヴィキの最初の試みで、その主要な目的は全ての生産を軍隊の需要に向かって注ぎ込むことだった。//
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 (04) 戦時共産主義は、穀物の独占で始まった。
 しかし、包括的射程で経済の国家統制を含むように拡大した。
 戦時共産主義は、私的取引の廃止、全ての大規模産業の国有化、基幹産業での労働力の軍事化を目指した。そして、1920年のその絶頂点では、金銭を国家による一般的な配給制に換えようとした。
 これはスターリン主義経済のモデルだったので、その起源を説明し、どの点が革命の歴史に適合するかを判断することは、重要なことだ。//
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 (05) 一つの見方は、こうだ。戦時共産主義は内戦という緊急事態への実践的な対応だ。—推測するにレーニンが1918年春に構想し、1921年の新経済政策で回帰することになる混合経済からの一時的な逸脱だ。
 この見方は、この二つの時期にボルシェヴィキが追求した社会主義の「ソフト」な範型は、内戦期やスターリン時代の「ハード」な、または反市場・社会主義と対置される、レーニン主義の本当の顔だ、と考える。
 別の見方は、こうだ。戦時共産主義の根源はレーニンのイデオロギーにある。—布令によって社会主義を押し付ける試みであり、ボルシェヴィキが大衆的抗議を受けて1921年にやむなくようやく放棄したものだ。//
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 (06) どちらの見方も、正しくない。
 戦時共産主義は、内戦へのたんなる反応ではなかった。
 内戦を闘うための手段であり、農民その他の社会的「敵」に対する階級闘争のための一体の政策体系だった。
 こう説明することで、この政策が白軍を打倒したあと一年間も維持された理由が明らかになる。
 ボルシェヴィキは明確なイデオロギーを有していた、と言うこともできない。
 ボルシェヴィキは政策方針に関して分かれていた。—左翼は資本主義システムの廃棄へと直接に向かうことを望んだが、レーニンは、経済の再建の為に資本主義の手段を用いることを語った。
 この分裂は、内戦のあいだを通じて何度も浮上し、そのために戦時共産主義の政策は絶えず中断し、党の統一という関心に変わった。//
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 (07) 戦時共産主義は本質的には、都市部の食料危機と彼らの権力の基盤があった都市部の飢餓からの労働者の脱出に対する、ボルシェヴィキの政治的反応だった。
 ボルシェヴィキ体制の最初の6ヶ月間で、およそ100万人の労働者が大きな工業都市から脱出し、食料供給地で生活することのできる農村地帯へと移動した。
 ペテログラードの金属工業は最も悪い影響を受けた。—この6ヶ月間で、その労働者数は250万からほとんど5万に落ちた。
 ボルシェヴィキがかつては最強だったNew Lessner とErickson の工場施設には、10月にはそれぞれ7000人以上の労働者がいたが、4月までに200人以下になった。 
 Shliapnikov の言葉によれば、ボルシェヴィキ党は「存在していない階級の前衛」になっていた。(注2)//
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 (08) 危機の根源は、紙幣を使って買えるものは何もないときに、農民たちは紙の金のために食糧用品を売ろうとはしないことにあった。
 農民は生産を減らし、余剰を貯え、家畜を太らせるために穀物を用いるか、都市部からやって来る商売人との間の闇市場でそれを売った。
 都市部の商売人は農民たちと取引するために農村地帯を旅行した。
 彼らは、衣類や家庭用品を詰めた袋を持って都市部を出発し、地方の市場でそれらを売るか交換し、今度は食料を詰めて帰っていった。
 労働者たちは、彼らが工場で盗んだ道具類で農民たちと取引をし、あるいは物々交換すべく、斧、鋤、簡易ストーブ、煙草ライターのような簡単な用具を製造した。
 このような大量の「袋運び屋」によって、鉄道は占められた。
 モスクワと南方の農業地帯の間の主要な接合地であるOrel 駅では、毎日3000人の「袋運び屋」が通り過ぎた。
 彼らの多くは、列車を乗っ取った武装集団とともに旅行した。//
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 (09) ボルシェヴィキは、5月9日に、穀物を彼らが独占することを発表した。
 農民たちの収穫の余剰は全て、国家の所有物になった。
 武装集団が村落へと行って、穀物を徴発した。
 (余剰がないために)穀物を見つけられない場合に彼らが想定したのは、「富農」(クラク、kulak)—ボルシェヴィキが考案した「資本主義」的農民層という正体不明(phantom)の階級—が隠している、「穀物を目ざす戦争」が始まった、ということだった。//
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 (10) レーニンは、衝撃的な激烈さをもつ演説で、戦いの火蓋を切った。
 「クラクは、ソヴィエト政権に対する過激な敵対者だ。…
 この吸血鬼どもは、人民の飢えにもとづいて富裕になった。…
 仮借なき戦いを、クラクに対して行え!」(注3)
 部隊は、必要な穀物量が手放されるまで、村民たちを打ち叩いて、苦痛を与えた。—しばしば、次の収穫のために絶対不可欠の種苗までが犠牲になった。
 農民たちは、貴重な穀物を部隊から隠そうとした。
 徴発に抵抗する数百の農民蜂起が発生した。//
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 (11) ボルシェヴィキは政策を強化することで対応した。
 1919年1月に、穀物独占に代えて、一般的な食糧賦課(Food Levy)を導入した。これによって、独占は全ての食糧品に拡大され、地方の食料委員会は収穫見込み量に従って賦課する権限を剥奪された。これ以降、モスクワは、農民たちの最後の食料や種苗を奪っているのかどうかについて何ら考慮することなく、必要としたもの全てを農民たちから剥奪することになる。//
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 (12) 食糧賦課の目的は、赤軍の増大する需要に合わせることだけではなかった。
 カバン人の商売を根絶することで、労働者たちが工場にとどまり続けるのを助けた。
 労働力の統制は、戦時共産主義の本質部分だった。—トロツキーはこう言った。「国家の計画に適合するために必要とされる場所へと全ての労働者を配置するのは、独裁者の権利だ」。(注4)
 この計画経済に向かう一歩が、1918年6月の大規模産業の国有化だった。
 国家が指名する管理者に、工場委員会と労働組合の権限(1917年11月の布令で工場が担った)が移し換えられた。これは産業との関係に混乱をもたらし、1918年春のボルシェヴィキに対する労働者反対運動の契機となった。
 国有化布令は、ペテログラードで計画されていた総ストライキの3日前に発せられた。これは新しい工場管理者に、行動につき進む労働者に対しては解雇でもって威嚇することを許した。//
 ----
 (13) 配給制度は、戦時共産主義の最後の構成内容だった。
 左翼ボルシェヴィキは、配給券発行は共産主義秩序を創設する行為だと見た。—金銭の代替物。彼らは間違って、金銭の消滅は資本主義システムの終焉を意味すると考えた。
 配給制度を通じて、ボルシェヴィキ独裁制はさらに、社会の統制を強めた。
 配給のクラス分けは、新しい社会階層秩序での人の位置を明らかにした。
 赤軍兵士と官僚層は第一等級の配給を得た(粗末だが十分だった)。
 ほとんどの労働者は第二等級だった(十分ではなかった)。
 一方で階層の底にいる〈ブルジョア(burzhooi)〉は、第三等級の配給で対応しなければならなかった(ジノヴィエフが回想した言葉によると、「匂いを忘れない程度のパンだけ」だった (注5))。//
 ——
 第四節。
 (01) 全体主義国家の起源は、戦時共産主義にあった。戦時共産主義が行ったのは、経済と社会の全ての側面の統制だった。
 ソヴィエト官僚制度は、この理由で、内戦のあいだに劇的に膨れ上がった。
 帝制時代の国家の古い問題—国の大多数の上に位置する能力のなさ—は、ソヴィエト国家では継承されなかった。
 1920年までに、540万の人々が政府のために働いた。
 ソヴィエト・ロシアにいた労働者数の二倍の数の役人がいた。そして、この役人たちは、新しい体制の主要な社会的基盤だった。
 プロレタリアート独裁ではなく、官僚層の独裁制だった。//
 ----
 (02) 党に加入することは、官僚制の階位を通って昇進するための最も確実な方法だった。
 1917年から1920年までの間に、140万人が入党した。ほとんど全員が下層または農民の背景をもち、多くが赤軍出身者だった。赤軍での経験は、数百万の徴兵者たちに、紀律ある革命的前衛の下級兵士であるボルシェヴィキの思考と行動の様式を教えた。
 党指導部は、この大量の流入が党の質を落とすだろうと懸念した。
 識字能力の水準はきわめて低かった(4年間の基礎学校の課程以上の教育を受けていたのは、1920年に党員の8パーセントだけだった)。
 党員たちの政治的能力に関して言うと、未熟だった。文筆業のための党学校では、学生の誰一人としてイギリスやフランスの指導者の名前を言うことができず、何人かは帝国主義とはイギリスのどこかにある共和国だと思っていた。
 しかし、別の観点からは、この教育不足は党指導部にとっての利益になった。教育不足は支持者の自分たちへの政治的従属性を支えるものだったからだ。
 教育が不足する党員たちは党のスローガンを鸚鵡返しで言ったが、全ての批判的思考を政治局と中央委員会に委ねていた。//
 ----
 (03) 党が大きくなるにつれて、党は地方ソヴェトを支配するようにもなった。
 これが意味したのは、ソヴェトの変質だった。—議会によって統制される地方的革命組織からボルシェヴィキが全ての現実的権力を行使する党国家(Party-State)の官僚制的機構への変質。そこでは執行部が優越的地位をもった。
 上級のソヴェトの多く、とくに内戦で重要と見なされた地域でのソヴェトでは、執行部は選挙で選出されなかった。モスクワの党中央委員会が、党官僚の中からソヴェトを管理させるべく派遣した。
 田舎の(rural, 〈volost'〉)ソヴェトでは、執行部は選挙で選出された。
 この場合は、ボルシェヴィキの勝利は部分的には、投票制度と投票者の意向に依存していた。
 しかし、ボルシェヴィキの意思の貫徹は、第一次大戦で村落を離れて内戦中に帰郷した、青年やより学識のある村民たちの支持をも理由としていた。
 この者たちは、軍事技術や軍事組織に近年に熟達し、社会主義思想もよく知っていて、ボルシェヴィキに加入する心づもりがあり、内戦が終わるまでには田舎のソヴェトを支配していた。
 例えば、この問題が詳しく研究されているVolga 地域では、〈volost'〉ソヴェトの執行部構成員の三分の二は、35歳以下の識字能力ある農民男性で、1919年秋にボルシェヴィキ党員として登録されていた。その前の春には、この割合は三分の一だった。
 この意味で、独裁制は農村地帯での文化革命に依拠していた。
 農民世界の至るところで、共産主義体制は、公務階層(official class)に加わりたいとする、教養ある農民の息子たちの野心にもとづいて築かれていた。//
 ——
 第五節以下へ、つづく。

2519/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑤。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年、初版,London)
 試訳のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
 ——
 序説・ウクライナ問題②。
 (08) このような考え方の背後には、確固たる経済的根拠があった。
 ギリシャの歴史家のHerodotus 自身が、ウクライナの有名な「黒土」(black earth)、Dnieper河低地でとくに肥沃な土地について、こう書いた。
 「この堆積地沿いよりも穀物が大きく成長するところはない。穀種が播かれなければ、草が世界で最もよく生える。」(10)
 黒土地域は現代ウクライナのおよそ三分の二を覆い—ロシアとKazakhstan へと広がる—、比較的に温暖な気候と相俟って、ウクライナが毎年二回の収穫期をもつのを可能にしている。 
 「冬小麦」は秋に撒かれて、7月と8月に収穫される。春の穀物は4月と5月に植え付けられ、10月と11月に収穫される。
 ウクライナのきわめて肥沃な土地は、商業者の野望を掻き立てた。
 中世後半から、ポーランドの商人たちはウクライナの穀物を運んで、バルト海ルートで北方と取引した。
 ポーランドの聖職者や貴族は、今日の言葉を使えば起業地区を設定して、耕作してウクライナを開発する意欲のある農民に税や軍役を免除した。(11)
 貴重な資産を保有したいとの欲求は、しばしば植民地主義の論拠の背後にあった。
 ポーランド人もロシア人も、自分たちの穀倉地帯が独立した一体性をもつことを認めようとしなかった。
 それにもかかわらず、隣人たちが考えたこととは全く別に、分離して区別されるウクライナの自己認識(identity)が、現在のウクライナを構成する地域で形成された。
 中世の終わり頃からのち、この地域の人々は、つねにでなくともしばしば、ポーランドやロシアという占領する外国人とは区別される者として自分たちを認識する意識を共有した。
 ロシア人やベラルーシ人のように、ウクライナ人はその起源をキーフ公国の国王にたどり、偉大な東スラヴ文明の一部だと多くの者は自分たちを意識した。
 他の者たちは、自分たちは敗残者または反乱者だと考え、Zaporozhian コサックによる大反乱をとくに尊敬した。これは、Bohdan Khmelnytsky が率いて、17世紀にポーランドの支配に、そして18世紀初頭にロシアの支配に、抵抗したものだった。
 ウクライナのコサック—内部法をもつ準軍事組織である自治団体—は、自己一体性と不服の感覚を具体的な政治的目標に変えた最初のもので、ツァーリから大きな特権とある程度の自律性を獲得した。
 記しておくべきであるのは(確実にのちの世代のロシア人やソヴィエトの指導者は決して忘れなかった)、ウクライナのコサックは1610年と1618年のモスクワでの行進でポーランド軍に加わり、市の包囲攻撃に参加して、その当時のポーランド・ロシア間の対立が終わるの確実にし、少なくとも当時はポーランドの側に立っていた、ということだ。
 のちにツァーリは、ロシアへの忠誠を確保し続けるために、ウクライナ・コサックとロシア語を話すドン・コサックの両者に特別の地位を与えた。それによって、この両者は特別の自己一体性を保持することが認められた。
 これらがもつ特権によって、反抗しないことが保証された。
 しかし、Khmelnytsky とMazepa は、ポーランド人とロシア人の記憶に刻印を残した。ヨーロッパの歴史や文学に対しても同様だった。
 Voltaire はMazepa に関する報せがフランスに広がった後で、「ウクライナはつねに自由になろうと志してきた」と書いた。(12)//
 (09) 数世紀にわたる植民地支配のあいだに、ウクライナの多様な地域は多様な性格を得るに至った。
 東部ウクライナの定住者は、長くロシアに支配されていたが、ロシア語に少しだけ近いウクライナ語の一つを話した。
 彼らはまたロシア正教会派である傾向をもち、Byzantium から伝わった儀礼に従い、モスクワが指導した階層制のもとにあった。
 Volhynia、Podolia やGalicia 地方の定住者は、長くポーランドの支配のもとで生活し、18世紀末のポーランド分割の後では、オーストリア・ハンガリー帝国に支配された。
 彼らはウクライナ語のよりポーランド語的な範型を話し、ローマまたはギリシャのカトリックである傾向があった。正教会に似た儀礼を用いる信仰だったが、ローマ教皇の権威を尊重した。//
 (10) しかし、地域的勢力の境界はたびたび変更したため、上の両者を信仰する者がいたし、以前のロシアと以前のポーランドの境界を分ける両側には、今もいる。
 19世紀までに、イタリア人、ドイツ人、その他のヨーロッパ人が近代国家の国民だと自己を認識し始めたとき、ウクライナで「ウクライナ性」を議論する知識人たちは、正教派にもカトリック派にもいたし、「東部」と「西部」のウクライナのいずれにもいた。
 文法と正書法にある差異にもかかわらず、言語は地域を超えてウクライナを統一した。
 キリル文字のアルファベットを用いることで、ラテン・アルファベットで書かれるポーランド語と区別された。
 (一時期にハプスブルク家はラテン文字を導入しようとしたが、失敗した。) 
 キリル文字のウクライナ型はロシア語とも異なり、追加された文字も含めて違いを保ち、言語が近似しすぎるのを妨げた。//
 (11) ウクライナの歴史上は長く、ウクライナ語は主に田園地帯で話された。
 ウクライナがポーランドの、そしてロシア、オーストリア・ハンガリーの植民地だったとき、ウクライナの大都市は—トロツキーが観察したように—、植民地支配の中心地であり、ウクライナ農民層の大海の中でのロシア、ポーランド、またはユダヤの文化の島嶼部だった。
 20世紀に入っても、都市と農村部は言語によって区分された。たいていの都市住民はロシア語、ポーランド語またはYiddish (ユダヤ人の言葉の一つ)を話し、一方で地方のウクライナ人はウクライナ語を話した。ユダヤ人がYiddish を話せなければ、しばしば国と取引の言語であるロシア語が用いられた。
 農民たちは都市部を、富、資本主義、そして「外からの」—たいていはロシアの— 影響を受けたものと見なした。
 対照的に都市部のウクライナは、田園地帯を後進的で、未開だと考えた。//
 ——
 ③へと、つづく。

2475/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ④。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第二部全体の「前記」の後の、最初の章である第5章の「序」へと進む。
 ——
 第5章・現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 (序)
 「資本主義的私有財産の弔鐘が響く。搾取者は搾取される。」
 —〈Tucker 編・マルクス・エンゲルス読本=MER>、p.438.
 「小さい政治の時代は終わった。次の世紀には、地球の支配を目ざす闘いが生じるだろう。—大規模な政治への衝動。」
 —ニーチェ〈善悪の彼岸〉、p.131.
 「しかしながら、本当の哲学者は司令者であり、立法者だ。彼らは言う、かくして、こうあるべきだ。…。彼らは創造的な手で、未来を掴みとろうとし、かつてあり今あるものは全て、彼らの手段になる。道具であり、金槌だ。彼らが『知ること』は創造することであり、『創造すること』とは立法することだ。真実に向かう彼らの意思は—権力への意思。」
 —ニーチェ〈善悪の彼岸〉、p.136.
 <一行あけ>
 (01) 戦争と革命の苦難の中で、新しいイデオロギー上の金属が鋳造された。その中には、マルクス、エンゲルスおよびニーチェの最も暴力的で最も権威主義的な要素が凝固しており、マルクス主義の人間的要素やニーチェのリバタリアン的(libertarian)要素は捨て去られていた。
 この金属鋳造に貢献したのは、革命的知識人たちによる意思の神格化、戦争(第一次大戦と内戦)が持った残虐化する効果、最適者の生き残りというダーウィン主義の考えだった。
 どちらの側にとっても、内戦は生き残りを賭けた闘いだった。//
 (02) ボルシェヴィズムとはマルクス主義を夢想主義的かつ黙示録的に解釈したもので、必然性の王国から自由の王国への飛躍だけを意図していた。
 この解釈が含んだのは、民主主義的社会主義の「柔らかい」価値とは反対の英雄的で「硬い」価値を選好する、ということだった。
 もちろん、ボルシェヴィキたちはニーチェを経てマルクス主義に到達したわけではなかった。しかし、ニーチェはマルクス主義についての彼らの「硬い」解釈を促進し、彼らの権力への意思を強化した。
 権力なくしては、社会主義という約束した土地へと大衆を導くことはできない。
 ニーチェはまた、マルクス主義、救済のドラマと歴史を捉えるその見方の神話的な浸入を促進し、人間を改造するという永続的で過激な夢想に対して新しい駆動力を与えた。//
 (03) この章で論述されるボルシェヴィキ—レーニン(Vladimir Ilich Ulianov、1870〜1924)、N・ブハーリン(Nikolai Bukharin、1888〜1938)、L・トロツキー(Lev Davidovich Bronsthein。1879〜1940)—にとって重要なのは、マルクス、エンゲルスおよびニーチェの著作に見出される思想だった。すなわち、ブルジョアの道徳性に対する侮蔑、闘争の強調、血と暴力のレトリック、プロメテウス主義、「未来志向」、そのコロラリーである「道具的」残虐性。後者はヘーゲル=マルクス主義の歴史主義の用語で正当化された。
 エンゲルスはかつて、歴史は全ての女神たちのうちの最も無慈悲なものだと述べた。
 「歴史は堆積した死体の上へと勝利の歯車を進める。戦争のときだけではなく、『平和的な』経済発展の時代でも。」
 これらのボルシェヴィキたちは、大戦は「歴史の法則」の歩みを加速し、後進国ロシアに社会主義を生み出すよい機会だと考えた。
 大戦はプロレタリアートを鍛え、活発な闘いへと追い込むだろう。
 トロツキーは戦争を「学校」に譬えた。それを通じた「恐ろしい」現実によって、新しいタイプの人間が作り上げられるのだ。
 レーニンとブハーリンも、同様の気分を表現した。//
 (04) レーニンは、権力への意思と自らの方法での神話創造を具現化した人物だった。
 ブハーリンはニーチェ思想に慣れ親しんでおり、Bogdanov を崇敬していた。
 トロツキーが初めて公にした論文の表題は、「超人(Superman)に関する若干のこと」だった。
 彼らは全員が、権威主義的で、暴力的で冷酷な文章節を拡大し、漸進主義的な文章部分を抹消するレンズを通じて、マルクスやエンゲルスを読んだ。
 彼らが好んだ言葉—「奴隷」、「隷属」、「主人」、「権力」および「意思」—は、マルクス主義やニーチェ、および革命的知識人たちの気分(ethos)と共振していた。
 レーニンは「我々の奴隷的部分」への憎悪を明確に語り(Tucker 編・レーニン選集、p.197-8)、Chernyshevsky がかつてロシアを「奴隷たちの国」と呼んだことを思い起こさせた。
 ブハーリンは、「奴隷の心理と慣習がいまだに深く染み込んでいる」と不満を語った。
 労働者たちは新しい主人になるように再生産されなければならない。
 トロツキーは、こう宣言した。「きみたちはもう奴隷ではない。もっと高く立ち上がり、人生の主人となれ。上からの命令を待つな。」
 一定程度のボルシェヴィキたちが採用した美名—スターリン(Josef Djugashvili)、モロトフ(Viacheslav Skriabin)、カーメネフ(Lev Rosenfeld)—は、それぞれロシア語の鋼鉄、金槌、硬石に由来していた。
 彼らは、プロレタリアートが用いる素材または道具を含意せていた。そしてまた、ニーチェの命令である「頑強(hard)であれ」にも反応していた。
 革命の後、ボルシェヴィキたちは「司令者かつ立法者」になり、大衆は彼らの「道具」となった。
 ——
 第二部・第5章の「序」が終わり。

2472/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ③。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 「前記」の試訳のつづき。
 ——
 (前記)②
 (08) Proletkult の指導者の一人のPavel Kerzhentsev(P.M.Lebedev、1881〜1940)は、プロレタリア文化の理論家だと自負し、1904年以降はボルシェヴィキ党員だった。彼は、その書物と同名の「創造的劇場」(〈Tvorcheskii teatr〉)を提案したが、これは、「創造的自己活動」(〈samodeiatel'nost'〉)と階級意識を特徴とするニーチェ/ワーグナー/Ivanov 症候群のプロレタリア版だった。
 Kerzhentsev のような活動家たちにとって、中心となるニーチェ思想は、「権力への意思」だった。
 彼らの何人かは戯曲を書いたが、それらでは革命は独りの強い個人によって推進され、どの場合でも最も有効な影響力をもったのは〈ツァラトゥストラ〉だった。
 「自己活動」(Self-activity)は決まり文句になったが、それが何を意味し、どうやってそれを促進するかについては、一致がなかった。
 Kerzhentsev が求めたのは、プロレタリア演劇は全日働く労働者が書いた戯曲によるものに限られ、労働者の役者と労働者の演出家と労働者の音楽家(職業人ではない者)だけを用いることだった。
 彼は、オペラやバレェは時代遅れになったと主張して、明確なプロレタリア芸術の一様相として新しい劇場の形態を労働者たちが発展させるのを期待した。//
 (09) Lunacharsky とIvanov は、芸術家とApplo やDionysus の人々が一つになったものが大衆祭典だと考えた。 
 Lunacharsky は大衆祭典は扇動のための力強い手段だと見なし、扇動を「聴衆と読者の感情を掻き立て、彼らの意思に直接に影響を与えること」と定義した。プロパガンダの全内容を「真白い心に」運び、「全ての色で輝かせる」ものだ。
 彼は党に対して、ポスター、写真、彫像、「音楽の魔力」で「党を装飾する」こと、映画やリズムの新しい芸術様式を用いること、を強く要求した。
 資金を利用できるようになったとき、彼は、「社会の霊魂(soul)」に影響を与えるべく大きな教会寺院を建設するのを望んだ。
 彼は1919年に、心理的には単純な分野でのプロパガンダ作品を生むために、メロドラマ・コンテストを行うことを発表した。//
 (10) Evreinov は、最も多くの大衆祭典を監督した。そのうち「冬宮への突撃」は革命三周年記念のものだった。これには6000人の「配役」があり、ペテログラード軍事地区(PUR)の政治局の後援を受けていた。
 その他の大衆祭典もあった。それらは、祝ったあとで、「解放された労働の神秘」、「第三インターナショナル」、「専制政打倒」、および「プロメテウスの炎」と冠された。
 祝典のいくつかは、世界じゅうの諸国に示すために新しいテープに録音された。
 大衆祭典は「自己活動」を特徴とするものと想定されていた。しかし、演技者の役割は演出者によって削ぎ落とされ、大量の厳しい統制があった。
 Lunacharsky は、こう呟いた。「一般的軍事指令の方法で、数千、数万の人民がリズム正しく動く大衆祭典を我々は創る。そのときに、どんな人物が祝祭儀礼を引き受けるかをまさに考えよ。—大衆は群衆ではなく、一つの明確な思想(idea)を真摯に有する、厳格に統制された、集団的で平和的な軍隊だ」。//
 (11) 政治的演劇と宣伝列車、宣伝船は、国じゅうに革命のメッセージを運んだ。
 赤軍の演劇団が、一つの特殊単位として構成された。
 役者が、前線での上演のために派遣された。
 演劇化された模擬裁判または「扇動裁判」が、赤軍で始まった。
 それらは1920年までに、定期的な政治的儀式になった。
 「弁護人」、「訴追官」と「証人」は、各自の文章を朗読するというよりも、即興で歌った。
 Julie Cassiday によると、「扇動裁判」は劇場に関するIvanov の考えを適用したものだった。
 熱心な赤軍劇場組織者のAdrian Piotrovsky(1898〜1938)はTadeuz Zelinski の非嫡出の息子で、いく人かのニーチェの学問的崇拝者の一人だった(Zelinski はモスクワ大学の古典文献学の教授だった)。
 Meyerhold は、政治教育のために新聞の切り抜き、ラジオ速報および特定の政治的英雄や悪役の仮面を用いた。
 政治的演劇が求めたのは、極端な光と暗闇、自由と隷属、善と悪、救世主と悪魔だった。//
 (12) 政治的活動家たちは、芸術と科学の民衆化や労働者の創造性の奨励によって創出される「プロレタリアのアテネ」について語った。
 ポスター、詩、戯曲は、典型的に省略したニーチェの観念であるプロレタリアの超人(superman)を称賛した。この観念は、民俗伝承上の巨人(giant)のような大きさや力の強さではなく、偉大な文化的創造性をもつ人物を指していた。
 以前は〈Miriskusnik〉(芸術の世界運動の会員)だったBoris Kustodiev の「ボルシェヴィキ」(1918年)は、よく知られている例だ。
 Vladimir Lebedev の「ロシア前線を防衛する赤軍と艦隊」(1920年)の特徴のない顔は、〈太陽に対する勝利〉の強人たち(strongmen)のそれを思い出させる。
 Lazar el Lissitzky は、彼のポスター「赤の楔で白をやっつけろ」(1919年)で、政治的プロパガンダに幾何学的様式を採用した。//
 (13) 赤軍の学校の研修講師の中には、銀の時代(the Silver Age)に広がった知識人たちがいた。
 カリキュラムの特徴は、政治的用語(闘争術)、文学、演劇、音楽、身体文化(競技)にあった。
 カリキュラム開発者のNikolai Podvoisky(1880〜1948)は、啓蒙人民委員部およびProletkult と緊密に連携した。
 大衆祭典や大衆競技の熱狂者であるPodvoisky は、子ども用の居住区画を経営することもした。そこでは、「思弁家に死を」という彼の非難が連呼された。
 新時代の全ての文筆関係者と同じく彼は言語に敏感で、「我々の言葉は我々の最良の武器だ」と公然と述べた。
 「言葉は敵の隊列を爆破し、追い散らす。敵の気分を解体し、神経を麻痺させ、敵の戦陣に追い込んで、階級の内部争いへと分解させる。」
 共産主義青年同盟(Komsomol)の同盟員たちは自分たちを前衛の前衛だ、新しい文化の勇敢な創造者だ、と見なした。
 ニーチェの戦士の気風(ethos)は共産主義青年同盟の詩や散文に充満しており、それらには、ニーチェ的な因習破壊主義や若者崇拝(cult)が伴っていた。
 赤軍の学校と共産主義青年同盟は、青年たちに対して重要な知識情報上の影響力を持った。//
 (14) レーニンは、ワーグナー好き(Wagnerophile)だった。
 1920年に彼は、倒れた革命の英雄たちのための花輪置き儀式を主宰した。そのときには、Peter & Paul 要塞からの礼砲を背景にして、Siegfried の葬送行進曲(〈神々の黄昏〉より)が演奏された。
 レーニンはそのように劇化して、第8回ソヴェト大会(1920年12月)でロシアの電化を発表した。
 その大会は寒くて薄暗いBolshoi 劇場で催されたのだが、陰影の中にまばゆい光が舞台をこうこうと照らし、代議員たちの視線を巨大な地図に向けさせていた。その地図には、10年後までに電化されるロシアが描かれていた。
 モスクワの発電能力は、表示装置がどこかで切れてしまうほどに小さかった。
 紙が不足していたにもかかわらず、GOELRO(ロシアの電化に関する国家委員会)の50頁の梗概文書が、代議員に対して5万部、配布された。
 レーニンが、しばしば引用される「共産主義とは(=)ソヴェト権力プラス(+)全国土の電化だ」という声明を発したのは、このときだった。
 彼は、電化によってロシアが経済的、政治的、そして文化的に変革されることを期待した。 
 GOELROの電化(electrification)の計画はあまりに壮大なものだったので、反対派は「電気作り話」(electrofiction,〈elektrofiktsiia〉)と称した。//
 <一行あけ>
 (15) ソヴィエト史の「英雄の時代」(革命と内戦)が終わるまでに、文化は完全に政治的なものになった。
 「前線」、「司令」その他の軍事用語が、言葉の世界を覆った。
 文筆家や芸術家たちは、政府の資金援助を求めて、国有化された印刷媒体の利用を求めて、紙の配給を求めて、競い合った。
 対抗する全ての芸術学校が、プロレタリアートのために発言した。
 未来主義者たちは芸術への政府介入の廃止を要求したが、自分たちが動かす「芸術に対する独裁」を欲していた。
 Proletkult の熱狂者たちもまた、同じだった。
 Lunacharsky は、異なる諸グループの調整を試みた。それを理由として、Kerzhentsev は彼を「右翼主義」だとして非難した。
 政治への無関心は、受け入れらることではなかった。//
 (16) 論者たちは、ボルシェヴィキ革命は根源的な力だと叙述した。そしてしばしば、Blok が「根源と文化」(1908年)でそうしたように、「根源的」なものをDionysus 的なものと関連づけた。
 頑強さ、大胆さおよび意思が、寛容性、人格的統合、自己発展および侮辱を忘れる能力といったその他のニーチェ的美徳を表現した。
 敵に対する残忍さは、神聖な義務となった。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーは、マルクス主義とニーチェの新しい融合形態を生み出した。
 ボルシェヴィズムを超えて進むことを望む芸術家や知識人たちは、「精神」革命や「文化」革命の必要性を説いた。これら二つの言葉は、相互交換が可能だった。//
 ——
 第二部・「前記」終わり。前記(見出しなし)は、p.117〜p.124。
 

