秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

トルストイ

2501/R・パイプスの自伝(2003年)⑨。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。
 ——
 第三章・知と美への萌芽 ③。
 (19) 振り返ることができる範囲で言うと、我々の感覚で知覚する現実は究極的な現実を隠している表層にすぎない、と私は感じていた。
 Cracow の街路で従兄弟と遊んでいる少年だったが、下水管の蓋の下で流れる水の音に気を取られた。ごくふつうの下水管口で、ごくふつうの排水だったけれども、見えない源から生まれてくる音によって、我々は影の世界で動いているという私の思いは強くなった。
 (言うまでもなく、当時の私はプラトン(Plato)を読んだことがなかった。)
 同じような体験を地方の祭りでもした。私は釣竿を持って、スクリーンの背後のプレゼントを拾い上げることになっていた。 幕の後ろに何か別のものがいるのではと、私はいぶかった。
 別のあるとき、私が客体(objects)についてもつ考えはそれの現実を表現しておらず、理解など全くしないままで我々が対処することができるようにするための「表象」(symbols)として役立っているにすぎない、と思った。
 このような感覚は、生涯ずっと残ったままだった。私の研究はつねに、外面の背後にある「真実」を探求したいという衝動に駆られて行われてきた。//
 (20) 音楽家には、いや美術史学者にすらならなかったけれども、私の当初の音楽や絵画への愛好はずっと私に影響を与えつづけ、私は学問上の著作で意識的に、美学的な規準を充たそうと努めてきた。
 多年ののちに、Trevelyan のつぎの言葉を納得して読んだ。「真実は歴史研究の規準だ。しかし、歴史研究を駆り立てる動機は詩的なものだ。」(後注4)
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 (後注4) A. L. Rowse, The Use of History, 1946, p.54 による引用。
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 歴史家でいるための困難さは、両立し難いこれら二つの資質が求められることにある。詩人たる資質と、図書館の司書たる資質。前者は人を自由に舞い上がらせ、後者は人を束縛する。
 私が提示しようとしてきたものは全て、文章と構成のいずれに関しても、実証的証拠に細心の注意を払いつつ、美学的に満足できるように書いたものだった。
 このことはある程度は、創造的な芸術家になれなかったという失望を埋め合わせてくれた。
 だが、それ以上のことを意味する。
 私は学問を美学的な経験だと、それゆえに個人的な経験だと見ている。論文や著書の執筆で誰かと協力するという考えを私は抱くことはできない。
 つねに、知識によりも叡智に関心をもった。
 私が書いた全ては、芸術の場合にそうであるように、私の私的な見方を反映した。
 そのゆえに、私は同僚の学問的営為に一度も関与しなかったし、私自身の仕事を総意に適合するよう義務付けられているとも決して感じなかった。//
 (21) このような考え方のために、私は早くから論争的になった。
 多年ののち、Harvard の大学院生から、私が書いたものはなぜいつも論争を刺激しているのか、と尋ねられた。Samuel Butler のつぎの手紙に答えを見つけるまで、どう回答すればよいか分からなかった。
 「世論を聞く耳をもつ者たちの見解が間違っていると考えるまで、どんな主題についても私は書かない。これは必然的帰結として、私が書く本は全て、その分野を占める人々に逆行することになる。だから、私はいつも熱水の中にいる。」(後注5)
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 (後注5) Henry Festing Jones, Samuel Butler,II, 1919, p.306.
