秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

トロツキー

1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり/第3節・テロル。(P)は大文字のPurge=「大粛清」。(p)=purgeは「粛清」または「浄化」とした。
 気づいていなかったが、最後に、一行の空白後に、この第3節ではなく書物全体を想定しているとみられる「むすび書き」がある。「おわりに」と勝手に名づけて、第3節の本文・注よりも後に紹介した。
 今回で、丸数字記号のある⑳回までを予定していた「試訳」が、予定どうり、いちおう終了する。翻訳が生業ではないこと、一つの言葉や文章の意味に一時間以上拘泥して呻吟したところでこの作業は一円・一銭の個人的利益にもならないのだから、不備・不正確さ等々があるのはむしろ当然のことだろう。
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 第3節・テロル(The Terror)。
 (1)「おお読者よ、我々は言おう。黄金時代はとば口まで押し迫っているが、-裏切り者がいるおかげで-収穫と言えるようなものは何もまだ獲得できていない、と想像してほしい、と。
 どんな勢いと力を使えば裏切り者たちを打倒することができるのか、あのような場合に! <中略>
 人間男女にある気質について言うと、つぎの一つの事実を挙げるだけで十分だろう。すなわち、<<猜疑心(SUSPICION)>>がいかほどまで大きくなったか、という事実だ。
 我々はしばしば、どうやら誇張した言葉遣いだったようだが、それを超自然的(preternatural)だと称した。しかし、目撃者の冷静な証言類に、耳を傾けてほしい。
 一人の音楽憂国者も、屋根の上にやさしく哀しげに座って、自分でフランス・ホルンを使って旋律を吹くことはできない。しかし、感謝心があれば、策略委員会が別の新しいものを作る合図だとそれに気づくだろう。<中略>
 奥深くまで見通すことのできるLouvet は、議員たちの請願によって我々が古い乗馬会館へ復帰するに違いない、そして、無政府主義者たちが歩いている途中の我々のうち22人を殺戮するだろうと、察知している。
 これは、Pitt 〔小ピット・イギリスの当時の首相〕とCobourg の策略だ。Pitt の金銀による策略なのだ。<中略>
 後ろで、周りで、前で、巨大で超自然的な操り人形の舞台劇が演じられている。Pitt が黒幕となって操っているのだ。」(27)
 (2)これは、フランス革命についてのカーライル(Carlyle)の文だ。だが、ソヴィエト同盟の1936-37年の気分を想起させるものとして、これよりも優れているのはほとんどない。
 1936年7月29日、党中央委員会は、全ての地方党組織に対して、「トロツキー=ジノヴィエフ派反革命ブロックに対するテロル活動に関して」という秘密文書を送った。これは、以前の反対派諸グループは、「スパイ」、挑発者、妨害者、白衛軍およびソヴェト権力を憎悪するクラクたちを惹き付ける磁場になっており、レニングラード党指導者であるセルゲイ・キーロフの殺害について責任がある、と言明するものだった。
 警戒心-いかほどに偽装がうまくとも、党の敵を見分ける能力-は、全ての共産党員の不可欠の態度だ。(28)
 この文書は、大粛清のうちの最初の見せ物裁判(show trial)への序曲だった。
 その最初の裁判は8月に行われ、二人の反対派指導者であるL・カーメネフ(Lev Kamenev)とG・ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)はキーロフ(Kirov)殺害の共犯者だとされ、死刑を宣告された。//
 (3)1937年初めに行われた第二回めの見せ物裁判では、工業分野での破壊や罷業に力点が置かれた。
 主要な被告人はYurii Pyatakov で、この人物はかつてトロツキー派、1930年代の当初以降は重工業人民委員部でOrdzhonikidze の右腕だった。
 同じ年の6月、元帥のトゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍事指導者たちが、ドイツのスパイだとして訴追され、秘密の軍事法廷のあとで直ちに処刑された。
 1938年3月に行われた最後の見せ物裁判では、ブハーリンと、以前の右派指導者のルィコフおよび以前は秘密警察の長だったGenrikh Yagoda が、被告人の中にいた。
 古いボルシェヴィキである被告人たちは、多彩で異様な犯罪を公的に自白し、法廷では状況の詳細を長く陳述した。
 彼らのほとんど全員が、死刑を宣告された。(29)//
 (4)キーロフや作家Maxim Gorky の殺害のような派手な犯罪とは別に、体制に対する民衆の不満を煽り体制打倒を促進するための経済的妨害となる多数の行為を、陰謀者たちは自白した。
 それらの中には、多数の労働者が死んだ鉱山や工場での事故の企画実行も含まれていた。そうした事故は賃金支払い遅延の原因となり、品物の配分を停止させた結果として、農村地帯の店には砂糖やタバコがなくなり、都市のパン屋は品切れになった。
 陰謀者たちはまた、習癖として欺瞞を行い、反対派とは縁を切ったふりをし、党の基本方針への貢献を宣言してはいたが、私的にはその間ずっと、同意せず、疑念をもち、批判してきた、と告白した。//
 (5)外国の諜報員たち-ドイツ、日本、イギリス、フランス、ポーランド各国の者たち-が、こうした陰謀の背後にいるとされた。彼らの究極的な目的は、ソヴィエト同盟への軍事攻撃を仕掛け、共産主義体制を打倒し、資本主義を復活させることだった、と。
 しかし、多数の陰謀の核心にいたのは、トロツキーだった。トロツキーは、ゲシュタポ(Gestapo)のみならず、(1926年以降!)外国諸勢力とソヴィエト同盟内部の彼の陰謀網との間を媒介した、イギリス諜報機関の一員だったと主張された。
 (6)大粛清は、ロシア革命でのテロルの、初めての出来事ではなかった。
 「階級敵」に対するテロルは、内戦の一部だった。テロルは、集団化や文化革命の一部でもあった。
 実際にMolotov は1937年に、、Shakhty 裁判や文化革命時の「工業党」裁判から現在の裁判まで、一つの線が繋がって続いている、と述べた。
 -但し、ソヴェト権力破壊の陰謀者たちは、今回は「ブルジョア専門家たち」ではなくて、共産党員たちだという重要な違いはあるのだが。すなわち、共産主義者(共産党員)たち、または少なくとも、「仮面を被って」、党や政府での上層の職へと何とかして這い上がってきた者たちだ、という違いが。
 (7)上級階層者の大量の逮捕は、1936年の後半に始まった。とくに工業の分野で。
 しかし、スターリン、モロトフおよびニコライ・エゾフ(Nikolai Ezhov)(秘密警察が1934年に改称したNKVDの新長官)が魔女狩りを本当に開始する合図を発したのは、1937年、中央委員会の2-3月会合でだった。(31)
 1937年と1938年のまる2年の間、共産党官僚の最上層の者たちが官僚機構の全ての分野で-政府、党、工業、軍事、財政およびさらに警察まで-非難され、「人民の敵」だとして逮捕された。
 ある者たちは、射殺された。別の者たちは、強制収容所へと消えた。
 フルシチョフは第20回党大会への秘密報告で、1934年の「勝利の大会」で選出された中央委員会委員および委員候補の139名のうちほとんど41パーセントが大粛清の犠牲者となつた、と明らかにした。
 指導部の継続性は、ほとんど完全に破壊された。粛清(P)が破壊したのは、古いボルシェヴィキ仲間のうちの残存者のほとんどだけではなく、内戦期および集団化の時期に形成された党の仲間たちの大部分だった。
 1939年の第18回党大会で選出された中央委員会委員のうち24名だけが、5年前に選出された元委員だった。(32)//  
(8)高い地位にいる共産党員たちは、大粛清(P)の唯一の犠牲者ではなかった。
 知識人層(古い「ブルジョア」知識人層と1920年代の共産党員知識人層、とくに文化革命の活動家たち、の両者を含む)は、酷い打撃を受けた。
 以前の「階級敵」-全ての革命的テロルのーに通例の、1937年のように特別には何も企図していなかったときですら、容疑者だ-、およびかつて何らかの理由でブラック・リストに掲載されたことのある他の誰もが、同様だった。
 国外に縁戚関係者をもつ者や外国との関係がある者は、とくに危険だった。
 スターリンは、再犯者、馬泥棒、および拘禁記録のある宗教聖職者たちも含めて、数万人の「旧クラクおよび犯罪者たち」を逮捕させる特別の命令すら発したことがあった。
 そして、射殺するか、または強制収容所へと送り込んだ。
 加えて、現時点で強制収容所で刑に服している1万人の常習犯者は、射殺されるものとされた。(33)
 大粛清(P)の全様相は長年にわたって西側での研究の対象だったが、研究者たちが従前は利用できなかったソヴィエト文書庫を探求するにつれて、より明確になり始めた。
 NKVD文書によれば、強制労働収容所での犠牲者数は、1937年1月初めからの二年間で、50万人に昇り、1939年1月1日に130万人に達した。
 あとの年、1939年に、強制収容所の40パーセントは、「反革命」罪の有罪者で、22パーセントは「社会的に有害又は危険な要素」だと分類されており、残りのほとんどは、通常の犯罪者だった。
 しかし、多数の大粛清(P)犠牲者は監獄(刑務所)で処刑されており、強制収容所まで行きついていない。
 NKVDが記録するところでは、そのような処刑は1937-38年に68万件を超えていた。(34)//
(9)何が大粛清の要点だったのか?
 <国益(raison d'état)>(潜在的な戦争中の第五列(Fifth Column)を根とする語)という意味からの説明は、納得し難い。
 全体主義的な必要性という趣旨からする説明は、何が全体主義的必要性なのかという問題に戻るだけだ。
 革命という文脈の中で大粛清という現象を考察するとすれば、問題は少しは当惑しないものになる。
 敵に関する猜疑心は、Thomas Carlyle がこの節の最初に引用した1794年のジャコバン・テロルに関する文章で生々しく描写する、革命の心性の標準的な特質だ。
 -敵とは、外国勢力の金銭を受け、しばしば仮面を被り、革命を破壊して人民に苦痛を負わせる継続的な陰謀に従事している者たちだ。
 正常な環境にいれば、人々は、一人の有罪の人間を解き放つよりも十人の無実の人間が殺される方が良い、という考え方を拒否する。
 革命という異常な情況のもとでは、人々はしばしば上の考えを受け容れる。
 卓越した性格をもつことは、革命の時期での安全を保障しない。むしろ、逆だ。
 大粛清が革命的指導者を偽装した多数の「敵」を曝け出したということは、フランス革命を学んだ者にとっては驚くべきことではないはずだ。//
 (10)大粛清の革命上の起源を跡づけるのは、困難なことではない。
 すでに記したように、レーニンは革命的テロルに対する良心の呵責を何らもっておらず、党の内部であれ外であれ、反対者たちに寛容ではなかった。
 にもかかわらず、レーニンの時代には、党の外部にいる反対者に対処するために許され得る手段と、党内部の異端者に対して用いることのできる手段との間には、明瞭な区別がなされていた。
 古いボルシェヴィキたちは、党内の意見不一致は秘密警察の射程の外部にある、という基本的考え方を支持していた。なぜなら、ボルシェヴィキは、自分たちの同志に対してテロルを行使するというジャコバンの例に、決して従ってはならなかったからだ。
 この基本的な考えは立派なものだが、しかしながら、ボルシェヴィキ指導者たちがこのことを確認する必要があったという事実は、党内部の政治に関して、何がしかのことを語っている。
 (11)1920年代早く、ボルシェヴィキ党の外部からの組織的な反対が消滅して党内分派が公式に禁止されたとき、党内の反対派集団は事実上は、党外にいた旧来の反対派の位置を継承した。
 そうだとすると、党内反対派たちが同様の措置を被り始めたとしても、何ら驚くべきことではなかった。
 ともかくも、1920年代遅くにスターリンがトロツキー派に対して秘密警察を用い、そして(1922-23年のカデットとメンシェヴィキの指導者に対するレーニンの措置を模範として)トロツキーを国外に追放したとき、共産党内部には大きな抗議の声は何ら起こらなかった。
 文化革命の間、堕落した「ブルジョア専門家たち」と近接して仕事をした共産党員たちには、愚かさ以上の何がしかの悪に対する責任追及がされる危険があるように見えた。
 スターリンは右翼主義者たちを引き戻し、彼らが権威ある地位にとどまるのを許しすらした。
 しかし、これは不本意なものだった。つまり、スターリンが-そして共産党の多数の党員たちが-いったん反対派の者になった党員たちに対して寛容であるのは、明らかに困難なことだった。//
 (12)大粛清の起源を理解するために重要な革命的実務は、1920年代初頭から党が行った党員の定期的な「浄化(cleansing)」(<chistki>、または小文字の "p" の粛清(purges))だった。
 この党員浄化の頻度は1920年代末から増加した。すなわち、1929年、1933-34年、1935年および1936年に行われた。
 党員浄化では、党員の全員が粛清(p)委員会の前に立って、公然と委員たちの批判または告発を経由して秘密裏になされる批判に反駁して、自分の正当化をしなければならなかった。
 粛清〔p=浄化〕が繰り返されたことの結果として、後になって古い攻撃が蒸し返された。そして、これから逃れることは事実上不可能になった。
 望ましくない縁戚関係、革命前の別の政治諸党派との関係、党内反対派への帰属の経歴、過去の醜聞や譴責、そしてかつての官僚機構上の過失や帰属意識の混乱すら。-これら全てが党員たちの首の周りに掛かっていて、年を経るごとに重たくなっていった。
 党は不相応で信頼できない党員たちばかりだとの党指導者たちの猜疑心は、それぞれの連続した浄化〔粛清(p)〕によって沈静化するどころか、激化したように見えた。//
 (13)さらに加えて、各粛清(p)は、体制にとっての潜在的な敵をさらに多くした。
党から放逐することとなる粛清(p)は、社会での地位や上昇の見込みに対する逆風を受ける、という災難を被る蓋然性があったからだ。
 1937年、一人の中央委員会委員が隠れて、現在の党員数よりも多い<かつての>党員たちがたぶんこの国にはいる、と示唆した。これは明らかに、その人物およびその他の者たちはひどく不安に感じている、という考えだった。(35)
 党にはすでに、多数の敵がいたのだ!-その多数の者が隠れているのだ!
 革命の間に特権を失った者、聖職者等々の、かつての敵はいた。
 今では、階級としてのクラクやネップマンの絶滅という近年の政策の犠牲となった<新しい>敵がいた。
 個々のクラクが脱クラク化される前に確信的なソヴィエト権力の敵だったか否かは別として、そのクラクは確かに、その瞬間にはそれになっていた。 
 このことに関して最も悪悪だったのは、多数の収奪されたクラクたちが都市へと逃亡し、新しい生活を始め、彼らの過去を隠し(職を得るためにはこうしなければならなかった)、誠実な労働者のごとく見せかけたことだった。-要するに、革命に対する隠れた敵になったのだ。
 どれだけ多くの明らかに献身的な若いコムソモール団員(Komsomols)が、彼らの父親たちはかつてクラクまたは僧職者だったという事実を隠しているだろうか!
 スターリンが警告したように、個々の階級敵は、敵階級がいったん破壊されてしまったとすれば、<より危険にすら>なるのは、何ら不思議ではない。
 もちろん、破壊の行為は個人的に傷つけるものだったために、彼らはそうなった。
 彼らは、ソヴィエト体制に対する不服をもつ現実的でかつ具体的な基本的教条を与えられていた。//
 (14) 共産党管理機構員がもつ党員を告発する資料書の冊数は、年ごとに増大した。
 地方官僚による「職権濫用」を抑える運動が原因となったのだすれば、これは、通常の市民たちが告発文を書くよう奨励した、スターリン革命の大衆迎合的(populist)的側面の一つだった。
 そして、告発を契機とする調査は、しばしば地方官僚の解任を生じさせた。
 しかし、多数の苦情は、正義のためという誘因と同様程度には、悪意をもって対処する動機を与えることになった。
 一般化していた、特別の攻撃心が惹起したのではない不平不満の感情は、集団農場の経営者や農村地域の官僚の告発の多くを引き起こしたものだった。怒りにみちた集団農場員たちは、1930年代に莫大な数の告発書を書いた。(36)//
 (15)大粛清は、民衆の関与がなくしては実際のようには膨れ上がることはできなかっただろう。
 現実的な不満にもとづく上司たちに対する苦情と同等の役割を、自分本位の告発は果たした。
 スパイ狂が、突如として燃え上がった。過去20年間に頻繁にあったのと同様に。
 例えば、Lena Petrenko という若きピオネールの一人は、ドイツ語が話されるのを聴いて、夏キャンプからの帰路の列車上でスパイを捕まえた。別の注意深い市民は、宗教的托鉢者の顎髭を引っ張って手にそれが落ちたとき、前線から来ていたスパイを発見した。(37)
 役所や党細胞での「自己批判」集会では、恐怖と猜疑心が混じり合って、生け贄が作り出された。病的な(hysterical)追及の仕方であり、弱い者いじめだった。//
 (16)しかしながら、これは民衆によるテロルとは何かが異なっていた。
 フランス革命時のジャコバン・テロルのように、国家によるテロルであり、最もよく目に見える犠牲者は、かつての革命指導者たちだった。
 革命的テロルの先例とは対照的に、自然発生的な民衆によるテロルは、ごく一部だけだつた。
 さらに、テロルの対象は、元来の「階級敵」(貴族、聖職者およびその他の革命へり現実的対抗者)から、革命それ自体の隊列の中での「人民の敵」へと移行した。//
 (17)だが、二つの革命事例でのこのような違いは、類似点と同様に、些細なものだ。
 フランス革命では、革命煽動者ロベスピエール(Robespierre)は、その犠牲者として終末を迎えた。
 これとは対照的に、ロシア革命の大粛清では、主要なテロリストのスターリンは、無傷で生き延びた。
 スターリンは最終的には、忠実な道具だった者たちを殺した(1936年9月から1938年12月までNKVD長官だったエゾフ(Ezohov)は、1938年春に逮捕され、のちに射殺された)。
 しかし、スターリンが事態が制御外へとひどく離れていると感じ、彼自身がかつて危険にさらされていたというMachiavelliの慎重さ以外の何らかの理由によってスターリンはエゾフを排除した、といったことを示すものは存在していない。(38)
 1939年3月の第18回党大会での「大量粛清」との批判や警戒心の「行き過ぎ」の暴露は、静かに行われた。
 スターリンは、自分自身の演説の中で、そうした問題については注意をほとんど払わなかった、と述べた。大粛清(P)はソヴィエト同盟を弱めたという外国の報道についてはそれを論駁するために、わずかな時間を費やしたのだったが。(39)//
 (18)モスクワ見せ物裁判の文書や2-3月中央委員会会合でのスターリンやモロトフの演説原稿を読むと、事態の進行の劇的さのみに衝撃を受けるのではない。衝撃的なのは、それらにある芝居気分、謀りと計略の感覚、同僚者たちが裏切り者だったという報せに対しての、生々しい感情的反応の一切の欠落、だ。
 これは、明確な違いのある、革命的テロルだ。
 映画の原作家でかりにないとしても、その映画の監督の手の存在を、感じる。//
 (19)マルクスは<The 18 Brumaire of Louis Bonaparte(ルィ・ボナパルトのブリュメール十八日)>で、有名な論評を加えた。-偉大な全ての事件は、二度演じられる。一度めは悲劇として、二度めは笑劇(farce)として。
 ロシア革命での大粛清は笑劇ではないけれども、再演されるものの特徴を何がしかもっていた。記憶にある、最初の模範劇で演じられた何かを。
 ロシアのスターリン伝記の作者が示唆するように、ジャコバンのテロルはスターリンにとって一つの模範として役立った、と言うこは可能だ。確かに、スターリンが大粛清に関係するソヴィエトの論議に持ち込んだ「人民の敵」という言葉は、フランス革命での用語に、先立つ例がある。
 その光を当てれば、増大した告発書や民衆の疑心の蔓延というバロック仕立ての設定がなぜ、政治的な敵を殺すという比較的に単純な目的を達成するために必要だったか、を理解することが容易になる。
 実際のところ、さらに進んで、つぎのように記述したくなる。すなわち、古典的な革命の推移によればテルミドールに後続してはならずそれら先立たなければならないテロルを実施するにあたって、スターリンは、自分の支配は「ソヴィエトのテルミドール」になったとするトロツキーによる非難に自分は明確に反駁しているのだ、と感じていたかもしれない、と。(40)
 フランス革命のテロルを小さいものとすら思わせる革命的テロルが現実に行われたあとで、いったい誰が、スターリンはテルミドール的反動家だ、彼は革命に対する裏切り者だ、と言うことができるだろう?//
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 (27)Thomas Carlyle, <フランス革命>(London, 1906), ⅱ, p.362. SUSPITION の全て大文字はFitzpatrickによる。〔=カーライル=高橋五郎訳・佛國革命史/下巻279頁(第三巻第三編第八章)(春秋社松柏館、1942年ーkindle版)を参照した。該当部分に間違いはないと見られるものの、ここで引用される英文とはやや異なることもあり、そのままの書き写しではない。〕
 (28)J. Arch Getty & Oleg V. Naumov<テロルへの途: スターリンとボルシェヴィキの自己破壊, 1932-1939年>(New Heaven, 1999), p.250-p.255.〔=川上洸一・萩原直訳・ソ連極秘資料集/大粛清への道-スターリンとボルシェヴィキの自壊 1932-1939年(大月書店、2001)
 (29)Rovert Conquest<大テロル: 1930年代のスターリンによる粛清>(London, 1968)はこの裁判を生き生きと描写している。新しい版は、同<大テロル: 再評価>(New York, 1990)。
 (30)Molotov, <ボルシェヴィキ>1937, no.8(4月15日)所収、p.21-22.
 (31)会合の資料につき、Getty & Naumov <テロルへの途>p.369-p.411.を見よ。
 (32)<フルシチョフ回想録>, Strobe Talbott訳・編(Boston, 1970), p.572. Grame Gill<スターリン政治体制の起源>(Cambridge, 1990), p.278.
 (33)1937年7月2日の政治局決定「反ソヴィエト要素について」はスターリンによって署名され、7月30日の活動指令は(NKVD長官の)Ezhov により署名されている。Getty & Naumov <テロルへの途>p.470-1.
 (34)これらの数字は、Oleg V. Khlevnyuk<グラクの歴史: 集団化から大テロルへ>(New Heaven, 2004), p.305, p.308, p.310-p.312による。これらの数字は労働強制収容所だけのものであることに注意。この数字は、労働植民区、監獄および行政的追放を含んでいない。
 (35)中央委員会の2-3月会合の議論で、Eikhe。Rossiiskii gosudarstvennyi arkiv sotsial'nopoliticheskoi informatsii(RGASPI), f. p.17, op. 2, d. p.612, l. p.16.
 (36)告発書につき、Fitzpatrick<スターリンの農民>Ch. 9., 同<仮面を剝げ!>Chs. 11-12を見よ。
 (37)<Zvezda>(Dnepropetrovsk)1937年8月1日号, p.3. <Krest'yanskaia pravda>(Leningrad)1937年8月9日号, p.4.
 (38)Ezhov の衰退と没落につき、Marc Jansen & Nikita Petrov<スターリンの忠実な処刑者: 人民委員のNikolai Ezhov, 1895-1940年>(Stanford, 2002), p.139-p.193, p.207-8.を見よ。
 (39)J・スターリン<ソ連共産党(ボ)第18回党大会への中央委員会活動報告書>(Moscow, 1939),p.47-48.
 (40)ヴォルコゴノフ<スターリン>p.260, p.279.
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 (おわりに)
 (1)ロシア革命が遺したものは何だったのか? 
 1991年の末までは、ソヴィエト体制の存続自体がそれを表現するものだっただろう。
 赤旗や「レーニンは生きている!、レーニンは我々とともにいる!」と書いた横断幕は、まさにその終焉時まで、存在していた。
 支配党たる共産党は、革命の遺産だった。同じように、集団化、五カ年・七カ年計画も、消費用品の定例的な不足も、文化的孤立も、グラク〔強制収容所〕も、世界を「社会主義」陣営と「資本主義」陣営に二分することもそうだった。また、ソヴィエト同盟は「人類の進歩的勢力の指導者だ」との主張も。
 体制と社会はもはや革命的ではなかったけれども、革命は、ソヴィエトの民族的(national)伝統の礎石であり続けた。愛国主義への重点設定、学校で生徒たちが学ぶべき、そしてソヴィエトの民衆芸術によって祝福されるべき主題。//
 (2)ロシア革命はまた、複雑な国際的遺産を残した。
 20世紀の偉大な革命だった。そして、社会主義、反帝国主義およびヨーロッパの古き秩序の拒否のシンボルだった。
 良かれ悪しかれ、20世紀の国際的な社会主義および共産主義の運動はロシア革命の影のもとで活動した。戦後の第三世界解放運動がそうだったように。
 冷戦は、ロシア革命の遺産の一部だった。冷戦が持つ象徴的な力の継続に間接的に寄与したことはもちろんとして。
 ある人々には抑圧からの自由という希望を代表したのは、ロシア革命だった。別の人々には無神論的共産主義の世界的勝利という悪夢を呼び起こしたのは、ロシア革命だった。
 国家権力の奪取によって社会主義の定義を明確にし、経済的かつ社会的変革の道具としてのその用い方を確定したのは、ロシア革命だった。//
 (3)革命には二つの生命がある。
 第一に、現在の一部であると考えられ、現今の政治と不可分だ。
 第二に、現在の一部であることを止め、歴史と民族的伝説の中へと移っていく。
 歴史の一部だということは、フランス革命の例が示すように、政治から全面的に排除されることを意味しはしない。フランス革命は、二世紀後のフランスでの政治的論議でなお、一つの試金石のままだ。
 しかし、懸隔はある。そして歴史研究者に関するかぎりは、解釈するに際しての自由と離反が許されるものに、いっそうなってきている。
 1990年代まではすでに、ロシア革命が現在から抜け出して歴史の中に入っていくのが遅いほどだった。しかし、そう望まれた変化は、遅れたままだった。
 西側では、冷戦という遺物に固執する向きがあったにもかかわらず、政治家ではなくても歴史研究者たちは、ロシア革命はすでに歴史だと多かれ少なかれ判断していた。
 しかしながらソヴィエト同盟では、ロシア革命の解釈は政治的に重要なままであり、ゴルバチョフ時代にまで続く現代政治と連結していた。//
 (4)ソヴィエト同盟の崩壊によって、ロシア革命は徐々に歴史の中へと沈殿していった。
 熱烈な国民的拒絶の意識のうちに-トロツキーの言葉を借りると「歴史のごみ箱へ」の-放擲があった。
 1990年代初めの数年間、ロシア人は革命のみならず、ソヴィエト時代全体を忘れたいと願っているように見えた。
 しかし、過去を忘れるのは困難だ。とりわけ、良かれ悪しかれ外部世界からの注意を惹き付けた過去の一部分については。
 プーティン(Putin)のもとで、レーニン以上に「国家建設者スターリン」を必要とする、ソヴェトの遺産の選択的な再生が、ロシアで始まった。疑いなく、より多くのことがやって来るだろう。//
 (5)かりにフランスが-1989年の200周年記念のときにまだフランス革命の遺産について議論をしていた-何がしかの指針となるのであれば、ロシア革命の意味は、最初の100周年記念日やその後に依然としてロシアで熱く議論されるだろう
 こうしたことは拒絶されている。ロシア革命のみならずソヴィエト時代全体を忘れたいという望みが高くまで達しており、ロシア人の歴史意識の中には不思議な空虚さが残っている。
すぐに、一世紀半前の、ロシアの無名さに関するPeter Chaadayev の嘆きと同様に、ロシアの宿命的な劣等性、後進性および文明からの除外への悲嘆が湧き上がった。
 ロシア人、以前のソヴィエト人にとって、革命の神話の価値が貶められることで喪失したものは、社会主義への信条ではなく、世界でのロシアの重要性についての自信だったように思える。
 革命はロシアに一つの意味を、歴史的運命を与えた。
 革命を通じてずっと、ロシアは先駆者であり、国際的指導者であり、「全世界の進歩的勢力」の模範であり鼓舞者だった。
 今や、夜が明けたかのごとく、全ては過ぎ去っていた。
 党は、もう存在しない。
 74年後に、ロシアは「歴史の前衛」から滑落して、怠惰な後進性をもつ古い姿態のごとく感じられる何物かへと変化した。
 ロシアとロシア革命にとって痛恨のときに、「進歩的な人類の未来」は本当に過去のものだということが判明した。//
 (6)ソヴィエト後のロシアは、2017年が近づいているとき、そのトラウマにまだ藻掻き苦しんでいる。
 プーティン大統領は2014年に、評価は「深く客観的で<職業的>(斜字強調は著者〔Fitzpatrick〕)根拠でもって」なされなければならない、と述べた。明らかに、ロシア革命を現代政治の場に持ち込むことを欲していなかった。
 彼はまた、1917年の事件を「革命」からたんなる「転覆(overthrow)」(<perevorot>)にすぎないものへと分類することを示唆した。
 2017年3月、報道官は、外国の通信記者たちに対して、ロシア革命はロシアでは分裂した見解のある問題なので、100周年を祝賀する公的行事は何も計画されておらず、ロシア革命の解釈に関する公的な指針は何も発せられないだろう、と語った。(41)//
 (7)フランス革命の100周年記念に、フランス人はエッフェル塔を建設し、カルノー大統領〔Marie François Sadi Carnot〕は革命が専政体制を打倒して(彼は注意深く、選出された代議員たちを通じての、と付け加えた)人民主権の原理を確立したことを称賛した
 ロシアでは、2017年の記念物としてのエッフェル塔の類は何も計画されなかった。
 そして、国じゅうが、資本主義と自由市場を習得しようと苦しんでおり、革命がもった、社会主義の中心的な諸原理-とりわけ国家計画と工業化に重点をおくソヴィエト型の社会主義-は、完全に無意味だと考えられてきている。
 しかし、時代は変化する。そしてしばしば、その変化には周期的な要素が加わる。
 22世紀に200周年が近づいているときに、ロシア革命とその社会主義という目標はロシアと世界にどのように見えるのだろうかは、誰にも分からない。
 「全てを忘れるようにしよう」はフランス革命が1989年の基準年を通過するときになされた提案の一つだった。これは、フランスの政治がすでに十分に長く旧来の議論を繰り返してきたという考え(または希望)を反映するものだった。
 しかし、忘れることは容易でもなければ、国民的(national)展望からすると、そう思われるほどには望ましいものでもない。
 好むと好まざると、ロシア革命は20世紀の大きな経験だった。それはロシアにとってだけではなかった。
 そのようなものとして、ロシア革命は歴史書の中にとどまり続けるだろう。//
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 (41)Neil McFarquhar の報告記事「革命?、いかなる革命?、ロシア人は100年後に尋ねる」は、<ニューヨーク・タイムズ>2017年3月10号に出た。
 100周年に関するロシアの当惑についてさらに、Sheila Fitzpatrick 「ロシア革命を祝賀する(または祝賀しない)こと」<現代史雑誌>2017年に近刊、を見よ。
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 以上、シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)、本文p.1-p.174 および注p.175-p.186 の試訳終了。
 **下は、Sheila Fitzpatrick(フィツパトリク、又はフィッツパトリック)。
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1914/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑲。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり。
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 第2節・裏切られた革命(' Revolution betrayed ')。
 (1)<自由・平等・友愛>を掲げるのは、ほとんど全ての革命がすることだ。しかし、勝利した革命家たちがほとんど不可避的に汚すこととなる主張だ。
 ボルシェヴィキたちは、マルクスを読んでいたので、予めこのことを知っていた。
 彼らは、十月の高揚時ですら、ユートピア夢想家ではなく、実際的で科学的な革命家たろうと最善を尽くした。
 彼らは、階級戦争やプロレタリアート独裁に関連して<自由・平等・友愛>の約束を限定しようとした。
 しかし、古典的な革命のスローガンを拒絶するのは、熱狂なくして革命の成功はあり得ないだろうと同様に、困難だった。
 感情的には、古いボルシェヴィキ指導者たちはいくぶんは平等主義的で自由主義的であらざるを得なかった。
 そして、彼らのマルクス主義理論にもかかわらず、いくぶんは夢想家的だった。
 1917年と内戦の新しいボルシェヴィキ生成時には、知的な抑制のない、同様の感情的反応があった。
 ボルシェヴィキたちは、厳密に平等、自由主義および夢想家的な革命を始めたのではなかった。しかし、革命はボルシェヴィキを少なくとも間欠的には、平等主義的、自由主義的かつ夢想家的にした。//
 (2)十月後のボルシェヴィズムにあった極端に革命的な緊張は、第一次五カ年計画や文化革命の間にも支配的だった。それは行き過ぎたほどで、多少とも実験的な社会的および文化的政策への変化が後に続いた。
 これは、「偉大な退却」と呼称された。この言葉は1930年代のいくつかの重要な「革命的」特質を曖昧にしてしまう。つまり、農業はすでに集団化され、都市での私的取引は非合法となり、新しいテロルの波が文化革命からわずか5年後に発生しようとしていた。
 しかしながら、この言葉は、1930年代半ばに生じた移行期の何がしかを表現している。
 もちろん、多くは見方次第だ。
 外に出てMagnitogorsk やKomsomolsk-na-Amure で社会主義を建設する意気のあった若い熱狂者たちは、変化に大きな意味を認めず、また革命的「退却」の時代を生きているとも考えていなかったように見える。(14)
 他方では、古いボルシェヴィキたちは、とくにかつてのボルシェヴィキ知識人たちは、変化のうちの多くは神経に障るものだと感じていた。とくに、階層制の強調の増大、エリートの特権の承認、体制が初期にしたプロレタリアートとの一体視からの離反、について。
 このような人々は革命に対する裏切りが生じているとのトロツキーの批判に同意しなかったかもしれない。しかし、トロツキーが意味させたことを知っていただろう。//
 (3)「偉大な退却」が最も驚くほどに可視的だったのは、行儀作法(manners)の分野だった。トロツキーのような批判者はブルジョア化と称し、一方で支持者たちは「文化的」になったと叙述するような変化だ。
 1920年代、プロレタリアートの行儀作法はボルシェヴィキ知識人によってすら、洗練されたものになった。スターリンが自分のことを「粗暴な」人間だと党の聴衆に語ったとき、自虐というよりは自己宣伝の響きがあった。
 しかし、1930年代、スターリンは、ソヴィエトの共産党員や外国の質問者に対して、レーニンのような文化的な人間だと自分のことを提示し始めた。
 党の指導部の彼の同僚たちの中では、新しく昇進してきたフルシチョフ(Khrushchev )派は、数の上ではブハーリン派を上回り始めた。彼らは、プロレタリアートの出自に自信をもちつつ、農民のような挙措振る舞いをするのを怖れていた。
 一方でブハーリン派は、文化性について自信をもちつつ、ブルジョア知識人のように挙措振る舞いするのを怖れていた。
 官僚制の下位の層では、共産党員たちは上品な振る舞いの仕方を学び、軍靴や布帽子を捨てようとしていた。上昇志向のないプロレタリアートの一員だと間違われることを望んで、ではなかった。//
 (4)経済の分野では、第二次五カ年計画は冷静な計画への移行を画するもので、労働のための合い言葉は、生産性の向上と技術の獲得だった。
 物質的に誘導をする基本的考え方はしっかりと確立されていた。すなわち、技術に応じた労働者の賃金区別の増大、ノルマ以上の生産に対する報償。
 専門家たちの給料は上がり、1932年に設計者や技術者の平均給料は、ソヴィエト時代の前後を通じていつの時期でも、労働者の平均よりも高かった。
 Stakhanovite 運動(ドンバスの記録破りの炭鉱採掘者〔スタハノフ〕に由来する名前)は、集団的に出費するものだったが、個々の労働者に栄誉を与えた。
 Stakhanovite はノルマ破りで、その成果について惜しげなく報償され、メディアによって賛美された。しかし、現実の世界では、ほとんど不可避的に、仲間の労働者たちの怒りを招き、避けられた。
 彼らは、新しく考案する者および生産の合理化を図る者でもあった。また、専門家の保守的な知識に挑戦する意気があり、ノルマを上げろとの上からの恒常的な圧力に抵抗するために、工場管理者、技術者および労働組合の間の不文の取り決めを暴露した。(15)
(5)教育では、1920年代の穏健で進歩的な傾向とともに、文化革命の広く実験的な展開も、1930年代に突然に転換した。
 宿題、教科書および正式の教室での教育と躾けが、復活した。
 1930年代の遅く、学校の制服が再び出現し、ソヴィエトの高校生は帝制時代の高校(gymnasia)にいた先輩たちにとてもよく似て見えた。
 大学や技術学校では、入学資格は再び政治的かつ社会的な規準ではなくて学業成績にもとづくようになった。
 教授たちは、権威を回復した。そして、試験、単位、学位が復活した。(16)
 (6)現在の生活には意味がない、かつて愛国主義の喚起と支配階級のイデオロギーのために利用されていたという理由で革命後になくなっていた科目の歴史は、学校や大学の教育課程表の中に再び現れた。
 古いマルクス主義歴史研究者のMikhail Pokrovsky が関係していたマルクス主義の歴史は、1920年代には支配的だった。しかし、名前、日付、英雄または感情を掻き立てるものがない、階級闘争の抽象的な記録文書に歴史を貶めているとの理由で、その名声が失われた。
 スターリンは、新しい歴史教科書の作成を命じた。その多くは、Pokrovsky のかつての敵、つまりマルクス主義に口先だけの奉仕をする伝統的な「ブルジョア」歴史研究者が執筆したものだった。
 英雄たち-イワン雷帝やペーター大帝のような過去の帝政時代のロシアの指導者たち-が、歴史に戻ってきた。(17) //
 (7)性の解放については留保があったけれども、ボルシェヴィキは革命後すぐに堕胎と離婚を合法化し、女性の労働する権利を強く支持した。
 これらは一般に、家族や伝統的な道徳価値の敵だと見なされていた。
 母性と家族生活の美徳は、1930年代に復活した。これは反動的な動き、または世論への譲歩あるい同時にいずれも、だと理解されるかもしれない。
 金の結婚指輪が店頭に再び並び、自由な結婚は法的地位を失い、離婚をするのは困難になった。そして、家族に関する責任を少ししか取らない人間は、厳しく批判された(「ひどい夫や父親は、善良な市民になることはできない」)。
 堕胎は、公共的な討論の後で非合法化された。この討論は、親堕胎と反堕胎の両観点からのいずれの支持もあることを示した。(18)
 男性の同性愛は、一般的な注目を受けることなく、犯罪化された。
 初期の頃の開放的な雰囲気に慣れていた共産党員たちにとって、これらは全て小ブルジョアジーの恐るべき俗物根性にきわめて近いものだった。とくに、母性や家族がいま議論された雰囲気にはお涙頂戴的で偽善的なものがあったために。//
 (8)1929年と1935年の間に、ほとんど400万人の女性が、初めて賃金獲得者になった。(19)これが意味するのは、女性解放という元来の基本的な政綱が、無理矢理に実現された、ということだった。
 同時に、家族の価値をあらためて強調することは、かつての解放のメッセージとは矛盾しているように見えた。
 1920年代には想像すらできなかった運動により、ソヴィエトのエリート構成員たちの妻は、自発的にコミュニティ活動をするように示唆された。それは、ロシアの社会主義者たちおよびリベラルなフェミニストですらつねに軽蔑してきた、上流階級の慈善事業ときわめてよく似ていた。
 1936年、上級の産業管理者および技術者の妻たちは、クレムリンで自分たちの全国大会を開いた。そこにはスターリンおよび他の政治局員が出席して、夫たちの工場群で自発的な文化的かつ社会的な組織者として行ってきた彼女たちの栄誉を称えた。(20)//
 これらの妻たちおよびそれぞれの夫たちは、事実上のエリートたちだった。民衆の残余者に対する彼らの特権的な地位は、ソヴィエトの労働者たちの中に不満を、ある程度は党内部に当惑を、増加させるものだった。
 1930年代に、特権と高い生活水準はエリートたる地位には通常の、ほとんど義務的な付随物になった。このような状態は、1920年代とは対照的だった。その頃には、理論上は少なくとも熟練労働者の平均賃金よりも党員の給料は高くならないようにしていた「党の最大限度」によって、共産党員の収入は制限されていた。
 エリート-共産党員官僚たちとともに(党員または非党員の)専門家を含む-は、高い給料だけではなく役務や商品を利用できる特権をもったり多様な物質的かつ名誉上の報償を得ることで、一般民衆とは離れた別のところにいた。
 エリート構成員は、一般民衆には開かれていない店を使い、他の消費者は利用できない商品を買い、休日には特別の保養地や設備のよい別荘で休日を過ごす、そういうことができた。
 彼らは、しばしば特別のマンション地区に住み、お抱え運転手の車で仕事に出かけた。 このような状況の多くは、第一次五カ年計画の間に物不足が切迫したことの反応として発展した閉鎖的な配分制度から生じてきたものだったのだが、風土の永続的な特徴になったままだった。(22)
 (9)党指導者たちは、エリートの諸特権の問題にまだいくぶんは神経質だった。
 明瞭な見栄や貪欲さに対しては、叱責があり得た。あるいは、大粛清の間には生命を賭すものですらあった。
 ともかくも、一定の地点までは、エリートたちの諸特権は秘匿された。
 多数の古いボルシェヴィキたちは、禁欲的生活を好み、奢侈に屈服した者を批判した。 <裏切られた革命>でのこの問題についてのトロツキーの厳しい批判は、正統派スターリニストであるMolotov が私的に行ったものと大きくは異なるものではなかった。(23)
 そして、明瞭な消費や取得願望は権限濫用であり、不名誉な共産党員エリートたちは大粛清の時期にいつもの様に批判された。
 言う必要はないことだが、特権的な官僚階級、「新しい階級」(ユーゴスラヴィアのマルクス主義者のMilovan Djilas が一般化した言葉を使うと)または「新しいサービス上層者」(Robert Tucker の言葉)の出現に関しては、マルクス主義にとっては概念上の問題があった。
 この問題に関するスターリンの対処方法は、新しい特権階級を「知識人界」と称することで、こうして、社会経済的優先性から文化的優先性へと焦点を転換させることだったた。
 スターリンによる説明では、この知識人界(新しいエリート)は、政治に関する共産党のそれに対応する、前衛たる役割を与えられる。
 知識人界(新しいエリート)は文化的前衛として、当面は民衆のその他の者たちが利用できる以上に、広い範囲の文化的価値を不可避的に利用できる。(25)//
 (10)文化生活は、体制側の新しい方向づけに大きく影響される。
 第一に、文化的関心と文化的振る舞い方(<kul'turnost>)は、共産主義者が示すことが期待されているエリートたる地位の見える印の一つだった。
 第二に、非共産党員専門家-つまり、かつての「ブルジョア知識人」-は新しいエリートの一部であり、社会的には共産党員官僚たちと混合され、同じ諸特権を分け合っていた。
 このことは、党にある、文化革命を可能にした古い反専門家的偏見にもとづく拒絶を生じさせた。
 (スターリンは1931年の「六条件」演説で、ブルジョア知識人層よにる「破壊」の問題について方針を転換し、大胆にも、古い技術的知識人層はソヴィエト経済を妨害する試みを放棄したと語り、制裁は重すぎる、工業化の成功はすでに確保された、と分かっていると述べた。)(26)
 古い知識人層への好意が戻るとともに、文化革命時の活動家だった共産党員知識人の多くは、党指導部からは好まれなくなった。
 文化革命の基本的な想定の一つは、革命的時代はプーシキン(Pushkin)や<白鳥の湖>とは異なる文化を必要とする、ということだった。
 しかし、スターリン時代には、古いブルジョア知識人層は文化的遺産を忠実に守ろうとし、新しい中間階層の聴衆は理解できる接近可能な文化を探し求めていたが、プーシキンと<白鳥の湖>は勝利者だと分かった。//
 (11)しかしながら、正常さが本当に戻ってきたと語るのは、まだ早かった。
 外部的な緊張があり、それは1930年代にずっと着実に増えていた。
 1934年の「勝利の大会」では、討論の話題の一つは、ヒトラーが近年にドイツの権力へと到達しようとしていることだった。-従前に生じはじめたばかりの、西側資本主義諸国による軍事干渉の怖れに、具体的な意味を与える事態。
 多くの種類の国内的緊張があった。
 家族の価値について語ることは全てがうまくいった。しかし、都市と駅舎はもう一度、内戦期のように、遺棄されたまたは孤児の子どもたちで溢れた。
 ブルジョア化は、都市居住者のごく一部の少数者のみが利用することができた。
 残りの者たちは、「共同アパート」へと詰め込まれた。かつては一家族の住まいだった邸宅で、数家族がそれぞれ一つの部屋を占用し、台所と浴室を共用した。また、全ての基礎的商品の配給制度は、今なお機能していた。
 スターリンは、集団農場の者たちに、「同志たちよ、生活は良くなってきている」と語ったかもしれなかった。しかし、当時に-1935年に-、わずか二回の収穫期だけが、1932-33年の飢饉とは別に存在した。//
 (12)革命後の「正常さ」の中身が未決定なままであることは、1934-35年の冬に例証された。
 パンの配給は1935年1月1日から行われることになっていた。そして、体制側は、「生活は良くなっている」をテーマとする電撃的な情報宣伝活動をすることを計画した。
 新聞紙は、近いうちに(疑いなく、数店の高価な商業店舗でのみ)利用できる商品の豊富さについて祝賀し、モスクワっ子が新年を迎える仮装舞踏会の陽気さと優雅さを叙述した
 2月、集団農場の大会が、新しい集団農場憲章を祝福するために開かれた。この憲章は、私的区画地を保障し、農民たちに対するその他の譲歩を行っていた。
 これら全ては、滞りなく1935年の最初の数カ月には行われた。-しかし、緊張と予感の雰囲気があり、また12月の、レニングラード党組織の長、Sergei Kirov の暗殺によって暗鬱な空気が広がった。
 党と党指導部は、この事件によって痙攣状態に投げ込まれた。
 大量の逮捕が、レニングラードで続いた。
 革命後の「正常さへの回帰」の予兆や象徴はあったにもかかわらず、正常さは、まだはるか遠くにあった。//
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 (14) 1930年代に若者だった人々の日記や回想録は、「偉大な退却」という認識をほとんど示していない。例えば、Jochen Hellbeck, <記憶の中の革命>(Cambridge, MA, 2006)を見よ。
 (15) Lewis H. Siegelbaum, <Stakhanovismとソ連邦での生産性に関する政策, 1935-1941>(Cambridge, 1988).
 (16) Fitzpatrick,<教育と社会的流動性>p.212-p.233.; Timasheff, <偉大な退却>p.211-225.
 (17) David Brandenberger, <民族的ボルシェヴィズム: スターリニズム大衆文化と現代ロシアの国民的Identity の形成, 1931-1936>(Cambridge, MA, 2002), p.43-62.を見よ。
 (18) 堕胎論争につき、Sheila Fitzpatrick, <スターリニズム下の毎日>(New York, 1999), p.152-6.を見よ。
 (19) Wendy Z. Goldman, <門にいる女性たち: スターリン下のロシアの性と工業>(Cambridge, MA, 2002), Ⅰ。
 (20) 妻たちの運動につき、Fizpatrick,<スターリニズム下の毎日>P.156-163.を見よ。
 夫による抑圧に対する抵抗を含む、かつての解放メッセージは、「遅れた」女性たち(農民、少数民族)との関係で依然として称揚されていること、女性の仕事は重要な価値をもったままで、一定のエリート女性たちですら代わりに自発的(volunteerの)役割の方を選択しうることに注意。
 (21) Sarah Davies, <スターリン下のロシアでの世論>(Cambridge, 1997), p.138-144.を見よ。
 (22) エリートの諸特権につき、Fitzpatrick, <スターリニズム下の毎日>p.99-109.を見よ。
 (23) トロツキー<裏切られた革命>p.102-5.; <モロトフは記憶する>p.272-3.
 (24) Milovan Djilas, <新しい階級: 共産主義体制の一分析>(London, 1966); Robert C. Tucker, <権力にあるスターリン>(New York, 1990).
 (25) この点に関する一つの考察として、Sheila Fitzpatrick「文化的になること-社会主義的リアリズムと特権や趣味の表現」同<文化戦線>所収p.216-237.を見よ。
 (26) 「新しい諸条件-経済建設の新しい任務」(1931年6月23日)スターリン全集第13巻p.53-82.所収、を見よ。〔=日本語版スターリン全集第13巻「新しい情勢-経済建設の新しい任務」72-99頁。〕
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 第3節(最終節)の表題は、「テロル」。

1913/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑱。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
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 第6章・革命の終わり(Ending the Revolution)。
 (はじめに)

 (1)Crane Brinton によれば、革命とは高熱(fever)のようなものだ。患者に取りつき、頂点にまで達し、最終的には平癒し、患者は正常な生活を取り戻す。
 -「おそらくは、経験によって強くなり、少なくともしばらくの間は似たような病気から免れる、といった側面で言えば。しかし確実に、完全に新しい人間に作り替えられるのではない」。(1)
 Brinton の比喩を用いれば、ロシア革命は、いくつかの高熱の発作期を経過した。
 1917年革命と内戦が、最初の発作だった。
 第一次五カ年計画による「スターリンの革命」は、二度めだった。
 そして、大粛清(the Great Purge)が、第三番めだ。
 このような図式では、ネップという幕間は再発の前の快方期だ。あるいは、ある人々は、ネップ期は不幸な患者に新しい病原菌(virus)を注射した、と主張するかもしれない。
 快方期の第二の時代は〔ネップ期を第一のそれとすると〕、1930年代半ばに始まった。トロツキーが「ソヴィエトのテルミドール」とレッテル貼りし、Timasheff が「偉大な退却」と称した、安定化政策による時代だ。
 1937-38年の新たな再発期の後で、高熱は治癒されたように見え、患者は正常な生活を取り戻そうとよろよろと寝台から起き上がった。//
 (2)しかし、その患者は、革命という高熱の発作の前と、本当に同じ人間だったのか?
 確かに、ネップという「快方」は、多くの点で1914年の大戦勃発、1917年の革命という転覆、そして内戦によって遮断された生活様式の回復を意味した。
 しかし、1930年代の「快方」の性格は異なっていた。この時期のために、旧来の生活との間の連環の多くは、破壊されてしまったからだ。
 事態は、旧来の生活の回復というよりも、新しい生活の始まりだった。
 (3)ロシアの日常生活の構造は、初期の1917-20年のの革命的経験は本当のものではなかったふうに、第一次五カ年計画という大動乱によって変わった。
 1924年のネップの幕間、モスクワっ子たちは10年間の不在から戻ってきて、自分の市電話帳(古い意匠と型式は戦前とほとんど変わっていなかったので、すぐに理解できた)とをひっぱり出すことができ、一覧表で自分のかつての医師、弁護士、そして株式仲買人や好みの甘菓子店ですら(電話帳には最も旨い輸入チョコレートの宣伝がまだあった)や、食堂、区の聖職者、むかし時計を修繕してくれ、建設素材や現金登録機を売ってくれた会社を発見する機会がまだあった。
 10年後の1930年代半ばには、これらのほとんど全てが消失することになった。そして、帰還した旅行者は、多数のモスクワの通りや広場が改名され、教会やその他のよく知る目印の建物が破壊されていたので、さらに当惑した。
 その後数年のうちに、電話帳自体がなくなり、半世紀の間、再発行されなかった。
 (4)革命とは人間のエネルギー、理想論および憤激が異常に集中するものなので、その集中力がいずれかの時点で鎮静化するのは、事物の本性的なことだ。
 しかし、革命は、それを否認することなくして、どのようにして終わらせるのか?
 長く権力のうちにいて革命的衝動が衰亡していくのを見る革命家たちにとって、これは厄介な(tricky)問題だ。
 かつての革命家たちはBrinton の比喩にほとんど従うことはできず、いまや革命の高熱から回復したのだ、と発表することもしないだろう。
 しかし、スターリンは、敢えてそうすることができた。
 スターリンによる革命の終わらせ方は、勝利を宣言することだった。//
 (5)勝利という飾り言葉が、1930年代前半の空気を覆った。
 作家のMaxim Gorky が創刊した<我々の偉業>と題する新しい雑誌は、この精神を顕著に例証していた。
 工業化と集団化の闘争に勝利した。ソヴィエトの宣伝者は呼号を上げた。
 階級敵は、絶滅した。
 失業は、なくなった。
 基礎的教育は一般的かつ義務的になり、(主張されたところでは)ソヴィエト同盟の成人の識字能力者は90パーセントまで向上した。(3)
 計画によって、ソヴィエト同盟は世界に対する人間の制御に関して巨大な前進を行った。人間はもはや、統制できない経済的諸力の、よるべなき犠牲者ではなかった。
 「新しいソヴィエト人間」が、社会主義建設の過程で出現していた。
 工場が広い草原に建ち上がりソヴィエトの科学者や技術者が「自然の征服」に精励するにつれて、身体的環境ですら、変化してきていた。//
 (6)革命に勝利したと言うのは、明らかに、革命はすぎ去ったと言うことだった。
 何かがまたは何らかの程度で、緊張に満ちた革命の遂行からの休息が見出され得るとすれば、勝利の果実を享受するときだった。
 1930年代半ば、スターリンは、生活が気楽になったと語り、「我々の街頭での休日」を約束した。
 秩序、中庸、予見可能性および安定といった美徳が、公的な好みへと再び変わってきた。
 経済領域では、第二次五カ年計画(1933-37)は、ひどく野心的だった第一次よりは、率直でかつ現実的だった。重工業基地を建設することを強調するのは変わらなかったけれども。
 田園地帯では、体制側は集団化の枠組みの範囲内で農民層に対して宥和的な提案をもちかけ、集団農場を作動させようとした。
 非マルクス主義論評者のNicholas Timasheff は、生起している事態を革命的な価値と方法からの「偉大な退却」だと肯定的に叙述した。
 トロツキーはこれに同意せず、「ソヴィエトのテルミドール」、革命に対する裏切りだと性格づけた。//
 (7)この最終章では、革命から革命後への移行について、三つの点を私は検証するつもりだ。
 第一節では、1930年代に体制側が主張した革命の勝利の性格を扱う(<達成された革命>)。
 第二節では、同じ時期のテルミドール的政策と傾向を検証する(<裏切られた革命>)。
 第三節の主題の<テロル(the Terror)>とは、1937-38年の大粛清(the Great Purges)のことだ。
 これは、第二節の「正常さへの回帰」に新しい光を当てるもので、正常性は革命と同様にほとんど理解し難いものであり得る、ということを想起させるだろう。
 体制側が行った革命の勝利宣言には空虚さがあるのと全く同様に、民衆が受け入れようと望んだ、生活は正常に戻ったという主張にも、大量の虚偽と作り事があった。
 革命を終わらせるのは、容易なことではない。
 革命という病原菌は体制の中にとどまり、緊張のもとでは再び発症させがちだ。
 これが生じたのが、大粛清だった。すなわち、革命に残されていた多くのもの-理想主義、変革への熱情、革命的用語集、そして最後に革命家たち自身-を燃え上がらせた革命的高熱の最終発作。//
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 (1) Cane Brinton, <革命の解剖学>(rev. edn, New York, 1965), p.17.
 (2) L. Trotsky, <裏切られた革命>(London, 1937)、Nicholas S. Timasheff, <偉大なる退却-ロシアでの共産主義の成長と衰退>(New York, 1946)。
 (3) 識字能力の必要につき、Fitzpatrick <教育と社会的流動性>p.168-176.を見よ。
 被抑圧民族の民衆の1937年調査では、9歳から49歳までの住民の75パーセントは識字能力がある(<略>, 1990)。50歳を超える者を含めると、この数字は明らかに低くなるだろう。
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 第1節・「達成された革命」(' Revolution accomplished ')。
 (1)1934年初めに開かれた第17回党大会は、「勝利の大会」と呼ばれた。
 彼らの勝利は、第一次五カ年計画の間に起きた経済の移行だった。
 都市経済は、小さな協同組合部門を除いて、完全に国有化された。
 農業は、集団化された。
 こうして、革命は、生産様式を変えるのに成功した。
 そして、マルクス主義者ならば誰でも知るように、生産様式はその上に社会、政治および文化という上部構造の全体が依拠する経済的土台(base)だ。
 ソヴィエト同盟には今や社会主義の土台があるとすれば、それに従って上部構造が適合しないことなどあり得るだろうか?
 共産主義者は、土台を変えることで、社会主義社会を生み出すためになすべき必要なことを全て行った。-そしておそらくは、マルクス主義の趣旨でなされ得る全てのことを。
 残りは、時間の問題だ。
 社会主義経済は、自動的に社会主義体制を生むだろう。資本主義がブルジョア的民主主義政体を生んだのと全く同じように。//
 (2)これは、理論上の定式化だった。
 実際には、ほとんどの共産党員は、革命の任務と勝利とを単純な意味で理解した。
 任務は、第一次五カ年計画が示した、工業化と経済の近代化だった。
 新しい煙突や新しいトラクターは全て、勝利の証拠だった。
 革命がソヴィエト同盟で、外部の敵から身を守ることのできる、力強い近代的な工業社会の基礎を設定するのに成功したとするならば、革命はその使命を達成した。
 このように言うとき、いったい何が達成されたのか?
 (3)誰も、ソヴィエトの工業化追求の可視的な兆候を、見逃すことはできなかった。
 建設中の場所は、いたるところにあつた。
 第一次五カ年計画の間には、急速な都市の成長があった。旧来の産業中心地は巨大に膨れ上がり、静かな地方の町は大きな工場の出現によって変わり、新しい工業や鉱業の開発地がソヴィエト同盟のいたるところで飛躍していた。
 巨大な新しい冶金や機械建設工場群が建設中であるか、またはすでに作動していた。
 トルコ・シベリア鉄道と巨大なDnieper 水力発電ダムが、建設されていた。(4)
 (4)第一次五カ年計画は、4年半後の1932年に、成功裡に達成されたと宣言された。
 公式の諸結果は、国内および国外でソヴィエトによって集中的に連発されたプロパガンダの対象になっていた。これらの信憑性は、きわめて注意深く取り扱われなければならない。
 にもかかわらず、西側の経済学者たちは、本当に経済成長があった、と一般的には受け容れた。そして、Walt Rostow がのちに工業上の「離陸」と呼んだほどになった。
 第一次五カ年計画の結果を要約して、あるイギリスの経済史学者は、つぎのように記す。
 「全体としてのその主張の真偽は明瞭ではないけれども、力強い技術工業が生まれつつあり、工作機械、タービン、トラクター、冶金機器等々の生産高は本当に印象的な割合で上がっていることは、全く疑いがない」。 
 鋼鉄生産はその目標高に比べてはるかに少なかったけれども、(ソヴィエトの数字によれば)ほとんど50パーセントずつ依然として上がっていた。
 計画上の増加はもっと上だったけれども、鉄鉱石の産出は二倍以上になった。そして、無煙炭や銑鉄の生産は、1927/28年から1932年までの間に二倍に近くなった。(5)//
 (5)工業化追求は、容赦なく単直にその速度と生産高を強調するものだった。しかし、上のような結果は、工業化に諸問題があったということを否定するものではない。
 産業上の事故はありふれたことで、資材の膨大な無駄使いがあった。
 品質は低く、欠陥のある産物の割合は高かった。
 ソヴィエトの戦略は財源および人的資源の観点からは高くつくものだった。そして、成長率という点ですら、必ずしも最適なものではなかった。ある西側の経済学者は、基本的にネップの枠組みから出発することがなくしても、1930年代半ばまでには同様の水準の成長をソヴィエト同盟は達成することができていただろう、と計算した。(6)
 「計画を実現する、上回って達成する」と頻繁に語られたことの意味は、理性的な計画を棚上げし、いかなる犠牲を払ってもいくつかの優先順位の高い生産目標に焦点を合わせる、ということだった。
 新しい工場はトラクターやタービンのような魅力的な製品を作っているかもしれなかった。しかし、第一次五カ年計画の間ずっと釘や包装資材が切実に不足していた。また、農民による牽引や荷車運搬の崩壊が集団化の予期せぬ結果として生じ、これが工業のあらゆる部門に影響を与えた。
 Donbass の石炭工業は1932年に危機に瀕し、その他の多数の重要工業部門が建設や生産に関する切迫した問題を抱えていた。//
 (6)こうした諸問題があったにもかかわらず、目立つものを達成する過程にあるとソヴィエトの指導者たちが純粋に信じた分野は、工業だった。
 事実上は全ての共産党員たちが、そのように感じていた。かつて左翼または右翼の反対派に共感を覚えていた者たちですら。
 そして同じような誇りと興奮が、党籍があるか否かに関係なく、若い世代の者たちには、そしてある程度は都市民衆全体にも、明らかにあった。
 以前の多数のトロツキー派の者たちは、第一次五カ年計画への熱狂を理由として反対派から離れた。トロツキー自身ですら、これを基本的には是認していた。
 1928-29年に右派へと傾いた共産党員たちは、公的に撤回し、工業化に完全に携わった。
 以前の懐疑者たちの心の内部では、Magnitogorsk やStalingrad のトラクター工場群およびその他の大きな工業上の計画の価値は、重い抑圧や過度の集団化のようなスターリンの政策方針にある否定的な側面を上回るものだった。//
 (7)集団化は第一次五カ年計画のアキレス腱であり、危機、対立や即席の解決方法のいつもの根源だった。
 肯定的な面では、集団化は、安くて交渉によらない価格で、農民が売りたい量よりも多く国家が穀物を調達する、望ましい仕組みになった。
 消極的な面では、集団化は、農民を憤激させ、働きたい気持ちを喪失させ、家畜の大量殺戮の原因となり、1932-33年の飢饉を引き起こした(経済と行政制度の全体的危機を刺激した)。そして、国家は、「農民層を搾り上げる」元来の戦略とは比べものにならないほどの多額の投資を農業部門に注ぎ込むことを余儀なくさせた。(7)
 理論上は、集団化はもっと多くのことを意味し得たはずだった。
 1930年代のソヴィエト同盟で実施されたように、集団化は国家による経済的収奪の極端な形態であり、理解できることだが、農民層はそれを「第二の農奴制」だと見なしていた。
 このことは農民層にとってのみならず最初に手がけた共産党の幹部たちにとっても、意気を挫くものだった。//
 (8)集団化に関しては、誰もが本当に幸福ではなかった。共産党員たちは集団化の闘争に勝利したと考えたが、多大な対価を払ってのことだった。
 さらに加えて、現実に存在した集団農場は、共産主義者が夢見たものとも、ソヴィエトの宣伝活動が叙述したものとも、異なっていた。
 現実の集団農場は、小さくて、村落を基盤とし、原始的だった。一方、夢見た集団農場は、大規模で、近代的な、機械化された農業の展示場だった。
 現実の集団農場には、地域の機械・トラクター基地へと移されたのでトラクターが不足していたばかりか、集団化の間に馬を殺戮したために、伝統的な牽引動力も切実に不足していた。
 村落での生活水準は集団化によって急速に落ち込み、多くの場所でぎりぎりの生存状態へと沈んでいた。
 電気は、1920年代にそうだったよりも、村落では一般的ですらなかった。「クラク」の粉引き屋が消失してしまったからだ。かつては、彼らのもつ水力発電のタービンが電気を発生させていたのだ。
 村落にいた多数の共産党官僚たちには無念なことに、農民たちには私的な小区画地の耕作が認められていたため、このことが集団化田畑で働くことに嫌気を起こさせたとかりにしても、集団化された農業は十分に社会化されてすらいなかった。
 スターリンが1935年に認めたように、私的区画地は農民家族の生存には不可欠だった。それこそが、農民たちの(そして国家の)ミルク、卵および野菜を提供していたからだ。
 1930年代のうちの長く、集団農場での労働について農民が受け取る唯一の支払いは、穀物収穫分の小さな分け前だった。(8)//
 (9)革命の政治的目標に関しては、1931年、1932年および1933年の不安な時期を体制が何とか生存し続けたこと自体が多くの共産党員にとっては勝利-おそらくは奇跡-だったように見える、と言って誇張ではないだろう。
 さらに、これは公衆が祝うような勝利ではなかった。
 もう少し何かが、必要だった。なるべくならば、社会主義に関する何かが。
 1930年代の初めには、「社会主義の建設」や「社会主義的構築」について語るのが流行していた。
 しかし、これらの語句は、決して厳密には定義されていなかったが、完成させることではなくて、過程を示唆していた。
 スターリンは、1936年に新ソヴィエト憲法を制定するに際して、「建設」段階は基本的には終了した、と述べた。
 これが意味するのは、社会主義は、ソヴィエト同盟で達成された事実だ、ということだった。//
 (10)理論的には、これは全くの飛躍だった。
 「社会主義」が正確に何を意味するかはつねに曖昧で、かりにレーニンの(1917年9月に書かれた)<国家と革命>を指針にするとしても、地方的(「ソヴィエト」)民主主義、階級対立や階級による搾取の消滅および国家の死滅という意味を含んでいた。
 この最後の要件は、躓きの石だった。最も楽観的なソヴィエト・マルクス主義者ですら、ソヴィエト国家が死滅した、あるいは近い将来にそうなるとは、ほとんど主張できなかっただろう。
 解決策として見出されたのは、新しい、または少なくともこれまでは無視されてきた、社会主義と共産主義の間の理論上の区別を導入することだつた。
 <共産主義>のもとでのみ国家は死滅する、ということが知られるに至った。
 社会主義は、革命の最終目的ではないけれども、ソヴィエト同盟が資本主義国に包囲された真ん中に存在する、相互に敵対し合っている国民国家で成る世界では、達成することができる最善のものだ。
 世界革命が起きて初めて、国家は消滅する。
 それまでは、世界で唯一の社会主義社会を敵から防衛するために、力強くあり続けなければならない。//
 (11)ソヴィエト同盟にいま存在している社会主義の特質は、いったい何なのか?
 この疑問に対する回答は、1918年のロシア共和国の革命的憲法以降の最初の、新しいソヴィエト憲法で与えられた。
 これを理解するためには、マルクス=レーニン主義によれば革命と社会主義の間にはプロレタリアート独裁という移行期があるねということを想起しなければならない。
 1917年十月にロシアで始まった段階の特徴は、古い所有者階級がプロレタリア国家による収奪と破壊に抵抗した、激しい階級戦争だった。 
 階級戦争の中止だと、スターリンは新憲法の制定に際して説明した。新憲法は、プロレタリアート独裁から社会主義への移行を画するものだ。//
 (12)新憲法によると、全てのソヴィエト公民は平等の諸権利をもち、社会主義に相応した公民的自由を保障される。
 資本主義ブルジョアジーとクラクは今や排除されたので、階級闘争は消失した。
 ソヴィエト社会にはまだ、階級がある-労働者階級、農民層および知識人層(厳密には階級ではなく層と定義される)。しかし、それらの関係は対立や収奪から自由だ。
 それらは地位について対等で、社会主義とソヴィエト国家に対する貢献についても対等だ。(9)//
 (13)このような主張は、数年にわたって、非ソヴィエトの論評者たちを憤激させた。
 社会主義者たちは、スターリン体制が本当の社会主義だというのを拒否した。
 別の者たちは、自由や平等に関する憲法上の約束は当てにならないと指摘した。
 欺瞞の程度または瞞着する意図の程度に関して議論の余地はあるが(10)、憲法はソヴィエトの現実との関係を曖昧にしか定めていないのだから、こうした反応は理解することができる。
 しかしながら、我々のここでの議論の文脈では、憲法をあまりに真面目に取り扱う必要はない。革命の勝利という主張に関するかぎりは、この憲法は、共産党や社会全体にある感情的な責務とはほとんど関係がない「後知恵」だった。
 たいていの人々は無関心で、ある人々は混乱していた。
 社会主義がすでにソヴィエト同盟に存在しているという報道に痛烈に反応したのは、若い報道記者たち、故郷の村落の原始的で悲惨な生活を知っている、社会主義の未来を本当に信じている者たち、だった。
 <これ>はそもそも、社会主義だったのか?
 「いや違う。このような失望と、このような悲しみを、以前も今後も、私は経験したことがなかった」(11) 。//
 (14)新憲法上の平等諸権利の保障は、ロシア共和国の1918年憲法からの実際的な変化を代表するものだ。
 1918年憲法は明らかに、平等諸権利を保障して<いなかった>。旧来の搾取階級の者たちはソヴィエトの選挙での投票権を剥奪され、都市労働者の投票権は農民のそれに比べて有利に扱われていた。
 これと関連して、階級差別の法令による手の込んだ構造が、労働者に特権的な地位を与え、革命以降にいたブルジョアジーを冷遇するために作られていた。
 1936年憲法の今では、階級に関係なく、全員に投票権がある。
 「公民権のない者たち」(<lishentsy>)という汚名的範疇は、消失した。
 階級差別的な政策と実務は、新憲法の導入以前にすでになくなっていた。
 例えば、大学入学については、労働者に有利な差別的措置は、数年前になくなった。//
 (15)こうして、階級差別からの離反は本当のことだった。決して、憲法が意味させるほどには完全ではなく、旧来のやり方で物事をするのに慣れていた共産党員たちから、相当の抵抗に遭遇したけれども。(12)
 こうした変化の意義は、二つの観点から解釈することができるだろう。
 一方で、階級差別の削除は、社会主義的平等のための必須要件だと見ることができる(「達成された革命」)。
 他方で、それは体制側によるプロレタリアートの放棄だと受け取ることができる(「裏切られた革命」)。
 労働者階級の地位やそれのソヴィエト権力との関係は、新しい秩序のもとで、不明瞭なままだった。
 プロレタリアート独裁の時代は終わったのか、に関して、率直な公式の言明は何らなかった(これは、ソヴィエト同盟がすでに社会主義の時代に入っているとすれば、論理的な推論だけれども)。しかし、言葉遣いは、「プロレタリアの主導性」から「労働者階級の指導的役割」という穏やかな定式へと、変化した。//
 (16)トロツキーのようなマルクス主義者の批判者は、党は、社会的支持の主要な根源である労働者階級に代わって官僚機構を置き換えることを認めることによって、精神的拠り所(mooring)を失った、と主張するかもしれなかった。
 しかし、スターリンは、異なる見方をしていた。
 スターリンの立場からすると、革命が達成した偉大なものの一つは、労働者階級および農民層から募って集めて「新しいソヴィエト知識人層」(本質的には新しい管理および職業上のエリート)を生んだことだった。(13)
 ソヴィエト体制は、もはや、忠誠心はつねに疑わしい、かつてのエリートたちの残滓に依存する必要がなかった。そうではなく、今や育て上げた「指導的幹部や専門家」という自分たちのエリート、彼らの昇進や経歴は革命のおかげであり、完全に体制(とスターリン)に忠誠心をもつと信頼することができる者たち、に依拠することができた。 
 体制側がいったんこの「新しい階級」-命令的地位へと昇進した「昨日」の労働者や農民たち-を社会的基盤としてもつならば、プロレタリアートの全ての問題とそれと体制との特別の関係などは、スターリンの目には重要ではないものにになる。
 結局は、1939年の第18回党大会で行ったスターリンの論評で示唆されていたように、旧来の革命的労働者階級の花は、実際には、新しいソヴィエト知識人層の中へと植え換えられていた。そして、昇進することができないで嫉妬する労働者には、そうしたことの多くはより悪いことだった。
 こうした観点が新しいエリートたちの中の「労働者階級の息子たち」の完全な意味となることはほとんど疑いがない。新しいエリートたち、つまりは、いたるところで上方に向かって移動し、不利な出身背景に誇りをもつとともにそれから離れたことが幸福な者たちのことだ。//
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 (4) トルコ・シベリア鉄道につき、Matthew J. Payne, <スターリンの鉄道-Turksib と社会主義建設>(Pittsburgh, 2001)を見よ。
 Dneprostroi につき、Anne Rassweiler, <電力の世代-Dneprostroi の歴史>(Oxford, 1988)を見よ。
 (5) Alec Nove <ソ連邦の経済史>(new edn; London, 1992),p.195-6.
 (6) Holland Hunter 「野心的すぎる第一次五カ年計画」<Slavic Review>32: 2(1973), p.237-p.257。
 より肯定的な読み方につき、Robert C. Allen, <農場と工場-ソヴィエト工業革命の再解釈>(Princeton, NJ, 2003)を見よ。
 (7) James Miller & Alec Nove 「集団化に関する討議」<共産主義の諸問題>(1976年7-8月号)p.53-55より、James R. Miller 「『標準的物語』のどこが間違いか?」を見よ。
 (8) 1930年代の現実の集団農場に関するより詳細な議論として、Fitzpatrick, <スターリンの農民>Ch. 4-5.を見よ。
 (9) J. Stalin <新ソヴィエト憲法上関するスターリン>(New York, 1936).
 1936年12月5日にソ連邦のソヴィエト第8回臨時大会で採択された憲法の条文につき、<憲法-ソヴィエト社会主義共和国同盟の基礎法典>(Moscow, 1938)を見よ。
 (10) ソヴィエトの選挙を民主化しようとの体制側の純粋な意図は、大粛清に関連する社会的緊張によって挫折した。このことにつき、J. Arch Getty 「スターリンのもとでの国家と社会-1930年代の憲法と選挙」<Slavic Review>50: p.1 (1991年春号).を見よ。
 (11) N. L. Rogalina <集団化: urki proidennogo puti >(Moscow, 1989)p.198.で引用されている。
 (12) Fitzpatrick<仮面を剝げ!>p.40-43, p.46-49.を見よ。
 差別の古いやり方は消失したけれども、新しい形態があったことに注意。
 集団農場員は他の公民との平等な諸権利を享受したのではない。追放されたクラクたちや、その他の行政上の追放者については言うまでもない
 (13) Fitzpatrick「スターリンと新エリートの形成」同<文化戦線>所収p.177-8.を見よ。
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 つぎの第二節の表題は、「<裏切られた革命>」。

