秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

タンボフ

1412/日本共産党の大ウソ30-志位和夫綱領解説02。

 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のうち、不破哲三の研究に依拠するという<ネップ>に関する叙述、つまりネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」(「」はp.179より引用)ということについての叙述を、要約・部分引用しながら紹介する。
 ・レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。(p.173-4)
 志位(したがって不破)によれば、レーニンが「深い試行錯誤から抜け出し」「国際情勢の変化」を「的確に見定めた」ことは、1920年11月の「ロシア共産党モスクワ県会議」での「わが国の内外情勢と党の任務」と題する演説で示された。レーニン全集31巻415頁に掲載されており、つぎのような文章を含む。
 ・「われわれがロシアの反革命の企てをみな粉砕し、西欧のあらゆる国々と正式の講話締結をかちとった」ことから、「われわれが息つぎを獲得」しただけではなく、資本主義諸国の包囲の中で「われわれの基本的な存立をかちとった新しい一時期を獲得した」ことが明らかだ。
 これを含むレーニン演説を、志位(不破)はつぎのように理解・解釈する。
 ・レーニンは、ロシア革命の勝利のためには「国際的勝利」(=秋月によると「世界革命」、つまり全欧州レベルでの「社会主義革命」の勃発と勝利)が必要と考えていたが、戦争の結果はそれをもたらさなかったけれども、資本主義諸国の包囲の中で「ソビエト・ロシアが存立していく条件」は闘いとった。「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった、という「新しい一時期」になった。
 以上、p.174-5。志位(不破)は、そのあとすぐに続けてこう書く。
 ・「新しい時期」に入ったと「見定めた以上、方針も変えることが求められ」る。レーニンは「やがて」、「多くの分野で」の「路線転換の仕事に取り組むようにな」る。
 志位によると、不破著/レーニン第7巻は、レーニンは上の1920年11月の「転換」を「契機にして」、「レーニンの理論活動が"夜明け"を迎えた」と書いている、らしい(別途確認はする)。
 さて、以下がネップに関する叙述だ。
 ・1921年3月の「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じ、そういうもとで「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられて、レーニンは「経済政策の大転換を始め」る。
 ・1921年3月に開始され5月ぐらいからその政策は「新経済政策(ネップ)」と呼ばれるようになる。まずは、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行。/「現物税」を払っても農民に残る「余剰」部分は「大きくなるはず」だった。
 ・だが、「余剰」部分はどう処理するのかという「大問題」が生じる。レーニンは最初は「市場経済とたたかいながら生産物を交換」するという方式を考えたが「うまくい」かず、余剰の処理・生産物交換は「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・上の「経験をふまえて」レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。以上、p.177-8。