2426/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)⑥。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ⑤。
 ——
 序文・第3節①。
 (1)(2)<省略>
 (3)1970年代以降リクールの近くで仕事をし(シカゴ大学でやはり教えていた)、またFrançois Azoubi が討論を仕切るよう頼んだJeffrey Barash (Barash は議論のあいだときには長々と喋った)のように、リクールは見えざる会話者になった。
 本書が示すように、リクールは全体に不在だったのではない。
 歴史家(フュレ)は哲学者(リクール)の論及、分析、回答、そしてときには異論に、反応している。
 近くで聴いている読者は、リクールの声をときどきは聞き分け、少なくとも考えを理解し、そうしてインタビューの様子、あるいはもっと正確にその調子を想像することができる。//
 (4)<省略>
 (5)指針は、可能なかぎり簡単だった。すなわち、1997年のフュレの草稿で使われている元々の言葉を尊重すること。
 フュレは著述の文体にとても注意を払っていたので、対話の過程を示す文章の順序は、二つだけの例外を除いて尊重された。
 二つのわずかな移動はフュレの論旨の一貫性を補強するためのもので、 私がカセットの番号と面を示した注記となって、この書物のフランス語版(この翻訳書ではない)の特徴になった。
 私はまた、フュレがリクールに宛てた1997年3月6日の長い手紙の主題に則した見出しを挿入するのが有益だと考えた。
 最後に、公刊される文章の会話での起源を想起させる、ときにある口語的表現の大部分は、そのまま残した。自分の著作で話し言葉を嫌うフュレを尊重して、一部は除去したけれども。//
 (6)<1文、略>
 フュレはときどき、うまく表現されていないと感じた文章を削除した。
 一つの例は、彼がどのように話し言葉を書き言葉に変えるかを示すに十分だ。
 最初のインタビューの第一ページで、フュレは、共産主義思想のソヴィエト同盟による具現化を、こう述べていた。
 「ソヴィエト同盟の歴史は共産主義思想とは何の関係もない、と容易に言うことができるがゆえだ—実際に人々は私にそう言った—。
 そして、その結果として、共産主義思想は、なおも無傷のままだ。
 私は全面的に同意する。
 政治では、これは完全に防御的な観点だ。
 しかし、歴史家はこれを防衛することはできない。なぜなら、私は、50年前に共産主義思想とはソヴィエト同盟だったことを示すことができるからだ。
 30年前、共産主義思想とはソヴィエト同盟だった。
 そして今日では、我々はソヴィエト同盟の経験を忘却することによって、またはソヴィエト同盟は共産主義と何の関係もないと言うことによって、歴史を粉飾することができる。しかし、これは歴史的には、防衛できるものではない。
 政治的には、正当化し得る。」//
 (7)フュレはこの文章を放擲し、つぎの段落の文章でもって補填した。
 「共産主義思想は、一つの抽象的思想として、ソヴィエト同盟の消失とは関係がない。
 共産主義思想は、資本主義社会と分ち難い欲求不満から、金銭が支配する世界への憎悪から、生まれたというかぎりで、その思想の「現実化」に依存していない。
 それが必要とするのはただ、ポスト資本主義世界の抽象的な希望だ。
 それにもかかわらず、そのときから、それの喪失を帳消しするのは不可能な歴史を持った。帳消し行為は左翼のあちこちで試みられているけれども。
 しかし、ソヴィエト同盟は社会主義や共産主義と何の関係もなかったと言うことで、たしかにこの歴史を取り消すことができた。あるいは、1924年までは全ては素晴らしかったが、その年に全てが悪くなったと言って、トロツキストの見方へと元戻りすることで。
 しかし、いったい誰が、こうした否認を信じることができただろうか?
 歴史の真実は、全員が記憶喪失者でない筈の多くの人々が目撃した真実は、ソヴィエト同盟はその歴史の全てを通じて、共産主義の希望を何とか具現化することができた、ということだ。その体制が存在しているあいだずっと、我々と時代をともに生きた多数の人々の心にあった希望を。
 私が理解しようとしているのは、この具現化の神秘であり、あんなにも特別で悲劇的な歴史の普遍的な不思議さだ。」//
 ——
 序文・第3節①、終わり。

2406/O.ファイジズ・人民の悲劇(1996)第15章第2節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 ——
 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師⑤。
 (18)革命の「夢想家たち」(dreamers)は、新しい芸術形式とともに、社会生活の新しい形態についても実験をしようとしていた。
 これもまた人類(mankind)の本性を変えるために利用できる、と想定されていた。いや、正確に書けば、女性人類(womankind)のそれも。//
 (19)女性解放は、新しい集団的生活の重要な側面だった。党の指導的なフェミニストたち—Kollontai、Armand、Balabanoff—が予想したように。
 地域共同の食事室、洗濯場、保育室は退屈な家事労働から女性たちを解放し、革命での積極的な役割を与えることができるだろう。
 あるソヴィエトのポスターには、「ロシアの女性たち、鍋を投げ棄てよ!」と書かれていた。
 婚姻、離婚、堕胎に関する法制のリベラルな改革によって「ブルジョア的」家族は次第に解体され、女性たちを夫たちの専制から解放する、と想定された。
 1919年に設置された党中央委員会書記局女性部(Zhenotdel)は、女性たちを地方の政治的業務に動員して教育的情報宣伝をすることで、「女性を再様式化 (refashion)」することを任務とした。
 1920年のArmand の死によって書記局女性部長になっていたKollontai もまた、女性を解放するために性の革命を主張した。
 彼女は、二人の対等な仲間としての男女間の「自由恋愛」や「エロティックな友情」を説き、女性たちを「婚姻という隷従」から、両性を一夫一婦制の重みから、解放しようとした。
 これは、長く継続した夫や愛人たちとともに彼女自身が実践してきた哲学だった。夫や愛人の中には、1917年に結婚した17歳年長のボルシェヴィキ軍人のDybenko がおり、とりわけ、1930年代に在Stockholmの(最初かつ女性唯一の)ソヴィエト大使として彼女を採用したスウェーデン国王がいた。//
 (20)Kollontai は、社会福祉人民委員として、この新しい性的関係の条件づくりをしようとした。
 売春を撲滅し、子ども手当を増大させる試みがなされたが、どちらの分野でも、内戦中はほとんど進展がなかった。
 不幸なことに、いくつかの地方人民委員部は、Kollontai の仕事を導入する意味を理解することができなかった。
 例えばSaratow では、地方福祉部署は「女性の国有化に関する布令」を発した。これは婚姻を廃止して、公認の売春宿で性的要求を充たす権利を男たちに与えるものだった。
 Kollontai の部下たちはVladimir に「自由恋愛事務局」を設置し、18歳から50歳までの全ての未婚の女性たちに彼女たちの性的交際相手を選択して登録することを義務づける布告を発した。
 この布告は、18歳以上の全ての女性は「国有財産」であり、男たちに「事態の利益」に応じた生殖行為のために、彼女たちの同意がなくても登録した女性を選択する権利を与えた。(25)//
 (21)Kollontai の仕事のほとんどは、現実には理解されなかった。
 性的革命という彼女の展望は多くの点できわめて理想主義的だったが、一方で現実には、1917年以降のロシアじゅうを風靡した乱れた性的関係と道徳的アナーキーを促進しているものと広く受けとめられた。
 レーニンはこのような問題に時間を割く余裕がなかった。そして、彼自身は上品ぶる人物で、Kollontai によるものとされた性的問題に関する「一杯の水」論—共産主義社会では、人の性的欲求の充足は一杯の水を飲むことのように率直で正直なものでなければならない—を「完全に非マルクス主義的」だと非難した。
 レーニンはこう書いた。「確かに、渇きは癒されなければならない。しかし、ふつうの人間が排水溝で横たわってその水溜まりで水を飲もうとするだろうか?」
 地方のボルシェヴィキたちは「女仕事」を軽侮していて、
Zhenotdel(党書記局女性部)のことを(農民の妻の意味の「baba」から)「babotdel」と呼んだ。
 女性たち自身も、とくに男性優位的考えが依然としてあった農村部では、性的解放という理想に懐疑的だった。
 多くの女性たちは、地域の共同保育室は自分たちの子どもを奪い去って国家の孤児にしてしまうのでないか、と怖れた。
 彼女たちは、1918年の離婚自由化法は男性が彼らの妻や子どもたちに対する責任から免れるのを容易にしただけだ、と不満を言った。
 統計も彼女たちを支持していた。
 1920年代初頭までに、ロシアの離婚率はヨーロッパで抜群の高さに達した。ーブルジョア的ヨーロッパの26倍になった。
 労働者階級の女性たちは、Kollontai が説いた自由な性的関係に強く反対し、男たちが自分たちを粗末に扱う公認書を与えるようなものだと見なした。
 彼女たちがより大きな価値を置いたのは農民家庭の家計に根ざした旧様式の結婚観念であり、その家計とは家庭を維持するための労働を両性で分け合う共同経営だった。(26)
 (22)レーニンが同意しなかったのは性的問題だけではなかった。
 彼は芸術問題について、19世紀のブルジョアと全く同様に保守的だった。
 レーニンには、アヴァンギャルドのための時間はなかった。
 彼はその前衛芸術の革命上の地位は社会主義の伝統を<嘲って歪曲するもの〉だと考えていた。
 四頭の象の上に立つマルクス像建立が企画されたとき、レーニンは激怒した。また、mayakovsky の有名な詩の「15億人」を「とても無意味で愚かな馬鹿さかげんと自惚れ」だとして却下した(多数の読者は同意するかもしれない)。
 レーニンは、内戦が終わると、Proletkult の活動を立ち入って検討した。ーそして、閉鎖することに決定した。
 1920年の秋に、それに対する財政援助が劇的に削減された。
 Bogdanov は指導部から解任され、レーニンはその原理的考え方に対する攻撃を始めた。
 ボルシェヴィキ党指導者は、Proletkult の因襲打破的偏見に苛立ち、過去の文化的成果を基礎にして形成していく必要を強調した。また、それがもつ自立性によって政治的脅威は大きくなると判断した。
 彼が見たのは、Proletkult はBogdanov 一派だ、ということだった。
 確かにProletkult は労働者反対派と多くの点で共通しており、「ブルジョア専門家」の雇用によりまだ示されているようなブルジョアジーの文化的主導性を打倒する必要を強調した。そしてじつに、NEP の直後でもそうしていた。
 この意味では、Proletkult の反ブルジョア感情とスターリン自身の「文化革命」との間には直接の連結関係があった。
 レーニンの目からすると、Proletkult の閉鎖はNEP への移行のための不可欠の要素だった。
 NEP は経済分野でのテルミドールだったが、「ブルジョア芸術」に対する闘争のこの中断は、文化分野でのそれだった。
 どちらの由来も、ロシアのような後進国では古い文化の成果は維持されなければならず、その基礎の上に社会主義社会は建設される、という認識にあった。
 共産主義への近道などは存在しないのだ。//
 (23〉レーニンはこの時期に、「文化革命」の必要性について何度も執筆した。
 彼は、労働者国家を生むだけでは十分でない、と論じた。社会主義への長い移行のための文化的条件もまた、生み出さなければならない。
 文化革命という概念で彼が強調したのは、プロレタリアの文学や芸術ではなく、プロレタリアの科学と技術だった。
 Proletkult は芸術を人間の解放の手段として位置づけたのに対して、レーニンは、科学こそを人間の変革の手段だと見た。人間の変革とは、人々を国家の「歯車」に変えることだ。(*)
 〈 (*)原書注記ースターリンはしばしば、人々は国家という巨大な機械の「歯車」(vintiki)だと述べた。〉
 レーニンは、「悪質で」「識字能力のない」労働者たちが「資本主義の文化で教育される」ことを—そして技能をもち紀律のある労働者となって子供を技術学校へ通わせることを—望んだ。そうすれば、社会主義への移行に際してこの国の後進性を克服できるだろう(27)。
 ボルシェヴィズムとは、近代化のための戦略でないとすれば、何物でもなかった。//
 (24)レーニンが入念な科学的訓練の必要を強調したことは、1920-21年の間の教育政策の変化を反映していた。
 ボルシェヴィキは、教育を人間の変革の主要な道筋だと見なした。学校や子供たちと青年のための共産主義同盟(Pioneer とKommsomol〉を通じて、次の世代へと新しい集団的生活様式が教え込まれるだろう。
 ソヴィエトの教育の率先者の一人だったLitina Zinoviev が、1918年の公教育大会で、こう宣言したとおりだ。/
 「我々は、若い世代を共産主義の世代へと作り込まなければならない。
 子どもたちは柔らかい蝋のごとくきわめて柔軟かつ従順であって、良い共産主義者へと鋳造されるに違いない。……
 我々は、家庭生活の有害な影響から子どもたちを救わなければならない。……
 我々は、彼らを国有化(natinalize)しなければならない。
 小さな生命の最も早い時期から、共産主義の学校の愛情溢れた影響のもとにいることを知らなければならない。
 彼らは、共産主義のABCを学習するだろう。……
 母親に子どもをソヴィエト国家に捧げることを義務づけること—これが我々の任務だ。」//
 (25)ソヴィエト式学校の基本的モデルは、1918年に設立された統合労働学校(Unified Labour School)だった。
 この学校は、子どもたち全員に対して14歳になるまで自由な普通教育を与えることを意図していた。
 しかしながら、内戦による実際的な困難があったため、その目的は現実にはごく僅かの学校で達成されたにすぎなかった。
 1920年に多数のボルシェヴィキ党員と労働組合指導者たちは、幼年期から職業訓練を行う限定された制度づくりを主張し始めた。
 彼らは、トロツキーの軍事化計画の影響を受けて、教育制度を経済的需要に従属させる必要を強調した。ロシアには熟達した技術者が必要であり、それを生み出すのは学校の仕事だ、と。
 Lunachartsky はこれに反対し、この主張は自分がVpered 主義者だった時代から追求してきた革命の人間中心主義的目標を放棄する誘因となる、と見なした。
 彼はこう主張した。
 労働者の名のもとで権力を奪取したボルシェヴィキは、「産業の支配人」になれる知識人のレベルにまで引き上げる子どもたちの教育を強いられている。だが、見習う前に読み書きの仕方を教えるだけでは十分ではない。
 そうすれば、資本主義の階級分化、知識をもつという力により分離される支配人と男たちの文化を再生産してしまうだろう。
 Lunachartsky の力により、1918年の科学技術の考え方は基本的には維持された。
 しかし、実際には、狭い職業訓練教育の考え方が増大した。それによって子どもたちは、とくに孤児たちは、9歳か10歳の早い時期から工場の実習生になることを強いられた。//
 ——-
 ⑥へとつづく。

2392/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 第15章の第2節に入る。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ————
 第15章第2節・人間の精神の技師①。
 (1)伝説によると、1919年の10月にレーニンは密かに偉大な物理学者のパプロフ(I. P. Pavlov)の実験室を訪れて、彼の仕事が脳の条件反射ならば、それはボルシェヴィキが人間の行動を統御するのを助けるかと尋ねた。
 レーニンはこう説明した。
 「私は、ロシアの大衆を共産主義的な思考と反応の様式に従わせたい。
 過去のロシアには個人主義が強すぎる。
 共産主義は、個人主義的傾向を甘受しない。
 個人主義的傾向は有害だ。我々の計画を阻害する。
 我々は、個人主義を廃絶しなければならない。」
 パプロフは、愕然とした。
 レーニンは、犬に対して彼が既にしたことを人間に対してさせたいと考えているように見えた。
 パプロフは尋ねた。「ロシアの民衆を均一化(standardize)させたい、と言いたいのか? 全員を同じように行動させる?」
 レーニンは答えた。「そのとおり。人を矯正することはできる。我々が人に対して望むようにその者をさせることができる」。(14)//
 (2)実際にこうだったかはともかく、この物語は、一般的な真実を例証している。すなわち、共産主義体制の究極的狙いは、人間の本性を変形させることだった。
 その狙いは、戦間期の別のいわゆる全体主義体制によっても共有されていた。
 結局のところ、これが象徴した時代とは、人間の生活(life)を変化させる科学の潜在的能力に対するユートピア的楽観主義の時代であり、かつ同時に逆説的に、第一次大戦による破壊の後での人間の生活の価値に対する深い疑念と不確実さの時代だつた。
 ナツィ・ドイツの優生学運動の先駆者の一人は、1920年に述べた。
 「まるで人間性(humanity)という観念の変化を目撃してきているようにほとんど思える。…
 戦争がひどく差し迫ってきているので、個人の生活には以前とは異なる価値があると考えざるを得ない。」(*15)
 しかし、共産主義者の人間改造計画と第三帝国による人間工学の間には、決定的な違いがあった。
 ボルシェヴィキの計画は—マルクスよりもカントに由来する—啓蒙(Enlightenment)の理想にもとづいていた。この啓蒙の理想は、このポスト・モダンの時代でも、西側のリベラルたちが共感したもので、あるいは少なくとも、かりに政治的な目標は同一ではなくとも、それを理解するよう迫られたものだった。
 これに対して、「人類を改良する」ナツィの試みは、優生学を通じてであれ大量殺戮によってであれ、啓蒙というものを唾棄し、我々に嫌悪感だけを抱かせるものだった。
 大衆の啓蒙を通じて新しい類型の人間を創り出そうという考えはずっと、19世紀ロシアの知識人たちの救世主的(messianic)使命を示していた。その中から、ボルシェヴィキは出現した。
 マルクス主義哲学も同様に、人間の本性は歴史的発展の産物であり、従って革命によって変造することができる、と教えた。
 レーニンの青年時代のロシア知識人たちの間で宗教たる地位を占めていた、ダーウィンとハクスリーの科学的唯物論は、人間は生きる世界によって決定される、という見方を教えていた。
 かくしてボルシェヴィキは、革命は科学の助けで新しい類型の人間を創り出す、という結論に至っていた。//
 (3)レーニンとパプロフの二人は、Ivan Sechenov (1829-1905)に敬意を払った。この人物は生理学者で、脳は外部の刺激に反応する電子工学的装置だと主張していた。
 彼の著の<脳の反射>(1863)は、Chernyshevsky に大きな影響を与え、そしてレーニンに対してもそうであり、かつ条件反射に関するパプロフ理論の出発点でもあった。
 ここで、科学と社会主義が遭遇した。
 パプロフは歯に衣を着せず革命を批判し、しばしば国外逃亡を迫られたが、ボルシェヴィキによる経済的保護を受けた。(*)
 (*原書注記—パブロフはBulgakov の風刺の対象だったと結論づけたくなる。彼の<犬の心臓>(1925年)では、世界に有名な実験科学者はボルシェヴィキを軽蔑したが、支援を受けており、犬の脳と性的器官を人間へと移植した。) 
 2年の経歴ののち、パプロフは手厚い配給を受け、モスクワに広いアパートを得た。
 慢性的な紙不足があったにもかかわらず、彼の講義録は1921年に出版された。
 レーニンはパプロフの著書について、革命にとって「きわめて有意義だ」と語った。
 ブハーリンは、「唯物論という鉄の兵器庫からの武器だ」と評した。
 トロツキーですら、彼は総じて文化政策を詮索しなかったものの精神医学には多大の関心があったのだが、人間の再建造の可能性を、つぎのように熱心に語った。
 「どんな人物か? 彼は決して、完成されたもしくは調和のとれた人ではない。
 いや、いまだに臆病な人だ。
 生物としては計画どおりにではなく自発的に進化していて、多数の矛盾を蓄積している。
 どのようにして人間の肉体的および精神的な構成を鍛錬して統御し、改善して完成させたかは、とてつもなく大きな問題であって、社会主義を基盤にしてのみ理解することができる。
 我々はサハラを横断することができ、エッフェル塔を建設することができ、ニューヨークと直接に会話することもできる。しかし、我々はきっと、人間を改良することはできない。
 いや、できる!
 人間の新しい『改良版』を作り出すこと。—これが、共産主義の将来の任務だ。
 そのために、我々は、人間について、その解剖学的構造、生理学、および心理学と呼ばれる人間生理学の一部について、全てを先ず、解明しなければならない。
 人は自分自身を生の素材(原料、raw material)だと、あるいはせいぜいのところ半ば製造された産物だと見つめ、かつそう理解しなければならない。
 そして、こう言うのだ。『ああついに、私の大切な<ホモ・サピエンス>よ、私はきみの上で働くだろう』」(*16)//
 (4)革命の時期頃に流行した未来小説やユートピア冊子で描かれた新しいソヴィエト人は、機械の時代のプロメテウスだった。
 新ソヴィエト人は理性的な、紀律のある集団的人間で、生きている有機体の一細胞のように、最大の善という利益のためにのみ生きる。
 個人的な「わたし」の語法ではなく、集団的な「我々」の語法で思考する。
 ボルシェヴィキ哲学者のAlexander Bogdanow は、彼の二冊の科学小説、<赤い星>(1908年)と<技師メンニ>(1913年)で、21世紀のいつかに火星(Mars)にあるユートピア社会について叙述した。
 個人のあらゆる痕跡は「マルクス主義火星社会」では除去される。全ての仕事は自動化され、コンピータで稼働する。全員が性差のない衣服を着て、同じそっくりの住居に住む。子どもたちは特別の区画で養育される。
 異なる民族はなく、誰もが一種のエスペラント語を話す。 
 <技師メンニ>のある箇所では、主要な主人公の火星物理学者は、個人たる人間を創出した地球のブルジョアジーの使命を、社会の「原子を集めて」、それらを「単一の、知的な人間有機体へと融合する」という火星上のプロレタリアートの任務に喩える。(*17)//
 (5)集団を通じての個人の解放という理想は、ロシアの革命的知識人層にとっては基礎的なことだった。
 Gorky は、1908年に書いた。
 「『わたし』ではなく『我々』。—これが、個人の解放の基盤だ。
 そして最後には、人は世界の全ての富の、世界の全ての美の、人類の全ての経験の化身だと、そして精神的に全ての兄弟たちと同等の者だと、感じるだろう。」
 Gorky にとって、集団的精神の覚醒は、本質的に人間中心主義者(humanist)の責務だった。彼はそれを、啓蒙の公民(civic)精神になぞらえた。
 「ロシアは、文化革命の機会を逃してしまった」。
 彼の見方では、数世紀もの隷従制と帝制支配は「卑屈で鈍感な民衆」を育てた。受動的で 、進歩の影響を受けたくなく、 突如として破壊的暴力を爆発させがちだが、国家による強制がなければ建設的な国民的作業を行うことができない、そういう民衆を。
 要するに、ロシア人は、<nekulturnyi>、つまり「公民となっていない(文明化していない, uncivilized)」。積極的な公民であろうとする文化に欠ける。
 政治的および社会的革命が依って立つ文化的革命の任務は、この公民たる意識を培養することだ。
 Gorky の言葉では、その任務は「ロシア人を西側に並ぶよう駆り立てること」であり、「アジア的野蛮と怠惰の長い歴史」から彼らを解放することだった。(*18)//
 ———— 
 ②へとつづく。

