秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ソ連

2563/O.ファイジズ・NEP/新経済政策③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
 第9章の試訳のつづき。
 第7章、第8章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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 第9章・革命の黄金期?
 第五節
 (01) NEP は、革命が排除することを約束したがなしで済ますことがまだできない「ブルジョア文化」の残滓にとっての一時的猶予だった。
 NEP は、社会主義経済が必要とした専門的能力をもつ職業人階層—「ブルジョア専門家」、技術者、エンジニア、科学者—との闘いを、停止させた。
 それが意味したのはまた、宗教に対する闘いの緩和だった。教会はもう閉鎖されず、聖職者たちは従前のようには(あるいはのちのようには)迫害されなかった。
 啓蒙人民委員のLunacharsky のもとで、ボルシェヴィキは、寛大な文化政策をとった。
 今世紀の最初の20年間、ロシアの「白銀の時代」の芸術上のavan-garde は、30年代も流行し続け、多数の芸術家が、新しい人間とより精神的な世界を創造するという革命の約束から刺激を得ていた。//
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 (02) しかしながら、NEP は、ブルジョア的習慣と心性(〈byt〉と呼んだ)との闘いの中止を意味しなかった。 
 内戦の終焉とともに、ボルシェヴィキは、この文化戦線での長期の闘いを準備した。
 彼らは、革命の到達点は高次の—より共同的で、公共生活により活発に参加する—人間の創造だと考えた。そして、こうした人格を社会の個人主義から解放することに着手した。
 共産主義ユートピアは、こうした新しいソヴィエト人間(New Soviet Man)を設計すること(engineering)によって建設されるだろう。//
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 (03) ボルシェヴィキはマルクスから、意識は環境によって形成されると学んだ。
 そして、思考と行動の様式を変更する社会政策を定式化することから、この人間の設計という課題を開始した。//
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 (04) 家族は、彼らが最初に取り組んだ舞台だった。
 彼らは、「ブルジョア的家族」は社会的に有害だと見た。—宗教という砦、家父長的抑圧、「利己主義的な愛」は、ソヴィエト・ロシアが国家の託児所、洗濯場、食堂のある完全に社会主義のシステムへと発展するに伴い消滅するだろう。
 〈共産主義のABC〉(1919年)は、未来の社会を予見した。そこでは、大人たちは一緒に、彼らの共同社会の子どもたち全員の世話をするだろう。//
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 (05) ボルシェヴィキはまた、家族の絆を弱める政策も採用した。
 結婚を教会による統制から切り離し、離婚を単純な登録の問題に変えた。その結果として、世界で最高の離婚率となった。
 住居不足と闘うために、典型的には一家族一部屋で、一つの台所とトイレが共用の共同アパート(kommuki)を編制した。
 ボルシェヴィキは、人々を共同して生活させることで、人々はより集団的な性格になるだろう、と考えた。
 私的空間と私的財産はなくなるだろう。
 家庭生活は、共産主義的な友愛と組織に置き換えられるだろう。
 そして、個人は、相互の監視と共同社会の統制のもとに置かれるだろう。//
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 (06) 新しい様式の住居が、こうしたことを念頭に置いて、1920年代半ばに設計された。
 構築主義的な建築家は、「共同住宅」を設計した。それによると、衣類すらも含む全ての財産は住民が共同で使用するものになり、料理や子どもの世話のような家事は、交替制で諸チームに割り当てられ、全員が一つの大きな共同寝室で、男女で区別され、性行為のための私室が付くが、眠ることになる。
 この種の住居は、ほとんど建設されなかった。—あまりに野心的で、構築主義思考が短期間で政治的に受容されるには至らなかった。
 しかし、考え方自体は、ユートピア的想像やZamyatin の小説〈We〉(1920年)の中で、大きな位置を占めた。//
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 (07) 教育は、ボルシェヴィキにとって、社会主義社会の創成のための鍵だった。
 学校と共産主義青年同盟を通じて、彼らは、青年に新しい生活様式を教え込もうとした。
 ある理論家は、「柔らかい蝋のような子どもたちは可塑性が高く、優れた共産主義者になるはずだ。我々は家庭生活の邪悪な影響から子どもたちを守らなければならない」と宣言した。(注05)
 社会主義的諸価値の涵養は、ソヴィエトの学校のカリキュラムの指導原理だった。
 実際の活動を通じて子どもたちに科学と経済を教育することが、強調された。
 学校は、ソヴィエト国家の小宇宙として編制された。学習計画と成績は、図表や円グラフで壁に掲示された。
 生徒たちには、生徒評議会と「反ソヴィエトの考え方」の教師を監視する委員会を設置することが奨励された。
 学校の規則を破った子どもたちの学級「裁判」すらがあった。
 服従の意識を注入するために、いくつかの学校は、政治的な教練を導入した。それには、行進、合唱、ソヴィエト指導部に対する忠誠の誓約が伴っていた。//
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 (08) 子どもたちは、「革命家」の真似事をした。
 1920年代に最も人気のあった校庭遊びは、赤軍と白軍、ソヴィエトのカウボーイ・インディアンだった。それらでは、子どもたちが内戦の諸事件を演じ、特別に遊び用に売られていた空気銃がしばしば用いられた。
 もう一つは探索・徴発で、その遊びでは、一グループが徴発部隊の役を演じ、別のグループは穀物を隠す「クラク」として振る舞った。
 このような遊びが子どもたちに奨励したのは、世界をソヴィエト的に「仲間」と「敵」に分けること、正しい目的のために暴力を用いることを受容すること、だった。//
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 (09) 教育制度は、政治的には、活動家の生産と連動していた。
 子どもたちは、ソヴィエト・システムの実践と儀礼を教え込まれて、献身的な共産党員になるよう成長した。
 党は、とくに農村地帯での党員数拡大を必要とした。ボルシェヴィキ活動家の数が、人口に比してきわめて少なかったからだ。
 この世代—ソヴィエト・システムで初めて学校教育を受けた—は、党員の補充に適していた。//
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 (10) ソヴィエトの子どもたちは10歳で、1922年にボーイ・スカウト運動を範として設立された共産主義少年団(Pioneer)に加入した。そこで彼らは、「われわれ共産党の教条を断固として支持する」と誓約した。
 1925年までに5人に一人がこの組織に入り、その数は年々と増えていった。
 共産主義少年団員は頻繁に、行進、合唱、体操、スポーツを行なった。
 特別の制服(白シャツと赤いスカーフ)、団旗、旗、歌があり、それらによって団員は強い帰属意識をもった。
 この少年団から排除された者(「ブルジョア」出自が理由とされたのとほぼ同数いた)は、劣等感をもたされた。//
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 (11) 15歳で子どもたちは、少年団からコムソモール(共産青年同盟)へと進むことができた。
 全員が進んだのではなかった。
 1925年、共産青年同盟には100万の同盟員がいた。—15歳から23歳までの者全体の約4パーセントだった。 
 青年同盟に加入することは、共産党員としての経歴の第一歩だった。
 この組織は、熱狂者の予備軍として機能し、腐敗や悪用を非難する心づもりのあるスパイや情報提供者とともに、党の仕事を自発的に行なう者を提供した。
 この組織が強い魅力を持ったのは、まだ幼くて内戦で闘えなかったが、1920年代と1930年代の記憶で喚起された積極的行動礼賛の中で育った世代に対してだった。
 多数の者が、共産主義者であるからではなく、社会的活力を発散する場が他にないがゆえに、共産青年同盟に加入した。//
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 (12) Walter Benjamin は、1927年にモスクワを訪問して、こう書いた。
 「 ボルシェヴィズムは私的な生活を廃絶させた。
 官僚機構、政治活動家、プレスが力強くて、利害関心のための時間はほとんどこれらに集まっている。
 そのための空間も、他にはない。」(注06)
 人々は多くの面で、完璧に公共的生活を送ることを余儀なくされていた。
 革命は、公共的詮索から自由な「私的な生活」に対して寛容ではなかった。
 存在したのは党の政策ではない。人々が私的に行なう全てのことが「政治的」だった。—何を読んだり考えたりするかから、家庭の中で暴力的か否かに至るまでが。そして、これらは集団による譴責の対象となった。
 革命の究極的な狙いは、人々が相互監視と「反ソヴィエト行動」批判によって互いに管理し合う透明な社会を生み出すことだった。//
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 (13) 一定範囲の歴史家たちは、以下のことが達成された、と考えている。—1930年代までに、国家の公的文化の中で自分自身のidentity と価値観を喪失した「非リベラルなソヴィエト的主体」を生み出すこと。
 この解釈に従えば、ボルシェヴィキの公的な論議(discourse)によって定義された用語法から離れて個人が考えたり感じたりすることは、実際上不可能だった。また、異論を唱える全ての思考や感情は「自己の危機」と感じられる可能性が高く、強烈な個人による粛清が求められることになる。(注07)
 おそらくこれは、ある程度の人々に—学校やクラブで吹き込まれた若者、感受性の強い者たちや恐怖からこのようなことを信じた大人たちに—当てはまることで、このような人々はきっと少数派だった。
 現実には、人々は全く反対のことを主張することができた。—継続的な公共的詮索によって、自分の中に閉じ籠もり、自分自身のidentity を維持するためにソヴィエトへの順応の仮面をかぶって生きることを強いられた。
 彼らは、異なる二つの生活をすることを学んだ。
 一つは、革命の用語を口ずさみ、忠実なソヴィエト市民の一人として行動する。
 もう一つは、自分の家庭のprivacy の中で生きる。あるいは、自由に疑問を語ったり冗談を言ったりすることのできる、頭の中の内部的逃亡地で生きる。//
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 (14) ボルシェヴィキは、この隠された自由の領域を恐れた。
 彼らは、人々がその仮面の下で何を考えているかを知ることができなかった。
 彼ら自身の同志ですら、反ソヴィエト思想を隠している、ということがあり得た。
 ここで、粛清(purges)が始まった。—潜在的な敵の仮面を剥ぐというボルシェヴィキの必要から。
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 第五節まで、終わり。つづく。

2552/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナでのHolodomor⑧。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第五節。
 (01) 1986年4月26日、Scandinavia の放射線量測定器が奇妙で異常な測定値を示し始めた。
 ヨーロッパじゅうの核科学者たちは、最初は測定器の異常を疑い、警告を発した。
 しかし、数字は虚偽ではなかった。
 数日以内に、衛星写真は放射線の根源を正確に指摘した。北部ウクライナのChernobyl 市の原子力発電所。
 調査が行われたが、ソヴィエト政府は説明や手引きをしなかった。
 爆発の5日後に、80マイルも離れていないKiev では、メーデー行進が行われた。
 数千の人々が、市内の空気中の見えない放射能に気がつくことなく、ウクライナの首都の街路を歩き過ぎた。
 政府は、危険を十分に知っていた。
 ウクライナ共産党の指導者、Volodymyr Shcherbytskyi は、明らかに苦悩しながら、4月末に到着した。ソヴィエト書記長は個人的に彼に、パレードを中止しないように命じていた。
 Mikhail Gorbachev はShcherbytskyi に、こう言った。「パレードをやり損ったなら、きみは党員証をテーブルに置くことになるだろう」。(64)//
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 (02) 事故から18日後、Gorbachev は突如として方針を転換した。
 彼はソヴィエトのテレビに登場して、一般国民(public)には何が起きたかを知る権利がある、と発表した。
 ソヴィエトの撮影班は所定の場所へ行き、医師や地方住民にインタビューし、起こったことを説明した。
 悪い決定がなされた。
 タービン検査は間違っていた。
 原子炉は、溶解していた。
 ソヴィエト同盟全体から来た兵士たちは、くすぶっている遺物の上にコンクリートを注いだ。
 Chernobyl から20マイルの範囲内にいた者たちは全員が、曖昧なままで、家や農場を放棄した。
 公式には31名とされた死亡者数は、実際には数千名に昇った。コンクリートをシャベルで入れたり、原子炉の上でヘリコプターを飛ばしたりした兵士たちは、放射能のためにソヴィエト連邦の別の地方で死に始めた。//
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 (03) 事故の心理的な影響も、同様に深刻だった。
 Chernobyl は、ソヴィエトの技術能力の神話—多くの者がまだ信じていた数少ない一つ—を打ち砕いた。
 ソヴィエト連邦が国民に、共産主義は高度技術の将来を導くだろうと約束していたとしても、Chernobyl によって、人々は、ソヴィエト連邦はそもそも信頼できるのかという疑問を抱いた。
 より重要なことに、Chernobyl はソヴィエト連邦と世界に、ソヴィエトの秘密主義の過酷な帰結を思い起こさせることになった。Gorbachev 自身は現在とともに過去も議論することを拒むという党の方針を再検討したとしても。
 事故に揺り動かされて、ソヴィエト指導者は〈glasnost〉政策を開始した。
 字義通りには「公開性」、「透明性」と訳される〈glasnost〉によって、公務員や私的個人がソヴィエトの制度や歴史に関する真実を明らかにしようと勇気づけられた。1932-33年の歴史も含めて。
 この政策決定の結果として、飢饉を隠蔽するために張られた蜘蛛の糸の網—統計の操作、死者名簿の破壊、日記を書いていた者たちの収監—は、最後には解かれることになる。(注65)//
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 (04) ウクライナ内部では、過去の裏切り、歴史的大惨害の記憶を事故が呼び起こし、ウクライナ人は自分たちの秘密主義的国家を強く疑うようになった。
 6月5日、Chernobyl 爆発からちょうど6週間後、詩人のIvan Drach は公的なウクライナ作家同盟の会合で、立ち上がって語った。
 彼の言葉は、異様に感情が極まっていた。Drach の子息は適切な防護服を着けないで事故に派遣された若い兵士たちの一人で、今は放射線障害に苦しんでいた。
 Drach 自身は、ウクライナの近代化を助けるだろうとの理由で、原子力発電の擁護者だった。(注66)
 今では彼は、核の溶解、爆発を隠蔽した秘密主義による偽装のいずれについても、またそれらに続いた混乱について、ソヴィエト・システムの責任を追及した。 
 Drach は、公然とChernobyl を飢饉になぞらえた最初の人物だった。
 彼は、長い間喋って、「核の雷波はnation の遺伝子型を攻撃した」と宣言した。
 「若い世代は何故、我々から離れたのか?
 我々が、どう生きたか、今どう生きているかの真実を公然と語らず、話さなかったからだ。
 我々は欺瞞に慣れてきた。…
 1933年飢饉に関する委員会の長であるReagan 〔当時のアメリカ大統領〕を見るとき、1933年に関する真実に迫る歴史の研究所はどこにあるのかと、不思議に思う。」(注67)
 党当局はのちにDrach の言葉は「感情が噴出している」と否定し、彼の演説の内部的な筆写物ですら検閲した。
 「nation の遺伝子型」を攻撃する「核の雷波」—これは直接にジェノサイドを意味していると誤って広く記憶された言葉だった—は、「痛々しく攻撃した」に換えられた。(注68)//
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 (05) しかし、後戻りはできなかった。
 Drach の論評は、当時に聞いた者たちや、のちにそれを反復した者たちの感情を揺さぶった。
 事態は、きわめて迅速に進行した。〈glasnost〉は現実になった。
 Gorbachev は、よりよく機能させようと望んで、ソヴィエト諸制度の作動の欠陥を明らかにする政策を意図した。
 他の者たちは、〈glasnost〉をより広義に解釈した。
 本当の物語と事実に即した歴史が、ソヴィエトのプレスに出現し始めた。
 Alexander Solzhenitsyn やその他のグラクの記録者たちの著作が、初めて印刷されて出版された。
 Gorbachev は、Khrushchev 以来の、ソヴィエト史の「黒点」を公然と語る二番目のソヴィエト指導者になった。
 そして、Gorbachev は先行者とは違って、テレビで発言した。
 「ソヴィエト社会の適切な民主主義化の欠如は、…1930年代の個人崇拝、法の侵犯、恣意性と抑圧をまさに可能にしたものだ。—それはあからさまな、権力の悪用にもとづく犯罪だった。
 数千人の党員と非党員たちが、大量弾圧の犠牲になった。
 同志たちよ、これが苦い真実だ。」(注69)//
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 (06) 同じくすみやかに、〈glasnost〉は不十分であるとウクライナ人には感じられ始めた。
 1987年8月、指導的な反対派知識人であるVyacheslav Chornovil は30頁の公開書簡をGorbachev に送り、「表面的」にすぎない〈glasnost〉を始めたと彼を責めた。それは、ウクライナその他の非ロシア人共和国の「架空の主権性」を維持しているが、これらの国の言語、記憶、本当の歴史を抑圧している、と。 
 Chornovil は、ウクライナの歴史の「空白の問題」の一覧を自分で作成し、人々と事件の名称はまだ公式の説明に含まれていない、とした。すなわち、Hrushevsky、Skrypnyk、Khvylovyi、大量の知識人弾圧、national な文化の破壊、ウクライナ語の抑圧、そしてもちろん、1932-33年の「ジェノサイド的」大飢饉。(注70)//
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 (07) 他の者たちもつづいた。 
 スターリンによる犠牲者を記念するソヴィエトの社会団体である記念館(Memorial)のウクライナ支部は初めて、公然と証言録と回想記を収集し始めた。
 1988年6月、別の詩人のBorys Oliinyk は、悪名高いモスクワでの第19回党大会で立ち上がった。—この大会は史上最も公開的で論議があったもので、初めてテレビで生中継された。
 彼は、三つの論点を提起した。ウクライナ語の地位、原子力発電の危険性、そして飢饉。
 「数百万のウクライナ人の生命を奪った1933年飢饉の理由が、公にされる必要がある。
 そして、この悲劇について責任を負う者たちが、その氏名でもって明らかにされなければならない。」(注71)//
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 (08) このような論脈の中で、ウクライナ共産党は、アメリカ合衆国議会の報告書に対応する用意をしていた。
 困惑していた党は、ソヴィエト連邦が最後に弱体化している年月にしばしば行なったように、委員会を設置することを決定した。
 Shcherbytskyi は、ウクライナ科学アカデミーと党史研究所—これらは〈欺瞞、飢饉とファシズム〉出版の背後にあった組織だった—の学者たちに、一般的な非難に反駁する、とくにアメリカ合衆国の議会報告書が下した結論に対抗する、そのような任務を託した。
 委員会のメンバーたちはもう一度、公式に否定するつもりだった。
 それがうまくいくように、彼らには、公文書資料を利用することが認められた。(注72)//
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 (09) 結果は、予期しないものだった。
 学者たちの多くにとって、諸文書資料は驚嘆すべきものだった。 
 政策決定、穀物没収、活動家たちの抗議、市街路上の死体、孤児の悲劇、テロルと人肉喰い、に関する正確な説明が、諸文書資料には含まれていた。
 欺瞞はなかった。委員会はこう結論づけた。
 「飢饉の神話」も、ファシストの謀みもなかった。
 飢饉は、実際に存在した。飢饉は起きた。それを否認することはもはやできなかった。//
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 第15章第五節、終わり。

2547/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第三節①。
 (01) 第二次大戦の終了は、元の状態への回帰を意味したのではなかった。
 ウクライナの内部では、戦争は体制の言語の意味を変更した。
 ソヴィエト連邦に対する批判はもはや「敵」を意味するだけではなく、「ファシスト」または「ナツィス」になった。
 飢饉に関するどんな会話も、「ヒトラーたちのプロパガンダ」だった。
 飢饉の記憶は、箪笥や引き出しの奥深くに閉じ込められ、それに関して議論することは、裏切りになった。
 1945年に、最も雄弁にホロドモールに関する日記をつけていた者の一人であるOleksabdra Radchenko は、まさにその私的な文章を理由として追及された。
 彼女のアパートが探索されているあいだに、秘密警察がその日記を没収した。
 彼女は、つづく6ヶ月間の尋問で、「反革命の内容の日記」を書いたとして責められた。
 裁判では、彼女は裁判官に、こう言った。
 「書いた主な理由は子どもたちに残すことでした。
 社会主義を建設するためにどんな暴力的方法が用いられたかを、20年後に子どもたちが信じないだろうがゆえに、書きました。
 ウクライナの人々は、1930-33年に恐怖で苦しめられました。…」
 その訴えは聞き入れられず、彼女は10年間、収容所に送られた。ウクライナに戻ったのは、ようやく1955年だった。(注32)
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 (02) 新しい恐怖の記憶も、1933年のそれを包み隠した。
 1941年には、Babi Yar 渓谷でのKyiv のユダヤ人の殺害があった。
 Kursk の戦い、Stalingrad の戦い、Berlin での戦い、これらはみな、ウクライナ人兵士がとともに闘ったものだった。
 戦争捕虜収容所、強制労働収容所、帰還者浄化収容所、大虐殺と大量逮捕、燃え落ちた村と破壊された田畑—これらが全て、今ではウクライナの物語の一部にもなった。 
 ソヴィエトの公式の歴史書では、第二次大戦がこう称されるようになった「大祖国戦争」が、研究と記念の中心になった。これに対して、1930年代の抑圧については決して語られなかった。
 1933年は、1941-44年および1945年の背後に隠された。//
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 (03) 戦後の混乱で1946年はすでに良くなかった。苛酷な食料徴発の復活、大旱魃—そして再び、今度はソヴィエトが占領した中央ヨーロッパに食糧を与えるためにだが、輸出の必要—は、食料の供給を崩壊させた。
 1946-47年に、250万トンのソヴィエトの穀物が、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアへ、そしてフランスへすら、輸出された。
 ウクライナ人は都市でも地方でももう一度飢餓へと向かい、ソ連全体でも同様だった。
 食料剥奪に関連した死者数はきわめて多く、また、数百万人が栄養失調になった。(注33)//
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 (04) ウクライナ以外でも、状況は変わった。それは、きわめて異なる方向に向かってだった。
 1945年5月にヨーロッパでの戦争が終わったとき、数十万のウクライナ人は、他のソヴィエト市民と同様に、自分たちがソヴィエト連邦の境界の外側にいることに気づいた。
 多数の者たちが強制労働収容所におり、工場や農場で働くためにドイツに送られていた。
 ある人々はドイツ軍と一緒に退却し、あるいは赤軍に帰還する前にドイツへと逃亡した。その人々は、飢饉を体験していたので、ソヴィエト権力が再び課そうとする何物も持っていないことを知っていた。
 Odessa 出身の農学専門家で飢饉を目撃していたOlexa Woropay は、ドイツの都市のMünster 近傍の「離散者収容所」にいた。 そこで彼とその同僚たちは、「軍用車庫から転換した大きな小屋」で生活していた。
 1948年の冬、彼らがカナダかイギリスに送られるのを待っている間、「何もすることがなく、夜は長くて退屈だった。時間つぶしのために、自分たちが経験したことを話した」。
 Woropay がその物語を書き留めた。(注34)
 数年後に、それはThe Ninth Circle という表題の小さな書物となって出版された。//
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 (05) 当時には影響はほとんどなかったけれども、〈The Ninth Circle〉は今では魅力的な読み物だ。
 飢饉のときにすでに成人で、飢饉をまだ生々しく憶えていて、原因と帰結を考察する時間があった人々の考え方が、その書物には映されている。 
 Woropay は、数年前のSosnovyi と同様に、飢饉は意識的に組織された、スターリンは飢饉を慎重に計画した、飢饉は最初からウクライナを従属させて「ソヴィエト化する」ために意図された、と主張した。
 彼は、集団化のあとの反乱をこう叙述し、それが持った意味をこう説明した。
 「モスクワは、これがさらなるウクライナ戦争だと理解しており、1918-21年の解放闘争を思い出して怖れもしていた。
 モスクワはまた、経済的に自立したウクライナが共産主義に対していかに大きな脅威となるかを、知っていた。—とくに、民族意識が高くて道徳的にも強いために独立し統一したウクライナという考えを抱く、相当に大きい要素が、ウクライナの村落にはある、と。…
 赤色のモスクワはゆえに、3500万人の強固なウクライナnation が抵抗する力を破壊する、最も軽蔑すべき計画を採用した。
 ウクライナの強さは、飢饉でもって破壊されるべきものとされた。」(注35)
 Woropay と同じ離散者のその他の者も、こうした見方に同調していた。
 彼らは至るところで自発的に、ウクライナの歴史の転換点として飢饉に注目し、追悼するために、飢饉に関して論じるのを開始した。
 1948年、ドイツの、多くは離散者収容所にいたウクライナの人々は、飢饉の15周年を記念した。
 Hanover では、飢饉は「大量虐殺」だと叙述するビラを配布し、デモ行進を組織した。(注36)
 1950年、バイエルンにあるウクライナ語の新聞は、占領下のKharkiv で最初に公刊されたSosnovyi 論考を再掲載し、その結論を繰り返した。すなわち、「飢饉は、ソヴィエト体制によって組織された」。(注37)//
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 (06) 1953年、Semen Pidhainy という名のウクライナからのエミグレは、さらに一歩進めた。
 クバーニ(Kuban)のコサック家庭に生まれた彼は、長いあいだ収容所にいた。
 逮捕され、Solovetskii 島の強制収容所に収監されたのち、彼はナツィによる占領の前に解放され、戦争中はKharkiv の市役所で働いていた。
 1949年にトロントに移り、そこでウクライナの歴史の研究と普及に没頭した。
 ドイツにいるウクライナ人と同様に、彼の目標は道徳的であるとともに政治的だった。
 彼は、記憶し、哀悼したかった。しかしまた、ソヴィエト体制の残虐で抑圧的な本質へと西側の人々の注目を引きたかった。
 冷戦の初期の時点では、ヨーロッパと北アメリカの多くの部分にまだ、強い親ソヴィエト感情があった。 
 Pidhainy とウクライナからの離散者たちは、これと闘うことに専念した。//
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 第三節②へとつづく。

2544/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor②。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第二節①
 (01) 1941年6月22日、ヒトラーがソヴィエト同盟に侵攻した。
 ドイツ軍は11月までに、ソヴィエト領ウクライナのほとんどを占領した。
 つぎにどうなるかが分からないまま、多くのウクライナ人は、ユダヤ系ウクライナ人ですら、最初はドイツ兵団を歓迎した。
 ある女性はこう思い出す。
 「少女たちはしばしば兵士に花を捧げ、人々はパンを与えたものだ。
 我々はみんな、彼らを見て嬉しかった。
 彼らは、我々から全てを奪って飢えさせた共産主義者から救ってくれようとしていたのだ。」(注7)
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 (02) バルト諸国も、同様にドイツ軍を歓迎した。これら諸国は、1939年から1941年まで、ソ連に占領されていた。
 コーカサスとクリミアも同様に、ドイツ兵団を熱烈に迎えた。これらの住民たちがナチスだったのが理由ではない。
 非クラク化、集団化、大量テロルと教会に対するボルシェヴィキの攻撃によって、ドイツ軍がもたらすものについて、幼稚で楽観的な見方が生まれていた。(注8)
 ウクライナの多くの地方で、ドイツ軍の到来とともに、自発的な非集団化が発生した。
 農民たちは後方地を奪ったのみならず、ラッダイト(Luddite)の憤激のようにトラクターや複式収穫機を破壊した。(注9) 
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 (03) 大騒ぎは、すぐに終わった。—そして、ドイツによる占領のもとでのよりましな生活を望んだ全ての者たちの期待は、すみやかに消滅した。
 つぎにどうなったかの十分な説明は、この書物の射程を超えている。ウクライナにナツィスがもたらした苦難は、広範囲で、暴力的で、ほとんど理解できないほどの規模で残虐なものだったからだ。
 ソ連に来るまでに、ドイツは他国を破壊する多数の経験をもっていた。そしてウクライナでは、自分たちがどうしたいのかを知っていた。
 ただちにホロコーストが始まり、遠く離れた収容所でのみならず、公然と繰り広げられた。
 ドイツ軍は、移送をするのではなく、隣人たちの面前で、村落の端や森の中で、ロマ人やユダヤ人の大量の処刑を敢行した。
 ウクライナのユダヤ人の三分の二が、戦争の全過程を通じて死んだ。—80万人と100万人の間。この割合は、大陸全体で死んだ数百万の現実的部分のそれよりも大きい。//
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 (04) ヒトラーによるソヴィエトの犠牲者の中には、200万人以上の戦争捕虜も含まれていた。彼らのほとんどは病気か飢餓のために死に、また、多くはウクライナの領域で死んだ。
 人肉喰いが、再びウクライナで発生した。
 Kirovohrad の第306捕虜収容所では、監視兵が収監者が死んだ仲間を食べていると報告した。
 Volodymyr Volynskyi の第365捕虜収容所での目撃者は、同じことを報告した。(注10)
 ナツィの兵士と警察官は、その他のウクライナ人を、とくに公職の役人たちから強奪し、打ちのめし、恣意的に殺害した。 
 ナツィの人種階層では、スラヴ人は下層人間(Untermenschen)『“で、おそらくはユダヤ人よりも一階位上だったが、偶発的な抹殺の候補になった。
 ドイツ軍を歓迎した者の多くには、ドイツは一つの独裁制を新しい独裁制に変更した、ということが分かった。とりわけ、ドイツが新たな移送の波を打ち寄せ始めたときに。
 戦争のあいだに、ナツィ兵団は、200万人以上のウクライナ人をドイツの強制労働収容所に送り込んだ。(注11)
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 (05) ウクライナを占領した全ての諸国と同じく、ナツィスも究極的にはただ一つの現実的な関心をもっていた。すなわち、穀物。
 ヒトラーは以前から、「ウクライナの占領は全ての経済的不安から我々を解放する」、ウクライナの領土は「誰も前の戦争のように我々をもう一度飢えさせることができなくなる」のを保障する、と主張していた。
 1930年代の遅く以降、ヒトラー政権はこの願望を現実に変えようとしてきた。
 Herbert Backe という食料と農業を担当した悪辣なナツィ官僚は「飢餓計画」を構想したが、その目標は率直だった。すなわち、「戦争の三年めに全軍がロシアで食べていけてはじめて、戦争に勝つことができる」。
 しかし、軍全体は、ドイツ自体もそうだが、ソヴィエト国民が食糧を奪われてはじめて、自分は食べていくことができる、とも結論づけていた。 
 1941年6月に1000名のドイツの官僚たちに回覧された覚書にもあるが、彼は5月に出版した「経済政策指針」でこう説明した。
 「信じ難い飢餓がまもなくロシア、ベラルーシおよびソヴィエト連邦の産業都市を襲うだろう。Kyiv 、Kharkiv はもちろんモスクワやレニングラードでも。
 この飢饉は偶発的なものではないだろう。目標は、およそ三千万の人々が『死に絶える』(die out)ことだ。」(注12)
 征服した領域の活用を所管する東方経済部員(Staff East)への指針は、厳としてつぎのように述べていた。
 「この領域の数千万もの多数の人々は不必要になり、死ぬかまたはシベリアへと移住しなければならないだろう。
 〈黒土地帯からの余剰分を使って飢餓による死から彼らを救う試みは、ヨーロッパへの供給を犠牲にしてのみ成り立ち得る。
 そのような試みは、ドイツが戦争に踏み出すのを妨げる。
 ドイツとヨーロッパが封鎖に対抗する妨げになる。
 このことは、絶対的に明瞭だ。〉」[強調〔=〈〉〕は原文のまま](注13)
 これは、何倍も大きくしたスターリンの政策だった。飢餓による民族(nations)全体の抹殺。//
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 (06) ナツィスには、この「飢餓計画」をウクライナで完全に実施する時間的余裕がなかった。
 しかし、その影響はその占領政策に感じ取ることができた。
 集団農場からの食料徴発の方が容易だという理由で、自発的な非集団化はすぐに停止された。
 Backe は、「ドイツ人は、ソヴィエトがすでに整えていないならば、集団農場を導入しなければなければならなかっただろう」と報告的に説明した。(注14)
 1941年には、農場は「協同組合」へと転換させることが意図されたが、それは起きなかった。(注15)//
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 (07) 飢餓も、戻ってきた。
 スターリンの「焦土」政策が意味したのは、ウクライナの経済的資産の多くが赤軍を退却させたことですでに破壊されている、ということだった。
 占領によって、状況はそこにとどまった人々にはさらに悪くなった。
 Kyiv が9月に陥落する直前に、帝国経済大臣のHermann Göring は、Backe と会談した。
 二人は、都市部の住民が食物を「むさぼる」(devour)のが許されてはならない、ということで一致した。「もし誰かが新たに占領した領域の住民全員に食を与えたいと望んだとしても、そうすることはできないだろう」。
 SSのHeinrich Himmler は数日後にヒトラーに対して、Kyiv の住民は人種的に劣っており、不要なものとして処分することができる、と言った。
 「彼らの80-90パーセントなしで、容易に済ませられる」。(注16)//
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 (08) 1941年冬、ドイツは都市部への食料供給を断ち切った。
 固定観念とは逆に、ドイツ当局はソヴィエトのそれよりも有能ではなかった。つまり、農民取引者たちは暫定的な非常線を通過した—1933年にそうするのは困難だと気づいていた。そして、数千人の人々が再び食料を求めて道路や鉄道を利用した。
 それにもかかわらず、食糧不足は、占領地帯で増大した。
 もう一度、人々は膨らみ、痩せ、遠くを見つめ、そして死に始めた。
 その冬、Kyiv で5万人が飢餓のために死んだ。
 ナツィの司令官が非常線で遮断していたKharkiv では、1942年5月の最初の二週間で、1202人が飢餓のために死んだ。
 占領期間中の飢餓による全死者数は、約2万人に達した。(注17)//
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 (09) こうした論脈の中で、ウクライナの1933年飢饉に関して公然と語るのが初めて可能になった。—残虐な占領のもとでの苦難と混沌、そして新たな飢饉の発現の中で。
 状況によって、物語の語られ方が形成された。
 占領のあいだ、議論の目的は生存者が嘆き悲しんだり、回復したり、正直な記録を生んだり、あるいは将来のための教訓を学んだりするのを助けることでは、なかった。
 過去を思い出すようなことを望んだ人々は、失望していた。
 飢饉についての秘密の日記類を守り続けた農民たちの多くは、日記類を地下から掘り出し、地方の新聞社へ持ち込んだ。
 しかし、「不幸なことに、編集者たちの多くは、今になっては過去の時代のことに興味がなかった。そして、こうした貴重な歴史的記録は公表されなかった」。(注18)
 その代わりに、この編集者たち—仕事と生活を新しい独裁制に依存していた—のほとんどが、ナツィのプロパガンダに奉仕する記事を掲載した。
 この者たちには、議論の目的は、新しい体制を正当化することだった。//
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 (10) ナツィスは実際には、ソヴィエトによる飢饉について多くのことを知っていた。
 その飢饉が起きているあいだ、ドイツの外交官はベルリンへの報告書で詳細に飢饉に関して叙述していた。
 Joseph Goebbels は、1935年のナツィ党大会の演説で、飢饉に言及した。彼はそこで、500万人が死んだと発言した。(注19)
 ドイツ軍が到着した瞬間から、ウクライナ占領者たちは、彼らの「イデオロギー的工作」のために飢饉を利用した。
 彼らが望んだのは、モスクワに対する憎悪が増幅すること、ボルシェヴィキによる支配の結果を人々が思い出すこと、だった。
 彼らがとくに熱心だったのは田園地帯のウクライナ人に達することで、ドイツ軍が必要とする食料の生産のためにはそうした努力が要求された。
 プロパガンダ用ポスター、壁新聞、時事漫画が、不幸で半ば飢えた農民たちを描いた。
 あるやせ細った母親とその子どもは、「これがスターリンがウクライナにしたことだ」というスローガンのある荒廃した都市を見た。
 別の貧しい一家は、「同志たちよ、生活はよくなった、愉快になった」というスローガンの下で、食物のないテーブルに座っていた。—このスローガンは、有名なスターリンからの引用句だった。(注20) //
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 第二節②へとつづく。

2543/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor①。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 邦訳書は、たぶん存在しない。この書の本文全体の内容・構成は、つぎのとおり。
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 緒言
 序説—ウクライナ問題。
 第1章・ウクライナ革命、1917年。
 第2章・反乱、1919年。
 第3章・飢饉と休止、1920年代。
 第4章・二重の危機、1927-29年。
 第5章・集団化—田園地帯での革命、1930年。
 第6章・反乱、1930年。
 第7章・集団化の失敗、1931-32年。
 第8章・飢饉決定、1932年—徴発、要注意人物名簿、境界。
 第9章・飢饉決定、1932年—ウクライナ化の終焉。
 第10章・飢饉決定、1932年—探索と探索者。
 第11章・飢餓—1933年の春と夏。
 第12章・生き残り—1933年の春と夏。
 第13章・その後。
 第14章・隠蔽。
 第15章・歴史と記憶の中のHolodomor。
 エピローグ・ウクライナ問題再考。
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 すでにこの欄に掲載したのは、冒頭の「緒言」と「序説」。
 以下、第15章(とエピローグ)を試訳する。 
 Holodomor(ホロドモール)の意味は、本文の中で語られるだろう。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール(Holodomor)。
 第一節。
 (01) 飢饉のあとの数年間、ウクライナ人は、起きたことについて語るのを禁止された。
 彼らは、公然と嘆き悲しむのを怖れた。
 大胆にそうしようとしても、祈ることのできる教会はなく、花で飾ることのできる墓石もなかった。
 国家がウクライナの農村地帯の諸団体を破壊したとき、公的な記憶も攻撃された。
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 (02) しかしながら、生存者たちは、私的に記憶していた。
 彼らは、起きたことについて、実際に書き残し、または頭の中に憶えた。
 ある者が思い出すように、日記を「木箱に鍵をかけて」守りつづけ、床下に隠したり、地下に埋めたりした人々もいた。(注2)
 農村では家族内で、人々は何が起きたかを子どもたちに話した。
 Volodymyr Chepur は、彼の母親が彼女と彼の父親の二人は食べるためにあった全てのものを彼に与えようとした、と話してくれたとき、5歳だった。
 自分たちが生き残ることができなくとも、証言することができるように彼が生きるのを、両親は望んだ。
 「私は死んではならない。大きくなったとき、我々とウクライナ人がどのように苦悶の中で死んだかを、人々に語らなければならない。」(注3)
 Elida Zolotoverkha 、日記を残していたOleksandra Radchenko の娘も、子どもたち、孫たち、さらにひ孫たちに、日記を読んで、「ウクライナが体験した恐怖」を記憶しておくように言った。(注4)//
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 (03) 多くの人々が私的には繰り返したこうした言葉は、彼らの痕跡を残した。
 公的な沈黙によって、それらの痕跡はほとんど秘密の力をもった。
 1933年以降、こうした物語は選択し得るいずれかの話になった。飢饉に関する、情緒的に力強い「本当の歴史」か、公的な否認と並んで成立して大きくなる口伝えの伝承か。//
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 (04) 彼らは党が公的議論を統制するプロパガンダ国家で生きたけれども、ウクライナ内の数百万のウクライナ人は、選択し得るこの話を知っていた。
 分裂の感覚、私的な記憶と公的な記憶の乖離、民族的哀悼のうちににあったに違いない大きく裂けた穴。—これらは、ウクライナ人を数十年にわたって苦しめた。
 両親がDnipropetrovsk で飢餓によって死んだあと、Havrylo Prokopenko は、飢饉について考えるのを止めることができなかった。
 彼は学校のために、飢饉に関する物語をそれにふさわしい絵図つきで書いた。
 教師はその作業を褒めたけれども、捨てるように言った。彼が、そして自分が、面倒なことに巻き込まれるのを怖れたからだった。
 このことは彼に、何かが間違っている、という感情を残した。
 なぜ、飢饉のことに触れることができないのか?
 隠そうとしているソヴィエト国家とは何だ? 
 Prokopenko は、30年後に、地方のテレビ局で、「飢えて黒い人々」に関する一節を含む詩歌を何とか読むことができた。
 地方当局からの威嚇的な訪問がそのあとでつづいた。しかし、彼はいっそう確信するようになった。ソヴィエト連邦(the USSR)はこの悲劇について責任がある、と。(注5)//
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 (05) 記念する物が存在しないことで、Volodymyr Samoiliusk も苦悩した。
 彼はのちのナツィの占領を生き延びて第二次大戦で戦闘したけれども、飢饉の体験以上に悲劇的だと思えるものは何もなかった。
 記憶は数十年間彼にとどまり続け、彼は、飢饉が公式の歴史の中に現れるのを待ち続けた。
 1967年に彼は、1933年に関するソヴィエトのテレビ番組を観た。
 彼は画面を凝視して、記憶している恐怖に関する映像を待った。
 しかし、第一次五ヶ年計画の熱狂的英雄たち、メーデー行進、さらにその年からのサッカー試合すら、の画像は見たけれども、「おぞましい飢饉に関しては、一言も発せられなかった。」(注6)
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 (06) 1933年から1980年代の遅くまで、ウクライナ内部での沈黙は、全面的(total)だった。—瞠目すべき、痛ましい、そして複雑な例外はあったけれども。
 ——
 第一節、終わり。

2532/O.ファイジズ・ソ連崩壊③。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
 ——
 第19章・最後のボルシェヴィキ
 第三節。
 (01) グラスノスチ(glasnost、情報公開)は、Gorbachev の改革の中の本当に革命的な要素で、システムをイデオロギー的に解体する手段だった。
 ソヴィエト指導者は政府に透明性を与え、改革に反対するBrezhnev 保守派たちの力を削ぐことを意図した。 
 グラスノスチの初期の呼びかけは、1986年4月のChernobyl 原発事故—史上最悪でヨーロッパの多くに影響を与えた—のはずべき隠蔽によって強化された。
 しかし、glasnost の影響は、Gorbachev の統制を超えて急速に大きくなった。//
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 (02) 検閲を緩和した glasnost は、党はマスメディアを掌握できないことを意味した。マスメディアは、従前は政府が隠していた社会的諸問題を暴露し(劣悪な住居、犯罪、生態学的破綻、等)。それによってソヴィエト・システムへの民衆の確信を掘り崩した。//
 ----
 (03) ソヴィエト史に関する暴露も、同様の効果をもった。
 次から次に、システムを正当化する神話は、新たに公にされた文書や外国で翻訳されて出版された書物で明らかになった暗い事実だとして、攻撃に晒された。その神話とは、資本主義社会に対する物質的かつ道徳的優位、ナツィズムを打倒したという名誉、集団化と五ヵ年計画による国の近代化、大衆を基にした1917年10月の革命による創設、といったものだ。
 メディアは毎日、この国の暴力的歴史の「黒点」が多数つまった暴露を掲載した。大量テロル、集団化、飢饉、Katyn の虐殺の詳細。グラク(強制収容所)の恐怖、偉大な愛国戦争でのソヴィエト兵の生命の無謀な浪費の全容。
 これらは、ウソと半分真実が混じったものとして、こうした事件の公式の記録を暴露することによって、体制の信頼性と権威を揺るがせた。//
 ----
 (04) 人々の信頼は政府から離反していった。—その多くは、こうした真実を暴露したメディアに原因があった。
 最も大胆な新聞や雑誌は、途方もなく売れた。
 〈Argumenty i fakty〉(論争と事実)の週間予約購読者数は、1886年から1990年のあいだに、200万から3300万に増えた。この週刊誌はプロパガンダ機関であることをやめ、かつて秘密だった事実やソヴィエトの生活についての批判的見解を伝えるソースになった。
 毎金曜日の夜に、数千万人の若者たちが、〈Vzglyad〉(View)という番組を観た。この番組は、ソヴィエトの検閲による制約はもちろん、個人的好みの限界をも無視して、今日的問題に関するテレビ編集、インタビュー、歴史の探索に突進した(やがて1991年1月に禁止された)。//
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 (05) Glasnost は、社会を政治化した。
 独立の公共的団体が結成された。
 1989年3月までに、ソヴィエト同盟には6万の「非公式の」グループやクラブがあった。
 これらは、街頭で集会を開き、デモ行進に参加した。多くは、政治改革、市民の権利、ソヴェト諸共和国や地域の民族的独立性、あるいは共産党による権力独占の廃止を呼びかけるものだった。
 大都市では、1917年の革命的雰囲気が蘇ってきていた。//
 ——
 第三節、終わり。

2531/O.ファイジズ・ソ連崩壊②。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 第19章の試訳のつづき。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第二節。
 (01) Gorbachev は、レーニン主義の理想から始めた。
 脱スターリン化の基本方針がその政治的発展の契機となったKhrushcev のように、Gorbachev は、「レーニンへの回帰」の可能性を信じた。
 他の指導者たちはソヴィエト国家の創設者に口先だけの賛辞を寄せた一方で、Gorbachev は、レーニン思想は彼が直面している革命的挑戦にとつてなお意味があると信じて、レーニンを真剣に考察した。
 彼は、遺言のレーニンに共感していた。—レーニンが最後に書いたもので、NEP での市場への譲歩の問題に取り組み、内戦で間違った革命の是正には民主主義がより多く必要だとしていた。—彼は、レーニンが考えたことに対応するものを見た。それを60年後に仕立て直さなければならなかったのだ。
 ソヴィエトの民衆と政治的エリートに皮肉な見方が大きくなっているときに、Gorbachev は楽観的なままであり、仕組みを改革する可能性を純粋に信じていた。
 彼は、レーニンの革命を道徳的かつ政治的な刷新を通じて作動させることができると、真摯に考えた。
 この意味で、Gorbachev は、最後のボルシェヴィキだった。//
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 (02) 改革への彼の理想主義的信念を最もよく示す例は、彼が最初にしたことだ。すなわち、1985年4月の布令によって発表された、反アルコール決定。これによってウオッカの価格は3倍になり、ワインとビールの生産は4分の3に減った。
 「ウオッカで共産主義を建設することはできない」と、Gorbachev は言った。
 のちに彼が認めたように、この初期の段階での彼の思考のいくつかは「ナイーヴでユートピア的だった」。(後注2)
 アルコール依存症者たちは、この政策に妨げられることなく、安くて危険な密造酒を闇市場で購入し(砂糖が突然に店舗から消えた)、またはオーデコロンや化粧水を飲んだ。
 国家はウオッカ販売による貴重な収入源を、1985年の総額の17パーセント失い、消費用物品や食料を輸入する力を減らした。それで、購入や飲食を減らした人々は、不満を募らせることになった。//
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 (03) Gorbachev は、党内指導層に改革を支持する多数派をもたず、Khrushcev が辿った運命を回避するためには慎重に事を進める必要があると意識していた。
 1985-86年、彼は経済の「迅速化」(〈uskorenie〉)だけを語った。これは、アルコール禁止にふさわしく、紀律を強化し、生産性を向上させるAndropov の方法を模倣したものだった。
 1987年1月の中央委員会総会でようやく、Gorbachev は、そのペレストロイカ(perestroika)政策の開始を発表し、それは指令経済と政治制度の急進的な再構築という「革命」だと表現した。
 Gorbachev は、自分の大胆な決定を正統化するためにボルシェヴィキの伝統を援用し、つぎの威厳ある言葉で演説を締め括った。
 「我々は懐疑者にすらこう言わせたい。そのとおり、ボルシェヴィキは何でも行うことができる。そのとおり、真実はボルシェヴィキの側にある。そのとおり、社会主義は人間のために、人間の社会的経済的利益とその精神的な向上に奉仕するシステムだ。」(後注3)
 これは、新しい1917年10月の主意主義(voluntarist)の精神だった。//
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 (04) 経済的には、perestroika はNEP と多く共通していた。
 perestroika は、市場メカニズムによって計画経済の構造に対して生産の刺激と消費者の需要の充足を加えることができる、という願望に満ちた想定に依存していた。
 賃金や価格に対する国家統制は、1987年の国家企業体に関する法律によって緩和された。
 協同組合は1988年に合法化され、カフェ、レストラン、小店舗や売店が急に出現することになった。たいていの店でウオッカや(今や再び合法化された)、タバコ、外国から輸入したポルノ・ビデオが売られた。
 しかし、こうした手段では、食糧やより重要な家庭商品の不足を沈静化することができなかった。
 インフレが大きくなり、賃金と価格の統制の緩和によって悪化した。
 計画経済の廃止によってのみ、危機は解消され得ただろう。
 しかし、イデオロギー的に、それは1989年までは不可能だった。その年にGorbachev は、ソヴェト型の思考から決裂し始めた。そして、さらに急進的に1990年8月に合法化し、そのときに、市場にもとづく経済への移行に関する500日計画が、ついに最高ソヴェトによって導入された。
 しかし、そのときまでにすでに、経済の破綻を抑えるには遅すぎた。//
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 (05) Gorbachev は、社会主義的思考での「革命」だとしてperestroika を提示し、—彼自身の理想化した読み方によった—レーニンの言葉で、絶えずそれを正当化した。
 彼は、公務員の本当の選挙を伴う、政府でのさらなる「民主主義」を呼びかけ、従前はタブーの言葉だった「多元主義」について語り、党に対してその創設者の「社会主義的人間中心主義」への回帰を迫った。
 「Perestroika の意図は、理論的および実践的観点からするレーニンの社会主義の観念を、完全に復活させることだ」と、Gorbachev は、十月革命70周年記念集会で宣言した。(後注4)
 この「人間中心主義」や「民主主義」は、レーニンの理論や実践には、ほとんど見出され得ないものだったけれども。
 しかし、Gorbachev は、その改革への党指導層の支持を望むならば、レーニンの名を引き合いに出す必要があった。//
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 (06) 外交政策でこの「新しい思考」が意味したのは、階級闘争という冷戦に関する党の理論的枠組を放棄して「普遍的な人間の価値」の増進に代える、ということだった。
 このことは、ソヴィエト経済の利益を無視することにつながる、より実践的で「常識的」接近を含んでいた。
 また、Brezhnev(ブレジネフ・)ドクトリンを放棄するという意味も包含していた。
 Gorbachev は、東ヨーロッパの共産党指導者たちに、今や彼ら自身の判断で生きるべきことを完全に明瞭にした。
 彼らがその民衆の支持を獲得できなくとも、モスクワは助けるために介入するつもりはない、ということを。
 民衆の支持は東欧の共産党指導者たちが自分たちでperestroika を行なってかち取ることを、Gorbachev は望んだ。
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 第二節、終わり。
 

2530/O.ファイジズ・ソ連崩壊①。

 Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 この書物の章順の表題は、つぎのとおり。
 01/出発、02/「舞台げいこ」、03/最後の望み、04/戦争と革命、05/二月革命、06/レーニンの革命、07/内戦とソヴィエト体制の形成、08/レーニン・トロツキー・スターリン、09/革命の黄金期?、10/大きな分岐、11/スターリンの危機、12/退却する共産主義?、13/大テロル、14/革命の輸出、15/戦争と革命、16/革命と冷戦、17/終わりの始まり、18/成熟した社会主義、19/最後のボルシェヴィキ、20/判決。
 これらのうち、「ソ連解体」期に関する19章・20章を試訳してみる。なお、18章はスターリンの死から始まっているようだ。
 書名は「革命的ロシア-1891〜1991」であって「ソ連史」ではないが、大まかには前史を含む<ソ連史>だろう。
 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution (1996, Memorial Edition 2017)という「ロシア革命史」の書物もあり、この欄で一部の試訳を掲載しているが、これとは別の書物。
 各章内の節分けはないが、一行の横線を引いた明確な区分けがあるので、便宜的に各「節」の区切りとして扱う。一行ごとに改行し、段落の初めに元来はない数字番号を付す。
 —— 
 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第一節。
 (01) ソヴィエト体制が突然に終焉するとは、誰も想定していなかった。
 たいていの革命は、轟音ではなく嗚咽とともに死ぬ。
 1989年〜1991年の事態は一つの革命だと、ある人々は言う。
 これは全く正しくはない。
 しかし、体制が崩壊した速さに誰もが驚いたために、革命という名をかち得たのだろう。//
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 (02) 1985年、ソヴィエト同盟はどの国家とも同様に永続的なものに見えた。
 Gorbachev が解決しようとした諸問題のどれも、ソヴィエト体制の存在そのものを脅かしたのではなかった。
 経済は停滞していて、年間成長率は1パーセント以下で、生活水準は西側よりも大きく遅れており、石油価格の急激な下降(1980年価格の3分の1)は、体制の財政に大きな打撃を与えた。
 しかし、事態は、ソヴィエトの歴史上で政治的にもっと不安定だった時期よりもはるかに悪かった。
 人々は物不足に慣れるに至っていて、大衆的な抗議の兆しはなかった。
 体制は、改革しなくとも数年間は踏ん張っていけただろう。
 貧しい生活水準が長く続いても何とか切り抜けた独裁制の例は、豊富にあった。
 それらの多くは、ソヴィエト同盟が1980年代に経験したよりもはるかに悪い経済的環境の中でも生き抜いた。//
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 (03) 軍事予算は重荷になっていて、Reagan のSDI〔戦略防衛構想〕の開始とともにいっそう大きくなり始めた。
 東ヨーロッパの共産主義体制を安い石油と食糧で支援する費用は、やはり深刻な課題だった。
 クレムリンは、ポーランドの1980年危機に対処するためだけに、40億ドルを費やす必要があった。その年、大衆的ストは<連帯>という反対派運動に発展し、Jaruzelsky 政府による戒厳令の施行を強いることとなった。
 しかし、1985年までに、連帯運動は息切れがしたように見え、ソヴィエト帝国は安全だと思えた。//
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 (04) ソヴィエト体制が完全に崩壊した速さを説明するために必要なのは、ソヴィエト同盟の構造的問題にではなく、体制がその頂点から解きほどけていった態様に、目を向けることだ。
 仕組みを急進的に再構成する、切迫した必要性はなかった。
 「危機」があったとすれば、ソヴィエトの現実とソヴィエトの社会主義の理想との間に分裂が大きくなっていることに危機を感じとる、Gorbachev やその他の改革者たちの心理(the mind)の中にあった。
 現実の危機を惹き起こしたのは、Gorbachev の改革だった。すなわち、党の権力と権威の解体。
 観念上の革命が開始されたのは、グラスノスチ(glasnost、情報公開)が人々に体制を疑問視して代替の選択肢を要求するのを認めたことによってだった。
 18世紀のフランスの旧体制についてTocqueville が書いたように、「悪い政府にとつて最も危険な瞬間は、政府が改革を始めるときだ。…。辛抱強く我慢するのが長いほど、政府は矯正不能に見え、人々がいったん政府を排除する可能性を意識すれば、不満は耐え難いものになってしまう」。//
 ——
 第一節、終わり。

