秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

タンボフ

2573/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第五節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第五節。原書、p.386〜。
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 第五節・タンボフでのテロル支配(the Reign of Terror in Tambov)
 (01) レーニンとトロツキーは、革命軍事評議会から、Tambov での対「蛮族」戦闘作戦に関する報告を、定期的に受け取っていた。まるでそこは、通常の戦争の前線のごとくだった。(注64)
 部下は次から次への勝利を報告していたけれども、あるときは散らばり、あるときは打撃を与え、今やつぎのことが明白だった。型に嵌まらない武器でもって戦闘をする敵を従来の軍事手段で打倒することはできないこと。
 レーニンは、そのゆえに、Tukhachevskii に対して、決定的な作戦行動をとるよう要求することを決断した。(注65)
 Tukhachevskii は、5月の初めにTambov に到着し、作戦の最高時には10万人以上に昇った軍団を集合させた。(注66)
 ハンガリー人と中国人の義勇兵が、赤軍を助けていた。
 Tukhachevskii は、自分は軍事勢力—数千人のゲリラ—にだけではなく、敵対的な数百万の民衆に立ち向かっている、ということを理解していた。
 暴動の背後を破ったあとでのレーニンへの報告で、彼はこう説明した。闘争(struggle)は「ある種の多少は長引いた作戦行動ではなく、全体的活動だと、そして戦争(war)だとすら考えなければならない」。(注67)
 別のボルシェヴィキは、こう説明した。
 「我々の最高司令部は、制裁措置を気にしないで、通常の活動を行なえと決定した。
 全ての作戦行動を、行動のまさにその性質によって敬意を払われることになる残虐なやり方で行なうことが、決定された。」(注68)
 Tukhachevskii の戦略は、問題の領域を整然と制圧することだった。そして、パルチザンを一般民衆と切り離し、それによって民衆を徴募し、彼らに他の形態での援助を与えること。(注69)
 その地方全体の制圧や占領は、この任務のために配置された軍事能力を超えていたので、Tukhachevskii は、「残虐さ」に、すなわち典型的なテロルに、頼った。//
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 (02) この戦略に不可欠だったのは、十分な諜報活動だった。
 チェカは、有給の情報提供者を使って、パルチザンの一覧表を入手した。Antonov-Ovseenko の委員会が発した特別指令(第130号)は、彼らの家族を人質として取ることを命じた。
 チェカは、「クラク」に選定された農民の名も追記されたこの名簿を使って、数千人の人質を狩り集めて、とくにこの目的で作られた強制労働収容所に入れた
 とくに活発なパルチザン活動がある地域は抜き出されて、公式の文書は「大量テロル」と論及した。
 Antonov-Ovseenko のレーニンへの報告によれば、住民たちの沈黙を破るために、赤軍の指揮官たちは、つぎのような手続を用いた。
 「特殊な『判決』が、労働人民に対する犯罪を積み上げたこれらの村落には下された。
 男性住民は全員が、革命軍事審判所の管轄の下に置かれた。
 蛮族の家族は全て、蛮族の親族として人質の扱いをされるべく、強制労働収容所へと移動させられた。
 蛮族が降伏するのに二週間に期限が設定され、その期間が来れば、家族はこの地方から追放され、彼らの資産(そのときまでは条件つきの仮差押だった)は永久に没収された。」(注70) 
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 (03) 残酷なこのような手段も、望んだ結果をまだ生まなかった。パルチザンたちは、赤軍兵士や共産党役人の家族を人質に取り、しばしばきわめて残虐な方法で処刑することで報復したからだった。(注71)
 Antonov-Ovseenko の委員会は、ゆえに、7月11日に別の指令(第171号)を発した。それは、犯罪者の多数の範疇といった法的形式性なしでの処刑を命じることによって、テロルの次元をさらに高めた。
 「1. 名前を明らかにするのを拒む市民は、その場でただちに処刑される。
 2. 武器を隠している村民は…、人質が取られるよう判決される。
 武器を提出しない村民は、射殺される。
 3. 隠匿武器が発見されたときには、家族内の最年長の者は、審判なしでその場で射殺される。
 4. 蛮族を隠した家族は逮捕され、その地方から追放される。
 その資産は没収され、最年長の者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
 5. 蛮族の家族に避難場所を与える、または蛮族の資産を隠した家族は、蛮族として扱われる。
 家族の中の最年長の労働者は、審判なしでその場でただちに射殺される。
 6. 蛮族の家族との闘争の場合、その帰属物は、ソヴィエト当局に忠実な農民たちに配分される。放棄された住居は、焼却されるべきである。
 7. この指令は、厳格にかつ容赦なく、実行に移されるだろう。
 この内容は、村落集会で読み上げられなければならない。」(注72)//
 このような指令の結果として、数千でないとしても数百の農民が、殺害された。
 のちのナツィ支配の時代のように、「蛮族」が放棄した子どもたちを保護したことだけが犯罪の根拠だった者も、処刑を免れなかった。(注73)
 多くの村落で、人質が、何度かに分けて、処刑された。 
 Antonov-Ovseenko の報告によると、「二番めに蛮族に味方した村では」、154人の「蛮族人質」が射殺され、「蛮族」の227家族が人質に取られ、17家屋が燃やされ、24家屋は引き倒され、22家屋は「村の貧民」(協力者の婉曲語)に渡された。(注74) 
 とくに頑強な抵抗がある場合には、村落全体が近くの地方へと移された。
 レーニンは、このような措置に同意しただけではなく、トロツキーに対して、正確な実行の確保を指示した。(注75)//
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 (04) Tukhachevskii の作戦行動は、1921年5月遅くに始まった。
 彼は、反乱者に対して毒ガスを用いること、すみやかにその旨を反乱者に公にして警告すること、を授権されていた。
 「白衛軍兵士、パルチザン、蛮族よ、降伏せよ!