1903/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑮。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第4章までは済ませている。
 各節の前の見出しのない部分はこれまでどおり「(はじめに)」とここでは題しておく。しかし、正確な言葉ではなく、これまでの章もそうだが、章全体の内容をあらかじめ概述するような意味合いのものであるようにも見える。
 これまでと同様に、一文ごとに改行し、本来の改行部分には//を付す。但し、新規にだが、原文にはない段落番号を( )の中に記すことにした(但し、太字化はしない)。
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 第5章・スターリンの革命。
 (はじめに)
 (1)第一次五カ年計画(1929-1932)による工業化追求とそれに伴う強制的農業集団化は、しばしば「上からの革命」だと叙述されてきた。
 しかし、戦争の比喩的描写と同じようにするのが適切だった。そしてこの当時は、-ソヴィエトの注釈者たちが好んで行ったように「戦闘の真只中」のときには-戦争に関係する暗喩の方が、革命的な語法よりすら一般的だった。
 共産党員(共産主義者)は「戦闘員」だった。ソヴィエトの力は工業化と集団化という「戦線」へと「動員」されなければならなかった。
 ブルジョアジーやクラク〔富農〕という階級敵から「反撃」や「伏兵攻撃」がなされることが、想定され得た。
 ロシアの後進性に対する戦争だった。そして同時に、国の内部と外部にいるプロレタリア-トに対する階級敵との戦争だった。
 実際にこの時期は、ある範囲の歴史研究者ののちの見方によれば、「国民(the nation)」に対するスターリンの戦争の時代だった。(1)//
 (2)戦争で喩えるのは、明らかに、内戦と戦時共産主義の精神に立ち戻ることおよび非英雄的なネップという妥協を非難することを意味していた。
 しかし、スターリンはたんに表象を弄んでいたのではなかった。第一次五カ年計画の時代のソヴィエトは、多くの点で、戦争中の国家に似ていたからだ。
 体制の政策に対する政治的な反対と抵抗は裏切りだと非難され、ほとんど戦争中の厳しさでもって頻繁に罰せられた。
 スパイと破壊工作に対する警戒の必要性は、ソヴィエトの新聞の決まった主題になっていた。
 民衆一般は愛国的連帯意識を強く搔き立てられ、工業化という「戦争遂行」のために多大の犠牲を払わなければならなかった。すなわち、戦争時の条件や配給制をさらに進めたものが(意図せざるものであっても)都市部に再導入された。//
 (3)戦時中のごとき危機的雰囲気は、ときに純粋に工業化や集団化の失墜に対する緊張への反応として認められた。しかし、それはじつに、現実に起きたことに先行していた。
 戦争非常事態という心理状態は、1927年の大戦の恐怖でもって始まった。その頃、党や国家では全体として、資本主義諸国による新しい軍事干渉が近づいていると信じられていた。
 ソヴィエト同盟はその当時、その外交政策およびコミンテルンの政策が連続して拒絶されるという憂き目に遭っていた。-英国は突然にロンドンのソヴィエト通商使節団(ARCOS〔=All Russian Co-operative Society〕)を攻撃し、中国の国民党の蒋介石は、同盟者である中国共産党への攻撃を開始し、ポーランドではソヴィエトの外交幹部団の暗殺があった。
 トロツキーとその他の反対派たちは、このような外交政策の失敗に、とくに中国でのそれについてスターリンを非難した。
 多数のソヴィエトおよびコミンテルンの指導者たちは、こうした拒絶はイギリスが指導している積極的な反ソヴィエト陰謀の証拠だと大っぴらに解釈した。ソヴィエト同盟に対する計画的な軍事攻撃で終わるものと想定される陰謀なのだった。
 国内の緊張が増したのは、GPU(チェカの後継機関)が体制の敵である嫌疑者を探し回り始め、新聞が反ソヴィエトのテロルの事件や反体制の国内陰謀を発見したことを報道したときだった。
 戦争が始まるのを予期して、農民たちは穀物を市場に出すのを拒み始めた。そして、村落と都市の両方の住民はパニックを起こして、基礎的な消費用品を買い漁った。//
 (4)たいていの西側の歴史研究者は、干渉という現実的かつ即時の危険はなかった、と結論づける。これはまた、ソヴィエト外務人民委員部〔=外務省〕の見解であり、そしてほとんど確実に、陰謀の気持ちのないアレクセイ・ルィコフ(Rykov)のような政治局員たちの見解でもあった。
 しかし、党指導部のその他の者たちは、本当にもっと怖れていた。
 その中には、このときはコミンテルン議長だった興奮しやすいブハーリンがいた。コミンテルンには、不安を撒き散らす噂が溢れ、外国の政府の意図に関する真実(hard)の情報はほとんどなかった。//
 (5)スターリンの態度を推測するのは、むつかしい。
 戦争の危険に関する数ヶ月の間の憂慮的議論の間、彼は沈黙を保ったままだった。
 そして、1927年の半ば、スターリンはきわめて巧妙に、反対派たちへと論点を向き変えた。
 戦争が切迫していることを否定したが、にもかかわらず彼は、トロツキーを公然と批判した。第一次大戦の間のクレマンソー(Clemenceau)のようにトロツキーは、敵が資本の傍らにいるときでも国の指導部には積極的に反対すると言明した、として。
 忠実な共産党員やソヴィエト愛国者にとって、これは国家への大逆行為に近いものに受け止められた。そして、この批判は、スターリンが数ヶ月のちに反対派に対する最後の一撃を下すためにおそらくは決定的だった。そのとき、トロツキーと反対派指導者たちは、党から除名(expell)されたのだった。//
 (6)スターリンのトロツキーとの間の1927年の闘いは、政治的雰囲気を悪い方向に高める不吉な背景になった。
 ボルシェヴィキ党でのそれまでの禁忌(タブー)を犯して、指導部は政治的反対者の逮捕、行政的な追放、および反対派に対するGPUによる嫌がらせという制裁を課した。
 (トロツキー自身は、党から除名されたのちアルマ-アタ(Alma-Ata)へと追放された。
 1929年1月には、政治局の命令によってソヴィエト同盟から強制的に国外追放された。)
 1927年末に、反対派によるクーの危険があるとのGPUの報告に反応して、スターリンは政治局に、フランス革命期の悪名高き嫌疑令(Law of Suspects)とのみ対比することが可能な一体の提案を行った。(2)
 承認されたが公表はされなかったその提案は、つぎのようなものだった。//
 (7)『反対する見解を宣伝する者は、ソヴィエト同盟に対する外部および内部の敵の危険な共犯者(accomplices)だと見なされる。
 かかる者は、GPUの行政布令によって「スパイ」として処刑される。
 広くかつ枝分かれした工作員のネットワークが、その最高部まで含めて政府機構内部にいる、および党の最高指導層を含めて党内部にいる、敵対分子を探索する職責をもつものとして、GPUによって組織される。』//
 スターリンの結論は、こうだった。「微小なりとも疑いを掻き立てる者は全て、排除されなければならない」。(3)//
 (8)反対派との最後の対決と戦争への慄えによって一般化した雰囲気は、1928年当初の数カ月の間に、さらに悪化した。この頃に、農民層との大規模な対立が始まり(後述、p.125-7.参照)、忠誠さの欠如の追及が直接に古い「ブルジョア」知識人に対して行われたのだ。
 1928年3月、国家検察庁長官は、鉱業での意図的な罷業と外国勢力との共謀を訴因として、Donbass のShakhty 地方の技術者集団を裁判に処する、と発表した。
 これはブルジョア専門家に対するひと続きの見せ物裁判の最初だった。これらの訴追によって、階級敵による内部的脅威は外国資本主義勢力による干渉の脅威と連結された。(4)
 そして、被告人たちは罪状を自白し、陰謀劇ふうの活動に関する状況的説明を行った。//
 (9)毎日の新聞が決まり文句でその大部分を報道した諸裁判がもたらしたのは、つぎの明白なメッセージだった。すなわち、ブルジョア知識人たちは、ソヴィエト権力に対して忠誠心をもつと主張していても、階級敵のままなのであり、その定義上、信頼するに値しない。
 ブルジョア専門家たちと一緒に仕事をしている党管理者や行政職員にそれほどに明白ではなくとも明瞭に伝わったのは、党の幹部たちもまた、かりにより酷くはなくとも、間違って、専門家たちに欺されるという愚かさ又は軽々しさの罪を冒す、ということだった。(5)//
 (10)新しい政策方針は、ロシアの労働者階級と党員たちに独特の、かつての特権階層出身の知識人に対する懐疑と敵愾の感情を利用していた。
 ある程度はそれはまた、疑いなく、第一次五カ年計画らによって到達すべきものと設定された高い目標に対する、多数の専門家や技術者たちの懐疑心に対する反応だった。
 にもかかわらず、工業化という突貫的な計画に着手しようとする体制にとって、莫大な犠牲を伴う政策方針だったのだ。農業分野での「クラク〔富農〕」という敵に対する1928-29年の運動がそうだったのと全く同様に。
 国にはあらゆる種類の専門家が不足していた。とくに、工業化への途にとって決定的に重要な知識をもつ技術者たちが。(1928年でのロシアの有資格技術者の大多数は、「ブルジョアジー」で、非党員だった)。//
 (11)反専門家運動を始めたスターリンの動機が何だったかは、歴史研究者たちを困らせている。
 共謀や罷業という訴因は容易には信じ難く、被告人たちの自白は強制されたか欺されたものだったために、スターリンとその仲間たちは彼らを信じることができなかっただろうと、しばしば考えられている。
 しかしながら、公文書庫から新しい資料が出てきたために、ますます、(必ずしも政治局の同僚たち全員ではなく)スターリンは共謀の存在を信じていた、そう信じることが同時に政治的利益になると知りつつ、少なくとも半分は信じていた、ように見える。//
 (12)OGPU(GPUの後身)の長官、Vyachevlav Menzhinskii が「工業党」党員だと追及している専門家の尋問調書からする資料をスターリンに送った。この党の指導者はたちはエミグレ資本主義者たちにより支援されるクーを計画し、外国による軍事干渉を企図する計画を抱いて活動しているとされていた。これを送られてスターリンは、面前での自白をいずれも価値があるものとして受領した、切迫する戦争の危険はきわめて深刻だと思う、との趣旨の返答をした。
 スターリンはMenzhinskii に対して、最も興味深い証拠は、予定される軍事干渉の時期にかかわっていると、つぎのように語った。//
 (13)『干渉を1930年に意図していたが、1931年または1932年に延期した、ということが判る。
 これは全くありそうだし、重要なことだ。
 これが第一次な情報源から、つまりRiabinsky、Gukasov、DenisovおよびNobela (革命前のロシアの大きな利益をもつ資本主義者たち)という、ソ連および他国移住者たちの中に現存する全ての集団の中で最も有力な社会経済グループ、資本およびフランスやイギリス両政府との関係という観点からして最も有力なグループを代表しているグループから得られたがゆえに、より重要なものだ。』//
 証拠が手に入ったと考えて、スターリンは、こう結論づけた。
 ソヴィエト体制はこれを国内かつ国外で集中的に公にすることができるだろう、「そうすれば、つぎの一年または二年の間、干渉の企てを全て抑え、阻止することができる。これは、我々には最大限に重要なことだ」。(6)//
 (14)スターリンおよび他の指導者たちが反ソヴィエト陰謀の存在と直接的な軍事的脅威を信じたか否かとは関係なく、あるいはいかほどに信じたかとは関係なく、こうした考え方はソヴィエト同盟に広く行き渡るようになった。
 これは体制側のプロパガンダ活動によるだけではなく、すでにある先入観と恐怖を強めるこのような見方が、ソヴィエトの国民の大部分にとって信じ得るものだったことにもよる。
 1920年代の遅くに始まったことだが、食糧不足、工業、輸送および電力の故障のような経済的諸問題の発生を説明するために、このような内部的および外部的な陰謀は決まって言及された。
 戦争の危険もまた、この時期にソヴィエトの<心性(mentalité)>に深く埋め込まれた。
 政治局および新聞読者たちの注意は絶えず戦争の脅威へと向かい、それは1941年に実際に起きた戦争勃発まで続いた。//
 --------
 (1) Adam B. Ulam, <スターリン>(New York, 1973), Ch. 8.を見よ。
 (2) ジャコバンの大会は、嫌疑令(Law of Suspects、1793年9月17日)によってつぎのことを命じた。その行動、人間関係、著述物または一般的な挙措に照らして革命に対する脅威となる可能性のある全ての人物を即時に逮捕すること。
 スターリンはフランス革命のテロルを称賛していたことにつき、Dimitri Volkogonov, <スターリン-栄光と悲劇>, Harold Shukman 訳(London, 1991), p.279. を見よ。
 (3) Reimann,<スターリニズムの誕生>, p.35-p.36. によるドイツ外務省政治文書庫の中の文書から引用した。
 (4) Shakhty 裁判およびその後の「工業党」裁判につき、Kendall E. Bailes, <レーニンとスターリンのもとでの技術と社会>(Princeton, NJ, 1978), Chs. 3-5.を見よ。
 (5) S・フィツパトリク「スターリンと新エリート層の形成」同・<文化戦線(The Cultural Front)>, p.153-4, p.162-5.を見よ。
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 第一節・スターリン対右派、へとつづく。

1898/Wikipedia によるL・コワコフスキ③。

 Wikipedia 英米語版での 'Main Currents of Marxism' の項の試訳のつづき。
 2018年12月22日-23日の記載内容なので、今後の変更・追加等はありうるだろう。
 前回に記さなかったが、この本の総頁数は、つぎのように書かれている。
 英語版第一巻-434頁、同第二巻-542頁、同第三巻-548頁。秋月の単純計算で、総計1524頁になる。
 英語版全巻合冊書-1284頁
 さて、以下の書評類は興味深い。何とも直訳ふうだが、英語そのままよりはまだ理解しやすいのではないか。
 書評者等の国籍・居住地、掲載紙誌の発行元の所在地等は分からない。多くは、イギリスかアメリカなのだろう。
 こうした書評上での議論があるのは、なかなか愉快で、コワコフスキ著の内容の一端も教えてくれる。
 それにしても、わが日本では、コワコフスキの名も全くかほとんど知られず、この著の存在自体についても同様だろう。2017年の最大の驚きは、この著の邦訳書が40年も経っても存在しないことだった。
 マルクス主義・共産主義に関する<情報>に限ってもよいが、わが日本の「知的」環境は、果たしていかなるものなのか。
 なお、praise=讃える、credit=高く評価する、describe=叙述する、accuse=追及する、consider=考える、等にほぼ機械的に統一した(つもりだ)。criticize はむろん=批判する。これら以外に、論じる、主張する、等と訳した言葉がある。
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 3/反応(reception)。
 1.主流(main stream)メディア。
 (1) <マルクス主義の主要潮流>はLibray Journal で、二つの肯定的論評を受けた。
 一つは最初の英語版を書評した Robert C. O'Brien からのもので、二つはこの著作の2005年合冊版を書評した Francisca Goldsmith からのものだった。
 この著作はまた、The New Republic で政治科学者 Michael Harrington によって書評され、The New York Review of Books では歴史家の Tony Judt によって書評された。
 (2) O'Brien は、この著作を「マルクス主義教理の発展に関する包括的で詳細な概観」で、「注目すべき(remarkable)著作だ」と叙述した。
 彼はコワコフスキを、「マルクスの思想が<資本>に到達するまでの発展の基本的な継続性」を提示したと讃え、Lukács、Bloch、Marcuse、フランクフルト学派および毛沢東に関する章が特別の価値があると考えた。
 Goldsmith は、コワコフスキには「明瞭性」と「包括性」はもちろんとして「完全性と明晰性」があると讃えた。
 哲学者のJohn Gray は、<マルクス主義の主要潮流>を「権威がある(magisterial)」と呼んで讃えた。//
 2.学界雑誌。
 (1)<マルクス主義の主要潮流>は、Economica で経済学者のMark Blaug から、The American Historical Review で歴史研究者の Martin Jay から、The American Scholarで哲学者のSidney Hook から、the Journal of Economic Issues で John E. Elliott から肯定的な書評を受けた。
 入り混じった書評を、社会学者のCraig CalhounからSocial Forces で、David Joravsky からTheory & Society で、Franklin Hugh Adler からThe Antioch Review で、否定的な書評を社会学者の Barry Hindess からThe Sociological Reviewで、社会学者 Ralph Miliband からPolitical Studies で受けた。
 この本の書評はほかに、William P. Collins が The Journal of Politics に、Ken Plummeが Sociology に、哲学者のMarx W. Wartofsky がPraxis International に、それぞれ書いている。
 (2) 経済学者Mark Blaug は、この本を「輝かしい(brilliant)」かつ社会科学にとって重要なものだと考えた。
 マルクス主義の強さと弱さを概括したことを高く評価し、歴史的唯物論、エンゲルスの自然弁証法、Kautsky、Plekhanov、レーニン主義、Trotsky、トロツキー主義、Lukács、Marcuse およびAlthusser に関する論述を讃えた。 
 しかし、哲学者としての背景からしてマルクス主義を主に哲学的および政治的な観点から扱っており、それによってマルクス主義のうちの中核的な経済理論をコワコフスキは曲解している、と考えた。
 彼はまた、Paul Sweezy によるThe Theory of Capitalist Development (1942)での Ladislaus von Bortkiewicz の著作の再生のようなマルクス主義経済学の重要な要素を、コワコフスキは無視していると批判した。
 彼はまた、「1920年代のソヴィエトでの経済政策論争」を含めて、コワコフスキがより注意を払うことができただろういくつかの他の主題がある、と考えた、
 彼はコワコフスキの文献処理を優れている(excellent)と判断したけれども、 哲学者H. B. Acton のThe Illusion of the Epoch や哲学者 Karl Popper のThe Open Society and Its Enemies が外されていることに驚いた。
 彼は、コワコフスキの著述の質を、その翻訳とともに、讃えた。
 (3) 歴史研究者Martin Jay は、この本を「きわめて価値がある(extraordinarily valuable)」、「力強く書かれている」、「統合的学問と批判的分析の、畏怖すべき(awesome)達成物〔業績〕」、「専門的学問の記念碑」だと叙述する。
 彼は、コワコフスキによる「弁証法の起源」の説明、マルクス主義理論の哲学的側面の論述を、相対的に独自性はないとするけれども、讃える。
 彼はまた、マルクス主義の経済的基礎の論述や労働価値理論に対する批判を高く評価する。
 彼は、歴史的唯物論が原因となる力を「究極的には」経済に求めることの誤謬をコワコフスキが暴露したことを高く評価する。
 しかし、Lukács、Korsch、Gramsci、フランクフルト学派、GoldmannおよびBloch の扱い方を批判し、「痛烈で非寛容的で」、公平さに欠けるとする。こうした問題のあることをコワコフスキは知っていると認めるけれども。
 彼はまた、コワコフスキの著作はときに事実に関する誤りや不明瞭な解釈を含んでいるとする一方で、この本の長さを考慮すれば驚くべきほどに数少ない、と書いた。
 (4) 哲学者Sidney Hook は、この本は「マルクス主義批判の新しい時代」を開き、「マルクスとマルクス主義伝統にある思想家たちに関する最も包括的な論述」を提示した、と書いた。
 彼は、ポーランドのマルクス主義者、Gramsci、Lukács、フランクフルト学派、Bernstein、歴史的唯物論、マルクス主義へのHess の影響、「マルクスの社会的理想」での個人性の承認、「資本」の第一巻と第三巻の間の矛盾を解消しようとする試みの失敗, マルクスの「搾取」概念、およびJaurès やLafargue に関するコワコフスキの論述を讃える。
 彼は、トロツキーの考え方は本質的諸点でスターリンのそれと違いはない、スターリニズムはレーニン主義諸原理によって正当化され得る、ということについてコワコフスキに同意する。
 しかし、ある範囲のマルクス主義者の扱い方、 社会学者の Lewis Samuel Feuer の「研究がアメリカのマルクスに関するユートピア社会主義の植民地に与えた影響」を無視していること、を批判した。
 彼は、マルクスとエンゲルスの間、マルクスとレーニンの間、に関するコワコフスキの論述に納得しておらず、マルクスの Lukács による読み方を讃えていることを批判した。
 彼は、マルクスは一貫して「Feuerbach の人間という種の性質に関する見解」を支持していたとのコワコフスキの見方を拒否し、思想家としてのマルクスの発展に関するコワコフスキの見方を疑問視し、マルクスの歴史的唯物論は技術的決定論の形態にまで達したとのコワコフスキの見方を、知識(knowledge)に関するマルクスの理論の解釈とともに、拒否した。
 (5) Elliott は、この本は「包括的」で、マルクス主義を真摯に研究する全ての学生の必須文献だと叙述する。
 彼は、<資本>のようなマルクスの後半の著作は1843年以降の初期の著作と一貫しており、同じ諸原理を継続させ仕上げている、とするコワコフスキの議論に納得した。
 彼は、マルクスは倫理的または規範的な観点を決して採用しなかったという見方、マルクスの「実践」観念や「理論と実践の編み込み」に関する説明、マルクスの資本主義批判は「貧困によってではなく非人間化によって」始まるとの説明のゆえに、「制度的伝統」にある経済学者にとって第一巻は価値があると考えた。
 彼は、第二巻を<tour de force>だとし、三巻のうちで何らかの意味で最良のものだと考えた。
 彼は、第二インターナショナルの間の多様なマルクス主義諸派がいかに相互に、そしてマルクスと、異なっていたか、に関するコワコフスキの論述を推奨した。
 彼はまた、レーニンとソヴィエト・マルクス主義に関するコワコフスキの論述は教示的(informative)だとする一方で、ソヴィエト体制に対するコワコフスキの立場を知ったうえで読む必要があるとも付け加えた。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を批判するよりも叙述するのに長けていると考え、マルクスの価値理論に対する Böhm von Bawerk による批判に依拠しすぎていると批判した。
 しかし彼は、コワコフスキの著作はこれらの欠点を埋め合わす以上の長所をもつ、と結論づけた。
 (6) 社会学者Calhoun は、この本はコワコフスキのマルクス主義放棄を理由の一部として左翼著述者たちからの批判を引き出した、しかし、マルクス主義に関する「手引き書」として左翼に対してすら影響を与えた、と書いた。
 彼は、コワコフスキがマルクス主義への共感を欠いていることを批判した。また、哲学者または逸脱したマルクス主義者と考え得る場合にかぎってのみマルクス主義の著述者に焦点を当て、マルクス主義の経済学者、歴史家および社会科学者たちに十分な注意を払っていない、と主張した。
 彼は、この本は明晰に書かれているが、「不適切な参考書」だと考えた。
 彼は、第一巻はマルクスに関するよい(good)論述だが、「洞察が少なすぎて、もっと読みやすい様式で書かれなかった」と述べた。
 彼はまた、第二巻のロシア・マルクス主義に関する論述はしばしば不公平で、かつ長すぎる、とした。
 また、スターリニズムはレーニンの仕事(works)の論理的な帰結だとのコワコフスキの議論に彼は納得しておらず、ソヴィエト同盟がもった他諸国のマルクス主義に対する影響に関するコワコフスキの論じ方は不適切(inadequate)だ、とも考えた。
 彼は、全てではないが、コワコフスキのフランクフルト学派批判にある程度は同意した。
 <マルクス主義の主要潮流>は一つの知的な企てとしてマルクス主義の感覚〔sense=意義・意味〕を十分に与えるものではない、と彼は結論づけた。
 (7) Joravsky は、この本はコワコフスキが以前にポーランド共産党員だった間に行った共産主義に関する議論を継続したものだと見た。
 マルクス主義の歴史的な推移に関するコワコフスキの否定的な描写は、<マルクス主義の主要潮流>がもつ「事実の豊富さと複雑さ」と奇妙に矛盾している、と彼は書いた。
 彼は、マルクス主義者たちの間の論争から超然としていると自らを提示し、一方でなお Lukács のマルクス解釈を支持するのは一貫していない、とコワコフスキを批判した。また、マルクスを全体主義者だと非難するのは不公正だ、とも。
 彼は<マルクス主義の主要潮流>の多くを冴えない(dull)ものだとし、哲学史上ののマルクスの位置に関するコワコフスキの説明は偏向している(tendentious)、と考えた。
 彼は、社会科学に投げかけたマルクスの諸問題を無視し、諸信条の社会的文脈を考察したごとき常識人としてのみマルクスを評価しているとして、コワコフスキを批判した。また、マルクス主義の運動や体制に関係があった著述者のみを扱っている、とも。
 彼は、オーストリア・マルクス主義、ポーランドのマルクス主義と Habermas に関する論述にはより好ましい評価を与えたが、全体としての共産主義運動の取り扱い方には不満で、コワコフスキはロシアに偏見を持っており、他の諸国を無視している、と追及した。
 (8) Adler は、この本を先行例のない、「きわめて卓絶した(unsurpassed)」マルクス主義の批判的研究だと叙述する。
 コワコフスキの個人的な歴史がマルクス主義に対するその立場の大部分を説明すると彼は結論づけたが、<マルクス主義の主要潮流>は一般的には知的に誠実だ(honest)、とした。
 しかし、彼は、コワコフスキの東欧マルクス主義批判は強いものだとしつつ、その強さが西欧マルクス主義と新左翼に関する侮蔑的な扱いをすっかり失望させるものにしている、と考えた。
 新左翼に対するコワコフスキの見方は1960年代のthe Berkeley の反体制文化との接触によって形成されたのかもしれない、としつつ、彼は、新左翼を生んだ民主主義社会の価値への信頼の危機を何が招いたのかをコワコフスキは理解しようとしていない、と述べた。
 彼は、Gramsci と Lukács に関する論述を讃えた。しかし、「東側マルクス主義批判へとそれを一面的に適用しており、彼らの主導権や物象化に関する批判は先進資本主義諸国の特有の条件に決して適用できるものではない」、と書いた。また、フランクフルト学派とMarcuse の扱いは苛酷すぎ、不公平だ、とも。
 彼はまた、この本の合冊版は大きくて重くて、扱いにくく身体的にも使いにくい、とも記した。
 (9) 社会学者Hindess は、この本はマルクス主義、レーニンおよびボルシェヴィキに対して「重々しく論争的(polemic)」だ、と叙述した。
 彼は、コワコフスキは公平さに欠けていると考え、マルクス思想は<ドイツ・イデオロギー>の頃までに基本的特質が設定された哲学的人類学だというコワコフスキの見方に代わる選択肢のあることを考慮していない、と批判した。また、「政治分析の道具概念としては無価値」の「全体主義という観念」に依拠している、とも。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を哲学と見ているために、「政治的計算の手段としてのマルクス主義の用い方、あるいは具体的分析を試みる多数のマルクス主義者に設定されている政治的および経済的な実体的な諸問題」への注意が不十分だ、と主張した。
 彼はまた、Kautsky のようなマルクス主義著述者、レーニンの諸政策、スターリニズムの進展に関して誤解を与える論述をしている、と追及した。
 彼は、コワコフスキによるマルクス主義の説明は「グロテスクで侮辱的な滑稽画」であり、現代世界に対するマルクス主義の影響力を説明していない、と叙述した。
 (10) 社会学者Miliband は、コワコフスキはマルクス主義の包括的な概述を提供した、と書いた。
 しかし、マルクス主義に関するコワコフスキの論述の多くを讃えつつも、そのマルクス主義に対する敵意が強すぎて、「手引き書」としての著作だという叙述にしては、精細すぎると考えた。
 彼はまた、マルクス主義とその歴史への接近方法は「根本的に見当違い(misconceived)」だと主張した。
 彼は、マルクス主義とレーニン主義やスターリニズムとの関係についてのコワコフスキの見方は間違っている(mistaken)、マルクスの初期の著作と後期のそれとの間の重要な違いを無視している、コワコフスキは第一次的には「経済と社会の理論家」だというよりも「変わらない哲学的幻想家」だとマルクスを誤って描いている、と主張した。
 マルクス主義は全ての人間の願望が実現され、全ての諸価値が調整される、完璧な共同体たる社会」を目指した、とのコワコフスキの見方は、「馬鹿げた誇張しすぎ」(absurdly overdrawn)だ、と彼は述べた。また、コワコフスキの別の著述のいくつかとの一貫性がない、とも。
 彼はまた、コワコフスキの結論を支える十分な論拠が提示されていない、と主張した。
 彼は、コワコフスキはマルクスを誤って表現しており、マルクス主義の魅力を説明することができていない、と追及した。また、歴史的唯物論に関する論述を非難し、 Luxemburg に対する「誹謗中傷〔人格攻撃〕」だとコワコフスキを追及した。
 彼は、改革派社会主義とレーニン主義はマルクス主義者にとってのただ二つの選択肢だった、とのコワコフスキの見方を拒否した。
 彼は結論的に、<マルクス主義の主要潮流>は著者の能力とその主題のゆえに無価値(unworthy)だ、と述べた。
 コワコフスキはMiliband の見方に対して返答し、<マルクス主義の主要潮流>で表現した自分の見解を再確認するとともに、Miliband は自分の見解を誤って表現していると追及した。
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 以上。つぎの、<3/反応の3.書物での評価>は割愛する。

1897/Wikipedia によるL・コワコフスキ②。

 'Leszek Kolakowski' は英米語版のWikipedia も勿論あるが(日本語版はひどい)、その著、'Main Currents of Marxism' という書物自体も、英米語版Wikipedia は項目の一つにしている。
 以下は、その試訳。2018年12月21日現在。なお、この欄で合冊版の発行年を、所持している版の発行年2008年としたことがあり、最近では書物の最初部分に依拠して最も若い年の2004年としているが、以下では2005年だと記されている。( )は改行後を示すもので、数字も含めて、原文にはない。
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 (1) <マルクス主義の主要潮流-その起源、成長および解体>(〔ポーランド語・略〕は、政治哲学者レシェク・コワコフスキによる、マルクス主義に関する著作。
 英語版での三つの諸巻は、第一巻・創成者たち、第二巻・黄金時代、第三巻・崩壊。
 1976年にパリでポーランド語によって最初に出版され、英語翻訳版は1978年に出た。
 2005年に、<マルクス主義の主要潮流>は一巻の書物として再発行され、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグがそれに付いていた。  
 この著作はコワコフスキによると、マルクス主義に関する「手引き書」という意図だった。
 彼は、かつて正統派マルクス主義者だったが、最終的にはマルクス主義を拒絶した。
 そのマルクス主義に対する批判的な立場にもかかわらず、コワコフスキはカール・マルクスに関するLukács György〔ルカチ・ジョルジュ〕の解釈を支持した。
 (2) この著作は、マルクス主義に関するその論述の包括性とその叙述の質を褒め称える、多数の肯定的な論評を受けた。
 歴史的唯物論、ルカチ、ポーランド・マルクス主義、レオン・トロツキー、ハーバート・マルクーゼおよびフランクフルト学派に関するその論述が、とくに抜きん出ているとされた。
 別の論評者たちはフランクフルト学派に関する彼の扱いにもっと批判的だ。また、カール・カウツキー、ウラジミル・レーニンおよびアントニオ・グラムシに関する取り扱いについて、彼らの評価は、分かれている。 
 コワコフスキは、特定の著者たちまたは諸事件、彼のマルクス主義に対する敵意、ルカチの解釈への依存、に関する論述を省略していると批判された。また、現代世界に対するマルクス主義の訴えまたは影響を説明していない、他のマルクス主義著作者を無視してマルクス主義哲学者に焦点を当てることでマルクス主義の印象を誤らせる、とも。//
 1/背景と出版の歴史。
 コワコフスキによると、<マルクス主義の主要潮流>は、1968年と1976年の間にポーランド語で執筆された。その頃、この著作を共産主義が支配するポーランドで出版するのは不可能だった。
 ポーランド語版はフランスでthe Institute Littérailie よって1976年と1978年に出版され、そのときに、ポーランドの諸地下出版社によって複写された。一方、P. S. Falla が翻訳した英語版は、1978年に、Oxford University Press によって出版された。
 ドイツ語、オランダ語、イタリア語、セルビア=クロアチア語およびスペイン語の各翻訳書版が、そのあとに続いて出版された。
 別のポーランド語版は、1988年にイギリスで、Publishing House Aneks によって出版された。
 この著作は、2000年にポーランドで初めて、合法的に出版された。
 コワコフスキは、最初の二巻だけがフランス語版となって出版されていると書き、その理由を、「第三巻は、フランス左翼たちの間の憤懣が激しかったので出版社がリスクを冒すのを怖れた」、と推測している。
 <マルクス主義の主要潮流>の全一巻合冊版は、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグ付きで、2005年に出版された。
 2/要約。
 (1) コワコフスキは、マルクス主義の起源、哲学上の根源、黄金時代および崩壊〔瓦解〕を論述する。
 彼は、マルクス主義は「二〇世紀の最大の幻想(fantasy=おとぎ話)」、「虚偽と搾取と抑圧の怪物的体系」のための建設物となる完璧な社会という夢想、だと叙述する。
 彼は、共産主義イデオロギーのうちのレーニン主義やスターリン主義はマルクス主義を歪曲したものでも堕落させたものでもなく、マルクス主義のありうる諸解釈の一つだ、と主張する。
マルクス主義を拒絶しているにもかかわらず、彼のマルクスの解釈はルカチから影響を受けている。
 第一巻は、マルクス主義の知的背景を論述し、Plotinus、Johannes Scotus Eriugena、Meister Eckhart、Nicholas of Cusa、Jakob Böhme、Angelus Silesius、Jean-Jacques Rousseau、David Hume、Immanuel Kant、Johann Gottlieb Fichte、Ludwig Feuerbach、Georg Wilhelm Friedrich Hegel および Moses Hess を検証した。カール・マルクスとフリートリヒ・エンゲルスの諸著作の分析があるのは、勿論のことだ。
 ヘーゲルは全体主義の弁解者だということを彼は承認しなかったけれども、ヘーゲルに関して彼は、「ヘーゲルの教理の適用が実際に意味したのは、国家機構と個人とが対立する全ての場合に勝利するのは前者だ、ということだ」と書いた。
 (2) 第二巻は、第二インターナショナルおよびPaul Lafargue、Eduard Bernstein、Karl Kautsky、Georgi Plekhanov、Jean Jaurès、Jan Wacław Machajski、Vladimir Lenin、Rosa Luxemburg やRudolf Hilferding といった人々に関する論述を内容とする。
 これは、経済学者の Eugen Böhm von Bawerk との価値理論に関するヒルファーディングの議論を再述している。
 また、オーストリア・マルクス主義に関しても論述する。
 第三巻は、Leon Trotsky、Antonio Gramsci、Lukács、Joseph Stalin、Karl Korsch、Lucien Goldmann、Herbert Marcuse、Jürgen Habermas および Ernst Bloch といった人々を扱う。フランクフルト学派と批判理論については勿論のことだ。
 コワコフスキは、ルカチの<歴史と階級意識>(1923年)やブロッホの<希望の原理>(1954年)を批判的に叙述する。
 また、Jean-Paul Sartre についても論述する。
 コワコフスキは、サルトルの<弁証法的理性批判>(1960年)を批判する。
 彼は、弁証法的唯物論は、第一にマルクス主義に特有の内容を有しない自明のこと、第二に哲学上のドグマ(dogmas)、第三にたわ言(nonsense)、そして第四に、これらのいずれかであり得る、どう解釈するかに依存する言明 、で成り立つと論じて、弁証法的唯物論を批判する。
 (3) 2005年版で追加した緒言で、コワコフスキは、ヨーロッパでの共産主義の解体の理由の一つはイデオロギーとしてのマルクス主義の崩壊にある、と叙述した。
 彼は、ヨーロッパ共産主義が終焉したにもかかわらず研究対象としてのマルクス主義の価値を再確認し、全く確実ではないにせよ、将来でのマルクス主義と共産主義の再生はなおもあり得る、と述べた。
 彼が追加したエピローグでは、マルクス主義に関するこの著作は「この対象になお関心をもつ数少なくなっている人々にはたぶん有益だろう」と最後に記した。
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 3以降へとつづく。

1894/不破哲三「現代トロツキズム批判」(1959年)。

 こういう類を探し出せば、キリがないだろう。
 不破哲三は1959年、「ソ連」についてどう書いていたか、どういうイメージを持っていたか。
 不破哲三「現代トロツキズム批判」上田耕一郎=不破哲三・マルクス主義と現代イデオロギー/上(大月書店、1963年)のp.214。
 最初の掲載は1959年6月号の『前衛』。不破、29歳の年。
 **
 「トロツキーの『世界革命』理論の土台石を形づく」るのは、経済後進国ロシアで「完全な社会主義社会を建設することは不可能」だとする「理論」だ。
 「この一国社会主義批判は、もしそれが誤りだとなったなら、…トロツキズムの全体が一挙に崩壊してしまうほどの比重をしめていた。/
 だが、…十月革命以来四〇年の世界の発展は、トロツキズムのこの最大の支柱を、打ち破りがたい歴史的事実の力でうちくだいた。/
 すなわち、世界革命の不均衡な発展が主要な先進資本主義国をまだ資本主義体制にとどめているあいだに、ソ連は社会主義社会の建設を完了し、社会主義は資本主義的包囲を打ち破って世界体制となり、…共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始しているのである」。
 フルシチョフが述べたように、「一国における社会主義の建設と、その完全かつ最終的な勝利にかんする問題は、社会発展の世界史的行程によって解決された」。
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 スターリン死亡が1953年、スターリン批判秘密報告は1956年で、このときソ連はフルシチョフの時代だった。日本共産党は1961年党大会の前。
 上で不破哲三は、「ソ連は社会主義社会の建設を完了し」、「共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始している」と書いた。
 この歴史的事実によって、「一国社会主義」論の正しさとトロツキーの「世界革命」論の誤りが実証された、と言っているわけだ。
 第一に、このような「一国」か「世界」という対立・対比はスターリンがトロツキーらに政治的に勝利するために意図的に捏造した論争点で、この論点を極大化するのは政治的だ。理論・政策について、スターリンはトロツキーのそれらを多分に「利用」・「継承」している。
 このようなスターリンとトロツキーの見事な「相対化」は、L・コワコフスキにもS・フィツパトリクにも見られて、興味深い。
 不破哲三は、スターリンと同じ立場に立って、ソヴィエト・マルクス主義の経緯を理解したつもりでいたわけだ。この人は戦後の若い頃に、<スターリン・ソ連共産党史/小教程>を一生懸命読んで「憶えた」にちがいない。
 第二に、ソ連は社会主義国ではなかった、レーニンによって正しく歩み始めたのをスターリンがなし崩しにした、と言うどころか、1959年にはソ連での「社会主義建設は完了」したと(スターリンと同じく)明言していた。
 何とでも言えるものだ。1994年党大会で綱領改正の報告をしたとき、不破哲三は、かつて自分が書いたことなど(他にも多数あって?)忘れていたに違いない。いや、かすかに記憶に残っていたとしても、過去は過去、今は今で、どうでもよいことなのだ。
 とりあえず今を前進し、とりあえず今を切り抜け、自分が日本共産党の頂点にい続けることが可能であるならば。
 ソ連の「社会主義国」性につき、1994年の時点で不破哲三が反省らしき言辞を吐いたのは、秋月瑛二の知るかぎりでは、我々にも<ソ連の見方につき不十分さがあった>、というひとことだけだ。
 <何とでも言う>ことができる。
 かつてレーニンを擁護しつつスターリニズムを批判していた「トロツキスト」を批判していた日本共産党だが、今や(1994年党大会以降)「スターリニスト」も罵倒するに至った。かと言って、トロツキー批判は間違っていたと自己批判するわけでは、勿論ない。
 基本的・根本的なところで、日本共産党は「自己欺瞞」を今後も、し続ける。

1890/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.109-p.113、2004年合冊版p.874-p.877。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容②。
(10)1924年半ば、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフの三人組の支配者たちは、トロツキーと深刻な闘争を繰り広げていた。その頃、第五回大会が開かれ、全ての構成諸党の「ボルシェヴィキ化」を求める決議を採択した。
 これが意味するのは理論上は、ロシアの党の方法と様式を採用すべきだ、ということだ。だが実際には、全ての問題に関してロシアの党の権威を承認すべきだ、というととだった。
 この大会自体が、「ボルシェヴィキ化」がすでに十分に進んでいることを示した。スターリンとその仲間たちの求めによって、全ての諸国の共産党が満場一致で、トロツキーを非難した。
 翌年のドイツ共産党の大会で、何をボルシェヴィキ化が意味するかに関する実際的な説明が示された。スターリンの主要な取り巻きの一人であるコミンテルン・ソヴェト代表者Manuisky が中央委員会の構成に関する規約を定めようと試みたときに。
 ドイツ共産党の代議員たちがこれに従うのを拒否したとき、執行委員会議長のジノヴィエフは彼らをモスクワへと召喚し、Ruth Fischer とArkady Maslow という「左翼」指導者たちを排除するよう命じた。これらの人物は、ボルシェヴィキ<に対して向かいあった>ある程度の自立性をもつ外観は維持しようとしていたのだった。//
 (11)第五回大会の別の決議は、ドイツの彼らの役割はブルジョアジーと共謀して労働者階級の中に民主主義と平和主義の幻想を染みこませることにあると述べて、社会民主主義者だと性質づけた。
 資本主義が衰亡するにつれて、社会民主主義は限りなくファシズムに接近する。この二つは、実際には、資本主義者の手のうちの単一の武器の両面だ。
 これらは、数年後に、コミンテルンの政策の原理的な指針となった。//
 (12)第五回と第六回のコミンテルン大会の間に四年が過ぎた。スターリンはおそらく、トロツキーに対する、またジノヴィエフとカーメネフ、およびこれらの仲間たち、に対する最終的な勝利を達成するまでは大会を招集するつもりがなかった。
 コミンテルンはその間に、「社会ファシズム」に関する教理にもかかわらず、アングロ=ロシア委員会をもつ1925年に形成されるに至ったイギリス労働組合に、世界労働組合運動の統合を促進するよう勧めていた。
 しかし、これは短期間で終わり、成功しなかった。
 1926-27年、コミンテルンは中国で重大な後退をこうむった。中国では、モスクワの指令にもとづいて小さな共産党が、中国を統一して近代化し、西側諸国による支配から自由になろうとする革命的な蒋介石を支援していた。
 スターリンの意見では、これはブルジョア的民族運動であり、その行方はプロレタリアート独裁へと一気に進むものではなかった。 
 ソヴェト同盟は武器を与え、軍事、政治の顧問団を送って助け、1926年春に蒋介石は、コミンテルンを「同調する」(sympathizing)党だとすら認めた。
 しかしながら、蒋介石は政府を形成したときに共産党員を排除し共産党には一部の権力も与えなかった。また、1927年4月の上海での中国共産党の蜂起を、多数の逮捕と処刑でもって鎮圧した。
 蒋介石はまずは打撃を加えて「同盟者」の機先を制した、と遅まきながら悟ったスターリンは、広東での暴動を命じて状況から脱しようと試みた。
 この広東暴動は同年12月に起きたが、新しい大虐殺でもって鎮静された。
 これらの失態について、トロツキーはスターリンを非難した。蒋介石の指導性を認めるのではなく、中国共産党は最初からソヴェト共和国樹立を狙うべきだったのだ、と。-トロツキーは、中国共産党はいかにすれば当時のその勢力の状態で蒋介石に勝つことができたのかを説明しなかったけれども。
 しかしながら、コミンテルンは中国共産党を「誤った政策方針」を追求したと非難した。そして、陳独秀〔中国共産党の初代総書記〕は批判され、のちに追放された。//
 (13)1928年8月の第六回大会は、社会主義者たちとの協働の試みを最終的にやめさせた。いずれにせよ、下らなくて、かつ成功しない、として。
 この大会は、世界の社会民主主義とその支配下にある労働組合は資本主義の主柱であり、全ての共産党は「社会ファシストたち」との闘いに全力を集中することを命じられる、と宣言した。
 また、資本主義の一時的な安定は今や終わった、新しい革命の時代が始まっている、と宣告した。
 多様な諸国の各共産党は、これらに倣って「右派」と「宥和派」を党から追放した。そして、新しい粛清によって、ドイツ、スペイン、アメリカ合衆国その他の諸国の指導者たちの中に、多数の犠牲者が生まれた。//
 (14)力強い政治的勢力の代表だったドイツ共産党が社会主義者を攻撃したことは、ヒトラーが権力を奪取した大きな原因だった。
 ドイツ共産党は、ナチズムは一過的な事象であり得るにすぎない、大衆が過激になることは共産主義への途を掃き清めてくれるだろう、と主張した。
 ヒトラーが政権に就いた後ですら、ドイツ共産党は、一年全部ほどの間、社会主義者を主要な敵だと見なした。
 ドイツ共産党が見方を変えたときまでには、この党はすでに破壊され、無力になっていた。//
 (15)1929年の末までに、ブハーリン(1926年にジノヴィエフを継いで執行委員会議長)の脱落の後には、スターリンは疑いなくボルシェヴィキ党の所有者であり、かつそれを通じて、国際共産主義の所有者だった。
 コミンテルンは独自の意義を全て失い、クレムリンから他諸党に対する指令の連絡管にすぎなくなった。
 コミンテルンの部員はスターリンに忠実な者たちだけで占められ、ソヴィエトの警察に統制された。
 彼らの仕事の中には、ソヴィエト同盟のための諜報員(intelligence agents)を新規に見つけることも含まれていた。
 粛清が繰り返されたあとの全ての諸党は、抗弁することなくモスクワからの変転する指令を受け入れた。その大部分は、ソヴィエトの外交部局が命じたものだった。
 スターリンは諸党に気前よく財政的援助をし、そうして諸党の彼への依存関係はますます増大した。
 コミンテルンは1930年代の半ばまでにたんなる外形だけになっており、外国諸党の服従を維持するという目的のためにすら、もう必要がなかったほどだ。//
 (16)第七回、そして最後のコミンテルン大会はモスクワで1935年7月-8月に開かれ、その後の一年またはそれ以上の期間の予兆となった、ファシズムに対する「人民戦線」という新しい政策方針を宣言した。
 それまで「右翼日和見主義」だと非難されてきたものが、今や公式の方針になった。
 全ての民主主義諸勢力、リベラル派はもちろん必要であれば保守派もだが、とくに社会主義者たちは、ファシストに対抗するために共産党の指導のもとに結集すべきものとされた。
 この政策に転じたスターリンの根拠は、かりにヒトラーがロシアを攻撃した場合にフランスその他の諸国が中立の立場をとる、ということへの恐怖だったかに見える。
 ともかくも、フランスは「人民戦線」方針の主要な対象だった。ドイツでは力のない<エミグレ>集団にだけ適用できるもので、他諸国の各共産党は、事態に影響を与えるには弱体すぎた。
 フランスの人民戦線は、1936年5月の選挙で勝利した。しかし、フランス共産党は、Léon Blum〔レオン・ブルム〕政権に閣僚を出すことを拒否した。
 一般的には、この政策方針は長くは続かず、ほとんど成果を生まなかった。
 その方針は、公式には取り消されなかったけれども、スターリンがナツィ・ドイツとの<友好関係(rapprochement)>を追求すると決定したときに、死文書(dead letter)となった。
 その間に、破壊されて地下に潜っていたドイツ共産党は遅まきながら、全ドイツの統一とポーランド回廊の廃絶というヒトラーのスローガンを採用した。//
 (17)「人民戦線」戦術の真の性格は、スペイン内戦によって明確になった。
 フランコ(Franco)の反乱の数カ月のち、スターリンは、共和国防衛のために干渉することに決めた。
 国際的旅団が編成され、ソヴィエト同盟は、軍事顧問団の他に政治工作員から成る組織を派遣した。そして、この組織は、共和国勢力の中のトロツキー主義者、アナキストおよびあらゆる種類の偏向主義者たちを追放した。
 (18)国際共産主義は、今や完全に「ボルシェヴィキ化」された。そして、いかなる場合でも、非ボルシェヴィキの共産主義の形態は、意味あるものとして継続することをやめた。
 1920年代には、党から追放されたりコミンテルンの方針に抗議して脱退したりした個人や集団は、ときおりは非ソヴィエト的共産主義の運動を組織しようとした。しかし、そうした試みは何も生み出すに至らなかった。
 トロツキー主義者たちは小集団となって無為に暮らし、力もなく世界のプロレタリアートの「国際的良心」に訴えかけた。
 ボルシェヴィキ党の権威と全共産党によって受諾された組織上の諸原理の強さは、1950年代までどの反対派集団も支持または影響力をもち得ないほどのものだった。
 世界の共産主義者たちは、スターリンが定めた道筋に沿って従順に行進した。
 1943年5月のコミンテルンの解散は、ソヴィエトが善意と民主主義的意思をもつことを西側の世論に対して説得するための素振り(gesture)にすぎなかった。
 諸共産党は十分にうまく躾けられ、組織や財政についてソヴィエト同盟に依存していたので、それら諸党を基本方針内に抑え込み続けるための特別の制度はもう必要がなかった。したがって、コミンテルンの解散には、何の意味もなかった。//
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 ③へとつづく。