2388/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 この書に邦訳書はない。試訳のつづき。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道③。
 (14-02)農民たちの小規模農地では市場用のものはほとんど作られず、消費用の物品がなくて食料の余剰は全て国家が持っていくという状況では、彼らの農地はぎりぎりの生存のための生産と村落と国との連結のための役割へと落ち込んだ。
 ボルシェヴィキは農民と取引をする物品をもたず、「穀物のための闘い」で冷厳な実力を行使した。武装部隊を派遣して農民たちの食糧を奪い取り、国じゅうの農民反乱を蹴散らした。
 これは、もう一つの隠れた内戦だった。
 ボルシェヴィキは、注意深く、自分たちの土地布令が神聖化した農民の小規模農地所有制度について口先だけの賛意を示したけれども—これは結局は、白軍との内戦で多数の農民の支持を獲得した理由だった—、ソヴィエトの農業の将来は、国家のために直接に生産する巨大な集団農場とソヴィエト農場—<コルホーズ,kolkhozy>と<ソホーズ,sovkhozy>—だ、と考えていた。
 厄介な農民たち—小所有者たる本能、迷信、伝統への執着をもつ—は、これらの社会主義的農場によって廃棄されるだろう。自分たちのために働く全ての農民は、<コルホーズ>または<ソホーズ>の「労働者」へと再配置されるだろう。
 Miliutin は、穀物、肉、ミルク、飼料を生産する農業工場を夢見ていた。それは、社会主義秩序を小規模農場への経済的な依存から解放するだろう。//
 (15)ここでもまた、ボルシェヴィキは、布令によって社会主義を創出することができるという夢想(utopianism)に囚われていた。
 ロシアの農民たちは元来、用心深かった。
 近代的技術と集団的労働チームによる大規模農場は本当に彼らの利益iなるので父親や祖父が維持してきた伝統—家族農業、共同体と村落—と訣別する十分な理由になる、と農民たちを説得するには、農学上の証拠にもとづく穏やかな教育をして、数十年を要しただろう。
 だが、1919年2月、ボルシェヴィキは、社会主義的土地機構に関する法令を採択した。これは一挙に、全ての農民農業は「旧式だ」と宣告した。
 大地主が所有するが耕作されていない全ての土地は、これによって新しい集団農地に変わった。このことは、大地主の資産は革命の貴重な獲得物だという主張を知っていた農民たちを大いに戸惑わせた。  
 1920年までに、1万6000箇所以上の集団農場および国営農場があり、合計でほとんど数千万エイカーの土地の広さがあり、数百万の被用者(多くは移住した都市住民だった)がそこで働いていた。
 国家が設置した最大の国営農場(<sovkhozy>)は、10万エイカー以上の広さがあった。一方、地方農民の協同組合が設置した多様な集団農場(<kolkhozy>)のうちの最小のものは、50エイカー以下だった。//
 (16)大きな集団農場の多くは、実験的な共産主義的生活様式の縮図だった。
 複数の家族が所有物を提供し合い、宿舎で一緒に生活した。
 女性たちは男性たちと並んで重い農業仕事を行い、ときには子どもたちのために託児所が設置された。
 宗教的慣行は存在しなくなった。
 この本質的には都市的生活様式は、工場での在来の組合組織をモデルにしたもので、地方の農民たちには相当に馴染みのないものだった。彼らは集団農場では土地や用具だけではなく妻や娘たちも共有されている、と考えた。全員が一緒に、巨大な毛布の中で寝ていたのだ。//
 (17)農民たちにとって醜聞ですらあったのは、集団農場のほとんどは農業について何も知らない人々によって運営されている、ということだった。
 国営農場は、大部分は都市部から逃亡した失業労働者で構成された。
 一方、集団農場は、土地を所有しない労働者、地方の職人たち、および、
不運にも飲み過ぎて、あるいはたんなる怠惰で自分の農場をうまく経営できなかった、最も貧しい農民たちで成っていた。
 農民集会では、集団農場の拙劣な運営に関する不満が圧倒的に述べられた。
 タンボフ地方の農民たちは、「彼らは土地を手にしたが、農業の仕方を知らない」と不服を発言した。
 ボルシェヴィキですら、集団農場は「個人の農民たちから投げかけられる批判に耐えることのできない、怠け者の避難場所」になっていていることを、やむなく認めざるを得なかった。
 食料の徴発を免れ、用具や家畜について国家の寛大な譲渡があったにもかかわらず、きわめて僅かの集団農場しか利益を挙げられず、多くの集団農場は損失を計上した。
 全収入のうち集団農場自体が生んだものは3分の1未満で、残りは主に国家が与えていた。
 いくつかの集団農場は、経営状態がひどいために、その農場での労働義務を地方農民に課すという徴用をしなければならなかった。
 農民たちはこれを新しい形態の農奴制と見なし、集団農場に反抗して闘いを挑んだ。
 それらの半分は、1921年の農民戦争により鎮圧された。//
 (18)こうした共産主義の実験に反抗したのは、農民層だけではなかった。
 工業分野でも、軍事化政策は労働者のストライキ、抗議運動、懈怠による消極的抵抗を増加させた。
 紀律を強化すべく意図された政策は、いっそうの不紀律(indiscipline)を生んだだけだった。
 ロシアの全工場の4分の3が、1920年の前半6ヶ月の間に、ストライキに見舞われた。
 逮捕と処刑の脅かしにもかかわらず、全国の都市労働者たちは、抗議しながら行進し、こう呼号した。「人民委員よ、くたばれ!」
 一般にあった感覚は、内戦終結から長く経つが、ボルシェヴィキは労働者階級に対する戦争類似の政策を維持している、というものだった。
 まるで全産業システムが永遠の国家緊急事態の罠に嵌まったかのごとくだった。平時ですら戦時体制にあり、この状態が労働者階級を搾取し、弾圧するために用いられていた。//
 (19)トロツキーの政策は、党内でも、党員各層からの反対に遭遇していた。
 トロツキーは、鉄道の混乱の原因だとして非難する鉄道労働組合を破壊して、国家機構に従属する総運送労働組合(Tsektran)に変えようとした。その高圧的なやり方は、ボルシェヴィキの労働組合指導者たちを激怒させた。彼らは、トロツキーの政策は労働組合の自立の全権利を剥奪する作戦の一環だと見た。
 労働組合の役割に関する論争が、1919年の初めから巻き起こった。
 その年の党の基本方針は、労働組合は直接に産業経済を管理すべきであるという理想を設定した。—しかしこれは、労働者階級がそのための教育を受けていてのみ可能だった。従って、そのときまでは、労働組合の役割は仕事場での労働者の教育と紀律に制限されるべきだ、との見解があった。
 独任者による経営への趨勢が継続するにつれて、多数派へと増加していた労働組合指導者たちは、労働組合による直接の経営という約束は遠い将来へと先延ばしされるのではないかと懸念するようになった。
 彼らは、1920年1月の第3回労働組合大会で、独任制経営の原理を課そうとする党指導者たちの努力を何とか打ち負かした。
 同年4月の第9回党大会で、彼らは党指導部と妥協して、その原理を受け容れる代わりに、経営者の一部として自分たちを任用するよう提案した。//
 (20)—労働組合と党・国家の間の—微妙な均衡は、1920年夏にトロツキーが提示した、運送労働組合を国家官僚機構の一端とするという案によって、ひっくり返った。
 労働組合の自治という原理全体が、今や危うくなっていた。
 労働組合指導者たちだけがトロツキーに反対したのではなかった。
 党の指導層自体の多くが、労働組合側を支持した。
 トロツキーの個人的対抗者のジノヴィエフは、「労働者を整列させる警察的やり方」だとトロツキーの案を非難した。
 Shlianikov は、1月にKollontaiが加わったが、労働組合の権利を防衛するためにいわゆる労働者反対派を結成した。そして、より一般的に言えば、労働者階級の「自発的な自己創造性」を抑圧すると彼らが言う「官僚主義」の蔓延に抵抗した。
 労働者反対派への労働組合、とくに金属労働者、の支持は拡大した。労働組合の間には、階級的連帯の感情—労働者による統制という理想と「ブルジョア専門家」に対する嫌悪の両者で表現されていた—が、最も強く根づいていた。
 彼らは、工場管理者や官僚層に対する嫌悪の声をますます大きくし、それらは「新しい支配階級」、「新しいブルジョアジー」だと非難した。
 こうした感情の多くは、党の別の主要な反対派、すなわち民主主義的中央派によっても表明された。
 ほとんどは知識人のボルシェヴィキであるこのグループは、党の官僚主義的中央主義と、直接に労働者が支配する機関としてのソヴェトの解体に、反対していた。
 彼らの基盤が最も強かったモスクワのより急進的な党員の中には、地方行政での<グラスノスチ、glasnost>、公開性を促進するために、地区の党執行部を党員各層一般に開放すらする者もいた。
 この者たちが、最初にこの言葉〔glasnost〕を用いた。//
 (21)これら二つの異論派的論議—労働組合と党・国家に関する—は、1920年の秋の間に一般的な危機へと融合し、かつ発展していった。
 9月の臨時党大会で、二つの反対党派は結びついて、民主主義と<glasnost>の促進を意図する一連の決議を通過させた。すなわち、全ての党会合は党員各層に公開されるものとする。下級党機関は上級機関の官僚の任用につきより多くのことを発言できるものとする。上級機関は党員各層に対する説明責任を負うものとする。
 反対党派はこの勝利に勇気づけられて、労働組合をめぐる闘いの準備をした。
 11月の第5回労働組合大会で、トロツキーは、全ての労働組合役員は国家によって任命されると提案することによって、戦いに挑んだ。
 これは、党内に激しい対立を発生させた。トロツキーは、即時の、かつ必要ならば強制的な労働組合の国家機構との融合を強く主張し、反対党派は必死になって、労働組合の自立性のために闘った。
 レーニンは、トロツキーの目標を支持した。しかし、痛手となる体制内部の分裂を回避するために、より高圧的ではない実行手段を擁護した。
 レーニンは警告した。「労働組合問題で党が争論するならば、それは確実にソヴィエト権力に終止符を打つだろう」。
 党中央委員会は、見込みもなく、この問題で分裂した。そして、つづく3ヶ月の間、党のプレス内での対立は激しくなり、各党派は、つぎの3月の第10回党大会で確実に起きるだろう決定的な闘いに備えて、支持をかき集めようとした。(*13)
 政権は明らかに危機に陥っており、国じゅうが反乱の暴動とストライキに巻き込まれていた。そのため、ロシアは、新しい革命の瀬戸際にあった。//
 ——
 ③および第15章第1節、終わり。

2377/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第1節①。

 仕事(生業)で英語を使ったことはなく、大学生時代の英語の授業は高校のときよりも簡単でつまらなかったので、実質的には日本の公立高校卒業時の英語の力を基礎にして、<試訳>をつづけている。
 **
 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 最終章の第16章の試訳を終え、その前の第15章へと移る。同じ章の中では、第一節→第二節→…と進む。
 この書に邦訳書はない。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第15章・勝利の中の敗北。
 第一章・共産主義への近道。
 (1)Dmitry Os'kin は、内戦での危険な経験のあと、1920年の第二労働軍の指揮官を引き受けた。
 この軍はDenikin の打倒のあとで第二赤軍の余剰兵団から形成され、南西部戦線の荒廃した鉄道を復旧させることを任務としていた。
 兵士たちは、ライフル銃の代わりに鋤をかついだ。
 Os'kin は、のちにこう書いた。
 「もうこれ以上戦闘にかかわりたくないという、気落ちした感情が一般にあった。
 鉄道の側での、気怠い生活だった。」
 指揮官の唯一の代償は、革命と内戦という惨事の後の経済の復興には知識がきわめて重要だったが、その知識を得られることだった。
 南部の諸鉄道は、北部の工業都市への穀物と油の供給という重要な役割を担っていた。
 内戦で、およそ3000マイルの線路が破壊されていた。
 破壊された機関車の残骸があちこちにあった。
 Os'kin は、Balashov からVoronezh へと移動しながら、一般的な惨状を記した。
 「駅には誰一人おらず、列車が稀に通過した。夜には照明がなく、電報局にはろうそくだけがあった。
 建築物は半分破壊され、窓は壊れ、汚物とゴミが高く積み重ねられていた。」
 これは、ロシアの荒廃の象徴だった。 
 Os'kin の兵士たちは、汚い散物を掃除し、線路と橋脚を作り直した。
 軍技術者たちは、列車を修理した。
 夏までに、鉄道は再び機能し始め、作戦は大成功したと宣言された。
 この兵団を経済の別部門を稼働させるために使うことが、語られた。//
 (2)トロツキーは、軍事化の最高の闘士だった。
 彼の命令によって1920年1月に、第三赤軍の残余兵を集めた第一労働軍が組織された。
 Kolchak 打倒のあと、兵士たちはそのまま戦闘部隊にとどめられ、「経済前線」へと再配置された。—鉄道の修繕の他に、食糧の手配、樹木の伐採、単純な物品の製造。
 計画は、ある部分は実践的だった。
 ボルシェヴィキは、経済危機の真っ最中に軍の動員解除をするのを恐れた。
 かりに数百万の失業した兵士たちが都市部に集まることが、あるいは覚醒した農民たちの隊列に加わることが許されたとすれば、(1921年に起きたように)全国土的な反乱が発生し得ただろう。
 さらに加えて、鉄道を復旧させるには断固たる措置を必要とすることは明瞭だった。トロツキーは鉄道を、内戦による荒廃後の国の回復の鍵だと見ていた。
 彼は1920年1月、輸送人民委員になった。それは彼が積極的に望んで得た最初の地位だった。
 鉄道は、慢性的な破損以外に、腐敗した役人たちによって悩まされていた。彼らは殺到する仲介者へと堰を切ったように向かい、システムに大混乱を生じさせていた。
 些細な地方主義も、鉄道を麻痺させていた。
 全ての離れた支線にはそれら用の委員会があり、稀少な車両を求めて相互に競争する数十の地区鉄道局があった。
 それらは、「自分たちの」機関車を隣接する局に譲って失うよりも、列車をまだ管理している間に車両を切り離そうとした。そうすると、列車は数時間、ときには数日間止められ、新しい機関車は次の車庫から出られなくなるのだった。
 鉄道職員は懸命に努力したにもかかわらず、トロツキー配下の上級官僚たちがOdessa からKromenchug まで300マイルを旅するのに、一週間全部を要した。(*2)//
 (3)しかし、トロツキーの胸中の計画には、軍事のごとく動く社会全体についての広大な展望があった。
 1920年の多数のボルシェヴィキのように、トロツキーは、参謀部が軍を指揮するのと全く同じく、国家が社会の指揮官だと見ていた。—計画に従って社会の諸資源を動員するのだ。
 彼は、軍事様式の紀律と厳密さでもって稼働する経済が欲しかった。
 全民衆は、労働する連隊や旅団へと徴用されなければならず、兵士たちと同様に、生産命令を達成するために(「戦い」、「作戦行動」(campaign)といった語が使われる)経済の前線へと派遣されなければならなかった。
 ここには、スターリン主義の命令経済の原初的形態がある。
 両者をいずれも駆り立てたのは、ロシアのような後進国では、国家による強制(coercion)を共産主義への近道として用いることができるという考えだった。したがって、市場を通じての資本蓄積のためにNEP類型の段階が長く継続する必要性は排除される。
 両者がともに基礎にしていたのは、布令によって共産主義を押しつけることができるという官僚主義的な幻想だった(どちらの場合も、結果はマルクスが見出したものとは異なる封建主義にむしろよく似たものとなったけれども)。
 メンシェヴィキがかつて警告したように、ピラミッドの建造に使われた方法を用いて社会主義経済への移行を完成させるのは不可能だった。//
 (4)内戦勝利後のボルシェヴィキにとっては、赤軍を社会の残余部分を組織するモデルだと見なすことは、疑いなく魅力的なことだった。
 <Po voennomy>—「軍隊のように」—は、ボルシェヴィキの語彙では効率性(efficiency)と同義となった。
 軍事手段が白軍を打倒したのだとすれば、それを社会主義建設のために用いることが、何故できないのだろうか?
 なすべきことはただ、経済前線へと行進するために軍の周りに結集することであり、そうすれば、全労働者が計画経済のための歩兵となる。
 トロツキーはつねに、工場は軍隊のごとく動かされなければならないと主張した。(原注+)
 〔(+)同じことは同時期に、Gastev やその他のロシアでのTaylor 運動の先駆者たちによっても表明された。〕
 彼は、このとき、1920年の春、この勇敢な新しい共産主義的労働を、こう概述した。計画経済の「司令官が労働前線に対して命令を発出し、毎夕に司令部の数千の電話が鳴り響き、労働前線での征圧が報告される」。
 トロツキーは、強制労働へと徴用する社会主義の能力は、資本主義に対する主要な優位点だ、と論じた。
 経済発展についてロシアに欠けているものを、国家の強制力でもって補充することができる。
 市場を通じて労働者を刺激するよりも、労働者を強制する方がより効率的だ。
 自由な労働はストライキと混乱をもたらすが、労働市場の国家的統制は規律と秩序を生み出すだろう。
 こうした議論は、トロツキーがレーニンと共有した見方にもとづくものだった。その見方とは、ロシア人は悪辣で怠惰な労働者だから、鞭でもって駆り立てなければ働こうとしない、というものだ。
 ソヴィエト体制と多くの点で共通性があった農奴制のもとでの大地主層も、同じ見方をしていた。
 トロツキーは、農奴労働の成果を称賛し、それを自分の経済計画を正当化するために使った。
 彼は、強制労働の利用は非生産的だという批判者からの警告を聞いても困らなかっただろう。
 1920年4月の労働組合大会で、こう言った。「かりにそうならば、きみたちは、社会主義を十字架に掛けることができる」。(*3)//
 (5)「兵営共産主義」の奥底にあったのは、独立した、いっそう反抗的になっている勢力としての、労働者階級に対するボルシェヴィキの恐怖だった。
 ボルシェヴィキはこの頃から顕著に、「労働者階級」(rabochii class)ではなく、「労働勢力」(rabochaia sila または短くrabsila)と語り始めた。
 この変化は、革命の積極的主体から党・国家の受動的な客体への労働者の変化をよく示唆していた。
 <rabsila>は階級ではなく、諸個人の集合体ですらなく、たんなる大衆(mass)でしかなかった。
 労働者の意味のこの言葉(<rabsila>)は、語源への回帰だった。すなわち、奴隷(slave)の意味の言葉(<rab>)への。
 ここに、収容所(Gulag)制度の根源があった。—建築現場や工場で強制的に働かせる(dragoon)、半ば飢えてぼろ布を着た農民たちの長い列、という意識(mentality)。
 労働軍は「農民という原料」(<muzhitskoe syr'te>)で作られると語ったとき、トロツキーは、この意識を典型的に示していた。
 人間の労働は、マルクスが賛えた創造的な力から全くかけ離れて、現実には、国家が「社会主義を建設する」ために使う材料にすぎなかった。
 このような倒錯は、出発時点から、システムに内在していた。
 Gorky は、彼が1917年に「労働者階級は、レーニンにとっては金属加工業者のための鉱石のようなものだ」と書いたとき、このことをすでに予見していた。(*4)//
 (6)内戦での経験によって、ボルシェヴィキ指導者たちの労働者階級との関係についての自信が増大する、ということは全くなかった。
 食糧不足のために、労働者たちは小取引者となり、一時的な農民になって、工場と農場の間を動き回った。
 労働者階級は、漂泊民になっていた。
 工業は、工場労働者が地方からの食糧を買いに旅行するために半分はいなくなって、混乱に陥った。
 工場にいる労働者たちは、農民たちと交換取引をするための単純製品を作って時間のほとんどを費やした。
 需要が大きい熟練の技術者たちは、より良い条件を求めて工場から工場へと渡り歩いた。
 生産高が、革命前の水準のごく一部にまで落ち込んだ。
 最重要の軍需品工場群ですら、事実上は休止状態になった。
 労働者の生活水準が悪化するにつれて、ストライキや意図的遅延が常態化してきた。
 1919年の春のあいだ、ストライキが全国的に勃発した。
 都市のほとんどもまた、無関係ではなかった。
 食糧を十分に供給できるところは全て、ストライキ実行者が要求する表の最上位を占めた。
 ボルシェヴィキは、弾圧でもって答えた。多くはメンシェヴィキ支持者だと嫌疑をかけた数千の実行者を逮捕し、射殺した。(*5)//
 (7)イデオロギー上の理由で市場を拒絶していたので(原注+)、ボルシェヴィキは、その刺激なくしては、実力による脅迫以外には労働者に影響力を行使する手段をもたなかった。
 〔原注+/トロツキーは1920年に、NEPに似た市場改革の暫定案を提示した。しかし、中央委員会はそれを却下した。彼はただちに軍事化政策へと立ち戻った。自由取引によるのであれ強制によるのであれ、経済の復興が必要だった。〕
 ボルシェヴィキは、高い賃金という報償を与えることで生産を高めようとした。その報償はしばしば出来高と連結していて、異なる賃金支払いを排除するという革命の平等主義的約束へと戻ることになった。
 しかし、労働者は紙幣で多くの物を購入することはできなかったので、これは大した誘因とはならなかった。
 労働者を工場にとどめておくために、ボルシェヴィキは、現物で支払うことを強いられた。—食糧そのものか、または農民との交換に使うことのできる工場の製品のいずれかで。
 地方ソヴェト、労働組合および工場委員会は、 このような方法で労働者に支払う許可を求めて、モスクワを攻めたてた。そして、自分の権限でそのように行った。
 1920年までに、工場労働者の大多数は、自分たちの生産物の分け前で、部分的には支払われていた。
 労働者たちは、紙幣ではなく、釘が入ったバッグ、一ヤードの布を家に持って帰り、食料と交換した。
 意図されないかたちで、計画経済の中心で、初期的な市場がゆつくりと再び出現していた。
 この自発的な動きが阻止されないままであったなら、中央行政は国の資源の統制権を失い、そして生産を支配する権力も失っていただろう。
 1918-19年にこの動きを止めようとしたが失敗して、1920年以降は、止めるのではなく、労働者が不可欠で重要な工業に従事することが確実であるかぎりで、この自然な支払いを組織化しようとした。
 これが、重工業の軍事化の土台となった。戦略上重要な工場は、戒厳令が布かれることになる。労働者は赤軍の配給を保障されることになるが、その代わりに、作業現場には軍事的紀律が導入され、「工業前線」での脱走により射殺された者がいたために常時欠勤者があった。
 その年の末までには、主として軍需と鉱山の3000の企業が、このようにして軍事化された。
 兵士は労働者へと変わっていき、労働者は兵士へと変わっていった。//
 (8)これと結びついていたのは、一部は労働者により選出された合議制の経営委員会から、党階層により任命されるのが増えていた独任制管理者による単独経営へという、権力の一般的な移行だった。
 トロツキーは、選挙される軍事司令官から任命されるそれへの変化を引き合いに出して、これを正当化した。この変化が、内戦での赤軍の勝利の根源だったのだ、と。
 新しい経営者たちは、自分たちは工業軍の司令官なのだと考えた。
 彼らは、労働組合の諸権利は、軍での兵士委員会がかつてそうだったのと同じく、工業の規律と効率性に対する煩わしくて不要な邪魔物だと見た。
 トロツキーは、労働組合の党・国家装置への完全な従属を主張するまでにすら至った。このとき以降、「労働者の国家」には、労働者が自分たちの自立した組織をもついかなる必要も、もはやなくなった。(*6)//
 ——
 ②へとつづく。

2369/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 試訳のつづき。p.801-p.804。一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い④。
 (21)レーニンを除外することは、まさにスターリンが必要としたことだった。
 スターリンは、スパイを通じて、第12回党大会に対するレーニンの秘密の手紙を知っていた。
 自分が生き残って仕事を続けるためには、党大会でそれが読み上げられるのを阻止しなければならなかった。
 3月9日、スターリンは書記長としての自分の権限を使って、党大会を3月半ばから4月半ばへと延期させた。
 トロツキーは、党大会でスターリンが転落すれば最も利益を得る立場にあったけれども、遅らせることに進んで同意した。
 彼は、自分は「実質的にレーニンと合意している」が(つまり、ジョージア問題と党改革について)、「現状を維持するのに賛成」で、政治の「急激な変化」がなされるならぱ「スターリンの排除に反対」だと言って、カーメネフを安心させすらした。 
 トロツキーは、「策略ではない誠実な協力関係があるべきだ」という望みをもって、そう決断していた。
 この「腐った妥協」—まさにレーニンがトロツキーにそうしないよう警告していたもの—の結果は、スターリンが党大会で敗北ではなく勝利を獲得した、ということだつた。
 民族問題や党改革に関するレーニンの覚書は、代議員たちに配布された。そして討議されたが、指導部によって却下された。
 いずれにせよ、代議員たちのほとんどは、他の全問題の中でもとくに党の統一が必要なときに、民主主義について論議して時間を費やす必要はない、というスターリンの見解を支持していた。
 トロツキーを沈黙させ、政治局に対する批判を抑え込む切迫した必要が、それ自体、スターリンが権力へと昇りつめる決定的な要因となった。(*43)
 後継者問題に関するレーニンの覚書は、スターリンは解職されるべきだとの要求も含めて、党大会では読み上げられず、1956年まで隠されたままだった。(+)
 (+原書注記)—遺書の内容は、1924年の第13回党大会の代議員に知らされた。スターリンは退任すると申し出たが、ジノヴィエフの「過ぎ去ったことは過ぎ去ったこと」という提案によって却下された。レーニンとの対立はレーニンは病気で精神状態が完全に健全ではないという含みとともに、個人的衝突として黙過された。最後の覚書のどれ一つとして、スターリンが生きている間はロシアで完全には公表されなかった。1920年代の党のプレスで、断片的には伝えられたけれども。しかし、トロツキーとその支持者たちは、彼らの論評を西側に十分に知らせた(Volkogonov, Stalin, ch. 11)。//
 (22)トロツキーの行動を説明するのは困難だ。
 大勝利を獲得し得た、その権力闘争の決定的瞬間に、彼はどういうわけか自分の敗北を画策した。
 党大会で選出された新しい中央委員会の40名の中で、トロツキーはわずか3名の支持者だけを計算することができた。
 おそらくは、とくにレーニンの脳発作のあとでは、孤立が深まっているのを感じて、トロツキーは、三人組との宥和を試みることに希望を見出すことに決意した。
 彼の回想録は、自分は三人の指導者の陰謀に敗れたという確信で充ちている。
 トロツキーが彼らを拒むのを選べば、本当に現実的な危険が、たしかにあった。
 トロツキーは「分派主義」だと追及されていただろう。—1921年以降では、これは政治的な死刑判決だった。
 しかし、トロツキーには闘う勇気がなかったという意見にも、ある程度の真実はある。
 彼の性格には内面的な弱さが、自分の誇りに由来する弱さがあった。
 敗北するという見込みに直面して、トロツキーは闘わないことを選んだ。
 彼の最も古い友人の一人は、ニューヨークでのチェス遊びの話を語る。
 トロツキーは「明らかに自分の方がチェスが上手いと考えて」、彼を試合に誘った。
 だが、自分が弱くて、負けてしまったと判ると、機嫌が悪くなり、もう一度ゲームをするのを拒んだ。(*44)
 この小さな逸話は、トロツキーの特徴をよく示していた。自分を出し抜くことのできる優位の対抗者に遭遇したとき、彼は、不利な条件を克服しようとして面目を失うよりは、退却して名誉ある孤立をする方を選んだ。
 (23)これはある意味では、トロツキーがつぎに行ったことだった。
 党の最上級機関でスターリンと闘うよりは、指導部の「警察体制」と闘う党内民主主義の旗手のふりをして、ボルシェヴィキの一般党員たる地位を選んだ。
 これは絶望的な賭けだった。—彼の民主主義的な習性はほとんど知られておらず、恐ろしい「分派主義」に陥る危険があった。しかし、絶望的な苦境に立ってもいた。
 トロツキーは10月8日、党中央委員会に宛てて公開書簡を送り、党内の全ての民主主義を抑圧していると非難した。/
 「党組織の実際の編成に一般党員が関与することが、いっそう軽視されてきている。
 独特の書記局員心理がこの数年間に形成されてきており、その主要な特質は、基礎的な事実を知りすらしないで、党書記は全てのどんな問題でも決定する能力があるという信念だ。…
 政府と党機構のいずれにも、広範な階層の活動家党員がいる。その者たちは、党に関する自分たちの見解を、少なくとも公然と表明するかたちでは完全に抑制している。まるで、自分たちは党の見解と政策を形成する書記階層の装置にすぎないと見なしているかのごとくだ。
 意見を表明するのを抑制している広範な活動家階層の下には、多数の一般党員がいる。彼らにとっては、全ての決定は呼び出しか命令のかたちで、上から降りてくるのだ。」/
 いわゆる「46年グループ」は、トロツキーを支持した。—最もよく知られているのは、Antonov-Ovseenko、Piatakov、Preobrazhensky だ。
 彼らが主張するところでは、党にある恐怖の雰囲気は、昔からの同志ですら「お互いに気楽に会話するのを怖れる」ようになった、いうものだった。(*43)//
 (24)予想されたように、党指導部は、党内に非合法の「分派」を作り出すことになる危険な「基盤」形成に着手したと、トロツキーを非難した。
 10月19日、政治局は、トロツキーの批判に応答することなく、トロツキーに対する憎悪に満ちた個人攻撃文書を発表した。
 いわく、トロツキーは傲慢で、党の日々の仕事よりも自分自身を優先し、「全てか無か」(つまり「全てを与えよ、さもなくば何も与えない」)の原理でもって行動している。
 トロツキーは4日後に、党中央委員会幹部会に対して、「分派主義」批判への挑戦的な反論書を送った。
 10月26日、彼は、幹部会それ自体に現れた。//
 (25)最近まで、トロツキーはこの重要な会合に出席しなかった、と考えられていた。
 彼の伝記の二人の主要著作者、Deutscher とBroué はともに、風邪で欠席したとしていた。
 しかし、彼は出席しており、かつ実際に、スターリンの秘書でトロツキーの発言を書き写す責任があつたBazhanov は自分の書類簿にその発言書を封じ込めたと、力強く述べた。
 その書類簿は、1990年に発見された。
 トロツキーの発言は、かつて自分が反対した「ボナパルティズム」(Bonapartism)だという言い分を、情熱的に否定していた。
 彼がユダヤ出自の問題を持ち出したのは、この点でだった。
 野心を持たないことを証するために、彼は、反ユダヤ主義の問題があるためにユダヤ人が高い地位に就くのは賢明ではないという理由で、レーニンによる上級職の提示を固辞した二つの事例に論及した。—一つは、1917年10月(内務人民委員)、もう一つは1922年9月(ソヴナルコム副議長)。
 前者の場合は、レーニンが「些細だ」との理由で却下した。
 だが、後者の場合はレーニンは「私と一致した」。(*46)
 トロツキーの示唆の意味は明らかだった。
 党内での彼に対する反対は、—レーニンもこれを認めていたのだが—部分的には、彼がユダヤ人だということに由来している。
 生涯のこの分岐点で、非難されて党の前に立ちつつ、自分のユダヤ出自の問題に戻らなければならかったというのは、彼には悲劇的な時間だった。
 それは、自分をユダヤ人だと感じてこなかった人間にとって、今はいかにも孤独であることを示していた。//
 (26)トロツキーの感情的な発言は、委員たちにほとんど影響を与えなかった。—委員たちの多くは、スターリンが採用していた。
 102票対2票で、幹部会は、「分派主義」を行ったという理由でトロツキー譴責動議を採択した。
 カーメネフとジノヴィエフは、トロツキーは党から除名されるべきだと強く主張した。
 だが、つねに中庸者として立ち現れたいスターリンは、それは賢明ではないと考え、その提案を却下した。(*47)
 スターリンは、いずれにせよ、急ぐ必要はなかった。
 トロツキーは、有力な一つの勢力として終わった。そして、党からの彼の追放には、まだ月日があった。—最終的には、1927年にその日がやって来た。
 スターリンを阻止する力のある一人の男が、いまや排除された。//
 ——
 ⑤へとつづく。

