秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ダーウィン

2071/J・グレイ・わらの犬(2002)③-第1章03。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 邦訳書からの一部引用・要約のつづき。
 「各『小節』の見出しは原書にはないようで、…」とこれまで記してきたが、大間違いだった。
 例えば、第一章第2節「恣意的進化の蜃気楼」の原語は、The Mirage of Concious Evolution。
 同第6節の「反原理主義…」の原語は、Against Fundamentalism …。
 「」は邦訳書からの直接引用。太字化は秋月による。
 <わらの犬>の意味は、第12節で説明されている。
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 第一章・人間③。邦訳書、p.23~p.35。
 第8節・人間中心主義を矯正する科学。
 「科学」は「人間中心主義の要塞」で、他生物と違って「自然を意のままに服従させることも…可能であるという思い込み」を助長して身を守っている。
 しかし、「最先端の自然科学」は「因果律も古典論理」も本質からずれていると疑問視し、例えば「時間が外的世界の部分」ではないと示唆し、「一つの事象に複数の現実が存在する」ことを肯定する。「観測者の立場次第で世界は変わるとするのが量子力学の根幹」だ。
 「ほんとうは、人間が知覚するように組み立てられた世界は絵空事(ギメラ)であることを露呈するところに、科学ならではの意味がある」のではないか。
 第9節・真理をもたらすもの。
 ヒューマニストは「真理を知ることで人間は自由になる」と言うが、そうした「ヨーロッパ思想」はソクラテスからプラトンを経てキリスト教に伝わった。
 ソクラテスにとって「真理の本質」は問題にならず、「人間の知識と福利は別物」だ。「内省」を重んじ、真の「充足は不変のうちにある」とする立場には「原始宗教の名残」がある。「シャーマニズム」という「精霊との交感」を大切にした風習の影響で、彼は「内なる声」を「神の声」と呼ぶ。
  「ヨーロッパの合理主義は神秘体験が原点」だが、現代ヒューマニズムが異なるのは「その不合理な起源を自覚せず、大それた高望みを正当」とする点にある。
 ヒューマニストの一部は「真理が人間を自由にする」とするソクラテスを含む「ギリシア思想」とキリスト教の「解放の希望は万人のもの」とする信仰を混同している。
 「現代のヒューマニズムは、人間は科学を通じて真理を知り、自由を手にするという信仰である。
 しかし、ダーウィンの自然淘汰説が正しいとしたら、これはありえない。
 人間の頭脳は、…ひたすら真理を求めるようにはできていないからだ。」
 ダーウィン以前の誤りの一例は「ミーム論」=「模倣子」・「意伝子」論で、残念だが「ミームは仮想の主体であり、遺伝子とはちがう」。 
 「思想の対立が真理の勝ちで決着するとは思いもよらない」。「思想は対立し、反目するが、…権力と愚昧を味方につけた側が勝つことに相場が決まっている」。
 ダーウィン・進化論は「真理への関心が生存や繁殖のためには無用で」「むしろ少なからず有害である」ことを示す。
 「進化心理学」は「動物が擬態で外敵を欺く」ことを教えるが、「同じことは政治の場をはじめ、さまざまな人間関係について言える」。
 進化過程は、「真理」は「誤謬」より「優位」ではなく「その逆」で、「自己欺瞞の度合いで方向を選ぶ」ことを示す。
 「生存競争の修羅場で真理を求めるのは贅沢か、さもなければ無知の業である」。
  人間と同じく「科学」は「もっぱら真理の探究と人間の向上を目指す」ことはなく、「知識」は「むら気と曲がった心に妨げられる」。
 「日常生活の中で人間が一所懸命になるのは、損得の勘定である。<一文略>行動がただ感情を発散させるため」だけのこともある。これらは「改まる落ち度ではない」。
 第10節・啓蒙家パスカル。