1889/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第3節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義
 1978年英語版 p.105-p.109、2004年合冊版p.871-p.874。
 なお、コミンテルン日本支部=日本共産党設立は、1922年。
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 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容①。
 (1)事物の自然な行程として、スターリン化は世界共産主義運動の全体に広がった。
 それが存在した最初の10年の間、第三インターナショナルは、異なる共産主義イデオロギーの諸形態の間の、議論と対立のフォーラムだった。しかし、その後、コミンテルンは自立性をすっかり失い、ソヴィエトの外交政策の道具になって、完全にスターリンの権威に従属した。
 (2)第一次世界大戦の間に社会民主主義諸党の内部に出現した多様な左翼集団や分派は、全てが純粋なレーニン主義者たちではなかった。しかし、運動に対する第二インターナショナルの指導者たちの裏切りを全てが非難することでは合意した。
 彼らはみな、改良主義を拒み、伝統的な国際主義精神を再生させようとした。
 十月革命は新しい革命的根拠地を生み出した。そして、これら左翼の者たちの多くは、世界共産主義革命が切迫していると考えた。
 1918年に、ポーランド、ドイツ、フィンランド、ラトヴィア、オーストリア、ハンガリー、ギリシャおよびオランダで共産党が結成された。
 つづく三年間に、多様な少数集団を代表する大小の革命的諸政党が、全ヨーロッパ諸国に存在するにいたった。
 多くの複雑な論議と分立にもかかわらず、こうしてレーニン主義諸原理をもつ国際的な共産主義運動が形成された。//
 (3)1919年1月、ボルシェヴィキ党は、トロツキーが草案を書いて、新しいインターナショナルの創立を呼びかける宣言書を発した。
 会合(大会)が同年3月にモスクワで開かれ、一定の共産主義諸政党および左翼の社会民主主義諸集団の代議員たちは、その計画に賛成した。
 第三インターナショナルは、正確には1920年7月-8月の第二回大会までは設立されていない。
 最初から、多様な諸政党には内部的な分立やレーニン主義の規範からの乖離があった。
 一方では、最近に分裂したばかりの社会民主主義者たちとの和解を切望する「右派」諸集団があり、他方には、妥協戦術や議会政治での連携を原則として拒否する「左派」または「党派的(セクト的、sectarian)」離脱主義者たちがいた。
 これは、レーニンが<「左翼」共産主義-小児病(Infantile Disorder)>で書いた考え方に反対するものだった。
 一年以内に、世界で、少なくともヨーロッパで、ソヴィエト共和国になるだろうとの共産主義者に一般的だった信念からすると、「左翼」の傾向は「改良主義」のそれよりもはるかに強く、明らかに多かった。//
 (4)コミンテルンの規約は、第二インターナショナルの原理的考えからの完全な離反を明確に示した。第一のそれの伝統に立ち戻るものだったけれども。
 規約は、インターナショナルは単一の党であり、各国の諸政党は分肢だ、目的は国際ソヴィエト共和国を樹立するために武力を含む全ての手段を用いることだ、ソヴィエト共和国樹立はプロレタリアート独裁の政治形態として、国家の廃棄へと向かう歴史的に約定された前奏部だ、と定めた。
 インターナショナルは、毎年(1924年以降は二年ごとに)大会を開催し、各大会の間は執行委員会が指揮するものとされた。執行委員会はその指令を無視する「支部(sections)」を除名し、規律違反を理由として集団または個人を排除することを要求することができた。
 1920年大会で採択されたテーゼは、将来の社会の適切な形態としての議会制主義を断固として拒絶する条項を含んでいた。
 議会や全ての他のブルジョア的国家制度は、それらを破壊するためにだけ利用しなければならない。そして、共産党議員団は、党に対してのみ責任をもつのであって、投票者という名前なき集団に対してではない。
 レーニンが草案を書いた植民地問題に関するテーゼは、植民地および後進諸国の共産党に対して民族的な革命運動との暫時的な同盟を形成すること、かつ同時に、共産党は独立性を保ったままでいるべきで、民族ブルジョアジーが革命運動を掌握するのを許さず、最初からソヴィエト共和国形成に向けて闘うこと、を命じた。
 共産党の指導のもとで、後進諸国は資本主義段階を通過することなくして共産主義を達成するだろう。//
 (5)大会はまた、全インターナショナルの根本教条であるソヴィエト同盟のそれを無条件に支持することを要求する宣言も発した。
 (6)もう一つの重要な文書はコミンテルンに加入した諸党が履行しなければならない、「21の条件」のリストで、これは、共産主義運動全体へとレーニン主義的組織形態を拡大するものだった。
 「条件」は、各共産党はその宣伝活動についてコミンテルンの決定に完全に服従しなければならない、と定めていた。
 共産主義的プレスは、完全に党の統制下においていなければならない。
 「支部」は改良主義的傾向と断固として闘わなければならない。そして、可能ならばいつでも、労働者諸組織から改良主義者や中央主義者を排除しなければならない。
 「支部」はまた-これがとくに強調された-、当該諸国の軍隊内部での系統的な宣伝活動を履行しなければならない。
 「支部」は、平和主義と闘い、植民地解放運動を支持し、労働者諸組織、とくに労働組合で活動し、農民の支持を得るよう奮闘しなければならない。
 議会では、共産党議員団は全てを革命的宣伝活動に従属させなければならない。
 党は、最大限に中央志向(cenralized)でなければならず、かつ鉄の紀律を遵守し、定期的に小ブルジョア的要素をもつ党員を排除(粛清、purge)しなければならない。
 党は疑うことなく、全ての現存する諸ソヴィエト共和国(existing Soviet republics)を支援しなければならない。
 各党の綱領は、インターナショナルの大会またはその執行委員会によって是認されなければならない。そして、大会または執行委員会の諸決定は全ての支部を拘束する。
 全ての党は「共産党」(Communist)と称しなければならず、加えて、当該諸国の法令が公然と活動することを許容する党は、「決定的瞬間に」行動するための秘密(clandestine)組織を設立しておかなければならない。//
 (7)こうして、軍事的分野に作用する中央志向の党は、世界共産主義運動の予め定められた様式になった。
 しかしながら、インターナショナルの創立者であるレーニンとトロツキーは、それをソヴィエト国家の政策の道具だとは想定していなかった。
 ボルシェヴィキ党自体は世界革命運動の「支部」または分肢にすぎないという考えは、最初は、全く真摯に抱かれていた。
 しかし、コミンテルンが組織されていく過程と創立の歴史的事情は、すみやかにそのような幻想を追い払った。
 ボルシェヴィキ党は最初に革命に成功した党として自然に大きな威厳をもち、レーニンの権威は揺るがないものだった。
 最初から、ロシアは執行委員会での決定的な発言権をもち、モスクワに居住する他諸党の常勤代表者たちは、徐々にソヴィエトのための活動家になった。
 ソヴィエト内部での指導権をめぐる闘争はインターナショナルに反映したのみならず、ときにはその主要な関心事になった。
 レーニン死後の権力を目指して競い合うボルシェヴィキの寡頭支配者たちのいずれも、兄弟政党の指導者たちの支持を得ようとした。そして、国際的共産主義の勝利または敗北が、今度はモスクワでの兄弟政党間の闘いに利用された。//
 (8)初期のインターナショナル諸大会は、規約に従って適時に開催された。
 第三回大会は1921年6月-7月に、第四回は1922年11月に、そして第五回は1924年6月-7月に、開かれた。
 このときまでにロシアは内戦を経過し、ネップ〔新経済政策〕の第一段階に入っていた。そして、レーニンが死んだ。
 レーニンの訓示と合致して、インターナショナルは最初から、植民地および発展途上諸国での革命的煽動活動のために忙しく活動した。
 インド共産党のNath Roy は、アジアでの革命が世界共産主義の主要な目標であるべきだ、と論じた。資本主義の安定は植民地化された地域からの利潤に依存している、人類の将来を決定するのはヨーロッパではなくアジアだ、と。
 しかしながら、インターナショナルの多数派は、ヨーロッパこそがなおも主要な焦点であるべきだと考えた。
 1920年のワルシャワ〔ポーランド〕を前にしてのソヴィエト軍の敗北によって、すみやかな革命の期待は減ったが、希望が完全に消え失せたわけではなかった。
 しかしながら、ドイツでの革命の企ては、1921年3月に大失敗で終わった。そして、その年6月の第三回インターナショナル大会の諸決議は、世界ソヴェト共和国の見通しに関して、以前よりも悲観的だった。
 レーニンとトロツキーはドイツでの蜂起を非難し、例のごとく大会も、同様に批判した。
 ドイツ共産党指導者のPaul Levi は蜂起に反対しており、それが原因で大会が始まる直前に党から除名されていた。しかし、名誉回復することはなかった。彼はあらためて非難され、その除名は正当なものと見なされた。
 新しい「レーニン主義」スタイルが、明らかに全面的に作動していた。//
 (9)世界革命が遅滞している間、コミンテルン指導者たちは、「左翼」少数派の強い反対に対抗して、社会主義者たちと協力する「統一戦線」方式を決定した。
 1922年の第四回大会を前にして論議が始まった。しかし、何にもならなかった。社会主義者たちは十分な理由でもって、「統一戦線」は自分たちを破壊することを狙った策略だと疑ったのだ。
 1923年10月、ドイツで再び蜂起が発生し、失敗した。
 このとき、ドイツの新しい党指導者のHeinrich Brandler は、コミンテルンとボルシェヴィキ党が完全に作成して主導した計画の生け贄(scapegoat)になった。
 1924年、トロツキーは、ドイツでの権力掌握による革命的状況を利用することに失敗したとして、そのときジノヴィエフが指揮していたコミンテルンの責任を追及した。//
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 ②へとつづく。

1886/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.94-p.101、2004年合冊版p.863-p.868。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)②。
 (7)<小教程>は、レーニン・スターリン崇拝と結びついたボルシェヴィキの神話の全てのパターンを確立したのみならず、儀式や式典の詳細をも定めた。
 これが発行されたときから、この書物が扱う主題のどの部分にではあれ接触する作家、歴史家および宣伝家たちは、経典化した全ての定式に従い、全ての重要な語句を反復するように強いられた。
 <小教程>は、歴史を捏造した書物であるのみならず、一つの強力な社会的装置だった。-マインド・コントロールをするための党の最も重要な手段、批判的思考および自分たちの過去に関する社会的記憶のいずれをも破壊する道具、の一つだった。//
 (8)この書物は、こうした観点からは、スターリンが生んだ全体主義国家のまさに一部だ。
 システムを完成させて市民社会を無きものにするためには、国家が統制しないで何らかの脅威を形成する可能性のある、生活の全形態を根絶する必要があった。
 また、自立した思考と記憶を破壊するための道具を考案する必要もあった。-きわめて困難だが、重要な課題だった。
 全体主義的システムは、恒常的に歴史を書き換えることなくして、そして過去の事件、人々や思想を排除してそれらの代わりに偽りのもので補填することなくしては、生き延びていくことができない。
 ソヴィエト・イデオロギーの趣旨からすると、粛清の犠牲となった特定の指導者がかつては党に対する本当の奉仕者だったがのちに栄誉を失った、と述べることはおよそ考えられない。最終的に裏切り者だと宣告された者は全て、最初から裏切り者でなければならなかった。
 裏切り者との烙印を捺されることなくたんに殺戮された者たちは名無し人(unpersons)となり、二度と彼らについて語られることはなかった。
 ソヴィエトの読者たちは、まだ販売されているが編集者や翻訳者の氏名が注意深く抹消された多数の版この書物を見るのに慣れてしまった。
 しかしながら、かりに執筆者自身が裏切り者であれば、この書物は完全に流通しなくなって消失し、数部だけが図書館の「禁書」部分に残されただろう。
 この書物の内容が申し分なくスターリニストのそれだったとかりにしてすら、同じだった。すなわち、全ての呪術思考でのように、いかなる態様であっても邪悪な精神と結びついている対象は永遠に堕落したままなのであり、記憶から除去され、抹殺されなければならなかった。
 ソヴィエト国民は、式典による呪詛に包含するために、<小教程>が言及している数少ない裏切り者の存在を思い出すことが許された。しかし、悪魔の仲間の残り者たちは忘れ去られることが想定されており、かつどの国民も、あえて彼らの名前を語ろうとはしなかった。
 古い新聞や雑誌は、裏切り者の写真や彼らが書いた論文が掲載されていると分かると、一夜にして不浄なものになった。
 過去だけが継続的に修正されたのではなく、-スターリニズムの重要な特質だが-一方ではそのことおよび修正がなされる全く単純な方法に気づいており、他方ではそれに関しては悲惨な処罰を受けるので何も語らない、のいずれもが、国民の全てについて想定されていた。
 ソヴィエト同盟には、この種の偽りの秘密(pseudo-secret)が他にも多数存在した。すなわち、国民大衆はそれに関して知っても決して言及しようとはしない諸事項が。
 労働強制収容所については、新聞では決して言及されなかった。しかし、市民が収容所に関して知っておかなければならないのは、不文の法だった。そのような事物を何とかしてでも秘密にし続けることはできない、という理由のみによるのではない。すなわち、そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつも、ソヴィエトの生活にある一定の事実に気づいていることを、政府は人々に望んでいる、という理由によってだ。
 システムの目的は、人々に二重(dual)の意識を作り出すことだった。
公衆の会合で、あるいは私的な会話ですら、市民たちは、儀礼的な様式で自分たち自身、世界およびソヴィエト同盟に関する醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ、同時に、十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた。テロルに遭っているからのみではなく、市民たちが党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって-ウソだと知りながら-そのウソについて党と国家の共犯者運動の共犯者になったからだ。
 体制側の意図は、提示される馬鹿々々しさを文字どおりに信じるべきだ、というのではなかった。そうしたり現実を完全に忘れるにはきわめて繊細(naïve)な問題であれば、彼らの良心と<向かい合う>愚かな状態になり、共産主義イデオロギーをを本来的に妥当なものと受け入れる傾向になるだろう。
  しかしながら、完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になるだろう。
 (スターリンは、レーニンのように、彼自身はマルクス主義に何も「付け加えて」おらず、ただ発展させただけだ、と注意深く強調した。)
 党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する。一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている。
 市民はかくして、「信じることなくして信じる」ことをしなければならなかった。そして、党が党員たちの中に、また可能なかぎりで全民衆の中に、作り出して維持しようとしているのは、まさにこのような心理(mind)の状態だった。
 生活必需品を欠く半ば飢えている人々は、集会に参加し、いかに富裕であるかについて政府のウソを繰り返して言った。そして考え難いことに、その人々は自分たちが言っていることを半分は信じていた。
 彼らはみな、何と言うのが「正しい」のか、つまり何と言うことが彼らに要求されているかを知っていた。そして、奇妙なことだが、彼らは真実と「正しさ」とを混同していた。
 真実は党が問題にすることだ、と彼らは知ってた。そのゆえに、ウソが経験上の単純な事実と矛盾しているとしても、ウソが真実になった。
 このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった。//
 (9)<小教程>は、虚偽の歴史と二重思考の完全な手引き書だった。
 それがもつ虚偽と隠蔽はあまりに明白すぎて、問題のある事象を目撃していた読者たちが看過したほどのものだった。最も若い党員たち以外の全てが、トロツキーとは誰か、ロシアの集団化はいかにして生じたかを知っていた。しかし、彼らは、公式の見解をオウムのごとく繰り返すことを余儀なくされて、新しい過去の共作者になり、党が作った真実の信奉者になった。
 かりに誰かが明白な経験的事実にもとづいてこの真実を攻撃したとすれば、忠誠者たちの憤激は完璧に嘘偽りのないものだった。
 スターリニズムはこうして、実際に「新しいソヴィエト人間」を生み出した。
 すなわち、イデオロギー上の統合失調症患者、自分が言ったことを信じるウソつき、知的な自傷行為を絶えずかつ自発的に行うことのできる人間。//
 (10)すでに述べたように、<小教程>は弁証法的および歴史的唯物論の新しい提示を含んでいた。-全世代の者にとっての、完全なマルクス主義教理書。
 スターリンのこの作業は、例えばブハーリンの手引き書にも見られ得る簡潔なマルクス主義の説明に、何かを付け加えるものでは実際にはなかった。しかし、全てに番号を振り、体系的に説明する、という長所があった。その書物の他部分と同じく、マルクス主義の提示(exposé)は説教をする目的をもち、理解し記憶するのが容易だった。//
 (11)弁証法的唯物論、マルクス主義哲学は二つの要素、すなわち世界の唯物論的見方および弁証法的方法、から成る、から文節は始まる。
 後者は四つの原理的特質をもつ法則に区別される。
 第一に、全ての現象は相互に連関し合っており、全世界は全体として考究されなければならない。
 第二に、自然にある全ての事物は変化、運動および発展の状態にある。
 第三に、現実の全ての分野で、変化は量的蓄積から生じる。
 第四に、「統合と反対物の闘い」の法則は、全ての自然現象は内部矛盾を具現化したもので、発展の「内容」はその諸矛盾の対立だ、というものだ。
 全ての現象に積極的および消極的側面が、過去と未来があり、闘いは新しいものと古いものとの対立の形態をとる。//
 (12)気づかれるだろうが、この説明は、レーニンが<哲学草稿>で述べたような、エンゲルスの「否定の否定」を含んでいない。
 これを省略している理由は、説明されていない。しかし、いずれにせよ、弁証法はこののちは四つの法則から構成されるのであり、それ以上からではない。
 弁証法の反対物は「形而上学」だ。
 形而上学者はブルジョア哲学者や学者で、当該の諸法則のうちの一つかそれ以上を否定する。そうして彼らは、現象を分離して、つまり相互関係においてではなく、判断することを要求し、何ものも発展しないと主張する。彼らは、質的な変化が量的変化から生じることを理解せず、内部矛盾という考え方を拒否する。//
 (13)自然の唯物論的解釈は、三つの原理を含む。
 第一に、世界はその性質上物質的で、全ての現象は動いている事物の形態だ。
 第二に、事物または存在は我々の精神(mind)の外側に自立して存在する「客観的な現実」だ。
 第三に、世界の全てのものは、知り得る(=可知、knowable)。//
 (14)歴史的唯物論は、弁証法的唯物論の論理的帰結だとして提示される。これを支える見解は、エンゲルス、プレハノフおよびブハーリンのいくつかの叙述に見出すことができる。
 「物質的世界が一次的で、精神は二次的なものである」ため、「社会の物質的生活」、つまり生産と生産諸関係も一次的で、「客観的な現実」だ。一方、社会の精神的(spritual)生活はそれの二次的「反射」だ。
 こうした推論の論理的根拠は、説明されていない。
 スターリンはその際にマルクスの諸定式を引用する。土台と上部構造、階級と階級闘争、イデオロギー(および上部構造の他の全諸形態)の生産諸関係への依存性、社会的変化の理由を地勢や人口動態に求めることの誤り、歴史は一次的には技術発展に依存すること、に関するマルクスの諸定式だ。
 そして、五つの主要な社会経済体制に関する説明がつづく。すなわち、原始共産制、奴隷所有制、封建制、資本主義、社会主義。
 これらが次々と発生する順序は歴史的に不可避のものだ、と叙述される。
 マルクスの言う「アジア的生産様式」に関しては、何も語られていない。
 考えられるその理由は、別の箇所で論述した(第一巻第一四章、pp.350-1)。//
 (15)社会の五つの類型の列挙とその世界各国への適用は、ソヴィエトの歴史研究者に大きな問題を与えた。
 そのような現象をかつて聞いたことがない人々にとって、奴隷社会や封建社会の存在を識別するのは容易なことではなかった。
 さらに、資本主義がブルジョア革命によって生まれ、社会主義は社会主義革命によって生まれたので、従前の移行も同様の方法で発生した、と想定するのは当然だった。
 スターリンは実際、封建制は奴隷所有制から奴隷革命(slave revolution)の結果として出現した、と書いた(または「証明した」。ソヴィエト哲学では、マルクス=レーニン主義の古典に関係する場合にはこれらの二つの言葉は同じことを意味した)。
 スターリンは、実際に1933年2月19日の演説で、同じ点を指摘した。すなわち、奴隷所有制は奴隷革命によって打倒された。その結果として、封建領主たちがかつての搾取者の地位を奪った。
 これは歴史研究者たちに、奴隷所有制から封建制への移行の全ての場合について「奴隷革命」の存在を識別しなければならないという問題を追加した。//
 (16)スターリンの作業はイデオロギストたちの、マルクス主義理論の至高の達成物で哲学史を画するものだ、との大合唱によって歓迎された。
 つづく15年間、ソヴィエト哲学は、この至高の功績の主題に関してはほとんど全く変わりがなかった。
 全ての哲学の論考や参考書は、義務のごとく弁証法の四つの「標識」と唯物論の三つの原理を列挙した。
 哲学者たちには、異なる現象は相互に関連していること(スターリンの第一法則)、あるいは事物は変化すること(第二法則)等々を示す例を見つける(各法則を証明する)こと以外にすることがなくなった。
 こうして、哲学は、最高指導者に対して絶えざる阿諛追従をする媒体の地位へと身を落とした。
誰もが、精確に同じ文体で執筆した。彼らの仕事の形式や内容でもって誰がしているかを区別することはできなかった。
 自立して思考しようとする試みはなく、眠気が生じる決まり文句が際限なく繰り返された。自立した思考は、いかに臆病で媚びたものであっても、その著者を直接的な攻撃の対象にさせただろう。
 哲学に関して自分自身の何かを語ることは、スターリンは重要な何かを省略したと追及していることをすでに意味しただろう。
 自分の様式で執筆することは、スターリンよりもうまく何かを表現することができると示唆することであって、危険な図々しさを示すことだった。
 こうして、ソヴィエトの哲学上の文献は、<小教程>第四章第二節の内容を薄めて再生産する無駄紙の山で成り立つようになった。
これと比較すれば、「弁証法論者」と「機械主義者」のかつての論争は、大胆かつ生産的な、そして自立した思考の一つの例だった。
 哲学史は、ほとんど忘れられた科目になった。
 1930年代には、哲学の古典の翻訳書がなおいくつか出版されていた。しかし、それらの著者は良くも悪くも「唯物論者」だと区分けされるものか、宗教に反対する者だった。ソヴィエトの読者はときにはHolbach やVoltaire の反聖職者本を、あるいは幸運であれば、Bacon やSpinozaの何かを、見たかもしれなかった。
 ヘーゲルの書物も、彼は「弁証法」的執筆者の聖人の一人だったので、まだ出版されていた。
 しかし、およそ40年の間、他の危険な観念論者は言わずもがな、プラトン(Plato)が読まれる機会は存在しなかった。
 職業的哲学者たちは、「マルクス=レーニン主義の古典」、すなわちマルクス、エンゲルス、レーニンそしてスターリンのみを引用した。もちろん、全員が揃って言及されるときにはこの年代的な順序が守られたが、引用の頻度の点でいうと、順序はまさに正反対だった。//
 (17)<小教程>の刊行が生んだイデオロギー状況は、最終的な完璧さの一つだった、と見えるかもしれなかった。
 しかし、戦後には、いっそうの改良がさらになされることになった。//
 (18)スターリンによって成文化されたマルクス主義は何らかの基本的な点でレーニン主義とは異なる、と考えてはならない。
 そのマルクス主義は単調な、初歩的な範型であって、新しい何かをほとんど含んでいなかった。
 1950年以前のスターリンの著作のいくつかに見出し得る独自的なものは、じつに、二つの例外を除いて、ほとんど何もない。。
 第一に、我々が輸入元をすでに考察した、社会主義は一国で建設することができる、ということ。
 第二に、階級闘争は社会主義の建設が前進するにつれて激しくならなければならない、ということ。
 この原理的考え方は、スターリンがソヴィエト同盟にはもはや敵対階級は存在しないと宣言した後でも、公式には有効なままだった。-もはや階級はない、だが階級闘争はかつて以上に深刻になっている。
 1933年1月12日の中央委員会幹部会でスターリンが始めて発表したもののように思われる第三の原理的考え方は、共産主義のもとで国家が「消滅する」前に、弁証法的理由によって国家はようやく最大限の力強さの頂点へと発展するにちがいない、というものだった。
 しかし、この考え方は、トロツキーが内戦の間にすでに定式化していた。
 いずれにせよ、第二および第三は、警察テロルのシステムを正当化すること以外には、意味をもたなかった。//
 (19)しかしながら、つぎのことを再び強調しておかなければならない。すなわち、スターリンのイデオロギーに関して重要なのはその内容ではなく-聖典的な形態で表明されたとしてすら-、イデオロギー上の問題について異論を挟むことのできないと誰もが判断する、至高の権威をもった、という事実だ。
 イデオロギーは、かくして、完全に制度となり、事実上は全ての知的生活がそれに従属した。
 「理論と実践の統一」は、教理、政治および警察の権威のスターリン個人への集中によって表現された。//
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 ③へとつづく。

1884/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.91-p.94、2004年合冊版p.860-p.863。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)①。
 (1)ソヴィエト同盟の文化諸分野は1930年代に厳しく統制され、自立した知的生活は、実際上は存在しなくなった。
 純文学(Belles-lettres)は徐々にだが効果的に、体制と指導者を称賛して「階級敵」の仮面を剥ぐことを唯一の目的とする、政治と虚偽宣伝の付属物になっていった。
 スターリンは1932年にGorky の家で作家グループと話しているとき、著作者たちは一般に「人間の精神(souls)に関する技術者」だと述べた。そして当然に、この追従的な言葉遣いは、公式の決まり文句になった。
 映画や演劇も、同じように見なされた。後者の方が被害は少なかったけれども。
 伝統的な戯曲の演目は、たいていは古典的ロシア劇作家である作者が「進歩的」であるか「部分的に進歩的」であると表現できる場合にのみ、上演することが許された。この中には、Gogol、Ostrovsky、Saltykov-Shchedrin、TolstoyおよびChekhov が含まれていた。そして、最悪の年代にすら、優れた上演作品はロシアの舞台で観ることができた。
 小説家、詩人および映画監督たちは、Byzantine で、スターリンの称賛を互いに競い合った。これが頂点に達したのは戦後だったが、いま我々が考察している時代にすでに高い程度に至っていた。//
 (2)しかしながら、抑圧と統制は、異なる程度で異なる知的分野に影響を与えた。
 1930年代には、科学の一定の分野で、とくに理論物理学と遺伝学で、マルクス主義を志向する大きな趨勢があった。しかし、1940年代遅くまでには頂点に達しなかった。
 しかしながら、とくにイデオロギーの観点からは微妙(sensitive)な他の分野、すなわち哲学、社会理論および歴史-とりわけ党の歴史と近現代一般の歴史-のような分野は、1930年代にたんに拘束着を身につけさせられた(straight-jacketed)ばかりではなく、スターリンの用語法で完全に成文化(codify)された。//
 (3)ソヴィエトの歴史編纂が屈服した重要な段階は、スターリンが1931年に雑誌<プロレタリア革命>に寄せた書簡によって画された。その手紙は、編集部による適切な自己批判とともに掲載されていた。
 スターリンの書簡は、1914年以前のボルシェヴィキとドイツ社会民主党の関係に関するSlutsky の論考を掲載したとして編集部を叱責した。その論考は、第二インターナショナルでの「中央主義」と日和見主義の危険性を正しく評価することができなかったとして、レーニンを批判していた。
 スターリンはまず、レーニンは何かを「正しく評価することのできなかった」、つまりレーニンはかつて謬りを冒したと示唆する「赤いリベラリズム」だと雑誌を厳しく咎めた。そのあとで彼は、のちに経典的文章となった第二インターナショナルの完全な歴史を概述した。
 スターリンの主要な関心は、非ボルシェヴィキの左翼とトロツキーにあった。
 スターリンによれば、社会主義的左翼は日和見主義との闘いである程度の貢献はしたが、重大な過ちも冒した。
 Rosa Luxenburg とParvus は、例えば党規約に関する党の論争でしばしばメンシェヴィキの側に立った。そして1905年には、「永続革命という準メンシェヴィキ的図式」を案出した。その図式はのちにトロツキーが採用し、その致命的な誤りはプロレタリアートと農民間の同盟という考えを拒否したことだった。
 トロツキー主義について言えば、それは共産主義運動の一部ではとっくになくなっており、「反革命的ブルジョアジーの先鋭的特殊部隊」になっていた。
 戦争前のレーニンはブルジョア民主主義革命が社会主義革命へと不可避的に発展することを理解していなかった、レーニンはのちにトロツキーからその考え方を拾い上げた、というのは、奇怪なウソだ。
 スターリンの書簡(英語版全集第13巻、1955年、pp.86ff.)は、ソヴィエトの歴史編纂の仕方を最終的に決定した。すなわち、レーニンはつねに正しかった(right)。ボルシェヴィキ党は、敵が組織内にしのび込んで組織を正しい道から逸らそうとして失敗したときでも、つねに無謬だった。
 社会主義運動での全ての非ボルシェヴィキの集団は、つねに裏切りの温床であり、せいぜいのところ有害な過ちの培養地だった。//
 (4)こうした判断はRosa Luxenburg の歴史的評価を封印し、決定的にトロツキーに関する処理をつけた。
 しかしながらさらに、歴史、哲学および社会科学の全ての諸問題が、最終的に解決済みのものとされた。
 これを行ったのは、匿名の委員会が編集した1938年の<ソヴィエト同盟共産党の歴史・小教程(Short Cource)>だった。スターリンは当時、党の世界観に関して是認される範型を叙述する、「弁証法的かつ歴史的唯物論」という名高い部分(第4章)だけの執筆者だと考えられた。
 しかしながら、戦後には、この書物全部がスターリンによるものだったとされ、彼の全集の一部として再発行された。そして、その死後も途切れることがなかった。
 スターリンの特徴的な文体はいくつかの場所で明確だった。とくに、多様な反抗者や偏向主義者を「白衛軍のまぬけ」、「ファシストの完璧な子分」等々と称するところで。//
 (5)<小教程>の特質は、出版史の世界での際立つ記録だ。
 ソヴィエト同盟で数百万冊が発行され、15年のあいだ、全市民を完全に拘束するイデオロギーの手引き書として用いられた。
 版の多さは、疑いなく、西側諸国では聖書のそれだけが比べものになっただろう。
 止むことなく、あらゆる場所で発行され、教えられた。
 中学校の上級クラス、高等教育の全ての課程、党での研修等々、<小教程>は何かが教育される全てのところで、ソヴィエト市民の主要な知的滋養源(pabulum)だつた。
 識字能力のある全ての者にとって、これを知らないままでいることは異様な曲芸であっただろう。
 ほとんどの者が何度も読み返すことを義務づけられ、党の宣伝者や講師たちはほとんどこれを暗記していた。//
 (6)<小教程>は、もう一つの点でも世界記録を打ち立てた。
 歴史の体裁をとる書物の中で、これだけ多くの虚偽と隠蔽(lies and suppressions)を含むものは、おそらく存在しない。
 書名が示すように、この本は最初からボルシェヴィキ党の歴史だと謳う。だが第4章も、読者を世界史の一般的諸問題へと誘引し、読者にマルクス主義哲学と社会理論の「正しい」見方を解説する。
 諸教訓(morals)が歴史的事象からあっさりと抽出され、それらがボルシェヴィキ党と世界共産主義運動の諸行動の基礎を形成したものだと提示される。
 歴史の結論は、単純だ。すなわち、レーニンおよびスターリンの素晴らしい指導のもとで、ボルシェヴィキ党は、十月革命の成功という栄冠に輝く、誤りのない政策を最初から確固として追求してきた。
 レーニンはつねに歴史の先頭にいると描かれる。そして、すぐ後に、スターリンがつづく。
 幸福にも大粛清の前に死亡した第二または第三ランクの少数の者たちは、物語の適当な箇所で簡単に言及される。
 レーニンが党を創立するのを実際には助けた指導者たちは、全く言及されないか、または札付きの裏切り者もしくは党に入り込んで妨害と陰謀とをその経歴とする破壊者だと叙述される。
 一方で、スターリンは、最初から過ちなき指導者であり、レーニンの最良の生徒であり、レーニンが最も信頼した協力者であり、最も親密な友人だった。
 レーニン自身については、彼はまだ若い間に人間性を発展させる計画を抱いており、彼の人生の一連の全ての行為はその計画を実現するための考え抜いた歩みだった、と読者が理解するように記述される。//
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 ②へとつづく。

1882/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.84-p.88、2004年合冊版p.854-p.857。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味③。
(17)第一の問題について、多くの歴史研究者たちは、大粛清の主要な目的は政治生活の潜在的な焦点である党を、何らかの事情のもとではそれ自体の、たんに支配者の手にある道具ではない生命を獲得するかもしれない力を、排除することだ、と考えた。
 Isaac Deutscher は、モスクワ裁判に関する彼の最初の(ポーランドで出版された)書物で、メンシェヴィキによるボルシェヴィキに対する復讐行為だ!との注目に値する議論を述べた。-その理由は、犠牲者はほとんどオールド・ボルシェヴィキであり、主任検察官のVyshinsky は元メンシェヴィキで、当時の主要な党宣伝者のDavid Zaslavsky はユダヤ同盟の一人だった、ということにある。
 これは、Deutscher がのちにトロツキーの人生に関する三巻本(<追放された予言者>1963年、p.306-7)で進めた説明のように空想的なものだった。すなわち、ソヴィエトの上層官僚たちは富を蓄積できなかった、または子どもたちに遺すことができなかったために、大きかったけれども彼らの特権に満足していなかった、また、トロツキーが危惧したように、彼らが社会的な所有制度を破壊しようとする危険があった、とする。
 Deutscher によれば、スターリンは、この危険を察知し、新しい特権階層が固定してシステムを破滅させることを妨げるためにテロルを用いた。
 これは、実際は、犠牲者たちはロシアに資本主義を復活させようとしていたというスターリニストたちの見方を言い換えたものだ。
 しかしながら、Deutscher はスターリンの人生に関する書物(1949年)では、多少とも歴史研究者たちに一般的な見方を採用していた。
 スターリンは、政府または党指導者のうちの全ての考えられる代替選択肢を破壊したかった。もはや積極的な反対者はいなかったが、突然に危機が発生するかもしれず、彼は党内に対抗的な権力が集まる全ての可能性を粉砕しなければならなかった。//
 (18)この説明はモスクワ裁判には合っているかもしれない。しかし、粛清の大量性の説明としては明瞭性がない。それは、代替的な党指導者になるいかなる機会もなかった、知られざる数百万の人々に影響を与えたのだ。
 スターリンは経済の失敗についての生け贄を必要としたとか、スターリンの個人的な執念深さやサディズムとかの、他の考え方に対しても、同じ異論がしばしば当てはまる。-それらはたしかに大多数の場合についての説明になるが、数百万の大殺戮についてはほとんど困難だ。//
 (19)その目的を他の手段では全く不十分にしか達成できなかったという意味で、大粛清はおぞましい的はずれだった、と言えるかもしれない。
 だがしかし、大粛清は言わば、システムの自然的論理の一部だった
 全ての顕在的または潜在的な対抗者を破壊することのみではなく、かりに僅かで些細であってもなお国家とその指導者以外の何らかの根本教条への忠誠の残滓が-とくに、指導者や党の現在の指令から自立した参照枠組みと崇拝対象としての共産主義イデオロギーへの信念の残滓が-まだ依然としてある単一の有機的組織体(organism)を全て除去してしまうこと、こそが疑問だったのだ。
 全体主義的(totalitarian)システムの目的は、国家が課さず、国家が厳密に統制することのない共同生活の全ての形態を破壊することだった。そのようにして、個々人が他者から引き離され、国家の手中にあるたんなる道具になる、ということだった。
 市民は国家に帰属し、国家のイデオロギーに対してすら、忠誠心を抱いてはならなかった。
 このことは逆説的であるように見える。しかし、この類型のシステムを内部から見知っている全ての者にとって、驚くべきことではなかった。  
 支配党に対する全ての形態の反抗、全ての「偏向主義」と「修正主義」、分派、批判、抵抗-こうした類の全ては、党が防御者であるイデオロギーに訴えかけてきた。
 その結果として、イデオロギーは、それに自立的に訴えかける資格を以上のような者たちは持たないということをを明確にするために、修正された(revised)。-ちょうど、中世には無資格の人々は聖典に関して論評することが許されず、聖書自体がつねに<論述の神(liber haereticorum)>だったのと全く同様に。
 党は本質的にはイデオロギー的組織体だった。言わば、党員たる者は共通する忠誠心でもって連結され、諸価値を分かち持った。
 しかし、諸イデオロギーが諸装置に変わるときにはつねに生じるように、その忠誠心は、教義の「本当の」変更はないと主張されつつも、全ての政治的動きを正当化するためには曖昧で不明瞭なものでなければならかった。
 不可避的に、真摯に忠誠心を理解する者たちは自分でそれを解釈することを欲し、あれこれの政治的な歩みがマルクス=レーニン主義(Marxism-Lenumismatic)に関するスターリンの見方と合致しているか否かを考えようとした。
 しかし、そのことは、たとえスターリンに対する忠誠を誓ったとしても、彼らを政治的危機と政府に対する反抗へと追い込んだ。なぜなら、彼らはつねに今日のスターリンに反抗して昨日のスターリンに依拠しているのかもしれず、指導者自身に反対して指導者の言葉を引用しているかもしれなかったからだ。
 ゆえに、粛清が企図したのは、党内部になお存在しているイデオロギー上の連結を破壊し、上位者からの最新の命令に対する以外にはいかなるイデオロギーや忠誠心も持たないことを党員たちに確約させること、そして、社会の残余者たちのように無力で統合されていない大衆へとを党員たちを貶めること、だつた。
 これは、リベラル諸政党や社会主義諸政党、独立したプレスおよび文化的諸組織、宗教、哲学、芸術、そして最後に党内部の分派の廃絶(liquidation)を始めたのと同じ論理を継続させたものだった。
 支配者に対する忠誠心以外に何らかのイデオロギー上の連環がある場合にはつねに、現実には存在していないとしても、分派主義(fractionalism)が生まれる可能性があった。
 粛清の目的はこの可能性を除去することであり、その目的に関して、粛清は成功した。
 しかし、1930年代の大虐殺(hecatomb)を必要とした原理的考え方はなおも力を持っており、まだ決して放棄されていない。
 そのようなものとしてのマルクス主義イデオロギーに対する忠誠は、今なお犯罪であり、あらゆる種類の逸脱の源泉だ。//
 (20)そうであっても、ソヴィエトの民衆は、そして党ですらも、ホロコーストに抵抗しなかったという事実は、いずれにせよあの規模のごとくには粛清は必要でなかったということを示唆しているように見える。
 党はすでに(マルクスがフランスの農民について言った)「ジャガ芋袋」の理想的状態になるほど閉鎖的で、独立した思考の中心が生まれることは望まれず、かつそれをする能力もなかった、と思われていただろう。
 一方で、粛清がなかりせば、例えばドイツとの戦争の最も危険なときのような危機の場合にそうならなかったかどうかは、分からない。//
 (21)このことは、我々につぎの第二の疑問を生じさせる。いかにして、ソヴィエト社会は抵抗することが全くできなかったのか?
 答えは、党は、つまり指導者の外側は、装置から独立したいかなる態様でも自分たち自身を組織することがすでにできなかった、ということのように見える。
 残りの国民大衆と同じく、党は個人の離ればなれの集合体へと変形されていた。
 抑圧の文脈では、生活の全ての他の分野のように、一方での全能の国家が他方での孤立した市民に対して向かいあっていた。 
 個人の麻痺状態は、完全だった。
 そして同時に、党が最初から獲得していた原理的考え方に適合して行動することが否定された。
 党員は全員が民衆に対する大量の残虐行為に加担し、彼ら自身が無法状態の犠牲者になったとき、彼らには訴えて頼るものが何もなかった。
 彼らのうち誰も、被害者が党員でなかった間は、虚偽の裁判と処刑に反対しなかった。
 彼らは全員が積極的であれ消極であれ、「原理として」司法による殺人に間違ったところは何もない、と受け入れた。
 また、彼らは全員が、いかなるときでも、誰が階級敵なのか、富農の仲間なのか、あるいは帝国主義者の手先なのか、を党指導者が決定することができる、ということに同意していた。
 彼らが容認していたゲームの規則は彼らに向かって集中的に課されており、抵抗精神を促進したかもしれない道徳的な原理を彼らは身につけていなかった。//
 (22)戦争中に、ポランドの詩人、Aleksander Wat は、スターリンの監獄の一つでオールド・ボルシェヴィキである歴史研究者のI. M. Stelov と遭遇し、モスクワ裁判の全ての主役はたちはなぜ、最も滑稽な責任を告白したのか、と質問した。
 Stelov は単純に、こう答えた。「我々はみな、血に夢中になっていた」。//
 (23)第三の問題について言うと、我々は最初は、集団的な幻覚(hallucination)を論じているように見える。
 共産党員の大量殺戮にはそれなりの理由がスターリンにあったと想定してすら、なぜ無数の重要ではない人々を拷問によって、ウズベキスタンをイギリスに売り渡すことを謀った、Pilsudski の工作員だった、あるいはスターリンを謀殺しようと試みた、と自白させることが必要だったのか?
 しかし、この狂気においてすら、少しばかりの方法はあった。
 犠牲者たちは、肉体的に破壊されたり無害なものに変えられたりしたのみならず、道徳的にも廃人になった。
 NKVDの機関員たちは虚偽の自白書に自分たちで署名して、拷問を受けた犠牲者たちに止めを刺すか、有罪を「認めた」ことを理由に収容所へと送り込んだ、ということが考えられ得ただろう。-もちろん、全世界に対して自分たちの罪責を宣言しなければならない見せ物裁判の被告たちを除いて。
 しかし、これらは全体のごく僅かの割合にすぎなかった。
 しかしながら、実際には、警察が人々に自分たちの自白に署名することを強いた、そして、知られている限りでは、署名を偽造することはなかった。
 結果は、犠牲者たちが自分たちに冒した犯罪に対する付属物になり、偽造という一般的な運動への関与者になった、ということだった。
 ほとんど誰も、拷問によって何かを自白することを強いられ得なかった。しかし、通常は、少なくとも20世紀には、拷問は真実の情報を得るために用いられている。
 スターリン・システムでは、拷問を加える者とその犠牲者たちは両方とも完全に、情報は虚偽だということを知っていた。
 しかし、彼らは作り話に固執し、そのようにして、誰もが、普遍的な作り話が真実だという見かけを呈する、そういう非現実的な「イデオロギー上の」世界を構築するのを助けた。//
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 ④へとつづく。

1874/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節④。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.74-p.76、2004年合冊版p.847-p.848。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義④完。
 (24)1931年以降、スターリンのもとでのソヴィエト哲学の歴史は大部分が、党の布令の歴史だ。
 つぎの20年間、出世主義者、情報提供者および無学者から成る若い世代が国家の哲学生活を独占した。あるいはむしろ、哲学研究の廃絶を完成させた。
 この分野で経歴を積んだ者は、一般的に、同僚を裏切るかまたはときどきの党のスローガンを鸚鵡返しに繰り返すことで、そうした。
 彼らは通常は外国語の一つも知らず、西側の哲学に関するいかなる知識もなかった。しかし彼らは、多少ともレーニンやスターリンの著作を暗記しており、彼らの外部世界に関する知識は、主としてはそれらに由来した。//
 (25)「メンシェヴィキ化する」観念論や機械主義に対する非難は、洪水のごとき論考と博士号論文を発生させた。それらの執筆者たちは、党の布令を反復し、哲学の怠業者たちの狡猾な道筋について、憤慨を表現するのをお互いに競い合った。
 (26)議論全体で、いったい何が本当の論争点だったのか?(それがあれば適切な名前は?)
 明らかに、議論は特定の哲学上の考え方とは何ら関係がなく、むろん政治的考え方とも関係がなかった。
 「機械主義」のブハーリンの政策との連関づけあるいは「メンシェヴィキ化する」観念論のトロツキーの政策との連関づけは、最も恣意的な種類の捏造だった。すなわち、非難された哲学者たちはいかなる政治的反対派にも帰属しておらず、彼らの考え方と政治的反対派のそれとの間には論理的関係が存在しなかった。
 (追及者の論拠は、機械主義者は「質的な跳躍」を否定することで「発展の継続性を絶対化し」た、というものだ。それゆえに、ブハーリンの側ではDeborin主義者は「跳躍」を強調しすぎ、そうしてトロツキー主義者の革命的冒険主義を代表する。しかし、これは議論するに値しない薄弱な類似性を根拠にしている。)
 機械主義者はたしかに科学の哲学に<向かい合った>自立性を強調することで非難を受けたが、それは実際には、無謬の党が科学理論の正確さについて発表し、科学者に対して何が探求すべき課題であるかを指示し、その結果はいかなるものであるべきかを語る、そういう権利をもつのを拒否することを意味した。
 しかしながら、このような責任追及をDeborin主義者に向けることはできなかった。彼らは、最も純粋なタイプのレーニン主義者だったように見える。すなわち、初期のDeborinは、「象形文字」に関する自分のプレハノフ的誤りを認めて撤回しており、反射の理論と矛盾するこの教理を支持しているという理由で、機械主義者たちを攻撃していた。
 Deborin主義者たちは、正当な敬意をレーニンに払っていた。したがって、党の報道官たちは、彼らを攻撃するのに役立つ引用文を発見するのに大いに困惑した。ゆえに、攻撃はほとんど全体的に曖昧で、支離滅裂の一般論から成っていた。すなわち、Deborin主義者はレーニンを「低く評価しすぎた」、プレハノフを「過大に評価しすぎた」、弁証法を「理解していない」、「カウツキー主義」、「メンシェヴィズム」へと転落している、等。
 論争点は単純に、この段階での党があれこれの哲学上の考え方か正当だ(right)とか、Deborin主義者はその考え方とは異なる見解を表明した、ということではなかった。
 係争点は、何らかの教理の実体ではなかった。すなわち、後年に採用された弁証法的唯物論の公式で経典的な範型は、事実上はDeborin のそれと区別することのできないものだった。
 責任追及が分かり易くしているように、重要なのは、「党志向性」(party-mindedness)の原理、またはむしろその適用だった。-むろん、Deborinもそれ自体は受容していたのだから。
 知的な観点からはDeborin 主義者たちの書いたものは内容の乏しいものだったが、彼らは純粋に哲学に関心があり、マルクス主義とレーニン主義の特有の原理の有効性を証明しようと最大限の努力をした。
 彼らは、哲学は社会主義建設を助けるだろう、と信じた。そしてその理由で、彼らは哲学者としての能力のかぎりで哲学を発展させた。
 しかし、スターリンのもとでの「党志向性」は、全く異なるものを意味していた。
 継続的な保障にもかかわらず、哲学にそれ自体の原理を作動させたり、政治に用いられるか適用されるかすることのできる真実を発見させたりするという思考は、まったく存在しなかった。
 党に対する哲学の奉仕は、純粋にかつ単純に、次から次に出てくる諸決定を賞賛することにあった。
 哲学は知的な過程ではなく、考えられ得るどのような形態をとっていても、国家イデオロギーを正当化し、宣伝する手段だった。
 じつにこのことは、全ての人文科学について本当のことだったが、哲学の崩落が最も悲惨だった。
 全ての哲学文化が依って立つ柱-論理と哲学の歴史-は、一掃された。すなわち、哲学は微少な技術的支援ですら得られなかった。それは、歴史科学の頽廃の程度は激しかったにもかかわらず、歴史科学にまったく適用されないやり方だった。
 哲学にとってのスターリニズムの意味は、哲学に強いられた何らかの特定の結論にあったのではなく、奴隷状態(servility)が実際にはその存在理由の全体になった、ということにある。
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 ④終わり。第3節、そして第二章が終わり。

1873/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第3節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 1978年英語版 p.66-p.70、2004年合冊版p.843-p.847。
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 第3節・哲学上の論争-デボリン対機械主義③。
 (16)「弁証法論者」は、執筆者たちはのちに非難されたとしても、国家イデオロギーの経典へと入り込み、数十年の間は拘束的なままだった基本的用語、言明、および教義をソヴィエト・マルクス主義に授けた。
 彼らの遺産の一部は、形式論理に対する攻撃だった。それは、ロシアでの論理的研究の崩壊をもたらした以上のものだった。
 弁証法論者は、論理が何と結びついているのか、あるいはその言明は何を意味するのかを分かっていなかった。
 しかしながら、彼らは、論理は「概念の内容から抽出」するので弁証法とは対立するに違いないと想像していた。なぜなら、弁証法は我々に、「具体的状態で」かつ(論理は切り離す)「相互関係において」、また(形式論理は理解できない)「動きの中で」現象を研究するように要求するのだから。
 この馬鹿々々しさの理由は、部分的には無知だった。しかし、部分的には、エンゲルスのいくつかの言明にもとづいていた。
 Deborin は1925年のレーニンに関する論考で、形式論理は世界が単相でもあり多層的でもあるということを考慮することができない、と書いた。また、同年の<弁証法的唯物論と自然科学>で、形式論理は「形而上学のシステム」の構築に奉仕するだけで、マルクス主義からは排除されている、弁証法は形式と内容は相互に浸透し合うことを教えているのだから、と宣言した。
 科学は形式論理を基礎にしては前進することができない、各科学は「事実の収集体」であるにすぎず、マルクス主義的弁証法のみがそうした諸事実を系統的な全体へと連環づけすることができる。
 物理学者たちが「這いずり回る経験論」に執着しないでヘーゲルを読めばすぐに、彼らが進歩し様々の「危機」を克服するのを弁証法が助けることを理解するだろう。
 「理論的自然科学」の創始者であるエンゲルスは、最初からずっと、ヘーゲルから弁証法を吸収した。//
 (17)Deborin は哲学が諸科学を支配すると考えために当然に、Lukács の<歴史と階級意識>によって激しく論難された。この書物は弁証法は統合へと進む過程での主体と客体の相互作用だとの理由で自然の弁証法の可能性を疑問視した。
 この主張を受けてDeborin は、Lukács は認識は「現実の実体」だと考える観念論者である正体を暴露した、と論じた。
 1924年に発行されたオーストリアの雑誌<労働者文学>の論考でDeborin は、Lukácsの誤り、およびエンゲルスに対する、ゆえにマルクスに対する、非礼な態度を非難した。
 さらには何と、Lukács はマルクス主義正統派はマルクス主義の方法に関する知識でのみ成り立っていると述べたが、しかるにその方法はマルクス主義者にとっては「内容と不可分に結びついている」、と。
 Lukács の「主体と客体の一体性」は観念論の同類で、エンゲルス、レーニンおよびプレハノフの明確な言述と矛盾している。
 主体が行う全ては客体を「反映する」ことであり、そう考えないのは「客観的な現実」を放棄することだ。//
 (18)機械主義、「這い回る経験論」および科学の自律性を攻撃し、そしてヘーゲル、「質的跳躍」および「現実の矛盾」を擁護することで、Deborin は、同好の学者たちと狂信者たちの多数から支持された。
 そのうち最も積極的だったのはG. S. Tymyansky だった。この人物はSpinoza の著作を翻訳し、論評していた(その論評はきわめて図式的だったが、啓蒙的で、事実の観点からは有用だった)。
 さらに、純粋な哲学者で哲学史研究者のI. K. Luppol。そして、V. F. Asmus, I. I. Agol、およびY. E. Sten。
 Medvedyev がスターリンに関する書物で述べるように、Sten は、1925-1928年にスターリンに哲学について授業(lesson)をし、スターリンにヘーゲル弁証法を理解させようとした。
 このグループのうちたいていは、全員ではないが、1930年代の大粛清の中で死んだ。//
 (19)しかしながら、弁証法論者は1920年代の後半には有利な位置を占め、ソヴィエトの哲学上の諸装置に対する完全な支配権を獲得した。
 1929年4月のマルクス=レーニン主義教育者会議で、Deborin は彼の哲学上の大綱を提示し、異端者に対する非難を繰り返した。
共産主義アカデミーは彼を完全に支持し、機械主義を非難する声明(decree)を発した。
 このDeborinの例に見られるように、以前に会議自体が、プロレタリアートの独裁の理論的武器としてのマルクス=レーニン主義の役割を確認し、自然科学へのマルクス主義の方法を適用することを求め、機械主義者たちを「修正主義」、「実証主義」そして「卑俗的進化主義」と非難する決議を採択していた。
 哲学上の諸問題を党の会議または党の支配に服する集会での票決によって決定するという習慣は、このときまでに十分に確立されており、驚く者は一人もいなかった。
 機械主義者たちは議論で自己防衛し、反対攻撃すらした。「観念論的弁証法」を主張し、自然に対して空想上の図式を課し、機械主義に対してのみ矛先を向け、観念論が提起する諸問題を無視し、注目を党が設定した実践的な責務から逸らすものだ、と彼らの反対者を追及することによって。
 しかしながら、こうした防衛は無益だった。機械主義者たちは分離主義者(schismatics)だというのみならず、ちょうどその頃にスターリンが攻撃していた「右翼偏向主義」を哲学の分野で代表するものだという烙印を捺された。//
 (20)Deborin主義者たちは勝利のあと、哲学教育または哲学関係著作物の出版に関係する全ての諸組織を支配した。
 しかし、彼らの栄光は長くは続かなかった。
 「弁証法論者」は、懸命に努力したにもかかわらず、哲学問題に関する党の期待を推し量らなかったようだ。
 1930年4月のモスクワでの第二回哲学会議で、Deborinとそのグループは、赤色教授研究所からの一団の若き党活動家によって攻撃された。党の精神を不十分にしか示していない、と糾弾されたのだ。
 この批判は6月に、M. B. Mitin、P. F. Yudin およびV. N. Raltsevich の論考で繰り返された。この論考は<プラウダ>に掲載され、編集部によって、つまりは党当局によって、推奨されていた。
 この新しい批判は党生活でと同様の哲学での「二つの前線での闘い」を呼びかけ、当時の哲学指導者たちは「形式主義者」で、レーニンを犠牲にしてプレハノフを高く評価し、哲学を党の目標から切り離そうとしている、と追及した。
 弁証法論者たちはこの責任について反論したが、無駄だった。
 12月に、赤色教授研究所内の党執行部は、スターリンにインタビューをした。スターリンは、Deborin主義者の考え方を表現するために「メンシェヴィキ化する観念論」という語を作り出した。
 それ以降、この言葉によるレッテル貼りは公式に採用された。そして、その執行部は、一方では機械主義者およびTimiryazev、Akselrod、Sarabianov、そしてVaryashという「しばしばメンシェヴィキ化する」修正主義者、他方ではDeborin、Karev、Sten、Luppol、Frankurtその他の観念論的修正主義者を非難する、長い決議を採択した。
 その決議は、「Deborin主義グループの理論的かつ政治的考え方全体は本質的に、非マルクス主義、非レーニン主義の方法論にもとづくメンシェヴィキ化する観念論に達しており、プロレタリアートを取り囲む敵対階級勢力の圧力を反映しているとともに、小ブルジョアのイデオロギーを表現している」、と述べた。
 このグループは、レーニンの論文「戦闘的マルクス主義の意義」の教えを「歪曲し」、「理論を実践から分離し」、そして「党哲学のレーニン主義原理」を変質させて拒絶した。
 彼らは、弁証法的唯物論の新しい段階としてのレーニン主義を理解することができず、多くの点で、機械主義を批判するふりを装いながら機械主義者と共通する根本教条に立っている。
 彼らの出版物は、プロレタリアート独裁に関する「カウツキー主義者」の誤りを含み、文化問題では右翼日和見主義者の誤りを、集団主義と個人主義に関してはBogdanov 主義者の誤りを、生産力と生産関係という概念に関してはメンシェヴィキの誤りを、階級闘争については準トロツキー主義者の誤りを、そして弁証法に関しては観念論者の誤りを含んでいる。
 Deborin主義者たちは、ヘーゲルを不当に賞賛した。世界観から方法論を、歴史的なものから論理的なものを、切り離した。そして、自然科学の問題に関するレーニンの重要性を過小評価した。
 党内部で富農の利益を擁護しようとする右翼偏向の理論的根拠であるので、この時点での主要な危険はたしかに、機械主義的修正主義だ。しかし、闘いは二つの戦線で果敢に行われなければならない。修正主義の二つの形態は、実際には一つのブロックを形成しているのだから。
 (21)共産主義アカデミーでのMitin の講義は、こうした批判の全てをさらに発展させた。彼自身はこのとき、「哲学戦線」での指導者になることを望んでいた。
 その講義は繰り返して「メンシェヴィキ化する観念論」とトロツキー主義の間の連環に言及した。すなわち、たしかに機械主義者たちはブハーリンや親富農偏向の哲学上の前面にいるので、Deborin主義者たちが正統派を装いつつトロツキー主義の左翼偏向を支持していると推論するのは当然だ、と。
 Mitin によると、二つのグループは、哲学および理論の問題ではレーニンはマルクスとエンゲルスが語ったのと同じことをたんに反復しているにすぎないという悪辣な中傷を広げていた。-まるでスターリンは、レーニンが「発展させ、深化させ、より具体的にすることで」マルクス主義理論史上の質的に新しい段階を代表していることを証明していないかのごとくに!
 偏向者たちはまた、哲学および自然科学を含む全ての科学は党の精神の中に注入されなければならないというレーニンの原理を無視している。
 Mitin は、プレハノフは多数の政治的かつ哲学的な間違いを冒している一方で、レーニンが言明したように彼の著作はマルクス主義文献の中での最良のものだという趣旨のKarev の論文を引用した。
 Mitin は述べた。このことは、Deborin主義者は「プレハノフ全体、メンシェヴィキとしてのプレハノフ」のために武器を取り上げていることを示す、と。
 Deborin主義者は、レーニンは哲学についてはプレハノフの生徒だと、あえて主張することすらする。だが実際には、レーニンはマルクスとエンゲルスの後の最も一貫した、正統なマルクス主義者だ。
 その一方でプレハノフは、弁証法を正しく理解しておらず、形式主義に落ち込み、不可知論へと傾き、Feuerbach、Chernyshevsky および形式論理の影響を受けている。
 Deborin主義者の過ちの根源は、しかしながら、「理論の実践からの分離」にある。
 彼らの機械主義者たちに対する闘いは、長年継続したけれども一人の機械主義者すら自分の誤りを認めなかった!、ということが示すように、模擬演習のようなものだ。
 実際のところ、二つのグループの間にはほとんど違いがない。メンシェヴィキ化する観念論者とメンシェヴィキ化する機械主義者はいずれも、レーニンの哲学を見下している。//
 (22)ソヴィエト哲学の粛清は、1931年1月25日の<プラウダ>で発せられた党中央委員会の布告(decree)によって完結した。この布告は<Pod znamenem Marksizma>の誤りを非難し、すでに記した批判を簡単に要約した。
 (23)Deborin、Luppolおよびその他の構成員は急いで自己批判を行い、正しい光を見るのを助けてくれたことについて党に感謝した。
 Sten、Luppol、Karev、Tymyanskyおよび他の多数の者は、1930年代の粛清の中で死んだ。
 Deborin は、<Pod znamenem Marksizma>の編集長を解任されたが(編集部は実際上完全に変わった)、生き残った。
 彼は党から除名もされず、その後の時代に申し分のないスターリン主義正統派の多くの論文を発表した。
 彼は、フルシチョフの時代まで生き延びた。そして晩年には、粛清の犠牲となった多数の生徒や同僚たちの社会復帰(・名誉回復)のために働いた。
 Asmus も戦後にまで生き残ったが(1975年死亡)、1940年代にはさらなる攻撃を受けた。
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 ④へとつづく。

1490再掲/レーニンとスターリン-R・パイプス1994年著終章6節。

 ネップやレーニン・スターリンの関係についての、R・パイプスの1994年の著の叙述を、順番を変えて、先に試訳する。 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の、p.506-8。
 
章名・章番号のない実質的には最終章又は結語「ロシア革命についての省察」の第6節だ。また、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.401-3 と内容がほぼ等しい。
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 結語〔最終章〕
 第6節・レーニン主義とスターリン主義

 ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題点は、レーニン主義とスターリン主義の関係-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。そう主張して、二人の共産主義指導者の間にいかなる接合関係があることも拒絶する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式的歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑される先行者からスターリン主義後の体制を分離するという目的に役立った。
 面白いことに、レーニンの権力掌握を不可避だったと叙述する全く同じ人々が、スターリンに至ると、その歴史哲学を捨て去る。スターリンは、歴史の逸脱だと表現するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、批判された先行者の路線のあとで歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)34年間の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 スターリンの経歴を一つ例に出しても、レーニンの死後に権力を掌握したのではなく、彼は最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかだ。
 レーニンは、党の諸装置を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠は、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日々の事務を遂行したことや、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて大量の助言を与えたことを示している。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは〔共産党の〕中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 この資格にもとづいてスターリンは、ほぼ全ての党支部や国家行政部門に執行的人員を任命するのを監督した。
 レーニンが組織的な反抗者(『分派主義』)の発生を阻止するために設定していた諸規程のおかげで、スターリンは彼が執事的位置にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上は、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、彼の人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞の99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI・S・ウンシュリフト(Unshlikht)は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに『容赦なく』処理したかを、またレーニンが資本主義世界の<人道性>をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(18)
 二人にある上記の違いは、『外部者』という概念の差違にもとづいている。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して採用したのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産主義者〔党員〕の殺戮を除き-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量の虐殺〔テロル〕も含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動方式(modus operandi)はレーニンのそれらだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的にはあるいは、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思いつくことができる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして>彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそ重要な指揮命令構造を党に与えることによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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  (18) RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
  (*) 実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたヴィャチェスラフ・モロトフは、スターリンと比べてレーニンの方が『より苛酷(harsher)』だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184。
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 結章6節終わり。

1865/L・コワコフスキ著・第三巻第二章第1節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気③。合冊版、p.828~p.831。
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 (11)Pashukanis の理論はじつにマルクスの教えに深く根ざしており、当時にルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)によって進められたマルクスの解釈と合致していた。
 他方で、Renner やカウツキーのような社会民主主義者は、法を個人間の関係を規律するための永続的な道具だと見なした。
 物象化を分析したルカチの議論によれば、法は商品交換が支配する社会での人間関係を具象化して物神崇拝的な性格のものにする形式だということは、マルクスの社会哲学から帰結する。
 社会生活が介在者のいない形態に戻るときには、人間は、抽象的な法的規則を通じて彼らの関係を管理することを強いられないだろうし、あるいはそうできすらする。
 Pashukanis が強調したように、法的な協同は、抽象的な 法的範疇へと個人を変化させる。
 従って、法は、ブルジョア社会の一側面であり、そこでは全ての個人的協同関係は具象化した形態をとり、諸個人は、非人間的な力のたんなる操り人形だ。-経済過程における交換価値のそれら、あるいは政治社会における抽象的な法的規則。
 (12)マルクス主義から同様の結論が、1920年代のもう一人の法理論家、Petr I. Stuchka によって導かれた。この人物は、法はそのようなものとして階級闘争の道具であり、ゆえに階級対立が継続する間は存在するに違いない、と主張した。
 社会主義社会では、法は敵対階級が抵抗するのを抑圧するための道具であり、階級なき社会ではそれを必要とすることはもうあり得ない。
 コミンテルンでラトヴィアを代表したStuchka は、長年の間、ソヴィエト秘密警察の幹部だった。//
 (13)党の歴史よりも政治的敏感度が低い文学やその他の分野では、国家や党指導者たちは多くの場合、体制に対する一般的な忠実性の範囲内である程度の多元主義を認めることに痛みを感じなかった。
 レーニンもトロツキーも、ブハーリンも、文学に対して拘束着(strait-jacket)を課そうとはしなかった。
 レーニンとトロツキーは古い様式のものが個人的な好みで、<アヴァン・ギャルド>文学とかプロレタリア文学(Proletkult)とかを読まなかった。
 ブハーリンは上の後者に共感を寄せたが、文学を話題にしたいくつかの記事を執筆したトロツキーは、「プロレタリアートの文化」ではなく、かつ決してそうなり得ないと、にべもなく述べた。
 トロツキーは、つぎのように論じた。プロレタリアートは、教育を受けていないために、現在ではいかなる文化も創出することができない。将来についても、社会主義社会はいかなる類の階級文化も創出しないだろう。しかし、人間の文化全体を新しいレベルにまで引き上げはするだろう。
 プロレタリアートの独裁は、輝かしい階級なき社会が始まるまでの短い過渡的な段階にすぎない。-その社会は、全ての者がアリストテレス、ゲーテ、あるいはマルクスと知的に同等になることのできる、超人たち(supermen)の社会だ。
 トロツキーの考えでは、文学様式のうちのいずれか特定のものを崇めたり、内容と関係なく創作物に対して進歩的とか反動的だとかのレッテルを貼るのは、間違いだった。
 (14)芸術や文学に様式化された型をはめたこと以降の推移は、全体主義の発展の自然な結果だった。すなわち、それは国家、党、そしてスターリンを賛美するメディアへと移行していった。
しかし、創造的なはずの知識人界、少なくともその大部分は、そのように推移するのををかなりの程度、助けた。
 多様な文学および芸術の派が競争し合っていて、体制に対する一般的な忠実性を守るという条件のもとで許容されていた間は、ほとんど誰も、好敵たちに対抗するために党の支援を依頼することなどしなかった。このことはとくに、文学界と演劇界に当てはまる。
 かくして、自分たちの考え方が独占するのを欲した文筆家等は、つぎのような毒に満ちた原理を受容し、かつ助長した。すなわち、人文や芸術のあれこれの様式を許容したり禁止したりするのは党および国家当局の権限だ、という根本的考え方を。
 ソヴィエト文化が破壊された一因は、文化界の代表者たち自身にあった。
 しかしながら、例外もあった。
 例えば、「形式主義(formalists)」派による文学批判は1920年代に盛んになり、重要な人間主義的動向として敬意が払われた。
 これは、十年間の最後には非難された。この派の若干の者たちは政治的圧力と警察による制裁に屈することを拒んだけれども、結局は沈黙を強いられなければならなかった。
 つぎのことは、記しておくに値する。このような頑強さの結果として、形式主義派は地下の動向として存在し続けた。そして、25年後のスターリン死後の部分的な緩和のときに、力強く純粋な知識人の運動だったとして、再評価された。もちろん、そうした間に、この派の指導者たちの何人かは、病気その他の理由で死んでいたのだけれども。//
 (15)1920年代は、「新しいプロレタリアート道徳」の時代でもあった。-これは計画的または自発的な多数の変化を表象する用語だったが、全てが必ずしも同一の方向にあったのではなかった。
 他方で、「ブルジョア的偏見」に対する継続的な闘いがあった。
 これは、とくにマルクス主義的というのではなく、古いロシアの革命的伝統を反映していた。
 これは例えば、家族に関する法制度の緩和に見られた。婚姻と離婚はゴム印を捺す作業となり、嫡出子と非嫡出子の差別は廃止され、堕胎に対していかなる制限も課されなくなった。
 性的自由は、革命家たちの間の決まり事だった。Alexandra Kollontay が長らく理論の問題として擁護したように、また、その時代のソヴィエトの小説で見られ得るだろうように。
 政府は、親たちの影響力を弱めて教育の国家独占を容易にすることに役立つかぎりで、このような変化に関心をもった。
 公的な宣伝活動(propaganda)によって、幼児である子どもたちについてすら、あらゆる形態の集団教育が奨励された。そして、家族の絆はしばしば、たんなるもう一つの「ブルジョア的残存物」を意味するものとされた。
 子どもたちは、彼らの両親をスパイし、両親に反対することでも知らせるように教え込まれた。そして、そのように行ったときには、褒美が与えられた。
 しかしながら、この点に関する公的な見解は、授業や軍隊のような、生活の別の側面でのように、のちには著しく変化した。
 国家が個人に対して絶対的に支配することを助けるもの以外は、革命の初期の時代に説かれた急進的で因襲打破的な考え方の中から放擲された。
 それ以来、集団教育および両親の権威を最小限度にまで減らそうという理念は支配し続けた。しかし、主導性と自立性を促進すべく立案された「進歩的な」教育方法には終わりが告げられた。
 厳格な規律が再び原則となった。この点でソヴィエトの学校がロシア帝政時代のそれと異なっていたのは、思想教化(indoctrination)の強調がきわめて増大したことだけだった。
 そのうちに、厳格な性的倫理が、好ましいものとして復活した。
 最初のスローガンはもちろん、軍隊の民主化に関係するものだった。
 トロツキーは内戦の時期に、有能な軍隊には絶対的な紀律、厳格な階層制、職業的な将校団が必要であることに十分に気づいていた。しかし、兄弟愛、平等および革命的熱情にもとづく人民の軍隊という夢は、ユートピア的なものだとすみやかに認めざるを得なかった。//
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 ④へとつづく。