2364/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」③。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.798-p.801. 一文ずつ改行。
 ——
 第三節・レーニンの最後の闘い③。
 (13)レーニンの最後の覚書は、三つの主要問題にかかわっていた。—いずれの点についてもスターリンが元凶だった。
 第一はジョージア案件で、ロシアは国境民族国との間のどのような統一条約に署名すべきかという問題だった。
 スターリンは、ジョージア出自であるにかかわらず、レーニンが内戦中に大ロシア民族排外主義だと批判したボルシェヴィキたちの先頭にいた。
 党内のスターリン支持者のほとんどは、同等に帝国主義的見方をもっていた。
 彼らは、国境地帯やとくにウクライナのロシア労働者による植民地化、原地の農民集団(小ブルジョア民族主義者)の抑圧を、共産主義権力の促進と同一視した。
 民族問題担当人民委員として、スターリンは9月遅くに、それまでに存在した三つの非ロシア共和国(ウクライナ、ベラルーシ、トランスコーカサス)は自治地域をもたず、中核的権限をモスクワの連邦政府に譲って、ロシアに加わらなければならないと提案していた。
 スターリンの提案は「自律化計画」と称されるようになったが、 ツァーリ帝国の「統一した唯一のロシア」を復元させるものだっただろう。
 それは、レーニンが連邦的統合計画の策定をスターリンの仕事として割り当てたとき、彼が想定していたものでは少しもなかった。
 レーニンは、ロシアに対する非ロシア人の歴史的な不満を正当なものと見ていた。そして、広範な文化的自由と同盟から離脱する正規の権利を(どのような意味であれ)もつ、(大きな民族集団には)「主権」共和国の地位を、(小さな民族集団には)「自治」共和国の地位を認めることで、これを宥和する必要があると強調した。//
 (14)スターリンの案は、ジョージアのボルシェヴィキたちによって激しく反対された。民族的権利を譲歩して、自分たちは脆弱な政治的基盤を樹立しようとしていることになる。
 スターリンとその仲間のジョージア人、モスクワのコーカサス局長のOrdzhonikidze はすでに1922年3月に、ジョージアの指導者たちの意見とは大きく異なり、ジョージアをアルメニアとアゼルバイジャンとともにトランスコーカサス連邦へと統合させていた。
 ジョージアの指導者たちは、スターリンとその子分はジョージアを彼らの領地のごとく扱い、自分たちの気持ちを踏みにじっていると感じた。
 彼らは自律化計画を拒否し、モスクワが押し通すならば脱退すると脅かした。(+)
 (+原書注記)—その他の共和国の反対は、より慎重なものだった。ウクライナはスターリンの提案に関する意見を提出するのを拒み、べラルーシはウクライナの決定に従うつもりだと言った。//
 (15)レーニンが介入したのは、この点だった。
 彼はまず初めに、スターリンの側に立った。
 スターリンの提案は望ましいものではなかったけれども—のちに1924年に批准されてソヴィエト同盟条約となる連邦的同盟のために諦めるよう、レーニンは強く主張した—、ジョージアが最後通告を発したのは間違いだった。彼はそのように、10月21日の電話で怒って告げた。
 その翌日、ジョージア共産党の中央委員会全員は、抗議して辞職した。
 このようなことは、党の歴史上かつてなかった。
 しかしながら、11月遅くから、レーニンが概してはスターリンに反対し始めていたとき、彼の見地が変わった。
 ジョージアからの新しい証拠資料によって、レーニンは再考した。
 レーニンは、Dzerzhinsky とRykov が率いる事実解明委員会を、Tiflis に派遣した。彼はその委員会から、論議の過程でOrdzhonikidze が、傑れたジョージアのボルシェヴィキたちをひどい目に遭わせたことをことを知った(彼らはOrdzhonikidzeを「スターリン主義者のくそったれ」と呼んだ)。
 レーニンは、激怒した。
 それはスターリンが粗暴さを増しているとの彼の印象を確認するもので、ジョージア問題を異なる観点から考えるようになった。
 レーニンは、12月30-31日の党大会に対する文書で、スターリンを旧式のロシア民族排外主義者、「ごろつきの暴君」に喩えた。そのような者は、ジョージアのような小さい民族を苛めて従属させることができるだけで、ロシアの支配者に必要なのは「奥深い慎重さ、感受性」であり、かつ正当な民族的要求に対して「譲歩をする心づもり」だ。
 レーニンはさらに、社会主義連邦では、「現実にはある不平等を埋め合わせる」ためには、ジョージアのような「被抑圧民族」の諸権利は「抑圧者たる民族」(すなわちロシア)のそれよりも大きくなければならない、とすら主張した。
 1月8日の、彼の生涯の最後になる手紙で、レーニンはジョージアの反対派たちに、「私の全ての心を込めて」彼らの主張を支持するだろう、と約束した。(*38)//
 (16)その遺書でのレーニンの第二の主要な関心は、今ではスターリンの統制下にある党の指導機関の権力増大を阻止することにあった。
 彼自身の命令が至高のものだった2年前、レーニンは、党内での一層の民主主義と<glasnost>〔情報公開〕を求める民主主義的中央派の提案を非難していた。
 しかし、スターリンが大きな独裁者となった今では、レーニンが類似の案を提出した。
 彼は、党の下部機関にいる一般の労働者や農民から募った50名ないし100名を加えて、中央委員会を民主化することを提案した。
 レーニンはまた、政治局に説明責任を負わせるため、中央委員会はすべての政治局会合に出席し、それらの文書を調査する権利をもつ必要がある、と提案した。
 さらには、中央統制委員会は、Rabkrin と統合し、300名ないし400名の意識ある労働者の組織へと簡素化して、政治局の権力を調査する権利をもたなければならない、とも。
 このような提案は、時機に遅れた努力だった(多くの点でGorbachev の<perestroika>と似ていた)。党幹部と一般党員の間の広がる溝を架橋しようとし、社会に対する党の全面的な支配力を失うことなく、指導部をより民主主義的に、より公開的でより効率的にしようするものだったが。//
 (17)レーニンの最後の文書の最後の論点は—そしてはるかにかつ最も爆弾を投じたような効果があったのは—、後継者の問題だった。
 レーニンは、12月24日の覚書で、トロツキーとスターリンの対立への懸念を漏らしていた。中央委員会の規模を拡大しようと提案していた理由の一つは、ここにあった。—そして、まるで集団的指導制の擁護を覆すかのごとく、多数の党指導者たちの欠陥を指摘し始めた。
 カーメネフとジノヴィエフは、十月にレーニンに反対の立場をとったことで、批判された。
 ブハーリンは、「全党のお気に入りだ。しかし、その理論的見地は、留保付きでのみマルクス主義者だと分類することができる」。
 トロツキーについては、彼は「現在の中央委員会の中では、個人的には最も有能な人間だ。しかし、過剰な自信を示してきており、仕事の純粋に管理的な側面に過剰に没頭してきている」。
 だが、レーニンの最も破壊的な批判が用意されていたのは、スターリンについてだった。
 書記長になって、彼は「無制限の権力を手中に積み重ねてきた。だが、私には、彼が十分に慎重にこの権力を用いる仕方をいつも分かっているのかどうか、確信がない」。
 1月4日にレーニンは、つぎの覚書を付け足した。/
 「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、我々の間では我慢することができ、共産主義者の中では何とかあしらうことができるけれども、書記長としては耐え難いものになる。
 この理由で、私は、同志諸君がスターリンをその地位から排除して、つぎのような別の者と交替させることを考えるよう、提案する。その者は、同志スターリンよりもただ一つでも優れた点を、すなわち、寛容さ、忠誠さ、丁重さ、同志諸君への配慮をもつ、そして気紛れではないこと、等。」(*39)/
 レーニンは、スターリンは去らなければなないことを明瞭にしていた。//
 (18)レーニンの決意は、3月の最初にさらに強くなった。彼には秘密のままにされていたが、その頃、数週間前にスターリンとKrupskaya の間で起きたことを知ったからだ。
 12月21日にレーニンはKrupskaya に、外国通商独占に関するスターリンとの闘いでの戦術が勝利したことを祝うトロツキーへの手紙を、口述した。
 スターリンの情報提供者が、この手紙について知らせた。スターリンは、この手紙は自分に対抗するレーニンとトロツキーの「連合」の証拠だ、と捉えた。
 その翌日、スターリンはKrupskaya に電話をした、そして、彼女自身が述べるところでは、彼女に向かってレーニンの健康に関する党規則を破ったと主張し、中央統制委員会で彼女の取調べを始めると脅かして、「嵐のような粗野な雑言」を浴びせた(医師たちは彼女が口述聴取をするのを認めていたけれども)。
 受話器を置いたとき、Krupskaya の顔は蒼白になっていた。異様に興奮して泣きじゃくりながら、部屋を歩き回った。
 スターリンによるテロルの支配が始まっていた。
 3月5日にレーニンがこの事件についてやっと知らされたとき、彼はスターリンに対して、「粗暴さ」を詫びよ、さもないと「我々の関係は壊れる」危険がある、と要求する手紙を書き送った。
 権力をもって完全に傲慢になっていたスターリンは、無礼な返書で、死にゆくレーニンに対する軽蔑の気持ちをほとんど隠そうとしなかった。(+)
 〔(+原書注記)—1989年まで公表されなかった。〕
 スターリンはレーニンに思い起こさせた。Krupskaya は「あなたの妻であるだけではなく、私の古くからの同志だ」。
 二人の「会話」の間、自分は「粗暴」ではなかった、事件の全体が「愚かな誤解にすぎない。…」
 「しかしながら、あなたが『関係』の留保について考えると言うなら、私は上の言葉を『撤回』する。
 この全体がどのように想定されているのか、あるいはどこに私の『落ち度』があるのか、いったい何が正確には私に求められているのか、を理解することができないけれども、私は撤回することができる。」(*40)//
 (19)レーニンは、この事件で打ちのめされた。
 彼は一夜で病気になった。
 医師の一人は3月6日に、状態をこう記した。
 「Vladimir Ilich は、狼狽し、怯えた表情を顔に浮かべて横たわっている。目は悲しげで尋ねる眼差しがあり、涙が顔をつたって落ちている。 
 Vladimir Ilich は、取り乱し、話そうとするが、言葉が出てこない。
 そして、『しまった、畜生。昔の病気がぶり返した』とだけ言う。」
 3日後、レーニンは3回めの大きな脳発作を起こした。
 話す力を奪われ、そして政治のために働く力も奪われた。
 10ヶ月後に死ぬまで、一音節を発することができるだけだった。—<vot-vot>(「ここ、ここ」)、<s'ezd-s'ezd>(「大会、大会」)。(*41)//
 (20)レーニンは5月に、Gorki に移された。そこには医師団が、彼の世話をするために配置された。
 晴れた日には、レーニンは外に座っていたものだ。
 ある日、甥の一人が彼を見た。
 レーニンは「開襟の白い夏シャツを着て車椅子に座っていた。
 かなり古い帽子を頭にかぶり、右腕はいくぶん不自然に膝の上に置かれていた。
 私は空地の真ん中にはっきりと立っていたけれども、そうしてすら彼はほとんど気づかなかった。」 
 Krupskaya は彼に読んで聞かせた。—Gorky とTolstoy が最も慰めとなった。そして虚しくも、彼に話し方を教えようと頑張った。
 9月までには、杖と整形外科用の靴の助けを借りて、彼は再び歩くことができた。
 彼はときどき、車椅子を自分で押して地上を回った。
 モスクワから送られる新聞を読み始め、Krupskaya の助けで、左手を使って少しだけ書くことを学んだ。
 ブハーリンは秋に、レーニンを訪問した。のちに彼がBoris Nikolaevsky に語ったところによると、レーニンは、自分の後継者は誰かと、執筆できなかった論文を深く気にかけていた。
 しかし、彼が政治の世界に戻ってくるかは、問題ではなかった。
 政治家としてのレーニンは、すでに死んでいた。(*42)//
 ——
 ④へとつづく

2362/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)-第16章第3節「レーニンの最後の闘い」①。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.793-5。一文ずつ改行。
 ——
 第16章・死と離別。
 第三節・レーニンの最後の闘い①。
 (1)レーニンの体調が悪い兆候が明らかになったのは1921年で、その頃彼は、頭痛と疲労を訴え始めた。
 医師たちは診断することができなかった。—身体上の衰弱の結果であるとともに、精神的な支障のそれでもあった。
 過去4年間、レーニンは、事実上は休みなく、毎日16時間働いていた。
 本当に休んだ期間だったのは、ケレンスキー政府から逃げていた1917年の夏と、1918年8月のカプランの暗殺未遂からの回復に必要とした数週間だけだった。
 1920-21年の危機は、レーニンの健康に対して多大の負担を課した。
 「レーニンの憤激」による肉体的兆候は、つまりKrupskaya がかつて叙述したような不眠と苛立ち、頭痛と極度の疲労は、労働者反対派や国土全体での反乱との激烈な闘いの間に、レーニンを悩ませつづけた。
 クロンシュタットの反乱者、労働者と農民、メンシェヴィキ、エスエル、聖職者たちは逮捕され、多数の者が射殺され、レーニンの憤激の犠牲となった。
 1921年夏までに、レーニンはもう一度勝利者として立ち現れた。
 だが、彼の精神的な消耗は、誰が見ても明瞭だった。
 記憶の喪失、会話の困難、奇妙な行動が見られた。
 何人かの医師は、レーニンの腕と首にまだあるカプランの二発の銃弾に毒性があったことに原因があると判断した(首の中の一つは1922年春に外科手術により除去された)。
 しかし、 別の医師たちは、脳性麻痺ではないかと疑った。
 この推測の正しさは、1922年5月25日にレーニンが最初の大きな脳発作に見舞われたことで、確認された。それによってレーニンは、右半身が事実上不随になり、しばらくの間は言葉を発せられなかった。
 その死まで世話をすることとなった妹のMaria Ul'ianova によると、兄のレーニンは、今や「自分の全てが終わった」と認識した。
 彼はスターリンに、自殺するために毒をくれ、と頼んだ。
 Krupskaya はスターリンにこう言った。「彼は生きたくない。これ以上生きることはできない」。
 彼女はレーニンにシアン化合物(cyanide)を与えようとしたのだったが、おじけづいた。それで二人で、「情緒の乏しい、しっかりして断固たる人物」であるスターリンに頼むことに決めた。
 スターリンはのちに死の床に同席することになるけれども、レーニンの死を助けるのを拒んだ。そして、政治局会議で、反対の一票を投じた。
 当分の間は、スターリンにとって、レーニンは生きている方が役に立った。//
 (2)レーニンが1922年夏に、Gorki にある国の家で回復している間、彼は自分の後継者問題に関心を寄せた。
 この問題の処理は、苦痛となる仕事に違いなかった。全ての独裁者がそうだろうように、自分自身がもつ権力に激しく執着し、明らかに他の誰も十分には継承できないと考えただろうからだ。
 レーニンが最後に記した文章は全て、自分を継承するのは集団的指導制がよいと考えた、ということを明らかにしている。
 彼はとくに、トロツキーとスターリンの間の個人的な対立を憂慮した。自分がいなくなればこの対立が党を分裂させかねない、ということが分かっていた。そして、両者の均衡をとることで、分裂を予防しようとした。//
 (3)レーニンの目から見ると、両者に長所があった。
 トロツキーは、輝かしい演説者であり、行政官だった。内戦に勝利する上で、彼ほどに力を発揮した者はいなかった。
 しかし、トロツキーの自負と傲慢さによって—過去にメンシェヴィキだった経歴やユダヤ人的な知的な風貌はもちろんのこと—、党内では人気がなかった(軍隊と労働者反対派の両方ともに、大部分は彼に個人的に反対だった)。
 トロツキーは、生来の「同志」ではなかった。
 彼はつねに、集団的指揮の場合の大佐であるよりも、自分の軍の将軍でありたかっただろう。
 党員各層内で彼を「外部者」たる地位の置いたのは、まさにこの点だった。
 トロツキーは、政治局の一員だったけれども、党の職位にあったことがなかった。
 彼は、稀にしか党の会合に出席しなかった。
 レーニンのトロツキーに対する気持ちを、Maria Ul'ianova はこう要約した。
 「彼はトロツキーに共感していなかった。—あまりに個性的すぎて、彼と集団的に仕事するのをきわめて困難にしている。
 しかし、彼は勤勉な働き手であり、才幹のある人物だ。V.I.〔レーニン〕にはそれが主要なことだったので、彼を候補に残そうとしつづけた。
 それが意味あることだったか否かは、別問題だ。」(*31)//
 (4)スターリンは、対照的に、最初は集団的指導制という必要性にははるかに適任であるように見えた。
 彼は内戦中は他の誰も望まない莫大な数の指令的業務をこなしていたので—彼は民族問題の人民委員、Rabkrin〔行政管理検査院〕の人民委員、革命軍事評議会の一員だった—、その結果として、すみやかに穏健で勤勉な中庸層の評価をかち得た。
 Sukhanov は1917年に、彼を「灰色でぼやりした」と描写した。
 全ての党指導層の者が、スターリンの潜在的な力とその力を行使したいという野心を、過少に評価するという間違いを冒した。そうした後援の結果として、彼は徐々に多くの地位を獲得するに至った。
 レーニンは、他の者たちとともに、スターリンの選抜について責任があった。
 なぜなら、レーニンは彼ほど不寛容な人物にしては、スターリンの多くの悪業については、党の統一を守るためにはスターリンが必要だと信じて、じつに顕著な寛容さを示したからだ。その悪業の中には、レーニン自身に対する粗暴さの増加もあった。
 このような理由で、スターリン自身が要求し、かつ明らかにカーメネフの支持を受けて、レーニンは1922年4月に、スターリンを初代の党総書記〔書記長〕に任命することに同意した。
 これはきわめて重大な指名だったと、のちに判ることになる。—まさにこれが、スターリンが権力を握るのを可能にした。
 だが、レーニンはこのことに気づくに至り、スターリンをその職から排除しようとした。しかし、そのときはもう遅すぎた。(*32)//
 (5)スターリンの権力の増大の鍵は、地方の党機構を彼が統御したことにあった。
 書記局の長および組織局での唯一の政治局員として、友人たちを昇進させ、対抗者たちを解任することができた。
 1922年だけの期間に、組織局と書記局によって1万人の地方官僚が任用された。これらのほとんどは、スターリンの推薦にもとづくものだった。
 この彼らは、1922-23年のトロツキーとの間の権力闘争の際に、スターリンの主要な支持者となる。
 スターリン自身と同様に、彼らの多くはきわめて貧しい出身基盤をもち、正規の教育をほとんど受けていなかった。
 彼らは、トロツキーのような知識人に不信を抱き、スターリンの知恵を信頼する方を選んだ。スターリンは、イデオロギーが問題であったときに、プロレタリアの団結とボルシェヴィキの紀律を単純に訴えかけたのだつた。//
 (6)レーニンは、モスクワによる「任用主義」によるスターリンの権力増大を、地方での反対派(例えば労働者反対派は1923年までウクライナとSamara に残っていた)の形成を抑止するものとして、受け入れた。
 スターリンは、書記長として、潜在的な悶着者を地方の党機構から根こそぎ排除することに多くの時間を使った。
 チェカ(1922年にGPUと改称)から毎月、地方の指導者たちの活動に関する報告書を受け取った。
 スターリンの個人的秘書のBoris Bazhanov は、パイプを吹かせながらクレムリンの広い仕事場を行ったり来たりする彼の癖を思い出す。スターリンはそして、あれこれの党書記を除外し、その者をあれこれの別の者に交替させよと、ぶっきらぼうに指示したものだった。
 政治局員を含めて、1922年の末までにスターリンの監視の下に置かれなかった党指導者はほとんど存在しなかった。
 レーニン主義正統を遵守するという外装をとりつつ、スターリンはこうして、自分の対抗者全員に関する情報を収集することができた。その中には、彼らが秘密のままにしておきたいだろう多くの事があり、スターリンはそれを自分に対する忠誠さを確保するために利用することができた。(*33)//
 (7)レーニンが脳発作から回復している間、ロシアは三頭制(triumvirate)で統治されていた—スターリン、カーメネフおよびジノヴィエフ。これは、1922年の夏の間に、反トロツキー連合として出現した。
 この三人は党の会合の前に集まって自分たちの戦略に合意し、票決の仕方を支持者たちに指令した。
 カーメネフは長い間、スターリンを好んでいた。二人は一緒にシベリアへの流刑に遭っていた。また、レーニンが十月のクー反対を理由としてカーメネフを党から追い出そうとしたとき、スターリンは彼の防御へと回った。
 カーメネフは党を指導したいとの野心があり、そのことで、より重大な脅威だと彼は見なしたトロツキーに対抗するスターリンの側に立つようになつた。
 トロツキーはカーメネフの義兄だったので、これは、親族よりも党派を優先することを意味した。
 ジノヴィエフについて言うと、彼はスターリンをほとんど好んではいなかった。
 しかし、トロツキーに対する嫌悪が大変なものだったので、敵を打倒するのに役立つかぎりで、悪魔と手を組んだのだろう。
 二人は、党の主導権の獲得に近づくために、凡庸な人間だと見なしたスターリンを利用していると思っていた。
 しかし、スターリンが彼らを利用していた。そして、いったんトロツキーを打倒すると、彼はこの二人の破滅に乗り出すことになる。//
 ——
 ②へつづく。

2319/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文①。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者による序文の試訳。
 なお、<コルィマ物語>には、別に、以下の英訳書もある。
 Varlam Shalamov, Kolyma Tales, translated by John Glad(Penguin, 1980〜)。
 少なくとも翻訳の仕方は異なっているだろう。内容(対象範囲)にも違いがあるかもしれない。
 邦訳書はないと見られる。シベリア北東部の極北の<コルィマ>強制収容所のかつての存在自体が、日本ではほとんど知られていないだろう。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に原文にはない数字番号を付す。
 ** 
 序文(Introduction)—Donald Rayfield。
 (01) ヴァーラム・シャラモフ(Varlam Shalamov)は、スターリンの最悪の収容所での15年の稀少な生存者で、最も寒くて居住に最も適さない場所の一つであるコルィマの金鉱で、奴隷として6年間を過ごした。そのあとで、受刑者収容所の医療従事者として少しは耐えられる生活を送った。
 彼はこの収監の前に、若干の散文といくつかの詩文を書いていた。しかし、彼の七巻の散文、詩文、戯曲概要はほとんど全て、1953年のスターリンの死から1970年代後半のシャラモフ自身の身体および精神の不調の中で書かれた。//
 (02) 我々が収集して翻訳したのは短い物語から成る六冊の書物で、三冊ずつ合わせて二巻本として出版される予定だ。ほとんどは彼がコルィマにいた時期に関するものだが、北部ウラルの収容所で「矯正労働」をした1929年から1931年の初期に関する若干を含み、Vologda での青年期を思い出す一、二を含んでいる。
 自伝と虚構の間の境界はきわめて曖昧だ。つまり、これらの物語の事実上は全てを、シャラモフは体験するか、目撃した。
 彼の作品は、受刑者やその抑圧者たちの多数の実名で溢れている。
 彼自身はたんに『I』または『シャラモフ』として、ときにはAndreyev とかKrist とかの仮名で登場する。
 かくして諸物語は、彼の人生の最初の50年間の自叙伝となっている。//
 (03) シャラモフは、中世以来政治犯用の流刑地だった北部の町であるVologda で生まれた。そして、幼い少年の頃、天敵となるJoseph Stalin と一緒に小径を横切ったかもしれなかった。スターリンは、1911年と1912年に定期的に、Vologda にある宿泊所から立派な公共図書館へと歩いて通っていた。
 聖職者の子息であるシャラモフは(Anton Chekhov のように)宗教の形象と言語で充たされていたが、若いときから全ての信仰を拒否した。
 彼の父親から継承したのは、不屈の頑固さと権威に対する抵抗心だった(父親は、アリューシャン列島の宣教師を務めた非凡な人物で、政治的リベラリズムに共感し、他宗教への寛容さを説いたが、家族員に対しては専制的だった)。
 シャラモフの父親は、単純な手術を拒んだのちに盲目になった。
 父親はシャラモフにも、費用のかかる鼻腔手術を受けさせなかった。それによって、息子は嗅覚を失った。また、老年になってメニエール症にかかった原因になったかもしれない。//
 (04) Vologda は、ロシアの内戦中、とくに1918年には、ぞっとするような残虐行為が行われた舞台だった。その年に、サイコパスのMikhail Kedrov が、シャラモフの化学の教師を含む民間人の人質を射殺した。
 それにもかかわらず、シャラモフは革命に、とくにトロツキスト派に共鳴した。共産主義者によって、聖職者の子息だとして、高次の教育から排除されたとしても。
 そのとき教会から追放されていた彼の両親は、極貧の中で生活していた(『The Cross』物語を見よ)。シャラモフのときたまの稼ぎでは、生活は楽にならなかった。
 彼は皮革工場で働き、数学と物理で良い成績を挙げて、やがて(ソヴィエト法を勉強するために)モスクワ大学に入るのを許された。しかし、一人の仲間が『社会的出自を隠している』と彼を非難したことにより、追放された。
 彼は報道業界に入って不安定な収入を獲得し、レーニンの遺書の公表を(多数のトロツキストと同様に)要求する学生運動に関与したとして、初めて逮捕された。その遺書とは、スターリンを名指しして、粗雑で権力妄者だから党の総書記には任命できないとした文書だった。//
 (05) シャラモフは、コルィマと比較してのみ緩やかだと思えるような条件で、化学工場建設場で3年を過ごした。
 1931年、秘密警察の呼称だったOGPU の意向に反して釈放された。だが、嫌がらせを受けずに、モスクワで生活し、働くことができた。
 1934年、Galina Gudz と結婚した。
 1935年、娘のElena が生まれた。 
 Galina の兄のBoris Gudz はOGPU の工作員で、この結びつきに戦慄した。
 彼はシャラモフに、今ではNKVD(内務人民委員部)と称されている秘密警察に文書を書くよう圧力をかけた。
 その結果は最悪だった。シャラモフは逮捕され、反革命のトロツキスト活動をしたとして、最初はコルィマでの5年の判決を受けた。ちょうどその頃、大テロルがあり、ほとんどのトロツキストは射殺されるべきものとされていた。
 (Gudz の家族も弾圧を逃れることができなかった。シャラモフの妻と娘はトゥルクメニスタンへと追放された。Boris Gudz は秘密警察を解職され、バス運転手になった。その一番上の姉のAleksandra も抑圧された。)//
 (06) シャラモフはその散文で、結婚に伴う諸問題について言及するのを完全に避けた。
 コルィマでの体験と生存という奇跡は、諸物語の中で絵を見るように報告されている。
 解放と「名誉回復」(当局による無実の承認と二ヶ月分の俸給支払い)後に関する彼の自伝叙述は、しかしながら、会話や残っている若干の手紙類の記録によって、再構成される必要がある。
 彼の婚姻関係は、すみやかに崩壊した。
 娘は、月並みに育て上げられたスターリン主義者として、父親は死んでいるか犯罪者だと好んで考えた。
 2年後、彼はOlga Nekliudova と結婚した。
 この結婚関係は1966年まで続いたが、決して幸せなものではなかった。
 シャラモフは、多数のかつての収容所受刑者と同様に、可能な限り語らないという原則を維持した。第三者(情報提供者である可能性があった)が現存しているときには、決して語らなかった。
 いずれにせよ、自分の父親に似て、彼は女性についての父権的見方を持っていた。//
 **
 ②へとつづく。