2529/池田信夫グログ027—ウクライナ問題と八幡和郎。

  池田信夫のつぎの主張は、細かな点に立ち入らないが、しごく穏当なものだ、と思う。Agora 2022.04.05。
 「いま日本人にできることはほとんどないが、せめてやるべきことは、戦っているウクライナ人の後ろから弾を撃たず、経済制裁でロシアに撤兵の圧力をかけることだ。それは中国の軍事的冒険の抑止にもなる。八幡さんのような『近所との無用な摩擦は避ける』という事なかれ主義は有害である。」
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  これに対し、八幡和郎の書いていることは問題が多い。
 A・八幡和郎/Agora 2022.04.03「トルコ仲介の期待と戦争を終わらせたくない英米の迷走」。
 B・八幡和郎/Agora 2022.04.04「国際法・国連決議・軍事力より外交力が平和の決め手」。
  八幡の心底にあるのは、親アメリカ・親EU(またはNATO)立場を明瞭に語りたくない、語ってはならない、という心情だろう。
 上のAに「ロシア憎しで感情的にな」るのはいけない旨があるが、八幡によると、「感情的に」親ウクライナ=親EU(またはNATO)・親アメリカになってもいけないのだろう。
 ここで八幡が持ち込んでいるのは、「歴史観」や「価値観」だ。
 A①「制裁に反対しているのではない。欧米との同盟のために付き合えばいいが、歴史観などには独自の立場をとり、仲裁に乗り出すべきだと主張している」。
 「歴史観などには独自の立場をとり」という部分でうかがえるのは、親ウクライナ=親欧米の立場を支持すると、まるでアメリカやヨーロッパの「歴史観」をまるごと支持しているかのごとき印象を与える、という日本ナショナリストとしての「怯え」だ。
 B①「普遍的的価値(自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済)に基づく同盟がめざされたのだが、これは、日本外交の指針であり、それが、とくに対中国包囲網の基本理念になっているということであって、それを超えて普遍的にひとつの同盟を形成するものではないし、アメリカ的な自由経済が正義だというのも世界で広く認められているわけでない」。
 この部分も面白い。「価値観」外交は対中国の理念であって「普遍的にひとつの同盟」を形成しようというものではない、とわざわざ書いている。さらに余計に、「アメリカ的な自由経済」に批判的な口吻すら漂わせる。
 「普遍的価値」を文字通りに共有はしていない(そのとおりだと秋月も思うが)のだから、「普遍的価値」でアメリカやヨーロッパと日本は「一体」だ、という印象を八幡は与えたくないのだろう。それを八幡は「怯え」ているのだ。
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  八幡和郎の思考方法は歪んでいる、適切ではない、と思われる。
 「歴史観」や「普遍的価値観」等を持ち出してはいけない。これらは、今次の問題を論評するにあたって、ほとんど何の関係もない。 
 端的に言って、今回の事案の争点は、当初によく言われたように、<力による現状変更>は許されるか、だろう。
 ここで問題になるのは、池田信夫も直接言及していないが、ソヴィエト連邦の解体のあと、またはそれと同時に、ロシアとウクライナの間でどういう国境線が引かれたか、だ。
 独立国家共同体(Commonwealth of Independent States =CIS)が発足したとき、「独立」主権国家としてのロシアとウクライナの間の国境はどのように定められていたのか、だ。つまり、1991年の「ベロヴェーシ合意」や「アルマトイ」宣言が基礎にしていた各国の領域・境界はどうだったか、だ。これにはソヴィエト連邦時代の両共和国の境界は形式的には関係がないが、明確に又は暗黙に前提とされた可能性はあるだろう。ついでに書くと、かつてのロシア・ウクライナの両共産党の力関係も、関係がない。
 この点を私は正確には知らないのだが、ウクライナの主張や2010年代のクリミア半島等をめぐる紛争・対立の動向や主張・論評等からすると、クリミア半島もウクライナ東部の二州も、元来(1991-2年頃の時点で)ウクライナの領土だといったん確定した、エリツィンも(ゴルバチョフ)も、いかにロシア系住民が多くとも、それに文句を言わなかった、異議を申立てなかった、のではないか。
 そうすると、確定している国境を超えて武力で侵入するのは「侵略」であり、<力による現状変更>の試みだ。これ自体がすでに(自力執行力に乏しいとはいえ)「国際法」・「国連憲章」等に違反しているだろう。
 ——
  八幡和郎は、この単純なことを認めたくないようだ。
 A②「ロシア帝国=ソ連=ウクライナ+ロシアその他であって、ロシア帝国=ソ連=ロシアでないといっても、屁理屈並べて否定するどうしようもない人が多い」。
 これは意味不明。今のロシアをかつての「ロシア帝国=ソ連」と同一視する者が本当にいるのか。
 A③「フルシチョフは幼少期にウクライナに移住、ブレジネフはウクライナ生まれで、いずれもロシア系ウクライナ人であり、ソ連統治下で有力者の地元としても、ウクライナは優遇され発展したといっても、嘘だと言い張るのだから始末が悪い」。
 これも意味不明。かりにウクライナ出身者やウクライナがソ連時代に優遇されたのだとして、そのような「歴史」は、今次の問題とは全く関係がない。
 Bにある「旧ソ連においてウクライナ出身者は権力中枢を占めており、お手盛りで地元として非常に優遇されており、ロシアに搾取されていたがごとき話は真っ赤な嘘だ」、も同様(B②)。
 戦前のスターリンの<飢饉によるウクライナ弱体化>政策を見ると、ウクライナが優遇されたというのも、八幡の日本古代史論とともに、にわかには信じ難い。スターリンの故郷・グルジア(ジョージア)には何の優遇もなかったのではないか。
 関連して、B③「ロシアは少数民族に寛容な国だが、ウクライナのロシア系住民に対する差別は虐殺だとか言わずとも相当にひどい」。
 後段の当否はさておき、「ロシアは少数民族に寛容な国」だというのは、一体いつの時代の「ロシア」のことなのか。現在のロシアも、数の上ではより少数民族であるウクライナ、ジョージア、チェチェン等に対して「寛容」だとは言えないだろう。
 ソ連、それ以前の「ロシア帝国」の時代、今のロシアが優越的地位を持っていたことは明らかだ、と思われる。ソ連時代の「ロシア共産党」は、実質的にはほぼ「ソ連共産党」で、その中核を占めた。レーニンとスターリンの間には「民族自決権」について対立があったと(とくにレーニン擁護の日本共産党や同党系論者により)主張されたものだが、ソ連全体=実質的に「ロシア」の利益に反しないかぎりで「少数民族」も保護されたのであり、民族問題についてレーニンとスターリンは50歩100歩、または80歩90歩の程度の差しかない。
 なお、評論的に言っても無意味だが、今次の問題の淵源は、少なくともソ連時代の、ソ連共産党時代の、民族問題の処理、連邦と構成共和国間の関係の扱い方、に不備があったことにあるだろう。
 ——
  八幡は、少なくとも一ヶ月前、「アメリカ抜き」での和平を夢想していた。
 標語的には、Bの「国際法・国連決議・軍事力より外交力が平和の決め手」。
 また、いわく、B④「なにが大事かといえば、もちろん、軍事もある。しかし、それとともに、賢い外交だと思う。賢い利害調整と果敢な決断、安定性の高い平和維持体制の構築が正しい」。
 これと同じとは言わないが、吉永小百合の〈私たちには言葉というものがあります。平和のためには言葉を使って真摯に話し合いを>に少しは接近している。
 それはともあれ、A④「アメリカ抜きで交渉した結果、相当な進展があったようである」(「この交渉の進展が、英米はお気に召さないらしい」→「戦争を終わらせたくない英米」)
 A⑤「ゼレンスキーもNATO加盟は諦めてもいいといい、クリミアも15年間は現状を容認するとまでいっているのだから、両者の溝は狭い」。
 この一ヶ月の進展は、八幡和郎の幻想・妄想が現実に即していないことを証明している、と見られる。
 トルコの仲介が功を奏しているようには見えない。
 ロシアが、ウクライナが「NATO加盟は諦めてもいいといい、クリミアも15年間は現状を容認する」と言ったからといって、停戦・休戦し、和平・平和が訪れるようには思えない。
 NATO加盟とクリミア半島・東部二州だけをロシアが問題にしているようには、全く思えない。
 八幡は、日本ナショナリストで潜在的な「反米」主義=反「東京裁判史観」=反「自虐史観」の持ち主であることから、あまりアメリカに功を立ててもらいたくないのだろう。西尾幹二のようにEUをグローバリズムの「行く末」としてまるごと批判するのか、フランス・ファーストのルペンを仏大統領選では内心支持していたかどうかは知らない。
 八幡和郎は、新潮45(新潮社)の廃刊(2018年)のきっかけを作った杉田水脈(論考)を擁護する記事を、翌月号に、小川榮太郎等とともに執筆した人物でもある。
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2521/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑦。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題の最終回。
 —
 序説・ウクライナ問題④。
 (18) 工業化はロシア化への圧力も強めた。工場の建設はウクライナの諸都市に、ロシア帝国の至る所から外部者を送り込んだからだ。
 1917年までに、Kyiv の住民の5分の1だけがウクライナ語を話した。(19)
 炭鉱の発見と重工業の急速な発展は、とくにウクライナの東端地域にある鉱業と製造業の地域であるドンバス(Donbas)に劇的な影響を与えた。
 この地域の指導的な工業家はたいていはロシア人で、外国人が混じっていることは少なかった。
 ウェールズ人であるJohn Hughs は、元々は彼に敬意を表して「Yuzivka」と呼ばれ、今はDonetsk(ドネツク)として知られる都市の基礎を築いた。
 ロシア語はDonetsk の工場で使われる言語になった。
 ロシアとウクライナの労働者の間で抗争がしばしば発生し、ときには、「ナイフでの決闘という最も乱暴な形態」をとり、両者間の激闘となった。(20)//
 (19) Galicia にある帝国の境界付近の、オーストリア・ハンガリー帝国のウクライナ人とポーランド人の混住地域では、民族主義運動ははるかに小さかった。
 オーストリアはその帝国のウクライナ人に対して、ロシア帝国またはのちのソヴィエト連邦よりも、はるかに大きな自治を認めた。少なからず、ウクライナ人を(オーストリアの観点から)ポーランド人に対する有用な競争相手と見なしたからだった。
 1868年に、Liviv(リヴィウ)の愛国主義ウクライナ人が文化的社会団体のProsvita を設立し、これはやがてウクライナじゅうに多数の会員をもつに至った。
 1899年から、ウクライナ国民民主党(National Democratic P.)がGalicia でも自由に活動し、選出した代表者をウィーンの議会へと送った。
 今日まで、ウクライナの自立的社会団体(self-help society)の従前の本部は、Liviv にある最も印象的な19世紀の建築物の一つだ。
 この建物は、ウクライナ民族様式の装飾を〈Jugendstil〉(若者様式)の外観へと融合した壮麗なものだ。そして、ウィーンとガリツィア(Galicia)の完璧な合成物になっている。//
 (20) しかし、ロシア帝国内部ですら、1917年の革命前の数年間は、多くの点でウクライナにとって前向きだった。
 ウクライナの農民層は熱心に、20世紀の初めの帝国ロシアの近代化に参加した。
 彼らは、第一次大戦の直前に急速に、政治的意識に目覚め、帝国に懐疑的になった。
 農民反乱の波が、1902年にはウクライナとロシアの両方にまたがって勃発した。
 農民たちは、1905年革命でも大きな役割を果たした。
 それに続く騒乱は社会的不安の連鎖を生み、皇帝ニコライ二世を動揺させ、ウクライナにある程度の市民的、政治的権利をもたらした。その中には、公的生活の分野でウクライナ語を用いる権利もあった。(21)
 (21) ロシア、オーストリア・ハンガリーの両帝国が予期されないかたちで、それぞれ1917年と1918年に崩壊したとき、多くのウクライナ人は、ついに国家を設立することができる、と考えた。
 ハプスブルク家が支配していた領域では、この望みはすみやかに消失した。
 期間は短いが血まみれのポーランドとウクライナの軍事衝突は、1万5000のウクライナ人と1万のポーランド人の生命を奪った。そのあとで、最も重要な都市であるLiviv などの西部ウクライナの多民族地域は、近代のポーランドへと統合された。
 その状態は、1919年から1939年まで続いた。//
 (22) ペテルブルクでの1917年二月革命の後の状況は、もっと複雑だった。
 ロシア帝国の解体によって、権力は短い間、Kyiv のウクライナ民族運動の手に渡った。
 しかし、指導者の中には、民間人であれ軍人であれ誰一人、この国の権力について責任を担う心準備をしている者がいなかった。
 政治家たちが1919年にVersailles(ヴェルサイユ)に集まって新しい諸国家の境界線を引いたとき—その中には近代のポーランド、オーストリア、チェコ・スロヴァキアがあった—、ウクライナは国家に含まれないことになる。
 だがなおも、そのときは完全には失われていなかっただろう。
 Richard Pipes(リチャード・パイプス)が書いたように、1918年1月26日の独立宣言は「ウクライナでの国家形成の〈dénouement〉(結果)を示すものではなく、本当の始まりだった」。(22)
 独立した数ヶ月間の騒然状態と民族的一体性に関する活発な議論は、ウクライナを永久に変えることになっただろう。//
 ——
 序説・ウクライナ問題、終わり。

2520/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争⑥。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題。
 ——
 序説・ウクライナ問題③。
 (12) 言語と農村地帯との間の結びつきは、ウクライナ民族運動はつねに強い農民的雰囲気をもった、ということをも意味した。
 ヨーロッパの他の部分と同様に、ウクライナの民族的覚醒は田園地帯の言語と習慣の再発見によって始まった。
 民俗学者と言語学者は、ウクライナ農民の芸術、詩、日常会話を記録した。
 国の学校では教えられなかったけれども、ウクライナ語は、一定範囲の反体制的な、反既得権益層のウクライナの作家や芸術家が選択する言語になった。
 ウクライナ語は公式の取引では用いられなかった。だが、私的な文書のやり取りや詩作で使われた。
 1840年に、Taras Shevchenko —1814年に農奴の孤児として出生—は、〈Kobzar〉—「吟遊詩人」の意味—を出版したが、これは、ウクライナの詩歌を最初に本当に素晴らしく収集したものだった。 
 Shevchenko の詩は、浪漫的なナショナリズムと農村地帯の理想的な像を社会的不公正に対する怒りと結びつけ、出現すべき多数の議論の基調となった。
 「Zapovit」(「遺言」)という最も有名な詩の一つで、彼はDnieper の河岸に埋葬されるよう頼んだ。
 「私を埋めよ。そして、あなたたちは立ち上がり、重い鎖を壊し、暴君の血で洗い、自由を獲得する。…」(13)
 農民層の重要性はまた、最初から、ウクライナの民族的覚醒は、人民主義(Populist)やのちにロシア語やポーランド語を話す商人、地主、貴族に対する「左翼」反対派と呼ばれることになるものと同義だったことを、意味した。
 この理由で、ウクライナの民族的覚醒は急速に力強くなり、1861年の皇帝アレクサンダー三世のもとでのロシア帝国の頃の農奴解放が続いた。
 農民層の自由は、実際には、ウクライナの自由のことであり、ロシアやポーランドの主人たちに対する一撃だった。
 より強いウクライナの一体性を目指す運動は、帝国の支配層はよく理解していたことだが、当時ですら、より大きい政治的かつ経済的な平等を求める運動だった。//
 (13) ウクライナの民族的覚醒は国家制度と結びつかなかったため、それはまた、初期の時代から、広汎な、自律的で自由意思による慈善団体の形成を通じて表現された。これは、いま我々が「市民社会」と称するものの初期の例だった。
 農奴解放後の短い期間、「ウクライナ愛国者」はウクライナ青年たちに、自立した学習グループの形成、雑誌や新聞の刊行、日曜学校を含む学校の設立、農民層の識字能力の拡大、を呼びかけた。
 民族的希望は、精神的自由、大衆の教育、農民層の上方可動性を求めることとなった。
 この意味で、ウクライナ民族運動は、最初から、西側の同様の運動の影響を受けており、西側のリベラリズムや保守主義とともに西側社会主義の要素を含んでいた。//
 (14) この短い期間は、続かなかった。
 ウクライナ民族運動が強くなり始めるとすぐに、モスクワは、他の民族運動とともに、それは帝国ロシアの統一性に対する潜在的な脅威だと感知した。
 ジョージア人、チェチェン人その他のグループが帝国内部での自治を追求したように、ウクライナ人はロシア語の優越性に挑戦した。また、ウクライナを「南ロシア」、民族的一体性を有しないたんなる地方、と叙述する歴史のロシア的解釈に対しても。
 彼らは、すでに経済的な影響力を得ていたときには、農民層の力をさらに強くしようとした。
 富裕で、より識字能力があり、うまく組織された農民たちは、大きな政治的権利をも要求する可能性があった。//
 (15) ウクライナ語が、第一の目標だった。
 1804年にロシア帝国最初の大きな教育改革が行われたとき、皇帝アレクサンダー一世は、いくつかの非ロシア語が新しい国立学校で使われるのを許したが、ウクライナ語は認められなかった。表向きは、それは「言語」ではなく一つの方言だ、というのが理由だった。(14)
 実際には、ロシア帝国の官僚は、ソヴィエトの継承者がそうだったように、この禁止を政治的に正当化することを—1917年までつづいた—、およびウクライナ語が中央政府にもたらす脅威を、完全に理解していた。
 キーフ総督のPodolia とVolyn は、1881年に、ウクライナ語と学校の教科書でそれを用いることは高等教育や、さらに立法府、裁判所、公行政でそれを使用することになり、そうして「多大の複雑さと統一したロシアに対する危険な変化」を生むことになる、と宣告した。(15)//
 (16) ウクライナ語の使用が制限されたことで、民族運動は大きな影響を受けた。
 そのことで、識字能力を持たない人々が広がる、という結果にもなった。
 ほとんど理解できないロシア語で教育された多数の農民たちは、上達することがなかった。
 20世紀初めのPoltava のある教師は、「ロシア語での勉強が強いられると、生徒たちは教えたことをすぐに忘れる」と嘆いた。
 別の者は、ロシア語学校の生徒たちは「やる気を失って」、学校に退屈するようになり、「フーリガン」になる、と報告した。(16)
 差別はまた、ロシア化も生じさせた。ウクライナに住む全ての者—ユダヤ人、ドイツ人、その他のウクライナ人などの少数民族—にとって、より上の社会的地位を得る方途は、ロシア語を話すことだった。
 1917年の革命まで、政府の仕事、専門的仕事および商業取引には、ウクライナ語ではなく、ロシア語での教育を受けていることが要求された。
 現実にこのことは、政治的、経済的または知的な志望をもつウクライナ人は、ロシア語での表現能力を必要とする、ということを意味した。//
 (17) ロシア政府はまた、ウクライナ民族運動が大きくなるのを妨げるために、「政治的不安定を生じさせない保障として…、市民的社会団体と政治団体のいずれも」から成るウクライナ人の組織を禁止した。(17)
 1876年、皇帝アレクサンダー二世は、ウクライナ語の書物と定期刊行物を非合法化し、劇場で、そして音楽劇の台本にすら、ウクライナ語を用いることを禁止する布令を発した。
 彼はまた、新しい自発的組織の結成を思いどどまらせるか禁止し、反対に、親ロシアの新聞や親ロシアの組織には助成金を交付した。
 ウクライナの報道機関やウクライナの市民的社会団体に対する明確な敵意は、のちのソヴィエト体制でも維持された。—さらにのちには、ソヴィエト後のロシア政府によっても。
 このように、先例はすでに19世紀の後半にあった。(18)//
 ——
 序説④へと、つづく。

2517/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争③。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年、初版,London)。
 試訳のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。下線は試訳者。
 ——
 第二節②—つづき。
 (03) Marta Baziuk が率いるトロントのHolodomor 研究教育協会とLyudmyla Hrynevych が率いるウクライナのパートナー団体は、新しい研究への資金援助を継続している。
 若い研究者たちは、新しい研究方向も開いている。
 Daria Mattingly の飢えている農民から食料を没収した者たちの動機と背景に関する研究や、口述の歴史についてのTatiana Boriak の本は、いずれも傑出している。
 彼女たちはまた、この書物に対して貴重な研究を提供してくれた。
 西側の学者たちの研究も、新たな寄与になった。
 Lynne Viola の集団化とその後の農民反乱に関する雑誌上の研究は、1930年代についての感覚を変えた。
 Terry Martin は初めて、1932年秋にスターリンが下した決定を年月日に即して明らかにした。—そして、Timpthy Snyder とAndrea Graziosi は最初にこの研究の重要性を肯定した。
 Serhii Plokhii とHarvard の彼のチームは、飢饉の地図を作成してどのようにそれが起きたかをより十分に理解できるようにする、独特の努力を傾注し始めた。
 私はこれら全ての研究に、そしてある場合にはこの企図を大いに助けてくれた友情に、感謝したい。//
 --------
 第三節。
 (01) この書物が違う時代に執筆されていたならば、複雑な主題に対するこの短い緒言は、おそらくここで終わっていただろう。
 しかし、飢饉はウクライナ民族運動を破壊したのだから、またその運動は1991年に復活したのだから、さらに現代のロシアの指導者たちはウクライナ国家の正統性に対して今なお挑戦しているのだから、私はここで、飢饉に関する新しい歴史書の必要性を最初に2010年にHarvard ウクライナ研究所の同僚たちと議論した、と記しておく必要がある。
 Viktor Yanukovych が、ロシアの支持と後援を受けてウクライナの大統領に選出されたばかりだった。
 当時のウクライナは、ヨーロッパの他国にほとんど政治的な注目を払われなかった。そしてほとんどの新聞が全く報道しなかった。
 そうしたとき、1932-33年を新たに検討することが何らかの意味での政治的言明だと解釈される、と考える理由は何もなかった。//
 (02) 2014年の広場革命、Yanukovych の抵抗者狙撃決定と国外逃亡、ロシアの侵攻とクリミア併合、ロシアの東部ウクライナ侵攻とそれに付随したロシアのプロパガンダ。—私がこの書物を執筆している間に、これら全てがウクライナを予期しないかたちで、国際政治の中心に置いてしまった。
 私のウクライナ研究は実際に、この国の事態によって遅延した。この事態について私が書いたからでもあり、私のウクライナの仲間たちが起きていることに驚いて立ちすくんでいたからでもある。
 しかし、近年の事態によってウクライナは世界政治の中心にあるけれども、この書物はそれに対する反応として執筆されてはいない。
 ウクライナの何らかの政治家または政党の当否の論拠を示すものではないし、今日にウクライナで起きていることへの反応を書いたものでもない。
 そうではなく、新しい文書資料、新しい証言、先に一括して挙げたような優れた研究者たちによる新しい研究を利用して、飢饉の物語を描く試みだ。//
 (03) ウクライナ革命、ソヴェト式ウクライナ、ウクライナ人の集団弾圧とHolodomor は、現在の事態と関係性を持たない。
 反対だ。すなわち、これらは現在の事態の基礎にあってそれを説明する、きわめて重要な背景だ
 飢饉とその遺産は、現在のロシアとウクライナのそれぞれの自己認識(identity)、両者の関係、ともに有するソヴィエト体験に関する議論に対して、きわめて大きな役割を果たしている
 しかし、これらの議論を叙述したり当否を論評したりする前に、まず、かつて現実に何が起きたかを理解することが重要だ。//
 ——
 緒言、終わり。

2516/A.アプルボーム・赤い飢饉—対ウクライナ戦争②。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
 ——
 緒言/第一節②。
 (09) まとめるならば、これら二つの政策—1933年の冬と春のHolodomor およびそれに続く数ヶ月のあいだのウクライナ知識人や政治的階層の抑圧—は、ウクライナのソヴィエト化をもたらした。すなわち、ウクライナの民族思想(national idee)の破壊と、ソヴィエトの一体性に対するウクライナ人の全ての挑戦の抑圧。
 「genocide(ジェノサイド)」という言葉の創設者のポーランド・ユダヤ人法律家のRaphael Lemkin は、この時期のウクライナについて、この彼の概念の「古典的事例」だと語った。
 「ジェノサイド、個人だけではなく文化や一つのnation の破壊の事例だ」。
 Lemkin が初めて使った語である「genocide」は、より狭い、より法学的な意味で用いられるようになった。
 この語はまた、論争を生じさせる試金石にも、ウクライナ内部の諸グループはむろんのこと、ロシア人とウクライナ人の両者によって、政治的な主張を行うために用いられる概念にも、なった。
 こうした理由で、「genocide」の一つとしてのHolodomor かに関する特別の考察が—Lemkin のウクライナとの関係や影響も含めて—この書物のエピローグの一部にあてられる。
 (10) この書物の中心的主題は、もっと具体的だ。1917年と1934年の間に、ウクライナで何が現実に起きたのか?
 とくに、1932-33年の秋、冬、春に何が起きたのか?
 どんな事態の連鎖が、どんな意識構造が、飢饉を招いたのか?
 誰に責任があるのか?
 どうすれば、この恐ろしい事象はウクライナとウクライナ民族運動の幅広い歴史に適合するのか?
 (11) 同様に重要だが、その後はどうなったか?
 ウクライナのソヴィエト化は飢饉で始まったのではなく、飢饉で終わったのでもない。
 ウクライナ知識人と指導者たちの逮捕は、1930年代を通じて継続した。
 それから半世紀以上、歴代のソヴィエト指導者たちは、戦後の暴動であれ1980年代の抗議運動であれどのような形をとろうと、ウクライナ民族主義を過酷に排斥し続けた。
 この時代の中で、ソヴィエト化はしばしばロシア化の形をとった。すなわち、ウクライナ語は格下げされ、ウクライナの歴史は教えられなかった。//
 (12) とりわけ、1932-33年の飢饉の歴史は教育されなかった。
 それどころか、1933年と1991年の間、ソヴィエト連邦は何らかの飢饉がかつて発生したこと自体を認めるのを、単直に拒否した。
 ソヴィエト国家は地方の資料文書を破壊して、死の記録が飢餓を示唆しないことを確実にし、何が起きたかを隠すために、公にされた統計データを変更すらした。(5) 
 ソヴィエト連邦が存続している間は、飢饉とそれに伴った抑圧の歴史について、十分な文書資料にもとづいて執筆するのは不可能だった。
 (13) しかし、1991年、スターリンが最も怖れたときが来た。
 ウクライナは、独立を宣言した。
 ソヴィエト同盟は、ウクライナが離脱する決定をしたことを一つの理由として、終わりを迎えた。
 主権あるウクライナが歴史上初めて誕生し、併せて新しい世代のウクライナの歴史家、文書管理者、報道記者、出版者が出現した。
 この人たちの努力のおかげで、1932-33年の飢饉に関する完全な歴史を語ることができる。//
 --------
 緒言/第二節①。
 (01) この書物は、1917年から、ウクライナ革命と1932-33年に弾圧されたウクライナ民族運動から、始まる。
 終わるのは、現在の、ウクライナの記憶に関する進行中の政策についての論争を語ってだ。
 この書物は、ウクライナでの飢饉に焦点を当てる。それはより広いソヴィエトの飢饉の一部ではあるが、特有の原因と結果をもつ。
 歴史家のAndrea Graziosi は、誰もユダヤ人またはジプシーを迫害したヒトラーに特殊な物語を伴う「ナツィの残忍性」と混同しはしない、と記した。
 同じ論理に従って、この書物は、1930-34年のソヴィエト全体の飢饉を論述するが—とくにKazakhstan と特定のロシア諸州でも多数の死亡者があった—、より直接的にはウクライナに特有の悲劇に焦点を合わせる。(6)//
 (02) この書物は、ウクライナでの四半世紀の学問研究を反映してもいる。
 Robert Conquest は1980年代初めに、飢饉について当時に利用できた公刊物の全てを編集し、1986年に、〈悲しみの収穫〉(The Harvest of Sorrow)という書物を出版した。この本は今でも、ソヴィエト同盟に関する出版物の画期をなすものだ。
 しかし、ソヴィエト連邦の終焉と主権国家ウクライナの出現から30年が経過し、口述の歴史と記憶を収集するいくつかの幅広い国民運動が、国全土からの数千の新しい証言を生んだ。(7)
 同じ時期に、Kyiv の公文書が—Moscow のそれと違って—公にされて簡単に利用できるようになった。
 ウクライナでの分類分けされていない資料の割合はヨーロッパで最も高いものの一つだ。
 ウクライナ政府の基金は学者たちに文書収集物の出版を奨励し、そのことで研究がより正確なものになっている。(8)
 ウクライナでの飢饉やスターリン時代に関するしっかりした学者たちは、再印刷された文書類や口述筆記史料類を含めて、多数の書物や単著を刊行してきた。そうした学者に、Olga Bertelsen、Hennadii Boriak、Vasyl Danylenko、Lyudmyla Hrynevych、Roman Krutsyk、Stanislav Kulchytsky、Yuri Mytsyk、Vasyl Marochko、Heorhii Papakin、Yuri Shapanoval、Volodymyr Serhiichuk、Oleksandra Veselova、Hennadii Yufimenko がいる。
 Olen Wolowyna と人口動態学者のチーム—Oleksander Hladun、Natalia Levchuk、Omelian Rudnytsky —は最近に、犠牲者の数を確定するという困難な仕事を始めた。
 Harvard のウクライナ研究所は、多くの学者とともに研究して、成果を発表し、出版してきている。//
 ——
 第二節②へとつづく。
 

2489/西尾幹二批判049—根本的間違い(4-3)。

 六 3 00 <反共よりもむしろ反米を>という、政治状況または国際情勢についての西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景を述べてきている。
 この人の、より本質的な部分には論及していない。先走りはするが、この人にとって、「反米」でも「親米」でも、本質的にはどうでもよかったのではないか。
 --------
 01 とは言え、叙述の流れというものがある。
 既述の誤りの指摘の追記でもあるが、西尾幹二の政治状況・国際情勢にかかる認識の間違いは、つぎの文章でも明瞭だ。
 2005年/月刊諸君!2月号、p.222。
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました。
 おかしくなったのは、西側諸国で革命の恐怖が去って、余裕が生じたからで、さらに一段とおかしくなったのは西側が最終的に勝利を収め、反共ではもう国家目標を維持できなくなって以来です。
 日本が壊れ始めたのは冷戦の終結以降です。」
 西尾が1999年『国民の歴史』で、私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」、「否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」と書いた線上に、上の文章もある。そして、現在まで、この基本的認識・主張は継続しているようだ。
 これは、グローバリズムからナショナリズムへという、〈日本会議〉公認の、日本の「保守」(の主流派:多数派)を覆った考え方でもあった。
 --------
 02 その点はここではもう論及しないこととして、上の文章には若干の基本的な疑問がある。
 第一に、西尾のいう「冷戦の終結」以前の日本の「国家目標」は「反共」だったのか?
 「全面講和」ではなく単独(または多数)講和を選択してアメリカ・西欧陣営に入った(1951年)こと自体が「反共」だった、とは言える。継続的な「国家目標」性はうたがわしいとしても。
 かりにそうだとしても、関連して第二に、つぎの認識は適確か?
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました」。
 「反共」という国家目標のもとで、日本は「ある意味で安定し」、「国家権力は堅実」だったのか。
 秋月瑛二は、全くそう思わない。
 例えば、ベトナム戦争があり沖縄の基地から米軍機は飛び立っていった。カンボジアに中国に援助された数年間の「共産主義」的支配があった(ポル・ポト、赤いクメール)。後年に明らかになったが、1977年に「めぐみ」ちゃんは北朝鮮の国家的「人さらい」の犠牲者となった(他にも多数いる)。国内では社会党・共産党が「統一」して推す候補が京都に続いて東京や大阪でも知事になった(横浜市でも。その他省略)。また、日本共産党も国会での議席を増やして<70年代の遅くないうちに民主連合政府を!>とか呼号していた。田中角栄元首相の収賄事件もあった。ソ連空軍兵士が函館空港に着陸して亡命したのは、1976年だった。ソ連軍機による「大韓航空機撃墜事件」が日本近海で起きたのは、1983年だった。小中学校での<学級崩壊>は1980年頃には語られ始めていた。以上は、例。
 いったいどこに、日本は「ある意味で安定し」ていたとする根拠があるのか。
 じつは西尾幹二の「主観的」状況は「安定」していたのかもしれない。西尾は2000年にこう言っている。
 1970年の<三島事件>の後、私は「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。
 三島没後30周年記念講演、西尾・日本の根本問題(新潮社(編集担当は冨澤祥郎)、2003)、p.285。
 根拠文献をいちいち記さないが、以下も参照。
 1966年、ニーチェ『悲劇の誕生』翻訳書(中央公論社)。
 1969年、「文芸評論」を書き始める。
 1977年、ニーチェの(よく言って前半期だけの「評伝文学」の)『ニーチェ』(第一部・第二部)刊行。北朝鮮による「拉致」が始まった年。
 1979年、上記書により文学博士号(審査委員の一人は、同学年で当時は東京大学助教授だった柴田翔)。
 1987年、ニーチェ『この人を見よ』・『偶像の黄昏』・『反キリスト』翻訳書(白水社)。
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 03 1990年近くまでこんな調子だと、文芸評論や、政治評論家ではない「文芸評論家」としての遊覧視察旅行にもとづくソ連関係本や「古巣」の感覚に依拠したドイツ関係本の刊行をしていても、日本の政治状況や国際情勢、日米関係に強い関心が向かわなかったとしても、やむをえないだろう。
 主観的・心理的・精神的に、西尾幹二個人は1989-91年以降よりも「安定」していたのだ。
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 04 「安定」したままでなく、状況が変化した(と西尾は感じた)のは、1996.12/1997.01の〈新しい歴史教科書をつくる会〉発足と会長就任だっただろう。それまでよりも「著名人」となり、社会・政治に関する発言も求められるようになった。
 そして、橋本龍太郎(1996-98)、小渕恵三(1998-2000)、森喜郎(2000)の各首相時代には特段の政治的発言をしていないようだが(自社さ連立での村山富市首相と同内閣(1994-96)・戦後50年談話についても同じ)、小泉純一郎内閣が誕生して(2001年)以降、突如として?<政治評論家>をも兼ねるようになる。小泉を「狂人」、「左翼ファシスト」と称し、いわゆる郵政解散選挙では反対(元)自民党候補を応援するという「政治的実践活動」まで行なった
 政治状況、国際情勢の把握も必要だから、大急ぎで、付け焼き刃的に?「勉強」したのだろう。ニーチェやドイツに関する素養、観念的「自由の悲劇」論では足りない。
 そして、今回の冒頭で言及したのは、1999年と2005年の文章だ(「つくる会」設立後、分裂前)。
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 05 さて、日本の政治状況、国際的状況を把握しようとした際、容易に参照し得たのは、〈日本会議〉史観だっただろう。つまり、グローバリズムからナショナリズムへ、「反共」だけでなく「日本」重視と「反米」がむしろ重要だ、という時代感覚だ。
 その際に、どの程度強くかは不明だが、西尾幹二が潜在的に意識したのは、ニーチェが生きた時代、そして従来の価値観はもはや通じず、「新しい」価値・哲学等が必要だ、というニーチェの基本的主張だったと思われる。
 西尾幹二は、自分をある程度は、ニーチェに擬(なぞら)えていたのだ。
 ニーチェの一部しか知らないままで、ニーチェを「ドイツ文学」的にではなく、構造的・歴史的・「哲学」的に理解することのないままで。
 誰でも、あるいは多くのとくに政治活動家や政治評論家たちは、自分の生きている時代は将来にとってきわめて重要な、分岐点にある時代だ、と思いたがるものだ。
 ニーチェにもおそらく、そういう意識・感覚があっただろう。
 西尾幹二にとっても、1989-1991年の前と後は、質的に異ならなければならなかった。「新しい」時代なのだ、「反共」だけを唱えてはいけないのだ。
 2010年に、こう書いた。
 1990年頃の「冷戦の終焉」までの「日本の保守の概念」は日本の「歴史や伝統に根差したものではなく、『共産主義の防波堤』にすぎなかった」
 月刊正論2010年10月号「左翼ファシズムに奪われた日本」、p.45。
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 06 これで、政治・国際情勢に関する西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景の叙述を終える。今回書いたのが、その第三点だ。
 その他、西尾幹二に関して指摘ておきたいことは、ニーチェに関係することも含めて、「山ほど」ある。
 ——

2469/西尾幹二批判044—根本的間違い(続2)。

 (つづき)
 四 2 西尾幹二・国民の歴史(1999年)のあと、2001年に同が会長の「つくる会」教科書が検定に合格する(どの程度学校で使用されるかは別の問題)。
 この最初の版を現在見ることはできないが、当時に全体を読んで、大々的に批判した、<保守派>のつぎの書があった。
 谷沢永一・「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する(ビジネス社、2001年6月)。
 谷沢の批判は、「絶版を勧告する」ほどに多岐にわたる。
 そのうち、秋月瑛二が絶対に無視できないのは、谷沢が引用する、原教科書にあったつぎの叙述だ。
 ①これまでは資本主義・共産主義の時代だったが「21世紀を迎えた今、これらの対立もとりあえず終わった」。
 ②「ソ連が消滅したことで資本主義と共産主義の対決は清算された」。
 先には1999年と2006年以降の西尾幹二の<根本的間違い>部分を列挙したが、2001年時点での西尾が会長の「つくる会」自体の教科書も、根本的に間違っていた。
 谷沢永一(1929〜2011)は、上の①を、こう批判した。
 「間違いである。中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国など、れっきとした社会主義国はまだ残っていて、異常な軍拡を続ける中国、何をするかわからない北朝鮮は、日本にとっても大きな脅威になっている。
 また、上の②を引用したあと、こう書いた。
 「これも同じ理由で間違いである。間違いどころかデマである。
 以上、谷沢著の p.281-2、
 秋月瑛二は、谷沢の指摘は完全に正当だった、と考える。西尾幹二の基本的状況認識と比べて、谷沢は明らかに「正常」だ、と考える。
 谷沢は上のあと、中嶋嶺雄が「中国…に旧ソ連の共産党勢力、北朝鮮、ベトナムなどが連なりはじめ、ラオス、モンゴル、ビルマ、ミャンマーなどの旧社会主義圏も、その戦列に加わりはじめている」と指摘している、と追記している。
 さて、ソ連(および東欧社会主義諸国)の崩壊・解体で終わったのは<対ソ連(・東欧)との冷戦>であって、資本主義対共産主義(・社会主義)の対立はまだ終わっていない、国内でも、レーニン主義政党で「社会主義・共産主義」を目指すと綱領に明記する日本共産党はまだ国会に議席を持っているではないか、とこの欄でいく度か書いてきた。
 西尾幹二らと谷沢永一らと、どちらが「正常な状況認識」を示している(いた)のか。
 なぜ、西尾幹二らは「間違った」のか。むろん、一部は、本質は文章執筆請負業者にすぎないことに理由はあるが。
 —
 根本的間違いの原因、<物書き>としての西尾幹二の生き方とその限界、「反共」に加えた「反米」の意味合い、などに以降で言及する。
 最後の点では、2002年頃の小林よしのりにも登場していただかなければならない。
 ——

2371/L・コワコフスキ「嘘つきについて」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)
 第4章の試訳のつづき。この書物に、邦訳書はない。
 ——
 (8-2)もしも誰かが言うこと全てをもはや信じることができないとすれば、人生はじつに耐え難いものになるだろう。
 だが、相互の信頼が完全に消失するとは、想定し難い。
 我々は通常は、どのような場合に、誰かが語ることを安全に信頼することができ、反対に、どのような場合に、我々を惑わせようとしている理由が対話者自身にあるために、ある程度は疑わしいかを、知っている。
 人々は、稀にしか、何の理由もなくてウソをつきはしない。
 もちろん、悪名高いウソつきはいる。
 私はかつて一人の作家を知っていたのだが、その作家は、そのときどきの環境や聴衆に応じて、彼の人生について色彩豊かな物語を作り出すのが好きだった。その彼は、すぐれた想像力と機知でもつてそれを行ったため、苦情を言うのは無作法に感じるほどだった。
 その上に、彼の物語は聞いて楽しいものだった。しかし、誰もが真面目に受け取ってはならないことを知っていた。そのため、真実性という美徳が著しく欠如しているのは彼の性格によるという理由があるので、他人が苦しむという危険はなかった。
 さて、何事についても真実を語ることが全くできない、病的なウソつきはいる。
 その者たちは、それらしい理由が何らなくして、かつまた想像力を発揮することもなく、全てを捻じ曲げ、歪曲するのだ。
 しかし、このような人々は、誰も語ることを信じないで、彼らにふさわしい軽侮の気持ちで対応するために、人畜無害でありそうだ。//
 (9)事業、政治および戦争にウソが蔓延していることは、これらと私的な関係をもつ他者に対する我々の信頼を脅かしている。
 これらの分野で仕事をする人々は、誰がなぜ騙す可能性があるかを完全によく気づいており、警戒すべきときを知っている。
 宣伝広告で語られるウソでも、これらの分野に比べればまだ無害だ。
 全ての国々は、消費者を虚偽表示から保護しようとする法制をもっており、商品についての宣伝広告にある虚偽の主張は、法律によって罰せられることがある。
 例えば、水道水をガンに絶対的効用がある治療法だとして市場で売り出すことは違法だ。
 他方で、奇蹟石鹸(Miracle soap)またはハンブルク・ビールは世界最良だと主張することは、違法ではない。
 違いがどこにあるかと言うと、後者の場合は、広告者は奇蹟石鹸やハンブルク・ビールは本当に世界最良だと我々に信じさせようと意図してはいない。
 そうではなく、彼らの意図は、奇蹟石鹸を特徴のある包装で我々に印象づけ、つぎには一個の石鹸を買わなければならないかのように誘引することにある。我々が何度もテレビでその宣伝広告を見た後では、その商品は我々に馴染みがあるように見えてしまうのだ。
 広告者は、正しく、我々の保守性(conservatism)への自然な志向を考慮している。
 奇蹟石鹸の画像を十分に頻繁に我々に見せれば、我々はかりに実際はそうではないとしても、それに馴染みがあるように感じるはずだ、と知っているのだ。//
 (10)しかしながら、政治の分野で語られるウソに目を向けるとき、重要な区別をしておかなければならない。
 政治では、頻繁にウソがつかれている。だが、民主主義諸国では、言論と批判の自由は、我々を一定の有害な影響から守るものだ。
 真実か虚偽かの違いは、変わりなく残されている。
 かりにある大臣が完全によく知っている何かに関する知識を否認したとすれば、彼はウソをついている。
 しかし、彼が見破られるかどうかはともかく、真実と虚偽の違いは明瞭なままだ。
 同じことを、全体主義国家について言うことはできない。とくに、共産主義が絶頂期にあった、スターリン主義の時代については。
 その国家と時代では、真実と政治的な正しさの区別は、全体として曖昧なままだった。
 その結果として、人々は自分たちが口に出して言ってきた「政治的に正しい」スローガンを、全くの恐怖から、半ば信じるようになった。なぜなら、長い期間だったし、政治指導者たちですらときには自分たちのウソの犠牲者となったからだ。
 このことがまさしく正確に意図されていた。真実と政治的正しさの区別を忘れるさせるような混同を人々の意識(mind)に十分に惹き起こすことができるならば、政治的に正しいものは何であろうとそのゆえに不可避的に真実だと、人々は考えるようになるだろう。
 このようにして、国民がもつ歴史の記憶の全体が、変更され得ることとなつた。//
 (11)これは、たんなるウソつきの例ではない。言葉の正常な意味での真実というまさにその観念をすっかり抹消してしまう、という試みだった。
 この試みは全体としては成功しなかったが、とくにソヴィエト同盟で、それが惹起した精神(mental)の荒廃は巨大だった。
 全体主義体制がその完全な能力を獲得しなかったポーランドでは、影響はより穏やかだったけれども、しかし、やはり強く感じられた。
 かくして、言論と批判の自由は、政治的なウソを排除できないが、それにもかかわらず、「虚偽」、「真実」および「正直」といった言葉の正常な意味を回復し、守ることができる。//
 (12)ウソつきが許され、あるいは「良い動機」があるから望ましいと見なされ得る環境条件はある。しかし、このことは、「ウソつきはときには間違いで、ときにはそうではない」、だから放っておけ、ということを意味しない。
 これでは曖昧すぎて、原理的考え方として依拠することができない。なぜなら、これでは、ウソつきの全ての場合を正当化するために用いることができるだろうから。
 また、このような教訓に従って我々の子どもたちを育てるべきだ、ということにも全くならない。
 どんな環境条件のもとでも、ウソをつくのはつねに間違いだと、子どもたちを教育する方がよいだろう。
 このようにすれば、子どもたちは、ウソをつくときに少なくとも心地悪さを感じるだろう。
 残りは、彼らが自分で、速やかにかつ容易に、大人たちの助けなくして、学ぶことができる。//
 (13)しかし、ウソをつくことの絶対的禁止は、効果がなく、またより重要な道徳的命令と矛盾する可能性もある。ウソをつくのが許される場合を説明することのできる一般的原理をどうすれば見出せるだろうか?
 先に述べたように、答えは、そのような原理的考え方は存在しない、ということだ。どんな一般論も、全ての考え得る道徳的な環境条件を考慮することはできず、過ちがあり得ない結論を与えることはできない。
 しかしながら、この問題の考察から抽出できるかもしれない、また役立ち得ると判るかもしれない、一定の道徳を語ることができるだろう。//
 (14)第一の道徳は、自分たち自身に対してウソをつかない努力をすべきだ、ということだ。
 これが意味するのは、とりわけ、ウソをつくときに我々は事実を知っているはずだ、ということだ。
 自己欺瞞はそれ自体が別の重要な主題で、私はここで論じることができない。
 良い動機から我々がウソをつくときはつねに、ウソをついてることを知っているべきだ、と言うだけにとどめる。//
 (15)第二に、自分たち自身へのウソを正当化する方法を憶えておくべきだ。ウソをつく名目となる「良い動機」という我々の観念は、その「良い動機」が我々自身の利益と合致している場合には、つねに疑わしい。//
 (16)第三に、ウソをつくのが何か別の、より重要な道徳的善の名のもとで正当化されるときでも、ウソをつくことそれ自体は道徳的に善ではないことを、心にとどめておくべきだ。
 (17)第四、そして最後に、ウソをつくのは他人をしばしば傷つける一方で、もっとしばしば我々自身を傷つける、ということを知っておくべきだ。ウソをつくことの効果は、精神(soul)の破壊だ。//
 (18)これら四つの事項を覚えていても、我々は、あるいは我々の大多数は、聖人にはなれないし、この世界からウソを廃絶することもできない。
 しかし、ウソを武器として用いるときに、かりにそうしなければならないときであっても、我々に慎重さを教えてくれるかもしれない。//
 ——
 第四章、終わり。

2360/J・グレイ2002年著でのコルィマ(Kolyma)②。

 John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 =J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 上の英語著からのコルィマ、シャラモフ関係部分の試訳。
 邦訳書p.104-5を参照しつつ、原文を見ながら、秋月なりに訳している。
 以下は、J・グレイの文章(日本語訳)で、V・シャラモフの文章ではない。前回に記したように、シャラモフによる<物語>の全部の英訳書はまだ存在しなかった時期に、J・グレイがその一部(または重要部分)を読んで、おそらくは言及する価値があると判断したのだろう、この著(<わらの犬>)にしてはかなり長く叙述したのだと思われる。
 「」を外し、一行ごとに改行する。○と//は段落の区切り。
 **
 (つづき)
 (この欄での便宜的な数字)
 シャラモフは、こう書いた。
 「知ってはならないこと、見てはならないこと、かりに見たとすれば死んだ方がよいことは、いくらでもある」。
 収容所から戻った後、彼はその残りの人生を、見たことを忘れるのを拒みつづけて生きた。
 モスクワに帰る旅を叙述して、こう書いた。
 「まるで何年もつづいた夢から醒めたばかりのようだった。
 すると突然に、怯えて、自分の身体から冷や汗が出ているのを感じた。
 人間の恐るべき強さに、忘れようとする願望と能力に、畏れ慄いたのだ。
 自分は全てを忘れ、私の人生の20年間を抹消する気持ちでいると、私は気づいた。
 このことを理解したとき、私自身に打ち克った。私が見た全てのことを忘却するのを、私の記憶に許すつもりはない、と悟った。
 そして、私は落ち着きを取り戻して、眠りに入った。」//
 最悪のときには、人生は悲劇ではなく、ただ無意味なだけだ。
 精神(soul)は破壊されていても、人生は細々とつづく。
 意思が挫けるとき、悲劇の仮面は剥がれ落ちる。
 残るのは、ただ苦しみだ。
 最後の悲しみが語られることは、あり得ない。
 かりに死者が語れるとしても、我々はそれを理解しようとしない。
 悲劇に似たものにすがりつくのは賢明だ。
 剥ぎ取られて露わになる真実は、我々を盲目にさせるにすぎない。
 Czeslaw Milosz がこう書いたように。
 「無事でいる人間は誰も、神の目をもってはいない」。//
 シャラモフは1951年にコルィマから釈放された。但し、その地域を離れるのは許されなかった。
 1953年にシベリアを離れることは認められたが、大都市に居住することは禁止された。
 1956年にモスクワに戻って知ったのは、妻は彼の元を去っていて、娘は自分を拒絶していたことだつた。
 75歳の誕生日、彼は、独りで老人施設に住んでいた。目が見えず、ほとんど耳も聞こえず、大変な面倒をしながら、ときたま彼を訪れる一人の友人にいくつかの短い詩を口述した。その詩は、外国で出版された。
 その出版の結果として、彼は老人施設から追い出された。そして、—おそらくはコルィマに連れ戻されると信じ込んで—しつこく抵抗したが、ある精神病院に収容された。
 その3日後、1982年1月17日、シャラモフは「窓に鉄格子が付いた小さな部屋で」死んだ。「その窓の反対側には、円い監視用の穴が付いた、緩衝材入りのドアがあった」。//
 **
 ——
 終わり。