1857/安倍晋三・改憲姿勢とレーニン・ロシア革命。

 安倍晋三首相・自民党総裁は「改憲」に積極的な姿勢をしばしば示しているようだ。
 しかし、彼が自民党単独の賛成で国民投票にかけることができ、本当に「改憲」できると考えているかきわめて疑わしく、<見せかけ>あるいは<そのふり>だと思われる。
 来年の参院選の結果にも左右され、そもそも自民党で文案がまとまるか否かにも不透明さが残っている。
 党の役員人事が<改憲布陣>などと報道され、論評されることもあるが、かりに人物的にそのような印象があったとしても、これまた<見せかけ>あるいは<そのふり>の可能性が高い。
 なぜそのような「ふり」をするのか。
 言うまでもない。<改憲>=<保守>、<護憲>=<左翼・革新>という根深い観念・イメージがあるからだ。
 そして、安倍晋三と同内閣・同自民党の支持者、かつ<堅い>支持者とされる日本会議等々のいわゆる<堅い保守層>からすると、「改憲」と主張しているかぎり、断固として支持しよう、支持しなければならない、と思いたくなるからだ。
 その際、現九条二項を残したままでの「自衛隊」憲法明記がどういう意味をもつのか、それによって「自衛隊」が本当に合憲なものになるのか、それに弊害はないのか、とったことを考えはしない。あるいは、理解できる者たちも、あえて口を閉ざしている。
 現九条二項の削除が本来は望ましいが、とりあえず「自衛隊」の合憲化だけでもよい、という程度のことしか多くの上記支持者たちは考えていない。
 こういう「現実的」?案を案出した者たちの責任はすこぶる重い。
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 <見せかけ>・<そのふり>で想起するのは、1917年4月・ロシア帰還前後のレーニンの主張だ。
 レーニンは、臨時政府打倒を叫び、「全ての権力をソヴィエトへ!」と主張した。
 しかし、この政治的人物は、この時点で臨時政府を打倒し、そり権力を全てソヴィエトに移すことなど不可能だと知っていたはずだ。
 もともと、臨時政府自体が<二重権力>と言われるように実質的には半分はソヴィエトによって支えられていたが、そのソヴィエトの中で、レーニン率いるボルシェヴィキ(翌年3月に正式には共産党に改称)は少数派であって、本当に「全ての権力をソヴィエトへ!」が実現されたとかりにしても、その主導権をレーニンらが掌握することはできなかった。
 レーニンの上の主張は、実現不可能を見越した上での、いわばスローガン、プロパガンダにすぎなかったのだ。何のためか? 他のソヴィエト構成諸党との<違い>を際立たせ、最も先鋭的な層の支持を獲得しておくためだ。
 さて、その後7月事件を経てケレンスキー首相による継戦努力が不首尾だったりして臨時政府・ソヴィエトに対する不信が高まり、レーニンのボルシェヴィキがソヴィエト内での一時的にせよ多数派(相対的な第一会派)を握る、という状態が生じる。
 しかし、このとき、レーニンは<「全ての権力をソヴィエトへ!」とはもう強調しない。
 この辺りは歴史研究者に分かれがあるかもしれないが、トロツキー(首都のソヴィエト執行委員会が設立した軍事委員会の委員長)は、のちのボルシェヴィキ中心政権がソヴィエト・システムの中から生まれたように(少なくとも擬制するために)努力したとされる。
 つまり、ソヴィエト全国総会-同執行委員会-新「革命政権」(1917年10月)という流れで、新政権をソヴィエトも正当化した、という「かたち」を辛うじて取るようにしたらしい。
 しかし、上もすでに「擬制」であって、レーニンは、<全ソヴィエト派>が生み出した権力、あるいは<全ソヴィエト派が権力を分有する>政権を成立させようとは全くしなかった、と推察される(しろうとの秋月だけの解釈ではない)。
 「全ての権力をソヴィエトへ!」ではなく、「全ての権力を自分たち(=レーニン・ボルシェヴィキへ)!」が本音だったわけだ。
 つまり、ソヴィエト内の各派・各党がそれぞれの勢力比に応じて内閣・閣僚を分け合うような政権を作るつもりはなかった。
 そして、じつに際どく、ソヴィエト全国大会が開催中に!新政権が発足したことにし、おそらくは事実上または結果としてソヴィエト大会に「追認」させた、または「事後報告の了解」を獲得した。あるいは、獲得した「ふり」をした。
  レーニンはもはや「全ての権力をソヴィエトへ!」というスローガンを捨てていて、それを守るつもりなどなかった。そして、既成事実の産出こそ、この人物の強い意思だった。
 たしかに「左翼エスエル(社会革命党左派)」も最初は数人だけ閣僚(=人民委員会議委員)の一部になっているが、エスエル本体の主要メンバーは入っておらず、エスエルとともにソヴィエトの有力構成派だったメンシェヴィキも加わっていない。
 この実質的一党独占政権は、半年後には正式に?一党独裁政権へと(まだ1918年夏だ!)へと変化し、形骸化していた「ソヴィエト」はさらに形骸化し、セレモニーの引き立て役になる。
 しかしながら、「ソヴィエト」による正当化という「かたち」はぎりぎり維持したかったのだろう、レーニンたちはロシア以外の諸民族・「国家」を統合した連邦国家に、「ソヴィエト」という地名でも民族でもない、本来はただの普通名詞だった言葉を冠した(強いて訳せば、<ロシア的評議会式の~>だろう)。
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 以上要するに、政治家の発言の逐一を、そのまま本気であると、その内容を本当に実現したがっており、かつ実現できると考えている、などと理解してはいけない。
 政治家は、平気でウソをつく(政治家ばかりではないが)。日本共産党もまた、目的のためならば「何とでも言う」。
 自民党を念頭におくと、政治家は、例えば選挙で当選するためには、大臣にしてもらうためには、あるいは政権を何としてでも維持するためには、平気でウソをつく。
 ウソという言葉が厳しすぎるとすれば、平気で「そのふり」をし、何らかの「見せかけ」の姿勢を示そうとする
 以上は、安倍晋三を批判するために書いたものではない。
 この人は、ずいぶんと現実的になり、政治家として「したたかに」なったものだと感心し、ある意味では敬服している。ただの<口舌の徒>にすぎないマスコミ・ジャーナリストや評論家類に比べて、人間という点ではあるいはその職責上の役割という点でははるかに上かもしれない。
 もちろん、こう書いたからといって、安倍晋三を100%支持して「盲従」しているわけではない。

1824/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑬。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第13回
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 第4章・ネップと革命の行く末。
 第2節・官僚機構の問題(The problem of bureaucracy)。
 革命家として、全てのボルシェヴィキは「官僚制」(bureaucracy)に反対だった。
 自分たちは党の指導者か軍事指令官だと幸せにも思ってきたのだが、彼らは真の革命家が新しい体制の一官僚(bereaucrat)、<chinovnik>になるのを受忍できたのだろうか?
 行政活動について議論したとき、彼らの言葉遣いは豊富な婉曲語法になった。すなわち、共産党員である行政担当者(officials)は「幹部(cadres)」で、 共産党官僚機構は「ソヴェト権力」の「装置」であり「機関」だった。
 「官僚機構」(bureaucracy)という語は、つねに侮蔑的なものだった。「官僚主義的方法」や「官僚主義的解決」は、何としてでも避けられるべきものだった。そして、革命を「官僚主義の頽廃」から守らなければならなかった。//
 しかし、こうしたことによって、ボルシェヴィキが独裁制を確立した意図は社会を支配しかつまた移行させることにあった、という事実を曖昧にすることはできなかった。
 行政機構なくしてこの目的を達成することはできなかった。彼らは最初から、社会は自主的にまたは自発的に変化を遂げることができる、という考え方を拒否していたのだから。
 かくして、疑問が出てくる。どのような行政機構が必要だったのか?
 ボルシェヴィキは、地方での基盤が解体してしまった中央政府の官僚機構(central government bureaucracy)を引き継いだ。
 彼らは、地方政府の機能を1917年に部分的に奪い取ったソヴェトを有してはいた。
 最後に残っていたのは、ボルシェヴィキ党自体だった。-革命を準備して実行するという従前の機能は、十月以降の状況には明らかに適合しなくなっていた組織だ。//
 かつての政府官僚機構は今はソヴェトの支配下にあったが、ツァーリ体制から継承した多数の行政担当者や専門家をなおも使っていた。そしてボルシェヴィキは、革命的諸政策の実施を拒否したり妨害したりする彼らの能力を怖れた。
 レーニンは1922年に、古いロシアの「被征服国民」は共産主義者という「征服者」に価値を認める過程にすでに入っている、とつぎのように書いた。。//
 『4700名の共産党員が責任ある地位に就いているモスクワについては、あの大きい政府官僚機構、あの巨大な堆積物については、「誰が誰を指揮しているのか?」と問わなければならない。
 共産党員はあの堆積物を指揮している、と本音で言われているのか否かを、私はひどく疑っている。
 本当のことを言えば、共産党員は指揮しておらず、指揮されている。<中略>
 その(かつての官僚制の)文化は悲惨でとるに足らないものだが、我々のそれよりもまだ高いレベルにある。
 現にそうであるように惨めで低くても、我々の責任ある共産党員行政担当者よりも高い。共産党員行政担当者には、行政の資質がないからだ。』(11)
 レーニンは、かつての官僚機構が共産主義の価値を破壊する危険を見ていた。しかし、共産党にはそれによって活動する以外の選択肢はないと考えていた。
 共産党員は、かつての官僚制の技術的な専門知識を必要とした。-行政上の専門知識だけではなくて、政府財政、鉄道運営、度量衡あるいは共産党員に可能であるとは思えない地理測量のような分野の特殊な知識をも。
 レーニンの考えでは、新体制が「ブルジョア」専門家を必要とすることを理解しない党員は全て、「共産主義者的傲慢」という罪を犯していた。この罪は、共産主義者は全ての問題を自分で解決できると考える無知で子どもじみた信念のことだ。
 十分な数の共産党員専門家を党が養成するには、だいぶ時間がかかるだろう。
 そのときまで、共産党員はブルジョア専門家とともに仕事をし、同時にしっかりと彼らを支配し続けることを学ばなければならなかった。//
 専門家に関するレーニンの考えは、他の党指導者たちも一般に受け入れていた。しかし、彼らは一般党員にあまり人気がなかった。
 たいていの党員は、政府の高いレベルで必要な専門技術的知識の性質や種類に関してほとんど何も知らなかった。
 しかし彼らは、旧体制からいる小役人がソヴェトで類似の仕事を何とか苦労してしているとき、あるいは主任会計士がたまたま工場施設の地方党員活動家に同意しないとき、あるいは村落の学校教師がコムソモルで面倒を起こしたり学校で教理問答書を教育する宗教信者だったときですら、地方レベルで専門知識がもつ意味を明確に理解していた。
 たいていの党員は、重要な何かをしなければならないときには党を通じてそれをするのが最善だと明白に思っていた。
 もちろん、日常の行政レベルでは、党中央の機構は巨大な政府官僚機構と競い合うことはできなかった。-党の機構は、あまりにも小さすぎたのだ。
 しかし、地方レベルでは、党委員会とソヴェトがともに最初から設立されており、状況は違っていた。
 党委員会は内戦後に主要な地方機関として出現してきており、一方でソヴェトは、かつてのゼムストヴォと似ていなくもない二次的な役割の担当者になっていた。
 党の命令系統を通じて伝達される方針の方が、大量の布令や非協力的でしばしば混乱しているソヴェトに対して中央政府から伝えられる指示文書よりも、実施される可能性が高かった。
 政府にはソヴェトの人員を採用したり解職するしたり権能がなかった。そして、より効果的な、予算による統制も及ぼすことができなかった。
 党委員会は、これと対照的に、党の上級機関からの指示に従うという党紀律に服する党員を揃えていた。
 委員会を率いる党の書記局員は、形式上は地方党機関が選出した者たちだったけれども、実際には、党中央委員会書記局が転任させたり、交替させることができた。//
 しかし、一つの問題があった。
 党組織-中央委員会書記局を頂点とする諸委員会と幹部の階層制-は、どの点から見ても明らかに、官僚機構(bureaucracy)だった。そして、官僚機構とは共産主義者が原理的に嫌うものだったのだ。
 1920年代半ばの継承者争い(後述、p.108-111)のときトロツキーは、党官僚機構を設立して自分の政治目的のために巧みにそれを操っているとして、党総書記のスターリンを非難した。
 しかしながら、この批判は党全体に対してほとんど影響を及ぼさなかったように見えた。
 その一つの理由は、党書記局員の(選出ではなく)任命は、トロツキーが主張するほどにはボルシェヴィキの伝統から離れているものだはなかった、ということだ。すなわち、地下活動をしていた1917年以前の古い時期には、委員会はつねに、ボルシェヴィキ中央から派遣された職業的革命家たちの指導に大きく依拠していた。そして、1917年に地上に出てきたときですら、委員会が自分たちの地方的な指導性を選択する民主主義的権利を主張するのではなく、ふつうは「中央から来た幹部たち」に執拗に要請した。//
 しかしながら、より一般的な観点からすれば、ほとんどの共産党員は党組織を侮蔑的な意味での官僚機構だとは考えていなかったように思える。
 彼らにとって(Max Weber にとってと同じく)、官僚機構は明確に定義された法令と先例群を適用することによって活動するもので、高い程度の専門性と職業的な専門技術や知識への敬意という特徴ももっていた。
 しかし、1920年代の党組織は顕著な程度には専門化されておらず、(治安や軍事問題は別として)職業的専門家を尊重していなかった。
 党組織の職員は「書物を見て仕事をする」ように指導されてはいなかった。すなわち、初期には、依拠することのできる党の諸指令を集めたものは存在せず、のちには、そのときどきの党の基本的政綱の精神に対応するというよりもむしろ、かつての中央委員会の指令を示す文書にすがっている書記局員は全て、「官僚主義の傾向」があると非難されそうだった。
 共産主義者が官僚機構を欲しないと言うとき、意味しているのは、革命家の命令に対応しようとしない又は対応することのできない行政機構を欲しない、ということだった。
 しかし、それと同じ理由で彼らは、革命家の命令に対応<しようとする>行政機構を大いに持ちたかった。-革命の指導者たちからの命令を進んで受け入れて、急進的な社会変革の政策を実施する意欲のある、そういう職員がいる行政機構をだ。
 そのようなことをするのは、党組織(または官僚機構)が遂行することのできる革命的な作用だった。そして、ほとんどの共産党員は本能的に、そのことを是認していた。//
 ほとんどの共産党員はまた、「プロレタリア独裁」をする機関はプロレタリアのものであるべきだと信じていた。これが意味するのは、従前の労働者が責任ある行政の仕事に就くべだ、ということだった。
 これは、マルクスがプロレタリア独裁でもって意味させたそのものではなかったかもしれない。そして、レーニンが意図したそのものでもなかったかもしれない。
 (レーニンは、1923年にこう書いた。
 労働者は、「我々のためにより良き機構を樹立したがっているけれども、その方法を知らない。
 労働者は、それを樹立することができない。
 労働者は、そのために必要な文化をまだ発展させていない。必要なのは、文化だ」。(12))
 にもかかわらず、全ての党内論議で当然の前提にされていたのは、つぎのことだった。すなわち、組織の政治的健全さ、革命的情熱および「官僚主義的頽廃」からの自由は、労働者階級出身の幹部の割合と直接に関係している、ということ。
 階級という標識は、党組織を含む全官僚機構に適用された。
 この標識は、党自体の新規加入者にも適用された。そして、将来におけるソヴィエトの行政エリートの構成に影響を与えることになる。//
 1921年、工業労働者階級は混乱状態にあり、それと体制との関係は危機に瀕していた。
 しかし、1924年までに、経済の再生によっていくぶんかは困難が落ち着き、労働者階級は回復と成長をし始めた。
 党が数十万の労働者を党員として新規に募集する運動であるレーニン募集(Lenin Levy)を発表し、プロレタリア一体性(proletarian identity)の確約を再確認したのは、その年だった。
 この決定で暗黙に示されていたのは、労働者が行政上の仕事に就くのを促進して「プロレタリア独裁」を生み出し続ける、という確約だった。//
 労働者階級出身党員の大募集から三年後の1927年までに、共産党には一般党員および幹部を含めて総じて数百万を超える党員がいた。そのうち39パーセントは職業上は当時の労働者で、56パーセントは入党したときの職業が労働者だった。(13)
 この二つの割合の違いは、行政上のまたはホワイトカラーの仕事へと永久に移行した労働者共産党員のおおよその数を示している。
 ソヴェト権力になってから最初の10年間に入党した労働者がその後に行政的職務へと昇進する可能性は、(1927年より後の昇進を除いても)少なくとも50対50だった。//
 労働者階級の党員にとって、党組織は、政府官僚機構以上に人気のある目的地だった。その理由の一つは、労働者は党という環境の方が安心感を抱いたからであり、また一つは、教育の不足が、まあ言えば政府の財務人民委員部の課長に比べて、地方の党書記局ではさほど問題にならなかったからだ。
 1927年に、党組織で責任ある地位に就く党員の49パーセントは、従前の労働者だった。これに対して、政府やソヴェトの中の党員の対応する数字は、35パーセントだった。
 こうした乖離は、行政階層の最上位のレベルではもっと顕著だった。
 上位の政府の職務に就く党員にはほとんど労働者階級出身の者はおらず、一方で、地域の党書記たち(<oblast'>、<guberniya>や<krai>といった組織の長)のほとんど半分はかつての労働者だった。(14)
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 (11) レーニン<全集>33巻p.288。
 (12) 「より少なく。しかし、より良く」(1923年3月2日), レーニン・<全集>33巻p. 288.
 (13) I. N. Yudin, <Sotsial'naya baza rosta KPSS>(Moscow, 1973), p.128.
  (14) <Kommunisty v sostave apparata gosuchrezdenii i obshchestvennykh organizatsii. Itogi vsesoyuznoi perepisi 1927 goda>(Moscow, 1929), 25;<ボルシェヴィキ>, 1928, no.15, p.20.
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 第3節・指導者争い(The leadership struggle)。
 レーニンが生きていた間、ボルシェヴィキは彼を党指導者だと認めていた。
 にもかかわらず、党は公式には一人の指導者を持たなかった。そして、党は必ず指導者を必要とすると考えるのは、ボルシェヴィキには不快だつた。
 政治的な混乱状態があったとき、党の同志たちがレーニンは個人的な権威でもって取引しすぎると彼を強く批判するのは、聞かれないではなかった。
 そして、レーニンは通常は自分の主張を押し通そうとする一方で、追従や特別の敬意をとくに示すこと要求することはなかった。
ボルシェヴィキは、ムソリーニや彼のイタリア・ファシストについては侮蔑以外の何ももっていなかった。喜劇オペラの制服で着飾り、統領(Il Duce)に忠誠を誓う政治的には原始的な連中だと見なしていたのだ。
 その上、ボルシェヴィキは歴史の教訓を学んでおり、ナポレオン・ボナパルトが皇帝だと自ら宣言したフランス革命のようにはロシア革命を衰退させるつもりはなかった。
 ボナパルティズム-革命戦争指導者の独裁者への変化-は、ボルシェヴィキ党内でしばしば論議された危険だった。その論議では通常は暗黙のうちに、赤軍創設者であり内戦中の若い共産主義者たちの英雄だったトロツキーが示唆されていた。
 想定されたのは、いかなる潜在的なボナパルトも、奮起させる演説力と壮大な展望力をもつ、おそらくは軍服をまとったカリスマ的人物だろう、ということだった。//
 レーニンは、1924年1月に死んだ。
 しかし、彼の健康は1921年半ば以降は深刻に悪化していて、その後は間欠的にしか政治上の活動をしなかった。
 1922年5月の発作によって部分的に麻痺し、1923年3月の二度めの発作で麻痺が増大して、言葉を発する能力を失った。 
 ゆえに、レーニンの政治的な死は漸次的な過程であり、彼自身は最初の結果を観察することができた。
 政府の長としてのレーニンの責務は、三人の代行者が引き継いだ。その中では、1924年にレーニンを継いで人民委員会議の議長になった Aleksei Rykov (ルィコフ)が最も重要だった。
 しかし、明白なのは、権力の主要な中枢は政府にではなく党の政治局にあり、この政治局はレーニンを含む総員七名で成り立っていた、ということだった。
 他の政治局員は、トロツキー(戦争人民委員)、スターリン(党総書記)、ジノヴィエフ(レニングラード党組織の長・コミンテルン議長)、カーメネフ(モスクワ党組織の長)、ルィコフ(人民委員会議初代副議長(副首相))および Mikhail Tomsky (トムスキー、中央労働組合会議議長)だった。//
 レーニンが病気の間-そして実際にはその死後も-政治局は集団指導制によって活動すると公式に確言し、誰かがレーニンと交代できるとか彼と同様の権限ある地位に就きたいとかいうことを、どのメンバーも強く否定した。
 にもかかわらず、1923年には、秘やかなというよりもむしろ激しい継承者争いが進展した。ジノヴィエフ、カーメネフおよびスターリンの三人組(triumvirate)が、トロツキーに対抗したのだ。
 トロツキー-ボルシェヴィキ党への加入の遅さとそれ以降の輝かしい業績の両方の理由で、指導層から外れた風変わりな人物-は、強く否定していたけれども、最上位を目ざす野心をもつ競争者だと受け止められていた。
 1923年遅くに書いた<新しい行路>(the New Course)でトロツキーは、ボルシェヴィキ党の古き前衛たちは革命的精神を喪失し、「保守的で官僚主義的な党派主義」に屈服し、地位を保つのが唯一の関心である小粒の支配エリートのごとくますます振る舞っていると警告することで、意趣返しをした。//
 レーニンは病気のために指導者として活動できなかったが、彼の継承者になる可能性のある者たちの策略(manoeuvring)をまだ観察することができた。そして、政治局に関して同様に偏見に満ちた見方を作り上げており、それを「少数独裁制」だと描写し始めた。
 1922年12月のいわゆる「遺書」で、レーニンは、-傑出していると認めたスターリンとトロツキーの二人を含む-多様な党指導者たちの性格を概述した。そして、わずかに称賛をしつつ事実上は彼ら全員を酷評した。
 スターリンについての論評は、党総書記として巨大な権力を蓄積しているが、その権力をつねに十分な注意を払って行使しているわけではない、というものだった。
 一週間後、スターリンとレーニンの妻のNadezhda Krupskaya (クルプシュカヤ)との間でレーニン病床体制に関する衝突が生じた後で、レーニンは、スターリンは「粗暴すぎる」、総書記の地位から排除すべきだ、と遺書の最後に書き加えた。(15)//
 この時期、多くのボルシェヴィキ党員は、スターリンがトロツキーと対等の政治的評価を得ていることに驚いただろう。
 スターリンは、ボルシェヴィキが傑出した指導者にふつうは連想する資質を一つも持っていなかった。
 スターリンはレーニンやトロツキーのようには、カリスマ性のある人物でも、優れた演説家でも、抜きん出たマルクス主義理論家でもなかった。
 スターリンは英雄ではなく、労働者階級の実直な息子でも、優れた知性の持ち主でもなかった。
 Nikolai Sukhanov (スハーノフ)はスターリンの印象を「よどんだ灰色」とした。-したたかな裏工作政治家で党内活動の専門家だが、個人的な特徴のない人物だと。
 スターリンよりもジノヴィエフの方が政治局三人組の中の第一のメンバーだと、一般に想定されていた。
 しかしながら、レーニンは、たいていの者よりもスターリンの能力をより十分に評価することができた。なぜなら、1920-21年の党内闘争の間、スターリンはレーニンの右腕だったからだ。//
 トロツキーに対する三人組の闘いは、1923-24年の冬に頂点に達した。
 党内分派が公式には禁止されているにもかかわらず、状況は1920-21年のそれに多くの点で似ていた。そしてスターリンは、レーニンが行ったのと同じ戦略に多く従った。
 第13回党大会に先立つ党内議論と代議員の選挙の際に、トロツキー支持者たちは反対派として運動を行った。一方で、党組織は、「中央委員会多数派」、すなわち三人組、を支持するために動員された。
「中央委員会多数派」が勝利した。中央政府官僚機構、大学および赤軍の党細胞に、トロツキーが支持されるという空白部分があったけれども。(16)
 最初の投票のあとで、親トロツキー諸細胞に対する集中的な攻撃があり、それは、その細胞の多くが多数派へと寝返ることを誘発した。
 わずか数ヶ月のち、そのときすでに近づいている党会議に備えて1924年春に代議員が選出されていたが、トロツキーへの支持はほとんど完全に消滅していたように見えた。//
 これは基本的に、党機構のための勝利だった。-すなわち、総書記であるスターリンのための勝利だった。
 総書記は、ある研究者が「権力の循環する流出物」(circular flow)と名付けたものを操作する地位にいた。(17)
 書記局は地方党組織を率いる書記局員を任命し、望ましくない分派的傾向を示せば彼らを解任することもできた。
 地方党組織は、全国的な党の大会や会議のために代議員を選出した。そして、〔地方の党の〕書記局員が地方代議員名簿の上位へと載せられるのが、ますます一般的になっていた。
 その代わりに、党の全国的会議は、党の中央委員会、政治局および組織局-もちろん書記局の-委員を選出した。
 要するに、総書記は、政治的反対者に制裁を加えるのみならず、その職務に在任することを確認する会議をも操作することができた。//
 1923-24年の深刻な闘いによって、スターリンは、その地位を強固にすることを系統的に進行させた。
 1925年、スターリンはジノヴィエフおよびカーメネフと決裂し、この二人が侵略者のごとく見える防御的な反対者の立場へと追い込んだ。
 のちにジノヴィエフとカーメネフは、トロツキーと一緒になって統一した反対派となった。スターリンは、忠実で意思の堅い仲間たち〔チーム〕の助けを借りて、これを簡単に打ち破った。-その仲間の中には、将来の政府および工業の指導者となる Vyacheslav Molotov(モロトフ)や Sergo Ordzhonikidze (オルジョニキーゼ)もいた。彼らはこのとき、スターリンの周りに結集していた。(18)
 多数の反対派支持者たちは、遠方の州の仕事へと自分たちが任命されていることに気づいた。そして、反対派の指導者たちはまだ党の諸会議に参加することができたが、反対派の代議員はほとんどいなかったので、その指導者たちは党との接点を完全に喪失した無責任な<フロンド党員>のように見えた。
 1927年、反対派の指導者と支持者たちの多くは分派主義を禁止する規約を破ったという理由で党から除名された。
 トロツキーとその他の反対派の者たちは、そのとき、遠方の州へと行政的に〔判決によらずして〕追放された。//
 スターリンとトロツキーの間の論争で対立した争点は、とくに、工業化の戦略と農民に対する政策に関してだった。
 しかし、これらの現実的な問題について、スターリンとトロツキーの考えは大きくは離れていなかった(後述p.114-6)。すなわち、二人はいずれも、農民に対する特別の優しさを持たない、工業化論者だった。1920年代半ばのスターリンの公的立場の方がトロツキーのそれよりも穏健だったけれども。
 そして、数年後にスターリンは、急速な工業化のための第一次五カ年計画についてトロツキーの政策を盗んだとして追及されることとなった。
 一般党員たちは、彼らの個人的性格のいくつかほどには、論点に関する競争者の不一致を明確に感知することができなかった。
 トロツキーは、ユダヤの知識人で内戦時に無情さと華麗でカリスマ的な指導性を示した人物だと(必ずしも好ましいものとは限らなかったが)広く知られていた。
 スターリンは、より中庸的で陰の多い人物で、カリスマ性はなく、知的でもユダヤ人でもない、と知られていた。//
 党機構とその挑戦者の間の対立にあった真の争点は、ある意味では、機構そのものだった。
 こうして、支配的な党派と元々一致していない点が何であったにせよ、1920年代の全ての反対派集団は、同じ主要な不満をもって終焉することとなった。すなわち、党は「官僚主義化」した(bereaucratized)。そして、スターリンは、党内民主主義の伝統を死滅させた。(19)
 このような「反対派」の見方は、晩年のレーニンにすら起因していた。(20) そしてそれは、おそらくある程度は正当だった。レーニンもまた、指導者層の内部から閉め出されていたのだから。但し、レーニンの場合は政治的敗北ではなくて病気が原因だったけれども。
 しかし、多くの点でスターリンの政治的師匠だったレーニンは、党機構に反対して党内民主主義という原理的考え方へと本当に変わったのだ、と理解するのは困難だろう。
 レーニンに関心があったのは権力の集中それ自体ではなく、権力が誰の手に集中されているのか、という問題だった。
 同様に、1922年の遺書でレーニンは、党書記局の権力を減少させることを提案しなかった。
 彼はただ、スターリン以外の誰かが総書記に指名されるべきだと書いたのだ。//
 やはりなお、1920年代のレーニンとスターリンの間の継続性の要素が何であろうとも、レーニンの死と継承者争いは政治的な転換点だった。
 権力を追求するスターリンは、反対派たちに対抗してレーニン主義の方法を使った。しかし彼は、-党でのその個人的権威が長く確立していた-レーニンは決して到達し得なかった完璧さと冷酷さをもってそれを使った。
 一たび権力を握ると、スターリンは手始めにレーニンのかつての役割を果たした。まず最初は、政治局でだった。
 しかし、そうしているうちにレーニンは死んで、過ちや非難を超越したほとんど神のごとき性格を与えられた指導者(the Leader)になり、その遺体は防腐処理されて恭しく、民衆を喚起するためにレーニン霊廟に安置された。(21)
 死後に生じたレーニン崇拝(Lenin cult)は、指導者なき党というかつてのボルシェヴィキの神話を打ち砕いた。
 新しい指導者が抜きん出て初代のそれ以上になることを望んだとすれば、彼には構築しておくべき基盤がすでにあった。//
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 (15) 「遺書」のテキストは、Robert V. Daniels, ed., <レーニンからゴルバチョフまでのロシア共産主義に関する資料による歴史>(Lebanon, NH, 1993)に所収、p.117-8.
 (16) Robert V. Daniels, <革命の良心>(Cambridge, MA, 1960), p.225-230.を見よ。
 (17) この語句はDaniels のものだ。明瞭でかつ簡潔な議論につき、Hough & Fainsod, <ソヴィエト同盟はいかにして統治されたか>, p.124-133, p.144.を見よ。
 (18) 1920年代の分派闘争の経緯におけるスターリンのチームの形成につき、S・フィツパトリク・<スターリン・チームについて-ソヴィエト政治における危険な生活の年代>(Princeton, 2015), ch. 1.を見よ。
 (19) これは1920年代の共産党内反対派の研究であるDaniels の<革命の良心>の統一テーマだ。-このタイトルが示すように、Daniels は、党内民主主義という抗弁は反対派の固有の機能ではなくて革命的な理想主義の表現だと見なしている。
 (20) Moshe Lewin, <レーニンの最後の闘い>(New York, 1968)を見よ。
 選択しうる別の解釈につき、Service, <レーニン>, Chs. 26-28.を見よ。
 (21) レーニン崇拝の出現につき、Nina Tumarkin, <レーニンは生きている!>(Cambridge, 1983)を見よ。
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 第4章(ネップと革命の行く末)の第2節と第3節の試訳が終わった。

1821/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑫。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第12回
 第4章。
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 日本共産党2004年綱領「三」〔章〕の「(八)」〔節〕は、次のように述べる。
 ・「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、1917年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。//最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録されたしかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて…」。
 また、不破哲三著にそのまま依拠する志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)は以下の趣旨を記述する。「」は直接の引用。
 ・レーニンは内戦勝利によって、「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった。
 ・「新しい時期」に入って、1921年3月に「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じたりして、「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられ、レーニンは「経済政策の大転換を始め」た。
 ・1921年3月に開始され、のちに「新経済政策(ネップ)」と呼ばれる政策は、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行を図るものだったが、農民に残る「余剰」部分の処理という「大問題」が生じて、それは「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・1921年10月にレーニンは「モスクワ県党会議」での報告で、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」、「本格的な転換」に踏み切った。つまり、「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ。
 ・レーニンはネップ期に「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいは、そういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」
 以上、p.174-8。
 なお、不破哲三らによると、この「市場経済を通じて社会主義へ」という路線は、ロシアに限らない、世界的に普遍的で不可避の<路線>だとされる。
 スターリンに対する日本共産党の悪罵は引用しないが、S・フィツパトリクの2017年版の著の試訳部分のうち、日本共産党の上の記述と最も対応する時期に関する記述は、おそらく今回試訳部分または今後の数回部分だろう。
 現在の日本共産党によるロシア革命とレーニンに関する「歴史認識」と叙述は事実・「真実」に沿っているのか、それともこの党は歴史の単純化と<政治的捏造>を平然と行っているのか。
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 第4章・ネップと革命の行く末(NEP and the Future of the Revolution)。
 (はじめに)
 ボルシェヴィキは内戦で勝利して、行政の混乱と経済の荒廃という国内問題に対処することを迫られた。
 町々は飢えて、半分空っぽだった。
 石炭生産は破滅的に落ちこみ、鉄道は止まり、産業はほとんど静止状態だった。
 農民たちは、食糧徴発(food requisitioning)にきわめて憤激していた。
 収穫のための種蒔きは落ち込み、干魃が二年続いて、ヴォルガ地帯その他の農業地域には飢餓が迫ってきた。
 1921-22年での飢饉と流行病による死者数は、第一次大戦と内戦での死傷者の総合計数を上回った。
 革命と内戦の数年間に、およそ200万の人々が国外へと亡命し、ロシアの教養あるエリートたちの多くがいなくなった。
 積極的な人口配置上の進展は、数十万人のユダヤ人たちの群れの移住だった。彼らの大多数は、首都の区画に定住していた。(1)//
 赤軍には500万人を超える男たちがいた。そして、内戦が終わるとは彼らの多くが除隊されることを意味した。
 この動員解除は、ボルシェヴィキが予想していたよりもはるかに、困難な仕事だった。すなわち、十月革命後に新体制が建設しようとしたものの多くの部分を分解することを意味した。
 赤軍は、内戦と戦時共産主義経済の時期でのボルシェヴィキの行政の脊柱部分だった。
 さらに、赤軍の兵士たちは、国の最大の「プロレタリア」の一団を成していた。
 プロレタリア-トは、ボルシェヴィキが選んだ社会的支持の基盤だった。そして、ボルシェヴィキは、現実的な目的をもってプロレタリア-トを、ロシアの労働者、兵士と海兵および貧農だと定義していた。
 今や兵士と海兵集団の大部分が、消失しようとしていた。
 そして、さらに悪いことに、除隊された兵士たちは-職を失い、飢えて、武装し、交通の遮断によって故郷から遠い場所で立ち往生し-、騒擾を引き起こした。
 1921年の初めの月々までに200万人以上が除隊して、革命のための戦闘員が一夜にして盗賊団に変わるのを、ボルシェヴィキは見た。//
 工場にいる核心的プロレタリア-トの運命もまた、同様に警戒すべきものだつた。
 工業の閉鎖、軍事徴用、行政の業務への昇格、そしてとりわけ、飢餓を理由とする都市からの逃散によって、工業労働者の数は、1917年の360万人から、1920年には150万人に減少した。
 こうした労働者の大部分は、村落へと戻った。そこには、家族がまだいて、彼らは村落共同体の一員として小土地(plots)を受け取った。
 ボルシェヴィキには、村落にいる労働者の数の多さが、あるいは滞在期間の長さが、分からなかった。
 労働者たちはおそらく農民層に吸収されてしまい、都市にはもう帰ってこないだろう。
 しかし、長期的見通しはともあれ、直近の状況は明瞭だつた。すなわち、ロシアの「独裁階級」の半分以上が消え失せたのだ。(2)//
 ボルシェヴィキは元々は、ヨーロッパのプロレタリア-トによるロシア革命に対する支援を計算に入れていた。彼らは第一次大戦の終末期にはまさに革命を起こす準備をしているように見えていたのだ。
 しかし、ヨーロッパでの戦後の革命運動は弱体化し、ソヴィエト体制は、永続的な同盟者だと見なし得るようなヨーロッパでの仲間を全くもたずして、取り残された。
 レーニンは、外国からの支援がない状況ではボルシェヴィキがロシア農民層からの支持を獲得することが致命的に重要だ、と結論づけた。
 だが、食糧徴発と戦時共産主義のもとでの市場の崩壊によって農民たちは離反しており、いくつかの地域では彼らは公然たる反乱を起こした。
 ウクライナでは、Nestor Makhno(マフノ)が率いる農民軍がボルシェヴィキと戦っていた。
 ロシア中心部の重要な農業地域であるタンボフ(Tambov)では、農民の反乱が起こり、5万人の赤軍兵団の派遣によってようやく鎮圧された。(3)//
 新体制に対する最悪の衝撃は、1921年3月にやって来た。その月、ペテログラードで労働者のストライキが勃発した後で、近郊のクロンシュタット(Kronstadt)海軍基地の海兵たちが反乱を起こした。(4)
 クロンシュタット海兵たち(Kronstadters)は、1917年七月事件の英雄で、また十月革命のときのボルシェヴィキの支援者であって、ボルシェヴィキの神話からするとほとんど伝説的な人物群になっていた。
 彼らは今は、ボルシェヴィキの革命を否認し、「人民委員の恣意的な支配」を非難し、労働者と農民の真の(true)ソヴェト共和国の建設を呼びかけた。  
 クロンシュタット蜂起が起きたのは、〔ボルシェヴィキ/共産党〕第10回党大会が開催中のことだった。そしてかなりの数の代議員たちは、蜂起と戦って鎮圧するために突如として赤軍とチェカ兵団の先鋭部隊に加わるべく、退場しなければならなかった。
 この事態はほとんど劇的なものではなかったし、ボルシェヴィキの意識の中にさほど強く刻み込まれたわけではなかった。
 ソヴィエトの新聞は、蜂起はエミグレ(亡命者)たちが引き起こし、見知らぬ白軍将校たちが指導した、と主張した。不愉快な真実を隠そうとする最初の重要な努力だったと思える。
 しかし、第10回党大会で広まった噂は、違うことを告げていた。//
 クロンシュタット蜂起は、労働者階級とボルシェヴィキ党の間の、進む途の象徴的な別離であるように見えた。
 労働者は裏切られたと考えた者たち、党が労働者に裏切られたと感じた者たち、いずれにとっても悲劇だった。
 ソヴィエト体制は初めて、その銃砲を、革命的プロレタリア-トに対して向けた。
 さらに、クロンシュタットの悪夢はほとんど同時に、革命にとってのもう一つの厄災とともに生じていた。
 モスクワのコミンテルン指導者によって励まされたドイツ共産党は、革命の蜂起を試み、惨めな失敗を喫した。
 その敗北は、最も楽観的なボルシェヴィキですらがヨーロッパ革命は接近しているという望みを打ち砕かれることを意味した。
 ロシア革命は、自分だけの支援なき努力でもって、生き延びていかなければならないことになった。//
 クロンシュタットとタンボフの反乱は政治的不満はもちろんのこと経済的なそれによっても火を注がれていて、戦時共産主義政策に代わる新しい経済政策の必要性を痛感させた。
 1921年春に採択された最初の一歩は、農民の生産物の徴発を終わらせ、現物税〔食糧税〕を導入することだった。
 これが実際に意味したのは、国家は農民が手放せる全ての物ではなくて一定の割合で奪う、ということだった(のちに1920年代前半に通貨が再び安定した後ではいっそう、現物税は在来的な金銭税になった)。//
 食糧税は農民に市場に出せるかなりの余剰を生むと想定されたがゆえに、つぎの論理上の歩みは、合法的な私的取引の再復活を許して、繁茂しているブラック市場を閉鎖しようとすることだった。
 レーニンは、1921年春、取引の合法化に強く反対していた。共産主義の原理を否認するものだと考えたからだ。しかし、最終的には私的取引の自然の復活(しばしば地方当局は是認した)がボルシェヴィキ指導部に対する既成事実(fait accompli)となり、指導部も受け容れた。
 こうした歩みが、頭文字をとってNEP(ネップ)として知られる新しい経済政策の始まりだった。(5)
 これは絶望的な経済情況に対する即興的な反応であり、元々は党とその指導部によってほとんど議論されることなく(またほとんど明確な反対もなく)採用された。
 経済に対する影響の良さは、急速でありかつ劇的だった。//
 経済の変化は、さらに続いた。遡及して「戦時共産主義」と称され始めた諸制度が、全般的に放棄されるに至ったのだ。
 産業については、完全な国有化への動きは放棄され、私的部門の再構築が許された。大規模工業と融資業を含む経済の「管制高地」の支配権は国家が維持したけれども。
 外国の投資者が、工業や鉱山企業および開発プロジェクトに関する免許(concessions)を取得するようにと招かれた。
 財務人民委員部と国有銀行は、かつての「ブルジョア」財務専門家の助言に注意を払い始めた。彼らは、通貨の安定と政府および公共部門の支出の制限を求めた。
 中央政府の予算は厳しく削減され、徴税による国家歳入を増大させる努力がなされた。
 以前は無料だった学校教育や医療は、今や個々の利用者が対価を支払うことになった。
 老人の年金や療養給付および失業給付を利用することは、拠出金の基盤にかかわることとして制限された。//
 共産主義者の観点からすれば、ネップは退却(retreat)であり、失敗を部分的に認めることだった。
 多くの共産主義者は、大きな幻滅を感じた。すなわち、革命はほとんど何も変えなかったように見えた。
 1918年以降の首都でありコミンテルン司令部の所在地であるモスクワは、ネップの最初の年月に再び活力に充ちた都市になった。外見的な印象だけではまだ1913年のモスクワだったけれども。農民女性が市場でジャガ芋を売り、教会の鐘や髭を生やした僧侶が信者たちを呼び集め、街頭や駅舎では娼婦、乞食やスリが活動し、ナイトクラブではジプシー歌が流れ、制服姿のドアマンが紳士たちへとその帽子を取り、劇場に行く者は毛皮をまとって絹の靴下を履いていた。
 このモスクワでは、皮ジャケットの共産党員たちは物憂げな外部者のように見え、赤軍退役者は職業安定所の行列に並んでいそうだった。
 クレムリンやホテル・ルクセにばらばらに集まった革命のリーダーたちは、不吉な予感をもって革命の行く末に向かいあっていた。//
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 (1) 1912年と1926年の間に、モスクワとレニングラードのユダヤ人の人口は4倍以上に増大した。そして、同様の規模の増加がウクライナの諸首都、キエフやハルコフ(Kharkov)でもあった。Slezkine, <ユダヤ人の世紀>, p.216-8 を見よ。
 (2) 消失しつつある労働者階級につき、D. Koenker, <ロシア革命と内戦時の都市化と脱都市化>, D. Koenker, W. Rosenberg & R. Sunny, eds, <ロシア内戦時の党、国家および社会>所収、およびS・フィツパトリク「ボルシェヴィズムのディレンマ-党の政治と文化における階級問題」S・フィツパトリク・<文化の前線>(Ithaca, NY, 1992)所収、を見よ。
 (3) Oliver H. Radkey, <ソヴェト・ロシアの知られざる内戦>(Stanford, CA, 1976), P.263.
 (4) Paul A. Avrich, <クロンシュタット>(Princeton, NJ, 1970)およびIsrael Getzler, <クロンシュタット・1917-1921年>(Cambridge, 1983)を見よ。
 (5) ネップにつき、Lewis H. Siegelbaum, <革命の間のソヴェト国家と社会-1918-1929年>(Cambridge, 1992)を見よ。
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 第1節・退却という紀律(The disciplin of retreat)。
 レーニンは、こう語った。ネップという戦略的退却は、絶望的な経済状態と革命がすでに勝ち得ていた勝利を確固たるものにする必要性によって強いられた、と。
 その目的は、疲弊した経済を回復させ、非プロレタリア国民の不安を鎮静化することだった。
 ネップは、農民層、知識人層および都市の小ブルジョアに対する譲歩を意味した。すなわち、経済や社会的、文化的生活に対する統制の緩和、社会全体に対する共産主義者の対処の仕方のうちにあった実力的強制の要素を宥和に代えること。
 しかし、レーニンには完全に明白なのは、この緩和は政治的分野にまで及ぼすべきではない、ということだった。
 共産党の内部では、「紀律に対するきわめて微少な抵触であっても、厳しく、断固として、容赦なく罰せられなければならない」。彼は、以下のように述べた。//
 『軍隊が退却するときには、それが前進しているときの百倍もの紀律が必要だ。前進している間は、誰もが押し合って前にかけて行くからだ。
 誰もが今、急いで後退し始めるならば、災厄の発生はすぐでかつ不可避的になるだろう。<中略>
 本物の軍隊が退却するときは、機関銃を据えつける。そして、秩序立った退却が無秩序な退却になってしまうときには、銃を撃てとの命令がくだされる。そしてそれも、全く正当なことだ。』
 その他の政党に関しては、彼らの見解を公的に発表する自由は、内戦の間以上に厳しくすら制限されなければならない。とくに、ボルシェヴィキの新しい立場は自分たちのものであるように主張しようとするならば。
 『あるメンシェヴィキが「諸君はいま退却している。私はこれまでいつも退却を主張してきた。私は諸君に同意する。私は諸君の仲間だ。一緒に退却しよう」と言うならば、我々は答えてこう言う。
 「メンシェヴィズムを公然と表明する者には、我々の革命裁判所は死刑の判決を下さなければならない。もしそうでなければ、革命裁判所は我々の裁判所ではなく、神が知るようなもの〔訳の分からないもの〕だ」、と。』(6)//
 ネップの導入に伴って、メンシェヴィキ党中央委員会委員の全員を含めて、数千人のメンシェヴィキ党員が逮捕された。
 1922年には、エスエルの右翼派が国家反逆罪で公開の審問にかけられた。
 そのうちのある範囲の者たちには、死刑判決が下された。死刑判決は実施されなかったように思われるけれども。
 1922年と1923年、数百人の著名なカデット党員とメンシェヴィキ党員が、ソヴェト共和国から出国することを強いられた。
 統治する共産党(今でも通常はボルシェヴィキと呼ばれた)以外の全ての政党が、この時点以降、事実上は非合法のものになった。//
 現実的なまたは潜在的な政治的反対派を粉砕しようとのレーニンの意欲は、1922年3月19日の政治局あて秘密書簡でもって、衝撃を受けるほどに明らかにされている。その文書で彼は、飢饉によって提供された正教会の力を破壊する機会を同僚たちが利用することを強く要求した。
 『飢餓にある地域の人民が人肉(human flesh)を食べ、数千でなければ数百の死体が道路上に散乱しているときに、わけわれが著しく苛酷で容赦なき力を注いで教会〔ロシア正教〕財産の剥奪を実行することができる(ゆえに、そうしなれればならない)のは、まさしく今、そして今のみなのだ。』
 飢饉からの救済という助けを借りて教会財産を収奪する〔そして名目上は飢えた人々に分ける〕運動(campaign)によって暴力的示威活動が刺激されて生じたシュヤ(Shuya, Shuia)について、レーニンはこう結論した。『巨大な数の』地方聖職者とブルジョアたちは逮捕されて、裁判にかけられなければならない、そしてその裁判はこう終わる必要がある、と。//
 『シュヤにいる巨大な数の最も影響力があり最も危険な黒の百人組を、銃撃隊が射殺する以外の方法で終わってはならない。
 その都市だけでもモスクワを含む都市やその他のいくつかの聖職者の中心地だけでもなく、…反動的な聖職者や反動的なブルジョアジーの代表者たちをその理由によって処刑することを我々がより多く達成すればするほど、それだけ結構なことだ。
 我々は今すぐ、これらの者たちに教訓を与えて、この数十年間は、いかなる抵抗も敢えてしようとはせず、かつまたそれを思い付くことすらしないようにしなければならない。』(7)//
 同時に、共産党<内部>の紀律の問題が、再検討されていた。
 ボルシェヴィキはもちろん、つねに党の紀律を重視してきていた。それは、レーニンの1902年の冊子<何をなすべきか>にまで溯る。
 ボルシェヴィキたちは全員が、民主集中制の原理を受け入れた。その原理は、党員は政策決定に至るまでは自由に議論することができるが、党大会または中央委員会で一たび最終的な票決がなされればその決定を受容するよう拘束される、というものだった。
 しかし、民主集中制原理それ自体は、内部的な議論に関する党の慣例を明瞭に決定するものではなかった。-どの程度の議論が許容され、どの程度厳しく党指導者たちを批判することができ、その批判は特定の論点に関する「分派」または圧力集団を組織してよいのか、等々。//
 1917年以前では、多くの実際的目的はあったが、党内論争はボルシェヴィキ知識人層の中のエミグレ集団の内部での論争を意味した。
 レーニンが圧倒的な地位を占めたために、ボルシェヴィキのエミグレたちは、メンシェヴィキやエスエルのそれよりもはるかに一体的で均質的だった。これらの者たちには、それぞれの個々の指導者と政治的帰属意識をもつ多数の小集団で群れをなす傾向があった。
 レーニンは、ボルシェヴィキの中でそのようなものが形成されることに強く抵抗した。
 もう一人の有力なボルシェヴィキの人物だった Aleksandr Bogdanov (ボグダノフ)は、1905年後の亡命者たちの中に彼の哲学的および文化的考え方を支持する弟子たちの集団を作り始めたが、そのときレーニンは、ボグダノフと彼の集団がボルシェヴィキ党から離脱するように強いた。その集団は現実には、政治的分派も党内反対派も形成してはいなかったけれども。//
 二月革命後に、状況は急激に変化した。以前よりも多様な党指導者たちの中にエミグレと地下のボルシェヴィキの一団が出現し、全党員たちに大きな影響を与え始めた。
 1917年、ボルシェヴィキは党の紀律よりも革命の波に乗ることを重視した。
 党内の多くの党員とグループは、十月の前でも後でも、重要な政策上の論点についてレーニンに同意しなかった。そして、レーニンの意見がつねに優勢であるのではなかった。
 ある範囲のグループは、半永続的な党内集団を固めていた。それらの基本的主張が、中央委員会または党大会の多数派によって拒否されたあとでもなお。
 少数派集団(多くは旧ボルシェヴィキの知識人で成る)はふつうは、1917年以前ならばしたように党を離れることはなかった。
 彼らの党は今や、事実上の一党国家で権力を有していた。そのゆえに、党を離れることは政治生活をすべて止めてしまうことを意味した。//
 しかしながら、、このような変化にもかかわらず、党の紀律と組織に関するレーニンの理論的な前提命題は、内戦が終わるまでなおもボルシェヴィキのイデオロギーだった。そのことは、モスクワに本拠をおく新しい国際的共産主義者組織であるコミンテルンをボルシェヴィキがどう操縦したか、からも明白だった。
 1920年に第2回コミンテルン大会がコミンテルンへの加入条件を討議したとき、ボルシェヴィキ指導者たちは明らかに1917年以前のロシアのボルシェヴィキ党をモデルにした条件を課すよう強く主張した。このことが大きくて人気があったイタリア社会党を排除し、ヨーロッパでの再生社会主義インターの対抗者としてのコミンテルンを弱くするものであったとしても(イタリア社会党は、その右派および中央派集団を追放しないでコミンテルンに加入するのを望んでいた)。
 コミンテルンが採択した加入のための「21条件」は、事実上、つぎのことを要求するものだった。すなわち、コミンテルンを構成する諸党は高い使命感をもつ革命家のみを党員とする極左の少数派であるべきで、残るその党が「改良主義」の中心部や右派から明瞭に分かれる(1903年でのボルシェヴィキとメンシェヴィキの分裂と同様の)分裂によって形成されることが望ましかった。
 一体性、紀律、非妥協性および革命的職業人主義は、敵対者がいる環境の中で活動する全ての共産党の本質的な性格だった。//
 もちろん、これと同じ考え方がボルシェヴィキ自体にそのまま適用されたわけではなかった。ボルシェヴィキはすでに権力を掌握していたからだ。
 一党国家での支配党は、第一に、大衆政党にならなければならない。第二に、多様な意見に適応し、それらを組織化すらしなければならない。
 これは実際に、1917年以降のボルシェヴィキ党に生じたことだった。
 党内集団が特定の政策的論点に関して党指導層の中で発展し、(民主集中制原理に反して)最終の票決後ですら存在を保ち続けた。
 1920年までに、労働組合の地位に関する当時の論争に関与した党内諸集団は、巧く組織された集団となり、矛盾し合う政策基盤を提示したのみならず、第10回党大会に先立つ議論と代議員選挙の間には地方の党委員会の支持を得るための働きかけ活動(lobby)も行った。
 言い換えると、ボルシェヴィキ党は、それ自身の範型の「議会制」政治を発展させていた。党内集団が、複数政党システムでの政党の役割を果たしていたのだ。//
 西側ののちの歴史研究者-そして、リベラルな民主主義の価値観もつ外部からの観察者の-立場からは、これは明らかに称賛されてよい進展であり、良い方向への変化だった。
 しかし、ボルシェヴィキは、リベラルな民主主義者ではなかった。
 ボルシェヴィキの党員たちの中には、党が分解していて、目的をもつ一体性と方向意識を喪失しているのではないかという相当の懸念があった。
 レーニンは確実に、党内政治の新しい様式を是認しなかった。
 第一に、労働組合論争-内戦後にボルシェヴィキが直面している重大で切迫した問題に比べて全く末梢的な論争-によって、莫大な量の指導者たちの時間とエネルギーが奪われた。
 第二に、党内集団は、明らかに、党におけるレーニンの個人的な指導力に挑戦している。
 労働組合論争での一つの党内集団を率いたのは、トロツキーだった。彼は、比較的に新しい入党だったにもかかわらず、レーニンに次ぐ党内の大物だった。
 別の党内集団である「労働者反対派」は、Aleksandr Shlyapnikov (シュリャプニコフ)に率いられて、労働者階級党員との特別の関係を強く主張した。この主張は、レーニンが率いるエミグレ知識人層から成る指導部の古い中核部分には、潜在的にはきわめて有害なものだった。//
 かくしてレーニンは、党にある党内集団(factions, 分派)と分派主義を破滅させることを開始した。
 これをするためにレーニンが用いた戦術は、分派的(factional)であるのみならず完全に陰謀的なものだった。
 Molotov (モロトフ)とレーニン派の若きアメリカ人党員の Anastas Mikoyan(ミコヤン)はのちに、1921年初めの第10回党大会に際して作戦を開始したレーニンの熱意と思い入れを描写した。その作戦とは、レーニン支持者の秘密会合を開き、反対分派に言質を与えている大きな地方の代議員を分裂させ、中央委員会の選挙で否決されるべき反対派の者たちの名簿を作成する、といったものだった。
 レーニンは、こっそりとビラを撒くために「タイプライターや手動印刷機をもつ、地下にいる古き共産主義者同志」を呼び込もうとすら欲した。-この秘密のビラ配布という考えは、分派主義だと解釈されうるという理由でスターリンが反対した。(8)
 (こうしたことは、レーニンがかつての陰謀的な習癖へと立ち戻った初期のソヴィエト時代だけのことではなかった。
 モロトフが内戦の暗鬱な時期だと思い起こしたのは、レーニンが指導者たちを召集して、ソヴィエト体制の崩壊が近づいていると告げた、ということだった。
 出所が虚偽の文書と秘密の住所録がその指導者たちに用意されていた。その文書には「党は地下に潜るだろう』とあった。(9))//
 レーニンは第10回党大会で、トロツキー派と労働者反対派を打ち負かした。そして、新しい中央委員会でのレーニン派の多数派を確保し、トロツキー派の二人の中央委員会書記局員に代えてレーニン派のモロトフを指名した。
 しかし、これで全てでは、決してなかった。
 党内集団の指導者たちを突然に驚かせた動議をレーニン派集団が提案して、第10回党大会は、「党の一体性(統一)について」という決議を承認した。それは、現存している党内集団に解散を命令し、党内部での全ての分派活動をそれ以上することを禁止するものだった。//
 レーニンは、党内集団(分派)の禁止は一時的なものだと述べた。
 これは正直なものだった、と想像できるかもしれない。しかし、分派の禁止が党で承認されないことが分かった場合の逃げ道を自分のためにたんに用意していたにすぎない、ということの方がありえそうだ。
 実際に生じたように、そのようなことではなかった。すなわち、党全体が、一体性(統一、団結)のために党内集団(分派)を消滅させるつもりであるように見えた。おそらくは、党内分派は一般党員にまで深く根づいておらず、多くの党員にはそれは知識人である<先進党員(frondeurs)>の特権だと考えられていたがゆえに。//
 「党の一体性」決議は、頑固な分派主義者を党が除名し、分派主義という罪を犯したと判断する被選出委員を中央委員会が排除することを認める秘密条項を含んでいた。
 しかし、党政治局はこの条項をかなり疑っていた。そして、レーニンが生存中は、これは形式的には発動されなかった。
 しかしながら、1921年秋、レーニンが主導して、大規模な党の粛清〔purge, =党員再審査〕が行われた。
 これが意味したのは、党員であり続けるために、全党員が粛清委員会の前に出廷して革命家としての適性を正当化し、必要があれば批判から自分を防御しなければならない、ということだった。
 この1921年の党粛清について言われた主要な目的は、「出世主義者」や「階級敵」を見つけ出して排除することだった。つまり、形式上は、敗北した党内集団の支持者だった者に向けられてはいなかった。
 レーニンは、それにもかかわらず、「ほんの僅かでも疑念があり信用を措けない全てのロシア共産党員は、…排除されるべきだ」(すなわち、党から除名(expell)されるべきだ)ということを強調した。
 T. H. Rigby が論評するように、無価値で不用だと判断された全党員のほとんど25パーセントの中に反対集団の者たちはいなかった、と信じるのは困難だ。(10)//
 この粛清で、著名な反対派の者は党から除名されなかった。その一方で、1920-21年の反対派党内集団の一員たちは、全員が制裁を免れたのではなかった。
 この当時にレーニン派の一人が長だった中央委員会書記局には、党組織員の任命と配置の職責があった。
 そして、モスクワから遠方に囲い込む指示書にもとづいて多くの労働者反対派の者たちを派遣するに至り、そうして、指導者層内の政治に積極的に関与するのを事実上排除した。
 指導部の一体性を確保するためのこのような「行政的手法」は、のちにスターリンが、1922年に党の総書記(General Secretary)(すなわち、中央委員会書記局の長)になった後で、大いに発展させた。
 研究者たちはしばしば、これをソヴィエト共産党における党内民主主義の本当の弔鐘(死滅の標し)だと見なしてきた。
 しかし、これはレーニンが創始し、第10回大会での闘争から発生した実務だった。そのとき、レーニンはまだ主人たる戦略家であり、スターリンとモロトフはレーニンの忠実な子分(henchmen)だった。//
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 (6) レーニン「第11回党大会に対する中央委員会の政治報告」(1922年3月), レーニン・<全集>(Moscow, 1966), 33巻p.282。
 (7) Richard Pipes, ed., <知られざるレーニン>, Catherine A. Fitzpatrick訳(New Haven, 1996), p.152-4.
 (8) A. I. Mikoyan, <Mysli i vospominaniya o Lenine>(Moscow, 1970), p.139.
 (9) <モロトフは回顧する>, Resis 訳, p.100.
 (10) Rigby, <共産党の党員>, p.96-100, p.98.
 地方レベルでの1921年党粛清に関する生々しい再現として、F. Gladkov, <セメント>, A. S. Arthur & C. Ashleigh 訳(New York, 1989), Ch. 16.を見よ。
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 *上の注(6)に関する試訳者・秋月の注記。これは日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会/ロシア共産党中央委員会の政治報告/3月27日」p.287に邦訳があり、これを参照しつつ、ある程度は変更した。
 また、これの上の箇所(注番号はない)の原文引用部分は、レーニン・日本語版全集同巻「同」p.286を参照して訳した。但し、ある程度は内容が異なると思えるので、日本語版全集上掲p.286頁の訳をそのまま以下に引用して紹介しておく。
 「攻撃のばあいには、規律がまもられないでも、みなが押し合って、まえにかけて行く。退却のばあいには、規律は自覚的なものになければならず、百倍もの規律が必要である。というのは、全軍が退却するときには、<中略>。このばあいには、わずかの狼狽の声があげられただけで、全員が潰走することさえ、ときどきある。<一文、略>本物の軍隊でこういう退却がおこると、機関銃をすえつける。そして、正常な退却が無秩序な退却になっていくと、『撃て!』との命令がくだされる。そして、これは正当である。」以上。
 **上の注(7)の<秘密書簡>部分は、R・パイプス著の方から逆に接近して、この欄の2017年4月1日付・№1479「レーニンの極秘文書。日本共産党・不破哲三らの大ウソ32」ですでに訳出している。今回は、訳をある程度、変更した。
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 第4章(ネップと革命の行く末)のうち、「はじめに」と第一節(退却という紀律)が終わり。
 なお、「退却」=retreat は後退・譲歩とも訳される。しかし、レーニンらは<軍事用語>に模して使っているので、より軍事・戦闘用語的な「退却」が適切だろう。