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 (22) 私の若いときの芸術への熱情は、あらゆる種類のイデオロギーに対する免疫という、有益で永続的な効果を私にもたらした。
 全てのイデオロギーは、創設者が普遍的な有効性があるとする真実の核を含んでいている。
 私が10歳代のときマルクス主義者たちといた時々の討論の間、私はほとんど彼らの議論に反対することができなかった。マルクス主義の正典(canon)について全く無知だったからだ。
 しかし、私は、いかなる定式も全てを説明することはできない、ということを、絶対的な確実さをもって知った。
 ある人々は、世界をきちんと整序させること、全てが「あるべき場所に収まる」ことに憧れる。—その全ては、マルクス主義やその他の全体主義理論にとっては「原材料」だ。
 別の人々は、トルストイが生の「無限の、永遠に尽きることのない発現」と称したものに喜ぶ。究極的には美的価値に由来する喜びだ。
 私は、後者の人々の中にいる。//
 (23) 私は女の子についてはきわめて臆病だった。
 学校に行く途中で、上品で黒味がかった髪の毛と瞳をもつきれいな同じ年頃の女の子をしばしば通り過ぎて、見とれたものだ。私は彼女を見つめ、彼女は私を見つめた。でも、言葉は交わさなかった。
 あるとき公共図書館にいて書棚の本を捲っていると、彼女が歩いてきて、近くに落ち着いた。誘いだったが、私はあえて彼女に接近しようとはしなかった。
 のちにローマで、彼女をワルシャワで援助していた人物を見つけ出した。
 彼女は、疑いなく、ホロコーストで死んだ。//
 (24) 1938年7月、私の15歳の誕生日に、ときどき日記を書き始めた。
 その日記は、奇跡的に、残った。
 ワルシャワを出る前、我々の荷物の中には入れる余地のない、私の最も貴重な文書類があった。
 ポーランド・ユダヤの出自でイタリアの市民権をもつLola De Spuches という女性(下記も参照)が戦争中に、家族に逢うためにしばしばワルシャワに旅行していた。そのような旅行のあるとき、私の文書類を預かっていたOlek が、それを一袋にして彼女に与えた。
 彼女は戦争のあいだそれをずっと保管し、私が最初にヨーロッパに戻った1948年の夏に、私に手渡してくれた。//
 (25) 戦争前の私の日記を読んで、全く陰鬱な気分になる。
 主として幸福でない時代に日記に心の裡を打ち明けたのだとしても、その中を激しい怒りによる継続的な緊張が貫いている。
 それは部分的には、とりまく環境に向けられていた。すなわち、ポーランド・ナショナリズム、反ユダヤ主義、不気味に迫る戦争。
 しかし、私の怒りの唯一の理由は、外部的な要因ではなかった。
 その後何度も確認してきたのだが、当時に私は、意味ある知的な作業に従事していないと簡単に憂鬱に陥ってしまう、ということに気づいた。
 15歳の私には、追求すべき意味ある知的な仕事はなかった。
 努力がどう結実するかが分からないまま、何の指針もなく自分で、音楽や美術史に手を出した。
 従って、たびたび襲う失意の時間は、学問の職業を得るとすぐに、永遠に消え失せた。//
 (26) 戦争の3-4年前の学校は、本当にいやだった。
 私はその頃からワルシャワに来て、私立のギムナジウムに通った。創立者のMichael Kreczmer の名にちなんだ学校で、都心にあり、生徒の半分はカトリックで、半分はユダヤ人だった。
 1935年頃、その頃までは問題がなかった雰囲気が、悪い方へ顕著に変化した。
 親切でクラシック好きだった校長が、新しい種類のナショナリストの教師たちに排除された。彼らはポーランド文学の指導者に率いられており、Tadeusz Radoński の流れにあった。私の学校かつ復讐の的の校長代理になった。
 露骨な反ユダヤ主義の宣告はなかったが、それが継続的な底流になった。
 カリキュラムの重点が、ナショナルな問題に置かれた。—ポーランドの歴史、ポーランドの文学、ポーランドの地理。これらへの私の関心は限られていて、むしろ音楽、芸術、哲学への私の愛好の邪魔になった。
 ユダヤ人はポーランドの人口の10パーセントを占め、ポーランドの経済と文化を支配しているとされていた。そのユダヤ人が、決して言及されることなく、まるで存在していないかのごとく扱われた。
 ポーランド人の意識にユダヤ人がほとんど影響を与えていないとは、全くの驚きだった。
 過去についても現在についても、ポーランドがカリキュラムの中心にあった。