2357/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文⑤。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 ——
 第3節。
 (1)ようやく2013年、かなり完全なシャラモフの作品集がロシアで(7巻本で)出版された。
 彼は外国ではドイツで最もよく知られていて、6冊のうち4冊が翻訳されており、近刊の書物として出版された。
 コルィマ・ストーリィの一部分の信頼できる英訳書は1980年に、John Glad の翻訳で<コルィマ物語(Tales)>として出版された。
 1994年に、のちの書物からのその他の物語の一部が、<コルィマ物語>に追加された。
 現在の総巻とその姉妹篇は、英語で読めるシャラモフの作品の量の、二倍以上になるだろう。
 不幸なことだが、英語によるシャラモフの伝記や彼の作品の研究書は、まだない。
 ドイツ語を読める人々は、Winfried F. Scholler の<生きるか書くか—語り手・Warlam Schalamov>を利用できるだろう。//
 (2)一方で、シャラモフを翻訳するのはむつかしくない。
 彼は、一切の文体による効果を避けている。ほとんどの物語は故意に「粗っぽく」書かれ、同じ形容詞を繰り返すのを恐れておらず、隠喩も最小限にとどめている。
 しかしながら、ある面では翻訳者を苦しめるに違いない。これが、悪漢たち、つまり政治的受刑者をもっと地獄に追い込んだ、親譲りで職業的な泥棒や殺人者たちの言葉遣い、<fenia>または<blatnoi yazyk>の言葉遣いだ。 
 <fenia>は、オデッサ・イディッシュ、多様なスラヴ語由来の、トルコ語起源すらもつ方言だ。そして、たぶんこの200年の間に定着してきた。
 しかしながら、英語での犯罪者用語は、数年ごとかつ全ての都市で変わっている。
 ただ18世紀のロンドンでは安定した犯罪者用語があったが、今日にそれを理解できるのは数人の専門家だけだ。
 このような理由で、この英語版では、シャラモフが登場させる犯罪者たちは、僅かばかりのよく知られた俗語とともに、誰とも似たように語る。
 興味深いことだが、シャラモフは、コルィマにいた間はわずか一つの散文しか書いていない。化学実験室の責任者だった収監技術者のPodosinov のための、犯罪者用語に関する600語の辞書だ(近刊の「Galina Pavlovna Zybalova」の物語を見よ)。 
 Podosinov は通過するトラックに轢かれて死に、この辞書の原稿は失われた。—ロシアで犯罪者俗語の辞書類が増加しているにもかかわらず、このことが犯罪者用語の解釈を容易にしなかった。//
 (3)妻のAnna がこの訳書の初版を読んでくれて、間違いや不適切表現、遺漏から救ってくれたことに大いに感謝している。
 その仕事は、彼女の父親のDmitri Vitkovsky がシャラモフのように収容所で人生の半分を過ごしたことを考えると、彼女にはとくに困難だった。
 Susan Barba の如才がなくて綿密な編集についても感謝したい。また、ロシア国立人文資料館のNatalia Efimova に対しても、公刊されている文章に誤植があると(間違って)疑ったときにシャラモフの草稿を点検してくれたことに、感謝する。//
 (4)「私が収容所で見て理解したこと」の最後の項目での主張にもかかわらず、シャラモフは、自分の素材を完全に分かっていた。そして、誰もが理解することができるように、書いた。
  —Donald Rayfield
 **
 序文、終わり。シャラモフの本文(の英語訳)を試訳する予定はない。

2346/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文④。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 ——
 第2節②。
 (4)シャラモフは、荷積み一輪車の運転方法以外には何も、コルィマから学ばなかった、と言った。
 しかし、彼の著作物の断片の一つは、我々にもっと多くのことを語ってくれる。/
 「<収容所で見て理解したこと
 01. 人間の文化や文明の極端な脆弱さ。重労働、寒さ、飢え、殴打があれば、人間は三週間で野獣になる。
 02. 精神を奪う主要な方法は、寒さだ。思うに中央アジアの収容所ではより長く生きる。より暖かいからだ。
 03. 友情や同志愛は、本当に過酷な、生命を脅かす条件のもとでは決して生まれない、と悟った。
 04. 人間が最も長く維持する感情は怒りだ、と悟った。怒りに燃える人間には、肉片で十分だ。他の全てに、その人間は無関心だ。
 05. スターリンの「勝利」は、無実の者を殺したことによる、と悟った。—十倍の規模の組織があれば、二日以内に彼を一掃できただろう。
 06. 人間は他のどの動物よりも強くて生により執着するがゆえに人間だ、と悟った。どの馬も、極北で働いて生き延びることはできない。
 07. 飢餓と酷使の条件の中で最小限度の人間性を維持することのできる唯一の人間集団は、宗教信仰者、宗徒(この者たちのほとんど)、たいていの聖職者だ、と知った。
 08. 党従事者と軍人は、最初に崩れ始め、かつ最も容易に崩れる。
 09. 知識人に対する最も手厳しい論述は、その顔を最もふつうに平手打ちすることだ、と知った。
 10. ふつうの人々は、監督者たちがどの程度強く自分たちを叩くか、どの程度熱心に殴打するかによって、自分の監督者を識別する。
 11. 殴打は、一つの議論と同じくほとんど全面的に有効だ(方法・第三)。
 12. 見せ物裁判(show trial)がどのように不可思議に設定されているかを、専門家から教えられた。
 13. 受刑者はなぜ、外部世界が聴くよりも前に政治報道を聴くのかを、理解した。
 14. 刑務所(と収容所)の「風聞(grapevine)」は決して「風聞」にすぎないのではない、と気づいた。
 15. 人は怒りを糧として生きることができる、と悟った。
 16. 人は無関心を糧として生きることができる、と悟った。
 17. なぜ人々は希望によって生きないかを、理解した。—希望は全くない。また、なぜ自由(free)な意思によっては生き残ることができないかも。—どんな自由な意思があるのか?
 人々は本能により、自己保存の感情により、木や石や獣と同じ基盤の上で、生きる。
 18. 1937年に最初に正しく、私の自由(freedom)により他人の死に導くことができるなら、私の自由が私自身のような受刑者である他の人々を抑圧することで監督者に奉仕しなければならないなら、決して職場長にならないと決めたことを、私は誇りに思っている。
 19. 私の肉体的強さと精神的強さはいずれも、この大実験で想定していた以上に強いことが判明した。
 誰をも売らなかった、誰をも死刑またはその他の判決へと追いやらなかった、そしてだれをも告発しなかった、ということを誇りに思う。
 20. 1955年まで公式の請願書を書かなかったことを、誇りに思う。
 21. 私は、いわゆるベリア恩赦が行われたところを見た。見るに値する光景だった。
 22. 女性の方が男性よりも慎み深く自己犠牲的だ、と知った。コルィマでは、妻に従う夫の事例はなかった。しかし、妻たちの多くは、やって来た(Krivoshei の妻のFaina Rabinovich)。
 23.「夫と妻を合法化する」手紙を携行する等の、北方の素晴らしい家族(自由契約労働者と従前の受刑者)を見た。
 24. 「最初のロックフェラー」、地下世界の百億長者たちを見た。私は彼らの告白を聞いた。
 25. 制裁労働をする人々を見た。「割当量」D、B等、「Berlag」の多数の人はもちろん。
 26. 大量のことを達成できる—移籍した病院の時間で—ことを悟った。だが、生命を危うくし、殴打をされ、氷の中の独居牢を耐え忍ぶことによってだ。
 27. 氷の中の、岩に刻まれた独房を見た。そこで私自身が一晩を過ごした。
 28. 権力への、意のままに人を殺すことができることへの熱情は、強い。—監督者の長から階層内にある監視員まで(Seroshapka と似たような男たち)。
 29. ロシア人の、非難し不満を告げることに駆りたたれる、統御できない気持ち。
 30. 世界は善良な人々と悪徳な人々に分けられるのではなく、群衆とそれ以外に分けられることに気づいた。
 群衆の95パーセントは、不愉快きわまること、死に直結することを、最も穏やかな脅迫があれば、行うことができる。
 31. 収容所は—その全てが—否定的な学校だと確信している。あなたは、堕落することなくして、その一つで一時間なりとも過ごすことはできない。
 収容所は誰にも何の積極的なものをも与えなかったし、与えることができない。
 収容所は全員を、受刑者と自由契約労働者のいずれをも同様に、堕落させることで運営される。
 32. どの地方にも、その地方の収容所があり、どの建設場所にもある。数百万人の、いや数千万人の受刑者がいる。
 33. 抑圧は社会の上位層にだけ向けられているのではなく、あらゆる階層に及んでいる。—どの村にも、どの工場にも、どの家族にも。全ての家族に、抑圧されている親戚か友人かがいる。
 34. 私の人生の最良の時期は、Butyrki 刑務所の小部屋で過ごした数ヶ月だったと思う。そこで私は何とかして弱い者の精神を鍛えた。また、そこでは誰もが自由に話した。
 35. 一日先の生活を「計画」することを学んだ。それ以上先ではない。
 36. 泥棒は人間ではない、と悟った。
 37. 収容所には犯罪者はいない、隣にいる人々は(また明日に隣人になるだろう人々は)法の範囲内にいて、法に抵触していない、と悟った。
 38. 何とも恐ろしきことは少年または若者の自己肯定心だ、と悟った。彼らにとって、頼むよりも盗む方がよい。
 そうした自己肯定と傲慢さは、少年たちを底辺に沈ませている。
 39. 私の人生で、女性は大きな意味を持たなかった。収容所がその理由だ。
 40. 教養ある人々は、役に立たない。なぜなら、どのようなならず者に対しても自分の態度を変更するのは、私にはできないからだ。
 41. 誰もが—監視兵であれ、仲間の受刑者であれ—嫌悪する人々は、ぐずぐずし、病気で弱い、気温がゼロ度以下のときは走ることのできない、党階階層の新入たちだ。
 42. 権力とはどういうもので、銃砲をもつ男がどういうものか、私は理解した。
 43. 規準は変わってくる、その変わりようは収容所の最も典型的なものだ、と私は理解した。
 44. 受刑者の生活条件から自由人のそれへと移ることはきわめて困難だ、長い償還期間なくしてはほとんど不可能だ、と理解した。
 45. 作家は叙述している問題については外国人でなければならない、そして、素材を十分に知っているならば誰も自分を理解できないだろうようなやり方で作家は執筆するのだろう、と理解した。」//
 ——
 第2節、終わり。

2345/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文③。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 ①・②で掲載した部分を「第1節」とし、以下を「第2節」とする。大きな区切りがあるためで、数字や表題は原書にはない。
 ——
 第2節。
 (1)1988-89年にペレストロイカがしっかりと確立されると、Sirotinskaya はシャラモフの原稿を準備して—彼は能筆で、解読に問題はなかった—、それの出版に取りかかった。
 しかしながら、編集は加えらなかった。そして読者は、後半に主題、出来事、登場人物が何度も出てきていて、別々の章の中の名前に矛盾点や類似点すらあることに、気づくことになっただろう。
 それにもかかわらず、この作品のもつ容赦なき力強さは、ナツィとソヴィエトのいずれであれ、20世紀の恐怖の記録としてこの作品を独特なものにしている。著者は、自分の誤った判断を含めていかなる緩和または穏和化も拒否しており、見た光景であれ聞いた言葉であれ、類稀な記憶力を示していた。
 収容所で彼はたまには親切にされたにもかかわらず、そこには、慰安となるものはなく、神または人間性に対する信頼もない。
 ただ動物たちだけが、礼節をもって振る舞う。—仲間が逃げられるように狩人の銃弾を受ける雄熊やアトリ鳥、受刑者を信頼して監視兵に対して怒って唸るハスキー犬、あるいは、受刑者が魚を掴むのを助ける猫。//
 (2)作品がもつ芸術的な力はさて措き、シャラモフの物語は、衝撃的な証言書だ。
 多数の例のうちの一つは、1942年から1945年にかけて、アメリカの不動産業者がコルィマに、大量の墓所を掘り返すためにブルドーザーを、金鉱石を運ぶためにトラックを、奴隷たちが使う用に鋤とつるはしを、監視兵たち用に食糧と衣服を送った、というものだ。
 シャラモフの仲間の一人が述べるように、コルィマは、「オーヴンのないアウシュヴィッツ」だった。//
 (3)シャラモフは、何らかの形態で、共謀罪で訴追されることがあり得た。彼自身が、スターリン主義の継承者として、容赦なく残虐なことを犯した、内戦中の赤軍の英雄たちに対する敬愛の念を示していた。
 彼の長編の一つである<金メダル>は、社会革命党〔エスエル〕のテロリストのNadia Klimova を、ほとんど神格化している。
 シャラモフが被った苦しみにもかかわらず、彼は、理想に燃えて、自分の死をもって償う心構えで行なったものである場合は、革命の殺人者たちを決して非難しなかった。
 また、強制労働のシステムに協力する職を決して引き受けない、と公言したけれども、救急医療員にいったんなるや、<永久凍土>で彼が詳述しているように、彼が病院の床磨きに行くのを許さず、鉱山での重労働へと送り出した青年の自殺について責任を感じた。//
 ——
 第2節がつづく。

2338/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑦。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.782-4。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑦。
 (18)Nina Berberova によると、Gorky がヨーロッパに来たのは、ロシアで起きたことに怒ったのが原因ではなく、彼がロシアで見て体験したことで深く動揺したからだった。
 彼女は、夫である詩人のKhodasevichとGorky が交わした会話を、こう思い出す。
 「二人は1920年(の異なるとき)に、子どもたちの家へ、たぶん十代前半者用の矯正施設へ行った。
 ほとんんどが12歳から15歳の少女で、梅毒に感染しており、自分の家がなかった。
 10人のうち9人は窃盗者で、半分は妊娠していた。 
 Khodasevich は、…憐憫と嫌悪をもって思い出していた。ぼろ布とシラミの少女たちが自分にまとわりつき、階段で自分の服を脱がそうとし、彼女たちの破れたスカートを頭の上にまでまくり上げて、自分に向かって卑猥な言葉を叫んだ、と。
 彼はやっとのことで、彼女たちから引き離れた。
 Gorky も類似の体験をしていた。彼がそれを語り始めたとき、恐怖が彼の顔に現れ、彼は顎をしっかりと握って、突然に黙り込んだ。
 その施設の訪問が彼に衝撃を与えたことは明瞭だった。—おそらく、その前に受けていた浮浪児の印象以上のもので、彼の初期の作品が主題を得ていた奥深い所での恐怖だった。
 おそらくいまヨーロッパで、彼はそれを受け入れるのを怖れている心の傷を、ある程度は癒している。…彼は自分に訊ねている、自分自身だけに。すなわち、意味があったのか?」/
 Gorky は、自分自身が革命の孤児だった。
 革命への彼の希望の全ては—自分が立場を明確にしていた希望は—、この4年間に捨て去られた。
 建設的な文化の力が生まれるのではなく、革命は、ロシアの文明全体を事実上破壊した。
 人間を自由にしたのではなく、革命は人間の隷従化をもたらしたにすぎなかった。
 人間を精神的に改革したのではなく、革命は精神的な退廃を生み出した。
 Gorky は、深く幻滅するようになった。
 彼は1921年に、自分について「厭世的だ」と叙述した。
 彼は、レーニンのロシアの現実と、自分の人間中心主義的で民主主義的な社会主義とを調和させることができなかった。
 善をなし、改良していくという望みをもって、体制のしくじりに「聴こえない耳を向ける」ということは、もはやできなかった。
 彼の努力は全て、無に帰した。
 自分の理想がロシアで捨て去られたとすれば、彼に残されたのは、ロシアを捨て去ること以外になかった。(*15)//
 (19)ロシアを出て国外に移住しようとGorky が決心する前には、山のようなボルシェヴィキとの対立があった。
 過去4年間の愚かなテロル、知識人の破壊、メンシェヴィキとエスエルに対する迫害、クロンシュタット反乱の粉砕、飢饉に対するボルシェヴィキの冷酷な態度。—これら全てが、Gorky を新体制に対する痛烈な敵に変えた。
 Gorky の憤怒の多くは、自分が住むペテログラードの党指導者であるジノヴィエフに向けられた。
 ジノヴィエフはGorky を好まず、彼の住まいを「反革命の巣」と見ていた。そして、彼を継続的な監視のもとに置いた。Gorky の手紙類は開封され、彼の家は絶えず捜索された。また、彼の親しい友人たちは逮捕すると脅かされた。
 赤色テロルの時期のGorky の最も激しい怒りの手紙は、ジノヴィエフに宛てられていた。
 彼はその一つで、ジノヴィエフが絶えず逮捕していることで、「人々はソヴィエト権力のみならず、—とくに—個人としてのきみを憎悪するようになってきた」、と主張した。
 だが、ジノヴィエフの背後にはレーニン自身が立っていることが、すみやかに明瞭になった。
 ボルシェヴィキ指導者は、Gorky の非難に関して手厳しかった。
 1919年7月の脅迫的手紙で、彼〔レーニン〕は、こう書いた。「作家の『精神状態』の全体が、ペトログラードで彼を『取り囲んでいる』『敵愾心をもつブルジョア知識人たち』によって『完全な病気』になっている」。
 レーニンはこう威嚇した。「私の助言をきみに押しつけたくはない。だが、きみの環境を、きみの周り、きみの住まい、きみの職業を、すみやかに変えよ、さもないと人生はきみを永遠に失望させるだろう、と言わざるをえない」。(*16)//
 (20)Gorky のレーニンに対する幻滅は、1920年の間に深さを増した。
 ボルシェヴィキ指導者はGorky の出版所の<世界文学>編集の独立性に反対し、財政的支援を打ち切ると脅かした。
 Gorky は、Lunacharsky に激しく抗議した。
 彼は正しく、レーニンは全ての出版を国家の統制のもとに置こうとしているのではないかと疑っていた。—彼がひどく嫌悪したこと。そして、進行中の企画を続ける唯一の方法は外国で編集を行うことだと主張(または威嚇)した。
 しかし、容赦ないレーニンの監視が続いて、人民委員〔Lunacharsky〕はほとんど何もすることができなかった。
 Gorky の戯曲<Don Quixote>で、Lunacharskyは、彼自身(Don Baltazar)、Gorky(Don Quixote)とレーニン(Don Rodrigo)の間の三人の確執関係を演じた。
 これには、Don Baltazar のDon Quixote に対する別れの言葉がある。
 Gorky とレーニンの間の衝突を要約してもいる。—革命の理想と残酷な「必然性」との間の衝突。/
 「背後にある陰謀を打ち破っていなければ、我々は軍を破滅させていただろう。
 おお、ドン・キホーテよ!! おまえの罪を重くするのを望んでいない。だがここで、おまえは致命的な役割を果たした。
 つぎのことを隠そうとは思わない。容赦なきRodrigo の脳裡に、でしゃばって出てきて、厳格かつ複雑で責任で充ち溢れた生活の中に人類愛を持ち込む全てのお人好しに対する教訓として、おまえの上に威嚇の法の手を振りおろす、という考えが浮かんだのだ。」(*17)//
 ——
 ⑧へとつづく。

2336/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑤。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.779-p.781。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑤。
 (13)活動が最もさかんだった1922年夏頃まで、ARAは毎日1000万人の人々に食事を供給した。 
 ARAはまた、医薬品、衣料、道具、種子を大量に送った。この活動によって、1922年と1923年の連続した大豊作が可能になり、ロシアはやっと飢饉から脱することができた。
 ARAが使った全費用は、6100万ドルだった。
 この援助を受けたボルシェヴィキには、感謝の気持ちが驚くべきほどになかった。そのような寛大な贈り物に対して、恥ずかしくも難癖がつけられてはならなかったにもかかわらず。
 ボルシェヴィキはARAを、スパイ行為をした、ソヴィエト体制の評判を落とし、打倒しようとしたと非難した。(+)
 (+原書注記—Hoover の動機は完全には明瞭でない。彼は実際には、ソヴィエト体制に対する敵愾心を強くして、外交的効果とロシアでの政治的影響を狙って飢饉救済を利用しようとしたのかもしれない。しかし、Hoover の側にある純粋に人道的な関心を否定することはできない。また、ボルシェヴィキによる非難に値するものでもない。Weissmam,<Herbert>第2章を見よ。)
 ボルシェヴィキはまた、運搬車を捜索し、列車を利用させず、供給物を奪い、さらには救援労働者たちを逮捕すらして、ARAの活動を妨害した。
 Hoover が提示していた二条件—干渉されない自由とアメリカ人全員の牢獄からの解放—は、こうしていずれも、厚かましくもボルシェヴィキによって破られた。
 さらにアメリカで憤激が起きたのは、西側からの食糧援助を受け取っていたのと同時に、ソヴィエト政府は、数百万トンの自分たちが持つ穀物を、外国に売るために輸出していることが明らかになったときだった。
 ソヴィエト政府は、質問されて、外国から工業用および農業用備品を購入するためには輸出が必要だと主張した。
 しかし、この醜聞によって、ARAはロシアで追加のアメリカ合衆国基金を募るのは不可能になり、1923年6月に、その活動を停止した。(*11)//
 (14)Gorky にとって、ソヴィエト政府が飢饉を処理したやり方は、恥ずかしい、かつ同時に当惑させるものだった。
 これが大きな要因となって、彼はロシアを去ろうと決心した。
 飢饉の最悪の事態が過ぎたとき、ボルシェヴィキは、アメリカ人に対して形式的な謝意を示す短い文書を送った。
 しかし、Gorky は、自分の謝意をもっと大っぴらに表現した。/
 「人間の苦悩の歴史の中で、ロシア人が体験している事態ほどに人間の魂にとって辛いものを、私は知らない。また、実際の人道主義の歴史の中で、大きさと寛容さの点であなた方が現実に成し遂げた援助と比較できるものを、私は思いつかない。
 あなた方の助けは、比類なく巨大な功績であり、最高の栄誉に値するものとして、歴史に残るだろう。それはあなた方が死から救った数百万のロシア人民の記憶に長くとどまり続けるだろう。
 アメリカの人々は、慈愛と憐れみを人類が大きく必要としているときに、人々の間に友愛の夢を蘇生させてくれた。」(*12)
 革命の最も悲しい遺産の一つは、全ての都市の路上に放浪していた、膨大な数の孤児たちだった。
 1922年頃、700万の子どもたちが、駅舎、放棄された家屋、建築現場、ごみ捨て場、地下室、下水溝その他の汚い穴蔵に、雑多に住んでいた。
 ぼろ布を着た裸足のこうした子どもたちの両親は、ともに死んでいたか、彼らを遺棄していた。この子どもたちは、ロシアの社会的な破壊の象徴だった。
 家庭すらが、破滅していた。//
 ——
 ⑥へとつづく。

2330/V·シャラモフ・コルィマ·ストーリー(2018)—序文②。

 Varlam Shalamov, Kolyma Stories, translated by Donald Rayfield(The New York Review of Books, 2018)の、(ロシア語から英語への)翻訳者・Donald Rayfieldよる序文の試訳のつづき。
 **
 (07) シャラモフは当初は、著作活動をした経歴によって、高い望みを持った。
 Boris Pasternak は、彼の詩作の才能を大いに誉めた。また、Aleksandr Solzhenitsyn は<One Day in the Life of Ivan Denisovich>で、収容所について書くのは可能だということを示した。
 しかし、ソヴィエト当局に外国での<ドクトル・ジバゴ>出版を責め立ててられていたPasternak は1960年に死亡した。また、Solzhenitsyn が出版することができるのは—かつほんの数年の間—今や党指導者であるNikita Khrushchev や影響力ある雑誌<新世界>の編集者のAleksandr Tvardovsky の好意があったからにすぎない、ということが明瞭になった。
 シャラモフが最初は抱いたSolzhenitsyn の偶像視は彼の友好的な反応を受け、<収容所群島>の編集を共同で行おうと誘われもした。
 しかし、シャラモフは明らかに、19世紀のキリスト教的価値のいくつかへのSolzhenitsyn の執着には、またソヴィエト社会のある範囲の道徳、とくに手労働の救世的力への忠誠さには、賛同しなかった。
 Solzhenitsyn は短い物語を書くことから大きい小説へと移ったけれども、シャラモフは、素材を偽ることとなる綿密な構成物だとして小説を評価しなかった。
 (ウラルでの矯正労働の回顧録は、<Visheara(反小説)>という表題だった。)
 シャラモフは、Yevgeniya Ginzburg のような、収容所の他の生き残りとは距離を置いた。そして、自分たちの苦しみの原因を作った悪党たちに対して優しすぎると批判した。
 彼は、最初はOsip Mandelstam の未亡人のNadezhda と親しかった。—最良の二つの物語を、彼女と詩人に捧げた。だが、賛美者と異端者たちに囲まれた女王蜂としての彼女の役割によつて、彼は遠ざかった。
 (08) こうした孤立やKGB が払った敵対的注意にもかかわらず、シャラモフは四作の詩集を何とか出版した。
 彼の詩は、革命前ロシアの象徴主義の技巧と主題をもった、強く回顧的なもので、公的に敵対心を掻き立てはしなかった。だが、彼の物語をソ連邦で出版するのは、最も論争的でない1965年の<The Dwarf Pine>の一冊を除いて、不可能だと判ることとなった。また、その例外ですら、<国の若者>の編集部から解雇される原因になった。
 1968年、—シャラモフが密かに意図してか、意思に反してかは確実には言えないが—個々の物語が、そして最初の書物の<Kolyma Stories>の全体が、西側へと漏れ出し、公表された。最初はエミグレ・ロシア人の雑誌で、次いでシャラモフの名によるドイツ語訳書、フランス語訳書として。
 シャラモフは私的に抗議した(出版物の提供と支払いを求めたけれども)。そしてついには、公式の<文学新聞>で、明らかに強いられて、抗議を表明した。
 彼が「反ソヴィエト」のエミグレや西側出版社を非難したことで、作家同盟に遅ればせながら入ることができるという報償が与えられた。作家同盟員でなければ、ソヴィエトの作家は生活していく望みを持てなかった。//
 (09) 1960年代の末、シャラモフはIrina Sirotinskaya の世話になった。彼女は、彼の原稿をロシア国立文学芸術資料館に預けていた。
 Sirotinskaya は、お互いの愛情と尊敬にもとづく関係に関する詳細な説明を付していた。
 Sirotinskaya の介入がなかったならば、確実に、シャラモフラモフの作品は、その他の異端の作家たちの作品のように消滅の運命に遭っただろう。
 シャラモフに懐疑的な友人たちは、とくに異端者または元受刑者あるいはそのいずれもの友人たちは、自分たちの友情を疑っていた。USSR(ソヴェト社会主義共和国連邦)の全ての国立資料館はKGB に服従しており、著作者の作品を存命中に資料館に移すことは、保存のためとともに、隔離の結果だと見なすこともできた。
 しかし、私はソヴィエト資料館にある私自身の著書に関して気づいたのだが、「保安のための除去」だったにもかかわらず、利用を統制できる文学作品に対して、純粋に貢献したいという資料管理者がいた。
 シャラモフの少なくとも詩集の出版について、Sirotinskaya がそれを助ける大きな役割を果たした、ということに疑いはない。//
 (10) 1970年代遅く、家を失って病気がひどくなったシャラモフは、姿を消して老人施設へと入った。
 その施設の条件は本当にひどいものだった。—皮肉にも、収容所の最悪の施設と同じほどにひどかった。
 コルィマで衛生兵としてシャラモフを教えた収監中の教授だった人の孫も含めて、友人たちが彼を発見して、彼の条件を少しでも良くしようとした。しかし、その働きかけはKGB と「医療スタッフ」に妨害された。
 Sirotinskaya はシャラモフとの関係を感じていたが、家族の利益を優先しなければなかった、結婚している女性だった。それでようやく、冬の頃からシャラモフとは距離を置いたように見える。
 1982年1月、精神医の委員会はシャラモフの状態を認知症と診断した。—ひどい難聴、筋肉統御力の喪失、見知らぬ者に対する激しい嫌疑。そして、凍えるような寒さの中をほとんど裸で、ほとんど誰も訪問することのできない「精神病院」へと移された。
 数日のうちに、シャラモフは急性肺炎で死んだ。
 Sirotinskaya はその回想録の中で、彼の死の直前に訪れたとき、シャラモフによって詩集の語句を口述されたと述べている。
 シャラモフはまた、彼女を相続人に指名する遺書を残し、出版されていない物語集を彼女に捧げた。
 この最後の措置の真実性は、シャラモフの異端派の仲間、とくにSergei Grigoriants によって争われた。
 シャラモフは第三者が存命の場合に語るのを嫌ったため(収容所についての古い習慣)、ここでも再び、伝えられる彼の会話が確証されることはなかった。//
 (11) シャラモフは、聖職者の子息として、洗礼を施されているという理由で、友人たちやソヴィエトの文学分野の人々は組織立って、教会式の葬儀と埋葬を行なった。//
 **
 ③むへとつづく。

2321/レフとスヴェトラーナ28−第7章④。

 レフとスヴェトラーナ、No.28。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.162〜p.168。
 **
 第7章④。
 (43) 〔1948年〕7月31日、スヴェータの母親が、三通の手紙を持って、モスクワから到着した。
 スヴェータは手紙を開くとき、昂奮をほとんど抑えられなかった。
 しかし、三つのうち最後の短い手紙を読んで、希望は失望に変わった。
 レフはその年の出逢いの可能性を全て排除し、賢明に観察していたが、ほとんど無頓着に「たぶん1949年はより良い年でしょう」と書いていた。
 スヴェータは立腹した—全てに。そして、レフにぶちまけた。
 自分が必死の思いで彼を訪れようとしているのに、その一年全体を待とうとしているのが、理解できなかった。
 絶望的になって、彼女は彼を叱った。何の確実さもなく、あなたと逢える
のを待ちつづけることができると考えているのか。
 8月2日、スヴェータは書いた。
 「レヴィ、気になる。分かっているの?
 たくさんの『もしも、だけでも』がなかったならば、私にはどんなに良かったか、ということを。
 あなたはこれに答えることができない。—質問ではなく、叱責です。」
 8月9日になってようやく、彼女はレフに多数の言葉を使って書くことができた。
 「私の気持ち(soul)が平穏で静かでなかったので(今でもそうでないけれど)、一週間、書かなかった。 
 ママがPereslavl' にいる私たちに会いに来て、あなたの手紙を持ってきたとき、再び、完全に、くずれ落ちました。
 (これは、あなたは手紙を書くべきではなかった、と言っているのではない。)
 私が早くペチョラに行かないようにする全ての分別ある大人に対して、休みをとるよう強く言うママに対して(全く正しいけれど)、腹を立てました。
 でも、もちろん、ほとんどは私自身に対してです。30歳になって、自分で物事を決定しているべきなのです。
 もっと早く急いであなたに逢わなかったことに、すぐに家に戻って研究所へ行って、仕事の旅行の手筈を整えなかったことに、怒りました。仕事旅行がまだ可能であればだったけど、今ではもう遅すぎます。
 そして私は、煮えくり返っている。どうすべきか、分からない。」/ 
 先の「叱責」が残酷と思われることを懸念して、スヴェータは、今はその意味を明確にした。
 「前の手紙で、自分がいなければ私の人生はもっと良くなる、とあなたが決して考えないようにと、私はあなたを叱りました。
 あの手紙を受け取っていない場合は、大事をとって、このことを繰り返します。」//
 (44) スヴェータは、激しく、レフに逢いたかった。
 彼の助言に従っていれば、さらにもう一年が、もう一度彼に逢わないままで過ぎてしまうだろう。
 1949年、自分は32歳になる。
 人生を開始するために、あとどのくらい長く待つことができるのか?
 子どもをもつまで、どのくらい長い時間が必要なのか?
 彼女は、レフと結びついていることの対価(cost)を分かっていた(彼は何度もこのことについて彼女に警告していた)。つまり、子どもをもてない可能性が大きくなっていた。
 そしてときたま、とても耐えられない、と感じた。//
 (45) スヴェータは、二通の「叱責」の手紙で、子どもの問題を提起していた。
 彼女はレフに、叔父のNikita と行った会話について書いた。その会話で叔父は、誰も「生命を生む権利」を有しない、「人々は自分たちだけのことを考えて、利己的な理由で子どもをもつ」と語っていた。
 スヴェータは「新しい生命は、世界により多くの良いことを生む可能性をもたらす」と答えた。
 彼女は、Nikita は気の毒だと思った。なぜなら、「彼の息子に対してより安楽でより愉快な人生を保障することができなかったのに、息子に生を与えたという、罪悪感をもっている」。
 答えは一人以上の子どもをもつことだ、スヴェータはそう結論づけた。
 かりにNikitaに子どもがもう一人いれば、「年下の子ども、あるいはもっと良いけど年上の子どもがいれば、今頃は彼にはすでに、何人かの孫がいたでしょう。その孫たちは彼を見守り、彼の人生に意味を与えてくれたでしょう。そうであれば、あのような考えが彼の頭に入り込みはしなかったのです。
 たぶん性別(gender)が違いの理由なのでしょう。
 女性にとっては、愛して子どもをもてば、人生はすでに達成されている。
 全ての(またはほとんど全ての)女性にとって、それは人生の中心目標なのです。公的生活や仕事等でいかほどにたくさんの様々な利益を得るかもしれないとしても。」
 (46) スヴェータは、モスクワに戻ってもう一度、ペチョラへ旅しようと決意した。—それも、夏が終わる前に。
 Natalia Arkadevna は、息子のGleb に逢うため、8月18日にペチョラに向かって出発することになつていた。 
 Nataliaとの間にはつぎの合意があった。スヴェータは、Natalia がペチョラのすぐ後でKirov への調査旅行へ行く費用を出すよう研究所を説得する。Natalia は、スヴェータの二回めの収容所訪問ができそうか否かを彼女に知らせるために、Kirov の郵便局へと電報を打つ。
 時間は経っていったが、十分な準備なしで旅行することの危険は大きかった。
 8月13日、スヴェータはレフに書き送った。
 「一方では、可能性は毎日少なくなっています。
 他方では、必要な取り決めを行っていないで旅行するのは不可能です。—そして、この取り決めの調整がとてもむつかしい。/
 それで、N. A. が到着するのを待つこと—そうすると彼女が私に電報を打つことができる—が最も賢明な選択肢のように思えます。…
 彼女は18日に出発する予定です。だから、19日より以前に電報を打つことができそうにありません。従って、私は20日までにKirov に行っている必要があります。
 これ以上待つのは恐ろしい。
 最良の手段を見つけることはできない。
 たぶん、彼女と一緒に旅行するのが良かったのでしょう。でもその場合は、切符入手の問題が生じたかもしれません。
 彼女から知らされていなければ、自分で危険を冒すだろうし、その場合は22日か23日に着くことになったでしょう。
 もちろん、Kirov から電報を打ちます。でも、それでは時間的に間に合ってあなたに届かないかもしれません。
 こんな計画を一切しないで、いつかお互いにもう一度逢うことができれば素敵です。
 新しい時刻表(今年用)によると、列車は夜にはもう着かず、午前の10時と11時の間に着きます(I(Ivan Lileev—Nikolai の父親)によるとです)。でも、たぶんひどく困難ではないでしょう。
 迎えにくる人がいなければ、直接に住居に行かずに、仕事中の人(軽い鞄を持っていて、今着いたばかりという明らかな兆候のない人)を探します*。
 〔*原書注記—スヴェータは名を隠した自発的労働者との接触について書いている。その人物は工業地帯内部の住居区画に彼女を泊らせることになる。実名は、Boris Arvanitopulo(木材工場の発電施設の長)とその妻のVera。〕
 これが最善だと思う。—間違った動き方をしないかと神経質になっています。
 私の愚かな頭で、その人(Arvanitopulo)の名前と休日中の姓を何とかして忘れました(イニシャルは憶えているけど)。そして、手紙のいずれからも必要な情報を探し出すことはできません。失くしたからです。
 最も重要な詳細が書いてある手紙は、手渡すためにどこかに片付けたことを憶えている。でも、『どこか』とはどこ?
 手紙類を、もう一度全部読み通さなければなりません。
 同名の人(Lev Izrailevich)への希望をまだ持ちつづけています。
 予定の日々と期間にはどこにも行かないことを確かめたくて、彼に手紙を書き送りました。 
 結局のところ、彼は私の行き方をほとんど知っていません。
 運命が私に逆らうのがとても怖いので、旅行の日程と戸惑ったときの時間を誰にも言っていません。
 閏年なのですが、だまし通して、こっそりと接近したいと思います。
 恐くて、何かを携行して運ぼうとは全く計画していません。…
 お願いが三つ。1. すぐに私に電報を打つ。2. 私の考えを理解する。3. 逢う。」
 (47) 5日後、スヴェータはまだモスクワにいた。
 列車の切符を入手するのに手間取ったからだ(人々が切符売場で行列を作るソヴィエト同盟では、珍しくなかった)。
 8月18日に、彼女はこう書いた。
 「いつ出発できるのか、神だけが知っている。
 三ヶ月の間に業務旅行をする人々のための特別の売場はありませんでした。
 運が好いと、事前予約所で一日以内に切符を買うことができます。または、翌日に並び順を変えないで始められるように人名が記帳されているので、二日以内に。…
 でも、自分が愚かなため、もう二日も使って何も得ていません。
 行列の中に私の場所をとり、Yara と一緒に仕事に出かけ、ママが私を引き継ぎましたが、ママが窓口に着くまでに切符は売り切れました。そして、ママは行列の中の位置を確保しておかなければならないことを知らずに、家に帰りました。
 ママは自身に腹を立てて、翌朝早くに行列の中に立ちました。でも、私が交替しようと到着したときに判ったのは、Gorky 方面行きの列車の切符は別の窓口だと言った警察官の話をママが信用してしまっていた、ということでした。
 短く言うと、ママは私がいた行列の中に立ってはいなかったのです。そして私には、もう一度最初から並び直す時間がありませんでした。研究所に行かなければならなかったので。…」/
 結局、あれこれの混乱があった後、スヴェータの母親は、21日付の片道切符を何とか購入することができた。
 その切符の有効期間は6日で、スヴェータがKirov の工場で仕事をし、ペチョラまで旅をするのに、際どいながら、ちょうど十分だった。
 彼女はKirov へ先に寄るかそれとも帰路にするかを決めなければならなかつた。
 先にKirov で降りることにした。
 このことによって、郵便局へ行って、Natalia Arkadevna からの電報が着いているかを調べ、帰りを延長するTsydzik に連絡することができることとなる。
 また、帰りの直通切符を買うことができることも、意味しただろう。
 彼女はレフに、「Kirov で停車するのは悲しいけれど、そこが済むと不安は少なくなるでしょう」と書いた。//
 (48) 8月21日、スヴェータはモスクワを出発した。
 Kirov に着いて電報を打った。それをレフが受け取ったのは、その翌日だった。
 しかし、彼女の指示に反して、彼は返答しなかった。彼女に届くにはもう遅すぎると考えたからだった。
 その代わりに、レフは彼女が到着するのを待ち受けていた。
 スヴェータを迎え、彼女が宿泊するのに同意していた彼の友人かつ上司のBoris Arvanitopulo は、23日に〔ペチョラ〕駅へ行った。
 列車が到着したのを見守り、駅のホールへと通り過ぎていく乗客たちの中にお下げ髪でリュックを背負った細くて若い女性を探した。
 乗客たちの中に、スヴェータはいなかった。
 24日、彼はまた駅へ行ったが、彼女はその日の列車のいずれにも乗っていなかった。
 そのつど、Boris はスヴェータを伴わずに収容所に帰ってきた。そしてそのたびに、レフは、心配して気が狂いそうになった。
 24日付で、彼はこう書いた。
 「僕の大切なスヴェータ、ここに座って考えている。来るのか、来ないのか?
 来ないのなら、全てが、N. A. に耳を傾けて**、K.(Kirov)へ電報を打たなかった僕の過ちだろう。
 他に何も考えることができない。
 たぶん、きみに何かが起きたのだ。」
 〔**原書注記—Natalia Arkadevna はレフに電報を発しないよう助言したに違いない。〕
 (49) スヴェータは実際に、苦しい状態にあった。
 Kirov とKotlas の間の線路上で、列車の後方の客車のいくつかが切り離された。検査官がそれらの車両に欠陥を見つけたからだった。
 前方の車両に座席を確保しようとする乗客が、前へと激しく突進した。
 スヴェータは持ち物をさっと掴んで、列車が動き始めるまでに、やっと前方の端の車両に座席を見つけた。
 さほど早くなかった他の乗客たちはどうなったのか、彼女には分からなかつた。
 もっと大きい危険が、やって来ることになった。
 彼女は、Kotlas 駅の庭でリュックの上に座っていた。ペチョラ行きの列車を待ち、かつ注目を避けることを期待したからだった。
 そのとき、一人の警察官が近づいてきた。
 彼女は、最初の旅の際に助けとなったカーキ色の礼服ではなく民間人の衣装だったので、おそらくは駅のホールの中で待たないのが良いと考えていた。
 警察官は彼女に書類を見せるように求め、どこへ旅行しているのかと尋ねることができただろう。
 しかし、その警察官は友好的であることが判った。ただ彼女の安全を気に掛けたのだった。
 彼は、この辺りには泥棒が徘徊している、列車を待つのならホールの中の方が安全だ、と告げた。//
 (50) 〔1948年8月〕25日、スヴェータはついにペチョラに着いた。
 Arvanitopulo は駅で彼女を迎え、木材工場を周る塀のすぐ外にある自分の家へ連れていった。
 Arvanitopulo 家には電話があった。
 Boris は発電施設での火災に備えていつも電話での呼び出しに応じる状態にあった。発電施設にも電話があり、レフが交替執務中は利用することができた。
 スヴェータは、レフに電話をかけた。
 その呼び出しは、電話交換所のMaria Aleksandrovskaya を経た。この女性は、前年に二人を自分の家に泊らせた人だ。
 レフはスヴェータに、非合法に労働収容所に入る彼女の計画を監視員に知らせた者がいる、「彼らは彼女を逮捕する機会を躍起になって待っている」と言った。
 しかしながら、全ての監視員が敵対的ではなかったように見える。彼らの一人が、その危険性をレフに警告していたのだから。
 レフは、発電施設の地下にある貯蔵室を「密議(conspiratorial)の部屋」に改造していた。首尾よくやって来れば、スヴェータはそこで彼と一緒に過ごすことができる。//
 **
 第7章⑤へとつづく。

2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.27。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.156〜p.162。一部省略している。
 ——
 第7章③
 (31) 移送車に乗せられるという危険は、1948年には現実的だった。その頃、第四入植区が開発中で、木材工場の受刑者たちがそこへ運ばれていた。
 <以下、略>
 (32) レフは6月24日にスヴェータに書き送った。「収監者たちの大部隊」が不穏状態に対処するために北シベリアの収容所へと移されるという噂がある、と。
 彼は状況を明らかにできるまではどんな小荷物も送らないように、スヴェータに警告した。自分自身を含む政治犯が最初に、可能性としては「つぎの数日以内に」、移送車へと選抜されるのではないかと予期していたからだ。
 6月25日にもう一度書いて、今度はペチョラへの旅を計画しないように助言し、自分が移送された場合に備えて、Aleksandrovich 経由で手紙を送るように頼んだ。/
 「スヴェティッシェ(Svetische)、来ることを考えているきみへの助言です。旅をするために休暇をとってはいけない。
 仕事の旅行に特別の努力が何も要らないとき、本当にそのときだけ、ここに来ることを考えて。
 うまくいく可能性は、あさっての段階では実際には無きに等しくなるだろう。
 最も重い条項(58条)による者はみんな、仕事をやめさせられているように見える—『一般的』業務をしている者以外は。そして彼らは、「増強体制」〔原書注記—省略(試訳者)〕と再定義されている第三入植区(川そば)へと再配置されている。
 きみがたとえ短時間でも、工業地帯(僕たちが今働いている所)に滞在するのは完全に不可能だろう。
 ただ個人的な例外があるときにだけ、可能だろう。
 でも、もう一度言うけど、その可能性は実際にはゼロです。—今度は、とても困難になりそうだ。…
 一番良いのは、訪れようとしないことだ。
 スヴェト、聴いていますか?
 僕が言うようにして下さい。
 これが僕の最終決定だと受け入れて下さい。… 
 スヴェト、分かった?
 これが今の状態です。
 先のことは、後で話し合いましょう。今の時点では何が起きるのか推測すらできないのだから。…
 必要なときには、'Zh(aba)'(Aleksadrovich)が新しい仕事を得たときに数日以内に、新しい宛先の住所を伝えます。
 でも、その住所は、頻繁には使わないで。
 当面かぎりのものです。 
 スヴェティッシェ、もう一つだけ。
 この手紙を保管してはならない。—番号を振っていないのは、そのためです。
 受け取ったことを僕に知らせるよう、手紙を下さい。—念のため、25日付で配達されたもの。」/
 スヴェータは、レフが望んだようにはしなかった。
 彼の手紙は貴重だった。スヴェータは、全てを残し続けた。
 レフと逢うという計画を断念することも、しなかった。//
 (33) レフとスヴェータは、4月以降、二度目の旅について語り合ってきた。
 スヴェータは今度は、前よりはるかに不安がった。
 元々の計画は、夏に行くことだった。
 彼女の上司のTsydzik は、前年よりも多く時間をとるように助言して、その考えを励ました。 
 4月16日、スヴェータは、レフにこう書き送った。
 「昨日、M. A.(Tsydzik)が、いつKirov へ行こうと計画しているのかと尋ねました。
 8月の休暇を申請した、その月のKirov のタイヤ工場の定期検査のために名前を登録した、と彼に告げました。
 でも、彼は言いました。『7月に行きなさい。その方が暖かい。また『sit』〔原書注記—刑務所に「座っている」人々をこう呼んだ〕でしばらくの間は、きみは去年と全く同じように全てのことをする必要がないから』。
 そして、今はそうなっています。
 でも、今度は前回よりもはるかに恐ろしい。
 どういう訳か、うまく行かない結末への覚悟を、前よりもしています。そして、ほんの少し無感情です。
 でも今は、考えることすらできない。」//
 (34) 5月の末、Kirov への業務旅行の終わりに北へ旅するというスヴェータの計画は、危うくなった。
 研究所が、協力組織から予定されている支払いがまだ行われていないので、科学者による検査は延期すべきだと警告していた。
 スヴェータはレフに書いた。
 「仕事の旅行を夏の間にすることになれば、7月の休日を利用します。
 望んでいることではありません。
 私が不在であると研究所で目立つので、必ず気づかれます。そして、みんながどこにいたの、何を見たの、と訊き始めるのです。」
 レフは同意しなかった。 
 Tsydzik の助言に従った方がよいと感じた。彼女の旅を隠す彼の助けに依存しているのだから、と。
 レフはまた、7月よりも後に旅行するのは「困難なことになるかもしれない」と怖れた。
 7月8日、スヴェータに手紙を出して、かつてペチョラに来たときに出逢いを提供したTamara Aleksandrovich に旅行の詳細について書き送るように言った。
 (35) しかし、今ではシベリアへの移送の噂が広まった。レフは、自分は第三入植区へと移動されようとしていると考えて、6月25日にスヴェータに、全ての計画を廃棄するように促す言葉を送った。
 このメッセージを送った後で、6月27日に判明したように、状況は再び変化した。
 レフは書いた。
 「気まぐれな地方の(または地方のでない)権力の最新の決定で、全ては現状のままに、またはほとんどそのままに、残ります。少なくとも来月の間は。提起された改革(6月25日の僕の手紙を憶えている?)が実施されないと、計画の達成がひどく困難になるからです。」
 受刑者たちの移送車が、シベリアから第二入植区に到着したばかりだった。
 レフは「シベリアは、第三入植区の後に我々を動かすと計画されていた場所だ」と説明した。そして彼は、これは受刑者たちを送るのを遅らせる決定が下されたことに「ある程度の信憑性」を与える。と考えた。
 彼はこう思った。
 当局は「最も重い条項による『信頼できない者たち』を集中させる場所にしようとしている、というのはあり得る。
 スヴェータ、25日の僕の手紙の助言は生きたままだ。
 この手紙の紙切れは、速読のためのものにすぎない。
 すみやかにもう一度書きます。でも、これを今すぐ送らなければならない。」//
 (36) 7月1日、レフは、第二入植区が政治犯たちの「増強体制」になろうとしていること、より軽い判決の者たち、いわゆる「ふつうの条項」(窃盗、殺人、ごろつき、労働放棄等々)による者たちは生活条件がまだましな第三入植区で維持されようとしていること、を確認した。 
 レフはこう付け加えた。
 「見るところ、我々(第二入植区にいる政治犯)に特別の制限を加えようとしているのではない。でも、いま工業地帯の内部で生活している自由労働者たちは、立ち退かされようとしている。自由労働者と専門的被追放者が雇用されていた小さな生産単位とともに」。
 自由労働者たちが工業地帯から離れることは、スヴェータがAleksandrovsky の家でレフと逢った、前年のような取り決めを反復するのを全て排除することになるだろう。//
 (37) 工業地帯内部での治安確保措置が強化されたことについて、レフは正しかった。自由労働者たちの排除が切迫しているという風聞は、全体としては正確ではなかったけれども。
 木材工場の収容所幹部たちは実際に、自由労働者と受刑者の間の接触を撲滅するためにより警戒することを決定していた。
 5月12日の秘密の党会合で、彼らは、手紙類の密送(smuggling)、ウォッカの黒市場、収監収容所への権限なき訪問者による悲合法の立ち入り、等の多数の治安違反について、こうした〔自由労働者と受刑者の間の〕接触が原因となっている、ということに合意していた。
 彼らは、自由労働者を工業地帯から外に移動させることについて考えた。しかし結局は、地帯の外での新しい家屋の建築が必要になるので実際的ではないという理由で、その案を却下した。
 その代わりに幹部たちが決定したのは、自由労働者が生活する居住区画と残余の工業地帯の間の分離を、監視員小屋付きの新しい鉄条網の塀を立ち上げることで強化する、ということだった。//
 (38) スヴェータはその夏にペチョラへ旅するという計画を進行させていた。
 6月25日、まさにレフが彼女にまだ届いていない手紙を書いていた日に、レフに書き送った。
 「問題は解消されました。
 Kirov へ行き、そして昨年のようにすぐに向かうつもりです。
 休暇期間を延長して、私が本当にいたいところで、できるだけ長く過ごします。」
 4日後、研究所の会計主任が、早くても8月末まで業務旅行用の金がない、と彼女に告げた。それでスヴェータは、休日の日程を7月へと変更することを申し出た。
 そのときにペチョラへと旅するつもりだった。
 彼女は、7月10日頃に出発する予定にした。そして、Lev Izrailevich〔レフの同名人—秋月〕に手紙をすでに出して、自分の到着予定を知らせた。 
 Tsydzik は休日について同意したが、スヴェータの本当の計画を隠す手段として、ともかくもKirov へ行くように彼女に助言した。//
 (39) 7月8日、スヴェータは、レフの手紙を受け取った。治安が強化されたこと、彼女が来るのは勧められないこと、が書いてあった。
 彼から新しい知らせを受け取るまでは何もしようとはしなかった、とスヴェータは〔後年に?—試訳者〕語った。
 夏の期間の実験所について責任をもつ、誰かがいる必要があった。
 それで8月中ずっと、Tsydzik が休暇で過ごしている間、モスクワにとどまろうとした。そして9月には出発して、ペチョラへか、またはそこはまだ可能でなけれぱ、モスクワから北東に100キロメートル離れたPereslavl'-Zalessky へ行くつもりだった。Pereslavl'-Zalessky では兄のYaroslav が一週か二週の間別荘を借りていたので、そこに滞在することになるだろう。//
 (40) レフはこの頃、治安強化の影響を感じていた。
 7月7日付でスヴェータにこう書いた。
 「彼らはゆっくりと、あらゆる種類の新しい厳しい規則をここに導入している。今のところは重大な不快さを被ってはいないけれども。」
 彼は10日間、スヴェータからの手紙を受け取っていなかった。そして、これが新しい体制〔「増強体制」〕の結果なのかどうかを知らなかった。
 「全てのものは変化し得る。一振りで色は変わる。カレイドスコープのように」。//
 (41) 翌日、レフはLev Izrailevich と連絡をとった。
 発電施設から電話をかけた。そこには工場ので火災が起きた場合に備えて一台の電話器があった。そして彼から、スヴェータはなおも旅行を計画していることを知らされた。
 治安確保措置が、順調に稼働していた。
 7月半ば、政治的受刑者用の新しい移送車が到着する準備として「特別追放者」が工業地帯から移動させられた。このことは、木材工場は特殊な体制の収容所になるだろうとのレフの考えを強めた。
 7月21日、レフはスヴェータに対して、この夏に出逢いを計画するのはきわめて困難だと、再び警告した。
 彼は書いた。
 「たぶん1949年はより良い年だろう。
 いわゆる増強体制が、来週を待たずに実施されようとしている。」//
 (42) 休暇を遅らせると決めたにもかかわらず、スヴェータの母親は、休みをとって、Pereslavl'-Zalesskyにいる兄の家族に7月半ばから加わるよう説得した。
 彼らの木造の夏の家には果樹園があり、松林に囲まれた静穏な湖を見渡せた。
 美しくて、閑静だった。
 彼らは湖上にボートを浮かべ、きのこ狩りをした。
 スヴェータは、たくさん寝た。
 しかし、レフなしでは精神的な安らぎを見出すことができない、と感じた。
 7月23日に、こう書いた。
 「私の大切なレフ、一週間がもう過ぎ去り、私は何も書かなかった。
 睡眠を取り戻し、日光浴をしました。
 みんなが、私は少し明るくなったと言います。
 私は自分らしく、分別をもって振る舞っています。泣いてはいません。
 あなたについて考えないようにしていますが、朦朧とした中であなたに逢っているところの夢を見ました。
 あなたの手紙、そこに書かれていること、何が可能で何が可能でないかについて考えないように、きつい皮ひもで自分を縛りつづけています。
 ここでひどく悪いということは決してありません。でも、これは私の頭が語っていることで、心(heart)の言葉ではありません。
 湖、森林、あるいは私の存在とともにある空気を、楽しむことはできません。
 私の身体は休んでいますが、心(soul)はそうではありません。」//
 ——
 第7章③、終わり。
 ++++
 下は、原書の巻末にある地図・図面の一つ。
 青緑で囲まれた(鉄条網つき)区域がWood-Combine=「木材工場」と試訳。この中に〔下で記載はないが、斜め下半分弱?〕、Industrial Zone =「工業地帯」があり、その端(工場全体では中心に近い所)に<発電施設>がある。
 木材工場地区の中に「2nd Colony 」=「第二入植区」がある。第三入植区と診療所は外。
 右上からの赤色の線は、1947年にスヴェータが来るときはLev Izrailevich と二人で、帰りは一人で歩いた道〔ほとんどが「ソヴィエト通り」で、角から正門までだけをSchool Street と言うようだ)。