1812/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑨。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017).  試訳/第9回。 
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 第三章・内戦(The Civil War)。
 (はじめに)
 十月の権力奪取はボルシェヴィキ革命の終わりではなく、始まりだった。
 ボルシェヴィキはペテログラードを征圧し、一週間の路上戦闘ののち、モスクワでもそうした。
 しかし、たいていの州中心地で起ち上がったソヴェトはまだ、ブルジョアジーの打倒(地方レベルではしばしば、町のしっかりした市民層が設置した「公共安全委員会」の排除を意味した)のために資本家の指導に従わなければならなかった。
 そして、地方ソヴェトが弱くて権力を奪えないとしても、資本家から支援が与えられそうにはなかった。(1)
 各州のボルシェヴィキは、中心地と同様に、当時にメンシェヴィキとエスエルが支配して成功裡にその権限を主張する地方ソヴェトに対する方針を案出しなければならなかった。
 さらに、田園地帯のロシアでは、町が持った権限による拘束が大幅になくなっていた。
 旧帝国内の遠方の非ロシア領域には、複雑に混乱した、さまざまの状況があった。
 いかなる在来の意味でも国家を統治する意図をもってボルシェヴィキが権力を奪取したのであれば、ある程度は長くて困難な、アナーキーで非中央志向の、分離主義的な傾向との闘いが前方に横たわっていたのだ。//
 実際、ロシアの将来の統治形態の問題は、未決定のままだった。
 ペテログラードでの十月革命で判断して、ボルシェヴィキはその「全ての権力をソヴェトへ」とのスローガンを留保した。
 一方で、このスローガンは1917-18年の冬の州の雰囲気には適合しているように見えた。-しかし、これはおそらく、中央政府の権威が一時的に崩壊したことを言い換えたものにすぎない。
 ボルシェヴィキは「プロレタリア-トの独裁」という別のスローガンで正確に何を意味させたかったのか、を見分ける必要がまだあった。
 レーニンがその最近の著述物で強く示唆したように、これが旧所有者階級による反革命運動を粉砕することを意味しているとすれば、新しい独裁制は、帝制期の秘密警察と類似の機能をもつ実力強制機関を設立することになっただろう。
 それがボルシェヴィキ党の独裁を意味しているとすれば、レーニンに対する政治的反対者の多くが疑ったように、その他の政党が継続して存在することは大きな問題を生じさせた。
 だがまだ、新体制は旧ツァーリ専制体制のように抑圧的に行動することができただろうか?、そしてそうしてもなお、民衆の支持を維持しつづけることができただろうか?
 さらに、プロレタリア-ト独裁は、幅広い権力と労働組合や工場委員会を含む全てのプロレタリアの組織の自立を意味しているようにも思われた。
 もしも労働組合や工場委員会が労働者の利益について異なる考え方をもっていれば、何が起こっていたのか?
 もしも工場での「労働者による統制」が労働者による自主管理を意味するとすれば、それは、ボルシェヴィキが社会主義者の根本的な目標だと見なしていた経済発展に関する中央志向の計画と両立したのだろうか?//
 ロシアの革命体制はまた、全世界でのその位置を考慮しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは自分たちは国際的なプロレタリア革命運動の一部だと考えており、ロシアでの勝利はヨーロッパじゅうに同様の革命を誘発するだろうと期待していた。
 彼らはもともとは、新しいソヴェト共和国は他国と在来の外交関係を保たなければならない国家だとは思っていなかった。
 トロツキーが外務人民委員に任命されたとき、彼は若干の革命的宣告を発して、「店終い」をしようと考えていた。
 1918年初めのドイツとのブレスト=リトフスク講和の交渉でのソヴィエト代表者として、彼は(成功しなかったが)過去のドイツの公的代表者たちにドイツ国民、とくに東部戦線のドイツ兵士たちについて語って、外交過程の全体を覆そうとした。
 伝統的な外交には必要な承認が遅れたのは、ボルシェヴィキの指導者たちが強く、ロシア革命はヨーロッパの発展した資本主義諸国での労働者の革命によって支えられないかぎり長くは存続できない、と信じていたからだ。
 革命的ロシアは孤立しているという事実が徐々に明らかになってようやく、ボルシェヴィキは、外部世界に対する彼らの地位を再査定し始めた。そして、その時期までは、革命的な呼びかけを伝統的な国家間の外交と結合させる習癖が、堅く揺るぎないものだった。//
 新しいソヴェト共和国の領土的境界と非ロシア諸民族に対する政策は、別の大きな問題を成していた。
 マルクス主義者にとってナショナリズム(民族主義)は虚偽の意識の一形態だったけれども、レーニンは戦前に、民族の自己決定権の原理を用心深く擁護した。
 ナショナリズムが有する実際上(pragmatic)の意味は、それが脅威にならないかぎりは残ったままだ。
 1923年、のちにソヴィエト同盟の結成が決定されたときに採択された政策は、「民族性の形態を認める」ことによってナショナリズムを解体することだった。民族性を認めるとは、分離した民族共和国、少数民族の保護および民族的言語や文化、民族エリートたちへの支援といったものだ。(2)//
 しかしながら、民族の自決には限界があった。従前のロシア帝国の領土を新しいソヴェト共和国に編入することに関して明確になったように。
 ペテログラードのボルシェヴィキが、ハンガリーについてそうだったように、アゼルバイジャン(Azerbaijan)のソヴェト権力が革命的勝利をするのを望むのは自然だった。以前はペテルブルクを首都とする帝国の臣民だったアゼルバイジャンは、そのことを高く評価するようには思えなかったけれども。
 ボルシェヴィキがウクライナのソヴェトを支持してウクライナの「ブルジョア」的民族主義者に反対したのも、自然だった。そのソヴェトは(ウクライナの労働者階級の人種的構成を反映して)ロシア人、ユダヤ人および民族主義者だけではなくウクライナの農民層にも「外国人」だったポーランド人で支配されている傾向にあったけれども。
 ボルシェヴィキのディレンマは、プロレタリア的国際主義の政策が実際には旧式のロシア帝国主義と、当惑させるほどに類似していた、ということだった。
 このディレンマは、赤軍(the Red Army)が1920年にポーランドに侵入し、ワルシャワの労働者が「ロシアの侵略」に抵抗したときにきわめて劇的に例証された。(3)
 しかし、十月革命後のボルシェヴィキの行動と政策は全くの空白から形成されたのではなく、内戦という要因がほとんどつねにそれらを説明するためにきわめて重要だった。
 内戦は、1918年半ばに勃発した。それは、ロシアとドイツの間のブレスト=リトフスク講和が正式の結論を得て、ロシア軍がヨーロッパ戦争から明確に撤退した、数ヶ月だけ後のことだった。
 内戦は、多くの前線での、多様な白軍(すなわち、反ボルシェヴィキ軍)との戦闘だった。白軍は、ヨーロッパ戦争でのロシアの従前の連盟諸国を含む諸外国の支援を受けていた。
 ボルシェヴィキは内戦を、国内的意味でも国際的意味でも階級戦争だと見なした。すなわち、ロシアのブルジョアジーに対するロシアのプロレタリア-ト、国際的資本主義に対する(ソヴェト共和国が好例である)国際的な革命。
 1920年の赤軍(ボルシェヴィキ)の勝利は、したがってプロレタリアの勝利だった。しかし、この闘いの苦しさは、プロレタリア-トの階級敵がもつ力強さと決意を示していた。
 干渉した資本主義諸国は撤退したけれども、ボルシェヴィキは、その撤退が永続するとは信じなかった。
 彼らは、より適当な時期に国際資本主義勢力が戻ってきて、国際的な労働者の革命を根こそぎ壊滅させようとするだろうと予期した。//
 内戦は疑いなく、ボルシェヴィキと幼きソヴェト共和国に甚大な影響を与えた。
 内戦は社会を分極化し、長くつづく怨念と傷痕を残した。外国の干渉は「資本主義の包囲」に対する永続的なソヴェトの恐怖を作り出した。その恐怖には、被害妄想(paranoia)と外国恐怖症の要素があった。
 内戦は経済を荒廃させ、産業をほとんど静止状態にさせ、町を空っぽにした。
 これは経済的でかつ社会的な意味はもちろん、政治的な意味をもった。工業プロレタリア-ト-ボルシェヴィキがその名前で権力を奪取した階級-の少なくとも一時的な解体と離散を意味したのだから。//
 ボルシェヴィキが初めて支配することを経験した、というのが内戦の経緯にはあった。そして、これは疑いなく、多くの点で党のその後の展開の型を形成した。(4)
 内戦中のある時期には、50万人以上の共産党員が赤軍で働いた(そして、この集団の中の大まかには半分が、ボルシェヴィキに入党する前に赤軍に加わっていた)。
 1927年のボルシェヴィキの全党員のうち、33%が1917-1920年に入党した。一方、わずかに1%だけが、1917年以前からの党員だった。(5)
 こうして、革命前の地下生活-「古参」ボルシェヴィキ指導者たちの揺籃期の体験-は1920年代のほとんどの党員にとっては風聞によってだけ知られていた。 
 内戦中に入党した集団にとって、党とは最も文字どおりの意味で、戦闘する仲間だった。
 赤軍の共産党員たちは、党の政策の用語に軍事専用語彙を持ち込み、軍の制服と靴をほとんど1920年代および1930年代初めの党員の制服にした。-かつてはふつうの職に就いていた者や若すぎて戦争に行けなかった者たちすら身につけた。//
 歴史研究者の判断では、内戦の経験は「ボルシェヴィキ運動の革命的文化を軍事化した」。そして、「強制力に簡単に頼ること、行政的指令による支配(administrirovanie)、中央志向の行政や略式司法」といった遺産を党に残した。(6)
 ソヴィエト(とスターリニズム)の権威主義の起源に関するこのような見方は、党の革命前の遺産やレーニンの中央志向の党組織や厳格な紀律の主張を強調する、西側の伝統的な解釈と比べて、多くの点でより満足できるものだ。
 にもかかわらず、党の権威主義傾向を補強した他の要因もまた、考察しなければならない。
 第一に、少数者による独裁はほとんど必然的に権威主義的になり、その幹部として働く者たちは、レーニンが1917年の後でしばしば批判した上司気分やいやがらせの習癖を極度に大きくしがちだった。
 第二に、ボルシェヴィキ党の1917年の勝利は、ロシアの労働者、兵士と海兵の支持による。そして、これらの者たちは、古いボルシェヴィキ知識人たちよりも、反対者を粉砕し、如才のない説得ではなく実力でもって権威を押しつけることを嫌がる傾向が少なかった。//
 最後に、内戦と権威主義的支配の連環を考察するには、ボルシェヴィキと1918-20年の政治的環境の間には二つの関係があった、ということを想起する必要がある。
 内戦はボルシェヴィキに何ら責任のない、神の予見できない行為だったのではない。
 反対に、ボルシェヴィキは、1917年の二月と十月の間の月日に、武装衝突や暴力と提携した。
 そして、ボルシェヴィキの指導者たちは事態の前に完璧に十分に知っていたように、十月蜂起は多くの者によって、明白に内戦へと挑発するものだと見られていた。
 内戦は確かに、新体制に対して戦火による洗礼を施した。そして、それによって新体制の将来の行く末に影響を与えた。
 しかし、その洗礼の受け方はボルシェヴィキが危険を冒して採用したものであり、彼らが追求したものですらあったかもしれない。(7)
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 (1) 地方での革命のその後に関する資料につき、Peter Holquist, <戦争開始、革命案出-危機のロシア共産主義、1913年-1921年>(Cambridge & London, 2002)(ドン地域について)、およびDonald J. Raleigh, <ロシア内戦の経験-Saratov での政治、社会と革命的文化、1917年-1922年>(Princeton, NJ, 2002)を見よ。
 (2) Terry Martin, <積極的差別解消(Affirmative Action)帝国>(Ithaca, 2001), p.8, p.10.
 (3) この論点に関する議論につき、Ronald G. Suny, 「ロシア革命におけるナショナリズムと階級-比較的討論」、E. Frankel, J. Frankel & B. Knei-Paz, eds, <革命のロシア-1917年に関する再検証>(Cambridge, 1992)所収、を見よ。
 (4) 内戦の影響につき、D. Koenker, W. Rosenberg & R. Suny, eds, <ロシア内戦における党、国家と社会>(Bloomington, IN, 1989)を見よ。
(5) T. H. Rigby, <ソヴィエト同盟の共産党員, 1917-1967年>(Princeton, NJ, 1968), p.242.<Vsesoyuznaya partiinaya perepis' 1927 goda. Osnovnye itogi perepisi>(Moscow, 1927), p.52.
 (6) Robert C. Tucker, 「上からの革命としてのスターリニズム」、Tucker, <スターリニズム>所収p.91-92.
 (7) こうした議論は、Sheila Fitzpatrick「形成期の経験としての内戦」、A. Gleason, P. Kenez & R. Stites, eds, <ボルシェヴィキ文化>(Bloomington, IN, 1985)所収、で詳しく述べた。
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 第1節・内戦、赤軍およびチェカ。
 ボルシェヴィキの十月蜂起の直後、カデットの新聞は革命を救うために武装することを呼びかけ、コルニロフ将軍の愛国者兵団は親ボルシェヴィキ兵や赤衛隊と衝突してペテログラード郊外のプルコヴォ高地どの戦闘に敗れ、モスクワでは大きな戦闘があった。
 この第一次戦闘で、ボルシェヴィキは勝った。
 しかし、ほとんど確実に、彼らはもう一度戦闘をしなければならなかった。
 ドイツおよびオーストリア-ハンガリーと戦争中の南部戦線にいる大ロシア軍には、北西部のそれによりも、ボルシェヴィキは人気がなかった。
 ドイツはロシアと戦争を継続中であり、東部戦線での講和についてはドイツには有利だったにもかかわらず、連盟諸国から得た支援以上のドイツによる酌量を、ロシア新体制はもはや計算することができなかった。
 東部戦線のドイツ軍司令官は、1918年2月早くの日記にこう書いた。そのときは、ブレスト=リトフスクでの講和交渉の決裂後に、ドイツ軍が新規に攻勢をする直前だった。
 『逃げ出すことはできない。さもなくば、この野蛮者たち〔ボルシェヴィキ〕はウクライナ、フィンランドとバルトをなぎ倒し、新しい革命軍と穏やかに一緒になり、ヨーロッパ全体を豚小屋のごとき陋屋に変えるだろう。<中略>
 ロシア全体が、うじ虫の巨大な堆積物だ。-汚らしい、大挙して脅かすゴロツキたちだ。』(8)
 1月〔1918年〕のブレストでの講和交渉の間、トロツキーはドイツ側が提示した条件を拒み、「戦争はなく、平和もない」という戦略をとるのを試みた。これは、ロシアは戦争を継続しないが、受容できない条件での講和に署名しもしない、ということを意味した。
 これは全くの虚勢だった。ロシア軍は前線で融解しつつあり、一方で、ボルシェヴィキは同じ労働者階級の連帯を訴えたにもかかわらず、ドイツ軍はそうではなかったからだ。
 ドイツはトロツキーの虚勢に対して開き直り、その軍は前進し、ウクライナの大部分を占拠した。//
 レーニンは、講和することが不可欠だと考えていた。
 ロシアの戦力とボルシェヴィキが内戦を闘う蓋然性からすると、これはきわめて理性的だった。
 加えて、ボルシェヴィキは十月革命前に、ロシアはヨーロッパの帝国主義戦争から即時に撤退すべきだと言明していた。
 しかしながら、十月でもってボルシェヴィキは「平和政党」(peace party、平和主義の党)だと理解するのは、相当の誤解を招くだろう。
 十月にケレンスキーに対抗してボルシェヴィキのために闘う気持ちのあったペテログラードの労働者たちには、ドイツ軍に対抗してペテログラードのために闘う気持ちもあった。
 この戦闘的な雰囲気は、1918年の最初数ヶ月のボルシェヴィキ党へ強く反映されていた。そしてこれはのちには、内戦を闘う新体制にとって大きな財産になることになった。
 ブレストでの交渉の時点でレーニンには、ドイツとの講和に調印する必要についてボルシェヴィキ中央委員会すらをも説得することが、きわめて困難だった。
 党の「左翼共産主義者」は、侵略者ドイツに抵抗する革命的ゲリラ戦争を主張した。-「左翼共産主義者」とは若きブハーリン(Nikolai Bukharin)らのグループで、のちにブハーリンは、指導層内部でのスターリンの最後の対立者として歴史上の位置を占めた。
 そしてこの当時はボルシェヴィキと連立していた左翼エスエルも、同様の立場を採った。
 レーニンは最後には、退任すると脅かして、ボルシェヴィキ党中央委員会による票決を迫った。それは、じつに苦しい戦いだった。
 ドイツが攻撃に成功してその後で課した条件は、1月に提示したものよりも相当に苛酷なものだった。
 (しかし、ボルシェヴィキは好運だった。ドイツはのちにヨーロッパ戦争に敗れ、その結果として東部の征圧地を失ったのだから。)//
 ブレスト=リトフスクの講和によって、軍事的脅威からの短い息抜きだけが生じた。
 旧ロシア軍の将校たちは南部のドンやクバンのコサック地帯に兵を集結させており、提督コルチャク(Kolchak)は、シベリアに反ボルシェヴィキ政権を樹立していた。
 イギリスは兵団をロシア北部の二つの港、アルハンゲルスク(Arkhangelsk)とムルマンスクに上陸させた。表向きはドイツと戦うためだったが、実際には新しいソヴェト体制に対する地方の反対勢力を支援する意図をも持って。//
 戦争の不思議な成り行きで、非ロシア人の兵団ですら、ロシア領土を通過していた。-およそ3万人のチェコ人軍団で、ヨーロッパ戦争が終わる前に西部前線に達する希望をもっていた。チェコ軍団はそうして、連盟諸国の側に立って旧宗主国のオーストリアと戦い、民族の独立という彼らの主張を実現したかったのだ。
 ロシアの側から戦場を横切ることができなかったので、チェコ軍はシベリア横断鉄道で<東>へとありそうにない旅をしてウラジオストクにまで行き、船でヨーロッパに帰ろうと計画した。
 ボルシェヴィキは、そのような旅を公式に認めなかった。しかし、地方のソヴィエトは武装した外国人の一団が経路途上で鉄道駅に着くのに敵意をもって反応していたが、こうした反応がなくなったのではなかった。
 1918年5月、そのチェコ軍は、ボルシェヴィキが支配していたチェリャビンスク(Chelyabinsk)というウラルの町のソヴィエトと初めて衝突した。
 別のチェコ軍の一団は、ボルシェヴィキに対抗してエスエルが短命のヴォルガ共和国を設立しようと起ち上がったとき、サマラのロシア・エスエルを支援した。
 チェコ軍はロシアの外で多少とも戦いながら進んで、終わりを迎えた。そして、全員がウラジオストクを去って船でヨーロッパに戻ったのは、多くの月を要した後だった。//
 内戦それ自体は-ボルシェヴィキの「赤軍」対反ボルシェヴィキの「白軍」-、1918年夏に始まった。
 この時期にボルシェヴィキは、首都をモスクワに移転させた。ドイツ軍が攻略するという脅威をペテログラードは逃れていたが、将軍ユデニチ(Yudenich)が指揮する白軍の攻撃にさらされたからだ。
 しかし、国家の大部分はモスクワの有効な統制のもとにはなかった(シベリア、南部ロシア、コーカサス、ウクライナおよび地方ソヴェトを間欠的に都市的ソヴェトが支配したウラルやヴォルガの地域の多くをも含む)。そして、白軍は、東部、北西部および南部からソヴェト共和国を脅かした。
 連盟諸国の中で、イギリスとフランスはロシアの新体制にきわめて敵対的で、白軍を支援した。それらの直接的な軍事介入は、かなり小さな規模だったけれども。
 アメリカ合衆国と日本は、シベリアに兵団を派遣した。-日本軍は領域の獲得を望んで、アメリカ軍は混乱しつつ、日本を抑え、シベリア横断鉄道を警護しようとした。またおそらくは、アメリカの民主主義の規準で推測すれば、コルチャクのシベリア政権を支援するために。//
 ボルシェヴィキの状況はじつに1919年に、絶望的に見えた。そのとき、彼らが堅く支配している領土は、大まかには16世紀のモスクワ大公国(Muscovite Russia)と同じだった。
 しかし、対立者〔白軍側〕もまた、格別の問題を抱えていた。
 第一に、白軍はほとんどお互いに独立して活動し、中央の指揮や協力がなかった。
 第二に、白軍が支配する領域的基盤は、ボルシェヴィキのそれ以上に希薄なものだった。
 白軍が地域政府を設立したところでは、行政機構を最初から作り出さなければならず、かつその結果はきわめて不満足なものだった。
 歴史的にモスクワとペテルブルクに高度に集中していたロシアの輸送や通信制度は、周縁部での白軍の活動を容易にはしなかった。
 白軍は赤軍だけではなくて、いわゆる「緑軍」にも悩まされた。-これは農民とコサックの軍団で、いずれの側にも忠誠を与えず、白軍が根拠にしていた遠い辺鄙な地帯で最も行動した。
 白軍は旧帝制軍隊出身の将校たちを多く有していたが、彼らが指揮をする兵士の新規募集や徴用によって兵員数を確保するのは困難だった。//
 ボルシェヴィキの戦力は、1918年春に戦争人民委員となったトロツキーが組織した赤軍だった。
 赤軍は最初から設立されなければならなかった。旧ロシア軍の解体が早く進みすぎて、止められなかったからだ(ボルシェヴィキは権力奪取後すぐに、全軍の動員解除を発表した)。
 1918年最初に形成された赤軍の中心は、工場出身者による赤衛隊および旧軍や艦隊出身のボルシェヴィキの一団で成っていた。
 この赤軍は自発的な募兵によって膨らみ、1918年夏からは、選抜しての徴兵になった。 労働者と共産党員は、初めて徴兵されることになった。そして、内戦の間ずっと、戦闘兵団のうちの高い割合を提供した。
 しかし、内戦の終わりまでに、赤軍は、主としては農民徴兵者の、500万以上の入隊者のいる大量の組織になった。
 これらの約10分の1だけが戦闘兵団で(赤軍と白軍の両派が配置した戦力は、ある特定の前線では10万人をほとんど超えなかった)、残りの者は供給、輸送または管理的な仕事に就いた。
 赤軍はかなりの範囲で、民間人による行政が破壊されて残した空隙を充填しなければならなかった。すなわち、そのような行政機構は、ソヴェト体制が近年に持つ、最大でかつ最もよく機能する官僚制を伴っていた。また、全ての利用可能な資産の中で最初に欲しいものだった。//
 多くのボルシェヴィキは、赤衛隊のようなmilitia(在郷軍、民兵)タイプの一団をイデオロギー的に好んだ。しかし、赤軍は最初から通常の軍隊の方向で組織され、兵士は軍事紀律に服し、将校は選挙されないで任命された。
 訓練をうけた軍事専門家が不足していたので、トロツキーとレーニンは旧帝制軍出身の将校たちを使おうと強く主張した。この政策方針は、ボルシェヴィキ党内でかなり批判され、軍事反対派は連続する二つの大会で反対にしようとしたけれども。
 内戦の終わりまでに、赤軍には5万人以上の以前は帝制軍将校だった者がいた。そのほとんどは徴兵されていて、上級軍事司令官の大多数はこのグループの出身だった。
 旧将校たちが忠実であるのを確保するために、彼らは通常は共産党員である政治委員に付き添われた。政治委員は、全ての命令に副署して、軍事司令官と最終的責任を共有した。//
 この軍事力に加えて、ソヴェト体制はすみやかに治安機構を設立した。-反革命、怠業および投機と闘争するための全ロシア非常時委員会で、チェカ(Cheka)として知られる。 この組織が1917年12月に創立されたとき、その直接の任務は、十月の権力奪取後に続いた、強盗団、略奪および酒類店の襲撃の発生を統制することだった。
 しかし、それはすぐに、保安警察というより幅広い機能を有して、反体制陰謀に対処した。また、ブルジョア的「階級敵」、旧体制や臨時政府の役人たちおよび反対政党の党員などの、忠誠さが疑わしい集団を監視した。
 チェカは、内戦開始後はテロルの機関になり、処刑を含む略式の司法的機能をもち、白軍の指揮下にあるか白軍へと傾いている地域で、大量に逮捕し、手当たり次第に人質に取った。
 1918年および1919年前半での欧州ロシアの20州に関するボルシェヴィキによる統計数によると、少なくとも8389人が審判を受けることなくチェカによって射殺され、8万7000人が拘束された。(9)
 ボルシェヴィキのテロルと同等のものは白軍にあり、ボルシェヴィキ支配下の領域で反ボルシェヴィキ勢力によって行われた。そして、同じような残忍さが、どちらの側にもあった。
 しかしながら、ボルシェヴィキは自分たちがテロルを用いていることについて率直に認めていた(このことは、略式司法だけではなくて、特定の集団または民衆全体を威嚇するための、個々の罪とは関係がない無作為の制裁があったことを示唆する)。
 ボルシェヴィキはまた、暴力行使について精神的に頑強であることを誇りにしていた。ブルジョアジーの口先だけの偽善を嫌がり、プロレタリア-トを含むいかなる階層の支配に対しても、別の階層に対する強制力の行使に関係させることを認めたのだ。
 レーニンとトロツキーは、テロルの必要性を理解できない社会主義者に対する侮蔑を明言した。
 レーニンは、「怠業者や白軍兵士を射殺する意欲がなかったならば、革命とはいったいどんな種類のものなのだ?」と新政府の同僚たちに説諭した。(10) 
 ボルシェヴィキが歴史上にチェカの活動との類似物を探し求めたとき、彼らはふつうに、1794年のフランスの革命的テロルに論及した。
 彼らはいかなる類似性も、帝制下の秘密警察には見出さなかった。西側の歴史研究者はしばしば、それを引き合いに出すけれども。
 チェカは実際に、旧警察よりもはるかに公然とかつ暴力的に活動した。そのやり方は、一つには1917年にその将校に対処したバルト艦隊の海兵たちによる階級的復讐、あるいは二つには1906-7年のストリュイピンによる田園地帯の武力による鎮圧とはるかに共通性があった。
 帝制期の秘密警察との類似性は内戦後について語るのが適切になった。内戦後にチェカはGPU(国家政治保安部)に置き換えられ-テロルの廃止と合法性の拡大への動き-、保安機関はその活動方法についてより日常的で官僚的で、慎重なものになった。 
 長期的観点から見ると、帝制秘密警察とソヴィエトのそれの間には、明らかに継続性の要素が強くあった(明らかに人員上の継続性はなかったけれども)。
 そして、それが明瞭になるにつれて、保安機能に関するソヴィエトの説明は捕捉し難い、偽善的なものになった。//
 赤軍とチェカはともに、内戦でのボルシェヴィキの勝利に重要な貢献をした。
 しかしながら、この勝利を単純に軍事力とテロルの観点から説明するのは適切でないだろう。とりわけ、赤軍と白軍の間の戦力の均衡度を査定する方法を誰も見出していなかったのだから。
 社会による積極的な支援と消極的な受忍が考察されなければならない。そして、これらの要因が、おそらくは最も重要だった。
 赤軍は積極的支持を都市的労働者階級から得て、ボルシェヴィキはその組織上の中核部分を提供した。
 白軍は積極的支持を旧中間および上層階級から得て、その一部は主要な組織活動家として働いた帝制時代の将校団だった。
 しかし、均衡を分けたのは確実に、人口の大多数を占める農民層だった。//
 赤軍も白軍もいずれも、それらが支配する領域で農民を徴兵した。そしていずれの側にも、かなりの割合で脱走があった。
 しかしながら、内戦が進展するにつれて、農民の徴兵が顕著に困難になったのは、赤軍以上に白軍だった。
 農民たちは穀物徴発というボルシェヴィキの政策に憤慨していた(後述、p.82-83を見よ)。しかし、この点では白軍の政策も変わりはなかった。
 農民たちはまた、1917年のロシア軍での体験がたっぷりと証明していたので、誰かの軍で働く大きな熱意がなかった。
 しかしながら、1917年に農民の支持が大きく低下したのは、土地奪取と村落による再配分と密接に関係していた。
 この過程は1918年末までには、ほぼ完了した(このことは軍役に対する農民の反感を減らした)。そして、ボルシェヴィキはこれを是認した。
 一方で白軍は、土地奪取を是認しないで、従前の土地所有者の要求を支持した。
 かくして、土地というきわめて重大な問題について、ボルシェヴィキの方が、より小さい悪だった。(11)//。
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 (8) J. W. Wheeler-Bennett, <ブレスト=リトフスク、忘れられた平和-1918年3月>(New York, 1971), p.243-4. から引用した。
 (9) 数字は、Aleksander I. Solzhenitsyn, <収容所列島、1918年-1956年>、訳・Thomas P. Whitney(New York, 1974),ⅰ-ⅱ, p.300. から引用した。
 ペテログラードでのチェカの活動につき、Mary McAuley, <パンと正義-ペテログラードにおける国家と社会、1917年-1922年>(Oxford, 1991), p.375-393. を見よ。
(10) テロルに関するレーニンの言明の例として、W. Bruce Lincoln, <赤の勝利-ロシア内戦史>(New York, 1989)を見よ。
 トロツキーの考え方につき、彼の<テロルと共産主義: カウツキー同志に対する返答>(1920)を見よ。
 (11) 農民の態度につき、Orland Figes, <農民ロシア、内戦: 革命期のヴォルガ田園地帯・1917年-1921年>(Oxford, 1989)を見よ。
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 第三章・内戦のうち「はじめに」と第1節(内戦・赤軍・チェカ)が終わり。

1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第8回。
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 第4節・夏の政治危機
 6月半ば、今は臨時政府の戦時大臣であるケレンスキーはロシア軍に、ガリシアの前線での大規模な攻撃を命じた。
 それは二月革命以降の最初の、重大な軍事行動だった。ドイツ軍は自分たちがさらに東部へと侵入することなくしてロシア軍隊が解体していくのを見守っているので満足しており、ロシア軍の最高司令部は敗北を怖れ、主導性を発揮せよとの連盟諸国からの圧力に早くに抵抗していたときだったから。
 ロシアのガルシア攻撃は6月と7月初頭に行われ、積算で20万人の死傷者を出して失敗した。
 これは、あらゆる意味での厄災だった。
 軍隊の志気はいっそう低下し、ドイツ軍は反抗に成功し始めて、夏から秋の間じゅう続いた。
 土地略奪の報せに反応して農民兵士になっているロシア軍側の脱走兵は、異常な割合にまで達した。
 臨時政府の信用は地に落ち、政府と軍指導者の間の緊張が高まった。
 7月初め、政府の危機が、カデット(リベラル派)の全閣僚が去り、臨時政府の長のルヴォフ公が辞任したことで急に発生した。//
 この危機のさ中、ペテログラードで再び大衆の集団示威行動、街頭での暴力、そして七月事件(the July Days)として知られる民衆騒擾が突如として起こった。(15) //
 同時代の目撃者は50万人にまで達するとする群衆は、クロンシュタットの海兵の派遣団、兵士、ペテログラード工業施設からの労働者を含んでいた。
 臨時政府には、ボルシェヴィキによる蜂起の試みのようだった。
 ペテログラードに到着して騒擾を開始したクロンシュタットの海兵たちは、その指導者の中にボルシェヴィキがおり、「全ての権力をソヴェトへ」というボルシェヴィキのスローガンを記した旗を持った。そして、最初の目的地は、ボルシェヴィキ党の司令部があるクシェシンスカヤ宮(Kseshinskaya -)だつた。
 だが、示威行進者がクシェシンスカヤ宮に着いたとき、レーニンの挨拶は抑制的なもので、ほとんど無愛想だつた。
 レーニンは、臨時政府または現在のソヴェト指導部に対して暴力的活動をするように勇気づけはしなかった。
 そして、群衆はソヴェト〔の所在地〕へと動いて威嚇しつつ、暴力的活動を行わないで周りをうろつき回った。
 混乱し、指導部と特定の計画を持たず、示威行進者たちは市内を歩き回り、酔っ払って略奪し、そして最後に解散した。//
 七月事件は、ある意味では、4月以降のレーニンの揺るぎない立場を証明するものだった。臨時政府と二重権力に反対する民衆の強い感情、連立する社会主義者に耐えられないこと、そしてクロンシュタット海兵その他の一部にある暴力的対立意識およびおそらくは蜂起への熱意を示したものだったからだ。
 しかし、別の意味では、七月事件はボルシェヴィキにとっての災難だった。
 レーニンとボルシェヴィキ中央委員会は明らかに、動揺していた。
 彼らは蜂起について一般的には語り合ったが、それを企画することはなかった。
 海兵たちの革命的雰囲気に反応したクロンシュタットのボルシェヴィキは、実際にはボルシェヴィキ中央委員会が承認していない主導性を発揮した。
 事件全体は、ボルシェヴィキの志気と革命指導者としてのレーニンの信頼性を損なった。//
 指導者たちの躊躇と不確実な対応があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは七月事件について臨時政府とソヴェトの穏健な社会主義者たちから非難されたため、損失はそれだけ大きかった。
 臨時政府は、二月革命以来全政党の政治家たちが享有してきた「議員免責特権」を撤回して、厳罰に処することを決定した。
 いく人かの著名なボルシェヴィキが逮捕された。その中には、5月にロシアに帰って以降はレーニンに近い極左の立場を採り、8月に正式にボルシェヴィキ党員になる予定のトロツキーもいた。
 レーニンとボルシェヴィキ指導部の中の彼の緊密な仲間であるジノヴィエフの逮捕状が発せられた。
 さらに、七月事件の間に臨時政府は、ある噂の信憑性を支持する証拠があるという示唆を握った。その噂とは、レーニンはドイツの工作員だというものだった。そして、ボルシェヴィキは、新聞の愛国主義的論調による非難にさらされ、一時的に軍隊や工場での人気を落とした。
 ボルシェヴィキ党中央委員会は(そして疑いなくレーニン自身も)、レーニンの身柄の安全を気遣った。
 レーニンは潜伏し、8月早くに作業員に変装して境界を越え、フィンランドに逃亡した。//
 しかしながら、ボルシェヴィキが困難な状況にあったとすれば、それは七月初めから首相になったケレンスキーが率いる臨時政府についてもそうだった。
 リベラル派と社会主義派の連立は恒常的な混乱に陥り、社会主義者はソヴィエトの支援者たちによって左へと動き、リベラルたちは実業家、土地所有者および軍事司令官たちの圧力をうけて右へと動いた。後者の者たちは、権威の崩壊と民衆騒擾でもってますます警戒心を強めていた。
 ロシアを救うという使命を気高く意識していたにもかかわらず、ケレンスキーは本質的には中庸を行く、政治的妥協への交渉者だった。大しては信頼もされず尊敬もされず、諸大政党のいずれにも政治的基盤がなかった。
 彼が悲しくも、こう愚痴をこぼしたように。
 「私は左翼のボルシェヴィキと右翼のボルシェヴィキの両方と闘っている。
 しかし、民衆はそのどちらかに凭り掛かれと要求する。<中略>
 私は真ん中の途を進みたい。しかし、誰も私を助けてくれようとしない」。(16)//
 臨時政府はますます、いずれかの方向に崩壊しそうに見えた。しかし、問題はどの方向にか?、だった。
 左翼からの脅威は、ペテログラードでの民衆蜂起および/またはボルシェヴィキのクーだった。
 このような挑戦は7月に失敗したが、北西前線でのドイツ軍の活動は、最も不吉な徴候としてペテログラードの周りの軍隊に対してきわめて強い緊張を強いていた。そして、憤慨し、武装した、働き場のない脱走兵たちの大量流入が、間違いなく市自体の中での街頭暴力を生じさせる危険を増大させた。
 臨時政府に対するもう一つの脅威は、法と秩序の独裁制を樹立しようとする右翼からのクーの可能性だった。
 夏までに、この方策は軍隊上層部で論議されており、ある範囲の実業家たちから支持を得ていた。
 徴候としては、このような動きに事前にかつ公共的言明によって明らかに反対しなければならなかっただろうカデットですら、少なからず安堵して既成事実を受け入れるかもしれなかった。//
 8月、ついに将軍コルニロフ(Lavr Kornilov)が右翼からのクーを試みた。ケレンスキーは最近に彼を、ロシア軍の秩序と紀律を回復させるという指示のもとで軍最高司令官に任命していた。
 コルニロフの動機は明らかに、個人的野心にではなく、国家の利益に関する意識にあった。
 実際、強力な政府を確立して騒ぎを起こす左翼に対処するために軍が干渉するのをケレンスキーは歓迎するだろうと、コルニロフは考えていたかもしれなかった。ケレンスキーはある程度はコルニロフの意図を知っていて、奇妙に迂回したやり方で彼を処遇したのだから。
 二人の主要な役者の間にあった誤解は事態を混乱させ、コルニロフが動く直前にドイツ軍がリガ(Riga)を掌握したという予期しなかったことも、狼狽に輪をかけた。そして、疑念と絶望の気分がロシアの民間および軍隊の指導者たちに広がっていた。
 8月の最終週、将軍コルニロフは、当惑しつつも決断して、表向きは首都の不安を鎮静化して共和国を救うために、兵団を前線からペテログラードへと派遣した。//
 クーの企図が挫折した理由の大部分は、兵団に信頼がなかったこととペテログラードの労働者の旺盛な行動だった。
 鉄道労働者たちは兵団列車の方向を変えて、妨害した。
 印刷工たちは、コルニロフの動きを支持する新聞の発行を止めた。
 金属労働者たちは近づく兵団を迎えるために外に飛び出し、ペテログラードは平穏で、兵団は将校たちに欺されているのだと説明した。
 このような圧力をうけて兵団の志気は減退し、大きな軍事的成功は何もないまま、ペテログラードの郊外でクーは終わった。そして、コルニロフの指令で行動していた指揮官の将軍クリモフ(Krymov)は臨時政府に降伏し、自殺した。
 コルニロフ自身は軍司令部に逮捕され、抵抗することなく、全責任を甘受した。//
 ペテログラードでは中央と右翼の政治家たちが、ケレンスキーが引き続き率いる臨時政府への忠誠を再確認した。
 しかし、ケレンスキーの立場はそのコルニロフ事件への対応の仕方のためにさらに傷つき、政府は弱体化した。
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会もまた、信頼を低下させた。コルニロフに対する抵抗は、多くは地方の組合や工場レベルのものにすぎなかったからだ。
 そして、これらによって、ボルシェヴィキへの支持は急上昇し、ボルシェヴィキがソヴェト内のメンシェヴィキ・エスエル指導部をすみやかに解任することが可能になった。
 軍司令部は最大の打撃を受けた。最高司令官の逮捕とクーの失敗によって、志気は喪失し、混乱に陥ったのだ。
 将校たちと兵士たちの間の関係は、明瞭に悪化した。そして、これだけでは不十分であるかのごとく、ペテログラードを明らかに目指して、ドイツ軍が前進し続けていた。
 9月半ば、コルニロフの後継者の将軍アレクセイエフが、コルニロフの高潔な動機を称える気持ちを言明して、突然に辞任した。
 アレクセイエフは、紀律が崩壊してしまい「我々の将校たちは殉教者である」軍隊についての責任をもう負うことはできない、と感じていた。//
 『現実に、この戦慄すべき危険があるときに、私は恐怖に脅えて、我々には軍は存在しない(この言葉の際に将軍の声は震え、彼は数滴の涙を零した)、一方でドイツ軍は、いつでも我々に最後のかつ最大の強力な一撃を放つように準備をしている、と言明する。』(17)//
 左翼が、コルニロフ事件によって最も多くを得た。この事件は右翼による反革命の脅威という以前は抽象的だった観念に実体を与え、労働者階級の強さを証明し、同時に多くの労働者たちに、自分たちの武装した警戒だけが革命をその敵から守ることがでるきと確信させた。
 まだ投獄されているか潜伏中の指導者が多くいるボルシェヴィキは、コルニロフに対する実際の抵抗には特別の役割を何ら果たさなかった。
 しかし、民衆の意見の新しい揺れの方向はボルシェヴィキであり、そのことはすでに8月初めには感知されていたが、コルニロフがクーに失敗した後で急速に明らかになった。
 そして、実際的な意味で言うと、コルニロフの脅威に対する反応として始まった労働者の軍団、あるいは「赤衛隊」(the Red Guards)、の設立により、将来の収穫を刈り取るのはボルシェヴィキであることになった。
 ボルシェヴィキの強さは、ブルジョアジーや二月体制との連携へと妥協しなかった唯一の政党だということだった。そしてこの党は、労働者の権力と武装蜂起という考え方と最も緊密に結びついていた。//
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 (15) 七月事件につき、A. Rabinowitch, <革命への序曲-ペテログラード・ボルシェヴィキと1917年7月蜂起>(Bloomington, IN, 1968)を見よ。
 (16) A. Rabinowitch, <ボルシェヴィキが権力に至る>(New York, 1976).p.115. から引用した。
 (17) 将軍アレクセイエフへの新聞インタビュー(Rech', 1917年9月13日付、p.3)、Robert Paul Browder & Alexander Kerensky 編, <1917年のロシア臨時政府: 資料文書>Stanford, 1961), ⅲ, p.1622に収載。
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 第5節・十月革命。
 4月から8月まで、ボルシェヴィキのスローガン「全ての権力をソヴェトへ」は本質的には挑発的なものだった。-ソヴェトを支配した穏健派に向けられた皮肉であって、全ての権力を奪うつもりはなかった。
 しかし、穏健派に支配権がなくなったコルニロフ事件の後では、状況は変わった。
 8月31日、ボルシェヴィキはペテログラード・ソヴェトの多数派を握った。9月5日、モスクワ・ソヴェトでもそうなった。
 かりに10月に予定されていた全国ソヴェト第二回大会で首都でと同じ政治的趨勢が続いていたとすれば、いったい何が意味されただろうか?
 ボルシェヴィキは、臨時政府はもはや支配する権能を持たないとするその大会の決定にもとづいて、法に準じた(quasi-legal)ソヴェトへの権力の移行を望んだだろうか?
 それとも、そのかつてのスローガンは、実際に暴力的蜂起への呼びかけだったのか、あるいはボルシェヴィキは(他とは違って)権力を奪取する勇気があることの宣言だったのか?//
 9月、レーニンはフィンランドの潜伏場所からボルシェヴィキ党に対して、武装蜂起の準備をするように迫る手紙を書き送った。
 革命のときは来た、遅くなる前に、奪取しなければならない、と彼は述べた。
 遅れるのは、致命的だろう。
 ボルシェヴィキは、ソヴェトの第二回〔全国〕大会の会合の<前に>行動を起こして、大会がするかもしれないいかなる決定をも阻止しなければならない、と。//
 レーニンによる即時の武装蜂起の主張は情熱的なものだったが、指導部にいる仲間たちの確信を完全には抱かせはしなかった。
 潮目が明らかに我々に向かっているときに、なぜボルシェヴィキは絶望的な賭けを冒す必要があるのか?
 さらに言えば、レーニン自身が帰ってきておらず、責任を取れなかった。レーニンが本当に真剣であるならば、確実に彼はこれをしたのか?
 夏にレーニン向けられた責任追及によって、疑いなくレーニンは過分に疲れていた。
 可能性としては、彼は七月事件の間の彼と中央委員会の躊躇について思い悩み、権力を奪取する希有の機会を失ったと考えていた。
 いずれにせよ、全ての大指導者たちと同じく、レーニンは気まぐれだった。
 この雰囲気は、過ぎ去るかもしれなかった。//
 この時点でのレーニンの行動は、確かに矛盾していた。
 一方では、ボルシェヴィキによる蜂起を強く主張した。
 他方では、臨時政府が7月に収監されていた左翼政治家を釈放し、今やボルシェヴィキはソヴェトを支配していて、レーニンに対する切迫した危険があった時期は確実に過ぎていたにもかかわらず、彼は数週間もフィンランドにとどまった。
 彼がペテログラードに戻ったとき、おそらくは10月の第一週の末、ボルシェヴィキすらから離れて潜伏し、怒りと激励の一連の手紙によってのみ党中央委員会に連絡通信をした。//
 10月10日、ボルシェヴィキ中央委員会は、蜂起は好ましいということに同意した。
 しかし、ボルシェヴィキたちの明らかに多くは、ソヴェトの自分たちの立場を使って法に準じた、非暴力的に権力を移行させることに傾斜していた。
 あるペテログラード・ボルシェヴィキ委員会の一員の、のちの回想録はつぎのように語る。//
 『ほとんど誰も、ある特定の時期での、統治の全装置を武装奪取することの始まりだとは考えていなかった。<中略>
 我々は、蜂起とはペテログラード・ソヴェトによる権力の掌握のことだと単直に考えていた。
 ソヴェトは、臨時政府の命令に従うことをやめ、ソヴェト自体に権力があると宣言し、これを妨害しようとする者は誰でも排除するだろう、と。』(18)
 監獄から最近に解放されてボルシェヴィキ党に加入していたトロツキーは、今やペテログラード・ソヴェト多数派の指導者の一人だった。
 トロツキーはまた、1905年のソヴェト指導者の一人でもあった。
 公然とはレーニンに反対しなかったけれども(のちには二人の見解は一致していたと主張した)、彼も蜂起を疑問視し、ソヴェトが臨時政府を除去する課題に対処することができるし、そうすべきだ、と考えたというのは、ありうるように思われる。(19)
 ボルシェヴィキが行う蜂起に対する強い反対が、レーニンの古くからのボルシェヴィキの同僚だった二人、ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)とカーメネフ(Lev Kamenev)から挙がった。
 彼らはボルシェヴィキがクーによって権力を奪取するのは無責任であり、その権力を単独で保持できるとするのは非現実的だ、と考えた。
 ジノヴィエフとカーメネフがこうした主張を自分たちの名前を出して非ボルシェヴィキの日刊新聞紙(マクシム・ゴールキの<Novaya zhizn>)に公表したとき、レーニンの怒りと憤激は新しい次元へと高まった。
 これは理解できるものだった。二人の行為は果敢な抵抗だったのみならず、ボルシェヴィキは秘密裡に蜂起を計画しているということを公的に発表するものだったからだ。//
 このような状勢からすると、ボルシェヴィキの十月クーが巧くいったのは驚くべきことのように見える可能性がある。
 しかし、実際には、積極的な公表があったことは、レーニンの基本的考えを妨げたのではなく、むしろ助長した。
 そのことは、ボルシェヴィキたちが事前に逮捕されたり、ペテログラード地域の労働者、兵士・海兵がいかなる革命的行動をも非難するという強い徴候を知らされないかぎり、ボルシェヴィキが行動<しない>のは困難な立場へと、ボルシェヴィキを追い込んだ。
 しかし、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対する果敢な反抗措置を取らなかった。そして、ペテログラード・ソヴェトの革命軍事委員会(Military-Revolutionary Committee)をボルシェヴィキが支配していることは、クーを組織するのを比較的に容易にした。
 革命軍事委員会の基本的な目的は、コルニロフのような反革命に対する労働者の抵抗を組織することだった。そして、ケレンスキーは明らかに、そのことに干渉する立場にはいなかった。
 戦争の情勢もまた、重要な要因だった。すなわち、ドイツ軍は前進しており、ペテログラードは脅かされていた。
 労働者たちはすでに、大工業施設を引き渡して市から避難するようにとの臨時政府の命令を拒否していた。彼らは革命に対する政府の意向を信用しておらず、そのゆえにまた、政府のドイツ軍と戦う意思をも信用していなかった。
 (逆説的にだが、ボルシェヴィキの「平和」スローガンに労働者が賛同していたので、労働者たちもボルシェヴィキも、ドイツの脅威が切迫しかつ現実的になったときに戦闘的に反応した。かつての平和スローガンは、リガの陥落後の1917年の秋と冬にはほとんど聞かれなくなっいた)。
 ドイツ軍が接近してきたときにケレンスキーが労働者を武装解除していたならば、彼はおそらく、裏切り者で降伏主義者だとしてリンチを受けて殺されていただろう。//
 10月24日、第二回ソヴェト大会の会合の直前に、ソヴェトの軍事革命委員会の実力部隊が枢要な政府組織を占拠し始めて、蜂起が始まった。彼らは、電信施設と鉄道駅舎を奪い取り、市の橋梁で路上封鎖を開始し、臨時政府が会合をしている冬宮を取り囲んだ。//
 彼らは、ほとんど実力による抵抗に遭遇しなかった。
 街頭は平穏なままであり、市民は日常の仕事をし続けた。
 10月24-25日の夜、レーニンは潜伏場所から現れて、スモルニュイ(Smolny)研究所で同志たちに合流した。スモルニュイは、かつては若い女性たちの学校で、今はソヴェトの最高司令部があった。
 彼もまた静穏で、神経質な不安の状態から回復しているように見えた。そして、当然のこととして、かつての指導者としての地位を取り戻した。//
 10月25日の午後までに、クーはほとんど成功した。-刺激的なことに、中にいる臨時政府の構成員たちをまだ取り囲んでいる冬宮の制圧を除いては。
 その日の夕方遅く、冬宮は陥落した。徐々に減っていく防衛者の一団に対する、いくぶんは混乱した攻撃によって。
 これは、のちのソヴィエトの資料が示唆するよりも英雄的でない事態だった。ネヴァ川の冬宮の反対側に停泊していた戦艦<オーロラ>は、一発の実弾も撃たなかった。そして占拠した部隊はケレンスキーを脇の出入口から抜け出させ、車でうまく市から逃亡させた。
 政治ドラマの観点からすると、これもいくぶん不満足なものだった。ソヴェト大会-ボルシェヴィキの強い主張にもとづいて数時間も最初の会議を延期していた-は、冬宮の陥落の前についに手続を開始した。こうして、劇的な開会の宣言をしようとのボルシェヴィキの意向は打ち砕かれることとなった。
 だがなお、基本的な事実は残ったままだ。すなわち、二月体制は打倒され、権力は十月の勝利者の手に移った。//
 もちろん、このことも、一つの問題を未解明のまま残した。
 いったい誰が、十月の勝利者<だった>のか?
 ソヴェト大会よりも前の蜂起をボルシェヴィキに迫ることで、レーニンは明らかに、この資格がボルシェヴィキに与えられることを望んでいた。
 しかし、ボルシェヴィキは実際には、ペテログラード・ソヴェトの軍事革命委員会を通じて蜂起を組織した。
 そして、偶々なのか企図してか、軍事革命委員会はソヴェト全国大会の会合の直前まで、遅らせた。
 (トロツキーはのちに、これはボルシェヴィキの権力奪取を合法化するためにソヴェトを用いるという輝かしい-明らかにレーニンのそれではないので推測するに彼自身の-戦術だったと描写した。(20))
 報せが地域の外に伝わったとき、最も共通した見方は、ソヴェトが権力を奪取した、というものだった。//
 この問題は、10月25日にペテログラードで開かれたソヴェト大会で十分には明らかにされなかった。
 分かったとき、大会代議員の明確な多数派は、全ての権力のソヴェトへの移行を支持するよう委任(mandat)を受けて出席していた。 
 しかし、これはもっぱらボルシェヴィキ派だったのではなかった(670人の代議員のうち300人がボルシェヴィキで、最大の位置を占めていたが、多数派ではなかった)。そして、そのような委任は、必ずしもボルシェヴィキによる先立つ行動を是認することを意味しはしなかった。
 そのボルシェビキの行動は最初の会合で、メンシェヴィキとエスエルの大集団によって厳しく批判された。この両派は、そのあと、抗議するために大会に出席しなくなった。
 レーニンの古い友人であるマルトフが率いるメンシェヴィキの宥和的姿勢については疑問が出されている。しかし、トロツキーはこのような批判を、思い出しての文章の中で、「歴史のごみ函」に送ってしまった。//
 ソヴェト大会では、ボルシェヴィキは全国すべてについての権力の労働者、兵士、農民のソヴェトへの移行を呼びかけた。
 中央権力に関するかぎりで、論理的に意味するところは、確かに古い臨時政府の場所がソヴェトの常勤の中央執行委員会に奪われるだろう、ということだった。このソヴェト中央執行委員会はソヴェト大会によって選出され、多数の政党の代表者を含むものだった。
 しかし実際は、こうではなかった。
 多くの代議員が驚いたのだが、中央政府の機能は新しい人民委員会議(Council of People's Commissars)が獲得する、と発表された。ソヴェト大会のボルシェヴィキ派全員は、10月26日の大会でボルシェヴィキ党の報道員が読み上げたことによって知った。
 新政府の長はレーニンで、トロツキーは外務人民委員(大臣)だった。//
 ある歴史研究者たちは、ボルシェヴィキの一党支配は意図してではなく歴史的偶然の結果として出現した、と主張してきた。(21)-すなわち、ボルシェヴィキは自分たちだけで権力を奪うつもりはなかった、と。
 しかし、問題にしている意図がレーニンのものだとすれば、この論拠は怪しいように見える。
 そしてまた、レーニンは、党の他の指導者の反対を無視したのだ。
 9月と10月、レーニンは明らかに、複数政党のソヴェトではなくてボルシェヴィキが権力を奪うことを望んでいたと思われる。
 彼は、ソヴェトをカモフラージュとして用いることすら望まず、明確なボルシェヴィキのクーを演じることを選好していただろう。
 確かに、地方では十月革命の直接の結果はソヴェトが権力を掌握した、ということだった。そして、地方のソヴェトはつねにボルシェヴィキが支配していたわけではなかった。
 ボルシェヴィキの十月後のソヴェトに対する態度については異なる諸解釈に開かれているけれども、原理的には、ソヴェトがボルシェヴィキを信頼しているかぎりで地方レベルでソヴェトが権力を行使するのに反対しなかった、と言うのがおそらく公平だろう。
 しかし、この要件を他の政党と競い合う民主主義的選挙と一致させるのは困難だつた。//
 確かにレーニンは新しい中央政府、人民委員会議での連立問題については、全く頑固だった。
 1917年11月、全員がボルシェヴィキの政府からより広い社会主義者の連立へと移行する可能性についてボルシェヴィキ党中央委員会が討議したとき、レーニンは断固としてそれに反対した。異論を受けて若干のボルシェヴィキですら、政府から離れたのだったけれども。
 のちに数人の「左翼エスエル」〔左翼社会革命党、社会革命党左派〕(十月クーを受容したエスエル党の分裂集団の一員たち)が、人民委員会議に加わった。しかし、彼らは、強い党基盤をもたない政治家だった。
 彼らは1918年半ばに政府から除外された。そのとき左翼エスエルは、その最近にドイツと調印された講和条約に反対する暴動を起こしていた。
 ボルシェヴィキは、他政党と連立政府を形成する努力をもはやしなかった。//
 ボルシェヴィキが単独で支配すべきという民衆からの委任(mandate)を得ていたのか、それとも、ボルシェヴィキはそう信じていたのか?
 立憲会議の選挙で(十月のクー以前の予定だったが、1917年11月に実施された)、ボルシェヴィキは民衆による投票数の25パーセントを獲得した。
 これは投票総数の40パーセントを獲得したエスエル党に次ぐ多さだった(クーの問題ではボルシェヴィキを支持した左翼エスエルは、投票リストでは〔エスエル全体と〕区別されなかった)。
 ボルシェヴィキは、より良い結果を期待していた。そしてこれは、投票結果をもっと詳細に検証するならば、おそらく解明できる。(22)
 ボルシェヴィキはペテログラードとモスクワで、そしておそらく都市的ロシア全体では勝利した。
 500万の票をもつ軍隊では別々に計算され、ボシェヴィキは北部および西部の前線とバルト艦隊で絶対多数を獲得した。-ボルシェヴィキが最もよく知る支持者たちであり、ボルシェヴィキが最もよく知られている場所だった。
 南部戦線と黒海艦隊では、ボルシェヴィキはエスエルとウクライナ諸党に敗北した。
 エスエルの全体的な勝利は、農民層の票を村落で獲得したことの結果だった。
 しかし、これに関して一定の不明瞭さはあった。
 農民たちはおそらく単一争点の投票者であり、エスエルとボルシェヴィキの土地に関する基本政策は、ほとんど同じだった。
 しかしながら、エスエルは農民層にははるかによく知られていて、農民はエスエルの伝統的な支持層だった。
 農民がボルシェヴィキの基本政策を知っていたところでは(ふつうは、ボルシェヴィキがより多くの宣伝活動を行った、町、軍駐屯地または鉄道の近くである結果として)、彼らの票は、ボルシェヴィキとエスエルに割れた。//
 にもかかわらず、民主主義的選挙による政治では、敗北は敗北だ。
 ボルシェヴィキは、立憲会議についての選挙が示す見方を採用しなかった。つまり、選挙で勝利できなかったことを理由として権力を手放しはしなかった(そして、会議が招集されて敵だと分かったとき、ボルシェヴィキはそれを素っ気なく解散させた)。
 しかしながら、支配すべきとの委任(mandate)の観点からは、ボルシェヴィキは、自分たちが代表すると主張しているのは民衆全体ではない、と議論することができたし、そう議論した。
 ボルシェヴィキは、労働者階級の名前で権力を奪取した。
 第二回〔全国〕ソヴェト大会と立憲会議の二つの選挙から導き出すことのできる結論は、ボルシェヴィキは、1917年10月から11月にかけて、労働者階級については他のどの党よりも多くの票を獲得した、ということだった。//
 しかし、のちのある時期に、労働者がその支持を撤回することがあれば、いったいどうなるのか?
 プロレタリア-トの意思を代表するというボルシェヴィキの主張は、事実の観察はもとより信念にもとづいている。すなわち、レーニンの見方からすれば、つぎのことは全くあり得ることだ。将来のある時期に労働者プロレタリア-トの意識はボルシェヴィキ党のそれよりも劣っていると分かってしまうが、支配すべきとの党への委任を変更する必要は必ずしもない、ということ。
 おそらくはボルシェヴィキは、このようなことが起きるとは想定していなかった。
 しかし、1917年のボルシェヴィキに対する反対者の多くは想定し、そしてレーニンの党はかりに労働者階級の支持を失っても、権力を放棄することはないだろう、と考えた。
 エンゲルスは、未成熟のままで権力を奪う社会主義政党は、孤立して、抑圧的な独裁制へ向かうこと強いられる可能性があるという警告を発していた。
 明らかにボルシェヴィキの指導者たちは、とくにレーニンは、そうした危険を冒すのを厭わなかった。//
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 (18) Robert V. Daniel, <赤い十月>(New York, 1967), p.82. から引用した。
 (19) 十月革命に関与した大物ボルシェヴィキの行動と意図は、のちに大量に自己に役立つ修正と政治神話の形成を行う主題になった。-公式のスターリニズム的歴史書でのみならず、トロツキーの古典的な<回顧録つき>歴史書である、<ロシア革命の歴史>でも。
 Daniels, <赤い十月>, Ch. 10. を見よ。
 (20) Leon Trotsky, <ロシア革命の歴史>, Max Eastmanによる訳書(Ann Arbor, MI, 1960), ⅲ, Chs. 4~6. 1976
 (21) 例えば、Roy Medvedev, <歴史に判断させよ: スターリニズムの起源と帰結>(1st ed.; New York, 1976), p.381-4. を見よ。
 (22) 以下の分析は、O. Radkey, <ロシアが投票箱に進む-全ロシア立憲会議・1917年>(Ithaca, NY, 1989)にもとづく。
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 第二章の第4節(夏の政治危機)と第5節(十月革命)の試訳が終わり。
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 この著の表紙/左-第4版、右-第3版。
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1792/ネップと20年代経済⑥-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.41~p.44。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑥完。

 スターリンは、なぜそうしたのか? <この文、前回と重複>
 第一の選択肢が「歴史の法則」によって排除されていたわけではない。また、第二の途を進むべき宿命的な強制が働いたわけでもない。
 そうであるにもかかわらず、現実に選択された方向へと強く作動する論理(logic)が、ソヴィエト体制にあった。
 力をもったイデオロギーは、国家による統制のもとにあってすら、市場条件へと回帰することよりもはるかに、テロルを基礎とする奴隷経済と適合するものだった。
 巨大な民衆が経済的に多少とも国家から自立すれば、またある程度の自立性を自分たちのために国家に守らせたとしてすら、分かち難い独裁という理想(ideal)は、完全には実現され得ない。 
 しかしながら、マルクス=レーニン主義の教理は、完全に中央集権的な政治的および経済的な権力によってのみ社会主義を建設することができる、と教えた。
 生産手段に関する私的所有制の廃止は、人間の至高の任務であり、世界の最も進歩的な体制の主要な義務だ。
 マルクス主義は、プロレタリア-ト独裁を通じての、公民社会と国家の融合または同一化という展望を提示した。
 そしてそのような単一化へと至る唯一の方法は、全ての自発的な形態をとる政治的、経済的および文化的生活を絶滅させ(liquidate)、国家が押しつける形態へと置き換えることだ。
 スターリンはかくして、社会に対する彼の独裁を強固にすることにより、また、国家が課していない全ての社会的紐帯と労働者階級自体を含む全ての階級を破壊することにより、唯一の可能性のあるやり方でマルクス=レーニン主義を実現した。
 もちろんこの過程は、一夜にして終わったのではない。
 まず最初に、労働者階級を政治的に従属させること、次いで党をそうすること、が必要だった。ありうる全ての抵抗の粒を粉砕しなければならず、プロレタリア-トから自己防衛の全ての手段を剥奪しなければならなかった。
 党はこれを、最初に大多数のプロレタリア-トによって支持された権力をもつがゆえに行うことができた。
 政治的意識が高く闘争に習熟した古い労働者階級が内戦で死亡した、戦後の荒廃と窮乏が諦念と疲労を生み出した、とドイチャー(Deutscher)は強調する。しかし、そう単純ではない。
 党の成功はまた、プロレタリア-トの支持を得た時期を二つの方法で利用したことにもよる。
 第一に、党は、最も有能な労働者階級の一員を国家の職務の特権的な地位に昇らせた。そうして彼らを、新しい支配階層に変えた。
 第二に、党は、労働者階級の組織の現存形態全てを、とくに他の社会主義政党や労働組合を、破壊した。そして、そのような組織が生き残る物質的な手段を労働者が届く範囲から閉め出した。
 これらは全て、初期の段階でかつまったく手際よくなされた。
 労働者階級はかくして無力にされ、疲労だけではなく全体主義に進む急速な過程が、ときたま絶望的な試みはあったが、すぐ後に効果的な行動を起こすのを妨げた。
 この意味で、ロシアの労働者階級は、その個々の階級的出自とは無関係に、自らの専制君主を生み出した。
 同じようにして、知識人層も長年の間に、極左からの絶え間ない脅迫に直面して躊躇し、屈服することで、無意識に自分たちを破壊することとなった。//
 かくして、メンシェヴィキの予言は実現された。メンシェヴィキは1920年に、トロツキーによって表明された勇敢な新世界をエジプトの奴隷によるピラミッド建設になぞらえたのだった。
 トロツキーは、多くの理由で、自分のプログラムを達成するには適していなかった。
 スターリンが、トロツキー<を現実にしたもの>(in actu)だった。//
 新しい政策は、ブハーリンとその同盟者の政治的敗北を意味した。
 論争の最初の時点で、右翼はまだしっかりした政治的地位を占め、かなりの支持を党内に広げていた。
 しかし、彼らの全資産は総書記(the Secretary General)の権力とはまったく比べものにならないことがすぐに分かった。
 「右翼主義偏向」は、スターリンとその取り巻きが攻撃する主要な対象になった。
 ブハーリン派(the Bukhrinites)-たんなる個人的権力ではなく統治の原理のために闘った最後の反対集団-は、1929年のうちに、国家の官僚機構で占めていた全ての役職から排除された。
 このことは、左翼反対派が復活したということを決して意味しなかった。
 スターリンは数人には微少な義務を負わせたが、左翼反対派の誰も、元の役職に復帰しなかった。仕事のできるラデクは、数年間、政府の賛辞文作成者に据え置かれた。
 ブハーリン派は、左翼がかつてしたほどには、あえては党外に見解を公表しようとしなかった(彼らのときはそうする可能性がもっとあったけれども)。
 ブハーリン派はまた、「分派」活動を組織しようともしなかった。彼らが分派主義を痛罵し、党の一体性を称賛してトロツキーやジノヴィエフと闘って以降、「分派」活動は結局は短い期間だけのものだった。
 一党支配について言えば、左翼反対派も右翼もそれを疑問視しなかった。
 全ての者が、自分の教理と自分の過去に囚われていた。
 全ての者が、自分たちを破砕する暴力装置を創る意思をもって活動した。
 カーメネフとの連合を形成しようとのブハーリンの見込みなき試みは、彼の経歴の痛々しい終章にすぎなかった。
 1929年11月に、偏向者たちは悔悛を示す公開行動を演じたが、これすら、彼らを救わなかった。
 スターリンの勝利は、完全だった。
 ブハーリン反対派の崩壊は、党と国にある専制体制の勝利を意味した。
 1929年12月、スターリンの50歳誕生日は大きな歴史的行事として祝祭された。この日以降を我々は、「個人カルト」の時代と呼んでよい。
 1903年のトロツキーの予言は、現実のものになった。党の支配は中央委員会の支配になり、これはつぎに、一人の独裁者の個人的専制になった。//
 人口の4分の3を占めるソヴィエト農民の破壊は、世紀全体につづく経済的のみではない道徳的な厄災だった。
 数千万人が半奴隷状態へと落とし込まれ、数百万人以上がその過程を実行する者として雇われた。
 党全体が制裁者と抑圧者の組織になった。誰も無実ではなく、全ての共産党員が社会に強制力を振るう共犯者だった。
 かくして、党は新しい種の道徳上の一体性を獲得し、もはや後戻りできない途を歩み始めた。//
 このときにまた、残っていたソヴィエト文化と知識人界は系統的に破壊された。体制は、最終的な統合の段階に入っていた。//
 1929年から判決にもとづき殺害される1938年までのブハーリンの個人的運命は、ソヴィエト同盟やマルクス主義の歴史にとって重要ではない。
 敗北したあと彼は、最高経済会議のもとで調査主任としてしばらく働き、ときどき論文を発表した。それによって彼は、-ステファン・F・コーエン(Stephen F. Cohen)がその優れた人物伝で指摘するように-押し殺した批判をときおりは発しようとした。
 ブハーリンは中央委員会委員のままであり、公的に自説をさらに撤回した後で1934年に、<イズヴェスチヤ(Izvestiya)> の編集者になった。
 その年の8月の著述家大会で、当時にしては「リベラル」な演説を行い、1935年には、新しいソヴィエト憲法を起草する委員会の事実上の議長だった。この憲法文書は1936年に公布され、1977年まで施行された。この文書は、全部がではなくとも主に、ブハーリンの仕事だった。
 1937年2月に逮捕され、一連の怪物的な見せ物裁判の最後に、死刑が宣告された。
 伝記作者は彼を「最後のボルシェヴィキ」と呼ぶ。
 この叙述が本当なのか誤りなのかは、それに付着させる意味による。
 ボルシェヴィキという言葉で、新しい秩序の全ての原理-一つの政党の無制限の権力、党の「一体性」、他者の全てを排除するイデオロギー、国家の経済的独裁-を受諾する者を意味させるとすれば、本当だ。
 また、この枠の中で寡頭制または一個人による専制を避けること、テロルの使用なくして統治すること、そしてボルシェヴィキは権力を目ざす闘争の間に擁護した諸価値-すなわち、労働民衆またはプロレタリア-トによる統治、自由な文化の展開、芸術、科学および民族的伝統の尊重-を維持することは可能だと信じる者、を意味させているとすれば。
 しかし、かりに「ボルシェヴィキ」がこれら全てを意味するとすれば、その自らの前提から論理的帰結を導き出すことができない人間のことを、たんに意味している。
 他方、もしかりにボルシェヴィキのイデオロギーが一般論の問題にすぎないのではなく、自分の原理からする不可避の結果を受容することを含むとすれば、スターリンは、全てのボルシェヴィキやレーニン主義者と最も合致していた、と自らを正当に誇ることができる。//
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 以上で、第5節は終わり、第1章全体も終わり。叙述は第2章<1920年代のソヴィエト・マルクス主義の理論的対立>へと移っている。

