秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

テロル

1670/ネップ②-L・コワコフスキ著18章3節。

 この本には、邦訳書がない。-Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第3節・社会主義経済の始まり②。
 レーニンは、こう告げた。小農業は多年にわたった継続していかなければならないだろう、また、『無制限の取引というスローガンは避けられないだろう』。<中略>
 『それ〔制限なき取引〕が普及していきそうなのは、小生産者が存在する経済状態に適合しているからだ。』(+)
 (全集32巻p.187〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党第10回大会」194-5頁〕。)
 彼は、商業と工業の国有化について党が理論上または実際上の考慮をして正当化した以上に進みすぎたことを肯定し、『我々は、中間農民層を満足させ、そして自由な交換へと移らなければならない。さもなくば、世界革命が遅れているのを見れば、ロシアでのプロレタリア-ト支配を維持することは不可能、経済的に不可能だろう』、と宣言した。(+)
 (同上、p.225。)
 のちにすみやかにレーニンが強調したように、ネップは、余剰の収奪を均一的な穀物税に置き換えるだけでない、その他の多数の手段から成る、かなり長期間(serious long-term)の政策だと意味されていた。ロシアの外国資本への特権付与、協同組合への援助、私企業に対する国営工場の貸与、私的取引者への減免、私的商人を通じての国家生産物の分配、財政的および物的な資源に関する国営企業の自立性と主導性の向上、および物質的な動機づけの生産への導入。
 『商品交換は、ネップを動かす主要な梃子の前面へと押し出される。』(+)
 (同上、p.433〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第10回全国協議会」462頁〕。)
 レーニンは、つぎのように述べて、惨害的な誤りを冒したことを、秘密にはしなかった。//
 『我々は、つぎのことを期待(expect)していた-あるいはたぶん、適切に考慮することなくして想定(presume)していたというのが正しいだろう-。小農民の国で、プロレタリア国家が直接に指令して、国家による生産および国家による生産物の分配を共産主義的道筋で組織することのできる能力がある、と。 
 経験は、我々が間違っていた(wrong)ことを証明した。
 共産主義への移行を準備するためには-長年にわたる努力によって準備するためには-、多くの移行段階が必要だったように思われる-国家資本主義と社会主義-。
 直接に熱狂に依拠するのではなく、大革命が生んだ熱狂に助けられて、そして人間的な関心、人間的動機づけおよび職業原理を基礎にして、我々はまずは、この小農民の国で、国家資本主義の途を経る社会主義への堅固な通路を、建設し始めなければならない。』(+)
 (<プラウダ>、1921年10月18日。〔=日本語版全集33巻「10月革命4周年に寄せて」44-45頁。〕)//
 『共産主義へと真っ直ぐに移ろうとして、我々が1921年の春にこうむった経済の戦線上の敗北は、コルチャク、デニーキンあるいはピルスツキ(Pilsudski)から我々がこうむったいかなるものよりもっと深刻な敗北だった。
 この敗北は、はるかに重大で、本質的で、はるかに危険だった。
 それは、我々の経済政策の上部の管理者が下部から孤立していたことや、我々の党綱領が根本的でかつ切実なものと見なす生産力の発展を生み出すことに失敗したことに、現れていた。
 農村地帯での余剰食料の徴発制度は-これは都市の発展の問題への直接的な共産主義的接近なのだが-、生産力の成長を妨げ、そして、1921年に我々が経験した深刻な経済的かつ政治的危機の主要な原因だと判った。』(+)
 (1921年10月21日付の挨拶、全集33巻p.58, p.63-64〔=日本語版全集33巻「新経済政策と政治教育部の任務-政治教育部第二回全ロシア大会での報告」51頁〕。)//
 ブレスト〔=リトフスク〕条約のあとで、ネップは、権力を維持するために教理を犠牲にする、レーニンの非常なる能力を雄弁に示す第二のものだった。
 ネップは、誰もが国家が絶望的状況の縁にあることを知ることができたので、党での反対をさほどは掻き立てなかった。
 しかし、それでもなお、ネップは、資本主義への退却だった。レーニンが述べた、<よく跳ぶために、後ろに下がれ(reculer pour mieux sauter)>の場合だった。
 以前の年月の間、レーニンは、全ての経済上の問題は警察や軍隊のテロルで解決することができる、と考えていた。 
 それは、ジャコバン(the Jacobin)の基本政策だった。
 レーニンはこれは素晴らしい結果を生み出したと考え、またジャコバンと同様に危機に瀕していたが、彼らと違って、最後の瞬間で撤退することができた。
 戦時共産主義時代の彼の経済上の指令は、単純なものだった。すなわち、射殺、投獄、脅迫(intimidation)から成っていた。
 しかしながら、マルクス主義の教理は全く正しい(right)ことが、判明した。
 つまり、経済上の生活にはそれ自体の法則があるのであり、テロルによってそれを無視することは決してできない。
 飢饉と社会の崩壊のときに利得者たち(profiteers)を処刑しても、営利行為(profiteering)を根絶することはないだろう。//
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 (+)-秋月注記。日本語版全集を参考にして、あらためて訳をし直している。なお、四つ目の(+)の部分の文章は、原著には全集から引用の旨は記されていないが、上掲のとおり、日本語版全集の中にはある。
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 第3節、終わり。第4節の表題は、「プロレタリア-ト独裁と党の独裁」。