 さもなくば、おまえたちは仮借なく皆殺しになるだろう。
 おまえたちの家族、持ち物は全て、おまえたちの質になっている。
 村落に隠れる。—隣人たちはおまえたちを引き渡すだろう。
 おまえたちの家族を保護する者は全て射殺され、その保護者の家族は逮捕されるだろう。
 森に隠れる。—おまえたちは燻り出されるだろう。
 全権使節委員会は、森林から蛮族を燻り出すために、窒息死させるガスの使用を決定した。…」(注76) //
 10日後、Antonov 軍は降伏し、破壊された。しかし、Antonov 自身は、何とか逃れることができた。
 彼に忠実な別のゲリラ軍が、二週間持ちこたえた。
 やがて、彼のかつては畏怖された軍勢で残っているのは、散発的に急襲を仕掛ける小さなパルチザン部隊だけになった。
 民衆はテロルに遭ったが、1921年3月の食料取立ての廃止によって宥められ、反乱者への支援を撤回した。
 翌1922年は、ロシアの農民たちには良好な年だった。収穫は豊富で、税は適度だった。//
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 (05) Antonov は、全てに見放されて、追われる獲物になった。
 終末は、1922年6月24日だった。かつての支援者に裏切られ、追跡されて、GPU に殺害された。
 農民たちは彼の死を歓迎し、その遺体が彼らの村落を通ってTambov へと運ばれるときには呪詛の言葉を投げつけ、殺害者に喝采を浴びせた、と言われている。(77)
 しかし、そのときでも、事件の全体は、まだ十分に演じられる余地があった。//
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 (06) 常備軍に立ち向かったAntonov のようなゲリラ指導者が顕著な成功を収めたことは、ソヴィエトの最高司令部に大きな印象を残した。
 赤軍の参謀長でのちにトロツキーの後継者として戦時人民委員となるM. V. Frunze は、技術的には優っている敵に将来用いる、新型の武器の研究を行なうよう命令した。(注78)
 赤軍は、この調査研究を基礎にして、パルチザン的兵器を侵攻するナツィスに対して大規模に使用することになる。
 そしてナツィ司令部の側では、赤軍が1921-22年の対農民ゲリラで発展させたテロルの方法を、一般民衆に対して真似ることになる。//
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 後注
 (64) RTsKhIDNI, F. 5, op. 1, delo 2477. 1921年1月31日-6月21日の時期について。
 (65) 同上、F. 2, op. 1, ed. khr. 24558.
 (66) S. A. Esikov & L. G. Protasov in VI, No. 6-7 (1992), p.52.
 (67) TP, II, p.480-1.
 (68) Ibid., II, p.532-4.
 (69) TP, II, p.480-1.
 (70) Ibid., II, p.532-4.
 (71) Pitirim A. Sorokin, Leaves from a Russian Diary (1950), p.254-6.
 (72) ”Moskvich” in Volia Rossiii, No. 264 (1921.7.27), p.2.
 (73) Radkey, Unknown Civil War, p.324.
 (74) TP, II, p.536-7, p.544-5.
 (75) Ibid., II, p.562-3.
 (76) Aptekar, in Voenno-istorishesf kis zhurnal, No. 1 (1933), p.53.
 (77) Radkey, Unknown Civil War, p.372-6.
 (78) Trifonov, Klassy, I, p.6.
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 第8章・第五節、終わり。
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 第8章の第六節〜第十節は、試訳をすでに掲載済み。
 第六節冒頭の①は、以下の2017/04/10付。
 ⇨R. Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 8-6-1.