1790/ネップと20年代経済⑤-L・コワコフスキ著1章5節。

 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.40~p.41。
 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑤。
 許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。<以上、前回と重複>
 何人かのマルクス主義思想家たちは、ルカチ(Lukács)からロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)まで、同じ見地からこの状況を理解した。
 しかしながら、トロツキーは、スターリンの政策は自分のそれと同一だとは考えていなかった。(トロツキーは1926年秋に政治局から排除され、1928年初めにアルマ・アタ(Alma Ata)へと追放され、トルコ政府の同意を得て1929年2月にトルコに亡命した。)
 彼は、こう書いた。スターリンの官僚機構は実際に反対派の圧力によって左翼の目標を採用するように強いられたのではなく、容赦のないかつ日和見主義的なやり方で自分たちで実行した、と。
 反対派は集団化に賛成したが、大量の強制的手法にではなかった。クラクを抑制して、「経済的手段によって」それと闘うべきだつたのだ。
 こうしたことはまた、のちに全てのトロツキー支持者が採った考え方だった。//
 しかしながら、このような論じ方は、きわめて薄弱なものだ。
 トロツキーは強制的集団化について語らなかった、というのは本当だ。しかし、当時はスターリンも語らなかった。
 スターリンの演説や論文だけからあの年代の歴史を知る者は誰でも、疑いなくつぎのように想定するだろう。農民たちはより良き生活のために集団農場へと押し寄せた、「上からの革命」は無制限の喜びでもって歓迎された、厳格な措置の被害者はたんに一握りの度し難い怠業者たち、労働者民衆とその民衆の利益を過ちなく表現する政府の敵にすぎない、と。
 本当(true)はどうだったかと言うと、スターリンが唯一の可能な方法で反対派のプログラムを実行に移した、ということだ。
 彼らが提示していた全ての経済的な誘導策は、スターリンが公然たる強制力行使に訴える前に、すでに試みられていた。
 税と価格による動機づけ、そしてテロルを制限するという政策は、その前の二年間に実施されていた。しかし、その唯一の結果は、穀物の配送量が低下し、さらにもっと悪化しそうだ、ということだった。
 経済的圧力という手段はもはや残っておらず、つぎの二つの選択肢だけがあった。
 すなわち、第一に、完全な形態でのネップ(「新経済政策」)に戻り、自由取引を許し、食糧生産と配分を確保すべく市場を信頼する。
 第二に、すでに着手していた路線を追求し、軍隊と警察を大量に用いることで自立農民層の全体を廃絶させる。
 スターリンは後者の政策を選択して、実現可能に思えたやり方でのみ、左翼の要求を実行した。//
 スターリンは、なぜそうしたのか?
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 ここで区切る。⑥へとつづく。

1788/ネップと20年代経済③-L・コワコフスキ著1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 この著には、邦訳書がない。日本語版スターリン全集の全巻を所持していないが、レーニン時代との関係で1920年代のものはおおよそ所持しているので、今回は該当部分を探し出してみた。レーニン全集の場合と同じく、L・コワコフスキが使っている全集の巻数は、日本語版と同じだ(なお、この点、リチャード・パイプスは別のタイプの英語版レーニン全集を用いていると見られ、参照しにくい)。
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.33~p.37。三巻合冊本、p.814~p.817。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争③。
 ブハーリンの考えでは、裕福な農民に闘いを挑んだり村落地域内での階級対立を搔き立てたりすることは、農業のみならず経済全体を破滅させることになる。<この一文、前回と重複>
 貧農と農場従事者は、クラク(富農)を破壊することによってではなく、後者の資産を利用する国家によって助けられなければならない。国家はクラクに、最初に蓄積するのを認めるのだ。
 消費者と市場取引との協働関係はやがて自然に消費者と生産者の協働関係の発展につながるだろう。
 他方、トロツキストの政策は農業と工業をともに破滅させることを意味するだろう。
 農民全体を国家から遠ざけ、プロレタリア-トの独裁を破壊するだろう。
 さらに、プレオブラジェンスキーやピャタコフ(Pyatakov)が提案する、田園地帯を利用するために工業製品の価格を高い額にまで人為的に上げることは、農民層にだけではなく、労働者にも同様に打撃になるだろう。大量の商品を消費するのは都市の民衆だからだ。
 政府機構の官僚主義的退廃に対する反対者たちの攻撃について言うと、たしかにこの危険は実際に存在する。しかし、農民層に向けられた彼らの政策が採用されれば、それは100倍も悪くなるだろう。
 戦時共産主義の諸手段への回帰は、田園地帯で強制力を用いることを主要な目的として、特権的な官僚機構という一つの階級を生み出すことを意味するだろう。そして、この巨大な装置は、農業が組織化されないことによる損失の全てよりもはるかに多くの出費を要求するだろう。
 官僚主義を治療するためには、民衆に生活の多様な分野での自発的な社会組織の設立を働きかけることが必要だ。
 反対派が提案する治療方法はこれと真反対で、病気よりも悪いものにするだろう。//
 こうした左翼反対派との論争で、ブハーリンは、国家または党の内部での民主主義の拡大を導くことになるいかなる一歩も、擁護しなかった。
 逆に、分派の指導者であり党の一体性を分裂させる者だとして、トロツキー、ジノヴィエフおよびカーメネフを攻撃した。
 ブハーリンは彼らに思い起こさせた。プロレタリア-ト独裁は単一の支配党の存在を含意している、また党は結束しなければならず、別々の党の形成に発展するに違いない「分派」の存在を許してはならない、というのはレーニン主義のイロハだ、と。
 反対派の者たちは全て、つい最近まではこのことをよく知っていた。そして誰も、彼らが突然に民主主義者に変わることに欺されはしないだろう。//
 工業化に関する議論で、両派の論者たちはいずれももちろん、相手の政策は「客観的に」資本主義の復活につながるだろうと主張した。
 ブハーリンによれば、プレオブラジェンスキーは、小規模生産者を搾取して破壊することによって蓄積を達成し、社会主義国家が資本主義を真似ることを意図した。
 その基盤である農民との同盟、とくに中間層農民とのそれが掘り崩されれば、プロレタリア-ト独裁は消失するだろう。あるいはまた、農民たちの全体が工業製品の価格と農業生産物の価格の比率(ratio)に同等に影響されるという理由だけでも、「内部的植民地化」は、クラクのみならず田園地帯全体に対する攻撃を意味する。
 左翼はこれに反対して、スターリン=ブハーリンの政策は、私的所有者、とくにクラクの経済的な力を着実に増大させるだろう、社会主義的工業と労働者階級を弱めることはプロレタリア-ト独裁の終焉にのみつながる、と論駁した。
 反対派はまた、工業、とくに重工業が社会主義の発展の鍵だ、と考えた。
 ブハーリンはこれに対して、都市と地方の間の商品交換が主要な梃子だ、生産はそれ自体が目的ではなく消費に至る手段にすぎない、と主張した。また、反対派は、生産が需要の量とは無関係にそれ自体でつねに増え続ける市場を創出しつづける経済がありうるとの(資本主義制度との関係での)トゥガン-バラノフスキー(Tugan-Baranovsky)の理論をそのまま繰り返している、とも。
 この当時のロシアでの問題なので、村落地域の蓄積は決して労働者の利益に反しておらず、合致していた。
 この点について反対派は、搾取者と被搾取者の利益が合致することはありえない、その定義上クラクは搾取者であるので、クラクが富を蓄積するのを助けるのは階級敵を育てることだ、と答えた。//
 このようにして、いわばボルシェヴィズムの二つの変種が姿を現してきた。もちろんいずれも、決まってレーニンが言ったことに頼った。
 レーニンは、中間農民層と同盟しなければならないと語っており、クラクが示す危険についても述べていた。
 大まかに言うと、ブハーリンは、クラクは同時に中産農民を破壊することなくして廃棄することはできない、とするものだ。一方の反対派は、中産農民はクラクの助力なくしては援助することができない、と考える。
 反対の政治的意図をもつが、同じことを二つの異なる方法で表現したものだった。
 反対派は、労働者は惨めな状態にあるのに裕福な「ネップマン」(Nepman)の階層が勃興していることに憤慨している、あるいはまた平等主義とプロレタリア-ト独裁のスローガンを真面目にかつ文字通りに理解している、多くの共産党員の中に支持を求めた。
 (したがって、トロツキー=ジノヴィエフ派が以前の「労働者反対派」の残片たちと結局は共通する考え方を採ったのは自然なことだった。)
 反対派は主として、権力、独裁および権力の指標としての重工業に関心をもった。
 ブハーリンは一方で、福祉の有効な増大に関心をもち、その活動が労働者階級を含む全民衆にとってよい取引ならば、物質的な特権をもつネップマンを許容する用意があった。//
 数百万の個々人の運命を決めることとなった論争の間ずっと、スターリンはブハーリンの立場を支持した。しかし彼自身は完全には関与しないで、イデオロギー上の宣明をブハーリンまたはルィコフ(Rykov)に任せた。
 スターリンは、ブハーリンがうっかりと農民たちが「金持ちになる」よう呼びかけた過ちに気づいた-生硬な多くの共産党員には印象的な表現だった-。しかし、反対派による邪悪な犯罪行為とは比べものにならない、口滑らしだと見なした。
 彼は議論に決して深く立ち入らなかった。しかし、1928年まで、ブハーリンとの間に経済政策に関する不一致はなかった、ということが分かる。
 スターリンも、農民中間層との間の永続する同盟の必要性に関するレーニンの言葉を繰り返し、「革命的冒険主義」や「内部的植民地化」という衝撃的な考えについて「極左」の反対派を攻撃した。
 彼は反対派との政治上および組織上の論争については拳を振り上げた。それは、党機構に占める有利な地位によるのではなく、最近に反対派の者たちが公然と叫んできている原理を彼ら全員がいかほど侵犯していたかを示すのは容易だったからだ。
 何の困難もなく、トロツキーの民主主義への選好はきわめて最近になってからだと証明することができた。そして、トロツキーとジノヴィエフが協力してスターリンに反抗したときは、彼らがその日の前にお互いに傷つけ合っていた罵詈雑言を引用するだけでよかった。
 党内民主主義について言えば、それを今は防御している者は誰も、ばつの悪さを感じないままで自分の過去に言及することができなかった。
スターリンが1925年12月の第14回党大会で、つぎのように語ったように。
 『反対派の同志たちは、形式的民主主義は我々ボルシェヴィキにとって中身のない貝(empty shell)であって党の利益こそが全てだ、ということを知らないのか?』
 (スターリン全集・英語版7巻(1954年)p.394〔=日本語版スターリン全集7巻(1954年)「ソ同盟共産党(ボ)第十四回大会/中央委員会の政治報告の結語」388-9頁<注1>〕。)
 数ヶ月のちに、彼は党内民主主義について、より厳密な定義を行った。
 『党内民主主義とは何を意味するのか? 党内民主主義とは、一般党員の活動を向上させ、党の一体性を強化し、そして党の自覚的なプロレタリア紀律を強化することを意味する。』
 (スターリン全集・英語版8巻(1954年)p.153〔=日本語版スターリン全集8巻(1954年)「ソ同盟の経済情勢と党の政策について/1926.4.13」173頁<注2>〕。)
 しかしながら、スターリンは「党の独裁」に関して語るほど無謀でなかった。レーニンも、おそらくはブハーリンも、そのことを躊躇しなかったけれども。
 1926年12月7日のコミンテルン執行委員会の一部会や別の機会に、彼はこう述べた。トロツキーは、社会主義は一国では建設することができないと主張することによって、党が権力を放棄するのを招来している、と。//
 トロツキストの歴史家たちは、1920年代の諸事件についてまだ考えており、トロツキーはどのようにしていれば様々の偽った動きを回避して何らかの政治的同盟または連携でもって権力を再び握っていたのだろうかと、思いめぐらしている。
 しかしながら、1923年より後のどの時期にもそのような現実的可能性があったとは思えない。
 トロツキーは実際、公的にレーニンの「遺言」を時期に適して利用して、スターリンの威信を落とすことができたかもしれなかった。
 彼はそうしなかったのみならず、のちに外国で公表されたときに「遺言」の真正さを否定して、自らその可能性を摘み取った。
 可能性としては、スターリンは1924年に打倒されていたかもしれなかった。しかし、そうであってもトロツキーの利益にはほとんどならなかっただろう。他の指導者から嫌われていたからだ。その指導者たちは、権力から追い出されたあとでようやくトロツキーと協力する心づもりがあることを示したのだった。//
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 (秋月注1)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「反対派の諸君には、われわれボルシェヴィキにとっては、形式的な民主主義は無に等しく、党の現実的利益こそすべてだということが、わかっていないのだろうか」。上掲箇所。
 (秋月注2)ロシア語からの日本語版全集による訳(スターリン全集刊行会訳)はつぎのとおり-「党内民主主義とはなにか。党内民主主義とは、党員大衆の積極性を高め、党の統一をかため、党内の意識的なプロレタリア的規律を強化することである」。上掲箇所。
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 ④へとつづく。

1784/一国社会主義-L・コワコフスキ著1章4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第4節、 p.21~p.25。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第4節・一国での社会主義。

 1924年の末にかけてトロツキーとその「永続革命」との考えに対抗して定式化された「一国での社会主義」という教理は、長い間、スターリンによるマルクス主義理論への大きな貢献だと考えられてきた。これから推論される帰結は、トロツキズムは一団の反対物たる明確な教条だ-トロツキー自身も明らかに共有するに至る見方-、ということだ。
 しかしながら、現実には、二人の間には、理論上の不一致はもちろん、根本的な政治的対立は存在していなかった。//
 述べてきたように、十月蜂起の指導者たちは、革命の過程はすみやかにヨーロッパの主要諸国に広がるだろう、世界革命の序曲(prelude)でなくしてはロシア革命には永続する希望はない、と信じた。
 初期のボルシェヴィキ指導者の誰も、これとは異なる考え方を抱いたり、表明したりすることはなかった。
 この主題に関してレーニンがいくつか書いたことも紛らわしさが全くないものだったので、スターリンはのちに、それらを著作集から削除した。
 しかしながら、世界革命の望みが少なくなり、共産主義者たちのヨーロッパで蜂起を発生させようとする絶望的な努力は失敗に帰したので、彼らは、その社会がいったい何で構成されるのかを誰も正確には知らなかったけれども、当面の直接の任務は一つの社会主義社会の建設だということにもまた同意した。
 二つの基本的な原理が、受容されつづけた。すなわち、歴史法則によって最終的には世界を包み込む過程を、ロシアは開始した。そして、西側の諸国が自分たちの革命を始めるのを急いでいない間は、自国の社会主義への移行を開始するのはロシア人だ。
 社会主義を実際に一度でもまたは全部について建設することができるのか否かという問題は、真剣には考察されなかった。実際の結論は、答えに訊くしかなかったのだから。
 内戦の後でレーニンが、布令を発することでは、ましてや農民を射殺することでは穀物を成育させることはできないと気づいたとき、そして引き続いてネップを導入したとき、彼は確実に「社会主義の建設」にこだわっており、外国で革命を搔き立てること以上に、国家内部の組織化に関心をもっていた。//
 スターリンが1924年春に「レーニン主義の基礎」という論文を発表したとき-これはレーニンの教理を彼自身に倣って集大成する最初の試みだった-、彼は一般的に受容されていることを繰り返して抽出し、トロツキーを、農民の革命的役割を「誤解」しており、革命はプロレタリア-トによる一階級支配によって開始することができると考えていると、攻撃した。
 彼は、こう論じる。レーニン主義は、帝国主義時代とプロレタリア革命時代のマルクス主義だ。ロシアは、その相対的な後進性とそれが苛んだ多くの形態の抑圧によって革命へと成熟していたがゆえに、レーニン主義が生まれた国になった。レーニンはまた、ブルジョア革命の社会主義革命への移行を予見した。
 しかしながら、スターリンはこう強調した。単一の国のプロレタリア-トだけでは最終的な勝利をもたらすことができない、と。
 トロツキーは同じ年の秋に、1917年以降の自分の著作を集めたものを刊行した。その序言では、自分が唯一のレーニン主義原理に忠実な政治家だとの証明や、指導者たち、とくにジノヴィエフとカーメネフ、は優柔不断でレーニンの蜂起計画に敵対する態度をとったことに対する批判、を意図すると述べた。
 彼はまた、ジノヴィエフがそのときに議長(the chief)だったコミンテルンを、ドイツでの蜂起の敗北や革命的情勢を利用できないことについて攻撃した。
 トロツキーの批判は、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、リュコフおよびクルプシュカヤその他による、集団的な回答を惹き起した。それは、過去の全ての過ちと失敗についてトロツキーを非難し、彼は傲慢であり、レーニンと争論をした、革命に対するレーニンの貢献を貶した、と責めた。//
 スターリンが「トロツキズム」という教理を作りだしたのは、このときだった。
 1917年以前にトロツキーが定式化した「永続革命」という考えは、ロシア革命は継続して社会主義段階へと移るが、その運命はそれが生じさせる世界革命にかかるだろう、と予想するものだった。
 さらに、巨大な層の農民が多数派である国家では、労働者階級は国際的なプロレタリア-トによって支援されなければ政治的に破壊されるだろう、国際プロレタリア-トの勝利だけがロシアの労働者階級の勝利を確固たるものにできる、というものだった。
  「ブルジョア革命の社会主義革命への移行」という問題はその間には対象ではなくなっていたので、スターリンは、トロツキズムは社会主義は明らかに一国では建設され得ないと主張するものだと意味させた。-かくして、スターリンは読者に、トロツキーの本当の意図はロシアに資本主義を復活させることだ、と示唆した。
 1924年の秋、トロツキズムは三つの原理に依拠している、とスターリンは明瞭に述べた。
 第一に、プロレタリア-トの同盟者としての農民という最も貧しい階層のことを分かっていない。
 第二に、革命家と日和見主義者の間の平和的共存を認めている。
 第三に、ボルシェヴィキ指導者たちを誹謗中傷している。
 のちに、トロツキズムの本質的な特徴は、一国での社会主義の建設を開始するのが可能であるにもかかわらずそれを遂行するのは不可能だと主張することにある、と明言された。
 スターリンは<レーニン主義の諸問題について>(1926年)で1924年春の自分自身の見解を批判し、一国での社会主義を最終的に建設する可能性と資本主義者の干渉に対して最終的に自己防衛する可能性とは明確に区別しなければならない、と述べた。
 資本主義が包囲する状況では、干渉に対抗できる絶対的な保障はないが、それにもかかわらず、十分な社会主義社会を建設することができる、と。//
 一国で社会主義を最終的に建設できるのか否かに関する論争の要点は、ドイチャー(Deutscher)がスターリンの生涯について適切に観察したように、党活動家の心理を変えようとするスターリンの意欲にある。
 彼はロシア革命は自己完結的だと強調することで、世界共産主義の失敗が生んだ意気消沈と対抗しているのであつて、理論にかかわっているのではない。
 スターリンは党員たちに、「世界のプロレタリア-ト」の支援の不確実さに困惑する必要はない、我々の成功はそれにかかっているのではないのだから、ということを確かなものにしたかったのだ。
 要するに彼は、もちろんロシア革命は世界全体の革命の序曲だとの神聖な原理を放棄しないで、楽観的な雰囲気を生み出そうとした。//
 トロツキーが1920年代のソヴィエト外交政策とコミンテルンの職責にあったとすれば、スターリンよりも外国の共産主義者の反乱に関心を寄せていただろう、ということはあり得る。しかし、彼の努力が何がしかの成功をもたらしたと考えることのできる根拠はない。
 当然に、トロツキーは、スターリンが革命の根本教条を無視しているためだとして世界の共産主義者の敗北を利用した。
 しかし、欠けているとしてトロツキーが責めた国際主義的な熱情をもってスターリンがかりに活動したとして、彼は何をすることができただろうかは、少しも明確ではない。
 ロシアには、1923年のドイツ共産党や1926年の中国のそれの勝利を確実にする手段がなかった。
 一国社会主義というスターリンの教理のためにコミンテルンは革命の機会を利用できなかった、というトロツキーの後年の責任追及は、完全に実体を欠いている。//
 かくして、社会主義は一国で建設され得ることについての積極的主張と否定という、「本質的的に対立する」二つの理論に関しては疑問はない。
 理論上は誰もが、世界革命を支援する必要性とロシアに社会主義社会を建設する必要性をいずれも、承認していた。
 スターリンとトロツキーは、これの一方または他方の任務に注入すべき活力の割合に関して、ある程度は異なっていた。二人はともに、この違いを想像上の理論的対立へと膨らませたのだ。//
 トロツキーが頻繁に行った党内民主主義は彼らの体制にとって本質的だとの主張は、なおさら信じ難い。
 すでに述べたように、党内部の官僚制的支配に対するトロツキーの攻撃は、彼が事実上党組織への権力を奪われたときに始まった。まだ権力を持っている間は、彼は警察および経済の制度に対する官僚制の、および軍事的または政治的な統制の、最も専制的な先頭指導者の一人だった。
 のちに彼が罵倒した「官僚制化」は、国家の民主主義的仕組みを全て破壊したことの当然のかつ不可避の結果だった。それは熱情をもってトロツキー自身が入り込んだ過程であり、決して後になって否認することはできないものだった。//
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 第4節おわり。第5節「ブハーリンとネップ理論/1920年代の経済論争」へとつづく。

1781/スターリン・権力へ③-L・コワコフスキ著3巻1章3節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第3節の p.18~p.21。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第3節・スターリンの初期の生活と権力への上昇③。
  新しい職〔総書記〕は党の階層の個人的な最高位ではなかったし、そのような職は実際に存在しなかった。
 総書記の職務は党官僚たちの当面の仕事を監督する、官僚機構内での調整を図る、上位者たちを任命する、等々だった。
 洞察すれば、つぎのことを明確に理解することができる。すなわち、全ての他の形態の政治生活が破壊され、党が国家にある唯一の組織された力あるものになれば、その党機構の職責にある個人は、全能になるにちがいない。
 これは、現実に生じたことだ。しかし、この当時は、誰も感知しなかった。
 ソヴィエト国家は歴史上に先例のないものだった。政治の舞台上の演者は、その劇の結末を予見していなかった。
 総書記としてのスターリンは、地方の党の職および最上位を除く中央の職についてすら、自分の味方をそれらの多数派になるよう送り込むことができた。そして、会議や会合を組織する仕事を通じて、その力は高まった。
 もちろん、それはゆっくりとした過程ではあった。
 最初の数年間にはまだ、党内部での論争、対抗集団の形成、異なる基本政策の主張が見られた。
 しかし、時が経つにつれて、それらの頻度は少なくなり、きわめて上位の階層内に限られるようになった。//
 述べてきたように、レーニンが生きている間に党内に反対集団があり、それは専制的で官僚的な統治方法の増大に対して、ある程度の共産党員が不満をもっていることを反映していた。
 最もよく知られる代表者はアレクサンダー・シュリャプニコフ(Alexsandr Shlyapnikov)とアレクサンドラ・コロンタイ(Alexsandra Kollontay)である「労働者反対派(Workers' Opposition)」は、字義どおりの「プロレタリア-トの独裁」、言い換えると、権力は党によってのみならず労働者階級全体によって実際に行使されるべきだということ、を信じた。
 彼らは決して国家民主政への回帰を擁護したのではなく、たわいもなくつぎのように空想した。ソヴィエト体制は、大多数、とくに農民と知識人、に関するかぎりで民主主義的生活様式を廃止したあとで、特権をもつ少数派、つまりプロレタリア-トのそれ(民主主義的生活様式)を維持することができる。
 別の反対派集団は、党の外部ではなく、党内部での民主主義を復活させることを望んだ。官僚機構の力の増大、全ての職の任命システム、および党内議論の減少や空虚な儀式のための選挙に異議を申し立てたのだ。//
 このような夢想家(Utopian)的批判は、ある程度はスターリン死後の共産主義体制の中で感じることとなる「危機的な」傾向を予期させた。すなわち、党の外部にではなく内部に民主主義が覆うべきだとの主張。あるいは、権力は全プロレタリア-トまたは労働者評議会によって、もちろん社会のそれ以外の者たちによってではなく、行使されるべきだとの主張。
 しかしながら、こうした考え方とは別に、初めの数年間に新しい範型の共産主義が出現した。それは、ある意味では、アジア的農民の必要と利益を反映する毛沢東主義(Maoism)の先行型だった。
 この傾向を作りだしたのは、民族的にはバシュキール(Bashkir)、職業は教師の、ミール-サイト・スルタン-ガリエフ(Mir Sayit Sultan-Galiyev)だった。
 この人物は十月革命のすぐ後にボルシェヴィキになっており、ソヴィエト同盟のムスリム(Muslim、イスラム教)圏域内からの数少ない知識人の一人だった。そして早々に、中央アジア民衆に関する専門家だと認められた。
 しかしながら彼は、ソヴェト体制はイスラムの民衆のいかなる問題も解決せず、彼らを別の形態の抑圧に従属させるだけだ、と考えた。
ロシアで独裁的権力を握った都市プロレタリア-トはブルジョアジーに劣らずヨーロッパ人で、やはりムスリム民衆には異邦人だ。
 時代の根本的な対立は発展諸国のプロレタリア-トとブルジョアジーの間にではなく、植民地または半植民地の民衆と産業化した世界全体の間にある。
 ロシアでのソヴィエト権力はこれら民衆を解放するために何もできないばかりか、恒常的な抑圧をし始め、赤旗のもとで帝国主義政策を追求するだろう。
 植民地民衆は、全体としてのヨーロッパの覇権に反対して結束し、自分たちの党とボルシェヴィキのそれから自立したインターナショナルを創設し、そして、ロシア共産主義に対するのと同様に西側の植民地主義者と闘わなければならない。
 彼らはイスラム教の伝統に反植民地イデオロギーを結びつけ、一党システム、および軍事力に支えられた国家組織を創出しなければならない。
 スルタン-ガリエフは、このような基本綱領にもとづいて、ロシアの党とは別にムスリムの党を結成し、そして独立のタタール=バスク国家を設立しようすらした。
  彼のこの運動は、レーニンのイデオロギー、ボルシェヴィキ党およびソヴィエト国家の利益と対立するものだとして、すみやかに抑圧された。
スルタン-ガリエフは1923年に党から除名され、外国の諜報機関の工作員だとして投獄された。これはおそらく、このような理由で責任追及がなされた最初の事例だろう。これはのちにはこのような場合の日常仕事になり、卓越した党員に対して一様になされていった。
 彼は、のちの大粛清(the great purge)の時代の間に処刑された。そして、その考え方は忘れ去られた。
 1923年6月の演説でスターリンは、スルタン-ガリエフは汎イスラムや汎トルコ的考えを理由としてではなく、トゥルキスタン(Turkestan)のバスマチ(Basmach)とともに党への反抗を企てたことを理由として逮捕された、と語った。
 このエピソードは、スルタン-ガリエフの考えとのちの毛沢東の教理または「毛主義的社会主義」範型との間の驚くべき類似性を説明するために記憶しておく価値がある。//
 党またはプロレタリア-トのために民主主義を擁護する反対派集団に関して言うと、これらは急速にかつ一斉に、レーニン、トロツキー、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフを含む党指導者によって粉砕された。
 1921年の党第11回大会は、分派集団形成を禁止すること、それへの加入党員を除名する権限を中央委員会がもつことを宣言した。 
 党の一体性の擁護者が指摘したように、つぎのことはじつに明瞭だった。すなわち、一党制のもとでの党内部の別々の諸集団は、必然的にかつてそれぞれの党派を形成していた全ての社会諸勢力の代弁者になる。ゆえに、かりに「分派(fractions)」が許容されるならば、事実上は多党制になるだろう。
 避けがたい結論は、専制的に支配している党それ自体が専制的に支配されなければならない、ということだ。そして、社会一般の民主主義的諸制度を破壊しておいて、党内部でそれを持ち続けようと考えるのは愚かだ、ということだ。労働者階級全体の利益については尚更だ。//
 にもかかわらず、官僚機構の手中にある受動的な装置へと党が変わっていく過程は、国家の内部で民主主義諸制度が破壊されていくよりも、長くつづいた。そして、1920年代の遅くまではまだ完了していなかった。
 1922-23年には党内での専制(tyranny)の増大に抵抗する強い潮流があった。そして、誰も、それを抑圧するのにスターリンほど長けているとは思っていなかった。
 病気で衰えていたレーニンに伝わる情報を首尾よく統御し、スターリンは、ジノヴィエフとカーメネフの助けを借りて、かつ権力からトロツキーを系統的に排除して、党を支配した。
 トロツキーは、その弁舌の才能と内戦勝利の立役者としての栄光にもかかわらず、早い段階で地位を失った。
 もしすればソヴェト権力の原理と矛盾していたのだろうが、彼は党の外部で見解を発表しようとは敢えてしなかった。このことが、政治生活の唯一の活動源だった党の官僚機構をトロツキーに反対するように動員することを容易にした。
 トロツキーは最後の段階でボルシェヴィキ党に加入し、古い党員たちから信用されていなかった。また、過度の修辞や横柄で傲慢な挙措も嫌われていた。
 スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフは巧みに、あらゆるトロツキーの欠点を衝いた。メンシェヴィキだったという過去、労働者の軍事化(スターリンならば決してこのような専制的言葉遣いをしなかった政策)への渇望、ネップに対する批判、レーニンとの古い論争、およびレーニンはかつて自分を捏造で陥れたとの責任追及。
 トロツキーは、軍事部人民委員および党政治局員として、まだ力があるように思われた。
 しかし、1923年までに彼は、孤立し、無援になっていた。
 彼の昔の心変わりの全てが、自分に向けられてきた。
 自分が置かれている状況に気づくに至ったとき、党の官僚機構化と党内民主主義の抑圧を攻撃した。
 引き降ろされた共産党指導者の全てに似て、トロツキーは権力から排除されるや否や民主主義者(democrat)になった。
 しかしながら、スターリンとジノヴィエフがつぎのように主張するのは、容易なことだった。
 トロツキーの民主主義感情と党官僚制に対する非難は最近のことだ。そればかりか、彼自身が権力をもっていたときは、他の誰よりも極端に専制的だった。さらには、党の「一体性」を守るのを支持してその動きを始めたのだ。-レーニンの政策とは逆に-労働組合を国家の統制のもとに置き、経済全体を警察の強制力に従属させることを望んだ。等々。
 後年になってトロツキーは、かつて支持した「分派」禁止の政策は永久の原理ではなくて例外的な手段と考えてのものだった、と主張した。
 しかし、そうだったとする証拠はない。また、その政策自体に、一時的なものだったと示唆するものは何もない。 
 つぎのことは、記しておいてよいかもしれない。すなわち、ジノヴィエフは、トロツキーを非難することではスターリン以上に激しい熱情を示した-彼を拘禁することに賛成した一つの段階-ということであり、およびそれによって、排除された二人の指導者が遅れて見込みなく、勝利した政敵に対して力をかき集めようとしたときに、スターリンに有用な防御手段を提供した、ということだ。
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 第3節、終わり。第4節「一国社会主義」へとつづく。

1760/ヒトラーと社会主義②-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.260-1。
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 第4節・ヒトラーと社会主義②。
 (冒頭の一部が前回と重複)
 この党は1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗り、政綱に反ユダヤ主義を追加し、退役軍人、個人店主、職業人を組織へと呼びよせた。
 (党名にある「労働」という言葉は「全ての働く者」を意味し、産業労働者のみではない。(61))
 ヒトラーが1919年に奪い取ったのは、この組織だった。
 ブラヒャー(Bracher)によると、こうだ。
 初期の党のイデオロギーは、『非理性的で暴力志向の政治イデオロギーの内部に、完全に革命的な中核部分を含んでいた。
 たんに反動的な体質を表現したものでは全くなかった。すなわち、労働者と労働組合主義者の世界が本源にあった。』(62)
 ナツィスは、労働者は共同体の柱石だと、そしてブルジョアジーは-伝統的貴族階級とともに-滅亡する階級だ、と宣言して、ドイツ労働者の社会主義的な伝統に訴えた。(63)
 同僚に自分は「社会主義者」だと語った(64)ヒトラーは、党に赤旗を採用させ、政権を取れば5月1日を国民の祝日にすると宣告した。
 ナツィ党の党員たちは、お互いに「同志」(Genossen)と呼び合うように命じられた。
 ヒトラーの党に関する考えは、レーニンのごとく、軍事組織、戦闘団(Kampfbund、「Combat League」)のそれだった。
 (「運動を支持する者は、運動の目標に合意することを宣言する者だ。
 党員は、その目標のために闘う者だけだ」。(65))   
 ヒトラーの究極の目的は、伝統的諸階層が廃止され、地位は個人的な英雄的資質(heroism)によって獲得されるような社会だった。(66)
 典型的に過激な流儀でもって、彼は、人間は彼自身を再生するものだと心に描いた。ラウシュニンクに、こう語った。
 「人は、神になりつつある。人は、作られつつある神だ」。(67)//
 ナツィスは当初は労働者を惹きつけるのにほとんど成功せず、党員たちの大多数は「プチ・ブル」〔小ブルジョアジー〕の出身だった。
 しかし、1920年代の終わり頃、その社会主義的な訴えが功を奏し始めた。
 1929-1930年に失業が発生したとき、労働者たちがひと塊になって(en masse、大量に)入党した。
 ナツィ党の記録文書によれば、1930年に、党員の28パーセントは産業労働者で成っていた。
 1934年に、その割合は32パーセントに達した。
 いずれの年にも、彼らはナツィ党の中で最大多数を占めるグループだった。(*)
 ナツィ党の党員たちがロシア共産党におけるそれと同じ責任を負うのではないとしても、誠実な(bona fide)労働者(全日勤務の党員となった元労働者は別)の割合は、ナツィ党(NSDAP)ではソヴィエト同盟の共産党におけるよりも、なんと予想に反して、高かった、と言える。//
 ヒトラーの全体主義政党のモデルは共産主義ロシアから借りたという証拠は、状況的な(circumstantial)ものだ。というのは、全く積極的に「マルクス主義者」への負い目を承認している一方で、彼は、共産主義ロシアから何ものかを借用したことを承認するのを完全に避けたからだ。
 一党国家という考えは、ヒトラーの心の中に、1920年代半ばには明らかに生じていた。1920年のカップ一揆(Kapp putsch)の失敗を省察し、戦術を変更して合法的に権力を掴もうと決心したときに。
 ヒトラー自身は、紀律ある階層的に組織された政党という考えは軍事組織から示唆された、と主張した。
 彼はまた、ムッソリーニから学んだことは積極的に認めることとなる。(68)
 しかし、その活動がドイツのプレスで広く知られていた共産党がヒトラーにも影響を与えなかった、というのはきわめて異様だ。明白な理由から、彼はその事実を認めるのは不可能だと分かっていたけれども。
 ヒトラーは、私的な会話では、つぎのことを認めることを厭わなかった。「レーニンとトロツキーおよび他のマルクス主義者の著作から革命の技巧を勉強(study)した」ということを。(+)
 彼によると、社会主義者から離脱して、「新しい」ものを始めた。社会主義者たちは-大胆な行動をすることのできない-「小者」だからとの理由で。
 これは、レーニンが社会民主党と決別してボルシェヴィキ党を設立した理由とは、大きく異なっている。//
 ローゼンベルクの支持者とゲッベルスやシュトラサーの支持者とが論争したとき、ヒトラーは最終的には前者の側に立った。
 ヒトラーにはドイツの投票者を怯えさせるユダヤ共産主義の脅威という妖怪が必要だったので、ソヴィエト・ロシアとの同盟はあるべくもなかった。
 しかし、このことは、彼自身の目的のために共産主義ロシアの中央志向の制度と実務を採用することを妨げはしなかった。//
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 (61) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.17.
 (62) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.59. 〔ドイツの独裁〕
 (63) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.48.
 (64) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.157.
 (65) The Impact of the Russian Revolution, 1917-1967 (London, 1967), p.340.
 (66) Rauschning, Hitler Speaks, p.48-p.49.
 (67) 同上、p.242.
 (*) Karl Bracher, Die deutsche Diktatur, 2ed. ed. (Cologne-Berlin〔ケルン・ベルリン〕, 1969), p.256.
 David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.28、p.36 は、少しばかり異なる様相を伝える。
 あるマルクス主義者の歴史家たちは、ナツィ党に加入したり投票したりする労働者を労働者階級の隊列から除外することによって、この厄介な事実を捨て去る。労働者たる地位は職業によってではなく「支配階級に対する闘争」によって決定される、との理由で。Timothy W. Mason, Sozialpolitik im Dritten Reich (Opladen, 1977), p.9. 〔第三帝国の社会政策〕
 (68) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, xiv.
 (+) Rauschning, Hitler Speaks (London, 1939), p.236.
 ヒトラーは1930年に、トロツキーが近年に出版した<わが人生>を読み、多くのことを学んだ、この著を「輝かしい(brilliant)」と称した、と驚く同僚に語った、と言われている。Konrad Heiden, Der Fuehrer (New York, 1944)、p.308。  
 しかしながら、ハイデン(Heiden)はこの情報の出所を記していない。
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 つぎの第5節の表題は、「三つの全体主義体制に共通する特質」。

1752/スターリニズムの諸段階②-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.8-p.9。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階②。
 一方では、コミンテルンが、数年のうちにソヴィエトの外交政策と諜報の装置へと変質した。
 コミンテルンの政策は、適正であるかを問わず、国際状勢に関するモスクワの評価に合致するように揺れ動き、変化した。
 しかし、この変化は、イデオロギー、教理、あるいは「左翼」と「右翼」の違いとは、何の関係もなかった。
 例えば、ソヴィエト同盟の蒋介石やヒトラーとの協定、スターリンによるポーランドの共産主義者の虐殺、あるいはスペイン内戦へのソヴィエトの関与は、マルクス主義と合致するか、「左翼」または「右翼」政策を示すものだった。
 これら全ての動きは、ソヴィエト国家をどの程度強くするか、どの程度その影響力を増大させるか、に照らして判断することができる。しかし、それらを守るために付けられたいかなるイデオロギー上の根拠も、目的のために案出されたもので、イデオロギーの歴史上の意味はなかった。ソヴィエト国家の<存在理由(raison d'etat)>のための装置という役割を、いかに完全に辱めたかを示したこと以外には。//
 このように叙述したが、我々は、レーニン死後のソヴィエト同盟の歴史を三つの時期に区分してよい。
 第一は1924年から1929年で、ネップの時期だ。
 この時期には、私的商取引のかなりの自由があった。
 党の外にはもはや政治生活は存在しなかったが、指導者層の内部では純粋な論争と対立があった。
 文化は公的に統御されていたが、マルクス主義および政治的服従という制約の範囲内では、意見や討論の異なる諸傾向が許されていた。
 「真の(true)」マルクス主義の性格に関する討議は、まだ可能だった。
 一人の人物の独裁は、まだ制度化されていなかった。そして、社会のかなりの部分-農民、あらゆる種類の「ネップマン」-は、経済の観点からすると、まだ完全には国家に依存していなかった。
 第二の時期は、1930年から1953年のスターリンの死までで、個人的な専制、ほとんど完璧な市民社会の絶滅、恣意的な公的指示への文化の服従、そして哲学とイデオロギーの国家への編入、を特質とする。
 第三の時期は1953年から現在〔秋月注・この著刊行は1976年〕に至るまでで、我々が適正に考察すべき、それ自身の特質をもつ。
 どの特定のボルシェヴィキ指導者が権力をもつかは、一般的に言って、大して重要ではない。
 トロツキストは、むろんトロツキー自身は、彼が権力から排除されたことが歴史的な転換点だったと考える。
 しかし、これに同意できる根拠はないし、我々が見るだろうように、「トロツキズム(トロツキー主義)」なるものは存在しておらず、これはスターリンが考案した、空想の産物だった。
 スターリンとトロツキーの間の意見不一致は、現実に、ある程度まで存在していた。しかしそれは、個人的権力を目ざす闘争によって粗大に誇張されたもので、決して、二つの独立した、明瞭な理論にまで達するものではなかった。
 このことは、ジノヴィエフとトロツキーの間の論争についてもっと本当のことであり、のちのジノヴィエフとトロツキー対スターリンの対立についてもそうだった。
 ブハーリンおよび「右翼偏向者」とのスターリンの対立はより実質的だったが、それもなお、原理に関する論争ではなく、手段と、それを実行に移す行程表に関する論争にすぎなかった。
 1920年代の工業化に関する論議にはたしかに、工業と農業に関する実際的な決定に関して、したがって数百万人のソヴィエト民衆の生活に関して、大きな重要性があった。しかし、根本的な教理上の論争だと、あるいはマルクス主義またはレーニン主義の「正しい(correct)」解釈をめぐるものだと理解するのは、大袈裟すぎるだろう。
 全てのボルシェヴィキ指導者たちは、例外なく、問題に対する態度を急進的に変更したのであって、理論が明瞭に一体になったものだと、あるいは基本的なマルクス主義の教理の諸変形だと、トロツキー主義、スターリニズム、あるいはブハーリン主義を語るのは、無意味だ。
 (この問題に関して、イデオロギーに関する歴史家は、それ自体は二次的な、理解の仕方に関心をもつ。彼には、数百万の民衆の運命よりも教理上の立場の方がもっと重要なのだ。
 これはしかし、客観的な重要性のある問題ではなく、たんに職業上の関心物にすぎない。) 
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 第2節は終わり。

1743/論駁者・レーニンの天才性①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 
第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.772-775、分冊版・第2巻p.520-524。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第10節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性①。
 
大量のレーニンの刊行著作は、攻撃と論争(論駁、polemics)で成り立っている。
 読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性(agrressiveness)に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない(unparalleled)。
 彼の論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている(実際、彼にはユーモアのセンスが少しもなかった)。
 レーニンが攻撃しているのが「経済主義者」、メンシェヴィキ、カデット(立憲民主党)、カウツキー、トロツキーあるいは「労働者」対立派のいずれであれ、違いはない。
 彼の対抗者がブルジョアジーや土地所有者の追従者でないとすれば、その人物は、娼婦、道化師、嘘つき、屁理屈を言う詐欺師、そうしたもの、だ。 
 こうした論争のスタイルは、その日の話題に関するソヴィエトの著作物での義務的なものになることになった。ステレオタイプ化し、個人的な情熱を欠く官僚的な形式だったが。
 かりにレーニンの対抗者がたまたまレーニンが同意する何かを言ったとすれば、その人物は、それが何であれ、「認めることを強いられた」。
 論争が敵の陣地内で勃発すれば、その構成員の一人は他者に関する真実を「うっかり口にした」。
 書物または論考の著者がかりに、レーニンは言及すべきだったと考える何かに言及しなかったとすれば、その人物は「もみ消し」をした。
 社会主義者のそのときどきのレーニン敵対者は、「マルクス主義のイロハを理解していない」。
 しかしかりにレーニンが係争の問題点に関する考えを変えれば、「マルクス主義のイロハを理解していない」その人物は、レーニンがその日以前に主張していたものを主張している。
 誰もがつねに、最悪の意図を持っているのではないかと疑われている。
 きわめて些末な問題についてレーニンとは異なる意見をもつ者は誰でも、欺瞞者であり、またはせいぜいのところ、馬鹿な子どもだ。//
 このような技巧の目的は個人的な嫌悪を満足させることではなく、ましてや真実に到達することではなく、実践的な目標を達成することだった。
 レーニン自身が、1907年にある場合にこのことを確認した(他の誰かに関して言うだろうように、「思わず口を滑らせた」)。
 メンシェヴィキとの再統合の直前に、メンシェヴィキに対して「許し難い」攻撃をしたとして、中央委員会は党の審問所にレーニンを送った。
 レーニンは中でもとくに、『ペトルブルクのメンシェヴィキは、労働者の票をカデットに売り渡す目的でカデットとの交渉に入った』、そして『カデットの助けで労働者たちの中の人物をドゥーマ〔帝制下院〕にこっそりと送り込む取引をした』と、彼の小冊子で書いた。
 レーニンは審問の場で、自分の行動をつぎにように説明した。
 『この言葉遣い(つまり上に引用したばかりのもの)は、このような行為をする者たちに対する読者の憎悪、反感や軽蔑を誘発するために計算したものだ。
 この言葉遣いは、説得するためにではなく、対抗者の隊列を破壊してしまうために計算したものだ。
 論敵の過ちを是正するためではなく、彼らを破壊し、その組織を地上から一掃するためのものだ。
 この言葉遣いは、じつに、論敵に関する最悪の考え、最悪の疑念を呼び起こすような性質のもので、またじつに、説得したり是正したりする言葉遣いとは対照的な性質のものだ。それは、プロレタリア-トの隊列に混乱を持ち込むのだ。』(+)
 (全集12巻424-5頁〔=日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第五回大会にたいする報告」のうち「党裁判におけるレーニンの弁論(または中央委員会のメンシェヴィキ部分にたいする告訴演説」)433頁〕。)
 しかしながらレーニンは、これについて悔い改める気持ちを表明していない。
 彼の見解によれば、論拠に訴えるのではなく憎悪を駆り立てることは、反対者が同じ党の構成員でなければ、正当なこと(right)だった。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、分裂のために二つの別々の政党だった。
 レーニンは、中央委員会をこう非難した。
 『冊子を書いた時点で、(形式的にではなく本質的に)その冊子が起点とし、その目的に奉仕する単一の党は存在していなかった、という事実に関して、沈黙したままでいる。<中略>
 労働大衆の間に、異なる意見を抱く者たちに対する憎悪、反感や軽蔑等を体系的に広げる言葉遣いで党員同志に関して書くのは、間違っている(wrong)。
 しかし、脱落した組織に関してはそのような調子で<書くことができるし、そう書かなければならない>。
 何故、そうしなければならないのか?
 分裂が生じたときには、脱落した分派から指導権を<奪い返す>こと(to wrest)が義務だからだ。』(+)
 (同上、425頁〔=日本語版全集同上434頁〕。)
 『分裂に由来する、許容される闘争に、何らかの限度があるのか?
 そのような闘争には、党のいかなる基準も設定されていないし、存在し得ない。なぜなら、分裂とは、党が存在しなくなることを意味するからだ。』(+)
 (428頁〔=日本語版全集同上437頁〕。)
 我々は、レーニンを刺激してこう白状させたことについて、メンシェヴィキに感謝してよい。レーニンの言明は、彼の全生涯の活動で確認される。
 いかなる制約によっても、遮られない。重要なのは、目的を達成することなのだ。//
 レーニンは、スターリンとは違って、個人的な復讐心を動機として行動することはなかった。
 レーニンは、人々を-強調されるべきだが、彼自身も含めて-もっぱら政治的な器具として、かつ歴史的過程の道具として、操作(treat)した。
 このことは、彼の最も顕著な特質の一つだ。
 かりに政治的な計算で必要ならば、彼はある日にある人物に泥を投げつけ、翌日にはその人物と握手することができた。
 レーニンは1905年の後で、プレハノフを誹謗中傷した。しかし、プレハノフが清算主義者および経験批判論者に反対していることを知って、そして彼の名前の威信によって貴重な盟友だと知ってただちに、そうすることをやめた。
 1917年になるまでは、レーニンはトロツキーに対して呪詛を投げつけた。しかし、トロツキーがボルシェヴィキ党員になり、きわめて才能のある指導者であり組織者であることが分かるや、その全てが忘れられた。
 レーニンは、10月の武装蜂起計画に公然と反対したことについて、ジノヴィエフとカーメネフの裏切りを非難した。しかしのちには、彼らが党やコミンテルンの要職に就くのを許した。
 誰かを攻撃しなければならなかったときには、個人的な考慮は無視された。
 レーニンは、基本的な問題について同意することができると考えれば、論争を棚上げすることのできる能力があった。-例えば、党が第三ドゥーマ〔帝制下院〕に議員を出すこに関してボグダノフがレーニンに反対するまでは、彼は、ボグダノフの哲学上の誤りを看過した。
 しかし、レーニンがある時点で重要だと考える何かに論争が関係していれば、容赦なく反対意見を提示した。
 彼は、政治的な抗論において、個人的な忠誠に関する疑問を嘲弄した。
 メンシェヴィキがボルシェヴィキ指導者の一人だったマリノフスキーをオフラーナ(Okhrana)の工作員だと責め立てたとき、レーニンはこの「根本的な誹謗」にきわめて激烈に反駁した。
 二月革命の後で、メンシェヴィキの言い分は本当(true)だったことが明らかになった。それに対してレーニンは、ドゥーマ議長のロジヤンコ(Rodzyanko)を攻撃した。
 ロジヤンコはマリノフスキーの任務を知っていたが、彼の議員辞職をもたらし、(この当時に悪意をもってロジヤンコの政党を報じていた)ボルシェヴィキに言わなかった。それは、彼が内務大臣から〔マリノフスキーに関する〕情報を受けとったときに決して口外しないと「名誉」に賭けた約束をした、という、いかにもありそうな理由にもとづいてだ、と。
 レーニンは、ボルシェヴィキの敵たちが「名誉」という口実でもってボルシェヴィキを助けなかったことに、きわめて強い、偽りの道徳的(pseudo-moral)憤慨を感じた。//
 もう一つのレーニンの特徴は、彼の論敵たちはつねに悪党で裏切り者だったと示すために、敵意をしばしば過去へと投影させる、ということだ。
 1906年にレーニンは、ストルーヴェ(Struve)はすでに1894年に反革命者だった、と書いた。
 (「カデットの勝利と労働者党の任務」、全集10巻265頁〔=日本語版全集10巻253-4頁〕。)(*秋月注1)
 しかし誰も、1895年のストルーヴェに関するレーニンの議論からこのことを想定することはできなかった、その当時、二人はまだ協力関係にあったのだから。
 レーニンは数年にわたって、カウツキーを最も高い権威のある理論家だと見なしていた。しかし、カウツキーが戦争の間に「中央主義」の立場を採った後では、1902年の冊子で彼を「日和見主義者」だと非難した。
 (<国家と革命>、全集25巻479頁〔=日本語版全集25巻「国家と革命」のうち「第6章・日和見主義者によるマルクス主義の卑俗化」以降、516頁以降を参照〕。)
 また、カウツキーは1909年以降はマルクス主義者として執筆していなかった、と主張した。
 (1915年12月、ブハーリンによる冊子への序言。全集22巻106頁〔=日本語版全集22巻「エヌ・ブハーリンの小冊子『世界経済と帝国主義』の序文」115頁参照〕。)(*秋月注2)
 「社会排外主義者」に対する、1914年~1918年の攻撃の中でレーニンは、帝国主義戦争とは何の関係もない諸政党に呼びかけた第二インターナショナルのバーゼル宣言を援用した。
 しかし、第二インターナショナルと最終的に断絶した後では、その宣言は「変節者」による欺瞞文書だった。
 (1922年、「Publicist に関する覚え書」。全集33巻206頁〔=日本語版全集33巻「政論家の覚え書」203-4頁〕。)(*秋月注3)
 長年にわたってレーニンは、自分は社会主義運動内部のいかなる分離的傾向も支持せず、自分とボルシェヴィキはヨーロッパの社会民主主義者、とくにドイツ社会民主党と同じ原理を抱いてきた、と主張した。
 しかし、1920年に<左翼共産主義-小児病>で、政治思想の一種としてのボルシェヴィズムは、まさにその通りなのだが、1903年以来存在していたことが、明らかにされた。
 歴史に関するレーニンの遡及的な見方は、むろん、スターリン時代の体系的な捏造(falsification)とは比べものにならなかった。スターリン時代には、個々人と政治的諸運動に関するその当時の評価は全ての過去の年代について同じく有効だということが、何としてでも示されなければならなかったのだ。
 この点では、レーニンは、まだきわめて穏和な始まりを画したにすぎなかった。そして彼は、思想に関する合理的な流儀(mode)にしばしば執着した。例えば、プレハノフはマルクス主義の一般化に多大の貢献をした、プレハノフの理論上の著作は再版されるべきだと、プレハノフはそのときには完全に「社会排外主義者」の側に立っていたにもかかわらず、最後まで主張した。//
 レーニンは彼の著作の政治的な効果についてのみ関心があったがゆえに、彼の著作は反復で満ちている。
 彼は、同じ考えを何度も何度も(again and again)繰り返すことを怖れなかった。彼は、文体上の野心を持たず、党や労働者に対する影響にのみ関心があった。
 レーニンの文体はその党派的な論争の際や党の活動家に向かって表現しているときに最も粗暴だが、労働者に対してはかなり易しい言葉で語る、ということは記しておくに値する。
 労働者に対して向けられた彼の著作は、プロパガンダの傑作だ。ときどきの主要な諸問題に関する各政党の立場を簡潔かつ明快に説明している、<ロシアの諸政党とプロレタリア-トの任務>という小冊子(1917年5月)のように。//
 理論的な論争についても同様に、レーニンは論拠を詳細に分析することよりも、言葉と悪罵によって反対者を打ち負かすことに関心があった。
 <唯物論と経験批判論>はその際立った例だが、他にも多数の例がある。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注1) 日本語版全集10巻253-4頁から一部をつぎに引用する。「諸君の友人であるストルーヴェ氏を、反革命におしやったのはだれであったか、それはまたいつだったか?/ストルーヴェ氏は、彼の『〔ロシア革命の経済的発展の問題にたいする〕批判的覚え書』で、マルクス主義にブレンターノ主義的な但し書をつけた1894年には、反革命家であった」。
 (*秋月注2) 日本語版全集22巻115頁からつぎに引用する。「…。というのは、彼はこことを、すでに1909年に特別の著述-彼がマルクス主義者としてまとまりのある結論をもって執筆した最後のもの-のなかでみとめていたのである」。
 (*秋月注3) 日本語版全集33巻203-4頁からつぎに引用する。「20世紀の人々は、変節者、第二および第二半インターナショナルの英雄たちが1912年と1914~1918年に自分や労働者を愚弄するのにつかったあの『バーゼル宣言』の焼きなおしでは、そうやすやすと満足しはしないであろう」。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史にほとんど関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.766-7、分冊版・第2巻p.511-2。
 <>はイタリック体=斜体字で、書名のほか著者=L・コワコフスキによる強調の旨の記載がとくにある場合があるが、その旨の訳出は割愛する。
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 第7節・独裁に関するトロツキー②。
 国家は、もちろん、労働大衆の利益のために組織されている。
 『このことは、しかし、最も優しいものから極端に苛烈なものまで、全てのその形態での強制(compulsion)の要素を排除する、というものではない。』
 (同上〔トロツキー・<テロリズムの擁護>〕、122頁)
 新しい社会では、強制は消失しないだけではなく、本質的な役割を果たすだろう。
 『まさに強制的な労働奉仕の原理は、共産主義者にとって、全く疑問の余地がない。<中略>
 <原理と実践の両方の見地からして>適正な(correct)経済的苦難の唯一の解決策は、全国の民衆を必要な労働力の供給源(reservoir)として取り扱うことだ。<中略>
 この強制労働役務の原理自体が、生産手段の社会化が資本主義の財産権に取って代わるにつれて、自由な雇用という原理と<過激にかつ永遠に>入れ替わったばかりのものだ。』
 (同上、124-7頁)
 労働は、軍事化されなければならない。
 『我々は<中略>、経済計画にもとづく社会的に規制された労働によって、資本主義的奴隷制に対抗する。その労働は、全民衆にとって義務的で、その結果としてこの国のいずれの労働者にも強制的なものだ。<中略>
 労働の軍事化の基礎になるのは、それなくしては社会主義者による資本主義経済の置き換えが永久に空響きのままにとどまるだろう、そういう形態での国家による強制だ。<中略>
 軍隊を除くいかなる社会組織も、プロレタリア-ト独裁の国家がしていることやすることを正当視されるような、そういう方法で市民を服従させることで、そしてそのような程度にまで、全ての側面についてその意思によって自ら自分たちを統制させることで、自らの正当性が証明されるとは考えてこなかった。』
 (同上、129-130頁)
 『我々は、経済的な諸力や国の資源を権威的に(authoritative)規制すること、および総括的な国家計画と整合して労働力を中央によって配分すること以外によっては、社会主義への途を見出すことができない。
 労働者国家は、全ての労働者をその労働を必要とする場所へと送り込む力をもつことを、正当なことと考える。』
 (同上、131頁)
 『若き社会主義国家は、より良き労働条件を目ざす闘争のためにではなく-これは全体としての社会組織や国家組織の任務だ-、生産の目標へと労働者を組織するために、そして研修し、訓練し、割り当て、グループ化し、一定の範疇と一定の労働者を固定された時期にその職にとどめておくために、労働組合を必要とする。』
 (同上、132頁)
 締め括れば、『社会主義への途は、最高限度に可能な国家の原理の強化の時期を通じて存在すしている。<中略>
 国家は、それが消滅する前には、プロレタリア-ト独裁の形態を、言い換えると、全市民の生活を権威的にあらゆる方向で抱きとめる(embrace)、最も容赦なき形態の国家の形態をとる。』
 (同上、157頁)//
 これ以上に平易に物事を述べるのは、本当に困難だろう。
 プロレタリア-ト独裁の国家は、市民の生活全ての側面に対する絶対的権力を政府が行使し、どの程度働くべきか、どのような性質の仕事をすべきか、何という場所で働くべきか、といったことを政府が詳細に決定する、そのような巨大で永続する集中〔強制〕収容所(concentration camp)のようなものとして、トロツキーによって叙述されている。
 個人は、労働の単位でしかない。
 強制は普遍的なものだ。そして、国家の一部ではないいかなる組織も国家の敵、したがってプロレタリア-トの敵であるはずだ。
 これら全ては、もちろん、理想的な自由の王国の名目のもとでのことだ。それの到来は、歴史的な時間の不確定の経過のあとに予期されている。
 我々は、こう言ってよい。トロツキーは、ボルシェヴィキたちによって理解されている社会主義の諸原理を完璧に表現している、と。
 しかしながら、我々は、マルクス主義の観点からすると、労働者の自由な雇用に何が取って代わるとされるのかに関しては、まだ明瞭には語られていない。-マルクスによると、労働者の自由な雇用とは、一人の人間が市場で労働力を売らなければならないので、換言すると自分を商品と見なし、かつそのようなものとして社会によって取り扱われるので、奴隷制の一つの目印だ。
 かりに自由な雇用が廃止されれば、人々を仕事へと導いて富を生み出す唯一の方法は、物理的な強制であるか、または道徳的な動機づけ(仕事への熱狂)だ。
 後者はもちろん、レーニンとトロツキーの両者によって褒め讃えられた。しかし、彼らはすぐに、それに依存するのは作動力の永遠の根源のごとく荒唐無稽なことだ、と知った。
 ただ強制だけが、残された。-生活費を稼ぐ必要にもとづく資本主義的な強制ではなく、苛酷な物理的力(force)にもとづく、投獄、肉体的な損傷、そして死への恐怖にもとづく強制だった。//
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 以上で、第7節は終わり。次の節の表題は、「全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン」。
 下は、分冊版・第二巻の表紙/Reprint, 1988年/Oxford。
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1733/独裁とトロツキー①-L・コワコフスキ著18章7節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.763~、分冊版・第2巻p.509~。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第7節・独裁に関するトロツキー①。
 カウツキーの次の冊子、<テロリズムと共産主義>は、同じ表題をもつ書物で、トロツキーによって回答された。
 その英語訳書は、<テロリズムの擁護(defence)>として、1921年に刊行された。
 この含蓄のある著作は、レーニンの諸発言よりも、ある程度においてはより断固たるものですらある。
 党に関するレーニンの理論は一人の人間の僭政を導くだろうと1913年に予見したトロツキーは、1920年までに上の理論へと完全に変えられた。
 彼の冊子は、権力の内部にいるときに書かれているが、プロレタリア-ト独裁のもとでの国家に関する最も一般的な解説を含んでいるものとして、ゆえにまた、全体主義システムと言われるに至ったものに関する最も明瞭な説明を含んでいるものとして、記しておくに値する。
 確かに、その冊子は内戦およびポーランドとの戦争の間に書かれている(後者についてトロツキーは、『我々は勝利を望む、なぜなら我々にはそうする全ての歴史上の権利(historical right)がある』と、驚くべき無邪気さで語る)。
 しかし、それは明らかに、一般的理論であろうとしている。
 トロツキーの従前の演説からの数多くの引用は、その時点の真っ只中での彼のテーゼをたんに強調したにすぎないものではないことを、示している。
 彼はレーニンと同じように、プロレタリア-ト独裁に関する一般理論を提示する。
 ブルジョア民主主義は、欺瞞だ。
 階級戦争での重要な論点は、投票によってではなく、実力(force)によって決せられる。
 革命のときには、正当な路線は権力を目ざして闘うことであって、愚かしくも『多数派』を待つことではない。
 テロルを拒絶することは、社会主義を拒絶することだ(目的(end)を意図する者は手段(method)を意図しなければならない))。
 議会主義諸制度には全盛期があったが、それらは主として中間諸階層の利益を反映するもので、革命の時期に重要なのは、プロレタリア-トとブルジョアジーだけだ。
 『法の前の平等』、公民権等々に関する話は、現今では、精神的な(形而上学上の、metaphysical)たわ言にすぎない。
 憲法制定会議(the Constituent Assembly)を解散させたのは、正しかった(right)。
 選挙制度が事態の急速な推移に追い抜かれていた、そして、その会議は人民の意思を代表していなかったのだ、との理由だけでもかりにあったとすれば。
 人質を射殺したのは、正当だった(right)(<戦場では戦争のように振る舞う>)。
 プレスの自由は、階級敵とその同盟者、メンシェヴィキおよびエスエルたち、を助けるものなので、許容され得なかった。
 『真実(truth)』や誰が正しいのかを語るのは、無益だった(idle)--これは、学問上の議論ではなく、死に至らせる戦闘だったのだ。
 個々人の権利は、見当違いに馬鹿馬鹿しい(irrelevant nonsense)。
 そして、『我々について言えば、我々は、カント主義崇敬者や菜食主義クェイカー教徒たちの、人生の神聖性に関する贅言には、全く関心がなかった』(<テロリズムの擁護>60頁)。
 パリ・コミューンは、情緒的で人間主義的な躊躇を原因として、打倒された。
 プロレタリア-ト独裁では、党は、上訴に関する最高位の法廷でなければならず、全ての重要な案件に関する最終的決定権を持たなければならない。
 『プロレタリア-トの革命的な優越性は、プロレタリア-ト自身のうちに、明確な行動綱領と無謬の内部紀律をもつ党の、政治的な優越性を前提としている。』
 (同上、100頁)
 『ソヴェトの独裁は、党による独裁という手段によってのみ、可能になった。』
 (同上、101頁)//
 トロツキーは、しかしながら、レーニンが回避した又は無視した疑問に、答える。
 『一定の賢い人物たちは我々に、歴史発展の利益を表現するのはまさに貴方たちの党だ、ということの保証はどこにあるのか?、と問う。
 他の諸政党を破壊し又は地下に追いやって、貴方たちはそれで貴方たちとの政治的な競争を阻害し、その結果として貴方たちは、自分たちの活動路線を吟味(test)する可能性を失った。』
 トロツキーは、つぎのように答える。
 『こうした考えは、革命の推移に関する純粋にリベラル(liberal)な把握によって述べられている。
 あらゆる敵対が公然たる性格をもち、政治的な闘争が急速に内戦へと移行した時期には、支配する党は、メンシェヴィキ新聞のあるいは可能だった流通なくしても、活動方針を吟味するための十分に実質的な規準を持つ。
 ノスケ(Noske)は〔ドイツの〕共産党員たちを鎮圧した。しかし、彼らは成長する。
 我々はメンシェヴィキやエスエルたちを抑圧した。-そして、彼らは消滅した。
 これは、我々にとって十分な規準だ。』
 (同上、101頁)//
 これは、ボルシェヴィズムに関する、最も教示溢れる理論上の定式化だ。これによると、歴史上の運動または国家の『正しさ(rightness)』は、その暴力(violence)の行使が成功するか否かによって決定されることになる。
 ノスケはドイツの共産党員たちを鎮圧することに成功しなかった。しかし、ヒトラー(Hitler)がそれをした。
 かくして、トロツキーの規則からはつぎのことが帰結するだろう。すなわち、ヒトラーこそが、『歴史発展の利益を表現した』。
 スターリンはロシアのトロツキー主義者たちを粛清(liquidate)した。そして、彼らは、消失した。-そう、明らかに、トロツキーではなくスターリンが、歴史の進歩の側に立った。//
 前衛党による統治の原理から、もちろん、つぎのことが導かれる。
 『労働組合の継続的な「自立性」は、プロレタリア革命の時期には、連立の政策と全く同じく不可能だ。
 労働組合は、権力をもつプロレタリア-トの、最も重要な経済機関になる。
 ゆえに、労働組合は、共産党の指導権に服する。
 労働組合運動における原理に関する諸問題のみならず、その内部にある組織に関する重要な論争は、我々の党の中央委員会が決裁する。<中略>
 (労働組合は、)ソヴェト国家の生産の諸機関だ。そして、その運命に関する責任を引き受ける。-そのことに抵抗するのではなく、それと一体化するのだ。
 労働組合は、労働紀律の組織者になる。
 労働組合は労働者たちに、最も困難な条件のもとでの最も集中的な労働を要求する。』
 (同上、102頁)//
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 ②へとつづく。トロツキー<テロリズムの擁護>はトロツキー選集類の中に邦訳がある可能性があるが、参照していない(少なくとも単著としての邦訳書はないようだ)。