1453/メンシェヴィキと決裂①-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第6節・メンシェヴィキとの最終的な決裂 〔p.361-p.363.〕

 ボルシェヴィキとメンシェヴィキのいずれも、1905年の革命の過程にさしたる影響力を与えなかった、ともかくも、最終の局面までは。
 社会民主党は1905年の暴力に喫驚し、その年のたいていの活動を、声明文の発行と彼らの統制を超えて広がる不安の煽動に限定した。
 1905年10月にようやく、ペテログラード労働者代表者ソヴェトが設立されたことに伴い、メンシェヴィキは革命における積極的な役割をはたした。だが、それ〔首都のソヴェト〕がリベラルな者たちとリベラルな綱領によって支配されるまでだった。//
 レーニンは直接にはこの出来事に関係しなかった。というのは、トロツキーやパルヴスと違って、彼はスイスという安全な場所からその出来事を観察していることを選んでいたので。慎重に判断して、11月初めにようやくロシアに戻った。そのあと、政治犯の恩赦の発表があった。 
 レーニンは、1905年1月はロシアでの幅広い革命の開始の画期となるものだと考えた。
 リベラルな『ブルジョワジー』から最初の起動が生じているが、この階級は推移のどこかで確実に屈服し、帝制と取引きするだろう。
 したがって、社会民主党が完全な勝利にまで責任をもち、労働者を指導することがきわめて重要だ。//
 レーニンにはつねにマルトフのいう『アナクロ-ブランキズム』へと傾く嗜好はあったにもかかわらず (66)、彼は自分の行動綱領を理論的に正当化するものを持っておく必要があった。
 彼はこれを、パルヴスの小論に見出した。それは、血の日曜日に直接の影響をうけた1905年1月に書かれたものだった。
 パルヴスの『連続(uninterrupted)』(または『永久(permanent)』)革命理論は、社会主義に先行する『ブルジョア』の支配の別個の段階があるという、オーソドクスなロシア社会民主主義の原理と、レーニンが一時的には選択したがマルクス主義と一致させることができなかった『直接の強襲』というアナーキストの理論との間に、幸福な妥協を提供するものだった。
 パルヴスは『ブルジョア』段階を認めたが、それは同時に進行するはずの社会主義の段階と時間的に区別することができないものだ、と主張した。(*1)
 このような見通しのもとでは、反専制体制の革命がひとたび勃発すれば、『プロレタリアート』(社会民主党のことを意味する)は権力掌握へとすぐに進むことになる。
 この理論が正当であるのは、ロシアには、西欧ではブルジョアジーを支援し鼓舞する過激な低中間階層が、存在していない、ということだ。
 裸の場所にいるロシアのブルジョアジーは、革命が達成されるのを許さず、それを途中で阻止するだろう。 
 社会主義者は、帝制崩壊につづくはずの内戦に向けて、大衆を組織する準備をしなければならない。 
 成功するための必須条件の一つは、党がその同盟者と区別される一体性を維持しつづけることだ。『ともに闘え、だが別々に進もう』。
 パルヴスの考え方はロシアの社会民主主義者に、とりわけレーニンとトロツキーに、大きな影響を与えた。『ロシアの運動の歴史上はじめて、プロレタリアートは、政治権力を掌握するのと同時に…臨時政府を形成する、という理論命題へと前進した。』(67)// 
 レーニンは、新しい考えや戦術を持ち出して運動における彼の優位性に挑戦するものが出てくればいつでもそうだったように、最初はパルヴス理論を拒否した。  
 だが彼は、すみやかに同調した。 