2569/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
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 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第三節・アントーノフの登場②。
 (08) Antonov は、1920年9月に再び現われて、Tambov 市奪取に失敗して意気をなくしていた農民たちを率いた。
 有能な組織者である彼は、集団農場や鉄道連結点への電撃攻撃を行なうパルチザン部隊を結成した。
 当局はこの戦術に対処することができなかった。攻撃が最も予期し難い場所で行われたがゆえだけではなく(Antonov たちはときどき赤軍の制服を着用した)、そのような作戦活動のあとゲリラたちは家に帰り、農民大衆の中に溶け込んだからだった。
 Antonov 支持者集団は、正式の綱領を持たなかった。彼らの目的は、かつて大地主にそうしたように、共産主義者を農村地帯から「燻り出す」ことだった。
 この時期の全ての反対運動でのように、あちこちで、反ユダヤ主義スローガンが聞かれた。
 この当時のTambov のエスエルは、労働農民同盟を設立したが、これは、全ての市民の政治的平等、個人的経済的自由、産業の非国有化を訴えた。
 しかし、この基礎的主張が、現実には二つのことだけを望んだ農民たちに何らかの意味を持ったかは、疑わしい。二つとはすなわち、食料徴発の廃止と余剰を処分する自由。
 基礎的主張は、公式のイデオロギーなしで行動することを想定できなかったエスエル知識人が書いたものだった。「言葉は行為の後知恵だ」。(注38)
 そうであっても、この同盟は、農民たちのために募った村落委員会を結成して、反乱を助けた。//
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 (09) 1920年の末までに、Antonov には8000人の支持者があり、そのほとんどが活動に参加した。
 1921年早くに、彼は、徴兵を行なうまでになった。これによって、彼の勢力は2万人と5万人の間のどこかにまで増えた。—数について、論争がある。 
 より少なく見積もっても、その規模は、ロシアの歴史上の著名な農民反乱であるRazin やPugachev が集めた勢力に匹敵するものだった。
 彼の軍団は、赤軍にならって、18ないし20の「連隊」に分けられた。(注39)
 Antonov は、優れた諜報組織と通信網を組織し、政治委員を戦闘部隊に配置し、厳格な紀律を導入した。
 直接の遭遇を避けて、短時間の急襲を好んだ。
 彼の反乱の中心は、Tambov 地方の南東部にあった。だが、似たような蜂起を発生させることなく、Veronezh、Saratov、Penza といった隣接する地方へも進出した。(注40)
 Antonov は、没収穀物を中央に運ぶ鉄道線を遮断した。その穀物を彼は必要とせず、農民たちに配分した。(注41)
 支配下の領域では、共産党諸組織を廃止し、しばしば残虐な拷問の後で共産党員たちを殺害した。犠牲者の数は、1000を超えたと言われている。
 彼は、このような手段を用いて、Tambov 地方の大半から共産党当局の痕跡を消滅させることができた。
 しかしながら、彼の野望はもっと壮大だった。彼はロシア人民に対して、自分に加わって、圧政者から国を解放するためにモスクワへと行進しようとの訴えを発した。(注42)//
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 (10) モスクワの最初の反応(1920年8月)は、その地方に戒厳令を布くことだった。
 政府は、公式の声明で、 反乱をエスエル党の命令に従って行動している「蛮族」と表現した。
 政府は、もっと知っていた。共産党の官僚たちは、内部通信を通じて、蜂起は元来は自然発生的なもので、食料徴発部隊への抵抗として激しくなった、と認めていた。
 多くの地方エスエルは支援を提供したけれども、党の中央機関は反乱との何らかの関係を全て否定した。すなわち、エスエルの組織局は「蛮族のような運動」と表現し、党の中央委員会は、反乱と関係をもつことを党員たちに禁止した。(注43)
 しかしながら、チェカは、明らかになっている全てのエスエル活動家を逮捕する口実として、Tambov 蜂起を利用した。//
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 (11) 常備軍では対抗できないことが明らかになったとき、モスクワは1921年2月遅くに、全権使節団を率いるAntonov-Ovseenko をTambov へ派遣した。 
 Antonov-Ovseenko は大きな裁量を与えられるとともに、レーニンに直接に報告するよう指示されていた。
 しかし、彼の指揮下にある、ほとんどが農民から徴用された多数の赤軍兵士たちは、反乱者たちに同情していたことが大きな理由となって、彼は十分には成功しなかった。
 明らかになったのは、騒擾を鎮静化する唯一の方策は、反乱を支持する一般農民を攻撃して反乱と切り離すこと、そのためには無制約のテロル、つまり強制収容所送り、人質の処刑、大量追放、を行使することが必要であること、だった。
 Antonov-Ovseenko は、このような手段を用いることについてモスクワの承認を求め、そして承認された。(注44)
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 後注
 (38) Radkey, Unknown Civil War, p.75.
 (39) IA, No. 4 (1962), p.203.
 (40) Saratov について、Figes, Peasant Russia, Chap. 7 を見よ。
 (41) TP, II, p.424-5.
 (42) Rodina, No.10 (1990), p.25.
 (43) Marc Jansen, Show Trial under Lenin (1982), p.15; TP, II, p.498, p.554; Frenkin, Tragediia, p.128-9, p.132-3; Singleton in SR, No. 3 (1966.9), p.501.
 (44) TP, II, p.510-3.