 17世紀のパスカルは、「信仰」が「心の空白を満たす」と考えなかったが、「信仰を支える習慣」の力を知っていた。同様に現代人は「科学」に期待し、「理性を眠らせて、人類に対する信仰を深め」ている。
 第11節・人間主義対自然主義。
 「分子生物学」のジャック・モノー(J. Monod)によると、「生命は理論では説明できない偶然の産物だが、ひとたび発生すると突然変異と自然淘汰で進化する。人間は、宇宙が賽子を投げていい目が出た他の生き物と少しも変わらない」。
 この「なかなか容認しがたい事実」、「自身の存在がまったくの偶然であることを認めなくてはならない」。但し、モノー自身が「人類は特権に恵まれた孤高の種」だとしてじつは認めていない。 
 モノーは「人間主義と自然主義を折衷」した。ダーウィン・進化論は「自然主義の真理」を明らかにしたが、「逆説」的に、この論が「人間が獣性を超越して地球の支配者たりうるとするヒューマニズム信仰の要石となっている」。
 第12節・わらの犬。
 <ガイア説>は、「地球は一個の自動制御システムであり、その動作は少なからず生命体に似ている」とする。ラヴロックの<デイジー>モデルは「惑星温度は自動制御される」とする。
 <デイジー>モデルのごとく<ガイア説>は「狭義の科学信仰」にもとづくが、「科学原理主義者」はこれに反発する。「ガイア説と現代の正統派の対立は、科学的な論議」に由来せず、「その根底にあるのは、キリスト教信仰と、はるか以前か伝わる古い信仰の衝突」だ。
 <ガイア説>の「概念」は、「老荘哲学の原典」・「道徳経」に明記されている。
 「古代中国では、わらの犬を祭祀の捧げものにした。
 祭りのあいだ、わらの犬は丁寧に扱われたが、祭りがすんで用がなくなると踏みつけにされ、惜しみなく棄てられた」。
 「人間とても、地球の平穏を乱せばたちまちに踏みつけにされ、情け容赦なく棄てられる」。<ガイア説>批判者は「非科学的」だとこれを忌避する。
 しかし、「実を言えば、人間はわらの犬でしかないことを認める勇気がないばかりにそっぽを向いているのである」。
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 第2章以降につづく。

2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。

 ジョン・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002/2003).
「序」のつづき。
 (1) ダーウィン・進化論(ガレリオ・地動説、ニュートン力学も?)がキリスト教世界・文化に対して与えた衝撃を実感として理解することはできない。
 ともあれ、J・グレイはダーウィニズムにこう言及しつつ、さらに、キリスト教→ヒューマニズムの歴史を語り、後者もまた「科学」ではなく「信仰」だと述べる。以下、邦訳書を参照しつつ、そのままには従っていない。
 ・本書は「新ダーウィニズムの思想(Neo-Darwinism orthodoxy)」が「人間という動物(human animal)に関する究極的な説明」だとはどこにも書いていない。支配的な「ヒューマニズムの世界観」を打破するために「戦略的」にダーウィニズムを使っているのだ。にもかかわらず、ヒューマニストたちは「進歩への信仰が今日に揺れ動いている」のを支えるためにダーウィンを用いている。しかしながら、彼が明らかにした世界には「進歩」はない。「真に自然主義の世界観は、世俗的な〔進歩という〕希望の余地を残していない」。
 ・19世紀初めに、Henri Saint-Simon とAuguste Comte が「人間中心教(Religion of Humanity)」を創始した。これが20世紀の「政治的宗教(political religion)」の原型となり、John Stuart Mill に強い影響を与え、「リベラリズムを今日の世俗的信条(secular creed)にした」。また、Karl Marx への影響を通じて「科学的社会主義」の形成を助けた。
 ・「ヒューマニズムは科学ではなく、宗教(religion)である。-人間はこれまでに生きてきたいずれよりも世界をより良く造ることができる、というキリスト教以降の信仰(faith)である。」