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 ++++

2311/レフとスヴェトラーナ26—第7章②。

 レフとスヴェトラーナ、No.26。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.148〜p.156。一部省略している。
 ——
 第7章②。
 (16) スキーとスケートは、スヴェータの気分を高めた。
 3月10日、彼女はレフに書いた。
 「いま躊躇なく楽しめるのは、スキーをすることです。—文学、演奏会よりも、人々さえよりも。
 日光が隙間から入り込む森林はとても美しく、とても(言葉の全ての意味で)純粋だから、生きるのはよいことだと思い(そしてふと大声を上げて)わが身を感じます。
 なぜか分からないけれど、辛くはありません。
 ある種の幸福の生理学(psysiology)なのでしょう。」/
 スヴェータは、冬のスポーツをもっとして過ごしたかった。彼女の母親は、スヴェータは体調がまだ良くないと思って、家に閉じ込めようとしたけれども。
 レフだけが、彼女自身の生活をして抑鬱に打ち克つために、もっと外出するよう励ました。
 4月15日に、彼は書き送った。
 「どこかへ行って下さい。
 身体に良いうえに、きみの内面状態にとって重要なことです。外部的側面と同様にきみの心に大きな効果があり、ときには感情の根源になるかもしれない。」
 彼は、スヴェータの健康を心配して、叔父のNikita に手紙を出して、彼女を見守ってくれるように頼んだ。
 4月にNikita にこう書いた。
 「彼女は直接にはそう言わないけれども、いろいろな点でとても辛い状態なのです」。
 (17) スヴェータには、信頼できる女性友達の小さな仲間があった。
 Irina Krause とAleksandra Chernomoldik は別として、とくに長い時間をともにした三人の女性たちだった。
 それぞれみな、夫と子どもを失っていたが、それでも苦しみと共に生きる術を見つけていた。スヴェータは、彼女たちの苦しみに同情し、自分もその仲間だと考えるようになった。
 まず、Lydia Arkadevna という同じ研究所出身の女性がいた。この人はスポーツと登山がとても好きで、スヴェータがスキーに熱心になるのを促した。/
 <以下、略>
 (18) つぎに、Klara という若い女性もいた。この人は研究所の技術助手の一人で、その家族は戦争中に抑圧された。
 Klara 自身も、研究の最初の年にKharkov 化学技術研究所から追放され、その後に数年間の流刑に遭った。スヴェータの手紙の一つでの論評から判断すると、「地理の知識が多すぎたこと」が彼女の問題の根にあった。
 <中略>
 Klara も子どもを亡くしていた。
 夫はペチョラにいる受刑者で、そこへと複数回旅をしてその夫と逢っていた。その際、Tamara Aleksandrovich の所に滞在した。
 <以下、略>
 (19) 最後に、物理学部以来のレフとスヴェータの友人である、Nina Semashko がいた。この人は戦争で夫のAndrei を失い、その後に赤ん坊の男の子を亡くした。
 Nina の子どもの死についてレフに書き記しながら、スヴェータは自分自身の苦しみに触れた。/
 「誰かを埋葬するのはいつも辛いことですが、小さくて幼い子の場合は全く違います。
 外部者は子どもの現在だけを知るでしょうが、その母親にとって現在は過去にさかのぼり、また未来へと展開します。
 9ヶ月待って、11ヶ月間育てただけではなく、その前に長く、願望と失望(あるいは可能かどうかすらについての不安)があったのです。
 私が詳細を知っているかは分からないけれど、この未来は全てであり、直前まではたくさんの計画と夢です。これには、孫をもつという望みも含まれます。
  そして、それ(子どもの死)はこの全てを剥ぎ取ってしまい、これを満たすものは何も残されていないように見えます。
 幸いにもこの世界では、苦痛が時間が経つにつれて和らぐものです。…
 Nina はまだ十分に若くて、自由があります。—新しい子どもで空虚を充たすことを決意する自由。でも今は、そんなことについて彼女と話題にするときではありません。
 彼女は今は、人が不運であれば何かを追い求めたり、幸せを探したりする所はない、と言うだけです。」//
 (20) スヴェータは、子どもをもつことを強く望んだ。
 彼女は、30歳だった。
 レフが釈放されるまで、少なくともあと8年間待たなければならないだろうことを、知っていた。あるいはそもそも、彼が戻ってくることはないかも知れなかった。
 彼女が「人生が始まる」のを待っていると書いたときに意味させていたのは、おそらくこのことだつた。
 ペチョラへと旅したあとで、スヴェータは、自分の未来—彼女の「全て」—はレフと結びついている、と確信した。
 しかし、レフが収監者であるぎりは子どもを持つことはしない、と二人は決めていた。
 レフは、後年になって、この自分たちの決定について想起する。
 「私は、彼女の将来を自分の現在や将来と妥協させたくなかった。
 私への愛を理由として、彼女の運命を犠牲にするのを望まなかった。
 だから、子どもたちに縛られるのを私は望まなかった。
 スターリンが生きているかぎり、何が将来に起きるか、誰にも分からない。
 私は、良いことを何も期待できなかった。
 そのような状況で—私は彼女を助けられず、彼女と子どもは恐ろしい生活条件のもとに置かれるかもしれない—、スヴェータに子どもという負担を課すのは、私にはできなかった。
 スターリン時代には、労働収容所から釈放された元受刑者は、つまり私のような「人民の敵」は、ふつうの生活をすることが不可能だった。
 しばしば再逮捕され、あるいは流刑〔国外追放〕に遭った。…
 私は、スヴェータと彼女の家族に恐ろしい困難と不幸を負わせることができなかった。二人が子どもを持てば、彼らはきっと苦しむことになっただろう。
 しかし、スヴェータは、子どもが欲しかった。」//
 (21) スヴェータは全ての母性的愛情を、Yara〔実兄〕の子どものAlik に注いだ。
 彼女の手紙類は、明らかに熱愛した、甥の男の子に関する定期的な報告を含んでいる。
 彼女は、こう書いた。
 「レーヴァ、Alik は8歳ではなく、7歳になりました。日曜日にわれわれは彼の誕生日を祝いました。
 <中略>
 すでに書いたように、Alik は7分の1は5分の1よりも小さいことを理解します。Lera が(学校から来て)全数字から一部を減じる仕方(とてもむつかしくはない)を教えました。
 彼はいま、工作に興味をもつようになりました。
 何かを分解し、もぐり込み、すっかり逆にして戻します。
 まだ自分の綺麗好きに気がついていません。
 でも、私には、子どもを『教育する』方法が全く分かりません。」//
 (22) 実際に、スヴェータの母親のAnastasia は、保育園の教師として働くことを考えるよう彼女に提案していた。
 スヴェータは自分の科学者としての能力を疑っていて、母親は、小さな子どもたちと一緒にもっと過ごせば彼女は幸せになるかもしれない、と考えた。
 レフは、その考えを勧めた。
 しかし、スヴェータは結局は、それに反対することに決めた。母親となる経験がなく、「子どもたちがどのようにして成長するか」について知らないのが、その理由だった。//
 (23) その間、Alik が来て彼女と一緒にいるのをスヴェータが好んだ。
 その子のやんちゃぶりは、自分の子ども時代を彼女に思い出させるものだった。
 <以下、略>
 (24) 偶然に一致して、レフも、「相談者、兼子ども世話係」の役割を果たしていた。
 〔1947年〕10月5日、スヴェータがペチョラからモスクワに到着したその日、レフに訪問者があった。
 「一人の女の子が発電施設にやって来て、僕が『われわれに会うために来たの?』と尋ねた。『そう』、『じゃあ、こっちにおいで』。
 <中略>
 われわれはすぐに親しくなった。僕は、彼女の名前がTamara Kovalenko で、Vinnytsa 出身、そして父親は厩舎で働いていることを知った。」/
 Tamara は11歳だった。
 彼女にはLida という姉、Tolik(Anatoly)という弟がいた。
 彼らは、洗濯所で働いていた母親に遺棄された子どもたちで、ぼろ服を着て、靴を履いていなかった。そして、父親が家計のほとんどをウォッカに使っていたため、いつも腹を空かしていた。 
 Kovalenko 家は木材工場の中の500の「特殊流刑房」の一つにあった。彼らの多くは刑務所地帯のすぐ外の第一入植地区の営舎に住んでいたが、Tamara のような子どもたちは、自由に労働収容所の周りを歩き回った。
 子どもたちは停止を求められず、監視員に探索されることもなかった。それで、収監者たちのために使い走りをし、収監者は彼らに甘菓子や金銭を与えたり、作業場で木材の玩具を作ってやったりした。
 町の子どもたちは、刑務所地帯の近くの周囲で、玩具を探したものだ。収監者はときどきそこへと、塀越しに木製玩具を投げていた。
 この何ということのない贈り物は、労働収容所の周囲の多くの家庭にあった。木製玩具は、収監者たち自らの子どもたちへの恋しさを思い出させるものとして、また、彼らへの人間的同情を得るものとして、役立っていた。//
 (25) Tamara は、毎日レフを訪問するためにやって来た。
 彼はTamara を好み、食料を与え、読み方と計算の仕方を教えることを始めた。
 10月25日に、スヴェータに書き送った。
 「僕は、今日再び、父親のリストに載りました。
 <以下、略>」/
 まもなく、Lida もやって来た。
 「彼女は年上で、…成長した振る舞いをした。
 二人の姉妹は、三人の電気技師と一人の機械操作者の娘たちになった。
 でも、二人は僕を第一の『パパ』と思っているように見える。」
 <以下、略>
 (26) レフは、懸命に勉強した。見つけた全ての本で電気技術について読み、発電施設の機能を改良するよう努めた。発電施設の容量が乏しいことは、木材工場での生産を妨げることを意味した。
 <以下、略>
 (27) レフは、木材工場の気まぐれな作業文化に対して、きわめて批判的だった。
 この場所は「まぬけたち」が運営していてると思い、上司たちが冒している「愚かさ」についてしばしば書いた。生産を高めようとする彼らの全ての決定が、頻繁な機械の故障、事故、火災その他の混乱につながった。—これで、計画を達成するのが困難にすらなった。
 <以下、略>
 (28) レフが発電施設の働きを改善しようと努力したのは、完全に自発的なものだった。
 彼の動機は政治的なものではなく、言ってみれば、システムを信じて発電施設を稼働させようとしている古参ボルシェヴィキのStrelkov のためだった。 
 レフはその本性からして真面目で、仕事に誇りと関心を持っていた。
 スヴェータにあてて書いた。
 「時計の音が何か奇妙だと、部屋で平穏に座っていることができません。
 『チクタク』と『タクチク』の間の時間が一定していないと、落ち着けないのです。
 われわれの電気技師たちの仕事を見ると、最良の者でも、もし僕が管理者であれば、彼らに対する非難はどんなものになるだろうか、と思います。」
 これに、当の技術者たちも同意しただろう。/
 「ここの操作者の一人が、僕はいつも何かすることを探している、と言った。
 『レフ、きみは頭脳(smack)のない馬鹿のようだ』。
 これは、ぞんざいだが、適確な比較だ。
 ある人間は、歩き回って何か建設的なことを得るために探し、それを見つけると安心する。
 別の人間は手間取って、余計なことに口を出し、みんなを邪魔し、ついにはそのために頭をぶたれる。そして、教訓を得るが、何にもならない。」//
 (29) しかし、工場でのレフの努力には、真面目さ以上のものがあった。
 それは、自負心、収監者でいる間に何か肯定的なものを達成したいという情熱、だった。おそらくは、こう認識してのことだろう。すなわち、もし時間をすっかり無駄に費やして収容所から出ために、精神の適切な枠組みをもって自分の人生を再構築しなければならないのだとすれば、この数年のうちに何らかの新しい技能を少なくとも学んでおく必要がある、と。
 (レフは収容所時代を振り返って、木材工場を稼働させるために発電施設の能力の改良によって達成したことを、いつも誇りとした。)
 彼にはまた、消極的で自己破壊的な考えが生じて、仕事して日々が過ぎていくうちに自分自身を見失わないように、気晴らしをする必要もあった。これは多くの受刑者が採用した生き残りの方法だった。〔原書注記—これは、Aleksandr Solzhenitsyn(A・ソルジェニーツィン)の小説、'One Day in the Life of Ivan Denisovich' の主要なテーマの一つだ。〕//
 (30) 自己防衛もまた、一つの役割を果たした。
 電力施設での有能性を示すことで、彼は特権的な地位を維持し続け、移送車で別の場所に送られる—レフの最大の恐怖—または材木引き揚げ部員に戻される、という危険を減少させることができた。
 1948年5月、木材工場の「補助活動部署」(発電施設を含む)のための新たな賞揚(credit)制度が導入れた。
 これ以来、受刑者がその生産割当の100から150パーセントを達成した日々について、一日あたり1.25が加算される。
 150から200パーセントの場合は、一日につき1.5。
 200から275パーセントの場合は、一日につき2。
 そして、275パーセント以上の場合は、一日に3。
 レフは、スヴェータに、こう書き送った。
 「それで、一日について〔プラスが〕4分の1だとすると、一月あたり6.5日と同じを意味し〔0.25x26日=6.5—試訳者〕、あるいは一年あたり2.5ヶ月と同じを意味する〔6.5x12月=78—試訳者〕。
 組織の長がとくに優秀と評価した場合に賞揚が付加される可能性もある。また、成果が少ない場合には賞揚を全て失うこともある。…
 一種の賭けだ。」//
 ——
 第7章②、終わり。

2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。

 レフとスヴェトラーナ、No.24。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。ごく一部、原文のままにしている。p.132-p.138。
 ——
 第6章④。 
 (33) スヴェータが監視員に自分は居住区画に住んでいる自発的労働者の妻だと告げたとき、その監視員は夫が迎えに来なければならないと言って、彼女が入るのを拒否した。
 通行証をもつIzrailvich は、この地帯にいる彼女の「夫」を見つけて、監視小屋まで連れて来る、と言った。 
 Izrailvich は、長い間行ったままだった。
 監視員がスヴェータに対して粗雑に話しかけ始めた。その際彼は、彼女の策略だと推測していることを示唆するふうに、「北方の奥さん」(収容所の受刑者である夫と一緒にいる女性)と悪態をついた。
 ようやくIzrailvich が、「夫」とともに現れた。—濡れて雫を落とし、明らかに酔っ払っていた。この人物は居住区画の自由労働者で、スヴェータの配偶者役を割り当てられていたが、端役を演じるときになって酔っ払って寝てしまい、Izrailvich がバケツ一杯の冷たい水をかけて覚醒させなければならなかった。
 スヴェータは、こう思い出す。
 「その人は、ばつが悪い思いをしているようだった。
 キスをするのを避けて、身体を彼に向かって投げ出して、悪罵の言葉を発し始めた。
 『手紙を出したでしょう !! それなのに、迎えにくる手間さえかけなかった。』
 すると彼は、恥ずかしそうにしながら、『行こう、行こう』とだけ言った。」
 監視員が質問する時間をもつ前に、スヴェータとその「夫」は、刑務所地帯へと入り込んだ。//
 (34) 二人は、「夫」が住んでいる家屋に着いた。
 彼には妻がいることが判明した。その妻は、そこでレフをスヴェータと逢わせる約束を夫がしていることを聞いていなかった。
 息がひどくアルコール臭い夫に対して妻が叫ぶ、怒り狂った場面が見られた。
 スヴェータはこう思い出す。〔その妻の振舞いは〕「嫉妬からではなく」、発覚して、レフとスヴェータの犯罪を「助けて支援した咎で刑務所に入れられるかもしれない、という恐怖から」だった。
 レフはその家に早くに着いていて、スヴェータが到着するのを待って、外で隠れていた。
 この場面の真っ最中に姿を現して、心配になって怒り狂った妻からスヴェータを守ろうとした。
 これは、彼らが夢見た再会の仕方ではあるはずがなかった。—叫ぶ女と酔っ払った男が住む見すぼらしい家屋で再会するとは。しかし、それが現実だった。
 二人は6年間、この瞬間を待ち望んできた。だが、思い描いていたに違いないものとは大きく違つていた。二人は何ものにも邪魔されずに逢うはずだった。
 緊迫した、危険な状況だった。—妻はひどく怯えて、激怒していたので、自分の無実を証明しようとして監視員を呼ぶかもしれなかった。二人はとりあえずは、部屋の反対側に目を向けるしかなかった。
 レフはこう思い出す。
 「われわれは、感情を抑えなければならなかった。
 お互いに身を投げ出して、抱擁し合うような状況ではなかった。
 われわれがしていることは高度に非合法だったので、警戒していなければならなかった。」//
 (35) その夫婦は、居住区画にある木造家屋の一つの上階に2部屋で生活していた。一つには家具があり、もう一つは完全に何もなかった。
 スヴェータは思い出す。
 「彼らは、私たちのために2個の椅子を持って来た。
 そして私たちは、レフの友人が二人が隠れる別の場所を探しに離れている間、空の部屋にともに座っていた。
 そのうちに、Aleksandrovsky の所で泊まることができるという伝言が届いた。」
 (36) Aleksandrovsky 家は居住区画の近くの家屋に住んでいたが、電話部員のMaria は、自分用家屋にして2人の小さな男の子たちと生活していた。
 彼女の夫のAleksandrovsky は、ペチョラ拘置所にいた(鉄道駅の喫茶室で彼から盗もうとした者と喧嘩をして、「フーリガン主義」だとして訴追されていた)。
 Maria は、ソヴィエト通りの電話交換局で夜間勤務をすることになっていた。
 彼女は午後に監視員とその妻の訪問を待っていたが、その二人が立ち去るや否や、灯りを全て消して、レフとスヴェータが自分の家に来ても安全だ、という合図を送ることになっていた。//
 (37) 暗くなると、すみやかにレフとスヴェータは外に這い出し、可能なかぎりす早く、Maria の家へと移動した。
 Maria の窓の反対側にある積み重なった丸太の背後に隠れて、二人は監視員が離れるのを待った。
 身を潜めている間、もう一人の監視員が二人のいる所へと向かって来た。
 発見されたと思い、最悪のことを恐れた。すなわち、スヴェータは逮捕され、国家反逆罪で訴追されるだろう。レフは数年間の刑を追加され、移送車でさらに北へと送られるだろう。
 しかし、そのとき、積み丸太の反対側で放尿する音を二人は聞いた。
 それが終わると、その監視員は立ち去って行った。//
 (38) やがてMaria の家への訪問者は出て行った。
 彼女の家の明かりが全部消えた。
 レフとスヴェータは隠れ場所から姿を現して、内部へと入った。
 そこには二つの狭い部屋しかなかった。一つには通常はMaria が寝ている一人用寝台、テーブル、椅子があり、もう一つの床には男の子たち用の寝具があった。
 レフとスヴェータが入って来たとき、二人の男の子はMaria の部屋で眠っていた。それで、レフとスヴェータはもう一つの部屋を使った。
 スヴェータは思い出す。「その夜、少しも眠らなかった」。
 レフが付け加えた。
 「二人だけ、二人一緒に残され、怖れるものはもう何もなくなって、二人の少年は寝入っていたときです。そのとき初めて、われわれは自由に行動し、思うかぎりにキスをし、互いに抱き締め合いました。
 でも、…。これ以上言うつもりはありません。」
 レフが言い淀んだことを、のちにスヴェータが明らかにした。
 「私は彼に尋ねました。『Do you want to ?』」
 すると彼は考えて、こう答えました。『でも、後でどうなるのだろうか?』(what would happen afterwards ?)」//
 (39) レフとスヴェータはMaria の家で、一緒に二晩を過ごした。
 レフが昼間に発電施設で働いている間、彼女は中にいてMaria の子どもたちと遊んだ。
 二日めの夕方、レフとスヴェータは、実験室のStrelkov にあえて逢いに行くという冒険をした。
 何人かのレフの友人たちが、挨拶するためにやって来た。—彼らはみな、自分たちを訪れるという大きな危険を冒している若い女性に対して、多大の称賛の気持ちを示した。
 また、持っていき、自分たちに送るように、手紙類を彼女に渡した。
 (40) その翌日、スヴェータを密かに送り出すために誰かがやって来た。彼女はその人物が誰かを憶えていなかった。
 自分で鉄道駅まで歩き、切符売場のそばの広間で待った。切符売場は列車が到着する直前にだけ開くからだった。
 手枕をしてスーツケースに座っているうちに、疲労で寝入ってしまった。列車が到着して他の全員が乗車した後で目醒めた。
 持ち物をさっと掴み、切符を買って、彼女は、列車に向かって走った。
 切符を買った乗客用車両はすでに満員だった。しかし、「ガラ空きの、一種の衛生車両」に入ることが許された。
 彼女は、長椅子に横たわり、再び眠り込んだ。
 (41) Kozhva で目が覚めた。
 夜はもう遅かった。
 スヴェータはLev Izrailvich の家へ行き、そこで朝まで眠った。
 彼女が出発する前に、Lev Izrailvich は、レフへのお土産として、彼女の写真を2枚撮影した。
 一枚では、写真スタジオのように幕として吊り下げた布を背景にして、スヴェータが枝編み細工の籐椅子に座っている。もう一枚では、Izrailvichの家を出発するときに、コートを着て鞄を持って立っている。//
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 下は、その2枚。1947年9月の末日頃だと見られる。スヴェータ、誕生日がすぐ前にあって、30歳。原書p.137(下左)、p.136(下右)。後者の背後に見えるのが「土地に掘り込まれた」Izrailvichの家だろう。—試訳者。


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 (42) スヴェータはこれを、レフのためにKozhva で投函した。
 「私の大切なレフ、まだKozhva にいます。
 昨晩は直通列車がなかったのですが、今日はそのための切符を得ようとするでしょう。
 L. Ia.(Izrailvich)が明日、私の出立についてあなたに話すでしょう。
 とても素敵でした。…
 (ペチョラの)駅で、そして(Kozhva までの )移動中に、眠りました。
  I(Izrailvich)の家に深夜に着いて、そっと彼を揺り起こしました。
 そうして私は、また朝まで寝て、一度も目醒めませんでした。」
 「今のところ、私は元気です。調べ抜いた小さな穴から、一滴の水も流していません。
 そのためか、全てがまだ夢のようです。
 レヴェンカ、Askaya(Aleksandrov Maria)を家で見なかつたと、昨日 G. Ia(Strelkov)に言うのを忘れました。—そう彼に言っておくのを忘れないで。…
 レフ、私のためにしてくれたみんなに、もう一度感謝します。
 言葉では気持ちを言い尽くせません。でもたぶん、みんな理解してくれるでしょう。」
 「私の大切な人、ごきげんよう。もう一度キスをしてお別れにします。
 L. Ia.(Izrailvich)が、あなたにびっくり(surprise)を用意しています。—今は内緒です。」//
 レフは同じ日に、スヴェータにあてて書いた。
 「僕だけの素敵なスヴェータ、今日は天気も乱れています。
 風が強くて、今朝はひょうが降りました。全てが陰鬱で、悲しい。
 僕の同名人が来るのを待っています。—たぶん、明日来るでしょう。
 もちろん、心配しています。…
 今朝、9時まで、Gleb(Vasil'ev)と少ししゃべりました。
 我々は、お茶を飲みました。
 みんなStrelkov の所にいて、僕は出るとき、ガラス枠の下の<秋の日>を見せて、Strelkov の寝床の上に架けました〔原書注記—Isaac Levitan の有名な風景画の複製で、スヴェータが贈り物として持ってきたもの〕。そして、「幸運」のためにその下に座りました。…
 Nikolai(Lileev)は今日の夕方に来たがっていて、Oleg(Popov)は少しあとで立ち寄るでしょう。でも、僕はひとりでいたい。」//
 レフは、スヴェータが安全に帰ったという知らせを待ち望んだ。
 帰る途中で逮捕される危険が、彼女には相当にあった。
 彼は2日後に書いた。
 「僕だけの素敵な、輝かしいスヴェータ、今日、10月3日まで、きみから手紙をまだ受けとっていません。
 怖ろしい。そして僕は、他に何も考えることができません。」
 (43) ついに、Kotlas から送られた手紙が届いた。それには彼女の2枚の写真が付いていた。—Lev Izrailvichが用意した「びっくり」だった。
 「僕の素敵な、美しい(lovely)スヴェータ、…、やっと !!
 良かった。全てがうまくいっている。
 みんなに、僕の最も真摯な感謝を捧げます。
 きみのメモを読んで、僕はすぐに、いったいどんな驚きのことを書いているのかと思いました。でも、写真が少し見えたとき、こんなに欲しくて愉しいものだとは、全く思わなかった。
 きみはこの10年間、今と全く同じだったのだろう(肘掛け椅子)。
 でも、きみはいつも、あらゆる意味で美しい。…/
 僕の、本当に信じ難いほど美しいスヴェータ、誰もがきみに会釈を送るだろうが、僕は何を送ればよいか分からない。
 ただきみのことを考え、きみについて書きたい。
 Liubka(Terletsky)と少し話したのを除いて、僕はどんな会話も避けています。読書も興味を惹きません。…
 しきりと<秋の日>に見入って、なかなか離れる(tear myself away)ことができません。…
 僕の素敵で優しい人よ、きみの分身をしっかりと抱き締めています(squeeze your paws)。」//
 (44) 10月5日までに、スヴェータはモスクワに戻った。
 計画していたようには、Lev Izrailvich に電報を打たなかった。前のそれがKozhva の郵便局の誰かに盗み見られており、「ただちに全ての人民の所有物になった」(意味は、その内容がMDVに伝達され得ること)からだった。
 しかし、2日後、スヴェータはレフに手紙を書いて、帰路について説明した。//
 「250ルーブル払って、直通列車の座席を得ることができました。
 あなたの同名者が切符を私に渡し、列車に乗せてくれました。
 三晩過ごした、あなたの同名者の小さい家で、記念に私の写真を撮りました。
 車掌は最初はほとんど空いている仕切り付き車両に私を乗せたのですが、ほとんど眠れませんでした。そのとき、女性たちと一緒になってしまった男性と座席を交換するのをその車掌が提案し、私は喜んで同意しました。
 三人の素敵な若い女性がいて、彼女たちは航空写真撮影の旅行をしている写真技術者でした。
 彼女たちは末端(Vorkuta)から旅をしてきていて、はるばるとモスクワへ向かっていました。
 本当に何もすることがありませんでした。—帰り旅用に本を持ってくることなど思いつきませんでしたから。そして、ずっと寝ていました。…
 列車が着いたとき、私は目覚めすらしませんでした。」/
 「〔10月〕5日の朝(4時30分)に家に着き、うたた寝をした後、しばらくの間 Alikと遊びました。
 そして、蒸し風呂(banya)へ行った後、昼食を調理しました。
 ママの体温は、その日また39度でした。」/
 「モスクワは、陰鬱でした。—寒くて、雨模様です(でも全く絶望的ではない)。頭を惑わせる日常事は、今はジャガイモです。店で見つけるのが困難で、市場ではもう7ルーブルもします(以前は3ルーブルでした)。
 誰もが、貯蔵をしています。…
 砂糖は消え失せました。ペーストやロールパンも。
 憂鬱です。
 木々は葉っぱをほとんど落とし、市場の区画には花がありません。
 さて、レヴィ、大切な人、とりあえずさよならと言います。
 大きな、大きな愛を込めて。
 こちらで私が訪問した人々はみんな、あなたによろしくと言うでしょう。
 スヴェータ。
 そちらにいる全ての方々に、私の敬意と感謝の念を送ります。」//
 ——
 第6章④、終わり。第6章全体も終わって、第7章がつづく。

2304/レフとスヴェトラーナ23—第6章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.23。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.123-p.132。
 ——
 第6章③。
 (18) その間に、ペチョラの夏は終わろうとしていた。
 9月4日、レフはスヴェータにあてて書いた。
 「秋が近づいて来ました。
 一昨日は、早朝に凍った最初でした。我々のもの以外は、野菜畑の地方ジャガイモは全部凍りました。畑の半分は夜間に霜で覆われ、あとの半分は霜の降りない乾燥機の近くにあって免れたからです。
 どちらもやはり、使いものにほとんどならないでしょう。
 夏は本当に短かすぎます。
 夜はもう完全に本当のものになって、暗闇が9時から2時半まで続きます。」//
 (19) スヴェータが予告したとおり、彼女の8月20日の手紙を、レフは9月5日に受け取った。
 今や彼女が来ることが明確になったので、彼女を迎え、秘密裡に木材工場に出入りさせる計画を練る必要があつた。
 9月7日までに、彼女にこう書き送るまで進んだ。
 「スヴェト、きみが想定したとおり、9月5日に手紙が届いた。…
 でも、きみの計画についてまだ明瞭にする必要なことがあったので、率直には返事しなかった。
 この手紙は、きみが出発する前に配達されないかもしれない。
 僕はまだ、何か具体的なことを書くことができない。少なくとも、今日の夕方までは。でも、きみが受け取れる可能性があるなら、今書く必要がある。
 きみは、Kirov での電報で(電信局で。郵便局留め)、きみの従兄弟〔原書注記—工業地帯に彼女を隠すことに同意した自由労働者の暗号〕の正確な住所を、知るだろう。—この人とともに、きみは数日間を過ごすだろう。
 きみの出発の詳細について、僕の同名者に電報を打って下さい。
 さらに指示を受け、かつ余分な荷物を置いていくために、きみは彼の家に行く必要がある。
 きみの最終的目標と同じく、これをずっと覚えていて下さい。
 時間が近づいて、つぎに何が起きるか、我々は心配するでしょう。
 書物については、自分に立腹しています。
 きみに余計な困難さを生じさせたのではないかと、恐れている。—書物は小包で僕あてに送ってもらうのが最も良かった。あるいは、同名人が承知しないなら、きみが元々望んでいたように、写真用資材と一緒に彼あてに。」//
 (20) この手紙を彼が書いていたその日、9月7日、モスクワはその800周年を祝っていたので、スヴェータは家にいた。
 彼女はレフにあてて、自分の部屋から書き送った。//
 「歓声が起きたばかりです。
 ママは街を散歩しようと外出しましたが、パパと私はもう、昨日に長く歩きました。
 我々の窓を通して、全部が本当によく見えます。二つの大きな、光を放つ(スターリンとレーニンの)肖像画があり、赤の広場の上の気球から吊り下げられています。市全体の上にある空は、赤く輝く旗でいっぱいです(やはり気球から下げられている)。A.とB.リング〔大通りとGarden環状道路〕に沿って投光証明があり、青色と薄紫色の影の中の巨大な網が、花火の色彩豊かな爆発と一緒に空(多くの気球)を通過しています。
 歓声が大好きです。
 河川の小型艦船は、…みんな飾り付けをしています。
 モスクワの発電所は、完全に彩飾されています。…
 パパと私は昨日、10時に外に出ました。…
 詰めかけた群衆の中を戦闘のようになって通り抜けて、中心部へ行かなければなりませんでした。
 野外の演奏会場がある全ての広場に、楽団がいました。120の移動用投光機、至る所に生姜焼き菓子の店がある市場。…
 こんなものはどこでも、どの人もかつて見たことがないと思います。…
 モスクワの全部が、路上にありました。」//
 3日後の9月10日は、スヴェータの30歳の誕生日だった。
 レフには、より多くの知らせはなかった。
 彼は彼女の近づく旅を心配し、当惑して苛立ち、彼女の途上にある危険への遭遇から助けることのできない無力さを感じていた。
 レフは本当に彼女が来るとは、あえてほとんど希望しないようにした。//
 「きみが期待するようには、何も明らかになっていない。
 しばらくの間は、僕はまだ何も見出さないだろう。
 I(Izrailvich)と逢うことすらできていない。
 できるときに—およそ2日のうちに—電報を打つでしょう。
 今日は、きみの誕生日です。
 この日、僕はいつも一人でしばらくの時間を過ごすのが好きで、いま自分の仕事場に座っています。…
 そして、きみのことを考えます。
 僕の思いは必ずしも明瞭または幸福ではなく、ときどきは訳の分からないものです。—そう、そのはずだと想像します。
 ただ一つだけは明白です。こうした思いは、僕の人生の重要な全てだということ。そうした思いを何か役立つものにしたり、行動へと変えることができないのは、好くありません。」//
 (21) スヴェータには、よい誕生日だった。9月12日に、レフにこう書いたように。//
 「研究所では、二つの大きな束の花を貰いました(グラジオラス、ダリアや菊科のアスター)。ママが三つ目をくれました(カーネーション)。
 みんな、花は良いことの前兆だと言います。
 私は実験室のフラスコに私用に若干のアスターを残し、若干はMikh.(Mikhail)Al.(Aleksandrovich)のビーカーに入れました。
 残りは、家にあります。
 Irina とShura は、北方旅行のためにお願いしていた特別の一点の服をくれました。 
 Shura は誕生日にはいませんでした。…。でもIrina はいて、研究所のLinda もいました。
 ママは素敵なキャベツ・パイを焼いてくれ、われわれは二個のケーキを食べました(砂糖の代わりに配給券で入手したもの)。」//
 (22) 悪い知らせは、レフにそうするつもりだと告げたようには、15日にKirov へと出立しそうでないことだった。
 研究所に、遅れがあった。
 スヴェータは、レフに書き送った。「私の書類カバンに仕事旅行の詳細を入れているのですが、20世紀の間はいかなる金銭も約束しようとしてくれません」。
 友人たちと親戚は、スヴェータのために金を集め始めて、彼女の月額給料よりも多い約1000ルーブルに達した。
 その間にスヴェータは、「賃金と支払い率の不均衡について」と題する報告書を書くことで彼女の研究所から「別に300ないし400ルーブル」を受け取った(この金は、Tsydzik が不在の間に実験室の管理を引き受けた責任を負ったことによるものだった)。この報告書は、理事長がまともに読まないで署名たけする山積みの書類の中に綴じ込められた。
 かりに自分のために金を求めていれば、彼女はきっと断られていただろう(研究所は現金が不足していて、所員への未払いの言い訳をいつも探していた)。そして、研究チームの指導者に必要な公共精神が足りないと責められていただろう。
 なぜスヴェータは突如として金を必要としているのか、という厄介な疑問すら生まれたかもしれなかった。
 スヴェータはこのような方法で理事長を欺くのは愉快でなかった。このことは、旅をすることで負う大きな危険についての一般的にな懸念に、さらに加わったことだった。
 彼女はレフにこう書いた。
 「準備することについて、とても神経質になっています。
 用意が出来たら完了することはない(または、完了しても悪いことが起こる)のと同じ、迷信じみた感情に落ち込んでしまいます。」//
 (23) レフは、同名人物とまだ接触しておらず、スヴェータの到着についての計画を最終のものにすることができなかった。 
 9月5日以降はLev Izrailvich から何も聞いておらず、逢ってすらいなかった。
 彼はスヴェータにこう説明した。「それで、きみの手紙が書いていたことを知らせ、前もって教え、あるいは何かを頼むことができない」。
 スヴェータの訪問のためにしておくべき重要な準備がまだあった。すなわち、Izrailvich と接触すれば、Kirov にいるスヴェータに電報を打って意思疎通を図ろうと今は計画していた。
 9月17日にスヴェータにあてて、「概して言うと、この10日間ほどは本当に何も進んでいない」と書いた。
 最近に発生した主要な難事は、レフが以前よりも頻繁に営舎に閉じ込められるということだった。—第二入植地域で保安警告があったからだ。これによって、彼が工業地帯でスヴェータと出会うのはより困難になった。//
 (24) 5日後の9月22日、レフはまだ同名者からの連絡を受けていなかった。 
 Izrailvich は病気なのに違いない、と彼は考えた。
 レフは、9月5日以降のスヴェータからの手紙も、受け取っていなかった。
 自由労働者の一人が、彼女はすでにモスクワを出発したと推測して、レフに代わって、Kozha のLev Izrailvich の住所にあてて郵便局留めで電報を打った。Kozha へとスヴェータは行き、そこで新しい指示を待たなければならなかった。//
 (25) スヴェータの旅の詳細は、完全には明らかでない。
 これについて、後年に彼女は、困惑するようになった。
 彼女は9月20日直後のいつかに、モスクワを出発したように思われる。
 スヴェータの父親と兄弟がYaroslvi 駅まで彼女を連れていき、Kirov 行きの列車に乗せた。彼女はそのKirov で、タイヤ工場での仕事を履行するため、少なくとも3日間を過ごしたに違いなかった。
 スヴェータは計画どおり、Kirov からTsydzik (この人物も計略の中にいた)へと電報を送り、「数日遅れるだろう」と伝えた。
 そして彼女は、非合法に入手していた切符を使って、Kozhva 行きの列車に乗った。その切符は父親が軍の将校から購入したもので、その人物は、Kozhva に着けば自分に返すという条件で、彼の「個人的助手」として彼女を同行させることに同意していた。
 スヴェータは、寝台車の上段にいた。「未知の豪華さ」だったと、彼女は後年に振り返った。//
 (26) 北方に旅をし、Kotlas で乗り換えてKozhva へと旅をし続けているとき、スヴェータは何を感じていたのか?
 監視塔と鉄道線路沿いの鉄条網の塀を最初に見たとき、彼女は恐くなかったのか?
 非合法に収容所地帯に入り込む企てをすることの危険性を、どう考えていたのか?
 数ヶ月後に旅を思い出して、スヴェータは1948年4月に、「首尾よくいかない結末を覚悟していたし、少し感情を失っていた」ので恐くなかった、と書いた。
 半分は失敗を予期して、彼女は自分の情緒の全てを成功の見込みに注ぎはしなかった。このことが、彼女の神経を安定させ続けるのに役立った。
 しかし、ときが経つにつれて、彼女は自分の勇猛果敢さについて、大きな驚嘆の気持ちをもって振り返った。
 70年以上の自分の台所に腰掛けながら、スヴェータは当時に自分が旅をするのは「自然(natural)」なことだったと思い出すことになる。
 しかし、そのときこう付け加えた。
 「いろいろな危険に巻き込まれることを想定すらしないで、どうすれば私は進むことができたのですか?
 分かりません。
 愚かななことをしました。
 きっと悪魔が私の頭の中に入り込んでいたのです !! 」/
 (27) この旅の非合法な部分のゆえにだが、逮捕される危険に陥ったことがあった。
 スヴェータは友人のShura から衣服を貰っていた。Shura は自分のカーキ色をした古い軍服の綿素材で、それをこしらえていた。
 のちに、スヴェータは書いた。
 「この制服が、私を救った。
 私は検札官を避けようと努めていた。彼らは乗客全員の切符と書類を点検しながら車両をわたって来ていた。
 私は何とか頭を下に向けたままにし、制服を身につけていた。その間ずつと、検札官の視線に合わせないようにした。
 しかし、彼らの一人が私の所にやって来て、切符が奇妙だ、合法のものではない、と言った。そして、尋問するために私を列車から降ろそうとした。
 にせの切符について、どのように説明できるだろう?
 私は、その切符が誰のものかすら知らなかった。—切符の上にはたぶん男性の名前があつた。しかし、私は女性で、しかもどこへ旅行することになっているかすら知らなかった。
 もちろん、私が本当はどこへ行くのかを言うことはできなかつた。
 さらに加えて、その切符を軍の将校に返すように言われていた。
 しかし、そのとき、明らかに軍人と思われる別の乗客が私を彼らの仲間だと見てとって、私を守る側になって、友好的に検札官と議論し始めた。
 彼らはこう言った !! 何か間違いがあるしても、彼女が原因ではない。
 すると、検札官は私をそのままにして去った。」//
 (28) スヴェータは、ペチョラから数キロメートルだけ離れたKozhvaまではるばると旅をした。そこで彼女は、土地に掘られたLev Izrailvichの家を見つけた。その家に彼の「ちっぽけな(tiny)部屋」があった。〔参考—次回に掲載する当時のスヴェータの写真の背後にこの家が写っている—試訳者〕
 レニングラード出身の彼の父親が一緒に滞在していた。—たぶんその理由は、木材工場でレフと会ったことがないということ。それで、睡眠の仕方はとても窮屈だった。
 翌日、Izrailvich とスヴェータは一緒に、木材工場へ行った。
 ペチョラにある駅からソヴィエト通りの距離を歩いた。その通りは汚れた車跡のある、両側に8住戸のある木造家屋が並ぶ、そして「側道」は地上に置いた厚板で造られている大通り(avenue)だった。
 二人は曲がってモスクワ通りに入り、町の最初の石製建物である、新古典派様式の構造物を過ぎた。その建物は、最近にAbez から移転してきた北部ペチョラ鉄道労働収容所管理部用に建てられたばかりだった。
 建物の外側に監視員はおらず、誰もスヴェータを止めたり、書類を調べるために質問したりしなかった。彼女は見かけない人物として印象に残ったに違いないとしても。 
 Izrailvich とスヴェータはモスクワ通りから、第一入植地区の住居群やGarazhnaia(ガレージ)通りの自動車修理場を過ぎて、木材工場の正門へと着いた。そこで二人は監視員に、スヴェータは居住区画に住んでいる自発的労働者の妻だと告げる予定だった。//
 (29) 木材工場の治安確保は、混乱した状態にあった。
 およそ数百人の監視員がいて、刑務所地帯を巡視した。
 監視員のほとんどは軍に従事した元農民で、戦争末期に家に帰って集団農場に行くのを避けて、監視員として就業契約をしていた。
 多くのものは読み書きの能力がなく、たいていの者はひどい酒飲みだった。そして、彼らはほとんど賄賂を受け取り、受刑者から盗んだ。
 彼らはまた、木材工場の店舗や、とくに産業地帯にある馬小屋、産業地帯の外の第一入植地区に近い風車で強奪した。第一入植地区では少なくとも12人の監視員がオート麦を盗み、収監者や自由労働者に売るウォトカに変造する、大きな恐喝団に関与していた。
 このようにして1946年には、数トンのオート麦が所在不明になつていた。
 (30) ほとんど恒常的な酔っ払いは、監視員に関する主要な問題だった。
 木材工場の党資料には、懲戒のため聴取に関するものが多数ある。それには、「勤務時間での酔っ払い」、「監視小屋での仕事中の飲酒による意識不明」、「酔っ払っての数日間の消失」等々が記録されている。
 党指導者たちはみな、監視員の間にある酒乱は治安確保に対する最大の危険だ、ということに同意した。
 収監者たちは、酔っ払った監視員が主要監視小屋で寝ている間に収容所から歩いて外へ出ていた。
 別の収監者たちは、賄賂を監視員に渡して町の女性を訪問させ、さらに賄賂を提供して、営舎地帯に帰らせ、光が消えているときは「いる」者の中に算定させた。
 ペチョラの遠隔さ—他の労働収容所以外のどこからも1000キロメートル—によつて、ペチョラ自体が刑務所になった。
 (31) 監視員が賄賂を受け取って、外部者が刑務所地帯に入るのを認める場合ももあった。
 1947年の木材工場での党の会合は、「不審者(strangers)」が通行証なしで居住区画の自由労働者を訪問するのが許されているいくつかの事件を報告した。
 工業地帯の内部では一度、侵入者が探索を逃れていた。
 小さな街路照明灯しかなかったこと—およそ7台の電灯—は、治安確保よりも生産目的を優先することを意味した。
 探索照明灯のある8つの監視塔が鉄条網の塀の周りにあったが、そのうち3塔の照明灯は電球を失くしていた。//
 (32) Lev Izrailvich とスヴェータは、邪魔されることなく木材工場の正門に到達した。
 正門は今にも壊れそうな代物だった。両側にある木と鉄条網でできている塀よりもほんの僅かだけ強固で、宣伝標語(propaganda slogan)が描かれた四角い枠のベニヤ板が付いていて、最上部には労働収容所の槌・鎌の標識があった。
 通路の右に監視小屋があった。木材工場を出入りする者は全員がそこで、執務中の武装監視員に通行証を呈示することが意図されていた。
 受刑者用の移送車も、出入りが数えられた。//
 ——
 第6章③、終わり。