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 第三節、終わり。第四節へと、つづく。

2242/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第5節②。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の著の一部の試訳のつづき。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
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 第5節②。
 (7)〔1921年〕7月までに、労働農民同盟の組織は破壊され、その指導者たちは殺されるか、または逮捕された。
 チェカはその地帯に残っている社会革命党の中心地を一掃し、周辺の地域もまた駆除した。
 捕えられた数人の反乱者は、故郷に帰って残余グループの中に〔スパイとして〕浸透するよう説得された。
 10月までに、占拠-駆除の運動は徐々に収まった。
 しかしながら、アントーノフと彼の弟のドミトリ(Dmitrii)が最終的に捕獲されて殺戮されたのは、6月になる前のことだった。
 この二人はある村落に隠れ、女性二人の世話を受けていた。ところが、そのうちの一人が薬を求めて薬局に行ったとき、何気なく場所を漏らしてしまった。
 チェカの狙撃兵の一グループに包囲され、彼らは手榴弾をもって家屋から飛び出して来た。そのとき、銃弾に撃たれて倒れた。
 二人はタンボフの以前の修道院に埋葬された。そのときそこは、地方チェカの建物になっていた。
 二人の死体の写真は、彼らが解体していることの証拠として、新聞に公表された。(85)//
 (8)タンボフ反乱を絶滅させる際、共産党支配者は、自分たちのために本来は協力する必要がある住民たちを破壊する意欲を示した。
 殺戮の方法は、ある次元ではうまくいくものだった。
 軍隊とテロルによって、組織的な抵抗は終焉した。
 別の次元では、その方法は彼ら自身の教条に反するものだった。
 穀物生産地域と民衆の力を強制的徴発や軍事的征圧によって破壊することは、経済全体に対して、大厄災となる影響をもたらした。
 ソヴナルコムは、悪循環に陥っていた。
 ソヴナルコムはまず、国家の存在自体を守る軍隊を建設するために必要な、農業地域の人々や馬を穀物を使ってそれらを消耗させた。 
 この取り立てによって、その忠誠さと協力が体制の存続にとって軍隊が重要であるのと同じく重要な民衆の間には、激しい反応が巻き起こった。
 取り立てられた資源にもとづいて建設された軍隊は、次いで、騒擾を鎮圧するために用いられた。しかし、継続的に略奪行為にいそしむ多数の兵士を有する兵団がたんに存在すること自体が、その地域に対して甚大な物理的かつ経済的な損害を与えた。そして、その結果生じたのは、継続する社会不安といっそうの超過支出だつた。(86)//
 (9)1921年、ロシアの農村地帯は、軍事力と政策変化の連携によって静かになった。政策変更とは、強制食料徴発からの離脱のみならず、取引と商業に対する統制の緩和のことだった。後者は、かつては脆弱で危険の多い生活必需品供給手段だったもの、つまり闇市場(black market)を承認することとなつた。
 しかし、損害はすでに発生しており、1921年春の危機は深かった。
 飢饉が、決定的な要因だった。
 ソヴィエト・ロシアでの1918年と1919年の収穫高は、1913年の帝制時代で戦争前の最後の収穫高の4分の3だった。
 1920年の収穫高は、半分をわずかに上回る程度で、1921年のそれは半分もなかった。
 1920年の最初の干魃の兆候を見て、農民たちは、配送する仕事からの解放を求めた。
 アメリカ救済委員会(Ammerican Relief Administration, ARA)のハロルド・H・フイッシャーは、「春は暑くて、ほとんど雨が降らなかった。そして、その春の時期の土地は固くて乾いていた」と書いた。
 夏と秋もまた、渇いていた。しかし、1920年に用いられた圧力は、従来よりも寛容ではなかった。(88)
 以前の富裕なドイツ人定住者の入植地にはカテリーヌ大帝の御代以来のタンボフ地方の住民がいて、50万人を数えるになっていた。この者たちへも、攻撃の矛先が向かった。
 武装労働者たちが、テュラ(Tula)から急襲した。彼らの無慈悲さは、「鉄のほうき」という通称を生じさせた。
 ドイツ人牧師は、こう思い出す。「唸りを上げるライオンのように、彼らは居留地にやって来た。家屋、家畜小屋、地下貯蔵室、屋根裏は全て探索されて、彼らが包み込める物はみな、乾いたりんごや卵まで一つも残さず、文字通りに一掃して行った。」
 抵抗する者はみな、叩きのめされるか、笞打たれた。
 組織的抵抗をしようとの無駄な試みに対しては、数百人がまとめて射殺された。
 最後には、定住者の10パーセントは死に、多くの者が逃亡した。そして、その共同体は以前の規模の4分の1にまで解体した。(89)
 (10)1921年夏に最悪に達した干魃はヴォルガ低地、南ウクライナ、クリミアを覆い、ウラルまで進行し、そして災難が終わった。
 フィッシャーは、こう報告した。「夏の初め、膨大な数の農民たちにはもう食糧がなかった。そして農民たちは、ヴォルガの至る所で、東のウラルまで、穀物に麦藁、雑草、樹皮を混ぜ始めた。
 食糧がなく自分たちの食べ物について見極めをつけた農民たちは、パニックを起こして、焦げ付いた土地から逃亡する、膨れ上がっている多数者の中に入り込んだ。」(90)
 飢饉は、総人口5710万の36地方の190地区を襲った。(91)
 クリミアとカザンを先に支配していたトルコ語を話すムスリムは、とくに厳しい被害に遭い、ある地域では人口の半分を失った。
 カザン自体は、絶望的になっている避難民で溢れた。
 水道供給と下水道の施設は壊れており、人間のぼろ屑と死体とが、街路に積み重ねられていた。
 遺棄された子どもたちが市内をさまよい歩き、病気が蔓延した。犯罪も、売春も行われた。(92)