 (2) つぎにJ・グレイが言及するのは、ヒューマニズムという「進歩への信仰」のもう一つの淵源(source)としての「知」=「知識(knowledge)」だ。
 ・「科学では、知識の増大は蓄積していく。しかし、人間の生活全体は、蓄積していく活動ではない。ある一つの世代が獲得したものは、つぎの世代には失われるかもしれない。」
 ・「科学では、知識は純然たる善き(good)ものだ。しかし、倫理や政治では、知識は善であるとともに悪(bad)でもある。
 ・「進歩という観念が依拠するのは、知識の増大と種の進化は相伴っている、という信念(belief, 邦訳書では適切に「思い込み」)である」。
 ・「知識は、我々を自由にはしない。知識は我々を、これまでつねにそうだったような、あらゆる種類の愚行の餌食にしたままだ」。
 (3) このような「知識」論は、秋月瑛二の最近の関心を大きく刺激するところがある。
 「知識」は無条件に良いものではない。「知識の増大」=「進化」・「進歩」ではない。
 つまり「良い」必要な知識も「悪い」不要な知識もある。
 にもかかわらず、「知識」ないし「知」がほとんど無条件に良いものだと考えられているのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識人」それ自体で<えらい>わけでは全くない。良質の「知識人」もいれば、悪辣で犯罪的な「知識人」もいる。
 にもかかわらず、「知識人」というだけで<立派な>人間だというイメージ・「思い込み」が生じているようであるのは、いったい何故なのだろうか。
 「知識」をほとんど対象とするのが、高校入学試験、大学入学試験、種々の国家試験類(公務員試験・司法試験等々)だ。これらに合格して特定の「大学」生等々の<資格>を得ること自体は、まだ善か悪か、<えらい>か否か、<立派>か否かを決するものでは全くない。
 にもかかわらず、「知識」の有無・多寡によって<全人格>までが決せられるようなイメージがある程度は相当に生じているようであるのは、いったい何故か。
 これは、<学歴>一般のほか<国家公務員最上級職>とか<弁護士>とかの資格の評価に関連する。
 「知」・「知識」の重視、これは少なくとも明治期日本以降には<伝統>になった、と思われる。
 日本国憲法もまた<リベラル・ヒューマニズム>の系列・流れの中にある。
 J・グレイによれば、憲法もまた一つの「宗教」・「信仰」あるいは「仮構」・「虚構」ではある。この点も、私にはよく分かる。
 そしてまた、<リベラル・ヒューマニズム>あるいは「近代啓蒙主義」は「知識」=「善」・「進歩(に役立つもの)」と理解したと考えられるが、これもまた「宗教」・「信仰」・「仮構」・「虚構」だろう。
 「知識」は生命体たる人間の、あるいは人間の脳内の一定部位や一定の仕組みが持つ、一定の側面にすぎない。
 「学歴」意識の虚妄と「学歴」意識の無惨・悲惨。
(つづく)
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2036/外界・「認識」・主観についての雑考。

 ヒト・人間はいつ頃から、自分または「自分たち」が他の生物・物・事象・自然等を「認識」することの意味を考え始めたのだろうか。
 それは宗教の始まりとほとんど同じで、ギリシャの哲学者たちはとっくに「哲学」の対象にしていたのだろう。
 事物の「存在」が先ずあって、人間はそれを「認識」するのか。それとも、人間が「認識」するからこそ、当該事物は「存在」すると言えるのか。
 つまり、「客体」という客観物が先にあって、「主体」の主観的行為が後にくるのか。「主体」の主観的行為によってこそ「客体(客観)」を<知る>のか。
 あるいは、「外部」が先で人間の「内部」作業が論理的に後なのか。人間の知覚という(脳の)「内部」過程を前提として、「外部」の事物の存在が判明するのか。
 これは人文(社会)学・哲学上の大問題だったはずで、これまでの長きにわたる議論は、これに関連しているはずだ。きっと、単純な観念論と単純な唯物論の区別もこれに関連する。
