秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

トゥハチェフスキー

1875/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
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 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味①。1978年英語版 p.77-p.80、2004年合冊版p.849-p.852。
 (1)1930年代のソヴィエトには、全体主義的社会主義国家の公式の経典的イデオロギーとしての新しい範型のマルクス主義の形成(crystallization)が見られた。
 (2)集団化のあとの数年間、スターリン国家は一連の失敗と災難をくぐり抜けた。一方で民衆は、連続する抑圧の波にさらされた。
 集団化の実施は第一次五カ年計画の開始と一致していた。後者は、公式には1928年からの施行だったが、実際に是認されたのは翌年だった。
 トロツキーやPreobrazhensky が定式化し、スターリンが継受した考えによれば、奴隷化農業の役割は、工業の急速な発展のために余剰の価値を供給することだった。
 そのときから、重工業の優先というドグマは、国家イデオロギーの永続的な要素になった。
 当初の目標は、真摯な計算をすることなく、力によって全てのことはなされ得る、ボルシェヴィキが突破できない要塞はない、という想定のもとで、恣意的に決定された。
 にもかかわらず、スターリンはつねに、生産目標に満足しておらず、目標をさらに高く押し上げ続けた。
 もちろんその意図のほとんどは、達成できないことが判明した。最大限の人的および財政的な努力が投じられた重工業についてすら、結果は、想定されていたはずのときどきは半分、四分の一、あるいは八分の一だった。
 これを是正する方法は、統計学者を逮捕し、射殺すること、そして統計数字を捏造することだった。
 スターリンは1928-1930年に ほとんどの経済雑誌および統計雑誌を閉刊させた。N. D. Kondratyev を含む重要な統計学者のほとんどは、処刑されるか、投獄された。
 このとき以降、異なる工業の段階ごとに、生産額の二倍または三倍に上るように国民総収入を計算することも、習わしになった。こうして無意味な総額が生み出され、社会主義の優越性を証明するものとして定期的に誇らしげに発表された。
 集団化がますます農村地帯を破壊していたので、農業に関する数字は体系的に偽造(fake)された。
 スターリンや他の指導者たちがどの程度経済の本当の状態を知っていたかは、明瞭ではない。
 その間に、工業労働者たちの数が、農村部門からの補充によつて急速に膨らんだ。
 社会的な災難を償うために、怠業、つまり履行不能なノルマを達成できなかったこと、を理由とする技術者や農業専門家の逮捕や裁判が継続した。
 引き続いて1932-33年に飢饉が発生し、数百万人が死んだ。
 全ての世代の知識人を急進派に変え、マルクス主義の成長を促した1891-2年の飢饉と比較すると、取るに足らない割合の後退だった。
 スターリニストたちは、国じゅうが略奪者や怠業者、隠れ富農、戦前型の忠誠心なき知識人、トロツキー主義者、そして帝国主義諸国の工作員で溢れていると、休むことなく繰り返して宣伝した。
 飢えていく農民たちは、集団農場から一握りの穀物を盗んだとして強制労働収容所行きを宣告され得たし、実際にそうされた。
 奴隷労働収容所(slave-labour camps)が増加し、国家経済の重要な構成要素になった。とくに、シベリアの鉱山や森林のような条件が最も苛酷な地域では。//
 (3)にもかかわらず、虚構の計画による混沌と公的なウソのまっただ中で、叙述し難いほどの犠牲を対価として、ソヴィエトの工業は実際に進歩し、第二次五カ年計画(1933-37年)は、第一次よりもはるかに現実的だった。
 この時期にソヴィエト同盟が今日の工業力の基礎を設定したことは、共産主義者によってスターリニズムを歴史的に正当化するものとしていまだに呼び求められている。そして、多数の非共産主義者も、同様の見方をしている。後進国ロシアが早くその産業を近代化するためにはスターリニストの社会主義が必要だったと考えるのだ。
 先取りして我々の議論をある程度述べると、これについては、つぎのように回答することができる。
 ソヴィエト同盟は実際にかなりの程度の工業基盤を確立した。とくに、1930年代に重工業と軍需兵器について。
 それを可能にしたのは大量の強制と完全なまたは部分的な奴隷化という方法であり、それの副作用は、国民文化の破滅と警察体制の永続化だった。
 このような点で、ソヴィエトの工業化は、歴史上のその種のうちでおそらく最も無駄な過程だった。そして、このような規模の人的かつ物的コストなくしてはその全ての進歩は達成されなかったという証拠は全く存在しない。
 歴史は多様な方法での工業化の成功を記録しているが、それら全てが社会的な面での犠牲を払っている。しかし、社会主義ロシアにおけるほど、そのコストが重かったものはない。