 (11)アメリカや他の外国の救済組織の助けがあったために、飢饉による総被害者数は、それがなかったよりもまだ少なかった。
 飢餓や病気による飢饉関連死者数は、ソヴィエトと訪問中の外国の救済執務者によって種々に計算されている。
 見積もりは、150万人から1000万人にまで及ぶ。
 ソヴィエトの1922年の公式の数字は、500万人だった。(93)
 飢饉の規模はまた、死者率という観点からも叙述することができる。
 1913年の通常年と比較して、ペトログラード、モスクワおよびヴォルガのサラトフ市の1919年の死亡率は、2倍から3倍、高かった。
 1919年についての欧州ロシア全体の死亡率は1000分の39、ペトログラードとサハロフで約1000分の70だった。
 飢饉の地域全体での死亡率は、1920年が1000分の50-60、1921年が1000分の80、だった。(94)//
 (12)飢饉はソヴィエト体制の政策決定によってのみ悪化したのではなく、反応がきわめて政治的だったことにもよる。
 アメリカ救済委員会(ARA)はのちの大統領のH・フーヴァー(Herbert Hoover)の指揮のもとで1919年に設立され、戦後ヨーロッパの空腹の子どもたちに食料を提供した。
 ソヴィエトの場合、ARA は、食料は必要に応じて、社会主義的な階級範疇とは無関係に配分されるべきだ、と主張した。
 1921年に妥協が成立して、ヨーロッパに基盤を置く組織を含む外国の救済作業者は現地へと旅行することが許され、一方でソヴィエト当局が地理的な配分の権限をもつ、ということとなった。
 この協定が締結される直前に、ソヴィエトは自らの飢餓救済委員会(Committee for Aid to the Starving, Komitet pomoshchi golodaiushchim)を設立した。これはM・ゴールキを含む43人の著名人で構成されていたが、書類に署名がなされるやただちに、ゴールキを除く全員が逮捕された。(95)
 (13)外国による救済が、全体の姿を変えることはなかった。
 農民たちは結局のところ、軍隊の力によってのみならず、飢饉の絶望によって征圧された。(96)
 1917年8月に引き合いに出された、工業主義者のP・リャブシンスキ(Pavel Riabushinskii)の言葉である「飢えた骨ばった手」は、騒擾を抑圧するための究極的な武器だった。
 1921年飢饉は、ソヴィエト体制が自分たちの民衆との間にもつ人肉喰い主義的(cannibalistic)関係の初期の例だった。これは、スターリン時代に増大するという代償を払うこととなる。
 人口統計上および人的被害という観点から見てソヴィエト社会がどの程度大きい損失を被ったかは、顕著なものがある。その多くは自己による被害だが、一方ではイデオロギー的傾倒という強い気風も生み出した。
 内戦期に実践された包括的な対破壊行動は、スターリン時代の欺瞞的な反破壊活動へと成長した。そのときじつに、「民衆は、階級敵となった」。//
 (14)たがしかし、専門的で創造的な知識人階層の多くは、彼らをとり囲む恐怖があったにもかかわらず、新しい体制に賭けた。
 ある者たちは、とどまることを許されなかった。
 ソヴィエトの意図に批判的な200人以上の知識人たちは、あらかじめ1922年に国から排除された。その多数がペトログラードから乗るドイツ船舶は、「哲学者船」として知られるようになった。(97)
 未来主義者がこぞって乗り込む近代の船ではなく、失われた価値の航行船だった。
 多数の職業人と知識人が-一般庶民はもちろんのこと-、自分の意思で国外に脱出した。
 他の者たちは、離れたくなかったか、または何とかそうすることができなかった。
 とどまった者たちの中には、敵対的なまたは愛憎相半ばする感情の者もいた。
 E・ザミアチン(Evgenii Zamiatin)は、自分の原理的考え方と皮肉精神を維持した。スターリンは1931年に、国外に去るのを許した。
 マヤコフスキ(Mayakovsky)は、未来への偉大な跳躍のために金切り声をあげたが、絶望して、自殺した。
 にもかかわらず、無数の芸術家や文筆家たちが自分たちの才能を用いる機会を見つけ、ある者はソヴィエトの実験は創造的刺激を与えると感じた。
 自分たち自身の信条から芸術家や文筆家たちが追求した文化に関する原理をめぐって、イデオロギー上の戦いが行われた。
 他の者たちにとっては、ソヴィエトの実験とは、美学上および精神上の死刑判決だつた。
 多くの者が死に、あるいは殺戮された。それは、内戦が終焉して15年後に始まった狂乱の中で起きた。
 1930年代の犠牲者たちのある程度は、初期の抑圧に模範的な情熱を示しつつ協力していた者たちだった。//
 (15)期待に充ちた大きな昂揚感の中で1917年に始まったものの結末にもかかわらず、何か新しい展望、市民が-権利と権力をもつ責任とをもつ-市民であるような政治システムへの展望は、古い帝国の以前の臣民の多数の想像力を掴んだままだった。
 この夢は、1980代に復活したように見えた。そして、1991年にレーニンの国家主義的(statist)野望がその疲れ切ったイデオロギーの旅を終えた後では、新しい状況のもとで、少なからぬユーラシアと中東の諸社会が同様の希望を抱いた。
 しかし、より近年の世界は、我々にこう思い起こさせながら進展しているように見える。すなわち、民主主義の希望と民主主義の諸制度は、つねに何と脆弱(fragile)であることか。//
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 第5節②、終わり。第6部第2章(p.606-p.624)も終わり。あとに続くのは、<結語>(Conclusion)のみ(原書、p.625-p.632)。

1412/日本共産党の大ウソ30-志位和夫綱領解説02。