 また、「心(知)」と「身体」の区別に関するデカルトの<心身二元論>もこれに関連する。<思考する実在>と<延長された実在>。
 この二元論は、人間の「身体」は「心(知)」・「精神」とは異なる「外部」・「客体」と把握することになるのだろう。「私」は「考える」ことのうちこそ「存在」しているのだ。そうすると、上の二つをめぐる議論は、<物質と精神>の区別や関係に関するそれとほぼ同じことになる。
 デカルトはこの二つをいちおうは?厳格に区別し、両者を連結するのが脳内の「松果体」だと考えたらしい。また、彼は「心」は心臓にあると考えた、という説明を読んだこともある。
 明確な<二元論>に立たないとすれば、上述のような<堂々めぐり>、<循環的説明>は、言葉・概念の使い方・理解の仕方にもよるが、容易に出てくる。
 しかし、つぎのような場合があるので、「外部」・「客体」・事物ないし事象の存在を不可欠の前提にすることはできないだろう(とも考えられる)。
 ①幻覚。「お化け」もこれに入りそうだ。薬剤・ドラッグの影響による場合も。「幻視」に限らず、「幻聴」等もある。
 ②浅い睡眠中に見る「夢」。
 ③全身麻酔からの覚醒後に残り得る「錯乱」。これは、①の薬による「幻覚」の一種だとも捉え得る。
 これらは「外界」の存在を前提とせず、「主体」・「内部」が勝手に<認識>している(と言えるだろう)。
 そうすると、「主体」・「内部」という主観的側面こそが第一次的なもので、「外部」の存在を前提として主観的側面が発生する、というのではない。
 しかし、上の①~③は「異常」な場合、例外的な場合であり、「主体」・「内部」という主観が正常・通常の場合は、やはり「外部」の存在が先立つ前提条件ではないのか。
 これはなるほどと思わせる。しかし、主観の「異常」性と「正常」性はどうやって区別するのか。「主体」が「外界」を「正常」に<認識>しているか否かを、どうやって判断するのか。
 こうなると、さらに論議がつづいていく。
 すでにこの欄で言及したことに触れると、つぎの問題もある。
 「主体」・「内部」の主観的過程において、<感性と理性>というもの、あるいは<情動と合理的決定>というものは、どういう違いがあり、どういう関係に立っているのか。
 以上は幼稚な叙述で、むろんもう少しは、すでに叙述し、論理展開することはできる。
 かつての「大」哲学者たちも、要するに、その<認識論>あるいは<存在論>で、こうしたことを思考し、論議してきたのだと思われる。
 過去の「大」哲学者たちの言述うんぬんは別として、<自分で>考えている。同じヒト・人間なのだから、私でも、少しは彼らに接近することができるのではないか。
 それに、ダーウィンの進化論等以降の「(自然)科学」または進化学・遺伝学・生物学(脳科学・神経生理学等々を含む)等の進展によって、もちろん「神」の存在の助けを借りることなく、彼ら「大」哲学者たちよりも、上の問題を新しく、より正確に議論することができる状態にある、と言えるかもしれない。
 デカルト、カント、フッサール、それにマルクス等々の生きた時代には、現に生存中の人間の脳内の様相(ニューロンの発火状態等)をリアルタイムで視覚的・電位的に把握することのできるfMRIなどという装置は考案されていなかったのだ。
 もっとも、日本の現在の人文社会学研究者または社会・政治系の評論家類はいかほどにヒト・人間の<本性>に関する生物学・神経生理学の進展の成果をふまえて執筆したり、議論しているかは、相当に怪しいのだけれども。

1921/L・コワコフスキ著第三巻第四章第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第6節・マルクス=レーニン主義の遺伝学。
 (1)マルクス=レーニン主義と現代科学との間の全ての闘いの中で、遺伝学に関する論争ほど外部世界の注目を集めたものはなかった。
 公式の国家教理が遺伝の問題に関して用いて、かつ「論議」一般に破壊的な影響をもったやり方というのは、実際にとくに悪辣だった。