2303/レフとスヴェトラーナ22—第6章②。

 レフとスヴェトラーナ、No.22。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.117-p.123。
 ——
 第6章②。
 (10) スヴェータはレフに切に逢いたかった。
 6月7-8日の週末に、手紙を書いた。それは土曜日に出発するGleb の母親が彼に渡すこととなっていた。//
 「レヴィ、Gleb の母親がO. B.(オルガ叔母)を訪れて、水曜に(ペチョラへ)出発すると言いました。
 そして今、あなたにどう書いたらよいか、分かりません。
 あなたととても逢いたい、ということ?
 そんなこと、分かっているでしょう。
 時間の外で生きていて、まるで今は休憩時間のごとく、私の人生がこれから始まるのを待っているような感じがします。
 何をしていても、ただ暇つぶしをしているように思えます。
 よくないと思います。
 ゆっくりとまたは無頓着に時間を費やすのは、強い人間にはふさわしくありません。
 致命的な誤りでもあります。あなたは失った時間を取り戻すことはできないのだから。
 私は、たんに待つのではなく、生きなければなりません。
 そうしなければ、待つのが終わったときに、自分がしっかりしてあなたと一緒に私たちの人生を築いていくことができないでしょう。//
 いつも、愛が十分ではないと怖れてきました。
 人は愛することができないといけないし、一緒になって、たぶんずっと残酷なままだろうこの世界で、生きていかなければなりません。
 でも、時は過ぎていくのに、私は強くも、賢くもなってきていないと思えます。
 私は少なくとも、自分自身の愚かさや、愛しているけれど遠く離れている人々への誠実さについて、十分には考えてきていない。このことはかつて、私自身や他の人々を苛む原因になりました(あなたもまた、このせいで苦しまなければならなかった)。
 こうしたバカなことで、私は大量のH2O〔酸素〕を失ってきました。
 待たなければならないとき、あるいは怒っているとき、私は強くはなかったように思います。
 こんな理由で、自分の脚でしっかり立っているとは感じていないのです。
 私には、依りかかれる—悲しいときでも愉しいときでも—あなたが必要です。
 私たちは今の事態を、一緒に切り抜かなければならない。かつてそうだったように、腕を組んで歩みながら。—昔はあなたに寄りかからなかったと思うけれど。
 私はあなたの腕で、重くはなかったわ。そう思っているけど、正しい?
 こんなことを書き、あなたは苦痛を感じるだけで何も得られないお願いをして、私は優しくない。
 でも、疲れています。今日だけではなく、いつもと同じ。
 私には『支え』が必要です。こうした手紙を通してであっても(手紙は私たちの会話です)。
 でも、レヴィ、うろたえないで。
 最後には、私たちは多くの人よりも、幸せになる。—愛をちっとも知らない人たちよりも、愛の見つけ方を知らない人たちよりも。
 このことが道理にかなっていると、望んでいます。//
 疲れているとき、私は辛口に、Irina(Krause)が言ったように『心の中を隠さなく(unshaved inside)』なります。そうして私は、私と親しい人々から支援を受ける仕方が分からなくなるのです。
 その人たちに何を望んでいるのか、分かりません。
 理解してほしい、何かしてほしいと期待しているのではなく、私は自分が何を頼べばよいか分からないのです。
 私は沈黙したままです。でも活動しながら静かになります。これは、自分の殻の中に閉じこもる、という意味です。
 Shurka(Aleksandra Chernomordik)ですら、私は最近では一週間に二回しか訪問していません。また、今度の日曜に会いに行かなくてIrina を傷つけました(とても疲れていたと言ったので、彼女は許してくれました)。
 一昨日は、私とあなたについて彼女が尋ねて、事態はもっと悪くなりました。衝撃です。
 昨日、誰をも避けたくて行かなかった演奏会のあと、まだ好くなってはいません。
 私は思慮が足らず、意地が悪いと、あなたは思うでしょう。私がそれを理解して後悔していてすら、どうすれば良くすることができるか、私には分かりません。
 いつか健康を悪くすれば(疲労のためだけであっても)、あなたに語りかけず、耐えきれなくなってあなたから離れてしまうのではないかと、上に書いたような理由で怖れています。
 リョヴカ(Lyovka)!、もしそうなっても、私はあなたに怒っていないと、分かって下さい。
 心を折ったり、自分を苛んだりしないで下さい。適当な休みを私がとるまで、待って下さい。
 約束できますか?//
 この手紙で書いたことはとくに賢明だとは思えないけれど、私にとくに優れた意見を求めていないでしょう(少しだけは正解)。
 レヴィ、これ以上馬鹿なことを書いてしまう前に、寝床に行かなければなりません。
 書く前に少し泣いて、この手紙をいま終えようとしているのはいい事です。顔に微笑を浮かべて、私の大切な、愛おしいレヴィに誓います。」//
 この手紙は、スヴェータが自分の抑鬱状態(depression)という主題に本当に触れた最初のものだった。彼女はそうだとは認識していなかったけれども。
 彼女は十分に正確にその兆候を、また「耐えきれなくなって離れてしまう」心理を叙述することができたが、それらに名称を与えはしなかった。
 「世界で最も幸福な国」のソヴィエト連邦では、抑鬱状態についての公的認知や議論はなかった。//
 (11) 翌朝、スヴェータは手紙を書き続けた。//
 「レヴィ、私があなたに逢いに行くことについて。
 どこに行くべきか、どこに申請すべきか、分からないので、とても困っています。
 Gleb に、母親が戻ったら私と連絡を取るように頼んでもらえますか?(D.B(オルガ叔母)よりも先に私に連絡するということです。彼女は叔母にいずれ訪問せざるをえないのだから。)
 Gleb の母親は、7月の早くか半ばのいつかに戻ると言っていました。そのとき私は、必要ならば、街を出て彼女に会いに行けます。その日に休暇を取る権利はないのだけれど。
 7月に休暇を欲しいとは思っていません(とくに前半については)。精神的にも経済的にも、旅行の準備をする必要があるからです。また、もう一度、こちらで許可が得られるよう試してみたい。 
 Gleb の母親は不要だと言ったけれど、許可があれば私は本当に安心でしょう。また、どちらにしても、悪くはなりません。
 どの程度時間がかかるか、私には分かりません。
 私が投げ出したら、Mihail Aleksandrovich(スヴェータの上司のTsydzik)が自分で休暇を取りたくなるかもしれません。
 その場合は、私が行く前に彼が帰るまで待たなければならないてしょう。
 すみやかに逢いに行けるとは、思わないで下さい。
 休みを取るという意味では、遅い方がよいかもしれません(この点で私は他の人たちと似ていません)。早くにある休日はすぐに忘れてしまい、残りは全くないがごとくになってしまうのですから。 
 Mihail Aleksandrovich も、同じ理由で、遅く休暇を取るのが好きです。…
 O. B. が今ここに来ました。それで、止めます。…//
 我々はGleb の母親に、美味しいものを一緒に持っていくように頼みました。あなたに4月以降に届けようとしたものです。O.B.からの甘菓子、Irina からのチョコレート、そして自然に、私からの砂糖。Irina は砂糖に我慢できず、私は甘菓子に無関心だったから、自然です。 
 何が起きるか分からないので(怒らないで。でないと、肝臓が悪くなる)、若干の現金も送っています。
 金銭は持っているといつでも有用です。自分のためのものを買わないならば、仲間たちのために使って下さい。
 一緒に持って行ってほしいとGleb の母親に頼んだものは、あなた用の眼鏡です。
 それは、Shurka が得ることのできた(正確にa3.5の取得です)二番めのものです。
 パパは自分の眼鏡を取り戻しました。
 さあ、これで今日は全部です。
 気をつけて、私の大切な人。とても、とても優しく、キスをします。」//
 (12) Gleb の母親は、Litvinenko たちよりも、うまくやった。
 彼女は、もう一度、数日つづけて毎日数時間ずつ息子に逢うことができた。今度は監視員に聴かれたままだったが、正門の所にある大きくてせわしい小屋よりも小さい、工業地帯と第二入植地区の営舎の間にある監視小屋で逢った。
 レフはスヴェータに、Natalia Arkadevna の成功をあまり重視しすぎないように警告した。
 Gleb の適用条項は、レフのものよりも少し緩かった。また、Gleb の母親は運が好かった(あるいは賄賂の支払いが非常に巧かった)。
 スヴェータが幸運でも、レフと「数分間」逢うことができるだけで、MVDからの「無記入の拒否状」のもとで出逢う可能性もあっただろう。
 しかし、Gleb の母親から聞いたことで、スヴェータは元気づけられた。
 7月16日にレフにあてて、こう書いた。//
 「Natalia Arkadevna が月曜に会いに来ました。
 彼女は物質的経済的側面〔賄賂〕について詳細に語ってくれました。そして、その問題についての私の神経を完全に鎮めてくれました。
 彼女は、旅したいとの私の希望を支えてくれました。
 魅力的な人です。これは確かなことで、彼女に私はとても感謝しています。」//
 (13) スヴェータがNatalia Arkadevna から学んだことによって、どんな対価を払ってでもペチョラへ行こうという決意が強固になっただけではなかった。収容所管理機関が許可を拒んだとすれば、自分で別の何らかの手段を見つけることができるという考えも、さらに強くなった。
 賄賂によってでなくとも、工業刑務所地帯へと自分が密かに入り込む方法を見つけようとした。
 (14) 7月16日までの日々を、スヴェータは、夏が終わる前にペチョラへの旅に必要な取り決めをするために用いた。
 休暇を取れるときに上司のTsydzik が同意するのを待つ必要があった。また、とりわけ、ペチョラにいる間は、彼女を守ってくれる彼に頼らざるを得なかったからだ。
 Tsydzik は7月の最後の週に、入院してしまった。
 彼は、8月1日には休暇を取ってコーカサスのKislovosk へ行き、早くても9月12日まではモスクワに帰ってこないことになっていた。しかし、この旅行は、遅れた。
 スヴェータは、7月28日にこう書いた。//
 「レヴェンカ、私の大切な人、私たちはもう一度忍耐力と我慢強さを呼び起こさなければなりません。
 猫のように泣いて(meow)います。
 でも、美徳には褒美があると知っているかぎり、12月まで何としてでも待つつもりです(その場合にはちっとも美徳ではない?)。
 もう一度。私は猫のように泣いています。」//
 (15) 8月、モスクワ市民の多くはずっと休暇で街から離れていたけれども、スヴェータは研究所へと仕事にをしに出かけた。そして、Tsydzik の管理の仕事を代わって行った。
 8月12日の手紙で、レフにこう書いた。//
 「ここでは28度で、工場の煙と砂塵で全てが覆われています。
 人々はモスクワ800年記念式典〔9月7日〕のために、市を急いで飾っています。それで、通りの半分は立ち入りを阻止されています。」//
 市が祭典を準備している間、スヴェータは、ペチョラへの旅のための自分の準備をした。これを9月末に実行するだろうと、今では予想していた。
 彼女は、Lev Izrailvich のための写真用資材を最もよく得る方法を見出すために多くの時間を使った。このIzrailvich は、Kozhvaで自分を宿泊させ、木材工場に入り込むのを助けてくれる人物だった。
 「今は不足はありません。誰でも店で容易に購入できるでしょう。…
 私は全ての物を用意するでしょう。かりに旅がうまくいかなくても、小荷物で彼の住所に送ることは可能です。—了解?
 二人のために私がいます。—フィルムは彼のために、書籍はあなたのために。」//
 (16) スヴェータはこのときまでに、自分が非合法に旅をすることになると分かった。
 モスクワのMDV から許可を得ることはあきらめていた。そして、それがなくとも、ペチョラの地図に記されていない秘密の収容所の居住地区へと行く仕事があったわけでもなかった。
 彼女は、ペチョラに着けば、Lev Izrailvich と一緒に木材工場に入り、工業地帯内部の自由労働者の一人の家屋に隠れようと計画していた。
 レフは、居住地区への入口にいる監視員をやり過ごせば、発電施設での職務時間内に、そこで彼女と逢うことができるだろう。
 これは、大胆でかつ危険な計画で、スヴェータを甚大な恐れに巻き込む可能性があつた。
 MDV の同意なくして収容所に立ち入ることは、国家に対する重大な犯罪だった。
 彼女の研究には軍事上の重要性があったので、もしも確信的「スパイ」と接触しようとして逮捕されれば、彼女自身が労働収容所へと送られただろう。
 彼女を助けた者もまた全員が、面倒なことにかなっただろう。//
 (17) 旅行の真の目的を隠すために、スヴェータは、ウラルの近くのKirov へと、彼女の研究所と関係のあるタイヤ工場を視察するために行くという計画を立てた。 
 スヴェータがモスクワに帰るのが遅れると知らせる電報を計画どおりにKirov から打てば、 Tsydzik は彼女の痕跡を抹消するのに必要な書類作業をすることになっていた。
 Kirov からKotlas 経由でKozhva へ列車で行くには、一晩と一日しかかからないだろう。そのKozhva で、スヴェータはLev Izrailevich に迎えられることになっていた。
 8月20日、スヴェータはレフにあててこう書いた。//
 「Kirov からは地方鉄道があり、十分に利用できるので、一石二鳥です。
 Mik. Al.(Tsydzik)が12日に戻れば、15日までに私は、およそ10日間の工場視察旅行を公式のものにするでしょう。
 そこから、まだ仕事の旅行をしているがごとく、私は進むつもりです。切符なしで、ただビタミンC〔賄賂の金銭〕だけを持って。
 切符の費用を節約します。でも、重要なのは、Kirov 往復に使う日数は私の休暇の中に含まれていない、ということです。それで、私にはさらに好都合になるでしょう。 
 Kirov で、およそ2、3日仕事をします(工場を一瞥し、報告書を書き、何らかの助言をするでしょう)。
 旅行について少し神経質になっていると、打ち明けなければならない。
 モスクワを出発すればすぐに、あなたと同名の人に電報を打ちます。そして、もう一度、Kirov から打ちます。—これらは、1ヶ月以内に起きる予定のことです。
 レヴィ、増えた旅行バッグを処分するつもりはありません。
 書物のいくつか(最新の英語の教科書や核関係の書物のような入手し難いもの)をP.は、見つけてくれると私に約束しました。
 Nat(Natalia)とArk(Arkadevna)は明らかに、何かを、衣服、旅行用のパン等々を、送ろうとしています。
 既に言ったと思うけど、私はあなたと同名の人に小荷物を送りたいのですが、今の時点で写真用具をまだ何も購入していません。…
 O. B.(オルガ叔母)はなぜ、服を送ったように書物も送らないのかを、理解していません。でも、レヴィ、私はあなたに怯えています。
 不機嫌なことでしょう。
 父親の髭にかけて誓います。このあと十月革命30年記念日(1947年11月7日)よりも前には、威張って本屋に入らない、と。…
 この手紙は、(9月)5日まではあなたに届かないでしょう。
 だから、何か至急に知らせる必要があるときは、電報を打つようLev Izrailvich に頼んで下さい。私の返事は時機どおりには届かないだろうことも留意しておいて。
 Kirov の郵便局留めで手紙を送ってくれることもできます。
 安全のために、私がKirov にいる間は、郵便局と電話局に入って調べるでしょう。」//
 10日後、スヴェータは、旅行計画をもう一度確認すべく書き送った。
 「私の全ての計画に変わりはありません。つまり、15日にKirov に行き、21日にはあなたと一緒にいます。
 緊急事態が生じれば、カーボン紙を使ってM(モスクワ)とKirov の郵便局留めの両方に手紙をくれるか、同名の人に電報を打つよう頼んで下さい。」//
 ——
 第6章②、終わり。

2301/レフとスヴェトラーナ21—第6章①。

 レフとスヴェトラーナ、No.21。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.111-p.117。
 ——
 第6章①。
 (01) スヴェータは、最初の手紙ですでに、レフと逢うという考えを持ち出していた。
 1946年7月12日の手紙で、こう書いていた。
 「もう一度5年が過ぎる前に私たちが逢うことができるよう、全力を尽くしてくれると思います」。
 レフは最初から悲観的だった。こう答えた。
 「逢うことについてきみは尋ねている。…
 スヴェータ、ほとんど不可能です。58-1(b)は恐ろしい数字です。」
 (02) レフは正しかった。
 収監者が訪問者を受ける許可を得るのは、実際に稀だった。
 また、許可がなされるとしても、家族または配偶者に限られた。
 出逢うことは、「良好で良心的な、かつ迅速な労働」に対する褒賞として例外的な場合にのみ許された。
 訪問者があるという約束は、受刑者が好ましい振る舞いをすることの大きな誘因となった。
 だが、出逢いが行われたとき、それはしばしば失望になるものだった。数分間に限られ、かつ監視員がいる場所でだったからだ。
 親密な会話をし、身体的な愛情を示すことは困難だった。
 北部収容所のある追想録は、妻たちの訪問が終わった後で、受刑者たちは「決まって寡黙になり、苛立っていた」と記した。
 (03) 妻や親戚の訪問もすでに十分に困難だったが、スヴェータはこれらのいずれでもなかった。
 彼女は友人で、大学以来の級友にすぎなかった。そして、レフと逢う許可を申請する根拠は何もなかった。
 しかし、スヴェータは、延期しないと決心した。
 親戚がペチョラを訪問するのは「原則として可能だ」とレフが書いていたのに勇気づけられ、彼女が書き記したように、「あなたと私が個人的に可能かどうかを調べる」ことを始めた。
 おそらく収容所当局は、慣習法上(common-law)の妻として彼女に同意するだろう。
 スヴェータは、1946年秋に、そのような旅をする希望をもっていると、こう書き送っていた。
 「可能性があるにすぎなくとも、できるだけ早く可能になるように全てのことをするよう、お願いします。
 休暇を得ることは全く期待していませんが、研究日に10日間を使うことはいつでもできるし、無給で休日を利用することもできます。
 Mik. Al. (Tsydzik)は私を支援するでしょう。」
 成功する機会についてもっと情報を得るまでどんな危険もスヴェータに冒してもらいたくなくて、レフは、秋になるまで思いとどまるように告げた。
 こう警告した。旅をするのに2週間は必要だろう、これは予定される休日以外に仕事から離れることができる期間よりもはるかに長い、数ヶ月先に行う必要がある、と。
 Glev Vasil'ev の母親は、八月に息子と逢ったあとモスクワに帰るのに2週間かかった。これはレフが知っているただ一つの訪問の例だった。但し、彼はその旅は長すぎる、と分かっていたに違いないけれども(モスクワまで2170キロメートルの旅行は通常は、列車で2日または3日を要した)。
 レフは、スヴェータを遅らせようとした。
 たぶん彼は、彼女が失望するのを怖れていた。あるいは、彼女がさほどに努力する意味はないと感じていた。
 しかし、彼女が計画を実行したときに直面するだろう莫大な危険を恐れたことに、疑いはない。
 スヴェータは「国家機密」とされた研究を行なっていた。そのときに彼女は、確信的「スパイ」と逢うために労働収容所に旅をする許可をMVD に申請しようと計画していたのだ。
 このような申請をするだけでも、彼女には研究所から追放されるか、またはもっと酷いことをすらされる危険があった。
 (04) スヴェータは、旅をするのにかかる期間の長さや巻き込まれ得る危険について説かれても、納得しなかった。
 レフから受け取った情報に疑いをもったので、彼女はもっと知る必要があった。
 10月15日に、つぎのように書き送った。
 「2週間の旅行だとは思っていませんでした。
 足のない手紙であれば、それほどの長い期間がかかるのだと思います。
 本当だとしても(何とかして調べます)、休暇中でなら別だけど、〔秋ではなく〕冬に私が行くことを話題にしても無意味です。
 でも、実行する前に、もう一度検討しています。
 特別の許可が必要なのかどうか、私に尋ねていましたが、その許可はいったい誰から?
 あなたの側の当局(とあなたの行動がどう評価されているか)にだけ依っていると、私は言われてきました。でも、私が言われたことを信じない十分な根拠はあります。
 私がいる地位は、もちろん、どんな特権も与えてくれません。」
 (05) 第一に不確実だったのはそもそも、彼女は妻でなくともレフに逢うことが許されるか否か、だった。
 レフには、信頼できる情報がなかった。
 1947年2月9日に、こう書いた。
 「Abez の北部ペチョラ鉄道労働収容所管理部でよりも、可能性は大きいように思えます。そこでは、原則として15分から2時間を認めています。
 上級管理機関は、親戚、兄弟、妻(法律上と慣習法上のいずれも)、姉妹と従兄弟には、数日間にわたって一度に数時間を認めているようです。
 不幸ながら、この情報は公式の情報源によるのではありません。
 調べることができたのは、さしあたりこれだけです。」
 3月1日までに、レフはより多くのことを知った。勇気づけられるものではなかったけれども。
 「出逢いについてだけど、スヴェータ、きみにどう説明すればよいか分からない。でも、僕の素晴らしいスヴェータ、逢うのは、本当にとても困難で、たぶん屈辱的ですらある。そのときに僕たちが『痩せたナナカマドの木』(The Slender Rowan Tree)〔注〕を歌わないとしても。
 (原書注記—あるロシア民謡(「Ton'kaya nabina」)。悲しく美しい曲で、その歌詞はレフとスヴェータの気持ちと合致していた。
 「痩せたナナカマドの木よ/どうして揺れながら立っているの?/頭を下に曲げて/自分の根っこにまで。/道を横切り/広い河を越えて/やはり独りで/樫の木は高く立っているのに。/ナナカマドの木のように、どうやれば私は/樫の木に近づくことができるの?/可能ならば私は/前にかがんで腰を曲げはしないだろう。/私の細い枝で/樫の木の中へ入って落ち着き/昼も夜も囁きつづけるだろう。」〔/は改行部分—試訳者〕)
 ほとんどいつも、監視員がいる監視小屋で、数分間だけ逢うことしか許されていない。…
 ときには—これは最近にBoris German と彼の母親の場合に起きたことだけど—監視員が、当局がすでに許可を裁可した出逢いを、最後の瞬間になって拒否するかもしれない。…
 工業地帯でたまには連続する日々に数時間ずつ逢うことが許されてきた、というのは本当だし、その中には実際には監視されないまま逢うのが認められることもある(これはGleb(Vasil'lev)と彼の母親の場合に起きた)。
 でも、これらは稀なことで、58-1(b)の政治的受刑者には原則として認められません。
 収容所轄機関の文化教育部門からの肯定的証明書が役立つかもしれない。それを得るのは容易ではないけれども。
 しかし、それは主要な問題ではありません。…
 二人が逢うことの性格を思うと、かりにそんなことが起きるとしてだけど、僕はすぐに、きみは満足するだろうか、それともあの耐え難い苦痛を再び呼び覚ますだけだろうかと、考えてしまいます。あの耐え難い苦しみは、すでによく確立された僕たち二人の新しい現在の関係に慣れたために少しは和らいでいたのです。
 われわれを分かつ到達不可能な隔たりを、いま以上に強く感じてしまうのではない?
 他の人々は幸せなところにいるのに、幸せであることがきみにはいま以上に困難になるのではない?」//
 (06) スヴェータは思いとどまろうとしなかった。
 自分にとっての危険や影響がどのようなものであっても、ペチョラまで旅をしてレフに逢うと決心していた。たとえ数分間であっても。
 モスクワの収容所管轄機関が彼を訪問させようとしなければ、ペチョラの収容所当局に直接に申し込むつもりだった。
 そして、拒否されるようなことがあれば、おそらくはレフを助けてきた自由労働者の協力を得て、収容所に入り込む他の方法を探すつもりだった。
 手紙が秘密裡に彼に届けられるのならば、彼女はなぜできないのか?
 これはきわめて勇気がある、大胆な計画だった。
 かつて誰も、密かに労働収容所に入り込もうと考えなかった。//
 (07) しばらくの間は、計画を立て、情報をより多く収集する時間があった。
 北極圏では五月まで続く可能性のある冬の間にペチョラに旅するのは、暗闇が長くつづき、列車が動く可能性は氷結する気温で閉ざされるために、安全ではなかった。
 レフは発電施設で、夜間勤務で働いていた。
 彼は三月の末に、春が到来する兆しを感知した。
 早朝の光の美しさに心打たれつつ、希望と幻想を性格的に慎重に見守っていた。//
 「朝に発電施設を出るとき、僕のとても嫌いな黎明の影はもうありませんでした。でも日の出の輝き、暖かい太陽は、雪の吹きだまりを半分溶けた角砂糖に変えています。
 客観的に悪さを持っていないものがあるというのは不思議ですが、何かの理由で、きみはそれを嫌悪するだろう。
 このようにして僕は、偽りの朝焼けを感じています。…
 かつて夜明けに仕事を終えて歩いて帰っていたとき、月はもう低い所にありました。
 僕は尋常でない光に驚いて、突然に黙り込みました。
 雪の平らな表面は、朝の光を受けて青白く、影の部分は濃い灰色でした。一方で、雪の吹き溜まりの斜面は、徐々に衰える月光を反射してまだ光っていました。
 そして朝の空は、松の木の優美な影の上にあって、薄暗い灰色と灰色混じりの青緑色から柔らかいバラ色に変わりました。…
 日々が春に似て素晴らしくなった瞬間に、ゆっくりと溶けていく雪の中の汚れの中で、春が姿を現しています。そして、太陽は輝くのをもう惜しみません。
 きみは明るい光の中の全てを見つめるだろう。
 きみは少し(僕はたまにしか好きでないけど)語りたいと思っている。—誰か好い人物について話す、または…ちょっとの間だけ馬鹿話をする…。」
 (08) 暖かい天候が戻ってくるとともに、あらためて訪問についての会話が始まった。
 6月の間に、Nikolai Litvinenko の両親がKiev から彼らの息子に逢いに来た。
 レフは警告としてスヴェータにこう書いた。「出逢いは、愉快なものではありませんでした」。
 Litvinenko が申し込んだ北部ペチョラ鉄道労働収容所管理機関は、各回2時間逢うことのできる訪問を三回許可していた。
 しかし、木材工場の管理者は、監視小屋で監視員が同室してのものを、一回だけしか許さなかった。
 レフはスヴェータに書いた。
 「これが我々が得ることのできる最上限です。
 僕の条項は、それ以上を何も保証しないでしょう。
 Nikolai は、条項58-1(a)(原書注記—祖国に対する裏切りの罪。レフに対する58-1(b)(軍人による祖国に対する裏切り)と似た条文だった)の適用を受けてここにいます。」 
 Litvinenko 家族は「豊富な潤滑酒」にもかかわらず、それ以上の時間を得ることができなかった。この語でレフが意味させたのは賄賂だった。「莫大な総額の金が彼らにかかりました」。
 レフはLitvinenko の件から、スヴェータの訪問について積極的なことを何も見出さなかった。//
 「あらゆる事が、とくに調整が、彼らにとってきわめて高価なものでした。
 少なくとも彼らは多額の金銭を持っていて、だからさほどに負担にはなりませんでした。
 仕事をしているふりをして監視小屋へ歩いていったとき、彼らを見ました。
 母親はまだ若くて、でも痩せていました。彼女はKiev には自分のようにふっくらした人々は多くはいない、太つている人を見るのは珍しい(飢饉の示唆)、と言ったけれども。
 スヴェータ、外部者としてこのような出逢いを観るのは悲しい。
 Anton Frantsevich (原書注記—Anton Frantsevich Gavlovskiiは1938年以来のペチョラの受刑者で、Strelkovの実験室で助手として働いていた)が昨年に彼の妻に、離れたままでいて欲しいとの頼んでいるにもかかわらず彼女が来れば、逢おうとすらしないだろう、と伝えました。これは理解できることです。 
 彼らに神の加護あれ。
 時期がもっとよくなるまで、この問題を語るのはやめよう。」//
 レフは、自分を訪れるというスヴェータの計画に気落ちし、勇気が出なかったので、ほとんど彼女と逢うのを怖れているように見えた。
 たぶん彼は、逢っても満足を与えず、離れている苦痛をもっとひどくするのではないかと彼女に尋ねたとき、自分の心の声を伝えていたのだ。//
 (09) Litvinenko の経験でレフは意気消沈したとしても、スヴェータは、ペチョラへの別の訪問者によって励まされていた。
 Glev Vasil'ev の母親のNatalia Arkadevna は、息子に逢うため6月半ばにペチョラへの二度めの旅をしようとしていた。
 レフはスヴェータへの5月1日の手紙で、1946年の最初の旅行で彼の母親はは息子と聴取されない時間を何とか過ごすとができた、と語っていた。
 Natalia Arkadevna には、その成功を繰り返す自信があった。
 彼女はペチョラに出発する前に、レフの叔母のOlga に会いに行った。Olga は彼女と一緒に旅をしようと思ってきていたが、それは、レフが安心したことだが、彼女が医師に思いとどめられるまでだった(Olga はスヴェータがレフと通信して欲しくなかったということ)。
 数週の間、Olga はスヴェータに旅行計画について話していた。
 Olga が旅行をやり遂げると考えるのはどうかしている、という点で、スヴェータはレフに同意した。—地下鉄でモスクワを縦断するにも大騒ぎをしていた女性だった。Olga は、賢明にもNatalia Arkadevna のような「経験のある旅行者」にくっつこうとしたのだけれども。
 その頃までにGlev の母親は出発する準備が出来ていたが、スヴェータは、Olga が提案した旅行についてたくさん聞かされていたので、自分も昂奮する気分になった。—かりに間接的にでも—スヴェータを知った者は、彼女はまもなくレフと逢うのだろうと思ったに違いない。
 ——
 第6章①、終わり。
 

2298/レフとスヴェトラーナ20—第5章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.20。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.105-p.110。
 ———
 第5章③。
 (23) 密送の仕組みが発展するにつれて、スヴェータはレフと同様に多くの報せを得られるようになった。
 1月20日、彼女は家族や友人たちと乾杯して、レフの30歳の誕生日を祝った。
 そしてOlga 叔母に会いに行った。叔母はスヴェータがレフに送るための小荷物を持っていた。
 スヴェータは、レフのために何かと労力を使おうとする人々を嫌がっていることを知って、「あなたの考えを伝えたけれど、枕と夏服を受け取るのを拒みました」と説明した。
 オルガは、急いで地方ソヴェトに行ったのだった。ソヴェトはレニングラード・プロスペクトにある共同住宅のレフの古い部屋に、「ジブシー」を移していたからだ。
 彼女はそれを「ジプシー」から返してもらうよう当局に掛け合っていた。彼らは、レフの持ち物を全て自分のトランクに詰めて放り出していた。
 オルガは、レフは自分の所有物を失えば気を動転させるだろうと気遣った。しかし、レフが本当に心配したのは、両親が持っていた写真だけだった。
 彼は叔母にこう書き送った。
 「あの部屋はもう僕のものではありません。僕の持ち物について気にかける必要はありません。
 判決で僕の物が全くなくなったのは確かで、それらは形式的にはあなたと僕の所有物のはずでしょう。でも、今では取り戻すのは遅すぎます。
 かつまた、それを必要ともしていません。
 何かがもし残っていたら、僕のために保存しないで、売って下さい。あなたには金がもっと必要です。
 それらは、人間の生活には重要ではありません。騒いだり神経をすり減らす価値のないものです。」
 (24) 物質的条件は、モスクワの誰にとっても厳しかった。
 店舗は空で、食料の供給は不足し、基礎的な物品ですら配給された。
 スヴェータの家族は、多くのモスクワ市民と同様に、ジャガイモや他の野菜を食べて生き延びていた。それらは、日曜日に地下鉄と列車で旅をする郊外の割当区画で栽培していた。
 1947年の春までに、モスクワの生活条件は飢餓を人々が不安になり始めるまでに悪化した。不安は、ウクライナの飢饉の噂で大きくなった。ウクライナでは1946-47年に、数十万の人々が飢餓で死んだ。
 スヴェータはレフへの手紙で「ウクライナで起きていることについては、考えるだけで耐えられません」と明確に書いた。検閲があれば、受け付けられなかっただろう。
 「人々はシベリアかベラルーシ行きの列車に、群がって詰めかけています。でも、そこに行っても、ジャガイモしかありません。
 列車は、モスクワに入って来るのを止められています。にもかかわらず、市内には大群の物乞いたちがいます。
 モスクワの住民の少なくとも半分は、戦争中よりも悪い生活をしています。
 レヴィ、これを見るのは痛ましい。
 みんな、秋までの日数を計算し、収穫量はどうなるだろうと自問しています。
 当分は、家では全て十分です。…
 肉を少しも見ないのは本当ですが、菜食主義のような人々がいて、彼らはしばしば100歳になるまで生きると言われています。
 収入に関するかぎり、事態は悪くなりました。パパは1300ルーブルを貰っており、私の月給は930ルーブルです〔注〕。でもこのお金はすぐになくなってしまいます。」
 (原書注記—モスクワの工場労働者の平均月額賃金は、約750ルーブルだった。)
 (25) 手紙を交換し始めた最初から、二人は、「Minimum(最小限)」「Maximum(最大限)」という暗号符で呼んだものについて議論してきた。二つを合わせると短く「minimaxes」だった。
 前者は、レフが科学的仕事のできる収容所の別の部署への移動を願い出ることを指した。後者はもっと野心的に、レフの判決の短縮を、あるいは釈放をすら、獲得するよう訴えることを指した。
 スヴェータは最初から楽観的だった。
 彼女は、1946年8月28日にこう書き送った。
 「二つともに完全に可能です。
 スターリン賞を貰ったTupolev やRamzin 〔注ー下記〕のことを知っているでしょう。十分には知られていない、他の例も多数あります。」
 (原書注記ーAndrey Tupolev(1888〜1972)、ソ連の航空機設計家。1937年に逮捕され、受刑者としてNKVDの秘密の調査発展研究所で働いた。1943年にスターリン賞を授与された。Leonid Ramzin(1887〜1948)、ソ連の暖房技師。1930年~1936年は収容所の受刑者で、やはり1943年にスターリン賞を得た。)
 MDV が労働収容所にいる科学者を見つけ、ソヴィエト経済の専門家部門へと、とくに収容所の統制下にある軍事研究施設へと再任用する政策を採用していたのは、本当だった。
 問題は、収容所の幹部たちが通常は輩下の科学者を釈放する気がないことだった。発電所、生産実験所、照明の仕組み等々を彼らに依存していたからだ。
 レフは、すでに電気グループへの配転によって得た以上のものを達成できる希望がある、とは考えていなかった。
 「最大限」については、全く望みをもたなかった。
 スヴェータにこう書いた。「最大限を願い出することで、きみの活動力を無駄に費やさないで欲しい」。
 しかし、彼女は二つともに追求し続けた。
 12月にこう書き送った。
 「あなたには自信がない。私にも大した自信はない。たぶん、あなたと変わりはない。
 でもレフ、少しでも可能性があるなら、試してみる価値があるのではない?
 何も得られなくとも、不必要な苦しみが今以上に増えるのではないと思う。
 だから、我々は冷静で、希望に惑わされないでいる必要がある。—でも、行動です。
 何もしないで自然に生まれるものは、何一つありません。」
 (26) レフは1947年2月頃には、どんな訴えを考えても遅すぎる、と結論づけていた。
 物理研究所での科学研究は「学生の作業」のようなもので、移転を何ら保証するものではない、と思った。Strelkovを通じて誰かが収容所の科学行事でペチョラを訪れる予定があることを知れば、その人に頼んでみる、とスヴェータに約束したけれども。
 判決に対する異議は、フランクフルト〔an der Oder〕の軍事法廷によるレフの調査を再検討することを意味するだろう。
 全てはもう確定してしまっていると思っていたので、自分の経験を繰り返す意味を認めなかった。また、自分の状況をいっそう悪くさせる必要もなかった。
 レフは、5月1日の長い率直な手紙で、「最小限」や「最大限」について語り合うのはもうやめようとした。
 「異議が成功する可能性が少しでもあるためには目撃証人が必要で、そんな証人は決して召喚されないだろうから、最大限については考えていません。証人を何とかして発見するのも困難でしょう。
 証言の時間と…評決の発表の間に、新しいウソが突如として作られないだろうとは、確信を持っては言えません。
 人は二度目には経験を積んでいる、というのは本当です。…でも、成功の可能性はなおも微々たるものです。
 全ての行為は、少なくとも二つの異なる動機にもとづきます。—「善意」、これは自然な説明です。「悪意」、これは共謀的な考え方をして「汚いこと」を隠蔽します。
 最大の問題は、僕に有利な事実の多くに目撃証言者がいない、ということです。そして、誰も僕を信じようとしません。
 紳士的な教授(訴追官)は、自分たちの前に来る者が、愛国心や普遍的良識への忠誠心のような真摯な動機をもつことはあり得ない、と確信しています。…
 「最小限」については、核と宇宙の研究の軍事上の秘密の重要性によって、58条1bによって有罪とされてこの地域で労働している者には、とくに特別に殊れた者以外の者には、いかなる可能性も排除されています。
 労働収容所で過ごした者は、Yakutia、Komi、Kolyma や若干のその他を例外として、遠く離れた地方の町ですら大きな経済・産業の中心で働くことは許されていません。この事実は、当局がこの政治的条項を、まだ緩やかな条項であっても、どのように見なしているかを、十分に示すものです。
 どの宣誓証言者も、受刑者のための人物であっても、こうした条項を無視することはできません。
 この二ヶ月以内に、『Tukhachevsky 時代』(1937年)に有罪とされた、ここの誰かが釈放されるでしょう。
 その人物は共産主義青年同盟中央委員会の元委員で、軍用機操縦者、純粋な狂熱者です。そして彼は、ここに残っています。
 彼はここで馬具製作者として働き、この木材工場はまるで自分のものであるかのごとく、収容所の全ての問題に関係していました。…
 彼は一度ならず、我々が作業場で必要とする革のひもを購入するために、自分のパンを売り、タバコを拒否しました。
 そして、彼が行なったことに誰も感謝しておらず、あるいは、彼が釈放されて生活するのが許される場所が決定されたときに、それを思い出しました。
 きみは、きみの判決の刑期を変えることができない。」
 (27) スヴェータはレフの論理を受容する気がなかった。
 6月8日に、こう書き送った。
 「どう言えばよいか、分からない。
 あなたと議論することはできない。なぜなら、あなたがが書いていることは全て本当であること、この不快な真実があなたの状況の99.99パーセントを占めていること、残っているのはほんの僅かの偶然にすぎないだろうこと、を知っているから。
 でも、可能性は存在している。このこともまた、事実です。
 あなたは、心を失望でいっぱいにしないで、やはり努力し続ける方へと向かって欲しい。
 言うのは行うよりも簡単だ、と分かっている。
 あなたの立場に私がいたら、耐えられないでしょう。だから、迫ったり、強く主張したりはしません。ただあなたを、優しく説得しようとしているのです。
 試しつづけることで、事態がもっと悪くなることはあり得ますか?
 そうでないなら、リョーヴァ(Lyova)、たぶんだけど、これまでやって来たことに、あなたはもう一度耐える気持ちになりはしない?」
 スヴェータが選んだのは「最大限」への望みを持ち続けることであり、「最小限」のために積極的に請願することだった。—この方針は、FIANの理事長の支持も得た。この人物は、レフのために文書を書くと約束した。
 彼女はレフに、こうも書いた。
 「私はたぶん間違っている。
 でも、希望や夢なしで生きるよりもこれらを持って生きることの方が易しいというのが、この5年間にあったことではなかったの?」
 (28) しかし、レフには最終的な言葉があった。6月28日に、こう書き送った。
 「ちなみにかつて、Kharakov 研究所出身の化学者で、直流電気技師が職業だったBoris German について書きました。
 この人は、その専門能力で雇用して欲しいと頼んだ。
 ほどなく収容所側は彼を、一時(transit)収容所へと呼んだ(我々と遠くなく、ペチョラ駅に近い)。
 彼はそこで数週間を座ったままで塩漬けにされたあと、「間違って」Vorkuta へと移送された。
 ふつうの仕事(北極圏の炭鉱)の数週間後に、彼は一時収容所に戻った。そこからもう一度「間違って」Khalmer-Yu(北極洋岸の鉄道建設収容所)へと移送された。そこは、電気技師の気配などどこにもない場所だった。
 彼は、どの移送車両でも、慣行に従って持ち物を強引に奪われた。そして、最後に彼は一時収容所で知人に見かけられたけれども、その知人には彼は、肉体的には以前の彼の半分の人間だと思えた。
 いま彼がどこにいるのか、誰も知らない。
 彼は、できるだけ早く手紙を書くと約束したけれど、今まで誰も、彼から何も受け取っていない。
 Anisimov の友人でKuzmich という名の人は、同じような運命に遭ったように思われます。
 その人も「特別の任務」のために呼び出され、その後に消え失せました。
 こんなことは日常茶飯事で、「そうなる」(完全な消耗の最後の段階に進む)最も迅速な方法はきみの専門能力でもって仕事ができるよう移送を頼むことだ、と古い収監者たちは言います。
 これを聞いて、僕は、思わず楽観的に書いた「収容所・内務省(MDV)」あての願い出文書をすっかり破り棄てました。…
 よし、これで終わりにします。」
 (29) レフは木材工場にとどまる他はないと観念して、スヴェータは、どんな「最大限」や「最小限」よりもはるかに大胆なことをする計画を立て始めた。
 すなわち、ペチョラでレフと逢うために秘密の旅をすること。
 ——
 第5章③、終わり。第6章へとつづく。

2294/レフとスヴェトラーナ19—第5章②。

 レフとスヴェトラーナ、No.19。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。原書、p.98-p.105。
 ——
 第5章②。
 (12) レフや他の収監者のために木材工場の内外に密かに手紙を出し入れする自由労働者が、他にも数人いた。
 一人は、Aleksandr Aleksandrovsky だった。食糧供給部に勤務していた、灰色の毛髪の50歳代半ばの人物で、1892年に、Voronezh の近傍で生まれた。
 Aleksandr は第一次大戦を戦い、ロシアの内戦時に赤軍に入隊した。
 1937年、彼は内戦の英雄のTukhachevsky元帥による弾圧に反対して公衆の面前で演説した後で、逮捕された。
 ペチョラでの5年の判決に服したあと、釈放後も、年下の妻のMaria とともに自由労働者としてとどまった。Maria は、戦争中にカリーニンの町からペチョラに避難していた。
 彼女は、ソヴィエト通りにある電話交換所で働いていた。
 二人は二人の小さい息子たちと一緒に川そばの待避壕に住んでいたが、1946年に、工業地帯の中にある住居地区へと移った。
 その家屋は、内部はきわめて窮屈だった。
 壁は、ベニヤ板でできていた。
 小さな(上水道なしの)台所があり、二つの小さな部屋があったが、シングル・ベッドは一つだつた。
 男の子たちは、床で寝た。
 家屋の裏には庭があり、そこで彼らは何羽かのニワトリと一頭の豚を飼った。
 (13)  Aleksandr とMaria は、Strelkov の親しい友人だった。
 二人はしばしば、彼と電気グループの彼の門下生たちを、家でもてなした。
 二人は政治的収監者たちに同情し、彼らを助け、支えることのできる全てのことを行なった。
 Maria は、電話交換所で当局の会話に耳を傾けた。そして、計画されている移送やその他の制裁について収監者たちに警告を発することができた。
 二人はどちらも、収監者たちのために手紙類を送り、受け取った。
 子息のIgol は、「父は、シャツの中に手紙類を隠し、それらを刑務所地帯の内外へと出し入れしたものだ」と、思い出す。Igol は、切手を収集するのが好きだった。
 (レフはスヴェータと叔母たちに、「ここには熱心な切手収集者がいる」ので、違う種類の「面白い切手」を送ってくれるよう頼んだ。)
 Igol はつづける。
 「父は工業地帯のための通行証を持っており、一度も探索されなかった。
 誰も恐れていなかった。父はよく言っていたものだ。『私を処罰しようとさせてみろ!! 』」
 (14) Stanislav Yakhovich は木材工場の機械操作者で、収監者のための手紙密送に関与したもう一人の自発的労働者(voluntary worker)だった。
 レフはこの人物に発電施設で初めて会い、ほとんど取っ組み合いの喧嘩になった。 
 Yakhovich がレフのさらの手袋を取り去り、泥と油脂を付けて返した。
 これはレフが発電施設に来て最初の週に起きたことで、レフは、自分はこき使われるような人間ではないと示したくなった。
 レフは軍隊にいたことがあり、剛強だった。
 彼は、自分が生き延びたのは自分を防御する能力があったからだと思っていた。
 それでレフはYakhovich に跳びかかり、もう一度手袋を取っていけば「顔を強く殴るぞ」と威嚇した。 
 Yakhovich は何も言わず、微笑んでいた。
 彼はレフよりもかなり大きかったが、その喧嘩ごしの言葉にもかかわらず、レフは乱暴な人物ではないと理解することができた。
 二人は、互いに友人になった。
 (15) Yakhovich はLodz〔ウッジ〕出身のポーランド人で、微かな訛りのあるロシア語を話した。
 彼は工業学校を卒業しており、Orel 出身のロシア人と結婚し、二人の子どもがいた。息子は1927年生まれ、娘は1935年生まれだった。
 1937年まで、機械操作者として働いたが、その年に逮捕された。それはほとんど確実に、ポーランド出自が理由だった(彼を「ポーランド民族主義者」とするので十分だった)。
 Yakhovich は、ペチョラ労働収容所での8年の判決に服し、1945年の釈放の後もとどまった。そして今は、工業地帯の鉄条網の垣根のすぐそばの工場通りにある粗末な家屋の一つの中の一部屋で、もう一人のかつての収監者であるLiuskaという名の女性と一緒に生活していた。
 (16) ペチョラで長く過ごしていたので、Yakhovich は、収監者たちに深い同情の気持ちをもち、彼らを助けるために、できることなら何でもした。—使い走り、食糧提供、手紙配達。自分自身にとって大きな危険となるものだったが。
 自分のように妻と離れさせられた収監者には、特別の感情をもった。
 彼は1947年にOrel へと旅をして、妻と娘にペチョラに来て一緒に生活しようと説得したものだ。
 (17) あるとき、レフはYakhovich に、一束のスヴェータの手紙類を渡した。それは、営舎の厚板の床の下に保蔵していたものだった。
 レフはYakhovich に、モスクワまで運んでくれる者が見つかるまでそれを預かって欲しいと頼んだ。モスクワにはスヴェータがいて、彼女が回収する。
 収容所による検印が捺されていないためにその手紙類は非合法で、監視員の探索で発見されれば、没収され、廃棄されただろう。
 レフは分離地区へと入れられて制裁を受けるか、第三コロニー〔植民地域〕へと移送されるだろう。第三コロニーの生活条件はぞっとするようなもので、規則にもう一度違反すれば、懲罰警護車両で送られた。
 Yakhovich は手紙類の束をきつく詰めて上着の内部に隠し、収容所を出る途中にある主要監視小屋へと向かった。
 しかし、監視員は上着のふくらみに気づいた。
 監視員はYakhovich を止めて、それは何かと訊ねた。 
 Yakhovich は答えた。「何て?、これ? ただの紙だよ」。
 監視員は「見せろ」と言った。 
 Yakhovich は、手紙類の束を取り出した。
 監視員は「いや、手紙じゃないか」と言った。 
 Yakhovich は言った。「そうだ。それで何か(so what)?」
 「誰かがこれを投げ捨てた。それで、私はこれを掴んでトイレ区画へ行って、紙として使うつもりなんだ」。
 監視員は手で合図して、通過させた。
 (18) 密送者のネットワークが大きくなるにつれて、レフは、検閲を避ける自信をいっそうもち、ますます率直に手紙を書き始めた。
 この新しいやり方で彼が書いた最初の問題は、数ヶ月間悩んでいた事案に関係していた。すなわち、Strelkov に対する確執で、これは、収容所での人間の性質の暗い側面を晒け出すものだった。
 鉱山技師としての専門的能力によって、Strelkov は実験室の長としての高い地位を得た。実験室で木材工場での生産方法を試験し、制御した。
 他の誰も、彼の仕事をすることができなかった。
 しかし、自分の道を進む彼の「頑固な粘り強さ」(レフの言葉)によって、収容所幹部の何人かが彼から遠ざかった。彼らは、自分たちが生産計画を達成する圧力をかけられているときに、たんなる一収監者によって可能なこと、または不可能なことを告げられることが不愉快だった。
 1943年、Strelkov は、ペチョラ鉄道森林部の副部長だったAnatoly Shekhter と衝突した。Strelkov は、技術基準に適合していない資材を使って建設することを止めさせた。
 この問題はついには収容所当局の最上部にまで達したが、Strelkov が支持された。
 しかし、Shekhter はこの事件を忘れず、それ以来ずっと、Strelkov が行なった全てについて落ち度を見出そうとして、迫害した。
 (19) 1946年12月、Shekhter は作業を監察するために木材工場で数週間を過ごした。
 乾燥室の長—Gibash という名の収監者で、レフによると「嘘つきでペテン師」だとみんなが知っていた—は、自分の経歴のためにこの機会を利用しようとし、悪意をもってStrelkov を非難し咎める文書を書いた。それによると、実際には乾燥しているのに乾燥していないという理由で、作業のために材木を提供することを、Strelkov は拒んでいる。 
 Gibash は検査を求めて近傍の実験所に材木の見本を送り、その実験室は乾燥していると認定した。送る前に彼が自分で乾燥させた、と広く疑われたけれども。 
 Strelkov は、この非難—大テロル時代の用語法では、彼は乾燥した材木の供出を破滅的に遅延させて、工場の計画を破壊した、という非難—にもとづいて解任され、「怠慢(sabotage)」の罪を問われて、MDVの前に引っ張りだされた。 
 Strelkov は技術統制部に対して異議を申し立て、多数の材木標本が試験され、その結果として、自分の地位を回復した。
 しかし、Gibash は、別の訴追原因を見つけた。そしてこの事件は1947年の初めの数週にまで引き摺られた。
 この当時、レフはスヴェータにこう書き送った。
 「これについて、書きたくはありません。とても悲しいことです。でも、これを分ち合えるただ一人はきみです。…
 いったい何が、同じような地位にいる他人の破滅を望ませるのでしょうか? 
 Gibash は絶対に人間ではない。彼はとっくに、そのような言明をする権利を失っている。…
 この長い期間ずっと、僕はStrelkov の平静さと自己抑制を本当に尊敬していた。
 ときどき僕は、彼の妻か娘さんに手紙を出して、彼女らには何と素晴らしい人がいるのかと語りたくなる。
 もちろん、そんなことは馬鹿げている。彼女たちは誰よりもそれを知っている。だから、無分別なくしてそんなことをやり遂げないだろう。
 でも、僕はやはりそうしてしまうのではないか、と怖れています。 
 Strelkov の娘さんは、鉄道技術モスクワ国立大学の学生で、その夫、赤ん坊の子息、母親と一緒にプラウダ通りに住んでいます。
 当局はStrelkov に関して何かをするでしょう。でもゆっくりすぎて、誰に有利に決定するのかを知っているのは神だけです。
 最も理想的な人々がときには、最も暗い道へと入り込むのを強いられます。—僕は全く懐疑的になって、過去だけを信頼しています。」
 良い知らせが1月28日にやって来た。ペチョラ収容所管理機関がAbezで、Strelkov を復職させる決定を下したのだ。
 数週間後、Gibash は、さらに北方にある石炭地域であるVolkuta へと送られた。
 (20) Strelkov 事件は、レフの心の内部に何かを解き放った。
 彼はスヴェータに、より率直に収容所の生活条件について考えていることを書き記し始めた。
 レフを最も動揺させたのは、収容所システムがほとんど全員に対して最悪のものを生じさせた、そのあり様だつた。小さな対立関係や敵愾心が、窮屈な生活条件と生き残ろうとする闘いによって増幅した。
 悪意がわだかまり、容易に暴力へと転化した。
 レフは3月1日に、こう書き送った。
 「僕の大切なスヴェータ、事態の全てについて語る必要がある。
 スヴェータ、きみを愉しませるものを多くはもっていない。たぶん、これを決して書くべきではないのだろう。
 きみはかつて、不快な文章をお終いにするのは必ずしも良くはなく、その必要もない、と言った。
 でも、書き始めたので、書いて終えてしまう必要がある。
 耐えるのが最も困難なのは決して物質的な苦難ではない、ということが分かりますか?
 二つの別のことだ。—外部の世界と接触できないということと、僕たちの個人的な状況の変化は、いつでも予期せぬかたちで生じ得るということ。
 明日何が起きるのか、僕たちには分からない。一時間後のことについてすら。
 きみの公的な地位は変化し得る。あるいは、いつの瞬間にでもどこか別の場所に、ほんの些細な理由でもって、送られるということがあり得る。ときには、何の理由も全く存在しないかもしれない。 
 Strelkov 、Sinkevich(この人は今日去った)、そして多数の他の者たちに起こったことが、このことの証拠だ。
 ふつうの生活では全てのことが誇張されるのだから、これは興味深い(悲劇的な意味で)。
 人間の欠点や弱所と人々の諸行為の結果は、莫大な重みをもつ。
 もちろん美点もある。でも、それはふつうの状況では始めるのに大きな役割を果たさないのだから、ここでは美点ははるかに稀少になって、消失し始めるほどだ。
 悪意は敵愾心に変わり、敵愾心は激しい憎悪のかたちをとる。そして、慈悲深さは無意味なものになり、ひいては何らかの罪へと導く。
 ぶっきらぼうが侮辱となり、疑念は中傷となり、金銭横領は強盗になる。義憤は憤激となり、ときには殺人にまで至る。
 どんな少しでも明確な活動であれ、利己的な視点と世間的な視点のいずれからも、不適切かつ不必要なものになる。
 人が望むことのできる最大のものは、全く退屈な何かだ。辺鄙な片田舎の劇場の案内係の職務のような。その仕事は、個人的生活のために一日あたり少なくとも16時間をきみに残し、少しばかりの金銭も与える。…
 ああ、スヴェータ、今日はとても日射しの好い日なので、僕が書いた馬鹿げたことなど全て、誰の役にも立たない。」
 (21) 「どこか別の場所に移送されること」、これがレフの大きな恐怖だった。
 これは、条件がもっと悪い別の収容所または森林植民地区へと出発する懲罰車両によるものを意味した。
 レフは、「物質的苦難」ではなく、「外部の世界との接触」ができなくなることを怖れた。後者は、スヴェータを意味した。
 警護車両では、監視員は必ず彼の物(「全てが消失する。—印刷物、文書資料、手紙、写真」と彼は彼女に説明した)を奪う。そして、彼は何も書くことができない場所で最後を迎えるかもしれなかった。
 これは、スヴェータが恐れたことでもあった。—いつどの瞬間にでも、レフが消えるかもしれない。そうなれば、彼女はレフと接触できなくなる。
 毎月、木材工場を出発する警護車両があった。
 収容所運営者はその車両を、特定の収監者たちを懲罰し、危険だと判断した集団を破壊するために用いた。
 ある収監者が車両移送へと選抜されるか否かは、通常は恣意的に決定された。また、しばしば監視員または管理員がその者を嫌ったことによるにすぎなかった。
 (22)  病気になること、これがレフのもう一つの恐怖だった。
 他の収容所またはコロニーから収監者たちが到着することは—彼らは「ほとんどつねに体調がはるかに悪く見え、おそろしく不健康だった—、簡単に病気になることがあることを、彼に思い起こさせるのに役立った。
 「栄養障害—衰弱—は、我々の収容所でふつうのことです。
 壊血病もあります。でも、ある程度の対処法と経験があり、夏は緑に覆われますから、相当に御し易い。きみがレモンを齧ってビタミンCを摂れなければ、松葉やいろいろな種類のハーブに十分な量があります。きみは、このことを憶えておく必要がある。
 冬の間は、きみのタブレットをよく服用し、何人かの友人にあげます。
 Anisimov は残りを使い果たしてしまっています。彼は少し壊血病でしたが、今は良くなりました。
 きみのタブレットがどれほど助けになっているか、分かって!! 」
 もしレフが病気になれば、すみやかには回復しそうになかった。かりにもしも、工場の診療所に入ったとしても。
 診療所には一人の医師しかおらず、薬品や食料はほとんどなかった。病気患者用の供給品は、監視員によって決まって盗まれたからだ。
 ——
 第5章②、終わり。

