秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

トロツキー

1513/ネップ期の「文化」-R・パイプス別著8章9節。

 つぎの第9節にすすむ。
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 第9節・ネップ下の文化生活。〔p.409~p.410.〕
 ネップのもとでのロシアの文化的生活は、表面的には、体制の初期にあった比較的に多様な姿を示し続けた。
 しかし、スターリン時代の愚かしい画一性へと進む途を歩んでいた。
 教理(doctrin)がいったん決定されると、文化(culture)は党に奉仕すべきものとされ、文化の役割は、共産主義社会を創出するのを助けることだとされた。
 また、出版や演劇に対する検閲や国家独占を通じて教理を実施する装置がいったん作り出されると、文化が政治の召使いになるのは時間の問題にすぎなかった。//
 意外なことだが、このような画一性への圧力は下から生じた。
 党の指導部は、むつかしい選択に直面した。
 彼らは文化を自分たちに奉仕させたかったが、同時に、銃砲や農機具の場合とは違って、芸術や文学は命令どおりには決して産出されえない性質のものだと知っていた。
 彼らはしたがって、妥協をした。すなわち、明確に反共産主義的なものは弾圧したが、〔共産主義との〕同伴者(fellow-travelers)的なものは大目に見た。
 トロツキーは、これについてつぎのように述べた。//
 『党が直接的かつ命令的に指導する領域がある。
 統御し、協働する別の領域もある。
 そして最後に、それに関する情報だけを確保し続ける領域がある。
 芸術は、党が命令を要請されない分野だ。…。しかし、党は、政治的な規準を用いて、有害で破壊的な芸術の諸傾向はきっぱりと否認しなければならない。』(161)//
 このような考え方は、実際には、国家機関が芸術や文学に介入はしないで監視し続けることを意味した。
 報道活動(ジャーナリズム)については、国家が介入する。
 高等教育については、国家が命令する。(162)
 そして実際に、製造業や取引での私的な主導性を許容するネップのもとで、体制側は文化に関しては、本来の厳格さをほとんど主張できなかった。(163)
 レーニンやブハーリンも、このような考え方を共有していた。//
 非共産主義文化に対するこのような寛容さは、自己流の『プロレタリア』作家からの烈しい攻撃に遭うことになった。(164)
 その名前すら忘れられている侵襲者たちには、自分たちの読者がなかった。国家出版局の長官によれば、『たった一人のプロレタリア作家への注文も』受けなかった。(165)
 彼らの残存は、国家の後援に、できれば独占的な性質のそれに、完全に依存していた。
 その後援を獲得するために彼らは、共産主義の旗に身を包んで、政治的に中立な文学を反革命的だと攻撃し、全ての文化が党の要求に奉仕すべきだと主張した。(166)
 彼らは、『文化の最前線』を自認する、教育を充分に受けていない党員たちの支持を獲得した。
 彼ら善良な党員たちは、創造的な知識人たちが、かつやつらだけが、党の統制から免れるという議論には我慢できなかった。(167)
 同伴者たちに寛容な有力な指導者だったトロツキーが1924年早くに不名誉なまま脱落したことは、彼らの教条的考え方の助けになった。//
 紛議を通じて、党は一定の見解を明確にしなければならないことになった。
 党は、いくぶん両義的なやり方で、これを行なった。1924年5月の第13回党大会は、つぎのように決議した。すなわち、いずれの文学上の派や『傾向』も、党の名をもって語る権利を有しないが、何らかの『文学上の批判の問題を調整する』ことがなされるべきである、と。(168)//
 これは、非政治的な文学のことが党大会決定の主題になった初めてのことだった。
 また、公式には文学の異なる『傾向、部門、集団』の間での中立を維持した最後のことだった。この中立性は、党の光を文学作品に当てて検査することとほとんど両立できなくなることが、いずれかのうちに分かってきた。(169)
 自然科学ですら、もはやイデオロギーによる検査や非難を免れなかった。
 共産党の出版物は、1922年までには、アインシュタイン(Einstein)や他の『理想主義的な』科学者を攻撃し始めた。(170)//
 
  (161) L・トロツキー, 文学と革命 (1924), p.165。
  (162) ペシブリッジ, 一歩後退, p.223。
  (163) E・H・カー, 一国社会主義, 1924-1926, Ⅱ (1960), p.78。
  (164) この論争について、同上, Ⅱ, p.76-78。
  (165) 1924年5月9日のN. Meshcherriakov, in : 〔略〕, p.120。
  (166) プラウダ, 第40号(1924年2月19日), p.6。
  (167) クリストファ・リード, 革命ロシアの文化と権力 (1990), p.203。
  (168) Trinadtsatyi S" ezd ロシア共産党(ボ) ,〔略〕(1963), p.653-4。
  (169) カー, 一国社会主義, Ⅱ, p.82-83。
  (170) ペシブリッジ, 一歩後退, p.213。
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 第9節、終わり。

1509/ネップ期の「見せしめ」裁判③-R・パイプス別著8章8節。

 前回のつづき。
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 第8節・エスエル「裁判」③。
 モスクワの聖職者たちに対する手続の結論が出て1月後、そして同様の訴訟がペテログラードの聖職者たちに開始される4日前、1922年6月6日に、裁判は開廷された。
 起訴状は、被告人たちを一般には反逆とテロルの行為とともにソヴェト国家に対する武装闘争をしたとして追及した。個別には、1918年8月のファニー・カプランによるレーニン暗殺企図とタンボフ反乱のいずれも組織したというのが起訴理由だった。
 かつてモスクワのクラブ・貴族だった舞踏場で行なわれた裁判を見るためには、ほとんど信頼できる党活動家にのみ発行された入場券が必要だった。
 観衆たちは政治劇が上演されているふうに行動し、訴追に拍手を浴びせ、被告人やその弁護人たちをやじった。
 外国人弁護団は最初に、つぎのような、いくつかの手続の特徴に抗議した。すなわち、裁判官全員が共産党員であること、弁護のための多くの目撃証人が証言を妨害されていること、法廷への入場が数名の被告人の友人以外には認められていないこと。
 裁判官は、あれこれの抗議を、ソヴェト法廷は『ブルジョア』的規則を遵守する義務はないという理由で、却下した。 
 裁判の八日め、死刑判決は下されないだろうというその約言をラデックが撤回したあとで、また、速記者をつける権利を含むその他の要求が却下されたあとで、4人の外国人弁護士が、『司法の下手な模造劇(parody)』への参加をやめると発表した。
 そのうちの一人はあとで、この裁判について『人間の生命をまるで雑貨物であるかのごとく取り扱っている』、と書いた。(152)//
 二週間後、手続はもっと醜悪な変化すら見せた。
 6月20日に、政府機関はモスクワの赤の広場で、大量の示威行進を組織した。
 群衆の真ん中で、主席裁判官が検察官と並んで行進した。群衆は、被告人たちへの死刑判決を要求した。
 ブハーリンは、群衆に熱弁を奮った。
 被告人はバルコニーの上に姿を見せて、罵声を浴びて、大群衆の脅かしに晒されることを強いられた。
 のちに、選ばれた『代表団』は法廷へと招き入れられて、『殺人者に死を!』と叫んだ。
 この嘲笑裁判で卑劣な役を演じたブハーリンは、リンチするかのごとき代表群団を『労働者の声』を明確に表現したものとして誉め称えた。このような嘲笑裁判は、16年のちに、もっと捏造された咎でブハーリン自身を非難して死刑を言い渡した裁判と、ほとんど異ならなかった。
 ソヴィエト映画界の有名人、ジガ・ヴェルトフが指揮したカメラは、このできごとを撮影した。(153)//
 エスエルたちは、公正な聴問に似たものを何も受けられなかったけれども、共産主義体制に関して遠慮なく批判する機会を得た-これが、ソヴィエトの政治裁判で可能だった最後ということになった。
 メンシェヴィキが被告人席に立つ順番になった1931年には、証言は注意深くあらかじめ練習させられ、文章の基本は検察側によってあらかじめ準備された。(154)//
 レーニンが予期されることを広汎に示唆していたので、8月7日に宣告された評決は、驚きではなかった。
 1922年3月の第11回党大会で、エスエルとメンシェヴィキの考え方を馬鹿にし、レーニンは、『これのゆえに、きみたちを壁に押しつけるのを許せ』と語った。(155)
 ウォルター・デュランティ(Walter Duranty)は、7月23日付の<ニューヨーク・タイムズ>で、訴訟は告発が『真実』であることを示した、被告人の大多数に対する非難は『確か』だった、『死刑判決のいくつかは執行されるだろう』、と報告した。(156)
 被告人たちは、刑法典第57条乃至第60条のもとで判決を受けた。
 そのうち14人は、死刑だった。しかし、検察側と協力した3人は、恩赦をうけた。(*)
 国家側の証人に転じた被告人たちもまた、赦免された。
 第一のグループの者たちは、いっさい自認しなかった。彼らは、裁判官が評決を読み始めたときに起立するのを拒否し、そのために(デュランティの言葉によると)『自分たちの告別式場から』追い出された。(157)//
 ベルリンでのラデックの早まった約言は裁判所に法的に有効でないとされ、恩赦を求めて正規に懇請するのをエスエルたちは拒んだけれども、裁判官たちは、処刑執行の延期を発表した。
 この驚くべき温情は、暗殺に対するレーニンの過敏な恐怖によっていた。
 トロツキーは、その回想録の中で、レーニンに対して訴訟手続を死刑へとは進めないようにと警告し、そうしないで妥協すべきだと示唆した、と書いている。
 『審判所による死刑判決は、避けられない!。
 しかし、それを執行してしまうことは、不可避的にテロルという報復へと波及することを意味する。…
 判決を執行するか否かを、この党〔エスエル〕がなおテロル闘争を続けるかどうかによって決するしか、選択の余地はない。
 換言すれば、この党〔エスエル〕の指導者たちを、人質として確保しなければならない。』(158)//
 トロツキーの賢い頭はこうして、新しい法的な機軸を生み出すに至った。
 まず、冒していない犯罪、かつまた嫌疑はかけられても決して法的には犯罪だと言えない行為について、一団の者たちに死刑の判決を下す。
 つぎに、別の者が将来に冒す可能性がある犯罪に対する人質として、彼らの生命を確保する。
 トロツキーによれば、レーニンは提案を『即座に、かつ安心して』受諾した。//
 裁判官たちは、つぎのことがあれば、死刑判決を受けた11名は死刑執行がされないと発表するように命じられていた。すなわち、『ソヴェト政府に対する、全ての地下のかつ陰謀的なテロル、諜報および反逆の行為を、社会主義革命党〔エスエル〕が現実に止める』こと。(159)
 死刑判決は、1924年1月に、五年の有期拘禁刑へと減刑された。
 このことを収監されている者たちは、死刑執行を待ってルビャンカ〔チェカ/ゲペウおよび監獄所在地〕で一年半を過ごしたのちに、初めて知った。//
 彼らはしかし、結局は処刑された。
 1930年代および1940年代、ソヴェト指導部〔スターリンら〕に対するテロルの危険性はもはや残っていなかったときに、エスエルたちは、計画的にすっかり殺害された。
 ただ二人だけの社会主義革命党活動家が、いずれも女性だったが、スターリン体制を生き延びた、と伝えられる。(160) 
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  (152) ヤンセン, 見せ物裁判, p.66。
  (153) ロジャー・ペシブリッジ(Roger Pethybridge), 一歩後退二歩前進 (1990), p.206。
  (154) メンシェヴィキ反革命組織裁判〔?、露語〕(1933)。
  (155) レーニン, PSS, XLV〔第45巻〕, p.90。
  (156) NYT, 1922年7月27日付, p.19。
  (*) ブハーリンは、G・セーメノフに対しては温情判決を要請した。NYT, 1922年8月6日付, p.16。16年後のブハーリンに対する見せ物裁判では、ソヴェト指導層〔スターリンら〕に対するテロル企図でブハーリンを有罪にするために、セーメノフの名前が呼び起こされることになる。マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見せ物裁判 (1982), p.183。
 セーメノフは、ブハーリンとともに、スターリンの粛清によって死んだ。
  (157) 同上(NYT), 1922年8月10日付, p.40。
  (158) L・トロツキー, わが生涯, Ⅱ (1930), p.211-2。L・A・フォティエワ, レーニンの想い出 (1967), p.183-4 を参照。
  (159) NYT〔ニューヨーク・タイムズ〕, 1922年8月10日付, p.4。
  (160) ヤンセン, 見せ物裁判, p.178。 
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 第8節、終わり。