 志位によると、この報告による「新しい現実に直面」してのその転換した新しい「路線」の内容は、つぎのようなもので、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」ものだった、という。
 ・「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」。
 そして、志位は、この会議での「討論」(レーニン全集収載)にも見られるように反対・不満も多かったが、レーニンは「懇切ていねいに説得的に」反論し、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかにし」た、とする。
 以上のあとで、すでに今回の冒頭で記したように、志位は、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」とする。
 以下(次回以降)で、不破哲三文献やレーニン全集そのものに立ち入る。
 また、前回に紹介したのは、クロンシュタットの「反乱」の前に発生していたタブロフ県地方での<農民反乱>中の(それを鎮圧するための、レーニンも許容したとみられる)トゥハチェフスキーらの「命令(指令)」の内容だが(この反乱自体に志位和夫の綱領解説は言及していない)、1920年の秋から約一年間のレーニン・ロシア共産党(ボルシェヴィキ)、そしてロシアに関する情勢あるいは諸事実にも、併せて言及する(なぜなら、不破哲三と志位和夫は具体的にロシアで生起した諸事情・事件等々の「現実」を「認識」したうえで書いているのか、という大きな疑問があるからだ)。
 1920-21年というのは、日本の大正9年-10年。
 不十分だが、年表的なものを掲載する。のちに補充していく。
 1917年8月/ケレンスキー臨時政府、憲法制定会議の選挙・招集予定を発表。
 1917年9月/レーニンがフィンランドから「蜂起」=「権力奪取」を促す手紙。
 1917年10月/ロシア10月「革命」。
 1918年2月/ブレスト・リトフスク条約でドイツと停戦。
 1918年3月/社会民主労働党・ボルシェヴィキ派から「ロシア共産党」へと名称変更。
 同/ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法発布。
 1918年5月/チェコ軍団反乱。成人男子を兵役招集、「赤軍」の始まり。
 1918年8月/ブレスト・リトフスク条約の補足条約締結。
 1918年11月/トイツ降伏により第二次大戦終結。
 1919年3月/コミンテルン(国際共産主義者同盟)結成。
 1919年春~/コルチャーク、デニーキンらの攻撃、「白軍」との戦闘(内戦)。
 1920年1月/ベルサイユ条約発効・国際連盟成立。
 1920年2月/ドイツで「国家社会主義労働者」党(ナツィス党)発足(改称)。
 1920年4月/ロシア・ポーランド戦争始まる。
 1920年8月 ?/タンボフの農民「反乱」始まる。
 1921年2月/クロンシュタットの「反乱」始まる。
 1921年3月/クロンシュタットの「反乱」鎮圧される。。
 同/ロシア共産党(10回党大会 ?)がネップ政策導入を決定。
 同/ロシア・ポーランド間でリガ条約。
 1921年6月 ?/タンボフの農民「反乱」鎮圧される。
 1921年7月/モンゴル「革命」。
 同/中国共産党創立。
 1921年10月/レーニン、<戦時共産主義>につき、「誤り」を認める。
 1921年12月/ワシントン会議による4カ国条約。日英同盟廃棄。
 1922年2月/チェカ廃止。同様の機能の「ゲ・ペ・ウ」発足。
 1922年3月/ロシア共産党第11回党大会。
 1922年7月/日本共産党結成=コミンテルン日本支部。
 1922年12月/ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。