 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のうち、不破哲三の研究に依拠するという<ネップ>に関する叙述、つまりネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」(「」はp.179より引用)ということについての叙述を、要約・部分引用しながら紹介する。
 ・レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。(p.173-4)
 志位(したがって不破)によれば、レーニンが「深い試行錯誤から抜け出し」「国際情勢の変化」を「的確に見定めた」ことは、1920年11月の「ロシア共産党モスクワ県会議」での「わが国の内外情勢と党の任務」と題する演説で示された。レーニン全集31巻415頁に掲載されており、つぎのような文章を含む。
 ・「われわれがロシアの反革命の企てをみな粉砕し、西欧のあらゆる国々と正式の講話締結をかちとった」ことから、「われわれが息つぎを獲得」しただけではなく、資本主義諸国の包囲の中で「われわれの基本的な存立をかちとった新しい一時期を獲得した」ことが明らかだ。
 これを含むレーニン演説を、志位(不破)はつぎのように理解・解釈する。
 ・レーニンは、ロシア革命の勝利のためには「国際的勝利」(=秋月によると「世界革命」、つまり全欧州レベルでの「社会主義革命」の勃発と勝利)が必要と考えていたが、戦争の結果はそれをもたらさなかったけれども、資本主義諸国の包囲の中で「ソビエト・ロシアが存立していく条件」は闘いとった。「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった、という「新しい一時期」になった。
 以上、p.174-5。志位(不破)は、そのあとすぐに続けてこう書く。
 ・「新しい時期」に入ったと「見定めた以上、方針も変えることが求められ」る。レーニンは「やがて」、「多くの分野で」の「路線転換の仕事に取り組むようにな」る。
 志位によると、不破著/レーニン第7巻は、レーニンは上の1920年11月の「転換」を「契機にして」、「レーニンの理論活動が"夜明け"を迎えた」と書いている、らしい(別途確認はする)。
 さて、以下がネップに関する叙述だ。
 ・1921年3月の「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じ、そういうもとで「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられて、レーニンは「経済政策の大転換を始め」る。
 ・1921年3月に開始され5月ぐらいからその政策は「新経済政策(ネップ)」と呼ばれるようになる。まずは、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行。/「現物税」を払っても農民に残る「余剰」部分は「大きくなるはず」だった。
 ・だが、「余剰」部分はどう処理するのかという「大問題」が生じる。レーニンは最初は「市場経済とたたかいながら生産物を交換」するという方式を考えたが「うまくい」かず、余剰の処理・生産物交換は「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・上の「経験をふまえて」レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。以上、p.177-8。
 志位によると、この報告による「新しい現実に直面」してのその転換した新しい「路線」の内容は、つぎのようなもので、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」ものだった、という。
 ・「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」。
 そして、志位は、この会議での「討論」(レーニン全集収載)にも見られるように反対・不満も多かったが、レーニンは「懇切ていねいに説得的に」反論し、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかにし」た、とする。
 以上のあとで、すでに今回の冒頭で記したように、志位は、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」とする。
 以下(次回以降)で、不破哲三文献やレーニン全集そのものに立ち入る。
 また、前回に紹介したのは、クロンシュタットの「反乱」の前に発生していたタブロフ県地方での<農民反乱>中の(それを鎮圧するための、レーニンも許容したとみられる)トゥハチェフスキーらの「命令(指令)」の内容だが(この反乱自体に志位和夫の綱領解説は言及していない)、1920年の秋から約一年間のレーニン・ロシア共産党(ボルシェヴィキ)、そしてロシアに関する情勢あるいは諸事実にも、併せて言及する(なぜなら、不破哲三と志位和夫は具体的にロシアで生起した諸事情・事件等々の「現実」を「認識」したうえで書いているのか、という大きな疑問があるからだ)。
 1920-21年というのは、日本の大正9年-10年。
 不十分だが、年表的なものを掲載する。のちに補充していく。
 1917年8月/ケレンスキー臨時政府、憲法制定会議の選挙・招集予定を発表。
 1917年9月/レーニンがフィンランドから「蜂起」=「権力奪取」を促す手紙。
 1917年10月/ロシア10月「革命」。
 1918年2月/ブレスト・リトフスク条約でドイツと停戦。
 1918年3月/社会民主労働党・ボルシェヴィキ派から「ロシア共産党」へと名称変更。
 同/ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法発布。
 1918年5月/チェコ軍団反乱。成人男子を兵役招集、「赤軍」の始まり。
 1918年8月/ブレスト・リトフスク条約の補足条約締結。
 1918年11月/トイツ降伏により第二次大戦終結。
 1919年3月/コミンテルン(国際共産主義者同盟)結成。
 1919年春~/コルチャーク、デニーキンらの攻撃、「白軍」との戦闘(内戦)。