 1905年9月に、レーニンはパルヴスに賛同してつぎのように書いた。//
 『…民主主義革命のすぐあとに、さらに前進し始めるだろう、われわれの力が…社会主義革命に到達するのを認める地点まで。
 われわれは、連続革命を支持する。
 われわれは、中途で止まることはない。』(+) //
レーニンの見方によれば、社会主義革命は、ただ一つの形態でのみ生起しうる。すなわち、武装蜂起。
 彼は、都市圏域でのゲリラ行動の戦略と戦術を知るために、武装蜂起の歴史を懸命に研究した。きわめて役立ったのは、とくに、パリ・コミューンの軍事司令官、ギュスターヴ・クルセレットの回想録だった。 
 学んだことは、ロシアの支持者たちに伝えた。 
 1905年10月にレーニンは、革命軍の分遣隊を作るように彼らに助言した。その構成員は、つぎのような武装をするものだった。//
 『鉄砲、回転式連発拳銃、爆弾、ナイフ、真鍮製肘、棒、点火できるように灯油を染みこませた布きれ、ロープまたは縄はしご、バリケードを作るためのシャベル、綿火薬製の厚板、棘のある鉄線、(騎兵軍に対する)釘、およびその他…。
 武器がなくても、分遣隊はつぎのことにより、重要な仕事をすることができる。(1)群衆を指揮する、(2)一団から離脱したコサックを攻撃する(モスクワで起きたことのように)、(3)警察力がきわめて弱体であれば、拘束されたり負傷した者を救済する、(4)家屋の屋根や最上階に登る、など。そしてまた、兵団へと投石すること、彼らに熱湯を浴びせること、など。
 スパイ、警察官、憲兵の殺戮。警察署の爆破…。』(68)
 武装闘争の側面の一つは、テロリズムだった。
 ボルシェヴィキは名目上はテロルを否定する社会民主主義の基盤を支持していたが、実際には、自分たちで、および過激主義者(Maximalist)を含むエスエル(社会主義革命党)と共同での両方で、テロルをおこなっていた。
 原則として、この活動は秘密裏に組織された。しかし、場合によれば、ボルシェヴィキは支持者に対して公然と、テロルを奨励した。
 かくして、ワルシャワで警察官を射殺したポーランドの社会主義党の例を引用すれば、1906年8月に彼らは、『スパイ、黒い百(the Black Hundreds)の積極的支持者、警察官、陸海軍の武官、その他』に対する攻撃を命じた。(*2) //
  (*1) パルヴスは、トロツキーの冊子の前書きで、『連続』または『永久』革命の理論を最初に定式化した(但し、この両語を用いてはいない)。〔関係文献、省略〕
  (+) Wolfe も Schapiro も、この言明はレーニンの一面の異常性だ、その理由は、レーニンはその後には、多くの場合はロシアは『資本主義』と『民主主義』の段階を迂回することはできない、と語ったからだ、と考えている。しかし、1917年のレーニンの行動が明らかにするだろうように、彼は『民主主義』革命の考えに対して口先だけの支持を示しただけだ。すなわち、レーニンの真の戦略は、『ブルジョア』民主主義から『プロレタリアート独裁』への即時の移行を呼びかけることだった。
  (*2) その工作員たちがボルシェヴィキ問題に関する情報を維持した The Okhrana は、二月革命のすぐ前に、レーニンはテロルに反対していないが、エスエルはテロルに重要性を認めすぎていると考えている、と報告した。この報告の日付は、1916年12月24日、1917年1月6日。Hoover研究所のOkhrana 資料…。のちに記すように、彼の組織は、テロル活動のための爆発物をエスエルに提供した。  
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 ②へとつづく。