 世界は大不況下にあり、我々の東ではスターリンが数百万人を殺害し、西ではヒトラーがそれ以上の殺害を準備していた。だが我々は、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))といった瑣末なことを学習し、アフリカのLimpopo 河の流れをなぞらされていた。//
 (27) 私が宿題をせず、クラスでの素行が悪かったのは不思議ではない。そのために、一時的にはクラスから追放され、とくに悪くなったときには、一日かそれ以上、家に送り還された。
 私の周囲で何が起きているかに無頓着のまま、机の下でニーチェを読んだものだ。
 数学は、私の最も不得手の科目だった。私は全く理解できず、私の母親の取りなしと授業料を払っている生徒だという事実のおかげで毎年に上級学年へと進んだ。
 (カトリックの生徒の多数でなければ、多くには奨学金があった。)
 古代史と世界地理を除けば、私の成績簿は最低で合格する等級の惨めな集まりだった。「素行」ですら、「良」(good)だったのに。
 だが、教師が私をのけ者にし、素行と成績の悪さの原因を反省せよと言い、私の自尊心に訴える、そのようなことは一度もなかった、と思う。教師らしく用いた手段は、罰や恥辱だった。
 振り返ってみると、学校での行いが良くなかったのは、私には有難いことだった。宿題を果たさないことで、能力試験や授業で得られる以上の価値あるものを学んだり、自分が得意なものを発見したりする、そういう時間を得ることができた。//
 ——
 第一部第三章③、終わり。④へとつづく。

1884/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.91-p.94、2004年合冊版p.860-p.863。
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 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)①。
 (1)ソヴィエト同盟の文化諸分野は1930年代に厳しく統制され、自立した知的生活は、実際上は存在しなくなった。
 純文学(Belles-lettres)は徐々にだが効果的に、体制と指導者を称賛して「階級敵」の仮面を剥ぐことを唯一の目的とする、政治と虚偽宣伝の付属物になっていった。
 スターリンは1932年にGorky の家で作家グループと話しているとき、著作者たちは一般に「人間の精神(souls)に関する技術者」だと述べた。そして当然に、この追従的な言葉遣いは、公式の決まり文句になった。
 映画や演劇も、同じように見なされた。後者の方が被害は少なかったけれども。
 伝統的な戯曲の演目は、たいていは古典的ロシア劇作家である作者が「進歩的」であるか「部分的に進歩的」であると表現できる場合にのみ、上演することが許された。この中には、Gogol、Ostrovsky、Saltykov-Shchedrin、TolstoyおよびChekhov が含まれていた。そして、最悪の年代にすら、優れた上演作品はロシアの舞台で観ることができた。
 小説家、詩人および映画監督たちは、Byzantine で、スターリンの称賛を互いに競い合った。これが頂点に達したのは戦後だったが、いま我々が考察している時代にすでに高い程度に至っていた。//
 (2)しかしながら、抑圧と統制は、異なる程度で異なる知的分野に影響を与えた。
 1930年代には、科学の一定の分野で、とくに理論物理学と遺伝学で、マルクス主義を志向する大きな趨勢があった。しかし、1940年代遅くまでには頂点に達しなかった。
 しかしながら、とくにイデオロギーの観点からは微妙(sensitive)な他の分野、すなわち哲学、社会理論および歴史-とりわけ党の歴史と近現代一般の歴史-のような分野は、1930年代にたんに拘束着を身につけさせられた(straight-jacketed)ばかりではなく、スターリンの用語法で完全に成文化(codify)された。//
 (3)ソヴィエトの歴史編纂が屈服した重要な段階は、スターリンが1931年に雑誌<プロレタリア革命>に寄せた書簡によって画された。その手紙は、編集部による適切な自己批判とともに掲載されていた。
 スターリンの書簡は、1914年以前のボルシェヴィキとドイツ社会民主党の関係に関するSlutsky の論考を掲載したとして編集部を叱責した。その論考は、第二インターナショナルでの「中央主義」と日和見主義の危険性を正しく評価することができなかったとして、レーニンを批判していた。
 スターリンはまず、レーニンは何かを「正しく評価することのできなかった」、つまりレーニンはかつて謬りを冒したと示唆する「赤いリベラリズム」だと雑誌を厳しく咎めた。そのあとで彼は、のちに経典的文章となった第二インターナショナルの完全な歴史を概述した。
