秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ソ連共産党

2537/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章の試訳のつづき。
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 第20章・判決(Judgement)。
 第一節②。
 (09) このことはたしかに、従前の共産党員で構成されているロシア政府にとっては役に立った。
 しかし、ソヴィエト体制の悪行を処理する法的枠組なくしては、共産党エリートたちがトップへと復活するのを防ぐことができなかった。
 ソヴィエト時代の活動を本当に吟味されることが省略されて、KGBはYeltsin によって1991年に、連邦反諜報活動部として再生するのが許され、4年後には、連邦治安機構(Federal Security Service, FSB)となった。人員には実質的な変化がなかった。
 民主主義政治家や人権運動家のGalina Starovoytova が提案した浄化法案は、ロシア議会によって却下された。党の一等書紀とKGB官僚が政府の官職に就くのを一時的にだけ制限するものだったが。(この却下のあとでは、KGB員の存在は国家機密と見なすことによって、浄化を導入するさらなる努力が排除された。) 
 Starovoytova は、1998年に暗殺された。言われるところでは、FSB によって。//
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 (10) 彼女の浄化法案を成立させなかったことで、Yeltsin 政権はソヴィエトの過去ときっぱりと決別して民主主義の文化を促進する機会を失った。—最良の機会だっただろうが。
 独裁制から出現する民主政では、正義がすぐに現れるか、または全く現れない。
 実際に生じたように、かつての共産党エリートたちは、1991年の衝撃から新しい政治的一体性をもってすぐに立ち直り、政治、メディア、経済を支配する力を回復した、それは、ソヴィエト時代に—またはその後に—彼らが行ったかもしれない全てについて何がしかの説明をさせようとする試みを阻止するのに十分だった。//
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 (11) しかし、どのロシアの裁判所や検察官も、どのようにして誰を訴追したり、誰に官職就任を禁止したりするかを決定するのだろうか?
 おそらくロシアの状況は、何らかの判断が下されるためにはあまりにも複雑だった。
 東ヨーロッパとバルト諸国では、共産党独裁制は外国人によって課されていた。
 これらではナショナリスト指導者たちがソヴィエト時代の悪行を理由としてロシアを(かつロシア革命を)非難するのは容易で、かつ便利だった。
 彼らは、自分たちをロシア人と区別することで、新しい国家と民族的一体性(national identity)を構築することができた。(エストニアとラトヴィアでは、人数は多いロシア少数民族派は公民権に関するきわめて厳格な法制によって公的生活から排除された。)
 しかし、ロシア人には、非難することのできる外国勢力がいなかった。
 革命は、ロシアの土壌から成長した。
 数百万のロシア人が共産党員であり、事実上は全ての者が何らかのかたちでソヴィエト体制に協力していた。
 「抑圧の犠牲者たち」を代表する最大の公的組織であるMemorial の構成員の中には、ボルシェヴィキ・エリート、収容所の幹部、ソヴィエト官僚—自分たちを抑圧したスターリン主義体制の活動家たち—の子どもたちがいた。
 この意味では、党の裁判で判決が下される必要があったのは、革命の犯罪を実行した者たちだけでなく、その者たちに寄り添ってきた全国民(whole nation)だった。
 Alexander Yakovlev が当時に述べたように、「我々は、党ではなく、我々自身を裁いている」。(後注4)
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 第一節、終わり。

2536/O.ファイジズ・ソ連崩壊のあと①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第20章はこの書全体の最終章で、「判決」(Judgemenrt)との表題のもとでソヴィエト連邦の歴史全体についての何らかの判断、評価、論評が書かれているのかとも、予想した。
 だが、そうではなく、主としては1991年崩壊後の(旧ソ連全体についてではなく)ロシアについて、人物としてはYeltsin やPutin らについて、書かれているようだ(当然に判断、評価、論評を含む)。
 この欄での表題を「ソ連崩壊のあと」に変えて、試訳を続ける。
 ロシアの民衆の多数が「社会主義・共産主義」またはソ連共産党支配を拒否したためにソ連が崩壊・解体したわけではない(O・ファイジズによると)、という指摘等は、今日のロシアやプーティン(Putin)について考えるにあたっても興味深い。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」(1997年、〈日本会議〉設立宣言)という宣明は、とくにロシア国民にとっては、どこか的はずれで幼稚だと、改めて思いもする。
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 第20章・判決(Judgement)
 第一節①。
 (01) Yeltsin によるソ連共産党(CPSU)の禁止を、共産党員は争った。
 この事件は、新設されたロシア憲法裁判所の法廷によって1992年7月から審理され、五ヶ月間テレビで放映された。
 これは「ロシアのニュルンベルク」だと喧伝され、共産党に対する政治裁判と同然になったけれども、1945年のナツィス裁判とは違って、犯罪行為を追及される被告人はいなかった。8月の蜂起〔クー〕の指導者たちですら被告人ではなく、彼らは刑務所からすみやかに釈放され、恩赦を受けていた。//
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 (02) Gorbachev は、証人として出廷するのを拒んだ。見せ物裁判で全ての罪責を負わされる(made scaprgoat)のを恐れたのだ。
 彼は、ニュルンベルク裁判との対比を否定した。のちに、〈回想録〉でこう書いた。
 ニュルンベルクでは、「特定の者たちが特定の残虐行為を行ったとして裁かれた。
 しかし、本当に犯罪者として有罪であるソ連共産党の指導者たちはすでに死亡しており、歴史だけが彼らに対して判決を下すことができる。」(後注1)
 だとすれば、これはいかなる性格の裁判なのか?//
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 (03) Yeltsin の法的チームは、ソ連共産党は正当(proper)な政党ではなく犯罪組織だったと主張すべく、60人以上の専門家の宣誓証言に支えられて、十月革命の歴史の全体に及ぶ36巻の文書資料を作成した。
 スターリンのテロルの犠牲者の一人だったLav Razgon は、収容所で死亡した人々の数の正確な計算を嘆願した。
 他の者たちは、スターリン後の時代の反対派や僧職者を追及すべく証言した。
 共産党員たちは、党の歴史について自分たちの見方を述べ、ソヴィエトの工業化の達成、1945年の勝利、スプートニク宇宙計画を強調した。//
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 (04) 法廷は、ソヴィエトの歴史について判断する権能を自分たちは有しないと声明し、妥協的な評決に達した。Yeltsin によるソ連共産党の禁止を肯認し、一方で共産党員がロシアで党を再建することを許容した。
 ロシア連邦共産党は、法廷での審理直後の1992年11月30日に設立された。
 1993年3月までに、ロシア連邦共産党は、50万人以上の登録党員をもち、ロシアの新しい「民主政」のもとで他をはるかに凌ぐ最大の政党になった。//
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 (05) 党の歴史に関して、いかなる判決を下すことができたのか?
 党の「犯罪」の記録について、いったい誰が評決を下す法的または道徳的な権利を有したのか? 
 ニュルンベルクでは、罰せられるべき明らかな戦争犯罪があり、国際法のもとで裁判権をもつ軍事的勝利者がいた。
 しかし、以前のソヴィエト同盟を裁く司法権をもつ解放勢力は存在しなかった。
 憲法裁判所は、そのような高度の権能を担える立場にはなかった。
 13名の裁判官のうち12名は、かつては共産党員だった。
 彼らは誰に対して判決を下すことができたのか?
 新しいロシア憲法は、ようやく1993年2月に採択された。このことは、党にその政策を実施するほとんど無審査の権力を付与していたBrezhnev の憲法に従って、彼らは法的決定を下す必要があることを意味した。//
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 (06) いったい誰に、判決が下されなければならなかったのか?
 Gorbachev にか?
 党指導部にか? KGB にか?
 あるいは、ソヴィエト・システムを動かしてきた数百万の幹部党員、警察官、監視兵たちにか?
 Yeltsin は大統領布告で、個々の共産党員が党の犯罪について責任を取らされてはならない、と述べた(彼は疑いなく、1976年と1985年のあいだはSverdlovsk の共産党の長だった自分の経歴について、多くを回答できたはずだった)。
 裁判途中にあったテレビ・インタビューで、この穏健な考え方の意味がつぎのように明らかにされた。
 「おそらく我々は、1917年以降初めて、言ってみれば、復讐という過程を開始しなかった。
 そうするのをロシアが抑制した、ということが重要だ。分かるだろう。」(後注2)//
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 (07) 法廷もまた、妥協案に達したとき、ナショナルな統合と和解の必要を考えていた。
 座長が事情聴取の開始に際して述べたように、「当事者が法廷のどちらの側に座っていようとも、白軍と赤軍が行ったように互いに破壊し合うのではなく、のちには一緒に生きていかなければならない」のだった。(後注3)//
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 (08) こうした宥和的な姿勢の結果として、ソヴィエト体制による人権侵害について、誰に対しても正義(justice)が行われなかった。
 従前のKGB やロシアの共産党の官僚に対しては、いかなる訴追も行われなかった。これは、以前のソヴィエト連邦のその他の諸国、とくにエストニアやラトヴィアと異なっていた。これら諸国では、1940年代に大量の逮捕やバルト諸国からソヴィエトの収容所への強制移送を実行した元NKVD職員に対して、明確な意思をもつ審判が行われた。
 東ヨーロッパやバルト諸国にあったような、犯罪に加担した者たちを暴き、上級官職から排除する、浄化(lustration)の法制も政策もロシアにはなかった。//
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 第一節②へと、つづく。

2533/O.ファイジズ・ソ連崩壊④。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第四節。
 (01) この革命的状況を作ったのは、支配エリートたちが忠誠対象を変えて、民衆の側に加わる可能性だった。
 社会の民主主義的勢力の挑戦を受けて、一党国家は、システムの改革者が現状を維持する意欲を失い、あるいは反対者に対する共感を知らせようとするにつれて、崩れ始めた。
 Gorbachev 改革の知的設計者のYakovlev は、ヨーロッパの社会民主主義者以上に、そしてよりボルシェヴィキらしくなく、考え始めた。
 ポピュリストであるモスクワ・トップのYeltsin は、共産党権益層内の強硬派を公然と攻撃し始めた。
 彼は、十月革命70周年集会で、共産党はレーニン継承を放棄すべきだとすら訴えた。そして、民主的社会主義の主流へと転換して、複数政党での選挙によって権力を争うべきだ、と事実上は示唆した(カーメネフやジノヴィエフが1917年に行うべきだったごとくだ)。 
 Yeltsin は、強硬派に攻撃されて政治局を辞任し、党指導層に対抗する民衆の支持を得ようと競い始めた。//
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 (02) Gorbachev も、レーニン主義者から徐々に社会民主主義者に似た立場に向かって変化していた。
 在職中の彼の見方は、システムの失敗を理解し、改革の可能性の限界を見るに至って、発展した。
 彼は1988年から、「指令・管理システム」を再構築するのではなく、それを解体する必要を語り始めた。
 国家内部での抑制と均衡、権力分立の必要について、語った。
 競い合う選挙の考えを支持し、次第に1977年憲法6条が定める共産党による権力独占を廃棄せよとの民主主義者の要求に同意すらするに至った。
 レーニンが創設した一党国家は、頂上から崩れていた。//
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 (03) 共産党内の強硬派は、システムが解体してゆくように見える速さに警戒心をもった。
 政治改革は、党が1917年以降に獲得した全てを掘り崩す革命になるおそれがあった。
 彼らのGorbachev 改革に対する立場は、レニングラードの化学教師のNina Andreeva の論考に、明確に述べられていた。これは「私は原理を放棄できない」と題するもので、1988年3月に新聞〈Sovetskaya Rossiia〉で公表された。
 何人かの政治局員の同意を得て、この論考は、ソヴィエトの歴史の中傷を攻撃し、スターリンの「社会主義の建設と防衛」という功績を擁護し、全国の共産党員たちにレーニン主義の諸原理を防衛するよう呼びかけた。「祖国の歴史にあった重大な転換点で、それら諸原理のために我々が闘ってきたように」。(後注5)//
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 (04) Gorbachev は、抗戦すると決め、一連のより急進的な改革を推し進めた。
 1988年6月の党第19回大会で、彼は、新しい立法機関、人民代表者会議(the Congress of People's Deputies)の議席の3分2に競争選挙を導入させた。その立法議会が、最高ソヴェトを選出することになる。
 これはしかし、まだ複数政党をもつ民主主義ではなかったが(選出された代議員の87パーセントは共産党員だった)、揃って反対したいならば投票者は党指導者たちを排除することができた。すなわち、39名の党第一書記たちは、ラトヴィアとリトアニアの首相とともに、1989年初めの人民代表者会議選挙で敗北するという屈辱を喫した。//
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 (05) この議会は、一党国家に反対する民主主義的な舞台になった。
 5月末の開会式を、推定で一億人の人々がテレビで観た。
 議会内に、地域を超えたグループが、党内や非党員の改革主義者によって結成された。その主要な要求は、既述の憲法6条の削除だった。
 Gorbachev はその提案に同意し、1990年2月に政治局を通過するよう指揮をとった。
 彼は一党国家を守るべく改革を始めたのだったが、今やそれを解体していた。
 彼は7月2日にテレビでこう表明した。
 「我々は、社会主義のスターリン主義モデルの代わりに、自由な人々の市民の社会へと到達している。
 政治システムは、急進的に変革されている。自由な選挙のある純粋な民主主義、多数の政党の存在、そして人権は、確立されるようになり、本当の人民の権力が再生されている。」(後注6)
 ロシアは、1917年の二月革命へと回帰していた。//
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 (06) この段階までに、党内には多数の異なる派があった。そのうち現実的に重要だったのは、つぎの二つだけだったが。
 レーニン主義の継承を擁護したい強硬派と、Gorbachev やYeltsin のような、1985年以後に政治的に成長して、のちにGorbachev が回想したように、今では「古いボルシェヴィキの伝統を終わらせる」(後注7)ことを望んだ社会民主主義者。
 このように党が分裂していたので、Gorbachev はなぜ党を二つに分けようとしなかったのか、または少なくとも1921年にレーニンが課した分派の禁止を持ち出さなかったのか、そして彼の改革を支持する社会的な民主主義運動を作り出さなかったのか、という疑問が生じうる。
 Gorbachev の側近にいた助言者たちの多くは、長いあいだ彼にまさにそう迫っていた。—Yakovlev はすでに1985年から。
 このように行動すれば、ソヴィエト同盟に複数政党システムが生まれていただろう。
 ソヴィエト連邦共産党(CPSU)の両翼はそれぞれ数百万の党員、新聞その他のメディアを継承し、その結果、1991年の党の崩壊の後で形成された以上に多元的なシステムを生み出していただろう。
 政治的な躊躇と宥和の気分から、Gorbachev は、激しい闘いを恐れた。ひょっとすれば内戦になるかもしれない。武装兵力、KGB、その他の党の全国的機構の支配権をめぐっての戦いだ。彼はナイーヴに、これらをまだ掌握することができると、考えていた。//
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 第四節、終わり。