1437/R・パイプスの大著『ロシア革命』(1990)の内容・構成。

 1.Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)は、表紙、新聞書評の抜粋、著者の他の著書の紹介、扉、著作権記述、献辞(「犠牲者たちに」)、内容〔=目次〕、写真・地図の一覧、謝辞、略語表、まえがき、本文p.1-p.840、あとがきp.841、用語集〔ロシア語/英語〕p.842-p.846、年表p.847-p.856、注記p.857-p.914、参考文献〔ロシア革命に関する100の著作〕p.915-p.920、索引p.921-p.944、文献への謝辞〔9文献・資料集〕p.945、著者紹介p.946、裏表紙、から成る。p.は、記載された頁数。
 2.「内容」=目次のうち、細節を除いて、部と章のタイトル、始めの頁数を記すとつぎのとおり。
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 第一部 旧体制の苦悶 p.1
  第01章 1905年-予震 p.3
  第02章 帝国ロシア p.53 
  第03章 田園ロシア p.91
  第04章 知識人 p.121
  第05章 立憲主義の実験 p.153
  第06章 戦時ロシア p.195
  第07章 崩壊へ p.233
  第08章 二月革命 p.272
 第二部 ボルシェヴィキによるロシアの征圧 p.339
  第09章 レーニンとボルシェヴィズムの起源 p.341
  第10章 ボルシェヴィキの権力への欲求 p.385
  第11章 十月のクー p.439
  第12章 一党国家の建設 p.506
  第13章 ブレスト=リトフスク p.567
  第14章 革命の世界輸出 p.606
  第15章 『戦時共産主義』 p.671
  第16章 農村に対する戦争 p.714
  第17章 皇帝家族の殺戮 p.745
  第18章 赤色テロル p.789
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 上のうち、第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』は、目次の細目部によると、以下の諸節から成っている。但し、「節」の旨の言葉も「数字番号」も、原著にはない。原著の本文では、これら(以下の各節)の区切りは、一行の空白を挿むことによってなされている。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第1節 レーニンの青少年期
  第2節 レーニンと社会民主党 
  第3節 レーニンの個性
  第4節 レーニンの社会民主党への失望
  第5節 ボルシェヴィズムの出現
  第6節 メンシェヴィキとの最終決裂
  第7節 レーニンの農業問題・民族問題綱領
  第8節 ボルシェヴィキ党の財政事情
  第9節 マリノフスキーの逸話
  第10節 ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との接触
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 以上。