 しばしば例示される、西側欧州が進んだ行程は産業諸国家の周縁部では繰り返されなかった、資本主義の大きな中心部がすでにその地位を確立していたので、というもう一つの議論は、たとえ相当の犠牲があったとしてもロシアとは異なる方法で工業化に成功した、日本、ブラジルおよびごく近年にはイランといった「周縁部の」諸国の例によって拒否される。
 1917年以前のロシアは急速かつ集中的に工業化している国だった。革命はその前進を多年にわたり遅らせた。
 工業発展のグラフは、帝政時代の最後の二十年間に顕著に上昇していた。それが厄災のごとく落ち込んだのは、革命の後だった。そして、様々な指標が、ある物は別の物よりも早かったが、それらの戦前のレベルにもう一度到達し、上昇し続けるのには、長い年月を要した。
 間に介在していた時代は、社会の解体と数百万の人命の破壊の時代だった。そして、革命前の発展を国が取り戻すためにはこうした全ての犠牲が必要だったと主張するのは、たんなるお伽噺(fantasy)にすぎない。//
 (4)歴史過程には人間の意図とは独立した内在的な目的がある、後知恵でのみ認識可能な隠れた意味がある、と考えるとすれば、ロシア革命の意味は工業化にあったのではなく、むしろロシア帝国の首尾一貫性および膨張した活力ににあった、と言わなければならない。この点では、新体制は実際、旧体制よりも効率的ではあったのだから。//
 (5)全ての社会階層-プロレタリアート、農民層および知識人-の抵抗が成功裡に収拾された後で、国家が組織していない全ての社会生活の形態が粉砕されて存在しなくなった後で、そして党内部の反対派が破壊された後で、-実行されなかったが-単一の専制者のもとでの全体主義的支配を完全にするのを脅かす、その可能性のある最後の要素は抑圧された。すなわち、党自体。共同社会にある全ての別の敵対勢力の息を止め、破壊するために用いられた組織それ自体。
 党の破壊は、1935-39年の間に達成された。そして、ソヴィエト体制とそれ自体の客体の間の矛盾について新しい記録が確立された。
 (6)1934年、スターリンはその権力の絶頂にあった。
 その年の最初の第17回党大会は、おべっかと崇拝の宴祭だった。
 敬慕される独裁者に対する積極的な反対者は存在しなかった。しかし、党の多くの中には、とくに古いボルシェヴィキの中には、礼は尽くすが心の奥底ではスターリンに縛られていない者がいた。
 彼らは、自分の努力でのし上がったのであり、スターリンの贔屓によるのみではなかった。したがって、危機のときには不安または反抗の危険な要因になり得た。
 そのゆえに、潜在的な反対者として、彼らは破壊されなければならなかった。
 彼らを絶滅するための最初の口実は、1934年12月1日のSergey Kirov(S・キーロフ)の殺害だった。キーロフは中央委員会書記の一人で、レニングラードの党組織の長だった。
 全てではないがたいていの歴史研究者は、この犯罪の本当の企図者はスターリンだった、ということで合意する。彼は一撃でもって可能な対敵を排除し、かつ大量抑圧の口実を生み出したのだ。
 これに続く魔女狩りは、最初は、党内部の以前の反対者たちに向けられた。しかしすぐに、独裁者の忠実な下僕たちも狙われた
 ジノヴィエフ(Zinovyev)とカーメネフ(Kamenev)は逮捕され、監獄での拘禁の刑を受けた。
 大量の処刑が、国じゅうの大都市で、とくにレニングラードとモスクワで起きた。
 テロルは1937年に激発にまで達した。この年が、「大粛清(great purge)」の最初の年だった。
 1936年秋に最初の大規模の見せ物裁判があり、それでジノヴィエフ、カーメネフ、スミルノフ(Smirnov)その他は死刑を宣告された。
 1937年1月の第2回裁判では、ラデク(Radek)、Pyatakov、Sokolnikov その他の「裏切り」に焦点が当てられた。
 1938年3月、ブハーリン(Bukharin)、ルィコフ(Rykov)、Krestinsky、Rakovsky およびYagoda が、被告に加わった。最後のYagoda は、1934-36年にNKVD(秘密警察)の長で、初期の粛清の組織者だった。
 少し前の1937年に、元帥トゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍最高指導者たちが秘密に裁判にかけられ、射殺された。
 全ての公開の審問で被告たちは、空想上の犯罪を自白した。そして、いかにして外国の諜報機関と策謀を図り、党指導者の暗殺をたくらみ、ソヴィエト領土の一部を帝国主義諸国に提供し、仲間の市民たちを殺し、毒を盛り、産業を妨害し、意識的に飢饉を引き起こしたか、等々を、次から次へと描写した。
 ほとんど全ての者は死刑の判決を受け、ただちに処刑された。ラデクのような数人だけは投獄の刑を受けたが、裁判のあとですみやかに殺された。//

1411/日本共産党の大ウソ29-レーニン時代の毒ガス等。

 「大ウソ26追」のさらに追加たる性格をもつが、番号数字を改める。
 前回の最後に書いたのは、今回の伏線でもある。