1505/ネップ期の「見せしめ」裁判①-R・パイプス別著8章8節。

 同じ章の、つぎの第8節へと進む。
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 第8節・エスエル「裁判」①。
 レーニンは闘いを生きがいとした。戦争が、彼の本当の生業(me'tier)だった。
 それを実践するには、敵が必要だった。
 レーニンは、二度、敗北した。
 一度め、国外に共産主義を伝搬させるのに失敗した。
 二度め、自国で社会主義経済を建設するのに失敗した。
 彼は今や、現実にはいない敵と闘うことに力を向けた。
 レーニンが抑圧対象として選んだのは、何らかの行為または意図による理由でではなく、革命秩序を拒否して存在していることだけが理由となる『有罪者』だった。//
 彼の激怒の主な犠牲者は、聖職者と社会主義者だった。//
 クロンシュタット、タンボフ、および党自体の内部からの民主主義分派の出現(後述、p.448-459〔第9章第3節・『労働者反対派』等〕を見よ)によってレーニンは、エスエル〔社会主義革命党〕とメンシェヴィキが彼の体制を打倒しようと経済危機を利用する工作をしている、と確信した。
 不満には正当な原因がある、ということをレーニンは自分に対してすら認められなかった。帝制時代の典型的な警察官にように、全ての無愛想の背後には敵の煽動の仕業があるのではないかと疑った。
 実際には、エスエルとメンシェヴィキはレーニンの独裁制に適応していて、帝制時代にしていたのと同じことをすることが許されていた。責任を帯びずして、静かに愚痴を述べたり、批判したりすることだ。
 彼らは、数千の単位で共産党の党員になった。
 エスエルの中央委員会は、1920年10月には、ボルシェヴィキに対する全ての武装抵抗を止めた。
 しかし、ボルシェヴィキの独特の推論の世界では、『主観的』に欲することと『客観的』にそうであることとは、完全に別のものだった。
 ジェルジンスキーは、逮捕されたある社会主義革命党員に言った。
 『おまえは、主観的には、われわれがもっと多かれと望んだだろう程度に革命的だ。しかし、客観的には、おまえは、反革命に奉仕している。』(*)
 別のチェキストのピョートルは、社会主義者がソヴェト政府に対して拳を振り上げるか否かは重要ではない、彼らは排除されなければらならない、と語った。(140)//
 エスエルとメンシェヴィキは白軍に対抗するモスクワを助けていたので、内戦が進行している間は、彼らは我慢してもらえた。
 内戦が終わった瞬間に、彼らへの迫害が始まった。
 監視と逮捕が1920年に開始され、1921年に強化された。
 チェカは1920年6月1日に、エスエル、メンシェヴィキ、そしてかなり十分にシオニスト、の扱い方を書いた通達をその機関に配布した。
 チェカ各機関は、『協同的組織と協力している労働組合、とくに印刷工のそれ、で仕事をしているメンシェヴィキの破壊活動に特別の注意を払う』ことを指令され、『メンシェヴィキではなく、ストライキの企図者や煽動者その他だと説明して罪状証拠となる資料を、粉骨砕身して収集する』ものとされた。
 シオニストに関しては、保安機関は支持者だと知られる者を記録し、監視の対象にし、集会を開くことを禁止し、違法な集会は解散させ、郵便物を読み、鉄道旅行をすることを許さない、そして『多様な口実を用いて徐々に、〔シオニストの〕住居区画を占拠し、軍隊やその他の組織の必要性でもってこれを正当化する』こととされた。(141)//
 しかし、社会主義者に対する嫌がらせや逮捕では、彼らの考え方が民衆間の重要な階層に訴える力をもつかぎりは、問題を解消できなかつた。
 レーニンは、社会主義者は反逆者だと示すことでその評価を貶め、同時に、自分の体制を左から批判するのは右からのそれと変わらず、いずれも反革命と同じことだと主張しなければならなかった。
 ジノヴィエフは、『現時点では、党の基本線に対する批判は、いわゆる<左翼>派のものでも、客観的に言えば、メンシェヴィキの批判だ。』と言った。(142)
 レーニンは、この点をよく理解させるために、ソヴェト・ロシアで最初の見世物裁判(show trial)を上演した。//
 犠牲者として選んだのは、メンシェヴィキではなく社会主義革命党〔エスエル〕だった。そのわけは、エスエルが農民層の間でほとんど一般的な支持を受けていたことだ。
 エスエル党員の逮捕はタンボフの反乱の間に始まっていて、1921年の半ばまでには、エスエル中央委員会メンバー全員を含めて数千人が、チェカの牢獄の中に座っていた。//
 そして1922年夏、嘲笑の裁判手続がやってきた。(143)
 エスエルを裁判にかけるという決定は、1921年12月28日に、ジェルジンスキーの勧告にもとづいて行なわれていた。(144)
 だが、チェカに証拠を捏造する時間を与えるために、実施が遅れた。
 元エスエルのテロリストで、チェカの情報提供者に変じたゼーメノフ・ヴァシレフが、1922年2月にベルリンで、一冊の本を出版した。(145) この本が、裁判の中心主題だった。
 あらゆる成功した瞞着がそうであるように、この本は、真実と虚偽とを混ぜ合わせていた。
 セーメノフは、1918年4月のファニー・カプラン(Fannie Kaplan)のレーニン暗殺計画に関与していた。そして、この事件について、興味深い詳細を記述していたが、それはエスエル指導部を誤って巻き込んだ。
 のちにセーメノフは、被告人と検察側のスター証人のいずれもとして、裁判に臨むことになる。//
 エスエル裁判について発表される一週間前の1922年2月20日に、レーニンは、司法人民委員〔司法大臣〕に対して政治犯罪や経済犯罪を処理するには手ぬるいとの不満を告げる怒りの手紙を、書き送った。
 メンシェヴィキやエスエルの弾圧は、革命審判所と人民法廷によって強化されるべきだ、とした。(**)
 レーニンは、『模範〔見せしめ〕となる、騒がしい、<教育的な>裁判』を欲した。そして、つぎのように書いた。//
 『モスクワ、ペテログラード、ハルコフその他の若干の主要都市での(早さと抑圧の活力をもって、法廷と新聞を通じてその意味を大衆に教育する)一連の <模範> 裁判の上演(postanovka)。/
 裁判所の活動を改善し、抑圧を強化するという意味で、党を通じての人民裁判官や革命審判所メンバーに対する圧力。
 -これら全てが、系統的に、執拗に、義務的だと斟酌されつつ、実行されなければならない。』(146)//
 トロツキーはレーニンの提案を支持し、〔党中央委員会〕政治局への手紙で、『磨き上げられた政治的産物(proizvedenie)』となる裁判を要求した。(147)
 聖職者については、裁判所よりも煽動宣伝〔アジプロ〕演劇場にもっと似たものが続いた。
 役者は厳選され、その役割は特定され、証拠は捏造され、有罪判決を正当化すべく暴力的雰囲気がふさわしく醸し出され、判決文はあらかじめ党機関によって決定されていた。そして、『大衆』は、路上の劇場にいるように夢中になった。
 正式手続の最大の要素は脇におかれ、被告人たちは、その行為を犯したとされるときには、かつ拘留されたときには犯罪ではない犯罪について、告訴された。なぜならば、被告人たちが裁判にかけられている根拠の法典は、その裁判のわずか一週間前に公布されていたのだ。//
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  (*) マルク・ヤンセン, レーニンのもとでの見世物裁判 (1982), p.19。この規準でいくと、もちろん1917-18年のレーニンは、『客観的』には、ドイツの工作員〔代理人〕だった。
  (140) M. I. Latsis, <略、露語> (1921), p.16-17。
  (141) 社会主義情報〔SV〕, No. 5 (1921), p.12-14。
  (142) Dvenadtsatyi S" ezd RKP (b) (1968), p.52。
  (143) 以下の資料は、大きく、マルク・ヤンセン, <見せ物裁判(Show Trial)>にもとづく。
  (144) V. I. レーニンとVChK (1987), p.518。
  (145) <略、露語>。
  (**) この文書は、レーニン全集の以前の版では削除されており、1964年に初めて以下で完全に出版された。すなわち、レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.396-400。
 レーニンは、『われわれの戦略を敵に暴露するのは馬鹿げている』という理由で、この内容に関するいかなる言及も禁止した(同上, p.399)。
  (146) レーニン, PSS, XLIV〔第44巻〕, p.396-7。
  (147) Jan M. Meijer 編, トロツキー論集, 1917-1922 (二巻もの), Ⅱ, p.708-9。
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 ②へとつづく。