2282/L. Engelstein, Russia in Flamesー第6部第1章第一節②。

 L. Engelstein, Russia in Flames—War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 第6部第1章の試訳のつづき。
 第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
 ——
 第一節②。
 (9)もちろん、移行を瞬時に行うことはできない。
 1918年にはずっと、私的所有制がなおも一般的で、様々な当事者—起業者、労働組合、国家—の間で交渉が継続した。
 工場委員会は、私的所有の事業体の中でまだ活動しており、政治的な番犬のごとく振る舞っていた。
 1920年4月の第9回党大会になってようやく、委員会は労働組合に従属した。労働組合はいまや国家の腕になっていた。(11)
 トロツキーが技術的専門家の利用、職場紀律の賦課、そして実力による強制—赤軍の勝利の背後にあったモデル—を強調したのは、このときだった。
 この党大会で、そしてその後の労働組合大会で採択された決定は、労働者委員会を権限ある管理者に服従させた。(12)
 レーニンが観察したように、労働者には工場を稼働させる能力がなかった。
 国家は、その本来の利益からして、「階級敵」との協働を必要とした。
 あるいは、マルクス主義の用語法で言うと、(理論上は)政治権力をもつ階級(プロレタリアート)は、経済的権力を行使することができない。
 プロレタリアートの地位は、1789年のフランスのブルジョアジーとは対照的だ。彼らは、政治的権力を獲得する前に経済を先ず支配した。
 (10)上意下達の支配と草の根の(プロレタリア)民主主義の間に元々ある緊張関係は、真にプロレタリアートの現実の利益を代表する国家の働きによって解消される、と想定されていた。
 ソヴィエトの場合は、この緊張関係は、民衆の主導性の抑圧とプロレタリアートによる支配というフィクションによって究極的には解消された。
 しかしながら、その間に、「国家」自体が緊張で引き裂かれた。
 中央による支配の達成は、中央においてすら、容易なことではなかった。
 市民の主導性をやはり抑圧した、そして戦争をするという挑戦にも直面した君主制のように、ボルシェヴィキの初期(proto)国家は、中央と地方、上部と下部の間のみならず、経済全体の管理と軍隊に特有な需要との間の緊張関係も経験した。
 1917年以前と同様に、制度上の観点からする対立が明らかになった。
 今では、中央の経済権力(VSNKh)は、生産の動員と物的資源を求める赤軍と競っていた。
 実際、軍はそれ自身の経済司令部を設け、VSNKhとともに生産の監督を行なっていた。
 中央や諸地方にある多様な機関が、希少な原料と燃料を求めて競争していた。
 金属の供給が再び始まったのは、ようやく1919年のウラルの再奪取があってからだった。(14)
 (11)経済の崩壊という圧力のもとで出現したもう一つの不安は、労働力不足だった。
 人々が食糧を求めて田園地域へと逃亡するにつれて、都市は縮小した。
 配給は十月の直後から導入されていたが、配達は不確実で、量は乏しかった。
 1917年と1920年の間に、ペテログラードは人口の3分の2を喪失した。モスクワは2分の1を。(15)
 全体としては、産業労働力は60パーセント減少して、360万人から150万人になった。
 最も気前のよい配給を好む労働者たちの苦痛は、食糧不足と都市部での生活水準の低下を示す指標となった。
 工場を去った労働者たちのおよそ4分の1は、赤軍に入隊した。(16)
 志願兵は最も未熟な労働者の出身である傾向があった。彼らは、赤軍が提供する多様な物質的な刺激物によって最大の利益を得た。—とくに、食事と金銭手当。
 概して言って、多数の労働者は単純に、どんな戦争でも戦闘をしたくなかった。(17)
 とどまった熟練労働者たちは、教育を受けたイデオローグたちの政治的見解を共有している傾向にあった。
 彼らはしたがって、草の根権力からの逸脱が含んでいる政治的裏切りをより十分に理解することができた。また、ボルシェヴィキ支配により抵抗しがちだった。
 (12)労働者を規律に服させることは、最優先の課題になった。
 最も熟練した者であっても、プロレタリアートは、経済はむろんのこと工場を運営する能力がなかったということでは済まない。彼らは今や、労働を強いられなければならなかった。
 労働人民委員部は、建設、輸送その他の緊急の業務のために人的資源を用いた。
 1919年6月に、モスクワとペテログラードで労働カードが導入された。
 雇用されていることの証明が、配給券を獲得するには必要とされた。
 一般的な労働徴用は、1920年4月に始まった。(18)
 だが、長期不在(逃亡)や低い生産性が持続した。
 食物は、武器になった。
 配給は、労働の種類、熟練の程度、生産率によって割り当てられた。
 いわゆる専門家には報償が与えられ、欠勤や遅刻には制裁が伴った。
 労働組合は、社会主義原理の侵犯だとして、賃金による動機付けや特別の手当の制度に異議を申し立てた。
 1920年頃には、インフレがあって、労働者たちは現物による支払いを要求した。
 彼らは、国家に対する犯罪だと見做されていたことだが、工場の財産を盗んで、物品を自分たちのものにした。(19)
 労働徴用に加えて、当局はまた別の強制の形態に変えもした。
 1920年初めに始まったのだが、多くは非熟練の農民労働者だった動員解除されていた兵士が労働部隊に投入され、鉱山や輸送、工業および鉄道の、燃料のための木材を集めるために使われた、
 トロツキーは、第9回党大会で、工場労働力の軍事化も呼びかけた。
 労働人民委員部への登録は義務となり、不出頭は脱走だとして罰せられた。(20)
 (13)どこでもあることだが、しかし彼らの支持層との関係では驚くことに、ボルシェヴィキは、実力(force)の行使について取りすましてもおらず、かつ釈明的でもなかった。
 ブハーリン(Nikolai Bukharin)は1920年に、「プロレタリア独裁のもとでは、強制は初めて本当に、多数派の利益のための多数派の道具となる」と誇った。
 レーニンは述べた。「プロレタリアート独裁は強制(compulson)に、そして国家による最も苛酷で決定的な、容赦なき強制(coercion)に訴えることを、いささかも恐れない。先進的階級、資本主義により最も抑圧された階級は、強制を用いる資格がある」。(21)
 思うのだが、この場合は、(本当にプロレタリアートであるならば)プロレタリアートは、そのゆえに、自分たち自身に対して強制力を行使していた。
 (14)強制はかくして、戦時共産主義として知られるようになったものの基礎的で逆説的な要素だった。—産業の国有化、労働徴用、労働の軍事化、穀物挑発。
 これは、彼らが与えようとはしたくない、またはそれを躊躇するものを労働する民衆から絞り出させるというシステムだった。—適正な補償なくして、労働やその果実を奪う、という。
 また、民衆の一階層(飢えた労働者)を他者(屈強だか、やはり飢えた農民)に反対するように動員するシステムだった。
 労働者たちはある範囲では、赤衛軍や食糧旅団で、国家権力の装置となった。国家権力は彼らを代表するとされたものだったが、ますます彼らを制約した。
 農民たちは、兵士であるかぎりでは自ら国家装置に加入したことになる。
 農民と労働者のいずれも、抵抗という暴力的形態でもって、この装置に対応することもした。
 (15)労働者組織(委員会、組合、ソヴェト、党内からの指導者)—これらは、生まれようとする資本主義秩序に対する反対派を構成し、反対はあらゆる党派の革命的な活動家によって形成された—は、ボルシェヴィキが闘争を策略でもって勝利する基盤となった。
 しかし、労働者組織はまた、ボルシェヴィキ支配に対する社会主義者の抵抗の基盤ともなった。
 左翼側にあるこの批判は、経済的社会的危機に直面した労働者自身の絶望と怒りに、構造を付与した。
 従前のように、土台にある労働者たちはしばしば、自分たちの指導者に反対した。
 要するに、帝政を打倒するのを助け、ボルシェヴィキによって培養されて権力奪取に利用されたのと同じ怒りと熱情が、ひとたび彼らが自分たちで権力を振る舞おうとするや、難題を突きつけたのだ。
 (16)本質を突き詰めていえば、社会主義の基礎的な諸命題は、労働者や農民が共鳴するものだった。—搾取者と被搾取者の二分論、「民主主義」対「ブルジョアジー」、防衛側にいる者と攻撃する側にいる者の対立、賃金労働者対上司たち。
 イデオロギーの素晴らしい点は、抽象的にはほとんど違いをもたらさない。
 メンシェヴィキ、エスエル(これらはいずれも内部で分裂した)およびボルシェヴィキの様々な訴えは、特有な状況を反映していた。
 工場労働者は、実際には、自分たち自身の制度を創設し、自分たちの指導者を生み出す能力を持っていた。
 社会主義知識人たちは、たんに騙されていたのではなかった。しかし、労働者大衆は、激しくて規律のない暴力(violence)を行使することも、自分たちの利益を代表するとする代弁者に反対することもできた。
 (17)1917年十月の後で、集団的行動は継続した。—今度は、体制に対して向かった。その体制は、経済生活の最高の主人だと自分たちを位置づけていた。
 この最高の主人は、しかしながら、自分の国家装置に対する差配をできなかった。
 政策の適用と影響は場所によって、地方的支配の態様によって異なった。
 最も先進的な企業や優れた労働組合の所在地であるペテログラードでは、
地方ボルシェヴィキは、労働者組織に対して厳しい統制を敷いた。
 モスクワでは、レーニンのプラグマティックな考えによって、妥協はより容易だった。
 ウラル地方では、左翼ボルシェヴィキ、左翼エスエル、メンシェヴィキが、影響力を目指して闘った。—その雰囲気は、激烈だった。
 そしてじつに、ソヴィエト当局に対する最も激しい労働者反乱が発生したのは、このウラルでだった。(22)
 (18)ウラルでの十月の影響は、厄災的だった。
 市議会(City Duma)やzemstvo のような市民組織は、瓦解した。
 ボルシェヴィキは、非常措置を用いた。—残虐な徴発、身柄拘束、食糧を求めての村落の略奪、私的取引の禁止(没収)。これらは全て、歴史家のIgor Narskii が述べるように、農民たちの抗議の波を誘発しつつも、「枯渇に至るまでの人口の減少」をもたらした。
 どの都市も、どの大工業施設も、自ら閉鎖した。そして、窮乏(deprivation)という別の世界に変わった。(23)
 ——
 第一節、終わり。

2281/L. Engelstein, Russia in Flamesー第6部第1章第1節①。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の書の以下だけを、すでに試訳した。
 ・第6部・勝利と後退/第2章・革命は自分に向かう。・結語。原書、p.606-p.632.
 上の直前の第1章に戻って、試訳を再開する。p.585以下。
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 第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
 第一節。
 (1)驚くかもしれないが、内戦の混乱と暴虐があったことを考えると、不安定なボルシェヴィキ体制は非資本主義経済の基礎を何とか築こうとしていた。
 ボルシェヴィキは、先行体制からいくつかの問題、戦略、諸制度を継承した。第一には穀物の徴発と戦争関連産業の結集だったが、引き継いだ国家装置は崩壊の途上にあり、ボルシェヴィキの政策はその解体をさらに押し進めた。
 それにもかかわらず、ボルシェヴィキの目標は、堅固な基盤の上に国家装置を再建することだった。
 (2)戦争は、いかなる政治体制のもとでも、国家による統制と計画化の強化を必要とする。
 だがしかし、社会主義のモデルは互いに矛盾し合う要素を含んでおり、社会主義者たちには多様な色合いがあった。
 ボルシェヴィキ党の内部ですら、違いがあった。
 ボルシェヴィキ指導者たちの指針は、明らかに、マルクス主義の基礎的な諸命題だった。すなわち、社会主義は私有財産を廃して国家所有の国有財産に換え、自律的な市場を中央計画に換え、富の不公平を経済的平等に換えなければならない。
 しかしながら、党内で、これらの命題をいかにして実際に適用するかに関する激しい論議が生じた。
 内戦の過程で採用された特別の措置は、十分に練られた予定にもとづいておらず、戦争の圧力と経済の崩壊が生んだ諸問題に対応するものにすぎなかった。
 それらは全てが一度に導入されたものではなく、1917年と1920年の間の三年間に切れ切れにとられた措置だった。(1)
 国家統制は中央の権力を想定していたが、−まだ十分な国家でなかった−ボルシェヴィキ国家は、この時点では、競合して無秩序な諸機関で構成されていた。
 どの分野についても、中央権力と地方の党幹部、イデオロギーと必要性、大きな展望と当面の危機管理との間に、緊張関係があった。
 (3)歴史家の Silvana Malleは、イデオロギーは「受容し得る選択可能な措置を選ぶためのフィルターとして働いた」が、特定の措置を指示するものではなかった、と観察する。(2)
 戦時共産主義(War Communism)という術語は、最初に、1920年4月にレーニンによって遡及的に用いられた。レーニンは、「この特有の戦争は共産主義だ。…極端な欠乏と破滅が我々に戦争を強いている。戦争はプロレタリアートの経済的任務にふさわしい政策ではないし、そうであってはならない」と強く主張した。(3)
 だが、その基礎的な構成要素は、まさしく精確に、想像された未来の共産主義のそれだった。(4)
 その諸要素は、階級戦争(階級闘争)の武器でもあった。
 教育人民委員のAnatolii Lunacharskii はこう言った。「我々はブルジョアジーを殺戮し、彼らの手にある全ての財産を破壊しなければならない。なぜなら彼らは、それを我々に対する武器として利用しているからだ」。
 「搾取者どもを搾取せよ」、「略奪されたものを略奪せよ」−これらは、加えて、十月のクー直後から続いた、大衆による強奪の波に承認印を与えるスローガンだった。(5)
 ボルシェヴィキを強奪者だと告発することは、非難ではなかった。大衆はボルシェヴィキがしていることを知っていた。
 (4)内戦中のソヴィエト政府を駆動させたのは、かくして、国家の計画と統制を通じて(産業、都市化、教育、生産性の)近代化の達成を目指す経済関係の構築を最優先する、という党の政策だった。だが、その目指す経済関係とは実際には、急場凌ぎのものでもあった。
 いつものようにレーニンは、イデオローグとプラグマティストのいずれでもあった。
 赤軍を結成して維持した経験をもつトロツキーは、社会主義的情緒主義(sentimentalism)とは無関係だった。
 この両人はやがて敵に変わって、各自のゲームでいかにして相手に対する勝利を達成するかに関するモデルを提示することになる。
 トロツキーにとっては、隊員と中央司令部をもつ軍隊だった。レーニンにとっては、巨大な企業と技術的専門知識をもつ資本主義だった。資本主義では国家の役割は戦時中という緊急事態の際に拡大する。
 ドイツの「国家資本主義」は、レーニンの手本(prototype)であり、彼は、いかなる手段によってしても、「いかに独裁的であっても」、「野蛮な中世的ロシアに」課されるべきものだ、と言った。−「野蛮主義と戦うにあたって野蛮な手段」を用いるのを躊躇してはならない。(6)
 これは異端説ではなかった。
 マルクス主義者は、独占資本主義と共産主義の間の構造的類似性を知って(recognize)いた。−産業発展の高度の次元での生産手段と労働の大衆化(massifuication)。先ずは私人の手に、次いで国家による統制のもとに。
 (5)権力政治上の目標(ソヴィエト体制が生き延びて、支配しようとする国を再建すること)を追求しつつ、人民委員たちは一方では、社会主義理論が正しく強調するように社会の生産力を構成する一般民衆の追従に頼らなければならなかった。
 大衆なくして経済はない。経済がなくして、意欲する大衆もいない。
 田園地方から穀物を挑発する切実な必要が農民の抵抗に対してどれほどに行われてきたか、交渉がどれほどに加減されなければななかったか、どれほどに多様な戦略が試みられ、失敗し、修正されてきたか、を我々は知っている。
 とどのつまりは、実力による強制と飢饉が生産者たちを整列させた。
 「飢えという骨ばった手」。
 (6)製品生産部門との関係では、政治的統制の行使とともに生産性の維持を必要とした。
 二つの重要な論点が関係していた。所有制と規制。
 1917年11月14日の労働者の支配に関する布令は、自分たち自身が管理権を奪取しようとの草の根の工場委員会の要求を称賛していた。
 しかしながら、その布令に表現された考え方は、労働者に生産に対する権力を付与するものではなかった。 「支配」(control)とは、資格のある技術者と行政官が諸活動を監視(monitor)する権利を意味した。言ってみれば、それらはすでに存在したのだ。
 さらに加えて、経済を統治する政策決定は、個々の工場施設や地方当局の次元によってなされるのではなく、権力の中央に、したがって、国家経済最高会議(VSNKh)という12月初めの設立物(establishment)にあった。
 (7)最初はまるで、国家所有制と労働者は協力して歩むがごとく見えた。
 店頭への権力行使の民主化を補完するものは、私有資産の奪取だった。
 工場委員会は、もっと大きな役割をすら望んで、迅速な変革に向かって圧力をかけた。
 しばしば個々の工場、鉱山または地方ソヴィエトは、主導権を握って、従前の所有者たちを排除した。
 対照的に、ソヴナルコム(Sovnarkom、人民委員会議)とVSNKhは、生産を維持することを懸念して、そのような進展を中止させるか遅延させようとしたが、それにもかかわらず、略奪の多くを称賛し、彼らが阻止することのできないものに公式の是認を与えた。
 さらに、VSNKhは1918年早くに、最大の冶金工業施設群の所有者と、没収および継続する諸機能について交渉を続けていた。(8)
 (8)ブレスト-リトフスクは、このような方向へと向かう強い誘因を与えた。
 この条約は、1918年7月1日以前に国家が掌握した企業を除いて、ドイツ所有の財産の返還を求めていた。除外財産については、正確な補償だけが要求された。
 かくして、1918年6月28日、多くはドイツ所有の共同出資会社が、突然に奪い取られた。
 全般的な国有化は、1920年11月までは行われなかった。その11月の時点で、全ての大企業とたいていの中規模企業を含んでおり、併せて工場労働者のほとんど90パーセントを占めていた。(9)
 労働者国家による生産手段の所有は、しかしながら、労働者たちが主人になることを意味しなかった。
 労働組合と委員会は、既存の経営者にしばしば抵抗し、賃上げと生産目標設定への関与の拡大を要求した。しかし、レーニンの関心は、全体としての経済の行く末にあった。
 レーニンは、こう宣告した。社会主義は、先ずは、政治権力の中央からの規整を受ける「国家資本主義」の段階を通ってのみ達成することができる。(10)
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 第一節①、終わり。 

2253/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第15節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原書、597頁~600頁。
 毎回行っているのではないコメント。1918年のムルマンスクへの連合国軍(とくにイギリス)の上陸はしばしば<ロシア革命に対する資本主義国の干渉>の例とされている。しかし、以下のR・パイプスの叙述によると、何のことはない、当時の種々の可能性をふまえてのトロツキーらボルシェヴィキの要請によるもので、間違いなくレーニンも是認している。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第15節・連合国軍がロシアに初上陸。
 (1)レーニンはドイツの諸条件に従ったが、ドイツをまだ信頼してはいなかった。
 彼はドイツ政府内部の対立に関する情報を十分に得ており、将軍たちが自分の排除を強く主張していることを知っていた。
 そのため、レーニンは、連合諸国との接触を維持し、ソヴィエトの外交政策を彼らのよいように急激に転換する用意があると約束するのが賢明だと考えた。//
 (2)ブレスト条約が調印されたが批准はまだのとき、トロツキーは、アメリカ合衆国政府への伝言を記したつぎの文書を、ロビンスに手渡した。
 「つぎのいくつかの場合が考えられる。a)全ロシア・ソヴェト大会がドイツとの講和条約を批准するのを拒む。b)ドイツ政府が講和条約を破って強盗的収奪を継続すべく攻撃を再開する。あるいは、c)ソヴィエト政府が講和条約を破棄するように-批准の前または後で-、そして敵対行動を再開するように、ドイツの行動によって余儀なくされる。
 これらのいずれの場合でも、ソヴィエト権力の軍事的および政治的方針にとってきわめて重要なのは、つぎの諸質問に対して回答が与えられることだ。
 1) ソヴィエト政府がドイツと戦闘する場合、アメリカ合衆国、大ブリテン(イギリス)、およびフランスの支援をあてにすることができるか?
 2) 最も近い将来に、いかなる種類の支援が、いかなる条件のもとで用意され得るだろうか?-軍事装備、輸送供給、生活必需品は?
 3) 個別にはとくにアメリカ合衆国によって、いかなる種類の支援がなされるだろうか?
 4) 公然たるまたは暗黙のドイツの了解のもとで、またはそのような了解なくして、日本がウラジオストークと東部シベリア鉄道を奪うとすれば、それはロシアを太平洋から切り離し、ソヴィエト兵団がウラル山脈あたりから東方へと戦力を集中させるのを大いに妨害することとなるだろう。この場合、連合諸国は、個別にはとくにアメリカ合衆国は、日本軍がわが極東の領土に上陸するのを阻止し、シベリア・ルートを通じてロシアとの安全な通信連絡を確保するために、どのような措置をとるつもりだろうか?//
 アメリカ合衆国政府の見解によれば、-上述のごとき情勢のもとで-イギリス政府はどの程度の範囲の援助を、ムルマンスクやアルハンゲルを通じて確実に与えてくれるだろうか?
 イギリス政府は、この援助を行い、それでもって近いうちにイギリス側はロシアに対して敵対的行動方針をとるという風聞の根拠を喪失させるために、いかなる措置をとることができるだろうか?//
 これらの質問の全ては、ソヴィエト政府の内政および外交の政策は国際社会主義の諸原理と合致すべく嚮導される、またソヴィエト政府は非社会主義諸政府の完全な自立性を護持する、ということを自明の前提条件としている。」(82)//
 この文書の最後の段落が意味したのは、ボルシェヴィキは、助けを乞い求めているまさにその諸政府を打倒する闘いをする権利を留保する、ということだった。//
 (3)トロツキーがこの文書をロビンスに渡した日、彼はB・ロックハートと会話した。(83)
 トロツキーはこのイギリス外交官に対して、近づいているソヴェト大会はおそらくブレスト条約の批准を拒否し、ドイツに対する戦争を宣言するだろう、と言った。
 しかし、この事態が起きるためには、連合諸国はソヴィエト・ロシアを支援しなければならなかった。
 日本の大量の遠征軍がドイツと交戦すべくシベリアに上陸する可能性を連合諸国政府に伝えるべきだと暗に示唆しつつ、トロツキーは、そのようなロシアの主権の侵害は連合諸国との全ての信頼関係を破壊するだろう、と語った。
 ロックハートはトロツキーの発言をロンドンに知らせつつ、こうした提案は東部前線での戦闘を活性化させるよい機会を与える、と述べた。
 アメリカ大使のフランシスは、同じ意見だった。彼はワシントンに電信を打って、連合諸国が日本に対してシベリア上陸計画をやめるよう説き伏せることができれば、ソヴェト大会はおそらくブレスト条約を拒否するだろう、と伝えた。(84)
 (4)もちろん、ソヴェト大会が条約の批准を拒否する可能性は、きわめて乏しかった。ボルシェヴィキが多数派を占めることが定着しているにもかかわらず、レーニンが苦労して獲得した勝利をあえて奪い去ることになるからだ。
 ボルシェヴィキは、本当に怖れていたことを阻止するために餌を用いた。-怖れたこととはすなわち、日本軍によるシベリア占領と、反ボルシェヴィキ勢力の側に立っての日本のロシア問題への干渉だ。
 フランス外交官のヌーランによると、ボルシェヴィキはロックハートを信頼していたので、ロックハートが暗号を使ってロンドンと連絡通信するのを許した。そうしたことは、公式の外国使節団ですら禁止されたことだった。(85)
 (5)連合諸国との友好関係によって生じた最初の具体的結果は、3月9日に連合諸国の少数の分遣隊がムルマンスクに上陸したことだった。
 1916年以降、約60万トンに上る軍需物資がロシア軍に対して送られ、その多くについては支払いがなかったのだが、その軍需物資は輸送手段が不足しているために内陸には送られず、そこに蓄積されていた。
 連合諸国は、この物資がブレスト=リトフスク条約の結果としてドイツ軍の手に入るか、ドイツ=フィンランド軍勢力によって分捕られることを、怖れた。
 連合諸国はまた、ペチェンガ(Pechenga, Petsamo)付近をドイツ軍が奪取して、そこに潜水艦基地を建設するのを懸念していた。//
 (6)連合諸国による保護を求める最初の要請はムルマンスクのソヴェトによるもので、3月5日に、ドイツ軍に援助されていると見られる「フィンランド白軍」がムルマンスクを攻撃しようとしている、とペトログラードに電報を打った。
 当地のソヴェトはイギリス海軍と接触し、同時に、ペトログラードに対して、連合諸国に介入を求めることの正当化を要請した。
 トロツキーはムルマンスク・ソヴェトに、連合諸国の軍事援助を受けるのは自由だ、と知らせた。(86)
 こうして、ロシア国土に対する西側の最初の干渉は、ムルマンスク・ソヴェトの要請とソヴィエト政府の是認によって行われた。
 レーニンは1918年5月14日の演説で、イギリスとフランスは「ムルマンスクの海岸を防衛するために」上陸した、と説明した。(87)
 (7)ムルマンスクに上陸した連合諸国の部隊は、数百名のチェコ兵のほか、150名のイギリス海兵たち、若干のフランス兵で構成されていた。(88)
 その後の数週間、イギリスはムルマンスクの件について、モスクワとの恒常的な連絡通信関係を維持した。不幸にも、その意思疎通の内容は、明らかにされてきていない。
 両当事者は、ドイツとフィンランドの両軍がこの重要な港湾を奪取するのを阻止すべく協力した。
 のちに、ドイツの圧力によって、モスクワはロシア国土に連合諸国軍が存在することに抗議した。しかし、トロツキーとの緊密な関係を保っていたフランス外交官のサドゥールは、自国政府に対して、心配する必要はない、とこう助言した。//
 「レーニン、トロツキーおよびチチェリンは、現在の情勢のもとで、連合諸国との同盟する希望をもって、イギリス・フランスのムルマンスク上陸を受容している。これはドイツに講和条約違反だと抗議する言い分を与えるのを阻止するために行われたと理解されていて、彼ら自身は連合諸国に対して純粋に形式的な抗議を表明するだろう。
 彼らは素晴らしいことに、北部の港湾とそこにつながる鉄道を、ドイツ・フィンランドの危険な企てから守ることが必要だと理解している。」(89)
 (8)第四回ソヴェト大会の前夜、ボルシェヴィキは第7回(臨時)党大会を開いた。
 緊急に招集された、46名の代議員が出席したこの大会の議題は、ブレスト=リトフスク条約に集中していた。
 口火を切った、とくにレーニンの不人気な立場を防衛する親密なグループの議論からは、国際法および他国との関係に関する共産主義者の態度について、きわめて稀な洞察を行うことができる。
 (9)レーニンは、左翼共産主義者に対して、力強く自分を擁護した。(90)
 彼が最近の事態を概述して聴衆に想起させようとしたのは、ロシアで権力を奪取するのがいかに容易だったか、そしてその権力を組織化して維持するのがいかに困難であるか、だった。
 権力を掌握する際に有効だと分かった方法を、それを管理するという骨の折れる任務に単純に移し替えることはできない。
 レーニンは、「資本主義」諸国との間の永続的な平和などあり得ないこと、革命を世界に拡大することが必須であること、を承認した。
 しかし、現実的でなければならない。西側の産業ストライキの全てが革命を意味するわけではない。
 全くの非マルクス主義者ではむろんないが、レーニンは、後進国であるロシアに比べて、民主主義的な資本主義諸国で革命を起こすのははるかに困難だ、と認めた。//
 (10)これらは全て、聞き慣れたことだった。
 目新しいのは、平和と戦争という主題に関する、レーニンのあけすけな考察だ。
 レーニンは、指導的な「帝国主義」権力との永遠の講和をしたのではないかと怖れる聴衆に対して、あらためて保証した。
 まず、ソヴィエト政府は、ブレスト条約の諸条項を破る意図をつねに持っている。実際に、すでに30回か40回かそうした(たった3日間で!)。
 中央諸国との講和は、階級闘争の廃止を意味していない。
 平和はその性質上つねに一時的なもので、「力を結集する機会」だ。「歴史が教えるのは、平和は戦争のための息抜きだ、ということだ」。
 別の言葉で言うと、戦争が正常な状態であり、平和は小休止だ。すなわち、非共産主義諸国との間の永続的な平和などあり得ず、敵対関係の一時的な停止、つまり停戦があるにすぎない。
 レーニンは、続けた。講和条約が発効している間ですら、ソヴィエト政府は-条約の諸条項を無視して-新しいかつ力強い軍隊を組織するだろう。
 彼はこのように述べて、是認することが求められている講和条約は世界的革命の途上にある迂回路にすぎないと、支持者たちを安心させた。//
 (11)左翼共産主義者たちは、反対論をあらためて述べた。しかし、十分な票数を掻き集めることはできなかった。
 条約を是認するとの提案は、賛成28、反対9、保留1で、通過した。
 レーニンはさらに、党大会に対して、秘密決議を採択するよう求めた。この秘密期間未定のままで公表されない決議は、中央委員会に、「帝国主義者やブルジョア政府との間の平和条約をいつでも無効に(annul)する権限、および同様に、それらに宣戦布告する権限」を、与えるものだった。(92)
 ただちに採択され、のちにも公式には撤回されなかったこの決議は、ボルシェヴィキ党中央委員会の一握りの者たちに、彼らの随意の判断でもって、ソヴィエト政府が加入した全ての国際的協定を破棄する権能、およびいずれかのまたは全ての外国に対して宣戦布告をする権能を与えた。
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 (82) J. Degras, Documents of Russian Foreign Policy, I(London, 1951), p.56-p.57. 文書の日付は、1918年3月5日。
 (83) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.82-4.
 (84) 同上, p.85-6.
 (85) J. Noulens, Mon Ambassade en Russie Sovietique, II(Paris, 1933), p.116.
 Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.161-2.を参照。
 (86) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.; D Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1922), p.264-5.
 Brian Pearce, How Haig Saved Lenin(London, 1988), p.15-p.16.
 (87) NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (88) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.
 (89) 1918年4月12日付手紙、in: Sadoul, Notes, p.305.
 ドイツによる圧力につき、Lenin, in: NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
 (90) Lenin, PSS, XXXVI, p.3-p.26.
 (91) Lenin, Sochineniia, XXII, p.559-p.561, p.613.
 (92) KPSS v rezoliutsiiakh i resheniiakh s"ezdov, konferentsii iplenumov TsK, 1898-1953, 第7版, I(Moscow, 1953), p.405.; Lenin, PSS, XXXVI, p.37-8, p.40.を参照。
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 第15節、終わり。この章には、あと第16節・第17節がある。