1707/社会主義と独裁④-L・コワコフスキ著18章6節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。
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 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁④。 
 理論上の観点からは、レーニンの有名な小冊子『<左翼共産主義-小児病>』(1920)で事態は明らかにされた。それによると、少しも問題はないように見える。//
 『問題のたんなる設定-「党の独裁か、それとも階級の独裁か。指導者の独裁(党)か、それとも大衆の独裁(党)か?」-だけでも、ほとんど信頼できない、救いようもなく錯乱した思考をしていることが分かる。<中略>
 誰もが知るように、大衆は諸階級に、<中略>通常は多くの階級に分化している-少なくとも今日の文明諸国では-、そして、諸階級は政党によって指導されている。
 また、まったく通常のこととして、政党は、最も責任ある地位を占めて指導者と称される、最も権威と影響力と経験のある構成員から成る、多少とも安定した集団によって動いている。
 このことこそが、基本だ。
 このことこそが、明白で単純なことだ。
 これをなぜ、煩わしいことを言って、何かの新しいヴォラピュク語(Volapuek)でもって、言い換えようとするのか?』(+)//
 『ロシアのボルシェヴィキは、<中略>このことに関する「上からか」<それとも>「下からか」とか、指導者の独裁か<それとも>大衆の独裁かとか等々の議論を、こっけいな、子どもじみたたわ言だと見なさざるを得ない。その左脚と右腕のいずれが人間にとってより重要なのかを議論しているようなものだ。』(+)
(全集31巻、p.41, p.49〔=日本語版全集31巻26-27頁、35頁〕。)//
 レーニンはこのように問題を度外視し、階級と党の間に関して、あるいは党とその指導者の間に関して何の問題もないことを示唆し、また、一握りの寡頭的指導者による統治は、階級が彼らを代表者としたいのか否かを判別する制度上の方法は何らなかったけれども、彼らが代表すると主張する階級による統治だと適切に称し得ることを意味させた。
 レーニンの論拠は粗雑なので、真面目にそう考えていたと信じるのは困難なほどだ(上掲の文章では、ローザ・ルクセンブルクに似た基本的考えにもとづいてレーニンを批判したドイツのスパルタクス団に対して回答している)。
 しかし、彼のここでの論拠はその思考の一般的スタイルと十分によく合致している。
 階級の利益以外には『真に(really)』存在するものは何もないがゆえに、統治集団または統治組織の独立した利益に関して設定される問題はすべて、いつわりの(false)問題だった。
 組織(apparatus)は階級を『代表する』。このことが『基本的』であって、他の全ては『子どもじみたたわ言』なのだ。//
 レーニンは、この点については全く一貫していた。
 <国家と革命>〔1917年〕によると、無学者または狡猾なブルジョアだけが、労働者は産業を、そして国家と行政を直接にかつ集団的に管理することができないと思うことができた。
二年後には、無学者または狡猾なブルジョアだけが、労働者は産業を、そして国家と行政を直接にかつ集団的に管理することができると思うことができるのだと判明した。
 産業は明白に単一の経営者を必要とした。そして、『共同参加』を語るのは馬鹿げていた。
 『協同経営〔合議制〕に関する論議は、全くの無知と専門家に反対するという心性にあまりに強く埋め込まれすぎている。<中略>
 我々は(労働組合が)悪名たかい民主主義の残存物に反対して闘争する精神に立ってこの任務を体得するようにしなければならない。
任命制度に反対する大騒ぎの全て、多様な決定と会話に向かっているこの全ての古くて危険なほどに下らないものは、一掃されなければならない。』(+)
 (ロシア共産党(ボ)第9回大会での演説、1920年3月29日。全集30巻、p.458-9〔=日本語版全集30巻474-6頁〕。)
 『どの労働者も国家を運営する仕方を知っているだろうか?
 実務領域で働いている者たちは、そうではない、と知っている。<中略>
 我々は、農民たちと結びついた労働者が非プロレタリアのスローガンに欺されがちであることを知っている。
 どれだけの数の労働者が、政府の仕事に従事してきたか?
 ロシア全土で数千人で、それ以上ではない。
 候補者を立てて〔=当選させて〕統治するのは党ではなく労働組合だと我々が言うならば、それはきわめて民主主義的に聞こえるかもしれない。そして若干の票を掴み取るのに役立つかもしれないだろう。しかし、長くは続かない。
 それは、プロレタリア-トの独裁にとって致命的(fatal)だろう。』(+)
 (鉱山労働者大会での演説、1921年1月23日。全集32巻、p.61-62〔=日本語版全集32巻52-53頁〕。)
 『しかし、その階級の全体を包み込む組織を通じてでは、プロレタリア-トの独裁は、行使され得ない。<中略>
 行使することができるのは、この階級の革命的活力を吸収してきた前衛だけだ。』(+)
 (『労働組合、現況とトロツキーの過ち』、1921年12月30日。同上、p.21〔=日本語版全集32巻「労働組合について、現在の情勢について、トロツキーの誤りについて」5頁〕。)//
 独特の論法のおかげで、かくして、プロレタリア政府はプロレタリア-トの独裁の廃墟になるだろうということが分かる。-これは、完璧に妥当だと思われる結論だ、レーニンによる後者の言葉の解釈に従えば。
 また、『本当(true)の』民主主義とはそれまで民主主義的だと見なされてきた全ての制度の廃棄を意味することも分かる。 
 この最後の点に関して、レーニンの言葉遣いは全く一貫しているわけではない。
 すなわち、彼はときには、ソヴェト権力は民主主義の最高の形態だと褒め讃える。人民による支配を意味するからだ。
 だが別のときには、民主主義をブルジョアの道具だと非難する。
このことは、興味をそそる矛盾を生じさせた。1918年1月25日の第3回ソヴェト大会での、つぎの演説に示されるように。
 『民主主義は、純粋な社会主義に対する全ての裏切り者によって制覇されたブルジョア国家の一形態だ。彼らは公認された社会主義の先頭に位置して、民主主義はプロレタリア-ト独裁の反対物だと主張している。
 革命がブルジョア体制の枠を超越するに至るまでは、我々は民主主義に賛成してきた。
 しかし、革命の進展のうちに社会主義の最初の兆候を見るや否や、我々はプロレタリア-トの独裁を支持する強硬なかつ断固たる立場をとった。』(+)
 (全集26巻、p.473〔=日本語版全集26巻「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第三回全ロシア大会483頁〕。)
 換言すれば、社会主義に対する裏切り者は民主主義は独裁の反対物だと主張するが、我々は、その反対物である独裁のために民主主義を放棄した。
このような間抜けさ(awkwardness)は、レーニンが民主主義的制度がほとんど何も残っていない浸食状態に気づいているが、ときどきは民主主義という美徳の印象のある名前を引き合いに出したかった、ということを示す。//
 革命のすぐ後に、ボルシェヴィキが権力に到達するまでは執拗に要求した伝統的な民主主義的自由は、ブルジョアジーの武器だったと判ることになった。
 レーニンの著作は、報道(出版)の自由に関して、このことを繰り返して確認している。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 段落の途中だが、ここで区切る。⑤へとつづく。

1693/帝国主義と革命③-L・コワコフスキ著18章5節。

 この本には、邦訳書がない。何故か。
 日本共産党と「左翼」にとって、読まれると、極めて危険だからだ。
 <保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第5節・帝国主義の理論と革命の理論③。
 誰が侵略者であるかは問題でなく、実際、攻撃(offensive)戦争と防衛戦争の違いはなかった。そして、軍事活動の基礎にある階級の利益こそが重要だった。
 この点に関するレーニンの言明は多くあって、かつ完璧に明白だ。現在の後継者たちによって、さほど多くは引用されないけれども。
 『戦争を防衛戦争と侵略(agrresive)戦争に分けるのは馬鹿げている』。(+)
 (1914年10月14日の演説。全集36巻p.297〔=日本語版全集36巻「『プロレタリア-トと戦争』についての公開報告」331頁〕。)
 『国際関係上の全ての個別現象に対する社会民主党の態度を考察して決定する唯一の規準は、戦争の性質が防衛的か攻撃的かではなく、プロレタリア-トの階級闘争の利益、あるいは-より十分に言えば-、プロレタリア-トの国際的運動の利益だ。』 (+)
 (『好戦的軍事主義と社会民主党の反軍国主義的戦術』、1908年8月。全集15巻p.199〔=日本語版全集15巻186頁〕。)
 『あたかも問題なのは、誰が最初に攻撃したか?で、戦争の原因は何なのか? その目的は何なのか? どの階級が遂行しているのか?、ではないようだ。』 (+)
 (ボリス・スヴァラン(Boris Souvarine)への公開書簡、1916年12月。全集23巻p.198〔=日本語版全集23巻215頁〕。)
 『戦争の性格(反動的であれ革命的であれ)は、攻撃したのは誰かや『敵』がどの国に設定されているかに関係はない。
 <どの階級>が戦争を遂行しているのか、いかなる政策をこの戦争は継続するものなのか、による。』 (+)
 (<プロレタリア革命と変節者カウツキー>、1918年。全集28巻p.286〔=日本語版全集28巻305-6頁〕。)//
 かくして、『侵略』は戦争の階級的性格を隠蔽いるのに役立つブルジョアの詐欺的な観念だ、ということだけではなく、自分の国家で組織される労働者階級は、資本主義国家に対する戦争を遂行する全ての権利をもつ、ということが分かる。定義上は、労働者階級は抑圧された階級の利益を代表し、正義(justice)は彼らの側にあるのだから。
 レーニンは、この結論を出すのを躊躇することはない。
 『例えば、社会主義が1920年にアメリカやフランスで勝利し、そのとき日本や中国が、まあ言おう、彼らのビスマルクたちを-最初は外交的にだけでも-我々に向けてくれば、我々はきっと、彼らに対する攻撃的な革命戦争に賛成するだろう。』 (+)
 (『第二インターナショナルの崩壊』。全集21巻p.221注〔=日本語版全集21巻217頁注(1)〕。)
 1920年12月6日の演説で、レーニンは、アメリカ合衆国と日本の間でやがて戦争が勃発せざるをえない、ソヴィエト国家はいずれか一方に反対して他方を『支持する』ことはできないが、その他方に対する『決勝戦』を闘わせて、自国の利益のためにその戦争を利用すべきだ、と明言した。
 (全集31巻p.443〔=日本語版全集31巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」449-450頁〕。)
 1918年3月の第七回党大会では、『大会は、党中央委員会が適切な時機に至ったと判断するときには、あらゆる講和条約を破棄しまたどの帝国主義国家に対してであれ全世界に対してであれ宣戦を布告する権限を党中央委員会に対して与える』との意味を持つ決議を提案した。 (+)
 (全集27巻p.120〔=日本語版全集27巻「戦争と講和についての決議にたいするトロツキーの修正案に反対する発言。3月8日」118頁〕。)
 これがブレスト=リトフスクの雰囲気で草せられていた、というのは本当だ。しかし、応用については概括的で、レーニンの教理と完全に合致している。
 プロレタリア国家は定義上資本主義国家に真反対に向かい立つ(vis-avis)ので、また、侵略の問題は戦争を判断するに際しての重要性がないがゆえに、事態が示すときはいつでも、プロレタリア国家には明らかに、資本主義国家を世界革命のために攻撃する権利と義務がある。資本主義と社会主義の間の平和的共存がレーニンの見解では不可能なので、ますますそうなのだ。
 既に引用したが、1920年12月6日の演説で、彼は、こう述べた。
 『我々は戦争から平和へと移行させたが、戦争は戻ってくるだろうことを忘れなかった、と私は言った。
 資本主義と社会主義がともに生きている間は、両者は決して平和裡に生活することができない。』 (+)
 (全集31巻p.457〔=日本語版全集31巻「…モスクワ組織の活動分子での会合での演説」464頁〕。)//
 こうしたことが、社会主義国家の外交政策の簡素なイデオロギー上の基盤だった。
 新しい国家は定義上、歴史を指導する勢力を代表した。攻撃しようと自衛しようと、それは、進歩の名のもとで行動していた。
 国際法、仲裁、軍縮会議、戦争の『違法化(outlawing)』-これらは全て、資本主義が存続しているかぎりでの欺瞞だ。そして、のちには、これらは必要でなくなるだろう。戦争は社会主義のもとでは、資本主義のもとでは不可避であるがごとく、不可能だからだ。//
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 (+) 日本語版全集を参考にし、ある程度は訳を変更にした。
 ---
 第5節、終わり。第6節の表題は、<社会主義とプロレタリア-ト独裁>。

1679/共産党独裁③-L・コワコフスキ著18章4節。

 日本語版レーニン全集36巻(大月書店、1960/14刷・1972)の手元の所在がなぜか分からないので、今回部分の日本語版の参照はできない。後日、追記するかもしれない。<8/01に追記。>
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁③。
 レーニンは、非能率な者をどこにでも投獄することを要求した。そして、なぜ彼らは自分で決定するのを怖れ、可能ならばいつでも上官に問い合わせるのだろうと不思議に思った。
 彼は慎重な監督と徹底的に記録することを要求し、『書記仕事(pen-pushing)』の莫大な多さに驚愕した。
 (『社会主義=ソヴェト権力+電化』という彼の言明は、しばしば引用される。
 革命直後に言った、『社会主義が意味するのはとくに、あらゆることを文書化する(keeping account)ことだ』は、さほど多くは引用されない(中央執行委員会会議、1917年11月17日。全集26巻p.288〔=日本語版全集26巻「全ロシア中央執行委員会の会議/エスエル左派の質問にたいする回答」293頁)。)(+)(*)
 彼は、地方の党や警察機関内部ではいかなる批判も反革命だと見なされ、その批判文執筆者は投獄か死刑の危険に晒される、ということに依拠する制度を作り出し、同時に、労働者人民には、怖れないで国家機関を批判するように求めた。
 官僚主義という癌に関する彼の分析結果は、単純だった。すなわち、教育、『文化』および行政能力、の欠如による。
 二つの処方箋があり、これまた単純だった。すなわち、非能率者を投獄〔=収監〕すること、および実直な官僚から成る新しい監督機関を設置すること。
 レーニンは、スターリンが率いる労働者・農民査察官(Inspectorate)(ラブクリン、Rabkrin)に重要な意味を与えた。これは、全ての行政部署およびその他の監視機関を監督する権限があるものとして任命されていた。そして、彼の考えによれば、官僚主義に対する闘いの成功は、最終的には、この機構の誠実さに依っていた。
 この機構はテロルに関する負担を引き受けたり、あらゆる方向への役立たない指令を発したりしたが、それに加えて、1922年に党の総書記になったスターリンによって、反対者を叩き出す杖として、および党内部の闘争に使う武器として利用された。  
 もちろん、このことを、レーニンは予見しなかった。
 彼は『最後の治療薬』を処方したが、それは、-彼が十分に知っていた-国に離れがたく締め込まれている官僚主義の連鎖へと繋がる形をとる、官僚主義に対する治療薬だった。
 党組織(ヒエラルキー)は、徐々に肥大していった。
 それは、全ての公民を覆う生と死に関する権力を持った。
 最初は真面目な共産主義者によって指導されたが、それは、時の推移のうちに大量の立身出世主義者(careerists)、寄生者(parasites)、追従者(sycophants)を吸い込んだ。そして、数年の間に、彼らが自分たちで描く、統治スタイルの範型になった。//
 レーニンが生きた最後の二年間、動脈硬化と連続する心臓発作という病気が影を投げていた。彼は最後まで、それと闘わなければならなかった。
 1922年12月と1923年1月に党大会の用意として書かれた文章から成る有名な『遺書』は、続く34年の間、ソヴィエトの一般公衆に隠された。
 この文章は、国家の困難さと党組織内部で接近している権力闘争に関する絶望的な感情を表している。
 レーニンは、スターリンを批判する。過度に権力を手中にすることに集中しており、高慢(粗雑、high-handrd)で、気まぐれで、不誠実だ、ゆえに総書記局にとどまるのはふさわしくない、と。
 レーニンはまた、トロツキー、ピャタコフ(Pyatakov)、ジノヴィエフおよびカーメネフの欠点も列挙し、ブハーリンを非マルクス主義者の考えだと批判する。
 彼は、オルジョニキーゼ(Ordzhonikidze)、スターリンおよびジェルジンスキーを、大ロシア民族主義者だ、ジョージア侵攻で使われた手段が残虐だった、と非難する。
 レーニンは、『ロシア人の弱い者いじめに対抗する本当の防御策を非ロシア人に与える』必要性については語らない。そして、つぎのように予言する。
 『我々がツァーリ体制から奪い取ってソヴェトの油脂を少しばかり塗った…国家機構』つまりは同盟〔ソヴィエト同盟〕から離脱できるという約束した自由は、『たんなる紙屑になるだろう。そして、本当のロシア人たちの襲撃から非ロシア人を守ることはできないだろう。そのロシア人の大ロシア熱狂的愛国主義(chauvinist)は、本質において卑劣で暴圧的で、典型的なロシア官僚主義はこうだと言えるようなものだ。』 (+)
 (全集36巻p.605-6〔=日本語版全集36巻「覚え書のつづき-1921年12月30日/少数民族の問題または『自治共和国化』の問題によせて」716頁〕。)//
 こうした訴え、警告および非難には、実際上の重要性がほとんどなかった。
 レーニンは、民主主義的に選出されたメンシェヴィキ政府をもつジョージアを自分の承認を得て赤軍が侵攻したすぐ後に、少数民族の保護や民族自決権について喚起した。
 彼は、中央委員会を拡大することで分派的対立を防止することを望んだ。あたかも、彼自身が実際上は党内民主主義を終わらしめたときと比べて、その大きさが何らかの違いを生じさせ得るかのごとくに。
 レーニンは、主要な党指導者全員を批判し、スターリンの交替を呼びかけた。
 しかし、彼はいったい誰が、新しい総書記になるべきだと考えていたのか?
 -トロツキーは『自信がありすぎる』、ブハーリンはマルクス主義者ではない、ジノヴィエフやカーメネフが『1917年10月の裏切り者』だったのは『偶然ではない』、ピャタコフは、重要な政治問題について信用が措けない。
 レーニンの政治的な意図が何だっただろうとしても、『遺書』は今日では、絶望の叫びのように(like a cry of despair)読める。//
 レーニンは、1924年1月21日に死んだ。
 (スターリンが毒を盛ったという、トロツキーがのちに示唆したことを支持する証拠はない。)
 新しい国家は、レーニンが教え込んだ根本路線に沿って進まなければならなかった。
 防腐(embalm)の措置を施されたその遺体は、今日までもモスクワの霊廟に展示されている。このことは、彼が約束した新しい秩序がすみやかに全人類を抱きしめる(embrace)だろうことを、適切に象徴している。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*) 上記日本語版全集によると、このように続く。-「社会主義は、上からの命令によって作り出されるものではない。社会主義の精神は、お役所的=官僚主義的な機械的行為とは縁もゆかりもない」。
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 第4節、終わり。第5節の表題は、<帝国主義の理論と革命の理論>。 

1674/共産党独裁②-L・コワコフスキ著18章4節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 この第18章とは、第2巻(部)の第18章のことだ。各巻が第1章から始まる。
 前回のつづき。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁②。
 非ボルシェヴィキの組織や定期刊行物の閉鎖、数百人の主要な知識人のロシアからの追放(この寛大な措置はまだ採られていた)、全ての文化的組織での迫害、あらゆる日常生活内に入り込んだテロルの雰囲気-これら全てが、社会対立がボルシェヴィキ党それ自体の内部で反映されるという、企図していない、だが当然の結果をもたらした。
 そしてこれは、つぎには、党が社会に対して行使したのと同じ専制的支配という原理を、党の内部に適用することへと導いた。
内戦は、経済的破滅と一般的な消耗をもたらした。そして、強さがなくなった労働者階級は、平和的建設という事業においてかつて戦闘の場で示したのと同じような熱狂と自己犠牲を示すようにとの訴えに敏感でなくなった。
 ボルシェヴィキが労働者階級全体を代表するということは、1918年以降は一つの公理(axiom)だった。それは、立証できないものだった。立証するための仕組みが何も存在していないのだから。
 しかしながら、プロレタリア-トは、怒りと不満を示し始めた。最も烈しかったのは、1921年3月のクロンシュタット蜂起で、これは、大量の死者を出して鎮圧された。
 クロンシュタットの海兵たちは、労働者階級の大多数と同じく、ソヴェトの権力を支持していた。しかし、彼らは、それを単一の支配政党による専政と同じものだとは考えなかった。
 彼らは、党による支配に反対して、ソヴェトによる支配を要求した。
 党自体の内部で、プロレタリア-トの不満は強い『労働者反対派』へと反映された。これは、中央委員会では、アレクサンドロ・シュリャプニコフ(A・Shlyapnikov)、アレクサンドラ・コロンタイ(A・Kollontay)その他が代表した。 
 このグループは経済の管理を労働者の一般的組織、すなわち労働組合に委託することを求めた。
 彼らは報酬の平等化を提案し、党内からの支配という専制的方法に異議を唱えた。
 つまりは、彼らは、レーニンが革命前に書いていた『プロレタリア-トの独裁』を求めた。
 彼らは、労働者のための民主主義と党内部での民主主義は、何か他のものに代わって民主主義が存在しない場合ですら安全装置でありうる、と考えていた。
 レーニンとトロツキーは、もはやそのようないかなる幻想をも抱かなかった。
 この二人は、『労働者反対派』はアナクロ=サンディカ主義的逸脱だと烙印を捺し、彼らの代表者を様々な嘘の理由をつけて党の活動から排除した。投獄したり、射殺したりはしなかったけれども。//
 この事件は、ソヴェト体制での労働組合の位置と機能に関する一般的な議論を生んだ。
 三年早い1918年3月に、レーニンは、『プロレタリア-ト階級の独立性を維持し強化するという利益のために、労働組合は国家組織になるべきではない』と主張したとして、メンシェヴィキを厳しく罵倒した。
 『このような考え方は、かつても今も、最も粗野な類のブルジョアの挑発であるか、極端な誤解であって、昨日のスローガンのスラヴ的な繰り返しだ。<中略>
 労働者階級は、国家の支配階級になりつつあるし、またそうなった。
 労働組合は、国家の組織になりつつあるし、社会主義を基盤として全ての経済生活を再組織化することに第一次的な責任を負う、国家の組織にならなければならない。』 (+)
 (全集27巻p.215〔=日本語版全集27巻「『ソヴェト権力の当面の任務』の最初の草稿」218頁〕。)
 労働組合を国家の組織に変えようとする考えは、論理的には、プロレタリア-ト独裁の理論から帰結する。
 プロレタリア-トは国家権力と同一視されるので、労働者が国家に対抗する利益を守らなければならないと想定するのは、明らかに馬鹿げていた。
 トロツキーは、こうした考えを持っていた。
 しかし、レーニンは上に引用した二つの点のいずれについても、考え方を変更した。
 1920年にソヴェト国家は官僚主義的歪みに苦しんでいると決定したあと、彼は自分自身が最近まで述べていた考えを抱いているとしてトロツキーを攻撃し、つぎのことを明確に宣告した。労働者を守るのは労働組合がする仕事だ、しかし、労働者を彼ら自身の国家から守るのもそうかというと、そうではなくて悪用(abuse)だ、と。
 彼は、同時に、組合は経済を管理するという国家の機能を奪い取るべきだとの考えに、烈しく反対した。//
 そうしているうちに、レーニンは、反対する集団が将来に党内部で発生するのを防止する措置を講じた。
 党内での分派(factions)の形成を禁止し、党大会で選出されていたメンバーの内部から排除する権限を中央委員会に与える規約が、採択された。
 こうして、自然な進展として、最初は労働者階級の名において社会に対して行使されていた独裁は、今や党それ自体についても適用され、ワン・マン暴圧体制(tyranny)の基礎を生み出した。//
 レーニンの最後の数年にますます重要になってきたもう一つの主題は、言及したばかりだが、『官僚主義的歪み』の問題だった。
 レーニンは、つぎのことに、ますます頻繁に不満を述べる。国家機構が必要もなく無制限に膨張している、かつ同時に何も処理する能力がない、煩わしくて形式主義的だ、役人たちは党の幹部官僚にきわめて些細な問題について照会している、等々。
 このような当惑の根源は、彼がつねに強調したように、制度全体が法制にではなくて実力にもとづいていることにある、ということは、レーニンには決して思い浮かばなかったようだ。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ③へとつづく。

1672/共産党独裁①-L・コワコフスキ著18章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第4節へと進む。第2巻単行著の、p.485以下。
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 第4節・プロレタリア-ト独裁と党の独裁①。
 しかしながら、この新しい情勢は、党の中に意見の不一致を呼び覚ますという別の新しい変化をもたらした。
 革命前の全ての約束が、突然に、紙の屑になってしまった。
 レーニンは、高級官僚や専門家たちと技能労働者等との間の報酬を同等化するために、常設軍と警察を廃止しようと企てていた。また彼は、武装する人民は直接に支配権を行使する、と約束していた。
 革命のすぐ後で、そしてネップよりもかなり前に、これらは空想家の夢であることが明らかになった。
 職業的将官幹部たちを伴う軍が、他の全ての軍隊と同じく、階級と厳格な紀律にもとづいて直ちに組織されなければならなかった。
 トロツキーは、赤軍の主な組織者としての秀れた才能を示した。そして、内戦を勝利に導いた主要な設計者だった。
 用いられた方法は、きわめて徹底的だった。敵対者は捕えられて処刑され、逃亡者およびその隠匿者は射殺され、規律に違反した兵士たちも同じだった、等々。
 しかし、このような手段は、大規模の信頼できる武装軍隊なくしては、取ることができなかっただろう。
 威嚇とテロルによって軍団をきちんと維持するためには、反テロル活動も力強くある状況でそのテロルを用いる意思を十分に持つ、そういう者たちが存在しなければならなかった。    
 革命後すぐに、政治警察の部隊を設定することが必要になった。これは、フェリクス・ジェルジンスキー(Feliks Dzerzhinsky)によって、効率よく設立された〔チェカ、Cheka〕。
 専門家たちを優遇しなければ生産活動を組織することができないこと、脅迫だけにもとづいてそれを行うことはできないこと、はすぐに明らかになった。
 1918年4月にもう、レーニンは、『ソヴェト政府の当面の任務』において、この点で『妥協』してパリ・コミューンの原理から離れることが必要だ、と認識していた。
 レーニンはまた、革命の最初から、ブルジョアジーから学ぶことが重要だ、と強く述べていた(ストルーヴェ(Struve)は、その時代には、同じことを言って裏切り者だと烙印を押された)。
 1918年4月29日の中央執行委員会では、社会主義はブルジョアから学ばなくとも建設することができると考える者は、中央アフリカの原住民の精神性をもっている、と語った。
 (全集27巻、p.310〔=日本語版全集27巻「全ロシア中央執行委員会の会議」313頁〕。)
 レーニンは、その著作物や演説で、『文明化(civilization)』、すなわち産業や国家を作動させていくために必要な技術上および行政上の専門能力、に対する関心をますます喚起した。
 共産主義者は傲慢であることをやめ、無知であることを受け入れ、このような専門能力をブルジョアジーから学ばなければならない、と強調した。
 (レーニンはつねに、政治的な扇動や戦闘を目的にしている場合を除いて、共産主義者をきわめて信用しなかった。ゴールキがボルシェヴィキの医師に相談したと聞いた1913年に、彼はすぐに、アホに決まっている『同志』ではない、本当(real)の医師を見つけるように強く勧める手紙を書いた。)
 1918年5月に、レーニンは、パリ・コミューンよりも良いモデルを思いついた。すなわち、ピョートル大帝(Peter the Great)。
 『ドイツの革命はまだゆっくりと「前進」しているが、我々の任務はドイツの国家資本主義を学習すること、それを真似る(copy)のに努力を惜しまないこと、<独裁的(dictational)>な方法を採用するのを怯まないで、急いで真似ること、だ。
 我々の任務は、ピョートルが野蛮なロシアに急いで西側を模写させたよりももっと急いで、この模写(copy)をすることだ。
 そして、野蛮さと闘うためには、この野蛮な方法を用いるのを躊躇してはならない。』(+)
 (『「左翼」小児病と小ブルジョア性』。全集27巻、p.340〔=日本語版全集27巻343-4頁〕。)
 産業の統制に関する一体性の原理がすみやかに導入され、工場の集団的な管理という夢想は、サンディカ主義的な逸脱だと非難された。//
 かくして、新しい社会は、一方では技術上および行政上の知識の増大によって、他方では強制と威嚇という手段によって、建設されることになった。
 ネップは、政治および警察によるテロルを緩和させなかったし、そのように意図しもしなかった。
 非ボルシェヴィキの新聞は内戦の間に閉鎖され、再び刊行が許されることはなかった。
 社会主義的反対諸党、メンシェヴィキとエスエルはテロルに遭い、絶滅(liquidate、粛清)された。
 大学の自治は、ついに1921年に抑圧された。
 レーニンは決まっていつも、『いわゆる出版の自由』は集会の自由や政党結成の自由と同じくブルジョアの欺瞞だ、ブルジョア社会ではふつうの者は新聞印刷機や集会する部屋を持っていないのだから、と繰り返した。
 今やソヴェト体制がこれらの設備を『人民』に与えるならば、人民は明らかにそれをブルジョアジーが欺瞞的な目的のために使うのを許さないだろう。そして、メンシェヴィキとエスエルがブルジョア政党の位置へと落ち込んだならば、彼らもまた、プロレタリア-ト独裁に屈服しなければならない。
 レーニンは、1919年2月のメンシェヴィキ新聞の閉刊を、つぎの理由で正当化した。
 『ソヴェト政府は、まさにこの最終的、決定的で最も先鋭化している、地主や資本家の軍団との武装衝突の時機に、正しい信条のために闘う労働者や農民と一緒に大きな犠牲に耐え忍ぼうとしない者たちを我慢することはできない。』(+)
 (全集28巻p.447〔=日本語版全集28巻「国防を害したメンシェヴィキ新聞の閉鎖について」482頁〕。)
 1919年12月の第七回ソヴェト大会で、レーニンは、マルトフ(Martov)がボルシェヴィキは労働者階級の少数派しか代表していないと非難するとき、この人物は『帝国主義者の野獣ども』-クレマンソー(Clemenceau)、ウィルソンおよびロイド・ジョージ(Lloyd George)-の言葉を使って語っているのだ、と宣告した。
 この論理的な帰結は、『我々はつねに警戒していなければならず、チェカ〔政治秘密警察〕が絶対に必要だと認識しなければならない!』、ということだった。
 (全集30巻p.239。)//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1665/ロシア革命③-L・コワコフスキ著18章2節。

 この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第2節の前回のつづき。
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 第2節・1917年の革命③。
 レーニンの死後に、一国社会主義をめぐる論争が勃発した。
 トロツキーとの争いで、スターリンは完全に、問題の背景を歪曲した。しかし、スターリンはおそらく、トロツキーと比べて、レーニンの考えにより忠実だった。
 問題の本質は、社会主義は様々な歴史上の理由で孤立した一国で建設されるべきかされるべきではないかではなくて、ロシアでの社会主義の建設は世界革命という根本教条に従属すべきか、それともその逆か、だった。
 この問題は、ソヴェト国家の政治にとって決定的な重要性をもつものだった。とくに、これだけではないが、その外交政策および共産主義の目標地点の設定にとって。
 トロツキーは、レーニンがロシア革命を世界革命の序曲だと、そしてソヴェト・ロシアは国際プロレタリアートの前衛だと見なしたことを示すレーニンの多数の言明を、指摘することができた。
 当然にレーニンは、この主題に関して語ってきたことを何も否認はしなかった。そして、スターリンはどちらかを明確に語ることをしなかった。その代わり、スターリンは社会主義は一国で建設され得るのか否かが問題であるかのごとく議論を誤って再提示(misrepresent)し、トロツキーはロシアの社会主義という根本教条を放棄していると示唆した。
 レーニンに関して言えば、内戦後の彼の注意力はほとんど平和的な建設の問題に奪われていたこと、そしてレーニンの最後の年月でのその政策は世界革命の指導者ではなく、国家の長としての政策だったこと、が認められなければならない。
 1920年11月29日の演説で彼がこう語った、というのは本当(true)だ。
 『我々が資本主義を全体として打倒できるほどに強くなれば、我々は資本主義の襟首をすぐさま掴むことになる。』
 (全集31巻p.441〔=日本語版全集31巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ組織の活動分子の会合での演説」447頁。)(+)(*)
 そして、レーニンが実際にそう考えていたことは、疑いない。
 しかし、彼が『共産主義=ソヴェト+全世界の電化』 と書いたとき、明らかに西ヨーロッパのではなくロシアの電化を意味させていた。
 レーニンの態度の変更は、明示的な理論上の正当化を伴っていなかった。
 スターリンがこの点についてのレーニンの立場をトロツキーのそれと対比させようとした試みは、完全にデマゴギー的(demagogic)だった。問題は、スターリンが述べたようなレーニンの時代にあったのではないのだから。
 しかしながら、世界革命の見通しに関する評価についてスターリンはトロツキーよりも慎重だっただけではなく、ソヴェト・ロシアは革命の前衛だというレーニンの言明をより論理的に解釈してもいた。
 なぜなら、ソヴェト・ロシアが世界のプロレタリア-トの最も貴重な財産であれば、明らかに、ソヴェト国家にとって良いものは何であれ、世界のプロレタリア-トにとって良いものだからだ。
 ソヴェト国家の直接的な利益が別の国の革命運動のそれと矛盾するならば、もちろん、何をすべきかについて問題とする余地はありえないだろう。
 このような場合に、外国の革命の不確実な運命のためにソヴェトの利益を決して犠牲にはしないというスターリンの戦略は、レーニン主義の原理と合致していた。//
 レーニンがこのように行動した証拠のうち、ブレスト=リトフスク条約の歴史ほどよく示すものはない。
 若い共和国がドイツに屈辱的な降伏をしたのは、レーニンがその党やロシアのほとんど全体の激しい反対にもかかわらず、強引に押し切ったからだ。
 党の外部の愛国者にとって、民族の恥辱だった。
 ボルシェヴィキにとって、世界革命への裏切りであり、ドイツ帝国主義との分離講和は問題になりえないとしていた1917年十月以前のレーニンの頻繁な保証を撤回するものだった。
 この条約は、敗北だった。そして、レーニンは、それ以外のことを言い張ろうとはしなかった。
 レーニンには、のちにスターリンがそうだったようには、あらゆる後退を輝かしい勝利だと言い立てる習癖はなかった。
 彼は十分に、ディレンマを意識していた。党に対して説明したように、不名誉な講和をすることでボルシェヴィキを救う(力を貯める、save)か、それとも、ロシアが打ち負かされてボルシェヴィキが権力を奪われる蓋然性が高いドイツに対する革命戦争の旗を振りづけるか、このいずれかをレーニンはしなければならなかった。
 教訓は、苦いものだった。そのことは、彼の人生の残りの間に頻繁にこの条約に言及することが示している。
 しかし、最初は(ブハーリンが主な指導者の一人だった)圧倒的大多数が反対したにもかかわらず中央委員会にこれを受諾するようにレーニンが強いた行為は、のちにスターリンが従った政治の、最初の明確な例だった。 
 ソヴェトの利益とボルシェヴィキの権力は至高のものであり、決して不確実な世界革命のために危険を冒してはならないものだった。//
 革命後ほとんど直ちに、新しい権力の正統性の問題は、レーニン主義の原理に従って曖昧に解決された。
 革命の前から予定されていた憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙は、11月末にかけて行われた。ボルシェヴィキは、投票数のおよそ四分の一を受け取った。
 この選挙は、平等の普通選挙権(universal sufferage)にもとづいて実施された、ロシアの歴史上の唯一の例だ。また、ボルシェヴィキの人気がその頂点にあったときに、行われた。
 1918年1月18日に開かれた憲法制定会議は、武装した海兵たちによって解散させられた。かくして、ロシアの議会制民主主義の歴史は、終焉した。
 憲法制定会議の解散の前にも後にも、レーニンは何度も、これに権力を与えることは、ブルジョアジーと大土地所有者の支配に戻ることを意味する、と宣告した。
 事態で明白なのはエスエルが最大多数を獲得したことで、これは農民大衆の意向を表明していた。
 1917年12年14日の演説で、レーニンはこう言った。
 『我々は、人民(people)の利益は民主主義的な制度の利益よりも優先する、と人民に告げる。
 我々は、人民の利益を形式的(formal)な民主主義の利益に従属させる、古い偏見に逆戻りしてはならない。』(+)
 (全集26巻p.356〔=日本語版全集26巻「全ロシア中央執行委員会の会議」364頁〕。) //
 もう一度、12月26日の演説で、こう述べた。
 『「全ての権力を憲法制定会議へ」というスローガンは、労働者・農民革命が獲得したものを無視しており<中略>、実際にカデットやカレーディン派(Kaledinites)、およびその他の協力者たちのスローガンになった。<中略>
 憲法制定会議の問題を直接であれ間接であれ、ふつうのブルジョア民主主義の枠の範囲内で、かつ階級闘争と内戦を無視して、形式的、法的な観点から考察する全ての試みは、プロレタリア-トの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの立場を採用するものだ。』(+)
 (同上、p.381-2〔=日本語版全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」390頁・391頁。)//
 こう言うことで、レーニンは、何が人民の利益であるのかを決めるのは人民の誰のすることでもない、というその持続的な信念を、ただ繰り返している。
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*) この日付は旧暦とみられる。日本語版全集では、おそらく新暦で「12月6日」の演説とされているが、旧・新の日付の差とは合致しない。
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 段落の途中だが、ここで区切る。 
 ④へとつづく。

1661/ロシア革命①-L・コワコフスキ著18章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。第2節へ。第2巻の単行著、p.473~。
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 第2節・1917年の革命①。
 多様な社会主義集団が革命を期待して存在してきたが、1917年二月の勃発は彼らの助けを借りないままで生じ、彼ら全ての驚愕だった。
 数週間前に、トロツキーはアメリカ合衆国に移り住んで、永遠に欧州を離れることになると考えた。
 レーニンは1917年1月に1905年の革命に関する講演をツューリヒでしたが、その中にはつぎの文章があった。
 『我々、旧い世代の者たちは、来たる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(全集23巻p.253〔=日本語版全集23巻「1905年の革命についての講演」277頁〕。)
 この二月革命に何らかの政党が何か直接に関係しているとすれば、それは、協約諸国に呼応したカデット(リベラルたち〔立憲民主党〕だった。
 レーニン自身は、ロシアはもちろんフランスやイギリスの資本主義者たちはツァーリがドイツ皇帝と分離講和を締結するのを妨害したかった、したがってツァーリの皇位を奪うことを共謀した、と観察した。
 この企みが、飢餓、敗北および経済的混沌によって絶望的になった大衆の反乱と合致した。 
 300年にわたって続いてきたロマノフ王朝は、一夜にして崩壊した。そして、社会のいかなる重要な勢力にもそれを防ぐ用意がない、ということが明白だった。
 八ヶ月の間、ロシアの歴史は最初にして最後の、完全な政治的自由を享受した。何らの法的秩序によってではなく、主としてはどの社会勢力も状況を統御していなかったがゆえに。
 ドゥーマにより設置された臨時政府は、1905年革命を真似て形成された労働者・兵士代表評議会(ソヴェト)と、不確定な権限を共有した。しかしどちらも、大都市の武装した大衆を適切に統制することができなかった。
 ボルシェヴィキは当分の間はソヴィエト内の小さな少数派だった。そして、全政党が、革命が進んでいる行路に関して完全に混乱していた。//
 レーニンは、4月にペテログラードに到着した。ドイツはレーニンに、様々の政党から成る数ダースの帰還者と一緒に、安全な護衛を付けた。
 もちろんレーニンは、皇帝の戦争を助けるためにではなくて革命がロシアからヨーロッパの残りへと広がるだろうと望んで、ドイツからの援助を受けた。
 スイスを出立する直前に書いた<遠方からの手紙>で、レーニンは、その基本的な戦略を定式化した。
 ロシアの革命はブルジョア的なそれなので、プロレタリアートの任務は、人民に食物、平和そして自由を与えることのできない支配階級の欺瞞の皮を剥ぎ取ることだ。そしてその日の命令は、憤激した半プロレタリア農民層に支持されたプロレタリアートに権力を譲り渡す、革命の『第二段階』を準備することだ。
 このような綱領はロシア帰国後にすぐに、有名な『四月テーゼ』へと発展した。
 戦争に対する不支持、臨時政府に対する不支持、プロレタリアートおよび貧農のための権力、議会制共和国をソヴェト共和国に置き換えること、警察、軍隊および官僚制度の廃止、全官僚が選挙されかつ解任可能であること、地主所有地の没収、全ての社会的生産と分配へのソヴェトによる統制、インターナショナルの再結成、〔党名に〕『共産主義』を明示することの党による採択。//
 革命の社会主義段階への即時移行を明確に要求することを含むこれらのスローガンは、社会主義者の伝統を完全に否定するものと見なしたメンシェヴィキによってのみならず、多数のボルシェヴィキ党員からもまた、反対された。
 しかしながら、レーニンの揺るぎなき信念は、全ての躊躇を抑えた。
 同時に、彼は支持者たちに、ソヴェトに支えられているので臨時政府をただちには打倒できない、ということを明確にした。
 ボルシェヴィキは先ずはソヴェトの支配権を握り、そして労働者大衆の多数派を自分たちの側に獲得しなければならない。帝国主義者の戦争はプロレタリアートの独裁によってのみ終わらせることができる、との確信を抱かせることによって。//
 レーニンは7月に、『全ての権力をソヴェトへ』とのスローガンを破棄した。ボルシェヴィキはしばらくの間はソヴェト内での多数派を獲得することができない、支配するメンシェヴィキとエスエルは反革命に転化して、帝制主義の将軍たちのの奉仕者になった、と決定したのだった。
 かくして、革命への平和的な途は、閉ざされた。
 このスローガンの破棄は、ボルシェヴィキがその暴力を示した〔七月蜂起の〕後で起こった。レーニンはのちの数年の間、この暴力行使を猛烈に否定したけれども、おそらくは(probably)、権力奪取の最初の企てだった。
 逮捕されるのを怖れて、レーニンはペテログラードから逃げて、フィンランドに隠れた。そこで党活動の指揮を執り、同時に、<国家と革命>を書いた。
 -この書物は、武装する全人民により権力が直接に行使されるというプロレタリア国家のための、異常なほどに半(semi-)アナキスト的な青写真を描くものだ。
 この綱領の根本的考え方は、ボルシェヴィキ革命の行路によってすぐに歪曲されたのみならず、レーニン自身によって、アナクロ=サンデカ主義的夢想だとして愚弄された。//
 将軍コルニロフ(Kornilov)による蜂起の失敗はますます一般的な混乱を増大させ、ボルシェヴィキにとって事態がより容易になった。
 レーニンの政策は党がコルニロフの反抗を助けることで、ケレンスキー政権の支持へと漂い込むことではなかった。
 彼は、8月30日付の中央委員会あて手紙でこう書いた。
 『この戦争が発展することだけが、<我々を>権力へと導くことができる。しかし、我々は情報宣伝(扇動・プロパガンダ)では、可能なかぎりこれについて言わないようにしなければならない。明日の事態すらもが我々に権力を握らせるかもしれないこと、そのときには我々は決して権力を手放さない、ということを十分に銘記しながら。』(+)
 (全集25巻p.289〔=日本語版全集25巻「ロシア社会民主労働党中央委員会へ」312頁〕。)
 ボルシェヴィキは9月に、ペテログラード・ソヴェトの多数派を獲得した。そして、トロツキーが、その議長になった。
 10月に入って、〔ボルシェヴィキ〕中央委員会の多数派は、武装蜂起に賛同する表決をした。
 ジノヴィエフとカーメネフは、反対した。そして、この彼らの態度は一般に広く知られた。
 ペテログラードでの権力奪取は、比較的に簡単で、無血だった。
 その翌日に集まったソヴェト大会は、ボルシェヴィキが多数派で、土地問題に関する布令と併合や賠償なき講和を呼びかける布令を裁可した。
 純粋にボルシェヴィキの政府が権力を握った。そして、レーニンが約束していたように、それを手放すつもりは全くなかった。//
 レーニンの暴動政策および全ての見込みが、ロシアの革命は世界革命を、少なくともヨーロッパの革命を誘発するだろうとの確固たる予測にもとづいていたことに、何ら疑いはあり得ない。
 こうした考えは、実際、全てのボルシェヴィキ党員に共有されていた。
 革命後、最初の数年間のロシアでは、『一国での社会主義』に関する問題は何もなかった。
 1917年のスイス労働者に対する別れの手紙で、レーニンはこう書いた。
 ロシア農業の性格と満足していない農民大衆の熱望からすると、ロシアの革命はその規模からして、世界の社会主義革命の序曲(prelude)である『かもしれない』、と。
 しかし、この『かもしれない』は、すみやかにレーニンの演説や論文から消えて、次の数年の間のそれらは、西側でのプロレタリアの支配がごく間近に接近している(just round the corner)という確信に充ち満ちていた。
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 段落の途中だが、ここで区切る。
 (+ 注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 ②へとつづく。

1659/第一次大戦③-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争③。
 ロシア国外での最後の年月に、レーニンは諸著作の中でおそらく最も一般に知られているものを書いた。すなわち、<帝国主義-資本主義の最高段階>(1917年、ペテログラード刊)。
 この小冊子-その経済の部分はレーニンの主要な根拠文献であるホブソン(Hobson)およびヒルファーディング(Hilferding)に見出され得ないものは何もない-は、革命党に対して力をもつべき新しい戦術の理論上の基礎を提供することを意図していた。
 帝国主義の世界的性格および不均等な発展を強調して、レーニンは、やがて共産主義諸党を拘束することとなる戦術の基礎を設定した。
 正しい路線は、いかなる理由によってであれ、いかなる階級の利益になるのであれ、いかなるときであれその時点の体制を打倒しようとする傾向の、全ての運動を支持することだ。植民地諸国の解放、民族運動あるいは農民運動、大きな帝国主義諸国に対するブルジョア的民族蜂起。
 これは、彼が何年もの間にロシアで説いてきた戦術を一般化するものだった。
 ツァーリ専政体制に反対する全ての要求と全ての運動を支持すること。そうして、それらの活力源を利用して、決定的な瞬間に権力を奪取すること。
 マルクス主義党の勝利は最終の目標だが、それはプロレタリアートだけで達成さ得るものではない。
 レーニンはすみやかに、実際に、民族主義者や農民のような他の大衆運動の支持なくして、労働者階級はその名前のもとで革命を遂行することはできない、との結論に達した。言い換えると、伝統的マルクス主義の意味での社会主義革命は、実現不可能なことだ。
 このことを発見したことは、レーニンの成功のほとんど全ての淵源であり、また彼の失敗のほとんど全てのそれだった。//
 農民との関係の問題は、この時期に、レーニンとトロツキーの間の主要な不一致点の一つだった。
 トロツキーは戦争勃発まで主にウィーンに住み、1908年以降は自身の機関誌<プラウダ>を編集した(彼は1912年に、ボルシェヴィキがその冠名を奪ったと非難した)。
 彼は折に触れて様々な問題についてメンシェヴィキとともに活動したが、それに加入はしなかった。来たる革命について異なる考え方をもち、社会主義の段階へと進化するだろうと予見していたからだ。
 トロツキーは党の一体性を回復しようと努力を繰り返したが、不首尾に終わった。
 彼は1914年から戦争反対派に属し、レーニンとともに『社会的愛国主義』を攻撃した。
 彼はまた、ツィンマーヴァルト宣言の草案も書いた。 
マルトフと一緒にパリで雑誌を発行し、それにはルナチャルスキーその他の指導的な社会民主主義知識人たちが寄稿した。
 第二回大会からボルシェヴィキに加入した1917年まで、トロツキーは、レーニンの側で例外的に敵愾心を抱く対象だった。現実の論争点に同意するかどうかに関係なく。
 レーニンは、トロツキーをこう描写した。状況に応じて、小うるさい弁舌者、役者、策略家、そして<ユドゥシュカ(Yudushka)>だ、と(最後は『小さなユダヤ人』の意味で、サルチュイコフ=シェードリンの小説<ゴロヴレフ一家>に出てくる偽善的性格の人物の名)。
 レーニンはまた、こうも言った。トロツキーは原理のない男で、一つのグループと他との間に巧みに身を隠し、発見されないようにとだけ気を配っている、と。
 レーニンは、1911年に、つぎのように書いた。
 『トロツキーにはいかなる考えもないので、この問題の本質に関して彼と議論するのは不可能だ。
 我々は、信念ある解党派やotzovists(召還主義者)たちと論じ合うことができるし、そうすべきだ。
 しかし、このどちらの傾向の過ちも隠そうとする遊び人と議論しても無意味だ。
 トロツキーの場合にすべきことは、最低限の度量しかない外交家だという姿を暴露することだ。』(+)
 (『確かな党政策から見るトロツキーの外交』、1911年12月21日。全集17巻p.362〔=日本語版全集17巻373頁〕。)
 彼は、1914年に、同じ考えを繰り返した。
 『しかしながら、トロツキーには「相貌(physiogmology)」が全くない。
 ただ一つあるのは、場所を変えて、リベラル派からマルクス主義者へと飛び移ってまた戻る、宣伝文句や大げさな受け売り言葉の断片を口に入れる、という癖だ。』(+)
 (『「八月ブロック」の分解』、1914年3月15日。全集20巻p.160〔=日本語版全集20巻163頁〕。)
 『トロツキズム』それ自体に関しては、こう言う。
 『トロツキーの独創的な理論は、ボルシェヴィキからは、断固たるプロレタリアの革命闘争やプロレタリアートによる政治権力の征圧の呼びかけを借用し、一方でメンシェヴィキからは、農民層の役割を「否認すること」を借用した。』(+)
 (『革命の二つの方向について』、1915年11月20日。全集21巻p.419〔=日本語版全集21巻432頁〕。)//
 トロツキーは、実際に、党はブルジョアジーの添え物ではなくて階級闘争を指導する力でなければならないとのレーニンの見地を共有していた。
 レーニンと同様に、トロツキーは、解党主義者と召還主義者のいずれにも反対した。そして、レーニンよりも早く、『二段階の革命』を予見した。
 しかしながら、彼は農民層がもつ革命的な潜在力の存在を信じなかった。そして、ヨーロッパ全体での革命の助けを借りてプロレタリアートはロシアを支配するだろう、と考えた。//
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 (+)=秋月注記。日本語版全集の訳を参考にして、ある程度は変更した。
 第1節、終わり。つづく第2節の表題は、「1917年の革命」。

1657/第一次大戦②-L・コワコフスキ著18章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争②。
 このような訴えは、呆けた夢物語のように見えたかもしれなかった。一握りの社会主義者たちだけが、それを支持するつもりがあったのだから。
 ほとんどの社会民主主義者たちは、階級闘争を中止して祖国の防衛のために結集しようという考えだった。
 プレハノフはこのように考えたロシア人の一人で、自分はマルクス主義者だと表明し続ける一方で、心から愛国主義の見地を受け入れた。
 このことによってプレハノフとレーニンの間の休戦状態は瞭然として終わりを告げ、プレハノフとポトレソフはもう一度、『道化師』であり反動派の指導者のプリシュケヴィチ(Purishkevich)の従僕だと非難された。
 レーニンは、イギリスのハインドマン(Hyndman)やフランスのゲード(Guesde)、エルヴェ(Herve)のような、その態度の基礎に民族の自己防衛原理をおく、全ての社会主義指導者と類似の見解をもっていた。当然に、交戦諸国の中には『侵略者(aggressors)』はいなかったことになる。
 しかしながら、徐々に戦争反対の集団が全ての国で形成された。そのほとんどは、正式に中心的位置を占める社会主義者によっていた。ドイツのベルンシュタイン、カウツキーおよびレデブーア(Ledebour)、イギリスのラムジー・マクドナルド(Ramsay MacDonald)。
 これには、マルトフとアクセルロートが率いる、従前のメンシェヴィキのほとんど、およびトロツキーも、属していた。
 しばらくの間、彼らの基礎的な違いにもかかわらず、レーニンの集団はこれら『平和主義者(Pacifists)』と折り合いをつけようとした。
 主としてスイスとイタリアの社会主義者の努力によって国際的な会議が1915年9月にツィンマーヴァルト(Zimmerwald)で開かれ、妥協的な戦争反対の決議を採択した。
 ツィンマーヴァルトは一時的には、新しいインターナショナル運動の萌芽だと見なされた。しかし、ロシア革命の後では、中心部とツィンマーヴァルト左派の間の意見の違いは、平和主義者と、祖国を防衛する者はともかくもこう称された『社会的な熱狂愛国主義者』の間の対立よりも、大きいものであることが分かった。
 38人の代議員のうちの7名から成るツィンマーヴァルト左派は、一般的な決議に署名することに加えて、自分たちの決議をも発した。それは、社会主義者たちに、帝国主義的政府からの撤退と新しい革命的なインターナショナルの結成を呼びかけるものだった。//
 レーニンは、初期の段階では、戦争反対の平和主義的な社会民主主義者を、『社会的な熱狂愛国主義者』に対してしたのと同様に激しく攻撃した。   
 彼の主要な反対論は、第一に、〔ツィンマーヴァルト会議での、社会民主主義者の〕中央主義者(centrists)は、自分たちの政府に対する革命的な戦争を遂行することによってではなく、国際的な協定を通じて講和することを望んでいるということだった。
 このことは、戦前の秩序への回帰と『ブルジョア的』方法による平和への懇請を意味する、とした。
 中央主義者は明らかにブルジョアジーの従僕で、帝国主義戦争を終わらせる唯一の途は少なくとも三つの大陸大帝国を打倒する革命によってだ、ということを理解できていない、とする。
 第二に、平和主義者は『併合または賠償のない講和』を望んでいる、ということだった。そのことで彼らが意図しているのは、戦時中の領土併合の放棄だけであり、かくしてその民族主義的抑圧を伴う旧い諸帝国を維持することだ。
 しかし、レーニンが考えるには、革命的な目標は、全ての領土併合を無効にすること、全ての民衆の自己決定権を保障すること、そしてかりに望むなら、彼ら自身の民族国家を形成することでなければならない。 
レーニンは、併合と迫害を責め立てる社会主義者を咎める強い立場にあったが、それは、彼らの民族的な敵によって行われるときにだけだった。
 ドイツ人はロシアでの民族の問題の扱いに完全に憤慨していたが、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリーの状態については何も語らなかった。
 ロシアとフランスの社会主義者は、中央諸国の問題からの自由を要求した。しかし、ツァーリの問題については沈黙したままだった。
 結局、平和主義者は、きっぱりと日和見主義者と決裂する決心のつかない言葉で熱狂愛国主義者を非難したけれども、彼らと再合流することやインターナショナルを甦生させることを夢見た。
 このことは、とくに重要だ。
 党内部での従前の紛争や分裂の全ての場合と同じく、レーニンは、反対者および、反対派と完全に別れるのを躊躇し、組織的統一を渇望することで原理的考え方を満足させる自分の身内内の『宥和者』に対して、同等に激しい怒りを向けた。
 中央主義者は、レーニンの態度は狂信的でセクト主義的だと非難した。そして、ときどきは無力で孤立した集団の指導者の地位へと彼を陥らせるように見えた、というのは本当だ。
 しかしながら、最終的には、他のどの戦術もボルシェヴィキのような中央集中化した紀律ある党を生みだし得なかった、という点で、レーニンが正しかった(right)ことが分かった。危機的なときに、もっと緩やかに組織される党では、状勢を乗り切って権力を奪取することができなかっただろう。
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 ③へとつづく。