1500/日本共産党こそ主敵だ。反共産主義の「自由と孤独」。

 ○ 一年近く前に日本共産党こそ主敵という旨の文章を書いたが、二つの注記を付しておこう。
 第一に、日本共産党は日本の共産主義者の代表者又は代表的組織という意味であり、その他の共産主義的団体・組織又は個人を批判の対象から外しているわけではない。
 したがって、日本共産党の現在の路線(不破哲三・志位和夫体制)には反対だが、マルクスの理想あるいは論述だけは支持するという団体・組織に対しても、批判的立場にある。
 もっとも、そのような団体・組織はほとんどないかもしれない。
 というのは、ロシア「革命」・レーニンに対して(そしてたぶんスターリンにも)批判的だが、マルクス(・エンゲルス)だけは信じる、という団体・組織があるのか、疑わしいからだ。
 ある・いるとすれば、現実にあった「ソ連」社会主義はレーニンも含めて拙劣で悲劇的だったが、マルクス(・エンゲルス)の資本主義分析や将来展望だけは、正しくかつ「理想」だと思っている個人だろう。
 「左翼的」研究者・学者たちには、<雰囲気>だけでも、あるいは<頭の中>だけでも、そう思っている、または思いたい人々が、日本にはある程度存在しているように思える。この人たちも頭の中は「左翼」で、選挙での投票行動は<反自民党>である可能性が高い。
 つぎに、マルクス(・エンゲルス)は信じる、つまりマルクス主義を信奉しつつ、ロシア「革命」とその主導者・レーニンをロシアにそれを適用し現実化したものとして基本的には擁護する、そして一方で、スターリン以降のソ連・社会主義は支持せず、ソ連解体の原因をマルクス主義やレーニン・ロシア「革命」に内在するものとは見ない、という見地もある。このような見地にも、反対だ。
 これは、日本共産党の見地でもある。
 また、日本共産党のみならず、スターリンを批判する、スターリンから社会主義の道を踏み外したと見る点では日本共産党と同じだが、日本共産党をスターリニストの党として批判する、その他の反日本共産党の共産主義者たちにも、賛同することができない。
 このような組織・団体があることは知っている。有名なもの以外にも、いくつかあるようだ。
 この組織・団体や所属する人たちのことを日本共産党は、今でもきっと「トロツキスト」と呼んでいるのだろう。
 日本共産党は、スターリンはダメで、トロツキーがレーニンの継承者であればよかった、などとは一言も主張していない。また、同党には、理論上・論理上、あるいは歴史的にみて、そのように主張する資格はない。
 では、ロシア「革命」とレーニンを基本的に擁護する考えは日本共産党と「トロツキスト」以外にないかというとそうではなく、トロツキーを支持するわけでもスターリンを支持するわけでもなく、レーニン主義を継承する又は支持する、日本共産党=不破・志位以外の組織・団体以外の組織・団体あるいは個人もありうる。
 このような組織・個人も、日本にあるはずだ。彼らもなお「左翼」・容共主義者だろう。
 さらにいうと、日本共産党からの決裂、または同党との訣別の時期によって、すでに宮本顕治・不破哲三時代から(およそ1990年頃までに)この立場になった人々もいるだろうし、とりわけ1991年のソ連解体やそれへの同党の反応を知って、不破哲三体制ないし不破哲三・志位和夫体制時に分かれた人々もいるかもしれない。
 いろいろと推測できるが、固有名詞の列挙、個人名の特定はしないし、たぶん正確にはできない。
 反日本共産党と言っても、私がこれらの人々あるいは組織・団体に親しみを覚えているわけでも全くない。
 その他、反日本共産党だが、何となく「左翼」で自民党には絶対に(又は候補者が他にいないようなやむをえない場合を除いて)投票しないという人々も多いに違いない。
 非・反日本共産党で、かつ非・反自民党=反「保守」というのは、人文社会系の学者・研究者または大学の世界では、最も<安全な>立場だと見られ、イデオロギー・思想・信条とかとは関係なく、人間関係から、又は世すぎ・処世の手段として、この立場にいる者たちも多いように見える。
 しかし、この人たちは「主敵」ではないだろう。「左翼」であっても、じつは融通無碍な人々だ。
 もっとも、非・反日本共産党で、かつ非・反自民党=反「保守」と表向きは装いながら、じつは日本共産党の党員だったり、同党の熱烈な支持者だったりすることはある、と推測される。
 日本共産党・党員やその熱烈支持者は、こういう<偽装>を平気ですることができる人たちだ。目的のためならば、手段を選ばない。反・非日本共産党な言辞を吐くことくらいは平気でする、と想定しておいた方がよいように思われる。
 以上で書いたようなことは、じつは、大まかには1920年代ロシアの<ネップ>の評価・論じ方にも関係があるようだ。この回では触れない。
 第二に、日本共産党が当面に、社会主義・共産主義社会の実現を課題とはしていないことは承知しているし、同党を支持する国民たちが(場合によっては党員たちですら)社会主義・共産主義社会の展望を支持しているわけでもないことも、承知している。
 そのような意味で、日本共産党は主敵だと主張しているわけではない。
 問題は、長期的には<社会主義・共産主義の社会>を目指すと綱領に明記する政党に600万人ほどの有権者が投票していることだ。すなわち、<民主主義>でも<反戦・平和>でも<護憲>でも何であれ、「共産主義」を標榜する政党に、それだけ多くの日本国民が<ついていっている>ということだ。
 むろん、彼ら全員が社会主義・共産主義を目指しているわけではないし、同党員の中にすら、そのあたりは曖昧にしつつ、人間関係や処世の手段として入党した者も少なくないかもしれない。
 問題はいつまで<従っていくか>、日本共産党側からいえばどこまで<連れていくか>であって、そのあたりは慎重にかつ警戒しながら、日本共産党は政策立案やその表明をしている。憲法問題、天皇・皇室問題、「平和」問題、等々。
 ○ あえて再び指摘しなければならないのは、日本共産党の存在とその獲得票数や所属議員数から見ても、共産主義は決して日本で消滅していない、ということだ。
 支持者や党員の全員が社会主義・共産主義の「正しさ」を信じていないにしても、日本共産党それ自体は、指導部がそうであるように、日本の共産主義者の組織・団体だ。
 日本の共産主義について、「ネオ共産主義」(中西輝政)とか「共産主義の変形物」(水島総)を語る論者もいるが、そんな限定や形容句をつける必要なく、共産主義と共産主義者は立派に存在している。
 共産主義とは何かという「理論的・学者的」議論をしても、意味がない。
 自分で考える「共産主義」とは離れているから日本共産党は大丈夫だなどと、警戒感を解いてはならない。「正しい」、又は「真正」の共産主義(・マルクス主義)は、「保守」についても同じだが、誰も判断することができないはずのものだ(むろん、したい人は一生懸命に議論し、研究すればよい)。
 某「ほとんど発狂している」論者は、中国は「市場経済」を導入した、日本での共産主義の夢は滅びた、という旨を書いていたが、そのようなタワ言に影響されてはならない。
 明確であるのは、日本共産党・不破哲三らは<市場経済を通じて社会主義へ>の途を目指すと明言し、かつ、現在の中国(共産チャイナ)とベトナムを(あくまで今のところと慎重に言葉を選びつつ)<市場経済を通じて社会主義へ>と進んでいる国家と見なしていることだ。
 日中両共産党は1998年に「友党関係」を回復し、日本共産党・不破哲三もまた、中国共産党が<国際社会主義運動>の一員であることを肯定している。
 中国と中国共産党は、日本共産党にとっての<仲間>なのだ。
 しきりと中国や中国共産党を批判する人々が、なぜ批判の矢を、日本共産党にも向けないのか
 なぜ、反共を一応は謳う<保守>系月刊雑誌には、日本共産党に関する情報がほとんど掲載されないのか。
 日本共産党の影響は、じつはかなりの程度、<保守>的世界を含むマス・メディア、出版業界にも浸透している、と感じている。
 冷静で理性的な批判的感覚の矛先を、日本共産党・共産主義には向けないように、別の方向へと(別の方向とは正反対の方向を意味しない)流し込もうとする、巨大なかつ手の込んだ仕掛けが存在する、又は形成されつつある、と秋月瑛二は感じている。
 いく度も、このようなことを書かなければならない。