 1920年1月/ベルサイユ条約発効・国際連盟成立。
 1920年2月/ドイツで「国家社会主義労働者」党(ナツィス党)発足(改称)。
 1920年4月/ロシア・ポーランド戦争始まる。
 1920年8月 ?/タンボフの農民「反乱」始まる。
 1921年2月/クロンシュタットの「反乱」始まる。
 1921年3月/クロンシュタットの「反乱」鎮圧される。。
 同/ロシア共産党(10回党大会 ?)がネップ政策導入を決定。
 同/ロシア・ポーランド間でリガ条約。
 1921年6月 ?/タンボフの農民「反乱」鎮圧される。
 1921年7月/モンゴル「革命」。
 同/中国共産党創立。
 1921年10月/レーニン、<戦時共産主義>につき、「誤り」を認める。
 1921年12月/ワシントン会議による4カ国条約。日英同盟廃棄。
 1922年2月/チェカ廃止。同様の機能の「ゲ・ペ・ウ」発足。
 1922年3月/ロシア共産党第11回党大会。
 1922年7月/日本共産党結成=コミンテルン日本支部。
 1922年12月/ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。

1411/日本共産党の大ウソ29-レーニン時代の毒ガス等。

 「大ウソ26追」のさらに追加たる性格をもつが、番号数字を改める。
 前回の最後に書いたのは、今回の伏線でもある。
 一 岩波書店刊行のロバート・W・デイヴィス〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(1998)p.239以下は、1920年8月に始まった<タンボフ県の農民反乱>-指導者の名から「アントーノフ運動」ともいう-に対する中央政府=党中央の命令・指令類の全文又は主要部分を紹介している。これらは「チェーカー〔秘密警察〕報告」を掲載する、1994年刊行のKrest'yanskoe vosstanie という書物(史料集 ?)によるらしい(p.437の注記参照)。
 上の反乱は「恐るべき無慈悲さ」で鎮圧された(p.238)。タンボフ県ソヴィエト議長・政府全権代表・トゥハチェフスキー(タンボフ赤軍司令官)は連名で、1921年6月11日付の「命令第171号」を発した。内容は、以下のとおり。p.239-p.240による。
 「一 自分の名前を明言することを拒否する市民は裁判なしで即座に処刑される。
  二 武器が隠されている村の居住地では人質がとられ、もし武器が引き渡されなければ人質は銃殺刑に処せられる。
  三 もし隠匿された武器が発見されたときは、その家族のうちの年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる。
  四 住居に匪賊を隠している家族は逮捕され県外に追放される。その財産は没収される。その家族の年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる…。
  六 匪賊の家族が逃亡した場合には、その財産はソヴィエト権力に忠実な農民のあいだで分配され、住居は焼き払うか取り壊される。
  七 この命令は厳格にそして無慈悲に遂行されるべし。」
 この命令について「知っていておそらくそれに反対しなかったレーニン」(p.242)は、ブハーリンに対して鎮圧に関する報告書を送ったが、トゥハチェフスキーらの処置は「全く便宜的なもので正しい」とし、報告書につぎの書き込みをした(p.242による)。
 「ブハーリンへ--秘密。大いにうろたえた罰として一行一行読み通したのち、これを返却せよ。/〔1921年〕八月一七日 レーニン。」
つぎに、上記の「命令第171号」の翌日、同年6月12日に以下の「簡潔第二の命令」が発せられた。著者は「より一層恐ろしいもの」と形容する。p.240。
 「一 匪賊が隠れている森林は毒ガスで浄化される。その際、毒ガスの雲が森林全体に広がって、隠れているものすべてを皆殺しにするよう注意深く準備するものとする。
  二 砲兵監は必要数の毒ガス弾と必要な専門家を直ちに送るものとする。
  三 軍部隊の指揮官はこの命令を断固として精力的に遂行する。
  四 実施された処置を報告すべし。」
 この毒ガス使用命令がどの程度実施(現実化)されたかははっきりしないが、著者はつぎのように書く。p.241。
 「毒ガス命令の実際の適用についての証拠はいくぶん曖昧である。しかし軍のある文書ははっきりと、一つの郷で五九の化学兵器を投下したことに言及している」。
 二 以上は、「命令(指令)」の具体的内容の紹介。岩波書店刊行の本による。
 タンボフの農民反乱については、上のデイヴィスの書から、とりあえず次の二つの興味深いことを知ることができる。
 第一に、この反乱が鎮圧され収束したのは1921年7月末で、レーニンによるネップ政策の導入決定(党大会、1921年3月)よりも後だ、ということだ。また、この時点で、3月の決定(=現物税の採用)はこの地域では実施(現実化)されていなかった、ということも分かる。以上、p.245。
 第二に、<タンボフの農民反乱>の「綱領」はエスエル(社会革命党)の理念に強く影響されたもので、①憲法制定会議の開催・自由選挙、②出版の自由、③土地の社会化、を要求していた、とされる(p.244)。逆にいうと、これらはボルシェヴィキ政権のもとでは実施されていない、又は保障されていないという実態があったわけだ。
 また、「食糧とその他の必需品は協同組合を通じて供給される」などの経済政策を反乱農民側は主張した。そして、「この経済分野の提案は多くの点でネップと共通していた」とされる(p.244)。
 食糧の供給は<戦時共産主義>のもとでは基本的に、農民からの(余剰部分の)直接徴用(徴発)とその都市住民への配給によっていた。これを<ネップ>によって改めたのだったが、同様の施策の要求はすでに反乱農民側に見られ、中央政府・党中央は当初の時点ではこれを拒否していた、ということになる。
 デイヴィスの叙述に戻ると、こうある。p.244。