2532/O.ファイジズ・ソ連崩壊③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ
 第三節。
 (01) グラスノスチ(glasnost、情報公開)は、Gorbachev の改革の中の本当に革命的な要素で、システムをイデオロギー的に解体する手段だった。
 ソヴィエト指導者は政府に透明性を与え、改革に反対するBrezhnev 保守派たちの力を削ぐことを意図した。 
 グラスノスチの初期の呼びかけは、1986年4月のChernobyl 原発事故—史上最悪でヨーロッパの多くに影響を与えた—のはずべき隠蔽によって強化された。
 しかし、glasnost の影響は、Gorbachev の統制を超えて急速に大きくなった。//
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 (02) 検閲を緩和した glasnost は、党はマスメディアを掌握できないことを意味した。マスメディアは、従前は政府が隠していた社会的諸問題を暴露し(劣悪な住居、犯罪、生態学的破綻、等)。それによってソヴィエト・システムへの民衆の確信を掘り崩した。//
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 (03) ソヴィエト史に関する暴露も、同様の効果をもった。
 次から次に、システムを正当化する神話は、新たに公にされた文書や外国で翻訳されて出版された書物で明らかになった暗い事実だとして、攻撃に晒された。その神話とは、資本主義社会に対する物質的かつ道徳的優位、ナツィズムを打倒したという名誉、集団化と五ヵ年計画による国の近代化、大衆を基にした1917年10月の革命による創設、といったものだ。
 メディアは毎日、この国の暴力的歴史の「黒点」が多数つまった暴露を掲載した。大量テロル、集団化、飢饉、Katyn の虐殺の詳細。グラク(強制収容所)の恐怖、偉大な愛国戦争でのソヴィエト兵の生命の無謀な浪費の全容。
 これらは、ウソと半分真実が混じったものとして、こうした事件の公式の記録を暴露することによって、体制の信頼性と権威を揺るがせた。//
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 (04) 人々の信頼は政府から離反していった。—その多くは、こうした真実を暴露したメディアに原因があった。
 最も大胆な新聞や雑誌は、途方もなく売れた。
 〈Argumenty i fakty〉(論争と事実)の週間予約購読者数は、1886年から1990年のあいだに、200万から3300万に増えた。この週刊誌はプロパガンダ機関であることをやめ、かつて秘密だった事実やソヴィエトの生活についての批判的見解を伝えるソースになった。
 毎金曜日の夜に、数千万人の若者たちが、〈Vzglyad〉(View)という番組を観た。この番組は、ソヴィエトの検閲による制約はもちろん、個人的好みの限界をも無視して、今日的問題に関するテレビ編集、インタビュー、歴史の探索に突進した(やがて1991年1月に禁止された)。//
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 (05) Glasnost は、社会を政治化した。
 独立の公共的団体が結成された。
 1989年3月までに、ソヴィエト同盟には6万の「非公式の」グループやクラブがあった。
 これらは、街頭で集会を開き、デモ行進に参加した。多くは、政治改革、市民の権利、ソヴェト諸共和国や地域の民族的独立性、あるいは共産党による権力独占の廃止を呼びかけるものだった。
 大都市では、1917年の革命的雰囲気が蘇ってきていた。//
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 第三節、終わり。

2531/O.ファイジズ・ソ連崩壊②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第二節。
 (01) Gorbachev は、レーニン主義の理想から始めた。
 脱スターリン化の基本方針がその政治的発展の契機となったKhrushcev のように、Gorbachev は、「レーニンへの回帰」の可能性を信じた。
 他の指導者たちはソヴィエト国家の創設者に口先だけの賛辞を寄せた一方で、Gorbachev は、レーニン思想は彼が直面している革命的挑戦にとつてなお意味があると信じて、レーニンを真剣に考察した。
 彼は、遺言のレーニンに共感していた。—レーニンが最後に書いたもので、NEP での市場への譲歩の問題に取り組み、内戦で間違った革命の是正には民主主義がより多く必要だとしていた。—彼は、レーニンが考えたことに対応するものを見た。それを60年後に仕立て直さなければならなかったのだ。
 ソヴィエトの民衆と政治的エリートに皮肉な見方が大きくなっているときに、Gorbachev は楽観的なままであり、仕組みを改革する可能性を純粋に信じていた。
 彼は、レーニンの革命を道徳的かつ政治的な刷新を通じて作動させることができると、真摯に考えた。
 この意味で、Gorbachev は、最後のボルシェヴィキだった。//
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 (02) 改革への彼の理想主義的信念を最もよく示す例は、彼が最初にしたことだ。すなわち、1985年4月の布令によって発表された、反アルコール決定。これによってウオッカの価格は3倍になり、ワインとビールの生産は4分の3に減った。
 「ウオッカで共産主義を建設することはできない」と、Gorbachev は言った。
 のちに彼が認めたように、この初期の段階での彼の思考のいくつかは「ナイーヴでユートピア的だった」。(後注2)
 アルコール依存症者たちは、この政策に妨げられることなく、安くて危険な密造酒を闇市場で購入し(砂糖が突然に店舗から消えた)、またはオーデコロンや化粧水を飲んだ。
 国家はウオッカ販売による貴重な収入源を、1985年の総額の17パーセント失い、消費用物品や食料を輸入する力を減らした。それで、購入や飲食を減らした人々は、不満を募らせることになった。//
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 (03) Gorbachev は、党内指導層に改革を支持する多数派をもたず、Khrushcev が辿った運命を回避するためには慎重に事を進める必要があると意識していた。
 1985-86年、彼は経済の「迅速化」(〈uskorenie〉)だけを語った。これは、アルコール禁止にふさわしく、紀律を強化し、生産性を向上させるAndropov の方法を模倣したものだった。
 1987年1月の中央委員会総会でようやく、Gorbachev は、そのペレストロイカ(perestroika)政策の開始を発表し、それは指令経済と政治制度の急進的な再構築という「革命」だと表現した。
 Gorbachev は、自分の大胆な決定を正統化するためにボルシェヴィキの伝統を援用し、つぎの威厳ある言葉で演説を締め括った。
 「我々は懐疑者にすらこう言わせたい。そのとおり、ボルシェヴィキは何でも行うことができる。そのとおり、真実はボルシェヴィキの側にある。そのとおり、社会主義は人間のために、人間の社会的経済的利益とその精神的な向上に奉仕するシステムだ。」(後注3)
 これは、新しい1917年10月の主意主義(voluntarist)の精神だった。//
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 (04) 経済的には、perestroika はNEP と多く共通していた。
 perestroika は、市場メカニズムによって計画経済の構造に対して生産の刺激と消費者の需要の充足を加えることができる、という願望に満ちた想定に依存していた。
 賃金や価格に対する国家統制は、1987年の国家企業体に関する法律によって緩和された。
 協同組合は1988年に合法化され、カフェ、レストラン、小店舗や売店が急に出現することになった。たいていの店でウオッカや(今や再び合法化された)、タバコ、外国から輸入したポルノ・ビデオが売られた。
 しかし、こうした手段では、食糧やより重要な家庭商品の不足を沈静化することができなかった。
 インフレが大きくなり、賃金と価格の統制の緩和によって悪化した。
 計画経済の廃止によってのみ、危機は解消され得ただろう。
 しかし、イデオロギー的に、それは1989年までは不可能だった。その年にGorbachev は、ソヴェト型の思考から決裂し始めた。そして、さらに急進的に1990年8月に合法化し、そのときに、市場にもとづく経済への移行に関する500日計画が、ついに最高ソヴェトによって導入された。
 しかし、そのときまでにすでに、経済の破綻を抑えるには遅すぎた。//
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 (05) Gorbachev は、社会主義的思考での「革命」だとしてperestroika を提示し、—彼自身の理想化した読み方によった—レーニンの言葉で、絶えずそれを正当化した。
 彼は、公務員の本当の選挙を伴う、政府でのさらなる「民主主義」を呼びかけ、従前はタブーの言葉だった「多元主義」について語り、党に対してその創設者の「社会主義的人間中心主義」への回帰を迫った。
 「Perestroika の意図は、理論的および実践的観点からするレーニンの社会主義の観念を、完全に復活させることだ」と、Gorbachev は、十月革命70周年記念集会で宣言した。(後注4)
 この「人間中心主義」や「民主主義」は、レーニンの理論や実践には、ほとんど見出され得ないものだったけれども。
 しかし、Gorbachev は、その改革への党指導層の支持を望むならば、レーニンの名を引き合いに出す必要があった。//
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 (06) 外交政策でこの「新しい思考」が意味したのは、階級闘争という冷戦に関する党の理論的枠組を放棄して「普遍的な人間の価値」の増進に代える、ということだった。
 このことは、ソヴィエト経済の利益を無視することにつながる、より実践的で「常識的」接近を含んでいた。
 また、Brezhnev(ブレジネフ・)ドクトリンを放棄するという意味も包含していた。
 Gorbachev は、東ヨーロッパの共産党指導者たちに、今や彼ら自身の判断で生きるべきことを完全に明瞭にした。
 彼らがその民衆の支持を獲得できなくとも、モスクワは助けるために介入するつもりはない、ということを。
 民衆の支持は東欧の共産党指導者たちが自分たちでperestroika を行なってかち取ることを、Gorbachev は望んだ。
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 第二節、終わり。
 

1715/日本会議の20年②と丘みどり「佐渡の夕笛」。

 横田めぐみさんが北朝鮮当局によって拉致(人さらい・人身の自由の侵害)から、今年10月で40年が経った。
 父の滋氏は日本銀行行員として新潟に赴任したはずで、転勤があったのだと思われる。あの転勤がなかったらとか転勤を固持してたいればとか等々の思いを、こ両親は何度も反芻されただろう。
 新潟でめぐみさんが特定されて狙われていたわけではなく、たまたま特定の地区・地域を彼女が通りかかったことで被害にあったのだろう。とすると、あの日に何とかしてあの地域・地区へ行かさないようにすればよかった、といった想いもまた、何度も想起されただろう。
 人生は、運命は、苛酷なものだ。もとより原始コミュニズム国家、実兄を公然と殺戮した首領がいる国家に責任はある。
 日本共産党は今は北朝鮮を<社会主義を目指している国>から除外しているが、かつては「友党」で、拉致についても疑惑の程度に応じた交渉をとか主張して拉致犯行者が北朝鮮国家であることを認めたがらなかったこと、北朝鮮はレーニン・スターリンのコミンテルンまたはロシア(ソ連)共産党の指導と援助で建設されたこと、金日成の指名も彼らによってなされたことは否定できないだろう。
 日本会議の20周年記念大会案内パンフの最終欄に、この20年間に<日本会議が取り組んだ主な国民運動」と題する26項が総括的に列挙されている。
 それらの中には、「北朝鮮拉致被害者救援国民運動」といったものは掲げられていない。
 西岡力等の日本会議関係者がこれに強く関与してはいるが、日本会議自体は、これを自らの団体の運動の実績の一つに挙げることをしない、あるいは、そうできないのだ。
 実績・成果がなかった・乏しかったことが理由にならないことは、選定・列挙されている26項を見ても分かる。
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 ところで最近にたまたま聴いた歌謡曲、丘みどり「佐渡の夕笛」の一番の歌詞は、横田めぐみさんの家族、とりわけご両親の滋・早紀江のお二人には、涙なくした聴けるものではないようにも思える。
 丘みどり「佐渡の夕笛」(2017)-作詞・仁井谷俊也/作曲・弦哲也。
 (一番)
  「荒海にあの人の船が消えて
  二とせ三とせと過ぎていく
  今年も浜辺に島桔梗
  咲いても迎えの文(恋文)はない
  待ちわびる切なさを
  佐渡の 佐渡の夕笛 届けてほしい」
もともとは船で他所に出かけた男を待つ女性の気持ちを歌った歌詞と曲だと思われるのだが、一番の歌詞だけは拉致被害者を、そして横田めぐみさんを連想させうる。
 佐渡島は、拉致されていく橫田めぐみさんを見ていたに違いない。
 「あの人の船が消えて」、「二年三年と過ぎていく」、「迎えの文はない」、「待ちわびる切なさ」、これらの言葉を、家族、とくにご両親はどういう想いで聴くだろう。
 丘みどり、1984年生まれ、2017年NHK紅白歌合戦初出場予定。