1491/食糧徴発廃止からネップへ①-R・パイプス別著8章6節。

 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)のp.369-の<第8章・ネップ-偽りのテルミドール>は、目次上は、以下の節で構成されている。
 第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
  第1節・テルミドールではないネップ。
  第2節・1920-21年の農民大反乱。
  第3節・アントーノフの登場。
  第4節・クロンシュタットの暴乱。
  第5節・タンボフでのテロル支配。
  第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
  第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
  第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
  第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
  第10節・1921年飢饉。
  第11節・外国共産党への支配の増大。
  第12節・ラパッロ〔-条約〕。
  第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
  第14節・ドイツとソ連邦の軍事協力の開始。
 以上。
 このようにR・パイプスが扱う<ネップ期>の範囲・問題は幅広い。
 以下では、<第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行>だけの邦訳を試みる。
 このあたりを指して、日本の某政党(日本共産党)は、レーニンが「市場経済を通じて社会主義へ」の途を確立した、とか歴史叙述しているからだ。
 <フランス革命>を終焉させた「テルミドール(七月)」との比較から始まった、アントーノフ運動、クロンシュタット反乱、タンボフの悲劇等々の叙述はすでに終わっている。
 原則として一文ごとに改行し、本来の改行(段落の最後)の箇所には「//」を付す。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行 〔p.388~〕
 クロンシュタット暴動の前にもう、レーニンには明らかに農民たちを宥める必要があると分かった。
 このような考えを促進したかもしれないのは、(1921年)2月9日に起きた西シベリアの農民蜂起だった。(79)
 数万にのぼるパルチザンがトボルスクを含む主要都市を占拠し、ロシア中部を東部シベリアと結ぶ鉄道線路を切断した。
 地方軍では立ち向かうことができず、中央は、この圏域に50000人の兵団を動員した。(80)
 烈しい戦闘が続き、正規軍は最終的にはゲリラ部隊を鎮圧することができた。
 しかし、シベリアからの食糧輸送が二週間途絶えたことは、蜂起がまだ進行中であったなかで、ソヴェト指導者に、農業政策全体を再検討することを強いた。(81)//
 ついに水兵の暴動が発生した。赤軍が海軍基地への最終攻撃を始めるべく場所を定めた3月15日に、レーニンは、新しい経済政策の中核になることになる政策を表明した。それは、< Prodrazverstka > 〔余剰食糧徴発(収奪)制度-試訳者・秋月〕として知られる恣意的な食糧剥奪を廃止して現物税(tax in kind)を採用する政策だった。
 < Prodrazverstka > には、最も広く嫌悪された戦時共産主義の特質があった。-生産物を奪われる農民たちは嫌悪し、食糧が配給される都市住民もまた嫌悪した。//
 食糧徴発は、明らかに恣意的に実施されていた。
 供給人民委員部〔人民委員=ほぼ大臣、従ってほぼ<供給省>〕は、要求する食糧の量を決定した。-その量は、生産者が供給できる量とは無関係に、都市や軍隊の消費者〔・需要者〕に食を与えるために必要な量によって、決定した。
 供給人民委員部はこの数字を、不適切でかつしばしば古い情報にもとづいて、各地方、各地区、各村落ごとの担当量へと割り振った。
 この制度は、残酷であったが、また非効率だった。例えば1920年に、モスクワは< Prodrazverstka >を5億8300万puds(950万トン)に設定したが、何とか集めたのはその量の半分だけだった。(82)//
 徴集担当者は、つぎの二つを前提にして行動した。すなわち、供出するように強いられる穀物は余剰ではなく家族用の食糧や種を確保するために不可欠のものだ、と農民たちが言うのはウソだ。また、農民たちは秘蔵食糧を掘り出すことで損失を補填できる。
 農民たちはこの秘蔵を、1918年と1919年にはできたかもしれなかった。
 しかし、彼らは1920年までには、秘蔵所にいくばくかは残っているとしてもほとんど何もなくなった。その結果がどうだったかは、タンボフ県の事例で見ることができる。そこでは、< Prodrazverstka >は不完全にしか徴集されなかったとしても、農民たちにほとんど何も残さなかった。
 もう何もない、これで全てだ。
 熱心な徴集者は、『余剰』と生存に必要な食糧だけでなく、翌年の作付けのために除けていた穀物をも奪い取っていった。共産党高位官僚の一人は、当局が収穫物の100%を収奪したことを認めた。(*)
 この供出を拒むことは、結果として家畜類が奪われ、殴打されることを意味した。
 付け加えると、徴集員や地方役人は、彼らの要求が抵抗に遭うと、抵抗農民に対して『クラーク(kulak、富農)』に唆(そそのか)された、または『反革命的』なとレッテルを貼ることで、力を得た。また、食糧、畜牛、そして個人的使用の衣類をも勝手気侭に収奪できると思っていた。(83)
 農民は、激しく抵抗した。ウクライナだけで、彼らは1700人の徴集官僚たちを殺害したと報告されている。(84)//
 自らをより痛める政策を考え出すのは困難だっただろう。
 この制度は、農民がより多く生産すればそれだけ多く剥奪されるという、不合理な原理にもとづいて作動していた。この帰結は、自分たちの需要を超えれば、それ以上は何も生産しないという、不変の論理だ。
 ある地域が豊かになればなるほど、それだけ多く政府による略奪を甘受することになる、そうすると、それだけ多く生産を削減しがちになった。国の中央部、穀物不足地帯の一つ、での作付け面積は、1916-17年と1920-21年の間に、18%減少した。一方、穀物過多の主要地域では、同じ比較で33%減った。(+)
 肥料や牽引動物が足りないために面積(エーカー)あたりの生産高が減少したので、1913年に8010万トンだった穀物生産高は、1920年には4610万トンに落ちた。(85)
 1918年と1919年に『余剰』を徴発することがまだできていれば、農民たちは1920年までには、教訓を得て、供出する物は何もないと確信していた。
 農民たちにはパンもなく種もなくなることを意味するとしても政府が欲する物を奪い取っていく、という事態は、明らかに生じなかった。//
 経済的と政治的の二つの理由で、< Prodrazverstka >は放棄されなければならなかった。
 飢餓に直面した農民たちから奪い取れる物は、何も残されていなかった。飢餓は、国土上の広汎な反乱に油を注いでいた。
 政治局〔共産党中央委員会の〕はついに、〔1921年〕3月15日に、< Prodrazverstka >を中止することを決定した。(**) 
 新しい政策は、3月23日に公示された。(86)
 これ以降は、農民たちは、ある特定の量の穀物を、政府機関に供出することが要求された。恣意的な『余剰』の収奪は、終止符を打った。//
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  (79) 同上, 265-70。 
  (80) Desiatyi S" ezd, p.430。
  (81) プラウダ, 51号 (1921.03.08), 1; Radkey, 知られざる内戦, p.229。
  (82) Desiatyi S" ezd, p.415, p.418。
  (*) I. I. Skvortsov, in :Desiati S" ezd, p. 69。農民たち自身の消費や種のために必要な穀物すらも剥奪することを命じた、レーニンの諸指令文書が現存している。レーニン, PSS, XLXⅢ〔第48巻〕, P.219。1921年半ばに供給人民委員部は、穀物の種の半分をタンボフ県からサマラへ輸送するように命令した。TP〔トロツキー文書〕Ⅱ, P.550-1。< Prodrazverstka >の濫用について、イズベスチア(Izvestiia), 42-1-185号 (1921.02.05), p.2。
  (83) Radkey, 知られざる内戦, p.31。
  (84) Tsiurupa, in: Desiatyi S" ezd, p.422。
  (+) Frank A. Golder と Lincoln Hutchinson, ロシア飢饉の軌跡 (1927), p.8。リチャード・パイプス, ロシア革命, p.697-8〔第15章・『戦時共産主義』/第5節・「農業生産力の衰退」〕。カ-メネフは国土全体について、1920年に25%減少したと見積もった。プラウダ, 1921年7月2日号, in: M. Heller, Cahiers 〔ノート〕, XX, No. 2 (1979), p.137。作付け面積の削減は、内戦の間に遂行した敵軍からの収奪によって牽引動物が不足したことによっても惹起された。1920年のロシアとウクライナでの牽引牛馬の数は、革命直前の時期と比べて、それぞれ28%、30%減った。Genkina, Perekhod, p.49。
  (**) Desiatyi S" ezd, p.856-7。トロツキーは思い出して、その自伝(Ⅱ, p.198-9)でつぎのように書く。1920年2月に、中央委員会に< Prodrazverstka >を放棄して現物税を採用すべきと提案したが、票決で負けた、と。レフ・トロツキー, Sochineniia, 第17巻, Pt. 2 (1926), p.543-4。この提案は、きわめて先見の明がある。
  (86) イズベスチア, No. 62-1205 (1921年3月23日), 2。
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 ②へとつづく。

1490/レーニンとスターリン-R・パイプス別著終章6節、日本共産党の大ウソ33。

 日本共産党こそ「主敵」だと書き、主として①ソ連解体後にソ連は「社会主義国」ではなかったと後づけで主張し始めた欺瞞性、②レーニンはネップで<市場経済を通じて社会主義へ>の途を切り拓いたがスターリンがそれを打ち砕いて社会主義への途から転落したという歴史叙述の大ウソ、の二つに言及し始めてから、すでに1年が経過しようとしている。
 リチャード・パイプスの著書の日本語への試訳の紹介も予定より遅れているが、上の元来の関心そのものかきわめて近い、ネップやレーニン・スターリンの関係についての、R・パイプスの1994年の著の叙述を、順番を変えて、先に試訳しておこう。原則として全てを改行し、本来の改行(段落の終わり)の箇所には、「//」を付す。
 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の、p.506-8。章名・章番号のない実質的には最終章又は結語「ロシア革命についての省察」の第6節になる。また、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.401-3 と内容がほぼ等しい。
 さらに補記すると、「レーニンとスターリン」という論点を設定する、同趣旨だがスターリンはレーニンの後継者かレーニンの破壊者かという問題について論じる、というのは1990年代には珍しくなかったとしても-簡単にR・パイプスも以下のように論及はするが-、今日でのロシア革命・ソ連史(戦前)研究ではさほど関心を惹く主題にはなっていないように見える。以下のような叙述すら珍しいようだ。
 つまりは、<化石>のごとき<スターリン悪玉論>にしがみついてレーニン(とロシア「革命」)だけは原則的に擁護しようとしているのは、ソ連や欧米を含む世界中で、日本共産党・不破哲三らのみだ、と言えるように思われる。
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 結語〔最終章〕
 第6節・レーニン主義とスターリン主義

 ロシア革命に関して生じる最も論争のある問題点は、レーニン主義とスターリン主義の関係-言い換えると-スターリンに対するレーニンの責任だ。
 西側の共産主義者、その同伴者(fellow-travelers)および共感者たちは、スターリンはレーニンの仕事を継承しなかったのみならず、それを転覆したと主張する。そう主張して、二人の共産主義指導者の間にいかなる接合関係があることも拒絶する。
 1956年に第20回党大会でニキータ・フルシチョフが秘密報告をしたあと、このような見方をすることは、ソヴェトの公式的歴史叙述の義務になった。これはまた、軽蔑される先行者からスターリン主義後の体制を分離するという目的に役立った。
 面白いことに、レーニンの権力掌握を不可避だったと叙述する全く同じ人々が、スターリンに至ると、その歴史哲学を捨て去る。スターリンは、歴史の逸脱だと表現するのだ。
 彼ら〔西側共産主義者・その同伴者・共感者〕は、批判された先行者の路線のあとで歴史がいかにして(how)そしてなぜ(why)34年間の迂回をたどったのかを説明できなかった。//
 スターリンの経歴を一つ例に出しても、レーニンの死後に権力を掌握したのではなく、彼は最初からレーニンの支援を受けて、一歩ずつ権力への階段を昇っていったことが明らかだ。
 レーニンは、党の諸装置を管理するスターリンの資質を信頼するに至っていた。とくに、民主主義反対派により党が引き裂かれた1920年の後では。
 歴史の証拠は、トロツキーが回顧して主張するのとは違って、レーニンはトロツキーに依存したのではなくその好敵〔スターリン〕に依存して、統治にかかわる日々の事務を遂行したことや、国内政策および外交政治の諸問題に関して彼〔スターリン〕にきわめて大量の助言を与えたことを示している。
 レーニンは、1922年には、病気によって国政の仕事からますます身を引くことを強いられた。その年に、レーニンの後援があったからこそ、スターリンは〔共産党の〕中央委員会を支配する三つの機関、政治局、組織局および書記局、の全てに属することになった。
 この資格にもとづいてスターリンは、ほぼ全ての党支部や国家行政部門に執行的人員を任命するのを監督した。
 レーニンが組織的な反抗者(『分派主義』)の発生を阻止するために設定していた諸規程のおかげで、スターリンは彼が執事的位置にあることへの批判を抑圧することができた。その批判は自分ではなく、党に向けられている、したがって定義上は、反革命の教条に奉仕するものだ、と論難することによって。
 レーニンが活動できた最後の数ヶ月に、レーニンがスターリンを疑って彼との個人的な関係が破れるに至ったという事実はある。しかし、これによって、そのときまでレーニンが、スターリンが支配者へと昇格するためにその力を絞ってあらゆることを行ったという明白なことを、曖昧にすべきではない。
 かつまた、レーニンが保護している子分に失望したとしてすら、感知したという欠点-主として粗暴さと性急さ-は深刻なものではなかったし、彼の人間性よりも大きく彼の管理上の資質にかかわっていた。
 レーニンがスターリンを共産主義というそのブランドに対する反逆者だと見なした、ということを示すものは何もない。//
 しかし、一つの違いが二人を分ける、との議論がある。つまり、レーニンは同志共産主義者〔党員〕を殺さなかったが、スターリンは大量に殺した、と。但しこれは、一見して感じるかもしれないほどには重要でない。
 外部者、つまり自分のエリート秩序に属さない者たち-レーニンの同胞の99.7%を占めていた-に対してレーニンは、いかなる人間的感情も示さず、数十万の(the tens of thousands)単位で彼らを死へと送り込み、しばしば他者への見せしめとした。
 チェカ〔政治秘密警察〕の高官だったI・S・ウンシュリフト(Unshlikht)は、1934年にレーニンを懐かしく思い出して、チェカの容赦なさに不満を述べたペリシテ人的党員をレーニンがいかに『容赦なく』処理したかを、またレーニンが資本主義世界の<人道性>をいかに嘲笑し馬鹿にしていたかを、誇りを隠さないで語った。(18)
 二人にある上記の違いは、『外部者』という概念の差違にもとづいている。
 レーニンにとっての内部者は、スターリンにとっては、自分にではなく党の創設者〔レーニン〕に忠誠心をもち、自分と権力を目指して競争する、外部者だった。
 そして彼らに対してスターリンは、レーニンが敵に対して採用したのと同じ非人間的な残虐さを示した。(*)//
 二人を結びつける強い人間的関係を超えて、スターリンは、その後援者の政治哲学と実践に忠実に従うという意味で、真のレーニニスト(レーニン主義者)だった。
 スターリニズムとして知られるようになるものの全ての構成要素を、一点を除いて-同志共産主義者〔党員〕の殺戮を除き-、スターリンは、レーニンから学んだ。
 レーニンから学習した中には、スターリンがきわめて厳しく非難される二つの行為、集団化と大量の虐殺〔テロル〕も含まれる。
 スターリンの誇大妄想、復讐心、病的偏執性およびその他の不愉快な個人的性質によって、スターリンのイデオロギーと活動方式(modus operandi)はレーニンのそれらだったという事実を曖昧にしてはならない。
 わずかしか教育を受けていない人物〔スターリン〕には、レーニン以外に、諸思考の源泉になるものはなかった。//
 論理的にはあるいは、死に瀕しているレーニンからトロツキー、ブハーリンまたはジノヴィエフがたいまつを受け継いで、スターリンとは異なる方向へとソヴェト同盟を指導する、ということを思いつくことができる。
 しかし、レーニンが病床にあったときの権力構造の現実のもとで、<いかにして>彼らはそれができる地位におれたか、ということを想念することはできない。
 自分の独裁に抵抗する党内の民主主義的衝動を抑圧し、頂点こそ重要な指揮命令構造を党に与えることによって、レーニンは、党の中央諸装置を統御する人物が党を支配し、そしてそれを通じて、国家を支配する、ということを後継者に保障したのだ。
 その人物こそが、スターリンだった。
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  (18) RTsKhIDNI, Fond 2, op. 1, delo 25609, list 9。
  (*) 実際に、他の誰よりも長くかつ緊密に二人と仕事をしたヴィャチェスラフ・モロトフは、スターリンと比べてレーニンの方が『より苛酷(harsher)』だった(< bolee surovyi >)と語った。F. Chuev, Sto sorek besed s Molotovym (1991), p.184。
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 結章6節終わり。