2247/R・パイプス・ロシア革命第13章第12節~第14節(1990年)。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。最適な訳出だと主張してはいない。一語・一文に1時間もかけるわけにはいかない。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第12節・ロシアがドイツの提示条件で降伏。
 (1)ドイツがボルシェヴィキとの交渉で風を得たのはフランスによってだったのか、それともたんなる偶然だったのか、ドイツがもどかしく待っていた回答が届いたのは、ボルシェヴィキの中央委員会とソヴナルコムが連合諸国の助けを求めると票決した、まさにその朝だった。(66)
 それはレーニンの最悪の怖れを確認するものだった。
 ベルリンは今では、戦争の推移の中でドイツ軍が掌握した領域だけではなく、ブレスト交渉が決裂した後の週に占拠した領域をも要求した。
 ロシアは動員解除するとともに、ウクライナとフィンランドを明け渡さなければならないものとされた。また、負担金を支払い、多様な経済的譲歩をするものとされた。
 通告書には、48時間以内での回答を要求する最後通牒の語句があり、その後で条約の調印には最長で72時間が許容されるとされていた。//
 (2)つぎの二日間、ボルシェヴィキ指導部は事実上は連続した会合をもった。
 レーニンは、何度も少数派であることを感じた。
 彼はついには、党と国家の全ての役職を辞任すると脅かすことで、何とか説き伏せた。//
 (3)ドイツの通告書を読むや否や、レーニンは中央委員会を招集した。
 15人の委員が現れた。(67)
 レーニンは言った。ドイツの最後通告書は無条件に受諾されなければならない。「革命的な言葉遊び(phrasemongering)は、もう終わりだ」。
 主要な事柄は、ドイツは屈辱的なことを要求しているが、「ソヴィエトの権威に影響を与えない」-すなわち、ボルシェヴィキが権力にとどまることをドイツは許容している、ということだ。
 かりに同僚たちが非現実的な行動方針に固執するならば、彼らは自分たちでそうしなければならないだろう、なぜなら、レーニンは政府からも中央委員会からも去ってしまっているだろうから。//
 (4)レーニンはそして、賢明に選択した言葉遣いで、三つの決定案を提示した。
 ①最新のドイツの最後通牒が受諾される、②ロシアは革命戦争を中止すべく即時の準備を行う、③モスクワ、ペトログラードおよび他都市の各ソヴェトは、それぞれの自らの事態に関する見方でもって票決を確認する。
 (5)辞任するとのレーニンの脅かしは、効いた。レーニンがいなければボルシェヴィキ党もソヴナルコムも存在しないだろうと、誰もが認識した。
 最初のかつ重大な決定では、レーニンは多数派を獲得しなかった。だがそれは4委員が棄権したからで、動議が7対4で採択された。
 二度めと三度めの決定では、問題がなかった。
 投票が終わると、ブハーリンと他の3人の左翼共産主義者は、党の内部や外部にある条約反対派を自由に煽動するために党と政府の全ての「責任ある役職」を辞任するという動議をもう一度経験した。//
 (6)ドイツの最後通告を受諾する決定にはまだ〔全国ソヴェトの〕中央執行委員会(=CEC)の同意が必要だったけれども、レーニンはその結果に十分に自信があり、ツァールスコエ・セロにいる無線連絡の操作者に対して、ドイツに対する連絡のために一チャンネルを空けておくよう指令した。//
 (7)その夜レーニンは、CEC で状況報告を行った。(68)
 その後の票決で、ドイツの最後通牒を受諾する決議案について技巧的な勝利を得た。それはしかし、反対するボルシェヴィキの議員たちは退出し、その他の多数の反対議員は棄権したからだった。
 最終票数は、レーニン案に賛成116、反対85、棄権26だった。
 この満足にはほど遠い、しかし形式的には拘束力をもつ結果にもとづいて、レーニンは、午前中の早い時間に、〔全国ソヴェト〕中央執行委員会の名前で、ドイツの最後通告を無条件で受諾する文章を執筆した。
 それはただちに、ドイツへと無線で伝えられた。//
 (8)2月24日朝、中央委員会は、ブレストへ行く代表団を選出した。(69)
 今や、国家と党の役職から辞任する多数の者の氏名が、手渡された。
 すでに外務人民委員を離任していたトロツキーは、他の役職も同様に辞した。
 彼はフランスとイギリスはソヴェト・ロシアとの協力に気を配ってくれ、ロシアの領土への意図をもっていなかった、という理由で、これら両国と緊密な関係をもつことを支持した。
 何人かの左翼共産主義者たちは、ブハーリンに倣って、辞職願いを提出した。
 彼らは、公開書簡で、動機を明確に述べた。
 彼らは、こう書く。ドイツへの降伏は、外国の革命的勢力に対する重大な打撃であり、ロシア革命を孤立させる。
 さらに、ロシアがドイツ資本主義と行うよう要求されている譲歩は、ロシアの社会主義にとって災難的な影響を与えるだろう。すなわち、「プロレタリアートの立場の外部的な屈服は不可避的に、内部的な屈服の道を切り拓く」。
 ボルシェヴィキは、中央諸国に降伏してはならず、また、連合諸国と協力してもならない。そうではなく、「国際的な規模での内戦を開始」しなければならない。(70)//
 (9)欲しいものを得たレーニンは、トロツキーと左翼共産主義者たちに、ソヴィエト代表団がブレストから戻るまでは辞任という行動をとらないように懇願した。
 最近の苦しい日々のあいだ、レーニンは顕著な指導性を発揮し、支持者たちに甘言を言ったり説得したりしながら、忍耐力も、決定力も、失わなかった。
 彼の生涯の中で、おそらく最も苛酷な政治闘争だった。//
 (10)恥辱的な<命令文書(Diktat)>に署名するために、誰がプレストへ行こうとするだろうか?
 誰も、その名前を、ロシアの歴史上最も屈辱的な条約に関係して残したくなかった。
 ヨッフェは、にべもなく拒んだ。一方、辞職していたトロツキーは、舞台から身を引いた。
 古いボルシェヴィキで一時は<プラウダ>編集長だったG・Ia・ソコルニコフは、ジノヴィエフを指名した。それに応えてジノヴィエフは、ココルニコフを逆指名して返礼した。(71)
 ソコルニコフは、指名されれば中央委員会を去ると、反応した。
 しかしながら、結局は、ソコルニコフが、ロシアの講和代表団の長を受諾するように説得された。この代表団の中には、L・M・ペトロフスキ(Petrovskii)、G・V・チチェリン(Chicherin)、L・M・カラハン(Karakhan)がいた。
 代表団は、2月24日にブレストに向けて出発した。//
 (11)ドイツに降伏するという決定に対していかに反対が強かったかは、レーニン自身の党内ですら、ボルシェヴィキ党のモスクワ地域事務局が2月24日にブレスト条約を拒み、全員一致で中央委員会を不信任する票決を通過させた、という事実で示されている。(72)
 (12)ロシアが降伏したにもかかわらず、ドイツ軍は前進をし続けて、司令官が引いていた限界線まで進み、その線を両国の永続的な国境にしようと意図した。
 2月24日、ドイツ軍はDorpat(Iurev)〔エストニア〕とプスコフを占拠し、ロシアの首都から約250キロメートル離れた場所に陣取った。
 翌日に彼らは、Revel〔ラトヴィア〕 とボリソフ(Borisov〔ベラルーシ〕)を掌握した。
 彼らは、ロシア代表団がブレストに到着した後でも前進し続けた。すなわち、2月28日、オーストリア軍はベルディチェフ(Berdichev〔ウクライナ〕)を奪取し、ドイツ軍は3月1日にホメリ(Gomel〔ベラルーシ〕)を占拠した後、チェルニヒウ(Chernigov〔ウクライナ〕)とモギレフ(Mogilev)を奪いに向かった。
 3月2日、ドイツの戦闘機は、ペトログラードに爆弾を落とした。//
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 (66) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.341-3.
 (67) Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)(Moscow, 1958), p.211-8.
 (68) Lenin, PSS, XXXV, p.376-380.
 (69) Protokoly TsK, p.219-p.228.
 (70) Lenin, Sochineniia, XXII, p.558.
 (71) Lenin, PSS, XXXV, p.385-6.
 (72) 同上, p.399.
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 第13節・ソヴィエト政権のモスクワ移転。
 (1)レーニンは、ドイツに対する冒険はしなかった。-彼は3月7日にこう言った。ドイツ軍がペトログラードを占拠する意図をもつことに「微塵の疑いもない」。(73)
 そして彼は、首都をモスクワに避難させることを命令した。
 ニゼール将軍によると、物資のペトログラードからの移転は、フランスの軍事使節が手配した専門家の助けで行われた。(74)
 移転の趣旨で発せられた公式の布令がないままに、3月初めに人民委員部はかつての首都への移転を開始した。
 <Novaia zhizn'>で「逃亡(Flight)」と題された記事は、パニックにとらわれたペトログラード、市民たちが鉄道駅に殺到していること、そして彼らがもしも鉄道に乗り込めなければ車または徒歩で逃亡しようとしていることを描写した。
 ペトログラード市は、やがて静寂に変わった。電力も、燃料も、医療サービスもなかった。学校や交通は機能するのを止めた。
 射殺やリンチ攻撃が、日常の出来事になった。(75)//
 (2)ペトログラードの露出した状態やドイツの意図の不確定性を考えると、共産主義国家の首都をモスクワに移転させる決定は、理にかなっていた。
 しかし、臨時政府が半年前に同じ理由でペトログラードから避難することを考えたとき、同じボルシェヴィキこそがその考えは裏切りだと最も激烈に非難した、ということを、完全に忘れることはできない。//
 (3)移転は、多大の安全確保に関する準備のもとで実行された。
 党と国家の官僚たちが先ずは移るものとされた。中央委員会の委員たち、ボルシェヴィキの労働組合官僚、および共産党系新聞の編集者たちを含む。
 彼らは、モスクワでは、没収した私的所有物(建築物)の中に入った。
 (4)レーニンは、3月10-11日の夜に、こっそりとペトログラードを出た。同行したのは、妻と秘書のボンチ=ブリュエヴィチだった。(76)
 この旅は、最高の秘密として計画された。
 一同は特別列車で、ラトヴィア人に警護されながら旅行をした。
 翌朝の早い時間に、逃亡者たちの意図不明の荷物を積んだ列車に衝突して、停車した。停止中にボンチ=ブリュエヴィチは、彼らの武装を解除させて、準備した。
 列車は進み続け、夕方遅くにモスクワに到着した。
 この旅については、誰も語られなかった。自称世界のプロレタリアートの指導者は、妹だけに迎えられて、どのツァーリもかつてしなかったやり方で、首都にこっそりと入ったのだ。//
 (5)レーニンはその住居を、仕事場とともにクレムリンに構えた。
 そこが、15世紀にイタリアの建築家によって建設された要塞の、石壁と重たい門の内部が、ボルシェヴィキ政府の新しい所在地となった。
 人民委員たちも家族とともに、やはりクレムリン内部に安全を求めた。
 この要塞の警護はラトヴィア人に委ねられた。彼らは、修道僧のグループも含めて、多数の居住者をクレムリンから追い出した。//
 (6)安全という観点から考え出されたものだったけれども、ロシアの首都をモスクワに移して、自分をクレムリンに落ち着かせるというレーニンの決定は、深い意味をもった。
 それはいわば、かつてのモスクワ公国の伝統を好んだピョートル一世が始めた親西側路線を拒否することの象徴だった。
 「一時的」だと宣言されたにもかかわらず、モスクワの首都化は永続的なものになった。
 首都移転はまた、個人的・人身的な安全を求める、新しい指導者たちの病的な恐怖心も反映していた。
 レーニンらのこの行為を評価するには、イギリスの首相がダウニング通りから転居して、その住居と仕事場を閣僚たちと同様にロンドン塔に移し、そこでシーア派の者たちの警護のもとで政治を行うことを想像してみなければならない。//
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 (73) Lenin, PSS, XXXVI, p.24.
 (74) Niessel, Triomphe, p.229.
 (75) La Piletskii in: NZh, No.38/253(1918年3月9日), p.2.
 V.Stroev, NZh, No.40/255(1918年3月12日), p.1.も見よ。
 (76) Bonch-Bruevich, Pereezd V. I. Lenina v Moskvu(Moscow, 1926).
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 第14節・ブレスト=リトフスク条約の諸条件。
 (1)ロシア人たちは3月1日にブレストに着き、その2日後、議論をいっさいすることなく、ドイツとの条約に署名した。
 (2)条件は、きわめて負担の大きいものだった。
 これを知ると、かりに連合諸国が負けていれば待ち受けていた講和条約がどういうものだったか、が分かるだろう。また、ドイツがヴェルサイユの<命令(Diktat)>に不満をもったのが根拠のないことも示している。ヴェルサイユ講和条約は、多くの点で、ドイツが無力のロシアに押しつけた条約よりは優しいものだったのだから。
 (3)ロシアは、領土に関する大きな譲歩を要求された。ロシアが17世紀半ば以降に征服した土地のほとんどの割譲だった。
 西方、北西そして南西と、ロシアの国境は、モスクワ公国時代のそれまでに縮まった。
 ロシアは、トランス・コーカサスの他に、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、およびリトアニアを放棄しなければならなかった。これらの全てがドイツの保護する主権国家となるか、またはドイツに併合された。
 モスクワはまた、ウクライナを独立の共和国として承認しなければならなかった。(*)
 これらの条項は75万平方キロメートルの国土の譲渡を要求するもので、その広さはドイツ帝国のそれのほとんど2倍だった。ブレスト講和のおかげで、ドイツの規模は3倍になったのだ。(77)
 (4)ロシアがかつてスウェーデンやポーランドから獲得していた、今次の割譲領土は、ロシアの最も豊かで最も人口密度の高い土地だった。
 この地域に、ロシアの住民の26パーセントが生活していた。その住民たちは、都市人口の3分の1以上を含んでいた。
 当時の概算では、この領域で、ロシアの農業収穫物の37パーセントが産出されていた。(78)
 また、この地域に工業企業の28パーセントが立地し、鉄道線路の26パーセント、石炭と鉄の堆積層の4分の3があった。//
 (5)しかし、たいていのロシア人がもっと苛立たしく感じたのは、付属文書に明記された、ドイツにソヴィエト・ロシアでの例外的な地位を認める経済的条項だった。(79)
 ドイツは、経済的利潤を獲得するだけではなくロシア社会主義を窒息死させるためにこれらの権利を利用するつもりだ、と多数のロシア人は考えた。
 理論上はこれらの権利は相互主義的なものだったが、ロシアは自分の取り分を要求できる立場になかった。//
 (6)中央諸国の市民と企業は、ボルシェヴィキが権力掌握後に発布した国有化布令の適用免除を事実上は受けた。ソヴィエト・ロシアで商業、工業および職業的活動を行うことはもとより、動産および不動産を所有することが認められたのだ。
 彼らは、厳しい税金を支払う必要なく、ソヴィエト・ロシアから本国に資産を送ることができた。
 この決まり事は遡及効をもった。すなわち、戦争中に署名国の市民から徴発した不動産、土地や鉱山の使用権は、元の所有者に返還されるものとされた。
 かりに国有化されていれば、元権利者に適正な補償金が支払われることになっていた。
 同じ決まりが、国有化された企業の有価証券保有者にも適用された。
 一つの国から他国への商品の自由な運送のための条項が、設けられた。各国はまた、お互いに最恵国待遇の地位を承認した。
 ロシアの公的および私的債務を否認した1918年1月布令にもかかわらず、ソヴィエト政府は、中央諸国との関係での債務を尊重する義務のあること、それらに付す利息の支払いを再開すること、を承認した。そのための詳細は別の協定で決定されるものとされた。//
 (7)こうした諸条項は、中央諸国に-実質的にはドイツに-、ソヴィエト・ロシアでの前例なき治外法権の特権を付与した。経済的規制を免除し、社会化された経済へと一層進展していたところで私的企業を経営することを認めた。
 ドイツ人は事実上、ロシアの共同経営者になった。
 彼らは私的部門を掌握する立場が与えられ、一方でロシア政府には、国有化された部門の管理が委ねられた。
 ブレスト=リトフスク条約の条件のもとでは、ロシアの工業企業、銀行、証券会社の所有者がその所有物をドイツに売却することが可能だった。この方法で、それらは共産党による統制から免れることができた。
 のちに述べるように、この可能性を封じるために、ボルシェヴィキは1918年6月にソヴィエトの全ての大企業を国営化した。//
 (8)条約の他の箇所では、ロシアは陸海軍の動員解除を明記した。-言い換えれば、国防力をないままにした。また、他の調印諸国の政府、公的機関および軍隊に対する煽動やプロパガンダ活動をやめることを約束した。アフガニスタンとペルシアの主権を尊重することも。//
 (9)ソヴィエト政府がブレスト=リトフスク条約の諸条件を国民に公にしたとき-それは民衆の反応を怖れて数日遅れて行われたのだが-、全ての政治諸階層から、極左から極右までに、憤激が巻き起こった。
 J・ウィーラー=ベネット(John Wheeler-Bennett)によれば、レーニンはヨーロッパで最も貶された(vilified)人物になった。(80)
 初代ソヴィエト・ロシア駐在ドイツ大使のミルバッハ公は、5月に自国外務省に、ロシア人は一人残らず条約を拒否しており、条約をボルシェヴィキ独裁に対してよりすらも憤懣の的だと感じている、とこう通信した。
 「ボルシェヴィキによる支配は飢餓、犯罪、名前のない恐怖のうちでの隠れた処刑でロシアを苦しめているけれども、ブレスト条約を受諾したボルシェヴィキに対しては、どのロシア人も喜んでドイツの助けを求めるふりすらするだろう。」(81)
 かつてどのロシア政府も、これほど広い領土を割譲しなかったし、これほど多くの特権を外国に認めることもなかった。
 ロシアは、「世界のプロレタリアートを売り払った」だけではなかった。ロシアは、ドイツの植民地となる長い道程を歩んでいた。
 ドイツは条約によって与えられた権利をロシアでの自由な起業のために用いるだろうと、-保守派の界隈では喜んで、急進派の界隈では怒りとともに-広く想定されていた。
 こうしてペトログラードでは、3月半ばに、ドイツは三つの国有化された銀行の所有者への復帰とそのあとの迅速な全銀行の非国有化を要求している、との風聞が流布された。
 (10)新国家の国制法(憲法)は、条約は2週間以内にソヴェト大会で批准されることを求めていた。
 それを行うソヴェト大会は、3月14日にモスクワで開催されることが予定として決定された。//
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 (*) この講和条件の履行のために、モスクワは4月半ばにウクライナ政府に対して、相互承認のための交渉を開始することを提案した。種々のウクライナ国内の政治事情のために、交渉はようやく5月23日に始まった。
 1918年6月14日、ソヴェト・ロシア政府とウクライナ政府は暫定的講和条約に署名した。そのあとで最終的な講和交渉を行うことになっていたが、結局それは行われなかった。
 The New York Times, 1918年6月16日付, p.3. 
 (77) Hahlweg, Diktatfrieden, p.51.
 (78) Piletskii in: NZh, No.41/256(1918年3月14日), p.1.
 (79) これらは、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.370-p.430. に資料として収載されていおり、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.269-p.275. で分析されている。
 (80) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.275.
 (81) W. Baumgart in: VZ, XVI, No.2(1968年1月), p.84.
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 第12節・第13節・第14節、終わり。