1642/日本共産党・不破哲三の大ウソ35-「自主独立」?。

 久しぶりに、<日本共産党・大ウソ>シリーズ。
 不破哲三・古典教室第1巻(新日本出版社、2013)。
 この著の一番最後の章のそのまた最後を一瞥していて、さすがに日本共産党、不破哲三さん、自分の党に有利に言いますねぇ、と感じ入る部分があった。
 産経新聞の人々も、「日本会議」の人々も、きっとこんな本に目を通すことはないだろう。それどころか、所持もしていない。いやそれどころか、存在を知りもしない。
 不破哲三は、欧州の、正確には(かつて「ユーロ・コミュニズム」の牙城だった)イタリアとフランスの共産党についてこう言う。
 1960年に日本の共産党が「衆議院で一議席しか」なかったときに、「イタリアでは一〇〇を超える議席」をもち、フランス共産党は「野党第一党の地位」を持っていた。
 「いまではイタリアでは共産党がただの民主党に右転落してしまい、フランスでは共産党がいろんな理由があってかなり大きく落ち込んでい」る。p.282。
 以上は事実だから、最後のフランスの「いろいろな理由」は知りたいが、よろしい。
 問題は、これを日本共産党の自慢話に変えていることだ。
 イタリアやフランスの共産党は「ソ連崩壊の大波に、自主性を持っていなかった」ために「呑まれて」しまった。「ソ連流『マルクス・レーニン主義』以外に理論を持っていなかった」。そのなかで日本共産党は…。「そういう党は、いま資本主義の共産党のなかで日本にしかありません」。p.282-3。
 こういう状況の理由、背景は種々ある。日本共産党がよく頑張ったから、立派だったからだけでは少なくともない。
 <日本共産党がよく頑張ったから、立派だったから>というのも、きわめておかしい。
 第一に、この欄でかなり詳しく記したが、日本共産党・不破哲三がソヴィエト連邦を「社会主義国」ではなかった、すでにスターリン時代に道を踏み外して「社会主義国」ではなくなっていた、と言ったのは、1994年7月の党大会のことだ
 それまで、1991年のソ連共産党解散とソ連邦自体の解体があっても、その当時、一言も、ソ連は「社会主義国」でなかった、などと主張していない。
 スターリンを批判しソ連共産党も批判していたが、それまではあくまで、ソ連は<建設途上の>または<現存する>「社会主義国」だという前提のもとで、「社会主義国」あるいは「国際共産主義運動」内部で生じた、又は生じている問題として、スターリンやソ連共産党指導部を批判していたのだ。
 したがってまた第二に、この時点では、『マルクス・レーニン主義』を、日本共産党も掲げていた。
 文献資料的な根拠をすぐに見つけられないが、レーニン自体に遡ってソ連の「過ち」を指摘していたのでは全くなかった。
 <マルクス・レーニン主義>と言わないで<科学的社会主義>と言うべき、まだ<マルクス主義>は許せる、と不破哲三が言ったのは、この1994年よりも後のことでだ。
 「ソ連流『マルクス・レーニン主義』以外に理論を持って」いた、という言い方は、ほとんどマヤカシだ。
 日本共産党もまた、ずっと一貫して長らく「マルクス・レーニン主義」の党だったはずだ。
 また、かりに「ソ連流『マルクス・レーニン主義』」以外の理論を持っていたとして、「ソ連流」のそれを批判的に扱うのであれば、その中にレーニンそのものは入るのか入らないのかを明確にすべきだろう。
 ところが、日本共産党・不破哲三は、「ソ連流」の中にレーニンが入るとは、現綱領上も、絶対に言えない。
 レーニンは、基本的には、正しく「社会主義への」道を歩んでいた、とされているのだ(その論脈の中で<ネップ>も位置づけている)。
 不破哲三は言う。「科学的社会主義の理論を自主的に発展させ」た、「どんな大国主義の理論にも打ち勝」ってきた。p.282-3。
 ここに現在の日本共産党・不破哲三の、喝破されたくはないだろう、本質的な欺瞞がある。
 つまり、共産党相互間の問題、あるいは共産党の問題と、一方での「国家」の問題とを、意識的に、(党員向けにもワザと)混同させているのだ。
 <自主独立>とか<大国主義批判>とかは、1991年・ソ連解体までは明らかに、ソ連共産党との関係での、ソ連共産党(・その指導部)を批判するスローガンだった
 それを、1991年・ソ連解体後は、<ソ連型「社会主義」国家>自体を批判してきたのだ、と言い繕い始めた。
 <自主独立>とか<大国主義批判>は(ソ連(・中国)共産党ではなく)、<ソ連型「社会主義」国>を批判するスローガンだったかのごとく、変質させている
 これは大ウソであり、大ペテンだ。
 不破哲三は、平然とウソをつく。党内の研修講義の場でも、平然とウソをつく。 
 その証拠資料の一つが、この2013年9月刊行の書物だ。
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 自民党の田村重信らの書物に、日本共産党についての知識・認識不足があるのは、この欄ですでに記した。
 田村重信=筆坂秀世(対談)・日本共産党/本当に変わるのか?(世界日報社、2016)の田村発言の一部について。
 山村明義・劣化左翼と共産党(青林堂、2016.03)。
 これも、ひどい。
 この著で山村は、しきりと「マルクス・レーニン主義」という言葉を(最後まで)使っている。「左翼」はともかくも、日本共産党がこの概念・語を避けていること、むしろ禁止していると見られることを、この人は知らないままで、表記の本を出している。
 恥ずかしいことだ。<劣化保守>、あるいは<劣化・反共産主義>だと言いたい。
 しかも、山村自身が自分は<マルクス・レーニン主義>に詳しいのだと言っているのだから(しきりと匂わせているのだから)、苦笑してしまった。
 また、<劣化左翼>と<共産党>の区別を何らつけないで叙述していることも、致命的な欠陥だ。
 この本のオビには、<保守原理主義者>としてこの欄で取り上げた、「憲法改正」に大反対している、倉山満の<激賛>の言葉が付いている。
 倉山満が激賞・激賛するようでは、この本の内容もまた、すでに示唆されているのかもしれない。

1493/食糧徴発廃止からネップへ②-R・パイプス別著8章6節。

 前回のつづき。
 なお、不破哲三・レーニンと「資本論」第7巻(新日本出版社、2001)p.118-p.125は、レーニンは1921年10月29日-31日の「第7回モスクワ県党会議」での報告によって、「市場経済を容認し、それと正面から取り組みながら、社会主義への道を探求するというこの方針」に到達したと述べ、かつまた「この報告」は「『新経済政策』の展開の歩みのなかで、その後の歴史にてらしても、もっとも重大な、文字通り画期的な意義をもつものだった」と記す。
 志位和夫・綱領解説第2巻(新日本出版社、2003)p.177-もこれに追随する。志位によると、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」のだが(p.179)、つぎのようにも書く。
 レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。新たに転換した路線とは「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」だ(p.177-8)。
 レーニンの上記報告の全文(邦訳)は、以下。
 レーニン全集第33巻(大月書店、1978年第26刷)p.70~p.98/「第七回モスクワ県党会議」。
 前回部分もそうだが、この日付や会議名にも留意してR・パイプス著を継続して読むと、興趣を少しはそそられるかもしれない。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発の廃止とネップへの移行② 〔p.391~p.393〕
 新政策を表明する際に、レーニンは、その政治的意義を強調した。
 農民が人口の大多数を構成するロシアでは、農民から支持を受けないで効果的に統治することはできない。
 カーメネフは内部的な連絡文書で、この政策の第一の目標として『農民層への政治的平穏性の導入』を挙げた(次いで、作付け面積の増加の奨励)。(87)
 従来は階級敵と見なされていた農民層は、これ以来、同盟者だと扱われた。
 レーニンは今や、以前は拒否していたこと、西ヨーロッパーの多くの国とは違ってロシアでは、農村住民の多数は被雇用者でも土地賃借耕作者〔小作人〕でもなく、独立した小規模生産者だ、ということを承認した。(88)
 確かに、上の最後の者は、『プチ・ブルジョアジー』だった。そして、彼らに対する譲歩は、レーニンによると、遺憾な退却(retreat)だが、一時的な(temporary)なものだった。
 レーニンは、『経済上の息つぎ(breathing spell)』だと正当化した。
 ブハーリンとD・B・リャザノフは一方、『農民とのブレスト〔-・リトフスク講和条約〕』だと語った。(89)
 この『息つぎ(breathing spell)』がどのくらい長く続くかについては、何も語られなかった。だがレーニンはある箇所で、農民を変えるのには数世代(generations)かかるだろうことを認めている。(90)
 このような又はその他のレーニンのこの問題についての言葉は、レーニンの究極の目標は集団化であるままだが、スターリンがしたように早くにはそれを開始しなかっただろう、ということを示唆している。//
 1921年4月についてすでに触れたように、新しい政策によって農民世帯は、穀物、馬鈴薯、油用種子について規準の税を課された。
 翌年に、他の農産物がリストに加えられた。すなわち、卵、乳製品、毛織物、タバコ、干し草、果物、蜂蜜、獣肉、および生皮。(91)
 穀物税〔現物税〕の大きさは、赤軍、工業労働者および非農業集団の最小限の必需によって決定された。
 村落ソヴェトの裁量に委ねられた割当額の決定は、規模、自由に使用できる耕作適地の広さ、および地域の穀物生産高に応じて決定される、個々の農民世帯の納入能力と相応したものでなければならなかった。
 布令は、農民に生産増加を促すために、税の規準として、実際に耕作されている土地ではなく耕作がなされる可能性のある土地、つまり全耕作適地の広さを用いた。
 国家への義務を果たす『集団責任』(krugovaia otvetstvennost')の原理は、放棄された。(92)//
 最初の現物税は、2400万Pud〔単位、1トン=ほぼ6 Pud?〕が設定された。これは、1921年に徴収されたよりも600万少なく、1921年について従前に設定された< Prodrazverstka >〔余剰食糧徴発制〕の上限のわずか41%だった。
 政府は、物々交換原理のもとで、農民に工業製品を余剰穀物と交換してもらうことで、不足を埋め合わせることを望んだ。
 これによって、追加して1600万Pud がもたらされるはずだった。(93)
 これらの望みは、何一つ叶えられなかった。主要な穀物生産地帯を1921年春に厳しい干魃が襲ったからだ。
 被害を受けた地域はほとんど何も生まなかったので、徴収できた税は、上記の2400万Pud ではなく、1280万Pud にすぎなかった。(94)
 誰も、どの穀物についても、提案された物々交換をしなかった。交換取引をする工業製品がなかったからだ。//
 新しい政策は直ちには改善につながらなかったけれども-実際に最初は徴集した食糧は < Prodrazverstka >よりも少なかった-、長期的にはきわめて大きい利益になるという共産主義者の思考方法に関して、重要な前進点を画した。
 農民層をたんに収奪の対象として扱うかつての実務とは対照的に、現物税、あるいは< prodnalog >は、農民層の利益も考慮に入れた。//
 新しい農業政策の経済上の利益は、直ちには明らかにならなかった。しかし一方で、政治上の報償は、すぐに与えられた。
 食糧徴発制の廃止は、反乱という帆船隊の帆を根こそぎ吹き飛ばした。
 レーニンは、翌年に、以前は農民蜂起が『ロシアの一般的な絵画を決定』したが、その蜂起はほとんど終わった、と誇ることができた。(*)//
 現物税を導入したとき、ボルシェヴィキ〔共産党〕は、それの影響・効果について何も考えていなかった。無傷で国家経済の中央集中管理を維持することを、意図していたからだ。
 商取引と工場制工業に対する国家独占を放棄することは、ボルシェヴィキが最も望んでいないことだった。
 ボルシェヴィキは、物々交換で農民に工業製品を与えて、穀物の余剰分を吸い上げようと十分に期待していた。
 しかしながら、この期待が非現実的で、その結果としてつぎのことをボルシェヴィキに強いるものであることが、すみやかに明らかになった。すなわち、かつてより野心的な改革を少しずつ実行して、社会主義と資本主義の独特な合成物をついには生み出すことを強いられる、ということだ。両者のこの独特な合成物(hybrid)は、新経済政策(NEP, New Economic Policy)として知られる。(この言葉は、1921-22年の間の冬に初めて一般的になった。)(95)
 現物税は必然的に、自由に処分できる余剰生産物の部分で、農民層に商取引をする権利を認めることを意味した。
 (そうでなければ、農民の生産高を増加させる心的動機としてはほとんど何の影響力も持たないので、自由処分可能な余剰を手放すことは、ただ名目上の譲歩にしかならないだろう。)
 このことは反面では、農業生産についての市場の再生、農業と工業を結びつける不可欠の結節点であり貨幣の循環が甦る領域である市場関係の再建、を意味した。(96)
 < prodnalog >〔現物税〕は、かくして不可避的に、まず最初に、穀物とその他の食糧についての私的取引を復活する途へと誘い込んだ。
 これが生じたとき、穀物取引についての国家独占という要塞を放棄して明け渡すくらいなら、全員を殺させる方がよいとレーニンが誓約したのち、ほとんど15週間も経っていなかった。(97)
 さらに、公認の価値という客体に支えられる安定した通貨制度をもつ、伝来的な貨幣実務が回復することも、意味した。
 また加えて、農民は代わりに工業製品を取得できるときにのみ自分の余剰分を引き渡すので、工業に対する国家独占を放棄することをも意味した。
 これが必要としたのは、また反面では、消費者をもつ工業の相当部分の私営化(privatizing)だった。
 このようにして、国土に広がる共産党に対する蜂起を鎮静化させるために企図された緊急措置は、最後の出口には資本主義とその帰結である『ブルジョア民主主義』の復活が待っている、予め地図に描いていなかった水路へと、共産党の者たちを導いた。(**)//
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  (87) RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 9。
  (88) レーニン, PSS, XLIII〔第43巻〕, p.57-58。
  (89) 同上, p.69-70。Desiatyi S" ezd, p.224, p.468。
  (90) レーニン, PSS, XLIII〔第43巻〕, p.60-61。
  (91) 1921年4月21日の布令, SUiR, No. 38 (1921年5月11日), p.205-8。E. B. Genkina, 新経済政策のソヴェト政府の布令〔?露語〕1921-22 (1954), p. 123-124。
  (92) SUiR, No. 26 (1921年4月11日), 第147条, p. 153。
  (93) E・H・カー, ボルシェヴィキ革命, Ⅱ (1952), P. 283-4。
  (94) Genkina, Perekhod, p. 302。
  (*) レーニン, Sochineniia, XXVII〔第27巻〕, P. 347。この文章の文言は、次とは異なる。最新版の、レーニン選集(PSS, XLV, p. 285)。
  (95) <省略、露語>
  (96) Maurice Dobb, 1917年以降のソヴェト経済の展開 (1948), p. 131。
  (97) レーニン, XXXIX〔第39巻〕, p.407。Iu. Poliakov, <省略>を見よ。
  (**) 『戦時共産主義』は即興的なものだったが、ネップは計画された、とふつうは考えられているけれども、現実は、反対方向にあった。
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 ③につづく。