1442/レーニンの個性①-R・パイプス著9章3節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第3節・レーニンの個性
 ペテルスブルク-のちにレーニンの名を冠することになる都市-に到着したとき、23歳のレーニンには、十分に形成された個性があった。
 彼が新しい知人に与えた第一印象は、そのときものちも、好ましくないものだった。
 レーニンの背の低い頑丈な身体、早すぎる禿頭(30歳になる前にほとんど全ての毛髪を失っていた)、傾いた両眼と高い頬骨、しばしば嘲りの笑いが伴った無愛想な話し方は、ほとんどの人々を遠ざけた。
 この当時の人々は一致して、彼の魅力のない、『田舎ふうの』外観について語っている。
 A・N・ポトレソフはレーニンに逢って、『どこか北部の、イャロスラヴルのような地方からきた、典型的な中年の販売員』を見た。
 イギリスの外交官、ブルース・ロックハートは、彼は『田舎の食糧品店主』に似ていると思った。
 レーニンの信奉者、アンジェリカ・バラバノッフからすれば、レーニンは『地方の学校教師』に似ていた。(19)//
 この魅力のない男はしかし、内心の力によって輝き、人々に第一印象を忘れさせた。
 意思の強さ、挫けない自己規律、精力、確信、そして揺るぎない根本教条への忠誠は、『カリスマ』というよく使われる言葉でのみ表現できる影響力をもった。 
 ポトレソフによると、この『印象のよくない、粗雑な』、魅力の欠けた人物は、『催眠術のような力』をもっていた。// 
 『プレハノフは尊敬された、マルトフは愛された、しかし、彼らはただ、争う余地のない指導者であるレーニンにのみ、無条件に服従した。なぜなら、どこでも稀れなことだがとくにロシアでは、レーニンだけが、運動、教条への狂信的な忠誠を彼自身への同等の忠誠と結びつけることによって、鉄の意思をもつ人物、無尽蔵のエネルギーという外象を体現化していた。』(20) //
 レーニンの強さと個人的な磁力の基礎となる源泉は、ポトレソフにより示唆される-すなわち、彼の人格と教条との同一化、彼の中にこの二つが分かち難いものになっていること-、そのような性質だった。
 このような外象は、社会主義者のサークルで知られていなくはなかった。
 ロバート・ミッシェルは政党に関する研究書に『党は私だ』との章を設けたが、そこで彼は、ベーベル、マルクスおよびラッサールを含むドイツの社会民主主義者や労働組合指導者たちにある、類似の姿勢を叙述している。
 ミッシェルは、ベーベル崇拝者のつぎの言葉を引用する。すなわち、ベーベルはつねに、自分は党の利益の守護者だと、彼の反対者は党の敵だと、見なしていた。(21)
 ポトレソフも、将来のボルシェヴィキの指導者について、似たような観察を行なった。//
 『社会民主主義の枠内にあれそれともその外にあれ、専政体制に対する民衆運動の隊列には、レーニンにとっては、彼自身のものか、それとも自分のものではないか、という二つの種類の人間や事象しか存在しなかった。
 自分のものたち、つまり何らかの方法で彼の組織の影響力の範囲内に入ってきた者たち、およびそうしなかった、この事実だけで彼が敵だと見なす、他人たち。 
 レーニンにとっては、これらの両極端-同志・友と反対者・敵-の間に、社会的かつ個人的な人間関係の中間的なスペクトルは、存在しなかった…。』(22) //
 このような精神性(mentality)について、トロツキーは興味深い例を残した。
 レーニンとともにロンドンを訪れたときのことを説明してトロツキーが言うには、光景が目にはいったときレーニンは顔色を変えずにあれは『やつらのもの』だとしたが、その意味するところは-トロツキーによると-イギリスのもの、ということではなく、『敵のもの』だ、ということだった。『レーニンがいかなる種類であれ文化的価値があるものあるいは新しい達成物について語ったとき、こうした寸評はつねにあった。…<やつら>は理解した、<やつら>は持っている、<やつら>は完成した、あるいは成功した、-だが、敵としてだ!』(23) //
 通常の『私/われわれ-きみ/彼ら』という二分論は『友-敵』という際立つ二元論に転換され、それはレーニンの場合は、妥協の余地のない両極へと進み、二つの重要な歴史的帰結をもたらした。//
 このような仕方で思考することによって、レーニンは不可避的に、政治を戦争として扱うようになった。
 政治を軍事化し、すべての不同意を、一つの方法による、つまり反対者の肉体的抹殺という方法による解決を容易にするものだと見なすには、マルクスの社会学は必要がなかった。
 レーニンは晩年にクラウゼヴィッツを読んだ。しかし、彼はずっと前から、直感的に、心霊的な個性全体の力によって、クラウゼヴィッツ主義者だった。
 ドイツの戦略家のように、レーニンは、戦争は平和の反対物ではなく、その弁証法的な帰結(コロラリー、corollary)だと考えた。彼はクラウゼヴィッツのように、その目的ではなく、もっぱら勝利を獲得することに執着があった。
 レーニンの生命観は、クラウゼヴィッツと社会的ダーウィン主義を混合したものだった。
 彼が平和を『戦争のための息つぎ期間』と、素直な気分のまれな瞬間に定義したとき、思わずふと、心のきわめて内的な安らぎを見つめたのだ。(24)
 このような思考方法によって、レーニンは不可避的に、戦術上の目的がある場合を除いて、妥協ができなくなった。  
 ひとたびレーニンとその支持者がロシアの権力に到達するや、こうした姿勢は自動的に新しい体制にも浸透した。//
 レーニンの心理的素質のもう一つの帰結は、組織的抵抗のかたちをとってであれ、たんなる批評であれ、いかなる反対にも耐えられなかったことだ。 
 グループや個人に彼の党の構成員ではないもの、そして彼の個人的影響力のもとにはないものをレーニンが感知すれば、彼らは抑圧され、沈黙を強いられなければならない、ということになった。 
 トロツキーは1904年にすでに、このような行動はレーニンの精神性のうちに潜伏している、と記した。
 レーニンをロベスピエールと比較して、トロツキーはつぎのジャコバン派の言明はレーニンにあてはまると考えた。すなわち、『私は二つの党しか知らない-良き市民たちの党と悪い市民たちの党』。
 トロツキーはこう結論する。『この政治的格言は、マクシミリアン・レーニンの心に深く刻まれている。』(25) 〔マクシミリアンは、ジャコバン派・ロベスピエールの個人名ー試訳者〕
 ここに、テロルによる政府の萌芽、民衆の生活や意見を完全に統御しようとする全体主義的野望の萌芽が、横たわっていた。//
 このような性格の魅力的な側面は、信奉者にのみ限定された観念である、『良き市民たち』に向けられたレーニンの忠実さと寛容さだった。これは、あらゆる外部者に対する敵意の反対面だったが。
 後者との不一致を自分個人に対するものと考えたように、一方ではそれだけ多く、レーニンは自分自身の党の内部では、異見に対して驚くべき忍耐力を示した。 
 レーニンは反対者を追放せず、説得しようとした。その際に彼が用いようとした最後の武器は、〔自分の〕辞職という脅迫だった。
  (19) R.H.B.Lockhart, Memooirs of a British Agent (London, 1935), p.237; Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.123.
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②につづく