 タンボフの歴史家たちによれば、「アントーノフのネップ」は「決してあらわれなかった」。「タンボフ農民の闘争は『レーニンの』ネップの導入を刺激した」。歴史家たちのこの論じ方は「説得的」だ。
以上、岩波書店刊行の本による。レーニンらボルシェヴィキは、「大ロシア」国民との間で、国民を敵として「戦争」をしていた(「内戦」)。常識的な意味での政治も行政も、存在しない。

1342/日本共産党の大ペテン・大ウソ14ー稲子恒夫・山内昌之。

 二(さらにつづき)
 レーニン時代の「真実」が明らかになってきていることについて、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)はつぎのように書いている。
 不破哲三や日本共産党は、新情報を知っているのかどうか。あるいは知っていても無視しているのかどうか。
 「レーニンはソビエト政権初期の問題のほとんど全部に関係していたが、日本ではソ連の否定的なことは全部スターリンの『犯罪的誤り』であるとして、彼〔スターリン〕一人のせいにし、レーニンはこれと関係がなく、彼にも誤りがあったが、彼〔レーニン〕は基本的に正しかったとするレーニン無関係説が有力である。この説はレーニン時代の多くのことを不問にしている
./〔改行〕
 今は極秘文書が公開され、検閲がないロシアでは、レーニンについても…多くのことが語れるようになった。//
 たとえばスパイ・マリノーフスキーを弁護したレーニンの文書、臨時政府時代のドイツ資金関係の一件書類、レーニン時代の十月革命直後と戦時共産主義時代のプロレタリアート独裁と法、一連の人権侵害-報道、出版の自由の否定、宗教の迫害、数々の政治弾圧、赤色テロ、とくに…1921年8月の「ペトログラード戦闘組織団」事件の真実が明るみに出ている。/〔改行〕
 ボリシェヴィキーは中選挙区比例代表という民主的選挙法による憲法制定会議の選挙で大敗すると、1918年1月に憲法制定会議の初日にこれを武力で解散するクーデターをしたことが、今日非難されており、ニコラーイ二世一家の殺害も問題になっている。//
 ソ連時代は食糧などの徴発と食糧独裁、農民弾圧がまねいた飢饉と数多くの緑軍(農民反乱,…)など戦時共産主義時代の多くのことが秘密だった。この秘密が解除され,数多くの事実が判明した。その上戦時共産主義時代のペトログラードの労働者と一般市民の生活と動向が判明した。//
 ネップへの政策転換をうながしたのは、クロンシュタートの反乱だけでなく、…労働者農民の支持を失ったソビエト政権が存亡の危機にあったことである。党指導部はひそかに亡命の準備をしていたことまで明らかになった。//
 したがってレーニンの秘密が解けた今日、ロシア史研究は資料が豊富になった彼の時代の真実にあらためてせまる必要があるだろう。」
 以上、p.1006-7。//は原文では改行ではない。
 三 山内昌之は、ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(1995、日本放送出版協会)の末尾に、この書物の「解説」ではなく「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」と題する文章を寄せている(p.377-)。 
その中に、つぎの一文がある。
 ・「もっと悲劇的なのは、レーニンの名において共産主義のユートピアが語られると同時に、二十世紀後半の世代にとっては、まるで信じがたい犯罪が正当化されたことであろう。//
 この点において、レーニンとスターリンは確実に太い線で結ばれている。//
 スターリンは、レーニンの意思を現実的な<イデオロギーの宗教>に変えたが、その起源はレーニンその人が国民に独裁への服従を説いた点に求められるからだ。」
以上。p.378、//は原文では改行ではない。
 他にも、山内は以下のことを書いている。
 ・「 …赤軍は、タンボフ地方の農民たちが飢餓や迫害からの救いを求めて決起した時、脆弱な自国民には毒ガスの使用さえためらわなかった。1921年4月にこの作戦を命じた指揮官は、後にスターリンに粛清されるトゥハチェフスキーであった。もちろんレーニンは、この措置を承知しており、認めてもいた」。
 ・「歴史が自分の使った手段の正しさを証明するだろうというレーニンの信仰は、狂信的な境地にまで達していた」。
 以上、p.378。
 山内は上掲書を当然に読んだうえで書いているのだろう。
 上掲書/上・下には、レーニンの「真実」が満載なので、のちにも一部は紹介する。
 ----
 さて、日本共産党現綱領が「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、…、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」と明記してしまっている歴史理解は、すでに<大ウソ>または自己の出生と存在を正当化するための<大ペテン>であるように見える。
 もう少し論点を整理して、レーニンとスターリンとの違い・同一性に関する諸文献を見ていこう。その際の諸論点とは、さしあたり、以下になる。
 ①ネップ(新経済政策)への態度。レーニンは<正しく>これを採用したが、スターリンは<誤って>これを放棄したのか。
 ②<テロル>。スターリンは1930代半ばに「大テロル」とか称される、粛清・殺戮等々を行なったとされる。では、レーニンはどうだったのか。この点でレーニンはスターリンとは<質的に>異なっていたのか。
 なお、日本共産党は、レーニンとスターリンの対立点は社会主義と民族(民族自決権)との関係についての見方にあった、ということを、少なくともかつては(覇権主義反対としきりに言っていた時期は)強調していたかに見える。但し、近年から今日では、この点を重視していないように見える。
 もっとも、レーニンはスターリンの危険性を見抜いていてそれと「病床でたたかった」という<物語>を、今日でも述べているようだ。以下では、この点にも言及することがあるだろう。
 <つづく>
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