1491/食糧徴発廃止からネップへ①-R・パイプス別著8章6節。

 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)のp.369-の<第8章・ネップ-偽りのテルミドール>は、目次上は、以下の節で構成されている。
 第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
  第1節・テルミドールではないネップ。
  第2節・1920-21年の農民大反乱。
  第3節・アントーノフの登場。
  第4節・クロンシュタットの暴乱。
  第5節・タンボフでのテロル支配。
  第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
  第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
  第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
  第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
  第10節・1921年飢饉。
  第11節・外国共産党への支配の増大。
  第12節・ラパッロ〔-条約〕。
  第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
  第14節・ドイツとソ連邦の軍事協力の開始。
 以上。
 このようにR・パイプスが扱う<ネップ期>の範囲・問題は幅広い。
 以下では、<第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行>だけの邦訳を試みる。
 このあたりを指して、日本の某政党(日本共産党)は、レーニンが「市場経済を通じて社会主義へ」の途を確立した、とか歴史叙述しているからだ。
 <フランス革命>を終焉させた「テルミドール(七月)」との比較から始まった、アントーノフ運動、クロンシュタット反乱、タンボフの悲劇等々の叙述はすでに終わっている。
 原則として一文ごとに改行し、本来の改行(段落の最後)の箇所には「//」を付す。
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 第8章・ネップ-偽りのテルミドール。
 第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行 〔p.388~〕
 クロンシュタット暴動の前にもう、レーニンには明らかに農民たちを宥める必要があると分かった。
 このような考えを促進したかもしれないのは、(1921年)2月9日に起きた西シベリアの農民蜂起だった。(79)
 数万にのぼるパルチザンがトボルスクを含む主要都市を占拠し、ロシア中部を東部シベリアと結ぶ鉄道線路を切断した。
 地方軍では立ち向かうことができず、中央は、この圏域に50000人の兵団を動員した。(80)
 烈しい戦闘が続き、正規軍は最終的にはゲリラ部隊を鎮圧することができた。
 しかし、シベリアからの食糧輸送が二週間途絶えたことは、蜂起がまだ進行中であったなかで、ソヴェト指導者に、農業政策全体を再検討することを強いた。(81)//
 ついに水兵の暴動が発生した。赤軍が海軍基地への最終攻撃を始めるべく場所を定めた3月15日に、レーニンは、新しい経済政策の中核になることになる政策を表明した。それは、< Prodrazverstka > 〔余剰食糧徴発(収奪)制度-試訳者・秋月〕として知られる恣意的な食糧剥奪を廃止して現物税(tax in kind)を採用する政策だった。
 < Prodrazverstka > には、最も広く嫌悪された戦時共産主義の特質があった。-生産物を奪われる農民たちは嫌悪し、食糧が配給される都市住民もまた嫌悪した。//
 食糧徴発は、明らかに恣意的に実施されていた。
 供給人民委員部〔人民委員=ほぼ大臣、従ってほぼ<供給省>〕は、要求する食糧の量を決定した。-その量は、生産者が供給できる量とは無関係に、都市や軍隊の消費者〔・需要者〕に食を与えるために必要な量によって、決定した。
 供給人民委員部はこの数字を、不適切でかつしばしば古い情報にもとづいて、各地方、各地区、各村落ごとの担当量へと割り振った。
 この制度は、残酷であったが、また非効率だった。例えば1920年に、モスクワは< Prodrazverstka >を5億8300万puds(950万トン)に設定したが、何とか集めたのはその量の半分だけだった。(82)//
 徴集担当者は、つぎの二つを前提にして行動した。すなわち、供出するように強いられる穀物は余剰ではなく家族用の食糧や種を確保するために不可欠のものだ、と農民たちが言うのはウソだ。また、農民たちは秘蔵食糧を掘り出すことで損失を補填できる。
 農民たちはこの秘蔵を、1918年と1919年にはできたかもしれなかった。
 しかし、彼らは1920年までには、秘蔵所にいくばくかは残っているとしてもほとんど何もなくなった。その結果がどうだったかは、タンボフ県の事例で見ることができる。そこでは、< Prodrazverstka >は不完全にしか徴集されなかったとしても、農民たちにほとんど何も残さなかった。
 もう何もない、これで全てだ。
 熱心な徴集者は、『余剰』と生存に必要な食糧だけでなく、翌年の作付けのために除けていた穀物をも奪い取っていった。共産党高位官僚の一人は、当局が収穫物の100%を収奪したことを認めた。(*)
 この供出を拒むことは、結果として家畜類が奪われ、殴打されることを意味した。
 付け加えると、徴集員や地方役人は、彼らの要求が抵抗に遭うと、抵抗農民に対して『クラーク(kulak、富農)』に唆(そそのか)された、または『反革命的』なとレッテルを貼ることで、力を得た。また、食糧、畜牛、そして個人的使用の衣類をも勝手気侭に収奪できると思っていた。(83)
 農民は、激しく抵抗した。ウクライナだけで、彼らは1700人の徴集官僚たちを殺害したと報告されている。(84)//
 自らをより痛める政策を考え出すのは困難だっただろう。
 この制度は、農民がより多く生産すればそれだけ多く剥奪されるという、不合理な原理にもとづいて作動していた。この帰結は、自分たちの需要を超えれば、それ以上は何も生産しないという、不変の論理だ。
 ある地域が豊かになればなるほど、それだけ多く政府による略奪を甘受することになる、そうすると、それだけ多く生産を削減しがちになった。国の中央部、穀物不足地帯の一つ、での作付け面積は、1916-17年と1920-21年の間に、18%減少した。一方、穀物過多の主要地域では、同じ比較で33%減った。(+)
 肥料や牽引動物が足りないために面積(エーカー)あたりの生産高が減少したので、1913年に8010万トンだった穀物生産高は、1920年には4610万トンに落ちた。(85)
 1918年と1919年に『余剰』を徴発することがまだできていれば、農民たちは1920年までには、教訓を得て、供出する物は何もないと確信していた。
 農民たちにはパンもなく種もなくなることを意味するとしても政府が欲する物を奪い取っていく、という事態は、明らかに生じなかった。//
 経済的と政治的の二つの理由で、< Prodrazverstka >は放棄されなければならなかった。
 飢餓に直面した農民たちから奪い取れる物は、何も残されていなかった。飢餓は、国土上の広汎な反乱に油を注いでいた。
 政治局〔共産党中央委員会の〕はついに、〔1921年〕3月15日に、< Prodrazverstka >を中止することを決定した。(**) 
 新しい政策は、3月23日に公示された。(86)
 これ以降は、農民たちは、ある特定の量の穀物を、政府機関に供出することが要求された。恣意的な『余剰』の収奪は、終止符を打った。//
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  (79) 同上, 265-70。 
  (80) Desiatyi S" ezd, p.430。
  (81) プラウダ, 51号 (1921.03.08), 1; Radkey, 知られざる内戦, p.229。
  (82) Desiatyi S" ezd, p.415, p.418。
  (*) I. I. Skvortsov, in :Desiati S" ezd, p. 69。農民たち自身の消費や種のために必要な穀物すらも剥奪することを命じた、レーニンの諸指令文書が現存している。レーニン, PSS, XLXⅢ〔第48巻〕, P.219。1921年半ばに供給人民委員部は、穀物の種の半分をタンボフ県からサマラへ輸送するように命令した。TP〔トロツキー文書〕Ⅱ, P.550-1。< Prodrazverstka >の濫用について、イズベスチア(Izvestiia), 42-1-185号 (1921.02.05), p.2。
  (83) Radkey, 知られざる内戦, p.31。
  (84) Tsiurupa, in: Desiatyi S" ezd, p.422。
  (+) Frank A. Golder と Lincoln Hutchinson, ロシア飢饉の軌跡 (1927), p.8。リチャード・パイプス, ロシア革命, p.697-8〔第15章・『戦時共産主義』/第5節・「農業生産力の衰退」〕。カ-メネフは国土全体について、1920年に25%減少したと見積もった。プラウダ, 1921年7月2日号, in: M. Heller, Cahiers 〔ノート〕, XX, No. 2 (1979), p.137。作付け面積の削減は、内戦の間に遂行した敵軍からの収奪によって牽引動物が不足したことによっても惹起された。1920年のロシアとウクライナでの牽引牛馬の数は、革命直前の時期と比べて、それぞれ28%、30%減った。Genkina, Perekhod, p.49。
  (**) Desiatyi S" ezd, p.856-7。トロツキーは思い出して、その自伝(Ⅱ, p.198-9)でつぎのように書く。1920年2月に、中央委員会に< Prodrazverstka >を放棄して現物税を採用すべきと提案したが、票決で負けた、と。レフ・トロツキー, Sochineniia, 第17巻, Pt. 2 (1926), p.543-4。この提案は、きわめて先見の明がある。
  (86) イズベスチア, No. 62-1205 (1921年3月23日), 2。
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 ②へとつづく。

1402/日本共産党の大ペテン・大ウソ27-不破哲三・マルクス…(平凡社新書)01。

 前回に引用した日本共産党綱領の部分と同じ旨を不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)が述べている(p.196末尾~)ので、それも紹介しておこうと思った。
 だが、この欄で既述の第一の論点に関係するが、不破哲三の上の本は自分たちの過去についてつぎのように不正確なことを述べていることに気がついたので、批判的にコメントしておく。
 不破・上掲p.197は、こう書く。
 「…、日本共産党としても、私個人としても、ソ連への認識は大きく発展し、そのことが1991年のソ連解体のときには、『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明となり、さらに3年後の94年の党大会での、ソ連社会は、覇権主義と専制主義を特質とする、社会主義とは無縁な人民抑圧型の社会であった、とする結論的な評価となって表明されたのでした。」
 日本共産党や不破哲三は、このように自分たちの1989/91~94年の言動をまとめておきたいのかもしれない。
 しかし、つぎの点で正確ではない。つまり、完全な誤りを含んでいる。
 第一。ソ連共産党の解体とソ連邦の解体とを、意図的にか混同させている。あるいは、この違いを、意図的にか、ごまかしている。
 不破は1991年に「『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明」を出したとするが、日本共産党中央委員会常任幹部会が1991年9月1日付で出した声明は正確には「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題するもので、この表題でも明らかなようにソ連共産党の解体(解散)の際のものだ。したがって、上掲のように「1991年のソ連解体のとき」とするのは、大ウソ・大ゴマカシ。
 資料的に再度一部引用すれば、つぎのとおり。-「ソ連共産党の解体」、「長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたこと」は、「これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。
 もちろんこの時点では、ソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。
 第二。1991年12月末のソ連邦の解体(崩壊)の際の、同年12月23日付日本共産党中央委員会常任幹部会声明「ソ連邦の解体にあたって」は、「これを歓迎する」(上掲不破)という言葉をまったく用いていない
 不破哲三の上掲書は、上の二つのことを、おそらくは意図的にゴマカすものだ。つまり、こっそりと「大ウソ」をついて(そして「大ペテン」を仕掛けて)いる。
 なお、この時点でもソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。「ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」と述べるにとどまる。ソ連は社会主義国ではなかったと明言したのは、上に不破も書くように、2年半ほどあとの1994年7月の党大会での綱領改正によってだ。
 第三。つぎの宮本賢治発言の趣旨を不破は無視している。
 すなわち、1991年12月21日のソ連崩壊をほとんど予想できたとみられる、つまり「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」、崩壊直前の12月17日にインタビューを受けた同党中央委員会議長・宮本賢治はつぎのように語っていた。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.182)。
 以上につき、この欄の本年6/11~7/11の「日本共産党の大ムペテン・大ウソ」18-21回を参照。
 当時、日本共産党指導部が<混乱>していたと見られることは、すでに書いた。党員たちは動揺していたに違いない。そして、不破哲三自身も含めて、幹部たちが手分けして、ほとんど同党党員が聴衆だったと推察される全国の<講演会>に出ていたのだ。
 ソ連共産党は解体してもソ連邦が崩壊しても、ソ連(・同共産党)の「覇権主義」等に原因があり、それ(当時は「大国主義」ともよく言っていた)と闘ってきた日本共産党は決して誤っていないと、-ソ連自体の「社会主義国家」性には触れることなく-同党の党員たちが党から離反しないように、必死の ?説得と強弁を続けていたのだ。
 不破哲三・上掲書の叙述は、このような過去をまつたく感じさせない。そして、なぜ1994年7月まで<ソ連のスターリン期の途中以降の「社会主義国」性否定>が遅れたのか、という理由にも触れていない。
 日本共産党・不破哲三は平然とウソをつき、語りたくない事実は平然と無視する。