 相対性や量子理論の場合は、イデオロギー正統派が研究を妨害し確実に非難することに成功して勝者となった。しかし、正統派は反対派を完全に破壊してしまったわけではなかった。また、遺伝学の場合に起きたようには、反対派の理論の公式かつ絶対的な禁止をもたらしたわけでもなかった。//
 (2)戦前の段階でのルィセンコ(Lysenko)の活動については、すでに言及した。
 事態は、1948年8月のモスクワでの農業科学レーニン・アカデミーでの論議で、絶頂点に達した。
このとき、「メンデル=モルガン=ヴァイスマン主義者」が最終的に非難され、ルィセンコ自身が会合に対して発表したように、彼の考え方が党によって是認された。
 党がマルクス=レーニン主義と合致する唯一のものだと宣告したルィセンコの理論は、遺伝は「究極的には」環境の影響によって決定される、したがって一定の条件のもとでは、個々の生物(organism)がその人生を通じて獲得する特性(traits)はその子孫たちに継承〔遺伝〕される、というものだった。
 遺伝子(gene)なるものはなく、「遺伝という不変の実体」はなく、「固定した、変更不可能な種(species)」もない。そして、原理的に言えば、科学、とりわけソヴィエト科学が、現存する種を変形させて新しい種を生み出すことを妨げるものは、何もない。
 ルィセンコによれば、遺伝とは一生物の一つの属性にすぎず、その属性は、その生物が生きていく特有の条件を必要とし、またその生物が特有の方法でその環境に反応するということから生じる。
 一個体はその生の過程で環境条件と相互に影響し合い、その環境条件を自分自身の特性へと変える。そしてそれを、子孫たちへと伝達していくことができる。-このことは、代わりに、自分たちの特性を失うか、または遺伝によって伝達できる新しい特性を獲得することでありうる。それはまた、外部条件が決定しうるものだ。
 永遠(immortal)の遺伝という実体の存在を信じる進歩的科学の擁護者は、マルクス主義に反して、突然変異(mutation)は制御不可能な偶然によって生じると主張する。
 しかし、ルィセンコがアカデミーの会合で論じたように、「科学は、偶然なるものの敵だ」。そして科学は、生命の全過程が法則に従っており、それを人間の干渉によって支配することができる、と想定するよう義務づけられている。
 生物は「環境との統合体(unity)」を形成する。ゆえに原理的には無制限に、その環境を通じて生物に影響を与えることが可能だ。//
 (3)ルィセンコが提示した理論は第一に、農学者のミチュリン(Michurin、1855-1935)の発想と実験を発展させたものだった。第二に、「創造的ダーウィニズム」の例だとして提示された。
 ダーウィン(Darwin)が道を誤っていたのは、自然にある「質的跳躍」を認識しなかったこと、および種内部の闘争(最適者生存)を進化の主要な要因だと考えたことだった。 彼は、目的論的解釈に頼ることをしないで、進化を純粋に因果関係の意味で説明し、進化の過程の「進歩的」性格を明らかにしなかった。//
 (4)ルィセンコ理論の経験上の根拠に関して、今日の生物学者たちは疑いなく、ルィセンコの実験は科学的には無価値であり、間違って行われているか全く恣意的な解釈が施されているかのいずれかだ、と判断している。
 ルィセンコは1948年の会合から、ソヴィエトの生物科学の疑いなき指導者となって登場した。そして、観念論的、神秘主義的、スコラ主義的、形而上学的、およびブルジョア的で形式主義的な遺伝学の学者たちは完璧に粉砕された。
 全ての組織、雑誌および生物学に関連する出版団体は、ルィセンコと彼の助手たちの権威のもとに置かれた。そして多年にわたり、遺伝に関する染色体(chromosome)の理論の擁護者(<仮説だが(ex hypothesi)>、ファシスト、人種主義者、形而上学者、等々)が公衆に語りかけまたは活字となって登場することが許される、などということは全くの論外だった。
 「創造的ミュチュリン主義生物学」が至高ののものとして支配し、プレスにはルィセンコを称賛し、メンデル=モルガン主義者たちの邪悪な策略を非難する記事が洪水のごとく溢れた。