 スターリンの主要な関心は、非ボルシェヴィキの左翼とトロツキーにあった。
 スターリンによれば、社会主義的左翼は日和見主義との闘いである程度の貢献はしたが、重大な過ちも冒した。
 Rosa Luxenburg とParvus は、例えば党規約に関する党の論争でしばしばメンシェヴィキの側に立った。そして1905年には、「永続革命という準メンシェヴィキ的図式」を案出した。その図式はのちにトロツキーが採用し、その致命的な誤りはプロレタリアートと農民間の同盟という考えを拒否したことだった。
 トロツキー主義について言えば、それは共産主義運動の一部ではとっくになくなっており、「反革命的ブルジョアジーの先鋭的特殊部隊」になっていた。
 戦争前のレーニンはブルジョア民主主義革命が社会主義革命へと不可避的に発展することを理解していなかった、レーニンはのちにトロツキーからその考え方を拾い上げた、というのは、奇怪なウソだ。
 スターリンの書簡(英語版全集第13巻、1955年、pp.86ff.)は、ソヴィエトの歴史編纂の仕方を最終的に決定した。すなわち、レーニンはつねに正しかった(right)。ボルシェヴィキ党は、敵が組織内にしのび込んで組織を正しい道から逸らそうとして失敗したときでも、つねに無謬だった。
 社会主義運動での全ての非ボルシェヴィキの集団は、つねに裏切りの温床であり、せいぜいのところ有害な過ちの培養地だった。//
 (4)こうした判断はRosa Luxenburg の歴史的評価を封印し、決定的にトロツキーに関する処理をつけた。
 しかしながらさらに、歴史、哲学および社会科学の全ての諸問題が、最終的に解決済みのものとされた。
 これを行ったのは、匿名の委員会が編集した1938年の<ソヴィエト同盟共産党の歴史・小教程(Short Cource)>だった。スターリンは当時、党の世界観に関して是認される範型を叙述する、「弁証法的かつ歴史的唯物論」という名高い部分(第4章)だけの執筆者だと考えられた。
 しかしながら、戦後には、この書物全部がスターリンによるものだったとされ、彼の全集の一部として再発行された。そして、その死後も途切れることがなかった。
 スターリンの特徴的な文体はいくつかの場所で明確だった。とくに、多様な反抗者や偏向主義者を「白衛軍のまぬけ」、「ファシストの完璧な子分」等々と称するところで。//
 (5)<小教程>の特質は、出版史の世界での際立つ記録だ。
 ソヴィエト同盟で数百万冊が発行され、15年のあいだ、全市民を完全に拘束するイデオロギーの手引き書として用いられた。
 版の多さは、疑いなく、西側諸国では聖書のそれだけが比べものになっただろう。
 止むことなく、あらゆる場所で発行され、教えられた。
 中学校の上級クラス、高等教育の全ての課程、党での研修等々、<小教程>は何かが教育される全てのところで、ソヴィエト市民の主要な知的滋養源(pabulum)だつた。
 識字能力のある全ての者にとって、これを知らないままでいることは異様な曲芸であっただろう。
 ほとんどの者が何度も読み返すことを義務づけられ、党の宣伝者や講師たちはほとんどこれを暗記していた。//
 (6)<小教程>は、もう一つの点でも世界記録を打ち立てた。
 歴史の体裁をとる書物の中で、これだけ多くの虚偽と隠蔽(lies and suppressions)を含むものは、おそらく存在しない。
 書名が示すように、この本は最初からボルシェヴィキ党の歴史だと謳う。だが第4章も、読者を世界史の一般的諸問題へと誘引し、読者にマルクス主義哲学と社会理論の「正しい」見方を解説する。
 諸教訓(morals)が歴史的事象からあっさりと抽出され、それらがボルシェヴィキ党と世界共産主義運動の諸行動の基礎を形成したものだと提示される。
 歴史の結論は、単純だ。すなわち、レーニンおよびスターリンの素晴らしい指導のもとで、ボルシェヴィキ党は、十月革命の成功という栄冠に輝く、誤りのない政策を最初から確固として追求してきた。
 レーニンはつねに歴史の先頭にいると描かれる。そして、すぐ後に、スターリンがつづく。
 幸福にも大粛清の前に死亡した第二または第三ランクの少数の者たちは、物語の適当な箇所で簡単に言及される。
 レーニンが党を創立するのを実際には助けた指導者たちは、全く言及されないか、または札付きの裏切り者もしくは党に入り込んで妨害と陰謀とをその経歴とする破壊者だと叙述される。
 一方で、スターリンは、最初から過ちなき指導者であり、レーニンの最良の生徒であり、レーニンが最も信頼した協力者であり、最も親密な友人だった。