1652/松竹伸幸-2004年・日本共産党政策委員会外交部長。

 一昨日(7/15)夕方に、つぎの著に言及した。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済(大月書店、2009)。
 見慣れない人物名だったので、推測もしたが、間違っていた点があった。
 松竹には、以下の本もある。
 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)。
 そして、この書での松竹伸幸の「肩書」は、日本共産党中央委員会政策委員会外交部長。この時点で、「外交政策」の党内部での責任者のようで、専従の立派な幹部職員だ。
 もちろん、党員だとの推測は誤っていない。
 但し、松竹伸幸は現在、かもがわ書房(京都市)の編集長だと分かった。党の専従幹部職員ではなくなっている。党籍があるかどうかは不明。
 しかし、この出版社の名前からして「左翼」系だとは分かる。
 ともあれ、党籍があるかどうかとは関係がなく(共産党専従職員に年齢による定年制のようなものがあるかどうかは知らない)、レーニンが「市場経済を通じて社会主義へ」という途を示したなどと書いている者は不破哲三ら幹部しかいないので、いずれにせよ、日本共産党員またはほとんどそれに近いことは明白だ。
 何しろ、ロシア革命・レーニンを擁護しているとみられる溪内謙(ロシア史)や藤田勇(社会主義法)といった学者・研究者ですら、レーニンによる「市場経済を通じて社会主義へ」の明確化などとは書いていない。
 溪内謙・上からの革命-スターリン主義の源流(岩波書店、2004)。
 藤田勇編・権威的秩序と国家(東京大学出版会、1987)。
 そうした中で、レーニンのもの以外の細かい文献を示すことなく、基本的に日本共産党の中央、つまり不破哲三や志位和夫と同じ趣旨の本を出す「気概」・「根性」があるのだから、形式的な組織帰属の有無は実質的には関係がないだろう。但し、不破哲三らが書いていないことも書くという「自由」は一定範囲内でもっているようだ。
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 松竹伸幸・ルールある経済社会へ(新日本出版社、2004)。
 この本が最初の方で述べていることには、疑問がある。
 この書物は1961年以降の日本共産党の基本方針を大賛美しているが(党員で、それを明らかにした本を書くのだから当然だろう)、その「民主主義革命」先行論の理解は、かなり怪しい。幹部職員でもこの程度かと思わせるところがある。以下、これに触れる。
 「民主連合政府」による大企業に対する「民主的規制」という2004年党綱領の立場に立つ。p.12。「民主」、「民主的」、「民主主義」がいっぱい出てくるので、独特の用語法に慣れないと日本共産党関係文献は読めない。
 さて、この著が言うには、1960年代初めに党が「社会主義をかかげるのではなく民主主義革命を打ち出した」という「先駆性、勇気」に「驚きを禁じ得ない」。p.22。
 こんなことを書かれて、「驚きを禁じ得ない」。
 なるほど、つい最近にフランスやイタリアの共産党に言及したのだったが、それらは「ユーロ・コミュニズム」とか称して議会制度重視ではあったものの、すでにブルジョア革命=市民革命は終わっているとして、つぎの「革命」は社会主義革命だと考えていただろうことを容易に推定できる。輝かしい「フランス革命」はとっくに18世紀後半に完了していたのだ。
 これらに対して、日本共産党は先ずは「民主主義革命」を選択するという「先駆性、勇気」があったと、松竹は書く。
 バカではないか。
 1961年綱領を作り上げるまでの宮本顕治や不破哲三が<偉かった>のではない。
 もともと日本共産党の歴史観は<講座派マルクス主義>と言われたもので、明治維新を<絶対主義天皇制国家>への画期と捉えていたから、ブルジョア革命=市民革命=「民主主義革命」はまだ完遂されていないのだ。
 労農派マルクス主義の立場にたてば、つぎの目標は「社会主義革命」なのかもしれない。
 しかし、日本共産党の発生史的・歴史的沿革からして、先ずは民主主義>革命という路線を選択せざるを得ない。これは1960年頃の日本共産党の幹部たちの判断を超えたものだ(宮本顕治の獄中~年を完全無視しないかぎりは)。
 杉原泰雄(一橋大学・憲法)のように戦後改革を<外見的市民革命>と理解すれば、つぎの革命は<社会主義的>なそれになるだろう。
 しかし、日本共産党は、そのような性格づけを戦後改革についてしていない。
 戦前・戦中にコミンテルン等から送られた<テーゼ>類には触れない。そして私の推論で書くのだが、コミンテルンとその支部・日本共産党は日本天皇制をロシア・ツァーリ体制と類似のものと見て、ロシアでの二月・十月の「革命」のようなものを日本で連続させることを意図していた。
 もともと二月・十月というのは間隔が短かすぎて、その間に<下部構造>がいったいどれだけ変質したのか?と素朴には思うが、ロシアでの<成功>体験からして、日本でも、A・パルヴゥス→L・トロツキーの「永続革命論」と同じではなくとも、<天皇制打倒>と<私有財産否定>の民主主義的変革と社会主義的変革とを連続して一気に遂行しようというのが、日本共産党の根本戦略だったのではないかと推論している(いずれきちんと資料を読みたい)。
 そうではなくとも(<一気に>ではなくとも)、明治維新が<ブルジョア(市民・民主主義)革命>でないかぎりは、そしてマルクスの社会発展史観に教条的に従えば、つぎは「民主主義革命」にならざるを得ない。
 1961年綱領が<先ずは民主主義>の旨を書いているのは、それだけのことだ。
 これに「先駆性、勇気」を見出すというのは、よほど宮本顕治・不破哲三を<崇拝>するものだろう。
 とはいえ、これは2004年の著。その後にほんの少しは変化したのかについては、松竹伸幸の著をもっと読む必要がある。

1643/ボルシェヴィキ・犯罪者集団-2010年のアメリカ刊行書。

 Yuri Felshtinsky, Lenin and his Comrades (New York, Enigma Books, 2010).
 =ユリ・フェルシュチンスキー・レーニンとその同志たち(ニューヨーク, Enigma, 2010)。
 本文、p.264 まで。注・索引等全てでp.292 まで。序文(Intoduction)で、おおよその内容は分かる。
 この本を適切に論評する資格、能力は私にはない。但し、序文の最後には、wide-ranging な根拠・情報源にもとづくとは記されている。
 明治維新に関する史料・資料に比べても、時期的にはもっと後のロシア革命・レーニン「ソヴィエト」国家に関する史料・資料の方が、どうやらかなり少ないようだ。それは、<まずい>文書は可能なかぎりで徹底的に廃棄したからではないかと想像される。今後も、種々の新資料等にもとづく新しい歴史書がロシア等々で出版される可能性はある。
 1990年・ソ連解体前の史料・資料にもとづくが、下の①、②、③について、リチャード・パイプス・ロシア革命1899-1919(1990)はすでに、ほぼ史実として叙述している。
 1976年のL・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流もまた、①について、つぎのように書いていた。試訳済みの部分の中にある。
 <レーニンは身体的(肉体的)テロルにはこの時点で反対したが、鉄道・銀行・国有財産の収奪には賛成した。これはメンシェヴィキにより党大会で非難された。銀行強盗等の活動家の中には、スターリンもいた。>。
 ③をR・パイプス著はかなり詳しく迫っている。立ち入らないが、ドイツ側文献にも出てくるので、基本的史実は動かない、と考えられる。アレクサンダー・パルヴゥス(Parvus)〔革命の商人〕とレーニンの間の接触関係の詳細はまだ曖昧さが残るとはいえ。
 この点については、2010年以降に、デンマーク・コペンハーゲンで、建物解体中に、この二人の接触を示す、二人の変名を使った文書が入ったカバンが発見されたと書いている、そしてこの二人のことを改めて叙述している某英語書も読んだが、今すぐには見つけられない。その本の信憑性も私には分かりかねるが。
 上の著の「序文(Intoduction)」の冒頭と末尾だけを割愛して、残りの全文の試訳を掲載しておこう。①~⑨、および「第一に」・「第二に」は、秋月瑛二が挿入した。
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 「ロシアは、しかし、いくつかの異なる種類の歴史ももった。すなわち、犯罪の歴史。
 過去のこの部分が、この本の対象だ。
 この本は、20世紀の前四半世紀の間の、ボルシェヴィキ指導者たちの相互作用と活動方法における、犯罪の側面に焦点を当てる。
 ①ボルシェヴィキは、革命の前に、資金確保のための収奪を遂行した。
 ②彼らは、相続財産を奪うために、サッヴァ・モロゾフ(Savva Morozov)やニコライ・シュミット(Nikolai Shmidt)という金持ちを殺害した。
 ③また彼らは、外国の〔ドイツの〕諜報機関およびロシアに敵対していた政府と金銭上の関係に入り込んだ。
 レーニンがせき立てて、ソヴィエト政府は1918年にドイツでの革命を妨害する皇帝ヴィルヘルム一世との分離講和に署名した。
 ④レーニンによるブレスト=リトフスク条約の敵-最も重要なのはフェリクス・ジエルジンスキー(Felix Dzerzhinsky)、ロシアの秘密警察であるチェカの長官-は、条約を破棄するようドイツを刺激するためにドイツ大使のミルバッハ(Mirbach)公の暗殺を組織した。
 そして、⑤レーニン、トロツキーおよびスヴェルドロフ(Sverdlov)は、左翼社会主義革命党〔左翼エスエル〕を破壊してロシアに単一政党独裁を樹立するために、ミルバッハ殺戮を利用した。
 ブレスト=リトフスク条約を無意味にするこの企てが失敗したあとでのつぎのことは、我々が主張したい命題だ。
 すなわち、第一に、⑥ジェルジンスキーとヤクロフ・スヴェルドロフ、党の事実上の総書記、は1918年4月30日に、レーニンに対する暗殺の企てを組織した(いわゆる『カプラン暗殺企図』)。この事件の間に、レーニンは負傷した。
 そして、第二に、⑦そのあとの1919年3月のスヴェルドロフの突然の死は、事故ではなく、この企てに彼が果たした役割に対する復讐の行為だったかもしれない。
 ドイツ共産主義運動の指導者-リープクネヒト(Karl Liebknecht)とルクセンブルク(Rosa Luxemburg)-の殺害。⑧私見が支持するのは、この当時にドイツにいた著名なロシア・ボルシェヴィキのカール・ラデック(Karl Radek)が、この二人の殺害に関与していたかもしれない、というものだ。
 ⑨1922年の最初以降に、スターリンとジェルジンスキーによってレーニンは徐々に権力を奪い取られ、党内部での権力闘争の結果として、レーニンは彼らによって殺害された。
 そして、そのあと、トロツキーは駆逐され、また一方で、ジェルジンスキー、スクリャンスキー(Sklyansky)およびフルンゼ(Frunze)-別の重要なボルシェヴィキたち-が排除された。
 ボルシェヴィキ党の指導部は、組織犯罪集団ときわめてよく類似した様相を呈している。
 彼ら構成員のほとんど誰も、自然には死ななかった。
 そして、スターリン自身を含めて、スターリンの世代のほとんど全てのソヴィエトの指導者たちは、次から次へと除去されて〔殺されて?〕いった。」
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 内容構成(目次)は、つぎのとおりだ。
 「1・革命のための金。/2・ブレスト=リトフスク条約。/3・ミルバッハ公暗殺と左翼エスエル党の破壊。/4・ウラジミル・レーニンとヤコフ・スヴェルドロフ。5・カール・ラデックとカール・リープクネヒトおよびローザ・ルクセンブルクの殺害。/6・レーニンの死に関するミステリー。」
 以上。

1619/二党派と1905年革命③-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争③。
 つづく数年間は、これらの問題、とくに農業問題綱領およびカデットとの関係についての問題、に関する論争でいっぱいだった。
 メンシェヴィキ派は、ますます懐疑心をもち、戦術上の問題についてしばしば優柔不断だった。そして、合法的な制度や幅広い基盤のあるプロレタリア組織を是認する方向へと傾斜した。
 レーニンは、党があらゆる合法的活動の機会を利用するのを望んだが、しかし、その秘密組織を維持し、憲法制定主義、議会主義および労働組合主義への追従に抵抗することをも望んだ。すなわち、全ての合法的形態は、実力による権力奪取という最終の目標に従属するものでなければならないのだった。
 レーニンは、同時に、個人に対するテロルというエスエル〔社会革命党〕の方針に反対した。
 彼は、1905年の前に、党は原理上の問題としてテロルを拒否はしない、テロルは一定の事情のもとで必要だ、しかし、大臣やその他の公的人物への攻撃は時期尚早で、反発を誘発する、と強調した。革命的勢力を散逸させ、有益な効果を何らもたらさないだろうから、という理由で。
 革命の時代の後半部には、レーニンは、『没収(expropriations)』に関してメンシェヴィキと激論を交わした。『没収』とは、党の財政資金を補充するための、テロリスト集団による武装強盗のことだ。
 (トランスコーカサスでのスターリンは、このような活動の主要な組織者の一人だった。)
 メンシェヴィキおよびトロツキーは、このような実務は無価値で非道徳的だと非難した。しかし、レーニンは、個人に対してではなく銀行、列車あるいは国家財産に対して行使されるという条件で、これを擁護した。
 1907年春の党大会で、レーニンの反対に抗して、『没収』はメンシェヴィキの多数派によって非難された。//
 党員の数は、反動の時期に相当に消滅した。
 1906年9月の『統一大会』の後で、レーニンは、その数を10万人余だと見積もった。
 大会の代議員たちは、およそ1万3000人のボルシェヴィキと1万8000人のメンシェヴィキを代表した。再加入したブント(the Bund)は3万3000人のユダヤ人労働者を有しており、加えて、2万6000人のポーランド・リトアニア社会民主党員、1万4000人のラトヴィア人党員がいた。トロツキーはしかし、1910年に、全体数をわずか1万人と推算していた。
 しかしながら、減勢にもかかわらず、革命後の状況は合法活動への多くの幅広い機会を与えた。
 1907年の初めに、レーニンはフィンランドへと移り、そこでその年の末に再び亡命した。
 彼は、第二ドゥーマ選挙のボイコットを宣言した。しかし、全ての社会民主党員が従ったわけではなく、35名が選出された。
 約三ヶ月のちに、第二ドウーマが、第一のそれのように、解散された。そのときに、レーニンは、ボイコット方針を放棄し、彼の支持者たちが第三ドゥーマに参加するのを認めた。社会改革のためにではなく、議会制主義という妄想を暴露して、農民代議員たちを革命的方向へと導くために。
 数ヶ月前にはボイコットに反対していた誰もが、レーニンによると、レーニンはマルクス主義の考え方を知らない全くの日和見主義者だという姿勢を示した。今や、ボイコットに賛成する誰もが、日和見主義者で無学な者を自認することになった。
 ボルシェヴィキの中に、レーニンを『左翼から』批判する小集団、彼が『otzovist』と命名した者たち、すなわち社会民主党代議員をドウーマから召還(recall)することを主張する『召還主義者』、が出現するようになった。
 一方で、別の集団は、『最後通告主義者(ultimatist)』と命名された。ほとんどはメンシェヴィキの代議員たちに、従わなければ解職すると党が送付すべきとする最後通告書(ultimatum)の案を作成したからだ。
 二つの小集団の違いは重要ではなく、重要だったのは、革命的ボルシェヴィキの中にレーニンに反対する分派ができ、党は議会と関係をもつべきではなく、来たる革命への直接的な用意に集中すべきだ、と考えたことだ。
 この小集団の最も積極的なメンバー、A・A・ボグダノフ(Bogdanov)は、レーニンの長い間のきわめて忠実な協力者で、ロシア内でボルシェヴィズムを組織化する主要な役割を果たした。そして、独立の政治運動としてのボルシェヴィズムを、レーニンとともに共同で創始した者だと見なすことができる。
 『召還主義者』または『最後通告主義者』の中には、数人の知識人がいた-すなわち、ルナチャルスキー(Lunacharsky)、ポクロフスキー(Pokrovsky)、メンジンスキー(Menzhinsky)。このうち何人かは、のちにレーニン主義正統派へと復帰した。//
 『召還主義者』との戦術上の論争は、奇妙な様態で哲学上の論争と、このときに社会民主党の陣地内で生じた論争と、絡みついた。レーニンはこの論争から唯物論を守る専門論文を作成して、1909年に刊行した。
 この論争には、簡単に叙述しておくべき前史があった。//
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 第1節、終わり。第2節・ロシアの知識人の新傾向、へとつづく。

1617/二党派と1905年革命②-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争②。
 革命の結果、社会民主党は正式に再統合した。
 1906年4月のストックホルム大会で-メンシェヴィキ〔原義は少数派〕はかなりの多数派だったが旧名を維持した-、組織上の一体性が回復され、1912年にレーニンが最終的な分裂をもたらすまで、6年間続いた。
 イデオロギー上および戦術上の一体性は、しかしながら、なお不足していた。
 根本的な違いと相互非難はつづいた。レーニンは従来よりは、メンシェヴィキに関して粗野でなく侮蔑的でない言葉を用いたけれども。
 いずれの党派も、革命の結果は自分たちの理論を確認するものだと解釈した。
 レーニンは、ブルジョアジー(この場合はカデット)は瑣末な譲歩と引き換えにツァーリ体制と取引を始める用意がある、彼らは官僚制よりも民衆革命が怖ろしい、と主張した。
 彼は強く主張した。革命はまた、プロレタリアート以外に見込むことのできる唯一の勢力は、この段階では社会民主党の自然の同盟者である農民層だということを示した、と。
 他方で、メンシェヴィキの何人かは、ブルジョアジーを同盟者だと見なすようにしないで疎外するのを要求する過度の急進主義によって、第二の局面ではプロレタリアートが切り離されたがゆえに、革命は失敗した、と考えた。
 トロツキーは、1905年の諸事件に学んで、その永続革命の理論をより精確なものに定式化して、ロシアの革命はただちに社会主義の局面へと進化するに違いない、それは西側に社会主義的大激変を誘発するはずだ、と主張した。//
 かくして1905年革命後の時期には、旧い対立は残ったままで、新しい問題がそれぞれの考えにしたがって反応する二つの分派に立ちはだかった。
 メンシェヴィキは、新しい議会制度上の機会を利用する方向へと多く傾斜した。
 レーニンの支持者たちは、最初はボイコットに賛成し、ドゥーマに代表者を送ることに最終的に同意したとき、ドゥーマは社会改革の仕組みではなくて革命的な宣伝活動のための反響板だと見なした。
 メンシェヴィキは、革命の間の武装衝突に参加はしたけれども、武装蜂起を最後に訴えるべき方法だと考え、他の形態での闘いにより大きな関心をもった。
 一方で、レーニンには、暴力を用いる蜂起や権力の征圧は革命的目標を達成する唯一の可能な方法だった。
 レーニンは、プレハノフの『我々は武器を握るべきでない』との言葉に呆れて、メンシェヴィキのイデオロギー上の指導者がいかに日和見主義者であるかを示すものとして、これを繰り返して引用した。
 メンシェヴィキは、将来の共和主義的国家での最も非中央集権的な政府に賛成し、とりわけこの理由で、没収した土地を地方政府機関に譲り渡すことを提案した。国有化はブルジョアジーの手中に収まるだろう中央の権力の強化を意味することになる、と論拠づけることによって。
 (ロシア国家の『アジア的』性格は、プレハノフが非中央集権化に賛成したもう一つの理由だった。)
 レーニンは、国有化案を-つまり農民の土地の没収でも農村集団共有化でもない『絶対的地代』の国家への移転を-持っていた。彼の見方では、革命後の政府はプロレタリアートと農民の政府の一つになり、メンシェヴィキの主張には根拠がなかった。
 他のボルシェヴィキたちは再び、若いスターリンを含めて、没収した全ての土地を分配することを支持した。これは農民たちが現実に願っていることに最も近く、最終的には綱領に書き込まれた。
 メンシェヴィキは、ドゥーマの内外のいずれの者も、カデット〔立憲民主党〕との戦術的な連合の方に傾いていた。
 レーニンはツァーリ体制の従僕だとしてカデットを拒否し、1905年の後で主として労働者団(the Labour Gruop)(トルドヴィキ、Trudoviki)によって代表される農民たちと一緒に活動することを選んだ。
 メンシェヴィキは、全国的な労働者大会でプロレタリアートの幅広い非政党的組織、つまりは全国的なソヴェトの制度を作ることを計画した。  
 しかし、レーニンにとって、これが意味するのは党の排除であり、党を<何と怖ろしくも>( horribile dictu )プロレタリアートに置き換えることだった。
 レーニンはまた、ソヴェトは蜂起(insurrection)の目的にのみ用いられるものだと主張して、アクセルロート、ラリン、その他の労働者大会の提唱者を激しく攻撃した。
 『「労働者ソヴェト」代表たちとその統合は、蜂起の勝利にとって不可欠だ。勝利する蜂起は、不可避的に別の種類の機関を創出するだろう。』(+)
 (<戦術の諸問題>シンポジウムより、1907年4月。全集12巻p.332。〔=日本語版全集12巻「腹立ちまぎれの戸惑い」331頁。〕)
  (+秋月注記) 日本語版全集12巻(大月書店、1955/32刷・1991)を参考にして、ある程度は変更した。
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 ③へとつづく。

1615/二党派と1905年革命①-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 この書物には、邦訳がない。三巻合冊で、計1200頁以上。
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。三巻合冊本(New York, Norton)の、p.687~p.729。
 試訳をつづける。訳には、第2巻の単行本、1978年英訳本(London, Oxford)の1988年印刷版を用いる。原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には、//を付す。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争①。
 第二回党大会の効果は、ロシアでの社会民主主義運動の生命が続いたことだと誰にも感じられた。
 レーニンが大会の後半で党への支配力を勝ち取った僅少差の多数派を、彼が望んでいたようには行使できないことが、大会の後ですぐに明らかになった。
 これは、主としてプレハノフ(Plekhanov)の『裏切り』によった。
 大会は、党機関誌のための編集部を任命した。この機関は、そのときは実際には中央委員会から独立していて実際上はしばしばもっと重要だったが、プレハノフ、レーニンおよびマルトフ(Martov)で構成された。一方で、『少数派』の残り-アクセルロート(Akselrod)、ヴェラ(Vella)およびポトレソフ(Potresov)-は、レーニンの動議にもとづいて排除された。
 しかしながら、マルトフはこうして構成された編集部で働くのを断わり、一方で、プレハノフは、数週間のちにボルシェヴィキと離れ、彼の権威の重みでもって4人の全メンシェヴィキの者と編集部を再構成するのに成功した。 
 このことで、レーニンは代わって辞任した。そのときから<イスクラ>はメンシェヴィキの機関になり、ボルシェヴィキが自分たちのそれを創設するまで一年かかった。//
 大会は、論文、小冊子、書籍およびビラが集まってくる機会で、新しく生まれた分派はそれらの中で、背信、策略、党財産の横領等々だという嘲弄と非難を投げかけ合った。
 レーニンの書物、<一歩前進二歩後退>は、この宣伝運動での大砲が炸裂した最も力強い破片だった。
 これは大会での全ての重要な表決を分析し、党の中央集権的考えを擁護し、メンシェヴィキに対して日和見主義だと烙印を捺した。
 一方で<イスクラ>では、プレハノフ、アクセルロートおよびマルトフの論考がボルシェヴィキは官僚制的中央集中主義、偏狭、ボナパルト主義だと、そして純粋な労働者階級の利益を知識階層から成る職業的革命家の利益に置き換えることを謀っていると、非難した。
 それぞれの側は、別派の政策はプロレタリアートの利益の真の表現ではないという同じ非難を、お互いに投げつけ合った。その非難は、だが、『プロレタリアート』という言葉が異なるものを意味しているという点を見逃していた。
 メンシェヴィキは、その勝利へと助けるのが党の役割である、現実の労働者による現実の運動を想定した。
 レーニンにとっては、現実の自然発生的な労働者運動は定義上ブルジョア的な現象で、本当のプロレタリア運動は、正確にはレーニン主義の解釈におけるマルクス主義である、プロレタリア・イデオロギーの至高性によって明確にされる。//
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、理論上は、一つの政党の一部であり続けた。
 両派の不和は不可避的にロシアの党に影響を与えた。しかし、多くの指導者が<移民者>争論をほとんど意味がないと見なしたように、その不和はさほど明白ではなかった。
 労働者階級の社会民主党員は、それぞれの派からほとんど聞くことがなかった。
 両党派は、地下組織への影響力を持とうと争い、それぞれの側に委員会を形成した。
 一方で、レーニンとその支持者たちは、党活動を弱めている分裂を治癒するために、可能なかぎり早く新しい大会を開くように圧力をかけた。
 そうしている間に、レーニンは、ボグダノフ(Bogdanov)、ルナチャルスキ(Lunacharski)、ボンチ・ブリュェヴィチ(Bonch-Bruyevich)、ヴォロフスキー(Vorovsky)その他のような新しい指導者や理論家の助けをうけて、ボルシェヴィキ党派の組織的かつイデオロギー的基盤を創設した。//
 1905年革命は両派には突然にやって来て、いずれも最初の自然発生的勃発には関係がなかった。
 ロシアに戻ってきた<亡命者>のうち、どちらの派にも属していないトロツキーが、最も重要な役割を果たした。
 トロツキーはただちにセント・ペテルブルクに来たが、レーニンとマルトフは、1905年11月に恩赦の布告が出るまで帰らなかった。
 革命の最初の段階は、レーニンが労働者階級自身に任せれば何が起こるかを警告したのを確認するがごとく、実際には警察によって組織された労働組合をペテルブルクの労働者が作ったこととつながっていた。
 しかしながら、オフラーナ〔帝制政治警察〕のモスクワの長であるズバトフ(Zubatov)が後援していた諸組合は、組織者の観点から離れていた。
 労働者階級の指導者としての役割を真剣に考えた父ガポン(Father Gapon)は、『血の日曜日』(1905年1月9日)の結果として革命家になった。そのとき、冬宮での平和的な示威活動をしていた群衆に対して、警察が発砲していた。
 この事件は、日本との戦争の敗北、ポーランドでのストライキおよび農民反乱によってすでに頂点に達していた危機を誘発した。//
 1905年4月、レーニンは、ボルシェヴィキの大会をロンドンに召集した。この大会は党全体の大会だと宣言し、しばらくの間は分裂に蓋をし、反メンシェヴィキの諸決議を採択し、ただのボルシェヴィキの中央委員会を選出した。
 しかしながら、革命が進展するにつれて、ロシアの両派の党員たちは相互に協力し、これが和解の方向に向かうのを助けた。
 自然発生的な労働者運動は、労働者の評議会(ソヴェト)という形での新しい機関を生んだ。
 ロシア内部のボルシェヴィキは最初は、これを真の革命的意識を持たない非党機関だとして信用しなかった。
 しかしながら、レーニンは、将来の労働者の力の中核になるとすみやかに気づいて、政治的にそれら〔ソヴェト〕を支配すべく全力をつくせと支持者たちに命じた。//
 1905年10月、ツァーリは、憲法、公民的自由、言論集会の自由および選挙される議会の設置を約束する宣言を発した。
 全ての社会民主主義集団とエスエルはこの約束を欺瞞だと非難し、選挙をボイコットした。
 1905年の最後の二ヶ月に革命は頂点に達し、モスクワの労働者の反乱は12月に鎮圧された。
 血の弾圧がロシア、ポーランド、ラトヴィアの全ての革命的な中心地区で続き、一方で革命的な群団は、テロルやポグロム(pogroms、集団殺害)へと民衆を煽った。
 大規模の反乱が鎮圧された後のしばらくの間、地方での暴発や暴力活動が発生し、政府機関によって排除された。
 革命的形勢のこのような退潮にもかかわらず、レーニンは、闘争の早い段階での刷新を最初は望んだ。
 しかし、レーニンは、最後には反動的制度の範囲内で活動する必要性を受容し、1907年半ばからの第三ドゥーマ選挙に社会民主党が参加することに賛成した。
 この場合には(後述参照)、彼は自分の集団の多数派から反対され、メンシェヴィキには支持された。//
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 ②へとつづく。

1610/二つの革命・三人における②-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』③。
 1917年4月まで、レーニンは、第一の革命がただちに第二のそれへと発展するとは考えていなかった。彼は、『第一の段階』で社会民主主義政府が権力を握るというパルヴゥスの見方に異議を唱えた。
 彼は、1905年4月に、このような政府は長続きしない、と書いた。
 なぜなら、『人民の莫大な多数派が支える革命的独裁だけが永続的なものであり得るからだ。<中略>
 しかし、ロシアのプロレタリアートは、今のところは、ロシアの大衆のうちの少数派だ。』(+)
 (『社会民主党と臨時革命政府』、全集8巻p.291。〔=日本語版全集8巻289頁。〕) 
 ゆえに、社会民主党は、専政体制の打倒をその全体として利益とする農民と権力を分かち持つことを想定すべきだ。
 他方で、レーニンは、1905年革命の前に、プロレタリアートの独裁は自作農民の階級全体に対抗しそれを覆う独裁でなければならない、と書いた。
 このことは、プレハノフによる党綱領の第二草案に関する彼の<ノート>で、明確に表明されている。
 『「独裁」の観念は、外部からのプロレタリアートへの支持を積極的に承認することと両立し得ない。
 もしもプロレタリアートがその革命を達成する際に小ブルジョアジーが自分たちを支持すると本当に積極的に知っているならば、「独裁」を語るのは無意味だろう。
 我々が圧倒的な多数派によって完全に保証されるほどであれば、独裁なくしても立派にことを進めることができるだろうからだ。<中略>
 プロレタリアートの独裁の必要性を承認することは、ただプロレタリアートだけが真に革命的な階級だとの共産党宣言の命題と最も緊密にかつ分かち難く結びついている。』//
 我々が党の綱領の実践的な部分で、小生産者(例えば農民)に対して「好意」を示せば示すほど、綱領の理論的部分では、この信頼できない二つの顔をもつ社会的要員をそれだけ、我々の立場を微塵も損なうことなく「厳格に」、扱わなければならない。
 さて今や、我々は言う。もし貴君がこのような我々の立場を採用するならば、貴君はあらゆる種類の「好意」を期待できるだろう。
 しかし、そうでないならば、我々に腹を立てないで!
 我々は独裁をしながら、貴君に言うだろう。権力の行使が要求されているときに言葉を無駄にするのは無意味だ、と。』(+)
 (全集6巻p.51、p.53注。〔=日本語版全集6巻37頁、39-40頁注(1)。〕)//
 このような見方に沿って、レーニンは1906年に『農業問題綱領の改訂』で、つぎのように書いた。
 『農民の蜂起が勝利へと近づけば近づくほど、自作農民がプロレタリアートに反対する方向へと変化するのはそれだけ近づきそうだ、また、プロレタリアートが独立の組織をもつことが、それだけ多く必要になる。<中略>
 農村プロレタリアートは、完全な社会主義革命へと闘うべく、都市プロレタリアートとともに独自に組織化しなければならない。』(+)
 (全集10巻p.191。〔=日本語版全集10巻174頁。〕)
 したがって、綱領は、つぎのことを含んでいなければならない。
 『農民の成果を強固なものにし、民主主義の勝利から社会主義への直接のプロレタリアの闘争へと移るために運動がすることができ、またそうすべきつぎの一歩を、精確に明示すること。』(+)(同上p.192。〔=日本語版全集10巻174頁。〕)
 1906年4月の『統一大会』で、レーニンはこの見方から明確に、彼があるだろうと信じる西側でのプロレタリアートの蜂起がもしもないならば、農民の抵抗は革命をうち砕くだろうと、語った。//
 『ロシアの革命は、自らの努力で達成することができる。
 しかし、自分自身の強さによるのでは、その成果を保持して強固にすることはおそらくできない。
 西側で社会主義革命がないならば、そうすることができない。
 このような条件がなければ、復古は不可避だ。土地の市有化、国有化、分割のいずれを選択しようとも。それぞれのかつ全ての領有や所有の形態において、小土地所有者はつねに復古のための堡塁になるだろうから。
 民主主義革命が完全に勝利した後では、小土地所有者は不可避的にプロレタリアートに反対する方向に変わるだろう。そして、資本家、地主、金融ブルジョアジーその他のようなプロレタリアートと小土地所有者の共通の敵が放擲されるのが速ければ速いほど、それだけ早くそのように変わるだろう。
 我々の民主主義共和国は、西側の社会主義プロレタリアート以外には、予備軍を持たない。』(+)
 (全集10巻p.280〔=日本語版全集10巻270頁。〕//
 こうしたことは、スターリンがレーニン主義と永続革命理論の間には『根本的対立』があるとのちに語ったのが、いかに大きく彼が誇張していたかを、明らかに示している。
 スターリンはトロツキーに反対して、第一に、この理論は革命的勢力である農民に対する不信の意味を含んでいる、農民は一階級として社会主義革命でのプロレタリアートの敵になると示唆している、と主張した。
 第二に、トロツキーは一国における社会主義建設の可能性を疑問視し、西側での大転覆なくしてロシアでの成功を維持できるとは考えなかった、と彼は主張した。
 スターリンによると、この二つの点で、レーニンとトロツキーは最初から全体として対立していた。
 しかし実際は、レーニンは、1917年の前に、そして決して一人だけではなく、社会主義革命は言うまでもなくロシアでの民主主義革命ですら、西側の社会主義革命なくしては維持できないと考えていた。
 レーニンは、農村プロレタリアート、つまりその利益が彼によれば都市労働者と合致し、ゆえに社会主義革命を支持するだろう土地なき農民を組織する必要を強調した。
 しかし、1917年の前に、農民全体は『第二段階』ではプロレタリアートに反対する方向に変わるだろうと認識した。
 最後には、レーニンは、『第一段階』は社会主義政府をもたらさないが、『社会主義に向かう直接の階級闘争』を開始させる、と考えた。
 永続革命の理論は、『第一段階』がただちにプロレタリアートまたはその党による支配をもたらすという点でのみ、レーニンの見方に反していた。
 レーニンが農村地帯での階級闘争に関する戦術を基礎づけ、プロレタリアートと貧農の独裁という教理へと進んだのは、ようやくのちのことだった。レーニンは、プロレタリアートと全体としての農民層の間には埋められない懸隔があるという理論にもとづく政策に対抗すべく、その教理を認めざるを得なかった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は変更した。
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 第4節終わり。第16章全体の「小括」へとつづく。


1609/二つの革命・三人における①-L・コワコフスキ著16章4節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第4節・民主主義革命におけるプロレタリアートとブルジョアジー、トロツキーと『永続革命』②。
 社会民主主義者は全て、綱領の最小限と最大限の区別を当然のことと見なしていた。そして、いかにして社会民主主義者がブルジョア革命後の『次の段階』への闘いを遂行するかに関心を持っていた。
 彼らの誰も、どの程度長くロシアの資本主義時代が続くのかを敢えて予測しようとはしなかった。
 しかしながら、メンシェヴィキは一般に、西側の民主主義および議会制度を吸収する歴史的な一時代全体が必要だろうと考えた。そして、社会主義への移行は遙かに遠い期待だ、と。
 レーニンは、彼の側では、全ての戦術を将来の社会的転覆に向かって連動させなければならない、『最終目標』をつねに心に抱いて全ての党の行動を指揮しなければならない、というまったくマルクス主義の精神のうちにあるこの原理を重大視した。
 問題は、こうだった。ブルジョア革命が人民に、すなわちプロレタリアートと農民に権力を与えれば、彼らは不可避的に社会を社会主義の方向へと変形させようとするだろうか、そしてブルジョア革命は社会主義革命へと成長するだろうか?
 この問題は、1905年革命の直前の数年間に、そしてその革命後すぐのパルヴゥス(Parvus)やトロツキー(Trotsky)の著作で、前面に出てきた。//
 レオン・トロツキー(Leon Trotsky, Lyov Davidovich Bronstein)は、ロシアの亡命者集団でのマルクス主義の有能な主張者として、1902-3年に名前を知られるようになった。
 1879年11月7日(新暦)にヘルソン地方のヤノヴカ(Yanovka)で、ユダヤ人農夫(ウクライナ地域に少しはいた)の子息として生まれ、オデッサ(Odessa)とニコライエフ(Nikolayev)の小中学校に通い、18歳の年にマルクス主義者になった。
 彼は数ヶ月の間、オデッサ大学で数学を学んだ。だがすぐに政治活動に集中して、南ロシア労働者同盟(the Southern Russian Workers' Union)で働いた。この同盟は、純粋に社会民主主義ではないがマルクス主義思想の影響を多く受けていた。
 トロツキーは1898年の初頭に逮捕され、二年間を刑務所で過ごし、そして四年間のシベリア流刑の判決を宣せられた。
 収監中および流刑中に、熱心にマルクス主義を学び、シベリアでは研修講師をしたり合法的新聞に論考を発表したりした。
 トロツキーという名の偽の旅券によってシベリア流刑から逃れて、ここから彼の歴史に入っていくが、1902年の秋にロンドンでレーニンと会い、<イスクラ>の寄稿者になった。
 彼は、第二回党大会では、レーニンは労働者階級の組織ではなく閉鎖的な陰謀家集団に党を変えようとしているとして、その規約1条案に反対表決をした多数派の一人だった。
 トロツキーはしばらくはメンシェヴィキの陣営にいたが、リベラル派との同盟に向かう趨勢に同意できなくなってそれと決裂した。
 1904年にジュネーヴで、とりわけ党に関するレーニンの考えを攻撃する、<我々の政治的任務について>と題する小冊子を発行した。
 レーニンは人民と労働者階級を侮蔑しており、プロレタリアートを党に置き換えようとする、と主張した。これは時が推移すれば、中央委員会を党に置き換え、中央委員会を一人の独裁者に置き換えるだろうことを意味する、と。  
 これ以来頻繁に引用されるこの予言は、ローザ・ルクセンブルクによるレーニン批判と同じ前提にもとづくものだった。つまり、職業革命家から成る中央集中的かつ階層的な党という考えは、労働者階級は自分たち自身の努力ではじめて解放されることができるとの根本的なマルクス主義の原理に反している、という前提。//
 トロツキーは多年にわたり、主として独立の社会民主主義の主張者として活動し、党のいずれの派にも属さないで、党の統一の回復の方向へとその影響力を用いた。
 ミュンヒェンで、ロシア系ユダヤ人のパルヴゥス(Parvus、A. H. Helfand)の友人になった。パルヴゥスは、ドイツに住んでいて、ドイツ社会民主党左翼に属していた。
 このパルヴゥスは、永続革命理論の本当の(true)先駆者であり創始者だと見なされている。
 パルヴゥスの見方によると、ロシアの民主主義革命は社会民主主義政府に権力を与え、それは必然的に、社会主義に向かう革命の過程を継続するよう努めることになる。
 トロツキーはこの考えを採用し、1905年の革命に照らしてこれを解釈した。
 あの事件から一般化して、ロシアのブルジョアジーは弱いので、来たる革命はプロレタリアートによって率いられなければならず、ゆえにブルジョアの段階で停止しないだろうと、述べた。
 ロシアの経済的後進性が意味しているのは、ブルジョア革命のあとにただちに社会主義革命が続くだろう、ということだ。
 (これは、ドイツについての1948年のマルクスとエンゲルスの予測に似ていた。)
 しかし、『第一段階』でプロレタリアートは農民に支えられるが、社会主義革命の時期には農民は、それに反対する小土地所有者の大衆になるだろう。
 ロシアでは少数派なので、西側の社会主義革命によって助けられないかぎり、ロシアのプロレタリアートは権力を維持することができないだろう。
 しかし、革命の進行がロシアからヨーロッパおよび世界のその他の地域へと速やかに広がることを、期待することができる。//
 かくして、トロツキーの『永続革命』理論は、彼がその後数年間にしばしば繰り返した二つの前提条件に依拠している。
 ロシアのブルジョア革命は、継続的に社会主義革命へと進化する、ということ。
 これは、西側での大乱(conflagration)を誘発する、ということ。
 もしそうでなければ、ロシアの革命は生き残ることができない。プロレタリアートが農民大衆の圧倒的な抵抗と闘わなければならなくなるのだから。//
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 ③へとつづく。

1601/ケレンスキー首相-R・パイプス著10章12節。

 前回からのつづき。
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 第12節・蜂起鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁③。
 7月6日の夕方にペテログラードに帰ったケレンスキーは、ペレヴェルツェフに激しく怒って、彼を解任した。
 ケレンスキーによると、ペレヴェルツェフは、『レーニンの最高形態での国家叛逆を文書証拠が支えて確定する機会を、永遠に喪失させた』。
 この言い分は、レーニンとその支持者に対して行ったその後の日々の果敢な行動が失敗したことについて、尤もらしい釈明をしたもののように見える。
 『レーニンの最高形態での国家叛逆を確定する』努力がなされなかったとすれば、それは、レーニンの弁護へと跳びついた社会主義者たちを宥める気持ちからだった。
 それは、『すでにカデット〔立憲民主党〕の支持を失ってソヴェトを敵に回す余裕のない政府が、ソヴェトに対して行なった譲歩』だった。(*)
 このように考察すると、7月とそれ以降数ヶ月のケレンスキーの行動は、際立っていた。//
 ケレンスキーはルヴォフに代わって首相になり、陸海軍大臣職を兼任した。
 彼は独裁者のごとく行動し、自分の新しい地位を見える形で示すために、冬宮(Winter Palace)へと移った。そしてそこで、アレクサンダー三世のベッドで寝て、その机で執務した。
 7月10日、コルニロフ(Kornilov)に、軍司令官になるように求めた。
 コルニロフは、7月事件に参加した兵団の武装解除および解散を命令した。
 守備軍団は10万人へと減らされ、残りは前線へと送られた。
 プラウダその他のボルシェヴィキ出版物は、戦陣から排除された。//
 だが、このような決意の表明はあったものの、臨時政府は、ボルシェヴィキ党を破滅させるだろう段階へとあえて進むことをしなかった。公開の審問があれば、国家叛逆活動に関して所持している全ての証拠資料が、呈示されていただろう。
 新しい司法大臣のA・S・ザルドニュイ(Zarudnyi)のもとに、新しい委員会が任命された。
 その委員会は資料を集めたが-10月初めまでに80冊の厚さになった-、結局は法的手続は始まらなかった。
 この失敗の理由は、二つあった。すなわち、『反革命』への恐怖、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕と対立したくないとの願望。//
 7月蜂起によってケレンスキーには、右翼がボルシェヴィキの脅迫を利用して、君主制主義者がクーを企てるのではないかとの強迫観念的な恐怖が、染みついた。
 彼は7月13日にイスパルコムで挨拶し、『反革命勢力を刺激する行動』から構成員は距離を置くように強く要求した。そして、『ロシア君主制を復古させる全ての企ては断固として、容赦なき方法で抑圧される』と約束した。
 ケレンスキーは、多くの社会主義者たちのように、7月反乱を打ち砕いた忠誠ある諸兵団の献身さを、喜んだというよりむしろ警戒した、と言われている。
 彼の目からすると、ボルシェヴィキが脅威だったのは、そのスローガンや行動が君主制主義者を助長するという範囲においてのみだった。
 ケレンスキーが7月7日に皇帝一族をシベリアに移送すると決定したのは、同じような考えにもとづくものだったと、ほとんど確実に言える。
 皇帝たちの出立は、7月31日の夜の間に、きわめて秘密裡に実行された。
 ロマノフ家の者たちは、50人の付添いや侍従たちの随行員団に同伴されて、トボルスク(Tobolsk)へと向かった。それは、鉄道が走っておらず、したがってほとんど逃亡する機会のない町だった。
 この決定の時機-ボルシェヴィキ蜂起およびケレンスキーのペテログラード帰還の三日のち-は、ニコライを皇位に復帰させる状況を右翼の者たちが利用するのを阻止することに、ケレンスキーの動機があった、ということを示している。
 このような見方は、イギリスの外交部のものだった。//
 関連して考えられるのは、ボルシェヴィキを仲間だと見なし、それへの攻撃を『反革命』の策謀だと考え続けている、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕の機嫌を損ないたくないという願望だった。
 ソヴェト内のメンシェヴィキとエスエルは、政府のレーニンに対する『誹謗中傷運動』を繰り返して攻撃し、訴追を取り下げて、拘留されているボルシェヴィキたちを解放することを要求した。//
 ボルシェヴィキに対するケレンスキーの寛大な措置は、ボルシェヴィキは彼とその政府をほとんど打倒しかけたにもかかわらず、翌月にコルニロフ将軍に関して見せた素早いやり方とは著しく対照的だった。//
 政府とイスパルコムのいずれもの不作為の結果として、ペレヴェルツェフが主導して解き放とうとしたボルシェヴィキに対する憤激は、消散した。
 この両者は、右翼からの想像上の『反革命』を怖れて、左翼からの本当の『反革命』を消滅させる、願ってもない機会を失った。
 ボルシェヴィキはまもなく回復し、権力への努力を再び開始した。
 トロツキーは、1921年の第3回コミンテルン大会の際にレーニンが党は敵との取引で間違いをしたとを認めたとき、1917年の『性急な蜂起のことを頭の中に想い浮かべた』、とのちに書いた。
 トロツキーは、つぎのように付記した。『幸運にも、我々の敵には十分な論理的一貫性も、決断力もなかった』。(203)
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  (*) Richard Abraham, Alexander Kerensky (ニューヨーク, 1987), p.223-4。ペレヴェルツェフはネクラソフとテレシェンコが言い出して7月5日の早いうちに解任されたが、二日長く職務にとどまつた。
  (203)トロツキー, レーニン, p.59。 revolution
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 第10章、終わり。第11章の章名は、「十月のク-」。但し、第11章の最初から「軍事革命委員会によるクー・デタの開始」という目次上の節までに、48頁ある。

1593/犯罪逃亡者レーニン①-R・パイプス著10章12節。

 前回第11節終了からのつづき。
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 第12節・蜂起の鎮圧、レーニン逃亡・ケレンスキー独裁①。
 こうした事態が推移していたとき、ケレンスキーは戦線にいた。
 恐れおののいた大臣たちは、何もしなかった。
 タウリダ宮の前の数千人の男たちの叫び声、見知らぬ目的地へと走る兵士や海兵を乗せた車の光景、守備軍団が放棄したとの知識、これらは、大臣たちを絶望感で充たした。
 ペレヴェルツェフによると、政府は、実際には捕らえられていた。//
 『私は、資料文書を公表する前に、7月4日蜂起の指導者たちを逮捕することはしなかった。彼らの決意が彼らの犯罪の活力の十分の一でもあれば、そのときに彼らはすでに実際にはタウリダ宮の臨時政府の一部を征圧して、何の危険を冒すことなくルヴォフ公、私自身そしてケレンスキーの議員団を拘束することができた、という理由でだけだ。』//
 ペレヴェルツェフは、この絶望的な状況下で、兵士たちの間に激しい反ボルシェヴィキの反応を解き放つことを期待して、レーニンのドイツとの関係について、利用できる情報の一部を公表することに決めた。
 彼は二週間前に、この情報を公表しようと強く主張していた。しかし、内閣は、(メンシェヴィキの新聞によると)『ボルシェヴィキ党の指導者に関する事柄には、慎重さを示すことが必要だ』という理由で、彼の提案を却下していた。
 ケレンスキーはのちにレーニンに関する事実を発表したのは『赦しがたい』過ちだったとしてペレヴェルツェフを非難したけれども、ケレンスキー自身が7月4日に騒擾のことを知って、『外務大臣が持つ情報を公開するのを急ぐ』ように、ルヴォフに対して強く迫った。
 ニキーチン総督およびポロヴツェフ将軍と確認したあとで、ペレヴェルツェフは、報道関係者とともに80人以上のペテログラードおよびその周辺の駐留軍団代表者を、彼の執務室へと招いた。
 これは、午後5時頃のことだった。タウリダでの騒乱は最高度に達していて、ボルシェヴィキのクーはすぐにでも達成されるように見えた。(*)
 将来に見込まれるボルシェヴィキ指導者の裁判での最も明確な有罪証拠資料を守るために、ペレヴェルツェフは、持っている証拠の断片だけや、価値がきわめて乏しいものを公表した。
 それは、D・エルモレンコ(Ermolenko)中尉のあいまいな調書で、彼はドイツ軍の戦時捕虜だった間に、レーニンはドイツ軍のために働いていると言われた、と報告していた。
 こうした伝聞証拠は、政府関係の事件では、とくに社会主義者関係のそれでは、多大に有害なものだった。
 ペレヴェルツェフはまた、ストックホルムを経由したボルシェヴィキのベルリンとの金銭関係に関する情報も、ある程度は発表した。
 彼は愚劣にも、信用のないかつてのボルシェヴィキ・ドゥーマ〔帝制国会下院〕議員団長、G・A・アレクジンスキーに対して、エルモレンコの調書の信憑性を調べてほしいと頼んだ。//
 司法省にいる友人、カリンスキーはすぐに、ペレヴェルツェフがまさにしようとしていることをボルシェヴィキに警告した。それによってスターリンは、レーニンに関する『誹謗中傷』の情報をばらまくのを止めるようにイスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕に求めた。
 チヘイゼとツェレテリは、ペテログラードの日刊新聞社の編集部に電話をかけ、イスパルコムの名前で、政府が発表したことを新聞で公表しないように懇請した。
 ルヴォフ公も、同じようにした。そして、テレシェンコとネクラソフ(Nekrasov)も。(**)
 全ての新聞社が、一つだけを除いて、この懇請を尊重した。
 その一つの例外は、大衆紙の < Zhivoe slovo >だった。
 この新聞の翌朝の第一面の大見出し--レーニン・ガネツキーと共謀スパイたち--のあとにはエルモレンコの調書と、ガネツキーを通してコズノフスキーとスメンソンに送られたドイツの金に関する詳細が続いていた。
 この情報を記載した新聞紙は、街中に貼られた。//
 レーニンとドイツに関するこの暴露情報は、ペレヴェルツェフの説明を受けた連隊の使者から伝わり、諸兵団に電流を通したかのような効果をもった。
 ほとんど誰も、ロシアはソヴェトと友好関係にある臨時政府によって統治されているのか、それともソヴェトのみによって統治されているのか、などとは気に懸けなかった。敵国と協力していることに関して、感情的になった。
 敵国領土を縦断した旅で生じたレーニンにつきまとう疑念によって、レーニンは兵団にはきわめて不人気になっていた。
 ツェレテリによると、レーニンは制服組から嫌われているのでイスパルコムに保護を求めなければならなかった。
 タウリダに最初に到着したのはイズマイロフスキー守備兵団で、プレオブラジェンスキーと、軍楽隊のあとで行進したセメノフスキーの各兵団が続いた。
 コサック団も、現われた。
 兵団が接近してくるのを見聞きして、タウリダ正面の群衆たちは、慌てふためいてあらゆる方向へと逃げた。何人かは、安全を求めて宮の中に入った。//
 このときタウリダ宮の内部では、イスパルコムとボルシェヴィキ・工場『代表団』との間の議論が進行中だった。
 メンシェヴィキとエスエルたちは、政府が救出してくれるのを期待して、時間を潰していた。
 政府側の兵団がタウリダ宮に入ってきた瞬間、彼らはボルシェヴィキの提案を拒否した。//
 反乱者たちがそれぞれに分散したので、ほとんど暴力行為は行われなかった。
 ラスコルニコフは海兵たちにクロンシュタットへ戻るように命令し、400人をクシャシンスカヤ邸を守るために残した。
 海兵たちは最初は離れるのを拒んだが、勢力が優る非友好的な政府側の軍団に囲まれたときに屈服した。
 深夜までには、群衆は、タウリダにいなくなった。//
 事態の予期せぬ転回によって、ボルシェヴィキは完全に混乱に陥った。
 レーニンは、カリンスキーからペレヴェルツェフの行動を知るやただちに、タウリダから逃げた。それは、兵士たちが姿を現わす、寸前のことだった。
 レーニンが逃げたあと、ボルシェヴィキは会議を開いた。その会議は、蜂起を中止するという決定を下して終わった。
 正午頃に彼らは、大臣職の書類を配布されていた。6時間後には、探索される獲物の身になった。
 レーニンは、全ては終わった、と思った。
 彼は、トロツキーに言った。『今やつらは我々を撃ち殺すつもりだ。やつらには最も都合のよいときだ』。(181)
 レーニンはつぎの夜を、ラスコルニコフの海兵たちに守られて、クシェシンスカヤ邸で過ごした。
 7月5日の朝、新聞紙< Zhinvoe slovo >の売り子の声が通りに聞こえているときに、レーニンとスヴェルドロフは抜け出して、仲間のアパートに隠れた。
 つづく5日間、レーニンは地下生活者になり、毎日二度、いる区画を変更した。
 他のボルシェヴィキ指導者たちは、ジノヴィエフを除いて、逮捕される危険を冒して公然としたままだった。ある場合には、逮捕するのを要求すらした。//
 7月6日、政府は、レーニンとその仲間たちの探索を命じた。全員で11人で、『国家叛逆(high treason)と武装蜂起の組織』で訴追するものだった。(***)
 コズロフスキーとスメンソンは、すみやかに拘引された。
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  (*) NZh = Novaia zhin', No. 68 (1917年7月7日), p.3。この事態に関するペレヴェルツェフの説明は、つぎの編集部あて書簡にある。NoV = Novoe vremia, No. 14-822 (1917年7月9日), p.4。ペレヴェルツェフは、その回想をつぎで公刊した、と言われる。PN = Poslednie novosti, 1930年10月31日。しかしこの新聞のこの号を私は利用できなかった。
  (**) Zhivoe slovo, No. 54-407 (1917年7月8日) p.1。参照、Lenin, PSS, XXXII, p.413。ルヴォフは、早すぎる公表は機密漏洩罪になるだろうと編集者たちに言った。  
  (181) Leon Trotzky, O Lenin (モスクワ, 1924), p.58。
  (***) Alexander Kerensky, The Crucifixion of Liberty (ニューヨーク, 1934), p.324。その11人とは、以下のとおり。レーニン、ジノヴィエフ、コロンタイ、コズロフスキー、スメンソン、パルヴゥス、ガネツキー、ラスコルニコフ、ロシャル、セマシュコ、およびルナチャルスキー。トロツキーはリストに載っていなかった。おそらくは、ボルシェヴィキ党の党員ではまだなかったためだ。彼は7月末にようやく加入した。トロツキーはのちに、収監される。
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 本来の改行箇所ではないが、ここで区切る。②へとつづく。

1590/七月三日-五日の事件②-R・パイプス著10章11節。

 前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事②。
 他の工場や軍事分団から集まって群衆は膨れ上がり、その数は数万人になった。(+)
 ミリュコフ(Miliukov)は、タウリダ宮の正面で繰り広げられた情景を-自然発生的だという見かけにもかかわらず、群衆の中に分散していたボルシェヴィキ党員によって緊密に指揮されていた情景を-、つぎのように叙述する。//
 『タウリダ宮は、言葉の完全な意味での、闘争の焦点(the focus)になった。
 全日にわたって、武装した軍団がその周辺に集まり、ソヴェトが最後には権力を奪えと主張した。<中略>
 (午後4時頃、)クロンシュタットの海兵たちが到着し、建物の中に入ろうとした。
 彼らは司法大臣のペレヴェルツェフ(Pereverzev)に対して、ジェレツニャコフ(Zhelezniakov)の海兵やアナキストがドゥルノヴォ(Durnovo)邸に拘禁されている理由を説明せよと要求した。
 ツェレテリが出てきて、反抗的な群衆に、ペレヴェルツェフは建物内にいない、すでに辞任してもはや大臣ではない、と告げた。
 前者は本当だったが、後者はそうでなかった。
 直接に釈明されることがなかったので、群衆たちはしばらくは、どうすればよいか分からなかった。
 しかし、ついで、大臣たちはお互いに連帯して責任を負っている、との叫び声が鳴り響いた。
 ツェレテリを拘束しようとする企てがなされたが、彼は宮の中へと何とか逃れた。
 チェルノフ(Chernov)が宮から姿を現わして、群衆を静かにさせた。
 群衆はすぐに彼に突進し、武器を持っていないかと探した。
 チェルノフは、こんな状態では話せない、と宣告した。
 群衆は、沈黙した。
 チェルノフは、社会主義者大臣たちの仕事ぶりについて、一般的にかつ、とくに農務大臣である彼自身について、長い演説を始めた。
 カデット〔立憲民主党〕の大臣に比べれば、まだ安全なこと(bon voyage)だった。
 群衆たちは反応して叫んだ。
 「なぜ以前に、そう言わなかったのか?
 土地は労働者に、権力はソヴェトに移されていると、すぐに宣言せよ!」
 一人の背の高い労働者が拳を大臣の面前につき突けて、怒って叫んだ。
 「おい、おまえたちにくれたら、権力を奪え!」
 群衆の中の数人がチェルノフを捕まえて、車の方向に引き摺った。他の者たちは一方で、彼を宮の方に引っ張った。
 大臣のコートは引き千切られ、クロンシュタットの海兵たちはその身体を車の中に押し込んで、ソヴェトが権力を奪うまでは解放しないと宣言した。
 何人かの労働者たちがソヴェトが会議をしている部屋に突入して、叫んだ。
 「同志たちよ、チェルノフをやっつけているぞ!」
 混乱の真っ只中で、チハイゼはチェルノフを自由にさせるべく、カーメネフ、ステクロフ(Steklov)およびマルトフを指名した。
 しかし、チェルノフはトロツキーによって解放された。トロツキーは、その場に着いたばかりだった。
 クロンシュタットの海兵たちはトロツキーに従い、彼はチェルノフを連れて会議室に戻った。』(*) //
 そうした間に、レーニンは、目立つことなくタウリダに向かっていた。そこで、現場の事態に関与することなく、事態の展開に依拠しながら、権力を握り取るか、それとも示威活動は民衆の怒りが自然発生的に暴発したものだと宣告するか、を考えた。そして、その情景から姿を消した。
 ラスコルニコフは、レーニンは満足しているようだと思った。(165) //
 全ての行動がタウリダ宮で起こったわけではなかった。
 群衆がソヴェト所在地に集まっている間に、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構が指令した武装分遣隊員が、戦略的な諸地点を占拠した。
 ボルシェヴィキが勝利する見込みは、ペトロ・パヴロ要塞の守備軍団、8000人余りがボルシェヴィキの側へと動いたことで、かなり良くなった。
 武装車のボルシェヴィキ分団は、いくつかの反ボルシェヴィキ新聞社から機械装備を取り上げた。
 アナキストたちは、新聞社の中で最も自由な< Novoe vremia〔新時代〕>を掌握した。
 他の分遣隊は、フィンランド駅とニコライ駅で警護任務を剥奪し、ネフスキー通りとその両側の通りに機関銃の砲台を設置した。この後者は、ペテログラード軍事地区の参謀がタウリダ宮から出てくるのを阻止する効果をもった。
 ある武装分団は、レーニンのドイツとの取引に関する資料が保存されている防諜機関の建物を攻撃した。
 抵抗には遭わなかった。
 リベラルな新聞社の判断によると、その日の推移の結果、ペテログラードはボルシェヴィキの手のうちに渡された。(167)//
 かくして段階は、正規の奪取へと設定された。すなわち、表面的にはソヴェトの名前での、現実にはボルシェヴィキのための、権力の奪取。
 この最高の事態を用意して、ボルシェヴィキは、54の工場から厳選した代表団をすでに編成していた。彼らは、ソヴェトが権力を掌握することを要求する請願書を持って、タウリダ宮で呼びかけることになっていた。
 この者たちは、イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕が占有している部屋に強引に入っていった。
 そのうち数人が、話すのを許された。
 マルトフとスピリドノワ(Spiridonova)は、彼らの要求を支持した。マルトフは、これは歴史の意思だ、ときっぱりと述べた。
 この時点で、反乱者たちが身体を張って埋め尽くして、ソヴェト所在地を奪ってしまうことになるようにも思える。
 ソヴェトには、このような脅威に対する何の防御もなかった。ソヴェトを防衛しているのは、全体で6人の護衛だった。//
 だが、それでもなお、ボルシェヴィキは最後の一撃(coup de grace)を放つことに失敗した。
 これは組織が貧弱だったからか、決意のなさによるのか、あるいはこの双方のゆえか、を語るのは不可能だ。
 ニキーチン(Nikitin)は、つぎのように述べて、ボルシェヴィキによる権力奪取の失敗を、拙劣な計画によるとして非難した。//
 『蜂起は、即興的に行なわれた。敵方の全ての行動は、それらが準備されていなかったことを示した。
 連隊や大きな分団は、主要地域に入っても、自分たちの直接の使命を知っていなかった。
 彼らは、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕のバルコニーから、「タウリダ宮〔ソヴェト本部〕へ行け、権力を奪え」と告げられた。
 彼らが行ってつぎの命令を待っている間に、それぞれが混じり合ってしまった。
 対照的に、トラックや武装車に乗った10人から15人の分隊や車の小分遣隊は、完全に自由な行動をした。全市にわたって大きな顔をした。
 しかし彼らも、鉄道駅、電話局、食糧貯蔵所、兵器庫という重要拠点や広く開いている全ての入り口を奪い取れという具体的な命令を受け取らなかった。
 街路は血で染まった、しかし指導者がいなかった……。』(**)//
 しかし、最終的な分析をするならば、ボルシェヴィキの失敗は、不適切な戦力や拙劣な計画以外の要因で惹起されたと思われる。
 今日の研究者たちは、市〔ペテログラード〕は、求めているボルシェヴィキのものだった、ということで合意している。
 上のような要因ではなくて、最高司令官の側にある、最後の瞬間の精神力(nerve)の失敗が原因だった。
 レーニンは、たんに決心できなかったのだ。
 この数日間をレーニンの側にいて過ごしたジノヴィエフによると、今は『やる(try)』ときなのか、そのときではないのか、レーニンは声を出して迷い続けていた。そして、そのときではない、と決めた。
 何らかの理由で、レーニンは、飛躍をする勇気を呼び覚ますことができなかった。
 ドイツとの取引が政府によって暴露されるということが引っ掛かっていて、その暗雲が彼を思いとどまらせた可能性がある。
 のちに二人ともに収監されていたとき、レーニンへの隠れた批判をしていたラスコルニコフに、トロツキーは言った。
 『おそらく、我々は過ちをおかした。
 我々は、権力を奪うべきだったのだ。』//
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  (+) ボルシェヴィキはその数を、50万人またはそれ以上だと推算する。V. Vladimir in : PR =Proletarskaia revoliutiia, No. 5-17 (1923), p.40。これはひどく水増しされている。示威活動に参加した群衆は、おそらくこの数の十分の一を超えなかった。参加したと知られる守備軍の一隊による分析が示しているのは、兵団のせいぜい15-20%が関与し、またはたぶんそれよりも少なそうだ、ということだ。B. I. Kochakov, in : Uchenye Zapski Leningradskovo Gosudarstvennogo Universiteta, No. 205 (1956), p.65-66、G. L. Sobolev, in : IZ, No. 88 (1971), p.77、を見よ。
 示威活動者の数をきわめて誇張するのは、そのときものちもボルシェヴィキの政策で、その目的は、自分たちは『大衆』を指揮しているのではなく彼らの圧力に対応しているのだ、という主張を正当化することにあった。目撃者による証拠資料である、以下を見よ。A. Sobolev, in : Rec,' No. 155-3-897 (1917年7月5日), p.1。
  (*) Miliukov, Istoriia Vtoroi Russkoi Revoliutsii, Ⅰ, Pt. 1 (ソフィア, 1921), p.243-4。チェルノフ事件に関する別の説明は、Vladimirova, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5-17 (1923), p.34-35、Raskolnikov, 同上, p.69-71 にある。
  (165) Raskolnikov, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No.5/17 (1923), p.71、No. 8-9/67-68 (1927), p.62。
  (167) NV= Nash vek, No. 118-142 (1918年7月16日), p.1。
  (**) Nikitin, Rokovye gody, p.148。ネヴスキーは、〔ボルシェヴィキ〕軍事機構は、敗北する可能性を予期して、慎重にその戦力の半分を残したままだった、と語る。Krasnoarmeets, No. 10-15 (1919.10), p.40。
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 第12節へとつづく。

ギャラリー
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0790/小林よしのり・世論という悪夢(小学館101新書、2009.08)を一部読んで。
  • 0785/屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙。
  • 0775/総選挙と「左翼全体主義」、小林よしのり編・日本を貶めた10人の売国政治家(幻冬舎新書)。
  • 0773/ルソー・人間不平等起原論(1755)を邦訳(中公クラシックス)で読了。
  • 0772/中学歴史教科書の分析・評価。
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