 ソヴィエト科学の栄光ある勝利は、無数の会合や集会で祝福された。  
 哲学者たちはもちろん、ただちにそうした運動に加わり、会合を組織し、反動に対する進歩の勝利を歓呼して喜ぶ多数の論文を執筆した。
 娯楽雑誌は、観念論的遺伝学の支持者を嘲弄した。そして、ルィセンコを賛美する歌までが作られた。「ミチュリンの足跡にそってしっかりと前進しよう。メンデル=モルガン主義者の陰謀を挫折させよう」。//
 (5)ルィセンコの経歴は、1948年以後の数年間にわたり継続した。
 その間に、彼の指揮のもとで、ある範囲の大草原地帯には浸食から畑地を守るべく森林帯が植え付けられた。しかし、その実験は完全な失敗だったことが分かった。
 1956年、スターリン死後のイデオロギー的な部分的雪解けの間、科学者が圧力を加えた結果として、ルィセンコは農業科学アカデミーの院長から外された。
 数年のち、フルシチョフの好意によって彼はいくつかの地位を回復した。しかし、のちに長く続いた全体的な救いにはならず、ルィセンコは最終的には舞台から消えた。
 ソヴィエトの生物学がルィセンコの支配によって被った損失は、計り知れないものだ。//
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つぎの第7章の表題は、「ヴィエト科学に対する一般的影響」。

1861/池田信夫・ブログマガジン10月22日など。

 「進化」に関する池田信夫の書き込みが続いている。
 2018年10月16日付(のち同・ブログマガジン10月22日)①「人類は『集団主義』で生き残った」10月20日付(ブログマガジン同)「『無駄な進化』には意味があるのか」もそうだ。
 ①の最初にこうある。「集団が滅びると個体も滅びるので、脳には集団主義の感情が遺伝的に組み込まれている」。
 一瞥後は「集団主義」の<遺伝子化>ということに違和感があったが、きちんと読むと、「集団が滅びると個体も滅びるので」とあって、そもそも「個体」を守るという(第一次的?)本能=個体の生存本能のために「集団主義」感情も生まれる(遺伝に組み込まれている)というのだから、納得がいく。
 生物・動物の「進化」と人間または人間社会の「進化」または「進歩」の関連にはもともと関心があるので興味も湧く。そして、ときに雑談ふうに?池田が人間または社会にも言及している部分が面白い。例えば、「集団主義」にかかわって、こう語る。
 「だから猿が…ように、人間はいつも無意味な噂話をしている。その目的は話の中身ではなく、互いが仲間だと確認することなのだ」。
 この部分は、日本人のある範囲の者たちがが「左翼」=容共派と「保守」らしき派を作って、お互いの<身内で>、仲間どおしでは理解容易な言語と論理を使って「互いが仲間だと確認」し合っている様相を皮肉るものでもあるように思える。
 日本共産党その他の特定の「政治」団体・組織からすると、<味方か敵か>、<あっちかコッチか>あるいは<外の者か内の者か>という、「仲間」か否かの確認はきわめて重要なことなのだ、きっと。
 もともとは150人程度が適正な「集団」だったとされるが、池田の言うように、人間は、あるいはヒトの脳はそれ以上の数の仲間「集団」を作ってきた。 
 つぎに、上の②では、「無駄な進化」にも意味はあるのではないか旨が、小さなクモを素材にして語られている(ごく大まかに言って)。
 これは「適者生存」といいう「ダーウィン以来の進化論の原理」がそのままあてはまらない場合があることを意味する。
 そして池田は、人間または社会では「文化的な進化」は「遺伝的進化」と異なり、「脳の機能のほとんどは生存競争の中では無駄だが、意味があるのだ」と書いて締める。
 「近代社会では、かつては無駄だった論理的な思考力のすぐれた個体がエリートになった」という一文は、原始時代はともあれ古代でも「論理的な思考力のすぐれた個体」は集団?として必要だっただろうし、「エリート」という言葉の意味も問題にはなる。
 但し、全体の趣旨は理解できる。
 上にいう「生存競争」というのは、私が使ったことのある<食って生きていく>という本能を充たすための行動にほぼ近いだろう。