 レーニン自身については、彼はまだ若い間に人間性を発展させる計画を抱いており、彼の人生の一連の全ての行為はその計画を実現するための考え抜いた歩みだった、と読者が理解するように記述される。//
 ----
 ②へとつづく。

1738/全体主義者・レーニン②-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.768、分冊版・第2巻p.514-5。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン②。
 レーニンは、哲学を含むあらゆる領域について、不偏または中立の可能性を決して信じなかった。
 党に加入しようと望まず、自分を中立的だと宣する者はみな、隠れた敵だった。
 革命のすぐ後の1917年12月1日に、レーニンはソヴェト農民代表者大会で、鉄道労働組合を攻撃して、こう語った。
 『毎分が時を刻み、異論や中立は敵に言葉を発することを許し、敵が確実に聴かれようと欲し、その聖なる権利のための闘争をする人民を急いで助けることがなされていない、そのような革命的闘争のときには、このような立場を中立と呼ぶことはできない。
 それは、中立ではない。
 革命的な者は、それを教唆(incitement)と呼ぶだろう。』(+)
 (全集26巻329-330頁〔=日本語版全集26巻「農民代表ソヴェト臨時全ロシア大会」のうち「ヴィクジュリ代表の声明についての演説/11月18日(12月1日)」333-4頁〕。)//
 政治、あるいは他のどこにでも、いかなる「中立者たち」も存在しない。
 レーニンが関係したいつのいかなる問題についても全て、彼に関心があるのは、それは革命のために、又はのちにはソヴェト政権のために、良いのか、悪いのか、のいずれなのか、だった。
 トルストイの死後の1910-1911年に書かれた、レーニンの四つの彼に関する小論は、その典型的な例だ。
 レーニンの中心的な主題は、トルストイ作品の「二つの側面」の存在だ。
 第一は、反動的で、夢想家(utopian)(道徳的完全さ、全ての者への慈悲、悪への無抵抗)。
 第二は、「進歩的」で、批判的(抑圧、農民への憐れみ、上層階級および教会の偽善等に関する描写)。
 トルストイの基本的考えの「反動的」側面は、反動者たちによって誇張されたが、「進歩的」側面は大衆を喚起させる目的のために「有用な素材」を提供するかもしれない。政治的闘争は、トルストイによる批判の視野よりもすでにかなり広くなっているけれども。
 レーニンの1905年の論考、『党組織と党出版物』は、ロシアでの書かれる言葉の奴隷化をイデオロギー的に正当化するために十年間使われたし、いまなおも使われている。
 政治文学についてだけそれは関係すると言われてきたが、しかし、そうではない。それは、全ての種類の著作に関係している。
 上の論考は、以下のような文章を含む。
 『非パルチザン〔無党派〕の作家は、くたばれ!
 文学上の超人は、くたばれ!
 文筆は、プロレタリア-トの共通の根本教条(cause)の一部にならなければならない。
 単一の偉大な社会民主党の機構の「歯車とネジ」は、労働者階級全体の全体として゜政治的意識をもつ前衛によって、作動し始める。』
 (全集10巻45頁〔=日本語版全集10巻「党組織と党出版物」31頁〕。) 
 このような官僚制的態度を嘆いているらしき「神経質な知識人」の利益のために、レーニンは、著述活動の分野では、機械的な同等化はありえない、と説明する。
 個人的な主導性、想像力等の余地は残されていなければならない。
 それでもやはり、文筆の仕事は党の仕事の一部でなければならず、党によって統制されなければならない。(*秋月注)
 もちろんこのことは、ロシアは当然の行程として言論の自由を享受する、しかし党の著述家の構成員はその著作で党の心性(mindedness)を示さなければならない、という前提のもとで、『ブルジョア民主主義』を目指す闘いの間に書かれた。
 他の場合と同様に、党が国家の強制装置を支配したときには、こうした義務は一般的になった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (秋月注)この部分の趣旨の原文は、日本語版全集10巻32頁を参照。「新聞は種々な党組織の機関とならなければならない。文筆家はかならず党組織に入らなければならない」、という文もある。
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 ③へとつづく。
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