1371/日本共産党(不破哲三)の大ペテン・大ウソ22。

 不破哲三・対話/科学的社会主義のすすめ(新日本新書、1995.07)という本がある。
 興味深いのは、「赤旗」日曜版の1月号に掲載されたそれぞれ三人の若い共産党員との<対話>が二つ収載されていて、かつその1月号というのが1994年の1月(正確には1/02=09、1/16連載)と1995年の1月(1/01=08、1/15連載)であること、つまり、1994年7月の日本共産党第20回大会でソ連は<社会主義国ではなかった、社会主義国ではない国家として崩壊した>と新しく規定し直した時期の前と後に発行されていることだ。
 やはり不破哲三は、ソ連やスターリン等について、この二つの<対話>で微妙に異なることを喋っている。
 まず(おそらくは1993年12月に実際には語られた)1994年1月号では、林紀子(民青同盟愛媛県委員長)・森実一広(民青同盟京都府委員長)・金谷あゆみ(民青同盟石川県委員長)を前にして、不破哲三はこう語っている。
 ・マルクスは、イギリス、フランス、ドイツなど「資本主義の発達がもっとも進んだ国ぐに」で「社会主義革命」が起きると「予想」していた。
 ・レーニンも同じで、民主主義革命はともかく社会主義革命は西欧で先に起こるのが「当然の道筋」で、ロシアはそれと手を携えて社会主義へ前進すると「見通して」いた。
 ・しかし歴史は複雑で「社会主義をめざす国としては、おくれたロシアだけが残る」という「だれも予想しなかった」状況になった。
 ・レーニンは、おくれたロシアを社会主義へと前進させる困難さを「よく心得ていた」し、「いろいろ試行錯誤も」して、「ロシアが生き残って、国内の団結をかためながら、社会主義にむかって着実に進んでゆくというレールを苦労して敷いた」。
 ・ところが、後継者のスターリンは、レーニンが敷いたレールを「乱暴にはずし」、「外に向かってはツァーリ時代の領土拡張欲を復活させた覇権主義、国内では上からの命令で政治や経済を動かす官僚主義の国づくり」というレールに切り替えた。そして、「せっかく実現した革命が、社会主義という社会をつくるにいたらないまま」解体した。
 ・ソ連を見るとき、一つは、「非常におくれた条件」で革命が起きたこと、二つは、社会主義への道を進もうとしてレーニンが健全なレールを敷いた時代」と、「スターリンがそのレールをくつがえして、覇権主義、官僚主義の道に突き進んだ時代」を区別すること、が大切だ。
 ・レーニン時代は「民族自決権の尊重」を世界で初めて宣言して諸外国との領土紛争を「模範的に解決」し、国内でも「社会保障制度をはじめてつくり、男女平等を実現する」等の社会改革を行なって、この点でも「世界の模範」になった。
 ・日本共産党は「ソ連の覇権主義者たちと」闘ってきたので、「ソ連共産党が崩壊しても」影響を受けず、逆に「覇権主義の害悪の解体」として歓迎する声明」を出した。それだけの「力と成果をもった運動」を展開してきている。
 以上、p.143-5、p.154。
 以上の不破哲三の発言のうち重要なのは、この時点ではソ連は「社会主義国」ではなくなっていた、という認定を行なっていないことだ。
 すなわち、「せっかく実現した革命が、社会主義という社会をつくるにいたらないまま」解体した、と言うだけで、社会主義国家建設が完了していないことは(1991年以前と同じく)認めているが、<社会主義という社会をつくる>過程で解体したのか、とっくにそのような過程は終わっていたのか、については曖昧なままにしている。
 上のことを言い換えると、スターリン時代に「覇権主義、官僚主義の道に突き進んだ」こととソ連の「社会主義(国)」性との関係は、明確には語られていない、ということだ。
 また、この時点では、スターリンに対する批判は、上に引用・紹介した部分・内容だけにとどまる、ということも興味深い。スターリンへの悪罵よりも、レーニンに対する褒め(?)言葉の方が、分量は多い。 
 つぎに、(おそらくは1994年12月に実際には語られた)1995年1月号では、川上弘郁(党山梨県郡内地区委員会機関紙部長)・水谷一恵(党埼玉県委員会組織部副部長)・加藤靖(党京都府北地区委員会機関紙部員)を前にして、不破哲三はこう語っている。
 ・「民族自決にせよ、女性の平等にせよ、…、ロシアの十月革命は、世界の推進力として、衝撃的とも言える役割をはたし」た。
 ・「レーニンは、世界の進歩に貢献する仕事とともに、社会主義の『夜明け』に近づく仕事をいろいろとしたが、スターリンによってそれが投げ捨てられちゃった」。
 ・「旧ソ連をどう見るかという問題」があるが、「スターリンからゴルバチョフに至るソ連は、社会主義の『実験』どころか、社会主義を裏切ったものでしかなかった。そこをしっかりつかむことが、本当に大事」だ。
 ・日本共産党は「旧ソ連の覇権主義」に対して「三十年にわたってたたかい、これは社会主義とは縁もゆかりもない、反社会主義だと徹底的に批判してきました。//
 昨年〔1994年〕の第二十回党大会では、さらにすすんで、旧ソ連の社会体制そのものが、反社会主義の体制だったことを、歴史的な事実を基礎に明らかにしたんです」。
 ・「だいたい対外政策であれだけ帝国主義的な行動をやるものが、国内ではまともだというはずはないんです」。
 ・「ソ連では、…経済の土台はともかく『社会主義』だ、『腐っても社会主義』(笑)なんていう議論もありました。でも、…。『国有化』だから社会主義という理屈にはならないんです」。
 ・旧ソ連では、「工業でも農業でも、はたらく人民の無権利状態がひろがり、経済への発言権もうばわれた。生産手段が人民の手に移されるどころか、人民を経済の管理からしめだした専制主義の体制でした。こんなものは、社会の体制としても社会主義の反対物ですよ」。
 ・「おまけに大量弾圧による囚人労働が、何百万人という規模に広がって、ソ連経済の柱の一つになっていました。これはもう、資本主義以前の野蛮な制度ですよ」。
 以上、p.182-184。
 同じ書物に収載された二つの<対話>だが、第20回党大会を間に挟んで、微妙に、のつもりであるかもしれないが、しかし、明確に、ソ連に対する見地を変更していることが分かる。
 上で不破哲三は、旧ソ連は「反社会主義の体制」だったと明言し、「社会主義の反対物」、囚人労働を前提とする「資本主義以前の野蛮な制度」とまで言い切っている。
 このような強い批判は、わずか1年前の2014年1月には全く見られなかったものだ。
 もしも1994年の初めにこのように不破哲三が考えていたとすれば、1994年1月「赤旗」日曜版で語った内容は実際とは大きく変わっていなければならなかったはずだ。党幹部として、というよりむしろ、ソ連に対する見を明確に変更する綱領改定を指導していたはずの不破哲三であっても、党常任幹部会等の了解がないままに、ひょっとすれば個人的には考えていたかもしれないソ連の見方の変更を「赤旗」紙上で明らかにすることはまだできなかった、ということだろう。
 また、不破哲三は上で明かなウソをついていることも指摘しておく必要がある。
 不破は、「旧ソ連の覇権主義」と「三十年にわたってたたかい」、それは「社会主義とは縁もゆかりもない、反社会主義だと徹底的に批判してき」た、とヌケヌケと語っている。
 しかし、ソ連(・ソ連共産党)の<覇権主義・大国主義>を「社会主義」から逸脱した明確に「反社会主義」、「社会主義とは縁もゆかりない」などの言い方で批判してきたわけではまったくない。
 なるほど(前回に引用・紹介したように)覇権主義等を「社会主義の原則に反する誤り」と評する部分はあるが、第一に、これ自体について言えば「社会主義の原則」違反であって<反社会主義>だと明言しているわけではない。また第二に、全体の文章は、「ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤りとその蓄積が、社会主義の事業が本来もっている…威信と優越性をはてしなく傷つけている」、「大国主義克服のための闘争は、世界と日本の社会主義の事業にとって、決定的といってよい重み」をもっている、「いっさいの大国主義、覇権主義、ヘゲモニー主義を国際共産主義運動…から根絶することをめざす」、といったものであり、旧ソ連がすでに「社会主義(国)」ではなかったことを前提とする意味には全くなっていない。
 にもかかわらず、不破が「覇権主義」と「三十年にわたってたたかい」、「反社会主義だと徹底的に批判してきた」と語っているのは、1994年7月以降に新たに吐きだした大ウソであり、大ペテンに他ならない。
 後で一部再引用しておく不破哲三・現代前衛党論(新日本出版社、1980)によれば、不破哲三は1979年に、ソ連の大国主義・覇権主義等の「誤り」について「わが党」は「それを社会主義の国におこった誤りとしてとらえる」と明言している。
 不破は、自分の本をもう一度見てみるがよい(なお、この後は、中国共産党はソ連は「社会主義国」から「ブルジョア独裁国家に変質してしまった」という見方をとった、…と続く)。
 よくも平気で言えるなと思うのだが、不破哲三は厚かましくも、少なくとももう一つ、重要なウソをついている。
 すなわち、経済的土台はまだ「社会主義」だとする議論が旧ソ連にあったなどと言って笑いとばしているが、じつは不破哲三こそが、ソ連共産党・ソ連の崩壊以前のある時期には、上部構造はともかく土台(下部構造)はまだ変質しているとは言えないので、ソ連を<社会主義(国)ではなくなった>と理解してはいけない、という旨主張していたのだ。
 息を吐くようにウソをつくとは、日本共産党、とりわけ不破哲三にあてはまる。
 一部は再度の引用になるが、不破哲三は現代前衛党論(新日本出版社、1980)に1979年に行なった報告/のち「前衛」1979.09号掲載)を収載していた。この著のp.74-76によれば、不破哲三はこう語っていた。
 ・「レーニンは、上部構造での民主主義の徹底的な確立と実行という条件を提起している」。
 ・スターリンは「大国排外主義の民族抑圧傾向をもっとも強くあらわした」。レーニンは死の直前にこうした「傾向との闘争」を行なった、その際、レーニンは「社会主義国無謬論」に立たず、「社会主義の土台のうえでも、誤りの如何によっては他民族の抑圧という社会主義の大義に反する事態までおこりうることを理論的に予見」していた。
 ・しかし、「社会主義国の党や政府」に「あれこれの重大な誤り」があるからといって「その国が社会主義でなくなったなどの結論」を簡単に出す「社会主義変質論」も日本共産党のとるところではない。
 ・上のことは、「レーニンの使った言葉を採用すれば、国家の上部構造のうえで誤りがおきたからといって、ただちに社会主義の土台がなくなったとみるわけにはゆかない、ということです」。
 1979年に以上で不破が述べたことは、当時にソ連の性格づけに関して中国共産党と日本共産党が対立していたという文脈の中で読んでも、(当時の)ソ連は「上部構造のうえで誤りがおき」ているかもしれないが、「ただちに社会主義の土台がなくなったとみるわけにはゆかない」、つまりソ連はなおも「社会主義(をめざしている)国」だ、という見解の表明に他ならない、と解される。
 にもかかわらず、1995年1月には不破哲三は、旧ソ連には、「経済の土台」はまだ「社会主義」だ、「腐っても社会主義」だなんていう「議論」があった、と笑い飛ばしている(前掲・対話/科学的社会主義p.184)。
 笑い飛ばされなければならないのは、間違いなく、不破哲三自身だろう。