 だが、人間は、<食って生きていく>ことに最低限度は困らなくなると、それ以外の何かを求める<本能>的なものを有していると思われる。つまり、<より快適な、より愉快な生活>、あるいは<顕名意欲=名誉欲を充たし維持したいという意識> などだ。
 なぜこういったものが生じるかは、とくに後者については、なお検討が必要だとも思われる。しかし、いずれにせよ、現代の多くの人々にとって(つまり地球上にも日本にもいる「生存」自体に窮する人々を除いて)、「文化的な進化」を伴う「脳の機能」は決して無駄ではなく「意味」があり「有用」なものであるに違いない。
 さらに第三に、2018年10月28日付(のち同・ブログマガジン10月29日)③「血縁淘汰から『マルチレベル淘汰』へ」もある。これは、池田がすでに取り上げたことのある(そして私も触れたことのある)O・ウィルソンの本に関連する文章だ。
 ここで「血縁淘汰」というのは、私なりに理解すると、「血縁者=親子・兄弟姉妹等」の利益=「遺伝子を共有している確率(血縁度)」を優先し、「利他的な行動」を進化させて「個体」の利益を犠牲にするような「淘汰」=「自然選択」のことだろう。そして、これは上述と関連させると、「集団主義」=「集団」利益の優先、ということになるはずだ。
 O・ウィルソンはこれを「マルチレベル淘汰」と称して「個体レベル淘汰」と区別しているらしい。
 ハチのような場合はともかく、ヒト・人間の場合は、これはどのような示唆を生むのだろうか。
 池田信夫によると、上の後者につながる「個人的な利己心」を抑制して前者につながる「集団的な利他心」を強めるのが宗教・道徳で、遺伝しないが(ドーキンスという学者のいう)「ミーム(文化的遺伝子)」として継承される、という。池田によると「国家」そのものも、「一神教」も、どうもそのようなものらしい(なお、「戦争を抑止するシステム」としての「国家」という叙述には、日本の<左翼>・共産主義者はきっと驚くだろう)。
 興味深い叙述だ。秋月が関心をもつのはさらにその先で、宗教、道徳、「国家」観、「世界」観(途中のどこかに「人生」観を含めてもよい)に関する考え方・理解が人によって、また時代によって、帰属する「国家」によって様々であるのは、いったい何を原因としているのか、だ。
 遺伝子によらないとすれば、簡単に「生育環境」とか「社会」とか「教育」を持ち出す人もいるかもしれない。
 しかし、「社会」・「教育」(内容・制度)等そのものが「国家」や憲法を含む「法」(の内容・制度)によって大きくは包まれ、多少とも制約を受けていることを否定することはできない。
 ところでそもそも、池田信夫は、どうして「進化」あるいは「淘汰」について強い関心を示すのだろうか?
 ふと思いついたことがある。別に当たっている必要もない。
 マルクス(・エンゲルス)もダーウィンもおよそ19世紀半ばから後半の人物で、ある意味において、彼らの論は「近代」の「科学」の所産だったかに見える。
 必然的な「淘汰」ではなくて「偶然」だ、というような池田の文章も読んだことがあるような気がする(探し出す手間はかけない)。
 自然・生物界も、ヒトも、社会も「必然的な発展」などはしないのではないか。少なくとも、大きな例外が、存分にあるのではないか。
 現在ある社会の姿は「それなりの理由・根拠」があって生まれているもので、将来にさらに「良くなる」または「進歩する」だろう、というのは、-そもそもは「良くなる」とか「進歩」の意味が問題なのだが-今を生きる人間たちが抱きたい<願望>にすぎないのではないか。
 こうした疑問を私とともに共有しているかもしれず、そうであるとすると、これは、マルクス主義あるいは「史的唯物論」のいう<歴史が発展する「法則」>の存在を根本的に批判している、ということになる。
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  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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