1436/ロシア革命史年表⑤-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.854-p.856。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。1919年にはコミンテルン設立などがあるが、この著の内容に合わせて割愛されている。
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 1918年〔2月以降〕
  2月 9日 中央〔欧州中部〕諸勢力、ウクライナとの分離講和に署名。ドイツ皇帝、ブレストの代表団にロシアに対して最後通告を渡すよう命令。
  2月17-18日 ボルシェヴィキ内部で、対ドイツ講和について討議。レーニン、辛うじて受諾賛成過半数を確保。
  2月18日 ドイツ・オーストリア軍、対ロシア攻撃を再開。
  2月21日 トロツキー、フランス軍の援助を要請。
  2月21-22日 レーニンの布令『社会主義祖国が危機!』、反抗者の略式[裁判手続を経ない]処刑を合法化 。
  2月23日 ドイツの最後通告、領土割譲要求つきで届く。
  2月24-25日 ドイツ軍、ドルパト、レヴェルおよびボリゾフを占拠。
  3月 1日 ロシア代表団、ブレストに戻る。二日後、講和条約のドイツ語文に署名。
  3月 初め ボルシェヴィキ政府、モスクワに移転。
  3月 5日 ムルマンスク・ソヴェト、同盟諸国兵団に保護されることの正当化をモスクワに要求し、受け取る。  
  3月 6-8日 第7回ボルシェヴィキ党大会。
  3月    人民裁判所、導入。
  3月 9日 同盟軍の最初の分遣隊、ムルマンスクに上陸。
  3月14日 ソヴェト大会、ブレスト条約を批准。左翼エスエル、ソヴナルコムから離脱。
  3月10-11日の夜 レーニン、モスクワへ移動。  
  3月16日 大侯爵たち、チェカへの登録を命じられる。そのあと、ウラル地方へと追放〔流刑〕。
  4月 4日 日本軍、初めてウラジオストックに上陸。   
  4月13日 コルニロフ、誤砲弾により殺される。デニーキン将軍、義勇軍の指揮を執る。 
  4月   ソヴェト・ロシアとドイツ、外交使節団を交換。
  4月20日 産業・商業企業の購入・貸与を非合法化する布令。すべての有価証券、公債は政府に登録すべきものとされる。
  4月22日 トランスコーカサス連邦、独立を宣言。
  4月26日 ニコライ、その妻と一人の娘、護衛つきでトボルスクからエカテリンブルクへと出立。4月30日に到着し、収監される。
  5月    財産相続の廃止。
  5月 8-9日 ソヴナルコム、農村地帯への攻撃開始を決定。
  5月 9日 ボルシェヴィキ、コルピノでの労働者デモに発砲。
  5月13日 供給人民委員に非常時権力を付与する布令、『農民ブルジョワジー』に対する戦争を宣言。
  5月14日 チェコ人部隊とマジャール人捕虜の間の激論、チェリアビンスクで。
  5月20日 『食糧供給部隊』創設の布令。
  5月22日 チェコ人部隊、降伏を拒否。トロツキー、力による武装解除を命令。チェコ人〔部隊〕の反乱、始まる。
  5月26日 トランスコーカサス連邦、ジョージア、アルメニアおよびアゼルバイジャン各独立共和国へと解体。  
  5月-6月 ロシアの都市ソヴェトへの選挙。ボルシェヴィキ、全都市で過半数を失い、実力でもって〔過半の支持を ?〕押しつける。
  6月 初め イギリス軍、アーカンゲルに上陸。
  6月 8日 チェコ人、サマラを占拠。憲法制定会議委員会(Komuch)の設立が続く。
  6月11日 村落での貧民委員会(kombedy)の設置を命令する布令。
  6月12-13日の夜 大侯爵・ミハイルとその仲間、ペルム近くで殺害される。
  6月16日 資本による制裁の導入。
  6月26日 労働者幹部会会議、7月2日の一日政治ストライキを呼びかけ。
  6月28日 皇帝ヴィルヘルム二世、ボルシェヴィキへの支援継続を決定。ソヴェト政府、大産業企業の国有化を命令。
  夏     ボルシェヴィキによる穀物搾取に農民が抵抗し、農村地帯で内戦。
  7月 1日 西部シベリア政府の宣言、オムスクで。  
  7月 2日 ペトログラードでの反ボルシェヴィキのデモ、失敗。この日頃に、ボルシェヴィキ指導部が前皇帝処刑を決定。
  7月 4日 第5回ソヴェト大会開く、モスクワで。ソヴェト憲法を承認。
  7月5-6日の夜 ラロスラヴルでザヴィンコフの蜂起。ムロムおよびリュイビンスクでの一揆がつづく。
  7月 6日 ミルバッハの殺害。モスクワでの左翼エスエルの蜂起がつづく。
  7月 7日 ラトヴィア人兵団、左翼エスエルの反乱を鎮圧。
  7月16-17日の夜 ニコライ二世、その家族および侍従者の殺害、エカテリンブルクで。
  7月17日 数名の大侯爵とその仲間たちの、アラペヴスクでの虐殺。   
  7月21日 ザヴィンコフ軍の、イアロスラヴィでの降伏。350人の将官と民間人の虐殺。 
  7月29日 強制的軍事訓練、導入。皇帝軍将官の登録が命じられる。
  8月 1-2日 追加の同盟軍、アルカンゲルとムルマンスクに上陸。ボルシェヴィキ、南方での同盟軍と白軍(義勇軍)に対してドイツ軍の助力を乞う。
  8月 6日 ベルリン〔政府〕、モスクワからドイツ大使を召還。のち、大使館を閉鎖。
  8月   レーニン、労働者に対して『富農(kulaks)』の絶滅を呼びかけ。
  8月24日 都市の不動産、国有化。
  8月27日 補足的ロシア・ドイツ条約に署名、秘密条項つき。
  8月30日 ペトログラード・チェカの長官、M・S・ユリツキー、昼間早くに、暗殺される。夕方、ファニー・カプランがレーニンを射撃。
  9月 4日 人質〔農民〕を取ることを命じる指示。
  9月 5日 赤色テロル、公式に始まる。ボルシェヴィキが支配するロシア全域での囚人および人質の虐殺。
 10月21日 健康なロシア国民全員に、政府労働局に登録することを義務づけ。
 10月30日 100億ルーブルの寄付、都市および農村の『ブルジョワジー』に賦課される。
 11月 早く ソヴェト大使館、ベルリン〔ドイツ帝国〕から退去させられる。
 11月13日 ソヴェト政府、ブレスト・リトフスク条約およびその補充条約の破棄を宣言。 
 12月 2日 貧民委員会、解散。
 12月10日 『労働法典』、発布。

 1919年
  1月    農民に対する物納税(prodrazverstka)、導入。
  1月 7日 チェカ局(uezd)、廃止。
  2月17日 ジェルジンスキー、チェカの活動の変更を表明。集中強制収容所の創設を要求。
  3月    新しい党綱領を採択。ロシア共産党と改称。政治局、組織局および書記局の設置。    
  3月16日 消費者共同体、導入。
  4月11日 集中強制収容所に関する諸規則。 
  5月15日 政府、要求される数の銀行券を発行することを人民銀行に承認。
 12月27日 トロツキーのもとに労働者義務委員会を創設。『労働者の軍事化』の開始。
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 以上。

1435/ロシア革命史年表④-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.852-p.854。/の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。()ではない〔〕内は、秋月が補足・挿入。

 1917年〔9月以降〕
  9月10日 ボルシェヴィキ支援による第3回ソヴェト地方大会開く、フィンランドで。
  9月12日・14日 レーニン、〔ボルシェヴィキ党〕中央委員会に、権力掌握のときは熟している、と書き送る。  
  9月25日 ボルシェヴィキ、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門で過半数を獲得。トロツキー、〔ペトログラード・〕ソヴェト議長に。
  9月26日 CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕、ボルシェヴィキの圧力のもとで、第2回全ロシア・ソヴェト大会を10月20日に開催することに同意。
  9月28日-10月8日 ドイツ軍、リガ湾の島々を占拠、ペトログラードを脅かす。
  9月29日 レーニン、権力奪取について中央委員会あて第三の手紙。
 10月 4日 臨時政府、ペトログラードからの避難を討議。 
 10月 9日 CEC、メンシェヴィキの動議により、首都防衛軍事組織の結成を票決(すみやかに、軍事革命委員会と改称)。
 10月10日 レーニン出席して、ペトログラードでボルシェヴィキ中央委員会が深夜の真剣な会議、武力による権力奪取に賛成票決する。
 10月11日 ペトログラードで、ボルシェヴィキ支援による北部地方ソヴェト大会開く。『北部地方委員会』を設立し、第2回ソヴェト大会への案内状を発行。
 10月16日 ソヴェト、軍事革命委員会(Milrevkom、ミルレヴコム)の設立を承認
 10月17日 CEC、第2回〔全ロシア〕ソヴェト大会を10月25日に延期。
 10月20日 軍事革命委員会、ペトログラード市内および近郊の軍団に『コミッサール』を派遣。
 10月21日 軍事革命委員会、各連隊委員会の会議を開く。兵団へのいかなる命令も軍事革命委員会の副書を必要とする旨を参謀部(Military Staff)に提示する無毒のような決定を裁可させようとする。要求は却下される。
 10月22日 軍事革命委員会、参謀部は『反革命的だ』と宣言。 
 10月23-24日 軍事革命委員会、参謀部と欺瞞的な交渉を継続。 
 10月24日 政府〔ケレンスキー首班の臨時政府〕に忠実な軍団、ペトログラードの要所を占拠、ボルシェヴィキの新聞社を閉鎖。ボルシェヴィキ、反対行動を起こし、ペトログラードの多くを奪い返す。
 10月24-25日の夜 ケレンスキー、前線からの助けを求める。変装したレーニン、ボルシェヴィキが支える第2回ソヴェト大会が始まろうとするスモルニュイへと進む。ボルシェヴィキ、軍事革命委員会を使って、首都を完全に征圧。
 10月25日朝 ケレンスキー、軍事支援を求めて冬宮から前線へ逃亡。レーニン、軍事革命委員会の名で、臨時政府打倒と権力のソヴェトへの移行を宣言。
 10月25日 ボルシェヴィキ、冬宮の確保に失敗。そこでは、政府の大臣が忠実な兵団による救出を待つ。トロツキー、午後に、ペトログラード・ソヴェトの緊急会議を開く。レーニン、7月4日以来初めて、外に姿を現す。ボルシェヴィキの動議により、モスクワで、軍事革命委員会を設立。
 10月26日 モスクワ軍事革命委員会の兵団、クレムリンを掌握。
 10月25-26日の夜 冬宮が落ち、諸大臣が逮捕される。ボルシェヴィキ、第2回ソヴェト大会を開会。
 10月26日夕 ソヴェト大会、レーニンの土地および講和に関する各布令を裁可。レーニンを議長(首相)とする新しい臨時政府、すなわち人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の形成を承認。ボルシェヴィキが支配する新しいCECを任命。
 10月27日 第2回ソヴェト大会、中断。反対派のプレス、非合法に(プレス布令)。
  10月28日 親政府の兵団、モスクワ・クレムリンを再奪取。
 10月29日 鉄道被用者組合、ボルシェヴィキに対して政府の構成政党の拡大を要求する最後通告を渡す。カーメネフ、同意。政府、ソヴェト・CECの事前の同意なくして法令を発布するつもりだと表明。政府被用者〔公務員〕組合、ストライキを宣言。
 10月30日 プルコヴォ近くで、コサックと親ボルシェヴィキ船員および赤衛軍との間の衝突。コサックが撤退。鉄道被用者組合、権力を手放すようボルシェヴィキに対して要求。
 10月31日-11月2日 モスクワで戦闘が起こり、親政府兵団の降伏で終わる。
 11月 1-2日 ボルシェヴィキ中央委員会、鉄道被用者の要求を拒否。カーメネフとその他4名のコミッサール〔人民委員〕、内閣構成の拡大の妥協に対するレーニンの拒否に抗議することを諦める。
 11月 4日 レーニン、トロツキーとソヴェト・CEC〔中央執行委員会〕の間の深刻な出会い。票決を操作することにより、ソヴナルコム〔人民委員会議=内閣〕が布令(decree)により立法(legislate)する公式権限を獲得。 
 11月 9日 ボルシェヴィキ、講和に関する布令を、政府は即時停戦に反対している同盟諸国の代表者に送る。
 11月12日 憲法制定会議(Constituent Assembly)の選挙、ペトログラードで始まる。月末まで、非占領のロシア全域で続く。社会主義革命党〔エスエル〕が最大多数票を獲得。
 11月14日 銀行従業員、金銭を求めるソヴナルコムの要求を拒否。
 11月15日 ボルシェヴィキのソヴナルコム、第1回定期会合。
 11月17日 ボルシェヴィキ兵団、国有銀行を襲い、500万ルーブルを奪う。 
 11月20日/12月3日 ブレスト・リトフスクで停戦交渉始まる。ソヴェト代表は、ヨッフェ。
 11月22日 裁判所のほとんどおよび法曹職業を廃止する布令。革命裁判所の創設。
 11月22-23日 憲法制定会議防衛同盟の設立。
 11月23日/12月6日 ロシアと中央〔中部欧州〕諸勢力、停戦で合意。
 11月26日 農民大会、開かれる、ペトログラードで。
 11月28日 憲法制定会議の座り込み〔 ?〕会合。
 12月    国家経済最高会議、創設(VSNKh)。 
 12月 4日 ボルシェヴィキと左翼エスエル〔社会主義革命党左派〕、農民大会を破壊。 
 12月 7日 チェカ(Cheka〔秘密政治警察〕)、設立。
 12月9-10日 ボルシェヴィキと左翼エスエルの協議成立。左翼エスエル、ソヴナルコムおよびチェカに加入。
 12月15日/28日 ブレスト会議、一時休止。
 12月27日/1月9日 ブレスト会議、再開。トロツキーがロシア代表団を率いる。
 12月30日/1月12日 中央〔中部欧州〕諸勢力、ラダ〔ウクライナ・ソヴェト〕をウクライナ政府として承認。
 12月後半 アレクセイエフ、コルニロフ各将軍、義勇軍(Volunteer Army)を立ち上げる。