2288/レフとスヴェトラーナ15—第4章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.15。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.79-p.82.
 **
 第4章③。
 (24) レフは、スヴェータの愛をありがたく感じた。救われた、と思った。
 彼には彼女に提供するものがなかった。戻ってくるという希望すらも。だが、彼女は自分自身を与えてくれた。
 自分を待ってくれることに、彼は深く感謝した。収監者である彼を、彼女は全てを投げ打って愛し、待っているのだ。
 しかし、罪と恥の感覚によって悩まされもした。
 彼は、スヴェータに負担をかけたくはなかった。—他の誰にも。
 彼が最初に彼女にではなくオルガ叔母に手紙を書いたのも、それが理由だった。
 また、友人たちや親戚に「連絡する」のを恐れた理由でもあった。
 スヴェータは、これを理解した。
 彼女が彼に言ったように、「侮蔑も誇りも、責められるべきだ」。
 (25) 二人は、レフの謙譲ぶりをめぐって、しばしば論争することになる。
 スヴェータは心を込めて小荷物を作り、彼に送ったが、彼は文句をいうばかりだった。手紙、用紙、ペンと数冊の本だけが欲しい、他には何もいらない、と。そして、自分のために金銭と貴重な時間を無駄にしないでほしいと切願した。
 スヴェータは、それに応じようとはしなかった。
 「小荷物については、やめさせようとはしないで。
 今の私たちには、何らかの満足を得ることのできる唯一の物です(我々の人生には他の全てが必要ですが、どんな愉しみももたらしません)。…
 ママは私に、20番めで送る小包に何を詰めればよいか、訊ねてきました。…
 ここにリストがあります。白シャツ、暖かい靴下、縦縞のズボン、タオルとハンカチ、石鹸、歯磨き、ブラシと櫛、スリッパ、糸とボタン、缶詰食品二缶(1キロまで)、一箱のチョコレート(あなたに書いたように奇妙な包みだけど、ねずみを理由にパパが執拗に加えます)、紙、教科書、鉛筆、ペンとインク、グルコースとアスコルビン酸(知らない人にはビタミンC)—お願いだから、飲んで。」
 レフは、反対しつづけた。
 負担になっているというだけではなく、自分は子どものように無力になつている、と感じた。
 「スヴェータ、きみが従ってくれないから、神または誰かが僕を懲らしめている。
 小荷物で僕を煩わせないでほしい、とすでに書いた。…
 きみから時間と活動力を奪うことの責任の90パーセントは、僕にある。—このことすら、きみは否定するかもしれないが。
 たぶんきみが考えている以上にはるかに大きく、僕の苦悩の種になっている。…
 僕が返礼としてできるだろうことは、絶対に何もない。…
 自分の意思によってではなく30歳になってしまったけれど、本来は僕がしなければならないときに、スプーンで食べさせられている子どものような立場にいる。…
 これほどに苦悶の原因となることは、他にある?
 僕の言葉が激しいことを許してほしい。でも、遠慮なく言っておく必要がある。」
 (26) レフが激しく厳しかったり、遠慮なくずけずけ書いたりすることは稀だった。
 初期の頃の手紙で彼はつねに、収容所での自分の状態について好い印象を与えるように気を配った。
 自己憐憫は、レフの性格ではなかつた。沈着さ(Stoicism)が彼の性格だった。
 彼の主要な不安は自分にではなくスヴェータにあり、自分の収容所での生活状態を詳細に叙述すれば、彼女にどのような影響を与えるか、を懸念していた。
 寒さや空腹については、一度も書かなかった。—反対に、暖かくしていて、十分に食べている、と強調した。そして、しばしば残酷かつ暴力的に収監者たちを処置する監視員については、ほとんど何も書かなかった。
 木材製造工場(wood-combine)の諸資料から明らかになるのは、レフが収容所にいた最初の6ヶ月間に監視員が数人の受刑者たちをランダムに殺戮した、ということだ。—これは、監視員グループが酔っ払って収監者を射殺した、または打ちのめして殺した、という事件だった。
 レフがこうした事件を知らなかったとは、考え難い。—噂は収容所内を駆け巡っていた。
 しかし彼は、手紙でこのことに一度も触れなかった。
 (27) その代わりに彼は、北方の空の美しさについて書いた。美しい空は、刑務所地区から彼が見える最大の気休めであり、彼がいま見ることのできるただ一つの世界だった。
 「ここの秋は、美しい。
 空は晴れていて、日射しは暖かい。最初の寒さが続く朝の新鮮さで、静穏さが生まれ、元気づけられます。
 北方の太陽は、もう星たちと闘っています。
 輝く光の幕は、まるで青、赤、緑の探索灯の光線と一緒になって織り合わされているがごとく見え、空に朧げに浮かんでいて、いつも変化していて、素晴らしく、そして魅力的です。
 それは人間の幸福の、光と静寂の象徴です。まだ達することのできない未来についての、つねにある夢です。—神に感謝。」
 (28) レフは、自分たちが失っている時間について嘆いた。
 「スヴェータ、きみに手紙を書くとき、ときどき—」と、18番めの手紙を書き始めた。
 「僕は、自分の周りの収容所の仲間たちを見入る。過去とはとても異なる環境と条件のもとで、みんな生きている。
 彼らの精神的な見かけは、認識できないほどに変わった。
 これは老化、人が年を取るにつれて経験しなければならない変化、の問題ではない。年を取らないことの方が悪いだろう。
 きみはかつて(正確には忘れてしまったけれど、きみは『原理』か『熱力学』(Thermodynamics)を持ってテーブルに座っていた。でも、夕方のことで、テーブル・ランプが鳴り続けていて、僕はピアノのそばに立っていた、と憶えている)、全く正しく、時間とともに変化しなければ、人は人格者になることができない、と言った。
 スヴェトラーナ、きみが語ったことについて、僕は何も言うことができない。
 毎日きみに会うと、きみがかつてどうであり今どうしているかを僕は知っていると言える? …。そして、きみの髪の毛に灰色が混じっていくのを悲しむだろうけれども、きみの眼の角に加わるもの全てが僕を苦しめるだろうけれども、こうしたことは起こらなければならない、ときみに言える?
 こうしたことが起こったときでも、僕がきみについて感じていることが変わることはないだろう、何かが—きみのもの以外の何かが—きみに加えるだけだろう、と言う?
 これが老年と呼ばれるものならば、本当に意味があることだろうか?
 きみは僕の世界だったし、これからもそうだろう。そして、きみがどうであろうと、僕にとってのきみは、僕のスヴェトであり、僕の光だ。」
 スヴェータは同意した。「時間は過ぎていき、人は変化している。これは正しい」。
 「でも、人々は本当に悪い方に向かって変化しているの?」
 「レフ、私には分からない。年を取ることには好い面があるように私には思える。
 年齢と時間の経過の問題は、17歳から19歳にかけて、私を最も苦しませました。
 当時、人生の半分にいるように思えた。最良の半分がもう過ぎてしまったと思えた。
 でも、あなたと知り合って、私の年齢のことをもう二度と考えませんでした。
 私の人生は良いもので、良いままで続くか、大きくは変わらないだろうと思っていました。
 私はこの5年間でたぶん年老いた。自分では判断できないけれど。でも少なくとも、私は老人(old)にはなっていません(年齢を重ねることと老人になることは別のことです)。
 年齢のことに少しでも関心をもつとしたら、陳腐なレベルにある、全くの物理的な(physical)問題です。
 若さを維持したいし、かつてのように美しくありたい。—あなたへの贈り物として。」
 (29) レフは、その間に、彼女の「毛髪が灰色になっていく」のを見るという希望が実現するまでに、彼に残された判決履行期間は3360日ある、と彼女に教えつづけた。〔秋月注—レフは10年の判決を受けている。〕
 彼はスヴェータに手紙を出して、十分に用心深く、収容所内部の主な出来事について記した。
 最初の秋の大きな報せは、彼の木材製造所の乾燥部隊から発電施設への配置換えだった。
 電気技師としての訓練を受けておらず、経験もなかったが、彼には科学的素養があったので、何ともなく高圧の電気ケーブルについて仕事をすることができた。
 労働収容所には技術者がほとんどおらず、管理当局は、そのような危険な仕事をさせる受刑者たちの安全に対する配慮をほとんどしてこなかった。
 彼は、9月2日に、「僕はついに何とか、もっと好ましい仕事1へと移りました」と知らせた。
 「僕は、調整者として、電気グループへと配転されました。
 この仕事は好きで、人々もより善良です。仕事は肉体的にはよりつらくなりましたが。
 愉しみつつ働いていて、週の何曜日かすら意識していません。
 今日は9月2日。月曜だっけ?
 今までは電話所でと、少し工場の電気施設で働いただけなので、もっと勉強しなければならないでしょう。今は架空ケーブルで働いています。
 電気施設についての手引書か電気技師についての何らかの教科書を見つけたら、送って下さい。」
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 第4章③、終わり。

2169/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節⑥-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき、最終回。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義⑥。
 (51)1957年2月、毛沢東は、「人民間の矛盾について」と題する講演を行った。これは、毛が理論家だと評価される根拠になっているもう一つの主要な文章だ。
 この中で彼は、こう宣言する。我々は慎重に、人民内部での矛盾と人民とその敵の間の矛盾を区別しなければならない。
 後者は独裁によって、前者は民主集中制によって、解消される。
 「人民」の間に自由と民主主義が広がっても、「この自由は指導者の付いた自由であり、この民主主義は中央集権化した指導のもとでの民主主義であって、アナーキーではない。<中略>
 自由と民主主義を要求する者たちは、民主主義を手段ではなく目的だと見なす。
 民主主義はときには目的のように思われるが、実際には一つの手段にすぎない。
 マルクス主義が我々に教えるのは、民主主義は上部構造の一部であって、政治の範疇に属する、ということだ。
 ということはすなわち、結論的分析では、民主主義は経済的基盤に奉仕する。
 同じことは、自由についても言える」(<哲学に関する四考>, p.84-p.86)。
 このことから抽出される主要な実践的結論は、人民内部の矛盾は教育と行政的手法の巧みな連係で処理されなければならず、他方で人民と敵の間の矛盾は独裁によって、つまり実力(force)によって解消されなければならない、ということだ。
 しかしながら、毛沢東が別の箇所で示唆するように、人民内部の「非敵対的」矛盾は、正しくない考えをもつその構成員が自分の誤りを受け入れるのを拒むならば、いつか敵対的矛盾に転化するかもしれない。
 このことが最も分かるのは、毛のつぎのような党員たちに対する警告だ。すなわち、党員たちが速やかに真実を承認するならば、その彼らは容赦されるだろう、しかしそうしなければ、その彼らは階級敵だと宣告され、そのようなものとして処置されるだろう。
 人民内部の見解の対立に関して毛は、正しさと過ちを区別するための6つの標識を列挙する(同上、p.119-120)。
 人民を対立させるのではなく団結させるならば、そうした見解や行動は正しい。
 社会主義の建築に有益であり、有害でなければ、同様。
 人民の民主主義的独裁制を強固にし、弱体化させないならば、同様。
 民主集中制を強化するのを助けるならば、同様。
 共産党の指導的役割を支援するのを助けるならば、同様。
 国際的な社会主義者の団結と世界の平和愛好人民の団結にとつて有益であるならば、同様。//
 (52)民主主義、自由、中央集権制および党の指導的役割に関するこれら全ての言辞には、レーニン=スターリン主義正統派と矛盾するところは何もない。
 しかしながら、実際には差異があるように見える。
 この差異は、こうだ。中国では「大衆」が支配しているとの多数の西側毛沢東熱狂者たちが想像するような意味でではない。そうではなく、中国の党はソヴィエトの指導者たちよりも多く、命じるためのイデオロギー操作の方法を知っていたがゆえに、政府は協議にもとづくという雰囲気をより醸し出している、という意味でだ。
 これは、権威が疑われない革命の父が長期間にわたって存在し続けたことや、中国が圧倒的に農村社会だったことによった。後者は、農民指導者は彼らの領主でもなければならないとマルクスが言ったことを確認している。
 古い文化を代表する階級が実際に破壊され、また情報の流通路がソヴィエト同盟以上にすら厳格に規制されている状況では(毛沢東が述べた「正しい思想の中央集権化」だ)、中央政府の権力を侵犯することなく、地方的な政治や生産に関する多数の問題は正規の政府機構によってではなく地方の諸委員会によって解決することができる。//
 (53)「平等主義」は、たしかに毛イデオロギーの最も重要な特徴の一つだ。
 既述のように、平等主義の基礎は、賃金の差異を排除する方針や全員が一定の量の身体労働をしなければならないという原理にある(指導者と主要なイデオロギストたちは、この要求対象から除外されたと見えるけれども)。
 しかしながら、このことは、政治的な意味での平等に向かういかなる趨勢を示すものではなかった。
 今日では、情報を入手できることは基本的な資産であり、統治に関与するための<必須条件(sine qua non)>だ。
 そして、中国の民衆はこの点で、ソヴィエト同盟の民衆と比べてすら、大切なものを剥奪されている。
 中国では、全てが秘密だ。
 実際には、いかなる統計も公的には利用できない。
 党中央委員会や国家行政機関の諸会議は、しばしば完全に秘密裡に行われる。
 「大衆」が経済を統制するという考えは、上層部以外の誰も経済計画がどうなっているかすら知らない国では、西側にいる毛主義者たちの、最も途方もないお伽噺(fantasy)の一つだ。
 市民が公的情報源から収集することのできる外国に関する情報は最小限度のもので、市民の文化的孤立は完全だった。
 中国共産主義に対する最も熱狂的な観察者の一人であるエドガー・スノウは、1970年に訪中した後で、公衆が入手できる書物は教科書と毛沢東の本だけだ、と報告した。
 中国の市民たちはグループを組んで劇場に行くことができた(個人用チケットは実際に販売されなかった)。また、外部の世界についてほとんど何も教えてくれない新聞を読むことができた。
 他方で、スノウが注目したように、彼らには西側の読者は慣れ親しんでいる殺人、ドラッグ、性的倒錯に関する物語は与えられなかった。//
 (54)宗教生活は、実際には破壊された。
 宗教的礼拝に用いる物品の販売は、公式に禁止された。
 中国人は、一般選挙や警察機構から独立した公的な訴追部署のような、ソヴィエト同盟には残っていた民主主義的表装の多数の要素を、なしで済ませた。ソヴィエトの公的訴追部署は実際には、「正義」と抑圧の両方の執行者だったのだが。
 直接的な実力による強制の程度は、知られていない。
 強制収容所の収容者数について、粗い推測をする者すら存在しない。
 (ソヴィエト同盟ではより多く知られている。これはスターリンの死以降の一定の緩和の効果だ。)
 専門家たちが議論をすることが困難であるのは、中国の人口は大まかに4~5億人と見積もられているという事実からも明らかだ。//
 (55)中国以外に対する毛主義のイデオロギー的影響には、主に二つの起源がある。
 第一に、ソヴィエト同盟との分裂以降、中国の指導者は世界を「社会主義」国と「資本主義」国ではなく、貧しい国と豊かな国に分けた。
 ソヴィエト同盟は、上の前者の一つと位置づけられ、さらには毛沢東によると、ブルジョアが復活しているのが見られる。
 林彪は、「農村地帯による都市部の包囲」に関する赤色中国の古いスローガンを国際的規模で適用しようとした。
 中国の例はたしかに、第三世界諸国にとって明らかに魅力のあるものだ。
 共産主義の成果はっきりしている。すなわち、共産主義は中国を外国の影響力から解放し、多大な対価を払いつつ、技術的および社会的な近代化の途上へと中国を乗せた。
 社会生活全領域の国有化は、他の全体主義諸国でのように、人類を、とくに後進農業国家を汚染した主要な疫病のいくつかを廃棄するか、または軽減させた。疫病とはつまり、失業、地域的な飢餓や大規模な貧困状態。
 中国型の共産主義の模倣が実際に成功するか否かは、例えばアフリカ諸国でのその問題は、本書の射程を超えるものだ。//
 (56)毛主義の、とくに1960年代の、イデオロギー的影響力の第二の淵源は、ある程度の西側の知識人や学生たちが中国共産主義を表装とするユートピア的お伽噺を受容した、ということだ。
 毛主義はその当時に、人間の全ての問題を普遍的に解決するものとして自らを描こうと努めた。
 多様な左翼的なセクトと人々は、毛主義は産業社会の厄害を完全に治癒するものだと、そしてアメリカ合衆国と西ヨーロッパは毛主義の諸原理にもとづいて革命を起こすべきだし、起こすことができると、真面目に信じたように見える。
 ソヴィエト・ロシアのイデオロギー的権威が崩れ落ちていたとき、ユートピア切望者たちは、エキゾティックな東洋に注目した。それはじつに容易に分かるが、中国の事情に完全に無知だったことが理由だ。
 完全な世界と崇高で全包括的な革命を追い求める者たちにとって、中国は、新しい天の配剤のメッカとなり、革命的戦いの最後の大きな望みとなった。-中国がソヴィエトの「平和共存」という定式を拒絶していなかったとすれば、こうではなかった。
 多数の毛沢東主義グループは、中国が大きく革命的信仰心を捨てて政治的対抗者というより「正常な」形態に変化したとき、ひどく失望した。そして、毛主義がヨーロッパまたは北アメリカで現実的な勢力となるのを望むことを明確にやめた。
 西側諸国での毛主義は、既存の諸共産党の地位に顕著な影響を何ら与えなかった、というのは実際のことだ。すなわち、毛主義は何らかの帰結として共産党の分裂を引き起こさず、小さな細片グループがもつ特性にとどまった。
 また、東ヨーロッパでも、アルバニアの特殊な例を除いては、記すに値するほどの成果を生まなかった。
 その結果として、中国は戦術を変換し、イギリス、アメリカ合衆国、ポーランドやコンゴと等価値の独立した救済策だとして毛主義を提示するのをやめて、ロシア帝国主義の仮面を剥ぐことや同盟を追求することに集中した。同盟の追及、あるいは何としてでも、ソヴィエトの膨張を阻止するという共通の利益にもとづいて、影響力を拡大することに。
 実際に、これははるかに見込みがある方向だ、と思える。毛主義のイデオロギーの問題ではなく、露骨に政治的な問題だけれども。
 マルクス主義の用語法はこの政策の追求のためにまだ用いられているが、それは本質的ではなく、装飾的なものだ。//
 (57)マルクス主義の歴史という観点からすると、毛主義イデオロギーが注目に値するのは、毛沢東が何かを「発展させた」のが理由ではなく、かつて歴史的に影響をもつものになったどの教理よりも無限定の融通性をもつことを例証したことが理由だ。
 一方で、マルクス主義は、ロシア帝国主義の道具になった。
 他方で、マルクス主義は、技術的経済的後進性を市場の通常の働き以外の別の手段によって克服しようとする、大国の上部構造にあるイデオロギー的固定物だった(多くの場合は、後進諸国が市場を利用するのは不可能だ)。
 マルクス主義は、強くて高度な軍事国家の推進力となり、近代化という根本教条のために臣民たちを動員すべく、その力とイデオロギー的操作装置が用いられた。
 これまで述べてきたように、たしかに、伝統的マルクス主義には重要な要素があり、それは全体主義的統治の確立を正当化するのに役立った。
 しかし、一つのことだけは、疑い得ない。つまり、マルクスが理解した共産主義は、高度に発展した工業社会の理想であって、工業化の基礎を生み出すために農民を組織する方法ではなかった。
 だが、マルクス主義の痕跡と農民ユートピアや東洋専制体制とを混ぜ合わせたイデオロギーを手段として、その目標は達成することができることが判明した。-このイデオロギーは、<すばらしくこの上ない>マルクス主義だと宣明し、ある程度は有効に作動する混合物だ。//
 (58)中国共産主義への西側称賛者が困惑しているというのは、ほとんど信じ難い。
 アメリカの軍国主義を強く非難する言葉を見出すことのできない知識人たちは、つぎのような社会について狂喜の状態に入っている。子どもたちの軍事教練が第三年から始まり、全ての男子市民は4年または5年の軍事労役を義務づけられる、そのような社会についてだ。
 ヒッピーたちは、休日なしの厳しい労働紀律を導入して、薬物使用は言うまでも性的道徳に関する清教徒的規範を維持する国家に惹かれている。
 ある範囲のキリスト教者の文筆家ですら、そうした制度を高く評価している。中国での宗教は、仮借なく踏みにじられたけれども。
 (毛沢東は後生を信じたように見えるのは、ここではほとんど重要でない。
 1965年、彼はエドガー・スノウに二度、「すぐに神に会うだろう」と述べた(Snow, 同上, p.89, p.219-220)。
 毛は同じことを、1966年の演説で語った(Schram, p.270)。そして、1959年にもまた(同上, p.154)、マルクスと将来に逢うことをユーモラスに語った。)//
 (59)中華人民共和国は、明らかに現代世界のきわめて重要な要素だ。とりわけ、ソヴィエト膨張主義の抑止という観点からして。
 しかしながら、この問題は、マルクス主義の歴史とはほとんど関係がない。
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 第6節、従って第13章はこれで終わり。

2163/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節③-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の最終第6節の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義③。
 (19)毛沢東は、1959年7-8月の廬山(Lushan)党会議で自己批判の演説を行い(そのときはむろん公表されなかった)、「大躍進」が党の敗北だったことを認めた。
 彼は、経済計画について何の考えもなかった、石炭と鉄は自発的に動かないで輸送が必要であるとは考えていなかった、と告白した。
 彼は農村部での鉄精錬政策について責任をとり、国は厄災に向かっている、共産主義を建設するには少なくとも1世紀が必要だろうと見ている、と宣言した。
 しかしながら、指導者たちが誤りから学んだので、「大躍進」は全てが敗北なのではなかった。
 誰もが、マルクスですら、過ちを冒す。その場合に重要なのは、経済だけが考慮されるべきではない、ということだ。//
 (20)1960年には広く知られるようになった中国・ソヴィエト紛争は、とりわけソヴィエト帝国主義を原因とするもので、存在はしたものの共産主義の理想や実現方法に関する考え方の差異によるのではなかった。
 中国共産党は、スターリンへの忠誠を熱意を込めて表明するとともに、東ヨーロッパの「人民民主主義」の立場を受け入れる動向もまた示さなかった。
 論争の直接の原因は、核兵器に関して発生した。これに関して、ロシアは、中国が使用を統制する力をもつという条件のもとでのみ、中国に核兵器を所有させるつもりだった。
 ここで列挙する必要はないその他の論争点の中には、アメリカ合衆国に対するソヴィエトの外交政策および「共存」という原理的考え方があった。
 対立の射程は二つの帝国主義国のものであって、共産主義の二つの範型のものではない。このことは、中国はソヴィエトによる1956年のハンガリー侵攻を留保なく是認したが、-断交後のその20年後には-チェコスロヴァキア侵攻を激しく非難した、という事実で示されている。毛主義の観点からは、ドュプチェク(Dubček)の政策は途方もない「修正主義」で、リベラルな考え方による「プラハの春」はソヴィエト体制よりも明らかに「ブルジョア的」だつたのだけれども。
 のちに中国の二党派間の争論が内戦の間際まで進行したとき、両派はいずれも根本的には、換言すれば中国の利益と主体性の観点からは、同等に反ソヴィエトであることが明らかだった。//
 (21)しかしながら、ソヴィエトとの対立の第一段階で中国が示したのは、イデオロギー上の差異に重点を置いていること、新しい教理上のモデルを創って世界共産主義の指導者としてのソヴィエトを押しのけ、または少なくともモスクワを犠牲にして相当数の支持を獲得するのを望んでいること、だった。 
 ときが経つにつれて、中国は、自分の例に従うのを世界に強いるのではなく、ソヴィエト帝国主義を直接に攻撃することで好ましい結果を達成する、と決定したように見える。
 「イデオロギー闘争」、つまりは中国とソヴィエトの指導者たちの間での公的な見解の交換は、1960年以降に継続した。但しそれは、国際情勢に応じてきわめて頻繁に変化した。
 しかし、その闘いは容易に、第三世界への影響力を求める、対立する帝国間の抗争となった。それぞれの敵国〔であるソヴィエトと中国〕は、いずれかの民主主義諸国との<アド・ホックな>同盟関係を追い求めた。
 中国が採用したマルクス主義は、中国ナショナリズムのイデオロギー的主柱となった。同じことは、従前にソヴィエト・マルクス主義とロシア帝国主義の間にも生じたことだったが。
 かくして二つの大帝国は対立し合い、ともに正統マルクス主義だと主張し、「西側帝国主義国」に対する以上に敵対的になった。
 「マルクス主義」の進展は、中国共産党がアメリカ合衆国政府を、主として反ソヴィエト姿勢が十分でないという理由で攻撃する、という状況をすら発生させた。//
 (22)中国共産党内部の闘争は、1958年以降に秘密裡に進行していた。
 主要な対立点は、ソヴィエト型の共産主義を選ぶか、毛沢東の新しい完全な社会の定式を支持するか、にあった。
 しかしながら、前者は、モスクワの指令に中国を従わせるのを望むという意味での「親ソヴィエト」ではなかった。
 対立にあった特有な点は、つぎのように要約することができる。
 (23)第一に、「保守派」と「急進派」は、軍に関する考え方が違った。すなわち、前者は紀律と最新式の技術をもつ近代的軍隊を要求し、後者はゲリラ戦という伝統を支持した。
 これは1959年の最初の粛清(purge)の原因となり、その犠牲者の中には、軍首脳の彭徳懐(P'eng Te-huai)がいた。
 (24)第二に、「保守派」は多かれ少なかれソヴィエトに倣った収入格差による動機づけを信頼し、都市部と大重工業工場群を重視した。
 これに対して「急進派」は、平等主義(egalitarianism)を主張し、工業と農業の発展に対する大衆の熱狂的意欲を信頼した。//
 (25)第三に、「保守派」は、先進諸国にいずれは対抗することのできる医師や技術者を養成するために、全ての段階の教育制度の技術的専門化を主張した。
 一方で「急進派」は、イデオロギー的教化(indoctrination)の必要を強調し、この教化が成功するならば技術的工夫はいずれは自然について来るだろう、と主張した。//
 (26)「保守派」は、論理的には十分に、ロシアと欧米のいずれかから科学知識と技術を求めるつもりだった。
 一方で「急進派」は、科学や技術の問題は毛沢東の金言(aphorism)を読むことで解決することができる、と主張した。//
 (27)一般的には「保守派」はソヴィエト型の党官僚たちであり、技術的および軍事的な近代化と中国の経済発展に関心があった。また、全ての生活領域についての党機構による厳格で階層的な統制が可能だと考えた。
 「急進派」は、近づいている共産主義千年紀というユートピア的幻想に、相当に嵌まっているように見えた。
 「急進派」は、イデオロギーの万能さと、抑圧のための職業的機構によるのではない、「大衆」による(しかし党の指導のもとでの)直接的な実力行使を、信頼していた。
 地域的基盤について言えば、「保守派」は明らかに北京が中心地であり、「急進派」の中心は上海(Shanghai)にあった。//
 (28)両派はもちろん、1946年以降は揺るぎなかった毛沢東のイデオロギー的権威に訴えた。
 1920年代のソヴィエト同盟では同様に、全ての分派がレーニンの権威を呼び起こした。
 しかしながら、ソヴィエトと異なるのは、中国では革命の父がまだ生きており、その毛が「急進派」グループを支持したどころか、事実上はそれを創出した、ということにあった。その結果として、「急進派」構成員たちは、対抗派よりもイデオロギー的にはよい環境にいた。//
 (29)しかしながら、「急進派」は、全ての点についての有利さを活用しなかった。
 1959-62年の後退の結果として、毛沢東は、党指導者たちの中に強い反対派がいることを認めざるを得なかった。そして、彼の力は相当に限定されていたように思われる。
 実際に、ある範囲の者たちは、毛沢東は1964年以降は現実的な権威たる力を行使していなかった、と考えている。
 しかし、中国の政治の秘密深さのために、このような推測は全て、不確実なものになっている。//
 (30)主要な「保守派」は劉少奇(Liu Shao-ch'i)だった。この人物は、1958年末に毛沢東から国家主席を継承し、1965-66年の「文化革命」で資本主義の魔王だとして告発され、非難された。
 彼は共産主義教育の著作の執筆者で、この書物は別の二冊の小冊子とともに、1939年以降は党の必読文献だった。
 その四半世紀後、このマルクス=レーニン=スターリン=毛主義の誤謬なき発現者は、突如として、儒教(Confucianism)と資本主義に毒された人物に変わった。
 批判者たちの主人によると、劉に対する孔子の有害な影響は主につぎの二つ点に見られる。
 劉少奇は、仮借なき階級闘争ではなく、共産主義的自己完成という理想を強調した。また、共産主義の未来は調和と合致だと叙述した。にもかかわらず、毛沢東の教えによれば、緊張と対立は永遠の自然法則だ。//
 (31)1965年末に党内部で勃発して中国を内戦の縁にまで追い込んだ権力闘争は、かくして、対立する派閥間のみならず、共産主義の見方の間の闘いでもあった。
 「文化革命」は一般には 毛沢東が書いて1965年11月に上海で出版した論文によっで開始された、と考えられている。その論文は、北京副市長の呉晗(Wu Han)が作った戯曲を、毛沢東による彭德怀(P'eng Te-huai)の国防大臣罷免を歴史の寓話を装って攻撃するものだと非難した。
 この論文でもって文化、芸術および教育への「ブルジョア的」影響に反対し、国家の革命的純粋さを回復して資本主義の復活を阻止する、そのような「文化革命」を呼びかける運動が、解き放たれた。
 もちろん「保守派」はこの目標に共鳴したけれども、確立されている秩序や自分たちの地位が攪乱されないように、その目標を解釈しようとした。
 しかしながら、「急進派」は何とか、党書記で北京市長の彭程(P'eng Cheng )の解任と主要な新聞の統制を確保し、獲得した。//
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 ④へとつづく。

2161/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節②-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義②。
 (10)数年後の1942年、毛沢東は支持者たちに宛てて「芸術と文学」に関する文章を書き送った。
 その主要な点は、芸術と文学は社会諸階級に奉仕するもので、全ての芸術が階級によって決定されるのであり、革命家たちは革命の惹起と大衆に奉仕する芸術の様式を実践しなければならない、ということ、また、芸術家と文筆家は大衆の闘争を助けるべく自分たちを精神的に改造しなければならない、ということだった。
 芸術は芸術的に善であるだけではなく、政治的に正しくなければならない。
 「人民大衆を危険にさらす全ての暗黒勢力は暴露されなければならず、大衆の革命的闘争は称賛されなければならない。-これは、全ての革命的芸術家と文筆家の根本的任務だ」(Anne Freemantle 編<毛沢東・著作選集>、1962年, p.260-1)。
 文筆家はいわゆる人間愛の道へと迷い込まないよう警告された。敵対する諸階級に分裂する社会に、そのようなものは存在し得ないからだ。-「人間愛」は、所有階級が発案したスローガンだ。//
 (11)以上が、毛沢東の哲学の要点だ。
 看取できるだろうように、レーニン=スターリン主義のマルクス主義がいう若干の常識を幼稚に繰り返したものだ。
 しかしながら、毛の独創性は、レーニンの戦術的訓示を修正したことにある。
 これは、そして中国共産党の農民指向は、毛と中国共産党の勝利の最も重要な理由だった。
 「プロレタリアートの指導的役割」は、イデオロギー的スローガンとして力を持ったままだったが、革命の過程のあいだずっと、そのスローガンは、農民ゲリラを組織する共産党の指導的役割を意味するにすぎなかった。
 毛沢東は、ロシアとは異なって中国では、革命は地方から都市へと到来する、と強調した。彼は貧農は自然の革命的勢力だと考え、そして-マルクスやレーニンとは反対に-、貧困の程度に比例して社会各層は革命的になる、と明確に言明した。
 彼が堅く信じたのは、農民の革命的潜在能力だった。中国のプロレタリアートはきわめて少数であることだけが理由ではなく、その原理こそが理由だった。
 「農村による都市の包囲」というスローガンは、さかのぼる1930年頃の党指導者、李立三(Li Li-san)のそれと反対だった。
 コミンテルンの指令に従順な当時の「正統な」革命家たちは、ロシアに従った戦略を推進した。その戦略は、工業中心大都市の労働者によるストライキと反乱に重点を置くもので、農民の戦いは補助的だと見なしていた。
 しかしながら、有効だと判明したのは毛の戦術で、のちに彼は、中国革命はスターリンの助言に逆らって勝利した、と強調した。
 1930年代と1940年代のソヴィエトの中国共産党に対する物質的援助は、名目的なものにすぎなかったように見える。
 おそらく-何の直接的証拠もない憶測にすぎないが-、スターリンは、かりに共産党が中国で勝利したとしてもソヴィエト同盟に従属させて5億万の民衆を維持することを長期的には望めない、と認識し、そのゆえに全く合理的に、中国が弱く分裂していて、軍閥による騒乱が支配していることの方を選んだのだろう。
 しかしながら、中国共産党は全ての公式声明でソヴィエト同盟への忠誠さを発表し続けた。1949年にスターリンは、新しい共産党の勝利を歓迎して、手強い隣国を衛星国にすべく最大限に努力せざるを得なかった。//
 (12)中国・ソヴィエト間の対立はイデオロギー上の異なる考えによるのでは全くなく、中国共産党の自主性と、想定されるだろうように、中国革命はロシア帝国主義の利益とは矛盾するものだった、ということによる。
 毛沢東は1940年の「新民主主義について」の論考で、中国革命は「本質的に」農民の要求にもとづく農民革命であり、農民に権力を与えるだろう、と書いた。
 同時に彼は、農民、労働者、中低階層や愛国的ブルジョアジーから成る、日本に対する統一戦線の必要性を強調した。
 彼は、新しい民主主義の文化は、プロレタリアートの、つまりは共産党の指導のもとで発展する、と宣言した。
 要するに、毛の当時の基本政策は、「第一段階の」レーニン主義と類似していた。すなわち、共産党が指導する、プロレタリアートと農民の革命的独裁。
 彼は1949年6月の「人民民主主義独裁について」の演説で、同じことを繰り返した。土地が社会化され、階級が消滅し、「普遍的な兄弟愛」が確保される、そのような「次の段階」について、もっと強く述べたけれども。
 (13)共産党が勝利した後の数年間は、波風の立たない中国・ソヴィエトの友好関係の時期だったように見えた。中国の指導者たちは、兄に対して特段の敬意を払った。しかし、のちに明らかになるように、そのまさに最初の国家間交渉に際して、深刻な軋轢がすでに発生していた。
 当時は、明確に区別される毛主義の教理について語るのは困難だった。
 毛沢東自身がいくつかの場合に指摘せざるを得なかったように、中国には経済の組織化の経験がなく、ゆえにソヴィエト・モデルを模倣した。
 ようやくのちに、このモデルは若干の重要な点で、すでに中国革命に潜んではいたが明確なかたちでは表現されていなかったイデオロギーとは矛盾するものであることが、明らかになるに至った。//
 (14)中国は1949年以降に、いくつかの発展段階を高速で通過した。その各段階には伴ったのは、毛主義の結晶化(crystallization)に向かってのさらなる進展だった。
 1950年代、中国はソヴィエトの進化の過程を、より早い速度でもう一度辿っているように見えた。
 大規模保有の土地は、必要な農民のために分割された。
 私企業は数年間の限定の範囲内で許容されたが、1952年に強い統制のもとに置かれ、1956年に完全に国有化された。
 農業は1955年から集団化された。最初は協同組合の手段によってだったが、すみやかに公的所有の「高度に発展した」形態によることになった。但し、農民たちはまだ、私的区画(plot)を保持することが許された。
 このときに中国共産党は、ロシアに従って、重工業の絶対的優先の考えを維持した。
 第一次経済計画(1953-57年)は、厳格に中央志向の計画を導入し、農業地帯の犠牲のうえに工業化に向かう強い刺激を与えることを意図していた。
 これは、ソヴィエト共産主義のいくつかの特質を採用するものだった。すなわち、官僚制の拡張、都市と地方の間の亀裂の深化、およびきわめて抑圧的な労働法制。
 不可避的に、農民による小規模の土地保有の国では厳格な中央計画は不可能なことだ、ということが明瞭になった。
 しかしながら、そのあとの行政手法の変化は計画の多様な形態の脱中央集権化に限定されておらず、新しい共産党のイデオロギーを表現していた。そのイデオロギーでは、生産目標の達成と近代化は二次的なもので、現実のまたは想定される農業地域の生活の美徳を具現化する、そういう「新しいタイプの人間」を養成することが主に強調された。//
 (15)しばらくの間は、この段階ではある程度は文化的専制が緩和されるようにすら見えた。
 こうした幻想と結びついていたのは、1956年5月に-すなわちソヴィエト同盟第20回大会の後で-党が開始して毛自身が称賛した短期間の「百花」(hundred flowers)運動だった。
 芸術家と学者たちは、自分の考えを自由に交換するよう励まされた。
 全ての流派の思想と芸術様式が、お互いに競い合うものとされた。
 自然科学はとくに、「階級性」がないものと宣言され、他の分野での進歩は、拘束をうけない議論の結果だとされた。
 「百花」運動の教理は、東ヨーロッパの知識人たちに、熱狂をもたらした。彼らは自分たちの国で、脱スターリニズム化の興奮の中にいたのだ。
 多くの人々が短い時期の間、社会主義ブロックの最も遅れた国が経済および技術の観点からしてリベラルな文化政策をもつ英雄国になった、と考えた。
 しかしながら、この幻想は、ほとんど数週間しか続かなかった。中国の知識人があからさまな言葉で大胆に体制を批判したとき、党はただちに、抑圧と威嚇という通常の政策へと転換した。
 こうした事態全体の内部史は、明瞭でない。
 中国のプレスの若干の記事や党総書記の鄧小平(Teng Hsiao-ping)による1957年9月の党中央委員会むけ演説からすると、「百花」のスローガンは、「反党分子」を簡単に解体するために彼らを表面におびき出す策略だった。    
 (鄧小平は、大衆をおじけづかせる例として、雑草が成長するのを待った、と宣告した。
 「百花」知識人たちは根こそぎ引き抜かれて、中国の土壌を肥沃にするために使われたのだろう。)
 しかしながら、共産主義イデオロギーは中国知識人の間に自由な議論を保障することができると、毛沢東は少しの間は本当に考えたのかもしれない。
 かりにそうだったとしても、彼の幻想は、ほとんどただちに、明瞭に払い散らされた。//
 (16)ソヴィエトの範型に倣って工業化するのに中国が失敗したことによっておそらくは、次の段階の政治的およびイデオロギー的変化が惹起される、または予見されることとなった。その変化を、世界の人々は、当惑しつつ観察することになる。
 1958年初頭、毛沢東指導下の党は、5年以内に生産の奇跡を起こすものとする「大躍進」政策を発表した。
 工業生産および農業生産の目標はそれぞれ6倍、2.5倍とされた。これは、スターリンの第一次五カ年計画をすら顔色なからしめるものだった。
 しかしながら、この狂信的目標は、ソヴィエトの方式によってではなく、人民大衆に創造的な熱狂を掻き立てることによって、達成された。それがもとづく原理は、大衆は精神を傾注する何事をも行うことができるのであり、ブルジョアジーが考案した「客観的」障害に妨げられてはならない、というものだった。
 経済の全部門が例外なく劇的な拡張を遂げ、完全な共産主義社会がまさに近づいて来ていた。
 ソヴィエトのコルホーズに倣って組織された農場は、100パーセント集団的基盤をもつ共同体に置き換えられた。
 私的区画は廃止され、可能なところでは共同体的な食事と住居が導入された。
 プレスは、結婚した夫婦が一定の間隔で出席する特別の儀式や、そのあとの当然として次の世代を生むという愛国的義務を履行する特権について、報道した。
 「大躍進」の有名な特質の一つは、小さい村落の多数の溶鉱炉での鉄の精錬だった。//
 (17)少しの間、党指導者たちは統計上の楽園に住んでいた(のちに承認されたように、偽りだった)。しかしやがて、西側の経済学者と中国にいたソヴィエトの助言者が予見したとおりに、プロジェクト全体が大失敗だったことが判明した。
 「大躍進」は、高い蓄積率を原因として、生活水準を厄災的に下落させる結果となった。
 その政策は甚大な浪費をもたらした。そして、余分だと判って自分たちの分野に帰らなければならない、農村部からの労働者で、都市は満ち溢れた。
 1959年から1962年までは、後退と悲惨の時代だった。それは「大躍進」政策の失敗だけではなく、収穫減が災難的だったことやソヴィエト同盟との経済関係の事実上の断絶によってもいた。
 ソヴィエトの技術者たちは突然に帰国し、多数の大プロジェクトは不意に停止状態になった。//
 (18)「大躍進」はつぎのような新しい毛沢東の方針の展開を反映していた。すなわち、農民大衆はイデオロギーの力で何でもすることができる。「個人主義」や「経済主義」(換言すると、生産への物質的な動機づけ)は存在してはならない。熱意は「ブルジョア」の知識や技術に取って換わることができる。
 毛主義イデオロギーはこのときに、より明確なかたちを取り始めた。
 それは、毛沢東の公的声明によって、またより明瞭には、のちに「文化革命」騒ぎの際に暴露された諸発言で、定式化されていた。
 それらのうちある程度の内容は、優れた中国学者のStuart Schram によって英語で公刊された(<生身の毛沢東>、1974年。以下、'Schram' と引用する)。
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 ③へとつづく。

2143/J・グレイの解剖学(2015)⑤-Hobsbawmら04。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳をつづける。この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm 04。
 (13)資本主義のアナーキーな性質に関するマルクスの洞察は、市場ユートピア主義とは対抗して、きわめて適切なものだ。彼の見方は、グローバル化は市場リベラルたちの幻想を鏡に映している、というものだった。
 Hobsbawm の<資本の時代>(1975)と<帝国の時代>(1987)は、思想と権力の間の相互作用に関する深い考察を示した。しかし、不幸にも、その考察は共産主義を対象としては行われなかった。
 彼の新しい本はそれまでの書と同様に、ソヴィエトの経験はほとんど蛇足的にだけしか言及されていない。そしてその際には、最も言い訳がましい言葉が語られる。
 この大著の計16章のうち、一つの章だけが、マルクスの20世紀の意味に焦点をあてる。
 その他の章は、敬虔な聖書に関する解説や長く忘れられている左翼内部の党派的論争にあてられている。-「マルクス博士とヴィクトリア時代的批評者」、「綱要の発見」等々。
 今日の世界に関するマルクス思想の姿勢を扱う数十頁は、誤っているか正しさ半分の、長たらしく退屈なものだ。
 一つだけ、例を挙げよう。
 Hobsbawm はEagleton のように、生態上の危機を資本主義の副産物だと見なす。そして、至るところで中央計画を伴っていた環境破壊には論及しない。
 Hobsbawm はこう述べる。「生物圏に対する我々の経済の影響を逆転させるか少なくとも統制する必要性と、資本主義市場に必須なものとの間の特許争いがある。後者は、利潤追求をして最大限の経済成長を継続させることだ。これは、資本主義のアキレス腱だ」。
 しかし、毛沢東の中国でそうだったが、以前のソヴィエト同盟で厄災的な黄塵地帯と飢饉を生んだのは、産業成長の最大限の追求だった。
 ソヴィエトにあった現実の別の点とともに、Hobsbawm は、この事実を記憶の中に閉じ込めている。//
 (14)Hobsbawm がソヴィエト同盟について語る若干の文章は、最もありふれた種類の言辞だ。
 彼は書く。-「ロシアは後進国だったので、社会主義社会の滑稽画以上のものを生み出せなかった」。
  「リベラルな資本主義ロシアは、ツァーリ体制のもとでは生じなかっただろう」。
  ソヴィエト・システムを「アジア的僭政」の一類型と見なす西側マルクス主義者の長い列に並んで、Hobsbawm は、ロシア社会主義は「赤い中国帝国」にのみなり得るだろうとのプレハノフ(Plekhanov)の言明を肯定的に引用する。
 ソヴィエト全体主義を東方僭政体制の遺物だと書いてしまうことは、植民地の家屋にふさわしい非西洋文化に対する侮蔑を示している。
 かつまた、このような主張を繰り返す者たちは、つぎのことをほとんど問わない。共産主義に関するマルクスの考えの実際上の帰結はなぜ、どこでも同じだったのか。
 結局のところ、包括的な抑圧、環境上の大被害、遍在する腐敗で苦しんだのは、ロシアだけではなかったのだ。
 共産主義の実験が試みられた全ての別の国々で、そうだった。
 ロシアの後進性の結果だというのは、まるで誤っている。ソヴィエト・システムの欠陥は、構造的で固有のものだ。//
 (15)Hobsbawm は、共産党員だった経験には沈黙せざるを得ない。
 彼がそれに向き合うならば、自分は約60年間共産党員だったのは生涯にわたる自己欺瞞の訓練だった、ということを承認しなければならないだろう。-この人物は党が解散してすらも、信条を放棄しなかったようだ。
 この著名なマルクス主義の学者は、1920年代の帝制時代のエミグレたち(émigré)とはほとんど何も似ていない。彼らエミグレたちは、ロシアの古い秩序はいつか回復するという夢を決して捨てなかった。
 むろんHobsbawm は、そのような希望を抱くのを、憤然として拒否するだろう。
 彼はこう記す。-「ソヴィエト類型の社会主義モデルは-これまで社会主義経済を構築しようとする唯一の試みだったが-、もはや存在しない」。
 しかし、何らかの性格の社会主義システムが将来に復活する可能性を彼が否定しないことで、うっかり本音を漏らしている。
 鋭敏な19世紀の歴史家であるHobsbawm は、20世紀について何も学ばなかった。
 それが望まれていたことだ。
 Eagleton にとってと同じく、彼には、マルクス主義は一房の理論以上のものだ。
 マルクス主義者であることは、歴史の正しい側に立っていることの保障なのだ。
 共産主義のプロジェクトを現実のそれでもって判断することは、彼らの人生は意味がなかった、ということを認めてしまうのと同じことなのだ。//
 (16)マルクスの思想は、我々の情況の諸側面について意味をもち続ける。しかしそれは、マルクスの革命的な共産主義プロジェクトと関係する何かのゆえでは全くない。
 啓発的であるのは、資本主義の革命的性格についてのマルクスの洞察だ。
 その他の思想家は、我々がどのようにして資本主義のもとでの生活である永続革命に対処することができるかを、マルクス以上に語ってくれる。
 ポスト・ケインズ主義の経済学者、H・ミンスキー(Hymann Minsky)が金融資本主義の不安定さについて書いたものは、マルクスまたはその支持者たちから拾い集めたものよりも有益だ。
 しかし、偉大な19世紀の思想家は、資本主義の危険性と矛盾に対するその洞察のゆえに、つねに読むに値するだろう。
 後世のマルクス主義者たちは、同様の栄誉を何も要求することができない。
 彼らは、自分たちが(つねに間違っているのではないが)批判する資本主義文化について誤って理解していることを例証している。
 現在を覆うハイパー(hyper-)資本主義は、過去についてはほとんど役立たない。そして、世界の諸問題の困難さを感じて苦しんでいる多くの人々が存在するために、前世紀の幻惑はつねに、その魅力を再び獲得する傾向にある。
 このことこそが、Eagleton やHobsbawm のような著作者が登場するゆえんだ。
 彼らについて我々がどう考えようとも、彼らは、需要を充たす。
 死んでしまったユートピアを売り出すこと(marketing)に-記憶を喪失してしまった文化では儲かる商品(profitable commodity)だ-、最後のマルクス主義者たちは最終的な役割を見出した。
 2011年。
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 第32章、終わり。

2142/J・グレイの解剖学(2015)④-ホブスボームら03。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳をつづける。この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm 03。
 (13)Eagleton は疑いなく、全ての人類は(彼に同意しない皮肉屋は別として)彼と同じ夢を共有する、と空想している。
 ソヴィエトの実験に彼が覗き見趣味的に魅惑されていることは、彼の信念を証明する。
 しかし、共産主義に関しておぞましく身震いがするのは、大多数の人間には本質的に不快な理想を達成するために、人命の莫大な破壊を招いた、ということだ。
 ほとんどのロシア人にとって、現に存在した社会主義は、高貴な夢想の悲しい裏切りではなかった。 
 その夢想自体が、忌まわしいものだった。そして、現実にあったことは、卑劣さと悲惨さに満ちていたが、まだましな(preferable)ものだった。
 ソヴィエト同盟が舞台から消えたとき、その終焉は嘆かれることがなかった。その体制から最大の利益を獲得していたノメンクラトゥーラ(nomenklatura)によってすら。
 ショック療法による厄災にもかかわらず、ソヴィエト・システムへの回帰はなかったし、広範な基盤をもってそのシステムを追求する運動もなかった。
 かりにEagleton がこうした事実への言及を省略したのだとすると、その理由は、彼自身の尊大さに関する自分の感覚が損なわれていたからだろう。
 ロシアについて描き出す悲劇によって、彼は自分が普遍的な演劇の一部だと想像することができる。その際の彼の本当の役割は、最も馬鹿げた喜劇の演者だ。すなわち、西側の正統派(bien-pensant)劇の自己欺瞞。//
 (14)Eagleton は皮肉にも、純粋な悲劇的洞察を含むマルクス思想にある部分を見逃している。
 なるほど確かに、マルクスにあるのが分かる悲劇という観念は、人間の不完全さに関するAugustine 的考えとほとんど共通性がない。
 キリスト教は、悲劇を究極的な道徳的事実だとする宗教ではない。
 ダンテ(Dante)は悲劇についてではなく、神聖な喜劇について語ったのであり、キリスト教徒にとって、歴史の厄災は最終的には救済されるはずの物語(narrative)の一部だ。
 これと対照的に、マルクスは、キリスト教にある何かによりも、ヨブ(Job)の預言の激怒に、かつまたギリシア劇で表現される運命性(fatality)に、もっと適応している。
 (マルクスが古典的古代の文化にいかに習熟していたかは、ときどき忘れられている。)
 資本主義の危機を野蛮主義の新生によって解消し得るかもしれないという考えから明確であるように、マルクスは、償われることのない悲劇の可能性を、十分に受容していた。
 彼の思考の力は、今日にそれが何と関連していようとも、正確にはこの認識から生じている。//
 (15)マルクスは何か深遠なものを把握した、ということを理解するのに、彼の経済学-価値と搾取に関する労働理論の複雑な体系-を受容する必要はない。
 すなわち、資本主義は解放(liberation)の動力であった一方で、システムとしての資本主義の論理では、それ自体を掘り崩し、潜在的にはそれ自体を破壊する。
 古典派経済学は、ふつうに思われているほどには楽観的なものでない。
 D・リカルド(David Ricard)とA・スミス(Adam Smith)はいずれも、資本主義が生んだ商業文明は内部矛盾でもって衰弱するだろう、と懸念していた。
 しかし、一学問分野としての経済学は、市場は自己制御システムだということを基礎にして多くの部分を説いてきた。そのシステムは、政府による介入がない限りは良好な均衡へと向かう、というのだ。
 マルクスは、資本主義は本来的に不安定だと論じることで、主流派経済学者の諸世代よりも現実に接近していた。
 彼の洞察は、職業的経済学者が紛らわしい調和に関する数学的モデル化に没頭しているときに、とくに意味がある。
 マルクスを読んだ、またはさもなくも歴史の教育を受けた経済学者は誰も、全体的安定期(Great Moderation)という考えを真摯には受け取ることができなかっただろう。これは安定的な経済成長のための永続的な条件であり、その経済成長で、資本主義の矛盾が永遠に克服される。大多数の経済学者は明白にそう説いた。//
 (16)もちろん、全ての経済学者がさほどに無知で、愚かだったのではない。
 有名なことだが-そして私の見方では適切にも-、ケインズ(Keynes)はつぎのように論じて、自由市場は自己制御的だという前提に挑戦した。すなわち、管理されない資本主義は、市場の力が救い出すことのできない罠の中へと入っていく可能性がある、と。
 その場合には、政府の行動だけが厄災を阻止することができ、経済を再出発させることができる。
 Keynes は、資本主義のアナーキーな力を飼い慣らすことができる、と考えた。そして、数世代の間は、彼の分析の正しさが証明された。
 今日の金融危機は、この分析に疑問を投げかけた。
 グローバル化によって、政府による介入の範囲は小さくなった。一方で、金融システムの脆弱さは、数世代の間の周期的景気下降のいずれよりも、安定性に対する大きな脅威になっている。
 同時に、資本主義の社会的影響力は、ますます破壊的になっている。
 市場についての原理主義信仰者たちは、規制されない経済が一種の普遍的なブルジョア化(bourgeoisification)をもたらすだろう、と思い抱く。ほとんど全員が堅実な中産階層の生活を望むことができる、そういう社会だ。
 しかし、現実には、アメリカ合衆国、イギリスやヨーロッパの範囲の大多数の人々にとって、中産階層の生活は実行可能な選択肢では急速になくなってきている。
 家屋や年金の価値は下がり、労働市場はますます小さく不確実になって、自分は中産階層だと思っている多数の者が、自分はマルクスの言う財産なきプロレタリアートの地位のごとき何かだ、と気づいてきている。
 資本主義は、イデオローグたちが主張するようには、ブルジョア的生活を堅牢に防御しはしない。
 生産と破壊の絶えざる過程である資本主義は、ブルジョア的世界を食い尽くす。
 その結果は、のちに明らかになるだろう。
 しかしここに、本当に悲劇的な対立の可能性がある。空前の規模での富の生産者としての資本主義と、我々がリベラルな文明となおも呼んでいるものの破壊者としての資本主義、これら二つの対立だ。//
 (17)ケインズ的リベラル派と社会民主主義者の世代が信じたまたは望んだのとは反対に、資本主義は飼い慣らされてこなかった。
 資本主義は、危険なほど手に負えない野獣のままだ。-マルクスが描写したのと全く同じく。
 このことは、マルクス弁証学(注2)でE・ホブスボーム(Eric Hobsbawm)が行っていることの出発点だ。
 彼は、<世界を変革する方法>で、こう書く。-「1990年代に出現したグローバル化した資本主義世界は、マルクスが<共産主義者宣言>で予見した世界のごとく、決定的なほどに無気味だ」。
 そのとおり。ある程度までは。
 今日の世界は、マルクスとエンゲルスが一世紀半以上前に正確に予見したアナーキーに似ている。その到達を1990年代の自由市場熱狂的賛美者たちが自信をもって発表した、安定成長というユートピアが似ている以上にはるかに。
 一国政府による統制を逃れて、資本は流動的であり、かつ本質的に無秩序だ。
 そして、結果として、多くの先進産業諸国は、国内的不安に直面している。
 しかし、資本主義の将来に関するマルクスの説明は資本主義の後世の宣教師たちの予言よりも現実的だったにもかかわらず、世界は依然として、マルクスが想定したものとは全く異なっている。//
 (18)マルクスは、ほとんどの19世紀の思想家と同様に、宗教は豊かさの増大と科学知識の前進とともに消え去るだろうと期待した。
 そうはならず、これまでつねにそうだったように、宗教は、政治と戦争の中心的位置を占める。
 マルクスは、資本のグローバル化はナショナリズムの衰退と歩調を合わせて発生するだろうということを、決して疑わなかった。
 実際には、世界の多くの部分で、グローバル化はナショナリズム的反動の引き金となった。
 マルクスは、資本の政治的統制からの解放はどこでも発生するだろうと想定した。
 実際には、それは主として西側資本主義諸国で起こり、新しい資本主義者の中国やロシアは経済の管制高地の統制権を保持したままだ。
 マルクスは、野蛮さを回避しようとするかぎり、自由市場は社会主義に置き換えられるだろうと期待した。
 しかし、自由市場の継承者たちは、どんな性格の社会主義よりもはるかに、資本主義の別の範型になりそうだ。-中国の国家資本主義、ドイツを最も成功した経済国にした社会的市場資本主義、まだ発展するだろう資本主義のその他の変種。
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 (注2)Eric Hobsbawm, How to Change the World: Tales of Marx and Marxism (Yale Univerty Press, 2011).
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 ホブスボーム04へとつづく。