1369/日本共産党の大ペテン・大ウソ21ー不破哲三・新日本新書(2007)。

 不破哲三・スターリンと大国主義(新日本新書、1982.03)は、1982年1-2月に「赤旗」に連載されたものを注を付してまとめたものだとされる。ソ連共産党およびソ連の解体前の書だ。
 新装版/不破哲三・スターリンと大国主義(新日本出版社、2007.05)というものもあり、これには不破の18頁にわたる「新装版の刊行にあたって」が目次前の冒頭に付いている。そして、この新装版はソ連共産党・ソ連解体後のものだが、上記の1982年の新書版と内容は変わっていない、らしい。逐一の確認はしていないが、どうやらそのとおりのようだ。
 興味深く、かつ厚かましいと感じ、かつまた不破哲三の面の皮はよほど厚いに違いないと思うのは、2007年の本のまえがきで、①「ソ連大国主義をめぐる歴史的追跡において、根本的な訂正が必要だと思われる点が見あたらない」、②「この二十五年の間に」新しい事実も明らかになったが、「ソ連覇権主義への告発に訂正をせまるものではない」等と不破は述べているが、元となった1982年の新書では、ソ連を「社会主義」国の一つと見なしたうえで、その大国主義等を批判していることだ。重大な変化を無視して、表面的な不変性(訂正・修正の不要性)を語っていることだ。  
 そしてその重大と思われる点については、2007年の本のまえがきで、1994年の第20回党大会でソ連は社会主義ではなくなっていたと明確にした、「ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません」、と釈明しかつ強弁している(p.17)。
 以下で紹介しておくように1982年にはソ連を「社会主義」国の一つと見なし、「国際共産主義運動内部」での「大国主義、覇権主義」と明記しながら、2007年には「根本的訂正」は必要なかったとしつつ、1994年に日本共産党はソ連は社会主義国でなかったという見地に立った、とまえがき部分でこっそりと?、いや公然と「訂正・修正」 しているのだ。
 どういう神経をもっているのだろう。どれほどに面の皮は厚いのだろうか。これを「知的傲慢」と言わずして何と言うのだろうか。
 ともあれ、1982年には不破哲三はこう書いていた。2007年の上の①や②と対比していただきたい。1982年新書版、p.240-242。
 ・「今日の社会主義」はまだ「生成期」にあるという「歴史的制約以上に重大なことは、ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤りとその蓄積が、社会主義の事業が本来もっている…威信と優越性をはてしなく傷つけていることです」。
 ・「この大国主義」は、「社会主義の道にふみだした国ぐにの経済的政治的困難の最大の要因ともなってき」ており、「大国主義克服のための闘争は、世界と日本の社会主義の事業にとって、決定的といってよい重みをもっています」。
 ・「いっさいの大国主義、覇権主義、ヘゲモニー主義を国際共産主義運動と世界政治から根絶することをめざす」闘いはレーニンの継承発展という歴史的意義をもつ。
 ・日本共産党は1981年にソ連共産党中央委員会あて書簡で、「ソ連の現在の…大国主義、覇権主義のあらわれの一つひとつを事実に即して具体的に指摘し、きびしく批判するとともに、これを国際共産主義運動内部から一掃するために最後までたたかう」意思を表明した。
 ・ すなわち、「アメリカ帝国主義」や「日本の反動支配層」とたたかうと同時に「国際共産主義運動の内部における大国主義、覇権主義のいかなるあらわれにも反対して、その是正を求め、…奮闘するでしょう」、と書き送った。
 以上は、2007年の単行本のp.266-8頁にも、同文でそのまま掲載されている。
 このように「ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤り」だとか、「国際共産主義運動の内部における大国主義、覇権主義」と闘うとか書いておきながら、2007のはしがき・序文では、何と、<訂正・修正>する必要はなかった、と不破哲三は<開き直って>いるわけだ。
 ここまで傲慢になられると、そしてソ連共産党・ソ連自体の解体の意味を全くかほとんど無視されると、巨大なカラクリに眩惑されてしまいそうだ。
 日本共産党は、ソ連と三〇年以上にわたって闘ってきたと、さも自慢そうに言い、そのついでに?、崩壊したのはソ連であって社会主義ではない、とも1994年以降は明確に言い始めたのだった。しかし、日本共産党は、「社会主義」国ソ連の「社会主義の原則」に反する「大国主義、覇権主義」を、「国際共産主義運動内部」の誤りとして三〇年以上闘ってきたのだった。もはや社会主義国ではないとしてソ連(の大国主義・覇権主義)と闘ってきたわけでは全くない。
 ソ連(・ソ連共産党)は誤ったが、日本共産党は「正しい」。落胆することなく、確信をもって前進しよう。-こう党員やシンパ(・同調者たち)を説得し、煽動するために、日本共産党幹部たちは<(わが党は)ソ連の(誤った)大国主義・覇権主義と三〇年にわたって闘ってきた>ということを持ち出す。これは<大ペテン>だ。
 追記-いったんレーニンとスターリンの異同の問題に立ちいって、稲子恒夫著にも言及した。それは、産経新聞政治部・日本共産党研究( 産経新聞出版、2016.05)が発売される予定であることがその当時分かっていたので、その前に稲子恒夫著を資料として用いていることを明らかにしておく意味が個人的にはあった。この産経新聞の本には結果としては稲子恒夫著への言及がなかったので、急ぐ必要はまったくなかったことになる(産経本には、「研究」と称しつつ、参考文献の参照頁の詳しい摘示が全くない)。

1353/日本共産党の大ペテン・大ウソ20ー宮本顕治発言。

 1991年12月(ソ連邦解体)直後から1994年7月(第20回党大会)直前まで、日本共産党は曖昧ながらなおソ連を「社会主義」国と見ていたか、または明確な立場を示せず<混乱していた>、と思われることは既に何度か書いた。
 一 1991年12月21日のソ連邦解体の直前の12月17日にインタビュー・質問に対する回答であり、のちに前衛1992年3月号に掲載された宮本顕治の発言内容も、興味深いところがある。以下、日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.172-による。
 「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」(p.182)時期のもので、宮本もソ連邦の崩壊(解体)を覚悟?しているようだ。そして、次のように言う。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、私たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(p.182)。
 <悲しむべきことでも、喜ぶべきことでもない>、と言う。しかし、宮本顕治自身が、この発言のちょうど1年前には、「われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思う」と明言していたことからすれば、見地を修正した、と確言してよいだろう。
 1990年末には、ソ連の存続・回復について一縷の望みがあり、可能性もあると思っていたところ、党が解体し、ソ連邦解体も必至になった、という現実=<情勢の変化>が、この<修正>をもたらした、に違いない。
 興味深く、かつ同感できるのは、こうした回答の前提にある、個人名は明らかではないが、「朝日新聞外報部」によるつぎのような質問だ。朝日新聞を基本的には信頼しないが、当時でも適確な、今日でもなお意味のある問いかけだ、と考えられる。
 日本共産党は「赤旗」等でソ連共産党とは「同根」ではないと繰り返し主張しているが、「もし、よってたつ基盤がもともとまったく違う相手ならば、ソ連共産党にたいして『逸脱』だとか『誤り』だと批判するのはおかしい。社会主義の仲間と考えるからこそ、正常化のために理論闘争をつづけたのではないか」(p.185)。
 このあと「日本共産党の対応はいまのソ連の事態から噴き出てくる火の粉を振り払うというご都合主義ではないのか」、「この点についていかがでしょうか」と続いている。
 朝日新聞の記者が<ご都合主義>との批判を宮本顕治・日本共産党に対して向けていることも面白いが、上に引用の部分自体は、すこぶるまっとうなものだ。
 <30年にわたってソ連(の覇権主義等)とたたかってきた>というのは<大ペテン>だと何度も書いてきたが、まさにこのペテンぶりを暴露する問いかけに他ならない。
 再言すれば、かりにソ連邦がアメリカ等と同様の自由主義・資本主義国であるならば、その政権党が日本共産党に対してどのような「干渉」等を行なおうと、大仰に<大国主義、覇権主義>だとかといって闘うことを日本共産党はしなかっただろう。「社会主義の仲間と考え」てきたからこそ、日本共産党は1960年代からソ連共産党やそれを政権党とするソ連邦と闘ってきたのではないか? それを、ソ連邦解体が明白になってから、ソ連邦・同共産党の「誤り」に早くから気づき、指摘して「たたかって」きた、とヌケヌケと主張するのは、欺瞞であり、卑劣な<ペテン>に他ならない、と思われる。
 つぎに、上の問いに対する宮本顕治の回答も、興味深い。
 「同根などというのはまったくの見当違いの攻撃だ」(p.186)と反応して、宮本顕治は「同根」論を全面否定している。
  その理由としてまず「たとえば民族自決の問題です」と語られ始めていることも、宮本がレーニン期とスターリン以降期の違いとしてこの時点で何を考ええていたかを示すものとして、面白い。そして、宮本の趣旨は、スターリン以降のソ連と<同質>ではない、ということなのかもしれない。
 しかし、そもそもスターリン→ブレジネフ等々のソ連邦と日本共産党は、マルクスやレーニンの「血」をひいたもので、その意味で「同根」ではないのだろうか。
 なるほど、日本共産党が1994年7月の党大会で採択したソ連観からすれば、同じソ連邦といってもレーニン期とスターリン以降期とではまったく(質的に)異なる国家または体制であって、スターリン以降はレーニンと「同じ根」を持っていない(これに対して、日本共産党はレーニンの正嫡子?であり、レーニンの「根」から育っている)、と日本共産党は言うのだろう。
 問題は、そのような詭弁?が通用するかどうかだ。さらにまた、上のような主張(詭弁?)を日本共産党はいつから公式に語るようになったのか、だ。
 したがって、上に一部引用の1991年末の時点での宮本顕治発言は、分かりやすいものではないし、歯切れがよいとも感じられない。 
 二 再度引用になるが、1991年12.23の日本共産党常任幹部会「ソ連邦の解体にあたって」はつぎのように述べていた(上掲書p.204)。
 「大局的にいって、ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、事態はいかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」(p.204)。
 ここでは、「科学的社会主義」という言葉が使われている。そして、1994年7月までの間、日本共産党は曖昧ながらソ連は「(現存)社会主義国」だったとの理解も示しているとともに、<「科学的社会主義」から逸脱していた>との理解も(上のように)示していることになる。
 あくまで推測になるが、この時期、日本共産党の幹部たちは、①スターリン以降すでにソ連邦は「社会主義」国ではなくなっていた、②スターリン以降のソ連邦もなおいちおうは「社会主義」国だったが、「科学的社会主義」からはすでに逸脱していた、の二つのいずれと理解するか、あるいは党員や国民向けにいずれと説明するかに、迷っていたのではなかろうか。あるいは、同じことだが、いずれと理解するかを明確にできなかった、のではないだろうか。
 上の②は、偽りのまたはふつうの「革新」ではない「真の革新」政党が日本共産党だというのと同じ言い方であり、ソ連は誤った「社会主義」国で、「真の社会主義」国ではなかった=「科学的社会主義」の国ではなかった、という言い方だ。
 だが、1994年7月に、日本共産党は上の②の論法を採用しないことに決めた。
 1930年代半ばにすでにソ連は「社会主義」への道から踏み外れていた=「社会主義」国ではなくなっていた、という歴史理解を採用することにしたのだ。これはこれで明確ではあるが、1991年以前に日本共産党が語ってきたこと、前提としてきたことと全く異なる歴史理解・ソ連理解ではある。その<変説>に対して批判が生じるのは、当たり前だろう。
 日本共産党は、状況に応じて、きわめて重要な、基本的な歴史「認識」すら、修正・変更する。むろん、今後もありうるだろう。
 <つづく>

1352/日本共産党の大ペテン・大ウソ19。

 一 前回(18)での叙述には、ソ連共産党の解体を1991年8月ではなく1990年8月と、日本共産党常任幹部会の<ソ連共産党解体歓迎>声明を1991年9月ではなく1990年9月と理解していた誤りがあった。したがって、これらと宮本顕治の1991年元旦の発言との関係を問題にする叙述は、すべて取り消す。<すでに6/15に必要な修正・削除をおこなった。>
 但し、宮本顕治(中央委員会議長)が1991年元旦に「赤旗」上で「われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思う」と公言していたことは、事実だ。
 したがってまた、その時点で宮本顕治はソ連共産党の解体もソ連邦の解体も見通せていなかったのであり、前回の元来の指摘と同じ程度ではないが、「日本共産党の指導者の、科学的な?予見・予測能力の完璧な欠如」も示すものだった、旨の指摘は基本的には当たっているだろう。
 つぎに、前回(18)、「しかし、『ソ連解体にさいして』日本共産党常任幹部会等が、上の宮本発言の論理的帰結であるような〔=残念だ旨の〕声明は出していないはずだし、また、逆に<(歴史的巨悪の?)ソ連邦の解体を歓迎する>という声明を出した痕跡もない」と書いた。
ソ連共産党解体とは別にソ連邦解体について、残念と感じるか歓迎するかのいずれの明確な反応もなかったようだ、との趣旨であり、誤っているわけではない。
 但し、日本共産党による反応が全くなかったわけではない。
 日本共産党の七十年/下(新日本出版社、1994)p.422-3にも言及されているように、1991年12月23日付(翌日「赤旗」掲載)で、日本共産党中央委員会常任幹部会「ソ連邦の解体にあたって」が発せられている。以下、日本共産党国際関係重要論文集24(同党中央委員会出版局、1993)による(p.203-5)。趣旨の理解について上記党史/七十年をも参考にすれば、次のように言う。
 ・ソ連共産党と国家としてのソ連邦の解体とは「次元を異にする問題」だが、「『歴史的巨悪』としての覇権主義」が「決定的要因となったことでは、共通の歴史的な状況がある」。(p.203)
 ・ソ連邦の解体の「最大の根源は、スターリンいらいの覇権主義および、その害悪に対するゴルバチョフ指導部の無自覚と無反省にあった」。(p.204)
 ・「大局的にいって、ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」。(p.204)
 ・「世界平和にとって重要な問題は、ソ連がもっていた核兵器がどうなるか」だ。「ソ連邦の解体とともに生まれた新しい情勢を、核兵器廃絶にすすむ積極的な転機とするために、あらゆる努力をかたむけることを、よびかける」。(p.205)
 以上、引用終わり。
 以上について特徴的なのは、<残念と感じるか歓迎するか>は明瞭ではないが、党の解体と同様に<スターリン以降の覇権主義>に原因があった、と淡々と分析?していることだろう。その意味では、前回紹介の宮本顕治発言よりも、<ソ連共産党解体歓迎>声明に近いかもしれない。
 ともあれ、ソ連共産党解体のときのような、<歓迎>声明そのままではない。したがって、ソ連共産党の場合と同様にソ連邦解体の場合も対応したとその後のまたは現在の日本共産党(・の幹部たち)が説明・主張しているとすれば、それは必ずしも正確な日本共産党の歴史ではない、と見られる。
 また、この時期には、ソ連共産党やソ連邦の解体の最大の原因を、日本共産党は<(大国主義・)覇権主義>に求めていた、ということを確認しておくべきだろう。レーニンの<市場経済から社会主義へ>の道をスターリン以降が覆したことに原因がある、あるいはこの道に対する態度がレーニンとスターリンの大きな違いだ、などという分析・説明は全くなされていない、ということだ。
 二 宮本顕治が、概念や論理の一貫性をもって思考している人物ではまったくないことは、上に言及の1991年元旦発言と、ソ連邦解体等のあとの翌年の1992年元旦付の「赤旗」上の発言を比べても分かる。前回と同様に宮本顕治・日本共産党の立場5(新日本文庫、1997)p.53-によるが、日本共産党国際問題重要論文集24(1993)にも収載されている。宮本は語る。
 ・「ソ連の崩壊は社会主義の崩壊ではなくて、社会帝国主義、覇権主義の破たんです。ソ連がスターリン・ブレジネフ型の、官僚主義・命令主義の体制となった結果、第二次大戦後の米ソ関係、東西関係は、資本主義体制対社会主義体制という対立から、一定の時期を経て、事実上は帝国主義と社会帝国主義の対立に転化した面があります」。(p.54)
 ・「ソ連、東欧の体制は崩壊したが、自分の誤りによって自壊したのであって、体制としての資本主義が社会主義にたいして最終的な勝利をおさめたわけではありません」。(p.55)
 以上は一部だが、誤っているとはいえなお<社会主義>国の一つと見ていたかのごとき1年前とは違って、解体したソ連等を突き放した、評論家ふう?の叙述になっている。自らと日本共産党に火の粉が降りかかるのを懸命に避けているようだ。
 また、上の発言の基本は1994年の日本共産党綱領改定にも継承されているようで、この時期の日本共産党の指導者たちの考え方が示されているだろう。
 しかし、宮本顕治が好んだかもしれない「社会帝国主義」というソ連に対する論難の仕方は、1994年およびその後の日本共産党の見解または語法としては採用されなかった、と見られる。
 また、資本主義が「最終的な勝利をおさめた」わけではない、という言い方をしているのは、<中間的には>資本主義が勝利していることを認めているようでもあり、興味深い。
 ところで、宮本顕治の発言等を追っていくと、この時期の日本共産党の最長老の現存の「教祖」らしい、<未来への確信をもって頑張れ>との宗教家的煽動の言葉が目につくが、ソ連について、つぎのようにも述べたようだ。1994年5月、すなわち同年7月の第20回党大会直前の中央委員会総会での一文だ。第19回党大会/日本共産党中央委員会総会決定集/下(同党中央委員会出版局、1994.08)による。
 「総会では、最後に宮本議長が閉会のあいさつ」を述べ、「…われわれの闘争いかんにかかっているのであり、甘い期待をもつのではなく、心をひきしめてたたかうべきことを指摘。//
 ソ連崩壊によって覇権主義の害悪とたたかう苦労から解放されたことはすばらしいことで、最後には真理は勝利することをしめしている、…、…とのべた」(p.463)。
 //は原文では改行でない。
 宮本顕治は1961年に正式に日本共産党の最高幹部になったとき、(すでにスターリンは死亡し、スターリン批判もあったが)ソ連邦をどのように理解していたのだろうか。解体してみれば、「ソ連崩壊によって覇権主義の害悪とたたかう苦労から解放されたことはすばらしい」と言ってのける神経の太さは並大抵ではない。
 なお、ここでは立ちいらないが、この時期の宮本顕治は<スターリン(指導下のソ連)にも良い面があった>、すべてを<精算主義>的に理解してはならない旨も強調している。そしてそれは、1994年改定綱領にも採用されたと見られる。第二次大戦時でのソ連邦のはたした役割等についてだ。
 しかし、2004年の綱領全面改定によって、スターリン(指導下のソ連)の<よい面>に関する記述は削除された。不破哲三体制の誕生を示していたのかどうか、この点にはいずれまた触れるだろう。
 <つづく>