 1918年 1月
  1月 1日 レーニンの暗殺未遂。  
  1月 5日/18日 憲法制定会議の一日会合。憲法制定会議を支持するデモ、発砲され、逃散。労働者『幹部会』、第1回会合。トロツキー、ブレストからペトログラードへ戻る。
  1月 6日 憲法制定会議、閉じられる。
  1月 8日 ボルシェヴィキが支援する第3回ソヴェト大会、開く。『労働者および被搾取大衆の権利の宣言』を採択し、ソヴェト・ロシア共和国を宣言。
  1月15日/28日 ソヴェト・ロシア、国外および国内の債務履行を拒否。
  1月28日 ラダ、ウクライナの独立を宣言。」  
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*1918年2月以降につづく。

1415/国家と共産党-ロシア-02。

 一 つづき。 
 ペトログラード・ソヴェトは当初は同市(首都)でのみ活動したが、他都市のソヴィエト・前線部隊(後者は説明が要るが省略)の代表も加えて「全ロシア労兵ソヴェト」となり、その「イスパルコム」(執行委員会)は「全ロシア(All-Russian)中央執行委員会」(CEC=Central Executive Committe)と自らの名前を変更した。
 その構成員72名のうち、メンシェビキ23、エスエル(社会革命党)22、ボルシェヴィキは12名。ソヴェト総会も開かれたが(3月-4回、4月-6回)、CECの提案を「拍手喝采」で承認するだけの力になる。
 イスパルコム=CECの構成員には農民代表者はいない。それと「ブルジョアジー」が除外されているので、「全ロシア・ソヴェト」およびCECは、「全ロシア」住民の「せいぜい10-15%を代表」したにすぎない。
 以上、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.108。
 原書である、R.Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995)では、p.94-95。
 二 その後(レーニン「4月テーゼ」・ケレンスキー政府首班の約束等々)および「10月革命」事件でのソヴェト等と「政府」の関係・役割については、以下の一部を除き、別途、<権力奪取>の具体的な様相を語る中で言及することにしよう。相当に興味深い<ドラマ>ふうだ。
 三 ボルシェヴィキは、各および全ロシア・ソヴェトのイスパルコム又はCECの多数を獲得するかこれを強引に屈服させることによって、結果としてソヴェト全体を支配するようになり、ソヴェトのもとに首都防衛名目の「防衛に関する革命委員会」=「軍事革命委員会」を設置することを、メンシェビキの反対を押して、ソヴェト総会で是認させた(1917年10月9日、p.150)。
 1917年10月26日、ソヴェト第2回大会開催中に、「軍事革命委員会」部隊による市内要所占拠、臨時政府閣僚逮捕・拘束、「冬宮」占拠という<ほとんど無血の><実力行使>が完了した(10月「革命」又は政変・クー・デタ)。
 その前の24日に、レーニンはつぎの宣言を起草していた。
 「臨時政府は廃された。政府の権力はペトログラード労兵ソヴェトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会に移った。…。」
 <宣言>なので、実際に「プロレタリアート」なるものの「先頭に立つ」のかどうかは疑問視できる。
 また、パイプスによれば-秋月の言葉を挿むと<法的>または<国制>の観点からは-、「ボルシェヴィキの中央委員会を除き、誰もそうすることを正当と認めていなかった一機関が、ロシアの最高権力を掌握した、と宣言した」。
 以上、p.153-6、原書p.143-6。
 第2回ソヴェト大会が再開され、諸「布告」(Decree)発布が承認され、憲法制定会議招集までの暫定政府になる「はず」の、新しい「臨時政府」閣僚候補者名簿が発表され、承認された。
 この<暫定・臨時>の「はず」の「政府」または「内閣」は「ソヴナルコム」(Sovnarkom)と呼ばれた。パイプス(および訳者・西山)も同様だが「人民委員会議」(Council of People's Comissars)とも訳される。
 議長(首相)はレーニン、内務人民委員(内務大臣)はルイコフ、外務人民委員(外務大臣)はトロツキー。スターリンは、いわば民族問題担当長官。
 新しいソヴェト・イスパルコム(CEC)も形成された。ボルシェヴィキのみによらず、101名のうち、ボルシェヴィキ62名、左派エスエル(左翼社会革命党)29名など。イスパルコム議長は、カーメネフ。
 以上、p.156-7。
 四 1918年3月にボルシェヴィキは「共産党」と名乗る。同月に-民族諸問題の一定の解決を経て-ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国成立・同憲法発布。
 この憲法は実質的には左派エスエルの支持も受けていた。だが、同党はもちろん共産党や政党には触れていない。
 また、「ソヴェト」については明確に語り、「全ての権力をソヴェトに」旨を規定したが、各(村・郡・県・中央)ソヴェトの関係、ソヴェトと「(中央)政府」の関係も曖昧なままで、パイプスによれば、「その憲法が真剣に受けとめられることを意図していなかった」、という(p.161-2)。 
 五 関心を惹くのは、1917.10政変以降、少なくとも「内戦」終了頃までの、国家またはソヴェトと「政府=ソヴナルコム・人民委員会議」の関係およびこれらと共産党(ボルシェヴィキ)の関係だ。このあたりは、ロシア革命等に関する諸文献でも分かりにくい。
 R・パイプスは訳書p.163-165(原書p.154-)で、つぎのように説明している。
 ソヴェトの中央執行委員会であるCEC(イスパルコム)は、ソヴェト大会が創設したソヴナルコム」(人民委員会議=政府・内閣)の「行動と構成に関する監督権」を持った。
 しかし、上はレーニンが自ら提案したものだったが、レーニンもトロツキーも、できるかぎり早く、「人民委員会議」をソヴェト(・中央執行委員会)から解放させたかった。あるいは後者に対する責任をなくし、後者による監督をなくしたがっていた。
 レーニンらが「真に意図」したのは、「人民委員会議」が、共産党の中央委員会に「排他的に責任を負う」ことだった。
 これにより、ソヴィエト・ロシアの歴史で「最初にして唯一の国制上の衝突(constitutional clash)」が生じた。
 なお、人民委員会議(内閣)の議長(首相)はレーニンであり、共産党中央委員会のトップにいたのはレーニンだ。
 共産党の「トップ」と書いたが、「最高指導者」という呼称も見られるものの、正式に何と呼ばれていたかは、諸文献で、じつははっきりしない。
 現在またはレーニン以降の諸共産党ならば、「総書記」、「第一書記」、「書記長」あるいは「(幹部会 ?)委員長」なのだろう。
 存在していると誰もが明確に意識しているもの(・人物)については、言葉を用意する必要がなく、従って言葉・概念が作られることがないことがある、ということを示しているようでもある。あるいはそもそも、国家と政党(共産党)を厳密に分けて考えるという発想自体が、この時期のレーニンらボルシェヴィキ党員にはなかったのかもしれない。それこそ、党(共産党)=国家、なのだ。
 さらに、上記の問題についてのR・パイプスの説明・叙述を追跡する。