2246/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第10節・第11節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第10節・ボルシェヴィキに勝とうと連合国は努力する。
 (1)レーニンは同僚たちに、ドイツが軍事行動を再開すれば、ボルシェヴィキはフランスとイギリスの助けを求めなければならないだろうと警告していた。それこそが、今行うべきことだった。
 (2)ドイツは何を最優先するかを決定していなかったけれども、少なくとも、戦争と結びついているロシアでの短期的利益と、ドイツにとってのロシアの長期的な地政学的意味とを、区別していた。
 連合諸国には、ロシアにはただ一つの関心しかなかった。それは、ロシアを戦争にとどまらせることだった。
 ロシアの崩壊と分離講和の見込みは連合諸国にとっては最大級の惨事であり、ドイツに勝利をもたらしそうだった。ドイツ軍は、十数の分団が西部前線へと移動して、アメリカ軍が相当の規模の兵団でもって到着する前に、消耗しているフランスとイギリス各軍を粉砕するだろう。
 したがって、連合諸国にとってロシアに関して最大に優先されるべきことは、可能ならばボルシェヴィキの協力によって、それが可能でなければ利用し得る何らかの別の勢力によって、東部戦線を再び活性化させることだった。別の勢力とは、ロシアの強制収容所にいる反ボルシェヴィキのロシア人、日本人、チェコ人、あるいは最終的には、これら自体の軍団のことだ。
 ボルシェヴィキとはどういう者たちで、何を目ざしているかは、連合諸国には関心がなかった。この諸国は、ボルシェヴィキ体制の国内政策にも国際的な目標にも、関心を示さなかった。そうしたことは、ドイツの注意をますます惹いていたものだった。 
 ボルシェヴィキの「友好」政策や、労働者にストライキを、兵士たちに反乱を呼びかけていることは、連合諸国にはまだ何の反応を生じさせておらず、ゆえに警戒心を呼び起こすこともなかった。
 連合諸国の態度は、明確で単純だった。すなわち、ボルシェヴィキ体制は中央諸国と講和をするならば敵であり、戦闘し続けるならば味方であり同盟者だ。
 イギリスの外務大臣(Foreign Secretary)の A・バルフォア(Arthur Balfour)の言葉では、ロシアがドイツと戦っているかぎりはロシアの信条は「我々の信条(cause)」だった。(58)
 アメリカの在ロシア大使のD・フランシス(David Francis)は1918年1月2日の教書でこれと同じ感情を表現しており、レーニン政府に伝わることが意図されたが、送信されなかった。
 「ロシア軍が人民委員部の指揮のもとで戦闘を開始して真摯にドイツ軍とその同盟軍に対する敵意を行動に移すならば、私は私の政府に対して、人民委員部の事実上の政権を正式に承認するよう働きかけるつもりだ」。(59)
 (3)対象に関心がなかったために、ボルシェヴィキ・ロシアの国内状況に関して連合諸国にはきわめて不適切な情報しかなかった。
 各国の外交使節は、ロシアでとくに好遇されたわけでもなかった。
 イギリス大使のG・ブキャナン(George Buchanan)は、有能だが在来的な外交官だった。一方、セントルイスの銀行家のフランシス〔アメリカ大使〕は、イギリスのある外交官の言葉によると「魅力的な老紳士」だった。だけれども、推測するにそれだけのことだった。
 この二人ともに、彼らがその渦中にあった事態の歴史的な重要性に気づいていなかったように見える。
 元戦時大臣でかつ社会主義者のフランス公使のJ・ヌーラン(Joseph Noulens)は、仕事の準備をより十分にしていたが、ロシアを嫌悪していたのとその無愛想で権威的な流儀のために、影響力を発揮できなかった。
 さらに悪いことに、連合諸国の外交団は1918年3月に、ボルシェヴィキ指導者たちと直接に接触しなかった。彼らはボルシェヴィキ指導者に従ってモスクワに行こうとしなかったからだ。ペトログラードからまずヴォログダ(Vologda)へと、そしてそこから7月にアルハンゲル(Archangel)へと移った。(*)
 このことによって、彼らは、モスクワにいる代理人がくれる間接的な報告に頼らざるを得なくなった。
 (4)その代理人たちは、心身ともにロシアのドラマに入り込んでいた若い男たちだった。
 B・ロックハート(Bruce Lockhart)はモスクワのかつてのイギリス領事で、ロンドンとソヴナルコム間の連絡役として仕事した。R・ロビンス(Raymond Robins)はアメリカ赤十字使節団の代表で、ワシントンのために上と同じ仕事をした。そして、J・サドゥール(Jacques Sadoul)はパリのために。
 ボルシェヴィキはこれら媒介者たちをとくに真摯に待遇したというわけではないが、有用性をよく理解していた。親交を築き、お世辞を言い、信頼の措ける者として扱った。
 そのようにして、ロックハード、ロビンス、サドゥールを、彼ら諸国がロシア軍に軍事的および経済的な援助を提供すれば、ロシアはドイツと決裂しておそらくは再び戦争するとまで、まんまと説得した。
 利用されていることに気づかないで、三人は、この見方を自分のものに変え、元気よく自国政府に主張した。
 (5)サドゥールは母親がパリ・コミューンに参加した社会主義者で、ボルシェヴィキに対して強いイデオロギー的魅力を感じていた。彼は1918年8月に、ボルシェヴィキへと寝返り、そのことで逃亡者かつ反逆者として欠席のまま死刑判決を受けることになる。(+)
 ロビンスは風変わりな人物で、レーニンやトロツキーとの会話でボルシェヴィキへの情熱を表明したが、アメリカ合衆国に帰国するとボルシェヴィキに反対しているふりをした。
 社会主義に傾斜した裕福な社会的労働者かつ労働組合組織者であり、また自分の様式をもつ大佐は、ロシアを出立する前夜に、レーニンに、別れの言葉を送った。その中で、彼はこう書いた。
 「あなたの予言的見解と指導の天才性は、ソヴィエト権力をロシア全域で確固たるものにしました。そして私は、人類の民主主義の新しい創造的な体制が世界中の自由(liberty)のための事業を活発にし、前進させるだろうと、確信をもっています。」(**)
 彼は帰還する際にさらに、「新しい民主主義」をアメリカ人民に対して解釈し説明する「継続的な努力」を行うと約束した。
 しかしながら、のちにすぐにソヴィエト・ロシアの状況に関する上院の委員会で証言したとき、ロビンスは、「ボルシェヴィキ権力を混乱させる」方法だといううその理由で、モスクワへの経済的援助を強く主張した。
 (6)ロックハードは三人の中では最もイデオロギー的関心がなかったが、彼もまた、ボルシェヴィキの政策追求の道具に自分がなることに甘んじていた。(+++)
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 (58) R. Ullman, Intervention and the War(Princeton, NJ., 1961),p.74.
 (59) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.65.
 (*) 三国の各大使は回想録を残した。George Buchanan, My Mission to Russia, 2 vols.(London, 1923).; David Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1921).; およびJoseph Noulens, Mon Ambassaade en Russie Sovietique, 2 vols.(Paris, 1933).  
 (+) サドゥールが帰国後、この判決は執行されなかった。そして彼は、フランス共産党に加入した。
 彼の革命的経験は面白い書物に記録され、Albert Thoma への手紙という形式で、最初にモスクワで出版された。Sadoul, Note sur la Révolution Bolchevique(Paris, 1920)。これは、Quarante Letters de Jacques Sadoul(Paris, 1922)により補充されている。
 (**) 1918年4月25日付手紙。つぎに所収。The Raymond Robins Collection, State Historical Society of Wisconsin, Madison, Wisconsin.
 レーニンは返答して、「プロレタリア民主主義は、…、新旧両世界の帝国主義的資本主義体制を粉砕するだろう」と自信を表明した。
 (++)George F. Kennan, The Decision to Intervene(Proinceton, NJ., 1958), p.238-9.
 上記の証拠に照らすと、ロビンスの「ソヴィエト政府への敬意にみちた感情は教義としての社会主義に対する特別の愛着があったのではなかった」とか、ロビンスは「共産主義への先入的愛好心をもっていなかった」とかのKennan には同意するのは困難だ。同上, p.240-1.
 ロビンスはのちにスターリンを賛美し、1933年にスターリンに受け入れられた。
 Anne Vincent Meiburger, Efforts of Raymond Robins Toward the Recognition of Soviet Russia and the Outlawry of War, 1917-1933(Washington, D.C., 1958), p.193-9. を見よ。
 (+++) 彼の回想録である、Memoirs of a British Agent(London, 1935)とThe Two Revolutions: An Eyewittness Account(London, 1967)を見よ。
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 第11節・モスクワが連合国の助けを乞う。
 (1)サドゥールとロビンスはボルシェヴィキ・クーの後で、ときおりレーニン、トロツキー、その他の共産党指導者たちと逢った。
 1918年2月の後半には、逢う回数が増えた。それは、ボルシェヴィキによるドイツの最後通牒の受諾(2月17日)とブレスト=リトフスク条約の批准(3月4日)の間の時期だった。
 この二週間、ボルシェヴィキはドイツが自分たちを権力から排除するのを怖れて、連合諸国に対して、助力を求める切実な要請を訴えていた。
 連合諸国は、肯定的に反応した。
 フランスはとくに、その意欲があった。
 フランスは今では、ドン地方に形成されていた反ボルシェヴィキの義勇軍を放棄した。これは、ヌーランがその反ドイツの立場を理由として財政的に支援していた軍だった。
 彼の推奨意見にもとづいて、フランス政府はこれまでに将軍アレクセイエフに対して5000万ループルを、新しいロシア軍を組織するのを助けるべく拠出していた。
 1918年1月の初め、ロシアでのフランスの軍事使節の新しい代表であるH・ニゼール(Henri Niessel)は、アレクセイエフは「反革命」軍を率いているとの理由で、彼との関係を断つよう進言した。
 この助言は、採用された。アレクセイエフへの支援は終わり、ニゼールにはボルシェヴィキとの交渉を始める権限が与えられた。(*)
 ロックハルトも同様に、義勇軍への支援に反対した。彼もまた外務省への連絡文書で、義勇軍は反革命だと叙述した。
 彼の判断では、ボルシェヴィキこそがロシアの最も信頼できる反ドイツ勢力だった。(60)
 (2)ドイツの攻撃作戦が再開したあとの忙しい期間に、ボルシェヴィキの最高司令部は、連合諸国に助けを求めると決定した。
 2月21日、トロツキーは、サドゥールを通じて、ニゼールとともに、フランスはドイツの攻撃をソヴィエト・ロシアが抑えるのを助けるつもりがあるかどうかを問い合わせる通信を発した。
 ニゼールはフランス大使と接触し、肯定的な反応を得た。
 ヌーランはその日、ヴォログダからトロツキーに電報を打った。「あなたたちがドイツに抵抗する場合、フランスの軍事的および財政的協力を頼りにしてよい」。(61)
 ニゼールは、トロツキーにソヴィエト・ロシアがドイツ軍を妨害する方法を助言し、軍事顧問になることを約束した。
 (3)2月22日の夕方遅くの中央委員会で、フランスの反応の件が議論された。
 トロツキーはこのときまでに、フランスがロシアを助けようとする手段を概略するニゼールの覚え書を持っていた。(62)
 喪失したと言われているこの文書は、フランスによる金銭的および軍事的助力の具体的な諸提案を含むものだった。
 トロツキーはこれを受諾するよう強く主張し、その趣旨での方針を提案した。
 出席することができなかったレーニンは、簡潔な注記をつけて不在投票をした。「アングロ・サクソン帝国主義者の強盗どもから喇叭や兵器を奪うことに賛成する私の一票を加えてほしい」。(63)
 ブハーリンやその他の「革命戦争」の主張者が反対の立場をとったために、この動議は辛うじて、賛成6票、反対5票で採択された。
 ブハーリンは票決に敗北したあとで中央委員会と<プラウダ>編集局からの辞任を申し出たが、結局はそうならなかった。//
 (4)中央委員会が検討を終えるや否や-2月22-23日の夜間のことだった-、問題はソヴナルコム〔人民委員会議=ほぼ内閣〕に移された。
 トロツキーの動議はここでも、左翼エスエルの反対を押し切って、通過した。//
 (5)翌日、トロツキーはサドゥールに、ロシア政府がフランスの助けを受け入れる気のあることを伝えた。
 彼はニゼールをスモルニュイに招いて、ポドゥヴォイスキ、ボンチ=ブリュエヴィチ将軍やボルシェヴィキのその他の軍事専門家たちと反ドイツ作戦に関して協議させた。
 ニゼールは、ソヴィエト・ロシアは、愛国主義に訴えることのできる帝制時代の従前の将校の助けを借りて、新しい軍隊を建設しなければならない、という意見だった。(64)
 (6)ボルシェヴィキは今や、ドイツが自分たちを転覆しようとしている事態の中で態度を変更した。
 連合諸国はボルシェヴィキの国内および対外政策にほとんど関心がなく、東部前線での戦闘の再活性化の見返りとして寛大に助けてくれるのだと分かっていた。
 かりにドイツがルーデンドルフとヒンデンブルクの意見を最後まで貫いたとすれば、ボルシェヴィキは権力にとどまり続けるために、連合諸国と共闘し、中央諸国に対抗する軍事行動のために連合諸国がロシア領土を使うことを許しただろう、ということをほとんど疑うことはできない。
 (7)ロシア・連合国関係がいかほどにまで進展していたかは、2月遅くにレーニンがカーメネフをソヴィエトの「外交代表」としてパリに派遣したことで、分かる。
 カーメネフはロンドン経由で到着したが、それは彼の政府がブレスト=リトフスク条約をすでに裁可してしまっていた後でだった。
 彼は、冷淡な対応を受けた。
 フランスは、カーメネフが入国するのを拒否した。それに従って、彼は母国へと向かった。
 彼はロシアへの途上で、ドイツに取り押さえられた。ドイツはカーメネフを、4カ月間拘留した。(65)//
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 (*) A. Hogenhius-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.53.
 ニゼールは、その回想録でこうした事実に言及していない。Les Triomphe des Bolsheviks.
 (60) Ullman, Intervention, p.137-8.
 (61) Lenin, Sochineniia, XXII, p.607.; Gen.[Henri A.] Niessel, Les Triomphe des Bolsheviks et la Paix de Brest-Litovsk: Souvenirs(Paris, 1940), p.277-8.
 (62) J. Sadoul, Notes sur la Révolution Bolchevique(Paris, 1920), p.244-5.
 (63) Lenin, PSS, XXXV, p.489.
 (64) Niessel, Triomphe, p.279-280.
 (65) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.284-5.; Sadoul, Notes, p.262-3.; Ullman, Intervention, p.81.
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 第10節・第11節、終わり。

2243/R・パイプス・ロシア革命第13章第8節・第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原著、p.584-8。
 今回部分の最後のRichard Pipes によると、<共産主義テロル(Communist terror)>は1918年2月に始まる(<テロル>と「暴力(violence)」の違いも何となく理解できる)。レーニン時代からなのであり、間違ってもスターリン以降なのではない。
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 第13章・ブレスト=リトフスク。
 第8節・ドイツの堅い決意(Germans decide to be firm)。
 (1)トロツキーの異様な行動は、ドイツ関係者たちを全くの混乱に落とし込んだ。
 今では誰も、ロシアは講和交渉を注意を逸らす方策として利用していることを疑わなかった。
 しかし、この点はその通りだとしても、ドイツがどう反応すべきかは決して明瞭ではなかった。
 無意味な交渉を継続する?
 最後通告を受諾するよう、軍事行動によってボルシェヴィキに迫る?
 あるいは、ボルシェヴィキを権力から排除して、受け入れやすい体制に変える?
 (2)ドイツの外交官たちは、耐え忍んだ。
 キュールマンは、ドイツの労働者たちは東部前線で敵対行動を再開するのを理解できず、面倒なことが起きるだろう、と怖れた。
 彼はさらに、オーストリア=ハンガリーが戦争から離脱するのではないかと憂慮した。(44)//
 (3)しかし、1917-18年の政策を支配していた軍部は、別の考えだった。
 決定的な行動として西部に大量の戦力を注ぐことを3月半ばに予定していたので、東部前線が安全であるか兵団を西部前線に転換させ続けることはできないことが軍部には完全に確実でなければならなかった。
 軍部はまた、ロシアの食糧や原料を利用する必要があった。
 ロシアからの軍事諜報が示すところでは、ボルシェヴィキはドイツに対して最悪の意図をもつが、きわめて不安定な立場にあった。
 海軍付作戦長官でミルバッハ使節団とともにペトログラードに行ったW・v・カイザリンク(Walter von Kaiserlingk)は、警告する報告を返してきた。(45)
 間近でボルシェヴィキ体制を観察して、彼は、「権力をもつ狂気(insanity in power)」(<regierender Wahnsinn〔統治する狂気〕>)だと結論づけた。
 ユダヤ人に動かされているボルシェヴィキ体制は、ドイツのみならず文明世界全体に対する、致命的な脅威だ。
 彼は、ドイツをこのペスト菌から遮蔽するためには自国のロシアとの前線をさらに東へと移さなければならない、と力説した。
 カイザリンクはさらに、ドイツの企業上の利益でロシアを貫通することを提案した。
 その歴史上二度目のことだが(ノルマン人のことを示唆する)、ロシアは植民地化される用意がある。
 別の直接的報告書は、ボルシェヴィキ体制は弱体で軽蔑されていると述べていた。
 レーニンはきわめて不人気で、これまでのツァーリ以上に手厚く暗殺者から守られている、と言われていた。
 キュールマンが依拠した報告類によると、ボルシェヴィキを唯一支持しているのはラトヴィア人ライフル部隊だった。かりに彼らが金銭を使って追い払われれば、体制は崩壊するだろう。(46)
 このような証言者の説明は、皇帝に強い印象を与えた。そして、皇帝を将軍たちの見方へと接近させることとなった。//
 (4)ルーデンドルフは、ボルシェヴィキ体制の不安定さについて受け取った情報をドイツ軍の意気を削ごうとするボルシェヴィキの系統的な運動という証拠と結びつけた。そして、ヒンデンブルクの支持を得て、ブレストでの交渉は決裂されるべきだ、そのあとでドイツ軍はロシアに侵入してボルシェヴィキを打倒し、ペトログラードに受容し得る政府を樹立する、と強く主張した。(47)//
 (5)外務省と幕僚たちの意見は、2月13日のバート・ホンブルク(Bad Homburg)で皇帝が主宰した会合で、衝突した。(48)
 キュールマンは、宥和的方針を強調した。
 彼は、刀剣は「革命的熱狂(plague)の中心」を切り取ることはできない、と論じた。
 かりにドイツ軍がペトログラードを占拠したとしても、問題はなくならないだろう。フランス革命が雄弁に示すように、外国の干渉は民族主義と革命的熱情を燃え立たせるだけだ。
 最良の解決方策は、ドイツの助力のもとでロシア人が実行する反ボルシェヴィキのクーだろう。しかし、キュールマンがこのような政策を支持していても、彼は明確には語らなかった。
 外務大臣は、副首相のF・v・パイア(Friesrich von Payer)から支持された。この人物は、ドイツ国民の中に広がっている平和願望と軍事力によってボルシェヴィキを打倒することの不可能性について話していた。//
 (6)ヒンデンブルクは、同意しなかった。
 東方で決定的な行動をしなければ、西部戦線での戦闘が長期にわたって引き続くだろう。
 彼は、「ロシアを粉砕し、その政府を転覆させる」のを欲した。//
 (7)皇帝は、将軍たちの側についた。
 彼はこう言った。トロツキーは、講和するためにではなく、革命を促進するためにブレストに来ている。そして、連合諸国の支援を得て、そうしている。
 ロシアにいるイギリス公使は、ボルシェヴィキは敵だと告げられるべきだ。
 「イギリスはドイツと一緒に、ボルシェヴィキと戦うべきだ。
 ボルシェヴィキは野獣(tigrers)だ。何としてでも、絶滅しなければならない。」(49)
 ともあれ、ドイツは行動しなければならない。さもないと、イギリスとアメリカ(合衆国)がロシアを奪い取るだろう。
 ゆえに、ボルシェヴィキは「去らなければなない」。
 「ロシア人民は、世界中の全ユダヤ人-そう、フリーメイソンたち-と結びついているユダヤ人の報償品として引き渡されている」。(*)//
 (8)この会議は、停戦は2月17日に終了し、その後でドイツ軍はロシアに対する攻撃を再開する、と決定した。
 ドイツ軍の使命は、明確には示されなかった。
 ボルシェヴィキを打倒するという軍事作戦は、すみやかに放棄された。それは、しかしながら、文民の当局者が異議を唱えたからだった。//
 (9)この決定に従って、ブレストにいるドイツの幕僚たちはロシア人たちに、ドイツは東部前線での軍事行動を、2月17日正午にやり直す、と知らせた。
 ペトログラードのミルバッハ使節団は、帰国するよう命じられた。//
 (10)ドイツ人は虚勢を張っていたにもかかわらず、このときにドイツが何を欲していたかは明瞭ではない。つまり、ドイツの講和条件を受諾するようボルシェヴィキに強いるためか、それとも、ボルシェヴィキを権力から排除するためか。
 その当時ものちにも、ドイツは自分の最優先事項を決定することができなかった。最初はロシアの領土をより広く獲得することに関心があった。だが、それとも、ロシアにもっと普通の政権を樹立することに関心は移ったのか。
 結局は、領土への渇望が優ることとなった。//
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 (44) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.314-5.
 (45) VZ, XV, No.1(1967年1月), p.87-p.104.に再掲されている。
 (46) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.278.
 (47) 同上, p.289-p.290, p.318-9.
 (48) 議事録は、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.322-9. Baumgart, Ostpolitik, p.23-p.26.も見よ。
 (49) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.326-7. ドイツ語では、Baumgart, Ostpolitik, p.25.
 (*) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, ot peregovo v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skogo degovora, I(Moscow, 1968), p.328.
 カイザリンクをペトログラードから派遣したことで喚起されたけれども、この反ユダヤの論及は、いわゆる<シオン賢者の議定書>からの影響が大きい。無邪気で単純な人々は世界大戦と共産主義に関する「説明」を求めていたが、この書物はすみやかに、そのような人々に人気のある読み物になることになる。
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 第9節・ソヴィエト・ロシアへの進軍。
 (1)ドイツによる軍事行動の切迫の通知は、2月17日の午後にペトログラードに届いた。
 直後に開かれた中央委員会の会合で、レーニンはあらためて、ブレストに戻って降伏することを申し立てた。しかし、5対6で、再び際どい敗北を喫した。(50)
 多数派は、ドイツが威嚇を実施するか否かを、待って見ていたかった。かりにドイツが本当にロシアへと侵入して来て、かつドイツとオーストリアで革命が勃発しないとしても、必然的な流れに従う時間はまだあるだろう。//
 (2)ドイツ人は、自分たちの言葉に忠実だった。
 2月17日、ドイツ兵団は前進して、抵抗に何ら遭うことなくドヴィンスク(Dvinsk)を占領した。
 将軍ホフマンは、この作戦行動を、つぎのように描写した。//
 「いまだ経験したことのない、漫画的(comic)な戦争だった。-ほとんどもっぱら、列車と自動車で行われた。
 機関銃をもつ若干の歩兵部隊と大砲一台が列車に乗り、次の鉄道駅へと進み、そこを掌握し、ボルシェヴィキを拘束し、別の部隊を乗せ、さらに進んだ。
 この手順は、いずれにしても、物珍しくて魅惑的だった。」(51)//
 (3)レーニンには、これが我慢の限界だった。
 全く予期していなかったわけではないが、ロシア軍団の抵抗のなさに、彼は唖然とした。
 戦闘する気がまるでなかったので、ロシアは敵の前進に身をさらしたままだった。
 レーニンは、ドイツ政府の決定に関する最も機密的な情報を持っていたと思われる。それはたぶん、ドイツの同調者からスイスまたはスウェーデンにいるボルシェヴィキ工作員を通じてもたらされたものだった。
 彼はこの情報にもとづいて、ドイツはペトログラードを、そしてモスクワもすら、奪取しようと考えている、と結論づけた。
 レーニンは、同僚たちの自己満足気分に激高した。
 彼が判断したように、ドイツがウクライナでのクーを再現するのを阻止できるものは何もなかった。-そのクーはつまり、レーニンを右翼の傀儡に代えて、革命を鎮圧することだ。//
 (4)しかし、2月18日に中央委員会が再度開催されたとき、レーニンはまたもや多数派となることができなかった。
 ドイツへの降伏を支持する彼の提案は6票を得たが、7人の反対票が、トロツキーとブハーリンが共同して提案した動議に投じられた。
 党指導部は、救いようもなく暗礁に乗り上げた。
 対立によって、党全体が分裂する危険があった。それは、党の強さの根源である紀律ある統一を破壊するものだった。//
 (5)この決定的に重大な時点で、トロツキーがレーニンの側に回った。立場を変え、自分の意見を主張しないで、レーニンの提案に賛成票を与えた。
 トロツキーの伝記作者によると、彼がこうした理由は、一つは、ドイツがロシアに侵入した場合にレーニンに約束していたことを履行すること、もう一つは、党に生じる大きな亀裂を回避すること、にあった。(52)
 あらためて票決が行われたとき、7名がレーニンの提案に賛成し、6名が反対した。(53)
 この辛うじての多数派獲得にもとづき、レーニンは、ロシア代表団はブレストに戻っているとドイツに知らせる電報文を起草した。<+>
 何人かの左翼エスエルが文案を示された。そして、彼ら左翼エスエルが同意したあと、無線通信でその内容が伝えられた。//
 (6)衝撃が訪れた。
 ドイツとオーストリアの両軍は、すみやかに攻撃を中止することをしないで、ロシア内部へと侵入し続けた。
 北部ではドイツ軍団はリヴォニア(Livonia)〔エストニア〕に入り、中央部では、依然として抵抗されることなく、ミンスクとプスコフへと進軍した。
 南部ではオーストリア軍とハンガリー軍が、こちらも前進し続けた。
 このような外面はあるけれども、ロシアがドイツの条件を受諾する意向を伝えた後で行われたこのような作戦行動は、一つの意味だけを持っていただろう。すなわち、ベルリンは、ロシアの首都を奪取して、ボルシェヴィキ政権を転覆させる決意だった。
 これはレーニンが想定していたことだった。I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、レーニンは2月18日に、ドイツが自分に権力を放棄するよう要求する場合にのみ自分は戦うつもりだ、と言った。(55)
 (7)数日が経ったが、前進するドイツ軍からの反応はまだなかった。
 この時点で、ボルシェヴィキ指導者たちにパニックが襲った。彼らは緊急措置を決定した。そのうちの一つは、とくに重大な意味をもっていた。
 2月21-22日、ドイツから一言の反応もまだないときに、レーニンは、「社会主義祖国が危機にある」と題する布令を執筆して、署名した。(56)
 その前文には、ドイツ軍の行動はドイツがロシアの社会主義政府を弾圧して君主制を再建しようとしていることを示す、と書かれていた。
 「社会主義祖国」を防衛するために、「非常の措置が必要だ」。
 このうちの二つは、永続的な意味をもつこととなった。
 第一に求めたのは、塹壕を掘るために「労働能力のあるブルジョア階級の全ての者から成る」強制労働大隊(battalions of forced labor)を設置すること。
 抵抗する者は、射殺されるものとされた。
 これは強制労働(forced labor)を実際に導入したもので、やがて数百万の市民に影響を与えることとなる。
 第二を定める条項は、こうだった。「敵の工作員、相場師、窃盗犯、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイは、その場で処刑されるものとする」。
 この条項は、取り返しのつかない刑罰〔=死刑〕を導入した。これは明確には定義されてもおらず、また、その当時までに全ての法令が失効していたために、制定法上の根拠もないものだった。(57)
 裁判については、何も語られなかった。また、極刑(capital punishment =死刑)になりそうな被追及者からの意見聴取の手続についてすら、同じだった。
 この布令は事実上、チェカに殺人許可証を付与した。チェカはすみやかに、これを全面的に活用した。
 これら二つは、共産主義テロルの時代が幕を開けたことを明確に示した。//
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 (50) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677.
 (51) K. F. Nowak, ed., Die Aufzeichnungen des General Majors Max Hoffmann, I(Berlin, 1929), p.187.
 (52) Deutscher, Prophet Armed, p.383, p.390.
 <+> 秋月注記-日本語版レーニン全集26巻541頁「ドイツ帝国政府あての無線電話の最初の草案」1918年18-19日夜執筆、<イズヴェスチヤ>同20日付発表。
 (53) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677. およびPSS, XXXV, p.486-7.
 (54) Dekrety, I, p.487-8.; Lenin, PSS, XXXV, p.339.
 (55) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.206-7.
 (56) Dekrety, I, p.490-1.
 =日本語版レーニン全集27巻16-17頁「社会主義の祖国は危険にさらされている!」。<プラウダ>2018年2月22日付。
 (57) 後述、第18章〔<赤色テロル>〕を見よ。
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 第8節・第9節、終わり。この章は16節まである。