1350/日本共産党の大ペテン・大ウソ18。

 少し元に戻る。
 1.日本共産党がソ連を<社会主義国ではなかった>と公式かつ明確に性格づけたのは、1994年7月の第20回党大会においてだった。
 既述だが、この1994年7月まで、ソ連は「社会主義」国ではなかった、と性格づけたことは、1991年12月のソ連(の公式)解体後も、一度もなかったと見られる。
1991年12月(ほぼ1992年1月)から1994年7月第20回党大会の直前まで、上の性格づけの明言はなく、まだ曖昧にであれ「社会主義」国の一種と見ていたと理解するほかはない文献上の根拠はすでに挙げたが(2016.05.19の「07」の3②)、いま一度、もう少し詳しく紹介しておく。
 2.上記第20回党大会の2月前の 1994年5月に発行された、日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下は次のように、その時点からは過去の同党大会について、叙述している。かりにすでに<「社会主義」国理解>を放棄していたとすれば、以下のような叙述にはならない、と考えられる。
 ①p.238-9- 1985年の第17回党「大会は、党綱領の内容をいっそう充実させる一部改正をおこなった」。「第一に、覇権主義の克服を綱領上の課題としてとりあげた」。「また、綱領の一部改正は、…、社会主義諸国、国際労働者階級、…、社会の社会主義的変革のためにたたかっている勢力は、『内部にそれぞれの問題点をもちながらも、社会の歴史的発展にそう活動』によって、今日の時代における『…を決定する原動力となりうるものであり』と規定し、これらの勢力が世界平和、…、社会進歩をめざして『ただしい前進と連帯をはかることが重要』と明記した。この規定は覇権主義、官僚主義などをもつ『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味していた。旧ソ連・東欧の体制の劇的破たんは、これらの規定の歴史的先駆性をあざやかにしめすことになった」。/〔改行〕
 「第二に、『資本主義の全般的危機』という規定を削除した。『資本主義の全般的危機』論は、①……、②社会主義体制が世界史を決定し資本主義体制の危機をふかめることを一面的に強調し、社会主義国依存の傾向をうみ、主体的力を軽視する傾向をうみがちであること、③社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよまり、帝国主義の態勢立て直しと延命をたすけているという情勢の変化がうまれたこと、-以上から誤った理解をうむ不適切な規定をとりのぞいた」。/〔改行〕、<第三、第四、第五および「その他」は省略>
 引用終わり。
 上のうち『』内は1985年改定綱領の中に含まれる文であり、それ以外の「」内は、1994年5月発行の上掲書自体の文章だ。1985年時点の日本共産党のソ連理解を忠実に反映しているとも言えるが、1994年5月時点で、「社会主義(諸)国」の中にソ連を含めて叙述していることは明らかだろう。
 ②p.377-8-「『社会主義崩壊』論による異常な反共攻撃と…のなかで、党は1990年7月9日から…、第19回党大会を、…ひらいた」。<中略>
 「大会は、『現存の社会主義体制をみるさい、レーニンが指導したロシア革命の最初の時期と、スターリンによる逸脱が開始されて以後の時期を区別して分析する必要がある』と指摘して、レーニンの死後『ソ連の体制は対外的には大国主義、覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制へと転換させられていった』ことを解明し、そのうえで『日本共産党は、……』と強調した」。<以下、略>
 引用終わり。上のうち『』内は1990年の党大会決定(または不破哲三幹部会委員長報告)の中に含まれる文であり、1990年7月時点で(ソ連共産党やソ連の解体は1991年)日本共産党がソ連を「現存の社会主義体制」の一つと見ていたことが分かるが、今のここでの文脈では重要なのは、1994年5月の日本共産党の文献が、上のように1990年時点のソ連理解をそのまま引用して「党史」を叙述していることだ。
 なお、日本共産党中央委員会・日本共産党の八十年(2003、日本共産党中央委員会出版局)は、上のような詳しい?叙述を回避している。
 3.1.不破哲三・ソ連・中国・北朝鮮-三つの覇権主義(新日本出版社、1992.11)、2.不破哲三・日本共産党に対する干渉と内通の記録-ソ連共産党秘密文書から/上・下(新日本出版社、1993.09)はいずれも、1991年12月のソ連解体と1994年7月の第20回党大会の間に書かれ、出版されている。
 注目されてよいのは、かなり分厚い上の2冊(または3冊)において、ソ連またはソ連共産党の覇権主義等々を厳しくかつ詳しく批判しながらも、ソ連は<社会主義国ではなかった>という旨の叙述は、いっさい存在しないことだ。
 かりにソ連解体後にソ連は<社会主義国ではなかった>と不破哲三または日本共産党がすでに?理解していたとすれば、上に述べたような叙述には決してならなかっただろうと思われる。
 上の1.の最初の大きなタイトルは、「ソ連共産党とたたかって三十年」だ。
 この30年とは1961年綱領・宮本賢治体制確立以降のことだと考えられるが、日本共産党・不破哲三の1994年7月第20回党大会以降の説明・主張によれば、1961年の時点でソ連はとっくに<社会主義への道>を踏み外し、<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっている。にもかかわらず、ソ連は<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっていた、そのような国家又はソ連共産党と「三十年」にわたって「たたかって」きた、というのならば、その旨がはっきりと叙述されているはずだろう。
 この点もまた、1991年12月と1994年7月の間、日本共産党はまだソ連を<社会主義国>と見ていた、あるいは少なくとも(下記の文献の一部も斟酌すれば)、ソ連共産党解散につづくソ連解体に遭遇して明瞭な見地に立ち得ず、<混乱していた>、ということの証左になる、と解される。
 4.1990年8月(日本共産党の第19回党大会の翌月)、ソ連共産党は解体した。
 日本共産党中央委員会常任幹部会は、1990年9月1日付で「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題する声明を発表した。同声明は述べる。以下、日本共産党中央委員会出版局・日本共産党国際問題重要論文集23(1992.01)、p.283~による。<後日6/15に訂正ー上に記した二箇所の1990年は、いずれも正しくは1991年>
 「ソ連共産党の解体は、…を直接の契機としたものであったが、長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたことは、これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。/〔改行〕
 「ソ連共産党が、スターリン・ブレジネフ時代から世界に及ぼしてきた大国主義、覇権主義の誤りが、二十世紀の世界史にもたらした重大な否定的影響は、はかりしれないものがあった。1940年の…、45年の…、56年の…、68年の…、79年のアフガニスタン侵略など、くりかえしおこなわれた野蛮な武力による民族自決権のじゅうりんは、ほんらい対外干渉と侵略には無縁である科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいにおおきな混乱をもたらした」。<以下、省略>
 引用終わり。
 上のうち、まず、ソ連共産党の罪悪として「科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいにおおきな混乱をもたらした」と(まず第一に、または基本的・総括的に)述べているにすぎないことが注目される。たんに「傷つけ」たにすぎず、「おおきな混乱」をもたらしたにすぎないのだ。
 つまりは、この声明の前提には、ソ連共産党も、(科学的)社会主義の理念を追求し、「平和と社会進歩のためのたたかい」をすべき政党だった、という見地があるものと理解して差し支えないだろう。
 したがってつぎに、この声明は(この時点ではまだ存在していた)ソ連邦は<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっている、という旨など、まったく述べていない、ということに注目しておかなければならない。
 1994年7月になってはじめて、上の旨を明確に述べたのだったから、上の点は当然かもしれない。しかし、ソ連共産党解体の時点で、ソ連を「(現存)社会主義国」の一つと見ていたことを、現在の日本共産党は正直に肯定しなければならない。
 なお、スターリン以後のソ連共産党およびソ連をどのように見ていたかということは、レーニンの時期との対比をどう説明していたかという、(ネップにもかかわる)第二の大きな論点に関係する。再び、上の叙述部分には言及することがあるだろう。
 5.<以下の叙述は、6/15に一部削除したうえでのもの>
 宮本顕治は、1991年1月1日付「赤旗」紙上で、年頭のインタビューに答えている。
 内容としてきわめて重大なのは、宮本のつぎの言葉だ。以下、宮本顕治・日本共産党の立場5(新日本文庫、1997.11)p.7以下の「情勢と科学的社会主義の本道」による。上記の、日本共産党国際問題重要問題集23にも収録されている。「ソ連の事態」についての質問を受けて語る中で、こう言う。
 「…残念ながら、ソ連の出口を科学的に解決できる勢力はいまのところ見あたらない。われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思うし、現在の経済危機も乗りこえてほといと思うわけですが、しかし、根は深いということです」(p.14)。
 以上、引用終わり。
 宮本顕治は、ソ連共産党という政党とソ連という国家をおそらくは確実に区別して、ソ連については「失敗は希望しないし、なんとか…立ち直ってほしいと思う」と明言し、1991年元旦の党の機関紙上で公にしていたのだ。
 このような言い方が、ソ連はすでに<社会主義の道から踏み外した>、<社会主義国ではもはやない>という理解から生じるはずがない。
 宮本顕治自身が、この時点で、きちんとまだ?、ソ連を「社会主義国」の一つと見ていたのだ。だからこそ、正しい姿へと「立ち直ってほしい」と明言していたわけだ。
 ここには、日本共産党の指導者の、科学的な?予見・予測能力の完璧な欠如も、示されている。宮本は、ソ連が(あるいは社会主義・ロシアが)正式に崩壊することを、全く見通せていなかった、ということになるだろう。
 また、日本共産党の常任幹部会は1991年9月にソ連共産党の解体を「もろ手をあげて歓迎」したのだったが、その一員であったはずの宮本顕治は1991年1月には、「ソ連の失敗は希望しない」と、ソ連邦については明言していたのだ。
 ところで、現在の日本共産党、あるいは不破哲三らは、1991年9月の<ソ連共産党解体歓迎声明>をもって、同党は<ソ連解体も歓迎した>というつもりでいるようだ。そのような趣旨の不破哲三らの文章に出くわすこともある。
 しかし、上の宮本顕治の言葉の論理的な延長は、<ソ連は解体(失敗)してほしくなかった。ソ連解体は残念だ>ということになるはずだ。
 だがしかし、「ソ連解体にさいして」日本共産党常任幹部会等が、上の宮本発言の論理的帰結であるような声明は出していないはずだし、また、逆に<(歴史的巨悪の?)ソ連邦の解体を歓迎する>という声明を出した痕跡もない。いったいどちらだったのだろう。
 日本共産党や同党幹部には知的または論理的な思考力や誠実さはまるでなく、もっぱら<政治的に>・<戦術的(・戦略的)に>、そのつど、無定見に、一見詳しくて、理論的?ふうの戯れ言を撒き散らしてきただけではないだろうか。
 -という、疑いをますます濃くさせる。
 もちろん、<ソ連と30年間にわたってたたかってきた>という言い分は、<大ペテン>だ。
 「社会主義国」ではないソ連や社会主義政党ではないソ連共産党と闘うのと、「社会主義国」の一つであるはずの、あるいは社会主義政党であるはずの、ソ連邦やソ連共産党と闘うのとでは、まるで意味が異なることは明白だろう。嗤ってしまう。