1411/日本共産党の大ウソ29-レーニン時代の毒ガス等。

 「大ウソ26追」のさらに追加たる性格をもつが、番号数字を改める。
 前回の最後に書いたのは、今回の伏線でもある。
 一 岩波書店刊行のロバート・W・デイヴィス〔内田健二=中嶋毅訳〕・現代ロシアの歴史論争(1998)p.239以下は、1920年8月に始まった<タンボフ県の農民反乱>-指導者の名から「アントーノフ運動」ともいう-に対する中央政府=党中央の命令・指令類の全文又は主要部分を紹介している。これらは「チェーカー〔秘密警察〕報告」を掲載する、1994年刊行のKrest'yanskoe vosstanie という書物(史料集 ?)によるらしい(p.437の注記参照)。
 上の反乱は「恐るべき無慈悲さ」で鎮圧された(p.238)。タンボフ県ソヴィエト議長・政府全権代表・トゥハチェフスキー(タンボフ赤軍司令官)は連名で、1921年6月11日付の「命令第171号」を発した。内容は、以下のとおり。p.239-p.240による。
 「一 自分の名前を明言することを拒否する市民は裁判なしで即座に処刑される。
  二 武器が隠されている村の居住地では人質がとられ、もし武器が引き渡されなければ人質は銃殺刑に処せられる。
  三 もし隠匿された武器が発見されたときは、その家族のうちの年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる。
  四 住居に匪賊を隠している家族は逮捕され県外に追放される。その財産は没収される。その家族の年長の就業者は裁判なしで即座に銃殺刑に処せられる…。
  六 匪賊の家族が逃亡した場合には、その財産はソヴィエト権力に忠実な農民のあいだで分配され、住居は焼き払うか取り壊される。
  七 この命令は厳格にそして無慈悲に遂行されるべし。」
 この命令について「知っていておそらくそれに反対しなかったレーニン」(p.242)は、ブハーリンに対して鎮圧に関する報告書を送ったが、トゥハチェフスキーらの処置は「全く便宜的なもので正しい」とし、報告書につぎの書き込みをした(p.242による)。
 「ブハーリンへ--秘密。大いにうろたえた罰として一行一行読み通したのち、これを返却せよ。/〔1921年〕八月一七日 レーニン。」
つぎに、上記の「命令第171号」の翌日、同年6月12日に以下の「簡潔第二の命令」が発せられた。著者は「より一層恐ろしいもの」と形容する。p.240。
 「一 匪賊が隠れている森林は毒ガスで浄化される。その際、毒ガスの雲が森林全体に広がって、隠れているものすべてを皆殺しにするよう注意深く準備するものとする。
  二 砲兵監は必要数の毒ガス弾と必要な専門家を直ちに送るものとする。
  三 軍部隊の指揮官はこの命令を断固として精力的に遂行する。
  四 実施された処置を報告すべし。」
 この毒ガス使用命令がどの程度実施(現実化)されたかははっきりしないが、著者はつぎのように書く。p.241。
 「毒ガス命令の実際の適用についての証拠はいくぶん曖昧である。しかし軍のある文書ははっきりと、一つの郷で五九の化学兵器を投下したことに言及している」。
 二 以上は、「命令(指令)」の具体的内容の紹介。岩波書店刊行の本による。
 タンボフの農民反乱については、上のデイヴィスの書から、とりあえず次の二つの興味深いことを知ることができる。
 第一に、この反乱が鎮圧され収束したのは1921年7月末で、レーニンによるネップ政策の導入決定(党大会、1921年3月)よりも後だ、ということだ。また、この時点で、3月の決定(=現物税の採用)はこの地域では実施(現実化)されていなかった、ということも分かる。以上、p.245。
 第二に、<タンボフの農民反乱>の「綱領」はエスエル(社会革命党)の理念に強く影響されたもので、①憲法制定会議の開催・自由選挙、②出版の自由、③土地の社会化、を要求していた、とされる(p.244)。逆にいうと、これらはボルシェヴィキ政権のもとでは実施されていない、又は保障されていないという実態があったわけだ。
 また、「食糧とその他の必需品は協同組合を通じて供給される」などの経済政策を反乱農民側は主張した。そして、「この経済分野の提案は多くの点でネップと共通していた」とされる(p.244)。
 食糧の供給は<戦時共産主義>のもとでは基本的に、農民からの(余剰部分の)直接徴用(徴発)とその都市住民への配給によっていた。これを<ネップ>によって改めたのだったが、同様の施策の要求はすでに反乱農民側に見られ、中央政府・党中央は当初の時点ではこれを拒否していた、ということになる。
 デイヴィスの叙述に戻ると、こうある。p.244。
 タンボフの歴史家たちによれば、「アントーノフのネップ」は「決してあらわれなかった」。「タンボフ農民の闘争は『レーニンの』ネップの導入を刺激した」。歴史家たちのこの論じ方は「説得的」だ。
以上、岩波書店刊行の本による。レーニンらボルシェヴィキは、「大ロシア」国民との間で、国民を敵として「戦争」をしていた(「内戦」)。常識的な意味での政治も行政も、存在しない。