1403/日本共産党の大ウソ26追-宮地健一による項目別推計数。

 粛清とかテロルという語の正確な意味も問題だが、ソ連におけるとくに第二次大戦のこれらの犠牲者の正確な数も、細かく特定することは永遠にほとんど不可能なのかもしれない。
 第26回で引用した稲子恒夫が示す数字自体は正確だと思われる。しかし、それらは「国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺」とされているように、裁判手続を経ない殺戮もあるし、明らかに政策的な(明かな政策に原因があると見なしうる)飢餓による死者もある。
 いろいろな書物が-とくにソ連崩壊後に明らかになった資料による文献は-「共産主義」による犠牲者の数を推測している。稲子恒夫が示す数字も基礎になりうる。
 白井聡のように犠牲者数が<ナチズムのそれよりも多い>と言いたいだけだと<統計数>を馬鹿にするのは、自らの、多数の犠牲者に対する無感覚、人間的な「感情」のなさを暴露していると思われる。
 多数の知り得た文献による推計数を、一回だけで逐一紹介する余裕はない。
 今回は、宮地健一「『赤色テロル』型社会主義とレーニンが『殺した』自国民の推計」幻想と批評第1号(はる書房、2004)にもとづいて紹介する。
 日本共産党・不破哲三はレーニン期とスターリン以降の時代を明確に区別しなければならないと強調するが(なぜか、ブレジネフ以降とかゴルバチョフ期とかいった区分をしない)、宮地は上の論考で、この区別を意識して ?、レーニン期に<レーニンが殺した>犠牲者数を「推計」することを追究している。
 宮地健一はソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密文書」の大量データを不十分かもしれないが見ているようだ。
 詳細は「宮地健一のHP」を見ていただく方が早い。
 88-89頁の表の引用・紹介も省略して、そのあとの各見出しを少し修正したものだけを、紹介しておく。説明・根拠等は本文内にある。推計数字は「肉体的殺人と政治的殺人」の両者を含んでおり、かついわゆる<白軍>との「内戦」による死者数を含んでいない、とされる。
 時期は、1917年12月の「チェカ」(政治秘密警察-KGB等の前身)創設~1922年12月のレーニンの政治活動の実質的停止、の間。
 ①反乱農民-「数十万人」殺害。
 ②兵役忌避の脱走兵・徴兵逃れ-「十数万人から数十万人」銃殺・殺害・人質。
 ③コサック身分農民-「三〇~五〇万人」殺戮・政策的餓死。
 ④ペトログラードのストライキ労働者-「五〇〇〇人」逮捕・「五〇〇人」即時殺害。
 ⑤クロンシュタットの水兵・住民-「五万五〇〇〇人」殺戮・銃殺・強制収容所送りによる殲滅。
 ⑥聖職者(ロシア正教等)-「数万人」銃殺/信徒-「数万人」殺害。
 ⑦反ソヴェト知識人-「数万人」肉体的排除。
 ⑧カデット・エスエル・左派エスエル・メンシェビキ・アナキスト-カッコ付き「数十万人」。
  *最終的に「スターリンは、粛清により、これら百数十万人の全員を、亡命した者以外、一人残らず殺害した」(p.101)。
 ⑨飢饉死亡者-「五〇〇万人」。
  *「飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人」は定説で、「ランメルは…、意図的政策による餓死者数を250万人としている」(p.101)。
 以上によって、宮地は、レーニンが、「最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない」とする。
 これらの<最高値>は、秋月によると、数百万人になるだろう。
 かりに「最低値」によるとしてすら、レーニン期は5年余なので、単純に5で除して、総計20万人だと毎年平均4万人、総計30万人だと毎年平均6万人、総計50万人だとすると毎年平均10万人を<レーニンは殺した>ことになる(レーニンによる直接指示のほか、、レーニンをトップとする共産党政治局決定による指示を含むはずだ。上記のとおり「内戦」-そして「対外(干渉)戦争」-の戦死者を除く)。
 これは愕然とする数字に違いない。そして、スターリン期にはこれの何倍・何十倍かの規模で<粛清・テロル>が行われた(宮地p.75は論考冒頭で「スターリンは4000万人の大量粛清をした犯罪者だ。しかし、レーニンは偉大な革命家、愛情あふれる、人間味豊かなマルクス主義者で、大量殺人などしていない、と信ずる日本人はまだ大勢いる。ほんとうにそうだったのか」、と書き始めている)。

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