2236/R・パイプス・ロシア革命第13章第6節・第7節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第6節・ブレストでのトロツキー。
 (1)ブレストでの交渉は、12月27日/1月9日に再開した。
 ロシア代表団を率いたのは、今度はトロツキーだった。
 彼は、時間稼ぎを継続してプロパガンダを拡散しようと考えて、やって来ていた。
 レーニンは、この戦術にしぶしぶ同意していた。
 トロツキーは、かりにドイツがそれを見越して最後通牒を発すれば、ロシア代表団は屈従する、と約束しなければならなかった。(28)
 (2)トロツキーは到着し、交渉の休止の間にドイツがウクライナの民族主義者たちと別の連絡手段を確立していることを知って、不愉快な驚きをもった。
 12月19日/1月1日、若い知識人たちから成るウクライナ代表団は、公開の分離交渉を行おうとのドイツの招きで、ブレストに着いていた。(29)
 ドイツの目標は、ウクライナを切り離して、ドイツの保護国にすることだった。
 1917年12月に、ウクライナ評議会(Council)、あるいはRada は、ウクライナの独立を宣言した。
 ボルシェヴィキはこの承認を拒み、自分たちが公式に宣言した「民族の自己決定権」の権利を侵害して、その地域を再征服するために軍隊を派遣した。(30)
 ドイツの見積もりでは、ロシアは、食糧の3分の1、石炭と鉄の70パーセントをウクライナから受け取っていた。ウクライナが分離することは明らかに、ボルシェヴィキを弱体化し、ドイツへの依存をさらに高めることを意味した。同時に、ドイツ自身の逼迫する経済的必要を、徐々に充足させるものだった。
 トロツキーは、伝統的外交官の役割を演じて、ドイツの行動はロシアに対する内政干渉だ、と宣告した。しかし、彼に可能だったのは、それだけだった。
 12月30日/1月12日、中央諸国は、ウクライナのRada を国の正統な政府だと承認した。
 これによって、ウクライナとの分離講和条約の締結への歩みが始まった。//
 (3)そのとき、ドイツによる領土要求の提示があった。
 キュールマンはトロツキーに対して、我々はロシアの「併合と賠償金なし」の講和要求は受け入れ難いと考えており、ドイツが占領している領土をロシアから引き離すつもりだ、と知らせた。
 全ての征圧地を譲ろうというチェルニンの提案について言うと、この提案は、連合諸国が講和交渉に加わることを条件としており、かつその参加は行われなかったので、有効性を失っていた。
 1月5日/18日、マックス・ホフマン将軍は地図を開いて、不審がるロシア人に対して、両国の間の新しい国境線を示した。(31)
 それによると、ポーランドの分離と、リトアニアおよび南部ラトヴィアを含むロシア西部の広大な領域のドイツへの併合が、求められていた。
 トロツキーは、我が政府はこのような要求を絶対に受け入れることができない、と答えた。
 その1月5日/18日はたまたまボルシェヴィキが立憲会議を解散させたまさにその日だった。その日、トロツキーは無謀にも、こう言った。ソヴィエト政府は、「最も肝要なのは新しく形成される国家の運命だ、住民投票(referendom)が人民の意思を表明する最良の手段だ、という考え方になお執着する」、と。(32)
 (4)トロツキーは、ドイツが提示した条件をレーニンに伝え、その後で、政治的交渉を12日間延期することを要請した。
 彼は同日にペトログラードへと出立し、ヨッフェは残された。
 この延期についてドイツがいかに神経質だったかは、つぎのことからも知られる。すなわち、キュールマンはベルリンに情報を伝えて、ボルシェヴィキによる延期要請を交渉の決裂だと理解してはいけない、と強く要望した。(33)
 ドイツには、講和交渉の破綻は同国の産業中心地域での市民の騒擾を巻き起こすのではないかと怖れる、十分な理由があった。
 1月28日、社会主義運動の左翼が組織し、100万人以上の労働者が加わった政治的ストライキの波が、勃発した。ドイツの多数の都市で、すなわちベルリン、ハンブルク、ブレーメン、キール、ライプツィヒ、ミュンヘン、そしてエッセンで起こった。
 あちこちで、「労働者評議会」が設立された。
 ストライキ活動家たちは、併合と賠償金なしの講和と東ヨーロッパ諸民族の自己決定を要求した。-これは、ロシアの講和条件の受容を意味した。(34)
 ボルシェヴィキが直接に関与していたとの証拠資料は存在していないが、ストライキに対するボルシェヴィキのプロパガンダの影響は明白だつた。
 ドイツ当局は、強い、ときには残虐な弾圧でもって対処した。そして、2月3日までには、ドイツ政府は状況を統制下に置いた。
 しかし、ストライキは厄介なことを示す証拠となった。前線で何が起きていようとも、国内での状況を当然のこととは考えることができなかったのだ。
 人々は、平和を切望していた。そして、ロシアがそのための鍵を握っているように見えた。//
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 (28) Lenin, PSS, XXXVI, p.30.
 (29) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.183, p.190.; Fischer, Germny's Aims, p.487.
 (30) 私の Formation of the Soviet Union: Communism and Nationalism, 1917-23(Cambridge, Mass., 1954), p.114-p.126 を見よ。
 (31) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229.; J. Weeler-Bennet, Brest-Litovsk: The Forgotten Peace(London-New York, 1956), p.173-4.
 (32) W. Hahlweg, Der Diktatfrieden von Brest-Litovsk(Münster, 1960), p.375.
 (33) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229-p.230.
 (34) 1918年1月ストライキにつき、G. Rosenfeld, Sowjet-Russland und Deutschland 1917-1922(Köln, 1984), p.46-p.55.; Weeler-Bennet, Forgotten Peace, p.196.
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 第7節・ボルシェヴィキ内の激しい対立とドイツの最後通牒〔bitter divisions among Bolsheviks and the Geman ultimatum〕。
 (1)ドイツの要求によって、ボルシェヴィキ指導部は相争う3分派に分裂した。これらは、のちの経緯で、2分派へと融合した。
 (2)ブハーリン派は、交渉をやめて、ドイツ革命の炎を煽りつつ主として遊撃部隊的戦闘によって軍事作戦を継続させることを望んだ。
 この立場は、ボルシェヴィキ党員たちの大多数派の支持を受けた。ペトログラードとモスクワのいずれの党官僚たちも、この趣旨での決議を採択した。(35)
 ブハーリンの伝記著作者たちは、のちに「左翼共産主義」と称された彼の政策方針はボルシェヴィキの多数派の意向を反映していた、と考えている。(36) 
 ブハーリンとその支持者たちは、西ヨーロッパは社会革命の瀬戸際にあると見ていた。その革命こそがボルシェヴィキ体制の存続にとって不可欠だと認められているのだから、「帝国主義者」ドイツとの講和は、彼らには反道徳的のみならず、自己欺瞞に他ならなかった。
 (3)トロツキーは、第二の派の代表だった。この派は左翼共産主義者とは、戦術上の微妙な違いだけがあった。
 トロツキーは、ブハーリンのようにドイツの最後通告を拒みたかったが、それは「戦争でも講和でもない」という耳慣れないスローガンのもとでだった。
 ロシアはブレストでの交渉をやめ、一方的に(unilaterally)戦争の終止を宣言する。
 そうすればドイツは、したいこと、つまりロシアが何をしても抑止できないことを自由に行うだろう-西部および南西前線部の広大な領土の併合。しかし、ロシアの承諾なくしてそれを行わなければならない。
 トロツキーが主張するには、こう進展することで、人気のない戦争を遂行するという重荷からボルシェヴィキは解放され、自由になるだろう。そして、ドイツ帝国主義の残虐性を暴露することとなり、ドイツの労働者を反乱へと鼓舞して立ち上がらせるだろう。//
 (4)レーニンはカーメネフとジノヴィエフに支持されて、ブハーリンとトロツキーに反対した。
 彼の切迫感覚およびロシアは取引できる立場にはないという考えは、戦争大臣のクルィレンコ(Krylenko)が12月31日/1月13日にソヴナルコムに提出した報告によって強化された。
 動員解除(復員)に関する全軍会議の代表者たちに配布されたアンケート回答書にもとづいて、クルィレンコは、ロシア軍は、あるいはそれだとして残っているものは、戦闘能力をもっていない、と結論づけていた。(37)
 レーニンは、こう思考した。紀律と十分な装備のある敵に抵抗することはできない、と。
 (5)レーニンは1月7日/20日に、「併合主義的分離講和の即時締結問題に関するテーゼ」で、彼の考え方を定式化した。(38)
 これによると、彼はつぎの諸点を挙げている。
 (1) 最終的な勝利の前に、ソヴィエト体制はアナーキーと内戦の時期に直面する。これは「社会主義革命」のために必要な時期だ。
 (2) ロシアは少なくとも数カ月の余裕が必要だ。その過程で「体制は、まずは自分の国で始めてブルジョアジーに対して勝利する」、そして自分たちの諸勢力を再組織する、「完全に自由な時間的余裕を獲得しなければならない」。
 (3) ソヴィエトの政策は、国内事情を考慮して決定されなければならない。外国で革命が勃発するか否かは不確実だからだ。
 (4) ドイツでは、「軍事党」が上層部を握った。ロシアは、領土割譲と財政的制裁金を要求する最後通告を提示されるだろう。
 政府は、交渉を長引かせるべく全力を尽くしたが、この戦術は自然消滅した。
 (5) ドイツの条件での即時講和に反対する者たちは、このような講和は「プロレタリア国際主義」の精神を侵犯すると、間違って論じている。
 彼らが望むように政府がドイツとの戦闘継続を決定するならば、別の「帝国主義陣営(Bloc)」からの助力を求める以外に選択の余地はないだろう。その協商諸国(Entente)は、フランスとイギリスの代理人へと変わるだろう。
 かくして、戦争の継続は「反帝国主義」の動きではない。二つの「帝国主義」陣営の間での選択を呼びかけるものだからだ。
 しかしながら、体制がいま果たすべき責務は、「帝国主義諸国」の間で選択することではなく、権力を確固たるものにすることだ。
 (6) ロシアは実際に外国の革命を推進しなければならない。しかし、「諸勢力の相関関係」を考慮することなくしてこれを行うことはできない。
 現時点でのロシア軍は、ドイツ軍の前進を食い止めるには無力だ。
 さらに言えば、ロシアの「農民」軍隊の大多数は、ドイツが要求する「併合主義」講和を支持している。
 (7) ロシアが現在のドイツの講和条件の受け入れ拒否に固執するならば、いずれもっと負担の大きい条件を受諾せざるを得なくなるだろう。
 しかし、これはボルシェヴィキではなくその継承者たちが行うことだ。その間にボルシェヴィキは、権力を剥奪されているだろうから。
 (8) 政府は小休止によって、経済(銀行と重工業の国有化)を組織する機会をもつだろう。経済の組織化は、「社会主義をロシアと全世界でで揺るぎないものにし、そして同時に、強力な労働者・農民赤軍を築く堅固な経済的基礎を生み出すだろう」。
 (6)レーニンには、彼の異議にもかかわらず本当は世界大戦が継続することを望んでいることを暴露してしまうだろうがゆえに明言することのできない、別の理由があった。
 レーニンは、中央諸国と協商諸国の「ブルジョアジー」が講和をすればすぐに、彼らは勢力を合体してソヴィエト・ロシアを攻撃するのは確実だと感じていた。
 彼は、ブレスト条約に関する討議の間に、この危険性を暗示した。
 「我々の革命は、戦争から産まれた。
 戦争がなかったならば、全世界の資本主義者たちの統合を目撃していただろう。この統合は、我々に対する闘いを基礎とするものだ。」(39)
 レーニンは、彼自身の政治的闘志を反映して、「敵たち」の巧妙さや果断さをきわめて高く評価していた。
 実際には、1918年11月の停戦以降に、このような「統合」は発生しなかった。
 しかし、彼は危険が本当にあると考えたので、想定される「資本主義者」の攻撃に抵抗することのできる軍隊を建設するための時間を稼ぐために、戦争を長引かせなければならなかった。
 (7)1918年1月8日/21日、ボルシェヴィキは、三つの本拠地で、党指導者たちの会議を開いた。ペトログラード、モスクワ、そしてウラル地域。
 レーニンは、ドイツの最後通告の受諾を求める決議を提案した。
 この提案は、全63票のうち僅か15票の支持しか受けなかった。
 トロツキーの「講和でも戦争でもない」妥協的決議は、16票を獲得した。
 多数派(32代表者)は、左翼共産主義者の決議に賛成投票をし、妥協なき「革命」戦争を要求した。(*)//
 (8)議論はつぎに、中央委員会に移った。
 トロツキーはここで、敵対行動の即時かつ一方的な停止およびロシア軍の一斉の動員解除の動議を提出した。
 この動議は、9対7の過半数で辛うじて通過した。
 レーニンは、ドイツの条件での即時講和を支持する情熱的な演説でこれに反応した。(40)
 しかし、レーニンは少数派のままだった。そして、翌日にボルシェヴィキ中央委員会が左翼エスエルの中央委員会と合同の会合をもったときには、さらに支持者数を減少させた。左翼エスエルは、レーニンの講和提案に激しく反対していたのだ。
 この日、ここでも再び、トロツキーの決議が通過した。
 (9)この信任を受けたトロツキーは、ブレストに戻った。
 交渉は、1月15日/28日に再開した。
 トロツキーは、意味の乏しい発言やプロパガンダ的演説を行って、時間稼ぎを継続した。
 これには、さすがの自制心のあるキュールマンですら、苛立ち始めた。//
 (10)ロシア・ドイツ間交渉が修辞学的言葉の遣り取りにはまり込んでいた一方で、ドイツとオーストリアは、ウクライナと合意に達した。
 2月9日、中央諸国はウクライナ共和国との間に分離講和条約を締結した。これはウクライナを事実上はドイツの保護国とするものだった。(41)
 ドイツとオーストリアの兵団は、ウクライナへと移動した。そこで彼らは、ある程度の法と自由を回復した。
 この歓迎されるべき行為の対価は、船によってウクライナの食糧が西方へと大量に輸送されたことだった。//
 (11)ロシア・ドイツ間政治交渉の膠着状態を破ったのは、ドイツ皇帝からの電報だった。皇帝は、将軍たちの影響をうけて、2月9日にブレストに電報を発した。
 彼はその中で、最終通告書をロシアに与えるよう命じていた。//
 「本日、ボルシェヴィキ政府はラジオで私の兵団に en clair を伝え、立ち上がって軍部上官に公然と反抗するように迫った。
 私もフォン・ヒンデンブルク元帥閣下も、このような事態をこれ以上受け入れたり、甘受したりすることはできない!
 可能なかぎり迅速に、このようなことを終わらせなければならない!
 トロツキーは、明日、(2月)10日の午後8時までに、…<遅滞なく、我々の条件での講和>に署名しなければならない。…。
 拒否する場合または遅滞その他の釈明を企てる場合には、10日夜の8時に、交渉は決裂し、停戦は終わる。
 そうなれば、東部前線部隊は、事前に定められた線へと前進するだろう。」(42)
 (12)翌日、キュールマンはトロツキーに対し、ドイツ政府の最終通告を伝えた。
 トロツキーはそれ以上の議論をすることなくまたはその他の遅延を行うことなく、講和条約のドイツ語文に署名すべきものとされた。
 トロツキーは、ソヴィエト・ロシアは戦争から離れており、軍隊の動員解除を進めていると言って、そうするのを拒んだ。(43)
 しかしながら、ペトログラードへとその間に移った経済的、法的な議論は、そう望まれていたとすれば、継続することができただろう。
 トロツキーは列車に乗り込み、ペトログラードへと向かった。//
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 (38) Lenin, PSS, XXXV, p.243-p.252.
 =レーニン全集第26巻「併合主義的単独講和の問題についてのテーゼ」452頁~460頁(大月書店、1958)。
 (39) 同上, p.324.; Hahlweg, Diktatfrieden, p.48.
 (*) Lenin, PSS, XXXV, p.478.; LS, XI, p.41.; Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918(Vienna-Munich, 1966), p.22.
 レーニンを支持したスターリンは、西側での革命は見えていない、と語った。
 この会議の議事録は消失したと言われている。Isaac Steinberg は、左翼エスエルは「戦争でも講和でもない」定式を好み、それを定式化したものを手にしていた、と語る。
 Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.190-2.
 (40) Lenin, PSS, XXXV, p.255-8.
 (41) ロシア語文、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.298-p.308.
 英語訳文、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.392-p.402.
 (42) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.311-2.
 (43) Soviet Declaration in Lenin, Sochineniia, XXII, p.555-8.
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 第13章第6節・第7節、終わり。

2235/R・パイプス・ロシア革命第13章第4節・第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳をつづける。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
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 第4節・ボルシェヴィキ上層部の分裂。
 (1)ベルリンとウィーンがロシアとすみやかに合意するのは望ましくないと一致していたとすると、ペテログラードでは、意見は真っ二つに分かれていた。
 細かな差違を別にすると、ボルシェヴィキ内部に、ほとんどどんな条件であっても即時の講和を望む者たちと、ヨーロッパ革命を引き起こす手段として講和交渉を用いたいという者たちの対立があった。
 (2)第一の見解の主導者であるレーニンは、しばしば少数派に属することがあり、ときには一人だけの少数派だった。
 彼は、国際的な「諸勢力の相関関係」に関する悲観的な評価から出発した。
 レーニンもまた西側での革命を期待していたが、反対者たちよりも、「ブルジョア」政府が革命を粉砕する能力を高く想定していた。
 彼は同時に、ボルシェヴィキが権力を掌握し続けることについて、同僚たちほどには楽観的でなかった。
 レーニンは、講和交渉に付随した議論の間に、ヨーロッパではまだ内乱が発生していないが、ロシアではすでに起きている、と注意深く観察していた。
 この時期に関する見通しの点では、彼は、中央諸大国にある国内事情の困難さやすみやかに妥協する必要性を低く評価するという過ちを冒していたかもしれない。つまり、こうした点でのロシアの立場は、彼が思っていた以上に強かったのだ。
 しかし、ロシアの内部情勢に関する彼の見方は、完璧に適切だった。
 レーニンは、戦争を継続すれば国内の対抗者たちかドイツかのいずれかによって権力を奪われる危険がある、と分かっていた。
 また、権力を保持し続ける欲求を現実のものにするために、小休止が切実に必要であることも、分かっていた。
 そのためには、政治的、経済的、軍事的な組織的努力が必要だったが、いかほど負担が大きくて屈辱的であろうとも、平和という条件のもとでのみそれは可能だった。
 これが当面は西側「プロレタリアート」を犠牲にすることは、たしかに本当だ。しかし、レーニンの見方では、ロシアでの革命が完全に成功するまでは、ロシアの利益こそが最優先だ。//
 (3)レーニンに反対する多数派は、ブハーリンが先頭にいて、トロツキーが続いて加わった。この多数派の見地は、つぎのように要約された。//
 「中央諸国は、レーニンが小休止するのを許そうとしないだろう。
 彼らはウクライナの穀物と石炭、コーカサスの石油をロシアと遮断するだろう。
 ロシア住民の半分を支配下に置くだろう。
 反革命運動を財政支援し、革命を転覆させるだろう。
 ソヴィエトも、小休止の間に新しい軍を建設することはできないだろう。
 ソヴィエトは、まさに戦闘中に、軍事力を強化しなければならない。そうしてのみ、新しい軍隊を誕生させることができるのだ。
 確かに、ソヴィエトはペトログラードを、ひょっとすればモスクワをすら、放棄せざるを得ないかもしれない。だが、退却して再結集するだけの区域は十分にまだある。
 人民がかつて旧体制と闘うことができたほどには革命のために戦う意欲がないと分かったとしても-そして戦争派の指導者たちがこれを承認するのを拒むとしても-、全ゆるテロルと略奪を行って進出してくる全ドイツ軍によって、人民は疲労と無気力から呼び覚まされ、抵抗へと駆り立てられ、ついには広範で真に民衆的な革命戦争の熱狂が発生するだろう。
 この熱狂の流れに乗って、新しく畏怖すべき軍隊が立ち上がるだろう。
 下劣な屈服という恥を知らぬ革命は、復興を達成するだろう。
 革命は、世界の労働者階級の精神を掻き立てるだろう。
 そして最後には、帝国主義という悪魔を放逐するだろう。」(20)//
 このような意見の対立によって、1918年初めに、ボルシェヴィキ党の歴史上最大の危機が生じた。//
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 (20) Isaac, Deutscher, The Prophet Armed: Trotsky, 1870-1921(New York-London, 1954), p.387.
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 第5節・初期の交渉(initial negotiations)。
 (1)1917年11月15日/28日、ボルシェヴィキは再び、交戦諸国に対して交渉を行うことを呼びかけた。
 この訴えは、連合諸国の「支配階級」が平和布令に反応しなかったために、ロシアは積極的に反応したドイツやオーストリアと停戦にかかる即時の交渉を行う用意がある、と述べた。
 ドイツは、ボルシェヴィキの提案をすみやかに受諾した。
 11月18日/12月1日、ロシアの代表団が、ドイツの東部戦線最高司令部があるブレスト=リトフスクに向けて出発した。
 この代表団を率いたのは、元メンシェヴィキでトロツキーの親密な友人の一人である、A・A・ヨッフェ(Ioffe)だった。
 カーメネフも含まれていた。これは、兵士、海兵、労働者、農民および女性という「勤労大衆」の代表という象徴的表現だった。
 ロシアの代表団を運ぶ列車がブレストに向かっている途中ですら、ペトログラードは、ドイツ兵団に対して反乱を呼びかけた。
 (2)停戦交渉は、11月20日/12月3日に、以前はロシアの将校用クラブだった建物で始まった。
 ドイツの代表団の長はキュールマン(Kühlmann)で、この人物はロシア事情の専門家だと自認しており、1917年にレーニンと協定するに際して最も重要な役割を果たしていた。
 両当事者は11月23日/12月6日に停戦を開始すること、11日間は有効とすることに合意した。
 しかしながら、この期限が満了する前に、相互の合意にもとづいて、1918年1月1日/14日まで延長するものとされた。
 この延長の表向きの目的は、連合諸国に対して再考慮して交渉に加わる機会を与えることだった。
 しかしながら、双方ともに、連合諸国がこれに応じる危険はない、と踏んでいた。キュールマンが首相に対して助言したように、ドイツが提示した停戦条件は重たいものなので、連合諸国がそれを受け入れるとは考えられなかった。(21)
 延長の本当の目的は、双方の側に対して、講和交渉へと至るそれぞれの立場を考え出す時間を与えることだった。
 このことが進行している以前にすでに、ドイツ軍は6分団を西部前線へと配置換えし、これにより停戦条件に違反していた。(*)//
 (3)ボルシェヴィキがいかにドイツとの関係の正常化を熱心に求めていたかは、停戦後すぐにヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ(W. v. Mirbach)候が率いるドイツ代表団をペトログラードで歓迎したという事実でも、分かる。
 その代表団は、民間人の戦争捕虜の交換や経済的、文化的交流の再開について調整することとされていた。
 レーニンは、12月15日/28日に、ミルバッハを接受した。
 ベルリンがソヴィエト・ロシアの状態に関する目撃証言を初めて得たのは、この代表団からによってだった。(+)
 ドイツはミルバッハから伝えられて初めて、ボルシェヴィキはロシアの外国債務を放棄しようとしてることを知った。
 この情報を受けてドイツ国有銀行は、ドイツの利益には最小限度の負担で、連合諸国の利益は最大限度となるように処理する覚書の草案を作成した。
 この趣旨での提案は、レーニンの古い仲間で今はストックホルムのソヴィエト外交代表者のV・V・ヴォロフスキ(Volovskii)によって概略が描かれていた。この人物は、ロシア政府は1905年以降に発生した負債だけを消滅させる、と提案していた。ロシアに対するドイツの貸付はほとんどが1905年以前に行われていたので、債務不履行(default)の大部分は、連合諸国の側の負担になるものだった。(22)(**)
 (4)ブレストでの会談は、12月9日/22日に再開した。
 キュールマンが、ドイツ代表団を再び率いた。
 オーストリア使節団の代表は、外務大臣のチェルニン(Czernin)候だった。
 トルコとブルガリアの外務大臣も、同席した。
 ドイツの講和提案は、コートランド(Courland)とリトアニアとともにポーランドのロシアからの分離も要求した。これらの地域はこのとき、ドイツの軍事占領のもとにあった。
 ドイツ側はこれらの条件は合理的だと考えていたに違いない。なぜなら、彼らは希望に充ちた宥和的な気分でブレストに来ていて、クリスマスまでには原則的な合意に達するだろうと予想していたからだ。
 しかし、彼らはすぐに失望した。
 訓令にもとづいて交渉を長引かせていたヨッフェは、曖昧で非現実的な(レーニンが起草した)対案を提示し、「併合と賠償金のない」講和と植民地と同様のヨーロッパ諸民族の「民族の自己決定」を求めた。(23)
 ロシア代表団は、事実上はまるでロシアが戦争に勝利したかのごとく振る舞い、中央諸国に対して、戦争中の全ての征圧地を放棄するよう求めた。
 この態度によって、ドイツに初めて、ロシアの意図に関する疑念が生じた。//
 (5)講和交渉は、非現実的な雰囲気の中で進められた。つぎのとおりだ。
 「ブレスト=リトフスクの会議室の情景は、誰か偉大な絵画家が描く芸術に値するものだった。
 一方には、落ち着いて警戒心を怠らない中央諸国の代表たちがいた。彼らは黒い上着を着て相当にリボンで飾っていて、輝いていてかつきわめて丁重だった。…。
 その中で注目されたのは、まずキュールマンの細い顔と油断のない眼だった。この人物の議論中の礼儀正しさはいつも変わりがなかった。
 堂々とした風格のチェルニンは、彼の無邪気な温良さのために、観測気球を上げさせらていた。また、小太りの風貌のホフマン将軍がいて、軍事上の問題に関する発言が求められたときは、しばしば顔を紅くして意気高く発言した。
 ゲルマン系(Teutonic)の代表者たちの背後には、多数の一群をなした幕僚たち、文民公務員たち、眼鏡をかけた職業的専門家たちがいた。
 各代表団は母国語を話した。そして、そのゆえに討議は長くなりがちだった。
 ゲルマン系諸代表団の反対側に、ロシア人が座っていた。ロシア人のほとんどは汚らしく、衣服が粗末で、討議の間じゅう長いパイプで煙草を吸っていた。
 討議のほとんどは、彼らの興味を惹いていないように見えた。そして、政治に関する精神の問題に入ってとりとめのない形而上学的発言を洪水のごとく行う場合を除いて、ぶっきらぼうに討議に割って入った。
 会議の雰囲気は、ある程度は、品のよい使用者たちが特別に鈍感な労働者たちの代表と交渉をしている集会のごとくだった。ある程度は、村の学校の遠足に付き添う上品な主催者が開く会合のごとくだった。」(24)
 (6)会場の雰囲気が乗ってきたクリスマスの日、ドイツ人たちを大いに当惑させたことに、チェルニン候が、連合諸国が講和交渉に加わらないならば、オーストリアが戦争内に征圧した全領土を譲渡しようと申し出た。彼は、停戦合意の決裂を何としてでも回避し、必要ならば分離した講和条約に署名する用意があることを示すよう、訓令を受けていた。(25)
 ドイツ人たちは、より強い立場にいると感じた。迫り来る春の西部攻勢によつて勝利することができると期待していたからだ。
 中央諸国は占領したポーランドやその他のロシア領域の定住者に自己決定権を認めよというロシアの要求に対して反応して、キュールマンは、その地域はすでにロシアから分離することでその権利を行使していると辛辣に答えた。//
 (7)手詰まり感に陥って、交渉は12月15日/28日まで延長された。しかし、大きくは報道されなかったが、法的、経済的な委員会の「専門家たち」の間での交渉は続いた。
 (8)ドイツは結果を評価して、ロシアは平和を望んでいるのか、それともたんに西ヨーロッパに社会不安を発生させるために時間を稼いでいるのかと、ある程度は不思議に思い始めた。
一定のロシアの行動は、こうした疑念を支えるものだった。
 ドイツの諜報機関は、トロツキーからスウェーデンの協力者に宛てた手紙を途中で盗み見した。そこには、外務人民委員〔トロツキー〕が「ロシアを含む分離講和は考え難い。最も重要なのは、一般的平和を促進する国際的社会民主主義勢力が結集するのを覆い隠すために交渉を長引かせることだ」と書いていた。(26)
 まるでこのようなことを意図しているのを示すがごとく、12月26日に、ソヴィエト政府は、国際関係では先行例のないことを行った。ツィンマーヴァルト・キーンタール政綱を支持している外国のグループに対して、公式に200万ルーブルの予算を計上したのだ。(*)
 ブレストでの政治的会談の速記録を出版してドイツ政府はロシア政府に見倣うべきだというヨッフェの主張でもって、ドイツ側の懐疑が緩和することはなかった。その速記録は、ロシアの側で、ドイツの労働者にボルシェヴィキのプロパガンダを伝えるために意図的に作られたものだった。//
 (9)この時点で、ドイツの軍部が介入した。
 ヒンデンブルク(Hindenburg)は、皇帝宛ての1月7日(12月25日)付の手紙で、ドイツ外交部がブレストで採っている「弱気の」、「宥和的な」戦術はドイツが強く講和を必要としているという印象をロシアに与えている、と不満を述べた。この手紙は、皇帝に対して、大きな影響力をもつこととなった。
 ドイツの戦術は、軍部の士気には悪い効果を持った。
 心の裡を明確に語ることをしないで、ヒンデンブルクは、ボルシェヴィキが停戦中の前線で推進している、ロシアとドイツの両兵団の「友好(fraternization)」政策がもつ驚くべき効果について示唆した。
 強力に行動するときだ。ドイツが東部で強い決意を示さないならば、ドイツの世界的地位を獲得するのに必要な講和を、どのようにして西側連合諸国に対して押しつけることを期待することができようか?
 ドイツは、将来の戦争を抑止することができるように、東部の国境線を引き直すべきだ。(27)//
 (10)ブレストでの優柔不断な外交を我慢できなかった皇帝は、同意した。
 その結果として、ドイツの態度は、明瞭に察知できるほどに硬化した。
 交渉による平和を追求する「見せかけ」は、口述されたものに従って放棄された。//
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 (21) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.153-4.
 (*) J. Buchan, A Hiatory of the Great War, IV(Boston, 1922), p.135.
 停戦協定は、その有効期間中にロシア前線から兵団を「大規模に」移動させることを禁止していた。
 (+) フランスの将軍のアンリ・A・ニーセル(Niessel)によると、連合諸国は、ペトログラードからブレストへのドイツの電信を傍聴していた。そしてそれから、ドイツが切実に講和を望んでいることを知った。
 General (Henri A.)Niessel, Le Triomphe des Bolcheviks et la Paix de Brest-Litovsk: Souvenirs, 1917-1918(Paris, 1940), p.187-8.
 (22) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.66-p.67.
 (**) ソヴィエト政府の国内および外国に対する全ての国家債務の不履行は、1918年1月28日に発表された。
 これによって消滅した外国負債の総額は、130億ルーブルまたは65億ドルと見積もられた。
 G. G. Shvittau, Revoliutsiia i Narodnoe Khoziaistvo v Rossi(1917-1921)(Leipzig, 1922), p.337.
 (23) 同上, p.59-p.60.; Fischer, Germany's Aims, p.487は、6項を挙げる。
 (24) Buchan, A History of the Great War, IV(Boston, 1922), p.137.
 (25) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.148-p.150.; Fischer, Germany's Aims, p.487-p.490.
 (26) Gerald Freund, Unholy Alliance(New York, 1957), p.4.
 (27) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.194-7, p.208.
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 第4節・第5節、終わり。
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