1342/日本共産党の大ペテン・大ウソ14ー稲子恒夫・山内昌之。

 二(さらにつづき)
 レーニン時代の「真実」が明らかになってきていることについて、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)はつぎのように書いている。
 不破哲三や日本共産党は、新情報を知っているのかどうか。あるいは知っていても無視しているのかどうか。
 「レーニンはソビエト政権初期の問題のほとんど全部に関係していたが、日本ではソ連の否定的なことは全部スターリンの『犯罪的誤り』であるとして、彼〔スターリン〕一人のせいにし、レーニンはこれと関係がなく、彼にも誤りがあったが、彼〔レーニン〕は基本的に正しかったとするレーニン無関係説が有力である。この説はレーニン時代の多くのことを不問にしている
./〔改行〕
 今は極秘文書が公開され、検閲がないロシアでは、レーニンについても…多くのことが語れるようになった。//
 たとえばスパイ・マリノーフスキーを弁護したレーニンの文書、臨時政府時代のドイツ資金関係の一件書類、レーニン時代の十月革命直後と戦時共産主義時代のプロレタリアート独裁と法、一連の人権侵害-報道、出版の自由の否定、宗教の迫害、数々の政治弾圧、赤色テロ、とくに…1921年8月の「ペトログラード戦闘組織団」事件の真実が明るみに出ている。/〔改行〕
 ボリシェヴィキーは中選挙区比例代表という民主的選挙法による憲法制定会議の選挙で大敗すると、1918年1月に憲法制定会議の初日にこれを武力で解散するクーデターをしたことが、今日非難されており、ニコラーイ二世一家の殺害も問題になっている。//
 ソ連時代は食糧などの徴発と食糧独裁、農民弾圧がまねいた飢饉と数多くの緑軍(農民反乱,…)など戦時共産主義時代の多くのことが秘密だった。この秘密が解除され,数多くの事実が判明した。その上戦時共産主義時代のペトログラードの労働者と一般市民の生活と動向が判明した。//
 ネップへの政策転換をうながしたのは、クロンシュタートの反乱だけでなく、…労働者農民の支持を失ったソビエト政権が存亡の危機にあったことである。党指導部はひそかに亡命の準備をしていたことまで明らかになった。//
 したがってレーニンの秘密が解けた今日、ロシア史研究は資料が豊富になった彼の時代の真実にあらためてせまる必要があるだろう。」
 以上、p.1006-7。//は原文では改行ではない。
 三 山内昌之は、ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(1995、日本放送出版協会)の末尾に、この書物の「解説」ではなく「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」と題する文章を寄せている(p.377-)。 
その中に、つぎの一文がある。
 ・「もっと悲劇的なのは、レーニンの名において共産主義のユートピアが語られると同時に、二十世紀後半の世代にとっては、まるで信じがたい犯罪が正当化されたことであろう。//
 この点において、レーニンとスターリンは確実に太い線で結ばれている。//
 スターリンは、レーニンの意思を現実的な<イデオロギーの宗教>に変えたが、その起源はレーニンその人が国民に独裁への服従を説いた点に求められるからだ。」
以上。p.378、//は原文では改行ではない。
 他にも、山内は以下のことを書いている。
 ・「 …赤軍は、タンボフ地方の農民たちが飢餓や迫害からの救いを求めて決起した時、脆弱な自国民には毒ガスの使用さえためらわなかった。1921年4月にこの作戦を命じた指揮官は、後にスターリンに粛清されるトゥハチェフスキーであった。もちろんレーニンは、この措置を承知しており、認めてもいた」。
 ・「歴史が自分の使った手段の正しさを証明するだろうというレーニンの信仰は、狂信的な境地にまで達していた」。
 以上、p.378。
 山内は上掲書を当然に読んだうえで書いているのだろう。
 上掲書/上・下には、レーニンの「真実」が満載なので、のちにも一部は紹介する。
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 さて、日本共産党現綱領が「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、…、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」と明記してしまっている歴史理解は、すでに<大ウソ>または自己の出生と存在を正当化するための<大ペテン>であるように見える。
 もう少し論点を整理して、レーニンとスターリンとの違い・同一性に関する諸文献を見ていこう。その際の諸論点とは、さしあたり、以下になる。
 ①ネップ(新経済政策)への態度。レーニンは<正しく>これを採用したが、スターリンは<誤って>これを放棄したのか。
 ②<テロル>。スターリンは1930代半ばに「大テロル」とか称される、粛清・殺戮等々を行なったとされる。では、レーニンはどうだったのか。この点でレーニンはスターリンとは<質的に>異なっていたのか。
 なお、日本共産党は、レーニンとスターリンの対立点は社会主義と民族(民族自決権)との関係についての見方にあった、ということを、少なくともかつては(覇権主義反対としきりに言っていた時期は)強調していたかに見える。但し、近年から今日では、この点を重視していないように見える。
 もっとも、レーニンはスターリンの危険性を見抜いていてそれと「病床でたたかった」という<物語>を、今日でも述べているようだ。以下では、この点にも言及することがあるだろう。
 <つづく>
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