 一 岩波書店刊行のロバート・W・デイヴィス〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(1998)p.239以下は、1920年8月に始まった<タンボフ県の農民反乱>-指導者の名から「アントーノフ運動」ともいう-に対する中央政府=党中央の命令・指令類の全文又は主要部分を紹介している。これらは「チェーカー〔秘密警察〕報告」を掲載する、1994年刊行のKrest'yanskoe vosstanie という書物(史料集 ?)によるらしい(p.437の注記参照)。
 上の反乱は「恐るべき無慈悲さ」で鎮圧された(p.238)。タンボフ県ソヴィエト議長・政府全権代表・トゥハチェフスキー(タンボフ赤軍司令官)は連名で、1921年6月11日付の「命令第171号」を発した。内容は、以下のとおり。p.239-p.240による。
 「一 自分の名前を明言することを拒否する市民は裁判なしで即座に処刑される。
  二 武器が隠されている村の居住地では人質がとられ、もし武器が引き渡されなければ人質は銃殺刑に処せられる。
  三 もし隠匿された武器が発見されたときは、その家族のうちの年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる。
  四 住居に匪賊を隠している家族は逮捕され県外に追放される。その財産は没収される。その家族の年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる…。
  六 匪賊の家族が逃亡した場合には、その財産はソヴィエト権力に忠実な農民のあいだで分配され、住居は焼き払うか取り壊される。
  七 この命令は厳格にそして無慈悲に遂行されるべし。」
 この命令について「知っていておそらくそれに反対しなかったレーニン」(p.242)は、ブハーリンに対して鎮圧に関する報告書を送ったが、トゥハチェフスキーらの処置は「全く便宜的なもので正しい」とし、報告書につぎの書き込みをした(p.242による)。
 「ブハーリンへ--秘密。大いにうろたえた罰として一行一行読み通したのち、これを返却せよ。/〔1921年〕八月一七日 レーニン。」
つぎに、上記の「命令第171号」の翌日、同年6月12日に以下の「簡潔第二の命令」が発せられた。著者は「より一層恐ろしいもの」と形容する。p.240。
 「一 匪賊が隠れている森林は毒ガスで浄化される。その際、毒ガスの雲が森林全体に広がって、隠れているものすべてを皆殺しにするよう注意深く準備するものとする。
  二 砲兵監は必要数の毒ガス弾と必要な専門家を直ちに送るものとする。
  三 軍部隊の指揮官はこの命令を断固として精力的に遂行する。
  四 実施された処置を報告すべし。」
 この毒ガス使用命令がどの程度実施(現実化)されたかははっきりしないが、著者はつぎのように書く。p.241。
 「毒ガス命令の実際の適用についての証拠はいくぶん曖昧である。しかし軍のある文書ははっきりと、一つの郷で五九の化学兵器を投下したことに言及している」。
 二 以上は、「命令(指令)」の具体的内容の紹介。岩波書店刊行の本による。
 タンボフの農民反乱については、上のデイヴィスの書から、とりあえず次の二つの興味深いことを知ることができる。
 第一に、この反乱が鎮圧され収束したのは1921年7月末で、レーニンによるネップ政策の導入決定(党大会、1921年3月)よりも後だ、ということだ。また、この時点で、3月の決定(=現物税の採用)はこの地域では実施(現実化)されていなかった、ということも分かる。以上、p.245。
 第二に、<タンボフの農民反乱>の「綱領」はエスエル(社会革命党)の理念に強く影響されたもので、①憲法制定会議の開催・自由選挙、②出版の自由、③土地の社会化、を要求していた、とされる(p.244)。逆にいうと、これらはボルシェヴィキ政権のもとでは実施されていない、又は保障されていないという実態があったわけだ。
 また、「食糧とその他の必需品は協同組合を通じて供給される」などの経済政策を反乱農民側は主張した。そして、「この経済分野の提案は多くの点でネップと共通していた」とされる(p.244)。
 食糧の供給は<戦時共産主義>のもとでは基本的に、農民からの(余剰部分の)直接徴用(徴発)とその都市住民への配給によっていた。これを<ネップ>によって改めたのだったが、同様の施策の要求はすでに反乱農民側に見られ、中央政府・党中央は当初の時点ではこれを拒否していた、ということになる。
 デイヴィスの叙述に戻ると、こうある。p.244。
 タンボフの歴史家たちによれば、「アントーノフのネップ」は「決してあらわれなかった」。「タンボフ農民の闘争は『レーニンの』ネップの導入を刺激した」。歴史家たちのこの論じ方は「説得的」だ。
以上、岩波書店刊行の本による。レーニンらボルシェヴィキは、「大ロシア」国民との間で、国民を敵として「戦争」をしていた(「内戦」)。常識的な意味での政治も行政も、存在しない。
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