1395/R・パイプス・共産主義の歴史-池田信夫著による。

 池田信夫・使える経済書100冊-『資本論』から『ブラック・スワン』まで(NHK出版、2010)は、一冊として、R・パイプスの Communism - A History(2001)を取り上げている。但し、原著ではなく、飯嶋貴子訳の<共産主義が見た夢>というタイトルに化けさせられている ?邦訳書だ(ランダムハウス講談社、2007)。
 わずか2頁余りでの言及で、しかも、紹介と池田自身の論評の部分との境界がはっきりしない。
 冒頭にある以下の二文は、明らかに紹介の部分。
 「本書の共産主義の評価は全面否定だ」。
 「特にロシア革命について、『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか『トロツキーが後継者になっていたら……』という類の議論を一蹴する」。
 この上の文について池田はとくにコメントしていない。だが、日本共産党流の『レーニンは正しかったが、スターリンは悪い』とか、かつての「新左翼」流の『トロツキーが後継者になっていたら……』とかの議論が日本にあることを知ったうえでの紹介ではないか。
 つぎの文は、明確ではないが、(パイプスの主張の)紹介のようだ。
 「一部の陰謀家によって革命を組織し、その支配を守るために暴力の行使をためらわなかったレーニンの残虐さは、スターリンよりもはるかに上であり、ソ連の運命はレーニンの前衛党路線によって決まったのだ」。
 R・パイプスの上掲著の内容の詳細な記憶はないが、ここにも、日本共産党のレーニンをめぐる歴史理解とは全く異なる理解が示されている。しかも(池田の読み方が混じっているかもしれないが)、レーニンによる前衛党論・共産党組織原理(分派の禁止等)に(も)根源がある、という理解が示されている。
 つい最近、いかなる事情を背景にして「分派禁止」の方針が出された(決してレーニンの頭の中からのみ生じたのではない-したがってソヴィエト・ロシアに特有の事情があったのであり一般化できない)のかをある本で(いま書名を忘れた)読んだばかりだ。立ち入らない。
 つぎの文あたりから、パイプスの主張・理解に刺激をうけての、池田信夫自身の見解・コメントが述べられてくる。
 なぜ共産主義は広い支持を受けたか。「筆者も認めるように、財産や所有欲を恥ずべきとする考え方は、仏教にもキリスト教にもプラトンにも広くみられる」。
 以下は、池田信夫の<世界>に入っている。
 「ハイエク流によると、…〔遺伝子に組み込まれた〕部族感情のせいだろう。つまり人間は個体保有のために利己的に行動する本能をもつ一方、それが集団を破壊しないように過度な利己心を抑制する感情が埋め込まれているのだ」。/マルクスは「人間が利己的に行動するのは、近代市民社会において人類の本質が疎外され、人々が原子的個人として分断されているためであって、その矛盾を止揚して『社会的生産』を実現すれば、個人と社会の分裂は克服され、エゴイズムは消滅すると考えていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルなので、下部構造が変われば人間も変わるはずだった。/しかし現実には、利他的な理想よりも利己的な欲望のほうがはるかに強く、下部構造が変わっても欲望は変わらないことを、社会主義の歴史は実証した」。
 そのあと、人間の利己心中心で利他心が全くないと想定する「新古典派」も実証科学としては検証に耐えない、「市場の効率を支えているのは、実は利他的な部族感情によるソーシャル・キャピタルなのである」、という池田<節(ぶし)>が続く。
 R・パイプスには、Property and Freedom(財産(所有権)と自由)(1999)という本もある。
 関心を持たざるをえないのは、ホッブズやルソーについてもそうなのだが、マルクスやレーニンにおける「人間像」だろう。彼らは「人間」をどのような本性・本質を持つものと見ていたのか。
 財産欲・所有欲を持つのは資本主義社会特有の「人間」で「社会主義」化によって変わる、と考えていた(との観念を抱いていた)のだとすれば、つぎのような連想も出てくる。
 スターリンに顕著な党員の「粛清」も党員・抵抗者に対する「テロル」(大量殺人=肉体的抹殺)も、利他的な「真の」社会主義的「人間」に改造されていない(社会主義・共産主義にとっては邪魔な)人間は殺戮しても構わない、なぜなら、いずれ消失すべきブルジョア資本主義に汚染された「利己的」人間は「真の」人間ではないのだから、という<人間観>によるものではないか。
 数百万人、数千万人の単位で「強制労働収容所」に送り込み、また「処刑」(肉体的抹殺)をできた人間とそれを中心とする共産党組織のもつ<人間観>とは、おそらくは現在の日本人のほとんどの、想像を絶するものに違いないだろう、と思われる。
 日本共産党の真面目な党員ならば、反日本共産党で知られた人物がその党員の者しか知らない状況で死に瀕していることに気づいたとき、誰にも気づかれないと確信すれば、放置してそのまま死なせてしまうのではないか、とかつてこの欄で書いたことがある(だいぶ前だ)。
 「敵」から生命を奪ってもよいと究極的には考えているはずの日本共産党員だから、明確な反共産主義者に対する<不利益扱い>や<いやがらせ>・<いじめ>など、いかほどの疚(やま)しさも伴わないに違いない。ひょっとすれば、不当な(不平等な)不利益扱い、いやがらせ・いじめとすら意識しない可能性もある。

1380/共産主義に関する討論のテーマ-R・パイプスによる。

 Richard Pipes, Communism - A History (Random House, 2003) の巻末に、共産主義に関する討論テーマ (Discussion Guide) が掲載されている。読者が大学生や高校生であることを想定してのことだろうか。
 興味深いので、16個の質問事項(討論テーマ)をそのまま訳しておきたい。
 -----------
 01 共産主義の基礎にある古代の理想は何か ?
 02 マルクスは社会主義思想にいかなる寄与をしたか ? その理論は本当に、彼が主張するように「科学的」か ? 彼の予言は実現されたか ?
 03 社会主義「修正主義」とは何か ?
 04 レーニンはマルクスの正しい後継者だったか、それとも、レーニンはマルクス理論を修正したのか、かりにそうならば、どのようにして ?
 05 1917年10月にペトログラードで起きたのは、革命か、それともクー・デタか ? なぜ、権力掌握後に共産主義体制はあれほど早く独裁的に(autocratic)になったのか ? スターリンは、レーニンの門弟だと正しく主張していたのか ?
 06 なぜ、レーニンは革命を世界に広げることを主張したのか ? 彼とその後継者たちはどの程度成功したか ? コミンテルンのプログラムはいかなるものだったか ? なぜ、そしてどのように、ドイツの共産主義者は1932年にヒトラーの政権奪取に寄与したのか ?
 07 「ノーメンクラトゥーラ」とは何か、そしてそれはどのようにして共産主義体制の安定性と最後の失敗の両方に寄与したのか ?
 08 スターリンの大テロルの原因と過程を討論しなさい。トロツキーが共産主義国家では「服従しない者は食うべからず」と書いたとき、彼は何を言いたかったのか ?
 09 とくに1930年代に西側諸国で支持者を獲得した共産主義の成功を、あなたはどう説明するか ?
 10 冷戦の原因は何だったか ? それは不可避だったか ?
 11 なぜ、ソ連は解体したか ? 少数派のナショナリズムはその解体にいかなる役割を果たしたか ? 
 12 第三世界での共産主義運動に共通しているのは何か ? なぜ、モスクワは、西側の旧植民地だった国で勝利することが重要だと考えたのか ?
 13 中国・ソヴィエトの分裂の原因は何だったか ? どのようにして、マルクス主義者は毛沢東共産主義者だったか ? 
 14 なぜ、チリのアジェンデ共産主義体制は転覆させられたのか ?
 15 カンボジアやメンギストゥ〔秋月注-エチオピア〕のような体制がマルクスやエンゲルスの理論と同一視されうるとすれば、それは、もしあるならば、いかなる意味でか ?
 16 「社会主義者は勝利するかもしれないが、社会主義は決してしない」との言明は、何を意味するのか ? なぜ、本の著者の見解によれば、共産主義はつねにかつどこでも失敗する運命にあるのか ?     
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 上のRichard Pipes の書物(ハードカバー版は2001年刊)は、 リチャード・パイプス(飯嶋貴子訳)・共産主義が見た夢(ランダムハウス講談社、2007)として邦訳されている。
 但し、訳者(1967~)の責任ではないだろうが、巻末の上記の Discussion Guide は訳されておらず、役に立つと思われる<さらなる読書のための助言>という、著者による関連諸文献の紹介と簡単な説明(p.166-9)も訳されていない。注も索引も邦訳書では割愛されている。
 また、この種の邦訳書にはよく見られる、訳者または別の専門家による<著者(リチャード・パイプス)の紹介>や<解題・解説>もまったく存在しない。
 200頁に充たないコンサイスな書物だが、あるいはそうだからこそ、<共産主義の歴史>を概観するうえで(「共産主義が見た夢」という邦題は直接的でない)、日本人にとっても-日本共産党を理解するためにも-十分に参考になると思われるのに(上の討論テーマはすべて本文で言及されているようだ)、残念なことだ。

0855/山内昌之・歴史学の名著30におけるレーニン・トロツキーとジャコバン・ルソー・ヘーゲル。

 一 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は、「作品の歴史性そのもの」、「存在感や意義」を考えて、ロシア革命についてはトロツキーを選び、E・H・カーを捨てた、という。
 トロツキー・ロシア革命史(1931)を私は(もちろん)読んでいない。トロツキストの嫌いな日本共産党とその党員にとってはトロツキーの本というだけで<禁書>なのだろうが、そういう理由によるのではない。
 山内の内容紹介にいちいち言及しない。目に止まったのは、次の部分だ。
 山内はトロツキーによる評価・総括を(少なくとも全面的には)支持しておらず、トロツキーが「革命が国の文化の衰退を招いた」との言説に反発するのは賛成できない、とする。いささか理解しにくい文章だが、結局山内は「革命が国の文化の衰退を招いた」という見方を支持していることになろう。推測を混ぜれば、トロツキーはかつての(革命前の)ロシアの文化など大したものではなかった、と考えていたのだろう。
 そのあとに、山内の次の一文が続く。
 革命によって打倒された「文化が、西欧の高度の模範を皮相に模倣した『貴族文化』にすぎないとすれば、ヘーゲルやルソーなど、トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたちが多くを負う思想を含めた西欧文化は行き場所がなくなってしまう」(p.206)。
 これも分かり易い文章ではないが(文章が下手だと批判しているのではない)、一つは、革命前のロシアも「西欧文化」を引き継いでいたこと、二つは、その「西欧文化」の中には「ヘーゲルやルソーなど、トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたちが多くを負う思想」が含まれていること、を少なくとも述べているだろう。
 興味深いのは上の第二点で、山内は、「トロツキーやレーニンらロシアのジャコバンたち」は「ヘーゲルやルソーなど」に負っている(を依拠している、継承している)として、まずは、「トロツキーやレーニンら」を「ジャコバンたち」、つまりフランス革命のジャコバン独裁期のロベスピエールらと同一視または類似視している。
 そして、つぎに、そのような「トロツキーやレーニンら」の源泉・淵源あるいは先輩には「ヘーゲルやルソーなど」がいる、ということを前提として記している。ルソーがいてこそマルクス(そしてレーニン)もあるのだ。
 短い文章の中のものだが、上の二点ともに、私の理解してきたことと同じで、山内昌之という人は、イスラム関係が専門で、ロシア革命やフランス革命、あるいはこれらを含む欧州史・西欧思想の専門家ではないにもかかわらず、よく勉強している、博学の、かつ鋭い人物に違いない、と感じている。
 山内は1947年生まれ。「団塊」世代だ。岩波書店からも書物を刊行しているが、コミュニスト、親コミュニズムの「左翼」学者ではない、と思われる。そして他大学から東京大学に招聘されたようで、東京大学も全体として<左翼>に染まっているわけではないらしい。
 但し、東京大学の文学部(文学研究科)でも法学部(法学研究科)でもなく、大学院「総合文化研究科」の教授。さすがに東京大学は、「歴史学」の<牙城>であるはずの文学研究科の「史学(歴史学)」の講座または科目はこの人に用意しなかったようだ。

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