2121/J・グレイ・わらの犬(2002)⑦-第3章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.90~p.105。太字化は紹介者。
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 第3章・道徳の害[The Vices of Morality]。
 第1節・磁器と命の値段[The Porcelain and the Price of Life]。
 (1) B・チャトウィン〔Bruce Chatwin〕の小説の、チェコスロヴァキア占領と共産党政権の支配を利用してマイセン磁器を買い漁ったウッツ[Uts]男爵には、「友情の深みも、変わらぬ愛も、主義に殉じる信念も」ない。「稀に見る道徳意識の欠如」を指摘するのは簡単だが、「同時代の市民一般と、いったいどこが違う」のか。「ナチス占領時代から共産主義政権の時代にかけて、大方の市民は唯々諾々と時の権力に従った」のではないか。
 「道徳」を「尊重すべき特別な価値体系」だと考えつつも、「自分に忠実にあろうとすれば」道徳には社会通念が教える以上に「はるかに重みがない」ことに気づくはずだ。
 「道徳」最優先の大本はキリスト教で、神は「義」を命じ「悪」を禁じる。この見方は「とうの昔に廃れた」かもしれないが「今なお広く浸透している」。ヨーロッパ啓蒙運動のヒューマニストたちは「旧時代のキリスト教徒と同様、道徳を絶対視した」。哲学者はとくに「道徳」の意味を問題にしつつ、「道徳的」が最善であることの理由を疑わない。
 小説<ウッツ男爵>に学ぶのは「道徳の虚構」だ。人は生き方を語るときに「道徳」を持ち込んで「生きている自身の姿をぼやかす」。
 (2) 実話。-ナチス強制収容所では無帽で朝礼に並ぶと即銃殺。16歳の収容者を強姦した看守は彼の帽子を盗む。銃殺死すれば強姦の事実は闇へ。その少年はしかし、隣で寝る同胞の帽子を奪い、翌朝その同胞は射殺される。少年は「仲間の死」をこう描く。
 「頭に一発。撃つのは後頭部と決まっている」。「死んだ男がどこの誰か、そんなことはどうでもよかった。生きている歓喜が身内を貫いた」。
 「同胞の貴重な命を救って、自分が死に甘んじる」べきだったか。「手段を選ばず生き延びた青年は許される」か。「道徳は一種の便宜であって、平時にしか通用しない」。
 第2節・道徳の迷信[Morality as Superstition]。
 「道徳を律法の体系」とするのは聖書だが、ユダヤ人に与えられた「神の律法が人間全てを支配する」とするのはキリスト教の独創だ。キリスト教世界は「ユダヤ主義」の「進展」ではなく「後退」だ。全人間を従わせる「律法」という発想と「道徳観こそが、愚劣な迷信」だ。
 第3節・人命軽視[The Unsanctity of Human Life]。
 タスマニア先住民は奴隷となり虐殺されて、5000人以上が1830年には72人に減った。「大虐殺〔genocide〕は、芸術や祈りと同じ人間の行いである」。「大量虐殺は技術進歩の副作用」で、人間は道具を「殺し合い」に使ってきた。J・ダイアモンド〔Jared Diamond〕によると、「古代史は人間の大量虐殺嗜好を証明する」。
 時代は下っても、1492年~1990年に「少なくとも36例の大虐殺」があり、1950年以降でも「20回」を数えた。バングラデシュ・カンボジア・ルワンダ、各々100万人以上。
 タスマニアに入植した善きキリスト教者は「生命の神聖さ〔sanctity〕」を信じたが、その信念は「自分たちの生活圏〔Lebensraum〕の拡大」を抑止せず、キリスト教勢力は1世紀後にヨーロッパが「例のない大量虐殺の現場」になることを防止できなかった。犠牲者の数ではなく「一つの文化をそっくり滅ぼそうと企てた、その魂胆」が問題だ。アーサー・ケストラー〔Arthur Koestler〕の小説<到着と出発>〔1943〕は、総統の目論見をこう描く。
 「ユダヤ人絶滅」は2年以内だろう。「一個人としてはジプシー音楽を愛好し、ときに知恵あるユダヤ人の諧謔を喜ばぬでもないが、我々はヒトの染色体から、…なる要素をもつ流民の遺伝子〔nomagic gene〕を除去しなくてはならない。…手段として、まずは皮下注射器、ランセット、避妊具等を用いる」。
 こうまで過激でなくとも、同じ可能性は「少なからぬ進歩的知識人」も語った。バーナード・ショー〔George Bernard Shaw〕はナチス・ドイツを「ヨーロッパ啓蒙運動の正統な後継ぎ」だとした。
 ナチズムを「啓蒙運動と真っ向から対立する」と見るのは間違いで、「寛容と個人の自由」を掲げる「啓蒙」に「人類の希望」を託した点で、ヒトラーはニーチェと同じだった。優秀な人種を育て、劣等な人種を排除することで、人類は将来の「重大な任務」を全うできる。「科学」による「因習」との断絶・「精神」の純化で初めて、人類は地球の支配者たり得る。
 ショーのナチズム観は「あながち牽強付会」ではなく、ショーの見方ではソ連とナチスは「ともに進歩的な体制」で、「邪魔な余剰人口」の抹殺に不都合はない。この作家にとって、犯罪者は皆殺しがよく、投獄は税金の無駄遣いだ。彼は1930年8月にモスクワで、「飢えに苦しむ聴衆を前に」、「人災の犠牲者に笑いかけた」。
 西側知識人の多数は、「おそらくは古今未曾有の大量殺人が進歩的な現政権下で起きていることを見抜けなかった」。だが、1917-1959年に「6000万を超える一般的庶民がソ連領内で死亡した」。秘密どころか、「公然の政策だった」。ヘラーとネクリッチ〔Michael Heller & Alexander. M. Nekrich, in: Utopia in Power, 1983〕はこう書く。
 「ソヴィエト市民が地方での大虐殺〔massacres〕を知らないはずはない。それ以上に、誰も秘密にしていない。スターリンは「富裕農民階級の廃絶〔liquidation of the kulaks〕」を公言し、取り巻きがこぞってこれに同調した。鉄道の各駅で、地方から逃げてきた夥しい婦女子が飢えて死にかけているのを都市住民は目のあたりにした。」
 西側知識人の「現実の認識」の甘さはよく疑問視されるが「現実が目に見えなかったはずはない」。移住者の手記の多数出版、ソヴィエト当局の発言からも状況は明確だったが、「その現実があまりにも過酷だったため、西側知識人には容認し難かった」。「自分たちの精神衛生〔peace of mind〕を考えて、知識人は分かりきっていること、疑わしく思うことを否定した」。
 「良心的知識人らは、進歩の追求が大量殺人に帰結したことを認める勇気がなかった」。
 20世紀が特殊なのは大虐殺の「頻発」ではなく、その「規模」と、それが「世界の進歩に名を借りた大計画のためにあらかじめ仕組まれたという事実」だ。
 第4節・良心[The Conscience]。
 「道徳家の建前では、良心の声は聞こえなくとも、つねづね残虐や不正を批判している。だが、そのじつ、犠牲者がこっそり葬られるかぎり、良心は残虐と不正を歓迎する。」
 第5節・悲劇の死[The Death of Tragedy ]。
 ヘーゲルによると「悲劇とは正義と正義の衝突」だが、悲劇は「神話」に由来し、「道徳と何の関係もない」。悲劇は「人間が勇気や知力をもってしても乗り切れない情況に屈することを拒んだとき」に、「圧倒的不利を承知で困難な道を選んだ人物」に起きる。
 「みすぼらしい犯罪者の人生が悲劇なら、世界に名を馳せる政治家の人生もまたみすぼらしいかもしれない。」
 今日のキリスト教教徒とヒューマニストは協力して「悲劇を不可能」にしている。天国で涙は拭われる。悲劇の効用は「逆境」に生きることの立派さを教えることにある。しかし、「極限の苦難が人間を高めるというのは、説教か、舞台の上のことである」。
 シャラーモフ〔Varlam Tikhonovich Shalamov〕は1929年に逮捕され3年の苦役、1937年に再逮捕されシベリア北東のコルィマで5年の流刑。そこで17年を過ごす。ここの収容所では推計で最小30万人死亡、毎年3分の1が絶命。彼の体験記<コルィマ物語>には「ソルジェニツィン風の教訓臭は微塵もない」。それでいて、「ときに抑制を忘れてか、悲憤の痛哭が行間にこぼれ出る」。彼は書く-「真っ当にふるまえる」と思う人間は「どん底に触れたことがない」、「『英雄のいない世界』で息を引き取るほかない境遇」とは無縁の人間たちだ。
 「文学趣味のお伽噺」ならば「悲劇と欠乏の緊迫が人間の深い絆」を生むかもしれないが、コルィマで生き延びるには「友愛も共感も希薄」だった。彼は書く-「悲劇と欠乏が…親愛を醸したとすれば、欠乏は極限になお遠く、悲劇は絶望にまで至っていなかったのだ」。
 一切を剥奪された収容者に「生きつづける理由」はなかったが、自ら命を絶つ機会が訪れても「気力、体力」がなかった。「死ぬ気」が萎える前に急ぐ必要があった。「飢えと寒さに衰弱し切って、収容者たちは無感覚なまま無情な死に向かって流されていくしかなかった」。彼は書く-「見るくらいなら死んだ方がましなことがいくらでもある」。
 「人生は最悪でも悲劇ではなく、ただ無意味なだけである。失意の底にあっても、あてどない人生はつづく」。「意志が挫ければ悲劇の仮面は剥がれ落ちて、後に苦しみが残るばかりだ」。「最後の悲劇は言葉にならない」。「悲劇の幻想にすがって生きるのは賢明だ」。
 シャラーモフは1951年に釈放され、1953年にシベリアを去る許可を得て、1956年にモスクワに帰った。「妻はとっくに別の男に走り、娘は接触を拒んだ」。彼は養老施設に住み、75歳のときに知人に詩を口述して外国で出版された。これが原因で養老施設を追われたが、コルィマに連れ戻されると思ってか激しく抵抗して「精神病院」に収容された。その3日後の1982年1月17日、「鉄格子が窓を塞ぐ狭苦しい」病室で死んだ。
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 第6節以降へ。

2114/L・コワコフスキ著第三巻第13章第3節-ユーゴ。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、本文p.530までのうち、p.474-8。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
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 第3節・ユーゴスラヴ修正主義(Yugoslav revisionism)。
 (1)マルクス主義の進展でのユーゴスラヴィアの特別の役割は、修正主義思想を表明する個々の哲学者や経済学者についてだけではなく、最初の修正主義政党、あるいは最初の修正主義国家とすら呼ばれたものをここで扱う必要がある、ということにある。//
 (2)スターリンによって破門されたあと、ユーゴスラヴィアは経済的にもイデオロギー的にも困難な状況にあった。
 その公式のイデオロギーは最初は、一つの重要な点を除いて、マルクス=レーニン主義の範型から離反するものではなかった。つまり、ユーゴスラヴィアは、ソヴィエト帝国主義の面前で自分たちの主権を主張することで、ソヴィエトのイデオロギー的最高性を拒絶し、最長兄の大国的民族排外主義を攻撃した。
 しかしながら、のちにはユーゴスラヴ党は社会主義の範型と自分のイデオロギーを形成し始めた。それは内容的にはマルクス主義に忠実だったが、労働者の自己統治と官僚制のない社会主義に集中させるものだった。
 このイデオロギーの形成とそれに対応する経済的政治的変化は、多年にわたって続いた。
 1950年代の初頭、党指導者たちはすでに、官僚制化の危険について語っており、極端な権力の中央集権化が社会主義の理想のうちの最も価値あるものを殺した頽廃的国家だとしてソヴィエト体制を批判していた。最も価値あるものとは、労働大衆の自己決定、国有化とは区別される公的所有の原理だ。
 党指導者と理論家たちは、ソヴィエト方式の国家社会主義と、労働者の自己統治にもとづく経済とを、ますます明確に区別した。後者では、協同団体はたんに国家当局が課した生産ノルマを達成するのではなく、生産と分配に関する全ての問題を自ら決定する。
 継続的な改革の方策を通じて、産業管理は労働者自身を代表する諸団体へとますます委託された。 
 国家の経済的機能は縮小された。そして、党の基本教理からすると、これはマルクス主義理論と合致する国家の消滅の予兆となるべきものだった。
 同時に、文化生活に対する国家統制も緩和され、「社会主義リアリズム」は芸術的価値のある聖典ではなくなった。//
 (3)1958年4月の第6回党大会で党が採択した綱領は、自己統治にもとづく社会主義を公式の見解として設定した。
 これはその当時では、党の文書としては異様なものだった。プロパガンダであるとともに、理論に関係していたのだから。
 この綱領は、生産手段の国有化をその社会化とは明確に区別した。また、経済管理を官僚機構の手に委ねるのは社会的退廃をもたらし、社会主義の発展を停める、と強調した。
 さらに、それは国家と党装置との融合をもたらし、国家は消滅するのではなくいっそう権力を増大させて官僚制化する、とも。
 社会主義を建設し、社会的疎外を終わらせるためには、生産を生産者に、換言すると労働者の協同体へと、移譲することが必要だ。//
 (4)労働者会議に個別の各生産単位に関する無制限の権威が与えられれば、その結果は、特定の関係者だけに所有権を帰属させるだけの19世紀モデルとは異なる、自由競争のシステムになるだろう。このことは、最初から明確だった。
 いかなる経済計画も、可能ではなくなるのだ。
 その結果として、国家は投資率や蓄積した基金の配分に関する多様な基本的機能を果たすだけに変質した。
 1964-65年の改革はさらに、計画化の観念を放棄することなく、国家の権力を削減した。
 国家は、主として国有化した銀行制度を通じて、経済を規整するものとされた。//
 (5)ユーゴスラヴ型の労働者自己統治がもつ経済的社会的効果は、いまだに多くの議論と生々しい不同意の対象だ。ユーゴスラヴィアと世界じゅうの経済学者や社会学者のいずれでも。
 そのシステムが官僚制的虚構になってしまわないためには、市場関係の相当の拡張と市場の生産に対する影響の増大が必要だ。そして、それはすみやかに、蓄積という正常な法則が再び力をもつにつれて、一定の望ましくない結果をもたらした、と断定的に言える。
 国家の経済的な発展部分にある大きさの溝は、狭くなるのではなく、拡大していく趨勢にあった。
 賃金に対する圧力は、投資率を社会的に望ましい水準以下に落としかけた。
 競争的条件は、その特権が民衆的不満を掻き立てるほどの、豊かな産業管理者の階層を出現させた。
 市場と競争は、インフレと失業の増大を引き起こした。
 ユーゴスラヴィアの指導者と経済学者たちは、自己統治と計画化は相互に制限し合いがちで、妥協によってのみ調整することができるが、妥協の条件は恒常的な紛議を発生させる問題だ、ということに気づいていた。//
 (6)他方で本当なのは、ユーゴの経済改革は文化的自由および政治的自由ですらの拡大を随伴していた、ということだ。それは、ソヴィエト連邦以外の東ヨーロッパのその他の国で起きたことに十分に優っていた。
 しかしながら、これを「国家の消滅」と称するのは、全くのイデオロギー的虚構に他ならなかった。
 国家は自発的にその経済的権力を制限した-これは異様なことだった。しかし、政治的な主導性や反対派に対処するための警察制度の利用を独占することまでは、放棄しなかった。
 状況は奇妙(curious)なものだ。
 ユーゴスラヴィアは、他の社会主義諸国よりも大きな表現の自由をいまだに享有している。しかし、厳格な警察的抑圧に服してもいる。
 公式のイデオロギーを攻撃する文章を公刊するのは他のどこよりも容易だが、そのことを理由として収監されるのも簡単だ。
 ユーゴスラヴィアには、ポーランドやハンガリー以上に多数の政治犯がいる。だが、それらの国々では文化問題についての警察による統制がもっと厳格だ。
 単一政党支配は些かなりとも侵犯されておらず、それを疑問視することは制裁可能な犯罪となる。
 要するに、社会生活上の多元主義の要素は、支配党が適切だと考える範囲内でのみ広がっている。
 ユーゴスラヴィアは、改革とソヴィエト陣営からの排除によって多くのことを得てきた。しかし、民主主義国になったわけではない。
 労働者の自己統治に関する賛否は、なおも論争の対象のままだ。
 いずれにせよ、共産主義の歴史における新しい現象ではある。//
 (7)自己統治と脱官僚制化の問題には、哲学的側面もある。
 1950年代の初めからユーゴスラヴィアには、大きくて活動的なマルクス主義理論家たちのグループがあった。そして、認識論、倫理学および美学を論じてきており、政治的諸問題もまたユーゴスラヴ社会主義の変化と連結していた。
 1964年以降、このグループは哲学の雑誌<実践(Praxis)>を刊行した(1975年に当局により廃刊させられた)。そして、Korčula 〔コルチュラ〕島で定期的な哲学的議論の場を組織し、それには外国からも含めて多数の学者たちが出席した。
 このグループは、疎外、物象化(reification)および官僚制のような典型的に修正主義的な主題に集中した。
 その哲学的な志向は、反レーニン主義的だ。
 文章上の発表がきわめて多かった哲学者たちのほとんどは、第二次大戦でのパルチザン兵士たちだった。
 主な名を挙げておくと、つぎのとおり。G. Petrović、M. Marković、R. Supek、L. Tadić、P. Vanicki、D. Grlić、M. Kangra、V. Kolać およびZ. Pesić-Golubović。//
 (8)今日の世界でおそらく最も活動的なマルクス主義哲学者たちの集団であるこのグループの主要な目的は、レーニン=マルクス主義的 “弁証法的唯物論” に急進的に対抗するマルクスの人間主義的人類学(humanistic anthropology)を再建することだった。
 彼らの全てまたはほとんどは、“反射の理論” を拒絶し、ルカチとグラムシにある程度は従って、他の人類学的諸観念のみならず存在論的(ontological)諸問題も二次的にすぎない、そのような基礎的な範疇としての「実践」を確立しようとした。
 彼らの出発点は、かくして、人間の自然との実践的接触が形而上学的意味を決定する、認識は主体と客体の間の永続的相互作用の効果だ、という初期のマルクス思想だ。
 この観点からして、意味のない「歴史の法則」なるものが究極的には全ての人間の行動を決定するということを想定しているとすれば、歴史的決定論はそれがよって立つ根拠を維持することができない。
 我々は、人間は自分たちの歴史を創るのだ、というマルクスの言葉を真摯に受け止めなければならない。これを、歴史が人間を創るという言明へと進化論的に転換させてはならない。
 <実践>の哲学者たちは、積極的で自発的な人間主体の余地を残さないと強く指摘して、自由(freedom)とは「理解された必然性」〔=必然性を理解すること〕だとするエンゲルスの定義を批判した。
 彼らはこうして、<主体性の擁護>という修正主義の考えを採用した。それは、ソヴィエトの国家社会主義への批判やマルクスの教理と合致する社会主義の発展の正しい(true)経路としての労働者の自己統治への支持を、彼らの分析に連結させるものだった。
 しかしながら、同時に、社会主義は「労働者階級の先進部隊」だと自称する党官僚によるのではない生産者による能動的な経済管理を必要とする、と強調しながらも、彼らは、経済の自己統治は、行きすぎるならば、社会主義の理想に反する不平等を生む、ということを知っていた。
 ユーゴスラヴィアの正統派共産主義者たちは、<実践>グループを、完全な自己統治を制度化するのと不平等を回避すべく市場を廃棄するのと、両方を欲している、と非難した。
 ユーゴスラヴ修正主義者たちは、この点で分かれるように思える。しかし、彼らが書いていることには、しばしばユートピア的調子がある。「疎外」を克服すること、活動の成果を全面的に制御するのを全員に保障すること、計画化の必要と小集団の自治との対立、個人の利益と長期的な社会的責務の間の矛盾、安全確保と技術の進歩の対立、をそれぞれ除去すること、これらは可能だ、とするのだ。//
 (9)<実践>グループは、ユーゴスラヴィアのみならず国際的な哲学の世界で、マルクス主義の人間主義的範型を広めるという重要な役割を果たした。
 彼らはまた、ユーゴスラヴィアでの哲学的思考の再生に貢献した。そして、その国での専制的で官僚的な統治形態に対して知的に抵抗する、重要な中心だった。
 時代が経つにつれて、彼らは、ますます国家当局と対立するようになった。
 ほとんど全ての積極的なメンバーは最終的には追放されるか、または共産党の職から離任させられた。1975年には、彼らのうち8人が、ベオグラード(Belgrade)大学での職位を剥奪された。
 彼らの著作は、マルクス主義的ユートピアに関する懐疑をますます示しているように見える。//
(10)1940年代、1950年代のユーゴスラヴ共産主義者の一人だったMilovan Djilas は、修正主義者だとは見做すことができない。
 社会主義の民主主義化に関する彼の考えは、1954年に遡って党から非難された。そののちの彼の著作は、最も緩やかな意味においてすら、マルクス主義だと考えることはできない(すでに論及した有名な<新しい階級>を含む)。
 Djilas は、ユートピア的な思考方法を完全に放棄し、マルクス主義の本来的教理と官僚制的専制体制の形態でのその政治的現実化の間の連環(links)を、何度も指摘した。//
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 第3節、終わり。第4節の表題は、<フランスにおける修正主義と正統派>。

2064/L・コワコフスキ著第三巻第13章第2節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。
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 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。 
 第2節・東ヨーロッパでの修正主義①。
 (1)1950年代の後半以降、共産主義諸国の党当局と公式イデオロギストたちは、党員またはマルクス主義者であり続けつつ多様な共産主義教条を攻撃する者たちを非難するために、「修正主義」という語を用いた。
 この言葉には、厳密に正確な意味はなかった。あるいは実際には、スターリン後の改革に反対する党「保守派」に対して、「教条主義」という語が用いられた。
 しかし、原則としては、「修正主義」という語が示唆していたのは、民主主義的かつ合理主義的な傾向だった。
 従来はこの語はマルクス主義に対するBernstein の批判について用いられてきたので、党活動家たちは新しい「修正主義」をBernstein の考え方と連結させようとした。しかし、これら両者の関係は隔たっていて、そうした関係づけは馬鹿らしいものだった。
 積極的な「修正主義者」のほとんど誰も、Bernstein に関心を持たなかった。
 1900年頃のイデオロギー論議の中心にあったものは、もはや話題にならなかった。
 当時に激しい憤懣を掻き立てたBernstein の考えのいくつかは、今では正統派マルクス主義者たちに受容されていた。社会主義は合法的手段で達成し得る、という原則的考え方のように。-全くの戦術上の変化だけれども、イデオロギー的には重要でなくはない。
 「修正主義」はBernstein の読解に因っていたのではなく、スターリンのもとにあった時代に由来していた。
 しかしながら、党指導者がこの用語をいかに曖昧に用いたとしても、1950年代と1960年代には、本当の、能動的な政治的および知的な運動が存在した。その運動は、当面の間はマルクス主義の範囲内で、あるいは少なくともマルクス主義の語彙を使って活動しはしたれども、共産主義の教理に対してきわめて破壊的な効果を持った。//
 (2)1955-57年に共産主義イデオロギーが解体するにつれて、システムに対する攻撃が広がった。
 この時期の典型的な特質は、現存する条件の批判にとどまらず、きわめて活発で目立っていて、全体としてきわめて有効だった、ということだ。
 このような優勢的な力には、いくつかの理由があった。
 第一に、修正主義者たちは「既得権益層」に帰属していたので、大衆メディアや非公開の情報に接近することが十分に容易だった。
 第二に、事柄の性質上、彼らは他のグループよりも、共産主義イデオロギーとマルクス主義について、また国家と党機構について、多くのことを知っていた。
 第三に、共産主義者たちは全ての問題について指導すべき考え方に慣れ親しんでおり、結局のところは党が、活力と主導性をもつ多数の党員たちを取り込んでいた。
 第四に、そしてこれが主要な理由だが、修正主義者たちは、少なくとも相当の期間、マルクス主義の語彙を用いた。すなわち、彼らは共産主義のイデオロギー的ステレオタイプとマルクス主義の権威に訴えかけ、社会主義の現実と「古典」に見出し得る価値と約束の間の差違について、驚かせるほどの比較を行った。
 このようにして、修正主義者は、民族主義または宗教の観点からシステムに反抗した他の者たちとは違って、党内見解について訴えかけたのみならず、党の周囲に反響を与え、覚醒させた。
 彼らの意見には党機構員も耳を澄まし、そしてこれが政治的変化の主たる条件だったのだが、その結果として党機構のイデオロギー的混乱を招くこととなった。
 彼らは、ある程度は共産主義ステレオタイプをまだ信じているがゆえに、またある程度はそれが有効だと知っているがゆえに、党の用語を用いた。
信仰と慎重な偽装(camouflage)の割合がどうだったかは、現在の時点では査定するのが困難だ。//
 (3)生活の全分野に影響を与え、共産主義の全ての神聖さを徐々に掘り崩した批判論の大波の中で、一定の要求や観点は修正主義に特有のものだったが、片方で、一定のそれらは非共産党または非マルクス主義の体制反対者と共通していた。
 提示された主要な要求は、つぎのようなものだった。//
 (4)第一に、批判論の全ては、公共生活の一般的な非中央化、抑圧と秘密警察の廃止、あるいは少なくとも、法に従い、政治的圧力から自立して行動する司法部に警察が従属すること、を求めた。
 プレスの自由、科学と芸術の自由、事前検閲の廃止も、要求した。
 修正主義者たちは党内民主主義も求め、ある範囲の者たちは党内に「分派」を形成する権利も要求した。 
 これらの点で、彼らの間には最初から違いがあった。
 ある者たちは、一般的要求にまで進めることなく党員のための民主主義を要求した。彼らは、党は非民主主義的社会の中にある孤立した民主主義的な島であり得ると考えているように見えた。
 彼らはそうして、明示的にであれ暗黙にであれ、「プロレタリアートの独裁」原理、すなわち党の独裁の原理を受容し、支配党は内部的な民主主義という贅沢物を提供できると想定していた。
 しかしながら、そのうちに、修正主義者のほとんどは、エリートたちだけのための民主主義は存在することができない、ということを理解するに至った。
 つまり、かりに党内グループが許容されれば、そのグループは、そうでなければ発言を否定される社会的勢力のための発言者となり、党内部の「分派」制度は多元的政党制度の代わりになるだろう、ということをだ。
 したがって、政治的諸党の自由な形成とそれに伴う全ての結果か、それとも党内部での独裁を含む一党による独裁か、を選択する必要があった。//
 (5)民主主義的要求の中でも重要なのは、労働組合と労働者評議会の自立性だった。
 「全ての権力を評議会へ」との叫びすら聞こえてきた。-たしかに声高ではなかったが、賃金や労働条件の問題のみならず産業管理にも重要な役割を果たす、労働者評議会の党からの独立という考えは、ポーランドとハンガリーの両国で頻繁に提示された。のちには、ユーゴスラヴィアの例が引用された。
 労働者の自己統治は、当然に経済計画の非中央化につながるものだった。//
 (6)非政党界隈で望まれた重要な改革は、宗教の自由と教会への迫害の中止だった。
 ほとんどが反宗教的である修正主義者たちは、この問題を傍観していた。
 彼らは教会と国家の分離を信じており、その間に拡大していた、宗教教育の学校への再導入という要求を支援しなかった。//
 (7)一般的に提示された要求の第二の範疇は、国家主権と「社会主義ブロック」諸国の間の平等に関係していた。
 全ての社会主義ブロック諸国で、ソヴィエトの監督は多数の分野できわめて強かった。とくに軍と警察は特別で直接的な統制のもとにあり、全ての問題について長兄〔ソヴィエト同盟〕の例に従う義務は、国家イデオロギーの基盤だった。
 民衆全体が鋭敏に感じていたのは、それぞれの諸国の恥辱、ソヴィエト同盟への従属、それによる隣国に対する不躾な経済的搾取、だった。
 しかしながら、ポーランド民衆は全体としては強く反ロシア的だった一方で、修正主義者たちは一般的には伝統的な社会主義諸原理を主張し、民族主義(nationalism)の語法を用いるのを避けた。
 修正主義者たちや他の人々が頻繁に主張した要求は官僚機構員たちが享受している特権の廃止であり、収入の問題というよりも、日常生活の困難さから彼らを解放している超法規的な取り決め-特殊な店舗や医療機関の利用、居住上の優先、等々-にあった。//
 (8)批判論の第三の主要な領域は、経済の管理だった。
 産業を元のように私人の手へと移すという要求はほとんどなされなかった、ということには注目しておかなければならない。
 ほとんどの人々は、産業が公的に所有されていることに慣れ親しんでいた。
 しかしながら、つぎのことが要求された。
 強制的な農業集団化の停止、極端に負担の多い投資計画の縮小、経済への市場条件の役割の拡大、労働者への利潤分配、合理化された経済計画、非現実的な全包括的計画の廃止、起業を妨害している基準や指令の減少、およびサービスや小規模生産の分野での私的および協同的活動の容認。
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 ②へとつづく。

2042/講座・哲学(岩波)や哲学学者と政治・社会系学者・評論家。

 岩波講座/哲学〔全10巻〕(2008-2009)の各巻共通の編集委員一同による「はしがき」は、途中で、「以上のような現状認識を踏まえた上で、…」と述べて、編集の基本方針を記している。
 その前に叙述されている「現状認識」は、番号が付されてはいないが、四点を記しているものと解される。
 第一は、「大哲学者の不在」を含む「中心の喪失」だ。興味深いのでもう少し引用的に抜粋すると、つぎのようになる。
 「20世紀の前半、少なくとも1960年代まで」は、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」が「イデオロギー的対立も含めて成り立っていた」。
 20世紀後半にこの図式が崩壊したのちも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義など大陸哲学の潮流」と「英米圏を中心とする分析哲学やネオ・プラグマティズムの潮流」との間に、「方法論上の対立を孕んだ緊張関係が存在していた」。
 だが現在、「既成の学派や思想潮流の対立図式はすでにその効力を失っている」。
 <日本の>哲学状況はどうなのだと問いたくなるが、かなり面白い。
 第二は、「先端医療の進歩や地球環境の危機」によって促進されて、諸問題が顕在化した、ということだ。
 第三はのちに紹介するとして、第四は、「政治や経済の領域におけるグローバル化の奔流」が諸問題を発生させている、ということだ。
 上の第二点と一部は重複すると考えられるが、第三に、つぎのように語られている。全文を引用しよう。ここでは、一文ごとに改行する。
 「哲学のアイデンティティをより根底で揺るがしているのは、20世紀後半に飛躍的発展を遂げた生命科学、脳科学、情報科学、認知科学などによってもたらされた科学的知見の深まりである。
 かつて『心』や『精神』の領域は、哲学のみが接近を許された聖域であった。
 ところが、現在ではデカルト以来の内省的方法はすでにその耐用期限を過ぎ、最新の脳科学や認知科学の成果を抜きにしては、もはや心や意識の問題を論ずることはできない
 また、道徳規範や文化現象の解明にまで、進化論や行動生物学の知見が援用されていることは周知の通りであろう。
 そうした趨勢に対応して、…、哲学と科学の境界が不分明になるとともに、『哲学の終焉』さえ声高に語られるにまでになっている。」
 以上。
 このように叙述される「現状」の「認識」は、正当なものではないか、と思われる。
 そして、「文学部哲学学科」の存在意義というちっぽけな問題は別として、つぎの感想が生じる。
 第一に、人文社会系の学者・研究者および評論家類(自称「思想家」を含む)の中には、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」になお「イデオロギー的」にこだわっている者がいるのではないか。そうでなくとも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義」、「分析哲学やネオ・プラグマティズム」といった「潮流」にこだわり続ける者も少ないのではないか、ということだ。
 むろん、そうした「哲学」の「潮流」などを知らない、意識していない人文社会系の者の方が、はるかに多いかもしれない。そんなことを知らなくとも、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 第二は、まさに上に明記されている、「生命科学、脳科学、情報科学、認知科学」は、人文社会系学問(歴史学を当然に含む)や社会・政治系の評論家類の営為の対象となり得る、ヒト・人間の「性質」・「本性」にかかわっている。この<自然科学>の進展を、この人たちは、どれほどに知っているのか、知ろうとしているのか、ということだ。
 経済学部出身らしい池田信夫の言述を(好意的・積極的に)評価するのは、この人がこの分野にも強い関心を向けていると見られることだ。
 この欄に名を出したことはないが、雑誌・Newton の愛読者だという元々は文科系の大原浩にもたぶん上のことがあてはまる。
 また、福岡伸一(<動的平衡>というテーゼ)や茂木健一郎(少なくとも当初は<クオリア>への関心)は、人文社会系の学者・研究者や読者たちと交流?する意識を排除していない、と推察される。
 圧倒的多数の人文社会系学者・研究者や社会・政治系評論家類(自称「思想家」を含む)は、おそらく、人間の(覚醒・意識の成立を前提とする)「認識」が(究極的に)脳内作業であって、「文章」を書くことも全く同様であること(むろんメカニズム・システムは複雑多様だが)を意識していない、と推察される。「自分」は<物質>などとは無関係の、「独立の」、「個性ある」、たんなる生物ではない<知識人>だと考えている、のではないか。これは<右も左も、斜め右上も斜め左下も、中央手前も奥も>、変わりがない。
 そうであっても、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 なお、上の講座(全集)の第5巻の表題は<心/脳の哲学>。
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 上の講座(全集)は21世紀に入ってからのものだ。ソヴィエト連邦等の解体後であるとともに、今日までの10年間で、「脳科学」・「神経生物学」等はさらに進展している可能性がある。
 では、一つ前の同様の企画ものである講座(全集)は、異なる編集委員によってどういう「まえがき」を書いていただろうか。
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕は1985-1986年に刊行されている。上よりも20年ほど前だ。このとき、まだソヴィエト連邦等が存在した。
 各巻に共通する編集委員「まえがき」を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 第一に、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせないような叙述をしている。つぎのとおりだ。
 「学問分野としての哲学は、明治期以降一世紀あまりの歴史をふまえて、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている。」
 ほぼ20年後の上述の講座(全集)とは、相当に異なっていることが分かる。
 しかし、第二に、つぎのような叙述が冒頭にあることは注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある。
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 30年前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されてはいたのだ。
 なお、この講座(全集)の第6巻の表題は<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>。
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 この講座(全集)類の発行は日本の「哲学学界」または「哲学学・学界」を挙げての一大行事だっただろう。そしてまた、「まえがき」は時代と「編集委員」の意識を反映している。
 もっとも、学界所属者たちがいかほどに「まえがき」記述と同じ意識・認識だったかは疑わしい。
 また、「哲学」学界は略称<純哲>とも言うらしいのだが、<法哲学>、<社会哲学>、<経済哲学>?等々の学界と共通する意識・認識だったとは言えないだろう(但し、2008年ものの編集委員の一人は「法哲学」の井上達夫)。純粋の「哲学」の方が「こころ」・「精神」そのものに最も関係するかもしれない。
 なお、少し元に戻ると、あえての推測なのだが、1985-86年時点では、公式に?表明するか否かはともかく、日本ではなおも「マルクス主義哲学」の立場に立つ哲学・学者・研究者は多かったのではないか。その影響は、今日の比ではおそらくなかっただろう。
 この点は、1985-86年とソ連解体と日本共産党や「マルクス主義」の動揺のあとの2008-09年の、無視できない、学界を包む雰囲気の違いだろう。

1930/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質①。
(1)この時代のソヴィエトの文化生活の独自性は、たんにスターリンに特有の独特な個性によるのではなかった。
 その独自性は一口で言うと、国家・国民の文化は成り上がり者(parvenu、成金者)のそれだった、と要約できるかもしれない。-全ての独自性はほとんど完璧に、初めて権力を享有した者の心性、信条、および好みを表現している。
 スターリン自身が、この独自性を高い程度に例証していた。しかし、統治機構の全体にも特徴的なもので、その成り上がり者性は、スターリンがそれを一方では隷属状態へと変えながらも、スターリンを助け続け、彼の至高の権威を維持し続けた。//
 (2)ボルシェヴィキの古い守り手たちや従前の知識人たちが連続して粛清され、絶滅したあと、ソヴィエトの支配階級は主として、労働者と農民の出自をもつ個人で構成された。彼らは乏しい教育しか受けておらず、文化的背景をもたず、特権を渇望し、純粋な「世襲の」知識人たちに対する憎悪と嫉妬を溢れるほどもっていた。
 成金者の本質的特性は「見せびらかす」ことへの絶え間なき切望感だ。したがって、彼らの文化は見せかけ(make-believe)であり、粉飾(window-dressing)だ。
 彼らは、従前の特権階層の知的な文化の代表的なものを自分の周囲に見ているかぎりは、心の平穏を持たない。それから遮断されていたがゆえに、彼らはそれを憎悪し、ブルジョア的または貴族的だとして貶す。
 成金者は狂信的な民族主義者で、その母国や環境は他の全てより優れているという考え方に飛びつく。
 自分たちの言語は、彼らによれば、(他の言語を通常は知らないが)<とくに優れた>言葉で、自分の微少な文化的資源でも世界で最も洗練されたものだと自分や他者の誰をも納得させようとする。
 彼らは、<アヴァン・ギャルド的(avant-garde)>な文化的実験の雰囲気があるものや、創造的な新奇さをひどく嫌悪する。
 限定された傾向の「一般常識」的格言でもって生活し、その格言類について誰かが説明を求めてきたときには、怒り狂う。//
 (3)成金者の心性のこうした特質は、スターリニスト文化の基本的なところにも感知することができる。すなわち、民族主義、「社会主義リアリズム」という美学、そして権力システムそれ自体にすら。
 彼らは、権威に対する農民に似た卑屈さを、権威を分有しようという大きな欲求と結びつける。ある程度まで階層が上がってしまうと、上位者にはひれ伏しつつ下位の者たちは踏みつけるだろう。
 スターリンは成金者たるロシアの偶像であり、栄光の夢の具現者だった。
 成金国家には権力の階層と、従属者をむち打ってもなお崇拝される指導者が存在しなければならない。//
 (4)既述のように、戦前に徐々に増大していたスターリニズムの文化的民族主義は、戦勝後には巨大な形をとった。
 1949年、プレスは「コスモポリタニズム」、明確には定義されていないが反愛国主義を明らかに含んで西側を称賛する悪徳、に対抗する宣伝運動を開始した。
 この運動が展開するにつれて、コスモポリタン〔世界主義者〕はユダヤ人と全く同一だということがますます理解されてきた。
 個々人が嘲笑されたり、ユダヤ的に響く従前の名前を持っていたときには、こうしたことが一般には言及されていた。
 「ソヴィエト愛国主義」はロシア排外主義と区別がつかないもので、公的な熱狂症(mania)になった。
 宣伝活動によって、全ての重要な技術的考案や発明がロシア人によってなされた、ということが絶え間なく語られ、この文脈で外国人に言及することはコスモポリタニズムおよび西側に屈服する罪悪だとされた。
 <大ソヴェト百科辞典>は、1949年末からそれ以降に出版された。これは、半分は滑稽で、半分は気味の悪い巨大熱狂症患者の、比類なき例だ。
 例えば、歴史部門の「自動車」の項は、こう書き始める。「1751-52年に、Nizhny Novgorod 地方の農民であるLeonty Shamshugenov(q.v.)が二人で動かす自己推進の車を作った」。
 「ブルジョア」文化、つまり西側文化は、腐敗と頽廃の温床だとして継続的に攻撃される。
 例えば以下は、ベルクソン(Bergson)に関する記述内容から抽出したものだ。〔以下のBは原文どおりで「ベルクソン」の意味〕//
 「フランスのブルジョア哲学者。-観念論者、政治と哲学について反動的。
 Bの直観主義(intuitionism)は理性と科学の役割を軽視し、社会に関する神秘主義理論は帝国主義者の哲学の土台として寄与している。
 彼の見方は帝国主義時代でのブルジョア・イデオロギーの退廃、階級矛盾の増大に直面したブルジョアジーの攻撃性の成長、プロレタリアートの階級闘争の深化に対する恐怖、…<中略>を鮮やかに示している。
 資本主義の初期の全般的危機とその全ての矛盾の激化の時期に、唯物論、無神論、科学的知識の狂気じみた敵、民主主義の敵および階級的抑圧からの被搾取大衆の解放の敵として、その哲学をえせ科学的切り屑で偽装して…<中略>、Bは出現した。
 Bは、観念論を『新しく』正当化するものとして、『内的映像』による認識について生活、実践と科学によって以前にとっくに反証されている…<中略>、古代の神秘主義者、中世の神学者の見方を、提示しようとした。
 弁証法的唯物論は、直観という観念論的理論を、世界と現実に関する知識は何らかのきわめて感覚的な方法によってではなく人間性に関する社会歴史的な実践を通じて生まれる、という論駁し難い事実でもって拒否する。
 Bの直観主義は、不可避的に迫り来る資本主義の崩壊を前にした帝国主義的ブルジョアジーの恐怖と、現実に関する科学的な知識、とくにマルクス=レーニン主義の科学が発見した社会発展の法則が抗し難く意味するもの…<中略>から逃亡しようとする切実さを、表現している。
 Bは、民族の至高性の敵として、ブルジョア的コスモポリタニズム、世界資本主義の支配、ブルジョア的宗教と道徳を擁護した。
 Bは、残虐なブルジョアの独裁や、労働者を抑圧するテロリストの手段に賛同した。
 第一と第二の大戦の間に、この戦闘的な反啓蒙主義者は、帝国主義的戦争は『必要』でありかつ『有益』だと主張した…<以下略>。」//
 (5)もう一つ、以下は、「印象主義(Impressionism)」に関する記述内容だ。〔以下のIは原文どおりで「印象主義」のこと〕
 「19世紀の後半のブルジョア芸術における退廃的傾向。
 Iは、ブルジョア芸術の初期段階の退廃の結果で(<デカダンス>を見よ)、進歩的な民族的諸伝統と断絶したものである。
 Iの支持者は、『芸術のための芸術』という空虚で反民衆的な基本綱領を擁護し、客観的現実の真実に合った現実的な描写を拒否し、芸術家は自分の主観的な印象によってのみ記録しなければならないと主張した…<略>。
 Iの主観的観念論的見方は、哲学における現在の反動的趨勢の基本原理と関係がある。-新カント主義、マッハ主義(q.v.)等。これらは現実と感覚を、印象と理性を分離させた…<略>。
 人類、社会現象および芸術の社会的機能には無関心のままで、客観的な真実の諸規準を拒否することによって、Iの支持者は、現実の実像を崩壊させ、芸術の形態を喪失している…<中略>、そのような作品を不可避的に生み出した。」
 (6)ソヴィエト同盟の世界の文化からの孤立は、ほとんど完璧だ。
 西側の共産主義者の若干のプロパガンダ的作業は別として、ソヴィエトの読者たちは、小説、詩作、戯曲、映画、そして言うまでもなく哲学や社会科学の形態で西側が生み出しているものに関して、全く無知の状態に置かれたままだった。
 レニングラードのエルミタージュ(Hermitage)にある20世紀絵画の豊かな貯蔵作品は、正直な市民を腐敗させないように、地下室に置かれたままだった。
 ソヴィエトの映画や戯曲は、戦争と帝国主義に奉仕するブルジョア学者たちの仮面を剥ぎ取り、ソヴィエトの生活の無類の愉楽さを称賛した。
 「社会主義リアリズム」が至高のものとして支配した。もちろん、ソヴィエトの現実をその現実のままに提示する-これは生硬な自然主義かつ一種の形式主義になっただろう-という意味でではなく、自分たちの国とスターリンを愛するようにソヴィエト人民を教育するという意味でだが。
 この時期の「社会主義リアリズム」の建築物は、スターリン主義イデオロギーの最も権威ある記念碑だ。
 ここでもまた、支配的原理は「形式に対する内容の優越性」だった。但し、この二つが建築物についてどう区別されるのか、誰も説明することができなかったけれども。
 その影響は、いかなる場合でも、誇張されたビザンティン様式の尊大な正面〔ファサード〕を造ることだった。
 住宅がほとんど建設されておらず、大中の市や町の数百万の民衆が汚い中で群がって生活しているときに、モスクワや他の都市を装飾したのは、虚偽の円柱と上辺だけの飾りに満ちた、かつその大きさは「スターリン時代」の荘厳さに釣り合う、巨大な新しい宮殿だった。
 こうしたことはまた、建築分野での、典型的な成り上がり者様式だった。要約するならば、つぎのモットーになるだろう。すなわち、「大きいものは美しい」。//
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 ②へとつづく。

1896/小川榮太郎の「文学」・杉田水脈の「コミンテルン」②。

 まず、前回の余録。 
 杉田水脈は語る-「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳する」という「旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデル」。
 たしかに、たぶんレーニンではなくスターリンのもとで、子どもに両親(二人またはいずれか)の「ブルジョア」的言動を学校の教師とか党少年団の幹部とかに<告げ口>させるというようなことがあったようだ。
 どの程度徹底されたのかは知らない。しかし、東ドイツでも第二次大戦後に、夫婦のいずれかが片方の言動を国家保安省=シュタージに「報告」=「密告」していることも少なくなかったというのだから、現在日本では<想像を超える>。
 しかし、「ブルジョア」的言動か否かを判断できるのは日本でいうと小学生くらい以上だろうから、「保育所」の児童ではまだそこまでの能力はないのではないか。
 これはそもそも、産まれたヒト・人間を「社会」・「環境」がどの程度「変化」させうるのか、という基本問題にかかわる。だが、ともあれ、「保育所」の児童の「洗脳」を語る場合に、杉田水脈は具体的にどういうことを想定したのだろうか。
 さる大阪府豊中市内の保育園か幼稚園で、子どもたちにそのときの総理大臣に感謝する言葉を一斉に連呼させていた例も平成日本であったようだから、スターリン(様?)に対してか共産党体制に対してか、感謝を捧げ、スターリン・ソ連万歳!と言わせるくらいの「洗脳」はできるだろうが、杉田水脈はそれ以上に、何を想定していたのだろう。
 保育所児童がマルクス=レーニン主義を理解するのはまだ無理で、<歴史的唯物論>はむつかしすぎるのではないか?
 そうだとすると、ソ連が日本でいう小学生程度未満の「子供を家庭から引き離し」た目的は、その母親を労働力として利用するために「家庭」に置かない、「育児」のために「家庭で子どもにかかりきりにさせる」のではなく「外」=社会に出て、男性(子どもにとっての父親を含む)と同様に「労働」力として使うことにあったのではないか、と思われる。
 1917年末の立憲会議選挙(ボルシェヴィキ獲得票24%、招集後に議論なく解散)は男女を含むいわゆる普通選挙で、かつ比例代表制的な「理想」に近いほどの?方式の選挙だったともいわれる。
 したがってもともと、「社会主義」には男女平等の主張は強かったのかもしれないが、その重要な帰結の一つは、「(社会的)労働」も男女が対等に行う、ということだったと考えられる。
 かつまた、当時のソ連の経済状態からして、男性を中心とする「労働」だけでは決定的に足りなかった。囚人たちも「捕虜」たちも、労働に動員しなければならなかった。
 そのような状況では、子どもを生んだ女性たちの力を「家庭内で育児にほとんど費やさせる」余裕など、ソ連にはなかった、と思われる。
 100人の女性が多く見積もって200人の幼児・児童の「子育て」に各家庭で関与するよりも、20人の「保育士」が200人の幼児・児童を世話をする方が、5倍ほども「効率」がよい。-各家庭または母親等の「個性的」子育て・しつけはできないとしても。
 以上のようなことから、「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設」で受け入れる必要がまずあったのであって、「洗脳」は、幼児や保育園児童については二次的、三次的なものでなかっただろうか。
 私はソ連史、ヒトの乳幼児時期や育児論、に詳しくはないし、上の数字も適当なものだ。
 しかし、女性の「労働」環境がソ連と現在の日本とでは出発点から異なることを無視してはいけないように思われる。
 多数の女性が「社会」に進出して?「工場」等で「労働」するようになると、それなりの(女性の特有性に配慮した)「女性福祉」の必要が、ソ連においてすら?必要になる。
 一般的にソ連または社会主義体制は「福祉に厚い(厚かった)」という宣伝を、資本主義諸国の状況と単純に比較して、前者を「讃美」・「称揚」することはできないのだ。-このトリックをいまだに語る日本人は少なくない。
 ともあれ、杉田水脈の「思考」はまだ不足しているのではないか、ということだ。
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 かつて、つぎの本があり、上下二巻を私は面白く読んだ。
 遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫 1945-1970/上・下(麗澤大学出版会、2010)。
 文学または文芸分野の著作かにも感じられるが、しかし、著者は法学部出身で政党活動にも関係していたからでもあろう、タイトルの二人の言説の比較、経緯等をときどきの「政治」の世界とその歴史の中で位置づけ、論述していたのが興味深くて、かなり一挙に読み終えた。当時の自分の関心にも適合していたのだろう。
 だが翻って感じるのは、この遠藤浩一(故人)の仕事・著作は、いったいいかなる性格の知的営為であって、無理やり分けるとしていかなる<ジャンル>のものなのだろう、ということだ。
 日本戦後史の一部の「歴史研究」という意図があるいはあったかにも見える。「文芸」も「文芸評論」も作家の「小説」類も、歴史的叙述の対象に、それらを対象に限ったとしても、なりうる。しかし、著者は正面からその旨を謳ってはいなかった。
 むしろ、記憶に残る印象は、二人の文芸・文学「知識人」を素材にした、戦後の「政治」とその歴史の一端についての、遠藤による<物語>または<作品>だった、ということだ。
 最近までも含めて、「歴史」に関する書き物での、いったいいかなるレベルの叙述なのかが曖昧なものがきわめて多いように見える。
 単純に二分すると、歴史「研究」書又は歴史「研究」を基礎にした一般向け書物なのか、それとも歴史に関する「お話」、個人的に思いつきや思い込みを含めて書いた「物語」、あるいは後者を含む意味での、要するに歴史叙述に名を借りた「作品」か。(これらとは、最初から歴史「小説」と明言されているものはー「時代小説」も含めてー、史料を踏まえていても、もちろん区別され、別論だ。)
 むろん、このように単純化はできない。前者を歴史「学界」または「アカデミズム」の一員によるものに限るのもおそらくやや狭すぎる。
 井沢元彦の<歴史研究>をアカデミズムは無視するかもしれないが、単なるマニア、歴史好きのしろうと(私のような)では、この井沢はないだろう。
 しろうとよりは多数の知識をもっていて「専門家」とすら自己認識している可能性すらあるようにも見える八幡和郎は、しかし、日本史の「専門家」では全くないだろう。歴史好きの平均的なしろうと(私のような)よりは「かなりよく知っている」程度にとどまると思われる。
 長々と余計なことを書いているようでもあるが、「歴史」に関する話題に収斂させたいのではない。
 小川榮太郎の文章を読んでいて興味深く思うのは、「文論壇」とか「文・論壇」とかのあまり見たことがない言葉が用いられていて、どうやら「文壇と論壇」を合わせたものを意味させているようであることだ。
 小川はどうも主観的には、「文壇」と「論壇」の両方で活躍??しているつもりらしい。
 先に遠藤浩一の著について感じた、これはいかなる性質の、どの分野の言述なのか、が小川榮太郎についても問題になりうる。
 いかほどに深く、この点を小川榮太郎が思考しているかは、疑わしい。
 <文学的に政治を語る>のは、より正確には<文学・文芸評論家の感覚で政治そのものを論じようとする>のは、そもそも間違っているのではないか。
 いや、小林秀雄も、福田恆存も、あるいは三島由紀夫も、とか小川は言い出すかもしれない。しかし、あくまで現時点での個人的な印象・感覚だが、これら三人は、<文学・文芸>の分限とでもいうべきものを弁えており、<政治そのもの>に没入はしなかった。
 むろん三島由紀夫の自衛隊・市ヶ谷での1970年の行動は、<政治そのもの>であって、<文学・文芸>の分限を超えるものであることを三島自身は深く自覚・意識していたに違いない。このような意味で、同じ人間が時機や特定の言動について、二つの異なる世界を生きることはあるが、同じ人間が同じ時機と同じ言動によって異なる二つの世界を生きることを(三島由紀夫はかりに別論としても)、小林秀雄も福田恆存も慎重に避けていたのではないだろうか。
 小川榮太郎が<文学的に政治を語る>のは、より正確には<文学・文芸評論家の感覚で政治そのものを論じようとする>のは、間違っているのではないか。
 むろん、「文学・文芸評論家」ではなく、「政治評論家」あるいはさらに「政治活動家」として自分は言動している、と言うのであれぱ、それでよい。それで一貫はしている。
 (つづく)