1349/日本共産党の大ウソ・大ペテン17。

 今回は「休憩」して、若干のメモを残すにとどめる。
 1 不破哲三・レーニンと「資本論」7ー最後の三年間(新日本出版社、2001)p.90-196(とくにp.120-2)、レーニン全集第33巻(大月書店、1959/1978の26刷)のとくにp.79-109。この二つを比較・確認しつつ読んだ。
 不破、そして志位和夫、そして日本共産党の<大ウソ>・<大ペテン>は明らかだ。
 何回かあとに詳しく述べる予定だ。
 気になること。兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞出版、2005)も関係文献で、「28項」の「ロシア革命は何であったか?」はネップにも分かりやすく言及している。
 しかし、p.443で兵本は、レーニンは「1922年秋頃」になるとトーンに「明らかな変化」を見せ、「我々は、社会主義に対する我々の見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない」と書いた、としている。この発言または文章は「市場経済を通じて…」論に有利であるかにも見えるが、進んで引用・紹介しそうなものなのに、不破哲三の上掲書には引用・紹介されていない(と思われる)。レーニンのいつの、(全集掲載ならば)レーニン全集各巻のどこに載っているのだろうか。1922年秋の11月にはコミンテルン大会でのレーニン生前最後の演説があったりするが、稲子恒夫・ロシアの100年(既出)の年表類でも上の旨の発言・文章は確認できない。
 2 ソ連について触れようとしつつ、いつから「共産党」になったのか、ソ連はいつ結成されたのかと迷うことがある。つぎのようにメモしておく。
 ①「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党(ボルシェヴィキ)」への名称変更-1918.03.
 ②「共産主義インターナショカル(コミンテルン)」<第三インター>結成大会-1919.03(→最後の第7回大会は1935.07-08)
 ③「ソヴィエト社会主義共和国連邦」結成-1922.12. 
 *1924.01、レーニン死去
 ④「ロシア共産党(ボ)」から「全連邦共産党(ボルシェヴィキ)」への改組-1925.12.
 3 日本共産党、不破哲三らの書いていること、主張していることは時期により大きくまたは微妙に異なっているので、いつの時期の文章か、とりわけいずれの綱領(改定)に関する報告等であるのか、に意識・留意しておかなければならない。以下もメモ。
 現在の日本共産党(宮本→不破→志位)は1961年綱領から出発していると理解しているので、それを含めてその後、以下の8つの綱領があったことになる。
   ①日本共産党1961年綱領 1961.07第08回党大会
   ②1973年、同・一部改定 1973.11第12回党大会
   ③1976年、同・一部改定 1976.07第13回臨時党大会
   ④1985年、同・一部改定 1985.11第17回党大会
   ⑤1994年、同・一部改定 1994.07第20回党大会
   ⑥ 2004年、同・全面改定 2004.01第23回党大会
   *④と⑤の間に<ソ連崩壊>があった。
以上。
 

0721/名越健郎・クレムリン機密文書は語る-闇の日ソ関係史(中公新書)第二章・つづき。

 名越健郎・クレムリン機密文書は語る-闇の日ソ関係史(中公新書、1994)の第二章「日本共産党のソ連資金疑惑」のつづき。
 1.途中までを読み直して前回の記入になったが、同じ問題はのちにも触れられている(p.114-)。
 ソ連崩壊後、日本共産党・不破哲三委員長はソ連共産党からの「資金」は「野坂、袴田らソ連との内通者」に渡ったもので、かつ「党への干渉、破壊活動」のために用いられた旨、<赤旗>紙上で書いた、という(p.114)。。
 1960年代の前半にすでに、「野坂、袴田ら」は<反党>活動をしていて、そのためにソ連「資金」は使われた、というわけだ。
 こんな詭弁が信じられるはずがない。
 「実際はソ連共産党国際部と日本共産党のパイプ役」だったとみられるイズヴェスチヤ紙東京特派員・ペトロフは、名越によると、1962年3月にモスクワの党中央に以下の秘密公電を送った(p.115-。一部抜粋)。
 1962.3.1に袴田里見とその妻が来訪し18時から21時まで話し合った。袴田は、ナウカ書店社屋建設費問題につき、融資が1200万円だが「5000万円という必要額に対して少ないうえに、野坂と宮本も賛成したこの要請に対し、モスクワがまたしても日本共産党中央委幹部会の正式決定の形で確認することを主張してきたことは理解できない」と不満を述べた。「野坂と宮本が賛成していて、…どうして正式決定を出すことができないのか」と問うと、袴田は「この種の問題はあまり広い範囲の人に知られるとまずいので、幹部会の審議に上げることは不適当だ」と何度も強調した。
 以上は直接の党活動への援助ではなく「ナウカ書店」への援助・融資に関する話だが、①「野坂と宮本」と袴田は、この件を知っていること、②少なくとも袴田は中央委「幹部会」の議題にする(そのメンバーには公にする)ことを避けたいと考えていたこと(野坂・宮本も同様だっただろう)、を明らかにしている(のちにモスクワで発見され公開された文書の一部だ)。
 上は一例にすぎないが、ソ連からの「援助」資金が、「野坂、袴田ら」「内通者」による<反党>活動に使われたとの不破哲三の主張は真っ赤なウソだろう。
 こうして公然とウソをついて自己および宮本顕治を中心とする日本共産党(主流派)を正当化しなければならなかったのだ。日本共産党中央や幹部は、あるいは個々の一般党員も、平然とウソをつくことがある。党のためならばそのことを恥じることのない、<非人間>的集団が日本共産党であり、現在も今後も変わらないだろう。
 名越のこの章の最後の一文は次のとおり。
 「『ソ連が最も恐れた自主独立の日本共産党』というスローガンはやや荷が重いようである」(p.125)。
 2.<野坂スパイ説>などに言及している部分にも関心はもつが、上の「資金」援助問題とともに大きな興味を持ったのは、日本の天皇制度に関する戦後のソ連共産党の態度だ。
 もともとの1927年・1932年のコミンテルンの「日本テーゼ」は「①天皇廃位、②地主の土地解放、③…」を内容としていて、日本共産党(コミンテルン日本支部)の綱領中に「天皇制打倒」も掲げられた。日本の敗戦をスターリン等のソ連共産党指導部が「革命・民主化闘争の好機」とみなしたことは当然だ。しかるに、ソ連(共産党)は日本の天皇制度廃止を積極的には主張しなかったようだ。以下、名越による(p.99-)。
 ソ連にとっての日本進出の手がかりは日本共産党だったが、党中央は存在せず(敗戦当時、徳田・志賀・宮本顕治らは獄中)、野坂参三に注目した。
 1945年10月初め、野坂と三人の日本人はソ連側のクズネツォフ、ポノマリョフらとモスクワで「秘密会談」をした。その内容はマレンコフ、ベリヤというスターリン直近に報告された。この報告文書も含めて、この会談に関する約100頁の文書が残されている。
 野坂は戦後日本での政治戦略を提示したが「社民路線」に近かった。野坂は10.31の会談で「天皇は政治、軍事的役割のみならず、神的な威信を備えた宗教的機能を果たしている」と述べて「天皇制存続を容認」した。より詳しくは-「大衆の天皇崇拝はまだ消えていない。…天皇制打倒のスローガンを掲げるなら、国民から遊離し、大衆の支持は得られないだろう」、戦前の打倒の要求は無力で不評だった、「戦略的には打倒を目指しても、戦術的には天皇に触れないのが適当だ。当面は…絶対主義体制の廃止、民主体制確立というより一般的なスローガンを掲げながら、天皇制存続の問題は国民の意思に沿って決定すると宣言した方が適当だろう」、「天皇の宗教的機能を残すことは可能だ。皇太子を即位させ、一切の政治的機能を持たない宗教的存在にとどめることもできる」(p.101-2)。
 クズネツォフはモロトフあて報告文書の中で「天皇制の問題に関する野坂の見解は賛同し得る」として同調した。ポノマリョフも1945.11.13付報告書で、「日本共産党」は「天皇ヒロヒトの戦争責任を提起し、息子の地位継承ないし摂政評議会の設立を要求する」のが望ましい、「基本的に日本の天皇は政治的、軍事的権力を削除し、宗教的機能だけにとどめるべきだ」と書いた。
 名越が「かもしれない」
と書くように、ソ連共産党指導部のかかる見解は、東京裁判で昭和天皇を訴追しないとしたアメリカおよびGHQの判断に影響を与えただろう。東京裁判に臨むソ連代表団が提出した「戦犯リスト」に(昭和)天皇の名はなかった(p.104)。
 さらにのちのエリツィン大統領時代に、大統領顧問・歴史家ボルコゴノフは、戦後「スターリンが天皇制存続を望み、昭和天皇を戦争犯罪人にする動きに反対を唱えた」ことを明らかにした。彼によると、スターリンはモロトフ外相に対して、昭和天皇に戦争責任を負わせる意見に反対すると文書通達し、モロトフは駐ソ米国大使に口頭で伝達した。
 ボルコゴノフはスターリンの上記見解の理由として、①日本の「米国型政治体制」移行・米国の傘下入りの防止、②各国の君主へのスターリンの敬意、③アメリカの訴追しない方針に異を唱えて衝突するのは好ましくないとの判断、等を挙げた(p.104)。
 野坂の柔軟な<平和革命>路線はコミンフォルムから1950年に批判をうけた。また、野坂は1992年に、天皇に対する自分の考えは「祖国を遠く、…長く離れて孤立した環境」にあったことも反映して「今日の時点からみれば妥協的にすぎたきらいがある」と自己批判した、という(p.102)。
 だが、野坂の1945.10のソ連共産党幹部に示した見解は、天皇不訴追、天皇制度護持、さらには憲法上の天皇条項の制定に、いくばくかの影響を与えた可能性は高いだろう。ソ連共産党がこれと異なる見解を持っていたとすれば東京裁判や新憲法がどうなっていたかは、歴史のイフではある。
 上述のことで興味を惹いたのは、上の経緯よりも、その中で野坂もソ連共産党幹部も、天皇には「(神的な威信を備えた)宗教的機能」があることを認め、この「宗教的機能」にとどめるべきだ、との見解であったようであることだ。
 しかるに、新憲法上の天皇関係規定はどうなったか。「軍事」的権能はなくなったが、形式的・手続的であれ「政治」的権能はなおも保持している。そして、重要なのは、憲法上は「宗教的機能」に関する明記はなく、むしろ政教分離原則(憲法20条)との関係で、かりに天皇(・皇族)が「宗教」的行為をすることがあってもそれは「国事行為」でも(象徴たる地位に由来する)「公的行為」でもなく、個人的・「私的」行為にとどまる、と通説的には解釈されているということだ。
 上のかぎりで、ソ連共産党幹部の一人が1945年秋に述べたという、「基本的に日本の天皇は政治的、軍事的権力を削除し、宗教的機能だけにとどめるべきだ」との考え方は、とくに「宗教的機能」については、現憲法上は実現されていない、と言い得る。
 ソ連共産党ですら(少なくとも当時は)、天皇の「宗教的機能」を容認し、肯定していたのだ。
 しかるに、何故それが公的には否定されることになったのか。GHQの<神道指令>、日本国憲法上の宗教関係規定の制定等の歴史に遡らなければならない問題だ。むろんここで立ち入る余裕はない。
 なお、野坂参三が1945年秋にモスクワで述べたという、「戦略的には打倒を目指しても、戦術的には天皇に触れない」、当面は「民主体制確立というより一般的なスローガンを掲げながら、天皇制存続の問題は国民の意思に沿って決定すると宣言した方が適当」という主張・路線は、現在の日本共産党の主張・路線と全く同じだ、と思われる。「戦略的には打倒を目指して」いる政党であることを忘れてはいけない。

-0016/日本共産党綱領を瞥見してみると面白く、楽しい。

 1991年のソ連解体と東欧諸国の「自由」化によって<冷戦>は終わったとも感じたが、東アジアには中国・北朝鮮・ベトナムがあり前二者は日本への現実的脅威なのだから、少なくとも東アジアでは<冷戦>は継続していると見るのが正しい。<冷戦>とは社会主義経済・共産党独裁政治と資本主義経済・自由主義政治の戦いであり、日本国内でも前者を目指す又は前者に甘い勢力は残存しているので(日本共産党・社会民主党・これら周辺の団体等)、国内での戦いも継続している。
 日本共産党もHPをもつことを今年になって知ったが、そこにある2004年改正同党綱領にはまず「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、1922年7月15日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された。」とあるが、ここですでに虚偽がある。戦後もかなり後からの造語「科学的社会主義」をさも当時の概念かのごとく使っているのは別としても、<共産主義インターナショナルの日本支部として、天皇制と日本帝国主義の打倒をめざして(=大日本帝国の敗戦・崩壊をめざして)、ソ連共産党の理論的・財政的援助を受けて設立されました。>と述べる方がより正確だ。そのあとで「たたかった」を6つ並べていて戦前に一貫して継続的に「たたかった」かのごとく書くが、これも虚偽=ウソ。長く見たとしても党としての活動は1934年くらいまでで、10年間以上は見るべきものはない。獄中で「帝国主義戦争反対」と念仏の如く呟くことも「闘い」だったというなら話は別だが。それに、1934年頃の中央委は半分以上がスパイで実質は特高にコントロールされていたのだ(笑っちゃうね)。22年以降一貫してでなく、1961年綱領・宮本体制の確立が実質的には現在の党の開始で、これは自民党、日本社会党よりも遅い。そのあと、「平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けた」、ポツダム宣言受諾は「日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にこそあることを示し」、「党が不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかったことを、証明した」と書く。よくもまぁヌケヌケととは、こういう文章にこそあてはまる。まずは自党の党員を騙す=洗脳しておく必要があるのはわかるが。
 共産主義、コミュニズムへの批判は絶えず意識的に行うべきだ。とくに共産党が現に活動している国では。
ギャラリー
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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