1895/小川榮太郎の「文学」・杉田水脈の「コミンテルン」①。

 2018年9月の新潮45<騒動>の出発点となったのは杉田水脈の文章で、それを大きくして決着をつけた?のは、小川榮太郎の文章。
 2年近く前の小林よしのり、ちょうど1年前の篠田英朗。タイミングを失して、この欄に書こうと思いつつ果たしていないテーマがある。
 新潮45問題に関して気になっていたことを、ようやく書く。時機に後れていることは、当欄の性格からして、何ら問題ではない。
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 原書・原紙で読んだわけではないが、杉田水脈はこう書いている。ネット上で今でも読める。
 産経新聞2016年7月4日付、杉田・なでしこリポート(8)。
 「保育所を義務化すべきだ」との主張の「背後に潜む大きな危険に誰も気づいていない」。
 「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳する。旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデルを21世紀の日本で実践しようとしている」。
 一部かと思っていたら「数年でここまで一般的な思想に変わってしまう」とは驚きだ。
 「旧ソ連崩壊後、弱体化したと思われていたコミンテルンは息を吹き返しつつあります。その活動の温床になっているのが日本であり、彼らの一番のターゲットが日本なのです」。
 「これまでも、夫婦別姓、ジェンダーフリー、LGBT支援-などの考えを広め、…『家族』を崩壊させようと仕掛けてきました。…保育所問題もその一環ではないでしょうか」。
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 2018年の「生産性」うんぬんの議論の芽は、ここにすでに見えている。
 この言葉とこれに直接に関係する論脈自体は別として、秋月瑛二は上のような議論の趣旨が分からなくはない。また、一方で、「保守」派はすぐに伝統的「家族」の擁護、<左翼>によるその破壊と言い出す、という<左>の側からの反発がすぐに出るだろうことも知っている。
 戦後日本の男女「対等」等の<平等>観念の肥大を、私は懸念はしている。
 しかし、上のようなかたちでしか国会議員が論述することができないということ自体ですでに、「知的」劣化を感じざるをえない。
 第一に、現在日本での「保育所」問題あるいはとくに女性の労働問題と「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳する。旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデル」とを、あまりに短絡に結びつけているだろう。
 百歩譲ってこの「直感」が当たっているとしても、その感覚の正当性をもっと論証するためには、幾十倍化の論述が必要だ。旧ソ連の「子育て」・労働法制(または仕組み・イデオロギー)と日本の現下の保育所を含む児童福祉・労働法制等の比較・検討が必要だ。
 そのかぎりで、杉田水脈は一定の「観念」にもとづいて、「思いつき」でこの文章を書いている。
 第二に、唐突に「コミンテルン」が出てくる。これはいったい何のことか。
 杉田水脈が「旧ソ連崩壊後、弱体化したと思われていたコミンテルンは息を吹き返しつつあります。その活動の温床になっているのが日本であり、彼らの一番のターゲットが日本なのです」と明記するには、それなりの根拠あるいは参照文献があるに違いない。
 いったい何を読んでいるのだろうか。また、その際の「コミンテルン」とはいかなる意味か。
 「コミンテルン」を表題に使う新書本に、この欄でまだ論及するつもりの、以下があった。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この本で江崎は戦争中の「コミンテルンの謀略」を描きたかったようだが、そして中西輝政が本当に読んだのかが決定的に疑われるほどに(オビで)絶賛しているが、江崎自身が中で明記しているように、「コミンテルンの謀略」とはつまるところ「共産主義(・マルクス主義)の影響」の意味でしかない。タイトルは不当・不正な表示だ。
 「謀略」としてはせいぜいスパイ・ゾルゲや尾崎秀実の「工作」が挙げられる程度で、江崎自身が、無意識にせよ、客観的にはソ連・共産党を助けることとなった言論等々を含むときちんと?明記している。
 上の本は正式には<共産主義と日本の敗戦>という程度のものだ。しかも、延々と明治期からの叙述、聖徳太子に関する叙述等々があって、コミンテルンを含むソ連の「共産主義者」に関する叙述は三分の一すらない。
 さて、杉田水脈における「コミンテルン」も、何を表示したいのだろうか。
 しかも、これは「弱体化したと思われていた」が「息を吹き返しつつあ」るもので、しかも、「一番のターゲットが日本」なのだとすると、本拠?は日本以外にあり、かつ日本以外にも攻撃対象になっている国はある、ということのようだ。本部は中国・ペキンか、それともロシア・モスクワか。ひょっとしてアメリカ・ニューヨークにあるのか。
 これは、「コミンテルン」=共産主義インターナショナルという言葉に限ると、<デマ>宣伝にすぎない。この人の「頭の中」には存在するのだろう。
 左にも右にもよくある、<陰謀>論もどきだ。
 ロシア革命が「原因」でヒトラー・ナツィスの政権奪取があったとする説がある。なお、レーニン・十月革命(10月蜂起成功)ー1917年、ヒトラー・ミュンヘン蜂起失敗ー1923年。
 両者の<因果関係>は、間違いなくある。ほんの少し立ち入ると、両者をつなぐものとしてリチャード・パイプス(Richard Pipes)もかなり言及していたのは<シオン賢人の議定書>だ。記憶に頼って大まかにしか書けないが、これは当時に刊行のもので、ロシア・十月革命の原因・主導力を「ユダヤの陰謀」に求める。又はそのような解釈を積極的に許す。かつ、その影響を受けたドイツを含む欧州人は「反ユダヤ人」意識を従来以上に強くもつに至り、ヒトラーもこれを利用した、また実践した、とされる(なお、いつぞや目にした中川八洋ブログも、この議定書(プロトコル)に言及していた)。
 理屈・理性ではない感情・情念の力を無視することはできないのであり、中世の<魔女狩り>もまた、理性・理屈を超えた「情念」あるいは「思い込み」の恐ろしさの表れかもしれない。
 現在の日本の悪弊または消極的に評価する点の全てまたは基本的な原因を、存在してはいない「コミンテルン」なるものに求めてはいけない。もっときちんと、背景・原因を、そして戦後日本の政治史と社会史等々を論述すべきだ。
 <左翼>は右翼・ファシスト・軍国主義者の策謀(ときにはアメリカ・CIAも出てくる)を怖れて警戒の言葉を発し、<右翼・保守>は左翼の「陰謀」に原因を求めて警戒と非難の言葉を繰り返す。
 要するに、そういう<保守と左翼>の二項対立的な発想の中で、左翼またはその中の社会主義・共産主義「思想」を代言するものとして、おそらく杉田水脈は(まだ好意的に解釈したとしてだが)、「コミンテルン」が息を吹き返しつつある、などと書いたのだろう。
 産経新聞編集部もまた、これを簡単にスルーしたと思われる。産経新聞社もまた、江崎道朗と同様に?、「コミンテルンの陰謀」史観に立っているとするならば、当然のことだ。
 共産主義あるいはマルクス主義・社会主義に関心を寄せるのは結構なことだが、簡単にこれらを「観念」化、「符号」化してはならない。
 歴史と政治は多様で、その因果関係もまた複雑多岐で、「程度・範囲・濃度」が様々にある。
 幼稚な戦後および現在の「知的」議論の実態を、杉田水脈の文章も、示しているように思われる。

1823/岩波書店のロシア革命・ソ連<講座>(2017-)。

 ロシア革命とソ連の世紀(岩波書店、2017~)という<講座もの>が出版されていることは知っている。その第1巻冒頭にある「編集委員一同」による「刊行にあたって」という二頁ぶんの文書を読んで、昨秋にすでに、個々の論考をまじめに熟読する気持ちが失せている。
 ロシア革命とソ連の世紀/1・世界戦争から革命へ(岩波、2017年6月)。
 おそらく各巻冒頭に掲載されているのだろう。
 「ソ連の『革命』は無意味ではなかった」と<意味>と<無意味>の違いを判別させないままで突如として断定して、つぎのように、<ロシア革命>または<社会主義(的近代化)>には<よい面もあった>と述べている。
 どうやら、三点を列挙しているようだ。以下、できるだけ直接に引用する。
 ①「少なくとも一時的にはソ連と東欧の生活水準を大きく向上させ、先進資本主義諸国の福祉国家化を促した」。〔正確には、「…促した面がある」。〕
 ② 「旧ソ連諸国に深い影響を残し」、「中国など新たに超大国・地域大国を目指す国々には参照材料を提供し続けている」。
 ③「ソヴィエト政権の『民族自決』『民族解放』の訴えとその実現への取り組みは、植民地下にあった諸民族を鼓舞し、…大戦後の旧植民地諸国の独立に大きな影響を及ぼした」。
 こう書いている「編集委員一同」とは、つぎの6人のようだ。
 
松戸清裕、浅岡善治、池田嘉郎、宇山智彦、中嶋毅、松井康浩
 上の三点には、強い疑問をもつ。
 第一に、上の②は果たして肯定的、積極的に評価できるものなのか自体が疑わしい。
 「超大国・地域大国を目指す国々」を肯定的に評価しないかぎりは、こんな文章にならないだろう。
 結局のところ、「編集委員一同」には中国(中華人民共和国、共産中国)は積極的・肯定的に捉えられているとしか思えない。
 そうでなければ、ここにいう「参照材料」の「提供」とは、悪い影響だろう。
 第二に、いずれまたこの点はこの欄で記述してみたいのだが、上の①は<真っ赤なウソ>だろう、と感じている。
「少なくとも一時的には」と書いているが、いつ、いったいどの時期・年代に「ソ連と東欧の生活水準」が「大きく向上」したことがあったのだろうか?
これを歴史的に統計的かつ実証的に明らかにできなければ、歴史学者としては失格だろう。
 上のようなことがしばしば言われてきた(現にこの講座の編集者もそう書いている)ことは承知している。
 しかし、これはソヴィエト体制側による<プロパガンダ>であったのであり、実態・実体・実際とは異なっていただろう、と想定している。
 ソ連の場合、「生活水準」が「大きく向上」したことはあったのだろうか。
 1917年の<十月革命>後にただちに<内戦>が始まり、そして<ネップ期>だ。
 一部の「ネップマン」および正確な意味での「プロレタリア-ト」階層の一部はある程度生活・経済状態が良くなったかもしれないが、国民または民衆全体を見ると決してそうではないだろう。
 では、スターリンによる農業の<強制的集団化>の時期かそれとも<大テロル>の時期かそれとも<第二次世界大戦>の時期か。
 あるいは、「ソ連と東欧の生活水準」が「大きく向上」したのは第二次大戦後だった、スターリン死後の「緩和期」だったとでも言いたいのだろうか。
 北朝鮮でも一般民衆・一般国民の「生活水準」など無関係に核兵器やミサイルの開発や建設をしているのだから、いかにソ連が<宇宙競争>でアメリカに先行した時期がかりにあったとしても、一般国民の「生活水準」とは直接の関係はない、と考えられる。
 それにもともと「生活水準」に関して、ソ連や東欧諸国が対外的に発表していた資料・統計数字等々は全くデタラメだった可能性が高い。
 「労働者・貧農の天国」などは真っ赤なウソ。プロパガンダの最たるものだろう。
 資本主義国に比べて失業がない(なかった)とよく言われる(言われた)が、少なくとも事実上<仕事を割り当てられる>のであれば、つまりそういう<強制労働>体制下では、「失業」など論理的にありえないのは当然だろう。
 また、<高福祉>などとも言われる(言われた)が、そもそも、何度にもわたる飢饉による厄災に体制側の責任はなかったのか。
また例えば、生存にギリギリの生活をしているふつうの庶民に子どもを学校に通わせる潤沢な経済的余裕があるはずはない。
また、幼少期から「共産主義」教育(ひとによれば<洗脳>とも言われる)を行いたい国家・体制側が、親や保護者から教育費用をまき上げるわけにもいかないだろう。
 かりに病気治療等々が「無料」だったとしても、それは現・旧の「社会主義」国の方が「福祉」が進んでいた(進んでいる)時期があったいうことの、何の論証にもなりはしない。まさに<治安>対策としての原始的<福祉>政策だったのではないか。
 上の③もおかしい。
 別にまた書くが、ソヴィエト連邦の解体して、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ジョージア、ウズベキスタン、カザフスタン等々が、ほとんど自然に、大した混乱もなく独立国家になったというのは、つまりは、ソヴィエト連邦時代に、これらの国家を形成する「民族」の自立性が抑制されていたことの明瞭な証拠だろう。
 レーニンらの言った「民族自決権」の意味については、すでにL・コワコフスキ、R・パイプス、S・フィツパトリクも論及している。
 レーニンらソ連の歴代指導者が「民族自決権」一般を承認し、それでもって第二次大戦後に独立国家が増加した、などというのは真っ赤なウソだ。
何とかロシア革命と「社会主義」の夢を守りたいという一心が、この「編集委員一同」の「刊行」の言葉にはあるようだ。
 こんなに簡単に<結論>が提示されている<講座もの>も珍しいのではないか。
 もちろん、編集委員全員が熟考し何度も検討して作成されたものではないだろう。
 日本共産党の党員かもしれない上の6名のうちの誰かが(複数でありうる)、年齢または地位を利用して他の編集代表に事実上「押しつけた」可能性はある。
 また各巻の個々の論考がこのような<所定の結論>とは関係がない、またはそのまま採用することはしていない内容になっていることはありうる。
 しかし、何といっても、岩波書店がロシア革命100周年に当たって発行した<講座>ものだ。さすがに、<岩波書店>的だ。
 あるいはそもそも、日本の<ソヴィエト学>自体が全体として<岩波的容共>だつた(である)可能性も否定できない。
 上で日本共産党という言葉を出したのは、同党はこんなことを言っているようだし、また日本共産党員らしき学者の中には、上の三点と似たようなことを「社会主義」について書いている者もいるからだ。いずれ、この点にも立ち入るつもりだ。

1779/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑫。

 <マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、第四に、明確な<間違い>もある。
 その原因になっているのは、要するに、この人の「無知」だろう。
 この著とは、つぎで、<マクダーマット・アグニュー本>とはその下。
  江崎・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史-レーニンからスターリンへ(大月書店、1998)。
 =Kevin McDermott & Jeremy Agnew, The Comintern - A History of International Communism from Lenin to Stalin - (McMillan Press, 1996)。
 (1)「民主集中制」と「プロレタリア独裁」の同一視!
 江崎道朗はp.78で加入条件テーゼ12条がコミンテルン構成の各共産党は「民主的中央集権制」という組織原理にもとづくべきことを定めているのを引用しつつ、「第12条は党中央が全権を握る、プロレタリア独裁の宣言である」と書く。
 ああ恥ずかしい。プロレタリア-ト(プロレタリア)独裁とは共産党の内部で「プロレタリア」が「独裁」することなのか?
 江崎には、共産主義・共産党に関する基礎的知識もない。この部分では、レーニンの共産党・組織原理とマルクスにもあった「プロレタリアートの独裁」の区別がついていない。
 なお、江崎はp.71で「第1条」の中に「プロレタリア-トの執権」という語をそのまま引用して紹介しているが、間違いなくこの人は「プロレタリア独裁」と「~執権」が元来は同じ言葉であることに気づいていないだろう。
 (2)「社会愛国主義」は「愛国心」持つことだとする!
 江崎道朗はp.75で同6条が「露骨な社会愛国主義」を厳しく批判しているのを引用紹介しつつ、この意味は「自分の国を守ろうという愛国心」を「絶対に認めない」ということだ、とする。
 ああ恥ずかしい。この人は、「社会愛国主義」(または社会排外主義)とはレーニンらボルシェヴィキ・ロシア共産党側が自国の第一次大戦への参戦を支持したとくにドイツの「社会民主主義」者を批判するために作った言葉であることを知らない(「社会主義的愛国主義」と訳されてもよく、「社会主義」者なるものが称する(ニセの)愛国主義」と理解されてもよいものだ)。
 「社会」が付いているにもかかわらず、「愛国主義」の一種だと文学的に?解釈して、堂々と?コメントしているのだ。
 (3)軍隊内への浸透は「武力による暴力革命」を大前提?
 江崎道朗はp.75で同6条が「軍隊内」での「ねばりづよい、系統的な宣伝」を要求しているのを引用紹介しつつ、共産党が?「何より『武力による暴力革命』を大前提とする政党であることが、この条文からも明らかである」と書く。
 これも恥ずかしいだろう。<共産党=暴力革命>という図式をこの人は宣伝したいようで、そのためには何でも利用する(?)。
 「軍隊」に着目しているのは「暴力」装置だからだろうか。しかしそのことと、『武力による暴力革命』を大前提とするということとは論理的関係はない。「軍隊」を使っての「暴力革命」を想定しているのだ、という趣旨か?
 いずれにせよ、この条文から「明らかである」とするのは間違い。
 なお、江崎道朗も含めて、日本の「保守」派が(否定的・消極的に)しばしば用いる「暴力革命」なるタームの正確・厳密な意味について、検討が必要だ。ここでは立ち入らない。
 (4)「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と同一視!
 江崎道朗はp.79で同14条がコミンテルン加入希望党は「反革命勢力に対する各ソヴェト共和国の闘争」を支持する必要を定めているのを引用紹介しつつ、「ソ連への忠誠を求める規定である」と明記する。
 また、「ソヴィエト連邦に対する絶対の忠誠心を持たなければならない」とも重ねて説明し、かつまた、日本の共産主義者が「ソ連や中国共産党」を支持したのは「この方針から」だとする。
 ああ恥ずかしい。悲惨だ。
 ロシア革命によって「ソ連」が誕生したとこの著の冒頭で書いていた江崎道朗は、ひょっとすれば「ソヴェト」と「ソヴェト(ソヴィエト)連邦」=「ソ連」の区別がついていないのではないか、と危惧していたが、どうやら当たっていたようだ。
 このテーゼが発表・採択されたのは1920年夏で、まだ「ソヴィエト連邦」は結成されていない。また、「中国共産党」も生まれていない(日本共産党も)。
 まだ存在していないものに対する「忠誠心」や「支持」を江崎は語ることができると考えているらしい。相当の空想力だ。
 正確には確認しないが、ここでの「各ソヴェト共和国」とは、1917年「十月革命」てできた(またはそれを翌年に改称した)ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国を構成する、「各ソヴェト共和国」だと見られる。
 このロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国がさらにいくつかのソヴェト社会主義連邦共和国(ベラルーシ、ウクライナ等)とさらに「連邦」して、1922年に、「ロシア」等の地域名を持たない、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が設立された。
 こういう経緯があるからこそ、もともとのロシア(本域)からすれば、<シベリア行き>は「国外追放」処分であり「流刑」なのだ。ロシアからすれば、シベリア、ウラル、今の中央アジア地域は完全に「外国」だったのだ。
 江崎は「各ソヴェト共和国」という言葉を見て、「各」を無視して、「ソヴェト連邦」と類推したようだ。そのあとでたぶん「各」に気づいて、「中国共産党」も加えたのだろう。
 上で言及しなかったが、江崎は上の説明につづけてこう書く。p.79。
 「コミンテルンに所属するということは、ソ連や中国など外国に忠誠を誓うことなのだ」。
 ああ恥ずかしい。コミンテルンは1919年に設立され、上のテーゼが論じられた第二回大会は1920年。繰り返すが「ソ連」はまだない。それに、この時点で忠誠の対象だという「中国」とはいったい何のことなのだ? 新生・中華民国のことか?
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 第五に、<マクダーマット・アグニュー本>の「付属資料」を使っての江崎道朗・1917年8月著の説明・コメントには、あるいはその近辺には、矛盾した説明・論述等がいくつもある(明確な間違いに含めてもよいものもある)。以下は、その例。
 (1)p.72で「加入条件」テーゼは「コミンテルンに加入した場合、何をしなければならないのか、具体的に示した」ものだとする。一方、p.80は、「加入するための条件」だとする。両者は意味が異なり、後者が正しい。
 (2)p.67で「民族問題」テーゼ第四項を引用紹介しているが、p.91以下では別の本を直接引用して、この項の「解説」をさせている。
 離れていると読者は忘れると思っているのか、相互の参照を要求していない。
 別の本とはクルトワら・共産主義黒書/アジア篇だ。江崎道朗は、p.67の辺りでは<マクダーマット・アグニュー本>を「下敷き」にし、p.91辺りではこの<クルトワら本>を「下敷き」にしているのだと思われる。
 「下敷き」にしている本の違いによって、共産主義・共産党・コミンテルンに対する論調がやや変わるのも、江崎らしいところだ。
 (3)p.53で、「プロレタリア独裁によらないかぎり平和にならない」、「平和とは」「共産党による独裁政権を樹立」することを「意味する」、と一気に書く。
 この両者は、方法と結果がほとんど反対だ。なぜこんな日本語文章を平気で書けるのか、本当に信じ難い。
 (4)他にも類似表現はあるが、p.80で「これらがコミンテルンに各国の共産党が加入するための条件である」と書く。
 「加入するための条件」だとするのは上に記したように誤っていない。しかし、「各国の共産党」の存在を前提にしているようであって、この点は<間違い>。
 この点は、そもそもコミンテルンとは何か、どのような経緯でこれは設立されたのか、レーニンらが「加入条件」を定める必要がある具体的環境・状勢はどうだったか、が理解できていないと、したがって、江崎道朗には、理解が困難なのだろう。
 あらためて前回に第三として論及した「加入条件」について触れたいとは思っている。
 江崎道朗が完全にスルーしているのは、コミンテルン加入の条件のきわめて重要な一つは各国の「コミンテルンに所属することを希望する全ての党」は「共産党」と名乗ることが義務づけられる、ということだ(加入条件第17項)。1922年の設立という「日本共産党」の名称も、これによる(同時に「コミンテルン~支部」となることも定められている)。
 「社会民主党」・「社会主義党」・「労働党」という名称(のまま)ではコミンテルンの一員にはなれない。
 この点は、評価は分かれるのかもしれないが、ロシア以外の<社会主義党派>または<社会主義運動>に分裂を持ち込んだ(ロシアでのボルシェヴィキとメンシェヴィキの古い対立のように)とも言われる。あるいは、<純粋で正しい>党を抽出することになった、のかもしれない。
 いずれにせよ、江崎は分かっていない。
 すでにこの欄に書いたように、江崎道朗にとって、共産主義、共産党、コミンテルン等々は全部同じであって、区別する必要を感じていないのだ。
 これで江崎道朗には、現在にまで流れているという「共産主義」に対する「インテリジェンス」を語る資格があるのだろうか。
 今回の諸指摘を、きちんと理解してもらえるとよいのだが。/つづく。

1772/江崎道朗・2017年8月著の悲惨と無惨⑨。

 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)
 この本での、江崎道朗の大言壮語、つまり「大ほら」は、例えば以下。
 ①p.7「本書で詳しく描いたが、日本もまた、ソ連・コミンテルンの『秘密工作』によって大きな影響を受けてきた」。
 ②p.7-8「コミンテルンや社会主義、共産主義といった問題を避けては、なぜ…、その全体像を理解するのは困難なのだ。本書は、その『全体像』を明らかにする試みである」。
 ③p.15「ソ連・コミンテルンによる『謀略』を正面から扱った本書が、…ならば、これほど嬉しいことはない」。
 ④p.95「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」。
 秋月瑛二のコメント。番号は上に対応。
 ①-「本書で詳しく描いた」というのは本当か?
 ②-「全体像を明らかに」する<試み>をするのはよいが、どの程度達成したと考えているのか。
 ③-「謀略」を「正面から扱った」? いったいどこで?
 ④-なるほど「本書で使っている」資料は全て公開されているのだろう。しかし、コミンテルンに関する「公開」資料のうち、いかほどの部分を江崎は「使って」、「しっかり読み込んで理解」しているのか。江崎のコミンテルンに関する資料・史料の使い方・読み方は、後記のとおり、かなり偏頗だ。
 「公開」資料の全てまたはほとんどを「しっかり読み込んで理解」しているとは思われないので、江崎道朗は「インテリジェンスの第一歩」も踏み出していないことになるだろう。
 この部分はまるで、江崎が「公開」コミンテルン資料を全て又はほとんど読んでいるかの印象も与えるが、これは<大ウソ>。
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 1919年に設立された共産主義インターナショナル(コミュニスト・インター)=コミンテルンについて、「しろうと」にすぎない秋月瑛二ですら、次のようなことは指摘できそうだ。
 第一。共産党-国家(社会主義ロシア・ソ連)-コミンテルンという関係・連関の中で理解する必要がある。
 コミンテルンは共産党や国家(1922年以降のソ連)の対外・外交・戦争政策と深い関係がある。したがって、コミンテルンのみに関して著述がされていなくても、レーニン、スターリンあるいはロシア・ソ連共産党あるいはソヴィエト共産主義に関する(主として歴史)叙述の中で併せてコミンテルンにも言及される、ということがしばしばある。
 江崎道朗は「コミンテルン」をタイトルにする書物だけを検索し参照したとすれば、根本的に間違っている、と言うべきだろう。
 上のことは、共産党やロシア国家の基本的政策・方針が変われば、あるいは揺れれば、コミンテルンのそれも容易に変動するという関係にある、ということでもある。コミンテルンだけを独自の「変数」として取り扱うのは危険だ。
 しかし、共産党=(1922年以降の)ソ連=コミンテルン、と単純に理解することもできない。
 平井友義・三〇年代ソビエト外交の研究(有斐閣、1993)というソ連史アカデミズム内とみられる書物がある。
 目次から安易に引用すると、まず、「第一章/ナチス政権の出現とソ連の対応」の第一節は「ソ連、コミンテルンおよびナチズム」という見出しだ(p.17)。
 当然のようだが、「ソ連、コミンテルン」と<別に>語っていて、両者を一括していないことを確認しておきたい。(江崎道朗とは違って)研究者・学者では常識的なことなのだろう。
 つづくのは、「第二章/コミンテルンにおけるソ連ファクター」だ(p.68-)。そしてここでは、コミンテルンの戦術・方針が「ソ連ファクター」内部での論争によって揺れ動いていることが叙述・分析されているように見える。
 ともあれ、江崎道朗が叙述するのとはまるで異なる次元の、研究・分析の世界があることを、江崎は知らなければならない。
 第二。コミンテルンもまた、歴史的に変遷している可能性がむろんあるのであって、単色で一貫させることはできない。
 「しろうと」的には、少なくとも、①レーニン時代、②スターリン時代の1935年頃まで、③スターリン時代の、1935年のコミンテルンの大きな方針転換(議長はディミトロフ)-「人民戦線」・「反ファシズム統一戦線」への転換-以降。
 すでに書いてしまうと、上の本での江崎のコミンテルンに関する叙述は、ほとんどが上の①、部分的には②あたりにまで焦点を当てすぎているようだ。
 そして、江崎が下記の資料・史料を用いるのはこのあたりの時期のコミンテルンについてであって、重要な上の③については、論及はあるが(江崎p.231以下)、本格的には、あるいはきちんとは叙述していない、と考えられる。
 大雑把には、1920年代、1935年まで、1935年以降と三期に分ける必要があるかもしれない。だが、江崎の上の本のコミンテルンの叙述の仕方には、こうした注意深さはない。
 さらについでに書いてしまうと、前回触れたようにコミンテルンの現在まで続く「流れ」に触れながら、おそらくどこにも、これの後継組織に近いと常識的には理解できる<コミンフォルム>への言及がないようだ。
 戦後の日本共産党史にとって、つまりは1950年頃に同党に対して重要な影響を与えた<コミンフォルム>への言及がおそらく全くないとは、いかに戦前の歴史に対象を限っているとしても、不思議なことだ。
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 江崎道朗が上の本で参照している、または「下敷き」にしている、コミンテルンに関する史料・資料となる書物は、おそらく以下に限られている。しかも、多くは①によっている
 ①ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)。
 ②ジェーン・デグラス編著/荒畑寒村ほか訳・コミンテルン・ドキュメントⅠ-1919~1922(現代思潮社、1969)
 ③ステファヌ・クルトワら・共産主義黒書-犯罪・テロル・抑圧-<コミンテルン・アジア篇>/高橋武智訳(恵雅堂出版、2006)
 上記のとおり、江崎道朗は「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」と豪語?しているが、何のことはない、この人が読んで(見て)いるのは、これらだけだと思われる。しかも、繰り返せば、ほとんどは、上の①だ。
 江崎道朗による①への依拠ぶりを、<マクダーマットら/萩原直訳・コミンテルン史(大月)>からの直接引用らしき行数をメモしておこう。
 p.50-10行、p.58-2行、p.58-59-4行、p.61-62-3行、p.65-66-9行、p.67-5行、p.68-8行、p.69-70-8行、p.71-72-計16行、p.73-74-計8行、p.75-76-計11行、p.77-5行、p.78-79-計10行、p.80-2行。
 コミンテルンの大会決定・規約等々のそのままの引用だが、これらを単純に合計すると、合計で102行になる。1頁が15行分なので、合計するとほとんど7頁が、つまりは30頁ほどの範囲の約4分の1がこの本からの直接引用で占めているようだ。
 もちろん、この前後に、この本を参照した、または<下敷き>にした、江崎道朗自身の文章が挿入されている。これを合わせると、大雑把にはやはり30頁ほど以上はこの本の影響を受けている。
 たしかに-以下のソースの問題はあるが-引用部分は重要かもしれない。しかし、既述のように、初期の(レーニン時代の)、かつ表向きだけのコミンテルンの公式文書だけを見て、コミンテルンを理解することはできない、と考えられる。
 それにもともと、ケヴィン・マクダーマット=ジェレミ・アグニュー/萩原直訳・コミンテルン史(大月書店、1998)とは、いかなる、いかほどに信頼できる書物なのだろう。
 史料・資料自体は、引用部分に限っては、正確なのかもしれない。
 しかし、この邦訳書を見ると、江崎が引用する典拠としている<付属資料>部分は33頁しかない(p.295~p.327。本文等も含めて、この著の邦訳書自体は計380頁足らず)。
 また、コミンテルンの19の文書だけが資料として添付、掲載され、かついずれも「抜粋」でしかない。
 要するに外国人(イギリス人)著者の二人が選抜した決定等文書19のうちの、かつ彼らが行った「抜粋」なのだ、と思われる(日本人訳者の介在・関与の程度・部分は必ずしも明瞭でない、p.295を参照)。
 その選別や「抜粋」に江崎道朗の判断、選択が加わっているはずはないだろう。
 そういう<狭い>範囲の中から、さらにその一部を江崎は<引用>し、おそらくは自分の説明や叙述の<下敷き>にしている。
 では、この二人は何者なのか(なぜ、大月書店が萩原直訳で出版したのか)、かつまた、コミンテルンに関する「公開」の、つまり日本語で読める翻訳資料・史料は、これ以外になかったのか。要するに、いかほどに江崎道朗は、コミンテルンに関する(日本語のものに限っても)資料・史料の探求を試み、「読み込んで」、「理解」しているのか。
 「政治」評論家・江崎道朗の<安直さ>が-見方によれば、悲惨さと無惨さが-この部分についても、明らかになるだろう。/つづく。

1735/江崎道朗・コミンテルンの…(2017)⑤。

 先に江崎道朗の以下の本は目次の前の「はじめに」冒頭の第二文から「間違っている」と書いた。
 この本は、その第一章の本文の第一文からも「間違っている」。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 「第一章/ロシア革命とコミンテルンの謀略」の最初の文。p.30。
 「アメリカでは、今、近現代史の見直しが起こっている」。
 「今」とは、2016-17年のことだろうか。
 そうではなく、続く文章を読むと、1995年のいわゆる「ヴェノナ文書」の公開以降、という意味・趣旨のようだ。
 「見直し」という言葉の使い方にもよるが、アメリカの近現代史について、より具体的には戦前・戦中のアメリカの対外政策に対する共産主義者あるいは「ソ連のスパイたち」による工作の実態については、1995年以降に知られるようになったわけでは全くない。
 江崎は能天気に、つぎのように書く。p.30。
 1995年の「ヴェノナ文書」の公開により、「…民主党政権の内部にソ連のスパイたちが潜み、…外交政策を歪めてきたことが明らかになりつつある」。
 「明らかになりつつある」のではなく、とっくにそれ自体は「明らかだった」と思われる。より具体的な詳細に関する実証的データ・資料が増えた、ということだけのことだ。
 中西輝政らによる「ヴェノナ文書」の邦訳書の刊行をそれほどに重視したいのだろうか。
 1995年以前からとっくに、アメリカの軍事・外交政策に対するソ連(・ソ連共産党)やアメリカ内部にもいる共産主義者の影響・「工作」は知られていた。 
 江崎道朗のために関係文献を列記しようかとも思ったが、手間がかかるのでやめる。
 思いつきで書くと、例えば、戦後一時期の<マッカーシーの反共産主義運動>(マッカーシズム)はいったい何だったのか。
 アメリカには戦前・戦中に共産党および共産主義者はいなかったのか。アメリカ共産党が存在し、労働組合運動に影響を与え政府内部にも職員・公務員として潜入していたことは、当の本人たちがのちに語ったことや、先日に列挙した総500頁以上の欧米文献の中にH・クレアのアメリカ共産主義の全盛期を1930年代とする書物があり、1984年に出版されていることでも、とっくに明らかだった。 
 アメリカ人、アメリカの歴史学者を馬鹿にしてはいけないだろう。日本における以上に、コミンテルン、共産主義、チェカの後継組織等に関する研究はなされていて、江崎道朗が能天気にも<画期的>なことと見ているくらいのことは、ずっと以前から明らかだったのだ。
 昨年・2017年に厚い邦訳書・上下二巻本が出た、H・フーバー(フーヴァー)の回顧録を一瞥しても、明らかだ。
 自伝でもあるので、H・フーバー元大統領(共和党)は戦後になって後付け的にF・ルーズベルトを批判している可能性も全くなくはないとは思っていたが、彼はまさにF・ルーズベルト政権の時期に、FDRの諸基本政策(ソ連の国家承認を含む)に何度も反対した、と明記している。
 「見直し」といった生易しいものではなく、まさにその当時に、「現実」だった歴史の推移に「反対」していた、アメリカ人政治家もいたのだ。
 なお、H・フーバー(フーヴァー)はロシア革命後のロシア農業の危機・飢饉の際に食糧を輸送して「人道的に」支援するアメリカの救援団体(ARA, American Relief Administration)の長としてロシアを訪れている(1921年。リチャード・パイプス(Richard Pipes)の書物による。この欄に当該部分の試訳を掲載している)。
 反ボルシェヴィキ勢力を少しは助けたい意向もあったと思われるが、いずれにせよ、革命後のロシアの実態・実情を、わずかではあっても直接に見た、そして知った人物だ。
 この人物の「反・共産主義」姿勢と感覚は、まっとうで疑いえないものと考えられる。
 このH・フーバー(フーヴァー)の原書が刊行されたことは、2016年には日本でも知られていて、その内容の一部も紹介されていた。
 しかし、江崎道朗の上掲書には、この本あるいはH・フーバーへの言及が全くない。
 アメリカ政治・外交と「共産主義者」との関連を知るには、限界はあれ、不可欠の書物の一つではないか。
 邦訳書・上巻が2017年の夏に出版されたことは、言い訳にならない。私でも、2016年の前半に、H・フーバーの書物の原書の一部を邦訳して、この欄に掲載していた。
 江崎道朗は上掲書のどこかで<歴史を単純に把握してはいけない、多様なものとして総合的に理解する必要がある>とか読者に説いて?いたが、アメリカの近現代史をアメリカ人がどう理解してきたかについて、江崎は自分の言葉を自分に投げつける必要があるものと思われる。 
 こんな調子で江崎道朗著についてコメントを続けると、100回くらいは書けそうだ。

1728/邦訳書がない方が多い-総500頁以上の欧米文献。

 T・ジャットはL・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』について、「コワコフスキのテーゼは1200ページにわたって示されているが、率直であり曖昧なところはない」とも書いている。
 トニー・ジャット・河野真太郎ほか訳・失われた二〇世紀/上(NTT出版、2011)p.182〔担当訳者・伊澤高志〕。
 この記述によって総頁数にあらためて関心をもった。T・ジャットが論及する三巻合冊本の「New Epilogue」の最後の頁数は1214、その後の索引・Index まで含めると、1283という数字が印刷されている。これらの頁数には本文(本来の「序文」を含む)の前にある目次や諸新聞等書評欄の「賛辞」文の一部の紹介等は含まれていないので、それらを含むと、確実に1300頁を超える、文字通りの「大著」だ。
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 ロシア革命・レーニン・ソ連等々に関係する外国語文献(といっても「洋書」で欧米のもの)を一昨年秋あたりから収集していて、入手するたびに発行年の順に所持本のリストを作っていた。いずれ、全てをこの欄に発表して残しておくつもりだった。しかし、昨年前半のいつ頃からだったかその習慣を失ったので、今から全てを公表するのは、ほとんど不可能だ。
 そこで、所持している洋書(といっても数冊の仏語ものを除くと英米語と独語のみ)のうち総頁数が500頁以上のもののみのリストを、やや手間を要したが、作ってみた。
 頁数は本の大きさ・判型や文字の細かさ等々によって変わるので、総頁数によって単純に範囲の「長さ」を比較することはできないが、実質的には…とか考え出すと一律な基準は出てこない。従って、もっと小型の本で活字も大きければ500頁を確実に超えているだろうと推測できても、除外するしかない。
 また、このような形式的基準によると450-499頁のものもある。490頁台のものもあって「惜しい」が、例外を認めると下限が少しずつ変わってくるので、容赦なく機械的に区切るしかない。
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 以下にリスト化し、総頁数も記す。長ければ「質」も高いという論理関係はもちろんないが、所持しているものの中では、レシェク・コワコフスキの上記の本が、群を抜いて一番総頁数が大きい。次は Alan Bullock のものだろうか(1089頁。但し、これは中判でコワコフスキのものは大判 )。
 また、邦訳書(日本語訳書)がある場合はそれも記す。その場合の頁数も。但し、邦訳書のほとんどは「索引」(や「後注」)の頁は通し数字を使っていない。その部分を数える手間は省いて、通し頁数の記載のある最終頁の数字を見て記している。
 邦訳書がないものの方が多いことは、以下でも明らかだ。この点には別にさらに言及する必要があるが、欧米文献(とくに英米語のもの)が広く読まれていると考えられる<欧米>と日本では、ロシア革命・レーニン等についても、「知的環境」あるいは「情報環境」自体がかなり異なっている、ということを意識しておく必要があるだろう。
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 *発行年(原則として、初出・初版による)の順。同年の場合は、著者(の姓)のアルファベット順。タイトル名等の直後に総頁数を記し、そのあとに秋月によるタイトルの「仮訳」を示している。所持するものに限る(+印を除く)。
 いちいちコメントはしないが、最初に出てくる Bertram D. Wolfe(バートラム・ウルフ、ベルトラム・ヴォルフ)は、アメリカ共産党創設者の一人、いずれかの時期まで同党員、共産主義活動家でのち離脱、共産主義・ソ連等の研究者となった。 
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・1948年
 Bertram D. Wolfe, Three Who made a Revolution -A Biographical History, Lenin, Trotsky and Stalin (1964, Cooper Paperback, 1984, 2001).計659頁。〔革命を作った三人・伝記-レーニン、トロツキーとスターリン〕
 =菅原崇光訳・レーニン トロツキー スターリン/20世紀の大政治家1(紀伊國屋書店、1969年)。計685頁/索引含めて計716頁。
・1951年 Hannah Arendt, The Origins of Totalitarianism.計527頁。〔全体主義の起源〕
 =Hannah Arendt, Element und Urspruenge totaler Herrscaft (独、Taschenbuch, 1.Aufl. 1986, 18.Aufl. 2015). 計1015頁。〔全体的支配の要素と根源〕
 =大島通義・大島かおり訳・第2巻/帝国主義(みすず書房, 新装版1981)。
 =大久保和郎・大島かおり訳・第3巻/全体主義(みすず書房, 新装版1981)。
・1960年
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union. 計631頁。〔ソ連共産党〕
・1963年
 Ernste Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche (Piper, 1966. Tsaschenbuch, 1984. 6. Aufl. 2008). 計633頁。〔ファシズムとその時代〕
・1965年
 Adam B. Ulam, The Bolsheviks -The Intellectual and Political History of the Triumph of Communism in Russia (Harvard, paperback, 1998). 計598頁。〔ボルシェヴィキ-ロシアにおける共産主義の勝利の知的および政治的な歴史〕
・1972年
 Branko Lazitch = Milorad M. Drachkovitch, Lenin and the Commintern -Volume 1 (Hoover Institute Press). 計683頁。〔レーニンとコミンテルン/第一巻〕
・1973年
 Stephen F. Cohen, Bukharin and the Bolshevik Revolution - A Political Biography, 1888-1938. 計560頁。ブハーリンとボルシェビキ革命ー政治的伝記・1888-1938年。
=塩川伸明訳・ブハーリンとボリシェヴィキ革命ー政治的伝記:1888-1936(未来社、1979。第二刷,1988)。計505頁。
・1976年
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (Paris, 1976. London, 1978. USA- Norton, 2008 ). 計1283頁。
 -Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume II - The Golden Age (Oxford, 1978. Paperback, 1981, 1988). 計542頁。
 -Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume III - The Breakdown (Oxford, 1978). 計548頁。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism, Volume III - The Breakdown (Oxford, 1981). 計548頁。
<The Breakdown (Oxford, 1987). 計548頁。
・1981年
 Bertram Wolfe, A Life in Two Centuries (Stein and Day /USA). 計728頁。〔二世紀にわたる人生〕
・1982年
 Michel Heller & Aleksandr Nekrich, Utopia in Power -A History of the USSR from 1917 to the Present (Paris, 1982. Hutchinson, 1986). 計877頁。〔権力にあるユートピア-ソヴィエト連邦の1917年から現在の歴史〕
・1984年
 Harvey Klehr, The Heyday of American Communism - The Depression Decade. 計511頁。〔アメリカ共産主義の全盛時-不況期の10年〕
・1985年
 Ernst Nolte, Deutschland und der Kalte Krieg (Piper, 2. Aufl., Klett-Cotta, 1985). 計748頁。〔ドイツと冷戦〕
・1988年
 François Furet, Revolutionary France 1770-1880 (英訳- Blackwell, 1992). 計630頁。〔革命的フランス-1770年~1880年〕
・1990年
 Richard Pipes, The Russian Revolution. 計944頁。〔ロシア革命〕
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (paperback,1997). 計944頁。
・1991年
 Christopher Andrew = Oleg Golodievski, KGB -The Insde Story. 計776頁。〔KGB-その内幕〕
 =福島正光訳・KGBの内幕/上・下(文藝春秋、1993)-上巻計524頁・下巻計398頁。
 Alan Bullock, Hitler and Stalin - Parallel Lives. 計1089頁。〔ヒトラーとスターリン-生涯の対比〕
 =鈴木主税訳・対比列伝/ヒトラーとスターリン-第1~第3巻(草思社、2003)-第1巻計573頁、第2巻計575頁、第3巻計554頁。
・1993年
 David Remnick, Lenins' Tomb : The Last Days of the Soviet Empire. 計588頁。〔レーニンの墓-ソヴィエト帝国の最後の日々〕
 =三浦元博訳・レーニンの墓-ソ連帝国最期の日々(白水社、2011).
 Heinrich August Winkler, Weimar 1918-1933 - Die Geschichte der ersten deutschen Demokratie (Beck) . 計709頁。ワイマール1918-1933ー最初のドイツ民主制の歴史。
・1994年
 Erick Hobsbawm, The Age of Extremes -A History of the World, 1914-1991 (Vintage, 1996).計627頁。〔極端な時代-1914-1991年の世界の歴史〕
 =河合秀和訳・20世紀の歴史-極端な時代/上・下(三省堂, 1996).-上巻計454頁、下巻計426頁)。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime. 計587頁。〔ボルシェヴィキ体制下でのロシア〕
 Dmitri Volkogonow, Lenin - Life and Legady (Paperback 1995). 計529頁。〔レーニン-生涯と遺産〕
 =Dmitri Volkogonow, Lenin - Utopie und Terror (独語、Berug, 2017). 計521頁。〔レーニン-ユートピアとテロル〕
・1995年
 François Furet, Le Passe d'une illsion (Paris).+
 =Das Ende der Illusion -Der Kommunismus im 20. Jahrhundert (1996).計724頁。〔幻想の終わり-20世紀の共産主義〕
 =The Passing of an Illusion -The Idea of Communism in the Twentieth Century (Chicago, 1999).計596頁。〔幻想の終わり-20世紀の共産主義思想〕
 =楠瀬正浩訳・幻想の過去-20世紀の全体主義 (バジリコ, 2007.09). 計721頁。
 Martin Malia, Soviet Tragedy - A History of Socialism in Russia 1917-1991. 計592頁。ソヴィエトの悲劇ーロシアにおける社会主義の歴史・1917年-1991年。
 =白須英子訳・ソヴィエトの悲劇ーロシアにおける社会主義の歴史 1917-1991/上・下(草思社、1997)。上巻計450頁・下巻計395頁。
 Stanley G. Payne, A History of Fascism 1914-1945(Wisconsin Uni.). 計613頁。〔ファシズムの歴史-1914年~1945年〕
 Andrzej Walick, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom -The Rise and Fall of the Communist Utopia. 計641頁。〔マルクス主義と自由の王国への跳躍ー共産主義ユートピアの成立と崩壊〕
・1996年
 Orland Figes, A People's tragedy - The Russian Revolution 1891-1924(Penguin, 1998).計923頁。民衆の悲劇ーロシア革命1891-1924年。
 =Orland Figes, -(100th Anniversary Edition, 2017. New Introduction 付き). 計923頁。
 Donald Sassoon, One Hundred Years of Socialism -The West European Left in the Twentieth Century (paperback, 2014). 計965頁。社会主義の百年ー20世紀の西欧左翼。
・1997年
 Sam Tannenhaus, Wittaker Chambers - A Biography. 計638頁。ウィテカー・チェインバーズー伝記。
・1998年
 Helene Carrere d'Encausse, Lenin.<仏語>計527頁。〔レーニン〕
 =Helene Carrere d'Encausse, Lenin (New York, London, 2001).計371頁。〔レーニン〕
 =石崎晴己・東松秀雄訳・レーニンとは何だったか(藤原書店, 2006).計686頁。
 Dmitri Volkogonov, Autopsy for an Empire - The Seven Leaders who built the Soveit Regime. 計572頁。〔帝国についての批判的分析-ソヴィエト体制を造った七人の指導者たち〕
 Dmitri Volkogonov, The Rise and Fall of the Soviet Empire (Harper paerback, 1999).計572頁。ソビエト帝国の成立と崩壊。
 *参考:生田真司訳・七人の首領-レーニンからゴルバチョフまで/上・下(朝日新聞社、1997。原ロシア語、1995)
・1999年
 Martin Malia, Russia under Western Eye - From the Bronze Horseman to the Lenin Mausoleum. 計514頁。〔西欧から見るロシア-青銅馬上像の男からレーニンの霊廟まで〕
・2000年
 Arno J. Mayer, The Furies - Violence and Terror in the French ans Russian Revolutions. 計716頁。〔激情-フランス革命とロシア革命における暴力とテロル〕
・2002年
 Gerd Koenen, Das Rote Jahrzent -Unsere Kleine Deutche Kulturrevolution 1967-1977 (独,5.aufl., 2011).計554頁。〔赤い十年-我々の小さなドイツ文化革命 1967-1977年〕
・2003年
 Anne Applebaum, Gulag -A History (Penguin).計610頁。〔グラク〔強制収容所〕-歴史〕
 =川上洸訳・グラーグ-ソ連強制収容所の歴史(白水社、2006)。計651頁。
・2005年
 Tony Judt, Postwar -A History of Europe since 1945. 計933頁。〔戦後-1945年以降のヨーロッパ史〕
・2007年
 M. Stanton Evans, Blacklisted by History - The Untold History of Senator Joe McCarthy and His Fight against America's Enemies. 計663頁。〔歴史による告発-ジョウ・マッカーシー上院議員の語られざる歴史と彼のアメリカの敵たちとの闘い〕
 Orlando Figes, The Whisperers - Private Life in Stalin's Russia. 計740頁〔囁く者たち-スターリン・ロシアの私的生活〕
 =染谷徹訳・囁きと密告/上・下(白水社、2011)-上巻・計506頁、下巻・計540頁(ともに索引等は別)。
 Robert Service, Comrades - Communism: A World History. 計571頁。〔同志たち-共産主義・一つの世界史〕
・2008年
 Robert Gellately, Lenin, Stalin and Hitler -Age of Social Catastrophe.計696頁。〔レーニン、スターリンとヒトラー-社会的惨害の時代〕
・2009年
 Archie Brown, The Rise and Fall of Communism.計720頁。〔共産主義の勃興と崩壊〕
 =Aufstieg und Fall des Kommunismus (Ullstein独, 2009 ).計938頁。
 =下斗米伸夫監訳・共産主義の興亡(中央公論新社, 2012).計797頁。
 Michael Geyer and Sheila Patrick (ed.), Beyond Totalitarianism - Stalinism and Nazism Compared (Cambridge). 計536頁。〔全体主義を超えて-スターリニズムとナチズムの比較〕
 John Earl Hayns, Harvey Klehr and Alexander Vassiliev, Spies -The Rise and Fall of the KGB in America (Yale). 計650頁。〔スパイたち-アメリカにおけるKGBの成立と崩壊〕
 David Priestland, The Red Flag -A History of Communism (Penguin, 2010). 計676頁。〔赤旗-共産主義の歴史〕
 =David Priestland, Welt-Geschchte des Kommunismus -Von der Franzaesischen Revolution bis Heute <独語訳>.〔共産主義の世界史-フランス革命から今日まで〕
・2010年
 Timothy Snyder, Bloodlands -Europa zwischen Hitler und Stalin (Vintage, and独語版, 2011). 計523頁。〔血塗られた国々-ヒトラーとスターリンの間のヨーロッパ〕
 =布施由紀子訳・ブラッドランド-ヒトラーとスターリン・大虐殺の真実(筑摩書房、2015)/上・下。-上巻計346頁、下巻計297頁(+4頁+95頁)。
・2011年
 Herbert Hoover, Freedom Betrayed - Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath. 計957頁。〔裏切られた自由ーハーバート・フーバーの第二次大戦とその余波に関する秘密の歴史〕
 =渡辺惣樹訳・裏切られた自由-フーバー大統領が語る第二次大戦の隠された歴史とその後遺症/上・下(草思社、2017)-上巻702頁・下巻591頁。
・2015年
 Thomas Krausz, Reconstructing Lenin - An Intellectual Biography. 計552頁。〔レーニンを再構成する-知的伝記〕
 Herfried Muenkler, Der Grosse Krieg -Die Welt 1914-1918. 計923頁。〔大戦-1914-1918年の世界〕
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 1981年の項に、B.Wolfe の一冊を追記した(邦訳書はない)。/2018.03.27

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